「魔法のある世界に転生! ヒャッホー!」
……と叫んでいた時期が、私にもありました。
改めまして、自己紹介を。
氏名、エドル・ヴェスパー。
出身、ダームストラング専門学校。
特技、開心術。
趣味、闇の魔術。
現在の役職、死喰い人・実質ナンバーツー。
職務内容、不明。
勤務時間、無制限。
有給休暇、なし。
退職の方法——死のみ。
どうしてこうなった。
純粋に魔法が面白かっただけなのだ。
呪いの構造が知りたい。魂の仕組みが気になる。誰もやってないなら私がやろう。
その延長線上に、なぜか組織の副社長席が置かれていた。
人生の分岐点というのは、だいたい看板が出ていない。
さて、1981年・ハロウィンなる日。
蛇顔の上司が、トリックオアトリートよろしく「半純血の赤子を驚かしてくる(意訳)」と言って出張に行ったのだが。
「なんと、我が君が……?」
「そ、そんな……まさか」
「嘘だ! 信じないぞ‼」
「その、残念ながら。それが……ほ、本当のようでして」
お菓子をくれないとイタズラしちゃうぞー、の、イタズラが『失敗』したらしい。
赤子に。
ちなみに私は趣味で開心術を極めているので、この部屋にいる全員の本音が、常時ダダ漏れで聞こえてくる。
要するに、頭の中に社内の匿名掲示板が二十四時間流れている状態だ。
便利だと思うだろう。
便利ではない、地獄である。
場所は、とある純血名家の屋敷。
便宜上『緊急役員会議室』と呼んでおく。
社長が音信不通になった会社の、取締役一同による緊急会議だ。
『議長席』は、空いている。
誰も座ろうとしない。
取り仕切った人間から順に粛清(死の呪文)されかねない、という各々の計算だけが、見事に一致しているからである。
日頃あれだけ「我が君に永遠の忠誠を」とか言っていた連中が、なぜこういう時にこそそれを発揮しないのか。
まあ、読めば分かる。
読みたくないが、読める。
まずルシウス・マルフォイ。
この男は分かりやすい。
(——服従の呪文でした、服従の呪文でした、と。よし練習しておこう。魔法省への"お心遣い"はいくら積めばいい? ここにいる全員売ればいけるか?)
もう法廷答弁のリハーサルが始まっている。
全員売る前提で予算を組むな。
隣、コーバン・ヤックスリー。
(あの記録は誰が握っている。誰が何を知っている。使えるカードは今のうちに全部集めておくべきだ)
こちらは保身というより、もはや業務。
組織が燃えている最中に、平然と書類を持ち出す総務部長タイプ。
正直、一番苦手だ。
そして——ベラトリックス・レストレンジ。
意識を向けた瞬間、いつもと違う感触があった。
情報が、何も出てこない。
ただ「否、否、否——」という悲鳴に似た拒絶が、延々とループしている。
悲しきかな、理性がまるごと蒸発したらしい。
両脇のロドルファスとラバスタンは、そんな妻(あるいは兄嫁)の顔色を窺うだけの置物と化していた。
君たち、それでも一応、幹部かい?
こういう手合いが、後で一番厄介なことをしでかす。
読めるからこそ分かる、"読めないこと"の不吉さというものがある。
ふと視線を巡らせると、ロジエールが座っていた椅子が、今日も空いたままだった。
もう一年も前からそうなのに、誰もそこに座ろうとしない。
忖度なのか、単に縁起が悪いだけなのか。
ついでに言えば、いつも隅で不機嫌そうにしている同僚——セブルス・スネイプの姿も見当たらない。
虫の知らせでも受けたか、胃の調子でも悪いのか。
来ていないなら来ていないで、実に賢明な判断だと思う。
「……ヴェスパー卿」
真っ先に沈黙を破ったのは、ルシウスだった。
示し合わせたように、全員の視線がこちらへ集まる。
(——こいつに貧乏くじを押しつけよう)
律儀に本音まで聞こえてくるので、本当にやめてほしい。
「我が君が不在の今、この場を取りまとめられるのは、あなたしかいないでしょう」
白々しいにも程がある。
そもそも私は外様だ。
実績もコネもない、ただのダームストラング上がりのならず者が、上司の気まぐれ一つで"懐刀"に据えられただけである。
この組織の人事は、つくづく理不尽だ。
私は営業スマイルを貼り付けたまま、内心で盛大に舌打ちをした。
なお、半世紀近く生きているにしては、この笑顔は随分とつやつやしている。
それもそのはず、十数年前にフランスで例の偏屈な錬金術師の爺さんから、こっそり失敬してきた『破片』のおかげだ。
多少は申し訳なく思っている。
が、『命の水』というのは存外、美容にもいい。
閑話休題。
ここで「では私が」などと言えば、明日には喉元にナイフが刺さっている。
かといって尻込みすれば「怪しい」と睨まれる。
詰み——ではない。
こういう時のために、前世の社会人経験というものがある。
「取りまとめるも何も、まずは事実確認が先でしょう」
私は、できるだけ平坦で、事務的な声で言った。
「我が君の消息、及びゴドリックの谷で何が起きたのか。憶測で動いて、後から『早まりました』では遅い」
我ながら模範解答である。
責任は取らない。しかし無能とも思われない。
美しい様子見だ。
案の定、室内の空気が緩んだ。
誰も彼も、本当のところ「今すぐ何かを決める」ことを一番恐れていたのだ。
決めた人間から順に、次の粛清対象になりかねないのだから。
よし、逃げ切った。
と、思ったのだが。
「なるほど、道理だ。では、ヴェスパー卿。あなたが適任でしょう」
(生きて帰れば情報源。死ねば厄介払い。一石二鳥)
……は?
