姿形を確認しようとしても鏡にも写真にも映らない、俺は助けを求めて幼馴染を呼び寄せて、そんな彼女のことすらどうしようもない衝動に背中を押されて押し倒して
ただひたすら、もの酷く血を吸いたい
これってもしかして、吸血鬼?
⚪︎
ある日、目が覚めると巨大な毒虫に変わっていた。
突拍子もなく不条理に始まったそのお話は、最終的にリンゴを投げつけられてポックリと死んでしまうという落ちなのだけれども。
初めて読み通した時は、なんとなくこれが我が身でなくて良かったなぁと言う感想しかなかった。
俺はそっち側ではないと、可哀想なグレゴール・ザムザの事は哀れではあるけれども、朝起きた時に毒虫に変身するなんて事はあり得ないのだから。
その時、世の中に絶対があり得ないと言う事を、俺は何一つ分かっちゃいなかった。
もしかしたらという仮定を常に想定しておくべきなのかもしれないけれど、果たして朝起きた時に身体が女のものに変わっているなんて想定誰ができると言うのか。
視点は男性平均ギリギリだった頃と大して変わらない。
控えめだけど確かにある胸に、気づけば肩まで伸びていた茶色い癖っ毛。股ぐらの間にはあるはずのものがなく、どこからどう見ても女性の身体。
がなりたてるスマホのアラームを無視し、俺は慌てて鏡を覗き込んでそこでぴたりと動きを止めたのだ。
鏡に俺の姿が映らない。
まるで夢の続きを見ているかの如く、そこには何にも写っちゃいない。
まさしくあり得ない現象。俺が着ている衣服まで写らないのだから、どういう原理でそうなるのか全く理解出来ない。
世界は本当はコンピューターゲームの世界で、これはテクスチャバグを起こしているんですよと説明してくれればまだ理解が追いつくレベル。
思考停止も束の間、俺はハッと閃いてスマホを手に取った。
何も姿見鏡でなくても良いのだ。
現況を確認するためなら、一枚写真でも取って仕舞えば良い。そうして慌ててカメラを起動して、すぐさまがっくりと膝をついた。
虚しく響くはシャッター音、そこには何一つ写っちゃいない。
⚪︎
「はえー、伊吹が本当に女の子になっちゃってるじゃん。おもしろ〜」
「うるさいっ! マジでどうすんだよ、これよぉ」
無様な有様を見て笑い転げるのは、子供の頃からずっと連れそっていた幼馴染。大学に入って縁も薄れ気味だったけれども、咄嗟に頼れる女友達は彼女ぐらいしかいなかった。
写真もなく、ただ電話だけで自分の体が女に変わった事を告げた時、彼女は真っ先に悪戯である事を疑ったけれども、注文通り買い物をして一人暮らしの我が家にやってきてくれたのだからまったく頭が下がらない、それはそれとしてひどく腹が立つけれども。
「ってかさぁ、自分で買いに行けば良いじゃん? なんなら私も一緒に買いに行ってあげたのに」
「人目が恥ずかしいんだよ、ったく俺の身にもなれってんだ」
「女の身体は私の方が知ってるけどなぁ」
微妙に詭弁に言い負かされた気がして、「とにかく病院にいった方がいいんじゃない?」という声を無視して差し入れ品であるビニール袋を漁る。
適当なスポブラと髪をまとめるゴム、それに女性ものである下着を見て思わずうぐっと呻き声が漏れる。
見なかったことにしよう、それはまだ男性用でもいいし。
後ろでちゃんと買ってきたものを全部付けてよと言われるけれど無視。髪を雑に括り、ぱぱっと服を脱いで装着して、再度寝巻きであるジャージを装着すれば完璧。
「病院はまだ、いい。ちょっとだけ様子を見る」
「なんで? もしかしたら手遅れになるかもしれないよ」
「怖いんだよ」
再度鏡の前に立つけれども、やっぱり姿は映らない。
ため息を吐いてベッドに体を投げ出した。何がどうしてこうなったのか、怒涛の勢いで現実が押し寄せてきて、次々に口へと注ぎ込まれてる気分。
きっといつかはパンクするのだろう、それより先に情報を遮断すべく意識を落とそうと睡魔が押し寄せてくる。
「病院に行ってさ、『ああ、あなたはもう取り返しつきませんね。ご愁傷様です』なんて宣告されたら俺はどうすればいい?」
「どうしようもないでしょ、諦めて生きてくしかないんだから」
「それが嫌なんだよ、俺が今どこに立ってるのか理解したくないんだ。どうしようもない存在だと認めたくないんだよ」
姿が変わるだけならまだ良い、いや良くは無いけれども。でも、それに姿が映らないが噛み合ってしまっている以上、それよりやばい何かが進行している予感があった。
もしかして、俺はとっくに死んでいるんじゃなかろうか?
