スカーが地下水道へ姿を消してから、しばらく後。
ヨキは東方司令部へ戻ってきた。
雨に濡れた制服は重く、身体のあちこちが鈍く痛む。
それでも。
建物へ入った瞬間、ヨキの足は自然と速くなっていた。
ニーナたちが保護されている部屋の前まで辿り着く。
扉を開けるより先に、中から声が聞こえた。
「おヒゲのおじちゃん!」
扉が開く。
ニーナが飛び出してきた。
「わっ。」
ヨキは慌てて膝を折り、小さな身体を受け止める。
ニーナは胸へ顔を押し付け、服を強く掴んだ。
「よかった……。」
「おヒゲのおじちゃん、帰ってきた……。」
その声は震えていた。
ヨキは一瞬だけ言葉に詰まり、やがて小さな背中へ腕を回した。
「ごめんね。」
「怖い思いをさせた。」
ニーナは何度も首を横へ振った。
「おじちゃんが、守ってくれたの。」
「アルお兄ちゃんが、教えてくれた。」
その後ろから、アレキサンダーが大きな身体を揺らしながら近付いてくる。
「わふっ!」
「よしよし。」
ヨキが空いた手で頭を撫でると、アレキサンダーは何度も顔を擦り寄せた。
少し離れた場所には、エドワードとアルフォンスが立っている。
「無事だったんだな。」
エドワードが安堵したように笑う。
「ああ。」
「君たちも。」
ヨキはニーナを抱いたまま、深く息を吐いた。
「本当によかった。」
◇
しばらくして。
ヨキはニーナを床へ下ろし、立ち上がった。
「さあ、そろそろお家に帰ろうか。」
「タッカー宅へ戻るのか?」
エドワードの問いに、ヨキは頷く。
「少なくとも、今夜はね。」
「この子たちが落ち着ける場所は、まだあそこしかない。」
「でも……。」
アルフォンスが心配そうに口を開く。
「二人だけにはしないよ。」
ヨキは小さく笑った。
「今夜は俺も一緒にいる。」
「司令部には報告しておくさ。」
ニーナが再びヨキの服を掴む。
「おヒゲのおじちゃん、帰らない?」
「ああ。」
「今日は帰らないよ。」
その言葉を聞き、ニーナはようやく僅かに表情を緩めた。
ヨキは一人と一匹を連れ、部屋を出ていく。
その背中を、エドワードとアルフォンスは黙って見送った。
「……なあ、アル。」
「うん。」
「俺たちにも。」
「何かできねぇかな。」
アルフォンスは、兄と同じ方向を見つめたまま頷く。
「僕も、ずっと考えてた。」
「ニーナちゃんたちが、安心して暮らせる場所。」
「俺たちが知ってる場所で。」
「ちゃんと信じられる大人がいるところ……。」
二人は顔を見合わせる。
しかし、その場ではまだ答えを口にしなかった。
◇
翌日。
エドワードとアルフォンスは、東方司令部を訪れていた。
「ヨキ中尉なら。」
フュリーが書類を抱えながら答える。
「ハボック少尉と喫煙所にいると思いますよ。」
「また煙草かよ。」
エドワードが呆れたように呟く。
「最近は、よくお二人でいらっしゃいますね。」
フュリーは微笑む。
少し待っていると、廊下の向こうからヨキとハボックが歩いてきた。
「おっ。」
「エドワード君。」
ヨキが片手を上げる。
「昨日ぶりですね。」
「どうしました?」
「いや。」
エドワードは少し言いにくそうに視線を逸らす。
「ニーナが、あれからどうしてたかなと思ってさ。」
ヨキの表情が少し柔らかくなる。
「気になりますよね。」
周囲へ目を向ける。
「ここでは何ですから、少し出ましょうか。」
三人は人の少ない廊下へ移動した。
「ニーナちゃんですが。」
ヨキは壁へ軽く背を預ける。
「あれから、帰らないでほしいと頼まれましてね。」
