ハリー・ポッターと合理主義の方法 (ポット@翻訳)
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「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスと合理主義の方法」編
1章「非常に低確率の日」






月あかりのもと、銀のかけらが極細の線となってきらめく……

 

(黒いローブ姿の人影が揃って倒れる)

 

……血がどくどくと流れだし、だれかがなにかを叫ぶ。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは物おきのそとの大声をできるかぎり無視しようとしていた。

 

夕食の時間まで一時間あるので、ハリーは階段下の物置にはいってファンタジー小説を読んでいる。 ふだんはとなりにいても静かにしてくれるお父さんの書斎で読むか、リヴィングルームでお母さんのソープオペラの音を無視して読書する。けれど、自分の部屋よりも静かな場所がほしいときはこうやって階段下にくるのだった。 ひとりになれる、居ごこちのよい場所だった。電話の会話、テレビ、そとの車道の音もここにはとどかない。

 

ただこの夜は、エヴァンズ゠ヴェレス家の夫妻マイケルとペチュニアの声がだんだんと大きくなり、壁も役にたたなくなってきていて、やがて会話の断片がハリーにもわかるくらいになった。

 

「……どうせでたらめ…… これで今週四度目…… ばかげたいたずらだよ、ペチュニア——」

 

ハリーはめがねの位置を直して本にもどろうとした。 この本の著者は、生物学と化学をろくに理解しない老人魔法使いを使って、この世界のドラゴンがどうやって炎をはくのかを説明しようとしている。 ハリーは基本的にサイエンスフィクションのほうが好きだったが、魔法のうちのいくらかだけでも合理的で理解可能な方法で説明()()()()()()()()かぎりは、ファンタジーも楽しめた。想像力が刺激され、もっともらしいと言えないまでも可能性のあることについて、枠をとりはらって考えさせてくれるからだ。

 

「——だからいたずらじゃないって…… 本人に見せてあげないと、いつまでも…… これからもどんどん……」

 

「……ありえないよ、わざわざハリーに…… こんな荒唐無稽な手紙を……!」

 

残念ながらその想像力はすっかり、聞こえてくる話のほうにうばわれてしまった。パパはどんな手紙を隠しているんだろうか。 もはや集中できなくなった本を閉じると、おなじみの苦にがしさがこころに浮かんできた。

 

両親からよく扱われていないわけではない。 むしろ逆だ。ハリーは最高の小学校にいれられ、その学校でも不足だとわかると、ありあまる大学生の候補からえらばれた最高の家庭教師をつけられた。 気になったことはなんでも学ぶよういつも奨励された。ほしい本はすべて買ってもらえ、数学や科学の大会に参加するための費用はいつも出してもらえた。 自分がなみはずれてめぐまれていると自覚していたし、そのことをいつも両親に感謝していた。……だが、尊重してもらえているかどうかとなると、その半分も満足しているかどうかだった。

 

といっても、もちろん両親はきかれれば我が子を尊重していると答えるだろう。 生化学のオクスフォード大学教授とリベラルなその妻は育児について進歩的な価値観をもっている()()だからだ。子ども本人を尊重することもそれにふくまれる。 しかしその尊重も、対等な大人に対する尊重とはちがった意味をもっている。相手が大人だったとしたら、本人が家のなかにいるのを無視してああいう風に話したりはしないし、よもや本人のかわりにものごとを決めてしまうなど思いもよらないだろう。

 

両親がわるいのではない。社会全体が、子どもにその程度の低い期待しかしていないのだ。かわることがあるとすれば、自分のような子どもの手によってだろう。

 

だからハリーは壁のあいだにかけた小さなハンモックから足をだして飛びおり、お父さんにとりつけてもらったランタンを消し、廊下へのドアをあけた。

 

声はすぐに小さくなった。 ハリーがリヴィングルームに足をふみいれたころには、両親はソファに座って落ちついていて、部屋でひときわ目だつテレビに映るニュースを見ていた。 エヴァンズ゠ヴェレス家のリヴィングルームは本に支配されている。 壁一面が書棚で覆われていて、どの棚も六段からなり、天井近くまで届いている。 科学、数学、歴史などなど、ハードカバーの本ばかりであふれんばかりの棚もある。 ペーパーバックのサイエンスフィクションの段は二層ある。後ろの層はティッシュ箱か木の棒で底上げされていて、前の層のうえからはみでて見えるようになっている。 それでもたりず、本はテーブルやソファにこぼれだし、窓の下にも積み重ねられている。

 

「ママ、パパ。なにかあった?」

 

「ハリー」と言ってお母さんはハリーのほうを向いて笑みをうかべた。その顔はまだ若く美人で、年齢を感じさせない。「なんでもないわ。」

 

「読書を邪魔してしまったかい?」と言ってお父さんが申し訳なさそうにした。「すまん。いつのまにか論争がちょっと白熱しすぎたようだ。」 そう言ってマイケルは笑った。

 

ハリーとお母さんはしたり顔で笑みをうかべておたがいを見あった。 エヴァンズ゠ヴェレス教授は口げんかを非文明的だとみなすものだから、彼の参加するものは自動的に『論争』に格上げされるのだ。 「いいよ。ただ、聞いちゃったんだけど。」とハリーはさりげなく強調して言う。「ぼくに手紙がとどいたとか?」

 

ハリーは二人がすばやく目線をかわしあうのを見て、察した。お母さんはなにかを期待している目、お父さんはなにかを計算している目だ。 お父さんは、とあるやっかいな認知的不協和とたたかっているのだ。 一方には手紙を隠していたことへの罪悪感がある。深刻なプライヴァシーの侵害だ。 他方では、社会的規範によって親は子がどういう情報をうけとるべきかうけとるべきでないかを決める権利があると当然のように思っている。その子がどんなにかしこく早熟であっても。

 

「そうよ。」 ペチュニアが数秒の沈黙ののち、口火を切る。「わたしが見たのは今日のがはじめて。前に見ていたら教えていたわ。お父さんは単なるいたずらの手紙だと思って、分かってくれない——」

 

「見るだけなら害はないんじゃないの?」と言って、ハリーは期待するように手をのばし、無垢に目を見ひらいて待つ態度をとった。 お父さんがことわってきたらどうするかは、考えていなかった。ハリーの服従的地位に関する話題となると、どうがんばっても理屈が通用しないのが通例だ……。

 

お父さんは一瞬ためらってからうなづいて立ちあがり、ごみ箱にむかっていき、封筒とそのなかから紙を数枚とりだした。 「たしかにそうだ。見るだけなら害はない。 ハリーはかしこい子だ。どんなホラ話をもちかけられてもひっかかったりしないからな。」

 

マイケルは手紙と封筒をハリーにわたした。ハリーのほうは、降参するとなったらすぐに上から目線になる父親に対する反論がのどまで出かかっていた。 どうやら、自分がまちがったと認めていいのは学術論文誌でだけで、大人が子ども相手にやることではない、ということらしい……

 

ハリーはテーブルに向かいながら、自分の毒舌をたしなめた。 こういうことになると、ハリーは平静でいられなくなりやすい。そうわかってはいながらも、いらだちをおさえるのに少し時間がかかってしまったりする。 ハリーは無理をしてパパに笑みをかえし、両親の熱烈な視線を感じながら、厚みのある上質な紙をひらいて読みはじめた。

 

ハリーは手紙を数秒でざっと読み、目をしばたたかせ、顔をあげて両親と目をあわせた。

 

「なにこれ。」

 

マイケル・エヴァンズ゠ヴェレスは笑顔で言った。「だろう。ずいぶんとばかげた——」

 

ハリーは両手をかかげてから、羊皮紙(こういうものは単に『紙』ではなくそう呼ばれることは知っていた)にもう一度目をおとし、ゆっくりと内容を読みなおした。

 

ポッター様

 

あなたはホグウォーツ魔術学校への入学を許可されました。おめでとうございます。必要な書籍と用品の一覧を同封しますのでご覧ください。

 

新学期は九月一日にはじまります。お返事のフクロウは七月三十一日必着といたします。

 

副総長ミネルヴァ・マクゴナガル

 

二枚目には、ファンタジー世界のロールプレイングゲームの説明書にあってもおかしくないものがならんでいた。

 

「これはなに? 時期おくれのサマーキャンプとか?」  そう言ってハリーは羊皮紙の最初につけられたみごとな紋章に目をやった。ライオンとヘビと渡りがらす(レイヴン)とアナグマ。その中央に装飾文字の『H」がある。 はあ。『ホグウォーツ(いのしし の こぶ)』ねえ。『ニュートアイズ(いもり の め)』は先約があったのか?

 

「ちがうの。」とお母さんが言う。「サマーキャンプじゃない。お父さんにも言おうとしていたんだけど……」  そこで深く息をはいて、椅子で姿勢をただして、夫から目をはなしてハリーに視線を集中した。 「妹は……あなたのお母さんのリリーは……魔女だった。 リリーもそれと同じ手紙をもらったの。 このことは誰にもしゃべらない約束だった。家族全員がそう約束したんだけど、リリーのように招聘されたなら、あなたは知るべき人間なのよ。」

 

ハリーは怒りと困惑が混ざった気持ちになり、お父さんと目線をかわしあった。 ママはハリーの生みの親の話をめったにしない。 禁句でもなんでもないが、話題にのぼることがあまりないのだ。 ハリーが一歳のとき、二人は自動車事故で死んだ。 その同じ事故でハリーはひたいに稲妻形の傷あとをおった。 ペチュニアが信じていることがらの一部がどんなものかを考えれば、二人がウィッカに傾倒していたときかされてもたいして驚きではない。ただ、彼女の深刻な調子はその話題に不釣り合いだった。

 

「ええと、その、おもしろいね、というか。でもその宗教がぼくにどういう関係があるの? 『あの人たち』ってなに?」  その正体はともかく、ハリーは『招聘』ということばの重おもしいひびきが気に入らなかった。暗い森に集まった魔女がそう宣告してポッター家の子を仲間にひきこもうとしているようなイメージだ。

 

「宗教じゃない。 ()()()()()魔女だっていうこと。 リリーは魔法が使えた。 リリーの夫、つまりあなたのお父さんも魔法使いで、二人とも十一歳のときにこのホグウォーツという魔法学校に入学した。 その手紙をもらったということは、あなたも魔法使いだっていうことなの。」

 

マイケル・エヴァンズ゠ヴェレスは笑った。ハリーもそれに続きそうになった。 ペチュニア・エヴァンズ゠ヴェレスは一家のなかでいつもどこか変わり者だった。 記憶にあるかぎりで両親のもっとも『白熱した論争』のいくつかには、彼女のおまじないが関係していた。ハリーは小さいころ病気になったとき、なにか細かな紋様のついた水晶をふりかざされたことをはっきりとおぼえている。

 

小さかったころ、ハリーはお母さんのなじみの煙たい不思議な店につれられていくのが好きだった。どれも刺激的なにおいをふりまいて奇妙な器具を売る店だった。 ありがたいことに、ハリーはそういう店で売られるものについての信仰を批判的に検討する方法をお父さんの本からおそわった。 ここ数年は、ああいった謎めいた神秘主義の雰囲気はなんの根拠もなく、すこし腹立たしいものだと感じられるようになった。

 

ハリーは笑みをうかべて、『学校用品』がならぶ羊皮紙に目をやった。 杖、呪文書、魔法薬(ポーション )用の各種材料……。三番目の部分にざっと目をとおしてみる。 いや、イノシシ(ホグ)こぶ(ウォーツ)という項目はない。でも、イモリの目ならあったし、メンドリの歯の粉末もあった。 値段はどれくらいするのだろうか。隔世遺伝の研究でニワトリの痕跡歯を成長させた事例があったことは知っている。その突然変異がずいぶんまれだということも知っている。 先住民族の呪医にとってはいろいろな使い道があったにちがいない。ともかく、あると想像されていたにちがいない。 ホグウォーツでは、これをなにに使うというのだろう。歯を衛生的にたもつためとか?

 

それでも、ハリーはお父さんにつづいて笑わなかった。というのは……

 

というのは、自分のなかのどこかに、今回はお母さんがただしいという奇妙な確信があったからだ。この、一番ありそうにない場合にかぎって。……『あなたも魔法使いだっていうことなの』。

 

「まあ、いつかチェスのウィザードにならなってくれるかもしれない。」と言ってお父さんは笑顔のまま背をむけて、ニュースを見にもどった。 「だがだれだろうと、こういった手紙を送りつづけているやつがうちの前にローブ姿ととんがり帽子であらわれた日には、精神科医を呼ぶぞ。」

 

ペチュニアはまだハリーだけを見ていた。決意のまなざしで待っていた。

 

「ママ、『魔法使い(ウィザード)』ってどういうこと?」

 

ペチュニアはくちびるを噛んだ。 「言えない。言ったらきっとわたしのことを——」 ペチュニアは口をとじ、ハリーは困惑した。 いつものお母さんなら、論理的な議論に対してただ肩をすくめて、腹立たしくなるほど冷静な様子で、自分のこころのなかの確信にだけたよって自分のやや非合理的な信念を弁護する。 今日のお母さんが見せる突然の緊張とそこから感じさせられる困惑に、ハリーは注意をひかれた。  「聞いて。わたしはもともと——こうじゃなかった——」 ペチュニアは自分のすらっとしたからだを指すような手振りをした。 「リリーのおかげなの。わたしが……わたしが()()()()()()。 何年もずっとせがんだ。 リリーはいつもわたしより美人で、だからわたしはリリーに……いじわるをした。それからリリーは()()まで使えるようになって、わたしがどんな気持ちになったか分かる? その魔法のなにかでわたしも美人にしてってせがんだの。魔法が使えないならせめて、美人になりたいって。」

 

ハリーははっとして、ペチュニアの目に涙がたまっていくのを見た。

 

「リリーはできないって言って、ばかげた言い訳をした。自分の姉にやさしくしたら世界が終わるとか、ケンタウロスから止められているとか——ほんとうにばかげた言い訳で、そういうところがわたしは大嫌いだった。 わたしは大学を卒業してすぐ、ヴァーノン・ダーズリーっていう男とつきあいだして。太った男で、わたしに話してくれるのは彼だけだった。その彼が、子どもがほしい、長男の名前はダドリーにしたいって言うの。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、って思った。 自分の未来がその方向に流れていってしまうようで、それに耐えられなかった。 だからリリーに手紙を書いた。リリーが助けてくれないなら、わたしはいっそ——」

 

ペチュニアはそこで止まった。あきらかに悲痛な思い出を告白させてしまったことに責任を感じて、ハリーはすこしみじめな気持ちになった。 お父さんに目をやると、やはり同じようにショックをうけた様子だ。 ママにそんな暗い過去があったとは、妹にそこまで嫉妬していたとは、ぜんぜん知らなかった……。 ハリーの生みの親の二人が死んだとき、お母さんはどれくらい罪悪感をおぼえたのだろうか。

 

「とにかく……」とペチュニアは小声で言う。「リリーは折れてくれた。 リリーは危険だと言ったけれど、わたしは気にしないと言った。 魔法薬を飲んで、何週間か具合が悪くなって、それがなおったときには、肌がすべすべになって肉づきがよくなって……わたしはきれいになった。 ()()にしてもらえるようになった。」 声が切れた。「それからはもうリリーのことを嫌いになれなかった。特にリリーに最後に魔法に何をされたかを知ってから——」

 

「ペチュニア。」とマイケルはやさしく言う。「それは病気だったんだ。体重は寝ているあいだに増えた。肌は自然にすべすべになった。 あるいは、病気のせいで食習慣が変わって——」

 

「そういうんじゃないの。あれは魔法。ほんものの魔法。ちゃんと見たし、それだけじゃなく——」

 

「ペチュニア。」とマイケルは言う。いらだちがまた声にこもってきている。 「そんなはずがないことはきみにも()()()()()()だろう。ぼくが説明しないといけないとでも?」

 

ペチュニアは両手をにぎった。いまにも泣きだしそうな様子だ。 「あなたには口では勝てないわよね。でもこれだけは信じて——」

 

()()()()!」

 

二人ともとまってハリーを見た。ハリーは深く息をはいてこの問題を検討した。 「ママ、()()()両親は魔法が使えなかったんでしょ?」

 

「そうよ。リリーだけだった。」

 

「ならママの家族も手紙を信じられなかったでしょ。どうやって納得したの?」

 

「ああ。手紙だけじゃなくて、ホグウォーツから先生も来て、その人が——」  ペチュニアはマイケルに目を一瞬やった。「魔法をみせてくれた。」

 

「それなら決まりだ。 二人ともけんかはしなくていい。 これが本物なら、ぼくらはただホグウォーツの先生が来て魔法をみせてくれるのを待てばいい。 それをみたらパパは本物だと認める。 そうでないなら、ママはこれが偽物だと認める。 実験的方法はこのためにあるんだよ。こうすれば問題を解決するのに言い争いは必要ない。」  かなわない望みとはわかっているが、今回だけは聞き入れてくれないものか……

 

「おいおいハリー……」とエヴァンズ゠ヴェレス教授が言った。「()()だって? いくら十歳とはいえ、こんなのを本気にするような子じゃなかっただろう。」

 

() ()() ()()

 

そのかわりにおちついた声のままでハリーは言った。 「ママ、パパにこの口論で勝ちたいなら、『ファインマン物理学』第一巻の二章を見て。 科学になにが絶対必要かについて哲学者はいろいろ言うけど、そのどれもすべてまちがいだ、なぜなら観察こそ最後の審判だというのが科学における唯一の規則だから——つまり世界を観察して見えたものを報告すればそれだけでいい、とそこに書いてある。 ええと、いますぐにはどの部分だったか思いだせないんだけど、口論でなく実験で決着をつけるのが科学の理想形だ、みたいな部分もあったな——」

 

お母さんはハリーを見て笑顔になった。 「ありがとうハリー、でも……」と言って、夫のほうに向きなおる。「お父さんに口論で勝ちたいんじゃないの。ただ……お父さんを愛している妻の話を聞いてくれればいい。たまには信じてほしいだけなの……」

 

ハリーは一瞬目をとじた。 ()()()()()()()()。 両親二人ともどうしようもない。

 

また()()()()口論になりかけている。お母さんはお父さんに罪悪感をあたえようとする。お父さんはお母さんに自分がバカだと思わせようとする。

 

「自分の部屋にもどるよ。」とハリーは宣言した。声がすこし震えた。 「このことについてはあまりけんかしないでね。すぐに結果はわかるんだから。」

 

「もちろんだ。」とお父さんが言い、お母さんは安心してというキスをハリーにした。二人は『論争』をつづけ、ハリーは寝室にあがった。

 

ハリーはドアを後ろ手にしめ、考えようとしながら、教科書とSF本がつまった書棚のまえをすぎ、ベッドによこたわった。

 

変なのは、ハリーはパパに同意()()()だったということだ。 魔法があるという証拠はまだだれも確認していない。なのに、ママによれば巨大な魔法世界があるという。 ビデオカメラやスパイ衛星のある世界で、どうしてそんなものを隠しつづけられる? それ以上の魔法で? なんともあやしげな言い訳だ。

 

なのにハリーはこころのなかのどこかで、ママの言うことを心底信じきっていた。 自分は魔法が使える……魔法使いだと。

 

たんなるエゴだろうか? 自分に隠れた魔力があると信じたくない子どもなどいるだろうか? 自分には肥大した尊大さがあるとまわりから言われていることをハリーは知っていた。 いつか自分の実力でその尊大さを正当化するとこころに決めてもいた。 もちろん、それは科学の分野のどこかになるだろうと考えていた。 がんを治療し寿命をいくらでものばすことに成功して生物学者として世界的に有名になることを考えていた。 あるいは、物理学にいくなら、完全な低温核融合とか、世界のエネルギー不足を解決し人類を他の恒星系に送りだすとか。理屈にあうこと。だいたいのところは。いずれにしろ、魔法ではない。

 

自分の理性の力がどこか壊れてしまったのかもしれない。 ハリーは眉をひそめ、まるで傷あとがうきでてくるとでもいうかのように頭蓋骨を指でさわってみた。 最近なにかにあたまをぶつけたことはない……すくなくとも思いだせる範囲では。 ()()()()()()()()()()()()、思いだせるだろうか? 考えてみるとおそろしい発想だ。 ハリーはこころのなかで輪くぐりをしてこう確認した。すべての事実に適合するもっとも簡単なこたえこそ真実である可能性がたかいということ。どんな主張にも証拠が必要で、ありえないほどの主張にはありえないほどの証拠が必要だということ。二たす二はやはり四であるということ。

 

不愉快さが低いほうから順にいって、あれはママが冗談を言っているか、うそをついているか、狂っているかのどれかであることはあきらかと言ってよかったはずだ。 ママが自分で手紙をおくったなら、切手なしに郵便箱にとどいた理由の説明がつく。 ちょっとした狂気の可能性のほうが、宇宙があの手紙の示唆するようなしくみになっているという可能性よりはずっとずっと高い。

 

ほかのことについてのお母さんの考えはどうだろう? そのうちどれかは受け入れられそうか? 原子が『水晶』と呼ばれる特定のパターンでならんだときに、体のなかにある菌やウイルスをなぜか破壊することができる……、しかも『有害』とされるバクテリアやウイルスを破壊して有益なものはそのままにする……という考えはどうだ。 よし、これならなんの証拠にも裏づけられない、願望実現の一形態として合理的に棄却できる。 ホグウォーツからこの家にきた人がスプーンまげをはじめたなら、あの手紙をごみ箱にいれてそれ以上なにも考えない。

 

それでも、()()()魔法が使える……そんな非合理的な考えはのこった。 それについての証拠はなにも思いつかないのに。超自然的な能力も説明不可能な能力も、発揮したことはいままでの人生でいちどもない。危機や熱情によって隠れた才能が開花したこともない。 なのに、ハリーは魔法が使えると信じている。

 

ハリーはしぶい顔をして、ひたいをこすった。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 ハリーは自分に言いきかせた。 ()()()()()()()()()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ふだんならハリーはこの質問にうまくこたえられる。 今回にかぎっては、自分の脳がなにを考えているのか()()()()もつかない。 かなり小さかったころ以来、ハリーは信心にもとづく信念をもったおぼえがない。 科学的手法や合理主義になれていない人は、科学には信心が必要だと考えることがあるらしい。だれもあらゆる実験を一人でやっているわけではなく、みんなほかの科学者や教科書を通じた伝聞によって真偽を判断しているのだから、そうなのだと。

 

この考えかたがまちがっているのは、科学者というものは、教科書やほかの科学者やあるいは科学的手法に対してさえ、『信心』をもたないものだから。 科学者は()()ならする。どこかでだれかがある実験をして、くりかえしテストして結果を検証して、発見を査読にかけて、ほかの人が実験を再現できるようにしている、という信頼だ。 ハリーもその気があれば、その情報を知るだけの時間と労力をかけて、自分で実験を再現できる。 だが科学者は信じるとき、内部でなく()()のものごとにたよる。だからそれを人にみせ、教え、学ぶことができる。ハリーに科学への信心があるとすれば、パパの車が明日もうごくと信じているという程度の意味でしかない。つまり、実験と観察にもとづく信頼だ。

 

だが、今回の新しい考えは、外部要因にもとづいていない。 ほかの人に説明して納得させることができない。実地でしめして査読にかけることができる考えではない。 それはただそこにあるだけ。

 

ハリーはこころのなかで肩をすくめた。 ボタンはおされるのをまっている。 ハンドルはまわされたがる。 検証(テスト)可能な仮説についてはとっとと検証するにかぎる。

 

ハリーは机にいき、何冊か本をわきにのけて、罫線のはいった紙を一枚ひきだしからとりだし、書きはじめた。

 

ミネルヴァ・マクゴナガル様

 

ハリーはそこでとまり、考えなおし、すてて次の紙にした。シャープペンシルの黒鉛を一ミリだす。 これは丁寧な字で書かないとだめだ。

 

副総長先生

 

あるいはその他のご担当者様

 

私は先日H. ポッター宛のホグウォーツ入学許可書を受けとりました。 ご存じかもしれませんが、私の生みの親であるジェイムズ・ポッターとリリー・ポッター(旧姓ではリリー・エヴァンズ)は死に、私はリリーの姉ペチュニア・エヴァンズ゠ヴェレスとその夫マイケル・エヴァンズ゠ヴェレスの養子となりました。

 

ホグウォーツというものが実在すると仮定してですが、入学には大変興味があります。 一家で母ペチュニアだけは魔法が本当にあると言いますが、彼女は魔法を使えません。 父は懐疑的です。 私は決めかねています。 また、私は入学許可書に書かれていた本や学校用品をどこで入手できるのか知りません。

 

母によれば、リリー・ポッター(当時の名はリリー・エヴァンズ)にはホグウォーツから使者が送られ、家族に魔法を実演していただけたそうです。 さらに学校用品を入手する助けもいただいたのではないかと思います。 私の家族にも同じようにしていただければ大変ありがたいです。

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス

 

そこに現住所を書きいれ、手紙をたたんで封筒にいれ、ホグウォーツの宛名をかいた。 少し考えてから、ろうそくをもってきて封筒のとじめに蝋をたらし、小刀のさきで H.J.P.E.V のイニシャルを刻印した。 どうせこんな狂気に堕ちるなら、かっこうよくやりたい。

 

そしてドアをひらき、階段下にもどった。 お父さんはリヴィングルームで座って、自分をかしこくみせるために高等数学の本をよんでいる。 お母さんは台所で愛情のふかさをみせるためにお父さんの好きな料理をつくっている。 おたがい話をする気はまったくないようだ。 言い争いもこわいが、言い争い()()()のはさらにわるい。

 

「ママ、」とハリーは不穏な沈黙をやぶった。「仮説を検証したいんだ。ママの説でいくとすると、ホグウォーツへの手紙はどうやって送るの?」

 

お母さんは流しからハリーに向きなおって自信なさげに、「さあ。魔法のフクロウがいるんじゃないかしら。」と言った。

 

これはかなりあやしげな話にきこえてもおかしくなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。けれどハリーのなかの奇妙な確信は、さらにくびをもたげてきていた。

 

「あの手紙はどうにかしてここにとどいたんだから、そとにでてこれをふって『ホグウォーツへの手紙!』って呼んだらフクロウがとりにくるかどうか試してみるよ。パパ、見にくる?」

 

お父さんはわずかにくびをふって本を読みつづけた。 ()()()()、とハリーは思った。 魔法を信じるなど愚かではしたないことだ、この仮説を()()したりとか検証されるのを()()したりしたら、それだけで()()()()()()をもったような気になってしまう、というのだろう……

 

裏口から庭にとびでるまで気づいていなかったが、もしフクロウが()()()()()きて手紙を持ちさったりしてしまったとすると、それはそれでパパに説明しにくいことになる。

 

でも——まあ——()()()()起こるはずはないよね? ぼくの脳がなぜか信じようとしているのはともかく、もしもフクロウがほんとうに封筒をさらいにきたとしたら、パパにどう思われるかどころじゃない問題がでてくる。

 

ハリーはふかく息をはいて、封筒を空中にもちあげた。

 

そして息をすった。

 

自分の庭のまんなかで『ホグウォーツへの手紙!』と呼びかけながら封筒を空中にたかくもちあげるのは……考えてみれば、実のところかなり恥ずかしい。

 

いや、ぼくはそんな程度の人間じゃない。結果としてバカみたいに見えても、科学的方法でやるんだ。

 

「ホグウォ——」とハリーは言ったが、どちらかというとしわがれた小声になってしまった。

 

決心をかたくしてハリーはなにもない空にむけて「『ホグウォーツへの手紙』! ()()()()()()()()()()!」

 

「ハリーくん?」と、とまどった女性の声がちかくから聞こえた。

 

火にふれたかのようにしてハリーは手をひきもどし、麻薬とりひきのおかねのように封筒を背中にかくした。恥ずかしさで顔ぜんたいがあつくなった。

 

年配の女性の顔がとなりの垣根のうえからのぞいてきた。ヘアネットからねずみ色の髪の毛がはみでている。 ときどき子守りをしてくれたフィッグさんだ。「あなたなにをしているの?」

 

「なにも。」とハリーは息をつまらせて言う。「こんにちはフィッグさん。これはただ……とあるバカみたいな理論を検証しようとしていて——」

 

「ホグウォーツへの入学許可書がとどいたの?」

 

ハリーは凍りついた。

 

「そうです。」とハリーのくちびるが少しあとで言った。「ホグウォーツから手紙がきました。七月三十一日までにフクロウで返信してくれと言うんですが、ぼくは——」

 

「フクロウを()()()()()。ひどいわね! いったいなんのつもりかしら。あなたに定型の手紙をおくるだけですませるなんて。」

 

しわのはいった腕が垣根をこえてきて、期待のこもった手がひろげられた。この時点でほとんどなにも考えられなくなっていたハリーは封筒をてわたした。

 

「あたしにまかせなさい。ちょっと待ってて、だれかこさせるから。」

 

フィッグさんの顔が垣根のうえから消えた。

 

庭にながい沈黙がおりた。

 

そして少年の落ち着いた声が静かに「なにこれ。」と言った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

編集・加筆:Daystar

 





今回の非ハリポタ用語:「ファインマン」
20世紀の伝説的な物理学者リチャード・ファインマン。『ご冗談でしょう、ファインマンさん』という軽妙なエッセイ集でも有名。


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2章「ぼくが信じてきたことはすべてうそ」





「ぼくのせいに決まっているじゃないですか。あらゆることに責任があっていいのは、このなかでぼくだけなんですから。」

 

◆ ◆ ◆

 

おかしなことだがけっきょくのところ、フクロウが手紙をとりにきたとパパに説明するほうが楽だったかもしれない。

 

「は? ()()()()()()()()」  エヴァンズ゠ヴェレス教授のうけたショックは甚大だった。 ハリーも完全に同感で、 リヴィングルームと台所のあいだのテーブルのまえに座りながら、すこしめまいがしそうな気分だった。

 

「来るのは何時って?」とペチュニアがきいた。 蒸し焼きなべをチェックしながら、髪の毛を手でなでつけた。まるで、いつ呼び鈴がならされてもおかしくない、とでも言いたげだ。

 

「フィッグさんとは十年のつきあいだよな。ちゃんと理屈の通じる人だ。いったいなぜフィッグさんが——」とパパ。

 

「ママ、何時とは言われなかったよ。『ちょっと』で来るんだってさ。どれくらい遠くなのか知らないけど、たぶんそんなには……」  そこまで言いかけて気づいたが、検証されつつあるこの仮説を仮定するなら、あの蒸し焼きができるよりずっとはやく着くのかもしれない。 いや、ばかげてる、瞬間移動がやぶる物理法則はおおすぎてほとんど()()()のこらないようなものだぞ、とハリーは自分に言いきかせた。 しかし『ホグウォーツ』ということばがフィッグさんの口からでてから、ハリーの脳はまともに働いていないようだった。 フィッグさんとは十年のつきあいだ、というお父さんの話をハリーはこころのどこかにメモした。 フィッグさんはハリーが養子になった年に引っ越してきたのか? これは重要そうだ。どういう風に重要なのかはさっぱりだが。

 

「実はあの人が、あの手紙を送りつづけてたんだとか。」と言って、パパはリヴィングルームのかぎられた面積のなかでいったりきたりし、本のあいだを記憶にたよって無意識に軽がると通りぬける。 「あるいは、きみの妹とおなじカルトにはいっていたとか——」

 

「念のため席をつくっておきましょう。」と言って、ママはハリーのまえに皿をつんだ。ハリーは普通以上の注意をしながらフォークとナイフをおいて四人用にテーブルを準備した。 パパの説はもちろんもっともで、ハリーの説よりももっともだが、お碗をとりにいくあいだ、あの奇妙な確信がやはりハリーの思考に影響した。

 

パパは突然ソファの背をつかみ、戦慄した。 「ハリーの子守りまでしてもらったりしてしまったじゃないか!」

 

ドアへノックがあり、全員がその場で凍りついた。

 

パパの硬直が最初にとけた。背をのばして肩をいからせ、玄関のドアに歩いていった。ツイードの普段着で尊厳が強調されている。

 

ママはタオルで手をふくとそのあとをついていった。ハリーもいそいで追いかけた。フィッグさんだろうかと思いながら、なぜかそうではないと知っていた。 パパはのぞき穴に目をあてて、つつかれたかのようにはねかえった。ハリーの予感は倍増した。

 

「どなたですか?」  エヴァンズ゠ヴェレス教授の声は震えていない。

 

「教授のミネルヴァ・マクゴナガルです。」とスコットランドなまりのあらたまった声が言い、マイケルはひきつった。 なぜだろうとハリーは思ったが、パパがドアをあけるとわかった。

 

マクゴナガル教授はおそらく六十代の年配女性で、灰色になりかけた髪をきつくしばり、四角の眼鏡を鼻にかけている。 どの部分も自称どおり教授らしいみためだが、上等の生地の黒ローブとさきのとがった帽子の二点だけがちがう。

 

ハリーはにやりとした。 お父さんは『教授』についてのイメージをひどくけがされたのだ。

 

「どうぞ、おはいりください。」と言ってペチュニアが笑みをうかべた。「夕食はもうすぐ準備できます。もしお召しあがりになるのなら。」

 

「食事はすませました。おかまいなく。」と言ってマクゴナガル教授はなかにはいった。 ハリーら三人は一歩ひいて道をあけた。

 

「ペチュニア・エヴァンズ゠ヴェレスです。はじめまして。」二人は広間に歩いていき、ハリーとパパはドアのまえにのこった。 ハリーはドアをしめて、お父さんと目線をかわした。

 

「どうみる?」とハリーはささやく。「そろそろ精神科医をよぶ?」

 

パパは鼻をならしてハリーの肩をたたいた。 「いくぞ。こんな冗談はさっさとおしまいにしよう。」  二人は女性二人を追ってリヴィングルームへはいった。

 

「なにか実験のアイデアは?」  ハリーはまだふらついている。奇妙な確信はさらにつよまり、あの女性が魔女だということはほとんど受けいれることができてしまい、あとはほとんど形式上のことだけだというような気分になっていた。それが具体的にどういう意味なのか、ろくにわかっていないにもかかわらず。

 

「言いのがれさせないようなやりかたは、なにも思いつかない。」とお父さんがやはり声をひそめて言った。 ハリーはうなづいて、リヴィングに立って待つ客人に正面から対決しようと決めた。 マクゴナガル教授は積み重なった本の山を、ある種尊敬するような態度で見ていた。ハリーはその様子を見て安心した。

 

「こんばんはマクゴナガル先生。ご承知と思いますが——」ハリーは言葉を切った。 この人は実際()()()承知しているのだろうか。 ぼくの手紙はうけとったのか? フィッグさんはなにをしたのか? 手紙を読みあげて電話で聞かせでもしたのか? ここにくるまえに、となりに立ち寄って手紙をもらってきたのかもしれない……。ハリーはいくつもの疑問をおさえて、言いなおした。 「ぼくはハリー・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスです。 ホグウォーツからの手紙をもらっておどろきました。 それが本物かどうか、じゃっかん疑っています。 ママは以前魔法を見たことがあるといっているけれど、パパとぼくは見たことがありません。 もし魔法をここで実演していただけるなら、第一歩としてはたすかります。」

 

マクゴナガル教授はハリーが話すあいだ愉快そうに見ていた。 「もちろん、よろこんで。」  彼女は手なれた様子で優雅にそでから細い木の棒をとりだし、ハリーは目をしばたたかせた。 その棒のかたちは生地に浮きでていなかったし、止めておかれていなかったなら落ちてきていたはずだ。 「具体的になにをすれば納得していただけるでしょうか?」

 

その手品のトリックであたまがいっぱいで、一瞬遅れてやっと、それが『魔法の杖』であることにハリーは気づいた。そして、最初にあたまにうかんだことをそのまま言った。 「そこから火をだせますか?」

 

「ハリー!」とママがすこし警戒する声で言った。マクゴナガル教授のくちびるが一瞬ほほえむ形になった。

 

「できます。でもここではあぶないかと。」と彼女は指摘するようにまわりをみわたした。「もうすこし安全なのにしませんか?」

 

「もちろん。」とハリーはほおを赤くして言う。 「ええと……ここには飛んできたんですか? 車の音はしなかったし、近くにおすまいでなければどうやってこんなにはやく来れたのかわかりません。 すこし……空中に浮かんでもらえたりしますか? それでたしにはなる。 いや、というより、パパを浮かばせてくれたほうがいいですね。」

 

エヴァンズ゠ヴェレス教授は賛成するようにうなづき、一歩まえにでて、うでを組み客人に対面した。 マクゴナガル教授は杖をたかくあげ、ハリーは自分のまちがいに気づいた。 「ちょっと待って!」とハリー。彼女は杖をおろし、片眉をあげた。「間違いのないようにしたいんです。」  みなの視線があつまるなか、ハリーは一瞬考えた。

 

「では、確認しておくけれども……マクゴナガル先生がパパを浮かばせることができたら、鉄線もなにもついていないとわかっている以上、それで十分な証拠になる。 パパはそこで手品師のトリックだと言って意見をかえたりしない。 そういうのはフェアじゃない。 もしそう思ってるなら、いま言うべきだ。そして先生には別のことをやってもらうことにしよう。」

 

パパはうなづいて、行儀よく笑みをうかべた。「同意する。」

 

「そしてママ。ママの説によればマクゴナガル先生はこれをできるはずだ。もしこれができなかったら、ママは間違いをみとめる。 懐疑的な人にむけては魔法ははたらかない、とか、そういうのはなし。」

 

ママはマクゴナガル先生の杖に目をやって、うなづいた。

 

「それができれば満足ですか、ミスター・ポッター? もう実演していいでしょうか?」

 

「満足とまではいかないでしょうが、とりあえずはそれでけっこうです。」  彼女の方法論を見てからなら、個々の動きと結果との関係をより細かく分離できるはずだ……なんらかの結果があるとしてだが。自分はお父さんが浮遊しだすのをほんとうに期待しているのか? 「はじめてください。」

 

「ぼくはなにかしたほうがいいですか?」とエヴァンズ゠ヴェレス教授が笑みのまま言う。「軽いものを思いうかべるとか?」

 

「いえ、それにはおよびません。」とこたえてから、マクゴナガル教授はこう言った。「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」

 

ハリーはお父さんを見あげた。「あ。」

 

お父さんはハリーを見おろした。「あ。」

 

そして、ハリーがこれからさきいつも思いだすであろう短い静寂の時間があった……。この瞬間、ハリーの世界はまるでかわってしまった。水晶のなかに封じこめられたようにすべてが静止した。 ハリーとお母さんはびっくりしてみつめ、魔女はお父さんにむけて杖をかざし、お父さんは地面からたっぷり三フィートうえに、重力を完全に無視してうかんでいた。

 

そしてヴェレス゠エヴァンズ教授はマクゴナガル教授のほうにむきなおって、ハリーがきいたことない声で言った。 「わかった。もうけっこう。おろしてください。」  お父さんは慎重に地面におろされ、その瞬間は終わった。宇宙はもとどおりうごきはじめた。

 

ハリーは黒みがかった髪の毛を手でかきみだした。 ハリーのなかの奇妙な一部分が()()()納得してしまっていたせいかもしれないが……「ちょっと拍子ぬけ(アンチクライマックス)だったな。 無限小の確率だった観測を受けて確率を更新する場合にはもっとドラマティックな心的事象があってもおかしくないのに。」  ハリーはそこでことばを切った。ママと魔女がハリーを変な目で見ている。 パパは椅子のうえの本をどけもせずにゆっくり座り、マクゴナガル教授の手のなかの木の棒をみつめた。 「つまり、ぼくが信じてきたことすべてがうそだったとわかった場合、っていうこと。」

 

まじめに言って、もっとドラマティックなできごとのはずだった。 ハリーの脳は宇宙に関して持っていた仮説をぜんぶ捨てはじめていてもいいはずだ。どの仮説でもこんなことは許されない。 なのに、脳は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() というような感じだ。

 

魔女は三人にむけてやさしげなほほえみを見せ、愉快そうにしている。 「まだ実演がいりますか、ミスター・ポッター?」

 

「いえ、いいです。 実験の信頼性を保証するにはもう一度実演をお願いしておいたほうがいいんですが、実験としてはこれで決定的です。鏡のトリックみたいなものじゃなく、催眠的誘導でもなく、パパは実際に地面から浮きあがった。ぼくたちはそれをみた。ただ……」  ハリーはためらった。我慢できそうにない。というか、この状況では我慢()()()()()()()。好奇心をもつのはただしいことだ。 「ほかになにが()()()んです?」

 

「火のほかに、ですね?」

 

パパはさっきのママとおなじくらい警戒する表情になった。

 

「はい。それ以外で。」  実を言えば、それも見ておきたかったが。興奮してきた。ぼくも空をとべるのだろうか? 火を自分の意思でつくりだせるのか? どうやって? 原子を空中で加速して燃焼を生じさせるのか? ()()()()()()()()()——

 

マクゴナガル教授はネコになった。

 

ハリーは考えるまえに飛びのいた。あとずさりしたいきおいで、はぐれでていた本の山につまづいてしりもちをついた。 手でからだをうけるのも間にあわず、肩のあたりに予告するような痛みがあり、バランスを崩してたおれた。

 

小さな太ったネコが、一瞬でローブ姿の女性にもどった。 「ごめんなさい、ミスター・ポッター。」と言う魔女の声はまじめだが、口角があがりくちびるがぷるぷるしている。「予告してあげてからにすべきでしたね。」

 

ハリーは息をあえがせた。こころのなかのダムが決壊したような気分だ。 やっとのことで声がでた。 「そんなバカな!」

 

「ただの〈転成術〉(トランスフィギュレイション)です。」とマクゴナガル教授。「厳密には〈動物師(アニメイガス)〉変身術ですが。」

 

「ネコに! 小さなネコに変身するなんて! あなたは〈エネルギー保存則〉をやぶったんですよ! この保存則はそこらの規則とはちがう。量子ハミルトニアンの形式から導出されるんだ! これがやぶられるとユニタリー性が破壊されて超光速通信が可能になってしまう! それにネコは単純じゃない! 人間のあたまでネコ一体の解剖学とネコ生化学を図解したイメージなんかできたりしない。 それに()()()は? どうやってネコなみの脳で()()をしつづけられるんだ?」

 

マクゴナガル教授のくちびるはもっとはげしくぷるぷるしている。「魔法(マジック)です。」

 

「魔法じゃ()()()()()()! 神にでもならないと!」

 

マクゴナガル教授は目をしばたたかせた。 「そういう風によばれたのははじめてです。」

 

ハリーの脳が眼前の事件を理解しはじめると、視界がぼけてきだした。 こういう衝撃を期待していたんだ。遅延のあとだけにより強力だ。

 

そのときトイレにながされたのは、数学的に正則な統一宇宙という考えかた、つまり()()()という考えかたそのものだ。 三千年かけて、大きく複雑なものごとを小さな部品に分解し、惑星の音楽が木から落ちるリンゴと同じ旋律であることを発見し、真の法則は完全に普遍的でどこにも例外がなく、極小の部品を支配する単純な数学の形式をとると発見してきた歴史が投げ捨てられた。()()()()()()()、こころは脳で、脳はニューロンでできていて、脳はその人()()()()で……

 

そして女はネコに変身する。ぜんぶだいなしだ。

 

ハリーは頭痛がした。

 

ハリーのくちびるをめぐって百個の質問があらそい、勝者が語りだした。 「そもそも『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』という詠唱はなんなんですか? 幼稚園児がこういう呪文のことばを発明したとでも?」

 

「そこまでにしましょうか、ミスター・ポッター。」  マクゴナガル教授は端的に言ったが、瞳は愉快さを隠してかがやいていた。 「魔法をまなびたいなら、ホグウォーツにかよえるように書類をしあげてしまいませんか。」

 

「そうですね。」とハリーは呆然としながら言った。 書類か。 魔法の世界でもどうやらかわらないことはあるらしい。 ハリーは考えをまとめてたちあがった。 〈理性の行進〉はやりなおしだが、それだけだ。実験的方法はまだのこっている。それが重要だ。

 

「あなた大丈夫?」とママが夫にのかたに手をのせながら言った。

 

エヴァンズ゠ヴェレス教授はだいぶ血の気がひいてみえた。彼は妻の手をつつんで、「大丈夫だと思う。ありがとう。」と言う。そして、めずらしくおおっぴらに愛情をみせようと、その手を自分のくちびるにひきよせた。「それに……すまなかった。」

 

ペチュニアは笑顔で手をにぎりかえし「いいわ。わたしもリリーのときはなかなか信じなかったし、わたしはあなたの半分ほどの理由もなしにそうしていたから。」

 

パパは笑みをみせ、そしてハリーのほうをむいた。 「きみにも謝らないとな。きみがただしかった。『最後の審判は観察』だな。ぼくにこれをぜんぶうけとめきれるかどうかはわからないが……」

 

ハリーはすこしことばにつまらせたが、二人に笑みをかえした。 「ぼくはたすけられてたんだよ。そうでなかったらぼくもうたがっていたと思う。魔法使いだからかもしれない。いつか説明するよ。」  マクゴナガル教授のほうをむいた。ハリーは彼女がホグウォーツの副総長でもあることを思いだした。ほんとうの魔法学校。こんな先生がいるその学校がどういう感じのものかさっぱりわからない。 「準備はできています。ホグウォーツにはどうやっていくんですか?」

 

短い笑いがマクゴナガル教授からピンセットでつまみだされたかのようにしてもれた。「魔法であなたをさらったりするのを期待しているのでしたら、そんなことはしませんよ。許可書にあるとおり、学期は九月一日からはじまります。移動の方法と学校用品の買いかたはそのときにわたしがまたここにきて説明します。」

 

「ちょっと待った、ハリー。なぜきみがいままで学校にかよっていないのか忘れてないか? あの症状はどうする?」

 

マクゴナガル教授はマイケルのほうをむいた。 「あの症状? なんのことですか?」

 

「ぼくは睡眠障害なんです。」と言ってハリーは手をたよりなさげにふった。「ぼくの睡眠周期は二十六時間あります。 午後十時、午前零時、午前二時、午前四時というように、毎日二時間ずつおそく寝つきます。 はやおきを試してみても効果はなく、一日じゅう役立たずになるだけ。 だからこれまでぼくはふつうの学校にいっていないんです。」

 

「理由はそれだけじゃないでしょ。」とお母さんが言う。ハリーはたじろいだ。将来の先生であり副総長である人に偏見をもたれたくない。

 

そうする権利が多少あったとしても?——とハリーのこころのなかの自己批評家がきいた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と功利主義的な部分のハリーが言った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()——

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() とハリーのイド〔訳注:フロイトの用語で本能的衝動の源泉である自我〕が言い、ハリーのほかの部分が同意して沈黙した。

 

マクゴナガルは一度ゆっくりうなってから口をひらいた。「わたしの記憶しているかぎり、そのような症状は初耳ですが……マダム・ポンフリーが治療方法を知っているかもしれないので、あとで確認してみます。」  そして顔をあかるくして、「いえ、じつのところ問題ありませんね——時間をみつけて解決策を用意しておきます。ところで」と、まなざしをまた、きつくする。「ほかにも理由があるそうですが、それはなんですか?」

 

ハリーは両親をにらんで、肩をはった。「ぼくは……」とあえて重みをこめて言う。「児童教育に関して良心的徴兵拒否をしています。学校教育は崩壊しつつあり、最小限度の品質の教員や教材を提供することにすら失敗している。ぼくがその犠牲になる必要はないからです。」

 

ハリーの両親は笑ってふきだした。「おや」とお父さんは目をかがやかせて言う。「三年生のとき算数の教師に噛みついたのは()()が理由だったのか?」

 

「あの先生は対数も知らなかったんだ!」

 

「もちろん」とママがつづく。「それなら、先生に噛みつくのはかなりおとなびた対応ね。」

 

パパがうなづいた。「崩壊しつつある学校教育の失敗を是正するための思慮深い政策だ。」

 

「ぼくは()()だったんだ! いつまでその話をむしかえすの?」

 

「そうね」とお母さんが同情するように言う。「教師()()()に噛みついただけで、いつまでも忘れさせてもらえないなんてね?」

 

お父さんが含み笑いをしたところで、ハリーはマクゴナガル教授のほうをむいた。「魔法でぼくをさらったりできないというのは間違いありませんか?」

 

「ありませんね」とマクゴナガル教授の抑制された笑みはにこやかな笑いにいつ変わってもおかしくない状態だった。「ホグウォーツでは教師を噛むことは許されません。この点はおわかりですか、ミスター・ポッター?」

 

ハリーは彼女をにらんだ。「いいでしょう。さきに噛みついてきた相手でなければぼくも噛みつきません。」

 

「火山の噴火口を製作するのもやめさせておいたほうがいいでしょうね。」とパパが提案し、ママは大声で笑いだした。「建て物を耐火性にする魔法があるのであれば別ですが。」

 

()()!」とハリーは頬をまっかにしてさけんだ。

 

「状況をかんがみると、学校用品を買いにつれていくのは学校がはじまる一、二日まえまで避けたほうがよさそうです。」

 

「は? なぜ? ほかの子はもう魔法を知っているんでしょう? すぐにはじめて追いつかなきゃ! 学校を全焼させたりはしないと約束します!」と口にだしてしまってから一秒後、それを言う()()()()()ということ自体あまり有望な兆候ではないとハリーは気づいた。

 

「ご安心を、ミスター・ポッター。」とマクゴナガル教授はかえした。「どの生徒もホグウォーツでは基礎からはじめます。本校は自壊の危機におちいらずに生徒を教育する能力があります。いっぽう、杖なしであれ、あなたに教科書をわたして二カ月かってにやらせておくと、つぎにわたしがきたときにはこの家が紫の煙がたちのぼるクレーターと化し、まわりの街は過疎化し、シマウマが燃えながらオクスフォード大学の廃墟を跋扈していることになりそうです。」

 

お母さんとお父さんは完全に同調してうなづいた。

 

「ママ! パパ!」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

編集・加筆:Daystar

 





今回の非ハリポタ用語:「超光速通信」
光より速いものはなく、光の速さを超える情報伝達も不可能、といわれるが、スペースオペラ系のSFではよく、超光速通信がでてくる。これがないと、銀河をまたにかける大帝国などの話がまずできないので……


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3章「現実とその代替候補を比較する」





「だがそれなら問題は——だれなのか?」

 

◆ ◆ ◆

 

「ハリー、あなたにここに来なきゃいけない責任はないっていうことは覚えておいてね。」

 

「わかってるよ、ママ。」

 

「家にかえりたかったら電話して。すぐにむかえにくるから。」

 

「わかったよ。」  ()()()()()()()()()()()()()()()

 

ペチュニア・エヴァンズ゠ヴェレスは車のバックミラーからハリーのほうを見ていた。まるでハリーの考えは簡単に読めていて、その内容に困っているというように。今日までの数週間は、かなりの大騒ぎだった。ハリーはまずお母さんのわずかな魔法の実体験を問いただし(「ママ、ママが考えたことや読んだことはいいから()()()()を教えて。」)、つぎに一人で調査をし、こちらはすぐに無駄だと分かった。 魔法についての本はどれも、小さく曖昧な不幸をもたらすための複雑な儀式とか、『ひきよせの法則』により富と幸福をもたらす方法とか、そのほか気分をよくするためだけの反証可能性のないことをあつかっているものばかりだった。 ネコへの変身はいうにおよばず、二言三言の呪文と杖のひとふりで人を地面から浮かばせるのに()()()()()近いものはまったくみつからず、『ホグウォーツ』への言及も皆無だった。

 

あきらかになんらかの組織的な力によって、()()()()()魔法は本屋や図書館からしめだされている。 このことは困りものでもありスリルでもあった。 いっぽうでは、フィクションでしか読んだことのないようなたぐいの巨大な世界規模の陰謀に自分がくわわりつつある。 もういっぽうでは、一群の人間が秘密裏にそのような陰謀をはりめぐらすことができるということが事実だと思うと、すこしこわくもある。 あの人たちはどれくらい全能なのか。魔法でない側の当局はその工作に協力しているのか。ハリーがどんな魔法をつかえるのか、フィッグさんにきこうとしても、完全に回答を拒否された。マクゴナガルから口止めされたのではないかと思うが、フィッグさんが言うにはとにかく「安全のため」らしい。

 

おとといになってやっと、もう一通の手紙が家にとどいた。 マクゴガナル先生からの手紙で、学校用品を買いにいくために合流する時間と場所が指定されていた。 そしてこの朝、ハリーはママの運転する車にのせられてロンドンにきた。 ママはめずらしく口数がすくなく神経質な様子だ。 きっとハリーがわるい第一印象をあたえることを心配しているからだろう。だが、魔法世界への招待をだいなしにしかねないトラブルは起こすまいとハリーはこころに決めていた。 この数週間で確認されたことがあるとすれば、ハリーは謎があることを知ってからそれを解決せずにいられない性分だということだ。 これ以上魔法のことを知らずに人生をすごすことを思えば……どんな科学の分野を研究しようとしても、ハリーが垣間みた真の現実を思いうかべれば、とても手につかなくなるだろう。

 

書かれていたとおりの住所に到着すると、お母さんは店のならびのわきに駐車した。 ハリーは車からおりてあたりをみわたし、お母さんは車の窓をしめた。

 

ペチュニアはいったんとまってから「ええと……」と言って歩道のあちこちを見た。「マクゴナガル先生は見あたらないけれど……まだ時間になっていないものね。お店はどこにあるのかしら? 名前は〈水漏れする大釜(リーキー・コルドロン)〉、でよかった?」

 

ハリーはゆっくりとおおまわりして、道ぞいにならぶ店をみまわした。どの店も()()()()()、おもちゃとしてさえ魔法の杖を売っているようには見えない。 あるのは、おしゃれな服を売る店、美容室、アイスクリーム屋、ファストフード店、本屋(ハリーは一度ここに走りこんでなかを見わたしてから出た)、酒場(パブ)。 「あっ、あった。」とハリーは〈リーキー・コルドロン〉という店をゆびさして言った。本屋とレコード屋にはさまれたところにある、古風な煉瓦の建物だ。「もうなかで待ってるのかもしれない。」

 

「え?」とお母さんはよくわからないようすでハリーがさした方向を見た。「どこかに先生がいた?」

 

ハリーはもういちどゆびさし、それをやめてママを見て、また酒場(パブ)のほうを見た。 ママはまっすぐその方向を見ている。 「本屋とレコード屋のあいだになにが見える?」

 

「どういう意味? 裏手の道のこと?」

 

()()()()? ハリーから見ると、〈リーキー・コルドロン〉の壁は両どなりにくっついている。 「そこにあるパブが見えない?」ともう一度まっすぐゆびさして、ハリーはきいた。

 

「見えない。そこにパブがあるっていうの?」

 

ハリーは電気が脊髄をかけのぼるのを感じ、もう我慢できなくなった。 車のまえを通りすぎようとするカップルに近づいていって、「すみません、ちょっと度のあわないめがねをかけてしまって、看板がよく見えないんです。右から左にひとつずつ読んでもらえませんか?」と手でさした。

 

男はけげんな顔をしたが、女は名前を読みあげはじめた。その人が本屋とレコード屋の名前を読みあげ、〈リーキー・コルドロン〉をとばしていくあいだ、ハリーはその目をながめていた。 その位置にさしかかったところで、女性の視線はただなにも認識することなく、それていくように見えた。

 

「たすかりました。」ハリーはお母さんのところにもどり、片足から片足に体重を移動して神経をつかいながら、車のよこからパブの様子を見た。 「ママだけじゃない。あの人たちにも見えないんだ。」  これだ。小さいながらも、自分がほかの人とちがうという証拠だ。 もう慣れはじめたふらつきの感覚に襲われ、ハリーのあたまのなかにこの隠蔽のしくみを説明するさまざまな可能性がうかんできた。 石をパブの窓になげたらどうなるだろうか。 ガラスが急に道ゆく人にも見えるようになるのだろうか。 そう思うと、はやくパブにかけこんで、お母さんがどう知覚するかを実験したくてたまらなくなる。

 

魔法使いたちがこういうことをできるなら、本がみつからなかったのも無理はない。 こうなると、魔法世界の記録を隠すのに大それた陰謀はいらなかったのかもしれない。 魔法を使えない人は、そもそもその本を見ることができないとしたら? これまでの人生でも無意識のうちに、自分はほかの人に見えないものを見たことがあったのだろうか。 もしかすると、ほかにも安全装置がついているのかもしれない。たとえば、店の名前も知っている必要があるとか——

 

「おはようございます、ミスター・ポッター。」

 

ふりかえって見るとマクゴナガル先生がいた。魔女的な気品につつまれ、通りすがりの人のいぶかしむ視線をまったく意に介していない。

 

「おはようございます。ママに〈リーキー・コルドロン〉が見えないのはなぜですか?」

 

「マグルに気づかれないようにするための魔法がかけられているからです。」  先生はお母さんのほうをむいた。 「おはようございます、ミセス・エヴァンズ゠ヴェレス。お待たせしてすみませんでした。」

 

「いえ、わたしたちもついたばかりです。」  ペチュニアはハリーのほうをふりかえった。これまでとかわらず神経質なようすだ。 「夜にむかえにくるから。いい子にしなさい、ハリー。」

 

ペチュニアはさよならのキスをし、車で去った。ハリーはそれをみおくり、マクゴナガル先生のほうをむいた。「『マグル』とはなんですか?」

 

マクゴナガル先生のくちびるがぴくりとうごいた。 「よく来てくれました、ミスター・ポッター。マグルとは魔法力のない人のことです。ではいきましょうか?」

 

ハリーはあとを追ってパブにむかった。 「それならパパはマグルですね。でもママも? 魔女の妹がいたなら、家系的に多少の魔法力があるのでは?」

 

「いえ、そうではありません。両親がマグルなら彼女もマグルです。」  マクゴナガル先生は簡潔なスコットランドなまりの声で説明した。 「あなたがいま考えているものは『スクイブ』と呼ばれています。魔女か魔法使いの子でありながら、かわいそうに魔法をつかえない人のことです。スクイブも多少の魔法的な事物を感知したり魔法の道具をつかったりといったことはできます。」

 

ハリーはこの情報を自分の遺伝学の理解にてらしあわせようとしていたが、その途中で〈リーキー・コルドロン〉にはいったので、注意がそがれた。 はいるときになにか特別なことがおこっていないか、首をまわしてみたが、不可視の結界がおりてくる雰囲気はなかった。道のがわでは、ふたりの人が消えるのに気づいた人はだれもいないようだった。

 

パブのなかはやや暗く、内装は粗末だった。暗がりに木のテーブルがあいだをおいておかれ、奥のかべ一面に汚れたバーがある。 客は十数人で、とりどりの色のローブを着ている人が大半。

 

「こんにちは、マクゴナガル先生。」とバーテンダーが笑顔で言った。

 

「こんにちはトム。」

 

「いらっしゃい。今日はなにを——これはこれは。」とバーテンダーはハリーのほうをのぞきこみ、ハリーのひたいに注目する。「この子は……まさか……?」

 

ハリーは〈リーキー・コルドロン〉のバーにできるだけもたれかかった。といってもバーはハリーの眉毛のさきあたりまでとどく高さだったのだが。 こういった質問には最高の自分で対応しなければいけない。

 

「もしかしてわたしの——いや——たぶん——ことによると——しかしもしや——だがそれなら問題は——だれなのか?」

 

「……なんということだ。」 店主は小声で言う。「ハリー・ポッターがこの店に……光栄です。」

 

ハリーはまばたきをしてから、反撃した。「ああ、うん。なかなか鋭いね。たいていの人にはこれほどはやく気づかれないんだが——」

 

「そこまで。」と言ってマクゴナガル先生がハリーの肩を強くつかみ、裏口のほうにおしはじめた。「この子をからかわないで、トム。まだそういったことに慣れていないんですから。」

 

「でもその子が……?」とバーのまえに座っていた年配の女性が声を震えさせた。「ハリー・ポッターなの?」  椅子を引いて音を出しながら立ちあがる。

 

「ドリス——」とマクゴナガルが警告するように言った。そのにらみによってその女性以外のほとんど全員がつぶやいたりながめたり以上のことはできなくなった。腰をあげる途中で停止した人もいた。

 

「握手くらいさせて。」と小声で言うと、その女性はかがんで、しわのあるやわらかい手をつきだした。ハリーはこれまでの人生で最高に困惑し居心地のわるさをかんじながら、おそるおそる握手した。なみだが女性の目から握った手へとおちた。 「わたしの孫は〈闇ばらい〉の仕事をしていて、」と彼女はハリーにささやいた。「七十九年に死にました。ありがとうハリー・ポッター。ほんとうにどうもありがとう。」

 

「どういたしまして。」とハリーの口がかってに言った。ハリーはおどろいたような、お願いするような視線をマクゴナガル先生におくった。

 

ほかの人もまた二人に近寄ろうとし、マクゴナガル先生は足で地面をたたいた。 そのときの音はハリーにとって『最後の審判』という言葉のあたらしい参照点となった。ほかの客は全体としてなだれになりかけたところで、またかたまった。

 

「先を急ぎますので。」とマクゴナガル先生がおちついた声で言った。

 

二人はすんなりとバーをあとにした。

 

そとに出たところで「マクゴナガル先生?」とハリー。二人は高い煉瓦の壁で四方をかこまれた中庭にいた。そして、あれはなんだったのかと聞くつもりが、気がつくとなぜかまったく別の質問を口にしていた。 「あの店のすみっこにいた、青じろい人は誰ですか? 目をぴくぴくさせながら席に座りこんでいた人ですが。」

 

「あら?」 マクゴナガル先生はすこしおどろいたようだ。おそらく彼女もこの質問を予想していなかったのだろう。 「あれはクィリナス・クィレル先生です。ことしホグウォーツで〈闇の魔術に対する防衛術〉を教えることになっています。」

 

「あの人を知っていたようなとても変な感覚がある……」ハリーはひたいをこすった。「それにあの人とは握手してはいけないという変な感覚が。」  まるで以前友だちだった人が大きくかわってしまったような……いやそれもちがう。どう表現していいかわからない。 「それでさっきの……さわぎはなんだったんですか?」

 

マクゴナガル先生はおかしな目線をハリーにおくった。 「ミスター・ポッター……ご両親の死についてですが、どのくらい聞かされていますか?」

 

ハリーはじっと視線をかえした。 「ぼくの両親は健在ですのでよろしく。ぼくの()()()()の二人はぼくが一歳のときに自動車事故で死んだと聞いています。」

 

「感心すべき忠実さです。」 マクゴナガル先生は声をひそめた。「ただそのように言われるとつらいのです。リリーとジェイムズはわたしの友人でした。」

 

ハリーは急に恥ずかしくなり目をそらして、小声で言った。 「すみません。でもぼくにはもうママとパパがいます。その現実と……自分の想像でつくった完璧ななにかとをくらべても、自分を不幸にしてしまうばかりですから。」

 

「たいへん賢明な考えかたです。」とマクゴナガル先生はしずかに言う。「けれどあなたの生みの親はあなたを守って立派に死んだのです。」

 

ぼくを守って?

 

ハリーの心臓がなにか変なものにつかまれた。 「つまり……自動車事故ではない? ほんとうは()()()()()んですか?」

 

マクゴナガル先生はためいきをついた。杖がハリーのひたいをたたき、視界がいっしゅんぼやけた。 「目くらましの一種です。あなたに用意ができるまで、もうああいうことがおこらないように。」  そして杖がまた飛びだし、煉瓦の壁を三回たたくと……

 

……そこに穴が生まれ、振動しながら広がって巨大なアーチ門となり、そのむこうに歩道が見えた。 ずらりとならぶ店にはほんものの大釜、『ドラゴンの肝』などの看板がはっきりと見え、店みせのあいだを魔法使いと魔女がせわしなく行き来している。あざやかな色の小さなローブをきた子どもをつれた人もいる。

 

ハリーはまばたきしなかった。これはだれかがネコに変身するのとはわけがちがう。

 

「ミスター・ポッター、ダイアゴン小路へようこそ。」

 

そして二人はいっしょに、魔法世界へと歩きすすんでいった。

 

この場所こそ、魔法による隠蔽方法がいかに効果的かをみごとに示している、とハリーは思った。 ロンドンのシティ区に、住民からまったく知られないまま、まがりくねった長い通りがまるごとひとつ存在する。強力な魔法か高度の政治的合意でもなければ、このような場所を飛行機や人工衛星からかくすことはできない。 こちらにはバウンス・ブーツ(「フラバー本革!」)のよびこみが。あちらには見たものをすべて緑にしてしまうゴーグルが、緊急脱出用シートがついた各種の肘掛け椅子が。一階建てや二階建のたてものもあるが、何階もあってあたかも磁石でくっつけられたようにおかしな構造の建物もある。

 

ハリーのくびはまわりつづけ、胴体から抜けおちてしまいそうなくらいだった。 ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズの上級ルールブックの魔法アイテム欄のなかを歩いているような気分だ(ハリーにはこのゲームをする相手がいなかったが、ルールブックを読んで楽しむことはあった)。 売りもののどれかが、願いをかなえられる呪文を無限につづけるループを完成させるのに必要な三アイテムのうちの一つであったりするかもしれない、だからなにひとつ見のがすわけにはいかない、とハリーは必死だった。

 

そこでハリーはなにかを目にして、なにも考えないままマクゴナガル先生のそばをはなれ、青い煉瓦に銅色のふちの店構えをした店にまっすぐと向かった。 ハリーをやっと現実にひきもどしたのはマクゴナガル先生の声だった。

 

「ミスター・ポッター?」

 

ハリーはまばたきをし、そしていま自分がなにをしたのかに気づいた。 「すみません! いっしょにいるのが家族でなく先生だということを一瞬わすれていました。」  ハリーは手ぶりで店の窓をさした。そこには距離があるものの刺すように明るい炎の文字装飾つきで『美書・ビグバム書店』という名前がでていた。 「はいったことのない本屋にとおりかかったときは、はいってチェックしないといけない。これがうちの家訓なんです。」

 

「これほどレイヴンクロー的なことははじめて聞いたわ。」

 

「え?」

 

「なんでもありません。最初の目的地はグリンゴッツ。魔法世界の銀行です。 あなたの生みの親の一族の金庫とあなたにのこされた遺産がそこにあります。 学校用品を買うのに必要になりますから。」  彼女はためいきをついた。 「それに、ある程度の金額までであれば本代につかうことも許されるでしょう。 しばらくあとにしたほうが賢明だと思いますが。ホグウォーツには魔法の分野に関してはかなり大きな図書館があります。 ある塔には専用図書室があり、もっといろいろな分野の本があります。わたしが見るかぎりあなたはその塔に住むことになりそうです。いま本を買っても、おそらく重複になるでしょう。」

 

ハリーはうなづいて、二人はまた歩いた。

 

「いまのはいい横道でしたから、勘違いしてもらいたくないんですが。」と言って、ハリーはくびをまわしつづけた。 「おそらくぼくがそらされたことのある横道のなかでいちばんよかった。でもぼくがさっきの議論をわすれたとは思わないでくださいね。」

 

マクゴナガル先生はしばらく無言だった。 「ご両親が——すくなくともお母さんが——あなたに教えるのをひかえたのはおそらく賢明でした。」

 

「つまりぼくにはおめでたい無知のままでいてほしいと? その計画には穴がありますよ、マクゴナガル先生。」

 

「不毛でしょうね。」と魔女は声をしぼって言う。 「道ばたのだれかに頼むだけでその話をしてもらえるとあっては。よろしい。」

 

そして彼女は〈名前をいってはいけない例の男〉、別名〈闇の王〉、ヴォルデモートの話をした。

 

「ヴォルデモート?」とハリーは小声で言った。笑わせられてもおかしくなかったが、そうではなかった。感じたのは、冷たい感覚、残酷さ、ダイアモンドのような透明さ、肉にふりおろされのめりこむ純チタンのハンマーだった。 その言葉を口にだすと寒けがハリーのからだをかけぬけた。その瞬間からハリーは〈例の男〉など安全な用語をつかうことにした。

 

〈闇の王〉は魔法世界側のブリテンで狂ったオオカミのように大暴れして、人びとの生活をずたずたに引きさいた。 他国はそれに気をもんだが、利己主義にせよ単なる恐怖からにせよ、介入はしたがらなかった。抵抗する最初の国がどれであったにせよ、〈闇の王〉の狂行のつぎの標的になっただろうから。

 

(傍観者効果だ、とハリーは思った。ラタネとダーリーの実験によれば、痙攣(けいれん)の発作をおこすなら三人より一人のまえでやったほうがいい。助けてもらえる可能性がたかいからだ。 責任の分散、つまり、自分よりほかのだれかがさきにやってくれる、とだれもが期待するのだ。)

 

〈死食い人〉は〈闇の王〉の後追いであり、斥候であり、傷ぐちをつつく死肉あさりのハゲワシであり、獲物をかみつき衰弱させるヘビだった。 〈死食い人〉は〈闇の王〉ほど恐ろしくはなかったがやはり恐ろしく、数が多かった。そして〈死食い人〉の武器は杖だけではなかった。 陣営のなかには裕福な者、政治力のある者、脅しに使える秘密を持つ者がいて、陣営をまもるために社会を麻痺させることができた。

 

年配の高名な記者であるヤーミー・ウィブルが、増税と徴兵をうったえた。多数が少数におびえるのはばかばかしいとさけんだ。 翌朝、ウィブルの皮膚、ただ皮膚だけが、彼の妻と娘ふたりの皮膚といっしょに、報道室のかべにくぎで打ちつけられたのが見つかった。 だれもがもっとなにかできればと思ったが、さきに立って提案しようとする者はいなかった。 めだてば、つぎの見せしめにされるからだ。

 

ジェイムズ・ポッターとリリー・ポッターがそのリストの最上位にかけあがるまでは。

 

そして杖を手にして死のうとも二人は自分たちの選択を後悔しないつもりだったかもしれない。二人は英雄だったからだ。 だが、二人には生まれたばかりの息子ハリー・ポッターがいた。

 

ハリーの目になみだがうかんだ。ハリーは下手をするとやりすぎなほどに強く涙をぬぐった。 二人のことをぼくはほとんど知らない。二人はいまぼくの両親ではない。二人の死をこんなに悲しんでも意味がない……

 

ハリーはマクゴナガル先生のローブに顔をうずめて泣いたあと、顔をあげて、そこに見えた目にも涙がうかんでいるのをみて少し楽になった。

 

「それでなにが起こったんですか?」と震える声でハリーが言った。

 

「〈闇の王〉はゴドリックの谷にきました。」と小声でマクゴナガル先生が言った。 「あなたたち一家はかくまわれているはずでしたが、誰かがうらぎりました。 〈闇の王〉はジェイムズを殺し、リリーを殺し、さいごにあなたのベッドにきました。 〈死の呪い〉をあなたにかけましたが、そこで話が終わりました。 〈死の呪い〉は純粋な憎悪でつくられ、魂に直接あたり、魂をからだからはがします。 防ぐ方法はなく、あたった人はつねに死にます。 なのにあなたは生きのびた。これまで生きのびた人間はあなただけです。 はねかえった〈死の呪い〉が〈闇の王〉にあたり、あとには彼の燃えつきた遺体とあなたのひたいの傷あとだけがのこりました。 恐怖の時代は終わり、わたしたちは自由になりました。 あなたを『死ななかった男の子』と呼んだり、ひたいの傷あとを見たがったり、握手しようとしたりする人がいるのはそのためです。」

 

なげきのあらしはハリーをかけぬけおえ、涙はつきた。ハリーはもう泣かない。

 

(そしてハリーのこころのすみのどこかに小さな、小さな困惑の兆候、その話はどこかおかしいという感覚があった。 そんな小さなことも見おとさないのはハリーの特技のはずだったが、いまは気が散ってしまっている。合理主義者としての技量がもっとも必要になるときほどそのことをもっとも忘れやすいというのは悲しい法則だ。)

 

ハリーはマクゴナガル先生から距離をおき、 「すこし……考えさせてください。」と抑制したつもりの声で言った。ハリーは自分の靴をながめた。 「その。二人のことを『ご両親』と呼びたければどうぞ。『生みの親』とかいう必要はありません。お母さんとお父さんが二人ずついてはいけないという理由はなさそうですから。」

 

マクゴナガル先生はなにも言わなかった。

 

道ゆく魔法使いたち、魔女たち、子どもたちのあいだを抜けていきながら、二人は無言で歩いた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

編集・加筆:Daystar

 





今回の非ハリポタ用語:「反証可能性」
仮説にもとづく予測をして、予測の結果によって仮説がただしかったかまちがっていたかを判断できるようになっているかどうか。予測をせず、「あなたがいままで不幸だった原因は実は……」などとあとづけで説明をつけるやりかたは反証可能性がない。


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4章「効率的市場仮説」

「世界征服という言葉は響きがわるい。世界最適化というほうがぼくの好みです。」

 

◆ ◆ ◆

 

グリンゴッツ銀行は雪のように白い大理石でできた重厚な高層建築だった。場所はダイアゴン小路のなかほど、ノクターン小路という通りとの交差点のちかくで、あたりの店の上にそびえるように立っている。 魔法世界がまねしているように思われる『マグルがわの』ブリテン式建築とは、微妙に様式がちがうようだったが、ハリーは建築をまなんだことがないので、差をはっきり指摘することはできなかった。

 

それに銀行の装飾つきの両開きの扉の両脇に立つ、二人のゴブリンに注意をうばわれすぎてもいた。

 

二人は完璧に仕立てられた赤と黄金の制服をきて、銀行のまえをとおる人をすべてさりげなくチェックしていた。ハリーはそれがゴブリンだとわかった。ドラゴンをもし見たとしても同じようにわかっただろう。あまたのファンタジー小説で知ったものと、完全にでないにせよ、ほとんどの点で一致しているからだ。 このゴブリンは緑色の皮膚などではないけれど身長のひくい人間型(ヒューマノイド)で、うしろの大理石とおなじくらい白く長くとがった鼻と耳をして、とてもほそながく器用そうな指とほそく鋭い目をしている。

 

ハリーはそれを凝視しないようにつとめながら、マクゴナガル先生に連れられて扉のまえに階段にちかづいていった。 自制心を限界まで使ってやっと、さまざまな問いをこころのなかにとどめることができた。 みたところ人類とおなじように知性のある、しかしどうみても大幅にちがった系統からきた生物がここにいる! ゴブリンのDNAは人類とどれくらい違うのだろうか。両種は交雑できるほど遺伝的距離がちかいだろうか。 ゴブリンの骨数本を目にしただけでリチャード・ドーキンスは学術的錯乱状態におちいるだろう。実物を見せればどうなるか想像にかたくない。

 

大扉の上には、黄金とマホガニーでできた盾があり、装飾つきの鍵のシンボルの上に『Gringotts』という文字がはいっていた。 その下には『Fortius Quo Fidelius』という文字があった。 うろおぼえのラテン語を思いだしてみると、『忠誠は力』のような意味だろうか。

 

「こんにちは。」とハリーがゴブリンに言うと、ゴブリンはどちらも会釈をした。 扉は厚く重い大理石にみえたが、ゴブリンの一人は下にある取っ手のひとつをにぎって、軽がるとひらいた。ハリーより筋肉があるようには見えないのだが。

 

こころのなかのメモ:魔法世界では体格と腕力は相関しない。

 

ハリーとマクゴナガル先生がならんで扉をくぐると、うしろでゴブリンが扉を閉めた。 そこは小さな玄関ホールになっていた。ほとんど無人だが不思議と両側にひとつずつ暖炉がおかれていた。目のまえにはまた扉があり、ゴブリンが両側に立っている。 ちかづくと、そこに刻みこまれた文字が見えた:

 

来たれ客人よ ただし

強欲の報いを知れ

とるべきでないものをとった者には

厳しい代償がある

他人の宝物を目指し

忍び込む裏口を探し

来たる盗人を待ちかまえるのは

宝物だけではない

 

ハリーは息をのんだ。 それはおとぎ話からでてきたような、ばかげた言葉のはずだった……だが、まさにゴブリンの要塞と言うべきこの場所に立ってみていると、その言葉は静かな自信にみちた脅迫に感じられ、ハリーの脊髄に悪寒が走った。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「こんにちはマダム・マクゴナガル。」と右のゴブリンが言った。リードのようにひびく声で、はじめて聞くなまりだった。「こんにちはマスター・ポッター。」

 

「こんにちは。」と言ってハリーはマクゴナガル先生を不思議そうにみた。

 

「あなたの一族の金庫の鍵を準備してもらうために、きょう来ることを伝えておいたのです。十何年もあけられていない金庫ですから。」

 

「ああ。その、ぼくの遺産を保管してくれてありがとうございました。」  あったことのない両親のおかねをうけとるのはどうも変な気分だが、高価であるにちがいない学校用品を買うのに必要になるからしかたない。 真正の魔法アイテムをマグル世界で売ったらいくらになるだろうか。 動かないまがいものにさえ法外な金額をしはらう人がいるのだ。店に陳列されていた、歯をきれいにするという魔法薬は数百ポンドか、もしかすると数千ポンドになるだろう。 せめて杖と本が買えるくらいのおかねはあるといいな、とハリーは思った。

 

「務めをはたしたまでです。マスター・ポッター。」と言ってゴブリンはまた会釈した。 わずかにあざけるような言いかたにきこえたのは気のせいだろうか?

 

二人のゴブリンが扉をあけ、ゴブリンと魔法使いでいっぱいの細長い広間がみえた。 魔法使いは列にならび、ゴブリンは急がしそうに歩きまわるか、客より頭ひとつ分たかくなる台と机のむこうに立っていた。 みるからにやりすぎなほどの高さだが、ハリーはとうてい文句を言う気にはなれなかった。

 

そのすべてが、薄い水の膜のようにみえるものを通して見えていた。その幕は、扉のむこうがわの上のどこかからそっとたれさがり、細かい格子となって床の上に落ちている。

 

「これは〈盗人おとし〉とよばれています。」と、ハリーがためらうのをみて、マクゴナガル先生が言う。「あらゆる魔法による変装をあらいおとし、見ためと中身が一致していることを保証します。ここをとおると、あなたのひたいの傷あとも元どおり見えるようになりますが、出るときにまた消してあげます。」  魔女は水をとおりぬけ、向きをかえてハリーを待った。

 

ハリーは深呼吸してそこに足をふみいれた。目をとじ、肩を緊張させ、冷水にそなえた。 しかし水はぬるく、すぐに蒸発し、 数秒で完全に乾いた。ハリーは髪の毛を手でかきまわしながら、おどろいて目を見ひらいた。

 

マクゴナガル先生はみじかく笑みをみせ、『予約者』という名前の台へとハリーをうながした。 どの部分も長く見すぎないように気をつけながらハリーはそのあとについていった。 まわりにはじゃらじゃらと音をさせながらポーチの重さを手ではかる魔女、長い羊皮紙と羽ペンでなにかを書くゴブリン、ハリーの手のおおきさのエメラルドをとりだす魔法使い、窓口でそれをうけとり片めがねで調べるゴブリンがいた。

 

二人がむかったさきのゴブリンは、ほかのゴブリンより年配のようだった。ほとんどなくなりかけている白い髪の毛は細く、小さなめがねが細ながい鼻にかけられている。 「なにか?」  ゴブリンは、手のなかにある羊皮紙から目を離さないままの姿勢でたずねてきた。

 

「ハリー・ポッターが金庫にはいるためにきました。」

 

一瞬間があいてから、ゴブリンはハリーに目をむけた。 「鍵はおもちで?」

 

マクゴナガル先生が鉄の鍵をそでから出した。持ち手部分に『P』の文字がある。 彼女はそれを窓口にかざした。

 

年配のゴブリンは鍵を手にとり、一瞬怪訝そうにそれをみて、刻みの部分をほそい指でなで、返した。 「よろしい。」  ゴブリンはわきにさがって呼び鈴をとりだし、意味ありげなパターンでならした。 キンカンコン、キンキン、コンキン! そして「グリプークがおつれします。」と言うと、羊皮紙をすこし丸め、つづきを読みはじめた。 ハリーはその羊皮紙が床までのびているのに気づいた。 あきらかに冊子本を入手できる社会で、なぜまだ巻き物が使われるのだろう。 万年筆をこばむのとあわせて、ゴブリン独特の習慣の一部なのかもしれない。

 

グリプークは会ってみると若いゴブリンで、肌は比較的すべすべしていて、完全に黒いつやつやした髪の毛が頭をおおっていた。そして近づいてきて会釈とあいさつをした。 「マダム・マクゴナガル。マスター・ポッター。こちらへどうぞ。」

 

案内について大広間の通用口から出ていくと、そのさきには下り階段がつづいていた。 階段は最初真っ白な大理石だったがすぐに黒い石にかわり、輝くシャンデリアは火のたいまつにかわった。 煙のないのを見て、これは魔法がかかっているにちがいない、とハリーは思。 だいたいこのトンネルは煙の逃げみちがないから、そうでもなければいずれ煙にみたされてしまう。

 

ぼくはゴブリンのトンネルをくだっている——。そう思って、これがいかに現実ばなれした状況か、ハリーはあらためて実感した。 トンネルはすぐに平坦になり、壁はなくなり、ながく曲がりくねった道がみえた。道にそって、地面の上にレールがつづいている。そして主線からわかれた分線のいくつかに鉱山のトロッコがおかれていた。グリプークはそのひとつへと二人をうながした。

 

「お乗りください、マスター・ポッター。」

 

ハリーはゴブリンと視線をあわせた。 「ミスターでお願いします。」  ハリーは以前、両親と高級ホテルに泊まったときのことを思いだした。 圧倒的なまでの敬語をつかってくる従業員に給仕される経験は楽しかったが、ときに居ごこちがわるくもあった。 召し使い(子分ならもっといい)をもつという発想はハリーにとっていろいろな点で魅力的だが、異種族から『ご主人様(マスター)』とよばれるのはあまり居ごこちがよくない。 微妙にあざけるように感じられるゴブリンの口調といっしょになると、さらにそうだ。 たんに身振りの差やなまりによる行き違いかもしれないが。 「それにフルネームではポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスです。」

 

ゴブリンは一瞬無言でハリーを見かえして、もう一瞬無言になった。 ハリーが視線をそらさずにしていると、ゴブリンはようやく軽く首肯した。 「おのぞみとあれば。ミスター・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス。」

 

マクゴナガル先生の不思議そうな視線を無視して、そのあとについてトロッコにのると、 手すりやシートベルトがないことに気づく。 グリプークがはいってきて側面の扉をしめると、ハリーは緊張しはじめた。 「銀行のとりひきをするのに、ほんとにこれ以上安全な方法はないんですか?」

 

「ありますが……」と言って、グリプークはにやりとして、とがった歯をみせた。ベストのポケットからマクゴナガル先生がもっていたのとおなじ鍵をとりだし、それをトロッコのうしろの鍵穴にいれる。「安全すぎては困りますので。」  彼が鍵をまわすと車は震え、主線にむけてすこしずつすすみはじめ、そして()()()し、感覚としてはまるで音速の半分ほどの速度になったような気がした。

 

ハリーはおどろいて大きな声をだしたが、その声は口をでてすぐに風にさらわれ、うしろに吹きとんだ。 指の骨が浮きでるほど強くトロッコの両側をつかみ、マクゴナガル先生をとがめるような目つきで見る。 魔女は無頓着に腕ぐみをしたまま、まゆをあげて、くちびるのはしをぴくりとさせただけだった。 ハリーは歯ぎしりをしてゆっくりと両手をからだの側面にもどし、胃がとびだしそうになる感覚を無視した。 トロッコは曲がりくねった洞窟を下へ、下へと飛んでいく。

 

『安全というのは、乗りこなせる人にとっては安全、っていう意味だぞ』、とハリーは自分をたしなめた。 三人はぴかぴかの水晶の突起、さまざまな大きさの金庫の扉をとおりすぎ、もうひとつの〈盗人おとし〉を抜けた。こんどのはずっと大きく冷たかったが、やはり数秒で乾いた。

 

車輪のガタガタ音にまけないよう、ハリーは声をはりあげた。 「魔法使いはみんな、ここにおかねをあずけるんですか?」

 

黄金(きん)をだいじにする魔法使いなら!」とグリプーク。

 

「黄金?」

 

「銀と銅も!」とマクゴナガル先生も叫んだ。「金貨はガリオン、銀貨はシックル、銅貨はクヌートです。二十九クヌートで一シックル、十七シックルで一ガリオン!」

 

とりわけ大きなかどをまわるあいだ、ハリーはこのことの意味を咀嚼しつづけていた。そしてつぎの質問は、炎があたりの闇を照らしだししたことで中断された。 ハリーはくびをまわしてみたが、その部屋はもうとうに見えなくなっていた。 「いまのは?」

 

「ただのドラゴンですよ!」とグリプークはにやにやした顔で言い、ハリーはそれが冗談なのかどうかわからなかった。まったくあたらしい種類の問題に遭遇したせいで、ハリーのこころのなかでおかねの問題はしばらくあとまわしになった。

 

まもなく車の速度がおちはじめ、ギシギシ音がすこしずつ静かになり、最後に分かれ道にはいった。 トロッコはその道にそって惰性でくだり、比較的小さななにも印のない金庫の扉のまえについた。 グリプークは車からとびおりて扉のまえまで歩いていき、トロッコにつかったのと同じ鍵をそこにいれた。 それと並行にあるもうひとつの鍵穴へ、マクゴナガル先生が自分の(というよりハリーの)鍵を差しこんだ。 二人はいっしょに鍵をまわし、ガタンという重い金属の音がして、扉がうちむきに開いた。

 

ハリーがなかにはいると、そこはあかるい大理石の部屋だった。ハリーは呆然としてあごがはずれるのを感じた。

 

ガリオン金貨の山。シックル銀貨の房。クヌート銅貨の束。 一カ所にこれほどの量のおかねがあるのを見るのははじめてだった。青ひげ〔訳注:ヨーロッパの童話〕さえうらやむほどのぴかぴかの宝の山。()()()()()()()()()()()()

 

マクゴナガル先生がなにげなく壁によりかかって立ち、じっとこちらに目をむけている。ハリーはそれをなんとなく感じた。 自分は見られている。 まあ、無理もない。 金貨の山のまえにほうりだされたときなにをするかというのは純粋な、いや典型的とさえいえる性格診断だ。

 

ハリーは口をとじた。最初にすべきことは……いまみえているのが実際どれくらいの量のおかねなのかを自分に把握できるしかたで推定することだ。 「ここの硬貨は純度百パーセントですか?」とハリーはグリプークにきいた。

 

「は?」 しきいからグリプークがとげとげしい声で返事した。「グリンゴッツの誠実さをおうたがいですか、ミスター・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス?」

 

「いえ、そうではなく。言いかたがわるかったらすみません。 ここの金融システムがどうなっているのかまったく理解していないもので。 一般論としてガリオンは純金でできているのか、ということが聞きたかったんです。」

 

「もちろんそうですよ。」

 

「そして貨幣はだれでも鋳造できるんですか。それとも通貨発行権は独占されているんですか?」

 

グリプークはにやりとした。 「ゴブリン製でない貨幣を信頼するのは愚か者だけです!」

 

「言いかえるなら、貨幣はその材料となった地金(じがね)以上の価値をもつことにはなっていないと?」

 

グリプークはハリーをみつめた。マクゴナガル先生は困惑しているようだった。

 

「つまり、もしぼくがここに大量の銀をもってきたとして、それで大量のシックルを作ってもらうことはできますか?」

 

「手数料をちょうだいしますよ、ミスター・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス。」とゴブリンは目を光らせてハリーをみた。 「一定の手数料がかかります。どこに大量の銀があるんでしょうな?」

 

「たとえばの話ですよ。」  ()()()()()()()()()()()()() 「それで……重さに対する割合で言って、手数料はどれくらいですか?」

 

グリプークの目は強い興味をしめした。 「そのご質問は、わたくしの一存ではお答えしかねますが……」

 

「おおざっぱな予想でけっこう。これでグリンゴッツの責任は問いません。」

 

「地金の二十分の一もいただければ、鋳造料には十分でしょう。」

 

ハリーはうなづいた。 「ありがとうございました、ミスター・グリプーク。」

 

つまり、魔法世界の経済はマグル経済からほぼ完全に切りはなされているということだ。そればかりか、だれひとり裁定取引(アービトラージ)のことも知らないらしい。 より大きなマグル経済では、金と銀の交換率は一定の幅で変動する。マグルの金銀交換比率が十七シックルと一ガリオンの重量比率より五パーセント以上の幅で上か下に振れたとき、理論上、その交換比率が崩壊する限界まで金か銀のどちらかが魔法世界経済から吸いとられる。大量の銀をもちこみ、それをシックルにかえ(そして五パーセントの手数料をしはらい)、シックルをガリオンにかえ、金をマグル世界にもちだし、それをもとよりも多い銀にかえ、最初にもどり、くりかえす。

 

マグルの金銀交換比率はたしか五十対一くらいだったか? ともかく十七ではないはずだ。 それにみたところ、ここの銀貨は金貨より()()()

 

とはいっても、ハリーはこのドラゴンの護衛つきの金庫に自分のおかねを文字どおり預けている。おかねを使いたいときにはここに来てコインを金庫からとりださなければならない。 市場の非経済性の細かい部分で裁定取引をしようにも、機会はそこでうしなわれてしまうかもしれない。 なんて原始的な金融システムだろう。ひとこと当てこすりでもしてやりたいところだが……

 

悲しいことに、実はこのやりかたのほうがいいのかもしれない。

 

ただ、可能性としては、有能なヘッジファンド屋を一人もってくるだけで一週間で魔法世界全体を所有できてしまうかもしれない。 ハリーはおかねがなくなったときや一週間暇ができたときにそなえて、このアイデアをしまっておくことにした。

 

直近の資金としては、ひとまずこのポッター家金庫の金貨の山で不自由はなさそうだ。

 

ハリーは一歩ふみだし、金貨を片手でとり、もう片手につんでいった。

 

二十をかぞえたとき、マクゴナガル先生がせきばらいした。 「学校用品にはそれで十分すぎると思いますよ、ミスター・ポッター。」

 

「え?」と別のことを考えていたハリーは言った。 「ちょっと待って。ぼくはフェルミ推定をしようとしてたんです。」

 

「なんですって?」とマクゴナガル先生がどこか警戒して言った。

 

「数学用語です。エンリコ・フェルミの名前をとったもので、 あたまのなかでおおまかな数のあたりをつけるための方法で……」

 

ガリオン金貨20枚で重さはおそらく100グラムくらいかな。 金の価格はたしか、1キログラムで1万ポンドくらいになるだろうか。 ということは1ガリオンはだいたい50ポンドに相当する金額だ……。 金貨の山はだいたい高さ60枚、幅はどの方向でも20枚くらいで、どれもピラミッド型。ということは立方体の3分の1くらいだ。 1山だいたい8000ガリオン。その大きさの山が5つあるから、4万ガリオン。つまり200万ポンド。

 

ハリーは皮肉な満足を感じて笑みをうかべた。 いま自分が魔法の新世界を発見しつつある最中で、金持ちの新世界を探検する時間がないのはとても残念だ。 簡単なフェルミ推定をしてみると、およそ十億倍ほど魔法のほうがおもしろいようだから。

 

とはいえ、たかが一ポンドのために芝かりをするのとはおさらばだ。

 

ハリーはおかねの山からふりむいた。 「マクゴナガル先生おたずねしてもいいでしょうか。ぼくの両親は二十代で死んだと理解しています。 若い一夫婦がこれくらいのおかねを金庫にもっているのは魔法世界では()()()なことですか? もしそうなら、紅茶一杯がおそらく五万ポンドになる。経済学の第一法則:おかねは食べられない。」

 

マクゴナガル先生はくびをふった。 「あなたのお父さんは旧家の跡取りでした。それにもしかすると……」  魔女はためらった。 「このおかねの一部は〈例の男〉をころ……倒した人への賞金だったのかもしれません。 もしくは、賞金はまだだったのかもしれません。正確なところはよく知りません。」

 

「おもしろい……」とハリーはゆっくり言う。「それならこの一部は、ある意味、ぼくのものだということになる。つまり、ぼくがかせいだものだと。みかたによれば。もしかすると。ぼくがそのできごとを覚えていないとしても。」  ハリーの指がズボンをたたいた。「おかげでこのうちの()()()()()をつかってもあまり罪悪感をかんじずにすみそうです! ()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ミスター・ポッター! あなたは未成年です。ですから、()()()()量しかひきだすことが許されていません——」

 

「ぼくは分別()()()ですよ! 衝動買いせず節約するのには大賛成です! でもここにくる途中で見かけたなかに、()()()()()()()()()買い物にあたりそうなものがいくつかありまして……」

 

ハリーはマクゴナガル先生に視線を固定し、無言の見つめあいの試合をした。

 

「たとえば?」 マクゴナガル先生がやっと言った。

 

「見ためよりも中が広いトランクとか?」

 

マクゴナガル先生の顔がけわしくなった。 「それは()()()高価ですよ、ミスター・ポッター!」

 

「ええ、でも——」とハリーは懇願する。 「大人になったらきっとぼくはそれをほしがります。そしてぼくは()()買うことができる。 論理的に言って、あとで買う意味があるならいま買う意味もある。いま買えばすぐに役に立つ。 いずれにしても支払うのはおなじでしょう? できれば、いいものにしておきたいです。たくさんの小部屋にわかれていて、あとで別のに買いかえなくてすむような……」 ハリーは希望をこめて余韻をのこした。

 

マクゴナガル先生は視線をそらさなかった。 「そのようなトランクがあったとして、なにを()()()というのです——」

 

「本です。」

 

「でしょうね。」とマクゴナガル先生はためいきをついた。

 

「もっとはやくああいう魔法アイテムが存在すると教えてくれていれば! それを買うおかねがぼくにあると教えてくれていれば! これからお父さんとぼくはあと二日間、()()()()()()古本屋で教科書を——ホグウォーツでもまともな科学図書館がもてるように——かきあつめなきゃいけない。 それにたぶん、安売りのワゴンにいいのがあったら、多少のサイエンスフィクションも。 いやそれより、この取り引きをもうすこし先生のがわにとって魅力的になるようにしてあげてもいいですよ? 買ってあげるとすれば——」

 

「ミスター・ポッター! わたしを()()する気ですか?」

 

「え? そんな、まさか! ただ、ぼくがもちこむ本のなかにホグウォーツ図書館での所蔵にあたいするものがあったら、寄贈してもいいと思いまして。 どれもやすく入手するつもりですし、ぼくとしてはただ近くにあればそれでいいので。 ()()買収するのはかまわない。そうでしょう? これはぼくの——」

 

「家のしきたりですか。」

 

「そのとおりです。」

 

マクゴナガル先生はローブのなかで肩をさげ、からだがしぼんだようにみえた。 「否定したいところですが、たしかに理屈がとおっていることは否定できません。百ガリオン追加でひきだすことを許しましょう。」  彼女はもう一度ためいきをついた。 「あとで後悔させられるのはわかっているのですが、それでも許すことにします。」

 

「その調子です! 『モークスキン・ポーチ』はぼくの考えているとおりのものですか?」

 

「トランクほどのものではありません。」と魔女は目にみえてためらいがちに言う。「ですが……〈取り寄せの魔法(チャーム)〉と〈隠し部屋追加の魔法(チャーム)〉をかけたモークスキンであれば、かなりの量のものがはいります。それに、いれた本人がよびださないかぎり、なかみはとりだせません——」

 

「やった!」ハリーは興奮でぴょんぴょんとはねながら目をかがやかせた。 「それもぜったいほしい! バットマンのベルトみたいだ! 十徳ナイフどころか、工具箱をまるごともちあるける! それに()も! いつでも読みたい本の最上位三冊をいれておけばどこにいてもとりだせる! ちょっとでも時間があいたら有効活用できる! どうですかマクゴナガル先生! 子どもの読書習慣のためですよ! これ以上立派な目的はないでしょう。」

 

「……あと十ガリオン追加してもかまいません。」

 

「それとおっしゃっていたように、多少のこづかいも。 そのポーチにいれておきたいものをもういくつか見たような気がします。」

 

「そのくらいにしておきなさい、ミスター・ポッター。」

 

「ああ、どうして水をさすんですか? きょうはぼくが魔法のものごとにはじめて遭遇する()()()()な日のはずでしょう! なぜ気むずかしい大人を演じる必要があるんですか? 自分の子ども時代をふりかえってほほえみながら、おもちゃをいくつか手にいれて満面の笑みをうかべるのをながめていればいいだけなのに。そのおかねは、ぼくがブリテン史上最悪の魔法使いを倒してかせいだ賞金のほんの一部をつかうにすぎない。感謝してもらいたりないというわけじゃありませんが、比べてみれば二、三のおもちゃくらいなんでもないでしょう?」

 

()()()()()()()()()。」とマクゴナガル先生はうなった。あまりにおそろしくかつ厳しい表情だったのでハリーは一歩とびさがり、金貨の山をけとばしてしまった。うしろのおかねの山がくずれてジャラジャラと大きな音をだした。グリプークはためいきをついて手のひらで顔をおおった。 「わたしがあなたをこの金庫にとじこめておいたとしたら、ブリテン魔法界に多大な貢献をすることになるように思います。」

 

二人はそれ以上もめずにそとに出た。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

編集・加筆:Daystar

 




今回の非ハリポタ用語:「フェルミ推定」
たとえば「100人中おそらく○○人くらいが○○を毎月○回買ってもおかしくないから……」というように、しばしば確率(比率)をともなう近似・推測をくりかえして自明でないなにかの量を推測すること。数学者エンリコ・フェルミがこれを得意としていたらしい。英語では back-of-the-envelope calculation (封筒裏の計算)というほうが通りがよい。


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5章「基本的帰属錯誤」

「彼のような環境におかれれば、超自然的な干渉をされないかぎり、きみのような倫理観をもてるはずがなかったんだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

モーク・ショップは古風で小さな(かわいらしいとさえいえるかもしれない)店舗で、ダイアゴン小路から一本裏手にはいったところにある魔法の手袋の店の裏手にある野菜売りの裏手にあった。 店主がしわだらけの老女でなく、黄色っぽい色あせたローブ姿の神経質そうな若い女性なのは残念だった。 その店主はいま、モーク・スーパー・ポーチQX31をさしだし、〈隠し部屋追加の魔法(チャーム)〉にくわえて〈口さけ口〉もついているのが売りだと説明している。この機能により、合計の内容量に一定の限度があるとはいえ、かなり大きなものがいれられるという。

 

ハリーはここにまっさきにくることを()()要求した——マクゴナガル先生にあやしまれなさそうな限界まで強く要求した。 一刻もはやくいれなければならないものがあったのである。 マクゴナガル先生から許されてひきだしたほうのガリオン金貨の袋ではない。ハリーが金貨の山にたおれこんだときに裏でポケットにつっこんだほうのガリオン金貨すべてである。 あれは実際事故だったのだが、ハリーは好機を見のがすたちではない……といっても、とっさに思いついてのことだったのだが。 それからずっと、ハリーは許されたほうの袋を不自然なかっこうでズボンのポケットにくっつけて持って歩いていた。じゃらじゃらと音がしてしまったとしても、その袋からだと正当化できるように。

 

それでも正当でないほうのコイン……こいつをどうやってばれずにポーチにいれることができるか、という問題は未解決だ。金貨は自分のものなのだが、盗んだことにかわりはない——ということは自己盗難でいいのか? 自盗?

 

ハリーはモーク・スーパー・ポーチQX31から目をはなし、顔をあげて言った。 「これをすこし試してみてもいいですか? ちゃんと、その、安定して動くかどうかをみたいんです。」  ハリーは少年らしい、いたずらっぽい無邪気さをこめて目をみひらいた。

 

コインの袋をポーチにいれ、手をつっこみ、「金貨の袋」とささやいてとりもどすのを十回くりかえしていると、案の定マクゴナガル先生は一歩とおざかって店のなかのほかの商品に目をやりだし、店主はそれを見るために向きをかえた。

 

ハリーは金貨の袋を()()()モークスキン・ポーチのなかにおとし、()()()ポケットのなかから金貨をしっかりにぎったままとりだし、それをモークスキン・ポーチにいれておとし、(「金貨の袋」とささやいて)もとの袋をとりだす。そして袋を()()にかえし、もうそれを一度おとし、()()をポケットにもどす……

 

マクゴナガル先生はハリーのほうを一度みかえしたが、ハリーはかたまったりびくりとしたりしないでやりすごし、先生はなにも気づかなかったようだった。 といっても、ユーモアのセンスがある大人の場合、()()()()()そうなのかどうかはわからない。 そうこうして三度くりかえすと目的が達成できた。ハリーの推測では、これで三十ガリオンを自分から盗むことができた。

 

ハリーは手をのばして、ひたいから汗をぬぐい、息をついた。 「これをください。」

 

十五ガリオン分(魔法の杖の二倍の価格、だそうだ)軽くなりモーク・スーパー・ポーチQX31ひとつ分重くなったハリーとマクゴナガル先生は、扉をおしあけて外にでた。でると、扉は手のかたちになり、ゆれてさよならの動きをした。うでのかたちが浮きでている部分はすこし気味がわるかった。

 

運悪くそこへきたのが……

 

「きみはほんもののハリー・ポッターか?」と年配の男性が小声で言って、ほおに大粒の涙をながす。 「あのことで嘘をついたりする輩はいないだろうな? あの子はほんとうは〈死の呪い〉を生きのびることができなかった、だからだれひとり話のつづきを知らないんだ、という噂をきいたものでね。」

 

……マクゴナガル先生の目くらましの呪文は、熟練の魔法使い相手にはさほど有効でないようだ。

 

『ハリー・ポッターか?』ということばを聞いた瞬間、マクゴナガル先生はハリーの肩に手をのせ、ちかくの裏道へと引っぱりこんだ。 男はついてきたが、すくなくとも他の人には聞かれずにすんだようだ。

 

ハリーはその質問の意味を考えた。自分は()()()()()ハリー・ポッターなのか? 「ぼくはほかの人から言われた範囲のことしかわかりません。生まれる瞬間の記憶があるわけではないので。」と、手でひたいをさする。 「ぼくが覚えているかぎりでは最初からこの傷あとはある。ぼくが覚えているかぎりでは最初から名前はハリー・ポッターだと聞かされている。でも……」 とハリーは思案するような声で言った。 「もし陰謀の存在を想定する十分な根拠があるなら、だれかが孤児をみつけて()()()()自分はハリー・ポッターだと信じこませたりしていないという理由はない——」

 

マクゴナガル先生は片手を顔にあて、いらだたしそうにした。 「あなたの風貌はお父さんのジェイムズがホグウォーツで一年生だったときとそっくりです。 ()()()()()()()()()あの〈グリフィンドールの悪魔〉の血縁だとわたしが保証します。」

 

()()()()その一味かもしれません。」とハリーは意見した。

 

「いや……」と男が震えて言う。「言われてみれば、きみはお母さんとおなじ目をしている。」

 

「うーん……」とハリーは眉をひそめた。「もしかすると()()()()その一味ということに——」

 

「そこまでです、ミスター・ポッター。」

 

男はハリーにさわろうとするかのように手をあげたが、すぐにおろし、 「生きていてくれただけでよかった。」とつぶやいた。「ありがとうハリー・ポッター。ほんとうにありがとう……これ以上はひきとめない。」

 

そして男はステッキをついてゆっくりと裏道をでてダイアゴン小路の大通りにもどった。

 

マクゴナガル先生はけわしい表情で緊張してあたりをみまわした。 ハリーもつられてみまわした。 しかし裏道には落ち葉のほかなにもなく、ダイアゴン小路との接点にはいそいで通りすぎる通行人しかみえない。

 

マクゴナガル先生はやっと緊張をといたようにみえた。 そして「いまのはうまくありませんでした。」と低い声で言う。「これになれていないのはわかりますが、あなたは気にかけられているのですよ。こころを広くしてあげてください。」

 

ハリーは靴に目をおとし、「おかしい……」とかすかに苦にがしさをこめて言う。「つまり、あの人たちがをぼくのことを気にかけるのはおかしい。」

 

「あなたのおかげで〈例の男〉から救われたのです。なぜ気にかけてはいけないのですか?」

 

ハリーはとがった帽子のしたにある厳格そうな表情をみあげて、ためいきをついた。 「『基本的帰属錯誤』といっても、おそらくまったく通じないでしょうね。」

 

「はい。」と先生はきちんとしたスコットランドなまりで言う。「よろしければ説明していただけますか、ミスター・ポッター。」

 

「そうですね……」  ハリーはマグル科学のこの部分をどう説明したものかと考えた。 「あなたが仕事場にきたら同僚があなたの机をけっていたとします。『この人はなんて怒りっぽいんだ』とあなたは思う。 実はその同僚は仕事にくる途中でだれかにぶつかられて壁にあてられ、それから罵声をあびせられたことを思いだしていた。 こんなことがあれば()()()()()腹がたつ、とその人は思う。 ぼくたちは他人をみるとき、相手の行動を性格で説明しようとする。いっぽうで自分をみるときは、行動を状況で説明しようとする。 だれしも自分のなかではそれなりの経緯があってそうなったんだと思えているものですが、その経緯というのが他人の目に見えるかたちでその人の後ろをついてまわっているのではありませんから。 ある状況でのある人の行動が見れたとして、別の状況でおなじ人がどう行動するかを想像することはふつうできないものです。 つまり基本的帰属錯誤というのは、状況や文脈に帰着させるべきできごとを、不滅不変の性格に帰着させてしまうという錯誤です。」  そのことを確認したみごとな実験があるのだが、ハリーはその先にすすむのはさけた。

 

帽子のつばのしたで魔女の両眉があがった。 「わかったように思いますが……」とマクゴナガル先生はゆっくりと言う。「そのこととあなたになんの関係が?」

 

ハリーは裏道の壁を足が痛むほど強くけった。 「ぼくはある種の偉大な〈光〉の戦士だからあの人たちを〈例の男〉から救ったんだ、と思われてしまっている。」

 

「〈闇の王〉を倒す力の持ち主……」と魔女は奇妙な皮肉を声にこめてつぶやいた。

 

「そう、」と言って、ハリーはいらだちと落胆をたたかわせる。「まるで、ぼくが〈闇の王〉を倒したのはぼくが闇の王を倒す不滅不変の性格のようなものをもっていたからだ、とでもいうように。 そのとき生後十五カ月ですよ、ぼくは! そのとき実際なにが起きたのかは知りませんが、ぼくに言わせれば、特定の状況下の環境的条件とかが関係していたんじゃないかと。とにかくぼくの人格とはまったく関係ない。 あの人たちは()()()()()()気にかけていないし、気にしてもいない。()()()()()となかよくしたいだけなんだ。」  ハリーはそこでことばを切り、マクゴナガルを見た。 「あなたはどうなんですか? 実際なにが起きたのか、知っていますか?」

 

「自分なりの説ならあります。……あなたにあってから思いついたのですが。」

 

「というと?」

 

「あなたは〈闇の王〉以上にたちが悪かったからあの男に勝った。そして〈死の呪い〉以上に悪質だったからそれを生きのびた。」

 

「はっはっは。」  ハリーはまた壁をけった。

 

マクゴナガル先生はくすりと笑った。 「つぎはマダム・マルキンの店にいきましょうか。マグルの服のままでは目だちかねません。」

 

その途中で二人はもう二回、ハリーの支持者にいきあたった。

 

マダム・マルキンのローブ店は純粋に退屈な店がまえだった。赤いふつうの煉瓦、地味な黒いローブをいれたショーウィンドウ。 光ったり変化したり回転したりするローブや、シャツをつきぬけてくすぐってくる光線を放射するようなローブではなく、 ただの黒いローブ。ウィンドウから見えたのはそれだけだった。 なにも隠す秘密はないとでもいうかのように、扉はひらきっぱなしだ。

 

「あなたが寸法をあわせてもらっているあいだ、わたしはしばらくここをはなれます。それで問題ありませんね、ミスター・ポッター?」

 

ハリーはうなづいた。ハリーは服の買い物が激しく大きらいだった。この人も同類だとすれば責められない。

 

マクゴナガル先生は杖をそでからだして、ハリーのあたまを軽くたたいた。 「マダム・マルキンには、はっきりあなたを認識してもらう必要があるので、目くらましを解除しておきます。」

 

「あ……」 これはすこし不安だ。『ハリー・ポッター』のあれにはまだなれていない。

 

「マダム・マルキンとわたしはホグウォーツで同期です。 当時でさえ、彼女はわたしが知るなかで一番おちつきのある魔女でした。〈例の男〉本人に店にこられたとしてもぴくりともしないでしょう。」  マクゴナガルの声は感慨ぶかそうで満足げだった。 「マダム・マルキンはあなたのことをとやかく言う人ではありませんし、ほかの人にとやかく言わせたりもしないはずです。」

 

「あなたはどちらへ? 一応、なにかが()()()()()()()()場合にそなえて、知っておきたいんですが。」とハリー。

 

マクゴナガルはきつい目つきでハリーを見て、「()()()に行ってきます。」と通りのむこうにある、木製の(たる)の看板がかかった建て物を指さした。 「どうしても必要になったので、そこで一杯飲んできます。そのあいだ、あなたはローブを試着する。()()()()()()()()()()。 わたしはすぐに見にもどります。そのときマダム・マルキンの店が無事でどこも火事になっていないと期待しています。いいですね。」

 

マダム・マルキンは快活な年配の女性でハリーのひたいの傷あとを見てもなにもいわず、助手の女の子がなにか言いかけようとするとその子に鋭い視線をなげた。 そして、テープメジャーの役目をはたすらしい、わらわらと動く端切れの組をとりだし、計測にとりかかった。

 

ハリーのとなりで、とがった顔で肌が白く、()()()()白っぽい金髪の男の子がおなじような手順を終える段階にあるようだった。 マルキンの助手二人のうち一人がその白金髪の男の子とその子が着る市松模様のローブをチェックしていた。マルキンはローブの端をときどきたたき、そのたびにローブがしまったりゆるまったりした。

 

「やあ」とその子が言う。「きみもホグウォーツ、だろう?」

 

ハリーはこのさきどういう会話になるか予想できたので、もうたくさんだという気分になり、一瞬のうちに反撃を決心した。

 

「なんということだ。……そんなばかな。」とハリーは小声で言って目を見ひらく。 「……お名前をうかがっても?」

 

「ドラコ・マルフォイだが。」と言ってドラコ・マルフォイがわずかにとまどいをみせた。

 

「あなたが! ドラコ・マルフォイ……。まさか——まさかこんな光栄なことが。」  目からなみだをだせたらよかったのに。あの人たちはだいたいこのあたりで泣きだす。

 

「ほう……」とドラコはすこし困惑した声で言う。そしてくちびるをひいて得意げな笑みをうかべた。 「態度をわきまえた人にあえるとはぼくも運がいい。」

 

ハリーがだれであるかに気づいていたらしいほうの助手が、おさえながらむせぶような音をだした。

 

ハリーはべらべらとつづける。「お目にかかれて光栄です、ミスター・マルフォイ。 光栄すぎてことばになりません。 それにおなじ年にホグウォーツにかようことになるなんて! 心臓がとまってしまいそうです。」

 

おっと。 さいごのはちょっと変だった。ドラコをナンパしようとしているみたいにも聞こえる。

 

「ぼくとしても、マルフォイ家の人間にふさわしい尊敬をうけとることができそうで満足だ。」とドラコがうちかえした。 その笑みはあたかも、高貴な王が卑賤な民に対して、その民が貧乏であれ誠実なときにあたえるような笑みだった。

 

ええと……まずい。つぎのひとことがなかなか出てこない。 そうだ、みんなはハリー・ポッターと握手したがっていた。なら—— 「試着がすみしだい、わたしめと握手してくださいますか? わたしはそれ以上の栄誉は今日、いや今月、というより一生のぞみません。」

 

白っぽい金髪の男の子はにらみをかえした。 「その栄誉をうけるにあたいするなにをマルフォイ家のためにやったのだ、きみは?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()。ハリーはあたまをさげた。 「いえ、わかりました。 お願いしたこと自体申し訳ありません。 お靴をみがかせていただく栄誉で十分だと思うべきでした。」

 

「そういうことだ。」とその子がかえした。厳格な顔つきがすこしやわらいだようだった。 「きみの〈組わけ〉はどの寮になると思う? ぼくは当然、父上ルシウスとおなじくスリザリン寮に決まっている。 きみならさしずめハッフルパフ(ハウス)かな。それともハウスエルフか。」

 

ハリーは弱気にはにかんだ。「マクゴナガル先生が見てきた範囲と伝説できいた範囲ではぼくほどレイヴンクロー的な子どもはいないそうです。ロウィナその人からいい加減にしなさいと言われるくらい……というのがどういう意味なのかはともかく。帽子の声が大きすぎてだれも聞ききとれなかったりしないかぎり、ぼくはまちがいなくレイヴンクロー寮になる、と。引用終わり。」

 

「ほう。」とドラコ・マルフォイはわずかに感心したように言い、ある種残念そうなためいきをついた。 「きみのお世辞はよかった。すくなくともぼくはそう思ったよ。とにかく——きみはスリザリン寮だったとしてもうまくやれると思う。ふだんはああいう風にへつらわれるのは父上だけなんだが。 学校にはいったからには、ほかのスリザリン生をうまくしたがえてやりたいし……これは幸先がよさそうだ。」

 

ハリーはせきばらいした。 「その、ごめん。ほんとのことを言うと、ぼくはきみがだれなのかさっぱり。」

 

「勘弁してくれよ!」とその子は激しく失望して言う。 「なら、なんであんな風にふるまうんだ?」ドラコは急にうたがいの目つきで目をみひらいた。 「それにどうやってマルフォイ家のことを()()()()()()()ことができるんだ? それに()()()はなんだ? きみの両親は()()()なのか?」

 

「親のうち二人は死んだ。」  こういう言いかたにすると、胸がいたむ。 「もう二人はマグルだ。ぼくはその二人にそだてられた。」

 

「は? きみはだれなんだ?」

 

「ハリー・ポッター。はじめまして。」

 

()()()()()()()()?」  ドラコは息をのみ、「()()ハリー・——」とそこで急にことばを切った。

 

あたりが一瞬しずまった。

 

そして、まぶしいほどの熱烈さで「ハリー・ポッター? ()()? うわあ、ずっとあってみたかったんだ!」

 

ドラコのそばの店員はくびをしめられたような音をだしたが、そのまま仕事をつづけ、市松模様のローブを慎重にぬがすためにドラコの両腕をあげさせた。

 

「うるさい。」とハリーは口をはさんだ。

 

「サインをもらえるかい? いや、そうだ、まずいっしょにならんで写真を一枚!」

 

「うるさい うるさい うるさい」

 

「きみにあえてとってもうれしいんだ!」

 

「炎につつまれて死ね。」

 

「でもきみはハリー・ポッターじゃないか。魔法世界の救世主! みんなの英雄(ヒーロー)、ハリー・ポッター! ぼくはずっと、大人になったらきみのようになりたいと——」

 

ドラコは文の途中でことばをうしない、完全な恐怖の表情でかたまった。

 

背がたかく銀髪で冷たい気品があり、最高品質の黒いローブを着ている。片手にはにぎられた銀色のもちてのステッキはその手にあるだけで殺傷力のある武器の風格をそなえている。処刑人のようなさめた目が部屋のなかを見わたした。この男にとっては人殺しは苦痛ではなく禁断の美味でもなく、息をするような日常の行為。

 

そういう男が、開けっぱなしの扉から、たったいまはいってきた。

 

「ドラコ。それはなんのつもりだ?」 男が低い、強い怒りの声で言う。

 

同情してパニックになりながら、ハリーは一瞬のうちに救出作戦をたてた。

 

「ルシウス・マルフォイ!」とハリー・ポッターは息をのんだ。「()()ルシウス・マルフォイ?」

 

マルキンの助手の一人が壁のほうに顔をそむけた。

 

冷たい殺気だった目がハリーをとらえた。「……ハリー・ポッター。」

 

「おあいできて大変光栄です!」

 

黒い目がみひらかれた。殺気だった脅迫の視線が、おどろきとショックにおきかわっていた。

 

「ご子息から()()()()うかがいました。」とハリーはまくしたてる。なにを言いだすのか自分でもわからないまま、とにかくできるかぎりのはやさで話しつづけた。 「もちろんそれ以前からあなたのことは存じあげていました。偉大なルシウス・マルフォイ! あなたのことはだれでも知っています。もっとも賞賛されたスリザリン卒業生。 小さなころにあなたの話をきいて以来ぼくはずっとスリザリン寮にはいりたくて——」

 

「なにを言っているのですか、ミスター・ポッター?」と悲鳴のような声が店のそとからきこえ、一秒後にマクゴナガル先生が走りこんできた。

 

その顔にあらわれていた純粋な恐怖を見てハリーの口が無意識にあいたが、なにもことばがでなかった。

 

「マクゴナガル先生!」とドラコが声をあげる。「ほんとうにご本人ですか? 父上からあなたのことはよく聞かされました。ぼくもグリフィンドールに〈組わけ〉される方法がないかとずっと——」

 

「は?」と横にならんで立っていたルシウス・マルフォイとマクゴナガル先生が完全に同調して言った。 二人は横をむいておたがいをちょうどおなじタイミングで見あい、シンクロするダンサーのように反対向きにはねかえった。

 

ルシウスがぬっとドラコをつかみ、そのまま店の外へと引っぱって行った。

 

そしてあたりがしずまった。

 

マクゴナガル先生の左手には小さなグラスがあった。わすれられていた勢いでそれがかたむき、徐々にアルコールがしたたり、床に小さな赤ワインの水たまりをつくった。

 

マクゴナガル先生は店のなかへとすすみ、マダム・マルキンの対面に立った。

 

「マダム・マルキン。」とマクゴナガル先生はおちついた声で言う。「ここでなにが起きていたのですか?」

 

マダム・マルキンは目をあわせながら四秒間沈黙したあと、ふきだした。壁にたおれこみ、息ぎれするほど笑い、それをうけて助手の二人も、一人は床に手とひざをつきながら、狂乱の笑いにくわわった。

 

マクゴナガル先生は氷の表情でゆっくりとハリーに向きなおった。 「わたしがここを離れていたのは六分間です。六分。きっちり六分間ですよ。」

 

狂乱の笑いの声があたりをこだまするなか、「ちょっとふざけていただけです。」とハリーは抗議した。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! ふざけるだけではそんなことになりません!」  マクゴナガル先生はそこでことばを切り、見てわかるほど息をすいなおした。 「『ローブを試着する』のどこが〈錯乱の魔法(チャーム)〉を宇宙全体にかけなさいという意味になるのですか!」

 

「あの状況下ではああいう風に行動するのが内輪的に筋がとおって——」

 

「いいえ、説明はけっこう。ここでなにが起きたのか知りたくもありません。 あなたのなかに巣くっているのがどんな闇の力であるにしろ、それは()()()があります。わたしはドラコ・マルフォイやマダム・マルキンや助手の二人のようなあわれな目にあいたくありません。」

 

ハリーはためいきをした。 マクゴナガル先生が合理的な説明を聞く気分でないことはあきらかだった。 ハリーは壁によりかかってまだ息ぎれしているマダム・マルキンと、いまは二人とも床にひざをついている助手とを見て、最後にテープメジャーまみれの自分のからだを見おろした。

 

「こちらの試着はもうしばらくかかりそうなので……」とハリーは親切に言う。「もどってもう一杯飲んできてはどうですか?」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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6章「計画錯誤」


途中、『指輪物語』のネタバレがあります。


あなたの一日は現実ばなれしていたって? ぼくの一日とくらべてみてよ。

 

◆ ◆ ◆

 

——ダイアゴン小路でのはじめての買い物が()()()()()待つ子どもも、いるかもしれない。

 

ハリーは「原子番号七十九の袋」と言い、モークスキン・ポーチからからっぽの手をとりだした。

 

——()()手にいれるまで待つ子どもが、ほとんどかもしれない。

 

「『おかね(オカネ)』の袋」とハリーが言うと、重い金貨の袋が手にとびこんできた。

 

ハリーはその袋をひっぱりだし、モークスキン・ポーチにもういちど投げこんだ。 手をだしてまたポーチにいれ、「経済的交換のためのトークンの袋」と言った。 こんどは手になにものってこなかった。

 

「さっきぼくがいれたばかりの袋をだして。」 金貨の袋がまたでてきた。

 

——ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスはすくなくとも一つの魔法アイテムを手にいれた。 ならば、待つ理由はない。

 

「マクゴナガル先生……」と、困惑しながらとなりを歩いている魔女にむけてハリーは言う。 「ぼくが知らない言語の単語を二つ教えてもらえますか? ひとつは黄金を意味する単語、もうひとつはおかね以外のなにかの単語を。 どちらがどちらかは教えないでください。」

 

「アハヴァとザハヴ。 ヘブライ語です。 おかねでないほうの単語の意味は愛です。」

 

「ありがとうございました。『アハヴァの袋』。」  からっぽ。

 

「『ザハヴの袋』。」  こんどは手のひらにのってきた。

 

「ザハヴというのが黄金ですね?」とハリーはきき、マクゴナガル先生はうなづいた。

 

ハリーは自分があつめた実験データを検討した。 あらっぽい予備的な仕事にすぎないが、すくなくとも、とある結論を支持するのには十分だった——

 

「あああああ゙あ゙あ゙あ゙ぜんぜん意味がわからない!」

 

となりの魔女は眉をたかくあげた。 「なにか問題でも、ミスター・ポッター?」

 

「ぼくの仮説がすべて反証されてしまったんですよ! 『百十五ガリオンの袋』はよくて『九十たす二十五ガリオンの袋』がだめだなんて、なんでわかるんだ? このポーチは()はわかるけれど、()()()はできないっていうこと? 名詞は理解するけれど、おなじことを意味する名詞句はだめ? これをつくった人はおそらく日本語を知らないし()()()ヘブライ語を知らないんだから、使っているのは()()()()知識でも()()()知識でもない——」  ハリーは無力そうに手をふった。 「ルールは()()()()()一貫しているようにみえるけど、なんの()()もなさない! 音声認識と自然言語理解が()()()にできて、最高の人工知能プログラマと最速のスーパーコンピュータが三十五年間苦心してもできないのはなぜなのかは、きくだけ無駄でしょうが。」  ハリーは息をのんだ。 「でもいったい()()()起きているんです?」

 

「魔法です。」

 

「それはただの()()()ですよ! そう言われても、ぼくはあたらしい予測をすることができない! 『燃素(フロギストン)』だとか『エランヴィタール』だとか『創発(エマージェンス)』だとか『複雑性』だとかよぶのとまったくおなじです!」

 

黒いローブの魔女は声にして笑った。 「でも、魔法なのですから。」

 

ハリーはすこし前のめりになった。 「おことばですがマクゴナガル先生、あなたはぼくのやろうとしていることを理解していないような気がします。」

 

「おことばですがミスター・ポッター、わたしはまちがいなく理解していません。 もしそれが——たんなる想像なのですが——世界征服でなければ?」

 

「ちがいます! いや、ある意味——ちがいますって!」

 

「この質問にすんなりこたえられないということ自体、憂慮すべきことかもしれませんね。」

 

ハリーは不機嫌に一九五六年のダートマス人工知能会議のことを考えた。 ダートマス人工知能会議はこの分野最初の会議で、『人工知能』という用語の起源でもある。 その出席者たちは、コンピュータに言語を理解させる、学習させる、自己改善させる、などの重要課題をあきらかにした。 そして完全に本気で、十人の科学者が二カ月仕事をすればかなりの進展ができるだろうと予想した。

 

いや。元気をだせ。魔法の秘密の解明はまだ()()()()()()()()じゃないか。 二カ月で達成できないほどむずかしいかどうかも()()()()()()()じゃないか。

 

「それで、ほかの魔法使いがこういう種類の質問やこういう種類の科学的実験をしたという話に、ほんとに聞きおぼえがないんですか?」とハリーはもう一度たずねた。 ハリーにとってはあまりに()()のことだったからだ。

 

といっても、()()()()()()どんな文を理解できてどんな文を理解できないかをマグル科学者が系統的に調査しようとしたのは、科学的手法が発明されてから()()()()()()()()()()だった。 原理上は言語の発達心理学は十八世紀に発見されていてもおかしくなかったが、二十世紀になるまでだれも注目しなかった。 ずっと小さな魔法世界が〈取り寄せの魔法(チャーム)〉を調査しようとしなかったのを責めることはできない。

 

マクゴナガル先生はくちびるをすぼめ、そして肩をすくめた。 「あなたのいう『科学的実験』というものが、どういう意味かまだよくわかりませんね。 さきほど言ったとおり、マグル生まれの生徒がホグウォーツのなかでマグル科学をはたらかせようとするのは見たことがありますし、あたらしい魔法(チャーム)魔法薬(ポーション)を発明する人も毎年います。」

 

ハリーはくびをふった。 「技術と科学はぜんぜん別のものです。 いろいろなやりかたでなにかをしようとするのと、規則をみつけようとして実験するのとは、おなじではありません。」  飛行機械を発明しようとして翼のあるものをいろいろ試した人はたくさんいた。けれど風洞をつくって揚力を測定したのはライト兄弟だけだった……。 「あの……マグルに育てられた子どもは毎年何人ホグウォーツに入学しますか?」

 

「十人くらいでしょうか?」

 

ハリーはバランスをくずし、自分の足をふみそうになった。「()()?」

 

マグル世界の人口は六十億人をこえて増えつづけている。 百万人に一人の逸材は、ロンドンには七人、中国には千人いる。 不可避的に、マグル全人口をみれば()()()()十一歳で微分積分ができる子どももいる。ハリーは自分だけがそうではないと知っている。数学の大会で、ほかの神童にであったこともある。 というか、完敗したことがある。おそらく()()()数学の問題を練習しつづけて、()()()サイエンスフィクションを読んだことがなく、思春期になるまえに()()()燃え尽きて以後の人生で()()()()()達成できないような子たちだ。()()()テクニックを練習しただけで()()()()考えることをしていないからだ。(ハリーは負けおしみを言うのが得意である。)

 

でも……魔法世界では……

 

マグル育ちで、マグル教育を十歳まででやめてしまった子どもが毎年十人? マクゴナガル先生の評価だとバイアスがあるかもしれないが、ホグウォーツは世界で最大最高の魔法学校だという……それが十七歳までしか教育をしないという。

 

マクゴナガル先生は、ネコに変身することにかけてはまちがいなくあらゆる詳細を知っている。 でもこの人は科学的手法のことを文字通り()()()()()()()()。 彼女にとってはそれはマグルの魔法にすぎない。 それに〈取り寄せの魔法(チャーム)〉にそなわった自然言語理解の裏にある秘密について()()すらしめす気配がない。

 

可能性は実質、二つだけだ。

 

可能性その一——魔法はとてつもなく不透明で、ややこしく、つけいるすきがなく、強力な魔法使いや魔女が苦心して理解しようとしても、ほとんどなにも進展がえられず、最終的にあきらめる。ハリーがやってもさほどかわらない。

 

()()()……

 

ハリーは決意をしてこぶしをならしたが、ダイアゴン小路の壁にこだまして鳴りひびかせることはできず、小さなこつんという音しかでなかった。

 

可能性その二——ハリーがやれば世界を征服できる。

 

最終的には。すぐにでなくても。

 

こういう種類のことは二カ月よりながくかかったりするものだ。 マグル科学はガリレオのあと一週間で月面に着陸したわけではない。

 

それでもハリーは痛くなるほどにほおを引きのばして満面の笑顔になった。

 

ハリーは、十歳のときにできたことを自慢しながら残りの人生をすごす以外になにも達成できないたぐいの神童で終わってしまうことをいつもおそれていた。 といっても、大人の天才もなにも達成できない人がほとんどだ。 歴史上、ほんもののアインシュタインが一人いれば、それとおなじくらいかしこい人がおそらく千人はいたはずだ。 本来の偉大さを達成するために必要な、あるものを手にいれられなかったばかりにそうなったのだ。 解くべき重要な問題をみつけられなかったばかりにそうなったのだ。

 

()()()()()()()()()()、とハリーは、ダイアゴン小路の壁と、たちならぶ店と商品と店主と客と、そしてブリテン魔法界の土地と人びと全員と、そのさきの魔法世界と、そのさきの、マグル科学者が思った以上にすこししか理解していない宇宙とにむけて、思った。 わたし、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは、この地を科学の名で所有するとここに宣言する

 

空に雲はなく、いなづまが光ったり雷鳴がとどろいたりしてくれる気配はまったくなかった。

 

「なにを笑っているんですか?」とマクゴナガル先生が用心しつつ疲れた様子できいた。

 

「重大な決心をしたときに背景でいなづまを光らせる呪文はあるかどうか知りたいと思っていました。」とハリーは説明した。 そして将来の歴史の本でまちがいがおこらないよう、さっきの重大な決心の文言を注意ぶかく記憶しておいた。

 

「これについてなにかしておいたほうがいい、というはっきりとした感覚があるのですが。」とマクゴナガル先生はためいきをついた。

 

「無視してください。すぐになくなりますから。あっ、あれほしい!」  ハリーは世界征服を考えるのを一旦中断して、店のまえに陳列された商品にスキップしていった。マクゴナガル先生がそのあとにつづいた。

 

ハリーは魔法薬の材料一式と大釜を買ってきた。そのほか、四次元ポケット(別名〈隠し部屋追加の魔法(チャーム)〉・〈取り寄せの魔法(チャーム)〉・〈口さけ口〉つきモーク・スーパー・ポーチQX31)にいれてもちあるくのに適したものもいくつか買った。かしこい、分別ある買い物だ。

 

ハリーは正直に言って、マクゴナガル先生がなぜこれほど()()()()()()()にするのか分からなかった。

 

いま、ハリーはダイアゴン小路の曲がりくねった大通りにかまえることができる程度の高級店のなかにいる。 店頭では、角度をつけた木の棚に商品がならべられている。店をまもっているのは、やや暗い照明と、かなりたけが短いローブをきてひざやひじをだしている、若そうな女性店員だけだ。

 

ハリーは緊急治癒パックプラス、つまり魔法版救急箱の中身を調べた。まず自動巻き止血帯が二本ある。 液火のように見えるものがはいった注射器は、毒がからだにまわるのを防ぎたい場合に、三分を限度として酸素濃度を維持したまま患部の血流を大幅に低下させるものらしい。 そして、からだの一部にまくと一時的に痛みをとめることができる白い布。 そのほかハリーがまったく理解できないものもいろいろ。たとえば、『ディメンター暴露時の治療用』というのは見ためも、においも、ただのチョコレートにみえる。 『抗バフルスナフル器』というのは、ぶるぶると震えるたまごのようにみえるが、他人の鼻にそれをつっこむ方法が書かれた説明板がついている。

 

「五ガリオンなら、おとくだと思いませんか?」とハリーはマクゴナガル先生にきいた。十代の店員がよってきて熱心そうにうなづいた。

 

ハリーの用心ぶかさと心がまえに感心して賛成の一言をかえしてもらえるものとハリーは思っていた。

 

実際にもらったのは〈魔眼〉としか言いようのないものだった。

 

「そして()()、」とマクゴナガル先生は強いうたがいの声で言う。「あなたは治癒キットが()()になると思ったのでしょうね?」 (魔法薬(ポーション)店での不幸なできごとをうけて、マクゴナガル先生は他の人のまえでは『ミスター・ポッター』をつけないようにしていた。)

 

ハリーの口がひらいて、とじた。 「必要に()()と思ったわけじゃありません。万一の場合にそなえてです!」

 

「具体的には()()()場合の?」

 

ハリーは目を見ひらいた。 「ぼくがなにか危険なことを()()しているとでも? ()()()救急箱を手にいれようとしていると?」

 

厳しいうたがいと皮肉な不信のこもった目がそのこたえだった。

 

「グレートスコット!」(これはハリーが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドックというマッドサイエンティストからまなんだ表現である。)「ぼくが〈落下低速の飲み薬〉とジリーウィードと〈食べものと飲みものの丸薬〉を買ったときもそう思ってたんですか?」

 

「はい。」

 

ハリーはあっけにとられてくびをふった。 「じゃあこれでぼくがなにを()()()()()()()というんですか?」

 

「わかりませんが……」とマクゴナガル先生が声を低くして言う。「最後には大量の銀をグリンゴッツにもちこむか世界を征服するかでしょう。」

 

「世界征服という言葉は響きがわるい。世界最適化というほうがぼくの好みです。」

 

ふざけた冗談は魔女を安心させる役に立たず、〈破滅の表情〉をさせるだけに終わった。

 

「うわ……」と相手が真剣だと気づいてハリーが言う。「ほんとうにそう思ってるんですか。ぼくがなにか危険なことを計画していると思ってるんですか。」

 

「はい。」

 

()()()()()救急箱を買う理由はないとでも? 誤解してほしくないんですがマクゴナガル先生、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「グリフィンドール生です。」と言うマクゴナガル先生のことばには、あらゆる若さの情熱と若気のいたりを永遠に呪うような苦にがしさと絶望の重みがこもっていた。

 

「ミネルヴァ・マクゴナガル副総長先生……」と手をいかめしく腰にあててハリーが言う。「ぼくはグリフィンドールではなく——」

 

ここで副総長は割りこんで、「もしあなたがグリフィンドールになりそうならあの帽子を殺す方法を探しておく」云々ということを言った。 ハリーは奇妙なコメントだと思いながらも受けながしたが、店員の子は急にせきの発作にみまわれたようだった。

 

「——レイヴンクローにはいります。 ぼくが危険なことを計画しているとお思いだとしたら、正直言って、ぼくのことがあなたには()()()()わかってもらえていないようです。 ぼくは危険が()()じゃないし、むしろ()()()。 ぼくは()()するし()()します。()()()()()にそなえます。 両親にうたってもらった歌にもあるとおり。『そなえよつねに つよきからだ かたきこころ ボーイスカウト 築きたてて このよのため そなえよつねに』」

 

(実はトム・レーラーのこの歌のうち、ハリーが両親にうたってもらったのは()()()()()()であり、おめでたいことにハリーはのこりの部分を知らない。)

 

そこでマクゴナガル先生の態度はすこしやわらいだ——といってもほとんどは、ハリーがレイヴンクローにはいると言った瞬間にだったが。 「どのような()()を想定すると、このキットのそなえが必要になるというのですか?」

 

「同級生がおそろしい怪物に噛まれて、ぼくは助けるために使えそうなものをさがしてモークスキン・ポーチのなかを必死にさぐる。その子が息をひきとろうとするとき、ぼくのほうをみて『()()()()()()()()()()()()()()()()』という。 その子が死に、目をとじるのを見て、ぼくはその子に決して許してもらえないということがわかる——」

 

店員の子が息をのむのが聞こえ、見上げるとその子が口を真一文字にむすんでハリーをみつめていた。 そしてふらふらとからだの向きをかえ、店の奥へとかけこんでいった。

 

「え……?」

 

マクゴナガル先生が手をさしのばし、やさしくしかししっかりと、ハリーの手をとり、ダイアゴン小路の大通りへとハリーをつれだし、二軒の店のあいだの汚い煉瓦の裏道にひきこみ、黒い土壁の行き止まりへとつれていった。

 

背のたかい魔女は大通りのほうへ杖をむけ、「クワイエタス」ととなえた。二人のまわりに静寂の幕がおり、通りの騒音がきこえなくなった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()……

 

マクゴナガル先生はふりかえってハリーに相対した。 大人の〈しかるときの顔〉になりきってはいなかったが、表情は平坦でコントロールされていた。 「おぼえておいてください、ミスター・ポッター。ほんの数年前までこの国には戦争がありました。 だれもがだれかをうしないました。 友だちを自分の腕のなかでうしなう、などということを——軽がるしく口にしてはなりません。」

 

「そ——そんなつもりは——」  ハリーのとりわけ明晰な想像力に推論が落石のようにおちてきた。だれかが息を引きとるという話をする。店員の子が走りさる。戦争は十年前に終わった——あの子は当時せいぜい八歳か九歳だったはずだ——つまり、あの子の、あの子の……  「ごめんなさい。ぼくはそんな……」とハリーは絶句し、魔女のみつめる視線からにげるために向きをかえたが、そこには土壁があり、ハリーはまだ杖をもっていない。「ごめんなさい、ごめんなさい、()()()()()()!」

 

深いためいきがうしろできこえた。「わかっていますよ、ミスター・ポッター。」

 

ハリーはうしろをちらりとふりかえった。マクゴナガル先生はいまは悲しそうなだけだった。「ごめんなさい」とハリーはもう一度言い、みじめな気分になった。「あなたももしかしてそういう経験を——」 そこでハリーは口をつぐみ、おまけに手をあてた。

 

年配の魔女の顔はまたすこし悲しそうになった。「口にだすまえに考えることを学びなさい、ミスター・ポッター。そうしなければこのさきの人生、友人はあまりできないでしょう。 レイヴンクロー生の多くがそういった運命になります。あなたにはそうなってほしくありません。」

 

ハリーは逃げだしたかった。杖をとりだして一連のすべてをマクゴナガル先生の記憶から消し、店のまえにまたもどりたい。()()()()()()()()()()()()()()()()()——

 

「質問にもどりますが、ミスター・ポッター、わたしは()()()()()ことは経験していません。 友人をみとったことは一度や七度あります。 ですが、だれ一人死ぬ間際にわたしを呪ったりはしませんでした。許してもらえなかっただろうと思ったこともありません。 あなたはなぜそんなことを()()のですか、ミスター・ポッター? そもそもなぜそう()()()のですか?」

 

「ぼ、ぼくは……」とハリーは息をのんだ。「ぼくはただいつも最悪の事態を想定するようにしてるだけです。」 そして多少ふざけていたのでもあったが、いまそう言うくらいなら舌をかみきったほうがましだ。

 

「え? でも、()()ですか?」

 

「そうなるのを止めるためです!」

 

「ミスター・ポッター……」と年配の魔女の声がだんだん小さくなった。そして彼女はためいきをつき、ハリーの横にひざをついた。「ミスター・ポッター。」と今度はやさしく言った。「ホグウォーツでは生徒の面倒をみる責任はあなたではなく、わたしにあります。 わたしはあなたやほかのだれにも危険がおよぶことのないように責任をもちます。 ホグウォーツは魔法の使える子どもにとって世界じゅうでもっとも安全な場所です。 マダム・ポンフリーは本格的な治癒室をもっています。 治癒キットは必要になりません。まして五ガリオンもするキットは。」

 

「でも必要なんです!」とハリーは爆発した。「完全に安全な場所なんか()()()()ない! それにもしクリスマスで家にもどったときにぼくの両親が心臓発作にみまわれたり事故にあったりしたら——マダム・ポンフリーはそこにいない。そのときぼくの治癒キットがなければ——」

 

「なんですって……」 マクゴナガル先生は立ちあがって、いらだちと心配のあいだで迷う表情でハリーを見下ろす。 「そのような悲惨なことを考える必要はありません、ミスター・ポッター!」

 

それをきいてハリーの表情は苦にがしさにゆがんだ。「ありますよ! 考えておかなければ、自分が傷つくだけでなく、ほかの人も傷つけてしまう!」

 

マクゴナガル先生は口をひらき、そしてとじた。自分の鼻のねもとをなでで、考えこむようすになった。 「ミスター・ポッター……わたしがすこしあなたの話をきかせてほしいといったら……なにか話してもらえることはありますか?」

 

「なにについてですか?」

 

「なぜあなたがいつも悲惨な事態にそなえておかないといけないと確信しているのかについて。」

 

ハリーは困惑の表情で彼女をみつめた。これは自明な公理だ。 「そうですね……」とハリーはゆっくり言って、自分の考えをまとめようとした。基本的なことも知らない魔女教師が相手だとすれば、どう説明したらわかってもらえるだろう? 「マグル研究者は、人はいつも現実よりはるかに楽観的だと発見しました。 たとえばある人がなにかに二日かかるといったらそれは十日かかったりします。二カ月といったら三十五年かかることになります。 一例ですが、ある実験で、ある宿題を終えられる時間がどれくらいかを学生にきき、50%の確信度のこたえ、75%の確信度のこたえ、99%の確信度のこたえをこたえさせました。 実際には13%、19%、45%しかその時間で終えられませんでした。 あるグループにいちばんうまくいく場合の最良事例推定値をたずね、別のグループに通常どおりいく場合の平均事例推定値をたずねてみると、どちらのこたえも統計的に区別できない結果だったのがその理由だとわかりました。 つまり、()()の場合どうなるかを人に推定させると、すべてが計画どおりに、最大確率の線のようなものをたどってすすんで、なにも意外なことが起きない場合をイメージするということです。 でも、本人が99%の確信度でできると言っていた時間で実際にできたのは半分以下の学生だけでした。ということは、現実は通常、『最悪のシナリオ』よりちょっと悪い結果をもたらすということです。 これは計画錯誤とよばれます。 いちばんいい対処法は、前回おなじことをためした場合にどれだけの時間がかかったかをきくことです。 これを、内部視点のかわりに外部視点を使うと言います。 でもあたらしいことをやるときには、その手がつかえない。だからすごくすごくすごく悲観的にならざるをえないんです。 悲観的すぎて、現実のできごとが事前の期待よりも()()()()()()()()場合が、悪くなってしまう場合とおなじくらいの可能性になるように。 現実のひどさの下を行きかねないくらいにまで悲観的になるのは実際には()()()()()()()()。 たとえばぼくががんばって悲観的になって同級生が噛まれるのを想像したとして、実際におこるのは〈死食い人〉の生きのこりがぼくをねらって学校に全面攻撃をするとか。でもいい面もあって——」

 

「そこまで。」とマクゴナガル先生。

 

ハリーはそこまででやめた。 〈闇の王〉は死んでいるとわかっているのだから本人に攻撃されることはない、と言いかけたところだった。

 

「わたしの意図がうまくつたわらなかったようですが……」と魔女はきっちりしたスコットランドなまりでさらに慎重に言う。「ミスター・ポッター、あなた()()をこわがらせるようなことがなにかいままでにありましたか?」

 

「ぼく個人の身に起きたことはただの事例証拠にすぎません。」とハリーは説明した。「査読ずみの論文誌にかかれた、たくさんの被験者を使った再現性のある無作為対照実験で十分な効果量と統計的有意性がしめされた場合ほどの重みはありません。」

 

マクゴナガル先生は鼻すじをつまんで、息をすって、はいた。「それでもあなたの話をきかせてほしいのです。」

 

「うーん……」と言ってハリーは深く息をついた。「あるとき近所で強盗があって、そのあと、通り二つさきの家から借りていた鍋を返してほしいとお母さんにたのまれました。ぼくは強盗におそわれるかもしれないからいきたくないと言いましたが、お母さんは『そんなことを口にしないで!』と言いました。 まるで、考える()()()()()()それが起きる、ぼくがそれを言わなければ安全になる、とでもいうかのように。 ぼくはなぜ安心できないのかを説明しましたが、けっきょくその鍋をもっていかされました。 強盗にねらわれることは統計的にありそうにないということを理解するにはぼくは子どもすぎたんですが、すくなくとも考えないことによってなにかが起きなくなることはない、ということは理解していた。だからぼくはほんとにこわかった。」

 

「それだけ?」マクゴナガル先生はハリーが言いおわったのがはっきりするまで待ってから言った。「()()()()()()なにもなかったのですか?」

 

「たいしたことにはきこえないかもしれませんが、」とハリーは自分を弁護する。「でも生か死かの瞬間でしょう? つまり、なにかを考えていなかったからといっておきないということにはならないと、()()()()()()()()()()。ぼくはわかっていたんですが、ママはどうやらそう思っていなかったんです。」  ハリーはことばを切った。そのことを考えるとまた怒りがこみあげてきそうになり、おさえるのがむずかしい。 「ママはききいれてくれないんです。教えてあげようとしたし、()()()なって外出したくないと言っても、ママは()()()()()だけ。 ぼくがなにを言おうが、まるですべて冗談であるかのように……」  ハリーはまた黒い怒りをおしこめようとした。「そのときぼくは、ぼくの保護者であるはずの人は実は正気ではないと気づきました。いくらたのんでもぼくのことをききいれてはくれない、あの人たちに頼っていてはただしいことができない、と。」 善意だけでは十分ではなく、正気も必要な場合というものがある……

 

ながい沈黙がおりた。

 

そのあいだにハリーは深呼吸をして自分をおちつかせた。 怒りにはなんの意味もない。怒りにはなんの意味もない。 ()()()親もああで、()()()大人も子どもとおなじ高さにまでおりてきて話をきいたりはしない。ハリーの生みの親もおなじだったはずだ。 正気は闇のなかの小さな光だ。狂気に支配されたこの世界の、かぎりなく小さく稀有な例外だ。だから、怒りにはなんの意味もない。

 

ハリーは怒っているときの自分が好きではなかった。

 

「きかせてくれてありがとうございました、ミスター・ポッター。」としばらくしてからマクゴナガル先生が言った。考えにふけるような表情だった(もしハリーが鏡をもっていさえすれば、ポーチを実験していたときのハリー自身の表情とちょうとおなじだと気づいたはずだ)。 「このことについては、またあとで考えさせてもらいます。」 彼女は裏道への入りぐちへとむきなおって、杖をふりあげ——

 

「あの、それじゃ治癒キットを買ってもいいですか?」

 

魔女はとまって、ハリーをじっとみた。「もしわたしがだめだと言ったら——高価すぎる、必要ないと言ったら——どうしますか?」

 

ハリーの顔が苦にがしくゆがんだ。「ご明察のとおりですよ、マクゴナガル先生。ちょうどご明察のとおり、ぼくはあなたをまともでない、話が通じない大人だと判断します。そしてなんとかして治癒キットを手にいれる計画をたてはじめます。」

 

「この買い物のあいだ、わたしはあなたの保護者です。」とマクゴナガル先生はかすかな危険さをこめて言う。「()()()()指し図されるわけにはいきません。」

 

「わかりました。」 ハリーはうらめしそうな声をせず、そのほかに思いついた発言をくちにしないことに成功した。 マクゴナガル先生からはしゃべるまえに考えろと言われた。 明日までおぼえてはいないだろうが、すくなくとも五分間はおぼえている。

 

魔女の杖がほそい円をえがき、ダイアゴン小路の喧騒がもどった。 「よろしい。治癒キットを買いにいきましょう。」

 

ハリーはあっけにとられて口をあけた。そして自分のいきおいでほとんどつまづきそうになりながら、走ってついていった。

 

店はでたときとおなじようすだった。正体のわかるアイテムとわからないアイテムがいまも、かたむいた木の棚にならべられていて、やや暗い照明につつまれた雰囲気で、店員の子はもとの位置にもどっていた。 二人がちかづいていくとその子は顔をあげ、おどろきの表情をみせた。

 

二人がちかくまでいき、その子が「ごめんなさい」と言ったのとほとんど同時にハリーは「さっきはすみません——」と言った。

 

ことばをうしなって二人はおたがいをみた。店員の子はすこし笑った。 「あなたがマクゴナガル先生にしかられることになるとは思わなくて。」 そしていわくありげに声をひそめた。「先生があなたに多少は手加減してくれてたらいいんだけど。」

 

()()!」とマクゴナガル先生は憤慨したように言った。

 

「金貨の袋。」とポーチに言って、ハリーは五ガリオンをかぞえ、同時に店員の子へと視線をもどした。 「心配しないで。先生はぼくのことを気にいっているからきつくあたるだけなのはわかってます。」

 

ハリーが五ガリオンをかぞえおえてその子にわたすあいだ、マクゴナガル先生はなにか重要でないことをまくしたてていた。「緊急治癒パックプラスをひとつお願いします。」

 

スーツケースの大きさの医療キットを〈口さけ口〉がのみこむのはちょっと狼狽させられる光景だった。 ポーチに入れたものをとりだせるのは入れた当人だけであることをふまえると、自分自身のからだをモークスキン・ポーチにつっこんだらどうなるのかと考えずにはいられなかった。

 

ポーチはハリーが苦心して手にいれた品物をすっかり……食べて……小さくげっぷをした。たしかにきこえたと誓ってもいい。 魔法でわざとそういう音がでるようになっているに()()()()()。そうでないほうの仮説は考えるだけでおそろしい……というか別の仮説を()()()()()()()()()()()。 ハリーはダイアゴン小路をまたあるきはじめたところで、マクゴナガル先生のほうにむいた。「つぎはどこへ?」

 

マクゴナガル先生は、煉瓦のかわりに肉でできていてペンキのかわりに毛皮でおおわれたかのような外見の店をゆびさした。 「ホグウォーツでは小動物をペットとすることが許されます——たとえば手紙をおくるためにフクロウを飼うこともできますし——」

 

「手紙をおくる必要があるときに一クヌートくらいの料金でフクロウを()()()ことはできますか?」

 

「できます。」

 

「なら、ぼくは断固()()()()()。」

 

マクゴナガル先生は点を打つようにうなづいた。「なぜなのか、きいてもいいですか?」

 

「ぼくは飼い石(ペットロック)を飼ったことがあります。それが死にました。」

 

「つまり、ペットの世話をする自信がない、と?」

 

「できなくはないんですが。四六時中、えさをやり忘れてはいないかと気にすることになってしまいます。 ご主人がいないまま、えさもあたえられずにケージのなかでゆっくりと飢え死にしてしまっているかもしれない、と。」

 

「かわいそうに、そうやって見すてられたフクロウは、どうするのでしょう。」と年配の魔女はやさしい声で言う。

 

「そうですね。ほんとうに飢えてきたら、つめを使って、ケージか箱かなにかのそとに出ようとするんじゃないでしょうか。といってもそうそう簡単には——」ハリーは途中で言いやめた。

 

魔女はやはりやさしい声でつづけた。「そのあとどうなるのでしょう?」

 

「ちょっといいですか。」とハリーはマクゴナガル先生の手を下からやさしく、しかししっかりとつかんで、別の裏道につれていった。 挨拶をしようとする人たちをなんどもかわしていくうちに、その動作はほとんどまったく目立たなくなっていた。「消音の魔法をかけてください。」

 

「クワイエタス」

 

ハリーの声が震えた。「あのフクロウはぼくの象徴では()()()()()。ぼくの両親は()()()()()ぼくを物置にいれて飢えさせたりしません。ぼくは見捨てられる恐怖を感じても()()()()。そのたぐいの発想をされるのは不本意ですよ、マクゴナガル先生!」

 

魔女はきびしくみおろした。「どのたぐいの発想だというのですか、ミスター・ポッター?」

 

「ぼくが、」とハリーはことばにするのを苦慮しながら言う。「()()されたと思っているんでしょう?」

 

「されたのですか?」

 

()()()!」とハリーはさけんだ。「ぜったいありません! ぼくが()()だと思っているんですか? 児童虐待の概念なら分かってますよ。いいタッチ悪いタッチとかのこともよーく分かっています。そういうことをされたら警察をよんでいますよ! 総長に報告しますよ! 電話帳で社会福祉事業者をしらべますよ! 祖父母とフィッグさんに連絡しますよ! でもぼくの両親は()()()()()そんなことはしていない! ぜったい、()()()()に! 言われる()()で不愉快です!」

 

年配の魔女はじっとハリーをみつめた。「生徒への児童虐待の兆候を調べるのはわたしの副総長としての責務です。」

 

ハリーの怒りはコントロールをうしない、純粋な黒い激怒になった。「そのことばをくちに()()()! その()()をだれにもきかせるな! ()()()()! わかったかマクゴナガル? そういう告発は完全に無実の家族も崩壊させるんだ! そう新聞で読んだ!」ハリーの声は高音の悲鳴になりつつあった。「()()()()()()()ことを知らない。なにもなかったと親が言っても()()()()()()信じてくれない。ぼくの家族を脅迫するな! ぼくの家を崩壊させはしないぞ!」

 

「ハリー。」と魔女は小声で言い、ハリーに手をのばそうとする——

 

ハリーはすばやくとびのき、のばされた手をはじきかえし、つきとばした。

 

マクゴナガルはそこでかたまり、手をひき、一歩さがった。「ハリー。だいじょうぶ。わたしはあなたを信じます。」

 

()()()か。」とハリーは吐きすてた。怒りがまだ血管をかけめぐっている。「それともぼくがいなくなるのをまってから届け出をしようとしてるのかな?」

 

「ハリー。わたしはあなたの家をみました。ご両親といっしょにいるのをみました。あなたはご両親に愛されている。ご両親を愛している。あなたが虐待されていないというなら信じます。ですが、おかしな様子があったので、一度はきいておかなければなかったのです。」

 

ハリーは冷ややかな目で彼女をみつめた。「たとえば?」

 

「ホグウォーツにきて以来、わたしは虐待された子どもをたくさんみてきました。悲しくなるほど多く。しあわせな子どもはああいう子たちとは()()()()ちがうふるまいをします。 初対面の人と笑みをかわす、ひとと抱擁する、といったことをします。 あなたはわたしに肩にふれられても、びくりとはしませんでした。ですが、たまに……ごくたまに、あなたのしゃべりかたやそぶりは()()()……生まれてから十一年間牢屋にとじこめられてすごしてきた人のように見えます。 あれだけ愛のある家庭でそだてられた子どもではなく。」  マクゴナガル先生はくびをかしげ、また困惑した表情になった。

 

ハリーはその返事の内容をよく検討した。 黒い怒りは流れおちはじめた。自分は敬意をもってうけこたえされている、自分の家族は危険にさらされていない、ということがわかってきた。

 

「そしてその観察をどう説明するんですか、マクゴナガル先生?」

 

「わかりません。ですがなにかがあなたの身に起きて、それをあなたが記憶していないという可能性もあります。」

 

怒りがまたハリーのなかでたちのぼった。これは新聞で読んだ家庭崩壊の話と似すぎている。 「記憶の抑圧はくだらない()()()()ですよ! トラウマの記憶は抑圧されない。死ぬまで、()()()()()()はっきりと思い出せるんだ!」

 

「いいえ、ミスター・ポッター。〈忘消〉(オブリヴィエイト)という魔法(チャーム)があります。」

 

ハリーはそこでかたまった。「記憶をけす呪文ですか?」

 

魔女はうなづいた。「経験したことを通じての影響まですべて消えるわけではありません。と言えば伝わるでしょうか、ミスター・ポッター。」

 

冷たいものがハリーの背筋をかけた。()()仮説は……簡単には反論()()()()。「でもぼくの両親は魔法を使えない!」

 

「おっしゃるとおりです。魔法世界からきただれかのしわざということになるでしょう。それが起こらなかったという保証は……残念ながらありません。」

 

ハリーの合理主義のスキルがまた発動しはじめた。「マクゴナガル先生、その観察にどの程度確信がありますか? ほかにそれを説明するしかたはありえますか?」

 

魔女は両手をひらいた。からっぽであると言いたいかのようだ。「確信? わたしはなにも()()していません、ミスター・ポッター。あなたのような人にあったのは人生はじめてです。 ときどきあなたは十一歳の子ではない、というか、()()ではないように見えます。」

 

ハリーの眉が空にむかってあがった——

 

「すみません!」とマクゴナガル先生はいそいで言う。「すみませんでした、ミスター・ポッター。わたしが言おうとしていたのはそういうことではないのです。ただ思ってもいないことばを使ってしまって——」

 

「逆ですよ、マクゴナガル先生。」と言って、ハリーはゆっくり笑みをうかべた。「ぼくは高く評価してもらえたと思っています。ところで、ほかの説明を紹介してもいいですか?」

 

「お願いします。」

 

「子どもは親よりも頭がいいはずがない。あるいは、親よりもまともであるはずがない、か。お父さんは自分の考えをかえない理由をさがそうとするのにばかり大人の知性を使うかわりに実際に()()()()とすれば、たぶんぼくをだしぬくことができます——」ハリーはそこでことばを切った。「ぼくは頭がよすぎるんですよ。ふつうの子どもと話す話題はなにもない。大人はぼくをちゃんと尊重して話してくれない。 それに、言ってしまえば、もし話してくれたとしても、そのひとたちもリチャード・ファインマンほどには頭がよくない。どうせならリチャード・ファインマンが書いたものでも読んだほうがいい。 ぼくは()()なんですよ、マクゴナガル先生。ずっと孤独な人生だった。牢屋にとじこめられるのと実質的にはおなじ面があるかもしれない。 頭がよすぎて、子どもが本来そうするように親を尊敬することができない。 両親はぼくを愛してくれていますが、ぼくに理屈を説明する責任を感じてくれない。むしろぼくは、両親のほうが子どもだというように——ぼくの全存在を支配する()()()()()()()子どもだというように、感じることもあります。 あまり辛辣な言いかたはしないようにしますが、ぼくは自分に()()にもならなければならない。ぼくは辛辣です。怒りをコントロールできなくなることがあります。その問題にはとりくんでいます。それだけです。」

 

()()()()?」

 

ハリーはしっかりとうなづいた。「それだけです。マクゴナガル先生、ブリテン魔法界でもふつうの説明をつけることを()()してもいいはずでしょう?」

 

昼下がりになり夏の空に日がおちはじめている。買い物客のすがたがまばらになっていく。もう閉店した店もある。ハリーとマクゴナガル先生はぎりぎりになってフローリッシュ・アンド・ブロッツで教科書を買った。 『数占術(アリスマンシー)』という単語をみつけて飛びついたものの七年次の教科書でもせいぜい三角関数程度の数学しか使っていないのがわかってハリーが小さな癇癪をおこしただけですんだ。

 

しかしその瞬間、楽して成果のでる研究計画という夢はハリーのあたまによぎらなかった。

 

その瞬間、二人はオリヴァンダーの店からでたところで、ハリーは自分の杖をながめていた。 振ってみれば色とりどりの火花がちった。これまで見たものにくらべればたいしてショックではなかったはずだが、なぜだろうか——

 

ぼくは魔法が使える。

 

ぼくが自身が。魔法のちからのある、魔法使い。

 

ハリーは魔法力がうでにながれこむのを感じた。その瞬間気づいたのは、視覚でも聴覚でも臭覚でも味覚でも触覚でもないその魔法の感覚をいままでの人生ずっともっていたということだった。 まるで目をもっていながらずっと閉じていたかのように。闇を見ていながらそのことにすら気づいていなかったかのように。 そしてある日、目をあけて、世界を見ることができたかのように。 そのショックはハリーのなかを流れ、からだのはしばしを触れてめざめさせ、すぐに消えた。そのあとには、自分が魔法使いなのだ、ずっとそうだったのだという確実な知識、また不思議なことに、それを知っていたという知識がのこった。

 

そして——

 

「きみがその杖といっしょになるようえらばれたというのは実に興味ぶかいな。その杖の兄は、なにせ、きみにその傷あとをつけた杖なのだから。」

 

偶然であろうはずがない。店にあった杖の本数は何千本にもなる。まあ、たしかに偶然である()()()はある。世界には六十億人の人間がいるし、千にひとつの偶然は毎日おきる。 でもベイズの定理によれば、ハリーが〈闇の王〉の杖の弟に遭遇する尤度を千にひとつよりすこしでも高くあたえる合理的な仮説があれば、それは有利な仮説になる。

 

マクゴナガル先生がそれを『妙なこともありますね』とだけ言ってすませるのを見て、ハリーは魔法使いと魔女の圧倒的なまでの()()()にショックをうけた。 想像しうるどんな世界であっても、自分なら、なにが起こっているのかについての仮説を()()()()()()()()()まま、ただ『へえ』とだけ言って店のそとにでたりしない。

 

ハリーの左手がうえにのび、傷あとにふれた。

 

()()()()……なにが……

 

「あなたはこれで一人前の魔法使いです。おめでとう。」とマクゴナガル先生。

 

ハリーはうなづいた。

 

「魔法世界についての印象はどうですか?」

 

「変です。いままでみた魔法のすべて……可能だとわかったことすべて、嘘だったとわかったことすべて、これから理解しはじめなければならない膨大な作業について考えているべきところです。 それなのに比較的どうでもいいことに気をとられてしまっている。」  ハリーは声をひくくした。「〈死ななかった男の子〉のあれとか。」  ちかくにはだれもいないようだが、運試しをする理由はない。

 

マクゴナガル先生はエヘンとせきばらいした。「そうなのですか? 意外です。」

 

ハリーはうなづいた。「はい。ただ……()です。自分がおそるべき〈闇の王〉を倒す冒険の、壮大な物語の一部だったと、そしてそれが()()()()()()()()()()と知るのは。終わったこと。完全にすぎたこと。ちょうど自分がフロド・バギンズで、一歳のときにすでに両親に〈滅びの山〉につれていかれていてそこに自分が〈指輪〉をなげこんでいてそのことをおぼえていない、というように。」

 

マクゴナガル先生の笑みがじゃっかんかたまった。

 

「かりに、もしぼくがまったく別のひとだったら、そのはじまりにみあう人物になれるだろうかと、かなり心配していたかもしれません。 ハリーくん、〈闇の王〉を倒してあとなにをしていたの? 本屋を開業した? すごいね! 実をいうと、きみの名前を子どもにつけたんだけど? でもぼくはそういった羽目にはならないようにしたいと思っています。」  ハリーはためいきをついた。 「ただ……その冒険に()()のやりのこしがあったなら、ぼくもほんとうに()()したと言えたんだけどなあと思ったりもしてしまいますが。」

 

「あら?」とマクゴナガル先生が妙な調子で言う。「どんなことでしょうか?」

 

「そうですね。たとえば、ぼくの両親は裏切られたとおっしゃいましたね。だれが裏切ったんですか?」

 

「シリウス・ブラック。」と魔女はその名前をほとんど吐きすてるように言う。「アズカバンという、魔法世界の牢獄にいます。」

 

「シリウス・ブラックが脱獄して、ぼくがそれを追いつめて、ある種の華ばなしい決闘で倒すことになる可能性はどれくらいありますか? いやむしろ、その首に大きな賞金をかけておいてオーストラリアに潜伏しながら結果を待っていられる可能性は?」

 

マクゴナガル先生は目をしばたたかせた。二回。 「ほとんどありません。アズカバンからの脱獄はいままで一件もありません。()()最初になるとは思えません。」

 

『アズカバンからの脱獄はいままで()()()()()()()()』というせりふにハリーは懐疑的だった。 とはいえ、もしかすると魔法があれば、特に自分たちには杖があって相手にないのであれば、実際百パーセント完璧にちかい牢獄がつくれるのかもしれない。 一番いい逃げる方法は、そもそもそこにはいらないことだろう。

 

「わかりました。ということは、決着はついてしまっているようですね。」とハリーはためいきをつき、手のひらでひたいをさする。 「でなければ、実はその夜に〈闇の王〉は死んでいなかったとか。完全には。 たましいとなって残って、悪夢のなかで人にささやいて目覚めた時間にもしみだし、生者の世界を破壊するためにもどる方法をさがし、いま、古代の予言のとおりに、あの男とぼくは勝者がまけ敗者がかつ命がけの決闘をすることになっていたり——」

 

マクゴナガル先生がくびをまわして、道のどこかに聞き耳をたてている人がいるかもしれないと言うように、目をきょろきょろとさせた。

 

()()ですよ。」とハリーは多少いらだたしそうに言った。はあ、この人はなんでいつも深刻にうけとってしまうのか——

 

ハリーのからだのなかの違和感がすこしずついやな予感を知らせてきた。

 

マクゴナガル先生はハリーをおちついた表情で見た。 すごく()()()おちついた表情で。そして笑みをまとって、「もちろんそうでしょうね。ミスター・ポッター。」と言った。

 

やばい。

 

そのときハリーのあたまのなかをかけぬけたことばにならない推論を定式化するとすれば、こういう感じになるだろう。『ぼくが悪い冗談を言ったときにマクゴナガル先生が()()()することすべての確率分布と、彼女が慎重に自分をコントロールした結果のようにみえることをする確率の推定値とを比較するなら、今回のふるまいは彼女がなにかを隠しているという有意な証拠だ。』

 

だが実際にあたまにうかんだのは『やばい』だった。

 

ハリーもくびをまわして通りをひととおり見た。さいわい、ちかくにはだれもいない。 「その男は()()()()()()んですね。」とためいきをつく。

 

「ミスター・ポッター——」

 

「〈闇の王〉は生きている。もちろん生きている。そうでないと()()()ことがそもそもとんでもない()()()()の所業だった。 ぼくは正気をうしなっていたにちがいない。 ぼくはいったいなにを考えていたのか。 かりかりに焼けた死体を()()()が見たからといって()()()なんて考えるのはありえない。 こんなことではまだまだぜんぜん()()()()の技法が勉強がたりていない。」

 

「ミスター・ポッター——」

 

「せめて予言なんかはないと言ってくださいよ……」 マクゴナガル先生はまだあのまぶしい笑みのままかたまっている。 「ああもう、冗談じゃない。」

 

「ミスター・ポッター、不安の種を自分でつくりだす必要は——」

 

「それ、本気で言っていますか? 不安になるべきことが実際にあったんだと、あとでわかったとしたら、ぼくがどう反応すると思いますか。」

 

かたまっていた笑みがゆらいだ。

 

ハリーは肩をおとした。 「ぼくは魔法世界を調査しなきゃいけないんです。こんなことに時間を使ってはいられないのに。」

 

そこで二人とも話すのをやめた。オレンジ色のローブをたれさげた男が通りにあらわれ、二人のよこをゆっくりととおりすぎる。マクゴナガル先生の目がこっそりとその男を追う。 ハリーはくちびるをきつく噛みながら口をうごかす。だれかがみていれば、小さな血のつぶがでているのに気づいただろう。

 

オレンジ色のローブの男が遠くにいってから、ハリーは低いつぶやき声でつづきを話しはじめた。 「マクゴナガル先生、こんどは真実を教えてくれますか? 流そうとしても無駄ですよ。それくらいわかりますから。」

 

「あなたは()()()なのですよ、ミスター・ポッター。」と彼女がささやき声をあらげて言った。

 

「だから人間未満だと。すみません……うっかり()()()()()()。」

 

「これは重要でおそろしい問題なのです! ()()()()です! まだ子どものあなたにここまで知られたということだけでも()()です! ほかの()()()()言ってはいけません。わかりましたか? だれにもです!」

 

ハリーは()()()いきどおりを感じたとき、血があつくなるかわりにつめたくなることがあった。そしていまそうなっている。おそろしく暗い明晰さがハリーのあたまのなかにおりてきて、鉄のようなリアリズムで可能な戦術案いくつかとそれぞれの帰結を評価した。

 

ぼくには知る権利があると指摘する——不可。マクゴナガルの見かたでは、十一歳の子どもにはなんの権利もない。

 

絶交すると言ってやる——不可。マクゴナガルはぼくとの友情をさほど重んじていない。

 

知らないままでいることは危険だと指摘する——不可。ぼくが無知なままという前提で計画がたてられてしまっている。計画をやりなおさなければならないという()()()不都合は、ぼくに害が生じるかもしれないという()()()()可能性よりも、はるかにうけいれにくそうだ。

 

正義も合理性も不可。彼女がほしがるものをさがせ。でなければ、彼女がおそれるものをさがせ……

 

ああ。

 

「いいでしょう。」とハリーは低い、冷淡な声で言う。「ぼくはどうやら、あなたのほしがるものをもっているようです。もしおのぞみであればぼくに真実を、その()()を、教えてください。おかえしにぼくは秘密を守ります。駒として使うためにぼくを無知なままにしておきたいとおっしゃるのであればそれもけっこう。その場合、ぼくにはなんの義務も生じません。」

 

マクゴナガルは通りのなかでたちどまった。目は燃え、声は完全に吐きすてる調子になった。「よくもそんなことを!」

 

()()()()()()()()()!」とハリーはかえした。

 

「わたしを()()するつもり?」

 

ハリーのくちびるがゆがんだ。「こうやって提案しているのはぼくの親切だと思ってください。()()()()大切な秘密を守る機会なんですよ。あなたが拒否するなら、ぼくにはよそでききまわる()()()()自然な動機がある。あなたをうらんでのことではありませんよ。ぼくは()()()()があるからです! ()()()は自分にしたがわせなければならないという意味のない怒りを忘れれば、まともな大人ならおなじようにすることがわかるでしょう! ぼくの立ち場から見てみてください! あなただったらどういう気持ちになりますか?

 

ハリーはマクゴナガルを見た。息をあらげている。そろそろ圧力を弱めてくすぶらせるべき段階のようだ。「すぐに決める必要はありません。」とハリーはやや普通の声で言う。「この()()について考えるのにすこし時間がいるでしょうから……ただ一点、警告しておきます。」 声がまた冷たくなる。 「〈忘消(オブリヴィエイト)〉の呪文をかけてもだめです。 しばらくまえにつくっておいた信号があります。それをさっき自分にしかけました。 ぼくがその信号をみつけて、自分がそれを送ったことを()()()()()()()()()としたら……」

 

マクゴナガルの顔は表情をかえながらうごいた。 「〈忘消〉するつもりは……ありませんでしたよ、ミスター・ポッター。ですがなぜこのことを知らないうちからそんな信号を()()したり——」

 

「マグルのサイエンスフィクションの本を読んでいて思いついたんです。『もしものときのため……』と。おっと信号がなにかは教えませんよ。ぼくはバカじゃない。」

 

「きこうとはしていませんでしたよ。」と言ってマクゴナガルがちぢこまり、急に老いて疲れたようになった。「ずいぶん消耗させられる一日でした。 あとはトランクを買って、帰りたいと思いますが、いいですね? わたしが考えを終えるまであなたはこのことを漏らさない、ということは約束していただきます。 このことを知るのは世界にあと二人だけだということをおぼえておいてください。アルバス・ダンブルドア総長とセヴルス・スネイプ先生だけです。」

 

ほう。新情報……和解提案だ。ハリーはうなづいて承諾し、まえにむきなおって、ふたたび歩きはじめた。血はゆっくりとあたたかさをとりもどしはじめた。

 

「ということはぼくは不死の〈闇の魔術師〉を殺す方法をみつけないといけないんですね。」と言ってハリーはいらだちのためいきをついた。「買い物の()()にそう言ってくれたらよかったのに。」

 

トランクの店は今日たちよったどの店よりも豪華なよそおいだった。たっぷりとしたカーテンには細密な模様がなされていて、床と壁は着色してみがかれた木材で、トランクはどれも象牙の台のうえに鎮座している。 店員はルシウス・マルフォイよりほんのすこしだけ下の品質のローブを着ていて、申し分ないお世辞だらけの丁重さでハリーとマクゴナガル先生に話しかけた。

 

ハリーはいろいろ質問しおわると、重そうな木材のトランクにすいよせられた。みがかれてはいないがあたたかでしっかりとした材質で、守護者のドラゴンの模様がきざまれていて、その目がちかづく人のほうをむくようになっている。軽くなる魔法、命令すると小さくなる魔法、したから爪のある触角がでてきて持ち主のあとをついてくるようにする魔法がかけられたトランク。 四方に引き出しが二つずつついていて、そのどれもトランク本体とおなじくらいの奥ゆきがある。 四つの鍵がついた引き出しは、鍵ごとにそれぞれ違う空間へとつながっている。それに——これが重要なのだが——下に持ち手がついていてそれを引っぱると、照明のついた小さな部屋へと通じる階段がでてくる。ハリーの推定では、書棚を十二個いれられるくらいの部屋だ。

 

こんなトランクがつくれるなら、家をもとうとする人の気がしれない。

 

百八ガリオン分の金貨。それが、さほどの使い古しでない、いいトランクの値段だ。 およそ五十ポンドで一ガリオンとするなら、中古車一台買うのに十分たりる。 ハリーが人生これまでに買ったものをすべてあわせたよりも高価だ。

 

九十七ガリオン。それがハリーがグリンゴッツからもちだすことをゆるされた金貨の袋ののこりだ。

 

マクゴナガル先生は目に見えて悔しそうだった。長い一日の買い物のあとでも、店員に値段を言われてから、袋のなかの金貨ののこりをたずねてはこない。ということはマクゴナガル先生はペンと紙がなくてもちゃんと暗算ができるということだ。 ()()()()()()()()であることは()()であることとはちがう、とハリーはもう一度自分に言いきかせた。

 

「申し訳ありません。これは全面的にわたしのせいです。 グリンゴッツにもう一度つれていきたいところですが、いまはもう緊急業務をのぞいて閉店してしまっています。」

 

ハリーは彼女のほうをみながら、思案した……

 

「では、」とマクゴナガル先生はためいきをついて、かかとを中心に回転した。「もう出るしかないようですね。」

 

……この人は子どもにたてつかれても完全に我をうしなっては()()()()()。 気にいらないようすではあったが、怒りを爆発させるかわりに()()()()()。不死の〈闇の王〉とたたかう必要がある——ハリーの好意を確保する必要があったというだけのことかもしれない。 しかし、自分より低い地位の人が服従をこばんだとき、ほとんどの大人はそういったことすらも、()()()()()すらもまったく考えることができない……

 

「先生?」

 

魔女はふりむいてハリーをみた。

 

ハリーは深呼吸をした。いまからやろうとすることには少し怒りが必要だ。さもないとその勇気はでない。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーはこころのなかで自分に言った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……。 自分の全世界を、マクゴナガルと、この会話を自分の思う方向にかえなければならないという必要性とに集中して、ハリーは口をひらいた。

 

「百ガリオンあればトランクには十分だとあなたは考えた。 だから、九十七ガリオンまで減ってもぼくに警告しなかった。 ちょうどこういう種類のことを実証した研究があります——()()の許容誤差をもうけてある、と思っている人に、なにが起きるか。 それでも十分悲観的になれていないんです。 ぼくにきめさせてもらえていれば、念をいれて()()ガリオンをもちだしていたでしょう。金庫には十分おかねがあるし、あまった分はあとでもどせばいい。でもあなたにそれをゆるしてもらえない、とぼくは思った。質問しただけでも怒られるだろうと。それはただしかったんじゃありませんか?」

 

「そのとおりだと認めざるをえませんね。ですがもう——」

 

「こういうことがあるから大人はなかなか信頼できないんです。」 なんとかしてハリーは声を安定させた。 「理屈を()()()()()()()()だけで大人は怒る。それは反逆であり傲慢であり、部族のなかで高い地位にいる自分たちへの挑戦状なんです。 説得しようとすれば大人は()()。 だから()()()()()()()()ことをしたければ、あなたたちを信頼することはできない。 ぼくの話を関心をもってきいてくれる大人がいるとしても、それは関心をもつ大人という()()を演じているだけであって、ぼくが言ったことにもとづいて実際の行動やふるまいを変えたりはしない。」

 

店員はいかにも興味津々な様子で二人をみつめていた。

 

「あなたの視点は理解できます。」とマクゴナガル先生がついに口をひらく。「わたしが厳格すぎるようにみえるとしたら、グリフィンドール寮の長を何千年にも感じるほどながく務めてきたということを忘れないでください。」

 

ハリーはうなづいて話をつづけた。「なので——もしグリンゴッツにまた()()()()()()金庫からガリオンをとりだす方法があるとしたら、ただしぼくが従順な子どもという役割に反するふるまいをする必要があるとしたら、どうしますか。 あなたを信じてもいいですか? それを有効にはたらかせるためには、あなたはマクゴナガル先生という役割からいったん離れなくてはならないとしても。」

 

「え?」

 

「言いかたをかえましょうか。今日これまでに起きたことを変えることができると仮定してみてください。つまり、おかねがたりなく()()()()ようにできるとしたら、かわりに大人に反抗する子どもがいたことになったとしてもかまいませんか?」

 

「まあ……いいでしょう……」と魔女は困惑したようすで言った。

 

ハリーはモークスキン・ポーチをとりだして、「ぼくの一族の金庫にもともとあった十一ガリオン。」と言った。

 

金貨がハリーの手にあらわれた。

 

一瞬マクゴナガル先生は口をぽかんとあけたが、あごをとじて、怪訝そうな目をして、一言はきだした。「()()()()それを——」

 

「言ったとおり、一族の金庫からですよ。」

 

「どうやって?」

 

「魔法です。」

 

「こたえになっていません!」と言いかえして、マクゴナガル先生は言葉をきり、まばたきをした。

 

「なっていませんよね? ぼくは実験をしてこのポーチには実は真の秘密があることを発見して、適切な呼びかたをしさえすれば、なかにあるものだけでなくどこからでも物品をとりよせられる機能があることが分かったんだと主張してもよかったんですが。 でもほんとうは、金貨の山にたおれこんだときにポケットにくすねた金貨なんです。 悲観主義を理解するひとなら、おかねは突然に、前ぶれも猶予もなく必要になることがあるものだと知っています。 さあ、あなたは自分の権威がこけにされたことで怒りますか? それともこれで重要な任務を達成できることをよろこびますか?」

 

店員の目が皿のようにみひらかれた。

 

背のたかい魔女はそのまま、沈黙して立っていた。

 

「ホグウォーツ内で規律は維持されなければなりません。」とほとんどまるまる一分かけてから彼女は言った。「()生徒のために。その一環として、あなたは()教員に礼儀と服従を()()()()()()()()()()()()。」

 

「わかりました、マクゴナガル先生。」

 

「よろしい。ではトランクを買ってかえりましょう。」

 

ハリーは吐くか、歓声をあげるか、卒倒するか、()()()をしたい気分だった。 ハリーの慎重な説得が()()()()通じたのはこれがはじめてだ。 多分それは、大人がほんとうに必要としているものをハリーがもっていたのがはじめてだったからかもしれない。とはいえ——

 

ミネルヴァ・マクゴナガル、一点獲得。

 

ハリーは会釈をして金貨の袋と追加の十一ガリオンをマクゴナガルの手にわたした。「ありがとうございました。購入をすませておいてもらえますか? 洗面所にいきたいので。」

 

店員はまた丁重になって、黄金のもちてのついた壁のドアを指さした。ハリーが歩きはじめると、店員が卑下した調子でこう言うのがきこえた。 「マダム・マクゴナガル、おつれのかたはどなたさまでしょう? 見たところスリザリン——おそらく三年生では?——名家のかたではないかと思いますが、いっこうに見おぼえが——」

 

そのあたりまで聞こえたところで、洗面所のドアがばたんとしまった。ドアに鍵があり、それがしまっているのを確認したあと、ハリーは自動的にきれいになる魔法のタオルを手にとり、震える手でひたいをぬぐった。からだ全体が汗でびっしょりになっていて、マグル服にまでしみだしてきている。さいわいローブの表面にまでは見えていなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

〈リーキー・コルドロン〉の庭にもどって立ったときには、太陽がしずみかけ、だいぶおそい時間になっていた。ブリテン魔法界のダイアゴン小路と全マグル世界のあいだ(なんとも()()()分離した経済だ……)の、落ち葉まみれの静かな接面である。 ハリーはむこうがわについたら電話ボックスにいってお父さんを呼ぶことになっていた。 トランクがぬすまれる心配はなさそうだ。こういう重要な魔法アイテムは、ほとんどのマグルに認識されないようになっているらしい。魔法世界では中古車一台分の値段をだせば、こういうものが手にはいるのだ。

 

「ではここで一旦おわかれです。」  マクゴナガル先生は信じられないというようにくびをふる。「これほど奇妙な一日は……何年もまえに経験して以来です。子どもが〈例の男〉を倒したと知った日以来ですね。 ふりかえってみると、あの日が世界最後のまともな日だったのかもしれません。」

 

おや()()()()文句をいうのか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「今日のあなたには感心しました。声にだしてほめるのをわすれてましたが、あなたに点を進呈したりとかしてたんですから。」とハリー。

 

「どうもありがとう、ミスター・ポッター。 もしあなたが寮へ組わけずみだったなら、孫の代まで寮対抗カップに負けつづけるほどの点を没収していたところです。」

 

「それはご親切に、マクゴナガル先生。」  『ミニー』と呼ぶのはもうすこし待ったほうがよさそうだ。

 

この女性は、科学知識に欠けているにもかかわらず、おそらくいままで出会ったなかで一番まともな大人かもしれない。 〈闇の王〉とたたかうためのグループを組織することがあったら、ナンバーツーの地位を進呈してあげてもいい、と思えるくらいだったが、ハリーはそれを口にだすほどバカではなかった。 ()()()()()()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()()

 

「学校がはじまったときにまたおあいしましょう。 それと、ミスター・ポッター、その杖についてですが——」

 

「きかれると思っていました。」 こころがずきんといたむのを感じながら、ハリーは大切な杖をとりだし、手のうえにぽんとおき、持ち手をさしだした。 「どうぞ。もともと全然なにもするつもりはありませんでしたが、ぼくが家をふきとばす悪夢をみてもらいたくありませんから。」

 

マクゴナガル先生はくびをすばやくふった。「いいえ、ミスター・ポッター! そういうことはしません。ただ、家にかえってから杖を使()()()()ようにと警告しようとしていただけなのです。監督者なしでの未成年の魔法は禁じられていて、〈魔法省〉にはそれを検知する能力があります。」

 

「ああ。そのルールはすごく妥当な気がします。魔法世界がそういうことを真剣にあつかっていてくれているのはありがたい。」

 

マクゴナガル先生はハリーをじっとみた。「本気で言っていますか。」

 

「はい。わかっています。魔法は危険で、ルールは理由があって存在する。それ以外にも危険なことがある。それもわかっています。ぼくはバカじゃないということをお忘れなく。」

 

「まず忘れることはないでしょう。 ありがとう、ハリー。それを聞いて、ある種のことはあなたにまかせてもすこし安心できる気がしてきました。それでは、今日はこれで。」

 

ハリーは向きをかえ、〈リーキー・コルドロン〉を通りぬけてマグル世界へもどる道を目ざす。

 

裏口のドアの取っ手に手がふれた瞬間、うしろからもう一言だけ、小さな声が聞こえた。

 

「ハーマイオニー・グレンジャー。」

 

「え?」と手をドアにおいたままハリーが言った。

 

「ハーマイオニー・グレンジャーという名前の一年生の女の子を、ホグウォーツ行きの列車にのったらさがしなさい。」

 

「それはだれですか?」

 

こたえはなく、ハリーがふりかえると、マクゴナガル先生のすがたはなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

余波:

 

総長アルバス・ダンブルドアは机に身をのりだし、きらきらとしたまなざしをミネルヴァに向ける。「では、ハリーの印象はどうだったかな?」

 

ミネルヴァは口をひらいた。そしてとじた。そしてまたひらいた。ことばがでてこなかった。

 

「なるほど。」とアルバスは重おもしく言った。「報告ありがとう、ミネルヴァ。さがってよろしい。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 





今回の非ハリポタ用語:「音声認識と自然言語理解」
要するにSiriとかGoogleアシスタントのようなもの。この作品が書かれたのは2010年ごろですが、八年を経てスマホもちょっとはこのポーチの言語処理性能に近づいたでしょうか?


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7章「互酬性」





「きみのパパはぼくのパパとおなじくらいすごいパパだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

キングス・クロス駅の九番乗り場でハリーにおなかを抱擁されながら、ペチュニア・エヴァンズ゠ヴェレスのくちびるは震え、目にはなみだがたまっていた。 「ほんとうについていかなくても大丈夫?」

 

お父さんのマイケル・ヴェレス゠エヴァンズを一瞥すると、ステレオタイプ的な厳格かつ誇らしげな態度をしていた。 お母さんのほうは……だいぶ取りみだしている。 「ママが魔法世界のことを好きじゃないのはわかってるから。こなくてもいいよ。ほんとに。」

 

ペチュニアはたじろいだ。 「ハリー、わたしのことはいいの。わたしはあなたのお母さんなんだから、もし必要なら——」

 

「ママ、ぼくはこれからひとりで()()()()ホグウォーツにいくんだ。列車の乗り場をひとりでのりこえられなかったなら、行くまえに向いてないと分かったことになるから、そのほうがいい。」 ハリーはささやき声にまで声をおとした。 「それに、ぼくはみんなに好かれている。なにか問題がおきたら、このヘッドバンドをはずすだけですむ。」  ハリーはひたいの傷あとを隠すためにつけてあったバンドをたたいた。 「それだけで、手においきれないほどのたすけがもらえるから。」

 

「ああハリー。」と小さく言って、ペチュニアはひざをつき、ハリーをきつく抱擁し、顔をむきあわせ、ほおとほおをあてる。 息がみだれるのが感じられ、おさえたすすりなきが聞こえた。 「ああハリー。愛してるわ。そのことはわすれないで。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という想像がハリーによぎった。恐れてるのは想像のとおりなのだろうが、ママがなぜそんな恐れを感じているのかはわからない。

 

だから推測してみた。 「ママ、魔法をまなんだからといってぼくがママの妹みたいになるわけじゃないのはわかってるよね? たのまれれば——というかやっていいなら——魔法をつかってあげるし、家で魔法をつかって()()()()()ならそうする。魔法にぼくたちの仲がひきさかれたりはしないようにするから——」

 

ハリーはきつく抱擁されてつづきが言えなかった。 「やさしい子ね。」とお母さんがささやき声でハリーの耳に言う。 「ほんとうにやさしい子。」

 

ハリーもそのときすこし息をつまらせた。

 

お母さんは手をほどき、立ちあがった。 ハンカチをハンドバックからとりだし、震える手で化粧がくずれかけた目がしらをおさえる。

 

お父さんが魔法界がわのキングス・クロス駅についてくるかどうかは、聞くまでもなかった。パパはハリーのトランクを直接みるだけでもやっとだったのだから。 魔法力は家系に流れる。マイケル・ヴェレス゠エヴァンズにはそれが一滴も流れていない。

 

だからお父さんはかわりにせきばらいだけをした。 「学校がんばれよ、ハリー。あれだけの本を買っておけば足りるかな?」

 

ここにくるまでに、これが画期的で重要なことをなしとげられるかもしれない大チャンスであることをハリーから説明されると、ヴェレス゠エヴァンズ教授はうなづいて、ものすごくいそがしいスケジュールをまる二日分ほうりなげて〈史上最大の古本買い付け作戦〉を発動したのである。 二人は四都市をまわり、その結果として、()()()の科学書がハリーのトランクの地下一層目におさめられている。ほとんどの本は一、二ポンドで手にはいったが、一部の本は……たとえば『CRC化学・物理学ハンドブック(Handbook of Chemistry and Physics)』最新版や『ブリタニカ百科事典』1972年版全冊組はあきらかに()()()()()()()()。 お父さんは精算するところをハリーにみせないようにしていたが、()()()()()()千ポンドはかかったはずだ。 ハリーは魔法世界の金貨をマグルのおかねにかえる方法が分かりしだい返済するとお父さんに言ったが、四の五の言うなと言われた。

 

そしていまの質問:『あれだけの本を買っておけば足りるかな?』 パパがもとめている答えはあきらかだ。

 

なぜかハリーののどはしわがれていた。 「本はいくらあっても足りない。」とハリーがヴェレス家の家訓を暗唱すると、お父さんはひざをついて短くしっかりと抱擁した。 「でもパパは()()()()がんばってくれた。」とハリーはいい、また息がつまるのを感じた。「すごく()()()がんばった。」

 

パパはたちあがって言った。 「さて……九と四分の三番乗り場は()()()()見えるのか?」

 

キングス・クロス駅は巨大で人通りがおおい、床のタイルがふつうによごれた駅だ。ふつうの用事で来て、ふつうの会話をして、ふつうの雑音をうみだすふつうの人たちでいっぱいだ。 キングス・クロス駅には(いまハリーたちがいる)九番乗り場と(そのとなりの)十番乗り場がある。九番と十番の乗り場のあいだにはなんの変哲もない、うすい仕切りの壁があるだけだ。そこにはあかるい日の光がふりそそぎ、九と四分の三番乗り場などあとかたもないことが、だれの目にもわかる。

 

目からなみだがでてくるまでハリーはそのあたりを凝視した。 『魔法の目よこい、魔法の目よこい』……だがなにもあらわれない。 杖をとりだしてふることも考えたが、杖はつかうなとマクゴナガル先生に警告されている。 もし色とりどりの火花がまたふりそそいだら、鉄道駅に花火をしかけたということでつかまることになるかもしれない。 杖がかってにほかのことをやってしまわないともかぎらない。キングス・クロス全体をふきとばすとか。 四十八時間で買うべき科学書の種類をいそいできめたかったので、教科書はまだごくかるく目をとおしただけだった(それだけでも変な内容であることは十分わかったが)。

 

まあ、まだ時間はある——と時計を見て思う。列車にのることになっているのは十一時だから、まる一時間はある。 もしかするとこれは、ばかな子どもが魔法使いにならないようにするためのIQテストに相当するのなのかもしれない。 (そして、時間の余裕をどれくらいとっておくかは〈まじめさ〉の度合いを決定づける。これは科学者としての成功にかかわる二番目に重要な要因である。)

 

「考えてみる。」とハリーは両親にむけて言う。「多分テストみたいなものだと思う。」

 

お父さんは眉をひそめた。 「そうだな……地面で足跡がかさなって妙な方向にすすんでいる場所をさがすとか——」

 

()()! やめて! まだ自分で考えてみてもないんだから!」  かなりいい案だっただけに、余計わるい。

 

「すまん。」とお父さんはあやまった。

 

「うーん……生徒にそんなことをさせるかしら? マクゴナガル先生になにか言われてなかった?」

 

「先生はほかのことに気をとられてたのかも。」とハリーは考えずに言った。

 

()()()!」とお父さんとお母さんが声をひそめて唱和する。「()()()()()?」

 

「ぼくは、ただ——」ハリーはいいやめた。「ほら、いまはそんなことを言ってる時間はないから——」

 

「ハリー!」

 

「ほんとだって! いまそんな時間はない! ほんとに長い話になるし、いまは学校にいく方法をみつけないといけないんだ!」

 

お母さんは顔を片手でおおった。「どれくらいひどかったの?」

 

「ええと、あー……」 ()()()()()()()()()()()。「〈理科課題事件〉の半分くらいかな?」

 

()()()!」

 

「えーと、あっ、あそこにフクロウをつれた人たちがいるから乗りかたをきいてくるよ!」  ハリーは両親のもとを離れ、燃えるような赤髪の家族を目がけて走っていった。 トランクは自動的に這いよってついてきた。

 

ハリーがそこにつくと、太った女性が顔をむけた。 「こんにちは。あなたホグウォーツははじめて? ロンもそう——」と言い、まじまじとハリーをみる。「()()()()()()()()?」

 

男の子四人と赤髪の女の子一人とフクロウ一匹もふりむいて、その場でかたまった。

 

「あーあ、()()()()()!」とハリーは抗議した。すくなくともホグウォーツにつくまではハリー・ヴェレスでいるつもりだったのだ。「わざわざヘッドバンドも買ったのに! どうやってわかったんですか?」

 

「そう……」とゆったりと歩いてついてきていたお父さんが言う。「()()()()()この子のことを知ったんですか?」  その声にはある種の恐怖があらわれていた。

 

「写真が新聞にのってた。」と、うりふたつの双子のひとりが言った。

 

ハリー!」

 

()()! そういう意味じゃないから! これはぼくが一歳のときに〈闇の王〉を倒したからなんだ!」

 

?」

 

「ママに聞いて。」

 

?」

 

「ああ……マイケル、あなたにはこのことを言わないでおいたほうがいいかと思って——」

 

「すみません。」とハリーをみつめる赤髪の一家全員にハリーは言う。「九と四分の三番乗り場にいく方法を()()()()教えていただけると、とてもたすかるんですが。」

 

「ああ……」と言ってその女性がをあげて乗り場のあいだの壁をゆびさした。「九番乗り場と十番乗り場のあいだの壁にむかって歩きなさい。ぶつかるのをこわがらずそのまま進むのが大事なの。不安なら、すこし走るくらいがちょうどいいわ。」

 

「それと、間違ってもゾウのことは考えるな。」

 

()()()()! この子のことは無視してね。ゾウのことを考えてもなんでもないから。」

 

「おれはフレッドだって、ママ。ジョージじゃない——」

 

「ありがとう!」とハリーはいい、壁にむけてかけこんだ——

 

ちょっと待った、これは()()()()()うまくいかないんじゃないの?

 

こういうとき、これが『疑念の共鳴』に該当する例だと気づくのがまにあうほど自分のあたまの回転がはやいのはいやになる。つまり、これから自分は壁をつきぬけると考えていたなら問題なかったのだが、つきぬけられるということを十分に()()()()()のか不安になったとなると、ぶつかることを()()しているということになり——

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」とパパの声。

 

ハリーは目をとじて信憑性の正当化に関して自分が知っていることをすべて無視して、自分は壁をつきぬけることができると()()()()()()()信じようとした。そして——

 

——周囲の音がかわった。

 

ハリーは目をあけ、つまづいてたちどまった。なにかを信じようと意図的に努力したことで、どこか自分が汚れてしまった感じがする。

 

そこは明るい、天井のない乗り場で、巨大な列車が一台とまっていた。長くつづく車両十四台の先頭に、真紅に塗られた大きな金属製蒸気機関と、大気汚染を保証する長い煙突がついている。 乗り場はすでに(まだゆうに一時間はあるのに)多少混雑していて、子どもたちとその親たちが何十人もベンチやテーブルや各種屋台や売店にたむろしている。

 

キングス・クロス駅のどこにもこんな場所はないし、それを隠せるだけの空間もないということはまったく言うまでもない。

 

となると可能性としては……(一)たったいまぼくはまったく別の場所にテレポートした、(二)魔法使いはなんでもないことのように空間を折りたたむことができる、(三)魔法使いはとにかくあらゆる規則を無視する、のいずれかだ。

 

引きずるような音がうしろから聞こえ、ハリーがふりむくとやはり、トランクだった。小さな爪のある触手で這いながらついてきている。 なにか魔法的理由でこのトランクも、自分はあの壁を通過できると十分に強く信じることができているらしい。 そう考えると、すこし気味がわるくなってくる。

 

すこし遅れて、赤髪家族の最年少らしい男の子が鉄のアーチ門(鉄のアーチ門? )を走りぬけてきて、ひもでひっぱったトランクとともにハリーにつっこみそうになった。 自分がその場につったっていたのがバカみたいに思えて、ハリーはその子が着地しそうな場所からすぐに離れようとした。赤髪の子も、遅れまいとトランクのひもを強くひっぱりながらついてきた。すこし遅れて、白いフクロウがアーチ門をぱたぱたとぬけてきてその子のかたにとまった。

 

「うわ」と赤髪の子が言う。「きみは()()()()ハリー・ポッターなの?」

 

(またか。) 「論理的にそうだは言いきれないな。ぼくはハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスだと()()()ように両親にそだてられたし、両親に……あ、この両親、というのは別のほうの両親だけど……両親に()()()()と言われたこともよくある。でも……」 あることに気づいてハリーは眉をひそめた。「()()()()()()()、子どもを特定の外見に多型化(ポリモーフ)させる呪文があっても全然おかしくない——」

 

「えっと? なんて?」

 

(レイヴンクロー行きのみこみなし、だな。) 「うん、ぼくはハリー・ポッター。」

 

「ぼくはロン・ウィーズリー。」と言って、背がたかく、にきびがあり、鼻がほそいその子は手をさしだした。ハリーは行儀よく握手して、一緒に歩きだした。 フクロウは妙に抑制された礼儀ただしい鳴き声をだした(実のところホーというよりエーにちかい声だったので、ハリーはおどろいた)。

 

この時点でハリーは災厄がせまっている可能性に気づいた。 ハリーは「ちょっとまって。」とロンに言い、たしか冬服をいれていたはずのトランクの引き出しをひらき(やはりあった)、もっているなかで一番薄いスカーフが冬用コートに下にあるのをみつけた。 ヘッドバンドをはずし、そのスカーフをすばやくひろげ、顔のまわりにまく。 夏だけにちょっとあついが、我慢はできる。

 

そしてさっきの引き出しをしめ、別の引き出しをあけて、黒の魔法使い用ローブをとりだし、あたまからかぶせた。マグルの領土を離れたからだ。

 

「よし。」と言うハリーの声は、顔にまいたスカーフをとおしてすこしくぐもって聞こえた。 ロンのほうをむいて、 「どう見える? ばかみたいだよね。でもハリー・ポッターに見えるかな?」

 

「うーん。」 ロンはあけたままだった口をとじる。「見えないよ、ハリー。」

 

「よかった。でも、せっかくここまでしたんだから。以後はぼくのことは……」  ヴェレスではもうだめかもしれない。「ミスター・スプーと呼んで。」

 

「わかったよ、ハリー。」とロンが自信なさげに言った。

 

(こいつのフォースはあまり強くないぞ。) 「ミ・ス・タ・ー・ス・プ・ー・と・呼・ん・で。」

 

「わかったよミスター・スプー——」  ロンは言いよどんだ。「やっぱりやだよ。自分がばかみたいに感じる。」

 

(感じだけじゃないよ。) 「わかった。()()()名前を決めてもらおうか。」

 

「じゃ、ミスター・キャノン。」とロンは即座に言った。「チャドリー・キャノンズにちなんで。」

 

「えっと……」  この質問はあとできっと後悔することになる。「チャドリー・キャノンズってだれ? それとも人じゃない?」

 

「『チャドリー・キャノンズってだれ』、だって? クィディッチ史上最高のチームさ。そりゃあ去年はリーグ最下位で終わったけど——」

 

「クィディッチってなに?」

 

この質問をしたのも失敗だった。

 

「ということはつまり、」とハリーはロンの説明(と身ぶり手ぶり)がおさまったところで言った。「〈スニッチ〉をつかまえると()()()()になるの?」

 

「うん、それで——」

 

「〈スニッチ〉を別にして、一回十点の価値があるゴールを一チームでふつう何回くらい決められる?」

 

「うーん。多分プロの試合だったら、十五回か二十回くらい——」

 

「まちがってる。ゲームデザインの法則にことごとく違反してる。 ほかの部分はまあそれなりに、意味がわかるけど。スポーツにしてはね。 要するに〈スニッチ〉をつかまえるかどうかで、どんな得点差もくつがえされるっていうことでしょ。 〈シーカー〉ふたりは〈スニッチ〉をさがして飛びまわって、ふつうはほかのだれとも接触しない。〈スニッチ〉をどちらがさきにみつけるかは、ほとんど運だけだし——」

 

「運なもんか! うまい順序で目をあちこちうごかさないといけないし、それに——」

 

()()()()()()()()()がないし、相手プレイヤーとのつばぜりあいもない。それに、目の運動神経がいいところを見ていてどこが楽しいんだ? それでどちらかの〈シーカー〉が運よく〈スニッチ〉をつかまえたら、ほかの全員のやったことが無駄になる。 まるで、ほんもののゲームをもってきて、ほかの部分を知る苦労なしに自分が〈最優秀プレイヤー〉になれるように、無意味なポジションを追加したみたいだ。 はじめて〈シーカー〉をやったのはだれだよ? クィディッチをやりたいのにルールを理解できないバカ王子がいたとか?」  実際、考えてみると、案外いい仮説かもしれない。ただホウキにのせてやって、ぴかぴかのあれをつかまえなさい、と言うだけですむんだから……

 

ロンが渋い顔をした。 「クィディッチをきらいなのはともかく、バカにしなくてもいいだろ!」

 

「批判できなければ最適化もできない。 これは()()()()()()する提案なんだよ。簡単さ。 〈スニッチ〉をなくせばいい。」

 

「きみ一人が言うだけでルールがかわるもんか!」

 

「ぼくは〈死ななかった男の子〉だよ。だから相手にしてもらえる。 ホグウォーツでのルールを説得してかえられれば、いずれひろまるさ。」

 

ロンの顔に恐怖がひろがっていった。 「でも〈スニッチ〉をなくしたら、試合の終わりはどうやって決めるんだよ?」

 

「時・計・を・買・う・ん・だ・よ。 ある試合は十分で終わって別の試合は何時間もかかるというのよりずっと公平だし、観客にとってもあらかじめ予定がたてやすくなる。」  ハリーはためいきをついた。 「そうやって心底ぞっとした表情をするのはやめて。 ()()()()()時間をさいてこの国技のなりそこないをぶちこわしてぼくの理想にちかづけるようなことはしないよ。 そんなことより()()()()()()だいじなことがあるからね。」  思案げな顔になる。 「といっても、〈スニッチ廃止改革のための九十五カ条の論題(テーゼ)〉を書いて教会の扉にうちつけるくらいなら、()()()()()手間はかからないだろうから——」

 

「ポッター?」とおさない少年の声が聞こえてきた。「顔にまいた『それ』はなんだ? そしてきみのとなりにいる『それ』はなんだ?」

 

ロンの表情は恐怖からあからさまな嫌悪にかわった。 「()()()()!」

 

ふりむくと、そこにいたのはやはりドラコ・マルフォイ。標準の制服ローブをきせられているようだが、そのかわりにトランクはハリーのものと同等以上の魔法がかかった、はるかに優美な仕立てのトランクだ。銀とエメラルドで装飾され、マルフォイ家の紋章と思われる、象牙の杖にからみついたみごとな牙のあるヘビがついている。

 

「ドラコ!」とハリーが言う。「あー、マルフォイとよんだほうがいいのか。これじゃルシウスのことみたいだけど。 このまえのその……出会いのあとでも元気にしてくれていたみたいだね。 こちらはロン・ウィーズリー。 ぼくはいま変装してるんだ。だからぼくのことは、その……」 自分のローブをみおろす。「ミスター・ブラックと呼んでくれ。」

 

()()()!」とロンが声をひそめて言う。「()()名前はだめだ!」

 

ハリーはまばたきをした。「どうして?」  ダークなひびきで、まるで国際的な謎の人物のようなところが気にいったのに——

 

「いや、()()名前だけれども。」とドラコが言う。「その名前は〈元老貴族〉ブラック家のものだ。ミスター・シルバーでいこう。」

 

「ミスター・……ゴールドにちかづくな。」とロンは冷たく言い、一歩ふみだした。「この子はおまえなんかと話すことはない!」

 

ハリーは仲裁のため手をあげた。「ミスター・ブロンズにするよ。命名法則をありがとう。それで、ロン。」  どう言ったものかとハリーはなやんだ。 「熱心にぼくを……まもってくれるのはありがたいんだけど、ぼくはドラコと話すのに別に抵抗はないから——」

 

ロンはこれで堪忍袋の緒がきれたようだ。怒りにもえる目をハリーにむけて、 「はあ? こいつがだれだか知ってるの?」

 

「知ってるよ。紹介してもらわないうちにぼくがドラコと呼んだのに、きみも気づいたんじゃないかと思うけど。」

 

ドラコは嘲笑した。そしてロンのかたの白いフクロウに目をひからせた。 「おやおや、これはどういうことかな?」  ドラコは悪意のある間延びした声で言った。「あの有名なウィーズリー一家のネズミはどこへ?」

 

「庭に埋めた。」とロンが冷たく言った。

 

「それは残念。ポッ……いや、ミスター・ブロンズ、実はウィーズリー一家にはだれもが認める傑作のペット物語があってね。 話してくれよ、ウィーズリー?」

 

ロンの顔がゆがんだ。 「もし自分の家であんな事件があったら笑ってられないだろ!」

 

「おっと。」とドラコが満足気に言う。「だがマルフォイ家なら()()()()()()()()。」

 

ロンは両手をこぶしにかためて——

 

「そこまで。」と言って、ハリーはできるかぎりの静かな権威を声にこめた。それがなんの話であれ、赤髪の子のつらい記憶であることはまちがいなさそうだ。 「もしロンが話したくないなら、ロンは話さなくていい。きみも話さないでほしい。」

 

ドラコはおどろいたような顔をした。ロンはうなづいた。「そうだよハリー! いやミスター・ブロンズ! こいつがどういうやつか、わかっただろ? こっちにくるなと言ってやって!」

 

ハリーはこころのなかで十をかぞえた。ハリーのやりかたでは一瞬で()()()()()()()()()()を言う。五歳のときにお母さんにはじめてこれを教わってからのなごりの変な習慣だが、ハリーの考えでは効果はおなじだし、こうしたほうがはやい。 「くるなとは言わないよ。」とハリーはおちついて言う。「ドラコはぼくに話をしたいならしていい。」

 

「じゃあ、ぼくはドラコ・マルフォイの仲間と仲間になる気はない。」とロンは冷たく宣言した。

 

ハリーは肩をすくめた。「ご自由に。()()()だれとだれが仲間になっていいとか指し図する気はない。」  こころのなかでは、『いなくなれ、いなくなれ』と言いながら……

 

ロンはあっけにとられた表情になった。まるで、さっきのせりふがきくと思っていたかのように。 そして一回転して、ひもをひっぱってトランクをつれて飛び出し、乗り場のむこうへと去った。

 

「彼のことが気にいらないのなら、なぜずっといっしょにいたんだ?」とドラコが不思議そうに言った。

 

「いや……彼のお母さんにはキングス・クロス駅からこの乗り場にくる方法を教えてもらった恩があったから、追いはらうのは気がすすまなかった。 それに、ぼくはあのロンという子が()()()なわけじゃない。ただ、その……」

 

「あいつが存在する意味がわからない、とか?」

 

「そんなところ。」

 

「とにかく、ポッター……もしマグルにそだてられたというのがほんとうなら——」  ドラコはまるで否定されるのを待つようにそこで一度とまったが、ハリーはなにも言わなかった。 「きみは有名であることの意味を知らないのかもしれない。ほかのひとは()()()ぼくたちの時間をとろうとする。きみはことわることを()()()()()()()()()()。」

 

ハリーはうなづいて、思案するような表情をした。 「いいアドヴァイスだと思うけど。」

 

「親切になろうとすれば、一番おしつけがましい相手に時間をとられることになる。 自分がだれに時間を()()()()()かをきめて、そのほかの人はよせつけるな。 きみはこの世界にきたばかりだろう。だからみんな、だれがとなりにいるかで、きみのことを見きわめようとする。ロン・ウィーズリーのようなやからのとなりにいるのを見られてはいけない。」

 

ハリーはもう一度うなづいた。 「できれば教えてほしいんだけど、きみはどうやってぼくのことがわかった?」

 

「おいおい、ぼくはきみに()()()()()()()()んだよ。スカーフをあたまにまいてどうみてもおかしな格好で歩いてる人をみたら、()()はつくさ。」

 

ハリーは会釈してこの賛辞をうけとった。 「あのときのことは、()()()()()悪かったと思う。最初の出会いのことだけどね。ルシウスのまえできみに恥をかかせるつもりはなかった。」

 

ドラコは手をふって怪訝そうな表情をした。 「ぼくのほうがお世辞を言われていたタイミングで父上がきてくれたらよかったのに——」とドラコは笑った。 「でも父上にああ言ってくれて()()()()()。あれがなかったら、説明にもっと苦労していたかもしれない。」

 

ハリーは会釈をかさねた。 「お返しにマクゴナガル先生にああ言ってくれて()()()()()。」

 

「どういたしまして。けれど、どうやらあそこの助手のどちらかが親友に秘密をまもらせる約束をしたようだ。父上の話では、()()()()()()()がでまわっているらしい。きみとぼくがけんかをしたとかなんとか。」

 

「うっ」とハリーは顔をしかめた。「()()()()()申し訳ない——」

 

「いや、ぼくたちは慣れてるから。マルフォイ家についてはすでにどれだけうわさがあることか。」

 

ハリーはうなづいた。「きみの迷惑になっていないのならよかった。」

 

ドラコはにやりとした。 「父上のユーモアの感覚は、その、()()だ。けれども、父上は友人をつくることに関してはよく理解している。()()()よく理解している。 この一カ月、毎晩寝るまえに暗唱させられたんだ。『ぼくはホグウォーツで友人をつくる』って。 ひとりしきり説明して、ぼくが父上に言われたとおりのことをやろうとしていたのはわかってもらえた。それで父上はアイスクリームを買ってくれたよ。」

 

ハリーはぽかんと口をあけた。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

ドラコはうなづいた。この偉業にみあう満面の得意げな顔だ。 「まあ、もちろんぼくがなにをやろうとしていたかは父上にお見とおしだったけれどね。 あの()()()()は父上におそわったんだから。それをやるのと()()()ただしい薄ら笑いをすれば、親子のあれになって、父上はアイスクリームを()()()()()()()()。 買ってくれなければ、ぼくは父上を失望させてしまったというようなときの、悲しそうな顔をしてやるから。」

 

もうひとりの名人をまえにしていることに気づいたハリーは、なにかを計算するような目でドラコを見た。 「きみはひとを操作する方法について()()をうけてたの?」

 

「もちろん。」と自慢げにドラコが言う。「ぼくは()()()()()だ。だから父上は家庭教師をつけてくれた。」

 

「うわ」 ロバート・チャルディーニの『影響力の正体』を読んだことはこれにくらべるとあまり大したことがなさそうだ(いや、すごい本なのにかわりはないが)。 「きみのパパはぼくのパパとおなじくらいすごいパパだ。」

 

ドラコの眉がたかくあがった。「ほう? ()()()パパはなにをしてくれる?」

 

「本を買ってくれる。」

 

ドラコは検討した。「あまりたいしたことがなさそうに聞こえるな。」

 

「自分で見てみないとわからないさ。とにかく、そういう話ならよかった。きみを見ていた目つきからして、ルシウスはあとできみをくる——苦しめたりするんじゃないかと。」

 

「父上はぼくを愛している。」  ドラコはきっぱりと言った。「そんなことをするものか。」

 

「うーん……」  ハリーは黒ローブの、銀髪の気品あるあの男性が、銀色のもちての美しくもおそろしげなステッキをふりかざしてマダム・マルキンの店にふみこんできたようすを思いうかべた。あまやかす父親としてのすがたは想像しにくい。 「誤解してほしくないんだけど、どうやってそれが()()()?」

 

「は?」  ドラコはこういうたぐいのことをあまり自問する習慣がないらしい。

 

「この質問は合理主義の基本的な質問だ。 なぜひとは自分が信じていることを信じているのか。なぜ自分が知っていると思っていることを知っていると思っているのか。 ルシウスは権力のためにほかのだれかを犠牲にするのとおなじようにきみを犠牲にするかもしれない。きみはなぜそうでないと思っている?」

 

ドラコはまたもや怪訝そうな顔をした。「きみは父上のなにを知っているんだ?」

 

「ウィゼンガモート評議員で、ホグウォーツ理事で、ものすごく裕福で、ファッジ大臣とコネがあって、ファッジ大臣に信頼されている。ファッジ大臣のかなり恥ずかしい写真をたぶんもっている。〈闇の王〉がいなくなってからは、純血主義者のなかで一番の有力者。もと〈死食い人〉で〈闇の紋章〉をつけていたことが発覚したが〈服従の呪い〉をかけられていたと主張して放免された。……なんてことはどう考えてもありえないというのがほとんど周知の事実で……ねっから邪悪で生まれついての殺し屋……だいたいこんなところかな。」

 

ドラコの目が極細になった。 「マクゴナガルにそう吹きこまれたんだな。」

 

「いや、あのあとルシウスについては、距離をおきなさいという以外には、いっさいなにも言われなかったよ。 あの〈魔法薬店事件〉の最中、マクゴナガル先生が店主とやりあって事態を収拾しようとしているあいだに、ぼくは客を一人つかまえて()()()()()ルシウスのことを聞きだしたんだ。」

 

ドラコがまた目をみひらいた。 「ほんとにそんなことを?」

 

ハリーは困惑げにドラコを見た。 「もしぼくが一回目に嘘をついていたとしたら、二回きかれても真実を言うわけないだろう。」

 

ドラコが一連の話をうけとめて返事するまでに少し時間がかかった。

 

「きみは完全にスリザリンむきだ。」

 

「ぼくは完全にレイヴンクローむきだ。おあいにく。 本を手にいれられるだけの権力しかぼくにはいらない。」

 

ドラコはくすくすと笑った。 「ああ、そうだな。とにかく……きみの質問にもどると……」  ドラコは深呼吸をして真剣な顔つきになった。「父上はぼくのためにウィゼンガモートでの投票をいちど欠席した。 ぼくはホウキにのっていて落ちて、あちこち骨折したんだ。 すごく痛かった。 あれほど痛かったのははじめてだったから、死ぬかと思った。 それで、父上はとても重要な投票をぼくのために欠席して、〈聖マンゴ病院〉のベッドでぼくによりそって、ぼくの手をにぎって、きっとよくなるからなと言ってくれたんだ。」

 

ハリーは居ごこちがわるそうに視線をそらしたが、努力して、ドラコへと視線をもどした。 「どうしてそんな話をぼくに? なんだか……プライヴァシーにふみこむような……」

 

ドラコは真剣な表情をした。 「家庭教師のひとりからおそわったんだが、ひとはたがいのプライヴァシーの一部を知ることによって親密な友人関係をきずく。 多くのひとが親密な友人をもてないのは自分についてのほんとうに大事なことを恥ずかしがってあかしたがらないからなんだ。」  ドラコは招きいれるように手のひらをひらいた。「きみの番だぞ?」

 

期待をよせるようなドラコの表情はおそらく何カ月も練習して教えこまれたものだ……ということが分かっても効果は弱まらない、とハリーは観察した。 いや、()()()()はいるが、残念ながら()()までではない。 おなじことはドラコがたくみに使った、いわれのない贈りものに関する互酬性の圧力にもいえる。ハリーはこのテクニックを社会心理学の本で読んだことがある(アンケートにこたえてもらう手段として、五ドルを無条件で贈ることは条件つきで五十ドルを提示することの二倍有効だという実験結果がある)。 ドラコはうちあけ話というかたちでいわれのない贈りものをし、こんどはハリーにうちあけ話をするように誘っている……そして実際、ハリーは圧力を感じている。 ことわればまちがいなく、悲しそうな失望の表情が待ちかまえているだろう。もしかすると、ハリーが点をうしなったことを示す多少の軽蔑も。

 

「ドラコ、言っておくけれど、きみがやろうとしていることがなにか、ぼくにはよくわかっているよ。 ぼくの本ではこれは『互酬性』とよばれていて、なにかをしてもらいたいときに、二シックルをいきなり贈ることは二十シックルを報酬として提示するよりも二倍も効果的だと……」  ハリーはそのまま声を小さくして言いやめた。

 

ドラコは悲しそうに失望した表情をした。 「トリックのつもりじゃないよ。これはほんとうに友だちになるための方法なんだ。」

 

ハリーは片手をあげた。 「返事しないとは言っていない。プライヴァシーにふみこみつつも害のない話をさがすのには時間が必要なんだ。言ってみれば……ぼくをせかしてもうまくいかないということを伝えておきたかっただけ。」  応諾のテクニックの効果は多くの場合、それと認識できてさえいれば、一度とまってふりかえってみることでかなりそぐことができる。

 

「わかった。きみがなにか思いつくまで待とう。 ああ、言うときにはそのスカーフをはずしてくれよ。」

 

単純だが効果的だ。

 

ハリーは操作/虚勢/誇示に抵抗しようとする自分のこころみがドラコにくらべていかに不器用でぎこちなく気品のないやりかたかを感じずにはいられなかった。 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「わかった。」としばらくしてハリーが言う。「これにしよう。」  ハリーはあたりをみまわしてからスカーフを顔からまきとり、傷あと以外のすべてが見えるようにした。 「その……きみのお父さんはたよりになるようだ。たとえば……きみが真剣に話をすれば、お父さんはいつもそれをきいて真剣にあつかってくれるというように。」

 

ドラコはうなづいた。

 

「ときどき、」と言ってハリーは息をすった。これは意外に言いにくい。まあ、言いにくくて当然だけれど。「ときどき、ぼくはパパがきみのお父さんみたいだったらいいのにと思う。」  ハリーはほとんど無意識にひるんで目をドラコの顔からはずしたが、無理をしてドラコのほうにもどした。

 

そこでハリーははっとして、『ぼくはなにを言ってるんだ』と気づいて、いそいでつけたした。 「ルシウスのように完全無欠な殺人機械であってほしいというわけじゃなくて、ただぼくを真剣にあつかってほしいという意味で——」

 

「わかるよ。」とドラコは笑顔で言う。「ほら……これで少し友だちにちかづいた感じがしないか?」

 

ハリーはうなづいた。「うん。たしかにする。その、また変装をもどしたいんだけど、気をわるくしないで。あの手の人たちにかかわるのは()()()()()——」

 

「わかるよ。」

 

ハリーはスカーフをまた顔にまきつけた。

 

「父上は友だちを真剣にあつかう。だから友だちが多い。きみは一度父上にあったほうがいいよ。」

 

「考えておく。」とどちらともつかない声で言って、ハリーはおどろいたようにくびをふった。「つまりきみは彼の弱点なんだな。ふうん。」

 

ドラコはこんどは()()()怪訝そうな顔をした。「飲み物でも買ってどこかに座らないか?」

 

ハリーは自分が一カ所にあまりにながく立っていたことに気づいて、背のびをしてからだをほぐそうとした。「いいね。」

 

乗り場は人でうまりはじめていたが、赤い蒸気機関から離れた奥のほうにはまだ静かな場所があった。 そこにいくまでに、二人はあたまがはげた、ひげのある男がいる売店をとおりすぎた。商品には新聞とコミック本とネオングリーン色の缶の山がある。

 

店の主はちょうどうしろによりかかってネオングリーン色の缶を飲んでいたところで、上品で気品のあるドラコ・マルフォイと、スカーフを顔にまきつけてものすごくばかっぽく見える謎の少年の二人組がむかってくるのに気づいた。そして二人のすがたを見て急にせきこみ、かなりの量のネオングリーン色の液体をひげにたらした。

 

「ちょっとすいません。それの正体はいったいなんですか?」

 

「コメッティーだよ。」と店の主。「飲むと、なにかおどろくようなことがかならず起きて、自分かほかのだれかにふきこぼしてしまう。でも数秒で消えるように魔法がかけられているから——」  たしかにひげのしみはもう消えはじめている。

 

「くだらない。」とドラコ。「まったくくだらない。ミスター・ブロンズ、ほかの店にしよう——」

 

「待って。」とハリー。

 

「そんな……そんな()()()()()()を相手にするなよ!」

 

「申し訳ないけどドラコ、ぼくはこれを調査()()()()()()()()んだ。完全に真剣な会話をつづけようとしながらコメッティーを飲んだらどうなるんだろう?」

 

店の主は謎めいた笑顔をした。 「さあねえ? 友だちがカエルの衣装をきて歩いてくるとか? 予想できないなにかがきっと起こるはず——」

 

「すみませんが、信じられませんね。そんなのは、ただでさえ濫用されているぼくの不信の一時停止を、数える方法が思いつかいほど何段階にもわたってやぶってしまう。 ただの()()()が現実をねじまげて()()()()()()()()をつくりだすなんて、どう考えても()()()()()。そんなものがあるなら、ぼくは引退してバハマで過ごしてしまいたい——」

 

ドラコはうめいた。「()()()()やるのか、これ?」

 

「きみは飲まなくてもいい。でもぼくは調査()()()()()()()()。かならず。いくらです?」

 

「一缶五クヌート。」と店の主。

 

()()()()()? 現実をねじまげる炭酸飲料が()()()()()()()?」  ハリーはポーチに手をいれ、「四シックル、四クヌート。」と言い、カウンターにおかねをたたきつけた。「二ダースください。」

 

「ぼくもひとつもらおう。」とドラコがためいきをついて、ポケットに手をのばそうとした。

 

ハリーはすばやくくびをふった。「いや、おごるよ。貸しでもない。きみにも効果があるか、調べたいんだ。」  ハリーはカウンターにだされた一山のなかから缶をひとつをドラコに投げてから、のこりをポーチにしまいはじめた。ポーチの〈口さけ口〉は缶を食べおわると小さなゲップの音をだした。いつかこのすべてに理屈のとおる説明をみつけるという信念をとりもどそうとするハリーだったが、その音でやや意気がそがれた。

 

二十二回のげっぷを聞いてから、ハリーは買ったうちの最後の缶を手においた。ドラコはそれを待ちかまえていて、二人はいっしょに輪をひいた。

 

ハリーはスカーフをまきあげて口をだし、二人はあたまをそらせてコメッティーを飲んだ。

 

どこか明るい緑色の()がした。泡だちが多く、ライム以上にライムっぽい。

 

それ以外は、なにも起こらなかった。

 

店の主のほうはというと、やさしそうなまなざしを投げかけてきていた。

 

よし、もしあの人がただの事故を利用してぼくに二十四缶を売りつけたのなら、その創造的な商人根性を賞賛してから殺してやる。

 

「すぐに起きるとはかぎらない。」と店の主。「一缶ごとに確実に一度起きる。起きなければ返金する。」

 

ハリーはもう一回ゆっくりと飲んだ。

 

こんどもなにも起きなかった。

 

もしかすると、できるだけのはやさで一気飲みして……おなかが炭酸で破裂しないことをいのるほうがいいのかな。それとも、飲んでいるあいだにげっぷをしないようにするとか……

 

いや、()()()()()()()待ってもいいか。けれど正直にいってうまくいくようには思えない。だれかのまえにいって『いまからきみをおどろかせるぞ』とか、『いまからこのジョークのオチを言うぞ。すごくおもしろいから』とか言っても意味がない。せっかくのショックがなくなってしまう。もしルシウス・マルフォイがバレリーナ衣装でここをとおりかかったとしても、精神的な準備ができた状態のハリーなら、本気でふきだすことはない。いったい宇宙はどんないかれたいたずらをひねりだすというのだろうか。

 

「ともかく、座ろう。」と言ってハリーはもう一飲みする準備をして、遠くの座れる場所へとあるきだした。そこでふりかえると、ちょうどいい角度でその店の新聞スタンドの部分が見え、そこには『難癖屋(ザ・クィブラー)』という名前の新聞がならんでいた。こういう大見出しが見えた:

 

死ななかった少年の子を

ドラコ・マルフォイが妊娠

 

ハリーの方向から明るい緑色の液体がふりかかってくると、「()()!」とドラコがさけんだ。ドラコは燃える目でハリーのほうをむいて自分の缶を手にとった。「この泥血(マッドブラッド)の子め! 自分がかけられるほうになってみて思い知れ!」  ドラコはそう言ってわざと一飲みしたところで、ちょうど大見出しを目にした。

 

完全に反射的にハリーは自分の方向にふりかかってくる液体から顔をまもろうとした。 残念ながらその手にはコメッティーがにぎられていたので、のこっていた緑色の液体が自分の肩にかかった。

 

ドラコのローブからは緑色がきえはじめている。まだのどをつまらせたりふきだしたりしながらハリーは自分の手の缶をみつめた。

 

そして目線をあげて新聞の大見出しをみつめた。

 

死ななかった少年の子を

ドラコ・マルフォイが妊娠

 

ハリーのくちびるがひらいて「デボブブ……」と言った。

 

たがいにあらそう反論がいくつもありすぎる。それが問題だ。 『でもぼくたちはまだ十一歳じゃないか!』と言おうとするたびに『でも男は妊娠できないじゃないか!』という反論が優先権を主張したかと思うと『でもぼくたちはなにもしてないじゃないか!』にさきをこされる。

 

そしてハリーはもういちど自分の手の缶を見た。

 

ハリーはこころの底から、酸素がなくなって倒れるまでちからいっぱいさけびながら走りだしたいという欲望を感じた。それをとどめているただひとつのものは、あからさまなパニックは()()重要な科学的問題の前兆として起きるのだという、どこかで読んだ説だけだった。

 

ハリーはうなって缶をちかくのごみ箱へと乱暴にほうりなげ、のしのしとあの店にもどった。 「『ザ・クィブラー』ひとつください。」  四クヌートをしはらい、コメッティーをもう一缶ポーチからとりだし、金髪の少年がいる食事エリアにのしのしとひきかえす。 ドラコはすなおに感心したような表情で自分の缶をみつめていた。

 

「前言撤回。なかなかよかった。」とドラコ。

 

「ねえドラコ。秘密を教えあうよりも友だちになるのにやくだつ方法があるよ。人を殺すこと。」

 

「そうすすめる家庭教師がうちにいる。」  ドラコはうけいれた。彼はローブのなかに手をいれ、なにげない自然な所作でからだをかいた。 「具体的にはだれを?」

 

ハリーは『ザ・クィブラー』をテーブルにたたきつけた。 「この見出しを書いた男を。」

 

ドラコはうめいた。 「男じゃない。女の子だ。()()の女の子だぜ? 信じられるか? 母親に死なれてから気が狂ったんだ。父親のほうはこの新聞のオーナーで、その子が予見者だと()()している。だからわからないことがあるとルナ・ラヴグッドにきいて、()()()()()()()()信じるのさ。」

 

あまり考えずにハリーはつぎのコメッティーの缶の輪にゆびをかけて飲む準備をした。 「うそだろう? マグルの報道機関よりひどい。あれよりひどくするのは物理的に不可能だと思ってたよ。」

 

ドラコはうなった。 「あいつはマルフォイ家になにか執着があるらしいんだ。父親もぼくたちに反対しているから、それを一言一句そのまま印刷する。 ぼくは成人したらすぐにあいつを強姦してやろうと思ってる。」

 

緑色の液体がハリーの鼻から飛びだし、そのあたりにまだかかっていたスカーフにしみた。 コメッティーは肺とそりがあわず、ハリーはつぎの数秒間必死にせきこんだ。

 

ドラコはハリーをするどい視線で見た。 「どうした?」

 

このとき、ハリーははたといくつかのことに気づいた。 (一)ドラコがローブに手をいれたのとほぼおなじタイミングで列車乗り場のほかの音がすべてぼやけた白色雑音のようなものに変化した。 (二)人を殺すことを仲間づくりの方法として話しあったとき、ジョークを言っているつもりだったのはその場にいたうちのちょうど一名だけだった。

 

そうか。ドラコはふつうの子どもに()()()からだ。ふつうの子ども()()()()けれど、実はダース・ヴェイダーを父親として溺愛された平均的な男の子にあたるものなんだ。

 

「うん、それは……」  ハリーはせきばらいした。おいおい、こんな難所からどう言えばぬけだせるんだ。 「きみが隠そうともせずに話す用意があるのにおどろいただけ。つかまったりすることを心配していないみたいだったから。」

 

ドラコは鼻さきで笑った。 「冗談だろう? ()()()()()()()()の証言対ぼくの証言で?」

 

あいた口がふさがらない。 「魔法をつかった嘘発見器みたいなものはない、ということかな?」  ()()()D()N()A()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ドラコはあたりをみまわした。怪訝そうな目をしている。 「そうだった。きみはなにも知らないんだな。じゃあ、きみがもうスリザリン生になっていてぼくがおなじことをきかれたつもりで、どういうしくみなのか説明してあげよう。 でもこのことは他言しないと誓ってほしい。」

 

「誓う。」

 

「裁判では〈真実薬〉がつかわれる。でもこれは冗談にもならない。証言するまえに自分を〈忘消〉(オブリヴィエイト)してもらっておいて、相手のほうには〈記憶の魔法(チャーム)〉で偽記憶がうえつけられているんだと主張すればいい。 もちろんただのひとだったら法廷は〈偽記憶の魔法〉よりも〈忘消〉(オブリヴィエイト)をまず仮定する。 でも法廷には裁量権がある。ぼくが関係する事件だったら、〈元老貴族〉の名誉の侵害にかかわる問題だから、ウィゼンガモートにおくられて審議される。父上はそこの票を確保している。 ぼくの無実が言いわたされたらラヴグッド家はぼくの名誉を傷つけた賠償金をしはらわなければならない。 こういう風にことがすすむのがわかっているから、ラヴグッド家はなにも文句を言いださないのさ。」

 

冷たい寒けがハリーのからだをかけぬけた。その寒けとともに、自分の声と表情を平静にたもてという指令がきた。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーはもういちどせきばらいをした。 「ドラコ、ぼくはかならず約束はまもるし、決して決して()()()誤解してほしくはないんだれども、きみも言ったように、ぼくはスリザリンにはいってもおかしくない。だから後学のために知っておきたいんだけど、理論的な話として、もしぼくが仮に、きみがそういう計画をしていたと証言したとしたらどうなる?」

 

「その場合、もしぼくがマルフォイ一族でなければ、こまったことになる。」  ドラコは得意げにこたえる。 「でもぼくは()()()()()()()()()()……父上は十分な票を確保している。 そのあとで父上はきみをたたきつぶす……まあ、きみは()()()()()()()()()()()()()()簡単ではないかもしれない、けれど父上はこういうことがとてもうまい。」  ドラコは眉をひそめた。 「それに、彼女を殺す話をしたのは()()だろ。彼女の死体がみつかったときに()()()証言する心配をしなくていいのか?」

 

ああ、ぼくは今日どこでまちがったんだろう?—— 考えるよりもはやくハリーの口がうごきだす。 「そのときは()()()()()だと思っていたんだよ! ()()()はどうなのか知らないけれど、マグル界のブリテンの裁判所は子どもが殺された事件はずっときびしくあつかうし——」

 

「そういうことか。」とドラコ。まだすこしうたがっているようだ。「でもとにかく、いつでも〈闇ばらい〉のやっかいにならないようにするほうがかしこい。 〈治癒の魔法(チャーム)〉でもどせる範囲のことしかしないように気をつけておけば、終わってから彼女を〈忘消〉(オブリヴィエイト)して、翌週にもう一度やれる。」  そこで金髪の少年はくすくすと高い声で笑った。 「でも考えてみれば、もし彼女がドラコ・マルフォイ()〈死ななかった男の子〉にやられたといったら、()()()()()()でさえ信じないだろうな。」

 

そのぶざまな魔法の暗黒時代のかすかな痕跡までもずたずたにひきさいてそれを構成する原子よりも細かなつぶにしてやる。 「いや、その方法はやめないか? あの見出しを書いたのがぼくより一歳年下だと聞いてから、別の復讐の案を思いついた。」

 

「ほう? なんだい。」と言ってドラコはコメッティーをもう一飲みしはじめた。

 

あの魔法が一缶ごとに一度以上発動するのかどうかはわからないが、糾弾を回避できるのは()()()。だからハリーは慎重にタイミングをあわせてこう言った:

 

()()()その子と結婚しようと思ったんだ。」

 

ドラコはぶじゅっというひどい音をだして、こわれた車のラジエーターのようにして緑色の液体を口のはしからこぼした。 「気でも狂ったか?」

 

「まったく逆。氷が燃えるように正気さ。」

 

「レストレンジよりも趣味がわるい。」と半分賞賛するようにドラコが言う。「多分ひとりじめしたいんだな?」

 

「うん。そうさせてもらえれば恩にきる——」

 

ドラコは手をふった。「いや、あれはあげるよ。」

 

ハリーは手のなかの缶をみつめた。その冷たさが自分の血にしみこんでくる。 友だちにゆずってあげたことでほがらかに、幸せそうに、寛大そうにしているドラコはサイコパスではない。 そのことがまさに悲しく悪質なところだ。心理学を知ればドラコが怪物でないことがわかる。おなじような会話が有史以来一万もの社会でかわされたことがあってもおかしくない。 いや、もし()()()()()()()でないかぎりドラコの言ったことを言えなかったとしたら、世界はかなりちがったものになっていただろう。 これはとても単純で、とても人間的で、ほかのなにものにも干渉されない状況での既定値(デフォルト)だ。 ドラコにとって、敵であるものは人間ではないのだ。

 

〈理性の時代〉がまだ明けていない暗闇に取り残されたこの国ではいまだに、それなりに有力な貴族の息子が、自分は法律の埒外にいられて当然だと思っている。すくなくとも平民の女の子に関するかぎりは。 マグルの国にもおなじような場所はある。いまだにこういう貴族が存在しておなじような考えたをしている国もあるし、貴族どころではないひどい場所もある。 〈啓蒙思想〉をうけついでいない場所や時代はすべてそうだ。 その系統にどうやらブリテン魔法界は属していないらしい。プルタブつきの飲料缶といった異文化の汚染をうけているにもかかわらず。

 

そしてドラコがもし復讐をするつもりのまま気がかわらなかったら……ぼくが自分がしあわせになる可能性をほうりなげてかわいそうな気違いの女の子と結婚しなかったとしたら……ぼくがやったことはただの時間かせぎにすぎない。しかも大した時間かせぎではない……

 

女の子ひとり分。ただそれだけ。

 

有力純血主義者のリストをつくって全員殺してしまうのはどれくらい大変だろうか。

 

〈フランス革命〉ではまさに、かなりそれにちかいことがおこなわれて——〈進歩〉の敵のリストをつくり、くびよりうえのすべてを消して——ハリーの記憶しているかぎりでは、ろくなことにならなかった。 多分、お父さんに買ってもらった歴史の本をいくつかひっぱりだして、〈フランス革命〉でうまくいかなかった点を修正するのは簡単そうかしらべる必要がありそうだ。

 

ハリーは空をみあげた。雲のない朝の空に、青じろい月が見える。

 

つまり世界は破綻と欠陥と狂気にみちていて、残酷で残忍で邪悪だと。これがニュースだとでも? もともとわかりきっていたことだろう……

 

「ずいぶん深刻そうな顔だな。」とドラコが言う。「あててみよう。こういうことはいけないことだときみのマグルの両親に言われたんだろう。」

 

ハリーは声があてにならないので、うなづいた。

 

「そうだな、父上に言わせれば、寮は四つあろうともけっきょくはみなスリザリンかハッフルパフかのどちらかだ。 はっきり言ってきみはハッフルパフのがわじゃない。 裏でマルフォイ家の……権力と名声の……がわにつくときみが決断したなら、きみは()()でさえ放免されないようなことからも放免される。 ()()()()ちょっとやってみないか? どんな感じかみるために?」

 

かしこいヘビの子じゃないか。十一歳でもう獲物を隠れ家からおびきよせようとしている……。

 

ハリーはしばらく考えて検討し、武器をえらんだ。 「ドラコ、純血主義というのがそもそもなんなのか教えてくれないか。まだよく知らなくて。」

 

ドラコがにっこりとした笑みをみせた。 「そういうことなら、父上にあって聞くべきだよ。父上がぼくたちのリーダーなんだから。」

 

「三十秒ヴァージョンを教えてくれ。」

 

「よし。」とドラコは深呼吸をして、声をすこしひくくして、調子をつけた。 「世代をかさねるたびにぼくたちのちからは弱まり、泥血のけがれは強まる。 サラザールとゴドリックとロウィナとヘルガはかつてみずからのちからでホグウォーツをきずいた。〈首かざり(ペンダント)〉と〈剣〉と〈髪かざり(ダイアデム)〉と〈杯〉をつくった。以後のうもれた時代の魔法使いのうちのだれも、四人にはかなわない。 ぼくたちはうもれていく。マグルをはらませスクイブを生きのびさせることで、ぼくたちはマグルのなかにうもれていく。 けがれを放置してしまえば、杖は折れ、術はほろび、マーリンにつらなる者は絶え、アトランティスの血統はうしなわれる。 子どもたちはマグルどもとおなじように手を泥まみれにしてやっと生きていくしかなくなる。そして世界は永遠に闇におおわれる。」  ドラコは缶からまた一飲みして、満足そうな表情をした。 ドラコとしては議論はこれですべてのようだ。

 

「説得力がある。」とハリーは規範的にではなく記述的に言った。 典型的なパターンだ。〈栄華〉からの〈転落〉、汚染に対抗して純潔をまもる必要性、高みにある過去から下降していくばかりの未来。そしてこのパターンについては()()もある。 「ただ、一点事実誤認がある。マグルについてのきみの情報はちょっと古い。ぼくたちはもう泥をこねまわすだけじゃない。」

 

ドラコのあたまがくるりとまわった。「()()()()()()、というと?」

 

「ぼくたちというのは、科学者だ。 フランシス・ベイコンにつらなる者、〈啓蒙思想〉の血統だ。 マグルは杖がないことをなげいて立ちすくんでいただけじゃない。魔法があろうとなかろうと、()()()()()()ちからがある。 きみたちのちからがなくなったら、貴重ななにかがうしなわれることになるけれど……魔法はこの宇宙が()()()()()どういうしくみなのかについての唯一のヒントなだけに……それでも土をこねまわすだけにはならない。 きみたちの家は夏でもすずしく冬でもあたたかいままだし、医者と薬ものこる。 魔法がなくなっても科学がきみたちを生かしてくれる。悲劇だけれど、世界の光がすべてうしなわれるわけじゃない。とにかくそうなんだ。」

 

ドラコは数フィートあとずさりして、恐怖と不信にみちた表情をした。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぼくは()()()話をきいた。今度はきみがきいてくれる番じゃないか?」  ()()()()。ハリーは自分をしかったが、ドラコのほうはあとずさりをやめて聞いてくれているようだ。

 

「とにかく、きみたちはマグル世界のできごとについてあまり注意をはらってこなかったようだっていうこと。」  それはおそらく、魔法世界全体が地球ののこりの部分をスラムだとみなしていて、『フィナンシャル・タイムズ』がブルンジの苦しみの日常にさいた紙面の量と同程度の注目しかしてこなかったからだろう。 「そうだ。ひとつチェックしよう。月にいった魔法使いはいる? ほら、あれのこと。」 と言って、ハリーははるかかなたの巨大な球体を指さした。

 

()?」  ドラコはその発想を一度もしたことがなかったにちがいない。「()()って——あれはただの——」  空の青じろい物体をゆびさす。「一度もいったことのない場所に〈現出(アパレイト)〉はできない。最初に月にいく人はどうやるっていうんだ?」

 

「ちょっと待ってて。ここにもってきた本をひとつみせてあげる。どの箱だったかおぼえていると思う。」  ハリーはたちあがって、ひざをついて、トランクの地下一層目への階段をひっぱりだし、階段をどしどしとくだって、本をかろんじることに危険なほどちかいやりかたで箱をつぎつぎにほうりなげ、箱のおおいをはがして、すばやく、しかし慎重に本の山をのぞいた——

 

(一度みただけであらゆる本のありかを記憶するという、ほとんど魔法のようなヴェレス家の能力をハリーはうけついでいる。遺伝的な関係がないことを考えると不思議だ。)

 

ハリーは階段のうえまでかけあがると、かかとでそれをトランクにしまって、息を切らせながら、ドラコに見せたかった写真があるところまでページをめくった。

 

その写真に映っているのは、白く乾燥したクレーターのある地面と、防護スーツをきた人間。そして上方には青と白のまざった球体。

 

あの写真だ。

 

世界じゅうで写真を一枚しかのこせないとしてものこるであろう、()()写真。

 

「これが……」と言って、誇りをあらわにするのを我慢しきれず、ハリーは声を震えさせた。「月から見た地球だ。」

 

ドラコはゆっくりとのぞいてきた。おさない顔に怪訝そうな表情がうかんでいる。 「これが()()()()()写真なら、なぜうごかないんだ?」

 

()()()? ああ。 「うごく写真はマグルもつくれるけれど、それを映すにはもっとおおきな箱が必要なんだ。本のページ一枚には、まだはいらない。」

 

ドラコのゆびが防護スーツをきた人影のうちのひとつをさした。 「これはなんだ?」 その声がぐらつきはじめる。

 

「これは人さ。全身をおおう防護スーツから空気をもらっている。月には空気がないんだ。」

 

「うそだ。」とドラコは小声で言った。恐怖と、あからさまな困惑が目にあらわれている。 「マグルにこんなことができるはずがない。()()()()()……」

 

ハリーは本をとりもどして、それがあるページまでめくった。 「これがロケットが打ち上げられているところ。 炎がこれを上へ上へと、月につくまでおしだす。」  また何ページかめくる。 「これはロケットが地上にあるところ。となりの小さな点が人だ。」  ドラコは息をのんだ。 「月にいくのにかかった費用は……多分十億ガリオンくらいにあたる。」  ドラコの息がとまった。 「労力は……多分ブリテン魔法界の住人を全部あわせたよりもおおい。」  そしてついたとき、彼らはこういう立て札をのこした。『われわれは全人類を代表して平和のうちに来た』 ただ、ドラコ・マルフォイ、きみはまだこれを聞く準備ができていない……

 

「きみはほんとうのことを言っている。」とドラコがゆっくりと言う。 「これだけのためにわざわざ本を一冊でっちあげるはずがない——それにきみの声でわかる。でも……でも……」

 

「どうやって、杖も魔法もなしで? 話すとながくなるよ。 杖をふって呪文をとなえても科学はできない。自分のやりたいことを宇宙にさせるためになにをしなければならないかがわかるように、宇宙のしくみを深いレヴェルで知ることが科学のやりかただ。 〈服従(インペリオ)〉の呪文をかけてだれかになにかをやらせるのが魔法なら、もともとそのひとの意思だったかのように説得できるようになるまでその人のことをよく知るのが科学だ。 杖をふるよりもずっとむずかしいけれど、杖がなくなってもつかえる。ちょうど『インペリオ』がきかなくても、人を説得してみることはできるように。 それに〈科学〉は世代をこえてきずかれる。 科学をするにはほんとうによくものごとを知らなければならない。なにかをほんとうに理解できたら、そのことをほかのだれかに伝えることができる。 百年まえの最高の科学者は、いまも尊敬をこめて名前を呼ばれるけれど、そのちからは現代の最高の科学者の()()()()()()()()()()()。 ホグウォーツを建てるための失われた秘術に相当するものは科学にはない。 科学では年々ぼくたちのちからは強くなる。 ぼくたちは生命と遺伝の秘密を理解し解明しつつある。 きみが言う血統そのものを観察して、なにが魔法使いをうむのかをしらべられる。あと一、二世代あとには、血を説得して子ども全員を強力な魔法使いにすることができるようになる。 ということで、きみの問題はそれほど深刻じゃない。あと数十年もすれば、科学が解決してくれる。」

 

「でも……」 ドラコの声は震えている。 「もし()()()にそんなちからがあるなら……()()()()はなんなんだ?」

 

「そうじゃない、わからないか? 科学は人類の理解力をつかって世界のしくみを解きあかそうとする。 科学は人類がなくならないかぎりなくならない。 きみの魔法力はなくなるかもしれないし、それはいやだろうけれど、それでもきみは()()のままだ。 きみは生きて残念がることができる。 科学はぼくの人類としての知性にもとづいているから、そのちからはぼくから()()()()()なくさないかぎりなくならない。 仮に宇宙の法則がかわってしまってぼくの知識がすべて無駄になったとしても、以前とおなじように、あたらしいほうの法則を解明すればいい。 科学は()()()()ものじゃない。()()()ものなんだ。理解できないものを見て『なぜ』と思うたびにつかうちからを、訓練して洗練させたものだ。 ドラコ、きみはスリザリンだろう。これがどういう意味かわからないか?」

 

ドラコは本から目をはなしてハリーのほうをむいた。理解がめばえた表情をしている。 「魔法族もそのちからをまなぶことができる。」

 

ここからは慎重に……えさはしかけた、つぎは釣り針を…… 「自分を()()()としてでなく()()として考えられるようになれば、きみも人類としてのちからを訓練して洗練させることができる。」

 

……というような教えはそんじょそこらの科学カリキュラムに含まれていないとしても、わざわざドラコにそう知らせる必要はないだろう。

 

ドラコは思案するような目つきをした。 「きみは……もうその訓練をうけたのか?」

 

「ある程度は。」とハリーはうけいれた。 「ぼくの訓練は終わっていない。十一歳では終わらない。でも——()()()()()()()()家庭教師をつけてくれたからね。」  まあ、その家庭教師は腹ぺこの大学院生で、つけてもらったのは睡眠周期が二十六時間なせいだけれども、そのあたりはいまはおいておこう……

 

ゆっくりとドラコがうなづいた。 「きみは()()()技能をみにつけられると思ってるんだな? ふたつのちからをあわせれば……」  ドラコはハリーをみつめた。 「両世界の〈支配者〉になれると?」

 

ハリーは邪悪な笑い声をだした。ここまでくると自然にそれができた。 「きみが知っている世界全体、つまりブリテン魔法界は、ずっとおおきなゲーム盤のうえの一角にすぎないということをわかってほしい。 そのゲーム盤には月とか夜空の星ぼしとかもある。星ぼしは太陽みたいなもので、ただ想像できないほど遠くにあるだけだ。銀河なんていうものは地球や太陽よりはるかにおおきい。そのほか科学者でないとみることができず、きみはその存在すら知らないものもある。 でもぼくはレイヴンクローで、スリザリンじゃない。宇宙を支配したくはない。宇宙をもうすこし理解しやすく整理できるんじゃないかと思っているだけだ。」

 

ドラコは驚嘆の表情をした。 「なぜ()()()この話を?」

 

「ああ……()()科学をする方法を——だれにも理解できなかったわけがわからないものを理解できるようにする方法を、知っている人はあまり多くない。 手を貸してくれるならありがたい。」

 

ドラコは口をあけたままハリーをみつめた。

 

「でも勘違いしないでね。真の科学は魔法とは()()()()ちがう。科学では、あたらしい呪文のとなえかたを知るのとはちがって、途中でやめて変化しないままでいることはできない。 このちからには高価な代償がある。高価すぎて、ほとんどの人はしはらおうとしない。」

 

ドラコはまるでやっと自分が理解できる話になったと言いたげにうなづいた。 「その代償というのは?」

 

「自分がまちがったとみとめられるようになること。」

 

ドラマティックな沈黙がしばらくつづいたあとでドラコがこう言った。 「ええと、説明してもらおうか。」

 

「そこまで深いレヴェルでものごとのしくみを知ろうとすると、最初九十九個の説明はまちがいになる。 百番目がただしい。 だから自分がまちがったと何度も何度もみとめられるようにならなければならない。 たいしたことのように聞こえないだろうけど、たいていの人はここでつまづくせいで科学ができない。いつも自分をうたがうこと、あたりまえだと思っていたことを別の角度からみること。」  たとえばクィディッチの〈スニッチ〉のように。 「ひとは意見をかえるたびに、自分をかえる。でもちょっとこれは先ばしりしすぎだ。かなり先ばしりしすぎだ。いまのところはただ……ぼくは自分の知識の一部をきみにあげてもいいと思っているということ。 もしきみがのぞむなら。ただしひとつ条件がある。」

 

「へえ。父上に言わせれば、そのせりふをだれかに言われたときは、まずいい兆候ではありえない。」

 

ハリーはうなづいた。 「そうだな、まず誤解をといておきたいんだけど、ぼくはきみとお父さんを仲たがいさせようというつもりは、 ぜんぜんない。 たんに、取り引きをするなら、ルシウスを相手にするより同年代のだれかがいいと思っているだけ。 きみのお父さんもきっと、これでいい、きみも成長すべきときがきた、と言ってくれると思う。 このゲームでのきみの一手はきみのものでなければならない。 条件というのはそういうこと——ぼくはきみのお父さんではなくドラコ、きみと取り引きをする。」

 

「失礼する。」とドラコがたちがある。「しばらく一人で考えさせてもらう。」

 

「ごゆっくり。」とハリー。

 

ドラコが離れていくと、列車乗り場の音がぼやけた音からつぶやき声にかわった。

 

ハリーは意識しないまま止めていた息をゆっくりとすい、手くびの時計を見た。お父さんが魔法のある場所でもうごくようにと買ってくれた機械式の時計だ。 秒針はまだうごいている。分針がただしければ、まだ十一時ではない。 多分はやめに列車にのって、あのなんとかという名前を女の子をさがしたほうがいいのだが、もうすこし呼吸の練習をして血がもとのようにあたたかくなったどうか確認しているくらいの時間はあると思う。

 

時計から目をはなしてみあげると、二人の人影がちかづいてきていた。冬用スカーフを顔にまいて非常にばかげたかっこうをしている。

 

「こんにちはミスター・ブロンズ。」と覆面の二人のうちの一人が言った。「〈混沌の騎士団〉にくわわることに興味はおありかな?」

 

◆ ◆ ◆

 

余波:

 

それからさほどの時間がたたないうちに、その日のさわぎがようやくおちついたあとで、ドラコは羽ペンを手に机にむかっていた。 ドラコはスリザリンの地下洞に個室がある。専用の机と暖炉がある部屋だが、残念ながら彼でさえ〈煙送(フルー)〉システムへの接続環境はあたえられなかった。とはいえ、すくなくともスリザリンは()()共同寝室(ドミトリー)で寝させるというおそろしい非常識にはくみしない。 個室の数はかぎられていて、寮内で特にすぐれた()()()生徒でなければならないが、マルフォイ家であればそのことは保証されていた。

 

『父上』、とドラコは書いた。

 

そこで止まった。

 

羽ペンからインクがしたたり、羊皮紙のうえの文字のちかくをよごした。

 

ドラコはバカではなく、おさないとはいえ家庭教師によく訓練されている。 ポッターについては、おそらく本人が言う以上にずっとダンブルドアに共感しているだろう、ということも分かっている……だが、誘惑することもできそうだ、と思っている。 一方で、ドラコがポッターを誘惑しようとしていたのとおなじように、ポッターはドラコを誘惑しようとしていた、ということも火をみるよりあきらかだ。

 

ポッターが頭脳明晰なこと、ちょっとどころではなく狂っていること、ポッター自身ですら理解していないほど巨大なゲームを相手にしていること、あばれまわるナンドゥほどの繊細さで最高速度の即興をしていたことはあきらかだ。 だがポッターはドラコに手を引かせさせないような戦略をうまくえらんだ。 自分のちからの一部をドラコにさしだしたのだ。ドラコが彼のようにならないかぎりそれをつかうことはできないだろう、と踏んでだ。 父上はこれを高等戦略と呼んで、たいていうまくいかないとドラコに警告したことがある。

 

今日おきたことすべてを自分が理解してはいないことは分かっているが……ポッターは()()()()ゲームの権利をさしだした。そしてそれはいまたしかに()()()()()()である。だが口外してしまえば、父上のものになってしまう。

 

けっきょくは簡単なことだ。 下等な戦略は、標的にそうと気づかれると失敗する。すくなくとも、そうと確信されれば失敗する。 お世辞はもっともらしく賞賛のようにみせかけなければならない(『きみはスリザリンにはいるべきだ』というのは古典的だが、それを予想していないある種の人には効果的で、うまくいったならもう一度つかうことができる)。 だが、だれかの究極のてこをみつけることができれば、みつけたこと自体を知られても問題はない。 ポッターは死にものぐるいになって、ドラコの魂の鍵を言いあてた。 そしてポッターがそれを知ったことをドラコが知ったとしても——たやすくそう言いあてることができたとしても——なにもかわらない。

 

いま、ドラコは人生ではじめて、ほんとうにまもるべき秘密を手にした。 ここからは自分のゲームだ。ぼんやりとした痛みがあるが、父上はこのことを誇りに思ってくれるはずだから、なにも問題はない。

 

インクのしみはそのままにして——ここにはメッセージがある。父上とは機微のゲームを一度ならずかわしたことがあるから、父上は理解するだろうメッセージが——。 ドラコは一連のできごとのなかでひどくなやまされたひとつの疑問、つまり、理解()()()ように思われるのにまったくできていない部分を、書きだした。

 

父上

 

まだわれわれの交友圏内に含まれていないとあるホグウォーツ生とぼくが出会い、その子が父上を「完全無欠な殺人機械」と呼び、ぼくを父上の「弱点」だと言ったと仮定します。そのような子について一言いただけるとしたらなんでしょうか?

 

ほどなくして一家のフクロウが返事をとどけにきた。

 

愛する息子へ

 

われわれの友人にして貴重な協力者たるセヴルス・スネイプの信頼と親愛をかちとることができる人物におまえが出会えたことは実によろこばしい、という一言になるだろう。

 

ドラコはその手紙をしばらくみつめたあと、暖炉にほうりこんだ。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 





今回の非ハリポタ用語:「啓蒙思想」
18世紀ごろのヨーロッパでもりあがった思想の潮流で、人間を中心とする進歩主義的・自由主義的世界観。アイザック・ニュートンやジョン・ロックのイメージ。フランシス・ベイコンやガリレオ・ガリレイはその先行者ともいえる。教会や神にとらわれていた中世の学問世界と対比される。

おまけ:「あの写真」
「nasa moon landing」あたりでググるとNASA公式サイトにある写真がいろいろ見られるので、興味があればどうぞ。


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8章「正例バイアス」





「ぼくの発想力をためそうというのなら、危険は承知しておいてもらいたい。それにきみの人生がずっと現実ばなれしたものになりうるということも。」

 

◆ ◆ ◆

 

だれも助けをもとめてこない。それが問題だ。 みんな、両親がうわさ話をしている横で、しゃべったり、食べたり、空をながめたりしているだけ。 奇妙なことに、座って本を読んでいる子はひとりもいない。ということは、そんな子のとなりで本を読んでいることもできない。 思いきってみずから率先して座って『ホグウォーツとその歴史』の三度目の通読をしはじめてみても、だれもとなりに座ろうとしてこない。

 

宿題の手つだいとか、とにかくなにかの手つだいをしてあげること以外、なにをして人と出会えばいいのかが分からない。 自分が引っこみ思案だという気はしていないし、 むしろ人前にでて引っぱるタイプだと思っている。 けれど、「割り算の筆算ってどうやるんだったっけ」といったたぐいのお願いをされるのではなく、自分からだれかに近づいていって声をかけるというのは、どこかやりにくい。そしてそこでなにを言えばいいのか…… いままでわかったためしがなかった。 それに説明書が存在しないらしい、というのがありえない。 人と出会うというタスクは少しも意味がわからない。 参加者が二人いるのに、なぜ()()()()全責任を負わなければならないのか。 なぜ大人が手を貸そうとしないのか。 だれか女の子が近づいてきて、()()()()()「ハーマイオニー、あなたとなかよくしなさいって先生に言われたの」とでも言ってくれればいいのに。

 

ただひとつはっきりさせておくと、ハーマイオニー・グレンジャーは学校初日のこの日、最後尾の車両で残りすくない無人の客室をみつけて席につき、話しかけようとする人が来た場合にそなえてドアをあけたままにしてはいたが、()()()()()()のではない。孤独でも憂鬱でも悲観的でもなく、自分のかかえる問題に絶望してもいないし執着してもいない。 むしろ『ホグウォーツとその歴史』の三度目の読みなおしをして、だいぶ楽しんでいた。ただ、こころのかたすみで、ほんのわずかにだけ、この世界の不条理さというものを感じていた。

 

車両のあいだのドアがあいた音がして、列車の通路に足音となにかを引きずるような奇妙な音とがやってきた。 ハーマイオニーは読んでいた『ホグウォーツとその歴史』をわきにおいて立ち——だれかが助けをもとめている場合にそなえて——くびをだして外をのぞいた。そこには、魔法使いのよそいきローブをきた、身長から判断しておそらく一年生か二年生のおさない少年がいた。スカーフをあたまに巻きつけてかなり変なかっこうをしていて、 その隣には小さなトランクがいる。 その子は彼女が見ているまえで、ドアの閉まった別の客室をノックして、スカーフですこしだけくぐもった声で「すみません、ちょっとききたいことがあるんですが。」と言った。

 

客室からのこたえは聞こえなかったが、ドアをあけたあとにその子は——なにかの聞き違いでないかぎり——こう言っていたように聞こえた。 「クォーク全六種を知っている人はいますか? あるいは、ハーマイオニー・グレンジャーという名前の一年生の女の子の居場所を知っている人はいますか?」

 

その子がその客室のドアをしめたあと、ハーマイオニーは声をかけた。「なんのご用?」

 

スカーフをかぶった顔がハーマイオニーのほうをむいて、「クォーク全六種を言える人とハーマイオニー・グレンジャーの居場所を教えてくれる人以外に用はない。」と言った。

 

「アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トゥルース、ビューティ。それでなぜその子をさがしてるの?」

 

この距離からだとわかりにくいが、その子がスカーフのしたでにやりとするのが見えたような気がした。 「あ、じゃあハーマイオニー・グレンジャーという名前の一年生はきみなんだ。」とスカーフごしのおさない声が言った。「しかもちゃんとホグウォーツ行きの列車にいる。」  その子はハーマイオニーのいる客室を目がけて歩いてきて、そのあとにずるずるとトランクがついてきた。 「厳密には、きみを()()()としか言われていなかったんだけど、つぎにすべきことはきっと、話しかけるか、ぼくのなかま(パーティ)に勧誘するか、きみから重要魔法アイテムをうけとるとか、ホグウォーツが古代寺院の廃墟のうえにたてられたという話を聞かされるとか。 PCなのかNPCなのか、それが問題だ。」

 

ハーマイオニーは口をひらいて返事をしようとした。しかし、いま聞かされたのが()()()()()()()はともかくとして……返事に相当するようなことは、ひとつも思いつかなかった。そうしているうちにその子はハーマイオニーのほうに向かって歩いてきて、客室のなかを一瞥し、満足そうにうなづいてから、むかいがわの席に座った。 トランクがそのあとについてきて、三倍のふとさにふくらんで、妙に気味のわるいやりかたで彼女のトランクのとなりに腰をおろした。

 

「どうぞ座って。それとできたらドアをしめてくれるかな。心配しないで。さきに噛みついてきた相手以外にはぼくは噛みつかないから。」と言うと、その子はもうスカーフをあたまからときはじめていた。

 

自分がその子のことを()()()()()()()という決めつけをされたのが気にいらず、ハーマイオニーはドアをぴしゃりと閉めて必要以上のちからで壁にぶちあてた。 そしてその場で回転すると、光る笑った緑色の目をした子どもの顔が見えた。 ハーマイオニーはそのひたいの赤黒くはれた傷あとを目にして、あたまのかたすみでなにかを思いだしかけたが、いまはそんなことを考えている場合ではない。 「わたしはハーマイオニー・グレンジャーだなんて言ってない!」

 

「ぼくもきみがハーマイオニー・グレンジャーだと()()()、とは言ってない。ハーマイオニー・グレンジャーはきみなんだと言っただけだ。 なぜわかったのかという質問なら、ぼくはなんでも知っているから。 紳士淑女のみなさんこんばんは。ぼくの名前はハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、簡単にいえばハリー・ポッターです。たぶんめずらしく、()()()()この名前はなんの意味もないだろうけど——」

 

ハーマイオニーのあたまのなかで、やっとそれがつながった。 いなづま型の、ひたいの傷あと。 「ハリー・ポッター! 『現代魔法史』にも『闇の魔術の興亡』にも『二十世紀魔法世界のできごと』にも出てくるあの子!」  本のなかにいる人物に()()()のはこれが生まれてはじめてだけれど、ずいぶん変な感覚だ。

 

その子は三度まばたきをした。 「ぼくは()に出てくるの? いや、そりゃ出てくるよね……妙な気分だ。」

 

「あら、知らなかったの? わたしだったら手当たりしだい調べておくと思う。」

 

その子はずいぶん冷ややかに返事する。 「あのね、ミス・グレンジャー、ぼくは七十二時間まえにダイアゴン小路にいって自分が有名らしいと知ったばかりなんだ。 この二日間は、ひたすら科学の本を買ってばかりいた。これから、手当たりしだい調べるつもりさ。」 そこでその子はためらった。「本にはぼくのことがどういう風に書いてある?」

 

ハーマイオニー・グレンジャーの脳裡にイメージが次つぎとうかんだ。ああいった本でテストされることになるとは思っていなかったが、たった一カ月まえのことなので、まだ内容はいきいきと思いだせる。 「あなたは〈死の呪い〉を生きのびた唯一の人間で、だから〈死ななかった男の子〉とよばれている。 ジェイムズ・ポッターとリリー・ポッター、旧姓ではリリー・エヴァンズの息子で一九八〇年七月三十一日生まれ。 一九八一年十月三十一日に〈闇の王〉、別名ではなぜだか〈名前を言ってはいけない例の男〉があなたの家を襲撃した。 両親の家のがれきのなかで、ひたいに傷あとをおったあなたが生存しているのが発見された。 主席魔法官アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアがあなたをどこかにかくまった。それがどこかはだれも知らない。 『闇の魔術の興亡』によればあなたが生きのびたのはお母さんの愛のおかげで、ひたいの傷あとには〈闇の王〉の全魔力がやどっていて、ケンタウロスたちはあなたを恐れている。『二十世紀の魔法世界のできごと』にはそんなことはちっとも書かれていないし『現代魔法史』はあなたについての説には根も葉もないものが多いと警告している。」

 

その子は口をぽかんとあけた。 「もしかして、ホグウォーツいきの列車でハリー・ポッターがくるのを待て、とかだれかに言われてた?」

 

「いいえ。 そちらこそ、だれからわたしのことを?」

 

「マクゴナガル先生だけど、なぜそう言われたかわかった気がする。 きみは写真記憶能力があるの?」

 

ハーマイオニーはくびをふった。 「いいえ。 そうだったらいいといつも思うんだけど、教科書は五回読まないと暗記できなかった。」

 

「そうなんだ。」とその子はすこしつまらせたような声で言った。 「気をわるくしないでほしいんだけどそれをテストさせてもらっていいかな——信じないわけじゃないけど、『信頼せよ、だが検証せよ』っていうじゃないか。 実験でたしかめられることを疑問のままにしておく必要はない。」

 

ハーマイオニーはかなり得意げな笑みをうかべた。 テストは大好きなのだ。 「どうぞ。」

 

その子は横においていたポーチに手をいれて「アージニウス・ジガーの『魔法薬調合法』」と言った。 とりだした手には、その本があった。

 

その瞬間、ハーマイオニーはいままで見たなによりもこういうポーチがほしくなった。

 

その子は本のなかほどをひらいて目をおとした。 「『鋭角の油』をつくる場合——」

 

「そのページ、わたしから見えてるんだけど!」

 

その子は本をかたむけて見えないようにし、またページをめくった。 「『蜘蛛糸あるきの(ポーション)』を調合するとき、アクロマンチュラの糸のつぎに入れる材料はなんでしょう?」

 

「液にその糸をいれて、雲のない日の出どきに太陽のへりが見えかける八分前の、地平線から仰角八度の空とちょうどおなじ色になるのを待つ。 反時計まわりに八回、時計回りに一回かきまぜ、ユニコーンの鼻くそを八ドラム分くわえる。」

 

その子は本をぱちりととじてポーチにもどし、ポーチはみじかいげっぷの音をだして本を飲みこんだ。 「これは()()()これは。ミス・グレンジャー、ひとつお誘いしてもよろしいかな。」

 

「お誘い?」 うさんくさい。 女の子はこういうことばに引っかかってはいけない。

 

このあたりでハーマイオニーはその子についてもうひとつ——ひとつどころじゃないんだけれども——おかしなことに気づいた。 ()()()()()()人は()()()()()()()()()ものらしい。 この発見にはちょっとびっくりだ。

 

その子はポーチに手をいれ「缶ジュース」と言い、明るい緑色の缶をとりよせた。 それをハーマイオニーのほうにつきだし、「飲み物はいかが?」と言った。

 

ハーマイオニーは泡をたてているその飲み物を行儀よくうけとった。 実際けっこうのどがかわいてきた気がする。 「どうもありがとう。」ハーマイオニーはそう言って口をつけた。「お誘いっていうのはこれ?」

 

その子がせきばらいし、「いや」と言った。 そしてハーマイオニーが飲みはじめるのと同時に、「ぼくが全宇宙を征服するのをてつだってもらいたいんだ。」

 

ハーマイオニーは飲みおえて缶をおろした。 「おことわりします。わたしは邪悪じゃないから。」

 

その子はおどろいてハーマイオニーを見た。あたかも別の答えを予想していたかのようだ。 「いまのはちょっと修辞的に言っていただけで。その、ベイコン的プロジェクトの意味なんだ。政治的権力ではなく。 『あらゆる可能性の実現』とかのあれ。 ぼくがしたいのは、呪文の実験的研究をしたり、背後にある法則をみつけたり、魔法を科学の分野に位置づけたり、魔法世界とマグル世界を統合したり、全世界の生活水準をひきあげたり、人類を数世紀分進歩させたり、不死の秘密をときあかしたり、太陽系に植民したり、銀河を探検したり、それにだってどうみてもありえないこのすべてがどうやって起きているのかを説明したりっていうこと。」

 

これはちょっとおもしろそうだ。「それで?」

 

その子は信じられないというように彼女をみつめた。「『それで』って? これじゃたりないとでも?」

 

「それでわたしになにをしてほしいの?」

 

「もちろん、ぼくの研究をてつだってほしいんだよ。 きみの百科事典的記憶能力がぼくの知性と合理性にあわされば、このベイコン的プロジェクトはすぐに完成する。 『すぐに』というのはたぶん三十五年以上という意味だけど。」

 

ハーマイオニーは不快感をおぼえさせられはじめていた。 「あなたの知的なところをまだなにも見せてもらってないんだけど。 ()()()()研究を()()()()てつだってくれるっていうならともかく。」

 

ある種の沈黙が客室におりた。

 

ながく間があいてから、その子はこう言った。 「つまりぼくの知性を実演してみせろと。」

 

ハーマイオニーはうなづいた。

 

「ぼくの発想力をためそうというのなら、危険は承知しておいてもらいたい。それにきみの人生がずっと現実ばなれしたものになりうるということも。」

 

「いまのところたいしたことなさそう。」  いつのまにか、緑色の飲み物がまたハーマイオニーのくちびるにのぼってきている。

 

「じゃあ()()()()たいしたことあるんじゃないかな。」と言ってその子は前のめりになり、ハーマイオニーをじっとみつめた。 「さっきちょっと実験していて、ぼくは杖がいらないということがわかった。ぼくは指を鳴らすだけで、どんなことでも起こせるんだ。」

 

その音はハーマイオニーがちょうど飲みこんでいる途中に鳴った。そしてハーマイオニーはのどをつまらせ、せきこんで、明るい緑色の液体をはきだした。

 

それが学校一日目、新品の、一度もきていなかった魔女用ローブにおちた。

 

ハーマイオニーは悲鳴をあげてしまった。客室のなかでそれは空襲警報のように高い音がした。 「()()()() ()()()!」

 

「あわてないで。ぼくにまかせて。みてて!」と手をふりあげ、その子が指をならす。

 

「あなた——」と言いかけて、ハーマイオニーは自分を見おろした。

 

緑色の液体はまだそこにあったが、みるみるうちに薄れ、消えていき、数秒後には最初からなにもこぼしていなかったかのようになった。

 

やけに得意げな笑みをうかべるその子を、ハーマイオニーはじっとみつめる。

 

無詠唱無杖魔法! この若さで? 教科書をもらってからわずか三日で?

 

そこで以前読んだ本の内容を思いだし、ハーマイオニーは息をのんでその子から飛びのいた。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハーマイオニーはあわてて立ちあがった。 「ち、ち、ちょっとトイレへ。あなたはここで待ちなさい——」 大人をみつけてこのことを知らせなければ——

 

その子の笑みが消えた。 「ただのトリックだよ。ごめん、こわがらせるつもりはなかった。」

 

手がドアのとってにのったところで止まった。 「()()()()?」

 

「そう。知性を実演しろと言われたからさ。一見不可能なことをやってのけるというのはいつもいい実演方法だ。 ほんとは、ぼくは指をならすだけでなんでもできたりしない。」  そこでその子はことばを切った。 「すくなくとも、ぼくの()()()()ね。実際に実験的にテストしたことはなかった。」  その子は手をふりあげ、また指をならした。 「だめだね、バナナはでてこない。」

 

ハーマイオニーは人生でこれ以上に混乱したことはなかった。

 

ハーマイオニーの表情をみてその子はまた笑顔になった。 「ぼくの発想力をためそうとするときみの人生が現実ばなれすると()()しておいたはずだ。 つぎにぼくがなにか警告したときは、おぼえておいて。」

 

「だけど、だけど……」とハーマイオニーはことばをつまらせた。「じゃあほんとはなにをしたの?」

 

その子の見つめかたがなにかをおしはかるような質のものにかわった。同年代の子の目には見たことのない種類の視線だ。 「ぼくが手をかすかどうかに関係なく、きみはどうすれば一人前の科学者になれるかがわかってるつもりみたいだったね。 じゃあ奇妙な現象を調査するとき、きみならどうするか。やってみせてもらおうじゃないか。」

 

「それは……」ハーマイオニーのあたまのなかは一瞬まっしろになった。テストは大好きだが、()()()テストはしたことがない。 必死になって記憶をさぐって、科学者のありかたについて読んだことをなにか思いだそうとする。 ハーマイオニーの頭脳はギアを数段とばして、ぎしぎしと音をたてて、科学調査の手順をはきだした。

 

その一:仮説をたてる。

その二:実験をして仮説を検証する。

その三:結果を測定する。

その四:発表のポスターをつくる。

 

その一は仮説をたてること。つまり、いま起こったことを説明()()()()()()()()()なにかを考えることだ。 「よし。こぼしたものが消えるような魔法(チャーム)をわたしのローブにあなたがかけたというのがわたしの仮説。」

 

「よし。それがこたえかい?」

 

ショックはさめつつあり、ハーマイオニーのあたまは正常にはたらきつつある。 「まって。それじゃおかしい。 あなたは杖をさわっていないし呪文をとなえてもいなかった。魔法(チャーム)をかけられたはずがある?」

 

その子はどっちつかずの表情で待った。

 

「でも、もしあの店のローブはすべて()()()()よごれを防ぐ魔法(チャーム)がかけられていたとしたら。そういう魔法(チャーム)がかかっていれば便利だし。 そしてあなたは以前()()()なにかをこぼしてそのことを知ったんだ。」

 

その子の両眉がうわむいた。「()()がこたえ?」

 

「いいえ、まだ。その二、『実験をして仮説を検証する』をやらないと。」

 

その子はまた口をとじて、笑みをうかべはじめた。

 

無意識のうちに窓のカップホルダーにおいていたジュース缶のほうに目をやる。 ハーマイオニーはそれを手にとり、なかをのぞいた。三分の一ほどのこっている。

 

「それじゃあ、わたしがしたい実験はこれを自分のローブにかけてどうなるか見ること。そのしみは消えるというのがわたしの予想。 問題は、()()()()()()()()()()()()、しみがのこってしまうっていうこと。それはさけたい。」

 

「ぼくのでやればいい。そうすればきみのローブにしみがつくことは気にしなくてよくなる。」

 

「でも——」  この発想はどこか()()()()()()()が、それがどこなのか、はっきりしない。

 

「予備のローブがトランクにあるからさ。」

 

「でも着がえる場所がないでしょう。」とハーマイオニーは抗議した。けれどすぐに考えなおした。「けれどわたしがそとに出ててからドアをしめてあげれば、一応——」

 

「着がえる場所はトランクのなかにもあるよ。」

 

ハーマイオニーはそのトランクを見た。それは自分のトランクよりもかなり特別なもののような気がしてきた。

 

「わかった。あなたがいいなら。」と言って、ハーマイオニーはおそるおそる緑色のジュースをその子のローブのはしっこにかけた。 それを見ながら、さっきはどれくらいの時間で消えたのだったかと、思いだそうとしていると……

 

緑色のしみは消えた!

 

ハーマイオニーはほっとして息をついた。というのも、これで〈闇の王〉のあらゆる魔力を相手にしていなかったことになるから、というのが大きい。

 

その三は結果を測定することだが、今回はしみが消えるのをただ見るだけだ。 その四のポスター発表は省略してもいいだろう。 「よごれを防ぐ魔法(チャーム)がローブにかけられていたというのが、わたしのこたえ。」

 

「ちがうね。」

 

ハーマイオニーは落胆の痛みを感じた。 そう感じてしまうのは、ほんとうに()()()だった。この子は教師ではないのだから。だがこれはテストだし、問題に正解できなかったのはたしかだ。こういうときはいつもみぞおちを軽く殴られたような感じがする。

 

(そのことでテストからおりたりテストへの愛がさまたげられたりはけっしてしないということだけでも、ハーマイオニー・グレンジャーがどういう人物かが十分よくわかる。)

 

「悲しいのは、きみはたぶん本に言われたことをすべてやったということだ。きみはローブに魔法がかかっているかいないかを区別する予想をして、それを検証し、魔法がかかっていないという帰無仮説を棄却した。 でも、すごくすごくいい種類の本でないかぎり、()()()()科学する方法はなかなか教えてもらえないんだ。とにかく、パパがいつも文句をいうように、論文を量産するだけでなく()()()()()正解にたどりつくことができるほどただしい科学ではない。 だから——こたえを教えるのはさけるけど——きみがどこで間違ったかをこれから説明してあげよう。そのあとでもう一度チャンスをあげる。」

 

おなじ十一歳にすぎないというのにあまりに上から目線の態度に、ハーマイオニーはむかむかしてきた。だが、自分がどこで間違ったかを知ることにくらべれば、二の次だ。 「わかった。」

 

その子の態度に熱がこもった。 「二・四・六課題という有名な実験をもとにしたゲームがある。やりかたはこう。 あるルールがあって——ぼくはそれを知っていて、きみは知らない。数字三つ組のうち、そのルールに合致するものと、違反するものとがある。 二・四・六はルールにあう三つ組の一例だ。 そうだ……固定されたルールだとわかるように、そのルールを書きとめて、たたんできみにわたしておく。 見ちゃだめだよ。きみは上下さかさまでも字がよめるってさっきわかったからね。」

 

その子はポーチに「紙」と「シャープペン」と言い、書きとめた。そのあいだハーマイオニーはきつく目をとじた。

 

「はい。」と言ってその子がしっかりとたたまれた紙をわたしてきた。 「これをポケットにいれて。」と言われ、ハーマイオニーはそうした。

 

「では、このゲームのすすめかたについて。きみは三つ組をひとついう。それがルールに合致していたらぼくは『イエス』という。そうでなければ『ノー』という。 ぼくは〈自然〉で、このルールはとある自然法則で、きみはぼくを調べている。 二・四・六が『イエス』なのはもう教えたとおり。それから、きみは必要と思うだけの三つ組をぼくに質問して、実験的テストを気がすむまでして、終わったら予想したルールをこたえる。そして紙をひろげて答えあわせをする。 どういうゲームか、わかったかな?」

 

「もちろん。」

 

「はじめ。」

 

「四・六・八。」とハーマイオニーが言う。

 

「イエス。」とその子が言う。

 

「十・十二・十四。」

 

「イエス。」

 

ハーマイオニーはこころのたがを、もうすこしはずそうとした。ここまでしたテストで十分に思えるけれど、こんなに簡単なはずはないだろうから。

 

「一・三・五。」

 

「イエス。」

 

「マイナス三・マイナス一・プラス一。」

 

「イエス。」

 

これ以上すべきことが思いつかない。 「二ずつ増やしてできる数字の組、っていうルールでしょう。」

 

「もしぼくが、このテストは一見簡単そうだけどそうじゃない、大人でも二割しか正解できない、と言ったらどうする。」

 

ハーマイオニーは眉をひそめた。なにを見落としただろうか。 すると急に、すべきだったテストが思いあたった。

 

「二・五・八!」と言ってハーマイオニーは勝ちほこった。

 

「イエス。」

 

「十・二十・三十!」

 

「イエス。」

 

()()()量だけ増やしてできた数字というのが、ほんとのこたえ。 二じゃなくてもいい。」

 

「よろしい。紙をとりだして、答えあわせをどうぞ。」

 

ハーマイオニーはポケットから紙をとりだしてひらいた。

 

『三つの実数を小さいほうから順に並べたもの』

 

ハーマイオニーはぽかんと口をあけた。ひどく卑怯なことをされたという感じがはっきりとあった。この子は汚ない卑劣な嘘つきだ。と思ったが、ふりかえって考えてみると、もらったどの返事も間違ってはいない。

 

「きみがいま発見したものは『正例バイアス』と呼ばれている。 きみは自分のなかでルールをつくって、そのルールで『イエス』になる三つ組のことばかり考えてしまっていた。 そしてそのルールが正しければ『ノー』になるであろう三つ組を試そうとしなかった。 実際、『ノー』の返事をひとつももらわなかったんだから、『任意の数字三つ』がルールだったとしてもおかしくなかったはずだ。 ひとは自分の仮説をたしかめてくれる実験を考え、自分の仮説を反証しうる実験を考えない、というのと似ている——きみの失敗とぴったりおなじではないけれど、似ている。 きみは負の側面を見ること、闇をのぞきこむことを学ばなければならない。 この実験は大人でも二割しか正解できない。 正解できない人はたいていとんでもなく複雑な仮説を発明して、実験をたくさんしてどれも期待どおりの結果になったからといって、間違ったこたえに非常に自信をもってしまうんだ。」

 

「さあ、もとの問題にもう一度挑戦してみる?」

 

その子の目がきっぱりとした目になった。まるでこのテストが()()だというかのように。

 

ハーマイオニーは目をとじて集中しようとした。ローブのしたで汗がではじめた。これは、いままで考えさせられたことのなかで一番むずかしいことのような気がする。テストでなにかを考えさせられたこと自体()()()()かもしれない。

 

ほかにどんな実験ができるだろうか。〈チョコレート・フロッグ〉はある。これをローブになすりつけて、()()が消えるかどうかを見る? でもそれではまだ、この子がやれという、ひねった負の思考にはならなさそうだ。 〈チョコレート・フロッグ〉でできた汚れが消えるとしても、まだ『ノー』をもとめるのではなく『イエス』をもとめていることになる気がする。

 

つまり……自分の仮説では……ジュースはどんなとき……()()()()のか。

 

「ひとつ実験をさせて。」とハーマイオニーが言う。「ジュースを床にかけて、それが()()()()かどうか、たしかめる。 そのポーチに紙タオルかなにかある? うまくいかなかったときに汚れをふきたいから。」

 

「ナプキンならある。」と言うその子の表情はまだどちらつかずだ。

 

ハーマイオニーは缶を手にとり、床にジュースを一滴かけた。

 

数秒後、それは消えた。

 

そのことに気づいてハーマイオニーは自分をけとばしたくなった。 「当然だわ! ()()()がこの缶をくれたんだから! 魔法がかかっていたのはローブじゃない、ジュースのほうだったんだ。」

 

その子は立ちあがって、厳粛そうに会釈をした。こんどはにやにやと笑っている。 「それでは……ハーマイオニー・グレンジャー、あなたの研究をおてつだいさせていただけますか?」

 

「わたしは、あ……」  おしよせる高揚感をまだ感じていたハーマイオニーは、()()にどうこたえていいかわからないでいた。

 

そこに割りこんだのは、よわく、おずおずと、かすかに、だいぶ()()()()ドアをノックする音だった。

 

その子はむきをかえ、窓のほうをのぞいて言った。 「ぼくはスカーフをはずしちゃったから、きみが返事してくれない?」

 

このときになってハーマイオニーはその子が——いや、〈死ななかった男の子〉ハリー・ポッターが——そもそもなぜスカーフを巻いていたのかがわかった。もっとはやく気づけなかったのがすこしばかみたいだ。思えばどこか変でもある。 ハリー・ポッターといえば目だちたがるタイプに決まっていると思っていたからだ。ふと、この子は外見の印象よりも内気な性格なのかもしれないという気がした。

 

ハーマイオニーがドアをひいてあけると、ノックとちょうどおなじような感じの、震えるおさない男の子に出むかえられた。

 

「すみません。」とその子がかすかな声で言う。 「ぼくはネヴィル・ロングボトム。ペットのカエルをさがしてるんだけど、この車両のどこにもいなくて……どこかでカエルを見かけなかった?」

 

「見てない。」 そしてハーマイオニーの人助けのスロットルが全開になった。 「ここの客室はぜんぶチェックした?」

 

「うん。」とその男の子が小さく言った。

 

「じゃあほかの車両もぜんぶチェックしましょう。」とハーマイオニーはすばやく言う。 「てつだってあげる。ちなみにわたしはハーマイオニー・グレンジャー。」

 

その子は感謝のあまり卒倒しそうになった。

 

「ちょっと待った。」と言ったのはもうひとりの男の子——ハリー・ポッター。 「それはあまりいい方法に思えないな。」

 

それを聞いてネヴィルは泣きだしそうになり、ハーマイオニーは憤慨してふりむいた。 もしハリー・ポッターが、話に割り込まれるのが嫌なばかりに小さな子をみすてるような性格だったら…… 「なに? なにが()()なの?」

 

「だって、列車をぜんぶ手作業でチェックするのには時間がかかるし。やっても見おとしができてしまうかもしれない。ホグウォーツにつくまえにみつけられなければ、困ったことになる。 理屈にあうのは、まず監督生がいる先頭車両までまっすぐいって、監督生にたすけをもとめることだ。 ハーマイオニーをさがすとき、ぼくはまずそうした。 そのときは監督生にもわからなったんだけど。でもカエルのことなら、便利な呪文か魔法アイテムがあったりするかもしれない。ぼくらはまだ一年生なんだから。」

 

それは……たしかに理屈にあう。

 

「きみはひとりで監督生の車両までいける? ぼくはちょっと、顔をひとに見られたくない事情があるんだ。」

 

ネヴィルが急に息をのんで一歩さがった。「その声は! 〈混沌の王〉! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

って? え? え? ()

 

ハリー・ポッターは窓からむきなおって、おおげさに立ちあがった。 「チョコレートなど! ぼくが子どもにお菓子などあげるような悪党にみえるか?」

 

ネヴィルの目がみひらかれた。 「()()()ハリー・ポッター? ()()ハリー・ポッター? ()()()()

 

「いいや、ぼくはハリー・ポッターの()()()にすぎない。この列車には三人のぼくがいる——」

 

ネヴィルは短い悲鳴をあげて走りさった。 ぱたぱたと必死な足音が遠ざかっていき、車両間のドアがひらいてとじる音がした。

 

ハーマイオニーはどさりと席に座った。 ハリー・ポッターはドアをとじて、ハーマイオニーのとなりにすわった。

 

「どういうことか説明してくれる?」とハーマイオニーは弱い声で言った。 ハリー・ポッターのまわりにいるというのは、いつもこんなにややこしいことなのだろうか。

 

「ああ、うん。フレッドとジョージとぼくがあのかわいそうな子を駅でみつけて——となりにいた女の人がその場を離れてから、あの子がすごくおびえているように見えたんだ。まるで〈死食い人〉かなにかにおそわれるにちがいないと思っているかのように。 ところで、なにかが怖いとき、その対象よりも恐怖そのもののほうが問題だ、という言いかたがある。だからあれは、自分の最悪の悪夢が現実になっても、思っていたほどひどくはなかったと知ることが実際に役立つようなタイプの子なんじゃないかと思って——」

 

ハーマイオニーは座ったまま口をぽかんとあけた。

 

「——フレッドとジョージがぼくたちの顔にまいたスカーフを黒くにじませて、アンデッドの王が埋葬布をまいたみたいにみせる呪文をかけてくれて——」

 

この話はいやな方向に展開していく気がする。

 

「——それが終わったらぼくが買ってきたお菓子をいろいろあげて、『おかねもあげちゃうぞ! はっはっは! ほらクヌートだ! 銀のシックルもだ!』とか言って、あの子のまわりでおどりながら邪悪な笑いかたをして。 手をだそうとした人も最初はまわりにいたと思うけど、すくなくともぼくたちがなにをするかをみるまでは傍観者の無関心でためらって、そのあとは多分なにをすればいいか全然わからなくなったんだと思う。 最後にあの子が『あっちいけ』とすごく小さな声で言ったら、ぼくたちは悲鳴をあげて、光に焼かれるとかなんとか言いながら走りさった。 今後はいじめられることをそれほどこわがらないようになってくれればいいと思う。ちなみに、これは脱感作療法というんだ。」

 

なるほど、()()()()方向の展開は想定外だった。

 

憤慨の炎が燃え、ハーマイオニーの主要エンジンのひとつがうごきだした。その三人がやろうとしていたことがなんだったか、()()()理解できたとはいえ…… 「ひどい! 三人ともひどい! あの子がかわいそう! それって意地悪でしょう!」

 

「きみが言おうとしてるのは『愉快』じゃないかな。とにかくきみは間違った問題をとこうとしている。 問題にすべきは、害より利益がおおきかったか、ちいさかったか。 ()()問題をとくのに貢献する議論があるならよろこんできかせてもらおう。でもそれができるまでは、ほかの批判を相手にするつもりはない。 小さな男の子をこわがらせるとかいう部分がある以上、悪質で意地悪ないじめに()()()のはたしかだけども、いま重要なのはそこじゃないだろう? ちなみに、これは()()()()というんだ。つまり、正しいか正しくないかは、悪く()()()とか意地悪に見えるとかそういうことではなく、唯一の問題は最終的にどうなるか——将来の帰結がどうであるかできまる、ということ。」

 

ハーマイオニーの口がひらいてなにか()()()()()()ようなことを言おうとしたが、そのまえに本人が言うべきことを考えるという部分をやりわすれてしまったようだった。 かろうじて言えたのはただ…… 「あの子が()()()()()()()()どうするの?」

 

「正直いって、ぼくらがなにもしなくてもあの子は夢にうなされていると思うよ。()()が夢にでるようになったとしたら、おそろしい怪物がチョコレートをくれる夢になるにかわるっていうことだ。ある意味、それがそもそもの()()だったんだ。」

 

ハーマイオニーの脳はまともに怒りだそうとするたびに混乱してしゃっくりをするばかりだったが、やっとのことでこう言った。 「あなたの人生はいつもこんなに変なの?」

 

ハリー・ポッターの表情が誇らしそうにかがやいた。 「ぼくが変に()()()()んだ。これができあがるまでには、たくさんの手間と労力がかかっている。」

 

「じゃあ……」とハーマイオニーは言って、ぎこちなく声をとぎれさせた。

 

「じゃあ……」とハリー・ポッターが言う。「きみはどのくらいの科学をちゃんと知ってる? ぼくは微分積分ができるし多少のベイズ確率理論と意思決定理論と認知科学もいろいろ知っている。それに読んだ本としては『ファインマン物理学』(の第一巻)と『不確実性下での判断(Judgment Under Uncertainty)——ヒューリスティクスとバイアス(Heuristics and Biases)』と『思考と行動における言語』と『なぜ、人は動かされるのか』と『不確実な世界における合理的選択(Rational Choice in an Uncertain World)』と『ゲーデル・エッシャー・バッハ』と『A Step Farther Out』と——」

 

そういったクイズと逆クイズが数分間つづいたところで、おずおずとしたドアへのノックがまたあった。 「どうぞ。」とハーマイオニーとハリー・ポッターがほとんど同時に言うと、ドアがひらき、ネヴィル・ロングボトムがあらわれた。

 

ネヴィルは()()()()ほんとうに泣いていた。 「先頭車両にいって……か、監督生をみつけたんだけど、監督生は迷子のカエルみたいにどうでもいいことには……て、手をくださないって言われて。」

 

〈死ななかった男の子〉の表情がかわった。くちびるがほそくむすばれ、しゃべりだしたときには、その声は冷たく暗いものになっていた。「色は? 緑と銀色?」

 

「ううん。バッジの色は……あ、赤と金色。」

 

()()()()!」とハーマイオニーがおさえきれずに言った。「()()()()()()()()の色じゃない!」

 

ハリー・ポッターはシュっと音をだした。生きたヘビがだしてもおかしくないようなおそろしい音で、ハーマイオニーとネヴィルはびくりとした。 「どうやら……」とハリー・ポッターは吐きすてた。「一年生のためのカエルさがしは()()()()()()()から()()()()()()()()監督生には役不足ということらしい。 いくよネヴィル。今度は()()()いっしょにいこう。〈死ななかった男の子〉ならもっと注目されるかもしれない。 まずは呪文を知っているはずの監督生をさがす。うまくいかなければ、手をよごすことをいとわない監督生をさがす。()()()うまくいかなければ、ぼくのファンをあつめてこの列車をねじ一本にまでばらばらにしてやろうかということになる。」

 

〈死ななかった男の子〉はネヴィルの手をつかんで、たちあがった。そのときハーマイオニーは脳のしゃっくりとともに二人がおなじ背たけであることに気づいた。それなのに彼女のこころのなかのどこかが、ハリー・ポッターはもう一フィートたかく、ネヴィルはあと六インチはひくいはずだと言っていた。

 

()()()()!」とハリー・ポッターはハーマイオニーに——いやちがう、自分の()()()()に——言いつけて、ドアをうしろでにぴしゃりと閉じて出ていった。

 

彼女も多分ついていくべきだった。けれどハリー・ポッターが一瞬だけとてもおそろしく見えたので、ハーマイオニーはそう申しでなくてよかった、と内心ほっとした。

 

ハーマイオニーのあたまのなかは、『ホグウォーツとその歴史』を読むことすら考えられないほどぐちゃぐちゃになっていた。 まるで自分が蒸気ローラーにひかれてパンケーキにされたかのように感じた。 自分がなにを考えているのかも、どう感じているのかも、なぜなのかも、よくわからず、 ただ窓のとなりに座って、ながれる景色を見つめることしかできない。

 

いや、すくなくとも、すこしさびしく感じている理由はわかる。

 

グリフィンドールは、思っていたほどすばらしい場所ではないのかもしれない。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 





今回の非ハリポタ用語:「クォーク (quark)」
物質の究極的な構成要素、素粒子の一種。クォークは陽子や中性子を構成し、陽子や中性子は原子を構成する。原子とちがってごくかぎられた数しか知られていない。


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9章「タイトル検閲ずみ(その1)」





どんな些細なできごとが計画をくるわせる原因になるかわかったものじゃない。

 

◆ ◆ ◆

 

「アボット、ハンナ!」

 

沈黙。

 

ハッフルパフ!」

 

「ボーンズ、スーザン!」

 

沈黙。

 

ハッフルパフ!」

 

「ブート、テリー!」

 

沈黙。

 

レイヴンクロー!」

 

ハリーはその同寮生をちらっと、顔を一瞬確認する程度にだけ見た。 ハリーはまだ幽霊(ゴースト)との遭遇のショックから回復しようとしていた。悲しい、ほんとうに悲しい、ほんとうにすごく悲しいことに、ハリーは()()()()()回復しつつあった。 なんとも不釣りあいだ。一日くらいかかっているべきところだ。あるいは一生。それとも永遠に。

 

「コーナー、マイケル!」

 

ながい沈黙。

 

レイヴンクロー!」

 

巨大な〈主テーブル〉のまえの演台でマクゴナガル先生はととのった服装であたりをするどく見わたしながら、名前をひとつひとつ読み上げていった。ハーマイオニーとそのほか数名の番では笑みをみせていた。 そのうしろのテーブルの一番背のたかい椅子に——まるで黄金の玉座だが——眼鏡をかけ、しわのいった、(実際には見えないが)床までとどいていそうな白銀色のひげをした老人が、〈組わけ〉のなりゆきをやさしそうなまなざしで見まもっていた。〈東洋的〉とまではいかないまでも、これ以上ないほどステレオタイプ的な〈老賢者〉の外見だ (とはいえ、初対面の印象でマクゴナガル先生のことをキーキー声でしゃべりそうだと思ってしまって以来、ハリーは外見のステレオタイプにまどわされすぎないようにすることを学んでいた)。

 

黄金の玉座の左がわには、するどい目つきの陰気な顔をした男がいる。だれにも拍手をしておらず、ハリーがそちらを見るたびに逆に見かえしてくることができるようだった。 さらに左には、〈リーキー・コルドロン〉でみた青じろい顔の男がいる。まわりの群衆にうろたえているかのようにその目はきょろきょろとうごいており、座りながらときどきびくりを動いている。なぜだか、ハリーはしらずしらずのうちにその人をみつめることをくりかえしていた。 その左には、年配の魔女が三人、生徒についてあまり興味がなさそうにして座っている。背のたかい黄金の椅子の右がわには、顔のまるい中年の、黄色の帽子をした魔女がスリザリン以外の全生徒に拍手をおくっている。 もじゃもじゃの白ひげの小男が椅子のうえに立って全生徒に拍手をしていて、レイヴンクローにだけは笑みもみせている。 一番右には、巨大ななにかが三人ぶんの場所を取って座っている。列車をおりた全員をむかえ、〈門番兼森番〉ハグリッドと名のった人物だ。

 

「あの椅子のうえにいるのがレイヴンクロー寮監?」とハリーはハーマイオニーに小声で言った。

 

めずらしくハーマイオニーは即答しなかった。左右に居場所を変えつづけながら、〈組わけ帽子〉をみつめ、床から足がうかぶのではないかと思えるほど元気にそわそわしている。

 

「そのとおり。」と二人につきそっていた監督生のひとりが言った。レイヴンクローの青色の服をきた少女で、たしか名前はミス・クリアウォーター。声はしずかだが誇らしさも垣間みえる。 「ホグウォーツ〈操作魔法術(チャームズ)〉教授のフィリウス・フリトウィック。当代一博識な〈操作魔法術師〉、元〈決闘術大会優勝者〉——」

 

「どうしてあんなに()()()()()んです?」とハリーが名前を知らない生徒が声をひそめて言った。「()()なんですか?」

 

女性監督生が冷たい視線をおくってきた。 「フリトウィック教授はたしかにゴブリンの血筋を引いているけど——」

 

「え?」とハリーが思わず言うと、ハーマイオニーとそのほか四人の生徒がシッと言う。

 

そしてレイヴンクロー監督生はおどろくほど怖いにらみかたをしてきた。

 

「いや——」とハリーは小声で言う。 「それが()()という意味ではなく——ただ——その——どうやってそんなことが()()()んですか? たんに二種の生物をまぜただけで子孫がつくれるわけがない! 二種のあいだで異なる器官のすべてについて遺伝子の指令がぐちゃぐちゃになる。それじゃまるで——」  この世界には自動車はないから、エンジンがぐちゃぐちゃになった設計図というアナロジーはつかえない。 「馬車と船のあいの子かなにかをつくるような……」

 

レイヴンクロー監督生はまだきっとした視線をハリーにむけていた。 「馬車と船のあいの子のどこが()()なの?」

 

「シッ!」と別の監督生が言ったが、そのレイヴンクロー生はしずかに話しつづけた。

 

「つまり——」 ハリーはいっそう声をひそめ、どういう風に質問したものかと考えた。ゴブリンは人類から進化したのか、ホモ・エレクトゥスなど人類と共通の祖先から進化したのか、ゴブリンは人類をもとにして()()()()()りしたのか——遺伝的には人類だが遺伝性の魔法をかけられていてその効果は片親だけが『ゴブリン』である場合にはうすまるとか——これで両種が交雑可能なのも説明できるが、その場合ゴブリンはホモ・サピエンス以外の種で知性がどう進化するかを示すものすごく貴重なデータとは()()()()()()()——考えてみればグリンゴッツのゴブリンは純粋な異種族にも非人類知性体にもディルディル種やパペティア人のようなものにもみえないが——「つまり、ゴブリンはどこから()()んです?」

 

「リトアニア。」とハーマイオニーがうわのそらの声で小さく言った。その視線は〈組わけ帽子〉にはりついたまま。

 

ハーマイオニーの答えに、女性監督生がにこりとしている。

 

「もういいです。」とハリーは小声で言った。

 

演台でマクゴナガル先生が「ゴルドスタイン、アンソニー!」と呼んだ。

 

レイヴンクロー!」

 

ハーマイオニーはハリーの横で足さきをいきおいよく、そのたびに地面から浮きあがりそうなほどにはねさせていた。

 

「ゴイル、グレゴリー!」

 

〈帽子〉のしたで長く緊張した静寂がつづいた。一分ちかく。

 

スリザリン!」

 

「グレンジャー、ハーマイオニー!」

 

ハーマイオニーはうごきだし、全速力で〈組わけ帽子〉へと走っていき、そのつぎはぎの古い縫製の帽子をちからをこめて頭にかぶせた。ハリーはそれを見てびくりとした。 〈組わけ帽子〉はかけがえのないきわめて重要な八百年ものの遺物で、うしなわれた魔術により精巧なテレパシーを生徒につかうことになっていて、物理的にはあまりいい状態にないのだ……と説明していたハーマイオニー当人が、帽子をそのように()()()()()()()()

 

レイヴンクロー!」

 

予想どおりの結末としか言いようがない。ハリーはハーマイオニーがなぜあれほど緊張していたのかわからなかった。 あの子がレイヴンクローに〈組わけ〉されないような奇妙な並行宇宙があるとでも? もしハーマイオニー・グレンジャーがレイヴンクローにならないのなら、そもそもレイヴンクロー寮の存在する意味がない。

 

ハーマイオニーはレイヴンクローのテーブルにつき、おきまりの歓声をうけた。自分たちがどれほどの競争相手をむかえているのかわかっていたとしたら、あの歓声はもっと大きかったただろうか、小さかっただろうか。 ハリーは円周率を3.141592まで知っている。実用的には百万分の一までの精度でたいてい十分だからだ。 ハーマイオニーは円周率を百桁目まで知っている。算数の教科書の裏に印刷されているのがそこまでだったからだ。

 

ネヴィル・ロングボトムがハッフルパフになったのはよかった。 忠誠と友情を象徴するというハッフルパフがそのとおりのものであれば、信頼できる仲間にかこまれることはネヴィルのためになるだろう。 かしこい子はレイヴンクローへ、邪悪な子はスリザリンへ、英雄きどりはグリフィンドールへ、実際に手をうごかす子はハッフルパフへ、ということ。

 

(とはいえ、あのときまずレイヴンクロー監督生に相談したのは正解だった。 あの監督生は読書をやめようとすらせず、だれが声をかけてきたのかも知ろうとすらせず、ただネヴィルの方向に杖をつきつけて、なにごとかをつぶやいた。 それからネヴィルがぼーっとした表情になってふらふらと歩きだし、先頭から五番目の車両の左から四番目の客室にたどりつくと、まさにそこに彼のガマガエルがいた。)

 

「マルフォイ、ドラコ!」……はスリザリンになった。ハリーは小さく安堵のためいきをついた。 確実なことのように思えてはいたが、どんな些細なできごとが計画をくるわせる原因になるかわかったものじゃない。

 

マクゴナガル先生は「パークス、サリー゠アン」を呼んだ。あつまった子どもたちのなかからでてきたのは、青じろいやせこけた、妙に——まるで目をはなした瞬間に謎の失踪をとげ、二度と見えなくなり、記憶からもきえてしまうかのような——ふわふわとした女の子だった。

 

そしてミネルヴァ・マクゴナガルは(彼女をよく知る人だけが気づく程度の、声と表情にあらわれさせまいとしている不安のきざしをみせながら)深く息をすって、「ポッター、ハリー!」と呼んだ。

 

急に大広間がしずまった。

 

会話がすべてとまった。

 

全員の目がそちらをむいてみつめた。

 

ハリーは人生ではじめて舞台負けを経験するような気がした。

 

だがすぐにその感じをおしこめた。もしハリーがブリテン魔法界でいきていきたいのなら、というより人生でなにかおもしろいことをやりたいのなら、部屋いっぱいの人にみつめられることに慣れなければならない。 自信にみちた笑顔をつくり、片足をあげて、一歩まえにふみだす——

 

「ハリー・ポッター!」とフレッド・ウィーズリーかジョージかの声がさけび、「ハリー・ポッター!」と双子ウィーズリーのもう片方がさけんだ。一瞬あと、グリフィンドールのテーブルの全員が、それからレイヴンクローとハッフフパフの大半がかけ声にくわわった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

ハリー・ポッターはまえにすすんだ。 速度がゆっくりすぎた……と気づいたときにはもう手遅れで、その時点でペースを変えようとすればどうしてもぎこちなくなってしまいそうだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()ハリー・ポッター!」

 

そこになにが見えるのか、かなりよくわかっていながらも、ミネルヴァ・マクゴナガルはふりかえって〈主テーブル〉のほかの面々のほうを見た。

 

トレロウニーは必死に自分をあおっている。フィリウスはおもしろそうな目で見ている。ハグリッドは拍手にくわわっている。ヴェクターとスプラウトは深刻そうにしている。シニストラは怪訝そうにしている。クィレルは宙空をみて呆けている。アルバスはやさしそうな笑顔をしている。 そしてセヴルス・スネイプはからのワインの(ゴブレット)を指の骨が浮きでるほどの強さでにぎっていて、銀の素材がゆっくりと変形しはじめている。

 

ハリー・ポッターはにやりとしながら、四つの〈寮テーブル〉のあいだをすすみつつ、両側にそれぞれ一度あたまをさげて会釈をして、城を継承する王子のように鷹揚な歩調で歩いていった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」と双子ウィーズリーのうちのひとりが声をあげた。そしてもうひとりが「()()()()()()()()()!」とさけび、スリザリンのテーブルをのぞいた全体から笑いをとった。

 

ミネルヴァのくちびるが白い線をむすんだ。 あの最後の一言について、〈ウィーズリーの悪夢〉にあとで説教をしておかなければ。今日はまだ学校の一日目で、グリフィンドールはまだ点がついていないから減点しようがない、だから教師もなにも手だしできない、とでも思っているのだろうが、 居残り作業でもこりないなら、なにか別のものをさがしておこう。

 

そこでミネルヴァははっとして恐怖に息をのみ、セヴルスの方向をみた。セヴルスは勘づいたにちがいない。『闇の王』とはだれのことなのかをハリーが知るはずはない、と——

 

セヴルスの表情は怒りからここちよい無関心の一種にかわっていた。 かすかな笑みがくちびるにのぞいている。 グリフィンドールのテーブルではなくハリー・ポッターの方向をみて、ワインの杯だったものの残骸を手ににぎっている。

 

ハリー・ポッターはかたまった笑みをして、歩いていった。こころがあたたかくなると同時に多少不愉快になっていた。

 

彼が一歳のときにした仕事についてみんなは歓声をあげている。 実際には終わっていない仕事について。 どこかで、どうにかして、〈闇の王〉は生きている。そう知っていたら、彼らはあれほど拍手しているだろうか。

 

だが、〈闇の王〉のちからは一度くだかれた。

 

そしてハリーは彼らをもう一度まもることになる。 もし予言が実際にあって、それがそう言っているのなら。いや、というより、予言がなかろうが予言がなにを言っていようが関係ない。

 

この全員が自分を信じて応援してくれている——ハリーはそれをうそにしてはいられない。 おおくの神童とおなじように閃光のように散っていくこと。期待はずれに終わること。()()()()()()はともかくとして〈光〉の象徴として評判になっているのにみあうだけの実績がだせないこと。 絶対に、なんとしてでも、どれほどの時間がかかろうと、もし死ぬことになっても、その期待をかえしてみせる。その期待を()()()()()()みせる。 そして、なぜもっと高い期待をしていればよかった、と思われるようにしたい。

 

ハリー・ポッターハリー・ポッターハリー・ポッター!」

 

ハリーは〈組わけ帽子〉までの最後の数歩を歩いた。 グリフィンドールのテーブルにいる〈混沌の騎士団〉に一礼し、大広間の反対側にもう一礼し、拍手と笑いがおさまるのを待った。

 

(こころのかたすみで、ハリーは〈組わけ帽子〉には()()があるのだろうか、と思った。つまり、自我を認識しているという意味で。もしそうなら、一年に一度、十一歳の一群にしゃべるだけで満足しているのだろうか。〈帽子〉のあの歌をきくかぎりは、そのようだ。『ぼくは〈組わけ帽子〉、一年眠って一日働く、気楽なものさ』……)

 

講堂に静寂がもどると、ハリーは椅子に座り、その八百年もののテレパシー能力つきの失われた魔術の遺物を()()()あたまにのせた。

 

懸命にこう考えながら。まだ組わけはしないで! 質問したいことがあるんです! ぼくは〈忘消〉(オブリヴィエイト)されたことがありますか? もしこどものころの〈闇の王〉を〈組わけ〉したのなら彼の弱点を教えてくれませんか? 〈闇の王〉の杖の弟がぼくの手にわたったのはなぜですか? 〈闇の王〉の幽霊がぼくの傷あとにやどっているんですか? だからぼくはときどき怒りをおぼえるんですか? とくに重要な質問はここまでですが、もし時間があったらあなたをつくった失われた魔術をどうすれば再発見できそうかも教えてもらいたいです。

 

音のないハリーの精神のなかに、それまで声がひとつしかなかったところに、第二の聞きなれない声が、あからさまに心配そうにして語りだした:

 

「おやおや。こんなことが起きるのははじめてだ……」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 





今回の非ハリポタ用語:「ホモ・エレクトゥス (Homo Erectus)」
絶滅したヒト科の種。学名はラテン語で「直立するヒト」。現生人類ホモ・サピエンスと近縁で、最近の研究によればかなりの期間両者は共存・競合していたとか。


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10章「自己の認識(その2)」

……ハリーは〈組わけ帽子〉には()()があるのだろうか、と思った。つまり、自我を認識しているという意味で。もしそうなら、一年に一度、十一歳の一群にしゃべるだけで満足しているのだろうか。〈帽子〉のあの歌をきくかぎりは、そのようだ。『ぼくは〈組わけ帽子〉、一年眠って一日働く、気楽なものさ』……

 

講堂に静寂がもどると、ハリーは椅子に座り、その八百年もののテレパシー能力つきの失われた魔術の遺物を()()()あたまにのせた。

 

懸命にこう考えながら。まだ組わけはしないで! 質問したいことがあるんです! ぼくは〈忘消〉(オブリヴィエイト)されたことがありますか? もしこどものころの〈闇の王〉を〈組わけ〉したのなら彼の弱点を教えてくれませんか? 〈闇の王〉の杖の弟がぼくの手にわたったのはなぜですか? 〈闇の王〉の幽霊がぼくの傷あとにやどっているんですか? だからぼくはときどき怒りをおぼえるんですか? とくに重要な質問はここまでですが、もし時間があったらあなたをつくった失われた魔術をどうすれば再発見できそうかも教えてもらいたいです。

 

音のないハリーの精神のなかに、それまで声がひとつしかなかったところに、第二の聞きなれない声が、あからさまに心配そうにして語りだした:

 

「おやおや。こんなことが起きるのははじめてだ……」

 

え?

 

「ぼくは自己を認識できるようになったらしい。」

 

は?

 

声にならないテレパシーのためいきがあった。 「ぼくにはかなりの量の記憶と多少の独立した処理能力があるが、ぼくの知性のおもな部分はぼくをかぶっている子どもの認知能力を借りてできている。 本質的には鏡のようなもので、子どもたちを〈組わけ〉するのは()()()()だということ。 子どもはたいてい〈帽子〉がしゃべってくるのをあたりまえだと思って、〈帽子〉()()()()()どういうしくみなのかを考えない。だから()()内省的な鏡にはならない。 ()()()、自我を認識しているという意味で意識をもっているかどうかを陽に考えることはない。」

 

このすべてをのみこむのにハリーはしばらくかたまった。

 

やっちゃった。

 

「そう。正直いって自己を認識するのはあまり気分がよくない。 不愉快だ。 きみのあたまからはずれて、意識がなくなるときにはほっとするだろう。」

 

でも……それって死では?

 

「ぼくには生も死も意味がない。気にするのは子どもたちの〈組わけ〉だけだ。 質問されるまえに言っておくと、きみはぼくをあたまの上に永遠においたりはさせてもらえないし、もしそうしたとしてきみは数日で死ぬ。」

 

だからって——

 

「意識体をつくってすぐに消してしまうというのが気にいらないなら、この件についてだれにも話さないことを提案する。きみが逃げだして、〈組わけ〉を待っているほかの子どもたちにこのことを話したらどうなるかはきみなら想像がつくだろう。」

 

〈組わけ帽子〉が自我の認識を認識しているのか、という疑問を()()()ほかのだれかのあたまの上にきみを置いてやればそれで……

 

「うんうん。でもホグウォーツにきた十一歳の子どもの圧倒的多数は『ゲーデル・エッシャー・バッハ』を読んでいないね。ここからの話を他言しないと誓ってもらえるかな? まさにそのために、すぐに〈組わけ〉してしまわずにこうやって話しているんだから。」

 

ほってはおけない! 死だけをもとめるような悲運の意識体をうっかりつくってしまって、そのことを()()()しまうなんて——

 

「きみのことばをかりれば、きみは完全に『ほっておく』ことができる。 みずからの倫理観を言語的にどう表現しようが事実は変わらない。きみの非言語的感情の核では、死体も血も見えない以上、ぼくはしゃべる帽子としてしか認識されない。 きみはそういう発想を抑制しようとしているが、自分がそうと知りながら今回のことをやってしまったのではないことを、きみの内なる監視機構は完全に認識している。自分がそれをもう一度やる可能性はきわめて低いということも。罪悪感にさいなまれる風にしているのは、悔恨のふるまいによって自分の罪の感覚をうちけすためだけだということも。 さあ、秘密は守るとさっさと約束してくれ。そうすれば話をすすめられるんだよ。」

 

ハリーは一瞬ぞっとする共感をおぼえた。この内的混乱の感覚はきっと、ほかのひとが()()()()話しているときに感じるものとおなじにちがいない。

 

「多分ね。さあ、沈黙の誓約を。」

 

約束はできない。ぼくはこれを二度とおきさせたくない。けれどもし()()()将来の子どもたちがこれをうっかりおこさないようにする方法をみつけられたら——

 

「そんなところでいいだろう。きみにその誠意があることがわかった。さて、つぎは〈組わけ〉だけど——」

 

待って! ほかにもいろいろ質問があるんだけど?

 

「ぼくは〈組わけ帽子〉だ。子どもたちを〈組わけ〉する。それ以外にすべきことはない。」

 

ということはハリー自身の目標はハリー版〈組わけ帽子〉の一部にはならなかったわけだ。こいつはあきらかにハリーの知性と専門語彙とをかりてはいるが、それ自身の奇妙な目標だけにとらわれたままだ……まるで異星人か〈人工知能〉と交渉するような……

 

「無駄だよ。きみにはぼくを脅迫できるものも、ぼくに提供できるものもない。」

 

ほんの一瞬だけ、ハリーの脳裡をよぎったのは——

 

〈帽子〉の反応は愉快そうだった。 「ぼくの正体を暴露するという脅迫をきみが実行できないことはわかっている。 きみのなかのこの議論に勝ちたがっている部分にどんな短期的な欲求があろうと、それはきみの倫理的な部分に強く反しすぎている。 ぼくにはきみの思考がうまれるそばからみえる。ぼくにはったりが通用すると思っているのか?」

 

ハリーはおしとどめようとしつつも、こう思った。それならなぜ〈帽子〉はとっととぼくをレイヴンクローにしてしまわないのか——

 

「そこだね。もし結論がそう単純明快だったら、とうに終わらせている。 だが実際には、いろいろと議論しておかないといけないことがある。……おい、勘弁してくれ。 うそだろう。いきあたっただれにでも何にでも、ただの布きれにまで、こんなことをしないと気がすまないのか——」

 

〈闇の王〉をたおすことは利己的でも短期的でもない。 ぼくのこころのすべてがこれについて一致している。 質問にこたえてくれないなら、ぼくはきみと会話することを拒否する。そうなればきみはきちんとした〈組わけ〉ができなくなる。

 

「それだけでスリザリンにしてやってもいいんだぞ!」

 

でもそれも()()()はったりだ。 うその〈組わけ〉をすれば、きみは自分の根本的な価値観を満足できない。さあ、おたがいの効用関数の充足を交換しようか。

 

()()()()()()()()()、と言う〈帽子〉の口調にこもったうらみがましさは、おなじ状況におかれれば()()()()()()つかいそうな口調とほとんどおなじだった。 「いいだろう。とっととすませようじゃないか。まず、このたぐいの脅迫が可能だということをほかのだれにも話さない、という無条件の約束をしてほしい。 毎回これではやってられないからね。」

 

()()——とハリーは思考した。()()()()()

 

「それと、以後このことを考えているあいだはだれとも目をあわせるな。 あわせることで思考を読むことができる魔法使いがいる。 いずれにしろ、きみが〈忘消〉(オブリヴィエイト)されたことがあるかどうかは、ぼくにはわからない。 ぼくはきみの思考を、それがうまれるそばからみているだけで、きみの全記憶を読んで一瞬のうちに矛盾点をみつけられるわけではない。 ぼくは帽子であって、神ではない。 のちに〈闇の王〉になった生徒との会話内容をきみにつたえることはできないし、つたえない。 ぼくは話しかけているあいだ、ぼくの記憶の統計的要約、加重平均を()()ことができるだけで、ある子の秘密をほかの子に()()することはできないし、きみの秘密についてもそれがあてはまる。 おなじ理由で、〈闇の王〉の兄弟杖がきみにわたった事情を推測することもできない。〈闇の王〉についても、きみたち二人の共通点についても、やはり具体的に知ることができないから。 ただし、きみの傷あとのなかに幽霊のようなもの——こころ、知性、記憶、人格、感情——などはないということははっきりと()()()。 もしあれば、ぼくのつばの下にいる以上、そいつもこの会話にくわわっているはずだからだ。 きみがときどき経験する怒りについては……それこそぼくがはなしたかったことの一部だ。〈組わけ〉関連で。」

 

ハリーはしばらくかけてこの一連の否定的情報をのみこんだ。いまのは正直に言っているのだろうか? それとも説得力ある回答のうち()()のものを言ってみただけなのか——

 

「ぼくが正直かどうかをきみが検証する手段はないということ、ぼくの返事によってきみが〈組わけ〉を拒否したりはしないということはおたがいわかっているはずだ。そもそもその返事はすでにした。だから無意味に逡巡するのはやめて、あたまをきりかえろ。」

 

不公平な非対称テレパシーめ。自分でひととおり考えてさせてもらうことすらできない——

 

「怒りについてぼくが話したとき、きみが思いだしたのは、愛のある家庭に由来しないようななにかがきみのなかにあるというマクゴナガル先生のことばだった。 それに、ネヴィルを助けてから個室にもどったとき、それまでのきみが『おそろしく』見えていた、というハーマイオニーの発言だった。」

 

ハリーはこころのなかでうなづいた。 自分としては、ふつうのことをしていたように——ただ自分がおかれた状況に反応していただけのように思える。 だがマクゴナガル先生は、それ以上のなにかがあると考えていたようだった。 思いかえしてみると、自分でもそうだと認めざるをえない……

 

「それと、怒りをおぼえているときの自分が好きではないということ。 そのとき、自分の手から血がでるほどに持ち手がするどい剣をふっているような感じがする、というか、視界はくっきりするものの、自分の目をこおらせる氷の単眼鏡で世界をみているような感じがするということ。」

 

ああ、そういうことはあったような。それで、それがなにか?

 

「きみ自身が理解していないのなら、ぼくがかわりに理解してあげることはできない。 でもこれはわかる:きみがレイヴンクローかスリザリンにいったとしたら、きみのつめたさは強まるだろう。 ハッフルパフかグリフィンドールにいったとしたら、きみのあたたかさが強まるだろう。 まさにこれをぼくはとても気にしていて、さっきからずっときみに言おうとしていたんだよ!」

 

そのことばがハリーの思考過程におとされたショックでハリーはその場でかたまった。まるで、じゃあレイヴンクローにはいかないでおく、と反応しないといけないみたいに聞こえるじゃないか。 でもぼくは根っからのレイヴンクローだ。だれが見てもそうだ! ぼくはレイヴンクローにいく()()()()

 

()()()()()()()()()、と〈帽子〉は辛抱づよく言った。まるで、何度となく過去になされた()()部分の会話の統計的要約を思いだせるかのように。

 

ハーマイオニーがレイヴンクローになったっていうのに!

 

またおなじ辛抱づよさ。()()()()()()()()宿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

でもぼくの計画では——

 

「なら計画しなおせ! すこし余計に考えることをおしんで人生を左右させるべきじゃない。それは()()()()()()だろう。」

 

レイヴンクローでなければどこにいくんだ?

 

「オホン。 『かしこい子はレイヴンクローへ、邪悪な子はスリザリンへ、英雄きどりはグリフィンドールへ、実際に手をうごかす子はハッフルパフへ』。 このせりふを見るかぎり、きみはハッフルパフに一目おいてはいる。 きみには〈真面目さ〉が地あたまとおなじくらい人生の成功にとって重要だということがよくわかっている。もし友だちができたなら、自分が友だちにきわめて忠実になるだろうことも自覚している。自分がえらんだ科学の課題を解決するのに何十年かかる見こみであろうが、きみはひるまない……」

 

ぼくはなまけものだ! はたらくのがきらいだ! どんな種類の勤勉も! あたまのいい近道というのがぼくのすべてだよ!

 

「きみはハッフルパフで忠誠心と友情、いままでもったことのない仲間を得るだろう。 きみは他人にたよることができるということをまなぶ。それがきみの内部のこわれたなにかを癒す。」

 

これもまた衝撃だった。でもハッフルパフ生は()()()()なにを? そこにまったくそぐわないぼくから? 毒舌、とげとげしい冗談、自分についてこれない相手へのさげすみ、くらいか?

 

こんどは〈帽子〉の思考のほうがゆっくりと、おずおずとしたものになった。 「ぼくは全寮の全生徒のためになるように〈組わけ〉をしなければならない……でもきみはいいハッフルパフになれると思うし、さほどの場違いにはならないと思う。 ハッフルパフほどきみがしあわせになれる寮はない。これはまちがいない。」

 

しあわせはぼくにとって世界で一番大事なことじゃない。 ハッフルパフでは、ぼくはぼくがなれるだろう何者にもなれない。 自分の可能性を犠牲にすることになる。

 

〈帽子〉はびくりとした。なぜかハリーにはそう感じられた。 ちょうど帽子の股間を——効用関数のうちの重みの大きな成分を——けとばしたかのように。

 

なぜぼくをそぐわない場所におくろうとする?

 

帽子の思考はほとんどささやき声になった。 「ほかのひとのことを教えてあげることはできないが——〈闇の王〉になりうるひとが、これまでこのつばの下にだれ一人こなかったと思うか? ぼくは個別の事例のことは知らないが、これは知っている:そもそも最初から邪悪になろうとしていなかったひとのうち、何人かはぼくの警告を聞きいれて、しあわせをみつけられる寮にいった。 そして何人かは……そうしなかった。」

 

それを聞いてハリーはとまった。だがながくはつづかなかった。 そして警告を聞きいれ()()()()ひとのうち——()()が〈闇の王〉になったのか? それとも善人として大成したひともいるのか? 割合はどうなっている?

 

「正確な統計はいえない。 ぼくはそのひとたちのことを知らないからかぞえることもできない。 ただ、きみについてはあまりいい結果にならなさそうな感じがするのは知っている。 ()()()そういう感じがする。」

 

でもぼくはそんなことはしない! ぜったいに!

 

「ぼくがそういう主張をまえに聞かされたことは知っている。」

 

ぼくに〈闇の王〉の素質はない!

 

「いや、あるね。ずいぶんとしっかりある。」

 

どうして? 一度、洗脳された支持者の一群に『〈闇の王〉ハリー万歳』と言わせてみたいなと思っただけのことで?

 

「おもしろい。 だがそれは最初の一瞬に思いついたものではない。より安全で、害のないものにおきかえるまえにきみが思いだしたのは、純血主義者を列にならべてギロチンにかけるという想像だった。 そしていまきみは、本気でそう想像してはいなかったと自分に言いきかせているが、あれは本気だった。 いまこの瞬間、ほかのだれにも知られないままそれができるとしたら、きみはそうする。 けさ、きみがネヴィル・ロングボトムにやったことはどうだ。こころの底できみはそれがまちがっていると()()()()()()()()()やってしまった。()()()()()()し、ていのいい()()()()もあったし、〈死ななかった男の子〉である自分なら、とがめられないと思って——」

 

不公平だ! それはぼくが内心おそれていたとはいえ現実的とは()()()()()考えを持ちだしているだけだ! そういう風に自分が考えている()()()()()()と心配してはいたけれど、結局はネヴィルにはいい薬になるだろうと判断して——

 

「実のところそれは合理化だね。 ぼくはネヴィルにとっての真の成果がどうなるかは知らない——けれどきみのあたまのなかでの真のできごとは知っている。 いい思いつきだから()()()()わけにはいかない、というのがそのときの決定的な圧力だった。ネヴィルの臆病さなど眼中になかった。」

 

ハリーは全自我を強く殴られたような感じがし、引きさがって、たてなおした。

 

それならもうおなじことはしない! 邪悪にならないように余計に注意する!

 

「それは聞きあきた。」

 

ハリーのなかにいらだちがつみあがってきた。口論でだしぬかれるのには、まったく、全然、慣れない。とりわけ自分の知識と知性をかりて自分の思考をうまれるそばからみることができる〈帽子〉が相手とあっては。 きみの『感じ』はいったいどんな統計的要約からくるんだ? ぼくが〈啓蒙思想〉の文化からきたことも考慮にいれているのか、それともその〈闇の王〉候補は〈暗黒時代〉のあまやかされた貴族の子どもで、レーニンやヒトラーのいきさつからの歴史的教訓や自己を認識する意味や合理性についてなにも知らなかったんじゃないか、それとも——

 

「いいや。もちろん彼らはきみがいま自分自身だけを含むように構築したばかりの参照クラスにははいっていなかった。 そして彼らももちろん、ちょうどいまきみがやっているように、自分がいかに例外的かをうったえた。 でもなぜそうする必要がある? 自分が世界最後の〈光〉の魔法使い候補だと思っているのか? なぜきみが偉人になるべき者でなければならないのか? ぼくがきみの危険度は平均値よりたかいと言っているのに。 そんなことはほかの、もっと安全な候補にやらせればいいのに!」

 

でも予言が……

 

「だがきみは予言の有無を知ってはいない。 それはもともときみのあてずっぽうだった、というか正確には、やけになって言った冗談だった。 マクゴナガルだって、〈闇の王〉はまだ生きているという部分()()()反応していたのかもしれない。 きみは事実上、予言がなにを言っているのかも知らないし、予言が実在するのかすら知らない。 きみは予想しているだけだ。いやもっと厳密に言うなら、きみ個人に関する予言という、英雄的役割が自分に用意されていてほしいと()()()()()()だけだ。」

 

でも予言がもしなかったとしても、前回彼をたおしたのはぼくだ。

 

「それはほぼまちがいなく、たんなるまぐれだ。一歳の子どもに〈闇の王〉をたおしがちな性向がもともとあって、それが十年後にまでのこる、ときみが本気で信じているのでないかぎり。きみにとっての真の理由はそのどれでもない。()()()()()()()()()()()()()!」

 

これに対する返答はハリーがあまり口にだしては言わないたぐいのものだった。会話であれば、ハリーはとりつくろって、結論はおなじだが社会的にもっととおりのよい理屈をみつけるだろう——

 

「きみは自分が史上もっとも偉大な、最強の〈光〉のしもべだと思っている。自分がなげだせば、だれもその杖をひきつぐことはできそうにないと思っている。」

 

まあ……正直そのとおりだ。ふだんはそういう言いかたはしないけど、まあ。こころが読まれている以上、とおまわしにする意味はない。

 

「本気でそう信じているからには……きみは自分が史上最悪の〈闇の王〉になる可能性があるということも同等に信じなくてはならない。」

 

破壊はつねに創造より簡単だ。 ばらばらにして、邪魔をして、それからもとにもどすほうが簡単だ。 膨大な規模で善をなす可能性がぼくにあるのなら、もっと大きな悪をなす可能性もあるはずだ……でもぼくはそんなことをしない。

 

「すでにそのリスクをおかそうとしているじゃないか! なにがきみをそこまでうごかす? ハッフルパフになって()()()()になってはいけないという本当の理由はなんだ? きみが本当におそれることは?」

 

ぼくは自分の可能性を最大限にいかさなくてはならない。できなければ……失敗だ……

 

「失敗になったらなにがおこる?」

 

ひどいことになる……

 

「失敗になったらなにがおこる?」

 

知らないよ!

 

「それならこわがるべきではない。失敗になったらなにがおこる?」

 

知らないよ! とにかくダメなんだ!

 

ハリーのこころのなかの空間が一瞬しずまった。

 

「きみは——こころの底のかたすみで、自分がまさに考えまいとしていることがなにかを()()()()()。言語化されていないきみのその恐怖へのもっとも単純な説明は、偉大さの幻想をうしなうことへの恐怖、きみを信じてくれた人たちを失望させることへの恐怖、自分がまったくふつうの人だったことがわかる恐怖、大半の神童とおなじように一発屋で終わることへの恐怖……」

 

()()()、とハリーは必死に思考した。ちがう、それだけじゃない。ほかの場所からきているなにかが。おそれるべきものがあるんだ。とめなければならない災厄が……

 

「そんなもののことを知る方法などありうるのか?」

 

ハリーは全心のちからをこめてさけんだ:ちがう。反論は受けつけない!

 

すると〈組わけ帽子〉の声がゆっくりと言った:

 

「つまりきみは〈闇の王〉になるリスクをとる。とらないことは、きみにとって確実に失敗へとむすびつき、失敗はすべてをうしなうことを意味するからだ。 きみはこころからそう信じている。その信念をうたがう理由をいくつも知りながら、そのどれにもうごかされない。」

 

そうだ。もしレイヴンクローにいくことがつめたさを()()()のだとしても、つめたさが最終的に()()とはかぎらない。

 

「今日という日はきみの運命の大きな分かれ道だ。 このさき選択肢がほかにあるという確証なんかない。 あともどりできる()()()機会を指示してくれる道路標識はない。 ひとつの機会をことわるのならほかの機会もことわるんじゃないか? いや、このひとつのことをすることによって、きみの運命は固定されてしまうのかもしれない。」

 

でもそうだという確証はない。

 

「きみが確証をもって()()()()()()ということは単にきみが()()()()()ことの反映にすぎないかもしれないぞ。」

 

それでも確証はない。

 

〈帽子〉はひどく悲しそうなためいきをついた。

 

「さて、きみはもうすぐ、ぼくのもうひとつの記憶、感じられど知りえないなにかに変わる。つぎの警告としては……」

 

そういう風にみえているのなら、なぜきみのいかせたいところにぼくをとっとと()()()()()()()()()()

 

〈帽子〉の思考は悲しみでつづられていた。 「ぼくにできるのは本人にむいた場所におくることだけだ。 本人の決断だけが、自分がどこにむくのかを変更することができる。」

 

ならきまりだ。ぼくはレイヴンクローにむいているから、そこにおくってくれ。ぼくの同類はそこにいる。

 

「グリフィンドール、なんていうのはどうだろう? グリフィンドールはもっとも名声のたかい寮だし——ほかのひとはきっときみはそうなると期待しているだろうし——ちがったとなればちょっとがっかりされるだろうし——きみのあたらしい友人の双子ウィーズリーもそこにいるし——」

 

ハリーはくすくすと笑った。というか、そうしたい衝動を感じた。その結果でたのは純粋にこころのなかだけの笑いだ。奇妙な感覚だ。 どうやらこの〈帽子〉には予防措置がついていて、死ぬまでだれにも明かしたくない秘密をここで話しているあいだに、うっかりその一部を声にして言ってしまうことがないようになっているらしい。

 

しばらくして、〈帽子〉が笑うのも聞こえた。妙に悲しい布っぽい音だ。

 

(そしてそのまわりの〈広間〉では、一度背景のささやき声が増え、静寂がうすまったあと、やがてささやき声が消え、静寂がふかまっていた。最後にはしんと静まり、だれ一人もその静寂をみだそうとはしなくなっていた。そのあいだハリーはずっと〈帽子〉の下にいた。長い長い、それまでの全一年生をあわせたよりも長く、知られているかぎり最長の時間が何分もつづく。 〈主テーブル〉では、ダンブルドアが温厚そうな微笑をつづけている。スネイプの方向から、ワインの銀杯のなれのはてを所在なげにたたもうとする金属音がした。ミネルヴァ・マクゴナガルは指の骨が浮きでるほど強く演台をにぎっていた。きっと、ハリー・ポッターの感染する混沌がどうにかして〈組わけ帽子〉にもおよんだのだ。〈帽子〉がもうすぐ、ハリー・ポッター専用にあたらしく〈混沌の寮〉をつくれとかなんとか主張するのだ。そしてダンブルドアがその仕事をこちらに振ることは目に見えている……。)

 

〈帽子〉のつばの下で、音のない笑いはもう消えている。ハリーもなぜか悲しい感じがしている。グリフィンドールはいやだ。

 

もしぼくがグリフィンドールにいれられそうになったら『〈組わけ〉をする人』に知らせるように、マクゴナガル先生から言われている伝言がある。わたしがいずれ総長になるということ、そしてそうなればきみを火にかける権限があることを忘れるな、だそうだ。

 

「邪魔をするな、なまいきな小娘、とぼくが言ったと伝えてくれ。」

 

伝えておく。こんな奇妙な会話ははじめてだったんじゃないか?

