生きる理由を失っていた少女・澪を救った蓮。
それ以来、澪にとって蓮は「生きる理由」そのものになった。
けれど、その想いは少しずつ重く、歪んでいく。
救った責任と愛情の間で離れられなくなる蓮と、彼だけを求め続ける澪。
これは、優しさから始まった二人の、逃げられない恋の物語。

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君のせいで生きてる

雨宮澪が死のうとしていた夜、高瀬蓮はコンビニで傘を買った帰りだった。

 

 それだけのことだった。

 

 もし五分早く店を出ていれば、もしレジが混んでいなければ、もし蓮がいつもの近道を選んでいれば、二人の人生は交わらなかった。

 

 六月の雨は細く、街灯の光を白く濁らせていた。川沿いの遊歩道は人影もなく、濡れたアスファルトだけが鈍く光っている。その先で、制服姿の少女が欄干の向こう側に立っていた。

 

 最初、蓮は意味を理解できなかった。

 

 少女は傘を差していなかった。肩まである黒髪が頬に張りつき、細い指が冷たい金属を握っている。川面を見下ろしたまま、こちらを振り返りもしない。

 

「……おい」

 

 声をかけると、少女の肩がわずかに揺れた。

 

「何してんだよ」

 

「見れば分かるでしょ」

 

 妙に落ち着いた声だった。

 

 蓮は傘を放り出した。

 

 それから何を言ったのか、細かいことはあまり覚えていない。説得なんて立派なものではなかった。ただ怖かった。目の前にいる誰かが、数秒後にはいなくなるかもしれないという事実が怖かった。

 

「降りろ」

 

「嫌」

 

「とりあえず降りろって」

 

「関係ないじゃん」

 

「あるよ」

 

「何が」

 

「今見つけたから」

 

 自分でも意味の分からない理屈だった。

 

 少女が初めて振り返った。

 

 泣いてはいなかった。

 

 むしろその顔は、泣くことすら疲れた人間のものだった。

 

「じゃあ責任取ってよ」

 

 その言葉を、蓮は冗談だと思った。

 

「何の」

 

「止めた責任」

 

「……いいから降りろ」

 

「生きてて何かあるの?」

 

「知らねえよ」

 

「じゃあなんで止めるの」

 

 蓮は言葉に詰まった。

 

 正しい答えなんて持っていなかった。

 

 夢があるとか、家族が悲しむとか、明日はきっといい日になるとか。そんな言葉を簡単に言えるほど、彼は人生を知ってはいなかった。

 

 だから、ほとんど勢いだった。

 

「分かんないけど、生きろよ」

 

 少女が黙った。

 

「今はそれでいいだろ。理由なんて後で探せばいい。とりあえず生きろ」

 

「……命令?」

 

「そう。命令」

 

「守ったら?」

 

「え?」

 

「私が守ったら、あなたはどうするの」

 

 雨が強くなった。

 

 蓮は手を伸ばした。

 

「そのとき考える」

 

 しばらくして、少女はその手を取った。

 

 冷たい手だった。

 

 その夜、高瀬蓮は雨宮澪を生かした。

 

 そして何年も後になって、彼はそのことを何度も後悔することになる。

 

 

 

 

 澪は同じ高校の一年下だった。

 

 名前も顔も知らなかったが、制服を見ればそれくらいは分かった。

 

 事情を聞くつもりはなかった。警察や家族に連絡することも考えたが、澪はそれだけは嫌だと言った。蓮も高校生だった。何が正解なのか分からず、結局、駅前の二十四時間営業のファミレスに連れていった。

 

 澪は温かいココアを両手で包み、長いこと黙っていた。

 

「帰れる?」

 

 蓮が聞くと、澪は頷いた。

 

「本当に?」

 

「うん」

 

「また変なことしない?」

 

「変なことって?」

 

「分かってるだろ」

 

 澪は少しだけ笑った。

 

「命令されたから」

 

「……何が」

 

「生きろって」

 

 蓮は気まずくなって目を逸らした。

 

「そんなの、あの場で言っただけだよ」

 

「でも私、守るよ」

 

「そうしてくれ」

 

「じゃあ連絡先ちょうだい」

 

「なんで」

 

「だって、理由がなくなったら困るから」

 

 そのときも、深く考えなかった。

 

 スマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。

 

 翌朝、澪からメッセージが来た。

 

『おはよう。今日も生きてる』

 

 蓮は授業中にそれを見て、少しだけ安心した。

 

『よかった』

 

 返事をすると、すぐに既読がついた。

 

『褒めて』

 

『何を』

 

『生きてたこと』

 

『えらい』

 

『ほんと?』

 

『ほんとほんと』

 

 数秒後。

 

『じゃあ明日も生きる』

 

 それが始まりだった。

 

 

 最初の数か月、澪はごく普通だった。

 

 朝と夜に一度ずつ連絡が来る程度だったし、学校ですれ違えば小さく会釈するくらいだった。時々、「今日ちょっとつらかった」とメッセージが来れば、蓮は「早く寝ろ」と返した。

 

 それだけで澪は喜んだ。

 

 蓮自身も、悪い気はしなかった。

 

 誰かの役に立っているという感覚は、十七歳の少年には少し誇らしかった。

 

 だから澪から「少しだけ話したい」と言われれば電話に付き合ったし、「眠れない」と言われれば深夜までどうでもいい話をした。

 

 澪はよく笑うようになった。

 

 初めて会った夜の、何も映していないような目とは別人だった。

 

「先輩」

 

「ん?」

 

