鬼滅の刃 ―鬼切異聞―   作:からし明太子

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第三話 炎柱

 

 

 産屋敷邸の庭に、乾いた音が響いた。

 

 ぱしん、と。

 

 竹刀ではない。

 

 互いが手にしているのは、稽古用に削られた木刀だった。

 

 一方は炎柱・煉獄杏寿郎。

 

 もう一方は、鬼殺隊の隊服すら着ていない白装束の男――渡辺綱。

 

 二人の間には、十歩ほどの距離がある。

 

 煉獄は木刀を正眼に構えていた。

 

 足幅は広すぎず、狭すぎず。

 

 両肩から余計な力は抜けている。

 

 ただ立っているだけなのに、前方へ爆ぜる力が身体の内側へ蓄えられているのが分かる。

 

 一方の綱は、木刀を右手に下げたままだった。

 

 構えているようには見えない。

 

 いや。

 

 煉獄には分かっていた。

 

 あれが、構えなのだ。

 

「綱!」

 

「ああ」

 

「準備はよいか!」

 

「いつでも」

 

「うむ!」

 

 煉獄の笑みが深くなる。

 

「では――参る!」

 

 次の瞬間。

 

 踏み込みの音が、庭を揺らした。

 

 地面を蹴った。

 

 そう認識した時には、既に煉獄の身体は間合いの内側へある。

 

 速い。

 

 綱の目が僅かに細くなった。

 

 木刀が上段から落ちる。

 

 頭部。

 

 直撃すれば木刀でも無事では済まない。

 

 綱は半歩だけ右へ移った。

 

 振り下ろされた木刀が、肩口を掠めて通過する。

 

 その横。

 

 綱の木刀が煉獄の脇腹へ伸びる。

 

 だが。

 

「む!」

 

 煉獄が身体を捻った。

 

 木刀と木刀がぶつかる。

 

 硬い音。

 

 二人の身体が一瞬だけ止まり――

 

 煉獄が笑った。

 

「速い!」

 

「あなたも」

 

 綱は木刀を滑らせる。

 

 鍔迫り合いにはしない。

 

 相手の力を受ける前に角度を外す。

 

 煉獄の木刀が空を切った。

 

 そのまま綱の切っ先が喉元へ向かう。

 

 煉獄は首を引く。

 

 紙一重。

 

 木刀が顎先を掠めた。

 

 後ろへ下がる。

 

 そこで終わらない。

 

「はっ!」

 

 再び前へ。

 

 一歩目から速い。

 

 綱は少し驚いた。

 

 今まで見てきた人間の剣士とは明らかに違う。

 

 踏み込みの強さ。

 

 腰。

 

 肩。

 

 呼吸。

 

 すべてが一つになっている。

 

 吸う。

 

 吐く。

 

 それに合わせ、身体能力そのものが引き上げられていく。

 

 昨日、沢村たちから聞いた。

 

 全集中。

 

 鬼殺隊の剣士が使う呼吸法。

 

 なるほど。

 

 確かに理に適っている。

 

 煉獄の木刀が横薙ぎに迫る。

 

 綱は受けない。

 

 身体を沈める。

 

 頭上を木刀が走る。

 

 同時に懐へ。

 

「――!」

 

 煉獄の目が見開かれた。

 

 低い位置。

 

 綱がいる。

 

 膝。

 

 腹。

 

 胸。

 

 三ヶ所。

 

 どこへでも打てる。

 

 それを察した瞬間、煉獄は木刀を途中で止めた。

 

 強引に軌道を変える。

 

 下。

 

 綱の頭部へ。

 

 綱が木刀を上げた。

 

 打ち合う。

 

 乾いた衝撃が腕を走る。

 

「強いな」

 

 綱が呟いた。

 

「そう言ってもらえるとは光栄だ!」

 

 煉獄は嬉しそうだ。

 

 綱は少し首を傾げた。

 

「褒めたつもりではある」

 

「うむ! 分かっている!」

 

「そうか」

 

 また木刀がぶつかった。

 

 縁側。

 

 耀哉とあまねが二人を見ている。

 

 耀哉は笑みを浮かべたまま。

 

 あまねは静かに視線を動かしていた。

 

「珍しいですね」

 

「何がだい?」

 

「煉獄が、あれほど楽しそうに」

 

「そうだね」

 

 耀哉が小さく頷く。

 

「綱も、少し楽しんでいるように見える」

 

 あまねが庭を見る。

 

 綱。

 

 表情には出ていない。

 

 相変わらず淡々としている。

 

 だが。

 

「……本当ですね」

 

 ほんの僅か。

 

 目が違う。

 

     ◇

 

 綱は、煉獄杏寿郎という男を観察していた。

 

