第209話 小さな獅子の輪郭
手を洗っても、爪の脇には少し土が残った。
鬼太郎は布で水を拭き取り、キーノへ場所を空けた。隣ではロンが袖口を濡らし、ハリーへ何か言っている。温室からここまで来る間に、次の授業へ向かう生徒が増えていた。
「急ぎましょう。階段が変わる前に」
ハーマイオニーに促され、皆で廊下へ出る。
変身術の教室へ入ると、もう机の上に小さな箱が置かれていた。
鬼太郎は鞄を下ろした。教科書と羊皮紙を出す間にも、箱の中から微かな音がする。蓋の隙間へ目を近づけると、黒い脚が動いた。
「また、動くのか」
キーノが自分の箱を見た。
「今度は、耳当てがありませんね」
「叫ぶより、逃げそうだぞ」
ハリーが隣の席へ座った。ロンはその向こうで、鞄から教科書を引き抜いている。
杖を出す時だけ、手つきが遅くなった。
繋がったままの先端には、テープが巻かれていた。ひとまず真っ直ぐには見えるが、太さの変わった箇所は隠れていない。
鬼太郎が目を向けると、ロンは杖を机の縁へ寄せた。
「借りたんだ。魔法のテープ」
「それで、直ったのですか」
「……まだ、使ってない」
戸の閉まる音がして、ロンは顔を上げた。
マクゴナガルが教壇へ進む。生徒たちが席に収まるのを待ち、机の上を一度見渡した。
「皆さん、夏休みが終わりました。去年習ったことまで、置いてきていないとよいのですが」
教授は自分の箱を開けた。
取り出した甲虫が、机の上で脚を動かす。
「今日は、この甲虫をボタンへ変えます」
杖が向けられた。
教授の唱えた呪文と、最後の動きを、鬼太郎は見聞きした。黒い身体の輪郭が縮まり、脚が消える。卓上に残ったのは、丸いボタンだった。
マクゴナガルはそれを持ち上げ、表と裏を示した。
「丸くなっただけで満足しないように。脚が残っていないか、穴は通っているか。出来上がったものを、よく確かめなさい」
ボタンが机へ置かれる。
「では、始めてください」
◆
箱を開くと、甲虫はすぐに縁へ脚を掛けた。
鬼太郎は逃げる先へ手を置き、机の中央へ戻した。黒い背が灯りを返す。脚が止まったかと思えば、触角が揺れ、また動き出した。
杖を追わせながら唱えかけて、一度止める。
先端ばかりを相手に合わせていては、今見た動きが崩れる。
鬼太郎は杖を持ち直した。
甲虫が箱の脇へ進み、向きを変える。その先へ杖を向け、呪文を唱えた。
背の丸みが低くなった。
動いていた脚が身体へ消え、黒かった表面が薄茶色へ変わる。卓上に小さなものが落ち着くと、鬼太郎は杖を下ろした。
丸い。
指先で触れても、動かなかった。
持ち上げると、二つの穴を通して向こうが見えた。縁を指でなぞり、裏返す。甲虫の腹や脚らしいものは残っていない。
「出来たか」
キーノが顔を向けた。
「ええ。穴も、通っているようです」
「見せてくれ」
掌へ載せると、彼女も裏表を見た。穴の片方へ光を通し、机に置き直す。
「ちゃんと、ボタンだな」
「そちらは、どうですか」
キーノが目を戻すと、彼女の甲虫は教科書の角へ進んでいた。
「まだ、こっちだ」
手で逃げ道を塞ぎ、箱の近くへ戻す。
鬼太郎は自分のボタンを、もう一度見た。
服に付ければ使えそうだった。表面には模様がなく、窓からの光が、小さな面の上を滑っている。
自分のローブへ目を落とした。
胸元には、グリフィンドールの紋章がある。
この大きさなら、盾の外側まで入れると細かすぎるだろうか。中の獅子だけでも、形が付けば面白い。
鬼太郎はボタンを机へ置いた。
獅子の頭と、上げた前脚。曲がった尾の位置を確かめ、右手の杖を向け直す。
先ほどの呪文を、もう一度唱えた。
表面に、浅い筋が浮かんだ。
鬼太郎は杖を下げ、ボタンを覗き込んだ。
