土曜日の朝、球場の正面広場は早くから異様な熱気に包まれていた。
改札を抜けて球場へ向かう並木道には、制服姿の高校生だけでなく、近隣の住民や高校野球のファンとみられる大人たちが列をなして歩いている。春の県大会を制し、昨夏の甲子園にも出場した栄成学院と、快進撃を続けて決勝の舞台へ勝ち上がってきた県立西高校の対戦だ。昨日の夕刊や今朝の朝刊で大きく取り上げられていたこともあって、当日券を求める窓口には早くから長い折り返しの列ができていた。
並木を抜けたところで横山さんが足を止め、額に浮いた汗をハンカチで押さえながら息を吐き出す。
「うわあ……これ、準決勝よりさらに人多いんちゃう? まだ開門してそんなに経ってへんのに、座れる場所残っとるやろか」
「早く行こ、ヒロ。あたしたち制服だし、西高側のスタンドなら生徒用の席が少しは空いてるはずだよ。姫宮さん、大丈夫? 朝からあんまり喋らないし、歩くのしんどくない?」
大原さんがくるりと振り返り、俺の顔を覗き込んできた。
大原さんは心配そうに眉尻を下げ、こちらの様子をじっと窺っていた。
「大丈夫だよ。少し寝不足なだけだから、気にしないで。席、早く確保しに行こう」
俺は努めて普段通りの口調で返し、二人のあとに続いて内野スタンドの入場ゲートへと向かった。
通学用のカバンを肩にかけ直し、二人に歩調を合わせる。
準決勝の夜は一睡もできなかった。明け方に机の前でペンを握ってはみたものの、頭の芯に鈍い重みが居座って考えがまとまらず、ノートは白紙のまま。
金曜日の朝、「昨日はノートを渡せなくてごめん。今日もまとめられそうにない。」と城ヶ崎へ短いメールを送り、そのまま布団に入った。
カバンのファスナーに触れた指先は、夏の朝の蒸し暑さの中にあるというのに、氷を触っていたかのように冷たくなっていた。胃の底に固い小石を抱えているような不快感が居座り、朝食に口にした一切れのトーストの味が喉の奥に苦く残っている。
一塁側の西高応援スタンドに入ると、すり鉢状の観覧席はすでに半分以上が埋まっていた。吹奏楽部や応援団の生徒たちが楽器の調整や旗の準備を進めており、グラウンドからはパシィンと乾いた捕球音が絶え間なく響いてくる。
俺たちは内野席の中段、バックネット裏に近い通路沿いの席を見つけて腰を下ろした。
「ふう、なんとか座れたわ。日差し、もう照りつけてきとるやん。姫宮さん、これ渡しとくで」
横山さんが保冷バッグから冷えたお茶のペットボトルを取り出し、手元に差し出してくれた。
「ありがとう、横山さん」
「無理して声出さんでもええからな。しんどくなったらすぐ言うんやで。モモも、あんまり姫宮さんを引っ張り回したらあかんよ」
「わかってるってば。あたしだって心配なんだから。でも見て、グラウンド。もう両チームともアップ始めてるよ」
大原さんが座席の前枠に身を乗り出して指差した。
白と濃紺のユニフォームが、黒土の上を鮮やかに駆けている。
三塁側には、白いユニフォームに身を包んだ栄成学院の選手たちがいた。ウォーミングアップのランニング一つ取っても足並みが完全に揃っている。声を張り上げるような派手さはないが、静かで淀みのない所作の端々に、鍛え抜かれた規律が窺えた。
そして一塁側では、成瀬先輩がブルペンの手前で短いダッシュを繰り返していた。
一昨日の準決勝で六回を無失点に抑え、七回先頭から連打を浴びて交代した成瀬先輩は、中一日でまた先発する。足取りに極端な乱れはないものの、太ももを上げる動作の合間に、わずかに重心を確かめるような慎重さが見て取れた。百三十キロ台の直球と低めに沈む変化球を武器にする軟投派にとって、中一日の疲労は制球の生命線である指先の感覚を狂わせる恐れがある。
