照り返しのきついコンクリートの階段を上りきると、すり鉢状に開けた球場の熱気が一気に肌を包んだ。
午後の日差しがグラウンドの土を白く焼き、外野の天然芝からは青臭い草の匂いがむせ返るように立ち上っている。銀色のベンチが並ぶスタンドは、平日の午後だというのに二回戦や三回戦とは比べものにならないほどの観客で埋まっていた。
三塁側には、春の県大会準優勝校にして今大会の第二シードである明陵学院の応援団が陣取っている。青いメガホンを揃えた生徒や保護者の大集団がスタンドの半分以上を埋め尽くし、鳴り響く太鼓の重低音と金管楽器の甲高い音が、肌を震わせるほどの圧力となって届いてきた。
対する一塁側の西高スタンドも、授業を終えて駆けつけた生徒や近所の人たちで通路際まで席が埋まりつつあった。俺たちは階段脇の中段、通路から二列ほど入ったベンチになんとか三人分の空きを見つけて腰を下ろした。
「すごい盛況だね、姫宮さん。座る場所を探すだけでも一苦労だったよ」
大原さんが額に浮いた汗をハンカチで押さえながら、持ってきた紙のうちわを差し出してくれた。
「ありがとう、大原さん」
「ほんまやねえ。向こうのブラスバンド、音の圧がすごすぎてお腹の底までびりびり響いてくるわ」
横山さんが肩から提げていた大きな水筒を下ろし、プラスチックのコップに冷たい麦茶を注いで渡してくれた。
「はい、姫宮さんもモモも。じっと座っとるだけでも倒れそうになる暑さやから、今のうちに飲んどき」
「助かるよ、横山さん」
受け取ったコップの底に触れると、結露した冷たい水滴が指先を濡らした。口をつけて喉を潤す。
コップを膝の上に戻して一息つくと、大原さんがうちわの手を止め、心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。
「……ねえ、姫宮さん。お昼休みのとき、いつものタッパーのご飯ほとんど残してたじゃん。どっか悪いの?」
「うちも気になっとったんよ。お昼のタッパー、ブロッコリー一個か二口しか手ぇつけんと蓋閉めてしもとったやろ。どっか痛いん?」
横山さんも眉を下げて顔を寄せてくる。
昨日の夜、城ヶ崎と別れたあとの道端で吐いた感触が喉の奥をかすめた。今朝から腹の底に重い塊が居座っていて、固形物を受けつけそうにない。だが、そんなことを二人に話すわけにはいかなかった。
「ううん、どこも痛くないよ。ただ、ちょっと暑さに当てられたみたいでさ。昨日もグラウンドでずっと陽射しを浴びてたから、軽く夏バテしちゃった。そのせいか弁当が美味しく感じられなくてね」
「無理もないことだけど……やせ我慢はしちゃダメだよ。今日だってこんなに日差しが強いんだからさ」
大原さんが鞄をごそごそと探り、包装された塩飴を一つ取り出して俺の手に握らせてくれた。
「ほら、これだけでも舐めておきなよ。塩分摂らないと危ないんだからね」
「ありがとう。あとで舐めるよ」
飴をスカートのポケットに滑り込ませ、小さく笑ってごまかした。
膝の上で制服のスカートの裾を揃え、静かに視線をグラウンドへと向ける。
フィールドでは両校のシートノックが終わり、審判団がホームベースの周りに整列するところだった。
三塁側ベンチ前で円陣を組む明陵学院の選手たちは、全員が引き締まった体格をしており、ユニフォームの着こなしから歩く姿勢に至るまで隙がない。春の準優勝という実績に裏打ちされた自信が、グラウンドを駆ける足取りの力強さからひしひしと伝わってくる。
対する西高のベンチ前でも、選手たちが声を掛け合って飛び出していった。
甲高いサイレンの音がグラウンドとスタンドを貫くように鳴り響いた。
白線の両側に並んだ選手たちが一斉に頭を下げ、それぞれのポジションへと散っていく。
先攻は西高、後攻が明陵学院。
一回表、西高の攻撃から大一番が幕を開けた。