 強い。

 

 純粋に。

 

 身体能力だけではない。

 

 剣術。

 

 判断。

 

 経験。

 

 どれも高い。

 

 それ以上に――迷いがない。

 

 綱が右へ。

 

 煉獄が追う。

 

 左。

 

 追う。

 

 後ろへ退けば、一気に詰めてくる。

 

 逃がさない。

 

 あまり小細工をしない剣だ。

 

 真正面から。

 

 強く。

 

 速く。

 

 そして、相手を斬る。

 

 単純。

 

 だからこそ強い。

 

 綱は煉獄の肩を見る。

 

 肩。

 

 腰。

 

 右足。

 

 呼吸。

 

 次は突き。

 

 来る。

 

「む!」

 

 煉獄の腕が伸びるより前。

 

 綱が動いた。

 

 煉獄の木刀が突き出される。

 

 そこに。

 

 綱はいない。

 

「――!」

 

 右側。

 

 煉獄の視界の端。

 

 綱がいる。

 

 いつ入った。

 

 煉獄の身体が反応する。

 

 振り返る。

 

 その時には。

 

 木刀が。

 

 首へ。

 

 触れていた。

 

「……」

 

「……」

 

 静寂。

 

 庭に風が吹く。

 

 煉獄の髪が揺れた。

 

 綱の木刀の先端は、煉獄の喉から指一本ほど手前で止まっている。

 

「終わりでいいか?」

 

 一拍。

 

 そして。

 

「はっはっはっはっは!」

 

 煉獄が盛大に笑った。

 

 綱が僅かに身体を引く。

 

「何故笑う」

 

「素晴らしい!」

 

「そうか」

 

「見事だ、綱!」

 

「ありがとう」

 

「俺の負けだ!」

 

「ああ」

 

 即答。

 

「少しは謙遜せんか!」

 

「負けたと言ったのはあなたでは?」

 

「その通りだ!」

 

「なら俺が勝ったのだろう」

 

「うむ!」

 

「……」

 

 話が通じているのか分からない。

 

 だが煉獄は楽しそうだった。

 

 綱は木刀を下げる。

 

 息はほとんど乱れていない。

 

 煉獄も同様。

 

 ただ。

 

 煉獄は綱の胸元を見ていた。

 

「綱」

 

「何だ」

 

「先ほどの呼吸」

 

「ああ」

 

「やはり、使っているな」

 

「何を?」

 

「全集中だ!」

 

「……」

 

 綱が少し考える。

 

「これのことか?」

 

 息を吸う。

 

 肺。

 

 横隔膜。

 

 血液。

 

 筋肉。

 

 それぞれが最も効率よく動くよう、身体の内側が整う。

 

 煉獄の表情が変わった。

 

「うむ!」

 

「昨日も言われた」

 

「誰に教わった!」

 

「誰にも」

 

「……誰にも?」

 

「ああ」

 

 煉獄が珍しく黙った。

 

 綱は木刀を返しながら話す。

 

「剣を振る際、呼吸が乱れると身体の動きが鈍る」

 

「うむ」

 

「力を入れる時と抜く時。踏み込む時。振る時。受ける時。それぞれに都合のいい呼吸がある」

 

「……」

 

「だから合わせた」

 

 煉獄の眉が僅かに上がる。

 

「それだけか?」

 

「それだけだ」

 

「誰かに型を教わったわけでも?」

 

「家の剣術は教わった」

 

「呼吸は?」

 

「自分で考えた」

 

「何歳頃からだ!」

 

「十二くらいだったか」

 

 煉獄が目を閉じた。

 

 一度。

 

 深く息を吸った。

 

 そして吐く。

 

「なるほど!」

 

 大きな声。

 

 綱は反射的に少し顔を離した。

 

「何がだ」

 

「御館様が君を見たがる理由が分かった!」

 

「そうか?」

 

「うむ!」

 

 煉獄は木刀を肩へ担ぐ。

 

「俺たち鬼殺隊は、鬼に対抗するために呼吸を使う!」

 

「ああ」

 

「だが君は違う!」

 

「違うのか?」

 

「違う!」

 

 煉獄の瞳が真っ直ぐ綱を見る。

 

「君は剣を極めようとした結果として、呼吸へ辿り着いた!」

 

 綱は少し考えた。

 

「……同じでは?」

 

「似ているが違う!」

 

「そうなのか」

 

「そうだ!」

 

 綱には今ひとつ分からなかった。

 

 煉獄はそんな綱を見て、また笑った。

 

     ◇

 

「一つ聞いていいか」

 

 縁側へ戻る途中。

 

 綱が口を開いた。

 

「もちろんだ!」

 

