産屋敷邸の庭に、乾いた音が響いた。
ぱしん、と。
竹刀ではない。
互いが手にしているのは、稽古用に削られた木刀だった。
一方は炎柱・煉獄杏寿郎。
もう一方は、鬼殺隊の隊服すら着ていない白装束の男――渡辺綱。
二人の間には、十歩ほどの距離がある。
煉獄は木刀を正眼に構えていた。
足幅は広すぎず、狭すぎず。
両肩から余計な力は抜けている。
ただ立っているだけなのに、前方へ爆ぜる力が身体の内側へ蓄えられているのが分かる。
一方の綱は、木刀を右手に下げたままだった。
構えているようには見えない。
いや。
煉獄には分かっていた。
あれが、構えなのだ。
「綱!」
「ああ」
「準備はよいか!」
「いつでも」
「うむ!」
煉獄の笑みが深くなる。
「では――参る!」
次の瞬間。
踏み込みの音が、庭を揺らした。
地面を蹴った。
そう認識した時には、既に煉獄の身体は間合いの内側へある。
速い。
綱の目が僅かに細くなった。
木刀が上段から落ちる。
頭部。
直撃すれば木刀でも無事では済まない。
綱は半歩だけ右へ移った。
振り下ろされた木刀が、肩口を掠めて通過する。
その横。
綱の木刀が煉獄の脇腹へ伸びる。
だが。
「む!」
煉獄が身体を捻った。
木刀と木刀がぶつかる。
硬い音。
二人の身体が一瞬だけ止まり――
煉獄が笑った。
「速い!」
「あなたも」
綱は木刀を滑らせる。
鍔迫り合いにはしない。
相手の力を受ける前に角度を外す。
煉獄の木刀が空を切った。
そのまま綱の切っ先が喉元へ向かう。
煉獄は首を引く。
紙一重。
木刀が顎先を掠めた。
後ろへ下がる。
そこで終わらない。
「はっ!」
再び前へ。
一歩目から速い。
綱は少し驚いた。
今まで見てきた人間の剣士とは明らかに違う。
踏み込みの強さ。
腰。
肩。
呼吸。
すべてが一つになっている。
吸う。
吐く。
それに合わせ、身体能力そのものが引き上げられていく。
昨日、沢村たちから聞いた。
全集中。
鬼殺隊の剣士が使う呼吸法。
なるほど。
確かに理に適っている。
煉獄の木刀が横薙ぎに迫る。
綱は受けない。
身体を沈める。
頭上を木刀が走る。
同時に懐へ。
「――!」
煉獄の目が見開かれた。
低い位置。
綱がいる。
膝。
腹。
胸。
三ヶ所。
どこへでも打てる。
それを察した瞬間、煉獄は木刀を途中で止めた。
強引に軌道を変える。
下。
綱の頭部へ。
綱が木刀を上げた。
打ち合う。
乾いた衝撃が腕を走る。
「強いな」
綱が呟いた。
「そう言ってもらえるとは光栄だ!」
煉獄は嬉しそうだ。
綱は少し首を傾げた。
「褒めたつもりではある」
「うむ! 分かっている!」
「そうか」
また木刀がぶつかった。
縁側。
耀哉とあまねが二人を見ている。
耀哉は笑みを浮かべたまま。
あまねは静かに視線を動かしていた。
「珍しいですね」
「何がだい?」
「煉獄が、あれほど楽しそうに」
「そうだね」
耀哉が小さく頷く。
「綱も、少し楽しんでいるように見える」
あまねが庭を見る。
綱。
表情には出ていない。
相変わらず淡々としている。
だが。
「……本当ですね」
ほんの僅か。
目が違う。
◇
綱は、煉獄杏寿郎という男を観察していた。
強い。
純粋に。
身体能力だけではない。
剣術。
判断。
経験。
どれも高い。
それ以上に――迷いがない。
綱が右へ。
煉獄が追う。
左。
追う。
後ろへ退けば、一気に詰めてくる。
逃がさない。
あまり小細工をしない剣だ。
真正面から。
強く。
速く。
そして、相手を斬る。
単純。
だからこそ強い。
綱は煉獄の肩を見る。
肩。
腰。
右足。
呼吸。
次は突き。
来る。
「む!」
煉獄の腕が伸びるより前。
綱が動いた。
煉獄の木刀が突き出される。
そこに。
綱はいない。
「――!」
右側。
煉獄の視界の端。
綱がいる。
いつ入った。
煉獄の身体が反応する。
振り返る。
その時には。
木刀が。
首へ。
触れていた。
「……」
「……」
静寂。
庭に風が吹く。
煉獄の髪が揺れた。
綱の木刀の先端は、煉獄の喉から指一本ほど手前で止まっている。
「終わりでいいか?」
一拍。
そして。
「はっはっはっはっは!」
煉獄が盛大に笑った。
綱が僅かに身体を引く。
「何故笑う」
「素晴らしい!」
「そうか」
「見事だ、綱!」
「ありがとう」
「俺の負けだ!」
「ああ」
即答。
「少しは謙遜せんか!」
