ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
「シンジ。起きろ」
真司は目を開けなかった。
「朝だよ」
「……あとちょっと」
「その、あとちょっと、でいい席を逃すんだ」
目が開いた。
ベッドの脇に、制服へ着替えたマルコムが立っていた。
真司はしばらく彼を見た。
それから窓を見た。
外はまだ、朝だった。
今日は休日である。
「……なんで起きてるの?」
「朝だから」
「マルコムが?」
「失礼だな」
普段なら、真司が着替え終わるころになっても毛布の中にいることがある。そのマルコムが、今日は髪まで整えていた。
「何かあるの?」
マルコムは呆れたような顔をした。
「クィディッチ!」
「ああ」
「今日は、スリザリン対グリフィンドールだ」
そこでようやく、昨夜の夕食から上級生たちが試合の話ばかりしていたことを思い出した。
「そんなに楽しみなんだ」
「早く着替えて」
「答えになってない」
「朝食がなくなる」
マルコムはそう言って寝室を出ていった。
真司は身体を起こした。
あの寝ぼすけを朝から動かす程度には、マルコムはクィディッチが好きなようだ。
*
大広間も、いつもの土曜日より騒がしかった。
スリザリン卓では、まだ始まってもいない試合について上級生たちが声を張っている。向こうのグリフィンドール卓には、赤と金のマフラーをもう首に巻いた生徒までいた。
真司が席につくと、少し上の学年らしい男子生徒が友人へ言った。
「問題はポッターだな」
「今年もあいつを止められるかどうかだ」
真司はパンへ伸ばした手を止めた。
「ポッター?」
マルコムが顔を上げた。
「リリー・ポッター」
「ハリー・ポッターの?」
「娘だよ」
「試合に出るんだ」
「出るどころじゃないよ」
マルコムは少しばかり興奮した口ぶりで話し出した。
「ホグワーツで一番のチェイサーだって言われてる」
「学校で一番?」
「そう言う人は多い」
真司はグリフィンドール卓を見た。
赤と金のローブばかりで、どの生徒がリリー・ポッターなのかは分からない。
「どれくらい上手いの?」
「さあ。僕も見たことないからね」
朝からずいぶん便利な答えだった。
*
昼前になると、生徒たちはぞろぞろと城を出始めた。
十一月の空は白っぽく、風は冷たかったが、雨は降っていなかった。
「晴れてよかったね」
途中で合流したベアトリスが空を見上げた。
「雨でもやるよ」
マルコムが言った。
真司が振り返った。
「雨でも?」
「もちろん」
「飛ぶのに?」
「飛ぶからだろ」
真司にはよく分からなかった。
隣を歩いていたエイダが、両手をローブのポケットへ突っ込んだまま振り返る。
「まあ、今日はどっちが勝っても私は困らないけどね!」
「覚えておくよ」
マルコムが言った。
「何を?」
「レイブンクロー戦まで」
マルコムはにやりと不敵に笑う。
「その日はスリザリンを応援しなーい」
「僕もレイブンクローを応援しない」
真司と同じマグル生まれでクィディッチのクの字も分かっていないであろうエイダだが、いつものようにマルコムといがみ合う。
「……やれやれ」
やいやいと言い合う二人に挟まれた真司はベアトリスに目をやると。ベアトリスも「困ったものね」と言いたげな苦笑を見せた。
競技場へ近づくにつれて、人の声が大きくなる。
城から眺めたことはあったが、近くまで来ると観客席は思っていたより高かった。木造の塔のような席がいくつも空へ伸び、その向こうには細長い三本の輪が立っている。
真司は首を反らした。
「……あそこまで飛ぶの?」
「もっと上にも行く」
マルコムは平然と言った。
「飛行訓練と全然違うじゃん」
「だから試合なんだよ」
入口で生徒の流れが分かれた。
「じゃあ、あとでね」
ベアトリスは黄色と黒の一団へ向かった。
エイダもレイブンクローの生徒たちの方へ行きかけて、振り返る。
「負けても泣かないでね!」
「僕は君の泣き顔を見るのが楽しみだよ」
マルコムが皮肉ってみせたが、エイダは答えずに行ってしまった。
真司とマルコムは、緑と銀の旗が並ぶ観客席へ上がった。
*
選手たちが競技場へ飛び出した瞬間、飛行訓練とはまるで違うと分かった。
急上昇。
急カーブ。
別の箒が横切っても、ぶつかる寸前でするりとかわす。
一人など、片手を箒から離したまま身体を大きく傾けていた。
真司は思わず観客席の縁を握り、食い入るように見つめる。
「すごい」
「だろ?」
競技場の中央では、マダム・フーチが選手たちを待っている。
スリザリンの選手が紹介されるたび、周囲から歓声が上がった。真司もつられて拍手する。
