まだ朝の七時を回ったばかりだというのに、澄んでいたはずの空気はすでに真夏の熱をわずかに孕み始めていた。
明日の決勝戦を控えた今日の予定は、午前中の短いシートノックと内外野の連係確認だけだ。中一日で迎える大一番に向けて体力を温存するため、全体練習は早めに切り上げられることになっていた。
早く目が覚めた俺は早朝に軽く河川敷を走って体をほぐし、家で朝食を済ませてから集合時間よりかなり早く学校へ向かった。
校門へ続く坂道を歩きながら、俺はポケットから二つ折りの携帯電話を取り出した。
早朝に姫宮本人から届いていた短いメールが画面に残っている。
昨日はノートを渡せなくてごめん。今日もまとめられそうにない。
画面を閉じると、胸の奥がぎゅっと小さく締め付けられた。
昨日の準決勝で明徳学園との試合が終わったあと、スタンドから小さく手を上げてくれた姫宮の仕草には、どこか元気がなかった。一昨日の水曜日、早朝の土手で会ったときから肌の血色が失われていて、そのあともずっと体調が戻っていないのだ。
いつも俺のフォームを確かめ、グラウンドの脇から真っ直ぐに見守ってくれていた姫宮が、今も家で休んでいる。その姿を想像するだけで、なんとも言えないもどかしさが込み上げてきた。
携帯電話をポケットにしまい、俺はプレハブの部室棟へと向かった。まだ誰も来ていないはずの静まり返った校舎の脇を通り、一番乗りのつもりで部室のドアノブに手をかけた瞬間、中から低く真剣な話し声が聞こえてきた。
ドアを少し開けて覗き込むと、蛍光灯が灯る薄暗い部屋の奥に、二つの逞しい背中が並んでいる。
堂本キャプテンと成瀬先輩だった。
二人ともすでに練習着に着替えていて、長机の上に置かれた小さなブラウン管テレビデオの画面をじっと見つめていた。映っているのは、昨日の準決勝で俺たちの試合のあとに行われた第二試合、栄成学院の映像だ。偵察に行っていた控え部員が持ち帰ってくれたテープのほか、机の上には手書きのスコアブックやレポート用紙が整然と並べられている。
「……おはようございます」
俺が声をかけると、二人が同時に振り返った。
成瀬先輩がいつもの穏やかな笑顔を浮かべ、手にしたボールを軽く指先で転がした。
「早いね、城ヶ崎。昨日の疲れは残っていないかい?」
「はい、大丈夫です! 一番乗りだと思って来たんですけど……お二人とも、もう来てたんですね」
「昨日の第二試合の栄成のビデオを偵察の連中が届けてくれてな。今日の全体練習で守備の連係を確認する前に、細かいところを成瀬と頭に入れておきたかったんだ」
堂本キャプテンが太い指で机の上の資料をトントンと揃え、ふと顔を上げて俺を見た。
「城ヶ崎。……今日は姫宮さんのノート、もらってきてるか?」
その問いかけに、俺は少し申し訳ない気持ちになりながら首を横に振った。
「いえ……今朝早くに姫宮からメールが来て、今日もまとめられそうにないって言われました。昨日の試合のあとも元気がなかったですし、まだ体調が戻ってないみたいで……ノートは受け取ってないです」
「そうか」
堂本キャプテンは短く息を吐き出し、腕を組んだ。
落胆する様子は微塵もなく、ただ純粋に姫宮の体調を気遣うように、堂本キャプテンは苦笑いを浮かべた。
「そんな体調なのに、昨日はスタンドまで応援に来てくれてたのか……」
「桐原戦のときも、きっとギリギリまで無理してくれていたんだろうしね」
成瀬先輩も静かに頷き、机の上の資料を見つめた。
それから堂本キャプテンが、ぽんと自分の両膝を叩いて立ち上がった。
「しゃあねえ、今回も自分たちでやるか!」
部室の空気を震わせるような、からっとした明るい声だった。
「準決勝の明徳戦だって、俺たちで相手を調べて、打順と配球を頭に叩き込んで勝ったんだ。姫宮さんは野球部のマネージャーでも部員でもねえ、お前の同級生だぞ。桐原戦のときだってそうだが、これまであんなに分厚い調査ノートを作って届けてくれたこと自体が、とんでもねえ善意なんだよ。それを毎試合待ってるのが当たり前だなんて顔してたら、バチが当たるってもんだ」
「堂本の言う通りだよ」
成瀬先輩もパイプ椅子から身を起こし、ホワイトボードの前に立った。
