夏の朝の空気は、まだ八時を回ったばかりだというのに重たく湿っている。
すり鉢状に広がるスタンドの階段を降りると、内野の座席はすでに半分以上が埋まっていた。平日の第一試合だというのに、通路を行き交う人の波が途切れる気配はない。通路の隙間からグラウンドを見下ろせば、容赦なく照りつける日差しを浴びて黒土が白く照り返していた。名門校の看板と決勝進出をかけた準決勝を見届けようと、県内各地から観客が詰めかけているのだ。
俺たちは一塁側にある西高の応援席へ進み、中段あたりの席に腰を下ろした。三人並んで座ると、コンクリートの照り返しが膝のあたりをじりじりと炙ってくる。
「ほら二人とも、これ首の後ろに当てとき。朝からこんなに蒸し暑かったら、試合が終わるまでに干からびてまうわ」
横山さんが持参した保冷バッグから、小さなビニール袋を二つ取り出して手渡してきた。中には砕いた氷がぎっしり詰まっていて、薄いビニール越しに冷たさが指先へ染みてくる。
「ありがとう、横山さん。助かるよ」
「うちのぶんもあるから遠慮せんといて。ほらモモも、ぼーっとしてんと首冷やし」
「うん、ありがとヒロ。でも本当に人が多いね。一昨日の準々決勝よりずっと席が埋まってる気がする」
「そら相手が明徳やからな。甲子園の常連やし、見に来る人も桁違いやわ」
氷の袋を首の後ろへ押し当てると、肌の表面からすうっと熱が引いていく。冷気の刺激に首筋を強張らせながら、俺は視線を西高のベンチ前へ向けた。
一塁側のファウルグラウンドで、城ヶ崎と成瀬先輩が向かい合ってキャッチボールを行っていた。
一昨日、桐原学園との死闘で四イニングを救援した城ヶ崎だが、その腕の振りに極端な重さは見当たらない。肩の関節を柔らかく回し、胸を開いて低めへと放る動作は淀みなく滑らかだった。
だが、成瀬先輩のほうはやはり疲労が完全に抜けきってはいないはずだ。一昨日は五回を投げ抜き、六回先頭に三塁打を許して交代するまでに九十八球を投げている。中一日の登板で、肩や腰に張りが残っていないわけがない。それでも成瀬先輩のフォームはいつも通り端正で、球を低めに集める制球の軸は崩れていなかった。
その様子を見ていると、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように重くなる。
昨日の記憶が苦い後悔とともに頭の芯をよぎった。
昨日の早朝、土手道で城ヶ崎と走ったあと、そのまま自室のベッドへ倒れ込んで気絶するように眠ってしまったのだ。
夕方過ぎにようやく目を覚ましたときには、頭の奥が割れるように痛み、起き上がることすらできなかった。机の上に広げたままだったノートには明徳学園の基本データが数行メモされているだけで、肝心の打順ごとの詳細な傾向も相手投手の配球パターンも何も記されていない。
結局昨日は午前中の短い調整練習に顔を出すことすらできず、今朝も新しい対策ノートを堂本キャプテンに渡せないままこのスタンドへやって来てしまっている。
自分が情けなかった。
ベスト四という大舞台を前にして、選手たちは必死に次の戦いに備えていた。それなのに応援する側の俺は一昨晩は眠れず、朝のランニングのあとに倒れ込んで、なにもしてやることができなかったのだ。
桐原学園のような待球作戦をとるチームとは違い、明徳学園は初球から甘い球を逃さず振ってくる強力打線だ。不用意にストライクを取りにいった球を痛打され、序盤から大量失点を喫してしまったらどうするのか。俺が集めていたはずの細かなデータがあれば、防げた失点があるのではないか。そんな焦りが、重い澱のように腹の底に溜まっていた。
「……ねえ、姫宮さん。さっきベンチの横の掲示板が見えたんだけど、今日の先発はやっぱり成瀬先輩なんだね」
大原さんが不安そうに眉を寄せ、俺の顔を覗き込んできた。
「うん。成瀬先輩が先発して、中盤から終盤の勝負どころで城ヶ崎君が後ろを締める継投だよ。一昨日の球数を考えれば、二人でイニングを分担するのが一番現実的なんだ」