「司令部へ報告して、結局タッカー宅で一晩過ごしました。」
「やっぱり……。」
アルフォンスが心配そうに俯く。
「あの家で、二人だけは無理だよね。」
「ええ。」
ヨキは静かに頷く。
「ニーナちゃんくらいの子が。」
「あの家で、ぽつんと過ごすことを考えると。」
「とても放ってはおけませんね。」
「今あの子に必要なのは。」
「きっと、人との繋がりなんでしょう。」
「孤児院探しは続けるのか?」
エドワードが尋ねる。
「そのつもりです。」
「ただ。」
ヨキは困ったように笑った。
「スカーが現れてから、東方司令部も慌ただしくなっていましてね。」
「以前のように、自由に回れるかは分かりません。」
「その件なんだけどよ。」
エドワードが口を開く。
隣のアルフォンスも頷いた。
「ニーナとアレキサンダー。」
「俺たちの故郷へ連れていくのは、どうだ?」
ヨキは目を瞬かせた。
「故郷へ?」
「リゼンブールっていう田舎町だ。」
「俺たちの家はもうないけど。」
「世話になってるばっちゃんがいる。」
「ピナコ・ロックベルさんです。」
アルフォンスが続ける。
「ちょっと口は悪いけど。」
「とても優しい人なんです。」
「医者としての知識もありますし。」
「子どもの世話にも慣れています。」
「アレキサンダーが走り回れる場所も、たくさんあるよな。」
「ああ。」
「畑と草原ばっかりだからな。」
エドワードは少し笑った。
「孤児院へ預けるより。」
「少なくとも、俺たちは信用できる。」
ヨキはしばらく何も言えなかった。
何日も探し続けても見つからなかった場所。
安心して眠ることができて。
アレキサンダーと一緒に暮らせて。
子どもへ目を向けてくれる大人がいる場所。
「もし。」
ヨキは静かに息を吐く。
「その方が受け入れてくださるのであれば。」
「感謝してもしきれません。」
「じゃあ、決まりだな。」
エドワードが笑う。
「まだ決まってないよ、兄さん。」
アルフォンスが窘める。
「ピナコばあちゃんにも、お願いしないと。」
「ばっちゃんなら大丈夫だろ。」
「そういう問題じゃないよ。」
二人のやり取りを見ながら、ヨキは久しぶりに心から安堵していた。
◇
その日の夕方。
ヨキはニーナと向かい合っていた。
エドワードとアルフォンスも、その場にいる。
「リゼンブール?」
ニーナは不安そうに繰り返した。
「うん。」
ヨキは目線を合わせるため、しゃがみ込んでいる。
「エドワード君とアルフォンス君が育った町だよ。」
「優しいおばあさんがいるんだって。」
「アレキサンダーも、一緒?」
「もちろん。」
ニーナは隣のアレキサンダーへ抱きつく。
「おヒゲのおじちゃんは?」
ヨキは言葉に詰まった。
「俺は……。」
ニーナの顔が、みるみる曇っていく。
「行かないの?」
「ニーナちゃん。」
「やだ。」
小さな手が、ヨキの服を掴んだ。
「おヒゲのおじちゃんも一緒がいい。」
「もう一人にしないで……。」
ヨキの胸が強く締め付けられる。
父親を失い。
住む場所も失おうとしている。
今のニーナにとって、自分は数少ない縋ることのできる大人なのだ。
アレキサンダーが静かに立ち上がる。
ヨキの隣へ歩み寄り、その膝へ顔を押し付けた。
「わふ……。」
ヨキは大きな頭を撫でる。
「……分かった。」
ニーナが顔を上げる。
「俺も。」
「一緒に行けるように、お願いしてみるよ。」
「ほんと?」
「ああ。」
「だから。」
ニーナの頭へ手を置く。
「一緒に、新しい場所を見に行こう。」
ニーナは涙を拭い、何度も頷いた。
◇
東方司令部の喫煙所。
「えっ。」
