17歳の冬、告白されて初めて彼女ができた。
それを幼馴染に恐る恐る告げると何やら不思議なポーズをかましたかと思えば時間が巻き戻っていた。
恋人が出来る前まで巻き戻されてとうとう堪忍袋の緒が切れた。
そもそもの話、そんな理不尽が許されてなるものか?
⚫︎
寝取られとは自分のパートナーを第三者に奪われるというスラングであり、BSSは片思いしていた相手を第三者に奪われるというスラングである。
その二つには天と地の差がある。
そもそもの話、告白しないのが悪いのだ。
ありもしない仮定を並べて、自分が先約を入れていたのにとか言い訳を並べたところで、第三者からしてみればどうでも良い。
何故他人の気持ちを慮る必要がある?
そう問われたら返す言葉もない。
猶予は確かにあったはずなのだ、僕の方が先に好きだったのにと言うぐらいなのだから、接触の機会はいくらでもあっただろう。
それでも告白しなかった、それならば自業自得でしかない。
欲しければ先に告白すればいいのに、そうしなかったツケを自分で払うしかないのだ。行動力のある第三者に奪われても、枕をいくら濡らしたとしても仕方ないと諦める他ない。
何も知らない幼馴染は、いつもの様に俺の部屋にやってきて、だらっと二人並んでゲームをしていた。
絶対に言わなければならないこと。
きっとこれを後回しにしたら面倒なことになると分かっていたからこそ、今日この場で全部ぶちまけるしかなかった。
それがどういう結果を引き起こしたとしても。
「言うのが遅れたけれど俺、彼女ができたから」
ごとりとコントローラーを取り落とす音が、やたらと大きく部屋に響いた。
さっきまでの上機嫌はどこへやら驚きのあまり目を見開いて、パクパクと声に出さないまま口を動かしている。たっぷり1分かけてようやく事実を飲み込んだのか、彼女は言った。
「ね、寝取られじゃん……」
「いや寝てねーし、そもそも付き合ってすらねーだろ」
清水 春香は幼馴染。
小学校の頃からの付き合いで、親が共働きでおおよそ家を空けてる都合で俺の家に頻繁に遊びに来ていた。俺の言葉の通りに互いに付き合うこともなく、ここまでやって来て、前に進むことがないまま。
果たして好意を向けられていたのだろうか、このリアクションを見る限りきっと向けられてたんだろうな。
まあでも、覆水盆に返らずではあるのだけれども。
「ちょっと待って、もしかして今はエイプリルフールだったりする?」
「しねーよ」
「はは、病み上がりの私に対して冗談きついって。祐一に彼女ができるはずないじゃん」
彼女は現実を受け止めようとしない。ため息を深くついてコントローラーを取るように促すけれども、彼女は全く動こうとしない。
「一応、一応確認しておきたいんだけど、誰と付き合ったの……?」
「……宇佐美」
ムンクの叫びのような顔を浮かべたと思えば、すぐさまスマホを取り出してどこかへと電話をかけた。
宇佐美という名前は互いに知っている名前であったからこそ、それこそ彼女は春香の友人であるが故に、その名前を聞いてわからないはずがなかった。
つながらなければ良いのに、きっと事実確認を済ませたらより面倒くさいことに巻き込まれるに決まってる。
まあ付き合うことを決めたのは自分だし、自業自得ではあるのだけれども。今明かすと決めたのも自分ではあるのだけれども。
俺にはテレパシーも持ち合わせていないのだから、所詮は神頼みでしかなく、願いが叶うはずもない。
「もしもし瑠夏、ちょっと確認したいことがあるんだけど」、そう話し始めた時点でもう諦めはついていた。
数巡の言葉のラリーを終えて、ふふふという彼女の不穏な笑みが部屋に満ちる。
「よりにもよって、私の親友と付き合うって……?」
「……ああ」
告白されたのは俺ではなく宇佐美の方からではあったのだけれども、言い訳する気はなかった。
