第三章 泥棒と王女と魔法のランプ
アグラバー王国の国務大臣、ジャファーは苛立っていた。原因は、もちろん国王である。ジャスミン王女の結婚相手を次期国王に据えるという、あまりにも軽率な提案を聞かされて以来、ジャファーの機嫌は目に見えて悪くなっていた。
もっとも、彼自身はそのことを表に出しているつもりはない。少なくとも、王子の前では普段どおりの態度を保っていたし、政務についても一切の手抜きはしていなかった。ただ、王宮の使用人たちからすれば、国務大臣の機嫌が悪いことなど一目瞭然だった。
「……おい、ジャファー」
「何だ、イアーゴ」
「最近、やけに機嫌が悪くねえか?」
「……気のせいだ」
「いやいや、絶対に気のせいじゃねえって! 昨日なんか、報告書の数字を間違えた役人を一時間も説教してたじゃねえか!」
「数字を間違えるような無能が悪い」
「……うわぁ」
イアーゴは呆れたように羽を広げた。そんな彼を無視し、ジャファーは机の上に広げられた古い文献へと視線を戻した。そこに記されているのは、魔法のランプに関する伝説だった。
願いを叶える魔人が宿るという、古代の秘宝。もし本当に存在するのであれば、王子の王位継承を確実なものとするための切り札になるかもしれない。だが、問題はその所在だった。
「……魔法の洞窟、か」
ジャファーは小さく呟いた。文献によれば、ランプは砂漠のどこかに存在する洞窟に封じられているという。しかし、その洞窟は誰でも入れる場所ではなく、特別な資格を持つ者だけが内部へ進めるらしい。
「……面倒なことだ」
ジャファーは蛇の杖を握り直した。自分が直接入れないのであれば、資格を持つ者を探し出すしかない。そのための調査は、既に始めていた。そして、そんな折だった。王宮を揺るがす、ある事件が発生したのである。具体的に言うと、
「……王女殿下が、いらっしゃらない?」
報告を受けたジャファーがゆっくりと顔を上げると、目の前には顔面蒼白となった侍女が立っていた。
「は、はい……! お部屋にも庭園にもお姿がなく、ラジャーも落ち着かない様子で……!」
「……最後に姿を確認したのは?」
「本日の夕方でございます!」
「……ふむ」
ジャファーは静かに目を閉じた。嫌な予感しかしない。ジャスミン王女が以前から王宮の外へ出たがっていたことは知っている。王子からも、姉が自由に街を歩きたがっているという話を聞かされていた。そして、王女の性格を考えれば、無断で王宮を抜け出すという行動に出ても不思議ではない。
「……衛兵を集めなさい」
「は、はい!」
「王宮の出入口を確認し、街の警備隊にも連絡を。王女殿下の捜索を開始します」
「かしこまりました!」
侍女が慌てて駆け出していく。その背中を見送りながら、ジャファーは深い溜息を吐いた。
「……まったく」
「どうしたんだよ、ジャファー?」
肩に止まっていたイアーゴが首を傾げる。
「……王女殿下が、王宮から姿を消された」
「……はあ!? あのお姫様が!?」
「恐らく、街へ出たのであろう」
「……おいおい、冗談だろ?」
「冗談であれば、どれほど良かったことか」
ジャファーは蛇の杖を床に突いた。
「……警備隊長を呼べ。私も捜索に加わる」
一方、その頃。アグラバーの市場では、一人の青年が見知らぬ少女を助けていた。
「……おいおい、あんた本当に大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ!」
「いや、そういう意味じゃなくてさ……」
青年の名はアラジン。アグラバーの街で暮らす、貧しい青年だった。彼は先ほど、市場で困っていた少女を助けたのだが、その少女はどうにも世間知らずらしかった。店先に並んでいた果物を、代金も払わずに子供へ渡そうとしたのである。
当然ながら商人は怒り、危うく騒ぎになるところだった。アラジンは咄嗟に機転を利かせ、何とかその場を切り抜けたのだが。
「……あんた、もしかして市場に来るの初めて?」
「……ええ。そうだけど?」
「……やっぱり」
アラジンは思わず苦笑した。少女は美しい黒髪を持ち、上品な雰囲気を漂わせている。服装こそ普通の町娘のようだったが、その言動には育ちの良さが滲み出ていた。
もっとも、アラジンは彼女の正体を知らなかった。目の前の少女こそ、アグラバー王国の第一王女、ジャスミンだったのである。その後、二人は追っ手を避けながら街を歩き、やがてアラジンが暮らす建物へと辿り着いた。高台にあるその場所からは、アグラバーの街並みと巨大な王宮を一望することができる。
「……綺麗ね」
ジャスミンが感嘆の声を漏らす。
「だろ? ここからの景色は最高なんだ」
アラジンは得意げに笑った。二人はしばらくの間、互いの境遇について話し合った。
アラジンは貧しい生活から抜け出したいと願い、ジャスミンは自由に暮らしたいと願っている。立場こそ違うものの、二人は人生を変えたいという似た思いを抱いていた。しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
「……そこまでだ!」
突然、鋭い声が響き渡った。振り返ると、建物の入口には武装した衛兵たちが立っていた。その先頭にいるのは、アグラバー王国の警備隊長、ラズールである。
「……げっ!?」
アラジンは思わず顔を引きつらせた。
「またお前らかよ!」
「黙れ、泥棒め!」
ラズールは剣の柄に手をかけた。しかし、その視線はすぐにアラジンの隣にいる少女へと向けられた。
「……王女殿下!?」
「……ラズール!?」
ジャスミンが驚いたように声を上げると同時に、アラジンの表情が固まった。
「……え?」
王女殿下? 今、確かにそう言った。
「……ちょっと待て。王女って……」
アラジンがジャスミンへと視線を向けると、ジャスミンは気まずそうに顔を逸らした。
「……ごめんなさい。言い出せなくて」
「……嘘だろ?」
アラジンは呆然と呟いた。だが、彼が状況を理解するよりも早く、ラズールが命令を下した。
「その男を捕らえろ!」
「はっ!」
衛兵たちが一斉に動き出す。
「ちょ、ちょっと待てよ! 俺は何も……!」
「王女殿下を連れ去った罪、決して軽くはないぞ!」
「……はあ!? 連れ去った!?」
アラジンは目を丸くした。
「違う! 俺はこの子を助けただけだ!」
「黙れ!」
衛兵たちはアラジンの両腕を掴み、抵抗する間もなく拘束した。
「待ちなさい! その人は何も悪くないわ! 私が自分の意思で王宮を抜け出したのよ!」
ジャスミンが声を上げるが、ラズールは低い声で答えた。
「申し訳ございませんが、その件については後ほど伺います」
「後ほどって……! 今すぐ彼を放しなさい! これは命令よ!」
ジャスミンは毅然とした態度で言い放ったが、ラズールは動かなかった。それどころか、彼の表情が一層険しくなる。
「……王女殿下。恐れながら、申し上げます」
ラズールは一歩前へと進み出た。
「現在、王宮では殿下の捜索のため、大勢の者が動員されております」
「……え?」
「王宮では王子殿下が指揮を執り、衛兵、侍女、使用人、そして国務大臣閣下までもが、殿下の行方を探しておられるのです」
「……」
「既に夜も更けておりますが、誰一人として休むこともできず、捜索を続けております。殿下の身に何かあったのではないかと、皆が心配しているのです!」
ジャスミンは言葉を失うが、ラズールはさらに続ける。
「殿下が自由を望まれるお気持ちの深さは、私には分かりかねます。ですが、だからといって何の連絡もなく王宮を抜け出してよい理由にはなりません!」
「……それは」
「王女としての自覚が、あまりにも足りませんぞ!」
その言葉に、ジャスミンは目を見開いた。普段、王宮の衛兵たちは自分に対して恭しく接してくる。たとえ何か問題があっても、ここまで厳しく叱責されたことはほとんどなかった。だからこそ、ラズールの言葉は彼女にとって予想外だった。
「……私は、ただ……」
「事情については、王宮へ戻られてから陛下にご説明ください」
ラズールは厳しい表情のまま告げた。
「我々には、殿下を無事にお連れする義務がございます」
ジャスミンは俯いた。そして、その隣で拘束されていたアラジンは、何とも言えない表情を浮かべていた。
「……おいおい、勘弁してくれよ……」
どうやら、とんでもない相手と知り合ってしまったらしい、とアラジンが嘆いている一方で、
「……王女殿下が、発見された?」
報告を受けたジャファーは、静かに顔を上げた。
「はい。市場の外れにある建物で、若い男と一緒にいるところを発見いたしました」
「……男?」
「はっ。街で盗みを働いている青年で、名をアラジンと申します」
「……ほう」
ジャファーは僅かに眉を動かした。その名には、聞き覚えがあった。先日、王子が市場で助けたという青年。盗みを働き、屋根から落下しかけたところを救われたという、あの男である。
「……まったく、奇妙な縁もあるものだ」
「……は?」
「いや、何でもない」
ジャファーは首を振った。
「それで、王女殿下は?」
「現在、王宮へお連れしております。男の方は、王女誘拐の容疑で拘束いたしました」
「……結構」
ジャファーは小さく頷き、国王への報告に向かった。
「……陛下」
「おお、ジャファー! ジャスミンは見つかったのか!?」
「はい。王女殿下は無事に保護されました」
「おお! それは良かった!」
サルタンは心底安堵したように胸を撫で下ろした。
