それ以来、澪にとって蓮は「生きる理由」そのものになった。
けれど、その想いは少しずつ重く、歪んでいく。
救った責任と愛情の間で離れられなくなる蓮と、彼だけを求め続ける澪。
これは、優しさから始まった二人の、逃げられない恋の物語。
雨宮澪が死のうとしていた夜、高瀬蓮はコンビニで傘を買った帰りだった。
それだけのことだった。
もし五分早く店を出ていれば、もしレジが混んでいなければ、もし蓮がいつもの近道を選んでいれば、二人の人生は交わらなかった。
六月の雨は細く、街灯の光を白く濁らせていた。川沿いの遊歩道は人影もなく、濡れたアスファルトだけが鈍く光っている。その先で、制服姿の少女が欄干の向こう側に立っていた。
最初、蓮は意味を理解できなかった。
少女は傘を差していなかった。肩まである黒髪が頬に張りつき、細い指が冷たい金属を握っている。川面を見下ろしたまま、こちらを振り返りもしない。
「……おい」
声をかけると、少女の肩がわずかに揺れた。
「何してんだよ」
「見れば分かるでしょ」
妙に落ち着いた声だった。
蓮は傘を放り出した。
それから何を言ったのか、細かいことはあまり覚えていない。説得なんて立派なものではなかった。ただ怖かった。目の前にいる誰かが、数秒後にはいなくなるかもしれないという事実が怖かった。
「降りろ」
「嫌」
「とりあえず降りろって」
「関係ないじゃん」
「あるよ」
「何が」
「今見つけたから」
自分でも意味の分からない理屈だった。
少女が初めて振り返った。
泣いてはいなかった。
むしろその顔は、泣くことすら疲れた人間のものだった。
「じゃあ責任取ってよ」
その言葉を、蓮は冗談だと思った。
「何の」
「止めた責任」
「……いいから降りろ」
「生きてて何かあるの?」
「知らねえよ」
「じゃあなんで止めるの」
蓮は言葉に詰まった。
正しい答えなんて持っていなかった。
夢があるとか、家族が悲しむとか、明日はきっといい日になるとか。そんな言葉を簡単に言えるほど、彼は人生を知ってはいなかった。
だから、ほとんど勢いだった。
「分かんないけど、生きろよ」
少女が黙った。
「今はそれでいいだろ。理由なんて後で探せばいい。とりあえず生きろ」
「……命令?」
「そう。命令」
「守ったら?」
「え?」
「私が守ったら、あなたはどうするの」
雨が強くなった。
蓮は手を伸ばした。
「そのとき考える」
しばらくして、少女はその手を取った。
冷たい手だった。
その夜、高瀬蓮は雨宮澪を生かした。
そして何年も後になって、彼はそのことを何度も後悔することになる。
*
澪は同じ高校の一年下だった。
名前も顔も知らなかったが、制服を見ればそれくらいは分かった。
事情を聞くつもりはなかった。警察や家族に連絡することも考えたが、澪はそれだけは嫌だと言った。蓮も高校生だった。何が正解なのか分からず、結局、駅前の二十四時間営業のファミレスに連れていった。
澪は温かいココアを両手で包み、長いこと黙っていた。
「帰れる?」
蓮が聞くと、澪は頷いた。
「本当に?」
「うん」
「また変なことしない?」
「変なことって?」
「分かってるだろ」
澪は少しだけ笑った。
「命令されたから」
「……何が」
「生きろって」
蓮は気まずくなって目を逸らした。
「そんなの、あの場で言っただけだよ」
「でも私、守るよ」
「そうしてくれ」
「じゃあ連絡先ちょうだい」
「なんで」
「だって、理由がなくなったら困るから」
そのときも、深く考えなかった。
スマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。
翌朝、澪からメッセージが来た。
『おはよう。今日も生きてる』
蓮は授業中にそれを見て、少しだけ安心した。
『よかった』
返事をすると、すぐに既読がついた。
『褒めて』
『何を』
『生きてたこと』
『えらい』
『ほんと?』
『ほんとほんと』
数秒後。
『じゃあ明日も生きる』
それが始まりだった。
最初の数か月、澪はごく普通だった。
朝と夜に一度ずつ連絡が来る程度だったし、学校ですれ違えば小さく会釈するくらいだった。時々、「今日ちょっとつらかった」とメッセージが来れば、蓮は「早く寝ろ」と返した。
それだけで澪は喜んだ。
蓮自身も、悪い気はしなかった。
誰かの役に立っているという感覚は、十七歳の少年には少し誇らしかった。