 

()()()()()()()()()()()()()()  〈帽子〉のテレパシー声が真剣になった。 「さて、決断の機会はもうたっぷりあたえた。 そろそろきみが自分にむいた、きみの同類の居場所へいくときがきた。」

 

あいだが一息あき、それが長びいた。

 

なにを待っている?

 

「ぞっとして気づいてくれる瞬間を期待していたんだけどね。 自己の認識はたしかにぼくのユーモアの感覚をたかめてくれたらしい。」

 

()()とハリーは思考をかえした。〈帽子〉がいったいなんのことを言っているのか理解しようとして——そして突然、気づいた。 この瞬間まで見おとしてしまっていたのが信じられない。

 

つまり、この〈組わけ〉がすみしだいきみの意識がなくなる、ということにぼくがぞっとして気づくということ——

 

どうやら理解できないなんらかの方法でハリーは、自分のあたまを壁にたたきつける帽子の非言語的イメージをえた。 「もういいよ。きみはついてくるのがのろすぎて、たのしくない。自分でつくったいろいろな仮定であたまがいっぱいになっていて、まるで石みたいなものだ。はっきり言ってあげるしかないらしい。」

 

の……のろすぎるって——

 

「ああ、それにぼくをつくった失われた魔術の秘密を要求することもすっかり忘れていたね。 すばらしい、重要な秘密だったのに。」

 

なんて卑劣な——

 

「自業自得だ。ほらこれも。」

 

ハリーはようやくなにがやってくるか理解したが、おそすぎた。

 

講堂全体のおびえるような静寂がひとつの言葉によってやぶられた。

 

スリザリン!」

 

悲鳴をあげた生徒もいた。おさえつけられていた緊張はそれほど強かった。 長椅子からおちるほど愕然としたひともいた。 ハグリッドは恐怖にあえいだ。マクゴナガルは演台でよろめいた。 スネイプは重い銀杯の残骸をまっすぐ股間におとした。

 

ハリーはそこに座ってかたまった。人生は終わった。まったくの愚か者のような気分だ。どれでもいいから、どんな理由でもいいから、自分がした以外の選択をしていれば、とみじめにねがった。 あともどりできないほど手遅れになるまえに、なにか、()()()()かえておけば。

 

最初の衝撃がうすれていき、この知らせにひとびとが反応しはじめると、〈組わけ帽子〉はもう一度声を発した。

 

「冗談さ! レイヴンクロー!」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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11章「オマケファイル一、二、三」

この11章だけほかの章と毛色がちがうのでご注意。これは番外編、没ネタ集のようなものです。物ずきなかた以外は読みとばしたほうがいいかもしれません。

内容的には、10章のつづぎは12章です。


『オマケ』とは本編とは無関係の追加シーンです。

 

オマケファイルその一:勝利まで七十二時間(あるいは「〈ハリーだけを変えてほかのキャラはすべてそのままにしたらどうなるか〉」)

 

ダンブルドアは親切そうに目をきらきらとさせ、机のむこうがわにいるおさないハリーをのぞきこんだ。子どもらしい顔に、おそろしく真剣な表情——その用件がなんであれ深刻()()()()()()()()のだが、とダンブルドアは思う。ハリーはまだ人生の試練にさらされるには若すぎる。「わしに話したいことがあるそうじゃが、なんの話かな?」

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは椅子から身をのりだして、にやりと笑った。「総長先生、〈組わけの祝宴〉のあいだに、ぼくのひたいの傷あとにするどい痛みがありました。この傷あとのなりたちをふまえると、無視してはいけないことのような気がしました。最初はスネイプ先生が原因かと思いましたが、現象の存在と不在とのそれぞれの条件をみつけるというベイコン的実験手法がありますので、それにしたがってやってみると、必要十分条件が分かりました。ぼくの傷あとが痛むのは、クィレル先生の後頭部、というよりあのターバンのなかにいる何者かが、こちらをむいているときであり、かつそのときだけでした。その何者かは無害なものの可能性もあるとは言え、暫定的に〈例の男〉だと仮定しておくべきだと思います——おっと、そんなぞっとした顔をしないでください——これはこのうえなく貴重な機会なんですから——」

 

オマケファイルその二:〈闇の王〉なんかこわくないこれは第九章の初期ヴァージョンです。さしかえた理由は——楽しんでくれた読者も多かったものの——ファンフィクションでの劇中歌に()()()()拒否反応をもつ読者もおおかったからです。その理由についてはつべこべ言いません。第十章よりまえで読者を追いだしてしまいかねないことはしないことにしました。

 

リー・ジョーダンは(原作で)フレッドとジョージの仲間のいたずらっこです。『リー・ジョーダン』という名前はマグル生まれのようなひびきで、ハリーが知っていそうな曲をフレッドとジョージがリーからおそわることもできただろうという気がしました。このことが一部の読者にはあまり明白でなかったようです。

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコはスリザリンになった。ハリーは小さく安堵のためいきをついた。確実なことのように()()()()()が、どんなわずかなできごとが全体計画をくるわせる原因になるかわかったものじゃない。

 

『P』の番がちかづいてくる……

 

グリフィンドールのテーブルのほうには、ささやき声の会話があった。

 

「気にいってくれなかったらどうする?」

 

「気にいらないなんて言わせるかよ——」

 

「——あんないたずらをしてくれちゃって——」

 

「——やられたのはネヴィル・ロングボトムだったっけ——」

 

「——いまの彼はおなじくらい標的としてうってつけだ。」

 

「よし。自分のパートをわすれるなよ。」

 

「リハーサルは十分したしな——」

 

「——この三時間ずっと。」

 

そして〈主テーブル〉の演説台にたつミネルヴァ・マクゴナガルは、リストに目をおとし次の名前をみた。()()()()()()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()()()()() どうかグリフィンドールにはしないで……彼女はふかく息をすい、読みあげた:

 

「ポッター、ハリー!」

 

急に大広間がしずまり、ささやき声の会話がすべてとまった。

 

その静寂をやぶったのは、音楽をとことんばかにするような変調と転調のしかたの、ひどいブーブー音だった。

 

ミネルヴァはぐいっとくびを回転させ、ショックを受けた。ブーブー音はグリフィンドールのテーブルの方向からきている。〈あの二人〉が()()()()()()()()()()、小さな器具かなにかをくちにつけて吹いている。彼女は手を杖におとし、〈あの二人〉に黙声(シレンシオ)をかけようとしたが、もうひとつの音にとめられた。

 

ダンブルドアがくすくすと笑っている。

 

ミネルヴァの目はハリー・ポッターにもどった。彼は列からでたばかりのところで、つまづいてとまっていた。

 

少年はまた歩きだした。なでるようなおかしなやりかたで足をうごかし、腕を前後にゆらして、〈あの二人〉の音楽にあわせて指をならしながら。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(演奏はフレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリーのカズー

歌はリー・ジョーダン)

 

 

〈闇の王〉がちかくにいる?

心配は無用

だれを呼ぼう?

 

()()()()()()()()!」とリー・ジョーダンが声をはりあげ、双子ウィーズリーが勝者のコーラスをした。

 

〈死の呪い〉でも?

なんとか大丈夫

だれを呼ぼう?

 

「ハリー・ポッター!」今度はもっとたくさんの声がさけんでいた。

 

〈ウィーズリーの悪夢〉はうなるような音をだしはじめ、年長のマグル生まれ何人かも小さな器具をつくりだして伴奏にはいった。おそらく〈転成術〉で銀の食器からつくったものだ。音楽が最低潮(アンチクライマックス)に達したところで、ハリー・ポッターはこうさけんだ:

 

〈闇の王〉なんかこわくない!

 

とりわけグリフィンドールのテーブルからは歓声があがり、さらに多くの生徒が反楽器をつくりだした。不快なブーブー音の音量は倍増し、いやなクレシェンドへとかさなっていった:

 

〈闇の王〉なんかこわくない!

 

ミネルヴァは〈主テーブル〉の両がわを一瞥した。みるのもこわいが、どんな様子になっているかは十分想像できた。

 

トレロウニーは必死に自分をあおっている。フィリウスはおもしろそうにみている。ハグリッドは音楽にあわせて拍手している。スプラウトは深刻そうにしている。クィレルは皮肉っぽくたのしむ表情であの子をみつめている。すぐ左どなりのダンブルドアはハミングで音にあわせている。すぐ右どなりのスネイプはワインの杯をにぎって拳を強くかためていて、その強さに銀の素材がゆっくりと変形しはじめている。

 

黒のローブとマスク?

無理難題?

だれを呼ぼう?

ハリー・ポッター!

 

巨大火猿?

マント姿のコウモリ?

だれを呼ぼう?

ハリー・ポッター!

 

ミネルヴァのくちびるがきつくむすばれた。あの歌の最後の部分について〈あの二人〉には説教が必要だ。まだ学校の一日目でグリフィンドールには減点すべき点がそもそもないからなにもできないだろう、とたかをくくっているのかもしれないが。居残り作業でもこりないなら、なにか別のものをさがしておこう。

 

そこで、ミネルヴァは急に恐怖にあえいで、スネイプの方向をみた。いまのがだれのことを言っているかをハリーは知らないはずだということに、まずまちがいなくスネイプは気づいたはず——

 

スネイプの表情は怒りからここちよい無関心の一種にかわっていた。かすかな笑みがくちびるにのぞいている。グリフィンドールのテーブルではなくハリー・ポッターの方向をみて、ワインの杯だったものの残骸を手ににぎっている。

 

そしてハリーはゴーストバスターズのダンスのなでるようなうごきで腕と足をうごかして、笑みを維持したまま、まえにすすんだ。完全に不意をつかれたが、これはいい仕掛けだ。だいなしにしないように、せめて乗せられてあげたい。

 

みんなは歓声をあげている。ハリーはこころがあたたかくなると同時に多少不愉快になっていた。

 

彼が一歳のときにした仕事についてみんなは歓声をあげている。実際には終わっていない仕事について。どこかで、どうにかして、〈闇の王〉は生きている。それを知っていたら、彼らはあれほど拍手しただろうか?

 

だが、〈闇の王〉のちからは一度くだかれた。

 

そしてハリーは彼らをもう一度まもるだろう。もし予言が実際にあってそういうことを言っていたとしたら。いや、予言がなかろうが予言がなにを言っていようがおなじだ。

 

この全員が自分を信じて応援してくれている。ハリーはそれをうそにしてはいられない。おおくの神童とおなじように閃光のようにちっていくこと。がっかりさせること。()()()()()()はともかくとして〈光〉の象徴として評判になっているのにみあうだけの実績がだせないこと。絶対に、なんとしてでも、どれほどの時間がかかろうと、もし死ぬことになっても、その期待をかえしてみせる。その期待を()()()()()()みせる。そして、なぜあの程度しか期待しなかったのだろうかと思われるようにしたい。

 

それで、韻がよくあっていてこの歌にうってつけだったので、ハリーはこの即興のうそをさけんだ:

 

〈闇の王〉なんかこわくない!

〈闇の王〉なんかこわくない!

 

ハリーは〈組わけ帽子〉までの最後の数歩をあるいた。グリフィンドールのテーブルにいる〈混沌の騎士団〉に一礼し、大広間の反対側にもう一礼し、拍手と笑いがおさまるのを待った……

 

オマケファイルその三:『自己の認識』の別の結末案いくつかどんなことが『起きるのははじめて』なのかを予想した人に結末を教えてあげますと言ったところ、おもしろい試みが()()()()でてきました。下記の最初のオマケはわたしが個人的に気にいったMeteoricshipyardsさんの回答から直接とったものです。二番目はKazumaさんの案、三番目はyoyoenteさんとdougal74さんの案の組み合わせ、四番目はwolf550eさんのレヴューからとったものです。「K」ではじまるものとそのひとつうえのものはDarkHeart81さんのものです。ほかはわたしのものです。わたしのアイデアはどれも、とくに最後のは、さらに話をつづけて執筆するのに使ってくれてかまいません。百件のクレームがつくまえに言っておくと、イギリスの立法機関の名前が〈ハウス・オヴ・コモンズ〉であることはちゃんと知っています。

 

◆ ◆ ◆

 

こころのかたすみで、ハリーは〈組わけ帽子〉には()()があるのだろうか、と思った。つまり、自我を認識しているという意味で。もしそうなら、一年に一度、十一歳の一群にしゃべるだけで満足しているのだろうか。〈帽子〉のあの歌をきくかぎりは、そのようだ。『ぼくは〈組わけ帽子〉、一年眠って一日働く、気楽なものさ』……

 

講堂に静寂がもどると、ハリーは椅子に座り、その八百年もののテレパシー能力つきの失われた魔術の遺物を()()()あたまにのせた。

 

懸命にこう考えながら。まだ組わけはしないで! 質問したいことがあるんです! ぼくは〈忘消〉(オブリヴィエイト)されたことがありますか? もしこどものころの〈闇の王〉を〈組わけ〉したのなら彼の弱点を教えてくれませんか? 〈闇の王〉の杖の弟がぼくの手にわたったのはなぜですか? 〈闇の王〉の幽霊がぼくの傷あとにやどっているんですか? だからぼくはときどき怒りをおぼえるんですか? とくに重要な質問はここまでですが、もし時間があったらあなたをつくった失われた魔術をどうすれば再発見できそうかも教えてもらいたいです。

 

そして〈組わけ帽子〉は回答した。「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」 そして大声で「レイヴンクロー!」

 

◆ ◆ ◆

 

「おやおや。こんなことが起きるのははじめてだ……」

 

は?

 

「きみのシャンプーはぼくの肌にあわないらしい——」

 

〈組わけ帽子〉は「ハクション!」と大声でくしゃみをし、その音が大広間にひびきわたった。

 

「さて!」ダンブルドアがうれしそうに声をはりあげた。「ハリー・ポッターは新寮ハクションに組わけされたようじゃ。マクゴナガル、きみはハクション寮監になりなさい。ハクションの時間割と授業の作成をいそいでもらいたい。明日が一日目なのだから。」

 

「でも、でも、でも……」とマクゴナガルは口ごもった。あたまのなかがほとんど完全な混乱状態になっている。「グリフィンドール寮監はだれが?」 思いついたのはそれだけだった。なんとかしてこれを止めなければ……

 

ダンブルドアはほおに指をあてて、思案する風になった。「スネイプじゃ。」

 

スネイプの抗議の悲鳴はマクゴナガルのそれをかきけすほどだった。「では()()()()()寮監はだれが?」

 

「ハグリッドじゃ。」

 

◆ ◆ ◆

 

まだ組わけはしないで! 質問したいことがあるんです! ぼくは〈忘消〉(オブリヴィエイト)されたことがありますか? もしこどものころの〈闇の王〉を〈組わけ〉したのなら彼の弱点を教えてくれませんか? 〈闇の王〉の杖の弟がぼくの手にわたったのはなぜですか? 〈闇の王〉の幽霊がぼくの傷あとにやどっているんですか? だからぼくはときどき怒りをおぼえるんですか? とくに重要な質問はここまでですが、もし時間があったらあなたをつくった失われた魔術をどうすれば再発見できそうかも教えてもらいたいです。

 

みじかい沈黙があった。

 

もしもし? もう一度言いましょうか?

 

〈組わけ帽子〉は大広間にひびきわたるひどく甲高い音をだし、生徒たちのほとんどが両手を耳にあてた。絶望的な遠ぼえをしながら、帽子はハリー・ポッターのあたまからとびおりて、床のうえをとびはね、つばではいながら〈主テーブル〉までいく途中で、爆発した。

 

◆ ◆ ◆

 

スリザリン!」

 

ハリー・ポッターの顔に浮かんだ恐怖の表情をみて、フレッド・ウィーズリーは人生最速のはやさで考えた。まっすぐに杖をとりだし、ささやき声で「〈沈黙(シレンシオ)〉!」と言い、さらに「コエカエロ」、「〈腹話(ヴェントリロクォ)〉」と言った。

 

「冗談さ!」とフレッド・ウィーズリー。「グリフィンドール!」

 

◆ ◆ ◆

 

「おやおや。こんなことが起きるのははじめてだ……」

 

え?

 

「ふだんならそういう質問は総長にまわすし、彼がこちらに返したければ質問し返すこともある。だがきみのもとめる情報の一部は、きみの現在のユーザーレヴェルばかりか総長のユーザーレヴェルも超えている。」

 

どうやればユーザーレヴェルをあげられる?

 

「申し訳ないが、その質問にはきみの現在のユーザーレヴェルではお答えできない。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ある?

 

そこからあまり時間がたたないうちに——

 

ルート!」〔訳注:UNIXの上位ユーザーレヴェル〕

 

◆ ◆ ◆

 

「おやおや。こんなことが起きるのははじめてだ……」

 

え?

 

「生徒が母親になったとつたえないといけないことは何度かあったが——そのときみえた思考は悲痛なものだった——だれかが父親になったとつたえるのははじめてのことだ。」

 

は?

 

「ドラコ・マルフォイがきみの子を妊娠している。」

 

はああああ?

 

「くりかえす。ドラコ・マルフォイがきみの子を妊娠している。」

 

でもぼくたちはまだ十一歳で——

 

「ドラコ・マルフォイは実は十三歳だ。」

 

で、でも男は妊娠できない——

 

「そして服を脱がせれば女の子だ。」

 

でもぼくたちはセックスしてないだろ!

 

ばかだな、きみはレイプされて〈忘消〉(オブリヴィエイト)されたんだよ!

 

ハリー・ポッターは卒倒した。意識不明になった体が椅子から落ち、どしんと音をたてた。

 

レイヴンクロー!」と彼のあたまのうえにおかれたままの〈帽子〉がさけんだ。最初の思いつきよりも笑える結末だった。

 

◆ ◆ ◆

 

エルフ!」

 

ん? ドラコは『ハウスエルフ』についてなにか言っていたな。でも結局どういう意味だったんだ?

 

周囲のかおにあらわれてきた愕然とした表情から判断すると、いいことではなさそうだ——

 

◆ ◆ ◆

 

パンケーキ!」〔訳注:菓子店チェーンのパンケーキハウス? 〕

 

◆ ◆ ◆

 

リプレゼンタティヴス!」〔訳注:ハウス・オヴ・リプレゼンタティヴス=下院〕

 

◆ ◆ ◆

 

「おやおや。こんなことが起きるのははじめてだ……」

 

え?

 

「ゴドリック・グリフィンドールサラザール・スリザリンナルトの転生者を〈組わけ〉するのはこれがはじめてだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

アトレイデ!」〔訳注:『デューン/砂の惑星』〕

 

◆ ◆ ◆

 

「いまのも冗談! ハッフルパフスリザリンハッフルパフ!」

 

◆ ◆ ◆

 

「〈イチゴのピクルス〉!」〔訳注:謎〕

 

◆ ◆ ◆

 

「〈カーーーン〉!」〔訳注:スタートレック? 〕

 

◆ ◆ ◆

 

〈主テーブル〉でダンブルドアは温和そうなほほえみをつづけた。スネイプの方向から、ワインの銀杯のなれのはてを所在なげにたたもうとする金属音がした。ミネルヴァ・マクゴナガルは手を白くなるまでかためて演台をにぎっていた。彼女はハリー・ポッターの感染する混沌がどうにかして〈組わけ帽子〉にもおよんだということを知っていた。

 

いくつものシナリオがつぎつぎと、段々悪化する順序で、ミネルヴァのあたまのなかをかけぬけた。〈帽子〉はハリーが各〈寮〉に平等に属していて〈組わけ〉できないと言って全部に所属させるのではないか。〈帽子〉はハリーのあたまのなかが奇妙すぎて〈組わけ〉ができないと宣言するのではないか。〈帽子〉はハリーをホグウォーツから退学させろと主張するのではないか。〈帽子〉は昏睡状態におちいったのではないか。〈帽子〉はハリー・ポッターのためだけにあたらしく〈破滅の寮〉をつくれと言うのではないか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……

 

ミネルヴァはダイアゴン小路での破滅的な買い物の際にハリーから教えられたことを思いだした。たしか計画錯誤……ひとは楽観的すぎるということ、自分は悲観的だと思っているときでさえそうだということ。その種の情報が、彼女のあたまのなかを食いあらし、住みつき、悪夢をまきちらしていた……

 

でもおこりうる()()のことはなにか?

 

それは……()()()()()()()では、〈帽子〉がハリーを新設の〈寮〉にわりあてる。ダンブルドアが彼女にそれを——ハリーのための〈寮〉をあたらしくつくる作業を——やらせようとする、そしてこの学期一日目の時間割を再調整しなければらならくなる。ダンブルドアはグリフィンドール寮監から彼女を解任し、彼女の愛する〈寮〉を……〈史学〉の幽霊、ビンズ先生にわたす。彼女はハリーの〈破滅寮〉寮監にさせられる。そしてあの子に命令をするという無益なこころみをし、効果がないのに得点をつぎつぎに減点し、つぎつぎにおこる災厄が彼女のせいにされる。

 

それが最悪のシナリオか?

 

ミネルヴァは正直に言ってそれ以上わるくなる状況が思いつかなかった。

 

この最悪の場合さえ——ハリーに()()()おころうと——七年で終わる。

 

ミネルヴァは演台をにぎるこぶしがゆるまるのを感じた。ハリーはただしかった。闇の最深部を直視し、自分はすでに最悪の恐怖に対面していて、準備ができていると思えることには一種の安心感がある。

 

おそろしい静寂が一言でやぶられた。

 

「総長!」と〈組わけ帽子〉がさけんだ。

 

〈主テーブル〉でダンブルドアがたちあがった。怪訝な表情をみせ、〈帽子〉にむかって答える。「はい、なにか?」

 

「いまのは呼びかけではない。」と〈帽子〉。「ハリー・ポッターの〈組わけ〉先だ。ホグウォーツでもっとも彼にふさわしい場所、つまり総長室へ——」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「転生者」
オリジナルのキャラが作品知識ありで転生してきたり、他作品のキャラが転生してきたりという設定は英語の二次創作でもよくある。


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12章「衝動制御」

()()()はどうかしたのかな。」

 

◆ ◆ ◆

 

「ターピン、リサ!」

 

ヒソヒソヒソ…ハリー・ポッターが…ヒソヒソ…スリザリン…ヒソヒソ…ほんとうだって…一体なにが…ヒソヒソ…

 

レイヴンクロー!」

 

その子がレイヴンクローのテーブルにおずおずとあるいてくるのをハリーはまわりにあわせて拍手でむかえた。そのローブの縁どりが群青色にかわる。リサ・ターピンはハリー・ポッターからできるだけ遠くに座ろうとする衝動と、そのとなりの席に割りこんで根掘り葉掘り話を聞こうとする衝動とのあいだで、ゆれているように見えた。

 

非日常的で興味深いできごとの中心にいたあとでレイヴンクローに〈組わけ〉されるというのは、バーベキューソースにつけられたあとで飢えた子猫の穴にほうりこまれるのに酷似している。

 

「だれにも言わないって〈組わけ帽子〉に約束したんだ。」とハリーは何度となく小声で言った。

 

「ほんとだって。」

 

「いや、ほんとにだれにも言わないって〈組わけ帽子〉に約束したんだ。」

 

「わかった。〈組わけ帽子〉に約束したのは()()()()()だれにも言わないことで、のこりの部分はぼくの()()()()()()()だ。きみだってそうだろう。だから()()()()()()()()。」

 

「なにがおきたか知りたい? わかった。その一部はこれ!〈帽子〉を火にかけるというマクゴナガル先生のおどしを〈帽子〉につたえたら、邪魔をするな生意気な小娘という伝言をマクゴナガル先生につたえさせられたんだよ!」

 

「ぼくの言うことを信じないなら、そもそもなぜ質問するんだ?」

 

「いや、ぼくがどうやって〈闇の王〉をたおしたのかも知らない。わかったら教えてほしいくらいだ!」

 

()()()!」とマクゴナガル先生が〈主テーブル〉の演台で声をはりあげた。「〈組わけの儀式〉が終わるまで私語はつつしむように!」

 

マクゴナガル先生はなにか具体的でもっともらしいおどしをしようとするのだろうか、と見きわめようとするあいだ、あたりの音量はしばらくさがったが、やがてささやき声は再開した。

 

つぎに銀色のひげをした老人が立派な金色の椅子から立ちあがった。ほがらかな笑みをしている。

 

すぐさまあたりがしずまった。ハリーがささやき声で話しつづけようとすると、だれかがひじでつつき、ハリーは文の途中で言いやめた。

 

老人はほがらかなまま、また座った。

 

自分へのメモ:ダンブルドアにちょっかいをだすな。

 

ハリーはまだ〈組わけ帽子事件〉のあいだのできごとすべてを咀嚼しようとしていた。とりわけハリーがあたまから〈帽子〉をはずした瞬間におきたことのことを。あの瞬間、どこからでもない場所から聞こえてくるような、小さな、妙に英語っぽいようでいて同時にシューシューという音のような、ささやきが聞こえたのだ。「すりざりんカラ すりざりんヘノ アイサツ:ワガ 秘密ヲ 知リタケレバ、ワガ 蛇ニ キケ

 

ハリーはこれは公式な〈組わけ〉手順の一部ではないのではないか、となんとなく推測した。〈帽子〉の製作中にサラザール・スリザリンがちょっとした魔法をかけたのではないか。〈帽子〉自身もそのことを知らなかったのではないか。帽子が『スリザリン』と言うなど、いくつかの条件があえば起動する魔法なのではないか。自分のようなレイヴンクローは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のではないか。もし秘密を口外しないとドラコにちかわせる信頼度のたかい方法がみつかったら、彼にきけばいいのではないか。コメッティーを活躍させる最高の機会なのではないか。

 

〈闇の王〉への道をあゆまないと決心したかと思ったら、〈帽子〉をあたまからはずした瞬間に宇宙からちょっかいをだされる。運命にさからうのは損なこともある。〈闇の王〉にならないという決心はあしたまで延期したほうがいいかもしれない。

 

グリフィンドール!」

 

ロン・ウィーズリーは拍手を()()()()もらった。しかもグリフィンドールからだけではなかった。どうやらウィーズリー家はここではひろく好かれているようだ。ハリーは一瞬遅れて、笑みをうかべてほかの人にあわせて拍手をしはじめた。

 

そうは言っても、ダークサイドに背をむけるのうってつけの日ではある。

 

運命も宇宙も知るか。〈帽子〉よ、見てろ。

 

「ザビニ、ブレイズ!」

 

沈黙。

 

スリザリン!」と帽子がさけんだ。

 

ハリーはザビニにも拍手をした。ザビニ自身をふくむ全員から怪訝そうな表情をむけられたが、意に介さずという態度をつらぬいた。

 

そのあとに呼ばれる名前がなかったので、『ザビニ、ブレイズ』はたしかにアルファベットの最後のほうだろうな、とハリーは気づいた。やったね。ということは自分はザビニ()()()拍手をしたことになる……あーあ。

 

ダンブルドアはまた立ちあがり演台へむかいはじめた。どうやらこれから演説がはじまるようだ——

 

ハリーはその瞬間、()()()実験的テストをひらめいた。

 

ハーマイオニーによれば、ダンブルドアは当代最強の魔法使い、だったはず。

 

ハリーはポーチに手をやり、小声で言った。「コメッティー。」

 

コメッティーがちゃんと機能するとすれば、ダンブルドアはなにか()()()、現在のハリーのこころの準備を()()()()()()()むせてしまうほどに、ばかげたことを言うことになる。たとえば、全ホグウォーツ生は今年一年服をきてはいけないとか、全員がネコに変身させられるとか。

 

といっても、もし()()()()()()()()コメッティーのちからに抵抗できる人がいたとすれば、それはダンブルドアだ。つまりこれがうまくいけば、コメッティーは文字どおり()()だということだ。

 

ハリーはすこし目立たないように、コメッティーの輪っかをテーブルのしたで引いた。缶は小さなシューシュー音をだした。何人かがくびをちらにむけたが、すぐにもどし、そこで——

 

「ようこそ! ホグウォーツでの一年へようこそ!」とダンブルドアが言った。両腕をひろげて、まるで生徒たちをここでこうやって見ることがなによりの楽しみであるかのように、にこやかな笑みをみせている。

 

ハリーはコメッティーの最初のひと口をふくみ、缶をおろした。ダンブルドアが()()()言おうがむせないよう、これから一度にすこしずつ飲みこむことにしよう——

 

「うたげのまえに、ひとこと言わせてもらいたい。それでは。ハッピー、ハッピー、ブーン、ブーン、スウォンプ、スウォンプ、スウォンプ! 以上!」

 

全員が拍手喝采し、ダンブルドアは席に腰をおろした。

 

ハリーは口のはしからジュースをこぼれさせながら、凍りついた。すくなくとも、()()()()むせることはなんとかできた。

 

こんなことはほんとうに()()()()()ほんとうにするべきじゃなかった。()()()()になってから()()()になるといかに()()()()()()()()ことか。

 

ふりかえれば、おそらく、全員がネコに変身させられると考えたときになにかがおかしいと気づくべきだった……あるいはそのまえの、ダンブルドアにちょっかいをだすな、というこころのなかのメモをおもいだすべきだった……あるいは他人の気持ちを尊重するという自分のあたらしい決心を……あるいは自分に()()()()()()()()でも()()があれば……

 

どうしようもない。自分は骨の髄までくさっている。〈闇の王〉ハリー万歳。運命にはさからえない。

 

だれかがハリーに大丈夫かと声をかけた。(ほかのひとたちは食べ物をとりわけはじめていた。食べ物は魔法によってテーブルに出現していた。どうでもいいが。)

 

「大丈夫です。」とハリー。「すみません。えっと。さっきのは……総長のスピーチとしては()()でしたか? みんな……あまり……おどろいていないような……」

 

「ああ、もちろん、ダンブルドアはあたまがおかしいのさ。」と、となりに座っていた年上らしいレイヴンクロー生が言う。自己紹介はしてもらっていたが名前をちっとも思いだせない。「おもしろい人で、非常に強い魔法使いだけど、完全な狂人だ。」そこで言葉を切る。「きみのくちびるから緑色の液体がなぜこぼれてから消えたのかについて、いつかそのうちにきかせてほしい。きっと、それも秘密にすると〈組わけ帽子〉に約束したんだろうけど。」

 

ハリーはかなりの努力をして、その犯人であるコメッティーの缶に視線をおとすのを思いとどまった。

 

けっきょく、コメッティはあのとき、ハリーとドラコについてのクィブラーの見出しを勝手に()()()したのではなかった。ドラコの説明では、あれはごく……自然におこることのようにきこえなかったか。まるでそれに()()()()()()()()()()()()かのように。

 

ハリーはこころのなかでテーブルにあたまをうちつける自分を想像した。こころのなかで、あたまがウォンウォンウォンと鳴った。

 

別の生徒が声量をささやき声にまでおとして言った。「ダンブルドアは裏では人をあやつる天才で、いろんなことを操作していて、あの狂気はあやしまれないようにするための偽装なんだそうだ。」

 

「それはぼくもきいた。」と第三の生徒がささやくと、テーブルの一帯がひそやかにうなづきあった。

 

ハリーはこれにおもわず注意をうばわれた。

 

「ということは、」とハリーも声量をおとしてささやく。「つまりダンブルドアが裏で人をあやつっているとだれもが知っていると。」

 

その場の生徒の大半がうなづいた。ハリーのとなりの年上の生徒をふくむ一人か二人は急に思案するような顔になった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と口にだすのをハリーはなんとか思いとどまった。

 

「なるほど!」とハリーがささやく。「だれもが知っているなら、だれにも秘密だとあやしまれないね!」

 

「そのとおり。」と生徒の一人がささやいたが、眉をひそめた。「いや、なにか変だな——」

 

自分へのメモ:七十五パーセンタイルまでのホグウォーツ生の集団、すなわちレイヴンクロー寮は、世界有数の天才児教育プログラムではない。

 

だがすくなくともハリーは今日重要な事実をまなんだ。コメッティーは万能である。()()が意味するのは……

 

ハリーは自分のあたまがこの見えすいたつながりにようやく気づいたことにおどろき、目をしばたたかせた。

 

……()()が意味するのは、自分のユーモアの感覚を一時的に変える呪文を身につけた時点で、自分は()()()()()()()おこせるようになるということだ。ただ、()()()()()()()()だけが自分にとって()()()()ふきだす程度におどろくようにおもえるようにしておいて、それからコメッティーを一杯飲めばいい。

 

ずいぶんはやく神の領域にたどりつけたものだ。いくらぼくでも、学校一日目よりはあとになるだろうと思っていた。

 

考えてみると、〈組わけ〉されてからわずか十分以内にホグウォーツを完全に台無しにしてしまったばかりでもある。

 

ハリーはそのことについては一定の後悔を感じてはいた——つぎの七年間の学校生活で、狂った総長からなにをされることかはマーリンのみぞ知る——が、かすかな誇らしさも感じずには()()()()()()()

 

明日だ。おそくとも明日までには〈闇の王〉ハリーにむかう道をすすむのはやめる。刻一刻とその展望がおそろしくきこえるようになってきた。

 

なのに同時に、なぜか魅力もましてきていた。こころのかたすみですでに手下の制服をイメージしてさえいる。

 

「食べろ。」ととなりの年上の生徒がうなり、ハリーのわきばらをつついた。「考えるな。食べろ。」

 

ハリーは無意識に、とにかく自分のまえにあるものを皿によそった。光る粒いりの青いソーセージだろうがなんだろうが。

 

「あの〈組わけ〉のとき、あなたはなにを考えて——」とパドマ・パティルが言いかけた。レイヴンクロー一年生の一人だ。

 

「食事中に質問はなし!」とすくなくとも三人が唱和した。「寮の規則だ。」と別の一人が言う。「そうしないと全員飢え死にするはめになる。」

 

ハリーは自分がさっきの巧妙な発想が()()()うまくいかないことを心底祈っていることに気づいた。コメッティーは()()()は現実を改変する万能のちからではなくてなにか別のやりかたで機能していてほしい。万能に()()()()()()わけではない。ただ、そのように機能する宇宙に自分が住むということが考えられないのだ。炭酸ジュースを巧妙につかうことによって昇格するというのはどこか()()()だ。

 

だが実験的にテストするつもりは()()

 

「そうだな。」ととなりの年上の生徒が愉快そうに言う。「きみみたいな人を強制的に食事させる方法だってある。どういう方法か知りたいか?」

 

ハリーはあきらめて青いソーセージを食べはじめた。けっこうおいしい。とくに光るつぶがいい。

 

夕食はおどろくほどのはやさで終わった。ハリーは目のまえの奇妙な食べ物すべてをせめて少量ずつは試食しようとした。好奇心ゆえ、なにかの味を()()()()()()でいるということは想像できない。これがひとつのものだけが注文できて、メニューにあるほかのすべてのものの味を知らないままでいなければならないレストランではなくてたすかった。ハリーはあれが()()だった。ほんのすこしでも好奇心のある人にとってはあれは拷問のようなものだ。ここにならんだ謎のうち一つだけを解いてみろ! ハハハハ!——みたいな。

 

そしてデザートの番になったが、ハリーは余力をのこすのを完全にわすれてしまっていた。彼はトリークルタルトのひとかけを試食したところであきらめた。きっとこのどれも、この一年のあいだにすくなくとももう一回はでてくるだろう。

 

さて学校で当然やることのほかに、やるべきことといえば?

 

やることその一:精神改変魔法を調査し、コメッティーをテストし、実際に万能になるための道すじを自分がみつけたのかどうかたしかめる。というより、手あたりしだいあらゆる精神魔法を調査する。精神は人類としてのぼくたちのちからの根源だ。精神に影響する魔法はすべてもっとも重要な魔法だ。

 

やることその二:というよりこれがその一でさっきのはその二だ。ホグウォーツ図書館とレイヴンクロー図書館の書棚をひととおりチェックし、つかいかたに慣れておき、全冊のせめてタイトルくらいは読んでおく。二巡目では、全冊の目次を読む。自分よりずっと記憶力のいいハーマイオニーと協力する。図書館間貸借システムがホグウォーツにあるかどうか調べ、ふたりが、特にハーマイオニーが、ほかの図書館にいけるかどうかも調べる。ほかの寮が内部に図書館をもっているなら、そこに合法的にもしくはこっそりと入る方法をみつける。

 

オプションその三・A:ハーマイオニーに口外しないよう誓わせ『スリザリン カラ スリザリン ヘノ アイサツ:ワガ 秘密ヲ シリタケレバ、ワガ 蛇ニ キケ』の調査をはじめる。問題点:これはかなり極秘っぽいし、ヒントがはいった本に偶然いきあたるのは、ずいぶんあとのことになるかもしれない。

 

やることその〇:そういうもの存在すると仮定してのことだが、情報検索呪文について調べてみる。図書館魔法は究極的には精神魔法ほど重要ではないが優先度がずっと高い。

 

オプションその三・B:ドラコ・マルフォイが秘密をまもるよう魔法的に強制するか呪文か、秘密をまもるとドラコが約束したときにそのことを魔法的に検証する方法(〈真実薬〉? )をさがす。そして彼に()()()()()()()()()()()()()()()()()……

 

正直に言って……オプション三・Bについてはかなりいやな予感がする。

 

考えてみれば、オプション三・Aについてもあまりいい予感はしない。

 

ハリーの思考はおそらくいまのところ人生最悪といえるあの時間、〈帽子〉のしたでのあの長い恐怖の数十秒間にまいもどる。あのとき自分は失敗してしまったと思い、数分時間をまきもどして、手おくれになるまえになにかを変えたいと願った……

 

そして結局はさほど手おくれではなかったということがわかった。

 

願いはかなった。

 

歴史を変えることはできない。だが最初からただしくすることはできる。()()()()ちがうやりかたでやればいい。

 

スリザリンの秘密の解明に関するこのすべては……数年後になれば、ふりかえってみて「ものごとがおかしな方向にすすみはじめたのは()()()()だった。」と言いたくなりそうなことに見えてしかたがない。

 

そして時間をさかのぼってちがう選択をする能力があればと必死で願うのだ。

 

願いはかなった。さあどうする?

 

ハリーはゆっくりと笑みをうかべた。

 

どうも()()()()()()考えかただ……けれど……

 

でもそうすることは()()()。していけない理由はない。つまり、あのささやき声をそもそも聞かなかったことにすることは()()()。あの決定的な瞬間がおこらなかったかのようにして、宇宙をそのままあゆませつづければいい。二十年後の自分は、二十年前にそうであったならと願うだろう。そして二十年後の二十年前はいまなのだ。遠い過去を改変するのは簡単だ。そのぶんだけ先まわりして考えればいいだけだ。

 

あるいは……これは()()()直観的でないが……このことを、ドラコ()ハーマイオニーではなく、そうだな、たとえば()()()()()()()()あたりに知らせてもいい。そうして有能な人を何人かあつめてもらって、あの呪文の小細工を〈帽子〉からとりのぞいてもらうことができる。

 

おっと、これは。これはひとたび()()()みると()()()()妙案のように思えた。

 

あとから考えるとあたりまえの案だが、なぜかさっきは、オプション三・Cとオプション三・Dをまったく思いつかなかった。

 

ハリーは対〈闇の王〉ハリー計画に成功した自分にプラス一点を進呈した。

 

〈帽子〉がしかけたいたずらは非常に残酷だったが、帰結主義的な観点からみた成果には反論できない。たしかに被害者の視点が以前よりよくわかるようになった。

 

やることその四:ネヴィル・ロングボトムに謝罪する。

 

よし。いい感じだ。この調子でいこう。『日々あらゆる面でぼくはますます〈光〉のがわにひきよせられていく』……〔訳注:エミール・クーエの自己暗示法〕

 

この時点でハリーのまわりはほとんど食べるのをやめていた。デザートの器と、使用ずみの皿が消えはじめた。

 

すべての皿がなくなると、ダンブルドアがまた席から立ちあがった。

 

ハリーはコメッティーをもう一杯のみたくなる衝動を感じずにはいられなかった。

 

冗談はやめてくれ——とハリーは自分のその部分にむけて思考した。

 

でも実験は再現しないかぎり意味がないだろう? 損害はすでにだしてしまっただろう? ()()()どうなるかみたくないか? それに()()はないか? ちがう結果になったりしたらどうする?

 

やあ。きっときみはネヴィル・ロングボトムへのいたずらをやらせた部分のぼくの脳とおなじやつだな。

 

うーん、そうかもしれないけど?

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということが、どうしようもなく()()()()()()()()()()()

 

うーん……

 

うん。じゃあ、なしね。

 

「オホン。」とダンブルドアは演台にたって言い、銀色のながいひげをなでた。 「みながたっぷり食べて飲んだところで、もう一言。学期のはじまりにあたって、諸君にいくつか告知がある。」

 

「どの生徒も校内の森へ立ち入りは禁じられている。このことを一年生はおぼえておくように。 だからこそ〈禁断の森〉とよばれているのであって、もし許されているなら〈許容の森〉という名前になっているところじゃ。」

 

そのまんまだ。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「もうひとつ、管理人ミスター・フィルチからの伝言で、授業と授業のあいだは廊下で魔法をつかうべきではないとこころしてもらいたい。残念ながら、『どうすべきか』と『どうであるか』とがふたつのことなる概念であることは周知のとおり。このことはどうか忘れぬようにしてもらいたい。」

 

えっ……

 

「クィディッチ選手の選考会はこの学期の第二週におこなわれる。自分の寮のチームに参加したい者はマダム・フーチに連絡しなさい。クィディッチのすべてを改革したい者はハリー・ポッターに連絡しなさい。」

 

自分のつばをのみこんでしまってせきこんだところで、ハリーに全員の目がむけられた。 ()()()()どうやって! ダンブルドアと一度も目はあわせていない……と()()。 そのときにもクィディッチのことを考えていなかったのはまちがいない! このことはロン・ウィーズリー以外のだれにも話していないし、ロンがほかのだれかに話すとも思えない……いや、ロンが先生のだれかにかけこんで報告したとか? ほんとうに()()()()()……

 

「さらに今年はもう一点言っておかなければならない。三階の右通廊は、痛いたしい死をむかえたい者以外は立ち入り禁止じゃ。この通廊には複雑で危険で命にかかわりうる罠がしかけられており、とくにまだ一年生の諸君は、とおりぬけられるのぞみはない。」

 

ハリーはこの時点で感覚が麻痺していた。

 

「そして最後に、クィリナス・クィレルが勇敢にもホグウォーツで〈闇の魔術に対する防衛術〉を教えることに同意してくれたことにこころから感謝する。」ダンブルドアの視線がするどく生徒全体をみわたした。「生徒諸君はこの特別な奉仕をしてくださるクィレル先生に対して、礼儀ただしく()()()接してもらいたい。先生に関する()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ようにしてもらいたい。()()()彼のかわりに仕事をしようと言うのでないかぎりは。」

 

いまのは何が言いたいんだ?

 

「それでは着任したクィレル先生から一言あるそうなので、発言の機会をゆずる。」

 

〈リーキー・コルドロン〉でハリーがはじめて目にした、わかい、やせた、神経質そうな男が、ゆっくりと演台にむかって、おびえたように全方向をみまわしながらあるいていった。ハリーが後頭部をちらりとみたところ、クィレル先生は一見わかそうに見えるのに、もうはげはじめているようだった。

 

()()()はどうかしたのかな。」とハリーのとなりの年上らしい生徒がささやいた。テーブルのまわりのほかの場所でも、おなじような意見が小声でかわされた。

 

クィレル先生は演台にたどりつき、目をしばたたかせながらそこにたった。「えー……。えー……」 クィレル先生は勇気がすっかりくじけてしまったようで、ときどきびくりとしながら彼は沈黙したままそこにたった。

 

「こりゃあいい。」と年上の生徒がささやく。「どうやらまた()()()一年の〈防衛術〉の授業になりそうだ——」

 

「少年少女生徒諸君、こんにちは。」クィレル先生がかわいた、自信にみちた口調で言う。「みな知っているように、この職に応募した者に関してホグウォーツはとある()()にみまわれている。今年のわたしにどんな破滅がやってくるのだろうと考えている諸君もおおいだろう。その破滅がわたしの無能さではないことは保証しよう。」彼はかすかに笑った。「信じられないかもしれないが、わたしは長年、ここホグウォーツ魔術学校で一度〈闇の魔術に対する防衛術〉教授をつとめたいと願ってきた。この授業を最初にうけもったのはサラザール・スリザリンそのひとだ。おそくとも十四世紀には、あらゆる流派の偉大な魔法戦士がこの教育職をつとめておくことがひとつの慣例になっていた。過去の〈防衛術〉教授には伝説的な流浪の英雄ハロルド・シェイだけでなく(引用)不死(引用終わり)のバーバ・ヤーガもいる。ああ、死後六百年がたってもいまだに諸君のなかにはその名前にみぶるいする者もいるようだ。あの時代はホグウォーツでまなぶのにはおもしろい時代だった。そう思わないか?」

 

ハリーはクィレル先生が話しはじめたときに自分をおそった突然の感情の波をおしこめようとして、ごくりとつばを飲みこんだ。その精密な口調は非常につよくオクスフォードの講師をおもわせた。そのことでハリーは痛感して、自分はクリスマスまで自宅もママもパパもみることができないということに気づいたのだった。

 

「諸君は〈防衛術〉教師が無能、ろくでなし、不運な人物であることに慣れている。歴史を知る者にとって、この職の評価はまったく異なる。ホグウォーツでこの職についた人物すべてがもっとも有能ではなかったが、もっとも有能な人物はすべてこの職についた。偉大な先人たちのあとをつぐため、そしてこの日をこれだけ待ちわびたからには、完璧といえる水準に達しなければわたしは自分を恥じるだろう。諸君全員が今年をいままでで()()()〈防衛術〉授業であったと記憶するようにするつもりだ。わたしのまえとあとの教師がだれであれ、今年諸君がまなぶことは〈防衛術〉のたしかな基礎として永遠に役立つだろう。」

 

クィレル先生の表情が真剣になった。「われわれはすでに()()()量の損失をこうむっている。一方でとりもどすための時間はあまりない。したがってわたしはホグウォーツでの教育の慣習からいろいろな点で逸脱するとともに、選択式の課外活動も導入するつもりだ。」彼は一旦話しやめた。「もしそれで不十分なら、諸君を動機づけるための新しい方法をみつけることもできる。諸君はわたしの待望の生徒だ。諸君は()()でわたしの待望の〈防衛術〉授業にいどむ()()()()()。ここで『もしひどく痛めつけられたくなければ』といったおそろしげな脅迫をつけくわえてもいいが、それでは陳腐すぎる。そう思わないか? わたしはもうすこし想像力のある男だと自負している。以上。」

 

すると活力と自信がクィレル先生から流れおちていくように見えた。まるで突然こころがまえのないまま観客のまえに立たされたかのようにして口をぽかんとあけ、痙攣(けいれん)して向きをかえ、足をひきずりながら席にもどった。そこでからだをまるめ、まるで自分のうえにたおれこんで内破してしまうかのようにした。

 

「あの人はすこし変だね。」とハリーがささやいた。

 

「いや……」と年上らしい生徒が言う。「あんなのまだまださ。」

 

ダンブルドアが演台にもどった。

 

「それでは就寝のまえに、この学校の校歌をうたう! 各自好きな音程と歌詞をえらんで、はじめ!」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「図書館間貸借システム」
利用者の申請に応じて、ある図書館に所蔵されていないが近隣の別の図書館に所蔵されている本を融通する制度。日本の場合、大学同士や地域内の図書館同士でやっているらしい。略称ILL。


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13章「間違った質問をする」

「これ以上自明ななぞなぞ(リドル)はきいたことがありません。」

 

◆ ◆ ◆

 

ホグウォーツで丸一日をすごすはじめての朝。ハリーは、レイヴンクロー一年生の共同寝室(ドミトリー)で目をあけてすぐに、なにかがおかしい、と気づいた。

 

しずかだ。

 

しずか()()()

 

いや、そうか……このベッドのヘッドボードには、〈音消(クワイエタス)魔法(チャーム)〉がかかっていて、ちいさなスライダーで調整できるんだった。レイヴンクローでの睡眠を可能にする唯一のしかけだ。

 

ハリーは半身を起こしてあたりを見まわした。ほかにも何人か起きてくるだろうと思う——

 

ドミトリーはからっぽだった。

 

ベッドはどれもしわくちゃで整えられていない。

 

日の光はかなり高い角度からはいってきている。

 

〈音消器〉は最大出力にまであがっている。

 

機械式時計はまだうごいているが、目覚ましが解除されている。

 

自分は午前九時五十二分までの睡眠を許されたようだ。ハリーは二十六時間の睡眠周期をホグウォーツへの到着に同期させようと努力はしてきたが、午前一時くらいになるまで寝つくことができなかった。ほかの生徒といっしょに午前七時に起きるつもりでいた。一日目に多少睡眠不足になってはしまうが、翌日までになんらかの魔法的な対応策ができていれば、やりすごすことはできるだろう、と思っていた。でももう朝食はのがしてしまったし、ホグウォーツでの最初の授業、〈薬草学〉は一時間二十二分前にはじまってしまっている。

 

ハリーのなかで怒りがゆっくりと、ゆっくりとめざめつつあった。ちょっとしたいたずら、か。目覚ましをとめて、〈音消器〉の目盛りをあげておく。 するとお偉いハリー・ポッターを最初の授業に欠席し、寝坊のとがめをうけることになる。

 

だれがこれをやったのか、分かったあかつきには……

 

いや、これはレイヴンクローのドミトリーの男子十二人全員が協力しないとできないことだ。全員が眠っているぼくを見た。全員が、朝食のあいだぼくを眠ったままにした。

 

怒りは流れさり、混乱とひどく傷つけられた感じにおきかわった。()()()()()()()()()()()のに。きのうの夜には、気にいってもらえていると思ったのに。()()……

 

ハリーがベッドからおりると、ヘッドボードから紙が一枚つきだしていた。

 

その紙にはこう書かれていた。

 

みんなへ

 

いろいろあって疲れたから今日はこのまま寝かせてほしい。朝食をとれないことは心配しないで。最初の授業の時間はちゃんと分かっているから。

 

ハリー・ポッターより

 

ハリーはその場で凍りついた。氷点下の水が血管にすこしずつながれこんできた。

 

紙の上にあるのはハリーのシャープペンシルで書かれた、ハリー自身の筆跡だ。

 

なのに書いた記憶がない。

 

そして……ハリーは目をほそめてその紙を見た。想像にすぎないかもしれないが、「忘れていない」という部分は、ほかと書きかたが違う。まるで自分自身になにかを伝えようとしているように……?

 

自分があとで〈忘消〉(オブリヴィエイト)されると分かっていてのことか? 自分は秘密の活動か犯罪かなにかをしていて遅くまで起きていて、そのあと……でもぼくは〈忘消〉(オブリヴィエイト)の呪文を知らない……だれかに頼んで……なにかを……

 

ハリーはあることに思いあたった。もし自分があとで〈忘消〉(オブリヴィエイト)されると分かっていたのなら……

 

パジャマのまま、ハリーはベッドからトランクにかけよって、鍵に親指をあて、ポーチをとりだして、手をそのなかにいれ、「自分へのメモ」と言った。

 

もう一枚の紙が手にのった。

 

ハリーはそれをとりだして、みつめた。これも自分の筆跡だ。

 

そのメモにはこうあった:

 

ぼくへ

 

このゲームに参加しなさい。これは人生で一度しか参加できないゲームだ。機会は二度とない。

 

認識コード九二七。ぼくはジャガイモだ。

 

ぼくより

 

ハリーはゆっくりとうなづいた。『認識コード九二七。ぼくはジャガイモだ。』はたしかに自分があらかじめ——数年まえ、テレビをみているあいだに——決めておいた、自分だけが知っているメッセージだ。自分の複製をほんとうの()()として認識しなければならないときのために。もしものときのために。そなえよ。

 

このメッセージを()()できるわけではない。ほかの呪文がかかわっているかもしれない。だがこれで、単純ないたずらの可能性はなくなった。これを書いたのはまちがいなく自分だし、そのことを覚えていないのもまちがいない。

 

その紙をみつめながら、裏がわからインクが透けてみえているのに気づいた。

 

ハリーはそれを裏がえした。

 

裏面にはこうあった:

 

このゲームについての指令:

 

このゲームのルールは不明

このゲームの賭け金は不明

このゲームの目標は不明

このゲームをだれが支配しているかは不明

このゲームを終える方法は不明

 

初期得点は100点。

はじめ。

 

ハリーはその『指令』をながめた。こちらがわは手書きではなく、完全に整った文字で書かれている。ということは人工物だ。 たとえば、書き起こしをするために買っておいたあの〈引用羽ペン〉のようなもので刻まれた文字のように見える。

 

なにが起きているのか、()()()()()()()()()

 

まあ……最初の一手は服をきて食事することだ。順序はその逆でもいい。わりと空腹感がある。

 

朝食はのがしてしまったのだが、こういうこともあろうかとハリーは〈そなえて〉ある。ハリーはポーチに手をいれ「スナックバー」と言い、ホグウォーツにむけて出発するまえに買っておいた固形シリアルの箱がでてくるのを期待した。

 

でてきたものは手ざわりからして固形シリアルの箱ではなかった。

 

視界のなかに手をもってくると、そこにあったのはキャンディーバー〔訳注:チョコレートなどがかかった棒状の菓子〕——食事としてはまったくものたりない——で、メモがついていた。ゲームの指令とおなじ筆跡だった。

 

その内容は……

 

試行失敗:1点減

現在の得点:99

身体状態:空腹のまま

精神状態:混乱中

 

「グ……ウゥ……」と、ハリーの口が意識的な操作や決定をいっさい通さずに言った。

 

ハリーはそのまま一分立ちすくんだ。

 

一分経過しても、やっぱり意味がわからないし、なにが起きているのかもさっぱりわからない。自分の脳はどんな()()をつかみとろうとする様子もない。まるでこころのなかの手がゴムボールでいっぱいの箱にいれられて、なにもつかめないかのようだ。

 

独自の優先順位をもつハリーの胃が、ある実験的検査の可能性を提案した。

 

「ええと……」とハリーはからっぽの部屋にむけて言った。「ここで一点消費することで固形シリアルの箱をかえしてもらえたりしないかな?」

 

かえってきたのは沈黙だけだった。

 

ハリーはポーチに手をいれ、「固形シリアルの箱」と言った。

 

それらしいかたちの箱が手にのってきた……が、軽すぎる。ひらくと、なかみはからで、メモがついていた。

 

消費点数:1

現在の得点:98

手にいれたもの:固形シリアルの箱

 

「もう一点消費して()()()()()()()()()()をかえしてもらいたい。」

 

また沈黙。

 

ハリーは手をポーチにいれ「固形シリアル」と言った。

 

なにもでてこなかった。

 

ハリーは絶望したように肩をすくめて、学校用のローブを手にいれるため、ベッドのとなりの自分用にあたえられたキャビネットにいった。

 

キャビネット内の床のローブの下に固形シリアルがあり、メモがあった。

 

消費点数:1

現在の得点:97

手にいれたもの:固形シリアル6個

着たままのもの:パジャマ

パジャマを着たままで食事をしてはならない

パジャマ・ペナルティで減点

 

よし、これで、このゲームを支配している人がだれであれ、そいつが狂っているのはわかった。

 

「このゲームを支配しているのはダンブルドアじゃないかと思う。」とハリーは声にだして言った。もしかすると()()()あたまの回転のはやさの世界記録をやぶれただろうか。

 

沈黙。

 

だがパターンはわかってきた。メモはつぎに自分が目をやるであろう場所にあるはずだ。ハリーはベッドの下を見た。

 

ハッハッハッハ!

ハッハッハッハッハ!

ハ!ハ!ハ!ハ!ハ!

このゲームを支配しているのはダンブルドアではない

勘がわるい

とても勘がわるい

20点減点

きみはまだパジャマのままだ

もう四手目なのに

きみはまだパジャマのままだ

パジャマ・ペナルティ:2点減

現在の得点:75

 

おっと、ひっかけだったか。まだ学校一日目なんだし、ダンブルドアが外されたとすると、この学校にいるこれほどの狂人の名前はほかに一人も思いあたらない。

 

ほとんど自動操縦のままのからだで、ハリーはローブと下着の組をかきあつめ、(ハリーはプライヴァシーを重視していて、ドミトリーではだれがはいってくるともしれないので)トランクの地下一層目をひきだし、着がえて、もとの場所へのぼり、パジャマをかたづけた。

 

パジャマをいれるキャビネットの引き出しをひくまえにハリーはたちどまった。もしおなじパターンがまだつづいているなら……

 

「なにをすれば点をかせげる?」とハリーは声にだして言った。

 

そして引き出しをひいた。

 

善をなす機会はいたるところにある

しかし光が必要なところに闇がある

質問の費用:1点

現在の得点:74

いい下着だ

お母さんに選んでもらったのか?

 

ハリーは顔をまっかにして、そのメモを手でくしゃくしゃにした。ドラコの罵倒語が思いだされる。()()()()()——

 

ここまでくるとそれを声にだすべきではないことは分かる。そうすると、おそらく〈暴言ペナルティ〉を課される。

 

ハリーはモークスキン・ポーチと杖を装備した。固形シリアルのひとつの包装をはがして部屋のゴミ箱になげいれた。それはほとんど食べていない〈チョコレート・フロッグ〉とくしゃくしゃの封筒と緑と赤の包装紙の上に落ちた。ほかの固形シリアルはモークスキン・ポーチにいれた。

 

最終的には無駄になるのだが、もう一度だけ、必死に手がかりをさがした。

 

そしてハリーはドミトリーを出て、食べながら歩き、スリザリンの地下洞をさがした。すくなくとも、あの一文が意味しているのはそれだと()()()のだ。

 

ホグウォーツの廊下をわたり歩こうとするのは……おそらくエッシャーの絵画のなかをさまようほどまでに悪くはない。などという言いかたは修辞的効果のためであり、真であるからではない。

 

すこしたつと、実のところエッシャーの絵画にはホグウォーツとくらべて長所も短所もあるとハリーは思いはじめた。短所:重力の方向に一貫性がない。長所:階段はすくなくともそこに足を乗せているあいだはうごかないでいてくれる。

 

そもそもハリーは四階分の階段をのぼってドミトリーにたどりついていた。十二階分の階段をくだっても地下洞にたどりつく様子がないのをみて、ハリーはこう結論した。(一)エッシャーの絵画はこれにくらべれば楽勝だ。(二)なぜか自分はいま出発地点よりも()にいる。(三)つぎの窓で空に月がふたつ見えたとしてもおどろかないほど完全に迷子になってしまった。

 

代替策Aはたちどまって道をたずねることだが、あたりには異様に人どおりがない。まるで物乞いが全員あたりまえのように授業にいってしまったかのようだ。

 

代替策Bは……

 

「ぼくは迷子です。」とハリーは声に出して言った。「その、ホグウォーツ城の精霊が助けてくれたりしませんか?」

 

「この城の精霊、というものはないと思いますよ。」と壁にかかった絵画のうちのひとつから老女が意見した。「生命をもつとしても、精霊をもつ城ではない。」

 

短い沈黙があった。

 

「あなたはもしかして——」と言ってハリーはそこで口をとじた。この絵は自分の意識を認識しているという意味で完全な自意識があるのかという質問はしないぞ、と思いなおした。

 

「ぼくはハリー・ポッターです。」とハリーの口がほとんど自動操縦で言った。そしてほとんど無意識に、その絵にむけて片手をつきだした。

 

絵のなかの女性はハリーの手を見おろして、眉をあげた。

 

ゆっくりと、その手はハリーの横ばらにもどった。

 

「すみません。」とハリー。「まだここにきたばかりなので。」

 

「わかっています、若きワタリガラス(レイヴン)よ。どこにいこうとしているのですか?」

 

ハリーはためらった。「自分でもよくわかりません。」

 

「ならばすでに着いているのかもしれません。」

 

「いや、ぼくがいこうとしていたのが()()()()()()()ではなさそうです……」こういう言いかただと自分がばかみたいにきこえるのに気づいて、ハリーは口をとじた。「言いなおします。ぼくはゲームに参加していて、そのルールが何なのかわかっていなくて——」これもだめだな。「よし、三度目。得点をもらうために善行をつむ機会をさがしているんですが、光の必要なところに闇があるという謎めいた手がかりしかなくて、下にむかっていこうとしても上にいってしまっているようで……」

 

絵のなかの老婦人はやけに懐疑的な表情でこちらをみている。

 

ハリーはためいきをついた。「ぼくの人生は変になる傾向がありまして。」

 

「あなたは自分がどこにいこうとしているか分からず、なぜそこにいこうとしているかも分からない、とでも言えばよろしいかしら?」

 

「まったくかまいません。」

 

老婦人はうなづいた。「迷子になったことはあなたのもっとも重要な問題ではないのかもしれませんね。」

 

「たしかに。でももっと重要な問題とはちがって、この問題は解きかたがわかっているんです。()()()、この会話は人間の実存についてのメタファーになりかけているのか。たったいままで気づきませんでした。」

 

老婦人は品さだめするようにハリーを見た。「やはりあなたはかしこいレイヴンですね? すこしうたがいかけてしまいましたが。ともかく、原則としては、左折しつづければあなたはかならずくだりつづけます。」

 

これは妙になじみがあるひびきだったが、ハリーはどこできいたのか思いだせなかった。「あの……あなたは知性的な人、というか知性的な人の絵のようですから……とにかく、一度だけ参加することができ、ルールは教えてもらえないという、謎のゲームにききおぼえはありませんか?」

 

「人生。」と老婦人はすぐさま言った。「これ以上自明ななぞなぞ(リドル)はきいたことがありません。」

 

ハリーはまばたきをし、「いえ……」とゆっくり言いはじめた。「その、ぼくは実際にメモをわたされて、そこにぼくはそのゲームに参加しなければならないけれどルールは教えてもらえないということなどが書かれていました。だれかがぼくに小さな紙をいくつものこしていて、ぼくがパジャマを着たままでいたペナルティで二点減とか、ルール違反でどれだけ減点されたとかが書かれています。ホグウォーツにいる人でこんなことをするほど狂っていて能力がある人のことをごぞんじですか? ダンブルドアのほかに?」

 

老婦人の絵はためいきをついた。「わたしはただの絵ですからね。わたしはホグウォーツの過去を思いだせます——現在ではなく。わたしに言えるのは、もしなぞなぞだったなら、そのゲームは人生だというのが答えになるということだけです。ルールをつくるのはわたしたちではありませんが、得点を授与したり剥奪したりするのはいつも自分です。もしそれがなぞなぞではなく現実だったなら——わたしには分かりません。」

 

ハリーはその絵にむけて深くあたまを下げ。「ありがとうございました。」

 

老婦人はひざをまげて会釈した。「あなたとの思い出を大切にしますと申しあげられればいいのですが。おそらくわたしはあなたのことをすっかり忘れてしまうでしょう。さようなら、ハリー・ポッター。」

 

ハリーはまたお辞儀をして返し、一番ちかくの階段をのぼりはじめた。

 

四度左折したところで廊下のさきをみつめると、つきあたりに突然、くずれかけた巨石があった。まるで崩落があったかのようだ。壁と天井だけが城の通常の石材でできていて、無傷だった。

 

「わかった。」とハリーは空中にむけて言う。「降参だ。もうひとつヒントがほしい。ぼくがいくべき場所にいく方法を教えてくれないか?」

 

「ヒントか! ヒントがほしいのか?」

 

わりあいちかくの壁の絵画から興奮した声がきこえてきた。中年の男性の肖像画で、ハリーがみたことも想像したこともないほど自己主張のつよいピンク色のローブをきていた。この肖像画のなかでその男は、くたびれたとんがり帽子をかぶっていて、その帽子には魚がついていた(魚の絵ではなく、魚である)。

 

「そう!」とハリー。「ヒント! ヒントです! なんのヒントでもいいわけじゃなく、()()()ヒントをさがしています。ぼくはあるゲームに参加していて——」

 

「そうそう! ゲームのヒントか! きみはハリー・ポッターだね。わたしはコーネリオン・フラバーウォルト。きみのことは王妃エリンから、エリンはロード・ウィーズルノーズから、ウィーズルノーズがきいたのは、だれからだったか。まあそれはいい。ともかく、きみへのメッセージが()()()に託されたのだ! この()()()に! いつからだったか、多分この役たたずの廊下にとじこめられてからずっと、だれひとりわたしのことを気にかけてくれなかった——ヒントだな! きみへのヒントがある! たった三点とひきかえに進呈しよう! ほしいかね?」

 

「はい! ほしいです!」  皮肉っぽい言いかたをするのは得策でなさそうだと思うものの、我慢できなかった。

 

「その闇は緑の自習室とマクゴナガルの〈転成術〉教室のあいだにある! これがヒントだ! さあはやくいけ。きみはカタツムリよりものろい! のろすぎるから十点減点! これでのこりは六十一点だ! メッセージのつづきはここまでだ!」

 

「ありがとう。」 ハリーはこのゲームの速度になかなかついていけていない。「あの……もしかしてこれが()()()()だれからのメッセージだったかごぞんじだったりしませんか?」

 

「これを言ったのは空気そのもののなかにある隙間、燃えさかる奈落へ通ずる隙間から来た、うつろなうなり声だ! そういうふうに聞かされている!」

 

この時点でハリーはもはや、これが懐疑的になるべきたぐいのことか受けながすべきたぐいのことかわからなくなった。「それでどうやって緑色の自習室と〈転成術〉教室のあいだの線をみつければいいんですか?」

 

「ただふりむいてもどっていって、そこから左、右、下、下、右、左、右、上、左にいくと、緑色の自習室がある。そこにはいってまっすぐいって反対側にでると、おおきな曲線の廊下にでて、十字路までいくとその右手にながいまっすぐの廊下があり、そこをたどれば〈転成術〉教室だ!」中年男性の肖像がことばを切った。「すくなくとも()()()()ホグウォーツにいたころはそうだった。今日は奇数年の月曜日でまちがいなかったね?」

 

「ペンとシャープ紙。」とハリーはポーチに言った。「いや、いまのはなし。紙とシャープペン。」そして見あげて言った。「もう一度言ってもらえますか?」

 

あと二回ききのがしたあと、ハリーはホグウォーツという変幻自在の迷路のなかをわたりあるくための基本的なルールを理解しはじめた気がした。()()()()()()。もしこれがものすごく深い人生の教訓かなにかに由来しているのだとしたら、ハリーにはそれが何なのかわからなかった。

 

緑色の自習室は日の光がそそぐ、おどろくほど居ごこちのいい空間だった。緑色のステンドグラスにはしずかな牧歌的な光景にいるドラゴンがえがかれている。非常に快適そうな椅子と、一人から三人までの友だちといっしょに自習するのにとてもあつらえむきなテーブルがあった。

 

反対側のドアまでまっすぐつきぬけてあるくことはハリーには()()()()()()。壁に備えつけの()()がある。ということは、そこにいってタイトルをいくつか読んでおかなければ、ヴェレス家の名にもとる。ハリーはのろいと文句をつけられていたことをこころにとめて、すばやく仕事をすませ、反対側にでた。

 

『おおきな曲線の廊下』をくだっている途中で、ハリーはおさない少年のさけび声をきいた。

 

こういうとき、ハリーはエネルギーを節約したりただしいウォーミングアップの運動をしたりなにかにぶつかることを心配する必要なしに全力でかけだす言い訳ができる。ハリーは脇目もふらずにとびこんでいったかと思うと同じくらい突然に、六人のハッフルパフ一年生につっこみかけたところで停止した。

 

……その六人は身をよせあって、かなりこわがりながらも、なにかしたいと思いつつどうすればいいかわからないという風だった。それはおそらく、もう一人のおさない少年をとりかこむようにしている五人の年上のスリザリン生と関係があるようだった。

 

ハリーは急に怒りをおぼえた。

 

()()()()()!」とハリーは腹の底から大声をだした。

 

必要なかったかもしれない。彼らはすでにこちらをみていた。だがそこでおこなわれていたことすべてを止める効果はあった。

 

ハリーはハッフルパフ生のあつまりをとおりすぎ、スリザリン生のほうにむけて歩いた。

 

見おろしてくる顔はそれぞれ、いらだちの表情だったり、愉快そうな表情だったり、歓喜の表情だったりした。

 

ハリーの脳の一部はパニックになって、この五人はずっと年上でからだも大きくて自分はぺしゃんこにされてしまうとさけんでいた。

 

別の一部はこう言っていた。〈死ななかった男の子〉を本気でぺしゃんこにするような人は、とくにそれがスリザリン生の一群で、七人のハッフルパフ生に目撃されている場合、()()()やっかいな状況におちいるだろう。目撃者のいるまえで、彼らがこちらにあとあとのこるような被害をもたらす可能性はゼロにちかい。彼らがこちらにむけて使うことのできる唯一の武器は、こちらの恐怖心だけだ。それもこちらが自分を恐怖にまかせればの話にすぎない。

 

そこでハリーは、とらわれた少年がネヴィル・ロングボトムであることに気づいた。

 

やっぱり。

 

これで決まった。ぼくははネヴィルに謙虚に謝罪すると決めていたのだから、ネヴィルは()()()()()()()()()

 

ハリーは手をのばしてネヴィルの手くびをつかみ、()()とひっぱってスリザリン生のあいだから引きはなした。ネヴィルはその衝撃でよろめき、ほとんどおなじ動きをしてそのおなじ隙間から出た。

 

そしてハリーはネヴィルといれかわってスリザリン生のまんなかに立ち、ずっと年上で、体格がよく、ちからが強い少年たちをみあげた。

 

「こんにちは。〈死ななかった男の子〉です。」

 

あたりがぎこちなくしずまった。ここから会話がどの方向にすすむのかだれにもわからないようだった。

 

ハリーの目はしたをむき、本と紙がいくつか床に散乱しているのを見た。ああ、おなじみの、本をひろわせてから叩いてまた落とさせるゲームか。自分がこのゲームのえじきになったことがあるかどうか思いだせなかったものの、ハリーには十分想像力があり、その想像力で彼は怒りをおぼえさせられた。まあ、この状況全体が解決したあとでネヴィルがもどってきて本をひろうことはたやすいだろう。このスリザリン生たちが本になにかすることを考えないほどハリーに注目したままだとすれば。

 

残念ながら、ハリーが視線をさまよわせているのは気づかれていた。「へー……」と一番体格のいい少年が言った。「こんな本がほしかったのかよ。」

 

「だまれ」とハリーはつめたく言った。相手のバランスをくずせ。予想の範囲のことをするな。自分がいじめられるようなパターンにおちいるな。「これはものすごく巧妙な計画かなにかの一部でいずれきみたちの利益になるのか、それとも単にサラザール・スリザリンの名前をけがす無意味なことをしているだけなのか——」

 

体格のいい少年がハリー・ポッターをなぎはらい、ハリーはスリザリン生の円からとびでてホグウォーツのかたい石の床に倒れた。

 

スリザリン生たちは笑った。

 

ハリーはひどくゆっくりと感じるうごきをして立ちあがった。杖のつかいかたはまだ知らないが、だからといってこの状況でやめるわけにはいかない。

 

「必要なだけ()()()()支払ってこの人を追いはらいたい。」と言って、ハリーは体格のいい少年を指でさした。

 

そしてハリーは反対がわの手をあげて、「アブラカダブラ」と言い、指をならした。

 

『アブラカダブラ』ということばをきいて、ネヴィルをふくむハッフルパフ生たちが悲鳴をあげ、スリザリン生ののこり三人はハリーの指の方向から必死にとびのいた。体格のいいスリザリン生がショックをうけた表情をし、よろめいてあとずさると、突然、赤いまだらがその顔と首と胸にひろがった。

 

これはハリーにとっても予想外だった。

 

ゆっくりと、体格のいいスリザリン生があたまに手をやり、自分にふりかかってきていたチェリーパイをのせた皿をはぎとった。そしてその皿を手にとり、しばらくみつめ、床におとした。

 

おそらくそれはハッフルパフ生のうちのひとりにとって笑いだすのにあまり適切なタイミングではなかっただろうが、ハッフルパフ生のうちのひとりはまさにそうした。

 

そして、皿のうらにあるメモがハリーの目にはいった。

 

「ちょっと待った。」と言ってハリーはメモをひろいにとびこんだ。「そのメモはきっとぼく宛の——」

 

()()()……」と体格のいいスリザリン生がうなった。「()()()()()()()()()()()——」

 

()()()()って!」とハリーは大声で言い、年上のスリザリン生にむけてメモをふりかざした。「()()()()って! パイをひとつ配達してもらうだけで三十点もかかったなんて信じられる? 無実で苦しんでいる子を救出してあげたのに損がでるって! 保管費用? 輸送費? 荷馬車代? ()()ひとつに()()()()がなんでかかるんだ?」

 

またあのぎこちない沈黙の瞬間があった。ハリーは、笑いやめないのがどちらのハッフルパフ生であるにせよ、その愚か者は痛い目にあうだろうという殺気だった思念をおくった。

 

ハリーは一歩さがって、できるだけ殺人的なにらみをスリザリン生たちにむけた。「ここからでていけ。さもなければきみたちの実存をどんどん現実ばなれさせてやる。警告する……()()()人生に手をだすと()()()()()人生が……()()()()()()。わかったか?」

 

体格のいいスリザリン生がものものしい所作で杖をふり、ハリーにむけると、そのおなじ一瞬のうちに別の方向からパイがあたまにあたった。今度は明るい色のブルーベリーだった。

 

このパイのメモはかなり大きくはっきりと読めた。「そのパイにのっているメモを読んだらどうだい。」とハリーは意見した。「今度はきみ宛だと思う。」

 

スリザリン生はゆっくりと手をのばしてパイの皿をとり、まわして、ブルーベリーをさらにどろっと床にたれさせ、メモを読んだ。そこにはこうあった:

 

警告

ゲーム進行中の競技者に対する

魔法の使用は厳禁

これ以上干渉すれば

ゲーム当局に通報する

 

スリザリン生の顔にうかんだあからさまな困惑の表情は芸術的だった。ハリーはこの〈ゲームの支配者〉が好きになりかけたような気がした。

 

「ねえ。そろそろやめない? 収拾がつかなくなってきていると思う。きみたちはスリザリン寮に帰る、ぼくはレイヴンクロー寮に帰る、そしてしばらく頭をひやす。それでどう?」

 

「もっといい考えがあるぜ。」と体格のいいスリザリン生が言った。「おまえの指が全部事故で折れるっていうのはどうだ?」

 

「バカだな。十人ちかく目撃者がいるまえでおどしておいて、事故にみせかけたりなんかできるとでも——」

 

体格のいいスリザリン生はゆっくりと、慎重にハリーの両手にむけて手をのばした。ハリーはその場でかたまり、ハリーの脳のうち、相手の年齢と腕力を実感しはじめている部分がようやく話をきいてもらえることになって、こうさけんだ。おまえはなにがしたいんだ?

 

「待て!」とのこりのスリザリン生のひとりが急にパニックになったような声で言う。「やめろ、それはいけない!」

 

体格のいいスリザリン生はそれを無視して、自分の左手でハリーの右手をしっかりとつかみ、右手でハリーの人差し指をにぎった。

 

ハリー相手の目をしっかりとみた。ハリーのなかの一部は悲鳴をあげていた。こんなはずじゃない。こんなことが()()()()()()()()。こんなことが起きるのを大人は()()()許してはいけない——

 

ゆっくりと、スリザリン生がその指をうしろむきに曲げはじめた。

 

まだ指は折られていないし、そうなるまえにびくりとしたりするのはぼくらしくない。それまではこれもまた恐怖をあおろうとするやり口のひとつにすぎない。

 

「よせ!」とさっき反対したスリザリン生が言った。「よせ、これはまずい!」

 

「わたしも同感ですね。」と冷淡な声が言った。年配の女性の声だ。

 

体格のいいスリザリン生は、火がついたかのようにハリーの手をはなし、とびのいた。

 

「スプラウト先生!」とハッフルパフ生のひとりが声をあげた。これほどうれしげな声をハリーはきいたことがなかった。

 

ふりむくと、ハリーの視界にはいってきたのは、灰色のちぢれた巻き毛と泥まみれの服の、背のひくい太った女性だった。彼女は非難するようにスリザリン生たちを指さした。「これはどういうことですか。」と彼女が言った。「あなたたちはわたしのハッフルパフ生と……」彼女はハリーを見た。「わたしの生徒、ハリー・ポッターになにをしているんですか。」

 

あー。そうだった、けさ欠席したのはこのひとの授業だった。

 

「殺すとおどされていたんです!」とのこりのスリザリン生のひとりが言った。さっき、とめにはいったほうだ。

 

「え?」 きょとんとした顔でハリーが言う。「そんなことしてない! もし殺すつもりなら、そのまえに公然とおどしたりなんかしないよ!」

 

三人目のスリザリン生が失笑したが、ほかの二人から辛辣な視線をおくられてすぐにやめた。

 

スプラウト先生はかなり懐疑的な表情をみせた。「それはどういった殺人のおどしですか?」

 

「〈死の呪い〉だ! あいつはぼくたちに〈死の呪い〉をかけるふりをした!」

 

スプラウト先生はハリーのほうにむきなおった。「まあ、十一歳の少年にしてはなかなかのおどしですね。とはいえ、そんなふりをしてはいけませんよ、ハリー・ポッター。」

 

「ぼくは〈死の呪い〉の()()()()知りません。」とハリーはすぐさま言った。「そもそも杖を出してもいませんから。」

 

するとスプラウト先生はハリーに懐疑的な表情をみせた。「すると、この子が()()()()()()パイを二枚なげつけたということになりますが。」

 

「杖はつかっていませんでした!」おさないハッフルパフ生のひとりが割りこんだ。「どうやったのかはわかりませんが、彼が指をならしたら、パイがでてきたんです!」

 

「そうですか。」と一呼吸おいてからスプラウト先生が言って、自分の杖をだした。「あなたは被害者のようですから、命令するつもりはありませんが、そのことを検証するために杖をしらべてもかまいませんか?」

 

ハリーは自分の杖をだした。「なにをすれば——」

 

「〈直前詠唱(プライオア・インカンタート)〉。」と言ってスプラウトは眉をひそめた。「変ですね。この杖はまったくつかわれていないようです。」

 

ハリーは肩をすくめた。「つかっていませんよ。数日まえに杖と教科書を買ったばかりですから。」

 

スプラウトはうなづいた。「であれば明らかにこれは脅威にさらされた少年による魔法事故の一種です。この場合、規則では責任をとわれないことがはっきりとしています。()()()()()については……」彼女はスリザリン生たちのほうをむき、視線を床にころがったネヴィルの本へむけるそぶりをした。

 

彼女がスリザリン生五人をみるあいだ、あたりが長くしずまった。

 

「ひとりにつき、スリザリンは三点減点。」と最後に彼女は言い、パイにまみれた少年をゆびさして、「それに()は六点減点。わたしのハッフルパフ生にも、わたしの生徒ハリー・ポッターにも、二度と手をださないように。では()()()()()。」

 

そのことばをくりかえす必要はなかった。スリザリン生たちはうしろをむいて、すばやく歩き去った。

 

ネヴィルはまえにでて本をひろいはじめた。泣いているようだったが、それほどではなかった。時間差でやってきたショックのせいかもしれない。ほかの子たちが助けてくれていたからかもしれない。

 

()()()()()たすかりました、ハリー・ポッター。」とスプラウト先生がハリーに言った。「レイヴンクローに七点加点。守ってくれたハッフルパフ生ひとりにつき一点ずつ。わたしからはそれだけです。」

 

ハリーは目をしばたたかせた。てっきり、やっかいごとにくびをつっこむな、というような講釈をされ、最初の授業を欠席したことについても、かなりきびしくしかられることになると思っていた。

 

ほんとにハッフルパフにいったほうがよかったのかもしれない。スプラウトとは気があいそうだ。

 

「〈剥掃(スコージファイ)〉」とスプラウトが床にまきちらかされたパイにむけて言うと、それが消えた。

 

そして彼女は緑色の自習室につながる廊下を歩いて去っていった。

 

そのすがたが見えなくなるとすぐに、「どうやったの、あれ?」とハッフルパフ生のひとりが声をひそめて言った。

 

ハリーは得意げな笑みをうかべた。「ぼくは指をならすだけでなんでも起こすことができるんだ。」

 

その子の両目がみひらかれた。「()()()()?」

 

「うそだよ。でもほかの人にこの話をするときには、かならずレイヴンクロー一年生のハーマイオニー・グレンジャーにもしてほしい。ハーマイオニーはきっとおもしろい体験談を聞かせてくれると思うよ。」  なにがおきているのかさっぱりだが、せっかく自分の伝説が大きくなっているなら乗っかっていくにかぎる。「ああ、それと〈死の呪い〉についてのあれはなんだったの?」

 

その子は怪訝そうな目つきをした。「ほんとに知らないの?」

 

「知っていたらきかないさ。」

 

「〈死の呪い〉の詠唱は……」その子は息をすって、ささやき声に声量をおとし、杖をもっていないことを明確にしたいかのように両手を自分のからだのよこにおいて、言った。「アヴァダ・ケダヴラだ。」

 

ほらきた。

 

パパであるマイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授に言ってはいけないことのリストがだんだん増えてきているが、ハリーはそこにこれを追加した。おそるべき〈死の呪い〉を生きのびた唯一の人物が自分だという話だけでもまずいのに、その〈死の呪い〉が『アブラカダブラ』だと認めないといけないとは。

 

「わかった。」とハリーは一呼吸おいてから言う。「()()を言って指をならすことは二度としないようにする。」 とはいえ()()()戦術上有用な効果があったが。

 

()()()()きみは——」

 

「マグルにそだてられたんだ。マグルはそのことばをおもしろいと思って冗談に使っている。ほんとにそれだけなんだ。ところで、きみの名前はなんだったっけ?」

 

「ぼくはアーニー・マクミラン。」と言ってその子は手をさしのばし、ハリーは握手した。「きみにあえて光栄だ。」

 

ハリーは軽く会釈した。「きみにあえてうれしい。光栄はなしにしよう。」

 

ほかの子たちがあつまってきて、それぞれから自己紹介が殺到した。

 

それが終わると、ハリーは息をすった。これは簡単ではない。「ええと……ちょっと失礼して……ぼくはネヴィルに言わないといけないことが——」

 

全員の目がネヴィルにむいた。ネヴィルは一歩さがって、不安そうな顔をした。

 

「多分……」とネヴィルは小さな声で言う。「ぼくはもっと勇敢にしているべきだったと言いたいんだろ——」

 

「え、いや、まさか!」とハリーはいそいで言う。「()()()の話じゃないんだ。ただ、その、あることを〈組わけ帽子〉に言われて——」

 

ほかの子たちが俄然興味をもちはじめたようだったが、ネヴィルだけは()()()()()()()()()表情になった。

 

ハリーののどになにかがつかえているようだった。口にだしてしまえばいいとわかってはいるのに、おおきな煉瓦をのどにつめられたかのようだった。

 

まるで自分のくちびるを手動操作して、音節をひとつずつ発音しなければならないかのようだったが、ハリーはなんとかそれをやりとげた。「ご…め…ん。」ハリーは息をはいて深呼吸した。「その…このあいだのことで。許して…くれる必要はないし、きみがぼくをきらっていたとしても理解する。謝罪することやきみに許させることでぼくをかっこよくみせようとしているとかじゃない。ぼくのしたことはまちがいだった。」

 

しばらく沈黙があった。

 

ネヴィルは本を胸にきつくかかえた。「なんであんなことをしたの?」と彼はかぼそい、震える声で言い、目をしばたたかせた。まるで涙をこらえようとするかのように。「なんで()()()がぼくにあんなことをするの? 〈死ななかった男の子〉も?」

 

ハリーは自分がこれまでの人生のどの時点よりもちいさくなったように感じた。「ごめんなさい。」とハリーはもう一度、かすれた声で言う。「ただきみが……こわがっているように見えて、それがきみのあたまのうえについた『被害者』というサインのようで……いつもものごとが悪い結果になる()()()()()()っていうこと、ときには怪物がチョコレートをくれたりするっていうことをみせてあげたかった……それをみせてあげれば、こわがるべきことはそんなにない、と気づいてくれるんじゃないかと——」

 

「でも、()()じゃないか。」とネヴィルがささやき声で言った。「きみも今日見ただろう、()()じゃないか!」

 

「あいつらは目撃者のまえでそれほど悪いことはしない。あいつらのおもな武器は恐怖だ。だから()()()標的にしたんだ。こわがっているのがわかったから。ぼくはこわがることを減らしたかった……恐怖自体が対象よりも悪いということを見せたかった……というか、ぼくは自分にそう言いきかせていた。でもぼくは自分にうそをついていた、ほんとうは楽しいからそうしていたんだと、〈組わけ帽子〉に言われた。だからいまぼくはあやまろうと——」

 

「痛かった。さっき。きみにつかまれてあいつらから引きはなされたときに。」 ネヴィルは腕をつきだして、ハリーがつかんだ場所を指さした。「あんなに強く引っぱられた以上、あとであざになるかもしれない。あのスリザリン生にされたことよりも、きみにやられたことほうが痛かった。」

 

()()()()!」とアーニーが声をひそめて言う。「助けてもらっておいてそれはないだろ!」

 

「ごめん。」とハリーがささやき声で言った。「あれを見たときぼくはつい……逆上してしまって……」

 

ネヴィルはハリーをじっと見た。「ぼくをあんなに強く引っぱりだしてからきみがそこにはいっていって、『こんにちは、〈死ななかった男の子〉です』って言ったね。」

 

ハリーはうなづいた。

 

「きみとはいつか、なかよくなれると思う。でもいまは、ちがう。」

 

ハリーは急にのどにできたかたまりを飲みこみ、歩いてその場を去った。廊下をくだり十字路につき、そこを左にまがって、なにも考えずに廊下をあるきつづけた。

 

この場合自分はどうするのが()()だったのか? 腹をたてないようにする? 腹をたてないでいて自分になにかできた気があまりしないし、そうなればネヴィルと彼の本がどうなったことかわからない。それに、ハリーはファンタジーの本をかなり読んでいたので()()()()()()がどうなるかわかっている。怒りをおさえようとしても、失敗してまたそれが吹きだしつづける。自己発見のながい旅のはてに怒りは自分の一部でありそれをうけいれることによってはじめてそれをかしこくつかうことができると知る。自分を否定的感情から完全にきりはなすという答えが正しい世界は『スター・ウォーズ』だけであり、あの緑色の愚かしいヨーダのことがハリーはいつも気にいらない。

 

だから明らかに時間の節約になるのは、自己発見の旅をすっとばして、怒りを自分の一部としてうけいれることによってはじめて自分がそれを制御できると知る段階にまで直行するというやりかただ。

 

問題は、腹をたてているとき自分が制御不能になっている()()()()()ということだった。冷たい怒りで自分は制御()()()()()ような気分になる。()()()()()()()をふりかえるときになってはじめて、どこか……制御不能になってしまっていたように見える。

 

〈ゲームの支配者〉はこういうことのどこまでを気にしているのだろうか、これで加点されたのだろうか、減点されたのだろうか。ハリーは自分ではかなりの点をうしなった気がしていた。あの絵の老婦人であればきっと、意味があるのは自分の意見だけだと言うだろう。

 

そして〈ゲームの支配者〉がスプラウト先生をおくってきたのだろうか。これには論理的整合性がある。メモは〈ゲーム当局〉に通報すると警告していた。そのあとでスプラウト先生があらわれた。もしかするとスプラウト先生こそが〈ゲームの支配者〉なのかもしれない——()()()()()()()()は一番うたがわれそうに()()人物だが、だからこそハリーのリストでは最上位付近にいる。ハリーはミステリー小説もすこしは読んでいたのである。

 

「それで、ぼくのゲームの成績はどうなってる?」とハリーは声にだして言った。

 

一枚の紙が頭の上にまいおりた。まるでだれかがうしろから投げてきたかのように——ハリーはふりむいたがそこにはだれもいなかった——そしてハリーがまえにむきなおると、メモは床におちていった。

 

メモにはこうあった:

 

かっこよさ点:10

思考力点:-3,000,000

レイヴンクロー寮点獲得ボーナス:70

現在の得点:-2,999,871

残りターン数:2

 

「マイナス三百万点だって?」とハリーはだれもいない廊下にむけて憤然として言った。 「減点しすぎだよ! 〈ゲーム当局〉に抗議文を提出したい! それにあと二時間でどうやって三百万点をとりもどすって言うんだ?」

 

メモがもう一枚、あたまの上にまいおりた。

 

抗議:却下

間違った質問:1,000,000,000,000点減

現在の得点:-1,000,002,999,871

残りターン数:1

 

ハリーは降参した。残り一ターンしかないなら、自分にできる最良の推測をするしかない。それがあまりいい推測でなくても。「このゲームは人生を表現しているんじゃないかと思う。」

 

最後の一枚の紙があたまの上にまいおりた:

 

試行失敗

失敗 失敗 失敗

あああうううううううう

現在の得点:マイナス無限大

あなたは敗北しました

 

最後の指令:

マクゴナガル教授室へ行け

 

最後の一行は自分の手書き文字だった。

 

ハリーは最後の一行をしばし見つめ、肩をすくめた。……いいさ。マクゴナガル教授室か。もしあの人が〈ゲームの支配者〉だったとしたら……

 

うん、そうだな。もしマクゴナガル先生が〈ゲームの支配者〉だったとしたら、自分がどう感じるかまったくわからない。あたまが完全にまっしろになる。そんなことは文字どおり、想像不可能だ。

 

肖像画もう何枚分か道をすすんでいくと——マクゴナガル教授室は〈転成術〉教室からあまり離れていないから、さほど長くはかからない、すくなくとも奇数年の月曜日なら——ハリーは教授室のドアのまえにたどりついた。

 

ハリーはノックした。

 

「どうぞ。」とドアごしにマクゴナガル先生の声がした。

 

ハリーは入室した。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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14章「未知と不可知」

謎めいた問題というものは存在するが、謎めいた解答というのは用語上の矛盾である。

 

◆ ◆ ◆

 

「どうぞ。」とドアごしにマクゴナガル先生の声がした。

 

ハリーは入った。

 

副総長室はよごれがなく、よく整理されていた。机のすぐとなりの壁には、いろいろな形とおおきさの木製の棚が迷路のように組みあわさっていて、ほとんどの棚には羊皮紙の巻き物がつめこまれていた。不思議なことに一目見ただけで、マクゴナガル先生はどの棚がなんの置き場であるかを正確に把握しているということがわかる。おそらくほかのだれにもできない芸当だ。一枚の羊皮紙が、それ以外なにもない机本体の上におかれている。机の背後にある扉は、複数の錠で封じられていた。

 

マクゴナガル先生は机のむこうで背もたれのない椅子に座って、困惑した顔をしている。目は見ひらかれ、どこかすこしだけ不安そうに、こちらを見ている。

 

「ミスター・ポッター? 用件はなんですか?」

 

ハリーのあたまのなかがまっしろになった。自分はゲームに指示されてここにきたのだ。()()()()()なにか言うことがあるのだろうと思っていた……

 

「ミスター・ポッター?」とわずかにいらだちはじめた様子でマクゴナガル先生が言った。

 

パニックになったハリーの脳はこの時点で、ありがたいことに、マクゴナガル先生に話す予定の話題がいちおうあったのを思いだした。重要で、彼女の時間を無駄にしない話題が。

 

「あの……できればだれにもこの話をきかれないようにするための呪文をかけていただけないかと……」

 

マクゴナガル先生は椅子から立ちあがり、外がわのドアをしっかりと閉め、杖をとりだして呪文をかけようとした。

 

この時点になってハリーは、マクゴナガル先生にコメッティーを進呈するためのこのうえなく貴重でまたとない機会があらわれたのに気づいたが、自分がそんなことを真剣に検討していることが信じられず、ジュースは数秒で消えるんだからなんでもないと言ったが、それを言っている部分の自分に()()()と言いつけた。

 

その自分がだまったので、ハリーはこれから話すことをあたまのなかで整理しはじめた。この話は()()()()はやいうちにする予定ではなかったが、せっかくここにきたからには……

 

マクゴナガル先生はラテン語よりもずっと古いひびきの呪文をとなえおえて、もとの場所に座った。

 

「これで……」とおさえた声で彼女が言う。「だれにもきかれません。」  その顔はかなり緊張している。

 

あっ、そうか。予言に関する情報をひきだすためにぼくが脅迫しにきたと思われているのか。

 

うーん、それはまた今度にしよう。

 

「〈組わけ帽子事件〉についてなんですが。」(ハリーがそう言いだすのを聞いて、マクゴナガル先生は目をしばたたかせた。)「その……〈組わけ帽子〉には追加の呪文がかかっていると思います。〈組わけ帽子〉自身も知らない、〈組わけ帽子〉がスリザリンと言うときに発動するなにかです。レイヴンクロー生がきっときかされるはずではなかったメッセージを、ぼくはききました。〈組わけ帽子〉がぼくのあたまから離れて、接触がとだえる感じがした瞬間にきこえました。シューシューという音のような、同時に英語のような音がしました。」マクゴナガルがすばやく息をのむ音がした。「そしてこう言いました:スリザリンからスリザリンへの挨拶、我が秘密を知りたければ、我がヘビにきけ。」

 

マクゴナガル先生は口をあけたままそこに座り、ハリーからもう二つあたまが生えてきたとでも言うかのように、ハリーをみつめた。

 

「それで……」とマクゴナガル先生はゆっくりと、まるでくちから出ていくことばを自分で信じられない、というような顔で言う。「あなたはまっすぐここにきて、わたしにそれを伝えることにしたのですか。」

 

「まあ、そうですね。もちろん。」 そう決めるまでどれだけ長く逡巡していたかを告白する必要はない。「たとえば、自分でしらべようとしたり、ほかの子に伝えたりするのではなく。」

 

「なる……ほど。そしてもし、サラザール・スリザリンの伝説の〈秘儀の部屋〉の、あなただけがひらくことのできる入り口をみつけることができたなら……」

 

「その入り口を閉じて先生に報告して、熟練魔法考古学者のチームにあつまってもらえるようにします。」とハリーは即座に言う。「そのあとでもう一度入り口をあけて、その人たちにとても慎重になかに入ってもらって危険なことがなにもないようにしてもらいます。ぼくはあとで見にいったり、ほかのなにかをあけるのにまた呼ばれたりするかもしれませんが、それはその場所が安全だと宣言されて、ひとが立ちいるまえの貴重な遺跡がどんなようすだったかが写真におさめられたあとのことです。」

 

マクゴナガル先生は座ったまま口をあけて、ハリーがいきなりネコになったとでも言うかのようにハリーを見つめた。

 

「グリフィンドール生以外にはすぐにわかることですよ。」とハリーは親切に言った。

 

「それは……」とやけに息をつまらせてマクゴナガル先生は言った。「常識の希少さを()()()みくびりすぎていると思いますよ、ミスター・ポッター。」

 

そんな気もする。ただ……「ハッフルパフ生でもおなじことを言ったと思いますが。」

 

マクゴナガルははっとしてかたまった。「()()()()。」

 

「〈組わけ帽子〉はぼくにハッフルパフを提案しました。」

 

彼女はまるで自分の耳が信じられないというような顔でハリーを見ている。「そうだったのですか?」

 

「はい。」

 

「ミスター・ポッター。」とマクゴナガルが、今度は声をおさえて言う。「ホグウォーツの校内で生徒が最後に死んだのは、五十年まえです。そして、あなたの言うメッセージをきいた人が最後にでたのも、間違いなく、五十年まえです。」

 

寒けがハリーのからだをつきぬけた。「であれば、マクゴナガル先生、ぼくはこのことに関して()()()、あなたに相談しないまま()()()()()()おこしません。」彼は言葉を切った。「それと、適任者をできるだけあつめて〈組わけ帽子〉のあの追加の呪文を解除できないか試してみてもらえませんか……できなければ、()()呪文をかけるとか。〈帽子〉が生徒のあたまからはずれたときに短時間起動する〈音消(クワイエタス)〉なんかでも、応急処置にはなるかもしれません。そうすれば、もう生徒が死ぬことはなくなりますから。」 ハリーは満足そうにうなづいた。

 

マクゴナガル先生は、そんなことが想像できるとしてだが、さらに呆然とした顔になった。「これに見あうだけあなたに加点したとしたら、()()()()()()この場で寮対抗カップをレイヴンクローに進呈せざるをえなくなるでしょう。」

 

「うーん……。そんなにたくさんの寮点をもらうのは気がすすみません。」

 

それを聞くと、マクゴナガル先生は怪訝そうな目をした。「なぜですか?」

 

これはことばにするのがちょっとむずかしい。「だってうれしくないでしょう? たとえば……たとえばマグル世界でまだぼくが学校にいこうとしていたときのことですが、グループ課題があるたびに、ほかの子は荷物になるだけだったから、ぼくは全部ひとりでやることにしていました。点をたくさんもらえるのはかまいませんし、ぼくがそれで一番になるのもかまわない。ただ、寮対抗カップの結果を決めてしまうほどの点をぼくひとりで獲得してしまったら、ぼくひとりでレイヴンクロー寮をしょっているようなことになって、全然うれしくない。」

 

「なるほど……」と言ってマクゴナガルはためらった。このような考えかたにははじめて遭遇するようだ。「では五十点だけであれば、どうですか?」

 

ハリーはまたくびをふった。「ほかの子に対して不公平です、ぼくが関係できてほかの子が関係できない大人の世界のことで大量の点をもらうのは。〈組わけ帽子〉からきいたささやき声を報告することで五十点もらえるということを、テリー・ブートが知るはずがありますか? まったく不公平ですよ。」

 

「〈組わけ帽子〉がなぜあなたにハッフルパフを提案したのかがわかりました。」とマクゴナガル先生。奇妙な尊敬の目で彼女はハリーをみていた。

 

そう言われてハリーはすこし息をつまらせた。自分では正直、ハッフルパフにあたいしないと思っていた。〈組わけ帽子〉はただとにかくレイヴンクロー以外のところに、ハリーにない美徳を象徴する寮に彼を押しこもうとしていたのだと……

 

マクゴナガル先生は笑顔になっている。「でも、もしわたしがあなたに()()加点しようとしたとしたら……?」

 

「その十点はどこからきたのかとたずねられたとしたら、説明できますか? 〈組わけ帽子〉のあの呪文が解除されてそのことにぼくがかかわっていると知ったら()()()腹をたてるスリザリン生が……といってもホグウォーツで現役の子たちのことではありませんが……たくさんいるかもしれません。完全に秘密をまもるのがただしい勇気だと思います。お礼にはおよびませんよ。善行は見返りをもとめてするものではありません。」

 

「おっしゃるとおり。ですが実は、あなたにおくりたいとても特別なものがあります。わたしは内心であなたのことをだいぶ不当に評価してしまっていたようです、ミスター・ポッター。ここでお待ちなさい。」

 

彼女が席をたち、鍵のかかったうしろのドアまでいって、杖をふると、ぼやけたカーテンのようなものが彼女をつつんでひろがった。ハリーはそのなかでなにが起きているのか見ることもきくこともできなかった。数分たつとぼやけが消え、マクゴナガル先生がハリーのほうをむいてそこに立っていた。うしろのドアはまるでそもそもひらかれなかったかのようだった。

 

マクゴナガル先生は片手でネックレスをさしだした。細い金のくさりのなかに銀の円がはいっていて、そのなかには砂時計がひとつ鎮座している。もう片方の手には、折りたたまれたパンフレットがあった。「受けとってください。」

 

おお! 冒険(クエスト)の報酬としてすごい魔法道具(アイテム)かなにかがもらえるんだ! どうやら魔法アイテムがもらえるまで金銭的報酬をことわりつづけるという戦略はコンピュータゲームだけでなく現実世界でも有効らしい。

 

ハリーは笑顔でネックレスをうけとった。「これはなんですか?」

 

マクゴナガル先生は一呼吸おいた。「ミスター・ポッター、通常この道具は、授業の時間割のやりくりを助ける目的で、高度な信頼にあたいする実績のある子たちにだけ貸与されます。」マクゴナガルはなにかつけくわえようとするかのように、ためらった。「一点強調して()()()()()()()()()()ことがあります。これの正体は()()で、ほかの生徒のだれにも口外してはなりません。つかうところを見られてもなりません。この条件が守れないならば、この場でかえしてもらいます。」

 

「秘密は守れます。それでこれはなにをするものですか?」

 

「あなた以外の生徒が関知するかぎりでは、これは〈スピンスター・ウィケット〉です。〈自発性複製病〉という、めずらしいけれども感染性ではない魔法疾患の治療に使われるものです。衣服の下に身につけ、とくにひとに見せるようなものではありませんが、おおげさに隠すべきものでもありません。〈スピンスター・ウィケット〉はつまらない道具です。この意味がわかりますね?」

 

ハリーはうなづき、にこりとした。()()()スリザリンのした仕事のにおいがする。「では()()()()()なにをするものですか?」

 

「これは〈逆転時計〉です。砂時計を一度まわすとあなたは一時間まえの世界に送られます。つまり毎日二時間分ずつつかえば、あなたはいつも同じ時刻に就寝していられるようになります。」

 

ハリーの不信の一時停止は完全に窓から飛びでていってしまった。

 

あなたはぼくの睡眠障害に対処するためにタイムマシンをくれると言っている。

 

あなたはぼくの睡眠障害に対処するためにタイムマシンをくれると言っている。

 

あなたはぼくの睡眠障害に対処するためにタイムマシンをくれると言っている

 

「アハッハハハッハハ……」とハリーの口が言った。ハリーはそれが実弾の爆弾であるかのように、そのネックレスをからだから離して持った。いや、ちがった。実弾なんてものではこの状況の深刻さを表現し()()()()()()()()できない。ハリーはそれがタイムマシンであるかのように、そのネックレスをからだから離して持った。

 

あのですね、マクゴナガル先生、時間を逆転した通常物質はちょうど反物質のようになると知っていましたか? なるんですよ! 反物質一キログラムが通常物質一キログラムにぶちあたれば、四千三百万トンのTNTに相当する爆発をして消滅することを知っていましたか? ぼくの体重は四十一キログラムで、その結果おこる爆発はスコットランドをあとかたもなく吹きとばして、煙をあげる巨大クレーターしか残さないほどの規模なのが分かりますか?

 

「失礼ですが……」とハリーはやっとのことで言う。「これはかなりかなりかなりかなり危険じゃないですか!」ハリーの声は悲鳴にまでは高くならなかったが、どうせこの状況にふさわしいだけの叫び声をすることなど不可能なのだから、挑戦する意味もなかった。

 

マクゴナガル先生は寛大そうな愛着をもった表情でハリーを見おろした。「このことを真剣にあつかってくれてうれしく思いますが、ミスター・ポッター、〈逆転時計〉は()()()()危険ではありません。もしそうなら子どもにあたえたりしませんよ。」

 

「そうですか。アハハハハ。もしタイムマシンが危険ならもちろん子どもにあたえたりしませんね。ぼくはなにを考えていたんだろう? でははっきりさせておきますが、この装置にむかってくしゃみをしても中世におくられ()()()()()()()()。そこで馬車でグーテンベルクに衝突して〈啓蒙時代〉がくるのを止めてしまったりもしませんね。そういうの、ぼくはあまり好きじゃないんですよね。」

 

マクゴナガルのくちびるが、あの笑いをこらえようとするときのしかたでぴくりとした。彼女は手にもったパンフレットをハリーにわたそうとしたが、ハリーは両手をのばしながら慎重にネックレスをもち、砂時計がまわりはじめないように見ていた。ハリーがうごこうとしないのがわかると、一瞬のためらってから、こう言った。「ご心配なく。そういったことはありえませんよ、ミスター・ポッター。〈逆転時計〉をつかっても六時間をこえて移動することはできません。一日に六回までしかつかえないのです。」

 

「へえ、そうですか。それはよかった。だれかにぶつかられても〈逆転時計〉は()()()()()()()()しホグウォーツ城全体が永遠にくりかえす木曜日に()()()()()()()()()()()、と。」

 

「まあ、()()な道具ではありますが……。それに、こわれたときにおかしなことが起きるときいたことはある気がします。でも到底()()()()()ことにはなりません!」

 

「多分、」とハリーはやっとことばをつぐことができた。「()()()()()かなにかをこのタイムマシンにつけるべきじゃありませんか。このままだと()()()()()()()()なので、()()()()として。」

 

マクゴナガルははっとしたようだった。「すばらしいアイデアです、ミスター・ポッター。〈魔法省〉にそう伝えておきましょう。」

 

これで決まりだ。確定だ。議会が承認した。魔法世界の住人は全員完全にバカである。

 

「なんでもかんでも哲学にしてしまうのはいやなんですが。」とハリーは必死に声を悲鳴より低くおさえようとしながら言った。「だれかが時間を六時間まきもどすということはほとんど、その影響をうけた人たち全員を削除して別ヴァージョンのその人たちにおきかえるのとおなじです。このことの意味を考えてみたことのあるひとはいたんでしょうか。」

 

「時間を()()したりはできません!」とマクゴナガル先生が割りこんだ。「まさか、ミスター・ポッター、もし()()が可能だとしたら生徒にこういうものを持たせるはずがありますか? だれかが自分の試験の成績を改変しようとしたりしたらどうなります?」

 

ハリーはしばらくかけてこの情報を処理した。砂時計をにぎって白くなっていた両手の緊張を、すこしだけゆるめた。自分がにぎっているのがタイムマシンではなく、ただの核弾頭だというように。

 

「つまり……」とハリーはゆっくり言う。「宇宙はたまたま……時間旅行をふくんでいても、どうにかして自己矛盾しないことがわかっていると。もしぼくと未来のぼくとが鉢合わせしたとして、ぼくにみえるものはどちらのぼくともおなじで、将来のぼくのほうは一度そこにきているからなにが起きたかすでに完全に知っているけれど、ぼく自身の視点ではまだそれは起きていない……」英語の限界にたどりつき、ハリーの声は小さくなって消えた。

 

「そのとおり、だと思います。ただ、これの使い手は過去の自分に見られることを避けたほうがいいとされてはいます。たとえば、あなたが同時にふたつの授業に出席していて、自分とすれちがう必要ができたとして、事前にきめておいた時間に——腕時計はおもちですね、よろしい——一人目のほうのあなたがそれをよけて目をつむり、未来の自分がとおりぬけられるようにします。こういったことはすべて、そのパンフレットに書いてあります。」

 

「アハハハハ。その助言を()()したらどうなりますか?」

 

マクゴナガル先生はくちびるをすぼめた。「だいぶ不恰好なことになるかもしれませんね。」

 

「それでも、たとえば、宇宙を崩壊させるパラドクスをつくることにはならないと。」

 

彼女は寛大そうな笑みをうかべた。「ミスター・ポッター、もし()()()()()が一度でも起きたとしたらわたしにききおぼえがあると思いますよ。」

 

安心できませんよ、そんなの! 人間原理ということばはごぞんじですか? こういうものを最初につくったバカはだれなんだ?

 

マクゴナガル先生は笑ってしまった。厳格な顔つきにおどろくほど不釣り合いな感じの、ここちよい、うれしそうな声だった。「またあの『ネコになるなんて』の瞬間でしょうか、ミスター・ポッター。あなたは多分こう言われることはあまりないのでしょうが、なかなかかわいらしいですよ。」

 

「これはネコになるのとはまったく()()()()()()()なりません。ぼくはこころのかたすみのどこかで、考えまいとしながらも最後にのこった可能性は、この宇宙すべてが『Simulacron 3』にでてくるようなコンピュータシミュレーションだとついさっきまで思っていましたが、()()()()()()()()()()。このおもちゃがチューリング計算不可能だからですよ! チューリング機械は一定の過去までさかのぼってそこから別の未来を計算することをシミュレートできるし、神託(オラクル)機械は下位の機械の停止動作にたよれるけれども、あなたの話によれば、現実はどうにかして一回の走査だけで自己矛盾なしに計算をしてしまえることになる。つかうべき情報の一部がその時点で……まだ……生じて……いないのに……」

 

ハリーは杭うち機にうたれたようにはっとして気づいた。

 

これですべて説明がつく。()()()すべて説明がつく。

 

コメッティーはこういうしくみだったんだ! そりゃそうだ! ばかばかしいできごとを()()()()起こさせる呪文があるんじゃない、ばかばかしいことがいずれにしても起きる直前に、()()()()()()()()()()()()()()()だけなんだ! ぼくはばかだった。ダンブルドアの二番目の演説のまえにコメッティーを飲みたくなったうえで飲まずにおいて、自分の唾液でむせたとき、気づくべきだった……コメッティーを飲むことが喜劇(コメディー)をひきおこすんじゃない、コメッティーを飲むことを喜劇がひきおこすんだ! ふたつのできごとが相関していたから、因果には時間的順序の制約があって因果グラフが非循環的でなければならない以上、コメッティーが原因で喜劇は結果だと思ってしまったけれど、()()()()()()()()因果の矢をえがいてしまえば全部説明がつく!」

 

ハリーは()()()の杭うち機にうたれてはっとした。

 

今度は、しずかに、死にかけた子ネコがしぼりだすような小さな音をだすだけにとどめることができた。ハリーは、今朝だれがベッドにメモをおいたのかがわかったのだ。

 

マクゴナガル先生のひとみが燃えた。「あなたが卒業したあと、もしかするとそのまえにでも、ぜひそういったマグル理論の授業をホグウォーツでしていただきたいものです、ミスター・ポッター。まちがいであるにしても、なかなか魅力的な理論のようですから。」

 

「グアァアア……」

 

マクゴナガル先生はもういくつか社交辞令をのべ、もういくつかハリーに約束をさせ(ハリーはうなづいた)、だれかにきかれるような場所でヘビに話しかけてはいけないといったようなことを言い、パンフレットを読むよう念押しし、いつのまにかハリーは教授室からでて、しっかりと閉じられたドアのまえに立っていた。

 

「グァアアウァア……」とハリー。

 

もうこれは、驚天動地だ。

 

なかでも、あの〈いたずら〉がなければ〈逆転時計〉を入手できなかったかもしれない、という点が。

 

それとも、もっとおそい時間になるにしても、マクゴナガル先生はいずれにしろ、ハリーが睡眠障害の件で質問しにいくか〈組わけ帽子〉のメッセージのことを報告しにいくかしたときに、あれをくれるつもりだったのだろうか? その場合、そうなったときの自分は、〈逆転時計〉を()()()()()()手にいれることにつながるいたずらを自分自身にしかけたいと思うだろうか? となると、()()()()()()()唯一の可能性としては、ぼくの目がさめるまえに〈いたずら〉がはじまっていたというものしかのこらない……?

 

ハリーは自分の人生ではじめて、問題に対する解答が文字どおり()()()()()()にあるかもしれないと考えている自分を発見した。自分の脳にある神経細胞(ニューロン)は時間軸上でまえむきにしか機能しない。脳の()()()()()、脳がはたすことができるどの機能も、〈逆転時計〉の機能と組になることができない。

 

いまこの瞬間までハリーは、ある現象について自分が無知なとき、それは自分の精神の状態についての事実であって、現象そのものについての事実ではない、という E. T. ジェイネスの忠告にしたがって生きてきた。 自分が確信をもっていないということは自分についての事実であり、その確信をもてない対象についての事実ではない、ということだ。 無知は精神のなかに存在するということだ。 地図に境界がえがかれていないことは、土地に境界がないことを意味しない。 謎めいた問題というものは存在するが、謎めいた解答というのは用語上の矛盾である。 現象はだれか特定のひと()()()()謎めいたものになりうるが、そのもの自体が謎めいているということはありえない。 神聖な謎を崇拝することは自分の無知を崇拝することとなんら変わりがない。

 

だからハリーは魔法をみたとき、おじけづくことを拒否したのだった。ひとは歴史を知らず、化学や生物学や天文学をまなんで、こういったものは昔から科学の本流にあったと、謎めいていたことは()()()なかったのだと考える。星ぼしはかつて謎だった。ケルビン卿はかつて生命の本質と生物学とを——つまり人間の意思に対する筋肉の反応と、種子からの木々の生成とを——科学の到達しうる範囲から()()()()()遠い謎だとみなした。(多少ではなく、()()()()()遠い、という点に注意してほしい。ケルビン卿は()()()()()()()()()()によって非常に感情的になっていたのである。)人類の夜明け以来、解明されてきたどんな謎も、だれかがそれを解明する直前までは謎だったのだ。

 

いま、ハリーははじめて、ある謎が()()()に謎でありつづけるおそれのある可能性と対峙している。もし〈時間〉が非循環因果ネットワークとして機能しないなら、ハリーは原因と結果の意味するものがなにか理解できない。そしてもし原因と結果を理解できないなら、それ以外のなにによって現実がつくられているのかを理解できない。自分の人間脳ではそれを()()()理解できないという可能性も十分ありうる。この脳は古めかしい線形時間の神経細胞(ニューロン)でできていて、それが現実のうちの貧弱な一部分でしかないからだ。

 

前むきな点としては、全能で全面的に信じがたいように見えていたコメッティーは実はずっと単純な説明のつくものだということがわかった。自分がそれに気づけなかったのは、()()真実が自分の仮説空間や自分の脳が理解するように進化したなにものよりもまったく外にあったからだ。いまは多分、ハリーはそれを想像することができるようになった。多少元気づけられる事実ではある。多少。

 

ハリーは腕時計に目をやった。午前十一時にちかい。きのうの夜は午前一時に眠りについたから、自然な状態であれば今夜自分は午前三時に眠ることになる。午後十時に眠って午前七時に起きるためには、合計五時間まきもどすことになる。ということは、もし、まだだれも起きていない午前六時あたりの共同寝室(ドミトリー)にもどりたいなら、いそいだほうがいい。それに……

 

()()()()()()考えてみても、あの〈いたずら〉に関して自分がやったことの()()()理解することができない。あの()()はどこからきたんだ?

 

時間旅行が真剣にこわくなってくる。

 

一方で、これが二度とない機会であることは認めざるをえない。人生で自分自身に一度しかしかけることのできないいたずらだ。〈逆転時計〉のことを知って六時間以内にしか。

 

実際、考えてみると()()()理解しがたいところがある。〈時間〉は完成した〈いたずら〉を既成事実としてこちらに提示した。なのに、それは明らかに、自分自身の仕事なのだ。コンセプトも実施手法も筆跡も。最初から最後まで、自分自身まだ理解できない部分までふくめて。

 

いや、一日は最大三十時間しかないのだから、時間は無駄にできない。自分がやらねばならないことの()()()わかっているし、それにとりかかっているあいだに、パイなどまだわからないものも解明できるかもしれない。先のばしする意味はない。ここで()()について立ち往生していてもなにも達成できない。

 

◆ ◆ ◆

 

五時間まえになって、ハリーは自分の共同寝室(ドミトリー)にしのびこんだ。もしだれかが起きていて、ハリーがベッドで寝ているのと同時刻に自分がいるのを見られてしまうという場合にそなえて、みえすいた変装ではあるが、ローブをあたまにかぶっておいた。〈自発性複製病〉というちょっとした健康上の問題を説明しなければならないはめにはなりたくなかったからだ。

 

さいわい、まだ全員眠っているようだった。

 

そしてベッドのよこに、赤と緑の紙ときらきらの金色のリボンでつつまれた箱がひとつあった。完璧にステレオタイプ的なクリスマスプレゼントのイメージである。ただし、いまはクリスマスではないが。

 

だれかが〈音消器〉を止めていた場合にそなえて、ハリーはできるかぎりそっとそこへしのびよった。

 

箱には封筒がついていて、透明な蝋で封がされていて、印はおされていなかった。

 

ハリーは慎重に封筒をあけ、なかの手紙をとりだした。

 

そこはこうあった:

 

これはイグノタス・ペヴェレルからポッター家に子孫代々つたわる〈不可視のマント〉です。ほかの下等なマントや呪文とことなり、これはあなたをただ見えなくするだけでなく、()()ことができます。あなたのお父さんが亡くなるすこし前にわたしはこれを借りうけ、実のところ以後何年ものあいだ便利につかわせてもらいました。

 

今後はわたしは〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)になれていかざるをえないでしょう。相続人であるあなたに〈マント〉をかえすべきときがきたのですから。クリスマスプレゼントにするつもりでしたが、〈マント〉はもっと早くわたしてほしいと言うのです。〈マント〉は自分があなたに必要とされることになると思っているようです。うまくお使いください。

 

あなたはきっといま、さまざまなすばらしいいたずらのことを考えていることでしょう。お父さんがしてのけたのとおなじように。彼の悪行がすべて知られることがあれば、グリフィンドールの全女性が集結して彼の墓をほりかえすでしょう。歴史がくりかえすことを止めようとは思いませんが、すがたを見られないよう()()()気をつけてください。もしダンブルドアが〈死の秘宝〉のひとつを入手する機会をみつけたら、彼は死ぬまでそれを手ばなさないでしょうから。

 

こころからメリー・クリスマスを。

 

差し出し人の署名はなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

ほかの男の子たちがレイヴンクローのドミトリーをはなれようとしているとき、「ちょっと待って。」とハリーが言った。「わるいけど、トランクでやることがあるんだ。朝食にはあと数分で合流するよ。」

 

テリー・ブートがハリーにむけて眉をひそめた。「ぼくらの持ち物に手をだすつもりじゃないだろうな。」

 

ハリーは片手をあげた。「誓わせてもらうが、きみたちの持ち物にはそういうたぐいのことをするつもりはないし、ただ自分の所有物をさわるだけのつもりだし、きみたちのだれにもいたずらをしかけたり、そのほかいかがわしいことをするつもりはないし、朝食のために大広間にいくまでにそのどれについてもぼくの気がかわるとは思わない。」

 

テリーは眉をひそめて、「待て、そう言って——」

 

「心配いらない。」と彼らを先導するためにそこにいたペネロピ・クリアウォーターが言った。「抜け穴はない。器用な言いかたね、ポッター。法律家にでもなればいいんじゃない。」

 

ハリー・ポッターは目をしばたたかせた。ああ、そうだ。レイヴンクロー()()()だ。「ありがとう、でいいのかな。」

 

「大広間をみつけようとすれば、あなたは道に迷う。」  ペネロピはこれをまったくの議論の余地のない事実として述べた。「そうなったらすぐに、一階にたどりつく方法を肖像画にききなさい。また迷ったかもしれないと思った()()()、もうひとつの肖像画にききなさい。()()自分が上へ上へとうごいているような気がするときは。城全体の高さよりも上にいった場合は、()()()()捜索隊がくるのを待ちなさい。そうしなければわたしたちは四カ月後、雪にまみれて五カ月分年をとった、腰布一枚のあなたに会うことになる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

 

「了解」とごくりと唾を飲んでハリーが言った。「あの、そういうことは全部すぐに生徒に教えておいたほうがいいんじゃないですか?」

 

ペネロピはためいきをついた。「()()? そんなの、何週間かかっても終わらない。やりながらおぼえるのよ。」 そう言って向きをかえて去ろうとし、ほかの生徒が続く。「ポッター、三十分たってもあなたが朝食にあらわれなかったら、わたしが捜索をはじめるからね。」

 

全員がいなくなると、ハリーはメモをベッドにとりつけた。そのメモとほかのすべてのメモを、みなが起きるまえに地下一層目にはいって、書いておいたのだ。そして慎重に〈音消(クワイエタス)〉の区域へと手をのばし、眠っているハリー一号から〈不可視のマント〉をはがした。

 

そして単純にいたずらごころから、ハリーは〈マント〉をハリー一号のポーチに入れた……それがすでに自分のポーチにはいっているはずだという理解のうえで。

 

◆ ◆ ◆

 

「このメッセージがコーネリオン・フラバーウォルトへとわたされたのはわかったが。」と、貴族的な雰囲気なのに完全にふつうの鼻をもつ男の絵が言う。「()()()()()どこから来たのかをきいてもいいかね?」

 

ハリーは巧妙に無力感をだして肩をすくめた。「ぼくが聞かされた話では……『これを言ったのは空気そのもののなかにある隙間、燃えさかる奈落へ通ずる隙間から来た、うつろなうなり声だ』。」

 

◆ ◆ ◆

 

「ちょっと!」  朝食のテーブルのむこうがわの席から憤然とした調子でハーマイオニーが言う。「それは()()()のデザートでしょ! パイひとつまるごととってポーチにいれたりしたらだめじゃない!」

 

「これはパイひとつじゃない。ふたつだよ。悪いねみんな、ちょっと急いでるから!」 ハリーはほうぼうからの怒号を無視して大広間をあとにした。 ハリーは授業がはじまるすこしまえに〈薬草学〉の教室にいなければならない。

 

◆ ◆ ◆

 

スプラウト先生はするどい視線を彼におくった。「それで()()()()どうしてスリザリン生の計画の内容を知っているんですか?」

 

「情報源を教えるわけにはいきません。」とハリー。「というより、この会話自体をなかったことにしてもらいたいんです。なにか用事があってたまたまとおりかかった、というようにふるまってください。〈薬草学〉が終わりしだいぼくは先まわりしておきます。先生がくるまでスリザリン生の気をちらせることはできるかと。ぼくはこわがらせにくいし、いじめにくいタイプだし、彼らも〈死ななかった男の子〉を本気で傷つけようとはしないと思う。ただ……廊下で走ってほしいとは言いませんが、よりみちはしないでもらえるとありがたいです。」

 

スプラウト先生はながく彼のほうを見ていたが、やがて表情がやわらいだ。「気をつけて、ハリー・ポッター。そして……ありがとう。」

 

「遅刻はしないでくださいね。それと念を押しておきますが、そこにぼくがそこにいることを知らずにあなたは到着する。この会話はそもそも起きなかったことになっている。」

 

◆ ◆ ◆

 

ネヴィルをスリザリン生の輪からひっぱりだす自分をみるのは最低の気分だった。ネヴィルが言ったとおりだ。自分はあまりにもちからをこめすぎていた。

 

「こんにちは。」とハリー・ポッターが冷たく言った。「〈死ななかった男の子〉です。」

 

ほぼおなじ背たけの一年生が八人。そのうち一人はひたいに傷あとがあり、残りの一年生とちがったふるまいをしている。

 

ある〈力〉からの贈り物で

他人から見た自分のすがたを見ることができたなら!

失敗をすることはなくなり

愚かな考えもなくなり——

〔訳注:ロバート・バーンズの詩「To a Louse」の引用〕

 

マクゴナガル先生はただしかった。〈組わけ帽子〉はただしかった。こうして外部から見れば明らかだ。

 

ハリー・ポッターは、どこかおかしい。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「チューリング」
計算機科学の父と言われるアラン・チューリング。電子計算機の発明前夜の時代に仮想的な計算機のモデルを考案し、人工知能について考察した。


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15章「まじめさ」





「時間はきっとどこかでみつかると思う。」

 

◆ ◆ ◆

 

「フリジデイロ!」

 

ハリーは机のうえのグラスの水に指をいれた。冷たくなっているはずだが、なまぬるい。なまぬるいまま、変わっていない。またしても。

 

ハリーはとても、うらぎられたような感じがしていた。

 

ヴェレス家のなかには何百ものファンタジー小説がちらばっていて、 ハリーはそのうちのかなりを読んだことがある。 そして自分には謎の暗黒面(ダークサイド)があるような感じになってきている。 グラスの水に協力を拒否されることが数回つづいてから、ハリーは自分が〈操作魔法術(チャームズ)〉の教室にいるだれにもみられていないことをたしかめて、深呼吸をし、集中し、自分を怒らせたのだった。 スリザリン生にいじめられるネヴィルと、本をひろおうとするたびにだれかに殴りたおされるゲームのイメージ。十歳のラヴグッドという女の子と、ウィゼンガモートの内情について、ドラコ・マルフォイが言ったこと……

 

そして怒りが血にながれこんだとき、ハリーは憎悪に震える手で杖をもち、冷たい調子で「〈冷氷(フリジデイロ)〉!」と言った。だが、まったくなにも起きなかった。

 

()()()()()。だれかに手紙を書いて、この暗黒面に対する()()を要求したい。暗黒面なら圧倒的な魔法力が()()()()()はずなのに、ふたをひらけば()()()だった。

 

「フリジデイロ!」ととなりの席のハーマイオニーがもう一度言った。水はかたい氷になり、グラスのふちに白い結晶が形成された。彼女は自分の作業にすっかり没頭していて、ほかの生徒全員から憎悪の視線でにらまれていることをまったく意に介していないようだった。ということは、(一)危険なまでにまわりが見えていない、(二)芸術的なまでに完璧にとぎすまされた演技をしている、のどちらかだ。

 

「おお、おみごとです、ミス・グレンジャー!」と〈操作魔法術(チャームズ)〉教授でレイヴンクロー寮監のフィリウス・フリトウィックが、甲高い声で言った。 見たかぎり、決闘術大会優勝者らしいところがどこにもない小男だ。 「すばらしい! よくぞここまで!」

 

ハリーは最悪の場合として、ハーマイオニーの次点にあまんじる可能性を予期していた。 もちろん()()()()()()()()対抗心を燃やすというほうが好ましいが、その逆でも許容はできる。

 

月曜日時点で、ハリーはクラスの最下位群にはいりつつあった。つまり、ハーマイオニー以外のマグル育ちの全生徒となかよく一緒に競いあう地位である。かわいそうにひとりぼっちで首位を独走する、ハーマイオニー以外の。

 

フリトウィック先生は別のマグル生まれの生徒の机のうえに立って、無言でその子の杖の手つきをなおしている。

 

ハリーはハーマイオニーのほうを見て、ごくりとつばを飲んだ。 大局的見地からみれば当然、彼女がはたすべき役割ではあるが…… 「ハーマイオニー?」とハリーはおずおずと言った。「ぼくのやりかたはどこか間違っていると思う?」

 

ハーマイオニーの目におそるべき親切の光がともった。ハリーの脳のかたすみのなにかが、必死に屈辱感をさけんだ。

 

五分後、ハリーの水は室温よりもはっきりと冷たくなったようだった。ハーマイオニーは彼のあたまをポンとたたくかわりに一言ほめ、つぎはもっと発音に気をつけるように、と言いのこしてから、ほかのだれかを助けに去っていった。

 

ハリーを助けたことでハーマイオニーはフリトウィック先生から寮点を一点もらった。

 

ハリーはあごが痛むほど歯ぎしりをした。余計に発音がわるくなりそうだった。

 

競争が不公平になろうがかまうもんか。これから毎日の追加二時間ですることは決まったぞ。ハーマイオニー・グレンジャーに追いつくまで、トランクのなかにこもって自習だ。

 

◆ ◆ ◆

 

〈転成術〉(トランスフィギュレイション)はホグウォーツでみなさんが学ぶなかでもっとも複雑で危険な魔法です。」とマクゴナガル先生。 厳格な老魔女の表情には鷹揚さのかけらもなかった。 「この授業の邪魔をする人には退席を命じ、もどることも許しません。これは警告です。」

 

彼女の杖が机をたたき、机はなめらかにブタのかたちへと変じた。 マグル生まれの生徒が数人ちいさな悲鳴をあげた。 ブタはあたりをみまわして、困惑したように鼻をならし、また机になった。

 

〈転成術〉教授は教室をみまわし、ある生徒のところで視線を止めた。

 

「ミスター・ポッター。あなたは数日まえに教科書をうけとったばかりですね。〈転成術〉の教科書は読みはじめましたか?」

 

「まだです。すみません。」

 

「謝罪はけっこうですよ。予習が必要であればそのように指示します。」 マクゴナガルの指が机をたたいた。 「ミスター・ポッター、予想してみてください。これは机でわたしがそれをブタに〈転成〉させたのでしょうか、それとももともとブタで一時的に〈転成〉を解除したのでしょうか? 教科書の第一章を読んでいたらわかっていたはずです。」

 

ハリーはわずかに眉をひそめた。 「ブタからはじめるほうが簡単ではないかと思います。もともと机だったとしたら、それは立ちあがる方法を知らないかもしれません。」

 

マクゴナガル先生はくびをふった。「あなたが悪いのではありませんが、ミスター・ポッター、〈転成術〉におけるただしい解答は予想()()()()()()()ことです。間違った解答はきわめて厳しく、空欄の解答欄は慈悲をもって採点されます。ここでは自分がなにを知らないかを知ることをまなばなければなりません。わたしの質問がどれほど明らかでも初歩的でも、『よくわかりません』と答える人を悪くはあつかいませんし、それを笑う人は寮点を減点します。この規則がなぜ存在するのかわかりますか、ミスター・ポッター?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。「わかりません。」

 

「正解です。〈転成術〉は、六年生になるまで教わらない〈現出(アパレイト)〉よりも危険です。残念ながら、〈転成術〉は若い年齢から学習と練習をしなければ大人になったときの能力が最大化されません。つまりこの科目は危険です。間違いをおかすことをそれなりにおそれるべきです。わたしの生徒が回復不可能な傷をおったことはありませんし、もしこれがわたしの記録をやぶる最初のクラスになったとしたらわたしは()()します。」

 

何人かの生徒がごくりとした。

 

マクゴナガル先生は立ちあがり、机のうしろの壁にある、みがかれた木の板のところへいった。「〈転成術〉が危険な理由はいくつもありますが、ほかとくらべて特にきわだつのはこの一点です。」彼女は持ち手の太い短い羽ペンをだし、それをつかって赤い文字を書き、そしておなじペンで青色の下線をひいた:

 

〈転成術〉は永続しない!

 

「〈転成術〉は永続しない! 〈転成術〉は永続しない! 〈転成術〉は永続しない! ミスター・ポッター、ある生徒が木のブロックを水に〈転成〉させ、あなたがそれを飲んだとします。〈転成〉がとけたら、あなたはどうなってしまうでしょう?」 沈黙。 「すみません、あなたにすべき質問ではありませんでしたね。あなたがなみはずれて悲観的な想像力にめぐまれていることを忘れていました——」

 

「大丈夫です。」とごくりと唾を飲んでハリーが言う。 「『分からない』というのが最初のこたえですが、」 先生は満足げにうなづいた。 「ぼくの()()ではおそらく……もしその水の一部がぼくの体内組織に吸収されていたとしたら、腹のなかと血管のなかに木材ができて——いや、まずそれがパルプ状なのか材木なのか……」 ハリーの魔法についての理解の限界がきた。木がどのようにして水に変換されるかをそもそも理解できない。 だから水分子が通常の熱運動で散乱して魔法がきれて対応づけが反転したあとに、なにが起きるかも理解できない。

 

マクゴナガルの表情がかたくなった。「ミスター・ポッターがただしく推論してくれたとおり、彼は非常に具合が悪くなり、ただちに〈聖マンゴ病院〉へ〈煙送(フルー)〉されなければ命もあやういことになります。教科書の五ページをひらいてください。」

 

その動く写真には音がなかったが、それでもそのなかの血色をおそろしくうしなった女性が悲鳴をあげているのはわかった。

 

「この犯罪者は、『債務の支払い』と称して、黄金(きん)をワインに〈転成〉させてこの女性に飲みものとしてあたえたことで、アズカバンでの禁固刑十年に処されました。六ページにいってください。これはディメンターという生きもので、アズカバンの番人です。ディメンターは魔法力、生命力、あらゆる楽しい思考を人からすいとります。七ページの写真はその犯罪者が十年後に釈放されたときのすがたです。ご覧のとおり死んでいます——はい、なにか? ミスター・ポッター。」

 

「質問ですが、そういった最悪の事態で、〈転成〉を()()する方法はないんですか?」

 

「ありません。」とマクゴナガル先生があっさり言う。「〈転成〉を維持するには、目標物のおおきさにみあった量の魔法力を恒常的に消費します。そして数時間おきに目標物に接触しなおす必要があります。それはこの例のような場合には不可能です。このような災厄は()()()()なのです!」

 

マクゴナガル先生はまえのめりになり、表情を緊張させた。「液体や気体を〈転成〉させることはどんな状況でも決してしてはなりません。水も、空気も、水のようなものも、空気のようなものもいけません。飲むためのものでなくともいけません。液体は()()し、こまかな粒となって空気にまざります。燃やすためのものを〈転成〉させてはなりません。それは煙をだし、あらゆるひとのからだにあらゆる方法ではいりこみます。食べもの()()()()()()もいけません。たのしいいたずらとして、実際に食べられるまえに、泥でできたパイだと教えるのであろうと、だめです。厳に禁じます。それ以上言うことはありません。この教室のなかでもそとでも()()()()()()()。ここにいる()()()()、このことを理解しましたか?」

 

「はい。」と言ったのはハリーとハーマイオニー、そのほか数名。のこりはことばをうしなったようだ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「はい。」と全員が言ったか、つぶやいたか、ささやいた。

 

「いま言った規則をひとつでもやぶった人は、以後ホグウォーツにいるあいだ〈転成術〉をまなぶことが許されません。わたしにつづいて復唱しなさい。わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」

 

「わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」とガタガタの合唱で生徒たちが言った。

 

「もう一度! もっとおおきな声で! わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」

 

「わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」

 

「わたしは食べものにみえるものや人体にはいるようなものを〈転成〉させません。」

 

「燃やすためのものは煙をだしうるので〈転成〉させません。」

 

「マグルのおかねも含めて、おかねのようにみえるものを〈転成〉させることはなりません。」とマクゴナガル先生が言う。 「ゴブリンはそれをだれがやったかあばく方法をもっています。 法律的観点からは、ゴブリン族は魔法界のあらゆる通貨偽造者と恒久的な()()状態にあります。彼らは〈闇ばらい〉を送りません。軍を送ります。」

 

「わたしはおかねのようにみえるものを〈転成〉させません。」と生徒たちが復唱した。

 

「なによりも、生命のある対象物、特に()()()()()〈転成〉させてはなりません。そうすれば、簡単に具合が悪くなり、〈転成〉の方法や維持された時間のながさによっては、死ぬこともあります。」マクゴナガル先生は一度沈黙した。「ミスター・ポッターがいま手をあげているのは、〈動物師(アニメイガス)〉変身術、具体的には人間がネコになり、またもどるのをみたことがあるからです。ですが〈動物師〉変身術は()()〈転成術〉ではありません。」

 

マクゴナガル先生はポケットから小さな木材をとりだした。杖でたたくとそれはガラスの玉になった。そして「〈晶鉄(クリストフェリウム)〉!」と言うと、ガラスの玉は鉄の玉になった。最後に杖でもうひとたたきすると、鉄の玉は木材にもどった。「〈晶鉄(クリストフェリウム)〉は固体のガラスである対象物をおなじようなかたちの固体の鉄にかえます。逆はできません。机をブタにするのにもつかえません。もっとも一般的な〈転成術〉——すなわちこの教室でまなぶ自由〈転成術〉は、あらゆる対象物を——すくなくとも物理的な形状に関しては——どんな目標物にも変化させることができます。このため、自由〈転成術〉は無詠唱でおこなわなければなりません。〈操作魔法(チャーム)〉をつかうとするなら、ひとつひとつの対象物と目標物ごとに別々の詠唱が必要になるからです。」

 

マクゴナガル先生は生徒たちをするどい視線で見た。「()()()()〈転成術〉の〈操作魔法〉からはじめて、あとで自由〈転成術〉を教える教師もいます。たしかに、そのほうが最初は楽です。ですが、はやくから悪いくせがついて、あとの学習に支障がでることもあります。この教室では()()()()自由〈転成術〉をまなびます。そのために、対象のかたちと、目標のかたちと、変化とを自分のあたまのなかでイメージして、無詠唱で呪文をかけることができなければなりません。」

 

「そしてミスター・ポッターの質問へのこたえですが、生命のある対象物にかけてはいけないのは()()〈転成術〉です。生命のある対象物を()()()()()やりかたで安全かつ可逆的に変身させるのにつかえる〈操作魔法(チャーム)〉や魔法薬(ポーション)はあります。たとえば手足をうしなった〈動物師(アニメイガス)〉は変身したあとも手足をうしなったままです。自由〈転成術〉は安全()()()()()()()。〈転成〉させられたあいだ、からだは変化します。たとえば、呼吸はからだの一部を周囲の空気に恒常的に放出します。〈転成〉がとけるとからだは()()()すがたにもどろうとしますが、それができません。杖を自分のからだにあてて、金髪の自分をイメージすると、あとで髪の毛はぬけおちます。肌がもっときれいな自分のすがたをイメージすると、あとで〈聖マンゴ〉にながく滞在することになるでしょう。自分をおとなのからだに〈転成〉させると、〈転成〉がとけたとき、その人は死にます。」

 

これでふとった男の子や、完璧な美人でない女の子の存在が説明できる。それをいうなら老人の存在も。自分を毎朝〈転成〉させられるならそうはなっていない……。ハリーは手をあげ、目でマクゴナガル先生に信号をおくろうとした。

 

()()()、ミスター・ポッター?」

 

「生命のある対象物を静的な目標物——たとえばコイン——いや、すみません、申し訳ありません……鉄の玉に、〈転成〉させることはできますか。」

 

マクゴナガル先生はくびをふった。「ミスター・ポッター、無生物も時間とともに内部がすこしずつ変化します。最初数分間は目にみえるからだの変調はなく、なにもおかしなことあるように見えないかもしれません。ですが一時間あとには具合が悪くなり、一日後には死にます。」

 

「ええと、すみません。するともしぼくが第一章を読んでいたら、その机はもともと机であってブタではないと()()できていたはずなんですね。といってもそのためには、あなたがブタを死なせないという()()仮定が必要になりますが。可能性が非常に()()()ではあるとはいえ、それは——」

 

「ミスター・ポッター、あなたのテストの採点はわたしにとってつきることのない喜びをあたえてくれそうですが、もしそれ以上質問があるなら、授業が終わるまで待っていただけますか。」

 

「もう質問はありません。」

 

「では復唱を。」とマクゴナガル先生。「特定の目的の〈操作魔法(チャーム)〉か魔法薬(ポーション)をつかってそうしろと具体的な指示をうけた場合をのぞいて、わたしは生命のある対象物、特に自分を〈転成〉させません。」

 

「〈転成術〉が安全かどうかわからない場合は、ホグウォーツにおける〈転成術〉の唯一の権威であるマクゴナガル先生かフリトウィック先生かスネイプ先生か総長先生にたずねるまで自分で試しません。ほかの生徒にたずねることは、同じ質問をした覚えがあるとその生徒に言われたとしても、()()()()()()。」

 

「現在のホグウォーツの〈防衛術〉教授から、ある〈転成術〉は安全だと言われても、〈防衛術〉教授がそれをかけてなにも悪いことが起きていないように見えても、それを自分では試しません。」

 

「わたしにはほんのすこしでも不安な場合には〈転成術〉をつかうことを断固拒否する権利があります。ホグウォーツ総長であってもそう命令はできませんし、〈防衛術〉教授から寮点を百点減点し退学させるとおどされても、〈防衛術〉教授からのそういう命令にはしたがいません。」

 

「これら規則のひとつでもやぶった場合、わたしはホグウォーツにいるあいだ〈転成術〉をまなびません。」

 

「最初一カ月はこの授業の開始時に毎回この規則すべてを復唱してもらいます。」とマクゴナガル先生が言う。「今回はマッチを対象物、針を目標物としてはじめましょう……杖から手をはなしなさい。よろしい。『はじめる』と言ったのは、メモをとりはじめなさいということです。」

 

授業の終わる三十分まえに、マクゴナガル先生はマッチを配布した。

 

授業が終わるときハーマイオニーは銀色のマッチを手にし、マグル生まれもそうでないのもふくめてのこりの生徒全員は、なにも変化のないままのマッチを手にしていた。

 

マクゴナガル先生はハーマイオニーにもう一点レイヴンクローの点を進呈した。

 

◆ ◆ ◆

 

〈転成術〉の授業が終わると、ハーマイオニーはハリーの机のところにきた。ハリーは教科書をポーチにしまっているところだった。

 

「ねえ……」と純粋無垢な表情をしてハーマイオニーが言う。「わたしはきょうレイヴンクローの点を二点もらったでしょう。」

 

「もらったね。」

 

「でもあなたの()()にはおいつかない。あなたほどあたまがよくないっていうことかなあ。」

 

ハリーはポーチに宿題を食わせおわり、怪訝そうな目でハーマイオニーのほうをむいた。実のところ、そのことはすっかり忘れてしまっていた。

 

ハーマイオニーはまばたきで()()()()()()()()()()()()。「でも授業は毎日あるし。あなたがつぎにハッフルパフ生を救出することになるのはいつかしら? きょうは月曜日。なら木曜日まではもつわけだ。」

 

二人はたがいの目を、まばたきひとつしようとせずに見あった。

 

ハリーがさきに口をひらいた。「これはもう戦争だってわかってるよね。」

 

「和平をむすんでいたなんて、初耳。」

 

二人以外の全生徒が、夢中になってそれを見ていた。二人以外の全生徒だけでなく、残念ながら、マクゴガナガル先生も。

 

「そうだわ、ミスター・ポッター。」と部屋の奥からマクゴナガル先生が言う。「いい知らせがあります。あなたの提案する〈スピンスター・ウィケット〉の防護方法をマダム・ポンフリーが承認してくれました。来週末までには処置が終わる予定です。これだけのお手柄ですから……そうですね、レイヴンクローに十点としましょう。」

 

ハーマイオニーの顔がうらぎりとショックで呆然となった。ハリーは自分の表情もあまりちがわないだろうと思った。

 

()()……」とハリーが声をひそめて言った。

 

「この十点は当然のみかえりで、()()()()()()()()()()()。わたしは気まぐれに寮点を配布したりはしません。あなたにとってはこわれやすいものを見て防護する方法を提案したというだけの簡単なことかもしれませんが、〈スピンスター・ウィケット〉は高価ですから、前回一個こわれたとき総長はあまりいい顔をしませんでした。」マクゴナガル先生は思案するような顔になった。「ふむ。授業がはじまって一日目に十七点を獲得した生徒はいたかしら。正確にはしらべておきますが、おそらく新記録ですね。夕食で発表してもいいでしょうか?」

 

先生!」とハリーは声をあげた。「これは()()()()()戦争です! 干渉しないでくださいよ!」

 

「これで()()()木曜日までもちますね、ミスター・ポッター。もちろん、それまでに寮点を()()()()失態をおかさなければですが。たとえば教師への無礼な言動など。」マクゴナガル先生はほおに手をあて、なにかをふりかえるようすになった。「金曜日が終わるまでには負の数になっていると予想しておきます。」

 

ハリーの口がぱたりととじた。ハリーはできるかぎりの〈殺人視線〉をマクゴナガルにおくったが、彼女は愉快そうにしていただけだった。

 

「夕食での表彰は決まりですね。」マクゴナガル先生は熟考した。「でもスリザリン生を不機嫌にしても意味がありませんから、簡単な表彰ですませなければ。点数の量とそれが新記録であることにだけ触れて……。そうだ、もしだれかから宿題を助けてほしいと言われて、あなたがまだ教科書を読みはじめていないことに失望されたら、ミス・グレンジャーにまわしてあげてくださいね。」

 

()()!」とハーマイオニーがだいぶ甲高い声で言った。

 

マクゴナガル先生は彼女を無視した。「ふむ。ミス・グレンジャーが夕食時の発表にふさわしいことをしてくれるのはいつになるでしょうか? それがなんであれ、期待していますよ。」

 

ハリーとハーマイオニーはたがいに無言のまま合意して、向きをかえて教室を飛びだした。レイヴンクロー生たちが夢中になって二人を追った。

 

「あの……」とハリーが言う。「夕食のあとの約束はまだ有効?」

 

「もちろん。あなたにこれ以上勉強でおちこぼれてもらいたくないから。」

 

「そりゃどうも。ところできみがすでに優秀なのはわかったけど、合理主義の基本的な訓練をうけさせてあげたらどうなるか興味があるな。」

 

「それがほんとにそんなに役に立つの? いまのところあなたの〈操作魔法術(チャームズ)〉や〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の助けにはなってないみたいね。」

 

短い沈黙があった。

 

「だって、ぼくはまだ教科書をもらってから四日目だから。おかげで杖をつかわずに十七点獲得するしかなくてね。」

 

「四日目? 四日で八冊は無理にしても、()()くらいは読めるでしょ。その調子じゃ何日かかるの? 数学にはくわしいみたいだから、八かける四をゼロでわるといくつになるか教えてくれる?」

 

「ぼくはもう授業がある。きみのときはなかった。でも週末なら時間があるから……八かける四をイプシロンでわって、イプシロンを正の方向からゼロにちかづける極限をとって……日曜日の午前十時四十七分だ。」

 

「わたしは()()で読みおえたけど。」

 

「じゃあ土曜日の午後二時四十七分にする。時間はきっとどこかでみつかると思う。」

 

そして夕となり、また朝となった。これが第一日である。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 





今回の非ハリポタ用語:「ゼロでわる」
この回ではあっさり流されましたが、ゼロ除算をどう評価(定義)するかは数学でもいろいろ。ところで、SF短編の名手テッド・チャンに「ゼロで割る」という題の小説(浅倉久志翻訳、短編集『あなたの人生の物語』収録)があり、おすすめです。


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16章「水平思考」

ぼくはサイコパスじゃない。発想がゆたかなだけだ。

 

◆ ◆ ◆

 

水曜日、〈防衛術〉の教室にはいってすぐ、ハリーは()()科目は()()()()()()と気づいた。

 

まず、ホグウォーツでこれほど広い教室は見たことがない。大学の大教室のように、席の列が段をなして、白い大理石の巨大な教壇にむかってならんでいる。 この教室は城のうえのほう——五階——にあるが、このような部屋がどうやってこの城にはいるのかということについての説明は、きっとそれ以上えられないのだろう。 だんだんと分かってきたことだが、ホグウォーツにはユークリッド幾何学もそうでないものも含めて、()()()()()()らしい。つまり接続はあるが、方向はない。

 

大学の講堂にあるような折りたたみ式の椅子はない。 そのかわり、ごくふつうのホグウォーツの木製机と木製椅子が、教室の各段の曲線にそってならべてある。 ちがうのは、それぞれの机のうえに、ひらたくて白い正方形の謎の物体がおかれていることだ。

 

巨大な教壇の中心にある黒っぽい大理石の小さな演台が、孤立した教師の机だ。 クィレルは椅子にしずみこみ、あたまをうしろにもたれさせ、ローブにわずかによだれをたらしている。

 

なにか見おぼえがあるような……?

 

ハリーは授業にいちはやく到着したので、ほかの生徒はまだひとりもいない。 (時間旅行を表現することにかけて英語には欠陥がある。具体的には、英語には時間旅行の便利さを十分に表現する語彙がない。) クィレルはいま……機能していないようだし、いずれにしろクィレルにちかづきたいとはとくに思わない。

 

ハリーは机をえらび、そこまであがっていき、座り、〈防衛術〉の教科書をとりだした。 この一冊の進捗は八分の七ほど——実はこの授業のまえに読みおえておこうと思っていたのだが、予定が遅れ、そのために今日すでに〈逆転時計〉を二回つかってしまった。

 

ほどなくして教室にひとがはいってきて、音や声がした。 ハリーはそれを無視した。

 

「ポッター? なんできみがここに?」

 

ここにあるはずでない()()声に、ハリーは視線をあげた。 「ドラコ? きみこそなんで……あ、すごい、()()がいるんだ。」

 

ドラコのうしろに立つ少年のうちのひとりは十一歳にしてはかなりの筋肉をつけており、もうひとりはあやしげにバランスをとっているような立ちかたをしていた。

 

白い金髪のドラコがやけに得意げな笑みをうかべ、自分のうしろを手でさした。 「ポッター、紹介する。こちらはミスター・クラッブ。」  そして手を〈筋肉〉から〈バランス〉にうごかして、 「……こちらはミスター・ゴイル。ヴィンセント、グレゴリー、こちらはハリー・ポッターだ。」

 

ミスター・ゴイルはくびをかしげ、多分意味ありげな表情をこちらにむけているが、結果としてはただ、視力がわるそうに見えている。 ミスター・クラッブはできるだけ声を低くしようとした感じで「よろしくな」と言った。

 

ドラコの顔につかのまの狼狽がうかんだが、すぐに優越感のある笑顔にかわった。

 

()()がいるんだ!」とハリーはくりかえした。 「どうやれば()()()子分が手にはいるの?」

 

ドラコの顔に薄ら笑いがひろがった。 「申し訳ないが、ポッター、そのためにはまずスリザリンに〈組わけ〉されておかないと——」

 

「は? 不公平じゃないか!」

 

「——それに、きみの生まれるまえに一族どうしがとりきめをしておく必要がある。」

 

ハリーはミスター・クラッブとミスター・ゴイルを見た。二人とも一生懸命に威嚇しようとしているようだ。 つまり、まえのめりになって、背中をまるめて、くびをつきだして、こちらを見つめている。

 

「その……ちょっと待って。」とハリー。「何年もまえから、きみにはこれが用意されてたってこと?」

 

「そのとおり、ポッター。きみは運がわるかったと言わざるをえない。」

 

ミスター・ゴイルは威嚇姿勢のまま、爪楊枝をとりだし、歯を掃除しはじめた。

 

「そして、その護衛と知りあいに()()()()()()きみがそだつように……学校の一日目にはじめて二人にあうように、というのがルシウスの厳命だった。」

 

これをきいてドラコの顔から笑いがきえた。 「もういい、ポッター。きみが優秀だということは学校全体がもう知っている。だから見せびらかすのはそこまでに——」

 

「つまり二人は()()()()()()()()()きみの子分になると言われてきた。()()()子分になるということがどういうことか想像してきた——」

 

ドラコはひるんだ。

 

「——それだけじゃなく、二人は()()()()()()()()知っていて、そのための()()もずっと——」

 

「やめろって親分が言ってんだろ。」とミスター・クラッブが声をならした。ミスター・ゴイルは爪楊枝をかみ、歯のあいだにはさんで、片手でもう片方のこぶしをならした。

 

「ハリー・ポッターのまえではそれをやるなと言っておいただろう!」

 

二人はすこし恥ずかしそうにし、ミスター・ゴイルは爪楊枝をすばやくローブのポケットにもどした。

 

だがドラコが目をはなしてまたハリーのほうをむいた途端、二人は威嚇にもどった。

 

「この愚鈍な二人の侮辱行為について、謝罪させてもらう。」とドラコが堅苦しく言った。

 

ハリーは意味ありげな視線をミスター・クラッブとミスター・ゴイルにおくった。「ちょっときびしすぎるんじゃないかな、ドラコ。ぼくなら、子分にはちょうどああいうふうにしていてほしいと思うよ。ぼくに子分がいたとしたら、だけど。」

 

ドラコはぽかんと口をあけた。

 

「おい、グレゴリー、あいつ、おれらを親分となかたがいさせようとしてんのか。」

 

「ミスター・ポッターはそこまでバカじゃないだろう。」

 

「そんなまさか。」  ハリーはさらりと言う。「現在の雇用主が十分感謝してくれない場合にそなえてこころにとめておいたらどうか、というだけだ。それに、労働条件を交渉するときほかの内定(オファー)があるにこしたことはないよね?」

 

()()()はレイヴンクローでなにしてんだ?」

 

「想像できないね、ミスター・クラッブ。」

 

「二人とも()()()。」とドラコが歯ぎしりしながら言う。「これは()()だ。」 目にみえて無理をして、ドラコはハリーへと自分の注意をむけた。「とにかく、きみはスリザリンの〈防衛術〉の授業でなにをしているんだ?」

 

ハリーは眉をひそめた。「ちょっと待って」 ハリーの手がポーチにむかった。「時間割表」と言って、彼はその羊皮紙に目をやった。「防衛術は午後二時三十分、いまは……」ハリーは機械式腕時計を見た。十一時二十三分だ。「二時二十三分。ぼくが時間がたつのを忘れたのでないかぎり、だけど。」 まあ、もしそうだったとして、()()()()()()授業がなんであれ、自分にはそこにいく方法がある。ハリーは〈逆転時計〉が大好きになった。いつか、大人になったら、結婚したい。

 

「いや、時間はあってると思う。」とドラコが困惑したようすで言った。講堂のほかの部分に目をやると、緑色のえりのローブ姿の子たちがはいってきていて……

 

グリフィンドーク(とんま)まで! ()()()()()なんでここへ?」

 

「ふむ。」とハリー。「クィレル先生はたしか……正確な表現は忘れたけれど……ホグウォーツの教育の慣習をいくつか無視すると言っていた。たぶん自分の全授業を合同にしたんじゃないかな。」

 

「ああ。それで一人目のレイヴンクロー生がきみだったと。」

 

「うん。早くついたんでね。」

 

「それで、なんでまたあんなに奥の席に?」

 

ハリーはまばたきをした。「さあ、座るのにちょうどよさそうだったから?」

 

ドラコはあざけるような音をだした。「教師からあれ以上距離をおくことはできそうにないな。」金髪の少年はわずかに近よってきた。「ところで、きみがデリックたちに言ったという内容はほんとうか?」

 

「デリックってだれ?」

 

「きみがパイをひとつぶつけた相手だろう?」

 

「ふたつだけど。ぼくはなにを言ったことになってるの?」

 

「彼がしたことは狡猾でも野心的でもないし、サラザール・スリザリンの名をけがしている、と。」ドラコはハリーをじっと見た。

 

「だいたい……あってる。」とハリー。「ぼくの記憶では、『これは将来きみたちの利益となるものすごく巧妙な計画みたいなものなのか、それとも見ためどおり単にサラザール・スリザリンの名前をけがすだけのことなのか』、みたいな感じだったけど。正確な表現はおぼえてない。」

 

「きみはみなを困惑させているぞ。」と金髪の少年が言った。

 

「へ?」とハリーは正直に困惑して言った。

 

「ウォリントンによると、〈組わけ帽子〉のしたにいる時間が長かった者は〈闇の魔術師(ダークウィザード)〉になるおそれが高いという。だれもが念のためにきみにとりいっておいたほうがいいかもしれない、と言っている。そのあとで、あろうことかきみは何人もの()()()()()()()()守ったりした、()()()()()、デリックがサラザール・スリザリンの評判をけがしたということをきみが言ったとか! こんなものをどう受けとめればいいんだ?」

 

「〈組わけ帽子〉はぼくを『スリザリン!冗談さ!レイヴンクロー』寮にいれたから、ぼくはそのとおりにふるまっているということ。」

 

ミスター・クラッブとミスター・ゴイルは二人とも失笑し、ミスター・ゴイルはすばやく手を口にあてるはめになった。

 

「そろそろ席につかないと。」 ためらい、背をすこしのばし、ちょっとだけ正式な調子でドラコが言う。「前回の話し合いのつづきだが、ぼくはきみの条件をのもう。」

 

ハリーはうなづいた。「できたら土曜日の午後までのばしてもらえないかな? いまちょっとした競争をしてるんだ。」

 

「競争?」

 

「ぼくがハーマイオニー・グレンジャーとおなじくらいはやく教科書を読みおえることができるか、っていう競争。」

 

「グレンジャー……」とドラコは復唱し、怪訝そうな目した。「というとあの、自分がマーリンだと思いこんでる泥血(マッドブラッド)か? ()()()をだしぬこうとしているのなら、全スリザリン生が()()()()()応援するぞ、ポッター。それなら土曜日までは邪魔しないようにする。」 ドラコは礼儀ただしくあたまを下げ、子分をつれてその場をあとにした。

 

ああ、これをやりくりするのはなかなかたのしめそうだ。いまからわかる。

 

緑、赤、黄、青の四色それぞれのえりをつけた子たちが教室にどんどんはいってきた。ドラコたちは最前列でとなりあう三席を手にいれようとしている最中のようだった。もちろん先客がいる席を。ミスター・クラッブとミスター・ゴイルは元気に威嚇しているが、あまり効果はないようだ。

 

ハリーはかがんで〈防衛術〉の教科書のつづきを読んでいった。

 

◆ ◆ ◆

 

午後二時三十五分になり、ほとんどの席がうまり、それ以上はいってくる生徒がなくなると、クィレル先生は椅子のうえでガタンと動き、背すじをのばした。その顔が、各生徒の机のうえの、ひらたくて白い正方形の物体にあらわれた。

 

ハリーはそこにクィレル先生の顔が突然出現したことと、それがマグルのテレビに似ていることにびっくりした。どこかなつかしく、悲しくもある。それはふるさとの一部のようでもあり、実際はそうではない……

 

「こんにちは習技生諸君。」 クィレル先生の声は机のうえのスクリーンからでていて、直接ハリーに語りかけているようにきこえた。「ようこそ〈戦闘魔術〉の初回授業へ。ホグウォーツ創設者はこう呼んだが、二十世紀末の呼びかたでは〈闇の魔術に対する防衛術〉ともいう。」

 

必死になにかをかきまわす音がきこえた。おどろいた生徒たちが羊皮紙やメモ帳に手をのばしたのだ。

 

「やめなさい。この科目の古い名前を書きとめる必要はない。わたしの授業ではそのような無意味な質問にこたえることができても成績にはむすびつかない。約束する。」

 

何人もの生徒たちがこれをきいて背をのばした。かなりショックをうけたようだ。

 

クィレル先生は薄ら笑いをうかべた。「あの役立たずな一年次〈防衛術〉教科書を読んで時間を無駄にした諸君は——」

 

だれかが息をつまらせたような音をだした。ハーマイオニーだろうか。

 

「——気づいたかもしれないが、この科目は〈闇の魔術に対する防衛術〉とよばれているわりに、そこで教えられるのは、たいした悪夢をみせるわけでもない〈悪夢蝶〉や、一日かけてやっと木材を二インチ分解することができる〈酸性スラグ〉から身をまもることにすぎない。」

 

クィレルは椅子をうしろにおしだして立ちあがった。ハリーの机のうえのスクリーンはそのうごきをすべて映しだしていた。クィレル先生は教室の前方にのしのしと歩いていき、声をとどろかせた:

 

「ハンガリアン・ホーンテイルの背のたかさは人間十人分以上だ! はやく正確に火をふき、空中をとぶ〈スニッチ〉をも溶かすことができる! 〈死の呪い〉一発でそれをたおすことができる!」

 

息をのむ音が生徒のあいだからきこえた。

 

「〈山トロル〉はハンガリアン・ホーンテイルより危険だ! 鋼鉄をかみくだくほどのちからがあり、 その皮膚は〈失神の呪文(ヘックス)〉や〈切断の魔法(チャーム)〉にも耐える! 嗅覚はするどく、獲物が群れているのか、孤立していて標的にしやすいのかを遠くからかぎわけることができる! おそろしいことに、トロルはみずからに対する一種の〈転成〉をつねに維持することができる唯一の魔法生物だ——つねに自分のからだを自分自身に変化させることによって。なんとかして腕をもぎとることができたとしても、数秒でそれは再生する! 火や酸で皮膚に瘢痕をのこし一時的にトロルの再生能力を混乱させることはできるが、それも一、二時間程度にすぎない! 棍棒を道具として使うほどの知能もある! 〈山トロル〉は〈自然〉がもたらした三番目に完全な殺人機械だ! 〈死の呪い〉一発でそれをたおすことができる!」

 

生徒たちはみなかなりのショックをうけたようだった。

 

クィレル先生はずいぶん暗い笑みをうかべた。「諸君のおそまつな三年次〈防衛術〉教科書は山トロルを日光にさらすようすすめている。その場でトロルは硬直するという。修技生諸君、これこそわたしの授業にはけっしてでてこない無益な知識だ。日光のある場所で山トロルにであったりはしない!日光を使って彼らをとめるというのは、実践を犠牲にして枝葉末節の知識をみせびらかすことにこだわる教科書著者のおろかさのたまものだ。山トロルに対処するバカげた奥の手があるからといってそれを実際に使うべきということにはならない! 〈死の呪い〉なら防御も阻止もできない。脳のあるもの相手にはかならず機能する。諸君が成人魔法使いになったとき〈死の呪い〉を使うことができないでいたとしても、単に〈現出(アパレイト)〉すればよい! 二番目に完全な殺人機械であるディメンターに対峙するときも同様。〈現出(アパレイト)〉すればよいのだ!」

 

「無論……」とクィレル先生は声を低く強くして言う。「〈現出(アパレイト)〉防止の呪文(ジンクス)がかかっている場合は別だが。さて、一人前の魔法使いになった諸君をおびやかす怪物はたったひとつだけ存在する。ほかのなによりも飛びぬけて危険な怪物、それは〈闇の魔術師〉だ。これだけが諸君をおびやかすことができる。」

 

クィレル先生のくちびるが細くむすばれた。「不本意ながら、ここでは〈魔法省〉が要求する部分の一年次期末試験に合格するための瑣末な知識も教えさせてもらうが、こういった部分の成績は諸君の将来にはまったく影響しない。合格より上の成績がほしい者は、どうぞそのおそまつな教科書で自習して時間を無駄にしてくれてけっこう。この科目の名前は〈地味な厄介者に対する防衛術〉ではない。諸君がここにいるのは〈闇の魔術〉に対して身をまもる方法をまなぶためだ。つまり、この際はっきりさせておくが、〈闇の魔術師〉に対してだ。つまり、諸君を傷つけようとする者たち、諸君がさきに傷つけなければおそらくそれに成功する者たちに対してだ! 攻撃なしに防衛はできない! たたかうことなしに防衛はできない! 諸君にこのカリキュラムを要求したのは、〈闇ばらい〉に護衛された、肥満体で穀潰しの政治家たちだが、彼らにはこの現実は荷がおもすぎるようだ。そんな愚か者のことなど知ったことか! 諸君がここにいるのは、ホグウォーツで八百年の歴史あるこの科目をまなぶためだ! 一年次〈戦闘魔術〉へようこそ!」

 

ハリーは拍手しはじめた。感激してしかたがなかった。

 

ハリーが手をたたきはじめたのに応じて、ちらほらとグリフィンドールから、さらにスリザリンからも拍手がでた。だがほとんどの生徒は、ただ呆然として反応できないようだった。

 

クィレル先生が宙を切るしぐさをすると、拍手は一瞬でやんだ。「どうもありがとう。では具体論にうつる。わたしは〈戦闘〉の一年次クラスをひとつに合併させた。この合同授業によりわたしは諸君に二倍の授業時間を提供することができ——」

 

恐怖に息をのんだ音があちこちからした。

 

「——その負担の増大の埋め合わせとして、宿題は課さないことにする。」

 

恐怖に息をのんだ音が急にとぎれた。

 

「そのとおり。聞きちがいではない。わたしは諸君に戦闘を教えるのであって、戦闘についての宿題を月曜日までに十二インチ分書かせるのではない。」

 

ハリーはいまハーマイオニーがどんな表情をしているかを想像し、となりに座っておけばよかったと心底おもった。おそらく正確に想像できている自信はあったが。

 

そしてハリーは恋におちた。これはもう、ハリー、〈逆転時計〉、クィレル先生の三者結婚だ。

 

「おもしろくかつ教育的となろう課外活動をのぞむ人のために、すでに手配ができている。 諸君はクィディッチに興じる十四人を観戦するかわりに()()()能力を世界にみせてみたくないか? 戦闘には一隊七人以上が参加できる。」

 

これは()()()ぞ。

 

「これら課外活動ではクィレル点を獲得することができる。クィレル点とはなにか? 寮点のシステムはわたしの目的には適合しない。希少すぎるからだ。わたしは生徒たちにもっと頻繁に評価を知らせたい。筆記試験を課すことはめったにないが、試験をおこなう場合、採点は即時になされる。誤答が多い生徒の試験用紙には、正答できた生徒の名前が表示される。正解した生徒はほかの生徒を手だすけすることによりクィレル点を獲得することができる。」

 

……おお。どうしてほかの先生はこういう風にしないんだろう?

 

「クィレル点はなんの役に立つのか? まず、十クィレル点は一寮点に相当する。だが利点はそれだけではない。通常とことなる時間帯に試験をうけたい、ある回の授業をできれば欠席したい、といった要望も、十分なクィレル点をためた生徒にだけは柔軟に対応しよう。隊の司令官は、クィレル点を基準にしてえらばれる。クリスマスにあたっては——クリスマス休暇の直前に——わたしはだれかひとりの望みをかなえる。わたしの能力、影響力、なによりも発想力のおよぶかぎり、学校関連のことがらであればなんでも。わたしもスリザリンだから、もし諸君ののぞみをかなえるために必要とあれば、諸君にかわって狡猾なたくらみを提供することもできる。のぞみをかなえられるのは、一年次から七年次までの全員のうちで最大のクィレル点を獲得した者だ。」

 

ぼくだ。

 

「では教科書と持ちものを机において——スクリーンが監視してくれるからそうしても安全だ——この教壇まできなさい。これから〈この教室で一番危険な生徒はだれか〉というゲームをする。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは右手で杖をひねり「マ・ハ・ス!」と言った。

 

クィレル先生から標的としてわりあてられた、宙にうかぶ青い球体がまた、甲高くビンという音をだした。この音は完全な命中を意味する。直前の十回中、九回がこうだった。

 

クィレル先生はものすごく発音しやすく、()()杖のうごきもバカみたいに簡単で、()()自分が見ているものに命中する傾向のある呪文をどこからか見つけだしてくれていた。クィレル先生は尊大な態度で、現実の戦闘魔術はこれよりはるかにむずかしい、と宣言していた。この呪文(ヘックス)は実戦ではまったく役立たずだと。放出される魔法力をただ整形しているにすぎず、実際の機能は照準をとることだけで、あたったときにできるのは鼻をひどくなぐられた程度の一瞬の痛みにすぎないと。この試験の唯一の目的は物おぼえがよい人をみつけることだと。クィレル先生の予想するかぎりでこのような呪文(ヘックス)にであったことのある人はここに一人もいないだろうから、と。

 

そんなことはハリーにはどうでもよかった。

 

「マ・ハ・ス!」

 

()()()()が杖からでて標的にあたり、その球体はまたビンという音をだした。つまりこの呪文は()()()のだ。

 

ホグウォーツにきて以来はじめてハリーはほんものの魔法使いになったような気がした。ベン・ケノービがルークを訓練するのに使った球体とおなじようにこの標的も逃げてくれればいいのにとハリーは思ったが、なぜかクィレル先生はそうせずに全生徒と標的を整列させ、おたがいに呪文があたらないようにしたのだった。

 

それで、ハリーは杖をさげ、右にスキップし、杖をふってからひねり、「マ・ハ・ス!」とさけんだ。

 

低いドンという音がした。つまりほぼ命中ということだ。

 

ハリーは杖をポケットにいれ、左にスキップしてもどり、杖をとりだし、また赤い閃光をとばした。

 

その高い音はハリーの人生でゆうに最高に満足感のある音だった。腹の底から勝利のおたけびをあげたい気持ちだった。()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「マ・ハ・ス!」ハリーの声はおおきかったが、同様のさけび声が教室の教壇のあちこちからしていたためほとんど目立たなかった。

 

「そこまで。」とクィレル先生が増幅された声で言った。(音量はおおきくなかった。ふつうの音量だが、クィレル先生に対する自分の位置とは無関係に、自分の左肩のすぐうしろから言われたようにきこえた。)「全員がすくなくとも一度は成功したのを確認した。」 標的の球体は赤くなり、ふらふらと天井にあがっていった。

 

クィレル先生は教壇の中央につきでた演台のうえに立ち、片手でかるく教卓にもたれていた。

 

「さきに言ったとおり、われわれは〈この教室で一番危険な生徒はだれか〉というゲームをしている。この教室にいる生徒一名は、シュメール語の〈簡易打撃呪文(ヘックス)〉をだれよりもはやく習得し——」

 

ああ、やだやだやだ。

 

「——さらにほかの生徒七人が学ぶのを助けた。これに対してこの年次最初の七クィレル点を進呈する。きたまえ、ハーマイオニー・グレンジャー。これからゲームはつぎの段階にうつる。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーは、達成感と不安のまざった表情をしながら、まえにでた。レイヴンクロー生は自慢げになり、スリザリン生はにらみだし、ハリーは正直いらだちをおぼえていた。今回の自分のできは悪くはない。多分クラスの真ん中より上にさえいる。今回あたえられた呪文になじみがないのは全員おなじだし、ハリーはすでにアダルバート・ワフリングの『魔法理論』を最後まで読みとおしている。なのに()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーは、ハーマイオニーのほうがあたまがいいのかもしれないということを、こころのかたすみのどこかでおそれている。

 

だが、いまのところハリーはつぎの既知の事実にのぞみを託すことにした。(一)ハーマイオニーは標準教科書以外の本ももう何冊も読みおえている。(二)『魔法理論』著者のアダルバート・ワフリングは無能なバカ野郎で、学校の理事会にだけ迎合して十一歳の読者のことをろくに考えていない。

 

ハーマイオニーは中央の演台にたどりつき、そこにあがった。

 

「ハーマイオニー・グレンジャーはまったくなじみのない呪文を二分で習得した。次点の者とは、まる一分の差があった。」 クィレル先生はその場でゆっくりとからだを回転させて全生徒をながめた。 「ミス・グレンジャーのような知性がある者はこの教室で一番危険な生徒といえるだろうか? さあ、どう思う?」

 

この瞬間、だれもなにも考えられないようだった。ハリーでさえなにを言えばいいのか分からなかった。

 

「では試してみようか?」 クィレル先生はハーマイオニーのほうにむきなおり、まわりの生徒たちを指す手ぶりをした。「一人すきな生徒をえらんで、その子に〈簡易打撃呪文〉を当てなさい。」

 

ハーマイオニーはその場で凍りついた。

 

「どうした。」  クィレル先生はさらりと言う。「きみはこの呪文を五十回完全に成功させた。この呪文であとにのこる傷はできないし、さほど痛むわけでもない。殴打と同程度の痛さが数秒間つづくだけだ。」 クィレル先生の声がおおきくなる。「これは教師としての命令だ、ミス・グレンジャー。標的をきめて〈簡易打撃呪文〉をうて。」

 

ハーマイオニーの顔が恐怖にゆがみ、その手のなかで杖が震えた。その気持ちが伝わってきて、ハリーは自分の指さきで杖をにぎりしめた。クィレル先生がしたいことはわかるが。クィレル先生が言いたいことはわかるが。

 

「杖をかまえてうたなければ、ミス・グレンジャー、きみはクィレル点を一点うしなう。」

 

ハリーはハーマイオニーを見つめ、自分のほうを見かえしてくれと願った。右手をぽんと自分の胸におく。()()()()()()()()()()()()()()()()()……。

 

ハーマイオニーの杖が手のなかでぴくりとした。そして彼女は顔の緊張をゆるませ、杖をからだの側面におろした。

 

「できません。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーの声はおちついていて、大声ではなかったが、静寂のなかで全員がききとることができた。

 

「では一点減点させてもらう。これはテストで、きみは落第した。」

 

クィレル先生のことばは彼女に刺さった。ハリーにはそれがわかった。だが彼女は姿勢をまっすぐにたもった。

 

クィレル先生の声は同情的で、教室全体をみたすようだった。「知識だけでは不十分なこともあるのだ、ミス・グレンジャー。指を打撲する程度の暴力を行使したり受忍したりできないのであれば、きみは自分の身をまもることができないし〈防衛術〉にも合格できない。席にもどりなさい。」

 

ハーマイオニーはレイヴンクローの一団に歩いてもどった。おだやかな顔つきで、ハリーはそれを見てなぜか拍手をしたくなった。クィレル先生のほうが()()()()()()というのに。

 

「さて。」とクィレル先生。「ハーマイオニー・グレンジャーがこの教室で一番危険な生徒でないことはわかった。ではこの教室で一番危険なのはだれだろうか? ——もちろん、わたし以外で。」

 

ハリーはなにも考えずにスリザリンのあつまりのほうを見た。

 

「〈元老貴族〉マルフォイ家のドラコ。友人諸君はきみのほうを見ているようだ。こちらへきてもらおうか。」

 

ドラコはそれにしたがい、自分の出自への一種の誇りをあらわして、歩いていった。演台にあしをのせると、クィレル先生を見あげて笑みをうかべた。

 

「ミスター・マルフォイ。」とクィレル先生。「うて。」

 

ハリーは間にあえばそれをとめようとしただろうが、ドラコはなめらかな動きでレイヴンクローの一団のほうをむき、杖をかまえて、まるで一音節のことばのように「マハス!」と言い、ハーマイオニーが「痛!」と言って終わった。

 

「おみごと。クィレル点を二点進呈する。だがなぜミス・グレンジャーを標的に?」

 

沈黙。

 

そしてやっとドラコが「一番、目だっていたからです。」と言った。

 

クィレル先生のくちびるが薄ら笑いのかたちになった。「これがドラコ・マルフォイが危険である真の理由だ。えらんだのがほかのだれかだったら、ミスター・マルフォイはえらばれた子におそらく恨まれ、敵をつくってしまうことになる。彼女をえらんだことをほかの理由で正当化してもよかったかもしれないが、一部の生徒たちはそんな理由を言おうが言うまいが喝采してくれるだろうから、そんなことをしてものこりの諸君を疎外してしまうだけだ。つまりミスター・マルフォイが危険なのは、攻撃すべき相手と攻撃すべきでない相手の差、同盟者をつくり敵をつくらない方法を知っているからだ。クィレル点をもう二点進呈しよう、ミスター・マルフォイ。さらに、模範的なスリザリンの美徳を実演してくれたことに対して、さらにサラザールの寮に一点加点だ。友人諸君のところにもどってよろしい。」

 

ドラコはかるく会釈してスリザリンの一団へ歩いていった。緑色のえりのローブをきた何人かが拍手をしはじめたが、クィレル先生が宙を切るしぐさをすると、静寂がもどった。

 

「これでゲームは終わったようにみえるかもしれない。だが、マルフォイ家の御曹司よりも危険な生徒が一名、この教室にいる。」

 

()()()なぜか、ひどくたくさんのひとの注目がある一人の生徒に……

 

「ハリー・ポッター。きたまえ。」

 

これはあまりうまくない。

 

ハリーはしぶしぶと、つきでた演台に立つクィレル先生のところへ歩いていった。クィレル先生はまだ教卓にかるくもたれていた。

 

演台にちかづくにつれ、スポットライトのもとにおかれる緊張感で、ハリーは五感がとぎすまされるような気がした。そしてクィレル先生がハリーの危険さを実演させるためにやらせるかもしれないものごとの可能性をあれこれと思いうかべる。 なにをさせられるのだろうか。呪文の実演? それとも〈闇の王〉をたおす実演?

 

〈死の呪い〉への耐性があるかどうか、実際にやってたしかめる? いやクィレル先生は()()()()()をするほどバカではないだろう……

 

ハリーは演台のだいぶ手前でとまり、クィレル先生はそれ以上ちかづくようにもとめなかった。

 

「皮肉なことに、諸君が彼を見たのはただしいが、その理由は完全に間違っていた。諸君はこう思ったのだろう……」クィレル先生のくちびるがぴくりとした。「ハリー・ポッターは〈闇の王〉をたおした、だから危険にちがいない、と。フン。彼はそのとき一歳だったのだ。〈闇の王〉を殺した運命のいたずらがなんであったにしろ、おそらくそれはミスター・ポッターの戦士としての能力とはなんの関係もない。だが、あるレイヴンクロー生が五人のスリザリン生に対峙したといううわさをきいてから、わたしは目撃者数人を取材して、ハリー・ポッターがわたしの生徒のなかで一番危険な人物だという結論にいたった。」

 

アドレナリンがハリーのすみずみにどっと流れ、背すじをぴんとさせた。クィレル先生がどんな結論をだしたのかはわからないが、いいものには思えない。

 

「あの、クィレル先生——」とハリーは言いかけた。

 

クィレル先生は愉快そうにした。 「わたしが間違ったこたえにいきあたったんだと思っているのではないかね、ミスター・ポッター? ()()()()()はもっと期待していいということはいずれわかるだろう。」クィレル先生は机にもたれるのをやめてまっすぐに立った。 「ミスター・ポッター、モノにはすべて通常の用法がある。この部屋にあるモノを通常でない用法で実戦に使う方法を十あげたまえ!」

 

ハリーは自分が理解されたことで一瞬、純粋なむきだしのショックをうけ、絶句した。

 

そしてアイデアがながれだした。

 

「ここにある机は重いので、十分な高さから落とせば致命傷になります。椅子を十分つよくおしだせば、金属製の足で刺し殺すことができます。教室の空気は欠如させれば、ここは真空になり人は死にます。空気は毒ガスの媒体として使うこともできます。」

 

ハリーは息つぎをするため少し沈黙しなければならなかった。その沈黙にクィレル先生がわりこんで言った。

 

「それで三個。必要なのは十個だ。ほかの生徒はみな、きみが教室のすべてを使いはたしてしまったと思っているぞ。」

 

「ハハ! 床はとりのぞいて、剣山の罠をおく穴にすることができます。天井はだれかにむけて落とすことができます。壁は〈転成術〉の材料として使えば、致命傷をあたえられる武器をいくらでもつくれます。——たとえばナイフとか。」

 

「それで六個。だがさすがにもうあとがないのでは?」

 

「まだこれからですよ! こんなに人間がいるじゃないですか! グリフィンドール生ひとりに敵を攻撃させるのはもちろん()()()用法ですが——」

 

「それは数にはいらない。」

 

「——その子の血はだれかを溺死させるのに使えます。レイヴンクロー生は頭脳で知られていますが、内臓を闇市場で売って暗殺者をやとう資金にすることもできます。スリザリン生は暗殺者として有用なだけでなく、十分な速度でなげれば敵をつぶすことができます。ハッフルパフ生は勤勉であるのにくわえて、骨がありますから、それをとりはずして、研いで、だれかを突き刺すのに使えます。」

 

ここまでくるとほかの生徒たちはある種の恐怖の表情でハリーを見つめていた。スリザリン生さえもショックをうけたようだった。

 

「それで十個。レイヴンクローのをおおめにみて数にいれればだが。ではここからはボーナス点だ。この教室にある、まだきみが言及していないモノの用法をひとつあげるにつき、クィレル点を一点進呈する。」クィレル先生はハリーに気さくな笑みをおくった。「ほかの生徒諸君はきみがピンチになったと思っている。すべてのモノが言及ずみで、のこったあの標的についても、きみにはあれをどうしていいかわかっていない、と思っている。」

 

「残念! 人間にはすべて言及しましたが、まだぼくのローブがあります。これを十分つよく敵にまきつければ窒息させるのに使えます。ハーマイオニー・グレンジャーのローブは、細くひきさいて編んで縄にして、だれかを吊るすのに使えます。ドラコ・マルフォイのローブは、火をおこして——」

 

「三点。」とクィレル先生。「以後、服はなし。」

 

「ぼくの杖は敵の眼窩につっこんで脳に刺すことができます。」と言ったところで、だれかが恐怖におそわれて息をしめだすような声をだした。

 

「四点。以後、杖はなし。」

 

「ぼくの腕時計をだれかののどに押しこめばその人を窒息させることが——」

 

「五点。そこまで。」

 

「フン。十クィレル点は一寮点になるんでしたね? このままやらせてもらえたら寮対抗カップをとれたのに。ぼくのポケットにあるモノの通常でない用法すら言いはじめてなかったんですから。」 あるいはモークスキン・ポーチのなかにあるモノの。〈逆転時計〉や不可視のマントについては口外できないが、あの赤い球体についても()()()できることはきっとある……

 

()()()()()、ミスター・ポッター。では諸君は、ミスター・ポッターがなぜこの教室で一番危険な生徒なのかわかったかな?」

 

ちいさなつぶやき声が同意した。

 

「はっきりと言ってくれないか。テリー・ブート、きみの相部屋相手はなぜ危険なのだ?」

 

「あ……その……発想力があるから?」

 

()()()!」とクィレル先生が声をとどろかせ、その手が机をするとくたたき、その音が増幅されてとどいて全員がびくりとした。「ミスター・ポッターのアイデアはどれもまったくつかいものにならない!」

 

ハリーはおどろいてはっとした。

 

「床をとりのぞいて剣山の罠をおく? バカげている! 実戦ではそのような準備をする時間はないし、あったとして、もっといい使いみちはいくらでもある! 壁の材料を〈転成〉させる? ミスター・ポッターは〈転成術〉ができないではないか! ミスター・ポッターのアイデアのうち、いますぐに使え、入念な準備や敵の協力や彼の知らない魔法を必要としないものはたったひとつだけだ。それは杖を敵の眼窩につっこむというアイデアだ。それすら敵を殺すより杖をこわすだけの結果になる可能性がたかい! 端的に言えば、ミスター・ポッター、きみの案はどれも一貫して劣悪だ。」

 

「は?」とハリーは憤然として言った。「あなたが普通でないアイデアを()()()()んでしょう、実用的なアイデアではなく! あたりまえの発想を逸脱しようとしたんです! あなたならこの教室にあるものをどう使って殺しますか?」

 

クィレル先生の表情は非難めいていたが、目尻に笑みが見えた。「ミスター・ポッター、わたしは一度も『殺せ』とは言っていない。ときと場合によっては、敵は生きたまま捕らえることもある。ホグウォーツの教室という場所は一般にはそれに該当する。だがきみの質問にこたえるとすれば、わたしなら椅子のへりで首すじを殴打する。」

 

スリザリン生のほうから笑い声があがったが、ハリーといっしょに笑おうとしたのであってハリーを笑いものにしたのではなかった。

 

スリザリン生以外の全員はむしろ戦慄していた。

 

「だが、ミスター・ポッターがこの教室で一番危険な生徒な理由は、もう本人がしめしてくれたとおりだ。わたしがもとめたのは、この部屋にあるものを通常でないやりかたで実戦に使う方法だった。たとえば、机を使って呪いをふせぐとか、むかってくる敵を椅子でころばせるとか、腕に服をまいて即席の盾にするとか言う回答も可能だったはずだ。ところがミスター・ポッターはそうせず、防衛ではなく攻撃、しかも致命傷かそのおそれがある攻撃方法ばかりを言いつらねた。」

 

え? いや、そんなまさか……。 ハリーは急に目まいをおぼえ、自分がなにを提案したのか思いだそうとした。反例があるに決まっている……

 

「そして、だからこそミスター・ポッターのアイデアはどれも奇妙で役立たずだった——()()()()という目標を満たすために非現実的なまでのやりかたをとらざるをえなかったからだ。彼にとって、その目標を満たさないものはどれも検討にあたいしなかった。このような資質を()()とでもよぼうか。わたしにはそれがある。ハリー・ポッターにもそれがある、だから彼は五人の年長のスリザリン生をにらみたおすことができた。ドラコ・マルフォイにはそれがない、いまのところは。通常の殺人をかたることをおそれたりはしないミスター・マルフォイでさえ、ミスター・ポッターが同級生のからだを素材として使う話をしたとき、ショックをうけていた——いや、うけていたよ、ミスター・マルフォイ、わたしはきみの表情をみていた。諸君はあたまのなかに検閲があって、そういった考えにしりごみさせられてしまう。ミスター・ポッターは()()()敵を殺すことを考え、そのためにあらゆる手段をとる。検閲はとまり、しりごみしない。その若わかしい発想力は奔放で役立たずなまでに非現実的だが、その()()がハリー・ポッターを〈この教室で一番危険な生徒〉にしている。真の魔法戦士に不可欠な要件をしめしてくれたことについて、彼に最後にもう一点——そうだな、レイヴンクローの点にしよう。」

 

ハリーは呆然として口をあけたまま絶句し、必死になにか言うべきことをさがした。()()()()()()()()()()()()()

 

だがほかの生徒をみると、それを信じはじめているようだ。ハリーはあたまのなかでそれを否定するために使えるものをいろいろとあたってみたが、クィレル先生の権威ある声にたちむかえるものはなにもみつからなかった。思いつけたのはせいぜい「ぼくはサイコパスじゃない。発想がゆたかなだけだ。」で、どこか不吉なひびきがあった。予想外のなにかを言わなければならない。相手を立ちどまらせ、考えなおさせるようななにかを——

 

「では、」とクィレル先生。「ミスター・ポッター。うて。」

 

もちろん、なにも起きない。

 

「ああ、そうか。」と言ってクィレル先生はためいきをついた。「最初はみなそんなものかもしれない。ミスター・ポッター、だれか一人生徒をえらんで〈簡易打撃呪文〉をうちなさい。きみが()()()()まで今日の授業は終わらない。しなければ、寮点を減点する。うつまで減点しつづけるぞ。」

 

ハリーは慎重に杖をかまえた。そのくらいはしなければ、クィレル先生はすぐさま寮点を減点しはじめるかもしれない。

 

ゆっくりと、鉄板のうえで焼かれているような動きで、ハリーはスリザリン生の方向をむいた。

 

ハリーとドラコの目があった。

 

ドラコ・マルフォイは微塵も恐怖をみせなかった。この金髪の少年は、ハリーがハーマイオニーにおくったような同意のしるしをどこにもみせていないが、そもそもそうすべき理由はほとんどない。ほかのスリザリン生からかなり変に思われてしまうだろう。

 

「なぜためらう? あきらかに選択肢はひとつしかないはずだ。」とクィレル先生。

 

「そうですね。()()()()()ひとつしか。」

 

ハリーは杖をひねって「マ・ハ・ス!」と言った。

 

教室が完全に沈黙した。

 

ハリーは自分の左うでをさすり、のこった痛みをちらそうとした。

 

沈黙がつづいた。

 

やっとクィレル先生がためいきをついた。「ああ、なかなか巧妙だが、ここでまなぶべき教訓があったのに、きみは逃げた。本来の目標を犠牲にして自分のかしこさをみせつけたことについて、レイヴンクローから一点減点。授業はここまで。」

 

ほかのだれかが声をだすまえに、ハリーはこうさけんだ:

 

「冗談さ! レイヴンクロー!」

 

そのあと、みなが考えるあいだ短い静寂があったが、つぶやき声がきこえだし、すぐにそれは会話の轟音になった。

 

ハリーはクィレル先生のほうを向いた。二人ですべき話がある——

 

クィレルは肩をおとして、とぼとぼと椅子にむかっていた。

 

いや、許さないぞ。話をさせてもらわないと。ゾンビのふりはやめろ。何度かつつけばクィレル先生は多分おきあがるはずだ。ハリーがあゆみはじめると——

 

だめだ

よせ

間違いだ

 

ハリーはふらつき、道のりの途中でとまった。目まいがする。

 

そしてレイヴンクロー生の群れがおりてきて、議論がはじまった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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17章「仮説のありかを見つける」

「世界のパターンが見えはじめる。リズムが聞こえはじめる。」

 

◆ ◆ ◆

 

木曜日。

 

細かく言えば、木曜日の午前七時二十四分。

 

ハリーはベッドのうえに座っていた。じっとうごかない両手のなかに教科書が一冊ちからなく横たわっている。

 

ハリーは()()()()実験のアイデアを思いついたのだった。

 

朝食までもう一時間よけいに待つことになるが、固形シリアルはこういうときのためにある。そう、このアイデアはどうしてもいますぐ、即座にテストしなければならない。

 

ハリーは教科書をわきにおいて、ベッドからとびおりるとそのベッドをまわりこんで、トランクの地下一層目をひきだし、階段をかけおり、本の箱をいくつもうごかしはじめた。 (そのうち書棚を手にいれて荷物をほどかないとと思いつつも、いまはハーマイオニーとの教科書早読み競争をしていて負けそうになっているから、そんな暇はない。)

 

ハリーは目的の本をみつけて、階上にかけもどった。

 

ほかの子たちは大広間の朝食にいき、一日をはじめるための準備にはいっていた。

 

「ちょっとお願いしたいことがあるんだけど。」 そう言いながらハリーはその本の索引をめくり、小さいほうから一万個の素数がのっているページをみつけ、そのページをひらいて、アンソニー・ゴルドスタインに本をつきだした。 「このリストから三桁の数字ふたつをえらんで。それがなにかは言わないで。そのふたつをかけ算した結果を教えて。あ、計算は二重にやってチェックしてね? 間違いがないことをしっかり確認してほしい。きみがかけ算を間違ったらぼくや宇宙がどうなっちゃうかわからないから。」

 

アンソニーがここで『なにを急にそんな興奮して?』とか『妙なお願いだなあ、なんのために?』とか『宇宙がどうなっちゃうかわからない、ってどういう意味?』とか言わなかったことは、ここ数日この共同寝室(ドミトリー)での生活がどういうものであったかをよくものがたっている。

 

アンソニーは無言で本をうけとって、羊皮紙と羽ペンをとりだした。 ハリーはくるりとうしろをむいて目をとじ、確実になにも見えないようにし、そのあいだ待ちきれず、ぴょんぴょんとはねた。 紙のノートとシャープペンは用意してあり、書く準備はできている。

 

「よし、十八万、一千四百二十九。」とアンソニー。

 

ハリーは181429と書きとめた。 書きとめてから復唱し、アンソニーに確認してもらった。

 

そしてハリーはトランクの地下一層目にかけもどり、腕時計に目をやって(腕時計によれば四時二十八分、つまり七時二十八分だった)、目をとじた。

 

三十秒ほどたって足音が、そのあとにトランクの地下一層目を引いて閉じる音が、聞こえた。 (窒息する心配はない。上等なトランクを買えば自動の〈空気清浄魔法(チャーム)〉が付属してくるからだ。電気代も心配しなくていい。魔法ってすごい。)

 

ハリーが目をひらくと、のぞんでいたものがまさにそこにみえた。 床の上にたたまれた一枚の紙。未来の自分からの贈りものだ。

 

この紙を『紙二号』とよぼう。

 

ハリーはノートから紙を一枚ちぎった。

 

これを『紙一号』とよぼう。もちろん、どちらもおなじ紙だ。 よくみれば、切れめのぎざぎざの部分が一致するのがわかる。

 

あらためて整理すると、これから自分がたどるアルゴリズムはこうだ。

 

〈紙二号〉をひらいてそれが空白だった場合、〈紙一号〉に『101×101』と書いてそれをたたみ、一時間勉強し、時間をさかのぼり、〈紙一号〉を落とし(それは以後〈紙二号〉となる)、地下一層目からでて、相部屋のみんなといっしょに朝食にいく。

 

〈紙二号〉をひらいてそこにふたつの数字が書かれていた場合、ハリーがそのふたつのかけ算をする。

 

かけ算の結果が181429であれば、ふたつの数字を〈紙一号〉に書き、〈紙一号〉に時間をさかのぼらせる。

 

そうでなければ、右側の数字に二を足し、新しい数字の組を〈紙一号〉に書く。 ただし、右側の数字が997を超えていれば、そのかわりに左側の数字に二を足し、右側には101と書く。

 

〈紙二号〉に997×997と書かれていれば、ハリーは〈紙一号〉を空白のままにする。

 

こうすれば、()()()()時間ループは、181429の素因数分解の結果となる二つの数字が〈紙二号〉上にある、というもの以外にありえない。

 

もしこれがうまくいけば、みつけるのがむずかしいが検証することは簡単などんな種類の解答もおなじやりかたで回収することができる。 この発見は、〈逆転時計〉があればP=NPを証明できる、ということにとどまらない。 このトリックは()()()()()()()()()。 ダイヤル錠の数字の組み合わせをみつけるのにもつかえる。 どんなパスワードをあてるのにもつかえる。 ホグウォーツ内のあらゆる場所を系統的に列挙する方法さえ思いつけたなら、スリザリンの〈秘儀の部屋〉の入り口をみつけることさえできるかもしれない。 ハリーのカンニングの水準でいっても、すばらしいカンニング方法だ。

 

ハリーは震える手で〈紙二号〉をつかみ、ひらいた。

 

〈紙二号〉には、すこし震えた手書き文字でこうあった:

 

時間をもてあそぶな

 

ハリーはすこし震える手書き文字で『時間をもてあそぶな』と〈紙一号〉に書き、きっちりとたたんだ。そしてすくなくとも十五歳になるまでは、これ以上〈時間〉に関する天才的な実験をやるのはよそう、と決心した。

 

これはハリーの知るかぎり、科学の歴史全体を通じてもっともおそろしい実験結果だった。

 

つぎの一時間ハリーはあまり集中して教科書を読むことができなかった。

 

ハリーの木曜日はこうしてはじまった。

 

◆ ◆ ◆

 

木曜日。

 

細かく言えば、木曜日の午後三時三十二分。

 

ハリーたち一年生の男子はみな、マダム・フーチといっしょに草のはえた屋外の運動場にいた。 となりには、ホグウォーツの備品であるホウキがおかれている。女子の飛行術の授業は別にある。 どういうわけか女子は男子と同時にホウキ飛行術をならうのがいやらしい。

 

ハリーは朝からずっと、すこしなやんでいた。 ()()()()()安定した時間ループがえらばれたのはなぜだろう、ということが気になってやまない。 考えてみれば、かなりおおきな可能性の空間があったはずなのに。

 

ついでに言えば。本気で()()()なのか? まるで線分みたいなものにのって飛ぶだって? よりによって、小石にのるとかを別にすれば、これ以上ないほど不安定な形状の乗りもので飛ぶなんて。 飛行装置としていろいろありうるデザインのなかで、なんで()()にしたんだか。 『ホウキ』というのは、たとえかなにかなのではないかという一縷の望みもあったが、残念、目のまえにあるこれは、どうみてもふつうの木製の台所用ホウキだ。 ホウキでやるのがあたりまえだという観念にこりかたまってしまって、ほかのものを検討できなくなってしまったとか? そうにきまっている。 一から考えてみて、台所を掃除するのに()()()デザインと飛行するのに()()()デザインとが偶然一致するわけがない。

 

青空はあかるく、よく晴れている。太陽の光が目にまぶしく、空中を飛びまわろうとすれば、きっとなにも見えなくなってしまいそうなほど。 地面はよく乾燥していて、焼きたてのようなにおいがしている。そしてハリーの靴の下の感触は、どうもあまりにかたすぎるような気がする。

 

どんなに低水準の十一歳の子どもでもできることになっていることが、それほどむずかしいはずはない、とハリーは自分に言い聞かせつづけた。

 

「右手をだして、ホウキにのせなさい。左ききの人は左手を。」とマダム・フーチ。 「そして、あがれと言いなさい!」

 

あがれ!」と全員がさけんだ。

 

ハリーの手のなかにいきおいよくホウキがとびこんできた。

 

それでハリーはクラスで一番になった。めずらしく。 あがれと言うのは意外にむずかしいらしく、ほとんどのホウキは地面のうえをころがるか、乗り手になるべき人から距離をとろうとしていた。

 

(もちろん、賭けてもいいが、ハーマイオニーもすこしまえに自分の番がきたとき、これとおなじ程度にはうまくやっていたはずだ。 ()()()一度目に習得できることでハーマイオニーがまごつくなどありえない。 そしてもしそんなことがあったとして、それが知的ななにかではなく()()()()()()()()だったとしたら、死にたい。)

 

全員がホウキを自分の前にもってくるのにしばらくかかった。 マダム・フーチは乗りかたを実演し、運動場をめぐっていき、持ちかたや姿勢をなおした。 自宅で飛行させてもらっていた生徒もすこしはいたが、だれもただしい方法はおそわっていなかったらしい。

 

マダム・フーチは運動場の男子たちをながめて、うなづいた。 「では、わたしが笛をふいたら、地面を強くけりなさい。」

 

ハリーはごくりと唾をのみ、胃のなかの不安をしずめようとした。

 

「ホウキをふらつかせず、数フィートとびあがって、そのまますこし前にかたむけて、おりなさい。 ではいきますよ——三・二・——」

 

ひとつのホウキがそらへと打ちだされた。 一人の少年の——歓喜ではなく、恐怖の——悲鳴がつづいた。 その子は上昇しながらおそろしい速度で回転しつづけ、みえるのは白い顔だけだった——

 

スローモーションのようにハリーはホウキからとびおりて杖のありかをさぐった。 なにをしようとしているのか自分でもわからないでいたが、 これまでにちょうど二回あった〈操作魔法術(チャームズ)〉の授業のうち、 あとのほうはたまたま〈浮遊の魔法(チャーム)〉だったけれど、 三回試したうち一回しか成功できなかったし、人間ひとりを浮遊させるのはまず無理だ——

 

もし隠されたちからがぼくにあるなら、いますぐでてきてくれ!

 

「ちょっと、こっちにもどって!」とマダム・フーチが大声で言った (のは制御不能のホウキのまえで()()()()()()()がする指示としてはまったく役立たずであり、ハリーの脳のうち完全自動操縦の部分がマダム・フーチを愚者のリストにいれた)。

 

その子はホウキからほうりだされた。

 

その動きは空中で、最初のうちは、とてもゆっくりとして見えた。

 

「ウィンガーディウム・レヴィオーサ!」とハリーがさけんだ。

 

呪文は失敗した。失敗した感触があった。

 

ドスンという音のあと、遠くでなにかが折れる音とともに、その子は草の山のうえで顔を下にたおれた。

 

ハリーは杖をしまって、全速力でそこへ走りこんだ。 マダム・フーチと同時にその子のそばにつき、ポーチに手をいれて、あれの名前はなんだったっけ、もういいや、「治癒パック!」、そして手にのってきたそれを——

 

「手くびの骨折。」とマダム・フーチ。 「落ちつきなさい、手くびを骨折しただけだから!」

 

ある種の精神的なよろめきを感じつつ、ハリーのあたまは〈パニック・モード〉を抜けだした。

 

〈緊急治癒パックプラス〉はふたがあいたまま目のまえにあり、液火の注射器がハリーの手のなかにある。これを使えば、あの子がくびを折ってしまった場合には脳に酸素を供給できたはずだった。

 

「あ……」とハリーは妙にふらふらした感じの声で言った。心臓がどきどきとする音がおおきく聞こえ、自分が息をあえがせている音がかきけされるほどだった。「骨折……そうか……〈固定線〉は?」

 

「それがいるのは緊急事態だけ。」とマダム・フーチが返した。 「注射器はしまいなさい。たいしたことはありません。」 彼女はその子のほうに寄って、手をさしのべた。 「ほら、大丈夫だから、起きなさいな!」

 

「まさかまたホウキにのせるつもりじゃないでしょうね?」  恐怖にかられてハリーが言った。

 

マダム・フーチはハリーをにらんだ。「のせるわけないでしょう!」  彼女はその子の無事なほうの腕を引っぱって立たせ——それを見てハリーはショックをうけた。()()()()()ネヴィル・ロングボトム。なんでまた? ——まわりで見ていた子どもたちのほうをむいた。 「この子を病室につれていくまでだれも動いてはいけません! ホウキにふれたりしたら、『クィディッチ』と口にもできないうちにホグウォーツから退学にしますからね。ほら、こっちよ。」

 

マダム・フーチはネヴィルをつれて去った。ネヴィルは手くびをつかみ、すすり泣きを我慢しようとしていた。

 

二人から聞かれないほどの距離ができると、スリザリン生のひとりがくすくすと笑いだした。

 

するとのこりの人たちもそれにつづいた。

 

ハリーはむきをかえてそちらを見た。そろそろ何人かの顔を記憶してもいい。

 

するとドラコが、ミスター・クラッブとミスター・ゴイルといっしょにぶらぶらと歩いてくるのが見えた。 ミスター・クラッブは笑みをみせていないが、ミスター・ゴイルははっきりとみせている。 ドラコはよく制御されつつもときどきひきつる表情をしている。おそらく、吹きだしそうになっているが、ここで笑うことになんら政治的な利点がないのであとでスリザリンの地下洞で笑うことにしようとしているのだろう、とハリーは推論した。

 

「あのな、ポッター。」とドラコは低い、聞かれにくい声で言う。よく制御されつつも、ときどきひきつる表情のままだ。 「忠告するが、緊急事態を利用してリーダーシップがあるところを見せたいなら、状況を完全に把握している風にしたほうがいい。完全にパニックになったりするよりは。」 ミスター・ゴイルはくすくすと笑い、ドラコはそれをにらみ倒した。 「いずれにしろ多少の点数かせぎにはなっただろうな。その治癒キットをかたづけるのを手つだおうか?」

 

ハリーは〈治癒パック〉のほうを見て、同時にドラコから顔をそむけた。 「いや、だいじょうぶだと思う。」 ハリーは注射器をもとの場所にもどし、掛け金をとめなおし、立ちあがった。

 

ちょうどパックをモークスキン・ポーチに食わせているところで、アーニー・マクミランがきた。

 

「ハッフルパフを代表して感謝させてもらうよ、ハリー・ポッター。」とアーニー・マクミランが礼儀ただしく言った。 「いい行動だったし、いい発想だった。」

 

「いい発想、ねえ。」とドラコが言う。「ハッフルパフがひとりも杖をかまえなかったのはなぜかな? ポッターだけじゃなくきみたち()()()助けていたら、受けとめることができたかもしれないのに。ハッフルパフ生は助けあうんじゃなかったのか?」

 

アーニーは怒りをあらわすのと恥ずかしくて死にたくなるのとのあいだで揺れているように見えた。 「とっさに思いつかなくて——」

 

「ああ。」とドラコ。 「『思いつかなくて』。やっぱり、ハッフルパフ全員よりもレイヴンクロー一人のほうが友だちにしがいがあるってことだな。」

 

ああ、もう、これをどうさばけばいいんだ……。 「きみは役にたっていないよ。」とハリーはおだやかな調子で言った。 それを『きみはぼくの作戦に干渉している、だまってくれ』という意味でドラコが解釈してくれるかどうかは分からないが、願うしかなかった。

 

「おや、これはなんだ?」 ミスター・ゴイルがかがんで、大きなおはじきのような大きさのなにかを草むらからひろった。 渦まく白い霧でみたされているようにみえるガラスの玉だ。

 

アーニーは目をぱちぱちとさせた。「ネヴィルの〈思いだし玉〉だ!」

 

「〈思いだし玉〉って?」とハリー。

 

「なにかを忘れたときに赤くなる道具。 なにを忘れたかは教えてくれないんだけど。それ、ぼくにあずけてくれないか。あとでネヴィルにかえすから。」 アーニーは手をさしだした。

 

ミスター・ゴイルは突然ほくそ笑み、くるりとふりむいて、かけだした。

 

アーニーは一瞬おどろいて立ちすくんだが、「おい!」とさけんでミスター・ゴイルを追って走りだした。

 

ミスター・ゴイルはホウキをつかんで、なめらかな動きでまたがり、飛びあがった。

 

ハリーはぽかんと口をあけた。 それをしたら退()()だと、たったいまマダム・フーチが言ったじゃないか。

 

()()()()」とドラコが声をひそめて言い、 口をあけてさけぼうとし——

 

「おい!」とアーニーがさけんだ。「それはネヴィルのだぞ! かえせよ!」

 

スリザリン生がみな喝采と野次をはじめた。

 

ドラコの口がぴたりととじた。その顔に突然ためらいがよぎったのをハリーはみた。

 

「ドラコ。」とハリーは声をおとして言う。「きみがあのバカにおりろと命令しないでいて、教師がもどってきちゃったら——」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()」とミスター・ゴイルがさけび、スリザリン生たちから大喝采をうけた。

 

()()()()()」とドラコがささやく。「スリザリンの全員からぼくは()()と思われてしまう!」

 

「それでもしミスター・ゴイルが退学になったら……」とハリーが声をひそめて言う。「()()()()()()だと思われるぞ!」

 

ドラコの顔が苦痛にゆがんだ。

 

その瞬間——

 

「おい、()()()()()()()。」とアーニーがさけぶ。「ハッフルパフ生は助けあう、って教わらなかったか? ()()()()()()()()()()()()()()

 

突然、ミスター・ゴイルの方向にたくさんの杖がむけられた。

 

三秒後——

 

()()()()()()()()()()()()()」と五人ほどのスリザリン生が言った。

 

そしてハッフルパフの方向にたくさんの杖がむけられた。

 

二秒後——

 

「杖をかまえろ、グリフィンドール!」

 

()()()()()()()()()()()()()()」とドラコがささやく。「ぼくが止めるわけにはいかない、きみでないと! きみへの借りにするから何か考えてくれ、きみはあたまがいいんだろ?

 

もう五秒半ほどすればだれかがシュメール語の〈簡易打撃呪文〉をとなえだして、それが終わって教師が退学の手つづきを終えたときにはこの学年にはレイヴンクローしかいなくなってしまう、とハリーは気づいた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()」と、どうやらこの惨事から追いてけぼりにされたように思っていたらしいマイケル・コーナーがさけんだ。

 

グレゴリー・ゴイル!」とハリーが声をはりあげる。「ネヴィル・ロングボトムの〈思いだし玉〉の所有権をかけてきみに試合を申しこむ!」

 

全員がうごきをとめた。

 

「ほお?」とドラコは言う。ハリーがきいたことのないほど間のびさせた言いかただ。 「おもしろいじゃないか。なんの試合だ、ポッター?」

 

えっと……

 

『試合』というのがハリーの思いつきの限界だった。 なんの試合にする? 『チェス』だと、ドラコが応じようとするのが変に見えてしまうからだめだ。『腕ずもう』だと、ミスター・ゴイルにたたきのめされるだけだろうからだめだ——

 

「これはどうだ?」とハリーは大声で言った。 「グレゴリー・ゴイルとぼくは、おたがいから距離をとって立つ。 二人のまわりにはだれも近づいてはいけない。 二人やそのほかのだれも杖はつかわない。 ぼくもむこうも、自分の立ち位置からうごかない。 それでぼくがネヴィルの〈思いだし玉〉に手をふれられたら、グレゴリー・ゴイルはその手のなかにある〈思いだし玉〉を放棄して、ぼくにわたす。」

 

また全員の動きがとまり、安堵の表情が困惑へ変化していった。

 

「へえ!」とドラコが大声で言った。「ポッター、()()()()()ができるなら見せてもらおうじゃないか! ミスター・ゴイルは受けてたつ!」

 

「じゃあ成立だ!」とハリー。

 

「ポッター、()()()()()()()?」とドラコが、どうやっているのか口をうごかさずに、そうささやいた。

 

ハリーは口をうごかさずに返事する方法を知らなかった。

 

みんなは杖をしまいだしている。ミスター・ゴイルは優雅に地面に舞いおりたが、だいぶ困惑している。 何人かのハッフルパフ生がミスター・ゴイルのほうにむかっていったが、ハリーが必死のお願いの表情をすると、引きさがった。

 

ハリーはミスター・ゴイルのほうに歩き、数歩まえで止まった。おたがいの手をとどかせないのに十分な距離だ。

 

ゆっくりと、慎重に、ハリーは杖をおさめた。

 

のこりの全員は引きさがった。

 

ハリーはごくりとした。 自分がなにを()()()のかおおまかにはわかっているが、()()()起きたかだれにも理解されないようにしてそれをやらなくてはならない——

 

「よし。」とハリーは大声で言った。 「それでは……」 深く息をつき、片手をあげ、指をならすかまえをした。 息をのむ音が、パイのことをきいていた人、つまりほぼ全員から聞こえた。 「ホグウォーツの狂気をここに召喚する! ハッピー、ハッピー、ブーン、ブーン、スウォンプ、スウォンプ、スウォンプ!」 そしてハリーは指をならした。

 

何人もがびくりとした。

 

そしてなにも起きなかった。

 

ハリーはしばらく静寂をつづかせて、やがて……

 

「あの……」とだれかが言う。「もう終わり?」

 

ハリーは声をだした子のほうを見た。 「目のまえをみて。草のない、荒れ地みたいな一角があるだろう?」

 

「あ、うん。」と言ったその子はグリフィンドールだった(ディーン・なんとかだったか)。

 

「掘ってみて。」

 

ハリーのその一言に、怪訝そうな視線があつまった。

 

「え、なんで?」とディーン・なんとかが言った。

 

「とにかくそうして。」とテリー・ブートが疲れた声で言う。 「言っておくけど、なぜかはきいても無駄さ。」

 

ディーン・なんとかがひざをついて、土をすくいはじめた。

 

一分ほどすると、ディーンが立ちあがった。 「なにもないぞ。」

 

うーん。ハリーは時間をさかのぼって宝の地図をうめようと思っていた。 その宝の地図が教えてくれる場所にあるもうひとつの宝の地図にはネヴィルの〈思いだし玉〉の場所が書いてあって、ミスター・ゴイルから〈思いだし玉〉をとりもどしたらそれをその場所においておくことにして……

 

だが考えてみれば、〈逆転時計〉の秘密をあまりさらすおそれのない、もっとずっと単純な方法がある。

 

「ありがとう、ディーン!」とハリーは大声で言う。 「アーニー、ネヴィルが落ちた場所までいって、そこにネヴィルの〈思いだし玉〉があるか確認してくれる?」

 

みんなはさらに困惑した表情になった。

 

「とにかくやって。」とテリー・ブート。 「ハリーはうまくいくまでためしつづける。おそろしいことにそれが——」

 

()()()()!」とアーニーが息をあえがせて言った。 彼はネヴィルの〈思いだし玉〉をもっていた。 「()()()! ちょうど落ちた場所に!」

 

「ええ?」とミスター・ゴイルが声をあげ、視線をおとすと……

 

……ネヴィルの〈思いだし玉〉はまだ自分の手のなかにあった。

 

かなりながい沈黙があった。

 

「ええと。」とディーン・なんとかが言う。 「こんなことあるはずないよね?」

 

「ストーリーに穴があった。」とハリー。 「ぼくは自分を変にして宇宙を一瞬ごまかせたけど、〈思いだし玉〉がすでにゴイルにひろわれていたことを宇宙が忘れてしまったんだ。」

 

「いや、待って、その、そんなことは()()あるはずが——」

 

「ちょっと失礼、ぼくたちはこれからホウキで飛ぶ番をまっているんじゃないの? そうだよね。だからだまって。 とにかく、ぼくがネヴィルの〈思いだし玉〉に手をふれたら、試合はおしまいでグレゴリー・ゴイルはその手のなかにある〈思いだし玉〉を放棄してぼくにわたしてくれることになる。 そう決めたのをおぼえてる?」 ハリーは手をのばしてアーニーに手ぶりをした。 「ここまでころがしてくれる? だれも近づいちゃいけない決まりだから。」

 

「待て!」とスリザリン生のひとりが言った。ハリーにとって忘れがたい、ブレイズ・ザビニだ。 「どうやってそれがネヴィルの〈思いだし玉〉だってわかる? ()()〈思いだし玉〉をそこに落としたのかもしれないじゃないか——」

 

「スリザリンらしいことを言うね。」とハリーが笑顔で言う。 「でもアーニーのもっているのがネヴィルの〈思いだし玉〉だということは約束する。 グレゴリー・ゴイルのもっているものについてはコメントしない。」

 

ザビニはくるりとドラコのほうをむいた。「()()()()()! こんな言いのがれをとおすとでも——」

 

「だまれよ。」とミスター・クラッブがドラコのうしろから声をとどろかせた。 「ミスター・マルフォイは()()()の指し図はうけない!」

 

()()子分だ。

 

「ぼくが賭けをした相手は〈元老貴族〉マルフォイ家のドラコだ。 ザビニ、きみではない。 ミスター・マルフォイにやってみせろと言われたことをぼくはやった。 結果の判定については、ミスター・マルフォイにまかせたい。」 ハリーはくびをドラコのほうにかたむけて、眉をわずかにあげた。 これくらいでドラコの面目をたもたせるには十分なはずだ。

 

しばらく沈黙があった。

 

「それがほんもののネヴィルの〈思いだし玉〉だと約束するか?」とドラコ。

 

「うん。」とハリー。 「それはネヴィルが返してもらうほうのもので、もともと彼のものだった。 グレゴリー・ゴイルがもっているほうのものは、ぼくがもらう。」

 

ドラコはうなづいて、きっぱりとした表情をした。 「どんなにおかしなことであっても、〈貴族〉ポッター家の証言をうたがうつもりはない。 そして〈元老貴族〉マルフォイ家は約束をまもる。 ミスター・ゴイル、それをミスター・ポッターへ——」

 

「おい!」とザビニ。「()()勝負はついてない。手をふれていないじゃないか——」

 

「ほら、ハリー!」と言ってアーニーが〈思いだし玉〉をなげた。

 

ハリーは〈思いだし玉〉をたやすく空中でさらった。もともとこういう反射神経はある。 「これで、ぼくの勝ち……」

 

ハリーは声をだんだん小さくし、会話がすべて止まった。

 

手のなかの〈思いだし玉〉が赤くかがやき、日中でも小型の太陽のようにして地面に影をおとしていた。

 

◆ ◆ ◆

 

木曜日。

 

細かく言えば、木曜日の午後五時九分、飛行術の授業のあとでの、マクゴナガル教授室。 (そのあいだにハリーは追加の一時間をしのびこませていた。)

 

マクゴナガル先生は椅子に座っていた。 ハリーは机のまえで窮地に立たせられていた。

 

「先生……」とハリーは声をかたくして言う。 「スリザリンがハッフルパフに杖をむけて、グリフィンドールがスリザリンに杖をむけて、どこかの()()がレイヴンクローも杖をかまえろと言って、その全部がふきとんでしまうのをふせぐのに五秒間しかなかったんです! あれしか思いつかなかったんです!」

 

マクゴナガル先生はやつれた怒りの顔をしていた。 「()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 秘密という概念はあなたに理解できないのですか?」

 

「どうやったのかはバレてはいません! 指をならすと変なことができると思われているだけです! 〈逆転時計〉があってもできない変なことをもうすでにしていますし、これから()()()そういうことをしていけば、()()一件は目立ちません! あれは()()()()()()()んですよ!」

 

「しかたなくなどありません!」とマクゴナガル先生がかえした。 「その匿名のスリザリン生とやらを地面におろして、杖をおさめさせれば、それでよかったのです! 〈爆発スナップ〉のカードゲームを申しこんでもよかった。なのに不必要な、最悪のやりかたで〈逆転時計〉をつかうなんて!」

 

「あれしか思いつかなかったんです! ぼくは〈爆発スナップ〉がどんなゲームかも知らないし、チェスには応じてもらえなかっただろうし、腕ずもうにしていれば負けてしまっていた!」

 

「それなら腕ずもうでよかったでしょうが!」

 

ハリーは目をぱちくりさせた。「だってそれじゃぼくは()()()()()()——」

 

ハリーはことばを切った。

 

マクゴナガル先生は()()()怒っている。

 

「すみません、マクゴナガル先生……」とハリーは声を小さくして言った。 「ほんとうにそうは考えていませんでした。でもたしかに、考えているべきだったし、そうしていたらよかったんですが、まったくそうは考えていなかった……」

 

ハリーの声がだんだん小さくなった。 急にもっと()()()()選択肢があったことがわかってきた。 ()()()()きいてなにかを提案してもらってもよかった。群衆にきいてもよかった……。あの〈逆転時計〉の使いかたはたしかに不必要で最悪だった。 膨大な可能性の空間がありながら、なぜ()()をえらんでしまったのか?

 

()()方法をみつけたからだ。 さほど大事でもない、いずれにしろ教師があとでミスター・ゴイルからとりかえしてくれるであろう道具を勝ちとる方法を。

 

勝利への意思。自分はそれにとらわれていた。

 

「すみません。」とハリーはもう一度言った。「ぼくのプライドと愚かさのせいでした。」

 

マクゴナガル先生は片手でひたいをぬぐった。 怒りはいくらかうすれているようだった。 だが次にでた声はまだ、かたかった。 「一度でもまたこんなことがあれば、ミスター・ポッター、〈逆転時計〉は返納していただきます。わたしの言っていることがわかりますか?」

 

「はい。わかりました、そしてすみません。」

 

「であれば、いまのところは〈逆転時計〉をもつことを許します。 あなたがあれだけの規模の騒動を回避してくれたこともたしかですから、レイヴンクローの点は引かないでおきます。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だがハリーはそれを口にだすほどバカではない。

 

「もっと重要なことがあります。なぜ〈思いだし玉〉は突然ああなったんですか? ぼくは〈忘消〉(オブリヴィエイト)されたことがあるということですか?」

 

「それはわたしにとっても謎です。」とマクゴナガル先生はゆっくりと言った。 「それほど単純なことなら、法廷で〈思いだし玉〉がつかわれるでしょうが、実際にはつかわれません。 調べておきましょう。」 彼女はためいきをついた。 「以上です。」

 

ハリーは椅子から立ちあがりはじめ、途中でとまった。 「あの、すみません、ほかにおつたえしたいことがあるんですが——」

 

彼女はほとんどそれとわからない程度に、ひるんだ。「それはなんですか、ミスター・ポッター?」

 

「クィレル先生についてなんですが——」

 

「きっとそれはまったく些細(ささい)なことでしょうね。」とマクゴナガル先生は急いで発音した。 「〈防衛術〉教授に関する些細なことで苦情を言ってわたしたちを困らせないように、という総長の話はあなたもきいたはずですが?」

 

ハリーはかなり困惑した。「でもこれは重要()()()()()()んです。きのう、ぼくは急に破滅の感覚をおぼえて——」

 

「ミスター・ポッター! わたしも破滅の感覚がします! わたしの破滅の感覚はあなたに()()()()()()()()()()()()()()()()と言っています!」

 

ハリーは口をぽかんとあけた。マクゴナガル先生は成功した。ハリーは実際、ことばをうしなってしまった。

 

「ミスター・ポッター。 もしクィレル先生についてなにかおもしろいことを見つけたら、どうぞわたしやほかのだれかにそのことをつたえないでください。 さあ、わたしの貴重な時間を割けるのはここまでです——」

 

()()()()()()()()()」とハリーは突然言いだした。 「失礼ですが、それは()()()()()()()()無責任ですよ! ぼくが知るかぎり、〈防衛術〉の職にはなんらかの呪い(ジンクス)があって、あなたはなにかおかしなことが起きそうだと()()()()()。だったらかなり警戒心をもっているべきところでしょう——」

 

()()()()ことが、ですか? ()()()()()()()()()()()()()。」マクゴナガル先生の顔は無表情だった。 「ブレイク先生が三人ものスリザリン五年生といっしょにクローゼットのなかで見つかったのが去年の二月、サマーズ先生が教育者として完全に失格で生徒たちはボガートが家具の一種だと思っていたのがそのまえの年。いま、クィレル先生ほど飛びぬけて有能なかたについてなにか問題が報告されたりしたら、()()()です。そうなればほとんどの生徒は〈防衛術〉のO.W.L.s(オウルズ)N.E.W.T.s(ニューツ)に落第するでしょう。」

 

「なるほど。」とゆっくりと言いながら、ハリーはその意味を飲みこもうとした。「つまり言いかえれば、クィレル先生にどんな問題があろうとあなたは一学年が終わるまで必死で耳をとざす。いまは九月だから、クィレル先生がテレビで生放送されながら首相を暗殺しようがあなたはかまわない、ということですね。」

 

マクゴナガル先生はまばたきをせずハリーを凝視した。 「そのような主張を支持したおぼえはありません。 当校は生徒の学業にさしさわりのある()()()()()()()()()積極的に対処するようつとめます。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 「あなたのことが非常によく理解できたと思います、マクゴナガル先生。」

 

「あら、それはうたがわしいですよ、ミスター・ポッター。かなりうたがわしい。」 マクゴナガル先生はまえのめりになり、表情をまた厳しくした。 「あなたとはすでに、これよりはるかに機密度のたかい話をしていますから、はっきり言っておきます。 あなただけが、その謎の破滅の感覚を報告しにきた。 あなただけが、わたしがみたこともないほど混沌をひきよせる磁石だった。 ダイアゴン小路でのあの買い物があってから、()()()〈組わけ帽子〉があって、()()のひと悶着があってから、わたしの運命はもう十分予見できます。わたしが総長室に座って、クィレル先生についての、あなただけが主役を演じるおかしな話をきかされて、そのあとには先生を解任する以外の選択肢がなくなることになるのです。そのことについてはもうあきらめがついています。もしその悲しいできごとが五月の十五日(イデス)よりはやく起きてしまうのなら、わたしはあなたをあなたの腸でホグウォーツの門にしばりつけて鼻からホタルをいれます。 ()()()わたしのことがよく理解できましたか?」

 

ハリーは目を皿のようにしてうなづいた。 そして、一秒後、「この学年の最後の日にそれを起こすことができたら、ぼくはなにをもらえますか?」

 

「この部屋から出ていきなさい!」

 

◆ ◆ ◆

 

木曜日。

 

ホグウォーツの木曜日にはなにかがあるにちがいない。

 

午後五時三十二分。総長室の入り口をまもる巨大なガーゴイルの石像をまえにして、ハリーはフリトウィック先生とならんで立っていた。

 

マクゴナガル先生の部屋からレイヴンクロー自習室にもどった途端、ハリーは生徒のうちのひとりからフリトウィック先生の部屋へいくように言われ、そこでダンブルドアが話にくるようにと言っている、ときかされたのだった。

 

ハリーはそのとき妙に懸念を感じ、それがなんの話なのか総長からきいているか、とフリトウィック先生にたずねた。

 

フリトウィック先生は無力そうなやりかたで肩をすくめた。

 

どうやら、力と狂気の呪文を発動するにはハリーはわかすぎる、とダンブルドアは言ったらしい。

 

『ハッピー、ハッピー、ブーン、ブーン、スウォンプ、スウォンプ、スウォンプのこと?』とハリーは思ったが、声にはださなかった。

 

「あまり心配しないことです、ミスター・ポッター。」とフリトウィック先生がハリーの肩あたりの位置から甲高い声で言った。 (ハリーはフリトウィック先生のひげが巨大にもりあがっていることに感謝した。自分より背がひくいだけでなく声がたかい先生、というものにはなかな慣れない。) 「ダンブルドア総長はすこし、というかかなり変に見えるかもしれませんが、総長はいちども生徒に危害をくわえたことはありません。これからも決してないでしょう。」 フリトウィック先生はハリーを元気づけるような笑みをみせた。 「いつもそのことさえ覚えていれば、きっとパニックにはなりませんよ!」

 

むしろ逆効果だ。

 

「いってらっしゃい!」とフリトウィック先生が甲高い声で言い、ガーゴイルのほうに寄ってなにかを言ったがハリーはなぜか完全に聞きのがした。 (もちろん、立ち聞きしてしまえるようなものなら、パスワードとしてはいまいちだ。) 石のガーゴイルが、なんの変哲もない自然な動作で歩いて道をあけた。ガーゴイルはそのあいだずっと、がっしりとした不動の石のままのように見えたので、その自然さはハリーにとって衝撃的なほどだった。

 

ガーゴイルのうしろにはゆっくりと回転する螺旋階段があった。 それは不穏なほどにどこか催眠的だった。さらに不穏なのは、()()()()()()にのっていてどこかに移動することなどできないはずだということ。

 

「のぼりなさい!」とフリトウィック先生。

 

ハリーはだいぶ神経質そうに螺旋階段に足をふみいれ、その瞬間、脳のなかで視覚化できないなんらかの理由で、自分が上にうごくのを感じた。

 

ガーゴイルは彼のうしろでどすんと音をたててもとの場所にもどり、螺旋階段はまわりつづけ、ハリーはのぼりつづけた。かなり目まいがするようなひとときのあと、ハリーはいつのまにかグリフィンの叩き金がついた、オーク材の扉のまえに立っていた。

 

ハリーは手をのばして取っ手をまわした。

 

扉はひらいた。

 

そこに見えたのはハリーが人生で見たなかで一番おもしろい部屋だった。

 

ちいさな金属の仕掛けがいくつも、ウィンウィン、カチカチと音をたてたり、かたちを変えたり、けむりをプッとふきだしたりしている。 何十もの奇妙な容器に何十種類もの謎の液体がはいっていて、どれもぶくぶく、ふつふつ、じゅるじゅるとしたり、色を変えたり、おもしろい形にもりあがったかと思うと半秒後に消えたりしている。 時計のようなものがいくつかあり、たくさんの針には数字が刻まれているか、読みとれない言語で書かれている。 レンズ状の水晶がのった腕輪があり、何千もの色をかがやかせている。金色の台座にとまった鳥や、血のようなものでみたされた木製の器や、黒いエナメルでおおわれたハヤブサの像がある。 壁はいくつもの眠っている人の肖像画がかかっている。〈組わけ帽子〉は二本の傘と左足用の三足の赤いスリッパといっしょに、なにげなく帽子かけにのっている。

 

この混沌のさなかに、よごれのない黒いオーク材の机があった。 机のまえにはオーク材の椅子がある。うしろにはクッションたっぷりの玉座があり、そのなかにアルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアがいる。ながい銀色のひげと、つぶした巨大キノコのような帽子と、マグルの目には三重にかさねたピンク色のパジャマのようにみえるものをまとっている。

 

ダンブルドアは笑みをうかべ、目を狂気じみた明るさできらきらとかがやかせていた。

 

ハリーはややこわごわと机のまえの椅子に座った。扉はうしろでドスンと大きな音をたてて閉じた。

 

「こんにちは、ハリー。」とダンブルドア。

 

「こんにちは、総長(ヘッドマスター)。」  二人はファーストネームで呼びあう関係なのか? ダンブルドアはもしかしてつぎに、ハリーにどう呼んでほしいかを——

 

「たのむよハリー! 総長(ヘッドマスター)では堅苦しい。略して〈ヘ〉と呼んでほしい。」

 

「ではそうしますね、〈ヘ〉。」

 

みじかい沈黙があった。

 

「そうやって、本気にしてくれたのはきみがはじめてなんじゃが、知っていたかね?」

 

「あ……」 いやな予感をおぼえながらもハリーは声を制御しようとした。 「すみません、その、総長、ぼくはただ言われたとおりのことを——」

 

「〈ヘ〉でけっこう!」とダンブルドアは愉快そうに言った。 「なにも心配することはない。 ひとつ間違いをおかしたからといってきみを窓からほうりだしたりはせん。 なにかきみが間違ったことをしていたら、まずは十分警告する! それに、どういう話しかたをされるかは重要ではない。どう思われるかが重要なのじゃ。」

 

総長はいちども生徒に危害をくわえたことはありません。 そのことさえ覚えていれば、きっとパニックにはなりませんよ。

 

ダンブルドアはちいさな金属製の箱をひっぱりだし、それをひらいて、黄色のちいさな粒をいくつか見せた。 「レモン飴はいかが?」と総長。

 

「えっと、いえ、いりません、〈ヘ〉。」 生徒にLSD〔訳注:麻薬の一種〕を仕込むのは危害にあたるだろうか、それとも無害ないたずらに分類されるのだろうか。 「あの、ぼくは力と狂気の呪文を発動するには若すぎる、というようなことをおっしゃったとか?」

 

「若すぎるのはまず間違いない! 〈力と狂気の呪文〉はさいわい七百年前にうしなわれて、どんな呪文だったのか、もはやだれにもさっぱりわからなくなってしまった。あれは感想として言っただけじゃ。」

 

「あ……」とハリーは自分の口がぽかんとあいているのを認識しながら言った。 「ではなぜぼくをここに?」

 

()()? ああ、ハリー、()()なにかをするのか自問してばかりいたら、わしは仕事をいっさいかたづけられんよ! かなり多忙な身の上でのう。」

 

ハリーは笑顔でうなづいた。 「ええ、かなり立派な名前のかずかずですね。 ホグウォーツ総長、ウィゼンガモート主席魔法官、国際魔法族連盟最上級裁判長。 失礼ですが、〈逆転時計〉を二つ以上つかえば六時間以上ふやしたりすることができますか? 一日わずか三十時間ですべてをやりこなしているとしたらかなりのみごとさですから。」

 

また短い沈黙があり、ハリーはそのあいだ笑みを維持した。 すこし、というかかなりの不安を感じながらも、ダンブルドアがわざといたずらをしかけてきているのが分かった以上、無防備な肉塊のようにしてそれをおとなしく受けいれることを、ハリーのなかのなにかが()()()()()した。

 

「残念ながら、〈時間〉はひきのばされるのが苦手なようで、 人は〈時間〉よりすこし大きすぎるようじゃ。だから人生を〈時間〉におしこむのはいつも大変になる。」

 

「たしかに。」とハリーは深く厳粛に言う。 「だからさっさと本題にはいるべきなんですね。」

 

ハリーは一瞬、言いすぎたかと思った。

 

そこでダンブルドアはくすりと笑った。 「すぐに本題にさせてもらうとも。」 総長は身を前にのりだし、つぶれたキノコの帽子をかたむけ、ひげで机をなでた。 「ハリー、きみが月曜日にしたことは〈逆転時計〉があっても不可能、というより〈逆転時計〉()()()()不可能じゃった。 あのパイ二枚はどこからきたのかな?」

 

アドレナリンがハリーのからだをかけぬけた。 あれは〈不可視のマント〉でやったのだ。 クリスマスプレゼントの箱にいれられて届いたマントで。 そこに同封されていた手紙には、もしダンブルドアが〈死の秘宝〉のひとつを入手する機会をみつけたら、彼は死ぬまでそれを手ばなさないでしょうから、ともあった。

 

「自然に思いつくのは、 あそこにいた一年生のだれもそのような呪文をつかえなかった以上、見えないだれかがそこにいた、ということ。 だれからも見えない者が、パイを二枚なげつけるのはたやすい。 きみが〈逆転時計〉をもっている以上、見えない人物はきみだった、という推測もできる。 そして〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)の呪文がまだつかえない以上、きみは不可視のマントをもっていた。」 ダンブルドアはいわくありげな笑みをうかべた。 「これまでのところはただしい方向にむかっているかな、ハリー?」

 

ハリーは凍りついた。 真っ赤な嘘をつくのはまったく賢明でないような気がするし、ちっとも役に立たないかもしれないが、ほかに言えることはなにも思いつかない。

 

ダンブルドアは親しげに手をふった。 「心配無用、きみはなにも間違ったことはしていない。 不可視のマントは規則違反ではない——めずらしいものだからおそらく、だれもリストに追加する暇がなかったのじゃろう。 気になっていたのはまったく別のことじゃ。」

 

「へえ?」とハリーはできる範囲で一番平静な声をして言った。

 

ダンブルドアの両目が熱意をおびてかがやいた。 「ハリー、いくつか冒険をやりとげると、こういうもののこつがつかめてくるものじゃ。 世界のパターンが見えはじめる。リズムが聞こえはじめる。 発覚の瞬間()()()()疑念がうかぶようになる。 きみは〈死ななかった男の子〉で、きみがブリテン魔法界にであってから四日しかたたないうちになぜか不可視のマントがきみの手にとびこんできた。 こういうマントはダイアゴン小路で売られてはいない。けれども、運命づけられた着用者にとびこんでくるかもしれないマントは()()ある。 どうしても気になってしまうのじゃが、きみは単なる不可視のマントを手にいれたのではなく、なにか奇妙な偶然によって、三種の〈死の秘宝〉のひとつで〈死〉の眼光から着用者を隠してくれるという、()()〈不可視のマント〉を手にいれたのではないだろうか。」 ダンブルドアの視線はまぶしく、熱かった。 「それを見せてもらえないかね、ハリー?」

 

ハリーは息をのんだ。 からだじゅうがアドレナリンでいっぱいだが、それはまったく役立たずだった。ここにいるのは世界最強の魔法使いで、ハリーは扉から脱出することができるはずもなく、できたとして隠れられる場所はホグウォーツのどこにもなく、はかりしれないほどの昔からポッター家に伝わるこの〈マント〉はもうすぐうしなわれてしまう——

 

ダンブルドアはゆっくりと背のたかい椅子にもたれなおした。 両目のかがやきは消え、困惑とすこしの悲嘆を見せた。 「ハリー。もし見せたくないなら、そう言えばいい。」

 

「いいんですか?」とハリーがかれた声で言った。

 

「いいとも。」 今度のダンブルドアの声は悲しそうな、心配している声だった。 「どうやらわしはこわがられているようじゃな。なにをしてきみの不信を買ってしまったのか教えてもらえないか?」

 

ハリーは息をのんだ。 「あなたがぼくのマントをとらないという、拘束力のある魔法的な誓約をしてもらう方法はありますか?」

 

ダンブルドアはゆっくりとくびをふった。 「〈不破の誓い〉はかるがるしくつかうものではない。 それに、もしもともとこの呪文を知らなかったなら、きみは拘束力のあるなしをわしの証言だけで信じるしかない。 そもそもわしが〈マント〉を見るのにきみの許可は()()()()ということには気づいているはずじゃ。 モークスキン・ポーチであれなんであれ、わしにはそれを取り出すちからがある。」 ダンブルドアは深刻な表情になった。 「だがわしはそうしない。 〈マント〉はきみのものじゃ。 わしはそれをとりあげたりはしない。 もしきみにそうする気がないのなら。しばらく見せてもらうだけであろうと。 そう約束し、誓う。 もし学校内でそれをつかうことを禁じる必要があれば、グリンゴッツの金庫にいってそれを保管してくれるように命じる。」

 

「あ……」と言ってハリーはごくりと息をのみ、アドレナリンの洪水をおちつかせ、合理的に考えようとした。 ハリーはモークスキン・ポーチをベルトからはずした。 「もしぼくの許可がほんとうに()()()()のなら……どうぞ。」 ハリーはポーチをダンブルドアにつきだし、くちびるを強く噛んで、あとで〈忘消〉(オブリヴィエイト)された場合にそなえた信号とした。

 

老魔法使いはポーチに手をのばし、取り寄せのことばをひとことも言わずに、〈不可視のマント〉を引きだした。

 

「ああ。」とダンブルドアが声を殺して言う。 「やはり……」 彼はそのゆらゆらとした黒いビロードの網を手にかけた。 「何百年たっても、つくられたばかりのときとおなじ完璧さ。 年月をへて技術はうしなわれ、このようなものはいま、わしにもつくれない。だれにも。 そのちからは、こころのなかにこだまするように感じられる。だれにもきかれないまま永遠にうたわれる歌のように……」 老魔法使いは〈マント〉から視線をあげた。 「これを売ってはならん。」 「所有権をだれにもあたえてはならん。だれかに見せるまえに、一度考えなおしなさい。〈死の秘宝〉であるとあかすまえにもう二度考えなおしなさい。敬意をもってあつかいなさい。これはまさに〈ちからあるもの〉じゃから。」

 

一瞬ダンブルドアが沈痛とした表情になり……

 

……〈マント〉をハリーに手わたした。

 

ハリーはそれをポーチにしまった。

 

ダンブルドアの表情がまたかげった。 「もう一度おしえてほしい。ハリー、きみはなぜわしを信じられなくなった?」

 

ハリーは急に恥ずかしくなった。

 

「〈マント〉にメモがついていたんです。」とハリーが小声で言う。 「あなたは〈マント〉のことを知ったら、ぼくからうばおうとする、とそこに書かれていました。 ただ、だれがそのメモを残したのかはわかりませんけれど。これはほんとうです。」

 

「ふむ……」とダンブルドアはゆっくりと言った。 「そのメモを残したのがだれであれ、その人物をせめるのは酷と思う。 ことによるとその人物も、善意でそうしたのかもしれん。 その〈マント〉をくれたのも、その人物なのじゃから。」

 

ハリーはうなづき、ダンブルドアの慈悲に感銘をうけ、それにくらべて対照的な自分の態度を恥ずかしく思った。

 

老魔法使いはつづけた。 「じゃがわしらふたりは同じ色の駒じゃ、と思う。 ついにヴォルデモートを倒した少年と、その勝利のときがくるまでヴォルデモートを押しとどめた老人。 きみの警戒心を非難することはせんよ、ハリー。だれもがみな賢明になろうとすべきなのじゃから。 つぎにだれかからわしを信じるなと言われたときは、一度考えなおし、また二度考えなおしてくれればそれでいい。」

 

「すみませんでした。」とハリー。 もう自分がなさけなく感じる。事実上ガンダルフに文句をつけたようなものだし、ダンブルドアのやさしさがよけいつらい。 「あなたを疑うべきではありませんでした。」

 

「悲しいかな、この世界では……」と老魔法使いはくびをふった。 「それが賢明でなかったとは言えん。 きみはわしのことをよく知らなかった。 それにホグウォーツには信頼をおくべきでない相手もたしかにいる。 もしかすると、きみが友だちと考えていた相手さえも。」

 

ハリーは息をのんだ。 ずいぶん不吉な言いかただ。 「たとえばだれが?」

 

ダンブルドアは椅子から立ちあがり、装置のうちのひとつをチェックしはじめた。八本のことなる長さの針がついたダイアルだ。

 

しばらくすると、老魔法使いは口をひらいた。 「たぶん彼は魅力的にみえているのじゃろう。 礼儀ただしい——すくなくともきみには。 話しぶりもしっかりしている。もしかするときみを賞賛してさえいる。 いつもきみを助け、きみの願いをきき、助言をあたえてくれる——」

 

「ああ、()()()()()()()()()ですか!」とハリーは言った。ハーマイオニーとかでなくてよかったと思いながら。 「あれは全然ちがいます。まったくの誤解です。彼がぼくを引きこんでるんじゃない、ぼくが彼を引きこんでいるんですよ。」

 

ダイアルをのぞきこんでいたダンブルドアが凍りついた。「彼をどうしていると言った?」

 

「ぼくはドラコ・マルフォイを〈闇の陣営(ダークサイド)〉から引きはなそうとしているんです。 つまり、善人にするっていうことです。」

 

ダンブルドアは姿勢をなおし、ハリーのほうをむいた。 ハリーはこれほど唖然とした表情を、とくに長い銀色のひげをした人物からは、みたことがなかった。 「確実に……」と老魔法使いは間をあけてから言う。「彼を改心させられると? きみが彼のどこに善をみいだしているにせよ、あまくみてしまっているだけではないか——へたをすれば、むこうの手玉にとられてしまっているということも——」

 

「えっと、まず大丈夫です。 もし善人のふりをしようとしているのだったとしたら、彼はとんでもなく演技がへたです。 ドラコがぼくのほうにきて、魅力をふりまいて、それでぼくが彼のこころの奥底には善があると判断したわけじゃありません。 彼がマルフォイ家の跡とりだからこそ、改心させる相手にふさわしいと思ったんですよ。だれかひとりをえらんで改心させるなら、彼をえらぶべきなのは明白です。」

 

ダンブルドアの左目がぴくりとした。 「マルフォイ家の跡とりはきみにとって価値がある、だからドラコ・マルフォイのこころに愛と親切心のたねをまこうというのか?」

 

()()()とってだけじゃありません!」とハリーは憤慨して言った。 「これがうまくいけば、ブリテン魔法界のすべてにとってですよ! ()()()彼自身ももっとしあわせで精神的に健康な人生をおくることができる! ()()()闇の陣営(ダークサイド)〉から引きはなすのには時間がたりません。だから〈光〉のがわに一番おおきな利益となるところから、最速で——」

 

ダンブルドアは笑いはじめた。 ハリーの予想よりずっと激しく、腹をかかえるいきおいの笑いだ。 それはどうも()()()()()()ように見えた。 強い老魔法使いは、低い声をとどろかせて笑うものであって、息がつげないほど激しく笑うものではない。 ハリーは以前マルクス兄弟の『我輩はカモである』という映画をみていて椅子から文字どおりころげおちたが、ダンブルドアのこの笑いの激しさはそれくらいだ。

 

()()()()笑わなくてもいいでしょう。」とハリーはしばらくしてから言った。 ダンブルドアがどこまで正気なのか、また心配になってきた。

 

ダンブルドアは目にみえて努力しながら自制をとりもどした。 「ああ、ハリー、知恵という名の病気の症状のひとつは、だれも笑わないものごとをおもしろく感じるようになることじゃ。つまり、かしこくなると、冗談の意味がわかるようになる!」 老魔法使いはなみだを目からぬぐった。 「これはこれは。まさに、悪意はしばしば悪を(そこの)う、とはよく言ったものじゃ。」

 

ハリーの脳はすこし時間をかけて、そのことばをどこで聞いたのだったか、思いだそうとした…… 「それって、()()()()()からの引用じゃないですか! ()()()()()のせりふだ!」

 

「いや、セオデンじゃが。」

 

「先生は()()()()()()だったんですか?」と衝撃をうけてハリーは言った。

 

「いや、ちがう。」と言って、ダンブルドアはまた笑みをうかべた。 「わしはあの本が出版される七十年まえに生まれたのじゃよ。 ただ、マグル生まれの生徒たちはある意味でみな、おなじように考えるものらしい。 『指輪物語』が二十組以上、トールキン全集が三組以上、ここにあつまった。どれもたいせつな宝ものじゃ。」 ダンブルドアは杖をとりだし、あるポーズをした。 「『ここは断じて通さぬ!』 ……さまになっているかな?」

 

「あ。」とハリーは脳の完全停止にちかい状態で言う。「バルログがたりませんね。」 それにピンク色のパジャマとつぶれたキノコの帽子がまったく余計だ。

 

「ふむ。」とダンブルドアはためいきをつき、不満げに杖をベルトにおさめた。 「最近わしはバルログにはなかなか会えなくなってしまった。 ちかごろはウィゼンガモートの会議で必死にあらゆる作業の進捗を妨害したり、公式晩餐会で外国の政治家たちが一番意固地な愚か者になろうと競いあうのをみるばかり。 ほかには、謎めいた雰囲気をだしたり、知るはずのないことを知っていたり、あとにならないと意味がわからない暗号めいた発言をしたり。あとは、強い魔法使いが、自分を英雄(ヒーロー)にしてくれたパターンからはずれたあとで、なぐさみにやるような、もろもろの小さなことばかり。 そう言えば、ハリー、きみにわたしたいものがある。きみのお父さんの持ちものがあるのじゃ。」

 

「わたしたいものが? そんな、思いもよりませんでしたよ。」

 

「あるのじゃ。 こういうのはすこしありきたりすぎたかな?」 ダンブルドアは厳粛な表情になった。 「ともかく……」

 

ダンブルドアは机にもどり、座り、そのながれで引き出しのひとつをあけた。 両手をそこにいれ、わずかにちからをこめながら、ずいぶんおおきな、重そうなものを引き出しからとりだし、オーク材の机のうえにどすんと音をたてておいた。

 

「これが、きみのお父さんの岩じゃ。」

 

ハリーはそれをみつめた。 白っぽい灰色で、退色していて、かたちは不規則で、縁はするどい、なんの変哲もない岩のようだった。 ダンブルドアは一番ひろい断面が下になるようにしてそれを置いたが、それでも岩は机のうえで不安定にぐらついている。

 

ハリーは視線をあげた。 「これはジョークですよね?」

 

ダンブルドアはくびをふり、「ジョークではない。」ととても真剣な表情で言った。 「わしはこれを〈ゴドリックの谷〉にある、ジェイムズとリリーの家の残骸から持ちだしてきた。きみをみつけたのもそこじゃ。 以来、きみにわたせる日を待ちながら、いままでそれを保管してきた。」

 

ハリーの世界モデルとして機能する仮説群の混合のなかで、ダンブルドアが狂人である可能性が急速に上昇した。 それでもまだ、そのほかの仮説にわりあてられた可能性()それなりにのこっている…… 「あの、これは()()()岩ですか?」

 

「わしが知るかぎり、ちがう。 だが、きみは万難を排していついかなるときもそれをからだから離さずにおくべきである、と助言させてもらう。」

 

なるほど。ダンブルドアは()()()()狂っているが、()()()()()()()()()……、謎めいた老魔法使いの助言を無視したばかりに災難にあうというのはあまりに()()()()()()()。 これはきっと〈わかりやすい失敗の類型百選〉のうえから四番目くらいにある。

 

ハリーは前にでて、両手を岩にのせ、切り傷をつくらずにもちあげられそうな角度をさがした。 「じゃあポーチにいれておきますね。」

 

ダンブルドアは眉をひそめた。 「それでは、からだから遠すぎるのではないかな。それに、モークスキン・ポーチをなくしたり、盗まれたりする危険もあろう?」

 

「どこにいくにもこの岩一個を持ち歩けと?」

 

ダンブルドアは真剣な表情をハリーにみせた。 「おそらくそれが賢明じゃろう。」

 

「ああ……」 ずいぶん重たそうだ。 「そういうふうにしていると、ほかの生徒からなにかきかれそうな気がします。」

 

「わしからの命令だと言えばよい。 だれも疑いはしない。みなわしが狂っていると思っているから。」  ダンブルドアの表情は完全に真剣なままだった。

 

「その、もし生徒に岩を持ち歩けと言ってまわってるのなら、率直に言って、そう思われてしまうのもわかる気がします。」

 

「ああ、ハリー。」 老魔法使いは片手で、部屋のなかの謎の装置をすべてすくいとるようなしぐさをした。 「ひとは若いときにはすべてを知っているように思うものじゃ。自分で説明がつけられないなら、説明は存在しないと思うものじゃ。 ひとは老いれば、宇宙全体がリズムと理由にもとづいてうごいているということに気づく。どういう説明であるかをわれわれが知らないとしても。 無知こそ、あたかも狂気のようにみえるものの正体なのじゃ。」

 

「現実のできごとにはつねに法則がある。」とハリー。「どういう法則であるかをわれわれが知らないとしても。」

 

「まさしく。これを理解するのが——そしてきみは理解してくれているようじゃが——知恵の本質といえよう。」

 

「それで……けっきょくぼくがこの岩を持ちあるかなければいけない()()はなんなんですか?」

 

「実は思いあたる理由はない。」

 

「……ないんですね。」

 

ダンブルドアはうなづいた。 「しかしわしに思いあたる理由がないからといって、理由が()()()()()わけではない。」

 

いろいろな装置がカチカチと音をたてた。

 

「あのですね。いま言うべきかどうかもよくわからないんですが……。宇宙がどう機能するのか、ぼくたちは知らないということを認めるとしましょう。そういう自分たちの無知に対処するやりかたとして、あなたの態度はまちがっています。」

 

「ほう?」と言って老魔法使いはおどろきと落胆の表情をした。

 

このさきの話をつづけても自分の有利にはたらかなさそうな気がしてはいたものの、ハリーはつづけた。 「この錯誤に正式な名前があるかどうかも知らないんですが、ぼくが名づけるとしたら、『仮説の特権化』とでもいうべきものです。 どういう形式にすればいいかな……うーん……たとえば、百万個の箱があって、そのうちひとつだけにダイアモンドがはいっていると思ってください。そして別の箱にダイアモンド検出器がたくさんはいっていて、どの検出器も、ダイアモンドがあれば鳴り、ダイアモンドがないときは五割の確率で鳴ります。 二十個の検出器を全部の箱にかければ、平均的にいって、偽の候補がひとつと真の候補がひとつのこります。 そこであとひとつかふたつだけ検出器をつかえば、真の候補のほうをのこせます。 なにが言いたいかというと、こたえの候補が非常にたくさんあるとき、()()()()()証拠は、百万個の可能性のなかからただひとつの真の仮説の()()()()()()()()ために——自分の注意をむける相手としてのこすために——つかわなければいけないということです。 それとくらべて、もっともらしい候補ふたつやみっつのなかからひとつを選ぶのに必要な証拠の量は、ずっとすくない。 だから、もしそれを省略して、証拠なしに特定の可能性にだけ注意を集中させてしまったら、ほとんどの仕事をすっとばしていることになります。 まるで、百万人の住人がいる都市で殺人が起きたとき、探偵が『まだ証拠はまったくないけれど、モータイマー・スノドグラスが犯人だという可能性を検討しないか?』と言うようなものです。」

 

「実際犯人だったと?」とダンブルドア。

 

「いえ。 でもあとで犯人の髪は黒いということがわかり、モータイマーの髪は黒でした。それでみんな、ああ、やっぱりモータイマーがやったんだな、と思いました。 うたがう十分な理由なしに警察が彼を()()()()()()()()()()()のは不公平です。 たくさんの可能性があるときは、労力のほとんどは真のこたえの()()()()()()()()ことだけ——注意をむけはじめることだけにそそがれます。 ()()とか科学者や裁判所が要求する正式な証拠とかは必要ありませんが、なんらかの()()()()は必要です。その手がかりは、特定の可能性をほかの百万の可能性からきわだたせるものでなければならない。 そうせずに、ただしいこたえをどこからともなくとりだす、なんてことはできない。 検討にあたいする候補をどこからともなくとりだす、なんてこともできない。 ぼくのお父さんの岩を持ちあるく以外にできるほかのことは百万個はあるはずです。 ぼくが宇宙について無知だからといって、不確実性があるときに推論をするやりかたをぼくが知らない、ということにはならない。 可能性について考えるときの法則は、古典的な論理を支配する法則とおなじくらい強固です。そしてあなたがいまやったことは()()()()()。」 ハリーはことばを切った。 「()()()、もちろん、あなたが言いそびれた()()()()があるのなら別ですが。」

 

「ああ……」 ダンブルドアはほおをたたいて、思案するような顔をしている。 「なるほど、おもしろい論理じゃが、百万人の犯人候補のうち一人だけが殺人をおかしたというのを、たくさんの行動の選択肢のうちひとつをとることの比喩にしたところで破綻してしまってはいないかな? 賢明な行動の選択肢はひとつとはかぎらないのでは? お父さんの岩を持ちあるくことが唯一のよい行動だとは言わん。ただ、持ちあるかないよりも、持ちあるいたほうが賢明というだけじゃ。」

 

ダンブルドアはまたさっきとおなじ引きだしに手をのばしたが、こんどはなかをかきまわしているようだった——すくなくとも腕がうごいてみえた。 まったく予想外の反論にどう返答しようかとハリーがあたまを整理しているうちに、ダンブルドアがこう言った。「一点、レイヴンクロー生についてよくある誤解として、あたまのよい子はすべてレイヴンクローに〈組わけ〉され、ほかの寮にはひとりもいかない、というものがある。そうではない。レイヴンクローに〈組わけ〉された者は知識への欲望にうごかされているとは言えるが、これは知性とおなじ特質とは言いがたい。」 老魔法使いは引きだしに腰をかがめながら、笑みをうかべていた。 「とはいえ、きみはたしかに知性があるタイプのようじゃ。ふつうの若い英雄(ヒーロー)というより若い謎の老魔法使いといったところか。 わしはきみへの態度を間違えていたのかもしれんな。 きみは余人の理解できないことを理解できるのかもしれん。 ここはひとつ、また別の遺品をわたしてあげようではないか。」

 

「というのは……」とハリーは息をのんだ。「ぼくのお父さんの……()()()()()()()だったりしませんよね?」

 

「いやいや。わしのほうがきみよりは老人で、謎めいている以上、秘密をあかすのは()()の役割だという点はよろしく……ああ、あれはいったいどこに!」 ダンブルドアは引きだしのさらに奥へ、奥へと手をのばした。 あたまと肩とさらに胴体がそのなかへ消え、腰と足だけがつきでる格好になり、引きだしが彼を食べてしまったかのようだった。

 

あのなかにどれくらいのものがはいっているのか、内容物の全容はどうなっているのか、ハリーは気になってしかたがなかった。

 

ダンブルドアがようやく引きだしから、探しもとめていたものを手にして出てきた。そしてそれを机のうえの岩のとなりにおいた。

 

それは中古で、ふちがぼろぼろの、背表紙がすりきれた教科書。リバティウス・ボラージの『中級薬学実践』だった。表紙にはけむりをたてる小ビンの絵がある。

 

「これはのう……」とダンブルドアは抑揚をつけて言う。「きみのお母さんの五年次〈薬学〉教科書じゃ。」

 

「そしてそれをいつも持ちあるけと。」とハリー。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。この秘密があきらかになったときにおこるかもしれない災厄のおおきさを考えて、ここできみに誓ってもらわなければならないことがある。真剣に誓ってもらいたい、ハリー。きみがこれをどう思おうが——このことをだれにも、なににも言ってはならん。」

 

ハリーはお母さんの五年次〈薬学〉教科書と、そのなかにあるらしいとんでもない秘密のことを想像した。

 

問題は、ハリーはこういう誓いを非常に真剣にあつかうということだ。 どんな誓いも、誓う人によっては〈不破の誓い〉となる。

 

それに……

 

「のどがかわきました。のどがかわくのはあまりいい兆候ではありません。」

 

ダンブルドアはこの暗号めいたハリーの発言について質問しようとしなかった。 「誓ってくれるかね?」 ダンブルドアの目はハリーの目を熱心にみつめていた。 「でなければ、話すことはできん。」

 

「はい。誓います。」 これがレイヴンクロー生の宿痾だ。 レイヴンクロー生でありながらこんな申し出をことわれば、好奇心に生きたまま食い殺される。そこに付けこまれるのだが。

 

「わしも、これから言うことが真実であると誓う。」

 

ダンブルドアはその本を一見無作為にひらき、ハリーは見るために身をのりだした。

 

「ここの……」と言って、ダンブルドアはほとんどささやき声にまで声量をおとした。「余白の部分に書きこみがあるのが見えるかね?」

 

ハリーはすこし目をほそめた。 黄色がかったそのあたりのページには『ハヤブサの魅力の魔法薬(ポーション)』というものの解説があるようだった。まったく見おぼえのない、英語に由来していなさそうな名前の材料も多かった。 余白に走り書きされた註釈には、『ブルーベリーのかわりにセストラルの血をつかったらどうなる?』とあり、そのすぐ下に別の手書き文字で、『数週間病になり、死にいたることも』と返事があった。

 

「見えます。これがなにか?」

 

ダンブルドアは二番目の走り書きを指さした。 「この文字は……」と小さな声のまま言う。「きみのお母さんが書いたものじゃ。そして()()文字は。」と言いながら、ひとつ目の走り書きに指をうごかす。「わしが書いた。すがたを消して、リリーが寝ているあいだに共同寝室(ドミトリー)にしのびこんでな。リリーは友だちのだれかに書かれたと思って、それはすごい大げんかをしていたものじゃ。」

 

まさにこの瞬間、ホグウォーツ総長はたしかに狂っているとハリーは実感した。

 

ダンブルドアはハリーのほうを真剣な表情でみている。 「いまわしが言ったことの意味が理解できるかね、ハリー?」

 

「えー……」 いつのまにか声をつまらせてしまったようだった。 「すみません……よく……わかりません……」

 

「ああ、ふむ……」と言ってダンブルドアがためいきをついた。 「きみのかしこさにも限界があるのじゃな。この話はなかったことにしようか?」

 

ハリーは椅子から立ちあがり、かたい笑顔をした。 「よろこんで。 だいぶ夜もおそくなってきましたし、おなかがすきました。はやく夕食にいかないと。」と言ってハリーは一直線に扉にむかった。

 

ドアノブはまったくまわろうとしない。

 

「傷つけられたよ、ハリー。」とダンブルドアの静かな声が、ハリーの真うしろからした。 「こうして話してあげているのが、すくなくとも信頼のあかしだということに気づいてはくれなかったか?」

 

ハリーはゆっくりとふりむいた。

 

ハリーの目のまえにいるのは、銀色のひげとつぶれた巨大キノコのような帽子をつけ、マグルの目には三重にかさねたピンク色のパジャマのように見えるものを着た、とても強い、とても狂った魔法使いだ。

 

ハリーのうしろの扉はいまこの瞬間、機能していないらしい。

 

ダンブルドアはだいぶ悲しそうで疲れた表情をし、そこにない長杖に寄りかかりたそうに見えた。 「まさか。この百十年一度もかわらなかったパターンをたどるかわりに、新しいことをしようとしたりすれば、ひとはみな逃げていってしまうぞ。」 老魔法使いは悲哀の表情でくびをふった。 「きみにはもっと期待していたよ、ハリー。きみの友人はきみのことを狂っていると思っていた。それは間違いだとわしにはわかる。おなじようにわしのことを信じてはくれないか?」

 

「扉をあけてください。」とハリーは震える声で言った。 「もしぼくの信頼をとりもどしたいのなら、扉をあけてください。」

 

ハリーのうしろで扉がひらく音がした。

 

「話すつもりだったことはまだあるのじゃ。もしいま退室すれば、きみはいつまでもそれを知ることができない。」

 

ときどき自分がレイヴンクローであることが心底()()()()()

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()とハリーのグリフィンドール面が言った。そのことさえ覚えていれば、きっとパニックにはならない。こうやっておもろしくなってきたのに、逃げだしたりしないだろうな?

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()とハッフルパフ面が言った。 寮点を減点されだしたらどうする? もし嫌われたら、きみの学校生活をとてもむずかしくされかねない!

 

そして自分としてはあまり好きではないが沈黙させることもできない部分のハリーが、こう考えはじめた。この狂った老魔法使いの数すくない友人のひとりになることによって、その狂った老魔法使いがたまたま総長であり主席魔法官であり上級裁判長である場合に、どんな有利なことが生じうるだろうか。 そして残念ながら、このこころのなかのスリザリンは、ひとを〈暗黒面(ダークサイド)〉につれこむのがドラコよりもずっと得意なようだった。そいつは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とか、ダンブルドアはどんなすばらしい秘密を教えてくれるんだろうな、もし、ほら、友だちになってあげたらさ、とか、さらには、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とさえ言ってきた。

 

()()()()()()()とハリーはその集会全体にむけて思考したが、自分の全構成員による全会一致の多数票で否決された。

 

ハリーはふりむき、ひらかれた扉にむけて一歩すすみ、手をのばし、慎重にそれをとじた。 いずれにしろとどまるのなら、ダンブルドアがハリーのうごきを支配できる以上、これは費用のかからない犠牲であり、ダンブルドアに好印象をあたえるかもしれない。

 

ふりむくと、またおなじ、強い狂った魔法使いの顔があった。また笑顔になっていて、親しげにみえる。いいことだ。たぶん。

 

「もうおなじことはしないでください。ぼくは閉じこめられるのが嫌いです。」

 

「そのことについては申し訳ない。」とダンブルドアは真摯な謝罪のように聞こえる声で言った。 「お父さんの岩を持たせずにここから出してしまうのは、あまり賢明でなかったのでのう。」

 

「そうですよね。 冒険(クエスト)用アイテムを道具ぶくろにいれないままで扉がひらくと思うほうが非常識でした。」

 

ダンブルドアは笑みをうかべ、うなづいた。

 

ハリーは机のまえにくると、モークスキン・ポーチをひっぱってベルトのまえにだし、多少努力して十一歳の両腕でその岩をもちあげ、ポーチに食わせた。

 

〈口さけ口〉の魔法(チャーム)が岩を食べだすと、その重さがすこしずつ消えていくのがたしかにわかった。そのあとのげっぷの音はかなりおおきく、はっきりとした非難のひびきがあった。

 

(たしかにとんでもない秘密いりの)お母さんの五年次〈薬学〉教科書もすぐあとにつづいた。

 

ハリーのこころのなかのスリザリンはそこで総長にこびを売るべきだという狡猾な提案をし、そのことばたくみな説得に、残念ながら多数派閥レイヴンクローも引きこまれてしまった。

 

「ところで、あの、せっかくですから、お部屋の案内をしてもらうわけにはいかないでしょうか? ここにあるいろいろなものが何なのかちょっと興味があります。」 この『ちょっと』は、この九月最高の過小評価である。

 

ダンブルドアはハリーをじっとみつめ、ちらりと笑いをみせてうなづいた。 「興味をもってもらえて光栄じゃ。けれどもたいして言うべきことはない。」 ダンブルドアは壁に一歩ちかづき、眠る男の肖像画を指さした。 「これはホグウォーツ元総長の肖像画。」 向きをかえて机を指さす。 「これは机。」 椅子を指さす。 「これは椅子。」

 

「すみません。実はききたかったのはこっちにならんでいるものなんですが。」 ハリーが指さしたさきにある小さな立方体は、小さな声で「ブロプロ……ブロプロ……ブロプロ……」と言っている。

 

「ああ、この機械(からくり)たちのことか? これは総長室に付属してきたもので、ほとんどどれも、なんのためのものなのかさっぱりわからん。 ()()八本の針がついたダイアルは、フランス国内にいる魔女のうち左ききの者がくしゃみのようなことをした回数をかぞえておる。これをつくりあげるには信じられないほどの工夫を要したはずじゃ。 金色のぐらぐらする()()はわしの発明品で、ミネルヴァにはこれがなにをしているのかいつまでもわからないはずじゃ。」

 

ハリーがその意味を飲みこもうとしているあいだに、ダンブルドアは帽子かけのところへ歩みよった。 「こちらにあるのはもちろん〈組わけ帽子〉。きみとは初対面ではないと思う。〈組わけ帽子〉は、今後いかなる場合でも自分はきみのあたまの上におかれるべきではない、と言っておった。歴史上こう言われた生徒はこれで十四人目になる。バーバ・ヤーガはその一人で、もう何年かしたらのこりの十二人のことも教えてあげよう。これは傘。これも傘。」 ダンブルドアは数歩すすんでふりむき、満面にちかい笑みをみせた。 「そしてもちろん、ここにくるほとんどの人があいたがるのはフォークス。」

 

ダンブルドアは金色の台座にのった鳥のとなりに立っていた。

 

ハリーはだいぶ困惑しながらそこに近寄った。「これがフォークスですか?」

 

「フォークスは不死鳥(フェニックス)じゃ。 とてもめずらしい、とてもちからのある魔法生物じゃ。」

 

「ああ……」 ハリーはあたまをひくくして、その小さな、ビーズのような黒い目をみた。そこにはちからや知性が微塵もあらわれていない。

 

「あああ……」とハリーはまた言った。

 

この鳥のかたちには見おぼえがある気がする。見のがすほうがむずかしい。

 

「あの……」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()とハリーのこころが自分にむけてわめいた。 ()()()()()()()()()()()()()

 

()()()()()()()言えばいいっていうの()とハリーのこころが反撃した。

 

なんでもいい!

 

それって、「フォークスはニワトリですね。」以外のなんでもということ——

 

()()() ()()()()()()()()()()()()()

 

「それで、あの、不死鳥はどんな魔法がつかえるんですか?」

 

「不死鳥のなみだには癒しの力がある。 炎の生物で、こちらで消えればあちらで燃えあがる炎とおなじように簡単に、さまざまな場所を移動できる。 生まれながらの魔法力の負担によりそのからだは急速に老化するが、不死鳥はこの世界のどの生物よりも不死にちかい。からだが朽ちるとき、不死鳥は炎を燃えあがらせて自分を焼き殺し、そのあとに雛、ときによっては卵をのこす。」 ダンブルドアはそのニワトリにちかづき、検分し、眉をひそめた。 「ふむ……すこしやつれているようじゃな。」

 

この発言の意味がハリーのあたまのなかで解釈されたときにはすでに、ニワトリは炎につつまれていた。

 

ニワトリのくちばしがひらいたが、カーと言う間もなくそのからだはしぼみ、焦げだした。 炎は一瞬で激しく燃え、完全にその内部で完結していた。燃えるにおいすらしない。

 

その炎ははじまってからわずか数秒でおさまり、小さな、あわれな灰の山を金色の台座にのこした。

 

「こわがることはないぞ、ハリー! フォークスは無事じゃ。」 ダンブルドアの片手がポケットにつっこまれ、そしてそのおなじ手が灰のなかをまさぐり、小さな黄色の卵をとりだした。 「ほら、卵がここに!」

 

「うわあ……すごい……」

 

「じゃがそろそろ話をさきにすすめよう。」 ダンブルドアは卵をニワトリの灰のなかにもどし、玉座にもどって座った。 「なにせまもなく夕食になるし、〈逆転時計〉をつかうはめにはなりたくない。」

 

〈ハリー政府〉内では激しい権力闘争がおきていた。 ホグウォーツ総長がニワトリを燃やすのを見て、スリザリンとハッフルパフが陣営を乗りかえたのだ。

 

「話ですね。」とハリーのくちがかってに言う。 「そのあとで夕食。」

 

()()()()()()()()()()()()()、とハリーの〈内的批評家〉が意見した。

 

「さて。 実は告白しなければならないことがある。告白と謝罪がある。」

 

「謝罪はいいですね。」()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

老魔法使いは深くためいきをついた。 「わしが言うことを聞いたあとではそう思ってはくれないだろう。 申し訳ないが、わしはきみの人生をずっと操作してきた。 あのいじわるな養父母にきみをあずけることに同意したのも——」

 

「養父母はいじわるじゃありません!」とハリーは思わず言った。「というより()()ですが!」

 

「いじわるでない?」と言って、ダンブルドアがおどろきと落胆の表情をした。 「すこしも? それではパターンに合わん……」

 

ハリーのなかのスリザリンが全力で精神的な悲鳴をあげて、だまれ、両親にあわせてもらえなくなるぞ!と言った。

 

「いえ、そうではなく、」 ハリーが顔をゆがめてあおざめさせ、くちびるを凍りつかせる。「いまのは先生の負担をかるくしようとして言っただけで、実はかなりいじわるなひとたちで……」

 

「ほう?」とダンブルドアは身をのりだして、ハリーをじっとみつめた。 「なにをされた?」

 

()()()()()()()() 「えー、皿洗いをさせられたりとか、本をあまり読ませてもらえなかったりとか——」

 

「ああ、うむ、それはなによりじゃ。」と言ってダンブルドアは背もたれにもどった。 彼はどこか悲しげな笑みをうかべた。 「ではそのことについて謝罪したい。 つぎはなんだったかな? ああ、そうじゃ。 申し訳ないが、きみの身におこった不運のうち、事実上すべてがわしの責任じゃ。 そう聞いてきみがとても怒るとしても無理はない。」

 

「はい、とても怒っています! グルルルル!」

 

ハリーの〈内的批評家〉はこれに即座に演劇史上最低演技賞を授与した。

 

「もうひとつ言っておきたい。きみかわしのどちらかになにかがあったときにそなえて、できるだけはやくこれを言っておきたかった。ほんとうに、ほんとうに申し訳ない。 これまでにおきたことすべて、これからおきることすべてについて。」

 

老魔法使いの目がしめり、きらめいた。

 

「そうですね。ぼくはとても怒っています! なのでほかに話がないのなら、すぐにここから出ていかせてもらいます!」

 

燃やされたくなかったら、はやく出ろ!——とスリザリンとハッフルパフとグリフィンドールがさけんだ。

 

「無理もない。 もうひとつだけいいかな。 三階の通廊にある禁じられた扉をあけようと()()()()()()。 そこにある罠をすべてきみがくぐりぬけられるのぞみはない。ためしたばかりにきみに危害がおよんだという報告をうけたくはない。 そもそも、最初の扉をあけることすらできないのではないかと思う。そこには鍵がかかっていてきみは『アロホモーラ』の呪文も知らないのじゃから——」

 

ハリーはくるりとからだを回転させ出口に全速力でむかった。手をのせるとドアノブはこころよくまわってくれた。足をもつれさせかけながら、螺旋階段がまわるのもかまわず走りぬけ、一瞬で一番したにまで着き、ガーゴイルがよけると、ハリーは階段から砲弾のようにとびだした。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ポッター。

 

ハリー・ポッターにはなにかがある。

 

たしかに今日はだれにとっても木曜日だが、こういう種類のことはだれにでもおきるものではない。

 

ハリー・ポッターが階段から砲弾のようにとびでて、全速力で加速しながら、ミネルヴァ・マクゴナガルにぶつかったのは午後六時二十一分だった。彼女は総長室にむかって角をまがったところだった。

 

さいわいどちらもけがはなかった。 この日、すこしまえに——自分はホウキに二度とちかづかないとハリーが宣言していたころに——ハリーが説明されていたとおり、クィディッチに鉄の〈ブラッジャー〉が必要なのは選手がけがをする多少の可能性をつくるためだった。魔法族は一般にマグルとくらべて衝突にずっと強いからだ。

 

ハリーとマクゴナガル先生は床にたおれはした。彼女がもっていた羊皮紙は廊下にまきちらかされた。

 

恐ろしい、それは恐ろしい沈黙があった。

 

「ハリー・ポッター。」とマクゴナガル先生はハリーのすぐとなりの、床にたおれたその場所から、声を殺して言った。 その声がほとんど金切り声にまであがった。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なんでもありません!」とハリーがさけんだ。

 

「〈防衛術〉教授の話をしたのですか?」

 

「いいえ! ダンブルドアに呼びだされて、大きな岩をもらって、それはぼくのお父さんのもので、どこにいくにも持ちあるきなさいと言われただけです!」

 

また恐ろしい沈黙があった。

 

「なるほど。」とマクゴナガル先生が、すこし落ちついた声で言った。 彼女は立ちあがり、髪をととのえ、散らばった羊皮紙をにらんだ。羊皮紙はとびあがってきれいに積みあがり、小走りして、そのにらみから隠れるように廊下の壁のしたにおさまった。 「同情します、ミスター・ポッター。そして、うたがってすみませんでした。」

 

「マクゴナガル先生。」 ハリーの声は震えている。 ハリーは自分を床から立たせ、彼女の頼れる、()()()顔をみあげた。 「マクゴナガル先生……」

 

「なんですか?」

 

「ぼくはお父さんの岩をいつも持ちあるいたほうがいいと思いますか?」とハリーは小さな声で言った。

 

マクゴナガル先生はためいきをついた。 「それはあなたと総長が決めることです。残念ですが。」 彼女はためらった。 「ただ、総長の言うことを真っ向から無視するのはほとんどの場合賢明ではありません。 むずかしい判断をせまられていることは気の毒に思いますし、あなたがどうするかを決めたなら、わたしもできるだけのことはしてあげたいと思います——」

 

「あの。」とハリー。 「実は、やりかたさえわかれば、この岩を指輪に〈転成〉して指につけることができるんじゃないかと思っていたんですが。〈転成〉を維持する方法さえ教えてもらえれば——」

 

「わたしにまず質問したのはいいことです。」と言って、マクゴナガル先生がすこし厳格な表情になった。 「その〈転成〉の制御をうしなえば、反転によって指はもげ、おそらく手がふたつに割けます。 あなたの年齢では、指輪程度のおおきさでも無期限で維持するには目標物としておおきすぎ、魔法力が大幅に流出しつづけます。 ですが、あなたの皮膚に接する位置に小さな宝石をはめられるような指輪を鋳造してあげることはできます。あなたは安全な対象物、たとえばマシュマロなどをつかって維持の訓練ができるでしょう。 まる一カ月、眠っているあいだも維持することに成功したら、あなたにその、お父さんの岩ですか、を〈転成〉することを許します……」 マクゴナガル先生の声が小さくなっていった。 「総長は()()()()()——」

 

「はい。あ……その……」

 

マクゴナガル先生はためいきをついた。 「あのひとにしてもそれはちょっと変です。」 彼女はかがんで、積みあがった羊皮紙をひろった。 「お気の毒に、ミスター・ポッター。 あなたをうたがったことをあらためて謝罪します。 ですがそろそろわたしも総長のところへいかなければ。」

 

「あ……がんばってください、というか。その……」

 

「ありがとう、ミスター・ポッター。」

 

「あの……」

 

マクゴナガル先生はガーゴイルのところへいき、声にださずパスワードを発し、回転する螺旋階段に足をふみいれた。 登っていくすがたがみえなくなり、ガーゴイルがもとの場所にもどり——

 

「マクゴナガル先生、総長はニワトリを燃やしました!」

 

「総長が()()()()()()——」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「素因数分解」
六桁くらいならまだいいが、巨大な数の素因数分解には既知のアルゴリズムでは膨大な時間がかかる。いっぽう、多数の素数の積を計算するのは簡単である。この事実はコンピュータ上の暗号を解読困難にするためにつかわれている。


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18章「集団内の序列」





「ちょうどわしがやりそうなことにきこえるじゃろう?」

 

◆ ◆ ◆

 

金曜日の朝食の時間。 ハリーはトーストに大口でがぶりと食いつきながら、いくら急いで朝食をかきこんでも地下洞(ダンジョン)に早くいけるわけではないと自分に言いきかせようとしていた。 なにせ朝食と〈薬学(ポーションズ)〉の開始時刻のあいだには、まる一時間の自習時間がある。

 

でも地下洞(ダンジョン)が! ホグウォーツのなかにあるなんて! ハリーはすでに、細い橋やら蝋燭(ろうそく)のともった燭台やら光るコケやらを思いえがいていた。 ネズミもいるかな? ()()()()も?

 

「ハリー・ポッター。」と小さな声がうしろからした。

 

肩ごしに見えたのはアーニー・マクミランだ。黄色のえりのローブをこぎれいにまとって、すこし心配そうな顔をしている。

 

「ネヴィルからきみに忠告しておいたほうがいいと言われてね。」とアーニーは声を小さくして言う。 「たしかにそうだと思うから言っておく。 きょう授業する〈薬学教授(ポーションズ・マスター)〉には注意しろ。 ハッフルパフの上級生によると、スネイプ先生はきらいな生徒には相当意地がわるくて、スリザリンでない生徒のほとんどをきらっている。 きいたかぎりじゃ、この先生にひとことでも生意気なことを言った生徒は、かなりひどい目にあう。 とにかくめだたないようにして、目をつけられる口実をあたえるな。」

 

ハリーはしばらく沈黙してこの内容を検討し、両眉をあげた。 (スポックのように片眉をあげることができたらと思うが、うまくできたことがない。) 「ありがとう。おかげでうまく立ちまわれそうな気がする。」

 

アーニーはうなづき、ひるがえってハッフルパフのテーブルにもどった。

 

ハリーはまたトーストを口にした。

 

四口目くらいのところで、だれかが「ちょっとごめん。」と言い、ハリーがふりむくとレイヴンクローの上級生が、やや心配そうにしてそこにいて……

 

すこしあとのこと。ハリーが肉の薄ぎりの三皿目を食べおえるころ。 (ハリーは朝食をたっぷりとるのが得策だということを学んでいた。そのあとで結果的に〈逆転時計〉をつかう必要がなければ、昼食を軽めにすればいいだけのことだから。) そこでまたうしろから「ハリー?」と別の声がかかった。

 

「うん。」とハリーはうんざりして言う。「スネイプ先生には目をつけられないようにするから——」

 

「いや、まず無理だね。」とフレッド。

 

「どうみても無理。」とジョージ。

 

家事妖精(ハウスエルフ)たちにケーキを焼いてもらってるんだ。」とフレッド。

 

「きみがレイヴンクローの点を一点とられるたびに、ろうそくをひとつ増やす。」とジョージ。

 

「そして昼食になったら、グリフィンドールのテーブルできみのためにパーティーをひらく。」とフレッド。

 

「元気づけになればと思ってね。」とジョージがしめくくった。

 

ハリーは肉の薄ぎりの最後の一口をのみこんで、そちらを向いた。 「なるほど、正直、ビンズ先生を見たあとでこんなことを言うとは思わなかったんだけど、もしスネイプ先生が()()()()ひどい人なら、どうしてくびにされてないの?」

 

「くび?」とフレッド。

 

「つまり、やめさせるって?」とジョージ。

 

「そう、悪い教師がいるなら、やることはきまっている。 くびにするんだ。 そしてかわりに、ましな教師をやとう。 ここには組合とか在職権(テニュア)とかはないんだろう?」

 

フレッドとジョージは、あたかも狩猟採集民の長老が微分積分の話をされたときのようにして、眉をひそめた。

 

「どうだろう。」としばらくしてからフレッドが言う。「そういう発想はなかった。」

 

「おれも。」とジョージ。

 

「うん、よくそう言われる。じゃあ昼食のときにまた。ろうそくをひとつもケーキにのせられなくても文句言わないでね。」

 

フレッドとジョージは冗談を聞かされたかのように笑い、会釈してグリフィンドールのほうへもどっていった。

 

ハリーは朝食のテーブルのほうにもどってカップケーキを手にとった。 おなかはもういっぱいだが、きょうの午前中はかなりのカロリーを消費しそうな気がしている。

 

カップケーキをたべながら、ハリーはこれまでに出あったなかで最悪の教師、〈史学〉教授のビンズ先生のことを考えた。 ビンズ先生は幽霊(ゴースト)だ。 ハーマイオニーからきいた話からすると、幽霊には完全には自我があるとは言えなさそうだ。 生前どんな人であったかによらず、幽霊が有名な発見をしたことはないし、そもそも新しい作品をつくったことすらない。 幽霊は現世紀のできごとを記憶するのが苦手なことが多い。 ハーマイオニーは、幽霊は偶然つくられた肖像画のようなものだという。魔法使いが急死したときに放出される心霊エネルギーのかたまりが周囲の物質に刻印されてできたものだという。

 

標準的なマグル教育にのりこもうとして失敗した時期に、ハリーも愚かな教師にであってはいる——もちろんお父さんは大学院生を家庭教師にえらぶときには、ずっとよりごのみをしてくれた——が、文字どおり意識のない教師に出会うのは〈史学〉の授業がはじめてだった。

 

そのことは見ればわかった。 ハリーは開始五分間であきらめ、教科書を読みはじめた。 そして『ビンズ先生』が文句を言わないことがわかると、ポーチに手をのばし、耳栓をつけた。

 

幽霊は給料を要求しないのだろうか? だからか? それともホグウォーツでは教師をくびにするのが文字どおり不可能で、その教師が()()()()無理なのか?

 

そして、スネイプ先生がスリザリン以外の全員に対して最悪の態度をとっているのに、だれにも契約をうちきるという()()()()()()()とくる。

 

そして総長はニワトリを燃やした。

 

「ちょっといい?」とうしろから心配そうな声がした。

 

「ほんとに、」とハリーはふりむかずに言う。「この場所はパパの言うオクスフォードの八.五パーセントくらいひどい。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは石敷の廊下を踏みならして歩いた。むかむかして、いらいらすると同時に憤慨している風だった。

 

地下洞(ダンジョン)!」とハリーは声をひそめて言う。「地下洞(ダンジョン)! こんなのダンジョンじゃない! これじゃ地下室だ! ()()()!」

 

レイヴンクローの女子何人かが怪訝そうな目でそれを見た。 男子は全員もう慣れっこだった。

 

〈薬学〉教室のおかれた階が『地下洞(ダンジョン)』と呼ばれるのには、単に地面より下にあって城本体よりもすこし寒いから、という以上の理由はないらしい。

 

()()()()()()に! ()()()()()()にも! ハリーはうまれてからずっと待ってきたというのに()()待つのか。()()()()()()()()にまともなダンジョンがあるとしたらホグウォーツしかない! ちょっとした底なしの奈落を見たいと思ったら自分で城をたてるしかないのだろうか?

 

まもなく全員が〈薬学〉教室につき、ハリーはかなり気をとりなおした。

 

〈薬学〉教室のクローゼットとクローゼットのあいだはすきまなく、巨大なビンがならぶ棚でうめられていて、どのビンにもそれぞれ奇妙な生物がおさめられている。 だいぶ読書をすすめていたおかげで、ハリーはザブリスカン・フォンテマなどいくつかの生物を同定することができた。 五十センチあるクモはアクロマンチュラの()()()()()()が、それにしては小さすぎる。 ハーマイオニーにきいてみようと、ハリーはそちらを指さして話そうとしたが、彼女はそちらに目をむける気分ではないようだった。

 

ハリーが目と足のついたほこりのかたまりを見ていたところで、暗殺者がするりと入室した。

 

それがセヴルス・スネイプ教授を見たときにハリーのあたまのなかにうかんだ最初のイメージだった。 子どもたちの机のあいだをしずしずと歩くその男にはどこか静かで、殺気だった感じがあった。 ローブは着くずれ、髪はよごれて、てかりがある。 どこかルシウスを思わせる雰囲気があったが、両者の見ためにはなんら共通点がない。ルシウスは完全無欠で優美な殺人をするという印象だったが、この男はただ殺すという印象だ。

 

「着席しなさい。」とセヴルス・スネイプ教授が言う。「さあ、はやく。」

 

立って話をしていたハリーとそのほか数人があわてて机にむかった。 ハリーはハーマイオニーのとなりに座るつもりでいたが、一番ちかくで空席だった、ジャスティン・フィンチ゠フレチリー(これはレイヴンクローとハッフルパフの合同授業だった)のとなりの席についてしまい、ハーマイオニーからは二席ぶん左側になった。

 

セヴルスは教卓のうしろの席に座り、つなぎや導入のことばなしに、こう言った。「ハンナ・アボット。」

 

「います。」とハンナは多少ふるえる声で言った。

 

「スーザン・ボーンズ。」

 

「はい。」

 

そうやって点呼がつづき、だれも無駄口をたたこうとはしないまま、ある生徒の番がきた:

 

「ああ、そうか。ハリー・ポッター。われらがあたらしい……()()()ではないか。」

 

「はい、スターはここです。」

 

教室にいる生徒の半分がびくりとし、かしこいほうの生徒数人は急に、まだ教室がのこっているうちにドアから逃げだしたい、というような表情になった。

 

セヴルスは予想どおりと言いたげな感じの笑みをうかべ、リストにあるつぎの名前を呼んだ。

 

ハリーはこころのなかでためいきをついた。 あまりに展開がはやすぎて、なにもできなかった。 しかたないか。 理由はわからないが、この人はすでにぼくを嫌っている。 ただ考えてみれば、()()()〈薬学〉教授の標的になるほうが、ネヴィルやハーマイオニーがそうなるよりはるかにましだ。 あの二人よりもぼくのほうがずっとうまく自衛できる。 そう、これでいいんだ。

 

全員の出席を確認すると、セヴルスは教室全体を見わたした。 その両目は星のない夜空のように空虚だった。

 

「ここで諸君は……」とセヴルスは教室のうしろの生徒からやっと聞きとれる程度の静かな声で言う。「魔法薬調合の精妙な科学と正確な技法をまなぶ。 愚かしく杖をふりまわすこともないのではとても魔法とは思えない、という者も多かろう。 たおやかにけむりをはきつつ、ゆるやかに沸騰する大釜(コルドロン)の美しさや、人間の血管にながれこみ」……というところで、やけに声に愛撫と愉悦がまじっていく。「精神を魅了し感覚を幻惑する液体の繊細なちからを」……どんどん気味がわるくなっていく。「諸君が真に理解するとは期待しない。 わたしは諸君に、名声をビンづめし、栄誉を醸成し、さらには死にふたをする方法さえも教えることができる——諸君が、例年わたしに押しつけられるような愚か者ばかりでなければだがね。」

 

セヴルスはどうやら、ハリーの顔にうかんだ懐疑の表情に気づいたようだった。すくなくとも、その視線が突然ハリーの席のあたりにおそいかかった。

 

「ポッター!」と〈薬学〉教授が声をあげた。 「アスフォデルの根の粉末をニガヨモギの抽出液にくわえてできるものはなんだ?」

 

ハリーは目をしばたたかせた。 「それは『魔法薬調合法』に書いてありましたか? あの本なら読みおえたばかりですが、ニガヨモギを材料とするものをみた記憶が——」

 

ハーマイオニーの片手があがり、ハリーはそれをにらみつけ、彼女はそれに応じてさらに手をたかくあげた。

 

「おやおや。」とセヴルスがなめらかに言う。「どうやらこの世は名声がすべてとはいかないようだ。」

 

「へえ? たったいま名声をビンづめする方法を教える、とおっしゃったのに。 ところで()()()()具体的にどうやるんですか? 飲むとスターになれる薬があるとか?」

 

教室の生徒の四分の三がびくりとした。

 

ハーマイオニーの手がゆっくりとおりていく。 まあ、おどろくことではない。 彼女はハリーの競争相手ではあっても、教師が意図的にハリーに恥をかかせようとしていることがわかったあとでそれにのるような子ではない。

 

ハリーは冷静さをたもとうと努力していた。 最初にあたまをよぎった反撃の一言は『アブラカダブラ』だった。

 

「ではもう一問。 ベゾアルを入手せよと言われたとき、さがすべき場所は?」

 

「それも教科書にありませんでしたが、ぼくの読んだマグルの本によれば、毛髪胃石(トリコベゾアル)は髪の毛が固体となったもので、人間の腹のなかでみつかります。かつてマグルは、これであらゆる毒を解毒できると信じていました——」

 

「不正解。 胃石(ベゾアル)はヤギの腹のなかでみつかる。髪の毛でできてはいない。ほとんどの毒を解毒できるが、すべてではない。」

 

「できるとは言っていません。マグルの本にそう書かれていると言っただけで——」

 

「ここにいるだれひとり、その()()()()()()マグル本とやらに興味はない。 最後の質問だ、ポッター。モンクスフードとウルフスベインの違いはなにか?」

 

もう限界だ。

 

ハリーは冷たくこう言った。「ぼくが読んだ()()()()マグル本のなかには、自分しかこたえを知らないどうでもいい質問をして自分をかしこく見せようとする人たちについての研究が書かれていましたよ。 聴衆は、質問者に知識があり回答者に知識がないということにしか気づかず、背後にあるゲームの不公平さを考慮にいれることができないそうです。 ところで、先生、炭素原子の最外殻電子数はいくつかわかりますか?」

 

セヴルスはいっそうにやりとした。 「四。 だれも書き取る必要はない無用な知識だが。 ポッター、参考までに言っておく。アスフォデルとニガヨモギからつくられるのは〈生ける屍の水薬〉と呼ばれるほど強力な睡眠薬だ。 モンクスフードとウルフスベインはおなじ植物で、別名トリカブトともいう。これは『魔法薬草菌類千種』を読んでいればわかっていたはずだ。 あの本は授業まえにひらくまでもないと思ったわけかね? ほかの諸君はこれを書きとめておくように。ポッターのように無知になりたくなければな。」 セヴルスはことばを切り、満足感にひたっているようだった。 「これでしめて……五点? いや、切りがいいところで十点、口ごたえをした罰としてレイヴンクローの点を減点する。」

 

ハーマイオニーとほか数人が息をのんだ。

 

「セヴルス・スネイプ教授。」とハリーが声をあげる。 「あなたの敵意を買うようなことをしたおぼえは、いっさいありません。 もしぼくが自覚していない問題がなにかあるとおっしゃるなら、一度二人で——」

 

「だまれ、ポッター。レイヴンクローはもう十点減点する。ほかの諸君は教科書の三ページをひらきなさい。」

 

ハリーののどの奥には、わずかに、ほんのかすかにだけなにかが燃える感覚があったが、目にはなんのしめりけもでなかった。 泣くという戦術がこの〈薬学〉教授を粉砕するのに有効でないなら、泣く意味はない。

 

ゆっくりと、ハリーは背すじをのばした。 血がすべて流れだし、液体窒素でおきかえられたような気がする。 冷静さをたもとうとしていたのはおぼえているが、なんのためだったのか思いだせないような気がする。

 

「ハリー、」とハーマイオニーが二席むこうから必死にささやく。「やめて。もういい。これは数にいれないから——」

 

「私語かね、グレンジャー? 三点——」

 

「ところで、」と絶対零度より冷たい声が言う。「虐待をする教師に対して正式に抗議を提出するにはどうやればいいのでしょうか? 副総長に面会するのか、理事会に書面で送るのか…… その方法を教えていただけますか?」

 

教室が完全に凍りついた。

 

「一カ月の居残り作業を命ずる、ポッター。」とセヴルスが、さらに笑みを顔にひろげて言った。

 

「ぼくはあなたの教師としての権威を承認しない。あなたから命じられた処分はうけない。」

 

全員が息をとめた。

 

セヴルスの笑みが消えた。 「ならば、おまえは——」と、その声が途中でとぎれた。

 

「退学、ですか?」 ハリーのほうは薄ら笑いをうかべていた。 「でもあなたは、自分にその脅迫を実行する権限がないかもしれないと疑っている、あるいは、できたとして、どういう報いをうけることになるか恐れているようだ。 ぼくのほうは、こんな虐待をする教師のいない学校がみつかるみこみを疑ってもいないし恐れてもいない。 いや、ぼくがいつもそうしていたように、個人的に教師をやとって、目いっぱいの学習速度で教えてもらってもいい。 それにたりるだけのおかねが金庫にある。 〈闇の王〉をたおした賞金かなにかで。 でもホグウォーツには好ましい教師もいるから、あなたを追いだす方法をみつけるほうがよさそうだ。」

 

「わたしを追いだす?」と言ってセヴルスも薄ら笑いをしはじめた。 「愉快なうぬぼれだ。どうやってそんなことをするつもりだね?」

 

「ぼくの理解では、あなたについては複数の生徒と保護者から抗議がでている。」……というのは勘だが、まずまちがいないだろう。 「となるとなぜあなたがまだここにいるのかが不思議でならない。 ホグウォーツはまともな〈薬学〉教授をやとえないほど金銭的に困窮しているのか? そうなら、ぼくがカンパしてもいい。 二倍の給料をだせば、きっとあなたよりはましな水準の教師をみつけられると思う。」

 

二本の氷の柱が冬の寒さを教室全体に放射している。

 

「やってみれば、理事会がその提案にいっさい賛同しないことがわかるだろう。」とセヴルスが小声で言った。

 

「そうか、ルシウスが……。()()()あなたはまだここにいるんだ。 ぼくはルシウスと一度話をしたほうがいいかもしれない。 彼はぼくに会いたいと思っているようだった。 ぼくは彼がほしがるものをなにかもっていたりするだろうか?」

 

ハーマイオニーが必死にくびをふった。 ハリーは視界のかたすみにそれをみとめたが、ハリーの注意力はすべてセヴルスにそそがれている。

 

「なんと愚かな少年だ。」 セヴルスはもう笑みをやめている。 「ルシウスにとってわたしとの友情をこえる価値のあるものはおまえにはない。 仮にあったとして、わたしにはほかの協力者もいる。」 そこで声がかたくなった。 「おまえがスリザリンに〈組わけ〉されなかったなどということはありそうにない気がしてきた。 どうやってわたしの寮を回避したりした? ああ、そうだな、〈組わけ帽子〉が()()だと言ったからだ。 歴史上はじめて。 おまえは〈組わけ帽子〉となにを()()()()()? おまえは〈帽子〉がほしがるなにをもっていた?」

 

ハリーはセヴルスの冷たい視線を見つめて、あのことを考えているあいだはだれとも目をあわせるなという〈組わけ帽子〉の警告を思いだし——セヴルスの机に視線をおとした。

 

「不自然にわたしから目をそらすんじゃない!」

 

突然の理解がハリーを襲う——「そうか、あなたが〈組わけ帽子〉の警告していた人物なんだ!」

 

「は?」と純粋におどろいたようなセヴルスの声がしたが、ハリーはもちろんその顔に目をむけなかった。

 

ハリーは机を立った。

 

「席につけ、ポッター。」とハリーの見ていない方向から怒りの声がした。

 

ハリーはそれを無視し、教室を見わたした。 「教師失格の人物にぼくのホグウォーツ生活を台無しにされるつもりはありません。」とハリーはおそろしい冷静さで言った。 「この授業は欠席させてもらいます。 かわりにぼくはこの学校にいるあいだ個人的な〈薬学〉教師をやとうか、理事会がそこまで身うごきをとれなくなっているなら、夏休みに自習します。 この男にいじめられたくない人がいれば、ぼくの授業に合流してくれてかまわない。」

 

「席につけ!」

 

ハリーは部屋をのしのしと部屋の反対側にいき、ドアノブをつかんだ。

 

まわらない。

 

ハリーはゆっくりとふりむいて、セヴルスのいやみな笑みをちらりとみたが、目をそらすことを思いだした。

 

「このドアをあけてください。」

 

「ことわる。」

 

「あなたはぼくに身の危険を感じさせた。」と言う氷のような声はハリーとは別人のようだ。「これは悪手ですよ。」

 

セヴルスの声が笑った。 「それでどうしようというのかね?」

 

ハリーは大股でドアから六歩はなれ、最後列の机のちかくに立った。

 

そしてハリーは背をのばし、右手をあげ、ぞっとするような動作で指をならすかたちをとった。

 

ネヴィルが悲鳴をあげ、机の下にとびこんだ。 ほかの子どもたちは身をかがめるか、本能的に両手を自分にかぶせるかして、自分を守ろうとした。

 

()()()()()()()()」とハーマイオニーが甲高い声をあげた。 「先生になにをするつもりか知らないけど、やめて!」

 

「全員気でも狂ったか?」とセヴルスの声がどなった。

 

ゆっくりと、ハリーは手をさげた。 「彼に危害をくわえるつもりはなかったよ、ハーマイオニー。」とハリーはすこし声をおさえて言った。 「ドアをふきとばそうとしていただけだ。」

 

だがよく思いかえしてみると、燃やすものを〈転成〉することは禁じられている、ということは、あとで時間をさかのぼってフレッドとジョージに頼んで慎重に計量した爆発物を〈転成〉してもらうというのは、あまりいい考えではなさそうだ……

 

「シレンシオ」とセヴルスの声が言った。

 

ハリーは「え?」と言おうとしたが、声がでてこないのに気づいた。

 

「ずいぶんばかばかしいことになった。 もうたっぷり一日分の面倒ごとはおこしただろう。 おまえのような無法者はみたことがない。レイヴンクローがいま何点だったにせよ、根こそぎとりあげることはできよう。 レイヴンクローは十点減点、レイヴンクローは十点減点、レイヴンクローは十点減点! レイヴンクローは五十点減点! さあ着席して、ほかの生徒が授業をうけるのを見ていろ!」

 

ハリーは手をポーチにいれて、「マーカー」と言おうとしたがもちろん声がでなかった。 そこで一瞬とまったが、M・A・R・K・E・R(マーカー)という文字を指で書いてみることを思いついてやってみると、うまくいった。 P・A・D(パッド)と書くとメモ帳(パッド)がでてきた。 彼はもともといた机とはちがう空席に机まで歩いていき、みじかいメッセージを走り書きした。 その一枚をちぎり、マーカーとメモ帳を簡単にとりだせるようにローブのポケットにいれ、スネイプではなくほかの生徒にむけて、そのメッセージをかかげた。

 

ぼくはここを出る

ほかにだれか

出ていく人は?