「まったく、あの子にも困ったものじゃ! どれほど心配したことか……!」
「……左様でございますな」
ジャファーは淡々と頷いた。
「ですが、陛下。一つ問題がございます」
「……む?」
「王女殿下は、街の若い男と共に発見されました」
「……男?」
「はい。盗みを常習としている青年で、名をアラジンと申します」
ジャファーは一拍置いた。
「……あるいは、その男が王女殿下をかどわかした可能性もございますが」
「……何じゃと!?」
サルタンの表情が一変した。
「ジャスミンが……誘拐されたというのか!?」
「現時点では断定できません。しかし、王女殿下が身分を隠して街へ出ていたことを考えれば、何らかの企みがあった可能性も否定できないでしょう」
「……おお、何ということじゃ!」
サルタンは顔を青ざめさせた。そして、次の瞬間。
「……許せん! わしの大切なジャスミンをかどわかそうとするなど、言語道断じゃ!」
国王は激昂し、即座に命令を下した。
「その男を処刑せよ! 王女を誘拐した罪、決して許すわけにはいかん!」
「そうと決まれば……いえ、承知いたしました」
ジャファーは深々と頭を下げた。もっとも、その表情には僅かな疑念が浮かんでいた。王女が自ら王宮を抜け出した可能性は高い。しかし、国王はその点を詳しく確認することもなく、処刑を命じてしまった。
……相変わらず、感情で物事を判断するお方だ。
ジャファーは内心で溜息を吐いた。だが、王命が下された以上、それに従うのが臣下の務めである。少なくとも、表向きは。
「……では、失礼いたします」
ジャファーは一礼し、部屋を後にした。そして、廊下へ出たところで、静かに呟いた。
「……さて」
王女誘拐の容疑で捕らえられた青年、アラジン。彼については、少々調べる必要がありそうだった。
王宮の地下牢。鉄格子の向こうで、アラジンは深い溜息を吐いていた。
「……まったく、ついてないな」
女の子を助けたつもりが、いつの間にか王女誘拐犯として捕らえられている。しかも、聞こえてきた話によれば、国王から処刑命令まで出されてしまったらしい。
「……冗談じゃないぜ」
アラジンは頭を抱えた。隣ではアブーが心配そうに鳴いている。
「……ウキィ」
「分かってるよ、アブー。何とか逃げ出さないとな」
しかし、牢の扉には頑丈な鍵が掛けられ、周囲には衛兵が配置されている。簡単に脱出できる状況ではなかった。そんな時、
「……随分と騒がしい男だな」
突然、低い声が響いた。顔を上げると、鉄格子の向こうに一人の男が立っていた。黒と赤を基調とした衣装。細長い顔に、鋭い眼差し。そして、蛇の頭をかたどった杖を持っていた。
「……誰だ、あんた?」
「私の名はジャファー。アグラバー王国の国務大臣だ」
「……国務大臣?」
アラジンは目を丸くする。そんな偉い人物が、何故こんな地下牢まで来たのだろうか。
「……何の用だよ?」
「貴様に、一つ仕事を頼みたい」
「……仕事?」
「そうだ。引き受けるのであれば、命を助けてやってもよい」
アラジンの表情が変わった。
「……本当か?」
「無論。ただし、簡単な仕事ではないぞ」
ジャファーは蛇の杖を床に突いた。
「砂漠の奥地に、古い魔法の洞窟が存在する。その中から、ある品を持ち帰ってもらいたい」
「……品?」
「古びたランプだ」
アラジンは首を傾げた。
「そんなもののために、わざわざ?」
「貴様が知る必要はない」
ジャファーは冷たく答えた。
「ただし、その洞窟には特別な資格を持つ者しか入ることができん。そして、どうやら貴様にはその資格があるらしい」
「……俺に?」
ジャファーは静かに頷く。既に魔法の洞窟について調査を進め、魔術によって資格を持つ人物を探し出した結果、その候補として浮かび上がったのがアラジンだったのである。
そんなアラジンに、ジャファーは問いかけた。
「……どうする? このまま牢の中で処刑を待つか。それとも、私の依頼を引き受けるか」
「選択肢なんて、ないじゃないか。……分かったよ。やるさ」
アラジンの苦笑混じりの答えに、ジャファーは満足げに頷いた。
「……結構。では、ついて来い」
それからしばらくして、アラジンとジャファーは、アグラバーから離れた砂漠の奥地に立っていた。周囲には果てしない砂丘が広がり、夜空には無数の星々が輝いている。
「……で、本当にここに洞窟があるのか?」
アラジンが周囲を見渡すが、目に映るのは砂ばかりだった。
「黙って見ていろ」
ジャファーは蛇の杖を掲げる。赤い宝石が妖しく輝き、地面に刻まれた魔法陣が光を放ち始める。次の瞬間、砂漠の大地が大きく揺れた。
「うわっ!?」
アラジンが慌てて後退すると、地面から巨大な虎の頭を模した洞窟が姿を現した。
「……嘘だろ」
アラジンは呆然と呟いた。巨大な虎の口が開き、その奥には暗闇が広がっている。やがて、洞窟そのものが低い声を響かせた。その声に、アラジンは思わず身を竦めた。
『……我が中へ入る資格を持つ者よ。その身に秘めた価値を示せ』
「……な、何だよこれ……」
「恐れるな。貴様には資格がある」
ジャファーは淡々と告げた。
「中へ入り、ランプを持ち帰れ。ただし、他の宝には決して触れるな」
「……分かったよ」
アラジンは深く息を吸い、アブーと共に洞窟の中へと足を踏み入れていく。その背中を見送りながら、ジャファーは静かに目を細めた。
「……さて」
全てが計画どおりに進めば、魔法のランプは間もなく自分の手に入る。そして、その力を使えば。
「……殿下。今しばらく、お待ちください」
ジャファーは小さく呟くのだった。
洞窟の内部は、まるで別世界だった。黄金の山、宝石の海、そして巨大な石像。目に映る全てが、アラジンの想像を遥かに超えていた。
「……すげえ」
思わず感嘆の声が漏れるが、ジャファーからは他の宝に触れるなと厳しく言われている。アラジンはアブーに注意しながら、洞窟の奥へと進んでいく。
途中、魔法の絨毯と出会い、その助けを借りながら、やがて目的の場所へと辿り着く。そこには、小さな台座が置かれ、その上にあるのは。
「……これか?」
古びた金属製のランプ。周囲に積み上げられた黄金や宝石と比べれば、何の価値もなさそうな品だったが、
「……こんなものが欲しいなんて、変わった奴だな」
アラジンは苦笑しながら、ランプを手に取った。その瞬間、
「……ウキッ!」
背後で、アブーの声が響く。振り返ると、アブーが巨大な宝石に手を伸ばしていた。
「……アブー! 駄目だ!」
しかし、制止は間に合わず、アブーの指先が宝石に触れた瞬間、洞窟全体が激しく揺れ始め、巨大な声が響き渡る。
『……愚か者め! 禁を破ったな!』
「……まずい!」
アラジンは慌ててアブーを抱き上げた。次の瞬間、地面に亀裂が走り、周囲の黄金が溶岩の中へと沈み始めた。
「……逃げるぞ、アブー!」
アラジンは魔法の絨毯に飛び乗った。絨毯は凄まじい速度で洞窟の中を飛び抜け、崩壊する通路を次々と突破していく。背後では炎が噴き上がり、天井から巨大な岩が落下していた。
「……急げ! もう少しだ!」
やがて、洞窟の出口が見えてきたが、その直前で巨大な岩が落下し、絨毯の進路を塞いでしまう。
「……うわあああっ!?」
アラジンの身体が投げ出され、咄嗟に伸ばした手が崩れかけた岩場の縁を掴む。その下には底の見えない暗闇が広がっており、必死に身体を持ち上げようとするものの、足場が崩れているせいで上手く力が入らなかった。
「……くそっ!」
「……おい!」
その時、頭上から声が響いた。
顔を上げると、洞窟の入口にはジャファーが立っていた。
「……ジャファー!」
「何をしている! 早く上がってこい!」
「無茶言うなよ! 上がれるなら、とっくに上がってるって!」
「……まったく、世話の焼ける男だ!」
ジャファーは忌々しげに舌打ちすると、蛇の杖を脇へ置き、岩場の縁へと身を乗り出した。
「……手を伸ばせ!」
「……え?」
「聞こえなかったのか! 早くしろ!」
「あ、ああ!」
アラジンが慌てて片手を伸ばすと、ジャファーはその腕をしっかりと掴み、崩れかけた足場に膝をつきながら力任せに引き上げた。
「……ぐっ! 貴様、少しは自分でも登ろうとせんか!」
「やってるって! これでも必死なんだよ!」
「ならば、もっと力を入れろ!」
互いに怒鳴り合いながらも、ジャファーは決して手を離さなかった。そして、ようやくアラジンの身体が岩場の上へと引き上げられる。
「……はあ、はあ……! 助かった……!」
アラジンはその場に座り込み、荒い息を吐いた。
「……ありがとな、ジャファー」
礼を言うアラジンに対し、ジャファーは鼻を鳴らして乱れた衣服を整えた。
「……ふん。勘違いするな。貴様のためではない。私には果たさねばならぬ目的がある。そのために貴様が必要だった。それだけのことだ」
「……そっか」
アラジンは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて小さく笑った。
「それでも、助けてくれたことには変わりないだろ? だから、ありがとな」
「……まったく、妙な男だ」
ジャファーは呆れたように呟いた。そして、アラジンへと向き直る。
「……さて、貴様。例のランプは――」
――ミシッ。
「……ん?」
不意に、足元から不吉な音が響いた。
ジャファーが視線を落とすと、二人の立っている岩場に細い亀裂が走っていた。
それは瞬く間に広がり、周囲の岩盤を次々と砕いていく。
――ゴゴゴゴゴッ!!