だって告白を承諾したのは自分なのだから。
付き合っても良いと思えたのは確かなのだから。
居た堪れない空間で、部屋の取り付けられたエアコンがごおごおと変わらずに温風を吹き出し続けている。
まさに達人の間合い。下手に言葉を発すれば切られると言う圧力に押されて、俺はじっと押し黙り、幼馴染もまたじっと俺のことを睨みつけていた。
無意識にぴくりと人差し指が跳ね上がった瞬間、幼馴染は徐に立ち上がった。振り上げるは右腕、思わず全力で殴られると身構えたものの想定していた衝撃は一向にやってこない。
恐る恐る腕の隙間から様子を伺うと、彼女は人差し指を天井へ突き上げていた。脳裏に微かに引っかかるなんとなく既視感のあるポーズ、何をするつもりかと固唾を飲んで彼女を見守っていると。
「時間よ、巻き戻れーッ!」
理解不能な戯言。けれども彼女がそう叫ぶや否やすぐに異変は訪れていた。天地を逆さまにひっくり返る様な感覚に、思わず絨毯に這いつくばる。ちゃんと床を感じているはずなのに重力を感じられない。
俺はそんな有様なのに彼女は問題ないのだろうか。視線だけ向けて様子を伺えば相変わらず部屋の中央で指を掲げて、ぎゅっと目を閉じている。
なんだよこれ。
そう口を開こうとした瞬間、ジェットコースターが落下を始めるような浮遊感に襲われて。
⚫︎
薄闇の向こう側でスマホのアラームが鳴り響いていた。設定していたそれを二つOFFに切り替えて瞼を擦る。
全く眠気が取れていないが、その原因は考えるまでもない。
「……全部夢、か」
変な夢を見た、それもやけに現実味のある夢だった。
一日過ごすごとに塗りつぶしていくカレンダーは、昨日塗りつぶしてから進んでいない。スマホで確認した日付も変わらないから塗り忘れとかはないだろう。
これから辿るであろう一日をなぞる夢。
もしかしたら俺は予知夢を見たのかもしれない、けれども喜ぶ気力は一切なかった。
そんなものを寄越すなら疲労の回復に努めて欲しかった。その夢が理由でか、寝て起きたばかりだというのに疲労もろくに取れていないのだから、全くどうしようもない。
そもそも予知夢を見たところで、何か役に立つ要素があったかといえばNOなのだ。
俺に彼女ができて幼馴染がショックを受ける。今更それを知ったところで何になるというのか。
だからきっとそれは予知夢ではなく、ただの夢。でも、そんな夢を見た理由はなんとなく予想がついた。
きっとほんの少しの罪悪感が俺の胸のうちに眠っているのだ。だからこそ、これから起きることに対する恐怖でそんな夢を見たのだろう。
でも所詮は一過性のもの、これから頻繁に見る夢でもない様な気がした。
きっと大丈夫。
俺もあいつも前へ向かって進めるはずだ。
自分を奮い立たせれば勝手に体が動き始める。
いつものように朝支度をして家を出ると、病み上がりの一週間ぶりに幼馴染が玄関前で待っていた。
「お、おはよう祐一」
「……ああ、おはよう」
マフラーに首を埋もれされつつ、ほんの少しの緊張を携えて。
特に話すこともなく、高校へ向けて歩き始めようとしたけれども、足音がついてこない。
振り返って様子を伺えば、彼女は自分に喝を入れるべく両手で頬をぺちぺちと叩いていた。
その様を見られてることにようやく気づいたのか、げふんと咳を鳴らして「ちょっとだけ時間をもらって良いかな」と彼女は言った。
夢との分岐。朝に見た夢の中では幼馴染がこんなふうに不審な行動をすることも、少しだけ会話の時間を求めることもなかった。
予知夢ではなかったかと落胆することはない、だって所詮は夢なのだから。結局全部自分が想像する範囲でしか進まないのだから、それも当然のこと。
「いいよ」
承諾、ほんの少しの目論見があった。
よっしゃとガッツポーズをしている所に、俺は言葉を差し込んだ。
「それより春香に言わなきゃいけないことがあるんだ」