「我が君の右腕とも言われるあなたなら、現場の痕跡からも多くを読み取れるはずだ」
ヤックスリーも便乗する。
「それに、"消息"を最初に確認する栄誉は、序列的にもあなたにこそふさわしい」
(乗るか。厄介事は押し付けて、私は安全圏にいよう)
見渡せば、うんうんと頷く一同。
さっきまで議長役を全力で避けていたくせに、こういう時だけは足並みが揃う。
君たち、よく都合がいいって言われない?
ベラトリックスだけが、こちらをぎろりと睨んでいた。
私は内心で盛大にため息をつき、表向きは恭しく一礼した。
「——謹んで拝命いたしましょう」
こんな時ばかり律儀に礼儀正しい自分が、少々恨めしい。
■ ■ ■
数分後。
私はゴドリックの谷の、静かな住宅街の一角に立っていた。
「やれやれ……『レぺロ・マグルタム』」
人避けの魔法をかけ、足音を殺して、目的の家へ近づく。
私は瓦礫をまたいで屋内に入った。
——そこで、見た。
詳細は、あえて言うまい。
私のような人間でも、さすがに軽口を叩く気にはなれない光景だった。
ただ一点だけ。
赤ん坊の泣き声が、まだ聞こえていた。
(生きている……?)
驚いた。素直に驚いた。
だが、私が本当に驚いたのは、そこではない。
瓦礫の隙間、ベビーベッドの傍。
小さな、小さなローブの残骸。
私は杖を振り、探索範囲を極限まで広げた。
もしあの上司が本当にここで息絶えたのなら、魂の痕跡なり死の残滓なり、何かが残留しているはずだ。
——しかし。
何も、ない。
いや、正確には"何か"はある。
ただそれは、死者の気配ではなかった。
ひどく希薄で、ひどく惨めで、ひどく生々しい何か。
ただの瀕死ではない。魂そのものが、原形をとどめていない。
風もないのに消えかけている蝋燭の火。そんな気配だ。
それが今、この部屋のどこかに、まだ"在る"。
私は数秒——いや、数分か。
ただ黙って、それを感じ取っていた。
やがて立ち上がる。
「さて、これをどう報告したものか……」
我が君は、死んでいない。
だが、生きているとも言い難い。
言葉にするなら——。
『お隠れになられた』
■ ■ ■
帰りの姿現しの、あの押し潰されるような一瞬。
その間ずっと、私は報告の文面を考えていた。
「死にました」——却下。断定した人間から死ぬ。物事の摂理である。
「ご健在です」——却下。では今どこに、で詰む。
「わかりません」——論外。この組織で無能の烙印は死刑判決の別名だ。
つまり、こうだ。
事実を曖昧なまま、しかし格調高く述べる。
誰にも反論できず、しかし誰も責任を取らされない。
そういう言葉を一つ発明すればいい。
前世の企業社会が私に遺してくれた、数少ない遺産である。
屋敷に戻ると、会議室の空気は出たときとほぼ同じだった。
誰も席を移動していない。
誰も何も決めていない。
議長席は、相変わらず空いている。
三時間近く経ってこれである。
いや、正確には「進めなかった」のではない。
「進めたら負け」だと全員が理解しているのだ。
(もう戻ってきたのか)
(生きて帰ったか。つまらん)
(さあ何と言う。第一声で私の今後が決まる)
視線が刺さる。本音も刺さる。
やめてくれ、本当に。
私はできる限りゆっくり歩き、全員が息を止めるだけの間を取って、静かに告げた。
「——我が君は、お隠れになられた」
沈黙。
そして次の瞬間、部屋の空気が、はっきりと、ゆるんだ。
(——ああ)
(死んだとは、言わなかった)
(つまり我々は、まだ「お仕えしている」ことになる)
こいつら露骨にほっとしてるな。
考えてみれば当然だった。
「死んだ」なら跡目を決めねばならない。決めれば責任が生じる。責任が生じれば、いずれ誰かに殺される。
「生きている」なら探しに行かねばならない。探しに行けば魔法省に捕まる。
だが『お隠れになられた』ならば。
——何もしなくていい。
誰も決めなくていい。誰も動かなくていい。誰も責任を取らなくていい。
そのくせ、忠誠心だけは無傷で保たれる。
この六文字は、この部屋の全員にとって、都合が良すぎたのだ。
(素晴らしい。魔法省には「あの方は死んだ、私は操られていた」と言い、内輪には「お戻りをお待ちしている」と言える。一つの事実で二枚舌が両立する)
ルシウスの切り替えの速さだけは、本当に感心に値する。
節操という概念を、生まれる前に質に入れてきたに違いない。
(不在ということは「代理」が要る。代理には権限が要る。権限には記録が残る。私が記録を握る)
ヤックスリー、平常運転。
この非常時に、よくもまあ人事権の話ができるものだ。
そして。
(生きている。生きておられる。ほら見ろ、私は正しかった。あの方は生きて、どこかで、お一人で、お待ちに——)
拒絶のループが止まっていた。
代わりにそこにあったのは、水を得た信仰だった。
……あ。
私は責任逃れのための曖昧表現を発明したつもりだった。
だが同じ言葉が、この女にとっては『公式の預言』になってしまった。
自分の首に、自分で綺麗な蝶結びをした気分だ。
「では」
ヤックスリーが、待ってましたとばかりに口を開く。
「我が君がお隠れの間、組織を預かる"代理"を定めるべきかと。無論、あくまで一時的なものとして」
(言い出しっぺにはならん。定めるべきだ、と言うだけだ。誰を、とは言わん)
はい来ました、椅子取りゲーム第二ラウンド。
室内の全員が、一瞬で床の木目に興味を持ち始めた。
こんなに一斉に俯く集団は、前世のどの会議でも見たことがない。
椅子取りゲームなんだから早く座れよおお”ん!