「成瀬先輩、一昨日もいっぱい投げてたもんね。大丈夫かな……」
「大丈夫だよ。成瀬先輩の持ち味は球速じゃないからね。低めへの制球と、打者の手元で小さく動く球で芯を外す投球術がある。初球からどんどん振ってくる明徳の打線相手なら、その積極性を逆手に取って打たせて取ることができるはずだよ」
俺は努めて落ち着いた声で答えた。
対する三塁側のファウルゾーンでは、明徳学園の選手たちがシートノック前のランニングを整然とこなしていた。濃紺のユニフォームに身を包んだ選手たちの体格は、全員が高校生離れして厚みがある。中でもひときわ目を引くのは、三塁側ベンチの前に立って長いマスコットバットを軽々と振っている右打ちの四番打者だった。
「なあ姫宮さん、あの四番の子見てみいな。あれほんまに高校生か。大学生が一人だけ混じっとるみたいやわ」
横山さんが驚いたように目を丸くし、フェンスの向こうを指差した。
「名門の主砲だからね。県内でも長打力は群を抜いているし、プロのスカウトも注目しているらしいよ」
「うわあ……あんな体格の人がブンブン振ってきたら、成瀬先輩も怖いやろな」
横山さんが肩をすくめる。
そのとき、一塁側ベンチの前で西高のミーティングが始まった。
選手たちが円陣を組み、中央に立つ堂本キャプテンが何かを指示している。手元には、見慣れた黒い表紙のファイルが開かれていた。
堂本キャプテンは時折ホワイトボードを指差し、身振りを交えながら野手陣に指示を出している。選手たちは真剣な表情で頷き、誰一人として浮足立った様子はない。
……何を話しているんだろう。
俺が対策を渡せなかったのだから、明徳の細かな打撃傾向については手探りのはずだ。一昨日のミーティングで堂本キャプテンが初球からの積極打法について触れていたとはいえ、具体的なカウントごとの球種選択や、野手のポジショニングまで詰められているのだろうか。
心配が胸をかすめる中、両校のシートノックが終わり、グラウンド整備の手が引いていった。
球審の合図を受け、両校の選手がホームベースを挟んで一列に整列する。乾いた土煙が風に舞い、深々とした礼のあとにベンチへと散っていく。先攻は明徳学園、後攻が県立西高校だ。
守備位置へと散る西高ナインの先頭を切って、成瀬先輩が落ち着いた足取りでマウンドへと上がった。場内に西高の守備位置がアナウンスされる中、堂本キャプテンがホームベース後方で腰を落とし、投球練習の球を心地よい捕球音で受け止める。
明徳の一番打者が左打席に入り、試合開始のサイレンが鳴り響いた。
がっしりとした下半身でゆったりとバットを構え、初球から仕留める気迫を全身から漂わせている。
成瀬先輩は胸の前でグラブを構え、静かに左足を引いた。
一球目。
投じられたのは、外角低めのボールゾーンへと沈む変化球だった。
明徳の一番打者は迷うことなく鋭く踏み込み、強烈なスイングでバットを振り抜いた。乾いた快音が響いたが、低めのボール球を強引に引っ張った打球は、一塁側のファウルグラウンドへ鋭く転がっていく。
ストライクを一つ先行させた成瀬先輩は続く二球目に外角いっぱいのストレートを見せてカウントを稼ぎ、三球目、同じコースから低めに沈む球を振らせてあっさりと空振り三振を奪った。
スタンドから歓声が上がる中、俺は目を見張っていた。
見事な配球だった。初球から振ってくる相手の積極性を利用し、ストライクゾーンの球で勝負するのではなく、ストライクからボールになる低めの球を振らせてカウントを整えている。しかも、一巡目の先頭打者に対して、徹底して外の遠いところを意識させていた。
続く二番打者に対しても、西高バッテリーの意図は明確だった。
初球、内角の厳しいところへ直球を投げ込み、踏み込みを牽制する。打者がのけぞったあとの二球目、今度は外角低めに沈む球を打たせ、引っかけた打球はセカンドの正面への力のないゴロとなった。あっという間にツーアウトだ。