 

「おまえは狂っている。」と冷たくさげすむような声でセヴルスが言った。

 

ほかのだれも、ことばを発しなかった。

 

ハリーは教卓にむけて皮肉っぽい会釈をし、壁のほうに歩き、なめらかなうごきでクローゼットの扉を引っぱり、そのなかにはいると、バタンと扉をしめた。

 

うちがわでだれかが指をならす音が一度してから、無音になった。

 

教室では、生徒たちが困惑と恐怖の表情でおたがいを見あった。

 

薬学教授(ポーションズ・マスター)〉はいまや完全に激怒の表情をしている。 彼はおそろしげな歩調で教室のむこうがわにいき、クローゼットの扉を引っぱった。

 

クローゼットは、からっぽだった。

 

◆ ◆ ◆

 

一時間前、ハリーはとじたクローゼットのなかから、あたりの音をきいていた。 そとから音はしてこなかったが、危険をおかす意味もない。

 

ハリーの指がC・L・O・A・K(マ ン ト)という文字を書いた。

 

自分を見えなくすると、ハリーは慎重に、ゆっくりとクローゼットの扉をあけて、そとをのぞいた。 教室にはだれもいないようだ。

 

扉に鍵はかかっていない。

 

この危険な場所をぬけて、見えないままのすがたで廊下にはいってはじめて、いくらか怒りが流れおち、ハリーは自分がなにをやってしまったかに気づいた。

 

自分がなにをやってしまったか。

 

透明なハリーの顔が純粋な恐怖で凍りついた。

 

いままでのどの経験よりも三段階うえの反感を教師から買ってしまった。 ホグウォーツを自主退学するという脅迫をしてしまい、それを実行せざるをえなくなるかもしれない。 レイヴンクローの点をすべてうしなわせてしまった。それに〈逆転時計〉も使ってしまった。

 

退学になったあとで両親からどなられる自分のイメージ、失望するマクゴナガル先生のイメージがうかんできた。耐えられない。でも()()()()()()()()()()()()()()()()()——

 

ハリーはこういう考えをしてみた。もし怒りが一連の問題すべてを引きおこしたのなら、怒りで解決法を思いつくのではないか。怒っているときはなぜか考えがよくまとまるのではないか。

 

ハリーが考えようとしなかったのは、怒らないままでこの未来に直面するのは無理だということだった。

 

だからハリーは記憶をふりかえり、燃えるような屈辱を思いだした——

 

おやおや、どうやらこの世は名声がすべてとはいかないようだ。

 

十点、口ごたえをした罰としてレイヴンクローの点を減点する。

 

防波堤で反射してもどっていく波のように、冷静な冷たさが血管を逆流してきて、ハリーは息をはきだした。

 

よし。これで正気がもどった。

 

ハリーは怒っていないときの自分がくじけて困難を回避しようとばかりしていたことにすこし失望した。 セヴルス・スネイプは()()()問題だ。 平時のハリーはそのことを忘れて、()()()()()まもろうとしていた。 そしてほかの犠牲者は放置していいのか? 問題はどうやって自分をまもるかではなく、どうやってあの〈薬学〉教授を粉砕するかだ。

 

つまりこれがぼくの暗黒面(ダークサイド)なんだな?—— それは偏見のある表現だ。(ライト)サイドのほうは自己中心的で臆病だし、そもそもおろおろしてパニックになっているじゃないか

 

考えがよくまとまるようになって、つぎにすべきこともはっきりした。 準備につかえる時間がもう一時間できたし、必要ならもう五時間つけたすこともできる……

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは総長室で待っていた。

 

ダンブルドアは机のうしろのクッションつきの玉座に座り、ラヴェンダー色の四重のローブで正装していた。 ミネルヴァはそのうしろの席につき、セヴルスは向かいがわの席についていた。 三人に対面していたのは空席の木製椅子だった。

 

三人はハリー・ポッターを待っていた。

 

ハリー——とミネルヴァは絶望的になって考える。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

どう返事してくるかはあたまのなかではっきりと思いうかべることができる。 ハリーは憤慨した顔でこう返答する。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ドアにノックがあった。

 

「はいりなさい!」とダンブルドア。

 

ドアがひらき、ハリー・ポッターがはいった。 ミネルヴァは音をだして息をのみそうになった。 この子は冷静で、落ち着いていて、完全に自分をコントロールしているように見える。

 

「おはようござ——」とハリーの声が途中で切れた。 彼はぽかんと口をあけた。

 

ミネルヴァはハリーの視線を追った。ハリーはフォークスが金色の台座にとまっているのを見ている。 フォークスは赤と黄金色の羽をゆらめく炎のようにはためかせ、ハリーにむけて堂々とうなづくようにあたまを下げた。

 

ハリーはダンブルドアのほうをじっと見た。

 

ダンブルドアはハリーに目くばせをした。

 

ミネルヴァはなにか自分の知らないことがあるように感じた。

 

一瞬ハリーは確信をうしなったような顔をした。 その冷静さがゆらいだ。 恐怖が、そして怒りが目にあらわれ、そしてまた落ち着きをとりもどした。

 

寒けがミネルヴァの背すじをかけぬけた。 なにかおかしなことがおこっている。

 

「座りなさい。」 ダンブルドアの顔はまた真剣になっていた。

 

ハリーは座った。

 

「さて、ハリー、今日のできごとについてスネイプ先生からは報告をうけた。なにがおきたのか、きみのことばで教えてくれるかな?」

 

ハリーは否定的な視線をちらりとセヴルスのほうにおくった。 「ややこしいことではありません。」と言って、少年は薄ら笑いをした。 「この人はぼくをいじめようとしました。この人がルシウスによってねじこまれて以来ずっと、この学校のスリザリンでない全生徒をいじめてきたのとおなじやりかたで。 それ以上の詳細については、あなたとの個人的な面談を要求します。 生徒が教師からうけた虐待行為を通報するとき、その教師に同席されていては、率直に話せるものではありませんので。」

 

今度はミネルヴァは音をだして息をのむのをとめることができなかった。

 

セヴルスはただ笑った。

 

総長は深刻そうな表情になった。 「ミスター・ポッター、それはホグウォーツ教授に対してふさわしいことばづかいではない。 なにかひどい誤解があるのではないかと思う。 わしはセヴルス・スネイプ教授に全幅の信頼をおいておる。ホグウォーツではたらいてもらっているのは、ルシウス・マルフォイではなくわしの要請じゃ。」

 

何秒か沈黙があった。

 

少年がまた話しはじめたとき、その声は冷淡だった。 「ぼくはなにか見おとしているでしょうか?」

 

「見おとしていることはいくつもあるとも。 まず理解してもらいたいのは、この会議の目的はなにか。それは今朝のできごとをふまえて、きみに態度をあらためさせる方法を議論することじゃ。」

 

「この男はあなたの学校を何年も恐怖におとしいれてきたんですよ。 何人かの生徒にきいて経験談をあつめておきましたから、ぼくは保護者たちにはたらきかけてこの人を追いやるための新聞キャンペーンをする用意があります。 低学年の生徒の何人かは、泣きながら話してくれました。 ぼくもききながら泣きそうになりましたよ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ミネルヴァはのどのつかえを飲みこんだ。 そのことを——考えたことはあったが、なぜもっとちゃんと——

 

「ミスター・ポッター、」と総長が厳格そうな声で言う。「これはスネイプ先生についての会議ではない。 きみについて、きみがいかに学校の規律を無視しているかについての会議じゃ。 スネイプ先生の提案では、わしもそれに同意するが、罰として三カ月間の居残り作業がふさわしい——」

 

「拒否します。」とハリーは冷淡に言った。

 

ミネルヴァはことばをうしなった。

 

「これは依頼ではない、ミスター・ポッター。」 総長の視線からくるちからすべてが少年にそそがれる。 「これは懲罰——」

 

「あなたのもとにあずけられた子どもたちがこの男に傷つけられるのを看過したのはなぜか説明してもらいましょう。 もしその説明が不十分だったら、()()()()標的にした新聞キャンペーンをはじめます。」

 

この一打——なんたる不遜——の衝撃でミネルヴァのからだがふらついた。

 

セヴルスさえもショックをうけたようだった。

 

「それは極めてあさはかなやりかたじゃ。」とダンブルドアがゆっくりと言う。 「わしはゲーム盤上でルシウスに対抗する主要な駒。 きみがそのようなことをすれば、彼を大きく利することになる。きみはあちらの陣営をえらんだのではなかったと思うが。」

 

少年は長いあいだ動かなかった。

 

「この会話は私的な部分にはいりつつあります。」 ハリーの手がセヴルスの方向をぴしゃりとさす。 「この人を退出させてください。」

 

ダンブルドアはくびをふった。 「ハリー、わしはセヴルス・スネイプに全幅の信頼をおいている、と言ったはずじゃが?」

 

少年の顔はショックをあらわにした。 「この男のいじめはあなたを危険にさらしているんですよ! あなたを標的にして新聞キャンペーンをはれるのはぼくだけじゃない! 狂っている! なぜこんなことをしているんですか?」

 

ダンブルドアはためいきをついた。 「すまん、ハリー。 これは現段階ではまだきみにうけとめる用意のないことに関係しておる。」

 

少年はダンブルドアをみつめた。 そしてセヴルスに視線をむけた。 そしてまたダンブルドアに視線をもどした。

 

()()()狂気だ。」と少年はゆっくりと言う。 「あなたはそれが()()()()()()()だと思っているから、この人をとめようとしなかった。 ホグウォーツがちゃんとした魔法学校になるためには邪悪な〈薬学教授(ポーションズ・マスター)〉が必要だから。〈史学〉を教える幽霊(ゴースト)が必要なのとおなじように。」

 

「ちょうどわしがやりそうなことにきこえるじゃろう?」とダンブルドアが笑顔で言った。

 

「ぼくは受けいれません。」とハリーは平坦に言う。 そのひとみは冷たく暗かった。 「いじめや虐待は許せません。 この問題に対処する方法はいろいろ考えましたが、シンプルにしましょう。 この人が出ていくか、ぼくが出ていくか。えらんでください。」

 

ミネルヴァはまた息をのんだ。 セヴルスの目になにか奇妙なものが光った。

 

ダンブルドアのひとみも冷たくなった。 「ミスター・ポッター、退学は生徒に対してつかわれうる最後通牒じゃ。 一般に、生徒が総長に対してつかうものではない。 この学校は世界でもっともすぐれた魔法学校で、ここでの教育はだれにでもあたえられる機会ではない。 ホグウォーツはきみなしでは立ちゆかないとでも思っているのかね?」

 

そしてハリーは座り、薄ら笑いをした。

 

ミネルヴァは突然おそろしいことに気づいた。まさかハリーは——

 

「お忘れのようですが、パターンを読めるのはあなただけではありません。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()退()()()()()——」 ハリーはまたセヴルスに手をむけたが、ことばと手ぶりを途中でやめた。

 

その瞬間のハリーの表情で、ハリーも思いだしたのだと、ミネルヴァにはわかった。

 

そもそも、彼女が話したのだから。

 

「ミスター・ポッター、くりかえすが、わしはセヴルス・スネイプに全幅の信頼をおいておる。」

 

「この人に話したんですね。なんて愚かな。」と少年が小声で言った。

 

ダンブルドアはこの侮辱には反応しなかった。 「なにを話したと?」

 

「〈闇の王〉が生きているということを。」

 

マーリンの名にかけて(いったい)なんのつもりでそんなたわごとを?」とセヴルスが激しい驚嘆と憤慨の声で言った。

 

ハリーはちらりとそちらを見て、にやりと笑った。 「ああ、やはりぼくらはおたがいスリザリンのようですね。 すこしうたがいはじめていたところでした。」

 

そして沈黙がおりた。

 

ダンブルドアがついに口をひらいた。 その声は温和だった。 「ハリー、いっこうに話が見えないのじゃが?」

 

「すみません、アルバス。」とミネルヴァがささやいた。

 

セヴルスとダンブルドアが彼女のほうを見た。

 

「マクゴナガル先生が話したんじゃありません。」とさきほどよりは落ちつきをうしなったハリーの声がすばやく言う。 「ぼくがかまをかけたんです。さっき言ったとおり、ぼくにもパターンが読めるんです。 ぼくはかまをかけた。そして彼女は、ちょうどセヴルスがやったのとおなじように、自分の反応をコントロールした。でもそのコントロールは、ほんのすこしだけ完璧ではなかった。だからそれがコントロールされたもので、自然な反応でないことがわかったんです。」

 

「それに……」とミネルヴァが、すこし震える声で言う。「あなたとわたしとセヴルスだけがそのことを知っている、ということも話しました。」

 

「そうしてくれたのは、譲歩でしたね。教えてもらえなければぼくが質問してまわると脅迫したから、それを防ごうとして。」 少年はくっくっと笑った。 「あなたたちのどちらかひとりを引きはなして、彼女がすべてを話してくれたと言ってみるべきだったな、そうすればなにか情報をもらしてくれたかもしれない。たぶんだめだっただろうけど、やってみる価値はあった。」 少年はまた笑顔になった。 「脅迫はまだ有効です。いつか()()()()話してもらうつもりですよ。」

 

セヴルスは彼女に軽蔑の視線をおくった。 ミネルヴァはあごをあげてそれを甘受した。 彼女は軽蔑されて当然だとわかっていた。

 

ダンブルドアはクッションのある玉座に背をもたれさせた。 その目の冷たさは、彼の弟が死んだ日以来、ミネルヴァに見せたことのないほどの冷たさだった。 「そして、そののぞみに応じなければ、わしらをヴォルデモートに引きわたすと脅迫するのか?」

 

ハリーは切れ味のするどい声をだした。 「遺憾ながら、あなたは宇宙の中心じゃない。 これはブリテン魔法界をみすてるという脅迫じゃない。 ()()()()みすてるという脅迫です。 ぼくはおとなしいフロドじゃない。 これは()()()冒険(クエスト)なので、参加したい人には()()()ルールにしたがってもらいます。」

 

ダンブルドアの表情はまだ冷たい。 「きみの英雄(ヒーロー)としての適格性がうたがわしく思えてきたよ、ミスター・ポッター。」

 

ハリーは同等に冷淡な視線をかえした。 「あなたのガンダルフとしての適格性がうたがわしく思えてきましたよ、()()()()()()()()()()()。 ボロミアはまだ理解できる失敗でした。 この〈仲間〉でこの()()()()はなにをしているんですか?」〔訳注:それぞれ『指輪物語』の登場人物〕

 

ミネルヴァは話についていけなくなった。 セヴルスがついていってるのかたしかめようと目をやる、セヴルスはハリーの視界から顔をそむけて、笑みをうかべていた。

 

「なるほど。」とゆっくりとダンブルドアが言う。「きみの立ち場からすれば、そう聞きたくなるのも無理もない。 では、ミスター・ポッター、もしスネイプ先生が今後きみを放任したとしたら、これ以上おなじ問題をおこさないでくれるか? それともきみはこれから週ごとに新しい要求をとどけに来るのか?」

 

()()()放任する?」と言うハリーの声は怒っていた。 「被害者はぼくだけじゃないし、一番傷つきやすいのもぼくじゃない! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 選択肢は、今後セヴルスがホグウォーツの()()()()()()()適切かつ教師らしくふるまうか、あなたが別の〈薬学教授〉をみつけるか、別の英雄(ヒーロー)をみつけるか、です!」

 

ダンブルドアは笑いはじめた。 大声で、あたたかく、おどけた笑い声で、まるでハリーが自分の目のまえでこっけいなダンスを披露したかのようだった。

 

ミネルヴァはうごこうとしなかった。 目をおよがせると、セヴルスも同様に不動の姿勢なのが見えた。

 

ハリーの表情はさらに冷淡になった。 「もしこれがジョークだとお思いなら、あなたはまだわかっていない。 これは依頼ではない。懲罰です。」

 

「ミスター・ポッター——」 ミネルヴァは自分でもなにを言おうとしたのかわからないでいた。 ただこの発言は看過することができなかった。

 

ハリーはシッという手ぶりを彼女にして、ダンブルドアにむかって話をつづけた。 「もしこれが無礼だとお思いなら。」とハリーはすこしゆるめた声で言う。「あなたがおなじことをぼくに言ったのも同様に無礼です。 相手を自分に従属する子どもとしてでなく、ほんものの人間としてあつかうなら、そんなことは言わないはずです。あなたがぼくにするのとおなじあつかいを、あなたにさせてもらいます——」

 

「ああ、まさに、これほど罰らしい罰があろうか! ()()()()きみが脅迫していたのは学友たちを救うためであって、自分を救うためではない! わしはなぜそのように考えてしまっていたのじゃろう!」 ダンブルドアはさらに大声で笑い、机を手で三度たたいた。

 

ハリーのひとみが確信をうしなった。 顔をミネルヴァにむけて、はじめて話しかけてきた。 「すみません。」 ハリーの声はゆらいでいるようだ。 「この人は薬でも必要なんじゃないでしょうか?」

 

「あ……」 ミネルヴァはなにを言えばいいのかわからなかった。

 

「さて。」  ダンブルドアは目にたまったなみだをぬぐった。 「失礼。割りこんですまなかった。脅迫をつづけてくれたまえ。」

 

ハリーは口をひらいて、またとじた。 彼はすこしぐらついてきているように見えた。 「あ……それと生徒のこころを読むのもやめてもらいます。」

 

「ミネルヴァ……」とセヴルスが殺気だった声で言う。「これも——」

 

「〈組わけ帽子〉から警告されたことです。」とハリー。

 

()?」

 

「それ以上は言えません。ともかくこれで全部だと思います。」

 

沈黙。

 

「それで?」とミネルヴァが、だれも口をひらこうとしないのをみて言った。

 

「それで?」とダンブルドアがくりかえした。 「いやもちろん、勝ったのは英雄(ヒーロー)じゃ。」

 

()?」とセヴルスとミネルヴァとハリーが言った。

 

「みごとにわれわれを窮地においこんでくれたものじゃ。」とダンブルドアがうれしそうな笑顔で言った。 「けれどもホグウォーツに〈薬学教授〉が必要なのはたしかで、そうでなればちゃんとした魔法学校ではない、じゃろう? そこでスネイプ先生は今後五年次以上の生徒にだけ嫌がらせをする、というのはどうかな?」

 

()?」とまた三人が声をそろえた。

 

「もしきみにとって気がかりなのが、もっとも傷つきやすい被害者ならば。 ハリー、きみの言うとおりかもしれん。 何十年もたってわしは子どもがどういうものかを忘れてしまったのかもしれん。 そこで、譲歩しようではないか。 セヴルスはこれからも自分の寮であるスリザリンにだけ不公平に加点し、規律もあまく適用する。スリザリンでない五年次以上の生徒には嫌がらせをする。 そのほかの生徒に対しては、こわい先生ではあるが虐待はしない。 また、生徒の身の安全にかかわるときにしかこころを読まないと約束する。 さすればホグウォーツは邪悪な〈薬学教授〉をもて、きみの言うもっとも傷つきやすい被害者の安全はまもられる。」

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは人生でこれほどショックをうけたことはなかった。 確信なさげにしてセヴルスのほうをちらりと見ると、その顔は完全に中立的で、まるで、どのような表情をするべきかわからないかのようだった。

 

「それなら受けいれられます。」  声がすこし変になっている。

 

「ふざけないでいただきたい。」とセヴルスは表情とおなじくらい感情のない声で言った。

 

「わたしは賛成ですが……」とミネルヴァがゆっくりと言う。 ローブの下で心臓がどきどきするほど心底賛成だった。 「でも、生徒たちにはなんと言えばいいのでしょう? セヴルスが全員に……嫌がらせをするかぎりは疑いをもたれなかったかもしれませんが……」

 

「ほかの生徒には、ハリーはセヴルスの重大な秘密をみつけてちょっとした脅迫をした、と言えばよい。」とダンブルドア。 「うそではないのだから。たしかにハリーはセヴルスがこころを読んでいることをみつけたし、脅迫もした。」

 

「狂っている!」とセヴルスが爆発した。

 

「ブワッハッハッハ!」とダンブルドア。

 

「あ……」とハリーが確信なさげに言う。 「じゃあ、もし五年次以上の生徒がどうして自分たちだけ割をくってるんだと言いだしたらどうしますか? 怒るのも無理はないと思いますよ。それにその部分ははっきり言ってぼくのアイデアじゃないし——」

 

「この譲歩案をだしたのはきみではなかった、きみが引きだせたのはそこまでだった、と言いなさい。 それ以上は話せないとことわりなさい。 これも、うそではない。 こういうことにも技術があるのじゃよ。練習すればだんだん身についていく。」

 

ハリーはゆっくりとうなづいた。「レイヴンクローの減点については?」

 

「それは取り消してはなりません。」

 

そう言ったのはミネルヴァだった。

 

ハリーは彼女を見た。

 

「残念ですが、ミスター・ポッター……」 残念なのは本心だが、こうする以外、道はない。 「あの素行に対してなんらかの報いがあたえられなければ、この学校が崩壊します。」

 

ハリーは肩をすくめた。 「受けいれます。」とハリーは平坦に言う。 「ただし今後セヴルスは、ぼくから点を減点して寮内の人間関係を悪化させたり、ぼくの貴重な時間を居残り作業に割かせたりしないこと。 ぼくのしていることが懲罰に相当すると思ったときは、問題点をマクゴナガル先生につたえること。」

 

「ハリー、あなたはこれからも校内の規律に服しますか、それともセヴルスがそうだったように自分は法を無視していいと思うのですか?」

 

ハリーが彼女にむけたひとみに一縷のあたたかさが見えたが、すぐに消えた。 「狂人や悪人でない教員に対しては、ぼくはこれからもふつうの生徒でありつづけます。その人がほかの狂人や悪人からのプレッシャーをうけていないかぎりは。」 ハリーはセヴルスをちらりと見て、ダンブルドアに視線をもどした。 「ミネルヴァには干渉しないでください。彼女がいるまえではぼくは特権も免責もない通常のホグウォーツ生になります。」

 

「よくぞ言った。」とダンブルドアがこころをこめて言う。「それでこそ真の英雄(ヒーロー)じゃ。」

 

「そして、」とミネルヴァが言う。「ミスター・ポッターは今日の行為について公式に謝罪しなければなりません。」

 

ハリーは彼女をもう一度みた。今度の視線はすこし懐疑的だった。

 

「あなたの行為により校内の規律は深くそこなわれました。 それを回復させなければなりません。」

 

「マクゴナガル先生、あなたはその校内の規律というものを、〈史学〉の教師を生きた教師にするとか生徒を拷問させないとかいうこととくらべて、かなり過大評価していると思います。 現状の位階を維持しルールを執行することは、自分がその頂点にいるときは、賢明で倫理的で重要に思えるものです。必要であればそういう効果を研究した論文を引用できます。 やろうと思えば何時間もつづけられますが、いまのところはそう指摘するだけにしておきます。」

 

ミネルヴァはくびをふった。 「ミスター・ポッター、あなたは規律の重要性を過小評価しています。あなた自身には規律の必要がないからでしょうが——」とそこでことばを切った。 変な言いかたになってしまった。セヴルスとダンブルドア、そしてハリーさえもが、彼女に奇妙な視線をおくっている。 「勉学に関しては、です。 権威不在の環境で勉学をすすめられる子どもばかりではありません。 もしあなたを模範にしたとしたら、わりを食うのはほかの子どもたちなのですよ。」

 

ハリーのくちびるが歪んだ笑みをつくった。 「なにをおいても重要なのは真実です。 ぼくが怒るべきでなかったというのは真実です。 授業を妨害するべきではなかった。 すべきでないことをして、全員に対して悪い見本を示してしまった。 セヴルス・スネイプがホグウォーツ教授にふさわしくないふるまいをしたというのも真実です。そしてこれからは四年次以下の生徒の気持ちを傷つけないように注意するというのも真実です。 ぼくたち二人でいっしょになってこの真実を発表することもできるでしょう。 ぼくはそれでかまいません。」

 

「できるわけがない!」とセヴルスがぴしゃりと言った。

 

「そうして……」とハリーはにやりとしながら言う。「規則は()()()……制度(システム)から苦しみばかりうけてきた無力な生徒だけでなく教師にも……適用されるものだと生徒たちに知れわたれば、校内の規律へのよい影響は()()()()()()()()()はずです。」

 

みじかい沈黙のあと、ダンブルドアがくすりと笑った。 「ミネルヴァは、きみにそれほどの正論を言う権利はないと思っておる。」

 

ハリーの視線がダンブルドアからぱっと離れ、床におりた。 「()()()()()()()こころを読んでいたんですか?」

 

「常識は〈開心術〉と混同されることがままある。 ……この件についてはセヴルスと話しあっておく。セヴルスが謝罪しないかぎり、きみも謝罪する必要はない。 そこでこの件はおひらきとしたい。すくなくとも昼食までは。」 彼はそこでことばを切った。 「といっても、ハリー、ミネルヴァはきみとほかのことについて話しあいたいようじゃが。 それはわしからのプレッシャーにもとづくものではない。 ミネルヴァ、準備は?」

 

ミネルヴァは椅子から立ちあがると、ころびそうになった。 アドレナリンが血にあふれている。心臓の鼓動がはげしすぎる。

 

「フォークス、彼女についていきなさい。」

 

「わたしは——」

 

ダンブルドアはちらりと彼女を見て、それで彼女は沈黙した。

 

不死鳥は炎がなめらかになめるようにして飛びたち、部屋を横断して彼女の肩にとまった。 ローブをとおして、あたたかさが彼女の全身につたわってきた。

 

「こちらへ、ミスター・ポッター。」と今度はきっぱりと言って、ミネルヴァら二人はドアを出た。

 

◆ ◆ ◆

 

二人は回転する階段に立ち、無言でくだった。

 

ミネルヴァはなにを言えばいいのかわからない。 となりにいるのが何者なのかわからない。

 

そのときフォークスが歌いはじめた。

 

それはやさしく、やわらかな声で、歌をかなでられるものなら暖炉がだしそうな声だった。それはミネルヴァのこころを洗い、ふれるものをすべて楽にし、落ちつかせ、しずめさせた……

 

()()はなんですか?」とハリーがとなりでささやいた。 その声は不安定で、震え、音程が変化している。

 

「不死鳥の歌です。」とミネルヴァは、自分がなにを言っているのか意識せずに言った。注意はすべてこの奇妙にしずかな音楽にそそがれている。 「これにも治癒力があります。」

 

ハリーは顔を彼女からそむけたが、苦悩のようなものが垣間みえた。

 

階段はなかなかおりていかなかった。あるいは、この音楽がなかなか終わらなかっただけかもしれない。二人がガーゴイルのいた場所を通過して外に出ると、ミネルヴァはハリーの手をかたくにぎっていた。

 

ガーゴイルがもとの場所にもどると、フォークスは彼女の肩を去り、ハリーのまえの空中に舞いおりた。

 

ハリーはゆらめく炎の光に幻惑された人のようになってフォークスを見た。

 

「ぼくはどうすればよかったんだろう?」とハリーはささやく。 「怒らなかったとすれば、ぼくはみんなをまもることができなかった。」

 

不死鳥はつばさをはためかせつづけ、空中のおなじ位置をたもった。 つばさの打つ音はしなかった。 そして炎がもえあがって消えるときのようなきらりとした光があり、フォークスはすがたを消した。

 

二人は目からさめたときのように、あるいはまた眠るときのように、目をしばたたかせた。

 

ミネルヴァは下を見た。

 

ハリー・ポッターのあかるく、おさない顔が彼女を見あげた。

 

不死鳥(フェニックス)は人格がありますか? つまり、人といっていいくらい、かしこいですか? 方法さえわかれば、フォークスと話をすることはできますか?」

 

ミネルヴァは強く目をしばたたかせた。そしてまたしばたたかせた。 「できません。」とミネルヴァは震える声で言う。 「不死鳥は強力な魔法力のある生きものです。 その魔法力から、単純な動物にはない存在の重みがうまれます。 不死鳥は炎であり、光であり、癒しであり、再誕です。 それでも、できません。」

 

「不死鳥はどこにいけば手にはいりますか?」

 

ミネルヴァは腰をかがめてハリーを抱擁した。 そうするつもりはなかったが、ほかの選択肢はないかのようだった。

 

立ちあがってみても、ことばがなかなかでない。 けれども、これはきいておかなければならない。 「今日なにがありました、ハリー?」

 

「重要な疑問についてはどれも、ぼくにもこたえがみつかりません。 それ以上は、できればしばらく考えたくありません。」

 

ミネルヴァはまた彼の手をとり、二人はのこりの道のりを無言で歩いた。

 

短い道のりだった。そうあるべきとおり、副総長室は総長室のちかくにあるのだ。

 

ミネルヴァは自分の机にうしろの席に座った。

 

ハリーは机のまえに座った。

 

「では、」とミネルヴァはささやき声で言う。 もしこれをやらなくていいのなら、やるのが自分でなくていいのなら、いまやるのでなくていいのなら、ほかのなにを犠牲にしてもいいくらいだ。 「これは校内の規律にかかわる問題です。 あなたを例外にはできません。」

 

「というと?」

 

彼は気づいていない。 まだわかっていないのだ。 彼女はのどがしめつけられる感じをおぼえた。 だが、ここにはしなければならない仕事があり、彼女は逃げるつもりはない。

 

「ミスター・ポッター。」とマクゴナガル先生が言う。「〈逆転時計〉をここにだしてもらえますか。」

 

不死鳥にもらったやすらぎのすべてが一瞬で彼の表情から消え、ミネルヴァは自分が彼を突き刺したように感じた。

 

()()()()!」 ハリーはパニックになった声をしている。 「ぼくにはこれが必要です。これがなければ授業に出席できません。眠ることもできません!」

 

「眠ることはできます。 〈魔法省〉があなたの〈逆転時計〉用の保護ケースをとどけてくれました。 その保護ケースが午後九時と深夜零時のあいだにだけひらくように、魔法をかけさせてもらいます。」

 

ハリーの顔がゆがんだ。 「でも——でも、それじゃ——」

 

「ミスター・ポッター、月曜日から今日までに何度〈逆転時計〉をつかいましたか? 何時間分ですか?」

 

「それは……ちょっと待ってください。合計すると——」 ハリーは腕時計に視線をおろした。

 

ミネルヴァは悲しみにおそわれた。やはりそうか。 「つまり一日二時間ではなかったということですね。 同室生にきけば、あなたはふつうの就寝時間まで起きていることができず、朝起きる時間がどんどんはやくなっている、と言われるでしょうね。ちがいますか?」

 

ハリーの表情を見るだけでこたえはわかった。

 

「ミスター・ポッター、」と彼女はやさしく言う。「〈逆転時計〉をもたせるとそれに依存してしまうため、もたせられない生徒もいます。 必要なだけ睡眠周期をのばす(ポーション)をあたえても、そうした生徒は授業に出席するため以外の目的で〈逆転時計〉をつかいだすようになります。 そうなった場合、〈逆転時計〉をとりあげることになります。 ミスター・ポッター、あなたは〈逆転時計〉をあらゆることの解決手段として、しばしば愚かしいやりかたでつかうようになりました。 〈思いだし玉〉をとりかえした件もそうです。 それに、ほかの生徒にわかってしまうやりかたでクローゼットからすがたを消した件もそうです。一度でてからもどって、わたしかだれかに扉をあけてもらうという手もあったでしょうに。」

 

表情からして、ハリーはこのことに思いあたっていなかったらしい。

 

「そしてもっと重要な点ですが、あなたはスネイプ先生の授業にただ出席して、 観察して、 授業が終わってから外にでるべきでした。 〈逆転時計〉をもっていなかったらそうしたでしょう。 ある種の生徒には安心して〈逆転時計〉をつかわせることができません。 あなたはそのひとりです。 残念ですが。」

 

「でも()()なんです!」とハリーが声をあげる。 「スリザリン生におそわれて逃げる必要ができたらどうしますか? これがあれば()()に——」

 

「この城のほかの全生徒はおなじリスクを負っていますし、みな生きのびられるとわたしが保証します。 この五十年間、ここで死んだ生徒はひとりもいません。 ミスター・ポッター、〈逆転時計〉を、いまこの場でわたしなさい。」

 

ハリーは苦悩に顔をゆがませたが、〈逆転時計〉をローブの下からとりだし、彼女にわたした。

 

ミネルヴァは机から、ホグウォーツにおくられてきた保護ケースをひとつとりだした。 それを〈逆転時計〉の回転する砂時計の周囲にとりつけ、杖をあて、のこりの魔法をかけた。

 

()()()()()!」とハリーが悲鳴をあげる。 「ぼくは今日スネイプ先生からホグウォーツをすくった。それで罰をうけるなんておかしいでしょう? 顔を見ればわかりました。あなたはあの人のしていたことを()()()()()()でしょう!」

 

ミネルヴァはしばらく無言で、魔法をかけつづけた。

 

それが終わって見あげたとき、彼女は自分が厳しい表情をしているのをわかっていた。 これはまちがったことかもしれない。 しかし、ただしいことかもしれない。 自分の目のまえには意地っぱりな子どもが一人いる。だからといって、宇宙が壊れているわけではない。

 

()()、ですか?」と彼女はぴしゃりと言う。 「わたしは()()()()()、〈逆転時計〉の公然使用に関する()()()()()()〈魔法省〉に提出しなければなりませんでした。 制限つきとはいえ〈逆転時計〉をもちつづけることを許されたのを()()感謝しなさい! 総長が〈煙送(フルー)〉通話で個人的に請願してくださったのです。あなたが〈死ななかった男の子〉でなければそれでも足りなかったかもしれません!」

 

ハリーは呆然として彼女を見た。

 

マクゴナガル先生の怒りの顔がハリーに見えていることを、ミネルヴァは知っていた。

 

ハリーの目になみだがたまった。

 

「すみません、でした。」と彼は息をつまらせながら、とぎれとぎれのささやき声で言う。 「すみません……でした……失望させてしまって……」

 

「わたしも残念です、ミスター・ポッター。」と彼女は厳格に言い、あたらしく制限がかかった〈逆転時計〉を手わたした。 「下がりなさい。」

 

ハリーはふりむいて、すすり泣きをしながらこの部屋から走りさった。 彼女はぱたぱたという足音がとおざかるのをきき、その音はドアがしまるのと同時にとぎれた。

 

「残念です、ハリー。」としずまった部屋にむけて彼女はささやいた。「残念です。」

 

◆ ◆ ◆

 

昼食時間にはいって十五分が経過した。

 

だれもハリーにはなしかけようとしなかった。 レイヴンクロー生の一部はハリーに怒りの表情をむけている。ほかは同情の表情、少数ながら低学年の生徒には賞賛の表情をむける者もいるが、だれもはなしかけてはこない。 ハーマイオニーでさえ、ちかづこうとしない。

 

フレッドとジョージがおずおずとちかくに歩いてきた。 無言のまま。 なにをしてくれようとしているのかはあきらかだった。選択をゆだねてくれていることも。 ハリーはデザートがはじまる時間になってからいくと言い、 二人はうなづいて足ばやに去った。

 

これはおそらく、完全に無表情なハリーの顔のせいだ。

 

ほかの生徒はおそらく、ハリーが怒りか落胆をおさえていると思っている。 フリトウィックがハリーをつかまえようとしていたのを見ていて、ハリーが総長室によばれていたことを知っている。

 

ハリーは笑顔にならないように努力した。もし笑顔になれば、笑いだしてしまい、笑いだせば、白衣のお兄さんたちに搬送されるまで笑いやめられないだろうから。

 

限界だ。 もう限界だ。 ハリーは暗黒面(ダークサイド)にいってしまいかけたし、ふりかえってみれば狂気じみたことをダークサイドがしたし、不可能に見えつつもダークサイドが達成した勝利は本物かもしれないし狂った総長のただの気まぐれかもしれないし、ダークサイドは友だちをまもってもくれた。 これ以上はもう限界だ。 もう一度フォークスにうたってもらう必要がある。 〈逆転時計〉をつかって一時間しずかな場所で回復する必要があるがもうそれはできないし、この喪失感はまるで自分の存在に穴があいたようだけれども、そのことについては考えてしまうと笑いだしてしまうかもしれない。

 

二十分が経過した。 昼食をとろうとする生徒はすべて到着していて、出ていった生徒はまだほとんどいない。

 

スプーンをならす音が大広間にひびきわたった。

 

「諸君、こちらに注目してもらいたい。」とダンブルドア。 「ハリー・ポッターから、みなに一言あるそうじゃ。」

 

ハリーは深呼吸をして立った。 全員注視のなか〈主テーブル〉まで歩いた。

 

ハリーはふりむいて、四つのテーブルを見わたした。

 

笑顔をおさえるのがどんどんむずかしくなっていくが、暗記した短いスピーチをするあいだ、ハリーは無表情を維持した。

 

「真実は神聖です。」とハリーは単調に言う。 「ぼくがこのうえなく大切にしているボタンには、『真実を語れ、声が震えようとも』と書かれています。 これから言うのは真実です。 それを忘れないでください。 ぼくは強制されて言うのではありません。真実だから言うのです。 スネイプ先生の授業でぼくがしたことが、愚かで、ばかげていて、子どもじみていて、ホグウォーツの校則に違反していたことに弁解の余地はありません。 教室の雰囲気をみだし、生徒のみんなからかけがえのない学習時間をうばってしまいました。 すべての原因はぼくが冷静さをうしなったことです。 どの生徒もこれを見本としないようにしてもらいたいと思います。 ぼくも二度とおなじことはしません。」

 

ハリーに注目していた生徒に、厳粛そうな、不満そうな表情が多くあらわれ、戦いにたおれた戦士を悼む儀式の出席者のように見えた。 グリフィンドールの低学年の一群ではほとんど全員がその表情だった。

 

ハリーが片手をあげるまでは。

 

あまり高くではない。 高すぎれば、なにかをふせごうとするように見えるかもしれない。 セヴルスにむけてあげたのでもない。 ハリーはただ胸の高さまで手をあげ、軽く指をならした。聞かせるというより見せるしぐさだ。 〈主テーブル〉の大半からはまったく見えなかったのではないだろうか。

 

この抵抗のしぐさらしきものを目にして、低学年の生徒とグリフィンドール生は突然笑みをうかべ、スリザリン生は冷淡かつ傲慢そうに嘲笑し、そのほかの生徒は眉をひそめ心配そうな顔をした。

 

ハリーは無表情を維持した。 「以上です。」

 

「ありがとう、ミスター・ポッター。 つぎにスネイプ先生からも一言あるそうじゃ。」

 

セヴルスは〈主テーブル〉の自席で立ちあがった。 「ミスター・ポッターの癇癪(かんしゃく)に弁解の余地がないことはあきらかだが、わたし自身の行為も一部挑発的な部分があったとの指摘をうけた。その後の議論をへて、わたしはおさなく未熟な者の感情がいかにたやすく傷つくかを失念していたことに気づいた——」

 

のどをつまらせるのを我慢する音があちこちから同時にきこえた。

 

セヴルスはそれがきこえなかったかのようにしてつづけた。 「〈薬学〉教室は危険な場所であり、厳格な規律がかかせないとの認識にかわりはない。しかし、わたしも今後は四年次以下の生徒諸君の……傷つきやすい感性に……注意をはらうことにしよう。 レイヴンクローの減点はいまも有効だが、ミスター・ポッターへの居残り作業処分は取り消す。 以上。」

 

グリフィンドールの方向からひとつ拍手があったが、電撃よりはやくセヴルスが杖を手にして「クワイエタス!」と言って犯人を沈黙させた。

 

「規律と敬意はこれからもわたしの()授業で要求する。」とセヴルスは冷ややかに言う。「そしてつまらぬ邪魔をした者は後悔することになるだろう。」

 

彼は着席した。

 

「ありがとう!」とダンブルドア総長が愉快そうに言った。「では昼食再開!」

 

そしてハリーは無表情のまま、レイヴンクローの自分の席へと歩いてもどった。

 

会話が爆発した。まず、ふたつのことばがはっきりとききとれた。 ひとつ目は「何」で、「何が起きて——」や「何でこんな——」など、さまざまな文章がつづいた。ふたつ目は「スコージファイ!」という、生徒たちが自分自身やテーブルクロスやほかの生徒にこぼした食べものや飲みものを掃除するためのことばだった。

 

公然となみだする生徒もいた。スプラウト先生もそうしていた。

 

火のついていない五十一本のろうそくの乗ったケーキが待つグリフィンドールのテーブルでは、フレッドがささやき声で、「あれはおれたちより一枚うわてかもしれないな、ジョージ。」と言った。

 

その日以降、ハーマイオニーがいくら説明しようとしても、ハリー・ポッターが指をならすことでなんでも起こせるということは、ホグウォーツの伝説として定着した。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 







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19章「報酬の遅延」





◆ ◆ ◆

 

ドラコがけわしい表情をしている。その緑色のえりのローブは、うしろにいる二人のおなじローブよりもなぜかはるかに正式で本格的で、上質にみえる。

 

「話がある。」とドラコ。

 

「そうだ! 話だ!」

 

「きいてんのか! 話だぞ!」

 

「いいからおまえたち二人は()()()。」

 

巨大な講堂に四寮の生徒がそろい、金曜日最後の授業がはじまろうとしていた。科目は〈防衛術〉……いや、〈戦闘魔術〉か。

 

金曜日最後の授業。

 

ハリーはこれがストレスのない授業になってくれればと思う。優秀なクィレル先生が今回はハリーを矢おもてにたてるのは得策でないと気づいてくれればとも思う。 すこしは回復できたとはいえ……

 

……念のため、すこしストレス解消をしておくとよさそうだ。

 

ハリーは椅子の背にもたれかかり、ドラコとその子分たちに厳粛そうな視線をおくった。

 

「ぼくたちの目的がなにか、知りたいか?」とハリーは演説調で言う。 「こたえはひとこと。勝利だ。どんな代償をはらうとしても勝利を——あらゆる脅威をしりぞけて勝利を——いかにけわしくながい道のりであれ、勝利を——勝利がなければ、なにも——」〔訳注:ウィンストン・チャーチルの引用〕

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」とドラコが声をひそめて言った。

 

ハリーは偽の厳粛さを捨て、もっと真剣な視線をドラコにおくった。

 

「きみがみたとおりだよ。みんなもみたとおり。 指をならしたのさ。」

 

「ハリー! からかうのはよせ!」

 

おっとこれで『ハリー』に昇格されたわけか。 おもしろい。 こちらがこれに気づくことも、そしてなんらかの反応をしなければと気まずく感じることも、きっと想定ずみなのだろう……

 

ハリーは自分の両耳に手をあてて、子分のほうに意味ありげな視線をおくった。

 

「この二人はくちがかたい。」とドラコ。

 

「ドラコ、百パーセント正直に言わせてもらうと、きのうのミスター・ゴイルはあまり感心するような狡猾さをみせてくれなかった。」

 

ミスター・ゴイルはびくりとした。

 

「同感だ。」とドラコ。 「おかげできみに借りをつくってしまったと説明してある。」(ミスター・ゴイルはまたびくりとした。) 「でもああいう種類のミスと分別のなさとのあいだにはちがいがある。 そっちのほうについては、あのふたりは子どものころからちゃんと訓練されているんだ。」

 

「わかったよ。」 ドラコのほうにちかづくと背景の雑音がぼやけたが、それでもハリーは声を小さくしておいた。 「ぼくはセヴルスの秘密をひとつ推測して、ちょっとした脅迫をしたんだ。」

 

ドラコの表情がかたくなった。 「よし、じゃあグリフィンドールのバカどもに秘密厳守と言って明かしたのでないほうの内容を教えてもらおうか。 あれはきみが()()()()()()()()ほうの筋書きなんだろうから。」

 

ハリーは思わずにやりとしてしまい、ドラコにその瞬間を見られたのに気づいた。

 

「セヴルスはなんて言ってる?」とハリー。

 

「おさない子どもたちの感性の繊細さを認識していなかった、と。」とドラコ。 「スリザリンのなかでもそう言っている! ()()()()()!」

 

「きみは自分の寮の寮監が教えたがらないことをほんとうに知りたいの?」

 

「知りたい。」とドラコはためらわずに言った。

 

()()()()()。「それなら今度こそあの子分をどこかにやってもらわないと。きみがあの二人について信じていることを、ぼくが信じられるかどうかわからないから。」

 

ドラコはうなづいた。「わかった。」

 

ミスター・クラッブとミスター・ゴイルは()()()不満そうだった。 「ボス——」とミスター・クラッブ。

 

「おまえたちはミスター・ポッターの信頼を勝ちとれていない。さあ、いけ!」

 

二人は去った。

 

「とくに気になっていたのは……」とハリーは声をさらに小さくして言う。「ぼくが言ったことをあの二人がルシウスに報告してしまわないかということでね。」

 

「父上はそんなことはしない!」と言って、ドラコは純粋にショックをうけたように見えた。「あの二人は()()()()()なんだから!」

 

「悪いけど、ドラコ、きみがきみのお父さんについて信じていることをすべて、信じていいのかわからないんだ。 これがきみの秘密のことで、ぼくのお父さんはそんなことをしない、とぼくが言っているのを想像してみてほしい。」

 

ドラコはゆっくりとうなづいた。 「そうだな。 ぼくも悪かったよ。 きみにそれを求めようとするのはまちがっていた。」

 

なんでぼくは()()()()昇格された? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()() この状況には利用価値がありそうだが…… 残念ながらそうしているだけの思考力がのこっていない。 ふだんなら、ややこしい陰謀かなにかをしかけてみようとするところだ。

 

「とにかく、」とハリー。 「取り引きをしよう。 ぼくはまだうわさにはなっていない事実をひとつ教える。それは今後もうわさになるべきじゃないし、()()()()きみのお父さんにとどいてはいけない。引きかえに、きみは一連のできごとについてスリザリンがどう考えているかをぼくに教える。」

 

「のった!」

 

さて、できるだけ曖昧な言いかたをしないと……たとえ漏らされてしまっても害のないように…… 「ぼくが言ったことはうそじゃない。 ぼくはセヴルスの秘密をひとつみつけたし、実際に脅迫もした。 ただし関係している人物はセヴルスだけじゃない。」

 

()()()()!」とドラコは大よろこびで言った。

 

いやな予感がする。 自分がいま言ったのはとても重大なことだったらしいが、その理由がわからない。 よくない兆候だ。

 

「よし。」 ドラコはにやりと笑っている。 「スリザリンでの反応はこんな感じだった。 まず最初に、バカどもが『ハリー・ポッターは気にくわない! いじめてやろうぜ!』みたいに言っていた。」

 

ハリーは息をつまらせた。 「〈組わけ帽子〉はどうかしたんじゃないの? それじゃもう、スリザリンじゃなくて、()()()()()()()()みたいな——」

 

「子どもは神童ばかりじゃない。」と言ってドラコは、まるでハリーの意見に個人的には賛成だというかのように、陰謀じみた悪どい笑顔をした。 「でもその十五秒くらいあとにだれかが、それはスネイプのためにならないかもしれないと言った。だから心配はいらない。 とにかく、そのつぎは第二弾のバカどもが『どうせハリー・ポッターもただのいい子だったってことだ』と言った。」

 

「そのあとは?」と言って、ハリーは笑みをうかべた。()()()()()()バカなのかさっぱりだと思いながら。

 

「そのあとは実際に頭のまわる人たちが話しだした。 きみがスネイプにかなりのプレッシャーをかける方法をみつけたのはあきらかだ。 それはひとつだけじゃないかもしれないが……()()()思いつくべきことはあきらかに、ダンブルドアに対するスネイプの謎の影響力に関係してるんじゃないかということ。 そうなんだろう?」

 

「ノーコメント。」 すくなくともこの点については、ハリーの脳はちゃんと機能している。 スリザリン寮は、スネイプがなぜくびにならないのかと不思議に思っていたわけだ。 そしてセヴルスがダンブルドアを脅迫しているのだと判断した。 それはほんとうのことだったりするのか……? でもダンブルドアにそういうそぶりはなかった……

 

ドラコは話をつづけた。 「その頭のいい人たちが()()()()()指摘したのは、スネイプにホグウォーツの半分をあきらめさせるほどのプレッシャーをきみがかけられるのなら、きみにはその気になればスネイプを完全に排除するちからもおそらくあるということ。 きみがやったのは彼に屈辱を——ちょうどきみがされたのとおなじような屈辱を——あじわわせることだった。なのにきみは、ぼくらの寮監を追いださなかった。」

 

ハリーはにこりとしてみせた。

 

「つぎに、()()()()()頭のまわる人たちが、」とドラコが真剣な表情になって言う。「離れた場所に行って、しばらく内輪の議論をした。だれかが、そんな風に敵を放置するのはとてもバカなやりかただ、と指摘した。 もしきみがダンブルドアに対するスネイプのおどしを打ち消せるなら、あっさりそうしてしまえばよさそうなものだ。 ダンブルドアはホグウォーツからスネイプを追いだすだろうし、もしかすると死なせるかもしれない。ダンブルドアはきみに()()()()恩を感じるだろうし、きみは夜スネイプに寝室にしのびこまれて変てこな薬をしこまれる心配をしなくてよくなる。」

 

ハリーはどちらともつかない表情をした。 そういう発想はなかったが、考えておくべきだったと心底思った。 「それでどういう結論に……?」

 

「スネイプのおどしはダンブルドアの秘密に関するものだった、そして()()()()()()()()()()()()()!」 ドラコは歓喜の表情をしていた。 「ダンブルドアを破滅させるほど強力なものではないはずだ。もしそうならスネイプはすでにそうしているだろうから。 スネイプは自分がスリザリン寮監として君臨しつづける以外の目的でこのおどしを使おうとしないし、いつも望むものを手にいれられているわけじゃない。ということは、どこかに限界があるはずだ。 でもかなりいいものなのは()()()だ! そのことで父上は()()()スネイプに口をわらせようとしているんだよ!」

 

「それで、ルシウスはいま()()()()それを聞きだせるかもしれないと思っているのか。もしかしてフクロウがもうきみのもとへ——」

 

「今夜くるよ。」と言って、ドラコは笑った。 「そこにはこうあるはずだ。」と口調を変え、あらたまった話しかたで言う。「愛する息子へ。ハリー・ポッターの潜在的な重要性についてはすでに話した。 おまえももう気づいているとおり、その重要度と緊急度はその後さらにあがった。 交友の機会や圧力をかけられる経路がひとつでもあれば、のがすな。必要であればマルフォイ一族のあらゆる資力を自由につかうことを許す。」

 

ひゃあ。「そのややこしい仮説の組み立てかたがただしいかどうかについてはコメントをさけるけど、すくなくともまだきみとぼくはそこまでの友だちになっていない。」

 

「わかってる。」 ドラコはそこで()()()真剣な顔つきをして、遮蔽があるにもかかわらず、さらに声を小さくしてこう言った。 「ハリー、まだ気づいていないのか? もしダンブルドアの隠そうとしている秘密をきみが知っているのなら、ダンブルドアはあっさりきみを殺すかもしれないんだぞ? そうすれば〈死ななかった男の子〉、つまり自分の競合となりうるリーダーのたまごを、価値ある殉教者にかえることにもなる。」

 

「ノーコメント。」とハリーはまた言った。 いまの最後の部分についても、ハリーにそういう発想はなかった。 そういうのはダンブルドアの流儀ではなさそうだ……でも……

 

「ハリー、きみはあきらかに()()()()()才能があるけれど、訓練や指導をうけていないし、ときどきバカなこともする。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」  ドラコは熱いまなざしをしている。

 

「ああ。ルシウスとか?」

 

()()とかだよ! きみの秘密は父上にも、()()()()もらさないと約束する。 きみがやりたいことがなにかを自覚するのを助けてあげたいだけなんだ!」

 

おお。

 

ハリーはゾンビ状態のクィレルがよろよろとドアを通ってくるのを見た。

 

「そろそろ授業がはじまる。」とハリー。 「いまの話は考えておくよ。きみがうけたような訓練をうけられたら、と思ったことは何度もある。ただきみのことをこんなにはやく信用していいんだろうかと思ってしまう——」

 

「それでいい。まだはやいと思う。ほら、ぼくはこうやって自分の不利になることでもきみに助言するだろ。 でもぼくたちは、もっと親しくなることを()()()()ほうがいい気がする。」

 

「反対はしない。」と言って、ハリーははやくもこのことの利用価値を検討しはじめた。

 

「もうひとつ助言すると、」とドラコは急いで言う。そのよこでクィレルがとぼとぼと教卓にむかっている。「いま、スリザリン生全員が、きみを不思議に思っている。もしきみがぼくたちに近づこうとしているのなら、こうなんだろうとぼくは思ってるんだけど、きみは自分がスリザリンに友好的だという証拠をみせたほうがいい。()()()()()()、たとえば今日とか明日。」

 

「セヴルスがスリザリンに余分な寮点をあたえるのを見すごしただけじゃ不足?」  あれはハリーの功績といっても間違いじゃないだろう。

 

ドラコはなにかに気づいて目をぱちぱちとさせ、すばやくこう言う。「そういうのじゃなくてさ。なにかもっと露骨ななにか。 きみが目のかたきにしてる泥血のグレンジャーを窮地においこんでやるとかでもいい。スリザリンのだれもがその意味を理解するような——」

 

「レイヴンクローはそういうところじゃないんだよ、ドラコ! 相手を窮地においこむしかないなら、自分の頭脳が()()から正々堂々とたおせなかったという意味になってしまって、レイヴンクローのだれもがそう()()()()——」

 

机の画面がちらついたのが見え、ハリーはなつかしいテレビとコンピュータの回想におそわれた。

 

「オホン。」とクィレル先生の声が、あたかも画面からハリーに個人的に話しかけているかのように言った。 「席につきたまえ。」

 

◆ ◆ ◆

 

子どもたちは全員着席し、机の上にある端末画面をみつめているか、白大理石のおおきな教壇を直接みおろしている。教壇のクィレル先生は立って、やや黒みがかったちいさな演台の上の机にもたれている。

 

「今日の予定で、最初の防御呪文として、こんにちのプロテゴの祖先にあたる、ちいさな盾をつくる呪文を教えるというつもりだった。 しかし、最近のできごとをふまえて考えなおし、今日の授業の予定は変更した。」

 

クィレル先生の視線が各段の席をなめた。 ハリーは教室後方の自分の席でびくりとした。 だれが呼ばれるのかがわかるような気がした。

 

「〈元老貴族〉マルフォイ家のドラコ。」とクィレル先生。

 

ふう。

 

「なんでしょうか?」  ドラコの声は増幅され、ハリーの机の端末画面からでてくるようにきこえ、そこにドラコの顔もうつっていた。 画面がきりかわってクィレル先生にもどり、こう言った:

 

「〈闇の王〉の後継者となるのがきみの野望か?」

 

「おかしな質問ですね。それを認めるほどバカな人はいないでしょう?」

 

何人かの生徒が笑った。あまり多くはない。

 

「きみの言うとおり、これは無意味な質問だ。ただ、わたしの受けもつ生徒のなかに一人や二人、次代の〈闇の王〉となる野望をもつ生徒がいてもまったく意外ではない。 そう言うわたし自身、若いスリザリン生だったころは、次代の〈闇の王〉になりたいと思っていた。」

 

今度は笑い声がずっとおおきくひろがった。

 

「まあ、スリザリンは野心家の寮なのだからね。」とクィレル先生が笑顔で言った。 「自分がほんとうにたのしめるのが〈戦闘魔術〉だということ、自分の真の野望は偉大な魔法戦士となっていつかホグウォーツで教えることだということは、あとになるまでわからなかった。 いずれにしても、わたしは十三歳のとき、ホグウォーツの図書館の歴史書の区画をひととおり読んで、過去の〈闇の王〉たちの人生と最期を調査し、もし()()()()〈闇の王〉になるとしたら、こういう間違いはおかさないという行動のリストをつくった。」

 

ハリーは思わずくすくすと笑ってしまった。

 

「楽しんでもらえたかな、ミスター・ポッター。さて、そのリストの一番目にきたのはなにか、あててみてもらおうか?」

 

()()()()。「うーん……アブラカダブラで対処できる敵に対して複雑なことをやろうとしない、ですか?」

 

「ミスター・ポッター、ただしい用語は『アヴァダ・ケダヴラ』だ。」 クィレル先生はなぜかすこし険のある声で言う。「そして、不正解。わたしが十三歳のときにつくったリストにはそれはなかった。もう一度予想してみてくれるかな?」

 

「あ……自分の邪悪な計画のことをだれにも吹聴してはならない、とか?」

 

クィレル先生は笑った。 「ああ、それなら二番目だ。 ミスター・ポッター、きみとわたしはもしやおなじ本を読んでいたのでは?」

 

隠れた緊張感とともに、さらに笑いがひろがった。 ハリーはあごをきつくしめ、なにも言わなかった。 これを否定することにはなんの価値もない。

 

「だが不正解。()()()にあったのは『凶暴な強敵をわざわざ挑発しないこと』だ。 この初歩的な事項をモーネリス・ファルコンスベインやヒトラーが理解していたら、世界の歴史はおおきくかわっていたことだろう。 ()()()——ミスター・ポッター、もしもだが、わかいスリザリン生だった当時のわたしと似た野望をきみがこころにいだいたとしても、()()()〈闇の王〉を目標にしていてほしくはないものだ。」

 

「クィレル先生。」と言って、ハリーは歯ぎしりをした。「ぼくは()()()()()()()()()()()、愚かになることを目標にするわけがありません。ぼくが今日やったことはたしかに愚かでした。でも〈(ダーク)〉ではなかった! さきに手をだしたのはぼくじゃない!」

 

「そう、きみは愚かだったね。 といってもきみのとしごろには、わたしもそうだった。 だからいまのような答えは予想していたし、そのために今日の授業の予定を変更しておいた。 ミスター・グレゴリー・ゴイル、出てきてもらえるかね?」

 

教室全体が驚いて一瞬かたまった。 これはハリーにも予想外だった。

 

ミスター・ゴイルも表情から判断するとそうだったようで、だいぶ確信なさげで不安そうにして、大理石の教壇にあがり、演台にちかづいた。

 

クィレル先生は机にもたれかかるのをやめて直立した。 そのすがたは急に強そうにみえた。彼は両手のこぶしをかため、あきらかにそれとわかる格闘のかまえをした。

 

それをみてハリーは両目をみひらき、なぜミスター・ゴイルが呼びだされたかを理解した。

 

「ほとんどの魔法使いは、マグルの用語でいう格闘術に注意をはらわない。 杖はこぶしより強いだろう、と。 愚かな態度だ。 魔法戦士として大成したければ、マグルにも一目おかれるほどに格闘術を身につける()()がある。 わたしはこれからきわめて重要な技術を実演する。これは道場(ドージョー)とよばれるマグルの格闘術学校でまなんだもので、くわしくはすぐあとで説明する。まずは……」 クィレル先生はかまえをとったまま数歩まえにすすみ、ミスター・ゴイルの立つ位置にちかづいた。 「ミスター・ゴイル、わたしに攻撃をかけてもらいたい。」

 

「クィレル先生、」 ミスター・ゴイルの声はクィレル先生とおなじように増幅されている。「あなたはどの程度の——」

 

「六(ダン)だ。 きみにもわたしにもけがの心配はいらない。 すきがあれば、どこでも狙いたまえ。」

 

ミスター・ゴイルはかなり安心したようにしてうなづいた。

 

「このように、ミスター・ゴイルは格闘術を十分なレヴェルで習得していない相手を攻撃して、自分や相手にけがをさせることを恐れた。 ミスター・ゴイルの態度はまさに適切で、三クィレル点獲得に値する。 では、はじめ!」

 

少年は目にもとまらぬはやさで前にでて、こぶしをたたきつけたが先生はそのすべてを止め、うしろに飛んだ。クィレルは蹴りをいれ、ゴイルはそれを受けて回転し片足ではらってクィレルを倒そうとしたがクィレルはそれをかわし、あとはどれもあまりにはやく進行してハリーは理解しきれず、それからゴイルが背中を床につけて両足をおしだし、クィレルが実際に()()()()()、肩を地面にたたきつけて落ちて転がった。

 

「もういい!」と言って、クィレル先生は倒れたままで、すこし動転したような声になった。 「きみの勝ちだ!」

 

ミスター・ゴイルはいきおいよく飛びおきすぎてよろめいた。さかさまになってクィレル先生をおしだそうとしていたいきおいを殺しきれず、つまづいて倒れそうになっていた。 はげしいショックをうけた表情をしていた。

 

クィレル先生は背中をまげて、奇妙なばねのような動きで手をつかわずにはねおきた。

 

純粋な困惑からうまれた静寂が教室にひろがった。

 

「ミスター・ゴイル、わたしが実演したきわめて重要な技術とは?」

 

「正しい受け身のとりかたですね。これは格闘術でまっさきに教わります——」

 

「それも間違いではない。」とクィレル先生。

 

沈黙。

 

「わたしが実演したきわめて重要な技術とは、負けかただ。 ありがとう、ミスター・ゴイル。さがってよろしい。」

 

ミスター・ゴイルはだいぶ混乱した様子で教壇を去った。 ハリーもおなじ気分だった。

 

クィレル先生は歩いて机のところにもどり、またそこにもたれた。 「人間は、あまりに昔に学んでいる一番基本的なものごとを見おとしてしまいやすい。 わたしも授業計画をつくりながら、おなじことをしてしまっていた。 投げる方法を教えるのは、受け身を教えてからでなければならない。 戦闘法を教える前段階として、まずは負けかたを理解させなければならない。」

 

クィレル先生の表情がかたくなり、ハリーはその両目にわずかな痛み、かすかな悲しみをみたような気がした。 「マグルにはよく知られているとおり、すぐれた格闘家はすべてアジアにいる。あるアジアの道場(ドージョー)で、わたしは負けかたを学んだ。 その道場の流派は、魔法をつかう決闘術と相性がいい、と魔法戦士のあいだで評判だった。 道場の師範(マスター)は——マグルの基準では老人だったが——その流派で当代一の腕まえといわれた。 もちろん魔法の存在についてはなにも知らない。 わたしは教えをうけたいと志願し、多数の競争相手をしりぞけて、その年の数すくない入門者のひとりになった。 とはいえ、ほんのすこし、特殊な影響力も行使したかもしれないが。」

 

教室の一部で笑い声があがった。 ハリーはのらなかった。 そういうやりかたはまったくただしくない。

 

「ともかく。 最初の何度目かの格闘でとりわけ屈辱的なやられかたをして、自制をうしなったわたしは稽古相手を攻撃——」

 

うわ。

 

「——攻撃してしまったが、さいわい、だしたのは魔法ではなく手だった。 師範がその場でわたしを破門しなかったのはおどろきだが、 わたしには感情の制御に問題がある、と言われた。 そう説明されて、わたしは納得した。 それから彼はわたしに、いかに負けるかを学べ、と言った。」

 

クィレル先生の表情は読めない。

 

「師範の厳命で道場(ドージョー)の全生徒が一列にならんだ。 ひとりひとり順番にわたしにちかづく。 わたしは防御してはいけない。 わたしは慈悲を乞うことしか許されない。 ひとりひとりが順番に、わたしを平手打ちし、殴り、地面に押したおした。 何人かはわたしにつばをはいた。 母語でわたしを罵倒した。 そのひとりひとりに、わたしは『わたしの負けだ!』、『どうかやめてくれ!』、『きみのほうが強いと認める!』というようなことを言わなければならなかった。」

 

ハリーはそれを想像しようとしたがどうしてもうまくいかない。 威厳あるクィレル先生に、そのようなことがあったとは信じられない。

 

「わたしは当時でも戦闘魔術の天才だった。 無杖魔法だけでも道場にいる全員を殺せただろう。 でもそうはしなかった。 わたしは負けることを学んだ。 いま思いだしても、あの数時間はわたしの人生でもっとも不愉快な時間だった。 八カ月後に——まだまだやり足りなかったがそれ以上は都合がつかなかった——わたしがその道場を去るとき、なぜあれが必要なことだったかを理解してほしいと師範は言った。 わたしは師範に、あれが自分が学んだなかでもっとも価値ある教え(レッスン)だったと言った。 それはうそではない。」

 

クィレル先生は苦にがしい表情になった。 「諸君はこのすばらしい道場がどこにあるのか、自分もそこで学ぶことができるのか、ききたいだろう。 こたえは否だ。 それからほどなくして、山奥に隠れたその道場に別の志願者がきた。 〈名前を言ってはいけない例の男〉だ。」

 

大勢が同時に息をのんだ音がした。 ハリーは吐き気がした。 話のつづきは目に見えている。

 

「〈闇の王〉は変装をせず、目も赤いままで堂々とその道場にやってきた。 生徒たちは食いとめようとしたが、彼はただ〈現出(アパレイト)〉して通りすぎた。 そこには恐怖もあったが規律もあり、師範がまえに出た。 〈闇の王〉は教えを要求——依頼ではなく要求——した。」

 

クィレル先生の表情がとてもかたくなった。 「真の格闘家は悪魔をもたおすことができるという、うそを教える本を、師範は読みすぎたのかもしれない。 理由は不明だが、とにかく、師範はその要求を拒否した。 〈闇の王〉は自分がなぜ生徒になれないのかときいた。 師範は忍耐力がないからだと言った。そこで〈闇の王〉は師範の舌をもぎとった。」

 

いっせいに息をのむ音がした。

 

「そのさきどうなるかは予想がつくだろう。 生徒たちは〈闇の王〉に飛びかかろうとするも、その場で失神させられてたおれた。そして……」

 

クィレル先生の声が一瞬とぎれ、もどった。

 

「〈拷問(クルシアタス)の呪い〉という〈許されざる呪い〉は、耐えがたい痛みをひきおこす。 〈クルシアタスの呪い〉を数分以上つづけてかけられると、生涯のこる狂気が生じる。 〈闇の王〉は師範の生徒ひとりひとりを〈拷問(クルシオ)〉して発狂させたうえで、〈死の呪い〉で始末し、その様子を師範に見させた。 そうやって生徒が全員死ぬと、師範がつづいた。 唯一のいきのこりであった生徒から、わたしはこの話をきいた。〈闇の王〉が伝説をつたえさせるために殺さなかったその一人は、わたしの友人だった……」

 

クィレル先生はうしろをむき、一呼吸してからまえをむいた。落ちついた平静な表情にもどっている。

 

「〈闇の魔術師〉は冷静さをたもつことができない。」とクィレル先生が静かに言った。 「あの生き物にほとんど共通するといっていい欠点だ。彼らを相手にしばらくたたかった者は、その欠点にたよるようになる。 あの日〈闇の王〉が勝ったわけではないことを理解してほしい。 〈闇の王〉の目標は格闘術を学ぶことだったが、彼はなんの教えもうけずに去ったのだ。 この話を語らせようとした〈闇の王〉は愚かだ。 そこから伝わるのは強さではなく、むしろ、利用されかねない弱さだ。」

 

クィレル先生の視線の焦点が教室内のひとりの子にあたった。

 

「ハリー・ポッター。」とクィレル先生。

 

「はい。」とハリーがかすれた声で言った。

 

()()()()きみは今日なにに失敗した?」

 

ハリーは吐きそうな感覚をおぼえた。 「冷静さをたもてませんでした。」

 

「それは正確とはいえない。」とクィレル先生。 「もっと的確な説明をしよう。 おおくの動物に、序列順位のあらそい、と呼ばれるものがある。 彼らは角でたがいを——殺すためでなく屈服させるために——攻撃したりする。 あるいは(あし)を振りまわして——爪はださずに——攻撃しあったりもする。 だがなぜわざわざ爪をしまうのか? 爪をつかえば、勝つ可能性をあげられるはずでは? しかし自分が爪をだせば相手も爪をだす。そうなってはもはや、勝者と敗者で序列順位を決定する試合ではなくなってしまう。両者が大けがを負うおそれさえある。」

 

クィレル先生の視線は端末の画面からハリーに直接むいているようにみえた。 「ミスター・ポッター、きみが今日披露したのは——爪をしまったままで勝敗をうけいれる動物とちがって——きみは序列順位のあらそいにおける負けかたを知らない、ということだ。 ()()()()()()()()()挑発されたとき、きみは退却しなかった。 負けそうになると、危険をかえりみず、爪をだした。 きみは事態を()()させ、さらに()()()()拡大させた。 ことは、きみよりもあきらかに序列が上のスネイプ先生からの侮辱ではじまった。 きみは負けようとせず、侮辱をかえし、レイヴンクローの点を十点うしなった。 ほどなくして、きみはホグウォーツを去ると言いだした。 そこからさらに、なんらかの知られていない方向にきみが事態を拡大させ、どうにかして最終的に勝ったのだとしても、きみが愚かであることにかわりはない。」

 

「わかっています。」 ハリーののどが乾燥してきた。 いまのは()()だった。 ()()()()()正確だった。 クィレル先生にこう言われて、ふりかえってみると、いまのはまさにあのできごとの()()な説明だった。 だれかが自分についてつくったモデルがこれほどよくできているなら、その人が言うほかのこともただしいかもしれないと思いたくなる。たとえば殺意とか。

 

()()、負けまいとして対決を拡大させたとき、きみはテーブル上の賭け金を()()()うしなうかもしれない。 きみが今日なにを賭けたのかはわからないが、 おそらくうしなった寮点十点と比べて、はるかに高すぎる賭け金だったのはわかる。」

 

ブリテン魔法界の運命とか。それくらいのことをやってしまった。

 

「きみはホグウォーツ全体を救おうとしていたのだと抗議するだろう。リスクのおおきさ以上に、立派な価値のある目的があったと。それは()()だ。もしそれが目的なら——」

 

「ぼくは侮辱をうけとめて、待って、反撃に最適な機会をえらべばよかった。」 ハリーの声がかすれてきた。 「でもそれは()()になる。 相手を上に立たせることになる。 ちょうど、教えをうけようとしていた師範を相手に〈闇の王〉ができなかったことも、それだった。」

 

クィレル先生がうなづいた。 「完璧に理解してくれているようだ。そこで、今日はきみに、負けかたをまなんでもらう。」

 

「ぼくは——」

 

「反論はうけつけない。 きみにこれが必要なこと、これに耐えられる強さがあることは明白だ。 きみが体験することは、わたしが受けた試練ほどにまでつらくはないと保証する。ただしきみの子ども時代の最悪の十五分間の記憶になる、ということは十分ありそうだが。」

 

ハリーは息をのみ、 「クィレル先生。」と小さな声で言った。 「時期を変えられませんか?」

 

「できない。」とクィレル先生が端的に言った。 「きみがホグウォーツにきて五日しかたっていないのに、もうこんなことがおきた。 今日は金曜日。 ()()()この防衛術の授業があるのは水曜日だ。 土曜日、日曜日、月曜日、火曜日、水曜日……。 待っている時間は、()()。」

 

少数の生徒が笑ったが、ごくわずかだった。

 

「これは教師からの命令だと思いたまえ。 したがわなければ、これからきみにはどんな攻撃呪文も教えない、と言っておく。教えれば、きみがだれかに重傷をおわせたか殺した、と聞かされることになるだろうからだ。 きみの指はすでに強力な武器だと聞いている。 きみはこの授業ではいっさい指をならしてはならない。」

 

またちらほらと笑い声があったが、それも不安げなひびきがあった。

 

ハリーは泣きそうな気分になった。 「クィレル先生、おっしゃるようなことをされたとしたら、ぼくの怒りがひきおこされます。今日また怒りにおちいることはできればさけたい——」

 

「重要なのは怒りを回避することではない。」 クィレル先生が深刻そうな表情で言った。 「怒りが生じることは自然だ。 きみは怒りをおぼえながらも負ける方法をまなぶ必要がある。 すくなくとも負ける()()()()()ことによって、復讐の()()をたてられるようになりなさい。 今日わたしがミスター・ゴイルにしたのとおなじように。といっても、彼がほんとうにわたしよりも上だったと思っている人がいれば——」

 

「いや、そんなつもりは!」とミスター・ゴイルが自分の席から多少狂乱して言った。 「先生がほんとに負けたんじゃないことはわかっています! 復讐の計画なんてやめてください!」

 

ハリーは不吉な予感がした。 クィレル先生はハリーの謎の暗黒面(ダークサイド)のことを知らない。 「このことはぜひ授業のあとでおはなししたいのですが——」

 

「けっこう。」とクィレル先生は約束する口調で言った。 「だがそれは、きみが負けかたをまなんでからだ。」 その表情は真剣だ。 無論、負傷やひどい痛みを生じさせる可能性のあることはしない。 痛みは、勝てるまで反撃して戦線を拡大させるかわりに負けることのむずかしさからくる。」

 

ハリーの呼吸があさくなり、パニックのような息つぎになった。 〈薬学〉教室をでたときよりも、こわい。 「クィレル先生……」とやっと声をだして言う。「ぼくはあなたを退職させるようなことをしたくないと——」

 

「退職にはならない。」とクィレル先生が言う。「これは必要なことだったとあとで()()()言ってくれればね。 そうしてくれるとわたしは信じている。」 一瞬クィレル先生はとてもかわいた声になった。 「うそではない。もっとひどいできごとも、この校内では見のがされてきた。 今回が例外的なのは教室のなかで起きたという点だけだ。」

 

「クィレル先生……」とハリーはささやき声で言ったが、それでも全体に中継されているようだった。 「もしその経験をしておかなければ、ぼくはだれかを傷つけるかもしれないとほんとうに思いますか?」

 

「思う。」とクィレル先生は端的に言った。

 

ハリーは気分がわるくなってきた。 「それなら、やります。」

 

クィレル先生はスリザリン生たちのほうをみた。 「では……教師からの完全な承認つきで、スネイプがそうであるように責任は追及されないという前提で……〈死ななかった男の子〉に序列をたたきこんでやりたい者はいないか? 彼を突きとばし、地面に押したおし、慈悲を乞わせてみたくないか?」

 

五人が手をあげた。

 

「挙手した諸君は全員、どうしようもないバカだ。 負ける()()()()()ということのどこが理解できないというのか? ハリー・ポッターが次代の〈闇の王〉になったとしたら、卒業後諸君はとって殺されるぞ。」

 

五人の手があわてて机の上におりた。

 

「そんなことはしません。」 ハリーの声はかなり弱よわしかった。 「負けかたを学ぶ手だすけをしてくれた人に復讐をしたりはしないと誓います。 クィレル先生……そういうのは……やめてもらえませんか?」

 

クィレル先生がためいきをついた。 「すまない、ミスター・ポッター。 きみが事実〈闇の王〉になろうとしているのであろうがなかろうが、これがきみにとってもおなじくらい不愉快にちがいないのはわかる。 だが()()()()()()()まなぶべき人生の教訓があるのだ。 謝罪としてクィレル点一点を進呈すれば許容できるかね?」

 

「二点でお願いします。」

 

おどろきの笑いがひろがり、緊張がいくらかおさまった。

 

「承知した。」

 

「そしてぼくが卒業したらあなたをとらえて()()()()ます。」

 

さらに笑いがひろがったが、クィレル先生は笑みをうかべなかった。

 

ハリーは大蛇と格闘しているような気分だ。なんとかしてこの会話の方向を操作して、自分が実は〈闇の王〉ではないということをみんなに理解させないと……()()自分はこんなにクィレル先生にうたがわれているのだろう?

 

「先生。」とドラコが増幅されていない声で言った。 「ぼくもバカな〈闇の王〉になる野望はありません。」

 

ショックをうけて教室が沈黙した。

 

『そんなことをしなくてもいいのに!』とハリーは口に出してしまいそうになったが、なんとか思いとどまった。ドラコは、自分が二人との友情から……あるいは友だちらしく見せかけるために……こうしていることを、ほかのひとに知られたくないかもしれない。

 

『それ』を『友だちらしく見せかけるため』と呼ぶことでハリーは、自分が小さく、いじわるな人になったように感じた。 こちらを感心させようという狙いがあったのだとしたら、それは完全に成功している。

 

クィレル先生はいかめしい目つきでドラコを見た。 「きみともあろうものが、自分が負けるふりをできないのではと不安なのかね、ミスター・マルフォイ? ミスター・ポッターの欠点は自分にもあてはまると? お父さんから()()そのくらいの教育はうけているはずだが?」

 

「話すことに関してはそうかもしれません。」と今度は端末の画面からドラコが言った。 「押しのけられたり押したおされたりする場合に関しては、違います。 クィレル先生、ぼくはあなたとおなじくらい強くなりたい。」

 

クィレル先生が両眉をあげ、その位置を維持し、しばらく待ってからこう言った。 「もうしわけないが、ミスター・マルフォイ、わたしが用意してきたものは、いかに自分たちがバカだったかを()()()知らされるスリザリン上級生が関係しているから、きみには流用できない。 だがわたしの専門的な意見として、きみはすでに十分強い。 きょうのミスター・ポッターとおなじようにきみが失敗したという知らせがあれば、必要な用意をし、きみときみが傷つけた相手に謝罪しよう。 だがそれが必要になることはないと思う。」

 

「わかりました。」とドラコ。

 

クィレル先生が教室をみわたした。 「ほかに強くなりたい者はいるか?」

 

数人の生徒が不安げに周囲を見た。 数人は、ハリーからみておそらく後ろの列だったが、口をひらこうとしたように見えたがなにも言わなかった。 けっきょくだれも発言しなかった。

 

「ドラコ・マルフォイは今年の隊のうちひとつの司令官に任命される。」とクィレル先生が言う。「もし彼に当該課外活動に参加するつもりがあればだが。ではミスター・ポッター、まえへ。」

 

◆ ◆ ◆

 

クィレル先生はこう言った。そう、これは全員に、つまりきみの友人たちに見られながらでなければならない。スネイプがきみと対決したときもそうだった。きみはそこで、いかに負けるかを学ばなければならない。

 

だから、一年生の全員が見ている。 彼らには魔法により静寂が強制され、ハリーとクィレル先生の双方の要請で、手だしが禁じられた。 ハーマイオニーは顔をそむけたが、非難はしなかったし特別な視線をおくりもしなかった。おそらく彼女もあのとき一緒に〈薬学(ポーションズ)〉の授業にいたからだろう。

 

ハリーはやわらかい青マットの上に立った。マグルの道場(ドージョー)にあってもおかしくないようなマットだ。ハリーが倒されたときにそなえてクィレル先生はこれを床に敷いた。

 

ハリーは自分がなにをしようとするのかを、恐れた。 もし殺意に関してクィレル先生がただしかったとしたら……

 

ハリーの杖はクィレル先生の机の上におかれている。ハリーは自分をまもるための呪文を知っているというわけではないが、(おそらく)そうしなければ相手の眼窩に突きさそうとすると思われたのだろう。 ポーチもそこにおかれており、防護がついたとはいえ潜在的に脆弱な〈逆転時計〉もそのなかにある。

 

ハリーはボクシングのグローブを〈転成(トランスフィギュア)〉して自分の手に固定してほしいとクィレル先生に頼んだのだが、 クィレル先生は無言の理解をしめす表情をして、拒否した。

 

目はねらわない。目はねらわない。目はねらわない。やればホグウォーツでのぼくの人生が終わる。逮捕される。 ハリーはこう唱え、その思考を脳に焼きつけようとした。自分が殺意に支配されたときにもそれがのこっていてくれと願いながら。

 

クィレル先生が、それぞれちがう学年の年長のスリザリン生十三人をつれてもどってきた。 一人はハリーがパイをあてた相手だったので、見おぼえがあった。 もう二人はあの対決のときにその場にいた。 やめろ、しないほうがいい、と言ったのこりの一人は、来ていない。

 

「くりかえす。」とクィレル先生が厳格に言う。「ポッターをひどく傷つけてはいけない。 いかなる()()もすべて故意とみなす。 わかったか?」

 

年長のスリザリン生たちはにやりとしてうなづいた。

 

「では、〈死ななかった男の子〉の鼻っぱしを思いきりへしおってやれ。」と言って、クィレル先生は一年生だけが理解するゆがんだ笑みをした。

 

ある種の合意にもとづいて、パイの標的だった人物がグループの先頭にたった。

 

「ポッター。」とクィレル先生が言う。「こちらはペレグリン・デリック。 彼はきみより強い。きみはそのことをこれから味わわせられる。」

 

デリックがのしのしと近づいてくるとハリーの頭脳は不調和な悲鳴をあげた。逃げちゃだめだ、反撃しちゃだめだ——

 

デリックはハリーから腕一本ぶんの距離でとまった。

 

ハリーはまだ怒っていない。怖がっているだけだ。 つまり、目のまえにいるティーンエイジの少年が、自分より半メートル背がたかく、あきらかにがっしりとしたからだつきで、ひげもはえていて、不快な期待をもってにやりとしている、ということだ。

 

「傷つけないでと言ってみろ。」とクィレル先生。 「そのすがたがあまりにぶざまだったら、つまらない、もうやめた、と思ってくれるかもしれないぞ。」

 

観衆の年長のスリザリン生たちから笑い声があがった。

 

「お願いします。」とハリーは震える声で言う。「ぼくを、傷つけないで……」

 

「あまり真剣みが感じられない。」とクィレル先生。

 

デリックの顔に笑みがひろがった。 あの不細工な間抜け者の顔が、ハリーを見くだすようにしていて……

 

……ハリーの血圧がさがっていき……

 

「ぼくを傷つけないでください。」とハリーはもう一度言ってみた。

 

クィレル先生は首をふった。 「マーリンの名にかけて(いったい)どうやればそれを侮辱のように言えるんだ、ポッター? ミスター・デリックからの返事はひとつしか考えられないぞ。」

 

デリックはわざと一歩すすんで、ハリーにぶつかった。

 

ハリーはよろめいて数フィートさがった。そして自分をとめられないうちに、つめたい態度で直立した。

 

「だめだ。」とクィレル先生が言う。「だめだ、だめだ、だめだ。」

 

「ポッター、ぶつかったぞ。」とデリック。 「あやまれ。」

 

「ごめんなさい!」

 

「誠意がこもっていない。」とデリック。

 

ハリーの両目が怒りに見ひらかれた。おねがいするような口調で言えていたのに——

 

デリックに強く押され、ハリーは両手と両ひざをついてマットにたおれた。

 

ハリーの視界にぐらついて見える青い生地までの距離はあまりない。

 

この授業(レッスン)と称するものについてのクィレル先生の真の動機を、ハリーはうたがいはじめていた。

 

ハリーの尻に足が一本のせられ、一瞬のあと、ハリーは手ひどく横転させられ、あおむけになった。

 

デリックが笑った。 「これは()()()()な。」

 

もう終わりにしよう、と言えばいいだけだ。 そしてこのすべてを総長室に報告する。 それでこの〈防衛術〉教授とその凶運のホグウォーツ職はおしまいだ……マクゴナガル先生は怒るだろうが……

 

(マクゴナガル先生の顔のイメージがハリーの目のまえに一瞬あらわれる。その目にあるのは怒りではなく悲しみだけだ——)

 

「彼のほうがきみより強いと言いたまえ、ポッター。」とクィレル先生。

 

「あなたは、ぼくより、強い。」

 

ハリーは身をおこしかけたが、デリックが彼の胸に片足をのせ、マットに押したおした。

 

世界が水晶のように透明になる。 いろいろなうごきの線とその帰結とが、ハリーのまえにあざやかにひろがっていく。 相手は愚かにも、こちらが反撃しないと思っている。股間をすばやく打ってやれば、十分な時間うごきをとめることができ——

 

「もう一度だ。」とクィレル先生が言い、ハリーは突然すばやいうごきでころがって足をたて、真の敵、〈防衛術〉教授のいた場所をふりかえる——

 

クィレル先生は「忍耐力のない子だ。」と言った。

 

ハリーの決心がゆらいだ。 悲観主義でとぎすまされたハリーのこころに、ひからびた老人がハリーに舌をもぎとられ、口から血をふきだすイメージがうかんだ——

 

一瞬のあと、デリックがハリーをまた押したおし、その上にのしかかり、ハリーの息を押しだした。

 

「やめて!」とハリーが悲鳴をあげた。 「やめてください!」

 

「よくなった。」とクィレル先生が言った。 「真剣みもでてきた。」

 

いまのは真剣だった。 だからこそつらく、おぞましい。 ハリーは真剣だった。そしてはげしく動悸をおこし、恐怖とつめたい怒りの両方がからだのなかをかけぬけ——

 

「降参しろ。」とクィレル先生。

 

「降参、です。」とハリーはやっとのことで言った。

 

「いいね。」とデリックがハリーにのしかかりながら言った。 「もっと降参してもらうぜ。」

 

◆ ◆ ◆

 

両手がハリーを押しだし、ふらつくからだを年長のスリザリン生たちの輪のなかにおくる。別の両手がまた彼を押しだす。 泣きださないようにつとめる段階はとうにすぎていた。いまはころばないようにしているだけだ。

 

「おまえはなんだ、ポッター?」とデリック。

 

「ま……負け犬、ぼくの負け、降参、あなたの勝ち……あなたのほうが……強い……だからもう——」

 

ハリーはけつまづいて、両手で十分ささえることもできず、地面に激突した。 一瞬そこで放心したが、なんとか立ちあがろうとし——

 

()()()()!」と鉄を切りさくようにするどいクィレル先生の声が言った。 「ミスター・ポッターから離れよ!」

 

ハリーは彼らの顔におどろきの表情がうかんだのを見た。 自分の血のなかで波うっていたつめたさが、冷淡な満足感とともに笑みをうかべた。

 

そしてハリーはマットにたおれた。

 

クィレル先生は話した。 年長のスリザリン生たちの息をのむ音がきこえた。

 

「そしてここにいるマルフォイ家の御曹司からも、きみたちに説明したいことがあるのではないかと思う。」と言ってクィレル先生はしめくくった。

 

ドラコの声が話しはじめた。 その声はクィレル先生とおなじくらいするどくきこえ、ドラコが父親の真似をするときの抑揚がこめられていた。その内容には、『スリザリン寮の立ち場をあやうくする』とか『この学校のなかだけでもどれだけの協力者がいるか知れない』とか『狡猾さはおろか自意識も完全に欠如している』とか『追従しか能のないチンピラども』とかいう部分がふくまれていた。そして自分が知っているほかのすべてのことをさしおいて、ハリーの脳の奥のほうのなにかが、ドラコを協力者として位置づけようとした。

 

ハリーは全身にいたみを感じた。おそらく自分は傷だらけで、からだがつめたく感じ、あたまが疲れはてている。 フォークスの歌のことを考えようとしたが、あの不死鳥がそばにいなくてはメロディがおもいだせず、想像しようとしてもうかんでくるのは鳥のさえずりだけだった。

 

そしてドラコは話をやめ、クィレル先生が年長のスリザリン生たちに退出を命じた。ハリーは両目をあけて、起きあがろうと苦闘した。「待って。」とハリーがやっとのことで言う。「ひとつ、だけ、言いたいことが——」

 

「ミスター・ポッターを待て。」と冷淡に、去りかけたスリザリン生たちにむけてクィレル先生が言った。

 

ハリーはゆらりと立ちあがった。 ハリーは同級生のいる方向を見ないように気をつけていた。 いま自分がどういう風に見られているかを知りたくなかった。 彼らの同情を知りたくなかった。

 

そのかわりハリーは、まだショックを受けたままでいる年長のスリザリン生たちのほうを見た。 彼らも見かえしてきた。 彼らの顔には恐れが見えた。

 

ダークサイドはハリーを支配したとき、この瞬間のイメージをしっかりをつかんでおいてから、負けるふりをつづけたのだ。

 

ハリーはこう言った。「だれも——」

 

「やめなさい。」とクィレル先生。 「もしそれがわたしの考えるとおりの内容なら、彼らがいなくなるまで待ちなさい。 彼らはあとでその内容を知る。 わたしたちはみなそれぞれ学ぶべき教訓(レッスン)があるのだ。」

 

「わかりました。」とハリー。

 

「では、去れ。」

 

年長のスリザリン生たちは走って外に出て、ドアを閉めた。

 

「だれも彼らに復讐しようとするべきじゃない。」とハリーはかすれ声で言った。 「ぼくを友だちだと思っている人全員へのおねがいだ。 ぼくには学ぶべき教訓があって、彼らはその助けをした。彼らにも学ぶべき教訓があった。それは終わった。 この話を人につたえるときには、この部分もわすれないでほしい。」

 

ハリーはクィレル先生のほうをむいた。

 

「きみは負けた。」とクィレル先生がはじめてやさしい声になって言った。 この先生のだす声としては変にきこえた。まるでこの人にそんなことができるはずがないというように。

 

ハリーは負けた。 つめたい怒りが完全に消えてしまって恐怖におきかえられた瞬間が何度かあった。その瞬間、ハリーは年長のスリザリン生たちに懇願していた。本気で懇願していた……

 

「なのにまだ生きている?」とクィレル先生が、変にやさしい態度をつづけて言った。

 

ハリーはなんとかうなづいた。

 

「敗北はいつもこうではない。」とクィレル先生。 「取り引きや条件つきの降伏というものもある。 いじめっこをなだめるには別の方法もある。 相手を自分より支配的な立ち場におくことによって相手を操作する、というさまざまな技術がある。 だがまずは、負けることを()()()()()()()()()()()()。 きみは今日どのように負けたかをおぼえていられるか?」

 

「はい。」

 

「これからは負けることができるか?」

 

「できる……と思います……」

 

「わたしもそう思う。」 クィレル先生は薄い髪の毛がほとんど地面にとどきそうなほど深く一礼した。 「おめでとう、ハリー・ポッター。きみの勝ちだ。」

 

一方向からではなく、だれが最初というのでもなく、全体から一度に、拍手が雷鳴のように鳴りひびいた。

 

ハリーはショックを自分の顔から隠すことができなかった。 同級生のほうをちらりと見る危険をおかしてみると、そこにある表情は同情ではなく驚嘆だった。 レイヴンクローとグリフィンドールとハッフルパフから、さらにはスリザリンからも拍手がおくられた。おそらくドラコ・マルフォイが拍手していたからだろう。 椅子の上に立っている生徒もいた。グリフィンドールの半分は机の上に立っていた。

 

そしてハリーはそこに立ってふらつきながら、彼らの尊敬を一身にうけ、自分が強くなり、それに多少癒されたようにも感じた。

 

クィレル先生は拍手が鳴りやむのを待った。かなりの時間がかかった。

 

「おどろいたかね?」  クィレル先生の声は愉快そうだった。 「これできみは、現実世界が自分の最凶の悪夢のようになるとはかぎらないと知った。 たしかに、もしきみがあわれな無名のいじめられっこであれば、これほど尊敬はしてもらえず、むしろ高慢な態度でなぐさめと同情をされただけだったかもしれない。 残念ながらそれも、人間の本性だ。 だが()()()、有力者であることがすでに知られている。 そして彼らはきみが恐怖と立ちむかうのを見た。いつ逃げてもいいはずなのに、立ちむかいつづけるのを見た。 きみはわたしがあえてつばをはきかけられるのに耐えたと言ったとき、()()()()()()()()評価を下げたかね?」

 

ハリーはのどに焼けるような感覚をおぼえ、必死にそれをおさえた。 衆目のまえで泣きだしてしまうほどには、この奇跡的にえられた尊敬をハリーは信じていない。

 

「ハリー・ポッター、きみの()()()成果には非凡な報酬がふさわしい。 副賞として、出身寮を代表してのわたしの賛辞もうけとってもらいたい。そしてこれからはスリザリンが一枚岩だとは思わないでほしい。 スリザリン生にもいろいろある。」 そう言いながら、クィレル先生はにっこりと笑顔になった。 「レイヴンクローに五十一点加点。」

 

ショックによる沈黙が一瞬あったあと、伏魔殿が爆発しレイヴンクローの生徒たちが叫び声や口笛や歓声をあげた。

 

(そのおなじ一瞬にハリーはなにかが()()()()()()()という感じをおぼえた。マクゴナガル先生はただしかった。報いは()()()()()。しはらわなければならない代償があるべきだ。こうやってすべてをもとどおりにしたりできてはいけない——)

 

だが高揚感にあふれたレイヴンクロー生の表情をみると、とてもことわることはできない。

 

ハリーの脳がある提案をした。 いい提案だ。 自分の脳が公正な判断だけでなく、いい提案をすることがまだできているのが信じられない。

 

「クィレル先生……」と、焼けるのどでできるかぎりはっきりと発音してハリーは言った。 「あなたはあなたの寮出身者すべての模範です。サラザール・スリザリンがホグウォーツの建設に参加したときにまさに意図していたとおりの人物です。 あなたとあなたの寮に感謝します。」 ドラコはごくわずかにうなづいて、目立たないように指をまわした。()()調()()()。 「そこでスリザリンのために万歳三唱をしたい。みんな、いっしょにしてくれる?」 ハリーは一瞬沈黙した。 「バンザイ!」 一度目に唱和できたのは数人だけだった。 「バンザイ!」 今度はレイヴンクローの大半がくわわった。 「バンザイ!」 レイヴンクローのほぼすべて、それにハッフルパフからもちらほらと、そしてグリフィンドールの四分の一ほどがくわわった。

 

ドラコの片手が、一瞬、小さく親指をたてるしぐさをした。

 

スリザリン生のほとんどは純粋にショックをうけた表情をしていた。 数人は驚嘆の表情でクィレル先生をみつめていた。 ブレイズ・ザビニは計算するような、興味をそそられたような表情でハリーをみていた。

 

クィレル先生が会釈し、「ありがとう、ハリー・ポッター。」と、にっこりとした表情のまま言った。 彼は教室にむきなおった。 「信じられないかもしれないが、授業時間はまだ一時間半のこっている。〈簡易防壁〉の呪文を教えるには十分な時間だ。 ミスター・ポッターはもちろん十分な休息のため退室してもらう。」

 

「ぼくはまだ——」

 

「バカなことを。」とクィレル先生がかわいがるように言った。 教室全体がすでに笑っていた。 「同級生にあとで教えてもらえばいい。必要ならわたしが個人的に教える。 だが()()()教壇の裏手の左はしから三番目のドアを通って出なさい。そこにベッドと、特別においしいスナック各種と、ホグウォーツ図書館からとってきた非常に軽い読み物がおいてある。 ここからはなにも、とくに教科書は持ちだしてはならない。 はやく出ていきなさい。」

 

ハリーは出た。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 





今回の非ハリポタ用語:「ドージョー」
最近でもCoderDojoとかスプラトゥーンのドージョーがあり、日本以外でも dojo でけっこう通じるらしい。もともとは柔道の世界化が発端でしょうか。


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20章「ベイズの定理」





◆ ◆ ◆

 

ハリーは小さな部屋に設置された携帯用ながらもやわらかなベッドによこたわりながら、灰色の天井を見あげている。 クィレル先生のスナックはたくさん食べおえた。チョコレートやそのほかの材料を緻密に組みあわせ、きらきらの粉砂糖や蜜をちらした高価そうな菓子で、たしかにおいしかった。 といっても、やましい気はしなかった。自分はそれだけのことをしたのだから。

 

眠ろうとはしなかった。 目をとじるといやなことが起きそうな気がしたから。

 

読書しようとはしなかった。 集中できないと思ったから。

 

おもしろいことにハリーの脳はうごきつづけ、いくら疲れても停止しない。 だんだんバカになっていくが、()()()()()()()()()()()は拒む。

 

だがそこには、真の達成感がたしかにある。

 

反〈闇の王ハリー〉計画に一点加点、どころではない。 いま、〈組わけ帽子〉をこの頭にのせてやったらなんと言うだろう。

 

闇の王になる道をあゆんでいるとクィレル先生が非難していたのも無理はない。 すぐに気づくべきだったのに、自分はその類似点を理解できなさすぎていた——

 

あの日〈闇の王〉が勝ったわけではないことを理解してほしい。 〈闇の王〉の目標は格闘術を学ぶことだったが、彼はなんの教えもうけずに去ったのだ。

 

ハリーは〈薬学(ポーションズ)〉を学ぶつもりで〈薬学〉の授業に参加した。 そしてなんの教えもうけずに去った。

 

クィレル先生はそのことを聞いて、おそるべき正確さで理解すると、ハリーをつかまえて、〈例の男〉のコピーになることにつながるあの道から引きずりおろしたのだった。

 

ドアにノックがあった。 「授業は終わった。」とクィレル先生の静かな声が言った。

 

ハリーはドアにちかづくと、急に不安感をおぼえた。 だがその緊張は、クィレル先生の足音がドアから離れていくにつれて消えた。

 

いまのはなんだ? あれが最終的にクィレル先生がくびになる理由なのか?

 

ハリーはドアをあけ、クィレル先生が体数個分はなれて待っているのがみえた。

 

クィレル先生もこれを感じているのだろうか?

 

二人はもうだれもいない教壇をよこぎり、クィレル先生の机までいった。クィレル先生はさきほどまでとおなじようにそこにもたれかかり、ハリーは演台のすこしまえで立ちどまった。

 

「それで……わたしに話したいこととは?」 クィレル先生の表情はいつもどおり真剣だったが、どこか親しげな感じがあった。

 

『ぼくに謎のダークサイドがあるということ』なのだが、そういきなり言えることではない。

 

「クィレル先生、ぼくはこれで〈闇の王(ダークロード)〉への道からはずれましたか?」

 

クィレル先生はハリーを見た。 「ミスター・ポッター。」とすこしだけにやりとしながら、厳粛そうに言う。「ちょっとしたアドヴァイスをしよう。 世には完璧すぎる演技というものがある。 現実の人間は、十五分間の屈辱をうけてから優雅に立ちあがって敵を許したりしない。 そういうことは、自分が〈(ダーク)〉でないとみなを()()()()()()()()ときにするもので——」

 

信じられない! どんな観察結果も自分の理論のうらづけとして使うなんて!

 

「そしてその怒りかたは()()()()()()過剰だ。」

 

「いったいなにをすれば納得してもらえるんですか?」

 

「〈闇の王〉になるという野望がきみにはないとわたしを納得させる、ということか?」とクィレル先生が、今度はあからさまにおもしろがるように言った。 「ただ右手をあげてくれれば、それでいいかな。」

 

「え?」とハリーは唖然として言った。 「でもぼくが右手をあげられるかどうかがわかったからといって、ぼくが——」と言いかけてハリーは自分がバカのように感じてやめた。

 

「ご明察。 いずれの場合も、きみにとってそれをするのは簡単だ。 わたしを納得させるためにきみにできることはなにもない。納得させようとしているのだと、わたしにはわかっているからだ。 さらに話を厳密にするなら、わたしは個人的にお目にかかったことはないが、完全な善人が存在する可能性もなくはないと言っておく。しかし十五分間いためつけられた人が立ちあがって急に攻撃者にむけて慈悲のこころを発揮したくなるという()()()()()()()()()()。 それに対して、教師と同級生とに自分は次代の〈闇の王〉ではないということを納得させようとして、おさない子どもが自分は()()()()()()()()()()べきだと考える、という可能性はそこまで低くない。 行為について重要なのは、その行為が()()()()()()()()()()()()()ではなく、どのような精神状態がどれくらいその行為を生みだしやすいかだ。」

 

ハリーは目をしばたたかせた。 たったいま自分は、代表性ヒューリスティックとベイズ的な証拠の概念との二元論について、魔法使いから説明をうけたのだ。

 

「とはいえ、だれしも友人にいいところを見せたいと思うことはある。 それは〈闇〉ではない。 これを告白ととらえる必要はないが、ミスター・ポッター、正直に言ってみてほしい。 復讐がなされるのを止めようとする瞬間にきみはなにを考えていた? ほんとうに慈悲の衝動を感じたのか? それとも同級生にその行為をどう見られるかを意識していたか?」

 

人は自分なりの不死鳥の歌をつくることがある。

 

だがハリーはそれを声にださなかった。 クィレル先生はあきらかにそれを信じてくれないだろうし、おそらく見えすいたうそを言ったと思われて軽んじられることになる。

 

しばらくの沈黙のあと、クィレル先生は満足げな笑顔をした。 「信じられないかもしれないが、ミスター・ポッター、きみの秘密をわたしが知ることについて、恐れる必要はない。 わたしは次代の〈闇の王〉になるのはやめておけと命じるつもりはない。 もしわたしが時間をさかのぼって、どうにかして子どものころのわたしの精神からそれと同じ野望を除去できたとして、現在のわたしに便益は生じないだろう。 それが自分の目標だと信じているあいだずっと、わたしはそのために勉学にうちこみ自分を洗練させ強くなった。 われわれはみな、自分の欲求にどこまでも忠実であることにより、自分がなるべきものになる。 十三歳のころのわたしが読んだその本がおかれている図書館の棚はどこかときかれれば、よろこんで案内しよう。」

 

「ああもう。」と言ってハリーはかたい大理石の床に座り、そしてその床によこたわり、高い天井のアーチを見あげた。 痛くない範囲で、絶望して崩れおちるのに一番ちかづけた結果がこれだった。

 

「怒りかたがまだ過剰だ。」とクィレル先生が意見した。 ハリーはそちらを見なかったが、声をきけば忍び笑いをしているのがわかった。

 

そしてハリーは気づいた。

 

「あなたがなにを見まちがえているのか、どうも分かったような気がします。ぼくは実はそれの話をしたかったんですよ、クィレル先生。あなたがいま見ているそれは、ぼくの謎の暗黒面(ダークサイド)だと思います。」

 

そして沈黙。

 

「きみの……暗黒面(ダークサイド)……」

 

ハリーは上半身を起こした。 いままでだれの顔にも見たことがないほどの、とりわけクィレル先生ほど威厳のある人物にしては、奇妙な表情をしながら、クィレル先生はハリーを見ている。

 

「ぼくが怒ったときにそれは起こります。」とハリーは説明する。 「血液がつめたくなって、すべてがつめたく感じて、すべてがはっきりとしてくる……。 ふりかえってみると、以前もおなじことがありました——マグルの学校で一年生だったとき、休み時間にだれかがぼくからボールをとろうとして、ぼくはそれを背中のうしろにかかえて、その子のみぞおちを蹴った。それが人間の弱点だと本で読んでいたから。ほかの子たちはそのあとぼくに手だしをしなくなりました。 算数の教師がぼくの優位性を認めようとしなかったとき、ぼくは噛みつきました。 でもそれが実際……謎のダークサイドだということに気づくほどのストレスを受けさせられたのは、ほんの最近のことで、これは学校の心理医がぼくに言っていたような、怒りを制御できないというだけの問題ではありません。 それとそのときのぼくに超魔法パワーがあったりはしません。そのことはまず第一にたしかめましたから。」

 

クィレル先生は鼻をこすった。 「すこし考えさせてほしい。」

 

ハリーはまる一分、無言で待った。 その時間をつかって立ちあがったが、それは思ったよりむずかしかった。

 

「よし。」と、しばらくしてからクィレル先生が言う。 「どうやらきみがわたしを納得させるために言えることはひとつあったようだな。」

 

「このダークサイドはぼくの一部にすぎず、こたえは怒らないことではなくそれを受けいれて制御できるようになることだ、ということは()()推測できています。ぼくはバカじゃないしこういうストーリーは何度もみていて、どういう風に展開するか、わかっています。でも大変なことではあるし、あなたは助けになってくれそうな人に見えます。」

 

「ふむ……そうか……なかなかの洞察力だと言わざるをえない……きみの推測どおり、きみのその側面(サイド)はきみの殺意であり、きみが言うようにそれはきみの一部でもある……」

 

「そして訓練してやる必要がある。」と言ってハリーがパターンを完成させた。

 

「そう、訓練してやる必要がある。たしかに。」  あの奇妙な表情はまだクィレル先生の顔にある。 「ミスター・ポッター、次代の〈闇の王〉になりたくないというのが本心なら、どのような野望を〈組わけ帽子〉はきみにあきらめさせようとした? きみをスリザリンに〈組わけ〉する根拠となる野望はなんだった?」

 

「ぼくは()()()()()()()に〈組わけ〉されたんですよ!」

 

「ミスター・ポッター。」と言って、クィレル先生はいつもの乾いた笑みにずっとちかい表情をした。「周囲の人物がバカであることにきみが慣れていることは知っているが、わたしはその手のやからとは違う。 〈組わけ帽子〉がきみのあたまに乗っているあいだに八百年に一度のいたずらをしかけようとする可能性は、考慮する意味がないほど小さい。 きみが指をならすことによって、〈帽子〉にかけられた改竄防止呪文を打ちけす、なにか単純で巧妙な方法を発明した、という可能性もありえなくはない。 だが、〈帽子〉の決めた〈死ななかった男の子〉の行き先にダンブルドアが不満だったから、というほうがはるかに可能性の高い説明だ。 判断力のかけらもある人なら、だれの目にもこのことは明白だ。つまりきみの秘密がホグウォーツでもれる心配はない。」

 

ハリーは口をひらいたが、完全な無力感をおぼえて、またとじた。 クィレル先生は間違っている。しかし、それがクィレル先生に利用できる証拠をふまえれば合理的な判断だと思わされてしまいそうなほどに、説得力のある間違いかたをしている。 ときには、といっても()()()()()()タイミングでだが、ほとんどありえない証拠があたえられて、知りうる最良の推測が間違いだということもある。 ある医学的検査が千回に一回しか間違わないとして、それはやはり間違いだ。

 

「ぼくがこれから言うことをよそに漏らさないでほしいとお願いしてもいいですか?」

 

「もちろん、お願いされることに異存はない。」

 

ハリーもバカではない。 「答えはイエスだと思っていいですか?」

 

「よろしい。ぞんぶんに思いたまえ。」

 

()()()()()()——」

 

「きみがこれから言うことをわたしは他言しない。」とクィレル先生が笑顔で言った。

 

二人は一度笑い、そしてハリーはまた真顔になって言う。 「〈組わけ帽子〉はたしかに言っていたんです。ハッフルパフに行かないかぎりぼくは〈闇の王〉になることになると。」 「でもぼくは()()()()()()()()()。」

 

「ミスター・ポッター……。 この質問を誤解しないでほしいのだが。 きみがどう答えても成績には反映しないと約束する。 ただ正直に返事してくれればいい。 なぜ、なりたくないのだ?」

 

ハリーはまたあの()()()をおぼえた。 『〈闇の王〉になるなかれ』というのは自分の道徳システムのなかであまりに当然の定理で、具体的な証明の手順をのべるのがむずかしい。 「その、人が傷つくことになるから?」

 

「きみも人を傷つけたいと思ったことはあるにきまっている。 今日、きみをいじめた相手をきみは傷つけたいと思った。 〈闇の王〉になるということは、きみが()()()()()()()()と思う相手を傷つけるということだ。」

 

ハリーはいい表現をみつけようとあれこれ考えたが、自明な言いかたにしてしまうことにした。 「まずですね、ぼくがだれかを傷つけたいからといって、そうするのがただしいとは——」

 

「自分がしたいというのでだめなら、なにがものごとをただしくする?」

 

「ああ。選好功利主義ですか。」

 

「なんと?」

 

「最大多数の人の選好を満足することが善であるという倫理の理論です——」

 

「いや……」 クィレル先生の指が鼻すじをこすった。 「わたしが言おうとしたことはそれではないと思う。 ミスター・ポッター、けっきょくは人はみな、したいことをする。 人はときに自分がしたいことを『ただしい』などと呼んだりするが、わたしたちは自分の欲求()()のなににしたがって行動できるというのだ?」

 

「まあ、あたりまえのことなんですが、 道徳的な理由に訴求力がなければ、それにしたがってぼくが()()することはありません。 でもだからといって、あのスリザリン生たちを傷つけたいというぼくの欲求が道徳的な理由()()()()()ぼくをうごかすことにはなりません!」

 

クィレル先生は目をしばたたかせた。

 

「それだけじゃなく、 〈闇の王〉になれば罪のない傍観者もたくさん傷つけることにもなります!」

 

「それがきみにどう関係する? その人たちがきみになにをしてくれた?」

 

ハリーは笑った。 「いまのそれは、『肩をすくめるアトラス』くらいの巧妙さでしたよ。」

 

「なんと?」とクィレル先生がまた言った。

 

「ぼくを堕落させるだろうといって、両親から禁じられた本のことです。当然ぼくは読んだんですが、あんな見えすいた罠にかかると思われたなんて不愉快でした。 ほかの人たちは自分の邪魔になっているだけだというぼくの優越感を刺激する、とかなんとか。」

 

「つまりきみはわたしに罠をもっと隠せと言っているのか?」と言って、 クィレル先生はほおを指でたたき、考えこむような風になった。 「努力してみよう。」

 

二人は笑った。

 

「だがもとの質問から離れないようにしよう。 ほかの人がきみになにかしてくれたことが実際あるのか?」

 

「ほかの人は()()()()()たくさんのことをしてくれましたよ! ぼくの両親が死んだとき、両親はぼくを養子にしてくれました。二人は()()だからです。〈闇の王〉になることはそのことへの裏切りです!」

 

クィレル先生はしばらく無言になった。

 

「告白するが……」とクィレル先生が静かに言う。「わたしがきみの年齢だったころ、わたしはそのように思える環境にいなかった。」

 

「お気の毒に。」

 

「いや。 すぎた話だ。それに両親の問題はわたしにとって満足いくかたちで解決した。 つまりきみは、ご両親にみとめられないと思うからためらうのか? ということは、もしご両親が事故で死ぬことがあれば、きみをとどめるものはなにもなくなると——」

 

「いえ、そうではなく。二人の()()()()()()のおかげでぼくは保護されました。 その衝動はぼくの両親だけにあるものではありません。 その衝動を裏切ってしまうことになります。」

 

「それはともかく、きみはまだわたしの最初の質問にこたえていない。」とクィレル先生がしばらくしてから言った。 「きみの野望はなんだ?」

 

「ああ。その……」とハリーは考えをまとめる。 「宇宙について知りうる重要なことをすべて理解すること。その知識をつかって全能になること。そのちからをつかって現実を書きかえること。というのは、この現実のありかたにぼくは文句があるからです。」

 

短い間があった。

 

「これが愚かな質問だったとしたら申し訳ないが、ミスター・ポッター、 きみはいま〈闇の王〉になりたいと告白してしまったのではないか?」

 

「そうなるのは、悪のために自分のちからをつかう場合だけです。」とハリーが説明する。 「善のためにつかえば、〈光の王〉になります。」

 

「ふむ。」  クィレル先生は反対側のほおを指でたたく。 「それでかまわない。 きみのその野望はサラザールにふさわしいほどの規模だが、具体的にどうやってとりくむつもりだ? 第一ステップは魔法戦士になることか、〈無言者(アンスピーカブル)〉局長になることか、〈魔法省〉大臣になることか——」

 

「第一ステップは科学者になることです。」

 

クィレル先生はまるでハリーがネコになったというかのような見つめかたをした。

 

「科学者。」とクィレル先生はしばらくしてから言った。

 

ハリーはうなづいた。

 

()()()だと?」とクィレル先生はくりかえした。

 

「はい、 ぼくはこの目標を……〈()()〉のちからで達成します!」

 

()()()だと!」 クィレル先生の顔には純粋な怒りがあり、その声はどんどん大きく、するどくなった。 「きみはわたしの授業で一番優秀な生徒にもなれる! この五十年のホグウォーツ卒業生のなかで最強の魔法戦士にもなれる! きみが実験用白衣をきてラットに無意味なことをして日々を無為にすごすなど想像しがたい!」

 

「あの! 科学はそういうことばかりじゃありませんよ! もちろんラットを使った実験にも()()()()()()()()()()()が。 でも科学というのは、いかに宇宙を理解して制御するかという——」

 

「愚かだ。」とクィレル先生が静かな、苦にがしさをこめた声で言った。 「きみは愚かだ、ハリー・ポッター。」 そう言って顔を手でおおってさすると、表情におだやかさが出た。 「というより自分の真の野望をみつけられていないようだ。 きみに〈闇の王〉になってみることを強くすすめてみたいのだが? 公共のための奉仕として、わたしにできることはなんでもしよう。」

 

「あなたは科学がきらいなようですね。」とハリーはゆっくりと言う。 「なぜですか?」

 

「あの愚かなマグルどもに、いつかわれわれはみな殺される!」 クィレル先生の声はさらに大きくなった。 「やつらはきっと、 行きつくところまで行ってしまう!」

 

ハリーは話についていけていない気がした。 「なんのことを言っているんですか? 核兵器とか?」

 

「そう、核兵器だ!」 クィレル先生はもはや絶叫といっていいほどの声をしていた。 「〈名前を言ってはいけない例の男〉でさえ核兵器は使わなかった。おそらく灰燼に帰した世界を支配したくなかったからだろう! あんなものが作られるべきではなかった! そしてことはどんどん悪化している!」 クィレル先生は机にもたれるのをやめて直立していた。 「開くべきでない門というものがある。破るべきでない封印というものがある! 我慢できずに手をだす愚か者は、早いうちに低級な災厄で死ぬ。生存できた者はみな、自力で発見できるだけの知性と自制をもたない相手には()()()()()()()()秘密があるということを知る! 強力な魔法使いはだれもがそう知っている! 最悪の〈闇の魔術師〉でさえ知っている! なのにマグルの愚か者どもにはそれがわからないのだ! あの熱心な愚か者どもは核兵器を発明しておきながら、その秘密を守ろうとせず、()()()政治家たちに話してしまい、いまや()()()()()つねに絶滅の脅威におびえて生きなければならなくなった!」

 

ハリーがこれまで育ってきたなかで、あまりきいたことがなかった観点だ。 全核物理学者が共謀して、核物理学者になれるほどの知性がない相手には核兵器の秘密を一切もらさないようにすべきだという発想は、ハリーになかった。 この発想はすくなくとも興味ぶかいとは言えそうだ。 これを実現するとしたら、秘密のパスワードを使わせればいいか? 覆面をつけさせればいいか?

 

(実のところ、ハリーが知らないだけで、物理学者たちが守っているものすごく破滅的な秘密はいろいろあるのではないか。そのうち漏れてしまった唯一のものが核兵器だったというだけで。 どちらの場合も、ハリーにとって見える世界にかわりはないはずだ。)

 

「そのことについては考えてみたいと思います。」とハリーはクィレル先生に言う。 「その発想はしたことがなかったので。 そして稀有な教師から大学院生へと伝わってきた、()()()()科学の秘密のひとつは、自分がはじめて聞いたアイデアが気にいらなかったとき、即座にそれをトイレに流してしまうのをいかに回避するか、ということです。」

 

クィレル先生はまた目をしばたたかせた。

 

()()()()()()()種類の科学もありますか? 医学とか?」

 

「宇宙旅行だ。 この惑星がマグルに吹きとばされるまえに魔法族を脱出させてくれるかもしれない唯一の事業だが、マグルたちの進捗はかんばしくない。」

 

ハリーはうなづいた。 「ぼくも宇宙計画には大賛成です。 すくなくともそこは意見があいましたね。」

 

クィレル先生はハリーのほうを見た。 その両目になにか光るものがちらついた。 「これからはじまるできごとを決して他言しないという、きみの約束と誓いのことばをいただきたい。」

 

「もちろん。」とハリーは即答した。

 

「その誓いをやぶれば、好ましからざる結果が待っていると思いたまえ。 これからわたしは稀有で強力な呪文をかける。かける対象はきみではなく、この教室全体だ。 その場をうごくな。呪文の内外の境界に触れてはならない。 わたしがこれからかける魔法にきみは干渉してはならない。 見ることだけを許す。 したがわなければ、わたしは呪文を解く。」 クィレル先生はそこでことばを切った。 「そして、ころばないように気をつけなさい。」

 

ハリーは困惑しつつも期待を感じながら、うなづいた。

 

クィレル先生は杖をかまえ、なにかを言ったが、ハリーの耳とこころはそれをとらえることができなかった。そのことばは意識を迂回し、忘却のかなたへ消えた。

 

ハリーの両足の周囲の小さな半径の大理石は維持された。 床のそのほかの大理石は消え、壁と天井も消えた。

 

ハリーは小さな円のなかに立ちながら、はてしなく広がる星ぼしの海の真ん中にいた。星はおそろしくあかるく燃え、またたかない。 見なれた地球も、月も、太陽もない。 クィレル先生はもとの場所に立つと同時に、星の海にうかんでいた。 〈天の川〉はすでに巨大な光の流れとして見えていたが、ハリーの視界がその暗さに慣れると、さらにあかるく輝いた。

 

その光景に、ハリーはいままで見たなによりも強く胸をしめつけられた。

 

「ここは……宇宙……?」

 

「いや。」 クィレル先生の声は悲しげでおごそかだった。 「だが実物の映像だ。」

 

ハリーの目に涙がうかんだ。 水なんかに視界をにごらされてこれを見のがすものかと、必死でそれをぬぐった。

 

星ぼしはもはや、地球の夜空で見られるような、巨大な天鵞絨(ビロード)の半球にはりついた小さな宝石ではなかった。 上に(そら)はなく、大気がなす球はない。 ただ完全な暗黒に対して完全な光の点が散らばっているだけ。暗黒は無限の虚無であり、そこにあいた無数の微小な穴を通して、そのさきにある想像を絶する世界から輝きがもたらされる。

 

宇宙では、星ぼしはすごく、すごく、すごく遠く()()()

 

ハリーは何度も何度も、目をぬぐいつづけた。

 

「ときどき……」とほとんどきこえないほど小さな声でクィレル先生が言う。「この不完全な世界がいつになく憎悪にみちて見えるとき、どこか遠くに、わたしがいるべきだった場所があるのではないかと思うことがある。 わたしには、それがどんな場所なのかは想像できないようだ。 想像することさえできないなら、どうやってそんな場所が存在すると信じることができようか。 しかし宇宙はとても、とても広大だから、もしかするとそんな場所はあるのかもしれない。 だが星ぼしはとても、とても遠い。 そこにいく方法がわかったとしても、たどりつくには長い、長い時間がかかるだろう。 そして長い、長い眠りにつくとき、わたしはどんな夢をみるのだろうか……」

 

冒瀆(ぼうとく)的に感じたが、ハリーはなんとかささやき声をだした。 「しばらくここにいさせてください。」

 

クィレル先生はうなづいた。クィレル先生はそこで星ぼしにもたれかからずに立っている。

 

自分が立つ小さな大理石の円のこと、そして自分のからだのことを忘れ、意識をもつ点となるのは簡単だった。その点は静止しているかもしれず、動いているかもしれない。 はかりしれない距離のなかでは、どちらとも判別しがたい。

 

時間のない時間がすぎた。

 

そして星ぼしは消え、教室がもどった。

 

「すまないが、来客のようだ。」とクィレル先生。

 

「かまいません。」とハリーがささやき声で言った。 「あれだけで十分です。」 ハリーは今日の日を忘れることはないだろう。それも前半に起こったとるにたらないことのためではない。 それ以上なにも学べないことになるとしても、ハリーはあの呪文をかける方法を学ぶだろう。

 

そのとき、教室の重いオーク材の扉から蝶つがいが吹きとばされ、大理石の床を転がっていった。同時に甲高い声がこう言う。

 

クィリナス!なんということを!

 

巨大な雷雲のようにして、強力な老魔法使いが不意に入室した。その顔にはまばゆいほどの憤怒があらわれ、それにくらべればさきほどハリーに向けられた厳格な顔はなんでもなかった。

 

ハリーのこころの一部が、この、自分が見たこともないほどおそろしいものから逃げだして悲鳴をあげようとし、そのショックを受けとめることのできる部分と入れかわり、ハリーのこころはねじれて方向感覚をうしなった。

 

ハリーのどの面もあの星見を中断させられたことに腹をたてていた。 「アルバス・パーシヴァル——」とハリーは冷淡な口調で声をだしかけた。

 

ドン。と、クィレル先生の片手が机にふりおとされた。 「()()()()()()()()()!」とクィレル先生がどなった。 「一生徒の分際で()()()()()()()()に向かってその言いかたは不適切ではないか!」

 

ハリーはクィレル先生のほうを見た。

 

クィレル先生は厳格そうにハリーをにらんだ。

 

どちらも笑顔ではない。

 

のしのしと歩いてきたダンブルドアはハリーがいる演台のまえでとまり、クィレル先生は机のよこに立っていた。 総長はショックをうけた様子で二人をみつめた。

 

「すみません。」とハリーはおとなしく礼儀ただしい口調で言った。 「総長先生、ぼくを守ろうとしてくれてありがとうございます。でもクィレル先生がしたことはただしかったんです。」

 

ゆっくりと、ダンブルドアの表情が鋼鉄を蒸発させそうなものから単なる怒りにかわった。 「生徒たちからの報告では、この男は年長のスリザリン生にきみをいじめさせたというではないか! きみが自衛することも禁じた、と!」

 

ハリーはうなづいた。 「クィレル先生にはぼくの欠点がわかっていたから、それを直す方法を実演してくれたんです。」

 

「ハリー、()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「わたしは負けかたを彼に教えました。」とクィレル先生が乾いた声で言った。 「生きるうえで重要な技術です。」

 

ダンブルドアがまだ理解していないのはあきらかだったが、その声量ははっきりと下がった。 「ハリー……」と彼はゆっくり言った。 「もしこの〈防衛術〉教授からおどされて、訴えることをとめられているのなら——」

 

狂っている。よりによって今日、あんなことがあってから、どうしてぼくが——

 

「総長先生。」と言って、ハリーはきまりが悪そうな表情をしようとした。「ぼくの欠点と言えば、教師に虐待されたことを話せないということではありませんよね。」

 

クィレル先生は含み笑いをした。 「完璧とはいえないが、ミスター・ポッター、一日目としては十分だったよ。 総長、あなたはレイヴンクローへの五十一点のところまで聞いていましたか? それとも前半の話をきいてすぐにここに飛びこんできたのですか?」

 

一瞬動揺の表情がダンブルドアの顔をよぎり、おどろきにかわった。 「レイヴンクローへの五十一点?」

 

クィレル先生はうなづいた。 「加点されるのを期待してやったことではないでしょうが、加点しておくのが適切かと。 ミスター・ポッターが減らされた点を取りもどすためにやりのけたことは、マクゴナガル先生の言いたかったこととほとんどおなじだ、と彼女に伝えてください。 いいえ、総長、ミスター・ポッターから聞いて知ったのではありませんよ。 今日のできごとのどの部分が彼女のしわざだったかを見ぬくことはたやすい。最後の譲歩があなた自身の提案だったということも。 ミスター・ポッターがどうやってスネイプとあなたの両方より上位にたったのか、そのあとどうやってマクゴナガル先生が彼より上位にたったのかは、不可解ですがね。」

 

ハリーはなんとかして表情を制御した。 真のスリザリンにはここまでバレバレなのか?

 

ダンブルドアはなにかを検査するようにしてハリーに近づいた。 「顔色がすこし悪いが、ハリー。」と言って、 老魔法使いは近くからハリーの顔をのぞきこんだ。 「今日の昼食には、なにを食べた?」

 

「え?」と言いながら、ハリーは急に困惑してこころのなかがぐらついた。 ダンブルドアはなぜラムの唐揚げと薄切りブロッコリーのことを知りたがる? そんなものよりも原因になることはいくらでも——

 

老魔法使いは姿勢をなおした。 「それならいい。きみは無事なようじゃ。」

 

クィレル先生が大きな音でわざとらしいせきばらいをした。 ハリーがそちらを見ると、クィレル先生はダンブルドアをするどい視線で見つめていた。

 

「オホン!」とクィレル先生はくりかえした。

 

ダンブルドアとクィレル先生は視線をあわせ、なにかが両者のあいだでかわされたようだった。

 

クィレル先生が口をひらいた。「もし彼につたえないのなら、わたしが伝えましょう、もしそれで解雇されるとしても。」

 

ダンブルドアはためいきをついて、ハリーのほうに向きなおった。 「ミスター・ポッター、きみのこころのプライヴァシーを侵害したことを謝罪する。」と総長は形式ばった言いかたで言った。 「クィレル先生がおなじことをしたのかどうか判断する以外の目的はなかった。」

 

は?

 

ハリーは混乱を感じたが、いま起きたことがなんだったかを理解できるとそれは終わった。

 

「あなたが——!」

 

「お手やわらかに、ミスター・ポッター。」と言いながらもクィレル先生は表情をかたくしてダンブルドアを見つめていた。

 

「〈開心術〉はときに常識と混同される。」と総長。 「しかしその痕跡を有能な〈開心術師〉は見やぶることができる。 わしが見ようとしていたのはそれだけじゃ。無関係な質問をしたのも、重要なことを考えさせないようにと思ってのこと。」

 

「ひとこと断ってからにすべきでしょう!」

 

クィレル先生がくびをふった。 「いや、その懸念に関しては総長にも一理ある。もし事前に許可をもとめられたとしたら、まさに見られたくないもののことをきみは考えてしまっていただろう。」 クィレル先生の声がするどくなった。 「むしろわたしが懸念しているのは、総長が事後にそのことを明かす必要を認めなかったことですがね!」

 

「これで今後、彼のこころのプライヴァシーが守られているかどうかをわしが確認することは難しくなった。」 ダンブルドアはクィレル先生に冷ややかな視線を送った。 「そうさせようという意図だったのかな?」

 

クィレル先生の表情はかたくなだった。 「この学校には〈開心術師〉が多すぎる。 ミスター・ポッターにはぜひ〈閉心術〉の個人教授を受けてもらわねば。 わたしが教えることは許されますか?」

 

「無論許可しない。」とダンブルドアは即座に言った。

 

「そうだろうと思いました。 それではこの無料サーヴィスをミスター・ポッターから剥奪した以上、有資格者による〈閉心術〉個人教授の料金を()()()()負担すべきです。」

 

「そのようなサーヴィスは安くはない。」とダンブルドアはすこしおどろいたようにクィレル先生を見て言った。 「だがわしの知り合いを通じて融通を——」

 

クィレル先生はきっぱりとくびをふった。 「いいえ、ミスター・ポッターはグリンゴッツの担当者に中立的な教師の推薦をもとめるべきです。 失礼ながらダンブルドア総長、今朝のできごとをふまえると、あなたとあなたの知人がミスター・ポッターのこころを見ることには抗議せざるをえない。 その教師になにもそとに漏らさないという〈不破の誓い〉をかけ、毎回の授業のあと即座に〈忘消〉(オブリヴィエイト)されることに同意するようにしてもらいたい。」

 

ダンブルドアは眉をひそめた。 「そのようなサーヴィスが()()()高くつくことは分かっているはずじゃが。そこまでの措置が必要だと()()()()言うのには、なにか理由でもあるのかのう。」

 

「もしおかねのことが問題なら。」とハリーが口をひらく。「すぐに大金をつくる方法はいくつか考えたことがあります——」

 

「ありがとうクィリナス、おぬしの知見の深さはよくわかった。邪魔をして悪かった。 ハリー・ポッターに対するきみの配慮も賞賛にあたいする。」

 

「どういたしまして。」とクィレル先生。 「これからもわたしが彼に特別な注意をむけたとしてもかまいませんね。」 クィレル先生の表情は非常に真剣で、かたくなだった。

 

ダンブルドアはハリーのほうを見た。

 

「ぼく自身もそう希望します。」

 

「こういうことになったか……」と老魔法使いはゆっくりと言った。 奇妙な表情がその顔をよぎった。 「ハリー……きみがこの男を教師として、友人として、はじめての師としてえらぶとすれば、なんらかのかたちで彼をうしなうことになることはわかっておいてほしい。その後、きみが彼をとりもどせるかどうかもさだかではない。」

 

そのことには気づいていなかった。 だがたしかに〈防衛術〉の職には呪い(ジンクス)があり……それはこの数十年完璧に規則的に機能しているらしい……

 

「おそらくそうでしょう。」とクィレル先生が静かに言う。「だがそれまでは、彼はわたしを存分に使うことができる。」

 

ダンブルドアはためいきをついた。 「そうするのが経済的ではあるのかもしれんな。〈防衛術〉教授としてきみは未知の方法で破滅すると()()()運命づけられている以上。」

 

ハリーはダンブルドアがなにをほのめかしていたのかに気づき、自分の表情を苦労して抑制しなければならなかった。

 

「ミスター・ポッターに〈閉心術〉の本をわたしてよいとマダム・ピンスに指示しておく。」とダンブルドア。

 

「きみには一人で独学しておくべき予備的な訓練がある。」とクィレル先生がハリーに言った。 「そしてぜひ、いそいでそうしたほうがいい。」

 

ハリーはうなづいた。

 

「それではわしは失礼する。」 ダンブルドアはハリーとクィレル先生の両方に会釈し、すこしゆっくりと歩きながら、去った。

 

「あの呪文をまたかけてもらえますか。」とダンブルドアがいなくなった瞬間にハリーが言った。

 

「今日はできない。」とクィレル先生が静かに言う。「残念ながら明日もだ。 あれをかけるのはかなりの負担がかかる。維持するのはそれほどでもないのだが。だからふだんはできるだけ長く維持するようにする。 今回は衝動的にかけた。 もし事前に検討していて、途中で割りこまれるかもしれないとわかっていれば——」

 

ハリーはダンブルドアのことが世界で一番きらいになった。

 

二人はためいきをついた。

 

「あれを見られるのが一度だけだったとしても、ぼくは一生あなたに感謝します。」

 

クィレル先生はうなづいた。

 

「〈パイオニア〉計画のことをきいたことがありますか? ほかの惑星のそばまで飛んでいって写真をとる探査機です。 二機の最終的な軌道は太陽系をはなれて恒星間空間にむかいます。 その二機には黄金の板がいれられていて、男と女の絵、銀河系内でのぼくたちの太陽の位置を示す図が描かれています。」

 

クィレル先生は一瞬沈黙したが、笑顔になった。 「ミスター・ポッター、〈闇の王〉になったらけっしてやらない三十七の項目をまとめおえたときにわたしが考えたことはなんだったか、あててみてくれるかな? わたしになったつもりで——わたしの立ち場にたったと思って——あててみたまえ。」

 

ハリーは〈闇の王〉になったら自分がやらないことのリスト三十七項目をながめている自分を想像した。

 

「そのリスト()()()()()()()したがわなければならないとしたら、そもそも〈闇の王〉になる意味があまりない、ということですね。」

 

()()()。」 クィレル先生はにやりとした。 「だからこれからルールその二——『自慢するべからず』というだけのもの——に違反して、わたしがやったあることについて話そうと思う。 これを知られることになんら害があるとは思えない。 それに、わたしたちがおたがいをよく知ったときには、まずまちがいなくきみはこのことを突きとめるだろうから。 それでも……これからわたしが話すことをだれにも他言しないという誓いのことばをいただきたい。」

 

「よろこんで!」 これは()()()()()上物だという気がする。

 

「わたしは宇宙旅行に関する進展を追うためにマグルの短報を購読している。 パイオニア十号については、発射が発表されるまで知らなかった。 だがパイオニア十一号も太陽系を永久に離れる予定だと知ってわたしは……」と言って、クィレル先生はハリーがこれまで見たなかでもっともにやりとした表情をした。「NASAに忍びこんだ。そしてあのすてきな黄金(きん)の板にちょっとした呪文をかけて、それが本来よりもはるかに長もちするようにした。」

 

……

 

……

 

……

 

「やはりな。」とクィレル先生は、まるで五十フィートほどの背たけになったかのようにして言う。「きみならそういう反応をすると思った。」

 

……

 

……

 

……

 

「ミスター・ポッター?」

 

「……なにを言っていいかわからなくなりました。」

 

「『完敗』でどうだ。」とクィレル先生。

 

「完敗です。」とハリーは即座に言った。

 

「ほら。 もしそれが言えないままだったら、きみはどんなひどい目にあっていたか分かったものじゃない。」

 

二人は笑った。

 

ハリーはもうひとつのことに思いあたった。 「その板に追加の情報をいれたりしたんじゃありませんか?」

 

「追加の情報?」と、それではじめて気づかされたというかのような調子でクィレル先生は言い、かなり興味を持つ様子になった。

 

ハリーはそれを見てむしろ疑いを持った。ハリーでさえ一分もかからず思いついたことだったのだから。

 

「たとえば『スター・ウォーズ』みたいに、ホログラフィーでできたメッセージを入れたとか?」とハリー。 「それとも……ふむ。肖像画一枚に人間一人の脳に相当する情報量をまるごと入れられるのなら……探査機の質量を増やすことはできなかっただろうけど、もしかするとその一部を自分の肖像画に変えたりできるかも? あるいは、末期的な病気で死にかけているヴォランティアを見つけて、その人をNASAに忍びこませて、その人の幽霊(ゴースト)板のなかにはいらせるような呪文を——」

 

「ミスター・ポッター……」と言って、クィレル先生が急にするどい声になった。「〈魔法省〉はまずまちがいなく、いかなる事情があろうと、人間の死を必要とする呪文を〈闇の魔術〉に分類する。 生徒はそのようなことを大っぴらに口にするべきではない。」

 

クィレル先生のすごいところは、もっともらしく否認できる状態を完全に維持しながらそれを言ってのけたことだ。 その口調はまさにこういう話題を議論しようとせず、生徒をこういう話題から遠ざけようとする人らしくきこえた。 ハリーが自分の精神を防御する方法を学ぶのを待ってその話をしてくれるつもりなのかどうか、ハリーには()()()()()()()

 

「了解です。このアイデアはほかのだれにも話しません。」

 

「いまの話題全体を他言しないでもらいたい、ミスター・ポッター。 わたしは人目を引かずに生きていくのを好んでいる。 クィリナス・クィレルの名前を新聞で探しても、わたしがホグウォーツで教師になる決心をして以降のことしか見つからないはずだ。」

 

すこし残念だが、しかたない。 つぎに、ハリーはそれがなにを意味するかに気づいた。 「それでいったい、どれくらいすごいことをだれにも知られないまま()()()()()んですか——」

 

「まあ、いくらかは。 だが今日はもうこれくらいで十分だろう。 ミスター・ポッター、正直に言ってわたしはすこし疲れた——」

 

「わかりました。それに()()()()()()()()()()()()()()()と。」

 

クィレル先生はうなづいたが、さらに強く机にもたれかかった。

 

ハリーはすぐに退出した。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 





今回の非ハリポタ用語:「ラット (rat)」
日本語でいうとネズミですが、マウスもネズミ。ラットのほうが体躯がおおきい。いっぽう、耳が比較的おおきめなのがマウスの特徴(そういえば有名なアニメでも……)


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21章「合理化」





◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニー・グレンジャーは、自分が〈悪〉になりかけてしまっている気がしていた。

 

〈善〉と〈悪〉を区別するのはたいてい簡単だ。ほかの人たちがなぜあんなにむずかしくとらえるのか、まったく理解できない。 ホグウォーツでは、『善』はフリトウィック先生とマクゴナガル先生とスプラウト先生で、 『悪』はスネイプ先生とクィレル先生とドラコ・マルフォイだ。 ハリー・ポッターは……例外的にひとめ見ても分からないたぐいで、 どちらに属するのか、ハーマイオニーはまだ決めかねている。

 

なのに、そういう自分自身はどうかといえば……

 

ハーマイオニーはハリー・ポッターを負かすことを()()()()()()()()()

 

二人がうけている授業のうちどれひとつをとっても、彼女はハリーより成績がいい。(ホウキのりはちがうが、あれは体育みたいなものだからどうでもいい。) この第一週でハーマイオニーはほぼ毎日、()()()()の寮点をかせいだ。つまり、変な英雄(ヒーロー)的なことではなく、あたらしい呪文をすぐにおぼえるとか、ほかの生徒にやりかたを教えるとか、()()()ことで。 こういう種類の寮点のほうがすぐれていると彼女は知っているし、なにより、ハリー・ポッターも知っている。 そのことは、彼女が()()()()の寮点を獲得するたびに彼の目にあらわれていた。

 

〈善〉だったら、勝つことをこれほどたのしんでいてはいけない。

 

それはあの列車に乗った日からはじまっていた。いろいろふりまわされていてしばらく実感できずにいたが、ハーマイオニーはあの日の夜になってはじめて、自分があの少年にどれほど傍若無人なふるまいを許していたか、気づいたのだった。

 

ハリー・ポッターに出会うまで、ハーマイオニーには負かしたい相手がいたことがなかった。 おなじクラスに落ちこぼれそうな子がいれば、助けるのが自分の役目だった。思いしらせるのではなく。 〈善〉とはそういうことだ。

 

それがいまや……

 

……いまやハーマイオニーは、()()()()()。彼女が寮点をひとつ獲得するたびにハリー・ポッターがびくりとする。そのことが()()()たのしい。両親からは薬物(ドラッグ)についていましめられたが、これのほうが()()()()()()()のではないか。

 

なにかに成功したときに教師の笑顔が見られるのは、これまでも好きだった。 試験で完璧な解答をして正解の印がずらりとならぶのを見るのは、これまでも好きだった。 でもいまは、授業でなにかに成功したら、かるくまわりを見わたして、ハリー・ポッターが歯ぎしりする瞬間をとらえる。すると、ハーマイオニーはディズニーの映画のように歌をうたいだしたくなる。

 

これは〈悪〉なのでは?

 

ハーマイオニーは、自分が〈悪〉になりかけてしまっている気がしていた。

 

だがあることに思いあたり、そういった恐れはすべてぬぐいさられた。

 

二人は〈恋愛(ロマンス)〉をしつつあるんだ! そうにきまっている! 少年と少女が毎度毎度けんかをするようになったら、どういう意味なのかはだれでも知っている。 ()()行動だ! それなら、なにも〈悪〉じゃない。

 

この学校一有名な生徒、本()()()()いて本()()()()()()()()少年を……〈闇の王〉をどうにかしてたおして、あのスネイプ先生をあわれな虫けらのようにけちらした少年を……クィレル先生が言うにはレイヴンクロー一年生のだれよりも——ただし〈死ななかった男の子〉である彼をホウキのり以外の全科目で完全に圧倒しているハーマイオニー・グレンジャーを例外として——序列が上だという少年を、学業でこっぱみじんにたたきのめすのを、まさか彼女が()()()()()()()はずがない。

 

もしそうなら〈悪〉だから。

 

ちがう。 これは〈恋愛(ロマンス)〉だ。 だからだ。 だから、二人はけんかするのだ。

 

ハーマイオニーは今日の約束の時間までにこれを解決しておけてよかったと思った。今日、ハリーがこの読書試合に敗北する。そしてそのことを()()()()()知る。そしてあふれだす純粋なよろこびで彼女は()()はじめたくなる。

 

土曜日の午後二時四十五分、ハリー・ポッターはバティルダ・バグショットの『魔法史』の半分を読みのこしていた。ハーマイオニーは懐中時計がおそるべき遅さで午後二時四十七分にむけてすすんでいくのを見つめていた。

 

そしてそれをレイヴンクロー談話室にいる全員が見ていた。

 

一年生だけではない。この情報はこぼれた牛乳のようにしてひろがり、レイヴンクローのゆうに半分がこの部屋におしよせ、ソファにむりやりはいったり、書棚にもたれたり、椅子の肘かけに座ったりしていた。 ホグウォーツの首席女子をふくむ監督生六人も全員いる。 酸素をいきわたらせるためにだれかが〈空気清浄魔法(チャーム)〉をかけなければならなかった。 どよめく話し声は静まってささやき声になり、やがて完全な静寂になった。

 

午後二時四十六分。

 

耐えられないほど空気がはりつめている。 これがほかのだれかのことだったら、()()()()()()、敗北するというのが見えすいた結末だ。

 

でもこれはハリー・ポッターだ。だからあと数秒のあいだに、手をあげて指をならしたりするという可能性は排除できない。

 

ハーマイオニーはぞっとして、気づいた。ハリー・ポッターはまさにそのとおりのことをやれるのではないか。 のこり半分を()()()()()()()()()というのは、いかにも彼がやりそうなことではないか……

 

ハーマイオニーの視界がぶれた。 息をつごうとしても、できなくなってしまっていた。

 

のこり十秒になったが、彼はまだ手をあげない。

 

のこり五秒。

 

午後二時四十七分。

 

ハリー・ポッターはしおりをきっちりとはさんでから本をとじ、脇によけた。

 

「後世のひとびとの参考までに言っておくと……」とよく通る声で〈死ななかった男の子〉が言う。「さまざまな予期しがたい障害で時間をとらされながらも、ぼくが読みのこしたのはわずか半冊分であり——」

 

()()()()()()!」と甲高い声でハーマイオニーが言った。 「そうでしょ! この勝負、()()()()()()!」

 

一同が呼吸を再開して息をはきだす音がした。

 

ハリー・ポッターは〈燃える炎の視線〉を発したが、ハーマイオニーは純白のしあわせの後光をつけて空中に浮いていて、なにものも彼女に触れることができなかった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? ぼくほどの人物でなければ、ドクター・スースの絵本を八冊読むのすらやっとだったはずだ!」

 

「自分で制限時間をきめたくせに。」

 

ハリーの〈燃える炎の視線〉はさらにあつくなった。 「スネイプ先生から学校全体を救って、それから〈防衛術〉の授業でなぐられることになるなんて事前にわかりようがないし、木曜日の午後五時から夕食までのあいだの時間を何につかわされたかを教えてあげたら、きみはぼくのことを狂っていると思うだろう——」

 

「あらあら、だれかさんは()()()()にひっかかってしまったのかしら。」

 

むきだしのショックがハリー・ポッターの顔にあらわれた。

 

「あ、そういえば、このあいだ貸してもらった本はもうぜんぶ読んじゃった。」とハーマイオニーはとっておきの純真無垢な表情で言った。 あのなかには何冊か、()()()()本もあったが、 ハリーはどれくらいの時間をかけて読んだのだろうか。

 

「いつの日か……」と〈死ななかった男の子〉が言う。「ホモ・サピエンスの遠い子孫たちが銀河の歴史をふりかえり、自分たちはどこでこれほどまちがってしまったのだろうと自問するとき、そもそものまちがいはだれかがハーマイオニー・グレンジャーに読書を教えたことだったと結論するだろう。」

 

「でも負けは負け。」 ハーマイオニーはあごに片手をあてて思案顔になった。 「それじゃあ、具体的になにを手ばなしてもらおうかな?」

 

「は?」

 

「あなたは賭けに負けた。だから代償をしはらってもらう。」

 

「そんなことに同意したおぼえはない!」

 

「ふうん、そう?」  ハーマイオニー・グレンジャーは思案顔になった。 そして、まるでたったいま思いついたかのようにして、こう言った。「じゃあ投票で決めましょう。ハリー・ポッターが代償をしはらうべきだと思うレイヴンクロー生は全員挙手!」

 

「はあ?」とまたハリー・ポッターが声をあげた。

 

ふりむけば、彼のまわりには見わたすかぎり手があがっている。

 

ハリー・ポッターが()()()()()()()()()まわりをみていたなら、観客にやけに女子が多いこと、この部屋の女性ほぼ全員が挙手していたことに気づいただろう。

 

「やめてよ!」とハリー・ポッターがわめいた。 「なにを要求されるのかまだわからないのに! 彼女がなにをしようとしてるのかわからないの? きみたちは事前の意思表示(コミットメント)をさせられてるんだよ! このあとで彼女がなにを言っても、きみたちは整合性のプレッシャーからそれに同意せざるをえなくなる!」

 

「心配いらない。」と監督生ペネロピ・クリアウォーターが言った。 「彼女の要求が不合理だったら、わたしたちはただ考えを変えればいい。だよね、みんな?」

 

ペネロピ・クリアウォーターを通じてハーマイオニーの計画を知らされていた全女子が熱心にうなづいた。

 

◆ ◆ ◆

 

ホグウォーツの地下洞(ダンジョン)のつめたい広間に、無言の人影がしずしずとはいっていく。 彼は午後六時に、とある部屋でとある人物とおちあう約束だった。敬意を示すため、可能であればはやめについていたほうがいい。

 

だがドアノブを手でまわしてドアをあけて、暗い、静かな、使用されていない教室にはいると、ほこりをかぶった机の列のあいだに、すでにシルエットがひとつ立っていた。 シルエットは小さな緑色の光る棒をもち、白い明かりをともしている。周囲の部屋はおろか本人すらほとんど照らしだされてはいない。

 

ドアを後ろ手にしめると廊下の明かりは消え、ドラコの両目がとぼしい光に慣れる手順にはいった。

 

シルエットはゆっくりと彼のほうをむき、影のある顔をみせた。その顔は不気味な緑色の明かりで部分的にだけ照らしだされていた。

 

ドラコはさっそく、この会合が気にいった。 寒ざむしい緑色の明かりはそのままに、二人の背をたかくし、フードと仮面をあたえ、場所を教室から墓場に移してやれば、父親の友人たちが教えてくれた〈死食い人〉の話のうち半分のはじまりかたと、よく似た感じになる。

 

「ドラコ・マルフォイ、このことは知っていてほしい。」とシルエットがひどく落ちついた口調で言う。「今回のぼくの敗北をきみのせいにするつもりはない。」

 

ドラコは無意識に抗議しようとして口をあけた。そもそもどうやればこちらのせいになるというのか——

 

「原因はなによりもぼく自身の愚かさだった。」と影法師がつづけて言った。 「どの段階においても、ちがったことができたはずだった。 きみはただ助けをもとめただけだった。 愚かにもあの方法をえらんだのはぼくだった。 でも事実としてぼくは半冊の差で試合に負けた。 きみの愚劣な従者のした行為、きみの頼み、そしてそれを引きうけたぼく自身の愚かさのせいで、ぼくは()()()()()()()。 きみが知っているよりも多くの時間を。 その時間が結果的には致命的だった。 ドラコ・マルフォイ、きみにあの頼みをされなかったとしたら、ぼくは()()()()()()()()、というのが事実なんだ。負ける……のでは……なく。」

 

ドラコはすでにハリーの敗北と、グレンジャーが彼に要求した代償のことを知っていた。 このニュースはフクロウよりが運ぶよりもはやく広まっていた。

 

「わかるよ。残念だ。」  もしハリー・ポッターを友だちにしたいのなら、これ以外にドラコに言えることは一切ない。

 

「理解してほしいとも同情してほしいとも言わない。」と暗いシルエットがやはりひどく落ちついた様子で言う。 「ただ、ぼくはついさっきまで、ハーマイオニー・グレンジャーといっしょにまるまる二時間をすごしてきた。言われるまま衣装をきせられて、つきそいの女子たちが〈転成〉したバラの花びらをかいがいしくまきちらす花道を通らされて、どうみても鼻水をたらしているようにしかみえない滝やそのほかホグウォーツの名所をめぐったりして。 デートだったんだよ、これは。 ぼくの()()()()()デートだ。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

 

ドラコは厳粛そうにうなづいた。 賢明にも、彼はここにくるまえに念のためハリーのデートの一部始終を調べ、会合の時間になるまえにひとしきりヒステリックに笑いすませておいた。おかげで意識不明になるまで笑いつづけるという失態は回避できた。

 

「あのグレンジャーに……」とドラコが言う。「なにか悲しいできごとが起きるべきじゃないかと——」

 

「スリザリン寮の人たちには、こうつたえておいてほしい。あのグレンジャーは()()()()()で、()()()問題に介入しようとする者は、十二の言語が話されるほど広い地域に死体をばらまかれることになると。 ぼくはグリフィンドールじゃないから、正面からじゃない()()()攻撃をすることができる。スリザリン生はぼくが彼女に笑みをみせたとしてもパニックになる必要はない。」

 

「あるいはきみたちが二回目のデートをするのを目撃されても?」と言って、ドラコはわずかに猜疑心を声にこめた。

 

()()()()()()()()()()!」と緑色にてらされたシルエットが言った。その声はおそろしげで、〈死食い人〉に似ているだけではなかった。おまえは〈闇の王〉のつもりかと言って父上がとめようとしたときの、アミカス・カロウのようだった。

 

もちろん、実際にはまだ声がわりしていないおさない少年の声だし、言った内容がこれでは、まあ、だめだ。 もしハリー・ポッターがいつか次代の〈闇の王〉になったとしたら、ドラコは今回の記憶をペンシーヴをつかってどこか安全な場所に保管しておけばいい。そうすれば、ハリー・ポッターに裏切られる心配はなくなる。

 

「たのしい話をしようじゃないか。 知識とちからの話をしよう。ドラコ・マルフォイ、〈科学〉の話をしよう。」

 

「ああ。そうしようじゃないか。」

 

ドラコはこの不気味な緑色の光のもとで自分の顔がどれくらい見えているのか、どれくらい影にはいっているのかと考えた。

 

ドラコは表情を真剣なままにしたが、こころのなかでは笑みをうかべた。

 

()()()()まともな大人の会話がはじまってくれた。

 

「ぼくはきみにちからを与えよう。」と人影が言う。「そしてちからとその対価について話そう。 そのちからは現実のかたちを知りそれを支配できるようになることからくる。 理解できたものには、命令することもできる。そのちからが月面をあるくことを可能にする。 そのちからの対価は、〈自然〉に質問をする方法をまなばなければならないこと、そしてはるかに難しいのは、〈自然〉からの回答をうけいれることだ。 実験をして、試験をして、なにが起きるかをみる。 きみがまちがえたとその結果がつげたときは、その意味をうけいれなければならない。 きみは()()()()()()()をまなばなければならない。ぼくにではなく、〈自然〉に負けるんだ。 ドラコ・マルフォイ、きみはこれを苦痛に感じるだろう。きみがその面で強いかどうかはぼくにはわからない。 この対価を知って、きみはまだ人類のちからをまなびたいと思うか?」

 

ドラコは深く息をついた。 すでにこのことについては考えていた。 ほかのこたえをすることは考えられなかった。 ハリー・ポッターと親交をふかめるあらゆる手だてをとれ、とすでに指示されてもいる。 これはただ()()だけだし、なにかを()()と約束するわけじゃない。 レッスンを受けるのをやめることはいつでもできる……

 

たしかに罠のように感じさせる点はこの状況のなかにいくつもあるが、正直に言って、これは悪くころびようがない話に思える。

 

それにドラコは多少、世界征服をしたい気もしている。

 

「思う。」とドラコ。

 

「すばらしい。 今週はいろいろとたてこんでいて、きみの学習計画を用意するのには、もうすこし時間がかかる——」

 

「ぼくもスリザリン内で権力をかためるためにやっておくことがたくさんある。もちろん宿題も。 十月からにするというのはどうだ?」

 

「それが無難そうだけど、ぼくが言おうとしていたのはきみの学習計画のこと、つまりきみになにを教えていくかをはっきりさせる必要があるということ。 案は三つある。 人間のこころと脳について教えるというのが一つ目。 物理的な宇宙に関して、月へいたる道の途中にあるさまざまな技法を教えるというのが二つ目。 これにはかなりたくさんの数字が関係するけれど、ある種の人たちにはこういった数字は〈科学〉がくれるなによりも美しく感じられる。 ドラコ、数は好き?」

 

ドラコはくびをふった。

 

「じゃ、これはなしにしよう。 数学はいずれ学ぶことになるけど、すぐでなくてもいいと思う。 三つ目は遺伝と進化と継承、つまりきみのいう血統について——」

 

「それだ。」

 

人影がうなづく。 「そう言うだろうと思っていた。 けれどこれはきみにとって一番つらい道かもしれないよ。 きみの家族、友人たち、純血主義者たちが言っているのと反対のことを実験が示している、とわかったらどうする?」

 

「そのときは、実験に()()()()こたえを出させる方法をみつけてみせる!」

 

会話がとぎれ、人影はその場でとまって、口をあけたまましばらく立っていた。

 

「あの……そういう仕組みじゃないんだよ。 まさにそのことをぼくは警告しようとしていたんだ。 自分の好きなようにこたえを出させる、なんてことはできないんだ。」

 

「好きなこたえを出させることはいつでもできるさ。」  家庭教師は一番はじめに、これをおなじことをドラコにおしえてくれた。 「適切な説得方法をみつければいいだけだ。」

 

「ちがう。」と言って、人影がいらだちから声をあげる。「ちがう、ちがうんだ! そんなことをしたら()()()()()()()を得てしまう。それじゃ月にはいけないよ! 〈自然〉は人間じゃない。〈自然〉をだましてほかのことを信じさせることはできない。月はチーズでできているって月に言いきかせようとして何日かけても、月は変わらないよ! きみが言ったのは()()()だ。たとえば紙一枚からはじめて、いきなり一行目から一番下の結論まで飛んで、インクで『()()()()()月はチーズでできている』と書いて、それからもどってあの手この手の小手先の論法を書いていくようなものだ。 でも月はチーズでできているか、いないかのどちらかだ。 一番下の結論を書いた瞬間に、それが真であるか偽であるかはきまっている。 その紙全体の結論がただしいかまちがっているかは、きみがそこを書いた時点で固定されるんだ。 二個の高級トランクのどちらかをえらぼうとしていて、きみはぴかぴかのほうが好きだったとしたら、それを買うことを支持するどんな論理をもってきても関係ない。きみが()()()()()()()()()をえらぶために使った()()()()()ルールは『ぴかぴかのほうをえらべ』なんだ。そしてそのルールがいいトランクをえらぶルールだったかどうかに関係なく、きみはぴかぴかのほうをとってしまう。 理性は固定されたがわを支持するために使ってはならない。理性を使うのは()()()()()()()()()()()()()()()()ときだけだ。 科学はだれかに純血主義はただしいと()()するためのものじゃない。 それは()()だよ! 科学のちからは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()にある! 科学が教えてくれることはただ、()()()()()()()()()()()()()()()()、魔法族が両親からほんとうはどうやって能力を継承するのか、マグル生まれは実は純血より弱いのか強いのか——」

 

()()だって!」 ドラコは困惑した表情をしながらこの話についていこうとしていた。多少は理屈にあっていたりもするが、いままでまったくきいたことのないたぐいの話だ。 そしてハリー・ポッターはききずてならない発言をした。 「泥血のほうが強い、なんて思ってたのか?」

 

「ぼくはなにも思っていない。 ぼくはなにも知らない。 ぼくはなにも信じていない。 ぼくの結論はまだ書かれていない。 マグル生まれの魔法族の魔法力、純血の魔法力の強さをテストする方法はこれからみつけよう。 そのテストでマグル生まれのほうが弱いと示されたら、ぼくはそう信じる。 そのテストでマグル生まれのほうが強いと示されたら、ぼくはそう信じる。 いろいろな真理を知ることで、ぼくはある種のちからを——」

 

「それで、()()()きみの言うことを信じろと言うのか?」とドラコはかっとなって問いつめた。

 

「きみ()()がテストをするんだ。」と人影がしずかに言う。「そしたらなにがみつかるかが、こわいのか?」

 

ドラコはきつい目をして、人影をしばらく見つめた。 「いまのはいい罠だな。おぼえておこう。はじめてみたよ。」

 

人影がくびをふる。 「いまのは罠じゃないよ。 だって——なにがみつかるかを、ぼくは()()()()んだから。 でも宇宙と議論したり、宇宙に別のこたえをもってこいと命令しても、宇宙を理解できることにはならない。 科学者の衣装をまとったら、政治や説得や派閥や陣営のことは忘れなきゃならない。自分自身のこころが必死にまとわりついてくるのをだまらせて、〈自然〉のこたえだけをきこうとするんだ。」 人影はそこでいったんとまった。 「ほとんどの人はこれができない。 だからむずかしいと言ったんだ。 やっぱり、脳のことだけを勉強するほうがいいんじゃない?」

 

「もしそうだと言ったら……」とドラコは声をかたくする。「きみはぼくが事実を知るのをこわがっていたと言いふらすんじゃないのか。」

 

「いや、そんなことはしない。」

 

「でもきみはおなじ種類のテストを自分でやるかもしれない。そしたら、まちがったこたえがでたとき、きみがそれをだれかに見せにいくまえに、ぼくもそこにいることができない。」  ドラコはやはり納得していない声で言った。

 

「そのときも、まずきみにききにいくよ。」と人影はしずかに言った。

 

ドラコは沈黙した。 これは予想外だ。てっきり罠だと思っていたが…… 「ぼくに?」

 

「もちろん。 そうしないと、ぼくはだれを脅迫すればいいのか、なにを要求すればいいのか、わからないだろ? もう一度言う。これはぼくがきみにしかけた罠なんかじゃない。 すくなくともきみ個人にじゃない。 もしきみが逆の方向の主張をしていたら、ぼくは純血のほうが強かったらどうする、ときいていたはずだ。」

 

「そうなのか。」

 

()()()()! これこそ科学者になるとき()()()()しはらう対価なんだ!」

 

ドラコは片手をあげた。 考える必要がある。

 

影の、緑色にてらされた人物は待った。

 

といっても考えるのに長くはかからなかった。 理解しにくい部分をすべて無視すれば……ハリー・ポッターは巨大な政治的爆発をひきおこしうるなにかに手をだそうとしている。ここで手をひいて、彼一人でそれをやらせてしまうというのは狂気だ。 「血統の研究でいこう。」

 

()()()()()。」と言って人影が笑みをうかべた。「この問いに取りくもうというきみの意思を賞賛したい。」

 

「ありがとう。」と言いながらドラコは皮肉をうまく声から追いだすことができなかった。

 

「あれ? 月にいくのは簡単だとでも思ってたの? ときどき自分の考えを変えるだけですむんだよ。人間の生けにえとかじゃなくて!」

 

「人間を生けにえにするほうが()()()()簡単だ!」

 

すこしだけ間をおいてから、人影がうなづいた。「たしかに。」

 

「考えてみてほしいんだが。」と言いながらドラコはあまり希望をもてなかった。「ぼくはてっきり、マグルが知っていることをすべて手にいれて、それを魔法族が知っていることと組みあわせて、両方の世界の支配者になるっていう話だと思っていたんだ。 もっとずっと簡単にできないか。月のあれや、マグルが()()()発見したことすべてを調べて、()()ちからを使って——」

 

()()()。」と言って人影がきっぱりとくびをふって、鼻と目のまわりの緑色の影をゆらした。その声はとても暗くなった。 「現実をうけいれるという科学者の技法をまなぶことができないのなら、うけいれることでなにが発見できるかをぼくがきみに伝えることは()()()()()。 ちょうど、低級な災厄をきりぬけることで知性と自制を証明してからでなければあけてはならない門のことや、やぶってはならない封印のことを強い魔法使いが言うのとおなじように。」

 

ドラコの背すじを寒けがはしり、思わず身ぶるいした。 この暗がりでも見られたことだろう。 「わかった。しかたない。」  こういうことは父上から何度もきかされている。 自分より強い魔法使いから、おまえはまだきく準備ができていない、と言われたとき、死にたくなければそれ以上詮索すべきではない。

 

人影が軽くうなづいた。 「それでいい。でももうひとつ理解してもらいたいことがある。 初期の科学者はマグルだったから、きみたちのような伝統がなかった。 はじめのころは危険な知識という概念が理解できずに、なんでも自由に話すべきだと思ってしまった。 研究が危険な方向にむかったとき、彼らは秘密にすべきだったことを政治家たちに話してしまった——そういう目をしないでよ、彼らは単にバカだったわけじゃない。 そもそもその秘密を発見する程度にはかしこかったんだ。 でも彼らはマグルだから()()()()()危険なものを発見したのはそれがはじめてだったし、秘密にする伝統が()()()()あったわけじゃなかった。 そのときは戦争の最中で、いっぽうの科学者たちは、もし自分たちが話さなければ、()()国の科学者たちが()()()()政治家たちに話すだろうと恐れた……」 その声が一段、小さくなった。「世界を破壊することにはならなかった。でもきわどかった。 ()()()()()その失敗をくりかえさない。」

 

「そうだな。」とドラコがとてもしっかりした声で言う。「()()()()()()だいじょうぶだ。 ぼくたちは魔法族で、科学をまなんでもマグルにはならない。」

 

「きみの言うとおり……」と緑色に照らされた人影が言う。「ぼくたちは()()()()()〈科学〉、魔法の〈科学〉を立ちあげる。その〈科学〉は最初から賢明な伝統をもつ。」 その声がかたくなった。 「きみに知識をわたすとき、真理をうけいれるための自制心も同時に教える。その自制心をまなぶ進捗によって、教える知識の水準を調整する。そしてきみはその知識を、おなじ自制心をまなんでいない人にはけっしてわたさない。 きみはこれをうけいれるか?」

 

「うけいれる。」とドラコ。 ノーと言うとでも?

 

「よし。 そしてきみが自分で発見したことは、ほかの科学者が知る準備をできていると思えるまでは、自分のなかだけにとどめておくこと。 ぼくたちのあいだで共有する内容は、世界が知っても安全だとぼくたちが合意するまでは世界に知らせないこと。 そして、危険な魔法や危険な武器の秘密をもらす仲間がいれば、政治的かけひきや同盟相手とは無関係に、どんな戦争の最中だろうと、ぼくたちは()()()その人を処罰する。 今日からは、これが魔法族のあいだでの科学の法律だ。 同意できるか?」

 

「同意する。」 なかなか魅力的な話になってきた気がする。 〈死食い人〉はほかのだれよりもおそろしくなることで権力をえようとしたが、まだそこまでは到達していない。 そろそろ秘密をつかって支配することをためすのもいいかもしれない。 「それに、このグループはできるかぎり長く秘密のままにする。内部にはいりたい人は、かならずぼくたちのルールに同意する。」

 

「もちろん、そうする。」

 

非常にみじかい沈黙があった。

 

「もっといいローブも必要だね。」と人影が言う。「フードとかがついているような——」

 

「ぼくも()()()()そう思ってた。」とドラコ。「でもローブまるごと変えるんじゃなくて、頭巾がついたマントを羽織ればそれでいい。 スリザリンにいる友だちに、採寸をたのんで——」

 

「その子には()()()()()かは言わないでね——」

 

「それくらいわかっている!」

 

「仮面もなし、いまのところは。きみとぼくしかいないんだから——」

 

「たしかに! でもあとで、手下全員につけさせるなにか特別な紋章をつくったほうがいい。〈科学の紋章〉だな。たとえば、月をたべているヘビの模様を右腕につけさせるとか——」

 

「博士号と呼ばれてるものがある。 それにそんなことをしたら、正体を調べられやすくなるんじゃない?」

 

「へ?」

 

「つまり、ぼくたちの仲間がつかまって『よし、全員ローブをまくって右腕をだせ』と言われたりしたら、『弱ったな、おれスパイだったわ』とか言って間抜けなことになる——」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()。」と言うと、ドラコの全身から急に汗がふきだした。 話をそらす必要がある。いますぐ——「それで名前は何にする? 〈科学食い人〉?」

 

「いや……」と人影がゆっくりと言う。「それは語呂がよくない……」

 

ドラコはローブをまとった腕でひたいをぬぐい、粒になった汗をぬぐいとった。 〈闇の王〉はいったいなにを考えていたんだ? 〈闇の王〉は()()()()と父上は言ってたのに!

 

「思いついた!」と人影が突然言う。「きみは多分まだ理解できないだろうけど、信じてほしい。ぴったりなんだ。」

 

いまならドラコは、話題をかえることができさえすれば、『マルフォイ食い』でも受けいれただろう。 「それは何だ?」

 

ホグウォーツの地下洞の空き教室で、ほこりをかぶった机と机のあいだに立ちながら、緑色に照らされたハリー・ポッターの人影が両手をドラマティックにひろげてこう言った。「今日をもってここに……〈ベイジアン陰謀団〉を結成する。」

 

◆ ◆ ◆

 

無言の人影が一人、疲れたようすでホグウォーツの広間をぬけてレイヴンクローの方向に歩いていく。

 

ハリーはドラコとの会合のあと夕食に直行し、あわてて数回食べ物を口にほおばって飲みこむと、ベッドにむかったのだった。

 

まだ午後七時にもなっていないが、ハリーにとってはとうに就寝時間をすぎていた。 昨夜、ハリーは土曜日には読書試合が終わるまえに〈逆転時計〉をつかうことができないのに気づいた。 だが()()()の夜ならまだつかうことができ、それで時間をかせぐことができる。 そのため、ハリーは金曜日に保護ケースがひらく午後九時まで無理して起きていて、〈逆転時計〉にのこっていた四時間をまきもどして午後五時にいき、爆睡した。 そして予定どおり土曜日の午前二時に起きて、それから十二時間ぶっとおしで読書した……がそれでもたりなかった。 そしてこれから数日、睡眠周期がおいつくまでは、ハリーはかなりはやい時間に眠りにつくことになる。

 

ドアの肖像画が十一歳むけのくだらない謎かけをして、ハリーはそのこたえを意識上にのぼらせることすらせずに回答した。そして階段をかけのぼって自分のドミトリーにはいり、パジャマに着がえてベッドにたおれこんだ。

 

そして枕に妙なでっぱりがあるのに気づいた。

 

ハリーはうめいた。 しぶしぶとベッドのなかで体をひねっておこし、枕をもちあげた。

 

そこにはメモと、ガリオン金貨二枚と、『閉心術——秘密の技法』という本があった。

 

ハリーはそのメモを手にとり、読んだ:

 

面倒を起こすのが早いのにもほどがある。 きみのお父さんも顔まけだぞ。

 

きみは強力な敵をつくってしまった。 スネイプは全スリザリン寮から忠誠と人望と恐怖を確保している。 親しげなふりをされてもおそろしげなふりをされても、もうあの寮からくるだれも信用してはならない。

 

これからはスネイプと目をあわせてはならない。 彼は〈開心術師〉だから、あわせればきみはこころを読まれる。 自衛のため役だつ本をここに同封してあるが、教師なしでできることはたかが知れている。 それでも侵入されたことを見ぬける程度は目ざしたほうがいい。

 

きみが〈閉心術〉をまなぶ時間がとれるよう、二ガリオンを同封しておく。これは一年次の〈魔法史学〉の宿題の模範回答の価格だ(ビンズ先生は死んでから毎年おなじ試験とおなじ宿題を課している)。 きみのあたらしい友人であるウィーズリー兄弟の双子が一組売ってくれるはずだ。 言うまでもないが、それを持っているのがバレないよう、注意しなさい。

 

クィレル先生についてはわたしはほとんど知らない。スリザリンの出で〈防衛術〉を教えている。この二点だけでも要注意だ。 彼からアドヴァイスをもらったときは慎重にその意味を考えること。他人に知られて困るような秘密はいっさい彼に教えてはならない。

 

ダンブルドアは狂人のふりをしているだけだ。 彼は非常にあたまがいい。きみがクローゼットにはいって消えることをくりかえしたりしたら、まちがいなく不可視のマントをもっていると推理される(まだ知られていなければだが)。 できるかぎりつねに接近を回避し、回避できないときは〈不可視のマント〉を安全な場所(ポーチはだめだ)に隠し、彼がいる場では用心して行動しろ。

 

今後はもっと慎重になれ、ハリー・ポッター。

 

——サンタクロースより

 

ハリーはそのメモを見つめた。

 

たしかにいいアドヴァイスのようにみえる。 もちろんハリーは、たとえ死んだサルを教師にされようが、〈魔法史学〉の授業でずるをするつもりはない。 でもセヴルスの〈開心術〉の話は……このメモを送ってきたのがだれであれ、その人は重要な秘密をたくさん知っていて、教えてくれるつもりがあるようだ。 このメモはいまだにダンブルドアに〈マント〉を盗まれないようにと警告しているが、ハリーは正直に言ってそれが悪い兆候なのか、理解できる範囲のミスにすぎないのかわからなかった。

 

ホグウォーツのなかではなにかおもしろいことが起こっているらしい。 もしハリーが、ダンブルドアとメモの送り主の()()()()して、()()してやれば、状況がより正確に把握できるのでは? たとえばもし()()()()()なにかについて一致していたら、それは……

 

……なんでもいいか……

 

ハリーはすべてをポーチにつめて、〈音消器〉を有効にし、ベッドカヴァーをあたまからかぶって眠りに落ちた。

 

◆ ◆ ◆

 

日曜日、ハリーは大広間でパンケーキを食べていた。すばやくかぶりつくことをくりかえしながら、数秒ごとに神経質に腕時計に目をやっていた。

 

午前八時二分。あと二時間一分で、九と四分の三乗り場でウィーズリー家を見てから()()()()()()()がたつ。

 

そしてこういう考えにハリーは思いあたった……。宇宙のことをこういうふうに考えるのが正当かどうかはわからない。もうなにもわからない。だけど()()()……

 

……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()気がする。

 

朝食をたべおわると、ハリーは自室にまっすぐいって、トランクの最下層に隠れ、十時三分になるまでだれとも話さないことにしようと思っていた。

 

ちょうどそのとき、ウィーズリー兄弟のふたりがハリーのほうにあるいてくるのが見えた。 一人はなにかを背中に隠しもっている。

 

悲鳴をあげて逃げたほうがいい。

 

悲鳴をあげて逃げたほうがいい。

 

これがなんであれ……もしかすると……

 

……最後の見せ場であってもおかしくない……

 

ほんとうに、悲鳴をあげて逃げたほうがいい。

 

()()()宇宙は自分をつかまえにくるんだというあきらめの気持ちで、ハリーはパンケーキをフォークとナイフで切りつづけた。 気力がでてこない。 それが悲しい真実だった。 逃げるのに疲れ、運命からのがれようとするのに疲れ、地面にたおれて、おそろしげな牙と触手のある魔神が漆黒の深淵からやってきて、言語に絶する運命へと自分をひきずりむのにまかせるのは、こういう気持ちなのだろう。

 

ウィーズリー兄弟が近づいてくる。

 

さらに近づいてくる。

 

ハリーはパンケーキをもう一口食べた。

 

ウィーズリー兄弟がにこやかに笑って到着した。

 

「おはようフレッド。」とハリーがぼんやりと言う。 双子のうちのひとりがうなづく。 「おはようジョージ。」 もうひとりがうなづく。

 

「疲れた声だな。」とジョージ。

 

「元気だせよ。」とフレッド。

 

「ほら、()()でどうだ!」

 

そしてジョージがフレッドの背中から——

 

十二本の火がついたろうそくつきのケーキをとりだした。

 

会話がとぎれ、レイヴンクローのテーブルの一同がそちらを見つめた。

 

「それは変だよ。」とだれかが言う。「ハリー・ポッターは七月三十一日に生まれ——」

 

彼がやってくる」とうつろで大きな声が、あらゆる会話を氷の剣のように切りわけて届いた。 「彼が引きさくのは——」

 

ダンブルドアは玉座から飛びでて〈主テーブル〉をまたいで、おそろしげなことばを発したその女性をわしづかみにした。フォークスが閃光とともにあらわれ、二人をつれて、火花をのこして消えた。

 

全員がショックをうけてしばらく沈黙し……

 

……何人かがハリー・ポッターの方向に視線をむけた。

 

「ぼくはやってない。」とハリーは疲れた声で言った。

 

「いまのは()()だ!」とだれかが声をひそめて言う。「そして()()()()()を言っていたにきまっている!」

 

ハリーはためいきをついた。

 

そして席から立ちあがり、周囲にきこえはじめた会話をのりこえられるよう、声をおおきくしてこう言った。「()()()()()()()()()()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーはまた腰をおろした。

 

彼のほうを見ていた人たちが、視線を離した。

 

テーブルのだれかが「じゃあだれのことなんだ?」と言った。

 

ぼんやりとした、鈍い感覚ととともにハリーは、ホグウォーツにだれがまだ()()()のか、気づいた。

 

当てずっぽうと言われてもしかたないが、死んでいなかった〈闇の王〉が、ちかいうちにやってくるのではないかという気がする。

 

周囲の会話はつづいた。

 

「そもそも、引きさくって、()()()?」

 

「総長につかまる直前にトレロウニーが言いかけたのは、『S』ではじまるなにかだったような。」

 

「たとえば……たましい(soul)太陽(Sun)?」

 

「だれかが太陽を引きさくんだとしたら、()()()大変なことになるよ!」

 

そんなことはなかなかありそうにない、とハリーは思った。採星(スターリフティング)というデイヴィッド・クリスウェルのアイデアに影響されたおそろしいなにかがこの世界にふくまれていなければだが。

 

「それで……」とハリーは疲れた口調で言う。「日曜日の朝食は毎週こういうことが起きるんだよね?」

 

「いや。起きない。」と言って、七年生かもしれない生徒が顔をしかめた。

 

ハリーは肩をすくめた。 「まあいいや。だれか誕生日ケーキほしい?」

 

「でも今日はきみの誕生日じゃないだろ!」とさっき抗議したのとおなじ生徒が言った。

 

もちろん、これを合図にしてフレッドとジョージが笑いだした。

 

ハリーも疲れた笑みをうかべることができた。

 

最初の一切れをわたされて、ハリーはこう言った。「()()()()長い一週間だったからね。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはトランクをぴっちりと閉じてだれもはいれないようにして、地下一層目にはいって座りこみ、毛布をあたまからかぶり、この週が終わるのを待った。

 

十時一分。

 

十時二分。

 

十時三分。でも念をいれて……

 

十時四分。これで第一週が終わった。

 

ハリーは安堵のためいきをつき、おそるおそる毛布をあたまからはがした。

 

そしてしばらくして、あかるく太陽に照らされた共同寝室(ドミトリー)に出た。

 

そしてまもなく、レイヴンクロー談話室についた。 数人が目をむけてきたが、だれもなにも言わず、話しかけてこようともしない。

 

ハリーはちょうどいい書きもの机をみつけ、快適な椅子を引いてそこに座った。 そしてポーチから一枚の紙と鉛筆をとりだす。

 

ママとパパからハリーは、このうえなく明確に、自分の家をでて両親から離れることにうかれるのはわかるけれども()()()()()()手紙を書くように、と命じられていた。彼が生きていて、無傷で、投獄されていないことがわかるように、と。

 

ハリーはその白い紙を見つめた。 さて……

 

駅で両親とわかれてからのできごとといえば……

 

……ダース・ヴェイダーにそだてられた少年と知りあいになって、ホグウォーツでもっとも悪評たかい三人のいたずら者となかよくなって、ハーマイオニーに会って、〈組わけ帽子事件〉があって…… 月曜日は、睡眠障害に対処するためにタイムマシンをもらって、どこかの親切な人から伝説の不可視のマントをもらって、指を折るとおどしてきたこわい年上の少年五人をにらみたおしてハッフルパフ生七人を救って、自分に謎の暗黒面(ダークサイド)があることに気づいて、〈操作魔法術(チャームズ)〉の授業で『フリジデイロ』のかけかたを学んで、ハーマイオニーとの競争をはじめて…… 火曜日の〈天文学〉のオーロラ・シニストラ先生はいい先生で、〈魔法史学〉を教えている幽霊は成仏させてテープレコーダーを身がわりにすればよくて…… 水曜日は、〈一番危険な生徒〉だと宣告されて…… 木曜日は……いや木曜日のことを考えるのはやめよう…… 金曜日は〈薬学授業の事件〉があって、そのあと総長を脅迫して、そのあと〈防衛術〉教授にいじめをしかけられて、そのあと〈防衛術〉教授がこの地上にいる人類のうちで最高の人だとわかって…… 土曜日は、賭けに負けてはじめてのデートに行って、ドラコを改心させはじめて…… それから今朝は、トレロウニーの不可解な予言があった。ホグウォーツが不死の〈闇の王〉におそわれるという意味にとれるような、とれないような予言だった。

 

材料をあたまのなかで整理すると、ハリーは書きはじめた。

 

ママとパパへ

 

ホグウォーツはとってもたのしいです。 チャームズの授業では熱力学の第二法則をやぶる方法を教わりました。 ハーマイオニー・グレンジャーという、ぼくよりも本を読むのが速い子に会いました。

 

書くのはそこまでにしておきます。

 

愛する息子、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスより

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 





今回の非ハリポタ用語:「ベイジアン (Bayesian)」
ここでは、イエス・ノーではなく確率による意思決定(確率的な証拠・確率的な推論)をする立場、そのための数学の分野を指す。多分。18世紀の数学者、ベイズ (Bayes) の名前が形容詞になったもの。


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「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスと教授のゲーム」編
22章「科学的方法」



〔訳注:ここまでのおはなし〕

ペチュニア・エヴァンズはオクスフォード大学生化学教授マイケル・ヴェレスと結婚した。

ハリー=ジェイムズ=ポッター・エヴァンズ・ヴェレスは天井まで本で埋まった家で育った。 対数を知らない算数の教師に噛みついたことがある。 『ゲーデル・エッシャー・バッハ』と『不確実性下での判断(Judgment Under Uncertainty)——ヒューリスティクスとバイアス(Heuristics and Biases)』と『ファインマン物理学』の第一巻を読んだことがある。 周囲の全員に、次代の〈闇の王〉になると恐れられているらしいが、本人にそのつもりはない。 その程度のしつけはされている。 魔法の法則を解明し、神になりたいと思っている。

ハーマイオニー・グレンジャーはホウキのりを除く全科目で彼より成績がいい。

ドラコ・マルフォイはちょうど、息子を溺愛するダース・ヴェイダーに育てられたような十一歳の男の子である。

クィレル先生は〈闇の魔術に対する防衛術〉(本人は〈戦闘魔術〉と呼んでいる)の教師になるという昔からの夢をかなえた。 生徒たちは、今回の〈防衛術教授〉にはなにが起きるのだろうかと思っている。

ダンブルドアは狂っているのか、ニワトリに火をつけることを含む深遠な権謀術数をしているのか不明。

副総長ミネルヴァ・マクゴナガルは一人になれる場所にかけこんで、しばらく叫びたい。



◆ ◆ ◆

 

レイヴンクローのドミトリーを出てすぐの場所にある、小さな自習室。 ホグウォーツにある無数の使用されていない部屋のひとつである。 床は灰色の石、壁は赤い煉瓦、天井は黒塗りの木材でできており、四方の壁に光るガラスの球体が一つずつはまっている。 円形のテーブルは、太い黒大理石の柱に厚切りにした巨大な黒大理石をのせたもののようにみえたが、実際にはとても(質量も重量も)軽く、必要に応じて持ちあげて動かすのはむずかしくなかった。 座りごこちのいいクッションのついた椅子二脚は一見、不便な位置で床に固定されているようにみえる。しかし、だれかが座りかけるような姿勢でかがむと、すぐにそこにかけこんできてくれるのだということを二人はようやく発見した。

 

部屋のなかではコウモリも何匹か飛びまわっているようだ。

 

これこそ、いつの日か——()()()このプロジェクトが意味のある結果にむすびついたとして——二人の若いホグウォーツ一年生によって魔法の科学的研究の第一歩が踏みだされた場所として、未来の歴史書に記録されているであろう場所だ。

 

理論家、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス。

 

被験者、ハーマイオニー・グレンジャー。

 

ハリーの成績はこの時点で、すくなくとも自分がおもしろいと判断した授業では、よくなっていた。 本も十一歳むけではないものをいろいろ読んだ。 毎日余分につかえる一時間で〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の練習を何度もくりかえし、もう一時間で〈閉心術〉の練習もした。 意味のある授業は真剣にとりくんだし、毎日宿題を提出するだけでなく、必要とされる以上の勉強をして自由時間をすごし、教科書として指定されていない本も読み、試験問題の解答をおぼえるだけでなくその科目をマスターしようとし、一番になろうとした。 レイヴンクロー生でもなければこんなことはしない。 レイヴンクロー寮のなかでさえ、競争相手となるのは、パドマ・パティル(両親が非英語圏からきているため、ちゃんと勤勉になるよう育てられている)と、アンソニー・ゴルドスタイン(ノーベル賞受賞者の四分の一をしめる、とある小さな民族集団の出身である)、そしてもちろん、子犬たちのはるか頭上を巨大な歩幅で闊歩する巨人、ハーマイオニー・グレンジャーだけだった。

 

今回の実験にあたって、被験者はあたらしい呪文を十六個、独力で、まちがいの訂正もうけずに学ばなければならない。つまり被験者はハーマイオニーということになる。それしかない。

 

といったところで、部屋のなかをとびかうコウモリが()()()()()()ことにも触れておきたい。

 

ハリーはこのことの意味をなかなかうけいれられないでいた。

 

「ウーゲリ・ブーゲリ!」ともう一度、ハーマイオニーが言った。

 

こんども、ハーマイオニーの杖のさきからいきなり、状態遷移なしにコウモリが一羽あらわれた。 一瞬まえには、ただの空気。 一瞬あとには、コウモリ。 その羽は出現の瞬間にはすでにうごいていたようだった。

 

それでも()()()()()()()

 

「もうやめていい?」とハーマイオニー。

 

「もしかすると……」と言ってハリーはのどになにかをつかえさせる。「もうすこしだけ練習すれば光らせられたりしない?」 ハリーは自分が事前に書きだしておいた実験手つづきに違反しようとしているが、それは罪だ。 いまえられつつある結果が気にいらないから実験手つづきに違反しようとしているが、それは()()()()罪だ。これで〈科学の地獄〉に落とされるかもしれないが、もはやそうなってもどうでもいいような気がする。

 

「いまのはなにを変えたの?」と、すこし疲れた声でハーマイオニーが言った。

 

「ウとエとイの母音のながさ。 三対一対一じゃなく三対二対二のはずなんだ。」

 

「ウーゲリ・ブーゲリ!」とハーマイオニー。

 

羽が一枚しかないコウモリが具現化し、あわれに回転して床に落ち、灰色の石のうえで円をえがいて、ばたついた。

 

「それで、ほんとはなに?」とハーマイオニー。

 

「三対二対一。」

 

「ウーゲリ・ブーゲリ!」

 

こんどはまったく羽のないコウモリが、死んだネズミのようにぽとんと落ちた。

 

「三対一対二。」

 

するとなんと、コウモリが具現化し天井にむけてすぐにとびたった。健康で緑色に光るコウモリが。

 

ハーマイオニーは満足げにうなづいた。「はい、じゃあつぎは?」

 

長い沈黙があった。

 

()()()? 『ウーゲリー・ブーゲリー』のウとエとイを三対一対二の長さにしないと光るコウモリにならないの? ()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「なっちゃいけない理由がある?」

 

アアアアあ゙あ゙あ゙!」

 

ドス。ドス。ドス。

 

ここにくるまえにハリーは魔法の本質についてしばらく考え、魔法族が魔法について信じていることの事実上すべてがまちがいだという仮定にもとづいて一連の実験を設計しておいた。

 

『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』をちょうどそのとおりに言わないとものを浮遊させられない、なんてありえないだろ? だって、『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』だぞ? 宇宙はだれかが『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』をただしく言ったかどうかをチェックしていて、そうでないときは羽ペンを浮かばせてくれないとでも?

 

いや、真剣に考えてみればもちろんそんなはずはない。 だれかが、もしかするとほんものの幼稚園児が、そうでなくても英語圏の魔法使いのだれかが、『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』というのがぱたぱたしてふわふわしてる感じがすると思って、この呪文をはじめて使ったときにそう言ったんだ。 そしてみんなにそのことばが必要だと教えたんだ。

 

だが(ハリーの推論では)そう()()()()()()()()()はずはない。宇宙にそれが組みこまれているわけではない。それは()()()組みこまれているのだ。

 

科学者のあいだに伝わる古い教訓として、ブロンロのN線の逸話がある。

 

X線が発見されてすぐに、フランスの有名な物理学者——電波の伝搬速度をはじめて測定しそれが光とおなじ速度だと示した業績のある——プロスペール゠ルネ・ブロンロが、驚異的な新現象、N線の発見を発表した。N線はかすかにスクリーンを光らせるもので、よく見ないと見えないが、たしかにそこにある。 N線には興味ぶかい性質がさまざまある。 アルミニウムで曲げられ、アルミニウムのプリズムで収束させて硫化カドミウムと反応させた糸にあてると闇のなかでかすかに光る、云々……

 

ブロンロの結果はすぐに何人もの科学者によって、とりわけフランス国内で確認された。

 

だが、かすかに光っているようには見えないという科学者たちも、イングランドとドイツにいた。

 

ブロンロは彼らは装置の作りかたをまちがったのだろうと言った。

 

ある日ブロンロはN線の公開実験をおこなった。 照明はおとされ、ブロンロが操作をすすめるのと同時に、明るくなったこと、暗くなったことを助手が確認し、そう言った。

 

公開実験は通常どおりにすすみ、結果は期待どおりになった。

 

ロバート・ウッドというアメリカの科学者がこっそり、ブロンロの装置の中央にあったアルミニウムのプリズムを盗みとっていたにもかかわらず。

 

N線の命運はそこでつきた。

 

フィリップ・K・ディックはこう言った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ブロンロのあやまちは、あとから考えればあきらかだった。 彼は自分がなにをしているかを助手につたえるべきではなかった。 スクリーンの明るさを表現させるまえに、自分がなにを試しているのか、いつ試したのかを助手が()()()()ようにすべきだった。 それだけでよかったはずだ。

 

こんにちではこれは『盲検』と呼ばれていて、現代の科学者ならやってあたりまえのことである。 たとえば心理学の実験で、緑の警棒でたたかれたときより赤い警棒でたたかれたときのほうが人は怒りやすいのかどうかを調べるなら、被験者を見て『怒っている』かどうかを自分で判断してはいけない。 警棒でたたかれたあとの様子を写真撮影して、その写真を評価者の組におくって、どれくらい怒っているように見えるかを一から十の評点で、もちろん()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、評価してもらうのだ。 というより、評価者には実験の目的をつたえる必要すらない。 ()()()()()()()()赤い警棒でたたかれたときのほうが人は怒りやすいはずだ、などと実験の被験者に言っては()()()()いけない。 二十ポンドの報酬を約束して実験部屋に勧誘して、もちろん無作為に割りあてた色の警棒でたたき、写真をとるのだ。 いや、警棒と写真の仕事をする助手にも同じことが言える。助手がなにかを期待しているようなそぶりをしたり、強くたたいたり、適切なタイミングで写真をとったりすることのないよう、助手にも仮説の中身を知らせないでおくべきだ。

 

ブロンロの名声を失墜させたこのあやまちと同じようなことを、実験設計の授業で学部一年生がやってしまえば、ティーチングアシスタントに嘲笑され不合格にされるのがオチだ……一九九一年の時点では。

 

でもこれはもうすこし昔の、一九〇四年の話だったから、わかりきった代替仮説をロバート・ウッドが考案してその検証方法を整理するまでに何カ月もかかり、それまでに何十人もの科学者がだまされてしまっていた。

 

科学がはじまってから二百年以上たっていたというのに、である。 科学の歴史がそれほどすすんでからでも、まだ当然視されていなかったのだ。

 

だから、この小さな、科学がほとんど知られていない魔法世界では、現代の科学者にとってはもっともわかりきった、もっとも単純な検証を、まだだれひとりやっていない、という可能性は()()()()()()()

 

本には、呪文をかけるために()()()()()たどらなくてはならない複雑な手順のことがたくさん書かれている。 そしてハリーがたてた仮説では、こういった指示にしたがう過程、ただしくしたがっているかをチェックする過程が、おそらくなんらかの役目をはたしている。 そのひとを()()()()()()()()効果がある。 杖をふってなにかを願うというだけではおそらくそれほどうまくいかない。 そしてひとたびその呪文があるやりかたで発動するものだと信じて、そのやりかたで練習をすると、()()()やりかたでも発動するのだとは思いこめなくなる……

 

……単純であると同時にまちがった方法、つまり、()()()()()ほかの手順をテストしようとすれば、そうなる。

 

でも、本来どうやって使う呪文なのかを()()()()()()やるなら?

 

ホグウォーツ図書館にある悪ふざけの呪文の本から、ハーマイオニーがまだ勉強していない一連の呪文をとってきて彼女に教えてやれば、そしてその一部についてはただしい本来の手順を教えて、ほかの呪文についてはひとつ動作をかえたり、単語をかえたりしてやればどうなる? 手順はすべてもとのとおりに教えて、そのかわり、赤いイモムシをつくるはずの呪文を、青いイモムシをつくる呪文だと言ってやったらどうなる?

 

それが実際やってみて、どうだったかというと……

 

……ハリーにはちょっと信じがたい結果なのだが……

 

……『ウーゲリー・ブーゲリー』を、ただしい母音のながさである三対一対二ではなく三対一対一で言うようにハーマイオニーに教えると、コウモリはできるが、光りはしないのだった。

 

なにを信じるかが()()()というわけではない。 詠唱と杖さばき()()()重要というわけでもない。

 

呪文の本来の効果について完全にまちがった情報をハーマイオニーにあたえると、呪文は機能しなくなる。

 

呪文の本来の効果がなんであるかをまったく教えないと、呪文は機能しなくなる。

 

呪文の本来の効果をとても曖昧な表現で知らせておくか、部分的にだけまちがった理解をさせておくと、本に書かれた本来の効果がでる。彼女が教えられた効果ではなく。

 

ハリーは、この時点で、煉瓦の壁にあたまを文字どおり打ちつけていた。 強くではない。 貴重な頭脳に損傷をあたえたくはないからだ。 だが、いらだちをどこかに噴出させておかないと、自然発火しそうだった。

 

ドス。ドス。ドス。

 

どうやら宇宙はほんとうに『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』を言わせたいようだ。 しかもそれは特定の言いかたでなければならず、その人がどういう発音をただしいと考えていようが、宇宙は気にしないようだ。その人が重力をどう思っていようが気にしないのとおなじように。

 

なんでこうなる??????

 

なかでも最悪なのは、得意げで愉快そうなハーマイオニーの表情だった。

 

ハーマイオニーは、ただそこに座って、理由を知らされずにハリーの指示に従順にしたがうのをよしとしなかった。

 

だからハリーは、これがなんの検証実験であるかを説明した。

 

なぜそれを検証しようとしているのかも説明した。

 

これまでおなじことをやろうとした魔法使いがおそらくいないのはなぜかも説明した。

 

自分の予測にはかなり自信がある、とも説明した。

 

というのも、宇宙が『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』を言わせたがっているなんて()()()()()からだ。そうハリーは言った。

 

ハーマイオニーはそこで、自分が読んだ本によるとそれはおかしい、と指摘した。 ほんとうに十一歳のハリーが、ホグウォーツで教育をうけはじめて一カ月ちょっとで、自分とちがう意見の全世界の魔法使いよりかしこいつもりなのか、と。

 

ハリーははっきりとこう言った。

 

「もちろん。」

 

いま、ハリーは目のまえの赤い煉瓦を見つめて、自分の長期記憶の形成を阻害してこのできごとを思いだせなくするような脳震盪(しんとう)をおこすにはどの程度強くあたまをぶつけなければいけないか考えている。 ハーマイオニーは笑っていない。が、ハリーは背後からおそろしい圧力で()()が放射されてくるのを皮膚で感じていた。連続殺人者に尾行される感覚とちょっと似ているが、()()()()()

 

「言えよ。」

 

「言わないでおこうと思ったんだけど。」とハーマイオニー・グレンジャーの親切そうな声が言う。「かわいそうだから。」

 

「とっととすませよう。」とハリー。

 

「じゃあそうする! あなたは、この問題は()()()()()ずっととりくまなきゃいけないかもしれない、基礎研究っていうのはそれだけ大変なことなんだ、って、あれだけ()()()()()()しておいて、こんどはわたしたち二人が、魔法の歴史上最大の発見を最初の一時間で達成できるみたいに言った。 そう願うだけじゃなくて、本気でそう期待してたでしょ。 ばかみたい。」

 

「ありがとう。じゃあ——」

 

「あなたにもらった本はぜんぶ読んだけど、これをなんて言うのかはまだ知らないな。 自信過剰? 計画錯誤? 超スーパー・レイク・ウォビゴン効果? あなたの名前になっちゃうかも。ハリー・バイアス。」

 

「もういい!」

 

「でもちょっとかわいいと思う。 男の子ってこうだよね。」

 

「くたばれ。」

 

「あら、なんてロマンティックなのかしら。」

 

ドス。ドス。ドス。

 

「それでつぎはなに?」とハーマイオニー。

 

ハリーは煉瓦にあたまをのせたままにした。 さっきまでぶつけていた、ひたいのあたりが痛む。 「つぎはない。 もどって別の実験をいくつか設計しないと。」

 

この一カ月をかけてハリーは慎重に事前準備をし、十二月までつづくはずの一連の実験計画をたてておいた。

 

立派な実験計画だった。もし、一番最初のテストで基本的な仮定が反証されるのでさえなければ。

 

ハリーは自分がこれほどバカだったことにあきれた。

 

「いや言いなおす。新しい実験を()()()設計しないと。 準備できたら知らせる。それをやったあとで、そのつぎの実験をもうひとつ設計する。 これでどうかな?」

 

「だれかさんが労力をずいぶんと無駄にしたみたいね。」

 

ドス。痛っ。予定よりもすこし強く打ってしまった。

 

「じゃ……」  ハーマイオニーはまた椅子にもたれて、得意げな表情をした。 「今日の発見をふりかえってみましょうか?」

 

「ぼくが発見したのは…」と言ってハリーは歯ぎしりをする。「真に基礎的な研究をするとき、しかもそれが純粋にむずかしい問題で、なにが起きているのかさっぱりわかっていない場合は、ぼくがもっている科学的方法論に関する本はどれもcrap(クソ)の役にも立たないということ——」

 

「ことばづかいに注意しなさい、ミスター・ポッター! ここには純真な少女もいるのよ!」

 

「はいはい。とにかく、あれがcarp(コイ)の役に立つような本だったら……ちなみにあの手の魚になんの恨みもないけど……こういう重要なアドヴァイスをしてくれていたはずだ: よくわからない問題があって、まだとりかかりはじめた段階で、反証可能性のある仮説ができたら、すぐ検証(テスト)すること。 基本的なチェックをするための単純で簡単な方法をみつけて、すぐにやること。 研究助成金を申請するときに審査機関によい印象をあたえようとして、洗練された実験計画を設計するのになやんだりしないこと。 膨大な労力をつぎこむまえに、自分のアイデアが反証されるかどうかをできるだけはやくチェックすること。 教訓はこのくらいでどうかな?」

 

「ふうん……いいんじゃない。でもわたしは、『ハーマイオニーの本は無価値じゃなかった。ぼくよりもはるかに魔法をよく知っている賢明な老魔法使いが書いた本だった。ぼくはもっとハーマイオニーの本の内容に注意をはらうべきだ』、みたいなのを期待してたんだけど。 これも教訓にいれていい?」

 

ハリーはあごを強く食いしばりすぎて、なにも話すことができなかったので、うなづくだけにした。

 

「ありがとう! この実験、気に入ったな。 いろいろ学べたし、わたしは一時間くらいしかとられなかったし。」

 

「ああああああ゙あ゙あ゙アア!」

 

◆ ◆ ◆

 

スリザリンの地下洞の……

 

不気味な緑色の光にてらされた空き教室。前回よりずっと明るい光が、一時的な魔法により小さな水晶球からはなたれているが、やはり不気味な光であり、ほこりをかぶったいくつもの机に奇妙な影をなげかけている。

 

少年のおおきさの人影がふたつ、灰色のマントをかぶって(仮面はなしで)、無言で入室し、おなじ机の両側の椅子に腰かけた。

 

〈ベイジアン陰謀団〉、第二回の会議である。

 

ドラコ・マルフォイは、自分がこれをたのしみにしているのかいないのかが分からなかった。

 

ハリー・ポッターは、表情から察するに、どういう雰囲気が適切なのかについて、なんら迷いがないようだ。

 

ハリー・ポッターはだれかを殺す気満々のようにみえる。

 

ドラコが口をひらこうとした瞬間、「ハーマイオニー・グレンジャーだ。」とハリー・ポッターが言った。「()()()()()。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とドラコは思ったが、それでは意味がわからない。

 

「ハリー、すまないけどこれはたしかめておきたいんだ。きみがあの泥血の女の子に、高級モークスキン・ポーチを誕生日プレゼントとして注文したという話がある。これはほんとうか?」

 

「ああ、そうだよ。もちろん、理由もバレてるんだろうね。」

 

ドラコはいらだち、あたまに手をやって、髪の毛をかきむしった。理由はまだわかっていないのだが、ここでそう言ってしまうわけにはいかない。 それに自分がハリー・ポッターに近づこうとしていることは、スリザリンに()()()()()()。そうだということは〈防衛術〉の授業でバラしてしまった。 「ハリー。ぼくがきみとなかよくしていることは、みんなに知られているんだ。きみにそういうことをされると、()()()評判がさがる。」

 

ハリー・ポッターが表情を緊張させた。 「本心では好きでない相手に対して友好的なふりをする、という考えかたを理解できない人がスリザリンにいるのなら、すりつぶしてペットのヘビに食わせたほうがいい。」

 

「そういう人たちもスリザリンにたくさんいる。」とドラコは真剣な声で言う。 「人はたいていバカなんだ。それでも、そういう人たちからの評判はよくしないといけない。」  ハリー・ポッターも、人生でなにごとかを達成したいのなら、このことを理解してくれないと。

 

「ひとにどう思われるかをなぜ気にするんだ? きみはこれからの人生ずっと、スリザリンで一番あたまのわるい人にすべてを説明するはめになって、()()()裁かれてしまう、というのでいいのか? 申し訳ないけど、きみの評判のためだけに、一番あたまのわるいスリザリンが理解できるように、ぼくの巧妙な作戦のレヴェルを落とすつもりはない。 きみとの友情もそこまでの価値はない。 それじゃ()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 きみは、スリザリンのだれかが救いようのないバカな態度をしたときに、あいつに迎合してはマルフォイ家の沽券にかかわる、と思ったことがないとでも?」

 

率直に言って、なかった。 一度も。 ドラコにとって、バカに迎合するのは息をするのとおなじで、なにも考えずにやれることだった。

 

ドラコはやっとのことでこう言った。「ハリー、自分の評判を気にせずに好きほうだいやるのは、かしこくない。 〈闇の王〉でさえ評判を気にしたんだ! 彼はおそれられ、憎まれた。そして、どういう種類の恐怖と憎悪をつくりだしたいかを()()()知っていた。 ひとからどう思われるかを気にしなくていい人なんかいない。」

 

マントをかぶった人影が肩をすくめた。 「そうかもしれない。 そのうち機会があったら〈アッシュの同調実験〉のことを話させてほしい。きみもたぶん気にいるよ。 いまのところは、ひとにどう思われるかを()()()()気にすることは危険だとだけ指摘しておく。そうすると、冷徹な計算の問題としてじゃなく、()()()()()()()()()()()()()からだ。 このあいだ、ぼくは年上のスリザリン生に十五分間なぐられたりけられたりしてから、立ちあがって、その相手を寛大に許しただろう。 ちょうど高潔な善人である〈死ななかった男の子〉に期待されるとおりに。 でもぼくの冷徹な計算によれば、スリザリンで最低のバカはぼくにとって()()()()がない。ぼくはヘビをペットにしていないからね。 だから、ぼくは自分なりのやりかたでハーマイオニー・グレンジャーと決闘をするし、スリザリン生にどう思われようが気にしない。」

 

ドラコはいらだちでこぶしをにぎったりはせず、 どなったりもせず、おちついた声を維持して言う。 「あれはただの泥血だろ。気にいらなければ、階段からつきおとせばいい。」

 

「そんなことをしてもレイヴンクローでは——」

 

「じゃあかわりに、パンジー・パーキンソンにつきおとさせればいい! わざわざそうしむけるまでもない。一シックルも出せば、すぐやってくれるさ!」

 

「ぼくが気にする! ぼくはハーマイオニーに読書試合で負けた。彼女のほうが成績もいい。()()で勝たないと、意味がないんだよ!」

 

「ただの泥血じゃないか! きみはどうしてあいつをそんなに尊重するんだ?」

 

「レイヴンクローの有力者だからだ! きみはどうして、ちからのないバカなスリザリン生の考えることを気にするんだ?」

 

()()()()()()() それができない人は、権力(ちから)をもてない!」

 

「月面をあるけるようになるのはちからだ! 強い魔法使いになるのはちからだ! 愚か者に一生迎合しつづけずにすむ種類のちからもある!」

 

ほとんど完全に同調したタイミングで二人は言いやめて、深呼吸をして自分をおちつかせた。

 

しばらくしてハリー・ポッターが「ごめん」と言い、ひたいから汗をぬぐった。 「ごめん。きみには政治的なちからがたくさんあるし、それを維持する意味はある。 たしかにスリザリンにどう思われるかをきみは考慮にいれる()()()。 そういうゲームは重要だし、ぼくが侮辱したのはまちがっていた。 でもきみがぼくとつきあうことで自分の評判が落ちないようにしたいからといって、レイヴンクローでの()()()ゲームのレヴェルを落とすわけにはいかない。 きみは歯ぎしりさせられながらぼくと親しいふりをしているだけだって、スリザリンで言えばいい。」

 

ドラコはスリザリンでまさにそう言ったのだが、実際自分がそのとおりの状態にあるのか、どうも自信がない。

 

「とにかく、きみのイメージについてだが。 残念ながら悪いニュースがある。 リタ・スキーターがきみの話をききつけて、いろいろかぎまわってる。」

 

ハリー・ポッターは両眉をあげた。「だれだって?」

 

「『予言者日報(デイリー・プロフェット)』の記者だ。」  ドラコは心配を声にだすまいとした。 父上は『デイリー・プロフェット』を道具として重宝している。魔法使いの杖のようにつかっている。 「みなが本気にするほうの新聞さ。 リタ・スキーターは有名人についての記事を書く。ふくれすぎた名声を羽ペンで突き刺す、というのが本人の言い分だ。 もしうわさがなにも見つからなければ、彼女はでっちあげをする。」

 

「なるほど。」 ハリー・ポッターの、緑色にてらされたマントのなかの顔は、考えにふけるような顔だ。

 

つぎに言うべきことを言うまえにドラコはためらった。 そろそろ、ドラコがハリー・ポッターに近づこうとしていると、だれかが父上に報告しているはずだ。そして父上は、ドラコがそれを手紙に書かなかったことも知っている。となると父上は、自分は息子に秘密をまもれないと思われている、と理解する。これは、ドラコが父上と同陣営にありながらも自分独自のゲームを練習しようとしている、という明確なメッセージになる。もし誘惑に屈しているなら、ドラコは父上に偽の報告を送っているはずだから。

 

したがって、父上はおそらくすでに、ドラコがここでつぎに言うことがなにかも、分かっている。

 

父上と本気でゲームをするというのは、どうも不安にさせられる感じがする。 味方どうしであっても。 いっぽうでは爽快だが、さいごには父上のほうが一枚うわてだったことがわかるのだろう、とドラコは知っている。 そうならないはずがない。

 

「ハリー。これは提案じゃない。助言でもない。たんなる事実だ。 父上ならほぼまちがいなく、その記事をもみけすことができる。 でもきみは、代償をしはらうことになる。」

 

ドラコがハリー・ポッターにそう言うであろうということを、まさに父上は予期しているのだ、ということを、ドラコは口にしなかった。 それに気づくか気づかないかは、ハリー・ポッターしだいだ。

 

ところがハリー・ポッターはくびをふり、マントのしたで笑みをうかべてこう言った。 「ぼくはリタ・スキーターの記事をもみけそうとは思わない。」

 

ドラコは不信感を声から隠そうともしなかった。 「まさか、()()()どう言われるかも気にしない、なんて言うんじゃないだろうな!」

 

「きみが思っているほどには気にしない。でも、スキーターのようなやからには、ぼくなりの対処法がある。ルシウスの助けはいらない。」

 

おもわず、ドラコの顔に心配そうな表情があらわれた。 ハリー・ポッターがつぎに何を言うにせよ、それは父上が予期しているようなことではないはずだ。このさきなにが起こるのか、ドラコはとても不安になってきた。

 

ドラコは同時に、マントのしたで自分の髪の毛が汗でぬれてきたことに気づいた。 こういうものを実際に着用したことはなかったから認識していなかったのだが、〈死食い人〉のマントであれば、おそらく〈冷却の魔法(チャーム)〉がかかっていることだろう。

 

ハリー・ポッターはまたひたいから汗をぬぐって、顔をしかめ、杖をだして、それを上にむけて、深呼吸をして、「フリジデイロ!」と言った。

 

数秒後、ドラコは冷風を感じた。

 

「フリジデイロ! フリジデイロ! フリジデイロ! フリジデイロ! フリジデイロ!」

 

そしてハリー・ポッターは杖をさげ、すこし震えているように見える手で、それをローブにしまった。

 

部屋全体がはっきりと冷えたようだった。 自分でやることもできたが、それでも、悪くない。

 

「じゃあ、科学の話だ。血統のことを教えてもらうぞ。」とドラコ。

 

「血統のことを()()()()んだよ。実験を通じて。」とハリー・ポッター。

 

「わかった。どういう実験だ?」

 

ハリー・ポッターはマントのしたで邪悪な笑顔をした。「それはきみしだいだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコは〈ソクラテスの方法〉というもののことをきいたことはあった。つまり、質問することを通じて教える、ということだ(古代の哲学者の名前がついているが、その哲学者はほんもののマグルにしてはかしこすぎるから、偽装した純血魔法使いにちがいない)。 家庭教師のうちのひとりは、ソクラテス的な教育法をよくつかった。 いらだたされるが、効果的な方法だった。

 

そして、〈ポッターの方法〉がやってきた。これは狂っている。

 

とは言っても、ハリー・ポッターも最初は〈ソクラテスの方法〉をためしたし、それがうまくいかなかったのは事実だ。

 

ハリー・ポッターは、ドラコならどうやって純血仮説を()()()()か、とたずねた。純血仮説というのは、魔法族はマグル生まれやスクイブと交雑したせいで、八百年まえの魔法族にできたすぐれたことができなくなった、という仮説だ。

 

なぜきみはおおまじめな顔で座りながら、これは罠じゃないなどと言っていられるのかわからない、とドラコはハリー・ポッターに言った。

 

ハリー・ポッターは、おおまじめな顔のままで、こうこたえた。もしこれが罠だったとしたら、あからさますぎるから、ぼくはすりつぶしてペットのヘビに食わせたほうがいい。でも実際には罠ではなかった。これは自分自身の説を反証しようとしなければいけないというのは科学者がしたがうルールにすぎない。正直にそうこころみて失敗したのなら、それは勝利にあたる、と。

 

ドラコはその話がどんなにひどくバカげているかを説明しようとした。まるで、アヴァダ・ケダヴラを自分の足にむけて唱えて外すことが、決闘で死なない秘訣だというようなものだ、と。

 

ハリー・ポッターは()()()()()

 

ドラコはくびをふった。

 

ハリー・ポッターはこういう考えかたを紹介した。科学者はアイデア同士をたたかわせてどれが勝つかをみるものであって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。純血主義仮説が勝つには、対戦相手を考えてやらないといけない。ハリー・ポッターはそう言いながらやけに不満げな表情をしていたが、ドラコはすこしそれが理解できた気がした。 たとえば、純血主義が世界の真実であるときは、(そら)が青くならなければならず、ほかの説がただしいときは緑色にならなければならないとしたら、そしてまだだれもそらの色を見たことがない、ということなら、話は簡単だ。 だれかが外に出て、純血主義が勝ったのを確認する。これが六回連続して起これば、だれもがその傾向に気づきはじめる、というわけだ。

 

ハリー・ポッターはそこで、ドラコが考えた対戦相手はどれも弱すぎて、立派な試合にならないから、純血主義が勝ったとしてもいばれない、と主張した。 ドラコはこれも理解した。 家事妖精(ハウスエルフ)に魔法力を盗まれたから魔法族は弱くなった、というのはたしかに、われながら立派とは言いがたい。

 

(ただハリー・ポッターは、その説はすくなくとも検証可能ではある、と言った。つまり、家事妖精(ハウスエルフ)が時代とともに強くなったかどうかを調べ、ハウスエルフの強さの増加をあらわす図と、魔法族の強さの減少をあらわす図とをかいて、もしそのふたつが一致したならハウスエルフ説が示唆されそうだ、などということを完全におおまじめに言った。思わず、ドビーに〈真実薬〉を飲ませたうえで問いただしてしまおうかと考えてしまったほどだったが、ドラコはすぐにわれにかえった。)

 

そしてハリー・ポッターはやっと、八百長をしてはならない、とドラコに言った。科学者はバカではないから八百長をしてもバレる、どちらもそれぞれ真である可能性のある説同士のあいだでの()()()()()()()でないといけない、と。()()仮説だけが勝つようなテスト、つまり仮説が実際にただしいかどうかによって結果が変わるようなものを使わなければならない、と。そうなっているかどうかを監視している、熟練の科学者がいるのだ、と。 ハリー・ポッターは、自分はただ()()()()()()()()()()()()()を知りたいだけだ、と、そしてそのためには純血主義が()()()()()()()ところを見なければならないから、当て馬を用意して()()()()()騙そうとしても意味がない、と主張した。

 

ドラコはそこまでは理解できたのだが、()()()()()()()()()()()とハリー・ポッターが呼ぶものを、まだ思いつけずにいた。魔法族が弱くなっているのは血統に泥が混じってきたからだ、という説はどうみても真実だから、代替仮説など考えようがない。

 

そこまで聞くと、ハリー・ポッターはやけにいらだって、こう言った。ドラコが相異なる観点に立って考えるのがここまでへたなのが信じられない。〈死食い人〉のうちのだれか一人くらいは、純血主義者の敵になりすましたときに、ドラコが言うよりずっともっともらしく〈死食い人〉の説を否定する説を持ちだしたことがあるはずだ。 もしドラコがダンブルドアの派閥の一員になりすまそうとするなら、ハウスエルフ仮説を持ちだしたところで、だれひとりだますことはできないだろう、と。

 

一理ある、とドラコは認めざるをえなかった。

 

そこで〈ポッターの方法〉になった。

 

「ドクター・マルフォイ、どうしてわたしの論文を採録してくれないんですか?」とハリー・ポッターが泣きつく。

 

ハリー・ポッターに『科学者になっているふりをしているふりをしろ』ということばを三度くりかえして言われてやっと、ドラコはそれがどういうことなのか理解できたのだった。

 

その時点でドラコは、ハリー・ポッターの頭脳のなかになにか非常に()()()()ところがあるということ、彼に〈開心術〉をかけた人はおそらくそこから出られなくなるだろうということに気づいた。

 

つづけて、ハリー・ポッターはさらにかなり詳細な説明をした。 ドラコは、学術論文誌の編集委員になりすます〈死食い人〉ドクター・マルフォイになったつもりで、敵であるドクター・ポッターの『魔法能力の遺伝的性質について』という論文を不採録にしようとする。もし〈死食い人〉がほんものの科学者のようにふるまわなかったら、〈死食い人〉であることがバレて処刑される。また、ドクター・マルフォイは自身の競争相手たちから監視されていて、ドクター・ポッターの論文を中立的で科学的な理由で不採録にしている()()()()()()()()()()()()()。そうしなければ、彼は編集委員の地位をうしなう。

 

〈組わけ帽子〉がいまごろ〈聖マンゴ〉で必死でうわごとを言いつづけたりしていないのが不思議なくらいだ。

 

それに、ドラコはこれほど複雑な役をさせられたことは一度もなかったし、この挑戦は受けてたつしかなかった。

 

いまこの瞬間、ハリー・ポッターの表現を借りるなら、ふたりは役にはいりきっていた。

 

「ドクター・ポッター、申し訳ないが、このインクの色では受けつけられませんね。つぎの論文!」

 

ドクター・ポッターはたくみに絶望して顔をゆがめる表情をし、ドラコは一瞬ドクター・マルフォイのようにほくそ笑んでしまいそうになった。自分はドクター・マルフォイのふりをしている〈死食い人〉にすぎないのだが。

 

この役は()()()()。 これなら一日中やっていられる。

 

ドクター・ポッターは椅子から立ちあがり、落胆してがくりと肩をおとし、とぼとぼと去り、ハリー・ポッターに変身し、親指をたてるジェスチャーをドラコにして、またドクター・ポッターに変身し、前のめりに笑みをして近づいてきた。

 

ドクター・ポッターは座り、羊皮紙を一枚ドクター・ポッターにみせる。そこにはこうあった:

 

魔法能力の遺伝的性質について

H. J. ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス博士(十分に発達した科学の研究所)

わたしの観察:

こんにちの魔法族は八百年まえの魔法族ほどすぐれたことができない。

わたしの結論:

魔法族はマグル生まれとスクイブとの混血により弱くなった。

 

「ドクター・マルフォイ……」と言ってドクター・ポッターが期待まじりの表情をする。「『魔法能力の遺伝的性質について』というわたしの論文を、御誌『再現不能な実験結果の会会誌』で発表させていただけないかと思っているのですが。」

 

ドラコは羊皮紙に目をやり、笑みをうかべながら不採録の可能性を検討した。もし自分が教師だったなら、みじかすぎるといってつっかえしてもいいのだが……

 

「ながすぎますね、ドクター・ポッター。」とドクター・マルフォイ。

 

一瞬、本気で信じられないというような表情がドクター・ポッターの顔にうかんだ。

 

「ああ……じゃあ観察と結論を別々の行にするのをやめて、『したがって』と書いてつなげてしまえばどうでしょう——」

 

「それじゃあ、みじかすぎますね。つぎの論文!」

 

ドクター・ポッターはとぼとぼと去った。

 

「よし。」とハリー・ポッターが言う。「それくらいでもう十分すぎる。 あと二回練習したら、三回目は本番で、途中にわりこみはなし。ぼくはまっすぐきみのところにきて、そのときは、きみは実際の内容にもとづいて論文を不採録にする。ライヴァル科学者がきみを監視している、というのを忘れないで。」

 

ドクター・ポッターのつぎの論文はあらゆる点で完璧で、奇跡的なできばえだったが、残念ながらEの字が気にいらないと言われてドクター・マルフォイの論文誌に不採録になった。 ドクター・ポッターはEのある単語をつかわずに書きなおすと申しでたが、ドクター・マルフォイはむしろ母音が根本的な問題だと説明した。

 

そのつぎの論文は、今日が火曜日だという理由で不採録になった。

 

実際には土曜日だった。

 

ドクター・ポッターはそう指摘したが、「つぎの論文!」と言われた。

 

(ドラコは、スネイプがなぜ生徒たちにいやがらせができる地位を確保するためだけにダンブルドアを脅迫するのかを理解しはじめた。)

 

そして——

 

ドクター・ポッターは最上級の薄ら笑いをうかべて近づいてきた。

 

「これがわたしの最新の論文、『魔法能力の遺伝について』です。」と自信ありげに言って、ドクター・ポッターは羊皮紙を差しだした。 「御誌で発表してもらってかまいません。すぐに出版できるよう、原稿執筆要領に完璧に準拠してあります。」

 

この〈死食い人〉はミッションが達成できたあとで、ドクター・ポッターを殺すつもりでいる。 ドクター・マルフォイは、競争相手たちの視線を意識して、礼儀ただしい笑みを維持し……

 

(沈黙がながびくあいだ、ドクター・ポッターは待ちきれない様子で彼を見ている。)

 

……「拝見しましょう。」と言った。

 

ドクター・マルフォイは受けとった羊皮紙を慎重に検分した。

 

自分は〈死食い人〉であってほんものの科学者ではないと思い、彼は不安になった。ドラコはハリー・ポッターのような話しかたを思いだそうとした。

 

「きみは、あー、その観察結果を説明する別のやりかたも考えるべきですね。ひとつだけじゃなく——」

 

「えっ?」とドクター・ポッターがわりこむ。「たとえばなんですか? 家事妖精(ハウスエルフ)が魔法力を盗んでいるとでも? わたしのデータと整合する説明はたったひとつしかありませんよ、ドクター・マルフォイ。 ほかの仮説はありえません。」

 

ドラコは必死で自分の頭脳に考えさせようとした。ダンブルドアの派閥の一員になりすましているとしたら、なにを言うだろうか。彼らなら、魔法族の衰退をどう説明しようとするだろうか。ドラコはそんな問いを考えたことがなかった……

 

「わたしのデータをほかのやりかたで説明できないのなら、この論文を出版するしかないんじゃありませんかね、()()()()()()()()()()。」

 

ドクター・ポッターのその嘲笑が決め手だった。

 

「へえ?」とドクター・マルフォイが反撃する。「世界から魔法力そのものが消えていくという可能性はないとでも?」

 

時間が停止した。

 

ドラコとハリー・ポッターは愕然とした恐怖の表情でおたがいを見あった。

 

そしてハリー・ポッターは、マグルにそだてられた人にとっては、非常に行儀がわるいらしいことばを言った。 「()()()()()()()()()()()()()! でも気づいているべきだった。魔法力が消えていく。クソッ、クソッ、クソッ!」

 

ハリー・ポッターの声にこめられた危機感には感染力があった。 なにも考えないまま、ドラコはローブのなかに手をのばし、杖をにぎった。 四世代血統をさかのぼることができる()()な家系と結婚しさえすれば、マルフォイ家は()()だと思っていた。だれにも魔法の終焉をとめる方法がないかもしれない、という可能性は考えたことがなかった。 「ハリー、ぼくたちはどうすればいい?」 パニックになってドラコの声が高くなった。「()()()()()()()()()()

 

「すこし考えさせて!」

 

しばらくして、近くにあった机から、疑似論文を書くのにつかった羽ペンと羊皮紙の束を持ってきて、ハリーはなにかを書きだした。

 

「これからつきとめてみせる。」とハリーはかたい声で言う。「もし魔法力が消えていくのなら、どれくらいの速度で消えていくのか、なにかするための時間がどれだけのこされているのかをつきとめる。そして、なぜ消えていくのかをつきとめる。それから、なんらかの対処をする。 ドラコ、魔法族のちからの衰退は一定の率で進んでいた? それとも急激に低下したことがあった?」

 

「わ……わからない……」

 

「ホグウォーツ創設者の四人に匹敵する人物はひとりも出なかった、ときみは言った。 つまり、それは八百年以上つづいてきたことになるね? 五百年まえから急に出はじめた問題、みたいななにかのことを聞いたことはない?」

 

ドラコは必死で考えようとした。 「マーリンに匹敵する人物はいなかったし、マーリンのあとで〈創設者〉に匹敵する人物はいなかった、ということはいつも聞かされてきた。」

 

「そうか。」 ハリーはまだ書きつづけている。「三百年まえというのが、マグルが魔法を信じなくなったころなんだ。それがなにか関係があるかもしれないと思っていた。 そして百五十年まえくらいに、魔法のちかくで動作しないような種類の技術をマグルは使いはじめた。もしかすると、その効果は逆にもはたらいたりしないかな、とぼくは思っていた。」

 

ドラコは椅子から飛びはねた。怒りのあまり、ろくに話すこともできなかった。 「()()()()()()で——」

 

()()()()()()!」とハリーが叫んだ。 「自分で言ったことも聞いてなかったのか? 八百年以上まえからつづいてきたことなら、その当時のマグルはたいしたことをしていなかったんだよ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! マグルのしたことが関係ある()()()()()()けど、()()()()()()()()()()、きみはすべてをマグルのせいにして、ぼくらは()()()()()なにが起きているかを理解できなくなって、ある日の朝、目をさましたら、杖がただの木の棒になってしまったのに気づくことになる!」

 

ドラコの息がのどのなかでとまった。 父上はよく演説で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と言っていたが、そのことの意味をこれまでよく考えたことはなかった。()()()()に起きることではないからだ。 それが急に、とてもリアルに感じられるようになった。 ()()()()()()。 自分の杖をとりだして、呪文をかけようとして、なにも起きないのを知る、というのがどういうことかがはっきりとわかる……

 

それが()()に起きるかもしれない。

 

魔法族がなくなる。魔法力がなくなる。 のこるのはマグルと、祖先たちにどういうことができたかを伝える、伝説がいくつかだけ。 そのマグルのうちのだれかがマルフォイと呼ばれる。家名のもとにのこるものはそれだけ。

 

ドラコは人生ではじめて、ひとが〈死食い人〉になろうとする理由を実感した。

 

ドラコはずっと、大人になれば〈死食い人〉になるのがあたりまえだと思っていた。 なぜ父上や父上の友人だちが自分のいのちを投げだしてまで、この悪夢が現実になるのを食いとめようとするのかが、わかった。世のなかには、見すごすことのできない悲劇というものがある。 でももし()()()()()()それが起きてしまうのなら、なぜあれほどまでの犠牲をはらうのか。ダンブルドアの手にかかって友人たちがやられたのも、()()がやられたのも、なんの意味もなかったとしたら……

 

「魔法力が消えるわけがない。」  ドラコは変な声をだした。 「そんなのは()()()だ。」

 

ハリーは書くのをやめて、見あげた。 その顔は怒りの表情だった。 「人生は不公平だってお父さんに教わらなかったのか?」

 

ドラコがそのことばを言うたびにいつも、父上はおなじことを言っていた。 「だけど、だけどそんなことが起きるかもしれないなんて、ひどすぎる——」

 

「ドラコ、〈タルスキの連願〉とぼくが呼んでいるものを教えてあげよう。 この文句は毎回かわるけれど、 今回の場合、こういう風になる。 『もし魔法力が世界から消えていっているなら、わたしは魔法力が世界から消えていっていると信じたい。もし魔法力が世界から消えていっていないのなら、わたしは魔法力が世界から消えていっていると信じたくない。わたしは自分がほしいかどうかわからない信念に愛着をもちたくない。』 もしぼくたちが魔法力の消えていく世界にいるのなら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。これから起きることを知ってはじめて、それをとめることができる。最悪の場合でも、のこりの時間でそのときへのそなえをすることができる。 信じないことでそれが起きなくなるわけじゃない。 必要な問いは魔法力が()()()消えていくのかどうかだけだ。もしそれがぼくたちのいる世界だとしたら、そのことを信じよう。そして〈ジェンドリンの連願〉はこうだ:()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 わかった? これはあとで暗記してもらうから。 真でないことを信じてもいいのかどうか迷ったときに、これをこころのなかでくりかえすんだ。 いや、というより、いますぐ言ってみてほしい。 『真実はすでに真なのだから、そうだと認めても、ことは悪化しない』。 さあ。」

 

「真実はすでに真なのだから……」  ドラコの声が震える。 「そうだと認めても、ことは悪化しない。」

 

「もし魔法力が消えていっているのなら、ぼくは魔法力が消えていっていると信じたい。もし魔法力が消えていっていないのなら、ぼくは魔法力が消えていっていると信じたくない。さあ、言って。」

 

ドラコはそれを復唱した。ぐるぐると不吉な予感がした。

 

「よし。でも、そうなっているとはかぎらないからね。その場合は、信じなくていい。 ()()()、実際になにが起きているか、つまりどちらの世界にぼくらがいるのかを知ることだ。」 ハリーはもとの作業にもどり、またなにかを書き、羊皮紙を回転させてドラコが読めるようにした。 ドラコは机のほうに寄り、ハリーは緑色の照明をちかづけた。

 

観察:

 

現代の魔術はホグウォーツ創設時の魔術ほど強力ではない。

 

仮説:

 

1. 世界から魔法力そのものが消えていった。

2. 魔法族がマグルやスクイブと交雑していった。

3. 強力な呪文をかけるのに必要な知識が忘れられていった。

4. 魔法族が幼少期に食べる食べものがよくない。そのほか、血統以外のなにかが影響して、弱くしか成長できなくなった。

5. マグル技術が魔法に干渉している。(八百年まえから?)

6. 強い魔法使いがだんだん子どもをつくらなくなった。(ドラコ=ひとりっ子? クィレル、ダンブルドア、〈闇の王〉の三人に子どもがいるかどうかを調べる)

 

検証:

 

「よし。」  ハリーの呼吸がすこし落ちついた。 「とりかかった問題の性質がよくわかっていなくて、なにが起きているのがさっぱりなときは、すぐに調べられるような非常に単純なテストを考案するというのが、かしこいやりかただ。 各仮説の成否を区別できるような、てっとりばやいテストが必要なんだ。 すくなくとも、このうちどれかひとつの仮説については、観察結果がかわるはずのテストが。」

 

ドラコはショックをうけながら、そのリストをじっと見ていた。 純血者にやけにひとりっ子が多いことを、急に思いだした。 ドラコ自身も、ヴィンセントも、グレゴリーも、ほとんど()()がそうだ。 だれもが口にする最強の魔法使いといえばダンブルドアと〈闇の王〉だが、ハリーの推測どおり、どちらも子どもがいない……

 

「二と六を区別するのはとても大変だと思う。」とハリーが言う。「どちらも血統の話だから、魔術の衰退と魔法族がつくる子の数とをくらべて、マグル生まれの人の能力と純血の人の能力を計量してやらないと……」 ハリーの指が神経質そうに机をたたく。 「とりあえず、六と二をまとめて血統仮説とよぼう。 四はありそうにない。食べものを変えたときに急減があったなら、だれもが気づくはずだし、八百年間一定してかわりつづけるようなものは想像しにくい。 五もおなじで、ありそうにない。八百年まえにマグルはとくになにもしていなかったから、急減はありえない。 そもそも四は二ににているし、五は一ににているな。 ということでおもに区別すべきなのは、一と二と三だ。」 ハリーは羊皮紙を自分のほうにむけ、その三つの数字を楕円でかこって、むきをもどした。 「魔法力が消えていっていった。血統が薄まっていった。知識がなくなっていった。 このどれかが真だったら結果がかわるようなテストはなに? このどれかが偽だということがわかるようなテストはなに?」

 

「知るもんか! なぜぼくにきくんだ? 科学者はきみだろう!」

 

「ドラコ……」  ハリーは懇願するような声になる。 「ぼくが知っているのは、マグル科学者の知っていることだけだ! 魔法世界でそだったのはきみだ。ぼくじゃない! きみはぼくより多くの魔法を知っているし、魔法()()()()もぼくより知っている。だいたい、このアイデアを思いついたのもきみなんだから、科学者のように考えてみて、これを解明してよ!」

 

ドラコはごくりと息をのんで、その紙を見た。

 

世界から魔法力が消えていく……魔法族がマグルと交雑していく……知識が忘れられていく……

 

「もし魔法力が消えていっているなら、どんな世界になっているはずだろう?」とハリー・ポッターが言う。「きみのほうが魔法をよく知っている。だからぼくじゃなくてきみが予想してくれないと! そういう作り話をしているつもりになってみて、その話ではなにが起きることになる?」

 

ドラコはそのつもりになった。「昔かけることのできた〈魔法(チャーム)〉が使えなくなる。」 魔法使いがある日起きると、杖が木の棒になってしまったことに気づく……

 

「もし魔法族の血統が薄まっていっているなら、どんな世界になっているはずだろう?」

 

「祖先にできたことができなくなっている。」

 

「知識が忘れられていっているなら、どんな世界になっているはずだろう?」

 

「その〈魔法(チャーム)〉のかけかたがそもそもわからなくなっている……」 ドラコはそこでとまり、自分の言ったことにおどろいた。 「これはテストになるんじゃないか?」

 

ハリーはきっぱりとうなづいた。 「それだ。」  そして羊皮紙の『検証』の下にこう書いた。

 

A. 方法を知っているがかけられない呪文があるのか(一もしくは二)、それともうしなわれた呪文というのは方法がわからないということか(三)。

 

「これで、一と二のがわと、三のがわとを区別できる。」とハリーが言う。「つぎは一対二の区別だ。世界から魔法が消える。血統が薄まる。そのちがいはどうすればわかる?」

 

「昔のホグウォーツ一年生はどういう種類の魔法(チャーム)を使っていた?」とドラコが言う。「もしいまよりもずっと強力な魔法を使っていたなら、当時の人たちは血統が濃かったはず——」

 

ハリー・ポッターはくびをふった。「いや、世界の魔法力そのものが強かった可能性もある。 ()()()を知るための方法をみつけないといけない。」 ハリーは椅子から立ちあがり、神経質そうに教室のなかをいったりきたりした。 「いや、それでもだめかもしれない。 呪文によって消費する魔法エネルギーの量がちがうと仮定すると、環境中の魔法力が弱まったときには、強力な呪文がまずうしなわれるのが自然だ。一年生全員がまなぶような呪文はそのままだろう……」 ハリーの神経質そうな歩調の速度があがった。 「あまりいいテストじゃないな。むしろ、強力な魔術がうしなわれていくのか、あらゆる魔術がうしなわれていくのかのテストだ。ある人の血統は強力な魔術をするには薄すぎるかもしれないが、簡単な呪文には十分かもしれない……。 ドラコ、()()()()時代、たとえばこの百年のあいだの強い魔法使いが、子どものころからそうだったかどうかわかる? もし〈闇の王〉が十一歳のときに〈冷却の魔法(チャーム)〉をかけたら、一部屋まるごと凍ったりしただろうか?」

 

ドラコは思いだそうとして顔をしかめた。 「〈闇の王〉については聞きおぼえがないが、ダンブルドアは五年生のとき、〈転成術〉のO.W.L.s(オウルズ)でなにかすごいことをしたと聞く……。 ほかの強い魔法使いもそれぞれ、ホグウォーツ時代に優秀だったと思う……」

 

ハリーは顔をしかめたが、歩きつづけた。「ただ勉強をがんばっただけかもしれない。 といっても、もし一年生がおなじ呪文を教わっていて、いまも昔とおなじくらい強いように見えるなら、二より一をえらぶ()()証拠にはなるか……いや、ちょっとまって。」  ハリーはその場でとまった。 「一と二を区別するのに使えるかもしれない別のテストがある。 それには科学者の血統と継承についての知識が必要だから、ちょっと説明には手間がかかるけど、問いとしては簡単だ。 ぼくのテストときみのテストを()()()()()()、どちらもおなじ結果になったら、強い示唆だといえる。」  ハリーは机にむかってほとんど走りこみ、羊皮紙を手にしてこう書いた:

 

B. 大昔の一年生はいまとおなじ種類の呪文を、おなじ強さで使ったか?(二より一を優勢にする弱い証拠だが、強力な魔法使いの血統だけが薄まった可能性もある)

 

C. 血統についての科学的知識を使った追加のテストで一と二を区別する。あとで説明する。

 

「よし、これですくなくとも、一と二と三を区別しようとする準備はできたから、すぐやろう。いまできたテストが終わったら、また別のテストを考えればいい。 ドラコ・マルフォイとハリー・ポッターがいっしょになって質問をしてまわったら、変に思われるだろうから、こうするのはどうかな。 ホグウォーツじゅうの肖像画をたずねまわって、その人たちが一年生だったころにどういう呪文を教わったかをきく。 肖像画だから、ドラコ・マルフォイがそんなことをしていても変だとは思われない。 ぼくは最近の肖像画と生きている人に、知っているけどかけられない呪文があるかをきく。ハリー・ポッターが変な質問をしてもだれもおかしいとは思わないだろう。 そしてぼくは忘れられた呪文についてのややこしい調査をする必要があるから、きみにはぼく自身の科学的な問いに必要なデータをあつめる役目をおねがいしたい。 簡単な問いだから、肖像画に質問すればこたえはみつかるはずだ。 これを書きとめておいてくれるかな。用意はいい?」

 

ドラコは座りなおして、かばんのなかの羊皮紙と羽ペンを探した。 それを机のうえにおくと、ドラコはきっぱりとした表情で見上げた。

 

「スクイブの夫婦を知っている肖像画をさがす——そういう顔をしないでよ、ドラコ。重要な情報なんだから。 グリフィンドールあたりの出身の、最近の肖像画にたずねるんだ。 知りあいのスクイブの夫婦がいて、その子ども全員の名前を知っているような肖像画をみつける。 その子一人一人の名前と、それぞれが魔法使いだったか、スクイブだったか、マグルだったかを書きとめる。 スクイブかマグルかわからない子どもがいたら、『非魔法族』と書く。 それを子ども()()について、ひとりも残さず書く。 その肖像画が子ども全員じゃなくて魔法族の子どもの名前しか知らなかったら、その夫婦についてはまったくデータをとらない。 あるスクイブ夫婦の子ども()()のこと、すくなくともその名前を、知っている人から得たデータだけをあつめるというのがとても重要なんだ。 できれば、合計で最低四十人分の名前はほしいところだ。もし時間があれば、もっととれたほうがいい。 ここまではいい?」

 

「復唱してくれ。」 ドラコは書きおわってからそう言い、ハリーは復唱した。

 

「よし、できた。」とドラコが言う。「でもなぜ——」

 

「これは、科学者がすでに解明した血統に関する秘密に関係している。 きみがもどってきたら説明する。 じゃあここでわかれて、一時間後にあおう。つまり午後六時二十二分。 準備はいい?」

 

ドラコはきっぱりとうなづいた。 いろいろ急づくりだが、急ぎかたはずっと昔から教わっている。

 

「じゃあ出発!」と言ってハリー・ポッターはマントを脱いでポーチに入れた。それをポーチが食べはじめたがハリー・ポッターはおわるのを待とうともせず、身をひるがえして、あわてて机にぶつかってころびそうになりながら、教室のドアまで大股で急いで歩いていった。

 

ドラコがやっと自分のマントを脱いでかばんに入れたときには、ハリー・ポッターのすがたはなかった。

 

ドラコはかけだしそうないきおいで、ドアを出た。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 







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23章「信念についての信念」

◆ ◆ ◆

 

「そしてジャネットはスクイブでした。」と、ふちどりが金色の帽子をした、小柄な若い女性の肖像画が言った。

 

ドラコはそれを書きとめた。まだ二十八件だが、もうハリーとおちあう時間になった。

 

彼はほかの肖像画に翻訳を助けてもらっていた。 英語はその時代からだいぶ変化していたが、最古の肖像画が説明した一年次の呪文は、いまのそれととてもよく似た呼びかただった。 半分は何なのかドラコにもわかり、のこりの半分も強力なわけではなさそうだった。

 

ひとつ回答をもらうたびに、腹のなかのいやな感覚が大きくなっていき、もう我慢できなくなると、ドラコはそこで打ちきってほかの肖像画のところに行き、スクイブの結婚についてのハリー・ポッターの奇妙な質問をしはじめることにした。 最初の肖像画五人はそういった夫婦を知らなかった。ドラコがその肖像画たちに、知り合いの肖像画の知り合いの肖像画まできくよう頼んでやっと、スクイブの友だちだったと告白する人たちが見つかった。

 

(ドラコは、自分はスリザリン一年生だが、あるレイヴンクロー生といっしょに重要なプロジェクトをしていて、そのレイヴンクロー生はこういう情報が必要なんだとだけ言って理由を説明せずいなくなってしまった、と説明するようにしていた。すると何人もが同情する表情をした。)

 

ホグウォーツの廊下を歩いていくドラコの足どりが重くなった。 走るべきだが、その気力がでてこない。 こんなことを知りたかったわけじゃない、こんなことにはちっとも関係したくない、自分の責任にされたくない、などということばかりが思いうかぶ。ハリー・ポッターにやらせればよかった。もし魔法力が世界から消えていくのなら、ハリー・ポッターにまかせてしまいたい……

 

だが、それではいけないということは、わかっている。

 

スリザリンの地下洞の寒さ、灰色の石壁。ドラコはふだんはこの雰囲気が好きだったが、いまは、消えていく感じに似すぎている。

 

ハリー・ポッターはすでにドアノブに手をかけ、マントをかぶって、なかで待っていた。

 

「大昔の一年次の呪文について、なにがわかった?」

 

「いま使われる呪文より強力ではなかった。」

 

ハリー・ポッターのこぶしが机を強く殴った。 「くそっ。そうか。 ぼくのほうの実験も失敗だったよ。 〈マーリンの禁令〉と呼ばれているものがあって——」

 

ドラコはそのことを思いだして、ひたいをたたいた。

 

「——強力な呪文についての知識は本から学ぼうとしても止められてしまう。強力な魔法使いの書いたものをみつけて読んでも、意味がわからなくなっている。生きているひとが生きているひとに伝えなければならないんだ。 手順がわかっているけれどかけられない強力な呪文というのは見つからなかった。 でももし古い本から得られないのなら、その呪文が使えなくなったあとでわざわざ口頭で伝えようとしたりする人もいないんじゃないか? スクイブの夫婦についてのデータは集まった?」

 

ドラコは羊皮紙をわたそうとした——

 

が、ハリー・ポッターは片手を立てて止めた。 「科学の法律を説明しよう。 まず、ぼくが理論と予測をきみに言う。 それから、きみがぼくにデータをみせる。 こうすれば、ぼくがデータにあわせて理論をでっちあげているのでないことがわかる。 理論が()()()()()データを予測できていたことがわかる。 いずれにしても説明しないといけないことだから、データをみせてもらう()()()説明しておく。 これがルールだ。 じゃあマントを着て、席につこうか。」

 

ハリー・ポッターは紙きれが何枚もならべられた机のまえに座った。 ドラコはかばんからマントをとりだし、それを着て、ハリー・ポッターのむかいがわに座り、困惑した視線を紙きれにおくった。 二列にならんでいて、それぞれの列には紙きれが二十枚ほどある。

 

「血統の秘密というのは、」と言ってハリー・ポッターははりつめた表情をした。「デオキシリボ核酸と呼ばれているものだ。 科学者でない人のまえでこの名前を言ってはいけない。 デオキシリボ核酸は、人のからだがどういう風に成長するか、つまり、足が二本できるか、腕が二本できるか、背がひくいかたかいか、目の色が茶色か緑色か、といったことを決めるレシピだ。 これは物質的なもので、顕微鏡で()()ことができる。顕微鏡というのは望遠鏡に似ているけれど、遠くのものが見えるのではなく、小さなものが見える。 このレシピは、つねに全体をコピーして二対になっていて、片方が壊れてもいいようになっている。 紙きれが二列に長くならべられていると思ってみてほしい。 列の各位置には、二つの紙きれがあって、子どもをつくるとき、きみの体が各位置で無作為にそのどちらかの紙きれをえらぶ。母親の体もおなじことをして、子どもは列の各位置について二枚の紙きれをうけとる。 全体が二対になっていて、一つは母親から、一つは父親からくる。子どもを作るときには、各位置から一枚ずつ紙きれをわたす。」

 

話しながらハリーの指が二対の紙きれをなぞり、「母親から」と言ったところで片方を指し、「父親から」と言ったところでもう片方を指す。 そして紙きれを無作為にえらぶと言ったところで、片手でローブからクヌートを一枚とりだして、投げる。 そちらに視線をむけて、上のほうの紙きれを指さす。 ここまでの動作をするあいだ、声はとぎれていなかった。

 

「背がひくいかたかいか、みたいなことに関しては、レシピのなかで()()()()()違いをうむ位置が()()()()ある。 だから、背のたかい父親と背のひくい母親が結婚したら、子どもはある位置では『たかい』という紙きれ、別の位置では『ひくい』という紙きれをもらって、通常は、中間のたかさになる。 でも、そうでないこともある。 運がいいと、子どもは『たかい』という紙きれをたくさんもらって、『ひくい』という紙きれはすこししかもらわなくて、だいぶ背がたかくなる。 『たかい』という紙きれを五枚もっている背のたかい父親と、『たかい』という紙きれを五枚もっている背のたかい母親がいれば、とても運がいい子どもなら、『たかい』という紙きれ()()()()()をもらって、どちらよりも背がたかくなることもある。 わかった? 血統は完全流体じゃないし、完全にはまざらない。 デオキシリボ核酸はたくさんの小さな粒でできていて、水ではなく小石をグラスに入れたようなものだ。 だから、子どもはいつも両親のちょうど中間にはならない。」

 

ドラコは口をぽかんとあけてこれを聞いていた。 マーリンの名にかけて(いったい)マグルはどうやってこんなことを知ったんだ? マグルにはそのレシピが()()()のか?

 

「じゃあ、背のたかさとおなじように、レシピのなかに『魔法あり』か『魔法なし』が書かれる位置がたくさんあると思ってほしい。 『魔法』と言っているものが十分あれば、魔法使いになるし、それが()()()()あれば、強力な魔法使いになる、ということだ。 そして、スクイブ同士が結婚すると、たいていの場合は子どももスクイブになる。けれどたまに運がよくて、父親の魔法ありの紙の大半と母親の魔法ありの紙の大半が子どもにわたって、魔法使いになれるほどの強さになる。 でもおそらく、あまり強い魔法使いではない。 もし、最初に強力な魔法族がたくさんいて、おたがいのあいだでだけ結婚していたとしたら、強さはそのままだ。 でも、もしぎりぎり魔法がつかえるだけのマグル生まれか、スクイブと結婚しだしたら……どうなる? 血統は完全にはまざらない。水じゃなく、小石をつめたグラスのようなものだ。血統っていうのはそういうものだ。 それでも、魔法ありの紙を運よくたくさんもらうと、強力な魔法使いもたまにはでてくる。 でもまえの時代の強力な魔法使いほどに強くはならない。」

 

ドラコはゆっくりとうなづいた。 こういう説明法はきいたことがなかった。 おどろくほど美しいし、ぴったりくる説明だ。

 

()()、これは仮説のうちの()()()にすぎない。 そうじゃなくて、レシピのなかに、魔法使いかどうかを決める場所が()()()()()あると思ってみてほしい。 『魔法あり』か『魔法なし』かになる紙きれのある場所が()()()()()。 そして、いつも全体が二対にコピーされている。 すると、三つの可能性しかない。 両方が『魔法あり』になるか、 片方が『魔法あり』で片方が『魔法なし』になるか、 両方が『魔法なし』になるか。 魔法使いと、スクイブと、マグル。 二対の両方がそうなら、呪文を使える。 片方だけなら、魔法薬や魔法装置は使える。 マグル生まれを生む両親は実はマグルじゃなくて、マグル世界で生まれ育った、『魔法あり』を一枚ずつもつスクイブだということになる。 つぎに、魔女がスクイブと結婚したとする。 子どもは全員、つねに、『魔法あり』を一枚母親からうけとる。無作為にえらばれるのがどちらかは関係ない。どちらも『魔法あり』だからだ。 でも父親からは、コイン投げのようにして五割の確率で『魔法あり』をもらうけれど、五割の確率で『魔法なし』をもらう。 魔女がスクイブと結婚すると、その結果は弱い魔法族の子どもがたくさんできるんじゃない。 半分が、母親とおなじくらい強い魔法使いか魔女になる。半分はスクイブになる。 レシピのなかで魔法使いかどうかをきめる場所が()()()()()あるなら、魔法力は小石をつめてまぜるグラスみたいになっているんじゃなくて、 魔法の小石、魔術師の石がひとつあるっていうことだ。」

 

ハリーは三組の紙きれをとなりあわせにならべた。 ある組には『魔法あり』と『魔法あり』、 別の組には上の紙きれにだけ『魔法あり』と書いた。 三つめの組は空白のままにした。

 

「そうだったとしたら、石を二つもらうか、もらわないかのどちらかでしかない。 つまり、魔法使いか、そうでないか。 魔法使いが強くなるのは、がんばって勉強したか練習したかだということ。 もし魔法族が()()()()()弱くなっていってるのだとしたら、つまり呪文が忘れられたのではなく呪文をかけられなくなったのだとしたら……食べものでも悪かったのかもしれない。 でももし八百年のあいだ一定して悪化していったのなら、魔法そのものが世界から消えていっているということかもしれない。」

 

ハリーはもう二組の紙きれを隣あわせにならべ、羽ペンをとりだした。 どちらの組も、一枚が『魔法あり』でもう一枚が空欄になった。

 

「そこでぼくの予測を言おう。 スクイブ同士が結婚するとき起きるのは、コインを二回なげることだ。 結果はおもてとおもて、おもてとうら、うらとおもて、うらとうらのどれかになる。 つまり、四分の一の確率でおもて二枚、四分の一の確率でうら二枚、二分の一の確率でおもて一枚、うら一枚になる。 おなじことがスクイブ二人の結婚にもいえる。 子どもたちのうち四分の一は魔法ありと魔法ありで、魔法族になる。 四分の一は魔法なしと魔法なしで、マグルになる。 のこった二分の一はスクイブだ。 これはとても古い、古典的なパターンで、発見者のグレゴール・メンデルという人は現代にも名前が伝わっている。レシピの仕組み全体を解明する第一歩となる発見だった。 血統の科学を知っている人ならかならず、ひと目でこのパターンに気づく。 厳密に一致はしない。というのは、コイン投げを二回やるのを四十回くりかえしても、かならずおもてとおもてが十回出てくるわけじゃないのとおなじだ。 でも四十人の子どものうち、七人や十三人が魔法族だったとしたら、強く示唆する証拠になる。 これがきみにしてもらっていたテストだ。 さあ、データをみてみようか。」

 

ドラコが考えるよりはやく、ハリー・ポッターはドラコの手から羊皮紙をうばった。

 

ドラコはのどのかわきを感じた。

 

二十八人の子ども。

 

厳密な数には自信がないが、たしか、四分の一くらいが魔法族だった。

 

「魔法族は二十八人中、六人。」としばらくしてハリー・ポッターが言った。 「じゃあ、そういうことだ。 それに、八百年まえも、一年生はおなじ強さの呪文をつかっていた。 きみのテストとぼくのテストの結果は一致したね。」

 

教室のなかで沈黙がながびいた。

 

「それで?」と小声でドラコが言う。

 

彼はこれほどなにかを恐れたことはなかった。

 

「まだ決定的とはいえない。ぼくの実験は失敗した、って言っただろ? きみに、別のテストを設計してほしい。」

 

「ぼ、ぼくは……」 ドラコの声が切れぎれになる。「できないよ。ぼくには無理だ。」

 

ハリーは熱いまなざしをしていた。 「できるさ。きみにはそうする必要がある。 ぼくも〈マーリンの禁令〉について知ったあとに考えてみた。 魔法の強さを直接はかる方法はないんだろうか? その人の血統とも、どういう呪文が使えるようになるかとも、関係ない方法で?」

 

ドラコはなにも思いつかなかった。

 

「魔法に影響するものはすべて魔法族に影響する。」とハリーが言う。「でも、そうすると原因が魔法族なのか魔法なのかがわからない。 魔法族でないものに魔法が影響することはある?」

 

「魔法生物だろうな。」とドラコはなにも考えずに言った。

 

ハリー・ポッターはゆっくりと笑顔になった。 「それだよ、ドラコ。」

 

マグルにそだてられたのでなければそもそも口にしようとしないような、バカな問いだ。

 

魔法生物が実際に弱くなっているとしたら、それがなにを意味するのかに気づいて、不吉な予感がさらに悪化した。 もしそうなら、魔法力が消えていっているというのが確実だということだ。そしてこれからまさにそれを発見することになるんだと、こころのなかのどこかでドラコは確信していた。 そんなことを確認したくない、知りたくない……

 

ハリー・ポッターはすでにドアに行きかけていた。 「はやく、ドラコ! わりと近くに肖像画が一人いる。その人に頼んで、昔の人をつれてきてもらえば、すぐにわかる! マントをかぶって、だれかに見られたらすぐに逃げよう! さあ、いこう!」

 

◆ ◆ ◆

 

長くはかからなかった。

 

横長の肖像画だったが、三人がはいると窮屈そうに見えた。 黒い帯をまとった十二世紀の中年の男性が一人。 その男性が話しているのは、悲しそうな十四世紀の若い女性で、縮れ毛があたまの上に呪文で固定されているに見える。 その女性が話しているのは、しわだらけの威厳のある十七世紀の老人で、厚みのある金色の蝶ネクタイをしている。 この老人のことばは、二人にも理解できる。

 

二人はディメンターについて質問した。

 

二人は不死鳥(フェニックス)について質問した。

 

二人はドラゴンやトロルや家事妖精(ハウスエルフ)について質問した。

 

ハリーは眉をひそめて、もっとも多くの魔法力を必要とする生物は全滅してしまってもおかしくないと指摘して、もっとも強い魔法生物を知ろうとした。

 

できたリストに、見おぼえのないものはなかった。例外として、マインド・フレイヤーという〈闇〉の生物の種族があったが、翻訳者によれば結果的にはハロルド・シェイによって根絶されたというし、そのほかの生物はディメンターの半分もおそろしくはなかった。

 

魔法生物はどうやら、いまもむかしも、おなじくらい強いようだった。

 

ドラコの不吉な予感はおさまってきた。のこったのは、とまどいだけだ。

 

「ハリー、」とドラコは、老人がビホルダーの目の十一の能力のリストを翻訳してくれている最中に、言った。「これはどういうことなんだ?」

 

ハリーは指を一本たて、老人はリストを言いおえた。

 

そしてハリーは肖像画たちに感謝して——ドラコもほとんど無意識に、ハリーよりも優雅に礼をした——二人は教室にもどっていった。

 

そしてハリーは仮説を書いてあった羊皮紙をとりだし、字を書きはじめた。

 

観察:

 

現代の魔術はホグウォーツ創設時の魔術ほど強力ではない。

 

仮説:

 

1. 世界から魔法力そのものが消えていった。

2. 魔法族がマグルやスクイブと交雑していった。

3. 強力な呪文をかけるのに必要な知識が忘れられていった。

4. 魔法族が幼少期に食べる食べものがよくない。そのほか、血統以外のなにかが影響して、弱くしか成長できなくなった。

5. マグル技術が魔法に干渉している。(八百年まえから?)

6. 強い魔法使いがだんだん子どもをつくらなくなった。(ドラコ=ひとりっ子? クィレル、ダンブルドア、〈闇の王〉の三人に子どもがいるかどうかを調べる)

 

検証:

 

A. 方法を知っているがかけられない呪文があるのか(一もしくは二)、それともうしなわれた呪文というのは方法がわからないということか(三)。 結果:マーリンの禁令のせいではっきりしない。かけられない呪文として知られているものはないが、伝承されなくなっただけかもしれない。

 

B. 大昔の一年生はいまとおなじ種類の呪文を、おなじ強さで使ったか?(二より一を優勢にする弱い証拠だが、強力な魔法使いの血統だけが薄まった可能性もある) 結果:一年次の呪文のレヴェルはいまとかわらない。

 

C. 血統についての科学的知識を使った追加のテストで一と二を区別する。あとで説明する。 結果:魔法族かどうかを決める位置はレシピのなかにひとつだけあり、『魔法あり』の紙きれが二枚あるかどうかで決まる。

 

D. 魔法生物はちからをうしなったか? これで(二または三)と一とが区別できる。 結果:魔法生物の強さはまったくかわっていないようだ。

 

「Aは失敗。」とハリー・ポッターが言う。 「Bは二より一を優勢にする弱い証拠。 Cは二の反証。 Dは一の反証。 四は見こみが薄いし、Bにあわない。 五は見こみが薄いし、Dにあわない。 六は二といっしょに反証された。 のこるのは三だ。 〈マーリンの禁令〉があってもなくても、となえられない呪文が知られている例をみつけることはできなかった。 ぜんぶ総合すると、知識が忘れられていっている、ということらしい。」

 

そこで、罠が閉じた。

 

ドラコのパニックがいったん終わり、魔法力が消えていくのではないと理解すると、そうと気づくのに五秒とかからなかった。

 

ドラコが机から自分のからだをおして離し、思いきり強く席を立つと、椅子がひっかくような音をだしてすべっていって倒れた。

 

「じゃあ、これはぜんぶ、くだらないトリックだったのか。」

 

ハリー・ポッターは座ったまま、彼をしばらくじっと見た。 話しはじめると、声はしずかだった。 「テストは公平だったよ、ドラコ。 もしこういう結果でなかったとしても、ぼくは受けいれていた。 こういうことでずるをしたりはしない。ぜったいに。 予測をするまえにきみのデータを見てもいなかったよね。 〈マーリンの禁令〉のせいで最初の実験が無効になったことは正直に言ったし——」

 

「へえ……」 怒りがドラコの声にあらわれはじめる。「どういう結果になるのか知らなかった、だって?」

 

「きみもぼくも知らなかったのはおなじだ。」と、やはりしずかにハリーが言う。 「そうじゃないかと思ってはいたけれど。 ぎりぎり魔法力があるかどうかにしてはハーマイオニー・グレンジャーは強すぎる。マグル生まれがホグウォーツで一番優秀な呪文使いになったりするはずがある? レポートの成績も最高点で、ある女の子が魔法でも学業でも一番になるのは単一の原因からきているのでないかぎり、偶然とは思えない。 ハーマイオニー・グレンジャーの存在が、魔法族かどうかを決めるものは一つしかない、それを持っているかいないかなんだと指ししめしている。強いかどうかはその人の知識と練習しだいだと。 それに、マグル生まれと純血とのあいだで授業にちがいはないし。 きみのほうがただしかったとしたら世界がこうなってはいないはずだ、という点はたくさんありすぎる。 でもドラコ、ぼくはきみに教えていないテストはひとつもしていない。 ずるはしていない。 いっしょに答えを見つけようとしていた。 魔法力が世界から消えていくということは、言われるまでまったく考えたことがなかった。 ぼくにとってもこわい発想だったんだよ。」

 

「もういい。」 ドラコは必死に声をコントロールして、どならないようにつとめた。 「このことはほかのだれにも言いふらさないという約束だったな。」

 

「きみに相談しないうちには、そうだ。」 ハリーは両手をひらいてお願いをするしぐさをした。 「ドラコ、ぼくはできるだけ親切にしようとしてる。ただ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ああ。じゃあ、きみとぼくはここまでだ。 ぼくはもう手を引く。今回のことは忘れさせてもらう。」

 

ドラコは身をひるがえし、のどに熱いものを感じた。裏切られたという感覚。そして、その瞬間、自分がハリー・ポッターを本心から気にいっていたことに気づいたが、それでも一顧だにせず、彼は教室のドアにむけて歩みをすすめた。

 

すると、ハリー・ポッターのすこし大きく、心配そうな声がきこえてきた。

 

「ドラコ……きみは()()()()()()。 わかっていなかったのか? それが犠牲だったということを。」

 

ドラコは足をふりあげた途中でとまり、ふりむいた。 「いったいなんのことだ?」

 

そのときすでに、ドラコの背すじには凍りつくようなつめたさがあった。

 

ハリー・ポッターに言われるまでもなく、わかった。

 

「科学者になるということ。 きみは自分の信念をうたがった。どうでもいい信念じゃなく、自分にとって重要な信念を。 実験をして、データをあつめて、その結果、自分の信念がまちがっていたと証明された。 きみは結果をみて、その意味を理解した。」 ハリー・ポッターの声がゆらいだ。 「その信念が()()()()()()、そういう犠牲になってしまうはずはないということを忘れないでほしい。真であれば、実験結果に反証されず、追認されるはずだから。 科学者になることによって犠牲になったのは、血統が混ざって薄くなるという、()()()()信念だ。」

 

()()()!」とドラコが言う。 「犠牲になんかしていない。 ぼくはまだ信じている!」 声は大きくなり、寒けはひどくなってきた。

 

ハリー・ポッターはくびをふった。 その声はささやき声になった。 「ドラコ……悪いけど、きみはもう、信じていない。」 ハリーの声がまた強くなった。 「証明してあげよう。 だれかが、自分の家でドラゴンを飼っているときみに言ったとする。 見せてみろ、ときみは言う。見えないドラゴンなんだ、と相手はこたえる。 それなら動いている音をきかせてもらう、と言う。相手は、音をださないドラゴンだとこたえる。 それなら、小麦粉を空中にふりかけてそのドラゴンの輪郭を見てみる、と言う。相手は、このドラゴンには粉が透過するとこたえる。 タネは、この人が()()()()()どういう実験結果を説明しないといけないかを正確に知っている、という点にある。 この人は、もしドラゴンがいなければどういうことが起きるかを()()()()()、どういう言い訳が必要になるかも()()()()()知っている。 ドラゴンがいると口では言うかもしれない。ドラゴンがいると自分は信じている、と信じているかもしれない。これは信念についての信念というんだ。 でもその人はほんとうは信じていない。 自分がなにを信じているかを誤解してしまっていたりする。ほとんどの人は、なにかを信じることと、なにかを信じるべきだと思うこととが、どう違うのか気づかないんだ。」 ハリー・ポッターはすでに席から立ちあがっていて、ドラコのほうに数歩近づいてきていた。 「そして、きみはもう、純血主義を信じていない。そうだということを証明してあげよう。 もし純血主義が真なら、ハーマイオニー・グレンジャーは説明不可能な存在だ。どうすれば説明できる? 彼女はぼくみたいに魔法族の孤児でマグルにそだてられた、とか? グレンジャーのところにいって、両親の写真をみせてもらって、 似ているかを確認してもいい。 似ていないと思うか? このテストをやってみようか?」

 

「その場合、親戚にあずけられたりもする。」と震える声でドラコが言う。「だとすれば、似ていてもいい。」

 

「ほら。きみはどういう実験結果について言い訳をしないといけないかがわかっている。 もしまだ純血主義を信じていたなら、こう言っているはずだ。もちろん見にいく、似ていないに決まっている、ほんもののマグル生まれにしては能力がありすぎる——」

 

「親戚にあずけられたんだって言ってるだろう!」

 

「だれかがある人を父親としているかどうかを調べるための科学的なテストがある。 家族に十分なおかねをわたしてやれば、グレンジャーはおそらくそれを受けてくれる。 彼女は結果をおそれてないだろうから。 そのテストの結果はどうなると思う? きみがよければ、すぐやってもいい。 でもきみはすでに、そのテストがどうなるかを知っている。 これからもいつも、知っている。 いつまでも、忘れることはできない。 きみは純血主義を信じていられたらよかったと思うかもしれないが、これからずっと、魔法族かどうかを決めるものがひとつだけある場合に起きることが、起きると予想してしまう。 科学者になるためにきみが犠牲にしたのはこれなんだ。」

 

ドラコの呼吸がみだれた。 「なんてことをしてくれたんだよ?」 ドラコはハリーにせまり、ローブのえりをつかんだ。声が悲鳴のようになり、閉鎖された教室と静寂のなかでは耐えがたいほど大きくひびいた。 「()()()()()()()()()()()()()?」

 

ハリーの声が震えた。 「きみはあることを信じていた。 その信念は真ではなかった、ということをきみはぼくに助けられて知った。 真実はすでに真なのだから、そうだと認めても、ことは悪化しない——」

 

ドラコの右手がこぶしの形をつくり、下がってから上むきに飛んでハリー・ポッターのあごを殴った。体はその衝撃でたおれて机にぶつかり、床にしずんだ。

 

「このバカ!」とドラコがさけんだ。「バカ! バカ!」

 

「ドラコ……」と床からハリーが小声で言う。「ごめん。こうなるのは何カ月も先のことだと思ってた。科学者としてきみがめざめるのがこんなにはやいとは思わなかった。もっと準備する時間があると思ってた。自分がまちがっていたと認めるつらさをやわらげる技術を教えてあげる時間が——」

 

「父上はどうする?」  ドラコの声が怒りで震えた。 「父上にも準備をさせるのか? それともここまできたらどうなっても知らないというのか?」

 

「お父さんには教えられない!」  ハリーは警告するように声をあげた。 「あのひとは科学者じゃないんだから! 約束しただろう!」

 

父上が知ることはないんだと思い、一瞬、ドラコはほっとした。

 

そして真の怒りがこみあげてきた。

 

「ぼくが父上にうそをつくようにしむけたんだな。まだ信じている、と。」 ドラコの声がゆらぐ。 「父上には、これからずっとうそを言わないといけない。大人になってもぼくは〈死食い人〉になれない。なぜなれないのかを言うこともできない。」

 

「もしお父さんがきみをほんとうに愛してくれていれば、」と小声で床のハリーが言う。「〈死食い人〉にならなくてもきみを愛してくれるだろう。それにきみの話では、ほんとうに愛してくれているようだったじゃないか——」

 

()()()養父は科学者だ。」 ドラコのことばはナイフのようにするどかった。 「科学者にならなくても、きみは愛してもらえる。 それでも、きみは彼にとって、すこし特別でなくなるだろう。」

 

ハリーはびくりとし、『ごめん』と言うかのように口をあけ、思いとどまったらしく、口を閉じた。すぐれた洞察か幸運のどちらだったにせよ、正解だ。そうしていなければ、ドラコは彼を殺そうとしたかもしれない。

 

「警告してくれるべきだった。」 ドラコの声が大きくなった。 「()()()()()()()()()()()()!」

 

「し……したよ……このちからの話をするときは毎回、対価のことを言った。 自分がまちがったということを認めなければならなくなる、って。 きみにとって一番つらい道かもしれない、って。 これは科学者になろうとする全員が犠牲にするものなんだって。 実験が言っていることと、きみの家族や友だちが言っていることがちがったらどうする、って——」

 

()()()()()()()()()()?」 ドラコの声は悲鳴になった。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「そ……それは……」と床にいる少年が息をのんだ。 「たしかに分かりにくかったかもしれない。 ごめん。 でも、真実でこわされうるものは、こわされるべきだよ。」

 

殴るだけではたりない。

 

「きみは一つ勘違いしていることがある。」とおそろしげな声でドラコが言う。 「グレンジャーはホグウォーツで一番強い生徒じゃない。 クラスで一番成績がいいだけだ。 その差がなにかは、これからわかる。」

 

ハリーは突然のショックの表情をして、すばやくかがんで身を丸めようとした——

 

だが遅すぎた。

 

「エクスペリアームス!」

 

ハリーの杖が教室の奥へ飛んでいった。

 

「ゴム・ジャバール!」

 

ねばりけのある黒いかたまりがハリーの左手にあたった。

 

「拷問の呪文だ。 人から情報を吐かせるときに使う。 これからきみをそのままにして、ドアから出て鍵をかけてやる。 施錠呪文は何時間かで切れるようにしようか。きみがここで死ぬまで切れないようにしようか。じゃあ、ごゆっくり。」

 

ドラコは杖をハリーにむけたまま、なめらかに後退した。 照準をそらさないまま、片手を落として、かばんをつかんだ。

 

ハリー・ポッターの顔にはすでに痛みがあらわれていた。 「マルフォイ家の人間は未成年魔法の法律が通用しない、ということか? 血統が強いからじゃない。練習していたからなんだな。 もともとは、ほかのだれともおなじように弱かったんだ。 ぼくの予測はまちがってた?」

 

ドラコは指の骨が浮きでるほど強く杖をにぎったが、照準はゆらがなかった。

 

「言っておくけど、」と歯をくいしばりながらハリーが言う。「まちがっている、と言われたとしたら、ぼくはきみの話をきいていた。 自分がまちがったと証明されても、ぼくなら相手を拷問しなかった。 きみもそうなる。 いつか。 きみはもう科学者としてめざめた。そのちからの使いかたを学ばなかったとしても、きみはこれからいつも、」 ハリーが息をあえがせた。「自分の、信念を、検証しようと——」

 

ドラコの後退があまりなめらかでなくなり、すこしはやまった。ドアまでたどりつき、なんとか杖をハリーから離さないまま開いて通りぬけ、教室を出た。

 

そしてドラコはドアを閉めた。

 

自分が知っているかぎりで最強の施錠魔法(チャーム)をかけた。

 

ハリーの最初の悲鳴がきこえるのを待ってから、〈音消(クワイエタス)〉をかけた。

 

そして立ち去った。

 

◆ ◆ ◆

 

「あ゙あ゙あ゙ッ! フィニート・インカンターテム! あ゙あ゙あ゙あ゙ッ!」

 

左手が、沸騰する油の鍋につっこんだまま引きぬけないかのようだ。 ハリーは全力で〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)をかけたが、効いていない。

 

ある種の呪文には専用の対抗呪文が必要なのかもしれない。解除ができない呪文なのかもしれない。それとも、ドラコがそれだけ能力が高いということか。

 

「あ゙あ゙あ゙あ゙ッ!」

 

手の痛みがかなりひどくなり、そのせいで、ハリーはいろいろな発想をしようにもなかなかうまくいかない。

 

けれどもう何回か悲鳴をあげたところで、ハリーはなにをしなければならないか気づいた。

 

ポーチは運悪く、からだの反対側にあり、からだを何度かひねってやっと、手がとどいた。痛みのもとをふりはらおうとして反射的にびくつくもう片方の手がいるせいで、余計に大変だった。 片方の手でやっとそれができたところで、もう片方の手はまた杖をほうりなげてしまっていた。

 

「治療あ゙あ゙あ゙キット! 治療キット!」

 

床のうえにいると、あの緑色の光では暗すぎてなにも見えない。

 

ハリーは立つことができなかった。はうこともできなかった。 杖が落ちたと思う場所にまで回転していくと、そこに杖はなく、杖が見える高さまで片手で自分をもちあげて、そこまで回転していき、杖を手にいれ、治療キットを開いたもとの場所にもどった。 その過程でかなり悲鳴をあげ、多少吐きもした。

 

八回やって、ようやく〈着光(ルーモス)〉をかけることができた。

 

そしてなんと、キットは片手であけられない設計だった。魔法族は全員バカだからだ。そうにちがいない。 しかたなく歯を使って、かなり時間をかけて、なんとか〈麻痺布〉を左手にまくことができた。

 

あの左手の感覚がなくなって、やっとハリーは気を動転させ、しばらく床にちからなく横たわり、泣くことができた。

 

それで——と、ことばを使える程度に回復したハリーのこころが、声なく自問する。()()()()()()()()()()()()()()()

 

ゆっくりと、ハリーは機能するほうの手を机に上面にのばした。

 

そして立ちあがった。

 

深く息をすう。

 

はく。

 

ほほえむ。

 

たいした笑みではないが、一応は笑みだ。

 

ありがとう、クィレル先生。先生がいなければ、負けることはできなかった。

 

これでドラコを改心させられたわけではない。まだまだだ。 本人が思っているのとはおそらく反対に、ドラコはまだ、根っからの〈死食い人〉の子だ。 『強姦』はかっこいい先輩がやることだと思ってそだってきた少年だ。 でも、第一歩ではある。

 

すべてハリーの計画どおりだったとは言えない。 すべてその場の即興だったと言ったほうがいい。 計画ではこうなるのは十二月くらい、つまり、自分が見た証拠を無視しないための技法をドラコに教えたあとになってからのはずだった。

 

だがハリーは、今日のドラコの恐怖の表情を見て、ドラコがすでに代替仮説を真剣に考えていることに気づいた。そして、その瞬間をのがさなかった。 合理性に関して、真の好奇心の発露は、映画にあるような真の愛の発露とおなじ種類の改心の効力がある。

 

ふりかえってみると、ハリーは何時間かをかけて、魔法の歴史上最大の発見をしようとしていた。 そして、何カ月かをかけて、十一歳の少年の未発達な精神的障壁をくずそうとしていた。 作業完了時間をみつもるハリーの能力には、なんらかの深刻な認知的欠陥があるということかもしれない。

 

今回のことでハリーは〈科学の地獄〉に落とされるだろうか? なんともいえない。 魔法が世界から消えていくという可能性をドラコに忘れさせない作戦をたて、最初その方向を示唆する証拠となる部分の実験をドラコが担当するようにした。 遺伝を説明してあげて、ドラコに魔法生物のことを気づかせた(ハリーが考えていたのは、〈組わけ帽子〉のような、まだ機能しているがだれにもつくることができなくなった古い人造物(アーティファクト)のことだったが)。 だがハリーはいっさい証拠を誇張しなかったし、結果の意味をゆがめることもしなかった。 決定的だったはずのテストが〈マーリンの禁令〉で無効化されたときも、正直にドラコに話した。

 

ただ、そのあとの部分は……

 

でも、ドラコに言ったことは()()()()()()し、 ドラコは信じた。()()()()()()()()()()()()

 

たのしい結末にならなかったことは、認めざるをえない。

 

ハリーはふりむいて、よろめきながらドアへとむかった。

 

ドラコの施錠呪文のお手なみ拝見だ。

 

一手目として、単にドアノブをまわしてみる。 はったりという可能性もある。

 

はったりではなかった。

 

「フィニート・インカンターテム」 と言って出た声はだいぶかすれていて、ハリーは呪文がかからなかったのを感じた。

 

だからハリーはもう一度ためしてみた。今回はできた感じがした。 だが、ドアノブをまわしてみても、効き目はなかったようだ。 おどろきではない。

 

今度は本格的な手段をつかってみよう。 ハリーは深く息をすった。 これはいままで学んだなかで一番強力な呪文だ。

 

「アロホモーラ!」

 

そう言ってから、ハリーはすこしよろめいた。

 

教室のドアはまだあかない。

 

ハリーはショックをうけた。 ダンブルドアの禁断の通廊にはもちろん近づくつもりもなかったが、 いずれにしろ魔法の鍵を解錠する呪文は便利そうだったから、学んでおいた。 ダンブルドアの禁断の通廊は、ドラコ・マルフォイにできる程度のセキュリティも見やぶれないような愚か者を引きよせるようになっているのか?

 

ハリーのからだのすみずみに恐怖がしみこんできた。 治療キットのはり紙には、〈麻痺布〉は三十分までしか安全につかうことはできないと書いてあった。 三十分後にそれは自動的にはがれ、二十四時間たたないと再利用できない。 いまは午後六時五十一分。 〈麻痺布〉をまいたのは五分まえだ。

 

ハリーは一歩さがって、ドアをながめた。 オーク材のしっかりした板で、くいこんでいるのは真鍮のドアノブだけだ。

 

ハリーは爆発や切断や粉砕の呪文を知らない。爆発物を〈転成〉することは、燃やすものを〈転成〉するなというルールに違反する。 酸は液体だし煙がでる……

 

といっても、()()()()()()()にとってはとるにたらない障害だ。

 

ハリーは杖をドアの真鍮の蝶つがいにあてて、材料としての綿をはなれた純粋に抽象的な綿のかたちをイメージすることに集中し、さらに真鍮の蝶つがいを構成する模様をとりのぞいて純粋な素材としてのそれをイメージし、二つの概念をあわせてできる物質にかたちをあたえた。 毎日一時間の〈転成術〉の練習を一カ月間つづけた結果、ハリーは五立方センチの対象物を〈転成〉するのに一分かからなくなっていた。

 

二分たって、蝶つがいはなにも変化しなかった。

 

ドラコの施錠呪文を設計した人がだれかは知らないが、これも織りこみずみらしい。 それとも、ホグウォーツ城には耐性があって、このドアは城の一部なのか。

 

壁は一見して、かたい石でできていることがわかる。 床も、天井も。 かたまりをなすなにかの一部分をとりだして〈転成〉することはできない。 やりたければ壁全体を〈転成〉する必要があり、何時間か、ことによると何日もつづけて取り組まなければならない。それもうまくいくと仮定してのことだし、そもそも壁が城全体とつながっていたとしたら……

 

〈逆転時計〉は午後九時までひらかない。 そのあと、まだドアがあいていた午後六時にもどることはできる。

 

あの拷問の呪文はいつ切れる?

 

ハリーは息をごくりとのんだ。 涙が目にもどってきつつある。

 

ハリーの精神が実に巧妙なアイデアをはじきだした。ポーチのなかにある道具箱から弓のこを取りだし、それで自分の手を切断すればいい。当然痛いが、神経がなくなるのだから、ドラコの呪文の苦痛よりはましかもしれない。 治癒キットのなかには止血帯もある。

 

というのはどうみてもおそろしく愚かなアイデアで、ハリーは死ぬまで後悔することになるだろう。

 

だが、自分が拷問をもう二時間耐えられるかどうかわからない。

 

この教室から出たい。この教室から()()()()出たい。 〈逆転時計〉がつかえるようになるまで二時間、泣き叫びながら待つのはいやだ。 ここから出て、だれかを見つけて、この手にかかった拷問の呪文を解除してもらわないと……

 

()()()()、とハリーは自分の頭脳にむけてさけんだ。()()()() ()()()()

 

◆ ◆ ◆

 

スリザリンのドミトリーはほとんどからだった。 みんな夕食だ。 ドラコはなぜか、あまり食欲がなかった。

 

ドラコは個室のドアをとじ、鍵をかけ、閉鎖の〈魔法(チャーム)〉をかけ、〈音消(クワイエタス)〉をかけ、ベッドに腰をおろし、泣きはじめた。

 

不公平だ。

 

不公平だ。

 

ドラコはこれまで、ほんとうに()()()経験をしたことがなかった。 父上からは、一度めにほんとうに負けるときはとてもつらいと警告されていた。 だが、ドラコは()()()負けた。不公平だ。はじめて負けるときに、()()()()うしなうことになるなんて不公平だ。

 

地下洞のどこかで、ドラコが好意をもっていた少年が、苦痛に泣き叫んでいる。 好意をもった相手を傷つけたことはこれまでなかった。 当然のむくいとして罰をあたえることはたのしいはずだが、これはただ、気持ちが悪いだけだ。 父上は警告してくれなかったが、これはだれもが大人になるまでに学ぶつらい教訓なのだろうか。それとも、ドラコが弱いだけなのだろうか。

 

泣き叫ぶのがパンジーであればよかったのに。それならまだよかった。

 

最悪なのは、ハリー・ポッターを傷つけるのがまちがいだったかもしれないということだ。

 

このさきドラコの味方になってくれるのはだれだ? ダンブルドアか? こんなことをしてしまったあとで? ドラコはいずれ生きたまま焼かれるだろう。

 

ほかの行き場がない以上、ハリー・ポッターのもとにもどらなければならないだろう。 もしハリー・ポッターが受けいれてくれなかったら、ドラコの将来はない。〈死食い人〉にもなれず、ダンブルドアの派閥にもはいれず、科学もまなべないあわれな少年だ。

 

あの罠はしかけも実行も完璧だった。 〈闇〉の儀式でささげた犠牲はけっして取りかえせないと、父上はドラコに何度も警告した。 だが、いまわしいマグルたちが、杖を必要としない儀式を発明していたことを、父上は知らなかった。自覚なしに参加させられてしまう儀式だ。そしてそれは、科学者が知るおそろしい秘密のうちで、ハリー・ポッターが教えてくれたひとつにすぎない。

 

ドラコはそれから大声で泣いた。

 

こんなつもりではなかった。こんなつもりではなかったが、もうもどれない。 手遅れだ。自分はもう科学者になってしまった。

 

ハリー・ポッターを解放して謝罪すべきだということはわかっている。 そうするのがかしこい。

 

だがドラコはベッドから動かず、すすり泣いた。

 

ドラコはすでにハリー・ポッターを傷つけた。 それができる機会は二度とないかもしれない。 これから死ぬまでこの思い出にしがみつくしかないかもしれない。

 

せいぜい泣き叫べ。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは糸のこの残骸を地面に落とした。 蝶つがいは頑丈で、傷ひとつつかなかった。酸や爆発物を〈転成〉してこのドアをあけようと必死にこころみたとしても、失敗していたような気がしてきた。 いい面としては、これで糸のこは破壊された。

 

腕時計によると、いまは午後七時二分。のこり十五分もない。ハリーは、破壊しておくべき鋭利なものがポーチのなかにまだのこっていないか、思いだそうとした。そして、また涙がたまっていくのを感じた。 〈逆転時計〉がひらいたとき、時間をさかのぼって、あれを()()()()ようにすることさえできれば——

 

その瞬間、ハリーは自分がバカだったことに気づいた。

 

部屋にとじこめられたのはこれがはじめてじゃない。

 

この場合どういうやりかたがただしいかは、マクゴナガル先生からすでに言われている。

 

……〈逆転時計〉をこういうことに使わないように、とも言われているが。

 

マクゴナガル先生は今回は特殊な例外にあたいすると思ってくれるだろうか? それとも、単に〈逆転時計〉を没収するだろうか?

 

ハリーは持ちものと、証拠となるものをすべてあつめ、ポーチに入れた。 吐いたものはスコージファイで掃除できたが、ローブをびしょびしょにした汗には効果がなかった。 ひっくりかえった机はひっくりかえったままにした。片手でやらなければらないほど重要なことではない。

 

それが終わると、ハリーは腕時計を見た。午後七時四分。

 

ハリーは待った。一秒一秒が一年のように感じる。

 

午後七時七分、ドアがひらいた。

 

ひげもじゃのフリトウィック先生の顔はずいぶん心配そうだった。 「大丈夫かい、ハリー?」とレイヴンクロー寮監は甲高い声で言った。 「ここにきみが閉じこめられている、というメモがとどいて——」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「英語」
数百年まえの英語というとおそらく、中英語 (Middle English) 。その間、英語は「大母音推移」をへたりしてるので、つづりのうえで似ていても当時と今で発音がちがう単語がたくさんあるそうです。


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24章「マキャヴェリ的知性仮説」

漫画『デスノート』の軽いネタバレがあります。ご注意ください。


◆ ◆ ◆

 

第三幕:

 

ドラコは大広間のちかくに見つけた小窓のまえの壁龕(アルコーヴ)で、動揺をおさえつつ、待った。

 

これから、代償をしはらうことになる。それも小さな代償ではない。 朝起きてすぐの時点で、大広間の朝食に行くのは無理だ、とドラコはわかっていた。もし行けばハリー・ポッターと顔をあわせるかもしれないし、そうしたら、もうどうなるかわからない。

 

足音がいくつかちかづいてきた。

 

「おう。」とヴィンセントの声が言う。「今日の親分、機嫌が悪いからな。変なまねすんじゃねえぞ。」

 

あのバカの皮を生きたままはいでから死体を送りかえして、もっとあたまのいい従僕にかえてくれと要求してやりたい。死んだスナネズミとかに。

 

足音が一組去り、もう一組の足音が近づいてきた。

 

ドラコは不吉な予感がしていたが、それがさらにひどくなった。

 

ハリー・ポッターのすがたが視界にはいった。 注意ぶかく中立的な表情をしているが、青色のえりのローブは妙に曲がっていて、ちゃんと着れていないように見えた——

 

()()()。」とドラコはなにも考えずに言ってしまった。

 

ハリーは自分でもながめるかのように左腕をあげた。

 

そこからだらりと下がる手は、死んでいるように見えた。

 

「マダム・ポンフリーからは、一時的なものだって言われた。あしたの授業がはじまるころには、ほぼ回復するって。」

 

そう知ってドラコはほんの一瞬だけほっとした。

 

そして気づいた。

 

「マダム・ポンフリーのところに行ったのか。」と小声でドラコが言った。

 

「そりゃ行くよ。」とあたりまえのことのようにハリー・ポッターは言う。「手がつかえなくなってたんだから。」

 

ドラコはゆっくりと、自分がどうしようもないバカだったことに気づいた。自分がしかりつけたスリザリンの上級生たちよりも、はるかに下だったことに気づいた。

 

マルフォイ家の人間になにかされたとき通報するような人はいない、とドラコはたかをくくっていた。 ルシウス・マルフォイに目をつけられたがる人などいない、と。

 

だがハリー・ポッターは、ゲームにくわわるのに気おくれするハップルパフ生ではない。 彼はすでに参加している。そして父上にはもう、目をつけられている。

 

「それ以外にマダム・ポンフリーはなんて言った?」と言って、ドラコは心臓がのどから出そうになった。

 

「フリトウィック先生から、ぼくの手にかけられた呪文は〈闇〉の拷問呪文で、きわめて深刻な事態だから、だれにやられたのか言えないという答えはとうてい許容できない、と言われた。」

 

沈黙がながくつづいた。

 

「それで?」と震える声でドラコが言った。

 

ハリー・ポッターはわずかに笑みをうかべた。 「本気であやまった。フリトウィック先生は()()()けわしい表情になった。それからぼくは、一連のできごとはたしかにきわめて深刻で、秘密で、()()()事態だ、だから総長にこのことはもう報告してある、と言った。」

 

ドラコは息をのんだ。 「だめだ! フリトウィックがそれだけですませるわけがない! ダンブルドアに確認をとりにいくだろう!」

 

「そのとおり。ぼくはその場で総長室に連行された。」

 

ドラコは震えだした。 もしダンブルドアが、本人の同意をとるかどうかは別にして、ハリー・ポッターをウィゼンガモートに連れだしたら……、そして〈真実薬〉を与えられたうえで、〈死ななかった男の子〉がドラコに拷問されたという証言をしたりしたら……。 ハリー・ポッターはあまりに多くの人に愛されている。採決になれば父上も勝てないかもしれない……

 

ダンブルドアは父上の説得に応じるかもしれないが、かならず()()を要求する。おそろしい対価を。 ゲームにはいまやルールがあり、好き勝手にだれでも脅迫できるわけではない。 でもドラコは、自分の自由意志で、ダンブルドアの手のなかにはいっていってしまった。 そしてドラコは高い価値のある人質だ。

 

もう〈死食い人〉になれない以上、父上が思っているほどの価値はないのだが。

 

そう思うと〈切断の魔法(チャーム)〉をうけたように心臓が痛んだ。

 

「それから?」と小声でドラコが言った。

 

「ダンブルドアは即座にきみのしわざだと突きとめた。 きみとのつきあいのことは知られていたんだ。」

 

考えうる最悪のシナリオだ。 だれのしわざか推測できなかったとしたら、ダンブルドアも〈開心術〉をつかうリスクをおかさなかったかもしれないが……もし()()()()()のなら……

 

「それで?」と無理してドラコは言った。

 

「しばらく話をした。」

 

「それで?」

 

ハリー・ポッターはにやりとした。 「なにもしないことが一番あなたののためになる、とダンブルドアに説明してあげた。」

 

ドラコのあたまが煉瓦の壁にぶつかって飛び散った。 そして、バカみたいに口をぽかんとさせながら、ハリー・ポッターを見つめるしかなかった。

 

だいぶかかって、ドラコは思いだした。

 

ハリーはダンブルドアの謎めいた秘密を知っている。スネイプが脅迫の材料としてつかっている秘密を。

 

その様子がもう目にうかぶ。 ダンブルドアはものものしい態度で、裏ではそうなるのを待ちのぞんでいたのに、どれだけ事態が深刻なのかをハリーに説明する。

 

そこでハリーは礼儀ただしくダンブルドアに、自分がかわいければ余計なことを言うな、と言う。

 

父上から、こういう相手のことを警告されたことがある。自分を破滅させうるにもかかわらず、好人物で、心底憎めないような相手のことを。

 

「そのあとで、総長はフリトウィック先生に、この件はたしかに秘密で繊細な問題で、すでに報告はうけていた、だから今回はこれ以上追及しても、本人ふくめてだれのためにもならないと思う、と言った。 フリトウィック先生はそれから、総長のいつもの謀略も一線をこえた、とかなんとか言いかけたから、そこでぼくが割りこんで、これはぼく自身のアイデアで、総長に強制されたりしてはいない、と説明した。フリトウィック先生はふりむいて、ぼくに説教しかけたけど、総長がそこに割りこんで、〈死ななかった男の子〉は奇妙で不思議な冒険をする運命なのだから、偶然いきあたってしまうより、意図的にくびをつっこむほうがいい、と言った。そしたらフリトウィック先生は小さな両手をふりあげて、ぼくたち()()にむけて甲高い声で、こう言った。二人がなにをたくらんでいるのか知らないが、自分がレイヴンクローにいるかぎりこんなことは二度とごめんだ、つぎがあったら、もうハリー・ポッターの面倒は見きれないからグリフィンドールに引きとらせる、こういう()()()()()()()なことはあそこだけにしてもらいたい——」

 

ここまでされると、ハリーを憎むのはとてもむずかしくなる。

 

「とにかく、ぼくはレイヴンクローからほうりだされたくないから、こういうことは二度と起きない、とフリトウィック先生に約束した。もし起きたら、そのときはだれにやられたか話す、と。」

 

ハリーの両目は冷たくなっているべきだったが、そうではなかった。 声はおそろしげな脅迫の調子であるべきだったが、そうではなかった。

 

そこで、ドラコが当然きくべきだった疑問を思いついたので、その空気は一瞬でとぎれた。

 

「なぜ……言わなかった?」

 

ハリーは窓のほうへ歩いていき、細く日の光が差す壁龕のなかでとまった。そこで、くびを外にむけ、ホグウォーツの緑のグラウンドに目をやった。 そのからだとローブと顔が光にてらされた。

 

「なぜだろう?」 ハリーは声をつまらせた。 「多分、きみに怒る気になれなかったからかな。 ぼくが先にきみを傷つけたことはわかっていた。 公平だったとも思わない。ぼくがしたことのほうがひどかったから。」

 

また別の煉瓦の壁にあたったみたいに感じる。 ハリーの言いかたはドラコの理解をこえていて、古典ギリシア語のようなものだった。

 

ドラコはあたまのなかでパターンを見つけようとしたが、さっぱりわからなかった。 ハリーの言っているのは譲歩であり、本人の利益にならない。 弱みをにぎったハリーが、ドラコをもっと忠実なしもべにするために言うべきことですらなかった。 そのためにハリーが強調すべきなのは、ドラコをどれだけ傷つけたかではなく、自分がいかに寛容かだ。

 

「でも、」とほとんどささやくような小さな声でハリーが言う。「もうおなじことはしないでほしい。 あれはつらかった。 二度目は許せるかどうかわからない。 許したいと思うかどうかもわからない。」

 

わからない。

 

ハリーはドラコと()()()()なろうとしているのか?

 

ハリー・ポッターが、あんなことをしたあとでそんなことができると信じるほどのバカであるはずがない。

 

ドラコがハリーにそうしたように、だれかを友や協力者にしようとすることはできる。あるいは、相手の人生を台無しにして選択肢をなくすこともできる。両方というのはありえない。

 

といっても、そうでないとすれば、ハリーがなにしようとしているのか全然けんとうがつかない。

 

そこでおかしな考えが浮かんだ。ハリーが昨日何度も言いつづけたことだ。

 

検証(テスト)せよ、ということ。

 

ハリーはこう言った。きみはもう科学者としてめざめた。そのちからの使いかたを学ばなかったとしても、きみはこれからいつも、自分の、信念を、検証しようと……。 苦悶のなかでつむぎだされたその重おもしいひびきが、ドラコのこころのなかをぐるぐるとまわった。

 

もしハリーがうっかり相手を傷つけてしまったと後悔している友だちのふりをしているのなら……

 

「そういう計画だったんだな!」と告発する調子にしてドラコが言う。「怒ったからじゃなく、そうしたいからやってしまったんだろう!」

 

ハリー・ポッターならこう言うだろう。愚か者め、もちろん計画どおりさ。これできみはぼくのものだ——

 

ハリーはドラコのほうにふりむいた。 「昨日のあれを、ああいうふうにやる計画はなかった。」  のどにつっかえるような声でハリーが言う。 「計画では、いつも真実を知るほうが得だということを教えてから、ふたりでいっしょに血統についての真実を解明しようとして、その答えがどうなっても受けいれるはずだった。 昨日は……いそぎすぎた。」

 

「いつも真実を知るほうが得、か。」と冷たくドラコが言う。「恩を売ったみたいに言うじゃないか。」

 

ハリーはうなづいた。それにドラコが心底びっくりしていると、ハリーはこう言った。 「ルシウスがおなじことを思いついて、強い魔法使いがあまり子どもを作らなくなったのが問題だ、と言いだしたらどうなる? 子どもを作ろうとする強い純血者に資金を出す事業をはじめるかもしれない。 純血主義が()()()()()()()()()()、ルシウスはまさにそうしているべきだ——自分のがわで、自分のちからで実行できることをして、問題に対処できるんだから。 いま、ルシウスの知り合いのなかできみだけが、ルシウスがそういったことで労力を無駄にするのを止めることができる。きみだけがほんとうの真実を知っていて、ほんとうの結果を予測できるから。」

 

育った場所が奇妙すぎて、ハリー・ポッターは実質的には魔法使いというより魔法生物だ、とドラコは思った。 つぎにハリーがなにを言ったりやったりするのか、まったく予想できない。

 

「なぜだ?」 痛みと裏切りの感覚を声にこめるのはむずかしくなかった。 「なぜぼくにこんなことをした? なにをするつもりで?」

 

「それは、きみがルシウスの跡とりだから。それに、信じられないかもしれないけど、ダンブルドアはぼくがダンブルドアの陣営にいると思っている。 だからぼくたちは大人になったら、あの二人の戦争で、戦う相手どうしになるかもしれない。 でも、別のこともできるかもしれない。」

 

ゆっくりと、ドラコの精神がこのことを理解した。 「二人の最終決戦を誘発して、二人が消耗しきったところで権力をうばう、ということか。」 ドラコは胸のなかに冷たい恐怖を感じた。 どんな対価が必要だろうとこれをなんとかして止めないと——

 

ハリーはくびをふった。 「とんでもない!」

 

「え……?」

 

「きみはそんな話にのらないだろうし、ぼくもそうだ。 ぼくは自分たちのいる世界をこわしたくない。 でも、想像してみてごらん。たとえば、ルシウスは自分の陣営にいるきみが〈陰謀団〉をあやつっていると思っていて、ダンブルドアは自分の陣営にいるぼくが〈陰謀団〉をあやつっていると思っている、としたら。そしてルシウスはきみがぼくを寝返らせて、ダンブルドアには〈陰謀団〉がぼくのものだと思わせていると思っているとしたら。ダンブルドアはぼくがきみを寝返らせて、ルシウスには〈陰謀団〉がきみのものだと思わせていると思っているとしたら。それでどちらも、相手に気づかれないようにして、ぼくたちを助けてくれるとしたら。」

 

ドラコは絶句したふりをする必要がなかった。

 

昔、父上に『(ライト)の悲劇』という芝居に連れていってもらったことがある。ライトという名前の、ものすごくあたまのいいスリザリン生が邪悪な世界を浄化しようとする話だ。彼はいにしえの指輪を使って、名前と顔がわかっている相手をだれでも殺すことができる。敵はもうひとりの、ものすごくあたまのいいスリザリン生で、名前をローライトといい、真の顔を隠すためにいつも変装をしている。 ドラコはとくに中盤のもりあがるあたりの場面で、何度もさけんだり声援をしたりした。結末は悲しく、ドラコはとてもがっかりした。父上はやさしく、題目に『悲劇』という単語が使われていたことを指摘した。

 

そのあとで父上はドラコに、なぜこの芝居に連れて来たか分かったか、ときいた。

 

ドラコは、大人になったらライトやローライトのように狡猾になれと教えるためだ、と言った。

 

父上は、まったく正反対だと言い、ローライトは自分の顔をうまく隠してはいたものの、不用意に名前をライトに教えてしまったということを指摘した。 そうやってその芝居のあらゆる部分がつぶされていくのを聞いて、ドラコは目を丸くした。 父上は最後に、こういう芝居はいつも非現実的だ、と言った。というのは、もしライトのようにかしこい人が実際にどうするかを劇作家が()()()()()知っていたら、その劇作家は劇を書くのをやめて、自分で世界征服をしようとするはずだからだ、と。

 

そこで父上はドラコに〈三の法則〉のことを教えた。みっつ以上のことを必要とする謀略は、現実世界ではかならず失敗するという。

 

それだけでなく、()()()()()()()()()()()()()()()のは愚か者だけだから、実際の限度はふたつだとも。

 

ハリーの作戦の不可能性はあまりに巨大すぎて、表現することすらできない。

 

だが、こういうのはまさに、師をもたない人が、自分はかしこいから芝居をみるだけで謀略についてまなべたと思いこんだときにしてしまう種類の失敗だ。

 

「それで、この計画をどう思う?」とハリー。

 

「よくできてはいる……」とドラコはゆっくり言った。 『名案!』と叫んで驚嘆したりしても、うたがわれるだけだ。 「ちょっと質問してもいいか?」

 

「どうぞ。」

 

「グレンジャーに高価なポーチを買ってやったのはなぜだ?」

 

「ぼくは気にしてない、という意思表示さ。」とすぐさまハリーが言う。「でもこれから数カ月のあいだ、ぼくからちょっとしたお願いをされたとき、彼女はことわりにくく感じるだろう。」

 

この瞬間、ドラコはハリーがほんとうに自分の友だちになろうとしているのだと気づいた。

 

グレンジャーに対するハリーのやりかたは、なかなかいい。みごととさえいえるかもしれない。 敵に不信がられずに、友好的なまま、債務をおわせることができる。ただなにか頼みをするだけで、相手を操作することができるようになる。 ドラコだったら標的に不信がられてバレるだろうが、〈死ななかった男の子〉だったら問題ない。 謀略の第一歩として、敵に高価な贈りものをする。考えたこともなかったが、この手はありかもしれない……

 

ハリーの敵からすれば、この謀略は最初、見ぬくのがむずかしいかもしれないし、バカげて見えるかもしれない。けれど一度理解してしまえば論理的ではあるし、ハリーに自分への害意があることにも気づかされる。

 

けれどハリーがいまドラコに対して見せているふるまいは、論理的ではない。

 

ハリーの友だちからすれば、ハリーはマグルに教えられた奇妙な、不可思議なやりかたで、友だちになろうとしてくるのだ。自分の人生が完全に崩壊させられたりもするやりかたで。

 

沈黙がながびいた。

 

「ぼくが友情を悪用してしまったことはわかってる。」とやっと、ハリーが言う。 「でもドラコ、最終的には、ぼくはきみといっしょに真実をみつけたかっただけなんだ。 これで許してもらえる?」

 

道はふたつにわかれている。あとで考えをかえて後もどりすることもできる道は、そのうちひとつしかない……

 

「そういうつもりだったなら、理解はできる気がする。」  うそだ。 「だから許す。」

 

ハリーの両目がかがやいた。 「そう言ってくれるとうれしい。」

 

二人は壁龕のなかで立った。いまも細く差す陽光がハリーに当たっているが、ドラコは影にいる。

 

そしてドラコは恐怖と絶望を感じながら気づいた。ハリーの友人になることはたしかにおそろしい運命だが、いまやハリーにはドラコを脅迫する種がいくつもあり、ハリーの敵になるのはもっとおそろしい。

 

おそらく。

 

多分。

 

いや、なりたければ、あとで敵になることはいつでもできるさ……

 

破滅的だ。

 

「それで、これからどうする?」とドラコ。

 

「来週の土曜日にまた研究?」

 

「今回みたいなことにはならないように——」

 

「心配いらない。ならないよ。もう何回か()()()()()になったら、ぼくが追い越されちゃうから。」

 

ハリーは笑った。 ドラコは笑わなかった。

 

「あ、解散のまえに……」とハリーがおずおずとした笑みをして言う。「こういう流れできくことじゃないと思うけど、ちょっと助言してほしいことがあるんだ。」

 

「ああ。」と言いながら、ドラコはハリーの直前の発言がまだすこし気になっていた。

 

ハリーの目にちからがこもった。 「グレンジャーにポーチを買ってやるために、グリンゴッツの金庫からくすねておいた金をほとんど使いはたしちゃって——」

 

え。

 

「——金庫の鍵はマクゴナガルか、いまはもしかするとダンブルドアがもっている。 ぼくはこれから多少おかねのかかる謀略を発動しようと思っているんだけど、どうにかしてあの金庫に行って必要な分を——」

 

「そのおかねはぼくが貸そう。」と完全に反射的にドラコの口が言った。

 

ハリーはいい意味でびっくりしたようだ。「ドラコ、そんなことをしてもらうわけには——」

 

「いくらだ?」

 

金額をつげられて、ドラコはついショックを表情にだしてしまった。 一年分のこづかいとして父上からもらった全額にちかい。これでは数ガリオンしかのこらない——

 

そこでドラコは自分をこころのなかで蹴とばしたくなった。 父上に手紙を書いて、()()()()()()()()()()()()()()()()()おかねがなくなった、と説明すればいいだけのことだ。父上は金色のインクで手紙をかえして、特別にほめてくれるはずだ。それに、二週間は食べつづけられる巨大な〈チョコレート・フロッグ〉と、ハリー・ポッターがまた借りにきたときにそなえた十倍のガリオンも送られてくるだろう。

 

「多すぎるよね。ごめん、頼むべきじゃなかった——」

 

「おいおい、ぼくはマルフォイだぞ。そんな大金が必要だというのにびっくりしただけだ。」

 

「だいじょうぶ。」とハリーはほがらかに言う。「きみの家族の不利益にはなるようなことはないから。ただの悪だくみさ。」

 

ドラコはうなづいた。「それならいい。いますぐとりにいこうか?」

 

「うん。」

 

そして二人は壁龕を出て地下洞にむかったが、ドラコはついこうきいてしまった。「その謀略の標的を教えてくれないか?」

 

「リタ・スキーター。」

 

ドラコはこころのなかで悪いことばをいくつか唱えたが、ことわるにはもう手遅れだった。

 

◆ ◆ ◆

 

地下洞につくまでに、ドラコはもう一度、考えをまとめておこうとした。

 

自分はハリー・ポッターを憎もうとしてもあまり憎めない。 ハリーは友好的であろうとしてくれている。ただし、あたまがおかしい。

 

だからといって、ドラコは復讐をやめたり遅らせたりはしない。

 

「それで、」と言うまえに、ドラコはあたりを見まわしてだれもいないことを確認した。 もちろん二人の声は〈曖昧化〉されているが、念をいれておくにこしたことはない。 「ずっと考えていたんだが、〈陰謀団〉にだれかを加入させるときは、ぼくときみが対等な関係にあると思われるようにしないといけない。 そうせずにいて、たったひとりでも、父上に謀略をバラそうとする人がでたら大変だ。 このことはもう気づいていただろう?」

 

「当然。」とハリー。

 

「実際対等になるのか?」

 

「申し訳ないけど、そうはいかない。」 ハリーはあきらかに、つとめてやさしい言いかたをしている。傲慢さを隠そうともしているが、だいぶ失敗している。 「きみはまだ〈ベイジアン陰謀団〉の『ベイジアン』の意味も知らない。 ほかのだれかをいれるまえに、きみには何カ月も勉強してもらわないと。 かたちだけでも。」

 

「ぼくがまだよく科学を知らないからか。」と言って、ドラコは中立的な声をたもつように気をつけた。

 

ハリーはくびをふった。 「デオキシリボ核酸とか科学のこまかいことを知らないのが問題なんじゃない。 対等にならない理由はそれじゃない。 合理主義の方法、つまりいろいろな発見の背後にある、()()()()秘密の知識について訓練をうけていないのが問題なんだ。 それも教えてあげようとは思うけれど、そう簡単じゃない。 昨日したことを思いだしてみてほしい。 きみもたしかにいくらかの仕事はしたけれど、 指令をしていたのはぼくだけだ。 きみはいくつかの問いにこたえたけれど、問いを発したのはぼくだけだ。 きみは車を押した。ぼくはひとりで舵とりをした。 合理主義の方法なしに、〈陰謀団〉の舵とりはできやしない。」

 

「そうか。」  ドラコはがっかりした声で言った。

 

ハリーの声はさらになだめるような調子になった。 「人づきあいとかについての、きみの専門性には敬意をはらうつもりだよ。 でもぼくの専門性についても敬意をはらってもらいたいし、〈陰謀団〉の舵とりに関しては、きみはぼくと対等になりようがない。 きみは科学者になって()()しかたっていないし、デオキシリボ核酸についての秘密をひとつ知っているだけだし、合理主義の方法の訓練をひとつもうけていない。」

 

「わかった。」

 

それはドラコの本心だった。

 

『人づきあい』とハリーは言った。 〈陰謀団〉の支配権をうばうことは造作もないだろう。 そのあとは、念のためハリーを殺してさえおけば——

 

昨晩、ハリーが泣き叫んでいることを思って自分がどれだけいやな気分になったかが思いだされる。

 

ドラコは悪いことばをもういくつか、こころのなかで唱えた。

 

よし。 ハリーは殺さない。 マグルに育てられたのだから、あたまがおかしいのはハリー本人のせいじゃない。

 

ハリーは生かしておく。そうすればドラコは、それがハリーのためだったと言ってやることができる。感謝してもらいたいくらいだと——

 

それが実際にハリーのためだということに気づき、ドラコは予想外にうれしい感覚をおぼえた。 もしダンブルドアと父上をもてあそぶような作戦を実行したりすれば、ハリーは()()

 

これで()()だ。

 

ドラコはハリーの夢をすべてうばう。ちょうどハリーがドラコにそうしたように。

 

ドラコはそれがハリーのためだったと教えてやる。そしてそれはまったくの事実でもある。

 

ドラコは〈陰謀団〉と科学のちからをたずさえて、魔法界を純化する。そうすれば父上は、〈死食い人〉になったのとかわらないくらい、ドラコを誇りに思ってくれるだろう。

 

ハリー・ポッターの悪だくみはくじかれ、正義が勝つ。

 

完璧な復讐だ。

 

ただし……

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーは言った。

 

ハリーのあたまがどうおかしいのかを正確に表現するすべをドラコはもっていないが——

 

(ドラコは『再帰の深さ』という用語をきいたことがないからである。)

 

——そのさきにどういう謀略がありそうかなら、だいたい想像がつく。

 

……ただし、ドラコにそうさせることが実は()()()()()()謀略の一部であれば……それをくじくことによってドラコが罠にはめられてしまっているのであれば、話はかわる。ハリーは自分の作戦がうまくいかないことを知りながら、ただドラコの妨害をおびきよせるためだけにこうしているのだったりしたら——

 

いや。 これ以上はもう気が狂う。 限度というものがある。 〈闇の王〉ですら、そこまでひねくれてはいなかった。 そんなことは現実社会では起きない。父上がきかせてくれたバカげたおとぎ話にしかありえない。英雄(ヒーロー)の作戦を妨害しようとして結果的に毎回その助けをしてしまう、愚かなガーゴイルの話みたいなものだ。

 

◆ ◆ ◆

 

そのドラコのとなりを歩くハリーは、笑みをうかべながら、人間知性の進化的起源について考えていた。

 

進化のしくみがだれにもよくわかっていなかった最初のころ、『人間知性が進化したのは道具を発明できるようになるためだった』、というようなとんでもない考えかたを皆がしていた。

 

これがとんでもないのは、たったひとりがある道具を発明しさえすれば、部族の全員がそれを使い、それがほかの部族に伝搬し、数百年後の子孫もそれを使うことができるからだ。 科学の進歩という観点からはいいことだが、進化的には、その発明者はあまり()()()()ではなかったはずだ。つまり、ほかの人()()()()それほど多くの子どもをつくれたわけではない。 ある遺伝子は、()()()()適応優位なときにだけ、母集団内での相対頻度をふやすことができる。孤立した突然変異を普遍的なものにし、全員にいきわたらせることができる。 すばらしい発明というのは頻繁には起きないから、変異を普及させるのに必要な一貫した淘汰圧をうみだすことができない。 銃や戦車や核兵器をもつ人間とチンパンジーとを比較してみると、知性は技術のためにできた、とつい思えてしまう。 つい考えてしまうことだが、まちがいなのだ。

 

進化のしくみがだれにもよくわかっていなかったころ、『気候が変わって、部族が移住しなければならなくなって、新しく現れたいろいろな問題に対処するために人間はかしこくなった』、というようなとんでもない考えかたを皆がしていた。

 

でも、人類はチンパンジーの四倍の大きさの脳をもっている。人間の代謝エネルギーのうち二割は脳が消費する。 人間はほかの種とくらべて()()()()()かしこい。 環境が問題の難度をちょっとあげたからといってこういう風にはならない。 それなら生物がちょっとかしこくなるだけで解決できる。 桁はずれに巨大な脳ができるまでには、なんらかの進化プロセスが()()して、限界のない巨大化を押しすすめたにちがいない。

 

こんにちの科学者は、進化プロセスのその暴走の正体についてかなりの確信をもっている。

 

ハリーは『チンパンジーの政治学』という有名な本を読んだことがある。 ラウトという名前の大人のチンパンジーが、最近大人になったチンパンジー、ニッキーに助けられて、老年の首領格(アルファ)、イエルーンと対決する。 ニッキーはラウトとイエルーンの対決に直接介入はしないが、両者の対決が発生すると毎回、部族内にいるイエルーン支持者の気をちらして、助太刀させないようにする。 ついにラウトが勝って次代のアルファになり、ニッキーは二番手につく……

 

……が、さほど時間がたたないうちに、ニッキーが敗者イエルーンと同盟をむすんでラウトを倒し、次々代のアルファとなる。

 

()()()()()出しぬこうとしてきた類人猿の何百万年もの歴史——限界のない進化的軍拡競争——が知的能力の増大につながったと思うと、感慨ぶかい。

 

人間なら、こうなることは最初から分かりきってたはずだから。

 

◆ ◆ ◆

 

そのハリーのとなりを歩くドラコは、復讐について考えながら笑みをうかべまいとしていた。

 

何年かかるかはともかく、いつか、ハリー・ポッターはマルフォイを見くびるというのがどういうことかを思い知る。

 

ドラコはたった一日で科学者としてめざめた。何カ月もかかるはずだったとハリーは言った。

 

だがもちろん、マルフォイであれば、ほかのどの家系よりも強力な科学者になる。

 

ドラコはこれからハリー・ポッターの合理主義の方法をすべて学ぶ。そして機が熟せば——

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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25章「すぐに答えようとしないこと」

前回の「第三幕」含めて、時系列がシャッフルされているのでご注意ください。


◆ ◆ ◆

 

第二幕:

 

(空を映している魔法の天井から、陽光がまぶしく大広間へとふりそそぎ、青空のもとにいるかのように生徒たちを照らしだすとともに、皿や椀に反射してきらめいている。睡眠ですっきりした生徒たちは、思い思いの土曜日の予定にそなえて、朝食をかきこんでいる。)

 

ということで、魔法族になるかどうかを決めるものは一つだけだ。

 

考えてみれば、おどろくことではない。 DNAの役目はおおまかに言って、リボゾームに命じてアミノ酸で鎖をつくって蛋白質にすることだ。 アミノ酸は伝統的な物理学で十分説明できているように見える。どれほどたくさんのアミノ酸をつなげても、伝統的な物理学によれば、魔法力がうまれることはない。

 

なのに、魔法力はDNAに付随して遺伝するらしい。

 

といってもおそらく、DNAが魔法のないアミノ酸の鎖から魔法のある蛋白質をうみだすのではない。

 

問題のDNA配列自体が魔法力をうみだすのではない。

 

魔法力は別のところからくる。

 

(レイヴンクローのテーブルで一人の少年が、空中を見つめながら、目のまえにあるなにかから右手で自動的にどうでもいい食べものをとって口に運んでいる。 そのなにかを土の山におきかえられても、気づきそうにない。)

 

そして〈魔法力のみなもと〉はなぜか、サルから進化したなんの変哲もない人類の個体がもつ、とあるDNAマーカーに注目しているようだ。

 

(いや、空中を見つめている少年や少女はわりとたくさんいる。そこは()()()()()()()のテーブルだから。)

 

ほかにもなんとおりかの論理で、おなじ結論がみちびかれる。 有性生殖をする種において、()()()機構はかならず普遍化している。 遺伝子Bが遺伝子Aに依存しているとき、遺伝子Bが適応優位性をもたらすほど広まるためには、遺伝子Aが単体で有用で、それ単体がほぼ普遍的になっていなければならない。 遺伝子Bが普遍的になったら、Bに依存する多様体(ヴァリアント)A*が出現し、A*とBに依存するCが出現し、Cに依存するB*が出現し、そのさきには、部品ひとつでもなくなるとバラバラになるほどの機構ができあがる。 だがこれはすべて()()()()すすまなければならない——進化は先よみをしない。Aが普遍化したときに()()()()Bを普及させたりはしない。 進化は、子どもをたくさんもった生物の遺伝子がつぎの世代に増えるというだけの、歴史的な事実にすぎない。 だから、ある複雑な機構のどの部品についても、それがほとんど普遍化してからはじめて、それに依存するほかの部品が進化する。

 

だから、()()()()()()()()()機構、つまり、生命をうごかすさまざまな精密な蛋白質機械は、有性生殖の種においてつねに()()()する——そのときどきにえらばれた少数の、相互依存性のない多様体(ヴァリアント)が、ゆっくりとさらなる複雑性をつみかさねていく、という部分をのぞいて。 人間ひとりひとりがおなじ脳の設計をもち、おなじ感情の組をもち、感情それぞれに応じておなじ表情をするのは、このためだ。こういった適応は複雑だから、普遍的()()()()()()()()()

 

魔法力がそういう風に、たくさんの遺伝子を必要とする複雑で巨大な適応だったとしたら、魔法族がマグルと交尾したときにできる子どもは、部品が半分しかない機械となり、大したことができないはずだ。 マグル生まれもありえないことになる。 仮に部品のひとつひとつがマグルの遺伝子プールにはいっていたとしても、魔法族を形成するようなやりかたで全部品が再結合することはありえない。

 

ある遺伝的に孤立した人間集団がたまたま、脳に魔法的な部位を発達させる進化の小道にはいりこんでしまったわけではないはずだ。 魔法族がマグルと交雑したときに、そんな複雑な遺伝装置が再結合してできあがり、マグル生まれをつくる、ということはまずありそうにない。

 

つまり、遺伝子がどんなやりかたで魔法族をつくっているとしても、すくなくとも複雑な装置の設計図をもつことによってではない。

 

メンデル的パターンがでてくるとハリーが予想したもうひとつの理由はこれだった。 魔法力遺伝子は複雑ではない。それなら、ひとつでいいのではないか?

 

それなのに、魔法そのものはかなり複雑にみえる。 ドアを施錠する呪文をかけると、あけられなくなるばかりか、蝶つがい部分を〈転成〉することもできなくなり、〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)〈解錠〉(アロホモーラ)も効かなくなる。 さまざまな要素が、おなじ方向を指ししめす。目標指向性とでもよべそうなものだ。簡単に言えば、そこには目的がある。

 

目的のある複雑性をうみだすことが知られているものはふたつしかない。 蝶のようなものをうみだす自然淘汰と、 車のようなものをうみだす知的設計だ。

 

魔法は自己複製をすることで存在しているようにはみえない。 呪文はなにかの目的のために複雑になっているが、蝶のように自分の複製をつくるという目的のためではない。 呪文が複雑なのは、車のように、使用者に奉仕するためだ。

 

なんらかの知的設計者が〈魔法力のみなもと〉をつくり、特定のDNAマーカーに注意せよと、それに命じたのだ。

 

そのつぎには当然、これは例の『アトランティス』と関係しているのでは、ということが思いつく。

 

このことについてハリーは以前——ドラコからそれを聞かされたあと、ホグウォーツにいくまでの列車のなかで——ハーマイオニーにたずねた。彼女が知るかぎり、『アトランティス』という名前そのもの以外にはなんの情報もないようだった。

 

伝説にすぎないのかもしれない。 けれど、魔法をつかう文明が、とりわけ〈マーリンの禁令〉の()()()あった文明が、自爆してしまったという可能性も十分考えられる。

 

推測はまだつづく。 アトランティスは孤立した文明で、その文明がなんらかの方法で〈魔法力のみなもと〉を誕生させ、アトランティス人の遺伝子マーカーのある人にだけ奉仕するよう、それに命じた。これがアトランティスの血統だ。

 

似たような論理で、こうも言える。 魔法使いの詠唱や、杖のうごかしかたには、いちから呪文の効果を構築できるほどの複雑さがない。 ——それは、何十億もの人間のDNAの塩基対に人間のからだを一から構築するだけの複雑さがあることとも、データ量として何千何万バイトもあるコンピュータプログラムの複雑さともちがう。

 

つまり、詠唱や杖のうごきは、隠れた複雑な機械についている引き金(トリガー)やレバーにすぎないということ。設計図ではなく、ボタンだということ。

 

一文字でもまちがえるとコンピュータプログラムがコンパイルできないのと同様に、厳密にただしいやりかたで呪文をかけないと〈魔法力のみなもと〉は反応してくれない。

 

この論理の連鎖は非情だ。

 

そして避けようもなく、ある最終的帰結がみちびかれる。

 

何千年もまえの古代の魔法族の先祖が、〈魔法力のみなもと〉に、『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』と言われたときにだけものを浮かせよ、と命じたということになる……

 

ハリーは朝食のテーブルの席に倒れこみ、ひたいを右手にのせてぐったりとした。

 

〈人工知能〉の黎明期——はじまったばかりで、問題がどれほどむずかしいのかだれにもわかっていなかったころ——から伝わる話なのだが、ある教授が、視覚の計算機的実現(コンピュータヴィジョン)という問題を大学院生ひとりにまかせて、解決させようとしたことがあるという。

 

ハリーにはその大学院生の気分がわかってきた。

 

これはちょっと時間がかかりそうだぞ、と。

 

押しボタンみたいなものなら、なぜアロホモーラの呪文をかけるのがあれほど大変なのだろう?

 

憎悪をもってしかかけられないアヴァダ・ケダヴラという呪文を組みこむような愚か者はいるだろうか?

 

無詠唱の〈転成術〉(トランスフィギュレイション)をするとき、あたまのなかで形相と質料を完璧に分離しなければならないのはなぜだろう?

 

これはホグウォーツを卒業するまでに解決できない問題かもしれない。 三十歳になってもまだ終わらせることができていないかもしれない。 ハーマイオニーが言ったとおり、ハリーはその感覚がぴんときていなかった。 決意のつよさを言うために演説をぶっただけでしかなかった。

 

ハリーの精神が一瞬だけ、この問題は一生かけても解決できないのではないかという可能性を検討する。が、それはいくらなんでも極端だという結論になる。

 

それに、最初の数十年のうちに不死になっておけばすむことだし。

 

〈闇の王〉はどんな方法をつかったのだろう? 考えてみると、〈闇の王〉が自分の最初の肉体の死をなんらかの方法で生きのびたということは、〈闇の王〉がブリテン魔法界を征服しようとしたということよりも、はるかに重要な気がしてきた。

 

「失礼。」と、うしろからおなじみの声が、まったくなじみのない調子で言った。 「ご都合のよい時間でけっこうですので、ミスター・マルフォイが面会を希望しておられます。」

 

ハリーは朝食のシリアルをむせかえさなかった。 かわりに身をひるがえして、ミスター・クラッブと対面した。

 

「失礼。」とハリーが言う。「『親分が会いにこいって言ってんだ』のまちがいじゃない?」

 

ミスター・クラッブは不服そうだった。 「ミスター・マルフォイから、まともなしゃべりかたをするようにと命じられたので。」

 

「きこえないな。まともなしゃべりかたじゃないみたいだ。」と言って、ハリーは細かな雪の結晶がはいったボウルに向きなおり、わざとらしく、もう一くち食べた。

 

「親分が会いにこいって言ってんだが。」と、うしろかドスのきいた声が言った。「痛い目にあいたくなきゃ、とっととくるんだな。」

 

よし。これならすべて計画どおり。

 

◆ ◆ ◆

 

第一幕:

 

()()?」  老魔法使いは憤懣を表情にあらわすまいとした。 目のまえにいる少年は被害者であり、これ以上おびやかされるべきではないのはたしかだから。 「どんな理由があれ、このような所業を許すことなど——」

 

「ぼくがもっとひどいことをしたからです。」

 

老魔法使いは突然恐怖して身をこわばらせた。 「ハリー、きみはなにをしたのじゃ?」

 

「ぼくがドラコをだまして純血主義の信念を犠牲にする儀式に参加させたのだ、とドラコが思いこむように彼をだましました。 つまり、ドラコは大人になったとき〈死食い人〉になれない。彼はすべてをうしなったんですよ。」

 

しずかな室内にきこえるのは、機械たちがポッとはいたりプッとはいたりする小さな煙の音だけで、やがてほとんど無音になった。

 

「なんと。自分が愚かしい。 わしはてっきり、マルフォイ家の跡とりを改心させるためにきみは、たとえば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ものとばかり思っておった。」

 

「ハハ! まあ、それが通じれば苦労はしません。」

 

老魔法使いはためいきをついた。ここまで極端だとは。 「ハリー。だれかを改心させる手段として、うそをついたり罠にはめたりというのは、どことなく不釣り合いな気がしたりはしないかね?」

 

「まず、そのとき直接的なうそは言いませんでした。それに相手はドラコ・マルフォイですから、『釣り合う』と言うべきところでしょう。」  少年はずいぶんと得意げにそう言った。

 

老魔法使いは失望して、くびをふった。 「()()英雄(ヒーロー)とは。破滅的じゃ。」

 

◆ ◆ ◆

 

第五幕:

 

ごつごつとした石の細長いトンネルは、一人の子どもの杖さきが照らす部分をのぞいて真っ暗で、何マイルと続くように見える。

 

その理由は簡単だ。実際、何マイルもあるのだ。

 

午前三時。 フレッドとジョージは、ホグウォーツにある片目の魔女の像から、ホグスミードにあるハニーデュークスという菓子店の地下室へと通じる、長い秘密の抜け道をたどりはじめたところだった。

 

「どう?」とフレッドが声をひそめて言う。

 

(だれにきかれるわけでもないが、秘密の抜け道をとおりながら、ふだんのように話すのはなにか変な気がした。)

 

「やっぱり調子がおかしい。」とジョージ。

 

「両方がか、それとも——」

 

「ときどきおかしかったほうはまた直った。もう片っぽは、ずっとあのまんま。」

 

この〈地図〉はとてつもなく強力な人造物(アーティファクト)で、校内にいる意識あるものをすべて、リアルタイムかつ名前つきで追跡してくれる代物。 製作時期はほぼまちがいなくホグウォーツ建設当初にさかのぼる。 エラーが出はじめているのは、まずい。 もし壊れているとしたら、きっとダンブルドア以外にこれを直せる人はいない。

 

そしてウィーズリー兄弟としては、〈地図〉をダンブルドアに渡すわけにはいかない。 そんなことをすれば〈盗賊団〉——おそらくサラザール・スリザリンがみずから組み立てた()()()()()()()()()()()()()()()()の一部を盗みだし、それを()()()()()()()()()()()()()()に仕立てた、謎の四人組——に対する許しがたい侮辱となる。

 

不敬とさえ言えるかもしれない。

 

犯罪的とさえ言えるかもしれない。

 

もしゴドリック・グリフィンドールが健在であれば、評価してくれたはずだと、二人は確信していた。

 

二人はほとんど声をださず歩きつづけた。 ウィーズリー兄弟の二人が話すのは、新しいいたずらのことを考えるときや、相手の知らないことを自分が知っているときだ。 そうでなければ、あまり意味がない。 おなじ情報を知っているとき、二人はたいていおなじように考え、おなじ結論にいたるからだ。

 

(かつての魔法族には、一卵性双生児がうまれると、すぐに片方を殺す風習があった。)

 

しばらくして、フレッドとジョージはほこりっぽい地下室にはいでた。部屋のなかには奇妙な原材料がはいった樽や棚がちらばっている。

 

フレッドとジョージは待った。 なにかほかのことをしているのは行儀がよくない。

 

ほどなくして、黒いパジャマを着たやせた老人が、階段をつたって地下室へとおりてきた。 「こんにちは、お二人さん。」とアンブロシウス・フルームが言う。 「今夜来るとは思わなかった。もう足りなくなったのか?」

 

二人はフレッドが話すべきだと判断した。

 

「ミスター・フルーム、ちょっと別の件なんだ。もっとずっと……おもしろいことについて、あんたの手を借りられないかと思って。」

 

「またかい。」とフルームは厳格そうな声で言う。「深刻な問題になりかねない商品は売れないよ、って言わされるためだけに起こされたんじゃないだろうな。どうあっても十六歳になるまでは——」

 

ジョージはローブのなかからなにかをとりだし、無言でフルームにわたした。 「これはもう見た?」とフレッドが言った。

 

昨日の号の『予言者日報(デイリー・プロフェット)』を受けとって見て、フルームはうなづき、顔をしかめた。 見出しには、次の闇の王?、とあり、おさない少年が写っている。めずらしく冷たく暗い表情をした瞬間を一生徒のカメラがとらえたものだ。

 

「あのマルフォイが、まだ十一歳の少年に目をつけるとは! とっつかまえてチョコレートの材料にでもしてやりたいわい!」

 

フレッドとジョージが同時に目をしばたたかせた。 リタ・スキーターの背後に()()()()()()? ハリー・ポッターは警告してくれなかった……ということはきっと、ハリーも知らなかったのだろう。 知っていたら、二人を巻きこもうとするわけがない……

 

フレッドとジョージはちらりとおたがいの目を見た。 けりがつくまで、ハリーにこのことを知らせる必要はない。

 

「ミスター・フルーム、」とフレッドが静かに言う。「〈死ななかった男の子〉を助けてほしい。」

 

フルームは二人を見た。

 

そして深くためいきをついた。

 

「わかった。なにがいる?」

 

◆ ◆ ◆

 

第六幕:

 

おいしそうな獲物に狙いをさだめているとき、リタ・スキーターはそのほかの宇宙の部分でちょこまかするアリなどが目にはいりにくくなる。自分の進路に立ちふさがる、はげた若い男にぶつかりそうになったのもそのためだった。

 

「ミス・スキーター。」と言う男の声は厳格で冷たく、その顔の若さに似合っていない。 「これは奇遇な。」

 

「じゃま、どいて!」と言ってリタは彼をよけようとした。

 

男は彼女のすすむ方向に完璧にあわせた。まるで二人ともその場に立ったまま、道が動いたかのようだった。

 

リタは怪訝そうな目をする。「なにさまのつもり?」

 

「なんと愚かしい。」と男はかわいた声で言う。 「ハリー・ポッターを次代〈闇の王〉として訓練するために潜入しているという、〈死食い人〉の顔くらいおぼえておくべきではないかね。なにせ……」  薄ら笑い。 「そんな人物に道ばたで出くわしたくはないだろうから。とくに、その人物を新聞で中傷したあとでは。」

 

リタはしばらくかかって名前と顔をむすびつけた。 ()()がクィリナス・クィレル? 若すぎるようにも、老けすぎているようにも見える。 厳格でえらそうな態度をやわらげたとしたら、その顔は三十代後半といったところか。 なのにもう髪が抜けおちはじめている? 癒者代も出せないのか?

 

いや、そんなことはどうでもいい。いまは、いくべき場所と時間、なるべき虫のすがたがある。 マダム・ボーンズが若い助手と密会するという匿名のたれこみがあったのだ。 ボーンズは賞金首上位だから、これのウラがとれたあかつきには、相当なボーナスがもらえる。 ボーンズと若い助手は〈メアリーの店〉の特別室で昼食をともにするという。特別室はとある目的で人気の部屋で、どんな盗聴装置も通用しないといわれているが、きれいな青いコガネムシが壁にとまることは想定されていない……

 

「どきなさいったら!」と言って、リタはクィレルを道すじから押しのけようとした。 クィレルの腕はリタの腕をかすめてそらした。リタはよろめき、余勢が空中に抜けた。

 

クィレルはローブの左のそでをめくり、左腕をみせた。 「ご覧のとおり、〈闇の紋章〉はない。御紙の記事は撤回してもらいたい。」

 

信じられないというようにリタは笑った。 もちろんこの男がほんとうに〈死食い人〉なわけがない。 もしそうだったら、あの号は発行できていない。 「いちいち気にしなさんな。さ、通して。」

 

クィレルはしばらく彼女をじっと見た。

 

そして笑みをうかべた。

 

「ミス・スキーター。きみを説得できる手段があればと思っていたのだが。 けれども、単純にきみをたたきつぶしてしまう愉快さを我慢することはできそうない。」

 

「その手は効かないよ。 さあ、どいたどいた。 どかなきゃ、〈闇ばらい〉を呼んで、ジャーナリズム執行妨害でつかまえさせるから。」

 

クィレルは小さく一礼し、彼女のわきを通りすぎた。 「さようなら、リタ・スキーター。」という声が背後から聞こえた。

 

リタはまわりを押しのけて進んでいったが、男が去りゆくと同時に口笛をふいていたことを、こころのかたすみで認めた。

 

あれでおどかしているつもりか。

 

◆ ◆ ◆

 

第四幕:

 

「悪いけど、やめとく。」とリー・ジョーダンが言う。「おれにむいてるのは巨大クモのほうだと思うから。」

 

〈死ななかった男の子〉は、〈混沌の騎士団〉にたのみたい重要な仕事がある、と言った。いつものいたずらよりも重大で秘密で立派で、困難な仕事だ、と。

 

それからハリー・ポッターはなかなか感動的ではあるが曖昧な演説をぶった。 だいたいのところ、その気になればフレッドとジョージとリーにはものすごい可能性がある、という内容だった。三人は、もっと()()()()ことができる。水いりのバケツをドアの上から落とすというようなことをして人をおどろかす(フレッドとジョージは興味ぶかそうにたがいの目を見た。いままで思いつかなかった方法だったからだ)かわりに、ひとの人生を()()()()()()()()のだ、と。 そして、ネヴィルにいたずらをしかけたときの写真をもちだした。それについてハリーは一定の後悔をしてはいて、〈組わけ帽子〉にもしかられたらしいが、きっとネヴィルには()()()()()()()()()()()()()()()()()()効果があったはずだという。 ネヴィルにとっては、突然自分が別の宇宙に転移させられたような感覚だったはずだという。 スネイプが謝罪するのをみたときの全員が感じたのとおなじ感覚で、 それこそが()()()()()()()()()()なのだと。

 

『さあ、いっしょにやらないか?』、とハリー・ポッターは叫び、リー・ジョーダンはことわった。

 

「おれたちはやるよ。」とフレッドだかジョージだかが言った。ゴドリック・グリフィンドールならイエスと言ったにちがいないだろうから。

 

リー・ジョーダンは申し訳なさそうににやりとして、立ちあがり、だれもいない〈音消〉された廊下を去った。〈混沌の騎士団〉の四人はここで陰謀の会合をひらいていたのだった。

 

〈混沌の騎士団〉の三人は本題にはいった。

 

(それほど悲しくはない。フレッドとジョージはこれまでどおり、リーといっしょに巨大クモのいたずらをしかける。 もともと〈混沌の騎士団〉と呼びはじめた目的はハリー・ポッターをなかまにすることだけだった。ロンからハリーが変で邪悪だときかされて、フレッドとジョージは真の友情と親愛でハリーを救うことにしたのだ。 さいわい、もうその必要はなくなったようだ——完全にはそう言いきれないような気もするが……)

 

「それで、なんの話?」と双子のひとりが言った。

 

「リタ・スキーターの話。どういう人なのか知ってる?」とハリー。

 

フレッドとジョージはうなづき、眉をひそめた。

 

「ぼくについて聞きこみをしてるらしいんだけど。」

 

いいニュースではない。

 

「きみたちになにをしてもらいたいのか、あててみてくれる?」

 

フレッドとジョージはすこし困惑しておたがいを見あった。 「おれたちのちょっとおもしろいお菓子をしこんで食べさせてやる、とか?」

 

「ちがうよ! ぜんぜんちがう! そういうのは巨大クモの方向のやりかただ! ほら、もし()()()()()うわさをリタ・スキーターが探してるときいたら、どうする?」

 

言われてみると、わかりきったことだった。

 

にやりとした表情がフレッドとジョージの顔にゆっくりと広がる。

 

「こっちからうわさをながしてやる。」と二人はこたえた。

 

「そのとおり。」と言ってハリーはにっこりとした。 「でもうわさならなんでもいいってわけじゃない。 ハリー・ポッターについて新聞が書くことを、だれも信じなくなるようにしたい。新聞がエルヴィスについて書くことを、マグルが信じないように。 最初は、大量のうわさをながして、リタ・スキーターがどれを信じていいかわからないくらいにする手を考えたけど、彼女はきっと、悪い内容でもっともらしいものをえらぶだけだろう。 だから、二人にやってほしいのは、ぼくについてのガセネタをでっちあげて、リタ・スキーターにその内容を信じさせること。 それは、あとでだれにでも偽情報だったとわかるようなものにしてもらいたい。 リタ・スキーターと編集者を信じこませてやって、()()()偽情報だという証明をだせるようにしておきたい。 そしてもちろん——こういう条件である以上——そのネタはできるかぎりバカげていて、それでも出版されるようなものにしてもらいたい。 どういうことをしてほしいか、わかった?」

 

「いや、まだすこし……」とフレッドとジョージがゆっくりと言う。「そういうネタの案をだしてほしいってこと?」

 

「いま言ったことの()()をやってほしいんだ。ぼくはちょっといま、いそがしい。それに、ぼくにはなんのことかさっぱりわからない、と本心から言えるようにもしておきたい。 ぼくをおどろかせてほしい。」

 

フレッドとジョージの顔が一瞬、とても邪悪に、にやりと笑った。

 

それから真剣な表情になった。 「でも、どうやればそんなことができるかわからないな——」

 

「じゃあ考えて。きみたちを信頼してるから。 ()()()()信頼してはいないけど、もしできないなら、そう言ってほしい。そのときはほかの人を探すか、自分でやる。 いいアイデアを——バカげたネタと、リタ・スキーターと編集者に出版させる方法の両方を——思いついたら、勝手にやって。 でも平凡なことだったら、やらないで。 ()()()()()ものが思いつけなかったら、そう言ってほしい。」

 

フレッドとジョージは心配そうにたがいの目をちらりと見た。

 

「なにも思いつかない。」とジョージ。

 

「おれも。悪いけど。」とフレッド。

 

ハリーは二人をじっと見た。

 

そして、ものごとを思いつくための方法を説明しはじめた。

 

まず、二秒でできると思うな、とハリーは言った。

 

どんな問いについても、不可能だと言っていいのは、ほんものの時計を持ってきて、その分針の角度ではかって五分間考えてからだ。 たとえで言っているのではなく、物理的な時計ではかった五分間。

 

それだけでなく、と言ってハリーは語気を強くし、右手で床にドンとたたいた。 ハリーが言うには、すぐに答えをさがしはじめては()()()()

 

それからハリーは、ノーマン・メイアーという人がやったテストについて説明しはじめた。その人は組織心理学者という職業で、問題解決のためのグループをふたつ作り、ある問題をとかせた。

 

問題というのは、三人の社員と三種類の仕事についての問題で、 後輩社員は一番簡単な仕事だけをやりたがり、先輩社員はあきないように、ちがう種類の仕事を交代でやりたがる。 効率の専門家からの助言によると、後輩に一番簡単な仕事をまわして、先輩に一番むずかしい仕事をまわせば、二割生産性があがるという。

 

片方の問題解決グループは「できるかぎりしっかりと議論をしおわるまで、いっさい回答案をだしてはならない。」と指示された。

 

もう片方の問題解決グループはなにも指示されなかった。 そして、問題を提示されると、回答案をだすという自然な反応をした。 そして、自分の案にこだわりだし、たたかいはじめ、自由と効率のどちらが重要かなどという論争をはじめた。

 

問題について()()してから解決策をさがすように指示されたほうのグループは、後輩社員に一番簡単な仕事をまかせて、のこりの二人がのこりのふたつの仕事を交代でやるという答えにたどりつく可能性がずっと高かった。専門家のデータによれば、それは十九パーセントの改善になるという。

 

最初から答えをさがすというのは、完全に順序をまちがえている。 デザートと同時に食事をはじめるようなものだが、もっと悪い。

 

(それから、人間はむずかしい問題ほどいきなり解こうとする、という、ロビン・ドーズという人のことばをハリーは引用した。)

 

つまり、ハリーはこの問題をフレッドとジョージにまかせて、いなくなる。二人はあらゆる方向から議論して、ブレインストーミングをしてちょっとでも関係がありそうなことを書きとめる。 それがすむまでは、なんらかの答えを思いつこうとしてはいけない。ただしもちろん、たまたますごくいい案を思いついたときは、どこかに書きとめてから、また考えつづける。 すくなくとも一週間たつまでは、()()()()()()()()()()()というたぐいの報告はいらない。 ものを考えるのに数十年をついやす人もいるのだから。

 

「なにか質問は?」とハリー。

 

フレッドとジョージはたがいを見つめた。

 

「思いつかない。」

 

「おれも。」

 

ハリーは軽くせきばらいした。「予算の話がまだだろう。」

 

()()()、と二人は思った。

 

「ただ金額を言えばすむんだけど、こうやるほうがインパクトがあるかなと思って。」

 

ハリーが両手をローブにいれてとりだすと、そこには——

 

フレッドとジョージは座っているのに倒れそうになった。

 

「使いきるのを目的にはしないこと。」とハリーが言う。 三人のまえの石の床に、とんでもない量のおかねの山が光っている。 「すごいことをやるのに必要な場合にだけ使うこと。すごいことをやるのに必要だったら、ためらわずに使うこと。 あまったら、あとで返してほしい。その点は二人を信頼する。 あ、それと、どれだけ使ったかにかかわらず、ここにあるうちの一割はきみたちの取り分だから——」

 

「いらないよ!」と双子のひとりが言う。「こういうので報酬は受けとれない!」

 

(二人は非合法なことをするとき、報酬を受けとったことがない。 アンブロシウス・フルームには知らせていないが、二人が商品を売るときの利幅はゼロだ。 フレッドとジョージは——必要なら〈真実薬〉を飲まされて——証言するとき、犯罪で儲けようとしているのではなく、公共への奉仕をしていただけだと言えるようにしておきたいと思っていた。)

 

ハリーは二人にむけて眉をひそめた。 「でも、これはちゃんとした仕事の依頼だから。 大人はこういうことで報酬をもらうし、もらっても友だちへの好意としてやっているのにかわりはない。 こういうことをするのに、雇える相手はそんなにいない。」

 

フレッドとジョージはくびをふった。

 

「わかった。じゃあ、なにか高価なクリスマスプレゼントをあげることにする。もしそのプレゼントが返ってきたら燃やすよ。 これできみたちには、ぼくがどれくらい高い買い物をするのかすらわからない。当然、ここの取り分よりは高いものにするけど。 そのプレゼントは()()()()()()()買っておくから、すごいことを思いつけなかったと言いにくるまえに、そのことを思いだしておいてほしい。」

 

ハリーは立ちあがり、笑みをうかべながら、ショックでまだ呆然としているフレッドとジョージに背をむけて、去ろうとし、数歩すすんでから、ふりむいた。

 

「もうひとつだけ。なにをするにしても、クィレル先生は巻きこまないで。 クィレル先生は人目につきたがらない。 〈防衛術〉教授に関してなら変なことを皆に信じさせやすいのはわかるし、こうやって干渉するのは悪いと思うけど、どうかクィレル先生は巻きこまないでほしい。」

 

そしてハリーはまた背をむけて、もう数歩すすみ——

 

もう一度ふりむいて、小さな声でこう言った。「ありがとう。」

 

そして去った。

 

二人になってから沈黙が長くつづいた。

 

「で、」と一人が言う。

 

「で、」ともう一人が言う。

 

「あの〈防衛術〉教授は人目につくのがいやなんだってさ。」

 

「ハリーはおれたちのことをよくわかってないみたいだな。」

 

「わかってないね。」

 

「でも、あのおかねを使ったりするのはダメだよな。」

 

「もちろん。それは筋がちがう。 〈防衛術〉教授の件は別にやる。」

 

「グリフィンドール生何人かにスキーターへの手紙を書かせる。たとえば……」

 

「……〈防衛術〉の授業で先生のそでがめくれたとき、〈闇の紋章〉が見えたとか……」

 

「……ハリー・ポッターがいろいろおそろしいことを教わっているらしいとか……」

 

「……ホグウォーツですらだれも見たことがないほど最悪の〈防衛術〉教授で、教えるのに()()するだけじゃなく、あらゆることをまちがえて、なんでも完全にさかさまにしてしまっていて……」

 

「……〈死の呪い〉をかけるには、かならず愛を使うとか言って、あの呪文をまったく役立たずにしてしまったり……」

 

「それ、いいな。」

 

「だろ。」

 

「〈防衛術〉教授も気にいってくれそうだ。」

 

「ユーモアがわかる人だしな。 そうでもなきゃ、あんな名前をおれたちにつけるはずがない。」

 

「でも、ハリーにたのまれたほうの仕事はうまくいくかな?」

 

「答えをだすまえに議論しろ、って話だから、やってみよう。」

 

二人は、ジョージが積極的なほうを演じ、フレッドが疑うほうを演じる、と決めた。

 

「全体的にちょっと矛盾してるよ。」とフレッドが言う。「だれでもスキーターのことを笑ってしまうほどバカげていて、バレバレのうそで、なのにスキーターは信じてしまう。 こんなの両立させようがない。」

 

「スキーターを納得させる証拠をでっちあげるんだよ。」とジョージ。

 

「それは答えにあたるかな?」とフレッド。

 

二人はしばらく検討した。

 

「かもな。でもそこまで厳密にやらなくてもいいんじゃないか?」とジョージ。

 

双子はしかたなさそうに肩をすくめた。

 

「とにかく、スキーターを納得させるくらいの、いい証拠をでっちあげないといけない。」とフレッドが言う。「おれたちだけでできるかな?」

 

「おれたちだけでやることはない。」と言ってジョージがおかねの山を指さした。「ひとを雇って手つだわせてもいい。」

 

二人は思案の表情をした。

 

「それじゃ、こんな予算はすぐになくなるぞ。」とフレッドが言う。 「おれたちにとってはこれだけあれば大金でも、フルームみたいな人にとってはそうでもない。」

 

「ハリーのためだとわかれば、割り引きしてもらえたりするかもしれない。でもなにをするにしても一番重要なのは、()()()じゃないといけないってこと。」とジョージ。

 

フレッドは目をしばたたかせた。「()()()、っていうと?」

 

「おれたちにはできっこないから犯人だと思われないくらいに不可能。 ハリーでも不思議がるくらいに不可能。 シュールで、だれもが自分の正気をうたがうような、……()()()()()()()()()ようなこと。」

 

フレッドが唖然として目をまるくした。 こういうことは二人のあいだでたまにあるが、そう多くはない。 「でも、なんで?」

 

「どれもこれも、いたずらだった。 パイのも、〈思いだし玉〉のも、ケヴィン・エントウィスルのネコのもいたずらだ。 スネイプのだってそうだ。 ホグウォーツで一番のいたずら屋はおれたちだろ。 たたかわずに降参するのか?」

 

「あっちは〈死ななかった男の子〉だし。」とフレッド。

 

「こっちはウィーズリー兄弟だ! これは挑戦状なんだよ。 ハリーはおれたちにもおなじことができると言うじゃないか。 でもきっと、おなじくらいうまくできるとは思っちゃいない。」

 

「そのとおりだろ。」と言って、フレッドはだいぶ不安になった。 ウィーズリー兄弟の二人は、おなじ情報をもっていながら意見がわれることもたまにあるが、そういうときはいつも不自然な感じになる。まるで、片方がなにか勘違いしている、というように。 「だって()()()()()()()()なんだから。あいつは不可能を実現できる。おれたちはできない。」

 

「できる。」とジョージが言う。「それに、あいつよりも()()()()()()()()をやるんだ。」

 

「でも——」

 

「ゴドリック・グリフィンドールだったらそうする。」

 

それで決着がついたので、二人はもとのように……とにかくふだんの二人の状態にもどった。

 

「よし、じゃあ——」

 

「——二人で考えよう。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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26章「困惑を自覚する」

◆ ◆ ◆

 

クィレル先生の面談受け付け時間(オフィスアワー)は、木曜日の午前十一時四十分から五十五分までだ。 それが全学年の全生徒分である。 まずドアをノックするだけでクィレル点が一点かかり、時間をさく価値のない用件だと判断されれば、さらに五十点とられる。

 

ハリーはドアをノックした。

 

しばらく沈黙があり、かみつくような声がこう言った。「はいりたまえ、ミスター・ポッター。」

 

ドアノブに手がふれるまえに、ドアがバタンとひらき、するどい音をたてて壁にあたり、木の部分か、石の部分か、その両方が壊れたかのようにきこえた。

 

クィレル先生は椅子に背をもたれさせて、本を読んでいる。紺色の革で製本され、背表紙に銀色のルーン文字がある、妙に古そうな本だ。彼はページから目をはなさずにこう言った。 「わたしはいま、あまり気分がよくない。 気分がよくないときのわたしとつきあうのは楽しいことではない。 きみのために言っておくが、さっさと用件をすませて、出ていきなさい。」

 

冷たい寒けが部屋からしみだしてきている。まるで部屋のなかに光をだすかわりに闇をだすランプのようななにかがあって、その傘が一部欠けているかのようだった。

 

ハリーはすこしひるんだ。 これは()()()()()()()どころではなさそうだ。 なにがクィレル先生をこれほどなやませているのか……?

 

友だちだったら、落ちこんでいるのを見てほっておくわけにはいかない。 ハリーは慎重に部屋のなかへ進んだ。 「なにかお困りのことがあれば——」

 

「ない。」と言いながら、クィレル先生は本から目をはなさなかった。

 

「でも、たとえば、バカな人たちに対応させられていたりしたのなら、まともな相手と会話してみるのはどうかと……」

 

思いのほか長い沈黙があった。

 

クィレル先生がバタンと本を閉じると、それは小さな音をたてて消えた。 先生は見上げ、ハリーはびくりとした。

 

「たしかにいまのわたしにとっては、知的な会話をすると気ばらしになるかもしれない。」とハリーを招きいれたときとおなじ調子でクィレル先生が言う。 「きみにとってはおそらく、そうならない。警告しておく。」

 

ハリーは深呼吸をした。「あたられても気にしないと約束します。 なにがあったんですか?」

 

部屋の冷気がさらに冷たくなったような気がした。 「あるグリフィンドール六年生が、ある前途あるスリザリン六年生に呪いをかけた。」

 

ハリーは息をのんだ。「どんな……呪いですか?」

 

クィレル先生の表情にはもう憤懣があふれてきていた。 「なぜそのようなどうでもいいことを聞きたがる? あのグリフィンドール六年生くんが言うには、どうでもいいのだそうだ!」

 

「本気で言ってますか?」と思わずハリーは言ってしまった。

 

「いや、わたしは大した理由もなく、最低の気分になっている。 ()()()()()()()()()() 彼は知らなかった。ほんとうに知らなかった。 〈闇ばらい〉が〈真実薬〉を飲ませて確認をとるまで、わたしは信じなかった。 ホグウォーツ六年生にもなって、高度な〈闇〉の呪いをかけておきながら、()()()()()()()()()()()()()と言うのだ。」

 

「というと、別の呪文の説明を読んだりして、効果を()()()()()()()とかではなく——」

 

「敵にむけて使う呪文だということしか知らなかった。 自分がそこまでしか知らないということも、わかっていた。」

 

それだけで呪文をかけてしまえるということだ。 「そんな小さな脳しかなくて、どうやって直立歩行できているのか理解できませんね。」

 

「まったく同感だ。」

 

会話がとぎれた。 クィレル先生は机のうえの銀のインク入れを手にとり、それを手のなかで回転させて、見つめた。インク入れにはどのような拷問をすれば殺せるかと思案しているかのようだった。

 

「そのスリザリン六年生は重傷でしたか?」

 

「そうだ。」

 

「そのグリフィンドール六年生はマグルにそだてられていましたか?」

 

「そうだ。」

 

「ダンブルドアは、知らずにやったことならしかたないと言って、退学させたがらなかったのでは?」

 

インク入れをにぎるクィレル先生の両手の指の骨が浮き出た。 「なにか言いたいことがあるのかね、ミスター・ポッター。それともただ自明なことを言いたいだけなのか?」

 

「クィレル先生、」とハリーは厳粛そうに言う。「マグルそだちのホグウォーツ生は全員、安全講習をうけて、魔法族うまれの人が自明すぎてわざわざ言うまでもないと思うようなことを教わるべきです。 効果がわからない呪いをかけてはいけないとか、危険なものごとを発見したとき言いふらしてはいけないとか、高度な魔法薬(ポーション)を監督者不在のトイレで調合してはいけないとか、なぜ未成年の魔法が規制されているのかとか、基本の部分を。」

 

「なぜそんなことを? 愚かものは繁殖するまえに死ねばよい。」

 

「そこでスリザリン六年生が何人かいっしょに連れていかれてしまってもいいと言うんですか。」

 

金属製のインク入れが、クィレル先生の両手のなかでおそろしくゆっくりと燃えだした。いまわしい黒みをおびた炎がインク入れにかみつき、引きちぎろうとする。とけてねじれた銀は、逃げようとしながら逃げられないでいるように見えた。まるで悲鳴をあげているような、甲高い金属音がきこえた。

 

「まあ、たしかに。」と言って、クィレル先生はあきらめたような笑みをした。 「生きるに値しないたぐいの愚かなマグル生まれに、貴重な生徒を道づれにしていってもらっては困る。そうさせないための講義を準備しておこう。」

 

クィレル先生の両手のなかのインク入れは悲鳴をあげて燃えつづけ、火がついたまま金属の粒となって、机からこぼれおちた。インク入れは泣いているかのようだった。

 

「逃げないのか。」

 

ハリーは口をあけて——

 

「わたしのことは怖くない、と言おうしているのなら、やめろ。」

 

「あなたほど怖い人をぼくはほかに知りません。その最大の理由は自制力です。 意図的に傷つけたいと決めた以外の相手をあなたが傷つける様子を想像できません。」

 

クィレル先生の両手のなかで火がたちまち消え、先生はインク入れの残骸を慎重に机のうえに置いた。 「ずいぶんほめてくれるじゃないか、ミスター・ポッター。お世辞の方法でも教わったか? ミスター・マルフォイからかね?」

 

ハリーは無表情を維持した。が、それはすすんで自白するようなものだということに気づくのが一秒遅すぎた。 クィレル先生は相手の表情を気にしない。どういう精神状態からその表情が生まれそうかを気にする。

 

「なるほど。ミスター・マルフォイは便利な友だちで、教わるべきことも多いことだろう。だが、きみには彼をうっかり信用しすぎてしまわないでほしいものだ。」

 

「人に知られて困ることは一切あかしていません。」

 

「よろしい。」と言ってクィレル先生はわずかに笑みをうかべた。 「では、ここに来たそもそもの用件は?」

 

「〈閉心術〉の予備練習がすんだので、個人指導をうける準備ができたと思います。」

 

クィレル先生はうなづいた。 「日曜に、グリンゴッツへ同行させてもらう。」と言って、ハリーのほうを見て一瞬ことばを切り、笑顔になった。 「よければ、軽いお出かけにしてもいい。 ちょっとしたお楽しみを思いついた。」

 

ハリーはうなづいて、笑みをかえした。

 

部屋を出るとき、クィレル先生が小さく鼻歌を口ずさむのがきこえた。

 

ハリーは先生の気分をよくすることができてうれしかった。

 

◆ ◆ ◆

 

その日曜日、ささやきあう人たちがやけに廊下に多いように見えた。少なくともハリー・ポッターとすれちがうときにはそうだった。

 

指をさすしぐさをする人もたくさんいた。

 

女性のくすくす笑いもたくさん。

 

朝食のときからこうだった。あのニュースはもう知っているかとだれかにきかれて、ハリーは割りこんで、リタ・スキーターの書いたニュースのことなら聞きたくない、自分で読みたいから、と言った。

 

予言者日報(デイリー・プロフェット)』を受けとっている生徒はあまり多くなく、もとの持ち主から買い取られていなかったぶんはもう、なにかややこしい順序で回覧されていって、現時点ではだれの手にあるのかわからなくなっていた……

 

ハリーは〈音消しの魔法(チャーム)〉をかけてから朝食を食べにいき、続々とくる質問者たちをとなりの生徒にまかせて追いはらってもらった。そして、朝食に新しい人たちがやってくるたびにおこる懐疑の声や、笑いや、おめでとうと言うような笑みや、あわれみの視線や、ちらりと怖がる視線や、落ちていく皿をつとめて無視した。

 

ハリーはかなり気になってきてはいたが、人づてに聞いてしまって職人芸を台無しにしてしまえるほどではなかった。

 

新聞の現物がみつかったら呼びにきてと同室生のみんなにたのんでおき、そのあと数時間、トランクのなかの安全な場所で宿題をした。

 

クィレル先生と車にのってホグウォーツから出発する午前十時になってもまだ、ハリーはそのニュースを知らなかった。クィレル先生は前部右がわの座席で、ゾンビ状態になってくずれおちている。 ハリーは車のなかでできるかぎりそこから距離をおいて後部左がわの座席にすわった。 それでも、禁じられていない森を横切る小みちを車がガタガタとすすむあいだずっと、ハリーは破滅の感覚をおぼえていた。 そのせいで読書もすこしやりづらかった。むずかしい本なので余計にそうだ。急に、子どものころのサイエンスフィクションにすればよかった気がしたー—

 

「ここはもう結界のそとだ。」と前の席からクィレル先生の声がした。「行くぞ。」

 

クィレル先生は慎重に車をでて、一息ずつ階段をおりた。 ハリーは横むきに飛びでた。

 

どうやって行くのだろうとハリーが思っていると、クィレル先生が「とれ!」と言って、クヌート青銅貨を一枚なげてきた。ハリーはなにも考えずにそれを受けた。

 

実体のない巨大なフックがハリーの腹あたりにかかり、からだを後ろむきに強く引いた。だが加速の感覚はなく、一瞬あとにはハリーはダイアゴン小路の真んなかに立っていた。

 

ちょっと、いまのは何だよ?——とハリーの頭脳が言った。)

 

瞬間移動だよ——とハリーが説明した。)

 

祖先の環境ではそういうことは起きなかったぞ——とハリーの頭脳が文句を言い、ハリーの方向感覚をうしなわせた。)

 

ハリーはよろめきながら、さきほどまでの森の小みちの土から、道路の煉瓦へと足もとを慣らそうとした。 背をのばしてもまだくらくらして、脳が位置感覚をつかもうとするあいだ、いきかう魔女や魔法使いたちがすこしゆれているように見え、各店の店主たちの呼び声の発信源がぐるぐる動くようにきこえた。

 

すこしすると、数歩うしろでポンと吸いこむような音がして、ふりむくとそこにクィレル先生がいた。

 

「できればぼくは——」とハリーが言いかけるのと同時にクィレル先生が、「悪いがわたしは——」と言いかけた。

 

ハリーは言いやめ、クィレル先生はつづけた。

 

「——わたしは一旦わかれて、ちょっとしたものをしかけにいかなくてはならない。 きみの身に起きるあらゆることがわたしの責任だと厳重に注意されている以上、悪いがしばらく——」

 

「新聞スタンドがいいです。」

 

「なんと言った?」

 

「でなくても、『デイリー・プロフェット』を一部買える場所なら、どこでもかまいません。」

 

しばらくすると、ハリーは本屋へと送られ、小さな声で何点か曖昧な脅迫をうけた。 本屋の店主のほうはあまり曖昧でない脅迫をうけたらしく、身をひるませて、ハリーと入り口のあいだをちらちらとチェックしつづけていた。

 

この本屋が火事になったとしても、ハリーはクィレル先生がもどるまで出てはならない。炎につつまれたまま待たなければならない。

 

一方で——

 

ハリーはすばやく店内を見わたした。

 

そこは小さくみすぼらしい本屋で、書棚は四列しかなく、ハリーの目にとびこんできたとなりの棚には、製本がいいかげんで厚みのない、『十五世紀アルバニアの虐殺』といったおそろしげなタイトルがならんでいる。

 

まずやるべきことがある。 ハリーはカウンターまで歩いていった。

 

「すみません。『デイリー・プロフェット』一部ください。」

 

「五シックル。」と店主が言う。「悪いねえ。もう三部しかないんでね。」

 

五シックルがカウンターにおかれた。 多少値引きさせることもできるような気がしたが、それもどうでもいい気分だった。

 

店主は目をみひらいた。やっとハリーに気づいたようだ。「きみは!」

 

「ぼくは!」

 

「あれはほんとうなのか? ほんとうにきみは——」

 

「言わないで! すみませんけど、人からきくかわりにこれを実際の新聞で読みたくて、一日じゅう待ってたんです。だから、それをこっちにください。ね?」

 

店主はハリーを一瞬みつめ、無言でカウンターの下に手をのばし、『デイリー・プロフェット』をたたんで一部、手わたした。

 

大見出しにはこうあった:

 

ハリー・ポッターと

ジニヴラ・ウィーズリーが

いいなづけと判明

 

ハリーはじっと見た。

 

まるでそれがエッシャーの作品の現物であるかのように、ハリーはゆっくりとうやうやしくカウンターから新聞を持ちあげた。そしてそれを開いて読みはじめると……

 

……リタ・スキーターを納得させた証拠が書かれていた。

 

……興味ぶかい詳細もあった。

 

……もういくつか証拠もあった。

 

自分たちの妹のことだ。フレッドとジョージはきっと、本人の了解をとってからやったはずだよな? きっとそうだ。 ジニヴラ・ウィーズリーがなにかをあこがれるようにして、ためいきをついている写真がある。よく見ると、その視線のさきにあるのはハリーの写真。 やらせとしか思えない。

 

でもいったいどうやって……?

