一 港町の酒場にて
石畳の坂を下りきると、潮の匂いが鼻をくすぐった。
「おお、海だ! 港町なんて久しぶりだな」
向田剛志、通称ムコーダは、歩き疲れた足を止めて大きく伸びをした。夕暮れの港には蒸気船の煙突が並び、石炭の煙と潮風が混じり合っている。行き交う人々の装いはどこか垢抜けていて、これまで旅してきた街とは空気がまるで違った。
『ムコーダ、景色などどうでもよい。腹が減った』
頭に直接響いたのは、足元を悠然と歩く巨大な狼、伝説の魔獣フェンリルのフェルの念話だ。
『あるじー、スイもおなかすいたー!』
肩掛け鞄から水色のぷるぷるが顔を出す。スライムのスイだ。その頭上をひらひらと飛んでいるのは、小さな竜、ピクシードラゴンのドラちゃんである。
『おいムコーダ、今夜は酒に合うつまみがいいぞ。飯の前に一杯やりたい気分だ』
「はいはい。まずは宿と、食事のできる店だな。……って、フェルを入れてくれる店なんてあるのか?」
意外にも、港外れの古い酒場の店主は肝が据わっていた。「ずいぶんでかい犬だが、暴れさせなけりゃ構わんよ」と、奥の広いテーブルを空けてくれたのだ。
『我は犬ではない』
「まあまあ、今は黙っててくれ」
運ばれてきたのは、茹でた芋と塩漬けの魚、それに固いパン。味は、まあ、素朴である。
『……ムコーダ』
「分かってる、分かってるから。ネットスーパーの出番は宿に入ってからな」
小声でなだめていると、隣の席から愉快そうな笑い声が上がった。
「ははっ、いや失礼。あんまり立派な犬がお利口にお座りしているものだから、つい」
声の主は、黒髪を後ろで束ねた男だった。上等な上着を着崩し、頬をほんのり赤くしてエールのジョッキを傾けている。向かいには、配達員の制服ではなく、やけに洒落た私服に身を包んだ細身の青年が、呆れ顔で座っていた。
「社長、飲みすぎです。明日も朝から配達があるんですよ」
「いいじゃないかベネディクト、大きな仕事が片付いた夜くらい。——旅の方かい? 私はクラウディア・ホッジンズ。すぐそこで郵便社をやっている」
「ゆ、郵便社の社長さん。俺はムコーダです。こっちは従魔のフェルとスイと、ドラちゃん」
「ジュウマ? 珍しい言葉だ。……おや、その青いのは動いているね?」
鞄から身を乗り出したスイが、ぷるんと震える。『あるじー、このひと、いいひとー』と言った途端、ホッジンズとベネディクトが同時に固まった。念話が届いてしまったらしい。
「今、聞こえたよな?」
「聞こえました。社長、一気に酔いが覚めました」
『我も話せるぞ』とフェルが駄目押しをすると、ホッジンズはしばらく目を丸くしていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。
「あっはっは! 世の中には不思議なものがあるなあ。いや、不思議には慣れているんだ。うちの社員にも、ちょっと変わった子がいてね」
「社長の言う『ちょっと』は、だいぶ控えめな表現ですが」とベネディクトが肩をすくめる。
そのとき、腹の虫が盛大に鳴った。フェルでもスイでもなく、ムコーダ自身だった。
「あ、あはは……よかったら、これ、つまみにどうですか。俺の故郷の料理で、唐揚げっていうんですが」
人目を避けて鞄から取り出すふりをしながら、アイテムボックスから出したのは、揚げたてのまま保存してあった唐揚げの山だ。ホッジンズは一つつまんで口に放り込み、そのまま動きを止めた。
「…………ベネディクト」
「はい」
「食べろ」
「……いただきます。…………社長」
「うん」
「これは、悪い意味で危険です。手が止まりません」
あっという間に皿は空になった。ホッジンズは身を乗り出し、ムコーダの手をがしっと握る。
「君、料理人かい?」
「いえいえ、ただの旅の者で、料理が趣味でして」
「趣味でこれか! ……なあムコーダ君、明日、うちの会社に遊びに来ないか。うちの子たちは毎日、人の想いを言葉にするのに、頭も心もすり減らしている。美味しいものを食べさせてやれたらと、いつも思っていたんだ」
語る横顔は、酔っ払いの軽口というより、部下を思う上司のそれだった。ムコーダの足元で、フェルがふんと鼻を鳴らす。
『ムコーダ、お前はこういうのを断れん性分だろう』
「うっ……図星だ。喜んで伺います」
こうして、腹ペコ一行と港町の郵便社との縁は結ばれたのである。