次の瞬間、足場が一気に崩れ始めた。
「……まずい!」
ジャファーは咄嗟に後退しようとしたが、崩壊の速度は予想以上に速く、足元の岩が砕けたことで身体が大きく傾いてしまう。このままでは、二人とも洞窟の底へと落下する。そう判断した瞬間、
「……危ないッ!!」
「……何ッ!?」
アラジンが咄嗟にジャファーの身体を突き飛ばした。突然の衝撃によって、ジャファーの身体が後方へと押し出され、崩壊する岩場から離れた場所へと転がる。
「……ぐっ!?」
地面に手をついたジャファーは、すぐさま顔を上げるが、その目に映ったのは、崩れ落ちる足場と共に、洞窟の底へと落下していくアラジンの姿だった。
「……うわああああっ!?」
「……貴様ッ!?」
ジャファーは反射的に手を伸ばしたが、その指先が届くことはなかった。アラジンの身体は暗闇の中へと消え、彼が持っていた魔法のランプもまた、洞窟の奥底へと落ちていった。
「……くっ!」
ジャファーは咄嗟に身を翻し、崩壊する岩場から飛び退くと、巨大な虎の口が閉じ、洞窟は轟音と共に砂漠の中へと沈んでいった。そして、静まり返った砂漠に、ただ一人立ち尽くすジャファーだけが残されていた。
「…………」
ジャファーは唖然としていた。目的としていた魔法のランプは、手に入らなかった。長い時間をかけて調査し、ようやく辿り着いた秘宝は、あの青年と共に洞窟の奥底へと消えてしまったのである。しかし、ジャファーの頭を占めていたのは、ランプを失ったことに対する怒りだけではなかった。
「何故だ。……何故、私を助けた?」
低い声が、静かな砂漠に響いた。あの青年にとって、自分は命を救う義理などない相手だったはずだ。それどころか、処刑を免れる条件として危険な洞窟へ送り込んだ人物であり、決して好意を抱かれるようなことはしていない。にもかかわらず、あの青年は迷うことなく自分を突き飛ばした。自分自身が洞窟の底へ落下することなど、考えもしなかったかのように。
「…………愚かな男だ」
ジャファーは奥歯を噛み締めた。ランプを失ったことは痛手だった。これでは、王子のために進めていた計画も振り出しに戻ってしまう。だが、それ以上に、あの青年の行動が理解できなかった。
「……命を懸けてまで、他人を助けるとはな」
ジャファーは深く息を吐いた。そして、ゆっくりと踵を返す。
「……まったく、どいつもこいつも……」
その脳裏に、何故か一人の王子の姿が浮かんだ。以前、護衛から離れてまで、見知らぬ青年を助けたという、あの王子の姿が。
「……似たようなことをするものだ」
ジャファーは小さく呟き、砂漠の向こうへと歩き始めた。その背後では、何事もなかったかのように、冷たい夜風が砂を舞い上げていた。
第四章 頭を抱える国務大臣とアリ王子
アグラバー王国の王宮。その一室にて、国務大臣ジャファーは深刻な表情で思考を巡らせていた。
机の上には、国王から渡された書類が置かれている。ジャスミン王女の結婚相手に関する、各国の王族の情報をまとめたものだ。
「……まったく、あの愚王め」
ジャファーは忌々しげに呟いた。魔法のランプを手に入れる計画が失敗しただけでも十分に腹立たしいというのに、王宮へ戻ってみれば、国王は相変わらずジャスミン王女の婿探しに夢中になっている。しかも、その婿を次期国王に据えるという考えについては、今なお撤回する気配がない。
「……やはり、殿下にお話しするべきか」
王子は、父王の思惑をまだ知らない。無論、いつまでも隠し通せる話ではない。いずれ国王が正式に後継者を指名することになれば、王子の耳にも入るだろう。ならば、その前に事情を説明し、国王から後継者について話を持ちかけられた際には、自らが王位を継ぐと主張するよう助言するべきではないか。
「……いや、待て」
そもそも、何故こちらがあの愚王の思いつきに振り回されねばならんのだ。王子こそが正統な王位継承者である。幼少期から帝王学を学び、政務を理解し、民の暮らしにも目を向けてきた。国王として必要な資質は、既に十分に備わっている。それを、娘可愛さにどこの馬の骨とも知れぬ婿へ譲ろうなどと。
「……いっそのこと、今すぐ殿下を王位に……いや。それでは、あの愚王の思考に引きずられているだけではないか」
自分が望んでいるのは、単に王子を国王にすることではない。王子には、万全の準備を整え、誰にも異論を挟まれぬ最高の形で王位を継承していただきたいのだ。これまで何年もの歳月を費やしてきたのである。目先の怒りに任せて、その計画を台無しにするわけにはいかない。
「……やはり、まずは陛下のお考えを改めさせるべきか」
だが、どうやって? あの国王が、ジャスミン王女に関することで他人の忠告を聞き入れるとは思えない。
「……いっそ、王女殿下が自ら結婚を拒否されれば……いや、既に拒否しておられるな」
それどころか、先日は王宮を抜け出すという騒動まで起こしている。その騒動を思い出したジャファーは、一度王子について考えるのをやめる。
「……そういえば、あの青年の件をどう説明したものか」
アラジン。王子が以前、市場で助けた青年。そして、自分を救うために魔法の洞窟へと落下していった、あの愚かな青年。王子がその顛末を知れば、どう思われるだろうか。少なくとも、喜ばれることはあるまい。
「……隠すべきか?」
いや、王子に嘘をつくことは、ジャファーの本意ではない。それに、王女誘拐の容疑で捕らえられた青年が処刑されたという話は、既に王宮内へ広まっている。王子の耳に入るのも時間の問題だろう。
「……ならば、事実を説明するしかあるまい」
しかし、何と説明する? 国王が十分な調査もせず処刑を命じたため、その青年を利用して魔法のランプを手に入れようとしたところ、青年が自分を助けて洞窟へ落下した、と? そこまで考えてから、ジャファーは額を押さえた。
「……説明できるか、そんなもの」
いや、自分は青年を救うつもりだったのだ。危険な洞窟へ送り込んだことも、処刑の回避や、王子のために必要な行動だった。
「そうだ。私は何も間違っておらん……はずだ」
そう自分に言い聞かせるが、どういうわけか、砂漠で自分を突き飛ばした青年の顔が脳裏から離れなかった。
「……まったく」
そんな時、
――ドォォォン!!