グリフィンドールの番になると、反対側の観客席がさらに大きく揺れた。
チェイサーが一人ずつ飛び出してくる。
三人目。
「――リリー・ポッター!」
歓声が膨らんだ。
赤いローブの女子生徒が観客席の前を横切った。
「あの人?」
「うん」
「学校で一番って人」
「そう」
真司は目で追った。
「どれくらい上手いの?」
「見れば分かるよ、きっと」
笛が鳴った。
「始まる!」
マルコムはもう競技場を見ていた。
*
始まって三十秒ほどで、非魔法界のどのスポーツよりも早い試合展開に真司は置いてきぼりをくらっていた。
「今、誰が持ってる?!」
「グリフィンドール!」
歓声に負けじと声を張る。
「どの人?!」
「あっち!」
「あっちって――!」
その間にクアッフルは別の選手へ渡った。
さらにもう一度。
赤いボールがゴールへ飛び込む。
輪を抜けた。
反対側の観客席から歓声が上がった。
「入った?!」
「入った! これで十点!」
空では、もう次の攻撃が始まっている。
「あの黒いのは?!」
「ブラッジャー!」
「なんで選手を追いかけてるの?!」
「そういう球だから!」
「誰がそんな球を――」
「シンジ!!!」
マルコムに一括された。
「分かった。見る」
スリザリンがクアッフルを奪った。
真司は今度こそ見失わないように目を凝らした。
一人目から二人目。
二人目から三人目。
ゴール前へ。
ところが、横から飛んできたブラッジャーを避けた拍子にクアッフルを落とす。
「あっ」
下から飛び込んできた赤いローブが受け取った。
「ポッターだ!」
マルコムが言った。
真司は目を凝らした。
朝から何度も名前を聞いた、学校で一番だというチェイサー。
一人をかわす。
すぐにはゴールへ向かわず、後ろから来た味方へクアッフルを返した。
真司は一瞬、球を見失った。
次に見つけたときには、リリーが左側からもう一度受け取っていた。
「え?」
スリザリンのキーパーがそちらへ動く。
リリーは右の輪へ投げた。
十点。
赤と金の観客席が沸いた。
「……うまい」
「そうだね、あれは並じゃない」
真司は横を見た。
いつもよりもマルコムの目は輝いていた。
*
グリフィンドールがまた攻めてきた。
真司はクアッフルを追った。
マルコムは違った。
「何見てるの?」
「キーパー」
「なんで?」
「いや……」
マルコムは少し考えた。
「前に出すぎてる」
「そうなの?」
「たぶん……」
次の瞬間、グリフィンドールのチェイサーが真正面からゴールへ向かった。
スリザリンのキーパーが更に前へ出る。
チェイサーは投げなかった。
横へパス。
誰もいなくなった右の輪へ、別のチェイサーがクアッフルを放り込んだ。
歓声が上がる。
真司はマルコムを見た。
「分かってたの?」
「入るとは言ってない」
「でも、前に出すぎって」
「前に出すぎだと思っただけ」
マルコムはそれ以上説明せず、またゴール前を見た。
次の攻撃では、スリザリンのキーパーがクアッフルを弾いた。
「今のはうまい」
「止めただけじゃない?」
「その前に右を空けなかった」
真司にはまだ、その違いがよく分からなかった。
ただ、マルコムがクアッフルよりもゴールを見ていることだけは分かった。
*
試合はグリフィンドールが押していた。
二十点。
三十点。
四十点。
スリザリンも何度か攻めたが、あと少しのところでクアッフルを奪われる。
観客席から、
「前だ!」
「左!」
「パスを回せ!」
と、たぶん選手には聞こえていない指示が飛んだ。
真司も、いつの間にかそれに混ざっていた。
「そこ、空いてる!」
「聞こえないよ」
隣でマルコムが笑った。
「知ってる!」
スリザリンのチェイサーが一人をかわした。
パス。
もう一人パス。
ゴールへ向かう。
グリフィンドールのキーパーが中央の輪へ寄った。
クアッフルがその横を抜ける。
輪を通った。
「入った!」
真司は立ち上がっていた。
周囲のスリザリン生も一斉に立ち上がり、緑と銀の旗が揺れた。
誰かと肩がぶつかった。
それでも構わなかった。
座り直したころには、試合はもう再開している。
「今、何対何?」
「四十対十」
「三十点差かぁ」
「まだね」
*
しばらくすると、試合が少しずつ見えるようになってきた。
クアッフルを持つ選手だけを追えば、次のパスを見失う。
ビーターが動いた方向には、たいていブラッジャーがいる。
そしてシーカー二人だけは、ときどき試合と関係のない場所を見て飛んでいた。
「シーカーって、何してるの?」
「スニッチを探してる」
「ずっと?」
「見つけるまで」
金色の小さな球を一つだけ探す。その間も、他の選手は点を取り合っている。
「忙しい競技だね」