「私ね、最近ちょっと生きるの楽しいよ」

 

 電話越しにそう言われたとき、蓮は心から嬉しかった。

 

「そりゃよかった」

 

「先輩のおかげ」

 

「いや、お前が頑張ったからだろ」

 

「違うよ」

 

 澪はそこで少し黙った。

 

「先輩がいるからだよ」

 

 その言葉に含まれている重さを、蓮はまだ理解していなかった。

 

 

 

 

 蓮が高校を卒業すると、澪からの連絡は増えた。

 

 大学に進学した蓮は、新しい環境で忙しくなった。サークルに入り、アルバイトを始め、新しい友人もできた。

 

 それまで毎日返していたメッセージを、数時間放置することも増えた。

 

 ある夜、飲み会から帰る途中でスマートフォンを見ると、澪から三十件近いメッセージが届いていた。

 

『先輩』

 

『忙しい?』

 

『ごめん』

 

『邪魔だった?』

 

『返事いらないよ』

 

『でも少しだけほしい』

 

『今どこ?』

 

『誰といるの?』

 

『女の人?』

 

『ごめん』

 

『なんでもない』

 

『楽しい?』

 

『私いなくても楽しい?』

 

 最後のメッセージだけ、十分前だった。

 

『今日もちゃんと生きたよ』

 

 蓮は足を止めた。

 

 酔いが一気に醒めた気がした。

 

『飲み会だった。ごめん』

 

 送信した瞬間、電話が鳴った。

 

「もしもし」

 

『……先輩』

 

「何だよ」

 

『よかった』

 

 声が震えていた。

 

「澪?」

 

『嫌われたかと思った』

 

「そんなわけないだろ」

 

『じゃあどうして返してくれなかったの』

 

「だから飲み会だって」

 

『女の人いた?』

 

「いるよ、大学なんだから」

 

 電話の向こうで沈黙した。

 

「澪?」

 

『……そっか』

 

「何なんだよ」

 

『ううん。楽しそうでよかった』

 

 そう言われて、蓮はなぜか罪悪感を覚えた。

 

 翌日、大学から帰るとアパートの前に澪がいた。

 

「……何してんの?」

 

「会いたくなった」

 

「家、教えたっけ」

 

「前に最寄り駅言ってたでしょ。先輩の写真に建物がちょっと映ってたから」

 

 笑顔で言われ、背中がぞくりとした。

 

 けれど澪はすぐに申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「気持ち悪い?」

 

「いや……」

 

「ごめんなさい」

 

 その顔を見ると、それ以上言えなかった。

 

「別にいいけど、次から連絡しろよ」

 

「うん」

 

 澪は嬉しそうに笑った。

 

 その日から、澪は頻繁に蓮の部屋へ来るようになった。

 

 料理を作り、掃除をし、洗濯までしようとした。

 

「そこまでしなくていいって」

 

「私がしたいの」

 

「でもお前、受験あるだろ」

 

「先輩のことしてる方が落ち着くから」

 

 初めは便利だと思ってしまった。

 

 冷蔵庫に食べ物があり、帰宅すれば部屋が綺麗になっている。

 

 澪は見返りを求めなかった。

 

 ただ、蓮が「ありがとう」と言えば、それだけで幸福そうに笑った。

 

 だから気づくのが遅れた。

 

 澪の私物が、少しずつ部屋に増えていることに。

 

 歯ブラシ。

 

 マグカップ。

 

 化粧水。

 

 着替え。

 

 そしてある日、玄関の小さな箱に見覚えのない鍵が置かれていた。

 

「これ何?」

 

「あ、合鍵」

 

「誰の?」

 

「私の」

 

 澪は当たり前のように答えた。

 

「いつ作った?」

 

「先週」

 

「勝手に?」

 

「……だめだった?」

 

 その瞬間、初めて蓮は明確に違和感を覚えた。

 

「だめだろ」

 

「ごめんなさい」

 

「鍵返して」

 

 澪の顔から表情が消えた。

 

「……なんで?」

 

「なんでって、俺の部屋だから」

 

「でも私、掃除とかするし」

 

「それも頼んでない」

 

「迷惑だった?」

 

「そういう話じゃなくて」

 

「じゃあ何?」

 

 澪の声が細くなった。

 

「私、何か間違えた?」

 

「距離が近すぎるんだよ」

 

 言った瞬間、澪の顔が歪んだ。

 

 泣きそうになった。

 

 蓮は胸が痛んだが、ここで曖昧にする方がよくないと思った。

 

「お前も友達とか作れよ。俺以外にもさ」

 

「いるよ」

 

「だったら――」

 

「でも必要ない」

 

 澪は蓮を見た。

 

「先輩がいるから」

 

「そういうのやめろって」

 

「どうして?」

 

「重いんだよ」

 

 口から出た瞬間、取り返しがつかないと分かった。

 

 澪は動かなかった。

 

「……重い?」

 

「澪」

 

「私が?」

 

「言い方悪かった。ごめん」

 

「そっか」

 

 澪は笑った。

 

 ひどく綺麗な笑顔だった。

 

「ごめんね、先輩」

 

 鍵を机の上に置き、そのまま帰っていった。

 

 翌日から連絡は途絶えた。

 

 

 

 

 三日目の夜、蓮は耐えられなくなった。

 

『元気?』

 

 返事はなかった。

 

『この前はごめん』

 

 既読もつかない。

 

 四日目。

 

 五日目。

 

 六日目。

 

 蓮は自分に言い聞かせた。

 

 これでいい。

 

 澪は自分から離れて、自分の生活を作るべきだ。

 