「……む?」
遠くから、何やら大きな音が響いてきた。続いて、歓声に楽器の音。そして、地響きのような騒音まで聞こえてくる。
「……何事だ?」
また国王が呼び寄せた婿候補が、派手な催しでも始めたのだろうか。それとも、市場で何か騒動が起きたのか。
「……まったく、次から次へと」
ただでさえ考えることが多いというのに、余計な仕事を増やさないでもらいたい。そう思いながら顔を上げたジャファーは、ふと、窓際に立つ一人の少年に気がついた。
「……殿下?」
そこにいたのは、アグラバー王国の王子。肩には赤いオウム、イアーゴを乗せ、窓の外を眺めている。どうやら、先ほどから騒ぎを見物していたらしい。
「……殿下。いつからそちらに?」
「ん? さっきからいたよ」
「……そうでしたか」
まったく気がつかなかった。それほどまでに、自分は考え込んでいたらしい。
「ところで殿下。外が随分と騒がしいようですが、何かございましたか?」
「うん。今回のはすごいね。見てみなよ」
王子は楽しそうに笑いながら、窓の外を指差した。ジャファーは訝しみながら、その視線を追う。
「…………は?」
思わず、間の抜けた声を漏らしてしまった。王宮へと続く大通りを、見たこともないほど豪華絢爛な行列が進んでいた。
煌びやかな衣装に身を包んだ楽団。大量の黄金を運ぶ従者たち。踊りながら行進する人々。そして、何故か巨大な象までいる。その象の背には、豪華な衣装を身に纏った一人の青年が座っていた。
「……何だ、あれは」
「さっき魔法を使って様子を確認したら、アリ王子っていうらしいよ」
「……アリ王子?」
「うん。アバブワの王子様なんだって。彼を讃える歌を歌いながら行進してるよ」
「……聞いたこともない国ですな」
そんな国あったか? と考え込むジャファーを見ながら、王子は笑った。
「僕も知らない。でも、すごいよね。あんなに大勢を連れてくるなんて」
「……成金趣味にも程がありますな」
「イアーゴなんか、さっきからずっと興奮しているよ」
「そりゃ興奮するだろ! 何だよ、あの象の数! 金もばら撒いてるぞ!」
イアーゴが興奮気味に羽を広げる。ジャファーは深い溜息を吐いた。どうやら、また新たな婿候補が現れたらしい。しかも、今度は相当な目立ちたがり屋のようだ。
「……まったく。陛下も、少しは相手を選んでいただきたいものですな」
「でも、今までで一番面白そうじゃない?」
「……殿下」
ジャファーは呆れたように王子を見た。しかし、王子は楽しそうに笑っている。その様子を見て、ジャファーは僅かに表情を和らげた。
……まあ、殿下がお楽しみならば、それも悪くはないか。
――ドォォォン!!
すると、王宮の正門付近で、再び大きな音が響いた。
「……今度は何だ!?」
「おっ、来たんじゃない?」
王子が窓から身を乗り出す。どうやら、例のアリ王子が王宮へ到着したらしい。ジャファーも仕方なく窓の外を覗き込んだ。そして、象から降りた青年の顔が見えた瞬間、ジャファーの表情がぴたりと固まった。王子が首を傾げ、尋ねる。
「どうしたの、ジャファー?」
「…………」
「ジャファー?」
「……あの、馬鹿者が」
ジャファーの口から、低い声が漏れた。見覚えが……いや、忘れるはずがない。あの顔、あの目、あの、どこか調子の良さそうな笑み。
「……アラジンッ!?」
思わず、といった様子で叫んだジャファーに、王子が目を丸くする。
「……え? アラジン?」
しかし、王子の声にジャファーは答えず、蛇の杖を握り締め、勢いよく部屋を飛び出していく。
「おいおい! どうしたんだよ、あいつ!?」
イアーゴが驚いたように鳴く。王子は一瞬だけ呆気に取られたが、すぐに楽しそうに笑った。
「……これは、ますます面白くなってきたね」
そう呟き、ジャファーの後を追うのだった。
「いやぁ、すごいな、この王宮!」
そんな状況になっていることを知らないアラジンは、豪華な衣装に身を包み、目の前に広がる光景に感嘆の声を漏らしていた。大理石の柱。美しい装飾。広大な庭園。そして、金色に輝く巨大な宮殿。貧しい暮らしを送ってきた彼にとって、全てが別世界のようだった。
「……まさか、本当に王子になれるなんてな」
アラジンは小さく呟く。魔法の洞窟に落ちた後、ランプに宿る魔人ジーニーと出会った。そして、その魔法によって、今の自分はアバブワのアリ王子ということになっている。……これなら、ジャスミンにも堂々と会えるはずだ。
「……よー」
「……貴様ァッ!!」
「ーーし、ってうわっ!?」
突然、聞き覚えのある怒声が響いた。振り返ると、アラジンの顔が引きつった。長身の男が凄まじい勢いでこちらへ歩いてくる。黒と赤の衣装、蛇の杖、鋭い眼差し。
「……げっ!? ジャファー!?」
「……貴様、よくぞ無事で……!」
ジャファーは思わずそう口にしたが、すぐに我に返る。
「……いや、違う! 貴様、その姿! ランプを使ったな!?」
アラジンはぎくりと肩を震わせた。しかし、すぐに胸を張り、わざとらしく笑みを浮かべる。
「お、おお、ジャファー……じゃなくて、何のことかな? 俺はアリ王子。アラジンなんて青年は知らないな!」
ジャファーの眉間に、深い皺が刻まれた。
「……私は、アラジンなどという名を一言も口にしておらんだろうが!」
アラジンの表情が固まった。
「……しまった」
「この、大馬鹿者が!」
「ちょ、ちょっと待てよ! 落ち着けって!」
「これが落ち着いていられるか! 貴様、あの洞窟で何があった!? ランプはどうした!? それに、そのふざけた格好は何だ!」
「ふざけたって何だよ! これでも王子なんだぞ!」
「どこの世界に、貴様のような王子がおる!」
「ここにいるだろ!」
「黙れ馬鹿者が!」
王宮の入口で、国務大臣と謎の王子が言い争いを始めてしまい、周囲の衛兵たちは、どうしてよいか分からず顔を見合わせていた。そんな中、楽しそうな声が響いた。
「へぇ。街の泥棒から、随分な大出世ですね」
「……え?」
アラジンが振り返ると、肩に赤いオウムを乗せた少年が穏やかな、そして見覚えのある笑みを浮かべながら立っていた。アラジンは目を瞬かせ、
「……あんた、確か……」
「お久しぶりです、アラジンさん。以前、市場でお会いしましたね」
「……ああ! そうだ! あの時の!」
思わず声を上げたアラジン。屋根から落ちかけた自分を、助けようとしてくれた少年。そして、盗んだ品を返すように言い、最後にはパンまで渡してくれた、あの少年だった。
「……まさか、こんなところで会うなんてな!」
「こちらこそ、驚きました。それにしても、……いつの間にジャファーと仲良くなったんです?」
「「なってない!!」」
二人の声が、見事に重なった。
「「…………」」
ジャファーとアラジンは、互いに顔を見合わせ、同時に顔を逸らした。そんな二人の様子を見ながら、王子が小さく笑う。
「……ふふっ、息ぴったりじゃないですか」
「殿下!」
「違うって!」
「……はははっ!」
二人の反応がそっくりで、とうとう王子は声を上げて笑い始めてしまう。そんな王子の反応に、ジャファーは額を押さえ、アラジンは首を傾げる。
「……まったく、殿下まで」
「……ところで、あんた。ジャファーの知り合いだったのか?」
「……知り合い? ええ、そうですね。ジャファーは僕の先生みたいなものです」
王子がアラジンに返答すると、ジャファーが勢いよく振り返る。
「……貴様! 殿下に向かって、何という口の利き方を!」
「……殿下?」
アラジンが目を瞬かせた。ジャファーは深々と頭を下げ、王子へと向き直る。
「申し訳ございません、王子殿下。この無礼者には、後ほど私から厳しく言い聞かせておきますので」
「いやいや、別に気にしてないよ」
王子は笑いながら手を振っているが、アラジンはそれどころではなく、ゆっくりと少年を見てから、もう一度ジャファーを見る。
「……王子……殿下? ……え? ……ええええええっ!?」
王宮中に、アラジンの叫び声が響き渡った。
「お、お前、王子様だったのか!?」
「はい。一応」
「一応って!?」
アラジンは頭を抱えた。以前、市場で出会った少年が、アグラバーの王子だったとは。
「……ちょっと待て……ということはジャスミンの?」
「先日、あなたが誘拐犯扱いされる原因になった、この国の王女であるジャスミンの弟ですね。その節は、姉がご迷惑をおかけしました」
アラジンは天を仰いだ。
「……嘘だろ」
どうやら、自分は知らないうちに、とんでもない姉弟と知り合っていたらしい。その様子を見て、王子はますます楽しそうに笑っていた。ジャファーだけが、深い溜息を吐く。
「……殿下。そろそろ、この男の素性を……」
しかし、その言葉が終わるよりも早く、突然、陽気な声が響き渡った。
「おおおおっ!! アリ王子! よくぞ参られた!」
「「「……ん?」」」
三人が振り返ると、満面の笑みを浮かべた国王サルタンが立っていた。
「いやはや、素晴らしい行列じゃった! あれほど豪華な行進は、わしも初めて見たぞ!」
「……あ、どうも」
アラジンは反射的に頭を下げた。
「アバブワのアリ王子じゃな! 遠路はるばる、よく来てくださった!」
「は、はあ……」
「ささ、遠慮はいらん! 我が王宮へようこそ!」
サルタンは上機嫌でアラジンの手を取った。その様子を見ていた王子は、ゆっくりとジャファーへ視線を向ける。
「……ねえ、ジャファー。父上はアラジン、というかアリ王子の素性を確認したの?」
ジャファーは答えなかった。
「……そもそも、アバブワってどこにある国? 父上のあの反応、さすがに実在はしている国だよね?」
「…………」
「……ジャファー?」
ジャファーは、静かに額へ手を当て、そのまま深々と項垂れる。
「……お察しください、殿下」
「……あははっ」
王子は堪えきれずに笑った。どうやら、父王は豪華な行列を見ただけで、アリ王子を立派な王族だと信じ込んでしまったらしい。
……これ、大丈夫なのかな?