「中尉にも、ついてきてほしい?」
ハボックが煙草を咥えながら聞き返す。
「ああ。」
ヨキは小さく頷いた。
「もちろん。」
「俺も、ピナコさんという方には会っておきたい。」
「ニーナちゃんたちをお願いする以上、当然だと思う。」
「だったら、お願いすればいいじゃないですか。」
「そうなんだけどね。」
ヨキは煙を吐き出す。
「今の東方司令部は、かなり忙しい状況だろう。」
「スカーは逃走中。」
「タッカー事件の後処理も残ってる。」
「だから。」
「切り出しにくい感じは、すごくあるね。」
ハボックは少し黙って考えていた。
やがて煙草を灰皿へ押し付ける。
「いや。」
「大丈夫だと思いますよ。」
「本当かい?」
「大佐は。」
ハボックは少し笑った。
「その辺、しっかりしてますから。」
◇
「何を言っている。」
執務室。
マスタングは書類から顔を上げ、呆れたようにヨキを見ていた。
「君が同行するべきだろう。」
「……よろしいのですか?」
「逆に。」
リザが静かに口を開く。
「なぜ許可されないと思われたのですか?」
「いや。」
ヨキは困ったように頭を掻く。
「スカーの件もありますし。」
「司令部も忙しい状況ですから。」
「人員が必要なのは事実だ。」
マスタングは書類を机へ置く。
「だが。」
「ニーナが最も信頼しているのは、現状では君だ。」
「見知らぬ土地へ送り出すのなら。」
「君が同行するのが最も合理的だろう。」
「私も同意見です。」
リザが頷く。
「君がいなければ。」
「スカーへの対応ができなくなると思うか?」
「思いません。」
「ならば問題ない。」
マスタングは即答した。
「君がいなければ。」
「ニーナとアレキサンダーは命を失っていた。」
「昨日は、鋼の錬金術師たちも危なかった。」
「君は。」
「最後まで責任を果たしたいんだろう。」
ヨキは静かに頷く。
「はい。」
「ならば行ってこい。」
「現場の判断は、現場に任せる。」
「ありがとうございます。」
ヨキは深く頭を下げた。
「ただし。」
マスタングが指を一本立てる。
「任務である以上、必ず戻ってこい。」
「承知しました。」
◇
出発の日。
イーストシティ駅の構内は、多くの旅人で賑わっていた。
ニーナはアレキサンダーの周りを行き来しながら、楽しそうに声を上げている。
「アレキサンダー!」
「ちゃんといい子にしてるんだよ!」
「わふっ!」
大型犬であるアレキサンダーは、乗客用の車両へ入ることができない。
駅員へ預けられ、動物用の貨物車両へ乗ることになっていた。
離れるのを嫌がるニーナへ、エドワードとアルフォンスが必死に説明している。
「同じ汽車なんだから大丈夫だって。」
「途中で様子も見に行けるよ。」
「ほんと?」
「うん。」
「約束する。」
ニーナはまだ不安そうだったが、以前よりはずっと表情が明るくなっていた。
少しずつ。
ほんの少しずつだが。
前を向き始めている。
ヨキはその姿を見つめ、静かに笑った。
そこへ、聞き慣れた声が飛んでくる。
「中尉!」
振り返る。
ハボックを先頭に、東方司令部の面々が立っていた。
リザ。
ブレダ。
ファルマン。
フュリー。
そして、少し離れた場所にはマスタングもいる。
「皆さん。」
「見送りに来てくださったのですか。」
「まあ。」
ハボックは肩を竦める。
「しばらく会えないですからね。」
「土産、期待してますよ。」
ブレダが笑う。
「お気を付けて!」
フュリーが元気よく頭を下げる。
ファルマンは姿勢を正し、静かに敬礼した。
リザはヨキへ小さく頷く。