「よしっ、ナイス成瀬先輩! 二人でポンポンってアウト取ったよ!」
大原さんが嬉しそうに拍手を送る。
「成瀬先輩、めっちゃ落ち着いとるやん。相手がブンブン振ってくるの、綺麗にいなしとるわ」
横山さんも感心したように呟いた。
だが、右打席に入った三番打者に対峙すると、球場の空気がわずかに張り詰めた。
小柄だが引き締まった体躯で、前の二人よりもベース寄りに深く構えている。
成瀬先輩の投じた初球、外寄りのまっすぐを三番打者が鋭く捉えた。
キィィンという金属バット特有の鋭い音が響き、打球は猛烈なライナーとなってライト方向を襲った。スタンドの観客が一斉にどよめく。だが、あらかじめ定位置よりも三歩ほどライン寄りに守っていた西高のライトが、素早く回り込んでフェンスの手前で打球をグラブに収めた。スリーアウトチェンジ。
「ひやあ、危なかった……! 抜けたかと思ったわ!」
横山さんが胸に手を当てて息を吐き出す。
俺はベンチへ引き揚げるライトの守備位置を見つめたまま、小さく息を呑んでいた。
いまのライトのポジショニングは偶然ではない。右投手の外寄りの球を強打してくる三番打者の傾向を頭に入れ、堂本キャプテンがライン際を詰めるよう指示していたのだろう。
……堂本先輩たちが、自分たちで位置を指示していたのか。
ベンチ前で迎える堂本キャプテンが、ライトの選手の肩を叩いて何かを言っている。選手たちはお互いに声を掛け合い、実に落ち着いた表情でヘルメットを手に取っていた。
俺がノートを作って渡さなくても、彼らは過去の対戦や自分たちの偵察で集めた情報から、相手打線の特徴をしっかりと頭に入れてグラウンドに立っていたのだろう。
二回の表、マウンドに立つ成瀬先輩の前に、あの右打ちの四番打者が歩み寄ってきた。
打席に入るだけで空気が変わる。太い腕で黒いバットを構え、打席にどっしりと立ち塞がる姿には強い威圧感がある。
成瀬先輩はロージンバッグを指先で叩き、白い煙を散らせてからセットポジションに入った。
堂本キャプテンのミットは、徹底して外角低めのベースぎりぎりに構えられている。
初球。成瀬先輩の右腕が振られ、白球が低めへと滑り込む。
四番打者は初球からフルスイングを仕掛けてきた。風を切る凄まじいスイング音がスタンドまで届く。だが、低めに沈む変化球を捉えきれず、打球は鈍い音を立ててボテボテのサードゴロとなった。サードが落ち着いて処理し、一塁へ送球してワンアウト。
続く五番打者も内角の球で詰まらせてライトフライ、六番打者は緩い変化球でタイミングを外して見逃し三振。
成瀬先輩は、強力打線を相手に二回をパーフェクトに抑えてみせた。
スタンドの熱気は回を追うごとに増していく。
しかし、明徳学園のエースもまた、名門の看板を背負うにふさわしい好投手だった。
長い手足から投げ下ろされる直球は百四十キロ台をコンスタントに記録し、鋭く沈む縦の変化球とのコンビネーションが抜群に冴えている。西高の打者たちはバットの芯を外され、なかなか出塁の糸口を掴めない。
三回を終わってゼロ対ゼロ。息の詰まるような投手戦が続いていた。
「両方とも全然打たれへんな。見てるこっちの心臓が持たへんわ」
「うん、明徳のピッチャーも球がすごく速いね。バットに当てるのも大変そう」
「二人とも落ち着いて。西高の打線も、一巡して相手の球筋に目が慣れてくれば、少しずつ捉えられるようになるはずだから」
俺は二人の緊張をほぐすように言った。
だが、内心では成瀬先輩のスタミナがどこまで持つかが気になっていた。
気温はぐんぐん上昇し、スタンドに座っているだけでも肌がじりじりと焼けるように熱い。炎天下のマウンドで投げ続ける成瀬先輩の白いユニフォームは、すでに胸から背中にかけて汗でびっしょりと濡れていた。投球動作の合間に、肩で息をする仕草がわずかに混じり始めている。