だから澪から「少しだけ話したい」と言われれば電話に付き合ったし、「眠れない」と言われれば深夜までどうでもいい話をした。
澪はよく笑うようになった。
初めて会った夜の、何も映していないような目とは別人だった。
「先輩」
「ん?」
「私ね、最近ちょっと生きるの楽しいよ」
電話越しにそう言われたとき、蓮は心から嬉しかった。
「そりゃよかった」
「先輩のおかげ」
「いや、お前が頑張ったからだろ」
「違うよ」
澪はそこで少し黙った。
「先輩がいるからだよ」
その言葉に含まれている重さを、蓮はまだ理解していなかった。
*
蓮が高校を卒業すると、澪からの連絡は増えた。
大学に進学した蓮は、新しい環境で忙しくなった。サークルに入り、アルバイトを始め、新しい友人もできた。
それまで毎日返していたメッセージを、数時間放置することも増えた。
ある夜、飲み会から帰る途中でスマートフォンを見ると、澪から三十件近いメッセージが届いていた。
『先輩』
『忙しい?』
『ごめん』
『邪魔だった?』
『返事いらないよ』
『でも少しだけほしい』
『今どこ?』
『誰といるの?』
『女の人?』
『ごめん』
『なんでもない』
『楽しい?』
『私いなくても楽しい?』
最後のメッセージだけ、十分前だった。
『今日もちゃんと生きたよ』
蓮は足を止めた。
酔いが一気に醒めた気がした。
『飲み会だった。ごめん』
送信した瞬間、電話が鳴った。
「もしもし」
『……先輩』
「何だよ」
『よかった』
声が震えていた。
「澪?」
『嫌われたかと思った』
「そんなわけないだろ」
『じゃあどうして返してくれなかったの』
「だから飲み会だって」
『女の人いた?』
「いるよ、大学なんだから」
電話の向こうで沈黙した。
「澪?」
『……そっか』
「何なんだよ」
『ううん。楽しそうでよかった』
そう言われて、蓮はなぜか罪悪感を覚えた。
翌日、大学から帰るとアパートの前に澪がいた。
「……何してんの?」
「会いたくなった」
「家、教えたっけ」
「前に最寄り駅言ってたでしょ。先輩の写真に建物がちょっと映ってたから」
笑顔で言われ、背中がぞくりとした。
けれど澪はすぐに申し訳なさそうに眉を下げた。
「気持ち悪い?」
「いや……」
「ごめんなさい」
その顔を見ると、それ以上言えなかった。
「別にいいけど、次から連絡しろよ」
「うん」
澪は嬉しそうに笑った。
その日から、澪は頻繁に蓮の部屋へ来るようになった。
料理を作り、掃除をし、洗濯までしようとした。
「そこまでしなくていいって」
「私がしたいの」
「でもお前、受験あるだろ」
「先輩のことしてる方が落ち着くから」
初めは便利だと思ってしまった。
冷蔵庫に食べ物があり、帰宅すれば部屋が綺麗になっている。
澪は見返りを求めなかった。
ただ、蓮が「ありがとう」と言えば、それだけで幸福そうに笑った。
だから気づくのが遅れた。
澪の私物が、少しずつ部屋に増えていることに。
歯ブラシ。
マグカップ。
化粧水。
着替え。
そしてある日、玄関の小さな箱に見覚えのない鍵が置かれていた。
「これ何?」
「あ、合鍵」
「誰の?」
「私の」
澪は当たり前のように答えた。
「いつ作った?」
「先週」
「勝手に?」
「……だめだった?」
その瞬間、初めて蓮は明確に違和感を覚えた。
「だめだろ」
「ごめんなさい」
「鍵返して」
澪の顔から表情が消えた。
「……なんで?」
「なんでって、俺の部屋だから」
「でも私、掃除とかするし」
「それも頼んでない」
「迷惑だった?」
「そういう話じゃなくて」
「じゃあ何?」
澪の声が細くなった。
「私、何か間違えた?」
「距離が近すぎるんだよ」
言った瞬間、澪の顔が歪んだ。
泣きそうになった。
蓮は胸が痛んだが、ここで曖昧にする方がよくないと思った。
「お前も友達とか作れよ。俺以外にもさ」
「いるよ」
「だったら――」
「でも必要ない」
澪は蓮を見た。
「先輩がいるから」
「そういうのやめろって」
「どうして?」
「重いんだよ」
口から出た瞬間、取り返しがつかないと分かった。
澪は動かなかった。
「……重い?」
「澪」
「私が?」
「言い方悪かった。ごめん」
「そっか」
澪は笑った。
ひどく綺麗な笑顔だった。
「ごめんね、先輩」
鍵を机の上に置き、そのまま帰っていった。