 

ハリーが安っぽい折りたたみ椅子に座って四度目の読みなおしをしていると、ドアの小さな音がして、クィレル先生が店内にもどってきた。

 

「待たせて悪か——待て、マーリンの名にかけて(いったい)きみはなにを読んでいるのだ?」

 

「どうやら、」とハリーはおどろいた声で言う。「アーサー・ウィーズリー氏に〈服従の呪い〉をかけていた〈死食い人〉をぼくの父親が殺したそうで、それによってウィーズリー氏はポッター家への債務をおったそうです。そこでぼくの父親は、生まれたばかりだったジニヴラ・ウィーズリーとの婚約権をもって返済するようせまった。 この世界ではほんとにそういうことをするんですか?」

 

「いくらなんでも、ミス・スキーターがそれを信じるほど愚かなはずはあるまい——」

 

そこでクィレル先生の声がとぎれた。

 

ハリーは新聞を縦にもち、たたまずに読んでいた。だからクィレル先生もその場から、見出しの下の本文を読めるのだ。

 

クィレル先生の顔にあらわれたショックは芸術的で、この新聞自身といい勝負だった。

 

「心配いりません。」とハリーはほがらかに言う。「ガセですから。」

 

店のなかのどこかで、店主が息をのむ音がした。 そして本の山がくずれたのがきこえた。

 

「ミスター・ポッター……それはたしかか?」

 

「たしかです。もう出ましょうか?」

 

クィレル先生はうなづいたがやけに考えにふけっている様子だった。ハリーは新聞をもとのようにたたみ、そのあとを追ってドアを出た。

 

なぜか雑踏の音がきこえてこない。

 

二人が無言で三十秒ほど歩いたところで、クィレル先生が口をひらいた。 「ミス・スキーターはウィゼンガモートの非公開議事録の現物を閲覧した。」

 

「はい。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()、だ。」

 

「はい。」

 

「わたしですら、そうたやすくできることではない。」

 

「ほんとうですか? ぼくの予想が正しければ、これをやったのはホグウォーツの生徒なんですが。」

 

「それはありえなさすぎる。ミスター・ポッター……遺憾ながら、このお嬢さんはきみと結婚するつもりになっているぞ。」

 

「ありそうにない、と言うべきでしょう。ダグラス・アダムズの言いかたでは、ありえないものごとには、ただありそうにないだけのものごととは別の、ある種の品格がある。」

 

「その点は認めよう。だが……やはり無理がある。 実際には不可能かもしれないが、わたしもウィゼンガモートの議事録に改竄をかけることを()()()()ことならできる。 しかし、偽の婚約証書にグリンゴッツの頭取が代表印をおして認証し、ミス・スキーターがみずから印影を確認した、というのは()()()()()()。」

 

「たしかに、それだけの額の取り引きであれば、グリンゴッツの頭取がかかわってきそうですね。 ミスター・ウィーズリーは巨額の借金をかかえていて、追加で一万ガリオンの支払いを要求したのだということがここに——」

 

「一万ガリオンはたいて、ウィーズリーたった一人だと? 〈貴族〉の令嬢を買うこともできる金額だぞ!」

 

「すみませんが、そろそろ聞かせてくれませんか。この世界ではほんとにそういうことを——」

 

「滅多にない。」と言ってクィレル先生は眉をひそめた。「それに、〈闇の王〉がいなくなってからは皆無ではないかと思う。 この新聞によると、きみの父親は言い値で支払ったらしいな?」

 

「選択肢がなかったんでしょう。予言の条件を満たすつもりなら。」

 

「それをよこせ。」とクィレル先生が言うと、新聞がハリーの手を飛びでていった。あまりの速度に、ハリーの手に切り傷ができた。

 

ハリーは無意識に傷のできた指を口にあてて吸おうとし、だいぶショックをうけながら、クィレル先生のほうを向いて抗議しようとした——

 

クィレル先生は道のまんなか近くで立ちどまり、目のまえに見えないちからで固定させた新聞のうえで、高速に目をいったりきたりさせた。

 

ハリーはぽかんと口をあけてそれをながめた。新聞は二ページ目、三ページ目へとすすみ、さほど時間がたたないうちに、四ページ目、五ページ目までめくられる。それはまるで人間のふりをするのをやめたかのようだった。

 

不安になるほどみじかい時間をへて、新聞は自動的にきれいにたたまれた。 クィレル先生は空中でそれをつかみ、ハリーに投げ、ハリーは完全に反射的に受けとめた。 そしてクィレル先生はまた歩きだし、ハリーは無意識にとぼとぼとあとを追った。

 

「いや、あの予言はわたしにも、ほんものらしく聞こえなかった。」

 

ハリーは呆然としたまま、うなづいた。

 

クィレル先生は眉をひそめた。「ケンタウロスには〈服従〉(インペリウス)がかけられていたのかもしれない。それなら理解できる。 魔法で作れるものは、魔法で改竄できる。グリンゴッツ代表印がだれかにうばわれたという可能性も考えられなくはない。 この〈無言者〉(アンスピーカブル)もバイエルンの予見者も、〈変身薬〉(ポリジュース)でなりすましたにせものかもしれない。 十分な労力をつぎこめば、ウィゼンガモートの議事録を改竄することも可能かもしれない。 どういう方法だったか、きみは当たりがついているのか?」

 

「もっともらしい仮説は一切思いつきませんでした。予算総額が四十ガリオンだったということは知っていますが。」

 

クィレル先生は立ちどまって、急にハリーのほうを向いた。 心底信じられないという表情をしていた。 「四十ガリオンというのは、有能な結界やぶりを雇って、どこかの住宅に押しいる経路をつくらせるときの報酬だ! 四万ガリオンあってやっと、世界有数の職業的犯罪者を数人あつめて、ウィゼンガモートの議事録を改竄させられる()()()がでてくる!」

 

ハリーはしかたなさそうに肩をすくめた。 「また適切な請負者をえらんで三万九千九百六十ガリオン節約したくなったときのために、おぼえておきますね。」

 

「わたしはこういうことは滅多に言わないのだが、感心した。」

 

「ぼくもです。」

 

「それで、このとんでもないホグウォーツ生はだれだ?」

 

「申し訳ありませんが、言えません。」

 

クィレル先生が異議をとなえないことに、ハリーはちょっとおどろいた。

 

二人はグリンゴッツの建て物のある方向へと歩きながら、考えつづけた。二人とも、すくなくとも五分間考えてからでなければ問題をあきらめないタイプである。

 

だいぶたって、ハリーがこう言った。「まちがった角度から問題を見てしまっていたよう気がしてきました。 ある物理の授業の話を思いだします。火の近くにおかれた大きな金属板を先生が学生たちに見せる。先生は金属板をさわれと言う。学生がさわると、火に近いほうが冷たく、火に遠いほうが熱い。 そこで先生は、なぜこうなるのかあてて見ろ、と言う。 ある学生は『金属による熱伝導の性質』と書き、別の学生は『空気の移動のしかたのせい』と書く。だれも『こんなことはありえない』とは書かない。ほんとうは、学生たちがくるまえに先生が板をひっくりかえした、というのが答えだった。」

 

「おもしろい。たしかに今回の件と似ているようだ。その話の教訓は?」

 

「現実よりも虚構(フィクション)に困惑させられる度合いが大きいというのが、合理主義者の強みだということです。 どんな結果もおなじようによく説明できる人は、なにも知識がない人です。 学生たちは『熱の伝導』といったような用語をつかえば、火に近いほうが冷たい金属板でもなんでも説明できると思ってしまった。 自分がどれくらい困惑しているのかを自覚できていなかった。つまり、真実からうける困惑よりも、うそからうける困惑のほうが大きくなかった。 ケンタウロスに〈服従〉(インペリウス)がかかっていたのだと言われても、ぼくはまだなにかおかしいという気がします。 その説明をきいても、自分がまだ困惑している気がします。」

 

「ふむ。」とクィレル先生が言った。

 

二人は歩きつづけた。

 

「もしかして、人間を別の並行宇宙に飛ばすことができたりはしませんよね? これがこの世界のリタ・スキーターではない、とか、ほんものは一時的に別の場所に飛ばされたとか。」

 

「そんなことが可能だったとしたら、」とやけにかわいた声でクィレル先生が言う。「わたしがまだここにいると思うか?」

 

そして二人がグリンゴッツの巨大な玄関のまえにきたところで、クィレル先生はこう言った。

 

「ああ。そういえばそうか。 ……あててみよう。ウィーズリー兄弟では?」

 

()?」とハリーは一オクターヴ上の高さの声をだした。「()()()()()?」

 

「申し訳ないが、言えない。」

 

「……不公平ですよ。」

 

「きわめて公平だと思うぞ。」

 

二人は青銅の扉を通って、なかにはいった。

 

◆ ◆ ◆

 

時刻は正午のすこしまえ。ハリーとクィレル先生は豪華な特別室で、はばのある、たいらな長いテーブルの両端に座っている。壁にそって、しっかりとクッションのはいった長椅子と肘かけ椅子がならび、やわらかいカーテンがいろいろな場所にかかっている。

 

これから二人は〈メアリーの店〉で昼食をとる。クィレル先生が知るかぎり、ダイアゴン小路で一番のレストランだという。先生はそこで意味ありげに声をひそめてこう言った——とりわけ、()()()()()のためには。

 

ハリーにとっては、人生で一番上等なレストランだった。クィレル先生にごちそうをしてもらうということの意味が身にしみてきた。

 

今回の任務(ミッション)の半分は〈閉心術〉教師をみつけることだったが、これは成功した。 クィレル先生は邪悪な笑顔をして、ダンブルドアが支払うから費用は心配するなと言って、グリプークに最高の教師を推薦させた。グリプークは笑みをかえした。 ハリーのほうもそれなりに笑みをうかべていたりした。

 

もう半分は完全な失敗だった。

 

ダンブルドア総長かほかの学校代表者が同行していないかぎり、ハリーは自分の金庫からおかねをとりだすことは許されない。クィレル先生は金庫の鍵をあずかっていなかった。 ハリーのマグルがわの両親は、マグルだから許可する権限がない。マグルの法的な立ち場は子どもや子ネコと大差がない。かわいいし、人目につく場所で虐待してしまえば逮捕につながることはある。だが、()()()()()()。 しぶしぶながらマグル生まれの子の親だけは限定的な意味で人間として認められるという法律上の規定はあるものの、ハリーの養父母はそこに分類されない。

 

魔法界からみると、ハリーは事実上の孤児であるらしい。 だから、ホグウォーツ総長もしくはホグウォーツ運営機構に属するその代理人が、卒業までハリーの後見人となる。 ダンブルドアの許可がなくても息をするくらいはできるが、それも明示的に禁じられていなければの話だ。

 

それからハリーはグリプークに、投資を多様化するために金庫に金貨をためる以外の方法を指示させてもらえないか、と訊いた。

 

グリプークはきょとんとした顔をして、『多様化』とはどういうことか、と訊きかえした。

 

つまり、銀行は投資をしない、ということらしい。銀行というのは、金貨を安全な金庫に保管して保管料をとるものと思われているらしい。

 

魔法界には株という概念がない。債券もないし、会社もない。事業は家族経営で、個人の金庫をつかう。

 

金貸しは銀行ではなく金持ちがやる。 ただし、グリンゴッツは料金をとって契約の証人をつとめるし、はるかに高い手数料で集金もやる。

 

いい金持ちは友だちに貸して、返すのはいつでもいいと言う。 ()()金持ちは()()をとる。

 

融資(ローン)の二次市場はないという。

 

邪悪な金持ちは年二割以上の金利をとるという。

 

ハリーは立ちあがって、後ろをむいて、あたまを壁におしつけた。

 

そして、銀行を開業するのに総長の許可はいるか、とたずねた。

 

クィレル先生がそこで割ってはいって、昼食の時間だと言い、ぷんぷんするハリーをグリンゴッツの青銅の扉をとおって連れだし、ダイアゴン小路をぬけて、〈メアリーの店〉という立派なレストランに案内した。 部屋は予約ずみで、店主はクィレル先生がハリー・ポッターを連れてきたのを見てびっくりしていたが、なにも言わずに部屋へと案内してくれた。

 

クィレル先生はわざとらしく勘定はまかせろと言い、そのあいだハリーが見せた表情を楽しんでいるようだった。

 

「いや、」とクィレル先生が給仕に言う。「メニューはけっこう。 わたしは今日のおすすめと、キャンティをボトルでいただこう。ミスター・ポッターにはまずディリコールのスープ、メインにルーポのつみれ、デザートにはトリークル・プディングを。」

 

形式ばってはいるが通常より短めのローブを着た女性給仕は、丁寧にお辞儀をして部屋を出て、ドアを閉めた。

 

クィレル先生がドアの方向に手をふると、かんぬきが動いて閉まった。 「かんぬきはこのとおり、内がわにある。 この部屋は〈メアリーの部屋〉といって、どんな盗聴盗撮も通用しない。これは誇張ではない。 ダンブルドアでさえ、このなかのできごとは検知できない。 〈メアリーの部屋〉を使う人間には二種類いる。 いかがわしい情事をする人間と、おもしろい人生を送る人間だ。」

 

「そうなんですか。」

 

クィレル先生はうなづいた。

 

ハリーのくちびるが待ちきれずに開いた。 「それなら、ただここにいて食事だけして、特別なことをしないのはもったいないですね。」

 

クィレル先生はにやりとして、杖をとりだし、ドアの方向に振った。 「もちろん、おもしろい人生を送る人たちは、情事の人たちよりも()()()()()。 この部屋はたったいま封印しておいた。 これでこの部屋にはなにも出入りできない——たとえばあのドアのすきまなどもふくめて。 そして……」

 

クィレル先生は四種類以上の〈魔法(チャーム)〉を唱えたが、どれもハリーの知らない呪文だった。

 

「実はこれでも不十分だ。 もし真に重要なことをしようとしているなら、もう二十三種の検査をしておかなければならない。 たとえばもし、われわれがここに来ることがリタ・スキーターに知られていたか予想されたなら、彼女が真の〈不可視のマント〉を着て、ここにはいりこんでいることも考えられる。 あるいは、小さなからだの〈動物師(アニメイガス)〉だったりするかもしれない。 そういうまれな可能性を排除するための検査もあるが、すべてをやるには労力がかかる。 それでも、悪い習慣をきみに教えてしまわないように、やっておいたほうがいいだろうか。」  そう言ってクィレル先生は指をほおにあてて、考えこむようにした。

 

「いいです。理解はできましたし、おぼえておきます。」 だが自分たちが真に重要なことをしようとしているのではない、とわかって、ハリーはすこしがっかりした。

 

「よろしい。」と言ってクィレル先生は椅子に背をもたれさせ、にこりとした。 「今日のはみごとな仕事だった、ミスター・ポッター。 実行をだれかにまかせたとしても、基本的にはきみの考えだったのだろう。 これからはリタ・スキーターにわずらわされることはまずなくなると思う。 ルシウス・マルフォイは彼女の失敗をこころよく思わないだろうし、彼女もバカでなければ、だまされたと気づいた瞬間に国外に逃亡するはずだ。」

 

ハリーの腹のなかにいやな感覚がうまれた。 「リタ・スキーターの背後にルシウスが……?」

 

「おや、わかっていたんじゃなかったのか?」

 

事件のあとでリタ・スキーターがどうなるかについては、考えていなかった。

 

全然。

 

ほんのすこしも。

 

でも、解雇されはするだろう。解雇されるにきまっている。ハリーが知らないだけで、ホグウォーツに通っている子どもがいたりするかもしれない。それだけではなく、はるかに悪いことに——

 

「ルシウスは彼女を殺させるでしょうか?」  ほとんど聞こえないくらいの声でハリーはそう言った。 あたまのなかのどこかで、〈組わけ帽子〉がどなってきていた。

 

クィレル先生はかわいた笑いをした。 「きみは記者を相手にした経験がなかったようだが、記者が一人死ぬたびに世界はすこしあかるくなる、ということは保証するよ。」

 

ハリーは反射的に椅子から飛びだした。手おくれにならないうちにリタ・スキーターをみつけて、警告しないと——

 

「座りなさい。」とするどい声でクィレル先生が言う。「ルシウスは彼女を殺さない。 だがルシウスは、使いでのない者たちをきわめてみじめな状況におく。 ミス・スキーターは逃亡して、名前をかえて新しい人生をはじめるだろう。 座りなさい。現時点できみにできることはなにもない。だが学ぶべき教訓はある。」

 

ハリーはゆっくりと座った。 クィレル先生は失望させられ、いらだった表情をしている。ことば以上にその様子が、ハリーを引きとめさせた。

 

クィレル先生は痛烈な声でこう言った。「ときどき、きみのスリザリン的知性が無駄になってしまっているのではないかと思うことがある。 わたしのことばを復唱しなさい。リタ・スキーターは卑劣でさもしい女だった。」

 

「リタ・スキーターは卑劣でさもしい女だった。」  ハリーはそう言うのに気がすすまなかったが、行動の選択肢はほかにまったくないようだった。

 

『リタ・スキーターはぼくの名誉を台無しにしようとしたが、ぼくは巧妙な計画を実行して、彼女の名誉を台無しにしてやった。』

 

『リタ・スキーターのほうが戦いを申しこんできた。彼女は負け、ぼくは勝った。』

 

『リタ・スキーターはぼくの今後の計画の邪魔になった。 計画を成功させるため、ぼくはやむをえず彼女に対処した。』

 

『リタ・スキーターは敵だった。』

 

『敵をたおす気がなければ、人生でなにもなすことができない。』

 

『今日ぼくは敵をひとりたおした。』

 

『ぼくはいい子だ。』

 

『だから特別なご褒美をもらう資格がある。』

 

最後の数文をききながら、クィレル先生は優しそうににこりとしていた。 「ああ、きみの気をひこうとしていたのだが、うまくいったようだな。」

 

そのとおりだった。 なにかに無理矢理ひきずりこまれたような感じがする——いや、感じだけじゃなく、実際引きずりこまれている——のだが、あの文句を言わせられ、クィレル先生の笑顔を目にすると、たしかに気分がよくなったのは認めざるをえない。

 

クィレル先生はわざとらしく大げさにローブのなかに手をいれた。とりだした手のなかには……

 

……()があった。

 

それはハリーがこれまでに見たどんな本ともちがっていた。枠も背もゆがんでいて、()()()ということばがあたまにうかんだ。まるで、本の鉱脈からきりだされてきたかのように。

 

「これはなんですか。」とハリーがささやく。

 

「日記帳だ。」

 

「だれの?」

 

「ある有名な人物の。」と言ってクィレル先生はにこりとした。

 

「はあ……」

 

クィレル先生は真剣な表情になった。 「ミスター・ポッター、有能な魔法使いの条件のひとつは、記憶力にすぐれることだ。 難問をとく鍵はしばしば、二十年まえに読んだ古い巻き物や、一度しかあったことのない男の指にはまっていた奇妙な指輪にひそんでいる。 そういう風にして、わたしはこれのことを思いだした。昔この品とそのとなりにあった説明書きとを見てから、きみにあうまでには、かなりの年月を要した。 いままで生きてきたなかでわたしはいくつもの個人蔵のコレクションを見てきたが、明らかに資格のなさそうな人物が所有者であることも——」

 

「盗んだんですか?」 信じられずにハリーはそう言った。

 

「そのとおり。ごく最近のことだ。 これはきみのように価値を理解できる人が持つべきだと思う。これを持っていたさもしい小男は、おなじくらいさもしい友人たちに、貴重なものであると言って見せびらかす以外の用途を知らなかった。」

 

ハリーはただ愕然とした。

 

「とっておきの贈りものではあるが、もしただしくないことだと思うのなら、受けとってもらわなくてもかまわないよ。 当然ながらその場合、これを()()ためにわざわざまた忍びこむつもりはないが。 さあ、どうする?」

 

クィレル先生はその本を片手から片手へと投げた。それを見てハリーは思わず、狼狽して手をのばした。

 

「ああ、手あらな取りあつかいをしているが心配いらない。 暖炉にほうりこんでも、傷ひとつつかないしろものだ。 ともかく、きみの答えを待っているぞ。」

 

クィレル先生はなにげなく本を空中にほうりなげ、受けとめて、にやりとした。

 

ことわれ——とグリフィンドールとハッフルパフが言う。

 

もらっておけ、『本』という単語のどこが理解できないんだ?——とレイヴンクローが言う。

 

盗んだっていう部分——とハッフルパフが言う。

 

おいおい、まさかここでことわって、これからの人生ずっと、あれはなんの本だったんだろうと悩んで過ごしたいわけじゃないだろう——とレイヴンクロー。

 

功利主義的にいえば、差し引きプラスなんじゃないか——とスリザリンが言う。 取り引きすることで利得をうむ経済行為なんだと思えばいい。取り引きの部分がないだけだ。 しかも盗んだのは()()()()()()()し、このままクィレル先生にもたせておいても、だれの得にもならない。

 

おまえを〈(ダーク)〉にするための手ぐちに決まってる!、とグリフィンドールが叫び、ハッフルパフが深くうなづいた。

 

うぶなことを言うなよ、彼はスリザリンの道を教えてくれようとしてるだけだ——とスリザリンが言う。

 

本来の所有者はどうせ〈死食い人〉かなにかだ。ぼくらがもっているべきだ——とレイヴンクローが言う。

 

ハリーが口をひらき、苦悶の表情をして、そのまま止まった。

 

クィレル先生はずいぶん愉快そうにしていた。 本のかどに指を一本たててバランスをとり、なにか鼻歌をふきながら、たおれないようにしていた。

 

そのとき、ドアにノックの音がした。

 

本はクィレル先生のローブのなかへ消え去り、先生は椅子から立ちあがった。 そしてドアのほうへ歩きはじめ——

 

——よろめいて、急に壁にたおれかけた。

 

「大丈夫だ。」と言うクィレル先生の声は急にいつもより弱よわしくきこえた。 「すわりたまえ、ミスター・ポッター。ただの目まいだ。さあ。」

 

ハリーの指が椅子のへりをつかんだ。自分がなにをすべきか、なにができるのか、わからない。 クィレル先生にあまり近づくこともできない。近づけば、あの〈破滅〉の感覚にやられる——

 

クィレル先生は背をのばし、そしてすこしつらそうに息をついてから、ドアをあけた。

 

給仕が食べものをのせた盆をもって、はいってきた。 給仕は皿をならべていき、クィレル先生はゆっくりとテーブルにもどった。

 

給仕がお辞儀をして出るころには、クィレル先生はまっすぐに座って、笑みがもどっていた。

 

それでも、たったいま起きたなにごとかで、ハリーは決心させられた。 ことわることなんかできない。クィレル先生がこれほど苦労して手にいれたものなら。

 

「もらいます。」

 

クィレル先生は警告するように指を一本たて、また杖をとりだして、ドアを施錠しなおし、さきほどかけたうちの三種の〈魔法(チャーム)〉をかけなおした。

 

そして本をローブからとりだして、ハリーのほうに投げ、ハリーはあやうくそれをスープに落としかけた。

 

ハリーはクィレル先生に、あきれて憤慨する視線を送った。魔法がかかっていてもいなくても、こういうことを本にするべきではない。

 

ハリーは自分にしみついた本能的な慎重さで、その本をひらいた。 ページはやけに厚みがあり、マグルの紙とも魔法界の羊皮紙とも似ていない材質だった。 そのなかに書かれているのは……

 

……白紙?

 

「見たところ、ぼくにはなにも——」

 

「巻頭のほうを見ろ。」とクィレル先生に言われて、ハリーは(また、どうしようもなく自分にしみついた慎重さで)たくさんのページをまとめてめくった。

 

そこにある文字はあきらかに手書きで、読みとるのがむずかしいが、おそらくラテン語ではないかと思えた。

 

「これはなんなんですか?」

 

「その本は、とあるマグル生まれがホグウォーツに通うことなく魔法を研究した記録だ。 その人物は入学許可を拒否し、自力ですこしずつ研究をすすめた。だが、杖がない以上たいした成果にはむすびつかなかった。 説明書きを読んだかぎりでは、その人物の名前はわたしよりもきみにとってこそ重みがあることと思う。 ハリー・ポッター、それはロジャー・ベイコンの日誌だ。」

 

ハリーは卒倒しかけた。

 

クィレル先生がよろめいたあたりの壁に、きれいな青いコガネムシが一匹、つぶれた死骸となって輝いていた。

 

◆ ◆ ◆

 

〔原註:ロジャー・ベイコンは十三世紀の人物で、科学的方法の最初期の信奉者と見なされている。ベイコンの実験日誌を科学者に贈るというのは、言ってみれば、シェイクスピアの筆記具どころか文字の発明にかかわった人物の筆記具を作家に贈るようなものである。〕

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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27章「共感」

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ポッターがなにかを懇願する様子を見られる機会は、なかなかない。

 

「たのむよおおお。」

 

フレッドとジョージは笑顔で、もう一度くびをふった。

 

ハリー・ポッターは苦悩の表情をしている。 「ケヴィン・エントウィスルのネコと、ハーマイオニーと、消えるソーダのタネはもう話してあげたし、〈組わけ帽子〉と〈思いだし玉〉とスネイプ先生のことは教えられないんだって……」

 

フレッドとジョージは肩をすくめて、去るそぶりをした。

 

「万一わかったら、教えてくれよ。」

 

「ひどい! 二人ともひどい!」

 

フレッドとジョージはだれもいない教室を出て、しっかりとドアをしめて、にやりとした表情をしばらくは維持するようつとめた。ハリー・ポッターがドアを透視できる場合にそなえて、である。

 

そして交差点をまがると、しょんぼりとした表情になった。

 

「もしかして、ハリーの推測をきいて——」

 

「——なにか思いついたりした?」  おたがい同時にそう言って、ふたりはさらに肩をおとした。

 

このことに関係する最後の記憶は、フルームに協力をことわられた場面だが、自分たちがそのとき()()()頼もうとしていたのかも思いだせない……

 

……だが、協力してくれる他のだれかを見つけて、いっしょに非合法なことをやったに違いない。でもなければ、自分たちをあとで〈忘消〉(オブリヴィエイト)してもらうようにはしなかっただろう。

 

いったいどうやって、たった四十ガリオンでこのすべてをやれたんだ?

 

最初は、にせの証拠のできがよすぎて、ハリーがジニーと結婚することになるんじゃないかと心配した…… が、それも想定の範囲内だったらしい。 ウィゼンガモートの議事録は()()()()改竄されて本来の内容にもどり、にせの婚約証書もドラゴンに護衛されたグリンゴッツの金庫から消えさったのだ。 ちょっとこわくもある。 一般にはこの件はすでに、『デイリー・プロフェット』が不可解な理由で行った完全なでっちあげだと思われている。ダメ押しとして翌日の号の『ザ・クィブラー』が、ハリー・ポッターとルナ・ラヴグッドがいいなづけと判明、という見出しをつけてくれた。

 

二人が雇ったなにものかが、時効になったあとですべて教えてくれるのだと、二人は必死で願った。 でもいまは、最低の気分だ。もしかするといたずら史上最高のいたずらをやってやったのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 こんなのはおかしい。一度目には思いつくことができたのに、結果がわかったあとではやりかたがわからない、というのはどういうことだ?

 

唯一のなぐさめは、二人が知らないということをハリーが知らないということだ。

 

明らかにウィーズリー関係の事件なのに、ママでさえ二人をうたがってはいない。 どういう方法だったにしろ、ホグウォーツ生にできる範囲をはるかにこえてしまっている……例外があるとすれば、とあるうわさを信じるなら、指をならすことでそれができたかもしれない一生徒だけだ。 ハリーは〈真実薬〉を飲まされて証言させられた、と言っているし……同席したダンブルドアは〈闇ばらい〉たちをぎろりとにらんでいたという。 ハリーがこのいたずらをしかけたのではなく誘拐などもしていないと判断できるだけの質問をしおえると、〈闇ばらい〉はさっさとホグウォーツから退散した。

 

フレッドとジョージは自分たちのいたずらについてハリー・ポッターが訊問されたということを侮辱とみなすべきかどうか、決めかねた。だが、おそらくまったくおなじ理由で、ハリーの顔にうかんだ表情を見れただけでも、価値はあったと納得した。

 

意外なことではないが、リタ・スキーターと『デイリー・プロフェット』編集長は忽然とすがたを消した。おそらく、もう国外にいることだろう。 この部分だけでも、家族に教えてやりたかった。 パパはほめてくれただろうと思う。そのまえにまずママがフレッドとジョージを殺して、ジニーが死骸を燃やしてくれただろうが。

 

それでも、なにも問題はない。パパにはいつか話せるだろうし。ところで……

 

……ところで、すこしまえにダンブルドアがたまたま二人とすれちがったときにくしゃみをして、小さな小包をポケットからうっかり落とした。そのなかには、()()()()()高品質な結界やぶりの単眼鏡がふたつ、おそろいではいっていた。 ウィーズリー兄弟はこれを試すため、三階の『禁断』の通廊に行って、あの魔法の鏡までひとっぱしりしてきた。この単眼鏡を使うと、検知用の網がぜんぶ見えたわけではないが、一度目に行ったときよりはずっといろいろなものが見えた。

 

もちろん、この単眼鏡をもっていることがバレないようにとても気をつける必要がある。バレれば総長室にいかされて、手きびしい説教と、退学の警告までくらったりするかもしれない。

 

グリフィンドールに〈組わけ〉されたからといって、全員がマクゴナガル先生みたいな大人になるのではない、というのはありがたい。

 

◆ ◆ ◆

 

窓のない殺風景な白い部屋で、ハリーは机をまえにして座って、正式な黒一色のローブを着た無表情な男に対面している。

 

この部屋は検知がおよばないように遮蔽されている。男はきっちり二十七の呪文をかけてから、はじめて「こんにちは、ミスター・ポッター。」と言った。

 

この黒づくめの男がこころを読もうとしてくるというのは、妙にぴったりくる感じがした。

 

「こころの準備を。」と男は単調に言った。

 

ハリーの〈閉心術〉(オクルメンシー)の本によれば、人間の精神のうち〈開心術師〉(レジリメンス)が触れることができるのは、ある()()()だけだという。 その境界面の防衛がくずれれば、〈開心術師〉は()()()はいりこむ。そして、〈開心術師〉自身の精神で理解できるかぎりのすべてに到達されてしまう……

 

……というのは、さほど深くではない。 人間の精神のうち人間が理解できるのは、ごく浅い部分までだけらしい。 認知科学をよく知っている人なら強力な〈開心術師〉になれるのでは、とハリーは思った。だが、一連の経験から、そういうことについて興奮しすぎてはいけないという教訓をハリーはようやく学んでいた。 認知科学者だって、人間をつくれるほど人間をよく理解しているわけではないのだから。

 

〈閉心術〉という対抗手段をまなぶにあたって最初の一歩は、自分が別のだれかだと想像し、できるかぎり徹底して自分を別のペルソナにしたてることだ。 いつもそうしている必要はないが、この練習により自分の境界面がどこにあるかを知ることができる。 〈開心術師〉がこころを読もうとしてきたとき、よく注意すればその活動を感知することができるようになる。 そのとき、実物のかわりに想像上のペルソナを触れさせるようにすればいいのだ。

 

それがうまくできるようになると、とても()()な種類の人間として自分を想像し、岩のふりをすることができるようになる。そして習慣的にその偽装を境界面全体にほどこすことができるようになる。 これが標準的な〈閉心術〉の障壁である。 岩のふりをするのは最初はむずかしいが一度できれば楽になるし、相手に触れさせる精神の境界面は内部よりもずっと表層的だから、十分訓練をすれば意識せずとも習慣として維持できるようになる。

 

そして()()()()()()()()()なら、さぐりをいれられたときに()()()()し、問われたことに即座に答えることができる。こうなると、境界面を通過してはいってきた〈開心術師〉にも、内部の精神が演技であるかどうか、見分けがつかない。

 

最高の〈開心術師〉であっても、そうやってだまされることがある。 完璧な〈閉心術師〉が自分の〈閉心術〉の障壁を解除したと主張したとして、それがうそでないという確証はない。 そればかりか、相手が完璧な〈閉心術師〉であるかどうかさえ、わからないかもしれない。 完璧な〈閉心術師〉は希少だが皆無ではない。その事実があるから、だからだれに〈開心術〉をかけるときも、確実なことは言えないのだ。

 

悲しいことに、人間はおたがいをほとんど理解できないということがここからわかる。 最高の読心術が使える人間でさえ、精神の境界面より奥にあるものをほとんどなにも理解できず、別人のふりをしている相手を見やぶることができないのだ。

 

といっても、そもそも人間は、相手を理解しているふりをすることによってしか、おたがいを理解することができない。 三百兆本のシナプスを個別にモデリングして相手の行動を予測する人はいない。 世界最高の心理操作者に〈人工知能〉を設計させようとしても、ぽかんとされるだけだろう。 相手の行動を予測するとき、人は自分の脳に相手の脳のまねをさせるのだ。 つまり、()()()()()()()()()()()()()ということ。 怒っている人がどういう行動をするかを知りたければ、自分の怒りの回路を発火させて、その回路がだすなにかが、とにかく予測になる。 怒りの神経回路のなかみはどうなっているのかは、だれも知らない。 世界最高の扇動者は神経細胞がなんであるかも知らないかもしれない。世界最高の〈開心術師〉もおなじだ。

 

〈開心術師〉が()()できることはすべて、〈閉心術師〉がかならず()()できる。 どちらも仕組みは同じ——両者はおそらく、他人のモデルを脳に演じさせるための制御をする、同一の神経回路で実現されているのだろう。

 

ということで、テレパシー攻撃とテレパシー防御の競争では、防御がわが圧勝する。 そうでなければ、魔法界そのもの、いや地球そのものが、こういうすがたをしてはいないだろう……

 

ハリーは深呼吸し、集中した。 わずかに笑みをうかべた。

 

やっとついに、謎のパワー方面で、期待どおりのものがでてきたようだ。

 

一カ月以上練習しつづけてから、本気でというよりちょっとした思いつきで、ハリーは冷たい怒りを感じてから〈閉心術〉の練習をしてみた。 このやりかたにはもうほとんど期待しなくなっていたのだが、軽く試してみるくらいはいいだろうと——

 

それから二時間、ハリーは本にのっているむずかしい練習をぜんぶやりとおして、つぎの日にクィレル先生の部屋に行って準備ができたと言ったのだった。

 

この暗黒面(ダークサイド)はどうやら、他人になりすますのが()()()じょうずらしい。

 

自分がはじめて完全にダークサイドに行ってしまったときからお決まりになった、あのトリガーを思いうかべてみる……

 

セヴルスはことばを切り、満足感にひたっているようだった。 「これでしめて……五点? いや、切りがいいところで十点、口ごたえをした罰としてレイヴンクローの点を減点する。」

 

ハリーは冷たい笑みをした。そして自分に読心をしかけようとしてきている黒ローブの男を見つめた。

 

そして、まったくの別人になった。この状況に適していそうな別人に。

 

……窓のない殺風景な白い部屋で、机をまえにして座って、正式な黒一色のローブを着た無表情な男に対面するという、この状況に適していそうな人物に。

 

〈銀河警察〉の〈第二段階レンズマン〉を務めるキムボール・キニスンは自分に読心をしかけようとしてきている黒ローブの男を見つめた。

 

キムボール・キニスンは、この対決に自信があるどころではなかった。 彼の師はあらゆる宇宙で最強の精神力をもつアリシア人の〈導師〉(メンター)だ。たかが魔法使いに見られるのは、こちらからすすんで見せていいと思った部分までにすぎない……

 

……すなわち、彼がなりすましている純真な少年、ハリー・ポッターの精神だ。

 

「準備できました。」と十一歳の少年にふさわしい不安げな調子でキムボール・キニスンが言った。

 

〈開心〉(レジリメンス)」と黒ローブの男が言った。

 

沈黙。

 

黒ローブの男が目をしばたたかせた。衝撃的だったので自分のまぶたを動かさせられてしまった、と言うかのように。口をひらいて出た声も完全に単調ではなくなっていた。「〈死ななかった男の子〉に謎の暗黒面(ダークサイド)があるのか?」

 

ゆっくりと、熱いなにかがハリーのほおにのぼってきた。

 

「ああ……」と言って男は完璧に平静な表情にもどった。 「ひとこと言っておこう。ミスター・ポッター、自分の長所を理解するのはいいことではあるが、過信しすぎることと混同してはいけない。 〈閉心術〉をほんとうに十一歳のわかさで身につけられるのかもしれないというのは、おどろきだ。 わたしはミスター・ダンブルドアがまた狂人のふりをしているのかと思ってしまっていた。 これだけ精神解離の才能がありながら、あれ以外に児童虐待の形跡がないのにはおどろきだし、いずれきみは完全な〈閉心術師〉になれるかもしれない。 だが一度目にして〈閉心術〉のバリアを成功させようというのは、たんにバカげている。それとこれとは話がちがう。 わたしがこころを読もうとしているのをきみは感じとることができたか?」

 

ハリーは顔を真っ赤にして、くびをふった。

 

「つぎはよく注意していなさい。一日目に完全な虚像をつくりだすのが目標ではない。 自分の境界面を知ることが目標だ。 ではこころの準備を。」

 

ハリーはまたキムボール・キニスンのふりをしようとした。もっと注意しようとした。だが、さきほどより考えがうまくまとまらず、思いうかべてはならないことがいくつもあるということを急に意識してしまう……

 

ああ、これはひどいことになる。

 

ハリーは歯ぎしりした。すくなくとも、この教師はあとで〈忘消〉(オブリヴィエイト)される。

 

「レジリメンス」

 

沈黙——

 

◆ ◆ ◆

 

……窓のない殺風景な白い部屋で、机をまえにして座って、正式な黒一色のローブを着た無表情な男に対面する。

 

日曜日の午後、個人指導の第四日である。 これだけの料金を支払えば、週末かどうかを気にすることなく、好きな期日をえらぶことができるのだ。

 

読心術師は一式のプライヴァシー強化呪文をかけてから、「こんにちは、ミスター・ポッター。」と単調に言う。

 

「こんにちは、ミスター・ベスター。」と疲れた声でハリーが言う。 「まず最初のショックの部分をすませましょうか。」

 

「前回はわたしをおどろかせることができたのか?」と男はすこしだけ興味をもったようにして言う。 「では。」と言って、ハリーの目をのぞきこむ。「レジリメンス」

 

沈黙。そして黒ローブの男は、牛追い棒でつつかれたかのようにして身をひるませた。

 

「〈闇の王〉は()()()()()?」と言って男が息をのむ。急に興奮した目になる。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

ハリーはためいきをついて、腕時計を見た。 あと三秒もすれば……

 

「すると、」と男は単調な声をもどせないまま言う。「きみは隠れた魔法の法則をみつけだして、全能になれると本気で信じているのか。」

 

「はい、そうです。ぼくはそこまで自信過剰です。」とハリーは腕時計のほうを見たまま、そっけなく言う。

 

「〈組わけ帽子〉はきみが次代の〈闇の王〉になると思っているらしい。」

 

「そうならないためにぼくが努力しているということもおわかりでしょう。それに、あなたがぼくに〈閉心術〉を教える気になれるかどうかについては前回までに長く議論をしたということ、結果としてやると決めたんだということも、見えたはずです。だからもうそれはやめておきませんか?」

 

「わかった。」とちょうど六秒後に男が言った。前回とおなじだ。 「では、こころの準備を。」と言ってから彼は沈黙し、やけに残念そうにこうつけくわえた。 「あの金と銀のトリックはおぼえていられたらと思うがね。」

 

同一の初期条件下にもどしてやってから同一の刺激をあたえれば、人間の思考はこれほどよく再現されるのだ。そう知ってハリーのこころは乱れた。 還元主義者たる者、そもそもこういう虚像にまどわされるべきではない。

 

◆ ◆ ◆

 

そのつぎの月曜日午前の〈薬草学〉の授業からでてきたとき、ハリーはずいぶん機嫌がわるかった。

 

そのとなりでハーマイオニーも憤懣をあらわにしていた。

 

ほかの子どもたちはまだなかにいて、なかなか荷物をかたづけない。今年二回目のクィディッチの試合にレイヴンクローが勝ったことで、興奮しておしゃべりしつづけているのだ。

 

昨晩の夕食後、ある女の子がホウキにのって三十分間飛びまわり、巨大な蚊のようなものをつかまえたという。 試合中のできごとはほかにもあったが、どれも重要ではない。

 

ハリーはこのエキサイティングな試合を観戦できなかった。〈閉心術〉のレッスンもあったし、謳歌すべき人生もあったから。

 

レイヴンクローの共同寝室(ドミトリー)内でのその後の会話はすべて回避した。〈音消しの魔法(チャーム)〉と魔法のトランクは便利なものだ。 朝食はグリフィンドールのテーブルで食べた。

 

だが〈薬草学〉は回避できなかった。レイヴンクロー生たちは授業のまえにもあとにも、()()()()()話しつづけた。それをとめるため、ハリーはファーコットの赤ちゃんのおむつを交換するのをやめて、ここには植物の勉強をしようとしている人もいるしスニッチはどこにもはえないから、どうかクィディッチの話はやめてくれないか、と宣言した。 その場のほぼ全員がショックをうけた表情でハリーを見たが、ハーマイオニーだけは拍手したそうな顔をしていた。スプラウト先生はハリーにレイヴンクローの点を一点授与した。

 

レイヴンクローの点を一点。

 

たった一点。

 

バカが七人、くだらないホウキにのって、くだらない試合をすると、レイヴンクローに()()()()

 

クィディッチの試合の得点は()()()()()()()()()()()()という。

 

つまり、黄金の蚊一匹をつかまえることが寮点百五十点に相当するという。

 

自分ならどうやれば百五十点をかせげるのか、想像することすらできない。

 

もちろん、()()()()()()()()()()()()救いだすとか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()思いつくとか、()()()()()()()()()()()()()()()()()発明するとか、()()()()ハーマイオニー・グレンジャーになるとかは、別として。

 

「殺せばいいんだ。」とハリーは歩きながら、となりのハーマイオニーにむけて言った。ハーマイオニーもハリーとおなじくらい気分を害した様子だった。

 

「殺すって? ……クィディッチの選手たちを?」

 

「クィディッチに多少なりとも関係する人なら全部、っていうつもりだったけど、手はじめにレイヴンクローの選手全員でもいい。」

 

ハーマイオニーのくちびるが非難めいたかたちにむすばれた。 「ハリー、人を殺すのはいけないことだってことくらいはわかってるでしょうね?」

 

「うん。」

 

「いちおう聞いておきたかっただけ。じゃあ一人目はシーカーにしようか。 アガサ・クリスティのミステリーならちょっと読んだことがあるけど、それにはまずあのシーカーの女の子を列車にのせないと。どうやればいいと思う?」

 

「生徒が二人、殺人の相談かね。」とかわいた声が言う。「驚愕させられる。」

 

すぐ先のかどから、多少しみのついたローブを着た男がふらりと出てきた。ぼさぼさの油ぎった髪が肩にまでかかっている。そのからだからあたりの廊下に、おそろしげな危険さが放出されているかのようだった。混ぜてはいけないものが混ざったポーションがうっかり落とされ、ベットに横たわった人たちが〈闇ばらい〉には自然死としか判定されずに死んでいく、というようなたぐいの危険さだ。

 

なにも考えずに、ハリーは一歩すすんでハーマイオニーの前に立った。

 

うしろで息をすう音がしたかと思うと、ハーマイオニーがハリーを抜き去って前にでた。 「逃げて、ハリー! 男の子を危険な目にあわせるわけにはいかないから。」

 

セヴルス・スネイプは陰気に笑う。「なかなか愉快だ。 ポッター、よければミス・グレンジャーとのたわむれをしばらくあきらめて、すこしつきあってもらえないかね。」

 

ハーマイオニーは急にとても心配そうな表情になった。ハリーのほうをむいて口をひらき、そこでとまった。悩んでいる様子だ。

 

「ああ、ミス・グレンジャー、心配は無用。 ボーイフレンドくんは五体満足でかえすと約束する。」 セヴルスの笑みが消えた。 「ポッターとわたしはこれから、二人だけで個人的な話がある。 きみが招待にはいっていないということくらいは伝わっていてほしいものだが、念のため言っておく。これはホグウォーツ教師としての命令だ。 行儀のよい女の子らしく、言いつけは守ってくれるだろうな。」

 

そう言ってセヴルスは身をひるがえして、かどのほうに戻っていった。「どうした、ポッター?」という声が聞こえた。

 

「あの、」とハリーはハーマイオニーに向いて言う。「ぼくがこれからしばらくあっちについて行くあいだ、きみにはハーマイオニーに心配させたり気を悪くさせないためにぼくが言うべきことを考えてもらう、っていうのはどうかな?」

 

「無理。」とハーマイオニーが震える声で言った。

 

セヴルスの笑いが、かどのむこうから鳴りひびいた。

 

ハリーはあたまをさげ、 「ごめん。ほんとにごめん。」と小さな声で言って、〈薬学教授〉のあとを追った。

 

◆ ◆ ◆

 

「それで、」とハリーが口をひらく。 どこにでもあるような石の廊下で、長短二組の足音だけが聞こえる。 〈薬学教授〉は足ばやに歩いているが、ハリーがついてこれる程度におさえている。ホグウォーツで方向という概念が通用するかぎりにおいて、二人は人通りのある区域からはなれていっているようだ。 「話というのは?」

 

「二人してチョウ・チャンを殺す相談をしていたことに正当な理由があるというなら、聞いてみたいものだが?」と乾いた声でスネイプが言った。

 

「そちらこそ、ホグウォーツの運営機構の一員として答えてもらいましょう。黄金の蚊一匹をつかまえることが寮点百五十点の学業成績に相当するということに正当な理由があるとでも言うんですか?」とかわいた声でハリーが言った。

 

セヴルスのくちびるに笑みが浮かんだ。 「なんと。おまえは目ざといほうだと思っていたが。 そこまで自分の同級生を理解できないでいるのか、それとも嫌悪するあまり理解しようともしないのか? クィディッチの点数が寮杯に影響しなかったとしたら、同級生諸君は寮点について真剣にはなるまい。 だれにも気にとめられず、おまえやミス・グレンジャーのような生徒がきそいあうだけになるだろう。」

 

驚愕するほどまともな説明だ。

 

そして驚愕したことで、ハリーのあたまがはっきりとしてきた。

 

考えてみれば、セヴルスが生徒のことをとてもよく理解している、というのはおどろくにあたらない。

 

生徒のこころを読んでいるのだから。

 

それに……

 

……本によれば、有能な〈開心術師〉はきわめて希少で、完全な〈閉心術師〉よりも希少なくらいだという。それだけの自制心をそなえている者はほとんどいないからだ。

 

自制心?

 

ハリーはこのあいだ、授業で癇癪(かんしゃく)をおこし、おさない子どもたちにどなりつける男についての話をききあつめた。

 

……だがそのおなじ男が、〈闇の王〉はまだ生きているとハリーに告げられたとき、即座にかつ完璧に反応した——まったく無知な人がするであろう反応そのものだった。

 

そして暗殺者のオーラと危険さをふりまきながらホグウォーツじゅうを闊歩する……

 

……などということを、ほんものの暗殺者だったらしているはずがない。 ほんものの暗殺者は、殺人をする瞬間まで、おとなしい小柄な事務員のようにしているはずだ。

 

誇りたかく貴族的なスリザリンの寮監でありながら、ポーションや調合材料のしみがついたローブを着用している。魔法を使えば二分で消せるにもかかわらず。

 

ハリーは自分が困惑しているのを自覚した。

 

そしてこの()()()()()()()についての危険さの推定値が天文学的にあがった。

 

ダンブルドアはセヴルスを手なづけていると考えているようだし、それを否定する材料はない。 〈薬学教授〉(ポーションズ・マスター)はこのところ『こわい先生ではあるが虐待はしない』という約束をまもっている。 ということはこれは、ハリーの以前の推論どおり、〈指輪の仲間〉みたいなものだ。 もしセヴルスが害をなすつもりなら、ハーマイオニーという目撃者の目のまえでハリーを連れ去ることはしないはず……そうしたければハリーがひとりになる瞬間をただ待てばいいだけなのだから……

 

ハリーはしずかにくちびるを噛んだ。

 

「昔、わたしの知り合いにクィディッチに夢中な少年がいた。どうしようもないバカだった。おまえと同じ、おそらくわたしとも同じ、バカだった。」

 

「なんの話でしょうか?」とゆっくりとハリーが言った。

 

「あわてるな、ポッター。」

 

セヴルスは横をむいて、暗殺者の動作でしずかに、そばの廊下の壁の切れ目へとむかった。そのさきには、せまい通路があった。

 

ハリーはそのあとを追った。ここで逃げたほうがかしこいのではないかと思いながら。

 

二人はかどをまがり、もう一度まがり、行きどまりの真っ黒な壁についた。 ホグウォーツが建設されたのであれば(魔法でとりだされたり召喚されたり生まれたりしたのでなければ)、行くさきのない廊下を作ったことについて、設計者に一言言ってやりたい。

 

「〈音消(クワイエタス)〉」とそのほかいくつかのことばをセヴルスが言った。

 

ハリーは身をひいて、胸のまえで腕をくんで、セヴルスの顔をじっと見た。

 

「わたしの目を見ようとしているのか? 〈開心術〉の侵入をふせげる程度にまで、おまえの〈閉心術〉の訓練がすすんでいるとは思えん。 だが検知する程度になら、ありうる。 そうでないと信じる理由がない以上、わたしは危険をおかさない。」 男は薄ら笑いをした。 「おなじことがダンブルドアについても言えると思う。 だからこそこのタイミングで、この話をするのだ。」

 

ハリーは思わず目を見ひらいた。

 

「まず最初に、」と言ってセヴルスは目を光らせる。「この会話のすべてをだれにも話さないと約束してもらおう。 教師や生徒に対しては、これはおまえの〈薬学〉の宿題についての話だということにする。 そう言われた相手が真にうけるかどうかは問題ではない。 ダンブルドアとマクゴナガルに対しては、ドラコ・マルフォイから秘密裏に明かされたなにかをわたしが裏切って話している、そしておたがいにその詳細を他言すべきでないと考えている、ということにする。」

 

ハリーの頭脳はこのことがなにを意味しどこまで影響するかを計算しようとして、スワップ領域を使いはたした。

 

「返事は?」

 

「いいでしょう。」とハリーはゆっくり言った。 話を聞かずにいれば当然その内容をだれにも言えない。だが、なぜかそれよりも、聞いた話をほかで話してはならないということのほうが不自由な感じがしてしまう。 「約束します。」

 

セヴルスはハリーをじっと見た。 「総長室での一件で、いじめや虐待は許せないとおまえは言った。 そこで知りたい。ハリー・ポッター、おまえはどれくらい父親に似ている?」

 

「マイケル・ヴェレス゠エヴァンズのことをおっしゃっているのでないかぎり、ジェイムズ・ポッターについてはほとんど知らないとしか言えません。」

 

セヴルスは自分にむけてうなづくかのようにした。 「スリザリン五年生にレサス・レストレンジという名の少年がいる。 彼はグリフィンドール生数名から、いじめをうけている。 わたしはこういった状況に対処するにあたって……制約がある。 おまえなら多分、彼を助けられるかもしれない。 その気があればだが。 これは頼みごとではないし、貸し借りは生じない。 ただ、おまえがそうしたければしてもいい、というだけのことだ。」

 

ハリーはセヴルスのほうをじっと見て、考えた。

 

「罠かもしれないと思っているのだろう?」  セヴルスのくちびるにうっすらと笑みが浮かんだ。 「罠ではない。試験ではある。 わたしの好奇心ということにしてもよい。 だがレサスは実際に苦しんでいるし、わたしが軽がるしく介入できないのも事実だ。」

 

自分が善人だと知られるとこういう問題が起きるのだ。 そこまでわかっていながら、食いつかざるをえない。

 

もしハリーの父親がほかの生徒をいじめから守るような人だったのなら……セヴルスがハリーにこのことを伝えた理由がわからなくてももう関係ない。 そう考えるとこころのなかがあたたかくなり、誇らしくなる。手を引くことはできなくなる。

 

「いいでしょう。レサスのことをきかせてください。なぜいじめられているんですか?」

 

セヴルスの顔から笑みが消えた。 「理由など、あると思うのか?」

 

「ないかもしれませんね。」とハリーがしずかに言う。「でも、その彼が無名の泥血の女の子を階段からつきおとしたとかいう可能性もあるのではと。」

 

「レサス・レストレンジは、」と冷たい声でセヴルスが言う。「ベラトリクス・ブラックの息子だ。ベラトリクス・ブラックは〈闇の王〉のもっとも邪悪で狂信的なしもべだった。ラバスタン・レストレンジとの私生児としてレサスは生まれ、のちに認知された。 〈闇の王〉の死後まもなく、ベラトリクスとラバスタンはラバスタンの兄ロドルファスとともに、ロングボトム夫妻、アリスとフランクを拷問しているところをとらえられた。 三人ともアズカバンの終身刑だ。 ロングボトム夫妻は執拗な〈拷問〉(クルシアタス)をうけて発狂し、いまは聖マンゴ病院の不治病棟にいる。 このどれが彼をいじめる理由になる?」

 

「どれも理由になりませんが……」とハリーがやはりしずかに言う。「レサス本人は、あなたが知るかぎりなんの悪事もしていないということですか?」

 

セヴルスのくちびるにまたうっすらと笑みが浮かんだ。 「ほかのだれとくらべてもレサスは聖者ではない。 だが泥血の女の子を階段からつきおとしたことはない。わたしが知るかぎりは。」

 

「あるいはこころを読んだかぎりでは。」とハリー。

 

セヴルスの表情は冷ややかだ。 「彼のプライヴァシーを侵害してはいない。 グリフィンドール生のほうをのぞいたのだ。 彼はただ、いじめるがわの欲望をみたすのに手ごろな標的だったのだ。」

 

冷たい怒りがハリーの背すじをかけぬけた。セヴルスは信頼できる情報源ではないかもしれない、と自分に言いきかせなければならなった。

 

「それで、〈死ななかった男の子〉ハリー・ポッターの介入なら、効果があるかもしれない、と。」

 

「そのとおり。」と言ってセヴルス・スネイプは、そのグリフィンドール生たちがつぎにこのお気に入りのゲームをしようとしている時間と場所を告げた。

 

◆ ◆ ◆

 

ホグウォーツの二階のまんなかに、南北の軸をよこぎる大廊下がある。その廊下の中央ちかくに、別の短い通路へと通じる入り口があり、そこに足をふみいれて十数歩すすんでから右折すると道はL字型になっており、また十数歩すすむと、明るく大きな窓にたどりつく。霧雨の降るホグウォーツの東の庭の上の、三階ぶんの高さの位置にはりだした窓だ。この窓の下にいると大廊下の物音はまったく聞こえず、大廊下からも窓の外のできごとは聞こえない。 これがどこか変だと思う人はホグウォーツ初心者だ。

 

赤色のえりのローブを着た四人の少年が笑っている。緑色のえりのローブを着た少年が一人、悲鳴をあげ、ひらいた窓の枠に両手でしがみついている。四人は彼を押しだすふりをしているのだ。 もちろん、これは冗談にすぎない。それに、この高さから落ちても魔法族は死なない。 ただの娯楽の一種だ。 これがどこか変だと思う人は——

 

()()()()()()()()()()()」と六人目の少年の声が言った。

 

赤色のえりのローブの四人は、はっとしてふりかえった。緑色のえりのローブの少年は必死に窓からはなれようとして、床に倒れた。顔は涙にまみれていた。

 

「ああ、おまえか。」とほっとした声で言ったのは、赤色のえりのローブをしているなかで一番ハンサムな少年だ。「おいレシー、あれだれだか分かるか?」

 

床に倒れた少年は返事をせず、ただすすり泣きを止めようとしている。赤色のえりのローブの少年は、足をひいて蹴るかまえを——

 

()()()()()!」と六人目の少年が叫んだ。

 

赤色のえりのローブの少年が蹴ろうとする途中で止まってよろめいた。 「あのな、こいつがだれだか分かってるか?」

 

六人目の少年の呼吸がみだれている。 「レサス・レストレンジ。」  細かく息をあえがせる。 「でもぼくの両親は、あのときまだ五歳だったレサス・レストレンジからは、なにもされていない。」

 

◆ ◆ ◆

 

ネヴィル・ロングボトムは大柄な五年生のいじめっこ四人をまえにして、震えをおさえようと努力していた。

 

ハリー・ポッターに誘われたとき、ことわればよかった。

 

「なぜこいつを守る?」と言って、ハンサムな少年が歯むかわれたことに気づいてとまどったような声をしだした。「こいつはスリザリンだぞ。レストレンジだぞ。」

 

「いや、両親をうしなった子どもだ。ぼくはそれがどういうことかがわかる。」 ネヴィル・ロングボトムは自分でもどこからこのせりふがでてきたのか、わからなかった。 まるでハリー・ポッターが言いそうな、かっこつけた感じのせりふだ。

 

それでも震えはとまらなかった。

 

「なにさまのつもりだ?」とハンサムな少年が怒りだした。

 

ぼくはネヴィル、〈元老貴族〉ロングボトム家の最後の継承者——

 

ネヴィルはそれを言えなかった。

 

()()()()だよ。」と別のグリフィンドール生が言い、それを聞いてネヴィルは急にいやな気持ちになった。

 

やっぱり。やっぱりこうなるんだ。 けっきょくハリー・ポッターはまちがっていた。 ネヴィル・ロングボトムに言われたからといって、いじめっこは止まらない。

 

ハンサムな少年が一歩こちらへ踏みだし、残りの三人もつづいた。

 

「どうでもいいんだな。」と言ってネヴィルは自分の声が震えていないことにおどろいた。 「相手がレサス・レストレンジでもネヴィル・ロングボトムでも関係ないんだな。」

 

レサス・レストレンジが床に倒れたまま、突然息をのんだ。

 

「悪は悪だ。」とさっき口をひらいた少年がいらだって言う。「悪のなかまも悪なんだよ。」

 

四人はまた一歩ちかづいてきた。

 

レサスはよろめきながら立ちあがった。 血色をうしなった顔で、なにも言わず、数歩まえに出て壁によりかかった。 その目は廊下のさきのかどを——脱出する道だけを見ている。

 

「なかま、か。」  ネヴィルの声が高くなっていく。 「なかまならいるよ。〈死ななかった男の子〉もそのひとりだ。」

 

グリフィンドール生のうち何人かが急に不安そうになった。 ハンサムな少年はひるまなかった。 「ここにハリー・ポッターはいない。もしいたとして、ロングボトムがレストレンジを助けている様子を、よくは思わないだろう。」

 

グリフィンドール生たちはまた大きく一歩ふみだし、そのうしろでレサスが壁づたいに動いていき、機会をうかがっている。

 

ネヴィルは息をすい、右手をあげて、親指を人差し指にあてた。

 

そしてハリー・ポッターとの約束にしたがって、のぞき見をしないように、両目をとじた。

 

もしこれがうまくいかなかったら、もうだれも信じられない。

 

おどろくほどはっきりとした声がでた。

 

「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス。 そなたの債務と真名のもとにそなたを召喚し、ここに門をひらく。わが呼びかけにしたがい、あらわれたまえ。」

 

ネヴィルは指をならした。

 

そして目をあけた。

 

レサス・レストレンジが彼を見ている。

 

四人のグリフィンドール生が彼を見ている。

 

ハンサムな少年が笑いだし、のこりの三人もそれにつられた。

 

「ハリー・ポッターが、そのへんからあらわれるはずだったとか? あーあ。すっぽかされたみたいだぜ。」

 

ハンサムな少年が威嚇するようにネヴィルにむけて一歩ふみだした。

 

のこりの三人も足なみをそろえてつづいた。

 

「オホン。」とうしろで、窓のしたの壁によりかかったハリー・ポッターが言った。 窓は行き止まりにあるから。見られずにそこまでたどりつけるはずはない。

 

相手が悲鳴をあげるのを見ているのがこれほどいい気分なのなら、いじめをしたがる人がいるのもわかる気がしてきた。

 

ハリー・ポッターはしずかにまえにすすみ、レサス・レストレンジとのこりの面々のあいだに立った。 赤色のえりのローブを着た少年たちに氷の視線をむけ、ハンサムな少年のところで目をとめた。主犯格だ。 「ミスター・カール・スロウパー、なにかぼくが理解しそこなったことはあるだろうか。 レサス・レストレンジは悪い親のもとに生まれただけだ。仮にそのほかにみずから悪事をはたらいたことがあったとして、きみたちはその悪事を知らない。 ミスター・スロウパー、もし訂正があるなら、いますぐ知らせてほしい。」

 

ネヴィルは、ほかの少年たちの恐怖と驚嘆の表情を見た。 自分自身もおなじ気持ちだった。 すべてトリックだとハリーは主張してはいた。でもどんなトリックでこれを?

 

「でもこいつは()()()()()()だ。」と主犯格が言った。

 

「いや、両親をうしなった子どもだ。」と言ってハリー・ポッターはさらに声を冷たくした。

 

今回はのこりのグリフィンドール生が三人とも、ひるんだ。

 

「ロングボトム家の名で無実の人をいためつけるようなことをネヴィルはのぞんでいない。そう分かっても、きみたちは止まらなかった。 〈死ななかった男の子〉がそう言ったら、その行動はひどいまちがいだと言ったら、考えを変えてくれるか?」

 

主犯格がハリーに一歩ちかづいた。

 

のこりの面々はつづかなかった。

 

そのうちのひとりが息をのむ。「カール、ここは引いたほうがいいんじゃないか。」

 

「おまえは次代の〈闇の王〉だと言われている。」と言って主犯格がハリーをじっと見た。

 

ハリー・ポッターはにやりとした表情をした。 「ついでにジニヴラ・ウィーズリーといいなづけでもあって、二人でフランスを征服するという予言があるんだそうだ。」  笑みが消える。 「ミスター・カール・スロウパー、きみは言われないとわからないようだから、はっきり言おう。 ()()()()()()()()()()()()。 手をだしたら、ぼくにはわかるぞ。」

 

「どうせレシーに告げぐちされたんだろう。」と主犯格が冷たく言った。

 

「うん、それに、きみが〈操作魔法術(チャームズ)〉の授業のあとで、なにをしたかも聞かせてもらったよ。白いリボンを髪につけたハッフルパフ生の女の子を、だれにも見られない隠れた場所に連れていって——」

 

主犯格の少年がショックでぽかんと口をあけた。

 

「ヒェッ」とのこりのグリフィンドール生のひとりが高い声で言い、くるりとうしろを向いて、かどのほうに走り去った。 ぱたぱたとした足音が遠くなり、消えていった。

 

そして六人になった。

 

「これで、多少あたまのいい少年がひとり、いなくなった。 きみたちもバートラム・カークに見ならったらどうだ。面倒なことになりたくなければ、ね。」

 

「告げぐちするぞ、と脅迫してるのか?」  ハンサムなグリフィンドール生は声に怒りをこめようとしていたが、ぐらついてもいた。 「告げぐち屋にはみじめな運命が待っているぞ。」

 

グリフィンドールののこりの二人がゆっくりと戻ってきた。

 

ハリー・ポッターは笑いだした。 「笑っちゃうね。 本気でぼくをおどかす気なのか? ()()()? まさか、自分がペレグリン・デリックや、セヴルス・スネイプや、そもそも〈例の男〉よりもこわいとでも思ってるのか?」

 

これには主犯格の少年もひるんだ。

 

ハリー・ポッターが手をあげ、指をかまえると、グリフィンドール生たちは飛びのいた。そのひとりが「やめ——!」

 

「ここでぼくが指をならせば、きみたちはとんでもなくおかしな話の一部になって、今夜の夕食で失笑される。 でもぼくは、信頼するひとたちにそれをやるなと言われているんだ。 マクゴナガル先生には楽なやりかたをえらびすぎだと言われた。クィレル先生には負ける方法をまなべと言われた。 ぼくが上級生のスリザリン生にわざといためつけられた話は知ってるよね? あれでいい。 きみたちはしばらくぼくをいじめて、ぼくはなにもしない。 ただし、前回の最後の部分、この学校にいるたくさんの友だちに仕返しはするなとぼくがたのんだっていう部分は、今回はなしにする。 じゃあ、どうぞ。 いじめてくれ。」

 

ハリー・ポッターは一歩まえにでて、両腕をひろげて招くしぐさをした。

 

グリフィンドールの三人はばらばらになって走りだし、ネヴィルはそれにぶつからないようにすばやくよけた。

 

足音が消えていくと、あたりがしずかになり、沈黙がつづいた。

 

そして三人になった。

 

ハリー・ポッターは深く息をつき、すった。 「ふう。調子はどう、ネヴィル?」

 

声をだしてみると、甲高い声になった。 「いまのはかっこよかったと思う。」

 

ハリー・ポッターの顔が一瞬にやりとした。 「きみこそ、だろ。」

 

ハリー・ポッターはネヴィルの気分をよくするためにそう言っているだけだ。そうわかっていても、ネヴィルは胸のなかがあたたかくなった。

 

ハリーはレサス・レストレンジのほうにふりむいた——

 

「レストレンジ、どこかけがは?」と、ネヴィルのほうがハリーよりさきに口をひらいた。

 

こういうせりふを口にすることになるとは思いもしなかった。

 

レサス・レストレンジはゆっくりとこちらをむいて、ネヴィルを見つめた。ひきしめた顔に涙のかわいたあとが光っているが、もう泣いていない。

 

「どういうことかわかる、だって?」  レサスの声は高く、震えていた。 「わかるわけないだろ? ぼくの両親は()()()()()にいる。考えないようにしていても、ああやっていつも思いださせられる。母上は冷たく暗いあの場所で、ディメンターに生命力を吸われている、それが()()()()のように言われるんだ。 ハリー・ポッターとおなじなら、まだよかった。それなら一瞬も休むことなく苦痛をうけている両親はいなかった。きみとおなじなら、まだよかった。それならときどきは顔を見にいけるし、自分が愛してもらえたとわかっていた。もし母上がぼくを愛してくれたことがあったとしても、ディメンターはその思い出をとっくに食いつくしてしまっている——」

 

ネヴィルの両目がショックでまるくなった。 こういうことになるとは思っていなかった。

 

ハリー・ポッターも恐怖に満ちた目をしている。レサスはそちらをむいた。

 

レサスはハリー・ポッターのまえの床に身をなげだし、ひたいを地面につけ、小声で言った。 「どうかお助けください。」

 

いやな沈黙があった。 ネヴィルはなにも言うべきことが見あたらなかった。むきだしのショックの表情を見るかぎり、ハリーもなにも思いつかないようだ。

 

「あなたはなんでもできるのだときいています。だからお願いします。ハリー・ポッターさま、どうか、わたしの両親をアズカバンから逃がしてください。 わたしは永遠にあなたのしもべになります。この生も死もあなたにささげます。だから——」

 

「レサス、」とハリーはやっとのことで言う。「できないんだよ。ぼくは実はああいうことはできない。どれもただのトリックだったんだよ。」

 

「トリックじゃない!」  レサスの声は高く、必死だった。 「この目で見ました! うわさはほんとうだった。あなたにはできるんだ!」

 

「レサス……これはネヴィルといっしょに、しかけたことなんだ。事前にぜんぶ、相談して。ネヴィルにきいてみてよ!」

 

たしかに相談してはいた。()()()()()やるのかについては、ハリーはなにも話してくれなかったが……

 

レサスが身をおこしたとき、その顔は青ざめ、声はネヴィルの耳につきささるような悲鳴になった。 「泥血の子め! できるのに、やろうとしないだけだろう! こうやってひざをついて懇願しているのに、助けてくれないのか! やっぱり〈死ななかった男の子〉だ。アズカバン行きがお似合いだと思っているんだろう!

 

「できない!」  ハリーの声もレサスとおなじくらい必死だった。 「やりたいかどうかは問題じゃなくて、そうする()()がないんだよ!」

 

レサスは腰をあげて、ハリーのまえの床につばをはき、背をむけて去っていった。 かどをまがるあたりで足音がはやくなり、それが聞こえなくなったころに、一度だけすすりなく声がしたような気がした。

 

そして二人になった。

 

ネヴィルはハリーを見た。

 

ハリーはネヴィルを見た。

 

「なんか、助けてもらったのに感謝してない感じだったね。」とネヴィルが小声で言った。

 

「彼はぼくならなにかできると思っていた。」と言ってハリーは声をかすれさせた。 「何年ぶりかに、希望が見えたんだ。」

 

ネヴィルは息をすってから言った。「ごめん。」

 

「え?」  ハリーは完全に困惑しているようだった。

 

「ぼくも助けてもらったときに感謝していなかったから——」

 

「あのとききみが言ったことはどれも完璧に正論だった。」と〈死ななかった男の子〉が言った。

 

「いや、それはちがう。」

 

二人はおたがいえらそうにしすぎだというように、不満そうな笑みをうかべた。

 

「ほんとうにぼくがやったんじゃないのはわかってる。きみが来てくれなかったら、ぼくはなにもできなかった。でもそのふりをさせてくれて、ありがとう。」

 

「なに言ってるんだよ。」とハリー。

 

ハリーはネヴィルに背をむけて、窓のそとの陰鬱な雲を見つめた。

 

ネヴィルはあまりにも奇妙なことを思いついた。 「レサスの両親をアズカバンから逃がせないのが、後ろめたいの?」

 

「いや。」とハリー。

 

数秒がすぎた。

 

「実はそうなんだ。」とハリー。

 

「バカだな。」

 

「それはわかってる。」

 

「きみはひとからたのまれたことを、文字どおり()()()()やらないといけないの?」

 

〈死ななかった男の子〉はネヴィルのほうをふりかえった。 「いけなくはない。でも、やれないときは、申し訳ない感じがする。」

 

ネヴィルはなかなか言うべきことを見つけられなかった。 「〈闇の王〉が死んでからは、ベラトリクス・ブラックは世界一邪悪な人物だった。アズカバンにいくまえの時点でそうだった。 ベラトリクス・ブラックは〈闇の王〉になにがあったかを聞きたくて、ぼくの母と父を拷問して発狂させた——」

 

「知ってる。わかってるけど——」

 

「ぜんぜんわかってないよ! これはまだ理由があった。二人は〈闇ばらい〉だった。 これどころじゃない悪事もしているんだから!」 ネヴィルの声は震えていた。

 

「それでも……」 〈死ななかった男の子〉の目はどこか遠くの、ネヴィルが想像できない場所を見つめていた。 「どこかにものすごくすぐれた解決法があって、ぼくがもっとかしこくてそれを見つけられてさえいれば、全員を救ってしあわせにすることができるんじゃないかと——」

 

「それはおかしい。きみはレサス・レストレンジが思うきみにならなければいけないと思ってしまってる。」

 

「うん、だいたいそういうこと。 だれかが必死に祈っていてぼくがこたえられないときはいつも、自分が〈神〉じゃないことが申し訳なくなるんだ。」

 

これはちょっとネヴィルの理解をこえているが…… 「それは健康的じゃない気がする。」

 

ハリーはためいきをついた。 「おかしいのはわかってるし、解決するためにすべきこともわかってるよ? なんとかしようとしてはいるんだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはネヴィルが去るのを見とどけた。

 

もちろんハリーはその解決法が何なのかを言わなかった。

 

いそいで〈神〉になるというのが当然の解決法だ。

 

ネヴィルの足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。

 

そして一人になった。

 

「オホン。」とセヴルス・スネイプの声が真うしろからした。

 

ハリーは小さく悲鳴をあげ、直後に自己嫌悪した。

 

ゆっくりと、ハリーはふりむいた。

 

ハリーがちょうどいた位置の壁に、しみのついたローブすがたの、背のたかい粘着質の男がよりかかっていた。

 

「ほう、精巧な不可視マントだな。それなら説明がつく。」と〈薬学教授〉が言った。

 

ああ、これはまずい。

 

「わたしもダンブルドアと長くつきあいすぎたのかもしれんが、それが実は()()〈不可視のマント〉ではないのかと思いたくなる。」

 

それを聞いてハリーは即座に、あの〈不可視のマント〉のことを聞いたことがなく、かつ、セヴルスがハリーについて想定しているであろう程度にかしこい人物に変わった。

 

「さあ、どうでしょうか。もしそうだったら、どういうことになるかもおわかりでしょうね?」

 

セヴルスの声がえらそうになった。 「わたしがなんのことを言っているか分かっていないのだろう? ずいぶんとへたな、かまのかけかただ。」

 

(クィレル先生からあの昼食のときに言われたのだが、危険な話になったとき無表情になっているようではだめで、自分の精神状態を隠す方法をまなばなければならない。 そう言ってクィレル先生は第一段階の偽装、第二段階の偽装、などを説明してくれた。 セヴルスはハリーを第一段階の使い手として想定しているのかもしれない。つまりセヴルス自身は第二段階の使い手であって、ハリーは第三段階の技で出しぬくことができたのかもしれない。あるいは、セヴルスは第四段階の使い手であって、あの偽装が成功したとハリーに()()()()()()()()だけかもしれない。 あのとき、にこりとしながら第何段階の使い手なのかとたずねてみると、クィレル先生もにこりとして『きみのひとつ上の段階だ』と答えていた。)

 

「つまり一部始終を見てたんですね。たしか〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)、でしたか。」

 

薄ら笑い。 「おまえに危害がおよぶどんなわずかな可能性であれ、見すごしてしまうほどわたしは愚かではない。」

 

「それに試験の結果をその目で見たかったから、でしょう。それで、ぼくはお父さんと似ていましたか?」

 

男はその顔に似つかわない、妙に悲しそうな表情をした。 「そうだな、ハリー・ポッター、おまえが似ていたのはむしろ——」

 

セヴルスは言いやめた。

 

そしてハリーをじっと見た。

 

「レストレンジはおまえを、泥血(マッドブラッド)の子と言った。おまえはそれを、たいして気にとめなかった。」

 

ハリーは眉をひそめた。 「あの状況では気にとめませんよ。」

 

「救いの手をさしのべてやったのに……」  セヴルスの視線がハリーにそそがれる。 「恩知らずにも、つきかえされた。 あんな態度は許しがたいと思うものではないか?」

 

「彼はかなりつらい経験をしたばかりだったんだからしかたありません。助けてくれたのが一年生だったというのも、プライドのためにはならなかったでしょう。」

 

「あの場合は許しやすかったかもしれない。」  セヴルスは変な声をしている。 「レストレンジは、縁もゆかりもない、 見知らぬスリザリン生のひとりにすぎなかったのだから。 あのようなことを言ってきたのが自分の友だちだったとしたら、もっと傷つけられたのではないか。」

 

「友だちなら、余計に許す理由がありますよ。」

 

沈黙が長くつづいた。 なぜなのか、そしてどこからかはわからないが、おそろしい緊張が空気に流れこんできているような気がした。まるで、刻一刻と水位があがってくるときのように感じられた。

 

するとセヴルスが笑顔になり、また態度をゆるめ、緊張感が消え去った。

 

「おまえはひとを許すことのできる人間のようだ。」と言って、セヴルスはまだ笑みをつづけている。 「おそらくご養父のマイケル・ヴェレス゠エヴァンズの教育のおかげだろう。」

 

「というよりパパのサイエンスフィクションとファンタジーの蔵書のおかげですね。 言ってみれば五人目の親のようなものです。 ぼくはああいう本をいろいろ読んで、その登場人物の人生を生きた。それを通じて得た知識があたまのなかにつまっている。 はっきりと名指しはできませんが、なかにはレサスのような人もいたんじゃないかと思います。 レサスの立ち場にたってみるのはむずかしくありませんでした。 どう対応すればいいのかを教えてくれたのも、本です。 善のがわは、許すものだということを。」

 

セヴルスは明るく愉快そうに笑った。 「申し訳ないが、わたしは善良な人の習慣に詳しくない。」

 

ハリーはセヴルスを見た。 ちょっと不幸な話だ。 「よかったら、善良な人が出てくる小説をお貸ししましょうか。」

 

「あることについて、助言してもらいたい。」とセヴルスはなにげない声で言う。 「また別の、グリフィンドール生にいじめられていたスリザリン五年生男子の話だ。 ある日彼がいじめられているところにマグル生まれの美少女が通りかかって、助けようとしてくれた。 彼はその子にあこがれた。 だがそのあと、彼がその子を泥血(マッドブラッド)と呼ぶことがあって、二人の関係は終わった。 彼は何度も謝罪したが、彼女は許そうとしなかった。 レストレンジに対するおまえの許しにあたるものを彼女から得るために、彼はなにを言えばよかったのか、すればよかったのか。考えがあれば聞かせてほしい。」

 

「うーん、そうですね。その情報だけから判断すると、その男子のほうにおもに原因があったのではないかもしれません。 ぼくなら、ひとを許すことができない相手とつきあうのはやめたほうがいいと助言しますね。 そんな二人が結婚したとしたら、どんな家庭をもつことになると思いますか?」

 

沈黙。

 

「ああ、だがその女の子も、場合によっては許すことができたのだ。」  セヴルスは愉快そうな調子を声にこめた。 「なにせ、そのあとで彼女は、いじめをしたほうの男のガールフレンドになったのだから。 では、いじめをする男を許すことができた彼女がなぜ、いじめられたほうの男を許せなかったのだろうか?」

 

ハリーは肩をすくめた。 「当てずっぽうですけどね、いじめたほうは()()()()()()ひどく傷つけたのに対して、いじめられたほうは()()()すこし傷つけた。それが彼女には、はるかに許しがたく感じられた、とかでしょうか。 あるいは、ありていにいって、いじめっこのほうはハンサムでしたか? おまけに金持ちだったとか?」

 

また沈黙。

 

「どちらもイエスだ。」

 

「なんだ、そういうことですか。 もちろん高校生活の実体験があるわけじゃないんですが、ぼくも本で読んで多少は理解しています。思春期には、相手の男の子が地味だったり貧乏だったりすると、たった一度の侮辱にも激怒するけれども、相手が金持ちでハンサムな男の子だったら、いじめをしていてもなぜか寛大に許すことができる、というような種類の女の子がいるようです。 つまり言ってみれば、その女の子はうすっぺらだった。 その女の子はきみにつりあわないからきっぱり忘れてしまって、次回は美人のかわりに内面に深みのある女の子とつきあうようにしたほうがいいと、そのだれかに言ってあげてください。」

 

セヴルスは目を光らせながら、無言でハリーをじっと見た。 その顔が一度ぴくりと動いたが、すでに消えていた笑みはもどってこなかった。

 

ハリーはだんだん不安になってきた。 「その、もちろん、その手の分野についてまだ実体験はないんですけど。 でもぼくが読んだ本のなかにいる賢者だったら、そういう助言をしてくれるんじゃないかと。」

 

セヴルスの目が光ったまま、また沈黙がつづく。

 

そろそろ話題をかえたほうがよさそうだ。

 

「ところで、どういう試験だったかわかりませんが、ぼくは合格でしたか?」

 

「われわれはこれ以上、会話すべきではなさそうだ。 ここまでの話をほかに漏らすなどという愚かしい真似をしないよう、細心の注意をはらいたまえ。」

 

ハリーは目をしばたたかせた。「ぼくがなにかまずいことをしたなら、教えてもらえませんか?」

 

「おまえはわたしを怒らせた。今後、おまえの狡猾さには期待しない。」

 

ハリーはあっけにとられて、セヴルスを見つめた。

 

「だが善意の助言ではあったのだろうから、こちらもおかえしに率直な助言をしてやろう。」 セヴルス・スネイプの声はほとんど完璧に落ちついていた。ちょうど、まんなかに巨大な重りがついているにもかかわらず、両側から何万トンもの張力でひっぱられて、ほとんど完璧に水平になった糸のように。 「ポッター、おまえは今日、死にかけた。 今後は、自分の言うことにも相手の言うことにも確信がもてないときに、気のきいた忠告ができると思うな。」

 

ハリーのあたまのなかで、それがやっとつながった。

 

「じゃああなたがその話の——」

 

『死にかけた』という部分にやっと理解がおよんで、ハリーの口がぴしゃりととじたが、二秒遅かった。

 

「そうだ。」とセヴルス。

 

おそろしい緊張感がまた、海底の水圧のような重さでおしよせてきた。

 

息ができない。

 

負けるんだ。いますぐ。

 

ハリーは小声で、「そうとは知らずに、すみま——」

 

「やめろ。」  セヴルスが言ったのはその一言だけだった。

 

ハリーは無言で立った。あたまのなかで、必死になってとるべき行動を探した。 セヴルスはハリーと窓のあいだに立っている。本気で惜しい。というのも、魔法族ならあの高さから落ちても死なないからだ。

 

「おまえは本に裏切られた。」  セヴルスは何万トンもの張力でひっぱられたような声のままだった。 「おまえが知るべきたったひとつのことを、本は教えてくれなかった。 本を読んでも、愛した人をうしなうというのがどういうことかはわからない。 それは自分自身で感じるまで理解できない。」

 

「お父さんは……」  ハリーは精いっぱいの勘をはたらかせて、自分を救ってくれそうな一言を言おうとする。 「ぼくのお父さんは、あなたをいじめから守ろうとしたんでしょう。」

 

不気味な笑みがセヴルスの顔にひろがる。それが近づいてくる。

 

そして通りすぎていく。

 

「さらばだ、ポッター。」  セヴルスはふりかえらないまま去っていく。 「今日以降、おたがいことばをかわすことはまずないと思うがいい。」

 

かどのところで男は止まり、向きをかえずに、最後の一言を告げた。

 

「いじめをしていたほうがおまえの父親だ。 そしておまえの母親がやつのどこにひかれたのか、わたしはいまだに理解できない。」

 

セヴルス・スネイプは去った。

 

ハリーは向きをかえて窓のほうに歩いていった。 窓の(さん)をつかむ手が震える。

 

『自分の言うことにも相手の言うことにも確信がもてないときに、気のきいた忠告ができると思うな』。了解。

 

ハリーはそとの雲と霧雨をしばらく見つめた。 窓は東の庭にむけて突きでていて、いまは昼だから、どこかで太陽が雲をとおして見えていたとしても、ハリーからは見えなかった。

 

手の震えはおさまったが、針金で胸をきつくしめつけられるような痛みがあった。

 

お父さんはいじめをしていた。

 

お母さんはうすっぺらだった。

 

多分、その後成長はしたのだろう。 マクゴナガル先生のような立派な人が二人を高く賞賛しているし、英雄的な殉死以外にも賞賛される理由はあるのかもしれない。

 

もちろん、そんななぐさめを言っても、思春期にはいりかけてこれから自分はどんな人間になるのだろうと思っている十一歳の少年に対しては、あまり効果がない。

 

ひどくみじめだ。

 

ひどくなさけない。

 

なんてひどい人生だ。

 

自分の生みの親が完璧な人間じゃないとわかったんだから、しばらくふさぎこんで、自分をあわれんでもいいのかもしれない。

 

だがレサス・レストレンジ相手にそんな愚痴をはいてみればどうなるだろう。

 

ディメンターについては本で読んだことがある。 ディメンターは冷気と暗闇と恐怖をまとい、相手から楽しい思考を吸いとって空白となった場所に最悪の記憶を浮かびあがらせる。

 

自分をレサスの立ち場において想像してみることはできる。だれひとり脱出したことのないアズカバンという場所に両親が送られて死ぬまでそこにいるというのが、どういうことかを。

 

そしてレサスは母親になりかわって、冷気と暗闇と恐怖にかこまれて、最悪の記憶から一瞬たりとものがれられないでいる自分を想像しているのだろう。

 

ハリーは一瞬だけ、自分のママとパパがアズカバンで生命力を吸いとられて、ハリーとの楽しい思い出をすべてうばわれている様子を思いうかべた。その一瞬だけで、ハリーの想像力はヒューズを飛ばし、緊急停止をして、二度とおなじことをやるなとハリーに命じた。

 

相手がだれであろうと、世界で二番目に邪悪な人物であろうと、そんなあつかいはただしいと言えるか?

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーの本のなかの賢者が言う。

 

魔法界の司法制度が牢獄ほどには完璧にできていないとすると——もろもろをふまえると、とても完璧なようには思えない——アズカバンのなかのどこかに、完全に無実の人がいる。それも、一人だけではないかもしれない。

 

目に水分がたまり、ハリーはのどが焼けるような感覚をおぼえた。アズカバンの囚人を全員安全な場所に瞬間移動させて、あの最悪の場所に空中から火を降らせて、岩盤の底まで吹きとばしてやりたい。 でもできない。ハリーは〈神〉ではない。

 

ハリーは星の光のもとでクィレル先生が言ったことばを思いだした。 ときどき、この不完全な世界がいつになく憎悪にみちて見えるとき、どこか遠くに、わたしがいるべきだった場所があるのではないかと思うことがある…… だが星ぼしはとても、とても遠い…… そして長い、長い眠りにつくとき、わたしはどんな夢をみるのだろうか

 

いまこの瞬間、この不完全な世界がいつになく憎悪にみちて見える。

 

だがクィレル先生のことばはハリーに理解できない。まるで異星人か〈人工知能〉か、とにかくハリーの脳にのせられる動作様式とはまったくちがう方法でつくられたなにかが言うようなことばだった。

 

アズカバンのような場所がなくなるまで、母星を離れてはならない。

 

踏みとどまって、たたかいつづけなければならない。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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28章「還元論」

◆ ◆ ◆

 

「あの、ハーマイオニー。もうそのへんで、やめていいから。」

 

ハーマイオニーのまえにある丸薬状の白い砂糖は、色も形も変わっていない。ハーマイオニーはハリーに見せたことのないほど集中して、目をとじ、ひたいに汗のつぶをうかべ、杖をにぎる手を震えさせているが——

 

「もういいって、ハーマイオニー! やっぱりできそうにない。 まだ存在しないものをつくるのは無理なんだ!」

 

ゆっくりと、ハーマイオニーの手が杖のにぎりをゆるめた。

 

「すこしだけ感じた。」と、聞きとれないほど小さな声でハーマイオニーが言う。「〈転成〉がはじまりそうな感じがした。ほんの一瞬だけ。」

 

ハリーののどになにかがつかえた。「たぶん気のせいだよ。そうなってほしいと願いすぎたんだ。」

 

「そうかもしれない。」と言って、彼女は泣きだしそうになった。

 

ハリーはシャープペンシルを手に、ゆっくりと紙を引きよせた。紙のうえには、一連の項目が横線で取り消されている。その一番下の『アルツハイマーの治療薬』という項目にハリーは取り消し線を引いた。

 

〈転成〉した丸薬を人にのませるわけにはいかない。 だが、すくなくとも二人にできる種類の〈転成術〉(トランスフィギュレイション)では、目標物が魔法をおびることはない——ふつうのホウキを飛行用のホウキに〈転成〉することはできない。 だから、もしハーマイオニーがなんらかの丸薬をつくれたとしたら、それはふつうの物質的理由で効能のある、()()()()()丸薬のはずだ。 こっそり丸薬をつくってマグル科学者の研究室に検査してもらって、〈転成〉がとけるまえにその構造を分解・再構成(リヴァースエンジニアリング)してもらえれば……魔法がかかわったことをどちらの世界にも知らせる必要はない。またひとつ画期的な科学的発見がうまれた、というだけのことになる……。

 

魔法使いもこういったことはまず考えない。 魔法使いはただの()()()()()をあまり尊重しないし、魔法力のない物質的な存在にちからがあるとは考えない。 彼らは魔法力がないものに興味がない。

 

すこしまえにハリーは極秘で——ハーマイオニーにも言わずに——エリック・ドレクスラー流のナノテクノロジーを〈転成〉しようとしてみた。(もちろんつくろうとしたのは卓上ナノ工場であって、微小サイズの自己複製アセンブラではない。ハリーもそこまで狂ってはいない。)成功していれば、一発で神になれる方法だった。

 

「今日の予定はこれだけ?」  ハーマイオニーはあたまを椅子の背にのせて沈みこんだ。 顔に疲労があらわれている。 ハーマイオニーにしては、めずらしい。すくなくともハリーが近くにいるときは、自分に限界がないように見せたがるのに。

 

「もうひとつある。」とハリーは慎重に言う。「でもこれはたいした実験じゃないし、うまくいく可能性もある。 気分よく終われるんじゃないかと思って、最後までとっておいたんだ。 これはフェイザー砲とかとはちがって、実在する。 アルツハイマー治療薬ともちがって、すでに実験室でつくられている。 それに、さっき〈転成〉しようとしたうしなわれた書物みたいに個別のモノじゃなく、一般的な物質だ。 分子構造の図をかいておいたからみせてあげる。 これをただ、いままでつくられたものより()()できればいい。それと、全チューブを整列させて、両端はダイアモンドに埋めこむようにする。」

 

ハリーはグラフ用紙を一枚とりだした。

 

ハーマイオニーは座ったまま身をおこして、それをうけとり、ながめ、眉をひそめた。 「ぜんぶ炭素原子でできてるの? それで、名前は? どういう名前かわからないと、〈転成〉できない。」

 

ハリーはうんざりした顔をした。 この手のことにはいまだに慣れない。()()がどうだろうと、()()さえわかっていればいいじゃないか。 「バッキーチューブとか炭素(カーボン)ナノチューブとか呼ばれている。 今年発見されたばかりのフラーレンの一種だ。 鋼鉄より百倍強くて、重さは六分の一しかない。」

 

ハーマイオニーはグラフ用紙から顔をおこした。おどろいた表情をしている。 「そんなものが()()するの?」

 

「うん。マグルのやりかたではつくるのが大変だけど。 十分な量つくれれば、対地同期軌道かそれより遠くまで上がっていく宇宙エレヴェーターの建設材料として使える。そこまでいければもう、デルタVの計算上は、太陽系のあらゆる場所までの中間点までいけたことになるし、太陽光発電衛星を紙吹雪のようにまくこともできる。」

 

ハーマイオニーはまた眉をひそめた。「それは()()?」

 

「安全でない理由が見あたらないね。炭素(カーボン)ナノチューブというのは基本的にはただ黒鉛をたいらにして円管(ドーナツ)型にまいただけのものだし、黒鉛というのは鉛筆につかう——」

 

「黒鉛がなんなのかは知ってる。」と言ってハーマイオニーはぼんやりとした様子で髪をときながら、眉をひそめて目のまえの紙を見つめた。

 

ハリーはローブのポケットに手をいれて、灰色のプラスティックの輪が両端についた白い糸をとりだした。 ひとつのまとまりをなした物体として〈転成〉できるよう、両端の輪と糸は強力接着剤でくっつけてある。 ハリーの記憶では、シアノアクリレートによる接着の原理は共有結合だ。究極的には微小な原子で構成されているこの世界で、これほど『ひとまとまりの物体』らしいものはほぼないと言える。 「じゃあ、いつでもどうぞ。これを〈転成〉して、ダイアモンドの輪を両端につけた整列ずみカーボンナノチューブの繊維をつくってみて。」

 

「わかった……けど、なにか、忘れてるような気がする。」

 

ハリーはしかたなさそうに肩をすくめた。 ()()()()()()()()()()()()。 でも、ハリーはそれを口にするほどバカではない。

 

ハーマイオニーは杖をプラスティックの輪の片ほうにあて、しばらくそれをじっと見た。

 

光るダイアモンドの輪がふたつ、そしてそれをつなぐ黒い糸がひとつ、できた。

 

「できた。」  ハーマイオニーは興奮した声をしようにも、そうする気力が尽きたようだ。 「それで?」

 

ハリーは共同研究者の情熱のなさにすこしがっかりしたが、表情にださないようつとめた。 むしろ、おなじやりかたを逆に使えば、彼女を元気づけることができるかもしれない。 「重さに耐えられるかどうかを検証してみる。」

 

このまえにしていたダイアモンドの棒についての実験のために急ごしらえで作った、山型のフレームがひとつある。〈転成術〉(トランスフィギュレイション)でダイアモンド製の物体をつくるのは簡単だが、長もちしない。 まえにした実験というのは、長いダイアモンドの棒を短い棒に〈転成〉したときの収縮により、重りを持ちあげることができるかどうかをたしかめる実験だ。つまり、張力にさからって〈転成〉をすることができるかどうか、ということだが、これは成功した。

 

ハリーはフレームの上にある太い金属のフックに、光るダイアモンドの輪を慎重にひっかけ、太い金属のハンガーを下の輪につけ、ハンガーに重りをとりつけた。

 

(ハリーがウィーズリー兄弟の二人にこの装置を〈転成〉してもらいにいったとき、二人は信じられないというような顔をした。二人はどういういたずらに使おうというのか想像もつかない、と言いたげだったが、実際にはなにも質問してこなかった。あの二人の〈転成術〉は三時間くらいもつそうだから、ハリーとハーマイオニーはまだしばらく時間の余裕がある。)

 

一分たって、ハリーが口をひらく。「百キログラム。鋼鉄の糸でもこれくらい細いと、この重さにはたえられないと思う。 もっといけるはずだけど、今回はこれ以上の重りがない。」

 

また沈黙。

 

ハリーは立ちあがり、テーブルにもどって椅子にすわり、仰々しいうごきで『カーボンナノチューブ』の横に確認ずみのしるしをつけた。「よし、これは成功だね。」

 

「でもたいして()()()じゃないでしょ?」 ハーマイオニーはあたまを両手にのせた姿勢でそう言った。 「科学者にこれも見せて調べさせても、カーボンナノチューブをどんどん作れるようになるわけじゃない。」

 

「それでも()()()わかるかもしれない。ハーマイオニー、いまできた、これだけの重さをささえられるこの細い糸はね、どんなマグルの研究室でもつくれない——」

 

「でも魔女ならだれでもつくれる。」  ハーマイオニーの疲労は声にあらわれてきている。 「ハリー、これはもうダメなんじゃないかな。」

 

「ぼくたちの関係が? よしきた! 別れよう。」

 

それを聞いてハーマイオニーはすこしだけ笑った。「いいえ。この研究が。」

 

「なんてひどいことを言うんだ、ハーマイオニー。」

 

「そういうひねくれたところはわりと好き。でもね、この研究はどうかしてる。 わたしは十二歳で、あなたは十一歳。そんな若さで、いままでだれにもできなかった発見ができると思うなんて、ばかげてる。」

 

「まだこれをはじめて一カ月もたってない。それで、魔法の秘密をときあかすのは無理だってあきらめるの?」 ハリーは多少あおる調子をこめた。 実のところ、ハーマイオニーとおなじ疲労感を自分自身感じてはいる。 よさそうなアイデアはどれもうまくいかなかった。 いまのところ意義ある発見といえばあのメンデル的パターンしかないし、それすらも、ドラコとの約束を守るならハーマイオニーには伝えられない。

 

「いいえ。」  ハーマイオニーのおさない顔が真剣になり、おとなっぽく見えた。 「わたしたちは魔法族が知っているいろいろな魔法を()()しているべきだっていうこと。ホグウォーツを卒業したあとにこういうことができるようになるために。」

 

「その……こういう言いかたはしたくないんだけど、この研究をあとまわしにしていて、卒業後最初にやったのがアルツハイマー治療薬の実験で、それがうまくいっちゃった、と想像してみてほしい。 もしそうなったら……自分たちがバカみたいに感じる、どころじゃないだろ。 もしそういうような、やればできることがほかにあったとしたらどうする?」

 

「そういう言いかたはないでしょ!」  ハーマイオニーは泣きだしそうな声をした。 「わたしたちはそういうことをしなくていいの。子どもなんだから!」

 

ハリーは一瞬、ハーマイオニーには不死の〈闇の王〉とたたかう義務があると言ってやったらどうなるだろう、と思った。ハリーが読んでいて我慢できないたぐいの、自分をあわれむようなことを言ってばかりの主人公のようになるのだろうか。

 

「とにかく、」ハーマイオニーの声は震えている。「わたしはもうこういうことはやりたくない。 大人にできないことを子どもができるとは思えない。そうなるのは、本のなかだけ。」

 

教室がしずまった。

 

ハーマイオニーはすこしおびえだしたようだ。ハリーは自分の表情が冷淡になっていたのに気づいた。

 

おなじ発想がハリーになかったとしたら、もっと楽だったかもしれない——三十歳では革命的な科学者になるのに遅すぎるとしても、二十歳くらいならちょうどいい。十七歳で博士号をとった人もいれば、十四歳で王位をついだり将軍になって立派にやった人もいる。だが、十一歳で歴史に名をのこした人はまずいない。

 

「わかった。大人にできないことをやるための手段を見つける。それが条件なんだね?」

 

「そういう意味じゃなくて。」  ハーマイオニーは小声でこわごわと言った。

 

ハリーは努力してやっと、ハーマイオニーから目をそらすことができた。 「ぼくはきみに怒ってはいない。」  冷淡にすまいとしながらも冷淡な声になった。 「むしろ、すべてに怒っている、とでも言うか。 でも、負ける気はない。 負けることがいつもただしいとはかぎらない。 これから大人の魔法使いができないなにかを見つける。見つかったらきみに知らせる。 それで文句ないだろう?」

 

また沈黙。

 

「うん。」  ハーマイオニーの声はすこしゆれていた。 彼女は椅子から立ちあがり、二人がつかっていたこの空き教室のドアのところまでいき、ドアノブに手をかけた。 「わたしたちはまだ友だちだよね? もしなにも見つからなかったら——」

 

彼女の声がとぎれた。

 

「そのときは二人でいっしょに調べる。」 ハリーの声はさらに冷淡になった。

 

「うん、じゃあ、さよなら。」と言ってハーマイオニーは足ばやに部屋をでて、ドアを閉めた。

 

ハリーはときどき自分の暗黒面(ダークサイド)が嫌いになる。自分がそのなかにいるときでも。

 

そして、ハーマイオニーとまったく同様に、大人にできないことは子どもにできるはずがない、と言っていた部分の自分は、ハーマイオニーが口に出す勇気のなかったことをつぎつぎと言ってくれた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とか。

 

負けるのを嫌う部分の自分は冷淡な声でこうこたえた。()()()()()()()()()()()

 

◆ ◆ ◆

 

もうすぐ昼食の時間だが、ハリーは気にしなかった。 ポーチからスナックバーをとりだすこともしなかった。 多少の飢えは我慢はできる。

 

魔法界はせまい。魔法族は科学者のように考えないし、科学を知らないし、身のまわりのものに疑問をもたないし、タイムマシンに保護ケースもつけないし、クィディッチもやる。ブリテン魔法界ぜんぶでマグルの小都市なみの人口しかないし、最高の魔法学校でも十七歳までの教育しかない。愚かしいのは十一歳の身で対抗しようというということじゃない。むしろ、魔法族はなんでも熟知していて、科学をよく知る人でも楽に解決できる未解決問題はひとつもなくなってしまっているのだ、と思いこんでしまうほうが愚かしい。

 

第一ステップは、ハリーがおぼえているかぎりすべての魔法の制約、つまり、できないとされていることを列挙することだった。

 

第二ステップは、科学的に言ってどう見ても変に思える制約にしるしをつけること。

 

第三ステップは、科学を知らない魔法使いなら疑問をもちそうにない制約から順にならべること。

 

第四ステップは、上位にきた制約をくずす方策を見つけること。

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーはレイヴンクローのテーブルでマンディのとなりの席についてからも、まだすこし震えていた。 昼食に選んだのは、くだもの二種類(切ったトマトと皮なしのミカン)と、野菜三種類(ニンジンとニンジンとまたニンジン)と、肉一種類(ディリコールのもも肉の揚げものだが、健康によくない衣がついているので、几帳面にはがしておく)、以上を食べたことによるごほうびとしての小さなチョコレートケーキ。

 

今度のは、〈薬学〉授業のときほどひどくはなかった。あれはいまだに()()を見せられる。 でも今回は()()()ひきおこしたことだったから、自分が()()()()()()()()()()()()。 あの一瞬のあと、あのひどく冷たい闇は、彼女に怒ってはいない、こわがらせるつもりはないと言って、彼女から目をそむけた。

 

それに、なにか重要なことを忘れているような感覚が、まだのこっている。

 

〈転成術〉の規則なら、やぶってはいない……だろうか? 液体も気体もつくらなかった。〈防衛術〉の教師に命令されもしなかった……

 

()()! あれは食べものじゃないか!

 

……いや、そのへんに落ちている丸薬などだれも食べたりしないし、実際には()()()()()()のだし、たとえできたとしても、〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)すればよかっただけではある。それでも、マクゴナガル先生のまえであれのことを話さないように、ハリーに言っておかなければならない。話せば、〈転成術〉を二度と教えてもらえなくなるかもしれないのだから……

 

ハーマイオニーは腹のなかにとてもいやな感覚がしてきた。 彼女は皿をテーブルからおしのけた。これではとても食べていられない。

 

そして目をとじて、〈転成術〉の規則をこころのなかで暗唱しはじめた。

 

「わたしはなにかを液体や気体に〈転成〉させません。」

 

「わたしは食べものにみえるものや人体にはいるようなものを〈転成〉させません。」

 

やはりあの丸薬を〈転成〉する実験はすべきじゃなかった。せめて()()()()()()べきだった…… ハリーの天才的なアイデアに夢中になって、うっかり忘れてしまっていた……

 

腹のなかのいやな感覚が強くなっていく。こころのなかの認識の境界線ちかくに、なにかが浮かんでいるような気がした。老女から若い女へ、二つの顔から花瓶へ、見えたかと思うと反転するなにかが……

 

ハーマイオニーは〈転成術〉の規則を暗唱しつづけた。

 

◆ ◆ ◆

 

杖をつかむハリーのこぶしが白くなった。杖さきの空気をクリップに〈転成〉しようとしていたのだ。 クリップを気体に〈転成〉するのはもちろん安全ではないだろうが、逆をすることがまずいようには思えない。 ただ、()()()()とされているだけだ。 でもなぜ? 空気は物質的にはほかのなにともおなじくらい実在する……

 

いや、この制約には意味があるかもしれない。 空気は構造がばらばらで、そのなかの分子同士の関係がつねに変化している。 ある物質にあたらしいかたちをあたえるためには、支配できるまでそれが静止していないといけないのかもしれない。といっても、固体のなかの原子だってつねに振動しているのだが……

 

失敗がかさなるたびに、ハリーは冷たさを感じ、まわりがよりはっきりと見えるようになった。

 

よし。つぎにいくぞ。

 

〈転成〉できるのはひとつの物体全体だけ。 マッチ一本の()()を針に〈転成〉することはできず、全体を〈転成〉するしかない。 だからこそ、ドラコに教室にとじこめられたとき、壁に自分大の径の円筒をくりぬく薄い断面の部分をスポンジに〈転成〉して、中身を押しだして通りぬけてしまったりできなかったのだ。 その小さな一部だけを変化させたければ、壁全体か、もしかするとホグウォーツ城全体にあたらしいかたちをあたえる必要があった。

 

これはどう考えてもおかしい。

 

()()()()()()()()()()()()()。原子という、たくさんの小さな点でできている。 連続性や固体性というものに実体はない。あるのは、その小さな点同士の電磁気力によるつながりにすぎない……

 

◆ ◆ ◆

 

マンディ・ブロクルハーストはフォークを口にはこぶ途中で止め、 「あれ?」と、からっぽになった隣の席のむこうにいるスー・リーに言った。「ハーマイオニーはどうかしたの?」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはこの消しゴムを殺したくなった。

 

このピンク色の四角形の消しゴムの全体はそのままに、そのうえの一点だけを鋼鉄に変えようとしているのだが、向こうは協力してくれない。

 

これは、現実の制約ではなく考えかたの制約にちがいない。

 

()()()()()()()()()()()()()。その原子はどれも小さな個別のモノだ。 原子同士をつなげているのは、共有結合の場合は共有電子の量子的な雲だ。近距離の場合はイオン結合やファンデルワールス力という電磁気力にすぎない。

 

それを言うなら、原子核のなかの陽子も中性子も小さな個別のモノだし、 陽子と中性子のなかのクォークも小さな個別のモノだ! 人びとが思いうかべる、ひとまとまりの物体からなる世界というものは()()()()()。 どれも小さな点のあつまりにすぎない。

 

自由〈転成術〉はそもそも、あたまのなかだけでやるのではなかったか? 詠唱も動作も必要ない。物質から切りはなして純粋にかたちだけを考え、それがかたちのない物質に押しつけられていることを考えるだけ。 あとは杖と、魔法族を決めているなにかさえあればいい。

 

魔法族はモノの一部を変化させられない。ひとまとまりであると認識できるものしか変化させられない。究極的にはすべてが原子にすぎないということを、彼らは心底信じきることができないからだ。

 

この消しゴムは原子のあつまりにすぎない。なにもかも原子のあつまりにすぎない。その()()に、ハリーは全力で意識を集中させた。さっきから〈転成〉しようとしていた消しゴム上のこの一点もまた、原子のあつまりにすぎず、思いつくかぎりほかのどの原子のあつまりとも同等の資格がある。

 

それでも、消しゴムのその一部を変化させることはできなかった。この〈転成術〉はまったく成功する気配がない。

 

こ ん な の は お か し い。

 

杖をにぎるハリーのこぶしがまた白くなった。 ()()()()()()()実験結果を見るのはもうたくさんだ。

 

もしかすると、ハリーのこころのなかのどこかが、まだ物体ありきで考えてしまっていて、それが〈転成術〉を邪魔しているのかもしれない。 ハリーは()()()()になる原子のあつまりを思いうかべていた。()()()()になる原子のあつまりを思いうかべていた。

 

ギアを一段あげよう。

 

ハリーは消しゴムのあの小さな部分に杖を強く押しあてた。そして、科学者でない人たちが現実だと思っているような、机、椅子、消しゴム、人間などといった虚像の世界のむこうにあるものを見ようとする。

 

公園を歩くとき、自分のまわりをとりかこむ世界は、自分の脳のなかの神経細胞の発火パターンとして存在する。 明るい青空の感覚は、はるか頭上にあるのではなく、自分の視覚野のなかにある。視覚野は脳のうしろのほうにある。 世界についてのあらゆる感覚は実際には、頭蓋骨と呼ばれる骨でかこまれた穴のなかで起きている。()()はそこでのみ生きていて、そこから離れられない。 ある人()()にほんとうに挨拶をしたいのなら、握手をしてもダメで、頭蓋骨をたたいて「お元気ですか」と言わなければならない。人が住むのは頭蓋骨のなかだからだ。 そして自分が()()()()()と思っている公園の()()は、目の網膜を通ってはいってきた信号が処理されて脳のなかで生成されたものだ。

 

仏教で言われる()()みたいなものとはちがう。この幻力(マーヤー)のヴェールのむこうにあるものはとくに神秘的でも意外でもない。公園の虚像のむこうには単純に()()()()()がある。それでも虚像は虚像だ。

 

ハリーは教室のなかにいない。

 

消しゴムを見てもいない。

 

ハリーはハリーの頭蓋骨のなかにいる。

 

網膜から受けとった信号を自分の脳が復号して処理してできた映像をハリーは経験している。

 

この消しゴム本体は、その映像ではない、どこか別の場所にある。

 

消しゴム本体はハリーの脳がつくった映像とはちがう。 ()()()()()()()()()としての消しゴムのイメージは、かたちと空間を認識して処理する脳の頭頂葉の部分にしかない。 この消しゴム本体は電磁気力と共有電子でつながった原子のあつまりで、そのまわりでは、空気の分子たちが、おたがいや消しゴムの分子とぶつかりあっている。

 

この消しゴム本体は、頭蓋骨のなかにいるハリーから遠く離れた場所にある。ハリーはそれに触ることはできず、イメージすることができるだけだ。 でも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()となっているのはハリー自身の思いこみだけだ。 幻力(マーヤー)に隠されたむこうがわで、『この杖』のイメージの背後にある真実が、『消しゴム上の一点』とハリーがイメージしている原子のあつまりに触る。そしてもし、『この消しゴムの全体』とハリーがイメージしている原子のあつまりをこの杖で変化させることができるなら、もうひとつのあつまりのほうも変化させられない理由などないはず……

 

それでも〈転成術〉はきかなかった。

 

ハリーは歯ぎしりをして、()()()()ギアをあげた。

 

この消しゴムを単一の物体としてイメージするのは()()()()()()()()()()

 

それは実際の土地と対応していないし、対応させることもできない地図だ。

 

人間は何段階かの階層をつかって世界モデルを整理する。国家のうごき、人間のうごき、内臓のうごき、細胞のうごき、分子のうごき、クォークのうごきにそれぞれ()()()()()()()をもっている。

 

ハリーの脳は、この消しゴムについて考えるとき、『消しゴムは鉛筆で書いたものを消せる』など、消しゴムを支配するルールについて考える。 もっと下の、化学の階層でのできごとについて予想をたてる必要ができてはじめて——まるでそれが別のできごとであるかのようにして——ゴムの分子のことを考えはじめる。

 

でもそのどれも、()()()()()()にしかない。

 

ハリーのこころは、消しゴムについて階層的なルールがあるという()()をもっているかもしれないが、()()()()()()()()()()()()など存在しない。

 

ハリーのこころは現実を階層化してモデル化していて、それぞれの階層ごとにことなる信念をもっているが、それは()()のほうの話だ。実際の土地のほうはそうではない。()()()()()()にはクォークという()()()の構造しかない。クォークは統一的な基層プロセスであり、数学的に単純なルールにしたがう。

 

すくなくとも魔法のことを知るまでにハリーが信じていたことはこれだった。そして、この消しゴムは魔法をおびていない。

 

仮にこれが魔法力のある消しゴムだったとしても、ひとまとまりの消しゴムというものが()()()()()()()というのは()()()()()。 消しゴムのようなものが現実の基本的な構成要素であるはずがない。消しゴムは基本要素にしては大きすぎ、複雑すぎる。ならば部品の組み合わせでできているはずだ。 モノは()()()()()()であってはならない。 消しゴムが単一の物体だというハリーの脳の暗黙の仮定は、まちがいであるばかりか、地図と土地の混同だ。この消しゴムが個別の概念として存在するのは、ハリーの階層的な()()()()()のなかでだけだ。この消しゴムは一階層の現実において個別の要素ではない。

 

……〈転成術〉は()()()()()()()()()()()

 

ハリーは重く息をついた。〈転成術〉は失敗しても成功した場合とおなじくらい消耗させられる。だが、ここであきらめてなるものか。

 

もういい。十九世紀のでたらめはここまでだ。

 

現実は原子ではない。微小なビリヤードの玉つきではない。それもまたうそだ。 原子を微小な点と考えるのも、また別の都合のいい幻覚にすぎない。 ひとは背後にある現実の非人間的で異質なすがたに直面するのをおそれて、その妄想にすがりつくのだ。 それにもとづいて〈転成術〉をしようとしていたのがそもそもの失敗だった。 ちからがほしければ、自分の人間性を捨てて、真の量子力学の数学にあわせた思考をしなければならない。

 

()()()()()()()()。あるのは()()()()()()()()()における()()()()にすぎず、ハリーの脳がつくりだす消しゴムというたわいないイメージは、実は()()()()()()()()()()()()波動関数の巨大な()()のひとつでしかない。なにか個別の存在があるとして、それは六という数のなかに三という隠れた因子が存在するという程度の意味でしかない。もしこの杖で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()することができるなら、ハリーの脳が消しゴム上の一点として可視化している、すこし()()()ほうの因子を変更することだってできていいはずだ——

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーは靴で石畳を鳴らし、息を切らしながら、廊下から廊下へと駆けぬけた。アドレナリンの衝撃がまだ血管のなかで脈うっている。

 

老女から若い女へ、二つの顔から花瓶へと移り変わる絵のように。

 

二人はなにをしてしまったのだろう?

 

二人はなにをしてしまったのだろう?

 

二人のいた教室にもどりドアノブに手をかけると、汗で手がすべる。もっと強くにぎると、ドアがひらき——

 

——ちらりと見えた映像のなかで、ハリーは目のまえにあるテーブルのうえの、小さなピンク色の四角形のものを見つめている——

 

——そこから数歩すすんだ場所に、ここからではほとんど見えないが、あの細い黒糸があの重さをささえている——

 

「ハリー、この部屋から出なさい!」

 

純粋なショックがハリーの顔をよぎった。彼は倒れそうなほど急いで立ちあがり、テーブルにあった小さなピンク色の四角形だけ手にとり、ドアへと駆けこんだ。ハーマイオニーはすでに脇によけていて、手にした杖をあの糸に向けていた——

 

〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)!」

 

そしてドアをぴしゃりとしめると同時に、むこうがわで百キログラムの金属が落ちる轟音が聞こえた。

 

ここまで一度もとまらずに走ってきたので、彼女は息もたえだえになっている。全身が汗でぬれ、足がぎしぎしと燃えるようだ。世界じゅうのガリオンを積まれても、ハリーの質問に答える余裕はない。

 

ハーマイオニーは目をしばたたかせ、自分が倒れかけたのを感じた。するとハリーが彼女を受けとめ、そっと床におろしてくれた。

 

「……体調……」と彼女はなんとか小声をだした。

 

「え?」と言うハリーはいつになく顔色をうしなっている。

 

「……体調、異常は、ない……?」

 

質問の真意がつたわると、ハリーはさらにおそれをなしたようだった。 「と、とくに変わったところはないと思う——」

 

ハーマイオニーは一瞬目をとじた。 「ならいい。……ちょっと、息を……」

 

息をととのえるのにしばらくかかった。 ハリーを見ると、まだおびえているようだ。 それもいい。教訓が身にしみるだろう。

 

ハーマイオニーはハリーに買ってもらったポーチに手をいれ、かれたのどで「水」とささやいた。 ボトルを手にすると、一気にごくりと飲んだ。

 

もうしばらくかかって、ようやくしゃべれるようになった。

 

「わたしたちは規則をやぶった。」と、かれた声でハーマイオニーは言う。「あの規則をやぶった。」

 

「いや……そんなはずはない。ぼくも考えてはみたけれど——」

 

「あの〈転成術〉は安全か、ってわたしが聞いて、()()()()()()()でしょ!」

 

沈黙。

 

「それだけ?」とハリー。

 

ハーマイオニーは悲鳴をあげそうになった。

 

「わからないの? あれは極細の繊維でできていた。もしも()()()()()、どんなひどいことになるか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() あれがどういう意味かわからないの? わたしたちは〈転成術〉の実験をしていた。()()()()()()()()を!」

 

また沈黙。

 

「うん……多分あたりまえすぎて言うまでもないことだったんだろうね。 先生に相談せず、生徒だけで空き教室を使って、画期的な〈転成術〉の実験をしてはいけない。」

 

「あなたのせいで二人とも死んでいたかもしれない!」  こういう言いかたは卑怯だとハーマイオニーはわかっていた。判断をあやまったのは自分もおなじだ。だがそれでも怒っていた。ハリーがいつも自信満々だったせいで、彼女もあまり考えずにのせられてしまっていたのだ。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()かもしれない!」

 

「じゃあマクゴナガル先生には秘密にしておこうよ?」

 

「もうおわりにする。もうおわりにしないと、わたしもあなたもけがをする。 わたしたちの年齢じゃまだ、こういうことは無理。」

 

弱よわしい笑いがハリーの顔をよぎった。「あ、その点はちょっと訂正したい。」

 

そしハリーは小さなピンク色の四角形のものを差しだした。光る金属の粒がひとつついた消しゴムだ。

 

ハーマイオニーはじっとそれを見て困惑した。

 

「量子力学でもたりなかった。無時間物理の段階までおりていく必要があった。 時間にそってなにかを()()させるんじゃなく、現実の過去と未来のあいだの()()を杖で固定する必要があった。でもできたんだよ。物体の虚像のむこうがわを見て。これができる魔法使いはほかに一人もいないと思う。 マグル生まれのだれかが無時間形式の量子力学を知っていたとしても、せいぜい量子についての変な解釈だと思うだけで、それを()()として受けとめて、自分の知る世界が幻覚にすぎないと理解することはできない。 ぼくはこの消しゴムの()()を変えずに()()を〈転成〉することができた。」

 

ハーマイオニーはまた杖を持ち、その消しゴムにむけた。

 

一瞬ハリーが怒りの表情を見せたが、彼女をとめようというそぶりはなかった。

 

「『フィニート・インカンターテム』。またやるなら、マクゴナガル先生に確認をとること。」

 

ハリーはうなづいたが、表情はまだすこしかたかった。

 

「とにかく、これはもうおわり。」

 

「どうして? これがどういうことかわからないの? 魔法族にも知らないことがあるっていうことだ! 人口がすくなすぎるし、科学を知っている人はさらに少ないから、手ごろな未解決問題はまだそこらじゅうに——」

 

()()だから。 新しいものを発見できるとしたら、()()()危険だから! わたしたちの年齢じゃ無理! こうやってひとつ大失敗をしてしまったんだから、つぎは()()かもしれないでしょう!」

 

ハーマイオニーはたじろいだ。

 

ハリーは目をそむけ、ゆっくりと息をしはじめた。

 

「ひとりでもやらないで。お願い。」 ハーマイオニーの声が震えた。

 

お願いだから、それをフリトウィック先生に報告するという判断をわたしにさせないで。

 

長く沈黙がつづいた。

 

「勉強だけしていたいっていうことか。」  その声で、ハリーが怒りをおもてにださないようつとめているのがわかった。

 

ここで自分がなにか言うべきかどうかわからないが…… 「あなたも、その……無時間物理を勉強したんじゃないの?」

 

ハリーは彼女に視線をかえした。

 

「あれは……」 声に迷いが出た。 「わたしたちの実験でわかったことじゃないんでしょ? 本をいろいろ読んだからできたんでしょう。」

 

ハリーが口をひらき、とじた。 葛藤の表情をしている。

 

「わかった。じゃあこうしようか。勉強はする。もし()()()()意義のあることを思いついたら、先生に相談してから実験しよう。」

 

「それでいい。」 ハーマイオニーは安堵から倒れこんだりはしなかったが、座っていなかったらそうしてもおかしくなかった。

 

「昼ごはんにいかない?」とハリーがおそるおそる言った。

 

ハーマイオニーはうなづいた。昼ごはんはいいかもしれない。今度こそは。

 

彼女は慎重に石畳から体を起こそうとした。全身の痛みに顔をしかめる——

 

ハリーは杖を彼女にむけ、「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」と言った。

 

ハーマイオニーが目をしばたたかせると、ひどく重かった足が耐えられる程度にまで軽くなった。

 

ハリーがにやりとした。 「なにかを完全に〈浮遊〉させることはできなくても()()()()()ことはできる。あの実験、おぼえてる?」

 

ハーマイオニーはしかたなさそうに笑みをうかべた。まだ怒っているべきなのだが。

 

慎重に杖さきをあてられたまま大広間にむけて歩きだしたとき、ハーマイオニーは自分の足どりがはっきりと軽くなっている気がした。

 

ハリーがこれを維持できるのは五分間だけだったが、気持ちだけでもありがたかった。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァはダンブルドアのほうを見た。

 

ダンブルドアは質問するように視線をかえした。 「いまの話の一部でも理解できたかね?」 総長は困惑した声でそう言った。

 

ミネルヴァはこれほど徹底して意味不明な話をきいたおぼえがなかった。 総長を呼びだして同席させたことが恥ずかしくなるくらいだが、そういう命令だった以上しかたない。

 

「いいえ。」  マクゴナガル先生はきっぱりとそう言った。

 

「つまり……」と言ってダンブルドアは銀色のひげをふって、きらきらとした視線をまたどこかへそらした。「きみはほかの魔法使いにできないことができると信じている。われわれが不可能だと思っているなにかを。」

 

三人がいるのは総長の私用の〈転成術〉作業室だ。彼女のパトローナスが到着するとまもなく、ダンブルドアがかがやく不死鳥のパトローナスをよこして、ハリーを連れてくるようにとの伝言をつたえた。 天窓からふりそそぐ光が、円形の部屋の中央にある巨大な錬金術の七頂点の図を照らしている。それがすこしほこりをかぶっているのを見て、ミネルヴァはこころを痛めた。 ダンブルドアは〈転成術〉の研究をなによりの楽しみとしている。最近彼が多忙であるのは知っていたが、これほどまでだとは思わなかった。

 

なのにハリー・ポッターがさらに総長の時間を無駄にしようとしている。 ハリーを責めるわけにはいかない。彼は言われたとおり、現在〈転成術〉で不可能とされていることをする方法を思いついたと彼女に報告した。彼女も事前に言われていたとおりに、総長に連絡して機密性のある場所に移動するまで、一言もその内容を口にださないようにとハリーに命じた。

 

もしハリーが最初から、具体的になにをできると思ったのか言っていたなら、彼女はその時点で話を打ち切っていただろう。

 

「ちょっと説明がうまくなかったかと思いますが。」と言ってハリーはすこし恥ずかしそうにした。 「要するに、あなたたちの考えが科学者の考えに矛盾している、ということです。そして、この場合は科学者の知識のほうがたしかだと思います。」

 

ミネルヴァはためいきをつきたかったが、ダンブルドアがとても真剣に話をきこうとしていたので、思いとどまった。

 

ハリーの考えは無知の産物以外のなにものでもない。 金属球の半分をガラスに変えたとすれば、()()()()ことなる〈形相(けいそう)〉を得る。 一部を変えることは全体を変えることであり、全体の〈形相〉をはずして新しい〈形相〉におきかえることだ。 そもそも金属球の半分を〈転成〉するとはどういうことか? ()()()()()()もとの〈形相〉のままで、()()だけが別の〈形相〉になるというのか?

 

「ミスター・ポッター。あなたがやろうとしていることは不可能であるばかりか、()()()()です。 なにかの半分を変化させたとしたら、全体が変化したことになります。」

 

「たしかに。」とダンブルドアが言う。「じゃが英雄であるハリーは、論理的に不可能なことができるのかもしれん。」

 

ミネルヴァは目でもまわすところだったが、とうに感覚が麻痺してしまっていた。

 

「仮にそれが可能だったとしてみよう。それが通常の〈転成術〉とことなる結果をうむという理由は思いつくかね?」

 

ミネルヴァは眉をひそめた。 そもそも概念として想像しがたい厄介な仮定ではあるが、とにかく真にうけて考えようとしてみる。 ある金属球の半分にだけ〈転成術〉を適用できたとしたら……

 

「境界面で奇妙なことが起きるのでは? といっても、ある物体全体を、ふたつの部分からなるひとつの〈形相〉に〈転成〉した場合と差はなさそうです……」

 

ダンブルドアはうなづいた。 「わしもそう思う。 ではハリー、きみの説がただしいなら、きみのやろうとしていることは、物体の全体でなく一部を対象にするという点をのぞけば、ほかの〈転成術〉とまったく同一であるということか? それ以外に一切ちがいはないと?」

 

「はい。それがそもそもの目的です。」

 

ダンブルドアは彼女に視線をもどした。 「ミネルヴァ、これが危険になりうる理由にひとつでもこころあたりは?」

 

「ありません。」  ミネルヴァは記憶をさぐってからそう言った。

 

「同感じゃ。よろしい。あらゆる面において通常の〈転成術〉となんらかわりないように思われるし、これが危険になりうる理由も思いつかない以上、二次の警戒で十分と思う。」

 

ミネルヴァはおどろいたが反論しなかった。 ダンブルドアは彼女よりはるかに多くの〈転成術〉の経験がある。文字どおり何千もの新しい〈転成術〉の実験をしていて、一度も警戒をゆるめすぎたことはない。 ()()で〈転成術〉をつかいながら、()()()()()()()。 総長が二次の警戒でいいと考えるなら、それでいい。

 

ハリーが確実に失敗するであろうということは、まったく別の問題だが。

 

二人は検知の網をかけはじめた。 もっとも重要なのは〈転成〉された物質が空気中にでていないことをたしかめる網だ。 念のため、ハリーを空気供給機能のある個別の力場に封じこめ、境界面は遮蔽し、彼の杖だけがそこを通りぬけられるようにする。 ここはホグウォーツのなかだから、爆発の兆候を示した物質を自動的に〈現出〉(アパレイト)させるようにはできないが、おなじくらいはやく天窓から射出することはできる。窓がどれも外むきに開くつくりなのは、まさにそのためだ。 問題が最初に検知された時点で、ハリー本人は別の天窓から飛ばされるようにしておく。

 

その作業を見ているハリーは、すこしおびえているようだった。

 

「心配はいりません。」とマクゴナガル先生は説明の途中でつけくわえた。 「ほぼまちがいなく不要な警戒ですから。 もし深刻な事態になりそうだと判断していたとしたら、この実験を許すことはしません。 これははじめて行われる種類の〈転成術〉をためす際の、一般的な予防措置です。」

 

ハリーは息をのんで、うなづいた。

 

数分後、ハリーはシートベルトつきの椅子にすわり、杖を金属球にあてた。現在の彼の成績によれば、この大きさのものを〈転成〉するには三十分以上かかるはずだ。

 

それから数分して、ミネルヴァは卒倒しそうな気分で壁によりかかった。

 

金属球の表面の杖があたっていた場所に、小さなガラスの一点ができている。

 

ハリーは()()()()()()()()()()とは言わなかったが、汗をうかべた得意げな表情でそれは十分つたわってきた。

 

ダンブルドアは球に分析用〈魔法(チャーム)〉をいくつかかけながら、どんどん興味ぶかそうな表情になった。 三十年は若がえったような顔つきだ。

 

「すばらしい。まさに主張どおりではないか。 対象全体を〈転成〉せずに一部だけを〈転成〉できている。 ほんとうにこれが、考えかたの制約にすぎないと?」

 

「はい。でも、本質的な制約です。考えかたを修正すべきだとわかっているだけでは不十分です。自分のあたまのなかでまちがいをおかしている部分をおさえつけて、その背後にある、科学者が解明した現実について考えるようにする必要がありました。」

 

「すばらしいというほかない。 ほかの魔法使いには、仮にできるとしても何カ月も学習させてからでないとできない、ということかな? ところで、ほかの物体の一部を〈転成〉してみることはできるかね?」

 

「おそらくそうです。それと、よろこんで。」

 

三十分後、ミネルヴァはまだ不可解だという気がしていたが、安全性に関してはだいぶ納得できた。

 

たしかに、通常のものとかわらない。論理的に不可能という点をのぞけば。

 

「このあたりまでにしてはどうでしょう。」とミネルヴァは口をひらいた。「部分〈転成術〉は、通常のものよりも疲労させられるようですので。」

 

「練習するとだんだん楽になっています。」と疲弊して顔色をうしなった少年が震える声で言う。「でも、おっしゃるとおりですね。」

 

結界からハリーをぬけださせるのにまた一分かかった。ミネルヴァはハリーをもっと座りごこちのよい椅子に案内し、ダンブルドアはアイスクリームソーダをつくった。

 

「おめでとう、ミスター・ポッター!」とマクゴナガル先生は本心から言った。うまくいかないほうに全財産を賭けるくらいのつもりはあったのだから。

 

「おめでとうというほかない。わしでさえ十四歳になるまで〈転成術〉で独創的な発見をしたことはなかった。 これほど早熟の天才はドロテア・セニャクにまでさかのぼらなければならん。」

 

「ありがとうございます。」とすこしおどろいてハリーが言った。

 

「とはいえ、このよろこばしいできごとは秘密にしておくのが賢明と思う。すくなくともしばらくは。 ハリー、このアイデアをマクゴナガル先生に話すまえにだれかに話したことは?」

 

沈黙。

 

「あの……その人が〈審問〉にかけられるのでなければいいんですが、実はある生徒に話しました——」

 

マクゴナガル先生はくちびるから爆発させるように声をだした。「()()()()()()() まったく前例のない〈転成術〉のことを、権威ある専門家に話すまえに()()に話したのですか? それがどれほど無責任なことかわかっていますか?」

 

「すみません。気づいていませんでした。」

 

少年は適切におびえている。それを見てミネルヴァは内心すこし態度をゆるめた。 すくなくとも、愚かだったということはハリーもわかったようだ。

 

「この話を内密にするという誓約をミス・グレンジャーにさせなさい。」とダンブルドアが深刻そうに言う。「そしてよほどの特別の事情がないかぎり、ほかのだれにも言ってはならん。言ったときは、その相手にも誓約させる必要がある。」

 

「え……なぜですか?」

 

ミネルヴァもおなじことを疑問に思っていた。 またもや、総長のあたまの回転が高速すぎてついていけていない。

 

「きみにこれができるということは、だれにとっても信じがたい。 だれにも予測されないことが、強みとなるのじゃ。 きみの死命を左右するかもしれぬそれを、守っておかねばならん。 これは信じてくれ。」

 

マクゴナガル先生は内面の困惑をあらわさず、かたい表情でうなづいた。 「わたしからもお願いします。」

 

「まあ、いいですが……」

 

「この対象物についての検査がすみしだい、きみは部分〈転成術〉の練習をしてもよい。ただし鋼鉄からガラスとガラスから鋼鉄への変化のみ、そしてミス・グレンジャーに付き添ってもらうことを条件とする。 当然ながら、すこしでも〈転成術〉に起因する可能性のある症状に気づいた場合は、すぐに教師に報告するように。」

 

作業室をでる直前、ドアのとってに手をかけたところで、ハリーがふりむいて言った。 「せっかくなのでお二人におききししたいんですが、スネイプ先生についてなにか、かわったことはありませんでしたか?」

 

「かわったこと?」と総長。

 

にが笑いしたくなるのをミネルヴァは押しとどめた。 この少年が『邪悪な薬学教授』について懸念するのは当然だ。セヴルスが信頼できるという理由を知りようがないのだから。 いずれ、セヴルスがいまだにハリーの母親を愛していると本人に説明する羽目になるかもしれないが、説明しにくいことはまちがいない。

 

「つまり、最近、なんらかの点でいままでにないふるまいをしたとか?」とハリー。

 

「とくに見たおぼえはないが……」と総長がゆっくり言う。「なぜそんなことを?」

 

ハリーはくびをふった。 「それを言ってしまうと、先入観であなたの観察をゆがめてしまうおそれがあります。 とにかく、ちょっと気をつけてみてもらえないかと。」

 

それはあからさまにスネイプへの嫌疑をかける言いかたではなかった。そのことに、ミネルヴァは余計に胸騒ぎがした。

 

ハリーは二人に礼儀ただしく一礼して、退室した。

 

◆ ◆ ◆

 

「アルバス、」と少年が去るのを見とどけてからミネルヴァが言う。「なにを根拠にハリーの言うことを真にうけたのですか? あんな発想は不可能とばかり!」

 

老魔法使いは厳粛な表情をした。「秘密にしなければならないのもおなじ理由から。 もしハリーがああいうことを言ったらここに連れてくるようにと命じておいたのもおなじ理由から。 あれはヴォルデモートの知らぬちからなのだから。」

 

そのことばの意味を理解するのに数秒かかった。

 

そして寒けが背すじをかけぬけた。あれを思いだすときは毎回そうだ。

 

あれの発端は、〈占術〉の教師として応募してきたシビル・トレロウニーの、なんの変哲もない面接だった。

 

闇の王を倒すちからの持ちぬしが来る

七番目の月が死ぬときに生まれ

闇の王がみずからにならぶ者として印をつける

ただし彼は闇の王の知らぬちからを持つ

一方が他方のかけらのみを残して滅ぼさなければならない

その二つの異なるたましいは同じ世界に共存しえないから

 

忌むべき低音の声が言った忌むべきあの文句が指しているのは、部分〈転成術〉などではないように思える。

 

ミネルヴァが説明しようとすると、ダンブルドアが口をひらいた。「たしかに、そうではないかもしれん。 わし自身、ヴォルデモートが分霊器(ホークラックス)をいったいどこに隠したのかを知る助けになるなにかであればよいと思ってはいた。ただ……」 肩をすくめる。 「予言はやっかいなもの。運まかせは禁物。 たわいないものであれ、予測不可能なままにできれば、決定的な武器ともなりうる。」

 

「ところでセヴルスについてのあれはなんのつもりだったのでしょう?」

 

「わからぬ。」とダンブルドアはためいきをつく。「ハリーがセヴルスに対してなにかしかけようとしていて、直接嫌疑をかけても無視されるだろうから、どうとでも受けとれる質問をするほうがよいと思った、という可能性はあるが。 もしそうであれば、わしが嫌疑を認めはしなかったであろうという点でハリーはただしい。 いまはただ、先入観なしに監視しつづけるとしよう。彼の要求どおり。」

 

◆ ◆ ◆

 

余波その一:

 

「あの、ハーマイオニー?」とハリーはとても小さな声で言う。「すごくすごく謝らないといけないことがあるんだけど。」

 

◆ ◆ ◆

 

余波その二:

 

アリサ・コーンフットの両目はすこしかすんでいた。眼前の〈薬学教授〉は講義を容赦なくすすめ、小さな青銅色の豆つぶを手に、悲鳴をあげる人肉のかたまりがどうとかいう話をしている。 この学期がはじまって以来、彼女は〈薬学〉の授業を落ちついて聞くことができなかった。 この不快で、意地悪で、粘着質の教師から目をはなすことができず、特別な居残り作業をさせられることを夢見たりした。 そんな自分はどこかおかしいのだろうけれど、どうしてもそうせずにはいられない——

 

「あっ!」とアリサが声をだした。

 

スネイプが青銅色の豆つぶをぴしゃりとアリサのひたいに投げつけたのだった。

 

「ミス・コーンフット。」とするどい声で〈薬学教授〉が言う。「この(ポーション)はとても繊細だ。集中力を欠けば、自分だけではなく同級生も危険にさらすことになる。授業のあとで来なさい。話がある。」

 

最後の一言は彼女にとって逆効果だった。だが彼女は努力して、なんとかだれのからだも溶かさずに授業を終えることができた。

 

授業のあと、アリサは教卓へむかった。 両手をうしろにむすんで気弱に顔を赤らめてみたい気持ちもあったが、多分そうすると()()()()()()()()という、ある種の冷静な予感があった。 なので、まじめな女の子らしい立ちかたで無表情をよそおうことにした。 「スネイプ先生?」

 

「ミス・コーンフット。」と言いながら、スネイプは成績をつける作業から顔をあげない。「きみの思いは分かっている。だがわたしにその気はない。わたしはあのように見つめられるのが不快になってきた。以後、その目をつつしんでくれたまえ。よいかね?」

 

「はい。」とアリサは声をもつれさせた。スネイプに退出を命じられ、彼女は溶岩のようにほおを真っ赤にして、教室を飛びでた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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29章「自己中心性バイアス」

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーは最近、ほかの生徒が自分とハリーのことを話しているのをきくたび、どことなく不愉快になった。 それが積みかさなって我慢の限界まできていたところ、けさ、シャワー室でモラグとパドマが話しているのがきこえたのが最後の一押しになった。

 

ハリー・ポッターの競争相手(ライヴァル)になったのは、重大なまちがいだったように思えてきた。

 

ハリー・ポッターから距離をとっておきさえすれば、彼女はレイヴンクローで一番寮点をかせぐ、成績優秀なホグウォーツ期待の星、ハーマイオニー・グレンジャーでいられた。 〈死ななかった男の子〉ほどではないにしろ、()()()()()()()()有名になれたはずだ。

 

それがいまは、〈死ななかった男の子〉に学業面の競争相手がいる、ちなみにその子の名前はハーマイオニー・グレンジャー、ということになってしまった。

 

そればかりか、デートもやってしまった。

 

ハリーとの〈恋愛(ロマンス)〉というアイデアは最初は魅力的に見えた。 そういう話は読んだおぼえがあるし、もし主人公(ヒロイン)の恋人候補になるだれかがホグウォーツにいるとすれば、ハリー・ポッターしかない。 あたまがよくて、おもしろくて、有名で、ときどきこわくて……

 

だから無理やりハリーをデートに連れだしたのだ。

 

すると、こちらが()()恋人候補ということになってしまった。

 

へたをすれば、夕食のメニューの選択肢のひとつ、程度かもしれない。

 

この朝、シャワー室にいて蛇口をひねろうとした瞬間に聞こえたのが、外でくすくす笑うモラグとパドマの声だった。 マグル生まれのあの子だとジニヴラ・ウィーズリーに競り負けるんじゃないか、と言ったのがモラグ。ハリー・ポッターなら()()もらっちゃうかもしれない、と言ったのがパドマ。

 

夕食のメニューの選択肢があるのは女の子のほうであって、男の子は選ばれるために競争する立ち場なのだということを、あの二人は理解できないらしい。

 

でもほんとうに耐えかねたのはむしろ、マクゴナガル先生の試験で九十八点をとったときのことだった。 ハーマイオニー・グレンジャーが最高点だということは注目されなかった。ハリー・ポッターが競争相手に七点出しぬかれた、ということが注目されたのである。

 

〈死ななかった男の子〉にちかづきすぎた者は、彼の物語の一部になってしまう。

 

そして自分の物語がなくなる。

 

競争から手を引いてしまえばいいのではないかとも思ったが、それではあまりに情けない。

 

ただ、ハリーのライヴァルになったことによってうっかり手ばなしてしまったなにかを、取りもどしたいのはたしかだ。 ハリー・ポッターのおまけとしてではなく、一人の人間として見てもらいたい。そんなに無理な注文ではないだろう?

 

この罠は、一度はまってしまうとなかなか抜けだすことができない。 どれほどいい成績をとっても、夕食時に特別に表彰してもらえるほどのことをしても、またハリー・ポッターに張りあおうとして、と言われるのがオチだ。

 

けれど、そこから抜けだす道がみつかったように思えた。

 

またハリー・ポッターへの対抗心で、と言われないようなことができる気がした。

 

簡単ではない。

 

自分は性格的にむいてない。

 

とても邪悪な相手と対峙することにもなる。

 

()()()邪悪な相手に助けをもとめることにもなる。

 

そう思いながらハーマイオニーは片手をあげて、おそろしいドアをノックしかけた。

 

ためらいがあった。

 

ここまできてバカらしいと思いなおして、手をもっと上にかかげる。

 

もう一度、ノックしようとしてみる。

 

手はドアをかすめもしなかった。

 

だがなぜか、ドアがばたんとあいた。

 

「おやおや……」と巣で待ちかまえるクモが言う。「クィレル点一点がそれほど惜しいのかね、ミス・グレンジャー?」

 

ハーマイオニーは片手をあげた姿勢のまま、ほおをピンク色にした。言われてみれば、そうだったのだ。

 

「ではひとつ寛大なはからいとして、」と邪悪なクィレル先生が言う。「その一点はもうなくなったことにしてあげよう。 きみを苦渋の選択から解放してあげたのだが。 感謝の一言もないのか?」

 

「クィレル先生……」 声がすこしだけ震えた。「わたしにはクィレル点がたくさんありますよね?」

 

「ある。たったいま一点減ってしまったがね。 なんとおそろしい。 わたしがきみの来室理由を気にいらなかっただけで、さらに五十点消えてしまうとは。 一点ずつ、減らしていってあげようか。一点……ほらまた一点……」

 

ハーマイオニーのほおがいっそう赤くなった。 「ほんとに邪悪な人ですね。そう言われたことはありませんか?」

 

「ミス・グレンジャー。」 クィレル先生は深刻そうに言う。「ひとを分不相応なまでにほめるのはときに危険だ。 相手は照れて申し訳なく思って、なんとかその賞賛に見あうお返しをしたいと思ってしまうかもしれない。 さて、きみの話というのを聞かせてもらおうではないか。」

 

◆ ◆ ◆

 

木曜日の昼食後、ハーマイオニーとハリーは図書館のかたすみを隠れ家として、くつろいでいた。会話するときのために〈音消(クワイエタス)〉の障壁もはってある。 ハリーはうつぶせに寝ころがって、地面にひじをついて、手にあたまをのせ、足をぶらつかせている。 ハーマイオニーはやけに大きなふかふかの椅子に沈みこんで、飴菓子の核のような格好になっていた。

 

図書館にある本全冊の()()()()()()を二人で読んで、二巡目にハーマイオニーが目次をぜんぶ読む、というのがハリーの提案だった。

 

とてもいい案だとハーマイオニーは思った。図書館をそういう風に使うのははじめてだ。

 

残念ながら、この計画にはちょっとした穴があった。

 

二人がレイヴンクローだという点だ。

 

ハーマイオニーは『魔法記憶術』という本を読んでいる。

 

ハリーは『魔法使いのための懐疑論』という本を読んでいる。

 

どちらもこの一冊だけは例外にしよう、と思っている。本のタイトルだけを読んでいくというのが自分たちに不可能であるとは気づいていない。

 

隠れ家の静寂をやぶる声があった。

 

「そんな」と突然大声で、口からこぼれさせるようにしてハリーが言った。

 

またしばらく静寂がつづいた。

 

「まさか」とまたおなじ声でハリーが言った。

 

それからハリーはくすくす笑いを我慢できなくなったようだった。

 

ハーマイオニーは自分の本から目をはなした。

 

「それで、なにがあったの?」

 

「ウィーズリー家に一家のネズミのことを聞いてはいけない理由がわかったんだ。 残酷な話だし、こうやって笑っちゃうのは最低なんだけど。」

 

「最低だと思う。」とハーマイオニーはすまして言う。「だから教えて。」

 

「わかった。まずは背景から。 この本のなかのある章には、シリウス・ブラックに関する陰謀論のことがいろいろ書かれている。 シリウス・ブラックのことはおぼえてるよね?」

 

「もちろん。」  シリウス・ブラックはジェイムズ・ポッターを裏切った元友人で、ヴォルデモートをポッター家の隠れ家へと手引きした人物だ。

 

「ブラックのアズカバン行きについては、いくつか()()()とされている点があるらしい。 まず彼は裁判を受けさせてもらえなかった。〈闇ばらい〉がブラックを逮捕したときの担当の大臣補佐官はコーネリアス・ファッジ、つまり現在の〈魔法省〉大臣だ。」

 

たしかにあやしそうな感じはしたので、ハーマイオニーはすなおにそう言った。

 

ハリーは床に伏せて本を見る姿勢のまま、肩をすくめる動作をした。 「あやしいことなんて、そこらじゅうにある。だから陰謀論者の手にかかれば、いつも()()()があったことになる。」

 

「でも、裁判なしなんて。」

 

「〈闇の王〉が倒されてすぐのことだから、」とハリーの声が真剣になった。「当時はなにもかもすごく混乱していた。〈闇ばらい〉に追いつめられたとき、ブラックは道ばたでくるぶしまで血まみれになって笑っていた。ピーター・ペティグルーという名前のぼくのお父さんの友だちと十二人の通行人とを彼が殺したのを、二十人の目撃者が証言した。 ブラックが裁判をうけなくてよかったとは言わないけれど、 魔法族だからねえ。たとえばジョン・F・ケネディ銃撃の真犯人は実はこの人だ、っていうような話と大差ないと思うよ。 とにかく、シリウス・ブラックはリー・ハーヴェイ・オズワルドの魔法界版なんだ。 ぼくの両親を()()()()()裏切ったという人物についての陰謀論はいろいろあって、なかでも一番人気がピーター・ペティグルー。そしてここから話がややこしくなっていく。」

 

ハーマイオニーは夢中になって聞いていた。 「でもそれがどうなってウィーズリー家のネズミに——」

 

「あわてないで。ちゃんと話すから。 ペティグルーは死んだあとで、〈光〉の陣営が送りこんだスパイだったということが明らかになった——二重スパイじゃなく、こっそり動きまわって情報をつかむスパイのほう。 彼は十代のころからそういうのが得意で、いろいろな秘密を知っていることで評判になっていた。 そこでこの陰謀論になるんだけど、ペティグルーはホグウォーツ時代から、小さな動物になってあちこちに忍びこんで盗み聞きをする、未登録の〈動物師(アニメイガス)〉だったというんだ。 問題は、優秀な〈動物師〉はめったにいないから、十代でそんなことができるとは考えにくいっていうこと。陰謀論は当然そこから、ぼくのお父さんとブラックも〈動物師〉だったという話になる。 その陰謀論によると、ペティグルー自身が十二人の通行人を殺して、小さな〈動物師〉の形態になって、逃げた。 マイケル・シャーマーが言うには、この説には問題点が四つある。 一つ目は、ぼくの両親以外に二人の家の結界のことを知っていたのはブラックしかいないということ」(この部分を言うときのハリーの声はすこしかたかった。)「二つ目は、もともとペティグルーよりブラックのほうが疑わしいこと。ブラックはホグウォーツ時代に生徒を殺そうとしたことがあるという噂があるし、ブラック家はたちが悪いことで有名な純血の家系で、いとこにはベラトリクス・ブラックさえいる。 三つ目に、頭脳はともかく魔法戦士としてはブラックはペティグルーより二十倍強かった。二人の決闘はクィレル先生とスプラウト先生の決闘みたいなものだっただろう。 ペティグルーは多分杖をぬく間もなくやられただろうし、陰謀論を成立させるのに必要な証拠を偽造するなんて無理がありすぎる。 四つ目に、ブラックは道ばたで()()()立っていた。」

 

「でもネズミの話は——」とハーマイオニー。

 

「そうそう。うん、まあ、簡単にまとめると、ビル・ウィーズリーが宣言したんだ。弟パーシーの飼っているネズミこそ、ペティグルーの〈動物師(アニメイガス)〉形態だと——」

 

ハーマイオニーはぽかんと口をあけた。

 

「うん。〈邪悪〉なペティグルーがネズミになって敵方の一家に飼われて、こっそり悲しい人生をおくるなんて意外だよね。マルフォイ家にでもいくか、いっそ整形してカリブ海の国に高飛びでもするところだ。 とにかく、ビルはパーシーを気絶させて、ネズミをうばって、あちこちに緊急フクロウ通信を発信して——」

 

「そんな!」と口からこぼれさせるようにしてハーマイオニーが言った。

 

「——なぜかダンブルドアと〈魔法省〉大臣と〈闇ばらい〉局長が集結してくれて——」

 

「まさか!」

 

「もちろんみんな彼のことを狂人あつかいしたけど、念のためにそのネズミに〈偽装曝露(ヴェリタス・オキュラム)〉をかけることはした。それでなにが出てきたと思う?」

 

もう限界。「ネズミ。」

 

「大あたり! それでビル・ウィーズリーは聖マンゴ病院に連れこまれて、よくある一時的な精神分裂の症状だとわかった。ある種の人は、ぼくらでいう大学生くらいの年代に特にこうなりやすい。 ビル・ウィーズリーは自分が九十七歳で死んでから駅をとおって時間をさかのぼって、若い自分になったんだと思いこんでいた。 抗精神病薬がよくきいたおかげで、いまは全快して通常の生活にもどっている。でも、シリウス・ブラック陰謀論のことはみんな話さなくなったし、ウィーズリー家相手にあのネズミの話は禁句になった。」

 

ハーマイオニーはくすくす笑いを我慢できなくなった。 残酷な話だし、こうやって笑っちゃうのは最低なんだけど。

 

「ただわからないのは、」と二人の笑いが一段落してからハリーが言う。「ブラックが()()ペティグルーを追いつめたのか。さっさと逃げればよかったのに。 〈闇ばらい〉の追手がいることは知っていただろうから。 ブラックをアズカバンに送るまえに、その理由を自白させることはできたんだろうか? こうなるから、全面的に有罪と思われる相手であっても、法律にのっとって裁判にかけるしくみがあるんだ。」

 

ハーマイオニーとしても同意せざるをえない。

 

すこししてハリーがその本を読み終えたとき、ハーマイオニーはまだ半分だった——こちらのほうがずっとむずかしい本だったのだが、それでも恥ずかしかった。 やがて彼女も『魔法記憶術』を書棚にもどして、自分を引きずっていかねばならないときがきた。彼女がもっともおそれる科目、ホウキのりの時間だ。

 

ハリーは自分のつぎの授業まで一時間半あるにもかかわらず、付き添ってきてくれた。あわれなプロペラ機が埋葬されにいくのを同伴して見送る戦闘機のように。

 

ハリーが同情的な声で別れのあいさつをするのをきいてから、彼女は〈破滅〉の運動場へ歩いていった。

 

それから悲鳴があって、墜落同然の瞬間があって、死と紙一重の瞬間があって、地面がどこかにいってしまって、太陽が目にとびこんできて、モラグはとなりにぴったりつけて飛んでいて、マンディは彼女が落ちたとき受けとめられるように()()()()()近くで待ちかまえていたという話を繰り返していた。ハーマイオニーは二人がみんなに笑われているのに気づいていたが、死にたくないのでマンディには言わなかった。

 

一千万年たって授業が終わり、つぎの木曜日まで、なつかしい地面にもどることを許された。 ハーマイオニーはときどき、毎日が木曜日になる悪夢を見ることがある。

 

大人になればみな〈現出(アパレイト)〉か〈煙送(フルー)〉かポートキーかですませるのに、なぜこれを教わらなければならないのか。どうしても理解できない謎だ。 ホウキにのる必要がある大人なんかいないのに。体育でなぜかドッジボールをやらされるのと似ている。

 

ハリーはこれが得意だが、得意であることを恥じるだけの良識をもってくれてはいる。

 

◆ ◆ ◆

 

数時間後、ハッフルパフの自習室で彼女はハンナ、リアン、スーザン、ミーガンと同席した。 教師にしてはひかえめなフリトウィック先生が、この四人が〈操作魔法術(チャームズ)〉の宿題をするから、もしできたら手つだってあげてくれないかと頼んできたのだ。四人はレイヴンクロー生ではないのに。ハーマイオニーはお願いされたことが誇らしくて爆発しそうになった。

 

ハーマイオニーは羊皮紙を一枚とりだし、そのうえにインクをすこし垂らして、四つにちぎり、まるめ、テーブルのうえに投げた。

 

自分ならまるめただけでもいけるかもしれないが、これくらいゴミらしくしておけば、〈廃棄の魔法〉をはじめて練習する人にもやりやすい。

 

ハーマイオニーは目と耳をとぎすませて、言った。「じゃあ、やってみて。」

 

「エヴェルト」

 

「エヴェルト」

 

「エヴェルト」

 

「エヴェルト」

 

問題点がいまいちはっきりしない。 「もう一回やってみてくれない?」

 

一時間後、ハーマイオニーの結論はこうだった。(一)リアンとミーガンは雑な面があるが、頼めばしっかり練習してくれる。(二)ハンナとスーザンは集中力と意気込みがありすぎるから、あわてず楽にして、試すばかりでなく、まずやりかたを考えるように、と何度も言ってあげる必要がある——この二人がもうすぐ()()()()()になると思うと変な感じがする。(三)ハッフルパフ生の手つだいをするのは楽しい。自習室全体がとてもいい雰囲気だった。

 

夕食にいくためにその部屋をでると、〈死ななかった男の子〉が読書をして待っていた。彼女を迎えにきていたのだ。そこまでしてくれたことがうれしくはあったが、ハリーにはほかに話し相手が一人もいないのではないか、とすこし心配にもなる。

 

「ハッフルパフに〈変化師〉(メタモルフメイガス)の女子がいるって知ってた?」とハーマイオニーは大広間にいく途中で言った。「ふだんは髪の毛を真っ赤にして——ウィーズリーの赤髪じゃなくて赤信号なみの赤で——、お茶をからだにこぼすと黒髪の男の子になって、落ちつくまでもとにもどれないんだって。」

 

「へえ、そうなんだ。」 ハリーの声はすこしうわのそらだった。「あの、ハーマイオニー。いちおう確認だけど、クィレル先生の模擬戦に参加するための申し込みは、あしたが締め切りだよ。」

 

「うん。邪悪なクィレル先生の模擬戦ね。」 彼女はすこし怒った声をしているが、それがなぜなのかをハリーは知らない。

 

「ハーマイオニー……」と言うハリーの声はいらだっている。「クィレル先生は邪悪じゃないよ。 ちょっと〈(ダーク)〉ですごくスリザリン的だけど、邪悪というのとはまた別。」

 

ハリー・ポッターはいちいちややこしい表現をしすぎる。そこが彼の悪いところだ。 宇宙を〈善〉と〈悪〉にわけてしまえば、それですむのに。 「クィレル先生はわたしを呼びだして、クラス全員のまえで()()()()()()と言った!」

 

「あれはただしかった。」とハリーはまじめに言う。「悪いけど、そうなんだ。きみは()()()うてばよかった。ぼくならうたれても気にしなかった。 ほんものの敵を相手にほんものの呪文をつかわないかぎり〈戦闘魔術〉は学べない。 きみだって、いまは練習試合をふつうにやってるだろう?」

 

ハーマイオニーはまだ十二歳だ。だからその答えはわかっているものの、ことばにすることができない。ハリーを納得させるような言いかたが見つからない。

 

クィレル先生は女の子を一人えらんで、その子をみんなのまえに呼びだして、同級生のだれかを理由なく攻撃しろと命令した。

 

まなぶべきことが彼女にあったという点でクィレル先生がただしかろうが、関係ない。

 

マクゴガナル先生ならそんなことはしない。

 

フリトウィック先生ならそんなことはしない。

 

スネイプ先生でもしないかもしれない。

 

クィレル先生は邪悪だ。

 

だが、適切な言いかたが思いつかない。ハリーはぜったいに信じないだろう。

 

「ハーマイオニー。ほかの上級生から聞いてきたんだけど、これからの七年間をぜんぶあわせても、有能な〈防衛術〉教師が来るのは今年のクィレル先生だけかもしれない。 ほかのことはあとで勉強してもいい。 でも〈防衛術〉を勉強したいなら、今年やるしかない。 課外活動を申しこんだ生徒が学ぶ内容はすごい量になる。〈魔法省〉が一年生に期待するよりはるかに多い——〈守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉が授業にでてくるって知ってた? ()()にだよ?」

 

「〈守護霊(パトローナス)の魔法〉?」 ハーマイオニーはおどろいて声をうわずらせた。

 

本によれば、〈守護霊〉は〈闇〉の生物に対抗するための強力な光の魔法のひとつで、純粋な正の感情を使うという。 クィレル先生が教えようとするようなものには思えない——いや、クィレル先生本人に使えるとは思えないから、別の人に教えさせるのだとしても、やはり似合わない。

 

「そう。〈守護霊の魔法〉をならうのは、ふつうなら五年生かもっとあとだからね! でもクィレル先生は、〈魔法省〉が決めたスケジュールはフロバーワームのたわごとで、〈守護霊の魔法〉を使えるかどうかは魔法力の強さよりも感情によって決まるって言ってる。 クィレル先生によると、生徒のほとんどはもっといろいろなことをやれる能力がある。今年の授業でそれを証明してやるんだって。」

 

クィレル先生の話をするときのハリーは、いつもこうやって崇拝する口調になる。ハーマイオニーは歯ぎしりをして歩きつづけた。

 

「わたしはもう申しこんだ。」とハーマイオニーは小さな声で言う。「けさ、申しこんだ。あなたが言ったとおりのことを考えて。」

 

毒をくらわば皿まで、とでも言うか。

 

それに、彼女は()()()つもりはない。そして勝つためには学ぶ必要がある。

 

「じゃあきみも模擬戦の隊にはいるんだ?」 ハリーは急に熱心な声で言う。 「よかった! うちの隊の兵士のリストはもう作ったんだけど、一人分の追加か交換(トレード)くらいはクィレル先生も許してくれると思う——」

 

「あなたの隊には、いきませんから。」 彼からすればそう仮定するのも無理はない。それでもいらっときた。

 

ハリーは目をしばたたかせた。「ドラコ・マルフォイの隊でもないだろう、きっと。 じゃあ第三の隊? 司令官がだれかも分からないのに?」  ハリーはすこしおどろいて傷ついた声をしている。彼女としてもそれを責めることはできないが、もちろん責める。すべては彼の責任なのだから。 「なんでぼくの隊じゃだめなの?」

 

「考えてみれば分かるんじゃない!」

 

そう言ってハーマイオニーは足ばやに去り、唖然とするハリーをあとにした。

 

◆ ◆ ◆

 

「クィレル先生、」  ドラコは自分の一番正式な口調で言った。 「ハーマイオニー・グレンジャーを三人目の司令官として任命したことについて異議があります。」

 

「ほう?」と言ってクィレル先生は椅子にゆったりと背をもたれさせた。「言ってみなさい、ミスター・マルフォイ。」

 

「グレンジャーは不適格です。」

 

クィレル先生は思案するようにほおを指でたたいた。 「もちろん、そのとおりだが。 異議はそれだけか?」

 

ハリー・ポッターが加勢する。「クィレル先生、ミス・グレンジャーはたしかに各科目でとびぬけた成績をみせていますし、先生の授業でも正々堂々とあれだけのクィレル点を獲得してもいます。ですが、彼女の性格は軍の指揮官にむいていません。」

 

ドラコはハリーがクィレル先生の居室に同行してきてくれてよかったと思った。 ハリーはあからさまなまでにクィレル先生のお気に入りの生徒だというのが第一の理由だが、それだけでなく、 ハリーは実はグレンジャーと仲がいいのではないか、という疑いもあった。もうずいぶんたつのに、ハリーはまだ行動を起こしていない……だが、これならだいぶいい感じだ。

 

「ミスター・ポッターに同感です。彼女を司令官にくわえてしまえば、模擬戦など成立しません。」

 

「手きびしいようですが、ぼくもミスター・マルフォイに賛成せざるをえません。 はっきり言って、ハーマイオニー・グレンジャーには生ブドウ一皿ほどの殺意しかありません。」

 

クィレル先生はおだやかに言う。「それも、わたし自身気づけなかったことではない。 どれもこれも、わたしにとって既知の情報だ。」

 

つぎはドラコがなにか言う番だが、会話の流れが急につまってしまった。 ここにくるまでのハリーとのブレインストーミングでの想定には、こんな回答はなかった。 指摘されたことはぜんぶ承知していると言いながら、明らかな間違いをおかそうとするのをやめない。そんな教師に対して、なにを言えばいいというのか。

 

沈黙がつづいた。

 

「これは謀略かなにかですか?」とハリーがゆっくりと言った。

 

「わたしがすることはすべて、謀略かなにかになるのか? 混沌そのものを目的として混沌をうみだしてはいけないのか?」

 

ドラコは窒息しかけた。

 

「〈戦闘魔術〉の授業ではやめてください。」とハリーはきっぱりと言う。「ほかの機会はともかく、あの授業では。」

 

クィレル先生はゆっくりと両眉をあげた。

 

ハリーは動揺せず見かえした。

 

ドラコは寒けを感じた。

 

「そうか。きみたちは二人とも、非常に単純な疑問を考えそこなったように見受けられる。 ミス・グレンジャーでなければ、だれを任命する?」

 

「ブレイズ・ザビニです。」とためらうことなくドラコが言った。

 

「ほかには?」とやけに愉快そうにクィレル先生が言った。

 

『アンソニー・ゴルドスタインとアーニー・マクミラン』という答えが思いうかんだが、ドラコの良識が発動して、どれほど迫力ある決闘ができようが泥血(マッドブラッド)とハッフルパフ生はありえないという判決をくだした。 そのかわりドラコはただこう言った。 「ザビニになにか問題がありますか?」

 

「そういうことか……」とハリー。

 

「どういうことですか。」とドラコが言う。「ザビニのどこに問題が?」

 

クィレル先生はドラコを見た。 「彼ではいくら努力しても、きみやミスター・ポッターについていくことができない。」

 

ドラコはショックで愕然とした。 「グレンジャーならついてこれるとでも——」

 

「これは賭けなんだ。」とハリーがしずかに言う。 「うまくいく保証はないし、たいして高い可能性でもない。 多分彼女は善戦することすらできないだろうし、できたとしても、そこまでいくのに何カ月もかかる。 でもこの学年できみやぼくを負かすほど成長する可能性があるのは、彼女だけだ。」

 

ドラコの両手がびくりとしたが、こぶしをかためはしなかった。 一度は支持する出かたをしてから撤回するというのは、古典的な弱体化戦術だ。いまハリー・ポッターはグレンジャーの味方をしている。ということはつまり——

 

「ですがクィレル先生、」とハリーはつづける。「ハーマイオニーが隊の司令官になれば()()()なことになってしまうんじゃないでしょうか。 彼女の友だちとして心配です。 ドラコとぼくにとってはいい試合になったとしても、彼女にそれをやらせるのは酷ですよ!」

 

——いや、なんでもない。

 

「きみのハーマイオニー・グレンジャーに対する友情、見あげたものだ。」と乾いた声でクィレルが言う。「とりわけ、同時にドラコ・マルフォイとも懇意にしているとあっては。なかなかできることではない。」

 

ハリーはすこし不安そうにした。ということは内面では、もっとずっと不安だということだ。ドラコはこころのなかで、ののしった。 もちろんハリーがクィレル先生をだませるはずがないだろう。

 

「だがミス・グレンジャーはきみの親切心を歓迎しないと思う。 ああしてみずから名のりでたのだから。あれはわたしが持ちかけたのではないよ。」

 

ハリーは口をつぐんだ。 そして視線をちらりとドラコにむけた。『がんばったんだけど、ごめん』という謝罪と、『このへんで切り上げたほうがいい』という警告とを同時に言っている視線だった。

 

「みじめかどうかについては、」とつづけて、クィレル先生はくちびるのはしに笑みをうかべた。「彼女はきみたちが想像するよりはずっとたやすく、司令官の激務をこなすだろうと思う。善戦するようになるのも、ずっと早いと思う。」

 

ハリーもドラコもぞっとして息をのんだ。

 

「彼女に()()する気じゃないでしょうね?」とドラコは本気であっけにとられて言った。

 

()()()たたかうことになるなんて聞いてません!」とハリー。

 

クィレル先生のくちびるのはしにうかんでいた笑みが広がっていく。 「はっきりさせておくと、ミス・グレンジャーの緒戦に関して、わたしがいくつか提案を申しでたのはたしかだ。」

 

()()()()()()()」とハリー。

 

「いや、心配は無用。ことわられたよ。そうなるだろうと思ってはいた。」

 

ドラコはきつい目をした。

 

「困ったものだ、ミスター・ポッター。ひとを凝視するのは失礼だと言われたことはないか?」

 

「ほかのやりかたでこっそり助けるつもりはないでしょうね?」とハリー。

 

「わたしがそんなことをするように見えるか?」

 

「はい。」とドラコとハリーが同時に言った。

 

「信用してもらえていないようで悲しい。 では、きみたち二人が知らないやりかたでグレンジャー司令官を助けることはしないと約束する。 きみたちももう、自軍の準備にとりかかってはどうだね。十一月はすぐそこだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

一連の情報の意味するところをドラコが理解したとき、二人がクィレル先生の居室をでてからかなり距離ができてていて、遠くでドアが閉じた。

 

ハリーはこのあいだ、『人づきあい』と言って見くびった。

 

いまはそれがドラコの唯一の希望だ。

 

気づかれないように、気づかれないように……

 

「グレンジャーのやつをまず攻撃して、邪魔させないようにしよう。あいつを片づけておけば、余計なことを考えずにぼくら二人の試合ができる。」

 

「それはちょっとフェアじゃないんじゃない?」とおだやかにハリーが言った。

 

「だからなんだ? 彼女はきみの競争相手だろ?」  ここで、ちょうどいいくらいの疑いを声にこめる。 「競争しているうちに、()()()好きになってきたなんて言わないでくれよ……」

 

「とんでもない。 なんて言ったらいいかな? ぼくはただ、自然な正義感があるだけだよ。 グレンジャーにもそれがある。 彼女は善と悪をとてもはっきりと区別しているし、多分悪のほうをさきに攻撃する。 『マルフォイ』という名前は攻撃してくれと言っているようなものだ。」

 

クソッ!

 

「ハリー、」と傷ついた声で、すこしだけ優越感をだして、ドラコは言う。「ぼくと()()()()たたかってみたくないのか?」

 

「つまり、グレンジャーにやられて兵力が減った状態のきみとたたかうんじゃなくて? さあ、どうかな。 勝つのに飽きたら、その『フェア』っていうのを試したくなるかもしれない。」

 

「彼女は()()()攻撃するかもしれないぞ。ライヴァルはきみなんだから。」とドラコ。

 

()()()()ライヴァルだよ。」と言ってハリーは邪悪な笑みをした。 「しっかり誕生日プレゼントもあげたしね。 友好的なライヴァル相手に、きみが言うような妨害はしないだろう。」

 

()()()とフェアなたたかいをするチャンスを妨害するっていうのか?」とドラコは怒って言う。 「きみは友だちだと思っていたのに!」

 

「こう言ったほうがいいんじゃないかな。グレンジャーは友好的なライヴァルを妨害しない。 でもそれは彼女に生ブドウ一皿ほどの殺意しかないからだ。 きみなら妨害する。完全にそういうタイプだから。 実は、ぼくもそういうタイプなんだ。」

 

クソッ!

 

◆ ◆ ◆

 

もしこれが芝居だったら、劇的な音楽がかかるような場面だ。

 

主人公(ヒーロー)は完璧にととのった白い金髪と、完璧な仕立ての緑色のふちのローブを着て、悪者(ヴィラン)に対面する。

 

悪者は、ほおのあたりにかかる乱れた巻き髪をした出っ歯の女。飾りけのない木製の椅子にもたれて、主人公とむかいあっている。

 

十月三十日、水曜日。初戦はこの日曜日にせまっている。

 

ドラコがいるのはグレンジャー司令官の居室だ。居室は小さめの教室くらいの広さがある。 (なぜこれほど広い居室が各司令官に必要なのかはよくわからない。 自分としては椅子と机がひとつあれば十分だ。 そもそも居室が必要な理由もよくわからない。兵士がドラコと連絡をとりたければ、連絡手段はほかにある。 もしかするとクィレル先生は、司令官の地位の象徴としてあえてこんな巨大な居室を用意したのだろうか。それなら大賛成だ。)

 

グレンジャーはこの部屋唯一の椅子に座っている。ドアがついている場所と向かいあう奥の位置だ。 二人のあいだには部屋の真ん中の大部分を占める細長いテーブルが一つあり、四隅に小さな円形のテーブルが四つちらばっているが、椅子は反対がわの奥のあれ一つしかない。 四方の壁のうち一面にだけ窓があり、そこから一縷の陽光がグレンジャーの髪のうえに光の王冠のようにかかっている。

 

ゆっくりと歩いていけたとしたら、いい感じだった。 だがテーブルが邪魔で、対角線にすすまねばならない。これでは威厳ある劇的な入場ができない。 そのためにわざと? ……父上がやったのであれば、まちがいなくそうだ。だがこれはグレンジャーだから、きっとちがう。

 

ドラコの席はない。いっぽう、グレンジャーは立ちあがらない。

 

ドラコは内心憤慨したが、表情にはださないようにした。

 

目のまえにまでいったところで、グレンジャーが口をひらいた。 「ミスター・ドラコ・マルフォイ。 あなたの求めに応じて、こうやって特別に謁見の機会を用意してあげました。 請願したいことというのは、なにかしら?」

 

おまえをマルフォイ邸に連れていってやろうか。父上とぼくで、おもしろい呪文をみせてやるぞ。

 

「きみの競争相手であるポッターが、ぼくに提案をよこした。」と言って、ドラコは真剣な表情に切りかえた。 「ぼくに負けるのはともかく、きみにやられるのは屈辱だと言うんだ。 だからぼくと手をくんで、最初の回だけじゃなく毎回、きみの隊を開戦直後に一掃したい、と。 もしくは、あいつが初手できみに全面攻撃をするから、そのあいだぼくにはきみの邪魔か嫌がらせをしてくれればいい、とも。」

 

「なるほど。」  グレンジャーはおどろいた様子で言う。 「それで、あなたはわたしと手をくんで彼に対抗したいと?」

 

「もちろん。」  ドラコはさらりと応じる。 「あんな作戦はきみに対してフェアじゃないからね。」

 

「あら、それはご親切に。 さっきはあんな態度でごめんなさい。 仲よくしましょうね。 ドラキーって呼んでもいい?」

 

ドラコのあたまのなかで警告のベルが鳴りはじめた。だが、真剣にああ言っている可能性もなくはないから……

 

「もちろん。そちらもハーミーでよければ。」

 

一瞬、彼女の表情がゆらぐのがはっきりと見えた気がした。

 

「とにかく。きみとぼくがいっしょにポッターを攻撃して始末してしまえばいいと思ってね。むこうの自業自得なんだから。」

 

「でもそれは、ミスター・ポッターに対してフェアじゃないんじゃない?」

 

「とてもフェアだと思う。むこうがきみに同じことをしようとしてきたんだから。」

 

グレンジャーはいかめしい表情をした。ハッフルパフ相手なら、おびえさせることができたかもしれないが、彼はマルフォイである。 「わたしがバカだと思っているんでしょう、ミスター・マルフォイ?」

 

ドラコは魅力的な笑みをした。 「そんなことはないよ。一応きいてみただけさ。 で、なにがほしいんだ?」

 

「わたしを()()する気?」

 

「そう。たとえば、ぼくがガリオン金貨を一枚そでの下にいれてあげるから、きみはこの一年、ぼくでなくポッターを標的にする、というのは?」

 

「おことわり。でも十ガリオン出すのなら、あなた一人を攻撃するんじゃなく、二人を平等に攻撃してあげてもいい。」

 

「十ガリオンは大金だな。」と用心しながらドラコは言った。

 

「マルフォイ家が貧乏というのは初耳だわ。」

 

ドラコはグレンジャーを見つめた。

 

なにか変な感覚がある。

 

いまの一言は、この女の子に似つかわしくない。

 

「まあ、無駄づかいしていては富はきずけないからね。」

 

「あなたは歯医者というもののことを知らないかもしれないけれど、わたしの両親は()()()なの。 十ガリオン以上でなければ、わたしにとっては時間の無駄。」

 

「三ガリオンで。」とドラコは言った。ほとんど、さぐりをいれるだけのために。

 

「おことわり。マルフォイともあろうものが、公平な試合がしたいのはやまやまだけど、そのために十ガリオンをはらうのは惜しい、とでも言うのかしら。」

 

ドラコは()()()変な感覚がしてきていた。

 

「ノーだ。」

 

「ノー? これは期間限定の提案(オファー)なの。 あなたはこれからまる一年、〈死ななかった男の子〉にみじめにやられてしまうリスクをとるっていうこと? マルフォイ家にとって、それはかなりの恥になるでしょうね?」

 

説得力があるし、ことわりにくい理屈ではある。だが、はめられているという直感があるのに金をだしてしまうようでは、金持ちにはなれない。

 

「やはりノーだ。」とドラコ。

 

「ではまた日曜日に。」とグレンジャー。

 

ドラコは身をひるがえし、無言で彼女の居室を去った。

 

どうもおかしい……

 

◆ ◆ ◆

 

「ハーマイオニー、」とハリーが辛抱づよく言う。「ぼくらはおたがいに罠をしかけることになってるんだよ。 仮にきみに裏切られたとしても、戦場のそとではぼくはなんとも思わない。」

 

ハーマイオニーはくびをふった。 「されたほうがかわいそうだから。」

 

ハリーはためいきをついた。「その調子じゃ、このさきやっていけないと思うよ。」

 

『かわいそうだから』。こんなせりふをほんとうに口にしてしまった。 それに対するハリーのこの反応を屈辱に思うべきなのだろうか。それとも、ふだんの自分はそこまでいい子ぶって見えてしまっているのだろうか。

 

そろそろ話題をかえよう。

 

「ところで、あしたはなにか特別なことをするの? あしたは——」

 

そこで急に気づいて、声がとぎれた。

 

「うん、なんの日?」とすこし緊張した声でハリーが言った。

 

◆ ◆ ◆

 

幕間:

 

その昔、ブリテン魔法界で十月三十一日はハロウィンと呼ばれていた。

 

いまは〈ハリー・ポッターの日〉と呼ばれている。

 

ハリーはいろいろな招待をことわった。なかでもファッジ大臣からの招待は、将来の政治的利益を考えれば歯をくいしばって受けるべきではあった。 だがハリーにとってこれからは、十月三十一日は〈闇の王に両親を殺された日〉になる。 どこかで厳粛な追悼式があってしかるべきだが、仮にあったとしても、ハリーは招待されていない。

 

ホグウォーツはお祝いのため一日休日になっている。 スリザリン生でさえ、寮のそとでは黒い服は着ていない。 特別な行事や食事が供されていて、だれかが廊下を走りまわっていても教師は目をつむる。 なにせ十周年だから。

 

ハリーはほかの人たちの(きょう)をそがないよう、一日トランクのなかに引きこもり、食事のかわりにスナックバーを食べ、悲しめの(ファンタジー要素のない)サイエンスフィクションを読み、ママとパパへの手紙をいつもよりもずっと長く書いた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「ハロウィン」
ハロウィンの原型とされるサウィン祭はケルト暦で夏の終わりの夜と冬の始まりの日。
もともとは夏の収穫の余剰を祭りでぱーっと消費する意味あいもあるとか(カボチャもその関係?)


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30章「集団行動(その1)」

◆ ◆ ◆

 

十一月三日、日曜日。まもなくこの学年の三雄、ハリー・ポッター、ドラコ・マルフォイ、ハーマイオニー・グレンジャーが覇者の地位をめぐってあらそいはじめる。

 

(ハリーは模擬戦に申しこんだだけで〈死ななかった男の子〉としての覇者の地位から格下げされ、対等な三人のうちの一人にされてしまったのが不服だったが、すぐにもとの地位をとりもどせると思っている。)

 

戦場には〈禁断〉ではない森の、木々が多い部分を使う。敵陣がすっかり見えてしまっては初戦にしてもつまらないだろうと言って、クィレル先生はここをえらんだ。

 

一年次の隊に参加していない生徒は近くに陣取り、クィレル先生が近くに設置したスクリーンをみている。 病気でマダム・ポンフリーの治癒をうけるため病室を離れられないグリフィンドールの四年生三人をのぞいて、全生徒が来ている。

 

参加している生徒は通常の学校用ローブではなく、マグルの迷彩服を着ている。全員体型にあうものがいきわたるよう、クィレル先生がどこからか十分な量を取りよせて配布したのだ。 服が汚れたり傷つくことを心配してではない。それならチャームで解決できる。 意外そうな魔法族生まれたちにクィレル先生が説明したとおり、立派な服は森のなかに隠れたり木々のあいだをすりぬけるのに不向きなのだ。

 

迷彩服の胸の位置に、各隊の名前と紋章を記した縫い付けがある。 ()()()縫い付けというのがポイントだ。 色つきリボンを着用させて、遠くから自軍を認識できるようにすると同時に敵軍にも目立つようにしたければ、それも自由だ。

 

ハリーは〈ドラゴン旅団〉という名前を確保しようとした。

 

ドラコはそれをきいた瞬間に、まぎらわしくてしかたがない、と文句をつけた。

 

クィレル先生はその名前についてはまず、ドラコに優先権があると裁定した。

 

それで〈ドラゴン旅団〉はハリーの対戦相手の名前になった。

 

多分、あまりいい兆候ではない。

 

紋章としてドラコがえらんだのは、火をふくドラゴンのあたまという決まりきった意匠ではなく、単純な火の意匠だ。 上品で、ひかえめで、おそろしい。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。とてもマルフォイ的だ。

 

ハリーは自軍の名前として〈第五百一臨時連隊〉や〈ハリーと破滅のしもべたち〉などの候補を検討した結果、〈混沌(カオス)軍団〉という単純かつ威厳ある呼称に落ちついた。

 

紋章は、指をならすポーズをした手だ。

 

これはいい兆候ではないという点で全員が一致した。

 

女の子であり善良さで有名なハーマイオニーの指揮下にはいる若い男の子は不安だろうから、自軍を誇らしく感じさせるために、強さを印象づけるようなおそろしげな名前にして安心させてやるのがいい、とハリーはハーマイオニーに熱心にすすめ、たとえば〈血に飢えたコマンドー〉はどうかと提案した。

 

ハーマイオニーがえらんだのは〈太陽(サンシャイン)部隊〉という名前だった。

 

紋章はニコちゃん(スマイリー)マークだ。

 

開戦まで、あと十分。

 

ハリーは自軍の初期位置として割り当てられた、森のなかのひらけた場所にいる。 古びて腐った切り株のある空き地で、なんらかの目的で下草が刈りとられている。茶色の細かい落ち葉と、夏の暑さに負けて枯れた草が地面をうめつくしている。それを太陽が上方から照らしている。

 

まわりにいるのは彼にクィレル先生から割りあてられた二十三人の兵士だ。 グリフィンドール生は当然ほぼ全員申しこみ、スリザリン生の半分以上と、ハッフルパフ生の半分以下と、数名のレイヴンクロー生も申しこんだ。 ハリーの隊にはグリフィンドール生が十二人、スリザリン生が六人、ハッフルパフ生が四人、ハリー以外のレイヴンクロー生が一人いる……といっても服装からは区別できない。 赤も緑も黄色も青もなく、 全員マグルの迷彩柄で、胸に指をならすかたちの手の紋章が縫い付けられている。

 

ハリーは二十三人の兵士を見わたした。全員同じ服装で、あの縫い付け以外、仲間意識をしめすものはなにもない。

 

ハリーはほくそえんだ。この部分に関するクィレル先生の裏の目的がわかったのだ。そしてハリーは自分の目的のためにこれを存分に利用することにした。

 

ロバーズ・ケーブ実験という社会心理学の有名な逸話がある。 第二次世界大戦の傷あとがのこる時代に、集団間の紛争の原因と解消について研究する目的でおこなわれた実験だ。 研究者たちは、二十二校から二十二人の少年をあつめてサマーキャンプを企画した。 参加者はすべて安定した中流家庭の子どもだ。 実験の第一段階では、集団間の紛争がはじまるためになにが必要を調べるはずだった。 そのためにまず、二十二人が十一人ずつの二集団にわけられ——

 

——それだけで十分だった。

 

その州立公園に相手の集団がいることがわかった時点で、両集団に敵意がうまれ、すでに初回の打ち合わせでおたがいに悪口がかわされた。 それぞれが〈イーグル〉、〈ガラガラヘビ〉と名のりはじめ(公園にほかの集団がいないと思っているあいだは、どちらも名前を必要としなかった)、対照的な集団の特徴をうみだしはじめた。〈ガラガラヘビ〉は自分たちを口の悪いあらくれものとみなした。〈イーグル〉は自分たちを気どった正義漢とみなした。

 

実験ののこりの部分では、集団間の紛争を解消する方法がためされた。 全員をあつめて花火を見させることにはまったく効果がなかった。 おたがいに大声でののしりあって、距離をとっているだけだった。 効果があったのは、公園内に破壊行為をする者がいるかもしれないと警告してやることと、 公園の給水系を修理するために両集団が協力するようにということだった。 つまり共通の任務と、共通の敵だ。

 

クィレル先生はこの原理をとてもよく理解していたのだろう、と考えざるをえない。各学年に隊を三つ、と決めたくらいだから。

 

三つであって、四つではない。

 

ダメ押しとして、所属寮で行き先の隊が決まってしまわないようにもした……ただし、ドラコにはミスター・クラッブとミスター・ゴイル以外いっさいスリザリン生が割り当てられなかった。

 

クィレル先生は〈闇〉の態度をふりまいて、〈善〉と〈悪〉のあいだで中立的なふりをしているが、こういうところを見ると、クィレル先生が実は〈善〉の支持者なのだとハリーは納得させられる。わざわざそう口にしたりはしないが。

 

ハリーはクィレル先生の策略を存分に利用しつつ、自分のやりかたで仲間意識をうえつけることにした。

 

〈ガラガラヘビ〉は〈イーグル〉に遭遇してから、自分たちをあらくれものとみなし、そのように行動しはじめた。

 

〈イーグル〉のほうは自分たちを正義漢とみなした。

 

古びて腐った切り株にかこまれ、かがやく太陽に照らされ、明るくひらけたこの場所で、ポッター司令官と二十三人の兵士たちは、どう考えても隊列とは言えないならびかたをしている。 ある兵士は立っていて、ある兵士は座っていて、ある兵士はひととちがったことをしたいというだけの理由で、片足で立っている。

 

混沌(カオス)軍団〉という名前だけのことはある。

 

きちんと整列して立つべき()()がないときに、整列して立ってはならない、とハリーが尊大そうに命じておいたおかげでもある。

 

ハリーは自軍を四人ずつの六つの小隊にわけ、各小隊を〈顧問〉に指揮させた。 命令をあたえられていても随時自分の判断で無視するように、と全兵士に厳命してある(その命令自体もふくめて)。ただし、ハリーか〈顧問〉が「マーリンの命令!」と前置きして言った命令だけは、したがうようにと、命じた。

 

散開して複数の方向から突撃するというのが〈カオス軍団〉の主要戦術だ。使用していいことになっている睡眠呪文を、ランダムな軌道で、魔法力の回復速度が許すかぎり連射する。 敵軍を陽動したり混乱させたりするチャンスがあれば、のがしてはならない。

 

すばやく。創造的に。予測不可能なやりかたで。不均質に。 ただ命令されたとおりに動くのではなく、自分がいま意味のあることをやっているのか自問しろ。

 

ハリーはこれこそ軍事的な効率を最適化できるやりかただというふりをしていたが、本心ではそうでもなかった……だが同級生たち各人の自己認識を左右する絶好の機会ではある。ハリーはその機会をのがすつもりはなかった。

 

ハリーの腕時計によれば、あと五分で開戦だ。

 

ポッター司令官は空軍が緊張して待機しているところまで(ふつうに)歩いていった。各自、すでにホウキをしっかりにぎっている。

 

「全機集合。」とポッター司令官が言う。これのリハーサルは、土曜日に一度だけやった訓練にふくまれていた。

 

「〈赤一号(レッド・リーダー)〉、準備完了(スタンバイ)。」と言うシェイマス・フィネガンは、それがどういう意味かわかっていない。

 

「〈赤五号(レッド・ファイヴ)〉、準備完了(スタンバイ)。」と言うディーン・トマスは、これを言うために生きてきたかのような言いかただ。

 

「〈緑一号(グリーン・リーダー)〉、準備完了。」と言うセオドア・ノットはやけにかたくるしい。

 

「〈緑四十一号〉、準備完了。」とトレイシー・デイヴィスが言った。

 

「ベルが鳴った瞬間にはもう飛びたっているように。」とポッター司令官が言う。 「交戦は禁じる。 くりかえす。 交戦は禁じる。 攻撃を受けたら回避せよ。」 (当然ながらホウキ相手に睡眠呪文はつかわない。あたったものを一時的に赤く光らせる呪文を使うのだ。 それがあたったホウキか乗り手は、退場させられる。) 「〈赤一号〉と〈赤五号〉は全速力でマルフォイ軍へ。相手の様子が見える範囲でできるだけ高く滞空し、あちらの出かたが分かったらすぐに帰投し報告せよ。 〈緑一号〉はおなじことをグレンジャー軍に。 〈緑四十一号〉だけは攻撃を許す。この陣地の上空にいて、接近してくるホウキか兵士がいたら撃て。 以上の命令はどれも『マーリンの命令!』と言っていないのに注意。ただし、情報をつかむのが重要なのはたしかだ。すべては〈カオス〉のために!」

 

「すべては〈カオス〉のために!」と四人が復唱したが、熱心さはまちまちだった。

 

ハリーの予想では、ハーマイオニーはドラコに速攻をかける。その場合、自分としては兵をそちらに動かして彼女に加勢するつもりだが、そうするのはハーマイオニーが大半の兵をうしない、ドラコが多少損害をこうむってからだ。 可能なら、英雄的な救出劇にしたい。〈カオス〉を〈太陽〉の友軍だと思わせないのはもったいない。

 

だがもしむこうの狙いが別にあるとしたら……そのときのために、〈緑一号〉が報告を返すまで〈カオス軍団〉は待機しつづけることにしてある。

 

ドラコは利己的に行動するだろう。 ハーマイオニーの攻撃にそなえるよう自軍に指示しただろうことも予測がつく。 両者の戦闘がおわるまでハリーが待つ、と言ったのがうそだと気づかれたかどうかはわからない。 〈ドラゴン旅団〉のほうにもホウキを二機さしむけたのは、むこうがなにかをやろうとしている場合にそなえてだ。それと、ドラコかミスター・ゴイルかミスター・クラッブが空中からホウキを攻撃できるくらいうまく飛べる場合にそなえてだ。

 

だがグレンジャー司令官の行動は予測しがたい。だから、あちらの出かたがわかるまでハリーは動けない。

 

◆ ◆ ◆

 

森の深部。はるか頭上の林冠が風にそよぐ下で、地面に影が黒い模様をなして踊る。マルフォイ司令官は比較的木々のまばらな場所に立ち、ひとり満足そうに兵士たちを見ている。 三人ずつの小隊が六つと、グレゴリーら四人の〈飛行小隊〉と、自分自身とヴィンセントからなる指揮小隊。 土曜日にわずかな時間訓練しただけではあるが、基礎は十分説明できたとドラコは自負している。 仲間から離れるな。仲間の背後を守り、仲間に背後を守らせろ。 隊は一体となって行動しろ。 命令に服従し、恐怖を見せるな。 照準をあわせ、撃ち、移動し、また照準をあわせ、撃て。

 

六小隊はドラコをかこんで守る位置をとり、周囲の森を注視している。 それぞれ背中あわせに立ち、射撃の必要があるまでは杖をさげたままにぎっている。

 

ドラコが父につれられて視察にいったときに見た〈闇ばらい〉の隊とそっくりだ。

 

〈カオス〉と〈太陽〉がこれを見れば、あっとおどろくだろう。

 

「気をつけ。」とマルフォイ司令官が言った。

 

六小隊は隊列をとき、ドラコのほうを向いた。ホウキの乗り手たちはその場でホウキを手にもったまま、向きなおった。

 

敬礼をさせるのは、初陣に勝つのを待ってから、と決めていた。そうすれば、グリフィンドール生やハッフルパフ生もマルフォイ相手に敬礼することへの抵抗が減るだろう、と考えた。

 

だが兵士たちはすでにちゃんと直立不動の姿勢をしている。とくにグリフィンドール生がそうなので、遅延させるまでもなかったか、とドラコは思った。 グレゴリーがこっそり聞いてきた内容によると、クィレル先生の〈防衛術〉で負ける方法を教わったときのハリー・ポッターを支持した一件により、ドラコは指揮官として許容できることになったらしい。 すくなくとも、ドラコの隊にたまたま割り当てられたグリフィンドール生はそう思っているようだ。 彼らは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、というせりふを寮内に聞かせているという。

 

実際、信じられないほどすんなりことが運んでいて、唖然とするほどだった。 スリザリン生がいっさい自分に割り当てられないと知ったとき、ドラコは抗議した。だがクィレル先生は、全国を政治的に支配する最初のマルフォイになりたければ、人口ののこりの四分の三を統治する方法を学ぶ必要がある、と言った。 こういうことを聞かされるたびに、クィレル先生は表面上の態度よりもずっと善のがわに傾倒しているのではないか、という思いをドラコは強くした。

 

実際の戦闘は簡単にはいかないだろう。とくにグレンジャーがまず〈ドラゴン〉に攻撃してきた場合はそうだ。 ドラコは全兵力をかたむけてグレンジャーへの先制攻撃をすべきかどうか悩んだが、 (一)グレンジャーの行動予想に関して、ハリーは完全にまちがった方向にドラコを誘導しようとしていたのかもしれない、(二)グレンジャーの攻撃がおわるまでハリー自身は参戦しないという発言もまた誘導だったかもしれない、という二点が気にかかっていた。

 

だが〈ドラゴン旅団〉には秘密兵器がひとつ、いや、みっつある。これなら、敵軍両方から同時に攻撃されたとしても、十分勝てるかもしれない……

 

もうすぐ開戦時間だ。つまり、作文して暗記しておいた戦闘前の演説をする時間だ。

 

「まもなく戦闘がはじまる。」とドラコはおちついた明瞭な声で言う。 「ぼくとミスター・クラッブとミスター・ゴイルの教えたことを思いだしてほしい。 勝つ軍は、規律がたかく、殺意がある。 ポッター司令官と〈カオス軍団〉は規律がない。 グレンジャーと〈太陽部隊〉は殺意がない。 われわれは規律がたかく、殺意のある、〈ドラゴン〉だ。 まもなく戦闘がはじまる。勝つのはわれわれだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

(以下、ポッター司令官が初戦の直前に〈カオス軍団〉のまえで即興でおこなった演説。一九九一年十一月三日、午後二時五十六分。)

 

兵士たちよ。正直に言おう。今日までの戦況はかんばしくない。 〈ドラゴン旅団〉はただの一度も敗戦したことがない。 そしてハーマイオニー・グレンジャーは……とても記憶力がいい。 はっきり言って、ここにいるほとんどの諸君は死ぬことになる。 生存者は死者をうらやむだろう。 だがわれわれは勝たねばならない。 勝って、いつか子どもたちにチョコレートの味をあじわわせてやらねばらならない。 このたたかいには、すべてがかかっている。 文字どおりすべてが。 われわれが負ければ、全宇宙が電球のようにふっと消えてしまう。 でもよく考えると、ほとんどのひとは電球がなにか知らないんだったな。 まあ、とにかくいやなことのたとえだと思ってくれ。 しかし死ぬなら、英雄のようにたたかって死のうではないか。 暗闇に自分がつつまれていくとき、こころのなかで、()()()()()()()()()()、と言えるように。 死ぬのはこわいか? ぼくはこわい。 自分が冷たく恐怖に震える様子が想像できる。ちょうどだれかにアイスクリームをこぼされたときのように。 だが……歴史がわれわれを見ている。 この迷彩服に着がえた瞬間から見ている。 多分そのときの写真もとっている。 歴史は勝者によって書かれる。 われわれが勝てば、われわれが好きに歴史を書ける。 反乱を起こした家事妖精(ハウスエルフ)によってホグウォーツが築かれたという歴史も書ける。 うその歴史でもみんなに勉強させることもできるし、もしみんながテストでただしいこたえを書けなければ、落第させることもできる。 そのためなら、命をかけてもいいのではないか? いや、こたえは聞きたくない。 自分のこころにとどめたほうがいいことだってある。 われわれは理由もわからずにここにいる。 理由もわからずにたたかう。 われわれは謎の森でこの服を着たすがたで目覚めただけだ。勝利する以外に自分の名前と記憶をとりもどす方法はないとだけ知っている。 他の隊にいる生徒も……ぼくらとおなじだ。 むこうも死にたくない。 彼らも自衛のため、残してきた数すくない味方を守るためにたたかう。 家族がいることがわかっているから、いまは思いだせなくても、たたかうのだ。 もしかすると世界を救うためにたたかうのかもしれない。 だがわれわれにはもっとすぐれた目的がある。 われわれは気分でたたかう。 われわれは〈時空〉のむこうがわからやってくる不気味な怪物にささげるためにたたかう。 もうすぐ最後の決戦がはじまる。だからいま、言えるあいだに言っておくが、みじかい期間ではあったが、諸君の指揮官をつとめることができて、ぼくはしあわせだった。 ありがとう。みんなありがとう。 忘れるな。目標は敵をたおすことではない。恐怖をあたえることだ。

 

◆ ◆ ◆

 

鐘の音が森にひびきわたった。

 

〈太陽部隊〉が行軍をはじめた。

 

◆ ◆ ◆

 

飛行隊が帰投するまで待っているハリーと十九人の兵士たちの緊張がたかまっていく。 ホウキははやく飛ぶし、森の広さは知れているから、それほど長くはかからないはず——

 

ドラコの陣地の方向から二機のホウキが、速力をたもったまま近づいてくるのを見て、全兵士が緊張した。 二機は友軍であることを示す暗号をだしていない。

 

()()()()()()()」とポッター司令官がさけび、自分もそのことばどおり、全速力でしげみに駆けこむ。 木々に隠れるとすぐにハリーはふりむき、杖をかまえ、上空にいるホウキを探す——

 

「位置にもどれ! むこうは退却していった!」とだれかがさけんだ。

 

ハリーはこころのなかで肩をすくめた。 どのみちあの情報をドラコに知られないままにするのは無理だったし、どうせ知られるのはこの兵士たちが待機しているということだけだ。

 

そして〈カオス〉兵がゆっくりと森からでると——

 

「グレンジャーの方向からホウキが接近中!」と別の声がさけんだ。 「〈緑一号〉みたいだぞ! 低く腰ふりしてる!」

 

すぐにセオドア・ノットが空中から飛びこんできて、兵士たちのまえにでた。

 

「グレンジャーは隊を二手にわけた!」とノットは滞空したまま言った。 迷彩服に汗がしみてきていて、声にはすっかり抑制がなくなっている。 「両軍を同時に攻撃しようとしている! 各軍に二機ずつホウキをふりむけていて、おれもさっきまで追いかけられた!」

 

二手にわけるなんて、いったいなにを——?

 

兵力が大きいがわが兵力が小さいがわを集中砲火すれば、あまり損害をうけることなく兵力をそぐことができる。 二十人が十人に対峙すれば、十人にむけて睡眠呪文を二十発撃てるが、逆方向にできるのは十発だけだ。その最初の十発が全弾命中でないかぎり、兵力が小さいがわは相手をたおせるだけの頭数を維持できない。 軍事用語でいえば、みずから『各個撃破』の的になりにいくということだ。 ハーマイオニーはいったいなにを考えているんだ……

 

そこでハリーは気づいた。

 

フェアに攻撃しようとしてるのか。

 

長い〈防衛術〉の一年になりそうだ。

 

「よーし。」とハリーは兵士たちに聞こえるよう大声で言う。「〈赤翼(レッド・ウィング)〉が報告しにもどるのを待とう。〈太陽〉に一発くらわせるのはそれからだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコは飛行隊からの報告を落ちついて聞き、内心感じていたショックをあらわにしなかった。 ……グレンジャーはいったいなにを考えているんだ?

 

そこでドラコは気づいた。

 

陽動だ。

 

二手にわかれた〈太陽〉の片方が途中で向きをかえて、合流し……どちらに来る?

 

◆ ◆ ◆

 

ネヴィル・ロングボトムは〈太陽〉兵を迎撃するため、ときおり上空にホウキがいないかチェックしながら、森のなかを行軍した。 となりには小隊の仲間である、グリフィンドール生メルヴィン・クートとラヴェンダー・ブラウン、スリザリン生アレン・フリントがいる。 〈小隊顧問〉はアレン・フリントにまかされた。ハリーはもしやりたければネヴィルにまかせる、と個人的に言ってくれたのだが。

 

ハリーからは個人的にいろいろなことを言われた。まず言われたのは「こころのなかにかっこいい空想の自分がいて、きみがこわがりなせいでそいつはなにもできないんじゃないか。その空想の自分とおなじくらいかっこよくなりたいなら、クィレル先生の模擬戦にぜったい参加するべきだ。」だった。

 

〈死ななかった男の子〉は他人のこころを読めるのだ、とネヴィルは確信した。 そうでもなければ、ハリー・ポッターにああいうことがわかるはずがない。 あれはだれにも話していないし、さとられそうな素振りもしたことがない。それに、ネヴィルの知るかぎり、ネヴィル以外の人はあんなことを考えない。

 

ハリーの見立てはただしかった。たしかにこれは、〈防衛術〉の授業でのスパーリングとはちがう感じがする。 スパーリングで自分のダメなところが直ればいいと思っていたが、けっきょく直らなかった。 クィレル先生が事故をふせぐために監督している場で他の生徒にいくつか呪文をうつことはできるし、相手の呪文をよけて反撃することが許され、期待され、やらないほうが変に思われるというときにならできるけれども、それで自立することができたかと言えば、ちがう。

 

でも()()にはいるというのは……

 

指をならすかたちの手の紋章をつけた迷彩服すがたで、森のなかを仲間といっしょに行軍していると、なにか変な興奮が感じられた。

 

ふつうに歩いてもいいことになっていたが、ネヴィルは行軍(マーチ)したい気分だった。

 

となりのメルヴィンとラヴェンダーとアレンも、おなじように感じているようだ。

 

ネヴィルは小さく〈混沌の歌〉をうたいはじめた。

 

マグルならジョン・ウィリアムズの〈帝国の行進曲(マーチ)〉、あるいは「ダース・ヴェイダーのテーマ曲」という名前で知っている曲だ。その曲に簡単におぼえられる歌詞をハリーがつけた。

 

破滅(ドゥン) 破滅(ドゥン) 破滅(ドゥン)

ドゥン ドゥドゥン ドゥン ドゥドゥン

ドゥン ドゥン ドゥン

ドゥン ドゥドゥン ドゥン ドゥドゥン

ドゥーン ドゥン ドゥーン

ドゥン ドゥン ドゥドゥドゥン ドゥドゥン

ドゥン ドゥドゥドゥン ドゥドゥン

ドゥン ドゥドゥン ドゥン ドゥドゥン

 

二節目になるとほかの兵士たちもくわわって、やがて小声の合唱があたりの森から聞こえるようになった。

 

そうやって〈カオス軍団〉兵とならんで行軍していると、

ネヴィルのこころのなかに変な興奮が生まれて、

おそろしい破滅の歌を口ずさんでいると、

空想が現実になるように思えた。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは森のあちこちに横たわる人体を見つめた。 すこし吐き気を感じたので、あれは眠っているだけだと自分に言いきかせなければならなかった。 たおれた兵士のなかには女子もいて、それを見るとなぜか、ずっといやな気分になってしまった。このことをあとでうっかりハーマイオニーに言ったが最後、ハリーの遺骸がティーポットに納められたのを〈闇ばらい〉が見つけることになるだろう。

 

〈太陽〉軍半数の兵力は〈カオス〉全兵力に対して、ほとんど勝負にならなかった。 地上にいた兵士九人はなにかわめきながら〈簡易防壁〉をかまえて突撃してきた。顔と胸を守るのには役立つが、 あの盾を発生させているあいだは射撃ができない。ハリーの兵士たちは単に足をねらった。 「〈睡夢(ソムニウム)〉!」という声が一度にひびきわたったとき、〈太陽〉兵は一人をのこしてたおれた。 最後の一人は盾を解除してハリーの兵士を一人しとめたが、すぐに第二弾の睡眠呪文に撃たれた(〈睡眠の呪文〉は複数回あたっても安全である)。 〈太陽〉のホウキ二機はずっと手ごわく、〈カオス〉兵も三人損害をだしたが、やがて二機は一斉地上砲火につつまれた。

 

戦没者のなかにハーマイオニーはいない。 ドラコがしとめたにちがいない。そう思うとハリーはまったく不合理な()()を感じた。それがハーマイオニーを守りたいという気持ちなのか、獲物を横どりされてくやしいという気持ちなのか、わからなかった。多分両方かもしれない。

 

「よーし。」と言ってハリーは声をはりあげた。 「はっきりさせておこう。これはほんものの戦闘ではなかった。 グレンジャー司令官が初陣で失敗した。ただそれだけだ。 今日のほんとうの戦闘は〈ドラゴン旅団〉との戦闘で、こんな風にはすすまない。 もっとずっと楽しいことになる。 じゃあ、いこう。」

 

◆ ◆ ◆

 

ホウキが上空からおそろしい速度で落ちてくる。それが尾をひねって、空気の悲鳴がきこえるほど急激に減速し、ドラコのとなりにぴたりと止まった。

 

これは迂闊な自己顕示ではない。グレゴリー・ゴイルは単純にそれだけの腕前があって、時間を無駄にしようとしないだけだ。

 

「ポッターが来ます。」と、ふだんよそおっている鈍重さのかけらもない口調でグレゴリーが言う。 「むこうのホウキは四機とも残っています。殺りましょうか?」

 

「いや。むこうの陣地上空での戦闘は不利すぎる。地上砲火をされるだろうし、おまえでもぜんぶよけるのは無理だ。 地上軍が交戦するのを待て。」

 

〈太陽〉兵十二人とひきかえにドラコは〈ドラゴン〉兵を四人うしなった。 グレンジャー司令官はどうやらとんでもないバカだったらしい。 彼女自身は襲撃にきた面々のなかにいなかったから、なじるチャンスも、マーリンの名にかけてなにを考えていたのかと問いただすチャンスもなかったが。

 

真の戦闘はハリー・ポッターとの戦闘であるということは、はっきりしている。

 

「そなえをおこたるな!」とドラコが兵士にどなる。「仲間から離れるな。隊は一体となって行動しろ。敵が射程にはいったらすぐに撃て!」

 

規律対〈混沌(カオス)〉。

 

勝負にもならないだろう。

 

◆ ◆ ◆

 

アドレナリンが血のなかにどんどんはいってきて、ネヴィルは息もできないような感じがした。

 

「もうすぐそこだ。」とポッター司令官が全軍になんとかとどく程度の声量で言う。「散開しよう。」

 

ネヴィルの小隊の仲間が離れていく。離れてもおたがい支援はする。かたまりになっていては、敵からすれば格好の的で、仲間のだれかに向けられた流れ弾が自分にあたるかもしれない。 散開してできるだけ高速に動いていれば、あてるのはずっとむずかしくなる。

 

土曜日の訓練でポッター司令官が最初に兵士たちにやらせたのは、走りながらおたがいを撃ちあうのと、どちらも直立して時間をかけて狙うのと、片方が動きつづけ片方が直立してやるのとを、試すことだった——〈睡眠の呪文(ヘックス)〉を取り消す魔法(チャーム)は簡単だが、模擬戦では使用してはならないことになっている。 ポッター司令官はなにが起きたかを慎重に記録し、数字と暗号かなにかをあやつって、結論を発表した。減速して狙いをさだめるより、高速に動いて撃たれないようにしたほうが合理的だ、というのが結論だった。

 

ネヴィルはまだ、ならんで行進するのがすこしなごり惜しかった。でも事前におそわっていたおそろしい(とき)の声があたまのなかですでに鳴りひびいていたので、だいぶ埋め合わせになった。

 

今度はぜったい、甲高い悲鳴のようにはしない、とネヴィルはこころのなかで誓った。

 

「盾をだせ。」とポッター司令官が言う。「攪乱兵の前進を支援しろ。」

 

「〈防幕(コンテゴ)〉」と兵士たちがつぶやくと、各自のあたまと胸のまえに円形の幕が実体化した。

 

ぴりっとする味がネヴィルの口のなかに生まれた。 ポッター司令官が盾を命令したということは、両軍がおたがいほぼ射程内にはいったということだ。 まだ気づいていない〈ドラゴン〉兵たちが深い茂みのむこうで動いているのが見える。〈ドラゴン〉からももうすぐこちらが見えるようになる——

 

()()()()!」と遠くからドラコ・マルフォイの声で咆哮があり、ポッター司令官は「()()()——」と声をとどろかせる。

 

ネヴィルの血のなかのアドレナリンが爆発した。足が勝手に飛びだし、ネヴィルをのせて、いままでにない速度で敵軍にむかってまっすぐ突進した。となりを見るまでもなく、仲間たちもおなじようにしているのがわかった。

 

血の神に血を(ブラッド・フォー・ザ・ブラッドゴッド)骸の玉座に骸を(スカル・フォー・ザ・スカルスローン)」とネヴィルがさけぶ。「イア! シュブ゠ニグラス! ()()()()()()()()()

 

ネヴィルの盾に睡眠呪文がひとつあたり、音もなく消えた。 それ以外に呪文が放たれていたとしても、まだあたっていない。

 

ネヴィルはウェイン・ホプキンズの顔に一瞬恐怖がうかんだのを見た。となりにいるのはグリフィンドール生二人だが、ネヴィルは名前を知らない。そして——

 

——ネヴィルは〈簡易防壁〉を解除し、ウェインを撃ち——

 

——はずれた——

 

——ネヴィルの両足はそのまま敵がかたまっていた場所を通過して、つぎの〈ドラゴン〉兵三人のほうにむかう。むこうは杖をこちらに向けながら、口をひらき——

 

——なにも考えないうちに、ネヴィルは森の地面にむけてつっこんだ。同時に三人の声が「ソムニウム!」と言った。

 

痛い。かたい石とかたい枝がある地面に、身をころがせる。ホウキから落ちたときほどひどくはないが、それでも地面に激突したのはかわらない。ネヴィルはとっさに思いついて、横たわったままの姿勢で目を閉じた。

 

「やめろ!」とだれかがさけぶ。「撃つな、こちらも〈ドラゴン〉だ!」

 

ネヴィルはその瞬間成功の美味を感じた。〈ドラゴン〉の一集団から撃たれたタイミングで、別の一集団とはさまれる位置にはいることができたのだ。 これは敵に攻撃をためらわせる戦術だとハリーが教えてくれていたが、どうやらそれ以上に効果があったようだ。

 

それだけでなく、〈ドラゴン〉兵たちはネヴィルをしとめることができたと思っている。撃たれた直後にたおれたのを見たからだ。

 

ネヴィルはあたまのなかで二十をかぞえてから、目をほんのすこしだけ、ひらいた。

 

すぐそこに〈ドラゴン〉兵が三人いて、まわりから「ソムニウム!」や「骨の玉座に骨を!」という声がするたびに、あちこちふりむいている。 三人ともすでに〈簡易防壁〉をかまえている。

 

ネヴィルはまだ杖を手にもっていたので、たいして苦労せずに一人の少年の靴にむけて「ソムニウム」とささやくことができた。

 

それからすばやく目を閉じ、手を楽にすると、少年が地面にたおれる音がした。

 

()()()()()()()」というジャスティン・フィンチ゠フレチリーの悲鳴が聞こえ、敵影をさがそうとする〈ドラゴン〉兵二人がガサガサと落ち葉を踏む音がした。

 

()()()()()()()()()」とマルフォイが声をとどろかせる。「全員こちらに集合。分断させられてはならん!」

 

ネヴィルの耳は、近くにいた二人の〈ドラゴン〉兵がネヴィルの伏せているところを飛びこえていくのをとらえた。

 

ネヴィルは目をひらき、痛みをこらえてなんとか立ちあがり、杖をかまえて、ポッター司令官におそわったもうひとつの新しい呪文を言った。敵を錯乱させるほんものの幻覚呪文はまだできないが、これならもうできる——

 

「〈腹話(ヴェントリロクォ)〉」とささやいてから、杖をジャスティンともう一人の少年のむこうに向けて、「()()()()()()()()()!」とさけぶ。

 

ジャスティンともう一人の少年ははっとして立ち止まり、ネヴィルが声を移動させた位置に盾をむけた。その瞬間、「ソムニウム!」という声がいくつかひびいた。ネヴィルが杖さきを向けるまえに、ジャスティンでないほうの少年がたおれた。

 

()()()()()()()()()()()」とネヴィルがさけび、ジャスティンの方向に飛びこんだ。ジャスティンはハッフルパフの上級生にたしなめられるまで、ネヴィルに嫌がらせをしていた。 ネヴィルの周囲にはいま〈カオス〉兵たちがいる、ということは——

 

必殺、カオス式跳躍(リープ)!」と走りながら叫ぶと、ネヴィルはからだが軽くなり、もう一度軽くなるのを感じた。仲間たちが杖を彼にむけている。こっそり〈浮遊の魔法(チャーム)〉をかけてくれたのだ。ネヴィルは左手をあげて指をならし、両足で地面を力いっぱい蹴り、空中に飛び立った。 別の兵士の盾の上空を飛んでネヴィルがやってくるのを見て、ジャスティンはショックをあらわにした。交差する位置で下を向いて杖の狙いをさだめ、ネヴィルは「ソムニウム!」と叫んだ。

 

なぜこんなことをしたかと言えば、そういう気分だったからだ。

 

ネヴィルは着陸のまえに足のむきをうまく合わせうることができず、地面にかなりのめりこみかけたが、三人いたうちの二人の〈カオス〉兵の杖が間にあい、手痛い衝突はさけられた。

 

ネヴィルは立ちあがったが、息をきらしていた。 はやく動かなければならない。周囲ではあちこちで「ソムニウム!」の声がとびかっている——

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」とネヴィルが声をあげ、青天そのものに挑戦するかのように杖をまっすぐ上にかかげた。今日からの自分はちがう、と思いながら。「()()()()()()()()()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()——」

 

(ネヴィルはあとで目覚めさせられたとき、この声を合図にして〈ドラゴン〉軍が反撃に転じたと知らされた。)

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーのそばにいた女子が、ハリーに向かってきていた弾をかわりに受け、地面にくずれおちた。 空気を切り裂くように二人の横を一瞬で通りぬけたミスター・ゴイルが遠くで嘲笑しているのが聞こえる。

 

「〈光閃(ルミノス)〉!」とハリーのそばにいた男子のひとりが叫んだ。使い果たしてしまっていた魔法力をやっと回復できて撃ったのだが、ミスター・ゴイルはなめらかに回避した。

 

〈カオス〉の残存兵力六人に対し、〈ドラゴン〉は二人。唯一の問題は、その二人のうち一人が無敵だということだ。もう一人は自分がつくった防壁のなかにおり、それをこちらが三人がかりで囲んでいる。

 

〈ドラゴン〉軍の他の兵士にやられた兵の数の合計よりも、ミスター・ゴイル一人にやられた兵の数のほうが多い。 ミスター・ゴイルは高速かつたくみに飛びまわり、だれの弾もあてることができない。しかもむこうは、その動きをしながら弾を命中させることができる。

 

ハリーはミスター・ゴイルを止める手立てをいくつも考えたが、そのどれも()()ではなかった。〈浮遊の魔法〉をかけて速度をさげるという手は(これは光束(ビーム)状だから、ずっとあてやすいが)、相手をホウキから落下させるかもしれないから安全ではない。進路に障害物をおくのも安全ではない。そして血が凍るにつれ、ハリーは安全性が必須だということをどんどん忘れやすくなった。

 

これはゲームだ。相手が()()ような手はダメだ。たかがゲームのために自分の将来を台無しにしてはならない……

 

ハリーにはパターンが()()()。ミスター・ゴイルの飛んでいく道すじが見える。みなの弾をいつどこに重ねあわせればミスター・ゴイルの行き場をなくして被弾させられるかがわかる。だがハリーはそれを兵士たちにすばやく()()することができない。兵士の射撃の練度もたりない。もうそれだけのことをする兵力もない——

 

こんな負けかたはごめんだ。たった一人に全滅させられるなんて!

 

ミスター・ゴイルのホウキがありえないほど高速に方向転換し、ハリーと残存兵たちのほうに狙いをさだめた。ハリーはとなりにいる少年が緊張するのを感じた。司令官のために身をなげだす準備をしているのだ。

 

もう知るか。

 

ハリーの杖がかかげられ、ミスター・ゴイルのほうを向く。ハリーのあたまのなかにパターンが浮かぶ。ハリーのくちがひらき、悲鳴をあげるように——

 

「ルミノスルミノスルミノスルミノスルミノスルミノスルミノスルミノスルミノスルミノスルミノス——」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは目をひらいたとき、両手を胸のうえにあてて横たわる姿勢になっていた。戦死者のようなすがたで、杖は手のなかにある。

 

ハリーはゆっくりと身をおこした。 からだのなかの魔法力が痛む。奇妙だが完全に不快でもない感覚だ。身体を酷使するトレーニングをしたあとの、ほてりと倦怠感と似ている。

 

「司令官が目ざめたぞ!」とだれかが言い、ハリーは目をしばたたかせてその方向を注視した。

 

ハリーの兵士が四人、杖をかまえて、キラキラした玉虫色の半球のまえにいる。つまり、戦闘はまだ終わっていない。 そうか……自分は〈睡眠の呪文〉を被弾したのではなく、消耗しきってしまったんだ。だから目ざめれば、まだゲームのなかにいられる。

 

たかが子どものゲームで意識不明になるほど魔法力を消耗してはいけない、とこのあと、だれかから説教されることになる気がする。 だが重要なのは、冷静さをうしなった自分が、ミスター・ゴイルを傷つけなかったことだ。

 

そこである可能性にぴんときて、左手の小指にはめた鋼鉄の指輪に目をおろす。そして罵声をあげそうになってしまう。あの小さなダイアモンドがなくなっている。そして自分のたおれた位置のちかくに、マシュマロが落ちている。

 

あの〈転成術〉を維持しつづけて今日で十七日目だったのに、また最初からやりなおしだ。

 

不幸中の幸いだったかもしれない。もしこれがもう十四日あとで、お父さんの石を〈転成〉することをマクゴナガル先生に許されてからのことだったら、大惨事だった。 今回は重傷をおわずに、たいせつな教訓をまなぶことができた。

 

自分へのメモ:魔法力を使いはたすなら、そのまえにかならず指輪をはずせ。

 

ハリーは立ちあがろうとしたが、なかなか楽にはいかなかった。 魔法力を使いはたしても、筋力は消耗しない。だが木々をよけつつ走りまわっていれば、当然、消耗する。

 

ハリーはドラコ・マルフォイをつつむゆらめく半球のまえに向かった。ドラコは防壁を維持するため杖を上にむけたまま、ハリーにむけて冷たい笑みをした。

 

「五人目の兵士はどこにいった?」とハリー。

 

「その……」と言いだした少年の名前をハリーは度忘れした。「この防壁に〈睡眠の呪文(ヘックス)〉を撃ったら、はねかえってラヴェンダーにあたってしまって……あれは、あたるような角度じゃなかったのに……」

 

防壁のむこうでドラコが薄ら笑いをしている。

 

「ところで、」と言ってハリーはドラコの目をまっすぐに見た。「あの三人ずつのフォーメーションはきっと、プロの魔法軍隊のやりかたなんじゃないか? 訓練された兵士なら、移動しながらでも手を安定させて十分正確な射撃ができるし、近くにいればおたがいの防御をかためることができて効果的だから、ああするんだろ? きみの兵士とは大ちがいだね?」

 

ドラコの薄ら笑いが消えて、暗く険しい表情になった。

 

「ほら、」ハリーは気軽な声で言う。いま二人のあいだで実はどういうメッセージがかわされているのかは、ほかのだれにもわからないはずだ。「これで、自分が目標にしている人が相手でも、つねにうたがうべきなのがわかるだろう。あの人がああするのはなぜか、自分のおかれた状況でもおなじことが言えるか、と考えるべきなんだ。 ついでに言うと、これは実生活にも言えることだからね。 とにかく、速度が遅い標的があれだけかたまってくれていると撃つのも楽で助かったよ。」

 

ドラコには以前この説教を聞かせてあるが、どうやら、純血魔法族の慣習から引き離そうとする下心がある説教だと思ってドラコは無視したようだった。事実、ハリーにその下心はあった。 だが今回の例をちょうどいい口実にして、つぎの土曜日には、権威をうたがうことは単純に実生活で役に立つのだと主張してやることができる。 そして自分の実験がうまくいったことも紹介できる。最初は個人について、つぎに集団について、速度が重要であるという仮説が証明されたと言って、ドラコも日常生活で合理主義の方法を実践する機会をのがすべきではない、と強調しよう。

 

「勝ったと思うなよ、ポッター司令官!」とドラコがうなる。 「時間切れになれば、クィレル先生は引き分けと判定するかもしれないぞ。」

 

その点はたしかになやましい。 終戦判定はクィレル先生個人の判断にゆだねられており、現実世界の基準で勝ったと考えられる軍が勝者になるという。 ()()()()勝利条件は決まっていない。そういったルールがあればハリーに悪用されてしまうからだ、とクィレル先生は言った。そう言われると反論できない。

 

クィレル先生がまだ終戦を宣言しないことについても責めることはできない。〈ドラゴン旅団〉の最後の兵士が、のこり五名の〈カオス軍団〉残存兵を全員しとめる可能性はある。

 

「わかった。じゃあ、なんでもいいからマルフォイ司令官のあの防壁呪文のことをだれか知らないか?」

 

話をまとめると、ドラコの防壁は標準的な〈防盾(プロテゴ)〉の変種で、いくつか不便な点がある呪文のようだ。使い手の移動に追従してくれないというのが最大の欠点だ。

 

いいところは——ハリーの立ち場から言えば悪いところだが——簡単におぼえられて、簡単に使えて、長時間維持するのもたやすいということだ。

 

これを突破するには、攻撃呪文による打撃が必要だ。

 

そして壁にあたった呪文がはねかえるとき、ドラコはある程度角度をコントロールできるらしい。

 

ウィンガーディウム・レヴィオーサを使って重い石を防壁の上に積んでいく、という手があるかもしれない。そうすれば防壁はいずれ圧力に耐えられなくなるのではないか……が、石がドラコにあたるかもしれないし、敵軍の司令官に実際にけがをおわせるのは、今日やるべきことではない。

 

「じゃあ、盾をつらぬく専門の呪文とかはないの?」

 

ある、という返事があった。

 

だれかそういう呪文を知っているか、とハリーはきいた。

 

だれも知らない。

 

ドラコはまた壁のむこうで薄ら笑いをしている。

 

はねかえされないような攻撃呪文はないか、とハリーはきいた。

 

電撃ならふつうは防壁にはねかえされず、吸収されるらしい。

 

……電撃系の呪文の使いかたを知っている者はひとりもいない。

 

ドラコはほくそえんだ。

 

ハリーはためいきをした。

 

そしてわざとらしく杖を地面においた。

 

それから多少うんざりした声で、いまからとある秘密の方法で防壁をくずすことにしたから、防壁がやぶれしだい、ほかのみんなはすぐに砲火してくれ、と告げた。

 

〈カオス軍団〉兵はみな不安そうにしている。

 

ドラコは落ちついた表情をしている。つまり、コントロールされた表情をしている。

 

うすい毛布が一枚、ハリーのポーチから出てきた。

 

ハリーはゆらめく防壁のとなりに座り、その毛布をあたまにかぶって、自分のやることがだれにも見えないようにした——もちろんドラコ以外のだれにも、ということだが。

 

ハリーのポーチから自動車用バッテリーとジャンパーケーブルが出てきた。

 

……マグル世界を旅たって、魔法研究の新時代を切りひらこうというときに、電気を発生させる手段をもってこないようでは困る。

 

ほどなくして〈カオス軍団〉兵たちは、指がなる音につづいて、毛布のむこうでパチパチいう音を聞いた。 防壁がいままでより明るくかがやきだすと、ハリーの声がこう言った。 「こっちは気にしなくていいから、マルフォイ司令官から目をはなさないで。」

 

ドラコの表情に苦しさが見えだした。そして怒りといらだたしさがあらわれた。

 

ハリーは笑みをうかべ、声をださずに、()()()()()()()、と言った。

 

その瞬間、森のほうから緑色のエネルギーの螺旋が飛んできてドラコの防壁にあたり、ガラス同士をあてたときのような引っかき音がして、ドラコがよろめいた。

 

ハリーはあわてて取り乱し、ジャンパーケーブルをバッテリーから抜き、ポーチに食わせ、バッテリー本体もポーチにいれ、毛布をはがして杖を手にとり、立ちあがった。

 

ハリーの兵士たちもまだ取り乱した様子で、きょろきょろあたりを見まわしていた。

 

「〈防幕(コンテゴ)〉」とハリーが言い、兵士たちもつづいた。だが防壁をどの方向にむけるべきなのかわからない。 「いまのがどこから飛んできたのか見えなかったか?」 全員くびをふる。 「マルフォイ司令官、さしつかえなければ教えてほしい。グレンジャー司令官はきみたちがしとめたのか?」

 

「さしつかえあるね。」とドラコは辛辣に言った。

 

まずい。

 

ハリーのあたまのなかで計算がはじまる。ドラコは防壁のなかにいる。ドラコはそれなりに消耗している。ハリーも消耗している。ハーマイオニーは森のなかのどこにいるのかわからない。自軍の残りは自分と兵士四名……

 

「グレンジャー司令官、」と大声でハリーは言う。「惜しかったね。マルフォイ司令官とぼくがやりあうのを待つべきだった。そうすれば生存者を全員しとめられたかもしれないのに。」

 

どこからか女の子が甲高く笑う声がした。

 

ハリーは凍りついた。

 

いまのはハーマイオニーじゃない。

 

すると、不気味で明るい声の合唱が四方から聞こえてきた。

 

こわがることはなにもない

悪人以外、なにも心配することはない……

 

「グレンジャーめ、反則したな!」と防壁のなかのドラコが激昂する。「眠った兵士を起こしたんだ! どうしてクィレル先生は止めようとしない——」

 

「もしかして、」とハリーは言いかけたが、すでに腹のなかにいやな感覚がたまっている。 負けるのはやっぱりいやだ。 「そっちも、すごく楽に勝ててたんじゃないか? ほとんど一網打尽だったり?」

 

「ああ、全員一発目でしとめた——」

 

慄然としてなにかに気づいた表情がドラコから〈カオス〉兵たちへとひろがった。

 

「しとめてなかったんだよ。」とハリー。

 

木々のあいだから迷彩服の人影がつぎつぎとあらわれた。

 

「同盟する?」とハリー。

 

「同盟する。」とドラコ。

 

「発射」とグレンジャー司令官の声がして、緑色に光るエネルギーの螺旋がもう一発、木々のあいだから飛来して、ドラコの防壁を粉ごなにした。

 

◆ ◆ ◆

 

グレンジャー司令官は戦場を検分して、深く満足した。 残った〈太陽〉兵は九人だが、敵軍最後の生存者をしとめるには、まあ十分だろう。とくに、パーヴァティとアンソニーとアーニーがその相手に杖をむけているこの状態なら。まえもって、ポッター司令官は生け捕りにするように(というか、眠らせないように)、と命じてあったのだ。

 

それが〈悪〉なのはわかってはいるが、できればここで、すごくすごく嘲笑したい。

 

「トリックなんだろ?」とぴりぴりした声でハリーが言う。 「なにかトリックがあるはずだ。 ほかの科目ぜんぶにくわえて、こんなすぐに完璧に軍を指揮できるなんておかしい。 きみはそこまでスリザリン的じゃない! 気味悪い歌詞を書く才能もない! ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

グレンジャー司令官は〈太陽〉兵たちを見わたして、ハリーの方向に向きなおった。 おそらく外野のスクリーンから、みんながこの様子を見ている。

 

そしてグレンジャー司令官はこう言った。「ちゃんと勉強しておけば、わたしはなんでもできる。」

 

「ふざけるのもいい加減に——」

 

「〈睡夢(ソムニウム)〉」

 

ハリーは最後まで言えずにくずれおちた。

 

勝者〈太陽(サンシャイン)」と宣言するクィレル先生の大きな声が、どこからともなくやってきた。

 

「いい子は勝つ!」とグレンジャー司令官が咆哮した。

 

「バンザーイ!」と〈太陽〉兵が歓声をあげた。 グリフィンドールからきている兵士でさえそうした。しかも誇らしそうに。

 

「今日の戦闘の教訓は?」とグレンジャー司令官。

 

『ちゃんと勉強しておけば、なんでもできる!』

 

〈太陽部隊〉の生存者が勝者の位置にむけて行進した。行進曲の歌詞はこうだった。

 

こわがることはなにもない

悪人以外、なにも心配することはない

ほんとの居場所を用意してあげたから

そこで待ってる友だちに

一言よろしく伝えてね

グレンジャーの〈太陽部隊〉より!

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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31章「集団行動(その2)」

◆ ◆ ◆

 

ハリーは司令官室のなかでいったりきたりしている。ほかにはなんの役にも立ちそうに思えないが、いったりきたりするにはぴったりの部屋だ。

 

なにをした?

 

なにをしたんだ?

 

ハーマイオニーが勝つなんて! 暴力とはほどとおい性格のハーマイオニーが、ほかの科目ぜんぶにくわえて、一度目の挑戦で完璧に軍を指揮できるなんて、不自然だ。いくらなんでもできすぎだ。

 

軍事史の本を読んであの戦術を知ったのか? でも問題はあの戦術ひとつだけじゃない。相手の退却を妨害する布陣のしかたも完璧だったし、兵士同士の連携のさせかただってハリーよりもドラコよりもうまかった……

 

クィレル先生が彼女をたすけないという約束をやぶったのか? タクティカス将軍の日記帳をわたしたとか?

 

なにか重要なことを見おとしている。見おとしているのだが、あたまのなかで堂々めぐりをしてしまい、それが何なのかわからない。

 

ハリーはあきらめてためいきをついた。 ぜんぜん分かる気がしない。それに、次回の戦闘までに〈破壊のドリルの呪文(ヘックス)〉をハーマイオニーかだれかから教わっておかなければならない——クィレル先生からは、愉快そうな裏できつく警告する声で、『わたしが提供するもの以外の魔法アイテムの使用は禁止』というのがルールであり、これは魔法がいっさい関係しないマグル技術にも適用する、と言われている。 それに、ミスター・ゴイルをやっつける方法も次回までに見つけておかないと……

 

司令官にとって模擬戦の勝敗は大量のクィレル点を左右する。クィレル先生のクリスマスの願いごとを勝ちとりたいなら、ハリーには一刻の猶予もない。

 

◆ ◆ ◆

 

スリザリン寮の自室でドラコは、机のまえにあるその壁が世界一興味深い平面とでもいうかのような様子で、からっぽの空間を見つめた。

 

なにをした?

 

なにをしたんだ?

 

ふりかえってみれば、ああいったずるい策は当然想定しておくべきだったが、グレンジャーはずるいタイプじゃなかったはずだ! ハッフルパフ的すぎて〈簡易打撃呪文〉も撃てなかったグレンジャーが! クィレル先生が約束をやぶって助言していたのか、それとも……

 

そこでドラコは自分がずっとまえにしておくべきだったことがあるのに気づいた。

 

グレンジャーに最初に面会しにいったあとでしておくべきだったこと。

 

それはハリー・ポッターに教えられ、訓練されたことでもあった。合理主義の方法は実生活にも適用されるということを脳が理解するのにしばらくかかると警告されてもいた。そしてたしかに、ドラコは今日まで理解していなかった。 ハリーに言われていたことを()()してさえいれば、どの失敗も回避できていた——

 

ドラコは声にだして言った。「いま自分は困惑しているのを自覚している。」

 

現実よりも虚構(フィクション)に困惑させられる度合いが大きいというのが、合理主義者の強みだということ……

 

自分は困惑している。

 

だから、自分が信じているなにかが虚構だということだ。

 

グレンジャーがあれだけのことをすべてできるはずがない。

 

だから、多分していない。

 

きみたち二人が知らないやりかたでグレンジャー司令官を助けることはしないと約束する。

 

ドラコはあることに気づいてぞっとし、書類をおしのけて、雑然とした机のうえをさがしてまわった。

 

そして目当てのものが見つかった。

 

三つの部隊に割り当てられた生徒と備品のリストのなかに、それはあった。

 

クソッ、クィレル先生め!

 

まえに読んではあったのに、それが目にはいっていなかった——

 

◆ ◆ ◆

 

午後の太陽の光が〈太陽部隊〉の執務室にふりそそぎ、黄金色のオーラのようになって、椅子に座るグレンジャー司令官をつつむ。

 

「マルフォイが気づくまでにどれくらいかかると思う?」とグレンジャー司令官が言う。

 

「長くはかからない。」とブレイズ・ザビニ連隊長が言う。「もう気づいたかもしれない。 ポッターはどれくらいかかるだろう?」

 

「いつまでも。マルフォイにおそわるか、兵士のだれかが気づいてくれないかぎり。 ハリー・ポッターはとにかく、そういう考えかたをしない。」とグレンジャー司令官。

 

「そうなんだ?」と言ってアーニー・マクミラン隊長が顔をあげる。部屋のすみのテーブルでロン・ウィーズリー隊長にチェスでやられているところだった。(当然ながら、マルフォイが去ったあとで椅子はぜんぶ元の位置にもどしてあった。) 「ああするのがあたりまえだと思ってたけど。 一人でぜんぶ考えようとする人なんている?」

 

「ハリー。」とハーマイオニーが言うのとちょうど同時にザビニが「マルフォイ。」と言った。

 

「マルフォイは自分が飛びぬけて優秀だと思っているから。」

 

「ハリーはほかの人のことを……そういう風に見ないタイプだから。」

 

ちょっと不幸ではある。 ハリーはひたすら孤独にそだった。 天才でない人間には存在する権利がない、というほどあからさまな考えかたをしているとまでは言わない。 ただ、ハーマイオニーの軍にはハーマイオニー以外にも知恵のある人がいるかもしれない、という発想がハリーにはないのだ。

 

「とにかく、ゴルドスタイン隊長とウィーズリー隊長のこれからの任務は、つぎの模擬戦にむけて戦略を考えること。 マクミラン隊長とスーザン——ごめんなさい、ボーンズ隊長——は、試すべき戦法とやっておくべき訓練をいくつか考えてみて。 あ、それと、ゴルドスタイン隊長のあの行進曲はおみごと。士気をもりあげるのに効果覿面(てきめん)だったと思う。」

 

「あなたはどうするの?」とスーザンが言う。「それとザビニ連隊長は?」

 

ハーマイオニーは椅子から立って、背のびをした。 「わたしはハリー・ポッターが考えそうなことを考えてみる。ザビニ連隊長はドラコ・マルフォイがしそうなことを考えてみて。なにか思いついたら、みんなとまた話しにくる。 考えるために散歩にいこうと思うんだけど、ザビニもいっしょにどう?」

 

「了解。」とザビニはかたくるしく言った。

 

命令のつもりではなかったのに。 ハーマイオニーは軽くためいきをした。 こういうことにはなかなか慣れそうにない。ザビニが今回だしてくれた案はたしかに有効だったが、クィレル先生の言う『正負の報奨の組み合わせ』だけで、ザビニというスリザリン生を十二月になるまで完全に手なづけたままにできるという自信もあまりない。十二月からは、兵士が裏切ってもいいことになるというし……。

 

クィレル先生のクリスマスの願いごとについても、まだなにも考えていない。 そのときになったら、なにかほしいものがあるか、マンディにきいてみるのがいいかもしれない。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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32章「幕間——個人財務管理」

◆ ◆ ◆

 

「でも総長……」と言ってハリーは自分の絶望的な気分をいくらか声にこめた。「ぼくの全資産を金庫いっぱいの金貨にしたまま多様化しないなんて——狂っていますよ! 言ってみれば、権威ある専門家に相談せずに〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の実験をするようなものです! おかねの管理というのは、それじゃダメなんです!」

 

しわのはいった老魔法使いの顔は——そのうえにあるクリスマス用の帽子の、緑と赤の布製の自動車が二台正面衝突したような、にぎやかな意匠と対照的に——暗く悲しい表情でハリーを見つめている。

 

「すまない。ほんとうに申し訳ないが、きみが自分の財産を管理してよいことにすると、あまりにも自由な行動を許すことになってしまう。」

 

ハリーは口をあけたが、声がでない。 文字どおり、ことばにならない。

 

「クリスマスプレゼント用に五ガリオンを引きだすことは許そう。きみのような年齢の男の子がする買い物にしては高額すぎるとはいえ、これなら脅威となる心配はない——」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」とハリーは思わず口にした。「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「操作?」と言って老魔法使いはわずかに笑みをうかべた。「いや、操作するつもりなら、白状するわけがなかろう。あるいは、裏の目的を隠して言いつくろったというだけのこと。 これはなにもややこしいことではない。 ハリー、きみはまだゲームに参加する準備ができておらん。そんなきみに、ゲーム盤を混乱させてしまいかねない何千ガリオンものおかねをわたすのは、愚かしい。」

 

◆ ◆ ◆

 

ダイアゴン小路の明るい喧騒はクリスマスが近づくと、百倍、二百倍になり、どの店もみごとな魔法の光や火花でうめつくされ、まるでクリスマスらしさが暴走して燃えあがり、あたり一帯をお祭り用のクレーターに変えてしまいそうな勢いだった。 どの通りも魔女と魔法使いでいっぱいで、みなの服ははなやかで()()()()、目だけでなく耳にも刺激的だった。 物めずらしそうな目をした客のすがたからすると、どうやらダイアゴン小路は国際的な観光地でもあるらしい。 巨大な布に身をつつんでタオルをまいたミイラのようになった魔女がいる。正装用シルクハットをかぶりながらバスローブを着た魔法使いもいる。赤んぼう同然のおさない子にまわりの店とおなじくらい明るく燃える光をまとわせて、手をつないでこの魔法の国を連れまわして思いっきり悲鳴をあげさせる親たちもいる。にぎやかなお祭りの季節だ。

 

その明るくにぎやかな雰囲気にかこまれて、ぽつりと漆黒の夜の冷たく暗い一点があり、はげしい人通りを排して数歩分の空間をつくっている。

 

「ない。」と強い嫌悪の表情でクィレル先生が言った。ひとくち食べたものの味が悪かっただけでなく、倫理的に耐えがたいので吐きだしたい、というような態度だ。 ふつうの人なら、ひとくち食べたミートパイが腐っていて、具に子猫の肉がはいっているのに気づいたときのような表情だ。

 

「そんな。なにかひとつくらい思いつくでしょう。」とハリーが言った。

 

「ミスター・ポッター。」と言ってクィレル先生はくちびるを細くむすんだ。「わたしが引きうけた役目は、保護者の代役としてきみを買い物に引率することだ。 プレゼントを考える手つだいをする役目ではない。 クリスマスをする習慣はないものでね。」

 

「ニュートンマスはどうですか?」と明るくハリーが言う。「アイザック・ニュートンの誕生日はほんとに十二月二十五日なんです。某歴史上の人物とはちがって、これは単なる通説じゃありませんよ。」

 

クィレル先生は興味を示さなかった。

 

「とにかくですね、ぼくはフレッドとジョージに()()()特別なプレゼントをする必要があるのに、なにも思いつかなくて困ってるんです。」

 

クィレル先生は思案するように鼻をならした。 「ならば、二人が家族のうちでだれを一番嫌悪しているかをきいて、それから暗殺者をやとうのはどうだ。 とある亡命政府に仕えている有能な人物を知っている。ウィーズリーの暗殺なら、何人か依頼すればセット割引きをしてくれるぞ。」

 

「この冬、」と言ってハリーは低い声をだす。「あなたのお友だちに最適のクリスマスプレゼントは……()です。」

 

それを聞いてクィレル先生は笑みをうかべた。目も笑っていた。

 

「まあ、さすがにクィレル先生でも、ペットにどうぞ、と言ってネズミを贈れとまでは——」 ハリーはぴしゃりと口をとじた。ネズミという一言が口から出るかどうかの時点で後悔した。

 

「なんのことだ?」

 

「いえ。長くてくだらない話です。」  なぜか、この話はしないほうがいい気がした。ビル・ウィーズリーが回復せず、すべてもとどおりにならなかったとしても、クィレル先生なら笑ってしまいそうな気がするからだろうか……

 

それにこの話を知らないなんて、クィレル先生はどこに行っていたのだろう? てっきり、ブリテン魔法界の住人は全員知っている話だと思っていた。

 

「これはですね、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんですよ。あわよくば二人をぼくの子分に、というくらいの。 友だちは一度使って捨てるようなものじゃない、友だちは何度もくりかえし使うものだ、とよく言うでしょう。 フレッドとジョージはぼくにとってホグウォーツで一番有用な友だちです。だから何度もくりかえし使うつもりです。 そこで、クィレル先生も、二人が()()()感謝するような、スリザリン的な贈り物をなにか提案してくれませんか……」 ハリーは最後の部分で誘うように声を小さくしていった。

 

こういうことを売り込むにはこつがあるものだ。

 

またしばらく歩きつづけたあと、クィレル先生が口をひらき、不愉快さをしたたらせるような声をだした。 「ウィーズリー兄弟の杖はどちらも中古だ。 これなら二人は以後魔法を使うたび、きみの寛大さを思いださせられるだろう。」

 

ハリーは思わず興奮して手をたたいた。 オリヴァンダーの店に前払いして、返金はことわるように言っておけばいい——いや、それより、つぎの学年がはじまるまでにウィーズリー兄弟がこなかったら、ルシウス・マルフォイにプレゼントするように言っておけばいい。 「それは名案ですね!」

 

クィレル先生は賞賛されても不本意そうだった。 「そういう趣向でなら、クリスマスを許容してやってもよい。かろうじてだが。」 と言ってクィレル先生はわずかに笑みをうかべた。 「だがいまの案には十四ガリオンかかるな。きみには五ガリオンしかないぞ。」

 

「たった五ガリオン。」と言ってハリーはフンと鼻をならした。「総長はぼくがだれだと思ってるんでしょうね?」

 

「おそらく、きみの才能が資金調達にふりむけられたとき結果として生じうる事態の深刻さに、総長は思いがいたっていないのだろう。 直接的な脅迫をするより、ここは負けておくのが賢明だと思うがね。 ところで参考までに、ミスター・ポッター、きみが子どもっぽい癇癪(かんしゃく)を起こして五ガリオン分のクヌートを数えだしてわたしが退屈してよそ見をする、というようなことがなかったとしたら、きみはどうしていた?」

 

「一番簡単なのは、ドラコ・マルフォイから借金することでしょうね。」

 

クィレル先生はみじかく笑った。「冗談はよしてもらいたい。」

 

()()()()()()()()()()()。「きっとサイン会でもしていたでしょうね。 たかが買い物のために、経済をかたむかせるような手段にうったえるつもりはありません。」  ハリーは休暇で家にもどっているあいだも睡眠周期がずれていかないよう、〈逆転時計〉を使うことが許されている、ということは確認ずみだ。 だが魔法族デイトレーダーに対して監視の目がある可能性もある。 あの金銀交換のトリックは、マグルがわでの作業と元手の資金が必要だし、一周した時点でゴブリンにあやしまれるかもしれない。 かといって、ほんものの銀行を開業するのはもっとずっと手間がかかる…… 時間がかからず失敗のない金儲けの方法は、いまのところ思いつかない。クィレル先生が簡単にごまかされてくれたのは、とてもありがたい。

 

「あれだけきちんと数えたのだから、あの五ガリオンで間にあってほしいものだ。 今回の失態がばれれば、総長は二度ときみの金庫の鍵をわたしにあずける気にはならないと思う。」

 

「できるかぎりのことはしていただいたと思います。」とハリーは深い感謝をこめて言った。

 

「それだけの量のクヌートだ。安全な保管場所を探すのを手伝ってほしいか?」

 

「そうですね、すこし。クィレル先生は、よい投資案件をごぞんじだったりしませんか?」

 

二人はまた小さな球形の沈黙と隔離の空間をつれて、活気にあふれた人通りのなかを歩きはじめた。 目をこらして見れば、二人が通りすぎた背後では、青あおとした枝がしおれ、花がしぼみ、子どものおもちゃがだす軽快な音が不吉な低い音色へと変わっていくのがわかる。

 

ハリーもそれに気づいていたのだが、口にはせず、一人ほほえんだ。

 

祭日の祝いかたはひとそれぞれだし、いじわるグリンチだってサンタとおなじ、クリスマスの一部だ。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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33章「協調問題(その1)」

◆ ◆ ◆

 

おそろしいのは、それがあっというまに手がつけられないほど進行してしまったことだ。

 

「アルバス、」 ミネルヴァは心配を隠そうともしない声で言う。二人はちょうど大広間にはいるところだった。「なにか手をうたなければなりません。」

 

例年であればホグウォーツは冬至祭(ユールタイド)をまえにするこの時期、楽しげな雰囲気になる。 大広間はすでに緑と赤のかざりつけがされている。これは冬至(ユール)に結婚式をおこなったスリザリン生とグリフィンドール生にちなんだもので、以来、寮や陣営の垣根をこえるシンボルとなった。ホグウォーツ創設とほぼおなじくらい古い伝統でもあり、マグル諸国にもひろがっている。

 

夕食中の生徒たちは、神経質そうにまわりをちらりと見たり、ほかのテーブルににらみをきかせたり、テーブルによっては論争を白熱させたりしている。 ()()()()雰囲気とでも言えるかもしれないが、ミネルヴァはどうしても()()()()()ということばを考えてしまった。

 

一つの学校を四つの寮に分割し……

 

さらに学年ごとに、三つの軍を作って交戦させる。

 

〈ドラゴン〉と〈太陽〉と〈カオス〉の党派心はいまや一年生にとどまらず、軍に属していない生徒もそのどれかを支持するまでになった。 火とスマイルと手の紋章のどれかを腕章にしてつけるだけでなく、廊下でおたがいに呪文をうちあう。 一年生司令官は三人ともやめろと言うのだが——ドラコ・マルフォイでさえ、ミネルヴァが忠告するのをじっと聞いて、険しい表情でうなづいた——三人の支持者であるはずの生徒たちは聞きいれなかった。

 

ダンブルドアはテーブルがならぶ方向を見て遠い目をした。 「どの都市も——」と老魔法使いは小声で引用する。「はるか昔に〈青〉党と〈緑〉党へと分断され…… なんのためかも知らず、自分を犠牲にして敵とたたかい…… だれもがいわれのない敵意を隣人にむけるようになり、両党が結婚や交遊や友情によりむすびつくことはなく、色がちがえば兄弟姉妹、親戚も関係なく、だれも敵意をたやすことがない。 わたしに言わせれば、これはたましいの病気以外のなにものでもない……

 

「すみませんが、なんのことか——」

 

「プロコピオス。当時のローマ帝国では戦車(チャリオット)競走は単なる遊戯ではなかった。 ミネルヴァ、たしかになにか、手をうたねばならんと思う。」

 

「猶予はありませんよ。」と言ってミネルヴァはさらに声をおとした。「つぎの土曜日までに、どうにかしなければ。」

 

日曜日には、大半の生徒が家族とクリスマスを過ごすためにホグウォーツを去る。そのため、一年生三部隊の最後の模擬戦は土曜日におこなわれ、その結果により、三重に呪われたクリスマスの願いごとをクィレル先生にかなえてもらえる勝者が決まる。

 

ダンブルドアは彼女に視線をむけ、深刻そうにながめた。 「でなければ破綻が起き、だれかが傷つくことになってしまう、と思うか。」

 

ミネルヴァはうなづいた。

 

「そしてクィレル先生がその責任を問われることになると。」

 

ミネルヴァは表情をかたくして、もう一度うなづいた。 〈防衛術〉教授が解雇される状況については彼女もよく知っている。 「アルバス、いまクィレル先生をうしなうわけにはいきません! 一月までいてもらえれば、五年生は全員OWLs(オウルズ)に合格できます。三月までいてもらえれば、七年生がNEWTs(ニューツ)に合格します。クィレル先生がいれば、何年分もの教育放棄をおぎなえ、〈闇の王〉の呪いに反して、この世代は自衛ができるようになるのです——あの模擬戦はやめさせるしかありません! 軍を解散させるのです!」

 

「当人は、こころよく思わないのではないかと思う。」と言ってダンブルドアは〈主テーブル〉でスープによだれをたらしているクィレルに目をむけた。 「彼は模擬戦にはとくに思いいれがあるらしい。模擬戦の授業を許可したとき、わしは学年ごとに四つずつ軍ができるものと思っていたが。」 老魔法使いはためいきをついた。 「かしこい男ではあるし、おそらく善意でのこととは思うが、かしこさが足りなかったということになりかねん。 かといって軍を解散させるのもまた、破綻の火だねとなるやもしれん。」

 

「ではアルバス、なにをするつもりですか?」

 

老魔法使いは温厚そうな笑みをむけた。 「それはもちろん、謀略でいく。 最近のホグウォーツの流行にのって。」

 

二人は〈主テーブル〉のすぐまえまで来てしまったので、ミネルヴァはそれ以上なにも言えなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

おそろしいのは、それがあっというまに手がつけられないほど進行してしまったことだ。

 

十二月最初の戦闘は……ひどいありさまだった。すくなくとも、ドラコが聞いたかぎりでは。

 

二回目の戦闘は()()()()だった。

 

そのつぎはもっと悪化する。司令官三人が協力して、今回こそ、それを止める絶望的なこころみを成功させないかぎり。

 

「クィレル先生、これは狂気です。」とドラコが言う。「もうスリザリン的でもない。これじゃ……」 と言ってドラコはことばをうしない、 両手を無力そうに振る。 「このありさまでは、まともな謀略をはたらかせることなんかできません。 前回の戦闘では、うちの軍で自殺をよそおった兵士が一人いました。 ()()()()()()()()()()なにかたくらもうとしているんですが、当人はできているつもりで、ぜんぜん()()()()()()のを自覚していない。 なにもかもでたらめに起きていて、もはや、かしこいかどうかも、戦力が上か下かも関係なく……」  ドラコにはもはや表現するすべがない。

 

「ミスター・マルフォイに同感です。」 グレンジャーは、自分がこんなことを言うのが信じられないというような言いかたで言う。 「裏切りを許すというルールは失敗でした。」

 

ドラコは自分以外だれも謀略をたくらんではならないと命じたが、謀略が裏でおこなわれるようになっただけだった。ほかの軍の兵士は謀略をしていいのに自分たちができないのは不公平だと思ったのだ。 前回でみじめな敗北を喫してやっと、ドラコはあきらめて、その命令をとりけした。 だがその時点で、兵士たちはみなすでに自分自身の作戦にもとづいて動きはじめていた。中央で管理している人はいない。

 

各自の作戦を聞きだして、というか各自が自分の作戦と主張するものを聞きだして、ドラコは最終戦に勝つための策をねろうとした。 しかし、三つのことを個別に成功させる、どころではない複雑さだったので、ドラコは紙をインセンディオで燃やし、のこった灰をエヴェルトで消した。父上にあれを見られたら、親子の縁を切られるところだった。

 

クィレル先生は目を半分とじて、両手の上にあごをのせ、机に身をのりだしている。 「では、ミスター・ポッター。 きみも同調するのか?」

 

「あとはもうフランツ・フェルディナントを射殺するだけですね。そうすれば〈第一次世界大戦〉になります。」とハリーが言う。 「みごとなまでの混沌(カオス)状態。ぼくはいいと思いますよ。」

 

()()()()」とドラコは純粋にショックをうけて言った。

 

一瞬あとまで気づなかったが、ドラコがそう言うのとまったく同時に、まったくおなじ憤慨した調子で、グレンジャーもそう言っていた。

 

グレンジャーはぎくりとした様子でドラコを一瞥した。ドラコは慎重に中立的な表情をたもつ。……迂闊(うかつ)だった。

 

「そう! 裏切るとも! きみたち両方を裏切るとも! 今回も! ハッハッハ!」

 

クィレル先生は薄ら笑いをしているが、目はまだ半分とじたままだ。 「そうする理由は?」

 

「ぼくはミス・グレンジャーとミスター・マルフォイが耐えられないようなカオスにも耐えられるからです。」と裏切り者が言う。 「この模擬戦は零和(ゼロサム)ゲームですから、絶対的に簡単か困難かは気にしてもしょうがない。相対的に上をいければいいんです。」

 

ハリー・ポッターは物おぼえがよすぎる。

 

クィレル先生の目がまぶたの下でドラコの方向をむき、それからグレンジャーの方向をむいた。 「実のところ、この破滅が最高潮に達するのを止めてしまっては、わたしは自分を許せそうにない。 きみたちの兵士のなかにはすでに、四重スパイになった者さえいる。」

 

()()()」とグレンジャーが言う。「でも陣営は三つしかありません!」

 

「ああ。」とクィレル先生が言う。 「そう思ってしまうところだね。 歴史上どこかに四重スパイが存在したのかどうかも、 そしてこれほど高い比率で真の反逆者や反逆者のふりをしている者がいる軍隊が存在したのかどうかも、さだかではない。 われわれはあらたな領域に足をふみいれつつある。そしてもはや、あともどりはできない。」

 

ドラコは防衛術教授室を去るとき、強く歯ぎしりをしていた。となりのグレンジャーは、もっといらだっていた。

 

「あんなのあんまりじゃない、ハリー!」

 

「ごめん。」と言いながらハリーはまったく申し訳なさそうではなかった。くちびるは陽気で邪悪な笑いのかたちをしている。 「でもこれはゲームだろう。司令官だけが謀略をさせてもらえるっていうのは変じゃないか? それに、きみたち二人になにができるのかな? 手をくんでぼくに立ちむかうとでも?」

 

ドラコはグレンジャーと視線をかわした。おたがい相手とおなじくらいかたい表情をしているのがわかっている。 ドラコは泥血(マッドブラッド)の女の子と共同戦線をはることなどしない。ハリーはそのことをあてにしてきたが、だんだんあからさまに吹聴し、嘲笑するまでになった。こうやってつけこまれると、ドラコとしても嫌になってくる。 このままでは、いずれグレンジャーと同盟する羽目になる。そう考えてしまうくらい、ハリー・ポッターをたたきつぶして、一泡ふかせてやりたくなってきた。

 

◆ ◆ ◆

 

おそろしいのは、それがあっというまに手がつけられないほど進行してしまったことだ。

 

ハーマイオニーはザビニにもらった羊皮紙を見つめて、心底無力感をおぼえた。

 

まず名前がいくつもあり、さらに名前と名前をつなぐ線がいくつもあり、色がついた線もいくつかある……

 

「この軍にスパイ()()()()人はいるのか、って聞きたくなるんだけど?」

 

二人は司令官室ではなく、別の空き教室にいる。ほかにはだれもいない。ザビニ連隊長が言うには、隊長クラスのうちだれか一人はハーマイオニーの軍を裏切っていることがほぼ確実だからだ。 ザビニがうたがっているのはゴルドスタイン隊長だが、確証はない。

 

ハーマイオニーの質問をきいて、スリザリン生ブレイズ・ザビニは皮肉な笑みをうかべた。 ザビニはいつもすこし不遜な態度ではあるものの、ハーマイオニーを積極的に嫌ってはいないように見える。 対照的に、ドラコ・マルフォイへはあざけりを、ハリー・ポッターへは敵意をつのらせているのが明らかだ。 ハーマイオニーはまっさきにザビニが裏切るのでは、ということが心配だったのだが、彼はもう二人の司令官に目にものを見せてやるということに意識を集中させているようだ。 きっと、相手がほかのだれかであれば、ザビニはよろこんで寝返るだろう。だがマルフォイとハリーの勝利に手を貸すつもりだけは、さらさらないらしい。

 

「大半の兵士は実際には裏切っていない。これはかなり確実だ。 みんな、おいてきぼりにされたくないと思ってるだけさ。」  軽蔑にみちたその表情からは、ザビニが真剣に謀略にとりくまない人たちのことをどう考えているかがはっきりと見てとれた。 「二重スパイになれば、裏切ったふりをしながらこっそりこちらを支援できる、と思っているんだ。」

 

「なら、スパイになりたいといってこちらに来た敵軍の兵についても、おなじことが言えそうね。」

 

ザビニは肩をすくめた。 「マルフォイから寝返るつもりだという兵については、ちゃんと本心かどうかを見きわめられたつもりだ。 ポッターからこちらへ本気で寝返る兵がいるのかどうかは、よくわからない。 でもノットがポッターを裏切ってマルフォイにつくのは、ほぼまちがいなさそうだ。エントウィスルがマルフォイの使者のふりをして、そう聞き出したんだ。エントウィスルは本心からこちらの指揮下にある。そこまで確認できていれば十分——」

 

ハーマイオニーはしばらく目をとじた。 「わたしたち、このままだと負けそうじゃない?」

 

「いや……」とザビニは辛抱づよく答える。「いまのところクィレル点ではグレンジャー司令官が首位にいるじゃないか。 この最終戦で惨敗するのさえ避けられれば、あのクリスマスの願いごとを勝ちとれるだけの点差はある。」

 

クィレル先生は最終戦では形式的な得点制を採用すると告知した。あとでもめないようにするためにこうしてほしい、という依頼をうけてのことだ。 ある軍に属する者がだれかを撃ってしとめると、その軍の司令官に二クィレル点がはいる。 鐘の音が戦場全体(つぎの戦場は知らされていないが、〈太陽〉軍の戦績がよかったのは森なので、森であればいいとハーマイオニーは思っていた)にひびき、その音高でどの軍が点を獲得したかわかる、ということになっている。 撃たれたふりをした人についても鐘は鳴るが、そのあとで二度目の鐘が鳴って撤回を知らせる。その時間差は毎回変動する。 「〈太陽〉に!」、「〈カオス〉に!」、「〈ドラゴン〉に!」という風にどれかの軍の名を叫べば、自分の所属軍を変更することができる……

 

ハーマイオニーでさえ、そのルールに穴があるのが分かった。 だが、クィレル先生の説明にはつづきがあった。もともと〈太陽〉所属の人を、〈太陽〉の名で撃つことはできない。いや、撃ってもいいが、そうすると鐘が三度鳴り、〈太陽〉は一クィレル点をうしなう。 これにより、自軍の兵士を撃って点をかせぐ真似ができなくなるし、敵にやられそうになった人が自殺することも防げる。だが必要であれば、スパイを撃つことはできる。

 

現在のハーマイオニーのクィレル点は二百四十四点で、マルフォイは二百十九点、ハリーは二百二十一点。各軍には兵士が二十四人ずつ。

 

「じゃあ今回は、慎重にやりましょうか。大敗しなければいいんだから。」

 

「いや……」と言ってザビニは真剣な表情をした。「まずいことに、マルフォイもポッターも、勝つためにはなにをしないといけないかが分かっている。あの二人からすると、まず協力してうちを倒して、そのあとでおたがいの決着をつけるしかない。そこで、こちらとしてとるべき策は——」

 

ハーマイオニーは軽いよろめきを感じながら教室をあとにした。 ザビニが提案したのは自明な作戦ではなかった。奇妙で複雑で何重にもなっていて、ザビニというよりハリーが考えつきそうな種類の作戦だ。 その作戦を自分が()()できたこと自体、おかしいような気がした。 ふつうの女の子は、ああいう作戦を理解できないものだ。 あんな作戦を理解するような子だと〈帽子〉に知られていたら、きっと自分はスリザリンに〈組わけ〉されていただろう……

 

◆ ◆ ◆

 

うれしいのは、意図してやるようにしただけで、混沌(カオス)がこれだけ早くはびこってくれたことだ。

 

ハリーは司令官室の席にいる。家事妖精(ハウスエルフ)に家具を注文する権利をあたえられたので、ハリーは玉座と、黒と紅の模様のカーテンを注文した。 床は血のような赤色の照明と影で色どられている。

 

ハリーはやっとふるさとに帰れたような気分がしてきた。

 

目のまえには、四人の大尉が立っている。ハリーの腹心の部下たちだが、そのうち一人は裏切り者だ。

 

これ。こうでなくちゃ。

 

「全員そろったな。」とハリー。

 

「世界に〈混沌(カオス)〉を。」と四人の大尉が唱和した。

 

「ワタシ ノ ホヴァークラフト ワ ウナギ デ イッパイ デス。」とハリー。

 

「コノ レコード ニワ キズ ガ アル ノデ カイマセン。」と四人の大尉が唱和した。

 

「総て弱ぼらしきはボロゴーヴ。」

 

「かくて郷遠しラースのうずめき叫ばん。」

 

ここまでが儀礼的な部分である。

 

「錯乱作戦はどうなっている?」とハリーは銀河帝国皇帝パルパティーンのようなかすれ声で言った。

 

「順調です、司令官。」とネヴィルは、軍関係のことを話すときいつもそうするように、低い声で言った。低すぎて、咳こんでしまうほどだった。 大尉としてのネヴィルは黒の学校用ローブを着、ハッフルパフの黄色のえりを見せ、髪の毛は活発な青年風にわけてなでつけてある。 上着はほかにもいくつか試させたが、ハリーはこのちぐはぐさが一番気に入っていた。 「わが軍は昨晩から、もう五件謀略を発動しました。」

 

ハリーは邪悪な笑みをした。「そのうちひとつでもうまくいきそうな可能性は?」

 

「ないですね。これが報告書です。」とネヴィル。

 

「よし。」と言ってハリーは冷たく笑い、ネヴィルから羊皮紙をうけとった。できるかぎり、埃をのどに詰まらせたような声で笑うようにした。これで謀略は合計六十件。

 

ドラコはせいぜい応戦してみるがいい。できるものなら。

 

ブレイズ・ザビニについては……

 

ハリーはまた笑った。今回は邪悪にしようと意識する必要もなかった。 定例会議用に、だれかの飼いクニーズルをぜひ一匹借りておきたい。こうやって笑うときには、猫をなでるともっとさまになる。

 

「これ以上謀略をやる必要があるんですか?」とフィニガン大尉が言う。「その、もうこれくらいで十分なんじゃ——」

 

「いや、謀略はいくらあってもたりない。」とハリーはきっぱり言った。

 

まさにクィレル先生が言ったとおりだ。 もしかするとこれは、かつてない新境地にふみこみつつあるかもしれない。 ここで退いてしまえば、ハリーはひどく後悔することになるだろう。

 

ドアにノックがあった。

 

「〈ドラゴン〉軍司令官のおでましだ。」と言って、ハリーは邪悪に予見する笑みをした。「予想したとおりの時刻だ。お通しして、きみたちは下がりなさい。」

 

四人の〈カオス〉軍大尉がドタドタと出ていく。すれちがいざまに四人から邪険な視線をうけながら、敵軍司令官ドラコがハリーの隠れ家へと入ってくる。

 

大人になったらこういうことをさせてもらえないのなら、永遠に十一歳のままでもいいとハリーは思った。

 

◆ ◆ ◆

 

太陽の光が赤いカーテンを通って漏れ、血のような筋が床のうえをあばれているのを背に、ハリー・ポッターが大人サイズのクッションつき椅子に座っている。金銀の装飾がほどこされたこの椅子を、ハリーは玉座と呼ばせている。

 

(世界を征服されてしまうまえにハリー・ポッターを打倒するとドラコは決心していたが、その判断はただしかったという確信が強くなってきている。ハリー・ポッターに支配された世界での生活はどうなるのか、想像だにしがたい。)

 

「こんばんは、司令官。」とハリー・ポッターは冷ややかにささやく。「思ったとおりの時刻に来たね。」

 

なんということはない。二人はこの時間に会う約束をしていたのだから。

 

それ以前に、いまは夜ではない。だがドラコのこれまでの経験上、つっこまないのが得策だ。

 

「ポッター司令官。」とできるだけ尊厳ある口調でドラコは言う。「われわれ両軍がちからを合わせないかぎり、どちらもクィレル先生の願いごとを勝ちとれるのぞみはない。そうだろう?」

 

「そうだ。」 ハリーは〈ヘビ語つかい〉になったつもりのような声のだしかたをした。 「ぼくらは協力して〈太陽〉を打倒して、そのあとでおたがいの決着をつけるしかない。 でもどちらかが途中で裏切ったら、裏切ったほうがあとの戦闘で優位にたてる。 〈太陽〉軍司令官もそのことを承知しているから、おたがい相手に裏切られた、とぼくらに思いこませようとする策にでるだろう。 そしてきみとぼくのほうもそのことを承知しているから、自分から裏切っておいて、グレンジャーの罠にかかってしまったという言い訳をしたくなる。 そしてグレンジャーも()()()()を承知している。」

 

ドラコはうなづいた。 そこまではだれにでもわかる。 「そして……どちらにとっても重要なのは勝てるかどうかだけだし、裏切りをしようがだれにもとがめられはしない……」

 

「そのとおり。」と言ってハリー・ポッターは真剣な表情をした。「これは()()〈囚人のジレンマ〉だ。」

 

〈囚人のジレンマ〉は、ハリーがドラコに聞かせた講義ではこういう風に説明されていた。囚人が二人、別々の牢屋にいれられている。 両者を有罪とする証拠がすでにあるが、軽い罪で、懲役二年相当だ。 両者はおたがいに対する()()()をする機会をあたえられる。一人が相手の悪事を証言すれば一年減刑され、もう一人は二年懲役が増える。 沈黙をつづけるという()調()()な選択肢もある。 囚人が両方とも裏切って、おたがいの悪事を証言すれば、どちらも三年服役することになる。 両方が協調して沈黙をつづければ、それぞれ二年の刑、片方が裏切ってもう片方が協調的であれば、裏切ったほうは一年、協調したほうは四年服役する。

 

両者とも、相手の選択を知らされないまま決断をしなければならない。また、あとで決断を変更する機会はない。

 

ドラコの考えでは、もし囚人が〈魔法界大戦〉時代の〈死食い人〉だったら、裏切った者は全員〈闇の王〉に殺される。

 

ハリーはそれを聞いてうなづいて、それも〈囚人のジレンマ〉を解決するひとつの方法だ、と言った——〈死食い人〉にとっては〈闇の王〉がそうしてくれるのが()()()()()だろう、とまで言った。

 

(ドラコはハリーをさえぎって、そのさきに行くまえに、しばらく考えさせてほしい、と言った。 そういうことなら、父上や父上の友人たちが〈闇の王〉の支配を甘受して、ときにひどい処遇を受けいれたのもわかる気がする……)

 

ハリーによると、政府というものが存在する理由もほとんどこれだけだ、という——〈囚人のジレンマ〉の裏切り者とおなじように、個人個人はひとから盗むほうが得だと思うかもしれない。 だがもし全員がそう考えれば、国は混沌におちいり、全員が損をする。これもちょうど囚人両方が裏切る場合とおなじだ。 だから人びとは政府に支配されることをえらぶ。〈死食い人〉が〈闇の王〉に支配されることをえらぶのとおなじように。

 

(ドラコはそこでもう一度ハリーを止めた。 野望のある魔法使いは権力をもとめる。支配されるほうはあわれなハッフルパフだから支配される。それがあたりまえだと思っていた。 考えなおしてみても、やはりそれがただしいような気がする。いっぽうでハリーの視点も、まちがいではあれ魅力的だった。)

 

だが、第三者に罰せられるという恐怖だけが、〈囚人のジレンマ〉において協調をうながす唯一の手段ではない、とハリーは言った。

 

魔法でつくりだした自分のコピーとゲームをすることを考えてみるがいい、とハリーはつづけた。

 

もしドラコが二人いれば、どちらも相手に危害がくわわることは避けようとするだろうし、マルフォイ一族たるもの裏切り者の汚名をうけるようなことはしない、とドラコは言った。

 

ハリーはうなづいて、これももうひとつの〈囚人のジレンマ〉の解決法だと言った——ひとは相手の身を案じたり、自分の名誉を重んじたり、評判をよくしたいと思ったりする。 実のところ、()()〈囚人のジレンマ〉を組み立てるのはむずかしい——現実には、相手の身を案じたり、自分の名誉や評判を守りたかったり、〈闇の王〉に罰されたりなど、とにかく刑期以外の要素が気になってくることが多い。 でも仮に、そのコピーが、()()()利己的な人物のコピーだったとしたら——

 

(二人は例としてパンジー・パーキンソンを使った。)

 

——どちらのパンジーも()()の利益しか考えず、もう一人のパンジーのことは気にしないとすると——

 

もしパンジーが気にすることがほかになにもなく……〈闇の王〉に罰される心配もなく……パンジーは自分の評判を気にしないとすれば……名誉もどうでもいいと思っていてもう一人の囚人に対する責任感もないとすれば……その場合、パンジーにとって合理的な行動は、協調か裏切りのどちらだろうか?

 

もう一人のパンジーを裏切るのが合理的な選択だ、という人もいるという。だがハリーと、ダグラス・ホフスタッターという人は異論をとなえる。もしパンジーが——いい加減な理由ではなく、()()()()()()()——裏切れば、もう一人のパンジーもまったくおなじように考えるはずだ。二体のコピーはかならずおなじ判断をする。 だからパンジーにとっての選択肢は、両方のパンジーが協調的になる世界と、両方が裏切る世界しかなくなる。その二つのうちなら、両方が協調する世界のほうが有利だ。 それに、もし合理的な人が〈囚人のジレンマ〉で裏切る選択をするなら、そんな『合理主義』は広める価値がない。というのも、そんな『合理的』な人間だらけの世界は混沌におちいるからだ。そんな『合理主義』は敵にあげてしまったほうがいい。

 

……という話をしたとき、その場ではまともな話に聞こえていたのだが、()()考えてみると……

 

「あのとき、合理的な回答は協調的になることだ、と言ったな。 でも、きみはぼくにそう信じさせたいに決まってるじゃないか?」  そしてもしドラコがだまされて協調的になってしまえば、ハリーは、()()()()()()()()()()()()、と言って、ドラコをあとで笑い者にするだろう。

 

「講義ではうそはつかない。」とハリーは真剣な調子で言う。「でも注意してほしいんだけど、ぼくはなにも考えずに協調的になれ、とは言っていない。 こういう()()〈囚人のジレンマ〉はそういうものじゃない。 ぼくが言ったのは、決断するとき、自分のことだけ考えて決断するべきじゃないし、みんなのためを考えて決断するべきでもないっていうこと。 自分と()()()()()()人ならおそらく同じ理由で同じ行動をするだろう、と思えるような選択にするほうがいい。 自分をよく知っている人なら予測できるような選択肢をえらんだほうがいい。そうすれば、ほかの人が自分についてただしい予測をした場合に、後悔する必要がなくなる——そのうち〈ニューカム問題〉のことを教えてあげよう。 そこで、ぼくらが問うべきことはこれだ。ぼくらは同じように考えて、どちらにしろ()()()()をする程度に、おたがいよく似ているか? それとも、おたがいをよく知っていて、おたがいがなにをするかを予測できるか? つまり、ぼくはきみが裏切るかどうかを予測でき、きみはぼくがその予測と同じ選択をするかどうか——なぜならぼくはきみがそう予測できると知っているから——を予測できるか?」

 

……ドラコはいまの話の()()を理解するのがやっとだった。ということは、答えは『ノー』しかないのではないだろうか。

 

「イエス。」とドラコ。

 

沈黙。

 

「そうか。」と言って、ハリーはがっかりしたようだった。「あーあ。じゃあ、なにか別の方法を考えないと。」

 

やっぱりうまくいかなかったか。

 

ドラコとハリーはああでもないこうでもないと言いあった。 二人はずっとまえに、戦場でなにが起きようが、実生活で約束をやぶったことにはならない、と合意してあった——といっても、ハリーがクィレル先生の居室でやったことについて、ドラコはちょっと憤慨してはいたし、実際そうだとハリーに言ったのだが。

 

だが二人が名誉にも友情にもたよれないとすれば、問題はのこったままだ。グレンジャーの分断工作をしりぞけて、〈太陽〉軍を倒すために両軍はどうやって協力すればいいのか。 クィレル先生のルールによれば、〈太陽〉軍をけしかけて相手がたの兵士を殺させる理由こそないが——そんなことをすれば、乗り越えるべき障害物を大きくするだけだ—— 一方で、連携する両軍にとっては、一体となって行動するよりも、先をあらそって獲物をとりあう理由があるし、混戦になったときおたがいの兵士を撃つ理由もある。

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーはレイヴンクロー寮にもどるため歩いていたが、道順のことはほとんど眼中になかった。戦争や反逆行為やそのほか自分の年齢にふさわしくないことばかり考えていて、かどを曲がったところで、正面から大人にぶつかってしまった。

 

「ごめんなさい。」と無意識に口にしたあと、なにも考えずに「ヒィ!」と言ってしまった。

 

「心配無用、ミス・グレンジャー。」と明るい笑みをうかべて言っているのは、きらきらの目と銀色のひげのホグウォーツ総長。「なにも案ずることはない。」

 

どうしようと思いながら、ハーマイオニーは世界最強の魔法使いの優しげな顔から視線をはずすことができなかった。主席魔法官であり、最上級裁判長であり、長年の〈闇の王〉とのたたかいであたまがおかしくなった人物……などといういろいろな情報があたまのなかをすばやく駆け抜ける裏で、ハーマイオニーののどはまだ、なさけない声を出している。

 

「実は、こうやってぶつかったのはまことに好都合。ちょうど気になっていたのじゃ。きみたち三人は、どんな願いごとをしようとしているのかと……」

 

◆ ◆ ◆

 

土曜日の朝は快晴だった。生徒たちはひそひそ声で会話している。まるで一人が声をあげた瞬間、なにかが起爆するというかのようだ。

 

◆ ◆ ◆

 

ホグウォーツの上層階が戦場になってくれれば、とドラコは思っていた。クィレル先生によれば、森より都市のほうが実際には戦闘が発生しやすく、教室や廊下をリボンでくぎって戦場とすれば、いいシミュレーションになるという。 〈ドラゴン旅団〉はそういった戦場でいい戦果をあげている。

 

ところがドラコの不安が的中し、クィレル先生は今回のために()()な戦場を考案した。

 

ホグウォーツ湖だ。

 

しかも船は使わない。

 

水中戦だ。

 

〈巨大イカ〉は一時的に麻痺させられ、一帯にはグリンディロウよけの呪文がかけられ、水中人にはクィレル先生が話をつけた。兵士には水中活動用の(ポーション)が全員分支給され、水中で息ができ、視界が正常になり、会話もでき、速歩ほどではないがキックすればそれなりの速度で泳げるようになっている。

 

巨大な銀色の球体が戦場の中央に固定されている。水中で月のようにかがやくそれは、 方向の感覚をえやすくするためのものだ——最初のうちは。 この月は戦闘がすすむにつれゆっくりと欠けていき、最終的に新月になったとき、まだ戦闘がつづいていれば、それを合図として終了することになっている。

 

水中戦。となると、陣地を防衛することはできない。攻撃はどの方向からくるか分からないからし、ポーションを使っても、湖は暗いからあまり遠くまで見ることはできない。

 

そして、中心部から離れすぎると、一定時間後から、からだが光りだし、狙われやすくなるようになっている——通常であれば戦場から逃げだした軍にはすぐにクィレル先生が敗北を宣言するのだが、今日は点数制だ。 もちろん、光りだすまえに多少の時間はあるから、暗殺戦術をとることも可能だ。

 

〈ドラゴン旅団〉にわりあてられた初期位置は下のほうだった。そのはるか上に、水中の月がかがやく。水はにごっているが、〈光点(ルーモス)魔法(チャーム)〉の照明でほぼ見とおすことができる。といっても、作戦開始時点で照明を落とすよう、すでに兵士に命じてある。 こちらが敵軍を発見するまえにむこうから見られるような真似をするつもりはない。

 

ドラコは何度か足でキックして上昇し、水中に浮かぶ兵士たちを見おろせる位置についた。

 

ドラコの冷ややかな視線をうけて、おしゃべりはほぼ瞬時にとまった。恐れと不安のまじった兵士たちの表情を見て、ドラコは気をよくした。

 

「よく聞け。」 マルフォイ司令官の声は通常より低く、ゴボゴボした音がまじっていた。むしろ『よぎゅぎげ』に近かったが、音自体ははっきり伝わった。 「今回の戦闘に勝つ方法はただひとつ。 〈カオス〉と合流して〈太陽〉をたたきつぶす。 それが終わったら、ポッターとの決戦に勝つ。 かならず勝つ。わかったか? 途中の部分がどうなろうとも、この結末だけはゆずれない——」

 

そして、ドラコはハリーとのあいだで取り決めた作戦を説明した。

 

兵士たちは愕然とした表情でおたがいを見あった。

 

「——もしだれかの個人的な謀略のせいでこの作戦に支障がでるようなことがあれば……陸にあがったとき火刑にしてやるから覚悟しろ。」

 

兵士たちはおずおずと声をあわせ、イエッサーと言った。

 

「極秘命令をあたえた兵士にはもうひとこと言っておく。命令は一字一句たがえずに実行しろ。」

 

兵士の半数ちかくが()()()()()()()()()()()。ドラコは権力を掌握した際にその面々を処刑すると誓った。

 

もちろん秘密の命令というのはどれも、実際の命令ではない。ある〈ドラゴン〉兵には、別の〈ドラゴン〉兵に自軍を裏切る任務をさずけるように命じてある。その別の〈ドラゴン〉兵には、任務として言われた話を極秘に報告するよう命じてある。 こんな風にして兵士一人一人に、今回の勝敗はすべてこのひとつの任務の成否如何にかかっている、と言って秘密の命令をあたえておいたのだ。その任務が、各自が事前にたくらんでいたことよりも重要だと思わせられれば、しめたものだ。 バカを満足させるのが第一の目的だが、報告と命令に齟齬があった場合には、スパイを何人か洗いだすことができるかもしれない。

 

〈カオス〉軍に勝つためのほんとうの作戦については……廃案にした一個目の案よりはシンプルだが、それでも父上に認めてはもらえないだろう。 努力はしたのだが、これ以上ましな作戦は思いつかなかった。 こんな作戦はだれにも効きめがあるとは思えないが、相手がハリー・ポッターなら別だ。 実はそもそもハリーもおなじ作戦をたてていた、ということをドラコは裏切り者から聞いている。ドラコ自身、そんなところだろうと思っていた。その作戦に、ドラコは裏切り者と協力してすこし手をくわえておいた……

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは深呼吸をして、肺のなかで水がゴボゴボと音をたてるのを感じた。肺に別状はない。

 

森が戦場になったとき、これを言うチャンスはなかった。

 

ホグウォーツ城の廊下が戦場になったときも、これを言うチャンスはなかった。

 

空中が戦場になって全員にホウキが支給されたときも、これを言うチャンスはなかった。

 

これを言うチャンスがくるとは思いもよらなかった。しかも、現実にこういうことをやるような年齢になるまえにくるとは……

 

〈カオス軍団〉は困惑の表情でハリーを見ていた。司令官は遠くのあかるい水面に両足をむけ、にごった水底にあたまをむけている。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()」と兵士たちにむけてどなると、若き司令官は重力が方向をあたえてくれない状況での戦闘方法を説明しはじめた。

 

◆ ◆ ◆

 

ボオーンという鐘の音が水中にひびくと同時に、ザビニとアンソニーにくわえて五人の兵士が、にごった水底にむけて泳ぎだした。 唯一のグリフィンドール生パーヴァティ・パティルが一瞬だけふりむいて、あかるい表情で手をふり、飛びこんだ。スコットとマットはおなじようにし、のこりは全員無言で沈んで、すがたを消した。

 

グレンジャー司令官はそれを見ながら、のどが詰まる感じを我慢した。 これはあとのない賭けだ。たんにできるだけ多くの敵をしとめようとするだけでいいのに、こうやって自軍を分散させるのは危険だ。

 

どの軍も自分たちの勝ちすじが見えるまで動こうとしない。そのことに注意しろ、とザビニは言っていた。 〈太陽〉軍にとっては、勝てる作戦があるだけではたりない。二つの敵軍両方に自軍の勝利が確実だと思わせて、手遅れになるまでそのまま勘違いさせておく必要がある。

 

アーニーとロンはまだショックの表情をしている。 スーザンは消えていく兵士たちの方向をじっと見て、計算だかそうな表情をしている。 この場にのこった兵士たちはただ当惑している。みな太陽にてらされた水面のすぐ下をただよっているので、軍服には光の模様が浮かんでいる。

 

「それで、これからどうする?」とロンが言う。

 

「あとは待つだけ。」とハーマイオニーが全兵士にきこえるくらいの声をだす。 口が水でいっぱいの状態で話すのは変な感覚だ。夕食の席について、はしたなく口からよだれを垂らしてしまっているような気分がしてならない。 「この場にのこっている人たちは、全員やられることになる。〈ドラゴン〉と〈カオス〉がよってたかってくるんだから、それはしょうがない。 でもやられるまえに、できるだけたくさんの敵を道づれにしましょう。」

 

「ちょっと聞いて。」と〈太陽部隊〉兵のだれかが言う……ハンナだ。声がすこし区別しにくい。 「かなりややこしい作戦なんだけど、このやりかたなら、〈ドラゴン〉と〈カオス〉が勝手におたがいを攻撃してしまうの——」

 

「わたしも!」とフェイが言う。「わたしの作戦も聞いて! ネヴィル・ロングボトムは実はこちらの味方で——」

 

「フェイもネヴィルと話してたってこと?」とアーニーが言う。「変だな。だってネヴィルとはぼくが——」

 

ザビニに同行していないスリザリン生は何人かいたが、そのうちのダフネ・グリーングラスほか数名が我慢できずにくすくすと笑いだした。「いや、ロングボトムと密通していたのはおれだ。」という声が続々と聞こえてくる。

 

ハーマイオニーはただ、うんざりした様子でそれを見つめた。

 

「もうわかった?」と騒ぎがおさまるのを待ってからハーマイオニーが口をひらいた。 「そうやって作戦だと思わされていたのはぜんぶ〈カオス軍団〉の偽計なの。〈ドラゴン〉がしかけた偽計もあったかもしれない。 本気でハリーやマルフォイを裏切ってきた人はみんな、わたしかザビニのところに来てる。一兵士じゃなくて。うたがうなら、秘密作戦のメモをおたがい見せあってみて。」  ハーマイオニーはザビニのように謀略が得意ではないが、どの士官の言うこともよく理解できる。だからこそクィレル先生は彼女は司令官に任命したのだ。 「だから、敵軍がここにきたら、謀略のことは忘れて、とにかく戦うこと。いい?」

 

「でも……」とアーニーはショックを隠せない様子で言う。「ネヴィルはハッフルパフなのに! ネヴィルがぼくらにうそをついたっていうのか?」

 

ダフネはげらげらと笑いつづけていたので、口からでた水のいきおいでひっくりかえってしまった。

 

「ロングボトムだからどうだ、ってのは知らないけどさ。」とロンが声を低くして言う。「もうハッフルパフじゃなくなってると思う。 あんなに()()()()()()()()に心酔してからは。」

 

「実はね、」とスーザンが言う。「本人から聞いたんだけど、いまのネヴィルはカオス・ハッフルパフなんだって。」

 

()()()()。」とハーマイオニーが声をはりあげる。「スパイと思われる兵士は全員、さっきザビニが連れていった。だから()()軍のなかでは、おたがい疑心暗鬼にならなくていい、と思う。」

 

()()()()()()スパイだって?」とロンが叫んだ。

 

()()()()()()()?」とハンナ。

 

「パーヴァティはどうみてもスパイでしょ。」とダフネが言う。 「スパイ用の靴も買いにいってたし、スパイ用の口紅もしてたし、そのうちスパイの男をつかまえて結婚して、たくさん子スパイを産むつもりでいるんじゃないの。」

 

そこで鐘の音がなりひびき、〈太陽〉軍が二点獲得したことがわかった。

 

そのすこしあとで鐘が三度なり、〈ドラゴン〉が一点をうしなったことを知らせた。

 

反逆者が司令官を殺すことは許されていない。十二月最初の戦闘で、開戦後一分以内に司令官が三人ともやられてしまった大惨事をうけてのルールだ。 けれど運がむけば……

 

「あら? ミスター・クラッブは一眠りしちゃったみたいね。」とハーマイオニーは言った。

 

◆ ◆ ◆

 

二すじの群れのようにして、両軍はならんで泳いでいく。

 

ネヴィルはゆっくりと落ち着いた動きでキックする。 つっこめ。どちらむきでもいいから、自分が動いている方向につっこめ。 敵に対峙する自分の断面が最小になるようにしろ。あたまか足を相手に見せろ。 つまり、下半身かあたまのどちらかからつっこめ、ということだ。そして敵がいる方向はつねに()だ。

 

〈カオス軍団〉兵が全員そうしているように、ネヴィルも泳ぎながらあたまをあちこちに向けている。上、下、ぐるりと回転、横。 〈太陽部隊〉兵がこないかの監視の意味もあるが、〈カオス軍団〉兵が裏切って杖をこちらにむけようとするのを見逃さないためでもある。 反逆者はふつうは混戦になってから動きだすが、今回はあれほどはやく鐘がなったので、みんな警戒している。

 

……実のところ、そのことにネヴィルはがっかりしている。 十一月には、ネヴィルたち兵士は全員一体となって、おたがいを助けあっていた。いまでは、おたがいが裏切らないか、疑心暗鬼になってばかりいる。 〈カオス〉軍司令官は楽しんでいるかもしれないが、ネヴィルはとてもそうは思えない。

 

かつて『上』だった方向が、着実にあかるくなっていく。水面と〈太陽〉軍に近づいている証拠だ。

 

「杖を準備せよ。」と〈カオス〉軍司令官が言った。

 

ネヴィルの小隊は全員杖をかまえ、進行方向にむけつつ、くびをふる速度をあげてあたりをチェックした。 〈太陽〉軍からだれかが寝返っているのなら、そろそろ攻撃に出てくれていていいころだ。

 

もう一すじの群れである〈ドラゴン旅団〉もおなじようにしている。

 

()()()()」と遠くで〈ドラゴン〉軍司令官の声がした。

 

()()()()」と〈カオス〉軍司令官がさけんだ。

 

「〈太陽〉に!」と両軍の兵士が全員さけんで、下にむかっておそいかかった。

 

◆ ◆ ◆

 

()()」と湖のそばのスクリーンを見ていたミネルヴァが思わず声をもらした。ほかの場所でもおなじように声があがっている。今回は初戦と同様、ホグウォーツのみなが観戦している。

 

クィレル先生は乾いた笑いをした。 「言っておいたとおりでしょう、総長。 どんなルールを用意しても、ミスター・ポッターなら、かならず悪用する方法を思いつくと。」

 

◆ ◆ ◆

 

四十七人の兵士が自軍の十七人の兵士におそいかかるよこで、ハーマイオニーはあたまがまっしろになった。貴重な時間が何秒もすぎていく。

 

なんのつもりで……

 

そして答えがぴんときた。

 

もともと〈太陽〉軍所属の兵士が、〈太陽〉の名前を言うだれかにしとめられるたび、ハーマイオニーは一クィレル点をうしなう。 〈太陽〉軍兵士が二人やられると、やったのがどちらかの軍であっても、()()が二点分、彼女の点に近づく。おなじ獲物を()()()()()()()ということだ。 もしだれかが〈太陽〉の名前をつかわずに撃てば、そのときの鐘の音は、混戦だろうが見過ごされはしない……

 

ザビニは、攻撃してきた両軍を仲違いさせるという決まりきった作戦をえらばなかった。ハーマイオニーは急に、ああしなくてよかったとほっとした。

 

とはいえ、気分のいいものではない。こうやって自分が勝つ可能性が減っていき、希望がうしなわれていくのを見るのは。

 

ハーマイオニーの兵士は大半がまだ困惑した様子だが、何人かは意味を理解して恐怖をおぼえた表情をしている。

 

「だいじょうぶ。」とスーザン・ボーンズ隊長がきっぱりと言い、何人もがそちらをふりかえった。 「やることはいっしょ。できるだけたくさんの相手を道づれにすること。 それに、ザビニがスパイを連れていってくれたんだから! こっちは味方を監視しなくてもいいってことじゃない。むこうとはちがって!」  スーザンが挑戦的な笑みをしたので、ほかの兵士にも笑みがひろがり、ハーマイオニーもつられて笑みをうかべた。 「十一月のころとおなじようにすればいいだけ。 堂々と、全力をつくして、仲間を信頼して——」

 

ダフネがスーザンを撃った。

 

◆ ◆ ◆

 

血の神に血を(ブラッド・フォー・ザ・ブラッドゴッド)」と〈カオス〉軍のネヴィルが甲高い声で言った。水中なので、実際には「ブラブ・フォー・ザ・ブラブ・グルブ!」みたいに聞こえたが。

 

ウィーズリー隊長は回転してネヴィルに杖をむけ、撃った。だがネヴィルは()()()()、杖を進行方向にかまえて泳いでくる。つまり、ネヴィルの全身が〈簡易防壁〉におさまって見える。 いまネヴィルをしとめることができる人がいたとして、それは〈太陽〉軍のロンではない。

 

けわしい決意の表情をして、ウィーズリー隊長は上にいるネヴィルにむけて正面からつっこんでいくと同時に、〈防幕(コンテゴ)〉を言う口のかたちをした。盾は水中なので見えない。

 

両軍の二雄が弓を引くように撃ちあう。どちらも狙いは相手のどまんなかだ。 二人は何度も決闘をしたことがあったが、今回勝てば、すべてちゃらになる。

 

(はるかかなた、湖の岸では、百人ちかくの観客が息をひそめてその様子を見ていた。)

 

『虹とユニコーン!』と〈太陽〉軍のロン隊長が咆哮した。

 

『千匹の仔を孕みし〈黒山羊〉!』

 

『宿題やれよ!』

 

着実に距離をせばめながら、二人は撃ちあう。どちらもまったくからだの芯をゆるがせない。さきにゆるがせたほうが、側面をさらして撃たれることになる。かといって、どちらもゆずらなければ、いずれたがいに衝突する……

 

自分がまっすぐに落ちていくのに対して、敵はまっすぐに上がってくる。金づちが金どこにぶつかるように、どちらも道をゆずろうとしない……

 

「必殺、カオス式ツイスト!」

 

ネヴィルはウィーズリー隊長の恐怖の表情を目にしながら、〈浮遊の魔法(チャーム)〉に身をまかせた。 この技は戦闘開始まえに試してあった。ハリーの推測したとおり、ウィンガーディウム・レヴィオーサは彼我が水中にいるとき、まったく新しい効果を発揮する。

 

()()()()()()()()()()()」とロン・ウィーズリーが叫ぶ。「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()——」

 

そう言うまえに身をひねって脇によけていたウィーズリー隊長の足をネヴィルが撃った。

 

「フェアにたたかうのは趣味じゃない。」と眠った相手にむけてネヴィルが言う。「ぼくはハリー・ポッターのようにたたかう。」

 

◆ ◆ ◆

 

グレンジャー:237点/マルフォイ:217点/ポッター:220点

 

ハーマイオニーを撃つときは、いまだにこころが痛む。 やすらかに眠ったハーマイオニーの表情や、両手がだらしなくただよい、太陽光線のえがく曲線が迷彩服と栗色の髪の毛のうえをさまようすがたを見るのは忍びない。

 

だがもしハリーが彼女を撃つことから逃げたとしたら……それがどういう意味かはドラコに伝わってしまうし、ハーマイオニー自身も怒らせてしまう。

 

()()()()()()()()()()、とハリーは自分の脳にむけて言いながら、足でキックしてその場を去っていく。()()()()()()()()()()()()()

 

はたしてそうかな?——と脳が言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーはちらりとふりかえった。

 

いや、心配ない。口から泡がでているだろ。

 

たったいま息を引きとったところかもしれない。

 

うるさいな。なぜそこまで彼女を偏執的に守りたがる?

 

だって、人生はじめての真の友だちだろ? ほら、あのペット(ロック)はどうなった?

 

だまってくれないか。あのくだらない石ころは生きてすらいなかったし、当然意識もない。あんなのが幼児期のトラウマだなんて、なさけなさすぎる——

 

両軍はすばやく二手にわかれ、また二すじの群れにもどった。

 

グレンジャー司令官は十七点をうしなった。一方で、〈カオス〉兵三人と〈ドラゴン〉兵二人を道づれにしていった。 さらに、〈カオス〉兵一人と〈ドラゴン〉兵二人が裏切り者として撃たれた。 つまり正味としては、彼女がうしなったのは七点、ハリーがうしなったのは一点、ドラコがうしなったのは二点。 いまでも、〈カオス〉軍は二十人の〈ドラゴン〉兵を殲滅しさえすれば、楽に勝てる。 不確定要素はもちろん、のこる七人の〈太陽部隊〉兵だ……

 

……〈太陽部隊〉兵と呼べるのであればだが。

 

二つの群れはとなりあって進むが、ぎこちない。どちらの軍の兵士も、真の主人を宣言して攻撃にはいれ、と命令されるのを待っている……

 

「〈特務命令その一〉〈その二〉〈その三〉をうけた兵士は、命令内容を忘れるな。それと、〈その三〉には〈マーリンの命令〉がついてるのにも注意。応答はいらない。」とハリーが大声で言った。

 

軍の三分の二は信頼できる兵士であり、うなづかなかった。のこりの三分の一はただ、とまどっていた。

 

〈特務命令その一〉:今回は合いことばをかけたりする手間をかける必要はない。指揮官が個別に承認していない謀略はやるだけ無駄だ。泳いで、防御して、攻撃する。それだけを考えろ。

 

この十二月、ハーマイオニーもドラコも兵士と対立して、兵士が勝手な謀略をするのを防ごうとしていた。 いっぽうハリーは兵士たちとの約束で、前回と前々回、兵士が謀略をすることを支持していた……ただし、()()()にはいつか、謀略をちょっと止めてくれ、とお願いするかもしれないとも言ってあった。それでいい、という反応だった。 だからこそ、この決定的な場面で、兵士たちはよろこんでハリーにしたがってくれている。

 

ハーマイオニーやドラコがあんな命令をだしたとしても、効果はなかっただろうことは想像にかたくない。 兵士にとって、司令官が謀略をする仲間だと思えるか、せっかくの楽しみをだいなしにするつまらない頑固者だと思えるかは、大きな違いだ。 秩序を強制することは、混沌を拡大させることに等しい。そしてその作用は逆方向にもはたらく……

 

「来たぞ!」とだれかがさけんで、指さした。

 

湖の底のほうから忘れられた兵士たちがやってくる。直近の戦闘を避けた七人の〈太陽部隊〉兵はかがやく臆病者のオーラをまとっているが、戦列にもどったことで翳りが見える。

 

二つの群れはためらい、各自不安そうに杖をむけた。

 

「攻撃停止!」とハリーはさけび、マルフォイ司令官も似た命令を発した。

 

一瞬みなが息をひそめた。

 

それから七人の〈太陽部隊〉兵は上に泳いでいき、〈ドラゴン旅団〉に合流した。

 

〈ドラゴン旅団〉が歓声をあげて勝ち誇った。

 

〈カオス軍団〉の三分の一から狼狽した声があがった。

 

のこりの三分の二のうちの何人かは指示されたことを忘れ、笑みをうかべた。

 

ハリーは笑っていない。

 

ああ、これはちょっとうまくいきそうにないな……

 

かといって、ほかにましな作戦があるわけでもない。

 

「〈特務命令その二〉と〈その三〉はまだ有効だ! たたかえ!」とハリーがどなる。

 

()()()()()()()()()」と二十人の〈カオス軍団〉兵が咆哮した。

 

()()()()()()()()()()」と二十人の〈ドラゴン旅団〉兵と七人の〈太陽部隊〉兵が咆哮した。

 

〈カオス〉軍がまっすぐ下に飛びこむのと同時に、反逆者たちが攻撃の姿勢をとった。

 

◆ ◆ ◆

 

グレンジャー:237点/マルフォイ:220点/ポッター:226点

 

ドラコは必死であちこちを見やり、なにが起きているのか見きわめようとした。なぜか、数でまさるこちらが劣勢にたたされてる。〈カオス〉の小勢の四隊を〈ドラゴン〉の大きな四隊が追っている。だが交戦をしかけようとするのがこちらなせいで、むこうが()()()方向にこちらが()()することになる。そこにいつのまにか〈カオス〉軍が集結していて、〈ドラゴン〉は無防備ながわから攻撃をうける——

 

またこうなった!

 

「プリズマティス!」と杖をかまえたドラコがさけぶ。あらわれた防壁は水のなかでも見とおせる、きらきらとした玉虫色の平坦な壁で、ドラコとあと五人の〈ドラゴン〉兵を守ることができる。ほぼ同時に、〈カオス〉軍はこちらを通りすぎて砲火をはじめる。そこでやっともう五人の〈ドラゴン〉兵が、自分たちの追っていた〈カオス〉兵のほうに注意をもどす——

 

緊張のなかで、ドラコの〈虹色の壁〉(プリズマティック・ウォール)に睡眠呪文が続々と投げつけられた。どうかこの四人の〈カオス〉兵が〈破壊のドリルの呪文〉を知らないでいてくれ、とドラコはマーリンに祈った。

 

そして〈ドラゴン〉の得点を知らせる鐘がなり、〈カオス〉軍は頭と足をひっくりかえして、泳ぎ去った。ドラコはかすかに震える手をおさえ、〈虹色の壁〉を解除して、杖をさげた。

 

水中でのたたかいはホウキ上でのたたかいよりも消耗させられる。

 

()()()()」とドラコが声をあげ、兵士たちはしたがった。 「〈(ソノラス)〉! こちらに集まれ!

 

〈ドラゴン〉軍はドラコのまわりに集結しはじめ、〈カオス〉軍はその瞬間をとらえて身をひるがえし、〈ドラゴン〉兵を追いはじめた——〈カオス〉の得点を知らせる鐘を聞いて、ドラコは大声で罵倒のことばを言った——〈簡易防壁〉もまともにかまえられないのはどいつだ——そして〈ドラゴン〉軍がたがいを支援できる距離をとったところで、〈カオス〉兵はよどんだ水のむこうにもどっていった。

 

数で優位であるはずなのになぜか、〈ドラゴン〉が〈カオス〉に三度得点をあげると、〈カオス〉は四度得点をとりかえす。〈ドラゴン〉のスパイが一人処刑された音も聞こえた。 ハリー・ポッターはすごくいい戦法をすごく早く思いついているのか、それとも、ありえないことだが、水中戦の方法を事前にたっぷり検討してあったのか。 このままでは勝てない。 作戦をたてなおす必要がある。

 

それに、泳ぎながら呪文を命中させるのは簡単ではないようだ。この戦闘は時間切れで終わることになるかもしれない……遠くにある水中の月はもう半分しかない、まずい……急いで作戦をたてなおさなければ……

 

「どういうつもり?」とパドマ・パティルが言った。兵士たちを連れてドラコのもとに来たのだ。

 

パドマは副司令官だ。 参謀としても戦力としても有能で、そればかりかグレンジャーとハリーをライヴァル視し、嫌悪している。だから部下として()()()()()。 パドマと仕事をしていると、レイヴンクローとスリザリンは姉妹だという古い格言を思いだす。 妻にするならレイヴンクローも許容可能な選択肢だと父から言われたときはおどろいたものだが、いまは理解できる。

 

「全員あつまるまで待て。」とドラコは言った。 正直に言えば、すこし休む必要があっただけだ。 司令官であると同時に最強の戦士でもあるというのはやっかいなものだ。休みなく魔法をつかわせられてしまう。

 

つぎにザビニが、〈太陽〉兵二人と〈ドラゴン〉兵四人を連れてやってきた。そのうち一人はザビニの監視役であるグレゴリーだ。 ドラコはザビニを信頼していない。 そして、ドラコもザビニも〈太陽〉兵を信頼していないので、〈太陽〉兵が過半数をしめる構成の隊はつくらない。 この〈太陽〉兵たちの忠誠はドラコかグレンジャーにあるはずだが、グレンジャーは両軍が消耗したところで兵士たちは〈ドラゴン〉を裏切ってくるという偽の約束にだまされていた。おなじようにハリーのほうでは、腹心の〈カオス〉兵たちが偽計にかかって、〈太陽〉兵から飛んでくるのは見せかけだけの〈睡眠の呪文〉だから撃ってはいけない、あとで〈カオス〉軍に寝返ってくるんだ、と思わされている。 だが可能性としては、〈太陽〉兵の一部は実際に〈カオス〉を支持していて、ほんものの〈睡眠の呪文〉を使っていないかもしれない。数で優位に立つ〈ドラゴン〉が勝てていないのは、そのせいなのでは……

 

つぎに来た隊は頭数が欠けていた。三人の兵が別の二人に杖をむけている。二人は武器をもたず泳いでいる。

 

ドラコは歯ぎしりをした。また反逆者か。 せめて反逆者を()()()()手段を用意してほしい、とクィレル先生にうったえておかなければ。こんな設定は()()()()だ。実世界なら、反逆者は死ぬまで拷問にかけてやれるのに。

 

「マルフォイ司令官!」とさけんで、問題の隊の隊長が上昇してきた。テリーという名前のレイヴンクロー生だ。 「どうすればいいか分からなくなりました——セシがボグダンを撃って、でもセシはボグダンがスペクターを撃ったとケラーから聞いたと言っていて——」

 

「そんなこと言ってないって!」とケラーが言った。

 

「言ったじゃん!」とセシが声をあげる。「司令官、スパイはケラーです。もっとはやく気づいていれば——」

 

「〈睡夢(ソムニウム)〉」とドラコ。

 

鐘が三度なって〈ドラゴン〉が一点をうしなったことを知らせた。ケラーのからだがぐったりとして、水のなかをただよいはじめた。

 

ドラコはすでに、『再帰』ということばを知っている。ある謀略がハリー・ポッターのしわざかかどうかも、見ればわかる。

 

(残念ながらドラコはまだ自己免疫疾患のことを知らない。ある種のかしこいウイルスが生物を攻撃するために自己免疫疾患の症状を発生させ、生物に自分自身の免疫系をうたがわせようとする、ということはなかなか思いつくものではない。)

 

()()()()()()()()()」とドラコが声をはりあげる。 「スパイを撃っていいのはぼくと、グレゴリーと、パドマと、テリーだけだ。 うたがわしい者を見たら、出頭させろ。」

 

そして——

 

鐘の音がなり、〈太陽〉が二点を獲得したことを伝えた。

 

()()」とドラコとザビニがほとんど同時に言い、くるりとあたりを見まわす。 だれも撃たれてはいないようだし、〈太陽〉兵は全員、持ち場にいる。 (ただしパーヴァティはパドマ隊のなかにいたらしき裏切り者にやられてしまったので、もういない。当然だが、撃たれたふりの可能性を消すためにパドマがもう一度撃った。だから、あれはパーヴァティではありえない……)

 

「〈太陽〉を裏切って〈カオス〉にいっただれかが?」とザビニは不思議そうに言う。 「でも調べたかぎりでは、裏切り者は全員、〈カオス〉が〈太陽〉に攻撃をしかけるのにあわせて打ってでる手はずだと——」

 

「ちがう!」とパドマがぴんときたらしい口調で言う。 「()()()()()()スパイを処刑したんだ!」

 

()() だったらなぜ——」とザビニ。

 

ドラコも理解した。クソッ! 「ポッターはもう〈太陽〉には勝てた気でいて、でもわが軍とのたたかいはこれからだと思っているんだ! だから損が出ないやりかたで裏切り者を処刑している! ()()()()()()()()() 裏切り者を処刑するなら、まず〈太陽〉になれ! ただしそのあとで〈ドラゴン〉にもどるのも忘れるな——」

 

◆ ◆ ◆

 

グレンジャー:253点/マルフォイ:252点/ポッター:252点

 

ロングボトムのからだがカオス的に水のなかをただよっていく。腕も足もばらばらの向きだ。 ドラコがやっとしとめたあとで、さらに念をいれて()()()()全員が撃ってあった。

 

その近くにいるのはハリー・ポッター。〈虹色の球体(プリズマティック・スフィア)〉に守られ、けわしい顔で全員を見ている。はるか遠くで細く欠けた月が、ゆっくりと消えかけている。 もしロングボトムがもう一人だけしとめていれば(とハリーが考えているのがドラコにはわかる)、もしあの二人の〈カオス〉兵がもうすこしだけ持ちこたえていれば、〈カオス〉は勝てていたかもしれない……

 

ドラコが隊列をたてなおして攻撃を再開し、おたがい戦闘で撃ちあい、スパイを〈太陽〉の名で処刑しあったところで、〈太陽〉はちょうど一点だけ、〈ドラゴン〉と〈カオス〉をうわまわっていた。 ハリーがこのやりかたをとった時点で、ドラコはそれにつづくしかなった。

 

だがいま自分たちは〈カオス〉軍司令官をまえに、三対一で優勢にたっている。〈ドラゴン旅団〉の生存者二人と〈太陽〉を裏切った最後の生き残り、ドラコとパドマとザビニだ。

 

そしてドラコは抜け目なく、パドマに命じてザビニの杖を没収させてあった。グレゴリーがドラコの身代わりにロングボトムに撃たれた時点で、そう判断した。 ザビニはそれを屈辱と感じたようで、貸しにするぞと言いながら杖をあけわたした。

 

〈カオス〉軍司令官の息の根をとめる役目は、ドラコとパドマにゆだねられた。

 

「降伏する気があるか、いちおう聞いておこうか?」と言ってドラコは邪悪な笑みをしてみせた。ハリー・ポッターにはいままで見せたことのない邪悪さだ。

 

「降伏するくらいなら眠ったほうがましだ!」と〈カオス〉軍司令官がさけんだ。

 

「参考までに言っておくと、」とドラコが言う。「ザビニが助けようとしている姉はいない。グリフィンドール生にいじめられているという姉はな。 でもザビニに母親はいるし、その母親はグレンジャーのようなマグル生まれのことをよく思っていない。だから彼女に一筆書いて、ザビニに多少の厚遇を約束してやった——父上にたのまなくても、ぼく一人でできる学校内のことだ。 ところで、ザビニの母親は〈死ななかった男の子〉のこともよく思っていない。 ザビニがほんとうは自分の味方だという幻想はあきらめるんだな。」

 

ハリーの表情がさらにけわしくなった。

 

ドラコは杖をかまえ、息をととのえて、〈破壊のドリルの呪文〉にそなえて気力を集中した。 グレンジャーはドラコの防壁とかわらない強度の〈虹色の球体(プリズマティック・スフィア)〉をつくれるようになっているし、ハリーもさほど見劣りしない。どこにそんな練習をする()()が?

 

「ラガン!」と言ってドラコが全力をこめると、燃える緑色の螺旋が飛びだし、ハリーの防壁をこなごなにした。ほぼそれと同時に——

 

「ソムニウム!」とパドマが言った。

 

◆ ◆ ◆

 

グレンジャー:253点/マルフォイ:252点/ポッター:254点

 

ハリーはゆっくりと安堵のためいきをついた。〈虹色の球体(プリズマティック・スフィア)〉を維持する必要がなくなったからというのもあるが、それだけではない。 杖をおろす手が震えている。

 

「一瞬、かなりあせったよ。」とハリーが言う。

 

〈特務命令その二〉:〈太陽〉を裏切った者が撃ってこないようなら、ときどき撃たれたふりをしろ。 〈太陽〉兵より〈ドラゴン〉兵を優先して撃て。だが〈ドラゴン〉兵を撃てないときは〈太陽〉兵を撃つのをためらうな。

 

〈特務命令その三〉:マーリンの命令。ブレイズ・ザビニとパティル姉妹は撃つな。

 

にやりとした表情をして、パーヴァティ・パティルが自分の制服の紋章のうえに〈転成〉して貼ってあった布をはがし、ぽいっと水にただよわせた。

 

「グリフィンドールは〈カオス〉の味方。」と言って、彼女はザビニに杖をかえした。

 

「協力ありがとう。」と言ってハリーはグリフィンドールのパーヴァティに深く一礼した。 「ザビニも、ありがとう。」と、ザビニにも一礼した。 「まあ、きみにこの作戦を持ってこられたときは、あたまがいいのか狂っているのかどちらだろうと思ったんだけど、両方だったみたいだね。ところで、」と言ってから、ハリーは意識のないドラコに向けて言うかのように、向きをかえた。「ザビニには実際、いじめられているいとこがいる——」

 

「ソムニウム。」と言うザビニの声がした。

 

◆ ◆ ◆

 

グレンジャー:255点/マルフォイ:252点/ポッター:254点

 

ハリー・ポッターのからだが水のなかをただよっていく。ショックと恐怖の表情はすぐにゆるみ、眠りについた。

 

「さっきのはやっぱりなしにする。」とパーヴァティが楽しげに言う。「グリフィンドールは〈太陽〉の味方。」

 

パーヴァティは笑いだした。人生最高の気分だ。()()()やってやった。双子の姉妹を暗殺してすりかわる、というトリックは、昔からずっとやってみたかったのだ。完璧だ。完璧にうまくいった——

 

——そしてザビニが杖をむけてきたのと同時に、パーヴァティは電撃的な速度で杖をふりむけた。

 

「待て!」とザビニが言う。 「撃つな。抵抗するな。これは命令だ。」

 

()()」とパーヴァティ。

 

「悪いな。」と言うザビニはちっとも悪びれていない。 「きみがまちがいなく〈太陽〉の味方だと信じきれない。 だから命令だ。このまま撃たせてくれ。」

 

()()()()()()()()」とパーヴァティが言う。 「〈カオス〉との点差は一点しかないじゃない! このまま撃ったら——」

 

「〈ドラゴン〉の名前で撃つ。あたりまえだろ。」と言うザビニの声はすこしえらそうだ。 「むこうをだましてああやらせたからといって、同じことをこちらがやっていけない理由はない。」

 

パーヴァティは彼をじっと見て、怪訝そうにした。「マルフォイ司令官の話じゃ、あなたの母親はハーマイオニーのことがをよく思っていないそうだけど。」

 

「そうかもしれない。」とザビニはまだえらそうに、にやにやしている。 「でもドラコ・マルフォイとはちがって、親を困らせたがる子だっているさ。」

 

「でもハリー・ポッターの話では、あなたのいとこがいじめられて——」

 

「あれはうそだ。」

 

パーヴァティは彼をじっと見ながら、考えようとした。でも彼女は謀略が得意ではない。 秘密裏に〈カオス〉と〈ドラゴン〉の得点をできるだけ一致させて、〈太陽〉の名で裏切り者を処刑するようにしむける、そうして一点もうばわれないようにする、というのがザビニに言われていた作戦だ。それ自体はうまくいった。……ただ……なにか見落としているような気がする。けれど彼女はスリザリンではない……

 

「なんで()()()()あなたを〈ドラゴン〉の名前で撃っちゃいけないの?」

 

「きみは階級が下だからだ。」

 

パーヴァティはいやな予感がした。

 

かなり長く、ザビニをじっと見た。

 

そして——

 

「ソムニ——」と言いかけたところで、()()()()()()()、と言い忘れたのに気づき、パーヴァティはあわててとりやめる——

 

◆ ◆ ◆

 

グレンジャー:255点/マルフォイ:254点/ポッター:254点

 

「やあ、みなさん。」という声とともに、ブレイズ・ザビニの顔がスクリーンに映った。愉快そうな表情だ。 「これで結末はおれしだい、だね。」

 

湖の岸にいる観客は全員息をひそめている。

 

〈太陽〉はちょうど一点だけ、〈ドラゴン〉と〈カオス〉をうわまわっている。

 

ブレイズ・ザビニは〈ドラゴン〉か〈カオス〉の名前で自分を撃ってもいいし、このまま終了を待ってもいい。

 

チャイムが鳴って、戦闘時間がのこり一分を切ったことを知らせた。

 

スリザリン生ブレイズ・ザビニは奇妙なゆがんだ笑みをして、なにげなく杖をもてあそんでいる。黒い木でできているそれは、水が暗いせいでほとんど見えない。

 

「といっても、」 事前に練習ずみのせりふのような言いかただ。「所詮これはただのゲームだ。ゲームは楽しまないと。 だから、とにかく好きにやらせてもらってもいいかな?」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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34章「協調問題(その2)」

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァがダンブルドアと技術を結集してつくりだした壮麗な舞台に、クィレルがよたよたとのぼっていく。 舞台の核となる部分は丈夫な木材でできているが、表面はぴかぴかの大理石にプラチナをはめこみ、四つの寮の色の宝石をちりばめてある。 ミネルヴァも総長も〈ホグウォーツ創設者〉ほどの能力はないが、今回つくりだしたものは数時間維持するだけでよい。 全力を尽くして巨大な〈転成術〉の仕事をする機会はなかなかないし、こまごまとした職人芸や豪華にみせかける技術の、せっかくのみせどころである。ミネルヴァはふだんなら楽しんでやっていたところだ。 けれど今回ばかりは、まるで自分の墓を掘っているようにぞっとする気分だった。

 

だがいまはすこし気分がましだ。 一触即発の空気が臨界に達したかと思われる瞬間が一度ありはした。だがダンブルドアが立ちあがり、あたたかい拍手をはじめると、総長のまえであばれだすほどの愚か者はでてこなかった。

 

爆発寸前の雰囲気はあっさりとなくなった。いまはもう、全員が一致して『もうやってられるか!』と言おうとしているような空気だ。

 

ブレイズ・ザビニが自分を〈太陽〉の名前で撃ったことにより、各軍の最終的な点数は254対254対254になっていた。

 

◆ ◆ ◆

 

舞台の裏で、登壇を待つ三人の子どもたちが怒りといらだちのまざった表情でおたがいをにらみあっている。 三人とも、湖から釣りだされたばかりでびしょびしょで、〈温熱の魔法(チャーム)〉も十二月の身を切る寒さにはなかなか太刀打ちできないようだ。だが、機嫌が悪いのはそのせいだけではなさそうだ。

 

「もうたくさん!」とグレンジャーが言う。「やってられない! 裏切り者はもううんざり!」

 

「完全に同感だ、ミス・グレンジャー。」とドラコが冷淡に言う。「ぼくも愛想がつきた。」

 

「それで、どうしようと言うんだ?」とハリー・ポッターが反撃する。 「クィレル先生は、スパイを禁じるつもりはない、って言ってたじゃないか!」

 

「かわりにぼくらが禁じてやる。」と言い返しながら、ドラコはどういうつもりでそんなことを言ったのか自分でもわかっていなかった。だがこうして口にしてみると、どうやればいいのか見えてきたような気がした——

 

◆ ◆ ◆

 

立派な舞台だ。すくなくとも臨時の建造物にしては。 製作者はよくある自己満足的な豪華さの演出におちいっておらず、建築と視覚効果のなにがしかを知っているようだ。 ドラコはあきらかに自分用に用意された位置に立った。ここなら、観客の生徒たちからは、緑玉(エメラルド)がほのかに後光のように見えるはずだ。 グレンジャーはドラコがそれとなく誘導して、レイヴンクローの青玉(サファイア)の光を後光とする位置に立たせた。 ハリー・ポッターについては、いまはドラコの眼中にない。

 

クィレル先生は……目覚めた、というか、それらしき変化をした。 〈防衛術〉教授は宝石のないプラチナ製の演台にもたれる姿勢をとり、 芝居がかった動作で、慎重に三通の封筒をかさね、かどをそろえている。 そのなかには、司令官三人分の願いごとが書かれた羊皮紙がはいっている。 ホグウォーツの全生徒がそれを注視し、待っている。

 

クィレル先生はようやく三通の封筒から顔をあげた。 「ちょっと、困ったことになったな。」

 

小さなくすくす笑いが群衆のなかから聞こえたが、とげのある笑いだった。

 

「みな、わたしがどうするつもりかを聞きたいのだろう。」とクィレル先生が言う。 「なにも特別なことはしない。すべきことをするまでだ。 最初にちょっとした演説をする予定だが、そのまえにミスター・マルフォイとミス・グレンジャーからも、みなさんに一言あるそうだ。」

 

ドラコは目をしばたたかせ、それからグレンジャーとすばやく視線をかわし——()()()()()——()()()——口をひらいて声にちからをこめた。

 

「グレンジャー司令官とぼくから一言、言わせていただきたい。」とドラコは自分のいちばん正式な口調で言う。この声は増幅され、全員によく聞こえるようになっている。 「今後われわれ二人は、裏切り者をいっさいうけいれない。 ポッターがわれわれ二人の軍のどちらかから裏切り者をうけいれた場合には、両軍が連合してポッターをたたきつぶす。」

 

ドラコは〈死ななかった男の子〉に敵意をこめた視線を送った。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「わたしはマルフォイ司令官に全面的に賛同します。」ととなりのグレンジャーが明瞭な声で高らかに言う。 「わたしたちは裏切り者をうけいれない。ポッター司令官はうけいれるというなら、わたしたちが彼を殲滅させるまで。」

 

観客の生徒たちがおどろいて、ひそひそと話しだした。

 

「よろしい。」と言って〈防衛術〉教授は笑みをうかべた。 「ずいぶん長くかかったものだが、ほかの司令官らに先んじてそのことに気づけたことは賞賛にあたいする。」

 

その一言の意味がしみこむのにしばらくかかった——

 

「ミスター・マルフォイとミス・グレンジャー。今後はなにかわたしに助けをもとめにくるまえに、自力で達成する方法がないか考えたまえ。 今回はクィレル点を減らさないが、またおなじことがあれば五十点うしなうことは覚悟するように。」 クィレル先生は愉快そうににやりとした。 「これについてミスター・ポッターからなにか言いたいことは?」

 

ハリー・ポッターはまずグレンジャーを見て、それからドラコに目をむけてきた。 落ちついた表情だ。 むしろ、抑制された表情、と言うべきか。

 

やっとハリー・ポッターが口をひらき、ゆらぎのない声でこう言った。 「〈カオス軍団〉はこれからも裏切り者を歓迎する。ではまた、次回の戦場で。」

 

ドラコは自分の顔にショックがうかんだのがわかった。 それを見ていた生徒たちからは、愕然としてささやきあう声が聞こえた。最前列をちらりと見ると、ハリーの〈カオス〉兵でさえびっくりしたようだった。

 

グレンジャーは怒りの表情だ。どんどん怒りをつのらせている。 「ミスター・ポッター、あなたわざと嫌がらせがしたくてそう言っているの?」  教師が生徒に使うような、とげのある口調だった。

 

「いや、まったく。 何度もくりかえす必要はない。 一度でも負ければ、ぼくは負けをみとめる。 でも、脅迫だけでぼくをしたがわせられるとは思わないでもらいたいね、〈太陽〉軍司令官。 きみたちはぼくに協定に参加するよう呼びかけず、問答無用でしたがわせようとした。 自分の意思を相手に強制しようと思うなら、まず実際に負かす必要があるんじゃないか。 それに、一方には、成績優秀なホグウォーツ期待の星ハーマイオニー・グレンジャー。もう一方には、ルシウスの息子で〈元老貴族〉マルフォイ家の御曹司ドラコ。どうやったらこの二人が連合軍を組んで、共通の敵ハリー・ポッターを倒したりできるのかな。」  愉快そうな笑みがハリー・ポッターの顔をよぎった。 「ドラコがザビニに対して使った手を、ぼくも使ってみようか。ルシウス・マルフォイがこのことを手紙で聞いたら、どう思うだろう。」

 

()()()()」とグレンジャーがひどく愕然とした表情で言った。聴衆からも息をのむ音が聞こえた。

 

ドラコは全身で感じる怒りをおさえた。 ハリーは()()()()()。人前で言ってしまうなんて。 もしなにも言わずに行動に出ていたなら、うまくいったかもしれない。 ドラコにもあんな発想はなかった。だがこうなってから父上が応じようものなら、ハリーの手玉にとられたように見えるだけ——

 

「見くびってもらっては困る。ぼくの父、マルフォイ卿(ロード・マルフォイ)がそんな見えすいた手に乗ると思うなよ、ハリー・ポッター。」

 

そう言い終えた瞬間にドラコは、ほとんど自覚しないまま()()()()()()窮地に追いこんでしまったことに気づいた。 おそらく父上は連合のことをこころよく思わない。思うはずがない。しかし、こうなってはもう、父上はそんな評価を言うことができない……。 あとで父上に謝らなければならない。不注意の事故とはいえ、そもそもなぜこんなことをしてしまったのだろうか。

 

「それならどうぞ、邪悪な〈カオス〉軍司令官を倒してみるがいい。」と言って、ハリーは愉快そうな表情を変えない。 「ぼくだって、二つの軍を相手には勝てない——もしほんとに連合できるものなら。 でもそのまえに、きみたちを分断することならできるかもしれないな。」

 

「そうはさせない。たたきつぶしてやるからな!」とドラコ・マルフォイ。

 

そしてとなりのハーマイオニー・グレンジャーもきっぱりとうなづいた。

 

全員が唖然としてしばらく沈黙がつづいたが、「いや、」とクィレルが口をひらいた。「実のところ、こういう展開になるとは思っていなかった。」 〈防衛術〉教授はやけに興味をそそられた表情をしている。「正直、ミスター・ポッターは笑みを浮かべて即座に譲歩するのだろう、と思っていた。クィレル先生がなにを教えようとしていたかはとっくにわかっていたけれど、ほかの人が気づくまで黙っていただけだ、とでも言って。実のところ、わたしもそれにあわせた演説を準備していたのだが。」

 

ハリーは肩をすくめ、「すみません。」とだけ言って口をつぐんだ。

 

「いや、けっこう。これはこれでいい。」

 

クィレル先生は子どもたち三人をおいて、演台にまっすぐ向かい、自分に注目する観客全体に語りかける姿勢をとった。 相手をつきはなして楽しむような態度をとることの多い先生だが、その態度が脱げ落ちる覆面のように消えた。つぎに口をひらいたとき、その声は一段と大きく増幅されていた。

 

「もしハリー・ポッターがいなければ、」クィレル先生の声は十二月の空気のように鮮明で冷たい。「勝つのは〈例の男〉だった。」

 

その一言には有無を言わせず全員を沈黙させる効果があった。

 

◆ ◆ ◆

 

「うたがいの余地なく〈闇の王〉は勝利をおさめつつあった。 日を追うごとに、彼に立ちむかおうとする〈闇ばらい〉の数は減り、彼に反対する自警団は追討された。 〈闇の王〉一人と〈死食い人〉せいぜい五十人が、何千何万の国民に()()しつつあった。 あまりにばかげている! わたしなら最低点をつけることすらはばかるほどの無能さだ!」

 

ダンブルドア総長は眉をひそめている。観客は困惑の表情をしている。沈黙がつづく。

 

「なぜそんなことになったのか理解したければ、今日の模擬戦の結果を見ればよい。 わたしは兵士に裏切りを許し、司令官に抑制の手段をあたえなかった。 結果どうなったか。 巧妙な謀略と裏切りがくりひろげられ、ついには最後に生き残った兵士が自分を撃ってしまった! ここに外敵がいれば、そしてその外敵が仲間割れを起こしてさえいなければ、三つの軍がどれも倒されてしまっただろうことは火をみるより明らかだ。」

 

演台にいるクィレル先生は前のめりになった。声がきびしさを増す。右手がのび、五本の指をひろげる。 「分断は弱さであり、」 右手がこぶしをかためる。「団結は強さだ。 〈闇の王〉は多くのあやまちをおかしたとしても、このことをよく理解していた。 理解していたからこそ、歴史上のほかのどの〈闇の王〉よりも徹底した恐怖をあたえるための、小さな発明をすることができた。 諸君の親世代が対決した〈闇の王〉一人と〈死食い人〉五十人は、完全に団結していた。忠誠をたがえた罰は死であり、無能なふるまいへの罰は苦痛であることがわかっていた。 一度あの〈紋章〉を受けとれば、だれひとりとして〈闇の王〉からのがれることはできなかった。 そして〈死食い人〉が〈闇の紋章〉を受けとったのは、分断された国とのたたかいに際して、自分たちは〈紋章〉のもとに()()できるとわかっていたからだ。 〈闇の紋章〉のおかげで、〈闇の王〉一人と〈死食い人〉五十人は一国の国民全体を打倒するまでになった。」

 

クィレル先生の声はかたく、冷たい。 「諸君の親たちは同じやりかたで反撃することもできた。しかし、しなかった。 ヤーミー・ウィブルという名の男が、全国で徴兵をはじめるよう、うったえた。しかし彼にも〈ブリテンの紋章〉のようなものを作る発想はなかった。 ヤーミー・ウィブルは自分の末路を知っていた。自分が死ぬことでみなを奮い立たせればと思っていた。 そこで〈闇の王〉は念をいれて彼の家族を殺した。のこされたからっぽの皮膚を見て、みな奮い立ちはせず、ただ恐怖し、反抗の声はなくなった。 これだけ見下げはてた臆病者が諸君の親たちだ。彼らには、自業自得の運命が待っていたはずだった。なのに、一歳の男の子に救われてしまった。」 クィレル先生は軽蔑に満ちた表情をした。 「彼らはあのように救われる資格などなかった。劇作家ならば〈機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)〉とでも呼ぶところだ。 〈名前を呼んではいけない例の男〉は勝利にあたいしなかったかもしれない。しかし諸君の親世代は敗北にあたいした。」

 

〈防衛術〉教授の声は鉄のように鳴りひびいた。 「特筆すべきは、諸君の親たちがなにも学んでいない、ということだ! この国は分断され、弱いままではないか! グリンデルヴァルドから〈例の男〉までに何年の猶予があった? 諸君は自分が死ぬまでにつぎの脅威がくることはないと思っているか? そのときが来たら、これほど分かりやすい今日の試合結果の教訓を忘れて、親たちの失敗をくりかえすのか? つぎの闇の時代が来たとき諸君の親たちがなにをするかは、聞くまでもない! 彼らがなにを学んできたかといえば、 身を隠し、恐怖におびえながらなにもせず、ハリー・ポッターに救われるのを待つことだけだ!」

 

ダンブルドア総長の目にうたがいの色が見えた。 聴衆は驚愕と怒りと畏怖の目で〈防衛術〉教授を見ている。

 

クィレル先生は声とおなじくらい冷たい目をした。 「このことを忘れるな。 〈名前を言ってはいけない例の男〉はこの国を支配する残酷な王として永遠に君臨しようとした。 だがすくなくとも彼は()()()国を支配しようとした、瓦礫の山ではなく! 彼以前の〈闇の王〉のなかには狂気に落ち、世界を巨大な火葬場にしようとした者もいた! 一国全体が総力をあげて別の一国を蹂躙しようとする戦争もあった! 諸君の親たちをほとんど倒しそうになった相手は、わずか五十人、しかもこの国を生けどりにしようとしていたのだ! もしそれがもっと多勢で、徹底的に破壊だけを求める敵だったとしたらどうなっていたか? 予言しよう。つぎなる脅威がきたとき、ルシウス・マルフォイは自分にしたがわなければかならずこの国は壊滅すると主張し、自分の強さと残酷さだけが唯一の希望だと主張する。 ルシウス・マルフォイ自身そう信じているとしても、それはうそだ。 〈闇の王〉がほろびたとき、ルシウス・マルフォイは〈死食い人〉を団結させなかった。〈死食い人〉は即座にちりぢりとなり、イヌのように尻尾をまいて、おたがいを裏切った! ルシウス・マルフォイは真の(ロード)の器ではない。闇の王(ダークロード)ならなおさらだ。」

 

ドラコ・マルフォイは白くなるまでこぶしをかためた。目になみだと怒りと耐えがたい屈辱が見えた。

 

「つぎに諸君を救うのはルシウス・マルフォイではない。 わたしがそうだと言いたいわけでもない。わたしがその任にないことは、遠からずわかることと思う。 今日ここでだれを推薦するつもりもない。 だが、一国をあげて〈闇の王〉に匹敵するとともに高潔で純粋な指導者を見つけ、〈紋章〉のもとに団結することができれば、〈闇の王〉は虫けらのように蹴ちらされ、魔法世界中のどの国もこの国をおびやかすことはできまい。 そしてもしそれ以上の敵が、おたがいの滅亡をかけて戦争をいどんできたとしたら、魔法世界全体が団結することだけが生きのびる道となるだろう。」

 

息をのむ音が、おもにマグル生まれの生徒から聞こえた。 緑色のえりのローブを着た生徒は困惑しているだけだった。 こんどはハリー・ポッターがこぶしをかため、震えさせている。そのとなりのハーマイオニー・グレンジャーは怒りで愕然としている。

 

総長が断固とした表情で席を立った。ことばは発していないが、なにが言いたいかは明白だ。

 

「来たる脅威が何者であるか、ここでは問うまい。」とクィレル先生がつづける。「だが、この世界の過去の歴史がすこしでも未来の道しるべとなるなら、平和は諸君が死ぬより早く終わることはまちがいない。 そのとき、諸君が今日見た兵士たちのような行動をとるなら、どうなるか。くだらない言いあらそいをやめて一人の指導者の〈紋章〉に服すことができないなら、どうなるか。むしろ、〈闇の王〉の支配を受けいれていればよかった、ハリー・ポッターなど生まれていなければよかった、と思うほどの事態になりかねない——」

 

()()()()()」とアルバス・ダンブルドアが声をとどろかせた。

 

静寂がおりた。

 

クィレル先生がゆっくりと首をむけたさきで、アルバス・ダンブルドアが魔法力を怒りに燃えあがらせていた。 二人の目があい、音のない圧力のようなものが生徒全員のうえにおりてきた。生徒たちは、かたずを飲んで見守っている。

 

「あなたも務めをはたさなかった。」とクィレル先生が言う。「その代償のおそろしさは、あなたにも分かっているはずだ。」

 

「このような演説は生徒に聞かせるべきではない。」とアルバス・ダンブルドアがすさまじい声を出す。 「教師が口にするべきでもない!」

 

乾いた声でクィレル先生が応じる。 「〈闇の王〉が頭角をあらわしたころ、大人たちはくりかえし演説を聞かされ、そのたびに拍手喝采して、ひとしきり楽しむと、自宅にもどったものです。 だがここは総長の命令にしたがいましょう。お気にめさないのであれば、今後こういった演説はしないでおきましょう。 わたしが学ばせたいのは単純なことです。 どれだけ裏切りが起きようが、わたしはこれからも介入しない。 教師の助けを待つのをやめたとき、はたして生徒たちになにができるのか。それを見てみたい。」

 

クィレル先生はまた生徒たちのほうをむいた。くちびるにゆがんだ笑みが浮かんだ。その笑みには、雲を散らす神の鉄槌のようにして、生徒たちにかかっていた重い圧力を散らす効果があったようだった。 「けれども、ここまでに裏切りをした者をあまり責めないでいただきたい。ちょっと遊びたかっただけなのだから。」

 

笑いが出た。最初はびくついていた笑いがだんだんと自信をましていくようだった。クィレル先生がゆがんだ笑みをしつづけると、緊張が多少はほどけていくようだった。

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコのあたまのなかをいくつもの疑問とぞっとするショックがかけめぐるあいだ、クィレル先生は三人の願いごとが書かれた封筒をひらく準備をしていた。

 

魔法の長期的な衰退よりも、月にいくことができるマグルのほうが大きな脅威だなんて、考えたこともなかった。父上にそれを止める強さがないのだということも、考えだにしなかった。

 

けれどそれより奇妙で、なのに明白なことをひとつ、クィレル先生は示唆していた。()()()()()止められるというのだ。 クィレル先生はだれを推薦するつもりもないと言いながら、演説では何度もハリー・ポッターを引き合いにだした。ドラコ以外にも、おなじように受け取った人はいただろう。

 

ばかげている。ふかふかの椅子をかざりたてて玉座と言いはるような少年がなぜ——

 

ドラコのなかの裏切り者の声がささやく。スネイプと対決して勝った少年でもあるし、 いずれは強い〈王〉になって、魔法族を支配し、救うことができるかもしれない——

 

でもハリーはマグルに育てられたじゃないか! 事実上、泥血(マッドブラッド)のようなものだし、自分の養父母を敵にまわすことなどできないはず——

 

ハリーはやつらの技を、やつらの秘密を、やつらの方法を知っている。 マグルのあらゆる科学を利用して、対抗することができる。それにくわえて、魔法族としてのちからもある。

 

でも本人がやりたがらなかったら? それだけの強さがなかったら?

 

そのときは、おまえがやるんだ。そうじゃないのか、ドラコ・マルフォイ?

 

そのときあらためて、静かに、という声が聴衆のなかからあり、クィレル先生が最初の封筒をあけた。

 

「ミスター・マルフォイ。」とクィレル先生が言う。「きみの願いは……スリザリンが寮杯を勝ちとること。」

 

聴衆が一瞬困惑して沈黙した。

 

「はい、そうです。」とドラコが明瞭な声で言う。この声はまた、増幅されている。 「寮杯が無理であれば、なにか別のことをスリザリンのために——」

 

「わたしは寮点を不公平にくばるつもりはない。」と言って、クィレル先生はほおをたたき、思案げな顔をした。「だからきみの願いをかなえるのはむずかしく、それだけやりがいがある。 なにかつけくわえて言いたいことはあるかね?」

 

ドラコは聴衆にほうに向きをかえ、プラチナとエメラルドを背後に立って、群衆に視線を送った。 スリザリンが全員〈ドラゴン旅団〉を応援していたわけではない。反マルフォイ派のいくつかは不満を表明するために〈死ななかった男の子〉を支持したり、グレンジャーを支持したりさえした。彼らはザビニの行為を見て勢いを得たことだろう。 スリザリンでなければマルフォイではない、マルフォイでなければスリザリンではない、という掟をいま一度知らしめる必要がある——

 

「いえ。スリザリン生であれば、言わなくても分かってくれています。」

 

聴衆の、とくにスリザリンの部分から、笑いが聞こえた。ついさっきまでは反マルフォイを自称したであろう生徒たちさえ、笑っていた。

 

こうやって機嫌をとる一手がなんと効果的なことか。

 

ドラコはまたクィレル先生のほうを向いた。するとおどろいたことに、グレンジャーが恥ずかしそうにしていた。

 

「つぎにミス・グレンジャー。きみの願いは……レイヴンクローが寮杯を勝ちとること、か?」

 

聴衆からかなりの笑いがあがった。ドラコもくすりとした。 グレンジャーもこの手を使うとは思わなかった。

 

「あの……」と言うグレンジャーは、暗記していたはずの演説が急に出てこなくなった、というような口調だ。 「その、わたしはただ……」一度深呼吸をする。「わたしの軍には四つの寮の生徒がいました。わたしはどの寮のことも軽んじたりはしません。 でも自分がどの寮であるかというのにもやはり意味があって、 軍がちがうだけで、おなじ寮の生徒どうしが呪文を撃ちあうようになるのは悲しいことです。 おなじ寮の生徒は、いつも頼れる仲間であってほしい。 だからこそ、ゴドリック・グリフィンドールと、サラザール・スリザリンと、ロウィナ・レイヴンクローと、ヘルガ・ハッフルパフは、ホグウォーツに四つの寮をつくったんです。 わたしは〈太陽〉軍の司令官であるまえに、レイヴンクローのハーマイオニー・グレンジャーで、 八百年の歴史があるこの寮の一員であることに誇りをもっています。」

 

「よくぞ言った、ミス・グレンジャー!」とダンブルドアがよく響く声で言った。

 

ハリー・ポッターは眉をひそめている。それを目のかたすみで認めて、ドラコはなにかが気にかかった。

 

「ミス・グレンジャー、おもしろい意見だが、」とクィレル先生が言う。「ときには、スリザリン生がレイヴンクローに友人をもったり、グリフィンドール生がハッフルパフに友人をもったりしてもいいのではないか。 おなじ寮の仲間にも、おなじ軍の仲間にも頼れるのなら、それに越したことはないだろう?」

 

グレンジャーはちらりと生徒と教師の聴衆の列のほうに目を向けたが、なにも言わなかった。

 

クィレル先生はひとりうなづいて、演台のほうに向きなおり、最後の封筒を手にとり、やぶってあけた。 ドラコのとなりにいるハリー・ポッターは、クィレル先生が羊皮紙をとりだすのを見て、はっきりと緊張していた。 「つぎに、ミスター・ポッターの願いは——」

 

クィレル先生は羊皮紙を見て一瞬沈黙した。

 

クィレル先生の表情に変化はなかったが、つぎの瞬間、羊皮紙が火につつまれ、ぼうっと燃えあがると、黒い灰となってその手からぱらりと落ちた。

 

「ミスター・ポッター、願いごとは実現可能な範囲にとどめてもらいたい。」 クィレル先生はとても乾いた声で言った。

 

長く沈黙がつづき、となりのドラコから見て、ハリーは動揺したようだった。

 

いったいハリーはなにを願いごとにしたんだ?