中一日の登板だ。一昨日の疲労が完全に抜けていない体で、強力打線の重圧を受け止めながら投げ続けることが、どれほど過酷か。俺には痛いほどよく分かっていた。
試合が動いたのは、四回の裏だった。
西高の攻撃が一巡し、中軸へと回ってきた場面だ。
先頭の三番打者がセカンドゴロに倒れたあと、四番打者が相手エースの厳しい内角攻めをファウルで粘り、フルカウントから外角低めのボール球を見極めて四球をもぎ取った。
続く打席には、五番の堂本キャプテンが入る。
「キャプテン、頼むよ……! 一本打って!」
大原さんが祈るように両手を合わせた。
一死一塁。相手バッテリーが初球の投球動作に入ると同時に、一塁走者がスタートを切った。エンドランではなく単独のスチールだ。送球がわずかに逸れる間に走者が二塁へ滑り込む。一死二塁。
一打先制の絶好の好機に、明徳のエースはギアを一段上げたように見えた。
外角いっぱいに百四十キロを超える直球を投げ込み、ツーストライクと追い込む。
そして三球目、勝負にきたのはワンバウンドになりそうな鋭い縦のスライダーだった。見逃せば完全にボールになる球だ。だが堂本キャプテンは上体を低く沈め、泥臭く前へ踏み込みながらバットの先を必死に伸ばした。
カツン、という鈍い音が響いた。
完全に泳がされ、体勢を崩されながらもバットの先端に当てた打球は、二塁手の頭上をふらふらと越えていった。
センターの前にポトリと落ちる。
「回った、回ったよ!」
大原さんが叫んだ。
二塁走者は迷うことなく三塁を蹴り、砂煙を上げて本塁へと突入した。センターからの好返球が戻ってきたが、走者のスライディングのほうが一瞬早く、キャッチャーのタッチをかいくぐってホームベースの角を左手で薙ぎ払った。
主審の両手が左右に大きく広がる。セーフ。
一対零。
均衡を破る先制点に、一塁側スタンドが割れんばかりの歓声に包まれた。
「やったあ、先制や! キャプテン打ってくれたで!」
「すごい、本当に打っちゃった……! 堂本キャプテンかっこいい!」
立ち上がって飛び跳ねる二人に合わせて、俺も立ち上がり、手を叩いた。
決して綺麗なヒットではなかった。完璧に外された変化球に、執念だけで食らいついた泥臭い一打だ。だが、あの場面で相手投手が決め球に縦の変化球を使ってくることを見越して、バットの軌道を最後まで残していたからこそ当てられた当たりだった。
一塁ベース上で堂本キャプテンがベンチに向かって力強く拳を突き上げている。ベンチの部員たちも身を乗り出して叫んでいた。
自分たちの手で試合を動かし、名門からリードを奪い取った。
その光景は鮮烈で、眩しい。
だが守る成瀬先輩の疲労は五回、六回と進むにつれて確実にその投球に現れ始めていた。
打順が二巡目、三巡目と回るにつれ、明徳の打者たちは成瀬先輩の動く球の軌道を見極めつつあった。初球のボール球には手を出さなくなり、ストライクゾーンに来る球を狙い澄ましてフルスイングしてくる。
五回表には二死からヒットを許し、六回表には外野フェンス際まで運ばれる大飛球を打たれた。野手の好守に助けられて無失点を保ってはいるものの、投球数はすでに八十球を超え、成瀬先輩の額からは大粒の汗が絶え間なく流れ落ちていた。
そして試合は、終盤の勝負どころである七回表を迎えた。
明徳学園の攻撃は、二番からの好打順だった。
マウンド上の成瀬先輩は、投球の間隔を長めに取って呼吸を整えていた。だが、指先にかかる球威の衰えは隠せなかった。
二番打者に対する初球、内角を狙った直球がわずかに真ん中寄りへ浮いた。
鋭い打球音が球場に響き渡る。強烈なライナーが三遊間を真っ二つに破り、レフト前へと抜けていった。
ノーアウト一塁。
続く打席には、一回にも鋭い当たりを飛ばした三番打者が入る。
バントの構えは一切ない。明徳ベンチは強攻策を選択していた。
成瀬先輩は外角低めへ沈む球を投じたが、打者はそのコースを待っていたように左足を踏み込んできた。
カキィィンッ!