「負けたと言ったのはあなたでは?」
「その通りだ!」
「なら俺が勝ったのだろう」
「うむ!」
「……」
話が通じているのか分からない。
だが煉獄は楽しそうだった。
綱は木刀を下げる。
息はほとんど乱れていない。
煉獄も同様。
ただ。
煉獄は綱の胸元を見ていた。
「綱」
「何だ」
「先ほどの呼吸」
「ああ」
「やはり、使っているな」
「何を?」
「全集中だ!」
「……」
綱が少し考える。
「これのことか?」
息を吸う。
肺。
横隔膜。
血液。
筋肉。
それぞれが最も効率よく動くよう、身体の内側が整う。
煉獄の表情が変わった。
「うむ!」
「昨日も言われた」
「誰に教わった!」
「誰にも」
「……誰にも?」
「ああ」
煉獄が珍しく黙った。
綱は木刀を返しながら話す。
「剣を振る際、呼吸が乱れると身体の動きが鈍る」
「うむ」
「力を入れる時と抜く時。踏み込む時。振る時。受ける時。それぞれに都合のいい呼吸がある」
「……」
「だから合わせた」
煉獄の眉が僅かに上がる。
「それだけか?」
「それだけだ」
「誰かに型を教わったわけでも?」
「家の剣術は教わった」
「呼吸は?」
「自分で考えた」
「何歳頃からだ!」
「十二くらいだったか」
煉獄が目を閉じた。
一度。
深く息を吸った。
そして吐く。
「なるほど!」
大きな声。
綱は反射的に少し顔を離した。
「何がだ」
「御館様が君を見たがる理由が分かった!」
「そうか?」
「うむ!」
煉獄は木刀を肩へ担ぐ。
「俺たち鬼殺隊は、鬼に対抗するために呼吸を使う!」
「ああ」
「だが君は違う!」
「違うのか?」
「違う!」
煉獄の瞳が真っ直ぐ綱を見る。
「君は剣を極めようとした結果として、呼吸へ辿り着いた!」
綱は少し考えた。
「……同じでは?」
「似ているが違う!」
「そうなのか」
「そうだ!」
綱には今ひとつ分からなかった。
煉獄はそんな綱を見て、また笑った。
◇
「一つ聞いていいか」
縁側へ戻る途中。
綱が口を開いた。
「もちろんだ!」
「先ほどの剣」
「うむ!」
「炎なのか?」
煉獄が目を瞬く。
「炎?」
「呼吸」
「ああ!」
煉獄は頷いた。
「炎の呼吸だ!」
「やはり」
「分かったのか!」
「見た」
「見た?」
「踏み込みが強い。攻撃の一つ一つに体重を乗せている。細かく刻むより、相手を一撃で崩すことを優先しているように見えた」
煉獄が黙る。
綱は気にせず続ける。
「呼吸もそれに合わせている。吸い方が深い。それで炎なのかと思った」
「……」
「違ったか?」
数秒。
「いや!」
煉獄が満面の笑みを浮かべる。
「概ね合っている!」
「そうか」
「しかし一度の手合わせだけでそこまで分かるとは!」
「見れば分かる」
「普通は分からん!」
綱が足を止めた。
「そうなのか?」
「そうだ!」
「最近、それもよく言われる」
「君はもう少し自分が普通ではないと自覚した方がいい!」
綱は少し考えた。
「自覚すると何か変わるのか?」
「……」
今度は煉獄が止まった。
「なるほど!」
「何がだ」
「確かに変わらんな!」
「ああ」
二人はそのまま歩き出した。
縁側で耀哉が笑っている。
「随分、気が合ったようだね」
綱が座る。
「そうなのか?」
「うむ!」
煉獄が即答。
「そうらしい」
「綱はどう思う?」
「悪い人ではない」
煉獄が目を見開いた。
「それだけか!」
「褒めたつもりだ」
あまねが僅かに顔を伏せる。
肩が少し揺れている。
笑っているらしい。
綱には、やはり理由が分からない。
◇
「では」
耀哉が話を戻した。
「綱。今後のことだけれど」
「ああ」
「鬼殺隊へ正式に入らないという君の意思は尊重する」
「助かる」
「ただ、協力してくれるという話だったね」
「ああ」
綱が頷く。
「宮内省の職務に支障がない範囲でなら」
「十分だよ」
「そうか」
「だから、君に一羽、鎹鴉を預けたい」
「鴉?」
耀哉が視線を上へ向ける。
それを待っていたかのように。
「カァ!」
黒い影が屋根から飛び降りた。
綱の肩。
「……」
鴉。
綱。
しばらく互いに見つめ合う。
「渡辺綱! 渡辺綱!」
鴉が喋った。
綱の眉が、今日一番大きく動いた。
「喋るのか」
「喋ル! 当然ダ!」
「当然なのか?」
「当然ダ!」
「そうか」
受け入れた。
煉獄が笑う。
「驚いたな!」
「ああ」
「もっと驚いてもよいぞ!」
「十分驚いた」
「全く見えん!」