 自分だって、いつまでも誰かの生きる理由なんて背負えない。

 

 七日目の深夜、知らない番号から電話が来た。

 

『高瀬蓮さんですか』

 

 澪の母親だった。

 

 その声を聞いた瞬間、蓮の胃が冷たくなった。

 

 詳しいことは言われなかった。

 

 ただ、澪が家で倒れて病院に運ばれたこと。そして意識を取り戻したあと、蓮の名前だけを繰り返したこと。

 

 病院へ向かう電車の中で、蓮はずっと自分の言葉を思い出していた。

 

 重い。

 

 その二文字が頭から離れなかった。

 

 病室のベッドにいる澪は、思っていたより普通だった。

 

 顔色が悪く、腕に点滴がついている。それだけだった。

 

「……先輩」

 

 蓮を見るなり、澪は笑った。

 

 泣きそうな顔で笑った。

 

「来てくれた」

 

 蓮は何も言えなかった。

 

「ごめんなさい」

 

「何が」

 

「迷惑かけた」

 

「……何したんだよ」

 

 澪は答えなかった。

 

「俺、お前に言ったよな」

 

「うん」

 

「生きろって」

 

「うん」

 

「じゃあなんで」

 

 声が震えた。

 

 怒っているのか、怖いのか、自分でも分からなかった。

 

 澪はしばらく蓮を見ていた。

 

 そして、静かに言った。

 

「先輩がいないなら、命令を守る意味ないから」

 

 蓮の背筋が凍った。

 

「何言ってんだよ」

 

「だって私、先輩のせいで生きてるんだよ」

 

「やめろ」

 

「先輩があのとき、生きろって言ったから」

 

「やめろって」

 

「だから生きてるの」

 

 澪の声には責める響きがなかった。

 

 それが余計に恐ろしかった。

 

「先輩が生かしたんだよ、私を」

 

 蓮は病室を飛び出した。

 

 

 それから、蓮は澪を突き放せなくなった。

 

 怖かった。

 

 また自分が距離を取ったせいで、何か起きたら。

 

 次は取り返しがつかなかったら。

 

 澪は何も要求しなかった。

 

 ただ以前のようにメッセージを送り、以前のように部屋へ来た。

 

 合鍵を作ることは二度となかった。

 

 それでも蓮が帰宅する時間には、アパートの前で待っていた。

 

「寒いだろ」

 

「大丈夫」

 

「いつから待ってた?」

 

「ちょっとだけ」

 

 嘘だった。

 

 手が真っ赤になっていた。

 

 蓮は結局、鍵を渡した。

 

「……これ持ってろ」

 

 澪は目を見開いた。

 

「いいの?」

 

「外で待たれる方が困るから」

 

「ありがとう」

 

 嬉しそうに鍵を握る姿を見て、蓮の胸に嫌なものが沈んだ。

 

 澪は幸せそうだった。

 

 自分はそうではなかった。

 

 それでも、笑った。

 

 

 

 

 大学二年の春、蓮に好きな人ができた。

 

 同じゼミの佐伯奈緒だった。

 

 よく笑い、よく喋る人だった。

 

 澪とはまるで違った。

 

 奈緒といると、自分の言葉を選ばなくてよかった。

 

 返信を忘れても怒られない。予定を断っても「また今度ね」で終わる。沈黙に責任を感じなくていい。

 

 それが新鮮だった。

 

 ある日、奈緒に言われた。

 

「高瀬って、たまにすごい顔してスマホ見るよね」

 

「え?」

 

「怖い通知でも来てるの?」

 

 蓮は笑って誤魔化した。

 

「妹みたいなやつから」

 

「へえ」

 

「ちょっと心配性でさ」

 

 本当は逆だった。

 

 心配しているのは自分だった。

 

 澪から『今日、少し寂しい』と来るだけで心臓が縮む。

 

『大丈夫?』

 

『何かあった?』

 

『今電話できる?』

 

 気づけば自分から三つも送っている。

 

 澪はそれを知っていた。

 

 だから決して「死にたい」とは言わなかった。

 

『寂しい』

 

『眠れない』

 

『声聞きたい』

 

 それだけで十分だった。

 

 ある夜、奈緒と食事をしている最中に澪から電話が来た。

 

 一度切った。

 

 すぐに二度目が来た。

 

「出なくていいの?」

 

 奈緒に聞かれ、蓮は画面を伏せた。

 

「大丈夫」

 

 三度目。

 

 四度目。

 

 五度目。

 

「……ごめん」

 

 蓮は席を立った。

 

「もしもし」

 

『先輩』

 

「どうした」

 

『今、外?』

 

「うん」

 

『誰と?』

 

「友達」

 

『女の人?』

 

 黙った。

 

『そっか』

 

「何かあったの?」

 

『別に』

 

「じゃあ何で何回も電話したんだよ」

 

『声聞きたかっただけ』

 

「今じゃなくてもいいだろ」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

 蓮は息を呑んだ。

 

「……澪」

 

『ごめんね』

 

 弱い声。

 

 条件反射のように、不安が押し寄せる。

 

「今どこ?」

 

『家』

 

「本当に?」

 

『うん』

 

「変なこと考えてない?」

 

 しばらく沈黙したあと、澪は笑った。

 

『先輩って優しいね』

 

「答えろよ」

 

『大丈夫だよ』

 

「絶対?」

 

『うん。だって先輩が心配してくれたから』

 

 電話を切って席へ戻ると、奈緒は箸を置いていた。

 

「彼女?」

 

「違う」

 

「好きな人?」

 