明陵学院のマウンドへ上がったエースは、長身から投げ下ろす右の本格派だ。ストレートはゆうに百四十キロを超えており、そこから鋭く落ちる低めのフォークが最大の武器だった。
西高の一番打者から三番打者は打ち取られて三者凡退に倒れた。だが、相手の球速に気圧された様子は少しもない。高めに外れる強い直球をじっくりと見送り、球筋を確かめながらの凡退だった。相手の球を打席で見るのは今日が初めてなのだから、一巡目に打ち取られるのは仕方がない。
そして一回裏、西高の守備。背番号一を背負った成瀬先輩がゆっくりとマウンドへ歩みを進めていた。
中一日での先発登板だ。三回戦で九回を一人で投げ抜いた疲労が、たった一日で抜け切るはずがない。だが成瀬先輩の立ち姿には、焦りも重さも見当たらなかった。白いロージンバッグを拾い上げて軽く叩き、白い煙を散らしながら丁寧にプレートの前の土を踏み固めている。
「成瀬先輩、大丈夫かなあ。一昨日の三回戦も最後までずっと一人で投げとったのに」
横山さんが心配そうにグラブを抱える背中を見つめた。
「成瀬先輩は自分のペースをよく知っている人だからね。今日も工夫して投げてくれるはずだよ」
俺は二人にそう語りかけながら、成瀬先輩が初球を投じる動作をじっと見つめた。
相手の明陵学院の打線は、百四十キロを超えるような速球を力強く弾き返すことを得意としている。成瀬先輩の直球は決して速くはない。その代わり、ストライクゾーンの四隅を突く制球力と、打者の手元で小さく曲がるスライダー、低めに沈む球の精度が極めて高い。速い球にタイミングを合わせて振り抜いてくる打線と、芯を外して打たせて取る成瀬先輩の相性は悪くない。
一回裏、明陵の一番打者に対する初球。成瀬先輩は外角低めいっぱいにスライダーを沈めた。打者は甘い球を狙って踏み込んできたが、手元でわずかに外へ逃げる球にバットの先を引っかけ、平凡なセカンドゴロに倒れた。
続く二番打者には内角の厳しいコースへ直球を投げ込み、詰まらせてショートゴロ。三番打者には外角低めの球を見極められてカウントを悪くしたものの、最後はタイミングを外す変化球で打ち取ってサードゴロに仕留めた。
わずか十球足らずでスリーアウト。速い球を待っていた明陵の打者たちは、芯を外され続けた打感に首を傾げながらベンチへと戻っていった。
「すごいじゃん、成瀬先輩! あっという間に終わっちゃったよ!」
大原さんがうちわを叩いて弾んだ声を上げる。
「うん、相手の狙いをうまく外してるね」
俺は小さく頷いてグラウンドを見つめた。
二回表、先頭の四番打者が打席に入ったとき、西高ベンチの狙いがスタンドからも見え始めた。
四番打者は、相手投手が投げ込んでくる高めの強い直球に簡単には手を出さず、ピクリとも動かずに見送った。ゾーンより上の強い真っ直ぐは、振っても空振りかフライにしかならない。リスクをとらずに、甘い球だけを狙いにいく作戦だ。
釣り球を捨てられた相手投手がゾーン内で勝負せざるを得なくなると、四番打者はストライクを取りにくる球を鋭くファウルにして粘り続けた。そしてフルカウントから、ワンバウンドになりそうな低めのフォークを冷静に見送って四球を選ぶ。続く五番、六番、七番打者も低めの落ちる球を見極めてファウルで粘り、一打席ごとに五球、六球と球数を投げさせた。凡退しながらも二回を終えた時点で、明陵のエースはすでに四十球近くを費やしていた。
その裏、成瀬先輩も丁寧な投球で応える。先頭の四番打者にクリーンヒットを許し、五番打者にも四球を与えて無死一・二塁のピンチを背負う。それでも速い球に強い明陵打線に対して、外角低めのスライダーと沈む球を徹底して低めに集めた。六番打者をセカンドゴロ、七番打者をサードゴロ、八番打者をレフトフライに打ち取り、先制を許さない。