誰かが咳払いをした。
誰かが羊皮紙を意味もなくめくった。
誰かが杖の先端を真剣に観察し始めた。
「ヴェスパー卿こそ、適任では」
そら来た。
厄介事というのは、いつだって喜んで向こうからやってくる。
「——恐れ多いことです」
全員が身構える。
「そもそも我が君は『お隠れ』になられただけです。ならば代理を立てるという行為そのものが、我が君の不在を——いえ、あえて申し上げれば、我が君の"敗北"を、我々自身が公式に認めることになりませんか」
しん、と静まり返った。
(……天才か?)
(それだ。それを待っていた)
(代理を立てない。つまり誰も責任者にならない。つまり誰も粛清されない。セーフ)
賛同の内心が雪崩のように流れ込んでくる。
私は営業スマイルの精度をさらに一段引き上げた。
「我々は従来通りに振る舞えばよろしい。我が君がお戻りになったとき、何一つ変わっていない組織をお見せする。それこそが忠誠かと」
拍手でも起きそうな雰囲気だった。
実際には誰も拍手などしない。
拍手をすれば、賛成した記録が残るからである。
こうしてこの夜。
死喰い人という組織は、正式に『指揮系統を持たない』ことを決定した。
我ながら完璧な仕事だ。
Q,責任者のいない組織で、誰が責任を取らされるか?
A,誰も取らない。
あな素晴らしきかな!
■ ■ ■
解散しかけた、その時。
暖炉が緑に燃え、誰かの首が飛び込んできた。
神秘部にいるルックウッドの部下だ。
魔法省の内側にある、我々の"耳"である。
「ロンドンで爆発。マグルが十二人、死亡」
「……は?」
「シリウス・ブラックが現行犯で拘束。ピーター・ペティグリュー殺害を含め、十三件の殺人容疑で——」
(ブラック? あの血の裏切り者か)
(十二人? 派手だな)
(誰だ、ペティグリューとは)
ほとんどの者が、後半の名前に興味を示さなかった。
だが私は、グラスを持ち上げかけた手を止めていた。
ピーター・ペティグリュー。知っている。
上司がやけに機嫌よく扱っていた、小柄な情報源だ。
そして私は職業病で、あの男の心を読んだことがある。
読んだ上で、記憶から消したくなったのを覚えている。
あれほど純度の高い『臆病』を、私は他に知らない。
思考の全部が「どっちにつけば助かるか」の一点で構成されていた。
——で。
その男が、親友の裏切りに激怒し、英雄的に爆死した?