その少し後方では、城ヶ崎が控えの捕手を座らせて投球練習をしていた。
キャメル色のグラブを胸元に引き込み、長い腕から放たれる白球が、低めの位置で心地よい音を響かせている。黒いスパイクがしっかりと土を噛み、身体の軸が綺麗に直立していた。準決勝で三イニングを投げた影響はほとんど感じられない。
そのとき、一塁側ベンチの前に西高の部員が集まり、円陣が組まれた。
中心に立っているのは、主将で正捕手の堂本キャプテンだ。手にしたバインダーを広げ、ベンチ前のホワイトボードを指差しながら野手陣へ言葉を投げかけている。
野手たちが真剣な面持ちで頷き、セカンドとショートは芝の境目を指差して互いの守備位置を確かめ合っていた。成瀬先輩もキャプテンの隣で腕を組み、静かに頷いている。
……スタンドから見ているだけでも、入念に準備を重ねてきたことが伝わってくる。
声までは聞こえないが、相手の出塁や足技を想定して、細かくポジショニングを詰めているのだろう。グラウンドに立つ選手たちが自分たちの頭で考え、試合に備えている様子が見て取れた。
ノートを渡せなかった申し訳なさと同時に、頼もしく前を向く仲間たちの姿が眩しく映る。
椅子に深く腰掛けているはずなのに、足の裏が地面からわずかに浮き上がっているような、奇妙な浮遊感が背筋を撫でていく。俺は息をゆっくりと吐き出し、胸の前で指を組んだ。
シートノックが終わり、グラウンド整備の手が引いていく。
定刻の午前十時が近づくにつれ、内野席の上段にまで観客が溢れかえり、球場全体を包むざわめきが低く唸るような地鳴りに変わっていった。
両校の選手がホームベースを挟んで整列し、試合開始の長いサイレンが真夏の青空に吸い込まれていく。深々とした礼ののち、選手たちがそれぞれの守備位置へと散っていった。
先攻は栄成学院、後攻が県立西高校。
マウンドへ上がった成瀬先輩は、白い粉が舞うロージンを丁寧に指先へ馴染ませ、胸の前でボールを構えた。背番号一の背中が、照りつける陽光を浴びて引き締まる。
栄成の一番打者が左打席に入った。
下半身がどっしりとしており、バットを指一本分短く持ってベース寄りに立っている。出塁を狙うトップバッターの構えだ。
初球。成瀬先輩の腕が振られ、外角低めへ白球が滑り込む。
ボールから入る慎重な立ち上がりだった。打者はぴくりとも動かず見送る。ワンボール。
続く二球目、成瀬先輩は内角寄りにストレートを投げ込んだ。打者は踏み込んで鋭くバットを振ったが、懐を突かれて詰まらされ、打球は三塁側のファウルゾーンへ切れていく。ワンボール、ワンストライク。
そして三球目、堂本キャプテンが構えた外角低めのスライダーに対し、打者はバットの面を合わせた。
カツンと乾いた音が響き、打球は三遊間へ鋭く転がる。
西高のショートがあらかじめ二歩ほど三塁寄りに守備位置を取っており、素早く回り込んで逆シングルで捕球した。流れるようなステップから一塁へ送球する。アウト。
「うわ、ナイスショート。抜けたと思ったのに」
大原さんが嬉しそうに手を叩く。
「ほんまやね、今の当たりめっちゃ速かったのに、最初からあそこにおったみたいに捕ったわ」
横山さんも感心したように声を上げた。
栄成の一番打者は左打者だが、引っ張るよりも逆方向の三遊間へ強いゴロを転がしてくる打者なのだろう。あのポジショニングは、偵察のデータをもとに堂本キャプテンたちが指示したものに違いなかった。