試合が動いたのは三回表だった。
先頭の八番打者が右打席に入る。明陵のエースは下位打線相手に球数を減らしたい心理が働いたのだろう、初球、カウントを稼ぎに真ん中寄りのストレートを投げ込んできた。
甘い初球を見逃さない意識が研ぎ澄まされていた八番打者は、迷いなくバットを一閃した。
パシィンッと乾いた金属音が響き、ライナー性の鋭い打球がセカンドの頭上を抜けてライト前へと転がる。ノーアウト一塁。一塁側スタンドから、どっと大きな拍手が湧き起こった。
「打った! 初球から思い切り振っていったよ!」
「ほんまや、迷いがなかったねえ!」
二人が声を弾ませる中、九番打者が打席に入る。相手バッテリーは外角高めに釣り球の速球を投げてきたが、九番打者は微動だにせず見送った。続く低めのフォークも見極め、カウントを悪くしたエースからストレートの四球をもぎ取る。
ノーアウト一・二塁。続く一番打者がきっちりと送りバントを三塁線へ決め、一死二・三塁と好機を広げた。
打席には二番打者が入る。
ツーストライクと追い込まれた二番打者に対し、明陵のエースは緩急をつけようと低めに遅い変化球を投じてきた。
だが二番打者は、前の膝をしっかりと残し、身体が前に突っ込むのをこらえた。引きつけて逆方向へ打球を転がす。打球は三塁手を強襲する内野安打となり、その間に三塁走者が生還して先制点が入った。さらに相手の三塁手が一塁へ悪送球する間に、二塁走者も一気にホームへ滑り込んだ。
続く三番、四番打者は打ち取られたものの、シード校の明陵学院から西高が鮮やかに二点を先制した。二対零。
「二点入った! すごいじゃん西高!」
大原さんが飛び跳ねて手を叩く。横山さんも顔を真っ赤にして拍手を送る。
スタンドが沸き立つ中、俺は静かに膝の上で指を組んでいた。
甘い初球を逃さず、高めの釣り球を見極める。速いストレートのタイミングで待ちながら、手前で落ちる球には前の膝を残してタメを作って食らいつく。普通の県立高校の打線が、春の準優勝校を相手にここまで堂々と渡り合っている。
西高の打者たちは、春から部内のシート打撃や紅白戦で、城ヶ崎の百四十キロ台半ばのストレートを何度も打席で見てきた。その成果が、この大一番で確実に形になっていた。
中盤の試合は締まった攻防が続いた。
三回裏の一死一・二塁のピンチを併殺崩れとサードゴロで切り抜けた成瀬先輩は、四回裏に相手の五番打者の二塁打と進塁打、犠牲フライで一点を返される。二対一。だが後続を落ち着いて内野ゴロに仕留め、同点は許さない。
五回表の西高の攻撃は三者凡退に終わったものの、二巡目に入った打者たちの打席には明らかな変化があった。打者陣の目が相手投手の球筋に合い始め、鋭いファウルで粘る場面が増えていたのだ。一巡目で相手の球筋を見極めたことで目が慣れ、凡退しながらも球数を確実に費やさせていく。五回を終えた時点で明陵のエースの球数は八十球を超え、マウンド上で額の汗を拭う回数が目に見えて増えていた。その裏も成瀬先輩は送りバントで背負った一死二塁のピンチを内野フライとサードゴロで凌ぎ、一点リードを守り切る。
そして迎えた六回表、西高の攻撃だった。
先頭の二番打者が直球をセンター前へ弾き返して出塁する。続く三番打者も高めに外れる強い球を平然と見送り、四球を選んでノーアウト一・二塁。
四番打者が倒れて一死となったところで、五番の堂本キャプテンが打席に入った。
堂本キャプテンはバッターボックスに入ると、足場をならし、ホームベースの白線ぎりぎりまで寄って構えた。ベース寄りに立つことで、ゲッツーを狙って外角低めに集めてくる相手バッテリーの配球をあらかじめ待つ姿勢だ。
相手投手が投じた二球目、外角低めへ逃げるスライダー。
堂本キャプテンはベース寄りにしっかりと踏み込み、長い腕を伸ばしてバットの芯で叩いた。
カキィンッ!