いやいやいや。
笑わせてくれるな。
逃げたのだ、間違いなく。
んでもって死んだふりをして、一番手近な人間に罪をなすりつけた。
あの思考回路を一度でも覗いた者なら、全員そう結論するだろう。
で、それをここで言うと、どうなってしまうか。
「では、そのペティグリューなる者の捜索を——」
ほら言った。誰かが言った。
お見通しなんだからね‼︎
「——魔法省がやるでしょう」
私は即座に潰した。
反射神経だけは自信がある。
「向こうは十二人死んで面子を潰されている。血眼で調べますよ。我々が首を突っ込めば、その血眼と鉢合わせるだけです」
(それもそうだ)
(うむ、道理だ)
(ヴェスパー卿は今日やけに冴えているな)
冴えてなどいない。
私はただ、自分に仕事が降ってこない理屈を、全力で組み立てているだけである。
この夜、私は自分の行動指針を正式に確立した。
——知っていることは、言わない。
■ ■ ■
解散間際、屋敷の主がおずおずと身を乗り出した。
「あの、皆様。誠に申し上げにくいのですが」
ノットだ。
この一晩で十歳ぶん老け込んだ顔をしている。
「そろそろ、我が家から……その、お引き取りいただくわけには」
「なぜかね」
「いえ、その、魔法省の捜索令状というものが、最近は随分と気軽に出るようでして」
(頼むから帰ってくれ。誰か一人でも捕まったら、ここが拠点だったことになる。私の家が。私の名前が。私の子が)
心底からの悲鳴だった。
だが誰も動かない。
ここを出るということは、次にどこへ集まるかを決めるということで、決めるということは、決めた人間が幹事になるということだからだ。
結局、何も決まらないまま、一人また一人と暖炉に消えていった。
ノットは扉のところで、帰る者全員に深々と頭を下げていた。
その頭の中で(二度と来るな)が十数回繰り返されるのを、私は正確に聞いた。
ところで、この夜。
私は妙なことに気づいていた。
会議中、ほぼ全員が一度は左腕をさすっていたのだ。
袖の上から、さりげなく、寒さをしのぐような手つきで。
ルシウスなど三度もやった。
当然、私も確認した。
廊下の物陰で袖をめくった。
闇の印は、薄れていた。
黒々とした刺青が、古い火傷の痕のように灰色に褪せている。
だが。
消えては、いない。
死んだ主人の刻印は、消える。
これは闇の魔術の初歩である。
私は袖を戻し、何も見なかった顔で姿現しをした。
これも言わない。言えば「では調査を」になるからだ。
帰宅して火酒を注ぎながら、私は真剣に考えた。
……辞めたい!
この会社、退職の方法が『死』しかないのは本当に問題だと思います‼︎
■ ■ ■
十一月三日。
魔法省のバーティミウス・クラウチ・シニアが、闇祓いに対し「死喰い人への赦されざる呪文の使用を許可する」という通達を出した。
要するに、裁判抜きで殺していい、という話である。
私は思わず唸った。
正義の側が非常事態だと叫んだとき、真っ先に投げ捨てられるのは正義そのもの。
それは、どこの世界でも共通らしい。
その日から、会議のたびに椅子が空くようになった。
エイブリーが消えた、摘発。
トラヴァースが消えた、逃亡。
名前もよく知らない下っ端が、三人まとめて消えた。
そしてある晩、カルカロフの席が空いた。
(あの男、捕まったらしいな)
(捕まった、で済めばよいが)
(……誰かの名前を、売っているのでは?)
空気が一段階ぶん濃くなる。
疑心暗鬼というのは実に燃費がいい。
薪をくべずとも勝手に燃え続ける。
そして私は、ここで奇妙な現象に気づいた。
誰も、空いた椅子に座らないのだ。
いなくなった者の椅子は、そのまま残される。
新しく呼ばれた下っ端は、壁際に立たされる。
結果、空席ばかりが増え、密度だけが下がっていく。
ある晩、若い構成員が無邪気に言った。
「あの……椅子を、少し下げましょうか。その、数が合いませんので」
室温が五度は下がったと思う。
(馬鹿が)
(言ったな、こいつ)
(誰の椅子を下げる? それを決めるのは誰だ?)
ルシウスが最高級の微笑みで応じた。
「椅子を下げるということは、彼らが戻らないと認めることになる。——君は、同志が戻らないと、そう言いたいのかね?」
若者は青ざめて後退した。
いや、彼には椅子がなかった。壁まで下がった。
「も、申し訳ありませんでしたあああ!」
こうして椅子は残った。
椅子が二十。
出席者が十一。
もはや会議ではない。
空席の展示会である。
■ ■ ■
その夜、事件が起きた。
遅れてきたジャグソンとかいう男が、暖炉から転がり出るなり、何も考えずに一番近い椅子へ腰を下ろしたのだ。
ロジエールの席である。
ずっと空いていたあの。
室内が凍った。
羽根ペンが止まり、グラスが宙で静止し、ノットは口を開けたまま固まった。
(座った)
(座りやがった)
(あの席に)
ジャグソンは五秒遅れて、全員の視線に気づいた。
「……え? あ、いや、私は何か」
誰も答えない。
全員が、彼と椅子を交互に見ている。
三十秒。
何も、起きなかった。
ジャグソンは死ななかった。
椅子も燃えなかった。
天井も落ちてこなかった。
ルシウスが咳払いを一つした。
「……失礼。少々、驚いただけです」
(何だ。ただの椅子か)
気の抜けた笑いが広がった。
誰かが「縁起担ぎも大概にしましょうな」と言い、何人かが笑った。