そう思いながらも、王子は特に口を挟まなかった。一方、サルタンは上機嫌のまま話を続けている。
「いやはや、実に立派な青年じゃ! 是非とも、わしの娘に会っていただきたい! ジャスミンという、それはそれは美しい娘がおってな!」
アラジンの表情が変わった。
「……ああ、もちろん!」
アラジンは思わず笑顔になった。ようやく、ジャスミンに会える。そう思った、その瞬間だった。
「……お父様ッ!!」
鋭い声が響き渡る。サルタンが振り返ると、怒りを隠そうともしないジャスミン王女が立っていた。
「……ジャスミン!」
「お父様! また勝手に結婚相手を呼んだのですか!? 私は何度も申し上げたはずです! お父様が勝手に選んだ相手と結婚するつもりはありません!」
「じゃ、ジャスミン。落ち着きなさい」
「落ち着いています!」
明らかに落ち着いていなかった。その様子を見て、王子は苦笑する。もっとも、今回ばかりは姉が不機嫌になるのも無理はない。数日前、街で出会った青年が王女誘拐の罪で捕らえられ、処刑されたと聞かされたばかりなのだ。
しかも、ジャスミン自身は、その青年が無実であることを知っている。彼女が抗議しても、既に処刑は執行されたと告げられただけだった。そんな状態で、父王が新たな婿候補を歓迎しているのである。機嫌が良いはずもない。
「……私は、もう嫌です! 私の気持ちなんて、誰も考えてくれない!」
「ジャスミン、わしはただ、お前の幸せを……」
「私の幸せを勝手に決めないでください! ……私は、お父様の紹介した相手とは結婚しません!」
そう言い放つと、彼女は勢いよく踵を返した。
「……ジャスミン!」
サルタンが慌てて呼び止めるが、ジャスミンは振り返らなかった。
「……待ちなさい! ジャスミン!」
国王は慌てて娘の後を追いかけていき、その場に残されたのは、王子とジャファー、そしてアリ王子ことアラジンの三人だった。
「「「…………」」」
しばしの沈黙の後、アラジンが恐る恐る口を開いた。
「……なあ。今の、ジャスミンだよな?」
「はい。僕の姉上ですね」
「そっか。……なんであんなに不機嫌なんだ?」
「ああ。なんでも、王宮を抜け出して困っていたところを助けてくれた人が、王女誘拐の罪に問われ、処刑されてしまったらしくて」
アラジンは複雑そうな表情を浮かべた。
……それ俺じゃん。死んだと思われているのか。
「……参ったな」
アラジンは頭を掻いた。一方、ジャファーはというと、額に手を当てたまま動かなかった。魔法のランプを失い、王位継承の問題も解決していない。王子への説明も済んでいない。そのうえ、死んだと思っていた青年が、魔法のランプを使って王子に化けて戻ってきた。……そして国王は、相変わらず何も考えていない。
「……何故だ。何故、こうも次から次へと問題が増えるのだ……」
それぞれ悩み出した二人を見て、王子はにこりと笑う。
「……とりあえず、お茶にでもしますか?」
あまりにも呑気な提案だった。
「……殿下。今、この状況でございますぞ?」
「だからこそ、ですよ。二人とも、話したいことがたくさんあるみたいですし」
そう言って、王子はジャファーとアラジンを交互に見た。
「立ち話も何ですから。ゆっくり話しましょう?」
「……ああ、俺は構わないけど」
アラジンが頷き、ジャファーは深々と溜息を吐いた。
「……承知いたしました」
もはや、何から説明すればよいのかも分からないが、王子が望まれるのであれば仕方がない。
「……では、殿下のお部屋へ参りましょう」
「うん。それじゃ、行こうか」
王子は楽しそうに歩き始め、アラジンもその後を追う。そして、最後に残されたジャファーは、天井を仰いだ。
「……まったく」
国務大臣として長年王宮に仕えてきたが、これほど頭の痛い一日は、そうそうなかった。しかし、そんな彼の苦労など知る由もなく。
「ねえ、ジャファー。お茶菓子は何がいいと思う?」
「……殿下のお好きなものでよろしいかと」
「アラジンさんは?」
「えっ? 俺? 何でもいいけど……甘いものがあると嬉しいかな」
「じゃあ、用意してもらうね」
「おっ、いいね!」
楽しそうに会話を始めた二人の背中を見つめながら、ジャファーは再び溜息を吐いた。
……本当に、何故こうなった。
その答えを知る者は、恐らく誰もいなかった。
第五章 魔人と作戦会議
アグラバー王国の王宮。その一室にて、何とも奇妙なお茶会が開かれようとしていた。
部屋の中央には、美しい装飾が施された円卓。その上には紅茶や焼き菓子、色とりどりの果物が並べられている。そして、その席についているのは、この国の王子と国務大臣ジャファー、そしてアバブワのアリ王子……の格好をしたアラジンだった。
さらに、王子の肩には赤いオウムのイアーゴが止まり、部屋の隅には何故か魔法の絨毯が浮かんでいる。おまけに、窓の外からは巨大な象が鼻を伸ばし、室内の様子を興味津々といった様子で覗き込んでいた。
まず初めに、ジャファーが低い声を発した。
「で?……貴様。そろそろ、説明してもらおうか」
「……ああ、うん」
アラジンは気まずそうに頷いた。先ほどまでの威勢はどこへやら、目の前に座る国務大臣の迫力に、すっかり大人しくなっている。
「まあまあ、ジャファー。そんなに怖い顔をしないであげてよ」
「……殿下。私は至って冷静でございます」
「そう? さっきから杖を握り締めてるけど」
ジャファーは無言で蛇の杖を壁際に立てかけた。
「……それで、アラジンさん。何があったんです?」
「ああ。実はさ……」
アラジンは紅茶を一口飲むと、魔法の洞窟での出来事を語り始めた。
崩壊する足場からジャファーを突き飛ばした後、自分は洞窟の奥底へと落下したこと。しかし、途中で魔法の絨毯が助けてくれたおかげで、何とか命拾いしたこと。そして、洞窟の出口が完全に閉ざされ、外へ出られなくなってしまったこと。
「……なるほど。それで、どうやって脱出したのです?」
「それがさ、アブーが持ってたランプを返してくれて」
「……アブー?」
「ああ。俺の相棒の猿だよ。今はあそこで象になってるけど」
アラジンが指差す先には、巨大な象が窓枠に鼻を乗せ、何とも間の抜けた顔でこちらを覗き込んでいた。
「……あれが、あなたの肩に乗っていた猿? 随分と立派に成長したものですね」
「いや、そういうことじゃなくて」
アラジンは苦笑しながら説明を続ける。
洞窟の中でランプを擦ったところ、中から青い煙が噴き出し、巨大な魔人が現れた。その魔人はジーニーと名乗り、ランプの持ち主の願いを三つ叶えることができると説明してきたので、言葉巧みに誘導し、願いを使わずに洞窟から脱出させてもらった後、ジャスミンにもう一度会うため、最初の願いで王子にしてもらったのだ、と。
「……それで、今の格好になったってわけさ」
アラジンは得意げに両手を広げた。
「どうだ? なかなか似合ってるだろ?」
「……なるほど。つまり、魔法のランプに宿る魔人の力で、アリ王子になったんですね」
「そういうこと!」
「へぇ……すごいんですね。そのジーニーの魔法は」
王子は感心したように頷いている一方で、ジャファーはというと、その額に深い皺を刻んでいた。
「……ジャファー?」
「少々、確認したいことがある」
ジャファーはゆっくりとアラジンへ視線を向けた。
「……貴様。今、願いは三つ叶えられると言ったな?」
「ああ」
「そして、王子になるために一つ使った、と。……つまり、まだ二つ残っているわけだな?」
「まあ、そうなるな」
返事を聞いたジャファーは、これまでで最も鋭い目付きでアラジンを睨んだ。
「……ランプを渡せ」
「……は?」
「魔法のランプだ。今すぐ、私に渡せ」
アラジンは思わず身を引いた。
「ちょ、ちょっと待てよ! 何でそうなるんだよ!」
「元々、そのランプを手に入れるために貴様を洞窟へ送り込んだのは私だ! 当然であろう!」
「いや、でも、今は俺のランプだろ!?」
「貴様ァ……!」
ジャファーが立ち上がろうとした、その時だった。
「……ジャファー」
王子が穏やかな声で呼び止めた。
「……何でございましょう、殿下?」
「今はアラジンさんがランプの主なんだろう?」
「……それは、そうですが」
「だったら、無理やり取り上げるのは良くないよ。……それに、ジャファー」
王子は小さく首を傾げた。
「そもそも、ジーニーに何を願いたいんだい?」
ジャファーの動きが止まった。王子は、真っ直ぐに彼を見つめていた。疑いのない、純粋な眼差し。その視線を受けたジャファーは、しばらく沈黙していたが、やがて深い溜息を吐いた。