死んでしまったから幻のように姿形を変えられて、幻であるが故に写真や鏡に映らない。
荒唐無稽ではあるけれども、ありそうな考えだ。
毒虫の彼も、虫になる前にとっくに死んでしまったのかもしれない。
「あんまり一人で考えすぎるなよー、最悪は伊吹のことは私が貰ってあげるから」
「貰ってあげるからって、俺は所有物じゃねえよ」
「違うって、そういう意味じゃなくてさ」
ぎしりとベットが軋んで彼女が覆い被さってくる。
ほとんど床ドンの形、熱に浮かされたようにとろんとした目で、彼女が俺のことを見下ろしている。
「今の伊吹、すっごく可愛いんだよ。もう他の誰にも渡したく無いぐらいにね、ああ、でも自分の事がどうなってるのか見えないのか」
「おい、どうした……?」
「ほら、たまに見える八重歯も可愛いんだから」
徐ろに口の中に指を突っ込まれる。
思わず目を白黒させるけれども、彼女は一向に気に返さない。明らかに通常の状態では無い、こんな指を突っ込んで口を弄るなんて限度を超えている。
抗議しようとして言葉を出そうとするけれども、満足に口も動かせず。
「いたっ」
だから多分その時、八重歯にあたって彼女の指が傷ついたんだろうと思う。正確には何が起こったのかわからない、顔を顰めるのを見て咄嗟に謝ろうと思ったのだ。
こちらの過失が1割だとしても、不要に傷つけてしまったのだから。
でも、一瞬口の中に鉄の味がして。
気が付けば目の前に艶やかな喉があった。
これに牙を突き立てたら、どれほど美しいだろうか?
鮮やかな血の鮮食がそれを彩ってくれるに違いない。
一瞬しか成り立たない芸術品。儚く凄惨に散るそれを、俺は見たくて見たくて仕方がなかった。
でも、本当に良いのだろうか。
俺はもしかして、取り返しのつかない事をしているんじゃないか。一瞬だけの本能と理性の均衡、そこにするりと彼女の声が滑り込んできた。
「伊吹……怖いよ……」
その潤んだ瞳を見て俺は、瞬時に飛び退いた。
本能が瞬く間に理性へ調伏されて行く。
なんだこれは、どうして俺は彼女のことを組み伏せている?
時間が飛んだのだろうか。
いや、意識が一瞬吹き飛ばされていたのか?
理解が追いつかない。
ただ、彼女のことをひどく傷つけたことだけは確かで。
咄嗟に家を飛び出してから、俺は彼女に何一つ謝っていないことに気づいたのだ。
⚪︎
気が付けばすっかり日も沈んでいた。
一向に纏まらない思考を連れて、どこへ行くでもなくふらふらと歩いている。財布もない、スマホもない、今出来ることは何にもないというのに当て所なく彷徨っている。
今、あの家には帰れないだろう。
きっとまだ幼馴染が待っているだろうから。
また理性が吹き飛んだ時、自分がどういう行動に出て、それを未遂に止められるかどうかもわからないのだ。
自問自答、俺はどうなったんだ?
ふと足を止めて覗き込んだショーケースには、やっぱり何にも写っちゃいない。一つだけ自分の中に最悪の予想があった、これまでの経緯を説明するたった一つの解法が存在している。
吸血鬼。
古いホラー小説にしか出てこないそれに、俺は成り下がってしまったのかもしれない。
姿形が鏡や写真に映らない、血に激烈な反応を示す。これらはまさに吸血鬼の特徴ではなかろうか?