球場全体に突き抜けるような破裂音が響き渡る。打球は一直線に右中間を破り、深い芝生の上を転がっていった。二塁走者と一塁走者が立て続けにホームを踏み、堂本キャプテンは砂煙を上げて二塁ベースへと滑り込む。右中間を破る二点適時二塁打。さらに続く六番打者も浮いてきた変化球をレフト前に弾き返し、二塁から堂本キャプテンが生還して五対一。
その瞬間、三塁側の明陵ベンチから監督が飛び出して審判に投手交代を告げた。
相手のエースが投じた球は、この回ですでに百球を超えていた。
場内に交代のアナウンスが流れると、春の準優勝校のエースが六回途中でマウンドを降りたことに球場全体がざわりと大きく揺れた。バックネット裏の大人たちもどよめき、ざわめきがしばらく収まらない。
「相手のピッチャー、もう代わっちゃうの……?」
大原さんが目を丸くして尋ねてくる。
「うん。みんなが序盤から粘って、球数を投げさせたからね。甘い球以外には手を出さなかった成果だよ」
俺は落ち着いた声で返しながら、グラウンドを見つめた。
派手なホームランを連発したわけじゃない。ゾーンより上の強い直球に手を出さず、低めのフォークを見極め、打席ごとに立ち位置を変えて配球の裏をかいていく。一人ひとりの打者の徹底した粘りの積み重ねが、あのシード校のエースを引きずり降ろしたのだ。
明陵の二番手投手が後続を断ってチェンジとなったが、グラウンドの空気は完全に西高へと傾いていた。
だが、中一日で力投を続けてきた成瀬先輩にも疲労が色濃く出始めていた。
六回裏には連打と内野ゴロの間に一点を返され、五対二。
七回表に西高が明陵の二番手投手の前に三者凡退に倒れると、試合は七回裏を迎えた。
明陵の攻撃は一番打者からだった。先頭に甘く入った球を弾き返されて三遊間を破られ、続く二番打者に初球から送りバントを決められて一死二塁。三塁側の明陵スタンドから、地鳴りのような手拍子とブラスバンドの演奏が轟き始める。成瀬先輩は低めをついて腕を振ったが、三番打者にライト前へ運ばれ、二塁走者が一気にホームへ還ってきた。五対三。
ワンアウト一塁。二点差に詰め寄られ、バッターボックスに向かって四番打者が歩みを進めてくる。
高校生離れした分厚い胸板に、逞しい太もも。春の大会で何本もの本塁打を放っている、大会屈指の右の長距離砲だ。二点本塁打が出れば一気に同点に追いつかれる場面で、三塁側の応援席のボルテージは最高潮に達していた。
ホームベースの前で、堂本キャプテンが右手を高く挙げた。タイムの合図だ。
堂本キャプテンが足早にマウンドへ駆け寄っていく。内野陣が集まり、成瀬先輩を取り囲んだ。
成瀬先輩は帽子を取って額の汗を拭いながら、どこか穏やかな笑みを浮かべて堂本キャプテンにボールを手渡す。堂本キャプテンが成瀬先輩の肩を強く叩き、ベンチに向かって合図を送った。
球場のスピーカーから、涼やかな女性のアナウンスが響き渡る。
ピッチャー、成瀬君に代わりまして、城ヶ崎君。背番号、十。
その瞬間、一塁側スタンドがどよめきに揺れた。
「城ヶ崎君……!? ここで城ヶ崎君が出るの!?」
大原さんがうちわを胸に抱え、目を見開いて立ち上がった。
「うそやろ、こんなとこで投げるん……? ワンアウト一塁で四番バッターやで? ホームラン打たれたら同点に追いつかれてまうやん!」
横山さんも青ざめた顔で両手を握りしめ、グラウンドを見つめている。
だが俺は、立ち上がる二人の間で微動だにしなかった。銀色のベンチの端を指先で強く押さえつけ、ブルペンの方角をじっと見据える。
あいつのフォームは俺が作った。肩の開きも、踏み出す歩幅も、指先の感覚も、すべて俺があいつの身体に刻みつけたものだ。
「大丈夫だよ」
自分の声が、驚くほど静かに響いた。
「……あいつに投球を教えたのは、ボクだからね」
一塁側のブルペンから、背番号十を背負った大きな身体が飛び出してきた。