その言葉を聞くや否や、幼馴染の動きがぴたりと動きが止まった。虫の知らせを受け取ったのだろうか、まるでそこから先に続く言葉がわかってるかのように少し縮こまって見えた。
「お前が一週間寝込んでた間に、俺に彼女が出来たんだ」
返事はなかった。
祝福するわけでもなく、拒絶するわけでもなく、ただただ無の表情を浮かべていた。
ピューと両者の間に木枯らしが吹き荒ぶ。
気が付けば幼馴染は無言であのポーズを取っていた。
夢で見たあの姿、指は天を射抜かんとばかりに真っ直ぐに。
その時、俺はようやくその既視感の正体に気づいたのだ。
「ああ、サタデーナイトフィーバーのあれみたいだな」
「時間よ、巻き戻れーーーッ!!」
そう、トラボルタ。
ツッコミ、絶叫、浮遊感。
⚫︎
布団を蹴飛ばして起き上がる。
アラームが鳴るよりさきにスマホを手に取れば、日付は二週間前を指していた。カレンダーを見れば色塗りが終わってない状態のまっさらな状態。
ああ、そうか。
そういうことなんだろうな。
もう夢だと自分を納得させられない。
間違いなく、時間は巻き戻っているのだろう。
都合2回、もしくはそれ以上の回数、俺に彼女ができる前へとどんどん時間が遡っている。
誰がそれをしているか言うまでもない。
清水 春香は恐らく、任意で時間を巻き戻すことができる。
思わず一笑に付してもおかしくない様なそれを、俺はちゃんと信じていた。実際に経験しているのだから、時間が巻き戻っていることを突きつけられたら信じざるを得ない。
いつものように朝支度を終えて玄関を出れば、彼女はいつものようにそこで待っていた。先手必勝、挨拶もさておいて幼馴染が何か言うより先に俺は口を開いた。
「三度目はないからな」
「へ?」
「だから。三度目はないって言ってるんだ」
「……祐一が何を言ってるのか、私にはちょっとわからないんだけど」
そう言葉を濁しながらも、目が泳いでいた。
やっぱりそうなのだろう、ここでしらばっくれることが出来ないと言うことは俺の予想はやっぱり正鵠を射抜いているのだろう。
「俺は、お前が何をやってるかちゃんと覚えてるぞ」
「嘘でしょ、だって覚えていられるはずないもの」
「そこまで疑うならモノマネしてやろうか、こうやってな」
人差し指を空に掲げるのを見た瞬間、幼馴染の顔が真っ赤になって、すぐさま真っ青になった。
それで全部終わり。あ、とかう、とかいう言葉を漏らすばかりで、言い訳もしないのだから会話にもならない。
いつもと違って静かな通学路。
いつものように隣を歩くわけでもなく少し後ろを歩いてくるけれども、互いに何も話すことはないまま。
⚫︎
「日比野、お前のことを呼んでる奴がいるぞ」
俺の事を呼び出す奴は二人ぐらいしか心当たりがない。片方が喧嘩中である事を踏まえれば必然的に候補は絞られる。教室の前方ドアを見れば、前に告白してきた彼女が俺の事を手招きしていた。
「なんの要件で?」
予想はついていた。
タイミングは少し遅れているけれども、なぞるように同じ日々を送っているのだから何がこれから起こるかはわかるはずなのだ。
けれども真っ先に飛んできた質問はほんの少しだけ予想をずれたものだった。
「ねえ日比野君、春香ちゃんと喧嘩した?」
「なんも、なんもしてないよ」
「本当に?」
きゅっと宇佐美の目が細まる。
何があったかなんて知らないはずなのだ。だって幼馴染が自分のやった事を、彼女に打ち明けることが出来るはずがないのだから。
それでも、俺と違って彼女達は同クラスであるから、何らかの異変を感じ取ったのかもしれない。
「今、春香ちゃんは熱を出して寝込んでるんだってね」
「ああ、馬鹿は風邪ひかないって言うけどそうでもないらしいな」
「でさ、日比野君は見舞いに行ってあげた?」
首を横に振る、この状況で行けるはずもない。