翌日から連絡は途絶えた。
*
三日目の夜、蓮は耐えられなくなった。
『元気?』
返事はなかった。
『この前はごめん』
既読もつかない。
四日目。
五日目。
六日目。
蓮は自分に言い聞かせた。
これでいい。
澪は自分から離れて、自分の生活を作るべきだ。
自分だって、いつまでも誰かの生きる理由なんて背負えない。
七日目の深夜、知らない番号から電話が来た。
『高瀬蓮さんですか』
澪の母親だった。
その声を聞いた瞬間、蓮の胃が冷たくなった。
詳しいことは言われなかった。
ただ、澪が家で倒れて病院に運ばれたこと。そして意識を取り戻したあと、蓮の名前だけを繰り返したこと。
病院へ向かう電車の中で、蓮はずっと自分の言葉を思い出していた。
重い。
その二文字が頭から離れなかった。
病室のベッドにいる澪は、思っていたより普通だった。
顔色が悪く、腕に点滴がついている。それだけだった。
「……先輩」
蓮を見るなり、澪は笑った。
泣きそうな顔で笑った。
「来てくれた」
蓮は何も言えなかった。
「ごめんなさい」
「何が」
「迷惑かけた」
「……何したんだよ」
澪は答えなかった。
「俺、お前に言ったよな」
「うん」
「生きろって」
「うん」
「じゃあなんで」
声が震えた。
怒っているのか、怖いのか、自分でも分からなかった。
澪はしばらく蓮を見ていた。
そして、静かに言った。
「先輩がいないなら、命令を守る意味ないから」
蓮の背筋が凍った。
「何言ってんだよ」
「だって私、先輩のせいで生きてるんだよ」
「やめろ」
「先輩があのとき、生きろって言ったから」
「やめろって」
「だから生きてるの」
澪の声には責める響きがなかった。
それが余計に恐ろしかった。
「先輩が生かしたんだよ、私を」
蓮は病室を飛び出した。
それから、蓮は澪を突き放せなくなった。
怖かった。
また自分が距離を取ったせいで、何か起きたら。
次は取り返しがつかなかったら。
澪は何も要求しなかった。
ただ以前のようにメッセージを送り、以前のように部屋へ来た。
合鍵を作ることは二度となかった。
それでも蓮が帰宅する時間には、アパートの前で待っていた。
「寒いだろ」
「大丈夫」
「いつから待ってた?」
「ちょっとだけ」
嘘だった。
手が真っ赤になっていた。
蓮は結局、鍵を渡した。
「……これ持ってろ」
澪は目を見開いた。
「いいの?」
「外で待たれる方が困るから」
「ありがとう」
嬉しそうに鍵を握る姿を見て、蓮の胸に嫌なものが沈んだ。
澪は幸せそうだった。
自分はそうではなかった。
それでも、笑った。
*
大学二年の春、蓮に好きな人ができた。
同じゼミの佐伯奈緒だった。
よく笑い、よく喋る人だった。
澪とはまるで違った。
奈緒といると、自分の言葉を選ばなくてよかった。
返信を忘れても怒られない。予定を断っても「また今度ね」で終わる。沈黙に責任を感じなくていい。
それが新鮮だった。
ある日、奈緒に言われた。
「高瀬って、たまにすごい顔してスマホ見るよね」
「え?」
「怖い通知でも来てるの?」
蓮は笑って誤魔化した。
「妹みたいなやつから」
「へえ」
「ちょっと心配性でさ」
本当は逆だった。
心配しているのは自分だった。
澪から『今日、少し寂しい』と来るだけで心臓が縮む。
『大丈夫?』
『何かあった?』
『今電話できる?』
気づけば自分から三つも送っている。
澪はそれを知っていた。
だから決して「死にたい」とは言わなかった。
『寂しい』
『眠れない』
『声聞きたい』
それだけで十分だった。
ある夜、奈緒と食事をしている最中に澪から電話が来た。
一度切った。
すぐに二度目が来た。
「出なくていいの?」
奈緒に聞かれ、蓮は画面を伏せた。
「大丈夫」
三度目。
四度目。
五度目。
「……ごめん」
蓮は席を立った。
「もしもし」
『先輩』
「どうした」
『今、外?』
「うん」
『誰と?』
「友達」
『女の人?』
黙った。
『そっか』
「何かあったの?」
『別に』
「じゃあ何で何回も電話したんだよ」
『声聞きたかっただけ』
「今じゃなくてもいいだろ」
電話の向こうが静かになった。
蓮は息を呑んだ。
「……澪」
『ごめんね』
弱い声。
条件反射のように、不安が押し寄せる。
「今どこ?」
『家』
「本当に?」
『うん』
「変なこと考えてない?」
しばらく沈黙したあと、澪は笑った。