「ニーナさんたちを、お願いいたします。」
「はい。」
「必ず。」
最後にハボックがヨキへ近付く。
「中尉。」
「帰ってきたら。」
「また奢ってくださいよ。」
ヨキは笑った。
「もちろん。」
「いい店を探しておいてくれ。」
「任せてください。」
発車を知らせるベルが鳴る。
「そろそろ行きましょう!」
アルフォンスが呼ぶ。
ヨキは皆へ向き直り、敬礼した。
「行ってまいります。」
マスタングは腕を組んだまま、静かに答えた。
「必ず戻ってこい。」
「はい。」
ヨキは列車へ乗り込んだ。
窓際の席。
ニーナがホームへ向かって大きく手を振る。
「ばいばーい!」
ハボックたちも手を振り返す。
列車が、ゆっくりと動き始めた。
見慣れた顔が、少しずつ遠ざかっていく。
ホームを離れ。
駅を抜け。
列車はイーストシティの街並みを後にする。
ヨキは座席へ深く腰を下ろした。
「いやぁ。」
「ずっとタッカー宅に泊まりっぱなしだったからね。」
「少し遠出するのも、悪くないかもしれないな。」
「旅行じゃねぇぞ。」
エドワードが呆れたように言う。
「分かってるよ。」
ヨキは笑いながら、窓の外へ目を向けた。
ここから。
エドワードたちとの新しい旅が始まる。
◇
列車は、幾つもの町と駅を通り過ぎていった。
ヨキは車窓から流れる風景を眺めている。
リゼンブールへの同行が決まってから。
ヨキはイーストシティからリゼンブールまでの沿線を、可能な限り調べていた。
そのどこかに。
ドクター・マルコーがいる。
賢者の石の研究に携わり。
今はマウロと名を変え、町医者として身を隠している男。
自分とマルコーには何の縁もない。
顔も、正確な住所も知らない。
だが。
記憶に残っている風景がある。
駅の形。
町並み。
山の位置。
原作で、アームストロング少佐が偶然彼を見つけた時の風景。
それらを一つずつ照らし合わせ。
ヨキは、マルコーが潜んでいる可能性が高い場所を絞り込んでいた。
(エドワード君たちが。)
(賢者の石へ近付くためには。)
(ドクターマルコーとの接触は必要不可欠だ。)
そして。
もう一つ。
この旅を監視している存在がいる。
ラスト。
原作では、この列車へ乗り込んでいたホムンクルス。
エドワードたちがマルコーと接触すれば。
その存在はラストたちへ露見する。
町を人質に取られ。
マルコーの資料の隠し場所も吐かされる。
(なら。)
(今回は、そうならないようにする。)
マルコーのいる可能性が高い駅が近付いてくる。
ヨキは懐から、二つ折りにした紙を二枚取り出した。
「エドワード君。」
「アルフォンス君。」
「ん?」
二人へ一枚ずつ差し出す。
ヨキは何も言わない。
エドワードが訝しげに眉を寄せ、紙を開く。
その目が大きく見開かれた。
すぐにヨキを見る。
しかし。
ヨキは車窓へ顔を向けたまま、何も言わなかった。
アルフォンスも紙へ目を通す。
そして、黙って兄を見る。
紙には、短い指示だけが記されていた。
――何も話さず、黙って従ってほしい。
――次の駅で、ニーナとアレキサンダーを連れて下車。
――数駅先の町まで向かえ。
――「マウロ先生」と名乗る医者を探せ。
――本名は、ドクター・マルコー。
――賢者の石の研究に携わっていた人物だ。
――俺は降りられない。
――尾行が一人ついている。
――そいつは俺が引き受ける。
――ニーナたちを頼む。
しばらくして。
ヨキは無言で手を差し出した。
エドワードとアルフォンスは紙を返す。
ヨキは二枚を重ね、細かく破り。
備え付けの灰皿の中へ落とした。