中央に塊があり、そこから何本か、短い線が出ている。狙った場所に模様は付いた。だが、どちらが頭なのか、自分で見ても迷った。
指で少し回す。
今度は、潰れた虫にも見えた。
「……何を付けたんだ」
キーノが聞いた。
「獅子です」
彼女はローブの紋章を見てから、ボタンへ目を戻した。
「どこが頭だ?」
「こちらのつもりでした」
「つもり、なのは分かった」
鬼太郎はもう一度、胸元の獅子と比べた。脚を四本出そうとしたところで、胴との区別がなくなっている。尾も、後ろ脚の一本と繋がっていた。
「墓場。出来上がったものを見せなさい」
マクゴナガルが机の脇へ来ていた。
鬼太郎は掌を開く。
教授はボタンを取り、表のしるしへ目を留めた。それから裏返し、穴と縁も確かめる。
「初めから、この模様が?」
「いいえ。一度ボタンにしてから、紋章を付けようとしました」
「何の紋章です」
「グリフィンドールの獅子を。盾までは、難しいかと思いまして」
教授の目が、鬼太郎のローブへ動いた。
「獅子一頭でも、十分に複雑ですね」
ボタンが掌へ返される。
「今日の変身は出来ています。ですが、この線を増やし続ければ、獅子になるというものではありません」
「今は、脚と尾が繋がってしまいました」
「どこで分かれているか、自分で形を追えますか。小さくする前に、紙へ描いてごらんなさい」
鬼太郎はボタンを置き、羊皮紙を引き寄せた。
ペンで紋章の獅子を写そうとする。頭から胴へ進み、前脚を伸ばしたところで、胸との境が曖昧になった。
ローブを見れば分かるのに、紙へ線を引こうとすると手が止まる。
「見慣れたものでも、細かく作ろうとすれば、改めて見る必要があります。今日はそのボタンを残し、次の甲虫で基本の課題を続けなさい」
「はい。ありがとうございます」
鬼太郎はボタンを羊皮紙の端へ寄せた。
獅子を描きかけた線の隣に置くと、どちらも、胸の紋章からは遠かった。
それでも、ただの平たいボタンへ、もう一度働き掛けることは出来た。次に試すなら、輪郭をもっとよく見てからだ。
教授はキーノの方へ移った。
彼女は杖を向けていたが、甲虫が動くと、呪文の終わりより先に腕を横へ振っていた。
「キーノ。今は、何に変えようとしていますか」
「ボタンです」
「では、その形まで意識を向けなさい。追い掛けることだけに気を取られています」
キーノは杖を下ろした。
逃げた甲虫を戻し、教授が置いた見本へ目をやる。二つの穴がある丸いものを、しばらく見ていた。
次に唱えた時には、杖の動きが途中で逸れなかった。
甲虫が縮み、机の上へ黒い円が残る。
キーノは顔を近づけたが、すぐには手を出さなかった。
「動かなくなりました」
「持ち上げて、確かめてごらんなさい」
指で摘み、窓へ向ける。
「穴が、一つしか通ってない」
「ええ。もう一つは浅い窪みですね。ですが、形は先ほどより変わりました」
キーノは鬼太郎のボタンと並べて見た。
彼女のものは片側が厚く、縁も少し歪んでいる。だが、甲虫の脚は見えなかった。
「次は、こっちも通します」
窪みを爪で示すと、マクゴナガルは頷き、次の机へ進んだ。
鬼太郎は新しい甲虫を受け取った。
隣でキーノも、次の一匹が箱から出るのを待っていた。
◆
後ろの方で、小さく何かが弾けた。
鬼太郎が顔を向けると、ロンの机の上へ灰色の煙が広がっていた。ハリーが椅子を引き、ロンは顔を背けながら杖を持ち上げている。
「ウィーズリー、杖を置きなさい」
マクゴナガルの声が飛んだ。
ロンの手が止まる。
「もう一度使おうとせず、静かに置くのです」
教授が近づく間に、ロンは杖を机へ下ろした。煙はまだ先端から細く出ていた。
「そのテープの下は、どうなっていますか」
「昨日、折れて……でも、まだ繋がっていたので」
マクゴナガルは彼の手元を見た。