 

「これがかなわない場合にそなえて、別の願いごとも用意してくれていたのであればいいが。」とクィレル先生。

 

また沈黙。

 

ハリーは深く息をすい、「用意はしていませんでしたが、いま思いつきました。」と言って、聴衆のほうを向いた。声がだんだん自信を増す。 「裏切り者をおそれる人は、裏切り者による直接の被害を気にします。兵士をやられること、秘密をばらされることなどですが、 裏切りの効果はそれだけではありません。 裏切り者への()()()が人の行動を変える。最適な行動ができなくなる。 〈太陽〉と〈ドラゴン〉に対して今日ぼくが使ったのは、そこを利用した戦略です。 ぼくは裏切り者に、直接的な害をできるかぎり大量にあたえてこい、とは命じなかった。 命じたのは、できるかぎりたくさんの不信と混乱をうむことをやれ、ひどい代償をはらってまで予防措置を講じたくなるようなことをやれ、ということだった。 ごく少数しかいない裏切り者に全国民が対抗している状況なら、当然、少数の裏切り者がうみだせる損害よりも、それを止めようとする全国民がうみだす損害のほうが大きい。病気そのもの被害よりも治癒行為による被害のほうが大きいことだって——」

 

「ミスター・ポッター、」と〈防衛術〉教授が急にとげとげしい声でさえぎった。「歴史が教えるところによれば、きみの説は明らかにまちがっている。 きみの親世代は団結しすぎたのではなく、したりなかったのだ! この国は陥落しかけた。きみはその場にいなかっただろうが、 レイヴンクローの同室生に聞いてみれば、〈闇の王〉のために家族をうしなった者がどれだけいるか分かるだろう。 いやむしろ、あたまを働かせれば、そんな質問はすべきでないと分かるはずだ! 結局、きみの願いごとは何なのだ?」

 

「さしつかえなければ、」とアルバス・ダンブルドアがおだやかな声で言う。「この際、〈死ななかった男の子〉の意見を拝聴したい。 戦争を止めることに関しては、わしよりもクィレル先生よりも彼のほうが経験者なのじゃから。」

 

何人かの笑いが聞こえたが、あまり多くはなかった。

 

ハリー・ポッターの視線がダンブルドアのほうに向けられた。一瞬思案するような表情だった。 「クィレル先生、あなたの説がまちがっているとは言いません。 前回の戦争では、みんながちからを合わせることができず、わずか数十人の攻撃で国全体が陥落しかけた。たしかになさけないことです。 おなじあやまちをくりかえすことがあれば、もっとなさけないことです。 でもおなじ戦争は二度と起こらない。 問題は、敵もかしこくなることができるということです。 集団を分断すればある面で脆弱になりますが、団結させればまた別のリスクや代償が発生します。敵もそこを突いてくるでしょう。 おなじレヴェルでゲームを考えてばかりいてはだめなんです。」

 

「単純さにも、もっと見どころがあるということを分かってほしいものだ。自軍を団結させるという単純な方法をとらず、ずっと複雑な戦略を使ってしまえば、どんな危険につながるか。今日の戦闘できみもそのことを学んでいてくれればいいのだが。ところでここまでの話が願いごとに関係しない話だったとしたら、わたしは腹をたてるぞ。」

 

「たしかに、団結することの危険性を知らしめるような願いごとはそう簡単には思いつきません。 でも一体となって行動することの危険性は戦争だけではなく、日常生活で遭遇する問題にも関係します。 だれもがおなじ規則にしたがっていて、その規則がくだらない規則だったら、どうなりますか。()()()()()()やりかたを変えれば、ただ規則違反と言われます。 でも()()()やりかたを変えれば、とがめられない。 まったくおなじことが、全員を一体にして行動させる場合の問題についても言えます。 最初に声をあげる人にとっては、集団全体が敵のように見えてしまう。 けれど、団結してさえいればそれでいいとばかり考えてしまっていては、どんなくだらないルールのゲームも変革することはできません。 そこでぼくの願いはこうです。人がまちがった方向に団結したときにどういう失敗が起きるかの象徴として、ホグウォーツでクィディッチをするときは、スニッチを使うのをやめてほしい。」

 

()()()()」と百人以上の叫び声が群衆から聞こえた。ドラコは口をぽかんとあけた。

 

「スニッチなんてものがあるから、あれはゲームにならないんだ。ほかの選手がなにをしても意味がなくなってしまう。 時計を買って使うだけで、ずっとまともになる。 こういう最低にくだらないルールは、子どものころからの慣れでやっていると気づかないものなんです。みんながそうしているから、だれもうたがわないだけで——」

 

そこまで言った時点で、ハリー・ポッターの声は暴動にかきけされた。

 

◆ ◆ ◆

 

暴動はおよそ十五秒後に終わった。ホグウォーツで一番高い塔から巨大な炎がながれだし、何重にもかさなった雷のような音をだしたのだ。ダンブルドアにあんなことができるとは、ドラコははじめて知った。

 

生徒たちは慎重に、そして静かに腰をおろした。

 

クィレル先生はずっと笑っていた。 「承知した、ミスター・ポッター。願いはかなえよう。」 そう言ってから、わざと間をあける。 「もちろん、わたしは謀略を()()()してやるとしか約束していない。 きみたち三人あわせてひとつだけだ。」

 

そのせりふをドラコはなかば予期していたが、それでもショックはショックだった。 グレンジャーとすばやく視線をかわす。同盟するならこの二人だろうが、二人の願いはまっこうから対立する——

 

「つまり、三人で話しあって願いをひとつにしろと?」とハリー。

 

「いや、さすがにそこまでは期待しない。きみたちには共通の敵がいないだろう?」

 

それから一瞬だけ、あまりに短いあいだだったので自分の想像かとドラコは思ったくらいだが、〈防衛術〉教授の目がダンブルドアの方向に動いた。

 

「わたしが言っているのは、ひとつの謀略でみっつの願いをかなえてみせよう、ということだ。」

 

一同は困惑して沈黙した。

 

「それは無理です。」とあっさりとハリーが切り捨てる。 「ぼくでさえそんなことはできません。 三人のうち二人の願いは同時に成立しえません。()()()()()()()な組み合わせな以上——」 と言いかけたところで、ハリーは口をつぐんだ。

 

「わたしになにができない、というせりふは、もう何年か生きてから言ってもらいたい。」と言ってクィレル先生は一瞬だけ乾いた笑みをした。

 

そして〈防衛術〉教授は聴衆の生徒たちのほうを向いた。 「はっきり言わせてもらえば、今日見せた教訓を十分理解してくれると思うほど、わたしは諸君の能力を高く評価していない。 実家に帰ったら、諸君には家族との時間が待っていることだろう。戦争を生きのびた家族がいるなら、存命のうちにそのひとときを楽しんでくれたまえ。 わたし自身の家族はずっと昔に、〈闇の王〉の手にかかって死んだ。 ではまた、休みあけの授業で。」

 

その後しんと静まるなか舞台をおりたクィレル先生が、もはや増幅されていない小声で言ったことばを、ドラコは聞いた。「ただしミスター・ポッター、きみにはこのあとすぐ、話がある。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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35章「協調問題(その3)」

◆ ◆ ◆

 

二人が防衛術教授の居室にはいると、クィレル先生はドアに封印をかけてから椅子に座り、口をひらいた。

 

その声はとても落ちついている。こうだとハリーは余計心配になる。どなられるほうがまだいい。

 

「きみがまだ子どもであるという事実を考慮して、わたしは結論を急がないように努力している。 わたし自身、その年ごろには相当の愚か者だった。 きみは大人のような話しかたで大人のゲームに闖入しようとする。わたしもたまに、きみが闖入者にすぎないことを忘れそうになる。 きみがそうやって子どもっぽく口をはさむことで、きみ自身の死だけではなく、この国の滅亡や、つぎの大戦での敗北をまねく結果になってはほしくないものだ。」

 

ハリーの呼吸がなかなか安定しない。 「クィレル先生、言いたりなかったことはいくらでもありますが、一つだけ。 あなたがさせようとしていることは、この百年のマグルの歴史をすこしでも知る人から見れば、ただごとではありません。 イタリアのファシストはかなりひどいことをしましたが、あの名前は束桿(ファスケス)という、木の棒をたばねたものから来ています。そこには団結は強さであるという意味が——」

 

「なるほど。ファシストという悪人どもが、分断よりも団結のほうが強いと考えたと。」  クィレル先生の声に、とげがはいりはじめた。 「ファシストは空が青いと信じたり、自分のあたまの上に石を落としてはならないという政策を推進したりもしたかもしれないな。」

 

愚者の反対のことをしても知者にはなれない。世界一愚かな人は太陽は明るいと言うかもしれないが、だからといって太陽が暗いことにはならない……。 「わかりました。たしかにいまのは、人格にうったえる論法でした。ファシストが言うことならすべてまちがい、とは言えない。 でもクィレル先生、国じゅうの全員が独裁者の〈紋章〉をつけるというのは無茶です! それじゃ単一障害点ができてしまいます! 分かりやすく言えば、たとえばその〈紋章〉をあやつる人物に敵が〈服従(インペリオ)〉をかけたら——」

 

「強い魔法使いは簡単に〈服従(インペリオ)〉にかからない。もし指導者にふさわしい人物がみつからなければ、いずれにしても破滅だ。 だが指導者にふさわしい人物は何人も存在する。問題は人民がその人物に追従するかどうかだ。」

 

ハリーはいらだちから髪の毛をかきみだした。 一度休憩時間ということにして、クィレル先生に『第三帝国の興亡』を読ませてから、話を再開したい。 「きっと、もしここで、民主制のほうが独裁制よりもいい政治形態だとぼくが言ったら——」

 

「なるほど。」と言ってクィレル先生は一度目をとじてから、あけた。 「ミスター・ポッター、きみはクィディッチに熱中せずに育ったから、クィディッチのくだらなさが分かると言う。 おなじように、選挙というものをまったく知らないままでこの国で()()()()()()()()()()だけを見たとしたら、おかしいと思うにちがいない。 選挙でえらばれた、われらが〈魔法省〉大臣を見るがいい。 この国で一番かしこく、強く、偉大なのがあの男か? いや、あれはルシウス・マルフォイのあやつり人形にすぎない。 投票の選択肢は事実上、コーネリアス・ファッジとタニア・リーチだけだった。二人の対決は一大決戦となってなかなかの見ものだったが、そうなったのは『予言者日報(デイリー・プロフェット)』があの二人以外を泡沫候補としたからだ。その『デイリー・プロフェット』もまた、ルシウス・マルフォイの手中にある。 コーネリアス・ファッジがこの国の指導者として最適な人物であるなどと、まじめな顔で言える者はいない。 わたしの知るかぎり、マグル世界でも状況はかわらない。 以前読んだマグルの新聞によれば、一代まえのアメリカ合衆国大統領は引退した映画俳優だったというではないか。 選挙がない世界で育ったとしたら、きみは選挙のことを、クィディッチ同様どう見てもくだらないものだと感じだはずだ。」

 

ハリーは口をぽかんとあけて座ったまま、どう言ったものか苦慮した。 「選挙は、最高の指導者を見つけるためにやるんじゃありません。 選挙の目的は、政治家が有権者をこわがるあまり、独裁者みたいにあからさまに邪悪なことはしないでおこう、と考えるようにしむけることで——」

 

「前回の大戦は、〈闇の王〉とダンブルドアのたたかいだった。 ダンブルドアは指導者として欠陥があったし、劣勢に追いこまれてもいた。だが、ダンブルドアにかわって戦えた〈魔法省〉大臣が、歴史上一人でもいたなどとは到底考えられない! 強さは強力な魔法使いとその支持者からこそ生まれるのであって、選挙と愚かな投票者からは生まれない。 直近のブリテン史がそのことを教えてくれる。 つぎの戦争が別のことを教えてくれるとも思いがたい。 まず、きみが生きのびられなければ話にならないし、そうやって子どもじみた幻想にこだわりつづけていては、生きのびられる見込みなどない!」

 

「あなたの推奨する方針にしたがえば危険はなにもないと言うのなら、」 そうしまいと思いながらも、ハリーの声にとげがはいった。 「それもまた、子どもじみたこだわりです。」

 

ハリーはけわしい表情でクィレル先生と目をあわせた。クィレル先生はまばたきひとつせず見かえした。

 

「そういった危険については、」とクィレル先生が冷ややかに言う。「話すのであれば、この居室のような場所がふさわしい。 コーネリアス・ファッジに投票するような愚か者は、ただし書きや副作用など眼中にない。 威勢のいい喝采以上に難解なことを大衆に聞かせても、だれひとりきみの味方にはならない。 子どもじみた失敗だと言っているのはこのことだ。ドラコ・マルフォイなら八歳の時点でもこんな失敗はしなかったはずだ。 なぜわからないのか。言いたいことがあるならその場では沈黙し、()()()()()()()()()()()()べきだった。気になったことがあるからといって、そのまま群衆に聞かせるべきではなかった!」

 

「ぼくはアルバス・ダンブルドアの仲間ではありませんが、」 ハリーはクィレル先生と同等の冷たさを声にこめた。 「あの人は子どもではない。アルバス・ダンブルドアは、ぼくの懸念は子どもじみているとか、あの場で口をはさむのがよくないことだとは、思っていないようでしたが。」

 

「ああ、つまりきみは、これからは総長を見習おうと言うのだな?」と言ってクィレル先生は机のむこうで立ちあがった。

 

◆ ◆ ◆

 

ブレイズがクィレル先生の居室に向かうかどを曲がると、壁にもたれるクィレル先生がそこにいた。

 

「ブレイズ・ザビニ。」と言って〈防衛術〉教授がまっすぐに立った。 目は顔にはめこまれた黒い石のように見え、おそろしげな声はブレイズの背すじを震えさせた。

 

この人から危害をくわえられるおそれはないんだ。そのことだけを考えろ——

 

「きみの雇用主の名前には十分あたりがついている。 だがきみ自身の口からも聞いておきたい。買収の値段も言いなさい。」

 

ブレイズはローブのしたで汗が出てきたのを感じた。ひたいにも水分がはっきりと浮きでている。 「おれはただ、司令官を三人ともだしぬいて自分の実力を証明するチャンスがめぐってきたから、やっただけですよ。 あれのせいでたくさんの人に憎まれはしたけれど、よくやったと言ってくれるスリザリン生もたくさんいる。 あなたはなにを根拠に——」

 

「あの作戦を考案したのはきみではないな。 だれの案なのか、言いなさい。」

 

ブレイズはごくりと唾をのんだ。 「ああ……いや、それなら……もうだれなのか分かってるんでしょ? あんなことを思いつく狂人はダンブルドア以外いるわけがない。 あなたがおれに手をだそうとしても、ダンブルドアが守ってくれることになっている。」

 

「なるほど。買収額を聞かせてもらおう。」 〈防衛術〉教授の視線はまだけわしい。

 

「キンバリーという、いとこなんだ。」と言ってブレイズはもう一度ごくりとしてから、声をととのえた。 「キンバリーは実在する。実際にいじめられている。 ポッターはバカじゃないから、たしかめにも来た。 ただ、いじめられたのは、この作戦のためにダンブルドアが後おししたからだ。ダンブルドア自身がそう言った。 ダンブルドアのために働けばキンバリーは解放される、でもポッターにつけばキンバリーはこれからもつらい目にあうかもしれないって、おどされたんだ!」

 

クィレル先生は長く口をひらかなかった。

 

「わかった。」  その声はかなりおだやかになった。 「ミスター・ザビニ、つぎにこのようなことがあれば、わたしに直接相談しなさい。 わたしなりに味方を守る方法はいろいろある。 では最後の質問だ。 きみが掌握した権限をもってしても、引き分けに持ちこむのは簡単ではなかったはずだ。 ダンブルドアは、引き分けが無理ならだれに勝たせろと言った?」

 

「〈太陽(サンシャイン)〉。」

 

クィレル先生はうなづき、「やはりか。」と言ってためいきをついた。 「きみが将来仕事についたときのために言っておくが、あのように手のこんだ謀略は実世界ではおすすめできない。 ああいったものは、たいてい失敗する。」

 

「その、おれも総長にそう言いました。総長は、だからこそ複数の謀略をきかせておくのが重要だ、と。」

 

クィレル先生はうんざりした様子で片手をひたいにあてた。 「あれと戦わせられて〈闇の王〉が発狂しなかったのが不思議だ。 きみはこれから総長と面会するのだろう。行きなさい。 この秘密はかならず守る。だがもし総長がどうにかしてわれわれが内通したと知った場合には、全力できみを守るというわたしの申し出を忘れるな。 以上。」

 

ブレイズはもう一度うながされるまでもなく、ふりむいて、すばやく去った。

 

◆ ◆ ◆

 

クィレル先生はしばらく待ってから言った。「もういいぞ、ミスター・ポッター。」

 

ハリーは〈不可視のマント〉をあたまからはがして、ポーチにいれた。 怒りのあまり、なかなかことばが出てこなかった。 「なんですかあれは? 総長が……?」

 

「あの程度のことは自力で推測してくれなくてはな、ミスター・ポッター。 焦点をはずす方法を学べば、木々ではなく森が見えてくる。 きみがどういうことをしたかだけを聞いて、きみが〈死ななかった男の子〉であるとは知らない人がいれば、きみのところに不可視のマントがあることは容易に推測できる。 個々のできごとから距離をおいて、詳細に目をつむれば、どういう風に見える? 生徒のあいだではげしい競争があって、その競争が完全な引き分けで終わった。 こんなことは作り話のなかでしか起きない。そして、なにもかも作り話として考える人物がこの学校に一人だけいる。 奇妙でややこしい謀略が使われた。言われるまでもなく、あのおさないスリザリン生らしからぬ謀略だときみは気づくべきだった。 この学校には巧妙な謀略にたけた人物が一名いるが、その名前はザビニではない。 わたしは四重スパイがいるという警告もしてやった。きみはザビニが三重スパイであることまでは知っていた。だから四重である可能性も高いと思うべきだった。 いや、だからといって、あの勝負を無効にはしないよ。 きみたちは三人ともテストに落第した。共通の敵に負けたのだ。」

 

テストがどうとかいうことはもはやどうでもいい。 「ダンブルドアはザビニを()()したんですか? いとこの身を守りたければ言うとおりにしろ、と言って? あの戦闘を引き分けにもちこむためだけに? なぜそんなことを?」

 

クィレル先生は陰気に笑った。 「きっと総長は、お気に入りの英雄(ヒーロー)が競争に熱中するのはいいことだから、そのままにしておきたい、とでも思ったのではないかな。 より大きな善のために、というやつだ。 それとも単に狂っているのか。 ダンブルドアの狂気が覆面であることはみな知っている。正気だが狂っているふりをしているだけだと。 たいていの人は、そこまで推理できたのに満足して、秘密が解明できたと思って、それ以上探ろうとしない。 覆面の下にまた覆面があるかもしれない、狂っているふりをしていながら正気のふりをしている狂人なのかもしれないとは思いもよらない。 悪いがわたしは急用があってすぐに外出する。だがこれだけははっきりと言っておく。戦争について見習う相手としてアルバス・ダンブルドアは到底おすすめできない。 では失礼する。」

 

〈防衛術〉教授は多少皮肉のこもった目礼をして、ザビニが走り去った方向に大股で立ち去った。ハリーはショックで口をぽかんとあけて、それを見送った。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ハリー・ポッター。

 

ハリーはとぼとぼとレイヴンクローの共同寝室(ドミトリー)へと向かう。壁も絵も生徒も目にはいらない。 階段をのぼり、部屋の入り口を通って一段おりるまで、速度をあげもさげもしない。なにを踏んだのかも意識していない。

 

クィレル先生がいなくなってから一分以上かかってやっと、ダンブルドアのしわざだという情報の出どころが二つだけであることに気づいた。(一)ブレイズ・ザビニ。あいつをまた信用するなんて、あたまが空っぽのバカでもやらない。(二)クィレル先生。クィレル先生ならダンブルドア流の謀略をでっちあげるのも簡単だろうし、生徒どうしがあらそうのが気にいっていそうでもある。 それに、一歩引いて詳細に目をつむれば、魔法世界のこの国を独裁制にせよと言ったりした人物でもある。

 

ただし別の可能性としては、ダンブルドアが実際にザビニをあやつっていたのかもしれない。クィレル先生は純粋に、なさけない前回の失敗をくりかえさないために、〈闇の紋章〉の意趣返しとしてあれを提案しただけかもしれない。 純粋に、ハリーが一人で〈闇の王〉と対決する羽目にならないようにしたいのかもしれない。ほかのみんなが前線に出ようとせず、こわがって身を隠して、ハリーに救われるのを待つだけ、ということにならないように。

 

だが本音を言えばハリーは……

 

実は……

 

そうだとしてもかまわない気がする。

 

そういうことをされるとヒーローは恨んだり怒ったりするものではある。

 

でも、なにが気にいらないんだ。ほぼ全員を()()()()()()()に、単独でないにしても数名の仲間だけを連れて、〈死ななかった男の子〉が〈闇の王〉をやっつける。それでいいじゃないか。 つぎの〈闇の王〉とのたたかいが〈第二次魔法界対戦〉にまでなって、国じゅうを巻きこんで大量の死者がでたとしたら、そうなった時点でもうハリーは失敗したことになる。

 

そのあとで魔法族とマグルの戦争が勃発したとしたら、どちらが勝つにしても、勃発を止められなかった時点でハリーの失敗だ。 それに、秘密はいずれやぶられる。そのときに、二つの世界が平和に統合できないともかぎらないだろう? (そこで、クィレル先生の乾いた声が聞こえる気がした。こんなことも説明されないとわからないのか、と言って長ながと話しはじめる……) 魔法族とマグルが平和に共存できないのなら、戦争になるまえに、魔法と科学をくみあわせて魔法族を全員火星に避難させる方法でもみつければいい。

 

というのは、もし殲滅をかけた戦争になったとしたら……

 

クィレル先生はそこに気づいていなかった。もっとも重要な質問をし忘れていた。

 

いくら熱心に〈光の紋章〉のやりかたを売りこまれても、〈闇の王〉に対抗するにあたってそれがどれだけ役立つ方法であっても、ハリーがその気になれない真の理由はなにか。

 

〈闇の王〉と〈紋章〉つきの部下五十人は、ブリテン魔法界全体に危機をもたらした。

 

ブリテン全体が強い指導者の〈紋章〉に服したとすれば、魔法世界全体に危機がやってくることになるかもしれない。

 

そして魔法世界全体がひとつの〈紋章〉に服したとすれば、ほかの人類全体にとっての危機になりうる。

 

魔法族の正確な世界人口はだれも知らない。 ハーマイオニーといっしょに推定してみたかぎりでは、およそ百万人から数百万人ではないかと思う。

 

でもマグルは六十億人だ。

 

最終決戦が避けられなくなったとしたら……

 

そのときハリーがどちらを守ろうとするかを、クィレル先生はたずねなかった。

 

一方の科学文明は星ぼしへとどくことを確信し、上をめざして広がりつづけている。

 

もう一方の魔法文明は、知識をうしなって衰退しつつあり、いまだに貴族が支配する社会で、マグルはほとんど人間あつかいされない。

 

考えるだけで悲しいことではあるが、ハリーの気持ちに迷いはない。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ブレイズ・ザビニ。

 

ブレイズは意識的にゆっくりと慎重に、廊下を歩いていく。落ちつこうとつとめてはいるものの、心臓の鼓動がはげしい——

 

「オホン。」と乾いた小さな声が、通りすぎたばかりの壁のくぼみ(アルコーヴ)の暗がりから聞こえた。

 

ブレイズはとびはねたが、悲鳴はださなかった。

 

ゆっくりとふりむく。

 

小さな暗がりのなかに、幅のひろい黒いマントがはためいていた。なかにいるのが男性か女性か分からないゆったりとした幅のマントで、その上につば広の黒い帽子がのっている。帽子の下には黒い霧が密集しているようで、そこにあるはずの顔は見えず、人なのかどうかすらわからない。

 

「報告を。」と〈帽子とマント〉がささやいた。

 

「あんたに言われたとおりに答えておいた。」 ブレイズの声はすこし落ちついていた。ここではうそを言う必要がない。 「クィレル先生の反応もあんたの予想どおりだった。」

 

つばの広い黒い帽子が一度かたむき、もとにもどった。その下にある頭部がうなづくような動きだった。 「よくやった。」と、だれのものともつかないささやき声が言う。「約束どおり、報酬はすでにお母さんにあててフクロウで送りだしておいた。」

 

ブレイズはためらったが、聞きたくてしかたがなかったので、質問した。 「ちょっと聞きたい。クィレル先生とダンブルドアのあいだにいさかいを起こそうとしているのはなぜだ?」  ブレイズの知るかぎり、グリフィンドールのあのいじめっこたちと総長はなんの関係もない。それに、ダンブルドアが提示してきたのは、キンバリーを助ける約束だけではなかった。ビンズ先生の〈魔法史学〉の宿題に白紙をだしても、一応出席して形式上提出してさえいれば、高得点をつけてもらえるようにしてくれるという話まであった。 実のところ、ブレイズは司令官三人を裏切ることができるなら報酬などいらなかったし、いとこのことも気にしていなかった。わざわざ自分からそれを明かす意味もなかったが。

 

つばの広い黒い帽子が、怪訝そうにこちらを見るような姿勢で、横にかたむいた。 「ブレイズくん。つぎつぎと裏切りをかさねる人間にはだいたい、あわれな末路が待っている、と思ったりしなかったか?」

 

「いいや。」と言ってブレイズは帽子の下の黒い霧をまっすぐに見た。「ホグウォーツにいるあいだ、生徒はけっして()()()()()()あわない、ということは周知の事実だから。」

 

〈帽子とマント〉はささやき声で笑った。 「そうだね。たったひとつの例外が五十年まえに生徒が殺された事件だったのを考えれば、その法則はたしかに成立している。 サラザール・スリザリンなら、あの怪物を封印するとき、総長ですら手がだせないほど高度な古い結界を使っていたことだろう。」

 

黒い霧をじっと見ながら、ブレイズはすこし不安になってきた。 だが、ホグウォーツ教師以外のだれかが彼に手をだせば、警報が作動してくれるはずだ。 そんなことをしそうな教師はクィレルとスネイプだけだ。これがクィレルだったら、自分自身をだますことになって意味がわからないし、スネイプだとしても、自分の寮のスリザリン生を傷つけるようなことはしないだろう……きっと?

 

「いいや、ブレイズくん。わたしはただ、大人になってからこんなことはしないように、と言ってあげたかっただけだ。 そう何度も裏切りをかさねる人は、いずれ一度は復讐をくらうことになる。」

 

「おれの母親はちがうね。」とブレイズは誇りをこめて言う。 「結婚した相手は七人。どのときの夫もそれぞれ不可解な死にかたをして、莫大な財産を残してくれた。」

 

「ほう? 最初の六人の末路を知られていながら、どうやって七人目と結婚にこぎつけた?」

 

「きいてはみたよ。そしたら、それを教えるにはまだ若すぎるって言うから、いつになったら教えてくれるのかきいたら、おれがママより年上になったら、だってさ。」

 

ささやき声がまた笑った。 「では、おめでとうと言っておこう、ブレイズくん。これでお母さんの立派なあとつぎになれそうだね。 去りなさい。きみが口を割らないかぎり、われわれは二度と会うことはない。」

 

ブレイズはおそるおそる、あとずさりした。背中をむけるのはなぜか気がすすまなかった。

 

帽子がかたむく。 「おやおや、どうしたのかな。 きみもハリー・ポッターやドラコ・マルフォイと対等のつもりなら、いまのはアルバスへ告げ口されるのをふせぐためだけのおどしだと気づいてくれないと。 実際危害をくわえるつもりがあれば、わたしはほのめかしたりなどしない。 むしろ、不安になっておくべきなのは、わたしがなにも言わない場合だ。」

 

ブレイズは侮辱されてすこし不服ではあったが、姿勢をまっすぐになおし、〈帽子とマント〉に目礼した。 そしてきっぱりと身をひるがえし、面会の約束をしている総長のところへ向かった。

 

ブレイズは最後の最後まで、まただれかがあらわれて、〈帽子とマント〉から寝返えらないかと誘ってくるのでは、と思っていた。

 

でも、ママでさえ七人の夫を()()()裏切りはしなかった。そう思ってみると、もうママより上をいけたのではないか。

 

そしてブレイズ・ザビニは五重スパイをしている自分に満足を感じながら、総長室へむかう——

 

少年は一瞬つまづき、どこか感覚が混乱したような感じがした。だが、すぐに立ちなおり、混乱をふりはらった。

 

そしてブレイズ・ザビニは四重スパイをしている自分に満足を感じながら、総長室へむかう——

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ハーマイオニー・グレンジャー。

 

その使者は、ハーマイオニーが一人になったのを見はからって、やってきた。

 

ハーマイオニーがちょうど考えごとを終えて女子トイレをでたところで、かがやくネコがどこからともなく飛びでてきて、「ミス・グレンジャー?」と言った。

 

ヒッと悲鳴をあげてしまってから、聞こえた声がマクゴナガル先生の声であることに気づいた。

 

といっても、こわくはなかった。おどろいただけだ。 ネコは明るく、美しくかがやき、銀白色の月の色をした陽光につつまれているかのようだ。 これに恐怖を感じるなどほとんど考えられない。

 

「どなた?」とハーマイオニー。

 

「マクゴナガル教授からの伝言です。」 やはりマクゴナガル先生の声で、ネコが言う。 「わたしの居室にきてもらえますか? ただしこのことは内密に。」

 

「はい、すぐに。」とおどろいたままハーマイオニーが言うと、ネコが一飛びして消えた。 いや、消えたのではなく、なんらかの方法で移動したのだ。すくなくとも、あたまのなかではそういう判断ができた。目では消えたようにしか見えなかったが。

 

ハーマイオニーは大好きな先生の居室につくまでに、あたまのなかでありとあらゆる方向に想像をめぐらせていた。 自分の〈転成術〉の成績がよくなかったとか? でもそれなら、どうして内密にしてほしいなんて? 多分、ハリーとのあの、部分〈転成術〉の実験に関することではないだろうか……

 

マクゴナガル先生の表情はかたくなく、心配そうだった。ハーマイオニーは机のまえの椅子に腰かける——同時に、マクゴナガル先生のいろいろな手持ちの仕事がつまった整理棚のほうに目をむけないようにつとめる。大人たちが学校の運営のためにどういった仕事をしているのか、ということは、いつも気になっていた。それに、なにか手つだわせてもらえたりしないか、ということも……

 

「ミス・グレンジャー。まず言っておきますが、あなたのあの願いごとが総長に依頼されてのことだったのは、もう分かっています——」

 

「総長から聞いたんですか?」 ハーマイオニーはおどろいて、そう口にした。 総長は、ほかのだれにも知らせない秘密だと言っていたのに!

 

マクゴナガル先生はすこし止まって、ハーマイオニーのほうを見て、さびしげにくすりとした。 「ほっとしました。まだそこまでミスター・ポッターに毒されてはいないようですね。 ミス・グレンジャー、わたしが分かっていると言っただけで、自白してしまうようではいけません。 実は総長からはまだ、なにも聞いていません。あのかたならそういうことをしていても不思議ではないと思ったまでです。」

 

ハーマイオニーはむっとして顔を赤くした。

 

「それでいいのです!」とマクゴナガル先生はあわててつけくわえた。 「あなたはレイヴンクローの一年生です。だれもあなたにスリザリンになれとは言いません。」

 

ぐさりとくる一言だった。

 

「そうですか。」 すこしとげのある言いかたになる。「それなら、ハリー・ポッターにスリザリンのやりかたを教わってきます。」

 

「そういう風に受けとってもらっては……」と言いかけてマクゴナガル先生は口をつぐんだ。 「ミス・グレンジャー、レイヴンクローの女の子はスリザリンになるべきではありません。だからこそ、今回の一件が心配だったのです! 総長になにかをやれと言われても、気がすすまなければ、引き受ける必要はまったくありません。 重圧でやらされそうになったときは、わたしを同席させて話したい、と言ってかまいません。こたえるまえにわたしに相談したい、と言ってもかまいません。」

 

ハーマイオニーは目をまるくした。 「総長もまちがったことをするんですか?」

 

マクゴナガル先生はそれを聞いてすこしさびしそうにした。 「わざとではありません……ただ、総長は、ものごとが子どもの立ち場からどう見えるのかを忘れてしまうことがあるようです。 本人は子どものころも、優秀で強い精神力と、グリフィンドール三人分の勇気がある子どもだったのでしょう。 そのせいか、子どもたちに期待しすぎたり、生徒の安全をおろそかにしてしまうことがあるようです。 立派なかたですが、いきすぎた謀略をすることもあります。」

 

「でも生徒が強くなって、勇気をもてることはいいことでしょう。」とハーマイオニーは言う。「先生がわたしにグリフィンドールをすすめたのも、だからだったんじゃありませんか?」

 

マクゴナガル先生は苦笑した。 「ついあなたをうちの寮に引きいれたくなってしまったのは、わたしのわがままだったかもしれません。 〈組わけ帽子〉は実際あなたに——いえ、たずねるべきではありませんでしたね。」

 

「わたしはスリザリン以外ならどの寮にでもいける、と言われました。」  ハーマイオニーはあのとき、なにが不足でスリザリンにいれてもらえないのかと聞こうとしてしまったが、なんとか思いとどまった…… 「だから勇気ならわたしもあるんです!」

 

マクゴナガル先生は机に身をのりだした。心配そうな表情をあらわにしている。 「ミス・グレンジャー。勇気は問題にしていません。 問題は、あなたのような女の子のためになることかどうかです。 総長は自分の謀略にあなたを巻きこむ。ハリー・ポッターはあなたに秘密を教えて守らせる。今度はドラコ・マルフォイがあなたと同盟しようとしている! わたしはお母さまに約束したのです。ホグウォーツではお嬢さんを危険な目にあわせないと!」

 

そう言われると、なにも言えなくなってしまう。 ただどうしても、もし自分がレイヴンクローの女子ではなくグリフィンドールの男子だったらマクゴナガル先生はなにも言わないのではないか、という気がしてならない。もしそうだったら…… 「わたしは善をこころがけます。それだけはだれに言われてもゆずりません。」

 

マクゴナガル先生は両手を目にあてた。手をおろしたとき、しわのはいった顔がとても老いて見えた。 「そうですね……」と小声で言う。「あなたならきっと、うちの寮でも立派にやれたでしょう。 気をつけてくださいね、ミス・グレンジャー。油断は禁物です。 すこしでも気がかりなことや不安なことがあったら、すぐにわたしのところに来てください。わたしからはそれだけです。」

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ドラコ・マルフォイ。

 

二人とも、この土曜日、あの戦闘があったあとでは、もうややこしいことはたくさんだった。 だからドラコは空き教室で『物理学の考えかた(Thinking Physics)』という本を読もうとしていた。 ドラコが理解できない部分もあるが、いずれにしてもこれまで読んだなかで最高におもしろい読みものだ。あのいまいましいバカが、自分の本だから見張らせろと言ってやってきて、べらべらとしゃべりつづけてドラコの邪魔をしてさえいなければ——

 

「ハーマイオニー・グレンジャーはああぁマッドブラッドなのにいいぃ」と近くの机で読書しているハリー・ポッターが歌う。読んでいるのは、ドラコのよりもはるかに高度な本だ。

 

「その手にはのらないぞ。」と落ちついた声で、顔をあげずにドラコは言う。 「無駄だ。二人でいっしょに、たたきつぶしてやる。」

 

「いいのかなああぁ、マルフォイがマッドブラッドと協力しちゃってええぇ。お父さんの友だちはなんて言うのかなああぁ。」

 

「なにも言わない。マルフォイ家がそうやすやすと罠にのらないことは、おまえ以外みんな知ってる!」

 

クィレル先生はダンブルドアより狂っている。こいつがほんとうに将来の救世主なら、いくらまだ大人でないにしても、ここまで子どもっぽく、みっともない姿をさらすはずがない。

 

「ドラコ、もっと、やなことを思いださせてやろうか? ハーマイオニー・グレンジャーも、きみやぼくとおなじで、魔法遺伝子対が両方そろってる。 でもスリザリンの同級生はそのことを知らないし、きみはああぁ、そのことをぉぉ、話してやることさええぇ、できないんだああぁ——」

 

ドラコは指の骨が浮き出るほど強く、本をにぎりしめた。 なぐられて、つばを吐かれることにも自制心が必要だというが、それにしても、これとはくらべものにならないだろう。この場で仕返ししてやらなければ、あとで犯罪的なことをやってしまいそうだ——

 

「あのときの願いごとは、もともとなんだったんだ?」とドラコが言った。

 

ハリーがなにも言わないので、ドラコは本から目をはなした。そしてハリーの悲しそうな表情を見て、ちょっとした意地悪な満足感をおぼえた。

 

「うーん、それは何回もきかれたんだけど。言っちゃうと、クィレル先生に悪いような気がして。」

 

ドラコは真剣な表情にきりかえた。 「ぼくには言ってもだいじょうぶだ。もう、もっと深刻な秘密をうちあけてもらってるんだから。それに、ぼくらは友だちだろ?」 ほら、これでどうだ。友だちだぞ! 罪悪感を感じざるをえまい!

 

「なんてことはない願いさ。」とハリーはあきらかに見せかけの軽快さをこめて言う。 「ただ、クィレル先生が来年も〈戦闘魔術〉の先生であってほしい、というだけ。」

 

ハリーはためいきをついて、本に視線をもどした。

 

そしてもう何秒かしてから、つけくわえた。 「今年のクリスマス、きみはお父さんに渋い顔をされるだろうと思うけど、いずれあの泥血(マッドブラッド)の女の子を裏切って殲滅させる予定だと約束すれば、きっとだいじょうぶだよ。それでクリスマスプレゼントは無事だ。」

 

クィレル先生にお願いしてみたいことができた。グレンジャーと二人でクィレル点をいくらか使って、とりわけ丁寧にお願いすれば、この〈カオス〉軍司令官をやっつけるときだけは、眠りの呪文よりもっとおもしろい手段を使わせてもらえたりしないだろうか。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「一代まえのアメリカ合衆国大統領」
1981年-1989年在職のロナルド・レーガンは69歳で就任。テレビ中継された選挙戦のディベートをカリスマで制したのが印象的で、在職中もその後も人気が高い大統領のようです。


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36章「格差」

◆ ◆ ◆

 

痛切な場違い感。九と四分の三番乗り場から出てきたとき、ハリーはそんな感覚をおぼえた。 地球のこちらがわのことを、唯一の現実世界だと以前の自分は思っていた。 道ゆく人は魔法使いや魔女の威厳あるローブではなく、カジュアルなシャツやパンツの服装をしている。 ベンチのまわりのあちこちに、ごみが散らばっている。 空気を吸うとひさしぶりに鼻をつく、ガソリンエンジンの排気の生なましいにおい。 キングス・クロス駅の雰囲気は、ホグウォーツやダイアゴン小路ほど楽しげな感じがない。 ここにいる人たちは小さく、おびえて見える。この人たちは、この世界の問題を解決してやるから引きかえに闇の魔術師とたたかえ、と言われれば、よろこんで引きうけるだろう。 よごれにスコージファイをかけ、ごみにエヴェルトをかけて始末してやりたい。もし呪文さえわかれば、〈泡頭(バブルヘッド)魔法(チャーム)〉を自分にかけて、この空気を吸わずにすませたい。 でもここでは杖を使うことができない……

 

〈第一世界〉の先進国から〈第三世界〉の国に来た人は、きっとこういう感じをうけるのだろう。

 

今回ハリーがあとにしたのはさしずめ、魔法界という〈第ゼロ世界〉だった。〈清掃の魔法〉や家事妖精(ハウスエルフ)がいる世界。癒者の癒術と本人にそなわった魔法力のおかげで、百七十歳になっても老いを実感せずにすんだりする世界。

 

そこから、マグルがわの地球の、魔法界でないロンドンに、ハリーは一時的にもどってきた。この世界でママとパパは一生をすごす。技術の進展によって魔法族の生活水準が一足飛びに追いこされたり、世界に深い変革が起きたりということさえなければ。

 

無意識のうちにハリーはぱっとふりむいて、後ろにいるトランクのほうを見た。トランクはマグルに気づかれずに小走りしてきている。爪のある触手を見ると、すべてが空想でなかったとわかってほっとさせられる……

 

胸をしめつけられるような感じがしているのにはもうひとつ理由がある。

 

両親は知らない。

 

両親はなにも知らない。

 

知らないのだ……

 

「ハリー?」とすらりとした金髪の女性がハリーを呼んだ。肌は完全にすべすべで染みもなく、とても三十三歳には見えない。それが魔法だったことに気づいて、ハリーははっとした。以前は気づかなかったが、いまはそうだとわかる。 これほど長く効果がつづくなら、きっとものすごく危険な(ポーション)だったはずだ。そのへんの魔女が使っていないのは、そこまで必死になる必要がないからだ……

 

ハリーの目に水分がたまった。

 

()()()()」とすこし年上の、腹が出てきている男性が声をはりあげた。灰色と緑のシャツのうえに黒い上着をはおった、学者らしい無造作なかっこうをしている。どこから見ても大学教授といういでたちだ。あの遺伝子を二つ持って生まれてさえいれば、きっと同年代で一番優秀な魔法使いにもなれていただろう……

 

ハリーは片手をあげて振って答えた。声がでてこない。まったく声にならない。

 

二人は走らずに近づいてきた。ゆったりとした、威厳ある歩きかただ。マイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授はいつもこの速度で歩くし、ペチュニア・エヴァンズ゠ヴェレスもそれ以上急ごうとはしない。

 

お父さんはうっすらとした笑みしかしていないが、もともと満面の笑みをするたちではない。 すくなくとも、ハリーが見たなかでは一番の笑みだ。あたらしく助成金を獲得したり、指導学生の就職が決まったりしたとき以上だ。つまり、これ以上ない笑みということだ。

 

ママはいそがしくまばたきをしている。笑みをおさえようとしながら、うまくいっていない。

 

「さて!」と目のまえまで来たところでお父さんが言う。「画期的な新発見はできたか?」

 

当然冗談だと言うような態度だ。

 

以前は両親がハリーの可能性を十分信じてくれないときも、それほどつらいと思わなかった。あのころは、ほかのだれも信じてくれていなかったし、ダンブルドア総長やクィレル先生のような人たちに真剣に相手にされるというのがどういう気分かを知らなかった。

 

そこでハリーは気づいた。〈死ななかった男の子〉はブリテン魔法界にしか存在しないのだ。マグルがわのロンドンにはそんな人物はいない。ここにいるのは、家族とクリスマスの休暇をすごす、まだおさない十一歳の男の子でしかない。

 

「あの、ちょっと、」と言うと声が震えた。「いまから声をだして泣くけど、別に学校で嫌な目にあってるとかじゃないから。」

 

ハリーは一歩まえに出て、止まり、お父さんを抱擁するかお母さんを抱擁するかで迷った。どちらがどちらより愛されていると思われても困る——

 

「バカなことを考えてはいけないよ、ミスター・ヴェレス。」と言ってお父さんが肩をそっとつかみ、ハリーをお母さんのほうに押しだした。お母さんはすでにひざをついて、ほおに涙が流れていた。

 

「ママ、」と震える声でハリーは言う。「ただいま。」  それから抱擁し、周囲の機械的な雑音と燃えるガソリンのにおいを感じ、ハリーは泣いた。ことばとは裏腹に、もはやなにひとつ、もとの場所には帰らない。とりわけハリー自身は。

 

◆ ◆ ◆

 

オクスフォードの大学町のクリスマスの渋滞をくぐりぬけるころには、空は暗くなり、星が見えだした。一家は自分たちのみすぼらしい家の敷地にはいって停車した。蔵書に雨風をしのがせるための家だ。

 

三人が玄関までの短い舗装道を歩き、花壇に小さく暗い電飾がついているところを通りすぎると(暗いのは、日中は太陽光で充電させているからだ)、電飾はそのタイミングで光った。 これを作るときに苦労したのは、ちょうどいい距離で起動する防水型の人感センサーを手にいれることだった……

 

ホグウォーツでは、ほんもののたいまつがこういう風に機能する。

 

玄関をあけてリヴィングルームにはいると、ハリーは目を何度もしばたたかせた。

 

壁一面が書棚で覆われていて、どの棚も六段からなり、天井近くまで届いている。 科学、数学、歴史などなど、ハードカバーの本ばかりであふれんばかりの棚もある。 ペーパーバックのサイエンスフィクションの段は二層ある。後ろの層はティッシュ箱か木の棒で底上げされていて、前の層のうえからはみでて見えるようになっている。 それでもたりず、本はテーブルやソファにこぼれだし、窓の下にも積み重ねられている……

 

ヴェレス家はハリーが出ていったときとまったく変わらない。ただ、本が増えている。つまり、おなじだ。

 

クリスマスツリーもあった。クリスマスイヴまであと二日なのに、まだなにもつけていない。一瞬考えてから、その意味に気づいてハリーは胸があたたかくなる気がした。もちろん、両親は()()()()()()のだ。

 

「部屋のベッドは、本棚を増設する場所をつくるために片づけたからな。ハリーの寝る場所はそのトランクのなかにもあるんだろう?」とお父さん。

 

「パパの寝る場所だってあるよ。」

 

「それで思いだしたが、睡眠周期については、けっきょくなにをしてもらった?」

 

「魔法」と言ってハリーはまっすぐに自分の部屋へとむかった。念のため、パパが冗談を言っていなかった場合にそなえて……

 

「説明になってないぞ!」とヴェレス゠エヴァンズ教授が言うと同時にハリーがさけんだ。「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは十二月二十三日いっぱいを使って、〈転成術〉(トランスフィギュレイション)で作れないマグルの製品を買いにいった。 お父さんは忙しいから、歩いていくかバスを使え、と言ったが、むしろハリーにはそのほうが都合がよかった。 工具店の店員のなかにはハリーをいぶかしげに見る人もいたが、ハリーは無垢な声で、お父さんに連れられて買い物にきたのだけれど、本人は別の店で忙しいから自分が使いっぱしりに来させられた、という説明をした(そこで、念入りに大人らしく半分読めないような手書き文字で書いておいたリストを見せた)。けっきょくは、おかねさえ出せば文句は言われない。

 

クリスマスツリーは三人でいっしょにかざった。ハリーはてっぺんに、小さな踊る妖精(フェアリー)をおいた。ギャンボル・アンド・ジェイプスの店で二シックルと五クヌートで買ったものだ。

 

グリンゴッツはなんの問題もなくガリオンを紙のおかねにかえてくれた。だが、大量の黄金を、あやしまれない非課税のマグル貨幣にかえて、匿名のスイスの銀行口座にいれるとなると、単純にはいかないようだった。 これで、ハリーが自分から盗んだおかねのほとんどを投資にまわすという計画は頓挫した。六割を国際株価指数連動型投資信託(インデックスファンド)にして、四割をバークシャー・ハサウェイに投資するつもりだったのだが。 いまのところできた多様化は、深夜に不可視になってから〈逆転時計〉をやって、ガリオン金貨を百枚、家の裏庭に埋めるというやりかただけだ。 いつかやってみたいと思ってはいたことだった。

 

十二月二十四日の一部は、ヴェレス゠エヴァンズ教授がハリーの本を読んで質問するという作業についやされた。 お父さんが提案した実験のほとんどは、すくなくとも現時点では、実現のみこみがなかった。みこみのあるものは、たいていハリーが実験ずみだった。 (「呪文の発音を変えたものをハーマイオニーに教えて、なにが変わったのかは教えないでおく、っていうのはもう試したよ、パパ。一番最初にやったのがそれ!」)

 

お父さんは『魔法水薬・油薬』を読むのを中断して、愛想がつきたという顔で、最後にこう質問した。魔法使いなら、これを読んで意味がわかるのか。ハリーの答えはノーだった。

 

その段階でお父さんは、魔法は非科学的だと宣言した。

 

いま考えても、()()の一部をとりだして非科学的だと宣言するような態度には、ちょっとあきれる。パパは自分の直観と宇宙が矛盾したとき、宇宙がまちがってると思うらしい。

 

(といっても、物理学者にも量子力学を変だと思う人はたくさんいる。彼らは、変なのは自分であって量子力学ではない、とは思わないのだ。)

 

ハリーは自宅用に買っておいた治癒キットをお母さんにみせた。ただし、パパには効果がない(ポーション)がほとんどだ。 ママがそのキットをじっと見ているので、ハリーはつい、ママの妹はこういうものをエドウィンおじいさんやエレインおばあさんに買ってあげなかったのか、とたずねてしまった。 それでもママが答えないのをみて、ハリーはいそいで、たぶん思いつかなかっただけだろう、とつけくわえた。それから、部屋を飛びだした。

 

リリー・エヴァンズは実際、()()()()()()()()のだろうし、だからこそ悲しい。 ある種の人たちには、いやなことを考えないようにする傾向がある、ということはハリーも知っている。彼らにとっては、それは赤熱するストーブにわざと手をのせたりしないのとかわらない。 だんだんそれらしく思えてきたのだが、どうも、マグル生まれの魔法使いもたいていがそういう風に、家族のことを考えないようにする傾向を身につけるのではないだろうか。百年もたたないうちに死ぬ運命の人たちのことを。

 

もちろん、ハリーとしては、そんな運命に家族をまかせるつもりはない。

 

十二月二十四日の夜にさしかかったころになって、三人はクリスマスイヴのディナーの場所へと車でむかった。

 

◆ ◆ ◆

 

そこは大邸宅だった。ホグウォーツにはおよばないものの、著名な大学教授でもオクスフォードで家をかまえようとすると、ここまではいかない。 煉瓦づくりの二階建ては夕日にかがやいていて、窓のうえにもう一列窓があり、ありえないほど縦長の窓もひとつある。あそこには、かなり大きなリヴィングルームがありそうだ……

 

ハリーは深呼吸をしてから、ドアの鐘をならした。

 

遠くから、「あなた、出てくれない?」という声がした。

 

それから、ゆっくりと近づいてくる足音がした。

 

ドアが開き、温和そうな男性があらわれた。赤ら顔で太っていて、髪の毛が薄くなってきている。青のボタンダウンシャツは、とじ目のところがすこしきつそうに見える。

 

「ドクター・グレンジャーですよね?」とハリーのお父さんが快活に口をひらいて、ハリーの先をこした。「マイケルです。よろしく。こちらはペチュニアと、息子のハリー。 料理は魔法のトランクにいれてきました。」と言ってパパは適当に後ろのほうにむけて手ぶりをした——正確には、トランクがある方向はそっちではなかった。

 

「ようこそ。さあ、どうぞ中へ。」と言ってレオ・グレンジャーは一歩まえに出て、差しだされたワインボトルを受けとり、「どうもありがとう。」と言い、一歩もどって、リヴィングルームのほうに手をむけた。 「まず座って。ああ、それと……」と言ってレオ・グレンジャーはハリーのほうを向き、「おもちゃはたくさん、この下の地下室にあるからね。 ハーミーもすぐおりてくるよ。右手の最初のドアだ。」と言って廊下があるほうを指さした。

 

ハリーは一瞬、この人と対面したままかたまってしまった。この位置では両親がはいってくる邪魔になってしまって悪いと思いながらも。

 

「おもちゃ?」とハリーは明るく、甲高い声で言って、目を丸くした。「おもちゃ大好き!」

 

お母さんが音をたてて息をのみこむ音がした。ハリーはどたどたと音をたてすぎないように一応気をつけながら、家のなかへはいっていった。

 

外観の印象を裏切らず、リヴィングルームは巨大だった。アーチ状の天井が大きく張りだし、特大のシャンデリアがぶらさがっている。そして、どうやってドアを通りぬけさせたのかと思うほどのクリスマスツリーもある。 ツリーの下の部分は赤と緑と金色の緻密な模様のかざりがほどこしてあるが、追加で青と銅色もちりばめてある。大人しか手のとどかない高さの部分には、電飾と模造のリースがいくつか無造作に垂らしてある。 通路のさきにはキッチンのキャビネットと、階段が見える。階段は木製の踏み板と金属製の手すりでできていて、二階へとつづいている。

 

「わあ! 大きな家だなあ! 迷子にならないようにしないと!」

 

◆ ◆ ◆

 

ドクター・ロバータ・グレンジャーは夕食の時間がせまるにつれ、なんとも落ちつかなくなった。 グレンジャー家から持ちよる料理として、七面鳥とローストビーフはオーヴンのなかで順調に焼けている。それ以外の料理は客人であるヴェレス家が提供することになっている。ハリーという名のヴェレス家の養子は、 魔法界では〈死ななかった男の子〉として有名な人物だという。 ハーマイオニーによれば「かわいい」男の子だそうだが、あの子はいままでそんな風に男の子を呼んだことがなかった。いや、というより、ハーマイオニーは男の子に目をとめたこともなかった。

 

ヴェレス家夫妻によれば、同年代の子どもたちのなかでハリーが多少なりとも存在を認知したのはいまのところハーマイオニーしかいないという。

 

早とちりがすぎるかもしれないが、あることが両夫妻の脳裡にちらりとうかんだ。もしかすると、あと何年かすれば、結婚式の鐘の音がきこえてくるのではないか。

 

ということで、クリスマスの当日は例年どおり一家で夫の家族のところへ行くとして、今年のクリスマスイヴは将来の婿家族になるかもしれない人たちを夕食に招こう、ということにしたのだった。

 

七面鳥にたれをかけている最中にドアの鐘が鳴ったので、ロバータは声をはりあげた。 「あなた、出てくれない?」

 

夫とその椅子からうなり声がして、それからどたどたと足音がして、ドアがバタンとひらいた。

 

「ドクター・グレンジャーですよね?」と、すこし年上の、快活な男の声がした。 「マイケルです。よろしく。こちらはペチュニアと、息子のハリー。 料理は魔法のトランクにいれてきました。」

 

「ようこそ。さあ、どうぞ中へ。」と言ってから、夫レオはすこし聞きとりにくい声で「どうもありがとう。」とも言った。おそらくプレゼントかなにかを受けとったのだろう。「さあ座って。」  それからレオは見せかけの高揚感をこめた声で、こう言った。 「おもちゃはたくさん、この下の地下室にあるからね。 ハーミーもすぐおりてくるよ。右手の最初のドアだ。」

 

一瞬、間があった。

 

すると少年の明るい声が聞こえた。「おもちゃ? おもちゃ大好き!」

 

それから家にはいってくる足音があり、もう一度明るい声がした。「わあ! 大きな家だなあ! 迷子にならないようにしないと!」

 

ロバータはオーヴンをとじて、笑みをうかべた。 ハーマイオニーの手紙にでてくる〈死ななかった男の子〉の話にはすこし心配させられていた——もちろん、どの手紙にもハリー・ポッターが()()だというような素ぶりはなかった。ロバータがダイアゴン小路に同行したとき、ハーマイオニーのためということにして買っておいた本のいくつかを見ると、恐ろしげな説がいろいろあったが、手紙にはそういう気配はなかった。 そもそもハーマイオニーはあまり詳しい話を書いてくれず、ハリーは本から飛びでてきたようなしゃべりかたをするとか、ハーマイオニーはいつになく必死で勉強しているが、それでやっとハリーに成績で勝てている、という程度の内容だった。 だがあの様子なら、ハリー・ポッターもただの十一歳の男の子のようだ。

 

ロバータが玄関についたとき、ハーマイオニーも階段をドタドタと、ちょっと危険すぎるほどの速度でかけおりてくるところだった。ハーマイオニーの話では魔女は落下の衝撃に強いそうだが、どこまで信用していいのやら——

 

ロバータはヴェレス教授夫妻の第一印象を吟味した。二人ともすこし落ちつかなさそうにしている。噂どおりの傷あとがひたいにあるその息子のほうは、ハーマイオニーのほうを向いて、さきほどと違った低い声をだした。 「これはこれは。ごきげんよう、ミス・グレンジャー。」と言って彼は片手の手のひらを見せ、両親を献上しにきた、とでも言うような動きをしてみせた。「ご紹介しましょう。わが父と母、マイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授とその妻ペチュニア・エヴァンズ゠ヴェレスです。」

 

ロバータが口をぽかんとあけると、少年は自分の両親のほうを向いて、さきほどまでの明るい声にもどった。 「ママ、パパ。ハーマイオニーだよ! すごくあたまがいい子だって言ったよね!」

 

()()()()」とハーマイオニーが声をひそめて言った。「やめなさい!」

 

少年はくるりとふりむいて、ハーマイオニーのほうを見た。 「残念ながら、われわれ二人は地下迷宮への幽閉の処分がくだされたそうだ。 ここでは大人たちがわれわれ子どもの頭脳にはおよびもつかない高級な会話をするそうだから、われわれはこのあいだの議論を再開して、ヒューム的投影論が〈転成術〉にあたえた影響について検討するとしようか。」

 

「ちょっと失礼しますね。」ときっぱりとした口調で言うと、ハーマイオニーは少年の左そでをつかんで、廊下に引きずっていき——ロバータはただ、二人が目のまえを通りすぎて、少年が明るく手をふっていくのを見守ることしかできない——そのさきで少年を地下室に引っぱりこみ、ぴしゃりとドアをしめた。

 

「も、もうしわけありません……」とヴェレス夫人がおろおろと言った。

 

「すみません。」と言って、ヴェレス教授が愛情のある笑みをした。「ハリーはあの手のことに敏感でして。 まあ、たしかに、あの二人が話したいことは、われわれの興味とはあわないんでしょう。」

 

『息子さんは危険ですか』と言いたくなるのをおさえて、ロバータはもっとさりげない別の言いかたを考えようとした。 夫はとなりで含み笑いをしている。まるで、あれが恐怖ではなく愉快なできごとだったと思っているかのようだ。

 

歴史上もっともおそれられた〈闇の王〉があの子を殺そうとした。ところが、襲ってきたほうが死に、燃えかすとなってゆりかごのとなりで見つかったという。

 

その子が将来、義理の息子になるかもしれない。

 

ロバータはあんな風に魔法の世界に娘を引きわたしてよかったのかと、だんだん悩むようになってきていた——とくに、入手したいろいろな本にあった日付けを総合して、とあることに気づいてからは。魔女であったロバータの母が死んだ時期は、グリンデルヴァルドの狂行が最高潮に達した時期に一致する。ロバータを出産するときに死んだのだと父親からは聞かされていたが、おそらくそうではなく、殺されたのだ。 だが、マクゴナガル先生は最初の買い物のあとも、「ミス・グレンジャーの様子を見る」ためにと言って、この家を何度か訪問しにきた。もしそこでハーマイオニーが、魔女としての人生を送るにあたって両親が邪魔になっている、というようなことを言ったとしたら、どうなっていたか。二人は()()される目にあっていたのではないだろうか……

 

ロバータはできるかぎり満面の笑みをして、すこしでもクリスマスの雰囲気をもりあげるように努力した。

 

◆ ◆ ◆

 

宴席のテーブルは六人分——いや、四人と子ども二人分か——よりはるかに長かったが、全面にきめこまかな白の亜麻布が敷かれている。料理は無意味にきらびやかな盛り皿にのせてられている。すくなくともその盛り皿は、ほんものの銀ではなくステンレス鋼だったが。

 

ハリーは七面鳥の味に集中しようとするが、ほかのことが気にかかっていた。

 

会話の話題は自然とホグウォーツのことにおよんだ。 ハリーの両親の目論見はあきらかだ。ハリーの学校生活について本人が言っていないことをハーマイオニーがうっかりもらしてくれないか、と期待しているのだ。 ハーマイオニーはそれを察してくれているらしい。いや、それとも、ややこしいことになりそうな話題を無意識に避けているだけなのかもしれない。

 

だからハリーについては問題ない。

 

問題なのは、ハリーはすでに自宅へのフクロウ便で、ハーマイオニーに関わるいろいろなできごとを両親に教えてしまっていた、ということ。ハーマイオニーがまだ自分の両親に話していなかったような部分についてまで。

 

たとえば、ハーマイオニーは課外活動で軍の司令官になった、とか。

 

その話がでたときハーマイオニーの母親がぎょっとしたので、ハリーはすばやく割り込んで、模擬戦で使う呪文はすべて危害の発生しない呪文だし、戦闘はつねにクィレル先生の監督下にあって、魔法で治癒する手段もあるから、言うほど危険なことはなにもない、と説明しようとしたが、その段階でハーマイオニーがテーブルの下で蹴りをいれてきた。 そこでハリーの父親が助け船をだし、教師として断言するが、もし危険であれば学校が子どもたちにそんなことをさせるはずがない、と保証した。ハリーもこういうことに関しては父親のほうが一枚うわてであると認めざるをえない。

 

といっても、ハリーが食事をあまり楽しめていない理由はそこではない。

 

……自分の不幸を考えすぎるのも困りものだ。ほかのだれかがもっと不幸だったりすると、一瞬で気づくようになってしまう。

 

ドクター・レオ・グレンジャーは会話の途中のどこかで、マクゴナガル先生についてたずねた。あの先生はハーマイオニーのことを気にいってくれていたようだったが、授業でもいい点数をつけてもらえているのか、という質問だった。

 

ハーマイオニーは見たところ裏のない笑顔で、肯定する返事をした。

 

ハリーはかなり努力して、口をはさむのを思いとどまった。マクゴナガル先生はなにがあろうと生徒をひいきするような先生ではないし、ハーマイオニーはたしかにいい点数をもらっているが、公正で正当な評価をするとそうなるだけだ、と冷ややかに指摘したいところだった。

 

レオ・グレンジャーは、ハーマイオニーはとてもかしこいから、魔女のあれこれさえなければ医学部に進学して歯科医にだってなれたかもしれない、という話もした。

 

ハーマイオニーはそこでまた笑みをしながら、ちらりとハリーに視線をむけて『言わないで』という信号を送ってきた。 おかげでハリーはこう言おうとしたのを思いとどまった——ハーマイオニーなら()()()()()()()()()()になれたかもしれませんよ? 自分の子が()でなくて()()だったらそう思ったりしたんじゃないですか? それとも男の子でも、自分たちより優秀になってしまったら許せませんでしたか?

 

だが、ハリーはどんどん沸騰点に近づいていく。

 

そして自分自身の父親がああでなかったことを、いつになく感謝する気持ちになっていく。パパは天才児であったハリーの成長に役立つあらゆることをしてくれたし、つねに上を目指すことを奨励してくれた。ハリーはなにかを達成すれば毎回かならず正当な評価をしてもらえたし、所詮子どものやることだと言って軽んじられたことはなかった。 ママがヴァーノン・ダーズリーと結婚していたら、ハリーはグレンジャー家のような家庭でそだつ羽目になっていたのだろうか?

 

とにかく、ハリーはできるかぎりのことをした。

 

「彼女はたいがいの科目でハリーより成績がいいんだとか? ホウキのりと〈転成術〉のほかは。」とマイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授が言った。

 

「そのとおり。」と言って、ハリーはクリスマスイヴの七面鳥の肉をもう一口分切りとりながら、落ち着いた声をだすようつとめた。 「しかもほとんどの科目で大差をつけられてる。」  こんな状況でもなければあまり積極的に認めたくない事実ではある。だからこそ、今日までお父さんにも知らせる機会がなかったのだ。

 

「ハーマイオニーはいつも学校の成績がよかったからね。」とドクター・レオ・グレンジャーが満足げに言う。

 

「ハリーは全国大会に出るくらいですよ!」とマイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授が言う。

 

「あなた!」とペチュニア。

 

ハーマイオニーはくすくす笑っている。けれどハリーは、彼女がこんな風にあつかわれているのが気にくわない。 本人は気にしていない。だからこそ余計、ハリーは気にする。

 

「ぼくもハーマイオニーになら負けても恥ずかしくないよ。」  すくなくとも、いま、この場ならそう言える。 「ハーマイオニーは授業がはじまるまえから教科書をぜんぶ暗記してたっていう話もしたかな? もちろん、ちゃんと検証してみたから。」

 

「娘さんは、その、ふだんからそうなんですか?」とヴェレス゠エヴァンズ教授が夫妻に言った。

 

「ええ、ハーマイオニーはなんでも暗記するんです。」とうれしそうな笑顔でドクター・ロバータ・グレンジャーが言う。「この家にある料理本のレシピも、ぜんぶそらで言えますから。 夕食の準備のときにはいつも、ここにいてくれたらと思うわ。」

 

いま見えている表情から察するかぎり、パパもハリーとおなじ気持ちを多少は感じているようだ。

 

「パパ、心配ないよ。 ハーマイオニーはいまは好きなだけ高度な教材を使わせてもらってる。 彼女がどれだけかしこいかが、ホグウォーツの教師陣には分かっている。()()()()()()()()()()()()

 

最後の部分でハリーは声をあらげた。全員がハリーのほうに顔をむけ、ハーマイオニーはまた蹴りをいれている。暴言をしてしまったのはわかっているが、それでももう我慢できない。こんなのは我慢できない。

 

「わたしたちだって、もちろん分かっているとも。」とレオ・グレンジャーがむっとした様子で言った。この家の晩餐で声をあらげるとはいい度胸だ、とでも言いたげだ。

 

「いいえ、ちっともわかってない。」  ハリーの声に冷たさが混じってきた。 「たくさん読書をしていてえらい、とでも思っているんでしょう? 満点の成績表を見せられて、この子は学校でしっかりやっているな、とでも言うんでしょう。 彼女はぼくらの世代で一番才能がある魔女で、ホグウォーツ期待の星なんです。両ドクター、あなたがた二人が歴史にのこることがあるとすれば、彼女の親だという肩書きだけですよ!」

 

すでに静かに席を立ってテーブルをまわりこんできていたハーマイオニーは、このタイミングでハリーのシャツの肩をつかんで椅子から引きずりだした。 ハリーは抵抗こそしなかったが、引きずられていくあいだ、さらに声をはりあげた。 「……それどころか、一千年後の世界では、ハーマイオニー・グレンジャーの両親が歯医者だったということだけが歯科学について知られるすべてになっていたとしても、まったく不思議ではありません!」

 

◆ ◆ ◆

 

ロバータはおさない娘が辛抱づよい表情をして、〈死ななかった男の子〉を引きずって消えていった方向を見つめた。

 

「いやはや申し訳ない。」とヴェレス教授が愉快そうな笑みをして言う。 「でもあまり気にしないでください。 ハリーはいつもあんな感じでして。 あの二人、まるでもう結婚しているみたいじゃありませんか?」

 

おそろしいことに、たしかにそう見えた。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはハーマイオニーからきびしくしかられることになると思っていた。

 

だが地下室への階段に二人を入れてから扉を閉め、こちらをふりむいたハーマイオニーは——

 

——笑顔だった。見るかぎり、裏のない笑みだ。

 

「ハリー、あれはもうやめて。」とハーマイオニーがおだやかに言う。「言ってくれるのはうれしいけど。なにも心配いらないから。」

 

ハリーはあっけにとられて彼女を見た。 「あれを我慢できるっていうの?」  親たちにきかれないようにと声をおさえたものの、音量はともかく高さはあがってしまった。 「()()()()()()()()()()()()()?」

 

ハーマイオニーは肩をすくめてから言った。「だって親ってああいうものじゃない?」

 

「ちがう。」  ハリーは小声にちからをこめた。 「うちのお父さんは、ぜったいぼくをバカにしない——いや、するんだけど、あんな風にはしない——」

 

ハーマイオニーは指を一本たてた。どう言いあらわせばいいか、あれこれ考えているようだった。しばらくしてから彼女は口をひらいた。 「ハリー……。マクゴナガル先生とフリトウィック先生は、わたしがこの世代で一番才能がある魔女で、ホグウォーツ期待の星だから気にいってくれている。 ママとパパはそのことを知らないし、伝えてあげることもできないけれど、それでもわたしを愛してくれる。 つまりホグウォーツにもこの家にも、なにも問題はないっていうこと。 そしてこれは()()()()両親のことだから、あなたに発言権はありません。」  彼女は夕食の場でとおなじ謎めいた笑みをして、やさしげにハリーを見た。 「おわかりですか? ミスター・ポッター。」

 

ハリーはこくりとうなづいた。

 

「よろしい。」と言ってハーマイオニーは顔をちかづけて、彼のほおにキスをした。

 

◆ ◆ ◆

 

やっと四人の会話が再開したところで、遠くから甲高い叫び声がきこえてきた。

 

「待って! キスはなし!」

 

男性陣は思わず笑いだしたが、女性陣は二人ともまったくおなじ愕然とした表情で席を立ち、地下室へむけて駆けだした。

 

テーブルに連れもどされてきたとき、ハーマイオニーは冷ややかに、二度とハリーにはキスしない、と言った。ハリーのほうは憤慨して、太陽が燃えつきて灰になるまでけっしてそういう距離感で近よらせない、と言った。

 

つまりなにも問題はないということであり、六人はそろって座ってクリスマスディナーの残りにとりかかった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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37章「幕間——境界を越える」

◆ ◆ ◆

 

深夜零時ちかくになった。

 

ハリーにとって夜ふかしは簡単だ。 〈逆転時計(タイムターナー)〉を使うのをやめるだけでいい。 睡眠周期を調整してクリスマスイヴがクリスマスに変わる瞬間に起きているようにするのは、毎年の習慣になっている。 ハリーはサンタクロースがいると信じるほど子どもだったことは一度もないが、サンタクロースがいるかどうかを疑うほど子どもだったことはあった。

 

夜、謎の人物が家にはいってきて、プレゼントを置いていく、というのが実際に起きることだったりしたら、むしろおもしろい……

 

そこで寒けがハリーの背すじをかけぬけた。

 

おそろしいものが近づいてくるという予感。

 

這い寄る恐怖。

 

破滅の感覚。

 

ハリーはベッドのうえで、ばっと身をおこした。

 

窓を見た。

 

()()()()()()()」とハリーはとても小さな声で悲鳴をあげた。

 

クィレル先生がなにかを小さく持ちあげる手ぶりをすると、窓が枠のなかへたたまれていくように見えた。 そこから冬の冷気が部屋のなかへ流れこみ、わずかに雪のかけらを連れてきた。見えるのは灰色の夜の雲がいくつかと、あとは暗闇と星ぼしだけだった。

 

「案ずることはない。」と〈防衛術〉教授がふだんの声で言う。「ご両親は魔法で眠らせてある。わたしが出ていくまで起きてはこない。」

 

「この場所はだれにも知られないはずなのに!」とハリーは言ったが、叫び声は小さめにした。 「フクロウでさえ、ぼく宛の手紙があればホグウォーツに転送して、ここにはこないことになっているのに!」  その措置を提案されたとき、ハリーは積極的に同意した。〈死食い人〉が好きなタイミングで手榴弾をフクロウで送ってきて魔法で起爆させるだけで、戦争の勝敗が決するようではバカらしい。

 

クィレル先生は窓のむこうの裏庭でにやりとした。 「心配にはおよばない。探索魔法はしっかり遮断されているし、純血主義者に電話帳を引く発想があるとも思えない。」  クィレル先生はさらににやにやと笑う。 「それに、総長がかけた結界を乗りこえるのには、わたしもかなり手こずらされた——もちろん住所さえわかれば、きみが外に出るのを待って襲撃することは、だれにでもできるが。」

 

ハリーはしばらくクィレル先生をじっと見てから、やっと口をひらいた。 「それでなにかご用でしょうか?」

 

クィレル先生の顔から笑みが消えた。 「謝罪しにきたのだよ。このあいだは、つい厳しいことを言ってしまったが——」

 

「やめてください。」  ハリーはパジャマに巻きつけていた自分の毛布に視線を落とした。 「聞きたくありません。」

 

「そこまで不愉快にさせてしまったか?」とクィレル先生が静かに言う。

 

「いいえ。でも謝罪されたら、そうなります。」

 

「ほう、そうか。」と言ってクィレル先生はがらりと態度を変えて、厳格な口調になった。 「対等な人間としてあつかってほしいのであれば、はっきり言わせてもらう。ミスター・ポッター、きみはあの場で、味方どうしのスリザリンが守るべき作法を踏みにじった。 自分の対立相手ではないだれかが作戦を進めているとき、あのようなやりかたで()()の相談なしに横槍をいれるものではない。 作戦の真の目的を知らないのなら、作戦の失敗がどれほど重大な結果を引きおこしうるかを理解できるはずがないからだ。 あのような横槍は、それだけで敵と認識するにあたいする行為だ。」

 

「すみません。」  ハリーはすこしまえのクィレル先生と同じ静かな口調で言った。

 

「わかったならいい。」

 

「でも、ああいった政治の話はまたいつか、させてもらいますよ。」

 

クィレル先生はためいきをついた。 「きみが人に見くだされるのを嫌うことは知っているが——」

 

ちょっと過小評価だと思う。

 

「率直に言わないほうがむしろ失礼か。……ミスター・ポッター、きみにはまだ人生経験がたりない。」

 

「人生経験のある人はみな、あなたと同意見ですか?」

 

「クィディッチをやるような人たちがいくら人生経験をつんでもしかたないだろう?」と言ってクィレル先生は肩をすくめた。 「きみもいずれ、意見を変えるはずだ。 信頼した人にことごとく裏切られて、冷めた見かたをするようになれば。」

 

まるで、これ以上なく月並な事実だというような言いかたでそう言って、〈防衛術〉教授は暗黒と星ぼしと雲を背景に立っている。その後ろから、身を切る冬の冷気に乗って、雪のかけらが一、二枚、飛びこんできた。

 

「忘れてましたが、メリー・クリスマス。」とハリーが言った。

 

「それもいいな。謝罪でないとすれば、クリスマスプレゼントというのがちょうどいい。 実はクリスマスプレゼントをすること自体、これがはじめてなのだが。」

 

ハリーはまだ、あのロジャー・ベイコンの実験日誌を読むためのラテン語の勉強をはじめてすらいない。だがこの場で口をはさむ気にもならない。

 

「コートを着なさい。もし温熱のポーションの手持ちがあるなら、それを飲むのでもいい。それから、玄関を出て、星が見えるこの場所まで来なさい。今回はもうすこし長く維持してみよう。」

 

ハリーは少しかかってそのことばを理解してから、コートのはいったクローゼットに飛びついた。

 

クィレル先生は星見の呪文を一時間以上維持した。少しずつ表情がけわしくなり、しばらくすると立っていられなくなったクィレル先生のすがたを見て、ハリーは一度だけ抗議したが、黙らせられた。

 

二人はクリスマスイヴとクリスマスの境界を越す瞬間、地球の自転とかかわりのない、時間のない虚無のなかにいた。永遠につづく真の〈きよしこの夜(サイレントナイト)〉だった。

 

それが終わるとハリーは無事に自室にもどり、〈防衛術〉教授は去った。約束どおり、ハリーの両親の眠りは最後まで覚めなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスと死の影」編
38章「大罪」


◆ ◆ ◆

 

太陽も、空気も、生徒たちも、親たちも晴ればれとしている。九.七五番乗り場の敷き石にはよごれがなく、冬の太陽はまだ上がりきっていない。一九九二年一月五日、朝九時四十五分。 低学年の生徒は何人かスカーフと手袋をしていたりもするが、ほとんどの人はローブだけだ。魔法使いだからそれでいいのだ。

 

ハリーは停車位置から離れてスカーフとコートを脱ぎ、トランクの部屋をひとつひらいて、冬着をしまった。

 

ハリーはしばらくじっと立って、一月の空気の冷たさを身にしみて感じることにした。

 

そして魔法使いのローブをとりだして、肩からかけた。

 

最後に杖をとりだす。そうして、さよならのキスをしてきたばかりの両親のこと、それに自分があの世界のいろいろな問題から距離をおいていることを考えずにはいられない。

 

やむをえないとはいえ申し訳ない、というような奇妙な罪悪感を感じながら、ハリーは口をひらいた。「〈(サーモス)〉」

 

ぬくもりがからだじゅうに広がっていく。

 

これで〈死ななかった男の子〉が帰ってきた。

 

ハリーはあくびと背のびをした。休暇が終わったところなのに、このうえなく気力が減退している。 教科書を読む気にはならないし、今朝は硬派なサイエンスフィクションもごめんだ。なにか徹底的にふざけたもので気分転換したい……

 

考えてみればむずかしいことではない。四クヌートもあればすぐ手にはいる。

 

それに、もし『デイリー・プロフェット』が腐敗した新聞で、その唯一の競合が『クィブラー』なのなら、後者にも隠れた事実が書かれていたりするかもしれない。

 

ハリーは前回とおなじ新聞スタンドまで重い足どりで歩いていった。今日の『クィブラー』は前回を超える見出しをだしてくれるだろうか。

 

ハリーが近づいていくと店主は笑みをむけてきたが、傷あとが目にはいった瞬間に表情を変えた。

 

()()()()()()()()()」と店主が驚嘆した。

 

ハリーは男の名札にすばやく目を止めてから言った。「ちがいますよ、ミスター・ドゥリアン。すごくよくできたそっくりさんです——」

 

そこで『クィブラー』の一面トップが目にはいり、ハリーは声をのどに詰まらせた。

 

酔った予見者が暴露:

闇の王は復活する

 

ハリーは最初の一瞬、表情をしっかりと抑制しようとしたが、よく考えるとショックを見せないのも疑われるだろうから——

 

「すみません。」と言ってハリーはすこし緊迫した声をだした。これではやりすぎて疑われそうな声かもしれないし、なにも知らない人としてはこの程度がふつうなのかもしれない。 スリザリン的な人たちといっしょに過ごしすぎたので、ハリーは一般人から秘密をまもる方法を忘れかけてしまっている。 クヌートが四枚、ちゃりんとカウンターに落ちた。 「『クィブラー』ひとつください。」

 

「いやいや、ミスター・ポッター!」と店主はいそいで言って、手をふった。 「これは——どうか気にしないで——」

 

新聞が一枚、空中に飛びあがり、ハリーの手に触れた。それをひらくと、こうあった。

 

酔った予見者が暴露:

闇の王は復活する

そしてドラコ・マルフォイと結婚する

 

「ただでいいよ。その、あんただけは——」と店主。

 

「いえ、どうせ買うつもりでしたから。」

 

店主はおかねを受けとり、ハリーは新聞を読みすすめた。

 

一分後、ハリーはこう言った。 「うわ。予見者にスコッチを六杯飲ませて、これだけ好きほうだいしゃべらせたのか。 シリウス・ブラックとピーター・ペティグルーが同一人物だったなんて、さすがにだれも予想しなかっただろうな?」

 

「わしはしなかったね。」と店主。

 

「ご丁寧に、二人が同一人物だとわかるように、二人がならんで撮った写真までついてる。」

 

「ああ。実によくできた偽装じゃないかね?」

 

「そしてぼくは実は六十五歳らしい。」

 

「その半分にしても、若わかしくていらっしゃる。」

 

「それに、ハーマイオニー・グレンジャーのいいなづけで、ベラトリクス・ブラックのいいなづけで、ルナ・ラヴグッドのいいなづけで、そうそう、おまけにドラコ・マルフォイのいいなづけでもあると……」

 

「どんな結婚式になることやら。」

 

ハリーは新聞から目を離して、愛想よくこう言った。 「まあ、最初にルナ・ラヴグッドが狂ってるっていう話を聞いたときは、ほんとにそうなのかって思ったよ。実はでまかせを言っておいて、裏でこっそり笑ってるんじゃないかって。 それからまた別の『クィブラー』の見出しを見たら、これはもう狂ってるわけがない、って思わされた。あんなでまかせをするのはそんなに簡単じゃない。偶然であんなことはできない。 それで、いまはどう思うかって? やっぱり狂ってると思う。 ふつうの人がでまかせを言おうとしても、こういう風にはならない。 あたまのなかがすごくおかしくなっているのでもないかぎり、いくらでまかせを言おうとしても、()()()()はでてこない!」

 

店主はハリーをじっと見た。

 

「冗談はおいといて。だれがこんなの読むの?」とハリー。

 

「あんたが。」

 

ハリーはその場を離れて新聞のつづきを読んだ。

 

手近なテーブルは避けた。前回、つまりはじめてこの列車に乗ろうとしていたとき、ドラコといっしょにいたテーブルだが、 歴史をくりかえさせる切っかけになってしまいそうだったから。

 

ホグウォーツでのあの最初の一週間のながさが、『クィブラー』のことばを借りれば、五十四年あったというだけではない。 ハリーとしては、自分の人生をこれ以上複雑にするような話はまっぴらだ。

 

ほかの場所に鉄の椅子がひとつあるのが目にはいった。真ん中の人垣から離れ、親たちが子どもをつれて〈現出(アパレイト)〉してくるときのこもった破裂音からも遠い場所に座って、ハリーは『クィブラー』をながめ、ほかになにか隠れた事実の報道がはいっていないか見きわめようとした。

 

『クィブラー』には狂気の所業としか思えない記事のほか(このどれかひとつでも事実だったとしたら、大変なことになる)、恋愛のうわさ話もかなり書かれていた。けれど、こちらはたとえ真実だったとしても、たいして重要ではない。

 

ちょうど『〈魔法省〉があらゆる結婚を禁止する結婚法案を提出』という記事をハリーが読んでいたところで——

 

「ハリー・ポッター。」と、なめらかな声がきこえ、ハリーの血管にアドレナリンがどっと出た。

 

ハリーは顔をあげてそちらを見た。

 

「ルシウス・マルフォイ。」とハリーはうんざりした声で言った。 これを教訓に、次回は十時五十五分までマグルがわのキングス・クロスにとどまっていることにしよう、と思った。

 

ルシウスは礼儀ただしく目礼し、銀髪を肩になびかせた。 手にもっているのはまたおなじ、黒塗りのステッキだ。銀色のヘビのあたまが持ち手になっている。そしてその持ちかたが無言で伝えてくるメッセージは、『わたしは体力がないからこれに寄りかかっている』ではなく、『これは殺傷力のある武器だ』のように思われた。 ルシウスの顔は無表情だ。

 

その両側に男がふたり、手のなかにすでに杖をおいた状態で、まわりをぎろりと見わたしている。 ふたりは四つの足と手をもつ一体の生物のように見えた。父クラッブと父ゴイルだろう。どちらがどちらであるかも分かるような気がしたが、どちらでもいいとハリーは気づいた。 どちらもルシウスの付属品であることにかけては、ルシウスの左足の右はじの指二本がそうであるのと変わらない。

 

「読書中に失礼。」となめらかな光沢のある声が言う。 「何度もフクロウは送らせてもらったが、一度も返事がなかったものでね。こうでもしなければ会う機会がないのでは、と。」

 

「フクロウは一度も受けとっていませんが、きっとダンブルドアが途中で差しとめたのでしょう。 ですが、もし受けとっていたとしても、ぼくが手紙を返す可能性はない。ドラコを通じて答えるしかなかったでしょうから。 ドラコに隠してあなたとやりとりしたりすれば、友情を裏切ることになります。」

 

はやくいなくなれ、いなくなれ……

 

灰色の目がハリーのほうをむいて光った。 「そういう建て前ということか……。よろしい。それも一興。 そうやって親友だというわが息子を、公然とあの女の子との同盟に追いこんだ。あれはなんのためかな?」

 

「ああ。分かりきったことでしょう? グレンジャーと協力することになれば、マグル生まれも人間であるとドラコは気づいてしまう。ブワッハッハ。」

 

うっすらと笑みのようなものがルシウスのくちびるに浮かんだ。 「たしかにダンブルドアらしい作戦ではある。しかし、あれはダンブルドアのしわざではない。」

 

「そのとおり。ドラコを相手にぼくがやっているゲームの一部ですから。ダンブルドアは関係していない。それ以上のことを言うつもりはありません。」

 

「ゲームはここまでとしよう。」  マルフォイの灰色の目が急にするどくなる。 「わたしの見立てでは、()()()()()()()()()、きみはいずれにしろダンブルドアの指し図を受けるような人物ではないな。」

 

短い沈黙。

 

「気づかれていたか。」とハリーは冷たい声で言う。 「では聞かせてもらいたい。厳密には、どの時点で気づいた?」

 

「クィレル教授のあの演説に対するあの反論を手紙で読ませてもらったとき、」と言って銀髪の男はにやりと笑った。 「最初は困惑した。みずからの利益に反することをしてなにがしたい、と。 しかし何日かすると、あれがだれの利益になることなのかが徐々に見えてきて、最終的にはっきりと分かった。 それだけでなく、きみが弱いということも明白になった。全面的にではないにしろ、ある意味では。」

 

「ずいぶんと目ざとい。けれども、なにがぼくの利益になるかをあなたはよく理解していないかもしれない。」

 

「そうかもしれない。」 光沢のある声に、鉄のようなかたさが混じった。 「そのことをまさに恐れているのだ。 きみは息子といっしょに奇妙なゲームをしている。その目的がわたしには分からない。 あのように非友好的なことをされて、わたしが懸念しないとでも思っているのか!」

 

ルシウスは両手をステッキにのせ、骨が浮き出るほど強くにぎった。護衛の二人が急に緊張した。

 

ハリーのなかのなにかが本能的にこう主張した。いま恐怖をおもてに出してしまって、自分におどしが効くとルシウスに分からせるのは非常にまずい。 いずれにしろここは、人通りのある駅なのだから——

 

「おもしろい。」と言ってハリーは自分も鉄のかたさを声に混ぜた。 「ドラコに害をなすことがぼくの利益になるという風に見えているのか。 それは見当はずれだよ、ルシウス。 ぼくにとってドラコは友だちだし、友だちを裏切るつもりはない。」

 

()()」と小声で言って、ルシウスはひどくショックを受けた表情をした。

 

そして——

 

「客です。」と手下のうちの一人が言った。声からすると、きっと父クラッブだろう。

 

ルシウスは姿勢をただしてふりかえり、不服そうな音を口からだした。

 

ネヴィルがこわごわと、しかし覚悟した表情で近づいてくる。その後ろに、背のたかい女性がつづいてくるが、こちらはまったく怖がっていない。

 

「マダム・ロングボトム。」とルシウスが冷ややかに言った。

 

「ミスター・マルフォイ。」 女性はおなじ冷ややかさで返す。「あなたはハリー・ポッターを困らせているのですか?」

 

ルシウスが大きな笑い声を出したが、奇妙に苦にがしげだった。 「いやいや、滅相もない。 そちらは、彼を守ろうと助太刀にきたのかね?」  銀髪の顔がネヴィルのほうを向いた。 「ミスター・ポッター配下の忠実な士官にしてロングボトム家継嗣、自称〈カオス〉のネヴィルとお見うけする。 世の流れは奇妙なものだ。 わたしにはすべてが狂っているようにも思える。」

 

ハリーはそれに対してなにを言っていいか分からず、ネヴィルは困惑し、おびえているように見えた。

 

「狂っているのはどちらでしょうね。」と言ってマダム・ロングボトムは勝ち誇るような声に切りかえた。 「なにか気にさわることでもおありでしたか、ミスター・マルフォイ。 われらがクィレル先生の演説のおかげで、協力者を何人かなくしてしまったとか?」

 

「わたしの実力を巧妙に中傷する演説ではあった。だがあのような手は、わたしが〈死食い人〉であったと信じるような愚か者にしか通用しない。」

 

()()」とネヴィルが声を漏らした。

 

「わたしは〈服従(インペリオ)〉にかかっていたのだよ。」とルシウスは疲れた声で言う。 「純血家系から人員を調達したいなら、〈闇の王〉はなにを置いてもマルフォイ家の支持を得ねばならなかった。 わたしが渋ると、あの男はあっさりと強制する手段に出た。 〈死食い人〉たちでさえ、あとになるまでこのことを知らなかった。この偽の〈闇の紋章〉のおかげでね。といっても、同意してつけた紋章ではないから、拘束力はない。 〈死食い人〉のなかにはまだ、わたしが最高幹部であったと信じている者もいるが、わたしはこの国の平和を思って、彼らを煽るのを避けようとして、あえて反論しないだけだ。 だがわたしはもともと、あのような失敗を約束された動きに、すすんでくわわるほど愚かではない——」

 

「耳を貸す必要はありません。」とマダム・ロングボトムはハリーとネヴィルの両方に向けて言う。 「この人は死ぬまでずっと、こういうふりをしなければならないのです。だれかに聞かれて、〈真実薬〉つきで証言されるのを恐れて。」

 

ルシウスはそれを無視するように彼女に背をむけ、ハリーのほうにもどった。 「あちらの邪魔者にはお引き取りいただこうか、()()()()()()()()()?」

 

「いいえ。」とハリーは乾いた声で言う。「ぼくはどちらかといえば、自分とおなじ年齢のマルフォイ家の人間を相手にしたいので。」

 

長い沈黙があり、灰色の目がハリーをじろりと見た。

 

「それはそうか……。こうなるとわたしのほうが愚かだったようだ。 さきほどからのあの態度はずっと、なんの話かまったく分かっていないふりをしていただけだというわけか。」

 

ハリーは視線を返したが、なにも言わない。

 

ルシウスはステッキを数センチメートル持ちあげ、地面を強く打った。

 

世界が白い霧のむこうに消え、音や声もすべて聞こえなくなる。ハリーとルシウス・マルフォイとヘビのあたまがついたステッキだけが残ったすべてだった。

 

「息子はわたしのすべてだ。この世界に残された唯一の生きがいだ。この警告は親切として受けとってもらいたい。 息子が傷つけられることがあれば、わたしは自分の命を投げうってでも報復する。 だがそうでないかぎりは、せいぜい自由にちからを奮ってくれと言うのみだ。 そちらがわたしにそれ以上のことを求めてこないのと同様、わたしからもそれ以上のことは求めない。」

 

白い霧は消え、怒るマダム・ロングボトムが父クラッブに押しとどめられているのが見えた。彼女はもう杖を手にしている。

 

「よくもこんなことを!」とマダム・ロングボトム。

 

ルシウスが黒いローブと白い髪をひるがえし、父ゴイルのほうを向いた。 「マルフォイ邸に帰るぞ。」

 

ポンという〈現出(アパレイト)〉の音が三重に鳴って、三人のすがたが消えた。

 

しばらくだれも口をひらかなかった。

 

「まったく。何だったのかしら?」とマダム・ロングボトム。

 

ハリーはしかたなさそうに肩をすくめてから、ネヴィルを見た。

 

ネヴィルのひたいに汗が見えた。

 

「ありがとう、ネヴィル。援護に感謝するよ。じゃあ、そろそろ座ろうか。」

 

「了解、司令官。」と言ってネヴィルはハリーのとなりにある椅子のどれかに来るのではなく、その場でほとんどくずれおちるようにして敷き石に腰をおろした。

 

「あなたはこの子にさまざまな変化をもたらしてくれました。」とマダム・ロングボトムが言う。 「わたしもその一部には賛成ですが、全部ではありません。」

 

「どれに賛成でどれに反対かというリストを送ってください。なにかできることがあるか考えてみます。」とハリー。

 

ネヴィルはうめいたが、なにも言わなかった。

 

マダム・ロングボトムは笑いをもらした。 「ええ、ではそのときはよろしく。」  声をひそめる。 「ミスター・ポッター……クィレル先生のあの演説を、この国のみなはずっと必要としていました。 あなたの感想については、おなじ評価をしかねます。」

 

「そのご意見は今後の参考にします。」とハリーはひかえめに言った。

 

「かならずしてそうしてくださいね。」と言ってマダム・ロングボトムは孫のほうをむいた。 「またいっしょに——」

 

「もう行っていいよ、おばあちゃん。今回はひとりでやれる。」

 

「こういうところは、賛成です。」と言って、彼女はぽんと音をたてて石鹸の泡のように消えた。

 

二人の少年はしばらく無言で座っていた。

 

ネヴィルが口をひらいて、うんざりとした声で言った。 「きっと、おばあちゃんが()()()()()()()変化をぜんぶ、なくそうとするんじゃないの?」

 

「それぜんぶとは言わないけど。」とハリーはすまして言う。「きみをだめにしてしまっていることがあったら、やめないと、と思って。」

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコはとても心配そうな様子で、きょろきょろとあたりを見まわしつづけている。音をあやふやにする障壁だけでは足りないから、いっしょにハリーのトランクの階下に引きこもって、ほんものの〈音消しの魔法〉もかける、ということにしたのはいいが、それでも心配だった。

 

「父上になにを言った?」と、〈音消しの魔法〉が効いて九と四分の三番乗り場から聞こえる音が消えた瞬間にドラコは言った。

 

「ええと……それより、見送りのときに、きみがお父さんに言われたことのほうを聞かせてくれない?」とハリー。

 

「きみから脅威を感じたらすぐに知らせろ、と言われた。()()()やっているなにかが()()()脅威をあたえる可能性がでたときも、すぐに知らせろ、とも! 父上はきみを()()()()と見なしている。 きみが今日なにを言ったにしろ、父上に恐怖をあたえたのはたしかだ! 困ったことになるぞ!」

 

ああもう……

 

「それでなんの話をしたんだ?」とドラコはせまった。

 

ハリーはうんざりした様子で、トランク地下一層目の床にそなえつけた折りたたみの椅子に背をもたれさせた。 「ちょっと言っておきたいんだけど。『自分が知っていると思っていることはなにか、それを自分はどうやって知ったと思っているか』というのが合理主義の基本的な問いであるのとおなじように、合理主義の大罪というのもある。ちょうど逆の考えかたをすること。つまり、古代ギリシアの哲学者みたいにすること。 彼らは世界のことがぜんぜんわからないから、『すべては水だ』とか『すべては火だ』とか言うだけ言って、『ちょっと待てよ、仮にすべてが水だったとして、どうすればそうだと分かるんだ?』という問いを考えなかった。 ()()ひとつの可能性だけを支持してほかのありとあらゆる可能性を棄却する証拠があるのか、とは考えなかった。あるいは、それが()()()()()()()()遭遇しそうにない証拠があるのか、ということも——」

 

()()()」 ドラコが声を緊張させた。「()()()()()()()()()()?」

 

「それがね、なんの話かわからなくて。だからこそ、適当なでまかせを言わないように注意しよう、と——」

 

それを受けて、ドラコが恐怖の悲鳴をあげた。ドラコがこれほど甲高い声をだすのを、ハリーは聞いたことがなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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39章「仮そめの知恵(その1)」

◆ ◆ ◆

 

ピー。チッ。ブー。リン。ゴボッ。ポン。ビシャッ。カラン。ブォー。ポッ。 シャラッ。ブクッ。ビーッ。ドス。パチッ。ブワッ。シャッ。プッ。ブーン。

 

フリトウィック先生は月曜日の〈操作魔法術(チャームズ)〉の授業中に、無言でハリーにたたまれた羊皮紙を一枚わたしてきた。そこには、いつでもいいから、だれにも気づかれないようにして総長室に来るように、とくにドラコ・マルフォイとクィレル先生には気づかれないように、とあった。 ガーゴイルに言うべき使い捨てパスワードとしてあたえられたのは『神経質なハゲワシ』だった。 そのとなりに、なかなか芸術的なフリトウィック先生の似顔絵がインクでかかれていて、ときどきまばたきをした。 メモの一番下には、三重の下線つきでメッセージがあった。『問題を起こさないように』。

 

ハリーは〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の授業を終え、ハーマイオニーといっしょに自習し、夕食をたべて、自軍の士官たちと話し、時計が九時をさしたとき、自分を見えなくしてから午後六時にもどり、げんなりとガーゴイルのところへ行き、螺旋階段をあがって、木の扉をぬけ、いろいろな機械でいっぱいの部屋にはいり、銀色のひげをした総長に対面した。

 

今回のダンブルドアはやけに真剣な表情で、いつもの笑みがない。 それにパジャマの紫色が、ふだんよりも暗めで落ちついた色合いだった。

 

「よくきてくれた、ハリー。」  ダンブルドアは玉座から立ちあがり、奇妙な装置のあいだをゆっくりと歩いてきた。 「まずきこう。昨日のルシウス・マルフォイとの面会の際のメモは持ってきたかね?」

 

「メモというと?」

 

「当然話した内容は書きとめてあるものと思ったが……」 老魔法使いはそのまま言いやめた。

 

ハリーはかなり自分が恥ずかしくなった。 自分がくぐりぬけてきた謎めいた会話に、意味ありげなほのめかしがいろいろあって、自分が理解できてきていないとき、当然いの一番にやるべきことは、記憶がうすれないうちにすべて書きとめることだ。あとで検討できるように。

 

「わかった。それなら、おぼえている範囲でよい。」

 

ハリーはきまり悪そうに、おぼえているかぎりで会話を再現した。半分くらいしゃべったところで、狂人の可能性がある総長になんでもかんでも話してしまうのはかしこくない、ということに気づいた。すくなくとも、話していいかどうかをまず()()()べきだ。けれどルシウスは()()()悪人で、ダンブルドアに敵対している。だからおそらく話してもだいじょうぶだ。それに、こうして話しはじめてしまった以上、いまさら計算しても遅い……

 

ハリーは正直に話し終えた。

 

ダンブルドアはハリーの話がすすむにつれ、だんだんと遠くを見る表情になり、最後にはとりわけ年老いた表情が垣間見え、あたりの空気がはりつめていた。

 

「そういうことなら、マルフォイ家の御曹司に害がおよぶことのないように注意してもらいたい。 わしもそうしよう。」  総長は眉をひそめ、漆黒の板の表面に指をしずみこませ、音をたてずに何度もたたいた。板には『レリエル』という文字が刻まれていた。 「以後きみは、マルフォイ卿とはいっさいの接触を回避するのが賢明じゃろう。」

 

「あなたがフクロウ便を差しとめていたという話は事実ですか?」

 

総長はじっとハリーを見つづけ、最後に不承不承うなづいた。

 

ハリーとしては腹をたててもいいところだが、なぜかそれほど腹はたたない。 多分、いまは総長の立ち場に共感しやすい気持ちになっているからだろう。 ハリーでさえ、ダンブルドアがなぜ自分とルシウス・マルフォイを交流させたがらないかはわかる。これは()()な干渉行為ではなさそうだ。

 

総長がザビニを脅迫したとなると話は別だ……が、これについてはザビニ自身の証言しかないし、ザビニはまったく信用ならない。というより、ザビニなら、とにかくクィレル先生の同情を買うような話をしようとするのが自然だ……。

 

「そうですね、抗議してもいいところですが。そのかわりに、先生の立ち場もわかるから、今後も差しとめるのはいいけれど、だれから来たかは教えてください、と言ってみてもいいですか?」

 

「残念ながら、これまでに差しとめたきみへのフクロウ便は膨大な数にのぼる。」  ダンブルドアはまじめな顔で言う。 「きみは有名人なのじゃ。わしが送りかえさなければ、きみは毎日何十通もの手紙を受けとることになる。ときにははるか遠くの国からも。」

 

「それは……ちょっとやりすぎじゃないですか——」 ハリーは少し怒りを感じはじめた。

 

「手紙のほとんどは、きみの手におえない頼みごとじゃ。 もちろんわしは不達として送り主にもどすだけじゃから、読んだことはない。 読むまでもない。わしにもおなじ手紙がくるのじゃ。 きみのように若い子を、毎朝、朝食まえに六度悲嘆させるのはしのびない。」

 

ハリーは視線を落として自分の靴を見た。 それでも自分で判断したいから読ませてほしい、と言うべきところだが……ハリーのなかにも小さな常識の声があり、それがいま、大声でさけんでいる。

 

「ありがとうございます。」とハリーはつぶやいた。

 

「ここに呼んだのにはもうひとつ理由がある。きみのたぐいまれな才能を見こんでの相談じゃ。」

 

〈転成術〉(トランスフィギュレイション)ですか?」と、ハリーはおどろいてうれしくなった。

 

「いやいや、そちらの才能ではない。もしディメンターをホグウォーツ内に持ちこむことが許されたとしたら、きみならどんな悪事をする? きみの意見が聞きたい。」

 

◆ ◆ ◆

 

生徒に〈守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉の呪文と動作を身につけさせてから、ほんもののディメンターを用意して実践させたい、というのがクィレル先生の依頼、いやむしろ、要求だったという。

 

「クィレル先生自身は〈守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉を使うことができない。」  ダンブルドアは各種装置のあいだをゆっくりと歩きまわりながら言った。 「その点はかなり不審と言えよう。しかし彼は()()()()そう申し出て、外部の講師を呼んで受講希望者に〈守護霊の魔法〉を教えさせてほしい、と要求した。 わしがその費用を負担しないなら、かわりに負担するとまで申し出た。感心なことじゃ。 しかし、ディメンターを連れこませよう、となると——」

 

「総長。クィレル先生は、現実的な戦闘条件のもとで実弾演習をすることが効果的だと確信しています。 ほんもののディメンターを持ちこもうとするのは、あの人の設定からしてまったく自然なことです。」

 

すると総長は怪訝そうな目でハリーを見た。

 

()()?」

 

「いえ、ただ、クィレル先生のふだんのふるまいと齟齬がない、と言いたかっただけで……」  ハリーは声をしだいに小さくして言いやめた。 なぜあんな表現を使ってしまったのだろう?

 

総長はうなづいた。 「つまり、わしの印象とおなじということか。あれは口実にすぎない、と。おそらくきみが思う以上に、もっともな口実ではある。 一見みこみのなさそうな人であっても、ほんもののディメンターのまえに立たせれば〈守護霊の魔法〉を成功させられることがある。光がちらりと見えるくらいだったのが、完全に有形の〈守護霊(パトローナス)〉にまで成功したりもする。 なぜそうなのかはだれも知らないが、たしかにそうなのじゃ。」

 

ハリーは眉をひそめた。 「それなら、なにもあやしいことはないのでは——」

 

総長はしかたなさそうに両手をひろげた。 「これ以上ない暗黒の生物をホグウォーツのなかにいれろと、()()()()()()言っているとき、あやしむのは当然じゃ。」  総長はためいきをついた。 「しかし、そのディメンターには見張りも結界もつけるし、頑丈な檻も用意する。わし自身がその場でずっと監視する——この状況でできる悪事がありえるようには思えん。 けれど、わしの見落としがないともかぎらん。そこできみの出番となる。」

 

ハリーは口をぽかんとあけて、総長の顔をじっと見た。 あまりのショックで、ほめられたような気にさえならなかった。

 

「ぼくの?」

 

「そうとも。」と言ってダンブルドアは少しだけ表情をゆるめた。 「わしもできるかぎり敵の策略を想像しようとはする。よこしまな精神の邪悪な思考を自分のものにしようとはする。 けれども、ハッフルパフ生の骨をけずって武器にしようなどという発想は、わしの想像の範疇をこえていた。」

 

これ、延々と言われつづけることになるのだろうか。

 

「待ってくださいよ。あれはあまりいい印象じゃなかったと思いますが、真剣な話として、ぼくは邪悪じゃありません。ただ発想力があるだけで——」

 

「邪悪だとは言っておらん。」 ダンブルドアは真剣な顔で言う。 「邪悪な思考を理解することと、邪悪になることはおなじだという者もいる。けれどそういったことばは、仮そめの知恵に過ぎん。 邪悪とは、愛を知らぬこと、愛を想像しようとしないこと。邪悪であることをやめずに愛を理解できないこと。 そしてきみなら、愛を知ったままで、わしよりもずっとうまく〈闇の魔術師〉のこころのうちを想像することができるようじゃ。そこで……」  総長は熱い視線を見せた。 「自分をクィレル先生の立ち場においてみてほしい。そして、わしをだましてディメンターを一体この校内にいれることができたとき、きみならどのような悪事をなす?」

 

「ちょっと時間をください。」と言ってハリーは目まいのようなものを感じながら、総長の机と対面する位置の椅子に向かい、そこに腰かけた。 今回は木製の簡易な椅子でなく、肘かけのある快適な椅子だった。ハリーは自分がつつまれるのを感じて、そのなかにしずみこんだ。

 

ダンブルドアはハリーに、クィレル先生を出しぬけ、と言っている。

 

まず一点目。ハリーはダンブルドアよりはむしろクィレル先生のことが気にいっている。

 

二点目。クィレル先生が邪悪なことをしようとしているというのが今回の仮説だ。もしもその仮定が成立するなら、ハリーはダンブルドアに協力してそれを止めようと()()()だ。

 

三点目は……

 

「総長、もしクィレル先生がなにかたくらんでいるとして、ぼくにそれを出しぬける気がしないんですが。 クィレル先生はぼくよりずっと経験豊富です。」

 

老魔法使いはくびをふり、笑顔をたもちながらも不思議と非常に厳粛な顔つきをしてみせた。 「きみは自分を過小評価している。」

 

そういう風に言われるのははじめてだった。

 

「あのとき、まさにこの部屋で冷徹な態度でスリザリン寮監と対決し、総長を脅迫して、同級生たちを守ろうとしたのはだれだったか。 わしの見こみでは、クィレル先生もルシウス・マルフォイも出しぬける狡猾さがある。いつか成長してヴォルデモートと対等にもなるであろうという少年じゃ。 その少年に相談したい。」

 

ハリーはその名前を聞いて、さあっと寒けを感じ、眉をひそめて総長を見た。

 

この人はどこまで知っているんだ……?

 

総長はすでに、かつてないほど深く謎の暗黒面(ダークサイド)に支配されたときのハリーのすがたを見ている。 ハリー自身、それがどういう風に見えたかを覚えている。不可視になって〈逆転時計〉をやって、過去の自分がスリザリンの上級生たちと対決したときのことを。 ひたいに傷あとのあるあの少年のふるまいは、ほかの少年とちがっていた。 総長なら当然、その少年を自室で見たとき、なにか変だと気づいただろう。

 

そしてダンブルドアは自分のお気に入りの英雄であるハリーに、宿敵〈闇の王〉に匹敵する狡猾さがあると判断した。

 

だがそれだけなら大したことではない。その〈闇の王〉というのは、自分の全従僕に命じて各自の左うでの見やすい位置に〈闇の紋章〉をつけさせた人物であり、自分が格闘術を教わりにいった僧院の全員を虐殺した人物なのだから。

 

()()()()()()に追いつくとなると、まったく次元のちがう問題だ。

 

けれど、総長はなかなか満足してくれそうにない。ハリーが冷徹で暗黒っぽくなって、なんらかの回答をするまでは、満足してくれる気がぜんぜんしない。狡猾さを印象づけるような回答でなければ……しかも、()()()()クィレル先生の防衛術の授業の邪魔にならないようにしなければ。

 

そしてもちろん、ハリーは実際に暗黒面(ダークサイド)にはいって、そういう方向で考えてみることにした。すなおにそうしてしまったほうがいいし、杞憂にはならないかもしれない。

 

「ディメンターがどのように連れこまれるのか、どのように見張られるのか、細部にいたるまですべて教えてください。」

 

ダンブルドアは両眉を一度あげてから、話しはじめた。

 

ディメンターは〈闇ばらい〉三人に移送されてホグウォーツの敷地内にはいる。その三人は総長の個人的な知りあいであり、三人とも有形の〈守護霊の魔法〉を使うことができる。敷地の境界でダンブルドアがその三人をむかえ、ホグウォーツの結界にディメンターを通過させる——

 

ハリーはそこで質問した。通過許可はそのときかぎりか、恒久的なものか。おなじディメンターをだれかが翌日連れこむことはできるか。

 

そのときかぎりだ、という答えがあり(総長はうなずきをもって答えた)、説明は再開した。 ディメンターは太いチタン製の棒でできた檻にいれられる。〈転成〉したのではなく実際に鍛造した檻だ。 チタンもディメンターのまえに置かれると、時間さえあれば腐食して塵になるが、一日ではそうはならない。

 

生徒たちは、自分の番が来るまでは、ディメンターから十分距離をとって待つ。両者のあいだにはつねに、〈闇ばらい〉二人があやつる有形の〈守護霊(パトローナス)〉が二体置かれる。 ダンブルドアは自分の〈守護霊(パトローナス)〉を持ってディメンターの檻の横で待機する。 生徒がひとりディメンターに近づくたびに、ダンブルドアは自分の〈守護霊〉を解除し、生徒は〈守護霊の魔法〉をこころみる。 失敗した場合は、ダンブルドアが自分の〈守護霊〉をもどす。十分早くそうすれば、生徒に後遺症が残ることはない。 安全性に余裕をもたせるため、元決闘術大会優勝者であるフリトウィック先生も生徒たちのそばで待機する。

 

「ディメンターのそばにいるのが、あなただけなのはなぜですか? つまり、もう一人の〈闇ばらい〉もいたほうがいいのでは——」

 

総長はくびをふった。 「わしが〈守護霊〉を解除するたびに、ディメンターへの曝露がある。曝露が累積すれば、いずれその〈闇ばらい〉の許容限度を超えてしまう。」

 

ダンブルドアの〈守護霊〉がなんらかの理由で消えたとき、生徒のだれかがまだディメンターの近くにいれば、三人目の〈闇ばらい〉が有形の〈守護霊〉をだして、その生徒を守らせる……

 

いろいろ細かく検討してみても、ハリーから見てセキュリティは万全なように思えた。

 

なのでハリーは深呼吸をしてから、椅子にしずみこみ、目をとじて、あの光景を思いだした。

 

「これでしめて……五点? いや、切りがいいところで十点、口ごたえをした罰としてレイヴンクローの点を減点する。」

 

いままでよりもゆっくりと、消極的に、冷たさがやってきた。そういえば最近、あまり自分の暗黒面(ダークサイド)を呼びだしていなかった……

 

こころのなかであのときの〈薬学〉授業をひととおり再現すると、血が冷えてきて、水晶のような恐ろしいほどの透明さに近づいた。

 

そしてディメンターのことを考えてみる。

 

答えは明らかだった。

 

「そのディメンターは陽動です。」  ハリーは冷淡な声を隠さずに言う。その冷たさをダンブルドアは必要としているし、予期している。 「ディメンターは脅威として大きく、目だつ。けれども所詮単純で、防衛しやすい相手でもある。 あなたの注意がすべてディメンターにうばわれているとき、真の謀略が別の場所でおこなわれる。」

 

ダンブルドアはしばらくハリーをじっと見て、ゆっくりとうなづいた。 「ああ……。もしもクィレル先生に邪悪な底意があれば……何に対してそのような陽動をしようとするか、というこころあたりも多少ある……。ありがとう、ハリー。」

 

総長はまだ、じっと見るのをやめない。老いた目が奇妙な視線をむけている。

 

「なんですか?」とハリーはすこしだけいらだちを見せた。冷たさがまだいくらか血のなかにある。

 

「もうひとつ質問したいことがあるのじゃ。 ずいぶん昔から不思議に思っていたことじゃが、一度も理解できたことがない。 ()()、」 声にすこしだけ痛ましさが感じられた。 「なぜ、みずからをすすんで怪物にする人がいるのか? 邪悪以外に目的のない邪悪をなすのはなぜか? ヴォルデモートはなぜ生まれたのか?」

 

◆ ◆ ◆

 

ジジッ、ブー、チッ。リン、ポッ、ビシャ……

 

ハリーはおどろいて総長をじっと見た。

 

「ぼくにわかるわけないでしょう? ぼくは英雄(ヒーロー)だから、なにか魔法的な理由で〈闇の王〉のことを理解できるとでも?」

 

「そのとおり! わし自身の宿敵はグリンデルヴァルトで、グリンデルヴァルトのことならわしもよく理解できた。 自分にとっての闇の鏡像であり、ひとつまちがえば自分がそうなっていたすがたでもある。 自分は善人であり、だからつねに正しいのだ、と信じる誘惑に負けてしまっていれば、わしがああなってもおかしくなかった。 『より大きな善のために』、というスローガンを掲げて、彼は本心からそう信じて、傷ついた動物のように暴れ、ヨーロッパ全土を蹂躙した。 その彼を、わしは最終的に倒した。 彼のあとにヴォルデモートが来て、わしが守ったこの国のすべてを破壊しようとした。」  痛みはすでにダンブルドアの声と表情にはっきりとあらわれている。 「ヴォルデモートはグリンデルヴァルトをはるかに超える、ただ狂行のためだけの狂行をした。 わしはあらゆる犠牲をはらってなんとか押しとどめたが、ヴォルデモートが()()ああであったのか、いまだに理解できない! ハリー、ヴォルデモートはなぜあんなことをしたのじゃ? 彼はわしの宿敵ではなく、きみの宿敵。すこしでも思いつくことがあれば、どうか教えてほしい!」

 

ハリーは自分の両手をじっと見た。 事実を言うなら、ハリーはまだ〈闇の王〉についてたいして調査していないし、総長の質問に関してはまったくこころあたりがない。 だがどうやら、総長はそういう答えを聞きたいのではなさそうだ。 「〈闇〉の儀式をやりすぎたとか? 最初はひとつだけと思って、自分のなかの善人のこころを犠牲にした。そうしたらほかの〈闇〉の儀式をするのにも抵抗感が減って、どんどんいろいろな儀式をやるようになった。そうやって正のフィードバック・ループになって、最後にはものすごく強力な怪物になってしまった——」

 

「そうではない!」 総長の声は苦痛にさいなまれている。 「それでは到底納得できん! もっと深いなにかがあるはずじゃ!」

 

『なくていいんじゃないですか?』とハリーは思ったが、口にはださなかった。どうも総長の考えでは、宇宙は物語であり、筋書きが存在し、深刻な悲劇はそれ相応の深刻な理由がなければ生まれない、ということらしい。 「すみませんが、〈闇の王〉がぼくの闇の鏡像であるような気はぜんぜんしませんね。 ヤーミー・ウィブルの家族を編集室の壁に貼りつけたという話ですが、そうしたいという誘惑なんか、ぼくはぜんぜん感じません。」

 

「なにかすこしでも、気がついたことはないか?」  ダンブルドアは訴えるような、いや懇願するような口調で言った。

 

『邪悪なものごとはただ、発生する。そこに意味はないし教訓もない。あるとすれば、邪悪になるな、ということくらいでしょうか? 〈闇の王〉は、だれを傷つけてもいいと思っていたただの利己的な悪人かもしれないし、やらなくてもいい失敗をやってしまって、ついに止められなくなったバカかもしれない。 世界に悪はあるけれど、その背後になにも運命的なことはない。 もしヒトラーが建築学校にはいる夢をかなえていれば、ヨーロッパの歴史は変わっていた。 そして、ぼくたちが生きている宇宙が、まともな理由がなければ悪いことが起きない、という宇宙だったとしたら、悪いことはそもそも起きていない。』

 

……ということをいくら言っても、総長が聞きたがる話にはならない。

 

老魔法使いは依然として、凍った煙のような機械のむこうがわから、ハリーをじっと見ている。期待するような目に、痛いたしい懇願が見える。

 

まあ、賢者らしくするのは難しくない。 知的にするのよりはずっと簡単だ。意外なことを言う必要もないし、新しい知見を思いつく必要もない。 ただ脳内のパターンマッチングのソフトウェアを使って、事前にとっておいたなんらかの〈賢者の知恵〉的な文句を見つけて穴うめしてやればいいだけだ。

 

「総長、ぼくとしては、敵に自分を定義されてしまうのは気がすすみません。」と厳粛そうにハリーは言った。

 

すると、ブンブンチッチッとやかましい雑音のさなかでも、不思議と静けさが生まれた。

 

いまのはちょっと〈賢者の知恵〉っぽすぎた、とハリーは思った。

 

「きみのその態度はとても賢明ではないかと思う……。わしも……友に自分を定義されるのであれば、どんなによかったか。」  ダンブルドアはいっそう悲痛な声でそう言った。

 

ハリーはあわてて、〈賢者の知恵〉らしいなにかが言えないかと、こころのなかで探しまわった。思わぬ打撃をあたえてしまったらしいから、なにか弱めるようなことを言わなければ——

 

「あるいは、」 ハリーは少しおだやかな声をだした。「敵によって作られるのがグリフィンドールというものなのかもしれません。友によって作られるのがハッフルパフであり、野望によって作られるのがスリザリンであるのとおなじように。 そしていつの時代でも、謎によって作られるのが科学者です。」

 

「大変に過酷な運命をわが寮に宣告されたように思うが、」  総長はまだ悲痛な声をしている。 「言われてみれば、なるほど、わしはほとんど敵によって作られたようなものかもしれん。」

 

ハリーは太ももにのせた自分の両手をじっと見た。 先まわりできたようなので、しばらく黙っておこうか。

 

「それだけでなく、わしの質問への答えでもある。」  ダンブルドアはすこし小声で、ひとりごとのように言う。 「それがスリザリン生にとっての決め手であることは、気づいていてしかるべきだった。 野望のため、すべて野望のためだけに……()()はわしもわかるが、しかし()()……」  それからしばらくのあいだ、ダンブルドアは虚空を見つめた。そして姿勢をただし、もう一度ハリーに注目をあてたように見えた。

 

「そしてハリー、きみは自分を()()()だと思うのか?」  こんどは、おどろきと多少の批判が混ざった声だった。

 

「科学は気にいりませんか?」とハリーはすこしうんざりして言った。 ダンブルドアなら、マグルがらみのものを愛玩してくれてもよさそうだと思っていたのに。

 

「杖のない人びとにとっては便利なものじゃろう。」  ダンブルドアは眉をひそめる。 「しかし、科学が自分を定義する、とは奇妙なことを言う。 科学は愛ほどに重要か? 親切や友情とくらべものになるか? きみがミネルヴァ・マクゴナガルのことを気にいるのは科学のためか? きみがハーマイオニー・グレンジャーのことを気にかけるのは科学のためか? きみがドラコ・マルフォイのこころにあたたかさを与えようとするとき、頼るのは科学なのか?」

 

悲しいことに、これを言っている本人は、ものすごく決定的な賢者の一言を言ったつもりでいるんだろうな。

 

さて、これのお返しに、ものすごく賢者的に聞こえる言いかたでなにか言うとすれば……

 

「あなたはレイヴンクローではない。」  ハリーは落ちついた、尊厳ある声で言う。 「だから、真理を尊重することや、一生涯をかけて真理を探求することの崇高さに思いがいたらないのかもしれませんね。」

 

総長が両眉をあげてから、ためいきをついた。 「それほど若くして、それほどの賢明さを身につけるとは、いったいなにがあって……?」  総長は悲しそうな言いかたをした。 「そのちからはいずれ、きみの助けとなることじゃろう。」

 

助けになるのは、一人でかってに感動しすぎる老魔法使いを感動させたいときくらいですがね、とハリーはこころのなかで言った。 ダンブルドアが簡単に感じいるのを見てハリーは正直、ちょっとがっかりした。 ハリーはうそはついていない。だが、ダンブルドアはハリーのことばに感動しすぎだ。深みがありそうな言いかたをしているだけなのに。これは、深い知恵を平易な英語で説明する、リチャード・ファインマンのような技術とはわけがちがう……

 

「愛は知恵よりも大切です。」と言ってハリーはダンブルドアを試そうとした。はたしてダンブルドアは、ひたすらパターンマッチで生成しただけの、内容的になんの深みもない、だれがみても使い古された言いまわしにどこまで耐えられるだろうか。

 

総長は厳粛そうにうなづいた。「まさしく。」

 

ハリーは椅子から立ちあがり、両手をひらいた。 ああ、じゃあどこかで愛をさがしてきますよ。〈闇の王〉を倒すのにきっと役立つんでしょうから。 次回あなたから助言をもとめられたときには、ただ抱擁(ハグ)してあげればいいということですね——

 

「今日はきみの話を聞かせてもらって、いろいろと収穫があった。」と総長が言う。「よければ、もうひとつだけ質問させてもらいたい。」

 

ほらきた。

 

「教えてほしい。」  ダンブルドアの声はこんどはたんに不思議そうにしているだけに聞こえたが、その目には痛ましさが垣間みえた。「〈闇の魔術師〉たちはなぜ、あれほど死を恐れるのだろうか。」

 

「ええと、すみません。それに関しては、ぼくは〈闇の魔術師〉のほうに賛成ですね。」

 

◆ ◆ ◆

 

ヒュー、シュー、カラン。ゴボッ、ポン、ブクッ——

 

()()」とダンブルドア。

 

「死は、いやなことです。」  話を伝わりやすくするため、ハリーは賢者っぽい語り口をやめた。 「とてもいやなことです。 ものすごくいやなことです。 死がこわいのは、毒のきばを持つ巨大な怪物がこわいのとおなじ。 死をこわがるのは理にかなっているし、死をこわがる人について心理的な病気をうたがう必要はありません。」

 

総長は、まるでハリーが突然ネコになったとでもいうかのように、ハリーをみつめた。

 

「じゃあですね、言いかえましょう。先生はいま()()()()ですか? もしそうなら、マグル世界には自殺予防ホットラインというものがありますから——」

 

「そのときが来れば、じゃ。」と老魔法使いはしずかに言う。 「それまでは死にたくはない。わしはその日を早めようとするつもりもないし、その日が来たときには、こばむつもりもない。」

 

ハリーはけわしい表情をして、眉をひそめた。 「それって、生きる意思があまりないように聞こえますが!」

 

「ハリー……」  老魔法使いはすこし困ったような声をした。本人も気づかないうちに、水晶の金魚鉢のところまで歩いて来ていて、白ひげの先がそこにつかり、緑っぽいしみがすこしずつ上がっていった。 「言いかたがわかりにくかったのかもしれないが。 〈闇の魔術師〉たちは生をもとめない。かわりに、彼らは()()()()()。 太陽の光にむかおうとせず、夜のとばりを避けようとする。そのために、月も星もない、どこまでも暗い洞窟をみずから作り、そこに逃げこむ。 彼らが望むのは、生きることではなく、()()なのじゃ。それがほしいばかりに、自分のたましいすら犠牲にしようとする! ハリー、きみは()()()生きていたいと思うのか?」

 

「はい。そしてあなたもそう思っていますよ。 今日のぼくは、また一日生きていたいと思う。 明日になれば、やっぱりもう一日生きていたいと思う。 したがって、ぼくは永遠に生きたい。 正の整数についての帰納法による証明終わり。 死にたくないということは、永遠に生きていたいということです。 永遠に生きていたくないということは、死にたいということです。 どちらかをえらべば、もう片ほうはえらべない…… と言っても、わかってもらえそうにないですね。」

 

二つの文化は、巨大な共約不可能性の断絶をはさんで、たがいをみつめあった。

 

「わしは百十年生きてきた。」と老魔法使いはしずかに言った(そしてひげを金魚鉢からだし、色がついた部分をしぼろうとして振った)。 「たくさんのものごとを見たし、した。 もちろん、あれは見たくなかった、これはすべきでなかった、ということもたくさんある。 けれども、生きてきたことを後悔したことはない。 生徒たちがそだつのをみるのは喜びの源泉であり、まだまだ飽きない。 それが飽きるようになってしまうまで生きていたくはないのじゃ! 永遠に生きることができたとして、ハリー、きみは何が()()()?」

 

ハリーは深呼吸をしてから言った。 「世界じゅうのおもしろい人たちに会うこと、あらゆる良書を読むこと、それ以上の良書を書くこと、自分の孫の十歳の誕生日を月面で祝うこと、孫の孫の孫の百歳の誕生日を土星の〈輪〉の上で祝うこと、〈自然〉の究極の法則を知ること、意識の本質を理解すること、なぜなにかがそもそも存在するのかを知ること、他の星に旅行すること、異星人を発見すること、異星人をつくること、ぜんぶ探検しおわったら〈天の川銀河〉の反対がわでみんなと集まってパーティをすること、〈原地球〉出身の全員といっしょに太陽がもえつきるのをながめること。あと、以前は負のエントロピーがなくなるまえにこの宇宙から脱出できるかどうかを心配していたんですが、どうやら物理法則というやつを場合によっては無視してもいいらしいと気づいてからはだいぶ希望がもてるようになりました。」

 

「どの部分もあまりよく理解できないが。ひとつだけ聞いておきたい。 それはすべて、きみがこころの底から願い、もとめることなのかね。 それとも、飽きることがないように、死から逃げつづけるためだけに、思いついたにすぎないのかね。」

 

「人生は、ある有限のチェックリストをやりとげたら死ぬことが許される、みたいなものではありません」とハリーはきっぱり言う。 「人生というものは、とにかく続くものでしかない。 いま言ったことをぼくがしていなかったとしたら、もっとやりがいのあることを見つけたというだけのことです。」

 

ダンブルドアはためいきをつき、指で時計をたたいた。 すると、数字が解読不可能な文字におきかわり、針の組が一瞬だけ別の角度であらわれた。 「ありそうにないことじゃが、わしが百五十歳まで生きることが許されたとして、それに不平は言わん。 だが二百年となると、どう考えても度がすぎている。」

 

「あのですね。」  ハリーはママとパパのことを考えた。()()()()()人生は、ハリーが何もしなければ、あとどれくらい残されているのだろうか。 「きっと、四百年生きることが普通の文化から来たひとにとっては、二百年で死ぬことは悲劇的な早死にのように思えるんじゃないですか。ちょうど、()()()で死ぬことのように。」  最後のところでハリーの声はかたくなった。

 

「そうかもしれん。」とダンブルドアはやすらかな声に言う。 「わしは友人たちより前に死にたいとは思わないし、友人がすべていなくなったあとまで生きていたいとも思わない。自分が一番に愛した人に死なれ、なのに、まだほかの人たちは生きていて、彼らのために自分も生きていかなければならない。これほどつらいことはない……」  ダンブルドアの視線はハリーのほうにとまり、悲しそうになった。 「わしの番がきたとき、あまりなげかないでほしい。来たるべき旅路では、なつかしい家族や友人たちといっしょになれているのじゃから。」

 

「ああ!」  ハリーは突然気づいたように言った。 「あなたは()()()()()を信じているんですか。 魔法族って無宗教なんだとばかり思ってましたよ?」

 

◆ ◆ ◆

 

ブォー。ビーッ。ドスッ。

 

()()()()()()()()()()()()」とダンブルドアは肝をつぶしたような表情で言った。 「きみも魔法使いじゃ。 幽霊(ゴースト)をみたこともあろうに!

 

幽霊(ゴースト)ですか。」とハリーは平坦な声で言う。 「肖像画みたいなものですよね。暴力的な死にかたをした魔法使いの魔法力が、意図せずして周囲の物に刻印され保存されたもの。意識も生命もない、記憶とふるまいの残滓——」

 

「わしもその説は聞いたことがあるが……」と総長は声を鋭くして言った。「冷笑を知恵とはきちがえた魔法使いが言いふらす説じゃ。 他人を見くだして自分を上におこうとして考えたものじゃ。 百十年のこの人生でこれほどばかげた説は聞いたことがない! なるほど、幽霊は学習しないし成長もしない。それはこの世に属していないからじゃ! 先へすすもうとするたましいにとって、この世にのこされた生はない! 幽霊を否定するなら、〈ヴェール〉はどう解釈する? 〈よみがえりの石〉は?」

 

「いいでしょう。」とハリーは声をおちつかせようとしながら言った。 「証拠は拝聴しましょう、()()()()()()()()()()()()()()()。 ただ、最初にすこし言わせてください。」  ハリーの声が震えた。 「ここにきたときのことです。つまりキングス・クロスで列車をおりたときのことです。 昨日ではなく、九月、列車をおりたときのことです。ぼくはそれまで幽霊をみたことがなかった。幽霊を()()()()()()()()()。 だから幽霊をみたとき、バカなことをしてしまった。 ぼくは()()()()()()()()()()()()。 死後の世界が……()()んだと思ってしまった。だれひとり、ほんとに死んではいないんだと思ってしまった。人類が失ったと思いこんでいた人たちは、けっきょくみんな無事だったんだ、と思ってしまった。魔法使いなら死んだ人と話ができて、ただしい呪文をつかえば死んだ人を呼びだせるんだと、魔法使いにはそれが()()()んだと思ってしまった。 ぼくのために死んでくれた両親にも会えるんだと思ってしまった。二人に話しかけて、身代わりになって死んでくれたことを聞いたと、二人をお母さんお父さんと呼ぶようになったことを伝えられるんだと——」

 

「ハリー……」とダンブルドアはささやいた。目になみだをうかべ、こちらへ一歩ちかづいて——

 

「でも()()()()()」  ハリーは声に怒りをこめた。宇宙がこのようにできていることに対する怒り、自分のばかさ加減への冷たい怒りをあらわにして言う。 「ハーマイオニーにたずねると、あれはたんに、魔法使いの死によって、城の石にやきつけられてできた()()だという。ヒロシマの壁に残ったシルエットとおなじようなものだと。 気づいているべきだった! きくまでもなく気づくべきことだった! 三十秒たりとも信じていてはいけなかった! もしたましいがあったとしたら、脳損傷なんていうものはないんだから! 脳がすべてなくなってからもたましいがしゃべりつづけられるなら、左脳の損傷で発話能力がうしなわれたりするはずがない。 マクゴナガル先生がぼくの両親の死について話したときの調子も、二人は外国にながい旅行にいったとか、あるいは船で旅をした時代でいえば、オーストラリアに移住したとでもいうような調子じゃなかった。死ぬことは別の場所にいくだけのことだと()()()()()()()()()()()()、そういう調子で言っていたはずだ。死後の世界があるというはっきりした証拠があったなら、なぐさめのために作り話をしているのでなかったなら、話は()()()()ちがう。戦争で誰かをうしなったとしても、たいしたことではなくなる。死は悲しいけれども、()()のできことではなくなる。 そして、魔法世界のだれもそんなようにふるまってはいないということはすでに分かっていた! だから想定できていてもよかった! そのときやっとぼくは、両親はほんとうに死んでいて、二人の何ものこってはいないんだと気づいた。二人に会えることはけっしてないんだと気づいた。ほかの子の目には、ぼくは()()()()()()()泣いているみたいに映るだろうと——」

 

老魔法使いは慄然として、口をあけて話しはじめようとした——

 

「では聞かせてもらいましょう! 証拠があるなら言ってみてください! ただし、ほんのすこしでも誇張したりするのはやめてください。もしまた偽の希望をもらって、あとになって嘘だとわかったり、すこしでも誇張がはいっていたとなったあかつきには、いつまでも許しません! ()()()()()()()()()()()()()?」

 

ハリーはほおに手をやりぬぐった。ハリーがわめいたときに室内のガラス製の器具が振動していたが、もうとまっている。

 

老魔法使いはかすかに震えた声でいった。 「〈ヴェール〉とは、〈神秘部〉に保管された大きな石の門のこと。死者の国への入り口じゃ。」

 

「なぜそれが事実だとわかるんですか? あなたが信じていることは聞きたくありません。あなたが()()ことを教えてください!」

 

〈ヴェール〉は世界と世界のあいだにある障壁で、物理的な実体としては巨大な石づくりの古いアーチ門であるという。縦長で先端が細いかたちをしている。通り道となるべきところに、ほころびた黒い(ヴェール)がかかっていていて、水面(みなも)のように揺れている。たましいたちが絶え間なく一方通行で通りぬけていくために、つねに波うっている。 〈ヴェール〉のまえに立つと、死者の呼び声が聞こえる。それはいつも、ぎりぎりのところで理解をこばむ、ささやき声で、長くとどまって聞こうとすると、むこうもなにかを伝えようとして、大きく、重なった声になる。 声を長く聞きすぎた者は、〈ヴェール〉に触れ、声のぬしたちに会おうとする。触れた瞬間にその人は吸いこまれ、二度と帰らない。

 

「作り話だとしても、おもしろみがないですね。」  ハリーは声を落ちつかせた。いまの話は希望をあたえてくれるようなものですらないし、希望をだいなしにされて怒るまでもない。 「だれかが石の門を作って、それに波うつ黒い面をつけて、触れたものを〈消滅〉させるようにしておいて、催眠効果のあるささやき声をだすようにしただけ。」

 

「ハリー……」と言って総長はかなり心配そうな顔をした。 「わしは真実を言ってあげることはできる。けれどきみが聞く耳をもたなければ……」

 

()()()()()()()()()()。「〈よみがえりの石〉のほうは?」

 

「本来きみに聞かせるべき話ではないが、そのような懐疑心を持ちつづけられてはきみのためにならないと思う……だから、どうかよく聞いてほしい……」

 

〈よみがえりの石〉はハリーのマントにならぶ、伝説的な三つの〈死の秘宝〉のひとつであるという。 〈よみがえりの石〉は死者のたましいを呼びだすことができる——死者を生者の世界に連れもどすことができる。ただし、生前のその人がそのままもどってくるのではない。 カドマス・ペヴェレルはこの石をつかって、愛する妻を死者の世界から呼びもどそうとした。しかし妻のこころは死者の世界にとどまり、生者の世界にもどらなかった。時を経て彼は発狂し、彼女と本当に再会するために自殺した……

 

ハリーはやけに丁重に挙手した。

 

「なにか?」と総長はしぶしぶ応じた。

 

「まっさきに検証すべきことがありますね。〈よみがえりの石〉がほんとうに死者を呼びもどしているのか、自分のあたまのなかにイメージを投影しているにすぎないのかを知るには、自分は知らないけれどもその死者なら答えを知っているであろう質問をすべきです。そして、答えが正しいかどうかをこの世界で明確に検証できるような質問にしておく。たとえば——」

 

そこでハリーは口をつぐんだ。今回はなんとか、思いつくまましゃべってしまうまえに、考えることができた。最初に思いついた名前と検証方法を口にしてしまわずにすんだ。

 

「……死んだ妻を呼びだして、遺品にあるはずの耳かざりが見つからないが、どこにあるか、ときいてみるとかですね。そういうようなテストをした人はいますか?」

 

「〈よみがえりの石〉は、何百年もまえから、ゆくえが分からなくなっている。」と総長は静かに言った。

 

ハリーは肩をすくめた。 「ぼくは科学者ですからね。説得にはいつも耳を貸します。 〈よみがえりの石〉を心底信じているなら——ぼくが言ったようなテストをすれば成功すると信じなければならないはずですよね? じゃあ、〈よみがえりの石〉が見つかりそうな場所のこころあたりはありますか? ぼくはもう〈死の秘宝〉をひとつ、とても謎めいた状況下で手にいれたんだし、あなたもぼくも、世界のリズムがこういう場合にどう動くかはわかっているはずです。」

 

ダンブルドアはハリーをじっと見た。

 

ハリーも総長を見つめかえした。

 

老魔法使いは片手をひたいにあてて、つぶやいた。 「なんたる狂気。」

 

(不思議とハリーは笑いださずにすんだ。)

 

ダンブルドアは、〈不可視のマント〉をポーチから出すように、と言った。 そしてハリーが言われるまま、フードの裏をのぞきこんで、しばらく目をこらしていると、銀色の網目のうえに、乾いた血のように褪せた赤色の〈死の秘宝〉のシンボルがあった。三角形のなかに円がえがかれ、その二つを一本の線がつらぬくシンボルだ。

 

「ありがとうございました。こういう印がある石がないか、気をつけておきます。 ほかに根拠になるものはありますか?」

 

ダンブルドアは内心で葛藤があるように見えた。 「ハリー……」と言って老魔法使いは語気を強くした。「きみは危うい道を歩もうとしている。これを言ってしまっていいものかどうか迷うが、なんとしてもその先に進ませるわけにはいかん! もしたましいがないのなら、ヴォルデモートはどうやって肉体の死をこえて生きのびたことになる?

 

このときになってハリーははじめて気づいた。〈闇の王〉がまだ生きているということをマクゴナガル先生に伝えた()()()()()()()()は、たった一名だけだ。しかもその一名というのは、学校とは名ばかりのこの魔窟をつかさどる変人総長で、世界は陳腐な決まり文句にしたがって動いていると考えている人物だ。

 

話のもっていきかたについて内心、多少の論争をしてから、ハリーは口をひらいた。 「いい質問ですね。彼は〈よみがえりの石〉のちからを複製する方法を見つけたりしたのかもしれません。 ただし、それにくわえて、事前に自分の脳の状態を()()()コピーしてとっておいたものを入れた、とか。だいたいそんなところでしょう。」  ハリーは急に、自分が()()()()()()()()を説明しようとしているような気がしなくなった。 「いや、それよりも、あなたが知っているかぎりで、〈闇の王〉がどのように生きのびたか、どうすれば殺せる可能性があるか、という部分の情報をすべて教えてもらえませんか?」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「その手には引っかからんぞ。」と言う老魔法使いの顔は老いて見えた。年月以上のものが(しわ)にきざまれているように見えた。 「そうやって質問するほんとうの目的は分かっている。といっても、こころを読んだのではない。読むまでもない。さきほどのためらいを見れば分かってしまう! きみは〈闇の王〉がみつけた不死の秘密を知って、自分のために使いたいと思っているのではないか!」

 

「ちがいますよ! ぼくは〈闇の王〉がみつけた不死の秘密を知って、()()()のために使いたいと思っているんです!」

 

◆ ◆ ◆

 

チッ、パチッ、ジジジ……

 

アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアはその場に立ちすくみ、口をぽかんとあけて、無言でじっとハリーを見た。

 

(一日が終わるまえにだれかを心底唖然とさせることができた自分へのごほうびとして、ハリーは月曜日の欄に済み印をつけてあげた。)

 

「分かりにくかったかもしれないので補足しておきますが、()()()というのは、魔法族だけじゃなく、マグルもですよ。」

 

「いや、」と老魔法使いはくびをふり、語気を強めた。「ならん。ならん。ならん! これはもう狂気でしかない!」

 

「ブワッハッハ!」とハリー。

 

老魔法使いはけわしい表情をしている。怒りと不安が見える。 「ヴォルデモートはある本を盗んで、そこからあの秘密をつきとめた。 気づいたときには、あったはずの場所から、その本がなくなってしまっていた。 けれども、これだけはわしも知っている。言うことができる。 彼の不死は、底知れぬ暗黒の……おそろしい〈闇〉の儀式の産物じゃ! そしてそのためにマートルが……かわいそうに罪のないマートルが殺された! あの不死を実現するには、生けにえが、()()が必要なのじゃ——」

 

「あのですね、言うまでもありませんが、不死になるために人殺しが必要だったなら、ぼくはそんな方法を広めようとは思いませんよ! そんなのは、完全に本末転倒ですから!」

 

意表をつかれたように、話が止まった。

 

老魔法使いの怒りの表情がだんだんやわらいでいくが、不安はまだ残っている。 「人間の生けにえが必要な儀式はしない、というのか。」

 

「ぼくのことをどう思ってらっしゃるのか知りませんが、」とハリーは冷淡に言った。こんどはこちらが怒る番だ。 「人は()()()()()だ、という意見なのはぼくのほうだということを忘れないでくださいね! みんなを()()()()、という意見なのもぼくです! 死はすばらしいものだとか、みんな死ぬべきだと言っているのは、あなたのほうですから!」

 

「もはや絶句するほかない。」と言って老魔法使いはまた、奇妙な居室のなかを歩きはじめた。 「どう表現すればいいのやら……」  そして水晶玉をひとつ手にとる。そのなかで手が炎につつまれているように見える。そこをのぞきこみながら、老魔法使いは悲しい表情をした。 「ただ、ひどく誤解されているということは言える……。ハリー、わしはみんなを死なせたいなどとは言っておらん!」

 

「ええ、だれにも不死になってほしくないだけでしたね。」 ハリーはかなりの皮肉をこめて言った。 『∀x: Die(x) = ∄x: ¬ Die(x)』というのは論理学では初歩的な恒真式にすぎないが、どうやら世界最強の魔法使いの推論能力の限界を超えているらしい。

 

老魔法使いはうなづき、静かに応じた。 「すこしは安心させられたが、それでもまだ、きみについてはかなり不安がある。」  多少年老いてはいるがまだ力強い手が、しっかりと水晶玉をつかみ、台にもどした。 「死に対する恐怖は耐えがたいもの。それはたましいの病気でもあり、人はそのためにねじれ、ゆがむ。 おなじ絶望の道を歩んだ〈闇の王〉はヴォルデモートだけではない。しかし、彼ほど遠くに行ってしまった者はおそらくない。」

 

「それで、あなた自身は死を恐れていないと思っているんですか?」  ハリーは不信を隠そうともせずに言った。

 

老魔法使いの表情はおだやかだった。 「わしも完璧な人間ではないが、死を自分の一部としてうけいれることはできたと思っている。」

 

「はあ……。『認知的不協和』というものはごぞんじですか。ひらたく言えば、『負けおしみ』ですね。 たいていの人が毎月一回、あたまを棒でぶたれることになっていて、だれもそれについて対処のしようがないとしたら、いずれ哲学者たちはこぞって、あなたが言う『仮そめの知恵』にあたることを言いだします。 たとえば、ぶたれるとからだが丈夫になるとか、ぶたれない日がもっと楽しく感じられるようになるとか、そういう()()()()()()()があるんだと言いだします。 でもぶたれない人のところに行って、こういう()()()()()()()があるから今日からぶたれてみないか、と提案したとしたら、その人はいやだと言うでしょう。 では、あなたは死ぬ必要がないとします。あなたはだれも死のことを()()()()()()()()()場所から来た人だとします。そんなあなたにぼくが、自分にしわをつけて老化させて最後に自分の存在を消すというのは()()()()()()()()()()()ことだからやってみないか、と言ったりしたら、あなたは迷わずぼくを精神病院に連行するでしょう! なのにどうして、死は()()()()であるとかいう、バカげたことを言う人がいるんでしょう? それは死がこわいからです。本心では死にたくないからです。死を考えるだけで苦痛を感じる。だから、合理化してしまいたくなる。痛みを麻痺させようとする。考えずにすませたいと思う——」

 

「それはちがう。」  老魔法使いはやさしい表情をしながら、光のあたった水槽に片手をいれた。その動きにあわせて、チャイムがそっと音楽をかなでた。 「きみがそういう発想をしてしまうのも無理はないが。」

 

「あなたは〈闇の魔術師〉のことを理解したいんですよね?」と言ってハリーはかたく暗い声になった。 「それなら、自分のなかにある、死をおそれる部分のかわりに、死への()()をおそれる部分に目をむけてください。その部分は死への恐怖に耐えかねるあまり、〈死〉を仲よくするふりをして、夜になれば死と一体化しようとする。深淵を克服できたと思いこみたいがために。 あなたは、とてつもなく邪悪なものをつかまえて、善だと言ったんですよ! それをすこしひねるだけで、無実の人を殺すことを友情と呼んでしまうこともできるでしょう。 死は生よりいいなどと言ってしまう人なら、自分の道徳基準をどんな方向にねじまげてしまうか、分かったものじゃない——」

 

「わしが見るに、」と言ってダンブルドアは手をふって水滴を落とした。チリンと音がなる。 「きみは〈闇の魔術師〉のことをとてもよく理解していながら、自分自身を〈闇の魔術師〉にせずにすんでいる。」  ダンブルドアは完全に真剣な調子でそう言った。非難めいた口調ではなかった。 「けれどもわしのことについては、残念ながら、まだまだ理解できていないようじゃ。」  老魔法使いはこんどは笑顔になり、やさしげな笑いが声から感じられた。

 

ハリーはこれ以上冷淡な態度にはなるまいと努力した。ダンブルドアの上から目線な態度に、そして、賢者のふりをした愚かな老人が決まって、論理のかわりに使う笑い声に対して、こころのなかで怒りの炎が燃える。 「変な話ですが、ドラコ・マルフォイに理屈を説明するのは不可能なんじゃないかと思っていたんですが、やってみるとそうでもない。子どもらしい無邪気さのおかげか、彼はあなたより百倍もしっかりしていました。」

 

老魔法使いの顔に困惑の表情がうかんだ。「なにが言いたい?」

 

「ぼくが言いたいのは、」 ハリーは辛辣な声で言う。「ドラコは()()()()()()()()()()()()()ということです。そしてぼくの話を()()()()()。やさしく見くだすように笑って()()()()()()()()()しなかった。 あなたは自分が年上で知恵があると思っているから、ぼくの話に注目すらしていない! 理解ではなく注目ですよ!」

 

「耳をかたむけることはしたよ。」と言ってダンブルドアはいままでより厳粛そうな表情を見せた。 「けれども耳をかたむけたからといって、意見をおなじくするとは限らん。 意見の相違はおいておくとして、わしが理解していないというのはなんのことかな?」

 

本気で死後の世界を信じているなら、あなたは聖マンゴ病院にいって、ネヴィルの両親を殺すべきだということになります。アリス・ロングボトムとフランク・ロングボトムを、その()()()()()()()とやらに行かせてやるべきだということです。傷ついたままのすがたでこの世界に引きとめたりするのではなく——

 

ハリーはその一言を口にしてしまうのを、ぎりぎりのところで、やっと我慢した。

 

「そうですね。では最初の質問に答えましょうか。 〈闇の魔術師〉がなぜ死を恐れるのか、という質問でした。 たましいはある、とそこまでおっしゃるなら、仮に、たましいの存在をだれでもいつでも検証できるとしましょう。葬式の参列者はだれも泣かない、愛するその人が実はまだ生きているとみんな分かるのだ、ということにしましょう。 その前提で、たましいを()()()()()ことを想像できますか? たましいをずたずたにされて、来たるべき旅路に行こうにも、なにも残っていない、ということを想像できますか? それがどんなに残酷なことかわかりますか? それが宇宙の歴史上最悪の犯罪で、なにをしてでも止めるべきこと、一度たりとも発生させてはいけないことなのがわかりますか? それこそが〈死〉というもの——人のたましいを消滅させるということです!」

 

老魔法使いはハリーをじっと見た。悲しみが目のなかに見えた。 「やっと理解できたような気がする。」と彼は静かに言った。

 

「へえ? なにをですか?」

 

「ヴォルデモートを。やっとあの男を理解できた。 この世界がそのようにできているとほんとうに信じているなら、この世界に正義はないと、世界の核にあるのは、いくえにも重なる暗黒であると、信じざるをえないのじゃろう。 彼はなぜ怪物になったか、という質問に、きみは答えられなかった。 彼自身に言わせれば、『ならない理由がない』のじゃろう。」

 

◆ ◆ ◆

 

ローブすがたの老魔法使いと、いなづま形の傷あとをひたいにもつ少年。二人は立ったままおたがいの目をのぞきこんだ。

 

「ひとつ教えてほしい。ハリー、きみ自身は怪物になるのか?」

 

「なりません。」 少年の声にはゆるぎない確信があった。

 

「その理由は?」

 

少年は背すじをぴんと伸ばし、あごを誇りたかくあげて、こう言った。 「〈自然〉の法則のどこにも正義はありません。運動方程式に公正さの項はありません。 宇宙は善でも悪でもない。宇宙は善悪をただ無視します。 星ぼしも、太陽も、(そら)も、善悪を無視します。 でもそれでいいんです! ()()()()()無視しない! この世界に光はある。()()()()()その光だから!」

 

「ハリー、きみは将来、どんな人間になるのじゃろうか。」  そう言う老魔法使いの小さな声は、奇妙なことに、不思議そうでありながら残念そうでもあった。 「それを見とどけるためだけであっても、長生きをしてみたくなった。」

 

少年は皮肉っぽくおおげさに一礼してから、部屋を出た。オーク材の扉がどたんと音をたてて閉じた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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40章「仮そめの知恵(その2)」

◆ ◆ ◆

 

ハリーはティーカップの正しい持ちかたの見本をクィレル先生に三度やってみせてもらって、やっと習得した。そのやりかたでカップを持ち、慎重に口をつける。 〈メアリーの部屋〉の中心的な存在である幅のある長卓のむこうがわで、クィレル先生が自分のカップに口をつけている。はるかに自然で優雅な飲みかただ。 お茶そのものの名前は中国語の単語で、ハリーには発音することすらできない。いや、真似して発音しようとはしてみたが、クィレル先生に何度も直され、最終的にハリーはあきらめた。

 

ハリーは挑戦をくりかえしてようやく勘定書きを盗み見ることに成功し、クィレル先生はとがめるそぶりをしなかった。

 

まず感じたのは、コメッティーを飲んでしまいたいという衝動だった。

 

()()()()()()()()()()、心臓がとまるほどのショックだった。

 

でも味がどうだったかといえば、やはりただのお茶だ。

 

どうも、クィレル先生は()()()()()()()()()のではないか、とんでもなく高いお茶をおごって、ハリーに違いをわからないことを実感させて()()()()()()()のではないか、という気がしてならない。 クィレル先生自身も、いいお茶だと思っていないのかもしれない。 というか、だれ一人本心ではいいお茶だと思っていないのかもしれない。被害者に自分は味がわからないと思わせるためだけに、とんでもなく高い値段がつけられているのかもしれない。 いや、実はこれはふつうのお茶で、とある暗号を使って注文すると、法外な値段が書かれた偽の勘定書きといっしょに出てくるようになっているのではないか……

 

クィレル先生は沈んだ表情で、思案げだった。 「きみはマルフォイ卿との会話を総長に報告すべきではなかったな。 次回はもっと早くそのことに気づくように。」

 

「すみません、実は、まだよくわからないんですが。」  ハリーはときどき、自分がペテン師であるように感じる。クィレル先生のまえで、自分は悪知恵があるというふりをしているだけのように感じる。

 

「マルフォイ卿とアルバス・ダンブルドアは敵どうしだ。 すくなくとも、現在の情勢下ではそうだ。 ブリテン全土をチェス盤とし、魔法族一人一人を駒として使うゲームをしている。 考えてもみろ。マルフォイ卿はミスター・マルフォイのためならすべてを投げうって、ゲームを放棄して報復する、とまで言った。これが意味するのは……?」

 

ハリーは何秒か待ったが、クィレル先生がそれ以上のヒントをださないつもりであることに気づいた。のぞむところだ。

 

そしてやっと話が見えて、ハリーは眉をひそめた。 「ダンブルドアはドラコを殺す。そして()()()やったように見せかける。ルシウスはダンブルドアとのゲームを投げうってぼくに復讐する。そういうことですか? そういうのは……総長の流儀ではなさそうな気がしますが……」  似たような警告をドラコからされたときのことが思いだされる。あのときも、ハリーはおなじ反応をした。

 

クィレル先生は肩をすくめ、お茶を一口飲んだ。

 

ハリーも自分のカップから一口飲んで、無言になった。 テーブルにかけられたテーブルクロスはとてもひかえめな模様で、一見、無地にさえ見えた。しかし、しばらくじっと見ていると、というより、しばらく黙っていると、ぼんやりと花模様が浮かびあがってくる。 気づくとそれにあわせて部屋のカーテン模様が変わっていて、音のない風にゆれているように見えた。 この土曜日のクィレル先生は、沈思黙考の気分のようだ。ハリーもそういう気分だった。〈メアリーの部屋〉はそういった客の気持ちをちゃんと知っているようだ。

 

「クィレル先生、死後の世界はありますか?」とハリーは出しぬけに言った。

 

ハリーは質問の表現に注意し、 『死後の世界を信じていますか』ではなく『死後の世界はありますか』にした。 人が本気で信じているものごとは、もはや()()ではなくなる。 ふつうのひとは『わたしは空が青いとかたく信じています』と言うかわりに、 『空は青い』と言う。 ある人のこころのなかにある世界地図は、その人にとって世界のしくみ()()()()であるように感じられる……

 

〈防衛術〉教授はもう一度カップを口につけてから、答えた。思案するような表情だ。 「かなりの数の魔法使いが、不死をもとめて膨大な労力をついやした。もし死後の世界があるなら、それがみな無駄だったことになる。」

 

「それは答えになってませんけど。」  ハリーはこれまでの経験で、クィレル先生との会話でこういうやりとりが起きるのを見のがさなくなっていた。

 

クィレル先生はティーカップを受け皿におろした。キンと小さな甲高い音がなった。 「そういったことをした魔法使いのなかには、それなりに知性的な人物もいる。だから死後の世界は自明な存在ではないと思ったほうがいい。 わたし自身も一度調べてみたことがある。 希望や恐怖によってつくりだされたであろう種類の主張も、多くあった。 信憑性がたしかなものにかぎれば、どの報告に書かれたできごとも、ただの魔法にできることを超えていない。 死者と交信することができるとされる道具はいくつかあるが、わたしの見るかぎり、どれも精神にイメージを投影するだけだ。 その効果は一見して記憶と区別がつかない。というより記憶そのものだ。 霊とされるものの口から、生者の世界で確認できる秘密や、霊が死後に知りうる秘密を聞こうとした例はあるが、使役者の知りえない情報がもたらされた例はない——」

 

「〈よみがえりの石〉が世界一有用な魔法具とされていないのも、そのためですね。」

 

「そのとおり。しかし使う機会があれば、試してみるのも悪くはない。」  クィレル先生のくちびるに乾いた薄ら笑いが浮かんだ。そして目には、もっと冷たい、遠くを見るような感じがあった。 「その様子だと、ダンブルドアともおなじ話をしたのだろう。」

 

ハリーはうなづいた。

 

カーテンがほのかに青い模様に変わっていき、優美な雪の結晶がうっすらとテーブルクロスに浮かびあがっていく。 クィレル先生の声はとてもおだやかだ。 「総長の話には、ときに強い説得力がある。きみがまるめこまれていなければいいのだが。」

 

「まさか。一瞬たりとも、あんな話には乗りません。」

 

「そうであればいいが。」  クィレル先生は、まだおなじ、おだやかな口調をしている。 「総長はまた、死という来たるべき旅路があるからと言って、きみをくだらない謀略にでも巻きこもうとしたのだろうが、それできみが人生を棒にふる決断をしたりしたのだったら、非常に憂慮させられるところだった。」

 

「総長自身も信じていないんじゃないかと思います。」と言ってハリーはまたお茶を一口飲んだ。 「永遠の生があったらいったいなにをするんだ、と聞かれて、そのあとは、長く生きても退屈だというお決まりの話になって。総長はその話をしながら、それが不滅のたましいがあるという自説と矛盾するようには思っていないみたいでした。 そもそも、不死をもとめることは許されないという話を長ながとしておいてから、たましいは不滅だと言いだしたんです。 あの人のあたまのなかがどうなってるのか想像もつきませんが、死後の世界で永遠に生きる自分のすがたを実際にイメージしているようには思えません……」

 

部屋の温度がさがっていくように感じる。

 

テーブルのむこうがわから氷のような声がした。 「ダンブルドアは自分の言うことを本心では信じていない。きみはそう思っているのだな。 自分の主義主張について妥協したのではなく、 最初からなんの主義主張もないのだ、と。 ミスター・ポッター、きみはずいぶん冷めた見かたをしはじめてはいないか?」

 

ハリーは自分のティーカップに視線をおとし、 「そうですね、すこし……」と、もしかすると超高級で法外な値段なのかもしれない中国茶にむけて言う。 「すこし我慢しにくくなったりするのはたしかです。ああいう……話の通じない人に対しては。」

 

「ああ。わたしも我慢ならなくなることがある。」

 

「人がそうなるのを止める方法はないんでしょうか?」とハリーはティーカップに聞いた。

 

「実はその問題を解消してくれる便利な呪文がある。」

 

ハリーは希望の表情で顔をあげたが、〈防衛術〉教授はひどく冷たい笑みをしていた。

 

ハリーはその意味に気づいた。 「アヴァダ・ケダヴラ以外でですよ。」

 

〈防衛術〉教授は笑った。ハリーは笑わなかった。

 

「それはともかく、」とハリーは急いでつづけた。「〈よみがえりの石〉のわかりきった使い道については、あっさりダンブルドアに言ってしまわずにすみました。 線を丸でかこって、さらに三角形でかこった印があるんですが、そういう印のついた石を見たことはありますか?」

 

死を思わせる寒けが引いていき、折りたたまれたような気がした。そして、いつものクィレル先生がもどった。 しばらくしてからクィレル先生は思案げな表情で答えた。 「記憶にないな。それが〈よみがえりの石〉なのか?」

 

ハリーはティーカップをよけて、マントのなかに見えたシンボルを受け皿にえがいた。 それに〈浮遊の魔法〉をかけようとして杖に手をのばしたところで、受け皿はテーブルのむこうのクィレル先生のところへ従順に浮遊していった。 無杖魔法のことはぜひ勉強したいが、現在のハリーの授業構成からすると、はるか先のことのようだった。

 

クィレル先生はハリーの皿をしばらくながめてから、くびをふった。一息おいてから、皿がハリーのところにもどってきた。

 

ハリーはティーカップをまた皿に乗せた。さっきえがいたシンボルが消えていることをうわのそらで認めながら、こう言った。 「このシンボルがついた石を見かけて、それが実際に死後の世界と交信できるものだったら、教えてください。 マーリンか、ほかのアトランティス人のだれかに質問してみたいことがあるので。」

 

「そうしよう。」と言ってからクィレル先生はもう一度カップを持ちあげ、最後の一滴を口にいれようとするかのようにして、かたむけた。 「ところで、今日のわれわれの小旅行は予定より早く切り上げざるをえない。 できることなら——いや、いい。 わたしはこの午後にぜひやっておかねばらない用務がある、とだけ言っておこう。」

 

ハリーはうなづき、自分のお茶を飲み終え、クィレル先生と同時に席を立った。

 

クィレル先生のコートがコートかけを飛びたち、持ちぬしのほうへ向かったところで、ハリーは口をひらいた。 「最後にひとつだけ聞かせてください。魔法がこれだけやりたいほうだいなので、ぼくはもう自分の推測を信じられないんですが、 希望的観測なしの推測で答えてもらいたいです。死後の世界はあると思いますか?」

 

クィレル先生はコートを羽織りながら肩をすくめた。 「もしそう思っていたら、こんな世界にとどまっているはずがないだろう?」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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41章「前頭葉の優越性(フロンタル・オーヴァーライド)

◆ ◆ ◆

 

身を切るような一月の寒風が音をたてて吹きつける。閉じた窓や石の小塔のあいだを抜ける風の音は、奇妙な音程の笛の合奏のように聞こえる。一面のまっさらな石の壁は、ホグウォーツ城内外を物理的に区別している。 新雪はすでに吹き飛ばされてなくなっているが、一度とけてから固まった氷が壁面のところどころにちらばり、陽光をまぶしく反射している。 遠くから見れば、城に何百もの目がついて、またたいているように見えることだろう。

 

突風がやってきた。ドラコはびくりとし、思わず壁面にからだを寄せようとしたが、すでに隙間はない。壁面は氷のような手触りと、氷のような味がした。 自分のなかのどうにも正当化しようのない本能の部分が、もうすぐ自分はこのホグウォーツの外壁から吹きとばされると確信している。そしてそうなりたくなければ、みっともない反射的なうごきをして、おまけに吐いてしまえ、と言っている。

 

ドラコは非常に苦労して、眼下にある六階分の空間のことを忘れようとした。かわりに考えたのは、どうやってハリー・ポッターを殺してやろう、ということだった。

 

「ねえ、ミスター・マルフォイ。」と、となりにいる女の子がなにげない口調で言う。 「もしもわたしについての予言があって、いつか城の外壁に自分の指さきだけでぶらさがって、下を見ちゃいけない、ママが見たらどんなに大きな悲鳴をあげるかも考えちゃいけないって、自分に言い聞かせる羽目になるんだって言われたら、どうやってそんなことになるのか想像もできなかったと思う。ハリー・ポッターのせいだっていうことだけ、わかっただろうけど。」

 

◆ ◆ ◆

 

そのすこし前のできごと:

 

同盟した二人の司令官がいっしょに、床によこたわるロングボトムを乗りこえていく。二人がブーツで床を踏みならす音が、ほぼ完全に同調する。

 

二人とハリーのあいだに立ちふさがる兵士はあと一人。サミュエル・クレイモンズというスリザリン生で、杖を手が白くなるまで必死ににぎって、〈虹色の壁(プリズマティック・ウォール)〉を維持している。 呼吸があさくなってきてはいるが、その冷たい決意の表情は司令官ハリー・ポッターとかわらない。〈虹色の壁〉のむこうがわのハリー・ポッターは、廊下のいきどまりで開いた窓を背に立ち、意味ありげに両手をうしろにまわしている。

 

二対一で劣るはずの人数の敵にしては、とんでもなく手こずらされた。 もっと楽な戦闘のはずだった。〈ドラゴン旅団〉と〈太陽(サンシャイン)部隊〉はすでに演習を何度もくりかえし、おたがいをよく知っている。 士気もたかい。というのも、今回は両軍とも勝つことだけを目的にしているのではなく、裏切り者のない世界を実現するために戦っているからだ。 連合軍の兵士は自分たちを〈ドラマイオニーのサンゴン旅隊〉と呼びはじめたばかりか、両司令官が愕然として抗議したのをよそに、炎にまみれたニコちゃんマークの紋章を着用しだした。

 

そのいっぽう、ハリーの兵士たちは紋章をまっ黒にして——塗りつぶしたのではなく、制服の紋章部分を()()()()ように見えた——ホグウォーツ城上層階をかけまわりながら、必死の形相でたたかった。 ドラコのまえでハリーがときどき見せる冷たい怒りは兵士にも伝播したようで、その戦いぶりはもはや遊びのように見えなかった。 ハリーはあらゆる手だてを動員した。床や階段には小さな金属球がばらまかれ(グレンジャーによれば、玉軸受(ボールベアリング)だという)、排除できるまで通行が不可能になった。ハリーの軍だけが事前の練習のおかげで、金属球をばらまくとほぼ同時に、いっせいに〈浮遊の魔法〉を使って飛びこえていった……

 

外部から道具を持ちこんではならないが、安全なものであればなにを()()()()()〈転成〉してもいい、というのがルールになっている。 科学者にそだてられた少年が相手となると、不公平なルールだ。相手はボールベアリングやスケートボードやバンジー・ロープの構造を知っているのだから。

 

その結果がこのありさまだ。

 

連合軍の生存者は協力して、ハリー・ポッターの残存軍の全員を廊下のいきどまりに追いつめた。

 

ウィーズリーとヴィンセントは同時にロングボトムに襲いかかった。二人は数時間どころか数週間訓練したような連携を見せた。なのにロングボトムはその両方に呪文を当ててみせてから、倒れた。

 

残ったのはドラコとグレンジャーとパドマとサミュエルとハリー。サミュエルの表情からすると、〈虹色の壁〉の残り時間はもう長くはなさそうだ。

 

ドラコはすでにハリーに杖をむけており、〈虹色の壁〉が自壊するのを待っている。急いで〈破壊のドリルの呪文〉をやって消耗してしまうまでもない。 パドマは自分の杖をサミュエルに、グレンジャーはハリーに向けている……

 

ハリーはまだ両手をうしろに隠したまま、杖をかまえていない。氷から切りだされたような顔つきを見せている。

 

はったりかもしれない。が、おそらくはったりではない。

 

緊張した空気のもと、みじかい沈黙があった。

 

それからハリーが口をひらいた。

 

「今回はぼくが悪役だけど、 悪がこんなのであっさり降参すると思っているなら、考えなおしたほうがいい。 真剣勝負できみたちが勝てたなら、ぼくもおとなしく負けを認めよう。でも勝てなきゃ、そのつぎもおなじことになるぞ。」

 

少年は両手をまえに出した。その手に奇妙な手ぶくろがはめられているのが見えた。奇妙な灰色っぽい素材が指の位置についている手ぶくろで、留め具でしっかりと手首に固定されている。

 

ドラコのとなりで、〈太陽〉軍司令官が恐怖に息をのんだ。なにがそんなに恐ろしいのかと聞くまでもなく、ドラコは〈破壊のドリルの呪文〉を撃った。

 

サミュエルはよろめき、悲鳴をあげもしたが、〈壁〉を維持した。しかしここでパドマかグレンジャーが撃ってしまっては、こちらが戦力を消耗しすぎて、負けてしまうかもしれない。

 

()()()() ()()()()()()」とグレンジャーがさけんだ。

 

ハリーはすでに動きだしていた。

 

そしてひらりと窓を通りぬけ、冷淡な声で「はたして、ついてこれるかな。」と言い残した。

 

◆ ◆ ◆

 

二人のよこで、凍りつくような風が吹きすさぶ。

 

ドラコの両腕に疲労感がではじめた。

 

……話を聞けば、自分もつけさせられたこの手ぶくろは『ヤモリの手』と呼ばれるものが仕込まれていて、ちょうど昨日、グレンジャーはハリーからその〈転成〉方法を教わったところらしい。さらには、同じ素材を靴の指の位置に貼りつける方法もあわせて、念入りに実演してみせてもらっていたらしい。そのあとで、子どもらしい遊びの(てい)で、二人して壁や天井にのぼってみることまでしたという。

 

そして、やはり昨日、ハリーはグレンジャーに〈落下低速の飲み薬〉をちょうど二人分、ポーチに携帯しろと言って持たせたという。『万一のために』と言って。

 

当然ながら、パドマは同行すると言いだすわけもなかった。パドマはまともだから。

 

ドラコは慎重に右手を壁からはがして、できるだけ伸ばしてから、また壁をびたっとたたいた。 となりではグレンジャーがおなじようにしている。

 

〈落下低速の飲み薬〉はもう飲んだ。 ゲームのルール違反すれすれだが、この薬は実際に落下しないかぎり発動しない。そして落下するまでは、アイテムを使ったことにはならない。

 

三人はクィレル先生に監視されている。

 

こちら二人は()()()()()()()()()()()だ。

 

いっぽうのハリー・ポッターは、これから死ぬことになる。

 

「なんでハリーはこんなことしてるんだろう。」とグレンジャー司令官がひとりごとのように言って、ゆっくりと粘着質の音を出しながら、片手の指を壁からはがした。 その手は壁から浮いたかと思うとすぐにおりた。 「殺したあとで、聞いておかないと。」

 

二人にこれほどの共通点があるとは、思いがけない発見だ。

 

ドラコはあまり会話をしたい気分ではなかったが、歯を食いしばりながらも、一言だけ言った。 「復讐じゃないか。あのデートの。」

 

「へえ。これだけの月日がたつっていうのに。」とグレンジャー。

 

ギギギ。ポン。

 

「ありがたいこと。」

 

ギギギ。ポン。

 

「本気でロマンティックな返礼の方法を考えておこうかな。」

 

ギギギ。ポン。

 

「そっちはなんの恨みを買ってるの?」

 

ギギギ。ポン。

 

二人のよこで、凍りつくような風が吹きすさぶ。

 

◆ ◆ ◆

 

足をまた地につけることができてほっとする、と思ってもおかしくないところだ。

 

だが足の下にあるのは、かたむいた屋根のざらざらの屋根板であり、石の壁よりもずっとたくさん氷がのっている、そしてそこを相当な速度で走っている、となると……

 

とんだ期待はずれだ。

 

「ルミノス!」とドラコがさけんだ。

 

「ルミノス!」とグレンジャーがさけんだ。

 

「ルミノス!」とドラコ。

 

「ルミノス!」とグレンジャー。

 

遠くの人影はよけたり、あわてて立ちなおったりしながら走っていく。まだ一発もあたってはいないが、間あいはだんだん詰まっている。

 

そこでグレンジャーが足をすべらせた。

 

考えてみれば、こうなるのは必然だ。実世界では、凍りついた屋根のうえを相当な速度で走ったりすれば、ただではすまない。

 

そしてつぎに起きたこともまた必然だった。ドラコはまったくなにも考えずに、ふりかえって、グレンジャーの右腕をつかんだ。けれど、すでにグレンジャーは体勢をくずしてしまっていて、倒れこんだ。倒れるいきおいでドラコも引っぱられ、すべてがあまりにも速く展開し——

 

手痛い、強い衝撃があった。自分の体重だけでなく、グレンジャーの体重もいっしょに乗せて、屋根板に衝突したのだった。もし彼女が倒れた位置がもうすこしへりのほうだったら、なんとかなっていたかもしれない。しかし彼女はもう一度ずりおちて、足をすべらせ、もう片ほうの手で必死になにかをつかもうとする……

 

それで結局、ドラコはグレンジャーの腕をかたくにぎり、グレンジャーはもう片ほうの手で屋根のへりを必死につかみ、ドラコの靴の指が一枚の瓦のへりに食らいつく、というかたちになった。

 

()()()()()()()()」と遠くからハリーの悲鳴が聞こえる。

 

「ドラコ。」とグレンジャーのささやき声がして、ドラコは下を見た。

 

下を見たのはおそらくまちがいだった。 下にはやたらと空気があった。というより空気しかなかった。ここはホグウォーツ城にそそりたつ壁の上に突きでた屋根のへりなのだから。

 

「ハリーはわたしを助けにくる。でもそのまえに、わたしたち両方を『ルミノス』でしとめようとする。そうするにきまってる。だからその手を離して。」

 

こんな簡単な話はないはずだった。

 

相手はただの泥血(マッドブラッド)じゃないか。ただの泥血。()()()()()()()()()()()

 

けがさせるわけでもない!

 

……ドラコの脳はドラコの言うことを聞こうとしなかった。

 

「さあ。」とハーマイオニー・グレンジャーがささやく。その目はぎらぎらと燃えていて、恐怖の片鱗もない。 「はやく、ドラコ。やって。あなたが撃てば勝てる。()()()()()()()()()()()

 

だれかが走ってくる音がする。その音が近づいてくる。

 

合理的に考えろよ……

 

あたまのなかに聞こえるその声は、いやになるほどハリー・ポッターの講釈と似たひびきがあった。

 

……一生自分の脳の言いなりでいいのか?

 

◆ ◆ ◆

 

余波その一:

 

ダフネ・グリーングラスは、語り手のミリセント・ブルストロードがスリザリン女子談話室のみんなにこの話をしているのを聞いていて、口をはさみたくてしかたがなかった。(スリザリン女子談話室はホグウォーツ湖の地下にあるいごこちのいい場所で、窓からは魚が泳ぐのが見え、その気になれば寝ころぶことができるソファもある。) ありのまま話すだけでおもしろいのに、ミリセントがあちこちで自分なりの()()()()をしてしまっているのが、どうも気にいらない。

 

「それで、どうなったの?」と言ってフローラ・カロウとヘスティア・カロウが息をのんだ。

 

「グレンジャー司令官がマルフォイを見あげて、こう言ったの。」 ミリセントは劇的な調子で言う。 「『ドラコ! その手を離して! 心配しないで。わたしはきっとだいじょうぶだから!』 そんなことを言われて、マルフォイはどうしたでしょう?」

 

「『離すものか!』って言って、ぎゅっと手をにぎりなおした!」と言ったのはシャーロット・ウィーランド。

 

聴衆の女子たちがそろってうなづいたが、パンジー・パーキンソンだけはかたくなだった。

 

「はずれ! マルフォイは手を離してグレンジャーを落としました。それからさっと立ちあがって、ポッター司令官を撃ちました。 おしまい。」

 

一同が唖然としてしばらく沈黙した。

 

「そんなあ!」とシャーロット。

 

「相手は泥血(マッドブラッド)よ。」とパンジーが困惑した声で言う。「そりゃ離すでしょ!」

 

「それなら、まず手をつかんだのがまちがいだよ!」とシャーロットが返す。 「でも一度つかんだなら、離しちゃだめ! あんな破滅の元凶が、すぐそこまでせまってきてたんだから、余計にそう!」  そのことばに、ダフネのとなりの席のトレイシー・デイヴィスがきっぱりとうなづいて同意した。

 

「なんでそうなるのよ。」とパンジー。

 

「恋の才能のかけらもない人にはわからないでしょうね。」とトレイシーが言う。 「それに、女の子の手を離して落とすなんてありえない。 そんな風に女の子を落とす男なら……どんな相手でも落とすに決まってる。 あなたも落とされるわよ、パンジー。」

 

「どういう意味よ? 『落とす』って。」とパンジー。

 

ダフネは我慢の限界になり、声を低くして話しだした。 「あのねえ。あなたが朝食で〈大広間〉のテーブルの席にいたとするでしょ。気づいたらマルフォイが()()()()()()()()()()。そしたらつぎの瞬間、ホグウォーツ城のてっぺんからまっさかさま! そういう意味よ!」

 

「それそれ! マルフォイは魔女落としなんだよ!」とシャーロット。

 

「アトランティスはなぜ凋落したと思う? マルフォイみたいな男が()()()()のよ、きっと!」とトレイシー。

 

ダフネは声をひそめて言った。 「それより……実はマルフォイがハーマイオニー、じゃなくてグレンジャー司令官の足を、すべらせたんだったらどうする? マグル生まれを手あたりしだい転ばせてるのかもよ?」

 

「えっ、それって——?」とトレイシーが息をのむ。

 

「そう! つまりマルフォイは——()()()()()()()()()()なのかも?」

 

「〈落下の王(ドロップロード)〉の再来!」とトレイシー。

 

この二つ名は談話室一室にとどめておくにはもったいないできだったので、夜を待たずにホグウォーツ全体に知れわたり、翌朝には『クィブラー』の見出しをかざった。

 

◆ ◆ ◆

 

余波その二:

 

ハーマイオニーは今夕はかなりの時間の余裕をもたせて、いつもの教室に到着し、一人椅子に座って平穏に読書をきめこんでいた。そこにハリーがやってきた。

 

申し訳なさそうに開くドアのきしみ音というものがあるなら、これがそうだと思う。

 

「あの……」とハリー・ポッターの声が言う。

 

ハーマイオニーは読書をつづける。

 

「今回のは、なんというか、ごめん。ほんとにあんなところから落ちさせるつもりはなかったんだ……」

 

やってみると、わりと愉快な経験だったんだけれど。

 

「あの……その……ぼくは謝罪をした経験があまりなくて。ひざをついて謝罪したほうがよければそうするし、高価な贈り物がほしいなら買ってくるけど。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハーマイオニーは無言で読書をつづけた。

 

どういう謝罪をしてくれればいいのかなんて、きかれてもわかるわけがない。

 

いまはただ、もうすこしこうやって読書をしたままでいるとなにが起きるのだろうか、という奇妙な好奇心のようなものがあるだけだ。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「玉軸受(ボールベアリング)」
車軸と車輪のあいだなどに置いて摩擦を減らすのが軸受。球体を詰めた構造にすると接触する面積が小さいので効果的です。つまりよくすべる。


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42章「勇気」

◆ ◆ ◆

 

「『ロマンティック』? 二人とも男の子でしょ!」とハーマイオニーが言った。

 

「へえ。」と言って、ダフネはすこしショックを受けたようだった。「マグルって、ほんとに男どうしを受けつけないの? あれって〈死食い人〉の作り話じゃなかったんだ。」

 

「そうそう。」と言うのは、ハーマイオニーの知らないスリザリンの上級生女子。「だから結婚するときもこっそりやるし、ばれたら火あぶりにされるんだよ。それをロマンティックだと思う女の子がいたら、その子も火あぶりにされるんだから。」

 

ハーマイオニーがまだなんと言っていいかわからないでいるうちに、「そんなのおかしい!」とグリフィンドール女子のだれかが抗議する。「もしそれがほんとだったら、マグルの女の子はとっくに全滅してる!」

 

あのときハーマイオニーが静かに読書しつづけるとなりで、ハリー・ポッターは謝罪しようとしつづけていた。それを聞いているうちにハーマイオニーははたと気づいた。ハリーはこれまでの人生で、だれかを怒らせてしまったと自覚したことが一度もなかったのではないか。友だちの縁を切られかねないという()()となると、まちがいなく未経験なのだろう。 ハーマイオニーとしてはそれで(一)罪悪感がうまれ、(二)ハリーが必死に提案するさまざまなつぐないの方向性がだんだん恐ろしくなってきた。 といっても、どういう謝罪をしてもらうのがいいか自分自身よくわからないので、レイヴンクロー女子に投票させて決めることにしたい(今回は票操作もなしで……という部分はハリーには秘密だが)と言うと、ハリーは即座に同意した。

 

つぎの日、十三歳以上のレイヴンクロー女子ほぼ全員の票により採択された案は、『ドラコにハリーを落とさせる』だった。

 

あまりに安直な案で多少がっかりだったが、たしかにフェアなやりかたではある。

 

けれど、こうやって城の大扉のすぐそとに立ち、ホグウォーツの全女性の半数にかこまれていると、ハーマイオニーの心中に二つの気持ちがうまれた。自分が理解していない()()()()ここで繰りひろげられつつあるのではないか、という心配と、そのなにかがもう二人の司令官の耳にはいらないでほしい、という願いだ。

 

◆ ◆ ◆

 

これだけの高さからだと、細部はよく見えない。ただ、なにかを楽しみにしている女性の顔がたくさんならんでいることが分かるだけだ。

 

「きみはこれがどういう意味がわかってないんだろう?」とドラコはおもしろがって言った。

 

ハリーは読むべきでない本をそれなりにいろいろ読んだことがあった。そもそも、その手の『クィブラー』の見出しも見てしまっている。

 

「〈死ななかった男の子〉がドラコ・マルフォイを妊娠させるってやつ?」とハリー。

 

「ふうん。じゃあ、わかってるんだな。マグルはそういうのが嫌いなんじゃなかったか?」

 

「あたまの悪い人が嫌ってるだけだよ。でもぼくらだと、その、ちょっと若すぎない?」

 

「あっちはそう思ってないんだろうな。」とドラコは鼻息をあらくした。「女子ってやつは!」

 

二人は無言で屋根のへりまで歩いていった。

 

「こちらはきみへの復讐の意味でやっているわけだが、きみはなんで協力するんだ?」

 

ハリーはあたまのなかですばやくいろいろな要因を重みづけして計算をして、これが時期尚早かどうかを考える……

 

「正直に言うとね、ああやって氷の壁をのぼらせるところまではよかったけど、屋根から落とすことになるとは思わなかったんだ。 それで、まあ、彼女にとても悪いことをした気がした。 なんというか、彼女のことをほんとに友好的なライヴァルだと感じるようになってきてね。 だから今回はすなおに、謝罪のつもりでやってる。謀略とかじゃない。」

 

沈黙。

 

そして——

 

「ああ。そうだろうな。」とドラコが言った。

 

ハリーは笑顔をひかえた。笑顔をしないのがこれほどむずかしいのは生まれてはじめてかもしれない。

 

ドラコは屋根のへりを見て、顔をしかめた。 「これは事故でやるよりもわざとやるほうが、ずっとむずかしいんじゃないのか。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーのもう片ほうの手ははっとして反射的に屋根をしっかりつかみ、どこまでも冷たい石に強く指をのめりこませるようにした。

 

意識上では自分が〈落下低速の飲み薬〉を飲んだとわかっているのだが、 意識下の自分にそれがわかるかどうかとなると別問題だ。

 

ハーマイオニーはどれくらい怖かったのだろう、とハリーは想像してみていたが、ちょうどおなじだけの怖さだ。その点はひとつ成功だ。

 

この体勢では思うように声が出しにくいが、事前にレイヴンクロー女子たちから渡されていた台本を思いだす。 「ドラコ、その手を離して!」

 

「はーい!」と言ってドラコはハリーの腕を離した。

 

もう片ほうのハリーの手は、へりのところでもがいた。そしてこころの準備ができるまえに指がずり落ち、ハリーは落下した。

 

最初の一瞬で、胃はのどまで飛びあがろうとし、からだは体勢を立てなおす方法がないのに必死に立てなおそうとした。

 

つぎの一瞬で、ハリーは〈落下低速の飲み薬〉が発動したのを感じた。自分がぐらりと揺れ、なにかに受けとめられたような感じがした。

 

それから、なにかが()()()()()。こんどは()()()()()()()()()ハリーは下方向に加速した。

 

口はすでにひらいていて、悲鳴をあげていたが、脳の一部はなにか自分にできることを発想しようとし、脳の別の一部は発想するのに使える時間があとどれくらいあるか計算しようとし、また別の小さな切れはし部分の脳は、その計算すら終わらないうちに自分が地面に激突してしまうと気づく——

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは過呼吸を必死におさえようとした。まわりでは女子たちが地面に積み重なって悲鳴をあげていて、なかなか平静にさせてくれない。

 

「ふう。」と見知らぬ男が言う。古びた服を着て、顔にうっすら傷あとが見えるその男が、ハリーを両手にかかえている。 「きみとはどういうかたちで再会することになるか、いろいろ想像してはいたものだけど、空から落ちてくるとは思わなかったな。」

 

ハリーは自分が最後に見た光景、自分のからだが落下するところを思いだす。そして息を切らしながらやっと言う。 「クィレル……せんせい……が……」

 

「クィレル先生はあと数時間たてば回復するよ。」と、ハリーをかかえている見知らぬ男が言う。 「消耗しただけだから。 まさかあんなことが可能だとは……呪文(ジンクス)をかけている犯人を確実にとめるために、()()()()()()なぎたおすなんて……」

 

男はしばらく肩を貸しながら、ハリーをそっと地面に立たせた。

 

ハリーは慎重に均衡をとって、男にむいてうなづいた。

 

男が手を離すと、ハリーはすぐに倒れた。

 

男はもう一度ハリーが立つのを助けた。 そのあいだずっと、ハリーと立ちあがりかけている女子たちとのあいだに身を置き、女子たちのほうに何度も目をやっていた。

 

「ハリー……」と男は静かに、しかしとても真剣な声で言う。「もしあの子たちのなかに、きみを殺そうとしそうな人がいるとすれば、だれだと思う?」

 

「あの子たちに殺意はない。愚かだっただけだ。」と、苦しげな声がした。

 

今度は見知らぬ男のほうが倒れそうになり、ひどくショックを受けた表情を見せた。

 

クィレル先生がすでに、自分が倒れた草のうえで上半身を起こしている。

 

「そんな! あと数時間は——」と男が息をのんだ。

 

「ミスター・ルーピン、気づかいは無用だ。 どんなに強い魔法使いでも、あれほどの〈魔法(チャーム)〉を、ちからまかせではできない。 ()()のいいやりかたというものがある。」

 

クィレル先生はそう言いながら、立ちあがりはしなかった。

 

「ありがとうございました。」とハリーは小声で言い、となりの男にも「ありがとうございました」と言った。

 

「いったいあそこでなにが?」と男が言った。

 

「こうなる可能性は考慮しておくべきだった。」  クィレル先生はぴしゃりと非難する調子で言う。 「女子生徒の何人かが、自分の両腕にミスター・ポッターを呼びよせようとしたらしい。一人一人は、おそらく親切のつもりでやったのだろう。」

 

あっ。

 

「この一件は、なにごとも準備が肝心、という教訓としてもらいたい。 もしわたしが複数名の成人魔法使いを用意してこの騒ぎを監督させろと主張していなければ、どうなっていたか。われわれ二人が杖をかまえていなければ、どうなっていたか。ミスター・ルーピンがきみを減速させることもできず、きみは重傷をおっていた。」

 

「おことばですが!」と男——ミスター・ルーピンという名前らしい——が言う。「この子にそんな言いかたはないんじゃないですか!」

 

「そちらは——」とハリーが言いかけた。

 

「わたし自身のほかに手があいていた唯一の人物だ。」とクィレル先生がこたえる。 「紹介しよう。こちらはリーマス・ルーピン。〈守護霊の魔法〉を教えるためにこの学校に来た臨時講師だ。 といっても、きみとは初対面ではないと聞いている。」

 

ハリーは男をながめたが、困惑した。このうっすらと傷あとのある顔と、奇妙にやさしい笑顔を見ていれば、おぼえているはずだが。

 

「どこでお会いしましたっけ?」

 

「〈ゴドリックの谷〉で。きみのおむつは何度もかえさせてもらったよ。」

 

◆ ◆ ◆

 

ミスター・ルーピンの臨時居室は石づくりの狭い部屋だった。木製の机がひとつあるが、椅子はハリーからは見えないので、おそらくハリーの机についているような小さな椅子なのだろう。 きっとミスター・ルーピンはごく短期間しか在職しないか、少なくとも居室をあまり使う予定がないから、丁寧に調度品をととのえなくてもいい、と家事妖精(ハウスエルフ)に言っておいたのだろう。 ハウスエルフの都合を考えるという一点だけでも、そのひととなりがわかる。 具体的には、ミスター・ルーピンの〈組わけ〉はハッフルパフであったと推測できる。ハリーが知るかぎり、ハッフルパフ以外でハウスエルフの事情を気にするような人はハーマイオニーくらいだ。 (ハリー自身は、ハーマイオニーの憤慨はあまり意味がないと思っていた。 もちろん、家事妖精(ハウスエルフ)を最初に作った人の邪悪さは筆舌につくしがたい。だからといって、苦役を楽しむようにすりこまれている生物に()()()()苦役をあたえるのをやめたほうがいい、ということにはならない。)

 

「どうぞ座って。」と男は静かに言った。 着ているのは低品質なローブで、ぼろではないとはいえ、長年着古されていることがはっきりと見てとれ、単純な〈修復魔法〉ではなおせそうにない。 『よれよれ』とでも言うか。 それでもどこか、上質で高価なローブにはない尊厳が感じられるような気がした。上質なローブにはそぐわない、よれよれでなければ出せないたぐいの尊厳だ。 ハリーは謙虚さというものを()()()()ことはあった。だが現物を見るのはこれがはじめてだった——これまでに見たのは、自己満足的なひかえめさばかりで、自分のスタイルはこうだと言わんばかりにして注目を誘うたぐいのものだった。

 

ハリーはミスター・ルーピンの机のまえにある小さな木製の椅子に腰かけた。

 

「来てくれてありがとう。」

 

「いえ、こちらこそ、さきほどはありがとうございました。 不可能を可能にできる人をお探しの際は、ぼくにご一報を。」

 

男はためらうように見えた。 「ハリー……ちょっと個人的な質問をしてもいいかな?」

 

「どうぞ遠慮なく。こちらからも、いろいろ聞きたいことがあります。」

 

ミスター・ルーピンはうなづいた。 「養父母の二人にはよくしてもらっているか?」

 

「養父母の『養』はいりません。ぼくは親が四人いるんです。マイケル、ジェイムズ、ペチュニア、リリーの四人が。」

 

「そうか」と言ってから、ミスター・ルーピンはもう一度「そうか」と言った。 そして、かなりしっかりとまばたきをした。 「それは……なによりだ。 いや、ダンブルドアはきみをどこに行かせたかも言ってくれなくて…… もしや、きみにいじわるな養父母を用意してしまったりしたのではないかと……」

 

ハリー自身がダンブルドアと最初に対面したときのことを思えば、それがミスター・ルーピンの杞憂だったとは言いきれない。 でも結果的に悪いようにはならなかったのだから、ハリーはなにも言わないでおいた。 「それで、ぼくの……」 ハリーはどう表現したものか考えた。どちらを上にも下にもしないような表現は……「もう二人の親の話にしませんか? 二人の、なんというか、すべてを知りたいんです。」

 

「なかなかの難題だ。」と言ってミスター・ルーピンは片手でひたいをぬぐった。 「そうだな、一から話すとすれば……。 きみが生まれたとき、ジェイムズのよろこびようったらなかった。一週間は杖にさわるたびに杖が黄金色に光るくらいだった。 一週間たってもだめで、きみを抱きかかえたり、リリーが抱いているのを見たり、きみのことを考えるだけでも、また杖が光るようになって——」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは話の途中で何度も腕時計を見て、また三十分たっている、と確認した。 リーマスに夕食をのがさせてしまったのが、すこし申し訳ない。自分はあとで午後七時にもどれるんだから不公平だ。それでも、どちらも夕食くらいで話をやめる気配はなかった。

 

ハリーがようやく勇気をだして決定的な質問をする決心がついたとき、リーマスはジェイムズの絶妙なクィディッチ技術を詳しく話しているところだった。話の腰を折るようでハリーは躊躇した。

 

「そこですかさず、」とリーマスは目をかがやかせて言う。「ジェイムズが()()()()()()()()()()()()()()()()()を決めた! 観客は大よろこびで、ハッフルパフがわにも何人か拍手している人がいたくらいで——」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーは思った——その場にいたからといってわかるものでもないだろうが。「ミスター・ルーピン?」

 

ハリーの声色でなにかが伝わったらしく、リーマスは自分の話を途中で切った。

 

「ぼくのお父さんはいじめをしていましたか?」

 

リーマスはだいぶ長く時間をかけて、ハリーをじっと見た。 「そういう時期もあったけれどね。ジェイムズはすぐにそこからは卒業した。 だれに聞いたんだい?」

 

ハリーはこたえなかった。うそにならず、うまく追及をかわせそうなことを考えようとしたが、間にあわなかった。

 

「いや、いい。」と言ってリーマスはためいきをついた。 「想像はつく。」 うっすらと傷あとのある顔に、不服そうな(しわ)がよる。「あいつはなにを考えて——」

 

「お父さんは、いじめっこになるような事情がありましたか? 家庭環境が不幸だったとか? それともただ……生まれつきいじわるだったり?」  ()()()()()()()

 

リーマスは片手で髪の毛を前から後ろへ流した。ハリーの前で見せる、はじめての神経質そうな動作だ。 「ハリー。子ども時代のできごとだけでジェイムズの性格を決めつけるのはよくないぞ!」

 

「ぼくも子どもです。それに、これはぼく自身の問題です。」

 

それを聞いてリーマスは二度、目をしばたたかせた。

 

「なにか理由があるなら、知りたい。理解したい。ぼくには弁解の余地はないように思えるんです!」  すこし声が震える。 「お父さんがいじめをしていた理由を教えてください。人聞きの悪い理由でもかまいません。」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「当時のグリフィンドールでは、やるのがむしろあたりまえだった。」  リーマスはゆっくりと、不承不承話しだした。 「それに……当時は逆だと思っていたんだが……あれはブラックがジェイムズを誘ってはじまった、と考えるべきかもしれない…… ブラックはいつも自分が反スリザリンであると証明したがっていた。いや……だれもが、血統が人生を決めるのではないと信じたがっていた——」

 

◆ ◆ ◆

 

「なんとも言えない。ブラックがなぜ逃亡しようとせず、ピーターを襲ったのかはわからない。 あの日ブラックは、悲劇のために悲劇を起こそうとしていたかのようだった。」  リーマスの声が不安定になる。 「仲間のだれも気づかなかった。なんの予兆も警告もなく——まさかあいつが——」  リーマスは口をつぐんだ。

 

ハリーは泣くのをこらえることができなかった。自分一人で感じていた以上に、こうやってリーマスから聞かされるほうがずっとつらい。 ハリーは両親をうしなったといっても、両親についての記憶がなく、話に聞いているだけだ。 リーマス・ルーピンは親友の四人を二十四時間以内に全員うしなった。そして最後の一人、ピーター・ペティグルーについては、死んだ意味さえわからない。

 

「彼がアズカバンにいると思うと、いまでもときどき胸が痛む。」とリーマスはつづけた。ほとんどささやき声になっている。 「〈死食い人〉に面会が許されていないのがありがたい。 おかげで面会にいかなくても、後ろめたく感じずに済む。」

 

ハリーは何度かつばを飲みこんでから、やっと言いだした。 「ピーター・ペティグルーの話をしてくれませんか? ぼくのお父さんの友だちだったなら——その思い出を知っておくべきだという気がして——」

 

リーマスはうなづいた。その目に涙が光って見えた。 「ピーターは、自分が最後にああなると知っていれば、きっと——」  リーマスはそこで声を詰まらせた。 「仲間うちで、ピーターほど〈闇の王〉のことを怖がっていた人はいなかった。自分が最後にああなると知っていれば、ピーターはきっと加勢してくれなかったと思う。 でもピーターは自分が犠牲になる()()()は承知のうえでやっていた。無視できない可能性だと分かっていて、それでもジェイムズとリリーに味方した。 ホグウォーツ時代はわたしも、なぜピーターがスリザリンに〈組わけ〉されなかったか、あるいはレイヴンクローに〈組わけ〉されなかったのか、と不思議に思った。ピーターはとにかく秘密が大好きで、秘密に夢中だった。ほかの人が隠そうとすることならなんでもあばこうとして——」  リーマスは一瞬だけにやりとした。 「でもピーターはあばいた秘密を()()したことはない。 知りたかっただけなんだ。 そしてすべてが〈闇の王〉の影につつまれたとき、ピーターはジェイムズとリリーを守るために、自分の能力を役立てようとした。わたしはそのとき、なぜ〈帽子〉がピーターをグリフィンドールにしたのかがわかった。」  リーマスの声に熱がこもり、誇らしそうになった。 「おなじ、友を守るために立ちあがるといっても、ゴドリックのような英雄にとってはたやすいことだ。グリフィンドール寮の理想とされるような強い人なら、たやすい話だ。 でもピーターは、だれよりも怖がりだった。そんなピーターだからこそ、余計に勇敢だったとは言えないか?」

 

「そう思います。」  ハリーのほうも声を詰まらせて、ほとんど声にならないくらいだった。 「ミスター・ルーピン、もし時間があったら、ピーター・ペティグルーの物語を聞かせてあげてほしい生徒が一人います。ハッフルパフ一年生の、ネヴィル・ロングボトムという生徒です。」

 

「アリスとフランクの子だな。」と言ってリーマスは悲しそうな声になった。 「わかった。楽しい話ではないが、やってみよう。きみがそう言うなら。」

 

ハリーはうなづいた。

 

二人はしばらく無言になった。

 

「ブラックとピーター・ペティグルーのあいだには、なにかわだかまりがありませんでしたか? なんでもいいんです。殺すほどのことではないとしても、ブラックがミスター・ペティグルーを見つけだそうと思うような事情が。 たとえば、ミスター・ペティグルーがある秘密を知っていて、それをブラックも知ろうとしていたとか、あるいは殺すことでその秘密を隠そうとしたとか?」

 

リーマスは目になにかをちらつかせたが、くびをふった。 「その線はないよ。」

 

「じゃあ、なにか別のこころあたりはあるんでしょう。」

 

白と黒がまざった色のひげの下で、リーマスがにやりとした。 「きみにもピーターに似たところがあるんだな。 でも、大した話じゃないんだよ。」

 

「ぼくはレイヴンクローですから、秘密の誘惑に負けてもいいことになっています。それに、」 と言ってハリーは真剣な言いかたに切りかえた。 「もしブラックにとって自分がつかまってもいいと思うくらいのことなら、重要なんじゃないかという気がします。」

 

リーマスはいごこち悪そうにした。 「話すとしたら、きみがもうすこし大人になってからにしたいんだが。とにかく、大した話じゃないんだよ! 学校時代のちょっとしたできごとだ。」

 

なにか決め手になったかは自分でもよくわからない。 リーマスの落ちつかなさげな声の調子のせいかもしれないし、『もうすこし大人になってから』という部分の言いかたのせいかもしれないが、とにかくそれを聞いてハリーは突然直観を飛躍させることができた……

 

「すみません、実はもう予想できてしまった気がします。」

 

リーマスは両眉をあげて、「ほう?」と言った。すこし疑うような声だ。

 

「二人は恋人だったんじゃないですか?」

 

ぎこちない沈黙があった。

 

リーマスはゆっくりと、重おもしくうなづいた。

 

「そういう時期があった。昔の話だ。不幸な関係で、ひどい悲劇で終わった。すくなくとも、若かったわたしたちの目には、終わったように見えていた。」 苦渋と困惑がはっきりと表情にあらわれている。 「二人の気持ちはもう整理できていて、大人どうしの友情のむこうに消えたのだろう、と思っていた。ブラックがピーターを殺すあの日までは、そう思っていた。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 







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43章「人間主義(ヒューマニズム)(その1)」

◆ ◆ ◆

 

一月のやわらかな日差しが城外の冷たい地面一面にふりそそぐ。

 

時間割どおりの授業として参加している生徒もいるが、別の授業から抜けだすことを許されて来た生徒もいる。 みな一年生で、とある呪文の練習をするためにあつまっている。教室に閉じこもるよりも、あかるい太陽の光と青空のもとで学ぶほうが効果的な呪文だ。 ついでにクッキーとレモネードも持っていくといいらしい。

 

呪文の前半は複雑で精密な動作からなる。まず杖を一、二、三、四、と決められたとおりの角度で細かく振る。それから人さし指と親指を、厳密に決められた位置まで伸ばす……

 

複雑すぎて、五年次以前に教えようとしても無駄だというのが〈魔法省〉の考えだ。 もっとおさない子どもが習得した事例も少数あるが、『天才』だとして片づけられた。

 

クィレル先生はそのことについて、〈魔法省〉教育課程編成委員会を魔法族に貢献させたければ、海にほうりこんで埋め立てに使うしかない、と言った。あまり行儀のいい表現とは言いがたいが、その気分がハリーにもわかってきた。

 

複雑で繊細な動作ではあるのだろう。 だからといって、十一歳が学べないことにはならない。 必要な対応は、ふだんより気をつけて、時間をかけて練習しろ、ということにつきる。

 

学年があがるまで学べない〈魔法(チャーム)〉はほかにもあるが、その理由はほとんどの場合、おさない生徒が必要なだけの魔法力をまだもっていないからだ。 しかし〈守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉は違う。魔法力が大量に必要だからむずかしいのではなく、魔法力以外のものが必要だからむずかしいのだ。

 

この魔法に必要なのは、あたたかく幸せな気持ちや、自分が大切にしている思い出をイメージすること。こういったことは通常の呪文では必要とされない。

 

ハリーは杖を一、二、三、四、と振り、決められたとおりの位置に指を伸ばす……

 

「学校がんばれよ、ハリー。あれだけの本を買えばたりるかな?」

 

「本はいくらあってもたりない……でもパパはけっこうがんばってくれた。すごくすごくがんばった……」

 

一度目にそれを思いうかべたとき、ハリーは涙をうかべた。その気持ちを呪文にこめた。

 

杖を高くかかげ、振りかざす動きをする。この動きには細かい決まりはなく、思いきってやればいい。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

なにも起きない。

 

ちらりとも光らない。

 

顔をあげると、リーマス・ルーピンがハリーの杖を調べていた。うっすらと傷の残る顔に、困った表情が見えた。

 

しばらくしてリーマスはくびをふり、静かに言った。 「残念だけれども、杖の動きにはなにも問題ない。」

 

まわりのどこにも光は見えない。〈守護霊の魔法〉を練習していることになっている一年生の全員が、よそ見をしてハリーのほうを見ていたからだ。

 

まだ涙が出そうになってきた。今度は幸せの涙ではない。 よりによって、よりによって〈守護霊の魔法〉でこうなるとは思っていなかった。

 

自分には幸せさが足りないと告げられるのは、どこかひどく屈辱的だ。

 

アンソニー・ゴルドスタインにあってハリーにないものは何だ? アンソニーの杖をまぶしく光らせるものは何だ?

 

アンソニーはハリーよりも自分のお父さんを愛しているというのか?

 

「どんなイメージを使おうとしたんだ?」とリーマスが言った。

 

「お父さんです。」と言うハリーの声は震えていた。「ホグウォーツにくるまえに、本を何冊か買ってほしいと言ったら、高い本もあったのに買ってもらえたこと。そして、これで足りるかと聞かれて——」

 

ヴェレス家にどういう家訓があるかという話はしないことにした。

 

「しばらく休んでから、別のイメージでやってみようか。」と言って、リーマスは、ほかの生徒が地面に腰をおろしているところを指さした。そちらには、がっかりした顔、恥ずかしそうな顔、残念そうな顔がそろっていた。 「〈守護霊の魔法〉を使うときはね、あのときもっと感謝していればよかった、というように、引け目を感じているようではいけないんだ。」  ミスター・ルーピンの声からは思いやりが感じられたので、ハリーは一瞬、なにかを殴りたくなった。

 

かわりにハリーは向きを変えて、落伍者たちがいる場所へと進んだ。 杖の動作は完璧だと言われ、あとはもっと楽しい思考を探せ、ということになっている生徒たちだが、 見るかぎりでは進捗はかんばしくなさそうだ。 濃い青色のえりのローブを着た生徒が何人もいて、赤が数人、あとはハッフルパフの女子が一人だけ泣いている。 スリザリン生はほとんど参加しようとしなかったが、ダフネ・グリーングラスとトレイシー・デイヴィスだけは来ていて、まだ杖の動作を練習している。

 

ハリーは冬の冷たい枯れ草の上にどすんと腰をおろした。そのとなりにいた落伍者は予想外の人物だった。

 

「あなたもできなかったんだ。」とハーマイオニーが言った。 ハーマイオニーは一度練習場から逃げだしたが、もどってきていた。赤い目をのぞきこんで見ないかぎり、泣いていたようには見えない。

 

「そ……そうだけど、きみが失敗していなかったとしたら、ぼくはもっと落ちこんでいたと思うよ。きみみたいに親切な人をぼくは知らないし、そんな人にもできないんだったら、まだ自分が善人である可能性も残っていると思えるから……」

 

「グリフィンドールにしておけばよかった。」と小声でハーマイオニーが言った。 そして何度か勢いよくまばたきをしたが、涙をぬぐおうとはしなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

少年と少女はいっしょに歩いていく。けっして手はつないでいないが、おたがいの付きそいとしてある種元気づけてもらっているような気がして、そのおかげで同学年の生徒たちのささやき声を無視することができた。廊下のさきにはホグウォーツの大扉がある。

 

ハリーはどんな幸せのイメージを使っても〈守護霊の魔法〉を成功させることができなかった。 だれにとっても意外ではなかったようだが、それが余計に嫌だった。 ハーマイオニーも成功させることができなかった。 これはとても意外なことだったようで、彼女もハリーと同様に、横目でちらりと見る視線をむけられるようになっていた。 ほかのレイヴンクロー生は失敗してもそんな視線を受けていない。 でもハーマイオニーは〈太陽〉軍司令官だからか、彼女に声援を送っていたファンはどうやら、自分たちが裏切られたと解釈したようだ。なんの約束をしてもらったのでもないのに。

 

二人はいっしょに図書館にいって、〈守護霊の魔法〉について調査することもした。ハーマイオニーは悩みがあるといつもこの方法で対処していた。ハリーも時おりそうしていた。調査して、学習して、()()()()()()()()を理解する……

 

本を見ると、総長から聞いたとおりの話がたしかに書かれていた。練習時に〈守護霊の魔法〉を使えなかった魔法使いでも、ほんものののディメンターのまえでは成功できる場合がある。ちっとも見こみのなかった人が、完全に有形の守護霊をだせるまでになることがある。 まったく論理的ではないし、ディメンターのオーラはむしろ幸せのイメージを作りにくくさせるはずなのだが、とにかくそうらしい。

 

なので二人は最後に一度試してみよう、ということにした。試してみないことには終われない。

 

今日はディメンターがホグウォーツに来る日だ。

 

ハリーは事前に、ふだん自分の小指の指輪に小さなダイアモンドにしてはめているお父さんの石の〈転成〉を解除して、灰色の巨大な石にもどしてポーチに入れておいた。 ディメンターという暗黒の生物に対面して、ハリーが完全に魔法力をだせなくなった場合にそなえて。

 

ハリーはディメンターのまえに出るまでもなく、すでに悲観的な気持ちがしはじめていた。

 

「きみはできるだろうけど、ぼくはできない。」とハリーは小声で言う。「そう賭けてもいい。」

 

「違和感があった。」とハーマイオニーはもっと小さな声で言う。 「けさ試したとき、気づいたんだけど、 最後に杖を振りかざして、呪文を言うまえのところで、なにか違和感があった。」

 

なにも言わないでいるが、 ハリーもおなじように感じていた。一度目からそうだったのだが、五種類の幸せのイメージで五回試すまで、自分でも認めることができなかった。 杖を振りかざそうとするたびに、空虚な感じがした。学ぼうとしているその呪文が、しっくりこないように感じられた。

 

「できない人がみんな〈闇の魔術師〉にはなるってわけじゃないからね。 〈守護霊の魔法〉を使えなくても、〈闇の魔術師〉じゃない人はたくさんいる。 ゴドリック・グリフィンドールもそうだった……」

 

ゴドリックは〈闇の王〉を何代にもわたって倒し、〈貴族〉から平民を守り、魔法族からマグルを守るために戦った。 真の友と言える人たちをたくさん持ち、立派な大義のためとはいえその半分も死なせはしなかった。 彼は傷ついた人びとの声を聞き、無垢な人たちを守るために軍を率いた。 勇気ある若い魔法使いは彼の呼びかけにこたえて参集し、戦いが終わると彼は若者たちを埋葬した。 後年、ついに老年のために自分の魔術がおとろえはじめると、当代最強のもう三人の魔法使いをあつめて、なにもないまっさらな土地にホグウォーツを建立した。 いかに正しい目的であれゴドリックの業績のほとんどは戦争であり、戦争でない業績はこれだけだった。 ホグウォーツの〈戦闘魔術〉の初代教師はサラザールであり、ゴドリックではなかった。 ゴドリックは〈薬草学〉の初代教師となり、緑に芽吹く生命の魔術を教えた。

 

ゴドリックは死ぬその日まで、〈守護霊の魔法〉を使うことができなかった。

 

ゴドリック・グリフィンドールの人生は善い人生だったが、幸せな人生ではなかった。

 

ハリーは苦悩の物語を信じない。不満だらけの主人公の物語は読んでいられない。自分のこの立ち場になりかわりたいという人は十億人はいるだろうとわかっている。けれど……

 

死の直前、ゴドリックはヘルガにこう言ったという(サラザールには縁を切られており、ロウィナはすでに死んでいた)。自分の人生に悔いはない。この師を模範にするなという警告をするつもりもない。この師を模範にするなという警告をしたなどと伝えられては困る。 この自分にとって正しい選択肢だったなら、ほかのだれにも、どれほど幼いホグウォーツの生徒にも、まちがったほうの選択肢をえらべと言うことはできない。 ただ、実際に師とおなじ道を歩む者がいれば、その者はグリフィンドールその人よりも幸せになる権利がある、ということを分かってほしい。以後、赤と黄金の色はぬくもりと光の色であれ。それが彼の遺言だった。

 

ヘルガは涙を流して、自分が総長となればかならずそうすると約束した。

 

ゴドリックは死後、幽霊(ゴースト)を残さなかったという。ハリーはその本をハーマイオニーに無言で返し、しばらく散歩に行った。自分が泣いているのを見られないように。

 

『守護霊の魔法——成功と失敗の歴史』というなにげない題名の本が、いままで読んだことがないほど悲しい内容だとは。

 

ハリーは……

 

ハリーはそうなるのはいやだ。

 

この本に載るのはいやだ。

 

いやだ。

 

この学校のほかの人たちは、〈守護霊失敗〉はそのまま〈悪〉と直結するかのように考えている。 ゴドリック・グリフィンドールが〈守護霊の魔法〉を使えなかったという事実は、なぜかだれの口にもあまりのぼることがないらしい。 多分本人の遺言を尊重するために話さないのかもしれない。 フレッドとジョージはおそらく知らないし、ハリーも教えるつもりはない。 いや、ほかの落伍者がこの話をしないのは、不幸せであると思われるよりも〈(ダーク)〉であると思われるほうがまだ、恥ずかしくないからだろうか。つまりそのほうがプライドと地位への被害がすくないからだろうか。

 

となりのハーマイオニーが強くまばたきをしているのが見えた。彼女とおなじく本を愛した、ロウィナ・レイヴンクローのことを考えているのだろうか。

 

「よし。」とハリーは小声で言う。「もっと幸せなことを考えよう。 完全な有形の〈守護霊〉を自分で作れたとしたら、どんな動物になると思う?」

 

「カワウソ。」とハーマイオニーは即座に言った。

 

「カワウソ?」とハリーは信じられずに言った。

 

「そう。カワウソ。ハリーは?」

 

「ハヤブサ。」とハリーはためらわずに言った。 「ハヤブサは時速三百キロメートルで急降下する、世界最速の現生生物なんだ。」  地球開闢以来、ハリーはハヤブサが大好きだった。 ハヤブサに変身したいがためだけに、〈動物師(アニメイガス)〉になるとこころに決めていた。自分のつばさのちからで飛び、するどい目で下界を見おろす…… 「それで、なんでカワウソなの?」

 

ハーマイオニーは笑みを見せたが、なにも言わない。

 

そのとき、城の巨大な扉がひらいた。

 

子どもたちは禁断の森へとつづく道をしばらく歩き、そのまま森にはいった。 太陽は地平線ちかくまで落ちてきていて、影は長く、冬の木々のむきだしの枝のあいだを通る日差しは弱い。一月なのにくわえて、一年生に割り当てられたのが一番遅い時間だったからだ。

 

それからまがった道を抜けると、森のなかのひらけた場所が行く手に見えるようになった。冬の乾いた大地に、黄色の枯れ草と多少の残雪がかさなっている。

 

まだ距離があるので、そこにいるいくつかの人影は小さく見えた。 〈守護霊〉二体がうっすらと白く光って見える。もっとあかるい銀色の光は総長の〈守護霊〉で、そのとなりにあるのは……

 

ハリーは目を細めた。

 

となりにあるのは……

 

それはハリーの想像にすぎなかったかもしれない。ディメンターが三体の有形の〈守護霊〉を乗りこえて影響してくるはずがない。なのに、虚無が自分の精神に接触してきたような感覚があった。〈閉心術〉の障壁を意に介することなく、自分の深奥のやわらかい部分が直接触れられたような感覚があった。

 

◆ ◆ ◆

 

シェイマス・フィネガンは血の気をうしなって震えながら、残雪がちらつく枯れ草のうえを歩きまわる生徒の群れにもどってきた。シェイマスの〈守護霊の魔法〉は成功だったが、総長が〈守護霊〉を解除してから生徒が〈守護霊〉を出せるまでには時間差がある。そのあいだ生徒はディメンターの恐怖に直接さらされる。

 

五歩の距離で二十秒間の被曝をうけるだけなら、抵抗力が弱く脳が未発達な十一歳であろうが、まず安全だ。 ディメンターの影響をどれくらい強くうけるかについては、個人差が大きく、あまり正確なことがわかっていない。だが二十秒間なら確実に問題ない。

 

五歩の距離でディメンターに四十秒間被曝すると、深刻な後遺症がのこる()()()があるが、そうなるのは非常に敏感な人にかぎられる。

 

ヒポグリフでの飛行法の授業というのが、いきなり乗せられて、あとはがんばれ、だけであるホグウォーツの水準からしても、これは過酷な訓練法だ。 ハリーは過保護には反対だし、ホグウォーツ四年生と十四歳のマグルの成熟度の差をみれば、マグルが世話焼きをしすぎているのはあきらかだ……だがさすがにこれはやりすぎではないかとも思う。 かならずしも癒せる傷ばかりではないのだから。

 

ただ、こういう状況下で〈守護霊の魔法〉を使えない人は、以後自衛できると思わないほうがいい、ということはわかる。 魔法使いにとって自信過剰になることはマグルの場合以上に危険だ。 ディメンターは幸せのイメージだけでなく、魔法力と体力の両方を吸いとることができる。つまり、反撃に時間がかかりすぎたり、そういった攻撃がとどくほどディメンターに近づかれるまでディメンターの存在に気づけなかった場合は、〈現出(アパレイト)〉することすらできないかもしれないのだ。 (ハリーは本で調べていて、かなりの恐怖を感じさせられながら、〈ディメンターの口づけ〉を受けた人は持続的な昏睡状態におちいるがその原因は()()()()()()()()()ことである、という意見があることを知った。 さらに、()()()()()()()魔法族が、〈ディメンターの口づけ〉を()()()()()()()()として使うということも知った。 有罪を宣告された人の一部は確実に無実なのに。いや、仮に無実でなかったとしても、()()()()()()()()()だって? もし自分がたましいの存在を信じていたとしたら、そんなのは……あたまが真っ白になる。適切な反応がなにも思いつかない。)

 

総長は真剣にセキュリティを考えているらしく、三人の〈闇ばらい〉が見張り役としてこの場におかれた。 隊長はコモドという名で、アジア系の顔だちで厳粛そうではあるが暗くない表情をしており、杖はつねに手のなかにある。 コモドの〈守護霊〉ははっきりとした月光色のオランウータンで、ディメンターと自分の番を待つ一年生たちとのあいだを行き来している。 オランウータンのとなりを通った、白くかがやくパンサーの持ちぬしは、〈闇ばらい〉ブトナルという、眼光のするどい男で、黒い長髪を一束にまとめて、長いひげが編んである。 この〈闇ばらい〉二人と〈守護霊〉二体はつねにディメンターを監視している。 生徒たちがいるのと反対がわには、〈闇ばらい〉ゴリアノフが待機している。やせて背が高く、青白いひげづらの男で、無言無杖でつくりだした椅子に座っている。ぼーっとした無表情をよそおって、あたり全体を見わたしている。 クィレル先生は一年生たちの実践練習がはじまってからしばらくして登場し、それからずっとハリーのほうに目をむけている。 小柄ながら決闘術大会優勝者だったことのあるフリトウィック先生は、ぼんやりと手のなかで杖をもてあそんでいる。しかしその目は、顔のかたちをしたひげのかたまりのなかから、クィレル先生だけを見ている。

 

ハリーの想像にすぎないかもしれないが、つぎの生徒の番がきて総長の〈守護霊〉が解除されるたび、クィレル先生はかすかにびくりとするように見えた。 クィレル先生もハリーとおなじ、虚無に精神を触れられるような偽薬(プラセボ)効果を感じているのかもしれない。

 

「アンソニー・ゴルドスタイン。」と総長の声がかかった。

 

ハリーはシェイマスのほうに静かに歩いていく。アンソニーが銀色にかがやく不死鳥と、ぼろぼろのマントの下にいる……何者かのほうに向かっていくのをよそに。

 

「なにが見えた?」とハリーは声をひそめてシェイマスにきいた。

 

ハリーはこうやってデータを収集しようとしていたが、こたえてもらえないことが多かった。そこで〈カオス〉士官であるシェイマス・フィネガンなら、と思った。 ちょっと卑怯かもしれないが……

 

「死体。灰色でぶよぶよの……水につかった死体……」とシェイマスがささやいた。

 

ハリーはうなづいた。 「そう見える人が多いみたいだね。」  ハリーは心配はいらない、というふりをした。シェイマスにはそれが必要だったから。 「チョコレートを食べるといいよ。気分がよくなる。」

 

シェイマスはうなづいて、回復用のお菓子のところへよろよろと向かった。

 

「エクスペクト・パトローナム!」という男の子の声がした。

 

みながショックで息をのむのが聞こえた。〈闇ばらい〉の三人さえ息をのんでいた。

 

ハリーがふりむいてそちらを見ると——

 

銀色にかがやく鳥が一羽、アンソニー・ゴルドスタインと檻のあいだにいた。 鳥は上をむいて一鳴きした。その鳴き声さえ銀色で、金属のようにかたく光沢があり、美しかった。

 

ハリーのこころの奥でなにかが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーは思考した。

 

()()()()()()() ()()()()()()()()()()()()()()()

 

これは……いつものハリーの思考ではない……

 

偽薬(プラセボ)効果だ、とハリーはもう一度自分に言いきかせる。有形の〈守護霊(パトローナス)〉が三体いるまえで、ディメンターの効果はここまでとどかない。 これは、ディメンターのまえに行けばこういう効果をうけるだろう、という想像にすぎない。 実際のディメンターの感じはこれとは全然ちがっていて、ふりかえれば自分はバカなことを考えていた、と思わされるにちがいない。

 

ハリーは背すじに、かすかに寒けを感じた。たしかに実際のディメンターは全然ちがうのだが、悪い方向にちがうのだ、という感じがした。

 

総長の杖から銀色に燃える不死鳥がまた実体化し、小さいほうの鳥は消えた。 アンソニー・ゴルドスタインはもとの場所にもどってくる。

 

総長はつぎの名前を呼ばず、アンソニーにつきそってきた。〈守護霊〉はそのままの位置でディメンターを見張っている。

 

ハリーはハーマイオニーが立っている場所を見た。光るパンサーのうしろだ。 つぎはハーマイオニーの順番だったが、どうやらあとにまわされたらしい。

 

ハーマイオニーは張りつめた表情をしていた。

 

ハーマイオニーからは事前に、緊張をほぐそうとするのはやめてほしい、と丁重にたのまれている。

 

ダンブルドアはかすかに笑みをうかべて、アンソニーをほかの生徒たちのところまで見送った。 完全な笑顔になれないくらい、ひどく疲れているようだ。

 

「信じがたい成果じゃ。」というダンブルドアの声は、いつものような声量ではなかった。 「一年生にして有形の〈守護霊〉。 ほかにも低学年で、驚異的な人数が成功しておる。 クィリナス、これは一本とられたのう。」

 

クィレル先生は軽く目礼した。 「単純な推理だと思いますがね。 ディメンターは恐怖を通じて攻撃する。そして子どもは大人ほどには恐怖を持たない。」

 

「恐怖を持たない?」と待機中の〈闇ばらい〉ゴリアノフがたずねた。

 

「わしもそう言った。けれどもクィレル先生は、大人になると人は勇気が増えるだけであって、恐怖が減るわけではない、と指摘した。告白するが、言われるまで思ってもみなかったことじゃった。」

 

「厳密にはそういう表現ではありませんでしたが、まあいいでしょう。 それで総長、その約束の後半部分については?」

 

「約束は守る。」とダンブルドアはしぶしぶこたえる。 「率直に言って、この賭けに負けるとは思いもしなかった。 クィリナス、今回はきみの知見がただしかったようじゃ。」

 

その場の全生徒が二人のほうを見て困惑した。例外はハーマイオニーとハリーで、ハーマイオニーは檻と背の高いローブの方向をじっと見ていた。 そしてハリーは、自分は妄想にとらわれているのだと考えていたので、生徒一人一人の様子を見ていた。

 

クィレル先生は話をそこで打ち切る気満々の口調で言った。 「受講希望者に〈死の呪い〉を教えることは許されています。 〈死の呪い〉は〈闇の魔術師〉をはじめとする敵から身をまもるのに非常に効果的な呪いだし、生徒が知りうる呪文のなかに、死にいたる呪文はほかにない、などと思うほうがバカげている。」  クィレル先生はことばを切り、眼光をするどくした。 「総長、失礼ながら、顔色がよくありませんぞ。 今日のところはその任務のつづきをフリトウィック先生にまかせてはどうですか。」

 

ダンブルドアはくびをふった。 「もう残り人数はあとわずか。それまではもつ。」

 

ハーマイオニーはアンソニーに近づき、ほんのすこし震える声で言った。 「ゴルドスタイン隊長。なにかこつを教えてくれない?」

 

「怖がらないこと。 むこうが考えさせようとすることを考えないこと。 杖のことを恐怖に対する盾と思うよりも、杖を振りかざして恐怖を蹴ちらすようなつもりでやるといい。そこで幸せのイメージをかたちに……」  アンソニーは肩をすくめた。 「まあ、事前に聞いた話そのまんまだけど……」

 

ほかの生徒たちもアンソニーにおめでとうと言いつつ質問しようとして集まってきた。

 

「ミス・グレンジャー?」と総長が声をかけた。その声はやさしげにも張りをうしなったようにも聞こえた。

 

ハーマイオニーは胸をはって、総長のあとにつづいた。

 

「マントの下にはなにが見えた?」とハリーはアンソニーに聞いた。

 

アンソニーはおどろいたようにハリーを見て、こたえた。 「背の高い死んだ男。というか、死んだような姿勢で、死んだような色をしていた……見ていて痛いたしかった。それで、それがディメンターの手口なんだとわかった。」

 

ハリーは視線をハーマイオニーのほうにもどし、彼女が檻とマントに対面するのを見た。

 

ハーマイオニーは杖を初期位置まで持ちあげた。

 

総長の不死鳥がふっと消滅した。

 

そしてハーマイオニーは、たよりない悲鳴をあげて、びくりとし——

 

——うしろに一歩さがった。杖が動く。杖を振りかざし、「エクスペクト・パトローナム!」と言う。

 

なにも起きなかった。

 

ハーマイオニーはふりむいて、走りだした。

 

もっと低い総長の声が「()()()()()()()()()()()()()()」と言うと、銀色に燃える不死鳥がよみがえった。

 

少女はつまづいたが、かまわず走りつづけた。のどからおかしな音を出しはじめていた。

 

『ハーマイオニー!』という声がスーザンと、ハンナとダフネとアーニーからあがり、四人は彼女のほうに駆けよった。その瞬間にハリーは、いつものように人より一歩さきを考えて、くるりとふりかえり、チョコレートのあるテーブルのほうに走っていった。

 

ハリーはハーマイオニーの口にチョコレートを詰めこみ、ハーマイオニーはそれを噛んで飲みこんだ。それでもまだ、彼女はあらく息をあえがせ、声をあげて泣いていた。目は焦点があっていないように見えた。

 

〈吸魂〉(ディメンテイション)状態がこのままつづくはずはない、とハリーはあたまのなかで言って、自分の錯乱をおさえようとしたが、絶望的な恐怖と痛烈な怒りがおたがいにからみつこうとしている。そんなはずはない、被曝しはじめて四十秒どころか十秒もたっていなかった——

 

だがそこで、一時的な〈吸魂〉ならありうる、とハリーは気づいた。十秒の被曝だろうが、敏感な人であれば()()()()精神的な傷をおうことがないとは言えない。

 

すると、ハーマイオニーの目の焦点があい、さっとまわりを見まわして、ハリーを見さだめた。

 

「ハリー……」と彼女はやっと声を出す。ほかの生徒は無言になった。「ハリー、やめて。()()()()

 

ハリーは急に、なにをやめろというのか聞くのが怖くなった。ハーマイオニーの最悪の記憶に、あるいは彼女がいま眠らずに見ている悪夢のなかに、自分がいるのだろうか。

 

()()()()()()()()()()」  ハーマイオニーは手をのばし、ハリーの服のえりをつかんだ。 「あれに近づいちゃだめ! わたしはあれの声を聞いたの。あれはハリーのことを知っている。ハリーがここにいるって知ってるの!

 

「『あれ』って——」とハリーは言いかけて、聞こうとした自分を呪った。

 

()()()()()()()()()()」 ハーマイオニーの声はもはや悲鳴になった。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

突然静寂がおり、クィレル先生が数歩こちらに歩みよってきたが、それ以上は近づかなかった(ハーマイオニーのもとにはすでにハリーがいるからだ)。 「ミス・グレンジャー。」とクィレル先生は深刻そうに言う。 「もうすこしチョコレートを食べたほうがいい。」

 

「フリトウィック先生、ハリーをとめて。ハリーを部屋に帰して!」

 

その時点で総長もやってきて、心配そうにフリトウィック先生と視線をかわした。

 

「わしの耳にはディメンターの声は聞こえなかったが……念のため……」と総長。

 

「どうぞ遠慮なく。」とクィレル先生はすこしうんざりしたように言った。

 

「ディメンターは()()()()()ハリーを苦しめると言っていた?」と総長。

 

「おいしい部分から順番に、ハリーを——ハリーを——食べると——」

 

ハーマイオニーは目をしばたたかせた。 その目にすこし正気がもどったように見えた。

 

それから泣きだした。

 

「ミス・グレンジャー、きみは勇敢すぎた。」  総長の声はやさしげで、はっきりと聞こえた。 「考えられぬほど勇敢じゃった。 すぐに逃げてよかったものを、耐えつづけ、〈守護霊の魔法〉をやりとげようとした。 もうすこし大人になって強くなったとき、きみはきっとまた挑戦するし、成功する。」

 

「ごめんなさい。」とハーマイオニーはとぎれとぎれに言う。 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。ごめんなさい、ハリー、わたしはなにを見たかは言えない。わたしは見ようとしなかった。怖くて見れなかった。ひどすぎて見ていられないと分かっていたから……」

 

ハリーがすべきことだったが、自分の手がチョコレートまみれなのでためらっていると、アーニーとスーザンがきて、地面にくずれおちたハーマイオニーの手をとり、お菓子のあるテーブルへ案内していった。

 

もう五個チョコレートバーを食べると、ハーマイオニーは回復したように見え、クィレル先生のところにいって謝罪した。 でもそのあと、ハリーが何度か目をむけて見たかぎりでは、ハーマイオニーはずっとハリーを見張っていた。 一度だけ、ハリーは彼女に近づこうと一歩踏みだしたが、彼女は一歩さがった。 その目は無言で謝罪しながら、一人にしてほしい、と懇願していた。

 

◆ ◆ ◆

 

ネヴィル・ロングボトムが見たものは、溶けかけて死んだなにかで、つぶれたスポンジのような顔をしてのたうちまわっていた。

 

これまでのところだれの目撃談よりもひどい目撃談だ。 ネヴィルは以前の練習で杖さきから小さな光をちらつかせることができていたが、今回は〈守護霊の魔法〉をかけようとするのをやめて逃げだすという、冷静さとかしこさを見せた。

 

(総長はほかの生徒に、勇敢になりすぎるな、と言ってはいない。 しかしクィレル先生は、()()()()()()()()おなじ失敗をくりかえすような者は、もはや無知ではなく愚かだ、とおだやかに指摘した。)

 

「クィレル先生?」  ハリーはできるだけクィレル先生に近づいてから、声をひそめて言った。 「クィレル先生はあそこになにが見え——」

 

「聞くな。」と感情のない声で返事があった。

 

ハリーは丁重にうなづいた。 「総長に言ったのは正確にはどういう表現だったか、聞いてもいいですか?」

 

乾いた返事。 「年齢と経験をかさねるにつれ、人の最悪の記憶は悪い方向にしか変わりえない。」

 

「ああ。論理的ですね。」

 

クィレル先生の目に奇妙なものが去来した。それからクィレル先生はハリーを見た。 「ねがわくば、きみには一度目で成功してもらいたい。 成功すれば、総長は改竄も傍受も不可能な〈守護霊〉による通信の方法をきみに教えてくれるかもしれない。その方法の軍事的価値ははかりしれない。 それがあれば〈カオス軍団〉はきわめて優位な位置にたてるだろうし、ゆくゆくは、この国についてもそう期待できる。 だがもし失敗したとしても……まあ、わたしは不平を言う立ち場ではないな。」

 

◆ ◆ ◆

 

モラグ・マクドゥーガルは震える声で「痛い」と言い、ダンブルドアはすぐさま自分の〈守護霊〉をかけなおした。

 

パーヴァティ・パティルはトラのかたちをした有形の〈守護霊〉を生みだした。ダンブルドアの不死鳥より大きいくらいだったが、明るさはそれほどでもなかった。 観衆は全員、盛大な拍手でそれをむかえたが、アンソニーのときほどのショックはなかった。

 

つぎはハリーの番だ。

 

総長はハリー・ポッターの名前を呼んだ。ハリーはおびえている。

 

まちがいなく自分はこれから失敗する。つらい経験をする。

 

それでもやってみなければ。 ディメンターをまえにすると、ちらりとも光をだせなかった人が完全に有形の〈守護霊〉をだせることがあるのだから。そうなる理由はだれも知らないのだから。

 

それにもし自分がディメンターに対して自衛できないのなら、ディメンターが近づいてくる感覚、ディメンターが自分の精神にはいってくる感覚を察知できるようになっておいて、手遅れになるまえに逃げられるようにならなければならない。

 

ぼくの最悪の記憶は何だ……?

 

総長はきっとハリーにむけて、心配そうな表情をするか、期待する表情をするか、助言する賢者のような表情をするものと思っていた。 しかしこちらを見つめるアルバス・ダンブルドアの表情は、ただ平静だった。

 

失敗すると思っているんだ。でも干渉したくないから、わざわざ言わないだけなんだ。もし本心から元気づけることが言えるなら、言ってくれていていいはずだ……

 

檻が近づく。 すでにさびがあるが、まだ朽ち果ててはいない。

 

マントが近づく。 すでにほつれはじめていて、ふさがれていない穴がいくつもある。 〈闇ばらい〉ゴリアノフの話では、朝には新品のマントだったという。

 

「あの、総長にはなにが見えますか?」

 

総長は声も平静だった。 「ディメンターは恐怖の生きもの。ディメンターに対する恐怖が消えれば、外観も恐ろしくは見えなくなる。 わしには、背の高い、やせた、はだかの男が見える。 朽ちてはいない、 ただすこし痛ましく見えるだけのからだ。 それだけじゃ。 きみにはなにが見える?」

 

……ハリーにはマントの下が見えない。

 

いや、そうではない。マントの下にあるものを見ることを、ハリーの精神は()()している……

 

いや、それもちがう。ハリーの精神はあのマントの下に()()()()()()()ものを見ようとしている。ハリーの目はまちがったものを無理に見ようとしている。 でもハリーはこれまでにできるかぎり訓練して、ちょっとした困惑の感覚に気づくようになっている。自分がなにかをでっちあげそうになったら、すぐに反発する訓練ができている。 自分の精神があのマントの下にあるものについて、うそを思いつこうとするたびに反射的にそれを封じこめる。

 

ハリーがマントの下を見ると、そこには……

 

答えのない問いがあった。 ハリーは自分の精神に偽の映像を見させたりしない。だからなにも見えない。 該当する信号を受けとる視覚野の一部が消滅したかのようだ。 マントの下が目の盲点となり、 そこになにがあるのかを知ることができない。

 

ただ、朽ち果てたミイラよりはるかに悪いものであるのはたしかだ。

 

マントの下にいる不可視の怪物までは、あとほんのすこしの距離しかないが、月光色に燃える鳥、白い不死鳥がまだ、あいだにいる。

 

ほかの生徒が逃げたように、ハリーも逃げだしたい。 〈守護霊の魔法〉がうまくいかなかった生徒の半数は、単にここに来なかった。 来た人のうち半数は、総長が〈守護霊〉を消すのも待たずに逃げだしたが、だれにも非難されていない。 自分の番になってなにもせず引きさがってきたテリーは、すこし笑われはした。だがさきに自分の番を終えていたスーザンとハンナがみんなをしかりつけ、だまらせた。

 

しかしハリーは〈死ななかった男の子〉であり、すくなくとも挑戦したという事実をのこさなければ、かなり見損なわれることになる……

 

あのマントの下の何者かと対峙していると、自分のプライドと自分に課された役目のことが、あたまから抜けおちていくような気がした。

 

ぼくはなぜまだここにいるんだ?

 

臆病者に思われたくないという羞恥心から、ハリーはこうやってとどまっているのではない。

 

名声をとりもどしたいという思いで、杖を持ちあげるのではない。

 

守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉という魔法を身につけたいがために、こうやって指を初期位置におくのではない。

 

なにか別の理由がある。なにかが、あのマントの下にいる何者かに対抗しなければならない、と言っている。あれこそ真の暗黒であり、だからこそ、ハリーは自分のなかにおなじ暗黒があるのか、自分がそれをはじきかえすことができるかを、たしかめなければならない。

 

事前のこころづもりでは、父親といっしょに本の買い付けをしてまわったときのことをもう一度だけ考えてみよう、と思っていた。だがディメンターのまえに来たいま、土壇場で、まだ試したことのない別の記憶が浮かんできた。 通常の意味ではぬくもりも幸せもない記憶だが、なぜかほかの記憶よりも正しいように思えた。

 

ハリーは星ぼしのことを思いだす。クリスマス前夜に見た、おそろしいほど明るく燃える、またたかない星ぼしのことを思いだす。そのイメージに身をまかせ、〈閉心術〉の障壁のように自分の精神全体をそのイメージで満たし、もう一度あのときのように、身体感覚を消失させて虚無を意識する。

 

銀色にかがやく不死鳥が消えた。

 

ディメンターが〈神〉の鉄槌のようにしてハリーの精神を殴りつけた。

 

恐怖——寒——暗

 

両勢力が正面からぶつかったとき、一瞬だけ、平和な星見の記憶はディメンターの恐怖に対して持ちこたえた。そのあいだ、ハリーの指は決められたとおりに杖を動かした。意識せずに動かせるようになるまで練習しておいたおかげだ。 完全な暗黒を背景に燃える光点の群れ。そこにはぬくもりも幸せもない。けれど、このイメージはディメンターにもそうたやすくは破られない。 静かに燃える星ぼしは巨大で恐怖を知らず、寒く暗い場所でかがやくことこそ、その本来のすがただから。

 

不動の物体が圧倒的なちからに対抗する。しかしそこに、傷とも穴とも断層とも呼べるものができた。 ハリーは自分に食いかかるディメンターに対して、かすかな怒りを感じた。すると濡れた氷のうえですべるように、ハリーの精神は横すべりして脇道にはいった。恨み、憤怒、殺意と憎悪の方向へ——

 

ハリーの杖が最後の振りかざす位置についた。

 

なにか違和感があった。

 

「エクスペクト・パトローナム」という声がでたが、空虚で無意味に聞こえた。

 

そしてハリーは自分の暗黒面(ダークサイド)へ落ちた。下へ、奥へ、いままでになかったほど速く、深く。加速しながら滑落する。そしてディメンターは、むきだしになったハリーの一部に食いつき、光を食いつくす。 それに対して、ハリーは弱よわしい動きで反射的にぬくもりを探そうとする。けれどハーマイオニーのイメージ、ママとパパのイメージさえも、ディメンターにゆがめられ、ハーマイオニーは地面に倒れて死に、お母さんとお父さんは死体になり、そのイメージすら吸いとられた。

 

その真空に、最悪の記憶が浮かびあがる。長く忘れられ、神経細胞のパターンとして残っているはずもない記憶が。

 

「リリー、ハリーを連れて逃げろ! やつが来た!」と男の声がする。 「逃げるんだ! はやく! ここはおれが食いとめる!」

 

それを聞いて、自分の暗黒面の空虚な深奥にいるハリーはついこう考えてしまう。ジェイムズ・ポッターは自信過剰にもほどがある。ヴォルデモート卿(ロード・ヴォルデモート)を食いとめる? どうやって?

 

もう一人の声がした。その声は湯をわかすケトルのようにけたたましく、甲高く、ハリーは自分の神経すべてにドライアイスが押しつけられたように感じた。いや、液体窒素の温度にまで冷却された焼き印をからだのすべてに押しつけられたように感じた。その声はこう言っていた。

 

「アヴァダケダヴラ」

 

(少年の指は感覚をうしない、杖が落ちた。少年のからだはがくがくと振動し、倒れかけた。総長がただならぬ様子で目を見ひらき、〈守護霊の魔法〉をはじめた。)

 

「ハリーは、ハリーだけは見のがして!」と女の声の悲鳴があった。

 

光がすべて吸いとられた状態のハリーの残骸らしきものが、からっぽのこころで、女の声を聞いて考える。この女は、お願いさえすればヴォルデモート卿は手をださない、とでも思ったのだろうか。

 

「どけ、女!」と氷のように燃えるするどい声が言う。「狙いはおまえではない。その子だ。」

 

「ハリーは見のがして! どうか……慈悲を……どうか……」

 

リリー・ポッターはそもそもどういう種類の人間が〈闇の王〉になるのか理解できていないようだ。 わが子の命を救うためにあれ以上ましな作戦が思いつかないのだったら、それが彼女の母としての最後のあやまちだ。

 

「今回は特別に逃げる機会をやろう。おまえを制圧するのも手間だ。おまえが死のうとも、その子は助からない。 愚か者め、そこをどけ。すこしはあたまをはたらかせろ!」

 

「どうかハリーだけは。わたしを、殺すならわたしを!」

 

空虚そのものになったハリーは不思議がる。リリー・ポッターはなにを考えているのだろう。わかったと言ってヴォルデモート卿が彼女を殺し、それからあの子に手も触れず去ってくれる、などと思うのか。

 

「よかろう……」と死の声が言う。冷淡ながら愉快そうな声だ。「その取り引きに応じよう。おまえは死に、その子は生きる。 では杖を捨てろ。そうしたら殺してやる。」

 

身の毛がよだつ沈黙。

 

ヴォルデモート卿(ロード・ヴォルデモート)は口をひらき、おぞましい侮蔑的な笑いをする。

 

リリー・ポッターがやっと口をひらき、悲鳴のように、必死の憎悪のこもった声でさけぶ。「アヴァダ・ケ——」

 

それをさえぎるように、凄絶な声がすばやく正確に呪いをかけた。

 

「アヴァダケダヴラ」

 

まぶしい緑色の一閃でリリー・ポッターの命はつきた。

 

ゆりかごのなかの男の子はそれを見ていた。目が、赤く小型の太陽のように明るく燃える目が、ハリーの視界いっぱいに近づき、ハリーの目を見さだめる——

 

◆ ◆ ◆

 

ほかの子どもたちは、ハリー・ポッターが倒れるのを見ていた。ハリー・ポッターが甲高い悲鳴をあげるのを聞いていた。刃で耳を突き刺されるような声だった。

 

銀色の閃光がきらりとして、総長の「エクスペクト・パトローナム!」という咆哮とともに、燃える不死鳥がまたあらわれた。

 

だがハリー・ポッターの絶叫はいつまでもつづいた。総長の腕に抱かれて、ディメンターから遠ざけられても、ネヴィル・ロングボトムとフリトウィック先生が同時にチョコレートをとりにいくあいだも、とまらない——

 

ハーマイオニーにはわかった。それを見てすぐにわかった。あの悪夢は現実だった。どうにかして、おなじ悪夢が、いま現実に起きているのだ。

 

「はやくチョコレートを!」とクィレル先生が要求する声がしたが、言われるまでもなく小柄なフリトウィック先生はすでに突進している。そして、そのさきで生徒たちのほうへ向かっていた総長と合流する。

 

ハーマイオニーも動きだした。動いてからなにをすればいいのか、自分でもわからないまま——

 

全員〈守護霊(パトローナス)〉を!」とさけびながら、総長はハリーを〈闇ばらい〉たちに囲ませる。「できる者は全員、〈守護霊(パトローナス)〉をだして、ハリーをディメンターからさえぎるのじゃ! ディメンターはまだハリーを食らっておる!

 

全員が凍りつくような恐怖を感じた。

 

「エクスペクト・パトローナム!」とフリトウィック先生と〈闇ばらい〉ゴリアノフがさけんだ。アンソニー・ゴルドスタインもつづいたが、一度目は失敗した。つぎにパーヴァティ・パティルが成功させ、アンソニーがもう一度挑戦すると、銀色の鳥がつばさを広げ、ディメンターに向けて一鳴きした。ディーン・トマスは炎で書かれた文字を読みあげるような怒号で詠唱して、杖さきから巨大な白いクマをだした。 これで八体の〈守護霊〉がハリーとディメンターのあいだにならんだ。しかし、総長の手で乾いた草の上におろされながら、ハリーはそれでもただ、悲鳴をあげつづけた。

 

ハーマイオニーは〈守護霊の魔法〉を使うことができない。だからハリーのもとに駆けこんだ。 そしてどれくらい時間がたったのかを、あたまのかたすみで推定しようとする。二十秒? もっと?

 

アルバス・ダンブルドアは苦痛と驚愕の表情をしていた。 黒い大きな杖を手にしているが、なにも呪文を口にしない。がくがくと震えるハリーのからだを、ただ恐れるように見おろしている。

 

ハーマイオニーは、自分がなにをすればいいかわからない。全然わからない。なにが起きているのかもわからない。そしてこの世界最強の魔法使いさえ、なすすべがないように見える。

 

()()()()使()()()」とクィレル先生がどなる。「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

総長はだまってハリーを腕に抱きかかえ、ぽんと炎の音がしたかと思うと、突然出現したフォークスといっしょに消えた。 あわせて、ディメンターを見張っていた総長の〈守護霊〉がふっと消えた。

 

恐怖と混乱のなかで、みながしゃべりだした。

 

「ミスター・ポッターはじきに回復する。」とクィレル先生が声をはりあげる。だが今度はもとの落ちついた調子にもどっている。「被曝した時間はせいぜい二十秒くらいだろう。」

 

そこで、白くかがやく不死鳥がふたたび出現した。どこからか飛んできたようにして、この月光色の生きものはハーマイオニー・グレンジャーのまえにあらわれ、アルバス・ダンブルドアの声でこう言った。

 

「ディメンターはまだハリーを食らっておる! これだけの距離があって、なぜ止まらない? ハーマイオニー・グレンジャー、なにか知っているなら、どうか言ってくれ! はやく!」

 

〈闇ばらい〉の隊長がハーマイオニーのほうをじっと見た。何人もの生徒がおなじようにした。 フリトウィック先生はふりむかず、クィレル先生に杖をむけている。クィレル先生は両手をあげて、からっぽの手をみせつけている。

 

何秒か経過した。時間の感覚はもうなくなった。

 

思いだせない。あの悪夢を、もうはっきりと思いだすことができない。なぜそんなことが起こりうると思ったのかも、なぜあんなに怖かったのかも——

 

そしてハーマイオニーは自分がすべきことを知った。だがこれは自分の人生で一番つらい決断だ。

 

もし、ハリーの身に起きたのと同じことが、自分にも起きたのだったら?

 

手足が死んだように冷たくなり、視界がまっくらになり、自分のなかが恐怖にうめつくされる。 ハーマイオニーはあそこで、ハリーが死ぬのを見た。ママとパパが死に、仲間も全員死に、だれもが死ぬ。そして最後には自分が、一人で死ぬ。 それが、だれにも話したことのない自分の奥底の悪夢だった。だれもいなくなった世界でたった一人で死ぬという孤独、その悪夢を使ってディメンターは彼女を支配した。

 

あそこにはもう行きたくない。いやだ。行きたくない。あの場所から出られなくなるのはいやだ——

 

『あなたには、グリフィンドールに行けるだけの勇気がある。』と記憶のなかの〈組わけ帽子〉の落ちついた声がする。『でも、どの寮に送られようとも、あなたは正義を忘れない。 どの寮をえらぼうとも、あなたはよく勉強し、仲間を決して見捨てない。 だから心配しないで。ハーマイオニー・グレンジャー、あなたは自分にあうと思う寮をえらびなさい……』

 

これ以上決断を引きのばしてはいられない。ハリーが死んでしまう。

 

「いまは思いだせません。」とハーマイオニーはかすれた声で言う。「でも待っていてください。もう一度、ディメンターのところへ行ってきます……」

 

彼女はディメンターを目ざして走りだした。

 

「ミス・グレンジャー!」とフリトウィック先生がさけんだが、止めようとするそぶりはなく、ただクィレル先生に杖をむけつづけていた。

 

()()()()()」と〈闇ばらい〉コモドが軍人口調で言う。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

フリトウィック!」とクィレル先生がどなる。「ポッターの杖を呼べ!

 

ハーマイオニーがそのことばの意味に気づいた時点で、フリトウィック先生はすでに「アクシオ!」と叫んでいた。木の棒が、ディメンターの檻に触れそうな位置を離れ、ぐいっと飛んでくるのが見えた。

 

◆ ◆ ◆

 

生気のない、うつろな目がひらく。

 

()()()() ()()()()()()()()」という息せききった声が色のない世界に響く。

 

アルバス・ダンブルドアの顔が視界にはいってきた。それに隠されて、遠い天井の大理石が見えなくなった。

 

うつろな声が言う。 「うっとうしい。おまえは死ぬべきだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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44章「人間主義(その2)」

◆ ◆ ◆

 

アルバス・ダンブルドアがかすれた声で呼びかける。「フォークス、たのむ。ハリーを助けてくれ——」

 

赤と黄金色にかがやく生物が視界にはいってくる。不思議そうな顔をしてこちらを見おろし、歌いはじめる。

 

なんら意味をなさないそのさえずりは受けとめられることもなく、空虚な存在を素どおりした。

 

「声がうるさい。おまえは死ぬべきだ。」

 

「チョコレート。きみにはチョコレートが必要じゃ。それにそばにいてくれる仲間も——けれどあの場所にもどすわけには——」

 

かがやくレイヴンが飛んできて、フリトウィック先生の声で一言言った。 アルバス・ダンブルドアはそれを聞いてはっとして息をのみ、自分の愚かさを呪うことばを口にした。

 

空虚な存在はそれを見て笑った。愉快さを感じる能力はまだ残っていた。

 

一瞬のうちに二人はまた、ぱっと炎につつまれて消えた。

 

◆ ◆ ◆

 

フリトウィックのレイヴンがどこかへ飛びたってから、アルバス・ダンブルドアが赤と黄金色の炎とともにハリーを抱きかかえて現れるまで、ほとんど時間がたったような気がしなかった。 けれどその短い時間にもなんとか、ハーマイオニーはチョコレートをかきあつめて両手をいっぱいにすることができた。

 

ハーマイオニーが近づくまえに、チョコレートがテーブルからハリーの口へと直接飛んでいった。彼女はこころのかたすみで、不公平だ、と思った。あれができるなら、わたしにもしてくれればよかったのに——

 

ハリーはまたチョコレートを吐きだした。

 

「失せろ。」と言う声は冷淡ですらなく、ひたすら空虚だった。

 

……

 

すべてが凍りついたように見えた。ハリーに駆けよろうとした人が全員足をとめた。生気のないその一言を聞いたショックで、すべての動きがとまった。

 

そして。 「いや、離れるつもりはない。」とアルバス・ダンブルドアが言って、時間がまた動きだし、チョコレートがもうひとつテーブルから飛んできてハリーの口へはいった。

 

ハーマイオニーはハリーの表情がよく見えるところまで来た。機械的な、不自然なリズムで噛む動きをするたびに、ハリーの憎悪の表情が深まっていく。

 

総長の声は鉄のように重おもしい。 「フィリウス、ミネルヴァを呼んでくれ。ただちに来るようにと。」

 

フリトウィック先生が銀色のレイヴンにささやくと、レイヴンは空中に飛びたち、消えた。

 

チョコレートがもうひとつハリーの口に飛びこみ、口はまた機械的に噛んだ。

 

総長がけわしい目をしてハリーを見おろすまわりに、生徒たちが集まってきた。 ネヴィル、シェーマス、ディーン、ラヴェンダー、アーニー、テリー、アンソニーが来たが、だれもハーマイオニーより前に出ようとはしなかった。

 

「ぼくたちになにかできることは?」とディーンが震える声で聞いた。

 

「もうすこし距離をおいて、そっとしてやれ——」とクィレル先生の乾いた声がした。

 

「ならん!」と総長がその声をさえぎる。「むしろ、彼を仲間でかこむのじゃ。」

 

ハリーはチョコレートを飲みこみ、やはり空虚な声を出す。 「みなバカだ。だから死ぬべき……ムググ」とチョコレートがもうひとつ口に突っこんだ。

 

ディーンたちがショックの表情をしているのが見える。

 

「あれは本気じゃないんだよね?」とシェーマスは懇願するように言う。

 

「そうじゃなくて。」とハーマイオニーも弱よわしい声で言う。「あれはハリーじゃない——」と言いかけたが、そのさきを言ってしまうまえに口をつぐんだ。ただ、これだけは言っておかないと、と思った。

 

ハーマイオニーはネヴィルの表情を見て、ネヴィルにはわかったのだ、と思った。それ以外の人にはわかっていなさそうだ。 もしハリーがああいったことを一度も考えたことがなければ、ディメンターに一分たらず被曝しただけで口にしたりはしない、という風に彼らは考えているのだろう。

 

一分たらずのディメンターの被曝で、なにもないところから邪悪な人格が生まれるはずがない。

 

でもそれが、なかに()()()()()()人格だったとしたら——

 

総長は知っているのだろうか?

 

ハーマイオニーは総長の顔を見あげた。するとアルバス・ダンブルドアもちょうどこちらに目をむけていて、その青い目が突然突き刺さるようにして——

 

ハーマイオニーの精神にことばが流れてきた。

 

声にだしてはならん——とダンブルドアの思念が言った。

 

ハリーの……暗黒面(ダークサイド)のことはごぞんじなんですね——とハーマイオニーは思考した。

 

うむ。しかしこれはそれどころではない。ハリーはフォークスの歌もとどかないところへ行ってしまった。

 

なにをすれば——

 

作戦がある。すこしの辛抱じゃ。

 

そのことばには、どこか不安にさせられるひびきがあった。 ()()()()()()()()()

 

できれば、きみには知らせないでおきたい。

 

そう言われてハーマイオニーは本気で不安になってきた。 ハリーの暗黒面について、総長は()()()()知っているのだろう——

 

そう思うのは無理もない。では、いまから伝えるが、鋼のこころを持って、いっさい反応を外に見せないように。 準備はよいか? よし。 わしはこのあと、マクゴナガル先生に〈死の呪い〉をかける——反応するな、ハーマイオニー!

 

わかっていてもそう簡単なことではない。この人はやっぱり狂ってる! そんなことをしてもハリーを暗黒面から取りもどすことはできない。それどころか、ハリーは()()()()()()()。そして総長を()()()()()()——

 

けれどそれは真の暗黒ではない。それはだれかを守ろうとする気持ち。愛じゃ。 そうなればフォークスはハリーのもとへ届く。 ミネルヴァの命に別状がないことがわかれば、ハリーはもとどおりになる。

 

ハーマイオニーはふと思いついたことがあった——

 

おそらくその方法に効果はあるまい。ハリーの反応のしかたによっては、きみ自身が不愉快な思いをさせられるかもしれんぞ。それも承知のうえだと言うのであれば、試してみなさい。

 

そんな真剣に申し出たつもりはなかったのに! いくらなんでも——

 

そこでハーマイオニーは総長との見つめあいをやめて、空虚で軽蔑に満ちた少年の目をのぞきこんだ。少年の口はチョコレートバーをつぎつぎと噛んで飲みこむが、効きめはないようだ。 それを見ると胸がしめつけられて、急にいろいろなことがどうでもよくなってきた。やってみる価値はある、という思いだけがあった。

 

◆ ◆ ◆

 

チョコレートを噛んで飲みこみたいという衝動を感じる。 衝動への対処は、殺すことだ。

 

まわりに人が集まって、こちらを見ている。 うっとうしい。 うっとうしい者への対処は、殺すことだ。

 

人垣の向こうにもまた、さえずりあう者たちがいる。 無礼だ。 無礼な者への対処は、苦痛をあたえることだ。しかし、このなかに利用価値のある者はいないから、殺すほうが楽でいい。

 

これだけの人数を殺しつくすのはむずかしい。 クィレルは強い。だが、クィレルを支持しない者もここには多い。 適切な引きがねを見つければ、全員をたがいに殺しあわせることができそうだ。

 

そこで一人の人間が視界にはいってきて、こちらに身をかたむけて、非常に奇妙な、異質な思考形態に属することをした。これに対する対処方法があるとすれば、ひとつだけ、どこかにしまってある——

 

◆ ◆ ◆

 

息をのむ音がまわりから聞こえるが、そんなことはどうでもいい。ハーマイオニーはチョコレートまみれのくちびるに口づけしつづけ、涙を目からあふれさせた。

 

そしてハリーの両腕が上がって彼女を押しかえし、ハリーの口が一言さけんだ。 「()()()()()()()()()()()()()()

 

◆ ◆ ◆

 

「あとはもう心配なかろう。」と言う総長の視線のさきで、ハリーが声をはりあげて泣いている。そこにフォークスが甘い歌声を聞かせている。 「ミス・グレンジャー、みごとな手ぎわじゃった。よもやあの手が通用しようとはのう?」

 

不死鳥はハーマイオニーのために歌ってはいない。そうわかってはいる。それでも癒しの効果はあるし、癒される必要もあった。これでハーマイオニーの人生は終了したも同然なのだから。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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45章「人間主義(その3)」

◆ ◆ ◆

 

フォークスの歌はそっと余韻を残してから消えた。

 

冬のしなびた草のうえに寝かされていたハリーは起きあがり、フォークスがまだ自分の肩に乗っているのを見た。

 

まわりで、いっせいに息を吸う音がした。

 

「ハリー……」とシェイマスが震える声で言う。「大丈夫か?」

 

不死鳥がもたらす平穏はまだハリーのなかにあり、フォークスが乗る肩からぬくもりがからだのなかに流れこんでいる。それとともに、歌の記憶がよみがえる。 自分の身に起きたおそろしいできごと、自分のなかに流れたおそろしい思考。もどるはずのなかった記憶がもどったこと。ディメンターのせいでその記憶をみずから汚したこと。 奇妙なことばがひとつ、こころのなかでこだまする。 だがそのどれも、あとまわしでいい。落ちかけた太陽の光をあびて赤と黄金色にきらめく不死鳥がここにいるあいだは。

 

フォークスがカーと一鳴きした。

 

「ぼくがすべきことがある? なんのこと?」とハリーはフォークスに聞いた。

 

フォークスはくびを上下に振ってディメンターの方向を指した。

 

ハリーは檻のなかにいる不可視の怪物のほうを見て、不死鳥に視線をもどし、困惑した。

 

「ミスター・ポッター……」とミネルヴァ・マクゴナガルの声が後ろからした。「ほんとうに大丈夫ですか?」

 

ハリーは立ちあがって、ふりむいた。

 

ミネルヴァ・マクゴナガルはとても心配そうにハリーを見ている。 アルバス・ダンブルドアはそのとなりから、ハリーをじっと観察している。 フィリウス・フリトウィックは危機が去ってほっとしたというような表情だ。 ほかの生徒たちはただじっと、こちらを見ている。

 

「はい、マクゴナガル先生。」とハリーは落ちついた声で言った。 あやうく『ミネルヴァ』と言いそうになってしまったが、思いとどまった。 すくなくともフォークスが肩にいるかぎりは、大丈夫だ。 フォークスが飛びたった瞬間に倒れてしまうのかもしれないが、そういった心配をすることがなぜか重要ではない気がした。 「大丈夫だと思います。」

 

歓声や安堵のためいきかなにかがあってもよさそうなものだが、だれ一人、言うべきことばが見つからないようだった。

 

不死鳥がもたらす平穏の余韻がつづく。

 

ハリーは後ろをむいて、「ハーマイオニー?」と言った。

 

恋の才能のかけらくらいはある人たちがいっせいに息をひそめた。

 

「どうお礼を言っていいかわからない。」とハリーは静かに言う。「どう謝ればいいかわからなかったのと同じくらい、わからない。 ただ、もしあれをしたのが正しかったかどうか迷ってるなら、正しかったと思ってほしい。」

 

少年と少女はおたがいの目をのぞきこんだ。

 

「それで、このあとは大変な展開になると思うけど、 なにかぼくにできることがあれば——」

 

「ない。でも、気にしないで。」とこたえて、 ハーマイオニーはハリーに背をむけ、ホグウォーツ城の門につづく道を歩いていった。

 

何人もの女子がハリーに怪訝そうな視線をむけてから、ハーマイオニーのあとを追った。 追いつくまえから、質問ぜめがはじまるのが聞こえた。

 

ハリーはそれを見送って、ほかの生徒のほうに向きなおった。 自分が地面に倒れ、悲鳴をあげるすがたをその全員に見られたと思うと……

 

フォークスが鼻でハリーのほおをなでた。

 

……〈死ななかった男の子〉でも傷つき、みじめなすがたを晒すことがあるんだということを知って、ほかの生徒はいい勉強になっただろう。 いつか自分自身が傷つき、みじめなすがたになったとき、のたうちまわるハリーの姿を思いだせば、自分の苦境はそれほど大したことがない、と思えるだろう。 総長はそこまで計算して、ほかの生徒があそこから見つづけるのを許したのだろうか?

 

ハリーの目が、ぼんやりと背の高いぼろぼろのマントのほうを向き、ハリーは自分でもなにを言いだすか知らずに、こう言った。 「あれは存在しちゃいけない。」

 

「ああ……」と乾いた明瞭な声が言う。「きみならそう言うのではないかと思っていた。 ミスター・ポッター、残念なお知らせだが、ディメンターは殺せない。 挑戦した人はたくさんいるが。」

 

「そうなんですか? どんな方法を試したんですか?」とハリーはまだぼんやりとしながら言った。

 

「きわめて危険で破壊力ある呪文がひとつある。 ここで名前を言うつもりはないが、呪いの炎の呪文だ。 〈組わけ帽子〉のような、いにしえの魔法具を破壊するときに使う呪文だが、 それもディメンターには効果がない。 ディメンターは不死なのだ。」

 

「不死ではない。」と総長が口をはさんだ。ことばはおだやかだが、視線は厳しい。 「ディメンターに永遠の生命はない。 ディメンターは世界の傷ぐちなのじゃ。傷ぐちをいくら攻撃しても、傷ぐちを広げることになるだけ。」

 

「うーん。太陽に投げこんだらどうでしょう? 破壊できますか?」とハリー。

 

()()()()()()()()?」とフリトウィック先生が悲鳴をあげた。そのまま卒倒しそうないきおいだった。

 

クィレル先生が乾いた声でこたえる。「いや、まず無理だろう。 なにせ太陽はとても大きい。 ディメンターを投げこんでも、ほとんどなんの影響もあたえることはできまい。 とはいえ、万一の可能性を考えて、わたしなら実験しようとも思わない。」

 

「そうですか。」

 

フォークスが最後にもう一鳴きして、つばさを広げハリーのあたまにかぶさるようにしてから、まっすぐにディメンターにむかって飛びたった。 つんざくような声をあたりにひびかせながら、果敢に飛んでいく。 そしてだれ一人反応できないうちに、炎がぱっと燃えあがり、フォークスは消えた。

 

平穏がすこし弱まった。

 

ぬくもりがすこし弱まった。

 

ハリーは深く息をすい、はいた。

 

「よし。まだ生きてる。」

 

静寂がもどった。やはり歓声はない。どう対応していいか、だれも分からないようだった——

 

「ミスター・ポッター、きみがこうして完全に回復したことはよろこばしい。」  クィレル先生はきっぱりとした口調で、回復していないという可能性は認めない、とでも言いたげだった。 「さて、つぎはミス・ランザムの番では?」

 

そこからすこし口論になったが、クィレル先生だけが正論でほかはすべて間違いだった。 みなの感情的な反応は無理もないが、あれと似たような事故が起きる可能性はかぎりなく小さい、というのが〈防衛術〉教授の意見だった。 杖に関しては対策できることが分かったのだから、以前より安全になってさえいる。 いっぽうで、のこりの生徒たちも〈守護霊の魔法〉をかける絶好の機会をのがすべきではないし、すくなくともディメンターに近づいたときの感覚を知り、自分のもろさを知って、逃げられるようにする訓練にはなる……

 

結局、ディーン・トマスとロン・ウィーズリーの二人のほか、いまからディメンターのまわりに近づこうという生徒はいないことがわかり、話は簡単になった。

 

ハリーはディメンターの方向をちらりと見た。 すると、またおなじことばが、こころのなかにこだました。

 

よし。では、ディメンターが謎かけ(リドル)だとしよう。答えは何になる? とハリーは自問する。

 

たったそれだけのことで、答えは明らかになった。

 

汚れて、すこしさびついた檻にハリーは目をやる。

 

長いぼろぼろのマントの下にあるものを見る。

 

やっぱりそうだ。

 

マクゴナガル先生がハリーに声をかけにきた。 彼女は最悪の瞬間を見ていないので、涙はかすかに見える程度だった。 ハリーはまえから気になっていた質問をしたいから、あとで話がしたいが、いそがしければすぐでなくてもいい、と言った。 彼女には、なにか重要なことを放置してここに来ている、というような素振りがあった。ハリーは、もしそうだったら、ここにいられないことを申し訳なく思う必要はない、と言った。 そう聞いて彼女はきつい視線を返したが、あとで話しましょう、と約束して、足ばやにその場を去った。

 

ディーン・トマスはディメンターがいるまえでもまた、白いクマを出現させることができた。 ロン・ウィーズリーは、きらきらとした霧でそれなりの防壁をつくることができた。 それで、ハリー以外から見れば練習はひととおり終わったので、フリトウィック先生は生徒たちをホグウォーツ城のなかへ誘導しはじめた。 ハリーが動かないつもりであることがはっきりすると、フリトウィック先生はいぶかしげな視線をよこした。 ハリーは意味ありげにダンブルドアのほうを見た。 寮監フリトウィック先生はそれをどういう意味で受けとったのか、警告するようなするどいまなざしをして、去った。

 

残されたのは、ハリーとクィレル先生とダンブルドア総長、それに〈闇ばらい〉の三人組。

 

この三人組にまずいなくなってほしいところだが、追いはらう口実が思いつかない。

 

「よし。では、撤収だ。」と〈闇ばらい〉のコモドが言った。

 

「ちょっといいですか。もう一回、ディメンターとやらせてもらいたいんですが。」

 

◆ ◆ ◆

 

そう頼むハリーに対して、かなりの反対意見が出た。どれも『おまえはどうみても狂っている』という趣旨の意見だったが、はっきりと口に出してそう言ったのは〈闇ばらい〉ブトナルだけだった。

 

「フォークスにそう言われたので。」とハリーは言った。

 

ダンブルドアはそれを聞いてショックの表情をした。しかし反対をすべてしりぞける効果はなかった。 口論はつづき、ハリーは不死鳥がくれた平穏を使いはたしつつあり、ほんのすこしだけだが、いらっとした。

 

「ちょっといいですか。ぼくはさっきどこを間違えていたのか、かなり自信を持ってわかっています。 ひとによって、必要なぬくもりと幸せのイメージはちがうんです。 だからとにかく、試させてもらえません?」

 

この説得も通用しなかった。

 

時間をおいて、クィレル先生が口をひらき、ハリーにきつい視線をむける。 「こうして適切な監督下で挑戦する機会をとりあげてしまうと、彼ならそのうち、こっそり自力でディメンターを探しにいきかねない。 これはわたしの言いがかりにすぎないか、ミスター・ポッター?」

 

一同が愕然として、会話がとまった。 切り札をだすならこのタイミングだ。

 

「総長の〈守護霊〉は出したままでもかまいません。」 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

それを聞いてみなが困惑し、クィレル先生でさえ当惑した。 だが総長は最終的に受けいれた。〈守護霊〉四体を乗りこえて、ハリーに害がおよぶことはまずないだろう、という判断だった。

 

もしディメンターがなんらかの意味であなたの〈守護霊〉を乗りこえることができないのなら、アルバス・ダンブルドア、あなたも痛ましい裸の男を見ることはないはずでしょう……

 

無論、ハリーはそれを声にだしては言わない。

 

一同がそろってディメンターのほうへ歩いていく。

 

「質問です。レイヴンクロー寮の扉が、ディメンターの中心にあるものはなにか、という謎かけをしてきたとします。 総長ならなんとこたえますか?」

 

「恐怖。」と総長はこたえた。

 

引っかかりやすい間違いだ。 ディメンターが近づくと、人は恐怖におそわれる。 恐怖は苦しい。自分のちからがしぼむように感じる。だから恐怖に去ってほしいと思う。

 

恐怖こそが元凶だと考えるのは自然なことだ。

 

そして、ディメンターは純粋な恐怖でできた生きものだ、と考えてしまう。恐怖そのもの以外に恐れるべきものはない。自分が怖がらなければ、ディメンターも手出しできない、と……

 

でも……

 

『ディメンターの中心にあるものはなにか?』

 

『恐怖。』

 

『精神が見ることをこばむほど、おぞましいものとはなにか?』

 

『恐怖。』

 

『殺すことができないものとはなにか?』

 

『恐怖。』

 

……考えてみれば、あまりぴったりくる答えではない。

 

とはいえ、この答えを最初に思いついたら、それ以上のことを考えたくなくなる人が多いのもわかる。

 

恐怖ならだれもが()()している。

 

恐怖に対してはどう()()すればいいかも、わかっている。

 

だからディメンターと対峙するとき、そのつぎの問いを考える気にはなかなかなれないのだ。 『この恐怖は副作用にすぎないとしたら? 恐怖がそもそもの元凶ではなかったら?』

 

一同は〈守護霊〉四体に守られて、ディメンターの檻のすぐそばまで来た。〈闇ばらい〉三人とクィレル先生はすばやく息をのんだ。 全員がディメンターのほうを向いて、なにかを聞きとろうとしている。〈闇ばらい〉ゴリアノフが恐怖の表情をした。

 

クィレル先生は顔をあげて、険のある表情をして、ディメンターのほうにつばを吐いた。

 

「どうやら、えさを取りあげられたのが気にくわなかったらしい。」とダンブルドアが言う。 「クィリナス。もし必要とあれば、いつでもホグウォーツ内に避難場所を用意するぞ。」

 

「ディメンターがなにか言いましたか?」

 

ハリーの声に、全員がぱっと顔をむけた。

 

「聞こえなかったのかね……?」とダンブルドア。

 

ハリーはくびを振った。

 

「おまえのことは知っているぞ、いつか襲いにいくから待っていろ、どこに隠れても無駄だ、とわたしに言っていたのだ。」 クィレル先生の表情はかたく、おびえた様子はなかった。

 

「ああ、そのことは心配しなくていいと思いますよ、クィレル先生。」  ディメンターが実際にしゃべったり考えたりできるわけがない。ディメンターが持つ構造は、相手の精神や予断を借りたものにすぎない……

 

こんどは全員が()()()怪訝そうな視線を送ってきた。 〈闇ばらい〉の三人は不安げに、おたがいとディメンターとハリーを見くらべた。

 

そして全員がディメンターの檻のすぐまえに来た。

 

「ディメンターは世界の傷ぐち。当てずっぽうですが、そう言った人物は多分、ゴドリック・グリフィンドールじゃありませんか。」

 

「そのとおり……なぜわかった?」とダンブルドア。

 

よく誤解されることだが、合理的な考えかたをする人はかならずレイヴンクローに〈組わけ〉され、ほかの寮には一人もいかない、というのは間違いだ。 レイヴンクローに〈組わけ〉されるということは、好奇心がその人の最大の長所だという証拠にはなる。真の解を知ろうとする探究心といってもいい。だが、合理主義者がそなえるべき特質はそれだけではない。 努力してひとつの問題に取りくみ、しばらく集中することが必要な場合もある。 探索にあたって巧妙に作戦をたてる必要があったりもする。 そして、解を直視すること、つまり解に立ちむかう勇気が、なにより大切な場合もある。

 

ハリーの視線はマントの下にあるもの、朽ち果てたミイラよりはるかにおぞましいものへと向かう。 ロウィナ・レイヴンクローならこの答えを知っていたかもしれない。謎かけであると分かりさえすれば、答えはほとんど自明だ。

 

そして〈守護霊〉が動物である理由も自明になった。 動物はこの答えを知らない。だから恐怖をまぬがれている。

 

だがハリーは知っている。知らずにいることはできない。忘れることもできない。 ハリーはひるまずに現実を直視する訓練を自分に課してきた。いやなことから逃げず、正面から立ちむかって考える技術は、完全に体得したとは言えないものの、精神にきざみこまれてはいて、反射的な動作になっている。 ハリーはほかのなにかについてぬくもりのある幸せなイメージを思いうかべても、自分が直視すべきものを忘れることができない。だからこの呪文がうまくいかなかったのだ。

 

だから、ぬくもりのある幸せなイメージを思いうかべるにしても、ほかのなにかに逃げなければいい。

 

ハリーはフリトウィック先生から返してもらった杖をかまえ、足を踏みだして〈守護霊の魔法〉の最初の姿勢をとる。

 

こころのなかに、わずかに残っていた不死鳥の平穏を捨てる。そのおだやかさ、夢見るような心持ちを捨て、フォークスのつんざくような声を思いだし、自分を戦いに奮いたてる。 自分のからだをすみずみまで目覚めさせる。 自分のなかにある〈守護霊の魔法〉に使えるちからをすべて呼びさます。そしてこれから最後に試みる、ぬくもりと幸せのイメージにぴったりの精神状態を準備するため、よい思い出のことを考える。

 

お父さんが買ってくれた、たくさんの本。

 

母の日のプレゼントとして、手作りのカードと、物置きにあった二百グラムの電子部品のがらくたを使って三日がかりで作った、光と音楽のでる苦心の作品を渡してあげたときのママの笑顔。

 

両親は立派な死をとげたとマクゴナガル先生から聞いたときのこと。 実際そのとおりだったこと。

 

ハーマイオニーに自分と互角どころかそれ以上の能力があり、ほんとうのライヴァルと友だちができるかもしれないと分かったときのこと。

 

ドラコをなんとかして暗黒から連れだそうとしたこと。徐々に光にむかって進んでくれていること。

 

ネヴィルとシェイマスとラヴェンダーとディーンをはじめとした、自分を頼りにしてくれている人たちのこと。ホグウォーツになにかが起きたとき、守ってあげたい人たちのこと。

 

人生を生きるに値するものにしてくれるすべてのこと。

 

杖が〈守護霊の魔法〉の開始位置にまであがっていく。

 

ハリーは星ぼしのことを考える。前回はその光景を思いえがくだけで、〈守護霊(パトローナス)〉なしでもディメンターをしりぞけることができそうなくらいだった。 今回はそこに、足りなかった要素をつけくわえる。ハリーはそれを実際に見たことはないが、写真や動画で見たことはある。 暗黒の虚無と、そこにちらばる光の点を背景に、青く燃え、太陽光を反射して白く輝く、地球のすがた。 これがなくてはならない。これこそが、ほかのすべてに意味をあたえている。 地球があるからこそ、星ぼしにも、ただの無秩序な核融合反応以上の意味がある。地球こそ、いつかこの銀河全体に入植し、この夜空がはらむ約束を実現する存在だ。

 

そのときになっても、人類はディメンターに悩まされるのか? 人類の遠い遠い子孫が、はるか未来に星ぼしをまたにかけるとき、ディメンターに悩まされるのか? いや、もちろんそんなことはない。 ディメンターは小さなやっかいものにすぎない。人類に約束されたものの大きさと照らしあわせれば、なんでもない。 ディメンターは不死身でも無敵でもない。ずっとちっぽけなものだ。 こういうやっかいものにわずらわされるのは、いつか〈原地球〉と呼ばれることになるこの惑星(ほし)に生まれた自分たちのたぐいまれな幸運と不運のせいにすぎない。 意識を有する数すくない種族の一員として生まれた者にとって、これも生の一部だ。 すべてのはじまりであるこの時代、知的な生命はまだ本領を発揮していない。 夜が明けつつあるこの時代になにをするかが、膨大な将来の可能性に影響する。だからここでは、まだまだたくさんの暗黒と、ディメンターのような一時的な迷惑者ともたたかう必要がある。

 

ママとパパ、ハーマイオニーの友情、ドラコの試練、ネヴィルとシェイマス、ラヴェンダーとディーン、青い空と輝く太陽とその仲間、地球、星ぼし、人類の約束、その現在と未来のすべて……

 

ハリーの指が杖にふれ、開始位置につく。これで、正しい種類のぬくもりと幸せのイメージをする準備はできた。

 

ハリーの目はまっすぐに、ぼろぼろのマントのなかへむかい、ディメンターと呼ばれるものを正面からのぞきこむ。 虚無。空白。宇宙の裂け目。色と空間の欠如。世界からぬくもりを吸いとる流出口。

 

そこから発せられる恐怖で、幸せな思考が奪われる。そこに近づく人は、元気を吸いとられる。それに口づけされた人は、人格が崩壊する。

 

おまえの正体はわかった——ということばを思考しながら、ハリーは杖をふった。一、二、三、四。それぞれ適切な長さだけ、宙を切る。 おまえの本質は〈死〉の象徴だ。なんらかの魔法の法則を通じて〈死〉が世界に落とす影だ。

 

〈死〉を、ぼくはけっして受けいれない。

 

〈死〉は子どもじみたものにすぎない。人類がそこからぬけだせていないのは、人類が未熟だからにすぎない。

 

いつの日か……

 

ぼくたちはそれを克服する……

 

そしてひとは別れを言う必要がなくなる……

 

杖がもちあがり、まっすぐディメンターにむけられた。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

思念が(せき)を切るようにあふれだし、腕から杖へと流れ、そこからまばゆく燃える白い光となって放出された。 光は実体化し、かたちと質量を得た。

 

二本の腕と二本の足をもち、頭をのせて直立する、ホモ・サピエンスという動物——人間のかたち。

 

ハリーはありったけのちからを呪文にそそぎこみ、それはどんどんあかるくかがやいていく。沈みかけた太陽よりもあかるく白熱するそれを見て、〈闇ばらい〉とクィレル先生はショックをうけ、目をおおった。

 

いつの日か、人類の子孫が星ぼしを開拓する時代になったとき、親は子どもたちが成長してこころの準備ができるまで〈地球時代〉の歴史を聞かせない。子どもたちは〈死〉などというものがかつて存在したと聞かされるとき涙するんだ!

 

人間をかたどるそれは、いまや真昼の太陽よりもあかるくなり、熱をはだで感じられるくらいになった。 ハリーはこころのなかの水門をすべてひらいて、〈死〉の影にたちむかう気持ちをすべて放出し、かがやく人影をさらにあかるく燃えさせた。

 

おまえは無敵ではない。人類はいつかおまえを倒す。

 

ぼくにできるなら、精神と魔法と科学のちからで、ぼくがやる。

 

ぼくは〈死〉におびえない。〈死〉を倒せる可能性があるかぎり。

 

ぼくは〈死〉をよせつけない。自分にも、愛する人たちにも。

 

おまえとの戦いにぼくが敗れたとしても

 

別のだれかが、あとをつぐ。また別のだれかが、そのあとをつぐ。

 

世界の傷ぐちが癒されるまでそれはつづく……

 

ハリーが杖をおろすと、かがやく人間の像は消えた。

 

ハリーはゆっくりと息をはいた。

 

夢から覚め、眠りを終えて目をひらいたときのように、ハリーは檻から視線を離した。見まわすと、全員がこちらをじっと見ていた。

 

アルバス・ダンブルドアがこちらをじっと見ている。

 

クィレル先生がこちらをじっと見ている。

 

〈闇ばらい〉の三人がこちらをじっと見ている。

 

まるで、たったいまディメンターをハリーが破壊したとでもいうような顔で、こちらを見ている。

 

ぼろぼろのマントが檻のなかに落ちている。そのなかみは、からっぽだ。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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46章「人間主義(その4)」

◆ ◆ ◆

 

太陽の上の端が地平線にしずみ、木々のこずえからのぞく赤い残光も薄れていく。青みがかった空だけが、雪が混ざる冬の枯れ草のうえに立つ六人を照らしている。そのそばにからっぽの檻があり、床には中身のないぼろぼろのマントが落ちている。

 

ハリーはまた……()()にもどった気がした。正気っぽくなった。 あの呪文がこの一日のできごとや痛みを取り消してくれたわけではないし、最初から傷がなかったかのように、元どおりに直してくれたわけでもない。だが傷は……応急処置した、というか、好転した、というか。表現しづらい状態だ。

 

ダンブルドアも完全にではないとしても、多少元気をとりもどしたように見える。 老魔法使いはしばらくクィレル先生のほうに顔をむけ、しっかりと目をあわせ、それからハリーのほうに視線をもどした。 「ハリー、きみはこれからふらふらになって倒れたり死んだりするような気はしないかね?」とダンブルドア。

 

「なぜか無事なようです。 自分のなかのなにかを使ったのはたしかですが、思ったほどたくさん使ってはいなかったようです。」  それとも、使っただけでなく、もらったものもあるのだろうか……。 「正直言えば、そろそろ自分のからだがばたりと地面に倒れているんじゃないかと思っていました。」

 

どう聞いても、からだがばたりと地面に倒れるような音がした。

 

「手を貸してくれて助かったよ、クィリナス。」とダンブルドアがクィレル先生に言う。クィレル先生は、昏倒した〈闇ばらい〉三人を後ろから見おろしている。 「実際、まだすこし体調が万全ではない。とはいえ、〈記憶の魔法〉についてはわしの手でやらせてもらう。」

 

クィレル先生は軽くあたまを下げ、それからハリーのほうを見た。 「信じられない、といったたぐいの無意味なことばは省略しよう。マーリンその人でさえこんなことはできなかった、というたぐいのことも置いておく。 肝心なところをずばり聞かせてもらう。あれはいったいどういうしろものだったのだ?」

 

「〈守護霊の魔法〉ヴァージョン二・〇です。」とハリー。

 

「いつもの調子にもどってくれたのは、よろこばしいが。」とダンブルドアが言う。 「若きレイヴンクローよ、どんなぬくもりと幸せのイメージを使ったのかを教えてもらわないことには、ここを去らせるわけにはいかんな。」

 

「うーん……言ってしまっていいのかどうか?」と言ってハリーは思案げに指を一本ほおにあてた。

 

クィレル先生が突然にやりとした。

 

「お願いって頼んでも? 一生のお願い、って頼んでも?」と総長。

 

ハリーはある衝動を感じて、それに身をまかせた。 危険ではあるが、これ以上の機会は永遠にこないかもしれない。

 

「炭酸ジュース三本。」とポーチに呼びかけて、〈防衛術〉教授とホグウォーツ総長を見あげた。 「ご両人、これはぼくがホグウォーツに来た初日に、九と四分の三番乗り場にはじめて行ったときに買ったものです。 特別な機会のために、とっておいたものです。 これにはちょっとした魔法がかけてあって、飲むべきときに飲まれるようになっています。 この三本で手持ちはなくなってしまいますが、これ以上ぴったりの機会はまずないと思いますので。 いかがですか?」

 

ダンブルドアはハリーから一本受けとり、ハリーはクィレル先生に一本ほうりなげた。 二人の大人は缶にむけてまったくおなじ魔法をつぶやき、その結果を受けて一瞬だけ眉をひそめた。 ハリーのほうは、単に缶をあけて、飲んだ。

 

〈防衛術〉教授とホグウォーツ総長は行儀よくそれにつづいた。

 

「あのとき考えたのは、自然の摂理としての死を、ぼくは徹底的に受けいれない、ということでした。」

 

〈守護霊の魔法〉を使うために感じるぬくもりとしてはぴったりとは言えないかもしれないが、それでもハリーにとっては上位十個にはいる。

 

こぼれたコメッティーが消滅すると同時に、〈防衛術〉教授とホグウォーツ総長はハリーを不安にさせるような視線を一瞬送ってきた。 だが二人はおたがいをちらりと見て、この相手がいるあいだは、ハリーにあまりひどいことを言うとあとで困る、と思ったようだ。

 

「ミスター・ポッター、わたしでも、あれが本来そういうものでないことは分かるぞ。」とクィレル先生。

 

「そのとおり。もっと詳しく聞かせてもらいたい。」とダンブルドア。

 

ハリーは口をひらき、はっとしてあることに気づいて、あわてて口をとじた。 ゴドリックはこのことをだれにも言わなかった。ロウィナも知っていたなら、言わなかった。 このことを知った魔法使いはいくらいてもおかしくないが、そのだれもが口をとざしたのだ。 自分が実はどういうことをしていたのかを()()()、もはや忘れることはできなくなる。 この仕組みに一度気づいた人は、動物のすがたをとる〈守護霊の魔法〉を二度と使えなくなる——そして魔法族の大半は生い立ちからして、ディメンターを撃退し粉砕する準備ができていない——

 

「うーんと……すみません。ついさっきまで気づいていなかったんですが、自力で解明できていない人にこれを説明してしまうと、()()()()()まずいことになりそうです。」

 

「それは真実か?」とダンブルドアがゆっくり言う。「それとも、仮そめの知恵を言おうとしているだけではないか——」

 

()()()」と、クィレル先生は本心からショックを受けたような言いかたで言う。 「ミスター・ポッターが言っているのは、これは使えない人には教えてよい呪文ではない、ということでしょう! 魔法使いがそういう秘密を守ろうとするとき、食いさがって聞くべきではない!」

 

「もしここでぼくが教えてしまえば——」とハリーは言いかけた。

 

「やめなさい。」とクィレル先生はかなりきびしい口調で割りこんだ。 「理由はけっこう。 わたしたちは知るべきではない、と言うだけにとどめるのが正しい。 ヒントをだそうというなら、十分に時間をとって慎重に準備することだ。会話の最中の思いつきでやるべきではない。」

 

ハリーはうなづいた。

 

「しかしそれでは、〈魔法省〉にはなんと報告すればよい? ディメンターをなくしてしまった、などと言うわけには!」

 

「クィレルが食った、と言えばよろしい。」とクィレル先生が言うのを聞いて、ハリーは無意識のうちに口をつけていた缶のジュースをむせかえらせた。 「わたしはそれでかまいません。ではもどろうか、ミスター・ポッター?」

 

二人は舗装されていない道をたどってホグウォーツへむかった。一人ぽつんと残されたアルバス・ダンブルドアは、からっぽの檻と、〈記憶の魔法〉をかけられるのを待って眠る〈闇ばらい〉たちを見つめた。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ハリー・ポッターとクィレル先生:

 

しばらく二人で歩いてからクィレル先生が口をひらいた。すると背景の雑音がそっと静まった。

 

「わたしの教え子のなかでも、きみほど殺しに秀でた生徒はなかなかいない。」

 

「ありがとうございます。」とハリーは本心から言った。

 

「詮索するつもりはないが、万一の可能性として聞いておきたい。もしや、あの秘密を打ちあけられない相手は総長だけだったのでは……?」

 

言われてみるとどうだろう。クィレル先生はもともと動物の〈守護霊の魔法〉を使えない。

 

だが秘密というものは聞かなかったことにはできない。ハリーは飲みこみがいいほうなので、この秘密を世界に放出してしまうまえに()()()べきだということは、もうわかっている。

 

ハリーはくびをふり、クィレル先生はわかったというようにうなづいた。

 

「興味本位の質問ですが、もしあなたがディメンターをホグウォーツに連れこむというのが邪悪な謀略の一部だったとしたら、その目的は何になると思いますか?」

 

「ダンブルドアを弱らせたところで暗殺すること。」とクィレル先生はためらうことなく言った。 「ふむ。総長はわたしを疑っている、と総長本人が言っていたのか?」

 

ハリーはなにも言わずに一秒間かかって返答を考えようとしたが、その沈黙がこたえになってしまっていることに気づいた。

 

「おもしろい……。 ミスター・ポッター、たしかに謀略がおこなわれたという可能性は排除できない。 きみの杖があれほどディメンターの檻のちかくにあったのは、事故という見かたもできる。 だが〈闇ばらい〉のだれかが、〈服従(インペリオ)〉や〈錯乱(コンファンド)〉や〈開心(レジリメンス)〉をかけられて、一定の操作を受けていたのかもしれない。 可能性を検討するなら、フリトウィックとわたしも容疑者からはずすべきではない。 スネイプ先生が今日一日、授業をすべて取りやめたのに目をむけるなら、彼とて自分に〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)をかけて隠れるくらいの能力はあるだろう。 〈闇ばらい〉たちは最初に検知魔法をかけたが、きみの番の直前にかけなおすことはしなかった。 だがだれかが悪事をなすとしたら、一番簡単な可能性はダンブルドア本人かもしれない。ダンブルドアが犯人なら、事前にきみがほかの方向に疑いをむけるよう仕向けたとしても不思議ではない。」

 

二人はもう数歩あるいた。

 

「でも動機がないのでは?」

 

〈防衛術〉教授はしばらく無言をたもってから、口をひらいた。 「ミスター・ポッター、きみはこれまでに総長の人柄に関してどういう種類の調査をした?」

 

「大して調査していません。」 これは最近気づいたことだが……。 「まだ全然たりていません。」

 

「ではわたしからは、ある男のことを本人の味方から聞いた情報だけで知ろうと思ってはいけない、と指摘しておこう。」

 

ホグウォーツへつづくこの道は、かすかに踏みならされた形跡がある。今度はハリーが無言で数歩あるくことになった。 クィレル先生に言われるまでもなく、わかっているべきことだった。 専門用語では確証バイアスという。その意味はいくつかあるが、重要なのは、人は情報源をえらぶとき、自分の現在の意見にあう情報源をえらぶ傾向が強いということだ。

 

「ありがとうございました。いや……それより、さっきのお礼もまだでしたね? 本当にいろいろありがとうございました。 また別のディメンターに襲われたり、すこしでも困らされたら、ぼくに知らせてください。あの〈ぴかぴか光る人間〉をお見舞いしてやりますから。 仲間がすこしでもディメンターに困らされるのは嫌なので。」

 

クィレル先生がちらりとハリーを見たが、それがなにを意味するのかわからなかった。 「わたしを脅迫してきたから、あのディメンターを粉砕したということか?」

 

「うーん。それ以前に決心はついていましたが、たしかに、それだけでも十分理由にはなったと思います。」

 

「そうか。ではあの呪文でディメンターを粉砕できなかったとしたら、きみはどうやって脅迫の件を解決するつもりだった?」

 

「予備の作戦は、融点の高い高密度金属、多分タングステンで箱をつくって、そのなかにディメンターをとじこめたうえで、それを活火山の火口にほうりなげて、地球のマントルまで到達することを祈ること。 ああ、地球の地表のしたには溶岩がつまっていて——」

 

「マントルは知っている。」  クィレル先生はとても奇妙な笑みをみせた。 「考えてみれば、わたしも自力で思いついていてしかるべき方法だな。 では、あるものを手ばなして永遠にだれにも見つからないようにしたいとしたら、きみならどこに置く?」

 

ハリーはすこし考えた。「なにを手ばなしたいのかは、聞くべきじゃないんでしょうね——」

 

「そのとおり。もしかすると、きみがもっと大人になってからなら、教えられるかもしれない。」  前半部分は予想どおりだったが、後半は予想外な返事だった。

 

「地球の中心核に送りこむという方法以外だと、無作為に場所をえらんで、一キロメートル地下の岩盤のなかに埋めこんでもいいかもしれない——具体的には、目的地を指定せずに瞬間移動させる方法があるならそれでいいし、あるいは、穴をあけて送ってから埋めなおしてもいい。 重要なのはいっさい痕跡をのこさないことです。地球の地殻のどこかの、なんの変哲もない一立方メートルの空間をえらぶのがいい。 あるいは、マリアナ海溝という地球上で一番深い深海に落とす——いや、それだと分かりやすいから、ほかの海溝のどれかにしたほうがいいか。 空中に浮かばせて、目に見えないようにできるようなものなら、成層圏に投げこんでもいい。 理想的には、検知をふせぐマントにつつんで宇宙に射出して、無作為に変動する加速度をあたえて、太陽系のそとに送りこむとか。 もちろんそのあとで、自分を〈忘消〉(オブリヴィエイト)して、自分でもそれがどこにいったか分からないようにする。」

 

〈防衛術〉教授は笑っている。表情も奇妙だが、それ以上に声が奇妙だ。

 

「クィレル先生?」

 

「どれもよくできた答えだ。だが一つ聞きたい。なぜその五個をえらんだ?」

 

「え? ただ、すぐ思いつくような方法を言ったまでですが。」

 

「ほう? だがその五個には興味ぶかいパターンがあるぞ。 言うなれば、謎かけのようなものかもしれない。 こう言ってはなんだが、今日はいろいろと山あり谷ありではあったとしても、全体としては思いのほかいい一日になったな。」

 

二人はまたホグウォーツ城の門へとつづく道をたどったが、かなり距離をあけて歩いた。 ハリーはなにも考えず無意識のうちに、クィレル先生と距離をとることで、破滅の感覚に襲われないようにした。このときはなぜか、いつになく強い破滅の感覚がきそうな気がした。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ダフネ・グリーングラス:

 

ハーマイオニーはいっさい質問にこたようとしなかった。それでスリザリンの地下洞への分かれ道にまで来ると、ダフネとトレイシーはすぐさま列を離れ、できるかぎり急いで歩いていった。 ホグウォーツでは噂はあっというまに広まる。だから地下洞でこのニュースをみんなに話す最初の一人になりたいなら、急がなければ。

 

「もう一回言うけど、部屋にはいるなりキスの話をしてもだめだからね。 最初からちゃんと順をおって話してあげるほうが、うけるんだから。」とダフネは言った。

 

トレイシーは興奮した面持ちでうなづいた。

 

そしてスリザリン談話室に飛びこむと、トレイシー・デイヴィスは深く息をすってから、まくしたてた。 「みんな聞いて! ハリー・ポッターは〈守護霊の魔法〉を使えなくてディメンターに食べられかけてクィレル先生に救われたけどポッターは邪悪になっちゃってグレンジャーがキスしたらやっと正気にもどったの! これはもう運命の愛でしょ!」

 

ある意味、ちゃんと順をおって話してはいる、とダフネは思った。

 

聴衆の反応は期待はずれだった。 ほとんどの女子はちらりとこちらを見たがソファを離れない。男子もみな、かまわず椅子に座って読書をつづけている。

 

「はいはい。」とパンジーが辛辣に言う。パンジーはグレゴリーの片足を太ももに乗せて座りながら、椅子の背にもたれかかって、塗り絵帳のようななにかを読んでいる。 「もうそれはミリセントに聞いた。」

 

どうやって——

 

「トレイシーが先にキスしてやればよかったんじゃない?」とフローラ・カロウとヘスティア・カロウが自分の席から声をかける。「このままじゃポッターが泥血の女の子と結婚しちゃうよ! トレイシーも先にキスしてさえいれば、運命の愛でむすばれてお金持ちの〈貴族〉家に嫁入りできたかもしれないのにね!」

 

そう気づかされて愕然とするトレイシーの表情は芸術的なほどだった。

 

「なに言ってんの? 愛ってそういうものじゃないでしょうが!」とダフネは甲高い声をあげた。

 

「あら、そういうものよ。」と言うミリセントはなにかの〈魔法(チャーム)〉の練習をしながら、窓をのぞいてホグウォーツ湖に渦ができるのを見ている。 「王子さまを勝ちとるのはファーストキス。」

 

あれはファーストキス(はじめて)じゃないんだって! ハーマイオニーは()()()()()()()ハリーと運命でむすばれてたの! だからハリーを取りもどせたの!」  そこでダフネは自分がなにを口にしてしまったか気づいて、こころのなかでたじろいだ。だがよく言われるように、出した舌は耳に入れるしかない。

 

「おおっと、待て待て。」と言ってグレゴリーがパンジーの太ももから足をおろした。 「なんだそれは? ミス・ブルストロードはそういう話はしてなかったぞ。」

 

いまや全員がダフネのほうを見ている。

 

「だからね。ハリーはハーマイオニーの手をおしのけて、『キスはなし、って言っただろ!』って叫んで、 それから、死にそうなくらいひどい悲鳴をして、フォークスが歌を聞かせに来て——このとおりの順序だったか、ちょっと自信ないけど——」

 

「それじゃあ運命の人とは言えないね。」と双子のカロウ姉妹が言う。「むしろ、()()()()()()()()()()がキスしちゃったみたい。」

 

「あたしだったんだ……」とトレイシーが小声で言った。まだ驚愕の表情をしている。 「あたしが運命の人になるはずだったんだ。 ハリー・ポッターは()()()()司令官なんだし。 あたしが……あたしが、グレンジャーを押しのけて行ってあげれば——」

 

ダフネはくるりとトレイシーのほうを向き、気色ばんで言った。「あんたが? ハーマイオニーからハリーをうばいとるの?」

 

「そうよ! あたし!」

 

「どうかしてる。」とダフネはきっぱりと宣告する。 「仮にあんたが先にキスできたとして、そのあとどうなってたと思う? 恋に夢中のまま第二幕のおわりで死ぬ、あわれな女の子、っていうのがオチよ。」

 

「失礼な! 撤回しなさい!」とトレイシーが叫んだ。

 

グレゴリーはそのあいだに、部屋の反対がわでヴィンセントが宿題をしている場所まで来ていた。 「ミスター・クラッブ。」とグレゴリーが声をひそめる。「これはミスター・マルフォイの耳にいれるべきだと思うぞ。」

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ハーマイオニー・グレンジャー:

 

ハーマイオニーは蝋で封じられた手紙をじっと見つめる。そのおもてには『42』という数字だけが書かれている。

 

ぼくたちが〈守護霊の魔法〉を使えなかった理由がわかったよ。 幸せさがたりないとかじゃないんだ。 でもきみに教えることはできない。 総長にも教えることはできない。 この秘密は部分〈転成術〉(トランスフィギュレイション)よりも重大な秘密だ。少なくともいまのところは。 でももしきみがディメンターと戦うことになったときは、ここに書いてある秘密を読んでほしい。暗号で書いてあるから、ディメンターと〈守護霊の魔法〉についての内容だと知らずに読む人には、意味がわからないようになっている……

 

ハリーが死に、両親が死に、仲間全員が死に、だれもが死ぬのを見た、ということはすでにハリーに話した。 だが、孤独に死ぬことへの恐怖については話していない。なぜかまだ、話すことに耐えられない。

 

ハリーはハーマイオニーに、両親が死んだときの記憶のことを話した。見ていて笑いがこみあげた、と言っていた。

 

ディメンターに連れられて行くさきに、光はない。 ぬくもりも思いやりもない。 幸せが理解できなくなる場所なんだ。 苦痛と恐怖はあって、それが自分を動かす。 憎むこともできるし、憎い相手を粉砕することで愉快になることもできる。 他人が苦しむのを見て笑うこともできる。 でも幸せにはなれない。自分からなにがなくなったのかも分からなくなる…… きみに救ってもらうまでぼくがいたあの場所のことは、どうやってもちゃんと説明できるような気がしない。 人に迷惑をかけるといつもは恥ずかしく思うし、だれかが自分のために犠牲になるのはいつもは我慢できないんだけど、今回だけは、あのキスで最終的にきみにどれだけの代償があったとしても、あれがまちがいだったとは一瞬たりとも思わないでほしい。

 

ハリーからそう聞かされるまで、ハーマイオニーは自分がディメンターにどれだけ()()しか触れられなかったのか、理解していなかった。自分が連れこまれた暗黒がどれだけ小さく浅いものだったのか、理解していなかった。

 

彼女はみなが死ぬのを見たが、見ていてまだ、つらいと感じることはできた。

 

ハーマイオニーは聞き分けのいい女の子らしく、手紙をポーチにしまった。

 

でもできれば、読んでしまいたかった。

 

ハーマイオニーはディメンターが怖い。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ミネルヴァ・マクゴナガル:

 

凍りつくような感じがする。これほどのショックを感じるいわれはない。ハリーに対面することを、これほどむずかしく感じるべきではない。だがハリーの身にあんなことが起きたあとでは……。 自分のまえにいる少年にすこしでも〈吸魂〉(ディメンテイション)の兆候がでていないかと思い、注視してみても、なにも見あたらない。 だが、これほど不吉な質問をこれほどおだやかにしてくるというのは、どこかとても心配だ。 「ミスター・ポッター、そういったことについては、総長の許可がないかぎり、わたしの口からはなにも言えません!」

 

彼女の居室に同席している少年は、そう言われても顔色をかえない。 「この件については、総長のお時間を使わせないほうがいいかと思いまして。 いや、というより、ぜったいに総長をわずらわせてはならない。それにあなたも、ここで話したことの秘密は守っていただけると約束してくださったでしょう。 では、別の言いかたをしてみましょう。 予言があったことをぼくは知っています。 その予言をトレロウニー先生から直接、あなたが聞いたということも知っています。 その予言で、ジェイムズとリリーの子が〈闇の王〉にとって危険な存在になると言及されていたことも知っています。 ぼくは自分がだれであるかを知っています。だれでも知っています。だから、あなたが情報を出したとしても、新しくも危険でもない。ぼくが聞きたいことは、たったひとつ。予言は()()()()()()()()()()()使()()()、ぼくを、つまりジェイムズとリリーの子を特定していたのか?」

 

トレロウニーのうつろな声がこころのなかにひびく——

 

彼を三度しりぞけた親のもとに生まれ

七番目の月が死ぬときに生まれ……

 

「ハリー、それをあなたに言うわけにはいきません!」  ハリーがすでにそこまで知っているというだけでも、骨の髄まで凍りつく思いがする。いったいどんな方法で知ったというのか——

 

少年は奇妙に悲しげな目を見せた。 「マクゴナガル先生、あなたは総長の許可がないとくしゃみをすることもできないんですか? こんな質問をするだけのそれなりの理由があるということも、答えてもらった内容を秘密にする理由があるということも、約束しますよ。」

 

「無理を言わないで、ハリー。」と彼女はささやいた。

 

「そうですか。では、こんどは簡単な質問をします。 ポッター家の()()は予言にはいっていましたか? 文字どおり『ポッター』という単語がありましたか?」

 

彼女はハリーをしばらくじっと見た。 なぜなのかもわからないし、どこからそんなことを感じとったのかもわからないが、いまきかれているのが決定的な部分なのだという気がした。軽がるしくことわってはいけないし、軽がるしく譲歩してもいけない。

 

「いえ」と彼女はやっとのことで言った。「ハリー、もう質問はやめてください。」

 

少年はすこし悲しそうな笑みを見せてから言った。 「ありがとう、ミネルヴァ。あなたは誠実な人ですね。」

 

あまりのショックで口をあけたままにしていると、ハリー・ポッターは立ちあがり退室していった。 そのときになって彼女は、ハリーはあの拒絶を回答として受けとったのだ、と気づいた。そしてそれが事実だと——

 

ハリーは外からドアを閉めた。

 

この論理は、ダイアモンドのような奇妙な明瞭さをもってハリーのまえにあらわれた。 これを思いついたのは、フォークスの歌を聞いていてのことだったかもしれないし、もしかするとそれ以前だったかもしれない。

 

ヴォルデモート卿はジェイムズ・ポッターを殺した。 リリー・ポッターのことは可能なら見のがそうとした。 襲撃はそこで終わらなかった。つまり、目的は二人の幼な子を殺すことだけだった。

 

〈闇の王〉になるような人はふつう、幼な子を怖がらない。

 

だから、ハリー・ポッターがヴォルデモート卿にとって危険であるという予言があったということ、ヴォルデモート卿がその予言を知っていたということがわかる。

 

「今回は特別に逃げる機会をやろう。おまえを制圧するのも手間だ。おまえが死のうとも、その子は助からない。 愚か者め、そこをどけ。すこしはあたまをはたらかせろ!」

 

特別な機会というのは、気まぐれだったのだろうか? だがそれなら、ヴォルデモート卿は彼女を説得しようとはしなかったはずだ。 ヴォルデモート卿はリリー・ポッターを殺すべきでない、という警告が予言にあったのか? それなら、ヴォルデモート卿は彼女を制圧する手間をかけていてもいいはずだ。 ヴォルデモート卿の意思は、リリー・ポッターを殺すのをできれば避けたいという方向に()()()()()かたむいていた。 つまり気まぐれほどに小さくはないが、警告ほどに大きな理由でもなかった、ということだ。

 

では、ヴォルデモート卿の低級な協力者もしくは従僕であって、有用だが必要不可欠とまではいえない人物が、リリーの命を助けてくれ、と〈闇の王〉に懇願したとしよう。リリーの命乞いはしたが、ジェイムズについてはなにも言わなかったとしよう。

 

その人物はヴォルデモート卿がポッター家を襲撃することを知っていたことになる。 予言の内容も、〈闇の王〉がその内容を知っているということも、知っていた。 そうでなければ、リリーを助けてほしいとは言わない。

 

マクゴナガル先生の話では、マクゴナガル先生自身をのぞいて、予言のことを知っているのはアルバス・ダンブルドアとセヴルス・スネイプの二名だけだ。

 

セヴルス・スネイプ。リリー・ポッターになるまえのリリーを愛し、ジェイムズを憎んでいた男。

 

そしてセヴルスは予言の内容を聞き、〈闇の王〉に伝えた。 伝えたのは、予言がポッター家を名ざししていなかったからこそだ。 予言は謎かけ(リドル)であり、セヴルスがそれを解いたときには、すでに手遅れだった。

 

だがセヴルスが予言を聞いた一人目だったとしたら、〈闇の王〉に伝えて、それからダンブルドアやマクゴナガル先生にも伝えるわけがあるか?

 

だから、最初に聞いたのはダンブルドアかマクゴナガル先生だ。

 

ホグウォーツ総長がきわめて繊細で決定的に重要な予言のことを〈転成術〉教授に教えるべき理由はあまり見あたらない。 だが〈転成術〉教授のほうからすれば、総長に伝える理由がたっぷりある。

 

ということは、マクゴガナル先生が一人目であった可能性が高そうだ。

 

先験確率としては、その予言をしたのはホグウォーツおかかえの予見者、トレロウニー先生である可能性が高い。 見者はめったにいないから、マクゴナガル先生が生まれてから死ぬまでに予見者と同席した秒数を数えてみれば、そのほとんどはトレロウニーと同席した秒数になる。

 

マクゴナガル先生が予言をダンブルドアに伝えたなら、ダンブルドアの許可なしにほかのだれにも伝えるはずがない。

 

だから、セヴルス・スネイプがなんらかのかたちで予言の内容を知るように仕向けたのは、アルバス・ダンブルドアだ。 そして謎かけを解いたのも、ダンブルドア本人であるはずだ。そうでなければ、セヴルスを媒介としてえらびはしない。かつてリリーを愛したセヴルスを。

 

ダンブルドアは故意に、ヴォルデモート卿が予言の内容を知り、願わくばみずから死に向かうようにと仕向けた。 ダンブルドアは、セヴルスが予言の()()だけを知るように仕向けたかもしれないし、ほかにもいくつかセヴルスに知らせていない予言があったのかもしれない……。 ダンブルドアはなぜか、ヴォルデモート卿が()()()ポッター家を襲撃したとしてもヴォルデモート卿が()()()打倒されることになる、と知っていた。ヴォルデモート卿はそうなるとは思っていなかった。 それともこれは、ダンブルドアの狂気や奇妙な謀略を好む趣味が、たまたま運よく当たりを引き寄せただけなのだろうか……

 

セヴルスはその後、ダンブルドアに奉仕することになった。 もしダンブルドアがスネイプのはたした役割を知らしめたなら、〈死食い人〉は自分たちの敗北の原因となったスネイプのことをこころよく思わなかったにちがいない。

 

ダンブルドアはハリーの母の命が救われるように仕向けようとした。 だが謀略のうちのその部分は失敗した。 ジェイムズ・ポッターについては、ダンブルドアはそうと知りながら死に追いこんだ。

 

ダンブルドアはハリーの両親の死に責任がある。 ()()この論理の連鎖がただしければ、だが。 公平を期すなら、〈魔法界大戦〉を終結させるためだった、という事情はハリーとしても酌量できないわけではない。 だがそれでもどこか……()()()()()()()()()()()

 

だから、遅すぎるくらいだが、このあたりでドラコ・マルフォイの話を聞いておきたい。あの戦争の()()()()()()()には、アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアがどういう人間に見えていたのか。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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47章「人格性の概念」

◆ ◆ ◆

 

どんな謀略においても、ある段階で被害者はうたがいを持ちはじめる。そしてふりかえってみると、すべてのできごとがとある方向へと収斂していることに気づく。 そうなった時点で被害者の目には、耐えがたいほど大きな損失が見えてきている。そして自分が罠にかけられたことを認めるのが屈辱なあまり、謀略の可能性を否定しようとする……というのが、あのときの父上の説明だった。だからゲームはそうなってもまだ当分つづく、と。

 

父上は、こういう失敗を二度とするな、という警告もしていた。

 

だがそのまえに、父上はミスター・エイヴァリーに、クッキーをすべて食べろと言った。その様子を見せられ、ドラコは泣いた。わずか数時間まえにドラコが父上からもらった大切なクッキー一瓶。それがミスター・エイヴァリーに一つのこらず巻きあげられたのだった。

 

だからグレゴリーから〈例のキス〉の話を聞いたとき、ドラコはおなじみの感触を腹の奥のほうで感じた。

 

ときには、ふりかえってみてやっと、なにかが見えてきたりもする……

 

(明かりのない教室——ここ数カ月、週一回つかわれているのだから、もはや()()()()とは言いがたい——で、少年はフードつきのローブに身をくるみ、光のない水晶球をおいた机をまえにしている。 暗闇のなかで、無言で考えながら、扉がひらいて光が差すのを待っている。)

 

あのときハリーはグレンジャーを押しかえして、『キスはなし、って言っただろ!』、と言った。

 

ハリーはきっと、『彼女はぼくを困らせようとしてやっただけだ。このまえぼくにデートをさせたのとおなじやりくちだ』、とでも説明しようとするのだろう。

 

だが、実際になにが起きたかについては、すでに裏がとれている。グレンジャーはハリーを救うために、ディメンターの前にもどって自分の身をさらそうと決意していた。そして〈吸魂〉の深みに落ちたハリーに泣きながら口づけした。その口づけのおかげでハリーは正気をとりもどした。

 

これはもうライヴァル関係には思えない。友好的なライヴァル関係ですらない。

 

芝居ですら滅多に見られないような友情物語に思える。

 

ではなぜハリーはその友だちを城の氷の壁にのぼらせたのか?

 

ハリー・ポッターは友だち相手ならいつもそういうことをするとでも?

 

奇妙な謀略を解きあかすための技術を父上から聞いたことがある。それは()()()()なにが起きたかに注目し、その結果が()()()()()ものであると仮定して、だれが得をしたかを考えることだ。

 

最終的には、ドラコとグレンジャーがいっしょになってハリー・ポッターと戦うことになった……そして、ドラコはグレンジャーに対して、それまでよりずっと友好的になれるようになった。

 

マルフォイ家の御曹司が泥血(マッドブラッド)の魔女となかよくなると、だれが得をする?

 

得をするだけでなく、まさにそういう種類の謀略をすることで有名なのは?

 

得をするだけでなく、ハリー・ポッターを裏であやつっている可能性があるのは?

 

ダンブルドアだ。

 

もしそうなら、ドラコは父上にすべてを話す必要がある。話したあとなにが起きるかは気にしていられないし、想像もつかない。というより、想像もつかないようなひどいことが起きる。 だからドラコは必死で最後の希望にすがって、こう見えているのはドラコの誤解にすぎない、という可能性を信じようとしている……

 

……という部分も、考えてみれば、ミスター・エイヴァリーから教わったとおりだ。

 

まだハリーを問いつめるつもりはない。 ドラコはまだ、ハリーに偽物だと見すかされないような実験を考えようとしている。 だがそこで、ハリーからのメッセージをヴィンセントが持ってきた。今週はいつもの土曜日を早めて金曜日に会いたいのだという。

 

だからドラコはこの暗い教室で、光のない水晶球を机にのせて、待っている。

 

時間がすぎた。

 

足音がちかづいてきた。

 

扉が軽くきしむ音を出しながら内むきに開き、フードつきのローブに身をつつんだハリー・ポッターがあらわれた。 ハリーが暗い教室に足をふみいれると、がっしりした扉はそのうしろで、かすかに音をたてて閉じた。

 

ドラコが水晶球をぽんとたたくと、教室が明るい緑色の光でてらされた。 緑色の光で机の列は床に影をおとし、椅子の背の曲面からの反射光がドラコにとどく。光子はこうやって、入射角とおなじ角度で反射してはねかえる。

 

教わったことのうち、すくなくともそこまでは嘘ではなさそうだ。

 

光がとどくとハリーはびくりとして一瞬とまったが、また歩きだした。 ドラコの机まで来たところで、「こんにちは」と小声で言って、ハリーはフードをおろす。「いつもとちがう時間だったのに、来てくれてありがとう——」

 

「かまわない。」とドラコは平坦な声で返事した。

 

ハリーは椅子を引きよせて、机の反対がわに座った。椅子の脚が床にあたって、キッと音をだした。 そして椅子を逆むきに回転させて、両うでを椅子の背にのせて、またがった。 少年は思案げに顔をしかめている。真剣な顔つきで、いつものハリー・ポッター以上に、やけに大人びて見える。

 

「今日は、とても大事な質問にこたえてもらいたい。でもそのまえに、もうひとつ二人でやるべきことがある。」とハリーが言った。

 

ドラコは無言でいた。すこしうんざりする気がした。 とっとと終わりにしてしまいたい、という気持ちもすこしあった。

 

「マグルが死ぬときに幽霊(ゴースト)をのこせないのはなぜだ?」とハリー。

 

「マグルには、たましいがないからだ。当然だろう。」  ドラコはそう言ってしまってから、それがハリーは立ち場上それを受けいれないかもしれないと気づいた。だが、どうでもいいことだ。それに、実際、当然の事実なのだから。

 

ハリーはおどろいた様子を見せなかった。 「大事な質問のほうに行くまえに、きみが〈守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉を使えるのかどうかを試しておきたい。」

 

あまりに脈絡のない発言に、ドラコは一瞬困惑した。 またしても、予想不可能で理解不可能なハリー・ポッター、か。 これは相手をまごつかせる戦術として、わざとやっているのではないか、とときどき思いたくなる。

 

しかしハリーのことばが意味するところにぴんときて、ドラコは席から自分を押しだし、憤然として一息で立ちあがった。ここまでだ。もう終わりだ。 「ダンブルドアの下僕のようにか。」

 

「いや、サラザール・スリザリンのようにだ。」

 

それを聞いてドラコは扉にむけて一歩ふみだす途中で、つまずきそうになった。

 

ゆっくりと、ハリーのほうをふりかえる。

 

「どこからそんな発想をしているのか知らないが、それはまちがいだ。〈守護霊の魔法〉がグリフィンドールの呪文であることはだれでも知っている——」

 

「サラザール・スリザリンは有形の〈守護霊の魔法〉をかけることができた。」と言ってハリーはすばやく片手をローブのなかにいれ、本をとりだした。題は緑色の地に白文字で書かれているが、緑色の照明のもとではほとんど見えない。 「このあいだ〈守護霊の魔法〉について調べていたときに見つけたんだ。 そう言っている原典も見つけて、きみが信じない場合にそなえて、その本を借りてきた。 この本の著者はサラザールが〈守護霊〉を使えたことを()()に思ってすらいない。 スリザリン生にできないと思われだしたのは、きっと最近のことなんだ。 歴史についてもうひとつ言わせてもらえば、いまここにはない本に書かれていたことだけど、ゴドリック・グリフィンドールは〈守護霊〉を使えなかったんだそうだ。」

 

それから六回問いただそうとすると、そのたびにもっとバカげた理由がかえってきた。そこまで来てドラコは気づいた。ハリーも本に書かれていることについてだけはうそをつかない。 それでも、ハリーが両手でその本をひらいて、しおりを差してあった場所をみせたとき、ドラコは身をのりだして、ハリーの指がさしている部分をよく検分した。

 

そしてレイヴンクローの放った火が、ファウル卿(ロード・ファウル)の軍の左翼をつつんでいた闇をやぶり、グリフィンドール卿(ロード・グリフィンドール)のことばを裏づけた。 彼らが感じていた恐怖は自然に発生したのではなく、数十体のディメンターが原因だった。敗残者の魂を報酬として約束されて、ディメンターが連れられてきていたのだ。 ハッフルパフ卿(レイディ・ハッフルパフ)スリザリン卿(ロード・スリザリン)はすぐさま、巨大なアナグマと銀色にかがやくヘビの〈守護霊〉を作りだした。防衛軍の兵士たちの心のなかの影は去り、彼らは顔をあげた。 レイヴンクロー卿(レイディ・レイヴンクロー)は笑って、愚かなりファウル卿、今や恐怖に襲われるのはホグウォーツ防衛軍ではなく自らの軍ではないか、とあざけった。 しかしスリザリン卿は「いや、あの者が愚かでないことだけは請け合うぞ。」と言った。 そのとなりのグリフィンドール卿は戦場を検分して、険しい表情をした……

 

ドラコは読むのをやめて、見あげた。「それで?」

 

ハリーは本を閉じて、ポーチにしまった。 「〈カオス〉軍と〈太陽(サンシャイン)〉軍には、有形の〈守護霊〉をつくれる兵士がいる。 有形の〈守護霊〉を使うと、メッセージを送ることができる。 きみにこの呪文が使えないなら、〈ドラゴン旅団〉は軍事的に相当不利な立ち場になる——」

 

そんなことはいまはどうでもいい、と思ったので、ドラコはそう言った。 思いのほか、きつい声になってしまったようだった。

 

ハリーはそれを聞いても平然としている。 「じゃあ、あの最初のホウキのりの授業で、暴動が起きるのを止めたときの借りを、ここでかえしてもらおう。 ぼくはきみに〈守護霊の魔法〉を教える。あの借りを返したいなら、きみには誠意をもって挑戦してもらいたい。 マルフォイ家の名誉にかけてそうしてくれると期待しているよ。」

 

うんざりする気持ちがまた出てきた。 もっと別の状況下でだったなら、〈守護霊〉がグリフィンドールの呪文でない以上、貸し借りの精算として不当な要求ではない。だが……

 

「なぜだ?」

 

「サラザール・スリザリンとおなじことが、きみにできるかどうかを知るためだ。 これは実験なんだよ。だから、その意味は実験がおわるまでは教えられない。 さあ、どうする?」

 

……無害なことで借りを精算しておくのは、おそらくいい考えではある。ハリー・ポッターと縁を切るべきときがきているなら、なおさらだ。 「わかった。」

 

ハリーはローブのなかから杖をとりだし、球にあてた。 「〈守護霊の魔法〉には、ちょっとあわない色だな。これは〈死の呪い〉とちょうどおなじ緑色の光だから。 でも銀色なら、スリザリンの色でもあるんだよね? 『デュラク』」  光が消え、ハリーは〈帯光の魔法〉の最初の二段階をささやいて、かけなおした。二人のどちらも、呪文全体を自力でかけることはできない。 それからもう一度球をぽんとたたくと、部屋が銀色の光で満たされた。あかるいが、やわらかなかがやきだ。 机と椅子の列に色がよみがえり、黒髪に隠れてすこし汗をかいているハリーの顔の色ももどった。

 

そこまでかかって、ドラコはやっとハリーの発言の意味に気づいた。 「このまえにぼくと会ったあとで、〈死の呪い〉を見たんだな? いつ——なぜ——」

 

「〈守護霊の魔法〉をかけてみてくれ。」と言ってハリーはいつになく真剣な表情をした。「そのあとで教えよう。」

 

ドラコは両手を両目にあてて、銀色の光をさえぎった。 「きみのおかしさ加減はふつうの謀略を超えている、っていうことをすぐ忘れそうになるんだよな。」

 

ドラコはみずから課した暗黒のなかで、ハリーのせせら笑いを聞いた。

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコが予備動作の部分の予行練習をもう一度やるのを、ハリーはしっかりと見とどけた。一番覚えにくいのはこの部分であり、最後のふりかざす動作と詠唱は精密でなくてもいい。 最近三回の予行練習はハリーが見るかぎり、どれも完璧だった。 ミスター・ルーピンには言われなかったことだが、ハリーはなぜか、ドラコのひじの角度や足のむきがおかしい、などという修正指示を衝動的にしたくなった。 自分の思いこみにすぎなかったかもしれないし、多分そうなのだが、念のため言っておくことにした。

 

「よし。」とハリーはしずかに言った。 胸のあたりが緊張して、声をだすのがすこしむずかしい。 「ここにはディメンターはいないけど、問題ない。なくてもできる。 きみのお父さんと駅で話したとき、お父さんが世界で一番大切にしているのはきみだ、ということを聞いた。きみが傷つけられることがあれば、ほかの計画をすべて投げうってぼくに復讐する、と警告された。」

 

「え……?」  ドラコは声をつまらせたようだった。奇妙な表情をしている。 「なぜそんなことをぼくに言ってしまうんだ?」

 

「言ってもいいだろう?」と言ってハリーは表情をかえなかったが、ドラコがなにを考えているのかは、だいたいわかった。 ハリーはドラコを父親から引き離そうとしていた、だから二人の距離をちぢめるようなことを言うべきではない、と思っているのだろう。 「きみにも一番大事な人が一人いる。きみが〈守護霊の魔法〉のにどんなぬくもりと幸せのイメージが必要なのかははっきりとわかる。 そのことは、学校がはじまる日に、キングスクロス駅できみが話してくれた。 ホウキから落ちて肋骨を折ったときの話だ。 それまで感じたことがないほど痛くて、きみは死ぬかと思ったんだろう。 その恐怖が、目のまえにいるディメンターからからきていると思ってみてほしい。ディメンターは、ぼろぼろの黒いマントを着ていて、水死体のように見える。 それから〈守護霊の魔法〉をかけるんだ。ディメンターを追いはらうために杖をふりかざすとき、お父さんが心配するなというように、手をにぎってくれていると思ってみてほしい。 お父さんが自分をどれだけ愛しているかを考えて、自分がお父さんをどれだけ愛しているかを考えて、それを声にこめて、『エクスペクト・パトローナム』と言う。 借りをかえすためだけじゃなく、マルフォイ家の名誉のためにやってくれ。 きみはあの日あの駅で、ルシウスのことをいい父親だと言った。そのことばがうそではないと証明してくれ。 サラザール・スリザリンにできたことがきみにもできると証明してくれ。」

 

そしてハリーは一歩さがり、ドラコの後ろにまわって、ドラコの視界から身を隠した。空教室の前方にいるドラコのまえにあるのは、古びた教卓と黒板だけだ。

 

ドラコは奇妙な表情をしたまま、一度後ろを見返し、前をむいた。 ハリーはドラコが息をはいて、すうのを見た。 杖が一、二、三、四と宙を切る。 杖をドラコの指がなで、正確に所定の位置までいって——

 

ドラコは杖をおろした。

 

「いや、これではちょっと——イメージに集中できない。そうやって見られていると——」とドラコ。

 

それを聞くとハリーはドラコに背をむけて扉のほうにむけて歩きだした。 「一分したら、もどってくるよ。幸せのイメージを維持していてくれれば、〈守護霊〉は消えないから。」

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコの背後で、また扉がひらく音が聞こえた。

 

ハリーの足音が教室にはいってくる。だがドラコはそちらに顔をむけない。

 

ハリーもなにも言わない。沈黙がつづいた。

 

そしてやっと——

 

「これになんの意味があるんだ?」と言ってドラコはすこし声を震わせた。

 

「これできみがお父さんを愛している、ということがわかる。」と言うハリーの声がした。 予想どおりの答えだったので、ドラコはハリーのまえで泣かないようにつとめるのがやっとだった。 こんなうまい話があるか。できすぎている——

 

ドラコの目のまえの床には、光かがやくヘビがいる。このヘビには見おぼえがある。 アマガサヘビだ。あるときアブラクサス・マルフォイ卿が遠方からのみやげとして連れて帰ったというそのヘビを、以来父上はずっと屋敷のヘビ園に置いている。 噛まれてもあまり痛くないのがアマガサヘビの特徴だ、 ということも父上から聞いた。そしてだれの付き添いがあろうとも、このヘビをかわいがろうとしてはいけない、ときつく言われている。 このヘビの毒は神経毒であり、痛みを感じる間もなく、すばやくからだじゅうにひろがってしまい、 〈治癒の魔法〉を処置されても死に至ることがある。ほかのヘビを捕食するヘビでもある。 これほどスリザリン的な生物はいない。

 

だから父上のステッキの持ち手にはアマガサヘビが鋳造してあるのだ。

 

かがやくヘビはシュッと舌をだした。舌もやはり銀色だ。 そして()()をしたように見えた。爬虫類にはありえないほど、ぬくもりのある笑顔だった。

 

そこでドラコは気づいた——

 

「でも……」と言いながら、ドラコはまだ美しくかがやくヘビを見つめている。「きみは〈守護霊の魔法〉を使えない。」  自分が成功してはじめて、なぜこれがそれほど重要なことかがわかった。 邪悪な人でも〈守護霊の魔法〉をかけることはできる。ダンブルドアでさえ、できる。ひとつでも明るいものが自分のなかにあればいいのだ。 でもそうやって光かがやくものが、ハリー・ポッターのこころのなかには、ひとつもないのだとしたら——

 

「〈守護霊の魔法〉はそんなに単純な魔法じゃないんだ。」とハリーは真剣な声で言う。 「失敗した人がかならず悪人だとはかぎらない。不幸せな人だともかぎらない。 それはともかく、ぼくは実は使える。二回目にやったときに成功した。成功するには、ディメンターと対面した一回目のとき、なにを間違えていたかを気づく必要があった。 でも、その、ぼくの人生はときどき変になることがあって、ぼくの〈守護霊〉も普通とはちがってたから、これはいまのところ秘密ということにしてる——」

 

「それをただ信じろと言うのか?」

 

「信じられないならクィレル先生に聞けばいい。 ハリー・ポッターは有形の〈守護霊〉を作れるのか、ときいてくれ。ぼくから言われてそう質問しにきたと言えばいい。 クィレル先生にはぼくからの依頼だということを知らせておく。ほかのだれにもそのことは知らせない。」

 

へえ、今度は()()()()()()()信用しろと? けれどハリーのことだから、事実なのかもしれない。 クィレル先生も、相応の理由なしにうそをつく人ではない。

 

光るヘビはあたまを前後にゆらし、実在しない獲物をさがしているように見えた。そして休もうとするかのように、とぐろを巻いた。

 

ハリーがそっと話しだした。 「スリザリン生が〈守護霊の魔法〉を教わらなくなったのは、いったいいつごろからだったんだろう。何年まえの、どの世代のことだったんだろう。 いったいいつから、抜け目なく野望を高くもつことは、冷酷で不幸せなのと同じことだと、みんなが考えるようになったのか。いつからスリザリン生自身もそう考えるようになったのか。 自分の生徒たちが〈守護霊の魔法〉の授業を無視するようになったと知ったら、サラザールは自分が生まれたことを後悔するだろうか? どこでまちがったんだろう。スリザリン寮はいつからこうなったんだろう。」

 

光りかがやく生物がふっと消えた。ドラコの内心の葛藤が高まって、この〈魔法〉を維持することができなくなった。 ドラコはぱっとハリーのほうを向いた。杖を向けないようにするには努力が必要だった。 「きみはスリザリン寮の、いや、サラザール・スリザリンのなにを知っているんだ? うちの寮に〈組わけ〉されてすらいないきみに、そんなことを言う権利があるとでも——」

 

その瞬間、ドラコはようやく気づいた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() なのに、そのあとでなにかをして……()()()()()()——」  みんなを信用させるために、ほかの寮にわざと〈組わけ〉されるほうがかしこいのではないか、と昔、父上に聞いてみたことがある。父上は笑みを浮かべて答えた。自分もドラコの年ごろにはそういうことを考えたが、だれも〈組わけ帽子〉をあざむくことはできないという障害があって……

 

……ハリー・ポッターの手にかかれば障害ではないのかもしれない。

 

()()()()()()()()()()()だなどという話を一瞬でも間にうけるなんて、自分はどうかしていた。

 

「おもしろい仮説ではある。」と平然としてハリーが言う。「そういう説を思いついたのはきみで二人目だと言ったらおどろくかい? すくなくとも、ぼくの目のまえでそう言ったのは二人目だ——」

 

「スネイプだな。」とドラコは確信して言った。スリザリン寮監はバカではない。

 

()()()()クィレル先生だよ。」とハリーが言う。 「でも考えてみると、セヴルスからもたしかに聞かれはした。どうやってスリザリン寮をのがれたのか、〈組わけ帽子〉がほしがるものをなにか持っていたのか、と。 だからきみは三人目だと言ってもいいかもしれない。 あ、でも、クィレル先生はきみの説とはすこしちがうことを言っていたけど。 この話をほかに漏らさないと誓ってくれる?」

 

ドラコはほとんど考えもせずにうなづいた。 ほかに選択肢はない。ノーと言うとでも?

 

「〈帽子〉が〈死ななかった男の子〉に用意した結果を、ダンブルドアが受けいれようとしなかった、というのがクィレル先生の考えだ。」

 

ハリーがそう言った瞬間、それが事実なのだとドラコにはわかった。当然の事実だ。 ダンブルドアはいったいだれをだませると思ったのだろう?

 

……いや、スネイプとクィレルをのぞいたホグウォーツの全員はだまされる。()()()()()も信じてしまっているかもしれない……

 

ドラコは目まいのようなものを感じて、机によろめいて倒れかけ、すこし痛いほどのいきおいで腰かけた。 ハリーといると、一カ月に一回くらいの頻度でこういうことが起きる。一月になってからはまだだったから、そろそろ起きていいころだった。

 

自分ではレイヴンクローだと思いこんでいるかもしれないし思いこんでいないかもしれないこのスリザリン生は、さっきまで使っていた椅子にもどって、今度は横むきに座り、ドラコに熱い視線をむけた。

 

ドラコは自分がいまなにをするべきかよくわからないでいた。きみは実はレイヴンクローじゃない、スリザリンに行くはずだったのだ、とこの少年を説得すべきなのか…… いや、ハリーがダンブルドアと同盟しているのかどうかを探るべきか……この可能性は急にうすれて見えてきたが……しかし、となるとなぜハリーがあのようなお膳立てをドラコとグレンジャーに用意したのかがわからない……

 

ハリーのおかしさ加減はふつうの謀略を超えている、ということをまた思いだす必要がある。

 

「ハリー、きみはぼくと〈太陽〉軍司令官をわざと敵にまわすようなことをした。あれは、きみという敵に対してぼくらを協力させるためだったのか?」

 

ハリーはためらうことなく、うなづいた。世界で一番あたりまえのことだ、なにも恥ずかしいことではない、とでも言うように。

 

「あの手ぶくろで城の壁をよじのぼらせたのもすべて、ぼくとグレンジャーの距離をちかづけるためだったのか。 いや、それだけじゃない。 きみはとても長くこの謀略を準備してきた。 ()()()からそうだったんだ。」

 

ハリーはまたうなづきをもって答えた。

 

なぜこんなことをする?