「先ほどの剣」

 

「うむ!」

 

「炎なのか?」

 

 煉獄が目を瞬く。

 

「炎?」

 

「呼吸」

 

「ああ!」

 

 煉獄は頷いた。

 

「炎の呼吸だ!」

 

「やはり」

 

「分かったのか!」

 

「見た」

 

「見た?」

 

「踏み込みが強い。攻撃の一つ一つに体重を乗せている。細かく刻むより、相手を一撃で崩すことを優先しているように見えた」

 

 煉獄が黙る。

 

 綱は気にせず続ける。

 

「呼吸もそれに合わせている。吸い方が深い。それで炎なのかと思った」

 

「……」

 

「違ったか?」

 

 数秒。

 

「いや!」

 

 煉獄が満面の笑みを浮かべる。

 

「概ね合っている!」

 

「そうか」

 

「しかし一度の手合わせだけでそこまで分かるとは!」

 

「見れば分かる」

 

「普通は分からん!」

 

 綱が足を止めた。

 

「そうなのか?」

 

「そうだ!」

 

「最近、それもよく言われる」

 

「君はもう少し自分が普通ではないと自覚した方がいい!」

 

 綱は少し考えた。

 

「自覚すると何か変わるのか?」

 

「……」

 

 今度は煉獄が止まった。

 

「なるほど!」

 

「何がだ」

 

「確かに変わらんな!」

 

「ああ」

 

 二人はそのまま歩き出した。

 

 縁側で耀哉が笑っている。

 

「随分、気が合ったようだね」

 

 綱が座る。

 

「そうなのか?」

 

「うむ!」

 

 煉獄が即答。

 

「そうらしい」

 

「綱はどう思う?」

 

「悪い人ではない」

 

 煉獄が目を見開いた。

 

「それだけか!」

 

「褒めたつもりだ」

 

 あまねが僅かに顔を伏せる。

 

 肩が少し揺れている。

 

 笑っているらしい。

 

 綱には、やはり理由が分からない。

 

     ◇

 

「では」

 

 耀哉が話を戻した。

 

「綱。今後のことだけれど」

 

「ああ」

 

「鬼殺隊へ正式に入らないという君の意思は尊重する」

 

「助かる」

 

「ただ、協力してくれるという話だったね」

 

「ああ」

 

 綱が頷く。

 

「宮内省の職務に支障がない範囲でなら」

 

「十分だよ」

 

「そうか」

 

「だから、君に一羽、鎹鴉を預けたい」

 

「鴉?」

 

 耀哉が視線を上へ向ける。

 

 それを待っていたかのように。

 

「カァ!」

 

 黒い影が屋根から飛び降りた。

 

 綱の肩。

 

「……」

 

 鴉。

 

 綱。

 

 しばらく互いに見つめ合う。

 

「渡辺綱! 渡辺綱!」

 

 鴉が喋った。

 

 綱の眉が、今日一番大きく動いた。

 

「喋るのか」

 

「喋ル! 当然ダ!」

 

「当然なのか?」

 

「当然ダ!」

 

「そうか」

 

 受け入れた。

 

 煉獄が笑う。

 

「驚いたな!」

 

「ああ」

 

「もっと驚いてもよいぞ!」

 

「十分驚いた」

 

「全く見えん!」

 

「そうか?」

 

 綱は鴉を見る。

 

「名前は?」

 

「名前!」

 

 鴉が胸を張る。

 

「黒鉄!」

 

「くろがね」

 

「ソウダ!」

 

「分かった。よろしく頼む」

 

「ヨロシク!」

 

 鴉が綱の頭へ移動した。

 

「そこなのか?」

 

「ココガイイ!」

 

「……そうか」

 

 そのまま受け入れる。

 

 煉獄の笑い声がさらに大きくなった。

 

     ◇

 

「隊服については?」

 

 あまねが尋ねる。

 

「必要ない」

 

 綱が即答。

 

「だろうと思いました」

 

「宮内省の人間だからな」

 

「日輪刀は?」

 

 綱の手が自然と腰の髭切へ。

 

「これを使う」

 

 耀哉が穏やかに言う。

 

「鬼の頸を斬っても、死なないよ」

 

「ああ」

 

「それでも?」

 

「この刀に慣れている」

 

「危険ではないか!」

 

 煉獄が真剣な顔になる。

 

「上位の鬼を相手にすれば、朝まで押さえ続けることができない場合もある!」

 

「ならその時考える」

 

「む!」

 

 煉獄の眉が寄る。

 

 綱は髭切を見る。

 

「日輪刀が優れていることは理解した」

 

「ならば!」

 

「だが、刀は突然変えるものではない」

 

 煉獄が黙った。

 