強い日差しを浴びながらマウンドへ駆け上がっていく城ヶ崎の足取りには、気負いや恐怖による重さなど微塵もない。マウンドで待つ成瀬先輩の前まで来ると、城ヶ崎は立ち止まって深々と頭を下げ、堂本キャプテンからボールを受け取った。成瀬先輩が城ヶ崎の胸元をグラブで軽く小突き、笑顔でベンチへと引き揚げていく。
マウンドの中央に立った城ヶ崎は、大きく息を吸い込み、吐き出した。それからスパイクのつま先で、プレートの前の土を丁寧に均していく。昨日の居残り練習で投げたときの感触を、満員の球場の真ん中で一つひとつなぞるように。
審判から投球練習の合図がかかる。
堂本キャプテンが低く腰を落とし、城ヶ崎がゆっくりとセットポジションに入った。
左足を胸の高さまで引き上げ、太い右足の軸に全体重をしっかりと乗せる。そこから力強く前へ踏み出し、腕を鋭く振り下ろした。
バチィィンッ!
乾いた重い破裂音が、静まり返りかけた球場全体に雷鳴のように響き渡った。
ざわついていた観客席が、水を打ったように静まり返る。バックネット裏の屋根の下に陣取っていたスカウトや他校の偵察部隊の大人たちが、一斉に身を乗り出してグラウンドへ鋭い視線を向けた。
「すごい音……。前よりもっと速くなってない?」
大原さんが息を呑んで呟く。
「うん。足元が安定しているから、無駄な力が抜けているんだよ」
投球練習の五球が終わり、主審が右手を挙げて打者に打席へ入るよう促した。
ワンアウト一塁。打席には明陵の四番打者が仁王立ちしている。右打席の白線の内側に入ると、足元をならし、太いバットをマウンドに向けて掲げた。
俺はスタンドから、その四番打者の姿を凝視した。
打者はバッターボックスの後ろ寄りに立っている。そして、バットのグリップを指一本分、短く握り直していた。
狙いは明白だった。城ヶ崎の武器が百四十キロを超える力強い直球であることは、相手も百も承知だ。打席の後ろに立ってボールを見る時間を少しでも稼ぎ、バットを短く持ってコンパクトに振り抜くことで、速球に振り遅れずに弾き返そうとしているのだ。
マウンドの上の城ヶ崎が、四番打者の足元と手元にじっと視線を落とすのが見えた。
打席の後ろ寄りの立ち位置と、短く握られたグリップ。
城ヶ崎の顎が、わずかに引かれた。
まるで、すべてを理解したかのように。堂本キャプテンがサインを出すより先に、城ヶ崎の中で答えが出ているのが、遠目にもはっきりと見て取れた。
堂本キャプテンがミットを高めに構える。城ヶ崎は迷いなく力強く頷いた。
セットポジションから、左足が鋭く踏み出される。
初球。
唸りを上げて放たれた白球は、四番打者の胸元、ベルトより上の厳しい高めへと突き刺さった。強い直球はスピンで重力に逆らって落ちにくいから、打者が思っているより高いところを通る。四番打者は狙い澄ましてバットを振り抜いたが、わずかに下をこすった打球はバックネットを激しく揺らすファウルとなった。
ストライク。電光掲示板に、百四十六キロの文字が灯る。
「速いっ……!」
スタンドがどよめく中、四番打者は微かに眉をひそめ、足場を固め直した。百四十キロ台半ばの直球をファウルにしたことで、打者の頭の中は速球への対応で埋め尽くされているはずだった。今の一球で、相手はさらに振り遅れを警戒している。
二球目。堂本キャプテンが腰を落とし、太ももの内側でサインを出した。
城ヶ崎が静かに息を吸い、セットポジションに入る。
左足を高く引き上げ、前へ鋭く踏み出す。腕の振りは、初球の百四十六キロの直球と何一つ変わらない。肩の回転も胸の張りも、力強いストレートを投げ込むときの腕の振りそのものだ。
四番打者の目が鋭く光った。同じ腕の振りに、真っ直ぐが来ると確信して踏み込んでくる。豪快なスイングが始動した。
だが、放たれた白球は、指先を離れた瞬間から直球より十五キロほど抑えられた速度で進んでいた。出どころと腕の振りが同じであるため、打者がスイングを開始する手前七メートルあたりまでは直球と同じに見える。だがそこから先、速度が抑えられているぶんだけ重力に引かれ、回転の少なさと相まって低めへと沈んでいった。
