前日の「何もしない日」は、その日のうちに撤回された。
休暇があと何日残っているのかを指で数えたエイダが、しばらく黙ったあと、「やるよ!」と言ったのである。
翌朝、四人はまた図書館のいつもの机に集まっていた。
宿題は終わった。
今度は、年度末試験だった。
エイダは教科書を開きながら、まだ少し納得していない顔をしていた。
「一日くらい休んでもよかったと思う」
「昨日、宿題が終わったあと休んでただろ」
マルコムが言った。
「あれは休みじゃないよ。解放感を味わってただけ」
「違いが分からない」
「全然違うよ」
真司は二人のやり取りを聞きながら、自分のノートを開いた。
九月から今までに習ったことを、もう一度やる。
言葉にすると簡単だった。
「じゃあ、本閉じて」
マルコムが言った。
エイダが顔を上げた。
「開いたばっかりだよ?」
「だからだよ」
「読む前に閉じてどうするの?」
「今どれくらい覚えてるのか確かめる」
エイダは開いたばかりの本を見た。それからマルコムを見る。
「先に読んでからじゃだめ?」
「それじゃ、今覚えたのか前から覚えてたのか分からないだろ」
「答えられれば同じじゃない?」
「試験の朝に全部読めるならね」
エイダはしばらく考えてから、ぱたんと本を閉じた。
「分かったよ」
真司もノートを伏せた。
「でも、どうやって確かめるの?」
エイダが訊くと、ベアトリスが四人を見回した。
「順番に問題を出したら?」
「問題?」
「一人だけ本を見て、ほかの三人に訊くの。終わったら交代」
「それなら答えも確かめられるね」
真司が言うと、ベアトリスは教科書を一冊引き寄せた。
「じゃあ最初、私やる」
*
「次。ドラゴンの血の用途」
「それ知ってる!」
エイダがすぐに身を乗り出した。
「じゃあ答えて」
最初のいくつかは勢いよく出てきた。
指を折りながら数えていたエイダが、途中でぴたりと止まる。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「頭のここまで来てる!」
エイダは自分の額を指した。
「出てこないなら来てないんじゃないか?」
マルコムが言った。
「来てるの!」
「じゃあ出してくれ」
「今やってる!」
エイダはしばらく額を押さえていたが、どうしても出てこなかった。
ベアトリスが答えを読み上げる。
「ああ、それ!」
「今のは覚えてたことになる?」
「ならないだろ」
マルコムが即答した。
「厳しいなぁ」
問題を出す役を交代してみると、似たようなことは全員に起きた。
「自動かき混ぜ鍋を発明したのは?」
今度は真司が問題を読む。
エイダは眉を寄せた。
「……名前は見た」
「名前を訊いてるんだけど」
「分かってるよ」
「ガスパール・シングルトン」
マルコムが答えた。
真司は本を確認する。
「正解」
「そう、それ!」
エイダが言った。
「今のも覚えてたことにはならないぞ」
「見たら分かったんだから、ちょっとは覚えてたよ」
「ずいぶん便利な『覚えてた』だな」
ベアトリスが次のページをめくった。
「じゃあ、忘れ薬。材料を入れる順番は?」
「それなら分かる!」
今度はエイダが一番に答え始めた。
固有名詞を思い出すときより、ずっと速い。
途中で一つ順番を入れ替え、マルコムに指摘されると、
「そこは分かってた!」
「じゃあどうして間違えたんだ?」
「口が先に行ったの!」
「口を試験に出すんじゃないだろ」
「分かってるって!」
真司も、ついさっきまで知っていたはずのことが、訊かれた途端に出てこないことがあった。
「本を見れば分かるんだけどな」
「試験でも本を見るの?」
マルコムが訊いた。
「……見ないね」
「じゃあ覚えないと」
「分かってるよ」
分かっていることと、覚えていることも、どうやら同じではなかった。
午前中は、そんなふうに本を開いたり閉じたりして過ぎた。
*
午後は実技の復習をすることにした。
呪文学では、呪文そのものだけでなく杖の動きも何度か繰り返した。
こちらは覚えているつもりでも、続けてやってみると、二度目と三度目で少し振り方が違うことがある。
エイダはそのたびに「今の方がやりやすかった」と言い、マルコムは「まず習った通りにやれ」と返した。
そして、変身術にも取りかかった。
変身術が難しいことは、この一年で十分に分かっていた。一度うまくいったからといって、次も同じようにできるとは限らない。
まずは一年の初めに習った、マッチを針へ変えるところから始める。