『先輩って優しいね』
「答えろよ」
『大丈夫だよ』
「絶対?」
『うん。だって先輩が心配してくれたから』
電話を切って席へ戻ると、奈緒は箸を置いていた。
「彼女?」
「違う」
「好きな人?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
蓮は答えられなかった。
友達。
後輩。
妹みたいな存在。
どれもしっくりこなかった。
奈緒は少し寂しそうに笑った。
「高瀬、ずっとその子の顔色見てるよね」
「そんなことない」
「あるよ」
そして、小さく続けた。
「好きじゃないなら、もっと怖いけど」
*
奈緒とは、その後付き合わなかった。
告白する前に終わった。
理由は澪だけではない、と蓮は思いたかった。
けれど奈緒に誘われるたび澪の顔が浮かび、休日に予定を入れるたび『今日は会えないんだね』というメッセージを想像した。
疲れた。
誰かを好きになること自体が面倒になった。
澪は何も知らない顔で、蓮の部屋で夕食を作った。
「先輩、最近あの女の人と会わないね」
包丁の音が止まった。
「……何で知ってる?」
「写真」
「写真?」
「先輩の友達のSNS」
澪は振り返った。
「同じゼミなんでしょ?」
「調べたの?」
「ちょっとだけ」
「やめろよ」
「ごめんなさい」
口では謝りながら、澪は笑っていた。
「でも、よかった」
「何が」
「先輩、最近苦しそうだったから」
「……」
「楽になったでしょ?」
否定できなかった。
確かに楽にはなった。
失ったものを見ないふりさえすれば。
澪は大学へ進学した。
蓮と同じ大学だった。
偶然だと言った。
「第一志望だったの?」
「うん」
「前は別の大学行きたいって言ってなかった?」
「変わったの」
「いつ?」
「先輩がここに入ってから」
澪は悪びれずに笑った。
同じ大学になってから、二人はほとんど毎日会った。
周囲からは恋人同士だと思われた。
澪は否定しなかった。
蓮は最初こそ訂正していたが、やがて面倒になってやめた。
澪はそれを許可だと受け取った。
手を繋ぐようになった。
腕を組むようになった。
部屋に泊まるようになった。
「私たち、付き合ってるの?」
ある夜、澪に聞かれた。
蓮は答えられなかった。
「嫌?」
「……分からない」
「じゃあ、嫌じゃないんだ」
澪は蓮の肩に頭を預けた。
「それでいいよ」
「澪」
「名前なんていらないよ」
彼女は幸せそうに目を閉じた。
「先輩が私を捨てないなら、何でもいい」
その言葉を聞いて、蓮は動けなくなった。
抱きしめることも、離すこともできなかった。
*
転機は大学四年の冬だった。
蓮は東京の出版社から内定をもらった。
ずっと入りたかった会社だった。
編集の仕事がしたかった。
高校時代から密かに抱いていた夢だった。
内定のメールを見た瞬間、蓮は久しぶりに子供みたいに喜んだ。
その日の夜、澪に報告した。
「東京?」
「うん」
「ここから通えないよね」
「まあな」
「引っ越すの?」
「そうなる」
澪は黙った。
「……澪?」
「いつ?」
「三月」
「私も行く」
即答だった。
「いや、お前まだ大学あるだろ」
「休学する」
「馬鹿言うな」
「じゃあ辞める」
「やめろって」
「だって先輩いなくなるんでしょ?」
澪の目が揺れた。
「死ぬわけじゃないんだぞ」
「私には同じだよ」
「同じじゃない」
「同じだよ」
声が大きくなった。
「私、先輩いないと駄目だもん」
「それを変えろってずっと言ってるだろ!」
蓮も声を荒げた。
澪が固まった。
「俺はお前のために生きてるんじゃない!」
言ってしまった。
部屋が静まり返った。
澪の唇が震えた。
「……知ってるよ」
「澪」
「そんなの知ってる」
涙が一粒落ちた。
「私が勝手に先輩のために生きてるだけ」
「そういうのが――」
「でも」
澪が蓮を見た。
「先輩がそうしろって言ったんじゃん」
「俺はそんなこと言ってない」
「生きろって言った」
「それとこれは違う!」
「何が違うの?」
澪は泣きながら笑った。
「私、あの日ほんとに何にもなかったんだよ。家族も嫌いだった。学校も嫌いだった。自分も嫌いだった。明日なんて来なくてよかった」
蓮は何も言えなかった。
「でも先輩が生きろって言った」
澪は胸元を握った。
「だから生きた」
「……」