「殿下……実は、陛下のことで、お話ししなければならないことがございます」
「父上の?」
ジャファーは一度目を閉じ、覚悟を決めたように口を開いた。
「……現在、陛下は、殿下に王位を継承させるおつもりがございません」
「…………え?」
王子が目を瞬かせた。
「……どういうこと?」
「陛下は、ジャスミン王女殿下の結婚相手を、次期国王に据えるおつもりなのです」
王子は驚いたようにジャファーを見つめた。だが、それ以上に大きな反応を示したのがアラジンだった。
「……はああああっ!? ちょ、ちょっと待てよ! どういうことだよ、それ!」
「……何だ、貴様。急に騒々しい」
「いやいや! 騒ぐだろ、普通!」
アラジンは思わず椅子から立ち上がった。
「この国の王様って、そこの王子様がなるんじゃないのか!?」
「……そのはずだったのだがな」
「だったら、何で!?」
「……陛下が、ジャスミン王女殿下を手元から離したくないと仰せなのだ。故に、王女殿下の婿をこの国へ迎え、その者に王位を継がせようとお考えだ」
アラジンは呆然とし、ゆっくりと王子へ顔を向ける。
「……なあ、王子様」
「はい?」
「あんた、街じゃ結構有名で、評判良いんだぞ?」
アラジンの言葉に、今度は王子が驚いた。
「……え? そうなんですか?」
「そうなんですか、って……知らないのかよ!」
アラジンは呆れたように声を上げた。
「市場の連中だって、あんたのことをよく話してる! 小さい頃から街に出て、商人の話を聞いたり、貧しい連中の暮らしを調べたりしてるって!」
「……ええ、まあ。それは確かに」
「それだけじゃないぞ! 王子様が王様になれば、この国も安泰だなって、本当に評判なんだ!」
王子は意外そうに目を丸くした。
「それは、……嬉しい評価ですね」
「嬉しいですね、じゃなくて!」
アラジンは頭を抱えた。
「そんな王子様を差し置いて、どこの誰かも分からない男が王様になるって、おかしいだろ!」
ジャファーが僅かに眉を上げた。
「ほう……貴様、なかなか分かっているではないか」
「いや、当たり前だろ!」
「……ふむ。少しは見直したぞ」
「何だよ、その上から目線!」
再び言い争いを始める二人。そんな二人を見ながら、王子は困ったように笑った。
「……まあまあ、二人とも。僕としても驚いたけれど」
王子は紅茶を一口飲んだ。
「まあ、本当に父上がそう決めたなら、仕方がな――」
「「無くない!!」」
王子の言葉は、二人の怒声によって遮られた。
「殿下! 何を仰っておられるのですか!」
「そうだぞ! 何でそんな簡単に諦めるんだよ!」
「い、いや、でも……」
「殿下は、これまで何のために帝王学を学んでこられたのですか! 幼少期より政務を学び、国の未来を考え、民の暮らしに心を砕いてこられたではありませんか!」
「そうだそうだ!」
「その全てを、陛下の思いつき一つで無駄にするおつもりですか!」
「そうだそうだ!」
「……貴様、少し黙っておれ!」
「何でだよ! 今、同じ意見だろ!」
「……あはは」
王子は思わず苦笑してしまった。どうやら、この二人は、自分が思っていた以上に気が合うらしい。そんな時、
「……あのー」
「「「……ん?」」」
突然、聞き慣れない声が響いた。振り返ると、いつの間にか部屋の中に、青い魔人が浮かんでいた。
「……え?」
王子が目を瞬かせる。
「……何だ、貴様は?」
ジャファーが蛇の杖へ手を伸ばす。
「おっとっと! 待った待った! そんな怖い顔しないでよ!」
青い魔人は慌てて両手を振った。
「どうもどうも! 初めまして! ランプの魔人、ジーニーでございまーす!」
そう言って、ジーニーは派手な音と共に礼服姿へと変身し、帽子を脱いで深々とお辞儀した。
「……ジーニー?」
王子が首を傾げる。
「そうそう! さっきから話題になってる、願いを叶える魔人ってのが、この俺様!」
「……へぇ」
「ちなみに、願いは三つまで! ただし、殺しは駄目、恋愛の強制も駄目、死人を生き返らせるのも勘弁してくれよな!」
王子は興味深そうに頷いた。
「……なるほど。それは、なかなか面白いですね」
「おっ! 話の分かる王子様だねぇ!」
ジーニーは嬉しそうに笑った。しかし、すぐに周囲を見渡し、困ったように頬を掻いた。
「……で、あのー」
「……何だい?」
「俺、さっきからランプの中で話を聞いてたんだけどさ」
ジーニーはアラジンとジャファー、そして王子を順番に見た。
「……結局、俺はどうすればいいわけ?」
「「「…………」」」
全員がジーニーを見た。イアーゴも首を傾げ、魔法の絨毯まで身体を傾ける。窓の外では、巨大な象が鼻を揺らしていた。
「……いや、だってさ」
ジーニーは両手を広げた。
「ランプのご主人様はアラジンだろ? でも、そこの怖いおじさんはランプが欲しいみたいだし、王子様は王様になるかどうかで揉めてるし……」
「……誰が怖いおじさんだ」
「おっと! 失礼!」
ジーニーは一瞬で口に鍵を掛ける仕草をした。そんな中、ジャファーは静かに考え込んでいた。魔法のランプ、王位継承、ジャスミン王女の婿、そして、目の前にいる、魔法によって王子となった青年。
ジャファーの視線が、ゆっくりと動いた。ジーニーを見てから、アラジンを見る。もう一度、ジーニーを見て、最後にアラジンへと視線を戻す。
「…………ふむ」
「……ジャファー?」
王子が首を傾げると、ジャファーは小さく頷いた。
「……ありだな」
「「「……え?」」」
今度は全員がジャファーを見た。
「……何が?」
アラジンが恐る恐る尋ねる。ジャファーはそんな彼を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……貴様。ジャスミン王女殿下に、好意を抱いているのであろう?」
「……ぶっ!?」
アラジンが盛大に紅茶を吹き出した。
「な、な、何で分かるんだよ!?」
「……あれだけ分かりやすい態度を取っておいて、隠しているつもりだったのか?」
「い、いや、それは……!」
アラジンは顔を真っ赤にした。その様子を見て、王子が楽しそうに笑う。
「……へぇ。アラジンさん、姉上のことが好きなんですね」
「ちょ、ちょっと待てって! そんな大声で言うなよ!」
「……ふふっ」
王子は口元に手を当てた。ジャファーはそんな二人を無視し、淡々と話を続けた。
「……ならば、話は簡単だ。貴様がジャスミン王女殿下の心を射止めればよい」
「…………は?」
「そして、結婚した暁には、王位を望まなければよいのだ」
アラジンは目を瞬かせ、王子は首を傾げる。ジーニーは腕を組み、何やら考え始めた。ジャファーは得意げに説明を続ける。
「陛下が望んでおられるのは、ジャスミン王女殿下を他国へ嫁がせず、この国に留めることだ。そして、王女殿下は、自らの意思で結婚相手を選びたいと望んでおられる」
「……うん」
「ならば、王女殿下が自ら選んだ相手と結婚し、その相手が王位を望まなければ、殿下が正統な王位継承者として即位できる。陛下は愛娘を手元に置くことができ、王女殿下は望む相手と結婚できる。そして、殿下は本来の立場を取り戻される」
ジャファーはそこで一拍置いた。
「……全て、丸く収まるではないか」
王子が声を漏らした。
「……あ」
アラジンも続く。
「……あー!」
ジーニーが両手を叩いた。
「なるほど! そういうことか!」
イアーゴも羽を広げる。
「おおっ! 確かにそうじゃねえか!」
魔法の絨毯が嬉しそうに上下へ揺れ、窓の外では象のアブーが大きく鼻を鳴らした。
「……すごいね、ジャファー。そんな方法があったなんて」
王子が感心したように微笑んだ。
「……恐れ入ります、殿下」
ジャファーは満足げに頭を下げたが、アラジンが慌てて声を上げた。
「……いや、ちょっと待てよ! そんな簡単に言うけどさ! 俺、ジャスミンに会ったの、一回だけだぞ!?」
「……それがどうした?」
「どうしたって! そもそも、向こうが俺のことを好きかどうかも分からないんだぞ!」
「……ならば、好きになっていただけばよい」
「だから、それが難しいんだろ!」
アラジンが頭を抱えるが、ジャファーはまったく動じなかった。
「……何を情けないことを言っておる。貴様、王女殿下に会うために、わざわざ魔法のランプを使って王子になったのであろう?」
「……そ、それはそうだけど」
「ならば、最初から目的は変わってないではないか」
「……うっ」
正論にアラジンは言葉に詰まった。そんな彼を見ながら、王子が楽しそうに笑った。