二 C.H郵便社と、紫色の泡
翌朝、ホッジンズに案内されて辿り着いたのは、港を見下ろす高台に建つ、赤い屋根の洋館だった。看板には「C.H郵便社」の文字。
「CはクラウディアでHはホッジンズ、私の名前そのままさ。安直だろう?」
「いや、分かりやすくていいと思います」
扉を開けると、カタカタというタイプライターの音と、インクと紙の匂いが出迎えた。
「社長、おはようございます。お客様ですか?」
最初に振り向いたのは、金色の髪を丁寧に結い上げた少女だった。深い青の瞳、胸元には緑色のブローチ。そして、タイプライターを叩いていたその両手は、銀色に光る金属の義手だった。少女は立ち上がると、背筋をぴんと伸ばして一礼する。
「初めまして。ヴァイオレット・エヴァーガーデンと申します。自動手記人形、ドールです。お客様のお気持ちを、お手紙という形にいたします。ご依頼でしょうか」
「ヴァイオレット、お客さんじゃない。昨日の酒場で会った、ムコーダ君たちだ」
「承知しました。——ところで社長」
「なんだい」
「そちらの巨大な犬の戦闘能力を、推測してもよろしいでしょうか。私の分析では、一個師団に匹敵——」
「やめなさい! お客さんにそういう挨拶はしない!」
「失礼しました。癖です」
『我は犬ではないが、この小娘、なかなか見る目があるな』とフェルが満足げに呟く。ホッジンズは苦笑した。
「ヴァイオレットは元軍人でね。少し、こういうところがあるんだ」
そこへ、わっと賑やかな声が飛び込んでくる。
「社長、その子がおっきなワンちゃん? あらあら、もふもふ!」
長い髪をなびかせたおおらかな女性、カトレアが、遠慮なくフェルの首元に抱きついた。『お、おい』とフェルが狼狽する。続いて顔を出したのは、赤毛の少女、アイリスだ。
「アイリス・カナリーです! 田舎から出てきたばかりの新人ですけど、いつか一番の代筆屋になるつもりなんです! あの、スライムさん、触ってもいいですか?」
『ぷるぷるー!』
「かわいい!」
そして部屋の隅の机から、そっとこちらを窺っている女性が一人。エリカである。
「あ、あの、エリカ・ブラウンです。……すみません、人見知りで」
「彼女はアイリスの先輩でね。腕は確かなんだが、依頼主とのやりとりでいつも悩んでいるんだ」
机の上には、書きかけの手紙が山のように積まれている。ムコーダは一目で分かった。この職場は繁忙期だ。誰もが笑顔でいるのに、目の下にはうっすらと疲れが滲んでいる。
「あの、お台所を少し借りてもいいですか。皆さんに、何か差し入れを」
人気のない給湯室の隅で、ムコーダはスキルを開いた。自分にしか見えない画面を眺め、疲れた人に喜ばれそうな品を探していたその時だった。
ぽこん、ぽこん、ぽこん、と軽快な音がして、画面の端に見慣れないバナーが次々と並んでいく。
「シャトレーゼ……成城石井……角上魚類……OK……カルディ……クランド!? コーナーが新しくオープンしてる!」
「うおおおおお!」
思わず叫んだムコーダに、足元のフェルが半眼で言う。
『うるさい』
「いやいやフェル、これは大事件だぞ! 洋菓子も、高級食材も、新鮮な魚も、全部揃ってるんだ!」
『ほう』フェルの耳がぴくりと動いた。『我の飯が一段と豪華になるということだな』
「そうだけども、今日は皆さんのための差し入れ探しだからな!」
ふと目に留まったのは、クランドのコーナーに並ぶ、深い紫色の液体の写真だった。
「紫コーラ……? バタフライピーっていう青いハーブが、レモンの酸で紫に変わるのか。シナモン、クローブ、カルダモン、八角、トンカ豆……シロップを炭酸水で割るんだな。割合は一対五。二千九百九十円はちょっとお高いけど、せっかくだ。炭酸水は、よし、いつものウィルキンソンと一緒に」
グラスにシロップを注ぎ、ウィルキンソンの炭酸水で割ると、しゅわしゅわと泡立つ、夕暮れの空のような紫の飲み物が出来上がった。
事務所に運んでいくと、案の定、場は凍りついた。
「な、なんですかこの色は!」とアイリスが叫び、エリカは後ずさり、ベネディクトが低い声で言った。
「……毒では、ないんですよね」
「毒じゃないです! コーラ、っていう飲み物のスパイス強めのやつというか……色は、その、ハーブの力で」
ムコーダ自身も、いざ並べてみると自信がなくなってくる。誰もが手を出せずに固まる中、最初にグラスを持ち上げたのは、ヴァイオレットだった。