続く二番打者に対しても、西高バッテリーの組み立ては落ち着いていた。
初球にセーフティバントの構えを見せて揺さぶりをかけてきたが、成瀬先輩は外角高めに外すボール球で動じずに間を取る。低めの球を続けて追い込むと、最後は外角いっぱいに直球を決め、見逃し三振を奪った。
続く三番打者には際どいコースを見極められて四球を許したものの、四番打者を低めに沈む変化球で引っかけさせ、セカンドゴロに仕留めてみせた。
無失点の立ち上がり。ベンチへ引き揚げる成瀬先輩を、部員たちが笑顔で迎え、背中を叩き合う。
一回の裏、西高の攻撃。マウンドに立つ栄成の先発左腕は、大きなテイクバックを取らず、コンパクトな腕の振りからテンポよく低めへ球を投げ込んできた。球速そのものは百三十キロ前後だが、直球とスライダーの腕の振りが似ており、リリースポイントが見えにくい。
西高の一番、二番が手元で芯を外されて連続の内野ゴロに倒れ、三番打者も外角の出し入れに翻弄されて見逃し三振に倒れた。
「相手のピッチャー、球はそこまで速くなさそうに見えるのに、全然打てないね」
大原さんが眉を寄せて呟いた。
「あのピッチャーは球速で勝負するタイプじゃないからね。プレートを踏む位置を工夫して角度をつけているし、低めぎりぎりに集めて打たせて取る技術が高いんだ。甘い球をじっくり待とうとすると、あっという間にストライクを先行されて追い込まれてしまうよ」
二回の表、成瀬先輩は栄成の五番、六番、七番を相手に持ち前の沈む球を低めに集めて三者凡退に仕留めた。
その裏、西高は先頭の四番打者がしぶとくレフト前へ運び、五番の堂本キャプテンが手堅く送って一死二塁の好機を作る。続く六番打者も鋭い当たりを放ったが、栄成のセカンドが横っ飛びで好捕し、飛び出していた二塁走者も戻れず併殺となった。名門の堅守が西高の先制を阻む。
三回の表、栄成の攻撃は八番からだった。
成瀬先輩は八番打者を内野フライに打ち取ったあと、九番打者に粘られてしぶとく一二塁間を破られた。打順が一巡して一番へと返る。
一番打者は初球から積極的に振ってきたが、打球はショート正面のゴロとなり、六四三と渡ってダブルプレーが成立した。バックの好守に助けられ、成瀬先輩はここも無失点で切り抜ける。
その裏、西高も七番が四球を選び、八番が送りバントを決めて一死二塁と攻め立てた。だが、九番が三振に倒れ、一番打者の痛烈なライナーもセンターの正面を突いて得点には至らない。互いの守備陣が集中力を切らさず、序盤の三回を終えてゼロ対ゼロの緊迫した展開が続いた。
試合が動いたのは四回の表だ。
栄成学院の攻撃は二番からだった。
先頭の二番打者が、追い込まれながらも外角の球に食らいつき、三遊間を破るレフト前ヒットで出塁する。ノーアウト一塁。
続く三番打者の打席で、栄成ベンチが動いた。
初球、成瀬先輩が足を上げた瞬間に一塁走者がスタートを切る。単独のスチールだった。堂本キャプテンが素早く立ち上がって二塁へ送球したが、走者の足が一瞬早くベースに滑り込んだ。無死二塁。
栄成の足技はそれだけでは終わらなかった。続く二球目、三番打者が手堅く投前へ送りバントを転がす。成瀬先輩が一塁へ送球する間に、二塁走者は迷うことなく三塁を陥れた。一死三塁。
マウンド上の成瀬先輩の白いユニフォームは、すでに汗でぐっしょりと濡れていた。
グラウンドの照り返しが容赦なく体力を削っていく。中一日での登板による疲労が、回を追うごとにその肩へ重くのしかかっているのは明らかだった。