前のインフルエンザで寝込んでた時は、彼女が出来たと打ち明けるのを後回しにするために行かなかったから都合二連続で行っていない。
「なら、行ってあげなよ。きっと春香ちゃんも日比野君が来るのを待ってるんじゃない?」
「あいつが俺の事を待ってるわけないって」
「本気で言ってる?」
お手上げだ。彼女の冷たい目で睨みつけられれば、しらばっくれることもできない。
きっと見舞いに行けば喜ぶのだろう。
問題は唯一、互いにあまりに気まずい状況だというだけ。
「喧嘩をしてるから行きずらいっていうなら仕方ないって飲み込んであげるけど、でも日比野君は喧嘩してないんでしょう?」
「してない、してないけど。宇佐美はそれで良いのか?」
それは、敵に塩を贈るような振る舞い。
ちゃんとわかっている、恋心が昨日今日で降って湧くようなものではないのだ。
それでも何でもないことのように、彼女は俺の言葉を切って捨てた。
「だって、私が手を下すまでもなく立ち枯れしてるような相手に戦いを挑んでもつまらないもの」
「酷い言い様だな」
「だってそうでしょ」
会話はそれで終わりとばかりに切り上げて、ふと思い出したよう振り返って彼女は言った。
「日比野君、春香ちゃんがなんでもできた頃のことを覚えている?」
「覚えてるよ、当然。ってか宇佐美はその頃のことを知ってるのか」
「まあ、ね。その頃は遠くから眺めてるだけだったけど春香ちゃんは良くも悪くも目立ってたから」
ふ、と思わず笑いが漏れる。
懐かしい話、今となっては小学校の頃の思い出を掘り起こすやつもいない。
昔は、幼馴染もあんなじゃなかった。
触れるものみな切り付けるような、そんなツンツンとした奴だった。
⚫︎
自宅から徒歩1分ほど、マンションの4階が幼馴染の家。
4、0、3と部屋番号をコールして、少し待てば反応があった。
『はーい…』
「見舞いに来たぞ、お土産もあるぞ」
気まずい沈黙。
門前払いを喰らうかと思いきや、最後の最後に『開けた』とだけ告げて通話が切れる。
自動ドアを抜けてエレベーターを上がれば、通路の先で半開きの扉。そんな事をしたら冷気が部屋に入るだろうに、幼馴染は俺が来るのをじっと待っていた。
「元気にしてるか?」
「……この顔見て、私が元気に見える?」
額には冷えピタ、顔も熱のせいか上気して赤く染まっている。黙って首を横にふれば無駄に喋らせないでよと愚痴を吐き捨てた。
まあでも、来てくれたのは嬉しいけどさ。そうモゴモゴと呟くのもちゃんと耳に届いている。
「……で、今日は怒りにきたんじゃ、ないよね」
「な訳、さっき言った通りだよ」
「それなら、ここで立ち話もなんだし上がってく?」
てっきり、お土産を渡してそれで終わりだと思ってた。
冷静に考えれば、俺と幼馴染に何の決着も付いていないのだ。これからどうするのか、少なくともあの不思議な力をどうするのか蹴りをつける必要はあるだろう。
「ちょっと部屋片付けるから、そこで待ってて」
「ああ」
相変わらずがらんとしたリビング。昔から一緒に遊ぶことは多かったけれども、概ねその舞台は俺の家だった。
手に下げたビニール袋、その内訳はゼリーにプリンに、ヨーグルト。一応一通り買ってきたけれども、今から一気に食べることはないだろう。
ポイポイとゼリーを除いて冷蔵庫にしまい込んで、相変わらず貧相な冷蔵庫の中身に呆れ果てる。
まあでも、仕方ないのだろう。
だって昔からそういう家なのだから。
一瞬目についたゴミ袋は冷凍パスタのゴミ袋が目についた。
「来ていいよー」
声だけ飛んできて幼馴染の部屋に入れば、彼女はベッドの上で雛人形のように布団にくるまっていた。
「とりあえず果物ゼリー、他のやつは冷蔵庫に閉まってるから」
「わざわざ悪いね。本当はもう経験したから、同じ轍は踏まないと思ってたんだけどね」
「知ってれば回避できるのか?」