四番打者の身体が、前へと大きく泳いだ。
直球のタイミングで振り出された太いバットは、低めに沈む白球の遥か上を薙ぎ払った。豪快な空振り。打者はバランスを崩し、砂煙の中に膝をつきそうになった。ツーストライク。
「えっ……嘘でしょ? ボールが止まったみたいに見えたよ!?」
大原さんが両手で口元を押さえて叫んだ。
「なんなん今の! あんなん打てるわけないやん!」
横山さんも目を丸くしている。
公式戦で初めて投じた、チェンジアップ。腕の振りを緩めず握りで勢いを殺した、手前七メートルまで直球と見分けのつかない球だ。
カウントはツーストライク、ノーボール。四番打者は打席を外し、信じられないものを見るような目で自分のバットを見つめていた。直球のタイミングを狂わされ、頭の中が真っ白になっているのが遠目にも伝わってくる。
そして三球目。
球の速さを変えるだけで打者は打ちにくくなる。前の球からの流れで目を惑わせるのだ。遅いチェンジアップを見せた直後、相手の頭には低めに沈む残像が焼き付いている。
堂本キャプテンが構えたのは、内角高めだった。
城ヶ崎が右腕を振り抜く。放たれた白球は、四番打者の胸元を抉るようにして一直線に突き刺さる。
ズバァァンッ!
四番打者のバットはピクリとも動かない。低めの残像に目を奪われていた打者は、内角高めに唸りを上げて飛び込んできた直球に、見送ることしかできなかった。
「ストライク、バッターアウト!」
主審の右手が鋭く突き上げられた。三球三振。県内屈指のスラッガーを、手玉に取るような配球でねじ伏せたのだ。
「は……」
俺の口から、自然と感嘆の声が漏れていた。教えたことをただなぞっただけじゃない。打者の立ち位置を見て、相手の狙いを察知し、組み立ての流れを自分で理解して投げ切ったのだ。あいつの成長の速さは、俺の想像を遥かに超えている。
喉が渇いていることに気づき、膝の上に置いていたコップを持ち上げて麦茶を一口飲んだ。
ツーアウト一塁。続いて左打席に入ってきたのは、明陵の五番打者だった。
五番打者はネクストバッターズサークルで四番の三振を間近で見ていた。打席に入ると、ホームベースの白線ぎりぎりまで身体を近づけて構えた。外角の球に踏み込んで届かせたいのか、あるいはチェンジアップを警戒して前で捌こうとしているのか。打者の立ち位置の変化は、明らかに城ヶ崎への警戒を示していた。
一発が出れば同点というピンチが続いている。マウンド上の城ヶ崎の肩に、わずかに力みが入ったのが見えた。二者連続三振を取ろうと、無意識に力が入ってしまったのだろう。
城ヶ崎はそれをしっかりと自覚し、自ら右足を後ろに引いてすっとプレートを外した。グラブを胸の前に抱え、目を閉じて深く息を吐き出す。先週教えた、マウンドで頭に血が上りそうになったときに息を深く吐き切るルーティーン。誰に言われるでもなく、あいつは自分の意志で間を取り、強張っていた肩の力をすとんと落としている。
再びプレートを踏み直した城ヶ崎の目元には、研ぎ澄まされた静寂が戻っていた。
初球。外角低めへ糸を引くような直球を投げ込み、見逃しストライク。ベース寄りに立っていた打者はピクリとも動けない。
二球目。低めに沈むチェンジアップを振らせにいくと、四番の残像が頭にある五番打者は踏み込みをためらい、泳がされて空振り。ツーストライク。
あっという間に追い込まれた五番打者は、なおもベースへと踏み込み、内角の球に食らいつこうと構え直した。
そして三球目。
ベース寄りに立っている五番打者に対し、城ヶ崎が選んだのは内角高めへの直球だった。ベースに近づいて立つ打者に対し、懐の厳しいコースを突けば、窮屈になってバットが出なくなる。
城ヶ崎が左足を力強く蹴り出し、右腕を鋭く振り下ろした。放たれた白球は、空気を切り裂く鋭い風切り音とともに、五番打者の内角高めいっぱいへ一直線に突き刺さった。
バチィィンッ!