「……じゃあ、僕たちで協力しましょうか。アラジンさんが姉上と仲良くなれるように、みんなで考えるんです」
「……殿下?」
ジャファーが目を瞬かせた。
「せっかくですし、僕も姉上には幸せになってほしいですから。アラジンさんのような方なら安心です。あ、もう盗みはダメですよ」
ジャファーはゆっくりと頷いた。
「なるほど……それも、悪くありませんな」
「おっ! 何だ何だ! 恋の作戦会議ってやつか!?」
ジーニーが嬉しそうに声を上げた。
「いいねぇ! そういうの大好き! 任せとけって!」
次の瞬間、ジーニーは派手な音と共に軍服姿へと変身し、巨大な黒板を取り出した。そこには、何故か大きなハートマークと共に、
『アラジン&ジャスミン 恋愛大作戦!』
という文字が書かれていた。
「……仕事が早いね」
王子が感心したように呟く。
「当然! 恋愛の強制はできないけど、恋のお手伝いなら大歓迎さ!」
ジーニーは得意げに胸を張った。
「……ふむ。では、まずは王女殿下の好みを調べるところからか」
ジャファーが真剣な表情で口を開く。
「……姉上の好みかぁ。とりあえず、偉そうな人は嫌いだと思うよ」
「……なるほど」
「あと、お金持ちだって自慢する人も苦手かな」
ジャファーがゆっくりとアラジンを見る。アラジンも、自分の豪華な衣装へと視線を落とした。続いて、窓の外にいる巨大な象を見た。さらに、王宮の外で待機している、黄金を積んだ大量の従者たちを思い出した。
「なあ、ジーニー。……もしかして、俺、最初から間違えた?」
ジーニーは無言で親指を立てた。
「……盛大にね!」
「……嘘だろぉ!?」
アラジンが頭を抱え、その様子を見て、王子は堪えきれずに笑い始めた。
「……あはははっ!」
「殿下! 笑い事ではございませんぞ!」
ジャファーが真剣な表情で王子を注意したが、アラジンをチラ見し、
「……まずは、その成金趣味を何とかせねばならんな」
「だから、これはジーニーが用意したんだって!」
「言い訳をするな!」
「言い訳じゃないって!」
「まあまあ、二人とも」
王子が笑いながら仲裁する。そして、紅茶のカップを置くと、楽しそうに微笑んだ。
「……それじゃあ、みんなで考えようか」
ジャファーは真剣な表情で頷き、ジーニーは嬉しそうに黒板へ向き直る。イアーゴは何やら余計なことを言い始め、魔法の絨毯は机の上に飛び乗った。そして、アラジンはというと、
「……何で、こんな大ごとになってるんだよ……」
そう呟きながらも、どこか嬉しそうに笑っていた。こうして、アグラバー王国の王宮にて、王子、国務大臣、王子の格好をした盗人、魔人、オウム、魔法の絨毯、そして象になった猿という、何とも奇妙な面々による作戦会議が始まった。
その目的は、ただ一つ。アラジンとジャスミン王女を、何としてでも結ばせること。もっとも、この作戦の中心人物であるジャスミン王女本人は、そんな計画が進められていることなど、知る由もなかった。
第五・五章 転生王子の内心事情
前も言いましたが、僕には前世の記憶があります。僕が生まれ変わったこの世界は、前世で見たことのあるディズニー映画『アラジン』の世界。しかも、僕の立場はジャスミンの弟。原作には登場しなかった、アグラバー王国の王子です。
最初は驚きましたよ? だって、生まれ変わったら王族で、しかも、父上はあのサルタン王。姉上はジャスミン。そして、僕の教育係はジャファーです。原作を知っている人なら、間違いなく警戒する顔ぶれでしょう。
でも、実際に一緒に暮らしてみると、皆さん、案外悪い人たちではないんですよね。父上は少し……いえ、かなり考えが甘いところがありますが、家族への愛情は本物ですし、姉上は自由奔放ですが、根は優しい人です。そして、ジャファー。
……うん。この人については、少し説明が必要かもしれません。何しろ、僕にとってジャファーは、物心ついた頃から勉強を教えてくれている先生であり、政務の師匠であり、時には父上以上に厳しく叱ってくれる人ですから。
原作では悪役でしたけど、僕にとっては大切な人なんです。もっとも、本人にそう言ったら、きっと困った顔をするでしょうね。……ちょっと見てみたい気もします。
さて。そんな僕の周囲で、最近、原作に関係する出来事が次々と起きています。まずは、ジャファーが魔法のランプを探し始めた件から振り返ってみましょう。
◇◇◇
最近、ジャファーの機嫌が悪いです。……いや、正確には、僕の前ではいつもどおりなんですけどね。ただ、長年一緒に過ごしてきたので、さすがに分かります。書類を確認する時の眉間の皺が、いつもより少し深いんですよ。
原因は、たぶん父上でしょう。何となく想像はつきますが、姉上の結婚相手を次期国王にする、とか言ったのかもしれませんね。
……僕自身は別に王様になりたくて仕方がないというわけではありませんよ? ただ、幼い頃からジャファーに帝王学を教わって、政務にも参加して、街の様子も調べてきたわけです。それを全部無視して、姉上の結婚相手に王位を譲るというのは……。
……うーん。さすがに、ジャファーが怒るのも分かります。まあ、父上としては姉上を手元に置いておきたいだけなんでしょうけど。仕方のない人ですね、本当に。それにしても、ジャファーが最近、古い文献を調べているのが少し気になります。あれ、たぶん魔法のランプについてですよね。ということは、そろそろ原作が始まるのでしょうか?
……そういえば、原作のジャファーって、ランプを手に入れて自分が国王になろうとしていたんですよね。でも、今のジャファーが王様になりたがっている姿は、あまり想像できません。
……もしかして、僕のためにランプを探しているんでしょうか? だとしたら、少し申し訳ないですね。でも、ジャファーのことですから、僕が止めても聞いてくれないでしょう。とりあえず、もう少し様子を見てみましょうか。
◇◇◇
姉上が王宮からいなくなりました。
……とうとう来ましたね。原作でも、姉上は王宮を抜け出して市場へ行っていました。なので、いつかはこうなると思っていたんですけど……まさか、何も言わずに出ていくとは。せめて僕に一言くらい相談してくれても良かったんですよ?
そうすれば、こっそり護衛をつけるなり、身分を隠して視察に同行するなり、何か方法を考えられたのに。
まあ、そういうことを嫌だ、と思っているのが姉上らしいところでもあるんですけどね。ただ、王宮中は大騒ぎです。ジャファーは捜索の指揮を執っていますし、衛兵たちは街中を走り回っています。僕も王宮で指示を出していますが、皆さん、本当に心配しています。
……姉上には、戻ってきたら少し反省してもらわないといけませんね。でも、姉上が市場にいるということは、アラジンさんと出会っている頃でしょうか?
以前、市場で会った時は驚きました。まさか、屋根から落ちそうになって登場するとは。アラジンさんは、僕が思っていたよりずっと良い人でした。盗みはいけませんけど、困っている人を見捨てるような人ではなさそうでしたし。
……うん。姉上と仲良くなってくれるなら、僕としても嬉しいですね。ただ、問題はジャファーです。原作では、アラジンさんを捕まえて魔法の洞窟へ送り込むんですよね。
……大丈夫でしょうか。いや、今のジャファーのことは信頼していますけど。何となく、嫌な予感がします。
◇◇◇
姉上が見つかりました。ひとまず安心です。ただ、一緒にいた青年が王女誘拐の容疑で捕まったそうです。名前は、アラジン。……やっぱり、そうなりましたか。
でも、少し気になることがあります。原作では、ジャファーがアラジンさんを捕らえさせていたはずですが、今回捕まえたのはラズール隊長で、しかも王女誘拐の容疑らしいんですよね。
……いや、姉上が自分の意思で王宮を抜け出したことくらい、調べれば分かると思うんですけど。まあ、警備隊長の立場からすれば、身分を隠した王女が見知らぬ青年と一緒にいたわけですから、警戒するのも当然でしょうね。一番驚いたのは、ラズール隊長が姉上を厳しく叱ったらしい、ということですね。正直かなり見直しました。ちゃんと王国のことを考えてくれているんですね。
ただ、問題は父上です。報告を聞いたその場で処刑命令を出したらしいんですよ。……父上。せめて事情を調べてからにしましょうよ。姉上のこととはいえ、感情的になりすぎです。
うーん。これはジャファーに確認した方が良さそうですね。でも、ジャファーも忙しそうです。……あれ? そういえば、アラジンさんが捕まったということは。そろそろ、魔法の洞窟でしょうか?