「姫宮さんのノートがあれば、そりゃあ百人力だし、本当に助かるよ。でもね、城ヶ崎。俺たちはただ答えを教えてもらってきたわけじゃないんだ。今まで作ってくれたノートを見れば、相手のどこを観察してどういう情報を整理すればいいのか、そのやり方が全部書いてあった。俺たちは教えてもらった方法で相手を分析するだけでいいんだ」
堂本キャプテンが棚から取り出してきたのは、これまで姫宮が西高のために届けてくれた調査ノートを綴じた黒いファイルだった。
使い込まれて少し角が擦れたファイルの表紙を、キャプテンは慈しむように手のひらで撫でた。
「これがあるから、俺たちはもう手探りじゃねえんだ。姫宮さんが教えてくれた見方を使って、今度は俺たちが自分たちの手で栄成を丸裸にする。自分たちの頭で考え、自分たちの足でグラウンドに立って勝つ。そうやって戦えるチームにならなきゃ、姫宮さんだって安心して俺たちを甲子園へ送り出せねえだろ」
安心して、送り出せる。
その言葉が俺の胸の真ん中に強く響いてきた。
姫宮はいつだって、グラウンドの外側から俺たちを見てくれた。
その姫宮が体調を崩して休んでいる今、俺たちが立ち止まるわけにはいかない。あいつが教えてくれたすべてを総動員して、俺たち自身の力で明日の決勝を勝ち抜くこと。それこそが、姫宮の献身に応える唯一の道なのだ。
「キャプテン、成瀬先輩! 俺も手伝わせてください!」
俺が勢いよく頭を下げると、堂本キャプテンは嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「おう。お前も明日は間違いなく投げるんだからな。栄成の嫌らしい攻め方をしっかり目に焼き付けておけ」
「はい!」
俺はエナメルバッグを部屋の隅に置き、長机の横にあった丸椅子を引き寄せて二人の間に座った。
机の上のテレビデオでは、昨日の栄成学院の準決勝の試合映像が再生されていた。
画面に映る栄成学院のユニフォームは、伝統校らしい飾りのないシンプルな白無地だ。派手なアピールをする選手もおらず、淡々と、けれど淀みない動きでグラウンドを駆け回っている。
「まず、栄成の特徴から整理するぞ」
堂本キャプテンがホワイトボードにマーカーを走らせた。
「昨年の夏の甲子園に出ていて、今年の春の県大会の優勝校だ。チーム全体の完成度がとにかく高い。守備の連係に隙がなくて、走塁と小技を確実に絡めてくる。昨日の映像でも、単打一本で一塁走者が迷わず三塁まで狙っているし、バントやエンドランをきっちり決めて試合を動かしている」
成瀬先輩がスコアブックの記録を指先で追った。
「昨日の明徳みたいに力で振ってくる打線とは違って、甘い球を逃さない一方で、内野の間を抜く当たりやゴロを打って足を活かそうとしてくるね。バントの構えを見せて投手を揺さぶったり、走者を背負わせたあとのプレッシャーのかけ方が本当に上手いチームだよ」
「成瀬、配球はどう組み立てる?」
キャプテンが成瀬先輩に向き直った。
成瀬先輩は手元の投球チャートを見つめながら、静かに息を吸い込んだ。
「明日は俺が先発するけれど、低めへの制球と緩急を丁寧に使うことが一番大事になると思う。相手が足を使って揺さぶってきても、低めにボールを集めてゴロを打たせられれば、あとは内野陣に任せられる。堂本、走者が出たときも焦らず、いつも通り低めのサインを出してほしい。俺も無駄な牽制でリズムを崩さないように投げるよ」
「分かった。走者が出ても俺がしっかり動きを見て送球に備えてやるから、お前は低めへ放ることに集中しろ。内野手への守備のサインも、俺からいつもより早めに出すようにする」
二人のやり取りは落ち着いていて、相手の特徴を捉えた上での確かな手応えが感じられた。
姫宮が残してくれた過去の対戦校ノートには、走者が出たときの打順ごとの動きや、アウトカウントごとの仕掛けが丁寧に整理されている。キャプテンたちはその整理法を真似て、レポート用紙に栄成のイニングごとの攻撃の記録を書き起こしていた。
「城ヶ崎、お前の出番についても話しておくぞ」
堂本キャプテンが視線を俺に向けた。
「成瀬が試合を作って、中盤以降の勝負どころでお前をマウンドに送る。明日はどんな展開になっても、お前が救援で投げることは確実だ。いいな?」