「いただきます」
銀の指が、グラスを壊さない絶妙な力加減で持ち上がる。一口。小さな喉が、こくりと動いた。
「…………」
「ど、どう?」とアイリスが固唾を飲む。
「未知の、味です」
「み、未知?」
「甘く、そして辛く、花のような香りの奥に、薬草のような深みがあります。喉の奥で泡が弾けて、少し、痛いです。しかし、不快ではありません。もう一口、いただいてもよろしいでしょうか」
その一言で、場の空気がふっと和らいだ。「ヴァイオレットが言うなら」と、皆が次々にグラスへ手を伸ばす。
フェルは皿に注がれたそれをぺろりと舐めて、『ふむ、我も初めて出会う味だ。悪くない』と頷いた。スイは『ぷしゅぷしゅするー! むらさき、おいしいー!』と体をぶるぶる震わせ、ドラちゃんは『ちょっとスパイスがきついが、クセになるなこれ』とグラスに顔を突っ込んでいる。
「あらあら、大人の味ねえ」とカトレアが微笑み、アイリスは「甘いのにぴりっとする!」と目を輝かせ、エリカは小さく「……きれい」と呟いた。
三 納会の依頼
紫の泡のおかげで、事務所の空気はすっかり柔らかくなった。その日の昼下がり、ホッジンズが腕を組んで唸りながら、ムコーダのもとへやってきた。
「実はな、ムコーダ君。今度の週末に、日頃の労をねぎらう納会を開く予定なんだ。例年は店屋物で済ませていたんだが……」
「納会、ですか」
「頼みがある。その日の料理を、君に任せたい」
ムコーダは目を瞬いた。
「俺でいいんですか? 大事な社内の行事なのに」
「君の唐揚げと、あの紫のやつと、それから皆の顔を見て決めたんだ。それに、あの酒場で出会ったのも、何かの縁だろう?」
「……縁、ですもんね」
ムコーダは頭をかいて笑い、胸をどんと叩いた。
「分かりました、引き受けます。材料は全部こっちで用意しますから、任せてください!」
『ふふん、これで我らの飯にも余りが出るな』
『やったー! おりょうり、いっぱいー!』
『こらお前たち、今回の主役は向こうだぞ』とドラちゃんがたしなめる。
そばで聞いていたヴァイオレットが、静かに尋ねた。
「ムコーダ様。私は、何をすればよろしいでしょうか」
「うーん、ヴァイオレットさんたちは、楽しみに待っていてくれればそれでいいんですよ」
「楽しみに、待つ……。それは、業務ですか?」
「業務じゃないです、気持ちの問題です」
「気持ち……。難しい課題です。努力いたします」
真剣な顔で頷く少女に、居合わせた全員が吹き出した。
四 納会、開宴
当日の昼過ぎ、C.H郵便社の裏庭は、いつもと違う匂いに満ちていた。ネットスーパーで取り寄せた七輪に炭がおこされ、大きな鉄板が熱を帯び、ムコーダが忙しなく動き回る。机の上には、角上魚類の魚介、OKの京野菜や加賀野菜、そしてカルディの缶や瓶が、宝石のように並んでいる。
『ムコーダ、いつ食える』
「まだだ、夕方から。スイは野菜洗いを頼むな。ドラちゃんはつまみ食い禁止」
『ちぇー』
「お手伝いします」と声をかけてきたのは、エプロン姿のヴァイオレットだった。袖をまくった銀の義手が、日差しにきらりと光る。「包丁の扱いは、軍で訓練を受けております」
「訓練の方向がちょっと物騒だけど、助かります!」
夕刻。ガス灯がぽつぽつと灯る頃、事務所の大きな机は、純白のクロスの上に並べられた料理でいっぱいになった。社員たちが席に着き、ホッジンズが紫色の泡の立つグラスを掲げる。
「諸君! 今年も一年、お疲れさま! 人の想いを預かり、届ける仕事は決して楽じゃない。だが、君たちがいたから、この会社は続いてきた。今日は大いに食って、飲んで、笑ってくれ。乾杯!」
「乾杯!」
最初の一皿は、カルディの生ハムでカマンベールチーズを巻いたもの。ひと口大に切ったカマンベールを、しっとりとした生ハムでくるりと巻き、黒胡椒をひと振りしただけの、シンプルな前菜だ。
「ひと口で食べてください。ハムの塩気とチーズの濃厚さが、口の中で一緒になりますから」
「……っ!」ホッジンズが目を見開いた。「チーズが、とろけた。そこにハムの旨味が重なる。おいベネディクト、これは酒場の看板料理になるぞ」
「どこの酒場ですか。……でも、うまい。私の仕立てた上着の裏地のように滑らかです」
「例えが分かりません」とカトレアが笑う。