打球は弾丸ライナーとなってライトの頭上を襲った。ライトが懸命に背走したが、フェンスの手前でワンバウンドし、壁を直撃する。
一塁走者は猛然と加速して一気に三塁へ滑り込み、打者走者も危なげなく二塁を陥れた。
無死二・三塁。一打逆転の絶体絶命の危機が、グラウンドに出現していた。
そして、ネクストバッターズサークルから、あの四番打者がゆっくりと打席へ向かって歩き出してくる。
「嘘やん……ノーアウト二塁三塁で、四番……?」
横山さんが青ざめた顔で呟いた。
「成瀬先輩、大丈夫かな……すごく苦しそうだよ……」
大原さんも両手を胸の前で固く握りしめ、震える声を出した。
マウンド上の成瀬先輩は、膝に両手を当てて深く肩を上下させていた。帽子を脱いで腕で額の汗を拭ったその表情には、隠しようのない疲労が張り付いている。中一日でここまで強力打線を零点に抑え込んできたのだ。限界が近いのは誰の目にも明らかだった。
球場全体が重苦しいざわめきに包まれる中、堂本キャプテンが主審にタイムを告げた。
マスクを外し、堂本キャプテンがマウンドへと歩み寄る。内野陣が次々とマウンドへ集まってくる。
そして、一塁側ベンチから伝令が走った直後、球場のスピーカーから静かなアナウンスが流れた。
「西高校、ピッチャーの交代をお知らせいたします。成瀬君に代わりまして、城ヶ崎君。ピッチャー、城ヶ崎君」
その瞬間、西高側のスタンドから割れんばかりの歓声と拍手が湧き起こった。
一塁側のブルペンから、背番号十を背負った大きな人影が飛び出してきた。
城ヶ崎だ。
長い手足を弾ませ、マウンドへ向かって真っ直ぐに駆けてくる。その走る姿には、一昨日に四イニングを投げた疲労の重さは微塵も感じられない。
マウンドで待っていた成瀬先輩は、駆け寄ってきた城ヶ崎の顔を見ると、くしゃりと顔を綻ばせて笑った。そして握っていた白球を、城ヶ崎の胸の真ん中へトンと押し当てた。成瀬先輩の右手が、城ヶ崎の広い肩を力強く叩く。
二言三言と言葉を交わしたあと、成瀬先輩は帽子を取ってスタンドへ一礼し、マウンドを降りていった。
スタンド全体から、その粘り強い力投を称える惜しみない拍手が降り注ぐ。
「城ヶ崎君が出てきた……! でも、ノーアウト二塁三塁で四番なんて、プレッシャー大丈夫かな……」
大原さんが息を呑んでグラウンドを見つめる。
マウンドに上がった城ヶ崎は、ロージンバッグを拾い上げて右手に白い粉を馴染ませた。それから深く息を吐き出し、首をゆっくりと傾けて肩の力を抜いた。ルーティーンの呼吸でリズムを整え、余計な強張りを解いていく。
投球練習を終え、堂本キャプテンが二塁へ鋭い送球を送る。
打席には明徳の四番打者が仁王立ちしていた。
城ヶ崎はセットポジションに入り、軸足である右足にしっかりと体重を乗せて前へ踏み出す。
初球。
城ヶ崎の長い右腕が鋭く振り下ろされた。
バシィィィンッ!