語り継がれる逸話は実在したものではなかったか?
それを、一笑に付すことがどうしてもできなかった。あくまで可能性として頭の中に入れておくべきことだろう。
ただ、俺が吸血鬼だとして一部の疑問がまだ残る。
俺が日光の下を歩いても特に問題がないこと、これは正しく不可解な話ではあった。
その他の吸血鬼の弱点、例えば杭ならば、それに打たれたら誰でも死ぬだろうし、流水、つまりは川に流されれば誰でも死ぬだろう。ニンニクは人によりけりだし、十字架が効くというのは半分願望のようなものな気がした。
明確な弱点は日光だと確信している。
だが、俺が家を出た時に日光は相変わらず燦々と振りそぞいていた。
日の光を浴びても無事な理由はなんなのだろうか。これを持ってして吸血鬼ではないと胸を張って良いのだろうか。
そしてもう一つ。吸血鬼になったところで性別が変わるなんて話を、俺は一度も聞いた覚えがない。
まったく、思わずため息がつく。
ひどく喉が渇いていた、そしてそれが吸血願望であることも俺は認識していた。
どうすれば良いのだろう、どうすれば治るのだろうか?
一生このままか、一生男には戻れないのか?
気が付けば繁華街に迷い込んでいた。
ふと、そこに目がついた。
周囲の耳目を集めるプラチナブロンドの髪をもった女、そいつが俺のことをじっと見つめていた。美人だとは思う。でも、なぜかもやっとした感情が込み上げてくるのだ。
それが何なのか、ようやくわかった時、彼女はもう直ぐ目の前にいた。
どうしようもない嫌悪感。
どういう理由がわからないけれども、それを廃絶しなければいけないという気持ちがひたすら背中を押してくる。
だが、理性を吹き飛ばす吸血衝動ほどではない。
拳を握れば、その程度で堪えられるレベル。
相手を避けようと道の端によって、その時ふと囁き声がした。
「あなた、まだ血を飲んでないの?」
咄嗟に振り返る。
そこには誰もいない、いつもの雑多な繁華街が広がっていた。
果たして自分は幻覚を見たとでもいうのだろうか。
それとも、幻聴でも聞いたというのだろうか?
答えは分からない。
首を振って、再度歩き始めようとして。
鳩尾を強い衝撃が走って、思わず息が止まる。
体当たりを食らったのは一目瞭然、そいつは頭を抑えながら尻餅をついているのだから。
「ごめん、怪我はないか?」
そう言って手を差し伸ばしながら、彼女の格好を疑問に思う。
よく目立つ碧眼をした女性は、コスプレみたいに修道女の格好に身を包んでいた。まさか、そこら辺のコンセプトバーから逃げ出してきたとでもいうのだろうか?
その割には年端もいかないように見える。
確証はないけれども、未成年のような気がした。
「ほんっと、ごめんなさい! ちょっと道を急いでて!」
「まあ良いけど、そんな夜中に出歩くなよ」
ちょうど手頃なサイズ、軽くポンと頭に手を置く。
もしかしたらさっきのあの女を追っていたのかもしれない。何となくここら辺から浮いているような二人だし、試しに話を聞いてみるのも良いかもしれない。
そうして、口を開こうとして。
その時、シスターが俺の顔をじっと見上げていることに、ようやく気づいたのだ。何か訝しげなものを見抜いたかのように、真っ直ぐ射抜かんとばかりに。
「……どうした?」
「お姉さん、もしかして吸血鬼ですか?」
「……は?」
かちゃんという音がして、視線を落とせば銀色のアクセサリーが俺と彼女の手を仲良く繋いでいた。
どこからどう見ても手錠である。
言い逃れしようがないほど、それは手錠だった。
馬鹿げた絵面。その時、ふと俺の脳裏には警察という言葉より先に違う光景が思い浮かんでいた。
アントニオ猪木の手錠マッチかよ。
そのわかりづらいツッコミより先に、かくんと視点が揺れて。
⚪︎
目を覚ました時に真っ先に目に入ったのはステンドグラス。月光に晒されてキラキラと輝くそれに思わず息を呑んで。
だがそうしていつまでもじっとしているわけにはいかない。そもそもここは何処だろうか?