ヴァイオレットは、口元に手を添えたまま、じっと皿を見つめていた。
「口の中で、二つの味が、手を取り合っています。これは、連携、でしょうか」
「そうそう、そういう感じです!」
二皿目は、湯気を立てる大鍋だった。OKと角上魚類から取り寄せた、加賀れんこんや源助だいこん、金時草に、海老、ホタテ、イカ、タラをたっぷり入れた、海鮮マーラータンだ。花椒と唐辛子を利かせた、痺れる辛さが売りである。
「ちょっと辛いので、気をつけて」
そう言い終わる前に、ホッジンズとベネディクトが同時にすすった。
「ぐっ……辛い! だが、うまい! 口の中が痺れるのに、れんこんのしゃくしゃくした食感が、また次の一口を呼ぶ!」
「社長、海老がぷりぷりです。この痺れは癖になります。エールが欲しい」
『ムコーダ、おかわりだ! これは我の好みの辛さだぞ!』
『オレもだ! 辛いのがいい!』
一方、女性陣はというと。
「からっ、からい……! 舌がぴりぴりして……!」とアイリスが涙目になり、
「これは、少し、辛すぎます……」とエリカが顔を真っ赤にし、
「あらあら、情熱的なお味ね。でも、これは男の人向けかしら」とカトレアはハンカチで口元を押さえながらも笑っている。
ヴァイオレットは、静かにスプーンを置き、まっすぐムコーダを見た。青い瞳が、うっすらと潤んでいる。
「ムコーダ様」
「は、はい」
「舌と唇に、これまで経験したことのない痺れが生じています。これは、毒、でしょうか」
「毒じゃないです! 花椒っていう香辛料で……すみません、辛すぎましたよね!」
慌てて紫コーラを差し出すと、ヴァイオレットは両手でグラスを包み、こくりと飲んだ。ふう、と息をつく。
「……冷たい泡が、熱を鎮めてくれました。辛さと甘さの組み合わせの妙です。ムコーダ様は、戦術に長けておられる」
「いや、ただの口直しです」
こうして納会は、まだ序盤だというのに、笑い声と湯気に包まれていくのだった。
五 炭火と香りの宴
三皿目は、角上魚類から取り寄せたのどぐろの炭火焼き。七輪の上でじっくり焼かれた皮目がぱりっと弾け、したたる脂が炭に落ちるたび、香ばしい煙が庭いっぱいに広がっていく。塀の向こうを通りかかった配達員が、鼻をひくひくさせて立ち止まっているのが見えた。
「白身のトロなんて呼ばれる魚です。味付けは塩だけ。まずはそのまま、どうぞ」
ふわりと身をほぐして口に運んだカトレアが、そっと目を閉じる。
「……あら、これは反則ね。甘い脂が、舌の上でほどけていくわ。お酒が欲しくなっちゃう」
「皮が香ばしいです! 身はふわふわで、噛まなくても溶けちゃいます!」とアイリスが頬を押さえた。
その隣で、ヴァイオレットは銀の指を巧みに動かし、驚くほど器用に小骨を取り除いていた。一本、また一本、皿の端に並べていく。
「手先の精度には、自信があります」
「確かにそうだけど、その精度を魚の骨に使うんだな……」
ホッジンズは身をつまみ、感慨深げに唸った。
「港町の魚は新鮮なのが自慢だが、この脂の乗り方は別格だ。ムコーダ君、これはどこの海で獲れた魚なんだい?」
「え、ええと、遠い海です。ちょっと特別な仕入れ先がありまして」
『あるじのスキルは秘密だものねー』とスイが念話で囁き、ムコーダは慌ててスイを撫でてごまかした。
四皿目は、口直しのサラダ。OKから取り寄せた京野菜、水菜に紅白の京人参、聖護院かぶを薄く削ぎ、角上魚類のボイルえびと合わせて、セビーチェ風に仕立てた。仕上げに回しかけるのは、カルディのライムリーフドレッシングだ。
「爽やか! ライムの葉の香りが、鼻にすうっと抜けていきます!」とアイリス。
「えびのぷりぷりと、お野菜のしゃきしゃきが、お互いを引き立てている……」
ぽつりと呟いたエリカが、ふと顔を上げた。
「……依頼人のお話を伺うときも、こういうことなのかもしれません。ひとつの言葉だけじゃなくて、いろんな素材を少しずつ重ねて、味を作っていくような」
「そうよ、エリカ。あなたは素材選びが上手なんだから」とカトレアがウインクする。
エリカの頬が、辛さのせいではなく、ほんのり赤く染まった。アイリスが「先輩、かっこいいです!」と目を輝かせると、エリカは両手で顔を覆ってしまった。