「基本的にはね、手洗いうがいを徹底していればかわすことはできるんだけど」
会話はそれ以上続かずに、彼女はゼリーを食べ始めた。
手繰るスプーンのスピードもゆっくりで、数口食べて食欲も無くなったのか、食いさしのまま脇の台に乗せてまた横になった。
「ねえ、もう瑠夏に告白された?」
「されてないよ」
同じイベントをなぞるように辿れているのか、俺にはわからない。でも俺にはわからない何かがきっと変わってしまったのだ。
だから、まだ告白されていない。前何かボタンを掛け違えたせいで、告白されるルートからとっくに逸れてしまったのかもしれない。
「瑠夏って可愛いよね。うん、祐一と付き合ったら結構お似合いだと思うな」
自分を納得させるように頷いているけれど、俺は何のリアクションも返せない。
肯定するのが正解なのか、否定するのが正解なのか。
気が付けば彼女はポロポロと涙を溢していた。
「……ごめんなさい」
「別に、もう怒っちゃいないよ」
俺は本当に何とも思ってないのだろうか?
咄嗟に出た言葉に自問自答。
多分、きっと、もう怒っちゃいないはずだ。
結局、俺は人の選択を踏み躙ったとか高尚なことを言える立場にない。俺に告白してきた宇佐美はそのことを一ミリも覚えちゃいないし、ただ、あり得た未来を突きつけられて、こういうルートもありましたよと提示されただけなのだから
俺が許せばいい。
俺が許すだけでいいのならば、いくらでも許すだろう。
「でもさ、俺に彼女ができるたびにそれを使うのはルール違反だろ。もしかして俺が覚えてないだけで何回も巻き戻ってたりする訳?」
「そんな事ないよ、今まで祐一がモテなかったのはただの自業自得」
「これから先、戻す予定は?」
「約束を守ってくれるなら、ずっと昔の約束を守ってくれるなら私はもう何もしない。祐一が誰と付き合おうが構わない」
ずっと昔の約束、そんなの何かあったっけ。
全く思い出せない、代わりに全部覚えてますよ風な仏頂面を保っていると、何かを察したのか部屋の温度が少し下がったような気がした。
「まさか忘れてるなんて事はないよね……?」
「ちょっと待って、今思い出そうとしてるから」
「ほんともう、あり得ないんだけど」
先ほどの涙はどこへやら、頬を膨らませてプンスコと私怒ってますと自己主張していた。
いや、あり得ないのは俺に彼女ができるのを回避するためだけに時間すら戻したほうだろ、そう突っ込みたいのをグッと堪える。
「ねえ祐一、本当に覚えてないの?」
そう尋ねられるけれども、やっぱり思い出せない。
「いや! ヒントをくれ、なんかきっかけがあれば思い出せるから」
「ほんともう、仕方ないなぁ……じゃあ、ヒントは公園のジャングルジム」
その一言で十分だった。
ぱちっとパズルのピースがハマったような気がした。
「あっ」と思わず声が上がる。
そうだ、あのポーズの既視感の正体はこれか。
俺はあれをずっと昔に見たことがあった。今よりずっと前、小学校の頃に、確かにそれを見ていたのだ。
「あの時、祐一は私とずっと一緒にいてくれるって約束してくれたでしょう?」
⚪︎
クリームシチューを作るのに牛乳を買ってきてと言われて、低脂肪乳を買ってきた俺を誰が責められるというのか。
これじゃないと突き返されて、今度こそちゃんと正しいものを買うべく、俺は悴んだ手を吐息で温めつつゆっくりと歩いていた。
冬の澄んだ空気に星は今日も変わらず瞬いている。月が見えないのも相待って、今日は一段と冴えた夜空だった。
途中に通りかかった公園はすっかり日も暮れたのも相待って、もう誰も居やしない。時たま素振りをする野球少年がいる時もあるけれど、この寒さのせいか、その姿も見えなかった。
そのまま、何事もなかったかなように通り過ぎようとして、たまたまそれに目に付いた。