手元からする鎖の音を無視して辺りを見渡せば、特徴的な内装からそれが何処かは直ぐに推測がついた。
おそらくここは教会だろう。何処か廃れた様子を見せているけれども、清掃も行き届かずに壁には蜘蛛の巣までかかっているけども。
「あ、よくやく目を覚ましましたか?」
背後から意識を落とされる前に聞いたあの声がする。
「全く意味がわからないんだけど、とりあえずこの手錠外してくれないか?」
「そんなの無理に決まってるでしょう。貴女、馬鹿じゃないんですか」
当然のようにそういうけれども、俺には全く拘束される謂れない。
いや、あるか。
どうしても認めたくはないけれども、彼女が言った通りの可能性は否定できないし、俺もそうなんじゃないかと思っていたんだから。
彼女は慎重に俺から距離をとって、説教台へと立っていた。相変わらずの修道服、ベールをかぶっているから髪型すらわからない。
「お姉さん、吸血鬼じゃないですか」
返す言葉がない。
日頃なら笑い飛ばすそれを、否定できるはずがない。
けれども次の言葉を聞いて、ぴたりと思考が止まった。
「だから、死んでもらいます」
「……なに?」
「当然じゃないですか、もしかしてこれからもずっと普段と変わらない日常生活を送れるなんて思ってたんですか?」
パクパクと口が開くけれども、そこから何の言葉も出ない。
死ぬ? 俺が? 平和な解決方法もなしに殺される?
そんなのたまったもんじゃない。このままはいそうですか、わかりましたと首を差し出すわけが無い。
「俺が、どうして吸血鬼だと? 間違って無罪の市民を殺そうとしてるとは思わないのかよ」
「私がそう断じたからそうなんですよ」
「だからっ! その理由を教えろって言ってんだよ!」
フラッシュが瞬いて目が眩む。
インスタントカメラ。吐き出されたフィルムに何が映されてるかは容易に想像できた。どうせ何も写っちゃいないのだ、予想通りというしたり顔に少しだけ腹が立つ。
「ご覧の通りに写真にも映らない。これだけでも人が外れてると思いますけどね。貴女は毎日鏡を覗かないんですか? そこに自分の姿が映ってないのを確認して、それでもまだ自分が一般人だと思いで?」
どう考えても普通じゃない、そんなこと言われずとも。
「どうしようもない吸血衝動を感じたことはないですか? それに抗いきれず他人に危害を加えたことは? まあ、その綺麗な八重歯からしてまだ経験が浅いのは予想がつきますけどね」
幼馴染を傷つけた、確かにそうだろう。
「それにフェロモン。貴女は意識してないかもしれないけれど、人を惹きつける引力を持っている、正気を惑わせる魅力を漂わせている。私が感じ取る情報全てが貴女のことを吸血鬼だと断じているんですよ」
「……その中に、吸血鬼になったら女になるとかは?」
俺のツッコミに先程までの威厳は何処へやら、姿相応の頼りなさが舞い戻る。けれども一度こほんと咳払いすれば直ぐにまた元通り。
「何言ってるんです? 意味わからないこと言って惑わせようとしないでください、大体吸血鬼になったら女になるとかそんなことあるはずないじゃないですか、一体どこの胡散臭い伝承を元にしてるんです?」
冷静なツッコミにため息がでる、全く取り付く島がありゃしない。でも、言われてみれば確かにそうなのだ、吸血鬼の専門家がいう通りに吸血鬼になったところで男から女に体が変わるとかありえない。
でも、それならばこの現象を何と言えば良いのだろうか?
「このまま、貴女には日が出るまで待ってもらいます。そうしたら楽に焼け死ねますから」
「楽に焼け死ねるって何だよ、初めて聞くパワーワードなんだけど」
焼死に楽もクソもないだろと思ったけど、ただただにっこりと事務的な笑みを返される。もしかして杭で心臓を貫いたりするよりは楽という意味なのだろうか。
ふと、疑問がよぎって首を傾げる。
日光で焼け死ぬって言われても、俺は特に問題なかったよな。
何らかの条件が揃うと日差しで焼け死ぬようになってしまうのだろうか?