五皿目は、いよいよメインの一品目。ブラッディーホーンブルのシャリアピンステーキだ。たっぷりの玉ねぎのすりおろしに漬け込んで柔らかくした厚切り肉を、ほりにしのスパイスを振って鉄板で焼き上げる。仕上げにバターと玉ねぎのソースを絡めると、甘く香ばしい匂いが庭中に立ちのぼった。
「昔、歯の調子が悪かった偉い歌手さんのために、柔らかく食べられるようにって考えられた料理だそうです」
「ほう。人のために生まれた料理か」とホッジンズが目を細める。
ナイフを入れると、まるでバターのように刃が沈んだ。
「……なんだこれは。戦場で齧っていた塩漬けの固い肉とは、同じ牛の肉とは思えん」
「私の仕立てたスーツよりも、柔らかいですね」とベネディクトが真顔で言う。
「その例え、二回目よ」とカトレアが笑った。
ヴァイオレットは、ゆっくりと一切れを噛みしめていた。
「戦場での食事は、栄養を補給するためのものでした。味の記憶は、ほとんどありません」
静かな声に、テーブルが一瞬しんとする。
「ですが、これは。……明日になっても、覚えていたいと思います」
ホッジンズは何も言わず、グラスを傾けた。目元が少しだけ光っていたのを、ムコーダは見なかったことにした。
『ムコーダ、我の肉はもうないのか』
「空気を読め! ちゃんと用意してるから、そこの大皿から取っていいぞ!」
『ふむ、特上だな』
六 肉と麦飯の大合唱
六皿目は、コカトリスのジーパイ。カルディのジーパイキットで下味をつけ、薄く叩いた肉にたっぷりと粉をまぶして、じゅわっと揚げた。顔よりも大きな台湾風の唐揚げである。
「か、顔より大きい!?」とアイリスが悲鳴を上げ、エリカは両手で恐る恐る持ち上げて目を丸くした。
揚げたてに、さっと胡椒塩を振る。ざくっ、と衣が割れる音が、あちこちから重なって響いた。
「ざく、じゅわ、です」とヴァイオレットが真面目に報告する。「衣と肉汁の連携が、見事です」
「連携、気に入ったんだな」
「はい。先ほど、学びました」
胡椒塩のほんのり痺れる風味に、アイリスは先ほどのマーラータンの記憶を呼び起こされて身構えたが、食べてみると痺れも辛さもほどほどだった。「あ、これは大丈夫! おいしい!」と安心して二枚目に手を伸ばす。
『これはオレの好みだ! おいフェル、それはオレの分だぞ!』
『我が先に目をつけたのだ。大きさは譲れん』
「喧嘩すんな! いっぱい揚げてあるから!」
七皿目は、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てる、オークジェネラルのトッカルビとサムギョプサル。甘辛いタレで焼いた肉団子風のトッカルビと、カリッと焼き上げた厚切りの三枚肉。それをOKのサンチュに載せ、味噌ダレとにんにくの薄切りを添えて、くるりと包んで食べるのだ。
「こうやって、一口でいっちゃってください」とムコーダが手本を見せる。
「承知しました。包んで、口に入れる、ですね」
ヴァイオレットは、これ以上ないほど正確に包みを作った。ただし、どう見ても、彼女の顔の半分はある。
「ヴァイオレット、それは大きすぎ——」
「一口、と、伺いました」
ぱくん。頬がリスのように膨らんだ。全員が固唾を飲んで見守る中、ヴァイオレットはもぐもぐと咀嚼を続け、やがて、こくりと飲み込んで、目をぱちぱちと瞬かせた。
「……肉の脂と、葉の水分と、タレの甘みと、にんにくの香りが。同時に、来ました」
「うん」
「これは……手紙で言うなら、一枚の便箋に、四人分の想いが書かれているようなものです」
「例えが急に詩的だな!」
カトレアが吹き出し、ホッジンズが笑い、つられて全員が笑った。ヴァイオレットも、ほんの少しだけ、口の端を上げた。それを見たアイリスが「いま笑った! 笑いましたよね!」と叫び、ヴァイオレットは「そうでしょうか」と首を傾げた。
エリカが、遠慮がちにサンチュを手に取る。
「あの、私も……。えっと、お肉を、こう、で、いいんでしょうか」
「そうそう、タレを少しだけ塗って。いいですね」
不器用に包んだ小さな包みを、エリカはそっと口に運んだ。
「……おいしい。包むと、おいしさが増えます」
「でしょう? 包むのがコツなんです」とムコーダが嬉しそうに頷く。
宴もたけなわ。胃袋が満たされてきた頃合いを見て、ムコーダは締めの一品を出した。
八皿目は、炭火焼き塩鮭の赤味噌仕立ての冷や汁麦飯。炭火で塩焼きにした鮭をほぐし、すり胡麻と赤味噌、きゅうり、みょうが、大葉、豆腐と合わせて冷たい汁に仕立て、氷を浮かべる。ほかほかの麦飯にたっぷりとかければ、完成だ。