四番打者の打席、成瀬先輩は外角へボールを外したが、カウントがツーボールとなって苦しくなる。ストライクを取りにいった三球目、真ん中低めに入った直球を、右打者の四番が一塁線へ鋭く流し打った。
ファーストが横っ飛びでグラブを伸ばしたが、打球はその先を掠めてライト前へと抜けていく。三塁走者が悠々とホームを踏んだ。
零対一。春の王者が、鮮やかな小技と機動力で先制点を奪い取った。
続く五番打者を外野フライ、六番打者を外角低めのスライダーで三振に仕留め、成瀬先輩は最少失点で切り抜けた。
そしてその裏、西高が反撃に出た。
二番、三番が低めの変化球に打ち取られて二死となったあと、打席に入った四番打者が相手左腕の内角直球を捉えた。
乾いた打球音が響き、白球は左中間を深々と破るツーベースヒットとなった。二死二塁。
「二塁まで行ったよ。キャプテン、お願い!」
大原さんが身を乗り出す。
打席には五番の堂本キャプテンが入った。
堂本キャプテンは力強くバットを構え、外角低めを突く厳しい配球にファウルで食らいつく。カウントはフルカウントまでもつれ込んだ。
そして七球目。外角低めからわずかに真ん中寄りに甘く入ったスライダーを、堂本キャプテンは見逃さなかった。
カキィン、と快音が響く。
定位置にいたセカンドの頭上をライナーで越え、センター前へ転がるヒットとなった。
二塁走者は迷うことなく三塁を蹴り、砂煙を上げて本塁へ突入する。外野からの好返球よりも早く、走者の足がベースを駆け抜けた。
一対一。西高が同点に追いついた。
続く六番打者は外野フライに倒れたものの、主将の執念の一打が試合を振り出しに戻した。
五回の表、成瀬先輩は下位の七番、八番、九番を相手に低めへの制球を保ちながら三者凡退に打ち取った。球数は八十球近くに達しており、チェンジのたびに肩で息をする姿が目立っていた。
その裏の西高は七番からの攻撃だった。七番がサードゴロに倒れたあと、八番打者が際どいコースを見極めて四球を選び、九番打者が手堅く送って二死二塁とする。だが、一番打者が外角低めに沈む球を引っかけさせられ、セカンドゴロに倒れて勝ち越しはならなかった。
そして六回の表を迎える。
西高ベンチの前で、成瀬先輩が堂本キャプテンと何事か言葉を交わし、力強く頷き合っていた。
場内のスピーカーから、静かなアナウンスが流れる。
「西高校、ピッチャーの交代をお知らせいたします。九番、成瀬君に代わりまして、城ヶ崎君。ピッチャー、城ヶ崎君」
場内にアナウンスが響くと、スタンドが大きくどよめいた。
ピンチを招いての緊急登板ではない。中一日の成瀬先輩が五回を同点で投げ抜き、予定通りこの回の頭から城ヶ崎へ託す継投策だ。
一塁側のブルペンから、背番号十の城ヶ崎が軽快な足取りでマウンドへと駆け上がっていく。マウンド上で成瀬先輩と言葉を交わしてボールを受け取ると、成瀬先輩はそのままベンチへ引き揚げ、スタンドからは粘投を称える温かい拍手が送られた。
マウンドに上がった城ヶ崎は、ロージンバッグを拾い上げて右手に粉を馴染ませた。
それからプレートの後方に立ち、すうっと深く息を吐き切る。首を左右に傾けて肩の強張りを解いていく。
投球練習を終え、堂本キャプテンが二塁へ送球する。
迎える栄成学院の打順は、上位の一番からだった。
城ヶ崎はセットポジションに入り、軸足にしっかりと体重を乗せて踏み出した。
初球。長い右腕が鋭く振り下ろされる。
ドォォォンッ!