鼓膜を叩くような凄まじい破裂音が球場中に響き渡った。
打席の四番打者は、バットを微動だにできず立ち尽くしていた。外角低め、構えた堂本キャプテンのミットの真ん中に突き刺さる完璧なストレート。
「ストライク!」
主審の甲高いコールが響くと同時に、バックスクリーンの電光掲示板に数字が灯った。
百四十九キロ。
一瞬の静寂ののち、スタンド全体から地鳴りのような怒号に近い歓声が湧き起こった。
「ひゃ、百四十九……!? 嘘やろ、初球からいきなり出たん!?」
「すごい……! 成瀬先輩のあとに見たら、目の錯覚でもっと速く見えるよ!」
横山さんと大原さんが叫び声を上げる。
成瀬先輩の百三十キロ台の球に六回まで目を慣らされてきた明徳の打者たちにとって、大きな球速差を伴って投げ込まれる城ヶ崎の直球は、残像を置き去りにするような鋭さで迫ってきたはずだった。
二球目。城ヶ崎は一切の躊躇なく、今度は内角胸元を突く直球を投げ込んだ。四番打者は慌ててバットを出したが、球威に完全に差し込まれ、打球はバックネットを直撃するファウルとなった。あっという間にツーストライク。
そして三球目。
城ヶ崎の右腕が直球とまったく同じ軌道で力強く振り抜かれた瞬間、四番打者は直球のタイミングを確信したように前へ踏み込んできた。
だが、放たれた球は球速を落として低めへと沈んでいく。チェンジアップだ。
打者は待ちきれずに体を突っ込ませ、完全に体勢を崩されて豪快に空を切った。空振り三振。
四番打者は膝を折りそうになりながら、信じられないものを見る目でマウンドを振り返った。
「やったあ、三振! あの四番を三球三振にした!」
「城ヶ崎君すごい、本当にすごいよ!」
歓喜に沸くスタンドを背に、城ヶ崎は興奮する様子もなく、堂本キャプテンからの返球をグラブに収めた。
ワンアウト。走者は依然として二・三塁に残っている。
続く五番打者に対しても、西高バッテリーの集中力は途切れない。
初球、外角へ投じたチェンジアップを引っかけさせ、打球は力のないセカンドゴロとなった。走者はスタートを切ることができず、二死二・三塁。
そして六番打者。
相手も意地を見せ、低めの直球に食らいついてファウルで粘る。カウントはフルカウントまで持ち込まれた。
七球目。堂本キャプテンが腰を据えて構えたのは、外角低めのぎりぎりのコースだった。
城ヶ崎は大きく頷くと、力強い踏み込みで右腕を振り抜いた。
唸りを上げて放たれた白球が、低めのミットへと吸い込まれる。
バシィンという快音が響き、打者はバットを振ることすらできずに見送った。
「ストライク、バッターアウト!」
審判の右手が力強く突き上げられた。
電光掲示板には、再び百四十九キロの数字が表示されていた。
無死二・三塁の絶体絶命の危機を、城ヶ崎は後続の三打者をわずか十一球で仕留め、無失点で切り抜けたのだ。西高応援席の熱狂は最高潮に達し、生徒たちが見知らぬ同士で肩を叩き合って叫んでいた。
「うそ、本当に抑えちゃった……! ノーアウト二塁三塁だったのに!」
「城ヶ崎君かっこよすぎるわ! うち、鳥肌立って止まらへん!」
大原さんと横山さんが顔を紅潮させて飛び跳ねている。
「……姫宮さん?」
歓声の合間に、隣にいた大原さんが俺の顔を覗き込んできた。
その声に気づいた横山さんも、すぐにこちらへ身を寄せる。
「ちょっと、姫宮さん大丈夫か? なんか顔色が冴えへんで」
「……大丈夫」
俺は深く息を吸い込み、座席の感触を確かめるように腰を落ち着かせた。
大原さんが俺の肩にそっと手を添えて支えてくれる。
「無理しないでね。朝からずっと暑いんだから」
「ありがとう。もう落ち着いたから、大丈夫だよ」
俺が言うと、二人は心配そうに視線を交わしながらも七回裏の攻撃へ向かう西高の打席へと向き直った。大原さんの手が俺の制服の袖を軽く掴んだまま残っていて、その気遣いが申し訳なく胸に染みた。
試合の主導権は、完全に西高へと傾いていた。
七回裏、城ヶ崎の快投に奮い立った打線が明徳のエースに襲いかかる。
二死から四球とヒットで一・二塁の好機を作ると、一番打者が左中間を深々と破る適時二塁打を放った。走者二人が相次いで生還する。
三対零。
勝利を大きく手繰り寄せる決定的な二点が入った。
八回表、マウンドに上がった城ヶ崎はますます勢いに乗っていた。