「違うよ」

 

「じゃあ何?」

 

 蓮は答えられなかった。

 

 友達。

 

 後輩。

 

 妹みたいな存在。

 

 どれもしっくりこなかった。

 

 奈緒は少し寂しそうに笑った。

 

「高瀬、ずっとその子の顔色見てるよね」

 

「そんなことない」

 

「あるよ」

 

 そして、小さく続けた。

 

「好きじゃないなら、もっと怖いけど」

 

 

 

 

 奈緒とは、その後付き合わなかった。

 

 告白する前に終わった。

 

 理由は澪だけではない、と蓮は思いたかった。

 

 けれど奈緒に誘われるたび澪の顔が浮かび、休日に予定を入れるたび『今日は会えないんだね』というメッセージを想像した。

 

 疲れた。

 

 誰かを好きになること自体が面倒になった。

 

 澪は何も知らない顔で、蓮の部屋で夕食を作った。

 

「先輩、最近あの女の人と会わないね」

 

 包丁の音が止まった。

 

「……何で知ってる?」

 

「写真」

 

「写真?」

 

「先輩の友達のSNS」

 

 澪は振り返った。

 

「同じゼミなんでしょ?」

 

「調べたの?」

 

「ちょっとだけ」

 

「やめろよ」

 

「ごめんなさい」

 

 口では謝りながら、澪は笑っていた。

 

「でも、よかった」

 

「何が」

 

「先輩、最近苦しそうだったから」

 

「……」

 

「楽になったでしょ?」

 

 否定できなかった。

 

 確かに楽にはなった。

 

 失ったものを見ないふりさえすれば。

 

 

 澪は大学へ進学した。

 

 蓮と同じ大学だった。

 

 偶然だと言った。

 

「第一志望だったの?」

 

「うん」

 

「前は別の大学行きたいって言ってなかった?」

 

「変わったの」

 

「いつ?」

 

「先輩がここに入ってから」

 

 澪は悪びれずに笑った。

 

 同じ大学になってから、二人はほとんど毎日会った。

 

 周囲からは恋人同士だと思われた。

 

 澪は否定しなかった。

 

 蓮は最初こそ訂正していたが、やがて面倒になってやめた。

 

 澪はそれを許可だと受け取った。

 

 手を繋ぐようになった。

 

 腕を組むようになった。

 

 部屋に泊まるようになった。

 

「私たち、付き合ってるの?」

 

 ある夜、澪に聞かれた。

 

 蓮は答えられなかった。

 

「嫌?」

 

「……分からない」

 

「じゃあ、嫌じゃないんだ」

 

 澪は蓮の肩に頭を預けた。

 

「それでいいよ」

 

「澪」

 

「名前なんていらないよ」

 

 彼女は幸せそうに目を閉じた。

 

「先輩が私を捨てないなら、何でもいい」

 

 その言葉を聞いて、蓮は動けなくなった。

 

 抱きしめることも、離すこともできなかった。

 

 

 

 

 転機は大学四年の冬だった。

 

 蓮は東京の出版社から内定をもらった。

 

 ずっと入りたかった会社だった。

 

 編集の仕事がしたかった。

 

 高校時代から密かに抱いていた夢だった。

 

 内定のメールを見た瞬間、蓮は久しぶりに子供みたいに喜んだ。

 

 その日の夜、澪に報告した。

 

「東京?」

 

「うん」

 

「ここから通えないよね」

 

「まあな」

 

「引っ越すの?」

 

「そうなる」

 

 澪は黙った。

 

「……澪?」

 

「いつ?」

 

「三月」

 

「私も行く」

 

 即答だった。

 

「いや、お前まだ大学あるだろ」

 

「休学する」

 

「馬鹿言うな」

 

「じゃあ辞める」

 

「やめろって」

 

「だって先輩いなくなるんでしょ?」

 

 澪の目が揺れた。

 

「死ぬわけじゃないんだぞ」

 

「私には同じだよ」

 

「同じじゃない」

 

「同じだよ」

 

 声が大きくなった。

 

「私、先輩いないと駄目だもん」

 

「それを変えろってずっと言ってるだろ!」

 

 蓮も声を荒げた。

 

 澪が固まった。

 

「俺はお前のために生きてるんじゃない!」

 

 言ってしまった。

 

 部屋が静まり返った。

 

 澪の唇が震えた。

 

「……知ってるよ」

 

「澪」

 

「そんなの知ってる」

 

 涙が一粒落ちた。

 

「私が勝手に先輩のために生きてるだけ」

 

「そういうのが――」

 

「でも」

 

 澪が蓮を見た。

 

「先輩がそうしろって言ったんじゃん」

 

「俺はそんなこと言ってない」

 

「生きろって言った」

 

「それとこれは違う!」

 

「何が違うの?」

 

 澪は泣きながら笑った。

 

「私、あの日ほんとに何にもなかったんだよ。家族も嫌いだった。学校も嫌いだった。自分も嫌いだった。明日なんて来なくてよかった」

 

 蓮は何も言えなかった。

 

「でも先輩が生きろって言った」

 

 澪は胸元を握った。

 

「だから生きた」

 

「……」

 

「一年生のときも、二年生のときも、受験も、大学も。全部、先輩がいるから頑張った」

 

「それはお前が――」

 

「違う!」

 

 澪が叫んだ。

 

「私じゃない!」

 

 泣き声になった。

 

「先輩が作ったんだよ、今の私」

 

 その言葉は、蓮の一番弱いところへ刺さった。

 

 澪は知っていた。

 

 蓮が何を恐れているのか。

 