「昨夜の衝突で?」
ロンが頷く。
教授は杖を不用意に曲げず、巻かれた部分と先端を確かめた。
「支えられていることと、正常に魔法が使えることは別です。今の状態で、続けてはいけません」
「でも、課題が」
「今日は手順と結果を記録しなさい。ポッター、試すところを隣で見せてあげなさい。ただし、二人で一本の杖を振ろうとしないように」
ハリーが頷いた。
「分かりました」
「ウィーズリー、休み時間にもう一度見せに来なさい。使えないまま、次の授業へ持ち込んではいけません」
ロンは俯き、羊皮紙を引き寄せた。
教授が離れた後、ハリーは甲虫を自分の正面へ戻した。杖を向けると、それが横へ逃げる。ロンが逃げた先を指し、ハリーはそちらへ向け直した。
今度は背の一部が平たくなったが、脚は動いていた。
「今のは、書ける?」
ハリーが尋ねた。
「うん。丸くは、なりかけたよ」
ロンはペンを持ち、見たものを書いた。
鬼太郎も自分の課題へ戻った。
次の甲虫は、一匹目よりよく動いた。箱の周りを進むところへ杖を向け、途中で腕を振り回さずに唱える。
二つ目のボタンは、一つ目より少し濃い色になった。
穴は通っている。厚さにも、目立った偏りはなかった。
今度は、紋章を加えずに置いた。
向こうから、ハーマイオニーが作ったボタンを見せてくれた。大きさの揃ったものが幾つもあり、重ねても縁があまりずれない。
「同じ大きさにしようとしたのですか」
「ええ。服に使うなら、揃っていた方がいいでしょう」
鬼太郎は自分の二つを見比べた。
紋章の付いた方が、一回り大きい。
「なるほど。そちらも、出来ますね」
ハーマイオニーは模様へ目を留めた。
「それは、何?」
「獅子を付けようとしました」
「……ああ。こっちが頭なのね」
彼女が指したのは、尾のつもりだった方だった。
キーノが隣で笑いを漏らした。
「まだ、分からないよな」
「ええ。もう少し、見ていただく方に分かるものにしませんと」
鬼太郎はボタンの向きを戻した。
ハーマイオニーは紙の絵とローブを見比べ、それから自分のボタンを揃えて置き直した。
「でも、表に模様は出ているわ」
「はい。そこまでは、出来ました」
授業が終わる頃、キーノは二つの穴が通ったボタンを机へ置いた。少し歪んでいたが、彼女は光を通して確かめ、羊皮紙へ結果を書き足した。
鬼太郎も自分の三つを提出用に並べた。
何も付いていない二つと、獅子には見えない一つ。
マクゴナガルが机の間を回ってくると、最後にその一つへもう一度目を落とした。
「次に細部を試す時は、先に見本を用意なさい。今日のように途中の結果も残しておくこと」
鬼太郎は頷き、描きかけた獅子の紙を教科書へ挟んだ。
◆
昼食の卓に着いた時、ロンはいつもより遅かった。
教授に杖を見せてきたのだという。席へ腰を下ろすと、鞄を足元へ置き、しばらく料理を取らなかった。
「直りそう?」
ハリーが尋ねた。
「先生にも、すぐには直せないって。家へ知らせろって言われた」
「じゃあ、手紙を」
「今朝の、聞いただろ」
ロンが遮った。
ハリーは口を閉じた。
「あれで、今度は杖まで買ってくれって? 壊したのは僕だぞ」
ロンはパンを取り、端をちぎった。
ハーマイオニーが顔を向ける。
「でも、使えないことは知らせないと。授業は明日もあるのよ」
「分かってるよ」
返事は強かったが、ロンは彼女を睨み続けはしなかった。ちぎったパンを口へ入れ、鞄へ目を落とす。
鬼太郎は、テープの巻かれた杖を思い出した。
持っているのに、使えない。煙が出た後のロンの手は、もう一度握って試したがっていた。
「次の授業へ、先生から何かお話ししてくださるのですか」
「そのことも、伝えるって」
「そうですか」
ロンは小さく頷き、自分の皿へ料理を取った。