サンオイルを塗ると照り焼きになるとかいう馬鹿げた考えはともかく、ステンドグラス越しの太陽光を浴びると神の力で浄化されるとかは、なんとなくありそうな気がした。
そんな思考を遮って、彼女のありがたい言葉が飛んでくる。
「それじゃあ、死ぬまで何しますか? 食べたいものがあれば何かデリバリーしますよ」
「どうせ牛丼かマックぐらいしかこの時間はないだろうよ」
「そうですね、でも最後の晩餐に何もないよりはマシでしょう?」
思わず引き攣った笑いが出た。
まるで俺が死ぬことは規定事項のように、そこに躊躇いも何にもありゃしない。
でも、それが一番正しいやり方なのかもしれない。吸血鬼から元の人間に戻せるならそうしない道理はないだろう。だが、目の前のシスターはそんなことを一切考慮せず即殺という手段に出た。
それが答えなのだろう。
俺が本当に吸血鬼だとすれば救えぬ存在なのだろう。
例えこの場を切り抜けて日常生活に戻ったとしても、あのどうしようもない吸血衝動はずっと付き纏ってくる。今回は理性が打ち勝ったけれども、次からはどうなるかは全く予想ができなかった。
絶対に理性で御し続けられると言えない以上、取り返しのつかない犠牲を生み出すことは否定できない。
それなら、この場で死ぬのが正解なんじゃないか。飲み込んだ答えが、じわりと胸の内に広がっていく。まるで何か諭すように、シスターがじっと俺のことを見下ろしていた。
ああ、でも、あいつには謝らなきゃな。
理不尽に怖がらせてしまった腐れ縁のあいつには。
ふと、何かを壊すような音がして咄嗟に顔を上げた。それは後方から、教会の封鎖されている入り口からしているようだった。
次の瞬間、扉が勢いよく説教台へと吹き飛んだ。
シスターが立ってたその位置に目掛けて、けれどもスプラッターな絵面は紙一重で回避されたらしい。咄嗟に躱したのだろう彼女が、「騒がしい客ですね」と呟きながら立ち上がる。
「今日は満月、こちらに差し向けるとしたら狼男……ライカンスロープですか」
「狼男!?」
恐る恐る振り返る。そんなまさか、吸血鬼だけではなく、狼男なんていう存在まで世界の裏側に存在していたのか。
振り返れば、教会の開け放たれた入口には男が突っ立っていた。上裸にジーンズだけを身につけた、やたらと毛深い筋骨隆々の男が物騒な鉤爪を両手に付けて立っている。
「いや、服着ろよ。ってか狼要素が毛深いところしかないじゃねーか」
「五月蝿いですよ、黙っててください」
「でもさぁ……」
鉤爪も相まって、アメコミ映画から出てきたみたいな風貌だった。俺のツッコミもばっちり耳に届いていたのか、底冷えする冷たい視線をこっちに向けられていた。
「お前も事が終わったらついでに殺してやるよ、内臓を引き摺り出してな」
「なんか人気者だな、俺。まあお前が殺すにしろ殺さないにしろ、こっちからしてみれば遅いか早いかの違いだからどうでも良いけど」
一日に二回、十分に殺意の乗った殺害予告をされるなんて夢にも思わなかった。まあでも、痛くない死に方の方がいいなと思いつつ、微妙な雰囲気に気づいて視線を戻せば、なにやら引かれていた。
「なんだお前……何で平然としていられる?」
「二回目だからだと思うけど」
「違う、何も気づかないのか?」
「はあ?」
言葉数の少ないシスターの方を振り返れば、今にもぶっ倒れそうな真っ青な表情をしていた。顔に浮かんだ汗は止まらず、緊張で息すら浅い様子だった。
もしかしてあいつは殺意を持って人を殺せる存在なのかもしれない。俺は鈍いけれども、それを直に叩きつけられたのだろうか?