この二週間で初めて聞く、まともな笑い声だった。
私も笑った。
正直に言えば、少し安心した。
私はこの手の魔術の専門家である。
念のため、その場で椅子を調べた。
呪詛の痕跡なし。
魔力の滞留なし。
細工の形跡なし。
椅子は、椅子だった。
我々がその夜に証明したのは、「椅子はただの家具である」という一点だけだった。
だが翌週も、その次の週も、議長席は空いたままだった——。
ついでに書いておくと、酒を注いでいたのは屋敷しもべ妖精だ。
ノット家の、耳の垂れた老妖精である。
私は妖精の心を読まない。
あれは人間と構造が違うらしく、読もうとすると耳鳴りのような雑音が延々と流れ込んでくるだけで、実に不快なのだ。
だから私は、しもべ妖精の頭の中を滅多に覗かない。
■ ■ ■
十一月十日。
会場はマルフォイ邸に移った。
ノットの泣き落としが成功したらしい。
あの男にも交渉能力はあったようだ。
議題は「魔法省への対応の統一」。
全員が「服従の呪文でした」と言い張るにあたり、証言の辻褄を合わせておこうという、実に卑しい打ち合わせである。
「重要なのは、誰が誰を操っていたか、という一点です。操られていた者ばかりでは、操っていた者がいないことになる」
「では、誰かが操っていたことにせねばなりませんな」
「ええ。——幸い、もう捕まっている者が何人かおります」
(死人と囚人は反論しない。実に使い勝手がいい)
室内が静かに頷いた。
人間というのは、正しい方向に団結するのは不得手でも、間違った方向になら驚くほど速やかに足並みを揃える。
そして二杯目を飲み干したあたりで。
——喉の奥が、焼けた。
視界が斜めに傾ぐ。
グラスが指から滑り落ち、絨毯の上で鈍い音を立てた。
毒だ、と理解したのは、床に膝をついてからである。
馬鹿な。
私はこの部屋の全員の心を読んでいた。殺意など一つもなかった。
いや——待て。
酒を注いだのは、誰だ。
ノット家の老妖精ではない。
ここはマルフォイ邸だ。
(旦那様のご命令通りに、注ぎました)
耳鳴りのような雑音の中から、その一行だけがはっきり聞こえた。
しもべ妖精。
読まなかった。
なんてことだ、読まなかった。
なるほど……実に結構。
私は倒れながら、最後の仕事として部屋中の心を読んだ。
そして、三つ見つけた。
(効いた。私の毒が効いた)
(効いた。私の毒が効いた)
(……効いた? 私の毒が? まだ入れていないのだが)
三人。
三人が、別々に、同じ夜に、同じ男を毒殺しようとしていた。
しかも一人は、まだ実行すらしていない。
視界が暗くなる直前、私は思った。
——私、そんなに嫌われていたのか。
■ ■ ■
二分後、私は起き上がった。
絨毯に手をつき、埃を払い、立ち上がり、割れたグラスを杖で修復した。
室内の音が完全に消えていた。
(立った)
(立ったぞ)
(なぜ立つ)
(あれは即死だぞ。心臓が止まる量だ)
私は襟元を直し、極めて事務的な声で言った。
「失礼。少々、酒が回ったようです」
誰も何も言わなかった。
ルシウスの顔から、この二週間で初めて、完璧な微笑みが消えていた。
説明する気はない。
例の『破片』は、今も私の懐にある。
あれから作り続けている『命の水』は、美容にいいだけではない、というだけの話で。
だが、それを言えば石の存在を言うことになる。
石の存在を言えば、明日には全員が私の腹を裂きに来るだろう。
だから私は黙って椅子に座り直した。
しかし、あな悲しきかな。
その晩から、誰も私を毒殺しようとしなくなった。
その代わり、誰も私の目を見なくなった。
うーん、辞めたい!
■ ■ ■
そして、面倒の本命がやってきた。
「ヴェスパー卿はおっしゃった。我が君はお隠れになられたのだと」
会議のたび、ベラトリックスはこれを言う。
毎回、丁寧に私の名前をつけて言う。
「つまり我が君は生きておられる。生きて、我々の助けを待っておられる。なのに、ここにいる者は誰一人、探そうともしない!」
やめろー、頼むからやめてくれー。
(また始まった)
(ヴェスパー卿、あなたの発言ですよ、それは)
(面倒な女だ。誰か黙らせろ。私以外の誰かが)
全員の内心が完璧に一致していた。
この組織で唯一、全会一致で成立する議題である。
案の定、会議の後にヤックスリーが寄ってきた。
「ヴェスパー卿。レストレンジ夫人の……その、監督を、お願いできませんか」
「なぜ私に」
「あなたは開心術の達人でいらっしゃるから——」
「読めません」
珍しく、本当のことを言った。
「あの方の思考は、現在ほぼ意味をなしていません。つまり情報がない」
ヤックスリーは一瞬止まり、そして完璧な笑顔でこう言った。
「では、読めないことをご存知の唯一の方、ということになりますな。やはり、あなたしかいない」
(押し付けた。ヨシ)
論理でも何でもない、ただの言葉遊びだ。
だがこの組織において、押し付けの根拠が論理である必要など、一度もなかった。
■ ■ ■
レストレンジ邸には、二度ほど足を運んだ。
監督役とは名ばかりで、実際にやったのは茶を飲むことだけである。
二度目に、見慣れない若者がいた。
バーティミウス・クラウチ・ジュニア。
二十歳そこそこの、痩せた青年だ。
目だけが、異様に輝いている。
「ヴェスパー卿ですね。お噂はかねがね」