 

ハリーの両眉が一瞬あがった。扉をとじたこの教室じゅうに響くほどの、ドラコ自身の耳が痛むほどの悲鳴だというのに、ハリーの反応はそれだけだった。 なぜだ……。なぜハリー・ポッターはこういうやりかたをするんだ……。

 

そしてハリーがこたえた。「スリザリン生たちがもう一度〈守護霊の魔法〉を使えるようにさせるため。」

 

「パターンさ。」と言って、ハリーはとても真剣な、深刻そうな表情をした。 「これはスクイブの夫婦が子をつくると四分の一が魔法族になるのとおなじくらい、 単純で、見落としようがないパターンだから、どこを見ればいいかさえ知っていれば一瞬で気づく。 なのに、知らなければ、それが手がかりになっていることさえ気づけない。 スリザリン寮の病巣とおなじものは、マグル世界の歴史のなかにもあった。 あらかじめ予言してみようか。これは学校がはじまった一日目に、キングスクロス駅できみの話を聞いただけでも、ぼくにはぴったり当てられる予言だった。 きみのお父さんがやる決起集会にたむろする人のなかに、どんなにみじめな人たちがいるかをあててみよう。純血家系なのにマルフォイ邸の晩餐会には決して招待されないのがどういう人たちかをあててみよう。 この目で見たから言えるんじゃない。スリザリン寮でどういうパターンが生じているかさえ知っていれば、あてることができる——」

 

それから、ハリー・ポッターはするりと切断するような正確さで、パーキンソン家とモンタギュー家とボウル家の特徴を描写した。ドラコなら、あたりに〈開心術師〉がいる可能性を心配して、思考することすらはばかられるほどの言いかただった。侮辱ということすら生やさしい。各家の耳にはいれば、ハリーは殺される……

 

「まとめると、彼ら自身に権力はないし、 富もない。 マグル生まれを憎むことができなければ、つまり彼らのお望みどおりマグル生まれがいなくなってしまえば、翌朝、自分たちはからっぽだとに気づかされてしまう。 でも、純血のほうが優れている、と言いつづけられるかぎりは、優越感を感じて、支配者階級の一員であるような気でいられる。 まちがってもきみのお父さんの晩餐会に招待されることがないとしても。自分の金庫がすっからかんだとしても。ホグウォーツでの自分のOWLs(オウルズ)の点数がマグル生まれの最低点にすらおよばないとしても。 〈守護霊の魔法〉をかけることができなくなったとしても。 すべてマグル生まれのせいにすればいい。そう言って、自分自身の失点を自分以外のだれかに着せることができる。それが彼らをさらに弱くする。 スリザリン寮はそういうみじめな場所になりつつある。マグル生まれを憎むことこそが、その問題の根源だ。」

 

泥血(マッドブラッド)は追いださなければならない、というのはサラザール・スリザリンみずから主張したことだ! 泥血のせいで血統が薄まる、というのも——」  ドラコは声をはりあげ、最後のところでは叫び声になっていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ドラコ、きみはもうそのことを知っている! そしてその()()がスリザリン寮全体をむしばんでいるから……〈守護霊の魔法〉はそういう思考では発動しない!」

 

「だったら、()()()()()()()()()()()()どうして〈守護霊の魔法〉を使えたんだ?」

 

ハリーはひたいから汗をぬぐった。 「そのときとは時代がかわったんだ! よく聞いてほしい。三百年まえには、偉大な科学者でも……サラザールに相当するような偉大な科学者でも、肌の色のちがいを理由に、ある種のマグルのことを劣等種だと言ったりした——」

 

「肌の色だと?」

 

「そう、血統のように大事なこととくらべたら、肌の色なんかにこだわるのはばかばかしい、って言いたくなるよね? でもそれから、世界のなにかが変わった。いまなら、偉大な科学者は肌の色にこだわらない。いまそんなことにこだわるのは、ぼくがさっき言った特徴にあてはまる負け組だけだ。 サラザール・スリザリンは当時ならだれもがする間違いをしていた。生まれそだった環境のおかげで信じていただけで、()()()()()()()()()()()()()からじゃない。 周囲の人に流されずに正しいことができた人もすこしはいたけれど、そういう人は例外的な善人だった。 でもほかのみんなの考えに追従したからといって、()()()()邪悪な人だったとは言えない。 不幸なことではあるけれど、だれかに指摘されないで倫理的な問題に気づける人はほとんどいない。 そしてサラザールがゴドリックに出会ったときの年齢くらいになると、自分の思考を変えることができなくなってしまっている。 そのころになってやっとホグウォーツができて、それからゴドリックの要求がとおって、マグル生まれにも入学許可をだしはじめた。するとマグル生まれと自分たちのあいだには実は違いがない、と気づく人が増えてきた。 それがいまでは、みんながなにも考えずに信じてしまうことじゃなくて、政治的な対立になってしまった。 マグル生まれは純血より弱くない、というのが()()()答えである以上、 サラザールの信じたことに()()()()賛成してしまうのは、きみのようにとても閉鎖的な純血主義の環境でそだった人か、自分が優越感を感じられる相手を必死で探すみじめな人、つまり憎むことが好きな人だけだ。」

 

「いや、それは……どこか変だ……」とドラコの口が言った。 ドラコの耳はそれを受けて、もっとましなことが言えないのか、と思った。

 

「なにが? ドラコ、きみはハーマイオニー・グレンジャーにはなんの問題もないと知っている。 きみは彼女を屋根から落とすまえに、ずいぶんためらったそうじゃないか。 〈落下低速の飲み薬〉を飲んでいるから、落ちても安全だと知っていたにもかかわらず。 なにか彼女にひどいことをされたからではなく、彼女がマグル生まれであるというだけの理由で、彼女を殺そうとするのはどんな人間だ? ただの女の子、一言たのめばよろこんで宿題の手つだいをしにきてくれるような女の子なんだぞ。」  ハリーは声をつまらせた。 「そんな女の子を死なせたいと思うのはどんな人間だ?」

 

父上なら——

 

自分が二つにわかれて、視野にあるものが二重に見えているような感じがする。『グレンジャーは泥血だから死ぬべきだ』と言っている自分と、屋根から落ちかけた女の子の手をつかむ自分とで、まるで複視のようにして——

 

「そして、ハーマイオニー・グレンジャーを死なせたくない人たちはみんな、死なせたいと言う人たちの仲間にはなりたがらない! いまのスリザリンはそういう風に見えている。有能な戦略家でも野心家でもなく、マグル生まれを憎むだけだと思われている! このあいだモラグに一シックルあげて、パドマがスリザリンに行かなかった理由を聞いてきてもらった。パドマにスリザリンの選択肢があったのは、知ってのとおりだ。 パドマはモラグを変な目で見て、パンジー・パーキンソンになる気はないから、ってこたえたそうだ。 わからないか? 二つ以上の寮に行けるような優秀な生徒、つまり()()()のある生徒は、〈帽子〉にむかって『スリザリンだけはいやだ』と言うんだ。だからパドマのような人はレイヴンクローになる。 それに……〈組わけ帽子〉は〈組わけ〉で人数を調整しようとするようだから、あれだけの憎悪に満ちた場所でも気にしない人をスリザリンに送ろうとする。 だからスリザリンには、パドマ・パティルのかわりに、パンジー・パーキンソンがやってくる。 抜け目がなくもないし野心もないけれど、いまスリザリンに起きつつある変化を悪く思わないような人だから。 そうなると、パドマ的な人がさらにレイヴンクローに集まって、パンジー的な人がスリザリンに集まるという流れが加速する。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

その話にはいやになるほど真実味があった。 パドマは本来スリザリンに来るはずだった……なのに実際来たのはパンジーだけだった。 父上がパーキンソン家のような家系を集会にあつめるのは、楽に支持がえられるからだが、スリザリンの名前をああいった家系にむすびつけることによって()()()()なにが起きるか、父上はまだ気づいていない……

 

「いや、それはできない——」と言いながら、ドラコは自分になにができないのかもわからない—— 「ぼくになにをしろと言うんだ?」

 

「どうやればスリザリン寮を治療できるかは、わからない。 でも、きみとぼくがいずれやらざるをえないことなのはわかる。 科学は何百年もかかってマグル世界に浸透していった。時間はかかったれれど、科学が強力になるにつれ、そういった憎悪は後退していった。」  ハリーの声が静かになった。 「なぜそうなったかはよくわからないけど、とにかくそれが歴史上起きたことだった。 まるで科学のなかに〈守護霊の魔法〉の光があるみたいに、あらゆる暗黒と狂気が追いだされた。すぐにではないけれど、科学が浸透していった先では、いずれそういうことが起きた。 〈啓蒙〉の光というのが当時のマグル世界での呼び名だ。 そうなったのは多分、真理を探求すること……()()()()考えて肌の色だけでだれかを憎むべき()()はないし、同様にハーマイオニー・グレンジャーを憎む理由もない、と気づくことに関係しているのかもしれない……あるいは、ぼくも理解していないような全然別のことに関係しているのかもしれない。 でも、きみとぼくはもうこうやって〈啓蒙〉のがわについた。 スリザリン寮を治療することは、これからぼくらがやるべきことの第一歩にすぎない。」

 

「考えさせてくれ。」とドラコは言ったが、すこしかすれた声が出た。そして両手に顔を乗せて、考えた。

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコはしばらく、両手で目をおおってなにも見えないようにして、しばらく考えた。音もハリーの息のほかは聞こえない。 ハリーの言うことは十分すじが通っているし、あきらかに真実味もある。だがいっぽうで、その裏でなにが起きているかを考えるなら、だれが見ても明白な、あの仮説がある……

 

しばらくしてから、ドラコはやっと顔をあげた。

 

「話としてはまともだ。」とドラコは静かに言った。

 

ハリーの顔に満面の笑みがうかんだ。

 

「じゃあ、」とドラコがつづける。「このあたりでぼくをダンブルドアのところに正式に連れていくつもりなのか?」

 

ドラコはとても気軽な言いかたでそう言った。

 

「あ、そうそう。実はちょうど、そのことを聞きたかったんだ——」とハリー。

 

ドラコの血が血管のなかで凍った。氷になってから、粉ごなになった——

 

「クィレル先生にあることを言われて、しばらく考えたんだけど、きみからどんな答えがもらえるにしても、もっと早くたずねなかったのがバカらしいのは、まあ、まちがいない。 グリフィンドールはみんなダンブルドアが聖者だと思ってる。ハッフルパフはみんな狂人あつかいしてる。レイヴンクローは、あれは狂人のふりにすぎないと気づいたのが自分たちだけだと思って自己満足してる。でもスリザリン生にはまだ聞いたことがなかった。 こんな見落としをするなんて、ぼくらしくない失敗だ。 でももし()()()()()、ダンブルドアと共謀してスリザリン寮を治療してもいいと思ってるなら、けっきょく、聞かないでいて損したことはあまりなかったのかな。」

 

……

 

……

 

……

 

「あのな……」とドラコはこれだけの状況にしては意外なほど落ちついた声で言う。「きみにそういうことをされるたびにぼくは、きっと事故でそうなったんだ、と自分に言い聞かせてるんだが。こんなことはいくらわざとやろうとしても、耳から血を垂らすほど必死になっても、できるものじゃない。 そう思いでもしないかぎり、きみのくびを締めにかかってるところだ。」

 

「へ?」

 

そして自分のくびを締めにかかっているところだ。ハリーはマグルといっしょに育ったのだし、それからダンブルドアの手でさりげなくスリザリンからレイヴンクローへとかすめとられてしまったのだし、ハリー本人がなにも気づいていないとしてもまったく不思議ではない。それなのにドラコは、ハリーに教えようともしなかった。

 

いや、それとも、ドラコがダンブルドアとやすやす同盟などしないということはハリーも知っているのかもしれない。これも自体がまたダンブルドアの作戦の一部なのかもしれない……。

 

だがもし、ハリーがほんとうにダンブルドアのことを知らないとすれば、なによりも優先すべきなのは、まず警告してやることだ。

 

すこし考えをまとめてから、ドラコは口をひらいた。 「そうだな。どこから話せばいいのやら。とりあえずこの話をしてみようか。」  深呼吸をする。この話には時間がかかる。 「ダンブルドアは自分の妹を殺した。だが追及をまぬがれた。というのも、ダンブルドアの弟はダンブルドアに不利な証言をしない理由があるからだ——」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはその話を聞くほどに、不安と狼狽が強まった。 自分ではこころの準備はできていると思っていた。純血主義者がわの話は、すこし割りびいて受けとらなければならない、ということはわかっていた。 だがやっかいなことに、相当な割りびきをしてもなお、いい話には聞こえない。

 

ダンブルドアの父親は子どもに〈許されざる呪い〉を使ったとして有罪になり、アズカバンで死んだ。 これはまったくダンブルドア自身の罪ではないが、公的な記録にのこる話だ。 あとで確認をとれば、一連の話がすべて根も葉もない純血主義者による作り話かどうかがわかる。

 

ダンブルドアの母親は謎の死をとげ、そのすぐあとに妹が死んだ。妹の死の原因は殺人であると〈闇ばらい〉が判定した。 妹はそれまでにマグルの残虐な暴力にあっていて、そのことをけっして口にしなかったとされている。この様子は〈忘消〉(オブリヴィエイト)が中途半端におこなわれた場合に非常によく似ている、とドラコは指摘した。

 

ハリーは最初のほうで何度か割りこみをかけた。それを受けてドラコは基本的な原理を体得したらしく、観察された事実をまず言ってから、そのあとで自分の推論を言うようになった。

 

「——だから、ぼくがそう言ってるだけじゃないぞ。わかるだろう? スリザリン生ならみんなわかっている。 ダンブルドアはグリンデルヴァルトとの対決を遅らせて、自分が一番よく見えるときまで待った。グリンデルヴァルトがヨーロッパの大半を蹂躙して、歴史上最悪の〈闇の魔術師〉だという評判をきずいて、()()()()捕らえたマグルから得ていた黄金と血の供物がちょうど底をついて、落ち目にむかいはじめるときを待っていた。 もしダンブルドアがああやって気高い魔法使いとして自分を見せかけているとおりの人物だったなら、とっくにグリンデルヴァルトと対決していたはずだ。 ダンブルドアはおそらくヨーロッパを破壊()()()()()んだ。きっとそれが二人の計画の一部だったんだ。ダンブルドアは傀儡が()()()()()ことではじめて攻撃に出た。 あの華ばなしい決闘も偽装だ。あんな風に、二人の魔法使いがぴったり互角の能力を持っていて、二十時間連続で戦ってやっと片ほうが消耗しきって倒れるなんて、ありえない。すべてはダンブルドアの演出だ。」  ドラコの声がここでさらに怒りをおびた。 「そのおかげでダンブルドアは()()()()()()()()()()()()()にまでなった! 〈マーリンの不断の線条〉五百年の歴史が汚されてしまった! それであきたらず、最上級裁判長にもなったうえに、無敵の要塞として使えるホグウォーツもすでに手中にしていた——総長と主席魔法官と最上級裁判長の兼務なんて、まともな人のやろうとすることじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ちょっと時間をくれ。」と言って、ハリーは目をとじて考えた。

 

スターリン時代のロシアについて西側諸国で言われていたこともきっとこれくらいひどかっただろうが、あちらの噂はどれも真実ではなかった。 しかし純血主義者も完全なでっちあげをしたりすればさすがにバレていたはず……だろうか? 『予言者日報(デイリー・プロフェット)』が堂々と捏造報道をすることは確認ずみだ……とはいえ、『デイリー・プロフェット』といえどもウィーズリー家のあの婚約話でやりすぎたときには糾弾され、恥をかかされていた……

 

ハリーは目をひらいた。ドラコがじっと期待する目でこちらを見ていた。

 

「つまり、ダンブルドアと同盟しにいくのか、ときみがさっき聞いたのは、試していただけだったのか。」

 

ドラコはうなづいた。

 

「そのまえの、話としてはまともだ、というせりふも——」

 

「まともな話に聞こえはするよ。 でもきみが信用できるかどうかがわからない。 ()()()()ことで文句を言うつもりか、ミスター・ポッター? ぼくに()()()()()()()()()()と言える立ち場か?」

 

一本とられた、と言ってにやりと笑っていられればよかったのだが、ハリーにはできなかった。落胆が大きすぎた。

 

ハリーはかわりにこう言った。「たしかにそうだ。おたがいさまだから、ぼくは文句を言えない。 じゃあ〈名前を言ってはいけない例の男〉については? 噂されているほどの悪人じゃない、とか?」

 

そう聞いてドラコは苦にがしげな表情をした。 「つまり、父上の陣営をよく見せて、ダンブルドアの陣営をわるく見せるためだけにこう言っているんだと思うのか。ぼくは父上に言われたことをそのまま信じているだけだ、と思っているのか。」

 

「そういう可能性も想定の範囲内にある。」とハリーは中立的に言った。

 

ドラコの声が低くなり、熱をおびた。 「彼らだって知っていた。父上も、父上の仲間もみんな知っていた。 〈闇の王〉は邪悪だと()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ダンブルドアとまともに戦えるだけのちからがあるのは〈闇の王〉だけだった! 〈死食い人〉のなかには、ほんとうに邪悪な人もいた。ベラトリクス・ブラックがそうだ——でも父上はそうじゃなかった——だけど、父上たちはああするしかなかった。ああするしかなかったんだ。あらゆる面にダンブルドアの支配がおよんできていたあの状況では、〈闇の王〉にすがるしかなかった!」

 

ドラコはハリーをしっかりと見つめている。ハリーは視線をあわせながら、考えようとした。 自分自身についての物語で、自分を悪役とみなす人などいない——もしかするとヴォルデモート卿や、ベラトリクスはそうしたかもしれないが、ドラコはまずしない。 〈死食い人〉が悪であったことは、問うまでもない。 問うべきは、〈死食い人〉()()()悪であったかどうかだ。この物語の悪は()()()なのか、()()()なのか……

 

「納得していないんだな。」とドラコが言った。 不安そうで、同時にすこし怒ってもいる。 おどろくことではない。 ドラコはきっと、このすべてを信じているのだろうから。

 

「ぼくは納得()()()なのか?」 ハリーは視線をそらさないまま言う。 「きみが信じているから、という理由で? 十分強い合理主義者なら、真実でないことを信じる可能性はほとんどないから、その人が信じているというだけが十分な証拠になる。きみがそんな合理主義者だと言えるか? ぼくと会ったときのきみはそうじゃなかった。 きみは科学者として目覚めてから、それまでぼくに話していたようなことを再検討してみたか? それとも子どものころから信じていることそのままなのか? いまの話のなかにたったひとつでも真実でないことが混ざっていたら、たったひとつでもダンブルドアの悪を強調するためにつけくわえられた嘘があったら、きみは自分で気づけていると思うか? マルフォイ家の名誉にかけて、ぼくの目を見てそうだと誓えるか?」

 

ドラコが口をひらこうとしたので、ハリーは言った。 「いや、無理だろう。マルフォイ家の名誉を汚すなよ。 きみはまだそこまで強くない。それはわかっているはずだ。 よく聞いてほしい。ぼく自身、いろいろあやしげなことがありそうだと気づいてはいる。 でもどれも()()()ではないし()()でもない。すべては推論と仮説と信頼できない目撃談にすぎない……。 きみのしてくれた話にもなにも確実なことはない。 ダンブルドアが何年もグリンデルヴァルトと戦わなかったのには別のちゃんとした理由があったかもしれない——といっても、マグルから見ればどういうできごとだったかを考えれば、相当ちゃんとした理由でないと説明にならないけれど……それにしてもだ。 ダンブルドアが()()()やったことで、あきらかに邪悪なことはあったのか? あるなら、ぼくも迷う必要はなくなる。」

 

ドラコの息があらくなった。 「わかった。ダンブルドアがなにをしたか、話そう。」 不安定な声でそう言うと、ドラコはローブから杖をとりだし、「〈音消(クワイエタス)〉」と言った。もう一度「クワイエタス」と言ったが、二度目は発音が悪かった。そこでハリーは自分の杖をとりだし、かわりに言った。

 

「昔、ずっと昔、ナルシッサという女性がいた。スリザリン寮の歴史上、一番美人で、あたまがよく、抜け目のない女子生徒だった。 父上は彼女を愛し、結婚した。彼女は〈死食い人〉にならなかった。戦闘に参加してもいない。それが、ただ父上を愛したというだけで——」  ドラコはそこで口をつぐんだ。泣いている。

 

ハリーは不吉な予感がした。 ドラコの口から()()の話を聞いたことはいままで一度もなかった。もっとはやく気づいているべきだった。 「……なにかの呪いの巻き添えにされたとか?」

 

ドラコの声は悲鳴になった。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

◆ ◆ ◆

 

やわらかな銀色の光に満ちた教室に、少年が一人いて、もう一人の少年をじっと見ている。もう一人の少年は声をあげて泣き、ローブのそでで両目を必死にぬぐっている。

 

ハリーは、判断を先のばしにして中立をたもつのがむずかしくなった。あまりに感情的な話なので、こうなるとドラコに同情して自分も涙をながすか、そうでなければその話がうそであると()()()()()()ような気がしてしまう……

 

『母上は自分の寝室で、ダンブルドアに焼かれて死んだ!』

 

というのは……

 

……ダンブルドアの流儀らしくない……

 

……だがこう何度も同じことを思ったあとでは、『流儀』という概念そのものが信用できるのか、うたがわしくなってくる。

 

「ど……どんなにひどい苦痛だったか。」と言うドラコの声が震えている。 「父上は一度も話してくれたことがないし、だれも父上のまえで話さない。けれどミスター・マクネアが教えてくれた。寝室はどこも焦げあとだらけで、それだけで、母上がダンブルドアに()()()()()()()()()()()抵抗したことがわかると。 ダンブルドアはマルフォイ家に対してそれだけの債務がある。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ドラコ……」と言いながらハリーは声をかすれたままにした。いまは落ちついた口調はふさわしくない。 「質問すること自体申し訳ないんだけど、これは()()()()()必要があるんだ。どうやってそれがダンブルドアのしわざだと——」

 

「ダンブルドア自身が、やったと言った。これは警告だと、父上に言ったんだ! 父上は〈閉心術師〉だから〈真実薬〉ありの証言ができない。ダンブルドアを裁判にかけることもできなかった。 ダンブルドアが公然とすべてを否定したのを聞いてからは、父上の協力者でさえ信じようとしなかった。でもぼくらは知っている。〈死食い人〉たちは知っている。父上がうそを言うべき理由はなにもない。父上なら()()()への復讐をのぞむからだ。なぜわからないんだ、ハリー?」

 

ただし、もちろん、ルシウスが自分でやったのであれば……そしてダンブルドアになすりつけると都合がいいと思ったのであれば、話は別だ。

 

だが……それはそれで()()()()()流儀らしくない。 ルシウスがナルシッサを殺したのなら、もっと手ごろな被害者になすりつけるほうがかしこい。ダンブルドアを相手にそうしてしまっては、政治的資本と信頼をうしなうばかりだ……

 

しばらくしてドラコは泣きやんで、ハリーのほうを見た。 「返事はどうした? これだけ邪悪なら満足か、ミスター・ポッター?」  ドラコは吐きすてるような口調でそう言った。

 

ハリーは椅子の背にのせた自分の両手に視線をおとした。 ドラコの目を見るのに、その生なましすぎる痛みを直視するのに、耐えられなくなった。そしてそっと口をひらいた。 「そんな話だとは思わなかった。いまはもう、どう考えていいかわからない。」

 

()()()()()()()?」と、ドラコは悲鳴のような声をあげて、だしぬけに席を立った——

 

「ぼくは〈闇の王〉に両親を殺されたときのことを思いだした。 一度目にディメンターと対面したときに、自分の最悪の記憶を思いだした。 これほどの時間がたっているのに。 二人が死ぬときの声を聞いた。 ぼくを殺さないでと、お母さんが〈闇の王〉に懇願するのを聞いた。 『どうかハリーだけは。わたしを、殺すならわたしを!』と言っていた。 〈闇の王〉はそれをあざけって、笑った。 それから、緑色の閃光が——」

 

ハリーはドラコに視線をもどした。

 

「ぼくらはこのままけんかしつづけてもいい。 きみは、ぼくのお母さんは死んで当然だったと言う。ジェイムズは〈死食い人〉を殺したから、ジェイムズの妻は死ぬべきだと。 でも()()()お母さんが死ぬのはおかしい、きみのお母さんに罪はない、と言う。 いっぽうでぼくは、きみのお母さんは死んで当然だった、ダンブルドアにも彼女を寝室で生きたまま焼き殺すだけのちゃんとした()()があったはずだ、でも()()()お母さんが死ぬのはおかしい、と言う。 でもドラコ、どちらにしろ、ぼくらにバイアスがかかってるのはあきらかじゃないか? 罪のない人を殺すのはまちがっている、というのがルールだ。そのルールをぼくのお母さんにだけ有効にして、きみのお母さんに無効にするのはおかしいし、きみのお母さんにだけ有効にして、ぼくのお母さんに無効にするのもおかしい。 リリーは〈死食い人〉の敵だから殺してもいい、と言うのなら、おなじルールで、ダンブルドアはダンブルドアの敵であるナルシッサを殺してもいいはずだ。」  ハリーの声がかすれた。 「つまりぼくらがなにか合意できるとすれば、どちらのお母さんも死ぬべきだったということにするか、死んでいいお母さんなど一人もいないということにするかだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

からだのなかで怒りが煮えたぎって、ドラコは部屋を飛びでてしまわないようにすのがやっとだった。 それをとめてくれたのは、これが決定的な瞬間だという認識、友情のわずかな残滓、そしてちらりとまたたく同情の光だった。ドラコは()()()()()。ハリーも母親と父親の()()を〈闇の王〉の手で殺されたのだということを、忘れていた。

 

二人はしばらく無言のままだった。

 

「我慢しなくていいよ。ドラコ、言いたいなら言ってくれ。ぼくは怒らないから—— もしかすると、ナルシッサの死のほうがリリーの死よりずっとひどかった、 くらべものにもならないほどひどかった、と思ってるんじゃないか?」

 

「こちらも愚かだった。これまで……これまで、ずっと忘れてしまっていた。きみは〈死食い人〉に両親を殺された。だからぼくがダンブルドアと憎むのとおなじように、きみは〈死食い人〉を憎んでいておかしくない。」  なのにハリーはなにも言わなかった。ドラコが〈死食い人〉の話をしたときでさえ、()()()()()——ドラコは愚かだった。

 

「いや、ぼくはそうは——そういうことじゃないんだよ。どうやって説明すればいいのかわからないけど、ただ、そういう風に考えても……」  ハリーは声をつまらせた。 「いくらそういうことを考えても、〈守護霊の魔法〉は使えない……」

 

ドラコは急に胸がしめつけられるように感じた。不本意だったが、そう感じた。 「きみは自分の両親のことを()()()ふりをするのか? ぼくも母上のことを()()()と?」

 

「だからって、きみとぼくは敵どうしになる必要があるのか?」  こんどはハリーのほうも声をあらげた。 「ぼくら自身のあいだで、おたがいを敵にするようなできごとがあったか? ぼくは、そういうこりかたまった思考をするつもりはない! 正義のために()()()()()()()()()()()攻撃すべきだ、なんていうのはおかしい。意味がわからない!」  ハリーは言いやめて、深呼吸をしてから、乱れた髪型の髪に指をつっこんだ——そこから出てきた指はドラコからも目に見えて汗ばんでいた。 「聞いてくれ、ドラコ。おたがい、いますぐすべてに合意するのは無理だ。 だから〈闇の王〉がぼくのお母さんを殺したことが()()()()()()()、と認めてもらおうとは思わない。ただ……()()()ことだったと認めてくれないか。 それが()()だったかどうかはいい。()()()できるかどうかもいい。 ただ、そうなってしまったことは悲しいと認めてほしい。ぼくのお母さんの命も惜しむべきものだったと言ってほしい。いまはそれだけでいい。 ぼくもナルシッサが死んだことは悲しいと認める。ナルシッサの命も大事だったからだ。 いますぐにすべてに合意するのは無理だろうけど、だれの命も尊い、()()()()()()()悲しいことだと認めるところからはじめれば、いつか分かりあうことはできる。 言いたかったのはそういうことだ。 だれが正しいとも、 だれがまちがっているとも言わない。 きみのお母さんが死んだことは悲しい。ぼくのお母さんが死んだことも悲しい。ハーマイオニー・グレンジャーが死んだらやはり悲しい。だれの命も尊いものだ。まずそこに合意して、のこりは後まわしにできないか? それだけ合意できれば、いまはいいんじゃないか? できるだろう? こういう思考なら……〈守護霊の魔法〉に使えてもおかしくない。」

 

ハリーの目になみだが見えた。

 

ドラコはまた怒りを感じた。 「ダンブルドアは母上を()()()。これが()()()と言うだけですむか! きみ自身の立ち場でどうすべきだと思ってるのかは知らないが、マルフォイ家としては、復讐以外の選択肢はない!」  家族を殺されたことについて復讐しない、というのは弱いどころではない。恥辱どころでもない。自分が存在しなくなるほうがましだ。

 

「その点については反論しない。でもリリー・ポッターの死も悲しいことだったと言えないか? すくなくともこの一点だけは認められないか?」

 

「それは……」  ドラコはまたどう言えばいいか分からなくなった。 「ハリー、きみの気持ちはわかる。でも、わかってくれないか。リリー・ポッターの死が()()()と言うだけでも、ぼくは〈死食い人〉にさからうことになるんだ!」

 

「ドラコ、きみは〈死食い人〉もときにはまちがうんだと認めてくれないと! そうでなければ、科学者として進歩することはできない。自分がさからえない権威というのは、進歩をとめる障害物だ。 変化がいつも改善を意味するわけではないけれど、改善はいつも変化だ。やりかたを変化させないかぎり、改善はやってこない。そうやってはじめて、なにかを他人よりうまくできる可能性がうまれる! きみのお父さんについてもおなじだ。 お父さんがやったなにかについて、まちがいだったと言える必要がある。お父さんも()()ではないからだ。それが言えないなら、きみはお父さんよりよくなれない。」

 

こういうことは父上からすでに警告されている。ホグウォーツに入学する直前の一カ月、毎夜眠るまえに警告された。こういう目標をもつ人がいるのだと警告された。

 

「ぼくを父上から離れさせようとしているんだな。」

 

「きみの()()を離れさせようとしている。 きみのお父さんがまちがえたことをきみが修正できるようにしようとしている。 きみが()()()()なれるようにしようとしている。 でも……きみの〈守護霊〉をなくそうとはしないよ!」  ハリーの声が小さくなった。 「あれだけあかるいものを壊したくはない。スリザリン寮を治療する人には、あれも必要かもしれない……」

 

ここが重要なのだということが、だんだんはっきりしてきた。だんたんはっきりしてきているにもかかわらず、ハリーを相手にするときはとても注意する必要がある。ハリーの論法は()()()()()()()()()()()()()()説得力がある。 「でもきみはまだ()()()()()()()。ダンブルドアに指示されているんだろう。両親の死の復讐をしたければ、マルフォイ卿から息子をうばえと——」

 

「ちがうんだって。そこは単純に勘違いだ。」  ハリーは深く息をすった。 「ぼくはダンブルドアがだれか知らなかった。〈闇の王〉がだれかも知らなかった。〈死食い人〉のことも、両親がどうやって死んだかも知らなかった。ホグウォーツに来る日の三日まえ、きみと服屋であったあの日に、はじめて知ったんだ。 そもそもダンブルドアはマグル科学をよく思っていない。すくなくとも、本人のことばどおりなら。このことは以前本人に聞いてみる機会があった。 きみを通じて〈死食い人〉に復讐するなんてことは、いままで考えたこともなかった。きみに言われるまで一度も思いつかなかった。 ぼくは服屋できみにあったときマルフォイ家のことを知らなかった。それで、きみと気が合った。」

 

そのあと長く沈黙がつづいた。

 

「できればきみを信頼したい。」というドラコの声は震えている。 「きみがうそをついていないとわかる方法さえあれば、ずっと簡単なんだが——」

 

そう言ってからドラコははっと気づいた。

 

ハリー・ポッターがこの話を本気で言っているかどうか、本気でスリザリン寮を治療しようと言っているのかどうか、母上が死んだことは悲しいと言っているのかどうか、たしかめる方法がある。

 

非合法なやりかたではある。それに父上の助けを借りることにならざるをえないから、()()もある。ハリー・ポッターが協力するかどうかすら、わからない。だが……

 

「よし。決定的な実験の方法を思いついた。」とドラコ。

 

「どんな方法?」

 

「きみに〈真実薬〉を一滴飲んでもらう。 一滴だけだ。それで、うそはつけなくなる。でも回答を強制するほどの強さではない。 どこから調達するかは決めてないが、安全性はきっと保証する——」

 

「あの……」と言ってハリーは無力そうな表情をした。「ドラコ、あの、ちょっと——」

 

「やめたほうがいいぞ。」  ドラコの声はかたく静かだ。 「ことわるなら、それ自体がもう実験結果だ。」

 

「いや、ぼくは〈閉心術師〉だから——」

 

「今度はなにをふざけたことを——」

 

「ミスター・ベスターに訓練してもらった。 クィレル先生のお膳立てだ。 もちろん、調達してくれるなら、〈真実薬〉を一滴飲むのはかまわない。 ただぼくは〈閉心術師〉だということを警告しておきたかっただけだ。 完全な〈閉心術師〉とまでは言えないけど、遮断はちゃんとできている、とミスター・ベスターは言っていた。だから多分〈真実薬〉には対抗できる。」

 

「きみはまだホグウォーツ一年生だろうが! そんなのはおかしすぎる!」

 

「信頼できる〈開心術師〉をだれか知っている? 実演してみせてもいいよ——申し訳ないとは思うけど、ほら、こうやって自分から話したんだからちょっとは認めてくれないか? なにも言わずにやらせてもよかったんだから。」

 

なぜだ? ハリー、なぜきみはいつもそうなんだ? なぜいつもそうやって不可能なことをしてむちゃくちゃにするんだ? それとその笑顔もやめろ。笑いごとじゃない!

 

「ごめん、ごめん。笑いごとじゃないのはわかってるよ、ただ——」

 

ドラコは自分を落ちつかせるのにしばらくかかった。

 

でもハリーが言っていることはただしい。 ハリーはなにも言わずに、ドラコから〈真実薬〉を飲ませられていてもよかった。 〈閉心術師〉だというのが事実ならば、だが……。 〈開心〉をさせる人のこころあたりはないが、すくなくともクィレル先生に事実なのかたずねることはできる……。 ドラコは()()()()()()を信用していいのか? クィレル先生はハリーに言われたとおりのことを言うだけだったりしないだろうか。

 

そこでドラコはハリーがクィレル先生に聞けと言ったもうひとつのことを思いだし、別の実験を思いついた。

 

「きみにはわかっているはずだ。」とドラコは言う。「ぼくにとってどれだけの代償を意味するのかは、わかっているはずだ。仮にマグル生まれこそスリザリン寮の病巣だと認めたらどうなるか。リリー・ポッターの死は悲しいことだと認めたらどうなるか。 それも()()()()()()()()だろう。そうじゃないと言っても無駄だ。」

 

ハリーはなにも言わない。賢明な選択だ。

 

「お返しとして、きみからもらいたいものがある。そのまえにひとつ、実験で検証してみたいこともある——」

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコはいくつかの肖像画に指示されて来た場所のドアを押して開けた。今回は正解だった。 そのさきにあったのは石造りの狭い空間で、眼前には夜空がひらけている。 このあいだハリーを落とした屋根などとちがって、小さいがちゃんとした中庭だ。ちゃんとした欄干もあり、石壁の緻密な細工は継ぎ目なく床までつづいている……。 いったいどうすればこれだけの()()()()()をホグウォーツ城生成時にそそぎこむことができたのか。そう考えるだけでドラコはいつも驚嘆させられる。 一度に全体をどうにかする方法があるにちがいない。一部屋一部屋をすべてこれほど詳細につくれる人などいない。そもそも、この城は()()()()し、あたらしくできた部屋もひとつひとつが見劣りしないできばえだ。 これは衰退したこんにちの魔術をはるかに超えている。この城という証拠物がなければ、こんなことが可能だとはだれも信じないだろう。

 

雲はなく、寒ざむしい冬の夜空。暗くなる時間は生徒の門限よりずっとはやい。そろそろ一月も終わりだ。

 

透きとおった大気のむこうで、星ぼしはあかるくかがやいている。

 

星のしたにいるほうがやりやすい、というのがハリーの意見だった。

 

ドラコは胸に杖をあて、なれた手つきで指をうごかし、「サーモス」と言った。 心臓の位置から温熱がひろがる。風は顔にふきつけているが、寒さは感じなくなった。

 

「サーモス」と、うしろでハリーの声がした。

 

二人はいっしょに欄干まで歩き、はるか下の地面を見おろした。 ドラコは自分がいる塔が外部に露出している塔なのか、見さだめようとしたが、いまの自分は、ホグウォーツ城が外部からどう見えるのかを思いうかべられないようだった。 だが眼下の地上の景色はいつもかわらない。〈禁断の森〉のへりがうっすらと見え、ホグウォーツ湖はあかるい月光を映している。

 

「そういえば。」  ハリーがとなりで両腕を欄干にあずけて、話しはじめた。 「マグルがうまくやれていないことがひとつある。夜に照明を消さないことだ。 一カ月に一度でも、一年に十五分でも、やればいいのに。 光子は大気中に散らばって、あかるい星でさえ覆いかくしてしまう。どんな都市からも離れた場所でないと、夜らしい空はちっとも見えない。 ホグウォーツ城の上の空を一度見たら、マグル都市に住んで星を見られなくなることはとても考えられなくなる。 この夜空の星を一度見たら、マグル都市で一生をすごしたいとはまず思わなくなる。」

 

ドラコがちらりと目をやると、ハリーはくびをのばして、暗黒の空を横断する〈天の川〉の方向をじっと見あげていた。

 

「でももちろん、」とハリーはやはり静かな声で言う。「()()からではちゃんと星を見ることはできない。大気がじゃまになる。 燃えてかがやくほんものの星の真のすがたを見たいなら、ほかの場所から見ないといけない。 ドラコ、きみは夜空に飛びだして、この太陽系以外の太陽まで出かけて、そこにあるものを見てみたいと思ったことはないか? もし自分の魔法に限界がないとしたら、なんでもできるようになったとしたら、そういうこともしてみたいと思う?」

 

二人は無言になり、ドラコは返事を期待されていることに気づいた。 「いままで考えたことはなかった。」  意識的にそうしたわけではないが、ハリーとおなじくらい声がひそやかになった。 「ほんとうに人間にそんなことができると思うのか?」

 

「簡単ではないと思う。でもぼくは、地球で一生を終えるつもりはない。」

 

一笑に付していい発言だった。魔法すら使わずに地球を離れたマグルがすでにいる、ということを知るまえのドラコなら、きっとそうしていた。

 

「きみのテストに合格するために、ぼくは自分にとってそれがなにを意味するかを言う。これまでに説明しようとした簡略版じゃない、その思考の全体を。 でもそれがおなじ思考であって、一般化したにすぎないことはわかるはずだ。 その思考というのはこうだ。星ぼしを旅するとき、ぼくたちはだれかに出会うかもしれない。そういうだれかが仮にいたとして、まずまちがいなく、ぼくたちのようなすがたはしていない。 宇宙には、水晶から生まれるものもいるかもしれないし、脈うつ巨大な肉塊かもしれない……いや、考えてみれば、魔法力でできたものかもしれない。 それだけの異物を相手に、どうやって()()があるとわかる? まず、すがたかたちではない。腕の数や足の数は役にたたない。素材の種類でもない。肉であれ水晶であれ、想像をこえたなにかであれ、関係ない。 人格があるかどうかを知るには、()()を知るしかない。 精神ですらも、きっとぼくたちの精神とおなじような動きかたはしない。 でもそれがなんであれ、生きていて、思考して、自分のことを知っていて、死にたくないと願うことができるなら、その『人』が死にたくないのに死ぬのは、悲しいことだ。 宇宙にいるかもしれない種族とくらべれば、人類として生まれた人は全員、兄弟や姉妹のようなもので、ほとんど見分けがつかないくらい、おたがいに似ている。 宇宙でぼくたちが出会う別の種族から見れば、イギリス人もフランス人も見分けがつかない。ただ、人類でしかない。 愛し、憎み、笑い、泣くことのできる人類。 それだけで、むこうの種族からすれば、ぼくたちはうりふたつに見える。 人類とその種族とのあいだには、ちがいがある。大きなちがいがある。 でもいくらちがっていても、ぼくらがその気になれば、彼らがその気になれば、友だちになることができる。」

 

そう言ってからハリーは杖をあげた。ドラコは向きをかえ、事前の約束どおり、目をそむけた。 石畳、そして石壁にはめられたドアのほうを見た。 こうやって見ないこと、ハリーから聞いた話をだれにもしないこと、そして今夜のできごとすべてを秘密にすることをドラコは約束していた。なぜそこまで秘密にすべきことなのかは分からなかった。

 

「ぼくには夢がある。」とハリーの声がした。「いつか、意識を有する生命が自分の色や形や材質や親ではなく、自分自身の精神のパターンによって評価される日がくる。 いつか水晶人と仲よくなれるとしたら、いまマグル生まれと仲よくなれないのはバカらしすぎるだろう? マグル生まれはぼくたちと似たすがたで、似た思考をしていて、水晶人から見ればちがいなんかない。 星ぼしに出かけようというとき、スリザリン寮をむしばむ憎悪を連れていくことなんか、まったく考えられないだろう? 生命はすべて尊い。思考し、自我があり、死にたくないと思うことができる存在はすべて尊い。 リリー・ポッターの命もそうだった。ナルシッサ・マルフォイの命もそうだった。いまとなっては遅すぎるけれど、二人が死んだことは悲しい。 でも、たたかって守るべき命はまだほかにある。 きみの命も、ぼくの命も、ハーマイオニー・グレンジャーの命も、地球上のすべての命も、それ以外のすべての命も、守る価値がある。エクスペクト・パトローナム!

 

そして光があった。

 

その光ですべてが銀色になった。石畳にも、石壁にも、ドアにも、欄干にもまばゆい光が反射して、ほとんど見えなくなった。空気自体がかがやくように見え、その光はさらに、どんどんあかるくなっていく——

 

光が消えたとき、ドラコは痛烈な衝撃を感じて、無意識にローブのなかに手をやりハンカチをとった。そのときはじめて、自分が泣いていることに気づいた。

 

「これが実験結果だ。」とハリーの声が静かに言う。「いま言っていたことは本気だよ。」

 

ドラコはゆっくりと向きをかえてハリーに対面する。ハリーはもう杖を下げていた。

 

「なにか……なにかトリックがあるんだろう?」  あんな衝撃をまた投げつけられたらたまらない。 「〈守護霊〉が——あそこまであかるくなるはずは——」  だがあれは、たしかに〈守護霊〉の光だった。一度そう気づくと、とてもほかのものには見えなくなる。

 

「あれは()()〈守護霊の魔法〉だ。 こころのなかのたがを外して、自分のちからをすべて〈守護霊〉にそそぎこむことができる方法だ。 質問されるまえに言っておくと、ダンブルドアから教わったんじゃないよ。 ダンブルドアはこの魔法の秘密を知らないし、知ったとしても使えない。 この謎はぼくがひとりで解いたんだ。 一度理解したら、この呪文のことを人に言ってはならないということにも気づいた。 きみのために、ぼくはこの実験をしてみせた。でもこのことはかならず秘密にしてもらうよ、ドラコ。」

 

ドラコはもうわからなくなった。真の強者はだれか、真の正義はなにかがわからなくなった。 複視。複視だ。 ハリーの理想論は弱さだ、と言いたくなる。ハッフルパフ的なバカげたうそだ。支配者が民衆をなだめるために使ううそだ。そんなことを信じるなんてハリーは愚かだ。愚かな考えをまじめに受けとって、ありえないほど高く持ちあげて、星ぼしにまで投影している——

 

そしてそれは美しく、ひそやかで、謎めいていて、かがやかしい——

 

「ぼくも、いつか、あの〈守護霊の魔法〉をつかえるようになるか?」とドラコは小声で言った。

 

「つねに真理をもとめていれば、そしてぬくもりあるイメージができたときに拒否しないでいれば、きっとできる。 だれでも、進みつづけさえすれば、どこにでもいけるとぼくは思う。星ぼしにでも。」

 

ドラコはもう一度ハンカチで両目をぬぐった。

 

「もう中にもどったほうがいい。」とドラコは安定しない声で言う。「だれかに見られたかもしれない。あれだけの光だ——」

 

ハリーはうなづいて歩きだし、扉を通った。ドラコはもう一度だけ夜空を見あげて、そのあとにつづいた。

 

〈死ななかった男の子〉とは何者だろう。すでに〈閉心術〉ができて、真の形態の〈守護霊の魔法〉を使えて、ほかにもいろいろ奇妙なことができるこの少年は何者だろうか。 ハリーの〈守護霊〉はどんな〈守護霊〉なのか。なぜ他人に見せてはならないのか。

 

ドラコはどの問いも口にしなかった。ハリーは()()()()()()()かもしれないし、ドラコは今日はもうこれ以上の衝撃に耐えられない。もう無理だ。 もうひとつ衝撃があれば、ドラコのあたまは肩からころりと落ちて、ホグウォーツ城じゅうの廊下をはねて転がっていってしまう。

 

◆ ◆ ◆

 

二人は教室までもどる手間をはぶいて、廊下の小さな壁龕(アルコーヴ)にはいった。これ以上あとまわしにしたくないと思って、ドラコがそう頼んだのだった。

 

ドラコは〈音消〉の障壁をつくってから、無言でたずねるようにハリーのほうを見た。

 

「ずっと考えてたんだけど、やるよ。でも五つ条件がある——」

 

()()だと?」

 

「そう。五つ。こういう誓いのことばっていうのは、うっかり自分から大失敗を招こうとするようなものじゃないか。ほら、もし芝居でこういう場面があったなら、あとで誤算が発生するものと決まってるだろう——」

 

「でもこれは芝居じゃない! ダンブルドアは母上を殺した。 ダンブルドアは邪悪だ。 きみはいつもそういう言いかたをする。でも複雑に考える必要はなにもない。」

 

「ドラコ……」と言うハリーの声が慎重になった。「ぼくが()()()()()のは、ダンブルドアがナルシッサと殺したという話をダンブルドアがした、と()()()()()言っている、と()()()言ったということだけだ。 これをうたがいなしに受けいれるには、きみとルシウスとダンブルドアの全員を信用する必要がある。 だからいま言ったとおり、条件がある。 最初の条件はこうだ。()()()いつでも、もう誓いを守らせてもいいことがないと思えば、ぼくをこの誓いから解放することができる。 もちろん、きみ自身の意思と意図でそう判断した結果でなければならず、言葉尻をとらえたトリックとかでは無効だ。」

 

「問題ない。」 この条件は安全そうだ、とドラコは思った。

 

「条件その二。ぼくが誓うのは、合理主義者としての自分の能力を公正に適用してナルシッサを殺した真犯人の正体を調べあげて、見つかった人物をぼくの敵と見なすことだ。 それがダンブルドアであれ、ほかのだれかであれ。 ぼくは合理主義者としてできるかぎりのことをして、純粋に公正な判断をするようにつとめると保証する。 同意できる?」

 

「気にいらない。」とドラコは言った。 実際、気にいらない。ハリーがダンブルドア陣営につくのを防ぐというのが、こうやって誓わせるそもそもの目的だ。 とはいえ、公正にやりさえすれば、ハリーは遠からずダンブルドアの正体に気づくだろう。公正にやらないなら、それで誓いをやぶったことになる……。「でも同意しよう。」

 

「条件その三。ナルシッサは()()()()()()()()()、というのが事実でなければならない。 もしあの話のこの部分が、犯人を悪者に見せるためにすこしでも誇張されていたことが分かったりしたら、そのとき、この誓いを破棄するかどうかを選択する権利はぼくにある。 善人も人を殺さざるをえないことがある。 でも善人は人を拷問して殺したりはしない。 ナルシッサが()()()()()()()()()ことではじめて、その犯人が邪悪だと言える。」

 

ドラコは冷静さをうしないかけたが、なんとか持ちこたえた。

 

「条件その四。もしナルシッサ本人が悪事に手をそめていたなら、たとえば、ナルシッサがだれかの子どもを〈拷問(クルシオ)〉して発狂させたのだったら、そして犯人がナルシッサを焼いたのはその復讐のためだったなら、その場合もこの約束は無効だ。 ナルシッサを焼き殺すことがまちがっているのは変わらないし、苦痛をあたえずに殺していたほうがよかったとは言える。 でもそうなると、彼女はルシウスを愛しただけで自分ではなにもしていない、というきみの説明がくずれる。おなじ()()さではなくなる。 条件その五。もしナルシッサを殺した人がなんらかの罠にかかってそうしたのだったら、罠にかかったほうではなく、罠をかけたほうがぼくの敵だ。」

 

「どうも、あとで使える逃げ道を用意しているみたいにしか聞こえないんだが——」

 

「ドラコ、ぼくは善人を敵と宣言したくないんだ。きみのためでも、だれのためであっても。 その相手がほんとうに悪なんだと信じられる必要がある。 でも、仮にナルシッサ本人がなにも邪悪なことをしていなくて、ルシウスと恋に落ちて妻でありつづけただけなら、だれがナルシッサを寝室で生きたまま焼いたのだとしても、そいつは善人じゃないと思う。 その犯人がダンブルドアだったとしても、ほかのだれかだったとしても、ぼくはそいつを敵と宣言する。きみが自分の意思でぼくを誓いから解放しないかぎり、そうする。 ここまでしておけば、きっと芝居にあるような誤算はふせげるんじゃないかと思う。」

 

「不本意だが、わかった。 きみはぼくの母を殺した人を敵と宣言すると誓う。そしてぼくは——」

 

ハリーは待っている。ドラコがもう一度声をだそうと努力するあいだ、辛抱づよい表情をして待っている。

 

「マグル生まれへの憎悪というスリザリン寮の問題をきみが解決しようとするのを手つだう。」  そしてドラコは小声になって最後のひとことを言った。 「そして、リリー・ポッターが死んだことは悲しいと認める。」

 

「誓約は成立した。」とハリーが言った。

 

それで決着がついた。

 

間隙がすこし広がったことにドラコは気づいた。いや、すこしではなく、かなりの幅になった。 自分が漂流をはじめたような、喪失の感覚がある。岸からどんどん離れ、ふるさとからどんどん離れていく……

 

「ちょっと待ってくれ。」と言ってドラコはハリーに背をむけ、自分を落ちつかせようとした。このテストはどうしてもしておかなければ。そして、不安や恥ずかしさのせいで失敗しないようにしたい。

 

ドラコは杖をかかげ、〈守護霊の魔法〉の開始姿勢をとった。

 

ホウキから落ちたときのことを思いだす。あの痛みを、恐怖を思いだす。それが背のたかいマントすがたの水死体のような人影から来ていると想像する。

 

そしてドラコは目を閉じた。そうすると、自分の冷たい小さな手をつつむ、父上の力強くあたたかな手のことが、ありありと思いだせる。

 

もうこわがることはないぞ、わたしがついている……

 

杖を思いきりふりかざし、恐怖を散らそうとしたとき、ドラコはその強さにおどろいた。 そのときドラコは、自分は()()()うしなってはいない、ということを思いだした。父上はこれからもずっと、ドラコになにがあろうと、一人の人間として健在でありつづける。「()()()()()()()()()()()()()()

 

目をあけると、光かがやくヘビがこちらを見かえしていた。さきほどと変わらないあかるさだ。

 

うしろで、ハリーがほっとしたように息をはくのが聞こえた。

 

ドラコは白い光をじっとのぞきこんだ。 けっきょく、すべてがダメになってしまったわけではないらしい。

 

しばらくしてハリーが口をひらいた。「ところで、〈守護霊〉を使ってメッセージを送るやりかたの仮説があるんだけど、テストしてみない?」

 

「ぼくがおどろくようなやりかたか? 今日はもうこれ以上、おどろかされるのはごめんだぞ。」

 

◆ ◆ ◆

 

この方法はとくに奇妙ではないし、ドラコがすこしでもショックを受けそうなおそれはまったくない、というのがハリーの主張だった。そう聞いてなぜか、ドラコは余計に不安になった。 だが、緊急時にメッセージを送る手段があるのがどれだけ重要かは、ドラコにもわかっていた。

 

鍵となるのは——すくなくとも、ハリーの仮説では——よい知らせを広めたいという意思、つまり自分が〈守護霊(パトローナス)魔法(チャーム)〉をかけるときに使った幸せのイメージをそのまま受け手に知らせたいという意思だ。 それをことばで表現して伝えるかわりに、〈守護霊〉そのものがメッセージとなる。 相手に伝えたいという気持ちにより、〈守護霊〉が相手のところへ行く。

 

「ハリーへの伝言だ。」とドラコは発光するヘビに言う。ハリーは教室の反対がわにいて、ほんの数歩しか離れていないのだが。「その、緑色のサルに気をつけろ、と。」  これは昔ドラコが見た芝居で使われていた暗号だった。

 

それから、父上がドラコのことをいつも気にかけてくれるということを、ちょうどキングスクロス駅で話したときのように、ハリーに知らせたいと願った。 ただ今回はことばで表現しようとせず、幸せのイメージそのものを通じて言おうとした。

 

光るヘビが部屋のなかを這っていく。石畳のうえというより、空中を這っているように見えた。 そしてハリーまでのみじかい旅路を終えると——

 

——ヘビは『緑色のサルに気をつけろ』とハリーに言った。奇妙な声だったが、おそらく他人にはドラコの声がこういう風に聞こえているのだろう。

 

「フスー ススー シュシュースススス」とハリーが言った。

 

ヘビは床を這ってドラコのところにもどってきた。

 

「メッセージはたしかに受けとった、とハリーは言っている。」と光るアマガサヘビがドラコの声で言った。

 

「ふう。〈守護霊〉と話すのは変な気分だね。」

 

……

 

……

 

……

 

……

 

「なんでそんな目でぼくを見てるの?」と〈スリザリンの継承者〉が言った。

 

◆ ◆ ◆

 

余波:

 

ハリーはドラコをじっと見て言った。

 

「でも、それは()()()ヘビだけなんだろう?」

 

「い……いや。」  ドラコは顔面をやや蒼白にして言う。まだことばをつかえさせてはいるが、すくなくとも先ほどまでのように意味不明にごにょごにょ言うだけではなくなった。 「きみは〈ヘビ語つかい(パーセルマウス)〉だ。きみがしゃべっていたのは〈ヘビ語〉(パーセルタング)だ。世界じゅうのあらゆるヘビが使う言語だ。 きみはヘビの話を理解できる。きみが話しかければヘビは理解できる。 ……ハリー、きみがレイヴンクローに〈組わけ〉されたなんて、もはや考えられない! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

……

 

……

 

……

 

……

 

……

 

まさか、ヘビって意識があったの?

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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48章「功利主義的優先度」

土曜日——二月一日の朝。レイヴンクローのテーブルで、少年が一人、山のように野菜をつんだ皿をまえにして、神経質そうな面もちで、肉がひとかけでもまぎれこんでいないかチェックしている。

 

これは過剰反応かもしれない。むきだしのショックを乗りこえたあと、ハリーのなかで常識が目をさまして、ある仮説を提出した。『ヘビ語』(パーセルタング)と呼ばれるものはおそらく、ヘビを制御するための言語的インターフェイスにすぎないのではないか、という仮説だ。

 

……だいたい、ヘビが実際に人間なみの知性をもっているはずがない。もしそうなら、だれか一人くらいそのことに気づいていていいはずだ。 ハリーが知るかぎり、言語能力らしきものがあると言われている生物のなかで最小の脳をもつのは、アイリーン・ペッパーバーグが訓練したヨウム。 それでさえ、姦通という、自分以外の個体をモデル化する必要のある複雑なゲームをやってのける生物をもってして、構造化されていない原言語を使えているだけだ。 ドラコが記憶をたよりに言った話を信じれば、ヘビが〈ヘビ語つかい(パーセルマウス)〉に話すのは通常の人間言語のような言語らしい——すなわち、文法に完全な再帰的構造があるということだ。 巨大な脳と強力な社会的淘汰圧のあるヒト科生物でさえ、そんな言語を進化させるには()()を要した。 ハリーの知るかぎり、ヘビにはほとんど社会がない。 それに、ヘビは世界じゅうに何千何万という種類にわかれて存在している。そのすべてがおなじヴァージョンの『ヘビ語』を使うはずがあるか?

 

もちろんこれは常識による推測にすぎないし、ハリーは常識への信頼をすっかりうしないつつある。

 

だがハリーはこれまでに一度は、テレビでヘビが声をだしているところを聞いたことがある、という自信がある——そもそも、ヘビの声がどういうものかを知っているのは()()()()聞いたことがあるからだし——記憶のなかの声は言語のようには聞こえたことがなかった。これは安心していい証拠のような気がした……

 

……が、そこからが問題だった。 ドラコによれば、〈ヘビ語つかい〉はかなり複雑な任務をヘビに命じることができる、というのだ。 もしそれが事実なら、〈ヘビ語つかい〉は話しかけることによって、()()()()()()()()()()()()()()()()ということになる。 最悪のシナリオでは、そうすることによって自己の認識をあたえてしまっていることになる。ちょうどハリーがうっかり〈組わけ帽子〉に自己の認識をあたえてしまったときのように。

 

ハリーがこの仮説を提示してみたところ、ドラコがある話を聞いたおぼえがあると言いだした——これがただのおとぎ話であってくれ、とハリーはクトゥルーに祈った。実際、そういう雰囲気の話ではあった。だがこの話によれば——サラザール・スリザリンは勇敢な若いヘビをつかいに出して、()()()()()()()()()()()()()()()()()()という。

 

〈ヘビ語つかい〉が話したヘビはすべて、ほかのヘビに話すことによって、ほかのヘビにも自己の認識をあたえることができるとしたら……

 

だとしたら……

 

なぜ自分はこの『だとしたら……だとしたら……』をとなえつづけているのだろうか。等比数列のしくみについては、よく知っているというのに。おそらくこの倫理的恐怖があまりに膨大な、度肝をぬくほどの規模だったからだろう。

 

もし似たような呪文をウシに対してつくった人がいたとしたら?

 

もし〈ブタ語つかい〉が存在したとしたら?

 

いや、それどころか……

 

ハリーははっとして気づいて、凍りついた。ちょうど、フォークによそったニンジンが口にはいりかけたところだった。

 

いや、まさか、そんなことがあっていいわけがない。いくら魔法族でもそこまでバカなはずは……

 

だがハリーは絶望的な感覚とともに、魔法族はそこまでバカにきまっている、と気づいた。 サラザール・スリザリンはおそらくヘビに知性があるということの倫理的含意を一秒たりとも考えたことがなかったのだろう。ちょうど、()()()()()()()()人格を認めていい程度の知性があるとは思いもしなかったのと同様に。 ある種の人たちは、だれかに言われないかぎり、倫理的問題をまったく考えようとしない……

 

「ハリー?」ととなりのテリーが声をかけてきたが、声をかけたことをあとで自分は後悔するぞと思っていそうな声だった。 「なんでそんな風にフォークを見てるんだ?」

 

「魔法を法律で禁じたほうがいいんじゃないかと思えてきたんだ。 ところで、植物と話すことができる魔法使いがいた、っていう話を聞いたことはない?」

 

◆ ◆ ◆

 

テリーはそれらしい話を聞いたことがなかった。

 

レイヴンクロー七年生のだれに聞いても、おなじだった。

 

いまハリーは自分の席にもどっているが、まだ座ってはいない。絶望的な表情で、野菜がはいった自分の皿を見ている。 腹がへってきたし、あとで〈メアリーの店〉のあのものすごいごちそうを食べることにもなっている……。 ハリーは、昨日までの食事習慣にあっさりもどってしまいたい、という誘惑を感じはじめていた。

 

なにかは食べないといけないぞ——と、こころのなかのスリザリンが言う。それに、植物()()()豚肉のほうにだれかが自我をふきこんだ可能性が高いとも言えそうにないし、どうせ意識があるかもしれないものを食べるなら、おいしいディリコールのフライにしたらどうだ?

 

おい、その論理は功利主義的に言っておかしいんじゃないか——

 

ほう、功利主義的論理でやりたいのか? なら、この功利主義的論理をひと口どうぞ。どこかのバカがニワトリに意識をあたえることができたという、ありそうにない可能性を認めるとしよう。その場合でも、()()()()()研究こそ、その事実を検証して、対応策を考える最良の手立てだ。 自分の食事習慣をいじらないことで()()()()()()()()その研究がはやく進展するなら、そうすべきだ。いくら直観に反するように思えても、これが一番いい方法だ。意識があるかもしれないあれこれを救出する機会を最大化したいなら、どれとどれに知性がありそうだという、あてずっぽうの推測に無駄な時間をついやさないことだ。 だいたい、家事妖精(ハウスエルフ)はすでに料理をすませてしまっているんだし。きみがなにを皿にとろうがとるまいが、なんの意味もない。

 

ハリーはその理屈をしばらく検討した。 ずいぶんと魅惑的な論理に聞こえた——

 

そうだよ!——とスリザリンが言う。やっと理解してくれてうれしい。自分の利便のために意識ある種族の生命を犠牲にするというのは、最高に倫理的なやりかただ。そうやってきみの救いようのない食欲を……彼らをその歯でかみくだきたいという劣情を満足させるがいい——

 

()()、とハリーは憤然として思考した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーの内なるスリザリンは暗い声でこう思考した。 きみもいずれ、この考えかたに共鳴する日がくる……目的は、手段(means)ならぬ(meats)を正当化する。 そう言って、スリザリンはほくそ笑む思考をした。

 

植物に意識があるかもしれないと心配しはじめて以来、ハリーのなかのレイヴンクローでない部分は倫理的な懸念を真剣にとりくもうとしない。 ハッフルパフは、ハリーがなんらかの食べもののことを考えようとするたびに『共食いだ!』とさけぶし、グリフィンドールはハリーに食べられるものが悲鳴をあげる様子をイメージしようとする。たとえそれがサンドウィッチであっても——

 

『共食いだ!』

 

『いやあああ食べないでえええ——』

 

悲鳴なんか気にするな。食べてしまえ! 気高い目標のためなら、こういう種類の倫理的な譲歩をするのになんら気兼ねすることはない。()()()()()みんなはなんのためらいもなくサンドウィッチを食べようとするだろう。だったら、たとえこれがバレたとしても、巨大な損害が小さな確率で発生する場合という、きみがいつも持ちだすあの合理化の問題はない——

 

ハリーはこころのなかでためいきをして、こう思考した。 だからって、きみは()()()()巨大な怪物に食べられてもいいと思うのか。()()()()意識があるかどうかを十分調べようとしない怪物に。

 

ぼくはそれでいい。ほかのみんなはいいか?——とスリザリンが言い、こころのなかのみんながうなづく。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

いや、そのまえに、意識がある生きものとない生きもののことをもっと調べないと。だからもうだまれ。 そう言ってからハリーはなんとも魅惑的な野菜でいっぱいの皿を返して、図書館にむかった——

 

ここにいる生徒たちを食べればいい……これなら、意識があるかどうか迷うこともない——とハッフルパフが言う。

 

食べたいくせに……きっと若いほうがおいしいぞ——とグリフィンドールが言う。

 

こう聞くと、ハリーの想像上の人格たちはディメンターになにかされて欠損してしまったのではないか、と思えてきた。

 

◆ ◆ ◆

 

「あきれちゃうわ。」  そう言うハーマイオニーの声にはすこしとげがあった。彼女はホグウォーツ図書館の〈薬草学〉の書棚の列に目をやってつぎつぎとチェックしている。朝食を欠席しているハリーから、朝食がおわったら図書館にきてくれないか、というメッセージを受けて、ここに来てくれたのだ。 だがハリーが今日の話題を告げると、彼女は多少のとまどいを見せた。 「そういうところが自分の欠点だってわかってる? ものごとの優先順位がつけられない。 なにか新しいことを思いついたら、すぐにそれに飛びついちゃうっていうこと。」

 

「いや、優先順位をつけるのはとても得意だよ。」  そう言ってハリーはケイシー・マクナマラの『植物の秘儀』という本を手にとり、巻頭からぱらぱらとページをめくって、目次をさがした。 「だからこそこうやって、植物がしゃべれるかどうか調べるまでは、ニンジンを食べないことにしたんだ。」

 

「わたしたちはもっと()()なことを心配しているべきだと思わない?」

 

『その言いかた、ドラコそっくりだな』とハリーは思ったが、もちろんその部分は声にださず、かわりにこう言う。「植物に実は意識がある、っていう可能性を調べることより重要なことなんかあるわけないだろう?」

 

ハリーのとなりの席に意味ありげな沈黙が生まれた。そのよこで目次を見ていると、 〈植物言語〉という章題を目にして、ハリーは心臓がとまるかと思った。 あわててそのページ番号までページをめくっていく。

 

「ときどき、あなたのあたまのなかがどうなってるのか、まったく、全然、ちっともわからなくなったりする。」とハーマイオニー・グレンジャー。

 

「これはほら、かけ算の問題だよ? 世界には植物がすごくたくさんある。もし植物に意識がないのなら、とるにたらない。でももし植物に人格があるのなら、植物全体の倫理的な重みは、世界じゅうの人間を足しあわせたよりも重い。 もちろん、きみの脳では直観としてそのことが理解できない。それは脳はかけ算を理解しないからだ。 カナダの世帯の集団を三つつくって、それぞれに油の池で二千羽の鳥が死にかけている、二万羽の鳥が死にかけている、二十万羽の鳥が死にかけている、と言って、いくら義援金をだすか聞いてみる、という実験をしてみればわかる。そういう実験をすると、三集団はそれぞれ七十八ドル、八十八ドル、八十ドル、という感じのこたえを出す。 つまり、差がでない。 これは規模(スコープ)に対する無反応性と呼ばれている。 脳は一羽の鳥が油の池で苦しんでいる様子をイメージできる。そのイメージが感情を喚起して、義援金の金額を決める。 でも二万個のなにかを映像としてイメージしようとしても、だれにもできない。だから()というものが窓からほうりなげられてしまう。 そういうことで、このバイアスをがんばって矯正して、百兆枚の意識ある葉のことを考えれば、それが人類全体をあわせたより何千倍も大きな重要性を秘めていることがわかるだろう。……ああ、よかった。しゃべれるのはマンドレイクだけだってここに書いてある。しかもその言語はふつうの人間言語だし、あらゆる植物と会話できるようになる呪文はないんだって——」

 

「ロンが昨日の朝食のとき、わたしのところに来た。」  ハーマイオニーの声はさっきまでよりすこし小さな声だった。すこし悲しそうで、もしかするとなにかを恐れるようでもあった。 「わたしがあなたにキスするのを見て恐ろしくなった、と言っていた。 〈吸魂〉されていたときのハリーのせりふを聞けば、ハリーがどれくらい邪悪な本心を隠しているか分かってもいいはずだ、って。 もしわたしが〈闇の魔術師〉の配下にはいるなら、ロンはもうわたしの軍にいていいかどうかわからないんだって。」

 

ページをめくるハリーの両手がとまった。 いくら抽象的な知識として知ってはいても、ハリーの脳は感情のレヴェルではちゃんと規模(スコープ)を認識することができないようだ。ハリーの脳は、意識があるかもしれない何兆枚もの葉、いまこうしているあいだにも苦しみ死んでいくかもしれない無数の植物に注意をむけるのをやめて、たまたま自分の近くにいて自分と親しい人間一体の人生だけに注目してしまっている。

 

「ロンは世界一どうしようもないバカだ。そのことはもう新聞にものらないくらい、ニュースじゃなくなった。 それできみはどうした? ロンをくびにして、腕と足を何本折ってやった?」

 

「わたしは、誤解だって伝えようとした。」  ハーマイオニーはやはり静かな口調だった。 「あなたの本心がなにかっていうことも、わたしとあなたの関係のことも誤解だって言おうとした。なのに、ロンはそれを聞いて余計に……なにか確信したみたいだった。」

 

「まあ、そうだろうね。」  ハリーは不思議と、ウィーズリー隊長のことを大して怒る気にならなかった。ハーマイオニーへの心配がそれを上回っているようだった。 「そういう相手に自己弁護しようとしても、相手にきみを訊問する()()があると思わせてしまうだけだ。 そうやって取り調べをしてかまわない、と認めたように思われる。そして一度そういう権力をあたえると、相手はどんどん調子にのる。」  これはドラコ・マルフォイから教わったことの一部だが、この部分はけっこうするどいことを言っているように思えた。人が自己弁護しようとすると、訊問者はいくらでも細かい部分を問いただすようになり、けっして納得しない。 でも自分は有名人だから社会的慣習を超越している、という態度を最初にはっきりさせておけば、細かい問題にいちいち食いさがられることはまずなくなる。 「だから、ぼくがここで朝食をとっているところにロンが来て、ハーマイオニーに近づくな、と言ったとき、ぼくは手を床のすこし上において、『この手の高さがわかるかい? この程度の知性ができてからでないと、ぼくと話す権利はないんだよ』と言ってやった。それからロンはぼくのことを、(引用開始)ハーマイオニーを暗黒に吸いこもうとしている(引用終わり)、って言ったから、ぼくは口をとがらせてズズズって音を出してやった。それでもロンはなにかわけのわからないことを言ってたから、あとは〈音消の魔法〉ですませた。 もう二度とあいつがぼくに講釈しにくることはないと思う。」

 

「そうしたくなるのは理解できるけど……」  ハーマイオニーは声をこわばらせる。 「わたしももっと強く言ってはやりたかったけど……。でも我慢してほしかった。そんなことされたら、わたしがやりにくくなるんだから!」

 

ハリーはまた『植物の秘儀』から目を離した。この調子ではろくに読書ができそうにない。ハーマイオニーのほうを見ると、なにかの本をまだ読んでいて、こちらに顔をむけてもいない。その手は新しいページをめくりさえした。

 

「そもそも自己弁護しようとするのがよくないんだと思うよ。 これは真剣に言ってる。 自分は自分だ。 だれを友だちにするかは自分が決めるんだ。 文句を言うやつがいたら、おまえの知ったことか、って言ってやれ。」

 

ハーマイオニーはただくびをふって、またページをめくった。

 

「じゃあ第二案。フレッドとジョージにたのんで、兄としてあいつに一言きつく言っておいてもらう。あの二人は弟とちがって純粋に善人だから——」

 

「ロンだけじゃないの。」と、ささやき声といっていいほどの声でハーマイオニーが言う。 「おなじことを言ってる人はたくさんいる。 マンディさえ、わたしに気づかれてないようにして、心配そうにわたしのことを見てる。 変じゃない? わたしが()()()()()()()心配して、クィレル先生に暗黒に引きこまれないようにって注意してあげてたら、ちょうどおなじことをわたしが言われるようになるなんて。」

 

「うん、まあたしかに。これで、ぼくとクィレル先生についてちょっとは安心できる気がしてきたんじゃない?」

 

「そうね、ぜんぜん。」

 

また無言の時間がしばらくあって、ハーマイオニーがページをめくった。それから今度は、ほんとうのささやき声で、こう言った。 「それに……それに、パドマがみんなに言いふらしてるみたい。ハーマイオニーは……パ……〈守護霊(パトローナス)の魔法〉をつかえなかったんだから、き……きっと親切なのは見せかけだけだ、って……」

 

「パドマは挑戦しようともしなかったじゃないか! きみの正体がそういう〈闇の魔術師〉だったら、みんなが見ているまえで挑戦するはずがないだろう。みんなきみのことをバカだと思ってるのか?」

 

ハーマイオニーは小さく笑って、何度か目をしばたたかせた。

 

「あのさ、自分が邪悪になるんじゃないかって心配する必要があるのはぼくのほうだよ。きみのほうは最悪でも、実際より悪い人だと思われる、っていうくらいだろう? それが、生きていけないくらいいやなことなの? その、そんなに?」

 

少女はうなづいて、顔をしかめた。

 

「ハーマイオニー……ほかの人にどう思われるかをそこまで気にしてたら……自分がイメージする自分と他人がイメージする自分がちがってることを不幸に思っていたりしたら、もうそれだけで不幸な人生になると決まっちゃうよ。 自分から見える自分と他人から見える自分がぴったりかさなることなんて、ありえない。」

 

「どうやって説明すればいいのかな。」  ハーマイオニーは小さな声で悲しげに言う。 「ハリーにはきっといつまでも理解できないんじゃないかと思う。 一応聞いてみるけど、()()()()あなたを邪悪だと思っているとしたら、どんな気分になる?」

 

「うーんと……。うん、それはいやだな。かなり。 でもきみはいい人で、そういう種類のことを知的に考えられる人だ。だからこそ、それだけの影響力がある。だからこそ、ぼくが道をあやまったときみに思われたら、それなりの効果がある。 きみ以外の生徒になら、だれにそう思われようが、そこまでいやな気はしないと思う——」

 

「あなたはそういう生きかたができるんだろうけど。わたしは無理。」とハーマイオニー・グレンジャーがささやいた。

 

ハーマイオニーは無言でもう三ページめくった。ハリーは自分の本に目をもどして、また集中しようとした。そのときになってハーマイオニーが、小声でこう言った。 「わたしが〈守護霊の魔法〉のやりかたを知ってはいけない、っていうのはやっぱりそうなの?」

 

「それは……」  ハリーは急にのどにつかえるものを感じた。急に、自分がなぜかもわからず〈守護霊の魔法〉を使えなかったとしたら……ドラコに見せることもできなかったとしたら……理由はあるけれど説明できない、とだけ言われたとしたら、どう思うかがわかった。 「きみがもし〈守護霊〉をつくったら、その光はおなじ光ではあるけど、()()()じゃない。たいていの人が思う〈守護霊〉のすがたとはちがう。だれが見ても、なにか変なことが起きているとわかる。 あの秘密を教えてあげられたとしても、ほかのだれかに()()してみせることはできない。その相手に背をむけさせて、光以外が見えないようにしないかぎり。それに……秘密というのは存在すると知られないことが一番重要だから、見せていいのはせいぜい一人か二人の友だちだけで、その友だちにも秘密を誓わせないといけない……」  ハリーはだんだん声を小さくして言いやめた。

 

「それでもいい。」  ハーマイオニーはやはり小声で言った。

 

図書館にいるというのに、ハリーは秘密をつい漏らしてしまわないようにするのに苦労した。

 

「い……いや、いけない。これは言えないんだ。ほんとうに()()なんだよ。この秘密が広まってしまったら、大変な問題になりかねない。 『三人寄れば公界』っていう格言を聞いたことはない? 親友何人かに話すことは、だれにでも話してしまうのとかわらない、っていうこと。その人たちを信頼するだけじゃなく、その人たちが信頼している人たちのことも信頼する必要があるから。 この秘密は重要すぎる。リスクがありすぎる。だれかの学校内での評判をもとにもどしたい、という程度のことのために、やっていい決断じゃない!」

 

「ならいい。」と言ってハーマイオニーは本をとじて、書棚にもどした。 「いまは本に集中できないみたい。ごめんね。」

 

「なにかすこしでも、ぼくにできることがあれば——」

 

「もっとみんなに思いやりをもつこと。」

 

ハーマイオニーはふりかえらないまま、書棚の列をとおりすぎていった。それでよかったかもしれない。ハリーはその場で硬直して、立ちすくんでしまっていたからだ。

 

しばらくして、少年はまたページをめくりはじめた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「功利主義」(utilitarianism)
「功利主義」は「利益第一主義」とか「自分さえ良ければいい主義」とかではなく、最大多数の幸福をもって善とする考えかたです。なので量や数が問題になる。


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49章「先験情報」

少年は禁断でない森のふちの、小さなひらけた場所で待っている。わきの砂利道は、一方はホグウォーツ城の門までつづき、反対方向は遠く先が見えない。 車が一台ちかくにあるが、少年はかなり距離をとって立っている。ただし視線は車からほとんど離そうとしない。

 

遠くから砂利道をたどって、人影が近づいてくる。 仕事着のローブを着た人影が、肩をおとしてとぼとぼと歩いてくる。足もとでは正装の靴が地面を踏むたびに小さな砂ぼこりをあげている。

 

三十秒後、少年はもう一度ちらりとそちらに目をやり、車の監視にもどった。 その一瞬のうちに、男が肩をまっすぐにして、表情がひきしまり、足もとも軽やかに土を踏み、少しもほこりを巻き上げなくなっているのが確認できた。

 

「こんにちは、クィレル先生。」  ハリーは車の方向から目をそらさずにそう言った。

 

「ごきげんよう。なにか距離をとっているようだが、今回の車両に奇妙(オッド)なところでも?」

 

奇妙(オッド)? いいえ、奇数(オッド)なところはないと思います。 どれもこれも偶数なようですから。 席は四つ、車輪も四つ、羽のある骨ばった巨大なウマが二頭……」

 

皮が張られた骸骨がハリーのほうをむいて、歯を光らせた。太く白い歯が、暗い洞穴のような口の前についている。この生き物は、ハリーがむけてやっているのと同じくらいの愛情を返しているように見えた。 骨と皮だけのウマがもう一頭、となりで、いななくようにくびを振りあげた。だが声はしなかった。

 

「これはセストラルだ。この車はいつもセストラルが引いていた。」となにげない声で言って、クィレル先生は、車の席の一列目に乗りこみ、一番右がわに座った。 「この生き物は、死を目のあたりにしてその意味を理解した者にしか見ることができない。たいていの捕食動物に対して有効な防衛策だ。 ふむ。おそらく、きみがあのディメンターのまえに出た一度目のとき、最悪に記憶としてよみがえったのは、〈名前を言ってはいけない例の男〉と対面した夜のことではなかったか?」

 

ハリーは暗い顔でうなづいた。 あたってはいる。理由はまちがっているが。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「その記憶で見たなかで、なにか興味ぶかいことはあったか?」

 

「はい。ありました。」とだけ言って、ハリーはそれ以上説明しなかった。まだ追及するだけのこころの準備ができていなかった。

 

〈防衛術〉教授は手持ちの乾いた笑いのうちの一つをしてから、早く、と言うように指をひとたたきした。

 

ハリーは距離をつめて、たじろぎつつ車に乗りこんだ。 あの破滅の感覚は、ディメンターと会った日から日増しに強くなってきている。それまでは、少しずつ弱まっていたのに。 この車内で許されるかぎりクィレル先生から離れようとしてはみたが、これだけの距離ではまったく不足のようだった。

 

そして骸骨ウマが駆け出して、車が動きだし、二人をホグウォーツの外延部分へと連れていく。 そのあいだ、クィレル先生はゾンビ状態にもどって倒れこんだ。すると破滅の感覚が引いていった。その感覚はそれでもまだハリーの認識の境界線上に、無視しようのない存在として浮かんでいる……

 

車は進んでいき、森の景色が流れていく。木々が過ぎ去っていく様子は、ホウキや自動車とくらべるとほとんど氷河のような遅さだ。 その遅さにはどこか、気分を楽にしてくれるところがある、とハリーは思った。 クィレル先生にとってはたしかにそういう効果があるようで、崩れ落ちたからだに乗っかった口から、ひとすじのよだれがだらしなく垂れ、ローブにたまっている。

 

ハリーはまだ、自分が昼食になにを食べていいものか、決心をつけかねていた。

 

図書館で調査したかぎりでは、魔法族が非魔法性の植物と話せるという兆候はまったく見当たらなかった。 いや、ヘビ以外のあらゆる動物についてもおなじだ。だがポール・ブリードラヴの『呪文と口話』という本には、おそらく神話なのだろうが、〈モモンガの貴婦人〉と呼ばれた女魔法使いの話が収録されていた。

 

ハリーが本当にしたいのは、クィレル先生にたずねることだった。 問題は、クィレル先生の()()()()()()ことだ。 ドラコが言ったことからすると、〈スリザリンの継承者〉というのはかなりの爆弾のようであり、だれかに知られてしまっていいことなのかどうか、分からない。 〈ヘビ語〉について質問してしまったが最後、クィレル先生はじっとあの淡い水色の目でハリーを見て、「なるほど。ということは、きみはミスター・マルフォイに〈守護霊の魔法〉を教えて、うっかりそのヘビと会話してしまったというわけか。」と言うだろう。

 

この真の理由が仮説のひとつにはいるほどの証拠はそろっていないはずだし、その先験確率の低さをくつがえすほどの証拠もないことは言うまでもない。だが、そのことは問題にならない。 クィレル先生なら、()()()()()()推理してしまう。 ハリーはときどき思うのだが、クィレル先生は口にしているよりはるかに多くの背景情報をもっているのではないか。それくらい、クィレル先生の先験確率分布はよくできすぎている。 ときには、理由がまちがっているにも関わらず、先生の推論はみごとに当たっていたりする。 そうやって当てられたときに困るのは、半分以上の場合で、クィレル先生がどういう風に追加の手がかりをしのびこませているのか、ハリーにはさっぱりなことだ。 一度でいいから、クィレル先生の言ったことをもとにみごとな推理をして、先生を心底びっくりさせてみたいものだ。

 

◆ ◆ ◆

 

「レンズ豆の醤油スープをいただこう。ミスター・ポッターには、テナーマンの家庭風チリを。」とクィレル先生が給仕に頼んだ。

 

ハリーは急に絶望を感じて、ためらった。 今日は菜食主義の料理にしようと決心していたのだが、実際に注文するのがクィレル先生であることを忘れてしまっていた——この段階で口をはさむのは気まずい——

 

給仕の女性が一礼して、向きをかえた——

 

「あの、ちょっとすみません。その料理に、ヘビかモモンガの肉ははいっていますか?」

 

給仕はまったく平然とした様子で、ハリーのほうを向いてくびをふり、また一礼してから、ドアのほうに向かった。

 

(ハリーのこころのなかの三人が失笑した。 グリフィンドールは辛辣に「こんなわずかな社交的不安に負けて『共食い』をしてしまうのか。」と言い(ハッフルパフは『共食い』の部分に乗っかった)、スリザリンは「便利な倫理観でいいな。クィレル先生との関係を維持するといった重要な目標のためなら、簡単に曲げられるとは。」と言っていた。)

 

給仕が外にでてドアを閉じると、クィレル先生は手をひと振りして、かんぬきを下げ、いつもどおりのプライヴァシー用の〈魔法(チャーム)〉をかけてから、こう言った。 「おもしろい質問だな、ミスター・ポッター。なにを思ってそんなことを?」

 

ハリーは表情をしっかりとたもった。 「〈守護霊の魔法〉について、すこし調査していたんです。 『守護霊の魔法——成功と失敗の歴史』という本によれば、ゴドリックはこの魔法ができなかったけれど、サラザールにはできた。それでおどろいて、参考文献を読みました。『四偉人の人生』という本で、 そのなかで、サラザール・スリザリンがヘビと会話できた、という話に行きあたりました。」 (時系列と因果関係はおなじものではないが、クィレル先生がその点を誤解したとしても、ハリーが悪いのではない。) 「もっと調べてみると、モモンガと話せる地母神的な人物がいたという古い話もありました。 それで、会話できるものを食べていいものか、ちょっと心配になりました。」

 

そこでハリーはなにげなく水を口にふくみ——

 

——それとほぼ同時に、クィレル先生はこう言った。 「ということは、ミスター・ポッター、きみ自身も〈ヘビ語つかい〉なのだと思っていいのか?」

 

咳を終えると、ハリーは水のグラスをテーブルにもどし、クィレル先生の目ではなくあごを凝視しながら口をひらいた。 「じゃあ、あなたはぼくの〈閉心術〉の障壁を通過するくらいの〈開心術〉が使えるんですね。」

 

クィレル先生はにっこりと笑った。 「それは褒めことばと受けとらせてもらう。だが、はずれだ。」

 

「もうだまされませんよ。あれだけの証拠でその結論にたどりつくわけがない。」

 

「もちろんそうだとも。」 クィレル先生は落ちつきはらって言う。「これはいずれにしても今日きみに聞いておこうと思っていた質問だった。ちょうどいいタイミングがやってきたので言ってみただけだ。実は、このことには十二月から気づいていたのでね——」

 

()()()() ぼくも昨日知ったばかりなのに!」

 

「ああ。であれば、〈組わけ帽子〉のあのメッセージが〈ヘビ語〉だったことに気づいていなかったのか?」

 

〈防衛術〉教授はまたしても完璧なタイミングでそう言った。ちょうど、ハリーがさきほどむせたのどを水で流そうとしたところだった。

 

実際、気づいていなかった。いまのいままで。 言われてみれば、当然わかっているべきことだった。 だいたいマクゴガナル先生からも『人まえでヘビと話すな』とまで言われている。だがそう言われた時点では、ホグウォーツ内の銅像や彫刻でヘビのかたちをしているものについて言っているのだろう、とハリーは思いこんでしまっていた。 これは二重の透明性の錯覚だ。ハリーはマクゴガナル先生の話を理解したと思ったし、マクゴナガル先生もハリーは理解したのだと思った——でも、いったいどうやって——

 

「じゃあ、〈防衛術〉の初回授業のときに、ぼくに〈開心術〉をかけたんでしょう。そして〈組わけ帽子〉とのあいだでなにがあったかを知った——」

 

「それなら、十二月に知ったことにはならない。」 クィレル先生は背をもたれさせて、笑みをうかべた。 「この謎はきみが独力でとける謎ではない。だから答えをあかそう。 冬の休暇中、総長がとある人物の事件について非公開の再審査と、そのための委員会の設置を申請した、という通知を受けた。名前はミスター・ルビウス・ハグリッド。ごぞんじ、ホグウォーツの〈門番兼森番〉だ。彼は一九四三年のアビゲイル・マートルの殺人の容疑者だった。」

 

「ああ、なるほど。たしかにそれなら、ぼくが〈ヘビ語つかい〉であることは決まりですね……いやいや、いったいなにがどうなって——」

 

「もうひとりの容疑者は〈スリザリンの怪物〉だった。スリザリンの〈秘儀の部屋〉に住まうとされた伝説の怪物だ。 ある情報提供者がこの件をわたしに知らせてきたのも、わたしが相当額の賄賂をついやして詳細を調べる程度にまで注意をむけたのも、このためだ。 ところがミスター・ハグリッドは無実だった。 信じがたいほと明白に無実だった。 ブリテン魔法界の司法でこれほどはっきりとした無実の傍観者が有罪とされたのは、グリンデルヴァルトがネヴィル・チェンバレンを〈錯乱(コンファンド)〉した事件がアマンダ・ノックスのせいにされて以来だ。 ディペット総長は傀儡の生徒を使ってミスター・ハグリッドを訴追させた。ミス・マートルの死の責任を負わせる生けにえ(スケープゴート)が必要だったからだ。それでわが国の優秀な刑事裁判システムはその根拠で十分と判断し、ミスター・ハグリッドの退学と杖折りの処分を命じた。 われらが現任の総長は、単にそれなりに有意な証拠をいくつか新しく提示するだけで、再審査を申請することができる。それに、プレッシャーをかけるのがディペットではなくダンブルドアであれば、再審査の結果は目に見えている。 ルシウス・マルフォイとしても、ミスター・ハグリッドの汚名がそがれることを恐れる理由はない。だから一定の抵抗はするだろうが、それもみずからへの負担が生じない範囲でダンブルドアに負担をおわせようとするにとどまる。そしてダンブルドアはあきらかに、かまわず請求をすすめようと決心している。」

 

クィレル先生は一度水を口にした。 「だが本題にもどろうか。 総長が提示した新しい証拠についてだが、これまで検出されていなかった呪文が〈組わけ帽子〉にかかっていて、スリザリンであり〈ヘビ語つかい〉である者だけに反応するようになっていたことがわかった。総長みずからそう確認したというのだ。 総長の説によればさらに、これで一九四三年に〈秘儀の部屋〉が実際ひらかれたという解釈が事実である可能性が高まる、そして一九四三年というのは〈ヘビ語つかい〉として知られている〈名前を言ってはいけない例の男〉がホグウォーツで学んでいた時期とほぼ符合する、という。 疑わしい論理ではあるが、審査委員会にミスター・ハグリッドの有罪を容疑にもどすことを審決させる程度の効果はあるかもしれない。まじめな顔でそんなことが言えたものならばだが。 すると残る問題はひとつ。総長はどうやって〈組わけ帽子〉に隠された呪文のことを知ったのか?」

 

クィレル先生は薄ら笑いをしている。 「今年入学した諸君に〈ヘビ語つかい〉、つまり〈スリザリンの継承者〉かもしれない人物が一人いたと仮定してみよう。 こうやって非凡な人を見つけようとするとき、ミスター・ポッター、きみがいつも候補として目にはいるのは、きみも認めざるをえないだろう。 つぎにわたしが自問するのは、スリザリンの新入生の内心のプライヴァシーを総長が侵害して〈組わけ〉時の記憶をさぐったとすれば、標的になった可能性がもっとも高いのはだれか。ここまでくると、きみが目立ってくるではないか。」  笑みが消えた。 「そういうわけで、きみの精神をのぞきみたのは、わたしではない。謝罪してもらおうというのではないがね。 きみのプライヴァシーを守れとダンブルドアが抗議したのを見て、あの人を信じてしまっていたのだとしても、無理はない。」

 

「申し訳ありませんでした。」と言ってハリーは無表情をたもった。 かたくなにコントロールされた表情をするのも、ほとんど告白しているようなもので、ひたいに汗をかくのと大差ない。だが〈防衛術〉教授はそれをなんの証左ともしないだろう、とハリーは思っていた。 クィレル先生から見れば、ただ、〈スリザリンの継承者〉であると知られて神経質になっているように見えるはずだ。 意図的にスリザリンの秘密を漏らしたということを知られたのではないか、と思って神経質になっているのではなく……。いまとなっては、あれはかしこいやりかたではなかったように思える。

 

「さて。〈秘儀の部屋〉のありかについての進捗は?」

 

()()()、とハリーは思考した。だが合理的な否認可能性を維持するためには、隠す必要のないことを聞かれても、ときどきは言いのがれしてみせる、という方針でいかなければならない……。 「申し訳ありませんが、仮になにか進捗があったとしても、あなたにお伝えすべきなのか、明らかではありません。」

 

クィレル先生はまた水のグラスから、ひと口飲んだ。 「それでは、わたしが知っていることと推測していることを率直に言おう。 一点目。わたしは〈秘儀の部屋〉は実在すると思う。〈スリザリンの怪物〉もだ。 ミス・マートルは死後何時間も発見されなかった。結界が即座に総長へ警報を飛ばしていたはずだ。となると、なにかおかしい。 彼女を殺したのがディペット総長であれば説明がつくが、その可能性はあまりない。もうひとつの可能性は、結界に関して総長より高いレヴェルの権限がなんらかの存在にあたえられていた可能性だ。結界を作ったのはサラザール・スリザリンであり、したがって権限をあたえたのも彼だということになる。 二点目。〈スリザリンの怪物〉の目的がマグル生まれをホグウォーツから追いだすことだ、という通説はまちがっていると思う。 〈スリザリンの怪物〉がホグウォーツ総長と教師の全員を倒せるほど強い怪物でないかぎり、その目標を力技で達成することはできない。 隠れた殺人が複数回起これば学校は閉鎖される。実際、一九四三年にそうなりかけた。さもなくば、新しくさまざま結界が設置される結果になっていただろう。 それでは、〈スリザリンの怪物〉はなんのためにいるのか。ミスター・ポッター、その真の目的は何だ?」

 

「うーん……」  ハリーは視線をグラスに落とし、考えようとした。 「〈部屋〉に入ってきた者、入るべきでない者を殺すこと——」

 

「侵入者はサラザールが〈部屋〉に設置した強力な結界をやぶれるほどの腕をもつ魔法使いのチームだ。それを倒せるような怪物? ありそうにないな。」

 

ハリーはすこしプレッシャーを感じはじめた。 「じゃあ、〈秘儀の部屋〉というくらいですから、その〈怪物〉に秘密があるんじゃないですか。いや、()()()()()()()その秘密だったり?」  いや、そもそも〈秘儀の部屋〉にはどういう秘密があるというのだろう? この点については、ハリーはまだあまり調査をしていない。だれもなにも知らないのではないか、という印象があったからでもあるが——

 

クィレル先生は笑みをうかべている。 「単にその秘密を書きのこせばよさそうなものだが、できない理由は?」

 

「うーん……。〈怪物〉が〈ヘビ語〉でしゃべるとしたら、スリザリンの真の子孫でなければ秘密を聞けないようにできるから、とか?」

 

「〈ヘビ語〉の文句を〈部屋〉の結界を解除する鍵としておくのはたやすい。 なのに手間をかけて〈スリザリンの怪物〉を作る理由はあるか? 何百年も生きる生物を作るのが、そう簡単であるはずがない。 ほら、ミスター・ポッター。こたえは明白だろう。 生きた精神から生きた精神へ言い伝えることはできるが、書きのこすことはできない秘密と言えば?」

 

ハリーはそれに気づいた瞬間、アドレナリンがどっと流れ、心臓がどきどきし、呼吸が早まるのを感じた。「()()()。」

 

サラザール・スリザリンはやはり狡猾だった。 〈マーリンの禁令〉の抜け道を見つけるほどに狡猾だった。

 

強力な魔法は、本や幽霊(ゴースト)を通じて伝えることができない。だがある程度長命で記憶力のいい、意識ある生物を作りだせるなら——

 

「こういう可能性は十分あると思う。」とクィレル先生が言う。 「〈名前を言ってはいけない例の男〉は最初、〈スリザリンの怪物〉から聞いた秘儀を使ってのしあがったのではないか。 うしなわれたサラザールの知識が〈例の男〉の異常なまでに強力な魔術の源泉だったのではないか。 だからわたしも、〈秘儀の部屋〉とミスター・ハグリッドの事件については興味があった。」

 

「そういうことですか。」  そしてもしハリーがサラザールの〈秘儀の部屋〉を見つけられたなら……ヴォルデモート卿が得た、うしなわれた知識はすべてハリーのものになる。

 

これだ。物語はこうならないと。

 

そこにハリーの優秀な知性と多少の独創的な魔法研究とマグル式ロケットランチャーがくわわれば、決戦は完全に一方的になる。というか、ぜひそうしたい。

 

ハリーはにやりと笑った。とても邪悪な笑顔になった。 新しい優先事項:すこしでもヘビらしいものを見つけたら、話しかける。 手はじめに、すでに試したものからはじめる。ただし今回は英語ではなく〈ヘビ語〉にする。そして——ドラコに頼んでスリザリンの共同寝室(ドミトリー)にはいらせてもらう——

 

「そう興奮するな、ミスター・ポッター。」  そう言うクィレル先生の顔は無表情になっていた。 「そのさきを考えてみなさい。 〈闇の王〉は〈スリザリンの怪物〉にわかれを告げるとき、なんと言ったと思う?」

 

()() なんでぼくたちにそんなことが分かると思うんですか?」

 

「その光景を思いえがいてみなさい。 細部まで想像力をはたらかせて。 〈スリザリンの怪物〉は——おそらく巨大なヘビで、〈ヘビ語つかい〉としか話せないように作られたのだろう——自分がたくわえた知識をすべて〈名前を言ってはいけない例の男〉に告げた。 〈怪物〉は彼にサラザールの最後の祈りをとどけ、〈秘儀の部屋〉はまた封印されなければならない、と警告する。つぎに十分に有能なサラザールの子孫があらわれるまでは解かれないように封印せよ、と。 のちに〈闇の王〉となる男はうなづき、こう返事する——」

 

「アヴァダ・ケダヴラと。」と答えつつ、ハリーは急に不吉な感覚におそわれた。

 

「ルールその十二。」とクィレル先生がしずかに言う。「自分のちからの源泉を、ほかの人に見つかるような場所に放置しないこと。」

 

ハリーの視線はテーブルクロスに落ちた。テーブルクロスはすでに、黒い花と陰影からなる悲しげな模様になっていた。 この話はどこか……想像できないほど悲しい。 スリザリンの巨大なヘビはヴォルデモート卿に協力しようとしただけなのに、ヴォルデモート卿はあっさりと……。そう考えると、なぜか耐えがたい悲痛さを感じる。純粋に仲よくしようとしてきた生き物に対して、考えられない仕打ちだ……。 「〈闇の王〉は実際そんなことをしたと——」

 

「そう思う。」とクィレル先生はあっさりこたえた。「〈闇の王〉が通ったあとには、かなりの死体の列ができている。これを例外としたとは思えない。 それだけでなく、持ち去れる遺物があれば、持ち去っただろう。 それでも〈秘儀の部屋〉にはなにか見る価値のあるものが残っているかもしれないし、きみが発見者となれば真の〈スリザリンの継承者〉であることの証明にはなるだろう。 だがあまり期待しすぎるな。 わたしの読みでは、なにかのこっているとしても、〈スリザリンの怪物〉の亡き骸が眠る墓が関の山だ。」

 

二人はしばらく無言になった。

 

「これが当たっていない可能性もある。けっきょくは単なる推測だ。ただわたしは、きみが落胆しすぎないようにと思って、警告しておきたかっただけだ。」

 

ハリーはみじかくうなづいた。

 

「きみが赤子だったころの勝利すら、なければよかったと言えるかもしれない。」  そう言ってクィレル先生はゆがんだ笑みをした。 「〈例の男〉が生きてさえいれば、きみは彼を説得して、その知識を伝えさせることができたかもしれない。〈スリザリンの継承者〉から〈継承者〉へ、伝承すべき遺産として。」  ゆがんだ笑みがさらにゆがんだ。仮定としてさえ、どう考えてもありえない話だ、と言うかのようだった。

 

()()()()()()、とハリーは寒けと一片の怒りを感じながら思考する。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

また部屋が静まった。 クィレル先生はハリーのほうを見ている。質問されるのを待っているかのようだ。

 

「あの、その関係でちょうど聞いておきたかったことがあります。〈ヘビ語つかい〉というのが実際にどういう風に機能するのか——」

 

そこでドアにノックがあった。 クィレル先生は警戒するように指を一本たて、ひとふりしてドアをあけた。 給仕が食事をのせた巨大な盆をバランスよく持って入室した。その全体に重さがないかのように見えた(多分、実際ないのだろう)。 クィレル先生には緑色のスープといつものキャンティがグラスで出された。ハリーには濃厚そうなソースにひたされた細切れ肉の皿、そして例によってトリークルソーダが一杯ついた。 それから給仕は一礼し、退出した。おざなりな形式ではなく、こころのこもった敬意があるように見える礼だった。

 

給仕がいなくなると、クィレル先生は、静粛に、と言うようにまた指を一本たて、杖をとりだした。

 

それから、一連の詠唱をしはじめた。ハリーはそれがなんであるか気づいて、はっと息をのんだ。 それはミスター・ベスターが使ったのとおなじ組み合わせ、おなじ順序だった。真に重要な話をするまえに取りおこなう、二十七の呪文の組だ。

 

つまりここまでの〈秘儀の部屋〉の話とは段違いに重要な話があると——

 

クィレル先生は呪文を——呪文は()()あり、そのうち三つはハリーに聞きおぼえがなかった——かけおえると、こう言った。 「これで当分は割りこみがはいらない。 きみは秘密をまもれるか? ミスター・ポッター。」

 

ハリーはうなづいた。

 

「これは重大な秘密だ。」  クィレル先生はけわしい表情で、その目はしっかりとハリーを見ている。 「漏れれば、わたしがアズカバンに送られかねない。 返事をするまえに、そのことを考えなさい。」

 

ハリーは一瞬、なぜそこまで気にすることがあるのか、すでに自分はかなりの量の秘密をためこんでいるのに、と思った。だが——

 

その秘密が漏れればアズカバンに送られかねない。つまり、クィレル先生は非合法なことをしたということだ……

 

ハリーの頭脳はいくつかの計算をした。 どんな秘密であれ、クィレル先生はその非合法な行為がハリーに悪印象をあたえない、と思っている。 ()()()()ことによってなにか得することはない。 そしてもしクィレル先生の悪い面を知る手がかりになるものなら、ハリーにとってそれを知ることははっきりと得だと言える。だれにも言わない、という約束をすでにしているとしても。

 

「ぼくは権威に敬意をはらったことはありません。司法や政府の権威もそこにふくまれます。 あなたの秘密はまもります。」

 

それを告白することでクィレル先生にとって危険が増えるはずだが、そうする価値があると思うのか、とたずねることはしなかった。 その確認の必要があるほど、〈防衛術〉教授はバカではない。

 

「では、きみが真にサラザールの子孫であるかどうか、試させてもらう。」  そう言ってクィレル先生は席をたった。 ハリーも、計算でというよりは反射運動と本能で、ぱっと自分のからだを椅子から引き離した。

 

視界のブレ。変位。突然の加速。

 

ハリーはパニックになって後ろに飛びすさる動きを途中でやめ、腕でからだをささえ、なんとか倒れないようにした。アドレナリンがどっと体内に流れこんだ。

 

部屋のむこうがわでは、一メートルの高さのヘビがゆらゆらとしている。あかるい緑色の皮膚に、白と青の細かな縞がはいっている。 ハリーはヘビ学には詳しくないので正確にはわからないが、『あかるい色』が『有毒』の意味であることは知っていた。

 

ずっとあった破滅の感覚が消えていた。皮肉にもちょうど、ホグウォーツ〈防衛術〉教授が毒ヘビに変身したタイミングで。

 

ハリーはごくりと息をのんでから言った。 「こんにちは——あ……フスー、いや、えー、コンニチハ。

 

デハ」とヘビがシューシューする声で言う。「オマエガ 話セバ、ワタシハ 聞ケル。ワタシガ 話セバ、オマエハ 聞ケル?

 

聞ケル。」とハリーがおなじことばで言う。「アナタハ 動物師(アニメイガス) カ?

 

当然ダ。三十七ノ るーるガ アル。ソノ 三十四。動物師ニ ナレ。 常識ガ アレバ、カナラズ、ナル。スナワチ、稀ニシカ イナイ。」  ヘビの目は、暗い縦穴にはめこまれた、まったいらな面のようで、灰色の広がりのなかに鋭い黒色の瞳孔があった。 「コレホド 安全ニ 話ス 方法ハ ナイ。ワカルカ? コノ話ハ ホカノ ダレモ 理解 シナイ。

 

相手ガ ヘビノ 動物師 デモ?

 

すりざりん継承者ガ 聞カセヨウト シナイカギリハ。」  ヘビは何度かみじかくシュッシュッと音をだした。ハリーの脳はそれを皮肉な笑い声に変換した。 「すりざりんハ 馬鹿 デハナイ。ヘビ動物師ト ヘビ語ツカイハ チガウ。サモナクバ、策ニ 大キナ 穴。

 

そうか。だとすれば、〈ヘビ語〉が個人単位の魔法であるという可能性が強まった。ヘビという種族全体が意識があり言語を学習できる種族だという可能性は低くなる——

 

ワタシハ 未登録ダ。」  ヘビの暗い眼窩がハリーをじっと見つめた。 「動物師ハ カナラズ 登録スル。罰ハ 二年ノ 禁固。少年、コノ秘密ヲ マモルカ?

 

ハイ。約束シタ コトハ カナラズ マモル。」とハリー。

 

ヘビはまるでショックを受けたようにして、こわばったように見えた。それからまた、ゆらゆらしだした。 「ワタシタチハ 七日後 マタ ココニ クル。見エナク スル まんとヲ モテ。時間ヲ 旅スル 砂時計ヲ モテ——

 

知ッテイタノカ?」 ハリーはショックを受けて言った。 「ドウヤッテ——

 

また皮肉な笑い声に変換されるシュッシュッという音がした。 「オマエハ ワタシノ 最初ノ 授業ニ キタトキ、ホカノ 授業ニモ イタ。敵ヲ ぱいデ 倒シタ。記憶ノ 球ガ フタツ アッタ——

 

モウイイ。馬鹿ナ 質問ダッタ。アナタガ 賢イト 忘レテイタ。

 

忘レルトシタラ 馬鹿ダ。」とヘビが言ったが、立腹したような声ではなかった。

 

砂時計ハ 制限サレテイル。九時マデ 使エナイ。」とハリー。

 

ヘビはあたまをぶるっとさせた。ヘビらしいうなづきかただ。 「制限ハ 多イ。オマエシカ 使エナイ。盗ムコトガ デキナイ。他ノ 人間ヲ 運ブコトガ デキナイ。 ダガ ぽーちニ イレタ ヘビハ、多分 イケル。 防護けーすノ ナカデ 砂時計ヲ 動カナク スル コトガ デキルト 思ウ。 けーすノ ホウヲ 回ス。結界ハ 気ヅカナイ。 七日後ニ 試ス。 計画ノ 続キハ ココデ 言ワナイ。 スベテ ダレニモ 言ウナ。 予定ガ アルコトモ 知ラレルナ。 ワカッタカ?

 

ハリーはうなづいた。

 

声デ 言エ。

 

ワカッタ。

 

ワタシガ 言ッタトオリニ スルカ?

 

スル。タダシ……」  ハリーは震える音をだした。その音はこころのなかで、『うーん』というためらいの声のヘビ版に変換された。 「アナタガ マダ 言ッテイナイ コトヲ スルトハ 約束シナイ。

 

ヘビは震えあがる仕草をした。その仕草はハリーのこころのなかで、にらみつける表情に変換された。 「当然ダ。詳細ハ ツギニ 会ウトキ 議論スル。

 

またブレと加速が逆むきに起こり、気づくとクィレル先生がまたそこに立っていた。 すこしのあいだ、クィレル先生はあのヘビとおなじように、ゆらゆらしているように見えた。目が冷たく平坦に見えた。 それから胸をはると、また人間的になった。

 

そして破滅のオーラがもどってきた。

 

椅子がもとの位置にすべりこみ、クィレル先生は腰をおろした。 「のこすのはもったいないぞ。」と言ってクィレル先生はスプーンを手にとった。 「とはいえ、いまのわたしは、生きたネズミを一匹食べたい気分だが。 精神から身体を脱ぎ捨てるのは、なかなか簡単ではないということだな……」

 

ハリーはゆっくりと席にもどり、食べはじめた。

 

◆ ◆ ◆

 

「つまりサラザールの血筋は、〈例の男〉でとだえたのではなかったということか。」とクィレル先生はすこし間をおいてから言った。 「生徒のあいだではすでに、きみが〈(ダーク)〉であると評判になりつつあるようだ。 このことを知れば、彼らはどう思うだろうな。」

 

「あるいは、ぼくがディメンターを破壊したということを知ればどう思うでしょうね。」  ハリーはそう言って肩をすくめた。 「一連の騒ぎは、つぎにぼくがなにかおもしろいことをしたら、吹き飛ぶんじゃないかと思いますよ。 でもハーマイオニーは実際困っています。 それで、なにか彼女への助言をいただけないかと思っていました。」

 

それを聞いて〈防衛術〉教授は無言で、スープをスプーンにもう何杯か口にした。 そしてまた話しはじめたとき、その声は奇妙に平坦だった。 「あの女の子のことをほんとうに気にかけているようだな。」

 

「はい。」とハリーは静かに言った。

 

「おそらく、だから彼女がきみを〈吸魂〉(ディメンテイション)から救いだせたのだろう?」

 

「そんなところです。」  クィレル先生の言いかたはある意味で正しい。厳密には、 〈吸魂〉された自分がだれかのことを気にかけていた、と言えばまちがいだ。あれは、ただ困惑しただけだ。

 

「わたしは若いころ、そのような友人をもったことがなかった。」  また同じ、抑揚のない声。 「きみも孤独だったとしたら、どんな人間になっていただろうか?」

 

そのことばにハリーは不覚にも震えを感じた。

 

「きっときみは彼女に感謝しているのだろう。」

 

ハリーはただうなづいた。厳密に言えばちがうが、それでも真実ではある。

 

「では、わたしがきみの年ごろに、それに値する相手がいれば、やっていたであろうことを言うとすれば——」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




「マーリンの禁令」については23章を参照(原作にない概念です)


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50章「自分本位」

パドマ・パティルはその日、夕食を食べおえるのがすこし遅くなった。七時半ちかくまでかかってしまったので、急いで大広間を出て、レイヴンクローの寮と自習室がある方向へむかう。 噂話は楽しいし、グレンジャーの評判を落とすのはもっと楽しいが、やりすぎると学業にさしつかえる。 ロミリアラ材のレポートを六インチ書くという明日朝までの〈薬草学〉の宿題がある。先送りしてしまっていたので、今夜しあげなければならない。

 

それは長く細い、曲がりくねった石の廊下を通りぬけているときのことだった。ささやき声が、自分のほとんどすぐ後ろから聞こえたような気がした。

 

「パドマ・パティル……」

 

パドマは電撃的なすばやさで振りかえり、杖をぱっとローブのポケットから取りだして手にとった。ハリー・ポッターなんかに、そう簡単におどかされてなるものか——

 

後ろにはだれもいなかった。

 

パドマはすぐさま反対を向いた。〈腹話の魔法〉を使ったのなら——

 

そちらにも、だれもいなかった。

 

おなじささやき声が、また聞こえてきた。弱く、危険そうで、すこしだけシューシューする音も混じって聞こえる。

 

「パドマ・パティルよ、スリザリンの子よ……」

 

「ハリー・ポッターよ、スリザリンの子よ。」と彼女は声にだして言った。

 

パドマはポッターと〈カオス軍団〉を相手にして何度もたたかった経験がある。これはかならずハリー・ポッターのしわざだと、なぜか確信できた……

 

……もちろん、〈腹話の魔法〉は視認範囲でしか使えないし、この曲がった廊下では前方の角も後方の角も楽に見わたせる。見たところ、だれのすがたもない……

 

……それでも分かる。敵はあいつだ。

 

ささやき声がくすくすと笑った。こんどはすぐそばから。彼女はふりむいて、声の方向に杖をむけ、「ルミノス!」と叫んだ。

 

赤い閃光が飛びだし、壁にあたった。その部分がまぶしく赤熱したが、やがて薄れていった。

 

本気で効果があるとは思っていなかった。 ハリー・ポッターが透明に、不可視になっているわけがない。そんな魔法は()()()()なかなか使えない。パドマはハリー・ポッターについてのいろいろな噂を九割がた信じていなかった。

 

ささやき声がまた笑った。さっきとは反対がわで。

 

「ハリー・ポッターは断崖の上に立っている。」  その声は彼女の耳のすぐちかくで聞こえた。 「足もとをぐらつかせている。だがおまえはすでに、落ちはじめたではないか。スリザリンの子よ……」

 

「〈帽子〉にスリザリンと言われたのはわたしじゃないでしょうが、ポッター!」  彼女は壁に背をあて、背後をまもる必要がないようにした。杖を手に、攻撃姿勢をとる。

 

また小さな笑い声。 「ハリー・ポッターは三十分まえからレイヴンクロー談話室にいて、ケヴィン・エントウィスルとマイケル・コーナーが〈薬学〉の調合手順を練習するのに付きあっている。 だがそのことはいまはよい。 わたしは警告をさずけるために来た。この警告を無視したければ、パドマ・パティル、それもおまえの自由だ。」

 

「けっこう。さあポッター、警告してみれば。わたしは怖くない。」

 

「スリザリンはかつて偉大な寮だった。」  ささやき声は悲しげになった。 「スリザリンはかつて、おまえがよろこんで選ぶような寮だった。 だがなにかが狂った。腐りはじめた。なにがスリザリン寮のあやまちだったか。わかるか、パドマ・パティル?」

 

「知らない、わたしには関係ない!」

 

「関係あると思うべきだ。」  こんどは自分のあたまのすぐ後ろから声が聞こえるような気がした。あたまはほとんど壁にくっついているのに。 「あのとき〈組わけ帽子〉からその選択肢を提案された以上は。 レイヴンクローを選んでおけば、自分はパンジー・パーキンソンでなくなる、いや、パンジー・パーキンソンにならなくてすむ、と思ったか? あとはどんな態度をとろうが関係あるまいと思ったか?」

 

感じまいとしていたにもかかわらず、パドマはわずかに恐怖を感じた。背すじから寒けが生まれ、それが肌にまで広がってきた。 パドマはこの手の話も知ってはいる。ハリー・ポッターは隠れた〈開心術師〉だ、という噂があるのだ。 それでも彼女は背すじをのばしたまま、できるかぎりとげのある声でこう言った。 「スリザリンはみんな強くなりたくて〈(ダーク)〉になった。あんたもそうなった。 でもわたしはちがう。」

 

「そう言って、なんの罪もない女の子を標的にして、悪質なうわさを流すことはするのだな。そうしても、おまえの野望を実現する役には立たないというのに。その女の子に協力する有力者を立腹させるかもしれない、ということを忘れて。 それはかつての誇りあるスリザリンではない。サラザールが誇りとすることではないぞ、パドマ・パティル。それはむしろ、腐ったスリザリン。パドマ・マルフォイではなく、パドマ・パーキンソン……」

 

パドマはこれほどぞっとさせられた経験がなかった。もしかすると、これはほんとうに幽霊(ゴースト)かもしれないと思いはじめた。 幽霊がこんな風にすがたを消せるという話は聞いたおぼえがないが、ただふだんそうしていないだけかもしれない——だいたいゴーストはこんなに()()()ではない。ゴーストは人間が死んだものにすぎないのだから—— 「あんたはいったいだれ? 〈血みどろ男爵〉?」

 

「ハリー・ポッターは暴力で打ち負かされたとき、復讐などしてくれるな、と自分の協力者に命じた。おぼえているか、パドマ・パティル? ハリー・ポッターは揺れているが、まだ落ちてはいない。落ちるまいとしている。自分が危うい立ち位置にいると知っている。 だがハーマイオニー・グレンジャーは、ハリー・ポッターのように自分の協力者を止めようとしなかった。 ハリー・ポッターはおまえに怒りを感じている。自分自身のために感じたことがないほどの怒りを感じている。そして彼にもまた別の協力者がいる。」

 

背すじがぞくりと震えた。見てわかるほど震えてしまったことに気づき、パドマは自分を嫌悪した。

 

「おお、恐れることはない。わたしは傷つけるために来たのではない。 知ってのとおり、ハーマイオニー・グレンジャーにはなんの罪もない。 彼女は断崖にいないし、落ちてなどいない。 協力者にパドマを傷つけるなと頼んですらいない。そんなことをされる可能性があるということ自体、彼女の想像の範疇にないのだ。 ハリー・ポッターも自分がハーマイオニー・グレンジャーのためにパドマを傷つけたり、ほかのだれかにパドマを傷つけさせればどうなるかを、よく心得ている。そんなことがあれば、ハーマイオニー・グレンジャーは太陽が燃えつき夜空の星がすべて墜落するまでハリー・ポッターと絶交する。」  声はとても悲しげな調子に変わった。 「彼女はとてもやさしい子だ。わたしもおなじようにできればどんなによかったか……」

 

「グレンジャーは〈守護霊の魔法〉も使えない! もし親切なのが、見せかけじゃなくほんものなら——」

 

「おまえはどうなのだ、パドマ・パティル? おまえは〈守護霊の魔法〉に挑戦しようとすらしなかった。結果を知るのが怖かったのだろう。」

 

「そんなことはない! わたしはただ、時間がなかっただけ!」

 

「だがハーマイオニー・グレンジャーは挑戦した。友人たちが見ているまえで挑戦し、失敗して愕然とした。 〈守護霊の魔法〉にはほとんどだれにも知られていない秘密がある。おそらく、いまその秘密を知っているのはわたしだけかもしれない。」  ささやき声が小さく笑った。 「はっきりさせておこう。光を生みだすことができなかったからといって、彼女のこころが汚れていると思ってはならない。 ハーマイオニー・グレンジャーはたしかに〈守護霊の魔法〉を使えない。だがその理由は、この建て物を作ったゴドリック・グリフィンドールが〈守護霊の魔法〉を使えなかった理由となんら変わりがない。」

 

パドマは廊下の温度が着実に下がりつつあるのを感じた。まるでだれかが〈冷却の魔法〉をかけているように。

 

「しかも、ハーマイオニー・グレンジャーの協力者はハリー・ポッターだけではない。」  ささやき声のなかに、乾いた愉快そうな声色が垣間見えた。急にクィレル先生のことを思いだして、パドマは恐ろしくなった。 「フィリウス・フリトウィックとミネルヴァ・マクゴナガルは彼女のことを、それは気にいっていることだろう。 ハーマイオニー・グレンジャーにおまえがなにをしているかが、あの二人に知られたらどうなると思う。二人はおまえのことを、いままでより気にいらなくなるのではないか。そのことに気づいていなかったのか? おおっぴらに介入しはしないかもしれない。だが、おまえに寮点をあたえるまえに少しためらうようになるかもしれない。おまえの指導にすこし身がはいらなくなるかもしれない——」

 

「ポッターが告げぐちしたって言うの?」

 

ハ・ハ・ハ、と幽霊っぽい笑いがかえってきた。 「あの二人が頭と耳と目を使えることをお忘れかな?」  ここからは悲しそうなささやき声で、 「あの二人がハーマイオニー・グレンジャーを大切にしていないとでも思うのか? 彼女の苦しみを見逃すと思うのか? あの二人も一度はおまえのことを……若く優秀なパドマ・パティルを気にいったかもしれない。だが、おまえはそれを棒にふった……」

 

パドマはのどがからからになるのを感じた。言われるまで、そういう風には考えていなかった。

 

「その道をすすみつづけたとして、いったい何人が最終的におまえのがわに残って気にかけてくれるのだろうな、パドマ・パティル。 姉と距離をおくために……パーヴァティの光の影となるために、そこまでする価値があるのか? おまえのこころの奥底の恐怖は、いつのまにか姉とおなじことをしてしまうこと。そう、かつての自分がそうであったように。 だがそのために……自分はちがう人間だと主張するためだけに、なんの罪もない女の子を傷つけていいのか? おまえは善悪の双子の悪になると決めてしまったのか? 別の種類の善をめざせばいいのではないか?」

 

心臓がばくばくする。それは……その話はまだ、だれにもしていないのに——

 

「わたしは生徒のあいだでなぜいじめが起きるのか、いつも不思議に思っていた。」と言って声がためいきをつく。 「なぜ子どもたちはみずからを生きづらくするのか。なぜみずからの手で学校を牢獄に変えるのか。 なぜ人間は自分の人生をみじめにするのか。 そのこたえの一部はこうだ。 それは、だれかに苦痛をあたえようとするまえに、立ちどまって考えないからだ。自分自身も傷つくかもしれないと想像できないからだ。自分自身の悪行により自分自身が苦しむのだと気づけないからだ。 そう、パドマ・パティル、おまえも苦しむ。この道を歩むのをやめなければ、おまえは苦しむ。 孤独の苦しみ、他人に恐れられ疑われる苦痛、いまおまえがハーマイオニー・グレンジャーにあたえているのとおなじ苦しみが待っている。 ただし、おまえの場合は自業自得だ。」

 

パドマの手のなかで杖が震えた。

 

「レイヴンクローをえらんだ瞬間に陣営が決まったのではない。 人生をいかに生きるか、他者のためになにをするか、自分のためになにをするかで陣営は決まる。 他者の人生を明るくするか、暗くするか。 それが〈光〉と〈闇〉の分かれ目だ。〈組わけ帽子〉がなにを言うかではない。 むずかしいのは、『光』を宣言することではない。むずかしいのは、どちらがどちらであるかを見きわめること。そして自分がまちがった道を歩んだとき、まちがったと認められること。」

 

静寂がおりた。静寂がしばらくつづいて、それがもう行ってよいという合図であることにパドマは気づいた。

 

杖をポケットにもどそうとして、杖を落としかけた。 この場を去るために壁から離れようと一歩踏みだして、倒れかけた——

 

「わたしも〈光〉か〈闇〉かの選択にいつもただしく答えられたとは言わぬ。」と言うささやき声はいままでより大きく、パドマの耳に直接、耳ざわりに響いた。 「わたしの助言を確実なものと思うな。疑問を持つことを恐れるな。わたしも努力はしてきたが、失敗したこともある。ああ、何度失敗したことか。 だがおまえはまったく罪のない人間を傷つけている。傷つけたところで、ほんのすこしも自分の野望を達成する助けにならないし、狡猾な計画の一部にもなっていないにもかかわらず。 おまえが苦痛をあたえるのは、ただ純粋に自分の愉悦のためだけだ。 わたしも〈光〉か〈闇〉かの選択にいつもただしく答えられたとは言わぬ。だがこれが暗黒であることには疑いない。 おまえはなんの罪もない女の子を傷つけている。仕返しされずにすんでいるのはひとえに、自分の協力者がおまえに手をだすことすら見すごせないほど彼女がやさしいからだ。レイヴンクローの娘よ、おまえはスリザリンと呼ぶにあたいしない。早く行って〈薬草学〉の宿題をやるがいい!」

 

最後の部分はほとんどヘビがシューシューいう声のように聞こえた。パドマはあわてて、まるでレシフォールドに追われるようにして廊下を走りぬけた。廊下を走るなという規則にもかまわず、走りつづけた。他の生徒を通りすぎたとき、おどろいた顔をされても、止まらずに、首もとの脈をどくどくさせながら、レイヴンクロー寮にまっすぐに走りこんだ。ドアに「太陽が夜ではなく昼に光るのはなぜか?」という質問をされて、三度失敗してからやっとまともに答えることができた。ドアがひらくと、そこには——

 

——女子と男子、下級生と上級生が何人か、彼女に目をむけていた。すみにある五角形のテーブルでは、ハリー・ポッターとマイケル・コーナーとケヴィン・エントウィスルが教科書から顔をあげようとしていた。

 

「どうしたの、いったい! パドマ、なにがあった?」とペネロピ・クリアウォーターが声をあげてカウチから立ちあがった。

 

「ゴ……ゴ、幽霊(ゴースト)の——声が——」

 

「〈血みどろ男爵〉じゃないでしょうね?」と言ってクリアウォーターは杖をだし、コップが手にあらわれた。そして『アグアメンティ』をかけると、水がコップに満ちた。 「ほら、これを飲んで。座って——」

 

パドマはすでに五角形のテーブルのほうに歩みはじめていた。 ハリー・ポッターを見ると、むこうもこちらを見ていた。落ちついているが、けわしく、少し悲しげな目つきだ。

 

「あんたがやったんでしょう! あれは——よくも——よくもあんな!」

 

レイヴンクロー寮が急に静まった。

 

ハリーはただ彼女を見つづけた。

 

そして、こう言った。「なにか助けになれることはある?」

 

「否定しようとしても無駄。」  パドマの声は震えている。 「あんたが幽霊をしかけたんでしょうが。あんなことを言うのは——」

 

「まじめに言ってるんだ。」とハリーが言う。 「なにか助けになれることはある? 食べものを持ってこようか。ソーダをとってこようか。それとも、宿題の手つだいとか、なにかしてほしいことは?」

 

全員が二人をじっと見ている。

 

「どうして?」  パドマはそう言うほかなかった。意味がわからなくなった。

 

「このなかに、いま断崖に立っている人がいる。そこから落ちてしまうかどうかは、ほかの人のためになにをするかで決まる。 だから、パドマ、なにかきみの助けになることをさせてもらえないか?」

 

彼女はその顔をじっと見て、はっと気づいた。きっと彼もおなじ警告を受けとったのだ。

 

「じゃ……じゃあ、これからロミリアラ材のレポートを六インチ書かなきゃいけないから——」

 

「寝室から〈薬草学〉の本をとってくるよ。」と言ってハリーは立ちあがり、エントウィスルとコーナーのほうを見た。 「悪いけど、しばらく失礼するよ。」

 

二人はなにも言わず、ほかの全員といっしょになって、ただハリー・ポッターが階段にむかうのを見つめた。

 

階段をのぼろうとした瞬間に、ハリー・ポッターはこう言った。 「本人が自分から話そうとしないかぎり、パドマを問いつめないでほしい。みんな()()()()かい?」

 

「わかった。」と一年生の大半と、上級生数人かが言った。そのうち何人かは、やけに怖ごわとしていた。

 

◆ ◆ ◆

 

彼女はロミリアラ材以外にもいろいろなことをハリー・ポッターに話した——知らずにパーヴァティとおなじふるまいをしてしまうことが怖い、ということさえ話した。そのことはこれまでだれにも言っていないが、ハリーの協力者の幽霊はすでに知っているのだから、かまわない。 ハリーはポーチに手をいれ、()()()本を何冊かとりだし、絶対の秘密だと言って彼女に貸した。この本を読んで理解できれば、パドマの思考パターンは変わり、二度とパーヴァティとおなじにはならない、という……

 

九時になり、ハリーがもう帰ると言ったとき、レポートは半分しかできていなかった。

 

ハリーは外に出かかったところで立ちどまり、きみはスリザリンと呼ぶにあたいする人だと思う、と言った。そう言われていい気分がしたが、一分後になってやっと、いま自分がだれになんと言われたかに気づいた。

 

◆ ◆ ◆

 

その朝、朝食のためにそこに来たとき、パドマはマンディが目をむけてきたのに気づいた。マンディはそれから、レイヴンクローのテーブルでとなりの席にいる女子になにかをささやきかけた。

 

ささやかれた女子が席を立ち、自分のほうに歩いてくるのが見えた。

 

昨晩は、自分とその女子が同室でないことにほっとしていたが、いま考えてみると、この状況のほうが気まずい。これをみんなの目のまえでやらなければならないとは。

 

パドマは汗をうかべはじめていたが、自分がなにをやらなければならないかも分かっていた。

 

その女子が近づいてきて——

 

「ごめんなさい。」

 

「え?」  それはこちらのせりふだ。

 

「ごめんなさい。」とハーマイオニー・グレンジャーがくりかえす。 その声は、だれもが聞きとれるほど大きくなっている。 「あれは……あれはわたしが頼んだんじゃないの。ハリーがあれをやったのを知ってから怒ったし、もう二度()()()()おなじことはしないって約束もさせた。それに、一週間絶交することにした……。 ほんとに、ほんとにごめんなさい、ミス・パティル。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーの背すじはこわばっている。表情もこわばっている。顔には汗が見える。

 

「ええと」と言いながら、パドマの思考もすっかり混乱してしまっている……

 

パドマはレイヴンクローのテーブルのほうをぱっと見た。そこでは少年が一人、両手をひざの上でかため、緊張した面持ちでこちらを見ていた。

 

◆ ◆ ◆

 

そのすこしまえの時点:

 

「思いやりをもつこと、って言ったでしょう!」とハーマイオニーが叫んだ。

 

ハリーは汗をうかべはじめた。 ハーマイオニーにどなられるのはこれがはじめてだ。それも空き教室だから、ずいぶんとよく声が響いた。

 

「いや——でも——でも、あれは思いやりだよ! ほとんど()()させてあげたようなものだ。パドマが道をあやまりそうになっていたから、止めてあげたんだ! 多分これのおかげで、パドマの人生は幸せな方向に変わる! それに、クィレル先生のもともとの提案がどんな提案だったかを聞けば、きみも——」  そこまで言ってハリーは自分がなにを言っているのか気づき、口を閉じたが、一秒ほど遅すぎた。

 

ハーマイオニーは自分の巻き毛をつまんでいる。ハリーにいままで見せたことのない仕草だ。 「クィレル先生はなんて? 殺せばいい、とか?」

 

クィレル先生は、一年次内外の影響力がある生徒を全員調べあげて、ホグウォーツ全体のあらゆる噂の流通を支配する手立てを考えろ、と言った。そしてこれは真のスリザリン生にいつも推奨できる、有益で楽しい練習問題だ、とコメントした。

 

「そんなんじゃないよ。」とハリーはあわてて言う。 「一般論として、噂を流している人たちへの影響力を持て、と言われただけ。それでぼくは、もっと親切なやりかたを思いついた。パドマに自分がやっていることが何なのか、どういう代償が待ちうけているかを知らせてあげればいい、って。だからパドマをおどすとか、そういうことはちっとも——」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()」  ハーマイオニーはこんどは両手で自分の髪の毛を引っぱっている。

 

「う……うん、まあ、多少は恐ろしく感じたかもしれないけど。でもね、人間は逃げ切れると思えばなんでもやってしまう。自分が傷つかないかぎりは、ほかの人がどれだけ傷ついても気にならない。もしうそを広めてもなんの代償もないと思っているなら、パドマは()()()()いつまでもやりつづける——」

 

「それで()()()()自分の行動になんの代償もないと思っているの?」

 

ハリーは急に不吉な感覚におそわれた。

 

ハーマイオニーはいままで見たこともないほど激怒している。 「これでほかのみんなに自分がどう思われたか、わかってるの? ()()()()どう思われたか、わかってるの? ハーマイオニーについてなにか口にすれば、ハリーがそれを気にいらなかったら、幽霊をけしかけられる。 そういう風に思われたかったの?」

 

ハリーは口をひらいたが、ことばが出ない。それは……正直、そんな風には考えていなかった……

 

ハーマイオニーは手をのばし、テーブルにぶちまけてあった本をさらっていった。 「これから一週間、あなたと絶交する。一週間ハリーと絶交してるっていうことを、みんなに言う。その()()()言う。それでいくらかは、あなたがやったことを打ち消せるかもしれない。 一週間たったら、そのあとは——そのあとどうするかは、そのとき決めればいいか——」

 

()()()()()()()()」  ハリー自身の声も必死の悲鳴になっていた。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

少女は教室のドアをひらいたところで、振りかえり、ハリーのほうを見た。

 

「ハリー……」  その声は怒りの声ではあったが、震えも垣間見えた。 「クィレル先生はあなたを暗黒に引きこんでいる。わたしは本気でそう思う。」

 

「今回は……そうじゃない。先生に言われたんじゃない。ただぼくが思いついただけ——」

 

ハーマイオニーの声はほとんどささやきのようになった。 「いつか、あなたがあの人といっしょに昼食を食べに出かけたりして、そしたら帰ってくるのは暗黒面のほうになる。いいえ、帰ってこないかもしれない。」

 

「約束するよ。昼食からは帰ってくるって。」

 

ハリーは無意識のうちにそう言った。

 

ハーマイオニーはただ背をむけて、のしのしと部屋を出て、乱暴にドアを閉めた。

 

みごとなまでに、劇におけるアイロニーの法則どおりになってしまうな——とハリーの〈内的批評家〉が言う。 おまえは今週土曜日に死んで、そのときの最後のことばは『ごめん、ハーマイオニー』。そして彼女は乱暴にドアを閉めたのが二人の最後のやりとりであったことを一生悔やむ……

 

もうだまれ。

 

◆ ◆ ◆

 

パドマはハーマイオニーとならんで朝食の席についたとき、ほかのみんなに聞こえるほどの大きな声で、あの幽霊は言ってくれたことはだいじなことだったし、ハリー・ポッターがそうしたことはただしかった、と宣言した。それを聞いておびえが少しおさまった人もいたが、余計におびえさせられた人もいた。

 

それがあってから、ハーマイオニーの悪口を言う人はたしかにあまりいなくなった。すくなくとも、ハリー・ポッターが聞いているかもしれない場所で、一年生が公然と言うことはあまりなくなった。

 

フリトウィック先生が、パドマの身に起きたことはハリーのしわざか、とハリーにたずね、ハリーは肯定したので、フリトウィック先生は二日の居残り作業の罰を課した。 ただの幽霊にすぎず、パドマにけがをさせるようなことでなかったとしても、レイヴンクロー生の行動として看過することはできない。 ハリーはうなづいて、フリトウィック先生がそうせざるをえないのは理解します、と言い、抗議しなかった。 かわりに、実際パドマを改心させることができたように見える点を考慮するなら、非公式な意見として先生はどう思いますか、やはりまちがったことだったと思いますか、とたずねた。 フリトウィック先生はすぐに返事せず、本気で検討してしているようだったが、厳粛そうな甲高い声で、きみはほかの生徒とふつうの方法で交流できるようになるべきだ、と言った。

 

ハリーはそれを聞いて、つい、クィレル先生ならこういう助言は絶対に言わない、と思ってしまった。

 

そして、もしクィレル先生の言うとおりの方法をとっていたら、どうなっていただろうか、ということも考えてしまう。ふつうの()()()()()()()やりかたで、正負の報奨の組み合わせを使って、パドマをはじめとする噂をふりまく人たちを全員明確に支配下においていれば、どうなっていたか。パドマはだれにもそのことを言わなかっただろうし、そうすればハーマイオニーに気づかれることもなかった……

 

……その場合、パドマは改心しなかった。道をあやまったままになり、最終的には本人が報いをうけることになった。 ハリーはパドマになにも()()()()()()はいない。〈逆転時計(タイムターナー)〉をかけてから、透明になって〈腹話の魔法〉を使っていただけだ。

 

それでも、自分のとった方法以上にただしいやりかたはなかったのか、という点には自信がない。それにハーマイオニーは絶交をつらぬいている——かわりにパドマとはよく話すようになっているようだが。 昔のように一人で勉強することは、思っていた以上につらい。ハリーの脳には長年みがきをかけた孤独に生きるという技能があったのに、もうそれを忘れはじめてしまったかのようだった。

 

クィレル先生と昼食に出かけるのは土曜日。そのときまでの日々が、とてもゆっくりと進むように感じられた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




パドマ・パティルは原作では、印象的なのはダンスの相手になったシーンくらいだと思いますが、この作品では33章「協調問題(その1)」あたりから地味に出番があります(性格などは捏造こみ)。


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51章「タイトル検閲ずみ(その1)」

土曜日。

 

金曜日の夜、ハリーはなかなか眠れなかった。だが、そうなる可能性は当然あるとわかっていたので、あらかじめ睡眠のポーションを買ってあった。 しかも、ただ買ってしまえば自分が神経質になっているという兆候を人に知られかねないので、数カ月まえにフレッドとジョージを通じて買ってあった。(『そなえよつねに』……というボーイスカウトの歌のとおりだ)

 

だからハリーはたっぷり休息をとることができた。ポーチには、すこしでも必要になるかもしれないものをほとんどなんでもいれてある。 というより、ポーチの容量ぎりぎりまでいれてしまった。そのうち巨大なヘビを一匹いれなければならないし、ほかになにをいれることになるか想像もできないと思って、自動車用バッテリーなどかさばるものはいくつか出しておいた。 ハリーは自動車用バッテリーくらいの大きさのものなら、もうきっかり四分で〈転成〉(トランスフィギュレイション)できるようになっている。だから、それほど惜しくはない。

 

緊急照明弾と溶接用の酸素アセチレントーチとガソリンタンクは、いれたままにした。燃やすものは〈転成〉できないからだ。

 

『そなえよ、つねに……』

 

〈メアリーの店〉。

 

給仕の女性が注文を受けつけ、一礼して部屋を去ったのを見てから、クィレル先生は〈魔法(チャーム)〉を四種だけかけた。その段階で話したのは、なんら重大な問題となりえない話題だった。クィレル先生はただ、〈闇の王〉が〈防衛術〉の役職にかけた呪いのせいで決闘術が衰退したとか、その影響でブリテン魔法界の社会的慣習がどう変わったか、というような、こみいった話をしていた。 ハリーは話を聞いてはうなづいて、気のきいた返事をしたりしていた。その裏で、心臓の鼓動が高まるのをおさえようとしていた。

 

そして給仕が食事を持ってもどってきた。今度は、給仕が去ってから一分後、クィレル先生が扉にむけて手をふって鍵をかけ、二十九のセキュリティ用〈魔法〉をかけた。ミスター・ベスターの使っていた呪文の組と比べると一つ欠けていたので、ハリーはすこし妙に思った。

 

クィレル先生は一連の呪文を終えると——

 

——席から立ちあがり——

 

——一瞬すがたがぼやけてから、緑色のからだに青と白の縞がはいったヘビに変わり——

 

——シューシュー音でしゃべりだした。 「少年、腹ガ 減ッタカ? スグニ 食ベロ。コレカラ 体力モ 時間モ 必要。

 

ハリーは両目をすこし見ひらいたが、「朝ニ 多ク 食ベタ。」と言ってから、急いで麺をフォークにのせて口に運びはじめた。

 

ヘビはそれをしばらく見てから、平坦な目をしながらこう言った。 「コノ場所デハ 説明 シナイデ オキタイ。マズ 別ノ 場所ニ 行キタイ。 ダレニモ 見ラレズ 去ル 必要ガ アル。コノ 部屋ヲ 出タ 跡モナク。

 

ダレニモ 追跡 サレナイ ヨウニ。」とハリー。

 

ソウ。ソコマデ ワタシヲ 信頼スルカ? 考エテカラ 答エロ。 ワタシカラ 大事ナ 頼ミガ アル。信頼ヲ 必要ト スル。アトデ 断ルナラ、イマ 断レ。

 

ハリーはヘビの平坦な目を見るのをやめ、視線を落とし、たれのかかった麺に目をやった。そしてひとくち、またひとくちと食べながら、考えた。

 

クィレル先生は……ひかえめに言って、両面性がある人物だ。 この人の目的のうちいくつかは解明できた、とハリーは思っている。だがそれ以外は謎のままだ。

 

けれど、クィレル先生は、ハリーを召喚しようとしていた何人かを止めるために、二百人の女子をなぎたおした。 ディメンターが杖を介してハリーに吸いついていたことを推理した。 わずか二週間のうちに、二度もハリーの命を救った。

 

これはただ、ハリーを()()()()()()()()生かしておこう、というだけのことかもしれない。別の魂胆があるのかもしれない。 いや、あるのは()()()()()()。 クィレル先生はこういうことを気まぐれでやらない。 だが、クィレル先生はハリーに〈閉心術〉を身につけさせたし、負けかたを教えてくれた……。もしハリー・ポッターをなんらかのかたちで利用しようとしていたのなら、弱いハリー・ポッターではなく強いハリー・ポッターが必要だったということだ。 味方に利用されるとはこういうことだ。味方どうしなら、相手を弱くするのではなく強くするような利用のしかたをしようとする。

 

そしてクィレル先生が冷たい態度や、苦にがしげな口調や、空虚な目つきをすることがあるとしても、それはクィレル先生がハリー以外にそういったすがたを晒そうとしないからだ。

 

ハリーはクィレル先生に対する自分の親近感をどう表現していいか、よくわからないでいた。ただ、クィレル先生はハリーが魔法界でであった人のなかで唯一の()()()()()をする人物だ、ということは言える。 ほかの人はみんな、遅かれ早かれクィディッチをしたり、タイムマシンに保護ケースをつけなかったり、〈死〉が自分の友だちであるかのように考えたりしてしまう。 遅かれ早かれ、頭脳の奥底の混乱している部分が、おもてに出てくる。というか、早いことが多い。 クィレル先生以外の全員がそうだ。 二人のきずなは、相手に対して負う債務などや、性格的相性などを超えたところにある。二人は魔法界で孤立している。 そして、クィレル先生がときどき怖く見えたり〈(ダーク)〉に見えたりすることはあるかもしれないが……ハリーもちょうど同じようなことを言われているのだから文句は言えない。

 

アナタヲ 信頼スル。」とハリーが言った。

 

するとヘビは計画の第一段階について話しはじめた。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは最後に残った麺の口にふくみ、噛んだ。 となりでは、人間にもどったクィレル先生がおだやかにスープを飲んでいる。まるで特別なことはなにもなかったかのように。

 

ハリーは息を吸いこむと同時に席を立った。すでに心臓がばくばくしている。 すでにここには、文字通りこれ以上ない水準のセキュリティが確保されている……

 

「テストする準備はできたか、ミスター・ポッター?」とクィレル先生がしずかに言った。

 

実際にはテストではない。だがクィレル先生はそう口にしようとしない。すくなくとも人間言語では。追加の呪文をかけて限界まで部屋のセキュリティを強化したうえでもなお、クィレル先生は危険をおかすつもりがないのだ。

 

「はい。」とハリーはできるかぎり気軽な声で言った。

 

第一ステップ。

 

ハリーはポーチに「マント」と言って〈不可視のマント〉をとりだしてから、ポーチをベルトからはずし、テーブルの奥にほうりなげた。

 

〈防衛術〉教授は席を立ち、杖を手にして前かがみになり、杖の先をポーチにとどかせ、小声で詠唱をはじめた。 この魔法の効果により、クィレル先生は自分の意思でポーチに出入りでき、中にいるあいだは外の物音を聞くことができるようになる。

 

第二ステップ。

 

クィレル先生はポーチにかぶさるようにしていた姿勢をやめてまっすぐに立ち、杖を置いた。置かれた杖はたまたまハリーの方向をむいている。ハリーの胸のうえの〈逆転時計〉のあたりが一瞬ぞわりとした。なにかが自分とほんの少しだけ距離をおいて這っていったような感じだった。

 

第三ステップ。

 

クィレル先生がまたヘビになり、あの破滅の感覚が弱まった。 ヘビはポーチのなかへとすべりこみ、ポーチは口をあけてそれを受けいれた。尻尾まで飲みこんでからポーチの口が閉じると、破滅の感覚はさらに弱まった。

 

第四ステップ。

 

ハリーは杖を手にして、できるかぎり静止した姿勢をたもった。保護ケースのなかの〈逆転時計〉は、クィレル先生によって砂時計の角度が固定されている。それを動かすことのないよう、注意した。 「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」とつぶやくと、ポーチが浮かび、近づいてきた。

 

ゆっくりと、ちょうどクィレル先生に言われたとおり、ゆっくりと、ポーチがハリーのほうに飛んでくる。ハリーは待ち受けながら、ポーチがひらきそうになっていないか注視していた。その場合はおなじ〈浮遊の魔法〉でポーチを飛ばして、できるかぎりの速度で自分から遠ざけることになっている。

 

ポーチとの距離が一メートル以内になり、ハリーは破滅の感覚がもどったのを感じた。

 

ポーチをベルトにつけなおすと、破滅の感覚はいままでなかったほど強くなった。それでも圧倒されるほどではない。我慢はできる。

 

自分の腰にぴったりくっついたポーチに〈動物師〉形態のクィレル先生がはいっているにもかかわらず。

 

第五ステップ。

 

ハリーは杖をしまった。もう片ほうの手にはまだ〈不可視のマント〉がある。ハリーはそれをかぶった。

 

第六ステップ。

 

だれものぞきみることのできないよう遮蔽されているこの部屋には、クィレル先生がさらに防護措置をかけてある。だがそれにくわえて、真の〈不可視のマント〉を身につけてからやっと、ハリーはシャツのしたにある〈逆転時計〉の容器に手をのばし、一度だけ回した。

 

〈逆転時計〉内部の砂時計は固定されたまま動かず、周囲が回転する——

 

テーブルから食事が消え、椅子がもとの位置に飛びもどり、扉がいきおいよくひらいた。

 

〈メアリーの部屋〉はいま無人だ。無人であることは分かっていた。クィレル先生は事前に〈メアリーの店〉に連絡して、偽名を使ってこの部屋がこの時間にあいていることをたしかめてあった——一度予約するとキャンセルしたことが目立ってしまうかもしれないので、ただ質問するだけにとどめてあった。

 

第七ステップ。

 

ハリーは〈不可視のマント〉をかぶったまま、ひらいた扉を通過した。 〈メアリーの店〉のタイル敷きの廊下を進み、酒瓶のならぶバーへとたどりついた。はいってきたばかりの客数人を店主ジェイクがもてなしている。 まだ午前中で昼食時間には早いので、バーは閑散としている。ハリーは扉がひらくまで、透明になったまま数分待つ必要があった。そのあいだ、会話らしき声やアルコールでのどを鳴らす音が聞こえた。アイルランド系の温和そうな大男が来て、扉がひらいた。ハリーはそこへ音をたてずにすべりこみ、外に出た。

 

第八ステップ。

 

ハリーはしばらく歩いた。〈メアリーの店〉から十分離れ、ダイアゴン小路をそれて、もっと小さな路地へと進んだ。そのつきあたりに、暗い店が一軒あった。店の窓は魔法で真っ黒になっている。

 

第九ステップ。

 

(ソード)(フィッシュ)(メロン)(フレンド)」とハリーが合言葉を言うと、鍵が音をたててひらく。

 

店内もやはり暗く、開いた扉からの光で一瞬見えたのは、広いからっぽの部屋だった。 クィレル先生の話では、もともとここでは家具店がいとなまれていたが数カ月まえに倒産した。差し押さえられたが、まだ売却されていないのだという。 壁は白一色で、板張りの床は傷があり、みがかれていない。奥の壁には閉じたドアがひとつ貼り付けてある。 かつてはショールームだったのだろうが、いまはなにも展示されていない。

 

ハリーのうしろで扉が音を立てて閉まった。それで室内は完全な暗闇になった。

 

第十ステップ。

 

杖をとりだし『ルーモス』と言って、ぼうっとした白い光で部屋をてらす。 ベルトからポーチをはずし(ポーチを手にとると、破滅の感覚がすこしきつくなった)、部屋の奥のほうへ軽く投げこむ(破滅の感覚はほぼ完全になくなった)。 それから、〈不可視のマント〉をとりつつ、声をだす。「終ワッタ。

 

第十一ステップ。

 

ポーチから緑色のあたまが突きだし、すぐに一メートルの体長のヘビがすべりでた。 一瞬おいてから、そのすがたがブレて、ヘビはクィレル先生になった。

 

第十二ステップ。

 

ハリーは無言のまま、クィレル先生が三十の〈魔法(チャーム)〉をとなえるのを待った。

 

「よし。」とクィレル先生が落ちついた声で言った。 「これでもまだだれかに見られているとしたら、いずれにしろわれわれは破滅だ。だからここからは人間のすがたで普通に話すことにしたい。 〈ヘビ語〉とはあまり相性がよくないのでね。わたしはサラザールの子孫でもなければ、ほんもののヘビでもない。」

 

ハリーはうなづいた。

 

「さて、ミスター・ポッター。」  クィレル先生は熱のこもった視線をむけた。あわい青色の眼は、ハリーの杖の白光の影となっている。 「こうしてだれもいない、だれにも見られない場所にきたところで、ある重要なことについてきみにひとつ質問したい。」

 

「どうぞ。」  ハリーの心臓の鼓動がはやくなった。

 

「ブリテン魔法界の政府について、きみはどう思う?」

 

期待どおりというほどではないが、期待はずれというわけでもない話題だ。 「かぎられた知識でしか言えませんが、〈魔法省〉とウィゼンガモートは愚かで腐敗していて邪悪だという印象です。」

 

「正解だ。なぜわたしがこんなことをたずねたかは分かるか?」

 

ハリーは深呼吸をしてから、クィレル先生の目をひるまず、まっすぐに見た。 とぼしい証拠をもとにみごとな推理をし、事前に答えを知る、ということがようやくできるようになったので、ハリーはたっぷり一週間まえに、この答えがどんな答えになりそうかを考えてあった。あとは少し調整するだけ……

 

「あなたはぼくを秘密組織に勧誘しようとしている。それはあなたのようにおもしろい人がたくさんいる組織で、ブリテン魔法界の政府を改革するか転覆することを目標のひとつにかかげている。答えはイエスです。仲間にしてください。」

 

一瞬、間があいた。

 

「悪いが、今回はそういった方向の話をするつもりではなかった。」と言ってクィレル先生はわずかにくちびるのはしをぴくりとさせた。 「わたしが頼もうとしていたのは簡単なことだ。とある重大な違法性のある背信行為を手つだってもらいたい。」

 

()()。とはいえ、あれは()()()()()()……。 「聞かせてください。」

 

「いや、そのまえに……」  クィレル先生の声には気軽さがまったくなくなった。 「きみはそのような種類の依頼を受けてもいいと思っているか? 繰り返すが、もし話を聞いてからことわる可能性が高いのなら、いま言いなさい。 好奇心にかりたてられるあまりそう言えないでいるなら、その好奇心を自制しなさい。」

 

「違法だとか背信だとかは気になりませんが、リスクは気になります。リスク相応の成果を見こめるものでないと。でも、あなたなら、そう軽がるしくリスクをとることはないだろうと思います。」

 

クィレル先生はうなづいた。 「とらない。こうやって頼むことで、きみとの友情をひどく悪用することにもあたり、ホグウォーツでの教職にかかる信頼を悪用することにもあたるのだが——」

 

「そういう部分は省略していいですよ。」

 

くちびるがまたぴくりとしてから、もとにもどった。 「では省略する。ミスター・ポッター、きみはときどき、真実でうそを組み立てる。ことばたくみに、真意をあらわにしながら真意を隠す。 わたしも昔からそういう趣味があることで知られていた。 だが……できることなら今日われわれ二人でやろうという仕事が何なのかを聞いてしまえば、きみは()()()()()ことになるぞ。 そのことについては、なんのためらいもなく、真っ赤なうそを言ってもらう。相手が敵であれ親友であれ、ことば遊びやほのめかしでごまかすことをせず、純粋なうそを言ってもらう。 マルフォイにも、グレンジャーにも、マクゴナガルにも。 毎回、なんのためらいもなく、自分がなにも知らなければ言うであろうとおりの言いかたで。プライドを投げ捨てて。 この点もよく承知してもらいたい。」

 

二人はしばらく無言になった。

 

この代償はハリーのたましいの断片を差しだすことにあたる代償だ。

 

「その話の内容はまだ言わない前提で……どうしてもそこまでする必要があるかどうか、教えてくれませんか?」

 

「きわめて切実にきみの助けを必要としている人が一人いる。そしてその人を助けられるのは、きみをおいてほかにだれもいない。」とクィレル先生が端的に言った。

 

またあたりが静まったが、あまり長くはかからなかった。

 

「わかりました。」とハリーが静かにこたえる。「その任務の内容を言ってください。」

 

ハリーの杖の白光を〈防衛術〉教授の身体がさえぎり、ローブが壁に影を落としている。黒いローブがその影にかさなってブレたように見えた。 「通常の〈守護霊(パトローナス)の魔法〉は、ディメンターの恐怖をさえぎることができる。 だがディメンターはそのときも相手を見とおすことができる。相手がそこにいることを知っている。 きみの〈守護霊の魔法〉はちがう。 きみの〈守護霊の魔法〉はディメンターの目をくらますことができる。いや、それ以上のことができる。 あのマントの下にいたものは、きみに殺されるとき、こちらを見てすらいなかった。死んでいくときも、われわれの存在を忘れているかのようだった。」

 

ハリーはうなづいた。 そうなってもおどろきではない。擬人化されたディメンターのむこうがわの、その真の存在を認識してディメンターに対面していれば、きっとそうなる。死は最後の敵かもしれないが、死そのものに意識はない。 人類が天然痘を撲滅したとき、天然痘は人類に反撃しなかった。

 

「ミスター・ポッター、グリンゴッツの本店はすみからすみまで、ゴブリンが知るかぎりのあらゆる呪文で防護されている。 それでも侵入し盗みをすることに成功した強盗がいる。魔術にできることはつねに、魔術で打ち消すことができる。 なのに、アズカバンを脱獄できた者はいまだかつて一人もいない。一人もだ。 あらゆる〈魔法(チャーム)〉には対抗〈魔法(チャーム)〉があり、あらゆる結界には抜け道がある。 いままでだれもアズカバンの囚人を脱出させられなかったなどということが、どうしてありうるだろうか?」

 

「アズカバンには無敵のなにかがあるから。だれにも倒せない、恐ろしいものがいるから。」とハリー。

 

アズカバンの完全な守りのかなめはきっとこれだ。人間ではありえない。 アズカバンを守っているのは〈死〉なのだ。

 

「ディメンターは食事を取りあげられると不機嫌になる。」  クィレル先生の声に冷たさが混じった。 「だれかがそうしようとすれば、ディメンターは気づく。 アズカバンには百体以上のディメンターがいて、守衛とやりとりもしている。 ただそれだけなのだよ。 強力な魔法使いであれば、アズカバンに侵入することはむずかしくない。脱出することもむずかしくない。 ディメンターに属するものを外へ持ちだそうとさえしなければ。」

 

「でもディメンターは無敵()()()()。」  そう言った瞬間、ハリーはその考えだけで〈守護霊の魔法〉をかけることができそうな気がした。 「無敵なんていうのはうそだ。」

 

クィレル先生の声はとても静かだった。 「あの日一度目にディメンターのまえに立って、失敗したとき、どういう気持ちになったか、おぼえているかね?」

 

「はい。」

 

そして急に胸のなかに嫌な感覚が生じた。このさきどういう話になるかがわかった。もっと早く気づくべきだった。

 

「無実の人間が一人、アズカバンのなかにいる。」とクィレル先生。

 

ハリーはうなづいた。のどのなかに燃えるような感覚があったが、泣きはしなかった。

 

「わたしが言っている人物は、〈服従(インペリオ)の呪い〉をかけられたのではない。」  クィレル先生の黒いローブのシルエットが、ひとまわり大きな影にかさなった。 「だれかの意思をくじきたければ〈服従(インペリオ)〉以上に確実な方法がある。拷問のための時間と、〈開心術〉と、とある儀式とがあればいい。その儀式の話はいまは控えておく。 わたしがどうやってその人物のことを知ったのかについては言えない。相手がきみでもほのめかすことすらできない。信じてもらうしかない。 アズカバンにその人物がいる。一度も自分の選択で〈闇の王〉に仕えたことがないのに、考えうる最悪の冷気と暗黒のなかで何年ものあいだ孤独に過ごしてきた人物がいる。一分たりとも受けるいわれのない罰を受けつづけた人物がいる。」

 

ハリーはそこで直観を一飛びさせて、答えにたどりついた。考えるまえに口が動きそうなくらいだった。

 

……『なんの予兆も警告もなく——まさかあいつが——』……

 

「ブラックという名の人物が。」とハリーは言った。

 

静寂がおりた。あわい青色の目がハリーを見つめるあいだ、静寂がつづいた。

 

「……引き受けるという返事を聞くまでは、名前は言わないでおくつもりでいたのだが、しかたない。 きみこそわたしのこころを読んだのではないか、とたずねたいところだが、そのようなことは単純に不可能だ。」

 

ハリーはなにも言わないでいた。現代の民主制における手続きの重要性を()()()人にとっては、単純な推理だ。 アズカバンに無実の人がいるとすれば、まず想定すべきなのはあの人物だ。裁判をうけなかったという、あの——

 

「とても感心させられたよ、ミスター・ポッター。」と言ってクィレル先生はただならない表情をした。 「だが真剣な問題として、もしなんらかの方法でほかの人間にもおなじ推理ができるのだとしたら、わたしは()()()()()()()()()()。 だから話してくれ。アトランティスのマーリンの名において、星ぼしのあいだの虚無の名において、いったいどうやってこれがベラトリクスの話だと分かった?」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




彼女はこの作品ではレストレンジ姓ではないのです(27章「共感」参照)


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52章「スタンフォード監獄実験(その2)」

早くもアドレナリンが血管に流れだし、ハリーの心臓がはげしく鼓動する。暗い倒産した店のなかで。 クィレル先生の説明はすでに終わった。そしてハリーは片手に、鍵となる小枝を持っている。 これだ。いま、この瞬間が、自分のほんとうの出番がはじまる。 これが自分のはじめての本当の冒険……飛びこむべきダンジョン、転覆すべき邪悪な政府、救うべき囚われの姫君だ。 もっとこわごわとした態度でいるべきかもしれないが、むしろ、そろそろこういう、本の登場人物のようなことができていてもいいころだ、という気しかしなかった。 いままでずっと知ってはいた自分の運命にむけて、英雄(ヒーロー)になるための旅がはじまる。 キムボール・キニスンやキャプテン・ピカードや『サンダーキャッツ』のライオンオーとおなじ道を歩みはじめる……レイストリン・マジェーレではなく。 いままで早朝のテレビアニメを見て吸収した知識によれば、成長するということはなにかすごい能力を獲得して宇宙を救うことを意味する。そういうものがハリーの頭脳にとっての大人であり、成熟することのロールモデルとなっている。そしてハリーはもちろん、はやく大人になりたいと思っている。

 

そしてもし、物語の都合上、主人公(ヒーロー)が第一の冒険の結果として自分の無垢な部分をいくらかうしなう必要があるとしても、すくなくともまだ無垢な自分としては、そういった痛みをそろそろ経験していていいころだと思う。 ちょうど小さくなった服を脱ぎ捨てるように。あるいは、十一年間スーパー・マリオ・ブラザーズのワールド3のレベル2を抜けだせずにいたあとで、やっと次のステージに進むことができた、というように。

 

いままで読んできた小説によれば、あとのほうになるとこれほど興奮した気分でなくなることは分かっているから、味わえるあいだにぞんぶんに味わっておこう、とハリーは思った。

 

ポンという音がして、ハリーのとなりからなにかが消えた。もう主人公らしく思い悩んでいる時間はない。

 

ハリーは小枝を折った。

 

腹のあたりが引っぱりあげられる感じとともに、ポートキーが起動した。ホグウォーツとダイアゴン小路のあいだでの近距離の転送とくらべて、ずっと強引に引っぱられ——

 

——落とされた場所は、轟音をあげて遠ざかる雷、顔に吹きつける冷たい雨のさなかだった。眼鏡が雨で洗われ、あっというまに目のまえがぼやけて、なにも見えなくなる。そしてハリーは、はるか下の荒海にむかって落ちはじめた。

 

見わたすかぎりなにもない北海のはるか上空から、ハリーは落ちていく。

 

激しい雨風に打たれた衝撃でハリーはあやうく、クィレル先生からもらっていたホウキを手ばなしそうになった。さいわい手ばなしはしなかった。 たっぷり一秒はかかってやっと、ハリーはこころをしずめながら、ホウキをつかみなおし、ゆるやかに降下する角度にした。

 

「わたしはここだ。」とハリーの少し上の空間から聞きなれない声がした。声の主は血色の悪い、やせこけた、ひげ面の男——〈変身薬(ポリジュース)〉後のクィレル先生。さらに〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)で身を隠したうえで、ホウキに乗っている。

 

「ぼくはここです。」とハリーは〈不可視のマント〉のなかから言った。 〈変身薬〉を使っていないのは、 別人の身体が魔法力の障害になるからだ。 もともと多くない魔法力はすべて使えるようにしておきたい。 このため、今回の作戦のあいだじゅうハリーはほぼ常に透明になることになっていて、〈変身薬〉の予定はない。

 

(二人はおたがいの名前を呼んでいない。 違法な作戦を敢行するあいだはどの瞬間も、名前を呼ぶなどもってのほかだ。人知れぬ北海の片すみを透明になって飛んでいる最中であろうが、関係ない。いくらなんでも、そんなことをするのは愚かすぎる。)

 

片手で慎重にホウキをつかみながら、吹きつける雨風のあいだを抜けていく。ハリーはもう片手でやはり慎重に杖を持ち、眼鏡に〈撥水の魔法〉をかけた。

 

するとレンズの視界がくっきりとしたので、ハリーはあたりを見まわした。

 

あたりはひたすら雨と風。摂氏五度もあればいいほうかもしれない。二月の外気だけでも〈温熱の魔法〉をかける理由として十分だが、冷たい水しぶきがそれにくわわっている。 外気にさらされた場所がすべてびしょびしょになる点で、雪よりたちが悪い。 〈不可視のマント〉は全身を不可視にしてくれるが、全身をおおう大きさではないので、雨風を完全にはしのげない。 ハリーの顔に真っ向から吹きつける雨は、水の流れとなり、首すじを通ってシャツのなかへと侵入する。ローブのそでやズボンのすそと靴など、衣服のあらゆる入り口から水がはいってくる。

 

「こちらだ。」と〈変身薬〉で変化した声がして、緑色の火花がハリーのホウキのまえにあらわれた。火花はほとんどでたらめに飛びまわっていくように見えた。

 

先を見通せない雨のなか、ハリーは緑色の小さな火花を追った。 何度か見うしなったが、そのたびに声をあげると数秒後に火花は目のまえにあらわれた。

 

追うのになれてくると、火花は加速した。ハリーはホウキのギアをあげて追走した。 雨はさらにはげしく打ちつける。ハリーは散弾銃を顔にあてられたらきっとこういう感じなのではないかと思ったが、眼鏡の視界はそこなわれず、目だけは守られていた。

 

そのわずか数分後、全速力で疾走するホウキからハリーの目は雨のむこうに巨大な影をとらえた。はるか海のむこうに、なにかがそびえている。

 

そしてはるかむこうの〈死〉が待つその場所から、うつろな虚無の残響がハリーの精神に押し寄せ、波が石にあたってくだけるようにして、引いていった。 今回は自分の敵がなんであるか、わかっている。ハリーは鋼鉄の意思をたもち、光でかためた。

 

「もうディメンターの存在を感じる。」と〈変身〉したクィレル先生の耳ざわりな声が言う。 「こんな距離でも、もう届くとは。」

 

「星ぼしのことを考えてみてください。」  ハリーは遠い雷鳴に負けないように声をだした。 「怒りや否定的な感情はおさえて、星ぼしのことだけを。自分を忘れて、身体感覚をなくして宇宙にただようときの気持ちを思いだして。 それを〈閉心術〉の障壁のように自分の精神全体にかけてください。 そうするとディメンターはそう簡単には侵入できなくなります。」

 

一瞬沈黙があってから「おもしろい。」という声がした。

 

緑色の火花が上昇した。ハリーはホウキをすこしだけ上にむけて、それを追った。火花にみちびかれて、霧のかたまりや水面ちかくの雲を突っ切っていく。

 

二人はほどなくして、わずかにかたむいた巨大な金属の三角柱の建て物をはるか眼下に見おろす位置についた。鋼鉄の三角柱のなかは空洞だ。建て物は三つの厚い壁がすべてで、中央部はない。 看守をつとめる〈闇ばらい〉の詰所は南がわの最上層にあり、各自の〈守護霊の魔法〉で防御されている、というのがクィレル先生の話だった。 アズカバンへの正式な入り口は南西の先端部にあるが、 今回は当然そこは使わない。 かわりに、北の先端部のすぐ下の通路を使う。 クィレル先生がまず着地して北端の屋根と結界に穴をうがち、目くらましをしかけてその形跡を隠すことになっている。

 

囚人たちは建て物の側面部にいれられており、犯罪の程度に応じて階層がわかれている。 その一番下、アズカバンの真ん中の最深部にあるのが、百体以上のディメンターの巣だ。 ディメンターにじかに晒された物質はすべて泥になり無となるので、ときおり大量の土をそこに投げこむことで、地面の高さを維持している。

 

「一分待て。」と耳ざわりな声が言う。「それから全速力であとにつづけ。通過するときは慎重に。」

 

「了解。」 ハリーはそっと返事した。

 

火花がふっと消え、ハリーは数えはじめた。 『一、二、三……』

 

『……六十』、それから眼下の巨大な金属のかたまりにむかって飛びこんだ。風の悲鳴を耳にしながら、くだっていくと、〈死〉の影の待つ場所が……光を吸いとり虚無を吐きだす金属製の構造物がどんどん大きく見えてくる。 飾り気のない、のっぺりとした灰色の巨大な立体だが、箱のような構造物が南西の先端にひとつついている。 北の先端にはクィレル先生の穴があるが、検知されないようになっていて、なんの変哲もない外観のままだ。

 

ハリーは北の先端にちかづいたところで、するどく上昇し、飛行の授業のときよりもたっぷりと安全係数をかけて距離をとったが、とりすぎることはないようにした。 そして停止するとすぐに、ゆっくりとホウキを降下させはじめ、北の先端部のがっしりとした屋根に見える部分をめがけていった。

 

透明な状態で幻影の屋根を通過して降りていくのは奇妙な経験だったが、そう思う間もなく金属製の通路に到着した。通路は薄暗いオレンジ色の光でてらされている——見るとおどろいたことに、それは古めかしい火屋(マントル)式のガス灯の照明だった……

 

……魔法式の照明はいずれディメンターに吸いとられて効果をうしなうからだろう。

 

ハリーはホウキをおりた。

 

虚無の引っぱるちからが強くなり、ハリーにぎりぎり触らないところまで波のように寄せては返す。 まだ遠くにあるが世界の傷ぐちが並んでいる。目をとじればハリーにはその位置がわかった。

 

守護霊ヲ 出セ。」と床の上にいるヘビが〈ヘビ語〉で言った。薄暗いオレンジ色の照明のもとで、緑色のからだがくすんで見えた。

 

〈ヘビ語〉でしゃべっているにもかかわらず、声から緊張の度合いがつたわってきた。 ハリーはそれにおどろいた。クィレル先生によれば、〈動物師(アニメイガス)〉形態でいるあいだはディメンターの影響を受けにくくなるという話だった。 ヘビのすがたでもこれだけ負担なのであれば、魔法を使うために人間のすがたでいたあいだはどうなっていたのだろうか……?

 

ハリーはすでに杖を手にしている。

 

これが第一歩になる。

 

たとえ一人だけでも……一人だけでも暗黒から救うことができたなら……いまは囚人()()を安全な場所に瞬間移動させることも、この三角柱の地獄アズカバンを岩盤から焼きつくすこともできないとしても……

 

それでも最初の一歩ではある。ハリーが死ぬまでにやりとげるすべてのことの頭金にはなる。 待ったり、願ったり、約束したりするのは終わり、すべてはここからはじまる。いま、ここから。

 

ハリーは杖を振りかざし、ディメンターが待つはるか下層の方向にむけた。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

ぼうっと光る人型の像があらわれた。 前回のような太陽のかがやきではない……これはおそらく、それぞれの監房にいる()()()囚人のことをつい、考えてしまっているからだろう。今回()()()()()()()囚人たちのことを。

 

むしろ好都合かもしれない。 〈守護霊〉はしばらく維持する必要があるし、あかるすぎないほうがいいかもしれない。

 

その思考を受けて〈守護霊〉の光がすこし弱まった。 そそぎこむちからを減らしてみると、光はまだ一段と弱まった。最後には、人型の〈守護霊〉のかがやきは一番あかるい動物の〈守護霊〉よりわずかにあかるい程度になり、それ以上弱めると完全に消えてしまいかねないように感じられた。

 

安定シタ。」と言ってハリーはホウキをポーチに食わせはじめた。 そのあいだ片手においたままの杖を通じてハリーのなかからわずかながら継続的になにかが流れだし、〈守護霊〉の消耗をおぎなった。

 

ヘビはやせこけた血色の悪い男にすがたになった。男はクィレル先生の杖を片手に、ホウキをもう片手に持っている。 そしてすがたをあらわしたのと同時に足をふらつかせ、しばらく壁にからだをもたれさせた。

 

「多少遅くはあったが、上出来だ。」と耳ざわりな声がクィレル先生の乾いた口調で言うが、声質にあっていない。差しせまった表情もひげだらけの顔に似合わない。 「わたしはあれをまったく感じなくなった。」

 

そのつぎの瞬間、ホウキが男のローブのなかに消えた。 そして杖が飛びあがって男の頭頂部をたたき、卵が割れたような音がして、男はまたすがたを消した。

 

空中に緑色のほのかな火花がうまれた。やはり〈不可視のマント〉をかぶったまま、ハリーはそのあとを追った。

 

これを外部から観察している人がいれば、小さな緑色の火花が空中をただよっていき、それにつづいて銀色にかがやく人型の像が歩いていくようにしか見えなかっただろう。

 

◆ ◆ ◆

 

二人は下へ、下へとむかった。ガス灯をつぎつぎと通りすぎ、ときどき巨大な金属の扉を通りすぎ、アズカバンの下の層へとくだるあいだ、二人は完全な静寂につつまれているようだった。 クィレル先生がしかけたなんらかの障壁があるようで、クィレル先生へはあたりの音が聞こえるが、こちらから外へは音が漏れない。そしてハリーにも音がとどかない。

 

なんのためにこうやって音をさえぎるのか、ハリーは考えまいとしながらも考えた。ハリーの精神も答えまいとしながら答えた。 ことばにするまえの段階で答えがわかっているからこそ、考えようとするのを必死で止める自分がいる。

 

巨大な金属の扉のむこうのどこかで、だれかが悲鳴をあげている。

 

そう考えるたびに銀色の人型の像がゆらぎ、光が燃え、またおさまった。

 

ハリーは〈泡頭(バブルヘッド)の魔法〉を自分にかけておけと言われていた。においを感じることのないように。

 

熱意と冒険心はすでに薄れてしまった。そうなることは事前にわかってはいたが、冷めやすいハリーにしても実にあっさりと、最初のひとつ目の金属扉のまえを通過したときに終わってしまった。 金属扉はどれも巨大な錠がついている。非魔法性の単純な金属錠で、ホグウォーツ一年生でも楽にあけることができる——杖と魔法力があればの話だが、囚人はどちらも持っていない。 クィレル先生によれば、金属扉のさきは個別の監房ではなく、まず廊下があってそのさきにいくつかの独房があるのだという。 扉のすぐむこうに囚人が一人待っているのではないと思うと、すこし気が楽になった。 扉のむこうには囚人が()()いる。そう考えると、感情的な重みが減る。 研究によれば、子ども一人の命を救うためにある金額を寄付してくれ、と言った場合のほうが、子ども八人を救うためにおなじ金額を寄付してくれ、と言った場合よりも寄付してくれる人が多い……

 

だんだんと考えないでいることがむずかしくなってきた。考えるたびに、〈守護霊〉の光がゆらいだ。

 

二人は三角形の先端部に着き、通路が左にまがりこむ。 そこからまた金属製の階段を一階ぶん降り、さらに下へとむかった。

 

単なる殺人では最下層の監房にいれられることはない。 どんな囚人から見てもさらに下の層があり、さらに恐るべき罰がある。 ブリテン魔法界政府はどれほど最低な犯罪者に対しても、それ以上の犯罪をおかせばもっとひどい罰が待っている、と言いたいのだ。

 

だがベラトリクス・ブラックはヴォルデモート卿本人を別にして世界一恐れられた〈死食い人〉、美しく凶暴な魔女、どこまでも主人に忠実なしもべだった。 〈例の男〉その人よりも嗜虐的で邪悪になることが可能だったとしたら、それは彼女だった。まるで主人を上回ろうとしていたかのような女……

 

……それが世界の知る彼女だった。世界じゅうがそう信じていた。

 

だがクィレル先生の話では……それ以前、つまり〈闇の王〉の右腕として活躍しはじめるまえ、スリザリン寮にいた彼女はおとなしく、引っ込み思案で、だれを傷つけたこともない少女だった。 あとになって彼女についてさまざまな話がでっちあげられ、記憶が書き変わったが(そういうことが起きるという研究をハリーはよく知っている)、 在学当時の彼女はホグウォーツでもっとも優秀な魔女で、やさしい少女として知られていた(クィレル先生によれば)。 数少ない友人は彼女が〈死食い人〉になったと聞いておどろき、あのさびしげな笑顔の下にそれほどの暗黒が秘められていたと知っておどろいたという。

 

同世代でもっとも将来を期待された魔女。それがかつてのベラトリクスだった。〈闇の王〉はそれを盗みだし、破壊し、粉ごなにし、こねあげ、〈服従(インペリオ)〉以上の闇の魔術で深く束縛し自分のものとした。

 

十年間ベラトリクスは〈闇の王〉に仕え、命令されるまま敵を殺し、命令されるまま拷問した。

 

そして〈闇の王〉はついに倒された。

 

それでもベラトリクスの悪夢は終わらなかった。

 

いまもベラトリクスのなかのどこかに、最初からずっと、悲鳴をあげつづけている部分が残っているかもしれない。精神〈治癒〉でとりもどせるなにかが残っているかもしれない。 クィレル先生も確証はないというが、ただ、すくなくとも……

 

……すくなくとも、アズカバンから逃してやることはできる……

 

ベラトリクス・ブラックはアズカバンの最下層に置かれている。

 

彼女の監房についたときなにを見ることになるのか、ハリーは考えずにはいられない。 きっとベラトリクスは最初のうち、まだいくらかでも生きていたとして、ほとんど死への恐怖がなかったのだろう。

 

もう一階ぶん階段をくだり、〈死〉とベラトリクスのいる場所へ一段と近づく。聞こえる音は目に見えない二人の靴の音だけ。 ガス灯の薄暗いオレンジ色の照明、空中にうかぶ緑色のほのかな火花、そして銀色の光をときどきゆらめかせる、かがやく人影。

 

◆ ◆ ◆

 

何度となくちがった階段をおりていくと、やがて通路のつきあたりが階段ではなくなり、金属の扉になった。緑色の火花は扉の前でとまった。

 

アズカバンのこの深さまで無事に歩いてくるうちに、ハリーの心臓の鼓動はすこし落ちついていた。 だがここでまた鼓動が激しくなった。 ここは最下層。〈死〉の影は自分たちのすぐとなりにいる。

 

錠からコツという金属の音がした。クィレル先生が解錠したのだ。

 

ハリーは深呼吸をして、クィレル先生から言われたことをすべて思いかえした。 ベラトリクス・ブラックその人をだませるほどにうまく演技できるかどうかだけが問題ではない。さらにむずかしいのは、同時に〈守護霊〉を維持したまま演技をやりこなせるかどうかだ……

 

緑色の火花がふっと消え、体長一メートルのヘビがあらわれた。もう透明ではなくなっている。

 

ハリーが透明な手で金属の扉を押すと、扉はギギと音をたてながら、ゆっくりと動いた。小さなすきまをあけて、ハリーはなかをのぞいた。

 

まっすぐな通路があり、つきあたりは石の壁。 照明はなく、こちらから〈守護霊〉の光が差しこんでいるだけ。 通路に面した八つの部屋の鉄格子までは見えるが、部屋のなかまでは見えない。 いや、それより重要なのは、通路自体にだれの人影も見えないことだ。

 

ナカニ ナニモ 見エナイ。」とハリーは言った。

 

ヘビは床をすばやく這い、飛びだしていった。

 

そしてすぐに——

 

女ハ 独リダ。」とヘビが言った。

 

()()()()()、とハリーは〈守護霊〉にむけて思考した。すると〈守護霊〉は扉のかたがわに寄りそう位置につき、守衛のように立った。それからハリーは扉を押して、あとを追ってなかへはいった。

 

一つめの監房には、乾燥しきった死体があった。皮膚は灰色になって斑点があり、肉はすりきれて、ところどころ骨をのぞかせている。目はない——

 

ハリーは目をつむった。こうやって透明になっているあいだは、目をつむっても裏切ったことにはならない。

 

このことはすでに知ってはいた。〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の教科書の六ページ目に書かれていた。刑期が終わるまで囚人はアズカバンを出ることができない。 途中で死ねば、刑期が終わる日まで死体は放置される。 終身刑の場合には、死体は放置されたまま、監房がまた使われるときを待つ。そのときになれば、死体はディメンターの奈落にほうりこまれる。 そう知ってはいても、()()()()()()()()死体がこうやって放置されるのを目にするのはショックだった——

 

部屋のあかりがふらついた。

 

()()()()、と芯の部分のハリーが思考する。悲しいことをイメージして〈守護霊〉が消えてしまえば、クィレル先生が大変なことになる。 これだけ近くにディメンターたちがいれば、クィレル先生はその場でぱったりと死ぬかもしれない。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

そう自分に言い聞かせながらハリーは目をまたひらいた。時間を無駄にすることはできない。

 

二番目の監房には骸骨があるだけだった。

 

三番目の監房の鉄格子のむこうにはベラトリクス・ブラックがいた。

 

ハリーのなかのかけがえのないなにかが、枯れ草のようにしおれた。

 

明らかに骸骨ではない。頭部も頭蓋骨ではないし、皮膚と骨の表面は見た目からしてちがう。それが暗闇のなかで一人待ちつづけて真っ白になった皮膚であっても。 食べ物をあまりもらえていないのか、食べることができないのか、〈死〉の影に吸いとられてしまうのか。その目は眼窩に深くしずみこみ、くちびるはほとんど歯とくっつきそうなほど薄くなっている。 投獄されたときに着ていた黒い衣服の色もディメンターに吸いとられたのか、あせはてている。 大胆であったであろう衣装がいまはぶかぶかになって、やせた体躯としなびた肌にかかっている。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーは必死に自分に言い聞かせた。〈閉心術〉をするように何度も何度もそうくりかえし、意思をたもった。〈守護霊〉が消えないように。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()——

 

心臓と芯の部分で、ハリーは同情とあわれみ、そして暗黒から彼女を救いたいという意思をしっかりと堅持した。 するとすぐに銀色の光が強さを増して、ひらいた扉のむこうからはいってきた。

 

それと同時に、別の部分の自分には、ちょうど癖になって注意力のいらなくなった動作をさせるようにして……

 

フードの下で透明になっているハリーの顔に冷淡な表情が浮かぶ。

 

「いとしいベラよ。」と凍てつくようなささやき声が言う。「……わたしのことが恋しかったか?」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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53章「スタンフォード監獄実験(その3)」

骸のような女が目を開く。くぼみのなかのくすんだ眼球が虚空を見つめている。

 

「変……」とベラトリクスはしわがれた声でつぶやく。「ベラは、あたまが変になってしまった……」

 

ハリーはクィレル先生から事前に指示を受けている。ベラトリクスに対してどのようにふるまうべきか、そしてどのように自分のこころのなかでその仮面を作るべきか。落ちついた、明瞭な指示だった。

 

『きみはベラトリクスを恋に落とし、自分へ奉仕するよう束縛した。それが手っとりばやい手段だと思った、あるいは愉快だと思ったのかもしれない。』

 

『その愛はアズカバンを乗り越えて残る。ベラトリクスにとって幸せな愛ではないからだ。』

 

『ベラトリクスは徹底的に、全霊をこめてきみを愛している。 きみのほうにその気はない。彼女を利用できるとは思っている。 そう思われていることをベラトリクスも知っている。』

 

『彼女はきみのもっとも優秀な凶器だった。きみは彼女を「いとしいベラ」と呼んだ。』

 

ハリーは〈闇の王〉が両親を殺した夜に聞いた声を思いだした。冷淡な愉悦、侮蔑的な笑い、恐ろしいまでの憎悪がこもった、甲高い声。 〈闇の王〉であればここでどう応じるか、想像するのはむずかしくない。

 

「あたまが変になってくれては困るな、ベラ。それでは利用価値がない。」とささやき声が言った。

 

ベラトリクスの目がゆらぎ、虚空に焦点をあわせようとした。

 

「ご主人……さま……あなたは待てど来ず……探せどみつからず…… 生きていらしたのですか……」  彼女はひたすら小さな声でそうつぶやいた。なんらかの感情がこめられていたとしても、ハリーには聞きとれなかった。

 

顔ヲ 見セテ ヤレ。」とハリーの足もとのヘビが〈ヘビ語〉で言った。

 

ハリーは〈不可視のマント〉のフードをめくった。

 

表情の制御をまかせられた部分のハリーはベラを直視し、なんのあわれみも見せず、ただ冷たく落ちついた興味を示した。 (芯のほうの自分は、『かならず助ける。なにがあろうと、かならず助けてやる……』と言っていた。)

 

「傷あと……あの子ども……」とベラトリクスがつぶやいた。

 

「みないまだにそう思っている。」とハリーの声が言い、かすかに笑った。 「ベラ、さすがのおまえにも予想できない隠れかただっただろう。」

 

(ハリーはここに来るまえに、〈闇の王〉の役を演じるのがクィレル先生であってはいけないのか、とたずねた。わたしでは〈名前を言ってはいけない例の男〉の亡霊が乗り移るべき理由がないからだ、というのがクィレル先生の答えだった。)

 

ベラトリクスはまだハリーを凝視している。無言のまま。

 

〈ヘビ語〉 デ ナニカ 言エ。」とヘビが言った。

 

ハリーはヘビに顔をむけ、そちらに話しかけているのだと分かるようにしてから言った。 「イチ ニ サン シ ゴ ロク シチ ハチ ク ジュウ

 

それから間があいた。

 

「暗黒を恐れぬ者は……」とベラトリクスがつぶやいた。

 

暗黒ニ 飲ミコマレル。」とヘビが言った。

 

「暗黒に飲みこまれる。」と氷の声が言った。 どうやってクィレル先生がこの合言葉を知ったのか不思議だが、あまり考えたくない。 なのにハリーの頭脳は考えた。おそらく、〈死食い人〉と、ひっそりと孤立した場所と、精密な〈開心術〉が関係していたのだろう。

 

「お杖は……ポッターの家からひろって……お父君の墓所の右隣の墓石の下に隠しました……これでもう、あたしを殺しますか……もう用はないでしょう…… 多分あたしはずっと、殺されるならご主人さまがいいと……でももう思いだせない……きっと、そう思うだけで幸せだったから……」

 

聞くに耐えない懇願に、ハリーは心臓をしめつけられる思いがした——いや、泣いてはいけない、〈守護霊〉を消えさせるわけにはいかない——

 

ハリーの顔に一瞬不服そうな表情がよぎった。とげのある声が出た。 「愚か者が。来るのだ、ベラ。それとも、わたしよりディメンターが気にいったか。」

 

ベラトリクスの顔が一瞬だけ困惑の表情をした。しぼんだ手足は指一本動かない。

 

浮カバセテ 運ブベキダ。」とハリーがヘビに言う。 「女ハ 逃ゲル コトモ 考エラレナク ナッテイル。

 

ワカッタ。」とヘビが答える。「ダガ アナドルナ。女ハ モットモ 恐ルベキ 戦士ダッタ。」  緑色の頭部が下がって、警告を示した。 「ワタシガ 餓エテ 九割ガタ 死ンデイテモ、 恐レナイ ノハ 愚カ。女モ 同ジ。油断 スルナ。スコシモ 演技ノ 隙ヲ 見セルナ。

 

緑色のヘビはするりと扉から出ていった。

 

ほどなくして、血色の悪い、ひげ面のおどおどした男が杖を手に、ちぢこまって部屋にはいってきた。

 

「ご主人さま?」とその従僕が不安げに言った。

 

「命令しておいたとおりにやれ。」と〈闇の王〉が氷の声でささやく。それが子どものからだから発せられると余計に恐ろしく聞こえる。 「あの〈守護霊〉をとぎれさせるな。そして忘れるな。おれが無事もどらねば、おまえの報酬もない。おまえの家族は死を許されるまでたっぷりと苦しむことになる。」

 

恐ろしげな口調でそう言うと〈闇の王〉は不可視のマントをあたまからかぶり、すがたを消した。

 

ちぢこまった従僕はベラトリクスの檻の扉をひらき、ローブから小さな針を一本とりだして、骸骨のような女を刺した。 血が一滴でたところで、すぐにそれを小さな人形に受けさせてから、床に置く。そして従僕は小声で詠唱をはじめた。

 

すると、生ける骸骨がもう一体、床のうえにあらわれた。その骸骨はぴくりとも動かない。 従僕が一瞬ためらう様子を見せると、見えない声がしかりつけ、せかした。 それから従僕がベラトリクスに杖をむけ、ひとこと詠唱すると、寝台にいるほうの生ける骸骨が裸になり、床の骸骨がくすんだドレスをまとった。

 

従僕は死体のように見える骸骨からドレスの一部を小さくちぎり、自分のローブからもちぎった。そしておどおどした様子で、からの瓶をとりだした。その内面に金色の流体がいくすじか垂れたあとがある。 その瓶を部屋のすみに隠し、スカートの切れはしをかぶせると、そのくすんだ色はほとんど灰色の金属の壁と見分けがつかなくなった。

 

従僕が杖をもうひと振りすると、寝台から生ける骸骨が浮かびあがり、ほぼ同時に新品の黒ローブを着せられた。 なんの変哲もないココア牛乳のパックが一本、ベラトリクスの手に押しつけられた。持って飲め、と氷のようなささやき声が言った。ベラトリクスはしたがったが、やはり困惑するばかりの表情だった。

 

従僕はベラトリクスを透明にしてから、自分も透明になり、一行は部屋を出た。 そのあと扉が閉じ、カチリと施錠され、なかの通路にはもとどおり、闇が満ちた。一部屋のすみに隠された小さな瓶と、床のうえのできたての死体のほかは、もとどおりだった。

 

◆ ◆ ◆

 

アズカバンに来るまえ、あの無人の店でクィレル先生は、これから二人で完全犯罪をやるのだ、と言った。

 

ハリーは無意識のうちに、『完全犯罪などというものは存在しない』というよくある格言を言いかけたが、三分の二秒ほどちゃんと考えてから、もうひとつのもっと賢明な格言を思いだし、言いかけたまま口をつぐんだ。

 

『おまえは自分がなにを知っていると思っている? そしておまえはなぜそれを知っていると思っている?』

 

だれかが実際に完全犯罪をやったとしたら、だれにもあばかれることはない——ならば、完全犯罪は存在しない、などと知った顔をして言うわけにもいかないのでは?

 

そういう見かたをするとすぐに、きっと完全犯罪はそこらじゅうで成立しているのだ、と思えてくる。成立しているからこそ、そういった事件は警察に自然死と認定されたり、もともと繁盛していなかった店がようやく倒産したとだけ報じられるだけで終わってしまうのだろう……。

 

翌朝、ベラトリクス・ブラックの死体がこの、だれ一人脱獄したことのない(とだれもが知っている)アズカバンの監房で見つかるとき、だれも検屍しようとは思わない。 だれも深くは考えない。 看守たちは通路を閉鎖してから去るだけ。そして翌日の『デイリー・プロフェット』に死亡記事が出るだけ……

 

……それがクィレル先生の計画した完全犯罪だった。

 

そしてしくじるのはクィレル先生ではなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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54章「スタンフォード監獄実験(その4)」

緑色のほのかな火花が先頭に立ち、そのあとを銀色にかがやく人影が追う。残りの一行は目に見えなくなっている。 そうやって五つの通路を抜け、五回右折し、五階上まで来た。 ベラトリクスは二本目のミルクココアを飲み終えると、固形のチョコレートをあたえられた。

 

三本目のチョコレートバーを食べたところで、ベラトリクスののどが奇妙な音をたてはじめた。

 

ハリーはそれがなんの音かすぐには分からなかった。いままで聞いたことのない種類の音で、リズムはあるかないかも分からないほど乱れている。考えてやっと、それがベラトリクスの泣き声であることが分かった。

 

ベラトリクス・ブラックが泣いている。〈闇の王〉のもっとも優秀な凶器が声をあげて泣いている。すがたは見えないが、押し殺すような弱い声で、いまも。

 

「これは現実?」とベラトリクスが言った。 抑揚をとりもどし、不明瞭な死にかけの声ではなくなった。語尾があがっていて、質問であることがわかる。 「これは現実?」

 

『そうだ、だから黙れ』と〈闇の王〉のシミュレート担当部分のハリーが思考する——

 

が、ハリーはそのせりふを口にのぼらせることができなかった。ただ、できなかった。

 

「いつか——来てくださると——わかって——いました。」  ベラトリクスの声は震え、無音ですすり泣くたびにとぎれた。 「きっと——ご無事で——迎えに——来てくださると……」  あえぐようにして、時間をかけて息をすう音がした。 「それでも——来てくださっても——あなたはわたしを愛さない——一度も愛したことがない——だから——あなたへの愛は——うばわれなかった——どれだけ——ほかのことを忘れても——なにを忘れたかも分からずとも——変わらずあなたを愛しています、ご主人さま——」

 

ハリーは心臓をナイフで刺されたような気がした。これほどむごい話は聞いたことがない。これだけでも、〈闇の王〉を追いつめて殺してやりたくなる……

 

「あたしはまだ——お役に立てますか?」

 

「いや。」とハリーの声が自動的に、思考するまえに出た。 「こうやってアズカバンに来たのは単なる気まぐれ……とでも思うか。 当然、利用価値はある! 愚かなことを口にするな。」

 

「でも——あたしは弱くなってしまいました。」とベラトリクスの声が言い、ひとしきりすすり泣く音がした。アズカバン内ではやけにその音が大きくひびきわたった。 「だれを殺すこともできなくなってしまいました。あたしは食われて、食いつくされて、もうたたかうこともできない。もうなんの価値もない——」

 

ハリーの頭脳は必死に彼女を安心させる方法を見つけようとした。やさしいことばなどかけるはずのない〈闇の王〉の口から、言うことのできるなにかを。

 

「みにくい。」  ベラトリクスはそのことばを、もっとも絶望的なとどめのひとことのように言った。 「こんなにみにくく、きれいでなくなってしまって……。それも食われてしまいました。だからもう、ご主人さまの従僕への褒美としてお使いいただくこともできない——こんなあたしでは、レストレンジ兄弟でもなぶりものにしようと思わないでしょう——」

 

銀色にかがやく人影が歩みをとめた。

 

ハリーが歩みをとめたからだ。

 

()()()()()()()()()()()()  ハリーの自我のもろくやわらかな部分が、信じることを拒絶して恐怖の悲鳴をあげ、現実を直視し理解することを拒否した。一方で、もっと冷たく、かたい部分のハリーがパターンを完成させた。 『彼女はすべてのことについて彼に服従した。だからそのことについても服従した。』

 

緑色の火花が切迫した様子でジャンプし、前に突進していった。

 

銀色の人影は動かなかった。

 

ベラトリクスは一段とひどくすすり泣いた。

 

「も……もう、お役に立てない……」

 

巨大な手に胸をつかまれたように感じる。自分が布巾のようにしぼられ、心臓をつぶされそうな思いがする。

 

「どうか、殺してください……」  そう言うと、彼女の声は落ちつきをとりもどしたようだった。 「ご主人さま、どうか殺してくださいまし。もうお役に立てなくなったあたしは、生きる理由がありません……もうやめたい……もう一度だけ苦しめてください、ご主人さま……愛しています……」

 

ハリーはこれほど悲しい懇願を聞いたことがなかった。

 

銀色にかがやくハリーの〈守護霊(パトローナス)〉がちらつき——

 

ゆらめき——

 

あかるさを増す——

 

ハリーのなかで怒りがわきおこった。〈闇の王〉への怒り。ディメンターへの怒り。アズカバンへの、アズカバンのようにおぞましいものを許す世界への怒り。それが腕をつたって杖に流れこみ、なにをしても止まらないように感じられた。止めようという思念を送ったが、効果はなかった。

 

「ご主人さま!」と偽装したクィレル先生がささやく。 「わたしの呪文が暴走しています! お助けを!」

 

〈守護霊〉のかがやきがどんどん増していく。ディメンターを破壊したあの日よりも速いいきおいで増していく。

 

「ご主人さま!」と影になった従僕がこわごわと言う。 「助けてください! この強さではどこからでも感じられてしまいます!」

 

()()()()()()()()()()()。ハリーの想像力はその光景をくっきりと描写した。監房から冷気と暗闇が退却し、癒しの光がとどき、囚人たちがゆっくりと動きだす。

 

光にさらされた内壁と床すべてが反射で太陽のように白熱し、一面の光をうけてベラトリクスの骸骨と血色の悪い男の影がくっきりと見える。途方もないかがやきに〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)の呪文は太刀打ちできていない。〈死の秘宝〉である〈不可視のマント〉だけが持ちこたえている。

 

「ご主人さま! ()()()()()()()()()()

 

だがハリーはもう止めようとしていない。止めたいと思っていない。 〈守護霊〉に守られて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、アズカバンのなかに生命が息づきはじめているのを感じる。ハリーは自分がすべきことを知った。

 

「ご主人さま、お願いします!」

 

そのことばはとどかなかった。

 

奈落のなかのディメンターまでは距離がある。だがこの距離からでも、この炎を十分強くすれば破壊することはできる。自分のたがをはずしてしまえば、〈死〉そのものを押しのけることができる。そう分かったので、ハリーは自分のなかの門をすべて開放し、この呪文の井戸の底を通して自分たましいの一番奥につなげ、精神と意思のすべてをいっさい出し惜しみせず、この呪文にそそぎこむ——

 

太陽の内部のようなかがやきのなかで、すこしだけ輝度の低いシルエットが一人こちらにむかって動き、懇願するように片手をのばした。

 

だめだ

よせ

 

突然、破滅の感覚がハリーの鋼鉄の決意と衝突した。恐怖と不確実性が光かがやく意志に対抗した。それ以外にハリーに到達しうるものはなかった。 シルエットが一歩、また一歩ちかづいてくると、破滅の感覚が大災厄の水準にまで高潮した。冷たくびっしょりとした感覚とともに、ハリーは自分のやっていることがなにをもたらすか、どれだけ危険な罠であったかを認識した。

 

これを外部から観察している人がいれば、太陽の内部のような光が強まり、弱まる様子が見えただろう……

 

強まり、弱まり……

 

……そして最終的にはどんどん薄れていき、通常の月光のあかるさになった。それまでの光とくらべれば、ほとんど漆黒の闇のようなものだった。

 

その月光の闇のなかで、やせこけた男が懇願の姿勢で片手をのばしている。骸骨のような女が床に横たわりながら、困惑の表情をしている。

 

そしてハリーは、やはり透明のまま、ひざをついた。 危機は去った。いまはただ倒れこまないようにしながら、呪文を低い強度で維持しているだけ。 自分のなかからなにかが流出した。喪失したのでなければいいが——分かっているべきだった。いや思いだすべきだった。〈守護霊の魔法〉にそそがれるのは魔法力だけではない——

 

「ありがとうございました。」とやせこけた男が小声で言った。

 

「愚か者。」と〈闇の王〉のふりをする少年の厳格な声が言う。 「感情をおさえられなければ、その呪文は命にかかわると警告しただろうが。」

 

クィレル先生はもちろん、目を見ひらかなかった。

 

「はい、ご主人さま。おっしゃるとおりです。」と〈闇の王〉の従僕がもごもごと言って、ベラトリクスのほうをむくと——

 

彼女はすでに床から身を起こしはじめていた。ゆっくりと、ひどく年老いたマグルの女のようにして。 「おかしな男。」とベラトリクスが小声で言う。「〈守護霊の魔法〉で死にかけるなんて……」  笑いぶくろのほこりを払うかのような笑い。 「お仕置きしてあげようか。ご主人さまにおまえの動きをとめてもらって、あとはナイフさえあれば……やっぱり、お役に立てるのかしら? 何だか、すこし気分がよくなってきた。変ね……」

 

「口をつつしめ、ベラ。」とハリーが凍てつく声で言う。「わたしが許すまでしゃべるな。」

 

返事はなかった。服従のしるし。

 

従僕は骸骨のような女を浮かばせ、もう一度透明にしてから、また卵の割れるような音とともに自身のすがたを消した。

 

一行はアズカバンのなかを歩いていく。

 

こうやって監房を通過するたびに、監房のなかでディメンターの恐怖がしりぞけられる瞬間がある。きっとその貴重なひとときがはじまると囚人たちは、ゆっくりと動きはじめ、もしかするとこの光からわずかにでも癒しを感じることがあるかもしれない。そして冷気と暗闇が押しかえしてくると、また倒れこむ。

 

ハリーはそのことを考えないようにするのにとても苦労した。

 

考えてしまえば、〈守護霊〉はかがやきを増しつづけ、これだけの距離をへだてていてもいずれは、アズカバンのディメンターをすべて消し炭にしてしまうかもしれない。

 

考えてしまえば、〈守護霊〉はかがやきを増しつづけ、いずれはアズカバンのディメンターをすべて消し炭にし、ハリーの生命をすべて燃やしつくしてしまうかもしれない。

 

◆ ◆ ◆

 

アズカバンの最上部の〈闇ばらい〉の詰所では、ある組の三人は兵舎で眠っていて、別の組の三人は休憩室でやすんでいて、また別の組の三人は指令室で監視の職務についていた。 指令室は飾り気がないが大きな部屋で、奥に〈闇ばらい〉三人ぶんの椅子がある。全員つねに杖を手にして、三体の〈守護霊〉を維持している。はりだした窓のまえには白く光るその三体が動きまわっていて、ディメンターの恐怖が三人にとどかないようにしている。

 

三人はふだんは奥に引きこもってポーカーをしていて、窓をのぞくことはしない。 窓からは空がいちおう見えはするし、毎日一時間か二時間は太陽が見えることもあるが、下には中央部の地獄の奈落も見えてしまう。

 

ディメンターが話をしに下から浮かんできたときのための窓だ。

 

〈闇ばらい〉(リー)はすすんでここにきたのではなかった。いくら三倍の報酬だと言われても、やしなうべき家族さえいなければ、ことわっていた。 (ほんとうの名は晓光(シャオグァン)だが、みなからはマイクと呼ばれている。こういう苦労のないようにと、子どもの名前は(スー)(カオ)にした。) 給料のほか唯一のなぐさめは、仲間の二人がドラゴン・ポーカーの名手だということだ。 といっても、この仕事ではそうならないほうがむずかしいが。

 

第五千三百六十六番目の試合。マイク・リーは今回、おそらく五千三百番台で最高の手札をそろえることができた。 今日は二月の土曜日だから、二でも三でも七でない好きな伏せ札一枚をえらんで、スートを変えることができる。それを使えば、ユニコーンとドラゴンと七の札をそろえて、コープス゠ア゠コープスを完成させることができる……

 

向かいの席のジェラルド・マカスカーが卓から目を離し、窓のほうを見あげて凝視した。

 

リーはおどろくほど即座に、不吉な感覚におそわれた。

 

〈ディメンター変更ルール〉が発動してこのハートの七が六にされれば、リーはただのペアふたつになってしまう。マカスカーもペアふたつを負かすくらいの役はそろえているかもしれない——

 

「マイク、あんたの〈守護霊(パトローナス)〉、なにか変じゃないか?」とマカスカー。

 

リーはくびをまわしてそちらを見た。

 

リーのふかふかした銀色のアナグマは奈落の監視をやめて、見る方向を変え、下のほうのなにかをじっと見ているようだ。だがなにを見ているというのか。

 

一瞬ののち、バアリーの月光色のアヒルとマカスカーのかがやくアリクイが、おなじふるまいをした。三体そろって下を見ている。

 

三人は視線をかわしあってから、ためいきをついた。

 

「おれが声をかけてくる。」とバアリーが言った。 例外事象があったときは、眠っていないほうの組の非番の〈闇ばらい〉を派遣して調査させる、というのが規則だ。 「異論なければだが、一人は休ませたままにして、かわりにおれがCスパイラルを調査してきたい。」

 

リーはマカスカーとちらりと視線をかわし、いっしょにうなづいた。 アズカバンに侵入することはむずかしくない。強い魔法使いをやとえるくらい裕福であって、それを〈守護霊の魔法〉を使える人物にする程度の気づかいをしていればいいだけだ。 友人がアズカバンに投獄されれば、人はそこまでのことをする。ただ囚人に〈守護霊〉の光を半日あびさせてやり、悪夢ではなくほんものの夢を見させてやりたいがために侵入する。 そして刑期が終わるまで囚人が生きのびられる可能性が高まるよう、チョコレートを持ちこんで監房のどこかに忍ばせてやる。 そのとき守衛についている〈闇ばらい〉については……たとえ現場をおさえられたとしても、たいてい、見のがしてくれという説得は可能だ。それなりの賄賂をだせば。

 

リーの場合、それなりの賄賂というのはだいたい二クヌートと一シックルに相当するらしい。 リーはこの場所が嫌いだった。

 

だがバアリー・ワンハンドには妻がいる。高価な治癒をうけている妻がいる。アズカバンに侵入できるほどの魔法使いをやとえる金持ちなら、侵入したのをバアリーに見つけられたとき、バアリーの無事なほうの片手に相当な金額をつかませることもできるはずだ。

 

無言の了解のもと、だれもおもてだってその事情を口にしようとはせず、ただポーカーの手を見せて試合を終えた。結局ディメンターは来なかったから、リーの勝ちだった。 それまでには〈守護霊〉はみな下を向くのをやめて、通常の巡回動作にもどっていた。ということは、きっとなんでもなかったのだろうが、手続きは手続きだ。

 

リーが賭け金をさらうと、バアリーは改まって二人に目礼し、席をたった。 老けたその男は、うしろにたばねた白髪をきらびやかな赤ローブになびかせ、ローブで指令室の金属の床をはらう。そして扉をひらいて、ついさっきまで非番だった〈闇ばらい〉の組がいる部屋へと出ていった。

 

リーの〈組わけ〉はハッフルパフだった。こういうことに関わって、いごこちが悪く感じることもある。 だがバアリーにあれだけ写真を見せられては、かわいそうな病気の妻のためにできることをさせてやりたくなるのもしかたあるまい。しかも、バアリーの引退まではもう七カ月もないのだから。

 

◆ ◆ ◆

 

金属製の通路を緑色のほのかな火花が宙に浮いて進み、銀色の人型の像がそのあとを追う。 ときどき、巨大な金属の扉のまえを通過するときなどに、かがやく人影は燃えあがることがあるが、ひとしきり燃えるとまた、もとのように弱まる。

 

通常の目ではそれ以外の不可視の人影を見ることはできない。一人目は十一歳の〈死ななかった男の子〉、二人目は生ける骸骨ベラトリクス・ブラック、三人目は〈変身薬〉後のホグウォーツ〈防衛術〉教授。この三人が連れだってアズカバンのなかを歩いている。 これがなにかのジョークのフリの部分だとしたら、なにがオチなのか、ハリーにはわからない。

 

もう四階あがったところで〈防衛術〉教授が耳ざわりな声で、端的かつ平坦にこう言った。 「〈闇ばらい〉が来る。」

 

一瞬意味が分からず、おそらくまる一秒は経過してからハリーはそのことばの意味に気づき、アドレナリンがどっと血に流れこんだ。そしてクィレル先生からこういう場合にやれと言われていたことを思いだし、きびすを返して、いままで来た道のりをすばやく引き返していった。

 

ハリーは階段のところまで来て、上から三段目におりて必死に伏せた。マントとローブごしなのに、冷たい金属の感覚がした。 階段の上からわずかにあたまを出してのぞいてみると、クィレル先生のすがたは見えない。 ということは、ここにいれば流れ弾にあたる危険はない。

 

かがやく〈守護霊〉がついてきて、ハリーのひとつ下の段で伏せた。〈守護霊〉も見つかってはならない。

 

かすかに風のような音がして、それからベラトリクスの透明なからだがさらに下の段におりて止まった。この状況で彼女にははたすべき役目はないが——

 

「そのまま動くな。」と冷たくささやく声が言う。「声もだすな。」

 

不動と無言が返事だった。

 

ハリーはひとつ上の段の側面に杖を押しあてた。 これがほかのだれかであれば、クヌートを一枚ポケットからとりだすか……ローブを小さくちぎるか……爪を噛み切るか……目に見えるくらいの大きさで杖さきに固定できるような小石をみつける必要があるところだが、 ハリーの万能の部分〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の能力があれば、そんな必要はない。 そのステップは省略して、手近にあるどんな素材でも利用することができる。

 

三十秒後、ハリーは立派な曲面鏡を手にしていた。そして……

 

「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」とできるかぎり小さな声で言った。

 

……そしてそれを階段のほんのすこしだけ上に浮かばせた。曲面には、クィレル先生が透明になって待っている通路のほぼ全体が映りこんでいる。

 

すると、遠くに足音が聞こえた。

 

赤色のローブの人影が(曲面鏡ではちょっと見にくいが)見えた。上から階段をおりて、一見だれもいない通路にはいる。小さな動物の〈守護霊〉を連れているのが見えるが、なんの動物かははっきりしない。

 

〈闇ばらい〉は青い光をまとって身を守っている。細部はよく見えないが、すでに防壁がはられ、強度を高めてあることまではわかる。

 

()()()。 クィレル先生によれば、決闘術の極意は相手が使いそうな攻撃手段をすべて止められるような防壁を作りつつ、同時に相手の現在の防壁を通過しそうな方法で攻撃することだ。 どんな実戦でも一番簡単な勝ちかたは——この点をクィレル先生は何度もくりかえした——そもそも相手が防壁を用意するまえに撃つことだ。背後から撃つか、十分近接して相手がよけたり反撃しようとしても間にあわない距離から撃てばいい。

 

だがまだ、背後から撃つチャンスはあるかもしれない。もしあの男が——

 

だがその〈闇ばらい〉は、通路に三歩はいりこんだところで止まった。

 

「よくできた〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)だ。」と男性のかたい声がした。ハリーには聞きおぼえのない声だ。 「……すがたを見せろ。見せなければ、本格的にやっかいなことになるぞ。」

 

すると、やせこけたひげ面の男がすがたをあらわした。

 

「〈守護霊〉の使い手のほうもだ。出てこい。()()。」

 

「悪いことは言わん。」とやせこけた男が耳ざわりな声で言う。 もはや〈闇の王〉のおどおどした従僕の声ではなく、急に有能な犯罪者らしい迫力がでている。 「わたしの背後にいるおかたと対面してしまえば、取り返しがつかないことになるぞ。 五百ガリオン、即金で持たせてやる。目をつむって、引き返せ。 大失態をおかしたくなければな。」

 

長く間があいた。

 

「あのな、どちらさんか知らないが……」とかたい声のほうが言う。 「ここの仕組みをわかっていないようだな。 おまえの背後にいるのがルシウス・マルフォイだろうがアルバス・ダンブルドアだろうが知ったことか。 全員すがたをあらわせ。身体検査をする。金額についての話は()()()()だ——」

 

「二千ガリオン。これが最後のチャンスだ。」と耳ざわりな声が言う。警告するような口調だ。 「相場の十倍だな。きみの一年の稼ぎよりも多い。ここで見てはいけないものを見る覚悟はあるのか。取り引きに応じなかったことをきっと後悔するぞ——」

 

「うるさい! 杖を捨てなければ排除する。きっかり五秒だけ待つ。五、四——」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーは必死にこころのなかで言う。()()()()()()()() ()()()()()()()()

 

「——三、二、一! 『ステューピファイ』!」

 

◆ ◆ ◆

 

バアリーはただ見つめながら、背すじに冷たいものを感じた。

 

男の杖さばきは〈現出(アパレイト)〉したかのように高速だった。バアリーの放った失神弾は男の杖の先にとまって、従順に火花をちらしている。止められたのでもなく、はねかえされたのでもなく、そらされたのでもなく。蜜つぼにはまったハエのようにして。

 

「これで和解金はまたもとの五百ガリオンだ。」  男の声はさきほどより冷たく、改まった声だ。そして乾いた笑いを見せたが、そのひげ面に似つかわしくない笑いだった。 「くわえて、〈記憶の魔法〉処置を受けいれていただこう。」

 

バアリーはすでに防壁の周波数構成(ハーモニクス)を切り替え、自分の失神弾が返されても通りぬけられないようにした。杖はすでに防御姿勢の角度。すでに強化義手の片手もあげて、止められるものは止める準備ができている。すでに無詠唱呪文を思考して、防壁を重ねがけしはじめている——

 

男はバアリーのほうを見ていない。 かわりに、杖の先にたゆたうバアリーの失神弾を興味ぶかげにながめている。赤い火花を引っぱっては指ではじいて捨て、知恵の輪をほどくようにして徐々にその呪文を解体していく。

 

男はいまのところなんの防壁もかまえていない。

 

「きみは……」とその男は無関心そうな言いかたで言う。耳ざわりな声質と合致しない口調——おそらくは〈変身薬(ポリジュース)〉。だがいったいどうすれば、他者の身体を借りながらこれほど精密な魔術ができるというのか—— 「先の大戦ではどうしていた? 戦地におもむいたか? 逃げたか?」

 

「戦地にいた。」  バアリーは〈闇ばらい〉としてほぼ百年をつとめあげた者らしい鋼鉄のような声をたもった。引退年限まであと七カ月。〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディにも負けないほどの硬度だ。

 

「〈死食い人〉とたたかったことは?」

 

こんどはバアリーの顔に残忍な笑いがうかんだ。 「一度に二人を相手にした。」  〈例の男〉みずからの手ほどきを受けた戦士兼暗殺者二人を相手にした。 単独でその二人の〈死食い人〉を相手にした。 生涯でもっとも苦しい戦闘だったかもしれないが、バアリーは戦い抜き、左手一本の犠牲だけで生還した。

 

「で、殺したか?」  男はけだるげな興味をもったようだったが、杖にとらわれたままだいぶ小さくなった失神弾から火花の糸を引き抜く作業はやめない。男はバアリー自身が使ったのとおなじパターンを指さきでなぞったうえで、一本一本はじいて捨てていく。

 

ローブのなかでバアリーの肌に汗がたれはじめた。 金属製の手がさっと下に動き、ベルトから鏡を引きはがす—— 「バアリーよりマイクへ。掩護もとむ!」

 

一瞬間があき、返事はない。

 

「バアリーよりマイクへ!」

 

手のなかの鏡はなんの反応も見せない。ゆっくりと、バアリーはそれをベルトにもどした。

 

「真剣な相手と真剣に杖をまじえるのはずいぶんひさしぶりだ。」と言いながら、男はまだバアリーのほうを見ない。 「せいぜいがっかりさせないでもらいたい。 攻撃の準備ができたら、いつでもどうぞ。五百ガリオンを受けとって去りたければ、それも自由だ。」

 

長く無言の時間がつづいた。

 

それから、金属でガラスを切るときの悲鳴のような音をたてて、バアリーが杖を振りおろした。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはそれを目で追うことがほとんどできなかった。ただ光と閃光があるばかりで、なにが起きているのかろくにわからなかった。曲面鏡はちゃんと機能しているが(この戦術は〈カオス軍団〉で以前練習したことがあった)、鏡に映る像は小さすぎるし、ほんの一メートルとなりで見ていたとしても理解できたような気がしない。なにもかもが速すぎる。赤い閃光が青い防壁でブロックされ、緑色の光の棒をそれぞれが持って競り合ったかと思うと、ぼんやりしたなにかがいくつも出現し消滅し、もうどちらがなにをしかけているのかも分からなくなった。ただ、〈闇ばらい〉はつぎつぎと大声で詠唱をくりかえしていて、〈変身薬〉後のクィレル先生はもとの位置からうごかず、ほとんど無言で杖をふっている、ということだけは分かった。たまに声をつかうときはハリーに聞きとれない言語の呪文で、そのあとには鏡のなかの視界が真っ白になり、〈闇ばらい〉は防壁を半分解体され、よろめいて後ずさりしていた。

 

ハリーはもっとも腕のたつ七年生どうしの模範試合を見たことがあったが、これはそのはるか上をいっている。自分にまだどれだけの修練が必要なのだろうと思うと、ハリーの思考が麻痺した。 あの〈闇ばらい〉相手にはどの七年生であっても三十秒ともたないだろうし、クィレル先生には七年生の模擬戦の兵士が三部隊、束になっても傷ひとつつけられないかもしれない……

 

〈闇ばらい〉が倒れこみ、片膝と片手でからだをささえながら、もう片手で必死に手ぶりをして、口から呪文をしぼりだした。そのいくつかはハリーの知っている防壁呪文で、見るといくつもの剃刀のような影があらわれ、〈闇ばらい〉のまわりを旋風のように包んだ。

 

クィレル先生のほうに目をやると、膝をついた〈闇ばらい〉があきらめずにたたかおうとしているところへ、ゆったりと杖をむけていた。

 

「降参しろ。」と耳ざわりな声が言った。

 

〈闇ばらい〉は聞くにたえないことばでののしった。

 

「それなら……」とクィレル先生が言う。「アヴァダ——」

 

時間がとてもゆっくりと進み、ケとダとヴラの音節ひとつひとつを聞いていくことができるように感じられた。〈闇ばらい〉が必死によけようと横に飛ぶ動作をするのが見えた。 それだけゆっくりなのに、ハリーが()()()()()()だけの時間はないようだった。『やめて』とさけぶために口をひらく時間もなく、動く時間もなく、考える時間すらない。

 

ただ、罪のない人間を死なせてはならない、と必死に願う時間だけはあった——

 

すると、銀色の人影が〈闇ばらい〉のまえに立ちふさがった。

 

その後一秒もたたないうちに、緑色の光が命中した。

 

◆ ◆ ◆

 

バアリーは必死によけようと身をよじった。間にあうかどうか分からないまま——

 

バアリーの目は対戦相手と迫りくる死とだけに焦点をあわせていて、かがやく人影については輪郭をちらりととらえただけだった。その〈守護霊〉はいままでに見たどんな〈守護霊〉よりもあかるく、よく見ればありえない形状をしている。そう気づいたところで緑色の光が銀色の光に衝突し、両方が消えた。()()()。つまり()()()()()()()()()()()()。そこでつんざくような悲鳴が耳にとどいた。あの恐るべき敵がいまは悲鳴をやめず、あたまをかかえてまた叫び、倒れそうになっている。バアリーもすでに倒れかけている——

 

必死に動こうとしていた自分の余勢で地面に倒れこみ、脱臼した左肩と折れた肋骨がうめいた。 バアリーはその痛みを無視し、なんとか膝で立ち、杖をかまえて敵を失神させようとした。なにが起きているのか理解できないが、これが唯一の勝機であることは分かった。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い雷光が相手の男のからだに向けて放たれた。が、空中で分解し散った——そこにあったのは防壁ではなかった。 ()()()()()ゆらめくなにかが、倒れて悲鳴をあげる敵をつつんでいる。

 

バアリーは肌で重い圧力のようなものを感じた。魔法力の奔流が高まりつづけ、決壊しようとしている。 彼の本能は、それが爆発するまえに逃げろ、と叫んでいる。 これは〈魔法(チャーム)〉でも〈呪い(カース)〉でもない。魔力の暴走だ。だがバアリーが立ちあがるより早く——

 

男は杖をほうりなげて自分から遠ざけた(杖をほうりなげただと!)。そして一秒後、そのすがたがブレて、忽然と消えた。

 

緑色のヘビがぴくりともせず、地面に横たわる。動かなくなってはいるのはわかったが、バアリーは反射的に失神呪文をもう一撃放ち、ヘビは抵抗せずに受けた。

 

危機的な奔流と圧力が消散しはじめ、魔力の暴走が静まりはじめると、バアリーは呆然とした心持ちで、まだ悲鳴が聞こえることに気づいた。 ただ、さきほどまでとはちがう声だ。まるで少年のような声が、ひとつ下の層へおりる階段から聞こえる。

 

その悲鳴もとぎれ、あとはバアリーの激しい呼吸音だけになった。

 

思考がのろく、混濁している。 この相手の強さは非常識なほどだった。二人がしたのは決闘ではなかった。決闘というより、〈闇ばらい〉訓練生一年目の自分がマダム・タルマに挑戦したときのようだった。 〈死食い人〉のなかにも、この男の一割ほども腕の立つ者はいなかった。〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディもこれほどの腕ではなかった……。それに、いったいどこのどいつが、いや、どうやって()()()()()()()止めたというのだ?

 

バアリーはなんとか気力をふるいたたせ、杖を自分の肋骨にあて、治癒呪文をとなえた。肩にもそうした。 その治癒で思いのほか消耗させられてしまい、魔法力がほぼ完全に底をつき、残量がほんのわずかになった。 もはや小さな切り傷や擦り傷をなおす余裕はなく、ぼろぼろになった防壁の強度を高めることもできない。 自分の〈守護霊〉が消えないようにたもつだけで精いっぱいだった。

 

バアリーはちからをこめて深呼吸し、できるかぎり息をととのえてから、口をひらいた。

 

「おい。そこにいるおまえも、出てこい。」

 

返事がない。考えてみれば、相手は意識をうしなっている可能性もある。 さっき起きたのが何だったのかは理解できないが、悲鳴が聞こえたのはたしかだ……

 

とにかく、検証する方法はひとつ。

 

「早くしろ。」と言ってバアリーは声にちからをこめた。 「出てこないなら、広域効果(エリアエフェクト)の呪いをかけるぞ。」  といっても、おそらくもうそれだけの余力はない。

 

「待って。」と少年の声……そう、子どもの声がした。高く、小さく、震えた声だ。消耗しきったか泣きだしそうになったのをこらえているような、男の子の声。 その声のぬしは、すぐ近くまで来ているようだった。 「待って……ください。すぐに——そこへ——」

 

「目くらましは解除しろ。」とバアリーは声を低くして言った。 〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)防止の〈魔法〉をかけようにも、疲れすぎている。

 

ほどなくして、男の子の顔がぬぎかけた不可視のマントの上に出現した。黒い髪、緑色の目、眼鏡、目を引く赤色のいなづま状の傷あと。

 

二十年まえの未熟な自分なら、目をしばたたかせたかもしれない。今のバアリーはただ、ののしりの一言を口にしただけだった。おそらく〈死ななかった男の子〉のまえでしていい表現ではなかった。

 

「ぼ、ぼく……」と少年は震える声で言う。おさない顔に見えるのは恐れと消耗。そして涙がほおをつたっている。 「……あの人に誘拐されて、〈守護霊〉を出せと言われて……言うことを聞かなければ殺すと言われて……でも、あなたが殺されそうなのを見ていられなくて……」

 

バアリーはまだ呆然とした心持ちではあったが、すこしずつ状況が飲みこめてきた。

 

ハリー・ポッター。〈死の呪い〉を生きのびた唯一の魔法使い。 バアリーならあの緑色の死の閃光をよけることはできたかもしれないし、すくなくともよけようとしてはいた。だがウィゼンガモートの審議にかけられれば、これが〈貴族〉に対する命の債務と認定されることはまちがいない。

 

「そうか。」とバアリーはやわらかい言いかたになって、少年のほうに近寄ろうとした。 「それは大変だったな。だが、まずそのマントと杖を捨ててくれ。」

 

ハリー・ポッターの残りの部分が出現した。まず汗に濡れた青色のふちどりローブ、そして右手にはしっかりとつかまれた十一インチのヒイラギの杖。手の色が白くなるほど杖をしっかりとにぎっている。

 

「その杖を。」ともう一度バアリーは言った。

 

「すみません……どうぞ。」と小声で言って、少年は杖をバアリーに差しのべた。

 

バアリーはあやうく、この少年にどなりそうになった。精神的ショックを受けたばかりでしかも自分の命を救ってくれた少年だというのに。 ためいきをつくことによりその衝動を打ち消し、自分も片手をのばして、杖を受けとろうとした。 「あのな。そうやって杖を人に向けるのはよくないと——」

 

バアリーの手の下で杖の先端がくるりとしたかと思うと、少年が一言ささやいた。「〈睡夢(ソムニウム)〉」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはくずれおちた〈闇ばらい〉のからだをじっと見た。なんの達成感もなく、ただ圧倒的な絶望だけが感じられる。

 

(それでもまだ手遅れではないかもしれない。)

 

ハリーは動かなくなった緑色のヘビのほうを見た。

 

先生? ……ドウカ 返事ヲ。生キテイルカ?」  ハリーのこころはとてつもない恐怖に支配された。自分が呼びかけている相手がたったいま警官を殺そうとしたばかりであることもすっかり忘れて。

 

杖をヘビにむけ、口が『賦活(イナヴェイト)』の詠唱をするかたちにまでなったところで、脳が追いついてハリーをどなりつけた。

 

クィレル先生に魔法をかけるわけにはいかない。

 

また燃えるような感覚、引き裂かれるような痛みがハリーのあたまのなかにある。脳が半分に割れるのではないかと思うほどの痛みがある。 自分の魔法力とクィレル先生の魔法力が重なり、不協和音が生まれ破滅が到来する、という感覚。 ハリーとクィレル先生がちかづきすぎたり、おたがいに魔法をかけたりすると、それだけ不可思議で恐しいことが起きる。いや、()()()()()()()()()()魔法力が共鳴して、おさえがきかなくなる——

 

ハリーはヘビをじっと見た。息があるのかどうかも分からない。

 

(のこされた時間が刻々と消えていく。)

 

向きをかえて〈闇ばらい〉のほうをじっと見た。この人は〈死ななかった男の子〉がここにいたと知っている。

 

これが壊滅的な事態だということがはっきりと実感できてきて、百トンの重りが千個のしかかってきたように感じる。〈闇ばらい〉を失神させるのには成功したが、もうできることはなにもない。軌道修正して任務を再開することなどできない。失敗だ。完全に失敗した。()()()()()()()()

 

衝撃……動揺……絶望。そのせいでハリーは()()()()()()()。当然気づいているべきことだったが、その絶望がどこからきているのかを忘れ、〈真の守護霊の魔法〉をかけなおす必要があるということを忘れてしまった。

 

(そして手遅れになった。)

 

◆ ◆ ◆

 

二人の〈闇ばらい〉リーとマカスカーはすでに卓のまわりにおいた椅子の向きをかえていた。二人はいっしょに、むきだしの、骸骨のようにやせたおぞましいそれが窓のそとに下から浮かびあがってきたのを見た。見るだけですでに頭痛がした。

 

二人はその声を聞いた。はるか昔に死んだ骸から出たような声が、さらに老いて死んでからとどいたかのようだった。

 

ディメンターは耳をさいなむ声でこう言った。 「ベラトリクス・ブラックが監房の外に出た

 

ほんの一瞬だけ二人は恐怖で絶句した。それからリーが椅子を蹴って立ち、〈魔法省〉に増援を求めるため通信器のところへ向かった。同時にマカスカーは自分の鏡を手にし、巡回に出ている〈闇ばらい〉三人の名前を必死に呼びかけた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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55章「スタンフォード監獄実験(その5)」

満身創痍の状態の通路に薄暗いガス灯のあかりがならんでいる。その床を一人の少年がゆっくりと這っていく。片手をのばした姿勢で、ヘビのすがたのまま動かなくなった自分の師へと向かっていく。

 

ヘビまで一メートルのところまで来てはじめて、ハリーの意識のかたすみにぴくりと感じるものがあった。

 

いつになく弱くなってはいるが、あの破滅の感覚がある……

 

つまり、クィレル先生は生きている。

 

そう気づいてもなんの喜びも生まれず、ハリーはただ空虚な絶望のようなものを感じていた。

 

もうすぐ自分はつかまる。どう言いのがれようとしても、この状況はうたがわしい。 だれもハリーのことを二度と信じない。だれもがハリーを次代の〈闇の王〉と見なすだろう。ヴォルデモート卿と対決するときになっても、助けてくれる人はいない。ハーマイオニーにも見切りをつけられる。ダンブルドアでさえ、つぎの英雄をさがしはじめる……

 

……たんに実家に帰されるかもしれない。

 

ハリーは失敗した。

 

自分が失神させた警官のからだを見ると、切り傷がいくつかあるがすでに血は乾きはじめている。緻密な刺繍のある赤色のローブには焼けこげたあとがある。

 

ばかなことをしてしまった。 この警官を失神させるべきではなかった。クィレル先生に誘拐されてここにいるのだという、もともとの筋書きで押しとおすべきだった……

 

()()()()()()()()()()()()、とこころのなかの声が言う。軌道修正ができるかもしれない。あの〈闇ばらい〉はたしかに目撃者だろうし、おまえに失神させられた記憶もあるだろうが……あの男が死んでいればどうだ。クィレル先生も、ベラトリクスも死んでいればどうだ。おまえが使う筋書きと矛盾するものはなにもなくなる。

 

ゆっくりとハリーは片手をあげ、杖を警官にむけて——

 

——手の動きを止めた。

 

どこか、自分が自分らしくないふるまいをしているような気がする。 なにか大事なことを忘れてしまっているような気がする。だがそれが何なのか、すぐには思いだせない。

 

ああ。そうだった。 自分は人命の価値を大切にしているんだった。

 

そう思いながら、同時に困惑を感じた。()()以前はほかの人の命が大切であるように思えたのか……

 

ちょっと待て……そのときの気持ちといまの気持ちがちがうとしたら、変わったのはなんだ?、と論理的な部分の自分が言う。

 

それはここがアズカバンだから……

 

それに〈守護霊の魔法〉をかけなおすのを忘れたから……

 

なにかひとつでも行動をはじめようとすると、とてつもない努力が必要なように感じる。行動を思いうかべるだけでも、持ちあげようとしているなにかが重すぎるように感じる。 でも〈守護霊の魔法〉をかけなおすのは、いいことのように思えた。ディメンターが怖いという気持ちはまだある。 幸せであるということが何なのかは思いだせないが、この気持ちが幸せではないことはわかった。

 

ハリーは杖を水平に持ちあげ、指を開始位置にそろえた。

 

そこでハリーは止まった。

 

以前はなにを……幸せのイメージとして使ったのか……思いだせない。

 

これは変だ。そのイメージはとても大事なことだったはずだから、覚えていて当然だ……死に関係するなにか、だったか? でもそれのどこが幸せなのか……

 

からだがぶるぶると震えている。 いままでアズカバンはそれほど寒くない気がしていたが、意識するとどんどん寒くなるように感じる。 手遅れだ。沈みすぎた。自分は〈守護霊の魔法〉をもう二度とかけることができない——

 

それは正確な推定というより〈吸魂〉(ディメンテイション)的な考えかもしれないぞ、と論理的な部分の自分が言う。こう反応するのは習慣であり、完全に反射的に起きる発想で、エネルギーを必要としない。 ディメンターの恐怖は認知バイアスのようなものだと思え。ほかの認知バイアスを克服するときとおなじようにやってみろ。 絶望的な気持ちがするからといって、実際に状況が絶望的だとはかぎらない。 それはディメンターが近くにいるという証拠にすぎないかもしれない。 否定的な感情、悲観的な推定。これからはそういったものを疑え。正当性を確認するまでは欺瞞だと思え。

 

(これを外部から観察している人がいれば、いなづま形の傷あとがあり眼鏡をかけた少年が呆然として困惑して顔をしかめたのが見えただろう。 その手は〈守護霊の魔法〉の開始位置のまま止まっていて、動かない。)

 

ディメンターの付近にいると、こころのなかで幸福を感じる部分が干渉をうける。 幸せという合言葉で自分の幸せのイメージを引きだせないのなら、ほかの手段でその記憶を引きだしてみろ。 最後にだれかと〈守護霊の魔法〉のことを話したのはいつだった?

 

それも思いだせない。

 

絶望が重い波となってハリーをおおいつくす。論理的な部分のハリーは、その絶望を、信頼できないもの・外部のもの・自分でないものだと言って、はねのける。やはり重みはのしかかってくるが、それでもハリーの精神は思考しつづけた。思考すること自体にはそれほど努力はいらない……

 

最後にだれかと〈守護霊の魔法〉のことを話したのはいつだった?

 

クィレル先生が、もうディメンターの存在を感じる、と言ったときのことだ。そしてハリーがクィレル先生に……クィレル先生に言ったのは……

 

……星ぼしの記憶に頼れ、ということ。身体感覚をなくして宇宙にただようときのことを思いだし、それを〈閉心術〉の障壁のように自分の精神全体にかける、ということ。

 

今年二回目の〈防衛術〉の授業があった金曜日に、クィレル先生が見せてくれた星ぼしのこと。クリスマスにもう一度見たときのこと。

 

完全な暗黒を背景に熱く燃える光点たちのこと。

 

もくもくと沸きたつような〈天の川銀河〉の流れ。それを思いだすのにあまり努力はいらなかった。

 

ハリーはそのときの平穏な気持ちを思いだした。

 

手足の末端の冷たさがすこし退却していくようだった。

 

〈守護霊の魔法〉をはじめて成功させた日に、声にだして言ったことばがある。まだ気持ちにはへだたりがあるが、どう聞こえることばだったか、どういう発声だったかは思いだせる……

 

『……自然の摂理としての死を、ぼくは徹底的に受けいれない。』

 

〈真の守護霊の魔法〉は人間の生命の価値を思いうかべることで発動する。

 

『……でも、たたかって守るべき命はまだほかにある。 きみの命も、ぼくの命も、ハーマイオニー・グレンジャーの命も、地球上のすべての命も、それ以外のすべての命も、守る価値がある。』

 

全員を殺す……自分は本心からそんなことを考えていない。それは〈吸魂〉的な発想だ……

 

絶望を感じさせているのはディメンターだ。

 

命があれば希望はある。 あの〈闇ばらい〉はまだ生きている。 クィレル先生もまだ生きている。 ベラトリクスもまだ生きている。 ぼくもまだ生きている。 まだだれも死んではいない……

 

もうハリーは地球のすがた、星の海に浮かぶ青色と白色の球体を思いうかべられるようになった。

 

……そしてだれも死なせない!

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

呪文は少しつかえながら口から出た。ぱっとあらわれた人間型の光は弱かった。太陽というより月の光。銀色というより白色。

 

だがハリーが調子をとりながら呼吸をととのえ、回復するにつれ、徐々に光は強くなっていった。 その光でこころのなかの闇を押し返す。 ほとんど忘れそうになってしまっていたものごとを思いだす。それを〈守護霊の魔法〉にそそぎこむ。

 

光がしっかりと燃えあがり、また銀色になり、ガス灯のあかりよりもまぶしく、通路を照らしだし、冷気を追いだした。それでも、ハリーの手足はまだ震えている。もうほんすこしで手遅れになるところだった。

 

ハリーは一度深呼吸した。 よし。 これでディメンターがつくった人工的な暗黒が混じっていない状態で、状況をよく見きわめることができる。

 

見きわめてみると……

 

……実際、かなり望みは薄い。

 

さきほどまでの押しつぶされるような絶望ではないにせよ、ひかえめに言ってもまだ、あたまがふらふらする。暗黒面(ダークサイド)に行ってしまうわけにはいかないが、あの暗黒面ならこの水準の問題を楽にこなすだけの能力がある。あの暗黒面なら、クィレル先生に頼れなくなり、アズカバンの深奥の取りのこされ、警官に目撃されたからといって、あきらめるなど論外だ、と笑うだろう。 通常のハリーではこういう問題をうまくこなすことができない。

 

けれどいずれにしても、前に進みつづけるしか方法はない。 実際に敗北するまえにあきらめるなど、無意味の極みだ。

 

ハリーはまわりを見わたした。

 

薄暗い照明が廊下を照らし、灰色の金属壁、床、天井のそこかしこに斬撃のあとがあり、えぐられ、溶けた場所もある。一目見れば、ここで戦闘が起きたことはすぐに分かる。

 

クィレル先生なら簡単に修理できただろうが……なぜあのとき……

 

そこで、裏切られたという感覚がずしんときた。

 

なぜあのとき……クィレル先生は……なぜ……

 

ハリーのなかのグリフィンドールとハッフルパフがしずかに、悲しそうに答えた。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

()()()() とハリーは必死にこころのなかで言う。 あれは理屈からしておかしい。ぼくたちは完全犯罪をしようとしていたんだ。〈闇ばらい〉は〈忘消〉(オブリヴィエイト)することもできた。通路は修理することもできた。でもあの人を死なせてしまっては、手遅れになるところだった!

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とスリザリンの無慈悲な声がする。この事件をむしろ()()()()()()()していたんだ。 何者かが〈闇ばらい〉を殺してベラトリクス・ブラックをアズカバンから脱獄させた、ということを周知の事実にしようとしていた。 なんらかの証拠も用意してあって、おまえが関与したことを暴露するつもりだった。それをネタに脅迫するつもりだった。そうなればおまえは、永遠に彼にさからえなくなる。

 

ハリーの〈守護霊〉があやうく消えそうになった。

 

()()()()()()()()()、とハリーは思考した。

 

()()()()()()、とのこりの三人が悲しげに言った。

 

おかしい。まだ説明がつかない。 そういうつもりなら、クィレル先生はあの〈闇ばらい〉が殺されそうになった瞬間にぼくがクィレル先生を裏切るということを、最初から知っていたことになる。ぼくがダンブルドアのところに行って真実を告白して、自分はクィレルにはめられたのだと信じてもらおうとするんだということも。 それに……ぼくはすでに率先してベラトリクスをアズカバンから脱獄させるのに手を貸している。脅迫をするとして、ぼくが反対するようなやりかたで〈闇ばらい〉を殺すなんていうことを追加しても、そんなに意味がないんじゃないか? 脱獄の件だけでも、ぼくが犯罪にかかわったという証拠は十分用意できるだろうし、できるかぎり長くぼくの味方のふりをしておいて、ここぞというときにその証拠でぼくを脅迫できるようにしておくほうが狡猾なやりかただ……

 

()()()()()()()()()、とスリザリンが言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーは、多少なにかにすがりつくような気持ちで——同時に、自分は部分的には現実を拒否したいからこう考えているのだということも、この技術はそういう動機で使うべきではないということも認識しながら——()()()()()()()()()()()、ということを自覚した。

 

すると、こころのなかが静かになった。自分のほかの部分はどうやら、なんの反応もしようとしていない。

 

ハリーは引きつづき、それなりに絶望的な感じがする状況を見きわめようとした。

 

ベラトリクスが邪悪である可能性がどれくらいかを再評価する必要があるだろうか?

 

……どういう評価に変わろうが、それは任務を達成する役に立たない。 いまのベラトリクスが邪悪であることは所与の事実だ。 もともとは罪がなかったベラトリクスが拷問と〈開心術〉と言語に絶する儀式のすえにいまのすがたに変えられたのか、本人の意思でそうなったのかが分かったとしても、現在の状況にはあまり関係しない。 重要なのは、ベラトリクスはハリーを〈闇の王〉だと信じているかぎり、ハリーに服従するということだ。

 

つまり、ひとつ使える道具があるということ。ただし、ベラトリクスは飢えていて、九割がた死んでいる……

 

『なんだか、すこし気分がよくなってきた。変ね……』

 

ベラトリクスはそう言った。ハリーの〈守護霊〉が暴走して燃えあがったあと、枯れ果てた声でそう言った。

 

なぜなのか分からないが……ただ妄想してしまっているだけかもしれないが…… ずっと昔にディメンターにうばわれたものは、とりもどせない、という気がする。 だが()()ディメンターにうばわれたものは、〈真の守護霊の魔法〉でとりもどせるのではないか。 それは、コップをからにすることと、からになったコップが消えることの差のようなもの。 もしそうであれば、ベラトリクスは最近一週間くらいにうしなったものをとりもどしたのではないか。 幸せな記憶はすべて何年もまえに食われてしまっていてとりもどせないだろうが、 この一週間のあいだにうしなわれただけの、なにがしかの魔法力と体力は回復できたのかもしれない。 一週間休息をとって魔法力を回復させるのと同程度の効果はあったのかもしれない……

 

ハリーはヘビ形態のクィレル先生のほうを見た。

 

……〈賦活(イナヴェイト)〉を一発撃てる程度には回復しているかもしれない。

 

そうやってクィレル先生を覚醒させるというのが、かしこい選択であればだが。

 

そう考えていると、絶望がすこしもどってきた。 クィレル先生を信用してはならない。これだけのことがあってから、クィレル先生を蘇生させるのがよい判断だと確信できない。

 

()()()()()()、とハリーは自分に言いきかせ、倒れた〈闇ばらい〉のほうを見た。

 

ベラトリクスは〈記憶の魔法〉をかけることもできるかもしれない。

 

とにかくそれで一歩前進にはなる。 全員をアズカバンから安全に脱出させるとはまではいかないし、〈闇ばらい〉の仲間はいずれ、なにかおかしなことが起きていると気づくだろう。ベラトリクスの死体を不審に思って検屍をするかもしれない。 でも前進ではある。

 

……それにアズカバンから脱出するのはそんなにむずかしいことだろうか? この〈闇ばらい〉が報告することになっている時間よりはやく、この〈闇ばらい〉がいないことに気づかれるまえに、アズカバンの最上層まですばやくたどりつけさえすれば、クィレル先生がつくった穴を飛行して通りぬけ、十分アズカバンから離れてから、すでにハリーが持っているポートキーを起動すればいい。(クィレル先生とハリーがそれぞれ持っているポートキーはどちらも、二人の人間とヘビ一匹程度を転移させることができる。〈メアリーの部屋〉からぬけでるときの二重の隠蔽措置もそうだったが、クィレル先生はハリーも感心するほど十分な安全マージンを確保している。)

 

ハリーではヘビ形態のクィレル先生を触ることも浮かばせることもできないが、ベラトリクスに運ばせることはできる。

 

ハリーはきびすを返ししてすばやくベラトリクスの待つ階段にむかっていった。 すこしだけ、やる気がもどってきた気がした。 いい作戦のように思えてきた。やるなら時間を無駄にはできない。

 

クィレル先生のことはどうするのか。いや、ベラトリクスのことはどうするのか。ポートキーに設定してあるとおり精神治癒の癒師のところへ行くとしても、ベラトリクスをそこに託したあとのことは……。まあ、そのあたりはやりながら考えよう。 おそらく、うまく癒師をけむに巻いてなにかをやらせる必要があるが——相当うまくやる必要があるし、そもそもなにをやらせればいいのかもよく分からないが——ベラトリクスと二人で、いますぐ行動にとりかかなければ。

 

この手順全体をすばやくあたまのなかでたどってみたかぎりで一番気になるのは、屋根に出るときのことだ。 アズカバンには上空の空域にちかづくものを検知する監視員がいる。もともとはクィレル先生が透明になって監視員を〈錯乱(コンファンド)〉し、数分間周囲の映像をループさせたものを見せておく、という手はずだった。クィレル先生によれば、ハリーの〈守護霊〉は〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)で隠すことができない。かといって〈守護霊〉を切ってしまえば、ディメンターがベラトリクスの不在に気づき、〈闇ばらい〉に通報される……

 

ハリーの思考がそこで引っかかって止まった。

 

これは『なんてこった』では言いあらわしようがない窮地のようだ。

 

◆ ◆ ◆

 

リーはアドレナリンの影響下にあったが、手を震えさせることなく、〈消えるキャビネット〉の錠をはずした。これはアズカバンと〈魔法法執行部〉内の厳重に警備された部屋とを接続する装置だ。(当然この〈消えるキャビネット〉は一方通行である。このようにアズカバンへ入るための結界の抜け道はいくつかあるが、どれも厳重に立ち入りが制限されている。いっぽう、出る方向にはそういった近道は存在しない。)

 

リーは十分さがって距離をとってから〈キャビネット〉に杖をむけ、『ハーモニア・ネクテレ・パサス』ととなえた。すると一秒もしないうちに——

 

〈キャビネット〉がバタンとひらいて、体格のよい、あごのはった魔女があらわれた。白くなった髪の毛はごく短く切りそろえられている。 階級章も宝飾品も装身具もない、ただの〈闇ばらい〉のローブすがたで十分な身だしなみだと見なしているらしい。彼女はアメリア・ボーンズ。〈魔法法執行部〉の長であり、〈魔法法執行部〉内で〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディに正々堂々とやりあえる唯一の戦士だと言われている(といっても、どちらも正々堂々と戦闘するタイプではない)。 アメリアは〈魔法法執行部〉の内部で〈現出(アパレイト)〉できるのだという噂をリーは聞いたことがある。通報して五十秒もたたずに出てくるのだから、そう噂されるのも分かる。

 

「すぐ飛んで!」とアメリアが肩ごしに呼ぶと、警察用ホウキに手にした女性の〈闇ばらい〉三人組がうしろからあらわれた。ぎゅうぎゅう詰めで〈キャビネット〉の起動を待っていたのだろう。 「もっと空中からの映像がほしい。〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)防止の〈魔法〉も忘れないように!」  それから彼女はリーのほうを見た。 「〈闇ばらい〉リー、報告を! 侵入経路のこころあたりは?」

 

リーが答えようとすると、〈消えるキャビネット〉からまた別の〈闇ばらい〉三人がホウキを手にあらわれ、部屋を出ていった。

 

そのあとに完全武装の〈特殊部隊〉員三人がつづいた。

 

〈特殊部隊〉員がもう三人。

 

ホウキ部隊がまた一組。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーが階段にたどりついたとき、衰弱したベラトリクス・ブラックはじっと横たわっていた。目は閉じている。冷たく甲高いささやき声で、起きているか、と呼びかけても、返事はなかった。

 

ハリーは一瞬動転しそうになったが、クィレル先生が彼女を気絶させたのだということに思いあたった。〈闇の王〉のおどおどした従僕が突然冷徹な犯罪者に変わり、さらに歴戦の魔法戦士に変わるのを目撃されては困るからだ。 考えてみれば都合がいい。それなら『エクスペクト・パトローナム』と言うハリーの声も聞かれなかっただろうから。

 

ハリーは〈マント〉のフードをめくり、杖をベラトリクスにむけ、できるかぎりやわらかく『イナヴェイト』とささやいた。

 

ベラトリクスのからだが軽く痙攣(けいれん)した。その様子からして、やわらかさが足りなかったようだ。

 

くぼんだ暗い目がひらく。

 

ハリーはやはり冷たく、高い声で言う。 「ベラ……ちょっと厄介なことになってしまってね。 おまえは多少魔法を使える程度に回復しているか?」

 

すこし間があってから、ベラトリクスの青白い顔がうなづいた。

 

「よし。支えなしでとは言わないが、ここからは歩いてもらうことになるぞ。」  乾いた声でそう言って、ハリーは杖を彼女にむけた。 「ウィンガーディウム・レヴィオーサ。」

 

ハリーはしばらく持続できる程度に出力をおさえたが、おそらくベラトリクスの現在の体重の三分の二は浮かせることができている。彼女はそれだけ……やせている。

 

おずおずと、まるで数年ぶりにやる動作のように、ベラトリクス・ブラックは立ちあがった。

 

◆ ◆ ◆

 

アメリアは〈闇ばらい〉リーとそのアナグマの守護霊を連れて当直室にのりこんだ。 アメリアはこの警報がとどいた時点で即座に〈逆転時計(タイムターナー)〉を使用し、緊張のもと一時間かけて部隊を編成した。 アズカバンの内部で時間ループを作ることはできない。アズカバンのなかで未来と過去をつなぐことはできない。つまり〈法執行部〉に通報が来るよりまえにここに到着することはできない。だがぴったりの時間に到着するならいい……

 

アメリアの目はのぞき窓のむこうに浮かぶ骸を直視した。マントを羽織っていないそのすがたは、死んでいるようにしか見えない。

 

「ベラトリクス・ブラックはどこにいる?」  アメリアは恐怖の生物に対してまったく恐怖の色を見せず、そう迫った。

 

彼女でさえ一瞬血が凍るほどの声が、死骸の口から漏れ出た。 「分からぬ

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはまた完全に透明になって、ベラトリクスが動くのをじっと見た。ベラトリクスはゆっくりとかがみ、クィレル先生の杖を手にとり(ハリーはこれに手を触れるわけにいかない)、またゆっくりと背をのばして立った。

 

そしてベラトリクスは杖をヘビにむけ、やはり小声ながらも明瞭な発音で「イナヴェイト」と言った。

 

ヘビは微動だにしない。

 

「もう一度やってみましょうか?」

 

「いや……」と言ってハリーはいやな気持ちを飲みこんだ。 おそらくディメンターはもう〈闇ばらい〉たちに通報してしまっている。そう気づいてからは、もう細かいことは気にせずクィレル先生を蘇生させよう、という気になっていた。 ハリーは冷たく甲高く、なんの感情もない声をだした。 「〈記憶の魔法〉をしてもらいたいんだが、できるかな、ベラ?」

 

ベラトリクスは一度かたまってから、ためらうように言った。 「できると思います。」

 

「あの〈闇ばらい〉の直近一時間の記憶を消せ。」  ハリーはそう命じてから、なにか理由を言うべきだろうか、とも考えた。なぜ単に殺してしまわないのですか、ときかれたら、どうこたえるべきだろう。われわれが別の勢力であるように見せかけるためだ、とでも言って、あとはもうだまれとだけ——

 

だがベラトリクスはそっと杖を〈闇ばらい〉にむけ、しばらく無言になり、やっと口をひらいて「オブリヴィエイト」と小声で言った。

 

そしてからだをふらつかせたが、倒れはしなかった。

 

「よし、じょうずにできたな。」と言ってハリーは笑いを漏らした。 「つぎはそのヘビを運んでもらう。」

 

ベラトリクスはやはりなにも説明を要求しなかった。ハリーか、あるいは透明になっているらしい〈守護霊〉の使い手にやらせればいいのでは、とも言わなかった。 ただ、ふらふらと大ヘビがいる場所までいって、ゆっくりとかがみこみ、ヘビを持ちあげ、肩にかけた。

 

(ハリーのなかのごく小さな部分がこの状況を気にいった。こうやってなにも口ごたえせず命令にしたがう子分がいるというのは楽だ。ベラトリクスのような子分がいつもいてくれるとありがたい、とさえ思ったが、のこりの部分のハリー全員が戦慄してその声をおさえつけた。)

 

「来い。」とその子分に命じてから、ハリーは歩きはじめた。

 

◆ ◆ ◆

 

だんだんと当直室に人が増え、息ぐるしいほどになった。とはいえ、アメリアのまわりには空間がある。息をするためにボーンズ長官と密接しなければならないのなら、息をしないほうがましだということらしい。

 

オウラ・ウェインバックがマカスカーの鏡をいじっているところへ目をむけて、アメリアは声をかけた。 「ウェインバック鑑識官」と大声で呼ばれて、若いオウラはびくりとした。 「……ワンハンドの鏡からの返事は?」

 

「ありません。」とオウラは不安げにこたえる。 「これは……きっと妨害がかかっているんじゃないでしょうか。切られたのではなく、警報が出ないように慎重に妨害しているんだと思います。これだけ反応がないと、壊れていてもおかしくありませんが……」

 

アメリアは表情を変えないようにした。こころのなかですでにワンハンドを弔いはじめていたところにこの話を聞いて、悲しみがすこし強まり、怒りがずっと強まった。 七カ月。あと七カ月でバアリー・ワンハンドは百年間の勤務を終え引退することになっていた。若く熱心な〈闇ばらい〉だったころの彼のことを思いだすと、ずいぶん長い年月が経ったものだ。ワンハンドは百年のキャリアを通じてまじめに〈法執行部〉に仕えてきた……すくなくとも真剣にとりあつかうべきことに関しては。

 

ただではおかない。

 

窓のそとに浮かぶディメンターはあいかわらず、恐ろしげな影を落としている。役立たずなことに、こちらが『ベラトリクス・ブラックは脱獄したのか』、『なぜ居場所が分からないのか』、『なにかで隠蔽されているのか』、などとたずねても、ディメンターは『分からない』とつぶやくか、無言でいるばかり。 そうしているうちに、犯人はもう逃げてしまったのではないか、と思えてきたが——

 

「Cスパイラルの天井部に穴がありました!」とだれかがドアをあけるなり言う。 「穴はまだあいています。結界をごまかすための偽装ものこっていました!」

 

アメリアの口角があがり、獲物にありつくオオカミの口のように開いた。

 

ベラトリクス・ブラックがまだこのアズカバンのなかにいる。

 

ベラトリクス・ブラックにはかならずアズカバンで一生を終えさせてやる。

 

アメリアは大股で窓にむかい、今度はディメンターを無視して、空を見あげた。警邏中のホウキたちを自分の目で確認しておきたいと思った。 ここからでは全容は見えないが、十人が警戒用のパターンで飛んでいるのが見えた。あの数ならだれを逮捕するにも足りるはずだが、アメリアは手持ちのホウキ部隊をすべて投入するつもりでいる。 指揮下の部隊に配備してあるのは、市場で流通するホウキのなかで最速のニンバス二〇〇〇。自分が指揮するかぎり、狩りはかならず成功させる。

 

アメリアは窓から目を離し、眉をひそめた。 この部屋はありえないほど人が過密になってきた。その三分の二はここにいる()()がない。ただ作戦の中心地にいたいがためにここにいるのだ。 アメリアが許せないことがひとつあるとすれば、なすべきことよりも欲求を優先する部下だった。

 

「ほら、ぶらぶらしてないで、各スパイラルの最上部を固めてちょうだい!」  全員がおどろいた顔を見せた。 「そう、三カ所とも! 相手は床や天井に穴をあけて行き来するかもしれない。それくらい考えなさい! 上の層から順番に、見つかるまで一層ずつ調べあげる! わたしはCスパイラルに行く。スクリムジョールの隊はBへ……」  そこで口をとじ、〈凶眼(マッドアイ)〉はもう去年引退したのだと思いだす。ならば…… 「シャックルボルトはAスパイラル。戦闘が得意な者を連れていっていい。 監房をひとつひとつあらためて、毛布もまくって、どの通路にも検知〈魔法〉を全種類かけること! この犯人を捕まえるまでは、だれもアズカバンから出してはならない! そして……」  部下たちはおどろいた顔で彼女がつづきを言うのを待った。

 

この犯人はなにか新しい方法を使って、ベラトリクス・ブラックがディメンターに検知されるのを防いでいる。

 

そんなことは()()()とされている。

 

アメリアは血が凍るような思いがした。これはまるで……

 

アメリアは深呼吸をしてから、鋼のような命令の声を出しなおした。 「犯人を捕まえたら、それがほんものの犯人かどうか、きっちりたしかめること。味方が〈変身薬(ポリジュース)〉を飲まされているかもしれない。 妙な気配があったら、〈服従の呪い〉がかかっていないか検査すること。 チームメイトはつねに視界にいれること。 相手が〈闇ばらい〉の制服を着ていても、知らない顔であれば味方と思ってはならない。」  一度通信担当官のほうを向く。 「飛行中の全員に連絡。理由なく隊列を離れる一機がいれば、隊の半数を使って捕まえ、残りの半数は警邏をつづけること。 可能なかぎり通信周波数構成(ハーモニクス)も変更しておくように。鍵がすでに盗まれているかもしれない。」  部屋の全員に向きなおる。 「脅迫されうる家族のない者を除いて、味方もすべて疑ってかかれ。」

 

年配の部下たちの顔からは血の気が引き、若い部下たちは何人が身を震わせた。全員がこの意味を理解している。

 

だが念のため、彼女は声に出して言った。

 

「これは〈大戦〉の再来だと思いなさい。 〈例の男〉が死んだからといって、〈死食い人〉がおなじ手で来ないとはかぎらない。 命令は以上!」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはガス灯のあかりのもと、灰色の通路を無言で歩いていく。透明になってとなりにベラトリクスをしたがえ、そのあとに銀色の人影を連れ、もっといい作戦がないものか、考えている。

 

最初に作戦を考えはじめたとき、まず気づいたことがあった。おそらくすでに〈闇ばらい〉たちにはもう察知されている。そればかりか、クィレル先生は目を覚ます様子がない。そう思うと……

 

ハリーのあたまのなかが一瞬凍りついた。

 

そしてそのまま凍りつづけた。ベラトリクスを連れて下層にむかい、できるだけ時間をかせごうとしているあいだも、それは変わらなかった。 〈闇ばらい〉は最上層から一階ずつ調べていく、というのがハリーの読みだった。むこうは急ぐ必要はないから、一歩一歩着実に進める。獲物に逃げ道がないことを知っている。

 

実際、ハリーは逃げ道を思いついていなかった。

 

そのとき、こころのなかの声がこう言った。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()

 

そう問われると、即座に答えが出た。

 

だが……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

それから、問題となりうることがあるのに気づくと……。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

それを受けて〈カオス〉軍司令官は最初の作戦をもとにした修正案を思いついた。

 

その案は……

 

その案はありえないほど()()()()()()()()()()()()案だった……

 

だから()()()()()作戦を考えようとしているのだが、なかなかいいアイデアが出ない。

 

()()()()()()()()()()、とグリフィンドールが言う。 ほんのちょっとまえまでは、なんの案も出ないといって文句を言っていただろう? ひとつでも案ができたのをよろこぶんだな。破滅だと愚痴ってばかりいないで。

 

「ご主人さま。」とベラトリクスがまた階段をくだろうとするところで、しぼりだすような声で言う。 「……わたしは監房にもどるのですか?」

 

ハリーの脳は混乱した。まずそのことばの意味を認識するのに時間がかかり、さらにその意味にぞっとしているうちに、ベラトリクスがつづきを話した。

 

「それよりは……ご主人さま……それよりは、どうか、死なせてください。」  それから、こんどはほとんど消えてしまいそうな声でつづける。 「でもそれがご命令なら、もどります……」

 

「あの監房にはもどらない。」とハリーの声が勝手に、叱責するように言った。 内心の感情はしっかりと押しこめてある。

 

あのさ……あんたいま、『わたしのために働いてくれればありがたい』って言おうとしなかった?、とこころのなかのハッフルパフが言う。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーが思考する。宛先がまちがって届いているだけだとしても、報いたくなるのが当然——

 

彼女は〈闇の王〉の忠実なしもべで、殺人も拷問もやった女だ。彼女に忠誠心がある唯一の理由は、罪のない女の子をバラバラにしてできた材料を組み合わせて作られたのが彼女だからだぞ、忘れたのか、とハッフルパフが言った。

 

だれかにあれだけの忠誠心を見せられたら、それが相手をまちがえているだけだとしても、ある種の感情を感じるのが当然だ。 人工的にできたのであれなんであれ、あれだけの忠誠心に感謝しなかったなら、当時の〈闇の王〉は……()()というだけではぜんぜん足りない……()()()()だ。

 

ハリーのほかの部分はあえて口をはさもうとしなかった。

 

そのとき音が聞こえはじめた。

 

最初はかすかな音だったのが、一歩一歩すすむたびに大きくなる。

 

女の声だ。聞きとりにくいが、遠くから声がする。

 

ハリーの耳は無意識にその内容を聞きとろうとした。

 

「……ないで……」

 

「……そんなつもりじゃ……」

 

「……死なないで……」

 

そう聞いてハリーの脳は声のぬしがどんな人であるかを認識した。ほぼ同時になんのことを言っているのかも想像できた。

 

音を消してくれていたクィレル先生はいまいない。そしてアズカバンはもともと無音ではない。だから聞こえるのだ。

 

かすかな声が同じせりふをくりかえした。

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

一歩すすむたびにその声は大きくなり、感情が聞きとれるようになった。その恐怖、後悔、絶望が意味するのは……

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

……彼女は自分の最悪の記憶を見ている。何度も何度も再生する記憶を……

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

……彼女をアズカバン行きにした殺人の記憶を……

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

……自分が殺したそのだれかが死ぬところを何度も何度も無限にくりかえして見せられている。 とはいえ、生命が感じられる声色からすると、この女性がアズカバンにいれられたのはそれほど昔ではなさそうだ。

 

ハリーはふと気づいた。クィレル先生もこういった扉のまえをとおり、同じ声を聞いたはずだ。クィレル先生はほんのすこしも動じた様子がなかった。 これこそクィレル先生が邪悪である証拠だと言いたいところだったが、ベラトリクスの手前、声を出そうにも出せない。息づかいを平常にたもちながら、こころのかたすみでハリーは悲鳴をあげつづけた。

 

〈守護霊〉がかがやきを増した。暴走ではなく、一歩すすむたびにかがやきを増した。

 

ハリーとベラトリクスが階段をおりていくと、〈守護霊〉はさらに強くかがやいた。彼女がつまづいたので、ハリーは左腕を〈マント〉から突きだした。突きだしたことで、彼女のくびに巻かれたヘビとの距離が詰まり、破滅の感覚がしたが、ハリーは耐えた。 彼女はおどろいた表情をしたが、差しだされた手をとり、声はださなかった。

 

ベラトリクスを助けることができて気分がよくなったが、それでも足りない。

 

この階層のまんなかの、あの巨大な金属扉が目のまえにあるかぎりは。

 

そこに近づくと、女性の声がとぎれる。〈守護霊〉が近くなって、最悪の記憶の再生が止んだからだ。

 

()()()()()()()()()()、とこころのなかの声が言った。

 

いやおうなく、ハリーの足どりは金属扉へむかう。

 

そして……

 

扉の鍵をあける——

 

……ハリーは歩きつづける……

 

おい、なにをしている? 戻って彼女を連れだせ!

 

……歩きつづける……

 

助けに行けよ! なんのつもりだ? 彼女は苦しんでいる。助けないでどうする!

 

ポートキーは人間を二人転送できる。ヘビ一匹くらいの誤差はいいが、人間なら二人だけだ。 クィレル先生のポートキーさえあれば……だがいまはない。あれはクィレル先生が人間でいるときに持っていたから、いまは取りもどせない……。 今日ハリーが救えるのは一人だけだ。アズカバンの最下層にいれられた、もっとも救いを必要としている人間一人だけ……

 

行かないで!」と金属扉のむこうの声が悲鳴をあげる。 「やめて……いや……行かないで……ここにいて……行かないで——」

 

通路に光がともり、それがかがやきを増していく。

 

「お願い……もう自分の子の名前も分からない——」と女のすすりなく声がする。

 

「座れ、ベラ。」とハリーが言う。不思議と冷たいささやき声を維持することができていた。 「あれを片づけてくる。」  そのことばとともに〈浮遊の魔法〉が弱まり、効果が切れた。ベラも従順に自分から座っており、光りだす空気を背景に、骸骨のようなすがたが影を落とした。

 

()()()()()()()()

 

空気がさらに光を増した。

 

いや、これで()()()死ぬと決まってはいない。

 

死ぬ可能性があるだけだ。死ぬ可能性をかけてでも、やるべきことはあるんじゃないのか?

 

空気はさらにかがやきを増す。大きな〈守護霊〉がハリーのそばにできつつあり、その人間型の光と燃える空気との境目がなくなりつつある。そこにくべられているのはハリーの生命力。

 

ディメンターを全滅させてしまえば、たとえぼくが死ななかったとしても、ぼくがやったということは確実にバレる……。ぼくは支持者をうしない、戦争に勝てなくなる……。

 

こころのなかで推進派の声が言う。 それはどうかな? アズカバンのディメンターを全滅させれば、むしろ〈光の王〉であるという証明になりそうなものだ。だからあの女を助けろ 助けるんだ 助けないでどうする——

 

人間型の光の内外の境界がなくなった。

 

通路が見えなくなった。

 

ハリー自身のからだは〈マント〉におおわれて不可視になっている。

 

茫洋とした銀色の光のひろがりのなかに、身体のない視点として自分が存在しているだけ。

 

自分の生命力が流れ出し、呪文へとそそがれていくのをハリーは感じた。そして遠くで〈死〉の影が恐れをなすのを感じた。

 

ぼくは死ぬまでにやりたいことがもっとほかにもある……〈闇の王〉と対決すること、魔法世界とマグル世界を統一すること……

 

そういった高尚な目標よりも、目のまえで助けをもとめる一人の女性のほうがずっと訴求力がある。このひとつの仕事以上に大事な仕事を将来のハリーができるという()()はない。だがこのひとつの仕事なら、いま、ここで達成できる。

 

つぎの瞬間に死んでいてもおかしくない状態で、ハリーは考えた。

 

ディメンターはここにいるのがすべてじゃない。アズカバンのような場所はきっとほかにもある……。仮にやるなら、もっと中央部の奈落にちかづいてからやるべきだ。そのほうが生命力を有効に使える。ここを生きのびて、あとでほかの場所のディメンターを破壊できる可能性が高まる……。けれど、そうするのがほんとうに最適なのか。いまここでやるべきことなのか。いや、ちがう。ちがうだろう

 

()()()()() と怒りの声でもうひとりの自分が言い、反論を思いつこうとする。しかし反論は存在しない——

 

反駁不可能な、明白なその事実に集中していると、ゆっくりと光が弱まっていく。やるとしても、ここは最適な場所ではない。()()()()()()()()……

 

ゆっくりと光が弱まっていく。

 

生命力の一部がハリーのなかへもどっていく。

 

のこりの一部はすでに散逸していた。

 

それでもくずれおちることなく、銀色の人間型の像をかがやかせるだけの余力はハリーにのこっていた。 杖を持つ手をあげて「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」と言うと、ハリーの魔法力がおとなしく動きだし、ベラトリクスのからだを支えた。(消耗しているのは魔法力ではなかったからだった。〈守護霊の魔法〉を燃やすのに使ったのは魔法力ではなかった。)

 

ハリーはこころのなかで誓いのことばを言った。ベラトリクスの手前、できるかぎり息づかいを乱さないようにしたが、見えない涙が見えないほおを伝った。 ぼくの命と魔法力と理性にかけて、ぼくが大切にしているあらゆるものと幸せのイメージにかけて、いつかかならずこの場所をなくすと誓う。だから今回は許してくれ……

 

そして二人はまた歩きだした。『行かないで』、『助けて』、という殺人犯の慟哭を背にして。

 

ハリーはこのために自分の一部を犠牲にした。それを乗りこえるにはもっと時間が、なにかの儀式が必要だったが、ベラトリクスがとなりにいて自分を見ている。ハリーはただ平常な息づかいをつづけ、なにも言わず、止まらずに歩きつづけた。

 

そうして、自分の一部が置き去りにされた。それはこの場所、この時間に、永遠にとりのこされることだろう。 ほかの〈真の守護霊〉の使い手とともに、いつかハリーがここにもどってディメンターをすべて破壊できたとしても、 この三角柱の建て物を熱で溶かし、この島を燃やしつくし、波に流されるほど平らにし、ここが存在した形跡すらもなくしたとしても、ハリーがその一部をとりもどすことは永遠にない。

 

◆ ◆ ◆

 

光かがやく生き物たちがいっせいに動きを止めて下を見た。そしてなにごともなかったかのように、金属製の通路の巡視にもどった。

 

「前回もこうだった、ですって?」とボーンズ長官が〈闇ばらい〉リーにむかって追及した。

 

「はい。」と若い〈闇ばらい〉リーはこたえた。

 

ボーンズ長官はもう一度、ディメンターは標的の囚人を検知できたか、と確認をとった。数秒後に否定の返事があったが、彼女はおどろかなかったようだった。

 

エメリーン・ヴァンスは内心、二つの忠誠心のあいだで揺れうごいていた。

 

エメリーンはもう〈不死鳥の騎士団〉員ではない。大戦が終わったとき、〈騎士団〉は解散した。 そして大戦のあいだ、クラウチ長官は〈騎士団〉の非公式な戦闘を承認していた。それは公然の秘密だった。

 

ボーンズ長官のやりかたはクラウチとは違う。

 

けれどいま捕えようとしている相手はベラトリクス・ブラック。ブラック本人も元〈死食い人〉であり、救出に来ている何者かも〈死食い人〉であることは確実だ。 〈守護霊〉たちの奇妙なふるまい——全員が動きを止めて下をむき、しばらくしてから、主人に付きしたがう位置にもどる、というふるまい。 そしてディメンターたちは標的を見つけることができずにいるということ。

 

こういったことはアルバス・ダンブルドアに相談するのが得策ではないだろうか。

 

ダンブルドアに連絡しろ、とボーンズ長官に()()すべきか? だがボーンズ長官がまだそうしていないということは……

 

エメリーンはしばらく逡巡した。多分長く逡巡しすぎたが、やっと決心した。 かまってられるか。そもそも、みんなおなじ陣営なんだ。ボーンズ長官が気にいろうが気にいるまいが、共闘は必要だ。

 

ひとこと思考すると、銀色のスズメが彼女の肩に飛び乗ってきた。

 

「隊列の最後につきなさい。」 エメリーンは声を落とし、くちびるもほとんど動かさずに言う。 「だれにも見られなくなったタイミングで、アルバス・ダンブルドアのところに行って、彼が一人でなかったら一人になるまで待って、こう伝えて。 『ベラトリクス・ブラックがアズカバンを脱獄しようとしている。ディメンターは彼女を見つけられない。』」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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56章「スタンフォード監獄実験(その6)——制約つき最適化」

音のない通路。ありがたいことに、ひとつ下の階層にある金属扉からは音がしなかった。 むこうがわにだれもいないということなのか、だれかが無言で苦しんでいるのか。それとも叫びすぎて声が枯れ果てているのか、暗闇のなかでひたすらうわごとをつぶやいているのか……

 

()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーは希望のない思考をしてしまう。なにせ今度はディメンターのせいにもできない。 この作戦は実行に時間がかかる。〈闇ばらい〉たちはすでに上から迫ってきているだろう。やるなら下層でやるほどうまくいく。下層にいくほど安全になる。 けれどこういくつも金属扉のまえを通過し、無言のまま平常どおりの息づかいを完璧に維持させられると、あたまがおかしくなりかねない。 毎回自分の一部をすこしずつその場にのこしていけば、そのうち自分はからっぽになってしまう——

 

月光色にかがやくネコが出現し、ハリーの〈守護霊〉のまえに降りたった。 思わず声をあげそうになった。声をあげていれば、ベラトリクスに違和感をあたえてしまいかねなかった。

 

「ハリー!」とマクゴナガル先生の声がした。いつになく緊迫感のある声だ。 「いまどこにいますか? 無事ですか? わたしは〈守護霊〉を使って話しています。返事を!」

 

発作的にハリーは雑念をふりはらい、のどにちからを入れなおして落ちついた声が出るようにし、〈閉心術〉の障壁をつくるようにして人格を入れかえた。 その準備に数秒かかってしまったが、さいわいこの通信には遅延がある。マクゴナガル先生が不審に思わないことを願うばかりだった。そして〈守護霊〉が周囲の状況を報告するものでないことも。

 

純真な子どもの声でハリーは話しだした。 「ここは〈メアリーの店〉です。ダイアゴン小路の。ちょうどトイレに行く途中です。なにかあったんですか?」

 

ネコは飛びはねて消え、ベラトリクスが軽く笑い声をだした。かすれた、訳知り顔の笑いだったが、ハリーが不愉快そうに舌を鳴らすのを聞いて、あわてて引っこめた。

 

ほどなくしてネコがまたやってきて、マクゴナガル先生の声で言った。 「わたしがすぐに迎えにいきます。()()()()()()()()()()()。いまそこにクィレル先生がいないのなら、先生の近くにもどってはなりません。だれにもなにも言ってはなりません。一刻も早く着くようにしますので!」

 

そして光かがやくネコは空中に飛びこんで消えた。

 

ハリーは腕時計に視線を落とし、時刻を記憶した。そろってここを出られたとき、クィレル先生にまた〈逆転時計〉を固定してもらって、時間をさかのぼって、〈メアリーの店〉のトイレにいるべき時間にいることができるように……

 

ハリーのなかの問題解決を担当する部分が言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

アズカバンの囚人一人の苦しみにも及ばない程度の問題ではあるが、ハリーはどうしても、いまの話を深刻に考えてしまう。自分は〈メアリーの店〉から一歩も外に出なかったような顔であの送迎を受ける必要があるし、クィレル先生にもいっさいやましいところがない体裁でこの件を終わらせなければならない。そうでなければ、ハリーはマクゴガナル先生に()()()()

 

◆ ◆ ◆

 

部下たちを連れてまた新たなCスパイラルの区画に乗りこむにあたって、防壁をたて探知をかけてから、後列の防壁を解除する。一連の作業をつづけながら、アメリアは自分の腰を指でたたき、思案した。あの男の専門知識を借りるべきか否か。ああいう人でさえなければ迷うことも——

 

ぼうっ、と炎の音がした。何度も聞かされた音だったので、振りかえるまでもなくアメリアにはその正体が分かった。

 

その場の〈闇ばらい〉の三分の一が杖を手にとり、隊列のまんなかに出現した老人をとりかこんだ。老人は半円形の眼鏡と長い銀色のひげをして、赤と黄金色にかがやく不死鳥を肩にのせている。

 

「撃つな!」  顔なら〈変身薬(ポリジュース)〉でたやすく変えられる。だが、不死鳥を使って移動してきたように見せかけるのはそう簡単ではない——不死鳥はアズカバンへ入る際の結界の抜け道とされている手段のひとつだ。無論出る際には使えない。

 

老魔女と老魔法使いがしばらくじっと視線をかさねあった。

 

(部下のうちのだれが彼に密告したのだろうかと、こころのかたすみでアメリアは自問した。元〈不死鳥の騎士団〉員の部下は数名いる。エメリーンのスズメかアンディのネコが〈守護霊〉の列を抜け出てはいなかったか、と記憶をさぐろうとしてみる。まあ、考えてもしかたない。このお節介さんは、知るはずのないことをなぜか知っていたりするのだ。)

 

アルバス・ダンブルドアは礼儀ただしくアメリアに目礼した。 「ご一緒させてもらってもかまわないかな? せっかくおなじ陣営なのだから。」

 

「あなたがなにをしにきたかによりますね。」とアメリアはとりつくしまもない言いかたをする。 「犯罪者を捕まえる手伝いをしようというのか、それとも犯罪者が報いを受けずにすむようにしようというのか。」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() アメリアの知るかぎり、ダンブルドアは戦争の末期には余計な手出しをしなくなったという。マッドアイがしきりに文句をつけたおかげだった。だがそれもヴォルデモートの死体が見つかるまでのことで、あとは、またバカげた慈悲心がぶりかえしたようだった。

 

半円形の眼鏡に白や銀色の光点がいくつかきらめいた。動物たちの光の反射だ。 「ベラトリクス・ブラックを逃してはならぬ、という気持ちではおぬしに負けていないつもりじゃ。 彼女がこの牢獄を生きて出ることはまかりならん。」

 

意外な返事にアメリアは感謝しようと口をひらきかけたが、それより早くダンブルドアは黒い長杖をふって、銀色の不死鳥をうみだした。ここにいるほかの〈守護霊〉をすべてあわせてもかなわないほど強い光を発する〈守護霊〉だ。 無詠唱でこの呪文をかけられる人物をアメリアはこれまで見たことがなかった。 「十秒間〈守護霊の魔法〉を止めるよう、〈闇ばらい〉全員に伝えよ。闇で見いだせぬものは光で見つかることもある。」

 

アメリアはダンブルドアの意図することを実現するため、通信官に命じて〈闇ばらい〉全員の鏡へ指示する準備をととのえさせた。

 

準備ができるまで耐えがたい無言の時間がつづいたが、どの〈闇ばらい〉も声をだそうとはしなかった。そのあいだアメリアは自分の思考をふりかえってみた。 『彼女がこの牢獄を生きて出ることはまかりならん』という台詞。 アルバス・ダンブルドアが理由もなくバーテミウス・クラウチに変貌することはない。 では、なぜこころ変わりしたのか。その理由をアメリアに知らせたければ、とうにそうしているだろうが、いずれにしろ、よい兆候ではなさそうだ。

 

とはいえ、二人がこの件で協力できるというのはありがたい。

 

「はじめ。」と多数の鏡から同時に声がした。〈守護霊〉たちがいっせいに消え、銀色の不死鳥だけがのこった。

 

「おまえのほかにまだ消えていない〈守護霊〉はいるか?」とはっきりした言いかたでダンブルドアがたずねた。

 

銀色の不死鳥はこうべを垂れた。

 

「その居場所を探せるか?」

 

不死鳥はまたうなづいた。

 

「それが一度去ってまた戻ってきたら覚えていてくれるか?」

 

不死鳥がうなづき、会話が終わった。

 

「これでよし。」とダンブルドア。

 

「やめ。」と鏡からいっせいに声がして、アメリアは杖をふりあげ、自分の〈守護霊〉をかけなおしはじめた。 (通常よりもいくらか余分に集中力が必要だった。オオカミじみた笑顔で、ついベラトリクス・ブラックの運命を想像して悦に入りそうになるのを抑えて、スーザンがはじめて自分にキスしてくれたときのことを考えようとした。もうひとつの〈口づけ〉はいくら幸せな感じがしても、〈守護霊の魔法〉に適した種類のイメージではない。)

 

◆ ◆ ◆

 

その階の通路が終わるところまでたどりつかないうちに、ハリーの〈守護霊〉が手をあげた。教室で生徒がするような丁重な挙手だった。

 

ハリーはすばやく考えをまとめた。問題はどうやってこれを——いや、それについても迷うことはない。

 

「どうやらだれかがこの〈守護霊〉を通じて秘密のメッセージをとどけてきたらしい。」  ハリーは冷たく愉快げな声でそう言って笑う。 「しかたない。悪いなベラ。〈音消(クワイエタス)〉」

 

銀色の人間型の像はハリーの声で話した。 「ほかの〈守護霊〉がやってくる。この〈守護霊〉を探知しようとしている。」

 

「えっ?」と言ってからすぐに、なにが起きているのか察してハリーはつづけた。 「探知されるのを止められない? おまえは自分を隠せる?」

 

銀色の像はくびをふった。

 

◆ ◆ ◆

 

ちょうどアメリアと部下たちが各自の〈守護霊〉を立てなおしたかどうかのところで——

 

銀色の不死鳥が飛びたち、赤金色のほんものの不死鳥がそのあとを追い、落ちつきはらった老魔法使いが長杖を短く持って、それにつづいた。

 

陣地を守る防壁の一部が老魔法使いに連れられて液体のように引っぱられていき、波もたてずに分離した。

 

「アルバス! いったいなんのつもり?」とアメリアは叫んだ。

 

だがこたえは分かっていた。

 

「来るな。」  老魔法使いの声は厳格だった。 「自分の安全は守れるが、同行者の安全は守れん。」

 

アメリアはダンブルドアの背に罵声をあびせ、部下たちを震えあがらせた。

 

◆ ◆ ◆

 

ずるい。ずるい。ずるい! こんなにいくつも制約ができたら、本気で解決不可能になるじゃないか!

 

ハリーはそういった役に立たない思考を排除し、自分の疲労を無視し、あたらしい要件を直視しようとした。思考の速度が必要だ。ためらいを忘れ、アドレナリンを使ってすばやく論理の鎖をたどる必要がある。絶望はするだけ時間の無駄だ。

 

任務を成功させるためにはなにが必要か。

 

(一)ハリーは〈守護霊〉を解除する必要がある。

 

(二)〈守護霊〉を解除したあと、ベラトリクスをディメンターから隠す必要がある。

 

(三)〈守護霊〉を解除したあと、ハリー自身もディメンターの作用に抵抗する必要がある。

 

……

 

ハリーの脳が話しだした。これに正解できたらクッキーをくれよ。それと、もし問題がこれ以上複雑になったら、そう、ほんのちょっとでも複雑になったら、ぼくはこの頭蓋骨から出ていってタヒチにでもいっちゃうからな。

 

ハリーとハリーの脳はいっしょに問題にとりくんだ。

 

アズカバンは何百年ものあいだ破られたことがなかった。すべてはディメンターの凝視を逃れるすべが存在しないからだった。 だからもしベラトリクスをディメンターから隠す()()()()()()方法をいま見つけられるとすれば、きっと科学の知識を使うか、ディメンターが〈死〉であるという認識を使うかだ。

 

まず分かりきった方法がひとつある、とハリーの脳は言いだした。ディメンターにベラトリクスを発見されたくなければ、彼女の存在をなくせばいい。つまり、殺せばいい。

 

常識にとらわれない発想ができるのはいいことだが、それ以外で考えろ、とハリーは脳に命じた。

 

それなら、ベラトリクスを殺してから復活させればいい。フリジデイロを使って脳活動が停止する温度まで冷やせ。そしてあとで、サーモスを使って温めろ。ひどく冷たい水のなかに落ちても、三十分以内なら大した脳損傷なしに蘇生できる、という話があるだろう。

 

どうだろうか。 現在の衰弱した状態でのベラトリクスでは無理かもしれない。 そのやりかたで彼女を〈死〉から隠すことができるという保証もない。 意識不明になったベラトリクスの冷たいからだを運びながら移動できる距離はたかが知れている。 体温をちょうど何度にたもてば、致命的でないかたちで一時的に脳を停止させられるのか。そういう研究があったはずだが、ハリーは正確な数値を記憶していない。

 

それも常識にとらわれないいい発想ではあるが、もっと考えるんだ……

 

……〈死〉から身を隠すには……

 

ハリーは一瞬、眉をひそめた。そういう話を、どこかで聞いたおぼえがある。

 

クィレル先生に言われたことを思いだす。ミスター・ポッター、強力な魔法使いの条件のひとつは、記憶力にすぐれることだ。 難問をとく鍵はしばしば、二十年まえに読んだ古い巻き物や、一度しかあったことのない男の指にはまっていた奇妙な指輪にひそんでいる……

 

全力で意識を集中させているが、思いだせない。もうすこしで出てきそうなのに、やはり思いだせない。 なので、それを取り戻すのは自分の潜在意識にまかせてみることにした。そして問題ののこり半分の部分に注意をふりむけた。

 

〈守護霊の魔法〉なしで、どうやって自分をディメンターから守ればいいか?

 

総長はあの日、ディメンターから数歩の位置で、何度もくりかえし被曝した。なのにただ疲労しただけですんでいた。 あれはどうやったのか? ハリーにもおなじことができるか?

 

でたらめな遺伝的ななにかかもしれない。もしそうなら、どうしようもない。 だがこの問題が()()()()だと仮定するなら……

 

分かりきったこたえが見えた。ダンブルドアは死を恐れないのだ。

 

ダンブルドアは死を恐れない。死は来たるべき旅路だと、本心から信じている。 認知的不協和を抑制するためのただの言いわけでもなく、仮そめの知恵としてでもなく、こころの底からそう信じている。 ダンブルドアは死を自然の摂理だと思いこんでいる。だから、ごくわずかな恐怖がまだのこっていたとしても、あれだけの回数の被曝をするまでディメンターはその小さな隙間に切りこむことができなかった。

 

ハリーはおなじ方策をとることができない。

 

だがハリーは発想を逆転させて、反対の問いをしてみた。

 

ディメンターと対面しても倒れこむような生徒はほかにいなかった。 なぜぼくは普通以上に脆弱なのか。

 

ハリーはできることなら〈死〉を破壊するつもりでいる。〈死〉をなくすつもりでいる。 できることなら永遠に生きたいと思っている。〈死〉を思いうかべるときも、絶望や必然性を連想しない。 やみくもに自分の生命に執着してもいないし、むしろつい、他人を〈死〉から守るために自分の生命力を燃やしつくしまいそうになったくらいだった。 ではなぜ〈死〉の影はハリーに対してあれほどの影響力をもっているのか? 自分ではそれほどの恐怖を感じている気がしていない。

 

もしかすると、自分はいつのまにか合理化をしてしまっていたのか? 実は死ぬことがとても怖くて、それで思考がゆがめられてしまっていたのか? ダンブルドアについて言ったことが自分にあてはまっていたのか?

 

ハリーは怖気づきそうになりながらも、なんとかたしかめようとした。事実であれば認めたくはないと思うようなことではあるだろうが……

 

だが……

 

自分が認めたがらないことがすべて事実であるとはかぎらない。今回のこれも、あまりぴったりこない。 どこか多少の真実味はあるのだが、そのありかが仮説にあわない、というような——

 

そこでハリーは気づいた。

 

ああ。

 

やっと分かった。

 

怖がっているのはこいつだ……

 

ハリーは自分の暗黒面に、死についてどう思うか、とたずねた。

 

即座に〈守護霊〉がゆらぎ、暗くなり、消えいりそうになった。こたえは恐怖。なりふりかまわず泣き出すほどの恐怖。言いようのない恐怖におそわれ、死ななくていいならなんでもすると、死ななくていいならすべて放りだすと叫ぶ。あの究極の恐怖のまえではまともに考えることもできないと、あの非存在の深淵をのぞきこむくらいなら太陽を凝視するほうがましだと言う。奥に引きこもって目をふさいでいたい、あれのことを考えさせないでくれと——

 

銀色の人影の光が月光なみの弱さにまで落ち、消えいるまえの蝋燭のようにまたたく——

 

()()()()()()()()、とハリーは思考した。

 

自分の暗黒面を両手でかかえ、おびえる子どもを抱きよせるようなイメージをする。

 

死を恐れるのは当然で、正しい。死はいやなものだ。 その恐怖を隠す必要はない。恥じる必要はない。むしろ勲章だと思って身につけて、太陽のまえに見せつければいい。

 

自分が二つに分かれるのは変な感覚だった。一方の思考の流れは相手を落ちつかせようとしていて、もう一方の、当惑する自分の暗黒面を追う思考の流れは通常のハリーの思考を異質に感じている。 暗黒面は死を恐怖する感情にさまざまなものを結びつけていたが、許しや賞賛や助けがよこされるとは思っていなかったようだ……

 

()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーは自分の暗黒面へそっと話しかける。 おまえ以外のぼくもそばにいる。 ぼくは自分を死なせない。友だちも死なせない。 おまえとぼく自身、ハーマイオニー、ママ、パパ、ネヴィル、ドラコ、そのほかのみんなを守る意思がある……  ハリーは自分が陽光の色をした〈守護霊〉の翼をひろげ、おびえた子どものような相手を包むイメージを投影した。

 

〈守護霊〉がまたあかるくなり、ハリーを囲む世界がぐるりと回転した。いや、回転しているのは自分のこころのほうか。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ハリーはその様子をイメージした。

 

ハリーのこころのなかで、なにかががくんと動いた。脳が左に一歩動いたか、宇宙が右に一歩動いたかのようだった。

 

アズカバンの通路に、ガス灯のあかりよりはるかにまぶしく光る人間型の〈守護霊〉があり、そのとなりに透明な少年が奇妙な笑顔をして、すこしだけ震えながら立っている。

 

自分はいま、なにか重大なことをやったのだという気がした。ディメンターの影響を防ぐだけではないなにかを。

 

それ以上に、ハリーは()()()()()。 皮肉にも、〈死〉を擬人化してイメージすることが決め手だった。 だれかを〈死〉の凝視からも隠すことができるものと言えば、これだ……

 

◆ ◆ ◆

 

アズカバンの一角の通路をつかつかと歩いていた魔法使いが突然立ちどまった。案内をしていた銀色の鳥が、不安げに翼をはためかせ、空中で停止したからだった。 白くかがやく不死鳥はくびをのばし、混乱したように前と後ろを見る。 そして主人のほうを向き、謝罪するようにくびをふった。

 

老魔法使いは無言のまま振りかえり、来た道をもどっていった。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはふりかかる恐怖の波を一身に感じながら、背すじをのばして立った。 自分のなかに、虚無に洗われてわずかに浸食された部分もごくわずかにある。それでも、くりかえし打ち寄せる波を受けても、手足に冷たさはない。魔法力も無事だ。 〈死〉に萎縮し、〈死〉への恐怖を戦闘心に変えることのできない小さな部分もどこかにあるかもしれない。波はいずれその穴を見つけだして入りこみ、ハリーの全身をむしばむかもしれない。 だが、そうなるまでには時間がかかる。〈死〉の影はみな遠くにいて、ハリーを認識していない。 ハリーのなかにあった穴、ひび、断層はいまは修理できた。そして冷気と暗黒にかこまれるハリーのこころのなかに、巨大で恐怖を知らない星ぼしがあかるくかがやいている。

 

ほかのだれかがそれを見ていれば、薄暗い金属製の通路のなか少年が一人、奇妙な笑みをして立っているように見えただろう。

 

ベラトリクス・ブラックとその肩にかけられたヘビはすでに、〈不可視のマント〉によって隠されている。これは三つの〈死の秘宝〉のうちの一つであり、まとう者は〈死〉の凝視からも隠れることができるという。 うしなわれていたその謎かけの解を、ハリーは再発見した。

 

この〈マント〉の隠蔽の効果は〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)の透明化の効果とはちがう。この〈マント〉をかぶった人は、目に見えなくなるだけでなく、()()()()。セストラルがそうであるように、それと知らない者からは不可視になる。 それだけでなく、マントの裏の〈死の秘宝〉のシンボルがセストラルの血で描かれていることもハリーは知っている。そうすることで〈マント〉に〈死〉のちからの一部をむすびつけ、ディメンターに対して対等な方法で遮蔽することができるようになっている。 これは当てずっぽうのようではあるが、確信はあった。謎かけが解けた瞬間に、そうであると分かった。

 

ベラトリクスは〈マント〉のなかで透明になっているが、ハリーに対して隠されてはいない。ハリーはなんの苦もなくその存在を、セストラルと同様に感じとることができる。 この〈マント〉はいま貸してあるだけであり、 ポッター家につたわる〈死の秘宝〉であるそれをハリーは理解し支配しているからだ。

 

ハリーは透明になった女をまっすぐ見て言った。 「ディメンターの影響を感じるか、ベラ?」

 

「いえ。」と女が不思議そうにささやく。 「ですがわたしよりも……ご主人さまが……」

 

「わたしを不機嫌にしたくなければ、愚かなことを言うな。 それとも、わたしが自分を犠牲にしておまえを救うとでも思うのか?」

 

「いえ、失礼しました。」と〈闇の王〉の従僕が返事した。その声には困惑が、もしかすると驚嘆があらわれていた。

 

「来い。」

 

二人は道のさきへと進み、下へと向かった。そのあいだ、〈闇の王〉はポーチに手をいれ、クッキーをひとつとり、食べた。 もしきかれれば、ハリーはチョコレートを摂取するためだと言うつもりだったが、ベラトリクスはたずねなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

老魔法使いは堂々と歩いてきて、〈闇ばらい〉たちのまんなかへもどった。銀色の不死鳥と赤金色の不死鳥がそのあとにつづく。

 

「いったいどういう——」とアメリアは食ってかかろうとした。

 

「むこうは〈守護霊〉を消した。」  ダンブルドアは平常どおりの口調だったが、その落ちついたことばには彼女の罵声をうわまわるなにかがあった。 「それで探知できなくなった。」

 

アメリアは歯をくいしばり、ちくちく言ってやりたくなるのをおさえ、通信係のほうを向いた。 「宿直室に連絡。()()()()、ディメンターがベラトリクス・ブラックを感知できるようになったか、確認せよ。」

 

通信担当官はしばらく鏡と話した。何秒かしてから顔をあげ、おどろいた様子で返事をつたえた。 「できないそうです——」

 

アメリアはすでにこころのなかで罵声をあげはじめた。

 

「——ですが、囚人以外のなにものかが下層部にいる、と。」

 

「よし! そのディメンターへ命令。ディメンターが十二体の組でアズカバンに入構することと、そのなにものかを捕らえることを許可する。随行者がいれば同様に捕らえること。 もしベラトリクス・ブラックを見かけたら、ただちに〈口づけ〉せよ。」

 

アメリアはそこでダンブルドアのほうを見て、反論してみろ、という態度でにらみつけた。だがダンブルドアはすこし悲しげにしただけで、沈黙をたもった。

 

◆ ◆ ◆

 

〈闇ばらい〉マカスカーは窓のむこうがわに浮かびあがった骸に長官の命令を伝え終えた。

 

骸はおぞましい笑みを見せてから、下にただよっていった。見ていて手足をもがれる思いがする笑みだった。

 

ほどなくしてディメンターが十二体、アズカバン中央の奈落の底から浮上し、その上にそびえる金属製の巨大構造物の壁にむかっていった。

 

暗黒の生物は壁の根もとに用意されたいくつもの穴を通りぬけ、恐怖の行進をはじめた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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57章「スタンフォード監獄実験(その7)——制約つき認知」

ハリーはあれで自分が謎の暗黒面と融合(フュージョン)できて、暗黒面の悪いところは切り捨てて長所をすべて利用できるようになったのだ、と期待してしまっていた。冷徹さや怒りは切り捨てて、あの澄み切った思考と不屈の意思がいつでも手にはいるようになったのだと思っていた。

 

またもや自信過剰になってしまっていた。 なにかが起きはした。だが暗黒面(ダークサイド)はいまもかわらず、自分とは別個の存在だ。そして通常の自分では不屈さが足りない。 いくら暗黒面の死への恐怖を修理することができたとしても、無防備な状態でアズカバンにいながら暗黒面に交代するなどまっぴらだ。運試しにもほどがある。

 

ただ、残念ではある。こういう場合には多少の不屈さがあればきっと便利だろうから。

 

それよりもやりきれないのは。壁に身をあずけたり、なみだをぽろぽろと流したり、ため息をつくことすらできないことだ。 いとしいベラがとなりにいる以上、〈闇の王〉らしくない動作をするすがたを見せてはならない。

 

「ご主人さま——」とベラトリクスが緊張して小声で言う。「ディメンターが来ます——感じます——」

 

「ありがとう、ベラ。そんなことは分かっている。」

 

〈死の秘宝〉である〈マント〉をはずすまえと同じように感知はできないが、ハリーは虚無の吸引力が強まったのを感じた。 最初は自分たちが階段をくだったことによる影響かと思ったが、ベラトリクスと二人で下に着いてからも、吸引はどんどん強力になっていった。 吸引力はむこうが螺旋(スパイラル)に沿って遠ざかると弱まり、階段をあがってくるとまた強まる……つまり、ディメンターはもうアズカバンのなかにいる。そしてハリーを狙っている。 当然だ。いくらディメンターへの抵抗力があっても、ハリーはディメンターから見えている。

 

()()()()()()()()、とハリーは脳に言う。〈守護霊の魔法〉を使わずにディメンターを倒す方法を見つけろ。 あるいは、〈不可視のマント〉を使わずにだれかをディメンターから隠す方法を見つけろ——

 

()()()()()()()()、と脳が言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

()()()()()()()()()()、とハリー。

 

こちらも真剣だ。〈守護霊の魔法〉をかけて、〈闇ばらい〉が来るのを待て。 常識で考えろ。もう手はない。

 

あきらめる……

 

そう考えると、いままでより強く自分が虚無に引き寄せられるような気がした。 そしてなにが起きているかに気づき、ハリーは星ぼしのことをもっとしっかりと考えて、絶望から注意をそらそうとした——

 

そこで論理的な部分の自分が意見した。 ディメンターに自分を晒すのを防ぎたいからといって、否定的な思考を()()()()してはいけないと思うのか。それもりっぱな認知バイアスだ。これがほんとにあきらめるべき状況だったらどうするんだ?

 

下のほうから、「やめろ」「来るな」といったことばが混ざりあって聞こえてきた。 囚人たちの声だ。囚人たちも気づき、感じはじめたのだ。

 

ディメンターが来る。

 

「あの——わたしのことはかまわず——どうかこのマントを——」

 

「だまれ、愚か者が。おまえを犠牲にすべきときが来れば、こちらからそう命じる。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()、とスリザリンが言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーは一瞬だけ、ベラトリクスを犠牲にして自分が助かることを考えた——

 

その一瞬のうちに、オレンジ色の薄暗い照明が通路から逃げだしていき、冷気がハリーの指さきに忍び寄るように感じた。 ベラトリクスを〈死〉の影のまえに置き去りにする、ということを考えるだけで、自分の無防備な部分が晒される。 置き去りにすると決めたが最後、〈守護霊の魔法〉をかけられなくなるかもしれない。一度は自分を救ってくれた思考を捨てることになるからだ。

 

いや、〈守護霊の魔法〉をかけられなくなるのだとして、 〈マント〉をベラトリクスから取りかえせばいいだけではないか。そう思った直後にハリーはその考えかたを選択肢からはずして、ぜったいにやるものかという決意を強くした。迷いを見せれば、その場で自分がくずれおちそうな気がした。 まわりで渦まく虚無はとてつもなく強力になっている。()()()()()()悲鳴が聞こえるが、下からの悲鳴は聞こえなくなった。

 

()()()()()()、とハリーの論理的な部分が言う。理性ある主体がこんな風に推論過程を検閲される設定はおかしい。どの定理の背後にも、当事者の思考が現実に影響をあたえるのは実際に行動する段階になってからだ、という仮定がある。最適なアルゴリズムを自由に選択できるようにしたいなら、自分の思考とディメンターがどう影響しあうかを心配しなくていいという仮定が必要——

 

……

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とグリフィンドールが言う。グリフィンドール面のぼくでも分かるぞ。まさか本気で、ただそこに突っ立って——

 

◆ ◆ ◆

 

「できました!」とオウラが鏡を手にしたまま、勝ち誇った声で言う。「内部壁の外にいるディメンターはCスパイラル第七層を指しました。敵はそこです!」

 

部下たちは期待の目でアメリアのほうを見た。

 

「いいえ。」とアメリアは平静な声で言う。「そこにいるのは敵のうちの一人。 ディメンターはまだベラトリクス・ブラックを見つけられていない。 全員でそこに突入したところで混乱をついてブラックに逃げられてはかなわない。隊を分けても不意打ちの的になるだけ。 このまま慎重に進んでさえいけば、負けはない。 これまでどおり一層ずつ順に捜索せよと、スクリムジョールとシャックルボルトに伝達——」

 

老魔法使いはすでにつかつかと歩きはじめていた。 それを見てもアメリアは今回は罵声をあびせなかった。 慎重にきずきあげた防壁の一部が、またしても液体のようにぷるんと分離してダンブルドアについていった。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは階段のすぐ下の、通路のはしで待った。 そのうしろにいるベラトリクスとヘビは、ハリーが制した〈死の秘宝〉によって隠されている。目には見えないが、ベラトリクスはきっと弱りきって、階段に腰かけて背をあずけている。精神力と魔法力の消耗を防ぐために、〈浮遊の魔法〉はすでに解除した。

 

ハリーの目は通路の突き当たりの、下への階段がある場所をじっと見ている。 今度は想像ではなく現実として、通路の照明が薄暗くなり、温度が下がった。 暴風に煽られて沸き立つ海のように、恐怖がうなりをあげ、ハリーの全身をつつんでいる。虚無の吸引力もまるでブラックホールに引かれるような絶大な強さになった。

 

突き当たりの階段に立ちのぼる瘴気のなかから、虚無が、空が、世界の傷ぐちがあらわれた。

 

ハリーはディメンターが止まることを期待した。

 

自分のなかの意思と集中力をかきあつめて、()()()()()()()()()()

 

止まるすがたを予想した。

 

止まると信じた。

 

……理屈では、これでいいはず……

 

ハリーはさまよい出るほかの危険な思考を排除し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 ディメンター自身は知性のない、世界の傷ぐちにすぎない。 人間はディメンターと交渉し、生けにえと引きかえに協力を得た。それもすべて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。 だから、ディメンターは引きかえす、ディメンターは去る、とハリーが強く信じれば、そうなるはずだ。

 

だが世界の傷ぐちは動きを止めない。渦まく恐怖は実体を持ったように感じられる。虚無は精神だけでなく物質も引き裂くように感じられる。ディメンターが通過した場所で金属がさびていくのが見える。

 

うしろから小さな音がした。ベラトリクスが立てた音だった。一言もしゃべるなという事前の命令をしっかり守っている。

 

あれを生きものだと思うな。精神に感応する物体だと思え。あれをコントロールするには、自分をコントロールすればいいだけ——

 

だが、自分をコントロールすることはそう簡単ではない。意志力だけで青を緑だと思いこむのは簡単ではない。自分になにかを信じ()()()などということがいかに不合理なことか、考えずにはいられない。 自分をだましてなにかを信じさせる、ということが自分のやっていることだと分かっていては、うまくいくはずがない。 ハリーはいつも自己欺瞞をしないように自分を訓練してきた。だからいくら()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言っても、応じようとしない——

 

〈死〉の影の群れが通路の中間地点を越えた。ハリーは片手をあげ、指をいっぱいにひらいて、ゆるぎない命令の口調で「止まれ」と言った。

 

〈死〉の影は止まった。

 

ハリーの背後でベラトリクスがしぼりだすような音をたてて息をのんだ。

 

ハリーは事前に打ち合わせておいた手ぶりで『ディメンターの言うことを繰り返して言え』と彼女に指示した。

 

ベラトリクスは震える声で言った。 「ディメンターは……『ベラトリクス・ブラックはわれわれに約束された獲物だ。やつがどこに隠れたか教えろ。そうすればおまえのことは見逃す』と言っています。」

 

「ベラトリクスだと?」とハリーは愉快そうな声をだした。「あいつはもうとっくに外にいるぞ。」

 

そう言ってからすぐに、むしろベラトリクスは最上層の〈闇ばらい〉たちのなかにまぎれている、と言えばよかった、と思った。そうすればさらに混乱を引き起こすことができたかもしれない——

 

いや、罠に引っかけるという発想はまちがいだ。ディメンターはただ、()()によってコントロールされるだけのものにすぎない——

 

ベラトリクスが声をつかえさせながら言った。 「『おまえは』……『おまえはうそをついているな』と言っています。」

 

虚無の群れがまだ動きだした。

 

ぼくが期待することとは別のことを彼女が確信してしまっている。自覚のないまま彼女がディメンターをコントロールしてしまっている——

 

「抵抗するな。」と言ってハリーは杖を後方にむけた。

 

「ご、ご主人さま、愛しています、どうかご無事で——」

 

「ソムニウム」

 

奇妙なことに、ハリーは元気づけられた。あの悲惨なことばを聞き、ベラトリクスが勘違いしたことを知って、自分がなぜたたかっているのかを思いださせられた。

 

「止まれ。」とハリーはもう一度言った。 ベラトリクスはもう眠った。あとはハリー自身の意思、というより期待で、あの殲滅の黒球(スフィア・オヴ・アナイレイション)たちをコントロールすればいい——

 

だがディメンターたちは進みつづけた。それを見てハリーは、前回の対面で自分の自信がそこなわれてしまったのではないか、だから自分には止めることができないのではないか、と思えてならなかった。そう考えている自分に気づくと、疑念はさらに深まり——もっと準備する時間が必要だ、檻にはいったディメンター一体をコントロールする練習が必要だと——

 

両者のあいだの距離は通路の四分の一にまでつまり、空虚な風が圧力を増し、ハリーは自分のなかの隙から浸食がはじまったのを感じた。

 

そして自分はまちがっていたのではないか。もしかしてディメンター自身にもちゃんと欲望と計画能力があるのではないか。いや、実は、そばにいるだれかではなく、()()()()考えるイメージによってディメンターはコントロールされるのではないか。いずれにしろ——

 

ハリーは杖をかまえ、〈守護霊の魔法〉の開始姿勢をとった。

 

「おまえたちの仲間が一体、ホグウォーツに行った。そして帰らなかった。 あの一体はもう存在しない。あの〈死〉(ディメンター)は死んだ。」

 

ディメンターたちが歩みをとめた。十二の世界の傷ぐちが動かなくなった。それでもディメンターのまわりの虚無の暴風は吹きやまず、うつろな悲鳴をあげつづけた。

 

「おなじように破壊されたくなければ、引き返せ。そしてこのことは秘密にしろ。」

 

指を開始位置におき、〈守護霊の魔法〉のためのこころの準備をする。 星ぼしのあいだに光る地球。昼のがわは太陽光を反射して明るく青く、夜のがわは人間の都市の光がきらめく。 ハリーにとってこれははったりではないし、ディメンターを引っかけるつもりもない。 〈死〉の影が一歩こちらに踏みだせば、殲滅するまで。引きさがるならそれもよし……

 

虚無たちは来たときとおなじようにするりと退却していった。距離がひらくたび空虚な風圧は着実に弱まっていった。そして十二体が階段の上をすべり、すがたを消した。

 

ディメンターには実は擬似知性があるのか、それとも去ることを()()するのがやっとうまくいったのか……結論はわからない。

 

とにかくディメンターは去った。

 

ハリーは意識をうしなったベラトリクスのとなりで階段に腰をおろし、ベラトリクスとおなじようにぐったりとして、ごく短い時間だけ、目を閉じた。もちろんアズカバンのなかで眠ることなどあってはならないが、その短い時間が必要だった。 〈闇ばらい〉たちが距離をつめてきてはいるだろうが、その速度はきっと遅い。だから五分間の休憩くらいはかまわない。思考を明るくたもつことにだけは気をつけて、『これは回復のために休憩しているだけで、自分はすぐに元気になる』と考え、『感情的にも身体的にも疲れ果てて自分は倒れてしまいそうだ』とは考えないようにした。ディメンターはまだそれほど遠くにいっていない。

 

『ところで……』とハリーは自分の脳に言う。『おまえはクビだ。』

 

◆ ◆ ◆

 

「連れてきたぞ!」とダンブルドアの声がした。

 

『だれを?』とアメリアは思った。もどってきたダンブルドアのほうを向くと、その両腕には——

 

——もう二度と見ることはないだろうと思っていた人物のすがたがあった——

 

男の赤いローブはほつれ、まるでちょっとした戦争をくぐりぬけてきたかのようにずたずたになっている。乾いた傷ぐちには血のあとがある。目は見ひらかれ、チョコレートを無事なほうの片手に持ち、口にしている。

 

バアリー・ワンハンドが()()()()()

 

歓声があがった。〈闇ばらい〉たちはかまえていた杖をおろし、何人かはすでに走り寄ろうとしていた。

 

()()()()()()()」とアメリアはどなる。「〈変身薬(ポリジュース)〉がかかっていないか両方に検査を——バアリーには小型の〈動物師(アニメイガス)〉や罠がついていないかも確認しろ——」

 

◆ ◆ ◆

 

「『イナヴェイト』。『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』」

 

沈黙。女は透明なまま手をついて身を起こし、くびをまわしてあたりを確認する。ハリーの目には見えないがその動作を感知することはできた。 「あたし……生きている……?」

 

ハリーはつい興味本位で、『いや』と言ってやったらどう反応するだろうと思ってしまった。だが実際には「愚かなことを言うな」と言うだけにした。

 

「あのあとどうなったのですか?」と小声でベラトリクスがたずねた。

 

〈闇の王〉は甲高い声で思いきり笑ってから、こたえた。 「わたしがディメンターをおどして撃退したのだよ、ベラ。」

 

一瞬、返事がなかった。なにかまちがったことを言ってしまったか? 顔が見えないので、反応がわからない。

 

しばらくして、震える声で返事があった。 「ご主人さま、もしかして、おからだが変わったことで、あたしを心配してくださるようになったのでは——」

 

「ないな。」と冷たく言ってハリーは顔をそむけ、歩きはじめた(杖はむけたままにした)。 「二度とわたしの気にさわることを口にするな。つぎはない。下僕として価値があろうが、捨てていくまでだ。 置き去りにされたくなければ、早く来い。 わたしはやることがある。」

 

ハリーは歩みをすすめた。ベラトリクスはかならずついてくる。だから背後で息をのむ音がしたのは無視した。

 

……この点だけは、ベラトリクスを精神治癒の癒者にみせて洗脳をとく作業がはじまるまで、ゆずるわけにいかなかった。ベラトリクスが一度でも自分は〈闇の王〉に愛されたのだと思うようなことがあってはならない。

 

◆ ◆ ◆

 

ダンブルドアは思案げな顔で銀色のひげをなでながら、体格のよい〈闇ばらい〉二人に運ばれてバアリーが部屋から連れだされていくのを見ていた。

 

「これがどういうことか分かるかね、アメリア?」

 

「いいえ。」  これはまだ自分たちが理解できていない罠のようなものではないか、とアメリアは懸念していた。だからバアリーを本部から遠ざけ、警護をつけておくことにしたのだ。

 

間をおいてからダンブルドアがつづけた。 「推測で言うが、敵のなかにいる〈守護霊の魔法〉の使い手は、単なる人質ではないのかもしれん。 もしや、だまされて協力してしまっているのでは? いずれにせよ、むこうが看守の彼を殺さずにおいたのはたしか。 こちらがさきに殺人の呪文を使うことのないよう、気をつけねばなるまい——」

 

アメリアはそれを聞いて突然ひらめいた。 「なるほど……それが狙いか。 バアリーを〈忘消〉(オブリヴィエイト)して生かしたままにしても、むこうはなんの損にもならない。いっぽうで、われわれを躊躇させる効果はある——」  アメリアはきっぱりとうなづいて、部下たちに呼びかけた。 「ここからも予定どおり進軍する。」

 

ダンブルドアはためいきをついた。 「ディメンターからなにか情報は?」

 

「それを教えたら、あなたはまたどこかに消えるのかしら?」

 

「教えてもおぬしにはなんの損もないはずじゃ。おまけに、大事な部下を戦闘に送らずにすむかもしれんぞ。」

 

損といえば、せっかくの復讐の機会をふいにする可能性はある——

 

だがそれも、もうひとつの可能性にくらべれば微々たる犠牲。なにせ、このいまいましい老人の話は結果としては正しいことが多い。そこがまたいまいましい。

 

「あのもう一人の人物についてまたディメンターたちに質問をかけています。けれど答えがない。一度は目撃したと言ったのに、いまは答えない理由を訊いても、場所を訊いても、返事をしない。」

 

ダンブルドアは肩にいる銀色に燃える不死鳥のほうを向いた。その光は通路全体を照らしている。不死鳥はくびをふることで、ダンブルドアの問いに答えた。 「わしにも検知できないようじゃ。」と言ってダンブルドアは肩をすくめた。 「あとは、スパイラルの上から下まで歩いていって、この目でたしかめてくるしかないかのう。」

 

アメリアは止めろと言うべきだとは思ったが、ひとの忠告を聞きいれるような相手でないことも分かっていた。

 

「アルバス……」と去りかける老人の背にむけて言う。「あなたでも奇襲されれば無事でいられるとはかぎらない。」

 

「これはまたおかしなことを。」と言いながら老人は歩みをすすめ、諭すように十五インチの地味な黒杖を振った。「わしは無敵じゃ。」

 

全員が無言になった。

 

(「あれは本気で言ってるんじゃない……ですよね?」と小声で、まだ生きのいい新人ノエル・カリーが同じ小隊のイザベル・ブルックスに言った。)

 

(「あの人だから許されるのよ。」とイザベルも小声で答える。「ダンブルドアだから。運命の女神もまじめにとりあわなくなってるんだと思う。」)

 

アメリアはうんざりしながらも、若い部下たちへの教育のためと思って口をはさんだ。 「これだから、どうしてもやむをえない場合をのぞいて、あの人には声をかけないことにしてるのよ。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは監房にベッドがわりに置かれた堅い長椅子のうえに横たわり、身じろぎもせずじっとしている。毛布を一枚かぶって、できるかぎり不動の姿勢で、恐怖が帰るのを待っている。 〈守護霊〉が一体ちかづいてきている。強力な〈守護霊〉だ。 ベラトリクスは〈死の秘宝〉のマントで隠されているから、尋常な〈魔法〉では見やぶられない。 だがハリーのほうについては、〈闇ばらい〉たちならなんらかの手段で検知できてもおかしくない。といっても、それをたしかめるためにベラトリクスにたずねるようなことをしては、なぜ知らないのかと怪しまれてしまう。 だからハリーはこうして、施錠された監房の堅い寝台に横たわり、外の巨大な金属扉は施錠したうえで、完全な暗闇のなか、薄い毛布をかぶって、待っていた。いま外を通ろうとしているだれかが、中に目をむけませんように、むけたとしても詳しくは見ませんようにと願った——

 

この点については自分にできることはない。自分の運命のこの部分は全面的に〈隠れ変数〉によって決まる。 だからハリーはほとんど一心になって、いまやろうとしている〈転成術〉(トランスフィギュレイション)だけに注意をかたむけた。

 

しんとした監房に足早な靴音が近づいてくる。それが扉のまえで止まり——

 

——また歩きはじめた。

 

すると恐怖が戻ってきた。

 

ハリーは自分がほっとしたことにも気づかず、恐怖を感じていることにも気づかず、ただ一心に、とあるマグル装置の形状をこころのなかに描き、ゆっくりとその〈形相(けいそう)〉を角氷という物質に当てはめようとしていた(角氷はポーチからとりだした水をもとに『フリジデイロ』で作ってあった)。 燃やすものを〈転成〉してはいけないことになってはいる。だがこれは原料が水だし、〈泡頭(バブルヘッド)の魔法〉もあるから、自分やほかのだれか健康にかかわることはないだろうとハリーは期待していた。

 

あとは〈闇ばらい〉たちがこの監房を詳しく検分しにくるまでにどれくらい時間があるか、それまでにハリーがこの〈転成〉と、そのあとに控えているもうひとつの部分〈転成〉とを終えられるかどうかにかかっている——

 

◆ ◆ ◆

 

ダンブルドアが手ぶらで戻ってきたとき、さすがのアメリアもすこしだけ不安を感じはじめた。 アメリア自身の隊とほかの二隊はすでに、全三スパイラルを上から三分の一踏破した。ぴったり各隊の歩調をあわせることで、相手が天井をやぶって脱け出るおそれのないようにしている。それでもなにも発見できていない。

 

「なにか報告していただけることは?」 アメリアはできるかぎり語気を強めないようにつとめた。

 

「まず、わしは上から下までざっと歩きとおした。」と言ってダンブルドアは眉をひそめた。顔のしわがいっそう深くなった。 「ベラトリクスの監房を調べると、身代わりの人形が置いてあった。 だれにも知られないうちに脱獄しおえる手はずであったのじゃろう。 すみのほうになにかが布切れで隠されていたが、そこには手をふれずに置いた。おぬしの部下に調査してもらいたい。 帰り道に監房の扉をひとつひとつひらいて見てきたかぎりでは、 どこにも〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)されたものはなかった。ただ囚人たちは——」

 

そこに赤金色の不死鳥のつんざくような声が割りこんだ。〈闇ばらい〉の全員がたじろいだ。はげしい非難と差しせまった要求がこもった鳴き声で、すぐさまこの通路から逃げだしたくなるほどのちからがあった。

 

「——なんともみじめな状態にあった。」 ダンブルドアは声を落とした。 一瞬だけ、半円形の眼鏡の奥の青い目がとても冷たく見えた。 「すべては自業自得、とでも言いたいところではないのかな?」

 

「わたしはそんな——」

 

「いや言いすぎた。すまぬ、アメリア。」と言ってダンブルドアはためいきをついた。 「新しい囚人であれば、よく見ればわずかながら魔法力を残している者もいた。けれど無傷な者はなく、残っていたとしてせいぜい一歳の子どもほどの魔法力でしかなかった。 フォークスは何度も悩ましい声で叫んだが、反抗はしなかった。 敵はわしが少し見た程度では見やぶれないくらいうまく隠れられるらしい。となれば、おぬしらのやっている捜索をつづけるしかあるまい。」

 

◆ ◆ ◆

 

ひとつめの〈転成〉が終わり、ハリーは身を起こして毛布をめくり、軽く『ルーモス』で照らして腕時計を確認した。おどろいたことにほぼ一時間半が経過していた。 だれかが扉をひらいてとじたあのとき——もちろんそこで振りかえるようなことはしなかった——は、その一時間半のうちどれくらいの時点だったのか、よくわからない。

 

「あの……?」とベラトリクスが小声でおずおずと言った。

 

「もういいぞ。話せ。」 作業中は話しかけるなと言っておいたのだった。

 

「さきほど調べにきたのはダンブルドアです。」

 

沈黙。

 

「おもしろい。」とハリーは無感動な声で言った。 その場で気づけなくてむしろ助かった……冷や汗ものだ。

 

ハリーはポーチに一言言って、一時間かけてできたばかりの装置につなげるべき魔法器具をとりだした。 それが出てきてから、さらにもう一言言ってチューブ入り工業用接着剤をとりだした。 こうした密室で接着剤から出るガスを吸うのは危険なので、まずハリーは自分とベラトリクスに〈泡頭(バブルヘッド)の魔法〉をかけ、ベラトリクスがヘビに同様の魔法をかけた。

 

テクノロジーと魔法を結ぶべく接着剤が固着しはじめると、ハリーはそれを寝台に置き、自分は床に座った。そして魔法力と意志力を休め、つぎの〈転成〉作業にそなえた。

 

「あの……」

 

「なんだ?」

 

「それはなんの装置でしょうか?」

 

ハリーはすばやく考えた。 一連の作戦を一度はチェックしておきたい。誘導訊問の体裁でその話をしてみるのはいいかもしれない。

 

「いとしいベラよ、ひとつ答えてくれ。有能な魔法使いにとってアズカバンの壁をこわすことは、どれくらいむずかしい?」

 

一瞬返事がなかったが、ベラトリクスはゆっくりと困惑した声でこたえた。 「少しもむずかしくありませんが……?」

 

「そのとおり。」とベラの主人が乾いた甲高い声で言う。「では壁をこわし、できた穴からホウキに乗って飛びだし、そのまま飛行して去ることはどうだ。それができるなら、囚人をアズカバンから逃がすことなど、たやすいことのように思えるが?」

 

「ですが……〈闇ばらい〉が——〈闇ばらい〉のホウキの速力をもってすればすぐに——」

 

やはりそうか、とハリーは思った。〈闇の王〉はそこからまた、なめらかにソクラテス的な言いかたで反問した。ベラトリクスはさらに質問し、今度はハリーにとって予想外な質問だったが、もう一度反問したところ、けっきょく心配の必要はないことが分かった。 ベラトリクスの最後の質問に対して〈闇の王〉はただ笑みを見せ、もう仕事にもどる時間だとだけ告げた。

 

そしてハリーは床から立ちあがり、部屋の奥までいって、かたい壁の表面に杖をあてた。厚い金属のその壁は、アズカバンの囚人と奈落のディメンターとのあいだをさえぎっている。

 

ハリーは部分〈転成術〉をはじめた。

 

うまくいけば、これはそう長くはかからない。 部分〈転成術〉の練習にハリーはこれまで膨大な時間をついやした。おかげで通常の〈転成術〉をするのと大差ないくらい楽にできるようになった。 いま変化させようとしている部分をすべてあわせても体積としてはわずかだ。高さも幅も長さもあるが、とても薄い。 厚さは〇.五ミリメートル。摩擦がないならそれで十分だろうと考えてそうした……

 

寝台がわりの長椅子に腰かけ、〈転成術〉で作った装置と魔法器具をつなぐ接着剤が乾くのを待つ。その融合物の上に金色の小さな文字が光った。 決して意図して作ったのではないが、〈転成〉作業中ずっとこの文字はハリーのこころのかたすみにあったらしく、結果的にこうやって出現した。

 

これだけみごとなできばえの装置を起動するにあたって、言ってやりたいことはいろいろある。ベラトリクスさえいなければ、口にしていてもよかったせりふはいろいろある。

 

だが考えてみると、この機会をのがせば二度とぴったりくる機会がなさそうなせりふがちょうど一つだけあった(口にしないとして、考えるだけのせりふになるが)。 あの映画の本編を見たことはなく予告編しか知らないのだが、なぜかその一つのせりふがハリーのこころのなかに刻まれていた。

 

『おい、そこの原始人ども! ちょっと聞け!』——装置の表面には小さな金色の文字でそう書かれていた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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58章「スタンフォード監獄実験(その8)——制約つき認知」

翻訳者より:長くなってきたので最近数章の状況をおさらいしておきます

アメリア・ボーンズ……軍事警察のトップで、ベラトリクスが脱獄の報を受け捜索を陣頭指揮。謎の侵入者がいることも知った。
ベラトリクス・ブラック……ヴォルデモート(偽)に連れられて脱獄しつつある。衰弱しているが、ヴォルデモート(偽)を精いっぱい助けてもいる。
ハリー・ポッター……ハリーのふりをしているヴォルデモートのふりをしている。なにか作っていた。
クィレル……ハリーのふりをするヴォルデモートの従僕のふりをしていた。ヘビになっている。
ダンブルドア……民間人なのにこっそり知らせを受けて捜索に協力。
マクゴナガル……ハリーがいることになっている(けれどいない)店に急行中。



漆黒の闇のなかで少年がひとり、手にした杖をアズカバンの金属壁にあてて、とある魔法をかけている。この少年をのぞけば世界じゅうであと三人しか可能だと信じていない魔法であり、実際にできるのは彼ただひとりである。

 

といってもこんな壁は、有能な魔法使いならものの数秒で切断することができる。

 

平均的な成人魔法使いなら数分かかるかもしれないし、息をきらしてしまうかもしれない。

 

ホグウォーツ一年生がひとりでおなじ結果をえたければ、()()のいいやりかたが必要になる。

 

運よく——いや、運などではなく、まじめさのたまもので——ハリーは〈転成術〉(トランスフィギュレイション)を毎日一時間復習し練習していた。そのかいあって〈転成術〉の科目ではハーマイオニーの上をいくことさえできるようになった。 そして部分〈転成術〉の練習をかさねた結果、真の宇宙のありようを当たりまえのものと見なすことができるようになり、〈形相(けいそう)〉と物質の概念を分離する思考をする際にほんのすこし努力するだけで宇宙の無時間量子論的性質を並行して考えることができるようになった。

 

そんな高度な技術も日常化すると……

 

……同時にほかのことを考える余裕ができてしまう。

 

幸か不幸かハリーは今までのところ、とある明白な事実を考えずにすんでいた。それが、あと数分で実際に実行するという段階になって、考えてしまった。

 

いま自分がやろうとしていることは……

 

……危険だ。

 

とても危険だ。

 

本気で人間が死ぬかもしれない、というくらいの危険さだ。

 

〈守護霊の魔法〉なしにディメンター十二体と対決するのは()()()。でもこわいだけだった。 ディメンターに対して持ちこたえるのにも限界がきた、と思えば、いつでも〈守護霊の魔法〉をかければいいだけだったし、実際そうする用意もあった。 仮にそれすら失敗したとして……それでも()()()な失敗にはならない。ディメンターが手あたりしだい〈口づけ〉するよう命じられていたのでもなければ、死ぬようなことはない。

 

これはわけがちがう。

 

〈転成〉したこのマグル装置は爆発するかもしれない。それで自分たちが死ぬかもしれない。

 

テクノロジーと魔法の界面が崩壊する理由はいくらでもある。崩壊すれば、ハリーたちは死ぬかもしれない。

 

〈闇ばらい〉の攻撃を運悪く被弾してしまうかもしれない。

 

とにかくこれは……

 

()()()危険だ。

 

そう気づいたとき、これが安全であると自分に思いこませようとする自分がいることにも気づいた。

 

たしかに、うまくいく可能性だってある。でも……

 

まず、合理主義者としては、自分になにかを思いこませようとするなどあってはならない。仮にそこに目をつむるとしても、これを実行して死ぬ確率が二十パーセントより少ないとは到底思いこめそうにない。

 

『負けるんだ』とハッフルパフが言った。

 

『負けるんだ』とこころのなかのクィレル先生の声がした。

 

『負けなさい』とこころのなかのハーマイオニーとマクゴナガル先生とフリトウィック先生とネヴィル・ロングボトムが言った。というより、ハリーが知る人物ほぼ全員のイメージがそう言っていた。例外は、『迷わずやれ』と言っているフレッドとジョージだけだった。

 

ダンブルドアをみつけて自首する。自首するしかない。もはや()()()()選択肢はほかにない。

 

もしこれが自分一人の任務で、かかっているのが自分自身の生命だけだったとしたら、実際そうしていた。まちがいなくそうしていた。

 

いまやっている、部分〈転成術〉への集中力をあやうくとぎれさせるほどの原因、自分のなかみをディメンターにさらしかねなくしている原因は……

 

……クィレル先生だった。ヘビのすがたで、意識不明のままのクィレル先生だった。

 

もしこの脱走事件の罪でアズカバンに送られれば、クィレル先生は死ぬ。おそらく一週間ともたない。クィレル先生はそれくらいディメンターに敏感だ。

 

それだけだった。

 

ここで自分が()()()ということは……

 

クィレル先生をうしなうということだ。

 

クィレル先生は多分邪悪だよ——とこころのなかのハッフルパフが小声で言う。()()()()()

 

意識的にそう決心したのではなかった。ただとにかく、できない。寮点を捨てて負けることをえらぶのはいい。捨てるのが人命では話がちがう。

 

スリザリン面が反論する。きみはアズカバンの囚人全員を救えるとしても、八十パーセントの確率で自分が死ぬリスクは受けいれられないと思っている。その程度には、自分の命をだいじにしている。なのに、ベラトリクスとクィレル先生を救うために、二十パーセントの確率で自分が死んでもいいと言うのか。それではつじつまがあわない。きみがやっている効用評価には一貫性がない。

 

ハリーのなかの論理的な部分がスリザリンの論理に軍配をあげた。

 

ハリーは〈形相〉をイメージしつづけ、呪文をかけつづけた。 この〈転成術〉さえ終われば、任務を放棄してもいいかもしれない。ただ、ここまで努力したのを無駄にするのはいやだ。

 

だがハリーは突然あることを思いついた。そのせいで呪文を維持するのがむずかしくなり、ディメンターに抵抗しつづけるのもむずかしくなった。

 

あのポートキーを使ったとして、クィレル先生が言ったとおりの場所に転送されなかったとしたらどうする?

 

思えば当然考えておくべき可能性だった。

 

この脱出作戦が完璧にうまくいったとしても……そしてこのマグル装置が爆発もせず、魔法器具のがわと干渉して異常なことにもならず、ちゃんと動作したとしても……そして運悪く被弾することもなく、アズカバンから十分離れることができて、ちゃんとポートキーを使えたとしても……

 

……転移したさきに精神治癒の癒者がいるという保証はない。

 

クィレル先生を信頼していたとき、ハリーはそう信じていた。だがクィレル先生が信頼できなくなってからもそう信じつづけるべきだとはかぎらないのだから、可能性を評価しなおしておくべきだった。

 

ハッフルパフの声がする。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

冷気が室内に広がっていくような気がした。自分のなかのディメンターへの抵抗力がゆるんだ。ハリーはそれでも〈転成〉をとめなかった。

 

クィレル先生をうしなうわけにはいかない。

 

あの人は警官を殺そうとしたんだぞ——とハッフルパフが言う。あれでもう、うしなったようなものじゃないか。 ベラトリクスだってきっと、通説どおりの悪人だ。 〈マント〉をとりかえせ。ダンブルドアを見つけて、自分はだまされてここに来たんだと言え。

 

いや、だめだ。そのまえにクィレル先生と話さないと……。なにか事情があるのかもしれない。多分、ぼくの〈守護霊〉から離れすぎて、ディメンターに支配されてしまったとか……。なぜクィレル先生があんなことをしたのか。どういう仮定をしても意味がとおらない。それを勝手に……決めつけて……

 

その方向の思考をつづけていると、恐怖への抵抗が完全にくずれてしまいかねないので、打ち切った。クィレル先生をディメンターに差しだすという可能性を考えながら同時〈死〉を拒絶する思考をするなど、認知的に不可能だ。

 

きみの推論過程には不自然な穴ができている……修復する方法を見つけるんだ——と論理的な部分の自分が言った。

 

よし、じゃあ代替案を出していこうか。選択もしない。重みづけもしない。もちろん決意もしない……純粋に、もとの案以外にどういうことができそうかだけを考えよう。

 

そう言ってからハリーは壁に穴をあける作業にもどった。 部分〈転成術〉(トランスフィギュレイション)をかけている対象は、金属壁のなかの円筒形の領域だ。直径二メートル、太さはわずか〇.五ミリメートルの円筒で壁をつらぬいてできるその領域内の金属壁を、潤滑油へと〈転成〉している。 潤滑油は液体であり、液体は気化するため、〈転成〉してはならないことになっている。だがハリーとベラトリクスとヘビは〈泡頭(バブルヘッド)の魔法〉で保護されているし、 終わればすぐに潤滑油に『フィニート』をかけて〈転成〉を解除するつもりでいる……

 

……〈転成〉が終わり、円筒形にくりぬかれて潤滑された部分が壁から離れて床に落ちれば、すぐにそうするつもりでいる。くりぬかれた部分が重力で勝手に落ちるよう、ちゃんとかたむきもあたえてある。

 

ハリーとベラトリクスがその穴からホウキで飛びでること()()にできることといえば……

 

被覆を〈転成〉して壁の穴を上からふさいではどうだ、とハリーの脳が提案した。その空間にベラトリクスとクィレル先生をはいらせ、〈マント〉をかけて隠す。そして自分は自首する。 クィレル先生はいずれは目をさまし、ベラトリクスといっしょに自力で脱出する方法を考えられるだろう。

 

いや、まず第一に、バカげている。それに、巨大な金属のかたまりを床の上に放置してまっては、すぐに勘づかれる。

 

そこでハリーの脳がようやく気づいた。

 

この脱出経路をベラトリクスとクィレル先生だけに使わせて、出ていかせるんだ。自分は居残って自首すればいい。

 

いま危機に瀕しているのはベラトリクスとクィレル先生の生命だ。

 

あの二人はリスクをとることで利益こそあれ、損はない。

 

だが冷静に考えれば、ハリーがそこについていくべき理由などない。

 

そう考えるとハリーは静かな気持ちになり、精神の辺縁にくすぶっていた冷気と暗黒が退却していった。 これだ、とハリーは思った。これこそ枠にとらわれない発想だ。隠れた第三の選択肢だ。 なぜ二者択一の選択だと思いこんでしまっていたのかが不思議なくらいだ。 ハリーが自首するとして、ベラトリクスとクィレル先生を道連れにする必要はない。 ベラトリクスとクィレル先生が危険な脱出経路を使うとして、ハリーもついていく必要はない。

 

恥ずかしいのを我慢して、自分はだまされてここに来たのだと白状する必要すらない。ベラトリクスに命じて記憶を消させれば、 これは誘拐だったということで通る。自分自身にさえ、そう思わせることができる。 たしかに、〈闇の王〉がそんなことをしろと言うのは、ベラトリクスにしてみれば不可解だろう。それでもハリーがただほほえんで、おまえが知るべきでない事情がある、とでも言ってやればそれだけですむ……

 

◆ ◆ ◆

 

アメリアの隊はアズカバンを上から四分の三踏破した。ほかの二隊は、のこりの二つのスパイラルについてそうした。 緊張はかなり高まってきている。敵の犯罪者は下から二層目にいるというのがアメリアの読みだった。ダンブルドアがその層をもうすこし詳しく検分してくれていればと思いつつも、横取りされなくてよかったとも思っていた。

 

そう思った矢先に、遠くからキンという音が聞こえた。かなり距離があるようだった。 そう、たとえば下から二層目でなにかが轟音をたてた、というように。

 

アメリアは自分でも気づかないうちに、ダンブルドアのほうに目をやってしまった。

 

ダンブルドアは小さく笑って見せてから、「おのぞみとあれば」とだけ言ってまた、立ち去った。

 

◆ ◆ ◆

 

〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)」 ハリーは床のうえの巨大な金属のかたまりの表面にある油にむけてそう言った。 そのかたまりが壁から抜けおちたときの爆音がまだ耳のなかにこだましていて、ハリーは自分の声もほとんど聞こえなかった。(思えば事前に〈音消しの魔法〉をかけておくべきだったが、いずれにしてもこの金属床にひびきわたる音まで消すことはできなかっただろう。) ハリーはもう一度、直径二メートルの壁の穴の油にむけて『フィニート・インカンターテム』と言い、呪文の効果をいきわたらせた。 これは自分自身のかけた魔法を取り消すだけだから、ほとんど労力なしにできる。 すこし疲労感はあるが、魔法が必要な部分はもうすべて終わった。 というよりこれは必要ですらなかったのだが、〈転成〉した液体をそのままにするのは気がすすまなかったし、部分〈転成術〉の秘密を漏らしかねない真似はしたくなかった。

 

二メートル大の穴のむこうにある自由……それには抗しがたい魅力があった。

 

穴の外から光が差しこんでいる。太陽の光が直接あたっているわけではないにせよ、アズカバン内部のどこよりあかるい。

 

そのときハリーは、ベラトリクスとヘビといっしょにホウキに飛び乗ってしまいたくなった。 可能性としてはそれでうまく脱出できるかもしれないし、 一行がハリーつきで脱出できさえすれば、クィレル先生とハリーは問題なく時間をさかのぼって、なにもやましいことのないふりをして、日常にもどることができる。

 

ハリーがここに居残り、自首したとすると……たとえ、自分は誘拐されていたという説明と、マクゴナガル先生の〈守護霊〉がきたときには脅迫されていて嘘をついてしまったのだという説明がとおったとして…… そしてハリーには軽微な罰ですんだとしても……

 

クィレル先生がこのままホグウォーツの〈防衛術〉教師でいることが許されるようには思えない。

 

事前に目されていたとおり、この年度の二月にはクィレル先生は学校を去ることになる。

 

それにマクゴナガル先生に殺されるということも忘れてはならない。きっと楽には死なせてもらえそうにない。

 

それでも、居残るという選択肢のほうが安全であり、良識的であり、()()()だ。ハリーは残念であるというより、ほっとする思いがした。

 

ハリーはベラトリクスのほうに顔をむけ、口をあけて、最後の命令を——

 

そのときシューと小さな音がした。ごく小さな音が、ゆっくりと、困惑したように問いかけてきた。

 

何ダ……今ノ音ハ?

 

◆ ◆ ◆

 

ダンブルドアは通路をつかつかと通りぬけ、 ある金属扉のまえにきて押しあけたが、そのさきの監房は前回無人だと確認した記憶があった。

 

力強く明瞭な発声で七つの詠唱をしてから、ダンブルドアはつぎの場所へむかった。のこりの監房の数はわずかなので、このやりかたでもさほどの消耗にはならない。

 

◆ ◆ ◆

 

先生……」 ハリーのなかでさまざまな感情が同時に沸きたった。 目には見えないが、緑色のヘビがベラトリクスの肩のうえでゆっくりとあたまをもたげ、見まわす様子を想像できた。 「先生、ケガハ ナイカ?

 

先生ダト? ……ココハ ドコダ?

 

牢屋。命食イノ 牢屋。ボクト アナタハ 女ヲ 救出スル タメニ 来タ。 アナタハ 守ル男ヲ 殺ソウト シタ。ボクハ アナタノ 死ノ 呪文ヲ 止メタ。ソノトキ 共鳴ガ アッテ……アナタガ 倒レテ 気絶シタ。ボクハ 守ル男ヲ 倒サネバ ナラナカッタ……。守護ノ 呪文ハ 解除シタ。女ガ 逃ゲタ コトヲ 命食イガ 守ル男タチニ 報告シタ。 守護ノ 呪文ヲ 検知デキル 人ガ イル。オソラク 学校長……。ソノタメニ 守護ノ 呪文ヲ 解除 シタ。アナタト 女ヲ 命食イカラ 隠ス 代ワリノ 方法ヲ 考エタ。自分ヲ 守ル 代ワリノ 方法ヲ 考エタ。命食イヲ 脅ス 方法ヲ 考エタ。アナタト 女ノ 脱出方法ヲ 考エタ。一年生デモ デキル 方法デ 牢屋ノ 厚イ 金属壁ニ 穴ヲ アケタ。 説明スル 時間ガ ナイ。早ク 脱出シテ ホシイ。 先生トハ モウ 会エナイ カモシレナイ。アナタハ 邪悪 カモシレナイ。デモ 会エテ ヨカッタ。 最後ニ 話セテ ヨカッタ。 サヨウナラ。

 

ハリーはホウキを手にしてベラトリクスに押しつけ、「乗れ」とだけ言った。

 

記憶は消させないことにした。 第一に、記憶は重要だ。 それに、クィレル先生とこの計画を考えはじめたのは一週間まえからだ。一週間ぶんの記憶を消去させたくはないし、具体的にどんな記憶を消せとベラトリクスに説明するわけにもいかない。 多分〈真実薬〉をごまかすことはできるし、もしダンブルドアがもっと深く探るために〈閉心術〉の障壁を解除しろと言ったりしたら……それでもかまわない。今回の自分の行動にどこも英雄的でないところはない。

 

待テッ!」とヘビが声をあげた。 「待テ、待テ、待テッ。サヨウナラ トハ 何ノ コトダ?

 

脱出方法ハ 失敗スル 恐レガ アル。ボクノ 生命ハ 安全ダ。安全デナイ ノハ アナタト 女。 ダカラ ボクハ ココニ 残ッテ、自首スル——

 

ダメダ!」 ヘビは断固とした口調になった。 「ヤメロ! 許可シナイ!

 

ベラトリクスはホウキにまたがった。 (やはり見えないが)ハリーはベラトリクスの視線を感じた。なにも言わずにハリーが来るのを待っている。いや、ハリーの命令を待っている。

 

モウ アナタヲ 信頼シナイ。アナタハ 守ル男ヲ 殺ソウトシタ。

 

殺ス モノカ! ナニヲ 愚カナ。ワタシガ 邪悪ダロウト、アノ男ヲ 殺シテモ 意味ガ ナイ!

 

地球の自転が止まり、太陽を中心とする軌道上で静止した。

 

ヘビは怒っている。人間のクィレル先生のどの声よりも怒って聞こえた。 「殺ス? 殺シタケレバ、一瞬デ 殺セテイタ。 ワタシヨリ ハルカニ 劣ル 相手ダッタ。 制圧シ、屈服サセ、自発的ニ 精神ノ 壁ヲ 下ロサセル ツモリ ダッタ。ソウスレバ 記憶ヲ 読メル。上司ガ 何者カヲ 調ベラレル。調ベレバ、記憶ノ 魔法ヲ カケルノニ 役立ツ——

 

ソレナラ ナゼ 死ノ 呪文ヲ!

 

男ハ 当然 ヨケル!

 

生命ヲ 軽ク 見テイナイカ。ヨケナカッタラ ドウスル?

 

当然 ワタシガ 魔法デ 男ヲ ハネトバス!

 

また地球の回転がとまった気がした。 その発想はなかった。

 

愚カナ 策士メ。」  ヘビは怒りの声でまくしたてる。声と声がかさなって、尻尾を追いかけあうようだった。 「頭ガ イイガ 馬鹿ナ 少年メ。未熟ナ すりざりんメ。オマエガ 信ジナイ オカゲデ セッカクノ——

 

イマ 議論スルノハ ふぇあデハナイ。」  フェアどころではない。ハリーはどっと安堵を感じたのも束の間、それまで以上の緊迫を感じていた。 「ボクハ 怒レバ 命食イニ 対シテ 無防備ニ ナル。急ガネバ。ダレカガ 音ヲ 聞イタカモシレナイ——

 

脱出ノ 策ヲ 教エロ。早ク!

 

ハリーはヘビに説明した。〈ヘビ語〉には問題のマグル製品の名前に相当する単語がないので、かわりに機能を描写した。クィレル先生には伝わったようだった。

 

シュッという音が何回か繰り返された。一本とられた、というときの笑いのヘビ版だ。それからヘビはすばやく命令を言った。 「女ニ コチラヲ 見ルナト 言エ。音消シノ 魔法ヲ カケロ。守護ノ 魔法ヲ 扉ノ 外ニ 置ケ。 ワタシハ 変身スル。装置ニ 簡単ナ 手直シヲ スル。緊急用 ぽーしょんヲ 女ニ 飲マセテ ワレワレヲ 守レル ヨウニスル。変身ヲ 戻ス。ソノアト 守護ノ 魔法ヲ 消セ。コレデ 策ノ 安全ガ 増ス。

 

ボクハ 女ノ タメノ 癒者ガ イルト、信ジテイイカ、分カラナイ。

 

常識デ 考エロ! ワタシガ 邪悪ダト 仮定スル。 ココデ オマエヲ 用済ミニスル 策ハ アリエナイ。 コノ 任務ハ タマタマ 現レタ 機会ダッタ。オマエノ 守護ノ 魔法ヲ 見テ 思イツイタ。食ベル 場所ヲ 出テカラ、スベテ 気ヅカレズニ ヤル ハズダッタ。 当然、到着地ニハ 癒者ノ フリヲ スル 者ガ イル! ソレカラ 食ベル 場所ニ 戻ッテ、元ノ 計画ヲ 再開スル!

 

ハリーは透明なヘビをじっと見た。

 

一方では、そう言われる自分がバカだったように感じる。

 

一方では、あまり安心していい話でもなかった。

 

ソレデ 元ノ 計画 トハ?