七番、八番、九番の打者を相手に、低めへの直球とチェンジアップを正確に投げ分け、わずか九球で三者凡退に打ち取った。明徳の打者たちは、手元で勢いを増すような直球を芯で捉えることすらできなくなっていた。
そして九回表。西高の決勝進出まで、あとアウト三つ。
スタンド全体から自然と手拍子が湧き起こる。
上位打線へと返る打順だったが、城ヶ崎の集中力は少しも切れていなかった。
先頭の一番打者を詰まらせてライトフライに打ち取ると、二番打者は外角低めの直球で見逃し三振に仕留めた。
ツーアウト、走者なし。
球場のボルテージは最高潮に達していた。
打席には三番打者。
城ヶ崎は初球、胸元を突く直球でファウルを打たせ、二球目は外角のチェンジアップで空振りを奪った。簡単にツーストライクと追い込む。
そして三球目。
低めに投じられた直球を、明徳の三番打者が必死に当てた。打球は力なく、マウンドの前へと転がる。
城ヶ崎が素早く前へダッシュし、グラブでボールを丁寧にすくい上げた。
一塁手の胸元へ、落ち着いたアンダースローで送球する。
ボールが一塁手のミットに収まり、一塁塁審の右手が勢いよく上がった。アウト。
三対零。
県立西高校の決勝進出が決まった瞬間だった。
「勝った……! 勝ったよ、決勝進出だよ!」
「ほんまに勝ってもうた……! 甲子園まであと一つや!」
スタンドの西高応援席が一斉に爆発した。生徒たちが立ち上がり、抱き合い、涙を流して歓声を上げている。
マウンドでは、ベンチから一番に飛び出してきた成瀬先輩が、城ヶ崎の頭を両手でくしゃくしゃに撫で回していた。城ヶ崎は照れくさそうに笑いながら、成瀬先輩の体をしっかりと抱き止めている。成瀬先輩の目元には、日差しを浴びて光るものがあった。
城ヶ崎が救援した三イニングの球数は、わずか三十四球。
中一日の登板とは思えない、完璧なリリーフだった。
ホームベースを挟んで両校の選手が一列に並び、試合終了を告げるサイレンが真夏の青空いっぱいに鳴り響く。
深々とした礼を交わし、選手たちが泥だらけのユニフォームでスタンドの応援席へ駆け寄ってくる。
最前列に並び、一礼する選手たちに、割れんばかりの拍手と歓声が降り注いだ。
城ヶ崎が一瞬だけ顔を上げ、スタンドの中段にいる俺たちの姿を見つけて、満面の笑みで大きく手を振った。
「城ヶ崎君、ナイスピッチング!」
「決勝も絶対応援行くからなー!」
大原さんと横山さんが身を乗り出して手を振り返している。
俺も二人につられて小さく手を上げた。城ヶ崎は嬉しそうに頷き、堂本キャプテンに背中を押されてベンチ裏へと引き揚げていった。
その背中を見送りながら、俺は胸の奥に冷たい風が吹き抜けていくのを感じていた。
勝った。
名門・明徳学園を相手に完封勝利を収め、甲子園まであと一勝のところまで辿り着いた。
それは間違いなく喜ばしいことで、仲間たちの努力が実を結んだ素晴らしい結果だった。
だが、その勝利の輪の中に、俺の居場所はあっただろうか。
昨日の俺は、頭痛と吐き気でベッドに倒れ込み、明徳対策の資料を完成させることができなかった。相手打線の詳細なデータも、カウントごとの傾向も、何一つ選手たちに手渡せなかったのだ。
それなのに、試合は何の支障もなく進んだ。
堂本キャプテンたちは自分たちで情報を集めて相手の狙いを読み、打順ごとの守備位置を指示して、見事な配球で相手打線を封じ込めた。成瀬先輩は持てる技術を尽くして六回まで無失点に抑え、城ヶ崎は自らの才能と気迫でピンチをねじ伏せたのだ。
俺が夜を徹してノートを作らなくても。
俺が細かな配球や打撃の理屈を事細かに教え込まなくても。
彼らは自分たちの頭で考え、自分たちの足でグラウンドに立ち、自分たちの腕で勝利を掴み取ったのだ。
俺がいなくても彼らはちゃんと成長し、ちゃんと強くなり、名門を倒して決勝へと進んでいく。
「……姫宮さん、やっぱりまだ顔色悪いよ。早く日陰に行こう」
大原さんが心配そうに俺の腕を引き、立ち上がらせてくれた。
「うん。荷物、うちが持ったるから。無理して歩かんといてな」
横山さんが俺のカバンをひょいと肩にかけてくれる。
「ありがとう、二人とも。本当に、もう大丈夫だから」
俺は小さく笑ってみせた。
だが二人は納得した様子もなく、俺の両脇を挟むようにして、ゆっくりとスタンドの階段を上がっていった。
明日は一日だけの休養日だ。
そして明後日、土曜日の決勝戦。第二試合の勝者と、最後の切符を争うことになる。
甲子園まで、あと一つだ。