何事もなかったように、再び窓の外を見る。
エドワードも何も聞かなかった。
ただ。
ニーナへ顔を向ける。
「なあ、ニーナ。」
「なあに?」
「次の駅へ着いたら。」
「アレキサンダーの様子を見に行こうぜ。」
「いくー!」
ニーナが嬉しそうに笑う。
「アルも一緒にな。」
「うん。」
アルフォンスも静かに頷いた。
◇
次の駅。
列車がホームへ停車する。
エドワードとアルフォンスは、ニーナを連れて席を立った。
「アレキサンダーのところ、行ってくる。」
エドワードが何気ない口調で言う。
「ああ。」
「気を付けて。」
ヨキも普段と変わらない声で答えた。
三人が車両を出ていく。
ヨキは窓の外を見なかった。
見れば。
誰かに気付かれるかもしれない。
ヨキはゆっくりと席を立った。
車両を移動する。
そして。
出入口付近に立つ、一人の女性を見つけた。
目を奪われるほど、美しい女性だった。
艶やかな黒髪。
滑らかな白い肌。
身体の線を優雅に見せる黒い服。
どこか妖艶でありながら。
同時に、人ではない何かを感じさせる佇まい。
大きく開いた胸元には。
蛇が自らの尾を喰らう、ウロボロスの紋章が刻まれていた。
(いた。)
(ラストだ。)
列車の扉が閉まりかけている。
エドワードたちは、もう別のホームへ移動しているはずだ。
だが。
ラストが今ここで降りれば。
追いつかれる可能性がある。
ヨキは自然な歩調で彼女へ近付いた。
「失礼。」
ラストが静かに振り返る。
ヨキは穏やかに微笑んだ。
「もしよろしければ。」
「向こうの席が空いております。」
「立ちっぱなしでは、お疲れになるでしょう。」
一瞬。
ラストの瞳に驚きが浮かんだ。
すぐに。
艶やかな笑みへ変わる。
「あら。」
「私に声を掛けてくださったの?」
「ええ。」
「せっかくの旅ですから。」
「美しい方には、少しでも快適に過ごしていただきたい。」
ラストは小さく笑う。
「とても素敵な紳士さんね。」
「喜んで、ご一緒させていただくわ。」
その瞬間。
列車の扉が、完全に閉じた。
汽笛が鳴る。
列車は再び、ゆっくりと走り始める。
(よし。)
(これで、少しは時間を稼げる。)
ヨキはラストを自分たちが使っていた席へ案内した。
◇
「あなた。」
ラストは向かいの席へ腰を下ろし、ヨキを見つめる。
「軍人さんでしょう?」
「分かりますか。」
「制服を着ているもの。」
「それもそうですね。」
ヨキは苦笑した。
「ヨキ中尉と申します。」
「お名前を伺っても?」
「ラスト。」
彼女はためらうことなく答えた。
「ラストと呼んでちょうだい。」
「ラストさん。」
ヨキはゆっくり頷いた。
「良いお名前ですね。」
「あら。」
「そう言われたのは初めてかもしれないわ。」
「本心ですよ。」
列車は次の駅を通り過ぎていく。
ラストは窓の外へ一瞬だけ目を向けた。
そして、再びヨキを見る。
「あなた。」
「随分、女性の扱いに慣れていらっしゃるのね。」
「まさか。」
「ただ。」
「女性には、できるだけ失礼のないようにしたいとは思っています。」
「ふふ。」
「やっぱり、素敵な紳士さん。」
二人は他愛のない会話を続けた。
イーストシティの町。
旅先の食事。
窓の外に見える景色。
ヨキは会話を途切れさせない。
それでいて。
焦っている様子だけは、決して見せなかった。
(頼む。)
(間に合ってくれ。)
また一つ、駅を通り過ぎる。
さらに一つ。
車窓の景色が、少しずつ変わっていく。
ラストは時折、意味ありげにヨキを見つめていた。
ヨキも気付いている。