空気を切り裂くような重たい捕球音が球場中に響き渡る。
打席の一番打者は、バットを構えたまま動けなかった。外角低め、堂本キャプテンのミットへ一直線に突き刺さるストレート。
「ストライク!」
審判のコールと同時に、電光掲示板に赤く数字が灯る。
百四十九キロ。
スタンド全体から怒号のような歓声が湧き起こった。
五回まで成瀬先輩の百三十キロ台半ばを見てきた相手打者にとって、十キロ以上の速度差で急に投げ込まれた百四十九キロの直球は、タイミングを合わせる間もなくバットを止めさせられるほどの衝撃だったはずだ。
だが、春の王者はその剛速球にも怯まなかった。
一番打者は二球目の内角球をファウルにしたあと、三球目の真ん中寄りに来た直球に対し、コンパクトにバットを振り抜いた。
鋭い打球が一二塁間を破り、ライト前へのクリーンヒットとなる。打者走者は一塁を蹴ったところで、西高ライトから中継への返球がわずかに乱れた隙を見逃さず、果敢に二塁を陥れた。無死二塁。
「うわ……打たれた! あの速い球を打ち返して二塁まで行くなんて……!」
大原さんが息を呑む。
続く二番打者は、初球から手堅く投前へ送りバントを決めてきた。城ヶ崎が一塁へ送球する間に、二塁走者は三塁へ進む。一死三塁。
そして左打者の三番打者に対し、城ヶ崎はワンボールツーストライクと追い込んだ。だが四球目、外角低めを突いた直球を逆方向へうまく弾き返された。打球は前進していた内野手の頭上を越え、レフト前に落ちる適時打となる。
一対二。栄成学院が再びリードを奪った。
「ああ……勝ち越されちゃった……」
大原さんが肩を落とす。
だが、城ヶ崎に動揺した様子はなかった。プレートの後方で息を吐き切り、再びマウンドへ足を乗せる。
続く四番打者に対し、直球を二本見せてツーストライクと追い込むと、三球目に腕の振りを変えずにチェンジアップを投げ込んだ。
右打者の手元で沈む球に、四番打者は上体を突っ込ませて空振り三振。
五番打者も内角の球で詰まらせ、力のないサードゴロに打ち取った。
城ヶ崎は最少失点でこの回を切り抜けた。
六回の裏、西高は二番からの好打順だった。先頭の二番打者がしぶとくレフト前へ運び、三番打者も四球を選んで無死一・二塁と攻め立てる。四番打者の進塁打で一死二・三塁となり、五番の堂本キャプテンは敬遠気味に歩かされて満塁となった。
一打逆転の絶好機を迎えたが、栄成の先発左腕も動じない。六番打者の鋭いライナーを前進していたセカンドが好捕し、七番打者も低めのスライダーで三振に仕留められた。栄成の堅い守備に阻まれ、西高は三者残塁で無得点に終わった。
七回の表、城ヶ崎は下位の六番、七番、八番を相手に低めの直球とチェンジアップを投げ分け、わずか十球で三者凡退に仕留めた。回を追うごとに腕の振りが鋭さを増していく。
そして七回の裏、西高の攻撃。ここで栄成ベンチが動いた。好投を続けていた先発左腕を下げ、背番号一をつけた右の本格派エースをマウンドに送り込んできた。
長い手足から投げ下ろすフォームで、投球練習から手元でぐんと伸びる直球をミットへ叩き込み、乾いた捕球音を響かせていた。
西高は先頭の八番、続く九番の城ヶ崎が連続三振に倒れ、あっという間にツーアウトとなった。
だが、打順が一番へと返ったところから、打線が粘りを見せる。
一番打者は初球のボール球を見送り、カウントを取りにきた外角のストレートを捉えてレフト前ヒットを放った。
続く二番打者も、厳しいコースをファウルで粘り、甘く入った球を右中間へ運んで二死一・三塁と好機を広げた。
打席には三番打者。スタンドの手拍子が一段と大きくなる。
栄成のエースはギアを上げ、初球、二球目と内角へ剛速球を投げ込んできた。打者は必死にファウルで食らいつき、カウントはツーストライクとなる。
勝負の三球目。相手バッテリーが選んだのは、外角高めのボールゾーンへ外す直球だったが、打者は見送ってワンボールツーストライク。
そして四球目。栄成のエースが投じた勝負球は、真ん中寄りに甘く入ったスライダーだった。
カキィィンッ!