俺から彼女にかけられる言葉はたった一つだけ。
「まあでも、逃げたほうがいいんじゃない?」
「……ッうるさいですね、私には目的があるんですよ!この教会を残すためにッ! どうしても私はここを引けないんです!!」
「世知辛いな、狼男さんの目的は?」
どうしてこういう風に俺は仲介しているんだろう。
俺を殺そうとしているシスターと、物事のついでに俺のことを殺すと宣言した自称狼男を。
どうにも奇妙な流れだった。
ただ、ぼんやり流れる血は少ない方がいいなと俺は思ったのだ。無駄に流れる血は、少ければ少ないほどいいなと願ったのだ。
「最近、この街の夜を荒らす奴が居るって言われてな。夜の世界にもルールがあるんだよ、そして、その女はルールを破った。だから見せしめにする、例外なんて許さないという見せしめにな」
「そう、それなら、まずはそのルールを俺に教えて欲しいんだけど」
「今から死ぬお前に、それの理解が必要だと?」
「そーかい、そーかい」
夜の世界が何なのかは、門外漢の俺には全くわからない。
だが目的は確認できた。シスターと狼男の二人の目的を天秤にかけて、どちらに味方すればいいのかは良く分かった。
手足が冷えていく感覚がある、程よい緊張感が体を包んでいる。
これは壊せるな、そんな感覚に身を任せて、ふんっと両手に力を引っ張れば呆気なく手錠が千切れた。
ぽかんと口を開けてシスターが俺のことを見下ろしている。
「あり得ないです、なんで……ここは教会で、しかもその手錠には銀が含まれているんですよ!?」
「タネも仕掛けもないんだな、これが」
「何だ、お前……」
狼男を振り返れば、俺に対して警戒心をむき出しにしていた。侮ってくれたら楽だったのに、そうは問屋が卸さない。
確かに胸の内に感覚があった。
夜の気に当てられて、あの狼男が現れた瞬間から加速度的に俺の箍が壊れているのがわかる。
日常が非日常に塗り変わっていく感覚。
血だ、俺は血を求めているのだ。
今はまだ、ギリギリで理性が持っている。
俺は正気じゃない、やっぱり朝目覚めた時に全部変わってしまっていたのだろう。ここが分水嶺、ここを踏み越えれば帰る道はない。
ならばここで死んでもいいような気がした。
身を挺してでもこの力を使って誰かを助ければ、それで全部チャラになるような気がした。
俺が誰を助けるか、そんなの当然決まってる。
誰だって可愛い方を助けるに決まってる。
「シスター、俺がいう電話番号を覚えられるか?」
狼男の方へ振り返りつつ、相手の返事を待たずに幼馴染の電話番号を唱える。まだ距離は遠い何かを見計ろうとしているのか、あいつはこっちに踏み込んでこようとしない。
「俺が死んだら、そいつに代わりに謝ってくれ」
「……戦うつもりですか、無茶ですよ!?」
「無理を通すのが男の子ってやつなんだよ」
まあもう、男ではないんだけれども。
「と言うわけで、お前が相手だな」
もう振り返らない、きっと俺が死んだとしてもこの隙を見逃さず逃げてくれることを信じるしかない。
命があればどうとでもなるのだから、この教会を守るにしても他にやりようはあるのだから。
「お前は……本当に、何だ?」
「吸血鬼らしいよ、本当かは知らんけど」
油断なく構えるのを見て、思わず落胆する。
素手相手だと油断してくれればいいのに、せめてハンデだと言わんばかりに鉤爪を外してくれたらいいのに。
自分でもわかる。
今の俺は多分、めちゃくちゃ強い。
一撃だ、全部が初回の一撃で終わる。
防御は最低限に。
相手の攻撃を守ることに意識を割きすぎたらきっと攻撃の機会を逸する。仕切り直しは聞かない、天秤が崩れたら一直線に転げ落ちてしまう。
きっと俺にあるチャンスは多分一回だけ、
完全に捨て身ではない、首は飛ばされたらそこでゲームセット。
条件を飲み込んで、とんとんと歩き始める。
次第に早足に、最後は駆け足で。狼男はまだ動かない。お優しいことで、これならタイミングを合わせやすいと笑みが溢れて。