「冷たい汁を、ご飯にかける……?」と身構えた面々も、ひとすすりして黙り込んだ。
「……胃が、休まる」とホッジンズが呟く。
「胡麻の香りと、味噌の優しい甘さが。さっぱりしているのに、満たされるわ」とカトレア。
「さらさら入ります! いくらでも入ります!」とアイリスは早くも二杯目を要求している。
その隣で、ヴァイオレットは匙を止め、不意にムコーダを見つめた。
「ムコーダ様。ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょう」
「料理とは、何でしょうか。私は、手紙を書く仕事をしております。手紙は、相手に想いを届けるものです。では、料理は、何を届けるものなのでしょうか」
ムコーダは目を瞬かせ、少しだけ考えてから、頭をかいた。
「うーん、難しいな。でも、そうだな……『お疲れさま』とか、『美味しいもの食べて元気出して』とか、そういう気持ちなんじゃないでしょうか。言葉にしなくても、食べたら伝わるっていう」
「……食べたら、伝わる」
「はい。俺の場合は、だいたい、一緒に食べる人の笑顔を見たいってだけなんですけど」
ヴァイオレットは匙を握り直し、冷や汁麦飯を口に運んだ。ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。
「……伝わっています。確かに、届いております」
その横顔を、離れた席からホッジンズが、どこか眩しそうに見つめていた。
七 女たちの狂喜乱舞
そして最後に、ムコーダが「今夜の主役」と呼ぶ二品が運ばれてきた。
成城石井のプレミアムチーズケーキと、シャトレーゼの北海道産バターどらやき。ネットスーパーに新しいコーナーが開いたあの日から、ムコーダが密かに本命と決めていた品である。
「まずはこっち、チーズケーキです」
きび糖を使ったスポンジ生地に、レーズンとスライスアーモンドの入った濃厚なチーズ生地、その上にほろほろ崩れるシュトロイゼルがのった、三層構造の一本。長いまま食卓に置かれたそれを見て、女性陣の目の色が変わった。
「ま、待って、これ、見た目からして、危険なのだけど」とカトレアが息を呑む。
ムコーダが八等分に切り分けると、ざくり、しっとり、ふわりと、三つの感触が順番に刃に伝わってきた。皿に載せられたひと切れを、アイリスがフォークで掬って口に入れた、その瞬間。
「ん————っ! なにこれ! なにこれえええ!」
「アイリス、声が大きい」
「だって先輩! レーズンとアーモンドが! チーズが濃くて! 上のほろほろが! ああああ!」
語彙を失ったアイリスの隣で、エリカは黙ってフォークを動かしていた。やがて、鼻をすする音がした。
「エリカ、泣いてる?」とカトレア。
「……泣いてません。……少しだけ、泣いてます」
もう一品、どらやきも負けていなかった。虎模様に焼き上げられたふんわり柔らかな生地で、十勝小豆の粒あんと、塩気のきいたバタークリームを挟んである。バターは北海道産、塩は沖縄の海水塩だ。
「俺の故郷では、ありふれたおやつなんですけどね。冷やして食べると、バターが固めで美味いですよ」
「甘い、しょっぱい、甘い、しょっぱい……」とカトレアが目を閉じて呟く。「この組み合わせ、ずるいわあ」
「あんこと、バターが! こんな背徳的なことが、許されていいんですか!」とアイリスが頬にあんこを付けたまま叫ぶ。
「きゃあああ!」
「おいしいいいい!」
女性陣は、完全に我を忘れていた。カトレアは両手にどらやき、アイリスは二個目、エリカは小さく小さく歓声を上げている。フェルは『ふむ、悪くない。もう三つだ』と淡々と追加を要求し、スイは『ぷるぷるぷるー!』と体で喜びを表現し、ドラちゃんは、いつの間にかチーズケーキの皿を抱え込んでいた。
『おいドラ、それは全員分だぞ』
『わ、わかってるって! ちょっと確保してるだけだ!』
そんな中、ヴァイオレットだけは、皿に残った最後のひと口を、じっと見つめたまま動かなかった。
「ヴァイオレット?」とホッジンズが声をかける。
「社長」
「うん」
「もう一切れ、いただけませんか」
「いくらでも食べてくれていいけど……どうした、様子が変だぞ」
「理由は、説明できません」