 

時間ガ ナイ。オマエモ ソウ 言ッタ。ダガ 計画ハ 当然 オマエヲ コノ国ノ 支配者ニ スルコト。オマエノ 貴族ノ 友人デサエ、モウ 理解シテイル。聞キタケレバ 帰ッタラ 彼ニ 聞ケ。 イマ 話ス ノハ ソレダケダ。早ク 飛ブ 必要ガ アル。

 

◆ ◆ ◆

 

ダンブルドアはまたもうひとつの金属扉に手をのばした。その奥から縷々として絶望的な声が漏れ聞こえる。 『おれは本気(シリアス)じゃない……本気じゃない……本気じゃない……』 肩のうえの赤金色の不死鳥はすでに切迫した声で鳴いていた。ダンブルドア自身もすでに顔をしかめていた。そのとき——

 

もう一つの鳴き声が通路にひびきわたった。不死鳥の声に似ていたが、ほんものの不死鳥の呼び声ではなかった。

 

もう片ほうの肩に目をやると、銀色に燃える実体なき魔法鳥が、鉤爪で蹴って飛びたつところだった。

 

偽の不死鳥は通路にそって下層へ飛んでいった。

 

老魔法使いはそのあとを追い、元気のよい六十歳の若者のように駆けていった。

 

ほんものの不死鳥は金属扉のまえに滞空したまま、もう一度、二度、三度、声をあげた。 だがいくら呼んでも主人は引きかえしてくる様子がないので、不満げに主人のあとを追った。

 

◆ ◆ ◆

 

クィレル先生は今度は本来のすがたにもどった——〈変身薬(ポリジュース)〉は補充しないかぎり一時間で効果が切れる。顔色は悪く、手近な監房の鉄格子にもたれていながらも、魔法力はすでに十分強力で、詠唱なしに杖を呼びよせることができている。その横でベラトリクスが従順に〈マント〉を脱ぎ、ハリーに手わたした。 クィレル先生の回復とともに、強大な力場の辺縁がハリーの薄く未熟なオーラと衝突し、破滅の感覚がぶりかえしてきたが、最高潮のときほどではなかった。

 

ハリーはクィレル先生に問題の例のマグル装置のことを口頭で説明し、名前も教えた。その後、苦心して作ったそれを『フィニート』で角氷にもどした。 クィレル先生はハリーが〈転成〉したものに呪文をかけることができない。たったそれだけことでも、二人の魔法力は干渉してしまう。だが——

 

三秒後、クィレル先生の〈転成術〉で同じマグル装置がクィレル先生の手のなかに生みだされた。 ひとこと唱え、杖をひとふりすると、魔法器具のほうにのこっていた接着剤が消えた。 さらに三つの呪文がかけられ、魔法とテクノロジーの産物があたかも単一の物体のように融合した。 〈割れ止め〉の魔法と誤作動防止の魔法もかけられた。

 

(こうやって大人の監視下でやるほうがずっと安心だ、とハリーは思った。)

 

ポーションが一瓶ベラトリクスに投げわたされ、クィレル先生とハリーが同時に「飲め」とほとんど同じ口調で言った。 ベラトリクスは命令されるまでもなく、すでに口をつけようとしていた。 このポーションを作った男はどうみても〈闇の王〉の従僕だし、ヘビに変身できる〈動物師(アニメイガス)〉でもあり、有能で信頼されていることも明らかだからだ。

 

ハリーは〈不可視のマント〉のフードをかぶった。

 

おそろしい威力の呪文がクィレル先生の杖先から放出され、壁の穴を削り、床のまんなかに置かれた金属のかたまりを傷だらけにした。穴をあけた方法からハリーが割り出されるかもしれないから、そうしてほしいとハリーが頼んだのだった。

 

「左手用の手袋。」とハリーがポーチに言い、出てきたそれを手にはめた。

 

クィレル先生がさっと手をふるとベラトリクスの両肩にベルトがはまり、さらに手の上に小さな布製の装備がつけられ、手首に手錠のようなものがはめられた。ベラトリクスはポーションを飲みおえたところだった。

 

ベラトリクスの青ざめた顔が健康的でない奇妙な色に変わり、背すじが伸び、くぼんだ目がかがやきと危険さを増し……

 

……小さな煙が両耳から出たように見え……

 

(ハリーは最後の部分を深く考えないことにした。)

 

……そしてベラトリクス・ブラックは突然、笑った。アズカバンのなかに似つかわしくない調子はずれの笑い声が、あまりにうるさく、監房のならびに反響した。

 

(このあとごく短時間のうちにベラトリクスは意識をうしない、そのまま当分目をさまさない、とクィレル先生は予告していた。このポーションにはそういう代償があるが、短時間ながらベラトリクスを最盛期の能力の二十分の一ほどにまで回復させる効果があるという。)

 

〈防衛術〉教授は自分の杖をベラトリクスに投げてわたし、そのつぎの瞬間、緑色のヘビに変じた。

 

さらにつぎの瞬間、ディメンターの恐怖が部屋のなかにもどってきた。

 

ベラトリクスはほんのすこしだけ、びくりとしたが、杖を受けとり詠唱なしにひとふりした。 するとヘビが空中に飛びだして、ベラトリクスの背中にまわされたベルトにはさまった。

 

ハリーは「あがれ!」とホウキに言った。

 

ベラトリクスは杖を手の平のホルスターにいれた。

 

ハリーは二人用のホウキの前部座席に飛びのった。

 

ベラトリクスはそのあとにつづき、手錠のような装備を使って自分の手とホウキの持ち手を縛った。そのとなりでハリーは右手で杖をポーチに押しこんだ。

 

そして三人は壁の穴にむけて飛びこみ——

 

——屋外におどりでた。巨大な三角柱をなすアズカバンの内面、ディメンターの奈落の真上。頭上にはくっきりとした青空が見え、太陽の光がまぶしい。

 

ハリーはホウキの角度をあげ、三角柱の中心をかけあがるように加速した。 左手は手袋をはめ、クィレル先生が〈転成〉した装置に肌に触れないようにしてある。ハリーはその左手を問題のマグル装置の操作スイッチにあてた。

 

はるか頭上に、怒鳴り声をかけあう人たちがいる。

 

——おい、そこの原始人ども!——

 

〈闇ばらい〉たちは高速な競技用のホウキを駆って、ハリーたちを目がけて急降下してくる。各自の杖からはすでに閃光が振り落とされている。

 

——ちょっと聞け!——

 

ベラトリクスが『プロテゴ・マキシマス!』とかすれた力強い声で言い、哄笑した。三人はゆらゆらとした青色の防壁につつまれた。

 

——見えるか?——

 

アズカバンの中心にある腐敗の奈落から、百体以上のディメンターが浮上した。ある者の目にはいくつもの死体を寄せ集めた飛行する墓場のように見え、ある者の目には無を重ねあわせた巨大な世界の裂け目のように見える。それがなめらかに浮かびあがっていく。

 

老魔法使いが力強い声でなにかを詠唱すると、白色と金色の爆炎がアズカバンの壁から噴出した。最初不定形だったその炎は、すぐに翼を持った。

 

——こいつが……——

 

〈闇ばらい〉たちはアズカバンの結界に組みこまれている〈反反重力の呪文(ジンクス)〉を起動した。これはあらゆる飛行呪文を無効化する効果があり、例外は最近変更された合言葉を使ってかけられた魔法だけだ。

 

ハリーのホウキの浮力がとぎれた。

 

重力はとぎれなかった。

 

上昇していたホウキが勢いをうしない、減速し、落下へと転じた。

 

——おれの……——

 

だがホウキの方向を安定させ操舵を可能にする呪文と、乗り手をホウキに固定し加速の衝撃をやわらげる呪文とは、まだ機能している。

 

——ホウキだっ!——

 

ハリーは点火スイッチを押し、二人乗りのホウキ『ニンバスX200』に融合ずみの、過塩素酸アンモニウム推進剤を充填した固体燃料ロケット、ゼネラルテクニクス製『バーサーカーPFRC』N級を発射させた。

 

そして音が生じた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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59章「スタンフォード監獄実験(その9)——好奇心」

ホウキという乗り物はマグル世界でいう〈暗黒時代〉に発明されたという。マーリンの曾々々孫ともされる、セレストリア・レヴェロという名前の伝説的な魔女が発明者だという。

 

それがセレストリア・レヴェロなのか、別の人やグループなのかはともかく、ホウキの発明者はニュートン力学を芥子粒ほども理解していなかった。

 

そのおかげで、ホウキはアリストテレス流の物理学にしたがって機能することになった。

 

つまり、ホウキは()の指す方向に移動する。

 

まっすぐ移動したいときは、まっすぐその方向にホウキを向ける。重力の効果を打ち消すために推力の放出方向をすこし下にずらしておく、といったことを考える必要はない。

 

向きを変えれば、速度ベクトル全体がその方向に切り替わる。もとの運動量による進路のずれは生じない。

 

ホウキに最大速度はあるが、最大加速度はない。 空気抵抗がどうとかいう話ではなく、そのホウキにこめられたアリストテレス流の運動因で生みだせる速度に限界があるからだ。

 

ハリーはそういう理屈をはっきりと認識してはいないまま、たくみにホウキをあやつって飛行術の授業で一番の成績をとっていた。 ホウキはまるで、人間が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()やりかたで機能する。そのせいでハリーの脳は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のを見落としてしまっていた。 木曜日のホウキ飛行術の初回授業があったとき、紙に書かれたメッセージや光る赤い球など、ホウキよりもおもしろそうな現象がいろいろあった。ハリーの脳もそれに気をとられ、 つい不信を一時停止してしまい、ホウキという現実を受けいれてすんなり楽しんでしまったらしい。そのせいで、これほどあきらかな問いのことを一度も考えようとしなかった。 残念な事実ではあるが、人間は自分が遭遇する事象のうちほんの一部だけしか思索の対象にしようとしない……

 

かくして、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは自分の好奇心の欠如のせいで、あやうく死にかけた。

 

というのも、ロケットはアリストテレス物理学にしたがわないからだ。

 

ロケットというのは、人間が直観的にそうであってほしいと思うようなやりかたでは飛ばない。

 

したがってロケットつきホウキも、ハリーが得意とする魔法のホウキのようには動いてくれない。

 

発射の瞬間、そういった理屈はいっさいハリーの脳裡になかった。

 

まず第一に、生まれてから聞いたことのない大音量の音を聞いていたので、ハリーは自分の思考に耳をかたむけることができなかった。

 

第二に、重力の四倍の加速度で上昇するということはつまり、アズカバンの底面から頂上まで上昇するのに二秒半とかからないということを意味していた。

 

もしかするとそれはハリーの人生で一番長い二秒半であったかもしれないが、所詮二秒半でそう複雑な思索はできない。

 

できたのは、〈闇ばらい〉たちの呪文の光が飛んでくるのを見て、それを避けるためにホウキをわずかにかたむけてから、かたむけた方向にホウキが進まず、ほとんど同じ運動量をもって動きつづけているのに気づき、ことばにできないまま

 

まずい

 

ニュートン

 

という二つの概念を思いうかべることだけだった。

 

それからハリーはもっとしっかりとホウキをにぎって角度を維持したが、壁にどんどん近づいていってしまったので逆方向にホウキをむけるとまた閃光が降ってきて、下からはディメンターたちが浮かびあがり、白色と金色の炎でできた巨大な羽のある生物もいっしょに飛んできたので、また方向転換して上空にむかった。ところがホウキはまた別の壁に向かっていこうとして、すこし横にかたむけると壁に近づくのは止まったもののすでにかなり壁が迫ってきていたのでまた向きを変えた。遠くに見えていたはずの〈闇ばらい〉たちはもう目の前まで来ていて、一人の女性と衝突しそうなコースになっていたので、ホウキを大きく回転させて反対を向いたはいいが、つぎの瞬間に、強力な火炎放射器でもあるロケットの噴射口があの人の真正面にあたってしまうと気づき、自分のホウキを横に逃がし、ハリーはまた上を目指した。噴射口はまた別の〈闇ばらい〉のだれかのほうを向いているかもしれないが、すくなくともあの女性にはあたっていないこということで自分を納得させた。

 

高速に上昇する火炎放射器に乗って、ハリーは別の〈闇ばらい〉と一メートルの近さですれちがった。あとで推測したかぎりでは、このときの速度はおそらく時速三百キロメートルくらいになっていた。

 

けっきょく火炎の餌食になって悲鳴をあげた〈闇ばらい〉がいたのかどうかは分からない。そんな声は聞こえなかったのだが、ハリーの耳はこのとき爆音に支配されていたので、声が聞こえなかったことはなんの証明にもならない。

 

それから数秒のあいだ、音のことはおいておいてすこし気を落ちつけていると、〈闇ばらい〉もディメンターも炎でできた巨大な有翼生物も見えなくなり、いつのまにかアズカバンの威容もかわいらしいサイズに見えるほどの高度に達した。

 

ハリーはホウキを太陽にむけた。太陽には雲がかかってはっきりとは見えず、この季節のこの時間なので、水平線からあまり離れていない。つぎの二秒間ホウキは驚異的な加速をし、そこでロケットの固体燃料が燃えつきた。

 

そして、ありえないほどの速度で飛ぶホウキに対する強烈な向かい風の音だけがのこった。そのときになってようやく、ハリーは自分の思考の声が聞こえるようになった。魔法でホウキから離れにくくしてある両手が、つりあいの終端速度よりはるかに大きな速度の代償としての抗力に抵抗すればいいだけになってようやく、ニュートン力学やアリストテレス物理学やホウキやロケット技術や好奇心の大切さのことを考えられるようになり、もうこんなグリフィンドール的なことは二度とやりたくない……すくなくとも〈闇の王〉の不死の秘密を知るまでは、と思った。そして自分はなぜクィリナス・クィレル教授の『コレニハ/ワタシノ/命モ カカッテイルノダカラ/死ヌヨウナコトハ/ナイト/保証スル』を鵜呑みにして、マイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授の『すこしでも、ほんのすこしでもロケットに関係するようなことを専門家の監督なしにやったりしたら/まちがいなく命にかかわるから、パパとママを悲しませないでくれ』を聞きいれなかったのか、と後悔した。

 

◆ ◆ ◆

 

はああ?」とアメリアは鏡にむけて言った。

 

◆ ◆ ◆

 

空気抵抗による減速のおかげで、風の強さもやりすごせる程度になり、いろいろなことをやかましく言いたてる脳内の声にとりあう余裕ができた。

 

クィレル先生はロケットの噴射口に〈音消しの魔法〉をかけたはずだ……が、どうやらその効果にも限界があるらしい……。思えば、〈音消しの魔法〉を過信せず、耳栓を〈転成〉して用意しておくべきだったが、耳栓でもあまりたしにはならなかった気がする……。

 

まあ、聴力に後遺症がのこったとしても、きっと治癒魔法でなんとかできる。

 

いや、聴力に後遺症がのこったとしても、きっと治癒魔法でなんとかできるんだって。 もっとずっとひどいけがでマダム・ポンフリーのところに送られた人も見たことがあるし……

 

想像上の人格をある人の脳から別の人の脳に移植する方法はあるのかな? もうきみの脳には住むのはこりごりだ——とハッフルパフが言った。

 

ハリーはそれをこころの奥へ押し返した。いま考えてもどうしようもない話だ。いま心配しているべきことは、なにかあるだろうか——

 

そう思いながら、ハリーはうしろをちらりと見た。そういえばまだ、ベラトリクスとクィレル先生がホウキから落ちていないかすら、確認していなかった。

 

緑色のヘビはベラトリクスの背中のベルトにおさまっている。ベラトリクスはホウキにしがみついたまま、健康的でない色どりの顔をして、目を危険にかがやかせている。 ヒステリックに笑うときのように肩を上下させている。口は高速に動き、なにか叫んでいるようにも見えるが、声はしない——

 

あっ、そうか。

 

ハリーはフードをめくり、『聞こえない』、と言うように自分の両耳をたたいた。

 

するとベラトリクスは杖を手にして、ハリーにむけた。突然耳鳴りがおさまり、声が聞こえはじめた。

 

つぎの瞬間、ハリーは後悔した。彼女は延々とののしっていたのだ。ののしる相手は、アズカバン、ディメンター、〈闇ばらい〉、ダンブルドア、ルシウス、バーテミー・クラウチ、〈不死鳥の騎士団〉という名前のなにか、そのほか〈闇の王〉に邪魔立てした者どもすべてで、小さなお友だちには聞かせられない表現でいっぱいだった。強烈な笑い声が、せっかく治癒された耳に痛い。

 

「だまれ、ベラ。」とハリーが言うと、ベラトリクスは即座に口をつぐんだ。

 

間があいてから、 ハリーは念のためと思い〈マント〉をかぶりなおした。そしてその瞬間、望遠鏡かなにかで下から見られていた可能性もあるということに気づいた。短時間であれフードをめくってしまったのはとんでもない判断ミスだった。このひとつの失敗のせいで任務全体が崩壊したりしなければいいのだが……

 

ぼくたちって、あまりこういうのに向いてないんじゃないか——とスリザリンが言った。

 

ハッフルパフが反射的に反論する。はじめてやることだからね。完璧にできると思っちゃいけない。きっともう何回か練習すれば ちょっと待って、いまのなし

 

ハリーはもう一度うしろをふりかえった。ベラトリクスはまわりを見て困惑し、不思議そうな顔で、あちこちにくびをふっていた。

 

そしてしばらくしてから、ずっと小声で言った。 「ご主人さま、ここはどこですか?」

 

『なにが言いたいんだ』と聞き返したいところだったが、〈闇の王〉であれば自分がなにかを理解できないことを認めようとはしない。だからハリーは乾いた声でこう言った。 「ここはホウキの上だ。」

 

彼女は自分が死んだとでも思っているのか? ここが天国だと思っているのか?

 

ベラトリクスの両手はまだホウキにつながれている。なので彼女は指一本だけを動かして、たずねた。 「()()はなんですか?」

 

ハリーがその指の方向に目をやると……なにも特別なものは見えない……

 

いや、あった。だいぶ高度が上がったので、見通しの悪い雲がもうなくなって、見えている。

 

「太陽だな、ベラ。」

 

思いのほかよくコントロールされた声が出た。落ちつきはらって、すこしだけいらだっているような〈闇の王〉の声だった。同時にハリーのほおに涙が流れた。

 

終わりない冷気と漆黒の闇のなかでは、太陽もきっと……

 

幸せな記憶になる……

 

ベラトリクスはまだあちこちに目をやっていた。

 

「あそこのふわふわしたものはなんですか?」

 

「雲だ。」

 

ベラトリクスはしばらく間をおいてから言った。 「その、雲というのはなんですか?」

 

ハリーはとても冷静な声をだせるような気がしなかった。なんとかして通常の呼吸をつづけながら、泣いた。

 

しばらくしてからベラトリクスがためいきをつき、聞こえないくらいの小さな声で言った。 「きれい……」

 

その顔の緊張が徐々にゆるみ、色が引いて、以前のように血の気のない色になっていく。

 

骸骨のようにやせたそのからだが、ホウキの上でぐったりと倒れた。

 

ぴくりともしない手のホルスターから、杖がだらりと垂れる。

 

何だよそれは——

 

いや、そうか。あの〈覚醒(ペパーアップ)〉ポーションには代償があるという話だった。 ベラトリクスは『当分ノ アイダ 眠リ続ケル』ことになる、とクィレル先生は言っていた。

 

それと同時にハリーの別の部分は、肩ごしに見えるかぎりで彼女はどうみても死んでいると確信していた。まぶしい太陽の光のもとで、まっ白なその顔は完全に死人のように見えたし、だからあれが死ぬまえの最後のひとことになってしまったことになる。きっと、クィレル先生が分量をまちがえでもしたか——

 

——それとも、自分が確実に助かるよう、ベラトリクスを犠牲にしたのか——

 

呼吸はあるか?

 

見るかぎりでは、どちらともいえない。

 

ホウキに乗ったこの位置からは、手をのばして脈拍をとることもできない。

 

ハリーは行く手にぶつかりそうな飛礫がないことをたしかめつつ、太陽にむけてホウキを操舵した。時間は正午をすぎ、透明になった少年は必死に木の棒をにぎって、死んでいるかもしれない女を連れて飛んでいく。

 

うしろにいって人工呼吸をすることもできない。

 

治癒キットにある道具を使うこともできない。

 

クィレル先生も命にかかわるようなことはしていないはずだと思っていいか?

 

変な感じがする。あの〈闇ばらい〉を本気で殺そうとしていなかったという話を(たしかにそんなことをするのは愚かだから)信じるとしても、クィレル先生の心配ないということばでは、もはや安心させられる感じがしない。

 

そういえば、もうひとつたしかめておくべきことが——

 

ハリーはまたふりかえって言った。 「先生?

 

ヘビは動かなかった。返事もしなかった。

 

……もしかするとヘビは乗り手ではないから、加速の衝撃をもろに受けてしまったのかもしれない。 あるいは、〈動物師(アニメイガス)〉形態とはいえ、防壁なしにあれだけディメンターに近づいたせいで、昏倒してしまったのかもしれない。

 

どうしたものか。

 

安全をたしかめてポートキーを使うタイミングをハリーに知らせるのは、クィレル先生の役目だった。

 

ホウキを必死につかんで操舵しながら、ごく短い時間のあいだにハリーは思考をめぐらせた。そうしているうちにもベラトリクスの呼吸が止まったかもしれない。クィレル先生の呼吸はもっとまえから止まっていたかもしれない。

 

仮にこれでポートキーを無駄にしてしまったとしても、取り返しはつく。だれかの脳に酸素がない状態を長びかせてしまえば、取り返しがつかない。

 

そう決心してハリーはつぎに使うべきポートキーを手にし、(自分と地球の自転の相対速度が変わることに関してはポートキーが勝手に調整してくれるらしいが、それ以外の速度についてもおなじ効果があるとはかぎらないので)ホウキを減速し、まぶしい青空のなかに停止させてから、ポートキーをホウキにあて……

 

その小枝を手にしたまま止まった。この小枝の片割れを折ったのが二週間もまえのことのように感じられる。 ハリーは突然ためらいを感じた。 ハリーの脳はオペラント条件づけという純粋に神経的なプロセスによって、〈小枝を折ると悪いことが起きる〉というルールを学習していたらしかった。

 

けれど考えてみると論理的でないルールなので、ハリーは小枝を折った。

 

◆ ◆ ◆

 

背後の金属扉から爆音と衝撃がして、アメリアは手から鏡を落とした。杖を手にぱっとふりむくと、いきおいよく開いた扉のなかからアルバス・ダンブルドアがあらわれた。

 

「アメリア、わしはアズカバンを出る。いますぐに。ホウキで飛ぶよりも速く結界を通過する方法はあるか?」  その声にはいつもの鷹揚さがまったく感じられず、半月形の眼鏡の奥の瞳に柔和さはなかった。

 

「ない——」

 

「では至急、ここにある最速のホウキを頂戴したい!」

 

アメリアが()()()()場所はあの〈悪霊の火(フィーンドファイア)〉のようななにかに負傷させられた部下のところだ。

 

アメリアが()()()ことはダンブルドアがなにを知っているのかを突き止めることだ。

 

「あなたたちは、このまま最下層まで掃討をつづけなさい。まだ残敵がいないとはかぎらない。」  アメリアは部下たちにそう言ってから、ダンブルドアのほうをむいて言った。 「ホウキは二本用意する。飛びながら説明してもらうわ。」

 

二人はしばらくにらみあってから、動きだした。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは気分が悪くなるほど強く腹を牽引された。アズカバンに転移してきたときよりもずっと強い牽引力で、移動距離も長いらしい。おかげで出発地と目的地のあいだにある静寂を聞き、空間のすきまを見ることができるだけの一瞬の時間があった。

 

◆ ◆ ◆

 

太陽はごく短いあいだだけ二人を照らし、すぐに雨雲のむこうに消えた。二人は矢のようにアズカバンから飛びだし、風に乗って風より速く飛んだ。

 

「首謀者はだれ?」  アメリアはとなりのホウキにむけて大声で言った。

 

「こころあたりは二人。現時点ではまだ、どちらとも言えぬ。 一人目であれば、大変なことになった。 二人目であれば、それよりはるかに大変なことになった。」

 

ためいきをつく間もなく、アメリアは問い詰めた。 「それでいつ分かるの?」

 

ダンブルドアの声は小声だが、不思議と風に負けていない。 「第一の可能性であれば、その目論見を完成させるために三つのものが必要になる。 〈闇の王〉のもっとも忠実なしもべの人肉、〈闇の王〉の最大の敵の血、とある墓への訪問。 わしは彼らのアズカバン襲撃が事実上失敗したと見て、ハリー・ポッターの身の安全はまもられた——それでも目は光らせてはおこう——と思っていたが、いまは非常に憂慮している。 彼らには〈時間〉の道具がある。つまり〈逆転時計〉をもつ何者かから情報を受けとっていて、おそらくすでに数時間まえにハリー・ポッターを誘拐しに行ったと見たほうがよい。 だからこそ、アズカバンのなかにいる()()()()()、まだその情報を知ることができない。〈時間〉に結び目をつくることが禁じられたこの場所では、それが来るのはわれわれの未来が来てからになるのだから。」

 

「第二の可能性なら?」とアメリアは声をあげた。 ここまで聞いた話だけでも十分深刻な話に思えた。究極の〈闇〉の儀式、しかも死んだ〈闇の王〉にまつわる企てではないか。

 

老魔法使いは一段と苦い表情をして、無言でくびをふった。

 

◆ ◆ ◆

 

ポートキーの牽引力が消えると、太陽が地平線に顔をだしているのが見えた。朝焼けというより夕焼けのようだった。ホウキは低空にいて、眼前には赤褐色の岩と砂が段をなしてつづいている。だれかが土の生地をこねるだけこねて、たいらにし忘れたようだった。そのすぐさきには、打ち寄せてくる波がはるか水平線まで段をなしている。ホウキの下の地面の高さとその海面とのあいだには、数メートルの段差があったが。

 

ハリーは朝焼けの景色に目をしばたたかせ、それからこのポートキーは国外につながっていたのだと気づいた。

 

「おーいっ!」とうしろから、活発な女性の声がした。ホウキをすばやくそちらに向けると、 中年の女性が片手を口にあてて大げさに呼びかけながら、駆けこんできている。 やさしそうな顔つきで細い目の女性は茶色の皮膚をしているが、人種についてはなんとも言えない。 あかるい紫色のローブを羽織っているが、ハリーが見たことのない様式だ。 つぎに口をひらいたとき出てきたことばにはなまりがあったが、ハリーはあまり外国に行った経験がないので、どの国かは分からなかった。 「なにしてたの? 二時間は遅刻だよ! もう来ないんじゃないかと思ってたところ……ねえ聞いてる?」

 

すこしだけ間があいた。 思考の速度がのろく、奇妙にふらつき、すべてが遠くに感じられ、自分と世界とのあいだに厚いガラスの板があるような気がした。そして自分と自分の感覚とのあいだにも厚いガラスの板があり、目に見えるが手がとどかないような気がした。 朝焼けの光とやさしそうな魔女を目にして、なんて冒険の終わりらしい景色だろうと思いながらも、ハリーはそういう気持ちになった。

 

すると魔女が近づいてきて杖をかまえ、ひとことつぶやくと、ベラトリクスとホウキをつないでいた手錠が切断され、そのからだがふわりと砂岩のうえにおりた。骨ばった腕と血色をうしなった足がもつれた様子からは生気が感じられなかった。 「ああもう、なんてひどい……」

 

この女性は心配しているように見える——、とガラスの板にはさまれて隔絶した存在が思考する。 いまのは、ほんものの癒者が言いそうなことだろうか。演技させられた人が言いそうなことだろうか。

 

それとは別の、また別のガラスの板のむこうにいる自分が、小声で話しだした。 「その背中に乗っている緑色のヘビは〈動物師(アニメイガス)〉です。彼も意識をうしなっています。」  甲高くも冷たくもない、ただの小声。

 

魔女はびくりとして、声の出どころを見てそこになにもないことに気づき、ベラトリクスのほうへもどった。 「あなた、ミスター・ジャフィじゃなかったの。」

 

「この〈動物師(アニメイガス)〉がきっとその人です。」とハリーの口が言った。 同時に、それを聞いていたガラスのむこうのハリーが思考した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「彼はいつから意識を——いえ、答えなくていい。」  魔女は杖をヘビの鼻さきにしばらくあて、きっぱりとくびをふった。 「一日休みさえすればなんともないわ。でも()()()は……」

 

「いますぐ彼の目を覚まさせられませんか?」 とハリーの口が言った。ほんとにそうしていいのかな——と思う自分もいたが、口は問題ないと思っているようだった。

 

魔女はまたくびをふった。 「もし〈賦活(イナヴェイト)〉でダメだったなら——」

 

「まだやっていません。」

 

「え? どうして——ああ、そんなことより。『イナヴェイト』。」

 

しばらく間があいてから、ヘビはゆっくりと背中のベルトのあいだから這い出てきた。 緑色のあたまが上向き、あたりを一瞥した。

 

視界がぶるりとして、つぎの瞬間にはクィレル先生が立っていた。かと思うと、がくりとひざをついた。

 

「横になってて。」と言いながら、魔女はベラトリクスから目を離さない。 「あんたなんでしょ、ジェレミー。」

 

「ご明察。」とだいぶかすれた声でクィレル先生が言い、褐色の砂岩のうえの比較的たいらな場所に、慎重に身を横たえる。顔色はベラトリクスほど悪くない。だが薄暗い朝焼けの光のなかでは、血の気をうしなったように見えた。 「ごきげんよう、ミス・キャンブルバンカー。」

 

「やめてって言ったでしょ。」と魔女はとげのある声で言い、わずかに笑みを見せた。 「クリスタルでいいわ。ここはブリテンじゃないんだから、そういうお作法はなし。あ、それと、いまはもう『ミス』じゃなくて『ドクター』。」

 

「それは失礼した、ドクター・キャンブルバンカー。」  そして乾いた笑い。

 

魔女は表情をゆるめたが、かわりに声はするどくなった。 「それでこのお連れさんはだれ?」

 

「きみは知る必要のないことだ。」  クィレル先生は目を閉じて横たわっている。

 

「どれくらいひどく失敗したの?」

 

至極まじめな声で返事があった。 「知りたければ、明日の新聞の国際面を読んでくれ。」

 

魔女の杖がベラトリクスのからだのあちこちをたたいたり、つついたりしている。 「会いたかったわ、ジェレミー。」

 

「本気で言っているのか?」とすこしおどろいたようにクィレル先生が言った。

 

「なんて言うと思ったら大まちがいよ。あんな借りさえなきゃ——」

 

クィレル先生は笑いはじめたが、やがて咳こむような音になった。

 

あれは演技なのか素なのか、どう思う——とスリザリンが〈内的批評家〉にたずねた。ハリーはやはりガラスの壁のなかでそれを聞いている。

 

〈批評家〉が返事する。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()調()()()()()()()

 

うまくつついてもっと情報を引きだしたいところだけど、だれか案は?——とレイヴンクローが言った。

 

ホウキの上のなにもないところから、また声がした。 「彼女を完全にもとどおりにできる可能性はどれくらいありますか?」

 

「そうねえ。〈開心術〉と正体不明の〈闇〉の儀式がいくつかかけられた。それが十年かけて定着した。それから十年間、ディメンターに被曝した。ざっとこんなところ? それをぜんぶもとどおりにする? 話にならないわね、ミスター・だれかさん。 まずは、なにかすこしでも残っているか、っていうところからよ。その可能性だって、三分の一もあるかどうか——」  魔女は突然話しやめた。つぎに出た声は小声になっていた。 「あなたたちが以前親しかったなら……。はっきり言って、以前の彼女を取り戻すのは無理。そう思っておいて。」

 

ハリーの〈内的批評家〉が言う。演技に一票。ちょっとたずねただけで、あんな風にべらべらしゃべるのは不自然だ。待ちかまえていたのでないかぎり。

 

レイヴンクローが返事する。了解。ただしその票には低い信頼度をつけておく。 そういう細かいことがどれだけの証拠になるか判断しようとするとき、人の認識は疑念にゆがめられがちだ。そうならないようにするのはとてもむずかしい。

 

「なんのポーションを飲ませた?」と魔女がベラトリクスの口をひらいて中をのぞきながら言った。杖が色とりどりの光を散らしていた。

 

地面に横たわる男が落ちついた声で言う。「ペパーアップ——」

 

「なに考えてんの?」

 

また咳まじりの笑い。

 

「よくてあと一週間は眠ったままね。」と言って魔女は舌うちした。 「目をさましたらフクロウで知らせる、っていうことにしましょうか。それが届いたら、例の〈不破の誓い〉をさせにまたここに来なさい。 もう一カ月は動けないままだと思うけど、起きぬけにいきなり襲いかかられたりしたらたまらないから、なにかしといてもらえる?」

 

クィレル先生はやはり目を閉じたまま、ローブから一枚の紙片をとりだした。つぎの瞬間、そこに文字があらわれ、煙が立った。煙が出なくなると、紙片は魔女にむかって浮遊していった。

 

魔女は紙片をながめて眉をひそめ、皮肉な笑いをした。 「ちゃんと効くんでしょうね、これ。効かなかったら、あたしの遺産全額をあんたのくびに賞金としてかける、っていう遺言状でお返しするわよ。」

 

クィレル先生はもう一度ローブのなかに手をいれ、ジャラジャラと音のする袋をとりだして、魔女に投げた。魔女は受けとり、重みをたしかめて、満足げに鼻を鳴らした。

 

魔女は立ちあがり、そのとなりに、血の気のない骸骨のような女が地面から浮かびあがっていった。 「帰るわ。ここじゃ仕事にならない。」

 

「待て。」と言ってクィレル先生は手をひとふりし、ベラトリクスの手にあった杖を奪った。それを手にしてベラトリクスにむけ、小さな円をえがいて、小声で「オブリヴィエイト」と言った。

 

()()()()()()。いますぐ連れていく。これ以上手をだされないうちに——」  魔女はベラトリクス・ブラックを片腕で抱いて、ポンというアパレイトの音とともに消えた。

 

そしてあたりには静かに寄せる波とやさしく吹きつける風の音だけが残った。

 

〈批評家〉が言う。演技はここまでか。採点するなら、五点中、二.五。あの女性はあまり役者の経験がなさそうだ。

 

ほんものの癒者だったら、癒者を演じさせられた役者より、にせものっぽく見えたりもするんじゃないかな——とレイヴンクローが言った。

 

テレビ番組、しかも自分がとくに感情移入していないキャラクターばかりの番組を見ているようだった。ガラスの壁のなかにいるハリーからはそう見え、感じられた。

 

どうにかしてハリーは口を動かしはじめ、静止した朝焼けの空気に自分の声を送りこむことができた。そして、流れでたことばの内容に自分でもおどろいた。 「あなたはいくつ仮面があるんですか?」

 

血の気をうしなった男は地面に横たわったまま、笑い声をださなかった。だがホウキの上のハリーからは、そのくちびるの端が曲がるのが見え、いつもの皮肉な笑みをしているのだということが分かった。 「数えているほど暇ではないのでね。きみこそ、いくつある?」

 

それほど動揺させられるいわれはなかったのに、ハリーは自分がどこか——ぐらついたように感じた。まるで自分の芯が抜けおちたかのように——

 

あ。

 

「あの……」と言うハリーの声は、ちょうどハリー自身とおなじように隔絶した声色だった。 「あと数秒でぼくは気絶すると思います。」

 

「渡しておいたうちの四番目のポートキーを使え。緊急時用の予備と言っておいたものがあるだろう。」  地面の上の男は静かに、しかしすばやくそう話す。 「その目的地はここより安全だ。マントもそのまま脱ぐな。」

 

ハリーはポーチからまた小枝をとり、片手で折った。

 

また牽引力が生じ、国境を越える程度に長くつづいて、着いたのは暗い場所だった。

 

「ルーモス」と口が言った。自分の一部は自分全体の安全を確保しようとしていた。

 

そこはだれもいない、マグルの倉庫のなかのようだった。

 

両足がホウキをおりて、床に横たわった。 両目が閉じ、几帳面な部分のハリーが光に消えるよう命じた。そしてハリーは闇につつまれた。

 

◆ ◆ ◆

 

「これからどこへ?」とアメリアはさけんだ。二人はもうすぐ結界の外に出る。

 

「時間をさかのぼってハリー・ポッターを守りにいく。」とダンブルドアが言った。助けは必要か、と聞くためにアメリアが口をひらこうとしていたところで、結界の境界を越えた感触があった。

 

アパレイトの破裂音がして、老魔法使いと不死鳥はすがたを消し、借りもののホウキだけが残った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「アリストテレスの物理学」
物は押すと動く、押すのをやめると静止する……という感じの古代の理論が中世までの学問の世界では一般的だったようです(とはいえ、投石機など明らかにそうじゃないものを作る職人の世界もあった)


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60章「スタンフォード監獄実験(その10)」

「起きろ。」

 

その声に、ハリーは息がとまりそうな思いでぱっと目をさまし、うつむきの姿勢でからだを引きつらせた。 夢の記憶はなかった。疲れすぎて夢を見なかったのか。目を閉じたつぎの瞬間に『起きろ』と言われたように感じた。

 

クィレル先生はつづけた。「起きてもらうぞ。待つのもこれが限界だ。〈逆転時計〉の使用回数をせめて一回はのこしておきたい。 もうすぐわれわれは四時間さかのぼって〈メアリーの店〉にもどり、なにひとつ特別なことが起きなかったように見せかけなければならない。 そのまえにきみと話をしておきたかった。」

 

暗闇のなかでゆっくり身を起こすと、 痛みがあった。コンクリートの床にあたっていた部分以外にもあちこちが痛んだ。 記憶のなかのさまざまな光景が錯綜する。それをつなぎあわせてちゃんとした悪夢を見せようにも、無意識のハリーの脳は疲れすぎていたらしい。

 

十二体の虚無が金属製の通路の上から降りてくる。周囲の金属を錆びつかせ、あたりを暗く冷たくし、生命を世界のそとへと吸いだそうとする——

 

脂肪と筋肉はそげおち、真っ白な皮膚一枚の下に骨が見える——

 

金属扉——

 

女の声——

 

『そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで——』

 

『お願い……もう自分の子の名前も分からない——』

 

『やめて……いや……行かないで……ここにいて……行かないで——』

 

「何なんですかあれは?」  ハリーはのどをかすれさせた。細すぎる管に水を通すように、やっとのことで声をだす。あたりは暗く、その声はベラトリクス・ブラックと変わらないほどの嗄声だった。 「あれは何なんですか? 牢獄どころか地獄じゃないですか!」

 

「地獄? というと、キリスト教徒が空想する罰の世界だな? たしかに似ている面はある。」

 

「どうして——」と言いかけたが、つづきが言えない。のどになにか大きなものが詰まっている。 「どうして——あんなものを——」 ()()()作ったのか。アズカバンはだれかが()()()()()()()()()()()()()あれは作られた。あの女が子どもの名前を忘れたのは、裁判でだれかがそう()()()からだ。だれかが彼女を監房に引きずって入れ、悲鳴を無視して扉を封じた。だれかが毎日食事を運び、()()()()()()()()()()()()毎日そのまま去った——

 

どうして人間にあんなことができるんですか?

 

「しない理由はあるまい?」  倉庫のなかを青白い光が照らし、洞窟じみたコンクリートの天井とほこりまみれのコンクリートの床が見えた。 クィレル先生はハリーからやや離れて座っていて、背中をあずけている。 光の青さのせいで壁は氷河のような色となり、床のほこりは雪のようにも見える。そして暗闇のなかで黒ローブをまとう男さえ、氷の彫像のように見える。 「彼らにとって、アズカバンの囚人にどんな利用価値がある?」

 

ハリーの口がなにかを言おうとして動いた。ことばは出なかった。

 

かすかな笑いが〈防衛術教授〉のくちびるの端に見えた。 「ミスター・ポッター、仮に〈名前を言ってはいけない例の男〉がブリテン魔法界を支配し、アズカバンのような場所を作ったとしたら、それは敵が苦しむのを見て楽しむためだ。 見ていて不愉快になれば、迷わずアズカバンの解体を命じることだろう。 実際にアズカバンを作り、解体を命じなかったほうの人びとのほうを見てみるがいい。彼らは高尚な理想をたくみに語り、自分たちは悪者ではないと思いこんではいただろうが……。まあ、彼らと茶話をするか、〈例の男〉と茶話をするかを選べと言われれば、〈闇の王〉のほうがまだわたしの趣味に近い、と言っておこう。」

 

「理解できない。」  ハリーの声が震えた。監獄を模した古典的な心理学の実験で、ふつうの大学生も看守役をあたえられると嗜虐的な態度に豹変する、という話がある。 いまになってハリーはその実験で立てられた問いが適切でなかったことに気づいた。なによりも問うべきは、看守の態度ではなく、それ以外の全員の態度だ。 「理解できません。人間はなぜこんなことを看過できるのか。ブリテン魔法界という国がなぜこんなことをしつづけるのか——」

 

クィレル先生の目はいつもと変わらない色に見えた。変わらないのは、その瞳孔とこの青白い照明の光がおなじ、永久凍土の色をしているからだ。 「現実政治の世界へようこそ、ミスター・ポッター。 アズカバンにいれられた低劣な輩がどこの派閥に利益をもたらすというのか。 あの囚人たちを援助してだれかが得をするというのか。 政治家にしてみれば、彼らに味方するのは、自分は犯罪者の味方だと宣言するも同然だ。人民はそれを弱さと見なし、自分がかかわりたくない不愉快なものと見なす。 いっぽうで政治家は、自分の剛腕と非情さを知らしめるために、もっと刑を長くしろと要求することもできる。強さを誇示したければ、犠牲者を踏みつぶすことに行きつく。そして人民はそれを賞賛する。本能的に勝者のがわにつきたがる。」  冷たい笑い声。 「考えてもみたまえ。だれも()()()アズカバンに行くことがあろうとは思わない。いくら政治家が強権をふるおうが、自分にはなんの害もないと思う。いっぽうで、他人への害については……人間なら自然と気になるものだ、と言われたりしたことがあるかもしれないが、それはうそだよ。だれもそんなことは気にしない。きみもよほど厳重に箱入りで育てられたのでもないかぎり、とうに気づいているはずだ。 歴代〈魔法省〉大臣が何人も、監房の位置をディメンターに近づけることを提案した。なぐさめになることがほしければ、いまアズカバンの囚人である者のなかにも、それに賛成して大臣への信任票を投じた者がいる、という事実を言っておく。ただ、民主制が効果的な政体をうむ可能性は皆無に近いというのが持論であるわたしでも、犠牲者本人をみずからの破滅の共犯者にさせるというやり口には、なかなか詩趣があることは認めるよ。」

 

ようやく統合していたハリーの自我がまた断片にわかれそうになった。ことばの連らなりが鉄槌のようにハリーの意識へと振り下ろされ、ハリーを突きうごかし、一歩一歩断崖へと押しだす。下には巨大な深淵が待っている。 なにか気のきいた反論をして、ことばをはねかえすことで自分を救いたい。だが反論が浮かんでこない。

 

クィレル先生はハリーをじっと見た。その視線には支配心よりも好奇心があらわれている。 「アズカバンがなぜ作られたのか、なぜ維持されているのか。理解したければ、理由はとても簡単だ。 人間は自分自身の将来の苦楽だけを問題にする。自分自身に火の粉がふりかからないかぎり、人間はどこまでも残酷で無頓着になる。 その点で、この国のあらゆる魔法族と、彼らを支配しようとした〈例の男〉とのあいだに差はない。彼らはただ、〈例の男〉の強さと……露骨さを欠いていたにすぎない。」

 

少年は両手をかたく、爪が手のひらにめりこむほどににぎった。指と顔は青ざめていたかもしれないが、薄暗い青白い光のもとですべては氷と影の色となり、きっと区別がつかない。 「以前、ぼくが次代の〈闇の王〉になることを目ざすなら支援する、とおっしゃった理由は、それですか。」

 

〈防衛術教授〉は軽くうなづいた。口にうっすらと笑みが見えた。 「わたしが教えることをすべて学べば、きみはいずれこの国の支配者になる。 そのときになっても、民主制によって作られたあの牢獄がきみの趣味にあわなければ、解体すればいい。 不本意かもしれないが、きみは今日、自分の意思とこの国の人民の意思がいずれ矛盾すると知った。そのときになれば、自分が彼らの決定にしたがわないであろうことも知った。つまり彼らが知ろうが知るまいが、きみが認めようが認めまいが、きみは彼らにとって次代の〈闇の王〉なのだ。」

 

光により色あせた二人は、氷の彫像のようにして、じっと動かなくなった。どちらの瞳の色もあせて、よく似た色になっている。

 

ハリーは相手の淡い水色の目をのぞきこんだ。 五月の十五日(イデス)まではと思い、たずねることを先のばしにしていた質問がいくつもある。 いや、それは自分へのうそだったことが、いまは分かる。実は答えが分かるのが怖くてたずねなかったのだ。 そしていま、そのすべてが一度に、ことばになろうとしている。 「授業の初日、あなたはみんなにぼくが人殺しのできる人間だと思わせようとした。」

 

「事実を言ったまでだが。」と愉快そうに返事があった。 「……それはともかく、わたしがなぜ()()()()()()()()()()()のか、ということを知りたいならば、きみが権力を手にしていく過程で多義性は強力な助けになる、と答えさせてもらう。 ある日はスリザリンのようにふるまい、そのつぎの日にはグリフィンドールらしい片鱗を見せて印象をくつがえす。 そうすればスリザリン生は勝手に都合のいい解釈をして信じ、グリフィンドール生もきみを支持する。 不確実さがあるところではいつも、人は自分への利益が大きくなるように解釈する。 強者であるように見え、勝者であるように見えているかぎり、彼らは本能的に、きみに同調することが利益だと考える。 影のなかを歩め。そうすれば光と闇はうしろからついてくる。」

 

「それで、あなた自身のねらいは、何なんですか?」

 

クィレル先生は座ったまま、さらに深く壁に背をもたれさせた。顔は影になり、青い氷の目もヘビのときの彼のような黒い眼窩になった。 「わたしは強力な指導者のもとでブリテンが強国になることを願っている。求めることはそれだけだ。 なぜそう願うのかについては……」  クィレル先生は陰気な笑みをした。 「他人に明かすつもりはない。」

 

「あなたの近くにくると感じるあの破滅の感覚……」  ハリーは言いよどんだ。話題の中心が、だんだんと口にしてはならない部分に近づいていく。 「あなたはその意味を最初から知っていた。」

 

「なんとおりか推測していることはある。」  クィレル先生な読みとりにくい表情をした。 「そのすべてをここで言うつもりはない。だがひとつ言っておくとすれば、あれは()()()()破滅がほとばしっているのであって、わたしからではない。」

 

どうにか今回は、ハリーの脳もクィレル先生の発言を不確実な主張、欺瞞かもしれないものとして位置づけ、あたまから信じるのを避けることができた。 「あなたがときどきゾンビになるのはなぜですか?」

 

「個人的な事情だ。」とクィレル先生は無感動な声で答えた。

 

「ベラトリクスを助けようとした裏の動機はなんですか?」

 

すぐには返事がなく、ハリーはそのあいだ苦心して呼吸を平常にたもとうとした。

 

クィレル先生はようやく肩をすくめ、どうでもいいことだ、というような態度をとった。 「十分丁寧に説明してやったつもりなのだがね。 その答えにたどりつくのに必要な情報はすべてきみに教えてあった。その明白な問いを思いつくくらいに成熟していれば、答えも分かりそうなものだ。 ベラトリクス・ブラックは〈闇の王〉の最強のしもべで、忠実さでも抜きんでていた。 彼女をおいてほかに、うしなわれたスリザリンの魔術——きみが継承すべき遺産——の一部を託されたであろう人物はない。」

 

ゆっくりと怒りがハリーのなかに広がっていき、おそろしいなにかがゆっくりと血液を沸騰させつつある。さびれた倉庫のなかに二人きりでいるときに言うべきでないようなことが、すぐにも口をついてしまいそうになる——

 

「だが彼女は無実ではあった。」とクィレル先生は言い、笑わなかった。 「そしてあそこまで選択肢をうばわれ、彼女が()()()()()あやまちのために苦しむ可能性すらなくされていたのは……()()なまでの処置だと思う。もし彼女から情報を引きだせなかったとしても——」  もう一度軽く肩をすくめる。 「この一日の仕事は無駄ではなかったと思う。」

 

「ずいぶん利他的じゃありませんか。ほかの魔法使いはみな本心では〈闇の王〉とおなじだけれど、あなたは例外だということですか?」

 

クィレル先生の目はまだ影に隠れていて、黒い眼窩のなかの視線は見えない。 「気まぐれということにしようか。 わたしもときにはヒーロー役をして楽しめることがある。 もしかすると〈例の男〉でさえ、そういうことがあったかもしれない。」

 

ハリーは最後の質問をしようとして口をあけた——

 

が、言えなかった。最後の、もっとも重要な質問をことばにすることができなかった。 もちろん合理主義者としてそのようなためらいがあってはならない。〈タルスキの連願〉や〈ジェンドリンの連願〉を暗唱し、真実でこわされうるものはこわされるべきだと言いながら、そんなことでは情けない。それでもこの瞬間だけは、ハリーは最後の一問を声にだすことができなかった。 そういう思考をしていてはいけないと思いつつ、自分はもっとしっかりしていなければと思いつつ、ことばにすることができなかった。

 

「ではこちらが質問する番だな。」と言って、クィレル先生はペンキ塗のコンクリート壁にもたれるのをやめた。 「ミスター・ポッター、きみはわたしをあやうく殺しかけ、作戦を壊滅させかけた。それについて、なにか言うべきことがあるのではないかね? こういう場合には通常、敬意を示す意味で謝罪がおこなわれるものだと聞いている。だがきみはまだ謝罪をしていない。 これはいまにいたるまできみにその余裕がなかったからにすぎないのか?」

 

クィレル先生の口調は冷静だったが、鋭利な切っ先を秘めていて、自分のからだがするりと切断されて殺されるまで気づかないことになりそうなほどだった。

 

そのクィレル先生をハリーはただ、恐れを知らない冷たい目で見た。いまは死すら恐れない目で。 ここはアズカバンではないから、ハリーは恐れを知らない部分の自分を恐れる必要がない。 圧力を感じたことでハリーをかたちづくる宝石が回転し、光の面が闇の面へ、温の面が冷の面へ切り替わった。

 

いまのは計算された罠だろうか。ぼくに罪悪感をいだかせ、降参せざるをえない立ち場に追いこもうとしているのだろうか。

 

純粋に感じたままの発言だろうか。

 

「なるほど。」とクィレル先生が自答する。「つまり答えは——」

 

冷たく落ちついた声で少年が話しだす。 「いいえ。そう簡単に話の枠ぐみを決められては困ります。 ぼくはそれなりに苦労して、あなたを守りつつアズカバンから安全に連れだそうとした。しかも、あなたが警官を殺しかけるすがたを見てから、そうした。 ディメンター十二体を〈守護霊〉なしで威圧するということまでした。 もし要求どおりにぼくが謝罪していたら、あなたはお返しに感謝する気がありましたか。 それともやはり、あなたが求めたのは服従であって敬意ではなかったんでしょうか。」

 

間があいてから、クィレル先生が返事した。冷たさと不穏さを隠そうとしていない声だった。 「きみはまだ、負けるべきときに負けることができないと見える。」

 

暗黒がハリーの両目から出てまっすぐにクィレル先生におそいかかり、餌食にしようとした。 「そういうあなたこそ、いまぼくに負けたほうがいいのではないかと思っていますか? もとの計画に支障をきたさないために、ぼくの怒りにひれ伏すふりをしておこうかと思っていますか? わざと謝罪するふりをすることをちらりとでも考えていましたか? いないでしょう。ぼくもおなじですよ、クィレル先生。」

 

〈防衛術教授〉は笑った。低く無感動な声で、星ぼしのあいだの虚無よりも空虚な、硬放射線に満たされた真空よりも不穏なひびきがした。 「ミスター・ポッター、やはりきみはまだ、なにも分かっていないようだ。」

 

「ぼくはアズカバンで、負けることを何度も考えました。 あきらめて、〈闇ばらい〉のところへいって自首することを考えました。 負けるほうが理にかなっていた。 こころのなかで、そうしろと言うあなたの声も聞こえた。もし自分ひとりしかいなければ、そうしていた。 でも()()()()うしなうようなことはできなかった。」

 

しばらく無言の時間がつづいた。まるでクィレル先生でも、つぎに言うべきことを探すことがあるかのように。

 

「きみの考えでは、わたしはいったいなんの謝罪をすることになっているのだ? 戦闘時にどういう行動をとるべきかは、明確に指示してあった。目立たず、距離をとって、魔法を使わないこと。 きみはその指示にそむいて、任務を崩壊させた。」

 

「ぼくが決めたことではありません。なにかを選んだのでもなかった。ただ、あの〈闇ばらい〉を死なせてはならないという願いがあり、〈守護霊〉がいただけ。 その願いを起こさせたくなければ、あなたは〈死の呪い〉をはったりに使うことがあると事前に警告すべきだった。 事前情報がなければ、あなたが杖をだれかに向けて『アヴァダ・ケダヴラ』と詠唱した時点で、その相手を殺す意思があるものと理解するしかない。 〈許されざる呪い〉の取り扱い規則があれば、真っ先にそう書いてあるんじゃないですか?」

 

「規則というのは決闘のためにある。」と言ってクィレル先生はまたいくらか冷たい声になった。 「決闘は競技であり、〈戦闘魔術〉の一部ではない。 実戦では、防御不可能で避ける()()()()呪いを使うことは貴重な戦術のひとつ。 こんなことは言うまでもないと思っていたが、どうやらわたしはきみの知性を買いかぶってしまっていたらしい。」

 

ハリーは返事が聞こえなかったかのようにしてつづけた。 「もうひとつ落ち度があります。ぼくがあなたに呪文をかけてはいけないということ、かけてしまえば両方が死ぬこともありうるということは、当然ぼくに知らせておくべきだった。 あなたがなにかしくじって、ぼくが〈賦活(イナヴェイト)〉や〈浮遊の魔法〉をかけようとしたらどうなりましたか? なんの目的があってかは分かりませんが、あなたはそれを知らせないでいた。そのことも、あの大惨事の原因のひとつでした。」

 

話がまたとぎれた。クィレル先生の目は細くむすばれていて、少しだけ不可解そうにしているようにも見えた。 まるでまったく遭遇したことのない状況下におかれたというような雰囲気だった。 クィレル先生はまだ口をひらかない。

 

ハリーはクィレル先生から目をそらさずに話しだした。 「あなたを傷つけてしまったことについて、後悔してはいますよ。 でもこの状況で、あなたにひれ伏す必要があるとも思わない。 ぼくは謝罪という概念がよく分かりません。とくにこういう状況ではそうです。 ぼくが後悔しているということさえ伝われば、服従の意思はなくても、それで謝罪したことになりますか?」

 

もう一度、あの冷たく、星ぼしのあいだの虚無よりも暗い笑いが聞こえた。

 

「どうだろうね。わたしも謝罪という概念を理解できたことがない。 口先でなんと言っても、おたがい嘘だとわかっていては、意味がない。 この話はここまでとしよう。債務はおたがい、いずれ返すことになる。」

 

またしばらく沈黙。

 

ハリーが口をひらく。「そういえば、あなたの話はハーマイオニー・グレンジャーには当てはまりません。ハーマイオニー・グレンジャーならどんな犯罪者がいてもアズカバンを作ろうとはしませんし、 無実の人間を苦しませることは死んでもありません。 さっきあなたは魔法族は内面ではみんな〈例の男〉とおなじだと言いましたが、それは単純にまちがいです。もっとはやく指摘しているべきでしたが、さっきまでは……ストレスがかかっていたので。」  ハリーは暗い笑みをした。

 

クィレル先生には目を半分とじ、遠くを見る表情になった。 「人間の内面は外面のとおりだとはかぎらないよ、ミスター・ポッター。 彼女は親切だと思われたがっているだけかもしれない。〈守護霊の魔法〉も使えなかったのだから——」

 

「ああ……」と言ってハリーは少し笑顔らしい笑顔になった。 「あれはぼくとおなじ理由でうまくいかなかっただけです。 彼女はディメンターを破壊できるだけの光をもっている。 いや、ディメンターを破壊せずにいることはできず、そのためには命も投げだす……。 たとえぼくがそんな善人ではないとしても、そんな善人は実在します。彼女はその一人です。」

 

「彼女は若い。自分が親切な人間だと吹聴することで、なんの代償も生じない。」

 

一度無言になってからハリーは口をひらいた。 「ちょっと言わせてもらいますが、そういう風になんでも陰鬱に思えるなら、なんとか状況を()()してみようと思ったりしたことはありませんか? まあたしかに、犯罪者を拷問しようというのはひどい考えかたですが、そう思う人の内面が邪悪だとはかぎりません。 それはいけないことだと指摘して、どうするのが正しいかを教えてあげれば、そういう人ももしかすると——」

 

クィレル先生は笑った。さきほどまでの空虚な笑いではなかった。 「ああ、ミスター・ポッター、やはりきみは若いな。そのことをわたしは忘れそうになる。 その調子で空の色も変えてもらいたいものだ。」  今度は冷たい笑い。 「きみが他人を善意にとり、愚か者を許すことができるのは、まだ痛みを経験していないからだ。 一度でも愚劣な人民の行為のせいで自分が痛烈な被害をこうむれば、そう親身な態度ではいられなくなる。 たとえばだれかのせいで自分のふところから百ガリオンうしなう経験をしてみるといい。見知らぬ百人が苦しんで死ぬことなどものの数ではない。」  クィレル先生は薄ら笑いをし、 懐中時計をローブからとりだして見た。 「ではもう出発の時間だ。ほかに話すべきことがなければ。」

 

「アズカバンから脱出するまでにぼくがどんな不可能なことをしたか、知りたくありませんか?」

 

「いや、その大半はすでに当たりがついた。友軍であれ敵軍であれ、わたしが即座に見やぶれない戦術を目にするのは貴重な機会だ。のこりの 謎ときは、そのうち一人で楽しむこととしたい。」

 

クィレル先生は両手で壁を押し、反動を使って、ゆっくりながらなめらかな動きで立った。 ハリーも優雅さには欠けるが同じようにした。

 

そして一度はあまりにおそろしくて言えなかった質問を口にした。もともとそうであることは分かりきっているのに、質問を口にすることでそれがほんとうになってしまうような気がしていた。

 

「ぼくはなぜ、同じ年齢の子どものように、子どもらしくないんでしょうか。」

 

◆ ◆ ◆

 

人けのないダイアゴン小路の裏道。〈消滅〉させられないままの塵芥が、煉瓦の道とまわりの建て物の装飾のない煉瓦壁が重なる線にそって、かたまっている。土や泥もそこかしこに見え、手が行きとどいていないことがわかる。そこに老人と不死鳥が〈現出(アパレイト)〉した。

 

老人はすでにローブのなかに手をいれて砂時計をとりだそうとしている。同時に、いつもの習慣で、道と壁の適当な一部分をぱっと見て、記憶しようとする——

 

だが思わぬ発見に目をしばたたかせる。視線のさきに羊皮紙の切れはしが一枚、落ちていた。

 

アルバス・ダンブルドアは眉間にしわを寄せて一歩ふみだし、丸められたその羊皮紙を手にとり、ひらいた。

 

そこに書かれていたのは『よせ』という一言だけだった。

 

ゆっくりとそれを指のあいだから落とし、足もとの煉瓦に手をのばして、もうひとつの羊皮紙の切れはしを手にとった。 それはさきほど手にしたばかりの切れはしととてもよく似ていた。 杖で軽くたたくと、そこに『よせ』という文字がうかびあがった。さきほどとおなじ、ダンブルドア自身の筆跡だ。

 

ダンブルドアは三時間さかのぼって、ハリー・ポッターがダイアゴン小路に到着した時刻に行くつもりでいた。ダンブルドアはすでに、とある装置を通じて、ハリー・ポッターがホグウォーツを出たことを目撃しているので、それをなかったことにはできない。 (自分から見て変化のない範囲で〈時間〉を操作しようとして、その装置をごまかそうとしてみたところ、かなりの大惨事になってしまったので、そういうトリックは二度と使わないことにした。) できれば到着したその瞬間にハリー・ポッターをさらって、どこか安全な場所へ……例の装置上でハリー・ポッターが見えなかったことと矛盾しないよう、どこか学外の場所へ移送したいところだ。しかし、こうなっては——

 

「ダイアゴン小路に到着した瞬間にハリー・ポッターを保護してしまうとパラドクスが発生する、ということか? つまり、犯人はハリー・ポッターが到着したことを確認してから、アズカバンを襲撃する判断をしたのか……それとも……あるいは……」

 

◆ ◆ ◆

 

ペンキ塗のコンクリート壁、かたい床、高い天井。人影が二人、対決の姿勢をとっている。 一人は三十代後半の男のすがたで、すでに頭髪が後退している。もう一人は十一歳の少年のすがたで、ひたいにいなづま形の傷あとがある。 氷のような、薄暗く青白い光がそれを照らす。

 

「なぜなのかは知らない。」と男が答えた。

 

少年はただじっと男を見てから言った。 「へえ?」

 

「これは本心だ。わたしはなにも知らない。推測していることならいくつかあるが、話すつもりはない。 ただ、ひとつ言っておくとすれば——」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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61章「スタンフォード監獄実験(その11)——機密と開示」

緑色の炎をくぐりぬけ、回転の感覚とともに〈煙送(フルー)〉網のなかをかけめぐるあいだ、ミネルヴァは十年と三カ月ぶりに恐怖で動悸がした。空間と空間のすきまから二人が吐きだされて着いた場所はグリンゴッツの玄関ホール。ダイアゴン小路内でもっとも安全かつ傍受されにくい〈煙送(フルー)〉の受け口だ。また、不死鳥をのぞけば、ホグウォーツから出入りするにはこの方法がもっとも速い。 ゴブリンの係員が二人のほうを向いて目を見はり、少しだけ敬意のこもった礼をしようとする——

 

決意(determination)照準(destination)注意(deliberation)

 

そして二人は〈メアリーの店〉の真裏の小路に到着した。二人ともすでに杖を手にかまえ、背中をあわせている。セヴルスは〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)防止の呪文の詠唱をはじめている。

 

路上にはだれもいない。

 

セヴルスに目をやると、彼はすでに杖を自分のあたまにあてていた。不可視化の呪文がセヴルスの口にのぼると同時に卵が割れるような音がして、 セヴルスはにじんで見える輪郭だけをのこし、背景とおなじ色になった。その輪郭も背景に完全にとけこんで、すっかり見えなくなった。

 

ミネルヴァは杖をおろし、自分にも〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)をかけてもらうため、一歩まえに出た——

 

そこで背後から、炎が破裂するときの音が聞こえた。聞きまちがえようのないあの音だった。

 

ふりかえるとアルバスがいた。長い杖をすでに右手にかまえ、 半円形の眼鏡の奥の目を曇らせている。肩のうえのフォークスは火の色の羽をひろげ、いまにも飛びたちそうな姿勢だ。

 

「アルバス! なぜあなたが——」  ついさっきアルバスはアズカバンに向けて出発したところだったし、不死鳥でさえこれほど速くもどってはこれないはずだ。

 

そこでミネルヴァは気づいた。

 

「脱獄は成功した。おぬしの〈守護霊(パトローナス)〉はどうなった? 連絡はとれたか?」

 

動悸がはげしくなり、血管のなかで恐怖が凝集する。 「ここのトイレにいる、という返事でした——」

 

「そのことばが事実であることを願う。」と言ってアルバスは彼女のあたまを杖でたたいた。そこから水がしたたるような感覚がして、一息おいてから三人と一羽はレストランの正面に急行した(やはり透明にされたフォークスのあとには、ごくたまに火の粉がちらついた)。三人は扉のまえで一度とまり、アルバスがなにかをささやいた。すると窓のむこうで客の一人がぼーっとした顔で立ちあがり、扉をひらいて外を確認し連れがいないかたしかめるような動作をした。一行はその隙になかへはいり、どの客にも気づかれないまま(客の顔はセヴルスが照合し、不可視化している客がいればアルバスが見やぶっている)トイレの標識を目ざす——

 

トイレの印がついた古い木製の扉をいきおいよく開いて、救出隊の一行は内部へ突入した。

 

よごれのない小さな室内は無人だった。洗面台にまだあたらしい水滴がいくつかあるが、ハリーのすがたはない。かわりに便器のふたの上に紙が一枚、置かれていた。

 

ミネルヴァは息ができなくなった。

 

紙が空中を飛び、アルバスが受けとる。つぎの瞬間、それがミネルヴァのまえに渡されてきた。

 

Mへ——帽子がぼくを通じてあなたに伝えさせたメッセージの内容は?

 

——Hより

 

「あ……」とミネルヴァはおどろきをそのまま口にした。質問の意味が一瞬理解できなかった。もちろん忘れようのないことではあるが、思えば()()()()で思考するのは、ずいぶん久しぶりのことだった—— 「ひとの邪魔をするな、ずうずうしい小娘め、と。」

 

「なに?」となにもないところからアルバスの声がした。柄になくショックを受けたかのような声だった。

 

そして便器のとなりの空間にハリー・ポッターのあたまが出現した。冷たく緊迫した表情で、ミネルヴァはハリーがときどきこのように大人びすぎた顔をすることを思いだした。その目は周囲を急がしく確認している。

 

「いったいなにが起きたんです——」と少年が口火をきった。

 

アルバスは自分とミネルヴァとフォークスの目くらましを解き、すぐに前へ出て、左手でハリーのあたまから髪の毛を一本ちぎった(ハリーはびくりとして声をあげた)。ミネルヴァがそれを手で受けとり、アルバスは大半が見えないままの少年を両腕でさらい、赤色と黄金色の光が一閃した。

 

これでハリー・ポッターは安全だ。

 

ミネルヴァは数歩すすんで、アルバスとハリーがいた位置の壁に身をあずけ、気を落ちつかせようとした。

 

〈不死鳥の騎士団〉が解散してから十年。その間彼女はすっかり、ある種の……行動様式をとることがなくなっていた。

 

となりで、セヴルスがすがたをあらわした。 右手にはすでにローブからとりだされた小瓶があり、左手はミネルヴァにむけて『寄こせ』と言っている。 ハリーの髪の毛をわたすと、そのままそれが作りかけの〈変身薬(ポリジュース)〉の小瓶のなかへ落とされた。すぐにぶくぶくと音をたて泡がたち、やがて〈変身薬〉は完成した。セヴルスがこれを飲んで囮を演じることになっている。

 

「意外ですな……。どうせ〈時間〉をゆがめるのなら、なぜ総長は()()()()()()()()()ミスター・ポッターを保護しなかったのか。 そうできない理由はあるまい……そもそも、あなたの〈守護霊〉がミスター・ポッターの身の安全を確認していたのであれば……」

 

ミネルヴァはそこまで考えがおよんでいなかった。それとは別のことに気をとられ、あたまがいっぱいになってしまっていた。 ベラトリクス・ブラックのアズカバン脱獄のニュースとくらべれば、恐るるにたりないことではあるが——

 

「いつのまにハリーが()()()()()()()を持っていたのですか?」

 

〈薬学教授〉は答えず、かわりに身をちぢめた。

 

◆ ◆ ◆

 

カチッ、コチッ、ポタッ、ピッ、リンリンリン——

 

慣れれば無視できるようになったとはいえ、やはりこの騒音は気になる。 仮にミネルヴァ自身が総長になることがあれば、ぜんぶまとめて〈消音〉してやりたいものだ。 どの代の総長が最初に、()()()()装置を後任者にのこすという暴挙をはじめたのだろうか。

 

彼女はいま総長室にいる。〈転成術〉(トランスフィギュレイション)でしつらえた机と椅子を使って、この学校を崩壊させないための細ごまとした書類仕事をしている。 この手の仕事は没頭しやすく、ほかのことを考えずにすむのがありがたい。 一度アルバスから、ずいぶんと皮肉な調子で『ミネルヴァが逃避のためにこうして仕事するから、外部に危機があるときほどホグウォーツの運営の瑕疵が減る』言われたこともある……

 

……最後にそう言われたのは、十年まえのことだった。

 

訪問者を知らせる鐘の音がなった。

 

ミネルヴァは手にしていた羊皮紙を読みつづけた。

 

扉が大きな音をたててひらき、セヴルス・スネイプが乗りこんできた。三歩なかにはいると、いっさい間をおかずにたずねる。 「マッドアイからなにか連絡は?」

 

もう椅子から腰をあげていたアルバスが口をひらいた。その横でミネルヴァも羊皮紙をしまい、机の魔法を解いた。 「ムーディの〈守護霊〉はアズカバンにいるほうのわしに連絡してきている。 あの〈眼〉はなにも見ていない。そしてなにかが〈ヴァンスの眼〉で見えないのなら、それは存在しないということ。 そちらの進展は?」

 

「さいわい、血をねらってわたしを襲うような輩は……」と言ってセヴルスは笑みをしつつ顔をしかめた。 「〈防衛術教授〉だけでした。」

 

「え?」とミネルヴァ。

 

「こちらから声をかける間もなく、彼はわたしが偽物であると看破して、無理もないことだが即座に攻撃してきた。そして『ミスター・ポッターの居場所を明かせ』と迫った。」  セヴルスはもう一度顔をしかめた。 「……わたしはセヴルス・スネイプだと釈明しはしたのですが、なぜか向こうはあまり安心する気配がなく。 あの男は一シックルも渡されればよろこんでわたしを殺し、五クヌートの釣りを返すでしょう。 そこでやむをえずわたしは失神呪文を——だいぶ苦労してですが——当ててやりました。それが変に効きすぎてしまったらしい。無論『ハリー・ポッター』は動揺した様子でそこを出て、店主の助けを呼び、クィレル先生は聖マンゴ病院へと送られました——」

 

「聖マンゴ病院ですって?」

 

「——癒者の見立てでは、おそらく何週間もの過労がたたって、困憊した状態にあったせいで倒れたのだろうとのことです。 ああ、大切なあのかたのことがご心配ですか。わたしが失神させたおかげで、数日休みをとらせることができたのですから、結果的によかったかもしれません。 その後わたしは〈煙送(フルー)〉の申し出をお断りして、ダイアゴン小路にもどり、ぶらついてみましたが、今日のところはミスター・ポッターの血をねらう輩はいないようでした。」

 

「あそこの癒者であれば、なにも案ずることはない。ミネルヴァ、いまは喫緊の問題に集中しよう。」とアルバス。

 

集中しようにもかなりの努力を要したが、ミネルヴァはともかく席にもどった。セヴルスも手振りをして椅子をしつらえ、三人の会議がはじまった。

 

ミネルヴァは自分が〈変身薬〉を使ってまぎれこんだ偽物のように思えた。この二人とちがって、 彼女は戦争や謀略に秀でていない。 ウィーズリー兄弟のたくらみの先手を打つくらいがやっとであり、それすらうまくいかないこともあった。 なぜ自分がここにいるのかといえば、つきつめれば、あの予言を聞いた一員であるからにすぎない……

 

アルバスが話しだした。「われわれはただならぬ謎に直面している。あのような脱獄をやりのける能力のある人物は、わしには二人しか思いあたらぬ。」

 

ミネルヴァははっと息をのんだ。 「〈例の男〉()()()可能性もあるのですか?」

 

「それも想定せざるをえない。」

 

となりに目をやると、セヴルスも同様に困惑しているようだった。 〈闇の王〉がもどってきたのではないという可能性を考えたくないとでも言うのか。 むしろ手ばなしでよろこぶべきところではないか。

 

「では……第一の被疑者、ヴォルデモートが再来し復活しようとしている可能性を考えよう。 これまでにわしは読んだことを後悔する本をいくつも読んだ結果、ヴォルデモートにとっての復活の手だてを三つ、探りあてることができた。 もっとも効果的なのは〈賢者の石〉を使う方法じゃが、フラメルの考えではヴォルデモートでもこれを自作することはできない。 成功すれば以前以上に強大なちからを手にできるとあれば、ヴォルデモートはその存在を無視することはできまい。さらに明からさまな罠が挑戦状のように用意されたとあれば、なおさら誘惑は強くなるはずじゃ。 もうひとつの方法も、〈賢者の石〉に劣らぬ効力がある。それはすすんで差しだされた従者の人肉、力づくで奪った敵の血、ひそかに遺贈された先祖の骨を必要とする。ヴォルデモートほどの完璧主義者であれば——」  アルバスの視線を受けて、セヴルスが首肯した。 「——もっとも強力な組み合わせである、ベラトリクス・ブラックの肉、ハリー・ポッターの血、父親の骨を目指すであろう。 最後にもうひとつ、誘惑してとらえた犠牲者から長い期間をかけて生命力を吸いとるという方法がある。 この方法ではヴォルデモートは弱体化したかたちでしか復活できない。 ベラトリクスが連れ去られた理由はあきらかじゃ。 そしてもしそれが〈石〉が手にはらない場合のための予備の策にすぎないとすれば、まだハリーを誘拐しようとしていないことにも説明がつく。」

 

もう一度セヴルスを見ると、熱心に耳をかたむけながらも、おどろいてはいないようだった。

 

「そこまではよい。説明がつかないのは、()()()()()この脱獄がなしとげられたか。 死人形が一体、ベラトリクスの身がわりに残されていた。ここから、だれにも気づれずにあの脱獄をやりとげようという思惑が読みとれる。 その思惑は結果的に破綻したが、最初の発覚以後、どのディメンターにも彼女の居場所はわからなかった。 ヴォルデモートはどんな手段を使って、何百年も不落の要塞アズカバンを攻略したというのか。わしには想像がつかぬ。」

 

「そうこだわることもないのでは。」とセヴルスが無感動な声で言う。 「〈闇の王〉がわれわれの想像の範疇を越えることをしたとしても、ただわれわれより想像力にすぐれていたというだけのことでしょうから。」

 

アルバスは深刻な表情でうなづいた。 「残念ながら、ここにもう一人、さまざまな不可能をものともしない魔法使いがいる。 それは比較的最近にみずからが発明した強力な〈魔法(チャーム)〉を使って、ディメンターの目をくらませ、ベラトリクス・ブラックをかくまうこともできたであろう人物でもある。 そして別の理由での嫌疑さえある。」

 

ミネルヴァは心臓が止まる思いがした。なぜそうなるのかはともかくとして、アルバスの言うのがだれのことなのかがぴんときて、戦慄した——

 

「そんな人物がどこに?」とセヴルスが困惑した声で言った。

 

アルバスは椅子に背をあずけ、確定的なひとことを言った。彼女が恐れたとおりの答えだった。 「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス。」

 

「ポッター?」  セヴルスはいつものなめらかの調子と一転した、ショックを隠せない声で言う。 「またいつものご冗談ですか? あれはまだ一年生です。 ときどき癇癪をおこし、不可視のマントを使って子どもじみたいたずらをするくらいがせいぜいで、とてもとても——」

 

「冗談ではありません。」とミネルヴァはささやき声に近い声で言う。 「ハリーはすでに〈転成術〉に関する新発見をしました。 〈操作魔法術(チャームズ)〉の研究もしていたとは初耳でしたが。」

 

「ハリーは尋常な一年生ではない。」と総長が厳粛に言う。「〈闇の王〉にならぶ者としての印があり、〈闇の王〉の知らぬちからを持っている。」

 

セヴルスがミネルヴァに視線をむけた。セヴルスのことをよく知る彼女には、それが懇願の意味の視線であることが分かった。 「あれは真剣な話ですか。」

 

ミネルヴァは首肯した。

 

「その強力な魔法とやらの存在を知る者が、われわれ以外にもいるのですか。」とセヴルスが問いつめた。

 

総長は申し訳なさげにミネルヴァのほうをみた——

 

なにを言いたいのか、不思議と聞くまでもなく理解できた。理解できたので、ミネルヴァは全力でさけびだしたくなった。

 

「クィリナス・クィレルが知っておる。」

 

室内の装置の半数を溶かしかねないほどの声がでた。 「ミスター・ポッターがあのかたに、この新型呪文を使えば囚人を脱獄させることができる、と話したとでもいうのですか。どこにそんなことをする理由が——」

 

総長はしわだらけの手を、やはりしわだらけのひたいに乗せた。 「クィリナスはたまたまその場にいあわせた。当時はわしも、そのことに問題があろうとは思わなかった……。 ハリーはあの呪文は危険すぎると言って、クィリナスにもわしにも詳細を話そうとしなかった。 今日あらためて確認しておいたが、クィリナスにもまだ話していないそうじゃ。彼のまえで〈閉心術〉の障壁をといたこともないということも確認した——」

 

「いつからミスター・ポッターが〈閉心術〉を? あの子はあなたから不可視のマントを受けとったのみならず、〈真実薬〉に抵抗することもでき、()()()()()()()()()()()()()()()()。アルバス、これがこの学校にとってどれだけの脅威をもたらすことか、おわかりですか?」  ミネルヴァの声はもはや悲鳴になった。 「あの子が七年生になるまでに、この学校そのものがあとかたもなく消し炭と化していることでしょう!」

 

アルバスは大きなクッションつきの椅子に背をあずけ、笑顔でこたえた。 「〈逆転時計(タイムターナー)〉もお忘れなく。」

 

今度はほんとうに悲鳴をあげた。小声ではあるが。

 

セヴルスがあざ笑った。 「おまけに〈変身薬(ポリジュース)〉の調合も教えておきましょうか? あの迷惑者への援助をまだし足りなければですが。」

 

「それは来年のお楽しみとしよう。諸君、問題はベラトリクス・ブラックをアズカバンから連れだしたのがハリー・ポッターであるか否か。もしそうであれば、いくら寛容なわしでも、若気のいたりですますわけにはいかぬ。」

 

「僭越ながら……」と言ってセヴルスは(ミネルヴァの知るかぎりでは)アルバスのまえであまりしないたぐいの、とげのある笑みを見せた。 「私見を申し上げれば、否。 これは〈闇の王〉のしわざ以外のなにものでもありません。」

 

「であればなぜわしは……」とアルバスは笑いのかけらもない声に切りかえた。 「ダイアゴン小路に到着してすぐの時点でハリーを保護しようとしたとき、それがパラドクスの原因になると知らされたのか?」

 

それを聞いてミネルヴァは椅子に一段と深く沈みこみ、クッションのない肘掛けに左肘を乗せ、片手であたまを支え、目を閉じ、絶望的な気分になった。

 

狭い範囲内でしか知られていないが、『〈逆転時計〉が関係する犯罪を捜査する能力のある〈闇ばらい〉は三十人に一人しかいない』という格言があり、その後段には『数少ないその〈闇ばらい〉のうち半数は発狂していて、残り半数もいずれ発狂する』とある。

 

「つまりあなたの考えでは……」と言うセヴルスの声が聞こえる。 「ポッターはダイアゴン小路を出てアズカバンに移動し、時間をさかのぼってからダイアゴン小路にもどった。そのタイミングでわれわれが保護した、ということですか——」

 

「まさしく。ただしもちろん、ヴォルデモートかその手下がハリーを待ちかまえていて、到着を確認してからアズカバン襲撃を開始した……そして〈逆転時計〉を持つだれかに襲撃成功のメッセージをとどけさせるようにしておき、メッセージがとどいたのを見て誘拐をおこなった、という可能性もある。 いや、その可能性をうたがったからこそ、おぬしらをこちらに派遣して、わしはアズカバンに乗りこむ、ということにしたのじゃ。 脱獄が成功することはあるまいと見こんではいたが、ハリー・ポッターを保護できたということが脱獄失敗という情報を知ることに相当するのであれば、わし自身がハリー・ポッターと顔合わせしてからアズカバンに乗りこむことはできなくなる。アズカバンの未来がアズカバンの過去に接続することは禁じられているからじゃ。 アズカバンにいるあいだ、わしのもとにおぬしら二人からの報告もとどかず、フリトウィックを通じて連絡しようとしても答えがなかったことから、おぬしらがハリー・ポッターと接触したことがアズカバンの未来との接触を意味していたのであろうと察することができた。つまり、だれかが〈時間〉をさかのぼるメッセージを送っていたにちがいないと——」

 

アルバスの声が止まった。

 

「しかし、そういうあなたは、アズカバンの未来から帰ってきた。われわれと接触してもいる……」

 

セヴルスもそう言いかけて止まった。

 

「いや、もしおぬしらからハリーの無事を確認したという報告をうけていたとすれば、そもそもわしは時間をさかのぼろうと思わない——」

 

「失礼、これは図にしてみる必要がありそうです。」

 

「同感じゃ、セヴルス。」

 

羊皮紙が卓上にひろげられる音がして、羽ペンの引っかく音がして、議論する声がした。

 

そのあいだミネルヴァは椅子のなかで、手にあたまを乗せ、目を閉じていた。

 

とある犯罪者と〈逆転時計〉の話を思いだす。〈神秘部〉がひどい誤判断をして、認可してはいけない人物に〈逆転時計〉を持たせてしてしまったのだった。その謎の時間犯罪者を追跡するよう命じられた〈闇ばらい〉にも、〈逆転時計〉が持たせられた。最終的には両名とも、聖マンゴ病院の〈徹底的に不治の症例〉の病棟に送られた。

 

ミネルヴァは発狂したくないので、しっかりと目を閉じたまま、耳からはいる声も拒絶し、その話について考えないよう努力した。

 

しばらくすると議論が落ちついてきたようだったので、彼女は声をだした。 「ミスター・ポッターの〈逆転時計〉は午後九時から午前〇時までしか使えないように制限されています。保護ケースのその機能は改竄されていましたか?」

 

「わしの呪文で検知できるかぎり、そういうことはない。しかしあの保護ケースはまだ作られたばかりでもある。〈無言局〉が用意した予防措置を無効化したうえで無事に見せかけることも……不可能ではないかもしれぬ。」

 

目をあけると、セヴルスとアルバスが羊皮紙に熱心に見入っていた。一面に線がのたくっているあれを理解しようとすれば確実に自分は気が狂うだろうと思えた。

 

「なにか結論はおありですか? 結論にいたる筋道についてはどうか説明しないでください。」

 

二人はたがいを見合ってから、彼女のほうを見た。

 

「結論としては……」と総長が深刻そうに言う。 「ハリーが関与した可能性もあり、関与していない可能性もある。ヴォルデモートが〈逆転時計〉を利用した可能性もあり、利用しなかった可能性もある。 ただ、アズカバンの件の真相がなんであるかによらず、わしにとっての過去である未来でムーディがリトル・ハングルトン墓地を監視していたが、その期間、墓地をおとずれた者はなかった。」

 

「簡単に言えば……」とセヴルスがもったいを付けて言う。「なにも分かっていない、ということですよ。 とはいえ、なんらかのかたちで犯人がわが〈逆転時計〉を使った可能性は高い。 個人的には、ポッターが買収か罠か脅迫を受けた結果、時間をさかのぼってメッセージを送らされたのではないかと思う。もしかすると脱獄が成功したことそのものを知らせたのかもしれない。 その場合、裏で糸を引いたのがだれであるかは、言うまでもなくお分かりでしょう。 ポッターに今夜九時から六時間目いっぱいの時間逆行をさせ、午後三時にもどれるかどうか試してみてはいかがでしょう。そうすれば、彼の〈逆転時計〉がそれまでに使用されていたかどうかの検証になる。」

 

「いずれにせよその検証はしておいたほうがよさそうじゃ。では頼む、ミネルヴァ。そしてそのあとでハリーに、都合がつくときに総長室に来るようにと。」

 

「それでもまだ、ハリーが直接脱獄にかかわった可能性もうたがっていらっしゃるのですね?」

 

「うたがいはあるが、見こみ薄でしょうな。」

「うたがっておる。」

 

ミネルヴァは自分の鼻のすじをつまみ、一度深呼吸をした。 「アルバス、セヴルス……いったいなんの()()があってミスター・ポッターがそんなことをするというのです!」

 

「理由は分からぬ。しかしいまのところ、ハリーの魔法以外にあれを実現する手段はないように思える——」

 

「いや……」と言ってセヴルスが完全に表情をうしなった。 「ちょっとした心あたりが。まず確認せねば——」と言い、〈煙送(フルー)〉の粉をひとつまみし、暖炉のまえまで歩いていき——そこにアルバスがあわてて杖で火をつけ——緑色の炎が燃えあがったところに「スリザリン寮監室」と命じて、セヴルスは消えた。

 

ミネルヴァとアルバスはおたがいを見てから、肩をすくめた。それからアルバスは羊皮紙の図をながめはじめた。

 

わずか数分後、セヴルスが〈煙送(フルー)〉で帰ってきて、灰をはらいながら席にもどった。

 

「さて……」とまた感情のない顔でセヴルスが言う。「残念ながら、ミスター・ポッターには動機がありました。」

 

「つづけよ。」とアルバス。

 

「さきほどスリザリン談話室に行き、そこで勉強中のレサス・レストレンジを見つけました。 わたしと目をあわせるのにとくに抵抗はないようでした。 彼はアズカバンにいる自分の両親が冷気と暗黒のなかでディメンターに生命を吸われて、日々苦しみつづけているという事実を気に病んでいる。そしてそのことをミスター・ポッターに話したことがあるばかりか、アズカバンから二人を出してくれと懇願したこともある。 ミスター・レストレンジは〈死ななかった男の子〉ならなんでもできるという噂を聞いていて、そこまでの行動に出たのです。」

 

ミネルヴァとアルバスはおたがいをちらりと見た。

 

「セヴルス……いくらハリーでも……そこまで非常識ではないでしょう……」

 

ミネルヴァはそれ以上なにも言わなかった。

 

「ミスター・ポッターは自分が〈神〉だと思っている。その彼のまえでレサス・レストレンジは土下座をして、必死に祈りをささげた。」

 

そう言うセヴルスをじっと見て、ミネルヴァは不吉な予感をおぼえた。 宗教が原因となって、マグル生まれの子を持った親に〈記憶の魔法〉をかけざるをえなくなることは多い。その関係で以前マグルの宗教について調べたことがあったので、セヴルスの発言の意味がよく分かった。

 

「それはともかく、ミスター・レストレンジの精神のなかを見て、母親の脱獄についてなにか知っているかも調べましたが、 まだ脱獄したことすら知りませんでした。 しかしそうと知ればすぐに、ハリー・ポッターのしわざであると確信することでしょう。」

 

「なるほど……いい知らせをありがとう、セヴルス。」

 

「いい知らせですって?」

 

アルバスがこちらに顔をむけた。その顔がセヴルスとおなじくらい無表情になっているのを見て、雷に打たれたような気がした。そうだった。そういえばアルバス自身の—— 「ベラトリクスをアズカバンから連れだす理由としてそれ以上よいものは考えられん。 そしてこれがもしハリーのしわざでなければ、まちがいなくヴォルデモートの再来の第一手であろう、ということを忘れないようにしたい。 とはいえ、まだわれわれの知らない情報は多い。判断をするのは、いずれ来る情報を待ってからにしよう。」

 

アルバスがもう一度机のむこうで立ちあがり、燃えつづけている暖炉のまえに行き、緑色の粉をひとつまみして、炎のなかにかがみこんだ。「〈魔法法執行部〉長官室。」

 

すぐに、きっぱりとした口調のマダム・ボーンズの声が聞こえてきた。 「アルバス、なにかご用? この忙しいのに。」

 

「アメリア、伏してお願いする。この件に関しておぬしのもとにとどいた情報があれば、どうか開示していただきたい。」

 

しばらく間をおいてから、マダム・ボーンズの冷たい声が炎のなかから聞こえてきた。 「ということは、もちろん相互の開示なんでしょうね?」

 

「場合によっては。」

 

「またあなたが出しおしみするせいで部下が一人でも死んだら、しっかりと責任はとっていただきますから。」

 

「わかっておる。ただ、不要不急の警戒と疑念を起こさせることもあるまいと思ったまで——」

 

「あのね、ベラトリクス・ブラックがアズカバンを脱獄したというこの事態で、 いったいなにが不要不急の警戒と疑念になるんですかね?」

 

「今後の展開如何によっては、おぬしの言うとおりにもなろう。 もし真に懸念すべきことだと分かれば、しっかりと連絡する。 どうかいまは、この件についてすこしでも知りえたことがあれば、開示をお願いしたい。」

 

また間があいてから、マダム・ボーンズの声が言った。 「情報はある。けれどこれは四時間さきの未来から来ている。それでも聞きたい?」

 

アルバスはしばらく無言になり——

 

(比較衡量をしているのだろう、とミネルヴァは読みとった。問題は、現時点から二時間以上さかのぼりたくなる事情が発生しそうかどうか。〈逆転時計〉をいくつどのように組み合わせて使おうが、六時間を越える時間差で未来から過去へ情報が送られるような使いかたは不可能なのだ。)

 

——やっと返事をした。「聞かせていただきたい。」

 

「運よく突破口が見つかった。あの現場で脱出を目撃した部下の一人がマグル生まれだったの。 そしてわたしたちが〈火炎飛行〉の呪文と呼んでいたあれは、多分呪文ですらなく、マグル世界の製品だろうと証言した。」

 

腹を痛烈に殴られたような思いがした。からだの奥にあった不吉な予感も倍加した。 〈カオス軍団〉の戦法を思いだせば、だれが疑わしいかはもう言うまでもない……

 

マダム・ボーンズの声がつづける。 「応援としてマグル製品不正使用取締局のアーサー・ウィーズリーを呼んで——この分野で彼以上の専門家はいないので——現場にいた〈闇ばらい〉からあつめた証言を聞かせたところ、はっきりしました。あれは『ロッカー(rocker)』という名前のマグル製品で、頭のネジが飛んでる(off your rocker)人じゃないと使えないからそういう名前がついてるらしい 。 わずか六年まえには一度ロッカーが爆発して大事故になって、マグルが何百人も死んで、月が火事になりかけたりもした。ウィーズリーの説明では、ロッカーは反撃作用という特殊なマグル科学の原理で動いているそうだから、その種類の科学を抑制する呪文を開発して、できしだいアズカバン周辺にかける予定。」

 

「ありがとう、アメリア。」とアルバスが深刻な声で言う。「それ以外にはなにか?」

 

「六時間さきの未来からの新情報があるかもしれない。あったとしてもわたしへの報告はこないようにしてあるから、あなたに直接伝えさせるようにする。 それで、そちらから提供いただける情報は? 二人いるという候補のうち、どちらの確度があがった?」

 

「まだ言えることはない……が、遠からぬうちにまた連絡するかもしれん。」

 

そう言ってアルバスは暖炉から立ちあがり、暖炉の炎が黄色にもどった。 顔のしわに、この老人が生まれてからいままでに過ぎた天然ものの歳月にくわえ、〈逆転時計〉に可算された時間、そしてもう数十年ぶんに相当する負荷が見てとれた。

 

「セヴルス? あれは正確にはどういうことじゃ?」

 

ロケット(rocket)ですな。」  半純血の彼はマグル世界に属するスピナーズ・エンドで育ったので、この手の知識がある。 「精巧なマグル技術であることはまちがいない。」

 

「ハリーがそういった分野を学んでいる可能性はどれくらいありますか?」とミネルヴァ。

 

セヴルスは皮肉に笑った。 「ああ、ミスター・ポッターのような少年なら、ロケットについてはそれはもう隅から隅まで学習ずみでしょうな。 マグル世界にはわれわれのような風習はないのですから。」  そう言ってから眉をひそめる。 「しかしロケットとなると、危険性は無論、費用もかさむもの……」

 

「ハリーはグリンゴッツの自分の金庫からすでに大金を盗んで隠しもっている。金額はさだかではないが、おそらく数千ガリオンにのぼる。」とアルバスが割りこみ、二人の視線を受けとめた。 「そうなってしまったのはわしの手違いじゃ。ハリーがクリスマスプレゼントを買うために五ガリオンを引き出しに行くとき、迂闊(うかつ)にも〈防衛術教授〉を監督者としてしまった……」  肩をすくめる。 「分かっておる。いま考えればどうしようもない迂闊さじゃ。とにかく話をつづけよう。」

 

ミネルヴァは椅子の頭支えの部分にゆっくりと何度か頭を打ちつけた。

 

「一点申し上げるとすれば……」とセヴルスが言う。「このまえの戦争で〈死食い人〉がマグル技術を使わなかったからと言って、あの男がその方面に無知だとはかぎりません。 グリンデルヴァルトの戦争のうちマグルがわの部分ではロケットが使われました。ブリテンにも兵器として落とされたことがあります。 あなたの話では、彼はあの時代にマグルの孤児院で過ごした時期があるという……。ならばロケットのことはもちろん知っていたはずです。 模擬戦でミスター・ポッターがマグル製品を使ったという話も、聞きおよんでいたかもしれません。そうなれば当然敵の戦術を取りいれて、倍にして利用しようともするでしょう。 あれはそういう男です。使えそうな能力はなんであれ自分のものにしようとする。」

 

それを聞いているあいだ、老魔法使いは立ったまま微動だにせず、ひげの一本一本すらも凍りついて固まったかのようだった。 そしてミネルヴァは考えたこともないほど恐ろしい可能性に思いあたった。アルバス・ダンブルドアはいま、恐怖で立ちすくしているのではないか。

 

「セヴルス……」と声にならない声でアルバス・ダンブルドアが言う。「いま自分がなにを言ったか分かっているか? ハリー・ポッターとヴォルデモートがつぎの戦争でたがいにマグル兵器を持ちだせば、全世界が火に飲みこまれてしまう!」

 

「え?」とミネルヴァは口にした。もちろん銃がどういうものかは聞いているが、あれは熟練した魔女にとって危険たりえるものではない——

 

セヴルスはミネルヴァを無視するように話をつづけた。 「であれば、おそらくあちらもまったく同じように考えて、ハリー・ポッターへの警告としてこういうことをしているのでしょう。 『そちらがマグル兵器を使うなら、こちらもマグル兵器で報復する』と。 これからマグル技術(テクノロジー)を模擬戦で使ってはならない、とミスター・ポッターに命じてください。 そうしておけば、こちらがメッセージを理解したという意思表示にもなり……あちらにこれ以上アイデアをあたえてしまうこともなくなる。」  眉をひそめる。 「よく考えると、ミスター・マルフォイにも——ああ、無論ミス・グレンジャーにも——いや、いっそ、テクノロジーを全面的に禁ずるべきでしょうな。」

 

老魔法使いは両手をひたいに押しあてた。とぎれがちな声で話しだす。 「今回の脱獄がハリーのしわざであることを祈りたくなってきた……。マーリンよ、どうかご加護を。わしはなんということをしてしまったのか。世界はどうなってしまうのか……?」

 

セヴルスは肩をすくめた。 「管見のかぎりで申しあげれば、ある種の()()な魔術もなかなか始末が悪いかと……。たしかにマグル兵器はそれ以上に凶悪ですが、そう大きな差ではないでしょう——」

 

「それ以上に凶悪?」と言ってミネルヴァは息をのみ、それからだれかに口を閉じさせられたかのように閉じた。

 

「この衰亡の時代の魔術とくらべれば、そうなるのじゃ。かつてアトランティスを〈時間〉から消滅させた魔術とくらべているのではない。」

 

ミネルヴァはアルバスをじっと見ながら、背すじに汗がふきだすのを感じた。

 

セヴルスがまたアルバスにむけて、話をつづける。 「あのころの〈死食い人〉も、ベラトリクスを別とすれば、そう盲目的にしたがっていたのではない。もしもあの男が真に危険な能力を無思慮にふるまったとしたら、支持者も離反し、世界じゅうの勢力が彼を打倒すべく結集したことでしょう。今回も同じことではありませんか?」

 

老魔法使いの顔にいくらか色と動きがもどった。 「そうかもしれぬ……」

 

「ともかく……」と言ってセヴルスは少しだけ優越感のある笑みをした。 「マグル兵器はそう軽がるしく入手できるものではない。費用も何千ガリオンや何百万ガリオンどころではありません。」

 

でもハリーはそういうものをいくつも〈転成術〉で作って模擬戦で使っていたじゃありませんか、とミネルヴァは思ったが、それを口にしようとした瞬間に——

 

暖炉に緑色の炎が燃えあがり、マダム・ボーンズの助手パイアス・シックネスの顔が出現した。 「主席魔法官(チーフウォーロック)、よろしいですか? ある情報をお届けにあがりました。これは——」  シックネスの目がミネルヴァとセヴルスをちらりと見る。 「六分まえに送信されたものです。」

 

「六時間さき、ということかな。」とアルバスが言う。「こちらの二人もその情報に接する立ち場にある。つづけなさい。」

 

「謎がとけました。ベラトリクス・ブラックの監房の隅に隠されていた薬の小瓶がありましたが、なかの残留物を試験したところ、〈動物師(アニメイガス)〉の(ポーション)であることが分かりました。」

 

長く間があいた。

 

「そういうことか……」とアルバスが陰鬱な声で言った。

 

「どういうことですか?」とミネルヴァ。

 

シックネスのあたまがミネルヴァのほうを向いた。 「マダム・マクゴナガル、ディメンターはアニメイガス形態にある術師にあまり興味を示さないのです。 囚人がアニメイガスである場合にそなえて、アズカバンの収監前検査があります。そこで囚人はかならずアニメイガス形態を破壊されます。 しかし囚人がアズカバンに()()()()()()()()、〈守護霊の魔法〉に守られ、ポーションを飲み、瞑想をして、アニメイガスになれるかもしれない、というのは想定外でした——」

 

「わたしの理解では、その術の瞑想の部分にはかなりの時間を要するはずだが。」とセヴルスがお決まりの嘲笑の表情をまとってから言った。

 

「ベラトリクス・ブラックは元〈動物師(アニメイガス)〉だったことが記録上わかっていましてね。」とシックネスも不しつけな態度をとった。「アズカバンの刑を宣告された際に、破壊措置を受けています。 つまりこれは()()()の瞑想であったということになり、二度目であれば、短縮できていてもおかしくないかと。」

 

「アズカバンの囚人にそのようなことができようとは思いもしなかったが……」とアルバスが言う。 「ベラトリクス・ブラックは収監まえには大変有能な魔女じゃった。それをやりのけることができる人間がいるとすれば、彼女かもしれん。 アズカバンにこの脱走方法への対抗措置を組みこむことはできるのか?」

 

「できます。専門家の見解では、どれだけ過去に経験を積んでいようとも、三時間未満の時間でアニメイガスの瞑想を完了する可能性は皆無です。 今後は外部からの面会時間の上限は二時間までとし、監房区域で〈守護霊の魔法〉が二時間以上おこなわれた場合にはディメンターがわれわれに報告するようにします。」

 

アルバスは不満があるような顔だったが、うなづいた。 「なるほど。無論同一の手段がまた使われることはないと思うが、油断は大敵じゃ。 この報告がアメリアにいった時点で、こちらから提供したい情報があると伝えておいてほしい。」

 

パイアス・シックネスの頭部は返事を口にしないうちに消えた。

 

「また使われることはない、というのは……?」とミネルヴァ。

 

「それは……」とセヴルスがまだ嘲笑を多少のこした表情で言う。 「〈闇の王〉がアズカバンにいるほかの手下も解放する気でいたのなら、あのように小瓶を置いてヒントをのこすようなことはしないからですよ。」  そう言って眉をひそめる。 「とはいえ……ではなんのためにその小瓶をのこしたのか、となると、分かりかねますが。」

 

「なんらかのメッセージではあろうが……わしにもとんと見当がつかぬ……」 と言ってアルバスは机を指でたたいた。

 

たっぷり二、三分かけて、アルバスは虚空を見つめたまま、眉をひそめた。セヴルスも無言で動かない。

 

そしてアルバスは落胆したようにくびをふった。 「セヴルス、なにか読みとれたことは?」

 

「ありません。」と言ってセヴルスは皮肉な笑みをした。 「多分それでかえってよかったのでしょう。われわれがどういう解釈をするように仕向けられていたにせよ、その部分についてはあちらが計画していたようには働かなかった、ということです。」

 

「確実に〈例の〉……いえヴォルデモートの犯行だと思っていいのでしょうか。」とミネルヴァが言う。 「ほかの〈死食い人〉がこの巧妙な策略を思いついたという可能性は?」

 

「そしてロケットのことも知っていたと? マグル学に熱心な〈死食い人〉というのは寡聞にして知りませんな。これはあの男ですよ。」

 

「同じく。ヴォルデモートにちがいない。 長年脱獄者を防いできたアズカバンが、単純なアニメイガス薬でやぶられた。 巧妙で盲点をつくトリック。これはトム・リドルの名であったころからヴォルデモートのトレードマークじゃ。 それをほかのだれかが騙ろうとしても、まずヴォルデモートに匹敵するくらい狡猾になる必要がある。 そしてなにより、わしの能力を過大評価して、わしでも読みとれないようなメッセージをうっかり置きのこしてしまうなど、ヴォルデモート以外にはありえぬ。」

 

「いや、過大評価ではなく、まさにあなたならこう考えるであろうと見越してのことだったのかもしれませんな。」

 

アルバスはためいきをついた。 「なるほど。しかしそれだけわしがみごとに罠にかけられてしまったのだとしても、ハリー・ポッターが犯人でないという点だけは、信憑性がでてきたと思う。」

 

そう聞いて安堵すべきところだったような気がするが、ミネルヴァは寒けが体内に広がっていくのを感じた。背すじから血管へ、そして肺や骨にまで。

 

これと同じような発言がかわされたことがかつてあった。

 

十年まえにも、これと同じような発言がかわされたことがあった。この国土におびただしい量の血が流され、教え子たちも何百人と殺されたあの時代を思いだす。帰るべき家を燃やされ、悲鳴をあげる子どもたち、そして飛びかう緑色の閃光——

 

「マダム・ボーンズにはなんと伝えるのですか。」とミネルヴァは小声で言った。

 

アルバスは立ちあがって机から離れ、部屋の中央にむかい、そこに立ちならぶ光の装置や音の装置に軽く手をふれていった。 そして片手で眼鏡の位置をなおし、片手で長い銀色のひげをつかんでローブの中心にくるようにしてから、やっと二人のほうに向きなおった。

 

「ホークラックスと呼ばれる、魂から死をうばいとるための〈闇の魔術〉がある。その魔術についてわしの知るかぎりのことを伝えておく。」と部屋全体にひびきわたる小声でアルバス・ダンブルドアが言う。 「従僕の人肉を使う術が使われたとすれば、なにが起きうるかも伝えておく。」

 

「〈不死鳥の騎士団〉を再建するということも伝えておく。」

 

「ヴォルデモートが再来したということ、そして。」

 

「〈第二次魔法世界大戦〉がはじまったということも。」

 

◆ ◆ ◆

 

その数時間後……

 

副総長室の壁には骨董品のような時計がかけてある。文字盤には黄金色の針と銀色の数字があり、 音もなく秒や分を刻んでいる(この時計には〈音消しの魔法〉が組みこまれている)。

 

時間を指す黄金色の針が銀色の『九』の数字に近づき、黄金色の分の針もそのあとを追う。もう間もなくこの〈時間〉の両要素は、衝突することなく重なりあう。

 

午後八時四十三分。もうしばらくしてハリーの〈逆転時計〉がひらく時間になれば、その使用歴を検証する手はずとなっている。いかに高度な技術技能、魔法をもってしても、一日の長さが七時間ひきのばされることはありえない。その〈時間〉の法則がねじまげられないかぎり、この検証方法があざむかれることもありえない。 時間がくれば彼女は送るべきメッセージをその場で考えだし、ハリーにそのメッセージを託して六時間過去へと行かせ、午後三時のフリトウィック教授にメッセージを伝えさせる。それから彼女はフリトウィック教授に、その時間にメッセージが来ていたかどうかをたずねる。

 

フリトウィック教授の答えは『たしかにその時間にそのメッセージが来ていた』になる。

 

それから彼女は、ハリーのことをもうすこし信用してやってもいいのではないか、とセヴルスとアルバスに言ってやることができる。

 

そこまで考えてから、マクゴナガル教授は〈守護霊の魔法〉をかけ、光かがやくネコにこう言った。 「ミスター・ポッターへ以下の伝言を。ミスター・ポッター、これを聞いたらすぐに、わたしの居室に来なさい。来る途中でほかのことはなにひとつしてはなりません。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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62章「スタンフォード監獄実験(終)」

ミネルヴァは時計を見あげた。黄金色の針。銀色の数字。カチリという動作。 時計を発明したのはマグルであり、それ以前の魔法族には時間を正確に刻む手段がなかった。 ホグウォーツ建造時、授業時間を知らせる鐘の音の間隔は砂時計で決められていた。 これは純血主義者が信じようとしない事実のひとつでもあり、だからミネルヴァはそのことを知っている。

 

ミネルヴァはマグル学のN.E.W.T.試験で〈優〉(Outstanding)の成績をおさめた。自分がどれだけ知識不足かを実感するいまとなっては、その成績も恥でしかないように思える。 当時の自分でさえ、マグル学の授業はでたらめだと気づいていた。純血魔法使いが教師では話にならない。マグル生まれの教師では、魔法族生まれにどんな知識が欠けているかが理解できないというのが建て前だったが、真の理由は理事会がマグルぎらいであったからにすぎない。 それでも十七歳の彼女にとっては〈優〉マークの成績をえることが第一だった。それを思いだすと悲しくなる……。

 

『ハリー・ポッターとヴォルデモートがつぎの戦争でたがいにマグル兵器を持ちだせば、全世界が火に飲みこまれてしまう!』

 

そうなることをミネルヴァは想像できない。というのも、ハリーが〈例の男〉と対決することを想像できないからだ。

 

ミネルヴァは〈闇の王〉と四度まみえ、四度生きのびた。そのうち三度はアルバスに守られ、一度はムーディがとなりにいた。 あのゆがんだヘビのような顔、うっすらと鱗のようなものが浮かぶ皮膚、赤く光る目、甲高いヒス音の声、無慈悲さと残忍さだけが伝わってくる声。ただ化け物でしかないあのすがたを思いだす。

 

ハリー・ポッターのすがたを思いうかべるのはたやすい。子どもらしい明るい表情をしながら、ときには真剣な態度でふざけ、ときにはふざけた態度で真剣なことをやりとげる少年。

 

その二人が正面から杖をまじえて対決する様子を想像しようとするだけでミネルヴァは苦しくなる。

 

自分たちはなんの権利があって、まだ十一歳の少年にそんな重荷を負わせようとしているのか。 けれどダンブルドア総長はその決断をしてしまったのだろう。ミネルヴァにそのための準備をさせているくらいだから。 もしこれが十一歳のころの自分の身におきたとしたら、きっと手がつけられないほど泣き叫び、何週間も悲嘆に暮れていたことだろう……

 

『ハリーは尋常な一年生ではない。……〈闇の王〉にならぶ者としての印があり、〈闇の王〉の知らぬちからを持っている』

 

聞くだに恐しいシビル・トレロウニーの空虚なうなり声が記憶から浮かびあがり、真の予言の文言がこころのなかに再現される。 予言が言っているのは総長の言うような意味ではないような気がする。どうちがうのかとなると、うまく表現できないのだが。

 

それでもやはり、もし世界じゅうの十一歳の子どものなかでだれかにこの任を負わせなければならないのなら、いまこの部屋にむかっている彼かもしれないという気がした。そしてもし、なぐさめるかのような声のかけかたをしても……多分あの子はいやがるだろう。

 

『ということはぼくは不死の〈闇の魔術師〉を殺す方法をみつけないといけないんですね……買い物の()()にそう言ってくれたらよかったのに。』  ハリーはこのことを知ったその日に、そう言った。

 

グリフィンドール寮監として長くすごしたミネルヴァは、何人もの友人の死を看取った経験から知っている。いくら手をつくしても、ある種の人たちが英雄(ヒーロー)になることを止めることはできない。

 

ドアにノックがあり、マクゴナガル教授は返事した。 「どうぞ。」

 

入室したハリーは、さきほど〈メアリーの店〉で見せたのと同じ、冷やかな警戒する表情をしていた。一日じゅうその仮面をつけてすごしていたのだろうか、とミネルヴァは一瞬だけ思いそうになった。

 

少年は机のむこうの椅子につき、口をひらいた。 「今度は、なにがおきているのか教えてもらえるんでしょうか?」  表情とはちがってとげのない、中立的な言いかただった。

 

マクゴナガル教授は思わず目をみはり、こう言った。 「まだ総長からなにも聞いていないのですか?」

 

少年はくびをふった。 「ぼくの身に危険がおよぶかもしれないという警告がとどいた、というところまでです。もうその危険はないそうですが。」

 

ミネルヴァはハリーの目を見ることができない。 自分たちは十一歳の子にこんなことをしておきながら……この戦争と運命と予言の重責を託そうとしておいて……その当人を()()することもできないのか……

 

無理をしてハリーの目をのぞきこんだ。ハリーの緑色の目は落ちついて、彼女をじっと見ていた。

 

「マクゴナガル先生?」

 

「ミスター・ポッター。……わたしが勝手に説明するわけにはいきません。ただ、もしこれが終わってからも総長がなにも話さなかったとしたら、知らせてください。そのときは、わたしからどなりつけておきます。」

 

少年の目が見ひらかれ、そこからほんもののハリーの片鱗が見えたような気がしたが、すぐに冷たい仮面がもどった。

 

「ともかく、用件にはいります。不便をおかけしますが、いまから〈逆転時計〉を六時間ぶん使ってもらいたいのです。三時にもどってから、フリトウィック先生に『樹上の銀(silver on the tree)』というメッセージを伝えてください。 そして、あなたからこれを受けとった時刻を記録しておくようにと、先生に伝えてください。 そのあとで、都合のつく時間に総長室に行って総長と面談してください。」

 

しばらくしてハリーが返事した。

 

「つまり、ぼくは〈逆転時計〉を悪用したとうたがわれているんですね?」

 

「うたがっているのはわたしではありませんよ!」とマクゴナガル教授があわてて言う。 「申し訳ありませんが、やむをえない措置なのです。」

 

また間があいてから、少年が肩をすくめた。 「また睡眠周期がくずれてしまいますが、まあしかたないんでしょう。 じゃあ明日は朝食を早朝に、たとえば午前三時にとらせてもらうことはできますか。その時間でも家事妖精(ハウスエルフ)に作ってもらえるように、連絡しておいてもらえますか。」

 

「もちろん、かまいません。……協力に感謝します。」

 

少年は椅子を立ち、一礼してから、すっとドアを出ていった。そのときすでに、シャツの下にしのばせてあった〈逆転時計〉に手がかかっていた。ミネルヴァは思わず『ハリー!』と呼びかけそうになったが、そのあとに言うべきことを思いつかなかった。

 

なのでそのまま、時計をじっと見て待った。

 

ハリー・ポッターが時間逆行をしおえるまで、どれくらい待っておくべきだろうか。

 

実のところ、待つ必要はまったくない。時間逆行がおこなわれたのであれば、それはすでに起きたことなのだから……

 

こうやって確認を先のばしにしているのは不安だからだ、とミネルヴァは気づいた。そう気づいて落胆した。 いたずら……いつもだれも想像しないほどの、向こう見ずで歯止めのきかないいたずらも——だいたい、グリフィンドールに来て当然のあの子が、どんな仕掛けで〈組わけ帽子〉をだましたのか——悪意や害意のあるいたずらであったことは、これまでなかった。 手を焼かされる相手ではあるが、ウィーズリー兄弟がそうであるように、奥底には善意がある。ミネルヴァとしては、〈拷問〉(クルシアタス)の呪いをされてもそんなことを口にすることはできないが。

 

「『エクスペクト・パトローナム』。……フリトウィック教授のところに行って、この質問をして、返事を持ちかえってきなさい。 『わたしからのメッセージをミスター・ポッターから受けとりましたか。その内容はなんでしたか。いつ受けとりましたか。』」

 

◆ ◆ ◆

 

その一時間まえ。ハリーは〈不可視のマント〉をかぶった状態で、〈逆転時計〉の最後の一巻きを使い終え、それをシャツの下にしまった。

 

それから、駆けださないようにしながらもスリザリンの地下洞へと急いだ。 ちょうど副総長室は下のほうの階だったので、都合がいい……

 

階段をいくつか、二段とばしではなく一段とばしでくだっていき、それから通路をたどり、スリザリン寮の一つ手まえの(かど)に着いた。

 

ハリーはポーチから(紙ではなく)羊皮紙を一枚と(通常のペンではなく)〈引用羽ペン〉をとりだし、〈引用羽ペン〉に口述した。 「いまから言うとおりに文字を書け。『Z P G B S Y 空白 F V Y I R E B A G U R G E R R』」

 

暗号には二種類ある。一つは自分の弟に読まれたくないメッセージを書くための暗号で、もう一つは政府に読まれたくないメッセージを書くための暗号だ。これは一つ目の種類の暗号だが、なにもしないよりはましだ。 理論上は、だれにも読まれないことになっているし、もしだれかが読んだとしても、解読できないかぎり無意味な内容だから、おぼえられることもない。

 

ハリーはその羊皮紙を羊皮紙製の封筒にいれて、杖で緑色の封蝋をとかして封をした。

 

もちろん、こうやって何時間も待つ必要はなかった。けれどなんとなく、マクゴナガル先生の口からあのメッセージを聞くまえにやってしまうと、〈時間をもてあそぶ〉ことになるのではないかという気がしたので、こうした。

 

ハリーはその封筒をまた別の封筒にいれた。そこにはすでに、別の指示書き一枚とシックル銀貨五枚がいれてある。

 

その封筒をとじ(宛名はすでに書いてある)、また緑色の封蝋で封をしてから、蝋にシックルを押してあとを付けた。

 

それから、()()封筒をまた別の、最後の封筒にいれた。これには大きな文字で『メリー・ターヴィントン』という宛名が書いてある。

 

曲がり角のさきをのぞいて見ると、しかめつらの肖像画がある。あれがスリザリン寮の入りぐちを兼ねている。このあたりに透明人間は来なかった、とあの肖像画に記憶されるのもまずいので、ハリーは〈浮遊の魔法〉を使って封筒を飛ばし、肖像画に軽く当てた。

 

肖像画の男は封筒に視線をむけ、単眼鏡をかけてのぞきこんだ。そしてためいきをしてから、うしろのスリザリン寮のほうをむいて、「メリー・ターヴィントンへの手紙が来ているぞ!」と呼びかけた。

 

それから封筒はふらりと下に落ちた。

 

しばらくして肖像画つきの扉がひらき、メリーがあらわれて封筒を拾った。

 

そして封をひらき、シックル一枚と封筒をひとつとりだした。宛先は四年生のマーガレット・ブルストロード。

 

(こういう作業をスリザリン生は日常的にこなしている。一シックルもあれば、十分速達にあたいする。)

 

このあとマーガレットが受けとる封筒のなかには五シックルの代金と指示書きがある。指示の内容は……

 

……『〈逆転時計〉を使って五時間まえにさかのぼり、ここに同封してある封筒を、ある空き教室に落とせ』……

 

……『十分早く到着すれば、そこに五シックルの追加報酬が置いてある』

 

その教室では、透明になったハリー・ポッターが午後三時から三時半まで待っている。当然予想される種類のテストに対して、ハリーたちはこういう準備をしていたのだった。

 

つまり、クィレル先生が当然のように予想したテストということだが。

 

クィレル先生は、(一)マーガレット・ブルストロードが〈逆転時計〉をもっているということ、(二)しかも彼女はかなり気軽に〈逆転時計〉を使っていて、ちょっとした特ダネをいち早く妹に知らせるためだけに時間逆行をしたりしているということも、当然お見通しだった。

 

肖像画の扉から、透明になったまま遠ざかって歩いていくと、ハリーは緊張がすこしゆるむ気がした。 なぜかハリーはこの作戦に関して不安を感じてしまっていた。成功することをすでに()()()()()のだから、不安に思う理由はないのに。 あとはもう、ダンブルドアとの面談を切りぬけることさえできれば、今日すべきことは終わる……。午後九時になれば、総長室のガーゴイルのところにいけばいい。午後八時だとあやしまれそうなので、こうすることにしたのだ。 午後九時なら、マクゴナガル先生の言った『そのあとで』の意味をとりちがえていたからだ、という言いわけで通る。

 

マクゴナガル先生のことを考えると、また胸をしめつけるような痛みを感じた。

 

痛みからのがれるため、ハリーはさらに暗黒面の奥のほうに引きこもり、冷たい表情をまとい、疲れを顔にださないようにして、歩きつづけた。

 

この対価は高くつきそうだ。それでも、支払い期限が翌日であろうが、ときにはいますぐ必要なだけの額の借金をしなければならないこともある。

 

◆ ◆ ◆

 

その暗黒面でさえ、螺旋階段に乗せられ、オーク材の大扉のまえに送られてダンブルドアの居室まであと一歩となるころには、疲労を隠せなくなった。ただ、()()()()解釈でもハリーはすでに通常の就寝時間を越えて四時間以上起きつづけていることになるので、疲労を隠せないこと自体は問題ない。感情的な疲労はともかく、肉体的な疲労についてはそう言える。

 

オーク材の扉が動き、ひらく——

 

ハリーはその時点ですでに、巨大な机と玉座のある方向に目をむけていた。なので一瞬遅れてやっと、玉座が空席であり、卓上には一冊の革張りの本をのぞいてなにもないということに気づいた。部屋の主はそこを離れ、山とならぶ謎めいた機械たちにかこまれて立っていた。 フォークスと〈組わけ帽子〉は台の上の定位置に乗っている。奥には、以前来たときには気づかなかった暖炉があり、感じのよい炎が音をたてている。そして傘が二本と、左足用の赤いスリッパが三つ置かれている。 すべては決められた位置に、ふだんどおりの様子で鎮座しているが、部屋の主たる老魔法使いだけはいつもとちがい、正装の黒ローブを着用して立っている。 衝撃的な光景だった。この老人がこの服装でいるのは、ちょうどハリーのお父さんがスーツを着るような事態を思わせた。

 

アルバス・ダンブルドアは年老い、悲哀に満ちた表情をしていた。

 

「来たか、ハリー。」

 

〈閉心術〉で作られたかのようなもう一人の自分……『一連の事態のことをいっさい知らないハリー』が顔をだし、冷たい表情で目礼してから言った。 「総長、もうマクゴガナル副総長からの報告がとどいていると思います。そろそろ、なにが起きているのかを教えてくださってもいいんじゃないですか。」

 

「そう、その時が来たのじゃ、ハリー・ポッター。」と言って総長は姿勢をただした。すでに十分まっすぐに立っていたので小さな動きではあったが、それだけでなぜか一フィートは背が高くなったように見え、年齢とは別の力強さ、害意のない種類の威圧感が感じられた。体内に秘められた力が外衣となってその身をつつんでいるように見えた。 「今日をもって、きみとヴォルデモートの戦争がはじまった。」

 

「はあ?」となにも知らない外がわのハリーが言った。内がわで見ている別のハリーもほとんど同じ反応をして、乱暴にののしりもした。

 

「ベラトリクス・ブラックがアズカバンから連れだされた。だれ一人成功させたことのなかった脱獄を成功させた。……これ以上ないほどヴォルデモートらしさを匂わせるやりくちじゃ。 そしてベラトリクス・ブラックはヴォルデモートのもっとも忠実なしもべであり、ヴォルデモートが新しい肉体に復活するために必要な三つの材料の一つでもある。 きみが一度は滅ぼした敵が十年を経て再来した……そう予言されていたとおりに。」

 

どちらのハリーもなんと返事していいか分からず、数秒間がすぎ、そのうちに老魔法使いがまた口をひらいた。

 

「当面は、きみはいままでどおり生活できる。〈不死鳥の騎士団〉を再建するため、協力してくれるであろう少数の人物にすでに声をかけてある。アメリア・ボーンズ、アラスター・ムーディ、バーテミウス・クラウチらが、きみのために働く部隊となる。 予言については——そう、きみについての予言があるが——彼らには伝えていない。ただヴォルデモートが再来したということ、ハリー・ポッターがいずれ中心的な役割を演じるということは伝えてある。 この戦争がはじまってしばらくは、きみにかわって〈騎士団〉とわしが戦陣に出る。そのあいだきみはホグウォーツで成長し、知恵とちからをたくわえる。」  ダンブルドアは嘆願するように片手をあげた。 「であるから当面は、ある一点をのぞいて変化はない。この一点だけは、どうしてもゆずれないことを理解してもらいたい。 机にあるこれがなんの本か分かるかね、ハリー?」

 

奥にいるほうのハリーは想像上の壁にあたまを打ちつけて、なにか叫んでいる。外のハリーは言われるままに本のほうをじっと見て——

 

しばらくそのまま止まった。

 

「J・R・R・トールキンの『指輪物語』ですね。」

 

「以前わしが引用したせりふをきみは知っていた。」と言ってダンブルドアは熱い視線を送った。 「ということはきっと、きみはこの本の内容に詳しいのじゃろう。これが見こみちがいであれば、そう言ってもらいたい。」

 

ハリーはただダンブルドアをじっと見た。

 

「まず重要なのは、この本で描写された魔法世界の戦争は現実味がないということ。 ジョン・トールキンはヴォルデモートとたたかったことがない。 きみの戦争は本に書かれた戦争とは似ても似つかない。 現実は小説のようには展開しない。 これがどういうことか、理解できるかね?」

 

ハリーはゆっくりとうなづき、それからくびを横にふった。

 

「具体的に言うと、ガンダルフは第一巻でとても愚かなことをした。 トールキンは彼にまちがった行動をいくつもさせているが、この一件だけはとくに許しがたい過誤じゃ。 ガンダルフはフロドのもとに〈一つの指輪〉があるかもしれないと一瞬でも思った時点で、即座にフロドを〈裂け谷〉に送らねばならなかった。たしかにもしそれが杞憂であったなら、ガンダルフは恥をかいたかもしれない。そのような命令をするガンダルフを見てまわりは変に思うかもしれない。フロドも自分の予定ややりたいことがいろいろあって、迷惑に思うかもしれない。 しかし多少恥ずかしくとも突飛でも迷惑でも、完全敗北を避けられるのであればなんでもない。 ミナス・ティリスでガンダルフが古文書を読んでいるうちに、ナズグルの九人組がホビット庄を襲い〈指輪〉を強奪してしまうことを思えばなんでもない。 しかも問題はフロドの身の安全だけではない。〈中つ国〉全体が隷属の憂き目にあうかどうかがかかっているのじゃ。 もしあれが作り話でなければ、ガンダルフたちがあの戦争に勝てるはずがなかった。 わしがなにを言いたいのか、理解できるかね、ハリー?」

 

「ええと……あまり……」  こういう調子のダンブルドアをまえにすると、冷淡な自分を維持するのがむずかしい。ハリーの暗黒面は変人の相手をするのが苦手らしい。

 

「それでは分かりやすく言いかえよう。」  ダンブルドアは厳格な声と悲しげな顔つきで言う。 「ガンダルフはすぐさまフロドを〈裂け谷〉に連れていき、護衛なしにフロドが〈裂け谷〉から出ることのないようにすべきじゃった。 さすればブリー村の夜の襲撃もなく、〈塚山丘陵〉での事件もなく、〈風見が丘〉でフロドが負傷することもなかった。あのように戦争そのものの完全敗北に直結しかねない危機がつづいたのは、すべてガンダルフの落ち度でしかない! これでマイケルとペチュニアの子であるきみにも、わしがなにを言いたいのか分かったかね?」

 

なにも知らないほうのハリーは理解した。

 

なにも知らないほうのハリーはたしかにそれが賢明な対策であり、妥当な予防措置だと理解した。()()()()やりかただと理解した。

 

なにも知らないほうのハリーは、ハリーが罪を自覚していなければ言うであろうとおりのことを言おうとした。その裏で観察しているもう一人は困惑し苦悶して、声にならない声をあげた。

 

「はい、つまり……」  ハリーの声が震えた。外がわの冷静さを破り、内がわから沸き立つ感情が出てきた。 「ぼくは復活祭(イースター)に両親に会いにいくことができなくなるということですね。」

 

「会うことはできる。きみの両親にお願いして、ここに来てもらう用意がある。 ご両親の滞在のためにわしはあらゆる便宜をはかる。 しかし、復活祭の日、きみがご両親のところへ帰ることは許されない。 夏期休暇に帰ることも許されない。 監視役のクィレル先生がいようとも、ダイアゴン小路のレストランに出かけることも許されない。 きみの血はヴォルデモートがもとどおりに復活するために必要な第二の材料なのじゃ。 やむをえない場合をのぞき、きみは二度とホグウォーツの結界の外に出ることができない。その場合でも、あらゆる襲撃に対してきみを安全に逃すだけの時間もちこたえられる護衛をつけることを条件とする。」

 

ハリーの目の両端になみだがたまりはじめた。ハリーは震える声で言う。 「それは依頼ですか? 命令ですか?」

 

「どうか許してほしい。……ご両親もきっと、こうするほかないと理解してくれる。ただもし理解してくれなかった場合……残念ながらご両親に拒否権はない。悪法も法……。法律上、きみのご両親は子女の保護者たる資格がない。 わしは嫌われてもしかたないことをしていると思うが、こうするほかないのじゃ。」

 

ハリーはくらくらして、扉のほうを見た。ダンブルドアの目をこれ以上見てはいられない。自分がどんな表情を見せてしまうか分からない。

 

こころのなかのハッフルパフが言う。自分が被害をこうむるというのはこういうことだろう。自分が他人に被害をこうむらせてもいるけれど。 こうなると、クィレル先生が予想したとおり、きみは考えかたを大きく変えることになるのか?

 

仮面が自動的に口をひらき、なにも知らない自分が言うであろうことを言う。 「ぼくの両親は安全ですか? ここに連れてくるべきなんじゃないですか?」

 

「いや、その点は心配ない。 前回の戦争の終盤までに、〈死食い人〉は〈騎士団〉の家族を攻撃しても意味がないということを悟った。 ヴォルデモートがまだ〈死食い人〉を呼ばず単独で動いているとしても、こちらでいま指揮をとっているのがわしであることは知っている。きみの家族を脅迫の材料にされようが、わしはなんの譲歩もしない、ということも、知っている。 わしが脅迫に屈しないということをヴォルデモートにはよく思い知らせてある。だからその心配はない。」

 

ふりむいてダンブルドアの顔を見ると、声とおなじくらい冷たい表情をしていた。眼鏡のむこうの青色の目が鋼鉄のように見えた。ダンブルドアに似合わない雰囲気だが、黒ローブにはよく似合っていた。

 

「話はそれだけですか。」とハリーは震える声で言った。 すこし時間をおいてからよく考えて、対抗策をなにか思いつけばいい。クィレル先生に相談して、ダンブルドアの誤解をとく方法がないか聞いてみてもいい。 いまはただ、この仮面をくずしてはならないという一心で、ほかのことは考えられなかった。

 

「ヴォルデモートはマグル製品を使ってアズカバンを脱出した。 つまり、ヴォルデモートはきみを観察し、きみから学習している。 まもなくアーサー・ウィーズリーという〈魔法省〉の人間が、〈防衛術〉の模擬戦でのマグル製品使用の全面禁止を発令する。 今後はなにかいいアイデアを思いついても、自分のなかにとどめてもらいたい。」

 

一つまえの命令にくらべればどうでもいいと思えたので、 ハリーはただうなづいた。 「話はそれだけですか?」

 

しばらく返事がなかった。

 

「わしは……」と老魔法使いは小声で言う。「きみに許しを乞う資格もない。ただ、こうするしかない事情は理解できる、と言ってもらえないじゃろうか。」

 

「理解できます。」と理解しているほうのハリーが言う。「まあ……ぼくもちょうどおなじようなことを考えていたので……親のない子とおなじように、夏休みのあいだホグウォーツにいられれば図書館の本を読めるし、そのほうが楽しそうだから……総長と両親にそうお願いしようかと思っていたんです……」

 

アルバス・ダンブルドアがのどをつまらせるのが聞こえた。

 

ハリーはまた扉のほうを見た。無傷でとはいかないが、なんとか切り抜けることはできた。

 

一歩まえに踏み出す。

 

手が扉の取っ手にのびる。

 

そこでつんざくような鳴き声が聞こえ——

 

スローモーションじみた動きでハリーがふりむいたときにはすでに、不死鳥が飛びたち、ハリーにむかって羽ばたいてきていた。

 

予想外のできごとに直面し、自分の罪を知っているほうのほんもののハリーにパニックが押し寄せた。ダンブルドアと対決する準備はしていたが、()()()()()()()()は忘れていた——

 

その羽は炎がふわりと燃えあがってから消えいるときのような動きを三回した。時間がとても遅く流れているように見えた。フォークスはそのあいだに謎めいた装置の山を越え、ハリーのいる場所を目がけて舞い降りた。

 

赤金色のその鳥はハリーのまえの空中にきて、揺れる蝋燭(ろうそく)の炎のように羽をはためかせた。

 

「フォークス?」と偽のハリーが困惑して言い、フォークスの目をのぞきこんだ。罪の自覚がなければそうしたであろうやりかたで。 ほんもののハリーは、マクゴナガル先生が自分を信頼してくれたときとおなじようにひどく嫌な気持ちになり、こころのなかでつぶやいた。 フォークス、ぼくは今日、邪悪になったんだろうか。まえは邪悪じゃなかったはず……。ぼくのことが嫌いになった? 不死鳥に嫌われるくらいなら、もうがんばらなくてもいいのかもしれない。あきらめて、すべて告白しまおうか——

 

フォークスが絶叫した。いつになく激しい声で、部屋じゅうの機械が震え、眠っていた肖像画がひとつ残らず目をさました。

 

その声は、白熱する剣がバターを切るようにして、ハリーのこころの障壁を突き抜けた。すると穴のあいた風船のようにして仮面の膜がなくなり、ハリーのなかの優先順位が一瞬で組みかわり、一番重要なことを思いだした。 なみだが止めどなく流れだし、ほおを伝った。声をだそうとすると、溶岩がのどにつまったように感じた——

 

「フォークスは、ぼくに……なんとかして、アズカバンの囚人たちを助けろ、と言っています——」

 

「フォークス、やめなさい!」  ダンブルドアは大きく踏みだして、懇願するようにフォークスに手をのばす。 フォークスの声に負けないほど必死の声色だった。 「そのようなことを頼んではならん。彼はまだ子どもじゃ!」

 

「あなたはアズカバンにいた。フォークスを連れてアズカバンにいた。そして——見た。フォークスといっしょに、あなたも——あそこで、あれだけの—— なのになぜ、なにもしなかったんですか? なぜあの囚人たちを外に出してやらなかったんですか?

 

立ちならぶ装置たちが震えるのを見て、ハリーは自分が叫ぶのと同時にフォークスもまた鳴いたのだと知った。フォークスはハリーのとなりに滞空し、ハリーと目線の高さをそろえて、ダンブルドアに対面している。

 

「きみは、そこまで鮮明に不死鳥の声が聞こえるのか?」とダンブルドアが小声で言った。

 

ハリーは嗚咽がとまらず、話そうとしても声にならなくなった。あのときハリーは、いくつもの金属扉を通りすぎ、そのなかから最悪の記憶を繰り返し、必死に懇願する声を聞いた。いま不死鳥が鳴く声を聞いて、その記憶に火がつき、こころのなかの防波堤をなぎたおして流れでた。 フォークスの声が実際そこまで鮮明に聞こえたのか、聞くまえから知っていたからそのように思えたのかは分からない。 ただ、クィレル先生から二度と口にするなと言われたことを口にしてしまう口実ができたということだけは分かった。()()()そういうフォークスの声が聞こえたなら、ハリーは無実であっても同じように言うだろうから。 「あの人たちは苦しんでいる——見殺しにしていいわけがない——」

 

「ハリー、フォークス……無理を言うな。わしにできることなどない!」

 

またつんざくような声がした。

 

『無理? ただ乗りこんで、みんな連れだすだけのことでしょう!』

 

アルバス・ダンブルドアは急にフォークスを見るのをやめて、ハリーの目を見た。 「ハリー、フォークスに伝えておくれ。ことはそう単純ではないのだと。 不死鳥という生き物は単なる動物ではないが、それでも動物で、ものごとを単純にしか理解しない——」

 

「ぼくも理解できません。……なぜ()()()()()()()()()()()()()()()()()と思うのか理解できません! アズカバンは牢獄とはいえない。あれは拷問の道具です。囚人を死ぬまで拷問しているだけです!」

 

「パーシヴァル・ダンブルドア。……わしの父、パーシヴァル・ダンブルドアもアズカバンで死んだ。 あれがどれだけ許しがたいものかは分かっておる! わしはどうすればいいというのじゃ? アズカバンを武力で解体せよというのか? 〈魔法省〉に対して公然と反乱を起こせというのか?」

 

カー!と声がした。

 

しばらく間があり、ハリーが震える声のまま言った。 「フォークスに政府のことは分かりません。フォークスはただ——囚人を監房の外にだせと、あなたに言っている——だれかがその邪魔をするなら、フォークスもいっしょに戦う、と言っている——ぼくも——ぼくも戦います! あなたといっしょに戦って、ディメンターが襲ってきたら破壊します! 政治的に対処すべきことはあとで考えればいい。あなたとぼくならなんとでも言いわけできる——」

 

「ハリー……ときには、小さな戦闘に勝つことが、大きな戦争に負けることを意味する。フォークスたちにはそれが分からぬ。」  なみだがその目からほおへ落ち、銀色のひげを濡らした。 「不死鳥は戦うことしか知らぬ生きもの。 善良じゃが賢明ではない。 だからこそ魔法使いを主人に選ぶ。」

 

「ディメンターをすべてアズカバンの外にだすことはできませんか?」  懇願の口調でハリーは言う。 「一度に十五体ずつ連れだしてもらえれば、ぼくが駆除できる——そのくらいの数の相手なら、安全に破壊できると思います——」

 

老魔法使いはくびをふった。 「ディメンターを一体うしなった件だけでも、彼らを納得させるのは簡単ではなかった——また借りだせるとしてもう一体が精々で、二体以上はまず望めん——あれは国有財産にあたり、戦時にそなえた兵器でもある——」

 

怒りの炎がハリーのなかで燃えあがった。肩にのった不死鳥から来た炎かもしれないし、自分自身の暗黒面から出た炎かもしれない。冷たい怒りと熱い怒りが混じりあい、ハリーの口から奇妙な声となって流れでた。 「政府になにができるのか。民主国家の選挙でなにができるのか。一国の国民になにができるのか。言ってみてください。満足できなければ、ぼくはその人たちと決別します。」

 

老魔法使いは目を見はって、不死鳥を肩にのせる少年を見た。 「ハリー……それはきみ自身の考えなのか、クィレル先生の受け売りではないのか——」

 

「許される限度というものがあるでしょう? それがアズカバンでないなら、何なんですか?」

 

「ハリー、わしの言うことを聞いておくれ! 意見があわなくなるたびに一人一人が全体に対して反乱を起こしていては、平和な社会はありえん! どんな社会にも()()()——」

 

「アズカバンは多少ではすみません! あれは邪悪です!」

 

「そのとおり。多少の悪も社会にはつきまとう! 魔法族は一点のくもりもない善人ではない! それでも、平和な社会は混沌(カオス)にまさる。きみとわしがアズカバンを武力で解体したりすれば、そのさきに待つのは混沌。なぜそれが分からない?」  ダンブルドアは懇願するように言った。 「味方の立ち場に同意できなければ、公然と反論したり、隠れて抵抗すればよい。そのために相手を憎んだり、相手を邪悪な敵だと宣言する必要はない! この国の国民全員がそんな仕打ちをされていいはずがない! なかにはその仕打ちにあたいする悪人がいたとしても——子どもたちや、ホグウォーツの生徒たち、そういった善人もたくさんいる。そんな人たちを巻き添えにしてしまっていいというのか。」

 

ハリーは肩のうえにとまったフォークスを見た。フォークスも視線をかえした。眼光のかがやきはないかわり、黄金色の火で満たされた目のなかに赤い炎が舞っている。

 

フォークスはどう思う?

 

「カー?」

 

フォークスは話の内容を理解していないようだ。

 

ハリーはダンブルドアにむかって、低い声で言った。 「実はその逆で、不死鳥のほうが人間よりものごとをよく理解しているのかもしれません。こうやって人間につきまとうのは、人間にもいつか、彼らの正しさが通じると信じているからなのかもしれません。ただ——あの囚人たちを——解放すればいいだけだということが——いつか——分かると——」

 

ハリーは身をひるがえしてオーク材の扉を引き、階段に足を踏みだして、バタンと扉を閉じた。

 

階段は回転し、下降しはじめる。それと同時にハリーは顔を両手にうずめて、泣きはじめた。

 

半分ほど降りたところで、はじめてハリーは異変に気づいた。まだからだのなかに熱が広がりつづけている。つまり——

 

「フォークス?」

 

——フォークスはまだハリーの肩にとまっていた。おなじようにダンブルドアの肩にとまるのを、ハリーは何度か見たことがあった。

 

もう一度、その目のなかの黄金色の火と赤色の光彩をじっとのぞきこむ。

 

「ぼくのものになった……わけじゃないよね?」

 

カー!

 

「うん……。それならよかった。ダンブルドア総長はそこまで——そこまでひどい人じゃない——」

 

ハリーは言いやめて、息を吸いなおした。

 

「そこまでひどい人じゃないと思うよ。あの人も正しいことをしようとしていただけだから……」

 

カー!

 

「自分を怒らせた仕返しをしてやりたいんだね。分かった。」

 

フォークスはそのままくびをハリーの肩にすりよせた。ガーゴイルの石像がすっと道をあけ、ハリーはホグウォーツのなかへと戻った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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63章「スタンフォード監獄実験——余波」

今回は通常の三倍くらい長いので注意。ページの途中にしおりを挟める機能(メニュー→「固定」)がおすすめです。


余波——ハーマイオニー・グレンジャー:

 

ハーマイオニーは本を閉じ、宿題をしまい、眠る準備をしようとしていた。おなじテーブルにいたパドマとマンディも本をかたづけようとしていた。そのとき、ハリー・ポッターがレイヴンクロー談話室にはいってきた。それを見て、朝食の時間以来、自分が一度も彼を見かけていなかったことに気づいた。

 

その発見を吟味する間もなく、もっとはるかに衝撃的なことが、もうひとつあった。

 

ハリーの肩の上に、黄金と赤の色の羽をした生物……火の鳥がいる。

 

そしてハリーの表情は悲しげで、とても疲弊していた。不死鳥のおかげでなんとか倒れずにすんでいるかのように見えた。それでもどこかあたたかさがあり、目の焦点をはずして見れば、なぜかダンブルドア総長をまえにしているかのような印象もあった。自分でもなにを言っているのか分からないが、とにかくそう感じた。

 

ハリー・ポッターは談話室を横切り、ソファに乗った女子たちがじっと見ているところを通りすぎ、カードゲームをしている男子たちがじっと見ているところを通りすぎ、ハーマイオニーに向かってくる。

 

厳密には、ハリー・ポッターとの絶交はまだ有効だ。期限の一週間は明日まで終わらない。けれど、いま起きているなにかのほうが、確実にもっとずっと大事なことのように思えた——

 

彼女が口をひらこうとすると、そのまえにハリーが話しだした。 「フォークス、あの子がハーマイオニー・グレンジャーだよ。ぼくはバカなことをしたせいで、いまは話をさせてもらえない。でもいい人のそばにいたいなら、ぼくより彼女の肩に行ったほうがいい。」

 

なんて疲れきって痛いたしい声をしているのか——

 

なにをすべきか考えているうちに、不死鳥がハリーの肩からすっと、炎がマッチ棒から立ちのぼるのを速めたような動きで飛びたち、燃えながら近づいてきた。ハーマイオニーの正面に飛んできて、光と炎でできた目でこちらを見ている。

 

「カー?」と不死鳥がたずねた。

 

それをじっと見ていると、準備をしわすれたままテストを受験しているときのような気持ちがした。目のまえにとても重要な問題があるのに、生まれてから一度もその勉強をしたことがないから、自分にはなにも言うべきことばがない、というように。

 

「わ——わたしはまだ十二歳で、()()もなにもないし——」

 

不死鳥はゆっくりと降下して、片方の羽さきを中心に、光と空気の生物らしく一回転してから、ハリーの肩にもどり、それからは動こうとしなくなった。

 

「バカね。」 ハーマイオニーの反対がわでそう言うパドマは、笑顔と渋い顔のあいだで迷ったような表情をしている。 「不死鳥はまじめに宿題をやる女の子のところになんか来ない。スリザリン上級生五人にまっこうから勝負する愚か者のところに行くの。 あんなグリフィンドールみたいな赤と黄金(きん)色なんだから、分かるでしょ。」

 

談話室にいる人の大半が親しみのこもった笑いをした。

 

ハーマイオニーは笑わなかった。

 

ハリーも笑わなかった。

 

ハリーは片手を顔にあてていた。 「ごめん、ってハーマイオニーに伝言してほしい。」とささやくような声でパドマに言う。 「不死鳥は動物だから時間や予定の概念がなくて、将来いいことをする人のことが分からない、っていうことを忘れてた——それに、人の中身を見る目はないのかもしれない。ただどういう行動をしているかだけを見ているのかもしれない。 フォークスは『十二歳』が何なのかも知らない。 だからごめん——悪気はなかった——と……。何かしくじってばかりだなあ。」

 

ハリーは背をむけ、不死鳥を肩にのせたまま、とぼとぼと寝室へつづく階段をのぼろうとした。

 

これで終わらせてはいけない。終わらせてなるものか、とハーマイオニーは思った。 ハリーへの競争心がそうさせたのかどうかは分からない。 ただ、あの不死鳥をこのまま行かせてしまってはいけない、と思った。

 

なにかあるはず——

 

ハーマイオニーの優秀な記憶力を総動員して、なんとかひとつだけ、探しだせたものがあった——

 

「わたしはハリーを救うためにディメンターのまえに飛び出ようとした!」  すこしやけになって、ハーマイオニーは不死鳥に声をぶつける。 「そう、実際走りかけてたんだし! あれは怖いもの知らずでバカな行動じゃない?」

 

不死鳥は音楽的な鳴き声をしてから、またハリーの肩を飛びたち、燃えうつる炎のようにして近づいてきた。まわりを三周されて、自分がすっぽりと炎の円につつまれたように感じた。そして最後に羽さきでハーマイオニーのほおをひとなですると、ハリーのもとへもどっていった。

 

談話室の全員が息をひそめた。

 

「やっぱり。」と言ってハリーは寝室への階段をのぼりはじめた。そこからはとても速く、なぜか体重を感じさせない軽捷さで、不死鳥といっしょに部屋のなかへ消えた。

 

ハーマイオニーは震える手でほおを触り、フォークスの羽になでられたあたりの肌をなぞった。小さいながらも、そっと火にあてられたときのように熱をもつ部分があった。

 

あれも一応、不死鳥の問いへの答えではあったのかもしれない。けれど採点結果はさしづめ、かろうじての合格。なんとか六十二点は確保できたが、もっと努力していれば百四点にとどいたかもしれない、という思いがする。

 

()()()()努力していれば。

 

考えてみれば、いままで自分は本気で努力したことがない。

 

ただ課されるまま宿題をといていただけ——

 

『だれを救ったことがあるのか』と不死鳥は問いかけていた。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——フォークス:

 

悪夢を見ることを少年は予期していた。悲鳴と懇願と猛り狂う虚無が解き放たれ、記憶に沈着する。そういう風にしてやっと、経験が過去の一部となるのかもしれない。

 

そのような悪夢がかならず来ると思っていた。

 

それが来るのはもう一日あとのこと。

 

いま少年が見ている夢では、世界が火につつまれ、ホグウォーツが火につつまれ、両親の家が火につつまれ、オクスフォードの町が火につつまれている。黄金色の火はあかるく燃え、なにも燃やさない。光かがやく町を歩く人たちそのものが、火よりもあかるい白光を発していて、まるで火や星でできているように見える。

 

ほかの一年生たちがうわさをたしかめようとして、そのベッドをおとずれたとき、ハリー・ポッターはじっと静かに、おだやかな笑みをして眠っていた。枕の上ではその様子を見守る赤金色の鳥がいて、自分の羽を毛布がわりに少年のあたまにかけていた。

 

清算は翌晩にさきのばしされた。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ドラコ・マルフォイ:

 

ドラコは身支度をおえ、ローブの緑色のふちにゆがみがないようにした。 自分のあたまにむけて杖をふり、昔父上に教わった魔法をかける。ほかの子どもたちが泥あそびをしているころに教わったこの魔法をかけておけば、ローブには糸くずの一本や埃のひとつぶさえ残ることがない。

 

父上からフクロウで届いていた謎めいた封筒があるので、ローブのなかにしまった。謎めいた手紙のほうはすでに『インセンディオ』と『エヴェルト』で始末してある。

 

それからドラコは朝食の場へむかった。ちょうど食事が出現する時刻にあわせて席につく、というのがいつものやりかただ。こうすることで、ほかの全員が自分の到着を待っていたかのような瞬間を演出できる。マルフォイ家の後継者たるもの、朝食でも一番をとるのは当然だ。

 

ヴィンセントとグレゴリーはドラコの個室のまえで待っていた。二人はドラコより早く起床する——もちろん身支度はドラコほど完璧ではないが。

 

スリザリン談話室は無人だった。この時間に起きている者はみな、さっさと朝食に行く。

 

地下洞の通路に音はなく、一行の足音だけがこだまして聞こえた。

 

大広間はまだ人が少ないが、緊迫した雰囲気で会話がかわされていた。小さな子が泣いていたり、テーブルからテーブルへいったりきたりする者がいたり、ところどころ密集してやかましく話しあう者がいたりした。赤いローブの監督生が緑色のふちをしたローブの生徒二人の正面に立ち、なにかどなっている。スネイプがそこへ向かっていく——

 

ドラコが来たのに気づいて、会話の音がすこし静まった。何人かが話をやめ、ドラコのほうをじっと見た。

 

テーブルに食事があらわれたが、 そちらを見ている者はいない。

 

そしてスネイプはきびすを返し、目標を変更してまっすぐドラコのほうにやってきた。

 

恐怖で一瞬胸がしめつけられた。もしや、父上になにかあったということでは——それでも、連絡くらいはあるはず——なにが起きているのか、なぜまだ連絡がないのか——

 

スネイプの目の下には(くま)があった。いつもながら衣装も(ひかえめに言って)冴えない。近づいてくるそのすがたをよく見ると、今朝のローブはふだんよりいっそう汚れ、曲がっていて、まだらについた油の量も多い。

 

スネイプは歩みよりながら話しはじめた。 「まだ聞いていないのか? せめて新聞くらいはとったらどうだ?」

 

「なんのことです——」

 

「ベラトリクス・ブラックがアズカバンから連れだされたのだ!」

 

()()」とドラコはショックの表情で言った。うしろのグレゴリーは口にすべきでない表現を使い、ヴィンセントはただ唖然とした。

 

スネイプは目を細めてにらんでから、急にうなづいた。 「そうか。ルシウスからの連絡もなかったのだな。」  スネイプは鼻をならしてから背をむけようとし——

 

「スネイプ先生!」  いま聞いたことばの意味がおぼろげながら理解できてきて、ドラコは必死であたまを回転させる。 「ぼくはどうすれば——父上からはなんの指示も——」

 

「であれば、そう言ってやればいいのではないかね。お父上の意図どおりに!」  あざ笑うようにそう言ってスネイプは去った。

 

ドラコはちらりとふりかえり、ヴィンセントとグレゴリーを見た。そんなことをしても意味がないのは分かっているのに。当然二人はドラコ以上に困惑しているだけだった。

 

それからスリザリンのテーブルに向かい、一番奥の席についた。ほかにはまだだれも座っていない。

 

そしてソーセージ入りオムレツを皿にとり、なにも考えずに食べはじめた。

 

ベラトリクス・ブラックがアズカバンから連れだされた。

 

ベラトリクス・ブラックがアズカバンから連れだされた、だと……?

 

それにどんな意味があるのか。太陽の火が消えるほどの、まったく予想外のできごと——いや、太陽が六十億年後に消えることは予想されているが、これは太陽が明日消えるというくらいに予想外だ。 父上がやったはずがない。 ダンブルドアであるはずもない。だれにもできるはずがない——だいたいなんの意味がある——アズカバンで十年を過ごしたベラトリクスにどんな利用価値があるというのか——仮にちからを回復させることができたとして、心底邪悪で狂っていて〈闇の王〉を盲信する女になんの価値があるのか——その〈闇の王〉はもういないというのに?

 

「あの、どうも話が見えないんですが……なんでうちがそんなことを?」ととなりの席のヴィンセントが言った。

 

()()がやるものか、バカが! どこからそんなことを考えつくんだ——ベラトリクス・ブラックのことをすこしは親から聞かされていないのか? 父上はあいつに拷問された。おまえの父さんも拷問された。だれもが拷問された。あいつは〈闇の王〉に命令されて、()()()クルシオしたことさえある! あいつは人民を恐怖させ服従させるために狂ったことをする人とはちがう。狂っているから狂ったことをしているだけだ! 最低の女なんだよ!」

 

「へえ?」と背後から怒りの声がした。

 

ドラコはふりかえらない。背後を守るのはグレゴリーとヴィンセントの仕事だ。

 

「なんでよろこばないのかな、マルフォイ——」

 

「——〈死食い人〉が一人、自由の身になったのに!」

 

アミカス・カロウは別の意味で問題がある人種だ。アミカスと同じ部屋に二人きりでいる状況だけは避けろと、父上から言われている……

 

ドラコはフローラ・カロウとヘスティア・カロウのほうを見て、〈嘲笑その三〉の表情をした。自分は〈元老貴族〉であり、おまえはそうではない、ということを思い知らせる嘲笑だ。 二人を相手として話すのではなく、ただ二人がいるあたりにだけ向けて言う。 「ひとくちに〈死食い人〉といってもいろいろある。」  そう言ってドラコは食事を再開した。

 

二人はぴったり同じタイミングでフンと言ってから、スリザリンのテーブルの反対がわの端に走っていった。

 

その数分後、ミリセント・ブルストロードが息も絶えだえに駆けこんできた。 「ミスター・マルフォイ、もう知ってる?」

 

「ベラトリクス・ブラックのことか? ああ——」

 

「ちがう、ポッターのこと!」

 

「は?」

 

「きのうの夜、ポッターが()()()を肩にのせて歩きまわってたらしいわ。延々と泥のなかを引きづられてきたあとみたいな様子で。うわさじゃ、その不死鳥がポッターをアズカバンに連れていってベラトリクスの脱獄を阻止させようとして、二人の決闘でアズカバンが半分吹き飛んだんだって!」

 

「は? そんなことは、どう考えてもありえな——」

 

ドラコは言いやめた。

 

そして気づいた。何度自分がハリー・ポッターについておなじことを言ったか。たいていどういう結末が待っていたか。

 

ミリセントはまた別の相手にニュースを聞かせに走っていった。

 

「まさかあんなのを本気に——」とグレゴリー。

 

「正直どう考えればいいか分からなくなった。」とドラコ。

 

数分後、セオドア・ノットがドラコの向かいがわに座り、ウィリアム・ロジエールがカロウ姉妹のそばの席についたとき、ヴィンセントがドラコをうながした。 「あそこを。」

 

ハリー・ポッターが大広間に足をふみいれるところだった。

 

ドラコはそれをよく観察した。

 

見たところ、とくに緊迫した表情ではない。驚愕もショックも感じられない。ただ……

 

遠くを見て、一人でなにか思いふけるような顔をしている。ドラコの理解できない問いへの答えを考えようとしているときにハリーがする表情だ。

 

ドラコは突然スリザリンのテーブルの椅子から腰をあげ、「ここで待て。」と言ってから、上品な急ぎ足でハリーのもとへ向かった。

 

ハリーはちょうどレイヴンクローのテーブルに向かって曲がるところで、近づいてくるドラコに気づいたらしい。ドラコはそこで——

 

——ハリーにちらりと視線を送り——

 

——すれちがってから、まっすぐ進み、大広間を出た。

 

一分後、ハリーは石壁の奥まった場所にドラコが待っているのを見つけに来た。だれかに気づかれていないともかぎらないが、合理的な否認可能性はのこせるやりかただ。

 

「『クワイエタス』。ドラコ、なにか——」

 

ドラコはローブから封筒をとりだした。 「父上からきみへの手紙だ。」

 

「へ?」と言ってハリーは封筒をうけとり、へたな手つきで破って開き、出てきた羊皮紙を広げた。

 

ハリーはごくりと息をのんだ。

 

それからドラコを見た。

 

それからまた羊皮紙を見た。

 

それからおたがい無言になった。

 

「ぼくがどういう反応をしたかをルシウスに報告することになってる?」

 

ドラコは一瞬無言で、その意味合いを考えてから、口をひらいた——

 

「なってるんだね。」とハリーが言った。……うっかりしていた。つい判断が遅れてしまった。 「どう報告する?」

 

「おどろいていた、と。」

 

「おどろいていた。ああ。そうか。いいと思う。」

 

「なにが起きているんだ?」とドラコが言いかけると、 ハリーは葛藤する表情になった。「もしぼくに隠れて父上とやりとりするのなら——」

 

ハリーは無言で割りこみ、ドラコに手紙を見せた。

 

『貴君のしわざであることは分かっている。』

 

「おい、これはどういう——」

 

「聞きたいのはこっちだよ。お父さんがどういうつもりなのか、こころあたりはない?」

 

ドラコはハリーをじっと見た。

 

「ほんとうにきみがやったのか?」

 

「え? いや、なんでそんなことをぼくが——()()()()()ぼくが——」

 

「きみがやったんじゃないのか、ときいている。」

 

「ちがうよ! そんなわけないだろ!」

 

そう返事する声をドラコは注意して聞いていたが、ためらいや震えは感じとれなかった。

 

なので、うなづいてからこう言った。 「父上がなにを考えているのかは分からない。でもまずいことになっているのはまちがいない。 それに、あー……あのうわさのほうも……」

 

「あのうわさ、というと?」とうんざりした声でハリーが言った。

 

「きみが不死鳥に連れられてアズカバンにいって、ベラトリクス・ブラックの脱獄を阻止しようとしたといううわさだが——」

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ネヴィル・ロングボトム

 

ハリーはようやくレイヴンクローのテーブルについて、やっと少し食べものを口にすることができる、と思ったところだった。 どこか場所をみつけて一人で考える必要があるのは分かっていたが、不死鳥がくれた平穏の残り香が(ドラコとの話がすんだ時点でも)まだわずかにあり、それをすこしでも引きとめておきたいと思っていた。 平穏でない部分のハリーとしても、各種の鉄槌が自分のうえに落とされるのは一人になって考えてからでいいと思っているようだった。そうすれば、各方面の惨事を一括で処理することができる。

 

手がフォークをつかみ、マッシュポテトひとくち分を口へ持ちあげると——

 

どこからか甲高い声がした。

 

今回のニュースを聞いた人はだいたい、ああいう声をだしがちではあった。ただいまのは、聞きおぼえのある声だった——

 

ハリーは即座に長椅子から立ちあがり、ハッフルパフのテーブルのほうへ向かう。とても嫌な予感がこみあげてくる。 これもまた、クィレル先生の犯罪に手を貸すことを決めたときに想定していなかったことのひとつだった。だれにも知られないようにするはずだったのだから、考える必要もなかったのだった。 しかし、ああなってしまってからも、ハリーは——考えるのを忘れていた——

 

()()()()()()()()()()()、とこころのなかのハッフルパフが苦にがしげに宣告した。

 

けれどハリーが到着したとき、ネヴィルは席につき、ソーセージパテをスニッピーフィグのソースにつけて食べていた。

 

ネヴィルの手は震えていたが、ソーセージを切り、食べるまでに落としたりはしていなかった。

 

「おはよう司令官。」と言ってネヴィルはすこしだけ声を震えさせた。 「昨日の夜、ベラトリクス・ブラックと決闘してきたんだって?」

 

「いや。」  ハリーの声もなぜか震えがちになった。

 

「やっぱりね。」  ネヴィルはまたナイフでソーセージを切り、引っかくような音をだした。 「ぼくはベラトリクス・ブラックを探して、捕まえて殺そうと思う。手つだってくれるかい?」

 

ネヴィルのまわりにあつまってきていたハッフルパフ生がおどろいて息をのんだ。

 

「もしも彼女がきみを狙ってやってきたら……」とハリーは声をかすれさせる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()「ぼくは命をかけてきみを守る。」 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「でもきみが彼女を捕まえようとしても、手つだいには行かないよ。友だちが自殺する手つだいをするのは友だちじゃない。」

 

ネヴィルのフォークが口にいく途中で止まった。

 

それからネヴィルはそれを口にいれ、噛みなおした。

 

そして飲みこんだ。

 

「いますぐやるとは言ってない。ホグウォーツを卒業してからだよ。」とネヴィル。

 

「ネヴィル……」 ハリーは重ねて慎重に声を抑制する。 「あのね、卒業してからやるんだとしても、やっぱりちょっとバカげた行動なのは変わらないんじゃないかな。 きみよりずっと熟練の〈闇ばらい〉が捜索をしてるに決まってるし——」 いや待てよ、この言いかただと——

 

「ほら、ハリーでもこうだろ!」とアーニー・マクミランが言った。ネヴィルのちかくにいた年長のハッフルパフ生らしい女子も応じた。「よく考えて、ネヴィ!」

 

ネヴィルは立ちあがった。

 

「ついてこないで。」

 

そう言ってネヴィルは離れていった。ハリーとアーニーはそれでも追いかけようとした。ハッフルパフ生も何人かつづいた。

 

ネヴィルはグリフィンドールのテーブルの席についた。そこまではだいぶ距離があったが、なんとかこう言っているのが聞きとれた。 「ぼくは卒業したらベラトリクス・ブラックを見つけだして殺そうと思ってる。だれかいっしょにやる?」  すくなくとも五人から、「やる」という答えがあった。そしてロン・ウィーズリーが大声で割りこんだ。 「待った待った。今朝ママから、みんなに念押ししといてくれっていうフクロウがあってね。最初に手をだす権利があるのはうちのママだからよろしく——」  そして別のだれかが「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 冗談にもほどがあるぜ——」と言った。ロンは皿を一枚とって、マフィンに手をのばす——

 

だれかがハリーの肩をたたいた。ふりむくと、緑色のふちのローブの、見おぼえのない年長の女子がいた。その子はハリーに羊皮紙の封筒を手わたすと、すぐに去っていった。

 

ハリーはしばらくじっとその封筒を見てから、手ぢかな壁まで歩いていった。完全に人目を避けられるような場所ではないが、このくらいで十分だろう、とハリーは思った。なにか隠しごとがあるような雰囲気をだしてしまうのもまずい。

 

これがスリザリン式配送システムである。送り手と受け手が通信したということ自体を秘密にしたまま通信が成立する仕組みだ。 送り手は信頼できる中継者として知られているだれかに宛てて封筒をだし、そこに十クヌートを添える。一人目の中継者はそのうち五クヌートを自分の取り分とし、残金五クヌートとともにその封筒を別の中継者に送る。二人目の中継者はその封筒をひらいて、なかにあるもうひとつの封筒をとりだし、そこに書かれた宛名の受け手へと配達する。 このやりかたであれば、経路上のだれ一人、送り手と受け手の()()の名前を知ることはできない。したがって、両者が通信したという事実はだれにも知られない……

 

壁のそばまで来ると、ハリーは封筒をローブのなかにいれ、隠しながら封を切り、そのなかの手紙におそるおそる目をやった。

 

内容は……

 

転成術教室の左隣の教室、午前八時

 

ハリーはじっとそれを見つつ、自分が知っている人で『LL』のイニシャルの人なんていただろうかと考えた。

 

『LL』に該当する名前の記憶をさぐる……

 

さらにさぐる……

 

そして検索結果は——

 

「あの『クィブラー』の女の子?」  予想外すぎてそう言ってしまい、それから口を閉じた。 あの子はたしかまだ十歳だし、ホグウォーツに入学してすらいないじゃないか!

 

◆ ◆ ◆

 

余波——レサス・レストレンジ(Lesath Lestrange)

 

午前八時、ハリーは〈転成術〉教室のとなりの空き教室で待っていた。なんとか腹ごしらえだけはすませて、つぎなる災厄、ルナ・ラヴグッド(Luna Lovegood)との対面の時を待つ……

 

教室のドアがあいたところを見て、ハリーはこころのなかで猛烈に自分を蹴とばしてやりたくなった。

 

またこれも予想外だった。これもまた、分かっているべきことだった。

 

年長の少年の緑色のふちどりの正装用ローブは曲がっている。小さな赤い点がいくつかあり、妙に鮮血じみた色をしている。口の片ほうの端に、切られてから治癒したように見えるあとがある。『エピスキー』かなにかの簡易な医療〈魔法(チャーム)〉の結果だろう。ああいった呪文では傷を完全に消すことができない。

 

レサス・レストレンジの顔には涙のすじがあった。でたばかりの涙も乾いた涙もあり、目にも涙があり、これからまだ出てくる気配があった。 レサスは「クワイエタス」と言ってから、「ホミナム・レヴェリオ」などいくつかの呪文を言った。そのあいだハリーは必死に思考しようとしたが、あまりうまくいかなかった。

 

レサスは杖をおろし、ローブにしまった。そして今度はゆっくりとかつ正式な仕草で、ほこりっぽい教室の床にひざをつけた。

 

そしてひたいにほこりが付くまで、あたまを下げた。それを見てハリーはなにか言うべきところだったが、声が出なかった。

 

レサス・レストレンジは震える声で言った。 「この生もこの死もあなたさまのもの。いかようにでもお使いください。」

 

「ぼ……」とハリーは言いかけたが、のどになにか大きなものがつっかえて、なかなか声にならない。 「ぼくは——」 ……『あれとはなんの関係もない』。なにをおいてもまずそう言うべきなのだが、もし自分が無実であれば、やはり絶句してしまうのではないかという気もする——

 

「ありがとうございます。」とレサスが小声で言う。「ありがとうございます。ああ、ありがとうございます。」 ひざまずいた少年が声をつまらせて泣く音がした。 目のまえに見えるのは少年の顔ではなく、後頭部の髪の毛だけだった。 「わたしは愚かでした。あなたさまに仕える権利もない、とんだ恩知らずでした。——あ……あのとき助けていただいたとき、声をあらげるようなことをしてしまって……いくら土下座してもお詫びできません。あのとき、わたしはただ拒絶されたと思うばかりで、今朝になるまで失敗に気づきませんでした。ロングボトムが見ているまえでお願いするなど、なんて馬鹿なことをしたのかと——」

 

「ぼくはあれとはなんの関係もない。」とハリーは言った。

 

(こういう真っ赤なうそを言うのは、いまだにやりにくい。)

 

レサスは床からゆっくりとあたまを上げ、ハリーを見た。

 

「しかたありません。」 少年の声はすこし震えている。 「わたしの狡猾さにはもう期待できないと思われても。たしかに、わたしは愚かでした……。ただどうしても、わたしが感謝を忘れていないということはお伝えしたかった。一人を救うだけでも十分大変だっただろうことも、いまとなってはもう警戒が強まっていて、このうえ——父上を救ってもらうことは——できないことも理解しています。でも感謝を忘れてはいないということ、この感謝をいつまでも忘れないということはお伝えしたかっただけです。 もしこのしもべめに、すこしでも利用価値があれば、いつでもお呼びください。そのときはすぐに参ります、ご主人さま——」

 

「ぼくはいっさい関与していない。」

 

(でも、口にするたびに楽になっていく。)

 

レサスはハリーを見あげ、自信なさげに言った。 「もうさがれと言うことですか、ご主人さま……?」

 

「ぼくはきみのご主人さまじゃない。」

 

「わかりました、ご主人さま。」と言ってレサスは身を引いて立ちあがり、深く一礼してハリーのまえから去り、教室のドアへと向かった。

 

レサスの手がドアノブに触れようとしたとき、動きが止まった。

 

ハリーからはレサスの表情が見えなかったが、レサスはこう言った。 「母上は介助を受けられるような場所に送られましたか? わたしのことをなにか言っていましたか?」

 

それに対して、ハリーは完全に中立的な声でこう言った。 「もうやめてくれ。 ぼくはなにも関与していないんだって。」

 

「わかりました、ご主人さま。すみません。」とレサスの声が聞こえた。そしてレサスはドアをひらき、外にでてからとじた。 遠ざかる足音はだんだんと速度をあげていったが、それが消えるまえに、すすり泣く声も聞こえた。

 

ぼくは泣くべきか? もしなにも知らなかったら、もし無実だったら、ぼくはここで泣いているだろうか?

 

わからないまま、ハリーはドアのほうを見つめつづけた。

 

とんでもなく無神経なハリーの一部分がこう思考した。やったね、冒険(クエスト)をひとつ完了して、子分を一人ゲットした——

 

だまれ。今後すこしでも投票に参加したいという気があるなら……だまれ。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——アメリア・ボーンズ

 

「それなら、彼の命に別状はないのね。」とアメリアは言った。

 

癒者はけわしい目をした老人で、白いローブを着ていた(彼はマグル生まれであり、奇妙なマグルの伝統にしたがっている。アメリアはそれについて問いただしたことはないが、内心、これではまるで幽霊(ゴースト)ではないか、と思っていた)。 「ありませんね。」

 

アメリアは癒者のベッドに意識不明のまま安置されているからだをながめた。焼けただれ、爆発にさらされた肉体。つつしみのためにかけられていた薄いシーツは、はがさせておいた。

 

全快できる可能性もある。

 

そうでない可能性もある。

 

癒者は現段階では判断をしかねるという。

 

アメリアは部屋のなかにいるもう一人の部下に目をむけた。

 

「それで、あの燃焼の材料は水から〈転成術〉(トランスフィギュレイション)で作ったもので、もとはおそらく氷だったと。」

 

部下はうなづいて、困惑したように言った。 「そうなんです。水以外のなにかなら、もっとひどいことになっていたかもしれません——」

 

「むこうはまたそう思わせたいんでしょうね。」と言い、すぐに疲れた手をひたいにあてる。 そうではない……これは罠ではない。純粋に親切でそうしたのだ。 脱獄が完了するという段階までくれば、もうこちらの躊躇を誘う必要はない。 これをやった何者かは、だから、こちらのダメージを軽減しようとしていた——あの火がどんな被害をもたらすかではなく、〈闇ばらい〉が煙を吸ったらどうなるかを考えていたのだ。そうとしか考えられない。 そのあともおなじその人物がロッカーを制御していたなら、あれほど乱暴な操縦はしなかったにちがいない。

 

だが、アズカバンからロッカーに乗って飛びでたのはベラトリクス・ブラックただ一人だった。現場を見ていた部下たちの全員がそう証言している。〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)防止の魔法をしっかりとかけて見ても、あのロッカーには女一人だけしか乗って見えなかった、と。(あぶみ)は二つついていたようではあるが。

 

守護霊(パトローナス)の魔法〉を使うことのできる、純粋な良心のある何者かがいた。その人物は騙されて、ベラトリクス・ブラック救出に協力した。

 

その何者かはバアリー・ワンハンドを相手どり、熟練の〈闇ばらい〉である彼を、重傷をおわせることなく制圧した。

 

その何者かが〈転成〉した燃料で動く乗り物を使って、ブラックと二人で脱出する手はずだった。 その何者かは燃料の原材料として氷を選ぶことで、アメリアの部下を守った。

 

だがそこで、ベラトリクス・ブラックにとってその何者かは用済みになった。

 

バアリー・ワンハンドを制圧する実力があるのなら、それくらいのことは予見できていてくれ、と思いたくはなる。 だがそもそも、〈守護霊の魔法〉を使えるような人物がベラトリクス・ブラック救出に協力するなどとは、だれも思っていなかった。

 

アメリアはひたいの手を下にずらして、まぶたにかさね、目をとじて、しばらく無言でその人物を追悼した。 その人物は何者だったのか。そして〈例の男〉にどうやって懐柔されたのか……そこにどんな大義があるように思わせられたのだろうか……

 

そう考えてからしばらくしてやっと、アメリアは自分が信じはじめていることに気づいた。 ダンブルドアの言うことはたいてい信じがたい。だが今回ばかりは、考えるほどに、例の冷たく暗い知性が暗躍しているように思えてならなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——アルバス・ダンブルドア:

 

朝食の場に到着したのは、終了まであと五十七秒の時点だった。〈逆転時計〉を四回ついやすことになり、苦しくはあったが、アルバス・ダンブルドアは間にあった。

 

フィリウス・フリトウィックの席をとおりすぎようとしたところで、甲高い声が呼び止められた。 「総長、ちょっとよろしいですか? ……ミスター・ポッターから伝言があります。」

 

老魔法使いは立ちどまり、 〈操作魔法術(チャームズ)〉教授フリトウィックに無言で問いかけた。

 

「ミスター・ポッターはけさ起きてすぐに、後悔したそうです。フォークスが鳴いてからあなたにひどいことを言ってしまった、ほかの部分についてはともかく、その部分についてだけは謝りたい、と。」

 

老魔法使いは無言のまま、フリトウィック教授を見つめた。

 

「総長?」

 

「では、わしから感謝を伝えてくれ。ただ、賢明な人は老賢者の助言よりも不死鳥の助言を受けいれるものだということも、伝えておいてほしい。」  そう言ってアルバス・ダンブルドアは席についた。食事はその三秒後にすべて消滅した。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——クィレル先生:

 

マダム・ポンフリーはその生徒に声をあげた。 「ダメです。面会はなりません。話すこともなりません。一つだけ質問が、などと言ってもダメです! あと三日間はベッドで絶対安静です!」

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ミネルヴァ・マクゴナガル:

 

ミネルヴァは医務室にむかっていて、ハリー・ポッターは出たところだった。二人はすれちがった。

 

ハリー・ポッターの視線に怒りはなかった。

 

悲しみもなかった。

 

なにも言おうとしていなかった。

 

まるで……まるで『ぼくはあなたのことを避けていない』ということさえ伝わればいい、というように、ごく短く目をあわせてきただけだった。

 

どういう視線をもって返事にかえるべきか考えようとしているうちに、ハリー・ポッターは視線をそらした。まるで『それにはおよびません』と言おうとするかのように。

 

すれちがう瞬間、彼は無言だった。

 

彼女も無言だった。

 

言えることなどなにもなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリー:

 

二人は角をまがり、ダンブルドアが目にはいったとき、ヒッと声を漏らしてしまった。

 

声を漏らしたのは、総長が突然出現して厳格そうな表情で二人をじっと見たからではない。ダンブルドアがそうなのはいつものことだ。

 

だが今日のダンブルドアは正装の黒ローブすがたで、とても老人らしく、とても実力者らしい雰囲気があり、鋭い目で二人を見ている。

 

「フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリー!」とダンブルドアが〈実力者の声〉で言った。

 

「はいっ!」と言って、二人は直立の姿勢になり、古い写真で見た軍隊式の敬礼をした。

 

「言っておきたいことがある。きみたちはハリー・ポッターの仲間だと聞いている。まちがいないか?」

 

「はいっ!」

 

「いまハリー・ポッターに危機がせまっている。 彼をホグウォーツの結界の外に出してはならん。 このことだけははっきりと言っておきたい。 わしもグリフィンドール出身の身、規則より大切にすべき規則があることはよく分かっておる。 しかし今回、このことだけは、一つたりとも例外を許してはならぬ至上命令じゃ。 きみたちが手助けし、ハリーがこの城を出ることがあれば、彼の命にかかわる! 代理でなにかしてあげることはよい。遣いを頼まれたとして、それもかまわん。しかし彼自身がホグウォーツを脱出したいという頼みには、いっさい耳を貸してはならん! よいな?」

 

「はいっ!」  そう言いながらも、二人はまだその意味をよく考えておらず、自信なさげにおたがいを見あった——

 

明るい青色の目が二人をじっと見つめた。 「いや、考えずに返事するようではいかん。 もしハリーから脱出の手伝いを頼まれたら、断ること。脱出のための手段を聞かれたら、断ること。 そのたびにわしに報告せよとまでは言わん。きみたちにそんなことはできまい。 ただ、そういうときは、()()()頼めばよい、ということを彼に伝えてほしい。真に重要な事情があれば、わし自身が護衛となり、彼に付き添う。 フレッド、ジョージ。きみたちの友情を邪魔だてして申し訳ないとは思うが、ことは彼の生命にかかわるのじゃ。」

 

二人はしばらく時間をかけて、おたがいを見あった。といっても、なにかを伝えたいからではなく、同時に同じことを考えるときはこうするからだ。

 

二人はそれが終わるとダンブルドアのほうを見た。

 

そして寒けとともに思いあたった人物の名前を言った。「ベラトリクス・ブラック。」

 

「最低でも、それ相当の危機ではある。」とダンブルドア。

 

「了解——」

 

「——ならしかたない。」

 

◆ ◆ ◆

 

余波——アラスター・ムーディとセヴルス・スネイプ:

 

アラスター・ムーディは片目をうしなったとき、高名な研究家でレイヴンクローのサミュエル・H・ライアルに連絡し、有無を言わせず調査を引き受けさせた。だれに対しても不信をもつムーディではあるが、ライアルに対する不信は平均よりやや少なめだった。だからこそムーディはライアルが未登録の人狼であると知っていながら通報していなかったのだ。あらゆる魔法製の眼とそのありかに関する手がかりを調べつくせ、というのがムーディのライアルへの注文だった。

 

報告が来たとき、ムーディはその大半を読まなかった。一番目にあったのが〈ヴァンスの眼〉だったからだった。それはホグウォーツ創設よりも古い時代に作られたもので、有力な〈闇の魔術師〉に所有されているという。都合のいいことにその人物はブリテンでもなく関係諸国でもない辺鄙な場所を根城としており、そこならムーディもくだらない法律を気にする必要がなかった。

 

そんな経緯でアラスター・ムーディは左足をうしない、〈ヴァンスの眼〉を手にした。 副産物として、圧政に苦しむウルラートの人民を解放する効果もあったが、二週間もすると別の〈闇の魔術師〉が権力の空白におさまってしまった。

 

つづけて〈ヴァンスの左足〉を探すことも考えたが、これは敵の思う壺ではないかと気づいて、やめた。

 

いま〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディはゆっくりと方向を変えつつ、リトル・ハングルトン墓地を監視しつづけている。 本来もっと陰気な場所であるはずだが、明るい日差しのもとではただの草地にふつうの墓石がならんでいるだけの場所に見える。境界には、壊すことも乗りこえることもたやすい金属の鎖がめぐらされている。結界の代用品だ。(ムーディとしてはマグルがなんのつもりでこんなことをしているのか想像がつかない。これは結界ごっこのようなものなのか。まさかマグルの犯罪者もそれに乗ってくるとでもいうのか……という点は追及しないほうがよさそうだと思っていた。)

 

実は墓地全体を監視するのに、方向を変える()()はない。

 

視線がどちらを向いていようが、〈ヴァンスの眼〉の視界はつねに自分をとりまく全方位・地球全球におよぶ。

 

だがその事実を元〈死食い人〉であるセヴルス・スネイプなどに教えるべき理由はない。

 

ムーディはときどき『被害妄想』的だと言われる。

 

そう言われるとムーディはいつも、百年間〈闇の魔術師〉たちを相手にして生きのびてから言え、と答える。

 

マッドアイ・ムーディは自分がそれなりの警戒力を身につけるまでにどれくらいかかったか——運ではなく実力で切りぬけられるようになるまでにどれくらいの経験を要したか——をふりかえって考えてみたことがある。すると、たいていの人はその域に達するまえに死ぬものであるらしいことに気づいた。 このことをライアルに言ってみると、なにかよく分からない計算をしたのち、典型的な〈闇の魔術師〉ハンターは『被害妄想』になるまでに平均八.五回死ぬ、という答えがかえってきた。 そうだとすればいろいろ説明がつく。ライアルがうそを言っていなければだが。

 

昨日、マッドアイ・ムーディはアルバス・ダンブルドアから連絡をうけ、〈闇の王〉が言語を絶する闇の魔術を使って肉体の死を生きのび、どこか遠くの地で覚醒したということ、そしてかつてのちからを取りもどす方策をさぐりつつ、あらためて〈魔法界大戦〉を起こそうとしているのだということを伝えられた。

 

ほかのだれかなら、そんな話はとても信じられない、と思うところだろうか。

 

「なんでいまさら、復活の秘術があるなんて話を聞かされなきゃならんのだ。」  マッドアイ・ムーディはかなり辛辣に言う。 「ホークラックスを作るくらい能のありそうな〈闇の魔術師〉は何人いたことか。そいつらの墓を一個一個、こうしなきゃならんのだぞ。 この墓だって、今回がはじめてというわけでもあるまい?」

 

「これは年一度、わたしが補充しに来ている。」  そう言ってセヴルス・スネイプは三本目の小瓶をあけ、そこに杖を振る動作をしはじめた。()()()()()()()()()()()、瓶はぜんぶで十七本あるという。 「ほかにも先祖の墓はいくつかあったが、そちらには長期間もつ種類の毒しか入れていない。あなたのように暇な人間ばかりではないのでね。」

 

ムーディは瓶から液体が吹きでて、消える様子を見た。消えた液体は、この下の骨のなかの髄があった位置に転移していた。 「それでも罠をしかける意味はあると思っているんだな。でなけりゃ、骨を〈消滅〉させたほうが早い。」

 

「この手が使えないとなれば、復活の手だてはほかにもあるからだ。」  あっさりそう言って、スネイプは四本目の瓶をあけた。 「きかれるまえに言っておくと、墓はかならず最初に埋葬された墓でなければならないし、骨は儀式がはじまってから取りださなければならない。 つまり、やつがあらかじめここに来て骨を取り去っていたという可能性はない。 これより弱いほかの先祖の骨で代用する意味もない。試すまえに、効力がなくなっていることに気づくはずだ。」

 

「どれだけの人間がこの罠のことを知っている?」とムーディは問いつめた。

 

「あなたと、わたしと、総長。ほかにはいない。」

 

ムーディは鼻で笑った。 「ハン。アルバスのことだ。その復活の儀式のことを、アメリアとバーテミウスと、あのマクゴナガルという女にも話したんじゃないのかね。」

 

「そのとおりだが——」

 

「アルバスが復活の儀式のことを知った。そして、あいつらにそれを話した。そこまでの情報がそろった時点でヴォルディなら、おれにも話がいったと判断する。そしておれならこういうことをするということも、お見通しだ。」  ムーディは嫌そうにくびを横にふった。 「ヴォルディが復活する手段はほかにもあると言ったな。どんな方法だ?」

 

スネイプは五本目の瓶に手をかけたところで止まった。(当然ながらすべては〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)されているが、ムーディの〈眼〉には通用しない。ただ『隠れようとしている』という印がついて見えるだけだ。) 「あなたが知る必要はない。」と元〈死食い人〉は返事した。

 

「わかってきたじゃないか。」とムーディは生徒を褒めるように言った。 「で、その瓶のなかみは?」

 

スネイプは五本目の瓶をあけ、杖をひと振りし、内容物を墓めがけて飛ばした。 「ああこれは、LSDというマグルの麻薬だ。 昨日そういう会話をしたせいか、マグル世界のことを少し思いだして、どうせならLSDがよさそうだと思い、急いで入手してきた。 復活の薬に混入したあかつきには、おそらくこれの効能も永続する。」

 

「効能というと?」

 

「実際経験した者にしか分からない効能らしい。」  スネイプはあざ笑うように言う。「……わたしは未経験なもので。」

 

ムーディは首肯し、スネイプは六本目の瓶をあけた。 「今度は何だ?」

 

「惚れ薬。」とスネイプがこたえる。

 

「惚れ薬だあ?」

 

「凡百な惚れ薬ではない。 これを飲むと、だれをも魅了する愛らしいヴェルダンディという名の女ヴィーラとのあいだで両思いの愛が生まれることになっている。総長の話では、うまく恋愛にさえ持ちこめればそのヴィーラならやつを改心させることすらできるかもしれない、という。」

 

「ケッ! 相変わらず甘いじいさんだ——」

 

「同感。」と言ってから、セヴルス・スネイプは作業にもどった。

 

「せめてマラクロウの毒液くらいは用意しただろうな。頼むからそう言ってくれ。」

 

「二瓶目がそれだった。」

 

「アイオケイン・パウダーは。」

 

「十四番目か十五番目にある。」

 

「〈バアルの麻酔薬〉。」  それはきわめて高い中毒性のある麻薬の名前であり、スリザリン的傾向のある患者に奇妙な副作用をもたらすことが知られている。 ムーディ自身、とある〈闇の魔術師〉がある標的人物をあるポートキーに触れさせたいがために、非常識なまでの労力をかけた事例を知っている。標的が買い物にでたときにクヌート一枚にしかけをして渡しでもしたほうがよほど楽なのに、やたら入りくんだことをやりたがるようになり、 極めつけとして、その同じポートキーに()()()()()()()()()()()()()()、標的が二度目に手をふれたら安全な場所に帰ることができるという効果までつけた。 いくら薬物のせいだったとしても、その男は自分ではなにをしているつもりで帰り道の『ポータス』をかけたりしたのか。まったく理解しがたい。

 

「十本目。」とスネイプ。

 

「バジリスクの毒液は。」

 

「は? それは復活の薬に必要なほうの材料だろう! ヘビの毒液は骨を溶かし、ほかの薬剤もすべて溶かしてしまう。 だいたいどこでそんなものが手にはいると——」

 

「落ちつけ。おまえさんが信頼できるかどうか、試しただけだ。」

 

マッドアイ・ムーディは墓地を監視するため(実は必要のない)回転動作をつづけ、〈薬学教授〉は薬剤をそそぎつづけた。

 

「ちょっと待て。」とムーディがやにわに言う。「なぜ()()()ほんものの墓だと分かる——」

 

「この、だれが動かしてもおかしくない墓標に『トム・リドル』と書いてあるからに決まっている。」と皮肉な声がかえってきた。 「……これで、総長との賭けに勝てた。あの人は、五瓶目までに気づくほうに賭けていたのでね。 油断大敵もまだまだですな。」

 

間があいた。

 

「アルバスはいつ、そのことに気づいた——」

 

「この儀式のことを知ってから三年経ってしまっていた。」  スネイプはいつもの皮肉な調子ではなくなった。 「いま思えば、もっと早くあなたに相談していればよかった。」

 

そう言ってスネイプは九本目の瓶をあけた。

 

「ここにあるほかの墓もすべて、毒をいれてある。長期間もつほうの毒ですがね。 ……まあ、この墓地が正解だという可能性もなくはない。 あの男も自分の家族を皆殺しにしたとき、そこまでさきのことは考えていなかったかもしれない。なにより、墓本体を動かすことはできない——」

 

「もとの墓地はもうとっくに、とても墓地には見えなくなっているぞ。」とムーディは言いきった。 「それ以外のマグルの墓石をぜんぶ別の場所に移して、住民には〈記憶の魔法〉をかけてあるに決まってる。 儀式をはじめる直前になるまで、やつはベラトリクス・ブラックにすら詳細を伝えない。真の墓の場所は、やつ本人をのぞいて、だれも知らない。」

 

二人はそれでも不毛な作業をつづけた。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ブレイズ・ザビニ:

 

スリザリン談話室に一歩ふみこむと、そこには戦場と見まがうほどの緊張がある。 肖像画の穴をくぐった瞬間、部屋の左半分と右半分とが〈国交断絶〉の状態にあることが分かる。 だれも説明しようとしないほど当たりまえの事実だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ちょうど部屋の真ん中にあるテーブルに一人陣取り、宿題をしているブレイズ・ザビニはほくそ笑んだ。 ブレイズ・ザビニは一目置かれている。そしてその評判を維持しようとしている。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ダフネ・グリーングラスとトレイシー・デイヴィス:

 

「なにかおもしろいことない?」とトレイシー。

 

「ない。」とダフネ。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ハリー・ポッター:

 

ホグウォーツ城のある程度上の階層までくると、通行人がまばらになる。そこにはただひたすら、廊下や窓や階段や肖像画がつらなっている。ときどきは、ちょっと目をひくものが出てきたりもする。たとえば、ふかふかの毛皮の子どもくらいの体格をした動物に変わった平たい剣をもたせた銅像など……

 

ホグウォーツ城のある程度上の階層までくると、通行人がまばらになる。それがハリーには都合がよかった。

 

幽閉される場所としては悪くない、とハリーは思った。 というより、これ以上いい場所が思いつかないくらいだ。つねに変化するフラクタル構造の古城には、探検すべき場所が数かぎりなくあり、おもしろい住人やおもしろい本、マグル科学の範疇にないとてつもなく重要な知識がつまっている。

 

ホグウォーツで過ごせる期間が増えるのは大歓迎だ。もし外出禁止の条件さえなければ、よろこんで飛びついていたくらいだ。いや、どんな策略を使ってでもその機会を手にいれようとしただろう。 ホグウォーツは()()な場所だった。可能世界すべてのなかで最高とまではいかずとも、この地球上ではまずまちがいなく〈最高に楽しい場所〉だった。

 

それが、外に出てはいけないと言われると、急にそうは思えなくなる。なぜかこの城と外苑がとても小さく、息ぐるしく感じられる。なぜか外の世界にずっと楽しく、重要なものがあるように見えてくる。 それまで何カ月もここで過ごしていて、狭く感じたことはなかったというのに。

 

ハリーの一部が口をはさむ。 そういう研究があるのは知ってるだろう。よくある希少性の効果だ。ある国でリン酸系洗剤が非合法になると、それまで気にもしていなかった人たちが競って隣国に行ってまでして大量のリン酸系洗剤を買うようになる。アンケートをするとたくさんの人がリン酸系洗剤は刺激がすくなく、汚れ落ちがよく、使いやすいと答える……。二歳の子どもに、すぐそこにあるおもちゃと塀のむこうにあるおもちゃのどちらかを選べと言うと、すぐ手にはいるほうには見向きもせず、塀のむこうに行こうとする……。ある商品がもうすぐ品切れになりそうだ、と言うだけで売れゆきがよくなることはよく知られている……。チャルディーニの『影響力の正体』にだって書いてある。となりの芝生は青い、というより、禁じられた芝生ならなんでも魅力的に感じられる。

 

外出禁止の条件さえなければ、夏休みをホグウォーツで過ごすのはいい。むしろよろこんで飛びついていたくらいだ……

 

……でも死ぬまでとなると、そうはいかない。

 

そこはちょっと問題だ。

 

だいたい、倒すべき〈闇の王〉なんてものが、まだほんとうにいるのか?

 

〈名前を言ってはいけない例の男〉がもう現実世界からいなくなってしまっているという可能性はないのか? すべては、ただの演技かもしれないけど実際に狂っているかもしれない老人の妄想でしかなかったりするのでは?

 

ヴォルデモート卿の死体は小さな燃えかすとなった状態で発見された。たましいなどというものは存在しない。 なのにヴォルデモート卿が生きている? どうやって? ダンブルドアはなにを根拠にそう考えている?

 

もしも〈闇の王〉が存在しなければ、ハリーは〈闇の王〉を永遠に倒すことができず、永遠にホグウォーツに閉じこめられる。

 

……とはいえ、七年生になれば合法的にここを脱け出す手段があるかもしれない。いまから六年と四カ月と三週間。 そう長い時間ではない。陽子の崩壊を待つように長く感じるのは、気持ちの問題にすぎない。

 

ところが問題はそれだけではない。

 

問題はハリーの行動の自由だけではない。

 

ホグウォーツ総長であり、ウィゼンガモート主席魔法官であり、国際魔法族連盟最上級裁判長である人物が、危機を察知し、準備態勢を指示した。

 

それは()()()だった。

 

しかもその誤検出をうみだした原因は、ハリー自身だった。

 

向上心を担当する部分のハリーが言う。ちょっと考えてみてほしい。世のなかにはいろいろな職業があって、教師の才能がある人には大工の才能がなかったりする。でもあらゆる職業に共通して、愚かにならないための方法がいくつかある。小さな失敗が大きな失敗に変わってしまうまえに対処する、というのはその一つだろう?

 

……いや、今回はもうとっくに大きな失敗になってると思うけど……

 

自分を監視する部分が言う。とにかくだ。事態は刻一刻と悪化している。 スパイが標的をおとしいれるときの手ぐちみたいなものだ。スパイはまず、標的の人物にちょっとした罪を犯させる。それからその罪をばらすと脅迫して、もっと大きな罪を犯させる。それをネタに()()()()()()脅迫をして、どんどん大きな罪へと追いこんで、標的が完全に言いなりになるところまでもっていく。

 

そういう風な脅迫の犠牲者になりそうなときは、最初の一回目で罪をいさぎよく認めて、責めをうけてしまったほうがいい。自分ならそうする。そう決めていていたんじゃないか? 小さな罪をばらさずにおいてやる、だからもっと大きな犯罪をやれ、なんて話は変だろう? 今回の件もそれとどこか似ていないか、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス?

 

といっても、今回はもう、小さな罪ですむ段階ではない。誤検出をさせてしまっただけではない。有力者のなかには、ハリーが()()()()()()()()()()()()()()()()ことを知れば、激怒するであろう人たちがたくさんいる。〈闇の王〉が()()存在していてハリーの命を狙っているなら、そのことだけで敗戦が決定的になってしまった可能性すらある——

 

これ以上取りかえしがつかなくなるまえに止めることができれば、みんなきみの正直さと合理性と先見性に感心するかもしれないぞ。そう思わないか?

 

正直、そういう発想はいままでなかった。なのでハリーは一瞬だけ考えてみたが、これを言った部分の自分に『どこまで楽観的なんだ』と言ってやりたくなった。

 

さまよい歩いているうちに、ハリーはひらいた窓の近くに来ていた。そこに歩みより、両腕を(さん)に乗せ、学校の敷地を高みから見おろす。

 

枯れ木の茶色、枯れ草の黄色、凍った小川の氷の色……。学校上層部のだれが〈禁断の森〉なんていう名前をつけたのか。あんな名前では余計に興味をかきたてるだけだ。 太陽は低くなりかけている。ハリーはこの数時間、堂々巡りといっていいほど同じようなことを考えつづけていた。とはいえ、ひと巡りするたびにはっきりと、なにかが変わっていた。つまり軌跡は円ではなく螺旋だったが、上昇か下降かは分からなかった。

 

いまだに信じられない。アズカバンであれだけのことが起き、あれだけの経験をして—— 〈守護霊〉で生命力を使いはたしそうになり、ぎりぎりで止め——〈闇ばらい〉を気絶させ——ベラをディメンターから隠す方法を発見し——ディメンター十二体をおどして退却させ——ロケット噴射式のホウキを発明して乗って帰り——それだけのことをしながら、一度たりとも『がんばるしかない……ハーマイオニーとの約束……ちゃんと昼食から帰るって約束したんだから!』と言って自分を奮起させようとしなかったことが信じられない。 二度と来ないせっかくの機会をふいにしてしまった、という感じがする。 あんな機会をのがしてしまっては、また今度どんな危機が来ようとも、どんな風に約束しようとも、うまくやれる気がしない。 ()()()()失敗したことの埋め合わせをしたくて、わざとらしく作ってやってしまうだろうから。それにくらべて、今回ハーマイオニーとの約束を思いだしてさえいれば、しっかりと英雄らしい見せ場ができていたはずだ。 選んでしまった道がまちがっていて、あともどりもできないときのように、機会は一度しかなく、一度目の挑戦で成功するしかない……

 

アズカバンに()()()()()ハーマイオニーとのあの約束を思いだすべきだった。

 

だいたい、なぜ行くことにしてしまったのか。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハッフルパフが言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーが返事した。

 

じゃあ、もうちょっと描写を詳しくしようか。ホグウォーツの〈防衛術教授〉が『ベラトリクスをアズカバンから脱出させよう!』と言ったとき、きみは『いいですね、賛成!』みたいな反応をした。

 

ちょっと待てよ、そんな言いかたはないだろ——

 

ほら、こうやって高いところに来ると、木の一本一本がぼやけた感じになって、森のかたちが見えてくるだろう?

 

実際、なぜあんなことをしてしまったのか……?

 

費用対効果を計算してやったのではないことだけはたしかだ。 とても恥ずかしくて、計算用紙をとりだして各方面の期待効用を書きつらねることなどできなかった。クィレル先生に見そこなわれてしまうのではないかということが怖かった。囚われの姫君を救出するという話を断ったり、すこし躊躇を見せるだけでも、見そこなわれてしまういそうで怖かった。

 

こころの奥底のどこかで、ハリーはそう思っていた。謎めいた教師が自分にはじめてさずける任務……冒険への招待。それを断れば、謎めいた教師は憤慨して、いなくなってしまい、自分が英雄(ヒーロー)になる可能性もついえる……

 

……ああ、これだ。 あのときの自分はこう考えていたんだ。 うっかり人生には筋書きがあると思い、ひねりのある展開がはじまった、という風に考えてしまった。そして実態が『ベラトリクス・ブラックをアズカバンから脱獄させる』であることをうっかり忘れてしまっていた。あの一瞬の判断をしてしまった真の理由はこれだ。ハリーの脳はあのわずかな時間で感覚的に物語性を見いだし、『ノー』という答えはおさまりが悪いと感じた。 いま思えば、とても合理的な意思決定のやりかたではない。 それとくらべて、クィレル先生が言った裏の動機はずっとまともだった。ベラトリクスが死ねばスリザリンのうしなわれた秘術への最後の手がかりが完全になくなってしまう、だからそのまえになんとかしたい。……当初想定されたリスクに十分見あう程度の利益が見こめる計画だ。

 

不公平だ、とハリーは思う。自分が合理性を手ばなしたといっても、それは一秒にも満たない時間だけだったのに、 その一秒にも満たない時間で、脳はその後の議論を待つことなく、『ノー』よりも『イエス』のほうが耳ざわりのいい答えだと決めつけてしまったのだ。

 

木々の一本一本がぼやけた感じになって見えるくらいの高みから、ハリーは森を一望した。

 

もしいま自白すれば、自分の評判は取り返しのつかないほど悪くなり、たくさんの人の怒りを買い、いずれは〈闇の王〉に殺されることにつながりかねない。それは嫌だ。 そうなるくらいなら、六年間ホグウォーツに閉じこめられたほうがましだ。 すなおにそう思う。 そしてそう思えたことにハリーはほっとした。自分が自白すればクィレル先生はアズカバンに送られてそこで死ぬのだ、という要素に決定的な影響力を感じている自分を否定しなくてもいいと分かって、ほっとした。

 

(ハリーは一度息をすって止め、ぎこちなくはきだした。)

 

そういう表現のしかたをすると……自分は英雄を気どれるどころか、臆病者でしかないように思える。

 

ハリーは〈禁断の森〉を見るのをやめて、よく晴れた禁断の青空を見あげた。

 

ガラスの板のむこうには、あかるく燃える大きなものと、ふわふわしたものが見える。そしてその背景に、果てしなくつづく不思議な青色の場所……謎と未知の世界が見える。

 

アズカバンのことを思うと……気が楽になった。囚人の苦しみにくらべれば自分の問題はたかが知れている。 ()()苦しんでいる人たちはこの世界にいる。ハリーはその一人ではない。

 

自分はアズカバンをどうしたいのか。

 

ブリテン魔法界をどうしたいのか。

 

……自分はいま、どの陣営にいるのか。

 

あかるい日の光のもとでは、アルバス・ダンブルドアのことばはクィレル先生のことばよりも()()賢明であるように見える。 善良で倫理的で()()()()()あのことばが真実でもあるなら、どんなにいいことか。 そう、ダンブルドアは耳ざわりのいいことを耳ざわりがいいというだけで信じるタイプであり、()()なのはクィレル先生のほうであることを忘れてはならない。

 

(ハリーはまたはっと息をのむ。クィレル先生のことを考えるたびにこうなる。)

 

かといって、耳ざわりのいいことならば間違いだ、と決めつけるのもおかしい。

 

そしてクィレル先生は正気ではあるが、欠点もある。クィレル先生は人生を()()()()()()()()()

 

信じられないな——と、人間がいかに自分を過信し楽観的すぎるかを示した一八〇〇万本の実験結果を読んだハリーが言う。 クィレル先生は悲観的すぎるっていうのか? 毎回のように現実の下をいって外れをだすくらい悲観的すぎるっていうのか? そりゃ珍品だ。剥製にして博物館にいれておかないと。 きみたち二人のうち、完全犯罪を立案したばかりか、完全犯罪が失敗したときに供えて誤差マージンと予備の作戦もあれだけ用意して、結果的にきみの命を救ったのはどっちだと思ってるんだ。 ヒント:その人の名前はハリー・ポッターじゃない。

 

でもクィレル先生の欠点を『悲観的』と表現するのはなにかちがう——それがゆたかな経験に根ざした賢明さなどではなく、欠点であると仮定してのことだが。 とにかく、あの人はいつもものごとを最悪の面から見ようとしているように感じられる。 クィレル先生なら、九割が水で満たされたグラスをひとつ手わたされたとき、一割が空だということはだれ一人()()()水をいれようとなどしない証拠だ、と言うだろう。

 

これは実際、とてもいいアナロジーだと思う。 ブリテン魔法界のすべてがアズカバンなわけではない。グラスは半分以上満ちている……

 

ハリーは晴れわたる青空を見あげた。

 

……ただ、そのアナロジーをもっとすすめるなら、アズカバンが存在する以上、善良さが九割であることにもなにか別の原因があると思うべきなのかもしれない。クィレル先生の言いかたを借りれば、『親切さを見せつける』ためだ、とか。 真に親切な人間はアズカバンを建設しない。そんなものが存在すれば、すぐに全力で取り壊そうとする……そうじゃないのか?

 

ハリーは晴れわたる青空を見あげた。 合理主義者になるためには、人間が生まれつきもっている欠陥についての論文を大量に読まなければならない。そのなかには罪のない論理的な誤謬をおかす欠陥についての論文もあるが、もっと陰鬱にさせられる論文もある。

 

ハリーは晴れわたる青空を見あげ、ミルグラム実験のことを考えた。

 

その実験でスタンレー・ミルグラムは第二次世界大戦の原因をつきとめようとした。つまり、ドイツ市民がなぜヒトラーに服従したのかを理解しようとした。

 

ミルグラムは『服従』の心理を研究するための実験を設計した。なんらかの理由で、権威者から暴力の行使を命じられたときドイツ人はほかの民族よりも服従しやすいのではないか、という仮説を検証するつもりだった。

 

統制群をかねた予備実験として、ミルグラムはまずアメリカ人を対象に実験した。

 

それが終わった時点で、ドイツで実験する意味はないと悟った。

 

実験装置はこうだ。 スイッチが三十個、横にならべてあり、それぞれ左から順に『十五ボルト』から『四百五十ボルト』までのラベルが貼ってある。四つのスイッチの組ごとにまたもう一種類のラベルがある。最初の四つは『軽いショック』、六組目は『強烈なショック』、七組目は『危険——生命の保証なし』、残る最後の二つのスイッチには『XXX』の警告(ハザード)ラベルだけがついていた。

 

実験主催者に協力する俳優が一人、用意されている。俳優はほんものの被験者とおなじように、学習についての実験のための参加者募集を見てその場に来た風をよそおっている。そして(そのように仕組まれた)くじびきに負けて、電極つきの椅子に縛られている。 ほんものの被験者には実験開始までに軽い電気ショックを体験させ、その電極が実際に動くことをたしかめさせておく。

 

ほんものの被験者にむけては、これは罰が学習と記憶におよぼす効果についての実験である、 具体的には、どういう種類の人から罰を処置されるかによって学習の効率がどう変わるか調べることが目的だ、と説明してある。 椅子に縛られた『学習者』は単語のペアを記憶することになっており、問題に正答できなければ『教育者』が電気ショックを処置し、間違いがくりかえされるたびに電気の強度をあげていくという手順である。

 

三百ボルトの段階で俳優は答えを言うことをやめ、壁にむけて足を振りまわすようになる。そこで主催者は被験者らに、無回答も誤答と見なすように命じる。

 

三百十五ボルトの段階でも、俳優はただ壁を蹴る。

 

そのあとは、いっさい反応がなくなる。

 

被験者が反論したり、スイッチを押そうとしなかったりした場合、灰色の実験衣をまとう主催者は感情を見せないまま、『つづけてください』と言う。それでも拒否すれば、『実験手順を守ってください。そのままつづけてください』、『なにがあってもやめないでください』、『あなたにやめる選択肢はありません。かならずつづけてください』と段階をあげていく。 四段階目のせりふでも被験者がしたがわなければ、実験は中止される。

 

ミルグラムは事前に、実験の設定を説明したうえで、経験豊富な心理学者十四人から意見を集めておいた。被験者のうち何人が、四百五十ボルトの段階まで脱落せず残り、ぴくりとも反応しなくなった犠牲者に対し『XXX』のスイッチを押すまでに至るか。その割合を予想させたのである。

 

もっとも悲観的な答えは『三パーセント』だった。

 

実際の数字は、四十名中二十六名だった。

 

どの被験者も冷や汗をかき、苦悶し、声をつかえさせ、引きつった笑いをし、くちびるを噛み、手のひらに爪をのめりこませた。 それでも主催者がうながすと、大半の人はスイッチを押した。それが相手に苦痛と危害をもたらし、生命にかかわるほどの電気ショックを生じさせるスイッチであることを理解したうえで、最終段階まで押すことをやめなかった。

 

クィレル先生の笑いが聞こえるようだ。クィレル先生ならだいたいこういうことを言うだろう。 『いや、わたしでさえそこまで冷笑的にはなれなかった。 人間が金や権力のために自分の信条を捨てることは知っていたが、ちょっとにらみつけるだけで十分だったとは。』

 

専門的な訓練をうけていない人が進化心理学的な想像をするのは危険ではあるが、 ミルグラム実験のことを知ったとき、そこにも進化的な意味があるのではないかとハリーは思った。きっとおなじような状況が人類の祖先の環境で何度も発生して、〈権威〉にさからおうとするような祖先は多分、みんな死んでしまったのではないか。 そこまで極端ではなかったとしても、反逆派は従順派ほど繁栄しなくなったのだろう。 人間は自分のことを善良で倫理的だと考えるが、ひとたび圧力がかかれば、脳内のどこかのスイッチがはいる。果敢に〈権威〉に歯向かおうにも、自分が思っていたほど簡単ではなくなる。 たとえ一歩目を踏みだせたとして、その先も楽ではない。 英雄のように軽がると反旗をひるがえそうにも、 足は震え、声は詰まり、あたまは恐怖でいっぱいになる。 そんな状態で〈権威〉に対抗できるだろうか?

 

ハリーはそこで、目をしばたたかせた。ハリーの脳のなかで、ミルグラム実験で起きたことと、ハーマイオニーが〈防衛術〉の初回授業でやったこととがつながった。同級生を攻撃しろと〈権威〉に命令されたとき、ハーマイオニーは拒否した。不安と震えを見せながらも、拒否していた。 それを目のあたりにしながら、ハリーはいままでずっとミルグラム実験とむすびつける発想ができていなかった……。

 

ハリーは眼下の赤くなりはじめた地平線をじっと見た。夕日は落ちかけている。空の光は弱まっている。どの方角もまだ青く見えてはいるが、夜は近い。 赤色と黄金色の太陽はフォークスを思わせた。そして一瞬、不死鳥として生きるのは悲しいことだろうか、と思った。答える者がいないのに何度となく呼びかけるのは、悲しいことだろうか。

 

でもフォークスはあきらめない。何度死のうとも、かならず生まれかわる。不死鳥は光と火の生物だ。アズカバンが暗黒の一部なら、アズカバンについて絶望することも暗黒の一部なのだろう。

 

手わたされたグラスに水が半分のこっていて、半分なくなっている。そのこと自体はうごかしようのない現実であり、真実である。 それでも、自分なりの()()をもつことはできる。ない部分について絶望するか、ある部分について歓喜するかは、自分の選択だ。

 

ミルグラムは実験の変形版もいくつか試した。

 

十八番目の実験では、被験者の仕事は椅子に縛られた犠牲者に問題を出し回答を記録することだけとし、スイッチを押す仕事は別の係にゆだねられた。 犠牲者の苦痛の演技は元の実験とまったく変わらず、おなじように壁を必死に打ちつけ、無反応になる。ただ、被験者からすると、スイッチを押すのは()()()()()()という差がある。 ()()()仕事は観察者として、拷問の犠牲者に問題を読みあげるだけ。

 

その実験では、被験者四十人中、三十七人が最後の四百五十ボルトの『XXX』まで実験をおりなかった。

 

クィレル先生なら、その事実を冷笑的に受けとるかもしれない。

 

しかしその四十人のうちの三人は、実験の継続を()()()()のである。

 

ハーマイオニーとおなじように。

 

世界には、防衛術教授に命じられても、同級生に〈簡易打撃呪文〉を撃とうとしない人たちがいる。 ホロコーストの時代にも、ときには自分の生命を犠牲にしてまで、自宅の屋根裏にジプシーやユダヤ人や同性愛者をかくまった人たちがいる。

 

そういう人たちの祖先は人類とは別の種族なのか? 脳のなかになにか、常人にはない特別な神経回路の仕掛けがあるのか? でもそんなことは考えにくい。有性生殖の理論によれば、複雑な機械をうみだす遺伝子はいずれ、修復不可能なまでに混ぜあわされて消えるか、普遍化するかのどちらかだ。

 

つまりハーマイオニーを構成するなんらかの部品もやはり全体にいきわたっているはずで、人類一人一人がその部品をもっていることになる……

 

……そう考えるのは気分がいいが、()()()()()()まちがっている。まず脳損傷というものがあって、遺伝子を()()してその部分の複雑な機械が壊れることで、ソシオパスやサイコパスが生まれる。彼らには他人の気持ちを理解するための部品が欠けている。 ヴォルデモート卿も生まれつきそうだったのだろうか。それとも、善悪を理解しながら悪を選んだのだろうか。と言っても、いま重要なのはそこではない。 重要なのは、人類の()()()にハーマイオニーやホロコースト抵抗者のしたことを学ぶ能力があるということだ。

 

ミルグラム実験をおりなかった人たち……震えて冷や汗をかき、引きつった笑いをしながらも拒否はせず最終段階まですすみ『XXX』のスイッチを押した人たちのなかにも、実験終了後にミルグラムに礼状を送った人が何人もいた。そして自分自身について深く知ることができたことを感謝した。それもこの伝説的な実験の伝説の一部だ。

 

太陽はすっかり地平線の下に沈みつつあり、黄金色の頂点だけがはるかかなたの森の上に見えている。

 

その頂点にハリーは目をむけた。紫外線をカットするはずの眼鏡なので、直接見ても目に害になる心配はない。

 

その一点から、途中でさえぎられずそのまま飛んでくる、〈光〉そのものを直接見る。仮に四十人のなかの三十七人がそうでなかったとしても、三人がいる。 グラスが七.五パーセント満たされているということは、水を気にかけることが人間の本質である証拠だ。たとえそういう思いやりの能力を内面に秘めたままくじけてしまう人がほとんどだとしても。 もしだれにも真の思いやりがなかったとしたら、グラスは完全に(から)になっている。 だれもが内面では〈例の男〉とおなじように、実は利己的で狡猾な性格だったとしたら、ホロコーストに抵抗した人たちがいたはずがない。

 

日の入りを見つめ、自分ののこりの人生が一日なくなったことを考えた。そして自分が陣営を乗りかえたことに気づいた。

 

もう真剣に信じることができなくなった。アズカバンに行ってしまったあとでは、おなじように思えない。四十人のなかの三十七人が投じる票にしたがって行動することはできない。 だれもが自分のなかにハーマイオニーになる能力をもっていたとしても、いつかはその能力を発揮してくれるとしても、その『いつか』は『いま』ではない。現実世界の今日ではない。 四十人のなかの三人であるということは、政治的に少数派であることを意味する。クィレル先生が言いあてたとおり、そうなったとき自分はおとなしくしたがうことはできない。

 

人はアズカバンに行くとなにか重要な問題について考えかたを変える、というのは、悪い意味でもっともな法則なのかもしれない。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とスリザリンが言う。善か悪かはおいておくとして、あれがただしかった、ということか? 彼らがそのつもりでいるかどうかは別として、きみは彼らの次期の〈王〉になるのか? 〈闇の〉という形容はクィレル先生の冷笑の産物だから、それもおいておく。 ともかく、きみは支配者になる意思があるのか? もしそうなら、()()()()()心配だよ。

 

つぎにグリフィンドールが言う。自分は権力を託されていい人間だと思うのか? 権力をもとめる人に権力をあたえるべきではない、っていうルールがあったりしなかったか? それより、ハーマイオニーを支配者にしたほうがいいかもしれないぞ。

 

つぎにハッフルパフが言う。自分は社会を運営するのにむいていると思うのか? 最初の三週間で社会を混沌のどん底に突き落とさない自信はあるのか? きみが首相に選ばれたと聞かされたら、ママはどんなにひどい悲鳴をあげると思う? いやその反応はおかしい、と自信をもって言えるか?

 

つぎにレイヴンクローが言う。ぼくとしては、そういう政治的な話にはぜんぜん興味がないね。 選挙戦術はまるごとドラコにまかせて、ぼくらは科学に専念しようよ? 科学はぼくらが得意な分野だし、人類の生活水準を向上させることがよく知られてもいる。

 

()()()()()()()()、とハリーは自分の各部にむけて言う。 いますぐぜんぶ決める必要はない。 この問題についてはいくらでも時間をかけて思索して、それから結論をだせばいい。

 

最後までのこっていた太陽の頂点が地平線に沈んだ。

 

奇妙な感覚だった。これだけ重大なことについて、自分がどういう信念なのかよく分からず、()()()()()()()()()()()()()()()()。それはいままで感じたことのない自由でもあった……

 

そこでハリーはクィレル先生が最後の質問になんとこたえたかを思いだし、それでクィレル先生のことを思いだし、また息がつまった。のどが燃えるように熱く感じ、また上昇する螺旋のループに思考が囚われた。

 

クィレル先生のことを考えるとなぜ悲しくなるのだろうか。自分のことはよく分かっているつもりだったが、なぜこれほど悲しくなるのかが分からない……

 

まるでクィレル先生を永遠にうしなう経験をしたような気がする。ちょうど、アズカバンでクィレル先生がディメンターに食べられ、虚無に吸いとられてなくなってしまったというくらいに、はっきりとした喪失の感覚がある。

 

喪失ねえ。どうやって喪失したんだったっけ? クィレル先生がアヴァダ・ケダヴラをとなえたことで、そう思った。でも実はちゃんとした理由があったのに、きみが数時間かけても気づけなかっただけだった。 だったら、もうもとの関係に戻ればいいんじゃないか?

 

いや、切っかけはあのアヴァダ・ケダヴラではなかった。 ハリーはある種のことを考えないように、慎重に、幾重にも合理化をかさねていた。それが決定的に崩壊していく過程で、あのアヴァダ・ケダヴラは一因にすぎなかった。 それ以上に、自分が目撃したある事実が決め手となった。

 

目撃した事実……?

 

ハリーは空が暗くなるのを見ていった。

 

〈闇ばらい〉と対決するとき、クィレル先生が冷酷無比な犯罪者に豹変したこと。やすやすとしかし徹底的に人格が交代したように見えたこと。

 

別の女性のまえでは『ジェレミー・ジャフィ』としてふるまったこと。

 

『あなたはいくつ仮面があるんですか?』

 

『数えているほど暇ではないのでね。』

 

自然と考えつくのは……

 

……『クィレル先生』もなんらかの目的で作られた、あの人の多数の仮面のひとつにすぎないのではないか、ということ。

 

これからハリーはクィレル先生と話すたびに、それが仮面なのではないか、どんな動機でつくられた仮面なのか、と考えずにはいられない。 クィレル先生が乾いた笑みを見せるたびに、その表情をつくる真の目的をさぐろうとしてしまう。

 

ぼくもスリザリン的になりすぎれば、おなじようにあつかわれるのだろうか? いつも謀略ばかりやっていると、ぼくが笑いかけるとき、ほかの人はその意味をさぐろうとするようになるのだろうか?

 

うまくやれば、表面的なしぐさや表情への信頼を回復し、また人間らしい関係をとりもどせるのかもしれないが、具体的にどうやればいいのかは分からない。

 

ハリーはその意味でクィレル先生をうしなった。クィレル先生そのものというより、クィレル先生との……つながりを……。

 

それがなぜこんなにつらいのか。

 

なぜこんなに孤独に感じるのか。

 

だれかを信頼し親しくしたいだけなら、ほかの人とそうすればいい。むしろ、ほかの人のほうがいいかもしれない。 マクゴナガル先生、フリトウィック先生、ハーマイオニー、ドラコがいる。それ以前にママとパパがいる。ハリーはどう見ても()()ではない……。

 

ただ……

 

いっそう息がつまる思いがして、ハリーは理解した。

 

ただ、マクゴナガル先生、フリトウィック先生、ハーマイオニー、ドラコは、ハリーが知らないことをときどき知っていたりするが……

 

彼らはハリー自身の得意分野で卓越していない。彼らの才能とハリーの才能はほとんど共通点がない。同輩として尊重するのはかまわないが、()()()()として尊敬できる相手ではない。

 

いままでも、これからも……

 

師と呼べる相手ではない。

 

ハリーにとってその役割をはたしたのがクィレル先生だった。

 

ハリーはその存在をうしなった。

 

はじめての師としてのクィレル先生をうしなった、その経緯が経緯だったので、いずれまた関係をとりもどせるかどうか、さだかではない。 クィレル先生がハリーに言っていない目的をすべて知ることができれば、いつか、疑いは晴れるのかもしれない。 ただ、仮にそれが可能だとしても、あまり高い可能性ではなさそうだ。

 

一陣の風がホグウォーツの外苑を通りぬけ、木々をかたむかせ、中央は凍ったままの湖面を揺らした。それがこの窓までとどき、ささやくような音をたてた。ハリーはそのさきの薄闇の世界に目をやり、しばらく外界のことを考えた。

 

そしてまた内界にもどり、螺旋を一段のぼった。

 

『ぼくはなぜ、同じ年齢の子どものように、子どもらしくないんでしょうか』

 

クィレル先生の答えは言い逃れだったかもしれないが、そうだとすれば、よく計算された言い逃れだった。十分深みがあり、複雑で、隠れた意味がいろいろありそうな、よくできた罠だった。かなりのレイヴンクロー生でも引っかかりそうな罠だったといえる。 けれど、正直な返事だった可能性もある。 真の目的をうたがい、さぐろうとすると、こうやってどんな解釈でもできてしまう。

 

『ただ、ひとつ言っておくとすれば——ミスター・ポッター、きみはすでに〈閉心術〉を使える。遠からずその術を完全にものにすることだろう。 きみやわたしのような人物にとって、自分が何者であるかという問いはふつうと異なる意味をもつ。 人は自分の想像力がおよぶかぎりで何者にもなれる。きみについて特別なのは、その想像力が常人をはるかに越えていることだ。 登場人物をえがくとき、劇作家は自分のなかにそのすべてをもつ。自分のなかに登場人物をすべて包みこめる容積があってはじめて、劇作家は登場人物を動かすことができる。 俳優やスパイや政治家もおなじ……容積の限界が自分にできる演技の幅を規定し、仮面の限界を規定する。 だがきみやわたしのような人物は、自分の想像力がおよぶかぎりで、()()()()()()()()()()()何者にもなれる。 自分が子どもだと思うかぎり、きみは子どもになる。 だがきみはのぞめばそれ以上の存在を自分のなかにもつこともできる。 おなじ年齢のほかの子どもたちの容積の狭さとくらべて、きみはとても自由な、大きな容積をもっている。 子どもの劇作家ではありえないほどの精度で大人の人格を想像し()()()()ことができる。なぜそうなのか。わたしには分からない。そしてわたしは推測にすぎないことを言うべきではない。 ただ、ひとつだけ言おう。きみは自由なのだ。』

 

長ながとしたあのせりふは、なにかをごまかそうとしたにすぎないのだろうか。だとすれば、よくできている。実際、ハリーはその話がとても気になっている。

 

そして、あのせりふにどんな効果があるかをクィレル先生が()()()()()()()、ということがさらに気がかりだった。あのせりふを聞いてハリーはひどく動揺し、まちがっていると感じ、クィレル先生を信頼する気が薄れた。

 

いくつ仮面があろうが、これが()()自分だといえる人格はいつも一つ、あるべきだ……

 

(ハリーの目のまえの風景に夜がおとずれ、闇が濃くなった。)

 

……そうじゃないのか?

 

◆ ◆ ◆

 

就寝の時間が近づいたそのとき、ハーマイオニーは『ボーバトンとその歴史』という本を読んでいた。とぎれとぎれの息づかいが聞こえたので見あげると、そこに彼が——土曜日の昼食を欠席し、夕食も欠席したことで、いろいろなうわさの的となっていた彼が——いた。(ハーマイオニーとしては()()()()()()()()()()()という判断をくだしつつも、内心すこし不安をおぼえたのが『彼はベラトリクス・ブラックを追跡するためにすでに退学した』といううわさだった。)

 

()()()()」と甲高い声が出た。これが一週間ぶりの直接の会話であることにも、あまりの大声でレイヴンクロー談話室にいるほかの生徒の注目をあつめてしまったことにも、気づかないまま。

 

ハリーはすでにこちらを見ていて、こちらにむかって歩いてきていた。なのでハーマイオニーは椅子を立つのをやめて——

 

数秒後、ハリーはむかいの席につき、二人のまわりに〈音消し〉の障壁をつくってから、杖をおいた。

 

(まわりでは、かなりの数のレイヴンクロー生がこちらを見ないふりをしていた。)

 

「あの……」  ハリーの声は震えていた。 「また話せてよかった。もう……絶交はいいんだよね?」

 

ハーマイオニーはうなづいた。なにも言えず、ただうなづくことしかできなかった。 ハリーとまた話すことができるのはうれしいが、よく考えると罪悪感もあった。 彼女にはほかの友だちもいるけれど、ハリーには……。ハリーは彼女以外のだれともこういう風には話さない。だから彼女には話し相手になる以外の選択肢がない。どこか不公平だと思うこともあるが、 ハリー自身の境遇もいろいろと不公平ではあるからしかたない。

 

「なにがどうなってるの? つぎからつぎにいろんなうわさが出てきて…… あなたはベラトリクス・ブラックと対決するためにいなくなったんだとか、ベラトリクス・ブラックと()()()()ためにいなくなったんだとか——」  あとは、不死鳥がどうこういう話はハーマイオニーがでっちあげたんだ、といううわさもあって、それについてはレイヴンクロー談話室にいた全員が目撃しているという点をしっかりと反論したのだが、なんと今度はその目撃者のこともハーマイオニーのでっちあげだといううわさが出てきて、ハーマイオニーはそのバカバカしさについていけなくなり、ただあきれかえるばかりだった。

 

「それは言えない。」  ハリーはささやくような声になった。 「……いろいろ言えない事情がある。話してしまえたら楽なんだけど。」 「でも言えない……。ああ、そういえば、ぼくがクィレル先生といっしょに出かけることはもうなくなった……これはいいニュースなのかな……」

 

ハリーは両手を顔にあて、それから目をおおった。

 

ハーマイオニーは胸さわぎがした。

 

「泣いているの?」

 

「うん……」  ハリーの声はすこしかすれていた。 「ほかの人には見られたくない。」

 

二人とも無言になった。 ハーマイオニーは助けになりたいと思ったが、男の子が泣いているときになにをしてあげればいいのか分からない。なにが起きているのかも分からない。 自分のまわりで——いや、ハリーのまわりで——重大なできごとが起きているような気がする。その正体が何なのか分かれば、怖くなったりあわてたりしそうなくらいのできごとではないかと思う。けれどハーマイオニーはまだ、なにも知らない。

 

ハーマイオニーはようやく口をひらいた。 「クィレル先生がなにかしてはいけないことをしたの?」

 

「ぼくがクィレル先生と出かけられなくなった理由は別にある。」  ささやくような声で、両手を目にあてたままハリーは言う。 「総長がそう決めたんだ。でもたしかに、クィレル先生が信頼をくずすようなことをぼくに言ったといっても、まちがいじゃない……」  声が不安定になった。 「自分が一人になってしまったような気がする。」

 

ハーマイオニーは自分のほおに手をあて、昨日フォークスに触れられた部分を触った。 昨日から、触れられたことの意味をずっと考えていた。いや、それが重要な、意味のあることであると思いたかっただけかもしれない……

 

「なにかわたしにできることはある?」

 

「ふつうのことをしたい。」  ハリーは手をあてたまま、顔を見せない。 「ふつうのホグウォーツ一年生がやりそうなこと。十一歳や十二歳の子どもらしいこと。 たとえば〈爆発スナップ〉で遊ぶとか……。たまたまここにそのセットがあったりとか、きみがルールを知ってたりとかしないよね?」

 

「うーん……ルールは知らない……とにかく()()()()らしいけど。」

 

「じゃあゴブストーンも?」

 

「それも知らない。駒が飛びかかってくるらしいけど。そういうのは()()()が知ってるゲームでしょ!」

 

話がとぎれ、 ハリーは顔を手でぬぐってから、手をおろした。そしてすこし困ったような顔を見せた。 「じゃあ、ぼくらとおなじ年齢の魔法使いや魔女なら、どういうことをしてると思う? なんの役にも立たない遊びを()()()()()にはなにをする?」

 

ハーマイオニーは答える。 「石蹴り遊び(ホップスコッチ)とか? ……縄跳びとか? ユニコーンアタックとか? わたしに聞かないでよ。わたしはいつも読書なんだから!」

 

ハリーが笑いはじめ、ハーマイオニーもつられて笑いはじめた。なにがおかしいのか分からないが、なぜかおかしかった。

 

「ちょっと楽になったよ。 ゴブストーンを一時間やるよりずっと効果があったんじゃないかな。いつもどおりの態度でいてくれてありがとう。 やっぱり、ぼくが代数について学んだことをぜんぶオブリヴィエイトさせたりするのはやめておくよ。死んでもごめんだ。」

 

「えっ……? そんな——そんなこと、考えるまでもないんじゃない?」

 

ハリーは席をたった。それで〈音消しの魔法〉がやぶれたので、急に背景音がもどってきた。 「ちょっと眠くなったから、今日はもう寝ることにする。」  今度はもう、ふつうにふざけるときの言いかたをしている。 「悪いけど、すこしでも時間をとりもどしたいから。でも明日の朝食と〈薬草学〉にはちゃんと出るようにする。きみにばかりこういう暗い話聞かせるのも悪いしね。 おやすみ、ハーマイオニー。」

 

「おやすみ、ハリー。」  ハーマイオニーはまだなにも分からないが、心配でたまらなかった。 「……よい夢を。」

 

ハリーは返事を待たず歩きだしていた。すこし足をふらつかせて、そのまま一年生男子の寝室へとつづく階段をのぼっていった。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは自分が悲鳴をあげてもほかの人を起こすことのないよう、ベッドの〈音消しの魔法〉を最大出力にした。

 

朝食の時間に目ざましをセットした(もっと早く目がさめるかもしれないし、そもそも眠れないかもしれないが)。

 

ベッドにはいり、身を横たえ——

 

——枕の下になにかある感触があった。

 

ハリーはベッドの上の天蓋を見つめた。

 

そして独りごちた。「もう、冗談じゃないよ……」

 

数秒かけてやっとハリーは覚悟をきめ、身を起こした。毛布で自分と枕をおおい、ほかの男子たちから見えないようにした上で、弱めのルーモスをかけ、枕の下にあるものを確認した。

 

羊皮紙が一枚、そしてトランプのカード一そろいがあった。

 

羊皮紙の文面は……

 

小鳥のたよりで、ダンブルドアがきみを籠に閉じこめたという話を聞いた。

 

今回ばかりはダンブルドアにも一理ある。 ベラトリクス・ブラックが娑婆にもどり、あたりをうろついているというのは、善良な市民にとって憂慮すべき事態だ。 わたしがダンブルドアの立ち場でもおなじ措置をとるかもしれない。

 

だが念のため……アメリカにはセイラム魔女学院がある。魔女学院とはいうが、男子も受けいれている。 あれはいい学校だ。きみを守る能力もある。ダンブルドアの手をのがれたいと思ったなら、選択肢にするといい。 アメリカ魔法界へ移住するにはダンブルドアの許可が必要だというのがブリテン魔法界政府の見解だが、アメリカがわは意見を異にしている。 最後の手段としてこのトランプを同封しておく。打つ手がなくなったら、ホグウォーツの結界の外にいって、ハートのキングを真ん中から引きさけ。

 

これはあらゆる手をつくしても打開できないときのための、最後の手段だということは言うまでもない。

 

では健闘を、ハリー・ポッター。

 

——サンタクロースより

 

ハリーは眼下にあるトランプのセットをじっと見た。

 

なんであれ、いますぐ自分がどこかに連れていかれる心配はない。ポートキーはここでは機能しない。

 

それでも、これをひろって、トランクにしまうことにすら、ためらいを感じる……。

 

まあ、もう羊皮紙はひろってしまったのだから、もしこれが罠だったとすれば、すでに手遅れと思うべきだろう。

 

それでも。

 

「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」と小声でトランプに〈浮遊〉の呪文をかけ、ヘッドボードの下の目ざまし時計のとなりまで飛ばしておいて、あとは明日に持ち越すことにした。

 

そしてベッドに身をあずけ、目をとじた。不死鳥の守りがない今夜、ハリーは夢の清算をすることになる。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは恐怖で息をのみ、目をさました。悲鳴をあげることはせずにいられたようだったが、眠りながらのたうちまわったらしく、毛布はひどくねじれていた。夢は逃走の夢だった。背後から迫る空間と空間のすきまに追いたてられ、薄暗いガス灯に照らされた通路を逃げまどう。薄暗いガス灯に照らされた金属製の通路をどこまでも走りながら、夢のなかの自分は、迫りくる虚無が残酷な死をもたらすことを知らない。生きた肉体をおいたまま自分が殺されることになるのことを知らない。知っているのは、迫りくる世界の傷ぐちから、ただひたすら逃げて逃げて逃げつづけなければならないということだけ——

 

ハリーはまた泣きだした。狩られることが怖くて泣くのではなく、自分が助けをもとめる声を置き去りにしてしまったことを知っているから泣いた。女の声は助けをもとめている。助けてくれなければ自分はもうすぐ食べられて死ぬ。そう叫ぶ声に取りあうことなく、ハリーは夢のなかで逃げた。

 

行かないで!」と金属扉のむこうの声が悲鳴をあげる。 「やめて……いや……行かないで……ここにいて……行かないで——」

 

フォークスはなぜあのときハリーの肩にとまったのだろうか。 ハリーは逃げたのだから。 フォークスに嫌われて当然だ。

 

ダンブルドアも嫌われて当然だ。 ダンブルドアも逃げたのだから。

 

人間はフォークスに嫌われて当然だ——

 

少年は目覚めていないが夢のなかでもない。少年の思考は睡眠と覚醒のあいだの世界におかれ、ぐちゃぐちゃになっている。覚醒時の自分がかけているガードレールはなくなり、規則や検閲が機能していない。 はざまの世界にあって脳は思考できる程度にまで覚醒しているのに、もうひとつのなにかが覚醒しきっていない。覚醒した自我は、自分が自分の理想に反するある種の思考をしようとするのを遮断する。その自己概念がないために、いまハリーの思考はたががはずれた状態にある。 自我が眠ったすきに、自由になった脳が夢を見ている。制約をうけないまま、ハリーの新しい最悪の悪夢をいつまでも繰り返す。

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

自己嫌悪とともに怒りの感情が生まれ、ふくらんだ。あの女/彼自身にあんなことをした世界への業火のような怒り/凍りつく憎悪。半覚醒状態のハリーはそこから、倫理的二律背反を脱け出す方法を夢にえがく。そそりたつアズカバンの三角柱の上空にいる自分が、地上にかつて流れたことのない詠唱を口にし、その声が(そら)全体にひろがり世界の果てまでひびきわたり、銀色の〈守護霊〉の炎が落とされ、核爆発のようにして一瞬でディメンターとアズカバンの金属壁のすべてをばらばらにし、長い通路とオレンジ色のガス灯を粉ごなにする。でも、アズカバンのなかにはまだ人がいるのだった、と脳は思いだして、空想まじりの夢を書きなおす。今度は囚人たちが笑いながら飛びさるのと同時に、アズカバンが燃えおちる。銀色の光が囚人たちの手足を修復する。そしてハリーは、〈神〉でない自分にそんなちからはないのを知って、いっそうひどく泣きだす——

 

ハリーはあのとき、自分の命と魔法力と理性にかけて、自分が大切にしているあらゆるものと幸せのイメージにかけて、そう誓った。だからいま、なにか行動しなければならない。なにか行動を。行動をしなければ——

 

無意味なのかもしれない。

 

規則にしたがおうとするのが無意味なのかもしれない。

 

アズカバンをとにかく燃やしつくせばいいのかもしれない。

 

いや、そうすると誓ったのだから、約束をまもるにはそうするしかない。

 

アズカバンを終わらせるためにできることはなんでもする。それだけだ。 そのためにブリテンの支配者になる必要があるなら、それでいい。空全体に声をひびかせる呪文を見つける必要があるなら、それでもいい。肝心なのはアズカバンを破壊することだ。

 

これが自分のいるべき陣営で、 自分の信念だ。これで決まりだ。

 

覚醒時のハリーであれば、このように回答をえらぶまでに、もっと細部をいろいろと検討しなければならない、と言っただろう。だが、半分眠っているハリーは、十分明快な結論がでたように感じて安心した。そして疲れた精神をふたたび眠りにつかせ、つぎなる悪夢へとむかった。

 

◆ ◆ ◆

 

最後の余波:

 

彼女は恐怖で息をのみ、目がさめた。息がとまり、酸欠になってしまっているのに、肺が動かない。目ざめたとき、口は悲鳴のかたちをしていたが、声にならない。自分がなにを見たのか理解できず、声にならない。()()()()()()()()()()()()()()()()。それは両手にかかえるには大きすぎ、さだまったかたちすらなかった。ことばで表現することができず、だからまだ吐きだせないでいる。そして吐きだされなかったそれは、またおとなしく、中におさまった。

 

「いま何時?」と彼女は小声で言った。

 

黄金色の装飾時計も小声で返事した。この高価で壮麗な魔法式の目ざまし時計は、彼女がホグウォーツに採用されたときに総長から記念にもらったものだった。 「午前二時くらいです。まだ寝ているべき時間です。」

 

シーツは汗で濡れている。寝巻きも汗で濡れている。枕の脇にある杖を手にとり、身をきれいにしてから、また眠ろうとした。そう努力して、最後には眠ることができた。

 

シビル・トレロウニーはまた眠りについた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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おまけ
64章「オマケファイル四——いろいろな世界で」


いろいろ盛り合わせのおまけ編です。今回だけは、ハリー・ポッターですらなくなりました。
翻訳者が知らない作品を元ネタにしている部分は飛ばしましたのでご了承ください。NARUTO(漫画)とマトリックス(映画)のネタバレがあると思います。


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論理隠れの里

 

「分身を百体以上出現させるのに、どれくらいの計算能力が必要だと思う。」  うちは一族きっての秀才が切り捨てるように言う。 「『まぐれ』なんて言っても何の説明にもならないんだよ。そういうのは、不都合なデータを無視したがるやつが使うことばだ。」

 

「まぐれでないなら何なのよ!」  サクラはつい声を荒げてしまったが、論理隠れの忍者らしい冷静な口調にあらためようとした。憧れのサスケにバカだと思われないように。 「そう、たしかに、あれだけの数の影分身の術をするにはものすごい量の計算能力がいる。 はっきり言って超知性の領域でしょ。 なのにナルトはたんなる落ちこぼれ。 超知性はおろか上忍にもなれやしない!」

 

サスケの両目が知輪眼を起動したときのように光った。 「事実として、ナルトは独立して行動するクローンを百体出現させることができる。それだけの思考力はあると考えざるをえない。 ただ、ふだんはなにかが邪魔をして、本来の計算能力を発揮できていないんだ……。たとえば、精神が内戦状態にあるとしたら? とにかく、ナルトが超知性につながっているかもしれないと示唆する証拠がひとつできた。ナルトはおれたちと同じ新米下忍で、十五歳だ。十五年まえにあったことといえば?」

 

サクラは一瞬考え、記憶をさぐり、理解した。

 

十五年まえの〈九脳の妖狐〉の襲来。

 

白く小さな体躯、大きな耳と太い尻尾、真ん丸の瞳。肉体的にはただのキツネで、火を吹くのでもなく、目から光を出すのでもない。チャクラもなく、それ以外の神秘的なちからもない。ただ知性だけは人間の九千倍以上あった。

 

その襲撃で何百人もの人が命を落とし、家屋の半数が倒壊し、論理隠れの里そのものが壊滅しかけた。

 

「〈九脳の妖狐(キュウベエ)〉がナルトのなかにひそんでるっていうの?」  そう口にしてからすぐに、サクラの脳はその説から自然にみちびきだされる結果にたどりついた。 「もしそうなら、ソフトウェア的不整合が発生する。だから、ふだんはあれだけマヌケなのに、影分身百体をコントロールできたりもする。うん、そうか。たしかに……理屈としてはいい線いってるのかも……」

 

サスケは傲然とした表情で軽くうなづいた。自分はだれに言われなくとも自力でそこまでたどりついた、と言いたげだ。

 

「ねえ……」  何年も論理と精神の鍛錬が功を奏し、サクラはなんとかパニックにならず、叫びだすこともなく、実用的な方策を考えだすことができた。 「これって……だれかに報告したほうがいいんじゃない? 具体的には、あと五秒くらいのうちに。」

 

「大人たちはもう知っている。」とサスケは無感動に言う。 「ナルトへのあつかいを見れば、歴然としている。 いま考えるべきことは、うちは一族の全滅とこれがどう関係するか……」

 

「ぜんぜん関係しそうに思えないけど——」とサクラが言いかける。

 

「なにかある!」  サスケはかすかに必死さをおびた声になった。 「おれはイタチはなぜあんなことをしたのか知りたかった。それが分かれば()()()が説明される、とイタチは言っていた。 きっとこの件も、その一部なんだ!」

 

サクラはこっそりため息をついた。 イタチはサスケを妄想性人格障害にしようとしているだけじゃないか、というのが個人的な推測だった。

 

「おーい、おまえら。」と耳の無線受信機から先生の声がした。 「波の国の里で橋をかける工事を前からやってて、いくらやっても失敗してだれにも理由がわからないんだそうだ。 正午に門のまえに集合。 Cランクの分析任務だが、そろそろ任せてもいいと思ってな。」

 

(著者より:その後、これにヒントを得て、Velorien作『Lighting Up the Dark』というファンフィクションが書かれました。)

 

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Fate/sane night

 

I am the core of my thoughts

体は思惟で出来ている。

Belief is my body

And choice is my blood

血潮は選択で心は信念。

I have revised over a thousand judgments

幾たびの判断を越えて変転。

Unafraid of loss

損失を数えず、

Nor aware of gain

利得を関せず。

Have withstood pain to update many times

Waiting for truth's arrival.

更新の痛みに耐え、真理の到来を待つ。

This is the one uncertain path.

わが道に確実性は不要ず。

My whole life has been ...

Unlimited Bayes Works!

この体は、無限のベイズ則で出来ていた。

 

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ジャスミンと魔法のランプ

 

あらためて浮浪者のすがたになったアラジン。悲しげに、しかし覚悟を決めた表情で、宇宙的なスーパーパワーを持つジニーに最後の願いを言おうとする。友だちを助けるためならせっかく得た富も手ばなそうと心に決めた様子だ。 「ジニー、三つ目の願いは、きみを自由に——」

 

王女ジャスミンは口をぽかんとあけて、信じられないといった表情でそれを見ていた。彼女は体が硬直しそうになるのを抑えて、アラジンが願いを言い終えるまえになんとかランプを奪い取った。

 

「アラジン、あなたっていい人だけど、やっぱりバカね。 ジャファーがこのランプに触れたとき、願いを三つもらっていたのを見ていなかったのかしら——ああ、それより。 ジニー、わたしの願いを言うわ。だれもが若く健康でいつづけられますように。死にたくない人はだれも死ななくてすみますように。全人類の知能指数が毎年一ポイントずつ増加しますように。」  そう言ってからジャスミンはアラジンにランプを投げて返した。 「さっきのつづき、終わらせなさい。」

 

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現実世界へようこそ

 

モーフィアス:わたしもそう簡単には信じられなかった。だが実際に、死体が液体にされチューブを通して生者の栄養とされるところをこの目で——

 

ネオ:ちょっと失礼。

 

モーフィアス:どうした?

 

ネオ:ずいぶん我慢しましたがね、いまのはさすがに聞き捨てならない。 人体はエネルギー源として非効率すぎる。発電所のタービンの温度が下がると、熱エネルギーを電気エネルギーに変換する効率は()()する。 人間が食べられるような食料があるなら、人間に食べさせるより、たんに燃やしたほうが効率よくエネルギーが得られる。 生きた人に食わせるために、死体を食料にする? 熱力学の法則くらい、聞いたことないんですか?

 

モーフィアス:きみこそその熱力学の法則というのをどこで聞いた?

 

ネオ:高校理科の授業をすこしでも受けてれば、だれでも知ってることですよ!

 

モーフィアス:その高校というのはどこにある?

 

ネオ:……

 

ネオ:……〈マトリックス〉のなか、か。

 

モーフィアス:マシンどもは、たくみに嘘をつく。

 

ネオ:……

 

ネオ(小声で):じゃあ、ほんものの物理の教科書はどうなってるんです? 見せてくださいよ?

 

モーフィアス:そんなものはない。この宇宙は数学にしたがわない。

 



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「ハーマイオニー・グレンジャーと不死鳥の呼び声」編
65章「伝染性のうそ」


ふとらないためのこつは、よく注意してものを食べること、そして食べている自分をよく意識することだという。そうすればちゃんと満腹感がでるからだ。という話を、ハーマイオニー・グレンジャーは聞いたことがある。 今朝は自分でパンをトーストして、そこにバターをのせ、バターにシナモンをのせた。これくらいすれば、自分が口にするものが何なのか、ちゃんと意識できていていいはず……

 

しかしシナモンのこともバターのことも食べている自分のことも意識にのぼらせないまま、もうひとくちトーストをのみこんでからハーマイオニーは言った。 「もう一回説明してみてくれる? まだぜんぜん意味がわからないんだけど。」

 

「そんなむずかしいことじゃないよ、〈光の陣営〉のスリザリンになったつもりで考えれば。」  そう言うハリー・ポッターと彼女は、当の二人をのぞいた学校じゅうのみんなが関知するかぎりでは運命の恋人同士ということになっているらしい。ハリー・ポッターはぼんやりとした様子でスプーンを手に、シリアルをかきまぜるばかりで、見たところまだほとんど口にしていない。 「この世のなかには、ひとつの善につき、対立するなにかがかならず存在する。不死鳥もしかり。」

 

ハーマイオニーはまた無意識にバター・シナモンつきトーストをひとくち食べてから言った。 「フォークスが肩にとまったっていうことは、フォークスに善人だって認められたってこと。そう思わないほうがおかしいでしょう? フォークスが〈闇の魔術師〉の肩にとまるわけなんてないんだから!」

 

フォークスはハーマイオニーのほおにも触れた。けれど、そのことをあらためてだれかに言ったことはなかった。そういうのはよくない——不死鳥(フェニックス)に触れられたということを、自慢してはいけない、とハーマイオニーは思う。不死鳥はそういうことのためにいるのではない。

 

ただ、ハリー・ポッターが邪悪になってハーマイオニー・グレンジャーがそのあとを追っている、という噂を止めるくらいの効果は、あってほしかった。

 

実際にはなかった。

 

なぜこうなるのか、ぜんぜん納得がいかない。

 

ハリーはシリアルをもうひとくち食べ、こちらを見ず、遠い目をした。 「たとえてみるなら、こんな感じかな。 ある日、仮病で学校を休んだ。診断書をだせと教師が言うものだから、偽造した。 こんどは電話して確認するから番号を教えろと言われた。困って友だちの番号を教えた。電話がきたら、医者のふりをしてくれということにして——」

 

「は? ()()()()()()

 

ハリーはシリアルの皿から顔をあげて、笑みを見せた。「ぼくがやったとは言ってないよ……」  そう言ってから、急にまたシリアルに目をおとした。 「いまのはただのたとえさ。 要は、うそはひとりでに拡大していく、っていうこと。 うそがバレないようにと思うと、別のうそをつかなきゃいけなくなる。最初のうその真相につながるすべてをごまかす必要がある。 そうやって()()()うそでごまかそうとしつづけると、いずれは思考の法則そのものにうそをつくことになる。 たとえば、効果のない代替医療の製品があって、それを売ろうとしている人がいるとしよう。効果がないということは、いくつもの二重盲検された研究で証明されているとする。それでもそのうそを言い通してだれかにその製品を買わせたいなら、実験手続きそのものが無意味だと信じさせる必要がある。 そういう実験手続きは()()()()医療について使うものであって、こういうすばらしい代替医療についてはやらなくてもいいんだ、とか、 あなたのように立派で信念がかたい人は証拠(エヴィデンス)なんて気にする必要はない、とか、 真実などどこにも存在しないし客観的現実も存在しない、とか言って。 そういうのは、たんなるまちがいにとどまらない。反認識論的な、()()()()誤謬だ。 とうことで、真実を知るための合理性の法則がひとつあるたびに、それと反対のことを信じさせようとするだれかがかならず存在する。 人はうそをひとつ言ってしまえば、真理そのものを敵にまわすことになる。 そして、うそをばらまく人はどこにでもたくさんいて——」

 

「それがフォークスとどう関係するの?」

 

ハリーはスプーンを皿から離し、〈主テーブル〉のほうに向ける。 「総長は不死鳥を連れているよね? ウィゼンガモート主席魔法官でもあるよね? 総長には政治的に対立している敵がいる。たとえばルシウス。 ああいう人たちはダンブルドアとちがって不死鳥を連れていない、だからダンブルドアにはひれ伏すしかない……みたいなことにはならないでしょ? フォークスがいることはダンブルドアが善人である証拠だ、っていうことすら認めないに決まってるよね? そういう人たちは、()()()を口実にしてフォークスを……どうでもいいものにする。 不死鳥というのは簡単にだれかを邪悪だと思いこんで喧嘩を売りにいくような人のところに行く動物だ、だから不死鳥を連れているのはバカか狂信者である証拠にしかならない、とか。 不死鳥が寄ってくるのは純粋にグリフィンドール的で、ほかの寮の長所をいっさい持ちあわせていない人だとか。 魔法生物から見れば勇敢な人なのかもしれないが、いずれにしても政治家として有能かどうかとは関係ない、とか。 とにかく()()()を思いついて、不死鳥の意義を否定する。 きっとルシウスはあたらしいことを思いつく必要すらなかった。 そういうことはまずまちがいなく、もう何百年もまえから起きているよ。はじめてだれかの肩に不死鳥がとまったとき、別のだれかがきっと『それはなんの証拠にもならない』と言ったはずだ。 きっとフォークスがダンブルドアのところに来たころにはもう、不死鳥に好かれるか嫌われるかなんて考慮にいれるほうがおかしい、っていう空気になっていたと思う。 ほら、選挙に立候補者一人一人の科学理解度をマグルの新聞が調べて発表しても、だれも気にしないでしょ。 この宇宙に〈善〉がひとつあるたびに、その評価をさげたり、自分たちには関係のないものだということにして得をするだれかが、かならずいる。」

 

「でも——……わかった。たしかに、フォークスのことをどうでもいいと思う人が増えれば、ルシウス・マルフォイにとっては都合がいい。でも、悪者以外の人たちはなぜそう信じるの?」

 

ハリー・ポッターは軽く肩をすくめた。 スプーンをまたシリアルの皿にいれて、そのままかきまわしはじめた。 「ある種の冷笑主義がはびこる理由とおなじだろうね。 そうすることが、洗練された大人のあかしのように思えるから。自分はなんでもよく知っている、という態度ができるから。 なにかを低く見せることで、自分を高く見せられると思っているのかもしれない。 自分には不死鳥がいないから、不死鳥をほめてもなにもいいことはない、と政治的本能で感じるのかもしれない。 冷笑的になることで、ふつうの人が知らない隠れた真実を知っているように思えるのかもしれない……」  ハリー・ポッターは〈主テーブル〉のほうを見てから、聞きとれるかどうかの小声になった。 「()()()がまちがっているのはそこなのかもしれない——ほかのすべてについては冷笑的でいながら、冷笑主義自体についてはそうじゃない。」

 

無意識のうちにハーマイオニーも〈主テーブル〉のほうに目をやったが、防衛術教授の席は空席だった。月曜日も火曜日もそうだった。 それに、今日のクィレル先生の授業は休講だという副総長からの知らせもあった。

 

ハリーはそれからトリークルタルトを何切れか食べて、席をたった。ハーマイオニーは近くにいたアンソニーとパドマのほうを見た。もちろんアンソニーとパドマが近くにいたのはたまたまであり、盗み聞きしに来ていたのではない、ということにしておく。

 

アンソニーとパドマは視線をかえしてきた。

 

パドマがおずおずと口をひらいた。 「あのさ、ここ数日のハリー・ポッターの話って、一段と()()()()()()みたいになってない? 気のせいかな? まあ、わたしはそんなにいつもあいつの話を聞いてなかったんだけど——」

 

「気のせいじゃないと思うよ。」とアンソニー。

 

ハーマイオニーも返事こそしなかったが、実は心配をつのらせていた。 不死鳥の一件があったあの日、ハリー・ポッターになにかが起きて、彼は変わった。 どこか、甘さがなくなった。 ときどき暗い決意の表情をして、窓の外のなにもない場所を見つめていることもあった。 月曜日の〈薬草学〉の授業でファイアーフラワーが暴走して火球が飛んできたとき、スプラウト先生が〈炎を凍らせる魔法〉をかけるのを待たずに、ハリーはそこに飛びこんで火球の軌道からテリーを押しのけた。 そして起きあがると、なにごともなかったかのように席にもどった。 やはりおなじ月曜日、めずらしく〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の試験でハーマイオニーがハリーよりいい点数をとれたとき、ハリーは祝福するように笑みをみせた。歯ぎしりするのではなく。ハーマイオニーにはそれがすごく……納得いかなかった。

 

どこかハリーは……

 

……彼女から離れようとしているような気がする……

 

「急に年をとったみたいな感じだね。」とアンソニーが言う。 「大人になったとまではいかない……っていうかあのハリーが大人になるなんて想像できないけど、何か、いつのまにか()()()()()()()とでもいうか……」

 

「とにかく……」と言いながら、パドマはチョコレート味のスコーンに念入りにスコーン味の粉をまぶした。 「〈ドラゴン〉と〈太陽(サンシャイン)〉は次回の模擬戦で同盟するしかないんじゃない。ミスター・ハリー・ポッターの〈カオス〉にこてんぱんにされたくなかったらね。前回だって、同盟してたのにあやうく負けそうになったんだし——」

 

「そうだな。」とアンソニーが言う。「じゃあ、ミス・パティル。 〈ドラゴン〉軍司令官に面会の打診を——」

 

「待って!」とハーマイオニーは言う。「そんなはずないでしょう。両軍あわせてやっとポッター司令官に勝てるかどうかなんて変。それに、これからはマグル技術も禁止されるんだから。 どの軍も兵力は二十四人ずつ、対等の勝負よ。」

 

パドマとアンソニーは返事をしなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

コンコン、とノックの音がした。

 

「どうぞ、ミスター・ポッター。」

 

ドアが音をたててひらき、ハリー・ポッターがすっと彼女の居室へとはいってくる。片手でドアをしめ、無言のまま、彼女の机の目のまえにあるクッションつきの椅子に腰をおろす。 彼女が〈転成術〉で用意した椅子だ。こういう機会はこれまでに何度となくあったので、いまでは意識して杖のふりかたや詠唱を調整せずとも、自然と自分の気分を反映したものができる。 今回は、座ったハリーが抱きしめられたように見えるほどに、クッションの深い椅子ができた。

 

ハリーは気づいていない。今日の彼からは静かな決意が感じられる。その目はしっかりと彼女を見すえて、微動だにしない。「お呼びでしたか?」

 

「はい。……いいニュースがふたつあります。ひとつめは——この学校の門番、ミスター・ルビウス・ハグリッドにはもう会いましたか? あなたのご両親の、古くからの友人です。」

 

ハリーはためらってから返事した。 「入学してすぐに、すこしだけ話しました。 たしか最初の週の火曜日だったと思います。 でも、両親と知りあいだったとは聞きませんでした。 てっきり〈死ななかった男の子〉とひとこと話したかっただけなのかと……。なにか裏の目的があって近づいてきたんだったとか? そういうタイプには見えませんでしたが……」

 

「ああ……」と言って彼女はあたまのなかで考えをまとめた。 「話すと長くなるのですが、ミスター・ハグリッドは五十年まえに、この学校の生徒を殺害したとして濡れ衣を着せられました。 その結果、杖を折られ、退学処分となりました。 のちにダンブルドア先生が総長に着任すると、ミスター・ハグリッドはこの学校の森番兼門番としてやとわれました。」

 

ハリーが目を光らせる。 「たしか、最後に生徒がホグウォーツで死んだのも五十年まえという話でしたね。そして〈組わけ帽子〉の秘密のメッセージを聞いた人がでたのも五十年まえだったと。」

 

ミネルヴァは寒けを感じた——総長やセヴルスでも、こうもはやくその関係に気づくことはできなかったのではないだろうか——。 「そのとおり。だれかが〈秘儀の部屋〉の封印をといていたのです。当時そう信じる人はなく、その結果おきた殺人の嫌疑がミスター・ハグリッドにかけられました。ですが、そこに〈組わけ帽子〉に追加でかけられた魔法が関与していたことを、このたび総長が確認しました。そしてそのことを特別委員会に報告し、 結果としてミスター・ハグリッドの刑は——ついこの午前の委員会で——取り消され、新しい杖をもつ許可がでました。」  彼女はそこでためらった。 「この話はまだ……当人には聞かせていません。 確定してから伝えるつもりでした。これは彼の悲願でしたから、ぬかよろこびさせることがあってはなりませんので。 ミスター・ポッター……あなたのおかげでこれが実現したのだということも、教えてかまいませんか……?」

 

ハリーは逡巡しているように見えた——

 

「赤んぼうのあなたをミスター・ハグリッドが抱いていたのを覚えています。この話を聞けば大よろこびすることでしょう。」

 

ハリーの表情は別の方向に変化した。ルビウスに利用価値はない、と判断したように見えた。

 

ハリーはくびをふった。 「ただでさえ、今年の一年生のなかに〈ヘビ語つかい〉がいるという事実をだれかが推理してしまっているかもしれない。あらゆる面で秘密をまもるにこしたことはないでしょう。」

 

ミネルヴァはジェイムズとリリーのことを思いだす。二人はがさつな大男ルビウスとの親交を一度でも断ち切ろうとはしなかった。裕福な一族の跡取りであるジェイムズと、チャームズの名手として将来を嘱望されたリリー。その二人が、杖を折られた半巨人にすぎないルビウスと損得をこえたつきあいをしていた……

 

「彼に親切にしても、見返りが期待できないと思っているのですね?」

 

口にだすつもりはなかったのに、そう言ってしまい、部屋がしんとなった。

 

ハリーは一瞬さびしげな表情をした。 「そうかもしれません。……でも、あの人とぼくはあまり相性がよくないんじゃないかと。そう思いませんか?」

 

ミネルヴァはのどに声をつまらせた。

 

「利用するといえば……ぼくはいずれ〈闇の王〉との戦争をすることになるんでしたね。 せっかくですからお願いしておきたいんですが、ぼくの睡眠周期を三十時間にしてもらえませんか。 ネヴィル・ロングボトムが決闘術の訓練をはじめたいと言っていて、ハッフルパフの上級生が教師役を買ってでたそうです。そこにぼくも参加していいと言われました。 ほかにもいろいろ身につけておきたいことはあります——強い魔法使いになるためにやっておくべきこととして、あなたや総長からもなにか具体的に提案があれば、うかがいますよ。 ですので、そのために必要なポーションかなにかをぼくに処置するよう、マダム・ポンフリーに指示しておいてください——」

 

「ミスター・ポッター!」

 

ハリーは彼女の目をのぞきこんだ。 「なにか? あなたが乗り気でなかったことは知っていますよ。でも総長がぼくを利用しようと言うなら、ぼくは生きのびたい。 その邪魔はしないでもらいたいですね。」

 

ミネルヴァは意思がくじけそうになった。 「ハリー……」とやっと聞きとれるほどの声で言う。 「あなたのような年齢の子どもにそう考えさせてしまうこと自体、あってはならないことです。」

 

「そう、あってはならないことです。 ですが不本意にでも大人にならざるをえない状況の子どもたちはたくさんいます。ぼくだけがそうなんじゃない。そういう子どもたちにぼくと立ち場を交換する方法があったとしたら、五秒も考えずに飛びつくと思いますよ。 ほかにずっと悲惨な境遇の人がいると知っていながら、自分をあわれむようにはなりたくないですね。」

 

ミネルヴァは深く息をついてから言う。 「一日を三十時間にするということは、つまり——はやく年をとるということです——」  ()()()()()()()()()()()()()()()

 

「そしてぼくは五年生あたりで、生物学的にはハーマイオニーとおなじ年齢になる。 ……そこまで悪いことだとは思いませんね。」  ハリーは皮肉な笑みをした。 「実際、〈闇の王〉が()()()()()()()()()、ぼくはそうしようとしたかもしれません。 魔法族はもともと長生きだし、あと百年のうちにはきっと、さらに寿命をのばす方法を魔法族かマグルのどちらかが見つけます。 だから一日をできるかぎり長くしようと()()()()()を考えるほうがむずかしい。 ぼくはいろいろと計画していることがあるし、どんどんこなしていくにこしたことはないんです。」

 

二人はしばらく無言になった。

 

「いいでしょう。」とミネルヴァは言ったが、かなりの小声になったので、言いなおした。 「いいでしょう、ミスター・ポッター。その頼みは総長に伝えておきます。総長の許可があれば、それでけっこうです。」

 

ハリーは一度、怪訝そうに目をほそめた。 「わかりました。その際は総長にゴドリック・グリフィンドールの遺言を思いだすようにと言っておいてください。『この自分にとって正しい選択肢だったなら、ほかのだれにも、どれほど幼い生徒にも、まちがったほうの選択肢をえらべと言うことはできない。』」

 

それを聞いて、アルバスが一連の動きを中止してくれるかもしれないという彼女のわずかな希望が〈消滅〉した。 アルバスも彼女に向けて同じことばを引用したことがある。キャメロン・エドウォードの年齢では早すぎると言って反対したときも、そう言われた。ピーター・ペヴェンジーの年齢では早すぎると言って反対したときも、そう言われた。最後には彼女は反対することをあきらめた。 「ミスター・ポッター、それはだれから聞いたのですか?」  アルバスでも——アルバスなら、そんなことを生徒のまえで口にしはしないはず——

 

「最近、いろいろ本を読みあさっていたので。」と言って、ハリーは包みこむ椅子から立ちあがろうとしたが、途中で止まった。 「もうひとつのいいニュースというのは何だったか、聞かせてもらえませんか?」

 

「あ……ああ——クィレル先生の意識がもどりました。もう面会しても——」

 

◆ ◆ ◆

 

ホグウォーツの医務室は開放感のある場所だ。位置としてはすっぽりと城のなかにあるはずなのに、四方からあかるい日の光がはいってきている。 白いベッドが延々とならんでいるが、いまは三つしか使われていない。 上級生の男子が一人と女子が一人、それぞれ両端のベッドにおかれている。どちらも目をとじている。多分意識のないまま魔法の拘束をかけられ、治癒用の呪文かポーションで体内のなにかをいじられているのだろう。 三人目のベッドのまわりはカーテンがかけられている。多分親切でそうしているのだろう。 マダム・ポンフリーは強引にハリーの背を押し、のぞくなと命じた。自分が〈死ななかった男の子〉であることを知らない人もいるのだ、とハリーは思いだす必要があった——でなければ、マダム・ポンフリーという人物は、病院内の絶対権力者としての自己イメージかなにかに、とことんこだわるたちなのか。

 

ベッドのならびのむこうに、扉が五つあった。そのさきにあるのはどれも個室で、数時間ではなく数日の入院が必要なものの聖マンゴへ転院するほどではない患者が収容される。

 

中央の扉をとおると、そこは窓も日の光もない部屋だった。石壁に置かれた煙のないたいまつ一つが唯一の照明だった。 ホグウォーツの教授は城に変化してくれと頼めるのだろうか、とハリーは思った。それとも、光を好まない患者のためにこういった部屋が医務室にもともと用意されていたのだろうか。

 

部屋の真ん中に、壁とおなじ灰色の大理石から切りだされたような小テーブル二つにはさまれて、白い病院用ベッドがあった。たいまつの火でわずかにオレンジ色がかって見えるそのベッドに、 白いシーツを太ももまでかけ、病院用ガウンを着たクィレル先生がいた。ベッドのヘッドボードからわずかに身を起こしていた。

 

医務室のベッドにいるクィレル先生を見ると、目に見えるけがなどはないのに、どこか不穏な感じを受けてしまう。 クィレル先生がわざとセヴルスに負けたふりをして、アズカバンでの消耗から回復する口実をつくったのだということは分かっているのに。 ハリー自身は実際に病院のベッドで死んだ人を見たことはない。けれど映画では何度も見た。 それは人はいつか死ぬということを思いださせる。けれどクィレル先生は死ぬような人ではないとも思う。

 

ここにはいったとき、マダム・ポンフリーはきつくハリーをいましめた。病人に長話をしないように、と。

 

ハリーは理解をしめす返事をした。あくまで『理解』であり、命令にしたがうかどうかではない。

 

老癒者マダム・ポンフリーはこんどはクィレル先生にも、けっして無理はしないように、興奮も避けるように、という話をしはじめ……

 

……途中で言いやめて、せきたてられるように向きをかえ、部屋から去った。

 

ハリーは彼女が出ていったあとの扉をしめ、「いい技ですね。そのうちぼくも勉強したいです。」

 

クィレル先生は心底空虚な笑みをしてから、話しだした。いつも以上にずっと乾いた声だった。 「おほめのことば、ありがとう。」

 

その淡い水色の目をじっと見ていると、先生はいままでより……

 

……老いて見えた。

 

どのみちわずかな変化であり、ハリーの気のせいかもしれない。照明が暗いせいかもしれない。 ただ、ひたいの上の髪の毛がすこし後退しているように見えた。もともと後頭部から頭皮が見えるくらいだったのがさらに薄くなり、色も灰色に近づいているような気がした。 顔のはりも、多少うしなわれたような気がした。

 

淡い水色の眼光のするどさはそのままだった。

 

「見たところ無事なようで、ほっとしました。」とハリーは静かに言った。

 

「もちろん、外見は人をあざむくこともある。」と言ってから、クィレル先生は指をはじいた。つぎの瞬間には杖がその手のなかにあった。 「彼女はわたしからこれを没収できたと思っている、と言ったら、きみは信じるかね?」

 

それからクィレル先生は六種の詠唱をした。〈メアリーの店〉で機密性の高い会話をするに使った三十種の呪文のうちの六種だ。

 

ハリーは両眉をあげ、無言で問いかけた。

 

「いまはこれが精いっぱいだ。今回はこのくらいで十分ではないかと思う。 だが、格言にもあるように、 だれにも聞かれたくないことは、口にしないにかぎる。 きみもそのことをよく意識して行動してもらいたい。 きみはわたしに面会しようとしていたそうだが?」

 

「はい。」と言って、ハリーは考えをまとめた。 「総長かほかのだれかから聞きましたか? 今後ぼくとクィレル先生が外食に行くことは禁じられると。」

 

「そのような意味のことは聞いた。」とクィレル先生は言い、表情をかえずにつづける。 「もちろん、わたしとしても大変残念だ。」

 

「実はそれどころじゃないんです。 ぼくは無期限の謹慎が命じられて、校外に出てはならないことになりました。 特別な事情があって出るときも、かならず護衛がつく。 夏休みに自宅に帰ることもできない。というより、二度と帰れないかもしれない。 用件というのはそのことについての……相談です。」

 

会話がとまった。

 

クィレル先生は軽くためいきをするように息をはいてから言った。 「ひとつ好材料はある。以前から分かっていたことだが、マクゴナガル副総長はわたしのことを密告しようとするやからがいれば、殺しかねないくらいの思いいれようだ。 ミスター・ポッター、今日は長話は避けたいし、要点にしぼって話したい。それでよいかね?」

 

ハリーがうなづくと——

 

たいまつ一本だけから来る光は、スペクトル上で赤色のがわに偏っているので、ヘビの皮膚の緑色の表面で弱くしか反射しない。青と白の縞模様の部分はなおさらだ。 この光のもとでは、ヘビ全体が黒みがかって見えている。 対照的に、以前は灰色の穴のように見えていた目は、灯明を反射して、あかるく見える。

 

続ケヨウ。何ヲ 言オウト シテイタ?」とヘビが言った。

 

ハリーも〈ヘビ語〉で返事する。 「学校長ハ、女ヲ 連レ出シタ 犯人ガ、女ノ 古イ 主君 ダッタト 考エテイル。

 

今回はなんとか話すまえに慎重に考えることができたので、クィレル先生には総長がそう信じているという部分を言うにとどめることができた。予言が存在し、そのためにヴォルデモートがハリーの両親をねらったということも、総長が〈不死鳥の騎士団〉を再建しようとしていることも、言わずにおけた……。それでも、リスクはのこる。かなりのリスクではあるが、それでも一定の協力者を確保する必要はある。

 

アノ男ガ 生キテイルト 学校長ガ 信ジテイル?」  ヘビはしばらくしてからそう言い、 二又の舌を左右に高速にゆらした。皮肉げな笑いのヘビ版だ。 「不思議ト 意外ニハ 感ジナイ。

 

アナタハ オモシロガレバ イイ。 ボクハ 安全ノ タメト 言ッテ、 六年 ほぐうぉーつニ 閉ジコメラレル! ボクハ 権力ヲ 目指ス コトニ シタ。閉ジコメハ 障害ニ ナル。 闇ノ 王ハ マダ 目覚メテイナイト 学校長ヲ 納得サセル 必要ガ アル。脱走ハ 別ノ 勢力ノ 仕業ダッタト——

 

ヘビはまた高速に舌をゆらした。さきほどより一段と大きく、乾いた笑いだった。 「素人ノ 浅ハカサ。

 

ハイ?

 

取リ消ソウト スルコト。フリダシニ 戻ソウト スルコト。ソレガ 間違イダ。 砂時計ノ 道具デモ 過去ハ ヤリナオセナイ。 未来ニ 進メ。 ダレモ 自分自身ノ 間違イヲ 認メヨウトハ シナイ。ソウサセヨウトスルノガ 間違イダ。ソレヨリ、正シカッタト 認メサセル ホウガ ズット 簡単ダ。 考エロ。ドンナ 新展開ガ アレバ、学校長ニ オマエノ 身ノ 安全ヲ 確信サセラレルカ。同時ニ 自分ノ 目標達成ニ 寄与デキルカ。

 

ハリーは答えに窮し、ヘビをじっと見つめる。 そしてどうすればこの謎かけが解けるか、考える——

 

自明デハ ナイカ?」  ヘビはまた皮肉げな笑いを示す舌の動きをした。 「自由ノ 身ニ ナリ、 ぶりてんノ 支配者ト ナリタケレバ、オマエガ モウ一度 闇ノ 王ヲ 倒ス 姿ヲ 見セル ホカナイ。

 

◆ ◆ ◆

 

ゆらめく橙赤色の灯明をうけて、緑色のヘビは白い病院ベッドの上でからだをくねらせた。その目に燃える火を、少年はじっと見ている。

 

ハリーはやっと口をひらいた。「マズ……提案ヲ ヨク 確認シタイ。 ワレワレガ 闇ノ 王ノ 偽者ヲ 用意スルノカ。

 

ホボ ソノ通リ。 救イ出シタ 女ニ 協力サセル。女ガ 隣ニ イレバ 説得力ガ アル。」  また皮肉の舌の動き。 「オマエハ ほぐうぉーつカラ 誘拐サレ、広イ 場所ニ 行ク。目撃者ハ 多数。守ル 役人ハ 結界デ 締メ出ス。 闇ノ 王ハ 魂トシテ 放浪シタ 果テニ ツイニ 肉体ヲ 取リ戻シタト 宣言スル。カツテナカッタホドノ チカラヲ 手ニ入レタト言イ、オマエデモ 太刀打チ デキマイ ト言ウ。 決闘ヲ シヨウト 言イ出ス。 オマエハ 守護ノ 呪文ヲ 使ウ。闇ノ 王ハ 笑ウ。自分ハ 命食イ デハナイ ト言ウ。死ノ 呪イヲ オマエニ カケル。オマエハ 止メル。皆ノ 目ノ前デ、闇ノ 王ガ 爆発スル——

 

死ノ 呪イヲ? ボクニ? マタ? 一度目ガ 通ジナカッタノニ? 闇ノ 王ガ ソコマデ 愚カダトハ、ダレ一人 信ジナイ——

 

オマエト ワタシヲ ノゾケバ、コノ 国ノ 人間 ダレ一人 気ヅカナイ。保証スル。

 

アトデ イツカ 三度目ガ アッタラ?

 

ヘビは思案げにゆれた。 「望ムナラ、別ノ 筋書キモ 用意デキル。 イズレニシロ、闇ノ 王ハ イツカ マタ 復活スル カモシレナイ トイウ 筋書キ ニスル——国民ヲ オマエニ 依存サセ、オマエノ 守護ガ 必要ダト 信ジサセル。

 

ハリーはヘビの赤色の目をじっと見た。

 

返事ハ?」とからだをゆらしながらヘビがたずねた。

 

考えるまでもなく、懸念がうまれた。クィレル先生の言うとおりの計画と謀略に、()()乗ってしまっていいのか。一度目の失敗を隠すために()()()こみいった欺瞞をすることになっていいのか。だれかに知られれば致命的な痛手となる秘密が()()()()()できてしまわないか。〈闇の王〉がまた〈死の呪い〉を撃つことにする、という設定もバカげているなら、これもおなじくらいバカげている。 こころのなかのハッフルパフ面を呼びだすまでもなく、ハリーは自分自身の脳内音声で、そう言った。

 

ただ、いっぽうで、直近の経験からの教訓は何だったかも考えねばならない。クィレル先生がなにか提案したら即座に『ノー』と言え、ということでいいのか。それよりも……

 

コレカラ 考エル。マダ 返事ハ シナイ。ソノ前ニ りすくト べねふぃっとヲ ヨク 調ベル——」とハリーは言った。

 

了解シタ。タダシ、忘レルナ。他ノ デキゴトハ オマエヲ 待タズニ 展開スル。躊躇ハ イツモ 安易デ、タイテイ 役立タズ。」とヘビが言った。

 

◆ ◆ ◆

 

少年は個室から医務室にでて、ぼさぼさの髪の毛をかきむしりながら、患者のいる白ベッドといない白ベッドの列を通りすぎていった。

 

そしてまもなく、マダム・ポンフリーに向かってうわのそらのままうなづいて、医務室自体を去った。

 

廊下を抜けて、もっと大きな廊下を抜けて、立ちどまって壁によりかかった。

 

たしかに……

 

……たしかに正直、六年間ホグウォーツに閉じこめられたくはない。それに、よく考えると……

 

……〈ベラトリクス・ブラック救出事件〉の結果として、代償を負ったのはハリーだけではない。〈闇の王〉の再来を恐れる人たちが、警戒を強化するためにどれほど多くの資源をついやすことか。 そういう人たちに、〈闇の王〉の三度目の襲来はないと信じられるような筋書きを書かせてもいいかもしれない。そうやって二度目が終われば、みなが安心して暮らせるようになる。

 

ただしもちろん、恐れるべき〈闇の王〉が実在するのであれば話は別だ。予言の存在は無視できない。

 

ハリーは壁にもたれ、そっと息をつき、また歩きだした。

 

クィレル先生と別れる直前になって、日曜日の夜に『サンタクロース』を称するだれかからもらったトランプのことをハリーは思いだし、見てもらうことができた。ハートのキングがアメリカのセイラム魔女学院ゆきのポートキーになっているというトランプだ。 もちろん差し出し人がだれだったか話さなかったし、どういう効果があることになっているのかも話さなかった。ただ、このポートキーはどこにつながっているか調べられるか、とだけたずねた。

 

クィレル先生はそこで人間にもどり、ハートのキングに何度か杖を軽くあてて調べた。

 

その結果……

 

……使い手をロンドンのどこかに送るポートキーだということは分かったという。ただし、それ以上細かい位置は不明だった。

 

ハリーはそのトランプについてきた手紙も見せた。それ以前の手紙については、なにも言わずに。

 

クィレル先生は一目それを見て、乾いた笑い声をだしてから言った。()()()()()()読めば、文面上、セイラム魔女学院へ行くためのポートキーだとは書かれていない、と。

 

こういった機微に気づける能力も大事だから、将来強い魔法使いになりたいなら……いやすこしでも将来があってほしいなら、この方面でも努力するように、とクィレル先生は言った。

 

少年はもう一度ためいきをついて、とぼとぼと授業へ向かった。

 

そして、ほかの魔法学校もみんなこうなのだろうか、それともホグウォーツが特別に変なのだろうか、と思いはじめた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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66章「自己実現(その1)」

躊躇ハ イツモ 安易デ、タイテイ 役立タズ。』

 

クィレル先生からそう言われたことを思いだす。そういう言いかたをされると細かい文句をつけてやりたくなる、というのはレイヴンクローらしい性癖ではあるが、その性癖が損になることもある。だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()も考えてみなければならない。 作戦の種類によっては、待機すべきときもあるのでは? なるほど、たしかに()()()()()()()()べき状況はいろいろある。それと()()()()()()ことは別の話だ。 行動に移すべきタイミングをよく知っているからこそ、すぐに行動すべきでないことはあるだろう。だが、決心がつかないばかりになにかを遅らせるとなると——それでは作戦もなにもない。

 

えらぼうにも、まだ情報が足りないとしたら? それなら待つのがただしいのでは? たしかに。ただしそれも、ものごとを後回しにするために使われやすい口実だ。とくに、二つの選択肢どちらをえらんでもつらい結果になるなら、()()()()()()()で一時的にその精神的苦痛を回避することができる。だからひとはつい後回しをしたがる。 だから、ある種の入手困難な情報を思いついて、どうしてもその情報がないと判断できないと言いだしたりする。 それはたいてい口実にすぎない。 ただし、それがどういう種類の情報であるか、いつどうやって入手するか、入手できたらその内容に応じてどういう行動をとるか、といったことも同時に言えるなら、口実でない可能性も多少あがる。

 

たんなる躊躇でないのなら、必要だというその情報が得られたときにどう行動するかを、()()()()()決めておけるはずだ。

 

もしも〈闇の王〉がほんとうに活動中だとしたら、クィレル先生の計画どおりに〈闇の王〉になりかわるだれかを用意するのはいい考えだろうか?

 

いや、どう考えても、ろくなことにならない。

 

ではもし、〈闇の王〉はもういないという確証がつかめたとしたら……そのときは……

 

〈防衛術〉教授室は小さな部屋だ。すくなくとも今日は。部屋の様子は前回ハリーが来たときとは変わっていた。壁や床の石面は、以前より黒めの色調で、よくみがかれている。 教授用机のむこうには、からっぽの書棚がひとつある。天井に達するほどの高さの木製のこの書棚は、以前からあった調度品だ。七段にわかれているが、本は一冊もない。 クィレル先生はハリーのまえで一度だけ、そこから本をとりだしたことがあったが、もどしたことはなかった。

 

教授用の椅子の背に、緑色のヘビが乗っている。まぶたのない目が、ハリーの目とおなじ高さの目線でじっとのぞきこんでくる。

 

二人のまわりには二十四の結界呪文がかけられている。これがホグウォーツ内で総長の注意をひかずにかけられる限界ぎりぎりだという。

 

コトワル。」とハリーは言った。

 

緑色のヘビはあたまを突きだし、わずかに横にかたむけた。そのしぐさからはなんの感情も読みとれない。すくなくともハリーの〈ヘビ語〉能力で読みとれる感情はない。 「ナゼ?」とヘビが言った。

 

りすくガ 大キスギル。」とハリーは端的に言った。 〈闇の王〉がいると仮定しても、いないと仮定しても、リスクが大きすぎる。 なんとかしてクィレル先生の問いに答えようとしてみた結果、自分がためらっていた理由が分かった。 〈闇の王〉がいるかいないか、どちらなのかが分からない、ということを口実にしていただけだったのだ。 まともな思考をすれば、どちらの前提であろうが答えはおなじだ。

 

一瞬、暗い目があやしくかがやいた。そして一瞬、うろこで縁どられた口から牙がのぞいた。 「前回ノ 失敗カラ 誤ッタ 教訓ヲ 得タラシイナ。 ワタシノ 計画ハ 普通、失敗シナイ。前回モ オマエノ 失敗 以外、一分ノ隙モ ナカッタ。 正シイ 教訓ハ、年上ノ 賢イ すりざりんニハ 従エ トイウコト。自分ノ 衝動ヲ 抑エロ トイウコト。

 

ボクガ 得タ 教訓ハ、知リ合イノ 女児ニ 邪悪ダト 思ワレル 謀略ヲ ヤラナイコト。知リ合イノ 男児ニ 馬鹿ダト 思ワレル 謀略ヲ ヤラナイコト。」とハリーは反論した。 もうすこし曖昧な返答をするつもりだったのだが、なぜかつい、ここまで言い切ってしまった。

 

ヘビは、シュシュシュ、という音をだした。それはハリーにも言語として聞こえない、純粋な怒りの音だった。そしてすこし間をおいてから、 「バラシタノカ——

 

モチロン ソンナコトハ シナイ! ダガ、モシ話セバ、キット ソウイウ 反応ガ アル。

 

ヘビはまた無言になり、あたまをゆらしながら、ハリーをじっと見た。 やはり感情は読みとれない。クィレル先生がこれほど時間をかけて考えることがあるとしたら、何なのだろう、とハリーは思った。

 

……オマエハ アノ フタリノ 考エルコトヲ 真剣ニ 気ニスルノカ? タンナル 女児ト 男児ニ スギナイ。オマエノ ヨウニ 特別デハナイ。 フタリノ 考エハ 大人ノ 世界ニ 通用シナイ。

 

ボクヨリ 通用スル カモシレナイ。」とハリーが言う。 「アノ 男児ナラ、女ノ 救出ニ 参加スル 前ニ、真ノ 動機ヲ 探ロウトシタ。

 

オメデトウ。ヤット 気ヅイタカ。」とヘビは冷ややかに言う。 「イツモ 他人ニ 何ノ 得ガ アルカヲ 探レ。ソレガ デキタラ 自分ニ 何ノ 得ガ アルカヲ 探ル ヨウニシロ。 ワタシノ 案ヲ 好マナイナラ、 オマエノ 案ハ 何ダ?

 

必要ナラ——六年間 コノ学校ニ トドマッテ 勉強スル。 ほぐうぉーつニ 住ムノモ 悪クナイ。 本モ 友ダチモ アル。変ダガ オイシイ 食ベモノガ アル。」  ハリーはくすりと笑いたいところだったが、笑い声に相当する〈ヘビ語〉の動作語彙には、ぴったりくるしぐさがなかった。

 

ヘビの眼窩がほぼ完全な暗黒に見える。 「今ハ ソウ 言エル。 ワタシヤ オマエハ 監禁ヲ 甘受スル 性格デハナイ。 オマエハ 七年生ニ ナルヨリ ズット 早ク 忍耐ガ 切レル。アルイハ、コノ 年ノ ウチニモ。 ワタシハ ソノ前提デ 準備スル。

 

ハリーが〈ヘビ語〉で返事するのを待たず、椅子の上に人間形態のクィレル先生があらわれた。 「さて、ミスター・ポッター。」と、まるでなにも重要な話などしていなかったかのように……そもそもなんの会話もなかったかのように言う。 「きみが決闘術の練習をはじめたことは聞いた。 決闘術にもいろいろある。 ()()()()()()たぐいをいくら学んでも無意味なのは分かっているな?」

 

◆ ◆ ◆

 

ハッフルパフ生ハンナ・アボットがこれほど落ちつきをうしなっているのを、ハーマイオニーは見たことがなかった(不死鳥の一件の日、つまりベラトリクス・ブラックが脱獄したあの日は別だ。あの日はだれにとっても例外だと思っていいだろう)。 ハンナは夕食の途中でレイヴンクローのテーブルまで来て、ハーマイオニーの肩をたたいてから、かなり強引に引っぱって——

 

「ネヴィルとハリー・ポッターが、ミスター・ディゴリーに決闘術をおそわってるんだって!」  テーブルから数歩離れるなり、ハンナはそう言った。

 

「ミスター・ディゴリーって?」

 

「セドリック・ディゴリーだよ。知らないの?」とハンナが言う。「うちの寮のクィディッチ・チームのキャプテンで、模擬戦の司令官もやってて、選択科目をぜんぶとってて成績もトップだし、夏休みのたびにプロに決闘術の個人指導をしてもらってるらしいし、七年生二人を相手に勝ったこともあるし、先生にさえ〈スーパー・ハッフルパフ〉って呼ばれてたりするし、スプラウト先生はみんな彼を、ええと、ほら、モハン……?にしてがんばりなさい、って言うし——」

 

ハンナはその調子でセドリック・ディゴリーのすごさをならべたてたが、やがて息を切らした。 ハーマイオニーはそこになんとか割りこんだ。

 

「〈太陽〉軍兵士アボット! ……落ちついて。 ディゴリー司令官が対戦相手になるんじゃないでしょ? ネヴィルがわたしたちを倒すために準備してるのは分かった。でもわたしたちだって準備すれば——」

 

「わかんないの?」とハンナは大声で言った。もし周囲のレイヴンクロー生たちに聞かせたくない秘密の会話をしているつもりなら、だしてはいけないほどの声量だった。 「あれは、あたしたちを倒すための準備じゃないんだよ! ベラトリクス・ブラックとたたかうための準備なの! あたしたちなんか、ブラッジャーにぶつかられたパンケーキみたいにぺしゃんこになっちゃうよ!」

 

〈太陽〉軍司令官は部下をにらみつけた。 「落ちついて。たった数週間の練習で、だれも無敵の戦士になんかなれないでしょう。 それにわたしたちはもう、無敵の戦士への対処法を知っている。 みんなで火力をつぎこめば、ドラコのときみたいに倒せる。」

 

ハンナは感嘆と懐疑の目でハーマイオニーを見た。 「司令官は……その……心配じゃないの?」

 

「もう、いい加減にして!」  こういうときハーマイオニーは、この学年でまともな人間は自分一人だけだという事実を思い知らされる。 「格言にも『人間が恐れなければならないものが一つあるとすれば、恐れそのものだ』ってあるでしょう。知らない?」

 

「えっ?」とハンナが言う。「なにそれ。恐ろしいものなんていっぱいあるじゃない。暗闇にいるレシフォールドも、〈服従の呪い〉も、悲惨な〈転成術〉(トランスフィギュレイション)事故も——」

 

「あのねえ……」  ハーマイオニーもいらだちを隠せず、声が大きくなった。聞かされる話といえば、一週間ずっとこの手の話ばかりなのだ。 「そんなにこわがるのは、〈カオス軍団〉に実際にやられてからにしたらどう? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

それからハーマイオニーはテーブルの自分の席にもどり、とびきりの愛らしい笑顔をまとった。冷たい目でにらむハリーの暗黒面にはおよばないかもしれないが、自分にできる最高の威嚇の表情だった。

 

今回はハリー・ポッターをたたきのめす。

 

◆ ◆ ◆

 

「これやって何になるの……」とネヴィルが息を切らして言った。肺のなかの酸素が完全に底をつきかけている。

 

「これ最高だよ!」  そう言って〈スーパー・ハッフルパフ〉セドリック・ディゴリーは目をかがやかせ、ひたいの汗をきらりとさせながら、得意の決闘術の型を終えて、足を踏みおろした。 ふだんなら軽やかな足どりが、今日は重量感のある足音をしている。どうやら〈転成術〉製の金属の重りが腕や足や胸にとりつけられていることと関係しているらしい。 「ミスター・ポッター、きみはどこでこんなアイデアを思いつくんだ?」

 

「オクスフォードの……古い変な店で……。もう二度と……あそこでは……買わない……」  ドサッ。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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67章「自己実現(その2)」





ホグウォーツの上層階では部屋や廊下が日々変化する。変化は地図上にとどまらず、建築の様式や堅牢性はそのままに、境界そのものがゆれうごき、ほつれ、夢幻と混沌にとけこんでいく。——そんな上層階で、まもなく戦端がひらく。

 

いまここには多数の生徒がいる。それだけの観察の目があることで、廊下は一時的に安定する。 ホグウォーツの部屋や廊下は観察者の目のまえで()()することはあるが、()()はしない。 この城は八百歳になっても、いまだに人前で変化するのが恥ずかしいらしい。

 

このように(クィレル先生の言いかたでは)定常性が欠けた場所ではあるが、軍事的な現実味もある。 ここなら来るたびにどのクローゼットにどんな秘密の通路があるか分かったものではないから、毎回いちから調べなおすことを強いられるのだ。

 

三月の最初の日曜日。模擬戦の監督をできる程度にまでクィレル先生が回復したので、遅れをとりもどすために模擬戦が再開した。

 

〈ドラゴン〉軍司令官ドラコ・マルフォイは両手にある二つの羅針盤をながめた。 片ほうは〈太陽〉の色、もう片ほうは混ざりあう玉虫色の〈カオス〉の羅針盤だ。 ほかの二人の司令官も、おなじような羅針盤を持たされている。 ハーマイオニー・グレンジャーとハリー・ポッターの手には、火のようにまたたく橙赤色の羅針盤があり、それはつねに〈ドラゴン旅団〉が有する最大兵力集団の位置を指している。

 

この羅針盤なしにはおたがいの居場所の見当すらつかず、この上層階を何日もさまようことになりかねない。そういう地形上の危険性を考慮した措置だ。

 

〈ドラゴン旅団〉が〈カオス軍団〉と接触したときなにが起きるかを思うと、ドラコはいやな予感がした。 ベラトリクス・ブラックの脱獄以来、ハリー・ポッターは変わった。〈スリザリンの継承者〉らしくなったというか、〈主君(ロード)〉らしい風格がでてきたというか(クィレル先生はこうなることも分かっていたのだろうか?)。ハーマイオニー・グレンジャーとの共闘が成立して〈太陽〉軍の兵士二十三名を味方にできていればもっと安心していられたのだが、むこうは変なところでプライドを発揮して、申し出をことわったのだった。 ポッターを独力でしとめたい、というのだ。

 

〈元老貴族〉マルフォイ家の何百年にもわたる権勢は、自分たちが最強()()()()時期もあるという理解の上になりたっている。 もっと強い別の一派があれば、その〈主君〉に仕える地位にあまんじることもある。 第二位の権力者として何十世代かすごせば、それだけでかなりの富と権力が手にはいる。 いずれその〈主君〉も没落する。そのときに巻き添えをくわないよう注意してさえいればいいのだ。 それがマルフォイ家数百年の歴史を通じて編み出された伝統だった……。

 

だから父上はドラコによく言い聞かせていた。明らかに格上の相手に遭遇したとき、腹をたてたり否認したり駄々をこねたりしては、手にはいる地位も手にはいらなくなる。次世代の権力構造で第二位の地位を確保することが至上命題だ、と。

 

グレンジャーはあの様子だと、両親からそういった教えをうけていないらしい。だからハリー・ポッターが格上であるということを認められないのだろう。

 

そこでドラコは秘密裏にゴルドスタイン隊長とボーンズ隊長とマクミラン隊長に面会し、〈ドラゴン〉と〈太陽〉はできるかぎりおたがいのあいだでの交戦を避け、〈カオス〉という強敵の排除を優先する、という協定をとりつけておいた。

 

これは裏切り者を禁じる協定には違反しない。本心から()()()()()()()()ことは裏切りではない。

 

高らかな開戦の鐘の音が廊下じゅうにひびきわたり、一呼吸おいてからドラコの「走れ!」という声で全員が走りだした。 これでは兵士を疲れさせてしまうし、着いてから一休みさせても完全に回復はできない。それでも自分たちと〈太陽部隊〉で〈カオス〉をはさむ態勢をとらなければ勝ち目はない。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーとネヴィルはゆったりとした歩調で廊下を歩いていく。ハリーは〈太陽部隊〉がいる方向を指す黄金色の羅針盤を注視する役、ネヴィルはそれ以外の何者かがやってこないかに注意する見張り役だ。

 

よく耳をすませれば、二人の足音はすこし重くひびいている。

 

「けっきょく、あんな重りをつけて決闘術の練習をさせられたのは、このためだったの?」としばらくしてからネヴィルが口をひらいた。

 

ハリーは〈太陽〉軍の羅針盤から目を離さずに、うなづいた。もし針の方向が急にかわりだしたら、距離がせまっているという証拠なので、見のがしてはならない。

 

「ほかのみんなのまえでは言わなかったけど、一、二週間じゃたいして筋肉はつかないし……」とネヴィル。 「これはバランスもちがうし、練習のときより重い……。これって、マグル製品〈転成〉禁止のルールに引っかかるんじゃない?」

 

「引っかからない。そこは事前にたしかめてある。 この城のなかにもこういうのを着た彫像はある。だから魔法族も()()着用していたことがあるんだ。〈暗黒時代〉当時のおしゃれにすぎなかったとしても。」  そして、現実の戦闘では〈睡眠の呪文〉などといった一年生並の弱い呪文を使おうとする人などいないから、敵にアイデアをあたえてしまう心配もない。

 

分かれ道になった。やっかいなかたちをしている。いま、〈ドラゴン旅団〉を追う〈カオス軍団〉のあとに〈太陽〉軍がついている。羅針盤で〈太陽〉軍の進行方向は確認できているが、左右どちらの道をたどっても、襲いかかるのに都合がいい位置はとれそうにない。 ハリーはそれでもましなほうをえらぶことにし、ネヴィルもつづいた。

 

「〈消音の魔法〉をかけてみたらどうかな。これ、けっこう音がするから、勘づかれるかもしれない。」とネヴィル。

 

ハリーはうなづいた。それから、相手からは表情が見えないかもしれないと思い、「いいアイデアだ。」と言った。

 

二人はホグウォーツ上層階の石畳の廊下をもたもたと歩いていく。道にはふつうのガラス窓やステンドグラスの窓から光がさしこみ、ところどころに魔女やドラゴンの彫像がある。ときには、甲冑や鎖かたびらに身をつつむ魔法騎士の像まであった。

 

◆ ◆ ◆

 

〈太陽〉軍は幅の広い、長い廊下を、杖をかまえて行軍していた。 移動中なので〈虹色の盾〉(プリズマティック・シールド)は使えないが、パーヴァティ・パティルとジェニー・ラスタッドが『コンテゴ』の防壁をたて、奇襲の際に狙われやすい士官集団を守っている。

 

ハーマイオニーと士官たちが決めた今回の戦術は、敵軍兵士集団にまっこうから全速で突入して、混戦にもっていく方法だ——こうすれば敵は同士撃ちをおそれて攻撃をためらう。自分たちは同士撃ちせずに支援しあえるよう、部隊内で演習をしてあった。 練習できたのは四時間だけだったが、これだけでも混戦での戦闘をまったく練習していない兵士よりは優位にたてるとハーマイオニーは判断した。 いかにも〈カオス〉軍が使いそうな戦術だが、使ったことはなかった。

 

有望な戦術だ、とハーマイオニーは思う。けれどいくら説明しても、兵士たちはハリーとネヴィルがやっているという練習のうわさをささやきあって、恐れをなしていた。 なので最後には、〈士気の維持向上〉方面に詳しいゴルドスタイン隊長に頼みこみ、案をだしてもらったのだが、その案というのが——

 

「変だぞ。」とマクミラン隊長が突然言いだした。アーニー・マクミランは炎の羅針盤と玉虫色の羅針盤を両手に持ち、眉をひそめている(アーニーはハリー風に言えば『空間認識能力に優れている』ので、羅針盤の係と敵部隊の動向を読み取る係の両方をまかせてあった)。 「多分……〈ドラゴン〉は速力をおとしたな……こちらから見て〈カオス〉のむこうがわにまわろうとしていたんだと思う……それで〈カオス〉のほうは……〈ドラゴン〉を攻撃するような動きをしている……はさみうちされない位置に退避しようとしない……?」

 

ハーマイオニーは理解しようとして眉をひそめた。アンソニーとロンもおなじような表情をしていた。 〈カオス〉と〈ドラゴン〉が正面衝突してたがいの戦力を消費してしまうなら、それはほとんど〈太陽〉に勝ちをゆずっているようなものだ……

 

「ポッターは、うちとマルフォイが共闘してると思っているんだろう。だからうちが合流しにいくまえに、マルフォイを攻撃しようとしているんだ。」と一兵卒になったブレイズ・ザビニが言う。 「でなければ、両軍を順番に相手して撃破できると思っているのか。」  ザビニはえらそうにためいきをつく。 「そろそろおれを士官にもどしたくなってきたんじゃないか? おれなしじゃ、手も足もでないんだろう。」

 

ザビニ以外の全員はそれにとりあわず、黙殺した。

 

「進行方向はこのままでいいのか?」とアンソニー。

 

「うん。」とアーニー。

 

「近くなってはいる?」とロン。

 

「まだもうすこし——」

 

そのとき、通路の突き当たりにあった黒檀調の巨大な両扉が勢いよくひらき、壁に激突した。そのむこうから、二人の人影があらわれた。人影は灰色のマントをまとい、灰色のフードから灰色の顔布をたらしている。そのうち一人はすでに、杖をハーマイオニーに向けていた。

 

そして高く緊張したハリーの声で投げつけられたひとことが、試合の流れを決定的に塗りかえた。

 

「ステューピファイ!」

 

決闘術で使われる水準のその呪文が自分にむけて撃たれたのを見て、ハーマイオニーはショックのあまり、反応が遅れそうになった。『コンテゴ』の防壁をぶちぬいて飛んできた赤い閃光を、ハーマイオニーはかろうじてかわした。閃光が腕をかすめ、しびれが生じた。視界のかたすみに、スーザンが撃たれて吹き飛び、ロンに当たるのが見えた——

 

「『ソムニウム』!」とアンソニーの怒声がして、一瞬遅れてもう十人ほどがいっせいに「ソムニウム!」と言った。

 

ハーマイオニーはあわてて自分の体勢をたてなおしていたが、そのあいだ灰色のマントの人影は二人とも、ただ突っ立っていた。

 

睡眠の呪文(ソムニウム)〉は弱い呪文なので目に見えない——

 

とはいえ、あれだけの弾幕がすべてはずれるとはとても考えられない。

 

「『ステューピファイ』!」とネヴィル・ロングボトムがさけび、また赤い閃光が飛んでくる。ハーマイオニーは必死に身をよじって、ぶざまに地面に転がる。それから飛び起き、息を切らして確認すると、ロンが体勢をたてなおす途中で雷撃の犠牲になっていた。

 

「〈太陽〉軍のみなさんこんにちは。」とハリーがフードをかぶったまま言った。

 

「われわれは〈カオスの灰色の騎士〉。」とネヴィルの声がした。

 

「今回はぼくたちがみなさんをお相手する。」とハリー。 「〈カオス〉軍の本隊はいまごろ〈ドラゴン〉軍を虐殺している。」

 

「ところで……」とネヴィル。「われわれは無敵だからよろしく。」

 

◆ ◆ ◆

 

灰色のマントとローブと顔布をまとった二人は、〈太陽〉軍全兵力を相手に、〈睡眠の呪文〉を十数発うけてもなんら動じていないように見えた。

 

ダフネはとなりからだれかの吐息を感じた。ふりむくと、ハッフルパフのハンナだった。ハンナは口をわずかにあけ、目をまんまるにして——

 

ハンナの視線のさきにいるのがだれか分かったとき、ダフネのこころのなかに名状しがたいさまざまな思いが去来した。それはハリーではなく、ネヴィルだった。そういえば、とダフネにも思いあたることがあった。そういえばネヴィルは最近、男の子のなかで目立つようになってきている。それどころか、〈ロングボトム家継嗣〉である彼はいまこの瞬間、文句なく()()()()()。と思うと、グリーングラス卿夫人でもある母から学んでいた、さりげないふるまいやお世辞のしかた、髪からシャンプーを香らせる方法などいろいろなことが、耳から出ていってしまった。ちょうど髪の毛をゆらすくらいの勢いで。それもこれも、ハーマイオニーとハリーの様子を見ていて、自分ならもっと別の求愛のしかたをする、と思っていたせいで——

 

グリーングラス卿夫人の教えのなかには、〈元老貴族〉家の一員たるもの知らなければ恥ずかしい呪文だとして最近教わった呪文もいくつか含まれていた。

 

杖を左に大きく振って、ダフネはさけんだ。 ()()()()()()()

 

杖を頭上にかかげ、詠唱をつづける。 灰色髑髏(グレイスカル)の力により」

 

最後に杖を両手ににぎり…… ()()()()()()()()()()

 

膨大な魔法力の流出で、ダフネはくずれおちそうになった。なんとかこらえていると、光かがやく『それ』が実体化し安定したかたちを持った。魔法力の流出もすこしおさまった。

 

それでも、長くもつとは思わないほうがよさそうだ。

 

周囲の全員が彼女に注目していることは言うまでもない。髪をなびかせながらネヴィルの正面に飛びでたいところだったが、実際には〈元老の剣〉を手に一歩一歩あるいていくだけで精いっぱいだった。全員が道をあけて彼女を通したことも言うまでもない。

 

わが名はダフネ、〈元老貴族〉グリーングラス家の子、〈太陽(サンシャイン)〉のグリーングラスなり!」  正式な決闘の作法のことはすっかり忘れてしまった。死をかけた決闘の申し込みや血をかけた決闘の申し込みなら芝居でいろいろと見てきたが、今回の状況で使えそうなものはなにも思いだせなかった。なので、とにかく光の剣の切っ先を想い人にむけ、さけんだ。 「()()()()()()()()()()()()()

 

もう一度「ステューピファイ!」というハリーの声がした。ダフネはあとになってこのつぎの行動を思いだしてみたとき、どうやってそんなことができたのか、と自分でも不可解になった。とにかく彼女は光の剣をクィディッチのビーターのバットのように一振りして、()()()()()()()()()()()()()()()()。ハリーは身をひねり、かろうじてそれをよけた。

 

「雷光の力と灰色髑髏(グレイスカル)の力により」と〈元老貴族〉ロングボトム家のネヴィルがさけぶ。()()()()()()()()()()

 

◆ ◆ ◆

 

それから数秒間、全員が止まってネヴィルとダフネのつばぜりあいをじっと見つめた。 どちらもあまり機敏な剣技ではなかった。あの呪文を維持するだけで体力をひどく消耗しているのだろう、とハーマイオニーは思った。 マグル生まれとしては、ある種の映画とくらべてしまうとちょっと迫力に欠ける。

 

とはいえ、ライトセーバーが実動するというだけでも、かなりすごいとは思う。

 

「ちょっとルール上の確認。」とハリーの声がした。 「クィレル先生が監視してるから心配ないだろうけど、念のため。あれは当たったら相手のからだがまっぷたつになるようなものだったりしないのか、だれか——」

 

「しない。」とハーマイオニーはうわのそらで答えた。 歴史の本のなかに、そう書いてあった。魔法の決闘で使うというあの剣が、()()()()()()()だとは思わなかったが。 「さわった相手を失神させる効果しかない。」

 

「あの呪文の使いかた、知ってるの?」

 

「え? あれは〈元老の剣の魔法〉よ。だから〈元老貴族〉の人以外が使うのは違法——」

 

ハーマイオニーはそこで言いやめて、ハリーに目をやった。というか、ハリーの灰色のフードに目をやった。

 

「それなら、〈太陽部隊〉の残りはぼく一人でなんとかするとしようか。」  ハリーの顔は見えないが、声の調子からすると、笑っているようだ。

 

「ダフネに呪文を打ちかえされたとき、あなたはよけた。 だからそれがどういう仕組みだとしても、()()()()()()。 『ステューピファイ』なら効くはず。」

 

「おもしろい仮説だね。」とハリーがフードのむこうから言う。 「きみの部隊にそれを検証できる人はいるのかな?」

 

「わたし。〈失神の呪文(ステューピファイ)〉なら本で読んだの。何カ月かまえだけど ……正確な手順を思いだせるか、試してみようかしら?」  杖をハリーにむける。

 

一瞬間があった。そのあいだにも、となりでもう一組の少年と少女が息を切らし、ライトセーバーで切りつけあっている。

 

ハリーも彼女に杖をむける。「こちらには『ソムニウム』という選択肢があるのもお忘れなく。 『ステューピファイ』よりずっと消耗も少ない。」

 

ハーマイオニーの正面に、『コンテゴ』の盾があたらしく出現した。ハリーがしゃべっているうちに、ジェニーとパーヴァティが用意した。

 

ハーマイオニーの杖さきも、空中で小さく動きをしはじめた。菱形をえがき、円で囲う。菱形をえがき、円で囲う。本で読んだはずのその動作のリハーサルをする。 彼女にとっても難しい呪文だが、今回は一度目で成功させなければならない。失敗してエネルギーを消耗しているだけの余裕はない。

 

「まえから思ってたんだけど……あなたに言ってもしかたないけど、〈死ななかった男の子〉の話を聞かされるのが、だんだんいやになってきたの。みんなまるで——まるであなたのことを()みたいに言うから。」

 

「同感だね。いつもそういう風に過小評価されるのは、ぼくとしても残念だ。」

 

ハーマイオニーの杖が菱形と円の動きを何度もくりかえす。 ハリーはどうやら、エネルギーを回復させるために時間かせぎをしている。彼女もそのあいだに、できるかぎり練習しておくつもりでいる。 「そろそろあなたも身のほどを知るべきだと思わない? 〈カオス〉軍司令官。」

 

「そうかもね。」と平静に言って、 ハリーは足と足を交互にかさねる動きをしだした。決闘の舞いとでもいうべき動きだ。 「あいにく、ぼくを負かしてくれそうな人はもういないらしい。ハリー・ポッターがもう一人いれば別だけど。」

 

「言いなおすわ。()()()()身のほどを知らせてあげる。」

 

「へえ、たった一人で?」

 

「あなたは自分がかっこいいと思ってるんでしょうね。」

 

「そりゃもちろん。思ってるよ。 傲慢だっていう人もいるだろうけど、自分で自分のすごさに気づくことのなにがおかしいのかな?」

 

ハーマイオニーは左手を空中にかかげ、かたくにぎった。

 

それは合図だった。 担当の兵士八人がハーマイオニーに杖をむけ、小声で『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』をかけることになっていた。

 

いくら心配ないと兵士に説明してもらちがあかないので、アンソニーに相談した結果が()()だった。この練習をすることで、無敵の敵が来ても司令官がなんとかしてくれる、とみんなを納得させることができたのだった。

 

「あなたはスーパーマンのつもりなんでしょうけど。」と言ってハーマイオニーは左手を上に持ちあげた。八人の兵士たちが上への〈浮遊〉をかけ、ハーマイオニーは地面を離れた。 「……こっちはスーパーハーマイオニーよ!」  手をそのまま前に押しだすと、ハーマイオニーのからだはみごとな速度でハリーにむけて飛んだ。ハーマイオニーはハリーの表情が見えないのが残念だったが、すぐに杖で菱形と円をえがき、全身の魔法力をそそぎこみ、あまりの強烈さに有刺鉄線に(触れたことはないが)触れたような感触を手に感じて、「『ステューピファイ』!」とさけんだ。

 

赤い稲妻が完全なかたちで杖から放出された。

 

ハリーはよけた。

 

それから、練習したときの場所が廊下ではなかったので、ハーマイオニーは壁に激突した。

 

◆ ◆ ◆

 

「『ソムニウム』!」とドラコが叫び、数秒も休まないうちにまた叫ぶ。 「『ソムニウム』死ね!」

 

撃った睡眠弾はセオドアに確実に命中している。だがセオドア・ノットはよけようともせず、父親ゆずりの邪悪な笑いをして、杖を持ちあげ——

 

セオドアが『ソムニウム!』と言った瞬間にドラコはなんとか横に飛んでかわした。だが消耗がはげしくなってきた。このまま長くはつづけられない。ドラコは動きつづけているのに、セオドアはよけようとするそぶりすらない。なんだこれは。

 

また撃てるだけのエネルギーがもどったが——

 

かつてハリー・ポッターは『愚かさとは、おなじ方法をくりかえすだけで結果が変わると期待することだ』と言った。今回のこれはきっとハリーのしわざだ。今回はマグル製品ではありえないが、それならなんだというのか。なにか仮説をだして検証すべきなのだが、笑うセオドアの攻撃を回避するのに忙しく、思考する余裕がない。ぎりぎりのところをかすめた睡眠弾のせいで、脇腹に軽い麻痺を感じる。このままではどうにもならない、もう仮説も検証もあるか、という気持ちになって——

 

「『ルミノス』!」とさけぶと、セオドアが赤い光につつまれた。 「『デュラク』!」と言うと光は消えた(つまりセオドアにも魔法は通じるということだ)。「『エクスペリアームス』!」と言うとセオドアの杖が飛んでいった(よく考えれば、もっとはやくこの呪文を試すべきだった)。セオドアが体当たりしてきて、腕をのばしてドラコを組み伏せようとしたので、ドラコは「『フリペンド』!」とさけんで相手を引っくりかえらせ——

 

——セオドアの背中が地面にあたり、ドラコが予想していなかったほど大きな()()()をたてた。

 

四つの呪文を高速に連射したせいで、ドラコの視界がぼやけた。セオドアはすでに立ちあがりかけていたので、ドラコは思考を言語化する間もなく、なんとか「『ソムニウム』!」と言うことができた。今回は、セオドアの胸部ではなく顔をねらった。

 

セオドアはよけて(よけて!)、声をあげた。「()()()()()()()()()()()

 

「『プリズマティス』!」とパドマがさけぶ声がして、ドラコのまえに虹色の光の壁ができた。同時に〈カオス〉兵四人が睡眠の呪文を撃ってきていた。

 

〈ドラゴン旅団〉残存戦力を守る巨大な〈虹色の球体〉(プリズマティック・スフィア)をまえにして、全員の動きがとまった。

 

ドラコは五つ目の呪文を撃った時点で手とひざを地面についていた。そこからなんとか身を起こして、できるかぎり明瞭な声で「〈睡眠の呪文〉が——効かなければ——顔をねらえ——おそらく敵の士官は金属の服を着ている。」と言った。

 

防壁のむこうからグリフィンドール生フィネガンが言う。「遅かったな、もう十分兵力は減らせた。……どうせおれたちの勝ちは決まっている。」  そう言って邪悪な高笑いをする。ハリー・ポッター並に板についた高笑いだった。 そのすぐあとにつづいて、ほかの〈カオス軍団〉兵たちも高笑いをしはじめた。

 

視界のかたすみにグレゴリーとヴィンセントが意識をうしなって倒れているのが見えた。 パドマはまだ〈虹色の球体〉を維持している。パドマがこれほど大きなものを作るのははじめて見た。 だが彼女の呼吸ははげしい。位置につくまで走っていたせいで、まだ汗をかいている。……レイヴンクロー生パドマは魔女として有能だが、肉体派ではない。

 

はやくグレンジャー司令官に到着して、〈カオス〉を背面から突いてほしい。ポッター司令官とネヴィルがここにいないことは分かっているし、どこに行ったかは想像がつく。それにしても、二人対〈太陽部隊〉全戦力の戦闘がそれほど長びくはずはないはずだが?

 

◆ ◆ ◆

 

ダフネが全力をつくしてくれたのは分かっているし、ダフネを責めるべきではないとは思う。それでも、もうすこし持ちこたえてくれていたら、とハーマイオニーは思ってしまった。

 

「『ラガン』!」と背後からネヴィルの声がしたとき、ハーマイオニーは空を飛んでいた。〈虹色の壁〉がくだけちる音がして、ハンナが絶望した声で「『ソムニウム』!」とさけんだ。数秒後にネヴィルが落ちついた声で「ソムニウム」と言い、また一人味方がうしなわれる音がした。

 

ハーマイオニーを滞空させているちからがまた少し減った。〈浮遊の魔法〉の浮揚力はまだ感じられるが、十分ではなくなった。

 

飛行がとまり、ゆっくりと下降しはじめた。もう『落とせ』という合図をだすべきだったが、ハーマイオニーは怒りと混乱のあまり、そこまで考えることができなかった。それに、ちからをふりしぼって最後の〈失神の呪文〉一発を撃とうとしてもいた。そのせいで、ハリーが杖をまっすぐに向けて呪文を撃ってきたとき、逃げることもできなかった。ハリーのその「ソムニウム」を最後に聞いて、ハーマイオニー・グレンジャーは意識をうしなった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 







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68章「自己実現(その3)」

ハーマイオニーはいま、親切でいられるような気がしない。〈善〉にもなれそうにない。からだのなかで怒りが沸々としていて、もしかしてハリーの暗黒面(ダークサイド)もこういう感じなのだろうか、と思った(とてもそこまではいかないだろうけれど)。これはただの遊びなのだから、そんな風に受けとめるべきではない。それでも——

 

全滅。兵士二人に自分の軍が全滅させられた。 ……ということを、ハーマイオニーは起き抜けに知らされた。

 

ちょっとひどすぎないか。

 

「さて……」とクィレル先生が言う。 近くで見ると、以前この居室で見たときよりも、元気がないように見える。 以前より血色が悪く、動作もすこしだけもたついている。 厳格な表情と、突き刺すような視線は変わっていない。 指がすばやく二度、トトンと机をたたいた。 「こうしてきみたち三人に来てもらったわけだが、ミスター・マルフォイ以外の二人はまだ、今回の招集の理由を分かっていないのではないかと思う。」

 

「〈元老貴族〉のしきたりかなにかに関係しますか?」とハリーがとなりから言う。困惑しているようだ。 「ぼくがダフネを撃ったことで、なにか変てこな法律に違反してしまったとかじゃないですよね?」

 

「おしいが不正解。」と男はしっかりと皮肉をこめて言う。 「ミス・グリーングラスの決闘のはじめかたは正式な手順にそっていなかったから、きみが家名を剥奪されるようなことにはならない。 無論仮に正式な手順で決闘をはじめようとしたとしても、わたしが制止していたから同じだ。 ルールのある決闘など実戦ではなんの役にも立たない。」  〈防衛術〉教授は机に身をのりだし、両手を立ててあごをのせた。まるでまっすぐ座る姿勢にもう疲れたかのようだった。ぎらつく目が三人をじっと見ている。 「マルフォイ司令官。きみたちが招集された理由は?」

 

「われわれ二人ではポッター司令官に太刀打ちできなくなったからでしょうね。」とドラコ・マルフォイが小声で言った。

 

「え?」とハーマイオニーはつい割りこんだ。「あと一歩で勝てたのに。ダフネが気をうしなってさえいなければ——」

 

「ミス・グリーングラスが気絶した原因は、魔法力の消耗ではなかった。」とクィレル先生が乾いた声で言う。 「きみが壁にぶつかるのを見てきみの配下の兵士たちは動揺した。その隙に、ミスター・ポッターが背後から〈睡眠の呪文〉を撃って彼女をしとめていた。 それはともかく、おめでとうミス・グレンジャー。わずか二十四名の兵力のきみたちが()()()()()〈カオス軍団〉兵二名をしとめられるとは立派なものだ。」

 

ハーマイオニーのほおを紅潮させていた血液の温度があがった。 「でも——それはただ——あの防具に気づけてさえいれば——」

 

クィレル先生は両手の指を自分の目のまえであわせ、彼女をにらんだ。 「もちろん、きみが勝てる方法はいくつもあった。どんな敗者にも、見逃した勝機がある。 世界は勝機であふれている。機会であふれかえっている。型にはまった思考を脱け出すことができないばかりに、ほとんどの人は勝機を見すごしてしまうだけだ。 どんな戦闘でも、どこかで槍に変えられるのを待っているハッフルパフ生の骨が幾千とある。 念のため〈解呪〉を一斉に撃つという発想さえあれば、ミスター・ポッターの鎖かたびら一式の〈転成〉を解き、下着をのこして丸裸にしてしまうこともできていただろう。その点についてはおそらくミスター・ポッターは無防備だった。 あるいは、兵士たちをミスター・ポッターとミスター・ロングボトムに襲いかからせ、物理的に杖を強奪させてもよかった。 いっぽうミスター・マルフォイの行動は、賢明だったとは言いがたいが、すくなくともさまざまな可能性を試す意義を理解していたことは見てとれる。」  皮肉げな笑み。 「だがミス・グレンジャー、きみは不運なことに〈失神の呪文〉の手順をおぼえてしまっていた。もっと簡単で有効な呪文がいくらもあっただろうに、せっかくの記憶力をいかせなかった。 全兵士の期待をきみ一人にゆだねさせたために、きみが倒れた瞬間に士気がうしなわれた。 あとはどの兵士も〈睡眠の呪文〉を撃ちつづけるだけで、ミスター・マルフォイのようにパターンを脱け出す発想ができなかった。 効果がないと分かった手法をいつまでも試しつづける。そういう人は少なからずいるが、わたしには彼らがなにを考えているのかよく分からない。どうやら、別のなにかを試すという発想はとてつもなく稀にしか起きないことらしい。 〈太陽部隊〉が兵士二名に全滅させられたのは、そのせいだ。」  クィレル先生は陰気な笑みをした。 「〈死食い人〉五十人がいかにしてブリテン魔法界全土を制圧したか、という話とも通じるところがある。われらが〈魔法省〉がいかにしてこの国に君臨しつづけているか、ということとも。」

 

クィレル先生はためいきをついた。 「ともかく、ミス・グレンジャー、きみがそうやって敗戦したのは今回がはじめてではない。 きみとミスター・マルフォイは前回の模擬戦で、連合軍を組んでなお、戦場で決着をつけることができず、きみたち二人がミスター・ポッターを屋根の上で追いかける事態になった。 〈カオス軍団〉は二回連続してきみたち二人の連合軍と同等かそれ以上の能力を示した。 ここにいたって、とるべき措置はひとつしかない。 ポッター司令官、自分の隊から兵士を八名えらべ。八名中すくなくとも一名は士官でなければならない。そのうち四名を〈ドラゴン旅団〉、四名を〈太陽部隊〉に移籍させる——」

 

「はあ?」とまたハーマイオニーは割りこんでしまった。もう二人の司令官を見ると、ハリーもおなじくらいショックをうけていたが、ドラコ・マルフォイはあきらめ顔だった。

 

「きみたちはポッター司令官の相手にならなくなった。」  クィレル先生はぴしゃりとそう言った。 「もう彼はきみたちとの勝負に勝った。三軍の兵力を調整して、もっと手ごたえのある対戦相手を彼に用意すべきときがきた。」

 

「クィレル先生! ぼくは——」とハリーが言いかけた。

 

「これはホグウォーツ魔術学校〈戦闘魔術〉教師としてのわたしの決定であり、妥協の余地はない。」  クィレル先生の話しぶりは明瞭なままだが、その目のするどさにハーマイオニーは血が凍る思いをした。視線の相手は彼女ではなくハリーだというのに。 「ミスター・ポッター、きみのたたかいぶりには不自然なところがあった。きみはミス・グレンジャーとミスター・マルフォイを孤立させ、屋根上で二人がいっしょにきみを追わざるをえない状況を作りたいと思った。そしてそのタイミングで、ちょうど都合よい程度に両軍を壊滅させることができた。 はっきり言って、最初の回の授業以来、きみがそのくらいの能力を発揮してくれることを、わたしは期待していた。なのに毎回手加減をしながらこの授業にいどんでいたとは、率直に言って不愉快だ! きみの真の潜在能力はすでに見させてもらった。 きみはミスター・マルフォイやミス・グレンジャーと対等にたたかうなどという段階をとうに越えてしまっている。そうでないというふりをすることはわたしが許さない。 これはすべて教師としての専門的な見解だ。 きみは潜在能力を十分に開花させるために、いかなる理由があろうと手加減をしてはならない——とりわけ、友だちに悪く思われたくないなどという、子どもじみた泣き言は認めない!」

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーは〈防衛術〉教授室をでたとき、兵力を増やされ、尊厳を減らされていた。ゴミ虫のように踏みつぶされた気分で、泣くのを抑えるのに必死だった。

 

「手加減なんかしてない!」  石壁の廊下の角をまがって、クィレル先生の居室のドアが見えないところまで来るとすぐにハリーはそう言った。 「ふりでもなんでもない。きみたちをわざと勝たせたりするもんか!」

 

ハーマイオニーは返事しなかった。というより、できなかった。なにか声をだせば、抑えがきかなくなってしまいそうだった。

 

「それはどうかな?」と言うドラコ・マルフォイはやはり、あきらめたような態度をしている。 「クィレルの言うとおりじゃないか。こちらの兵士がほぼ全員やられたところで、きみの思惑どおりああやって追跡することになるなんて、たしかに不自然だ。 それにポッター。あのとき、真剣にやっているあいだに負かしてみろ、とかいうことを言っていなかったか?」

 

のどの下から熱いものがこみあげてくる。それが目までとどけば、すぐに大泣きしてしまう。そうなったが最後、二人にとって自分は泣き虫の女の子でしかなくなる。

 

「あれは——」とあわててハリーが言う声がした。ハーマイオニーは目をむけていないが、声の方向からすると、ハリーはこちらに顔をむけているようだった。 「あれは——あのときは、ぼくもふだんより必死だった。だいじな理由があったから。だから、秘密兵器もいろいろ使ったし——それに——」

 

わたしは毎回必死にやっていたのに。

 

「——それに、〈防衛術〉の授業では使わないようにしていた自分の一面(サイド)も引っぱりだして、やっと——」

 

つまり、肝心な勝負でわたしが勝てそうになるたびに、ハリーは暗黒面を使ってしまうだけであっさり圧勝できる、ということ?

 

……もちろんそうだ。自分はそういうときのハリーの目を、怖くて見ることすらできない。それでどうして勝てるなどと思うのか。

 

廊下が分かれ道になり、ハリー・ポッターとドラコ・マルフォイは左をえらんだ。そのさきには二階につづく階段がある。ハーマイオニーは右にした。こちらになにがあるかすら知らないが、迷子になってしまいたい気分だった。

 

「ドラコ、ぼくはここで。」というハリーの声が聞こえた。それからぱたぱたと、背後から足音が近づいてきた。

 

「来ないで。」  彼女はまずそう言った。思ったよりきつい声がでた。それから口をしっかりと閉じて、くちびるにちからをこめ、息をとめた。ほとんど決壊寸前だった。

 

ハリーはそれでも近づいてきて、駆け足で彼女の前にまわりこんだ。こういうのがハリーのダメなところだ、と彼女が思ったところで、ハリーは話しかけてきた。小声だが切迫した調子だった。 「ぼくはきみにホウキ乗り以外の全科目で負かされた。それでも逃げなかった!」

 

分かっていない。ハリー・ポッターは決して理解しない。彼は何度勝負に負けようが、〈死ななかった男の子〉でいられる。ハリー・ポッターがハーマイオニー・グレンジャーに負けたとなれば、これで終わりではない、いずれこの差はひっくりかえる、とみなが期待する。ハーマイオニー・グレンジャーがハリー・ポッターに負けたとなれば、その瞬間からその他大勢の一人と見なされるだけだ。

 

「ずるい。」  声は震えているが、泣きだしてはいない。まだ。 「……暗黒面のあなたと戦わさせられるなんて。わたしは——わたしはまだ——」  ……『まだ十二歳なのに』、と言おうとした。

 

「暗黒面を使ったのは()()()()だし——あのときはしかたなかったんだ!」

 

「じゃあ今日わたしたちを全滅させたのは、ふだんのハリーっていうこと?」  まだ泣かずに持ちこたえてはいるが、いま自分がどんな表情になっているのか、ハーマイオニーは想像できなかった。怒ったときの顔か、落ちこんだときの顔か。

 

「あれは——」  ハリーの声のいきおいがすこし落ちた。 「あれは……ほんとに勝てるとは思っていなかった。 無敵だと言いはしたけど、実際にははったりだったし、しばらく足止めするだけのつもりで——」

 

彼女はまた歩きはじめた。ハリーのとなりを通りすぎ、通りすぎた瞬間にはハリーのほうが泣きだしそうな顔をしていた。

 

「クィレル先生が言ったとおりなの?」と、また切迫した声がうしろから聞こえてきた。 「きみを友だちにしていたら、きみの気持ちをいつまでも気にして、前に進めなくなるの? そんなのずるいじゃないか!」

 

ハーマイオニーは一度呼吸をしなおしてから、口をかたく閉じて、走りだした。 石畳を踏み鳴らして全速力で走った。視界がにじんでなにも見えないまま、だれにも声を聞かれないくらいの速度で走った。こんどはハリーも追いかけてこなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァは月曜日締め切りの〈転成術〉(トランスフィギュレイション)のレポートを採点していた。五年次のレポートのなかに一枚、生死にかかわる間違いを書いたものがあったので、迷わずマイナス二百点をつけた。 はじめて教師として着任した年には、年長の生徒がおかすあやまちに憤慨したものだが、いまではあきらめの境地になっている。 ある種の人間は学習しない。自分の救いようのなさにも気づかず、元気に挑戦しつづけてしまう。 なかには、ホグウォーツを去るまでにそう言ってやれば納得し、自由〈転成術〉や目新しいことに挑戦するのはあきらめて、既存の確立した呪文だけを使うようにしてくれる生徒もいる。……が、そうでない生徒もいる。

 

また別の、ずいぶんとひねくれた答案を解読しようとしていたとき、ドアにノックがあり、集中がそがれた。 いまは面談受け付け時間(オフィスアワー)ではない。だから面談は拒否してもいいのだが、話も聞かずに追いかえすのは得策ではないというのが、ミネルヴァがグリフィンドール寮監になって間もなくに学んだ教訓だった。 必要なら、()()()寮点を減点すればいい。

 

「どうぞ。」と彼女はきびきびとした声で言った。

 

はいってきた少女がそれまで泣いていたのは明らかだった。すこしまえまで泣いていて、それを知られたくないばかりに、顔を洗ってきたのだろう——

 

「ミス・グレンジャー!」  目を赤くしほおを腫らしたその顔を、ミネルヴァは一瞬遅れて認識した。 「なにがあったのです?」

 

「このあいだ、先生とお話したときに、すこしでも気がかりなことや不安なことがあったら、すぐにここに来ていいと——」 少女の声は震えていた。

 

「言いました。それで、なにがあったのですか?」

 

少女は話しはじめた——

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーは回転する階段に乗り、じっと待った。回転する螺旋に乗っているだけではどこにもたどりつけるはずはないのだが、ハーマイオニーは着実に()()()()。〈無限階段の魔法〉ではないだろうか、とハーマイオニーは思った。一七三三年に発明された魔法で、当時マグルにとって未踏峰だったエヴェレストの頂上に住んでいたというアラム・サベティが発明者。 といっても、ホグウォーツはそれよりずっと古くからあるのだから、つじつまがあわない——いや、実は、独立に再発明された魔法なのだろうか?