「一年生のときも、二年生のときも、受験も、大学も。全部、先輩がいるから頑張った」
「それはお前が――」
「違う!」
澪が叫んだ。
「私じゃない!」
泣き声になった。
「先輩が作ったんだよ、今の私」
その言葉は、蓮の一番弱いところへ刺さった。
澪は知っていた。
蓮が何を恐れているのか。
何を言えば離れられなくなるのか。
ずっと一緒にいたから、誰より知っていた。
澪は涙を拭った。
「ねえ、先輩」
「……何」
「私、ちゃんと生きてきたよ」
「……うん」
「命令守ったよ」
「うん」
「だから、責任取ってよ」
何年も前と同じ言葉だった。
雨の日の少女が、目の前に立っていた。
「私を置いていかないで」
*
蓮は東京へ行った。
それでも澪とは毎日電話した。
朝。
昼。
夜。
少しでも返信が遅れると、澪は不安定になった。
『仕事忙しい?』
『邪魔してごめんね』
『でも声聞きたい』
『五分だけでいいから』
最初の半年、蓮は耐えた。
仕事は楽しかった。
忙しかったが、夢だった場所にいる実感があった。
編集者として初めて担当を任された日、蓮は誰より先に澪へ報告した。
『すごいね』
『おめでとう』
『先輩ならできると思ってた』
澪は喜んでくれた。
けれど最後に、こう付け加えた。
『これでもっと忙しくなる?』
その一文だけで、喜びが少し濁った。
一年目の秋、澪が東京へ来た。
事前連絡はなかった。
蓮が帰宅すると、アパートの前に座っていた。
「何してんだよ」
「会いたかった」
「大学は?」
「休んだ」
「今日平日だぞ」
「うん」
「連絡しろよ」
「したら、来るなって言うでしょ?」
何も言えなかった。
澪は三日泊まった。
四日目の朝、帰る予定だった。
玄関で靴を履きながら、澪が言った。
「先輩」
「ん?」
「私ね、東京嫌い」
「なんで」
「先輩を取ったから」
冗談みたいに笑った。
蓮は笑えなかった。
その冬、蓮は体調を崩した。
大きな病気ではなかった。疲労と睡眠不足だった。
仕事が忙しく、澪との電話で夜も削られていた。
上司から休めと言われ、自宅で寝込んだ。
翌朝、目を覚ますと澪がいた。
「……なんでいるの」
「先輩のお母さんから聞いた」
勝手に連絡を取っていたらしい。
「大学は」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
「先輩の方が大事」
澪は甲斐甲斐しく看病した。
食事を作り、薬を用意し、汗を拭いた。
蓮は高熱で朦朧としながら、その手を握った。
「……ありがとう」
澪は泣いた。
「先輩」
「ん」
「帰ってこない?」
「どこに」
「私のところ」
「……」
「東京、つらいでしょ」
「仕事は好きだよ」
「でも苦しそう」
「最初はこんなもんだって」
「私なら先輩を苦しませないよ」
澪は蓮の手を頬へ当てた。
「私のところに帰ってきたら、全部してあげる」
「澪」
「ご飯も作る。掃除もする。お金だって私が働く」
そして囁いた。
「先輩は、私だけ見てればいいよ」
熱のせいではなかった。
蓮はそのとき初めて、澪が自分を愛しているのではなく、自分を必要としているのだと思った。
そして恐ろしいことに、自分も澪から必要とされることに慣れすぎていた。
*
翌春、澪が大学を辞めた。
蓮には事後報告だった。
「なんで相談しなかった」
『反対するから』
「当たり前だろ!」
『就職するの』
「どこに」
電話の向こうで、澪は嬉しそうに答えた。
『東京』
数週間後、澪は蓮の家から電車で十五分の場所に引っ越してきた。
偶然ではない。
もうお互い、その程度の嘘をつく必要さえなくなっていた。
澪は毎日のように蓮の部屋へ来た。
蓮も拒まなかった。
拒めなかった。
仕事から帰ると灯りがついていて、温かい食事があった。
「おかえり」
その言葉を聞くと安心した。
同時に、息が詰まった。
澪は蓮のスケジュールを把握していた。
出勤時間。
退勤時間。
締切。
飲み会。
担当作家との打ち合わせ。
女性の名前があると、その夜は必ず機嫌が悪くなった。
怒ることはない。
ただ静かになる。
「どうした?」
「別に」
「何かあった?」
「何もないよ」
「ほんとに?」
「うん」
最後には蓮の方から予定を断るようになった。
澪が不安にならないように。
澪が寂しくならないように。
澪がまた壊れないように。
少しずつ。
本当に少しずつ。