「そうか?」
綱は鴉を見る。
「名前は?」
「名前!」
鴉が胸を張る。
「黒鉄!」
「くろがね」
「ソウダ!」
「分かった。よろしく頼む」
「ヨロシク!」
鴉が綱の頭へ移動した。
「そこなのか?」
「ココガイイ!」
「……そうか」
そのまま受け入れる。
煉獄の笑い声がさらに大きくなった。
◇
「隊服については?」
あまねが尋ねる。
「必要ない」
綱が即答。
「だろうと思いました」
「宮内省の人間だからな」
「日輪刀は?」
綱の手が自然と腰の髭切へ。
「これを使う」
耀哉が穏やかに言う。
「鬼の頸を斬っても、死なないよ」
「ああ」
「それでも?」
「この刀に慣れている」
「危険ではないか!」
煉獄が真剣な顔になる。
「上位の鬼を相手にすれば、朝まで押さえ続けることができない場合もある!」
「ならその時考える」
「む!」
煉獄の眉が寄る。
綱は髭切を見る。
「日輪刀が優れていることは理解した」
「ならば!」
「だが、刀は突然変えるものではない」
煉獄が黙った。
綱は柄を握る。
「重さ。反り。重心。柄の太さ。すべて身体に馴染んでいる」
静かだが。
そこには明確な確信があった。
「鬼を斬るために、剣を崩す方が危険だ」
煉獄の瞳が細くなる。
そして、すぐに笑った。
「なるほど!」
「納得したか?」
「した!」
「そうか」
「ただし!」
「何だ」
「危険なら俺を呼べ!」
「何故あなたを?」
「仲間だからだ!」
綱が止まった。
「……仲間」
「うむ!」
煉獄は当然のように頷く。
「鬼殺隊へ所属していなくとも、人を守り鬼と戦うならば同じ志を持つ者だ!」
「……」
「違うか!」
綱は煉獄を見る。
まっすぐ。
熱い。
嘘がない。
「分からない」
煉獄は僅かに目を丸くした。
「俺は誰かと共に戦うことがあまりない」
「そうか!」
「だから、仲間と言われてもよく分からない」
「ならば今から覚えればいい!」
即答。
綱が瞬く。
「覚えるものなのか?」
「人間、大抵のことは学べる!」
綱は少し考える。
「剣と同じか」
「少し違う気もするが、その意気だ!」
「そうか」
耀哉は何も言わない。
ただ、微笑んでいた。
◇
その日の夕方。
綱は産屋敷邸を出た。
帝都へ戻る。
腰には髭切。
肩には黒鉄。
「綱!」
背後。
煉獄。
綱が振り返る。
「何だ」
「次に会った時、もう一度手合わせを願う!」
「構わない」
「次は勝つ!」
「ああ」
「そこは『俺も負けない』などと言うところでは?」
「負けるつもりで戦う人間はいないだろう」
「うむ! 確かに!」
「なら言う必要はない」
「君は本当に独特だな!」
「そうらしい」
煉獄が笑う。
「ではまた会おう! 綱!」
「ああ」
一度だけ。
綱が手を上げる。
それだけ。
だが。
歩き出してから。
肩にいる黒鉄が首を傾げた。
「綱」
「何だ」
「機嫌ガイイナ!」
足が止まった。
「そう見えるのか?」
「見エル!」
「……そうか」
綱は自分の胸の内を探る。
特別、何かがあるようには思えない。
ただ。
煉獄との剣は。
「悪くなかった」
「ソレヲ楽シイト言ウンダ!」
「……」
綱は黙った。
数歩。
歩く。
「そうなのかもしれないな」
黒鉄が羽を広げた。
「カァ!」
綱は少しだけ眉を寄せる。
「耳元で鳴くな」
「カァ!」
「聞いているのか?」
「聞イテイル!」
「なら静かにしてくれ」
「嫌ダ!」
「何故だ」
その会話をしながら。
渡辺綱は帝都へ帰っていった。
鬼を斬るための組織。
鬼殺隊。
その中に所属することはなかった。
しかし。
この日から確かに。
彼の人生に。
これまで存在しなかったものが、一つ増えた。
仕事でもない。
家でもない。
剣でもない。
鬼殺隊と呼ばれる人々との縁。
そして――仲間という言葉。
まだ綱自身は。
それをどう扱えばいいのか、まるで分かっていなかった。
けれど。
この男は知らないことがあれば、覚える。
できないことがあれば、鍛える。
それだけは。
昔から変わらない。
だからきっと。
これもまた。
いつか分かる日が来る。
その日の夜。
帝都から遠く離れた山村で。
一家七人が、跡形もなく消えた。
残されていたのは。
血。
巨大な爪痕。
そして。
壁に貼りついた、異様に長い一本の金色の髪。
まだ。
渡辺綱は知らない。
その髪を持つ鬼が。
やがて。
彼の人生と剣を。
唯一。
狂わせる存在になることを。