乾いた快音が球場中に響き渡る。
打球は弾丸のようなライナーとなって右中間を深々と破っていった。
三塁走者が同点のホームを踏み、さらに一塁走者も快足を飛ばして一気に本塁へ突入する。外野からの返球よりも早く足が滑り込み、逆転の二点タイムリーツーベースとなった。
「逆転したあぁぁっ!」
大原さんと横山さんが抱き合って歓声を上げる。一塁側のスタンド全体が割れんばかりの熱狂に包まれた。
続く四番打者はショートゴロに倒れ、三対二でチェンジ。
八回の表、城ヶ崎は先頭の九番打者をチェンジアップで空振り三振に切って取った。続く一番打者を内角低めの直球でセカンドゴロ、二番打者も低めの球でサードゴロに打ち取り、わずか九球で三者凡退に抑え込んだ。
その裏、西高は追加点を奪えず、三対二のまま九回表へ。
球場全体から、自然と手拍子が湧き起こる。快進撃を続ける公立校を後押しする拍手が、グラウンドへ降り注いでいた。
迎える栄成学院の攻撃は、三番からの好打順だ。
先頭の三番打者は、初球の直球を鋭く引っ張った。打球は強いゴロとなって一二塁間を襲ったが、セカンドが回り込んで捕球し、素早く一塁へ送球してワンアウト。
「あとふたつ……! あとふたつだよ!」
大原さんが祈るように叫ぶ。
だが、栄成の四番打者が城ヶ崎の外角直球を弾き返し、レフト線を破るツーベースヒットを放った。
一死二塁。一打同点の場面を迎える。
続く五番打者に対し、城ヶ崎は際どいコースを攻めたが、四球を与えて一死一・二塁。
球場全体が息を呑むような静けさに包まれる。
打席には六番打者。城ヶ崎はセットポジションに入り、外角低めへ沈むチェンジアップを投じた。打者は体勢を崩しながらもバットの先に当て、打球はボテボテのピッチャーゴロとなった。
城ヶ崎が素早く前へダッシュし、打球をグラブに収める。
弱いゴロの間に走者はそれぞれスタートを切っており、三塁への送球は間に合わない。城ヶ崎は素早く一塁へ送球し、確実に打者走者をアウトに仕留めた。ツーアウト、二・三塁。
単打一本で同点、打球の行方によっては二塁走者まで生還して逆転を許す極限の状況だ。打席には七番打者。
堂本キャプテンがタイムを取り、マウンドへ歩み寄った。内野陣が集まり、城ヶ崎の肩に手を置く。堂本キャプテンが何かを言うと、城ヶ崎は白い歯を見せて笑い、力強く頷いた。
内野手が守備位置へ戻り、球審が右手を挙げる。
七番打者が右打席に入り、深く息を吐いてバットを構えた。
城ヶ崎はプレートの後方で息を吐き切り、マウンドへ足を乗せる。
初球。
堂本キャプテンのミットは外角低めに構えられた。
城ヶ崎の左足が高く引き上げられ、右腕が振られる。
バシィィィンッ!
外角いっぱいに決まる直球。打者は見送るしかない。
「ストライク!」
球速表示は百四十九キロ。
二球目。堂本キャプテンは同じ外角低めに構えたが、放たれた球は低めに沈むチェンジアップだ。
打者は直球のタイミングでバットを振り始め、止めようとしたがヘッドが回って空を切った。空振り。ツーストライク。
あと一球。
甲子園まで、あとストライク一つ。
スタンド全体が総立ちになり、手拍子と歓声が耳をつんざくような音量となって降り注ぐ。
「城ヶ崎君……!」
大原さんが震える声で叫ぶ。
マウンド上の城ヶ崎はその大歓声の中にいながら、静かな表情をしていた。
グラブの中でボールを握り直し、ゆっくりとセットポジションに入る。
堂本キャプテンがサインを出した。
構えたミットの位置は、真ん中高めだった。
城ヶ崎が頷いた。左足を胸の高さまで引き上げ、軸足にしっかりと体重を乗せて大きく前へ踏み出す。
着地した左足が黒土を深く捉え、力強く振り下ろされた右腕から白球が一直線に放たれた。
打者は真ん中高めに来た球を狙い澄まし、迷いなくバットを振り抜いた。
だが、強いバックスピンのかかった直球は打者の予想ほど沈まず、空を切るバットのわずか上を通り抜けていった。
ズドォォォォンッ!