蓮の世界は狭くなった。
入社三年目、蓮に転職の話が来た。
以前から憧れていた編集者が立ち上げる新しい出版社だった。
給料は下がる。
忙しくなる。
けれど、やりたかった仕事ができる。
蓮は久しぶりに胸が高鳴った。
澪には言わないつもりだった。
決めてから話そうと思った。
だが、澪は気づいた。
「最近、楽しそうだね」
「そう?」
「何かあるの?」
「別に」
「私に言えないこと?」
「違うよ」
澪は笑った。
「そっか」
その夜、蓮が風呂から出ると、机に置いていた転職資料がなくなっていた。
リビングへ行くと、澪がそれを読んでいた。
「何してんだよ」
「これ何?」
「勝手に見るな」
「転職するの?」
「まだ決めてない」
「忙しくなる?」
「たぶん」
「帰るの遅くなる?」
「そういう日もある」
「出張増える?」
「澪」
「女の人もいる?」
「いるに決まってるだろ」
澪の指が紙を握りしめた。
「嫌だ」
「俺の仕事だぞ」
「今のままでいいじゃん」
「よくないんだよ」
「なんで?」
「俺がやりたいからだ」
澪は黙った。
「俺の人生なんだよ」
その言葉に、澪の顔が白くなった。
「……じゃあ私は?」
「何が」
「私は先輩の人生じゃないの?」
「違う」
即答した。
澪の目から涙が落ちた。
蓮も限界だった。
「違うよ」
もう一度言った。
「お前はお前だ。俺は俺だ」
「でも私には先輩しかいない」
「それがおかしいんだよ!」
「先輩がそうしたんじゃん!」
「違う!」
「違わない!」
澪が叫んだ。
「私が死のうとしたとき、先輩が止めた!」
「だからって――」
「生きろって言った!」
「言ったよ!」
「じゃあ最後まで責任取ってよ!」
澪は泣いていた。
蓮も泣きそうだった。
「そんなの無理だよ」
絞り出すように言った。
「俺は神様じゃない。お前の人生全部なんて背負えない」
「背負ってなんて言ってない」
「言ってるよ」
「私はただそばにいてほしいだけ」
「それが重いんだよ」
何年ぶりかに、同じ言葉を言った。
澪の顔から表情が消えた。
蓮は続けた。
「俺、お前が怖い」
澪の唇が震えた。
「……私が?」
「うん」
「先輩を傷つけたことないよ」
「傷ついてるよ」
「何もしてない」
「何もしないからだよ!」
怒鳴った。
「お前、死ぬなんて言わない。脅さない。怒らない。全部俺に選ばせるじゃん」
「……」
「俺が勝手に心配して、勝手に予定を断って、勝手にお前のところへ戻るようにする」
澪の目が揺れた。
「それで最後に『先輩が決めたんでしょ』って顔する」
「そんなつもりじゃ」
「分かってるよ!」
それが一番苦しかった。
「分かってる。お前は本当に俺が好きなんだろ」
澪が泣いた。
「だから困ってんだよ」
悪意なら嫌えた。
計算だけなら捨てられた。
けれど澪は本当に蓮を愛していた。
歪んでいても、本物だった。
そして蓮も、澪を憎めなかった。
雨の夜の少女を、今でも覚えている。
冷たい手。
空っぽの目。
自分がその手を掴んだ。
澪は震える声で聞いた。
「……転職するの?」
蓮は目を閉じた。
「する」
「私より大事?」
「比べるものじゃない」
「じゃあ私が無理って言っても?」
「する」
「私がまた駄目になっても?」
蓮は息を止めた。
澪はそれ以上何も言わなかった。
ただ見つめていた。
その沈黙が答えだった。
*
転職の返事をする期限は三日後だった。
一日目、澪から連絡はなかった。
二日目もなかった。
三日目の朝、蓮は会社へ向かう電車の中でスマートフォンを握っていた。
何度も澪の名前を開いた。
最後のメッセージは二日前。
『ごめんなさい』
それだけだった。
蓮は仕事に集中できなかった。
昼休み、電話した。
出ない。
夕方、もう一度。
出ない。
退勤後、澪の家へ向かった。
インターホンを押しても返事はなかった。
合鍵は持っていない。
蓮は玄関の前に座り込んだ。
頭の中で、最悪の想像だけが膨らんでいく。
あの雨の日。
病室。
『先輩がいないなら、命令を守る意味ないから』
深夜零時を回る頃、廊下の向こうから足音がした。
「……先輩?」
澪だった。
コンビニの袋を下げ、呆然とこちらを見ている。
「どこ行ってたんだよ!」
蓮は立ち上がった。
「え?」
「電話も出ないし!」
「スマホ、家に忘れて……」
「何してた?」
「映画」
「映画?」
「一人で」