礼儀正しい。育ちがいい。清潔である。
ところでこの名前、つい先日どこかで聞いた。
そう——我々を裁判抜きで殺していいと決めた、あの男と同じ名前である。
なるほど、そういうことか。
習慣で、彼の心に触れた。
(——僕は本物だ。ここにいる誰よりも。マルフォイのような、金で買った忠誠ではない。僕は一度も疑わなかった。一度も。父さんは、僕を見ない。生まれてから一度も、僕を見たことがない。でも、いつか。いつか父さんは知ることになる。息子が、誰より本物だったと)
私は、そっと意識を引き剥がした。
保身も、打算も、そこには一切なかった。
混じり気のない信仰と、混じり気のない寂しさだけが、ぎっしりと詰まっていた。
この家で最も危険なのは、正気を失った狂信者ではない。
正気のまま、父親に振り向いてほしいだけの子供の方だ。
だから私は、何も言わなかった。
言えば「では対処を」になるからである。
■ ■ ■
十一月十六日。
彼女の頭の中に、フランク・ロングボトムという闇祓いの名前が五日前から居座っているのを、私は知っていた。
私はまずルシウスに言った。
「レストレンジ夫人が闇祓いに接触しようとしています」
「ほう。それは由々しきことですな」
(聞かなかったことにしよう)
「止めるべきかと」
「ええ、まったく同感です。誰かが止めねばならない」
(誰かが。私ではなく)
私は微笑んだ。
彼も微笑んだ。
美しい合意だった。
中身は完全に空だった。
次にヤックスリーに言った。
「記録に残しておくべきかと」
(記録に残れば、知っていたことになる。知っていて止めなかったことになる)
「……いや、やめておきましょう。憶測を記録するのは、いささか危険だ」
この男は記録の力を誰よりも知っている。
だからこそ、残さない力も知っている。
三人目を探そうとして、気づいた。
いない。
この組織には責任者がいなかった。
私が、そう決めたからだ。
誰も責任を負わない体制を、私自身が発明し、全員がそれに同意したのであった。
責任者のいない組織で、緊急事態を止める権限を持つ者は誰か。
——誰もいない。
そして、何もしなかった。
言い訳を一つだけ許してもらえるなら。
あの夜、私と同じことを考えていた人間は、少なくとも八人いた。
八人全員が、同じ結論に達した。
野に放ってしまえと。
私は、その八分の一である。
■ ■ ■
結果は、予想よりはるかに悪かった。
フランク・ロングボトムと、その妻アリス。
二人は生きていた。
息もしていたし、心臓も動いていた。
ただ、もう誰のことも思い出せなくなっていた。
磔の呪文を、延々と。
目的は「我が君の居場所」だ。
だが二人はそんなものを知らない。
知らないものは、どれだけ拷問しても出てこない。
出てこないから、さらに続けた。
それだけの話である。
それだけの話で、二人の人間の中身が、永久に消えた。
裁判には、顔の輪郭を三箇所ほど変えて傍聴に行った。
鎖付きの椅子に四人。
ベラトリックス、ロドルファス、ラバスタン、そして——バーティミウス・クラウチ・ジュニア。
裁判長は、バーティミウス・クラウチ・シニアだった。
息子が叫んだ。
「父さん、父さん、僕じゃない、父さん!」
私は父親の方の心に触れた。
(——誰にも。誰にも、私が息子を庇ったと、思われてはならない)
それだけだった。
悲しみも、迷いも、愛情もない。
あったのは体面だけだ。
四人全員に終身刑。
ベラトリックスだけが鎖の中で笑いながら「我が君は戻られる」と叫んでいた。
中身は相変わらず無意味な信仰で満たされている。
今日ばかりは、少し羨ましかった。
私は静かに席を立った。
辞めたい。
■ ■ ■
帰り道、ふと立ち止まった。
思い出したのだ。
あの晩の、ゴドリックの谷の部屋を。
魂の残滓は、確かに"在った"。
だが、どこに、とは特定できなかった。
瓦礫にも、壁にも、床にも、それは宿っていなかった。
当然だ。
あの手のものは、器を選ぶ。
あの部屋にあった、生きているもの。
——一つだけ、あった。
私はしばらく動けなかった。
我が君は、殺し損ねた赤ん坊の中に、自分の一部を置き忘れてきたのだ。
やがて私は歩き出し、帰宅し、書きかけの報告書を暖炉に放り込んだ。
紙が丸まり、黒くなり、消えるのを最後まで見届けた。
これを報告すれば、必ずこう言われる。
『ではヴェスパー卿、その赤子を連れてきていただけますか』
冗談ではない。
どうせダンブルドアの手の内だ。行けば死ぬ。
この世で一番重い荷物は、金でも罪でもない。
誰にも言えない情報である。
■ ■ ■
十一月三十日。
魔法界は、まだ祝杯の余韻の中にいた。
街には花火が上がり、フクロウが飛び交い、見知らぬ者同士が抱き合っていた。
『例のあの人は死んだ』——それが公式見解になった。
そして我々の会議室には、三人しかいなかった。
ルシウス・マルフォイ、無罪。
服従の呪文でした、で押し通した。
金も相当積んだらしい。
コーバン・ヤックスリー、無罪。
記録を握っていた。誰の記録かは言わない。
そして、私。
椅子が二十。
出席者が三。
「——さて」
ルシウスが口を開いた。
この一ヶ月で、彼の声は驚くほど落ち着いたものになっていた。
生き延びるという行為には、人を成熟させる何かがあるらしい。
「ヴェスパー卿。一つ、お伺いしたい」
うん?