捕手のミットが乾いた破裂音を響かせる。五番打者は身動き一つ取れず、バットを構えたまま見逃すことしかできなかった。
「ストライク、バッターアウト!」
主審のコールと同時に、バックネット裏の電光掲示板が鮮やかに点灯した。
百四十八キロ。どっと、球場全体を揺るがすような大歓声がスタンドから湧き起こった。
「ひゃ、百四十八キロ……!?!」
大原さんがうちわを取り落としそうになりながら叫んだ。
「一年生やで!? ほんまに一年生なんあの子!?」
横山さんも立ち上がり、興奮のあまり俺の肩を両手で激しく揺さぶってくる。スタンド中が歓声とどよめきで沸騰していた。
俺もその中の一人だ。膝の上に置いた制服のスカートの上で、俺の左手が白くなるほど強く握りしめられていた。爪が手のひらに食い込み、指の関節がきしむほど固く握り込まれている。
俺は小さく息を吐き出し、強張っていた左手の指をゆっくりと解いた。見事な投球を見せつけられて、見ているだけのこちらまで勝手に力んでしまったらしい。
試合の主導権は完全に西高が握っていた。
八回裏、マウンドに上がった城ヶ崎は六番打者を初球ストライクから追い込んで空振り三振。続く七番をチェンジアップでサードゴロ、八番を内野ゴロに仕留め、緩急自在の投球でわずか八球の三者凡退に抑える。
そして最終回の九回裏。城ヶ崎はこの日三イニング目となるマウンドでも球威を落とさず、代打を空振り三振、一番打者を詰まらせてセンターフライ、最後は二番打者を外角低めいっぱいの百四十七キロで見逃し三振に切って取った。
ゲームセット。サイレンが高らかに鳴り響き、五対三で西高が第二シードの明陵学院を破ってベスト十六進出を決めた。
熱狂に包まれるスタンドの中、バックネット裏の屋根の下ではスカウトや他校の偵察部隊の大人たちが一斉にバインダーを開き、ペンを走らせている。七回途中からの救援で無安打五奪三振。城ヶ崎の存在は、今日この瞬間から県内の強豪校からこれまで以上に警戒される存在となったのだ。
「姫宮さん、行こ! 城ヶ崎君たちにおめでとうって言いに行こうよ!」
大原さんが俺の制服の袖を引っ張った。
「そうやね、早く行かへんとバスに乗ってまうわ!」
横山さんも荷物をまとめて通路へと歩き出している。
「うん、行こう」
俺は立ち上がり、スカートの裾を整えて二人の後を追った。
階段を下りて球場の外へ出ると、夏の湿った熱風が身体を包み込んだ。
通路の脇にある木陰のスペースに、試合を終えた西高の部員たちが集まっている。
城ヶ崎は成瀬先輩や堂本キャプテンに頭を小突かれながら、くしゃくしゃの笑顔で何かを話していた。周りの先輩たちもみな誇らしげな顔をして、あいつの広い背中を次々に叩いている。
俺たちが近づいていくと、城ヶ崎がこちらに気づき、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「姫宮! 見ててくれたか!?」
「うん、全部見てたよ。すごいピッチングだったね、城ヶ崎君」
俺が微笑みかけると、城ヶ崎は人懐っこい笑顔を浮かべ、誇らしそうに胸を張った。
「あの四番バッター、打席の後ろに立ってバットを短く持ってたんだ。昨日の居残り練習で姫宮が教えてくれたから、すぐに分かったよ。速い真っ直ぐに振り遅れたくないんだなって。だから初球に高めの真っ直ぐを見せて、チェンジアップを投げて、最後にもう一回真っ直ぐで三振取ったんだ!」