でも、その一撃は全然優しくはなかった。
首を狙った右手の薙ぎ払いは辛うじて腕を払って避けたものの、突き出された右の鉤爪が容赦無く腹部を貫いていた。
それで勝負は決まった、俺の勝ちという形で。
笑みはまだ崩れない、勝利を確信してより深くなるばかり。狼男も危険を察知したのか、咄嗟に鍵爪を咄嗟に離して飛び退こうとしたのは流石の一言。
だが、どうしたって間に合わない。
こっちが空いた右拳を握りしめて、相手を全力で殴り飛ばすほうが圧倒的に早い。
肉骨の砕け散る派手な音がして、ピンボールが如く男がぶっ飛んでいく。ほんの少し衝撃を逸らされた気がするけれども、もう俺には確認しようがない。
ブラックアウト。
⚪︎
鉄の味がした。
無理に口に注がれたそれが喉を伝って胃に落ちていく感覚、ふっと体の傷が和らいだような気がして。
朧な視界が開かれる。
「あなた本当に馬鹿なんですか、吸血鬼の癖に私に味方して」
きっと膝枕をしているのだろう。
碧眼からポロポロと涙がこぼれ落ちて、俺の顔を濡らしていく。そういえば涙って血液の代わりにならないのかな、そんなどうでもいいことをベールから微かに溢れる金糸のような髪を見ながら思っていた。
「でもさ、死ぬならせめて人の役に立って死にたいんだよ。人として死にたいよ俺は」
俺が意識を取り戻したことにようやく気づいたのか、慌てて涙を拭うついでに太腿を引き抜かれてコンクリートへと叩きつけられる。
ゆっくりと体を起こして周りを伺う。
吹き飛ばされた扉は必死の修理をしたのか、辛うじて入口にくっついているという様子だった。
もう入口としての用は成してないような気がしたけれども、それを突っ込むのも無粋な気がした。
シスターは5体満足な様子、けれども先程と違って手首に包帯を巻いている。それをじっと眺めていると、言い逃れする事が不可能と悟ったのか口を開いた。
「最低限の傷を治してあげるためにですよ、精々私に感謝してください」
「吸血鬼に血をあげるのって聖職者的にどーなの?」
「五月蝿いですね! 恩人に報いるぐらいなら許されますよ!……多分」
小声で付け加えられたそれを聞かないふりをして腹部を見下ろせば、ジャージにはぽっかり穴が空いて、とりあえず巻いたみたいな包帯も真っ赤に染まっていた。
最低限? 本当に?
「もう日も上がります、あの窓ガラスから直に日が差し込んでくるでしょう」
まるで、ここから逃げろと言わんばかりにシスターは呟いた。
ほんと呆れるぐらいお人好し。けれども俺は動こうとしなかった、そのことすらも彼女は見抜いていたのかもしれないけれど、答えはわからない。
「今日、この夜、私が助けてもらったこと。そしてあなたのことは一生忘れません」
別に忘れていいと思ったけれども、その言葉は唇と共に塞がれて。
窓の外で、空が段々と白んでいく。
そして、そしてとうとう日が登ってきて。
「やっぱり一日ぶりの朝日は眩しいな……ははは、なんて」
空々しい言葉もどこ吹く風。
うるうると潤んだ碧眼がこれでも言わんばかりに開かれて、ぽかんと口をあけて俺のことを見つめていた。
いくら日差しを浴びようとも、やっぱり俺は灰になることはないらしい。
「な、な、なんで……」
「さあ、よくわからんけど俺ってそもそも本当に吸血鬼なの?」
腹に巻かれた血でカピカピになった包帯を解けば、傷跡はなくまっさら艶々な肌が顔を覗かせて、シスターはとうとうぶっ倒れてしまった。
「おい、大丈夫かよ?」
「なんで……? どうして……? あの少量の血でそんな回復するはずないのに……」
「まあ治ったものはいいじゃん、万々歳だよ。キスしてくれたおかげか、も……」
その言葉を聞いた瞬間、シスターはぴたりと動きを止めた。
怒りにワナワナと肩を震わせながら、どこからともなくとんでもない分厚さの本を取り出している。
「私のファーストキス、返してくださいよ!」
頭上に振り下ろされた本を甘んじて受けいれる。
まあ、それも、きっと男の子の勤めだろうから。