ヴァイオレットは、そっと胸に手を当てた。
「分析も、分類も、できません。ただ、胸の奥が、強く、これを求めています。これは、欲しい、という気持ち、なのでしょうか。私には、まだ、よく分かりません」
テーブルが、しん、と静まり返った。やがて、ホッジンズがゆっくり立ち上がり、自分の皿をヴァイオレットの前に置いた。
「ああ。そういうのを、欲しいって言うんだよ、ヴァイオレット。……遠慮なんてしなくていい。好きなだけ、望んでいいんだ」
「望む……。承知いたしました。では、遠慮なく、もう二切れ」
「二切れ!?」
爆笑が、夜の庭に響いた。ムコーダはこっそりネットスーパーを開いて、在庫を確認する。
「まだ追加できますから、大丈夫ですよ!」
こうして、納会は、最高の笑顔の中で幕を閉じたのだった。
八 去り際の贈り物
宴は夜更けまで続き、夜が明けた翌朝、ムコーダ一行は出立の時を迎えた。
港を見下ろす事務所の前には、昨夜の宴の名残で眠そうな、けれど晴れやかな顔の社員たちが勢揃いしている。
「世話になったな、ムコーダ君。いや、世話になったどころじゃない。うちの子たちのあんな顔を見たのは、本当に久しぶりだ」
「こちらこそ、いい経験をさせてもらいました。ありがとうございました」
カトレアがフェルの首に抱きついて名残惜しそうに頬ずりし、アイリスはスイを両手で抱きしめて「また来てくださいね!」と涙目になった。ベネディクトは無言で、洒落た模様の入ったハンカチをムコーダに差し出す。
「旅人にも、洒落っ気は必要です」
「あ、ありがとうございます。……いい色ですね」
「当然です」
エリカは小さな封筒を、そっとムコーダの手に載せた。
「あの、お手紙です。拙いですけれど……宿に着いてから、読んでください」
「……ありがとうございます。大事に読みます」
ムコーダは、少しためらってから、アイテムボックスから三つの大きな箱を取り出した。
「あの、これ。最後に、皆さんで」
どさり、と地面に置かれたのは、見たことのない真新しい紙箱だった。
「カップヌードルっていう食べ物です。しょうゆと、シーフードと、カレー。それぞれ一箱ずつ。蓋を半分まで開けて、中の線までお湯を注いで、三分待つだけです。お湯の量と、待つ時間だけは、守ってくださいね」
「お湯を注いで、三分……それだけ?」
「それだけです」
ホッジンズは怪訝そうに眉をひそめたが、ムコーダの自信ありげな笑顔に、それ以上は聞かなかった。ヴァイオレットが、一歩前に出る。
「ムコーダ様。ありがとうございました。またお会いできる日まで、お手紙の練習をして、お待ちしております」
「はい。また、美味しいもの、持ってきますね」
『ムコーダ、そろそろ行くぞ』
『ばいばーい!』
『またなー!』
フェルが顎をしゃくり、スイとドラちゃんが手を(触手を、羽を)振る。ムコーダは何度も振り返って手を振りながら、朝の港町の石畳を、一人と三匹でゆっくりと歩き去っていった。
九 三分間の奇跡
その夜。
事務所の一室で、ホッジンズは腕を組み、机の上に並べた三つの箱を睨んでいた。
「ベネディクト。お湯を注ぐだけ、と言っていたな」
「はい。ですが社長、あれだけの料理を作る人が置いていったものです。ただの携帯食のはずがありません」
ベネディクトは容器を指先でこつこつと叩いた。
「この容器、紙のようで紙ではありません。軽いのに、熱を通さない。どんな素材なのか、見当もつかない」
「中身は、乾いた麺の塊と、小さな具だけ。これにお湯を注ぐと、食事になるというのか……」とホッジンズが唸る。
「軍の携行食が、これだったなら。戦場の食事は、もう少し違っていたかもしれません」とヴァイオレットが静かに言った。
「……そうだな」
ホッジンズは一瞬だけ遠い目をして、それから、ぱん、と手を叩いた。
「さあ、確かめよう。ヴァイオレット、準備はいいか?」
「はい。お湯は沸いています。懐中時計も、準備いたしました」
「懐中時計?」
「待機時間は、三分です。三分間、一秒たりとも、誤差を生じさせません」
「軍隊式だな! いや、そこまでしなくていいんだが!」
最初に開けたのは、しょうゆ。蓋を半分だけ剥がし、線までお湯を注ぐ。蓋を閉じ、ヴァイオレットが懐中時計の秒針を睨み、ベネディクトも、カトレアも、アイリスも、エリカも、そしてホッジンズまでもが、固唾を飲んで見守った。