球場全体を震わせるような、凄まじい捕球音が轟いた。
堂本キャプテンのミットが、高い位置で白球をがっちりとくわえ込んでいる。
「ストライク、バッターアウトッ!」
球審の腕が力強く青空へ突き上げられた。
その瞬間、バックスクリーンの電光掲示板に数字が灯った。
百五十二キロ。
時が止まったような静寂が、一瞬だけ球場を支配した。
次の瞬間、地鳴りのような爆音が球場全体を飲み込んだ。
「勝ったあぁぁぁぁぁぁっ!」
「甲子園や! 甲子園決まったでえええっ!」
西高応援席が一斉に沸き返った。生徒たちが飛び跳ね、抱き合い、涙を流しながら歓声を上げていた。大原さんと横山さんも涙をこぼしながら、俺の腕を掴んで跳びはねている。
マウンドでは、堂本キャプテンが防具を投げ捨てて駆け寄り、城ヶ崎を力いっぱい抱きしめていた。ベンチから成瀬先輩をはじめとする部員たちが雪崩を打って飛び出し、城ヶ崎を中心に歓喜の輪が広がる。もみくちゃにされながら、城ヶ崎は満面の笑顔を空へ向けていた。
百五十二キロ。
あの最後の球はプロと比べても遜色のない、本物のストレートだった。
完全に、上だ。
疑いようもなく、前世の俺よりも遥かに高い場所にあいつは立っている。
そう理解した瞬間。ここ数日ずっと胃の底に澱のように居座っていた重たい不快感と、頭の芯を覆っていた鈍い靄が一気に晴れ渡った。
視界が澄み渡り、肺の奥まで清々しい空気が満ちていく。
すごい。本当にすごいよ、城ヶ崎。
初めて、何の淀みもなく城ヶ崎を称える思いが溢れ出した。気づけば俺の目頭からも熱い涙がこぼれ落ち、頬を伝っていた。
試合終了のサイレンが鳴り響き、両校の選手がホームベースを挟んで整列する。
深々とした礼が交わされたあと、場内に西高の校歌が流れ始めた。選手たちが肩を並べ、泥だらけの顔を上げて空に向かって歌声を響かせている。
校歌の演奏が終わると、選手たちがスタンドの応援席へ向かって一斉に駆け寄ってきた。
「みんな、おめでとうー!」
「城ヶ崎君、甲子園連れてってくれてありがとうなー!」
大原さんと横山さんが身を乗り出し、枯れんばかりの声で叫んでいる。
最前列に並んだ城ヶ崎がふと視線を上げ、スタンドの中段にいる俺の姿を見つけた。
城ヶ崎はぱっと顔を輝かせ、誇らしげにそしてどこか照れくさそうに俺に向けて右手を大きく振った。
俺も立ち上がり、二人に合わせて力いっぱい両手を叩いた。
おめでとう、と声を張り上げて拍手を送る。城ヶ崎は嬉しそうに頷き、堂本キャプテンたちに囲まれてベンチ裏へと引き揚げていった。
やがて選手たちの姿が見えなくなり、拍手を止めて手を下ろしたときだ。
両手の手のひらの真ん中だけが、小さな火種を押し当てられたようにチリチリと熱を帯びていた。手のひらの皮一枚の下で、熱い塊がじわりと燻っている。
「……あれ、姫宮さん? 顔色、すっかり良くなってない? さっきまであんなに青白かったのに」
隣の大原さんが涙を拭いながら、驚いたように俺の顔を覗き込んできた。
「ほんまや、急に血色が戻っとる。モモ、姫宮さんも感動して元気出たんやわ」
横山さんが笑いながら俺の肩を抱き寄せる。
「うん、もうすっかり大丈夫。満足したよ」
俺は心からの笑顔を返した。
あの球はまだ極限の勝負の中で引き出された一度きりの輝きだった。甲子園という大舞台で、あいつが自らの意志であの球を何度でも投げられるようにすること。それこそが、俺がこの身体で果たすべき最後の仕事なのだ。あの球を完成させるために今世があったんだと思えば、俺の今日までの苦悩も愛せるだろう。
それから城ヶ崎は甲子園で優勝して、プロに行っても活躍する。俺のこのクソみたいな今世の墓標としては、あまりにも上等だ。
そして、この身体にはうんざりだった。グラウンドの外側から眺め、他人の背中を押すことしかできない日々。冴えた頭で考えてみると、俺はそんなものに心底嫌気が差していたのだとわかった。
今世があったのだ。前世で死んだはずの俺が、こうして意識を持ったまま別の人間として目覚めたという事実がここにある。じゃあ、来世に賭けるっていうのも夢物語ではない。
その役目を果たし終えたら、俺は転生しよう。そう思った。