蓮はその場に崩れそうになった。
澪はしばらく黙っていた。
そして、理解した。
「……心配した?」
蓮は答えなかった。
「私が死んだと思った?」
「やめろ」
「思ったんだ」
「やめてくれ」
澪の顔が歪んだ。
嬉しそうにも見えた。
悲しそうにも見えた。
「先輩」
澪が近づいた。
「まだ私のこと捨てられないんだね」
その言葉に、蓮は何も返せなかった。
澪は蓮の胸に額をつけた。
「よかった」
そして泣いた。
「……よかった」
何度も繰り返した。
蓮はその背中に手を回した。
抱きしめたかったわけではない。
落ちないように支えただけだった。
それでも澪には同じだった。
「先輩」
「ん」
「私ね、ちゃんと生きるよ」
「……うん」
「先輩がいるなら」
蓮は目を閉じた。
翌朝、転職を断った。
*
それから二年が経った。
蓮は今も同じ出版社で働いている。
編集者としては、それなりにうまくやっている。
あのときの転職先は成功し、業界で何度も名前を見るようになった。
知人がそこで楽しそうに働いている記事を見かけることもある。
最初の頃は胸が痛んだ。
今はもう、あまり何も感じない。
澪とは一緒に暮らしている。
恋人なのかと聞かれれば、そう答える。
結婚の話も出ている。
澪は幸せそうだ。
毎朝、蓮より少し早く起きる。
朝食を作る。
ネクタイを選ぶ。
「今日遅い?」
「たぶん九時くらい」
「分かった」
「先に寝てていいよ」
「待ってる」
「……そう」
玄関で澪が蓮の頬にキスをする。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
普通の恋人同士みたいだった。
いや、もう普通なのかもしれない。
蓮自身、何が普通なのか分からなくなっていた。
休日は二人で買い物へ行く。
映画を見る。
手を繋ぐ。
澪が笑えば蓮も笑う。
喧嘩はほとんどない。
蓮が怒らなくなったからだ。
諦めれば、生活は驚くほど穏やかになった。
ある日、二人で昔の写真を整理していた。
澪が大学時代の写真を見つけた。
「先輩、若い」
「お前もな」
「この頃、楽しかった?」
「まあ」
「私、先輩と同じ大学行けて嬉しかったな」
「覚えてる」
澪が写真をめくる。
一枚、奈緒が映っていた。
ゼミの集合写真だった。
澪の手が止まった。
「この人」
「ん?」
「昔、先輩が好きだった人?」
蓮は少し驚いた。
「知ってたの?」
「うん」
「そう」
「付き合いたかった?」
昔なら答えに困っただろう。
今は違った。
「たぶんな」
澪は笑わなかった。
「私がいなかったら?」
蓮は写真を見た。
もう何年も会っていない人。
別の人生。
選ばなかった道。
「分からない」
「……そっか」
澪は写真を箱へ戻した。
その夜、澪は珍しく眠れなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
「どうした?」
「先輩」
「ん」
「幸せ?」
蓮は天井を見た。
「急に何」
「答えて」
長い沈黙。
「……幸せだよ」
澪は蓮の胸に顔を埋めた。
「嘘」
小さな声だった。
蓮は何も言わなかった。
「先輩、嘘つくの下手になったね」
「そう?」
「昔はもっと上手だった」
「……」
澪は蓮の服を握った。
「私のせい?」
蓮の胸が痛んだ。
「何が」
「先輩が、こうなったの」
「こうって?」
「何も欲しがらなくなった」
澪の声が震えた。
「昔の先輩、もっと色んなことしたがってた」
蓮は目を閉じた。
「東京行きたいとか。編集者になりたいとか。あの会社行きたいとか」
「編集者にはなったよ」
「でも」
「澪」
「私が全部取った?」
蓮は答えなかった。
それが答えになった。
澪の肩が震え始めた。
「ごめんなさい」
初めてだった。
こんなふうに謝る澪を見るのは。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「泣くなよ」
「私、先輩に幸せになってほしかった」
「分かってる」
「ほんとだよ」
「分かってるって」
「私のそばで幸せになってほしかった」
蓮は苦笑した。
「それは難しい注文だな」
澪が息を詰まらせた。
冗談のつもりだった。
けれど笑えなかった。
「別れようか」
澪が言った。
蓮は目を開けた。
「……何?」
「私、いなくなろうか」
澪は泣いていた。