 何を言えば離れられなくなるのか。

 

 ずっと一緒にいたから、誰より知っていた。

 

 澪は涙を拭った。

 

「ねえ、先輩」

 

「……何」

 

「私、ちゃんと生きてきたよ」

 

「……うん」

 

「命令守ったよ」

 

「うん」

 

「だから、責任取ってよ」

 

 何年も前と同じ言葉だった。

 

 雨の日の少女が、目の前に立っていた。

 

「私を置いていかないで」

 

 

 

 

 蓮は東京へ行った。

 

 それでも澪とは毎日電話した。

 

 朝。

 

 昼。

 

 夜。

 

 少しでも返信が遅れると、澪は不安定になった。

 

『仕事忙しい?』

 

『邪魔してごめんね』

 

『でも声聞きたい』

 

『五分だけでいいから』

 

 最初の半年、蓮は耐えた。

 

 仕事は楽しかった。

 

 忙しかったが、夢だった場所にいる実感があった。

 

 編集者として初めて担当を任された日、蓮は誰より先に澪へ報告した。

 

『すごいね』

 

『おめでとう』

 

『先輩ならできると思ってた』

 

 澪は喜んでくれた。

 

 けれど最後に、こう付け加えた。

 

『これでもっと忙しくなる?』

 

 その一文だけで、喜びが少し濁った。

 

 一年目の秋、澪が東京へ来た。

 

 事前連絡はなかった。

 

 蓮が帰宅すると、アパートの前に座っていた。

 

「何してんだよ」

 

「会いたかった」

 

「大学は?」

 

「休んだ」

 

「今日平日だぞ」

 

「うん」

 

「連絡しろよ」

 

「したら、来るなって言うでしょ?」

 

 何も言えなかった。

 

 澪は三日泊まった。

 

 四日目の朝、帰る予定だった。

 

 玄関で靴を履きながら、澪が言った。

 

「先輩」

 

「ん?」

 

「私ね、東京嫌い」

 

「なんで」

 

「先輩を取ったから」

 

 冗談みたいに笑った。

 

 蓮は笑えなかった。

 

 

 その冬、蓮は体調を崩した。

 

 大きな病気ではなかった。疲労と睡眠不足だった。

 

 仕事が忙しく、澪との電話で夜も削られていた。

 

 上司から休めと言われ、自宅で寝込んだ。

 

 翌朝、目を覚ますと澪がいた。

 

「……なんでいるの」

 

「先輩のお母さんから聞いた」

 

 勝手に連絡を取っていたらしい。

 

「大学は」

 

「大丈夫」

 

「大丈夫じゃないだろ」

 

「先輩の方が大事」

 

 澪は甲斐甲斐しく看病した。

 

 食事を作り、薬を用意し、汗を拭いた。

 

 蓮は高熱で朦朧としながら、その手を握った。

 

「……ありがとう」

 

 澪は泣いた。

 

「先輩」

 

「ん」

 

「帰ってこない?」

 

「どこに」

 

「私のところ」

 

「……」

 

「東京、つらいでしょ」

 

「仕事は好きだよ」

 

「でも苦しそう」

 

「最初はこんなもんだって」

 

「私なら先輩を苦しませないよ」

 

 澪は蓮の手を頬へ当てた。

 

「私のところに帰ってきたら、全部してあげる」

 

「澪」

 

「ご飯も作る。掃除もする。お金だって私が働く」

 

 そして囁いた。

 

「先輩は、私だけ見てればいいよ」

 

 熱のせいではなかった。

 

 蓮はそのとき初めて、澪が自分を愛しているのではなく、自分を必要としているのだと思った。

 

 そして恐ろしいことに、自分も澪から必要とされることに慣れすぎていた。

 

 

 

 

 翌春、澪が大学を辞めた。

 

 蓮には事後報告だった。

 

「なんで相談しなかった」

 

『反対するから』

 

「当たり前だろ!」

 

『就職するの』

 

「どこに」

 

 電話の向こうで、澪は嬉しそうに答えた。

 

『東京』

 

 数週間後、澪は蓮の家から電車で十五分の場所に引っ越してきた。

 

 偶然ではない。

 

 もうお互い、その程度の嘘をつく必要さえなくなっていた。

 

 澪は毎日のように蓮の部屋へ来た。

 

 蓮も拒まなかった。

 

 拒めなかった。

 

 仕事から帰ると灯りがついていて、温かい食事があった。

 

「おかえり」

 

 その言葉を聞くと安心した。

 

 同時に、息が詰まった。

 

 澪は蓮のスケジュールを把握していた。

 

 出勤時間。

 

 退勤時間。

 

 締切。

 

 飲み会。

 

 担当作家との打ち合わせ。

 

 女性の名前があると、その夜は必ず機嫌が悪くなった。

 

 怒ることはない。

 

 ただ静かになる。

 

「どうした?」

 

「別に」

 

「何かあった?」

 

「何もないよ」

 

「ほんとに?」

 

「うん」

 

 最後には蓮の方から予定を断るようになった。

 

 澪が不安にならないように。

 

 澪が寂しくならないように。

 

 澪がまた壊れないように。

 

 少しずつ。

 

 本当に少しずつ。

 

 蓮の世界は狭くなった。

 

 

 入社三年目、蓮に転職の話が来た。

 

 以前から憧れていた編集者が立ち上げる新しい出版社だった。

 

 給料は下がる。

 

 忙しくなる。

 

 けれど、やりたかった仕事ができる。

 

 蓮は久しぶりに胸が高鳴った。

 