誰もいないかと思われた公園に人がいるのだ。ジャングルジムの上、もこもこと防寒着を着込んだ小柄な人影がそこにあった。
ここから見えるのは後ろ姿だけではあったけれども、そいつが誰かはすぐに分かった。そう、彼女は同じクラスメートであったし、そこそこの有名人であったから。
「何黄昏てるんだよ清水、0点取ったからって家に帰れないってか?」
雲ひとつない夜空に指を掲げるのをやめて、彼女はゆっくりと視線をこちらに向けた。
「ああ、祐一か」
「そ、祐一」
下の名前で呼ばれるような仲だっけと思いつつ、遊具によじ登る。この程度の高さじゃ見えるものも何にも変わらないけれども、せめて隣に居られるように。
「あの小テスト、なんでああした?」
「そりゃ、わざとに決まってるじゃん」
「その理由を聞いてるんだけど」
今日の授業で出された算数の小テスト、漢字の小テスト、それらを彼女は全部白紙で出したのだ。
授業が終わるなり一人呼び出された理由はその時はわからなかったけれども、互いに採点しあった生徒があっさりとバラしたからクラスでは周知の事実になっていた。
理由はわからない、でも突然何もわからなくなったなんてことはない。
そもそもの話、彼女は優秀なのだから。
ずっと同じクラスという腐れ縁で側から眺めているからこそ、俺はその事をよく知っている。ほんの少し協調性は欠けているけれども、後に残る勉強の成績というものに関しては全く手を抜くことはなく、先生から良く褒められていた。
だからこそ、今日のようなことは珍しかった。
わざと出なければ起こり得ないこと。でも、その理由を誰もしらない。彼女には友人がいないから、その原因を探る相手もいない。
俺ですら彼女とは友人とは言い難いのだ。
小学校に入学した時から続くずっと同じクラスという腐れ縁。関わりはほとんどないけれども、伸ばそうと思えばずっと手の届く範囲のいる、そんな相手。
「相談ぐらいなら乗らないこともない、俺が解決できるかどうかわからないけど」
「そこは全部自分が解決して見せるって見栄を張るところじゃない?」
「弁えてるんだよ、ちゃんと自分の実力を」
くすりと微笑んで、彼女は夜空を見上げた。
「なんかね、私全部疲れちゃったんだ」
「……そっか」
なんとも言えない、扱いに困る。
休めばいいとも、気合いが足りないとも言えない。だって、彼女がなんのために頑張ってるのかもわからないのだから。
言葉をそこう選びあぐんでいるうちに、彼女はさっきと同じように空に指を掲げた。
「あれがオリオン座、肩の部分のペテルギウスを基準に三角形を作ってあれがこいぬ座で、それがおおいぬ座」
つらつらと星を並べるのを見て、思わず拍手を送る。
「よく知ってるんじゃん」
「大したことないよ。そもそも祐一も分かってるでしょ、この覚え方は君に全部教えてもらったんだから」
「え、そうだっけ?」
確かに俺は分かっていたけれども、清水に教えた記憶はなかった。記憶の引き出しを片っ端から漁るけれどもどうしても思い出せない。
うーんと唸っていると「私の思い違いかも」と彼女は言った。
「いや、どう考えても清水の方が記憶力はいいんだから。きっと俺の方が忘れちゃっただけなんだろうな」
「そうかなぁ」
「そうだよ。あーあ、ちゃんと覚えておけば恩を売る機会だったのに」
冗談めかしてそう言えば、やっと彼女がふっと笑う。
けれども寂しげな、どこか影のある笑みで。
「全部、私が悪いんだ」
「……何が?」
「祐一がなんも覚えてないこと」
責任を背負いすぎだろと思ったけれども、彼女はその言葉をちゃんと信じ込んでいるようだった。
きっと、俺が何を言おうとなにも揺るがないのだ。今まで俺が言った言葉全てが何も届いちゃいないような気がした。
ブルリと身が震えたのは寒さか、それともおそれからだったか。ただ酷く寒かった。彼女はこんな場所にずっと居て寒くないのだろうか?