前世の自分が三年間の高校野球の果てにようやく辿り着いた配球の妙味も、マウンドで息を吐く間合いも、あいつはいとも簡単に吸収してしまう。百四十八キロ。前世の俺の自己最速だった百四十九キロまで、あとたったの一キロだった。
「うん。本当にすごかったよ。ボクが教えたこと、もう全部自分でできちゃってるね。満点以上のピッチングだよ」
城ヶ崎は照れくさそうに頭を掻き、白い歯を見せて笑う。
「へへ、全部姫宮が教えてくれたおかげだよ。明後日の五回戦も、俺、また抑えてみせるからな!」
「あはは。城ヶ崎君なら、もうボクがあれこれ言わなくても大丈夫そうだね」
「おいおい、あんまり一年坊を調子に乗らせないでくれよ」
後ろから歩いてきた堂本キャプテンが、城ヶ崎の頭を大きな手でぽんと叩いた。それから俺に向き直り、引き締まった表情で頭を下げてくる。
「姫宮さん。昨日の練習、本当に助かった。打者陣が相手投手の高めの釣り球を捨てて球数を投げさせたおかげで、相手のエースを六回途中で引きずり降ろせたんだ。それに城ヶ崎もあのピンチで動じずにチェンジアップを投げ切れた。全部、姫宮さんの指導のおかげだ」
「そんなことないですよ。実際に打席で結果を出して、マウンドで投げたのは皆さんですから。ボクはただ、知っていることを話しただけです」
「いや、姫宮さんのアドバイスは本物だ。いつもありがとう、これからも力を貸してほしい」
堂本キャプテンが白い歯を見せて笑い、部員たちの輪へと戻っていった。
「西高、本当に勝っちゃったね!」
大原さんが弾んだ声でこちらの顔を覗き込んできた。
「あたしたちもお祝いしたいけど……姫宮さん、お昼全然食べてなかったし、ファミレスとかは重いよね。駅前のカフェで冷たいジュース飲むくらいならどう? ゼリーとか、さっぱりしたデザートもあるしさ」
「そうやね。冷たいミックスジュースとかやったら喉通るんちゃう? 涼しいとこでちょっと座っていくだけでもええし」
横山さんも気遣うように声をかけてくれた。
二人には悪いが思っていたよりも夏バテの症状が重く、誰かとテーブルを囲む気力は湧いてこない。
「ありがとう、二人とも。でも、今日はまっすぐ帰って横になりたいんだ。せっかく誘ってくれたのにごめんね」
「ううん、無理言ってごめんね。早く帰ってゆっくり休んで。明後日の五回戦も一緒に応援行こうね」
「ほんまやね、しんどい時は休むんが一番や。気ぃつけて帰りや」
二人に手を振って別れを告げ、城ヶ崎や先輩たちにも軽く会釈をして球場の出口へと向かった。
背後から部員たちの弾んだ笑い声と、生ぬるい夏の風が吹き抜けていく。駅へと続く坂道を下りながら、頭の中にはすでに次の試合のことだけが浮かんでいた。
明日は一学期の終業式。そして明後日には、もうベスト八をかけた五回戦が控えている。
帰宅してすぐ、俺は自室の机に向かった。
スクールバッグの底から、使い込んだ古い大学ノートを取り出す。前世の俺が弱小校を甲子園準決勝まで導いた投球理論や配球、身体の使い方を、今世で文字が書けるようになってすぐに書き留めておいた一冊だ。
城ヶ崎はもう、マウンドの上で自分で考えて投げられる。
打者の立ち位置や手元を見て相手の狙いを察知することも、初球からストライクを取って緩急を使い、自分で間を取って息を吐き切ることも覚えた。
フォームの土台ができあがり駆け引きも吸収したあいつに、投手の基礎として新しく教えることはもうほとんど残っていない。
今日の試合内容は、まさに今までの集大成と言えるものだった。
他に俺に教えられることが残っていないか、俺はページをめくりながら思考を巡らせた。