「この間、我々は誰の指示で動いていたことになりますか」
……は?
「我が君はお隠れになられた。代理は立てなかった。あなたがそう決めた。実に見事な判断でした」
彼は微笑んだ。
完璧な、営業スマイルだった。
どこかで見たことのある種類の笑顔である。
鏡の中で、毎日見ている。
「ですが、魔法省はこう聞いてくるのです。——では、その間は誰が命じていたか、と」
喉の奥が、乾いた。
「我々は全員、服従の呪文をかけられていた。これは決まりです。もう証言もした。金も積んだ。ですが、服従の呪文には術者が要る。操られた者ばかりでは、操った者がいないことになる」
聞き覚えのある台詞だった。
当然だ。
三週間前、この部屋で、私の目の前で交わされた会話である。
あのとき私は、グラスを傾けながら思ったのだ。
人間というのは、間違った方向になら驚くほど速やかに足並みを揃えるものだ、と。
まったくその通りだった。
ただ、揃えられていた足並みの先に何があるかを、私は見ていなかった。
「我が君を術者とすることはできません。死人は法廷に立たない。立たない者は裁かれない。裁かれなければ、事件は終わらない」
ルシウスは、静かに続けた。
「魔法省は、終わらせたいのです。クラウチは英雄になりたい。国民は祝いたい。新聞は見出しを打ちたい。——全員が、終わりを欲しがっている」
終わりには、名前が要る。
「生きていて、裁けて、そして——誰も庇わない名前が」
(あなたしかいない)
(そう、あなたしか)
読めた。
はっきり読めた。
そして読めた内容には、嘘が一つもなかった。
当たり前だ。
彼らは最初から、正直なことしか考えていなかったのだ。
——彼しかいない。
外様で、純血名家ではない、どの家とも血縁がない。
ダームストラング上がりの、この国に縁のない男。
つまり後ろ盾がない。
つまり、いつでも切れる。
一ヶ月前、彼らが私に貧乏くじを押し付けた理由と、一字一句同じだった。
ヤックスリーが、羊皮紙を一枚、机の上に滑らせた。
「念のため、記録は整えてあります」
私は目を落とした。
一ヶ月前の日付。
組織の指揮系統。
その最上段に、私の名前があった。
筆跡は新しい。
インクの乾きも新しい。
「なるほど……実に結構」
分かった。
今、分かった。
「……よくできている」
「恐れ入ります」
私は笑いそうになった。
議長席……いや、『玉座』。
一ヶ月、誰も座らなかった椅子。
私はこの椅子も、ロジエールの椅子と同じ手順で調べた。
呪詛の痕跡なし。
魔力の滞留なし。
細工の形跡なし。
ジャグソンが座った時と、まったく同じ結果である。
椅子はただの家具だった。
私は、ずっと間違った場所を調べていたのだ。
呪われていたのは、椅子ではない。
『座る』という行為の方だった。
あの椅子に座った人間は、後継者になる。
後継者になった人間は、この一ヶ月のすべての持ち主になる。
マグル殺しも、拷問も、ロングボトム夫妻の空っぽになった頭も、全部。
誰も座りたくなかったわけだ。
ベラトリックスでさえ座らなかった。
あの女は忠誠心で座らなかったのではない。
座れば、我が君が終わることになるからだ。
この部屋の全員が、なんとなく分かっていた。
全員が、理屈にできないまま、正確に理解していた。
理屈にしてしまったのは、私だけである。
「ヴェスパー卿」
ルシウスが、椅子を引いた。
私のために。
「どうぞ」
私は逃げ道を計算した。
逃げれば、裏切り者として追われる。しかも記録はもう存在する。
残れば、名前として使われる。
どちらを選んでも、書類の上では私はもう座っている。
計算に十秒かかった。
十秒で終わる計算に、半世紀ぶんの処世術を使った。
「……やれやれ」
私は歩いた。
人生を振り返るには、七歩は少し短い。
魔法のある世界に転生して、ヒャッホーと叫んで、ダームストラングに入って、面白いから闇の魔術を突き詰めて、気づいたら殺人集団の副社長になっていた男。
保身だけで生き延び、知っていることを言わず、止められたことを止めず、そうして最後まで生き残ってしまった男。
悪くない人生だったかと聞かれれば、返答に困る。
だが、退屈ではなかった。それだけは確かだ。
腰を下ろす直前、私は左腕をさすった。
癖になっていた。この一ヶ月で、全員がそうなった。
私は腰を下ろした。
椅子は、何もしなかった。
当然である。ただの家具なのだから。
代わりに、扉が吹き飛んだ——。
■ ■ ■
闇祓いが六人。
窓からも二人。
煙突も封じられていた。
先頭に立っていたのは、顔じゅうが傷だらけの男だった。