 澪には言わないつもりだった。

 

 決めてから話そうと思った。

 

 だが、澪は気づいた。

 

「最近、楽しそうだね」

 

「そう?」

 

「何かあるの?」

 

「別に」

 

「私に言えないこと?」

 

「違うよ」

 

 澪は笑った。

 

「そっか」

 

 その夜、蓮が風呂から出ると、机に置いていた転職資料がなくなっていた。

 

 リビングへ行くと、澪がそれを読んでいた。

 

「何してんだよ」

 

「これ何?」

 

「勝手に見るな」

 

「転職するの?」

 

「まだ決めてない」

 

「忙しくなる?」

 

「たぶん」

 

「帰るの遅くなる?」

 

「そういう日もある」

 

「出張増える?」

 

「澪」

 

「女の人もいる?」

 

「いるに決まってるだろ」

 

 澪の指が紙を握りしめた。

 

「嫌だ」

 

「俺の仕事だぞ」

 

「今のままでいいじゃん」

 

「よくないんだよ」

 

「なんで?」

 

「俺がやりたいからだ」

 

 澪は黙った。

 

「俺の人生なんだよ」

 

 その言葉に、澪の顔が白くなった。

 

「……じゃあ私は?」

 

「何が」

 

「私は先輩の人生じゃないの?」

 

「違う」

 

 即答した。

 

 澪の目から涙が落ちた。

 

 蓮も限界だった。

 

「違うよ」

 

 もう一度言った。

 

「お前はお前だ。俺は俺だ」

 

「でも私には先輩しかいない」

 

「それがおかしいんだよ!」

 

「先輩がそうしたんじゃん!」

 

「違う!」

 

「違わない!」

 

 澪が叫んだ。

 

「私が死のうとしたとき、先輩が止めた!」

 

「だからって――」

 

「生きろって言った!」

 

「言ったよ!」

 

「じゃあ最後まで責任取ってよ!」

 

 澪は泣いていた。

 

 蓮も泣きそうだった。

 

「そんなの無理だよ」

 

 絞り出すように言った。

 

「俺は神様じゃない。お前の人生全部なんて背負えない」

 

「背負ってなんて言ってない」

 

「言ってるよ」

 

「私はただそばにいてほしいだけ」

 

「それが重いんだよ」

 

 何年ぶりかに、同じ言葉を言った。

 

 澪の顔から表情が消えた。

 

 蓮は続けた。

 

「俺、お前が怖い」

 

 澪の唇が震えた。

 

「……私が?」

 

「うん」

 

「先輩を傷つけたことないよ」

 

「傷ついてるよ」

 

「何もしてない」

 

「何もしないからだよ!」

 

 怒鳴った。

 

「お前、死ぬなんて言わない。脅さない。怒らない。全部俺に選ばせるじゃん」

 

「……」

 

「俺が勝手に心配して、勝手に予定を断って、勝手にお前のところへ戻るようにする」

 

 澪の目が揺れた。

 

「それで最後に『先輩が決めたんでしょ』って顔する」

 

「そんなつもりじゃ」

 

「分かってるよ!」

 

 それが一番苦しかった。

 

「分かってる。お前は本当に俺が好きなんだろ」

 

 澪が泣いた。

 

「だから困ってんだよ」

 

 悪意なら嫌えた。

 

 計算だけなら捨てられた。

 

 けれど澪は本当に蓮を愛していた。

 

 歪んでいても、本物だった。

 

 そして蓮も、澪を憎めなかった。

 

 雨の夜の少女を、今でも覚えている。

 

 冷たい手。

 

 空っぽの目。

 

 自分がその手を掴んだ。

 

 澪は震える声で聞いた。

 

「……転職するの?」

 

 蓮は目を閉じた。

 

「する」

 

「私より大事?」

 

「比べるものじゃない」

 

「じゃあ私が無理って言っても?」

 

「する」

 

「私がまた駄目になっても?」

 

 蓮は息を止めた。

 

 澪はそれ以上何も言わなかった。

 

 ただ見つめていた。

 

 その沈黙が答えだった。

 

 

 

 

 転職の返事をする期限は三日後だった。

 

 一日目、澪から連絡はなかった。

 

 二日目もなかった。

 

 三日目の朝、蓮は会社へ向かう電車の中でスマートフォンを握っていた。

 

 何度も澪の名前を開いた。

 

 最後のメッセージは二日前。

 

『ごめんなさい』

 

 それだけだった。

 

 蓮は仕事に集中できなかった。

 

 昼休み、電話した。

 

 出ない。

 

 夕方、もう一度。

 

 出ない。

 

 退勤後、澪の家へ向かった。

 

 インターホンを押しても返事はなかった。

 

 合鍵は持っていない。

 

 蓮は玄関の前に座り込んだ。

 

 頭の中で、最悪の想像だけが膨らんでいく。

 

 あの雨の日。

 

 病室。

 

『先輩がいないなら、命令を守る意味ないから』

 

 深夜零時を回る頃、廊下の向こうから足音がした。

 

「……先輩?」

 

 澪だった。

 

 コンビニの袋を下げ、呆然とこちらを見ている。

 

「どこ行ってたんだよ!」

 

 蓮は立ち上がった。

 

「え?」

 

「電話も出ないし!」

 

「スマホ、家に忘れて……」

 

「何してた?」

 

「映画」

 

「映画?」

 

「一人で」

 

 蓮はその場に崩れそうになった。

 

 澪はしばらく黙っていた。

 

 そして、理解した。

 

「……心配した?」

 

 蓮は答えなかった。

 