「はい!」
「お前の速い球は、間違いなく相手にとって警戒の的になる。だが速い球を投げようとして力むと、高めに浮いた球を叩かれたり四球で走者を溜めることになるぞ。それに、相手はバントで転がして走者を送ろうとしてくるかもしれない。マウンドに上がったら、一人で全部を片づけようとするな。打球が転がったら内野手も前に出てくる。お前は投げ終わったあとにしっかり前を向いて、落ち着いて打球に反応しろ」
「成瀬先輩のあとを受けるんですから、最初の打者をしっかり抑えたいです」
俺が素直に言うと、成瀬先輩が優しく頷いてくれた。
「そうだね。俺の動く球を見てきたあとだから、城ヶ崎の球威は生きてくるはずだよ。走者の動きを確認したら、あとは恐れずに低めのミットめがけて腕を振ってごらん。キャプテンの構えるミットを信じて投げ込めば大丈夫だから」
「はい! 思い切り腕を振ります!」
堂本キャプテンが頷き、次にテレビデオのリモコンを手に取った。
「さて、守備の次は打撃だ。栄成の左右二枚のピッチャーをどう打つか、映像で確認するぞ」
画面が切り替わり、栄成学院の守備のシーンが映し出された。
マウンドには左投げの投手が立ち、低めにテンポよく球を集めて相手打線を内野ゴロに仕留めている。そして試合の終盤には、右投げの投手がマウンドに上がり、力強い直球を投げ込んでいた。
「左右の二人が控えていて、タイプの違う投手で継投してくるのが栄成の強みだ」
堂本キャプテンが画面を一時停止させながら言った。
「左ピッチャーは低めの出し入れが上手くて、打者が焦って早打ちすると簡単に打ち取られる。そして右ピッチャーは球威があって、ストライクゾーンに来る球に力がある。継投で目先を変えてくるのが相手の狙いだ」
「……姫宮のノートでも、相手ピッチャーがカウントごとに何を投げてくるか、細かく整理されてましたよね」
俺が思い出しながら口を開くと、堂本キャプテンが頷いた。
「ああ。あのノートの付け方にならって、カウント別の球種を洗っていこう。相手がどういう球でカウントを取りにきて、どういう球で勝負してくるか。早いカウントから無理に厳しい低めに手を出さず、カウントを取りにくる球に狙いを絞って、甘く入ったところを逃さず振っていくぞ」
「城ヶ崎、スコアブックをめくって、昨日の栄成のピッチャーが打たれた場面を教えてくれるかい?」
成瀬先輩に言われ、俺は机の上のスコアブックをめくった。
「あ、四回に一本ヒットが出てます。ワンボールから、センター前です」
「よし、その場面を頭出ししろ」
「はい!」
俺がリモコンでテープを頭出しすると、キャプテンと成瀬先輩が食い入るように画面を見つめた。
打者が踏み込み、真ん中寄りに甘く入った球を力強く弾き返す映像が流れる。
「やっぱりな。カウントを取りにくる球は、どんな好投手でも真ん中寄りに入ることがある。そこを迷わず振り抜く準備をしておくんだ。追い込まれたら泥臭く粘って前に転がす。明徳戦で俺が打ったときと同じだ」
キャプテンが用紙に赤ペンで要点を書き込む。
蝉の声が部室のトタン屋根を震わせ始める中、三人の熱気は少しも途切れる気配がなかった。
* * *
昨日の準決勝から帰宅したあと、疲労と胸のつかえで結局一睡もできず、俺は暗い自室の中でそのまま夜を明かしてしまった。
首を振る扇風機の生ぬるい風を受けながら、ベッドの縁に腰を下ろしてぼんやりと自分の指先を見つめる。昨夜、母親が用意してくれた夕食も半分ほど口にしただけで箸が止まってしまい、胃の奥には鉛のような重みが居座っていた。座ったまま息を整えていても、足元の床が少し遠く感じられる。
配達されたばかりの今朝の地元紙の朝刊が机の上に広げられていた。
一面を飾っているのは、昨日の準決勝で勝利を収め、マウンド上で歓喜に沸く西高ナインの写真だ。そしてその横、小さな囲み記事の中に躍る見出しが、鋭く目に飛び込んでくる。
快進撃を支える美少女コーチ。無名の県立高を導く同級生の存在。
その囲み記事の中には、昨日の試合後の城ヶ崎のコメントがそのまま活字になっていた。
春に入学するまで経験のなかった自分がここまで来られたのは同級生の女子生徒のおかげだという、率直な感謝の言葉だ。あいつが感じたままを正直に話しただけなのは分かっている。