 綱は柄を握る。

 

「重さ。反り。重心。柄の太さ。すべて身体に馴染んでいる」

 

 静かだが。

 

 そこには明確な確信があった。

 

「鬼を斬るために、剣を崩す方が危険だ」

 

 煉獄の瞳が細くなる。

 

 そして、すぐに笑った。

 

「なるほど!」

 

「納得したか?」

 

「した!」

 

「そうか」

 

「ただし!」

 

「何だ」

 

「危険なら俺を呼べ!」

 

「何故あなたを?」

 

「仲間だからだ!」

 

 綱が止まった。

 

「……仲間」

 

「うむ!」

 

 煉獄は当然のように頷く。

 

「鬼殺隊へ所属していなくとも、人を守り鬼と戦うならば同じ志を持つ者だ!」

 

「……」

 

「違うか!」

 

 綱は煉獄を見る。

 

 まっすぐ。

 

 熱い。

 

 嘘がない。

 

「分からない」

 

 煉獄は僅かに目を丸くした。

 

「俺は誰かと共に戦うことがあまりない」

 

「そうか!」

 

「だから、仲間と言われてもよく分からない」

 

「ならば今から覚えればいい!」

 

 即答。

 

 綱が瞬く。

 

「覚えるものなのか?」

 

「人間、大抵のことは学べる!」

 

 綱は少し考える。

 

「剣と同じか」

 

「少し違う気もするが、その意気だ!」

 

「そうか」

 

 耀哉は何も言わない。

 

 ただ、微笑んでいた。

 

     ◇

 

 その日の夕方。

 

 綱は産屋敷邸を出た。

 

 帝都へ戻る。

 

 腰には髭切。

 

 肩には黒鉄。

 

「綱!」

 

 背後。

 

 煉獄。

 

 綱が振り返る。

 

「何だ」

 

「次に会った時、もう一度手合わせを願う!」

 

「構わない」

 

「次は勝つ!」

 

「ああ」

 

「そこは『俺も負けない』などと言うところでは?」

 

「負けるつもりで戦う人間はいないだろう」

 

「うむ! 確かに!」

 

「なら言う必要はない」

 

「君は本当に独特だな!」

 

「そうらしい」

 

 煉獄が笑う。

 

「ではまた会おう! 綱!」

 

「ああ」

 

 一度だけ。

 

 綱が手を上げる。

 

 それだけ。

 

 だが。

 

 歩き出してから。

 

 肩にいる黒鉄が首を傾げた。

 

「綱」

 

「何だ」

 

「機嫌ガイイナ!」

 

 足が止まった。

 

「そう見えるのか?」

 

「見エル!」

 

「……そうか」

 

 綱は自分の胸の内を探る。

 

 特別、何かがあるようには思えない。

 

 ただ。

 

 煉獄との剣は。

 

「悪くなかった」

 

「ソレヲ楽シイト言ウンダ!」

 

「……」

 

 綱は黙った。

 

 数歩。

 

 歩く。

 

「そうなのかもしれないな」

 

 黒鉄が羽を広げた。

 

「カァ!」

 

 綱は少しだけ眉を寄せる。

 

「耳元で鳴くな」

 

「カァ!」

 

「聞いているのか?」

 

「聞イテイル!」

 

「なら静かにしてくれ」

 

「嫌ダ!」

 

「何故だ」

 

 その会話をしながら。

 

 渡辺綱は帝都へ帰っていった。

 

 鬼を斬るための組織。

 

 鬼殺隊。

 

 その中に所属することはなかった。

 

 しかし。

 

 この日から確かに。

 

 彼の人生に。

 

 これまで存在しなかったものが、一つ増えた。

 

 仕事でもない。

 

 家でもない。

 

 剣でもない。

 

 鬼殺隊と呼ばれる人々との縁。

 

 そして――仲間という言葉。

 

 まだ綱自身は。

 

 それをどう扱えばいいのか、まるで分かっていなかった。

 

 けれど。

 

 この男は知らないことがあれば、覚える。

 

 できないことがあれば、鍛える。

 

 それだけは。

 

 昔から変わらない。

 

 だからきっと。

 

 これもまた。

 

 いつか分かる日が来る。

 

 その日の夜。

 

 帝都から遠く離れた山村で。

 

 一家七人が、跡形もなく消えた。

 

 残されていたのは。

 

 血。

 

 巨大な爪痕。

 

 そして。

 

 壁に貼りついた、異様に長い一本の金色の髪。

 

 まだ。

 

 渡辺綱は知らない。

 

 その髪を持つ鬼が。

 

 やがて。

 

 彼の人生と剣を。

 

 唯一。

 

 狂わせる存在になることを。

 

 

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