「私が死んだと思った?」

 

「やめろ」

 

「思ったんだ」

 

「やめてくれ」

 

 澪の顔が歪んだ。

 

 嬉しそうにも見えた。

 

 悲しそうにも見えた。

 

「先輩」

 

 澪が近づいた。

 

「まだ私のこと捨てられないんだね」

 

 その言葉に、蓮は何も返せなかった。

 

 澪は蓮の胸に額をつけた。

 

「よかった」

 

 そして泣いた。

 

「……よかった」

 

 何度も繰り返した。

 

 蓮はその背中に手を回した。

 

 抱きしめたかったわけではない。

 

 落ちないように支えただけだった。

 

 それでも澪には同じだった。

 

「先輩」

 

「ん」

 

「私ね、ちゃんと生きるよ」

 

「……うん」

 

「先輩がいるなら」

 

 蓮は目を閉じた。

 

 翌朝、転職を断った。

 

 

 

 

 それから二年が経った。

 

 蓮は今も同じ出版社で働いている。

 

 編集者としては、それなりにうまくやっている。

 

 あのときの転職先は成功し、業界で何度も名前を見るようになった。

 

 知人がそこで楽しそうに働いている記事を見かけることもある。

 

 最初の頃は胸が痛んだ。

 

 今はもう、あまり何も感じない。

 

 澪とは一緒に暮らしている。

 

 恋人なのかと聞かれれば、そう答える。

 

 結婚の話も出ている。

 

 澪は幸せそうだ。

 

 毎朝、蓮より少し早く起きる。

 

 朝食を作る。

 

 ネクタイを選ぶ。

 

「今日遅い?」

 

「たぶん九時くらい」

 

「分かった」

 

「先に寝てていいよ」

 

「待ってる」

 

「……そう」

 

 玄関で澪が蓮の頬にキスをする。

 

「いってらっしゃい」

 

「いってきます」

 

 普通の恋人同士みたいだった。

 

 いや、もう普通なのかもしれない。

 

 蓮自身、何が普通なのか分からなくなっていた。

 

 休日は二人で買い物へ行く。

 

 映画を見る。

 

 手を繋ぐ。

 

 澪が笑えば蓮も笑う。

 

 喧嘩はほとんどない。

 

 蓮が怒らなくなったからだ。

 

 諦めれば、生活は驚くほど穏やかになった。

 

 

 ある日、二人で昔の写真を整理していた。

 

 澪が大学時代の写真を見つけた。

 

「先輩、若い」

 

「お前もな」

 

「この頃、楽しかった?」

 

「まあ」

 

「私、先輩と同じ大学行けて嬉しかったな」

 

「覚えてる」

 

 澪が写真をめくる。

 

 一枚、奈緒が映っていた。

 

 ゼミの集合写真だった。

 

 澪の手が止まった。

 

「この人」

 

「ん?」

 

「昔、先輩が好きだった人?」

 

 蓮は少し驚いた。

 

「知ってたの?」

 

「うん」

 

「そう」

 

「付き合いたかった?」

 

 昔なら答えに困っただろう。

 

 今は違った。

 

「たぶんな」

 

 澪は笑わなかった。

 

「私がいなかったら?」

 

 蓮は写真を見た。

 

 もう何年も会っていない人。

 

 別の人生。

 

 選ばなかった道。

 

「分からない」

 

「……そっか」

 

 澪は写真を箱へ戻した。

 

 その夜、澪は珍しく眠れなかった。

 

 ベッドの中で何度も寝返りを打っていた。

 

「どうした?」

 

「先輩」

 

「ん」

 

「幸せ?」

 

 蓮は天井を見た。

 

「急に何」

 

「答えて」

 

 長い沈黙。

 

「……幸せだよ」

 

 澪は蓮の胸に顔を埋めた。

 

「嘘」

 

 小さな声だった。

 

 蓮は何も言わなかった。

 

「先輩、嘘つくの下手になったね」

 

「そう?」

 

「昔はもっと上手だった」

 

「……」

 

 澪は蓮の服を握った。

 

「私のせい?」

 

 蓮の胸が痛んだ。

 

「何が」

 

「先輩が、こうなったの」

 

「こうって?」

 

「何も欲しがらなくなった」

 

 澪の声が震えた。

 

「昔の先輩、もっと色んなことしたがってた」

 

 蓮は目を閉じた。

 

「東京行きたいとか。編集者になりたいとか。あの会社行きたいとか」

 

「編集者にはなったよ」

 

「でも」

 

「澪」

 

「私が全部取った?」

 

 蓮は答えなかった。

 

 それが答えになった。

 

 澪の肩が震え始めた。

 

「ごめんなさい」

 

 初めてだった。

 

 こんなふうに謝る澪を見るのは。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 

「泣くなよ」

 

「私、先輩に幸せになってほしかった」

 

「分かってる」

 

「ほんとだよ」

 

「分かってるって」

 

「私のそばで幸せになってほしかった」

 

 蓮は苦笑した。

 

「それは難しい注文だな」

 

 澪が息を詰まらせた。

 

 冗談のつもりだった。

 

 けれど笑えなかった。

 

「別れようか」

 

 澪が言った。

 

 蓮は目を開けた。

 

「……何?」

 

「私、いなくなろうか」

 

 澪は泣いていた。

 

「先輩、自由になった方がいい」

 

「今さら?」

 

「うん」

 

「お前はそれで平気なの」

 

 澪は答えなかった。

 

 蓮は天井を見つめた。

 

 胸の奥に、懐かしい恐怖が湧いた。

 