だが、その横に並んだ見出しを見つめていると、胸の奥がチリチリと痛んだ。
美少女コーチ。
その言葉が、奇妙な異物のように網膜に焼き付いている。
男として生きていた前世の記憶が、苦い熱を帯びて脳裏をよぎる。
あの頃の俺は自分の右腕でマウンドに立ち、自分の投じた一球で球場を沸かせ、自分の名前で新聞の見出しを飾っていた。あと一歩のところで全国の頂点には届かなかったが、何千球、何万球とボールを投げ込み、肘が壊れるまでマウンドにしがみついていたのはなぜか。誰かに教えるためではなく自分が投げるためだ。
生涯最速百四十九キロ。高校最後の夏に記録したあの数字を、俺は自分のすべてとして胸に刻んで死んだはずだった。
それなのに今や、同じ百四十九キロを高校一年の夏にあっさりと記録した少年の横で、美少女コーチなどという肩書きで活字になっている。
選手としてではなく、グラウンドの外側から才能を支える存在として。
その記事がどれほど好意的なトーンで書かれていようと、どれほど俺の手腕を称賛していようと、それが指し示している現実は一つだけだった。俺はもう二度と、あのマウンドに立つことはできないのだという冷徹な事実だ。
「……っ」
奥歯を強く噛み締め、俺はベッドから立ち上がって机の前の椅子へ腰を下ろした。新聞を無造作に四つ折りに畳んで机の端へ追いやる。
見るべきなのは、そんな過去の残骸ではない。
一昨日の水曜日、ベッドで倒れ込むように眠り込んでしまい、明徳学園の対策ノートを完成させられないまま迎えた昨日の準決勝。俺は何一つ選手たちに手渡せなかったのに、試合は何の支障もなく進んでいた。
堂本キャプテンたちは自分たちで相手を観察して的確に守備位置を指示し、成瀬先輩は打たせて取り、城ヶ崎はピンチをねじ伏せたのだ。俺が夜を徹してノートを作らなくても、彼らは自分たちの判断でグラウンドに立ち、勝利をもぎ取った。
教えた相手が成長し、自立していくのは喜ばしいはずなのに、胸の奥にはどうしても拭えない引っかかりが残っていた。
グラウンドに立てない俺が彼らの力になれるのは、相手の弱点や戦い方を手渡すことだけだ。その役目がなくても勝てるのだとしたら、俺はスタンドで何を見ていればいいのだろう。
机の引き出しから新しい大学ノートと、春からの県大会の記録ファイルを引っ張り出した。ペンを手に取り、最初のページを開く。
指先が白く強張り、ペン軸を握る指にうまく力が入らない。それでも、白い紙面に向かってペン先を落とそうとした。
だが、ペン先は紙に触れる手前で止まったまま、一向に動かなかった。
広げた資料には、春の大会のスコアやこれまでの戦績が並んでいる。打順ごとの出塁傾向や投手の交代記録など、頭の中には断片的な情報があるはずだ。
それなのにどこから手を付ければいいのか、何をどう整理すれば選手たちの役に立つのか、考えがまったくまとまらなかった。数字や文字を目で追おうとしても視線が滑り、思考が霧の奥へ散らばって輪郭を結んでくれない。
ノートの真っ白なページを前にして、インクの一滴すら落とせないまま時間だけが過ぎていく。
ペンを置いた。
カチリと乾いた音が机の上に小さく響く。
最初のページには、題名すら書かれていなかった。白いノートに罫線がただそのまま並んでいるだけだ。
机の隅に置いていた携帯電話を手に取った。
二つ折りの携帯を開き、城ヶ崎のアドレスを呼び出す。
指先でボタンを押し、短い文面を打ち込んでいった。
昨日はノートを渡せなくてごめん。今日もまとめられそうにない。
ただ事実と謝罪だけを残し、送信ボタンを押す。
画面が暗転し、送信完了の文字が一瞬だけ灯って消えた。
携帯電話を畳んで机の上に置くと、椅子から立ち上がった。
重たい体のままベッドへ戻り、掛け布団をめくって身を滑り込ませる。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の天井を薄暗く照らしていた。
遠くで蝉が鳴き始めた。
俺は掛け布団を胸元まで引き上げ、静かに目を閉じた。
今日は何時間そうしていれば、何も考えなくて済むようになれるだろうか。