「先輩、自由になった方がいい」
「今さら?」
「うん」
「お前はそれで平気なの」
澪は答えなかった。
蓮は天井を見つめた。
胸の奥に、懐かしい恐怖が湧いた。
もし離れたら。
もし澪がまた一人になったら。
もし。
もし。
もし。
何年経っても消えなかった。
蓮は息を吐いた。
「いいよ」
澪の身体が固まった。
「……え?」
「ここにいろよ」
「でも」
「もういい」
「先輩」
「お前、俺がいないと駄目なんだろ」
澪は泣きながら頷いた。
「じゃあいいよ」
蓮は澪の頭を撫でた。
昔から何度もしてきたように。
優しく。
「いるから」
澪は声を上げて泣いた。
蓮の胸にしがみついた。
「ごめんなさい」
「うん」
「好き」
「うん」
「大好き」
「知ってる」
「私、先輩がいないと生きられない」
「知ってるよ」
澪は泣きながら、何年も前と同じ言葉を口にした。
「私、先輩のせいで生きてる」
蓮はしばらく黙っていた。
それから澪を抱きしめた。
「……そうだな」
もう否定しなかった。
*
数か月後。
二人は結婚した。
小さな式だった。
澪は白いドレスを着て、誰より幸せそうに笑っていた。
誓いの言葉を交わすとき、澪は泣いた。
蓮も笑った。
写真の中の二人は、どこから見ても幸福な夫婦だった。
夜。
式を終えたあと、澪はベッドの中で蓮の左手を何度も眺めていた。
薬指の指輪を指でなぞる。
「嬉しい?」
蓮が聞いた。
「うん」
「そっか」
「夢だった」
「知ってる」
「先輩のお嫁さんになるの」
澪は笑った。
それから少しだけ、その表情を曇らせた。
「ねえ」
「ん?」
「後悔してる?」
「してないよ」
「ほんと?」
「うん」
澪は蓮の目を見た。
昔は何でも映していた目だった。
怒りも、夢も、好奇心も、焦りも。
今はとても静かだった。
澪が望んだ通りだった。
蓮はもう遠くへ行こうとしない。
誰かを好きにならない。
新しい夢を追いかけない。
何より澪を優先する。
絶対に捨てない。
完璧だった。
ずっと欲しかった人になった。
だから澪は、たまらなく悲しくなった。
「先輩」
「何?」
「笑って」
蓮は笑った。
優しい笑顔だった。
澪は泣いた。
「どうした?」
「分かんない」
蓮が涙を拭ってくれる。
その指まで優しい。
昔と何も変わらないようで、何もかも違った。
「ごめんなさい」
「またそれ?」
「うん」
「もういいよ」
「でも」
「澪」
蓮は困ったように笑った。
「俺が決めたんだから」
その言葉に、澪の胸が締めつけられた。
昔、自分が何度も使った言葉だった。
先輩が決めたんでしょ。
先輩が生きろって言ったんでしょ。
先輩が私を心配したんでしょ。
そうやって逃げ道を一つずつ塞いだ。
そして最後には、蓮自身が選んだことにした。
澪はようやく気づいた。
自分は彼の人生を奪ったのではない。
彼が自分の人生を捨てるように仕向けたのだ。
その方がずっと残酷だった。
「先輩」
「ん?」
「私のこと好き?」
蓮は少し考えた。
ほんの一秒。
けれど澪には永遠のように長かった。
「好きだよ」
欲しかった言葉だった。
何年も。
何年も。
あの雨の日からずっと。
それなのに胸の中には、喜びより先に痛みが広がった。
「……ほんと?」
「うん」
「どこが好き?」
「俺を必要としてくれるところ」
澪は息を止めた。
蓮は微笑んだ。
「それで十分だろ」
澪はとうとう声を殺して泣いた。
蓮は理由を聞かなかった。
ただ抱きしめてくれた。
昔と同じように。
あの雨の夜、自分を欄干の向こう側から引き戻してくれた腕で。
澪はその胸に顔を埋めた。
本当に欲しかったものを手に入れたはずなのに。
もう二度と離れていかない人を手に入れたはずなのに。
それでも、どうしてこんなに苦しいのか分からなかった。
分からないふりをしたかった。
けれど答えは、ずっと前から知っていた。
高瀬蓮は、雨宮澪を生かした。
そして雨宮澪は、その恩返しのように、彼から逃げる理由を一つずつ奪った。
夢も。
恋も。
未来も。
最後に残ったのは、責任という名前をした愛情だけだった。
それでも澪は彼を離せなかった。
蓮も、もう離れようとはしなかった。
だから二人は、これからもきっと一緒に生きていく。
とても穏やかに。
とても優しく。
誰から見ても幸せそうに。
――君のせいで生きてる。
その言葉が、二人を救った日の呪いだった。