 もし離れたら。

 

 もし澪がまた一人になったら。

 

 もし。

 

 もし。

 

 もし。

 

 何年経っても消えなかった。

 

 蓮は息を吐いた。

 

「いいよ」

 

 澪の身体が固まった。

 

「……え?」

 

「ここにいろよ」

 

「でも」

 

「もういい」

 

「先輩」

 

「お前、俺がいないと駄目なんだろ」

 

 澪は泣きながら頷いた。

 

「じゃあいいよ」

 

 蓮は澪の頭を撫でた。

 

 昔から何度もしてきたように。

 

 優しく。

 

「いるから」

 

 澪は声を上げて泣いた。

 

 蓮の胸にしがみついた。

 

「ごめんなさい」

 

「うん」

 

「好き」

 

「うん」

 

「大好き」

 

「知ってる」

 

「私、先輩がいないと生きられない」

 

「知ってるよ」

 

 澪は泣きながら、何年も前と同じ言葉を口にした。

 

「私、先輩のせいで生きてる」

 

 蓮はしばらく黙っていた。

 

 それから澪を抱きしめた。

 

「……そうだな」

 

 もう否定しなかった。

 

 

 

 

 数か月後。

 

 二人は結婚した。

 

 小さな式だった。

 

 澪は白いドレスを着て、誰より幸せそうに笑っていた。

 

 誓いの言葉を交わすとき、澪は泣いた。

 

 蓮も笑った。

 

 写真の中の二人は、どこから見ても幸福な夫婦だった。

 

 

 夜。

 

 式を終えたあと、澪はベッドの中で蓮の左手を何度も眺めていた。

 

 薬指の指輪を指でなぞる。

 

「嬉しい?」

 

 蓮が聞いた。

 

「うん」

 

「そっか」

 

「夢だった」

 

「知ってる」

 

「先輩のお嫁さんになるの」

 

 澪は笑った。

 

 それから少しだけ、その表情を曇らせた。

 

「ねえ」

 

「ん?」

 

「後悔してる?」

 

「してないよ」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

 澪は蓮の目を見た。

 

 昔は何でも映していた目だった。

 

 怒りも、夢も、好奇心も、焦りも。

 

 今はとても静かだった。

 

 澪が望んだ通りだった。

 

 蓮はもう遠くへ行こうとしない。

 

 誰かを好きにならない。

 

 新しい夢を追いかけない。

 

 何より澪を優先する。

 

 絶対に捨てない。

 

 完璧だった。

 

 ずっと欲しかった人になった。

 

 だから澪は、たまらなく悲しくなった。

 

「先輩」

 

「何?」

 

「笑って」

 

 蓮は笑った。

 

 優しい笑顔だった。

 

 澪は泣いた。

 

「どうした?」

 

「分かんない」

 

 蓮が涙を拭ってくれる。

 

 その指まで優しい。

 

 昔と何も変わらないようで、何もかも違った。

 

「ごめんなさい」

 

「またそれ?」

 

「うん」

 

「もういいよ」

 

「でも」

 

「澪」

 

 蓮は困ったように笑った。

 

「俺が決めたんだから」

 

 その言葉に、澪の胸が締めつけられた。

 

 昔、自分が何度も使った言葉だった。

 

 先輩が決めたんでしょ。

 

 先輩が生きろって言ったんでしょ。

 

 先輩が私を心配したんでしょ。

 

 そうやって逃げ道を一つずつ塞いだ。

 

 そして最後には、蓮自身が選んだことにした。

 

 澪はようやく気づいた。

 

 自分は彼の人生を奪ったのではない。

 

 彼が自分の人生を捨てるように仕向けたのだ。

 

 その方がずっと残酷だった。

 

「先輩」

 

「ん?」

 

「私のこと好き?」

 

 蓮は少し考えた。

 

 ほんの一秒。

 

 けれど澪には永遠のように長かった。

 

「好きだよ」

 

 欲しかった言葉だった。

 

 何年も。

 

 何年も。

 

 あの雨の日からずっと。

 

 それなのに胸の中には、喜びより先に痛みが広がった。

 

「……ほんと?」

 

「うん」

 

「どこが好き?」

 

「俺を必要としてくれるところ」

 

 澪は息を止めた。

 

 蓮は微笑んだ。

 

「それで十分だろ」

 

 澪はとうとう声を殺して泣いた。

 

 蓮は理由を聞かなかった。

 

 ただ抱きしめてくれた。

 

 昔と同じように。

 

 あの雨の夜、自分を欄干の向こう側から引き戻してくれた腕で。

 

 澪はその胸に顔を埋めた。

 

 本当に欲しかったものを手に入れたはずなのに。

 

 もう二度と離れていかない人を手に入れたはずなのに。

 

 それでも、どうしてこんなに苦しいのか分からなかった。

 

 分からないふりをしたかった。

 

 けれど答えは、ずっと前から知っていた。

 

 高瀬蓮は、雨宮澪を生かした。

 

 そして雨宮澪は、その恩返しのように、彼から逃げる理由を一つずつ奪った。

 

 夢も。

 

 恋も。

 

 未来も。

 

 最後に残ったのは、責任という名前をした愛情だけだった。

 

 それでも澪は彼を離せなかった。

 

 蓮も、もう離れようとはしなかった。

 

 だから二人は、これからもきっと一緒に生きていく。

 

 とても穏やかに。

 

 とても優しく。

 

 誰から見ても幸せそうに。

 

 

 ――君のせいで生きてる。

 

 その言葉が、二人を救った日の呪いだった。

 


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