「できた!」
最初に声を上げたのはエイダだった。
細長い銀色のものを持ち上げる。
マルコムが横から覗いた。
「太くない?」
「針だよ」
「太い針だな」
「太い針もあるでしょ」
針の定義に太さの項目があったら、完全にアウトだろう。
真司には、鈍く光る細長い円錐に見えた。
「もう一回やってみたら?」
「なんで? できたよ?」
「最後、ちょっと横に振ったから」
「振ってないよ」
「振ってた」
エイダは自分の杖の動きを再現しかけ、途中で止まった。
「……ちょっとだけ」
「振ってるじゃん」
「でも、その方がうまくいくと思ったんだよ」
二本目は先だけが銀色になった。
「なんで!?」
「変えたからじゃない?」
「一回目はできたじゃん!」
その隣では、マルコムが同じ動きを繰り返していた。
最初は半分ほどしか変わらなかったが、二度、三度と続けるうちに、少しずつ針らしくなっていく。
「また同じやり方?」
「正しいやり方ができる前に、どうして変えるんだ?」
「退屈じゃない?」
「君よりは針になってる」
「嫌な言い方!」
ベアトリスも苦戦していた。
「私の、まだ半分マッチなんだけど」
「僕のも」
真司は自分の一本を隣へ置いた。
形は針に近いが、薄い木目が残っている。
もう一度やる。
やはり残った。
ほかの三人を見ていると、失敗の理由は何となく分かる。
エイダは途中で余計な工夫をする。マルコムは失敗するときだけ、最後に少し力が入る。
「マルコム、最後に力入ってない?」
「そう?」
マルコムがもう一度やった。
今度はきれいな針になった。
「……ほんとだ」
「でしょ」
真司が少し得意になると、マルコムがこちらを見た。
「シンジも最後に手首が下がってる」
「分かってる」
「今も下がった」
「分かってるよ」
「なら直せよ」
「直そうとしてる!」
真司はもう一度マッチを置いた。
どこがおかしいかは分かっている。
手首を下げないつもりでもいる。
それでも、出来上がった針には木目が残った。
「なんで分かってるのにできないんだろ」
するとベアトリスが身を乗り出した。
「でも、さっきより少ないよ」
「何が?」
「木のところ。最初のと並べてみて」
真司は二本を並べた。
確かに違った。最初のものには何本も木目が走っていたが、今のものには根元に少し残っているだけだった。
「……ほんとだ」
「こっちはここまで木だったけど、今のはここだけ」
ベアトリスが指先で示した。
「よく見てたね」
「だって、ずっと隣でやってたから」
そう言ってから、ベアトリスは自分の失敗作を見た。
「私のは増えたけど」
真司もそちらを見る。
「ほんとだ」
「そこは見なくていいよ」
真司は笑った。
*
その日だけで一年分を復習できるはずもなかった。
次の日も、その次の日も、四人は午前中に本を開いたり閉じたりし、午後には杖を振った。
昨日は言えた答えが今日は出てこない。一度成功した魔法が、次には失敗する。
そういうときは確かめて、またやった。
試験勉強を始める前より、できるようになったこともあったが、自分が何を覚えていないのかも前よりよく分かるようになった。
*
休暇の終わりが近づいた夕方、真司は自分のノートを最初の方からぱらぱらとめくった。
九月、十月、十一月。十二月を越え、一月、二月、三月。それから、もう四月まで来ている。
最初のころのページには、杖の持ち方や呪文の発音まで、今ならわざわざ書かないようなことが残っていた。そういうものを書かなくなったころには、代わりに授業で間違えたところや、教科書を読んで気になったことが書かれるようになっている。
書くことが減ったわけではなかった。
書くことの方が変わっていた。
「最初の方、すごいな」
真司が言うと、向かいのマルコムが顔を上げた。
「何が?」
「ほら。『杖はこう持つ』とか書いてる」
マルコムがノートを覗き込んだ。
「知らなかったんだから、書くだろ」
「今なら書かないよ」
「今は別のことを山ほど書いてるけどな」
真司は少し先のページを見た。
「……ほんとだ」
ページを戻して、また進める。
ずいぶん前の授業なのに、見ればすぐ思い出すものもあれば、何を書いたのか自分でも一瞬考えるものもある。
「これ、全部出るんだよね」
「全部出る、じゃなくて、全部から出るかもしれない、だな」
真司は顔を上げた。
「……どっちにしても嫌だな」
「まったくだね」
隣で聞いていたエイダが、机に額をつけた。
「やっぱり何もしない日、必要だったと思う」