——三分。
蓋を開けた瞬間、立ち上る湯気とともに、醤油の香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
「……っ!」
ホッジンズが、ひとすすり。
「…………うまい」
「社長?」
「うまい! なんだこれは! 麺が! 汁が! 小さな肉が! 卵が! 三分で出来上がる食べ物が、こんなにうまくていいのか!」
絶叫したホッジンズに続き、全員が慌てて自分の分へと手を伸ばした。
「止まらないわ! なにこれ、止まらない!」とカトレア。
「具が! お肉の欠片が! ふわふわの卵が! ……幸せ……!」とアイリスは泣いていた。
「……おいしい。……すごく、おいしい」エリカは黙々と食べ続け、気がつけば汁まで飲み干していた。
「麺の切れ目が、どこにも見当たりません……! しかし、美味です!」と、ベネディクトがなぜかファッション誌のようなポーズで感動を表現している。
続いて、シーフード。蓋を開ければ、えびとイカの香りがふわりと立ち、白く濁ったスープが顔を出す。
「海の味だ! 三分で、海に来た!」とホッジンズが叫び、カレーに至っては、立ち上る強烈なスパイスの香りに全員が総立ちになった。
「この香り……先日の紫の飲み物にも、似た香りがありました。シナモンと、クローブと……」とヴァイオレットが分析する。「しかし、全く別物です。こちらは、胃の底を、直接、揺さぶってきます」
「ヴァイオレットがそう言うんだ、間違いない!」
三種類を一巡する頃には、事務所は、完全にお祭り状態だった。アイリスは机に突っ伏して感動を叫び、カトレアはスープを飲み干しながら「これ、もう一個食べていいのかしら」と真剣に悩んでいる。
「これを売れば、大儲けだ! 港町中の人間が、行列を作るぞ!」と商人の血が騒いだホッジンズに、ヴァイオレットが冷静に告げた。
「社長。供給元は、ムコーダ様ただお一人です。量産は、不可能です」
「……そうか。それは、売れないな」
「はい。独り占めです」
「独り占めの方が、素敵じゃない」とカトレアが笑った。
エリカは感想を手紙にしようとペンを取ったが、「おいしい」の四文字から先が書けずに固まっていた。
「ドールが、感想を一言しか書けないなんて」
「だって先輩……『おいしい』が、全部なんです、これ」
ヴァイオレットは、白い便箋を取り出し、静かにペンを走らせた。
『拝啓 ムコーダ様 三分は、あまりにも短く、そして、あまりにも長いものでした』
「どういう意味だ、それ」とホッジンズ。
「待つ時間が、長かったのです。しかし、待っただけの価値が、ございました」
「社長として宣言する!」とホッジンズが、箱を高く掲げた。「これは、大変危険な食べ物だ! 食べるのは、一日一個とする!」
「異議なし!」
「異議なし!」
「……異議はありません」
しかし。
その夜、日付が変わる頃。
静まり返った事務所の給湯室に、ほのかな明かりが灯っていた。
「……ヴァイオレット?」
水を飲みに来たホッジンズが見たのは、お湯を注いだばかりのカップヌードル・カレーの前で、背筋をぴんと伸ばして座る、ヴァイオレットの姿だった。手元には、懐中時計。
「社長」
「一日一個、と言ったよな?」
「はい。これは、本日、二個目です」
「……規則違反だぞ」
「はい。承知しております」
ヴァイオレットは、まっすぐにホッジンズを見つめた。
「しかし、社長。これは、感情です。止められません」
しばしの沈黙。ホッジンズは天井を仰いで長いため息をつき、やがて、棚からしょうゆをそっと一つ取り出した。
「……三分、測っておいてくれ」
「承知いたしました」
港町の夜に、醤油とスパイスの香りが、静かに立ちのぼっていく。
三つの箱は、三日後に、きれいに空になった。
「ムコーダ君! 戻ってきてくれ! 頼む! いや、お願いします!」
港の高台から、遠い街道の彼方に向かって叫ぶ社長の声は、潮風にさらわれて、遠く消えていった。
その頃、街道の途中で突然くしゃみをしたムコーダは、首を傾げながら足元のフェルに尋ねた。
「……なんか今、誰かに呼ばれた気がしなかったか?」
『気のせいだろう。それより、次の飯はまだか』
「お前な……」
こうして、腹ペコ一行の旅は続く。三分で人を幸せにする魔法の麺を、遠い港町に置き去りにして。