「というか、早く帰ろうよ。ずっとこんな場所に居たら親が心配するぞ」
「大丈夫、今日は家に誰もいないから。誰も心配しないし誰も怒らない」
「満点を取ろうとあの人は褒めてくれないし、0点を取ろうとあの人は興味がない、だから私がここに居ても問題ないの」
その言葉を否定できるだろうか。
それは果たして否定していいものだろうか。
わからない。でも、なんもわからないまま建前だけで否定してしまえば、きっと逆鱗に触れるような気がした。
結局、頼れるのは自分だけ。
分かってるのは俺のことだけなのだから。
「少なくとも、俺は心配だよ」
「私と祐一は他人なのに?」
「一応、幼馴染っていう関係には当たると思うんだけど」
鳩が豆鉄砲を食ったようにパチクリと瞬きをして、けれどもその言葉選びは一応正解の選択だったらしい。
ふふふと上機嫌に微笑んで、「幼馴染、そっか祐一は私の幼馴染か」と歌うように呟いていた。
「そっか、そうだよね、それなら」
彼女は逃げられないように、俺の瞳を覗き込んでくる。
「ねえ、祐一は私にどうして欲しい? 私にどうなって欲しい?」
なんとなく、ここがターニングポイントのような気がした。
でも、どうして俺がこんな選択を委ねられてるんだろう。彼女にそれを尋ねれば、だって君は私の幼馴染じゃないという答えが帰ってくるのだろうけれども、幼馴染だとしてもそんな重責を科されることはあるのだろうか。
少し考えても、やっぱり答えは出ないまま。
「そんなの、俺が決めることじゃないだろ」
「……そっか」
ほんの少しの落胆、それを見て慌てて俺は口を開いた。
「全部清水のやりたいようにやればいいよ、お前がどうしようと俺は変わらずここにいるんだから」
「……そう」
俺にできるのはそれぐらい、位置を固定して目印になるぐらい。
その答えに満足したのかはわからないけれども、彼女はようやくジャングルジムを降り始めた。
空を見上げる、相変わらず星は鮮やかに瞬いている。
白い吐息が風にかき消されて、その風に乗って彼女の声が聞こえたような気がした。
「なら、私とずっと一緒にいてくれるよね?」
その言葉が本当にあったのか、俺にはわからない。
慌てて視線を戻せば公園の入り口から出ていく彼女の後ろ姿があるばかりで、慌てて追いかけて尋ねることもしなかった。
でも、きっと、明日から何かが変わるような気がしたのだ。
⚫︎
「……約束してなくね?」
「したっ! 絶対にしたもん!!」
布団に丸まってくぐもった声だけが聞こえてくる。
ああ、そうか。
あの時も時間を戻そうとしていたのか。
「私ね、本当は時間を好き勝手に戻すことができるんだ」
「知ってるよ、もう」
「なんでもできるんだ、全部自分の都合のいい様にやることができる。失敗したと思えばすぐに巻き戻してやり直して、都合がいい結果を引くまで何度もやり直せばよかった」
時間を巻き戻せる、なんでもありだなと思う。
どうしてそんな力を得たのかもわからないけれど、食らって記憶を引き継いでる身からすれば信じざるを得ない。
「でも、小学校の時でそれを使うのはやめた。もうずっと使わなかったんだ、それだけは信じて欲しいんだ」
「……信じるよ。だってお前、使ってるにしては成績悪すぎるもん」