疑われている。
当然だ。
彼女は人間を欺き、国の裏側で動いてきた存在なのだから。
「不思議な方ね。」
ラストが静かに言う。
「そうですか?」
「ええ。」
「私に声を掛けておきながら。」
「口説こうとしているようには見えない。」
「それは失礼しました。」
ヨキは笑う。
「口説かれたいのですか?」
「そういう返しをするところが。」
「慣れているように見えるのよ。」
「買いかぶりですよ。」
ラストは楽しそうに微笑んだ。
ヨキも笑みを返す。
すべてを話せるはずはない。
彼女が何者なのか。
これから、どのような道を辿るのか。
どんな最期を迎えるのか。
それを知っているなどと悟られれば。
自分は、その瞬間に殺されるかもしれない。
それでも。
ヨキには、どうしても伝えたいことがあった。
「ラストさん。」
「なにかしら。」
「お会いしたばかりの私が言うのも。」
「少しおかしいかもしれませんが。」
「どうか。」
「いつまでも、お元気でいてください。」
ラストが僅かに目を見開いた。
「あら。」
「ずいぶん変わったことを仰るのね。」
「そうかもしれません。」
「ただ。」
ヨキは窓の外へ目を向けた。
「仕事柄。」
「人が無事でいてくれることが、一番嬉しいんです。」
ラストは黙ってヨキを見つめていた。
やがて。
ほんの少しだけ柔らかく笑う。
「あなた。」
「本当に変わった方ね。」
「よく言われます。」
列車は、さらに幾つもの駅を通り過ぎた。
十分かどうかは分からない。
だが。
エドワードたちが目的地へ向かう時間は、少なくとも作れたはずだ。
ラストが静かに席を立つ。
「もう行かれるのですか。」
「ええ。」
ラストは窓の外を見た。
「私にも。」
「仕事がありますもの。」
(流石にこれ以上は無理のようだな。)
ヨキは表情を変えなかった。
列車が次の駅へ滑り込む。
ラストは出入口へ向かい。
扉の前で一度だけ振り返った。
「また。」
「どこかでお会いできるかしら。」
ヨキは小さく笑う。
「できれば。」
「敵ではない場所で。」
ラストは一瞬だけ目を細めた。
「それは。」
「難しいお願いね。」
扉が開く。
ラストはホームへ降り立った。
列車が再び動き始める。
窓の外。
彼女の姿が少しずつ遠ざかっていく。
ヨキは一人になった席で、静かに息を吐いた。
(ありがとう。)
(付き合ってくれて。)
◇
その頃。
エドワードたちは、ヨキが示した町へ無事に辿り着いていた。
そして。
マウロ先生と呼ばれる町医者の居場所を、見つけていた。
それ以上のことを。
その時のヨキは、まだ知らない。
ただ。
必要な一歩は、確かに踏み出された。
◇
列車は、リゼンブールへ向かって走り続ける。
ヨキは車窓から流れていく景色を眺めていた。
(平穏に暮らしたかった。)
(誰にも目を付けられず。)
(原作にも関わらず。)
(ただ、生きていければいいと思っていた。)
だが。
ロゼと出会い。
ニーナとアレキサンダーと出会い。
エドワードとアルフォンス。
ハボック。
マスタングたちと出会った。
守りたいものが増えてしまった。
もう。
自分一人だけが平穏に生きられればいいとは、思えなかった。
(この人たちの未来のために。)
(俺は生きよう。)
原作を知っているからではない。
義務だからでもない。
ただ。
大切になった人たちが。
笑って生きられる未来を守りたい。
それが今の。
ヨキ自身の願いだった。
列車は、止まることなく進んでいく。
ヨキという男の新しい人生もまた。
未来へ向かって。
静かに動き始めていた。