「そうだね」
グリフィンドールがさらに十点取った。
また十点。
スリザリンも返したが、差はなかなか縮まらない。
リリーがクアッフルを受けた。
今度は自分で投げると見せて、後ろへ回す。
キーパーが釣られた。
味方のチェイサーが得点する。
「ああ、それはずるい!」
真司が言った。
「反則じゃないよ」
「分かってる。うまい方のずるい」
「たしかに」
マルコムが少し笑った。
リリーはクアッフルを持っていないときにも、いつの間にか別の場所へ移っていた。
真司は何度も彼女を見失った。
*
試合が一時間を越えたころだった。
突然、グリフィンドールのシーカーが急降下した。
観客席の空気が変わった。
「何?!」
真司が聞く。
マルコムは答えなかった。
立ち上がっている。
スリザリンのシーカーも、ほとんど真下へ箒を向けた。
「スニッチ?!」
「たぶん!」
真司も立った。
競技場のずっと下。
二人のシーカーが芝生すれすれまで落ちていく。
速すぎて、どこに金色の球があるのか真司には見えない。
グリフィンドールのシーカーが手を伸ばした。
スリザリンが横から迫る。
観客席が一瞬、妙に静かになった。
次の瞬間、二人とも急に箒を引き起こした。
どちらの手にも何もない。
「あれ?」
「見失った」
観客席から一斉に息が漏れた。
誰かが頭を抱えた。
試合は何事もなかったように続いた。
真司は座り直した。
「心臓に悪い」
「まだ一回目だよ」
「何回あるの?」
「見失うたびにね、ある試合なんか三ヶ月おわらなかった」
「えぇ……」
*
試合開始から一時間半、そのころには、点差はかなり開いていた。
グリフィンドール、一六〇点。
スリザリン、三〇点。
真司はもう、マルコムへ聞かなくても点数を覚えていた。
「百三十点差だ……」
「うん」
「かなり厳しくない?」
「クアッフルだけならね」
真司は競技場を見た。
少ししてから振り返る。
「……スニッチって何点?」
「百五十点」
「百五十!?」
「そう」
「一個で?」
「一個で」
真司は黙った。
もう一度、競技場を見る。
「じゃあ今、スリザリンが取れたら!?」
「百八十対百六十」
一時間以上かけて積み上がった百三十点差が、小さな金色の球一つでひっくり返る。
「すごいルールだね」
そのとき、マルコムの目が競技場の端へ動いた。
「来た!」
「何が?」
「シーカー!」
スリザリンのシーカーが飛び出した。
今度はグリフィンドールが一拍遅れた。
真司にも見えた。
薄い午後の日差しの中で、一瞬だけ金色が光った。
「あれか!」
「そう!」
二人のシーカーが並ぶ。
スニッチは観客席の方へ上がった。
二人も追う。
真司はもう座っていなかった。
周りの誰も座っていない。
金色の球が急に向きを変える。
グリフィンドールのシーカーが先に回り込んだ。
スリザリンも続く。
肩と肩が近づく。
手が伸びる。
金色が消えた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間、スリザリンのシーカーが片手を高く上げた。
その指の間で、小さな金色の羽がばたついている。
笛が鳴った。
緑と銀の観客席が爆発した。
「取った!」
マルコムが叫んだ。
真司も叫んでいた。
「勝った!」
旗が振られ、足元の木の床まで揺れた。
何人もの生徒が、隣にいる誰かと肩を叩き合っている。
真司も知らない上級生に背中を叩かれた。
痛かった。
今はどうでもよかった。
歓声の向こうに、得点板が見えた。
一八〇対一六〇。
「……やっぱり、すごいルールだね」
「それ褒めてる?」
マルコムは笑ってそう言った。
*
競技場を出たところで、エイダとベアトリスを見つけた。
エイダは真司たちを見るなり言った。
「ほとんど負けてたのに勝ったね、グラント!」
「僕もちょうど今それを考えてたところだよ、ラブレス」
「始めるなよ」
真司が仲裁に入る。
「まだ何も始めてない」
ベアトリスが笑った。
マルコムは先に歩き出した。
三人もそのあとを追った。
城へ戻る生徒の列は、行きよりずっと騒がしかった。
*
夕食になっても、スリザリン卓では試合の話が続いていた。
朝なら半分も分からなかっただろう話が、今は少し分かる。
あのパス。
あのセーブ。
最初にスニッチを見失ったところ。
最後の急上昇。
上級生の一人が、リリー・ポッターの活躍について悔しそうに話している。別の生徒は、最後にスニッチを取った瞬間をもう三度も説明していた。
真司は料理を取りながら、その話へ耳を傾けた。
「ねえ」
「何?」
「次のスリザリンの試合、いつ?」
真司もいつのまにかクィディッチが好きになっていた。