「なんかムカつくなぁ、あーもうなんでバレたんだろ」
きっと同じ場に居合わせたからな気がしたけれども、試さなければわからない。そして彼女はもう時間を戻さない、そんな気がした。
「時間を戻してさ、私が持ってる記憶をみんなは持ってなかった時にようやく気づいたんだ。それって何が意味あるのかなって、一人だけズルをした結果、他人と同じ時間を過ごせなくなるのならそれは本当に意味あることなのかな?」
だから、やめたの。
彼女はそう呟いた。
「そもそも使う意味もなくなってた。だって、私がどうなろうと変わらずに隣にいてくれるって約束してくれたから。祐一は等身大の私であろうとなんも変わらないって保証してくれたから」
それは、確かにそうだろう。
「俺はかわらないよ、何も」
「それさえ分かってれば、私は十分だから」
それで十分、本当に?
「なんか疲れちゃったな。私、もう寝るからさっさと帰ってよ」
しっしと手で追い払う仕草をみせてきて。
ほんの少しだけむかっときた。
自分の言いたいことだけぶちまけて、それで終わりだと?
「……だから他人に取られるんだよ」
「はぁ?」
きっとそれは言わなくてもいいこと。
でも、ほんの少し背中を押すだけならきっと。
「ずっと隣に居てほしいならその為に一歩踏み出せよ。だから負けるんだよ、お前は」
「はああああああああ!?」
ガバリとベットから起き上がる。
怒りを携えて。でも、そう、それでいい。
そんなしおらしい姿はお前には似合わないんだから。
やりたい様にみんなを振り回せばいいんだから。
「私は、ずっと祐一が告白してくるの待ってたの! 振られるのが怖くて日和って逃げてたのはあんたでしょーが!!」
「で、負けたと」
「負けてない! 今はまだ、負けてない!」
ツカツカと歩み寄ってきて、彼女は俺の胸ぐらを掴んで言うのだ。
「耳をかっぽじってよく聞きなさい!」
「叫ばなくても、俺はちゃんと聞こえてるよ」
唾を飲み込んで意を決して。
「私は、ずっとずっと前から」
「祐一のことが大好きなんだから!」
⚫︎
最終的な結論。
インフルエンザにかかった病人の家にマスクなしで行くのは馬鹿のやることだ。
馬鹿は風邪をひかないようにと言うのは迷信である以上、至極当然の摂理として俺は39℃超えの熱を出して無事にノックアウト。
『見舞いに行くから』
そう幼馴染からメッセージを送られてのが数分前。
俺は『感染るからいらん』と返したけれども時既に遅し、インターホンが階下で鳴り響いていた。
部屋の窓ガラスを開ければ、勢いよく冷たい空気が流れ込んできて、汗ばんだスウェットを急速に冷やしていく。
いらねーから帰れ!
そう叫ぶつもりだったのに幼馴染の隣にもう一人人影を見つけて、辛うじて踏みとどまる。
彼女達は俺を見上げてにこやかに手を振っているけれども、これから何が起こるか、どんな修羅場に俺を巻き込もうとしたのか、容易に想像がついてしまった。
母親が玄関を開けて、それに乗じて彼女達が家に上がり込んでくるのを見下ろしながら、俺はふと思い立って人差し指を天井に向けた。
「時間よ、巻き戻れー……ってな」
何も起こる筈がない、俺はここから逃げようがない。
ドタドタと駆け上がってくる足音を聞きながら、俺はいそいそと布団の中へと潜り込んだ。