名前は知っている。ロジエールの椅子を空けたのが、この男だ。
あの椅子も、この男が空けたのだった。
今日はもう一脚、空けに来たらしい。
その後ろに、もう一人。
長い銀髪の、半月形の眼鏡をかけた老人が、静かに立っていた。
杖すら抜いていない。
習慣で、私はその心に触れた。
——何も、返ってこなかった。
壁ではない。空白でもない。
ただ、静かだった。井戸を覗き込んだような静けさだった。
そして私は、生まれて初めて、自分の方が読まれていることに気づいた。
……ああ、そうか。
開心術で読めるからこそ分かる、"読めないこと"の不吉さ。
私はそれを、ずっとベラトリックスの話だと思っていた。
ルシウス・マルフォイが、一歩下がった。
ヤックスリーは、すでに壁際にいた。
誰も私を見ていなかった。
この二週間、ずっとそうだった。
「エドル・ヴェスパー」
傷だらけの男が、杖を上げた。
「魔法省の通達により、貴様に裁判は無い」
ああ。
十一月三日の、あれか。
正義の側が非常事態だと叫んだとき、真っ先に投げ捨てられるのは正義そのものだ。
どこの世界でも共通らしい——と、私は確かに考えた。
考えた当人に返ってくるとは思わなかったが。
さて。
私は生涯、知っていることを言わなかった。
言えば仕事になるからだ。
今さら口を開く気もない。
だが。
言わずに、渡すことならできる。
私は、銀髪の老人の方を向いた。
そして、心の扉を開けた。
瓦礫の部屋。
小さなローブの残骸。
死者のものではない、消えかけた蝋燭のような気配。
泣いている赤ん坊。
そして、灰色に褪せてなお、消えていない左腕の印。
どうぞ、お持ちください。
私にはもう、必要のない情報ですので。
老人の眉が、ほんのわずかに動いた。
いい気味である。
面倒事を人に押し付けるのがこの国の流儀なら、私も最後くらい流儀に従おう。
最後に、ニヤリと笑んでしまった。
半世紀ぶんの処世術と、極めた開心術と、盗んだ破片。
そういうものを全部使って、私は誰よりも上手に立ち回ったはずだ。
立ち回った結果、誰よりも上手に、この椅子まで辿り着いてしまった。
これは、椅子取りゲームではなかったのだ。
最後まで座らなかった者が、勝ちだったのである。
——そうと知っていれば、もう少し無能に見える努力を、するべきだったなあ。
いや。
待て。
待てよ?
考えようによっては、これは。
ようやく。
——あ。
「『アバダ・ケダブラ』」
辞められた。
■ ■ ■
アルバス・ダンブルドアがその夜あの屋敷にいたのは、死喰い人のためではなかった。
三日前、フランスの旧友から手紙が届いていた。
几帳面な字で、たった二行。
『少し前から、石が何だか軽い。気づくのに十数年かかった私を、どうか笑ってくれ』
笑わなかった。
代わりに、十数年ぶんの噂を辿った。
不自然に若い外国人。ダームストラング出身。闇の魔術。開心術。
名簿の上の方に、その名前はあった。
闇祓いたちが退出していく。
その間、ルシウス・マルフォイは一度も口を開かなかった。
開く必要がなかったからである。
全員が去ったあと、老人は死者の傍らにしゃがみ、懐から滑り落ちていた小さな包みを拾い上げた。
中身を検め、布に包み直し、上着の内側にしまう。
明日にでも、持ち主に返すつもりだった。
それから、彼は動かなかった。
最後の一瞬に見せられたものを、順番に並べ直していたからである。
瓦礫の部屋。
器を選ぶ類の、消えかけた気配。
泣いている赤ん坊。
そして、褪せてなお残っている刻印。
死んだ主人の刻印は、消える。
これは闇の魔術の初歩である。
つまり、終わっていない。
老人はしばらく、その事実を胸の内で転がしていた。
明日、新聞は一面でこう打つだろう。
『闇陣営の首魁、討たれる——事件は終結へ』
国民は祝いたい。
クラウチは英雄になりたい。
誰もが終わりを欲しがっている。
終わりには名前が要る。
名前は、提供された。
——ここで「まだ終わっていない」と言ったところで、誰が聞く?
言えば、火消しに走る者が出る。
慌てて赤子を探す者が出る。
そして、その先にあるものを、彼は正確に予想できた。
アルバス・ダンブルドアは、静かに立ち上がった。
知っていることは、言わない。
その夜、あの結論に辿り着いた二人目の男だった。
扉を出る前に、彼は一度だけ振り返った。
椅子が二十。
座っている者は、もう一人もいなかった。
—END—
許してくレジリメンス!
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