少しして、ハリーが時間割を出した。
「午後は、防衛術だけだね」
「本、重かったぞ」
キーノが足元の鞄を動かした。
「どれを使うか分からないから、持ってきたけどな」
「最初だから、これまでの経験を説明なさるのかもしれないわ」
ハーマイオニーは食事の手を止めた。
「本で読んだことでも、直接聞けるなら質問出来るでしょう。逃げる場所がない時にどうしたのか、とか」
「そちらは、僕も伺いたいですね」
鬼太郎は答えた。
「危ないと気づいても、相手の方が速ければ、背を向けるだけでは離れられませんから」
「お前は、先に近づくなよ」
「近づかれることも、ありますよ」
キーノがこちらを見る。
鬼太郎は杯を置いた。
「それに、出来れば手合わせもお願いしたいです」
ハリーの手が止まった。
「ロックハート先生と?」
「ええ。授業の後でも、お時間をいただけるなら」
口にすると、午後の授業がますます待ち遠しくなった。
各地で魔法生物を退け、戦乙女を従える教師だ。こちらの杖をどう止めるのか。間合いを詰めた時には、どこへ動くのか。
同じ教室で説明を聞くだけでなく、自分へ向けられる動きを見てみたかった。
「校長先生ほどの方がお相手なら、少しの時間でも、随分違うものを見せていただけそうですから」
「お前、また話が大きくなってるぞ」
キーノがすぐに言った。
「校長は、比べられないって言ってただろ」
「ええ。杖を交えたことはないと。ただ、あの使い魔を指示通りに動かせる方なのですよね」
鬼太郎は書店で見た女性を思い出した。
あの時は本や紙を整え、ロックハートの仕事を助けていた。鎧も剣も見ていない。校長が見たという、天馬に跨る姿とは違っていた。
「僕も、実際に教えていただきたいのです」
「君、先生に会うたび、戦ってもらうことを考えるの?」
ロンが聞いた。
「教えてくださるなら、お願いしたいとは思いますよ」
「ビンズ先生にも?」
鬼太郎は少し考えた。
「あの先生に杖が当たるかは、分かりませんね」
「そういう話じゃないんだけど」
ハリーが笑い、ロンも口元を緩めた。
ハーマイオニーは鬼太郎を見た。
「でも、初日からあなた一人の手合わせになるとは限らないわ。授業の予定もあるでしょうし」
「もちろん、許可をいただければです。先生のお話も楽しみにしていますよ」
鬼太郎は答えながら、教壇の前に立つロックハートを思い描いた。
強い相手に教われば、こちらの工夫が通らない場面も多いだろう。フリットウィックにも、夏の校長にも、見ているだけでは分からない違いを示された。
ロックハートなら、何をしてくれるだろう。
膝の上で右手を動かすと、キーノの目が落ちた。
「まだ、昼飯だぞ」
「ええ」
鬼太郎は匙を取り直した。
◆
食事を終えると、皆で使う本を確かめた。
七冊を出して積み直すだけで、卓の端が埋まる。ハーマイオニーは栞の位置を直し、ハリーは表紙の著者の顔を下にして重ねた。
キーノがその山を鞄へ戻し、肩へ掛ける。
「手合わせしたいなら、まず本を運んでからだな」
「先生も、これだけ書くのは大変だったでしょうね」
「お前、もう授業を受けたみたいな顔してるぞ」
鬼太郎は顔を上げた。
ハリーたちはもう、卓から離れかけていた。ロンが鞄を掛け直し、こちらを待っている。
鬼太郎も本を収め、最後に羊皮紙の角を押し込んだ。
変身術で描いた獅子の頭が、少しだけ見えた。ボタンへ付けた時には、他人に向きさえ分かってもらえなかったものだ。
午前だけでも、まだ思い通りにならないことがある。
これから行く教室では、何を教わるだろう。
「行きましょうか」
鬼太郎が立つと、キーノも隣へ来た。
重い鞄を肩へ寄せ、皆の後を追う。防衛術の教室へ続く階段を、鬼太郎はいつもより軽い足取りで上がった。