◇◇◇
アラジンさんが処刑されたという話を聞きました。
……もっとも、僕は原作を知っているので、本当に処刑されたとは思っていません。たぶん、ジャファーが魔法の洞窟へ連れていったんでしょう。ただ、姉上はそんなこと知りませんからね。相当落ち込んでいるようです。
少し可哀想ですが、僕がアラジンさんの生存を保証するわけにもいきません。何しろ、実際にどうなったのかは分からないわけですから。原作の知識があるとはいえ、この世界には僕という、本来存在しない王子がいるんです。細かい出来事も、少しずつ変わっています。
……アラジンさん、大丈夫でしょうか? 本当に処刑されてたりしませんよね? ちゃんとランプを手に入れて、無事に戻ってきますよね?
そして、ジャファーも帰ってきません。……何かあったのでしょうか。
◇◇◇
ジャファーが帰ってきましたが、すごく疲れています。いつも疲れているような気もしますけど、今日は特にひどいですね。やはり、魔法のランプを手に入れられなかったんでしょうか。さっきから何度も溜息を吐いています。
うーん。話しかけた方がいいでしょうか? でも、今は何か考えているみたいですし。……あ。また溜息を吐きました。
そんなことを考えていると、王宮の外が騒がしくなりました。楽器の音に歓声、何でしょう? ちょっと魔法で……あれは象? ああ、なるほど。アリ王子が来ましたか。直に見るために窓から見下ろすと、想像していた以上に豪華な行列が進んでいます。すごいですね、実際に見ると迫力が違います。
……あ。金貨をばら撒いていますね。後で市場が混乱しません? まあ、皆さん楽しそうですし、今はいいでしょう。ジーニーの魔法って本当にすごいですね。
ジャファーが窓の外を見ています。……あ、固まりました。これは、面白いことになりそうですね。
◇◇◇
ジャファーが走っていきました。あんなに慌てているジャファーは初めて見たかもしれません。しかも、アラジンさんの名前を叫んでいました。
そんなに慌てなくても、アラジンさんは逃げませんよ、たぶん。僕も後を追ってみて、王宮の入口へ到着したところで、予想どおりの光景が広がっていました。
「この、大馬鹿者が!」
「ちょ、ちょっと待てよ! 落ち着けって!」
……あはは。原作では、ジャファーとアラジンさんは明確に敵対していたはずなんですけど。今の二人、どう見ても喧嘩している知り合いにしか見えません。しかも、ジャファーがかなり感情的になっています。珍しいです。それだけ、アラジンさんのことが気になっていたんでしょうか?
「へぇ。街の泥棒から、随分な大出世ですね」
声をかけると、アラジンさんが振り返りました。覚えていてくれたみたいで、嬉しいですね。ただ、僕が王子だとは知らなかったようで、ものすごく驚いていました。それにしても、
「……いつの間にジャファーと仲良くなったんです?」
「「なってない!!」」
……息ぴったりですね。これは、本当に仲良くなれるんじゃないでしょうか? 少なくとも、ジャファーがこれだけ遠慮なく怒鳴れる相手は珍しいです。イアーゴ以外では、ほとんど見たことがありません。
あ。父上が来ました。……アリ王子を何も疑っていませんね。アバブワという国がどこにあるのかも確認していないみたいです。父上、もう少し警戒心を持った方がいいと思います。
……本当に、仕方のない人です。
◇◇◇
姉上が怒っています。ものすごく怒っています。アラジンさんが処刑されたと思っているところに、また新しい婿候補が現れた。父上は満面の笑み。……うーん。この二人、もう少し話し合った方がいいんじゃないでしょうか?
姉上は自由を求めていますが、父上は姉上を守りたい。どちらの気持ちも分かるんですけど、どうにも噛み合っていません。僕が口を挟んだところで、今は余計にこじれるだけな気がしますが。
……姉上が怒って行ってしまいました。父上も追いかけていきます。残されたのは僕とジャファー、それからアラジンさん。ジャファーは頭を抱えて、アラジンさんも困っています。とりあえず、お茶にしましょうか。
◇◇◇
アラジンさんから、魔法の洞窟での出来事を聞きました。
……ジャファーを助けるために、自分が洞窟へ落ちたんですか。アラジンさんが優しい人だということは分かっていましたが、原作ではジャファーに裏切られていたのに、今回は、ジャファーが先にアラジンさんを助けたんですね。それなら、二人の関係が少し変わっているのも納得です。
それにしても、ジャファー。あんなに怒っていたのに、アラジンさんが無事だったことには、少し安心しているように見えます。
そして、アラジンさんはジーニーと出会い、王子になったそうです。ここは原作どおりですね。
……あ。ジャファーがランプを欲しがり始めました。まあ、そもそも、ジャファーが探していたものですけど。ただ、無理やり取り上げるのは良くありません。少し止めてみましょうか。せっかくですから、ランプを欲しがる理由も聞いてみましょう。
…………ああ。やっぱり。父上が、僕ではなく姉上の結婚相手を次期国王にしようとしているんですね。だから、ジャファーはあんなに怒っていたわけですか。それにしても、アラジンさんまで怒っています。
……え? 僕って、そんなに街で評判が良いんですか? それは知りませんでした。何だか、少し照れますね。でも、街の人たちがそう思ってくれているなら、嬉しいです。ありがとうございます、アラジンさん。
それにしても、この二人、意外と意見が合いますね。さっきまで喧嘩していたのに、今は二人揃って僕を説得しています。何だか面白いですね。
あ、ジーニーも出てきました。実際に目の前で見ると、なかなか迫力があります。それに、よく喋りますね。これは、退屈しなさそうです。
◇◇◇
ジャファーが何か考え始め、アラジンさんを見て、ジーニーを見て、もう一度、アラジンさんを見ました。嫌な予感というより、面白い予感がします。
「……ありだな」
ジャファーが説明を始めました。アラジンさんが姉上と結婚して、王位を望まなければいい。そうすれば、姉上は好きな人と結婚できて、父上は姉上を手元に置いておけて、僕は本来の王位継承者として即位できる。
なるほど。確かに、その方法はありですね。僕はてっきり、原作のようにジャファーとアラジンさんが対立するものだと思っていましたが、今の二人の目的は矛盾していないんですよね。
ジャファーは僕を国王にしたい。アラジンさんは姉上と結婚したい。ついでに、僕は姉上に幸せになってほしい。それなら、協力した方が良いに決まっています。アラジンさんが悪い人ではないと分かっていますし、……盗みについては、少し問題がありますけど、姉上がアラジンさんを好きになってくれるなら、僕としても嬉しいです。
ただし、本人の気持ちが一番大切ですからね。無理やり結婚させるわけにはいきません。それでは、みんなで作戦を考えましょうか。あ、ジーニーが黒板を出しました。
僕の砂の魔法も便利ですけど、あそこまで自由自在というわけではありませんから、正直羨ましいですね。
……それにしても、アラジンさん。初手から少し間違えていたみたいですね。姉上は、お金持ちだと自慢する人が苦手なんですよ。でも、本人は一生懸命なんでしょう。応援したくなります。
さて。こうして、僕たちの恋愛作戦会議が始まりました。
……ところで。原作を知っている僕からすると、今の状況は相当おかしなことになっています。本来なら、ジャファーはアラジンさんからランプを奪おうとする悪役。アラジンさんは、ジャファーと戦う主人公。そして、ジーニーはアラジンさんの願いを叶える魔人。
……その三人が、今は仲良く姉上を口説く方法を考えているんです。しかも、ジャファーが一番真剣です。何でしょうね、この光景。前世で映画を見ていた僕が知ったら、きっと驚くでしょうが、僕はこっちの方が好きですね。せっかく僕がいるんですから、少しくらい違う結末になってもいいと思うんですよ。誰かが不幸にならなければ成立しない物語なんて、寂しいですからね。
……まあ。そのために、僕が何か特別なことをする必要があるのかは分かりませんけど。少なくとも、今の僕にできることはあります。
「……それじゃあ、まずは姉上の好きなものから考えましょうか」
僕がそう言うと、ジャファーが真剣に頷きました。
「承知いたしました、殿下。まずは王女殿下の嗜好を整理いたしましょう」
「おっ! いいねぇ! そういうの得意だぜ!」
ジーニーが楽しそうに黒板を叩きます。
「……なあ、俺も何か言った方がいいのか?」
アラジンさんが困ったように首を傾げました。
……あはは。もちろんですよ。何しろ、姉上に好きになってもらうのは、アラジンさんなんですから。
……さて。これから、どうなるんでしょうね。原作の知識があるとはいえ、僕にも先の展開は分かりません。でも、不思議と不安はありませんでした。だって、今の僕の周りには、信頼できる人たちがいるんですから。
……もっとも。
「……貴様! 王女殿下への贈り物に、金銀財宝ばかりを選ぶな!」
「だから、何が駄目なんだよ!」
「姉上は、そういうものより気持ちのこもった贈り物の方が喜ぶと思いますよ?」
「おおっ! さすが弟君! いいこと言うねぇ!」
……どうやら、しばらくは賑やかな日々が続きそうですね。まあ、それも悪くありません。むしろ、結構楽しみです。