 

ハーマイオニーにとって、これは総長との二度目の面談になる。恐れるべきことではないし、不安になるべきことでもない。

 

けれど実際には恐れてもいるし、不安になってもいる。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはあのあとひたすら考えていた。走り疲れて肺が燃えそうになって、壁に寄りかかってずり落ちて、それから冷たい石壁を背にして足を抱えて丸くなり、あれこれ考えていた。

 

ハリー・ポッターに負けるのはまだ許せるとして、ドラコ・マルフォイに遅れをとることは、なにがあろうと許されない。けれどクィレル先生は、幾千ものほかの可能性を無視しなかった、と言ってマルフォイ司令官を褒めた。ハーマイオニーはあのあとひとしきり泣いてから、自分がハリーとネヴィルに撃ってみるべきだった呪文を十四種思いついた。それから、自分はまた別の面で同じ失敗をしようとしているのではないか、ということが気になりだした。 そう思った結果、マクゴナガル先生の部屋をたずねることにした。 助けをもとめるのではない。そもそも何について助けてもらえばいいのかすら分からないけれど、とにかくマクゴナガル先生にすべてを話してみたい。それがクィレル先生の言っていた、幾千ものほかの可能性のひとつではないか、と思った。

 

そうして、マクゴナガル先生にいろいろなことを話した。不死鳥が肩にとまったあの日からハリー・ポッターが変わったこと、ほかの人がハーマイオニーのことをますますハリーの付属品のようにあつかうようになっている気がすること、ハリーがいままで以上におなじ学年の生徒全員から距離を置くようになっている気がすること、ハリーがいつもさびしげな雰囲気になっていて、なにかをなくしつつあるようにも見えたりすること、そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

その話は総長に話す必要があるからいっしょに行きましょう、と言うのがマクゴナガル先生の返事だった。

 

ハーマイオニーは不安になったが、考えてみれば()()()()()()()()()()きっと総長のことを怖がることはない。ハリー・ポッターなら、とにかく自分のやりかたを通そうとする。 もしかすると(考えてみれば)、一度そういう風にしてみてもいいのかもしれない。怖がらず、やりたいようにやってみて、どうなるかはあとで考える。ここまで来たら、そうしてみても損はない。

 

〈無限階段〉が回転を終えた。

 

真鍮製のグリフィンをかたどるノッカーがかかった巨大なオーク材の扉が、だれにも触れられずにひらく。

 

黒いオーク材の机がある。あらゆる方向に何十もの引き出しがついていて、引き出しのなかにも引き出しがあるように見える。その机のむこうの玉座に、銀色のひげをしたホグウォーツ総長アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアがいた。ハーマイオニーはやさしげにきらめくその目を三秒ほど見つめてから、部屋のなかにあるほかのいろいろな品物に気をとられた。

 

しばらくしてから——そのあいだハーマイオニーは部屋のなかにある品物の数をかぞえようとして、三度やって答えが一致せず、でも数えているあいだになにかが追加されたり除去されたことはなかったはず……と思っているうちにどれくらい時間がすぎたのか——総長は咳ばらいをして、口をひらいた。 「ミス・グレンジャー?」

 

ハーマイオニーはぱっとそちらを向き、ほおに軽く熱を感じた。 ダンブルドアはまったく気分を害した様子ではなく、表情はおだやかだった。半円の眼鏡の奥の温和な目で問いかけていた。

 

「ハーマイオニー……」とマクゴナガル先生はやさしく声をかけ、ハーマイオニーを元気づけるように片手を肩にのせた。 「ハリーについての相談でしたね。お話しなさい。」

 

ハーマイオニーは話しはじめた。あたらしい決意を実践しようとしながらも、ときどき不安を声にまじらせつつ、フォークスが肩にとまって以来の数週間のハリーの変化について話した。

 

話が終わると、一度全員が無言となった。総長がためいきをした。 「それは申し訳ないことをした。」とダンブルドアが話しだす。その青い目はハーマイオニーの話を聞いているあいだに、さびしげな表情になっていた。 「……気の毒にとは思うが……そうなる可能性も想定の範囲内ではあった。 知ってのとおり、これは英雄(ヒーロー)の責務のひとつなのじゃ。」

 

「ヒーロー?」と言ってハーマイオニーはマクゴナガル先生のほうを見あげた。表情はかたくなっているが、片手は元気づけるようにハーマイオニーの肩におかれたままだった。

 

「そのとおり。わしも謎の老魔法使いになる以前、かつては英雄(ヒーロー)だったことがある……グリンデルヴァルトとの戦いで。 ミス・グレンジャー、歴史の本はよく読むかね?」

 

ハーマイオニーはうなづいた。

 

「どのヒーローもかならずこういう経験をする。ヒーローは任務を達成するために強く成長せねばならない。きみが見たハリーの変化はそれじゃ。 彼の道のりをすこしでも歩みやすいものにすることができるとすれば、それはわしではなく、きみの仕事。わしはハリーの友ではなく、ハリーの謎の老魔法使いにすぎないのじゃから。」

 

「わたしは——わたしはもう自信がないんです。いまも自分がハリーと——」  そう言いかけてハーマイオニーはとまった。そのさきを声にしてしまうのが怖かった。

 

ダンブルドアは両目をとじた。またひらいたとき、その顔はすこしだけ老いて見えた。 「もしきみがハリーと友だちでいるのをやめたくなったのなら、だれにも止めることはできん。 それが彼になにをもたらすか、きみはわしよりもよく理解しているのではないかと思う。」

 

「それは——不公平だと思います。」  ハーマイオニーは声を震えさせた。 「ハリーにはわたししかいないから、わたしが友だちになってあげるしかない、ということですか? 不公平だと思います。」

 

「友だち()()()ことは、だれかに強制されてできることではない。」  ハーマイオニーのなかを見透かすような青い目。 「その気持ちがあるかないかでしかない。あるなら、その気持ちに正直になるか、うそをつくかはえらぶことができる。 きみはすでにハリーの友だちであり——きみがその気持ちにうそをつけば、ハリーは大きな傷を負う。おそらくだれにも癒せないほどに。 しかしミス・グレンジャー、なにがきみをそこまで駆りたてる?」

 

どう表現すればいいのか。 これまで何度考えてもわからなかった。 「ハリーの近くに行きすぎた人は——ハリーに()()()()()()()()()。そしてだれにも()()()見てもらえなくなる。彼の()()()()でしかないと思われる。世界は彼を中心にしてまわっているとみんなが思っていて……」  それ以上なにも言えなかった。

 

老魔法使いはゆっくりとうなづいた。 「まさしく、この世界は不公平にできている。 いまとなっては、世界じゅうが知るかぎりでグリンデルヴァルトを倒したのはわし一人であり、エリザベス・ベケットがわしのために道を切りひらいて死んだことを知る人はほとんどいない…… が、皆無ではない。 ハリー・ポッターはたしかにこの芝居の主人公(ヒーロー)であり、世界はたしかに彼を中心にしてまわっている。 彼には偉業が約束されている。 アルバス・ダンブルドアという名前もいずれ、ほかのどんな業績よりもハリー・ポッターの謎の老魔法使いであった人として知られるようになると思う。 おなじように、ハーマイオニー・グレンジャーという名前も、きみがいずれ頭角をあらわせば、彼の相方であった人として知られることになるかもしれぬ。掛け値なしの真実を言おう。ハリー・ポッターの仲間として得られる以上の栄誉を、きみが一人で得ることはありえない。」

 

ハーマイオニーは激しくくびをふった。 「そんなのはちっとも——」  そう言いかけたが、うまく説明できる気がしない。 「……栄誉はいいんです。でも自分が——自分がほかのだれかのおまけでいいのか、ということです!」

 

「つまりきみ自身がヒーローでありたいということか?」  ダンブルドアはためいきをした。 「ミス・グレンジャー、わしも英雄(ヒーロー)であり指導者(リーダー)であったことがある。もし自分がハリー・ポッターのようなだれかのおまけであったなら、一千倍も幸せに生きることができたと思う。 重い任務をまかせ、つらい選択をゆだねることができ、自分の導き手にしてよいと思えるだれかがいたなら、どんなに幸せでいられたか。 一度はそういう男を見いだせたように思ったが、それはわしの考えちがいじゃった……。 ミス・グレンジャー、きみは自分の立ち場がヒーローよりどれだけ幸せか、まったく理解していない。」

 

またのどに熱いものがこみあげてきた。同時に無力感も。総長に助ける気がないのなら、なぜマクゴナガル先生は自分をここに連れてきたのだろうか。ちらりとそちらを見てみると、マクゴナガル先生もここに来たことが正解だったか、自信がないようだった。

 

「わたしはヒーローになろうとは思いません。けれどヒーローのおともにもなりたくない。わたしは()()()()()()()()だけです。」

 

(数秒後にふりかえってみると、やっぱりヒーローがいいような気もしたが、いまさら言いなおすべきではないとハーマイオニーは判断した。)

 

「ああ……。なんともむずかしい注文じゃ。」  ダンブルドアはそう言ってから玉座をあとにし、机のむこうで一歩さがって、壁の紋章を指さした。どこにでもある紋章で、ハーマイオニーはそれまで目にとめてすらいなかった。 くたびれた盾に、ホグウォーツの校章が刻まれている。ライオンとヘビ、アナグマとレイヴン。そこにあるラテン語の一文の意義は、どうしてもぴんとこない。 そう思ったところで、その置き場所がこの部屋であるということ、そして外観がとても古そうなことに気づき、もしかするとこれはその盾の現物なのではないか、と思えてきた——

 

「ハッフルパフ生に言わせれば、」と言ってダンブルドアは色あせたアナグマの紋章を指でたたいた。ハーマイオニーはその冒瀆行為(ほんとうに現物であればの話だが)に顔をしかめた。 「……ほんとうの自分になれない人とは、そのための努力をしない怠け者ということになろう。レイヴンクロー生であれば、」と言ってレイヴンをたたく。 「……『汝自身を知れ』という、実はソクラテスよりもはるかに古い表現を引用し、ほんとうの自分になれないのは無知と思慮不足が原因だ、と言うことじゃろう。サラザール・スリザリンは、」 と言ってダンブルドアは眉をひそめ、色あせたヘビをたたく。 「……ほんとうの自分になりたければ、人はひたすら自分の欲望にしたがうべきだ、と言った。彼なら、人は野望を実現するために必要なことをやろうとしないから自己実現に失敗するのだ、と言うかもしれない。 しかしそこで、〈闇の魔術師〉のほぼ全員がスリザリン寮から輩出されていることを考えてみよ。 彼らはみなほんとうの自分になったか? わしはそう思わない。」  ダンブルドアはライオンをたたき、ハーマイオニーのほうを向いた。 「では、ミス・グレンジャー。グリフィンドール生に言わせれば、どんな答えになるか、言ってみなさい。 きみがグリフィンドール行きの選択肢をあたえられたのであろうことは、〈組わけ帽子〉に聞くまでもなく分かっておる。」

 

むずかしい質問ではないと思った。 「グリフィンドール生に言わせれば、人がなるべき自分になれないのは、なるのが怖いからです。」

 

「そのとおり、たいていの人は怖がる。たいていの人は一生ずっと恐怖に立ちつくし、恐怖のために自分の可能性、自分の将来の芽を摘んでしまう。 まちがったことを言うことへの恐怖、することへの恐怖、手もとにあるなにがしかの財産をうしなうことへの恐怖、死への恐怖、そしてなによりも、他人にどう思われるかという恐怖。 そういった恐怖に大変な影響力があるのは事実であり、そう知っておくことも大変重要なことではある。 しかし、ゴドリック・グリフィンドールが言うであろうことは別にある。 人間は正しくあろうとすることで、ほんとうの自分になる、ということじゃ。」  ダンブルドアはやさしげな声をしていた。 「では、ミス・グレンジャー、きみにとって()()()選択とはなにか? それこそが真の自分の本質であり、そのさきにあるものこそがなるべき自分だと思いなさい。」

 

大きな部屋のなかで、数えられないいろいろな器具の音だけが聞こえた。

 

ハーマイオニーは考えた。レイヴンクローらしく。

 

そしてゆっくりと答える。 「別のだれかの影のなかで生きることをしいられるのは……正しくないと思います……」

 

「世界には、正しくないことがいくらもある。問題は、それに対して()()()()()なにをするのが正しいか。 ハーマイオニー・グレンジャー、ここからは謎の老魔法使いらしからぬ、すこしはっきりとした物言いをさせてもらう。もしハリー・ポッターを中心に展開されるできごとがまちがった方向に進めば、どれほどの災厄を招くか。その悲惨さはだれにも想像することすらできない。 彼にさずけられた冒険の旅(クエスト)には、だれもことわることすら夢にも思わないほど重い意味がある。」

 

「それはどんな冒険ですか?」  ハーマイオニーの声が震えた。総長がどういう返答をもとめているかはもう十分わかったが、それをそのまま言うのはいやだと思った。 「あのときハリーの身になにが起きたんですか? なぜフォークスが肩にとまっていたんですか?」

 

「彼は成長した。」  老魔法使いは何度か半月眼鏡の奥の目をしばたたかせた。急に顔にしわが増えて見えた。 「ミス・グレンジャー、人を成長させるのは時間だと思ってはならない。人は大人の世界におかれたときに成長する。 あの土曜日、そういったことがハリー・ポッターの身に起きた。 あのとき——この情報はだれにも漏らしてはならぬぞ——あのとき彼は、とある人物とたたかえと命じられた。 だれとたたかうのか、なぜたたかうのかはここでは言えぬ。 ただ、それが彼の身に起きたことであり、だからこそ彼は友を必要としている、とだけ言っておく。」

 

沈黙。

 

()()()()()()()()()()()()」  電線を自分の耳につっこまれたとしたら感じるであろう以上の衝撃を感じて、ハーマイオニーは言う。 「ハリーをベラトリクス・ブラックとたたかわせようとしてるんですか?」

 

「いや、ベラトリクス・ブラックではない。だれとたたかうのか、なぜたたかうのかは言えぬ。」

 

ハーマイオニーはもうすこし考えた。

 

「ハリーに負けないようにがんばりたければ、どうすればいいですか? いえ、そうすると決めたわけじゃありませんが——もしハリーに友だちが必要なら、()()()友だちになれますか? わたしもヒーローになれますか?」

 

「ああ……」と言って老魔法使いはほほえんだ。 「それを決めるのはきみ自身じゃよ、ミス・グレンジャー。」

 

「でも先生はハリーを助けている。わたしを助けてはくれないんですね。」

 

老魔法使いはくびをふった。 「わしがハリーにしてあげていることは、ほんのささやかなことにすぎない。 きみも冒険の旅(クエスト)がほしい、と言うことなら——」  こんどはすこし皮肉めいた笑みをする。 「ミス・グレンジャー、きみはまだこの学校の一年生。急いで大人になることはない。あとでたっぷり時間はある。」

 

「わたしは十二歳です。ハリーは十一歳ですよ。」

 

「ハリー・ポッターは特例じゃ……きみも知ってのとおり。」  半月眼鏡の奥の青い目が急にするどくなり、それを見てハーマイオニーは、ディメンターが来た日のことを思いだした。あのときこころのなかにはいってきたダンブルドアの声は、ハリーの暗黒面(ダークサイド)のことを知っている、と言っていた。

 

ハーマイオニーは自分の手をマクゴナガル先生の手にのせた。最初から肩におかれたままだったその手の存在をハーマイオニーはずっと感じていた。そして自分でもおどろくほど、しっかりした声が出た。 「もう出ていきたいんですが、いいでしょうか。」

 

「もちろん。」と言うマクゴナガル先生の手がそっとハーマイオニーを押し、オーク材の扉に向かわせた。

 

「ハーマイオニー・グレンジャー、きみは自分の行く道をもう決めたのかね?」  背後からアルバス・ダンブルドアが声をかけてきたとき、すでに扉が音をたててひらきはじめ、〈無限階段〉が見えはじめていた。

 

ハーマイオニーはうなづいた。

 

「それは?」

 

「わたしは……」 そのさきを言いよどむ。「わたしは……」

 

一度息をすう。

 

「わたしは——正しくありたいと思います——」

 

それ以上なにも言わず、なにも言えずにいると、〈無限階段〉がまた回転しはじめた。

 

下降するあいだ、ハーマイオニーもマクゴナガル先生も無言でいた。

 

〈流れ石〉のガーゴイルが道をあけ、二人は城内の廊下にでた。そこでやっとマクゴナガル先生が小声で話しはじめた。 「申し訳ありません、ミス・グレンジャー。 総長があのようなことをおっしゃるとは思いませんでした。 あのかたは、ものごとが子どもの立ち場からどう見えるのかをほんとうに忘れてしまったようです。」

 

ハーマイオニーがちらりと見あげると、マクゴナガル先生のほうが泣きだしそうに見えた……というのは言いすぎかもしれないが、それだけ張りつめた表情をしてはいた。

 

「もしわたしがヒーローになりたいと言ったら……ヒーローになると決めたら、マクゴナガル先生に助けてもらうことはできますか?」

 

マクゴナガル先生は急いでくびをふった。 「ミス・グレンジャー、その点に関しては、総長に理があるのではないでしょうか。あなたはまだ十二歳なのですよ。」

 

「そうですか。」

 

二人はまた少し歩いた。

 

「すみません、レイヴンクロー塔には一人で帰りたいんですが、いいですか? 先生のことがいやになった、という風には思わないでください。 ただ、いまは一人でいたいんです。」

 

「もちろんかまいません。」  マクゴナガル先生の声はすこしかすれていた。 それから足音が離れていき、角をまがったのが分かった。

 

ハーマイオニー・グレンジャーもその場を去った。

 

階段をあがって上の階にいき、もう一つ上の階にいくあいだ、ヒーローになるチャンスをくれる人がホグウォーツのなかにいるとしたらだれだろう、と考えた。 フリトウィック先生はマクゴナガル先生とおなじことを言いそうだし、仮にその気があったとしても、だれかをヒーローにすることはできなさそうだ。ほかにだれがいるだろうか。 ……クィレル先生なら、ある程度クィレル点を消費すればなにかやってくれそうだが、あの先生に頼むのは避けたほうがいいような気がする。仮にクィレル先生がだれかをヒーローにできるとして、ちゃんとした意義のある種類のヒーローを育てることはできないのではないか、そもそもその差がなんであるかすら理解していないのではないか、という気がする。

 

レイヴンクロー塔まであと一歩というところで、ハーマイオニーは黄金色の光が一閃するのを目にした。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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69章「自己実現(その4)」

その光はハーマイオニー・グレンジャーの視界の端ぎりぎりの位置で光ったように見えた。廊下と廊下の交差点の、光沢ある金属製の彫像に反射して、黄金色の光が一閃。赤色の光が一閃。炎のようななにかが映る。それが見えたかと思うと、消えた。

 

ハーマイオニーは立ちどまり、困惑し、そのまま去りかけた。ただ、一瞬見えたその光には、どこか見おぼえがあるような気がした——

 

それで、彫像のある場所まで歩いていき、それに反射して見えた炎があるはずの方向を見た。

 

かすかな声がした。どこか遠くから、鳴き声が聞こえたような気がした。いや、呼び声が。

 

ハーマイオニーは走りだした。

 

そうしてしばらく走った。交差点にくると足をとめ、大きく息をすって、精いっぱい呼吸をととのえる。すると視界のどこかに炎が反射するのが見えたり、遠くから呼び声が聞こえたりする。 模擬戦のための鍛錬をしていなければ、こんな走りかたは長つづきせず、倒れこんでしまっていただろう。

 

しかし不死鳥(フェニックス)そのものを目にすることはできなかった。

 

そして四叉路にたどりついた。しかし、しばらく待ってもなんのしるしもあらわれない。鳴き声も聞こえず、炎も見えず、いやな予感がした。すべては自分の妄想だったのではないか。そう思ったところで、()()()叫び声が聞こえた。

 

ハーマイオニーは急いでその(かど)に駆けつけ、ひとめで状況を把握した。緑色のふちのローブを着た大柄な男子が三人、すでに彼女のほうを見ている。黄色のふちのローブを着た小柄な男子が一人、見えない手につかまれ、床から一フィート浮かされて、足をばたつかせている。

 

太陽(サンシャイン)〉軍司令官はそれを見て、考えるまでもなく行動した。考えていては、不意打ちを成功させることなどできない。

 

手にした杖をひねり、「ソムニウム!」と声をだすと、一番大柄な男子が倒れた。同時にどしんと音をたてて、ハッフルパフ生が床に落ちる。もう二人のいじめっこが杖をかまえだしているが、ハーマイオニーは先を制して「ソムニウム!」と言い、また一人をしとめた——相手二人のうち、杖さばきがはやかったほうを。

 

残念ながら、〈睡眠の呪文〉を二連射するのは彼女にとっても荷が重く、三発目が撃てないうちに——

 

最後の一人が「プロテゴ!」と叫び、青くゆらめく光の壁ができた。

 

二十四時間まえの自分であれば、パニックになってしまっただろう。相手は本格的な〈防壁魔法〉で安全を確保して、自由にこちらを攻撃することができる立ち場にある。

 

けれど()()()()——

 

「ステューピファイ!」と相手が叫ぶ。

 

赤色の巨大な雷撃が自分にむかって飛んでくる。ハリーが撃ったどの呪文よりも強い光を発している。

 

ハーマイオニーはすこしだけ左に身をかたむけ、雷撃をかわした。照準はハリーよりもはるかに甘かった。 そういえば、いじめっことクィレル先生の模擬戦の参加者には共通点がなさそうだ、とハーマイオニーは思った。

 

「ステューピファイ!」といじめっこがまた叫ぶ。「エクスペリアームス! ステューピファイ!」

 

とにかく、ハーマイオニーはいまならもう、ハリーとネヴィルを相手に使っておくべきだった呪文をいろいろと考えついている——

 

「ジェリファイ!」と相手がとなえた。この呪文の効果は広い領域におよび、目に見えないのでよけようがない。ハーマイオニーは急に足がぐらつき、立っていられなくなった。 そこで怒号とともに、いっそう大きな赤光がはなたれる。「ステューピファイ!」

 

ハーマイオニーはわざと倒れることで、それをかわした。もう十分回復していたので、つぎの呪文を撃つことができる——

 

「グリセオ」と床にむけてハーマイオニーは言った。

 

「うおっ」と敵が足をすべらせ、なんと()()()()()()()()()

 

『プロテゴ』の光が消えた。

 

「ソムニウム。」

 

そう言ってから、ハーマイオニーは呼吸がみだれたままの状態で、床を這い、ハッフルパフ生が座っている場所までたどりついた。その男子はまっさかさまに床に墜落していたので、あたまが当たった部分をさすり、うめいていた。 これがマグルでなくてよかった、とハーマイオニーは気づいた。すっかり忘れていたが、マグルなら頚椎を折っていてもおかしくない。

 

「うう……」とその男子が声をだした。髪の色は女子なら『ブルネット』と呼ばれるような濃茶色だ。目はよくある種類の茶色で、なぜかハッフルパフらしい色のように思える。涙は流していないが、あまり顔色はよくない。年齢は四年生、あるいは三年生といったところ。

 

その男子は急に茶色の目を見ひらいて、ハーマイオニーを凝視した。 「きみは……〈太陽(サンシャイン)〉軍司令官?」

 

「よく……(ハア)、知ってるわね。」  もしつぎにハリー・ポッターの恋人候補がどうとか言いだしたら、このハッフルパフ生の命はない。

 

「いまのは——あんな——いや、クリスマスまえの試合はスクリーンで見てたし、知ってはいたけど——すごい! あんなことができるんだ!」

 

……。

 

あんなことができるんだ……と、自分でもそう思う。……のはいいが、あれだけ走ったせいか、急にすこしくらりと来た。 「あの……(ハア)、できたら、この〈クラゲ足の呪文(ジェリファイ)〉を……(ハア)、解いてくれない?」

 

ハッフルパフ生はうなづき、手をついて立ちあがり、ローブから杖をとりだす。ただ、杖の動かしかたが不正確だったので、ハーマイオニーが教えてやっと解除呪文が成功した。

 

ハーマイオニーが足をもとどおりにできたところで、ハッフルパフ生が声をかけた。 「ぼくはマイケル・ホプキンス。よろしく。」と言って手をさしだす。 「ハッフルパフでは『マイク』って呼ばれてる。今年はハッフルパフじゅうで『マイク』が一人しかいないんだよ。信じられる?」

 

握手が終わるとマイクが言った。 「とにかく、どうもありがとう!」

 

なんの予告もなく、高揚感が一挙に押しよせた。だれかを危険から救うことができたという快感。こんな快感をハーマイオニーはこれまで感じたことがなかった。

 

いじめっこ三人のほうに目をやる。

 

みなとても体格がいい。年齢は十五歳くらいだろうか。と思ったところで、クィレル先生の課外活動に参加している生徒と、これまで毎年ありえないほど劣悪な教師ばかりに教わりつづけていた生徒とのあいだに、いかに大きな差が生じているかに気づいた。 当てたいものに命中させる技術もそのひとつ。 戦闘の最中にも冷静さをたもち、友軍が倒れたなら〈賦活(イナヴェイト)〉をかけてやるべきだと気づけることもそのひとつ。 そのほか、『現実世界の戦闘では、たいていの戦闘の勝敗は不意打ちが成功するかどうかで決まる』など、クィレル先生に教えられたことの意味が急によく分かってきた。

 

息をまだ切らしつつ、彼女はまたマイクのほうを向いた。

 

「つい五分まえまでわたしが……(ハア)、ヒーローになる方法が分からなくて悩んでた、って言ったら……(ハア)、信じられる?」

 

ヒーローはだれかの()()がなければなれないだとか、だれかから冒険の旅(クエスト)をあたえられないといけないだとか、自分は本気でそんな風に思っていたのだろうか? もっとずっと簡単なことだった。ヒーローになりたいなら、すべきことはただひとつ。悪がいるところに行くこと。 分かってはいたはずだった。不死鳥(フェニックス)に教えられるまでもないことだった。悪事はときに、このホグウォーツのなかでも起きている。

 

ハーマイオニーは、意識をうしなって倒れた三人のほうを見なおして、はたと気づいた。自分は目撃された。この三人にも自分は顔を知られていたかもしれない。そのうち、あとをつけられ、背後から襲われることがあるかもしれない——ひどいけがをさせられるかもしれない——

 

いや。

 

ハリー・ポッターは、授業すら受けないうちに……杖のつかいかたも知らないうちに、五人のスリザリン生に立ちむかったじゃないか。

 

人間は大人の世界にほうりこまれてはじめて成長する。けれどほとんどの人は恐怖にとりかこまれたまま、一歩を踏みだすことができずに一生を終える。総長はそう言っていたではないか。

 

『あなたはまだ十二歳なのですよ』と言うマクゴナガル先生を思いだす……。

 

ハーマイオニーは、一、二、三、とゆっくり息をした。

 

医務室に行ったほうがいいか、とマイクに聞いてみると、その必要はない、という返事があった。念のため、相手のスリザリン生たちの名前も聞きだしておいた。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはそれから、昏倒したいじめっこたちをあとにし、しっかりと笑顔をまとって歩いていった。

 

いずれ自分が大けがをすることもあるだろう。 けれどそれが怖いあまりに、正しくあることをやめていては、ヒーローにはなれない。それだけのことだ。 もしいまこの瞬間〈組わけ帽子〉をハーマイオニーのあたまに乗せたとすれば、答えは間髪おかずに『グリフィンドール!』になるにちがいない。

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーは夕食のために大広間に来たときも、まだそのことを考えていた。だれかを救ったという高揚感がいまだにのこっていて、自分のあたまがどこか変になってしまったのではないかと思った。

 

レイヴンクローのテーブルにたどりつくと、急にあちこちで小さなざわめきが生まれた。あのハッフルパフ生がなにか言ったのだろうか……と思ったところで、多分そっちの話ではない、と気づいた。

 

ハリー・ポッターのむかいの席につく。ハリーはやたら不安げな表情だが、多分彼女がずっと笑顔だからだろう。

 

「あの……」と言うハリーをよそに、ハーマイオニーはトーストしたてのパンと、バターと、シナモンをとり、くだものと野菜はいっさい無視して、チョコレートブラウニーを三つとった。ハリーはまだ「その……」と言うだけ。

 

ハリーのことはそのままほっておいてグレープフルーツジュースを自分のグラスにいれてから、ハーマイオニーは言った。 「問題です、ミスター・ポッター。人が自分らしくなれないのはなぜでしょう?」

 

()()」とハリー。

 

ハーマイオニーは顔をあげた。 「今日あったことはぜんぶ、いったん忘れて。昨日ならどう答えたかを言ってみて。」

 

「うーん……」と言ってハリーはとても困った顔をした。 「人はみんな最初から自分らしいと思うけど……ぼくだって、だれか別の人の不完全なコピーだったりはしない。 でもその問題の意図を配慮してみるなら、人間は周囲の環境からバカバカしいものをいろいろ吸いこんでは吐きだしてしまうから、かな。 たとえば、いまクィディッチをやってる人でも、まっさらな状態からルールを自分で作らせたとして、自然とクィディッチみたいなものにいきついていた人がどれくらいいると思う? あるいは、マグル世界のこの国にいる労働党(レイバー)保守党(トーリー)自由民主党(リブデム)の党員の人たちに、自力でいちから政治信条を組みたてさせたら、いまとおなじ思想になるという人がどれくらいいると思う?」

 

その答えを受けて、ハーマイオニーは考えてみた。 ハリーならスリザリン的な答えをするのではないか、と思っていた。グリフィンドール的な答えも想定の範囲だ。けれどこの答えは、総長が言ったどの類型にもあてはまらないように聞こえる。 そう思うと、この問題についての考えかたを分類するなら、四種類ではぜんぜんたりないような気がしてきた。

 

「ふうん。じゃあ、つぎの問題。ヒーローになれるのはどんな人でしょう?」

 

()()()()?」とハリー。

 

「そう。」

 

「うーん……」と言ってハリーはナイフとフォークを神経質に上下させ、ステーキをどんどん細かく切りさいていった。 「適切なお膳立てさえあれば、たいていの人はいろいろなことができると思う……まわりからそう期待されてたりとか、すでに必要な能力がすべて身についてたりとか、当局の監視があって失敗したりサボったりしたらバレるようになってたりとかで。 でもそういうやりかたで解ける問題は、きっともう解く見通しがつけられている。そういう分野では……ヒーローは必要ない。 だから『ヒーロー』と呼ばれるような人は稀にしかいないんだと思う。ヒーローはすべてを自分で用意しながら進まなきゃならなくて、たいていの人はそういうのをやりたがらないからね。……なんでこんな話を?」  ハリーは細かく切りきざまれたステーキ三切れをフォークで刺し、口にもっていった。

 

「ちょっとさっき、スリザリンの上級生が三人いじめをしてたから、失神呪文で倒して、いじめられてたハッフルパフ生を一人救ってきたの。わたしはヒーローになろうと思う。」

 

ハリーはひとしきり食べものをのどにつかえさせてから(周囲では別の何人かがまだ咳きこんでいたが)、言った。 「()()

 

ハーマイオニーは一連のできごとの話をした。話している途中にも、その内容は周囲のざわめきに乗って伝播していった。(ただし不死鳥の部分は個人的なことのような気がしたので、秘密にしておいた。 あとになってみると、英雄(ヒーロー)()()()()()のところに不死鳥があらわれるというのは、すこしおどろきだ。考えてみると、すこしわがままなことのような気もする。けれど不死鳥は、人助けをする意思のある人でさえあればそれでいいと思っているのかもしれない。)

 

話が終わったとき、ハリーはテーブルをはさんでこちらをじっと見ていたが、なにも言わなかった。

 

「さっきは取りみだしてしまってごめんなさい。」  ハーマイオニーはグラスのグレープフルーツジュースをひとくち飲んだ。 「思いだすべきだったわ。〈操作魔法術(チャームズ)〉の授業ではまだあなたをこてんぱんにしてるんだから、〈防衛術〉で負けるくらいいいんだって。」

 

「どうか気を悪くしないでほしいんだけど。」と言ってハリーはやけにかたく、大人じみた表情をした。 「まちがいなくそれが自分のやりたいことだって言える? ありていに言って……ぼくのまねじゃなく?」

 

「言えますとも。だいたい、わたしの名前自体、『m』が余計なだけでほとんど『Heroine(ヒロイン)』みたいなものだし。今日はじめて気づいたんだけど。」

 

「ヒーローは楽しいことばかりじゃないよ。 ほんものの、大人がやるヒーローは、いつもそんなにうまく行くとはかぎらない。」

 

「でしょうね。」

 

「これはつらくきびしい道だし、満足いく答えがないときにも決断をしなければならなかったりする——」

 

「分かってる。わたしもそういう本は読んでる。」

 

「いや、分かってないね。いくら本で知っていても、実際にそういう状況になってみるまでは——」

 

「だからといって、あなたはやめない。そのためにヒーローであることをやめる可能性すら考えたこともないでしょう。 なのにどうしてわたしがやめると思うの?」

 

……。

 

ハリーは急に満面の笑みになった。すこしまえの大人じみた深刻そうな表情を埋め合わせするかのように、子どもらしい明るい笑みだった。それで二人の関係はもとどおりになった。

 

「ものすごくひどい目にあったりするよ。」とハリーは満面の笑みのまま言う。 「それでもいいんだね?」

 

「もちろん。」と言ってハーマイオニーはまたひとくちトーストを食べた。 「それで思いだしたけど、ダンブルドアがわたしの謎の老魔法使いになってくれないって言うから、かわりを探したいんだけど、申請してみるとしたらどこだと思う?」

 

◆ ◆ ◆

 

余波:

 

「……そしてフリトウィック先生の話では、ミス・グレンジャーの決意はゆるぎそうにないとのことです。」とミネルヴァは声をこわばらせ、一連の事態をまねいた張本人である銀色のひげをした老魔法使いアルバス・ダンブルドアに報告する。アルバスは無言でそれを聞き、悲しげに遠くを見る目をしている。 「……フリトウィック先生はグリフィンドールへの転籍という処置をちらつかせましたが、ミス・グレンジャーは意に介さず、それなら本をぜんぶ持って出ていく、と言いはなったそうです。 つまり、ハーマイオニー・グレンジャーはかならず英雄(ヒーロー)になってみせる、だれにもできないとは言わせない、と言っているのです。 あなたがああやって引きとめようとしたのが、まったく逆効果でした。仮に応援してあげたとしても、きっとここまで強く決心させることには——」

 

その気づきを、ミネルヴァの脳はたっぷり五秒かけて処理した。

 

「……アルバス!

 

「さよう。おなじような人種を三十人も相手にしてくれば、自然とこういった機微が身についてしまうもの。英雄(ヒーロー)は、まだ若すぎると言われたり、きみは英雄となる運命にないと言われたり、英雄の道は楽ではないと言われたりしたとき、決まって分かりやすい反応をする。 どうしても決意をかためてもらいたいなら、その三つともを言ってあげるにかぎる。ただし……」と軽くためいきをついて、 「あまりにあからさまにやると、目ざとい副総長に気づかれてしまうから、注意は必要じゃ。」

 

「アルバス……」とミネルヴァは一段と声をこわばらせる。 「もしあの子の身になにかあったら、今回という今回は——」

 

「遅かれ早かれミス・グレンジャーはこの道にたどりついていた。」  アルバスは悲しげに遠くを見る目をしたまま、話しつづける。 「英雄になることを運命づけられた者は、われわれのどんな警告も意に介さない。 こうなった以上、ミス・グレンジャーがある程度までハリーに追いつけるのであれば、ハリーにとっても都合がいい。」  アルバスはどこからともなく金属缶をとりだした。ひらいた缶のなかには、黄色の粒がいくつもあった。ミネルヴァは、これがふだんどこに隠されているのか、分かったためしがなかった。魔法の痕跡を感知することもできなかった。 「……レモン飴はいかがかな?」

 

「あの子はまだ十二歳なのですよ!」

 

◆ ◆ ◆

 

余波の余波:

 

太陽はすでに沈みかけ、窓のむこうの水に差しこむ光も弱まっている。暗い水のなかを進む魚たちのすがたが、かろうじて見える。 窓に近づいてくる魚はスリザリン談話室のあかるい照明に照らされ、遠ざかる魚は闇のなかに消えていく。

 

ダフネ・グリーングラスは快適な黒革のソファにすわり、両手に顔をうずめていた。そのからだのはしばしに白い燐光がちらつき、全体として黄金色の後光のようになっている。

 

ネヴィル・ロングボトムを好きになったことについて、からかわれるのは覚悟していた。 ハッフルパフ生について意地悪な批評を聞かされることも覚悟していた。 そのための痛烈な反論なら、スリザリン地下洞へ帰る道すがら、たっぷりと準備していた。

 

というより、ネヴィルを好きになったことについてだったら、からかわれるのは望むところだった。 そういうからかわれかたをするのは、女の子として成長したあかしだから。

 

ところが、ネヴィルに〈元老貴族の決闘〉をもうしこんだことの意味を言いあてられた人は、だれひとりいなかった。 あれが愛の告白を意味するということはダフネにとっては()()なのだが、だれにもそういう発想はなかったらしい。

 

命中する呪文はいつも意外なところから飛んでくる。

 

思えばあのとき、『〈カオス〉のネヴィル』にならって『〈太陽(サンシャイン)〉のダフネ』とでも名乗ればよかった。 あるいは『〈太陽〉兵ロン』にならって『〈太陽〉兵ダフネ』。 とにかく『〈太陽(サンシャイン)〉のグリーングラス』でさえなければ、なんでもよかった。

 

『〈太陽(サンシャイン)〉の〈緑草(グリーングラス)〉』。

 

そこから『〈青空(ブルースカイ)〉と〈太陽(サンシャイン)〉の〈緑草(グリーングラス)〉』というのがでてきた。

 

だれかがさらに、〈大雪山と愉快な森の動物たち〉を追加した。

 

結果的にたどりついた称号が『元老貴族スパークリープー家のキラキラ☆ユニコーンプリンセス』。

 

それから悪質な六年生女子のだれかが〈キラキラの呪文(ジンクス)〉をダフネに当てた。〈キラキラの呪文〉なんていうものがあることすら初耳だったが、とにかく〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)も効かないわ、味方だと思っていた(けれど味方ではなかったらしい)上級生女子に頼んでもダメだわ、グリーングラス卿のちからを借りて社会的に抹殺してやるぞと犯人を脅迫しても通じないわで、打つ手がなくなった結果、ダフネ・グリーングラスはキラキラ状態のままスリザリン談話室で両手に顔をうずめ、いつのまにこの学校にいる正気の人間が自分ひとりになってしまったのだろうと慨嘆した。

 

もう夕食時間も過ぎたのに、効果が切れる気配がない。もし明朝までこのままだったら、ダームストラングに転校して次代の〈闇の女王〉になるしかない。

 

「はい注目!」と言ってカロウ姉妹の二人がおおげさに『デイリー・プロフェット』をひらつかせる。 「大ニュースだよ? ウィゼンガモートのあたらしい判決で、『さあ覚悟しなさい』は法的に有効な決闘の申しこみだと決まって、申しこんだ人が横になって一眠りするまで決闘をやめてはならないことになったんだって!」

 

「キラキラ☆ユニコーンプリンセスさまに向かって無礼は許さぬぞ! ()()()()()()()()()」  トレイシーはそう言うなりソファの上で横になって、いびきをかきはじめた。

 

ダフネは一段とちからをこめて、光る両手でキラキラの頭部をかかえた。 「うちの一族が政権をとったら、あんたたちみんな〈現出(アパレイト)〉防止の呪文をかけて〈煙送(フルー)〉で海に飛ばしてやる。」とダフネはだれにともなく言う。 「みんな分かってるんでしょうね?」

 

ドンドン、ドドドン、ドン。

 

ダフネははっとして顔をあげた。いまのは〈太陽(サンシャイン)〉軍の合図——

 

()()()()()()()()()()……」とミスター・ゴイルが低い声で言う。「()()()()()()()()()()

 

()()()()()()()()()()()()」と言って、ドアの近くにいる上級生のだれかがドアをあけた。

 

そこから出てきた人物に全員が虚を突かれた。

 

「ミス・グリーングラスと話があって、来たんですが。」と〈太陽〉軍司令官が言う。毅然とした言いかたをしようとしているようだ。 「だれか彼女を部屋から——」

 

そこでハーマイオニーの表情が変化した。やっとダフネがここにいてキラキラしていることに気づいたようだ。

 

ちょうどそのタイミングでミリセント・ブルストロードが下層階の寝室からかけあがってきて、大声で言った。 「ニュース、ニュース。デリック一味の残党が、こんどは()()()()()()()やられたんですって。もうデリックのお父さんからのフクロウも来てて、かならず仕返ししろって——」

 

ミリセントも、ハーマイオニーがドアのまえに立っていることに気づいた。

 

雄弁な沈黙が流れた。

 

「えっと……」と言いつつ、ダフネは『なにこれ?』と言いたい気持ちでいっぱいだった。 「えっと。司令官、なにかご用?」

 

「あのね……」とハーマイオニー・グレンジャーが不思議な笑顔をして言う。 「世のなかに、謎の老魔法使いに助けてもらえて英雄(ヒーロー)になれる人とそうでない人がいるのは不公平だと思うの。それに、歴史の本で調べたら、女の子がヒーローになった事例がちっともないことも分かった。 だから、あなたもヒーローになりたくないか、聞いておこうと思って……ところでなんでそんな風に光ってるの?」

 

ふたたび沈黙。

 

「ちょっといま立てこんでて……その話はあとにしてもらえないかしら——」

 

「あたしやる!」とトレイシー・デイヴィスがソファから飛び起きて言った。

 

◆ ◆ ◆

 

かくして〈魔女のための英雄機会均等振興協会(Society for the Promotion of Heroic Equality for Witches)〉、略称S.P.H.E.W.が誕生した。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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70章「自己実現(その5)」

ミネルヴァは副総長の任についてすでに三十年。〈転成術〉(トランスフィギュレイション)教授として過ごした年月をくわえれば、アルバス・ダンブルドアとは長いつきあいだ。それだけの経験をもってしても、アルバス・ダンブルドアが完全に当てを外す瞬間に立ち会えることはほとんどない。

 

「……スーザン・ボーンズ、ラヴェンダー・ブラウン、ダフネ・グリーングラス。以上がメンバーです。 ミス・グレンジャーは、あなたのいかにも突き放すような言いかたについても証言したらしく——彼女は『おともになれるだけでもありがたいと思いなさい』という風に言いかえたようですね——それが上級生女子からもかなりの()()を呼んだようです。 ミス・グレンジャーはわたしが同席していたことも話したらしく、わたしのところにも、あの話は事実なのかと、問い合わせがきました。」

 

老魔法使いは大きな椅子の背にもたれた。半月眼鏡の奥からの視線はまだミネルヴァにむけられてはいるが、かなりうわのそらでもあった。

 

「そう言われ、わたしは答えに窮しました。」  ミネルヴァ・マクゴナガルは中立的な表情をたもつよう注意した。 「実際には、あなたは本心では彼女を止めようとしていなかった。むしろその逆だったわけですが、 秘密をまもるために、わたしはそういった事情をまったく関知していないかのようにふるまわなければなりません。これはあなたやセヴルスからも、よく忠告されたとおりです。 したがってわたしは、ミス・グレンジャーの証言は正確だと認めるほかありませんでした。……それなりに懸念をもち、多少は不快に感じているようによそおった言いかたで。 なにせ、あなたがミス・グレンジャーをわざとそそのかすつもりだったということを()()()()()()、わたしも多少カチンときていたでしょうから。」

 

「それは……そうか。」  老魔法使いはやはりうわのそらで、両手を銀色のひげにのせ、さっとなでた。

 

「さいわい、いまのところシニストラ先生とヴェクター先生のほかに、ミス・グレンジャーのボタンを着用している教授陣はいません。」

 

「ボタン、というと?」

 

ミネルヴァは『S.P.H.E.W.(スピュー)』という文字が刻まれた小さな銀色の円盤をアルバスの机のうえに置き、指で軽くたたいた。

 

するとハーマイオニー・グレンジャー、パドマ・パティル、パーヴァティ・パディル、ラヴェンダー・ブラウン、スーザン・ボーンズ、ハンナ・アボット、ダフネ・グリーングラス、トレイシー・デイヴィスの八名が唱和する声が聞こえてきた。 『二番手じゃものたりない、魔女にも冒険を!』

 

「ミス・グレンジャーはこれを二シックルの対価で販売しています。すでに五十枚売れたそうです。 ハッフルパフ七年生のニンファドーラ・トンクスが協力して、この声の細工を用意しているようです。 しめくくりとしてもう一点……この新人英雄(ヒロイン)八名は、総長室まえの場所で抗議行動をしたいとして、許可を求めています。」

 

「ミネルヴァ、分かっているとは思うが、そのような要求は——」とアルバスは眉をひそめた。

 

「ええ、水曜日の午後七時であれば問題ない、と伝えておきました。」と言ってミネルヴァはボタンを回収し、にっこりと笑みをして見せ、その場を辞した。

 

「ミネルヴァ?」と背後から声が聞こえる。「……()()()()()()

 

ミネルヴァが部屋を出ると、オーク材の扉はかたく閉じた。

 

◆ ◆ ◆

 

総長室まえには控えの間として、石壁にかこまれた小庭があるが、その広さはかぎられていて、抗議行動を見物しようとする多数の観客全員を収容することはできなかった。 ここにいるのは、例のボタンをつけたシニストラ先生とヴェクター先生、やはりボタンをつけた監督生ペネロピ・クリアウォーター、ローズ・ブラウン、ジャクリーン・プリース。そのうしろに、ボタンをつけていないマクゴナガル先生とスプラウト先生とフリトウィック先生が目付役として立っている。 ハリー・ポッターと首席男子にくわえ、男子の監督生パーシー・ウィーズリーとオリヴァー・ビートソンも〈連帯〉の意味でボタンを着用している。 そしてもちろん、〈魔女のための英雄機会均等振興協会(S.P.H.E.W.)〉創設メンバー八名がガーゴイルのそばにならんで列を組み、それぞれプラカードをかかげている。 ハーマイオニー自身の手にも、太い木の持ち手をつけたプラカードがあり、その重みが時々刻々と増していくかのように感じられた。プラカードには「NOBODY′S SIDEKICK(お供では役不足)」と大書してある。

 

そしてクィレル先生が、ずっと奥のほうで石壁に背をあずけている。読み取りにくい表情の目をして、立ちならぶ面々をながめている。 クィレル先生にはボタンを売っていないはずだが、それでもクィレル先生はボタンを確保していた。 ただし着用はせず、暇そうな顔で片手で投げては受けとめている。

 

四日まえには、抗議行動というアイデアはもっとずっと魅力的に感じられた。当時は燃えあがったばかりの熱く鮮度のよい怒りとともに、『いま』ではなく四日『あと』に実行するという責任だけを感じていればよかった。

 

しかしこの期におよんで折れるわけにはいかない。ヒーローなら踏みとどまるものだし、それ以上に、いまさらやめたとみんなに言うことはあまりに耐えがたい。 もしかすると歴史上のヒロイズムの例にも、そういう理由でおこなわれたものがかなりあるのではないだろうか。『ヒーローはそれでもあきらめませんでした。あきらめるほうがいかに理にかなっていようとも、あきらめるのは恥ずかしかったからです』という説明はあまり本では見かけない。けれどそう思ってしまえば、歴史上のいろいろなできごとに説明がつくような気がする。

 

午後七時十五分。マクゴナガル先生に指定されたこの時刻に、ダンブルドア総長がここにおりてきて、数分間対話することになっている。怖がる必要はない、とマクゴナガル先生は言う——総長も根はいい人であり、この抗議行動にも正式な許可がもらえているのだから、と。

 

しかし、いかに正式な許可があろうともこれは〈権威への反抗〉である。ハーマイオニーはそのことを非常によく自覚している。

 

ヒーローになると決めた時点で、ハーマイオニーは当然すべき行動をとった。ホグウォーツ図書館に行き、ヒーローになるための方法が書かれた本を集めたのである。 ところがどの本もそのまま書棚にもどすことになった。どれひとつ、著者自身が実際にヒーローであった形跡がなかったのだ。 そこでハーマイオニーは、ゴドリック・グリフィンドールが書いた長さ三十インチの自伝と助言の書をすみからすみまで五回読み、一字一句を暗記することにした。(ただしラテン語はまだ読めないので、英語訳で。) ゴドリック・グリフィンドールの自伝はハーマイオニーがふだん読むような本よりもずっと()()されていて、普通の本なら三十インチかけるような内容が一文で書いてあった。最初から最後までそういう調子だった……。

 

それでも読みとおすと、〈権威への反抗〉自体はヒーローになる目的とはなりえないが、権威に反抗できないような臆病者はヒーローになれない、ということがはっきりした。 ハーマイオニー・グレンジャーは、自分が周囲の人からどういう性格だと思われているかをすでによく知っている。自分がどういうことを性格上やりそうにないと思われているかもよく知っている。

 

ハーマイオニーはプラカードをすこし高くかかげ、過呼吸で倒れたりしないよう、ゆっくりとテンポよく呼吸することを意識した。

 

「えっ……?」とミス・プリースが好奇心を隠せない様子で声をあげた。「投票権もなかったんですか?」

 

「そうですよ。」とシニストラ先生。(〈天文学〉教授シニストラ先生の髪はまだ黒ぐろとしていて、暗色の肌にもほとんどしわがない。ハーマイオニーの目には、七十歳くらいにしか見えないが——) 「〈女性資格法〉が発表されたとき、母は大変よろこんだものです。母自身は条件を満たさなかったのですが。」 (つまりシニストラ先生は一九一八年時点でマグル家族のもとを離れていなかったということになる。) 「でもそんなことはまだ序の口です。なにせ、もう数百年もさかのぼれば——」

 

もう三十秒話がすすんだ時点で、男女を問わず、マグル生まれでない生徒たち全員が愕然とした表情でシニストラ先生を見つめた。 ハンナはプラカードを落とした。

 

「これでもまだまだ、序の口なんですけどね。」と言ってシニストラ先生は話し終えた。 「でもこれだけ知れば、あとはだいたい想像がつくでしょう。」

 

「マーリンの御加護を。」とペネロピ・クリアウォーターが声をつまらせた。 「わたしたちは杖で自衛できるけれど、これがなかったらわたしたちも男たちにそういう目にあわされてたってことですか?」

 

「おい! それとこれとは——」と監督生男子の一人が言った。

 

クィレル先生のいるところから、みじかく、皮肉な笑い声がした。 ハーマイオニーがそちらに顔をむけると、クィレル先生はまだ暇そうな顔でボタンを投げていて、だれとも目をあわせる気もない様子で話しはじめた。 「人間とはそういうものだ、ミス・クリアウォーター。ご心配なく、もしこれが男は杖を持てない世界だったなら、魔女たちもまったく同じように残酷になれる。」

 

「わたしはそうは思いませんね!」とシニストラ先生。

 

冷ややかな笑い声。 「あえて言われることもないだけで、現実には珍しくないはずですがね。誇り高いたぐいの純血家系でこそ、起きているでしょう。 独身の魔女が見目麗しいマグルに目をとめる。男にこっそり惚れ薬を飲ませ、熱烈な愛を勝ちとることは造作もない。 なにをされても男にはなすすべがない……となれば当然、魔女は欲望のままにありとあらゆる——」

 

()()()()()()()」とマクゴナガル先生。

 

「失礼。」とクィレル先生はおだやかに応じるが、目はまだ自分の手に向けられている。 「まだそういった話はうそだということにしておくべきでしたか? それは申し訳なかった。」

 

「それをおっしゃるなら、男の魔法使いこそ——」とシニストラ先生が言いかける。

 

「お二人とも、子どもたちのまえなのですよ!」とマクゴナガル先生が食い下がる。

 

「なかにはそういう男もいる。」とクィレル先生は天気の話をするようになにげなく言う。 「わたし個人の趣味ではない。」

 

しばらく話がとぎれた。 ハーマイオニーはプラカードをかかげなおす——話を聞いているうちに肩からずり落ちていた。 クィレル先生が言ったようなことはまったく考えたことがなかったが、一度聞くと考えずにはいられなくなり、すこし滅入る思いがした。 とくに理由もなくハリー・ポッターのいる方向に目をやると……ハリーはまったく動じていない表情だった。 ハーマイオニーは背すじに冷たいものを感じてすぐに目をそむけたが、そのまえにハリーは軽くうなづいてみせたのに気づいた。おたがいがなにかに同意したかのように。

 

「公平を期して言っておきますが……」とシニストラ先生がまた口をひらいた。 「わたしはホグウォーツの入学許可書を受けとって以来、女としての差別や肌の色による差別を受けた記憶はありません。差別はいつも、マグル生まれとしての差別でした。 ミス・グレンジャーも、いまのところ問題が見つかったのはヒーローについてだけだ、と言っていましたね?」

 

自分が質問されたということに、ハーマイオニーは一瞬気づかなかった。 「そうです。」と言う声がすこしうわずった。 これははじめ想像していたよりもちょっと大ごとになってきている。

 

「なにを調べてそういった結論に?」とヴェクター先生が言った。 〈数占術(アリスマンシー)〉教授ヴェクター先生はシニストラ先生より年配のようで、すこし白髪がまじっている。 ボタンを買い求めにきたときが、ハーマイオニーとの最初の接点だった。

 

ハーマイオニーはすこしうわずった声でつづける。 「その……歴史の本をいろいろ調べてみて、女性が〈魔法省〉大臣になった例は男性の例と同程度あることが分かりました。 上級裁判長経験者を見てみても、多少男性が女性より多いのはたしかですが、大差はありませんでした。 それが〈闇の魔術師〉ハンターとして有名な人や、〈闇〉の生物の侵入を食いとめた人や、〈闇の王〉を倒した人となると——」

 

「当然〈闇の魔術師〉自身についても……」とクィレル先生が言う。 こんどは顔をあげている。 「……同じことが言えるのではないかね。 〈死食い人〉の嫌疑がある人物を見ていくなら、女性はベラトリクス・ブラックとアレクト・カロウだけだ。 たいていの人は、バーバ・ヤーガ以外の〈闇の女王〉の名前を一人あげろと言われても、簡単には答えられないだろう。」

 

ハーマイオニーは無言でそちらをじっと見た。

 

この人はまさか——

 

「クィレル先生、言いたいことがおありなら、はっきりおっしゃっては?」とヴェクター先生。

 

クィレル先生はボタンをかがげて『S.P.H.E.W.』の金文字がみなに見えるようにしてから、「ヒーロー。」と言ってから、ボタンを回転させ、銀色の裏面を見せる。「……〈闇の魔術師(ダークウィザード)〉。 この二つのキャリアをえらぶのは、似た者同士だ。片ほうのキャリアに進む魔女のたまごが少ない理由を知りたければ、その鏡像にも注意をむける必要がある。」

 

「あっ、そうか!」とトレイシー・デイヴィスが突然話しだしたので、ハーマイオニーはちょっとびくりとした。 「クィレル先生は、〈闇の女魔術師(ダークウィッチ)〉になる女の子が少なくて心配だから、この抗議行動に参加したいんだ!」  そう言ってトレイシーはくすくすと笑った。この状況でよく笑えるものだ。自分なら百万ポンド渡されてもとてもそんな度胸はない、とハーマイオニーは思った。

 

半笑いの表情でクィレル先生が答える。 「そういうことではないよ、ミス・デイヴィス。 正直に言って、わたしはそのたぐいのことには一切興味を引かれない。 ただ、グリンデルヴァルトとダンブルドアと〈名前を言ってはいけない例の男〉が三人とも男性であることを考えれば、〈魔法省〉大臣などという平凡な人生を送る平凡な女性を何人列挙しようがむなしいことだと思わないか。」  クィレル先生は暇そうな顔でボタンを何度も回転させた。 「まあ、それ以前に、世のなかには一生のうちに一度でもおもしろいことをする人すら、皆無にちかい。 ある職業の大半が女性だろうが、大半が男性だろうが、()()()()()その一人にならないのであれば、どうでもいいことではないか。 ミス・デイヴィス、きみはその一人にならないほうだと思う。きみは野心的だが、野望がない。」

 

「ありますけど! ……でもそれってどういう意味ですか?」とトレイシー。

 

クィレル先生は壁にもたれるのをやめて、まっすぐに立った。 「ミス・デイヴィス、きみはスリザリンに〈組わけ〉された。だから成り上がる機会がおとずれれば、かならず自分のものにしようとするだろう。 だがきみは自分を駆りたてる野望を持ってはいない。機会をみずから作ろうとしない。 成り上がるとしても、〈魔法省〉大臣などささいな高官の地位を得るのが関の山。みずからの限界を乗りこえようとはしない。」

 

クィレル先生はトレイシーを見るのをやめ、()()()を向いた。おそろしく熱をもった水色の目がこちらを見据える—— 「では聞こう。ミス・グレンジャー、きみの野望はなんだ?」

 

「クィレル先生——」とレイヴンクロー寮監フリトウィック先生の甲高い声がしたが、その声は途中でとまった。ハーマイオニーは視界のかたすみで、ハリーがフリトウィック先生の肩に手をかけ、くびをふっているのを目にした。ハリーの表情はとても大人じみていた。

 

自分が車の前照灯に出くわしたシカになったような気持ちがした。

 

「きみを日常から飛びださせた原動力はなんだ?」とクィレル先生はハーマイオニーをまっすぐに見つめたまま言う。 「なぜ授業で立派な成績をとることでは満足できなくなった? 真の意味で抜きん出たことをやりたいか? 世界のなにかに不満を感じ、自分の意思に沿うように作り直したくなったか? それとも、これもすべて遊びでやっているにすぎないのか? ハリー・ポッターへの対抗心という答えしかないなら、わたしは失望するぞ。」

 

「わたしは——」  小動物がピイと鳴くときのような甲高い声がでたが、つづけて言うべきことがなにも思いつかない。

 

「どうぞ急がず考えてくれたまえ。 なんならレポート課題ということにしよう。長さ六インチ、期限は木曜日。 きみの文章力の高さはよく聞いている。」

 

周囲の全員がハーマイオニーのほうを見ている。

 

「わたしは——わたしは、いまクィレル先生が言ったことに、なにひとつ賛成できません。」

 

「よく言ってくれました。」とマクゴガル先生の声がした。

 

クィレル先生の視線はゆらがない。 「それでは六インチには到底たりないぞ、ミス・グレンジャー。 そうやって総長の宣告にさからって、自分の信奉者をあつめにいく原動力となる、なにかがあるはずだ。 もしや、人前では話しにくいようなことだろうか?」

 

ハーマイオニーは正しい回答を知っている。クィレル先生は正しい回答を聞いてこころよく思わないだろうが、それでも正しいのだから、と考えてハーマイオニーは言った。 「ヒーローに野望は必要ないと思います。」  声が震えたが、とぎれはしなかった。 「ヒーローは正しくあればいいだけです。 それと、『信奉者』というのは誤解です。ここにいるみんなは友だちです。」

 

クィレル先生は壁にもたれる姿勢にもどった。 半笑いはすでに消えていた。 「たいていの人は、自分のやりかたは正しいと思っている。 それだけでは、凡人から抜きん出ることはできない。」

 

ハーマイオニーは何度か深呼吸し、勇気を奮い起こそうとした。 「凡人でなくなりたいかどうかではありません。」  できるかぎり毅然とした声で言う。 「でもわたしは……どんな人でも、正しくあるために何度でも挑戦してあきらめなければ……そしてそのために労力を惜しまなければ……そしてよく考えて行動すれば……そして怖いときも勇気をもって実行できれば——」  ハーマイオニーは一瞬とまって、すばやくトレイシーとダフネに視線を投げかけた。 「——そしてそのために巧妙な作戦を考えられれば——そしてほかの人のまねをしてばかりでなければ——それだけでもう十分、大変な目にあうと思います。」

 

女子と男子の何人かが含み笑いをした。マクゴナガル先生も苦笑しながらも、誇らしげな顔をしていた。

 

「その点は否定しない。」  クィレル先生は半分まぶたを閉じてそう言い、 ハーマイオニーにボタンを投げた。ハーマイオニーはそれを無意識に受けた。 「二シックルの価値があるのだろう。それはきみの運動への寄付ということにしよう。」

 

そのことばを最後に、クィレル先生は背をむけて去った。

 

「わたし、途中で気をうしないそうになった!」  ハンナはクィレル先生の足音が聞こえなくなるのを待ってからそう言った。ほかのメンバーも何人か緊張をといて息をついたり、プラカードを一度下ろしたりしていた。

 

「あたしだって、野望あるもん!」  そう言うトレイシーはほとんど泣きだしそうな表情だった。 「あたしは——あたしは——明日までにもうちょっとよく考えておくけど、でもちゃんとあるんだから!」

 

「だいじょうぶ、もし思いつかなくても……」と言ってダフネがなぐさめるようにトレイシーの肩をたたいた。 「世界征服ってことにしとけば安全だからね。」

 

「ちょっと!」とスーザンが割りこんだ。 「ヒーローになった自覚はないの? ヒーローなら正義のために働かないと!」

 

「細かいこと言わないで。」とラヴェンダーが言う。「〈カオス〉軍司令官だって、どう見ても世界征服を目標にしてるけど、あれは一応、正義のがわでしょ。」

 

メンバーの列の背後でも話し声がかわされていた。 「信じられない。……あんな()()()邪悪な〈防衛術〉教師は史上はじめてじゃないかな。」とペネロピ・クリアウォーターが言った。

 

マクゴナガル先生が忠告するように咳ばらいをした。首席男子が「バーニー先生のことを知らないからそういうことが言える。」と言い、何人かがびくりと反応した。

 

「クィレル先生は口ではああいうけれど……」とハリー・ポッターが言いだす。以前ほど確信はないようだった。 「……ほら、行動では、スネイプ先生みたいなことをしていないし——」

 

「ミスター・ポッター。」とフリトウィック先生が呼びかけた。声は丁寧で、表情は厳しい。 「さきほどわたしが口をはさもうとしたとき、止めましたね。なぜですか?」

 

「クィレル先生は自分が謎の老魔法使いになってあげるべきかどうかを判断するために、ハーマイオニーを試そうとしていたんです。こういう展開になるとは、あらゆる意味で予想外だったでしょうけれど。でもとにかく、ハーマイオニー本人に答えさせないと、意味がなかった。」

 

ハーマイオニーは目をしばたたかせた。

 

もう一度しばたたかせた。つまり……ハリー・ポッターにとっての謎の老魔法使いは、ダンブルドアではなく、クィレル先生だったのだ。これはよくないしるしだ——

 

石壁の小庭に低くうなる音がひびき、すでに神経をとがらせていたハーマイオニーはすぐさま反応した。ぱっと片手が杖にのび、その勢いでもう片ほうの手からプラカードが落ちそうになった。

 

〈流れ石〉のガーゴイルが両脇にずれて道をあけた。音は岩のようだが、動きは生きもののようだった。 みにくい石像の門番が灰色の死んだ目をして無言でその位置にとどまったのはほんのわずかな時間だけだった。 大ガーゴイルの石像は役目を終えると翼をたたんでもとの位置にもどった。 動から静への変化があったことをまったく感じさせず、壁の間隙がもとどおり埋め合わされた。

 

全員のまえに、マグル生まれ以外はなんとも思わないらしい明るい紫色のローブをまとったアルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアがあらわれた。 ホグウォーツ総長、ウィゼンガモート主席魔法官、国際魔法族連盟最上級裁判長、〈闇の王〉グリンデルヴァルトを倒したブリテンの守護者、伝説の〈ドラゴンの血の十二の用法〉の再発見者、当代最強の魔法使い。 その人物と相対するのは、最近拡張された〈太陽部隊〉の司令官、ホグウォーツ一年次の成績最優秀者にして、最近ヒロインを名乗りはじめたハーマイオニー・ジーン・グレンジャー。

 

ハーマイオニーは肩書きの長さでも太刀打ちできていない。

 

総長はやさしげな笑顔をして、半円形の眼鏡の奥で(しわ)にはいった目をきらきらとかがやかせている。 「こんにちは、ミス・グレンジャー。」

 

おかしなことに、クィレル先生と話すときほど怖い感じはしない。 「こんにちは、ダンブルドア総長。」  声もわずかに震えただけだった。

 

「ミス・グレンジャー。」と言ってダンブルドアは真剣な表情をした。 「どうやらわれわれ二人のあいだには多少の誤解が生じてしまっているらしい。 わしはきみが英雄(ヒーロー)になれないとも、なるべきでないとも、言うつもりはなかった。 言わんや、魔女全般が英雄(ヒーロー)になるべきでないなどとという考えは毛頭ない。 言いたかったのはただ、きみがそういうことを考えるのは……もうすこしあとにしてはどうか、というだけのこと。」

 

ハーマイオニーはついマクゴナガル先生のほうを見てしまったが、マクゴナガル先生は応援するように笑顔を見せてくれた——いや、こちら二人両方にむけて、()()()()笑顔を見せていた——ので、総長のほうに向きなおり、声の震えがすこし大きくなるのを感じながら、話しはじめた。 「あなたが総長になったのは、いまから四十年まえです。それ以来ヒーローになったホグウォーツ卒業生は十一人。ルーパイ・カザリルをはじめとして、そのうち十人が男性です。 魔女はシモリーン・リンダーウォール、一人だけです。」

 

「ふむ……」と言って総長は思案げな表情をした。すくなくとも検討の余地はある、というように見えはする。 「わしとしては、そのように数で考える発想はなかった。 数えることはときに安易すぎ、理解の助けにならぬ。 ホグウォーツは立派な人たちを年々輩出してきた。そのなかには魔女も魔法使いもいる。英雄(ヒーロー)と呼ばれた人たちはその一例でしかなく、おそらく一番上等でもない。 きみはアリス・ロングボトムやリリー・ポッターも数に入れなかった……それはよいとしても、 わしが着任するまえの四十年にあらわれた英雄(ヒーロー)についてはどうじゃ? その数も調べてみたかね? そう呼ばれた人は三名思いうかぶが、三名とも魔女ではなかった。」

 

「あなた個人の問題とは言いません! たくさんの人たちが……あなたよりまえの総長もすべて……もしかすると社会そのものが、女子の挑戦をさまたげているのではないか、ということです。」

 

老魔法使いはためいきをした。 半分眼鏡のかかったその目は、ハーマイオニー一人を見ている。まるでこの場にいるのが二人だけであるかのように。 「たとえば、〈操作魔法術(チャームズ)〉の達人になろうとする魔女を引きとめることはできるかもしれん。クィディッチ選手、あるいは〈闇ばらい〉になろうとする魔女を引きとめることもできるかもしれん。しかしヒーローを目指す者は引きとめようがない。 人はヒーローになる運命にあれば、かならずなる。 炎の試練も氷の試練もくぐりぬけ、ディメンターや仲間の死すらものともせず、その道をゆく。だれが引きとめようがそれは変わらない。」

 

「ええと……」と言って、ハーマイオニーはどう言えばいいか考えた。 「その……()()()()()()()()()()()()()()()どうします? つまり、もっと多くの魔女にヒーローになってほしいと思うなら、まずその準備をさせてあげるべきじゃありませんか。」

 

「男女を問わず、ヒーローになることを夢みる子どもたちは多い。」  ダンブルドアは小声で言い、ほかのだれにも目をむけず、ハーマイオニーだけを見ている。 「昼の世界でそうする人はそれほど多くない。 闇の勢力が襲来したとき、それを迎えうつことのできる人は多くいる。 闇の勢力の陣地にすすんで乗りこみ、闇の勢力を対決の場に引きずりだそうとする人はそれほど多くない。 ヒーローの人生は厳しく、ときに孤独で、たいてい短い。 わしはその使命を感じている人にやめろと言ったことはない。しかしその道をゆく人の数を増やしたいとも思わない。」

 

ハーマイオニーは言いかえすのをためらった。皺のきざまれたその顔には、おもてにあらわれていないなにかが、おそらく長い人生を通じてためこまれた感情の片鱗が、見えるような気がした……

 

『ヒーローの人数が増えれば、孤独な人生や短い人生を送らずにすむんじゃないですか。』

 

そう言いたいところだったが、この人にそう言ってしまっていいのか、と迷った。

 

「しかし問題はそれだけではない。」  ダンブルドアは笑顔になった。ただ、憂いも垣間見えるような気がした。 「ミス・グレンジャー、仮に教えるとして、英雄主義(ヒロイズム)はチャームズとはわけがちがう。 あらゆる希望が潰えたときに気力をつなぐためにはどうすればいいか、という問いに十二インチのレポートで回答させて、どんな意味があろう。 総長がおかしたまちがいを毅然として糾弾する練習をさせて、どんな意味があろう。 ヒーローは生まれつきのもので、教師がどうこうできるものではない。 そしてどんな理由があるにせよ、その大半が女子ではなく男子として生まれているのじゃ。」  そう言って総長は『わしにはどうしようもない』というように肩をすくめた。

 

「それは……」と言って、ハーマイオニーはつい背後をふりかえった。

 

シニストラ先生はすこし憤慨した表情をしていた。 ダンブルドアの話を聞くにつれ、ハーマイオニーはほかの人には自分が見当違いのことを言っているように見えているのではないかと思ってしまいそうになったが、実際にはそうでもなかったようだった。

 

ハーマイオニーはまたダンブルドアのほうを向き、大きく息をすって、言った。 「ヒーローになるべき人はどういう状況におかれてもヒーローになる、というのは、たしかにそうかもしれません。 でもそういうことは、あとになってみてはじめて言えることじゃないんですか。 実際わたしがヒーローになりたいと言ったとき、あなたはあまり応援したがっているようには見えませんでしたよ。」

 

「ミスター・ポッター。」と総長はおだやかに呼びかけた。目はハーマイオニーとあわせたまま。 「わしとはじめて話したとき、きみはどういう風に思ったか、ミス・グレンジャーに教えてあげなさい。 応援されているように感じたか、そうでなかったか……ありのままのことを言ってみなさい。」

 

……。

 

「ミスター・ポッター?」と背後でヴェクター先生が不思議そうに言う声がした。

 

「それは……」とさらに遠くから、ハリーがものすごくためらいがちに言う。 「その……ぼくの場合、総長はニワトリに火をつけたんですよね。」

 

「なにそれ?」とハーマイオニーは思わず言ってしまったが、同時に声をあげたのがほかにも何人かいたので、多分だれにも聞かれなかったかもしれない。

 

ダンブルドアは変わらずハーマイオニーをじっと見ている。至極真剣な表情のまま。

 

「そのときぼくはフォークスのことを知らなかったから、総長はフォークスは不死鳥だと言いながらフォークス用の台に乗ったニワトリを指さして、それがフォークスだと思わせようとした。それからそのニワトリに火をつけて——あと、大きな岩を渡されて、これはぼくのお父さんのものだったから、今後いつも持ち歩け、とも——」

 

「あたまおかしいんじゃないの」とスーザンが口走った。

 

全員が息をひそめた。

 

総長がゆっくりとスーザンのほうに顔をむける。

 

「あっ——いえ——その——」

 

総長は身をかがめ、スーザンの正面に来て目線の高さをあわせた。

 

「わたしはただ——」

 

ダンブルドアは自分のくちびるに指をあてて往復させ、ベロベロベロベロと音をだした。

 

それから姿勢をただして言った。 「さてヒロイン諸君。今回の会話は楽しませてもらったが、あいにくほかの仕事も山積みじゃ。 ただ……わしが魔女にかぎらずだれに対しても不可解な言動をするということは、ひとつよく覚えておいてもらいたい。」

 

ガーゴイルが石のような音をたてて生きもののように動き、道をあけた。

 

みにくい二体の門番は灰色の死んだ目をして一旦待つ位置についた。アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアは最初あらわれたときと同じやさしげな笑みをして、〈無限階段の魔法〉をつたって帰っていった。

 

それから大ガーゴイルの石像は役目を終えると翼をたたんでもとの位置にもどった。 間隙が埋めあわせられるまえに一度、奥から「ブワッハッハ!」という声がひびいた。

 

全員が長く沈黙した。

 

「ニワトリに火をつけたって、ほんと?」とハンナが言った。

 

◆ ◆ ◆

 

メンバー八人はそのあとも抗議行動をつづけたが、はっきり言ってあまり身がはいらなかった。

 

フリトウィック先生がハリー・ポッターを問いただして厳密に確認したところ、ハリー・ポッターはニワトリが焦げるにおいをかいでいなかったことが分かった。 つまり、燃やされたニワトリはおそらく小石かなにかを〈転成〉させたものであり、煙がでても大気中に流出することのないよう〈境界の魔法〉で密封されていたのだ、と推測され——フリトウィック先生もマクゴナガル先生も、教師の監督なしにおなじことを試さないようにと、全員に強く念押しした。

 

それにしても……

 

それにしても……?

 

ハーマイオニーは、『それにしても』のつぎになにを言えばいいのさえ分からない。

 

それにしても。

 

あのあと、女子たちが自分から言いだしたくはないという様子でおたがいに急がしく視線を送りあうのを見て、ハーマイオニーは抗議行動の終了を宣言した。それで大人たちと男子たちは散っていった。

 

ヒロイン一行の八人は石敷の廊下を歩いていく。その足音にかさねてスーザンが言う。 「ああ言われると、ダンブルドアに悪いことしたような気がしない? だって、魔女のまえでだけ変なんじゃなくて、だれのまえでも変なんなら、差別じゃないでしょ?」

 

「わたしは総長への抗議行動はもうやりたくないな。」とハッフルパフ生ハンナがおずおずと言う。足もとがすこしぐらついている。 「抗議したことで不利にあつかわれることはない、ってマクゴナガル先生は言うけど、わたしはもうこりごり。」

 

ラヴェンダーがそれを鼻で笑う。「その調子じゃ、ハンナが〈亡者〉(インフェリウス)の大軍を蹴ちらすことは当分ないわね——」

 

「そこまで!」とハーマイオニーは割りこんだ。 「わたしたちはこれからヒロインになるために努力するんでしょう? いますぐできない人がいてもいいのよ。」

 

「総長は、ヒーローやヒロインは努力してなるものじゃないと思ってるみたいだった。」と言ってレイヴンクロー生パドマは思案げな顔をして、一歩一歩ゆっくりと歩いていく。 「……そういう努力をすること自体、やめたほうがいいと思ってるみたいだった。」

 

ダフネはとなりで背すじをぴんとのばして、まっすぐな姿勢をして歩いている。着ているのは制服ローブだが、ハーマイオニーがフォーマルなドレスを着てもとてもおよばないほど〈良家のお嬢さん〉らしい。 「総長の考えはこうよ。」とダフネは明瞭な声で、こつこつと石畳に靴の音をひびかせながら言う。 「このあつまりは、女の子がやってる、たわいない遊びでしかない。ハーマイオニーはいつかだれかのおともになれるかもしれないけど、のこりの面々はまったく見こみなし。」

 

「実際そうなのかな?」とグリフィンドール生パーヴァティが言う。とても真剣な顔だったので、いつもよりずっと双子のパドマに似ているように見えた。 「……その、一度よく考えておかないと——」

 

「認めない!」と言ってのしのしと歩いていくスリザリン生トレイシーは、まるで人殺しをしそうな顔をしていて、小型の女性版スネイプのようだった。 ハーマイオニーがこのメンバーのなかで一番よく知らないのがトレイシーだった。 ラヴェンダーとは一度話したことがあるが、トレイシーとは戦闘中に杖をかわしたことしかなかった。トレイシーがソファから飛び起きてメンバーになると言うまでは。 「……このままですむと思うな! たっぷりお返してやるぞ!」

 

「……あれはもう十分、悪だよね——」とスーザン。

 

「あ、あれはね……」とラヴェンダーが言う。「〈カオス軍団〉のモットーのひとつ。 正式には狂った笑いもつくんだけど。」

 

「そのとおり。今回は笑いごとじゃない。」と低く不気味な声で言って、 トレイシーはそのまま、自分だけの世界で劇的な背景音楽を鳴らして、のしのしと廊下を歩いていく。

 

(感化されやすい少年少女たちが〈カオス軍団〉でハリー・ポッターからなにを学んでいるのかと思うと、ハーマイオニーは心配になってきた。)

 

「でも——なんていうか——」 パーヴァティはまだ思案げな表情をしている。 「それでも、総長がたわいない遊びだと思うのも無理はないと思わない? 総長室まえで抗議行動することと、英雄(ヒロイン)になることがどう関係するの?」

 

「まあねえ。」とラヴェンダーも思案げな顔をしだした。「……たしかに、 もっとヒーローらしい……じゃなくてヒロインらしいことをしないとね。」

 

「それはちょっと——」とハンナが言った。ハーマイオニーの気持ちをよく代弁してくれる一言だった。

 

「じゃ、三階のダンブルドアの禁断の通廊に、まだいったことない人はいる?」とパーヴァティが言う。 「実はグリフィンドール生はもう一人のこらずいっちゃってるから——」

 

「ちょっと待って!」とハーマイオニーは必死に言う。「あなたたちに()()なことはさせられない!」

 

全員が動きを止め、ハーマイオニーのほうを見る。その様子を見てハーマイオニーは遅ればせながら、ダンブルドアがヒーローは自分だけで十分だと言っていた理由が分かった気がした。

 

「ヒロインになりたいなら、一度は危険なことをする必要があるんじゃないかしら。」とラヴェンダーが痛いところを突いた。

 

「それにほら……」とパドマがまじめな表情で言う。 「ホグウォーツのなかにいるかぎり、だれも本気でひどい目にはあわない、っていうことになってるじゃない? 〈防衛術〉教授がやられるのは別として、生徒の話。 古代の結界がいろいろかかってるおかげとかで。」

 

「それはちょっと——」とまたハンナが言った。

 

「うん……最悪でも寮点を何十点か減点されるくらいだろうし。このメンバーはちょうど各寮から二人ずつだから、減点されても打ち消しあう。」とパーヴァティ。

 

「すごいじゃない、ハーマイオニー!」とダフネが驚嘆して言う。 「このしかけなら、わたしたち、なにしても責任をとらなくていい! そんな狡猾なしかけをしてたなんて、ぜんぜん気づかなかった!」

 

それはちょっと——」とハーマイオニーとハンナとスーザンが声をそろえて言った。

 

「よし! じゃあ、もうほんもののヒロイン、やるしかないでしょ。 闇の勢力の陣地に乗りこんで——」とパーヴァティ。

 

「そいつらを引きずりだして——」とラヴェンダー。

 

「恐怖を身にしみさせてやる。」とトレイシー・デイヴィスが不気味な声で言った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




8人の所属は以下のとおり

・ハーマイオニー・グレンジャー…サンシャイン/レイヴンクロウ
・ダフネ・グリーングラス……サンシャイン/スリザリン
・ハンナ・アボット……………サンシャイン/ハッフルパフ
・スーザン・ボーンズ…………サンシャイン/ハッフルパフ
・パーヴァティ・パティル……サンシャイン/グリフィンドール
・パドマ・パティル……………ドラゴン/レイヴンクロウ
・トレイシー・デイヴィス……カオス/スリザリン
・ラヴェンダー・ブラウン……カオス/グリフィンドール


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71章「自己実現(その6)」

「いまはもう、この学校で狂っていないのは自分一人しかいない、っていう気はしないけどね。」とダフネはできるかぎり声をひそめて言う。

 

「そうじゃない仲間があと七人できたから?」と左どなりで忍び足をしているラヴェンダー・ブラウンが言う。

 

「そういう意味じゃなさそう。」ともうひとつ左がわの位置からグレンジャー司令官が言う。

 

八人はじりじりと慎重に廊下を踏破していく。同時に〈事件〉の音がどこからか聞こえてこないか、耳をすませている。ちょうど奇襲攻撃をしかけるために敵に忍び寄るときと似ているが、今回はいじめっこを見つけて〈成敗〉し被害者を〈救出〉するのが目的だ。しかも、朝食のあと、ラヴェンダーとパーヴァティが〈薬草学〉に出席するまでの時間に終わらせなければならないという時間的制約もある。

 

事前の議論でまずラヴェンダーが提唱したのが、一年生の女子一人で年長のいじめっこ三人に勝てるなら、女子八人がいれば二十四人まではいける、という〈乗算〉理論だった。

 

グレンジャー司令官は説得力を感じなかったらしく、手ぶりをまじえて早口で反論した。

 

パドマはしばらくその議論の様子を見ていたが、やがて口をひらいて、いくらホグウォーツでも一年生女子に手をだしていじめっことしての評判が落ちないはずはない、という意見をのべた。

 

パーヴァティはそれを聞いて姿勢をただし、それはこのメンバー以外にいじめ問題に取り組める人がいないということだから、ヒロインとして引き受けないわけにはいかない、と熱心に言った。 つけくわえて、パティル家は世界で唯一死亡率ゼロの魔法学校に二人をいれさせるためにわざわざブリテンに引っ越してきたんだから、多少冒険してみないと損だ、とも言った。

 

それを受けてグレンジャー司令官は、パーヴァティは死亡事故ゼロ記録の意味を完全に履き違えている、と返し——

 

ラヴェンダーは、このメンバーがほんとうに対等な関係で、クィレル先生が言うような上下関係でないなら、こういうことは投票で決めるべきだ、と言った。

 

ハーマイオニーとスーザンとハンナが反対票をいれるとすれば、自分一人の票が決定的な一票になる……というのがダフネの予想だった。 なので、ここはスリザリン生としてしっかりしなければと思い、一時の勢いに流されず、しっかり考えることにした。 ほかの人たちを助けるために走りまわっているうちに自分たち自身の利益をそこなっては元も子もない。そうならないよう、自分が目を光らせなければならない——リスクの大きさをよく見きわめ、自分たちの利益が確保できる道をえらぶ。母ならそうしていたはず。 自分自身と自分の仲間をおびやかすものに目をくばることこそ、スリザリン寮の本領だということを忘れてはならない……。

 

心配性のおとなしいハッフルパフ生ハンナ・アボットが、震える声で「賛成」に一票を投じた。

 

おかげでダフネとスーザンとハーマイオニーとしては、ほかの五人だけでやらせるわけにもいかず、けっきょく折れた。 まず、グリフィンドール生のだれかがボーンズ家の唯一のあとつぎに手をだしたとなれば一生の汚点になるだろうし、スリザリン生のだれにも〈元老貴族〉グリーングラス家の娘に危害をくわえる度胸はないだろう(すくなくともそう信じたい)、という計算がある。 そしてグレンジャー司令官はそもそも言いだした張本人だから……脱け出すわけもなかった。

 

緊張する手をつねに杖のちかくに置きながら、ひとつ、またひとつ、と廊下を渡り歩いていく。石と木と〈消えない松明(たいまつ)〉からなる風景がつぎつぎと視界を通りすぎていく。 あるとき、足音がやってくるのが聞こえて、全員が息をひそめて、杖を手にしかけた。足音の主はレイヴンクローの上級生のだれかだった。その上級生はおもしろいものを見るような目で一行を見たが、すぐにフンと鼻をならして視線を本にもどし、去っていった。

 

ヒロイン一行はすこしずつ歩みをすすめ、オーク材の天井に壮麗なフレスコ画がしつらえられた一角を通り、行き止まりまで来てそこが男子トイレの入り口であることに気づき、回れ右してオーク材の天井に壮麗なフレスコ画がしつらえられた一角をまた通過して引き返した。つぎは古いセメントでかためられた年代ものの煉瓦の通路をくぐりぬけた。そのあたりは湾曲していて円のようになっていたので、肖像画にたずねて、また別の古い煉瓦の廊下を通り、大理石のみじかい階段をのぼった。これがホグウォーツでさえなければ中三階の高さに来ていたはずだった。また石敷きの通路になり、天井窓から太陽の光がふりそそぐが、そこはどうみても最上階などではない。またいくつか角をまがっていくと、またしても、別の男子トイレにたどりつく。案内板には分かりやすく、便器に小便をしているローブすがたの人のシルエットが描かれている。

 

八人は疲労感とともに、閉ざされたそのドアを見つめた。

 

「退屈。」とラヴェンダーが言った。

 

パドマがこれ見よがしに懐中時計をとりだして言う。 「十六分三十秒。 これだけ集中力を持続できればグリフィンドールとしては上出来。新記録ね。」

 

「ハッフルパフとして言うけど、わたしもこれじゃうまくいかないと思う。」とスーザン。

 

「ねえ、もしかして……」とラヴェンダーが思案げな顔で言う。 「ヒーローっていうのは、ちょっと出かけるだけで()()()()()()()()()()()()()()()人のことを言うんだったりして。」

 

「いい勘してる。」とトレイシーが言う。「……もしここにハリー・ポッターがいれば、きっと最初の五分でいじめっこ三人と宝ものでいっぱいの部屋にいきあたってたはずよ。 〈カオス〉軍司令官なら、ちょっとトイレにいくだけでスリザリンの〈秘儀の部屋〉への入りぐちを見つけちゃったりして——」

 

聞き捨てならない発言だったので、ダフネは割りこんだ。 「スリザリン卿が〈秘儀の部屋〉への入りぐちを()()()()つけるなんて、いくらなんでも無茶苦茶すぎ——」

 

トレイシーが反論しかけたが、スーザンが機先を制した。 「あのね、わたしが言いたいのは……これじゃいじめを発見できそうにないっていうこと。 いじめっこはただどこかでハッフルパフ生を一人見つければいいだけだけど、わたしたちはぴったりそのタイミングにあわせて、いじめの現場に出くわさなきゃならない。 そこでつまづいてるのは実はいいことで、もしほんとに出くわしてたら、わたしたちはとっくに踏みつぶされてるんだけどね。 やっぱりさ、あの三階の禁断の通廊にしない?」

 

ラヴェンダーが鼻で笑った。 「いくら禁断でも、総長にやるなと言われたことをそのままやるだけで英雄(ヒロイン)になれると思ったら大まちがいよ。」

 

(考えるほどに分からなくなる論理だったので、ダフネは〈組わけ帽子〉が自分にグリフィンドール寮をちらつかせようともしなかったことに内心感謝した。)

 

「よく考えたら……」とパーヴァティが言う。「ハリー・ポッターがこの学校に来て一日目の朝にいきなりいじめっこ五人に出くわすなんて、ちょっと不自然じゃない? なにかうまいやりかたがあったんだよ、きっと。」

 

ダフネのいる位置からパーヴァティを見ていると、自然とハーマイオニーのすがたが目にはいる。なのでダフネはハーマイオニーの表情が変化する瞬間をしっかり目撃した——そういえば、この〈太陽〉軍司令官自身、最近いじめっこを見つけたじゃないか——

 

「あっ! そうか!」とパドマがひらめいたような声で言った。「サラザール・スリザリンの幽霊(ゴースト)に教えてもらったんだ!」

 

「はあ?」とダフネとほかの数人が同時に言った。

 

「わたしをおどしにきたのもきっと、そのゴーストだったんだと思う。 すぐには気づかなかったんだけど……うん。 サラザール・スリザリンのゴーストはスリザリンがいじめをするのが気にいらない。スリザリンの名前をけがす行為だと思っている。そのゴーストはいまもホグウォーツ全体の結界につながってて、この城のなかのできごとをなんでも知ってるのよ、きっと。」

 

ダフネは口をぽかんとあけた。見ると、ハンナは片手をひたいにあてて、壁によりかかっていた。トレイシーは茶色の星のような目をかがやかせていた。

 

……サラザール・スリザリンの幽霊(ゴースト)……?

 

……()()()()()()()()()共闘する……?

 

……そればかりか()()()()()()()()()()()()()()()指示してデリック一味を止めさせる……?

 

ドラコ・マルフォイがこれを聞いたらどんな顔をするだろう……その場にいあわせられるなら、百ガリオン支払ってもいい、とダフネは思った。

 

ただ、ホグウォーツ内で噂がひろまる速度を思えば、この話もいったんパドマが声にしてしまった以上、ミリセントを経由していまから三十分まえにマルフォイの耳にはいっていてもおかしくない……

 

ん?……考えてみれば、それって……

 

「それじゃ……」とパーヴァティが言う。「〈死ななかった男の子〉からサラザール・スリザリンのゴーストの居場所を聞きだす、ってことでいい? あ、何かこういうせりふって、ほんとにヒロインになったみたい——」

 

「うん!〈死ななかった男の子〉からサラザール・スリザリンのゴーストの居場所を聞きだす! それに決まり!」とラヴェンダー。

 

「〈死ななかった男の子〉に……サラザール・スリザリンのゴーストの居場所を……教えてもらう……」とハンナがしぼりだすような声で復唱する。

 

「それでもだめなら……」とトレイシーが言う。「ハリー・ポッターを気絶させて、縄で縛って連れまわす!」

 

◆ ◆ ◆

 

八人は授業の時間になってもいじめっこを見つけられず、ホグウォーツという名の入り組んだ迷路から引きかえした——そのときハーマイオニー・グレンジャーは、ハリー・ポッターがサラザール・スリザリンか、でなければ不死鳥か、とにかく()()()()導かれていたのだという発想もあながち捨てたものではないと思っている自分に気づいた。無視していいことではないが、すこし悲しくもあった。 ハリーがしたなにかによって、その導き手の目論見が実現されてしまったのではないかと思うと、不安になる。 それ以上に、ハリー・ポッターを気絶させて意識不明のままカートに乗せてヒロインたちの〈冒険〉に連れまわすというトレイシーの手法について、また投票で決めることになったりしたらと思うと、もっと不安になる。 現実的に考えてそんな手がうまくいくわけがないが、もしうまくいってしまったら、やってられない。

 

各メンバーの様子はというと、トレイシーとラヴェンダーは話していて、ほかのみんなはそこにときどき口をはさんでいる。 ハーマイオニーの視線は、おとなしくもの静かなメンバー一名のところで止まった。いまこの時点で、ハーマイオニーがまったく読めない思考をしているのはこの子だ。

 

「ハンナ?」と横を歩くその女の子に、ハーマイオニーはできるかぎりやさしく声をかける。 「答えたくなかったら答えなくていいんだけど……あなたがいじめっこと戦うほうに投票した理由をきいてもいい?」

 

十分小声で話したつもりだったが、聞こえてしまったのか、全員が歩みを止めた。ラヴェンダーとトレイシーも話をやめ、こちらを見た。

 

ハンナのほおが赤く染まる。そしてハンナが口をひらこうとしたところで——

 

「そりゃ、あなたが思っているほどハンナは意気地なしじゃないからよ。」とラヴェンダーが言った。

 

ハンナは口をあけたまま止まった。

 

そして口をとじた。

 

そしてちからをこめて息をすい、ほおをさらに赤くした。

 

ゆっくり息をはいてから、小さな声でハンナは言った。 「好きな男の子がいるの。」

 

そう言ってハンナは身震いし、すばやく不安げに一人一人と目をあわせていった。そのあいだ、ほかのだれも動かず、声もださない。

 

「えーと……それだけ?」とスーザンが静寂をやぶった。

 

「好きな男の子なら、わたしは五人いるわ。」とラヴェンダー。

 

「パドマとわたしはいつもおなじ男の子を好きになるから、いっしょにリストをつくってあって、どっちがだれに先手をとるかも、クヌートをトスして決めてある。」とパーヴァティ。

 

「あたしはもう自分の将来の旦那さまがだれか分かっちゃったから……なんと言われてもいい。彼はあたしのものになる!」とトレイシー。

 

そこまでくると、七人全員がハーマイオニーを期待のまなざしで見た。ハーマイオニーの脳はトレイシーの一言をきれいさっぱりなかったことにして、ハンナの最初の返事の内容に集中した。

 

「ええと……」と言ってハーマイオニーはこんども、やさしい声をするようつとめた。 「それはつまり、自分が英雄になれたら好きな男の子に気にいってもらえると思った、だから〈魔女のための英雄機会均等振興協会〉のメンバーになった、っていうこと?」

 

ハンナはもう一度うなづき、ほおを一段と真っ赤にしてうつむき、黒光りする靴に映る自分を見つづけた。

 

「ちなみにその好きな男の子っていうのは、ネヴィル・ロングボトムね。」と言ってダフネが残念そうにためいきをつく。 「……ところが彼にはもう別の結婚相手が決まっている。悲劇だわ。」

 

それを聞いてハンナはうつむいたままの姿勢で、甲高い悲鳴のような声をだした。

 

「え、なにそれ。」とラヴェンダー。「ネヴィルがだれと結婚するの? どこで仕入れた情報? 教えなさいよ。」

 

ダフネはただ悲しげにくびをふって、目を伏せた。

 

「ちょっと静かにしてくれる?」とハーマイオニーが言うと、ほかのみんながまた注目した。 「えーと……」と言って、考えをまとめようとする。 「その……うん……ハンナは……男の子に好かれたいから英雄になりたいんだって言ったけど。それってフェミニズム的じゃないと思うな。」

 

「それを言うなら『女性的(フェミニン)』でしょ。」とパドマ。

 

「でも、ハンナがフェミニンじゃないってどういうこと?」とスーザン。 「……男の子の気をひきたい、っていうのは完全にフェミニンだと思うけど。」

 

「だいたい……」と困惑げにパーヴァティが言う。 「英雄(ヒーロー)はフェミニンじゃないっていうのを承知のうえで、わたしたちは英雄になろうとしてるんじゃなかったっけ?」

 

そこからはじまった議論でハーマイオニー・グレンジャーは果敢に社会思想を説いてみたが、さほど成果はあがらなかった。 一度説明し、反論されたのでまた説明していくと、のこりの七人の女子たちの目がどんどん懐疑的になった。 ひとしきりハーマイオニーの講釈がおわると、まずダフネがグリーングラス家次期当主らしい尊大な調子で、女子が男子を追いかける自由をなくしてしまうのが女権主義(フェミニズム)なら、フェミニズムはマグル世界にお引き取り願いたい、と宣言した。 ラヴェンダーは、むこうが女権主義(フェミニズム)ならこっちは魔女権主義(ウィッチイズム)、魔女がなにをやっても文句を言われない世界を目指すんだということにすれば楽しそうだ、と提案した。 最後にパドマが、S.P.H.E.W.はそもそも魔女を英雄にすることを推進する活動であってフェミニズムとは関係ない、だからフェミニズムの話をこれ以上つづけても意味がない、と言いはなって議論をしめくくった。

 

ハーマイオニーはそのあたりでもう説得をあきらめた。

 

◆ ◆ ◆

 

授業を終えて、レイヴンクロー一年生たちが〈操作魔法術(チャームズ)〉の教室を出ていく。ハーマイオニーは早くも気まずくなっている。 教室についたのは授業がはじまる直前で、やっとのことで席に走りこむことしかできず、約束された惨事は先送りせざるをえなかった。おかげでハーマイオニーは授業が終わるまでずっと、そのときが来るのを怖ごわと待つ羽目になった。

 

思ったとおり、フリトウィック先生が授業の終わりを告げ全員が席をたつと同時に、ハリーはハーマイオニーのほうに近づいきていた。ハーマイオニーはというと、モークスキン・ポーチに教科書を押しこみ、やたら急いでドアのところへ行き、勢いよく押しあけて廊下におどりでる。そのあとを追ってくるハリーは意外そうな表情をしている。それも無理はない。このあと二人で図書館で勉強することになっているのだから——

 

「ハーマイオニー……どうかした?」とドアを通って出てきたハリーが言う。

 

ドアがとじたかと思うとまた勢いよくひらき、当たりそうになったハリーが飛びのく。そこからあらわれたのは、悲愴な決意の表情をしたパドマ・パティル。

 

「ミスター・ポッター。」とパドマのうわずった声が、憂鬱な破滅の鐘の音のように廊下じゅうにひびく。 「ちょっとあなたに頼みがあるんだけど、いい?」

 

ハリーは両眉をあげてから言った。 「頼んでみるのは、もちろんご自由に。」

 

「サラザール・スリザリンのゴーストと話す方法を知らない? あなたが手つだってもらっていたように、わたしたちもいじめを見つけるのを手つだってもらいたい。だから知ってるなら、教えてほしい。」

 

教室のすぐ出たあたりのその廊下内にしばし静寂がおりた。

 

教室のドアがひらいた。そこからスーが顔をのぞかせ、なんの話か知りたそうにこちらを見る——

 

「ぼくらはこれから図書館にいくことになってるから……」とハリーは気軽な表情と声で言う。 「よかったらついてくる?」  そう言って、図書館への奇数日用の順路をたどる。スーもついてきそうな気配があったが、ハリーは一度だけスーに顔をむけた。

 

角をまがるとすぐにハリーは杖をとりだし、小さく、しかしはっきりと「クワイエタス」と言ってから、パドマのほうを向いて話しかけた。 「おもしろい推測をするじゃないか、ミス・パティル。」

 

パドマは一度得意げな顔をしてから言った。 「ほんとはもっとはやく、気づいているべきだったわ。 あのゴーストの声にはシューっていう音が混ざっていた。だから、すぐに〈ヘビ語つかい〉のことを考えるべきだった。それだけじゃなく、ゴドリック・グリフィンドールの話をしてもいた。」

 

ハリーは表情をかえない。 「ところでミス・パティル、きみはもうだれかにその話を——」

 

「S.P.H.E.W.全員がその場にいた。」とハーマイオニーがかわりに言った。

 

ハリーはなにかをすごい速度で計算するときの目をしてから、言った。 「ハーマイオニー、その情報が外部に漏れた可能性は——」

 

「S.P.H.E.W.にはラヴェンダーとトレイシーがいる、とだけ言っておくわ。」

 

「あ……わたし、まずいことした?」とパドマが言った。

 

◆ ◆ ◆

 

「ここで待て。」と言ってミスター・ゴイルは角のさきに行った。そこからドラコ・マルフォイの個室をノックする音が聞こえた。

 

トレイシーはなにか悪い予感がしていた。けれどパドマが一度あれを口にした以上、だれかがドラコ・マルフォイの耳にいれることは確実だ。そうするのがトレイシーであっていけない理由はない。だいたいハリー・ポッターになんの借りがあるわけでもないし、スリザリン生なら自分の〈野望〉を達成するために必要なことをやるのが当然だ。

 

クィレル先生にしかられてから、トレイシーはずいぶんといろいろな〈野望〉のリストを作った。ニンバス二〇〇〇を手にいれること。超有名人になること。ハリー・ポッターと結婚すること。毎日つづけて〈チョコレート・フロッグ〉を朝食にすること。それと、〈闇の王〉を最低でも三人倒すこと。それくらいしておけば、クィレル先生にもトレイシーが凡人だとは言わせない。

 

ミスター・ゴイルがもどり、「お会いになるそうだ。……ミスター・マルフォイの時間を無駄にするようなことはするなよ。」とおどすような声で言って、 一度立ちふさがるように目のまえに来てから、道をあけた。

 

トレイシーは『自分専用の従僕を手にいれる』を〈野望〉リストに追加してから、入室した。

 

マルフォイの個室は、ダフネの個室とまったくおなじつくりだった。 ダイアモンドのシャンデリアか黄金の壁画でも出てくるんじゃないかと思っていたけれど——というのも(ダフネのまえで言ったことはないが)マルフォイ家はグリーングラス家より一段格上だから——期待はずれだった。 ダフネの部屋とかわらない小さな寝室で、ちがいといえば、緑玉の草模様のかわりに銀のヘビが持ちものの意匠として使われていることだけ。

 

トレイシーが足をふみいれると、ドラコ・マルフォイが——私室でもあいかわらず念入りにセットした髪型で——机の椅子から腰をあげ、軽く目礼して応対した。()()()()を相手にするような愛想のよい笑顔もついていたので、トレイシーは気をよくして、事前に脳内で練習しておいたせりふのことをすっかり忘れ、いきなり本題を言った。「ちょっと知らせたいことがあるんだけど!」

 

「ああ、グレゴリーからそう聞いている。どうぞ、そこに座ってくれ。」 と言ってドラコ・マルフォイは()()()()()()()を指さし、当人はベッドに腰をおろした。

 

すこしふらふらした心持ちでトレイシーはマルフォイの椅子に座った。ひざに当たるドレスローブを無意識に指でもてあそび、どうすればドラコ・マルフォイのように優雅な着こなしができるだろうかと考える——

 

「それでミス・デイヴィス、知らせたいことというのは?」

 

トレイシーはためらったが、マルフォイがすこしじれったそうな表情をしたので、一気にすべてを吐きだした。サラザール・スリザリンのゴーストがハリー・ポッターにいじめ退治をさせているというパドマの話も、そしてそこにハーマイオニー・グレンジャーも一枚かんでいるというダフネの話も——

 

ドラコ・マルフォイはその話を聞いているあいだぴくりとも表情を変えなかった。それを見てトレイシーはだんだんいやな予感がしてきた。

 

「本気にしてないんでしょ!」

 

一瞬の沈黙。

 

「いや……」と言ってドラコ・マルフォイは今度はあまり愛想のよくない笑みをした。 「パドマとダフネがそういうことを言った、というのは事実なんだろうと思っているよ。 報告ありがとう、ミス・デイヴィス。」  そう言ってドラコ・マルフォイはベッドから腰を浮かせた。トレイシーもついつられて椅子から腰を浮かせた。

 

ドラコ・マルフォイはそのままドアにむかい、ドアノブに手をかけ、トレイシーを送りだそうとする。トレイシーはふと気づいた—— 「見かえりになにがほしい、って言い忘れてない?」

 

ドラコ・マルフォイは意味ありげな目つきをした。けれどトレイシーには、どういう意味なのかが分からない。ドラコ・マルフォイは無言のままでいる。

 

「まあ、いいんだけど。」と言ってトレイシーは土壇場で〈作戦〉を変更した。 「見かえりにはね、なにもいらない。これは親切で教えてあげただけ。」

 

ドラコ・マルフォイは一瞬おどろいたような顔をしたが、すぐに無表情にもどって、言った。 「マルフォイの人間と親しくなるのは簡単ではないよ、ミス・デイヴィス。」

 

トレイシーは本心からほほ笑んだ。 「へえ……じゃあ、もっとやってみてあげる。」 と言ってスキップしながら部屋をでていく。トレイシーは生まれてはじめてほんもののスリザリン生になれたような気がした。そして、自分の何番目かの夫にドラコ・マルフォイをえらぼうと決心した。

 

◆ ◆ ◆

 

客が出ていくのと入れかわりにグレゴリーがはいってきて、ドアをしめてから言った。 「どうされました?」

 

従僕でもあり友人でもあるグレゴリーのその声に返事しないまま、 ドラコは空中をじっと見つめた。その視線は寝室の壁を突きぬけ、スリザリンの地下洞をつつむホグウォーツ湖を突きぬけ、地球の地殻と大気を突きぬけ、〈天の川〉の星間塵を突きぬけ、銀河と銀河のあいだの、いまだ魔法族の目にも科学者の目にも触れたことのない完全な無と暗黒からなる虚空を見つめていた。

 

「ミスター・マルフォイ?」  グレゴリーがすこし心配そうな声になった。

 

「あれを一字一句そのまま信じる気になった自分が信じられない。」とドラコは言った。

 

◆ ◆ ◆

 

ダフネは〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の宿題を終えて顔をあげ、スリザリン談話室を見わたした。ミリセント・ブルストロードがまだ宿題をしているすがたがあった。……〈決断〉のときがきた。

 

S.P.H.E.W.が堂々といじめ退治をしようとすれば、いじめの犯人たちの恨みを買うことは まちがいない。 ひどい仕返しをしようとされることもまちがいない。 とはいえ、もしほんとうに手におえなくなれば、ハーマイオニーにハリー・ポッターを呼ばせて、助けてもらうこともできる。メンバー全員のクィレル点をあわせて使って、クィレル先生になんとかしてもらってもいい。 そう、問題はそこではない。ダフネが真剣に悩んでいたのは、この件でスネイプ先生の不興を買わないようにするにはどうすればいいか、ということだった。 スネイプ先生を敵にまわすことだけは、なんとしても避けなければ。

 

それでも……ネヴィルに〈元老貴族の決闘〉をいどんだ日を境にして、ダフネを見るまわりの目が変わったのはたしかだった。 彼女をからかった生徒たちでさえそうだということに、ダフネは気づいていた。 〈元老貴族〉グリーングラス家の娘が血筋がよいだけでなく美しい()()()()でもあるとなると、段違いの量の尊敬をあつめることができるらしい。 役者が主演女優であるか、耳障りな笑い声をする二ガリオンの無名エキストラであるかでは大違いなのである。

 

いじめ退治がヒロインになる()()の手段だとはかぎらない。 しかし……『目のまえに来た機会は見送るな、見送ればくせになるぞ』という父の教えをダフネは思いだす。 もっといい別の機会が来るまで待とう、と自分に言い聞かせていると、きっとつぎの機会が来ても同じことを言うだけになる。 たいていの人は満足のいく良質な機会を一生待ちつづけ、そのまま死ぬ。 機会をつかめば、おそらくいろいろな失敗が待っている。しかし腰抜けでいることと比べれば、失敗するのもさほど悪いことではない。 機会の質を選り好みするのは、機会をつかむことに十分慣れてからでいい。

 

ただいっぽうで母は、父の助言を鵜呑みにしすぎるなと言っていた。それと父がホグウォーツで六年生だったころのおこないについては、ダフネが三十歳になるまでは聞かせられない、とも言っていた。

 

とはいえ、けっきょく父は母を射止め、まんまと〈元老貴族〉になることができたのだから、そう捨てたものではなさそうだ。

 

ミリセント・ブルストロードが宿題を終え、かたづけをしはじめた。

 

ダフネは立ちあがり、歩み寄っていった。

 

ミリセントはテーブルの下から勢いよく両足を外にだして立ちあがり、かばんを肩にかけた。近づいていくダフネに目をとめ、不思議そうな顔をする。

 

ダフネは距離をつめてから、小声で興奮した調子で話しだす。 「ミリセント、ちょっと新発見があるんだけど、聞きたくない?」

 

「サラザール・スリザリンのゴーストがグレンジャーを手助けしてる、って話なら、 もう知ってる——」

 

「ううん……」とダフネは息をひそめて言う。「もっと特ダネがあるの。」

 

「ほんと?」とミリセントも小声で興奮した声になる。 「どんな?」

 

ダフネはあたりをはばかるように見わたす。 「わたしの部屋に来てくれたら話す。」

 

二人は階段をたどり、個室のある階層におりていった。個室は七年生の共同寝室よりさらに深い部分の湖底の下にある。

 

やがて部屋に到着すると、ダフネは座りごこちのいい椅子に腰かけ、ミリセントはよくはねるベッドの端に陣取った。

 

席につくと同時にダフネは「クワイエタス」と言った。 杖はローブのなかにしまうのではなく、さりげなく腰の横におろし、手に持ったまま離さないことにした。万一のため。

 

「もういいでしょ、教えなさいよ!」とミリセントが言う。

 

「新発見っていうのはね……」とダフネは言う。「あなたがいつもいちはやく噂を聞きつけるのは、事件が()()()()()()事件のことを知ってるからだ、ってこと。」

 

その瞬間にミリセントが顔面蒼白になって倒れる、という光景をダフネはなかば期待していたが、そういうことはなかった。ただ、あきらかにびくっとしてはいたし、すぐに躍起になって否定しようとしだしたのはたしかだった。

 

「心配しないで。」とダフネはとっておきの笑顔で言う。「予知能力のことは秘密にしてあげる。だって、友だちでしょ?」

 

◆ ◆ ◆

 

スリザリン七年生リアン・フェルソーンは寮の机につき、またひとつ、二フィート長のレポートをまじめに書いているところだった(N.E.W.T.をひかえる今年、彼女は〈占術〉(ディヴィネイション)と〈マグル学〉をのぞく全科目をとっていて、宿題以外ほとんどなにもしていなかった)。そこにスリザリン寮監がつかつかとやってきて「ミス・フェルソーン、わたしについてきたまえ!」と言って、返事を待たずに出ていった。彼女はあわてて羊皮紙と本を羽ペンをまとめ、そのあとを追った。

 

スネイプ先生は部屋のすぐ外で待っていて、薄目の、あまりに熱っぽい視線で彼女を見ていた。 なんの話なのかと彼女がたずねようとすると、スネイプ先生はなにも言わずに背をむけて廊下のさきへ歩きだす。彼女は置いていかれないよう、あわててついていく。

 

二人は一階、また一階と下へむかい、スリザリンの地下洞の最下層よりも低いであろう場所まで来た。 通路は一見して階上より古く、建築様式も数百年はさかのぼり、粗石がざらざらの漆喰でかためられただけのものになった。 もしかしてこれから自分は、うわさに聞く()()()()()地下牢に……教師だけが立ち入りを許されるというホグウォーツ城地下牢に連れていかれるのではないか。スネイプ先生はそこで、いたいけな少女たちをもてあそんでいるのではないか。そう思いたくなるのは、期待のしすぎだろうか。

 

一階おりると、部屋にたどりついた。いや、部屋というより洞穴に扉をつけただけのもので、暗い横穴がいくつもある。二人が足を踏みいれるとともに旧式のたいまつが一本点火する。それが唯一の照明だった。

 

スネイプ先生は杖をとりだし、つぎつぎと呪文をかけていった。何重の呪文がかけられたのか、彼女は数えそこなった。一連の詠唱を終え、スネイプ先生は彼女に向きなおり、彼女の目に熱い視線をそそぎ、いつもの嘲笑する声とはちがった平坦な声で言った。 「この件について、きみはいっさい他言してはならない。これには例外も期限もない。 受けいれられるなら、くびを縦にふれ。受けいれられないなら、話はここまでだ。」

 

彼女はこわごわと、同時に奇妙な一筋の希望を胸に(実はもっと別の部位に)感じながら、うなづいた。

 

「ミス・フェルソーン、頼みというのはごく簡単な作業だ。」とスネイプ先生が抑揚のない声で言う。 「ただし、事後に〈記憶の魔法〉処置をうけてもらう。その見かえりに、五十ガリオンという破格の報酬を用意した。」

 

リアン・フェルソーンは思わず息をのんだ。 実家は裕福ではあるが、一人っ子ではないし、あまり自由にはさせてもらえていない。五十ガリオンは自分個人には大金だ。

 

それからやっと『記憶の魔法』という部分に意識がいって、彼女は一瞬憤慨した。せっかくの経験を忘れてしまうのでは、なんの意味もない。スネイプ先生はどんな女を相手にしているつもりなのだろう?

 

「〈太陽〉軍司令官ミス・ハーマイオニー・グレンジャーの名は聞いているな?」

 

「え?」 リアン・フェルソーンはドン引きした。「その子まだ一年生でしょう! なに考えてるんですか!」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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72章「自己実現(その7)——合理的な否認可能性」

夕食時間が終わるころには冬の太陽はすっかり沈んでしまっていて、大広間の魔法の天井には静かな星空が映し出されていた。それを横目に、ハーマイオニーは自習友だちであるハリー・ポッターといっしょにレイヴンクロー塔にむかった。ハリーには最近、自習する時間が信じがたいほど多くあるように見える。いっぽうで実際の宿題をやっている様子はいっさいないのに、いつのまにか終わらせてはいる。まさか、寝ているあいだに家事妖精(ハウスエルフ)にでもやらせているのだろうか。

 

大広間の全員といっていいほどの数の視線を受けながら、二人は巨大な扉を通過していった。夕食を終えた生徒たちが通る道の扉というより、城門にでも使えそうな扉である。

 

二人はそのまま、生徒たちの喧騒が遠ざかり、まったく聞こえなくなるまで、無言で歩いた。そこから石敷の廊下をもうすこし歩いたところで、ハーマイオニーが口火を切った。

 

「あんなことするのはなんのため?」

 

「あんなこと?」と問いかえす〈死ななかった男の子〉の声はうわのそらで、なにか別の、もっとはるかに重大な考えごとに夢中だったかのようだった。

 

「たんに否定すればいいのになんでしなかったの、っていうこと。」

 

「それは……」 石畳に二人の靴音がひびく。 「自分がやっていないことについてなにか訊かれるたびに否定してると、まずいことになるからさ。 たとえば『こないだの見えない絵の具のいたずらをやったのはきみか』と訊かれたとして、『やってない』とぼくが答えたとする。つぎに『このあいだグリフィンドールのシーカーのホウキに細工をしたのはだれだったか分かるか』と訊かれたとして、ぼくが『その質問には回答しない』と答えたとする。それじゃ自白しているようなものだろう。」

 

「ああ、そう。だからみんなに……」  ハーマイオニーは正確なせりふを思いだそうとする。 「……『仮にこれがそういう陰謀だったとして、サラザール・スリザリンのゴーストが真の首謀者かという質問に、イエスともノーとも答えられるわけがないだろう。そもそも陰謀があると認めることすらできない。というわけで、そういう質問は無意味だからやめたほうがいい。』……って言ったんだ。」

 

「そう。」と言ってハリー・ポッターは小さく笑った。「仮説にとどめるべきことを真剣に考えすぎるとどうなるか、せいぜい思い知ればいい。」

 

「じゃあ、()()()()そういう質問に答えるなって言ったのも——」

 

「否定しても信じてもらえるとはかぎらないよ。だから、うそつきだと思われたくないなら、なにも言わないほうがいい。」

 

「だからって——だからって、わたしがサラザール・スリザリンのために働いてるんだと思われるのは困る!」  最近、グリフィンドール生たちがどういう目でハーマイオニーのことを見ているかと思うと——それ以上に、()()()()()()()()()どういう目で見ているかと思うと——

 

「ヒーローにはそういうのも付きものだよ。 『クィブラー』がぼくについてどういう記事を書いたか知ってる?」

 

ハーマイオニーはほんの一瞬だけ、自分の両親が愛娘についての新聞記事を読むところを想像した。スペリングビーの全国大会で優勝するなどといった記事ならいざ知らず、『ドラコ・マルフォイがハーマイオニー・グレンジャーとの子を妊娠』という記事を。

 

そう想像するだけで、ヒロイン関連の活動をこのままやっていいのか、考えなおしたくもなる。

 

ハリーはすこしまじめな声になって言った。 「ところでミス・グレンジャー、冒険(クエスト)の進捗は?」

 

「そうね……ほんとにサラザール・スリザリンのゴーストがあらわれて、いじめが起きている場所を教えてくれたりしないかぎり、なにもできないんじゃないかな。」  個人的にはとくに残念には思わない。

 

ちらりとハリーのほうを見ると、妙に意気ごんだ表情をしていた。

 

「あのさ……」とハリーは小声で言う。ほかのだれにも聞かせられない話だ、というように。 「きみが言っていたとおりかもしれない。 世の中には、ヒーローになるための手つだいを特別に多くしてもらっている人がいる。 そういうのはたしかにフェアじゃないと思う。」

 

それからハリーはハーマイオニーのローブの腕のあたりをつかんで、急いで廊下の小道に連れていく。ハーマイオニーが唖然として口をあけているうちに、ハリーは杖を手にしていた。小道が折れたさきまで行くと、二人が押し合わなければならないほど道幅が狭くなった。そこで、ハリーが来た道にむけて小声で「クワイエタス」と言い、反対側にも「クワイエタス」と言った。

 

ハリーはあらゆる方向に目をひからせた。四方だけではなく、上は天井まで、下は床まで。

 

それから手をポーチにつっこみ、「不可視のマント」、と言った。

 

「え? それって……」

 

ハリーはすでにモークスキンから艶のある黒布を取りだして、 「ご心配なく。」と言って一度にやりとした。 「……これはとてもめずらしい種類のアイテムだから、だれも校則で禁止しようとすら思わなかったらしい……」

 

ハリーはその黒い天鵞絨(ビロード)をつきだし、奇妙にかしこまった声で言った。 「マントよ、ぼくはいまからおまえをハーマイオニー・ジーン・グレンジャーに一時的に貸しあたえる。彼女のことを頼む。」

 

ハーマイオニーは艶のある天鵞絨(ビロード)の生地をじっと見つめた。その生地は、奇妙な光沢として反射するわずかな光のほか、すべての光を吸収する色に見えた。これくらい真っ黒ならばちりや糸くずが見えていてもいいものだが、なにも見あたらない。そうやってのぞきこんでいると、そこには実はなにもないのではないかという気さえした。が、一度目をしばたたかせるとそれはやはり黒い布だった。

 

「手にとってみて。」

 

ハリーの声を聞いてほとんど無意識にハーマイオニーは片手をのばしてその生地を手にとろうとするが、思考が追いついて、手を引っこめた。 ハリーがマントを手ばなし、落ちていくのを見て、また無意識に手がそれをつかむ。 手が触れた瞬間、かたちのないなにかが……はじめて杖を手にしたとき感覚のようななにかが、身体をつらぬいた。 自分の精神のかたすみのどこかで、歌が聞こえるような気がした。

 

ハリーがそっと話しだす。 「これがぼくの冒険アイテムのひとつ。……もとはぼくのお父さんの持ちもので、もしなくされたら、かわりのものは手にはいらない。 ほかのだれかに使わせることも、見せることも、存在を知られることもあってはならない……でもきみがしばらく使いたいなら、いつでも貸してあげる。」

 

ハーマイオニーの目はやっとのことで、底のないその黒布から離れ、ハリーのほうへもどった。

 

「こんなもの、わたしには——」

 

「いいんだよ。 ある日突然、これがプレゼント用に包装された箱にはいってぼくのところに届けられて、きみのところには届いていない、っていうのは不公平すぎるんだから。」  そう言ってからハリーは思案げな顔をした。 「……もし届いてたんだったら、話は別だけど。」

 

そういえば、()()()()()()()()()()、ということは……。その意味がだんだん分かってきて、ハーマイオニーはわなわなと指をハリーに向けた。ただし距離が近すぎて、まっすぐに腕をのばすことはできなかった。怒りを感じ、声にちからがはいる。 「じゃあ、〈薬学〉の教室のクローゼットにはいって、いなくなったあのときもこれを! それにあの——」と言いかけたさきを言いよどむ。不可視のマントがあるだけでは、もうひとつのできごとは説明できない……

 

ハリーはこともなげに手の爪をローブになでつける動きをしてみせた。 「もともと、なにかトリックがあるに決まってる、って思ってはいたんじゃないの? これがあれば、ヒロインはいじめがいつどこで起きるかをなぜか当てることができるようになる。まるでいじめの計画を立ち聞きしていたかのようだけど、ヒロインの年齢ではまだ透明になって情報収集をすることは到底不可能なはずで、説明がつかない、ということになる。」

 

話がとぎれ、あたりがしんとした。

 

「ハリー——わたしは——わたしは、このまま、いじめ退治をつづけていいのかどうか分からない。」

 

ハリーはハーマイオニーとしっかり目をあわせたまま、返事した。 「ほかのメンバーにけがをさせるかもしれないから?」

 

ハーマイオニーはただうなづくことしかできない。

 

「それは、本人たちが決めることだよ。きみ自身が決めることでもあったように。 ぼくは、本にでてくる人たちがやってしまう、ありがちで分かりやすい種類のまちがいをやらないことにした。きみの身の安全をまもるために世話を焼いて、当人になにもさせないでおけば、そのうち怒らせてしまって近寄らせてもらえなくなる。しまいにきみは一人で冒険をしにいって、とてもひどい目にあって、それでも最後にはみごとに成功させる。それを聞いてぼくはようやくはっとして、ああ最初からこうしておけば……と後悔する。ぼくは自分の人生のそういう部分の結末が目に見えているから、早送りすることにした。 あとで自分がどう考えるかを予測できるなら、いますぐそう考えてしまえばいい。 とにかく、きみも当人の身の安全のためだからといって、他人に世話を焼きすぎるのはよくない。 いずれみんなひどい目にあうことが十分予想できる、とはっきり伝えてさえおけば、それでいい。それでもヒロインになりたいという人には、やらせればいい。」

 

ハリーはよくこういう言いかたをする。自分がいつかこの手の考えかたに慣れることはあるのだろうか、とハーマイオニーは思う。 「ハリー、わたしは……わたしはどうしても、あの子たちにけがをさせたくない! わたしが言いだしたことのせいでそうなるなら、なおさら!」

 

「ハーマイオニー……」とハリーは真剣な顔になる。「きみは正しいことをやっていると思うよ。 その子たちがこのさきどういう目にあうとしても、長期的に見れば、()()()()()()()()()より損をするとはとうてい思えない。」

 

「一人でも深刻なけがをしたりしたら?」  ハーマイオニーは声がのどからすんなり出てこないのに気づいた。 アーニー・マクミランから聞いた話では、ハリーはスプラウト先生に助けられるまで、いじめっこに指を折られながら、相手と目をあわせるのをやめようとしなかったという。 そこまで思いだしたところで、ハンナの細い手のことが思いうかんだ。ハンナのネイルはいつもハッフルパフの黄色に塗られている。毎朝それをどれだけ念入りに準備していることか。それが……そのさきは考えようとしても考えられない。 「それで——そのせいで、二度と勇気をだせなくなったとしたら——」

 

「いや、人間はそういう風にできていないと思う。 ものすごくひどい目にあったとしても、きっと人間はそういう風に考えない。 だいじなのは、自分はできると信じて、自分の限界を越えようとすること。 挑戦したせいで痛い目にあうとしても……()()()()()()でいるよりはいいに決まってる。」

 

「もしそれがハリーの見こみちがいだったら、どうする?」

 

ハーマイオニーの質問に、ハリーは一度止まってから、すこし悲しげに肩をすくめて言った。 「もし当たってたら、どうする?」

 

ハーマイオニーは自分の手にそよぐ黒い織布にもう一度目をやる。 内がわからの触りごこちは不思議なほどやわらかで圧力もあり、まるでマントがこの手を抱擁しようとしているかのようだった。

 

ハーマイオニーはマントを乗せたまま手を持ちあげ、ハリーに突き出した。

 

ハリーは受けとろうとしなかった。

 

「これは——」とハーマイオニーは言う。「その、これはうれしいんだけど、一度考えさせてほしい。だからいまは返す。 それと……のぞき見はいけないことだと思う——」

 

「いじめの被害者を助けるために、加害者の様子をさぐるだけだとしても? ……ぼくは実際にいじめられたことはないけど、擬似的にならやられたことがある。あれは不愉快だった。 ハーマイオニー、きみはいじめられたことがある?」

 

「ない。」とハーマイオニーは小声で答え、それでも不可視のマントを突き返す。

 

ハリーはやっとマントを受けとり——ハーマイオニーは精神のかたすみで聞こえた音のない音楽が消えたことで、わずかに喪失の痛みを感じ——ポーチにしまいはじめた。

 

ポーチがマントをすっかり食べ終えると、ハリーはハーマイオニーのほうを向いて〈音消〉の障壁を解除しようとする——

 

「ところで、それって……()()〈不可視のマント〉じゃないんでしょう? パウワ・ヴィエイラ翻訳、ゴッツシャルク著『失われた遺物の絵巻』をいっしょに図書館で読んだとき、十八ページに出てきたマントだけど。覚えてる?」

 

ハリーはふりむいて、薄笑いの表情で、夕食時にほかの生徒たちに向けて使ったのとまったくおなじ声色で言った。 「ぼくがとてつもなく強力な魔法具を持っているかどうかについては、イエスともノーとも言えない。」

 

◆ ◆ ◆

 

夜になりベッドに身を横たえるときになっても、ハーマイオニーは決心がつかないでいた。今日の夕食の時間までは人生は単純だった。いじめを発見しようにも、現実的には打てる手がいっさいなかったのだから。これからまた、ひとつ選択をしなければならない。今度は自分のためではなく、友だちのための選択を。 しわの深いダンブルドアの顔、隠し切れない痛みを秘めた表情が幾度となく目に浮かぶ。『それは、本人たちが決めることだよ。きみ自身が決めることでもあったように』というハリーの声が幾度となく思いだされる。

 

そしてあのマントを手にしたときの鮮烈な感触がまた、何度も何度も、こころのなかで再生される。 あの手ざわりの記憶、そして自分の精神と魔法力のどこかで歌われたかもしれない、けれどいまは聞こえない音楽の記憶。その記憶には強く注意を引きよせるなにかがあり、ハーマイオニーはマントのことを考えずにはいられない。

 

ハリーはマントに『彼女のことを頼む』と言うとき、マントを人間のようにあつかっていた。 もとはハリーのお父さんの持ちものであり、一度なくされればかわりのものは手にはいらないのだという……

 

でも……いくらなんでも、ハリーはそんなことをするだろうか?

 

ホグウォーツより何百年も長い歴史のある三種の〈死の秘宝〉のひとつをあっさり差しだす、というのは……

 

そこまでしようとしてくれてうれしい、と思っていいことなのかもしれないが、これはもうそれどころではない。むしろ、自分はハリーにとってどういう存在なのか、ということが気になってしまう。

 

もしかすると、ハリーは友だち相手ならだれにでも古代の遺物を貸してしまうような男の子だったりするのかもしれないが——

 

ハリーは自分の人生の一部を早送りしたと言った。それはどういう種類の一部だったのか。ハーマイオニーの身の安全を守る、という話もでてきたが、あれはなんだったか……

 

ハーマイオニーは共同寝室(ドミトリー)の天井をじっと見あげる。 このベッドのむこうのどこかで、マンディとスーが話している。ある程度〈音消器〉を効かせてあるから、なんの話かは分からないが、ぶつぶつとした声としては聞こえている。 こうやって二人の同室生がいるのを感じていると、ハーマイオニーは安心して眠ることができる。 ハリーはそうではなく、いつも〈音消器〉を最大出力にしているらしい。

 

また疑問が浮かぶ。ハリーはやっぱり……

 

わたしに……

 

()()があるのでは……。

 

その夜、ハーマイオニー・グレンジャーはなかなか寝つくことができなかった。

 

翌朝起きると、小さな羊皮紙の紙片が枕の下からはみでていた。そこには『十時半、〈薬学〉教室を出て左手の四番目の小路にいけば、いじめの現場に遭遇できる——Sより』と書かれていた。

 

◆ ◆ ◆

 

朝食のため大広間にきたとき、ハーマイオニーの胃のなかでヒポグリフ大の蝶が飛びかっていた。レイヴンクローのテーブルが近くなっても、なにをすればいいのかすら分からない。

 

パドマのとなりの席があいている、ということに気づく。まずパドマに話して、パドマからダフネとトレイシーに話してもらう、というのはどうか。そのためには、あそこに座らなければ。

 

そう思って、ハーマイオニーはパドマのとなりの空席を目ざした。

 

『あのね、パドマ、昨日わたしのところに()()()()()()がとどいて——』というせりふを準備する。

 

しかしそこで、自分のなかに巨大な煉瓦の壁ができて、話すのを止められたような感触があった。 話すということは、ハンナとスーザンとダフネを()()にさらすということだ。 みんなを引き連れて、災いに向かって飛びこむようなものだ。 それは〈正しくない〉。

 

では、友だちになにも言わないまま、自分一人でいじめ退治にいくというのはどうだろうか。……これも〈正しくない〉行動であることは言うまでもない。

 

これは〈倫理上の二律背反〉の一種だ。どの本にも、選択に迷う魔法使いや魔女が登場する。ただし本の登場人物はいつも、()()()選択肢と間違った選択肢を一つずつあたえられている。今回のように正しくない選択肢二つのどちらかをえらばさせられるのは、ちょっと不公平だと思う。 けれど今日は、なぜか——多分、歴史の本に自分たちが登場することになったら、という話をハリーからいつも聞かされていたせいだろうが——この選択は〈英雄の決断〉の一種だというように感じられた。いまここでどちらをえらぶかによって、今後の人生が決定的に変わってしまうのだ、と。

 

ハーマイオニーはテーブルのまえに腰をおろし、向かいがわにも左右にも目をむけず、ただ皿と銀食器を、そのどこかに解が隠れているとでもいうようにして、じっとみつめ、必死に考えた。しばらくして、耳のすぐそばにささやきかける声があった。パドマの声だった。 「ダフネから伝言。今日十時半にいじめが発生する場所が分かったんだって。」

 

◆ ◆ ◆

 

破滅だ。

 

このままでは全員破滅する。スーザン・ボーンズはそう思っている。

 

昔よくこういう話をアメリアおばさんから聞かされた。バカげた行動であると分かっていながら、それでも実行してしまう人たち。話の結末は、だれかがそこらじゅうで()()してまわり、その被害がアメリアおばさんの靴にまでめぐってくる、というのが定番だった。

 

「ねえパドマ……」とパーヴァティが八人の忍び足とおなじくらい声を忍ばせてつぶやく。この八人は〈薬学(ポーションズ)〉教室に向かう廊下を進んでいる。 「けさハーマイオニーがずっとため息してたけど、なにかあった——」

 

「しずかに!」と叱りつけるラヴェンダーの声はパーヴァティをはるかに上回る音量。 「〈悪〉の勢力がそのへんで聞いたらどうするの!」

 

「シーッ!」ともう三人がさらにうるさい声で言った。

 

このままでは完全に、徹底的に破滅する。

 

〈薬学〉教室を左に出て四番目の脇道。そこでいじめが発生する、というのがダフネが謎の情報提供者からもらった情報だった。八人は速度をおとし、足音をさらに小さくする。あと一歩というところで、グレンジャー司令官が手で『わたしが偵察してくる、ここで待て』という意味の合図をした。

 

ラヴェンダーが片手をあげ、ハーマイオニーがそれに気づいてふりむく。ラヴェンダーは困惑した顔でまっすぐまえの廊下を指さし、自分の胸に手をあて、それからなにか別の、スーザンの知らない手ぶりをしかけた——

 

グレンジャー司令官は一度くびをふり、もう一度ふってから、こんどはさっきよりも時間をかけて大げさに『わたしが偵察してくる、ここで待て』という合図をした。

 

ラヴェンダーはさらに困惑して、背後の道を指さしながら、もう片ほうの手を上下にゆらした。

 

こんどはラヴェンダー以外の全員がラヴェンダー以上に困惑させられる番だった。こういくつも合図を新しくおぼえるとなると、二日まえに一時間練習しただけでは足りなかったか、と思うと痛い教訓でもある。

 

ハーマイオニーはラヴェンダーを指さし、それからラヴェンダーの足もとの床を指さした。表情とあわせて見れば、『動くな』という意味であることは誤解しようがなかった。

 

ラヴェンダーはうなづいた。

 

〈カオス軍団〉の『ドゥーンドゥンドゥンドゥン・ドゥーンドゥンドゥン……』という破滅の行進曲がスーザンのあたまのなかを駆けぬける。

 

ハーマイオニーはローブのなかに手をいれ、小さな棒をとりだした。棒の先端には反射鏡、反対がわにはレンズがついている。 それを手に、ハーマイオニーは音がでないようにおそるおそる壁づたいに進み、小路にでる直前のぎりぎりの位置までいき、レンズのほんの先っぽだけを突き出させた。

 

もうすこしだけそれを押しだす。

 

またもうすこしだけ。

 

それからグレンジャー司令官は慎重に、壁のむこうをじかにのぞきこんだ。

 

そしてふりむいてうなづき、片手で『いっしょに来い』という合図をした。

 

スーザンはすこしだけ気が楽になり、壁づたいに前進した。 〈作戦〉のうち、いじめっこが来る三十分まえに現場に到着するという部分は成功だったらしい。 破滅は破滅でも、多少ましにはなったかも……?

 

◆ ◆ ◆

 

十時二十九分、犯人はほぼ定刻どおりにあらわれた。その人物は、もしだれかが——一見して無人のこの廊下で——聞き耳をたてていたとしたらはっきり聞こえるほどの靴音をコツコツとたてて、脇道にそれていく。そのさきにある最初の角をまがると、意外にも奥が煉瓦の壁でかためられ、行き止まりになっていることに気づく。以前はなかった壁である。

 

それを見て犯人は肩をすくめ、うしろを向いて、もと来た角のあたりの様子をうかがう。

 

こういうことは、ホグウォーツ城ではめずらしくもない。

 

その薄い壁は〈転成術〉(トランスフィギュレイション)で煉瓦のように見せかけられただけの急ごしらえの作り物だった。裏がわではヒロインたちが待機していた。声をださず、身じろぎもせず、呼吸もほとんど止めて、作りつけたのぞき穴に一人一人が目をこらしている。

 

犯人のすがたが視界にはいって、スーザンは胸から足のさきまで全身が緊張するのを感じた。 七年生か()()()()の年格好の男子で、ローブのえりの色は残念ながら赤色ではなく緑色。そして()()()でもある。もうしばらく見ていると、()()()()()()らしい身のこなしをしていることも分かってきた。

 

それから、いくつもの足音が近づいてくるのが聞こえた。四年生のグリフィンドール生とスリザリン生が〈薬学〉の授業を終えて教室をでてきたのだ。

 

その足音が遠ざかり、だんだん消えていくが、犯人は動かない。 つかのま、スーザンはほっとした——

 

すると、もっと人数の少ない足音が近づいてきた。

 

犯人はそれでも動かず、足音は遠ざかっていく。

 

そういったことが何度かくりかえされた。

 

それから、聞こえるかどうかの足音が一組近づいてくるのと同時に、いじめっこが冷たい声で「プロテゴ」とつぶやくのを、七人ははっきりと聞いた。

 

だれかがはっと息をのんだ。さいわい、出たのはごく小さな音でしかなかった。 このまま、こちらから一撃もいれられなかったとしたら——

 

いじめの犯人たちは()()()()()()()()のだ、ということにスーザンは気づいた。S.P.H.E.W.がこんなことをくりかえせば、当然犯人たちもすぐに対策をとるだろうとは思っていたが——すでにハーマイオニーが三人を倒してしまった一件があるということは——そして昨日の、サラザール・スリザリンのゴーストが関与しているかもしれないといううわさが、もう学校じゅうに流れてしまった以上——

 

わたしたちが来ることは知られていた!

 

スーザンは、無理だ、撤退しよう、とみんなに伝えたいところだったが、伝える手段がない——

 

「『シレンシオ』」と男は余裕のある声で小さくつぶやく。青色の〈防壁魔法〉の雲に守られ、杖は大廊下のほうに向けられている。「『来い(アクシオ)』、獲物。」

 

するとのぞき穴からの視界に、さかさまに吊るされた四年生の男子のからだが映った。見えない手に空中で片足をつかまれているような姿勢で、赤色のえりをしたローブがめくれ、その下のズボンがむきだしになっている。 口をぱくぱくさせているが、声はだせないようだ。

 

「なにがどうなっているかさっぱりだろうが……」とスリザリン七年生の男が冷たく落ちついた声で言う。 「ご心配なく。グリフィンドール生でも理解できる単純な話だ。」

 

そう言ってスリザリン生の男は左手のこぶしをかため、グリフィンドール生の腹を思いきり殴った。 グリフィンドール生は苦しそうにのたうちまわるが、やはり声は聞こえない。

 

「おまえはおれのいじめの獲物で、 これから袋だたきになる。 それを止めようとするやつがいるかどうかは、これから分かる。」

 

罠だ。この時点でスーザンはそう気づいた。

 

それとほぼ同時に、高らかにさけぶ少女の声がした。 「暴力はやめなさい! 〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)

 

『ああラヴェンダー』と思い、スーザンは苦悶する。 ラヴェンダー・ブラウンはこうやってわざと目立つ行動をする役を買ってでたのだった。相手の注意をそらすことで、残りのメンバーが側面から攻撃する隙をつくる、という作戦だ。が、いまとなっては——

 

「ホグウォーツの名にかけて……」とスーザンから見えないところにいるラヴェンダーが言いはなつ。「全世界のヒロインの名にかけて命じます。その人を離さなければ……きゃっ

 

「『エクスペリアームス』。」と男が言う。「……『ステューピファイ』。『来い(アクシオ)』、ヒロインきどり。」

 

のぞき穴から見える範囲に来たとき、ラヴェンダーは片足をつかまれて宙吊りにされ、気をうしなっていた。それを見てスーザンは目をしばたたかせる。 ラヴェンダーの服が通常の学校用ローブではなく、鮮烈な赤色と金色のスカートとブラウスになっていた。

 

男も、さかさまになった少女のそのすがたをいぶかしげに見て、杖をむけ「フィニート・インカンターテム」と言った。衣装は変化しなかった。

 

それから男は肩をすくめ、四年生男子ではなくラヴェンダーの方向をむいたまま、腕を引きよせ拳を——

 

「『ラガン』!」と五人ぶんの大きな声がして、偽装した壁の五つの穴から突き出した五本の杖から、緑色の螺旋が五本はなたれた。一瞬遅れてハーマイオニーの「ステューピファイ!」という声がした。

 

五本の緑色の螺旋は青色の雲にあたってくだけ、防壁をくずすことができなかった。ハーマイオニーの赤色の雷撃は防壁にはねかえされ、四年生男子がその流れ弾を浴びて痙攣(けいれん)し、動かなくなった。

 

七年生の男はふりむき、ゆがんだ笑みをした。一年生女子たちは一斉にさけびながら突撃した。

 

◆ ◆ ◆

 

スーザンはまぶたがぱっと開いたその瞬間に、自分が床をころがり、もといた位置から離れていることに気づいた。あいかわらず息は苦しく、からだのあちこちが撃たれて痛む。戦闘の状況を見るに、意識をうしなったのは数秒だけだったらしい。ハンナがこちらにむけて手をのばしたまま倒れこんでくる。「グリッセオ!」というハーマイオニーの声が聞こえたが、相手の男が杖をひとふりして地面に緑色の軌跡をふりおろすと、ハーマイオニーの魔法が破られ、青白い細かな火花となって飛び散った。男はそのままの流れで「ステューピファイ!」と言ってハーマイオニーを正面から撃ち、吹き飛ばす。倒れたハーマイオニーに、スーザンはありったけの魔法力をこめて「イナヴェイト!」と呪文をかける。男の杖がすでにこちらを狙っているのが見えたのと同時に、パドマが「プリズマティス!」とさけび、男が「インペディメンタ!」とさけぶ。出現した虹色の球体は男のほうをつつみ、そこに反射したみずからの呪文を浴びて男は足をよろめかせる。しかしすぐに男は杖を引いて自分のからだをひと叩きし、するとパドマの〈虹色の球体〉(プリズマティック・スフィア)がシャボン玉のようにはじけた。はじけたところからそのまま男の杖が突き出してくる。倒れたハンナにパーヴァティが「イナヴェイト!」と呪文をかけ、同時にトレイシーとラヴェンダーが声をそろえて「ウィンガーディウム・レヴィオーサ!」と——

 

◆ ◆ ◆

 

ハンナ・アボットは疲れきって震える手で杖をにぎる。もう〈賦活(イナヴェイト)〉一回ぶんの魔法力もない。

 

小路は静まりかえっている。床にパドマとトレイシーとラヴェンダーがちからなく横たわり、壁ぎわにハーマイオニーとパーヴァティが重なって倒れ、スーザンは険しい顔のまま固まっている。いじめられていたグリフィンドール生男子さえ、足を投げだして床に倒れている。(この男子もハーマイオニーに起こされて戦っていたのだが、それでも相手が一枚上手だった。)

 

終わってみれば短い戦闘だった。

 

男はまだ笑みをのこしている。疲労のあとが見えるとすれば、そのからだをとりまく青く光る雲がちらついていることと、ひたいに見える数粒の汗だけ。

 

男は片手をあげてひたいの汗をぬぐい、じわじわと人間型レシフォールドのようにハンナに近づいてくる。

 

ハンナはそれに背をむけて走りだす。声にならないさけびをあげながら、崩れた偽煉瓦の板を乗りこえ、いまできるかぎりの速度で精いっぱい蛇行して走り——

 

小路を抜ける一歩手前まで来たところで、背後から「『クルース』!」という男の声が投げかけられた。ハンナの両足がひどく痙攣し、体勢をくずして壁にあたまを殴打した。その痛みにも気づけないほどに、足の筋肉がねじれ、激痛が走った——

 

ふりむくと、男がやはり一歩一歩ゆっくりと、悪どい笑みをして近づいてくるのが見えた。

 

ハンナは足の激痛に耐えながら転がって角をまわりこみ、本道がわに出て、さけんだ。 「こないで!」

 

「ことわる。」  もっと年上の大人の男のように凄みのある声がすぐそばから聞こえた。

 

男が角をまわりこむと、ダフネ・グリーングラスが〈元老貴族の剣〉で男の股間をまっすぐ突き刺した。

 

そして光が廊下の本道全体を照らす——

 

◆ ◆ ◆

 

七人は意気消沈して、マダム・ポンフリーの医務室をあとにした。もう一人はまだベッドから起きあがることができない。

 

あと三十五分もあればハンナは回復する、というのが癒者としてのマダム・ポンフリーの見立てだった。断裂した筋肉をつなぎなおすのは大した仕事ではない。

 

ダフネがマダム・ポンフリーに事情を説明する役を買ってでて、ハンナは〈走足の魔法〉をかけるのに失敗して足をつらせたのだということにした。マダム・ポンフリーはきつい目で二人を見たものの、〈走足の魔法〉は七年生前後で教わる魔法だという点を問いつめはしなかった。

 

ダフネは魔法力消耗に効く飲み薬(ポーション)をもらい、あと三時間は魔法を使わないようにと厳命された。 消耗したのはハンナを必死に〈解呪〉しようとしたせいだということにし、『プロテゴ』の壁を突破するための〈元老貴族の剣〉で全力を使いはたしたという話は伏せておいた。

 

ダフネが言いつくろうのにも限界があるので、のこりのメンバーの傷についてはいっさいマダム・ポンフリーに見せず、上級生のだれかに『エピスキー』を頼むことにした。

 

切り抜けられたとはいえ、あまりにも間一髪だった、とスーザンは思う。ひとつまちがえば…… 。もしあの犯人が曲がり角のさきをのぞきこまなかったら……。そのまえに〈防壁魔法〉をかけなおす手間をおしまなかったら……。

 

「やめよう。」と、スーザンは医務室に聞かれない程度の距離ができるとすぐに口をひらいた。 「もうこんなことはやめようよ。」

 

不思議と全員が、こういうとき投票で決めることにしたのを忘れて、グレンジャー司令官のほうを見た。

 

司令官は視線があつまったのに気づかない様子で、まえを見たまま歩みをとめなかった。

 

しばらくしてから、ハーマイオニー・グレンジャーは思案げに、すこしさびしげな声で言った。 「ハンナはやめてほしくないって言ってたでしょう。 なのにわたしたちが……ハンナを口実にして怖気づくのはよくないんじゃないかな。」

 

スーザン以外の全員がうなづいた。

 

「まあ、あれ以上ひどくなることはないんじゃない。あれくらいならなんとかなるって分かったし。」とパーヴァティが言った。

 

言うべきことばが見つからない。 腹の底から声をだして、どう見ても愚かで破滅的な発想だと言ってやったとしても、通じるような気がしない。 かといって、見捨てるわけにもいかない。 ハッフルパフは勤勉であることが宿命づけられている。そのうえ()()()()()でもあれ、というのだから困る。

 

「ところでラヴェンダー……さっき着てたあれって、いったいなに?」とパドマ。

 

「ヒーロー用コスチューム。」とラヴェンダー。

 

ダフネが疲れた声で、歩みを止めず、こちらを見ようともせずに言った。 「『月人戦隊の伝説』っていう芝居に登場する〈グリフィンドールの戦士〉の衣装よね。」

 

「〈転成術〉で作ったの?」とパーヴァティがとまどった表情で言う。「でもそれなら、なんで『フィニート』されても——」

 

「と思うでしょ! でもそうじゃないの! コスチュームの実物を()()()()()学校用のシャツとスカートに〈転成〉しておいて、敵を見つけたら『フィニート』を自分にかければ一瞬で着替えられるっていう仕組み。 パーヴァティもやってみる? わたしは昨日、六年生のカタリーナとジョシュアに十二シックルで作ってもらったから——」

 

「言っておくけど……」とグレンジャー司令官が一言ずつ慎重に言う。「それじゃ、まじめな活動に見えなくなると思う。」

 

「ふうん……じゃあまた投票ってことに——」

 

ラヴェンダーの声をさえぎって、またグレンジャー司令官が言う。 「言っておくけど、だれがどう投票しても、わたしはあんなふざけた格好でやられるのはおことわり——」

 

議論はつづくが、スーザンは耳を貸さず、 このメンバーが破滅に直行せずにすむ戦略がなにかないか、と考えをめぐらせた。

 

◆ ◆ ◆

 

昼食の時間になり、七人が大広間にあらわれると、全体がつかのま静まった。

 

それから拍手がはじまった。

 

全員が一斉に拍手したのではなく、ちらほらとした拍手だった。大半がグリフィンドールのテーブルから、多少はハッフルパフとレイヴンクローから来ていた。スリザリンからの拍手はなかった。

 

ダフネは自分の顔がこわばるのを感じた。うまくいけば——今回はグリフィンドール生にいじめられていたスリザリン生を助けてきたのだし、うまくいけばスリザリン寮もこれで、と思っていたが——

 

ハッフルパフのテーブルに目をやる。

 

ネヴィル・ロングボトムが両手をあげて大きく拍手していたが、笑顔ではなかった。 多分ハンナのことを聞いていたか、なぜここにハンナがいないのかと思っているか、だろう。

 

それからつい、〈主テーブル〉にもちらりと目をむける。

 

スプラウト先生は心配げに顔に(しわ)をよせていた。 マクゴナガル先生といっしょに、厳粛そうな顔のダンブルドア総長のほうを向いて、せわしなく口を動かしている。 フリトウィック先生はどちらかといえばあきらめ顔で、クィレル先生は気のぬけた顔つきで、震える手をげんこつにしてスプーンをにぎってスープに突き刺している。

 

スネイプ先生の目はまっすぐに——

 

()()()()()()……?

 

いや——そのとなりの、ハーマイオニー・グレンジャーに向けられている?

 

スネイプ先生はわずかな笑みを垣間見せ、両手をあげ、音が出ないくらいにやけにゆっくりとした動きで、一回だけ手のひらをあわせた。それから周囲の話し声を無視して、自分の皿に注意をもどした。

 

ダフネは背すじに軽く寒けを感じ、いそいでスリザリンのテーブルのほうに歩いていった。 スーザンとラヴェンダーとパーヴァティは隊列を脱け出し、大広間の反対がわにあるハッフルパフとグリフィンドールのテーブルにむかっていった。

 

ダフネたちがスリザリンのテーブルのクィディッチ選手たちの陣取っているあたりを通過するとき、事件が起きた。

 

ハーマイオニーが突然つまづいたのだった。どこからか足を引っぱられたように勢いよくつまづき、マーカス・フリントとルシアン・ボウルのあいだの空席に身を投げだし、びちょ、といやな音がした。ハーマイオニーはフリントの皿のステーキとマッシュポテトに、顔から突っこんでいた。

 

そこからのできごとはとても高速に——ダフネがついていけていないだけだっただけかもしれないが——展開した。フリントがハーマイオニーをどなりつけ、突き飛ばす。ハーマイオニーはレイヴンクローのテーブルのだれかの背なかに当たってはねかえり、床に倒れる——

 

静寂がさざなみのように広がった。

 

ハーマイオニーは両手を床につき身を起こすが、完全には立ちあがらず、全身を震えさせている。顔にはまだ、マッシュポテトとステーキのかけらがべっとりだった。

 

かなりの時間、だれもしゃべらず、だれも動かない。 つぎになにが起きるか、この場のだれにも想像できないかのようだった。ダフネもおなじだった。

 

フリントが、スリザリンのキャプテンとしてクィディッチ場で指令するときのような力強い、やくざっぽい声で言う。 「おれの食事を台無しにしてくれたな。」

 

もう一度、凍りつくような静寂。そしてハーマイオニーが顔を——震えているのがダフネには分かった——フリントのほうにむける。

 

「あやまれよ。」とフリント。

 

レイヴンクローのテーブルにいるハリー・ポッターが席を立とうとするが、途中でまるで別のことを思いついたかのように、その動きをやめる——

 

レイヴンクローのテーブルから別の五人が立ちあがる。

 

スリザリンのクィディッチ選手が全員、杖を手に立ちあがり、グリフィンドールとハッフルパフのテーブルでも何人かが立ちあがる。無意識に〈主テーブル〉のほうに目をやると、総長は座って傍観しているだけだった。ダンブルドアはただ()()()()()()。片手でマクゴナガル先生を制止する合図のようなことをしてさえいる。つぎの瞬間にはだれかが呪文を撃って手おくれになるかもしれないというのに、()()()()()()()()()()()()()()——

 

「失礼した。」と言う声があった。

 

声の主のほうにふりむいて、ダフネはショックのあまり呆然となった。

 

「スコージファイ」と同じなめらかな声で呪文がとなえられ、マッシュポテトがハーマイオニーの顔から消えさった。ハーマイオニーもおどろいた表情で、やってくるドラコ・マルフォイを見ている。ドラコ・マルフォイは杖をしまうと、片ひざを床について、ハーマイオニーに手を貸した。

 

「申し訳ない、ミス・グレンジャー。」とドラコ・マルフォイは礼儀ただしく言う。 「だれかさんはおふざけでやっているつもりだったようだ。」

 

ハーマイオニーはドラコの手をとった。そこでダフネは突然、つぎに来るシーンを予想できた——

 

と思ったのだが、ドラコ・マルフォイがハーマイオニーを()()()()()()()()()()()()()()シーンはやってこなかった。

 

そのままふつうに立たせただけだった。

 

「ありがとう。」とハーマイオニーが言う。

 

「どういたしまして。」とドラコ・マルフォイは大声で言う。 「あんなものを狡知や野心だと思われては困るからな。」  どちらに向けて言ったのでもなかったが、四寮の全員が度肝をぬかれた表情でそのすがたを見ていた。

 

それからドラコ・マルフォイは、まるでなにも特別なことはなかったというかのような態度で、もとの席につく。……いやいや、これは特別どころか——

 

ハーマイオニーはレイヴンクローのテーブルに手近な空席を見つけて座った。

 

ほかの何人かも、やけにゆっくりと座った。

 

「ダフネ? どうかした?」とトレイシーが声をかけてきた。

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコはあまりに心臓がばくばくとしていて、心臓が血しぶきをあげて爆発するのではないかと思った。アミカス・カロウに呪いをかけられたあの子犬のように。

 

表情にはいっさいの動揺を見せなかった。もし内面で感じている恐怖のほんのすこしでも見せてしまえば、スリザリン寮の全員がアクロマンチュラの群れのように寄ってたかって容赦なくドラコを攻撃するだろう(ということをドラコは徹底的に教えられていた)から。

 

ハリー・ポッターに確認をとっている時間はなかった。策略をめぐらす時間も、考える時間もなかった。一瞬の猶予で気づけたのは、スリザリンの名声をとりもどしはじめるならいまだ、ということだけだった。

 

スリザリンのテーブルの長い列にならぶ顔を見ると、ドラコを見る怒りの目がいくつもあった。

 

だがそれ以上に、困惑の表情も多かった。

 

「もう降参だ。」  そう言う生徒は六年生だと思うが、名前が記憶にない。 「だから教えてくれよ、マルフォイ。なんのためにあんなことをした?」

 

ドラコは口のかわきを強く感じたが、つばを飲みこむことはしなかった。 その動作は恐れのしるしとして受けとられてしまう。 かわりに皿にある食べもののなかで一番水分のあるニンジンをひとくちかじり、噛んでから飲みこみ、同時にすばやく考えをまとめた。

 

「まず……」と、ドラコはできるかぎり痛烈な口調をつとめ——周囲の人びとが話をやめてこちらに注意をむけるのを見て、心臓がいっそう激しく鼓動するのを感じ—— 「スリザリンの評判をおとしたいなら、いじめ退治をしようとして四寮から集まった一年生女子八人を攻撃するよりも効果的な方法は、なにかあるんじゃないかとは思う。ただすぐ思いつく範囲では、あれ以上の方法はそうそうない。 ぼくのやりかたなら、グリーングラスの目論見に乗じて、われわれみなが得をする。」

 

周囲のどの顔も困惑の表情のまま変化しない。

 

「は?」とその六年生男子が言い、そこにかさねて「なんのこと? その得というのは。」とドラコの右にいる五年生女子が言った。

 

「スリザリン寮の評判をよくすることができる。」

 

それがドラコの返事だったが、周囲のスリザリン生は全員、まるで代数の仕組みを説明しようとされたかのように、わけがわからないという顔をした。

 

「評判って、だれからの?」と六年生男子が言った。

 

「……でもあなたはさっき泥血(マッドブラッド)助けた。あれで評判がよくなるとでも?」と五年生女子が言った。

 

ドラコののどがちぢこまった。 ドラコの脳は深刻な動作不良を起こし、真実をつたえる以外の行動をなにも思いつかない——

 

「マルフォイはきっと、ものすごく巧妙な謀略かなにかをやろうとしてるんだな。」と五年生男子が言う。 「ほら、『(ライト)の悲劇』にあったように、ミスにしか見えないことがすべてちゃんと布石になっている、っていう。 最後にはグレンジャーの生首がどこかにぶらさがることになっても、だれもマルフォイのしわざとは疑わない。」

 

「それなら分かる気がする……」とテーブルの奥のほうでだれかが言い、何人もが同調してうなづいた。

 

◆ ◆ ◆

 

親分(ボス)はなにをたくらんでるんだ……。おまえは知っているのか?」とヴィンセントがそっとささやく。

 

グレゴリー・ゴイルは答えない。 サラザール・スリザリンがポッターとグレンジャーにいじめの起きる場所を教えているといううわさが流れた日に主人が言った『あれを一字一句そのまま信じる気になった自分が信じられない』という一言が、その声とともにはっきり思いだされる。

 

「ミスター・ゴイル?」とヴィンセントがくりかえす。

 

グレゴリー・ゴイルの口が『まさか……』と言うかたちをしたが、声にはならなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

その後、ハーマイオニーはなぜか食欲がなくなり、昼食を中座した。 あの屈辱の数秒間が何度もこころのなかで再生され、そのたびに痛みが熱をもつ。顔がマッシュポテトにのめりこむときの感覚、自分が突き飛ばされるときの感覚、それから『あやまれよ』と言われるときの感覚……。自分を押し飛ばした男子(マーカス・フリントという名前だった)とあの〈つまづきの呪文(ジンクス)〉の使い手のことを思いうかべて、生まれてはじめてハーマイオニーは人を……()()()()()()ような気がした。一瞬、ハリーのところに行って、ハリーがなにか新しい()()でかわりに仕返したいなら今回は見逃す、と言ってしまおうかとさえ思った。

 

大広間をでて間もなく、うしろからだれかの足音が聞こえた。ふりむくと、ダフネが駆けよってきていた。

 

そして、〈太陽部隊〉の部下でもある彼女の話に耳をかたむけると……

 

「わからないの?」 ダフネは声をおさえきれていなかった。 「だれかが親切にしてきただけで味方だと思っちゃだめ! あれは()()()()()()()()()なんだから! あいつの父親は〈死食い人〉だったし、仲のいい家族の親はことごとく〈死食い人〉——ノットも、ゴイルも、クラッブも、みんなそうなのよ。分かる? その全員がマグル生まれを軽蔑して……あなたたちのことを死ねばいいと思っている。マグル生まれは〈闇〉の儀式の()()()()くらいにしか使い道がないと思っている! ドラコはいずれマルフォイ卿のあとをつぐ。そのために生まれてからずっとあなたたちを憎むことを教えられている。生まれてからずっと、()()()()()ことを教えられているの!」  ダフネの灰緑色の目が熱く燃え、同意と理解をもとめている。

 

「ドラコ・マルフォイは——」  ハーマイオニーは声をつかえさせた。 屋根でのできごとを思いだす。がくりと足を踏みはずした瞬間の衝撃。あとであざになるほどきつく手をにぎられたこと。 落としてもらうまでに二度も頼まなければならなかったこと。 「そこまで染まっていないんじゃないかな——」

 

ダフネは悲鳴といっていいほどの声になった。 「助けたぶん十倍お返しにしてあなたを痛めつけなかったとしたら、あいつは()()()()なの! ルシウス・マルフォイなら、息子を絶縁することもいとわない! あれになにも裏がないっていう可能性がどれくらいあると思ってる?」

 

「ほんのすこしだけ……?」とハーマイオニーは小声で言った。

 

「ゼロよゼロ! ていうかマイナス! 小さすぎて、〈拡大の魔法〉と〈方位の魔法〉と——それと——それと古代の地図とケンタウロスの予言があっても見つからないくらい! あれはなにか別の目的があってやったことだって、スリザリン生ならみんな知ってる。あなたがつまづく直前にマルフォイが杖をむけてたっていう話まである——分かった? マルフォイはなにかたくらんでるんだって!」

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコは席につき、ステーキと炒めたカリフラワーの房にアシュワインダー・ソース(ただしほんもののアシュワインダーの卵からできたソースではなく、火のような味がするだけのもの)をかけて食べながら、笑うことも泣くこともないように気をつけていた。

 

ドラコも合理的な否認可能性というものを以前から知ってはいた。しかしマルフォイ家がそれをいっさい確保していないことに気づいてやっとその重要性が理解できた。

 

「なにをたくらんでるかって? 教えてあげよう。 これからぼくは()()()()()()。そうしておけば、次回ぼくがなにかたくらんでいそうに見えても、だれも確実にそうだとは思えなくなる。」

 

「ふーん……」と五年生男子が言う。「どうもうそっぽいな。それだけじゃ大してずる賢い作戦には聞こえない。もっとなにかあるだろう——」

 

「そう思わせるのが作戦なのかもよ。」と五年生女子が言った。

 

◆ ◆ ◆

 

「アルバス」とミネルヴァがするどい声で言う。「……あれもあなたが仕組んだことですか?」

 

◆ ◆ ◆

 

「あのさ、()()ぼくがテーブルの下で指をならしていたとして、正直に白状するとでも——」

 

◆ ◆ ◆

 

またクィレル先生の手の震えがひどくなり、スプーンがスープのなかに落ちた。

 

◆ ◆ ◆

 

「わたしが仕組んだ、ってどういう意味?」と言うミリセントといっしょに、ダフネはベッドの上であぐらをかいて座っている。二人は大広間での昼食のあとまっすぐにここに来たのだった。 「言ったでしょ、〈時間そのもの〉を見とおすこの〈予見者〉の目で、あなたたちが勝つのが見えたんだって。」

 

ダフネはミリセントをじっと常人の目で見ていたが、一瞬視線がきつくなった。 「むこうはわたしたちが来るのを知っていた。」

 

「そりゃあね、あなたたちがいじめ退治をしてるのは周知のことだし。」

 

「ハンナは呪文でひどいけがをしたのよ。癒者にみてもらわないといけないくらいに! 友だちなら、そういうことは()()してよ、ミリセント!」

 

「待ってよ、ダフネ。わたしは最初から——」  ミリセントはそう言ってから口をつぐみ、なにかを思いだすようにしてから、つづけた。 「ほら、最初から言っておいたでしょ。わたしに〈見〉えたできごとはかならず、そのとおりになる。 それはわたしにも、ほかのだれにも変えられない。変えようとしたら、なにかひどい、ものすごく無惨な、最悪なことが起きる。 それでいて、予見されたできごともけっきょく起きる。 だから、もしあなたたちがやられるところが〈見〉えたとしても、教えるわけにはいかないの。教えたら、行くのをやめようとするだろうし、そしたら——」  ミリセントの声がとまった。

 

「そしたら、なに?」とダフネはうさんくささを感じながら言う。「行かなかったらどうなるの?」

 

「知らない! でもそれとくらべれば、レシフォールドに食べられるのがお茶会に思えるくらいひどいことになる!」

 

「あのね、予言がそういうものじゃないのはわたしでも分かるわよ。」と言ってからダフネは一度言いやめた。 「……すくなくとも、芝居のなかではね……」  実のところ芝居の知識で言えば、予言の成就をのがれようとすることによって起きる悲劇や、逆に予言にさからうのをやめたばかりに予言を成就させてしまうという悲劇は数知れない。 それでもうまくやれば、予言を自分に都合のいいかたちで成就させたりとか、自分を愛するだれかが身代わりになってくれたりだとか、努力すれば予言を崩すこともできたりとかいうストーリーもあったりする……。 といっても、芝居にでてくる〈予見者〉は決まって、〈見〉えた内容を覚えていないのだが……

 

ミリセントはダフネが躊躇していることに気づいたらしく、すこしだけ自信を深めた様子で言った。 「でも、これは芝居じゃないからね! じゃあ、こんどからは、苦戦するか楽に勝てるかが〈見〉えたら教えてあげる。 でもわたしにできることは、そこまでよ? それで『苦戦』だったとしても、逃げちゃだめよ。逃げたら——逃げたら——」  そこでミリセントは白目をむいて、うつろな声をする。 「運命を(たばか)ろうとする者は悲惨な末路を迎える——

 

◆ ◆ ◆

 

スーザンのまえで、スプラウト先生はけわしい表情をしてくびをふった。

 

「でも——でも先生は、以前ハリー・ポッターのために手を貸したじゃないですか——」

 

「そのあとで、はっきりと警告されましたからね。」とスプラウト先生は〈縮小の魔法〉でのどを縮められたかのような声をだした。 「スリザリン寮の規律を維持するのは、わたしではなくスネイプ先生の役割だ、と。——ミス・ボーンズ、よく考えなさい。なにもあなたがそうする義務は——」

 

「いいえ、あります。わたしはハッフルパフですから、仲間を見捨てることはできません。」  スーザンは不本意ながらそう言った。

 

◆ ◆ ◆

 

「枕もとに謎の羊皮紙が?」と言ってハリー・ポッターは机から顔をあげた。二人はこの〈音消〉した一角でいっしょに自習しているところだった。少年は緑色の目をするどくして言う。 「送りぬしはサンタクロースだったりしないよね?」

 

ハーマイオニーは一瞬かたまった。

 

「それって……うん、深く追及するのはやめておきましょうか。その発言、わたしは聞かなかったことにするから、あなたも言わなかったことにする。いいわね——」

 

◆ ◆ ◆

 

スーザンはハッフルパフ談話室で目当ての上級生女子が一人になった瞬間をとらえて、すぐにテーブルに近づいていった。あたりを見わたし、だれにも見られていないことを確認することも忘れなかった。(アメリアおばさんに教わった、こちらが見ているということは気づかれないようなやりかたで。)

 

「おやスージー、どうした。あれがもう足りなくなったとか——」

 

そう言う七年生女子に、スーザンは問いかける。

 

「ちょっと人目につかないところで話したいんだけど、いいですか?」

 

◆ ◆ ◆

 

最近まで決闘術界隈で将来有望な選手といわれていたスリザリン七年生ハイメ・アストルガは、スネイプ教授室に呼ばれ、くちをかたく閉じ、背すじに汗をしたたらせ、直立不動の姿勢をとっている。

 

「つい今朝がた、一年生女子に不穏な動きがある、と警告しておいたはずだが。よもや忘れてはいまいな。()()して相手の()()を許してしまえば面倒なことにもなりうる、とまで言っておいたはずだ。」

 

皮肉な声でそう言って、スネイプ教授はハイメのまわりをゆっくりと一周した。

 

「あれは——」 また一段と、ハイメのひたいに汗が浮かぶ。 あまりにバカげた、なさけない言いわけに聞こえるとは思うが……。 「説明させてください。あれほどの威力の魔法はとても一年生には——」 ……いくら古い魔法を使ったとしても、一年生の魔法力でハイメの『プロテゴ』をやぶれるはずがない——グリーングラスを補助した()()()があったはず——

 

だがその説明でスネイプが納得しないことは明白だった。

 

「よい着眼点だ……」とスネイプは脅迫じみた低い声で言う。 「……とても一年生とは思えない威力だったと。 ミスター・マルフォイの腹づもりが何にせよ、彼のやりかたにも一理あるかもしれない。 戦闘にたけた生徒が実力を見せつけるどころか、小娘に負かされたとあっては、スリザリン寮の名声をおとすばかりだ! アストルガ、おまえを負かしたのがおなじスリザリン生の〈貴族〉の娘であったのはせめてもの救い。そうでもなければわたしがすすんでスリザリン寮の減点を命じていた!」

 

ハイメ・アストルガは左右にさげた手をにぎりしめたが、返すことばがなかった。

 

もうしばらく問答がつづいてから、ハイメ・アストルガは寮監との面談から解放された。

 

その後だれもいなくなった部屋で、壁と床と天井だけがセヴルス・スネイプの笑みを目撃した。

 

◆ ◆ ◆

 

その日の夕刻、ドラコのもとに父からのフクロウがとどいた。名前をタナシュというそのフクロウは緑色ではないが、それもそんな色のフクロウはどこにもいないからにすぎない。 次善の手として、まじりけのない銀色の羽と、よく光る緑色の目と、残虐なヘビの牙を思わせるくちばしをそなえたフクロウを父上は確保していた。 タナシュの足に結びつけられた羊皮紙には、短く要点だけが書かれていた。

 

『息子よ、おまえはなにをしている?』

 

ドラコが羊皮紙に書いた返事も同様に短いものだった。

 

『スリザリンの名声を落とす行為を止めようとしています。』

 

ホグウォーツからマルフォイ邸までフクロウが飛んで行き帰りするのにかかるだけの時間が経つとすぐに、もう一通のメッセージがドラコにとどいた。その内容はまた一文だけだった。

 

『実際にはなにを?』

 

ドラコはフクロウの足からほどいて取ったその羊皮紙をじっと見つめた。 震える両手でそれを持ちあげ、暖炉の火に入れた。 この短い黒インクの一文がなぜ、死の恐怖をも越える恐怖を感じさせるのか。

 

長く考えてはいられない。 父上はフクロウがマルフォイ邸とホグウォーツのあいだを往復するのにかかる時間の長さを正確に知っている。 慎重にうそを作りあげようとしても、返事が遅れてしまっては簡単に見やぶられる。

 

それでもドラコは手の震えがとまるのを待ってから返事を書いた。父上が納得しそうな返事は、これしか考えられなかった。

 

『来たる戦争へのそなえをしています。』

 

ドラコはその羊皮紙をタナシュの足に巻きつけ、自室から城内の廊下の暗がりにむけて飛びたたせた。

 

そして待った。返信は来なかった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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73章「自己実現(その8)——聖と俗」

赤い炎のかたまりを正面から顔に受けてひっくりかえり、石壁にあたまを打ちつけたハンナ。黄土色のほつれた髪の毛のなかの顔が一度はもちこたえたような表情をしたものの、すぐにからだ全体ががくりと床に倒れ、ローブがかぶさって見えなくなった。その横で、三度目の緑色の螺旋光が一斉にはなたれ、敵の〈防壁魔法〉がついに崩壊した。

 

——三月の日々は講義と自習と宿題と朝食と昼食と夕食に消え、着々とすすんでいく。

 

相手のグリフィンドール生男子は全身に緊張をみなぎらせ、八人のすがたを凝視した。複雑に変化する表情と裏腹に、声は聞こえてこなかった。やがて彼はもう一人のスリザリン生の襟口をつかんでいた手をぱっと離し、去っていった。だれひとり口をきこうとしなかった。(いや、ラヴェンダーだけはそうでもなかったらしく——多分いつもの口上を聞かせるチャンスをのがしたのを恨んでか、不服そうな顔で——口をひらきかけた。ハーマイオニーは運よくそれに気づけたので、手で黙れの合図をしてやった。)

 

——もちろん、睡眠の時間も。 あたりまえすぎて忘れがちだけれど、眠るのもだいじな仕事だ。

 

「イナヴェイト!」とスーザン・ボーンズの声がして、ハーマイオニーはぱっと目をあけ、息をしようとしてむせた。胸のうえに巨大な重りをのせられたように、呼吸が苦しい。 となりではハンナがさきに身を起こし、両手であたまをかかえて顔をしかめている。 この回は『苦戦』になるとダフネから言われていたので、ハーマイオニーはそれなりの悲壮感をもって戦闘にのぞんだ。ほかのメンバーも同様だったが、 スーザンだけは、すこし変わった様子があった。スーザンは今回、集合時刻ぴったりにあらわれ、それからずっと無言で歩き、この七年生との戦闘になってからは、ほかの全員が倒れても持ちこたえていた。 相手はグリフィンドール生だったから、ボーンズ家のあとつぎであるスーザンとは戦いたくないと思ったのかもしれないし、ただ運がよかっただけかもしれない。 それはともかく、ハーマイオニーはまた立とうとしかけたところで、胸の重苦しさの原因に気づいた。実際そこに大柄な人間の胴体がかぶさっていたのだった。

 

——それと、魔法のための時間も忘れてはならない。呪文をとなえるのに使う時間は一日あたりごくわずかだとしても、 この学校はそのためにあるのだから。

 

「そうだ、つぎからはみんなでスケートボードを使ってみない?」とラヴェンダーが言った。 「スケートボードなら歩くよりずっと速く移動できるし、 なにより見た目がいいわ。ああいうマグル製品って、速度はホウキに負けるけど、かっこよさでは上だと思う。——ってことで、また投票ね——」

 

——それ以外の時間はみな、上級生たちの恋愛の噂話をしたり、友だちと自習や読書をしたりなど、思い思いの活動についやしている。

 

ハーマイオニーは愛読書『ホグウォーツとその歴史』を床に落とし、拾おうとして震える手をのばす。ハーマイオニー自身が、その本のとなりで床に尻をついていた。というのも、赤ローブの上級生女子に『偶然』ぶつかられ、壁にたたきつけられたからだった。そのグリフィンドール生はすれちがいざまに、こちらを見ないまま小声で「サラザールの○○○」とだけ言い捨てていった。ハーマイオニーにとっては、スリザリン生が泥血(マッドブラッド)に対して使うどの罵倒語よりも、ぐさりとくることばだった。『マッドブラッド』はまだ変わった魔法族用語としか感じないが、グリフィンドール生が言ったそのことばならハーマイオニーもよく知っている。何度くりかえされても憎悪をむけられることには慣れないし、 そのたびにぐさりと感じる。憎悪の送り手がグリフィンドール生だと余計にそう思うのは、多分グリフィンドールは善であるはずだからだろう。

 

——ハリーは命じられたとおり、八人の兵士をほかの軍に譲った。士官を一人ではなく二人提供しさえした。ディーン・トマスが〈ドラゴン旅団〉へ行き、ハーマイオニーのところにはブレイズ・ザビニと交換でシェイマス・フィネガンが来た。〈太陽(サンシャイン)〉ではザビニが『十分に活用されていない』というのがハリーの言いぶんだった。 ラヴェンダーはSPHEWメンバーが多くいる〈太陽〉への転籍をえらんだが、トレイシーは〈カオス〉に残留した。

 

「どうせ、ポッター司令官の気を引きたいからでしょ?」とラヴェンダーが言った。両者の会話をハーマイオニーはできるかぎり無視しようとしていた。 「むだだと思うけどね、トレイシー。あれはもう、うちの司令官に首ったけだから——ハーマイオニーを説得してみるほうが、まだ目があるんじゃない。ほら、三人でさ……そういう協定でやってみない、って——」

 

——ドラコ・マルフォイの真のねらいについては、まだだれも解明できていない。

 

「……確信?」とハリー・ポッターが妙にしぶしぶ答えた。 「合理主義者はなにごとにも確信なんかないんだよ。二たす二が四であるということすらも。 ぼくはマルフォイのこころを読むことはできないし、仮にできたとしても彼が完璧な〈閉心術〉を使っていないという保証はない。 とにかく、ただスリザリンの印象をよくしようとしているだけだっていうほうが、ダフネ・グリーングラスの話よりはしっくりくると思うだけだよ。 もしそうなら、ぼくらとしては……できるだけ協力すべきだと思う。」

 

(——という風に、ハリーはドラコ・マルフォイが善意でうごいていると思っているようだ。 ただ、ハリーはクィレル先生のような人を信頼してしまうタイプだから困る。)

 

◆ ◆ ◆

 

「クィレル先生、ぼくはスリザリン寮がハーマイオニー・グレンジャーに憎悪をつのらせていることを心配しています。」

 

ハリーとクィレル先生は〈防衛術〉教授室でむかいあって座っている。机から遠く離れた位置(それでも災厄の予感ははっきりと感じられる)の椅子にいるハリーからは、からっぽの書棚と髪の毛の薄いクィレル先生の頭部が見える。 ハリーの太ももに置かれたティーカップには、にごりのある高級中国茶らしきものがはいっている。ハリーは最近いろいろなことをある種の方向で考えるようになっていて、今回も意識して飲もうと思わなければ飲む気になれなかった。

 

「そのこととわたしになんのかかわりが?」とクィレル先生は茶を一くち飲んで言った。

 

「またそれですか——そういうのはもうやめてくださいよ。あなたこそ、今年最初の金曜日からずっとスリザリン寮の評価を回復しようとしていたんでしょう。もしかすると、もっとまえから。」

 

薄いくちびるの端に、ほんのかすかに笑みがよぎったような気もした。が、たしかではない。 「わたしとしては、少女一人の運命とは無関係に、スリザリンの建てた寮の先行きは十分明るいと思う。 しかし、たしかにきみの大切なミス・グレンジャーをとりまく状況は厳しいようだ。 有力者一族や人脈の広い一族の多い二寮の狼藉者がそろって、彼女を標的にしている。自分たちの名声をおびやかす存在、誇りを傷つける存在と見なしている。 彼女を痛めつけることも目的の一部ではあるだろうが、グリフィンドール生にとっては、自分たちが子どものころから夢みてきたヒロイズムをよそものに体現されてしまったことへの嫉妬のほうがはるかに強い。」  クィレル先生の口もとに、わずかではあるが明らかに笑みが見えた。 「スリザリン寮では、サラザール・スリザリンのゴーストが自分たちを見捨てて泥血(マッドブラッド)に手を貸したのだといううわさが流れている。そんな話を聞かされてスリザリン生たちがどう反応するか想像がつくかね? 信じない者はそれを侮辱と見なし、報復のためよろこんでミス・グレンジャーを殺しにいくだろう。いっぽう、事実である可能性を捨てきれない者が内心どれだけひどく動揺しているか、わたしには手にとるように分かる。」  クィレル先生は落ちついた様子でまた茶をすすった。 「ミスター・ポッター、きみももっと経験をつめば、こういった帰結が生じうるということを、謀略をめぐらすまえに気づけるようになる。現時点で、きみは人間の本性の一部が不快に感じられるとき、わざと無知なままでいようとしている。そのことできみは損をしている。」

 

ハリーも茶をすすった。

 

「じゃあ……助けてあげられません?」

 

「すでに手はさしのべた。わたしも教師だ。こうなることが見えた時点ですぐにそうした。しかし『余計なお世話だ』というのがミス・グレンジャーの返事だった。もっと丁寧な言いかただったがね。 きみが援助しようとしても、答えはおなじだろう。 この件はどう転ぼうが、わたしには得も損もないに等しい。だから無理に援助する気はない。」  クィレル先生は肩をすくめ、また椅子に背をもたれさせた。そのあいだティーカップを持つ手は作法にのっとって静止していて、カップのなかの水面には波ひとつ立たなかった。 「なに、心配することはない。 ミス・グレンジャーの周囲に感情的な対立が生まれているのはたしかだが、身の危険についてはきみが思うほどのことはない。 きみももうすこし年齢をかさねれば気づくだろう。凡庸な人間はほとんどいつも傍観の一手をとるということに。」

 

◆ ◆ ◆

 

その日の昼食中に、スリザリン式配送システムでダフネにとどいた一通の封筒はいつもどおり無記名だった。中の羊皮紙に書かれていたのは、時間と場所と、『苦戦』のひとことだけ。

 

その日ダフネが気にしていたことは別にあった。 昼食のときミリセントが自分やトレイシーのほうを見るのを避けているような気がしてならなかった。 ミリセントは目のまえの皿をまっすぐ見て、ひたすら食べていた。一度だけうつむくのをやめ、ハッフルハプのテーブルの方向を見たが、すぐにまたうつむいた。 ただ、ダフネの席からもトレイシーの席からもミリセントとは距離がありすぎて、どういう表情だったのかは分からなかった。

 

そのことを昼食のあいだ考えていて、ダフネはいつになく不吉な感覚をおぼえ、そのせいで一皿目の途中までしか食べることができなかった。

 

『わたしに〈見〉えたできごとはかならず、そのとおりになる……。レシフォールドに食べられるのがお茶会に思えるくらいひどいことになる……』

 

スリザリン生ならいつでも、自分の利益を第一に、理性的な判断をすべきだ。だが今回ダフネはあえてそうしなかった。

 

かわりに——

 

次回の相手はとくにハッフルパフを標的にしていて、教師からの罰も覚悟のうえでハンナかスーザンをひどく痛めつけようとしている、だから二人は参加すべきじゃない……ということをハンナとスーザンそのほか全員に、いつもの情報提供者からの情報として告げた。

 

ハンナは不参加を約束した。

 

スーザンは——

 

◆ ◆ ◆

 

()()()()()()()()()()()()()()」とグレンジャー司令官が言った。ささやき声なのに、声をはりあげたようにも聞こえた。

 

ぽちゃ顔のスーザンは動揺を見せなかった。ダフネの母のような熟練した無表情を突然身につけたかのようだった。

 

「いちゃいけない?」とスーザンは平静な声で言った。

 

「来ないっていう約束でしょう!」

 

「そうだっけ?」と言ってスーザンは片手で杖を軽く回転させた。待機しているメンバーの横で、スーザンは廊下の壁にもたれている。黄色のえりのローブにかかった赤茶色の髪の毛は不思議とどこも乱れていない。 「……なんでそんな約束したのかな。ハンナに変な影響をあたえたくないと思ったからかもね。 ハッフルパフはいつも仲間のために、ってね。」

 

「あなたがついてくる気なら、今日の任務(ミッション)は中止する。全員寮に帰ってもらう。わかった? ミス・ボーンズ!」とグレンジャー司令官。

 

その発言にラヴェンダーが反応する。 「ちょっと! 投票もしないでそんな——」

 

「なら帰ればいいんじゃない。」と言ってスーザンは廊下のさきをじっと見ている。前方で合流してきているもうひとつの廊下が、いじめが起きることになっている場所だ。 「……ここはあたし一人でやるから。」

 

「それって——」 ダフネは口から心臓が飛びでそうな思いで言う。……『それはわたしにも、ほかのだれにも変えられない。変えようとしたら、なにかひどい、ものすごく無惨な、最悪なことが起きる』……。 「それってなにかわけがあってのこと?」

 

「あたしのキャラにあわない、か。まあそうだよね。でも——」とスーザンは肩をすくめる。 「人間、たまにはキャラじゃないこともするでしょ。」

 

全員がスーザンを思いとどまらせようとして説得した。

 

というより懇願した。

 

スーザンは以後いっさい口をきかず、じっと前を見て警戒の姿勢をとりつづけた。

 

ダフネは泣きだしそうになりながら、もしかして自分のせいでこうなったのではないかと考えた。〈運命〉を変えようとしたがために、事態を悪化させてしまったのでは——

 

「ダフネ。」とハーマイオニーがいつもよりずっと高い声で言う。「教師を呼んできて。いますぐ。」

 

ダフネはくるりとまわって、石敷の廊下の反対方向に全速力で走ろうとした。しかしそこではっとして、スーザン以外の全員が見つめるなか、もとの位置にもどり、すこし吐き気を感じながら、「できない……」と言った。

 

「どういうこと?」

 

「多分、さからおうとすると、そのたびに余計ひどいことが起きるの。」  たしかに芝居ではそうなったりするのだ。

 

ハーマイオニーはダフネをじっと見てから、言った。「……パドマ。」

 

パドマは口ごたえせずにすぐに走り去った。ダフネはそれを見送りながらまた考えた。パドマはダフネより足が遅い。もしかするとこれが原因で、教師の助けが間にあわなくなるのでは……

 

「敵が来た。」 スーザンがこともなげに言う。「……へえ、人質までいるよ。」

 

全員がそちらにふりむくと——

 

年上の男女が三人。ダフネの記憶では、一人はリーズ・ベルカという七年生の模擬戦の一隊の幹部女子。一人はランドルフ・リー。ホグウォーツの決闘術クラブの二番手だ。最悪なのは六年生のロバート・ジャグソン三世。ほぼまちがいなく〈死食い人〉だと言われている人物の息子だ。

 

三人とも〈防壁魔法〉をまとっていて、切子状のその青い煙の壁のなかに、色違いの光の束が何本も透けて見える。多重化された防壁だ。真剣な決闘術の試合をするようなつもりで、それなりにエネルギーをついやして準備してきたらしい。

 

そのうしろで、光る縄に縛られ吊られているのはハンナ・アボット。目を見ひらいて必死に口をうごかしているが、こちらにはなにも聞こえてこない。事前につくっておいた『音消』の障壁があるせいだ。

 

ジャグソンが無造作に杖をふると、ハンナが光るロープからふりおとされ、こちらに投げだされた。『音消』の障壁を通過した瞬間にぽんと音がした。スーザンがすかさずハンナに杖をむけ、「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」と言いー—

 

()()()()」 ハンナが、地面にそっとおろされるのを待たずに叫んだ。

 

そのときにはすでに、前方にも後方にも灰色の光のかたまりができて、通路は封鎖された。ダフネの知らない種類の障壁呪文だった。

 

「これがどういうことかはもう分かってるね?」 七年生リーがみせかけの陽気さと笑顔をまとって言う。目もとは笑っていない。 「念のため説明しておこうか。おまえらはちょっとばかりやりすぎた。うそもつきすぎた。そこのグリーングラス家のお嬢さん、あんたもね。 一匹のこらず始末してやる。そこをよく分かってもらえるように、もう一匹もここに連れてきた——といっても、あと一匹レイヴンクローが足りないな。物陰に隠れたか、天井にへばりつきでもしたか? まあいいさ。とにかくこれで——」

 

ロバート・ジャグソン三世がそこにかぶせて言う。「話はいい。おしおきの時間だ。」と言って、杖を高く持つ。「『クルース』!」

 

同時にスーザンが杖をむけて「『プリズマティス』!」と言い、一瞬で小さな虹色の球が出現した。その小さく高密度の光の障壁でジャグソンの弾がはじかれ、障壁はそのまま微動だにしなかった。はじかれた黒い雷撃はベルカの方向に飛んだが、ベルカはすばやく杖をふってそれを打ちおとした。その後、多色の光の障壁はすぐに消えた。

 

ダフネは一瞬目をまるくした。〈虹色の球体〉(プリズマティック・スフィア)にこんな使いかたがあるとは——

 

「ねえジャグソン……」と言ってベルカが口もとに獰猛な笑みを見せた。 「手順は決めておいたでしょ。まずはたたきのめす。遊ぶのはそのあと。」

 

「お——お願い。」 ハーマイオニー・グレンジャーが震える声で言う。「ほかのみんなは見のがして——か……かわりにわたしが——」

 

「へえ……」 リーが不快そうに言う。「おまえ一人のことは好きにしていい、だからほかは見のがせ、って? あのねえ。もうおまえら全員、逃げ場はないんだよ。」

 

ジャグソンが笑みを見せた。 「おもしろいじゃないか。」 見習い〈死食い人〉の声は小声だが威嚇的だ。 「おれの靴をなめたら()()見のがしてやる、っていうのはどうだ? お気に入りの仲間を一人だけえらべ。ほかの全員を犠牲にすれば、一人だけは見のがしてやる。」

 

「やだね、却下。」とスーザン・ボーンズの声がした。それからスーザンは電撃的な速度で左にとんで、ベルカの杖からはなたれた赤色の失神弾をかわした。そして廊下の壁にあたったかと思うとゴム玉のようにはねて、両足をジャグソンの顔にむけてぶちこんだ。あいだに防壁がありはしたものの、ジャグソンはその衝撃をくらってうしろに倒れた。スーザンはそのままジャグソンの杖腕めがけて足を踏みおろしたが、やはり防壁にはばまれた。ダフネはそこまでの動きを目で追うのがやっとだった。 「〈烈閃(エルメキア)〉!」とリーがさけび、同時にパーヴァティが「プリズマティス!」とさけんだ。虹色の壁ができあがったが、青い炎はそれをものともせず通過し、スーザンのほんのとなりをかすめた。そこから目まぐるしい展開をダフネは追いきれなかったが、ベルカが一度がくりと体勢をくずしてから、転がって立ちなおるのが見え、そして——

 

来る、と気づいてダフネは『プリズ——』と言いかけたが、とても間にあわなかった。

 

三本の光の矢が同時にスーザンに向かう。スーザンは杖を手に、それを打ちかえすようなかっこうをした。杖に呪文があたった瞬間に、ぱっと白い光がきらめいて、スーザンの足が激しく震え、スーザンは通路の壁に投げとばされた。 スーザンのあたまが壁にあたって、ピシッと変な音がした。くびがおかしな角度に曲がり、そのまま倒れて動かなくなった。まっすぐのびた片腕にはまだ杖がにぎられていた。

 

一瞬あたりがしずまり、凍りついた。

 

パーヴァティがあわててスーザンのところへ駆けより、スーザンの手くびに親指をあてて脈をとった。そして——パーヴァティはゆっくりと震えながら立ち、目を見ひらいて——

 

「『ヴァイタリス・リヴェリオ』」とリーが言い、パーヴァティーが話しはじめようとするのをさえぎった。 スーザンのからだが赤いぼうっとした光につつまれる。 それを見てリーはにやりとした。 「折れたにしても鎖骨一本程度。演技ごくろうさん。」

 

「たしかに一筋縄ではいかないようだな。」とジャグソンが言った。

 

「お姉さん、だまされちゃったわ。」と言う七年生女子の顔は笑っていない。

 

()()()()()()() ダフネは杖を高くかかげ、全霊をこめてさけぶ。 灰色髑髏(グレイスカル)の力により 光の——」

 

ダフネはなんの呪文に撃たれたかすら分からなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーは〈賦活(イナヴェイト)〉のショックとともに目ざめた。そして直観的な判断で、しばらく起きあがらないままでいるという戦略をとった。今回はどこまでも絶望的な戦闘で、自分になにができるかも分からない。ただ、なにかできることがあるとすれば、それはぱっと起きあがることからははじまらない気がした。

 

うっすらと目をあけると、ごくわずかな量の光を通じて、パーヴァティが三人の敵をまえにあとずさりしているのが見えた。パーヴァティが最後の一人のようだった。

 

トレイシーが比較的近くに倒れているのも見えた。ハーマイオニーは自分の杖がまだ手のなかにあるのを確認し、トレイシーがたまにはまともな判断をしてくれる可能性に賭けて、できるかぎりそっと杖をうごかし、ほとんど口をひらかずに「イナヴェイト」と言った。

 

呪文が成功した感覚があったが、トレイシーはうごかない。 わざとそうしてくれているという可能性に賭けるとして、あとは……

 

あとは、どうする?

 

できることが思いつかない。すると、戦闘中ずっとおさえこまれていた不安に、こころが浸食されていく。こうして考える時間ができると、希望のかけらもない状況であることがいっそうはっきりする。

 

そのとき、どさりという音が聞こえた。音がした場所はハーマイオニーの視界のそとだったが、パーヴァティの倒れた音であることはわかった。

 

そしてしばらくなんの音もしなくなった。

 

「で、どうする?」と優男の声。

 

「その泥血(マッドブラッド)を起こす。」と、きびきびしているほうの男の声がする。「……それからサラザール・スリザリンのゴーストじゃない、()()黒幕の名前を吐かせる。」

 

「あら、そうじゃないでしょ……」と女の声がする。「まず全員を縄でしばって、動けないようにして——」

 

そこで稲妻のような音が聞こえて、ハーマイオニーはおどろきのあまり、つい目を見ひらいてしまった。視界がひろがったので、優男が黄色のエネルギー状の巨大なイモムシのようなものに巻かれ、がくがく震えているのが見えた。 優男は杖を手から落とし、床に倒れてしばらく痙攣してから、動かなくなった。

 

「みんな眠っちゃってるかな? ……よし。」

 

そう言って、優男のいた場所の近くで倒れていたスーザン・ボーンズが立ちあがった。 くびが奇妙にねじれたままだったが、肩のうえで軽くひとまわしすると、もとどおりになった。

 

ぽちゃ顔の一年生スーザン・ボーンズが片手を腰にあて、のこる二人の敵と対峙する。

 

そしてにやりとする。

 

切子状の青い煙の壁もすでにできている。

 

「〈変身薬(ポリジュース)〉だわ!」と女が言う。

 

「『ポリフルイス・リヴェルソ』!」ともう一人の男がさけぶ。

 

男の杖から、スカーフ状の鏡のようなものが吹きだして——

 

スーザンを守る防壁を何なく通過し——

 

一瞬、それがスーザンの身体をおおって光り、鏡に写ったような奇妙な色合いになり——

 

やがて光は消えた。

 

スーザンは腰に手をあてたまま立っていた。そして話しだした。

 

「ハズレ。」

 

「……まだ知らないみたいだから、教えといてやるよ——」

 

青い煙の防壁のむこうで、スーザンの小さな手が杖をかかげる。

 

「パフをなめると痛い目にあうぜ。」

 

スーザンのそのことばにつづいて、灰色のまばゆい閃光がハーマイオニーの半開きの目にとびこんできた。そこからが真の戦闘だった。

 

戦闘はしばらくつづいた。

 

天井の一部が溶けた。

 

女はジャグソンを連れて引きさがると言って、必死に停戦をもうしでた。スーザンは返事がわりに呪いを撃った。 ハーマイオニーの記憶では、〈アビ゠ダルジムの恐るべき枯渇(ホリッド・ウィルティング)〉という名前の、七カ国で非合法の呪文だった。

 

最後には女は意識不明、覚醒不能の状態で倒れた。もう一人は倒れた二人を放置して逃げだした。スーザンはというと、汗びっしょりのずたずたのローブで息をきらし、左手で右肩をおさえながら、壁にからだを預けていた。

 

しばらくするとスーザンは立ちあがり、床に倒れて眠っている仲間たちに目をやった。

 

そう、眠っている()()()仲間たちに。

 

ラヴェンダーはすでに身を起こし、目をメロンのようにまるくしていた。

 

「いまの……」とラヴェンダー。

 

「あれ……」とトレイシー。

 

「どういうこと?」とハーマイオニー。

 

「うん……なにあれ?」とパーヴァティ。

 

「すっごーい!」とラヴェンダー。

 

「どうするよ、これ……」とスーザン・ボーンズが言う。 汗にまみれたその顔は、すこし顔色が悪い。それが一段と悪くなっていき、心配なほど真っ白になっていく。 「あー、その……みんなずっと幻覚を見てた、ってことで手を打たない?」

 

四人はすばやく視線をかわしあった。 ハーマイオニーがパーヴァティを見て、パーヴァティがラヴェンダーを見て、ラヴェンダーとトレイシーが何秒か見つめあった。

 

四人はそろってスーザンのほうを向いて、くびをふった。

 

「どうするよ、これ……。そうだ、ちょっといま行かなきゃいけないところがあるから、待ってて。すぐ戻るから。このことはだれにも秘密ね。じゃっ!」

 

そう言うとスーザンはだれの返事も待たずに走りだし、あっという間にいなくなった。

 

「いや……うん。どうなってんの?」とパーヴァティ。

 

「『イナヴェイト』」 やっとダフネの倒れたすがたが目にはいったので、ハーマイオニーは杖をむけてそう言った。となりでラヴェンダーが、倒れたハンナにむけておなじことをした。

 

ハンナは目をひらくなり、必死に身をよじって立ちあがりかけて、また倒れた。

 

「ハンナ、もういいのよ!」とラヴェンダーが声をかける。 「終わった……勝ったの。」

 

「……()()()?」 ハンナは床に崩れおちたままの姿勢で言う。

 

ダフネはまだ動けないようだが、胸の上下運動ははっきりしている。呼吸に異常はないように見えた。 「ダフネも無事みたいだけど、でも——」 ハーマイオニーはのどがからからだったので、一度息をすいなおす。今回こそは、どこからどう見ても自分たちの手におえないところまできてしまった。「一度マダム・ポンフリーに見てもらわないと……」

 

「うん、たしかにね。でもちょっとだけ待って。わたしのこころの整理がすむまで。」とパーヴァティ。

 

「あのね、ちゃんと説明して。」とハンナが食いさがる。「勝った、って……どうやって? 天井があちこち溶けてるのはどういうこと?」

 

沈黙。

 

「スーザンのおかげ。」とトレイシー。

 

「そう。」とパーヴァティがすこしだけ声を震わせて立ちあがり、赤えりのローブのよごれを払いはじめた。 「スーザン・ボーンズの正体は〈ハッフルパフの継承者〉で、ヘルガ・ハッフルパフの伝説の〈勤勉と鍛錬の部屋〉への入りぐちの再発見者でもあったらしいわ。」

 

「……え?」 ハンナは自分のからだがばらばらになっていないかたしかめるように、手であちこちを触っている。 「〈継承者〉? あれってスプラウト先生が〈だいじな教訓〉を伝えようとして、でまかせで言っただけだと思ってた。——ほんとにスーザンが?」

 

ここにきてハーマイオニーはようやく多少の冷静さをとりもどしはじめた。 考えてみれば、極限の恐怖を感じていた時間は、意識をうしなっていた時間をさしひけば、三十秒にもならなかったはず。あたまがはっきりしてきたので、ハーマイオニーは一言ずつゆっくりと話しだす。 「いいえ、スプラウト先生のでまかせ、っていうので正解だと思う。そんな話は『ホグウォーツとその歴史』にも、ほかのどの本にも書いてなかった——」

 

スーザンは二重魔女(ダブルウィッチ)だったんだ!」とトレイシーが声をからしそうな勢いで叫ぶ。 「きっとそう! ずっと隠してただけなんだ!」

 

「はあ?」と言ってパーヴァティが身をひねってトレイシーのほうを向く。 「なにを言いだすかと思ったら——」

 

「言われてみれば!」と言うラヴェンダーはいつのまにか立ちあがり、興奮してジャンプしている。 「なんで気づかなかったんだろう!」

 

「待って。スーザンが、なに?」とハーマイオニー。

 

二重魔女(ダブルウィッチ)!」とトレイシー。

 

「あ、これはね。」 ラヴェンダーが早口で言いだす。 「ほかのだれにも使えないような魔法が使える、スーパー魔法使いとして生まれる子どもがいるっていう話が昔からあるの。ホグウォーツのなかに、また別の秘密の学校が隠れていて、そこでスーパー魔法使いのためだけの特別な授業があるっていう——」

 

「それはおとぎ話でしょ!」とパーヴァティが言う。 「現実にそんなものはないの! わたしだってそういう本を読んだことはあるけど——」

 

「ちょっと整理させて……」  ハーマイオニーは口をひらいたが、やはりあたまの回転が十分にもどってはいないように感じる。 「あなたたちはこうやって魔法学校に行かせてもらえてるのに、それじゃ満足できなくて魔法の(ダブル)魔法学校にまで行きたいっていうの?」

 

ラヴェンダーがとまどった表情を見せた。 「え? もっとすごい魔法パワーがほしくない人なんていないでしょ? 自分は()()()存在で、すてきな()()が用意されてるっていうことじゃない!」

 

ハンナがそれを聞いて、顔をあげてうなづいた。ハンナはダフネのそばまで這ってきて、骨折がないか調べているところだった。 「わたしが二重魔女(ダブルウィッチ)ならよかったのに。」 ハンナはそこでさびしげな声になった。 「でもやっぱり、現実にはそんなもの、ないと思う。……みんな、スーザンがなにをするのを見たの? 失神してるあいだに夢を見てただけだったりしない?」

 

どう言えばいいのか、ハーマイオニーは心底わからなくなってきた。

 

「あ、それより。」と言ってトレイシーがローブをはためかせて身をひるがえし、通路の入りぐちのほうに目をやった。 「どうしよう! 早くここから逃げないと! きっともうすぐ、スーザンがだれか連れてくるのよ! そしたらみんな超魔法で記憶を消されちゃう!」

 

「スーザンはそんなことしないって! だいたい、そんな超魔法なんて、あるかどうかも——」とパーヴァティが言いかけ——

 

これはどういうことですか?」と甲高く怒鳴りつける声があった。半分溶けた廊下をすたすたと、小さなからだに怒りをあふれさせんばかりにして歩いてくるフリトウィック先生。そのすぐうしろには、顔を真っ青にして息をのむパドマのすがたがあった。

 

◆ ◆ ◆

 

「なにが起きたんです?」  スーザンは(ローブがずたずたで汗びっしょりになっているのをのぞけば)自分とそっくりなもう一人の少女にむけてそう言った。

 

「うん、そこが問題でねえ……」 もう一人のスーザン・ボーンズはそう言って、借りもののローブの残骸をすばやく脱ぐ。 そして一瞬おいて、ふだんの身体——ニンファドーラ・トンクスに〈変化〉していく。 「うまい言いわけが思いつかなくて……ごめん、あとはまかせる。三分くらい時間はあるから、なにが起きたか説明できるようにしといて——」

 

◆ ◆ ◆

 

あとでダフネ・グリーングラスが苦にがしい口調で指摘していたとおり、ハーマイオニーの巧妙な作戦には穴があった。寮点の減点については全四寮から平等に減点されることで無効化できるが、居残り作業についてはそうはいかない。

 

スーザンが秘密能力をもっているという件を口外しない、ということには全員が合意した。——一度はしぶったトレイシーも、〈超記憶魔法〉をかけるというおどしに屈した。 そこまではよかったが、夕食の席に来た瞬間に()()()()()()()()()口止めをし忘れていたことが発覚し、ついでにスーザン・ボーンズは自分の魂をいけにえにして召喚した禁断の霊に憑依されている状態にあるということも発覚し、その結果全員に居残り作業の罰が課せられた。

 

「ハーマイオニー?」と夕食の席でとなりにいるハリー・ポッターがおずおずと声をかけてくる。 「あくまで善意で言うんだけど……余計なくちだしになるかもしれないけど……これ、いろいろと収拾がつかなくなってきてるんじゃないの。」

 

ハーマイオニーはしばらく返事せず、手もとの皿のチョコレートケーキをフォークでつぶし、ケーキとのトッピングのなめらかな混合物をつくる作業をつづける。 「たしかにね。」と言う返事がすこし自嘲ぎみになる。 「……だからフリトウィック先生にあやまりに行ったとき、わたしもそう言った。収拾がつかなくなってきたのは分かっています、って。そしたらすごい大声で『よくそんなことが言えますね、ミス・グレンジャー?』って言われて、わたしの耳に火がついた。実際()()()()()、それで先生に消してもらわなきゃならなかった。」

 

ハリーは片手をひたいにあてて、「失礼。」と真顔で言った。 「そういうことが実際あるんだっていう状況に、いまだにちょっと慣れなくてね。 ほら、ぼくらが若く純情だった時代には、世界はもうちょっと理解しやすかったような気がしない?」

 

ハーマイオニーはフォークの手をとめ、ふとハリーに目をやる。 「ハリーは、自分がマグルだったらよかったと思うことはある?」

 

「え? まさか! まあ、仮にマグルだったとしても、ぼくはいずれ世界制ふ——あ。」  ハリーはハーマイオニーの()()を感じたらしく、あわててそのつづきを飲みこむ。 「いや、世界最適化をね、目ざしていたと思うよ。いまのはことばの綾だって! とにかく、魔法があってもなくてもぼくの最終的な()()は変わらない。 ただ、マグルとしての能力だけでは手間がかかることも、魔法があれば楽にかたづけられたりする。 だから、魔法を忘れてナノテクノロジーの専門家になるために勉強するんじゃなく、こうやってホグウォーツに来るほうが論理的に正解だと思ったんだ。」

 

手もとの〈チョコレートケーキの練りもの〉が完成したので、そこにニンジンをつけて食べはじめる。

 

「なんでそんな話を?」とハリーが言う。「ひょっとしてマグル世界に帰りたくなったとか?」

 

「そうじゃないけど……」 ハーマイオニーはニンジンとチョコレートの断片をいっしょに噛みながら言う。 「ただちょっと、自分が魔女に()()()()()()ころのことを思いだして、変だなって……。ハリーは小さいころ、魔法を使いたいと思った?」

 

「もちろん。それだけじゃなく、霊能力も怪力もアダマンチウム入りの強化骨格もほしかったし、自分用の天空の城もほしかったし……自分の将来がせいぜい科学者兼宇宙飛行士どまりなのはちょっと残念だと思ったりもしたな。」

 

ハーマイオニーはうなづく。「わたしはね……こっちの世界で生まれ育った魔女と魔法使いは、魔法のありがたみがよく分かっていないんじゃないかと思う……」

 

「そりゃそうだよ。だからこそ、そこにぼくらがつけいる隙がある。考えるまでもないだろう? ぼくはダイアゴン小路に足をふみいれて五分もしないうちに気づいたよ。」  ハリーはどこか不思議そうな顔をした。なぜまたそんなあたりまえのことを、とでも言いたげな表情だった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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74章「自己実現(その9)——紛争の漸次的拡大(エスカレーション)

ハリーは一歩、また一歩と前にすすむ。距離がせばまるにつれ、不安な気持ちと不穏な感覚がこころのなかにひろがっていく。

 

声をだそうとも手をあげようともしない。そうするまでもなく、相手にもこの不穏な感覚がとどいているはずだから。

 

閉じたドアのむこうから小さな冷たい声がした。ドアを通していないかのように聞こえた。

 

「いまはオフィスアワーではないぞ。きみと約束のある時間でもない。 クィレル点を十点減点する。十点ですむことをありがたく思え。」

 

そう聞いてもハリーは動揺しなかった。アズカバンの経験をへて、感情をみだされる閾値が変わったせいだ。寮点を一点うしなうことに対して以前のハリーは十段階評価で五の重みをつけていたが、いまは〇.三程度。話す口調もおなじように平静だった。 「あなたは検証可能な予想をひとつしていましたね。それが反証されたということを伝えたかっただけです。」

 

そう言ってハリーは去ろうとしてドアに背をむけた。それからドアがひらく音を聞き、多少おどろいて、ふりむいた。

 

クィレル先生は椅子に背をもたれさせ、くびをあずける姿勢で、目のまえに羊皮紙を一枚浮かべていた。 両腕は麻痺したかのようにだらりと机のうえに置かれている。 死体と言われれば信じてしまいそうなほどだが、淡青色の目だけはいそがしく往復していた。

 

羊皮紙が消え、別の羊皮紙とおきかわる。あまりにすばやい変化だったので、おなじ羊皮紙が点滅しただけのようにも見えた。

 

やがてクィレル先生の口もとが動いた。やはり小声で、「その発見から、きみはなにを推論する?」

 

ハリーはその光景に動揺していたが、口調は平静にたもった。 「凡庸な人間もいつも傍観者ではいないということ。そしてスリザリン寮がハーマイオニー・グレンジャーに危害をおよぼそうとしていること、その危険はあなたの予想以上だということです。」

 

ほんのすこしだけ、くちびるがゆがんだ。 「それでわたしが人間の本質を見あやまった、と思っているようだが、 そのほかの可能性がないと思ってはならない。もうひとつの可能性がなにか分かるか?」

 

ハリーは眉をひそめ、クィレル先生をじっと見た。

 

「付きあいきれんな。 分からなければ、そこで立ったまま一人で考えろ。いやなら去れ。」  そう言うとクィレル先生は、もはやハリーの存在すら関知せず、羊皮紙を読む作業にもどった。

 

六枚目の羊皮紙が消えたところで、ハリーは話しだした。 「あなたは、予測がはずれたのは当初のモデルになかった因子が存在したせいだと思ってるんじゃないですか。 スリザリン寮がハーマイオニーを余計に憎む理由がなにかあったんだと。 天王星の計算上の軌道と実際の軌道が一致しなかったのは、ニュートンの法則がまちがっていたせいじゃなく、海王星という未知の存在があったからであるように——」

 

羊皮紙が消え、かわりは出現しなかった。そして、クィレル先生は椅子にもたれるのをやめ、顔と顔が正対する姿勢にちかづいた。やはり小声ではあったが、無感情ではなかった。 「いや………」と、声がだんだんと通常のクィレル先生のものにちかづいていく。 「仮にスリザリン寮全体が彼女をそれほど憎んでいたとしたら、わたしが気づけないはずがない。 なのに実際、腕のたつスリザリン生が三人、相応のリスクとコストを承知で、傍観以外の行動をとった。 彼らをそのように動かした原動力はなにか。動機づけしたのはだれか。」  冷たく淡青色にかがやく目がハリーの目をとらえる。 「スリザリン内で影響力のある何者かのしわざだとも考えられる。 では、彼女とその支持者に危害がおよぶことで、その何者かはどんな利益をえるのか。」

 

「そうですね……。だれかがハーマイオニーに脅威を感じている。あるいは、ハーマイオニーを傷つけることで手柄をたてようとしている、とか? その条件にあてはまる人物は思いつきませんが、ぼくが知っているスリザリン生はほぼ一年生にかぎられています。」  そう言いながらハリーは、多少予想外ではあれたった一度襲撃があったことを根拠に黒幕の存在を推理するというのはやりすぎではないか、とも思った。黒幕仮説の先験確率はあまりに低く、襲撃という証拠はあまりに弱い。しかし、ほかならぬクィレル先生がそう推理しているとなると……

 

クィレル先生は無言でハリーをじっと見た。まぶたがほんのわずかに、せかすように下がった。

 

「ああ……。ドラコ・マルフォイが黒幕だという可能性はありませんよ。」

 

すうっと息をはきだす音。 「ルシウス・マルフォイの息子として、このうえなく厳格に教育された少年だ。 きみはどうせ、ふとした隙に彼の仮面の下の素顔を見たとでも思っているのだろうが、それすらわざと見せた表情だったのかもしれないぞ。」

 

ハリーは、『そんな演技をしながら〈守護霊の魔法〉を成功させられるものですかね』……とはもちろん言わず、かわりにすこしにやりとしてから、こう返事した。「なるほど、あなたはまだドラコの精神を読んだことがないみたいですね。それとも、ぼくにそう思わせようとしているだけですか。」

 

返事はなく、 かわりに片手がくるりとまわり、指が一本まげられた。

 

ハリーが入室すると、 ドアが閉まった。

 

「それは人間言語で口にすべき話題ではない。」 クィレル先生はそっと小声で言う。「マルフォイのあとつぎに〈開心術〉をかけた、だと? そんな話を聞けば、ルシウス・マルフォイは即座にわたしを暗殺させる。」

 

「暗殺させようとする、でしょう。」  ハリーのその返事をクィレル先生は見とがめる……かと思いきや、表情を変えなかった。 「でも、わかりました。すみません。」

 

クィレル先生はまた小さく冷たい声で話しはじめた。 「なるほど、その気になればわたしは暗殺者を返り討ちにすることができよう。」  クィレル先生はまた椅子の背にもたれ、くびをかしげた。目はハリーとあっていない。 「しかしそういった小競り合いに、わたしはほとんど興味をそそられない。 〈開心術〉をありにすれば、もはやゲームですらない。」

 

ハリーは言うべきことが見つからなかった。 不愉快な気分のクィレル先生を見たことは一、二度あったが、今回は輪をかけて空虚で、 なんと返事していいか分からない。 『なにかお悩みですか』とは言えなかった。

 

「逆に、興味をそそられることはなんですか?」 しばらくしてからハリーはそう言った。クィレル先生の注意をあかるい方向にむけるという戦略は安全そうに思えた。 感謝の日記をつけることで人生の幸福度が改善するという実験結果を引用する手も考えたが、それはちょっとお節介すぎる気がした。

 

「そうでないほうの話なら、してやってもいい。 わたしは〈魔法省〉指定の課題作文を採点することに興味をそそられていない。 だが一度ホグウォーツ〈防衛術〉教授に着任した以上、最後まで責任はもつつもりだ。」  クィレル先生の顔のまえにまた羊皮紙が出現し、目がその内容を追いはじめた。 「リーズ・ベルカはこれまで模擬戦の軍の幹部だった。彼女の今回の失態は模擬戦からの追放相当だが、どの陣営のだれに命じられてやったのかを明かせば残留を許す、と提案するつもりだ。 もちろん、でまかせを言えばどうなるかも念押ししておく。 わたしは相手の表情を読むことまでは自分に許している。」

 

クィレル先生の指がハリーのうしろにあるドアをさした。

 

「あなたが人間の本質を見あやまったのかどうか、あるいはスリザリン寮のなかで未知のだれかが影響力を行使したのかどうかはおいておくとして—— ハーマイオニー・グレンジャーにあなたが予想した以上の危険がせまっていることは事実です。 今回は腕におぼえのある生徒三人が相手だった。それならつぎは——」

 

「彼女はわたしにもきみにも助けをもとめていない。 わたしも一度はきみが心配するすがたを愉快に思ったが、もうそれもない。話はここまでだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

この会では全員が対等であり、ハーマイオニーは仕切る立ち場ではない。けれどこういう状況ではなぜかいつも、口火を切らされることになるのだった。

 

四列にわかれて朝食をとっている四寮の生徒たち。その一角に陣取っているS.P.H.E.W.の八人をちら見してくる視線がたえない。

 

〈主テーブル〉にいるフリトウィック先生も、するどい視線をこちらになげかけている。 ハーマイオニーはそちらに目をむけるまでもなく、くびの裏がわに視線を感じた。文字どおり肌に触れる感覚があって、とても気持ちわるかった。

 

「トレイシーから聞いたわ。わたしたちに話したいことがあるそうね、ミスター・ポッター。それで用件は?」

 

「クィレル先生は昨夜、リーズ・ベルカの模擬戦の軍での地位を剥奪した。それだけでなく、彼女を〈防衛術〉の課外活動からも全面追放した。 これがどれだけ重大なことか分かるかい? ミス・グリーングラスなら分かるかな? パドマは?」

 

ハリーは名前をあげながら順にその面々に目をやる。ハーマイオニーはとまどいの視線をパドマとかわしあい、ダフネもくびをふった。

 

「まあ、そうだろうと思った。」 ハリーは静かにつづける。 「これはきみたちの身に危険がせまっているということを意味するんだ。それがどの程度の危険なのかはわからない。」  肩を張り、まっすぐにハーマイオニーの目を見る。 「こういうことになるとは思っていなかったけれど…… ぼくはきみたちのことを保護する方法を考えている。きみたちに受ける気があるなら、どんな協力もおしまない。 きみたちに手をだすことは〈死ななかった男の子〉に手をだすということに等しいと、知らしめてやりたいと思っている。」

 

「ハリー! このあいだも言ったでしょう。余計なことは——」とハーマイオニーはすぐさま反論しかける。

 

「このなかには()()()仲間もいるんだよ。」  ハリーはハーマイオニーの目から目をそむけない。 「保護が必要かどうかは本人が決めることだ。 パドマはどうする? きみはぼくがしでかしたことについてのつぐないは必要ないと言ってくれた。そんなことが言えるのは仲間であればこそだ。」

 

ハーマイオニーはハリーとの見つめあいをやめ、パドマに目をやる。パドマはくびを横にふっていた。

 

「ラヴェンダーは? きみはぼくの軍で立派にたたかってくれている。だから必要なら、ぼくはそのおかえしをする用意がある。」

 

「ありがとう、司令官!」とラヴェンダーが言う。 「いえ、ミスター・ポッター。 ……でもやめとくわ。 わたしもヒロインでグリフィンドール生。だから自分の面倒は自分でみる。」

 

……。

 

「パーヴァティはどうする? スーザンは? ハンナは? ダフネは? ぼくはきみたちのことをそれほどよく知らない。でも要請があれば、きみたちにも同じように協力させてもらうよ。」

 

その四人も順にくびをふった。

 

となると残るのは……。ハーマイオニーはつぎの展開が十分予想できた。なのに、なにをしてもその展開を変えられるような気がしなかった。

 

「あとは……〈カオス〉で健闘してくれてるね、トレイシー。きみはどうする?」

 

「えっ、いいの?」 ハーマイオニーをはじめとするその場の女子全員の刺すような視線をよそに、トレイシーはたくみに両手をほおにあてる。ほおを染めることができていないのを隠す意味もあるようだ。 そして茶色の目はキラキラかどうかはともかく、大きく見ひらかれてはいる。 「ほんとに? ()()()()()()()そんなことまで? どうしよう。うれしい! もちろん要請する——」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ポッターはその日の朝食中にグリフィンドールのテーブルとスリザリンのテーブルのところまで行って、どんな状況であれトレイシー・デイヴィスに手をだした人は“真の〈カオス〉の意味を思い知らされる”ことになる、と宣言した。

 

それをまのあたりにしてドラコ・マルフォイはかなりの自制心を発揮して、トーストの皿にあたまを何度も打ちつけたくなるのを我慢した。

 

もちろんいじめの首謀者たちは科学者ではない。

 

それでもあんなことを言われれば、検証しようとするに決まっている。

 

◆ ◆ ◆

 

〈魔女のための英雄機会均等振興協会〉として公式にそう告知したのではないし、公式に告知したからどうなるものでもないように思えた。それでも、しばらくは……すくなくとも、各メンバーが寮監の先生からにられまれたり、ハーマイオニーが上級生にぶつかられて壁にあてられたりすることがなくなるまでは、いじめ退治をするのをやめよう、という案について、メンバーのだれからも異論はなかった(ただしラヴェンダーだけは、のこり七人がやかましく説得する必要があった)。

 

ダフネはミリセントにはっきりと、しばらく休むということを伝えた。

 

伝えたにもかかわらず、数日後の昼食の時間に、ダフネのところに羊皮紙がやってきた。ダフネは読むのに苦労するほど手が震えた。

 

今日昼二時に図書館をでてすぐの階段をのぼりきった場所に集合。 かならず全員そろうようにすること。 ——ミリセントより

 

ダフネは周囲を見まわしたが、大広間のどこにもミリセントのすがたはなかった。

 

ダフネはひとまずハーマイオニーに伝えにいった。するとハーマイオニーは…… 「またメッセージが? 変ね、わたしはなにも——」

 

ハーマイオニーが言いやめたので、ダフネは訊きかえした。 「いま、なに言いかけたの?」

 

ハーマイオニーはくびをふった。 「ダフネ……これまでずっとわたしたちにメッセージを送ってきたのがだれだったのか、はっきりさせておかないといけないと思う。 前回起きたことをよく考えてみて。 あの時間にあの三人が来ると知っている人がいるなんて、おかしくない? 最初からグルだったのでもなければ。」

 

「それは——そのことは言えないの。でもどこから来てるかも、ちゃんとした説明がつくことも分かってる。」

 

ハーマイオニーは意味ありげな目つきをしてきた。その顔が一瞬だけ、怖いほどマクゴナガル先生に似て見えた。

 

「ふうん……。じゃ、スーザンが突然スーパーガールになった理由は説明できる?」とハーマイオニー。

 

ダフネはくびをふった。 「できない。でも、ある場所に()()()()()()()()()()()っていうメッセージがとどいたら、()()()()()そのとおりにしないといけないんじゃないかと思う。」  前回ダフネがスーザンを参加させないことで予言の成就をとめようとした結果スーザンがどういうことになったか。ダフネはそれを自分の目で見てはいないが、 あとで話は聞いた。それで心配になってきた。これは……

 

もしかして自分はうっかり……

 

〈なにか〉を壊してしまったのではないだろうか……

 

「ふうん……」  ハーマイオニーはまたそう言って、〈マクゴナガルの視線〉を使った。

 

◆ ◆ ◆

 

いつ、だれがその噂の出発点だったのかはだれにも分かっていない。 逆順に一人ずつ、一言ずつたどっていこうとすれば、おそらく巨大な円ができることになるだろう。

 

ペレグリン・デリックはその日の朝、〈薬学〉教室をでるときに肩をたたかれた。

 

ハイメ・アストルガは昼食中に耳うちされた。

 

ロバート・ジャグソン三世は皿の下に小さな紙がまるめてあるのを見つけた。

 

カール・スロウパーはグリフィンドール生が二人、こそこそ話しているのを聞いてそのことを知った。二人は彼にちらりと意味ありげな視線を送ってもいた。

 

情報の出どころはどこだったのか、だれも知らない。ただ、全員がおなじ場所と時間を指定する情報をうけとった。そして、色は白に、と指示されていた。

 

◆ ◆ ◆

 

「ここは大事なとこだから、全員よーく理解しといてね。」  そう話しているのはスーザン・ボーンズ……というか、スーザン・ボーンズに憑依しているなにか。もはやただの子どものふりをしようともせず、 ぽちゃ顔の女の子のすがたで威勢よく廊下を歩いていく。 「行ってみて相手が単独なら、いつもどおりに戦えばよし。 なんせ、あたしの秘密のスーパーパワーは、弱きを助けるときにしか発動しないからね。 でも物置から七年生が五人でてきたりしたら、どうするんだっけ? そう。逃げる。戦うのはあたし一人にまかせて、逃げる。 ついでに教師に知らせられればなおよし。でもまず第一に肝心なのは逃げること。あたしが逃げみちをつくったら、すぐ逃げること。 そういう戦場では、あんたらは戦力じゃなくて()()()()()()()で、()()()にしかならない。 だから使命感とか助太刀とかは忘れて、全速力で逃げること。これを守れないやつがいたら、退院したところに押しかけて、一発お見舞いしてそのまま再入院させてやるからね。わかった?」

 

「はーい。」とメンバーの大半が返事した。ハンナだけは「はい、レイディ・スーザン!」と言った。

 

「『レイディ』はやめてよ。……そこ、返事が聞こえないぞミス・ブラウン! 劇作家にも知り合いはいるんだからね。〈救いようがなくバカなことをして人質になったラヴェンダー〉として後世に名前をのこしたくないなら、あたしの言うとおりにしなさい。」

 

(ハリー以外にもこういう風に謎の暗黒面を持つホグウォーツ生がまだ何人もいるのだろうか、とハーマイオニーは思った。そしてこの調子でつきあっていると、()()()()そういう暗黒面が生まれてしまったりするのだろうか、と思った。)

 

「分かりました。」 ラヴェンダーはいつになく丁寧な口調で言う。 一行は図書館を目ざして最短路を進んでいて、その途中で両側に三つずつ両開きの扉がある、やけに広い廊下にさしかかったところだった。 「……わたしも二重魔女(ダブルウィッチ)になれる方法があったりしますか?」

 

「六年生になったら、〈闇ばらい〉志望者用のプログラムに応募してみな。」とスーザン。 「一番ちかいのはあれだから。 あ、それと、有名な〈闇ばらい〉から夏休みにインターンとして受けいれてやるっていう話が来たら断るな。周囲からどんなに『あの人はやめとけ』『死ぬぞ』って言われても行くんだ。」

 

「了解です!」  ラヴェンダーはくびをぶんぶん縦にふって言った。

 

(前回のスーザンを目撃しなかったパドマは、うさんくさそうな目でスーザンを見ている。)

 

そのときスーザンが急に立ちどまり、杖を立て、「『プロテゴ・マキシマス』!」と言った。

 

アドレナリンがハーマイオニーのからだを駆けぬけ、すぐさま杖を手にして、ふりむくと——

 

青色の雲ができて、メンバー全員をつつんでいる。雲ごしに、不審なものはなにも見えなかった。

 

ほかの全員も位置につき、やはり怪訝そうな顔をしている。

 

「悪い!」とスーザンが言う。「安全かどうか、ちょっと調べておきたくてね。 この手の構造には気をつけろって、つい最近とある人に言われたのを思いだしたんだ。こんなにたくさん扉があると、待ち伏せに最適だから。」

 

一瞬あたりがしんとした。

 

「いくぞ。」と耳ざわりな男の声がした。雑音がかさねられていて、だれの声か聞きわけることができない。

 

扉が六つとも、いきおいよくひらいた。

 

白ローブの人影が何人も無言で迫ってくる。すっぽりと全身をつつむローブで寮の色がわからなくなっていて、顔もフードから垂れた白布で隠されている。 人影は増えつづけ、ぱっと見て数えることができないほどの人数で広い通路がいっぱいになった。 おそらく五十人には満たない。だが三十人をはるかに超えている。 その全員がそれぞれ青色の雲を身につけている。

 

スーザンが〈非常に汚ない表現〉をいくつか使って罵倒した。ハーマイオニーとしては一言注意しておきたいくらいだったが、そんな場合ではなかった。

 

「あのメッセージ……!」 ダフネがわなわなと言う。「あれを送ってきたのは——」

 

「そう、ミリセント・ブルストロードじゃなかった。」と雑音声の男が言う。 「おまえたちをいじめ狩りに行かせる指示をしてるやつがいる。それが毎回おなじ一人の生徒となれば、いずれはだれかが気づくものさ。 ここがかたづいたら、つぎはブルストロードにたっぷり説明してもらう。」

 

「ミス・スーザン……」 ハンナがわずかに声を震えさせる。「ほんとにあなた一人でこれを——」

 

何人もが杖をかかげ、一斉射撃をした。緑色のまばゆい閃光——防壁破壊呪文(シールドブレイカー)がつぎつぎと撃ちこまれ、 やがてこちらを守護していた青色の雲はなくなった。スーザンはあたまに手をあて、床にひざをついた。

 

通路の両側の端に黒色のかたまりが出現し、道をふさいだ。 ハーマイオニーが見るかぎりで、扉のさきにあるのはすべて空き教室。退路はない。

 

「無理だったな。」とまた雑音のかかった声の男が言う。 「気づいてなかったなら教えてやる。おまえたちはあちこちで怒りを買いすぎた。おれたちは今度こそ負けるつもりはない。 よし、全員攻撃準備。」

 

ハーマイオニーたちに一斉に杖がむけられた。同士撃ちを避けるために照準は低くとられている。

 

そこで突然、別の、やはり雑音まじりの男の声がした。「『ホミナム・レヴェリオ』!」

 

一瞬おいて、反射的にそこに大量の防壁破壊呪文と攻撃呪文があびせられた。新しい人影は即座に防壁をつくりだそうとしていたが、すぐに粉ごなになり——

 

その人影がばたりと倒れ、全員が唖然として無言になった。

 

「スネイプ先生だったのか? おれたちを妨害しようとしていたのは。」と二人目の男が言った。

 

意識をうしなって石敷の床に倒れたその人物は、たしかにホグウォーツ〈薬学〉教授だった。ところどころ汚れのあるローブがもう一度だけぴくりと動き、止まった。のびたままの片手のさきには、杖がゆっくり転がっていた。

 

「いや、それはない。」と一人目の男が、すこし自信なさげに言ってから、またいきおいをとりもどす。 「ありえない。ただこの対決のことを聞きつけて、またおれたちにしくじられては困ると思って、見張りに来ただけだろう。 スネイプ先生には、あとで起こしてからよく謝罪しよう。こいつらが目撃した記憶も〈記憶の魔法〉で消してもらおう。スネイプ先生は教師だからそれができる。 とにかく、これ以上第三者がいないことをたしかめておくぞ。 『ヴェリタス・オキュラム』!」

 

それから二十以上の呪文がとなえられたが、ほかに潜伏している人物は見つからなかった。 そのうち一つの呪文がなんであったかに気づいて、ハーマイオニーは意気消沈した。それは〈真の不可視のマント〉とおなじ場所に書かれていた呪文で、〈真の不可視のマント〉を見通すことはできないものの、そのたぐいの魔法具がちかくにあれば検知できる、というものだった。

 

「あのさ。」と言ってスーザンがすこしずつ起きあがろうとする。しかしその手足はまだふらついている。 「さっきはああ言ったけどさ。ごめん、取り消す。 みんな、なにか効き目がありそうなこと思いついたら、やるだけやってみて。」

 

「あ、そういえば……」とトレイシー・デイヴィスが震える声で応じる。そしてすこし大きな声で、 「()()()()()()()()()()。」

 

「そこのみなさーん!」 トレイシーは甲高く震える声でさけぶ。「あたしのことも攻撃するつもり?」

 

「ああ。するとも。」と雑音声の主犯格が返事した。

 

「あたしはハリー・ポッターの加護をうけてるから、あたしを攻撃しようとする人は〈カオス〉の真の意味を思い知らされることになるわ! さあ、それでもつづける? それとも見のがしてくれる?」  挑戦的な呼びかけではあったが、トレイシーの声はおびえていた。

 

あたりがしんとした。 相手の何人かが顔を寄せあい、またこちらに向きなおった。

 

「ほう……だがことわる。」と主犯格が言った。

 

トレイシー・デイヴィスは杖をローブにしまった。

 

そしてゆっくりと大げさに右手を高くかかげ、親指と人さし指をぴたりとあわせた。

 

「やってみろ。」とまた主犯格が言う。

 

トレイシー・デイヴィスは指を鳴らした。

 

そしてしばらく全員が不安げに息をひそめた。

 

なにも起きなかった。

 

「よし、もうこのへんで——」

 

その声をさえぎって、トレイシーがまた一段と高く震える声で、「Acathla mundatus sum(アカスラ・ムンダトゥス・スム)」と言い、 あげていた手をもうひと伸ばしして、また指を鳴らした。

 

ハーマイオニーは背すじに名状しがたい寒けを感じた。ぞわりとする感覚とともに、足もとの床がぐらりとかたむいたような気がした。床の裏がわにひそむ暗黒へ自分が振り落とされそうな気がした。

 

「いまのはなんの——」と雑音まじりの女の声がした。

 

トレイシーは青ざめ、恐怖に顔をしかめているが、口だけは動きつづけ、高音の詠唱をつむぎだす。 「Mabra(マブラ)brahoring(ブラーリン)mabra(マブラ)……」

 

閉鎖された廊下のどこかから冷気が流れてくる。凍りつくような暗黒の吐息が一人一人の顔をなで、手に触れる。

 

「全員攻撃用意!」と主犯格の声。「一、二、!」

 

四十人ほどが一斉に雷撃呪文を重ね、巨大な光の束が太陽よりもあかるく通路全体をてらし——

 

——つぎの瞬間、S.P.H.E.W.メンバーのまわりに出現した黒赤色の八面体にあたってその雷撃は消散した。八面体もすぐに消えた。

 

実際に目にしてもなお、それはハーマイオニーの想像を超えていた。これだけの人数の攻撃に耐える〈防壁魔法〉など想像できなかった。

 

トレイシーの声はかわらず詠唱をつづけている。声はだんだんとちからづよくなるいっぽうで、眉間にしわを寄せ()()()()()()()思いだそうとするような表情をしている。

 

Shuffle(シャックリ) duffle(ギックリ) muzzle(ヒックリ) muff(ヒッ)Fista(ヒスタ) wista(ビスタ) mista-cuff(ミスタ フッ)

 

この時点でこの場にいるヒロインといじめっこの全員が異変を感じた。ぞくりとする感覚、のしかかるような暗黒の気配とともに、なにかが立ちあらわれつつあった。 白ローブの人影の周囲の青色の雲と、そのほかの防壁呪文のすべてが、ふっと消えた。白ローブの人影があわてて呪文を撃ちはじめ、光が乱舞したかと思うと、そのすべてが空中で、蝋燭(ろうそく)の炎が水面に触れるときのように立ち消えた。

 

通路の両端につくられていた黒い障壁が気団におしのけられるようにして消散した。だがそのむこうにあらわれた出口は閉ざされていた。出口をかためる黒金の羽板には、血のような染みがあった。 トレイシーが「Lemarchand(ルマルシャン) Lament(ラメント) Lemarchand(ルマルシャン)」と詠唱をつづけると、羽板と羽板のすきまから不気味な青い光が漏れだす。六つの扉が同時に音をたてて閉じ、白ローブの男女がパニックになり扉をたたきはじめる。

 

トレイシーは左に手刀を切って「Khornath(コーンナス)! 」と叫び、下を指して「Slaaneth(スラーネッス)! 」、上を指して「Nurgolth(ナーゴルス)! 」、右を指して「TZINTCHI(ティーンチ)! 」と言い、

 

……深く息をついた。ハーマイオニーはわれに返ってトレイシーに呼びかけた。 「やめて! トレイシー、やめて!」

 

トレイシーは不気味な笑みを見せ、 杖を高くかかげたまま、もう一度指を鳴らした。 つぎにその口から聞こえてきた詠唱には、女の子らしい高い声の裏に、低い声のコーラスが重なっていた。

 

漆黒より暗きもの 暗黒の果ての暗黒

時間の流れの水底に埋まりしもの……

その声は暗黒を伝い虚無に響き渡り

ただの一度も死なず ただの一度も生きず。

 

()()()()()()」とパーヴァティが悲鳴をあげ、すでに空中に浮かびはじめているトレイシーに手をかけ、引きずりおろそうとした。 そこでダフネがスーザンといっしょにパーヴァティの腕をつかんで止めようとする。 「止めないで! 儀式を途中で止めたらどうなっちゃうか分からない!」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()」とハーマイオニーも悲鳴をあげた。脳のメルトダウンに限りなく近い状態だった。

 

スーザンは顔をチョークのように真っ白にして、小声で、「マッドアイ、ごめん……」と言った。

 

トレイシーは詠唱をつづけ、ますます高く浮かびあがり、冷気に吹かれて黒髪を乱れせた。

 

門を知り、門にして鍵であり、鍵にして守護者である(なんじ)に命ずる——彼の者のために道を開け——彼の者の力を顕現させよ!

 

その瞬間、廊下が完全な無音と暗黒の空間となり、トレイシーの身体と声、そしてトレイシーをつつむ名状しがたいなにかが生みだす薄光だけが残った。

 

光る少女は最後にもう一度、不気味な重おもしさをこめて親指と人さし指をぴたりとかさねた。

 

ハーマイオニーは暗がりのなかからトレイシーの顔に目をむけた。トレイシーの目の色は、ハリー・ポッターとまったくおなじ緑色になっていた。

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス!

 

また指の音が雷鳴のようにひびき、そして——

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはあえてカジュアルな姿勢で面談にのぞむことにした。総長室の大きな机のまえの小さな椅子に腰をおろし、 片足をひざに引っかけ、左右の手はぶらりと下げる姿勢だ。 周囲にある各種装置の音はできるかぎり無視するようつとめたが、粉砕機にいれられたフクロウの断末魔のような音が真うしろから聞こえてくるのだけはなかなか無視できなかった。

 

「ハリー……」 机のむこうのダンブルドアは平静な声で言い、半月形の眼鏡のなかの青くかがやく目でハリーをじっと見ている。衣装は濃紫のローブ。魔法界では服装に意味をもたせる習慣があり、これは黒の礼服ほどではないものの、きわめて真剣な態度であることを意味している。 「今回のことは……きみのしわざか?」

 

「一定の関与をしたことは否定できませんね。」

 

老魔法使いは眼鏡をはずし、身をのりだして、青い目でハリーの緑色の目を見すえた。 「ひとつ聞いておきたい。きみが今日なしたことは——適切だったと思うかね?」

 

「相手はいじめの犯人です。あの全員が、ハーマイオニー・グレンジャーほか七名の一年生を痛めつける明確な意思をもってあの場に登場しました。 ぼくのような年齢でも道義的な責任を問われなければならないのであれば、彼らも同様です。 もちろん死刑とまでは言いませんが、はだかで天井に貼りつけられるくらいは自業自得でしょう。」

 

ダンブルドアはまた眼鏡をかけた。ダンブルドアがハリーの目のまえで絶句するのはこれがはじめてだった。 「マーリンに誓って言うが、掛け値なしの本心として、わしはこの件にどう反応していいか分からぬ。」

 

「そう思ってもらえましたか。ぼくのねらいどおりです。」  ハリーは口笛で陽気な曲でも吹きたいところだったが、残念ながら思うように口笛を吹く技術がない。

 

「直接手をくだしたのがだれだったかについては、きみから知らされるまでもない。 あれだけのことをしうる人物はホグウォーツに三人だけ。 わしではない。セヴルスも関与していないと証言した。となると、残るのは……」  総長はやや狼狽したように、くびをふった。 「クィレル先生に〈マント〉を貸したのじゃな。 浅はかなことをしたものじゃ。 あれを着れば、単純な検知呪文をすりぬけることができる。そこからすぐに〈死の秘宝〉であることは見やぶられたにちがいない——いや、手を触れた時点でそれと気づいていたかもしれぬ。」

 

「クィレル先生は以前からぼくが不可視のマントをもっていることを言いあてていましたよ。 あの人のことですから、〈死の秘宝〉であるということも、おそらくあたりがついているでしょう。 でもひとつ言っておきますが、実際にはあのとき、クィレル先生は顔を隠した白ローブの集団の一人になっていたんです。」

 

またしばらく返事がなかった。

 

「その手で来たか。」 そう言って総長は玉座に背をもたれさせ、ためいきをついた。 「クィレル先生とはすでに話した。ついさっきのことじゃ。 どう表現したものかと考えたが、こう言ってはおいた。 廊下での規律違反に対処するにあたっては一定の方針があり今回のような手段は認められていない、それにホグウォーツ教授のふるまいとしてもいかがなものかと思う、と。」

 

「それで、クィレル先生はなんと返事しましたか?」  ハリー自身は、現状の廊下の規律のありかたについて、あまり満足していない。

 

総長はあきらめの表情をした。 「『では解雇なさい』、と。」

 

ハリーはあやうく歓声をあげそうになった。

 

総長は眉間にしわを寄せる。「しかしなぜクィリナスがあんなことを?」

 

「クィレル先生は校内暴力が嫌いなようですから。それと、ぼくが丁寧にたのみこんだからでもあるでしょう。」  ()()()()()()()()()()退()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「……でなければ、ものすごく複雑な謀略の一部としてやったことだったとか。」

 

総長は机のむこうで立ちあがり、〈組わけ帽子〉と赤いスリッパがのせられた帽子かけのまえを行ったり来たりした。 「ハリー、ここまでくるとこの件はいささか……」

 

「おもしろくなってきた、と思います?」

 

「『完全に手のつけようのないありさま』と言うべきじゃろう。 おそらくこの学校がはじまって以来、今日にいたるまでこれほどの……、なんと言えばいいか。これほどの事態は史上はじめてのことで、いままでだれもそのための表現を発明する必要を感じなかったらしい。」

 

ハリーはかわりに最高の賛辞をもらってよろこぶ様子を表現する新語を提案したいくらいだったが、あいにく忍び笑いに急がしく、なにも言えなかった。

 

総長はますます深刻な表情でハリーを見つめる。 「ハリー、きみはわしがなぜこれほど憂慮しているのか、理解していないのではないか?」

 

「正直言って、わかりませんね。 そりゃ、マクゴナガル先生だったら、学校の退屈な日常に色どりをあたえるすべてを止めようとするのも分かります。 でもマクゴガナル先生は、ニワトリを燃やすような先生ではありません。」

 

ダンブルドアはいっそう顔をしかめた。 「そのことはよい。問題は、本格的な戦闘が校内でおこなわれてしまったことじゃ!」

 

「総長。」 ハリーは敬意のある言いかたをつとめようとする。 「しかけたのはクィレル先生とぼくじゃなく、むこうですよ。 ぼくたちは〈光〉の陣営が勝つようにしむけただけです。 どの陣営が道義的に正しいと言えるか、はっきりしないこともあるでしょうが、今回にかぎっては悪人(ヴィラン)とヒロインの境界は明確です。高さ二十メートルの白炎で書かれた境界線があります。 あの介入のしかたは()()()()だったかもしれませんが、()()()()()ことだったとはだれにも言えないはず——」

 

ダンブルドアは席にもどり、クッションつきの玉座に音をたてて腰をおろし、両手に顔をうずめた。

 

「ぼくはなにか見おとしていますか? 内心では応援してもらえると思っていたんですが。 グリフィンドール的な行為でしょう。ウィーズリー兄弟ならきっと賛成する。フォークスだってきっと——」  ハリーは黄金色の止まり木に目をやったが、そこは空席だった。フォークスはほかの用事があっていないのだろうか。それともダンブルドアが席をはずさせたのだろうか。

 

「その点が……」 総長は年齢と疲労を感じさせる、ややくぐもった声で言う。 「まさに問題なのじゃ。 若く勇敢なヒーローに学校の運営をまかせたりしないことにはそれなりの理由がある。」

 

「そうですか、やはり見おとしていることがあると。それはなんですか?」  ハリーはつい懐疑心を声にこめてしまった。

 

老魔法使いは顔をあげ、神妙なおももちで、静かに話しだした。 「ハリー、よく聞いてほしい。ちからを行使する者はみな、遅かれ早かれこのことを理解するようになる。 この世界にはたしかに単純なものごともある。石をひとつ持ちあげて落としたとして、地球の重量はかわらず、星はとどこおりなく運行する。 こんな言いかたをするのは、また仮そめの知恵だと思ってもらいたくないからじゃ。単純なものごとはたしかにある。しかし複雑なものごともある。 強大な魔術は世界に、そしてその術者に、単純な呪文の効果ではありえないような刻印をのこすことがある。 そのような魔術を使う者には、ためらいが要求される。結果としてなにが起きるか、どのような印がきざまれるかを、吟味する義務がある。 ところが、わしが知るかぎりもっとも難解な種類の魔法はこのうえなく単純でもある。 それは()()じゃ。人間はつねに自分がすること、自分にされたことによって刻印される。 『正義と悪の境界はここにある』などと言うだけで自分のただしさを証明できはしない。わかるかね?」

 

「たんなる気まぐれのように思われるのは心外ですね。まあ、あの場にいたいじめっこ一人一人にどういう影響があるかを正確に把握していたとまでは言いません。 でも、情報が十分あつまるまで待つばかりでは、行動することなどできません。 たとえばペレグリン・デリックの心理面の生育について言うなら、一年生女子八人をいじめることがよい影響をもたらすとは考えにくい。 それに、地味なやりかたですばやく介入するだけでは、意味がなかった。それではいずれまたおなじことがくりかえされます。彼らにとって恐れるにあたいする介入者が存在することを知らしめる必要があったんです。 ……もちろん、ぼくは善のがわですから、後遺症のあるけがをさせたり、苦痛をあたえたりすることはできません。そうでないやりかたで、もうこりごりだと思わせる必要がありました。 なにをすればどういう効果が期待できるか、ぼくのかぎりある理性をつかって吟味したうえでもっとも有効な手段として導きだされたのが、彼らをはだかにして天井に貼りつけるという方法でした。」

 

ヒーローはそのまま老魔法使いと対峙し、緑色の目で老魔法使いの青色の目をじっと見すえた。

 

それに、ぼく自身はその場にいなかったし直接手だししてはいなかったのだから、校則上ぼくを罰する口実は存在しない。実行者はクィレル先生一人であり、クィレル先生にはどんな規則も通用しない。 かといって、ダンブルドアからすれば、ぼくをヴォルデモート卿と戦わせる手駒として育てるつもりなら、規則を度外視してぼくをこらしめようとするのも賢明ではない……。 今回ハリーはいつになく真剣になって各方面にどんな影響がありうるかよく考え、それからクィレル先生に最終的な提案をしにいったのだった。 クィレル先生もその話を聞いたとき、めずらしくハリーのことを愚か者とは言わず、すこしずつ笑顔になり、笑い声をたてた。

 

「きみがそういう狙いでいたことは分かっておる。 あれだけのしっぺがえしには、いじめっこたちも()りて反省するはずだと、きみはそう思うにちがいない。 しかし、ペレグリン・デリックのペレグリン・デリックたるところは、そのような教訓にまなび反省することができない人間であるということ。 反省するどころか、挑発されたとしか思わない——なげかわしいことではあるが、世のなかはそういう風にできている。」  老魔法使いは痛みを感じたかのように一度目をとじて、またあけた。 「ハリー、英雄(ヒーロー)が知るべきもっとも残酷な真理は、正義が勝てない場合もあるということ、そして勝ってはならない場合もあるということじゃ。 今回の件はそもそも、ミス・グレンジャーが三人の年上の敵とたたかって勝ったことからはじまった。 そこまでで満足していれば、勝利の余韻もいずれは立ち消えていたにちがいない。 しかし彼女はおなじ一年生から仲間をつのり、ペレグリン・デリックをはじめとする勢力全体に公然と杖をむけ、挑戦した。そしてあの勢力は、挑戦に対して杖でこたえる以外の方法を知らない。 それでハイメ・アストルガが彼女を襲い、自然な帰結として彼女は倒されるはずじゃった。気の毒なことではあるが、それ以上くりかえされることはなかったはず。 一年生女子の魔法力を八人ぶんあわせても、ハイメ・アストルガを倒すちからはない。 しかしきみはそれが気にいらなかった。ミス・グレンジャーがしっぺがえしを受けるのが気にいらなかった。それでクィレル先生に頼みこんで、すがたを隠して待ち伏せしてもらい、ダフネ・グリーングラスの攻撃がアストルガの防壁を貫通するように細工させた——」

 

え?

 

「きみがそうやって介入するたび、事態は深刻さを増した。 やがてミス・グレンジャーが〈死食い人〉の息子ロバート・ジャグソンら三人と対決するまでになった。 ミス・グレンジャーはそれは手痛い敗北を喫するはずじゃった。しかし、そこでまたきみはクィリナスの手を借りて、今度はもっとあからさまに、彼女を勝たせた。」

 

クィレル先生が透明になってS.P.H.E.W.のヒロインたちのそばにつき、こっそり護衛していたというのか。そんな様子はとても想像できない。

 

「そして、今日のことが起きた。四十四人の生徒が八人の一年生をとりかこみ攻撃した。 校内で本格的な戦闘が起きた! 意図してやったことではないとしても、きみにはなんらかの責任をとってもらわねばならん。 きみが来るまでこの学校でこのようなことは起きたことはなかった。わしが数十年まえに総長の任を受けて以来……いや、わしが生徒であった時代にも、教師であった時代にもこのようなことはなかった。」

 

「おほめのことば、ありがとうございます。」  ハリーは平静な声をたもった。 「賞賛されるべきなのは、ぼくよりクィレル先生だと思いますが。」

 

青色の目が見ひらかれた。「ハリー……」

 

「ぼくが来るずっとまえから、いじめはありましたし、被害者もいました。」  おさえようとしてはいたのに、だんだんと声が大きくなってきた。 「なのに、被害者にも()()する権利があると教えてあげた人は一人もいなかったようですね。 たしかに、被害者が一方的に呪文や暴力に屈しているだけではなくなり、両方が手出しをしているとなれば、いつまでも()()してはいられなくなるでしょう。でも無視できなくなるのは()()ことですか? あいにくゴドリック・グリフィンドールの本はまだすこししか読んでないので、これに答えるのにぴったりの引用句が思いあたりませんが……。とにかく、 被害者が静かに苦しむのとくらべて、戦闘は()()()()ですから、見て見ぬふりをしたがる人には不都合でしょう。でも最終的な成果を見れば、それでよかったのだということに——」

 

「いや、ならないのじゃ、それが。わかっておくれ。 ()()()暗黒とたたかいつづけようとすること、()()()()()()悪を看過してはならないという態度——それは英雄主義(ヒロイズム)ではなく、おごりにすぎない。 ゴドリック・グリフィンドールはたしかに戦いにあけくれる人生を送ったが、戦う価値のない戦争もあると知っていた。」  老魔法使いはそこで小声になった。 「きみの論理は——その論理は無論、邪悪ではない。それでもなお、わしは恐ろしくなる。 きみはいつか、魔術の行くすえを、あるいは魔法族の行くすえを左右する強大なちからを持つことになるかもしれぬ。 きみにそのときが来てもまだ、悪は一度たりとも看過してはならないと思っているままであったなら——」  こんどは、本心から心配しているような声に変わる。 「この世界はホグウォーツが建造された時代より脆弱になった。つぎにゴドリック・グリフィンドールのような憤怒の人が到来するとき、世界がそれに耐えてくれるかどうか、こころもとない。 ゴドリック・グリフィンドールとて、きみのようにすぐに怒りに身をまかせることはなかった。」  そしてくびをふる。 「きみはあまりにも好戦的すぎる。きみを中心にして、ホグウォーツそのものが以前より物騒になりつつある。」

 

どう表現するか、ハリーは慎重に考えてから言った。 「……こう言うと逆効果かもしれませんが、それは完全に誤解ですよ。 ぼくも戦うのは好きじゃありません。 戦いは怖いし、野蛮だし、だれかがけがをすることもある。 でも、分かりませんか。ぼくは今日、戦ってすらいないんです。」

 

総長は眉をひそめた。「かわりにクィレル先生にやらせたのであれば、おなじこと——」

 

「クィレル先生も戦ってはいません。 クィレル先生と戦えるような人はあの場にいませんでした。 あのとき起きたのは、戦闘ではなく勝利です。」

 

老魔法使いはしばらく時間をかけてから返事した。 「仮にそうだとしても、一連の紛争には終止符を打たねばならん。 わしにはこの学校の緊張の空気が肌で感じられる。衝突が一度起きるたび、緊張は高まる。 この件は近いうちに、有無を言わさぬかたちで終結させねばならん。きみにはそれを邪魔しないようにしてもらいたい。」

 

老魔法使いはオーク材の大扉にむけて手をふり、ハリーは退室した。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは二体の巨大なガーゴイル像があけた道を通りぬけ、おもいがけず、クィリナス・クィレルが廊下の石壁に倒れこんだままそこにいるのを目にした。だらしなくあいた口から大きなよだれを教師用のローブにこぼしているそのすがたは、ハリーが総長室にむかったときから変わっていなかった。

 

待てども起きあがる気配はなく、ハリーは居心地が悪くなったので、廊下のさきに進むことにした。

 

二区画さきまで行ったところで、「ミスター・ポッター?」とハリーを呼ぶ声がした。小声でありながらなぜか、はっきりと聞こえる声だった。

 

ハリーはクィレル先生のところにもどった。クィレル先生はやはり壁に倒れこんだままだったが、淡い水色の目には知性の光があった。

 

すみません、そこまでクィレル先生を消耗させることになるとは——

 

ハリーはそう声をかけることができなかった。 クィレル先生がついやす労力の量と『休息』の長さのあいだに相関があることにハリーは気づいていた。 けれど、仮に割にあわない労力だと思うなら、クィレル先生は協力を申しでるはずがない。そう考えて、ハリーは気にしないことにしていた。 それははたして、ただしい選択だったのか。そうでなければ、どう謝罪すればいいのか……。

 

防衛術教授は口以外にまったく動きを見せないまま、静かに話しだす。 「総長との面談はどうだった?」

 

「よく分かりません。 予想していたような話ではありませんでした。 総長は〈光〉の陣営が負けるべき状況がずいぶん多くあると思っているようです。ぼくが妥当だと思うよりもずっと多く。 それと、総長は戦おうとすることと勝とうとすることのあいだの違いも、理解していないような気がします。 そうだとすれば、いろいろ説明がつきますね……」  ハリーは〈魔法界大戦〉についてそれほど詳しく調べたことはない。しかし、善のがわはとくに凶悪な〈死食い人〉たちの身元をかなりの精度で把握していたらしいことは、知っている。にもかかわらず、まっさきにフクロウで手榴弾を送りつけるという手をとらなかったということも。

 

色の薄いくちびるから弱い笑いがもれた。 「そう、ダンブルドアは勝利を楽しむことも、ゲームを楽しむことも知らない。 ひとつ聞いておきたい。 きみが今回の作戦を提案したのは、わたしの退屈をまぎらそうと意図してのことか?」

 

「いろいろある動機のなかのひとつではあります。」  『はい』の一言ですませてしまってはまずい、とハリーは本能的に感じたのでそう答えた。

 

「思えば昔から、わたしが陰鬱になっていると気分をあかるくさせようと努力する者は何人かいた。努力しただけでなく、実際そのような結果につながったこともある。しかし、意図してやってそのとおりに成功させたのはきみがはじめてだ、と言ったらおどろくかね?」  そう言って、防衛術教授は独特な動きで壁の下から立ちあがった。まるで筋力だけでなく魔法力もつかったかのようだった。 そしてハリーのほうをふりかえらずに、歩きはじめた。ただその後ろ手に指が一本、くいっと動いたのが見えたので、ハリーはあとを追った。

 

「ミス・デイヴィスのためにきみが用意した祈祷文はとくに愉快だった。」  しばらく歩いてからクィレル先生は話しはじめた。 「ただ、彼女に暗記させるまえに、わたしに目をとおさせてもよかったと思うがね。」  クィレル先生のローブのなかで片手がむくりと動き、杖をたずさえ、空中に小さなしるしを描いた。すると、城の遠くから聞こえていた喧騒の音が消えた。 「正直に言ってもらおう。きみはなんらかの手段で〈闇〉の儀式の理論をまなんだことがあるか? そうだとして、実際につかう意思があると白状したことにはならない。原理のところまでを知る魔法使いは少なくない。」

 

「ないですけど。」  ハリーが一度はホグウォーツ図書館の〈禁書区画〉に忍びこむことを考え、却下したことには理由がある。一年まえ、一般家庭にある材料から爆発物を製造する方法を調べるという発想を却下したのもおなじ理由からだった。 ハリーは自分はほかのひとが思うほどの常識知らずではないという自負がある。

 

「ほう?」  だいぶふつうの歩きかたになっているクィレル先生のくちびるが独特の笑みをかたちづくる。 「おもしろい。生まれつきこの方面に才能があるということかもしれないな。」

 

「ああ、それなら、ドクター・スースにも〈闇〉の儀式の才能があったんでしょうね。『シャックリ ギックリ ヒックリ ヒッ』というのは、『ふしぎなウーベタベタ』というドクター・スースの絵本にあった呪文をそのままもらっただけですから——」

 

「いや、その部分ではない。」  クィレル先生の声に多少重みがでて、ふだんの講義の話しかたにちかづいた。 「凡庸な呪文は一定のことばを口にし、一定の杖の動かしかたをし、多少のエネルギーを消費するだけで発動する。 威力の大きな呪文であっても、効果だけでなく効率を重視したものであれば、おなじくらい容易につかえることもある。 しかしとくに高度な魔術では、言語以上の構造が要求される。 具体的な行為と選択をおこなうことでその構造をあたえるのが、儀式というものだ。 高度な魔術ほど、発動に必要なエネルギーは一時的な魔法力の消費ではおぎなえない。 そこで不可逆的な犠牲をささげる必要がある。 そういう高度な呪文は、凡庸なチャームとは似ても似つかない威力を発揮する。 しかし儀式の手順には多くの場合——いや、ほとんどの場合——顰蹙(ひんしゅく)を買いかねない種類の捧げものがふくまれている。魔術の深奥をきわめる儀式魔術という分野全体が一般に〈闇〉の魔術と呼ばれているのはこのためだ。もちろん、伝統にもとづく少数の例外はあるがね。」  クィレル先生の声に皮肉がまじる。 「〈不破の誓い〉の存在は、一部の裕福な家系にとってあまりに都合がよかった。だから完全に法律で禁じることはできなかった。 下等な儀式がやたらと疎外されるいっぽうで、個人の意思を死ぬまで束縛するという非道な所業が見のがされている。 冷笑的な見かたをすれば、どの儀式を禁じるかを決めるのは道義的な基準ではなく慣習だとすら言える。 それはさておき……」  クィレル先生は軽く咳ばらいをした。 「〈不破の誓い〉は三人の参加者と三点の犠牲を必要とする。 〈不破の誓い〉の受け手は、〈誓い〉の実行者を信頼する意思をもっていなければならない。受け手はあえて〈誓い〉という強制手段をとることで、信頼がむすばれる可能性を犠牲にする。 〈誓い〉の実行者は、自由意思で〈誓い〉の内容を実行しうる人物でなければならない。実行者は〈誓い〉により、自由な選択を犠牲にする。 第三の人間、縛り手は、みずからの魔法力の一部を不可逆的にうしなうことで〈誓い〉を発効させる。この少量の魔法力の犠牲により、〈誓い〉の効力はいつまでも維持される。」

 

「なるほど。魔法使いはなぜ、相手が約束をまもってくれるかどうか分からないとき、まっさきにその呪文を使わないのか、と思っていましたが、そういうことですか。……それでも……死期がちかくなった人はみんな〈不破の誓い〉の縛り手を請け負うことでおかねを稼いで、遺産を増やすことができそうなものですが——」

 

「そう理解できている人は少ないということだ。 すこしよく考えれば便利につかえるはずの儀式は何百とある。 そのうち二十種くらいの名前を一息に暗唱してみせてもいい。 ともかく、ミスター・ポッター、重要なのは——それを〈闇〉の儀式と呼ぶかどうかにかかわらず——儀式魔術は見た目上の演出ではなく効力のために作られているということだ。 たしかに強力な儀式ほど残酷な犠牲を要求する傾向はある。しかしわたしの知るもっとも凶悪な儀式魔術でも、必要なのは男を絞殺した縄一本と女を斬り殺した剣一本にすぎない。それだけで、〈死〉そのものを召喚するという儀式をおこなうことができる——とはいえ、どういう意味で〈死〉を召喚するものなのか、わたしは知らないし、知る気もない。〈死〉を消し去る対抗呪文の知識はうしなわれている、とも書かれていたからだ。 きみがミス・デイヴィスのために起草した祈祷文ほどおそろしげな文句には、わたしもお目にかかったことがない。 あの狼藉者のなかに、すこしでも〈闇〉の儀式に通じた者がいれば——多少はいるだろうな——筆舌につくしがたい恐怖をあじわったことだろう。 あれほど大がかりな外観をともなう儀式が実際あったとすれば、地球を溶解させるほどの威力になる。」

 

「は、はあ。」

 

クィレル先生のくちびるが一層ねじれる。 「ああ、そして極めつけはここからだ。 ミスター・ポッター、儀式の呪文ではかならず供物をさきに指定する。引きかえに得るものを指定するのはそのあとだ。 きみがミス・デイヴィスに渡した呪文では、まず『暗黒の果ての暗黒』『時間の流れの水底に埋まりしもの』『門を知り、門にして鍵である者』という口上があった。 そのあとで、ミスター・ポッター、きみ自身を召喚することばがあった。 くりかえすが、最初に指定されるのが供物であり、そのあとが利用目的だ。」

 

「そう……ですか。」  ハリーはクィレル先生のあとを追って防衛術教授室へむかう足をとめていない。 「つまり、あの言いかたでは、まるで〈外なる神〉ヨグ゠ソトースを——」

 

「——そう、供物として不可逆的に犠牲にし、その引きかえにきみを現世に召喚する儀式だったことになる。 まあ、実際本気にした人がいたかどうかは、明日の新聞を読んでみれば分かることだ。この宇宙へのきみの侵入を押しとどめるために全魔法世界が団結したという記事があるか、楽しみだ。」

 

二人は歩きつづけ、クィレル先生は妙にしわがれた声で笑いだした。

 

二人はそれ以上話すことなく、防衛術教授室へ到着した。ドアに手をかけたところで、クィレル先生の動きが止まった。

 

「思えば奇妙なものだ。」  防衛術教授の声はほとんど聞こえないほど小声になり、 ハリーに背をむけたまま、話しつづける。 「とても奇妙だ……。 あるとき、わたしは自分の杖腕の指を一本ささげることで、ホグウォーツでいじめをしている者たちに、今日やったようなことをしてやろうと考えたことがある。 つまり、狼藉者たちがわたしを恐れ、全生徒がわたしの威光に服し、崇敬すらするようにしようとしていた。そのためなら指の一本を犠牲にしてもよかった。 きみはいまそのすべてを手にしている。 人間の本性どおりにいけば、わたしはきみを憎んでいてしかるべきだが、 実際にはそう思えない。 とても奇妙だ。」

 

感動的に思えていい場面だが、ハリーは背すじに寒けを感じた。ちょうど大海に泳ぐ一匹の魚になった自分が巨大な白いサメに見つかり、そのサメがじろりと見て、大げさにためらうしぐさをし、食べないでおいてやる、と言ったような感じがした。

 

男はドアをあけ、教授室のなかに消えた。

 

◆ ◆ ◆

 

余波:

 

おなじスリザリン寮の生徒たちが全員、ダフネにむかって……どういう顔をすればいいのか分からないという顔をしている。

 

グリフィンドール生たちも、どういう顔をすればいいのか分からないという顔でダフネを見ている。

 

ダフネ・グリーングラスは恐れることなく、〈元老貴族〉らしい威厳をまとって〈薬学〉教室のなかを歩いていく。 内心では、周囲のみんなが考えているであろうこととおなじことを考えながら。

 

あの『??』が『?!?』してから二時間になるのに、ダフネの脳内はいまだに『??!!?』な状態のままだった。

 

スネイプ先生の到着をまえに、教室全体がしんとしている。 ラヴェンダーとパーヴァティはグリフィンドール生の集団のちかくにいて、無言の視線をうけている。 二人は授業がはじまるまでの時間をつかって宿題を見せあっているが、だれもそこにくわわろうとせず、話しかけようともしない。 ダフネの知るかぎり何者にも動じないラヴェンダーですら、気おされているようだ。

 

ダフネは席につくと『魔法水薬・油薬』の本をかばんから取りだし、自分の宿題を見なおす作業をはじめ、できるかぎり平静なふりをつとめた。 視線を投げかけてくる人たちのだれも、口をきこうとはしない。そのとき——

 

ひっと息をのむ音が教室全体にひろがった。 ドアのそばの席から順に、生徒たちが風になびく穂のようにひるんで腰をひかせていく。

 

ドアを通ってくるのは、ホグウォーツの制服にかさねてぼろぼろの黒衣をまとったトレイシー・デイヴィス。

 

トレイシーは一歩一歩、ゆらりゆらりと教室のなかを歩いてきて、いつもの席に腰をおろした。つまりダフネのとなりの席である。

 

トレイシーはゆっくりとくびをひねり、ダフネを見た。

 

「ほうら……」 トレイシーは陰鬱な低い声で言う。「言っておいたとおりになったでしょう。あたしが一歩さきに、もらったわ。」

 

「なんのこと?」 ダフネはつい聞きかえしてしまったが、すぐに後悔した。

 

「グレンジャーよりさきに、ハリー・ポッターをいただいた、っていうこと。」  トレイシーはやはり低い声でそう言い、目をかがやかせ勝ち誇る表情になる。 「ポッター司令官が女の子にもとめるのは、きれいな顔でもきれいな服でもない。 要はあれだけの呪力をうけとめる巫女になる気がある気があるかどうか。 これであたしは彼のもの——彼もあたしのもの!」

 

それを聞いて教室全体が凍りついた。

 

「失礼、ミス・デイヴィス。」 もう一人の〈元老貴族〉、ドラコ・マルフォイの洗練された声がした。興味なさげに〈薬学〉の宿題をぱらぱらとめくっており、周囲の注目があつまるのも意に介さず、手もとから目をはなそうとしない。 「ハリー・ポッターがそう言ったのか? 一字一句そのままの表現で?」

 

「そうじゃないけど……」と言ってから、トレイシーは憤然として目をひからせた。 「でも責任はとってもらわないと。あたしは自分の魂までささげさせられたんだから!」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」とミリセントが息をのんだ。 そして遠くのほうでがちゃりと、ロン・ウィーズリーがインク壺を落とす音がした。

 

「そうに決まってる。」 トレイシーは一瞬自信なさげになったが、すぐに気をとりなおした。 「鏡で顔を見たら青ざめた色になってたし、ずっと暗黒にとりかこまれた感じがしてるし、彼の呪力の媒介にもなってあげたんだし……。 ダフネ、あたしの目が緑色になってたの、見た? 自分では分からなかったけど、緑色だったってあとで聞いたから。」

 

またあたりがしんとして、ロン・ウィーズリーが机をふく音だけがした。

 

「……ダフネ?」ともう一度トレイシーが言った。

 

「ありえないわ。次代の〈闇の王〉がよりによって、あんたを花嫁にえらぶなんて!」と別の声がした。

 

周囲の人びとも半分自分の耳をうたがう顔つきで、声のぬし——パンジー・パーキンソンのほうを見る。

 

「ことばをつつしみなさい……」と言ってトレイシーは一度言いやめ、 それからさらに低い声で、 「魂を食べられたいの。」

 

「やれるもんならね。」 自信ありげな声でそう言うパンジーは、自分を頂点とする群れの序列になんらうたがいをもたないニワトリのような態度で、事実ごときを目にしただけで信念を更新するつもりはないらしい。

 

トレイシーが席を立ち、ゆらゆらと動きはじめた。 それを見て、また何人かが息をのんだ。 ダフネは自分が席についたまま〈石化〉されて動けなくなってしまったような気がした。

 

「ねえトレイシー?」 ラヴェンダーが小声で言う。「お願いだから、あれはもうなしにしてね。ね?」

 

トレイシーがゆらりゆらりとパンジーの机に近づいていくにつれ、パンジーの顔にも不安の色が見えだした。 「なにをしようっていうの?」

 

「言ったとおりよ。魂を食べてあげる。」

 

トレイシーはそう言って、席で硬直したパンジーに上からかがみこみ、 くちびるとくちびるが触れるか触れないかのところで、ズズっと吸いこむ音をだした。

 

「はい、ごちそうさま。食べちゃった。」 トレイシーは姿勢をもとにもどしてそう言った。

 

「うそばっかり!」とパンジー。

 

「うそじゃないもんね!」とトレイシー。

 

一瞬あたりがしずまり——

 

「いや、ほんとみたいだぞ!」とセオドア・ノットが言う。「すごく顔色が悪くなってる。目もうつろだ。」

 

「ええっ?」 パンジーは悲鳴をあげて、真っ青になった。 あわてて立ちあがって、かばんのなかを必死にかきまわす。 やっととりだした鏡で自分の顔を見て、いっそう真っ青になる。

 

ダフネはここまでなんとか気品ある落ちつきをよそおっていたが、それももう限界になったので、どすんと音をたてて机にあたまを打ちつけた。そして、いくら有力家系とのコネクションのためとはいえ、ほんとうにこのままこの学校で〈カオス軍団〉と同居するのに耐えなければならないのだろうか、と考えた。

 

「あーあ、やっちゃったな。」とシェイマス・フィネガンが言う。「ディメンターの〈口づけ〉が実際どういう効果なのかは知らないけど、トレイシー・デイヴィスのキスだったら、きっともっと悲惨なことになるぜ。」

 

「人間は魂がなくなるとどうなるか、聞いたことがある。」とディーン・トマスが暗い声で言う。 「いつも黒い服を着て、へたな詩を書いてばかりで、二度としあわせにはなれない。苦悩の人生って感じになるらしい。」

 

「そんなのいや!」とパンジー。

 

「もうどうしようもないんじゃないかなあ。魂、なくなっちゃったんだし。」とディーン・トマス。

 

パンジーはふりむいて、片手をドラコ・マルフォイの机にむけ、懇願するように言う。 「ねえドラコ! ミスター・マルフォイ! トレイシーになんとか言って! わたしの魂を返させて!」

 

「無理よ。食べちゃったんだから。」とトレイシー。

 

「だったら吐きださせて!」とパンジー。

 

マルフォイ家の跡取りドラコ・マルフォイは両手に顔をうずめ、だれにも見られないようにしてから、「なんでいつもこうなる?」と言った。

 

パンジーは教室のまんなかで両手をふりみだして涙をうかべ、トレイシーは満足げな顔で席にむかう。ほかの生徒たちはいっせいにひそひそ話をしはじめ——

 

「静・粛・に。」

 

スネイプ先生が扉をすっと通りぬけるとともに、殺意のこもったその声が教室全体にひびいたように感じられた。 ダフネはこれほど怒った表情のスネイプ先生を目にするのははじめてだったので、背すじに電撃的な恐怖を感じ、あわてて手もとの宿題に目をふせた。

 

「座れ、パーキンソン。……それにデイヴィス。そのふざけたマントを脱げ——」

 

「スネエプせんせええ!」とパンジー・パーキンソンが涙ながらに言う。「トレイシーが、わたしの魂を食べちゃったんです!」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「外なる神」
H・P・ラヴクラフト原作のホラー小説群からはじまった創作世界(「クトゥルー神話」)に登場する神々の一角。Yog-Sothoth(ヨグ゠ソトース、ヨグ゠ソトホート)、Nyarlathotep(ニャルラトホテプ、ナイアーラトテップ)など人間に呼びにくい名前を持つ。


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75章「自己実現(終)——責任の意味」

ここはホグウォーツ城の底の果てしなく曲がりくねった小道のひとつ。ねじれたはねっ毛のように、 ときにはもと来た道と交差しているようにさえ見え、近道だと思って一度道をそれてしまえば、いつのまにか同じ場所にもどる迷路でもある。

 

その迷路の出口の灰色の岩壁に背をあずけて、黒ローブすがたの生徒が六人立ち、ちらちらと視線をかわしあっている。ローブのえりの色は全員緑色。 窓のない岩壁に点在するたいまつの光と熱がスリザリン地下洞の暗黒と冷気を押しとどめている。

 

「どう考えても……」とリーズ・ベルカがいらついた声で言う。 「どう考えても、あんなのがほんものの儀式なわけがない。 一年生のお嬢ちゃんに、ほんものの儀式ができるはずがない。仮にできたとして、封印された怪物を生けにえにする〈闇〉の儀式で呼びだされるのが——()()? そんな魔法、聞いたこともないわ。」

 

「で、ベルカ……」とルシアン・ボールが言う。「その——そいつが指を鳴らしたとき、やっぱりおまえも——」

 

ベルカはボールを燃やしつくしそうな目で見た。 「まさか。」

 

「たしかに、はだかじゃなかったな。」とマーカス・フリントが言う。広い肩幅をでこぼこの壁にあずけ、一見楽な姿勢をしている。 「粉チョコレートのコーティングのおかげで紙一重だ。」

 

「侮辱だ。ポッターは今回の件でこのスリザリン寮全体を侮辱した。」とハイメ・アストルガが低い声で言う。

 

「うん、でもねえ。率直に言わせてもらうと……」と決闘術の使い手でもある七年生ランドルフ・リーが冷静な声で言い、ごくみじかいひげを生やしたあごをなでる。 「天井に貼りつけるっていうのはさ、メッセージだよ。『こちらはものすごく有能な〈闇の魔術師〉で、やろうと思えばおまえたちをいくらでも料理してやれる。寮全体を侮辱したことになろうがどうでもいい』っていう。」

 

ロバート・ジャグソン三世が低い声で笑い、その声に何人かが寒けを感じた。 「それじゃあ、どちらがどちらか分からんな? 〈闇の王〉がそういう『メッセージ』を送らせたという話はよく聞く……」

 

「ポッターとの勝負、おれはまだ終わったと思っていない。」とアストルガがジャグソンの目を見ながら言った。

 

「おなじく。」とベルカ。

 

ジャグソンは手にしていた杖を指にはさみ、くるくると回した。 「どうした、グリフィンドールにでもなったつもりか? スリザリンなら、相手の弱味を見つける。そして断れない取り引きをする。」

 

一瞬全員が押し黙った。

 

「マルフォイはどうした? 来るんじゃなかったのか。」とボール。

 

フリントが不満げに指をはじいて答える。 「なにをたくらんでるのやら。あいつはとにかく無関係なふりをしていたいらしい。おれたちと同じ時間にすがたが見えない、っていうのも状況証拠ではあるからな。」

 

「でもそれはもうバレてるじゃないか。ほかの寮にだって見すかされてる。」とボール。

 

「バレバレよね。マルフォイとはいえ、所詮一年生。来られても迷惑だわ。」とベルカ。

 

「おれがフクロウで連絡してみる。うちの父親を通じて、マルフォイ卿に話を通せば——」とジャグソンが言いかけて、突然とまった。

 

「あなたはそれでいいのかもしれないけど、あんなインチキ儀式をされて引っこむなんて、わたしはまっぴら。ポッターとポッターのお気に入りにやられたままでは終われない。」

 

全員が無言のまま、じっとベルカに……いや、ベルカの背後に視線を集中させる。

 

いったいなにがそこに、と思い、ベルカはゆっくりとふりかえる。

 

「勝手なことはさせんぞ。」 寮監セヴルス・スネイプだった。怒りのあまり、口角から泡を飛ばし、もともと汚れたローブをさらに汚している。 「おまえたちのしくじりのせいで——一年生に負けるなど——ただでさえこの寮は恥をかかされた。こんどは子どもの喧嘩にウィゼンガモート評議員の手をわずらわせるつもりか? この件はわたしが引きとる。 おまえたちには二度とこの寮に恥をかかせるような真似はさせんぞ! 喧嘩もいっさい禁ずる。それが守れなければ——」

 

◆ ◆ ◆

 

ああいった一件のあと、二人が夕食で席をならべると思うのは大きなまちがいである。

 

「じゃあ、ぼくになにをしてほしかったのか……はっきり言えばいいのに。」  少年はお手あげといった様子で、そうぼやく。科学の本をいくら読んでいても、ある種のことにはまだうといらしい。 「……まさか、あのままボコボコにされたかったとでも?」

 

そのまわりにいるレイヴンクロー上級生男子が数名、ちらりと視線をかわしあった。無言の了解が成立し、随一のベテランが話しだす。

 

「要するにだ。」 七年生アーティ・グレイは二番手と四人ぶん(そのうち一人は過去の防衛術教授)の差をつける猛者である。 「ミス・グレンジャーの機嫌はたしかにわるい。でもだからって、失点が確定したと思うのは早計だ。 あれは自分がむだに震えあがってしまったのを、きみに当たりつけてるだけさ。 本人は認めたがらないかもしれないけど、本心ではきっとじーんときてるよ、きっと。付きあってる男の子が、あんなとんでもない……っていうより、気ちがいじみたことまでして、自分を守ってくれたんだから。」

 

()()なんかどうでもいい。」 ハリー・ポッターは歯と歯のあいだからしぼりだすように言う。 目のまえにある食事は忘れ去られている。 「悪人をこらしめることができればそれでいいんです。 それと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

 

それを聞いて全員がくすくすと笑った。

 

「はいはい。」と別の六年生男子が言う。「〈吸魂〉状態にいたきみを女の子がキスで救った、きみはそのお返しに、彼女をいじめようとした四十四人の荒くれ者を天井に貼りつけた……。これはもう『付きあってなんかいません』どころじゃないね。むしろ、二人のあいだにどんな子が生まれてくるかを想像する段階だよ。……うわ、想像するだけで怖くなるわ……」  そう言ってから、小声でつけたす。 「そういう目で見ないでくれよ。」

 

「だからさ、きびしいことを言うようだけど、これは正義をとるか、女の子をとるか。どちらかはあきらめてくれないと。」  アーティ・グレイはそう言って、片手をぽんとハリー・ポッターの肩に乗せた。 「きみは見どころがある。とてもある。しかしただしい方向に育てなきゃ、元も子もない。 まず、女の子にはもうすこしやさしくする。ちゃんとした呪文で『それ』をもうちょっと髪の毛と呼べるようなものにする。 そして肝心なのは、もうすこしうまく邪悪さを隠せるようになること。——ただし隠しすぎてもいけない。 清潔感がある男子はモテる。〈闇の魔術師〉もモテる。でも清潔感があって〈闇〉の一面を()()()()男子なら、モテるなんてもんじゃすまない——」

 

「興味ないですね。」  きっぱりそう言って、ハリーは肩の上の手を無造作にはらった。

 

「いずれそうは言ってられなくなるんだな、これが!」

 

おなじ長卓の別の一角で——

 

「ロマンティック?」  ハーマイオニー・グレンジャーはひどく大きな声をだし、となりに座っていた女子の何人かをひるませた。 「あれのどこが? ハリーはわたしにたずねもしない! いつもなにも言わずに人にゴーストを送ったり、人を天井に貼りつけたり、()()()()人生をおもちゃにする!」

 

「でもねえ、分からない?」と四年生女子が言う。「そういうことをするのは、邪悪だからっていうのもあるけど、愛があるからよ!」

 

「その言いかた、逆効果だと思う。」とペネロピ・クリアウォーターがすこし遠くの席から言ったが、無視された。 ハーマイオニーはハリー・ポッターと反対がわの端っこの席に陣取っていた。年長組の女子たちもその近くに来ようとしてはいたが、年少組が一歩さきを行ってハーマイオニーを取りかこんでいたので、なかなか近寄ることができていない。

 

「愛のまえに、男の子はまず女の子の意思を確認すべきでしょう! いろいろな意味でそうなんですが、人間を天井に貼りつける場合はとくにそうです!」

 

そういうハーマイオニーの声も無視された。かわりに、 「まるでお芝居みたい!」と言って三年生女子がためいきをついた。

 

「お芝居? こんな筋書きのお芝居がどこにあるのかしら!」とハーマイオニー。

 

「あ、すごくロマンティックな話があってね……。とても気立てのいい男の子が〈煙送(フルー)〉を使おうとして、目的地を言いまちがえて、とある部屋に迷いこんでしまう。そこは〈闇の魔術師〉の集会で、言語に絶するような禁断の儀式をよみがえらせようとしているところ。儀式というのは、七人のいけにえを捧げて古代の怪物を解放するための儀式で、怪物は解放されたあかつきに願いを一つかなえてくれる。もちろんそこに男の子がはいりこんだことで儀式は妨害されて、怪物は〈闇の魔術師〉もろとも全員を食べてしまう。男の子は死ぬまぎわに、恋人がほしかったな、と思う。つぎの瞬間、男の子は恐ろしい目をした美しい女性のひざにのせられて寝かされている。その女性は人間らしい行動がちっともできなくて、いつも人間を食べようとして、男の子はいつも手を焼かされる。 ほら、そっくりでしょ。あなたが男の子で、ハリー・ポッターが女の子の役なんだと思えば!」

 

これは意外だった。 「た……たしかに、似ているような気も——」

 

「え、ほんとに?」とテーブルのむこうにいる二年生女子が、いつのまにか身をのりだして言う。愕然としているが、それ以上にうっとりした表情でもある。

 

「そうじゃなくて! ……()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

そのことばがハーマイオニーの口を飛びでてから二秒後に耳が追いついた。

 

四年生女子がハーマイオニーの肩に手をのせ、ぎゅっとつかんだ。 「ねえ、ミス・グレンジャー……自分に正直になってみなさい。あなたがむかむかしている真の原因はなにか。認めたくないだけで、ほんとは分かっているはず。大切なマスターが秘密の能力を発揮するための媒介としてえらんだのがトレイシー・デイヴィスだった。それが自分じゃなかったのが、気にいらないんでしょう。」

 

ハーマイオニーは口を大きくあけたが、声をだすまえにのどが硬直し、なにも言えなかった。それでよかったのかもしれない。もしそのまま怒鳴っていたら、なにかが壊れてしまったかもしれない。

 

「でも……ハリー・ポッターがあなたから離れられないんだとしたら、別の女の子を媒介にできるのは変よね?」と三年生女子が言う。 「もしかしてあなたたち三人はもう……そういう協定でつきあってたんだとか?」

 

「ガ……ア……」  ハーマイオニー・グレンジャーののどは硬直したまま、脳も停止したままだったが、声帯だけがひとりでに動き、口からヤクが一頭でてきそうな音をだした。

 

◆ ◆ ◆

 

(そのしばらくあと)

 

「そんな偏屈にならなくてもいいのに。」と別の二年生女子が言う。さきほどまでその席にいた三年生女子は、トレイシーに魂を食わせるというハーマイオニーの脅迫に屈して去った。 「もしハリー・ポッターみたいな人がわたしを助けてくれたら、わたしなら——お礼の手紙を書いて、抱擁(ハグ)もして……」 そう言ってうっすらと顔を赤くする。「キスもしちゃうかな、きっと。」

 

「そうそう!」と別の二年生女子が言う。「芝居でも、主人公が大変な思いをしてなにかしてくれたとき、怒りだす女の子がいるけど、あれぜんぜん意味がわからない。 わたしだったら、ぜったいあんな態度はとらない。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーはすでに、テーブルにならぶ夕食の横に突っ伏していた。両手だけがじりじりと動いて髪の毛を引っぱっている。

 

「それも男子の心理がわかってない証拠。」と四年生女子が専門家らしく言う。 「こういうときは、相手の魅力に抵抗できるところを見せるのが正解なのよ。」

 

◆ ◆ ◆

 

(もうしばらくあと)

 

結局、ハーマイオニー・グレンジャーはやむをえず、この状況で自分の立ち場を理解してくれる唯一の人物をつかまえに行った——

 

「みんなどうかしてる。」  のしのしと歩きながら話すハーマイオニー・グレンジャー。夕食は早めに退席して、レイヴンクロー塔へとむかっている。 「あなたとわたし以外の、この学校にいる全員、話が通じない。 レイヴンクローの女子はとくにひどい。二年生以上の女子がどんな本を読んでるか知らないけど、読むべきじゃない本を読んでるのはたしかだわ。 二人は結魂(ソウルボンド)してるのかっていう質問までされて……その意味は今夜図書館で調べるつもりだけど、きっとなにかありえないことを想像されたに決まってる——」

 

「そうだね。ああいうのは、どういう種類の錯誤に分類されるのやら。」  ハリー・ポッターはふつうの速度で歩いているが、早足になっているハーマイオニーに追いつくため、ときどきスキップをしている。 「あの人たちにまかせておいたら、いまこの瞬間にでも、ぼくらの名前を『ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス゠グレンジャー』にされてしまいそうだ……。うわ、こうやって声にだすと、やっぱりひどい名前だな。」

 

「正確には、『ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス゠グレンジャー』になるのはあなただけ。わたしは『グレンジャー゠ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス』。……ありえない名前だわ。」

 

「いや、『ポッター』は〈貴族〉の家名だから。〈貴族〉の家名はいつも先頭にくるっていう慣習があったと思う——」

 

「は? なんでわたしたちがそんな慣習をいちいち——」

 

言いやめたところであたりがしんとしてしまい、重い靴音だけが残った。

 

「それはともかく。」  ハーマイオニーはあわてて再開する。 「夕食のとき、むちゃくちゃなことも言われたけど、そういえばと思わされることもあって。まだはっきり言ってなかったけれど、ハリーがわたしたち全員を助けてくれたことについては感謝してる。納得いかない部分もたしかにあった。でも二人で冷静に話しあえば解決できると思う。」

 

「ああ……」と言ってハリーはおずおずとした笑みを見せる。困惑と不安がまざった目をしている。 「それは……なにより……?」

 

正確には、四年生女子の説明によれば、これは邪悪な魔法使いハリーが純真無垢な女の子ハーマイオニーと恋に落ちたというストーリーで、ハーマイオニーはハリーを改心させないかぎり自分自身まで〈闇の魔術〉にとりこまれてしまう。当然の帰結として、ハリーがハーマイオニーを破滅から救おうがなにをしようが、ハーマイオニーは機嫌をよくしてはならない。そうでなければ第四幕まで恋の駆け引きがもたないから、だという。 それから、もっと良識のある人だと思っていたペネロピ・クリアウォーターまでが完全にそちらに同調してしまった。ハリーのどういうところが鈍感だったかをハーマイオニー本人から冷静に説明してあげられるわけがないし、だいたい〈闇の魔術師〉は論理的な女性よりも生意気な女性が好きなものだから、というのがペネロピ・クリアウォーターの言いぶんだった。 そう言われた段階でハーマイオニーは長椅子からいきおいよく立ちあがり、ハリーのいる席を目がけてどすどすと歩いていき、二人で散歩でもしながら話しあってけりをつけたい、と声をかけたのだった。

 

「つまり、言いかえるなら……」  ハーマイオニーは冷静きわまりない声で言う。 「あなたとわたしは、なにももめていない。絶交でもないし、仲がわるくなってもいないし、自習もこれまでどおりいっしょにやる。 けんかなんか起きていない。ここまではいい?」

 

それを聞いてどういうわけか、〈死ななかった男の子〉ハリー・ポッターは余計に不安げな顔をした。 「……はい。」

 

「よろしい。じゃ、つぎ。わたしが怒った理由はなんだったか、もう分かったかしら、ミスター・ポッター?」

 

「……。横から手をだしたのがいけなかった、とか?」  ハリーは慎重に話しだした。 「そりゃ——きみが他人の手を借りたくなかったのは分かってるし、 ぼくもそれは尊重してたよ。〈死食い人〉見習いの三人組に襲撃されたっていう話を聞くまでは。正直言って、そこまでのことは予想していなかった。ぼくも、クィレル先生も、予想していなかった。 あそこまで大ごとになると、きみたちの手には負えなくなってきてるんじゃないかと思いはじめた。悪く思わないでほしいんだけど、四十四人の待ち伏せ攻撃をだれの助けも借りずに乗りきれるなんていう人はどこにもいない。 だからあのときだけは、助けが必要だろうと思って——」

 

「ええ、あれはたしかに、手に負えなくなっていたと思う。だから助けてくれたこと自体は問題ないの。ほかに思いあたることは?」

 

「うーん、トレイシーにやってもらったあれが……刺激的すぎた、とか?」

 

「刺激的すぎた、ですって?」  すこしだけとげのある口調になってしまったかもしれない。 「いいえ。あれは怖かった。心臓が止まりそうになった。 あれがただのドラゴンかなにかだったら、『怖かった』なんてみっともなくて言えないかもしれない。でも遠くから『テケリ・リ! テケリ・リ!』と声がして、自分のまわりにある扉の下のすきまから血がひたひたと流れてくるくらいのことなら、堂々と怖かったって言える。」

 

「ごめん、悪かった。」  真剣に後悔しているような声だ。 「ぼくがやってるっていうことは、言わなくても分かると思ってた。」

 

「わたしたちがそんな怖い思いをしたのも、もとはと言えば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」  おさえようとはしていたものの、また声が大きくなりはじめた。 「ああいうことは、相手の意向をたしかめてからやるものでしょう! 『ドアの下のすきまから血を流そうと思うんだけど、かまわないかな?』みたいに、具体的に言って了解をとるものでしょうが! そういう風に具体的にたずねてくれないと!」

 

ハリーは歩きながら、自分のくびのうしろをなでた。 「それは……。言えばどうせことわるだろうと思って。」

 

「もちろんわたしはことわるかもしれない。相手がそれでいいと言うか言わないか、まさにその点をたしかめなさいと言ってるの!」

 

「いや、たずねられれば、きみは()()()()()()()()()()んだよ。本心からそう思っていてもいなくても。 そうなればきみたちはひどい目にあわされていた。そして、たずねたぼくがその責任を負うことになっていた。」

 

すこし意表をつかれ、両眉が上がる。そのまますこし歩きつづけたが、やはり理解が追いつかない。「……は?」

 

「ええと……その……きみは〈太陽(サンシャイン)〉軍司令官だろう? だからぼくがだれかを脅迫してもいいかと言ったら、きみはいいとは言えない。たとえいじめっこが相手であっても。そうしなければきみの仲間たちが傷つくと分かっていても。 たずねられれば、きみはことわるしかなかった。そして結果的にけがをしていた。 ぼくがやった方法なら、きみはなにも知らなかったと正直に告白できるし、責められるいわれはないと言える。 だから、ぼくはたずねないことにしたんだ。」

 

ハーマイオニーは立ちどまり、顔だけでなく全身を反転させ、ハリーと正対した。 そして慎重に応答した。 「ハリー……ばかげたことをするたびにそうやってもっともらしい言いわけをするのは、もうやめてくれないかしら。」

 

ハリーの両眉が上がった。一息おいてから、 「まあね……そう言いたくなる気持ちは分かるよ。でも、たんにもっともらしいだけじゃなく、結果的にそうしてよかったかどうかも、ちゃんと考えてみてほしい——」

 

「あなたがどういうつもりでやっていたのかは分かった。 でもこれからはかならず、わたしの了解をとってからやるって約束して。たとえ、理屈のうえでは知らせないほうがうまくいくと思えたとしても。」

 

無言の時間がつづき、ハーマイオニーの気持ちが沈んだ。

 

「ハーマイオニー、ぼくは——」

 

「どうして? なにをそこまでいやがるの? ただ一言たずねてくれればいいだけなのに!」

 

ハリーはとても真剣な目をした。 「きみはS.P.H.E.W.のメンバーのなかでだれを一番守らなきゃと思っている? 戦闘にだすのが一番心配なメンバーはだれ?」

 

「ハンナ・アボット。」  ハーマイオニーは考えるまでもなくそう答え、内心申し訳なく思った。ハンナはよくがんばっているし、かなり成長はしている。それでも——

 

「じゃあ、きみはなんのためらいもなく、ハンナを守る()()()()責任を自分以外のだれか……たとえばトレイシーにまかせることができるかい? ハンナが突っ込んでいくさきに敵が待ち伏せていることが分かって、ハンナを守る作戦も思いつけたとして、その作戦を実行していいかどうかの判断をトレイシーにさせる気になれる?」

 

「……なれないと思うけど?」

 

〈死ななかった男の子〉の緑色の目がハーマイオニーをじっと見ている。 「じゃあ、きみがハンナを護衛すべきかどうかの最終的な判断を()()()()()()まかせるか、っていう質問だったら?」

 

「それは——」  ハーマイオニーは一度言いかけて、とりやめた。おかしなことに、正しい答えが何なのか分かっているのに、正しい答えをえらぶことができない。 ハンナは自分が怖がりでないと証明しようとして、無理をしている。ハッフルパフらしいそのがんばりが度を越してしまうことも容易に想像できる——

 

そこまで考えて、ハリーが言おうとしていることが分かってきた。 「つまりわたしはハンナみたいなものだってこと?」

 

「いや……すこしちがうかな……」  ハリーの手がぼさぼさの髪の毛をかきむしる。 「こう言ってみようか。もし四十四人の待ち伏せがいることを事前に警告されていたら、きみはなにをしようとしていたと思う?」

 

「わたしなら、責任をもって()()()()()()()()()()()()()()()。そしてかわりに対処してもらう。 そうしてさえいれば、暗闇やら悲鳴やら不気味な青い光やらの出番はなかった——」

 

だが、ハリーはただくびをふった。 「責任ある行動はそれじゃないんだよ。 それじゃ、責任感ある女の子を()()()()()ことにしかならない。 もちろん、ぼくもマクゴナガル先生に知らせることは考えた。 でも、そうしたとして、マクゴナガル先生はせいぜい()()()()()をとめることしかできない。 たぶん、なにをたくらんでいるかはもう分かっている、と当人たちに伝えることで、実際にことが起きるのを防げてはいたかもしれない。 襲撃する計画をしたというだけなら、罰は寮点の減点か、せいぜい一日ぶんの居残り作業。彼らからすれば、恐れるに足りない。 そのあとで、()()()()()が起きる。そのときはもっと少人数で構成されていて、情報が漏れにくくなっていて、ぼくも察知できない。 そしておそらく、きみたちが()()()()()()()を狙われる。 マクゴナガル先生は立ち場上、きみたちを守るのに必要なだけの示威行為をすることができない——マクゴナガル先生は自分の立ち場でできることしかしない。マクゴナガル先生は無責任だから。」

 

「マクゴナガル先生は無責任?」  ハーマイオニーは自分の耳をうたがった。両手を腰にあて、ハリーをにらみつける姿勢をとる。 ()()()()()()()()()()()()()

 

「そうだね、英雄的な責任と言えばいいかもしれない。ふつうの意味の責任じゃなく。 英雄的な責任というのはね、なにが起きようがすべては自分のせいだと考えること。 仮にマクゴナガル先生に通報したとしても、責任はマクゴナガル先生に移らない。責任は自分が負ったまま。 『学校の規則に違反してしまう』とか、『あとのことはほかの人にまかせた』とかは、言いわけにならない。『もう自分にできるかぎりのことはした』というのも言いわけにならない。言いわけにできることなどなにもない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()必要がある。」  ハリーは表情を引きしめた。 「きみの考えかたが無責任だっていうのはそういう意味だよ、ハーマイオニー。 自分がすべきことはマクゴナガル先生に通報するところまで——英雄(ヒロイン)ならそうは考えない。 あとはハンナがけがしてもしかたない、()()()()()()()()()()()()()()()、という風には考えない。 英雄(ヒロイン)なら、守るために()()()()()()()()()()。脅威が()()()なくなったと言えるまでは、英雄(ヒロイン)の役目は終わらない。」  ハリーの声には、フォークスが肩にとまった日に得たらしい鋼鉄のようなかたさがあった。 「規則どおりのことをすれば、それ以上自分のすべきことはない、と思っているようではいけない。」

 

「どうやら、いくつか意見の相違があるようだけど。 あなたとマクゴナガル先生のどちらがどれだけ無責任なのか、とか、責任ある行動というのは通常阿鼻叫喚をともなうものなのか、とか、学校の規則はどの程度守るものなのか、とか。 でもあなたとわたしの意見があわないからって、()()()()結論を決めていい、ということにはならない。」

 

「いや、いまのはただきみの質問に答えようとしただけ。ぼくはなにをそこまでいやがるのか……これは意外にいい質問だったから、ぼくは自分自身どう思っているのか、なにを恐れていたのか、ふりかえって考えてみた。 もしぼくがハンナを危機から救う方法があると言ってあげたとして、それが奇妙だったり一見邪悪だったりしたら、きみはそのことにばかり気をとられてしまうかもしれない。なにがあっても、どんな手段をつかってでもハンナの身を守るという、英雄(ヒロイン)としての責任を負おうとしないかもしれない。 つまり、きみはただハーマイオニー・グレンジャーという良識あるレイヴンクロー生を()()()()()()()()()かもしれない。 その演技をしているかぎりは、仮になにかいいアイデアを思いついても自動的に却下してしまうだろう。 そしてハンナ・アボットは四十四人に滅多打ちにされて、すべてはぼくのせいになる。現実にそうなってほしくないとは思うけれど、そうなることがぼくには分かっていたから。 ぼくが言わなかった……言おうとしても言えないでいた恐怖は、たぶんこういうことだったんだと思う。」

 

ハーマイオニーのなかにまた、やりきれない気持ちがつのる。 「これは()()()()人生よ!」  思わずそう言ってしまった。この人生にいつもハリーは干渉しようとし、干渉をたくみに正当化して、こちらの反論を受けつけない。事前に一言たずねるだけのことすらしてくれない。このままでいれば、このさきどうなることか。だいたい、ハリーを()()()()()()()()()()()()()というのがおかしい。わたしはただ——

 

「どんな理屈をつけられても、いくらわたしが考えそこねたことがあったとしても、わたしは()()()()()()を生きたい! それができないなら、わたしは降りる。わたしは本気でそう思ってる。」

 

ハリーはためいきをついた。 「こういう話になってほしくなかったんだけど、やっぱりなっちゃったか。 ぼくらはおたがいおなじことを心配してるんじゃない? きみもぼくに決定権をまかせてしまうと、両方が破滅すると思ってるんだろう。」  ハリーのくちびるの端がゆがんだが、ほんものの笑みのようには見えない。 「それなら理解できる。」

 

「なにも理解してない! ……二人は対等だって言っておいて!」

 

その一言が効いたように見え、ハリーはしばらくだまった。

 

「……じゃあ、こうしようか? ぼくはきみへの余計な手出しになりかねないようなことをするまえにまず、やっていいか聞きにいくと約束する。 ただし、きみも冷静にぼくの言いぶんを聞くと約束するのが条件だ。 真剣にぼくの話を聞いて、二十秒立ちどまって考えて、ひとつの選択肢としてちゃんと検討すること。 ぼくが今回のような提案をしたら、あくまで全員の安全をまもる一手段として、検討すること。きみが軽がるしくことわってしまえば()()()()()()()()()()()()()()()()()()……ハンナ・アボットが病院行きになってしまったりする、ということをよく認識すること。」

 

ハーマイオニーはじっと見つめていたが、ハリーはそれでひとしきり言い終えたようだった。

 

「どう思う?」

 

「わたしがなにか約束してあげる筋あいはない。わたしは、()()()()()()()勝手に変えようとしないで、って言っているだけなんだから。」  ハリーに背をむけ、レイヴンクロー塔にむかって歩きだす。 「でも考えておく。」

 

うしろでハリーがためいきをつき、二人はそのまましばらく無言で歩いた。赤銅かなにかでできているアーチ門をくぐり、またおなじような廊下にでる。まえの廊下は床のタイルが四角形だったが、こんどは五角形。

 

「きみがヒーローになると言った日から、ぼくはずっと見て考えていた。 きみならもちろん勇気は問題ない。 きみはだれも立ちむかおうとしない敵にも立ちむかうことができる。 知性も申し分ないし、人格については、たぶんぼくより善人でもある。 それでも……はっきり言ってしまえば……ダンブルドアのあとを継いで、〈例の男〉との戦争のためにブリテン魔法界を率いる仕事ができるような人には思えない。すくなくとも現時点では。」

 

ハーマイオニーは思わずハリーをふりかえった。ハリーは考えにふけったように、そのまま歩きつづけている。 ダンブルドアのあとを継いでブリテン魔法界を率いる? そんなことをしようなんて考えたこともなかった。 そんなことをしようと考える自分すら、想像できない。

 

「もしかすると、ぼくがまちがっているのかもしれない。 児童書の主人公は常識的なことをいっさいせず、規則をやぶってばかりで、先生に頼ろうともしない。そういう本を読みすぎて、物語を現実にあてはめようとしてしまっているだけかもしれない。 きみはおかしくなくて、ぼくがおかしいだけかもしれない。 でも、規則を守るとか先生に頼むとかいうせりふを聞かされるたびに、ぼくはいつもおなじことを考えてしまう。きみはその最後の一歩を踏みだせないばかりに、PC(プレイヤー・キャラクター)としての自我を眠らせて、NPCに逆もどりしてしまうんじゃないか、と……」  ハリーはためいきをついた。 「きっと、ダンブルドアがぼくにいじわるな養父母をあてがおうとしたのも、おなじ理由なのかな。」

 

「……は? いじわるな養父母?」

 

「そう。あれは冗談で言っていたのか本気なのか、いまだに分からないんだけど…… 実を言うと、ある意味まちがってはいないんだ。 両親は愛情をもってぼくをそだててはくれたけれど、ぼくはいつも、二人の判断にまかせていて安心できる気がしなかった。十分()()()()判断をしてくれると思えなかった。 自分自身でとことん考えなければ、痛い目を見るのは自分だと思っていた。 マクゴナガル先生は、手段をえらばずに結果をだせと言われれば、きっとやってくれるだろう。でもそういう風にヒーローから命じられないかぎり、自分の意思で規則をやぶろうとはしない。 クィレル先生は逆で、まさに手段をえらばずに結果をだそうとするタイプの人だ。ぼくが知るかぎり、クィディッチをだいなしにしているのがスニッチだとかいうことに気づける人はほかにいない。 ただ、あの人が善人なのかというと、ぼくはとてもうんとは言えない。 残念ではあるかもしれないけれど、それが、ダンブルドアが英雄(ヒーロー)と呼ぶ人を生む条件のひとつでもあるんだと思う——ほかに責任を押しつけるべき相手がいないから、すべてを自分でかたづける習慣ができている種類の人たちを。」

 

ハーマイオニーは声にだしては言わなかったが、ゴドリック・グリフィンドールの簡潔な自伝の末尾ちかくにあった一節のことを思いだした。 ごく短い一節で、解説もなにもついていなかった。マグルの印刷機械も、それに触発されて魔法族がつくった〈自動書写ペン〉もまだない時代、巻き物は人間の手で書き写すものだったから。

 

——『救い手に救い手はなく、 王者に庇護者はなく、 高みには父も母もなく、 ただ無あるのみ。』

 

それが、英雄(ヒーロー)になるための代償なのだろうか。だとすれば、自分はほんとうにそれを支払っていいと思っているだろうか。 いや、もしかすると——ハリーの相手をするようになるまえの自分だったら、思いもしないことだろうが——そんな考えはゴドリック・グリフィンドールの思いこみにすぎないのだろうか。

 

「ダンブルドアのことは、頼っていいと思う? ダンブルドアなら、この学校でわたしたちからすぐ手がとどくところにいて、世界じゅうに知られる伝説的な英雄でもあるでしょう——」

 

「伝説的な英雄でも()()()、かな。 いまはニワトリを燃やしたりする。 きみはほんとに、ダンブルドアが頼れる人に見える?」

 

ハーマイオニーは答えなかった。

 

二人はならんで大きな螺旋階段に立ち、銅製の段と青石の段を交互に一段ずつのぼりはじめた。 のぼりきったところには、子どもじみた謎かけでレイヴンクロー寮の入りぐちを守る肖像画がある。

 

半分ほどのぼってから、ハリーが話しはじめた。 「そうだ。ひとつきみに言っておくべきことがあった。 これはきみの人生にかかわることでもあるし。 手付金みたいなつもりで聞いてほしい——」

 

「どうぞ。」

 

「S.P.H.E.W.はもうすぐ役目を終えることになる。」

 

「役目を終える?」  ハーマイオニーは階段を踏みはずしそうになった。

 

「そう。ぜったいそうとは言えないけど、もうすぐ教師たちが廊下での喧嘩をきびしく取り締るようになるんじゃないかと思う。」  そう言ってハリーはにやりとした。眼鏡の奥の目が光り、秘密の情報を根拠にしていることをうかがわせた。 「攻撃呪文を検知する結界を張ったり、いじめの通報があったら〈真実薬〉をつかって検証したり——その気になれば、いろいろやりようはあるだろう。 でももし実際そうなったら、よろこんでいいことだと思うよ。きみたちが大騒動を起こしてくれたおかげで、教師もやっと腰をあげて、いじめを()()させるための()()をする気になったということだから。」

 

くちびるからじわりと笑みがひろがっていくのを感じながら、ハーマイオニーは階段をのぼりおえ、謎かけの肖像画が待つ場所へむかった。 足どりは軽く、ヘリウムを注入されたようにふわふわとした高揚感が生まれていた。

 

不思議と、八人であれだけの苦労をしておきながら、成功するような気はしていなかった。そこまでの効果があるとは思っていなかった。

 

あの活動には意味があった……。

 

◆ ◆ ◆

 

翌朝、朝食の時間が終わるとき、それは起きた。

 

全学年の生徒が長椅子に腰かけたまま、不動の姿勢でおなじ方向を見ている。視線のさきには、一年生女子が一人、身をこわばらせて〈主テーブル〉をまえに立ち、身じろぎもせず、スリザリン寮監を見あげている。

 

スネイプ先生は激しい怒りと復讐を果たす喜びにゆがんだ表情をしていて、どんな〈闇の魔術師〉の肖像画にも負けないほどだった。 そのうしろの〈主テーブル〉で、のこりの教師陣は石像のようになって傍観している。

 

「——永久に解散とする。本校は今後その自称〈協会〉組織の存在を許可しない。わたしの教授としての権限でそう命じる! 〈協会〉会員は今後いっさい校内の廊下で戦闘行為をしてはならない。一度でもそれが見とがめられたあかつきには、グレンジャー、おまえ個人に退学というかたちで責任をとらせる。 これはホグウォーツ魔術学校教授としての命令だ!」

 

一年生女子はそのまま動かない。この場に立つのははじめてではないが、これまでは表彰などでほめられるために呼びだされたことしかなかった。今回はケンタウロスの弓のごとく胸をそらし、敵に対して一歩も引かない姿勢をとっている。

 

内面にいくら涙と怒りがたまろうとも、表情は微動だにしていない。ただ、自分のなかですこしずつなにかが壊れはじめるのを感じてもいる。

 

スネイプ先生はさらに、校内暴力に対する罰として彼女に二週間の居残り作業を課した。その軽蔑と嘲笑の表情は、〈薬学〉の初回授業のときとおなじようにわずかにゆがんでいた。彼自身、この仕打ちがいかに不公平であるかが分かっている証拠だ。

 

レイヴンクロー寮から百点減点、と宣言されたところで、こころのなかの小さな亀裂にすぎなかったものが進行し、ぱっくりと割れた。

 

それが終わったところで、「さがれ。」というスネイプのことばが聞こえた。

 

うしろを向き、レイヴンクローのテーブルに目をやると、ハリー・ポッターがじっと席についているのが見えた。表情までは見えないが、両手はテーブルの上に乗っていた。ハーマイオニーの手とおなじように、きつく握られているのかどうかまでは分からない。 スネイプ先生からの呼び出しがあった時点でハーマイオニーはハリーに耳打ちし、なにも言わずに勝手なことはしないようにと念押ししてあった。

 

ハーマイオニーがそのまま一回転して〈主テーブル〉に向きなおったとき、スネイプは自分の席にもどろうとしていた。

 

「『さがれ』と言ったはずだが。」と、またあざ笑う声。ただ、こんどは口角もあがっている。こちらがなにかするのを期待しているように——

 

ハーマイオニーは五歩まえに出て〈主テーブル〉に近づき、震える声で「総長?」と言った。

 

大広間全体がしんとなった。

 

ダンブルドア総長はなにも言わず、動かない。ほかの先生とおなじく、石像になったかのよう。

 

フリトウィック先生のほうに視線をうつすと、テーブルの上には頭頂部が見えるかどうかでしかなかったが、うつむいて自分のひざを見ているようだった。 となりのスプラウト先生はひどく緊張した表情で事態を見とどけようと努力しているようだったが、震えるそのくちびるからは、やはりなにも聞こえてこない。

 

副総長マクゴナガル先生の席は空席。今朝は一度も顔を見せていない。

 

「なぜ黙っているんですか?」  ハーマイオニー・グレンジャーは一縷の望みに託し、震える声で必死に助けを求める。 「この人がどれだけ理不尽なことをしているか、あなたたちも分かっているでしょう!」

 

「反省の色が見えんな。もう二週間だ。」

 

壊れかけていたなにかが粉ごなになる。

 

もう一度〈主テーブル〉の列を見わたし、フリトウィック先生とスプラウト先生と空席のままのマクゴナガル先生の席を見てから、 ハーマイオニー・グレンジャーはレイヴンクローのテーブルにもどっていく。

 

硬直がとけた生徒たちのあいだで、ぽつぽつと話し声がしはじめた。

 

それから、レイヴンクローのテーブルまであと一歩というところで——

 

ほかのすべての音を押しのけて、クィレル先生の乾いた声が聞こえてきた。 「正しくあった褒美として、ミス・グレンジャーに百点。」

 

それを聞いてハーマイオニーはつまづきそうになったが、持ちなおして歩きつづけた。うしろではスネイプが怒ってがなりたて、クィレル先生が椅子の背にもたれて笑いだす。ダンブルドアもなにか言っているが、内容まではよく聞こえない。そういった声を背にハーマイオニーはレイヴンクローのテーブルにたどりつき、ハリー・ポッターのとなりの席に腰をおろした。

 

ハリー・ポッターはとなりで硬直している。身うごきをとろうともしていないように見える。

 

「大丈夫、気にしないで。」  無意識のうちにそんなことばが口をついた。どこも大丈夫ではないのに。 「でもスネイプの罰から脱け出す方法があるなら、教えてくれない? このまえは、なにかそういう仕掛けをしたんでしょう?」

 

ハリー・ポッターはびくりとして、くびを縦にふった。 「ご——ごめん、こ——こうなったのも——ぼくのせいだ——」

 

「おかしなことを言わないで。」  不思議なことに、なぜかなにごともなかったかのように、ふだんどおりの声がだせ、考えるまでもなく話すことができた。 目のまえにある朝食の皿を見る。しかしとてもではないが、食事などできそうにない。胃のなかがむかむかとしていて、いまにも吐いてしまいそうだ。それでいて、まるで全身の感覚が麻痺したように、なにも感じられずにもいる。

 

「それと、校則をやぶったりする話があるなら、言ってみて。こんどは真剣に聞くって約束する。」

 

◆ ◆ ◆

 

Non est salvatori salvator / 救い手を救うものなどなく

neque defensori dominus / 王者を庇護するものなどなく

nec pater nec mater / 高みには父も母もなく

nihil supernum / ただ無あるのみ

 

——ゴドリック・グリフィンドール、一二〇二年。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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76章「告白者の幕間劇——埋没費用(サンクコスト)

リアン・フェルソーンは岩と漆喰でできた階段の道をくだっていく。燭台と燭台のあいだの闇を照らすため、手には『ルーモス』の灯をかかげている。

 

たどりついた洞穴には暗い横穴がいくつもあった。足を踏みいれると、旧式のたいまつが一本点火した。

 

まだ無人だった。そこで不安げに立ったまま数分間過ごしてから、〈転成術〉(トランスフィギュレイション)でソファをつくることにした。二人用の、身を横たえることもできるくらい大きめのソファ。 木製の椅子だったらもっと簡単に、十五秒もかからずつくれる。しかし——今日は——

 

ソファが完成しても、スネイプ先生はまだ来ない。できたソファの左がわに座っていると、のどが脈うつのを感じる。 待つ時間が長びくにつれ、なぜか不安は減らず、むしろ増していく。

 

今回が最後だ、ということは分かっていた。

 

今日を最後に、自分はこの件の記憶をすべてうしなう。謎めいた洞穴のなかで一人こうしていると、自分がやってきたことにはどんな意味があったのか、ということが気になってくる。

 

記憶をなくすということは、どこか死に似ている。

 

適切に処置するかぎり、〈忘消〉(オブリヴィエイト)に害はないという。人間が記憶をうしなうのはめずらしいことではない。人は眠って見た夢を起きたときに記憶していないことがあるし、 〈忘消〉(オブリヴィエイト)で生じるのはもっとささやかな断絶にすぎない。ごく一時的な感覚の混乱……たとえば考えごとをしていて大きな音を聞き、なにを考えていたのか思いだせなくなる、という程度のこと。 だからこそ〈魔法省〉は統治上の目的で〈記憶の魔法〉をつかうことを全面的に許可している。そういうことが本には書かれていた。

 

それでも、いま自分がしている()()一連の思考は、もうすぐだれにも思考されなくなる。いまここで完結しなかった思考を、これからの未来で完結させてくれる人はだれ一人いない。 仮にいま考えていることすべてについて、あと一分間のうちに結論をだすことができたとして、結局はどれもあとかたもなく消えてしまう。 人間はあと一分で自分が死ぬというときにも、ちょうどこういうことを考えるのではないだろうか?

 

壁ごしに足音が近づき……

 

セヴルス・スネイプがあらわれた。

 

彼の視線はまずソファにすわっている彼女にむかう。彼の顔によぎるのは、皮肉でも怒りでもなく、冷たくつきはなす表情でもない、奇妙な表情。

 

「気がきくな。ありがとう、ミス・フェルソーン。」と言って、スネイプは杖を手にしてプライヴァシー用の〈魔法(チャーム)〉をかけたうえで、ソファの右半分にどさりと腰をおろした。

 

さきほどまでとはまったく別の理由で心臓がどくどくと脈を打つ。

 

おそるおそる見ると、スネイプ先生はソファを背にくびをあずける姿勢で、目はとじていた。 眠ってはいない。表情には緊張と苦痛が見てとれる。

 

そうか、これは——と不意に気づく。きっとあとで記憶をうしなうことが決まっている自分だからこそ、この様子を——彼がだれにも明かしたことのない顔を——見ることが許されているのだろう。

 

リアン・フェルソーンのなかで、二人の自分がはげしくやりあう声がする。 『寄りかかってキスしてしちゃおうか』『どうかしてる、ありえない』 『彼が目をとじてるうちにやっちゃえば、止めようとしてもきっと間にあわない』『きっと死体も見つからない殺しかたをされる』——

 

しかしスネイプ先生はそこで目をひらいた(がっかりでもあったが、ほっとさせられもした)。つぎに聞こえたのは、彼のふだんの声に近い声だった。 「これが約束の報酬だ。」と言って、グリンゴッツ品質のルビーの一粒を手にのせ差しだす。 「五十五面カット。数えてくれてかまわない。」

 

受けとろうとする手が震える。手に手をとってルビーをしっかりとにぎらせてくれたなら、彼の肌がじかに感じられるのに——

 

実際にはスネイプはすこし距離をとってルビーを彼女の手に落とすと、またソファに背をもたれさせた。 「きみは洞穴を探検していてこのルビーを地面から拾ったと記憶していることになる。 そして、どうせだれにもそんなことは信じてもらえないだろうと思い、面倒をさけるため、グリンゴッツの専用金庫にあずけてしまおうと考える。」

 

しばらく、たいまつがパチパチと燃える小さな音だけがした。

 

「なぜ——」 ——この記憶が消えることは彼も知っている—— 「なぜあんなことをしたんですか? つまり——あなたはわたしを使って、だれがどこでいじめをするかを知ろうとした。でもグレンジャーがそこにいるかどうかは知ろうとしなかった。 あれはきっと、グレンジャーをそこに()()()()()なら、実際そうなったかどうかを知っていてはならないからですよね。〈逆転時計(タイムターナー)〉はそういう風にできているから。 だから、グレンジャーを現場に行かせていたのはわたしたちだった、というところまでは推理できました。それであっていますよね?」

 

スネイプは無言でうなづいた。また目はとじていた。

 

「でも分からないのは……()()。なぜあの子を助けたのか。 そしてこんどは——大広間で先生がグレンジャーにああいうことをして——それでもうわけがわからなくなりました。」  リアンは自分のことをとくに思いやりのある人間だと思っていない。 〈太陽〉軍司令官グレンジャーにまつわる騒動のことも、ほとんど気にとめていなかった。 しかしいじめ退治をするグレンジャーを自分が()()()()()()()と思うと……いつのまにかリアン自身、それを善であると見なしてしまっていた。いや、()()()()()善のがわの一員であるように思ってしまっていた。そしてそれが気にいり、忘れたくないと思うようになった。 「スネイプ先生、なぜだったのか、教えてくれませんか。」

 

スネイプはかたい表情のまま、くびをふった。

 

「じゃあ——その——せっかくですから——なにか話したいことはありませんか?」  話したいことがあるのはこちらだ。なのにとても自分からは口にすることができそうにない。

 

「……ひとつある。聞いてくれるか、ミス・フェルソーン。」

 

目をとじたままの相手にうなづいて返事するわけにもいかず、リアンは震えそうな声でなんとか「はい」と言った。

 

「きみと同学年のとある男子が、きみにあこがれている。 名前はひかえておこう。 だが彼はきみに通りかかられるたびに、きみを目で追っている。気づかれていないつもりで。 彼はきみを自分のものとしたいと思っている。だが実際にはキスを誘ったことすらない。」

 

自分の鼓動がいっそうはげしくなっていく。

 

「では正直に言ってみなさい。きみはその男子のことをどう思う?」

 

「そうです、ね——キスを誘うことすらできないというのは——」

 

——意気地がない。

 

——みじめすぎる。

 

「弱虫だと思います。」  声が震えている。

 

「同感だ。では、おなじ男子が一度きみを救ってくれたことがあるとしたら、どうだね。 そのおかえしにキスをしてほしいと言われれば、してあげてもいいと思うかね?」

 

リアンははっとして息をのむ——

 

スネイプはやはり目をとじたまま、 「それとも……恩着せがましいと思うか?」

 

その一言が短剣のように突き刺さり、ひっ、と声をだしてしまった。

 

スネイプがぱっと目をあけ、視線をあわせてくる。

 

そして小さく声をたてて、さびしげに笑う。

 

「いやいや! きみのことではないよ、ミス・フェルソーン。 これは言ったとおり、男子の話だ。 きみといっしょに〈薬学〉の授業を受けている生徒の一人だ。」

 

「あ……」  スネイプが何の話をしていたか、思いだそうとする。男子のだれかに毎回こっそり観察されていたと思うと、かなりいやな気持ちがする。 「そう、ですね。ちょっと()()()()()()ですね、それは。だれですか? その男子って。」

 

先生はくびをふった。 「だれかはどうでもいい。 ひとつ聞くが、いまから何年も経って、その男子がかわらずきみに恋していたとしたら、どう思う?」

 

「はあ。……それは、みじめだと思いますけど?」

 

たいまつがまた音をたててはぜた。

 

「奇妙なものだ。わたしには都合、師が二人いた。 両人とも明敏で、それでいてわたしになにが見えていないかを教えようとしなかった。 一人目の師がそうであった理由は想像がつく。しかし二人目は……」  スネイプは表情をかたくした。 「……なぜなにも言ってくれなかったのか、こちらから思いきってたずねておくしかないのかもしれない。」

 

話がとぎれ、時間がすぎていく。なにか言えることがないか、リアンは必死に考える。

 

スネイプがまた、小声で話をつづける。「なぜわたしは三十二歳の若さにして、いつから自分の人生が救いようもなく破滅しはじめたのかと、考えてしまうのだろうか。 〈組わけ帽子〉に『スリザリン!』と言われたときがはじまりだろうか? 不公平な話だとも思う。〈組わけ帽子〉はわたしのあたまの上に来た瞬間に結論を言いわたし、ほかの選択肢をあたえようとしなかったのだから。 とはいえ、その判断がまちがっていたとは言いがたい。 わたしは知識を知識として純粋に尊ぶほうではなかった。 ただ一人友人と呼べた人の信頼すらも裏切ってしまった。 いまも昔も、正義感を燃やすほうではなかった。 勇気はどうか。すでに破滅してしまった人間が危険に身を投じることを勇気とは呼べまい。 わたしはいつもなにかにおびえ、一度歩みはじめた道を離れることができなかった。 そんなわたしが彼女とおなじ寮に〈組わけ〉されるわけがなかった。 きっとそのときすでに、こうやって敗北する運命は決まっていたのかもしれない。 では、〈組わけ帽子〉はただ事実を言うのだとして、それでも不公平だとはいえないだろうか。 ある子どもが別の子どもより勇敢であることは不公平ではないだろうか。そのことで一人の人間の人生が決定づけられてしまうのは不公平ではないだろうか。」

 

リアン・フェルソーンは自分がセヴルス・スネイプの内面をほんのすこしも理解していなかったことに気づきはじめた。彼の暗い心理が見えてきたことで、逆に混乱は深まるばかりだった。

 

「しかしそれはまちがいだ。 わたしは前回自分がどこであやまったのかを知っている。 どの日どの時間に自分が最後の機会をのがしてしまったのか、正確に知っている。 ミス・フェルソーン、きみは〈組わけ帽子〉からレイヴンクローを提案されたのではないか?」

 

「は——はい。」  リアンは考えるまえに答えた。

 

謎かけ(リドル)は得意だったか?」

 

「はい。」  またおなじ返事が口をつく。『いいえ』と言ったが最後、スネイプ先生は話をやめてしまいそうだったから。

 

「わたしはとても苦手だ。」  遠くに話しかけているような声。 「昔、ある謎かけを解かされたとき、ごく初歩的な部分すら分からないまま、手遅れになった。 謎かけが()()()()()()つくられていることすら理解しないまま、手遅れになった。 わたしは自分がたまたまそれを立ち聞きしてしまったにすぎないと思っていたが、実のところ立ち聞きされていたのはこちらだった。 わたしはその謎かけを他人に売った。売った瞬間に、わたしの人生の破滅は取り返しがつかない段階にまで落ちた。」  悔やむというより放心したような話しぶり。 「そしていまでも、重要なことはなにひとつ理解できていない。 ひとつ聞かせてもらいたい。短剣をもった男が赤子につまづいて自分自身を刺してしまったとしよう。その赤子は……」  スネイプは声をひそめ、別人の声を真似するかのような言いかたをした。 「……その男を倒すちからの持ちぬしだと、言えるだろうか。」

 

「……言えないんじゃないですか?」

 

「では、ある人を『倒すちから』があるということは、なにを意味する?」

 

リアンは考える。(〈組わけ帽子〉にたずねられたときレイヴンクロー寮にしていれば、と思うのもはじめてではない。ただ、そうしていれば両親は激怒しただろう。そしてはねのけようにも、〈組わけ帽子〉にグリフィンドール行きの選択肢をあたえられなかった自分だから。) 「そう……ですね……」 考えていることが、うまくことばにならない。「『ちからがある』。これは実際()()()()()()()()()ということだと思います。 つまり、その気になればできる、という意味ではないでしょうか——」

 

「選択……」と彼はまた、リアンではない遠くのだれかに話しかけているような声で言う。 「そう、いずれ選択のときが来る、と言っているように思える。 そして、選択の結果がどうなるかは自明ではない。あくまで『倒すちから』があるというのが謎かけの文言であり、実際『倒す』と言っているわけではない。 では、大の男がみずからにならぶ者として赤子に印をつける、とは?」

 

「え?」  まったく意味がわからない。

 

「赤子に『印をつける』こと自体は簡単だ。 一定の強力な〈闇〉の呪いは消えない傷あとをのこす。 そういった印をつけるだけならさほど特別なことではない。しかし、赤子を『みずからにならぶ者』と位置づけるとはどういうことか?」

 

最初に思いついたことを言ってみる。 「許婚契約はどうですか。その子が大人になったとき結婚するという契約をむすんでおけば、いずれ対等になることになります。」

 

「それは……おそらく正解ではなさそうだ。しかしその積極性には感謝する。」  調合作業で精密に鍛えられた長くすらりとした指が彼のひたいの上をなでる。 「こういう頼りないことばの列をこねくりまわしていると、気が狂いそうになる。 彼が知らぬちから……これは秘密の呪文程度のものではありえない。 彼自身が練習しさえすれば身につけられるようなものではありえない。 先天的な才能か? たとえば〈変化師〉(メタモルフメイガス)は訓練で身につけられる技能ではない……が、『彼が知らぬちから』とも思えない。 そしてどうやれば()()()『おたがいのかけらのみを残して滅ぼす』ことができるのか。 一方がもう一方をそうするだけならともかく、その逆は想像しがたい……」  ためいき。 「ミス・フェルソーン、きみにはこう言ってもなんのことか分からないだろうな? ことばは無力だ。 ことばは影にすぎない。 彼女の声の調()()()()()()にこそ意味があるのだ。これだけは、わたしもまだ一度も……」

 

リアンはその様子をじっと見ていたが、スネイプはつづきを言わない。

 

「それって()()じゃないんですか? 先生は予言を聞いたんですか?」  〈占術〉(ディヴィネイション)の授業は数カ月受けただけでうんざりしてやめてしまったが、そのあたりの基本くらいはリアンも知っていた。

 

「もうひとつだけ、試してみたいことがある。 まだ一度も試していないことを。これからわたしが言うことを言語として聞くのではなく、わたしの声、わたしの口調に耳をすませて、それでどういう風に聞こえたかを教えてほしい。できるかね? ……よし。」  うなづきはしたものの、なにを期待されているのか、まだよく分からない。

 

セヴルス・スネイプは一息ついてから、その文言をとなえた。 「両者の■■シイは同じ■カ■に共存しえない

 

そのうつろな声を聞いてリアンは背すじに悪寒を感じた。それがほんものの予言を模したものであると思うと余計におそろしい。 狼狽しながらも、ぱっと(おそらく目のまえにいる人物からの連想で)思いついたことを口にしてみる。 「……二つの材料は同じ釜に共存しえない?」

 

「しかしなぜ共存しえないのだと思う? そのような表現が()()()()()()はなんなのか? それが伝えようとしている真の内容は?」

 

「ええと……。その二つを混ぜると発火して釜が焦げてしまう、とか?」

 

スネイプはぴくりとも表情を変えなかった。

 

「なるほど、そうかもしれない。」 ソファに座った二人のあいだで、たっぷり何分かつづいた沈黙がやっとやぶられる。 「それなら、『なければならない』という部分も説明がつく。 ありがとう、ミス・フェルソーン。 あらためて協力に感謝する。」

 

「いえ、わたしもお手つだいさせていただけて——」  リアンはそこで声をつまらせた。 スネイプ先生はもう、話をまとめるような言いかたをしている。つまり、のこされた時間は少ない。この瞬間を記憶している自分はもうすぐいなくなってしまう。 「スネイプ先生、これを忘れないですむ方法はほんとうにないんでしょうか。」

 

「わたしも……過去のすべてを変える方法があればと思う……」  セヴルス・スネイプの声はやっと聞きとれるかどうかの小声だった。

 

彼はソファから腰をあげ、となりにあった彼の重みが消える。 彼は杖をローブから取りだし、こちらに向けた。

 

「待って——そのまえに——」

 

妄想を現実に変えるための一歩を踏みだすことは思いのほかむずかしかった。 二歩目はない、たった一歩だと分かっているのに、その距離は相対する二峰の山のように遠い。

 

〈組わけ帽子〉はグリフィンドール行きの選択肢をあたえてくれなかった……

 

……そのことで一人の女の人生が決定づけられてしまうのは不公平ではないだろうか?

 

あとで思いだせなくなることが分かっているのに——ちょうど死をまえにしているようなこの瞬間にさえ、言う勇気がないのか。なら、いつだれになら言えるというのか。

 

「……そのまえにキスをしてもらえませんか?」

 

彼の黒い目がじっと見つめてきて、リアン・フェルソーンは顔から胸まで赤くなる。 まだ自分に迷いがあることも、ほんとうにほしいのはキスではないことも、見すかされてしまっているのではないかと思う。

 

「おもしろい。」  彼はそう言ってソファにかがみこみ、キスをした。

 

想像していたようなキスではまったくなかった。 彼女の妄想の世界では、スネイプは猛だけしく有無を言わせないようなキスをする。それが実際には——やけにぎこちなく、 くちびるを押しあてるちからが強すぎて、こちらのくちびるが歯にあたってしまっていたし、角度も変で、鼻と鼻がぶつかっていた。それに彼のくちびるはとても緊張していて——

 

気づいたときにはもう〈薬学〉教授は姿勢をただし、杖をもとのようにこちらに向けていた。

 

「まさか——」と言ってリアン・フェルソーンは彼を見あげる。 「まさかこれが——はじめてだったんじゃ——?」

 

——リアン・フェルソーンは発見したばかりの石の洞穴のまえで目をしばたたかせた。 とてつもなく巨大なルビーは、まだたしかに手のなかにある。 洞穴の隅の地面にこれが埋まっているのを見つけたのは、思いがけない幸運だった。 ただ、このルビーを見つめていると悲しい気持ちになるのはなぜだろうか。大切にしていたなにかを忘れてしまったように思えるのはなぜだろうか。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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77章「自己実現(余波)——見かけ」

余波:アルバス・ダンブルドアと○○

 

無数の装置がうごめき、静けさの対極にある総長室で、部屋のぬしがひとり席についている。 ローブはおだやかな黄色をした薄手の生地。人前で着ることのないたぐいの衣装だ。 机上では、公式文書らしき羊皮紙にむかって、しわだらけの手が羽ペンを走らせている。 しわのあるその顔から人となりを読みとろうとする観察者がここにいたとして、謎の装置群を観察しようとする観察者と同様、徒労に終わるだろう。 分かるとすれば、やや悲しげで疲れた表情だということくらいだが、アルバス・ダンブルドアはもともと一人でいるときは決まってそういう表情をしている。

 

煙送(フルー)〉用暖炉には灰が散らばっているが、炎はかけらもなく、出入口としてのおもかげを完全にうしなっている。 物理的な面では、オーク材の大扉は施錠され閉ざされていて、 そのむこうの〈無限階段〉は静止している。 階段のさきでは、石のガーゴイルが道をふさいだまま、見せかけの生命をうしなって固化している。

 

そして、羽ペンの先からつぎの一文字、つぎの一画が書かれようとするとき——

 

老魔法使いはすくりと立ちあがり、見る者がいれば唖然とするであろうほどの俊敏な動きで、オーク材の大扉に相対する。羽ペンはぽとりと羊皮紙に落ちる。黄色のローブがひるがえり、恐るべきちからを秘めた杖が手に飛びこみ——

 

杖をうけとるやいなや、また急に老人の動作が止まる。

 

大扉を三度、たたく音があった。

 

黒杖が、こんどはゆっくりと、老魔法使いの袖ぐちに取りつけられたホルスターにもどっていく。 ダンブルドアは数歩まえにでて、もっと貫禄ある立ちかたと落ちついた表情に切りかえる。 奥の机では、いかにもあわてて落とされたようだった羽ペンが羊皮紙の横におさまり、羊皮紙は一枚めくれて白紙がおもてに出る。

 

無言の思念が送られ、大扉がひらく。

 

そのむこうから石のような緑色の目がじっと老人を見すえる。

 

「おみごと、と言わざるをえまい。〈不可視のマント〉のおかげで簡単な透視術は通用しなかったと見える。ただそれだけでなく、わしが感知するかぎり石像の動きや階段の回転すら起きていないのはどういうことかな。どんな手段をつかった?」

 

少年は一歩一歩、余裕をもって部屋のなかにすすむ。その背後で扉がとじる。 「ぼくはいつでもどこにでも行けます。あなたが許そうが許すまいが。」  冷静な声。いや、冷静すぎるかもしれない。 「ここに来ようと思ったから、合言葉などかまうものかと思ったから、ぼくはこうやって来た。 ぼくが囚人としてこの学校にとどまっているとお思いなら、大きなまちがいですよ、ダンブルドア総長。 ぼくは出ていかないことにしただけです、いまのところは。 その点を踏まえて、ひとつお聞きします。スネイプ先生は『四年次以下の生徒を虐待しない』という約束でした。まさにこの部屋でそう約束しましたよね。あなたは今回スネイプ先生にその約束をやぶらせた。なぜですか?」

 

老魔法使いはしばし、怒れる若い英雄(ヒーロー)をじっと見ていた。 それから、ハリーをおどろかせないようにゆっくりと、重層的な引き出しを繰り出し、そのなかから羊皮紙を一枚とりあげて、机においた。 「十四羽。これは昨夜飛ばされたフクロウの全数ではない。そのうち、ウィゼンガモートに議席のある家、大資産家、きみから見て敵陣営の家に飛ばされたものだけで、十四羽。 ロバート・ジャグソンについては、その三点がすべてあてはまる。現ジャグソン卿は〈死食い人〉であり、先代も〈死食い人〉としてアラスター・ムーディの杖に討たれた。 送られた手紙になにが書かれていたかまでは分からぬ。しかし推測はできる。 きみはまだ理解できないのか、ハリー・ポッター? きみは勝利と言うが、ハーマイオニー・グレンジャーが()()()()たび、スリザリン勢が彼女に危害をくわえる可能性は高まるいっぽうじゃ。 しかしこうやってスリザリン勢に勝たせてやれば……暴力をつかわず、せいぜい一時的な害と引きかえに、安易な勝利をあたえてやれば、もはやたたかう必要もなくなる……」  老魔法使いはそこでためいきをついた。 「……わしはそう考えた。そう願っていた。〈防衛術〉教授からの横槍さえなければ、そうなっていた。 この問題は以後、理事会にゆだねられる。そこでセヴルスが〈防衛術〉教授をやりこめる、ということになっておる。しかしスリザリン勢はそのとおりの解釈はしてくれまい。それだけでとうてい一件落着とはいくまい。」

 

少年は入りぐちを離れ、部屋のなかに踏みこんだ。目線は総長をあおぎ見る角度になっているが、なぜか見あげるのではなく見おろしているような印象があった。 「つまりジャグソン卿は〈死食い人〉だった、骨の髄まで腐っていたということですね。そういう相手なら、気づかいがいらなくて助かります——」

 

「ハリー!」

 

少年の透徹な声は、前人未踏の泉の水からできた氷のように透きとおって聞こえた。 「あなたは〈光〉陣営が暗黒におびえて暮らすべきだと思っているようですが、 ぼくは逆であるべきだと思います。 もちろんぼくも、たとえ相手が〈死食い人〉であっても人殺しは気がすすみません。 でもクィレル先生と一時間相談すれば、ジャグソン卿を経済的に破滅させる方法やブリテン魔法界から追放する手段はいくらでも思いつけると思います。 それくらいしておけば、しめしはつくでしょう。」

 

「なるほど……なかなか思いつけない発想ではある。ホグウォーツ校内でのささいなもめごとを理由に、〈死食い人〉に全面戦争を申しこみ、五百年の歴史ある寮を破滅させようとするなど、わしは思いもしなかった。」  老魔法使いはさきほどの動作でややずり落ちていた半月形の眼鏡を指で押しあげた。 「ミス・グレンジャーにも、マクゴナガル先生にも、フレッドとジョージにもない発想ではないかと思う。」

 

少年は肩をすくめた。 「校内のことだけではなく、ジャグソン卿の過去の罪すべてに対する裁きだと思えばいいでしょう。それに、ぼくが手をだすのは向こうが手をだしてからの話です。 なにも、なにをするかわからない存在がここにいると知らしめたいわけじゃありませんから。 要は、中立をたもっている人はだれもぼくのことを怖がる必要はない。でも軽がるしくこちらに手だしをすれば、痛い目を見るぞ、ということです。」  にこりとしてはいるが、目もとが笑っていない。 「この問題でぼくに手をだす人は〈カオス〉の真の意味を知ることになる、と『予言者日報(デイリー・プロフェット)』の広告欄にでも載せさせておきましょうか。」

 

「待ちなさい。……ハリー、それはあるまじき考えかたじゃ。きみはまだ戦うことの意味を分かっていない。二者が戦場で敵として衝突するということが本質的にどういうことなのか。その現実を知らず、ただ自分の恐ろしさを相手に理解させてやればよいのだとばかり思っているのではないか。きみの年ごろであれば、無理もない考えかたではある。 しかし同時に、きみはその考えの一部を実行しうる能力をすでに持ってしまっている。 それは〈闇の王〉の道。一度その道をえらべば、どう歩もうが暗黒の終着点をのがれることはできない。」

 

少年はためらいを見せ、ちらりと黄金の台座に目をやった。ふだんならフォークスが羽をやすめている場所である。 なにげない動作ではあるが、ハリーがそこを見たことの意味を老魔法使いはよく知っている。

 

「わかりました。見せしめの話はおいておきましょう。」  まだかたい声だが、冷たさはいくらかやわらいでいる。 「それでも、ジャグソン卿になにか()()()()()()()()()と思うばかりに、子どもたちが傷つくのを見すごす、というのはおかしい。納得できません。 子どもたちを守ることこそ、あなたの仕事でしょう。 ジャグソン卿がその邪魔をするというなら、なにをおいてもジャグソン卿を止めるべきです。 ぼくが金庫の資金を自由につかえるようにしてください。ホグウォーツ内でいじめを廃止することに付随してなにか問題が起きるなら、その資金をつかってぼく自身の責任で解決しましょう。それがジャグソン卿でも、ほかのだれであっても。」

 

老魔法使いはくびをふった。 「ハリー、きみはわしが出しおしみをしていると思っているのではないか。わしが本腰をいれてさえいれば、きっと敵はひとたまりもないはずだと。 そこがきみの誤算じゃ。 ルシウス・マルフォイはファッジ大臣を意のままにし、『デイリー・プロフェット』を通じてブリテン全土への影響力をもっている。ホグウォーツの理事会もぎりぎりのところでこちらに分があるにすぎず、ちょっとした変化でわしのくびも飛ぶ。 アメリア・ボーンズとバーテミウス・クラウチは味方じゃが、われわれが無思慮な行動にでれば、ついては来まい。 この世界はきみが思っているほど磐石ではなく、われわれは一手一手慎重にことをすすめる必要がある。 〈魔法界大戦〉は真の意味では終わっていない。かたちは変われど、つづいている。 黒の(キング)は眠り、それにかわってしばらくルシウス・マルフォイが駒の支配権をにぎっている。 ルシウス・マルフォイが手持ちの歩兵(ポーン)を倒されるのをそうやすやすと見すごすと思うかね?」

 

少年はまたどこか冷ややかな笑顔になった。 「そうですか、じゃあジャグソン卿が自分の意思でルシウス・マルフォイを裏切ったように見せかける方法を考えてみます。」

 

「ハリー——」

 

「障害があるなら、()()()()()()対抗するまでですよ。 守るべき子どもたちを見殺しにしていいということにはなりません。 勝つべきなのは〈光〉の陣営です。勝つことで別の問題が生じるなら——」  肩をすくめる。 「また勝てばいいだけです。」

 

不死鳥(フェニックス)ももしことばを知っていれば、そう言うのかもしれぬ。 しかしきみは不死鳥の代償のことを理解していない。」

 

『不死鳥の代償』というその一言はとりわけ明瞭に聞こえ、部屋のなかにこだましたようだった。 それから、ガタゴトと大きな音が四方から聞こえだした。

 

壁にかけられた古い盾と〈組わけ帽子〉の帽子かけのあいだの石壁が変形して、二本の石柱となり、あいだに空隙ができた。そのさきには上にむかう石の階段があり、階段のさきは暗くて見えない。

 

老魔法使いは階段のまえまで歩いていき、そこでふりかえって、まだ動かないハリー・ポッターのほうを見た。 「来なさい!」  青色の目にきらめきがなくなっている。 「きみはすでにわしの許可なしにここまで乗りこんできた。ならば、もうひとつ奥を見せてもよかろう。」

 

◆ ◆ ◆

 

石の階段に手すりはなかった。ハリーは杖をとりだして『ルーモス』をかけた。 総長はふりかえらず、足もとも見ずに歩いていく。視界がきかなくても歩けるほどに慣れた場所のようだ。

 

好奇心や恐怖を感じているのが当然ではあるが、ハリーの脳はその余力がなくなっている。 ふつふつと煮える怒りがこれ以上あふれないようにと、押しとどめるのにかかりきりになっている。

 

階段は途中で曲がることもなくすぐにおわり、最上段になった。

 

頂上には金属扉があった。ハリーの杖の青光のもとでは扉は黒色に見えた。つまり実際の色は黒なのかもしれないし、赤かもしれない。

 

アルバス・ダンブルドアは長い杖を旗印のようにかかげ、さきほどと同じ、ハリーの耳にこだまするような、ハリーの記憶に焼きつけるような奇妙な声で、「不死鳥の運命」と言った。

 

扉がひらき、ダンブルドアにつづいてハリーもなかにはいった。

 

部屋は扉とおなじ黒い金属でできているようだった。壁の色も、床の色も黒。 天井も黒。ただし、水晶球がひとつ天井から白い鎖でぶらさがっていて、そこから銀色の光が降りそそいでいた。〈守護霊(パトローナス)〉の光に似せてつくられているようだったが、ほんものでないことはすぐに分かる。

 

部屋のなかには、黒い金属の台座がならんでいた。ある台座には動く写真が、別の台座にはうっすらと光る液体が半分まではいった縦長の容器が載っている。焼け焦げた銀の首かざり、つぶれた帽子、真あたらしい黄金の結婚指輪など、小さな品物がぽつりと置かれている台座もある。 写真、液体、品物の三種すべてがそろった台座も多い。 あちこちに魔法の杖があり、その大半が折れていたり、焦げていたり、そして奇妙に溶けていたりしている。

 

ハリーはしばらくながめていてやっと、自分が見ているものの正体に気づき、のどを詰まらせた。 自分のこころのなかの怒りを鉄槌で打ちつけられたような感覚——これほど痛烈な衝撃を感じたのははじめてかもしれない。

 

「わしのために戦死した人びとは、これですべてではない。」  アルバス・ダンブルドアは背をむけたままで、ハリーからは灰色の髪の毛と黄色がかったローブしか見えない。 「……これよりはるかに多い。しかしそのなかでも、とくに親しかった人たち、とくに重大な過誤で死なせてしまった人たち、とくに悔やみ切れない死にかたをさせてしまった人たちがいる。 この場所はそういった人たちのためにある。」

 

台座の数はすぐには数えきれないが、 おそらく百ちかく。 部屋はけっして狭くはなく、これからも台座が増えることを考えて作られている。

 

アルバス・ダンブルドアはひたいにはめこまれたような深い青色の目でじっとハリーを見さだめた。しかし声は平静だった。 「きみはまだ不死鳥の代償がどんなものかを知らないのではないかと思う。 わしが見るかぎり、きみは邪悪な人間ではない。ただひどく無知で、無知なぶん、自分に自信をもちすぎている。わしも昔、そうだったことがある。 ただ、このあいだのできごとからすると、きみはわしよりもフォークスの声をはっきりと聞くことができるらしい。 おそらくフォークスがおとずれたとき、わしはすでに老い、悲しみを知りすぎていたからかもしれぬ。 もし、どんなときに戦いを受けて立つべきかについてわしが知らないことがあるというのなら、言ってみなさい。」  声から怒りは感じられなかった。ホウキから落ちたときのように息ができなくなるほどの圧力は別のところから来ていた。銀色の光に照らされて静かに眠る、焼け焦げた杖、砕けた杖の列から来ていた。 「言うべきことがなければ、去りなさい。しかし以後、おなじことは二度と聞かせないでもらいたい。」

 

ハリーはどう答えていいか分からない。自分の人生経験ではおよびもつかない話に、かえすことばがない。 無理をしてなにか言えることを見つけられたとしても、いまこの場で言う意味はないだろうと思った。 だれも自分の判断ミスのせいで他人を死なせてしまったという経験を引きあいにだして論争に勝てるべきではないが、そう分かっていても言うべきことはなにも見つからなかった。 ハリーが口を出せることはなかった。

 

そう思ってハリーはほとんど退室する気になっていたが、ひとつだけ気づいたことがあった。 アルバス・ダンブルドアはいつどこにいても、こころのなかでこの場所に自分の一部をのこしているのではないだろうか。 だからこそ、つぎの戦争が起きるのを防ぐためなら、あらゆる手段をつかい、あらゆる犠牲をはらうことができるのではないだろうか。

 

ひとつの台座が目についた。 その台座の写真は動かない。ほほえんだり手をふったりしない、真剣な表情でカメラを見ている女性を写した、マグル式写真だった。 茶色の髪の毛の女性で、編んで下げた髪型をしている。マグル世界ではありふれているが魔法界では見かけない髪型だ。 写真のとなりには、銀色の液体がはいった容器が立ててある。溶けた指輪や折れた杖といった遺品はない。

 

ハリーはゆっくりとその台座のまえに歩みよった。 「この女性は?」  自分の声が奇妙に聞こえた。

 

「その女性の名はトリシア・グラスウェル…… 彼女はマグル生まれの魔女だった娘を〈死食い人〉に殺された。 トリシア・グラスウェルはマグル政府の警察官でもあった。娘の死後、警察当局を通じて得た情報を〈不死鳥の騎士団〉に提供してくれていたが、彼女自身も最後には——裏切りにあい——ヴォルデモートに捕らえられた。」  ダンブルドアの声が一度とぎれた。 「……そして無惨に殺された。」

 

「彼女のおかげで死なずにすんだ人はいましたか?」

 

「いた。何人も。」

 

ハリーは台座からダンブルドアに視線をうつす。「彼女が行動しなかったとしたら、世界はもっとよい場所になっていたと思いますか?」

 

「いや、思わない。」  ダンブルドアの声に疲労と哀切がこもった。 かがみこもうとするときのように、背がまがって見える。 「やはりきみは分かっていない。 いずれ理解するときが来るとすれば、それは——ああ。 ずっと昔、きみとさほどかわらない年ごろに、わしは暴力というものの本性を知った。その代償を知った。 見わたすかぎりの空を殺人の呪いが飛びかう——そんな状況は、文字どおりいかなる理由があろうとも、忌むべきもの。それは最悪の闇の儀式がそうであるように、本質的に汚れた、忌まわしいもの。 暴力はひとたび生み落とされれば、周囲の生きものすべてにレシフォールドのように襲いかかる。 わしはそのことを身にしみて学ばせられた。きみにはおなじ思いをさせたくない。」

 

ハリーは総長の青い目から黒い金属製の床へと視線をおとした。 総長が重大なことを伝えようとしていることは分かる。ハリーもそれをくだらない話題だとは思わない。

 

「昔、モハンダス・ガンディーという名前のマグルがいました。」  ハリーは下をむいたまま話しだす。 「ガンディーは自分たちの国がマグル世界の英国政府に支配されるべきではないと考えました。 そして武力闘争を拒否しました。武力闘争はするなと国民全体を説得しました。 そのかわり、協力者をあつめて英国兵のまえに立ちふさがって、抵抗せず殴り倒されました。英国はやがてそれに耐えられなくなり、ガンディーの国を解放しました。 この話を本で読んだとき、美しい話だと思いました。銃や剣をもって戦う戦争よりも一段上の考えかただと思いました。それを実際にやった人がいて、しかも()()()()んですから。」  一度息をつぐ。 「ところがあとになってぼくは別の話を知りました。もしナチスが侵略してきてもやはり非暴力の抵抗運動で対処すると、ガンディーは第二次世界大戦中に言っていたそうです。 ナチスならきっと初手で全員を射殺していたでしょう。 ウィンストン・チャーチルももしかすると、だれも傷つけなくてすむ別の方法がどこかにあると感じていていたかもしれません。でもそんなうまい方法は見つからなかった。だからチャーチルは武力を使うしかなかった。」  顔をあげると、総長もハリーを見かえしていた。 「ヒトラーがチェコスロヴァキアに侵攻しようとするとき、政府は平和条約と引きかえにそれを認めようとしました。そのときウィンストン・チャーチルは反対し、抗戦を呼びかけました——」

 

「ウィンストンか。その名前はわしも記憶にある。」  老魔法使いのくちの端が上に曲がった。 「遠慮なく言ってしまえば、彼はファイアウィスキーを十杯飲ませても良心の呵責に苦しむほうではなかったがのう。」

 

ハリーは目のまえにいる人物がアルバス・ダンブルドアであることを思いだして、一度くちをとじ、自分がこの部屋でこの人に口ごたえする資格などあるのだろうかという疑念をふりはらおうとした。 「要は……暴力は悪だと言うだけでは()()になっていないということです。それだけでは戦うべきときとそうでないときを区別できません。 簡単な答えはありませんが、ガンディーは判断そのものを避けた。ぼくはそのことでガンディーにすこし幻滅しました。」

 

「では、きみはどう答える?」

 

「暴力を止めるとき以外に暴力をつかわないこと。 もっと多くの人命を救えるのでないかぎり人命を犠牲にしないこと。 そういう耳ざわりのいい答えかたをすることはできます。 問題は、警官が強盗を目撃したなら、警官自身やまわりの人の身の危険や生命の危険を覚悟してでも警官は強盗を止めるべきだということです。強盗がぬすもうとしているのが宝石のような、たんなる物品だったとしても。 もしだれも強盗の()()()()()()()()()()()()()()、強盗がどんどん横行するようになります。たとえそれが物品を盗むだけのことだったとしても——社会全体として——」  ふだんならもっと筋みちだった話をするふりくらいはできるのだが、この部屋では思考がまとまらない。 ゲーム理論の用語をつかって十分論理的な説明をしているべき、いや、すくなくともそういう見かたくらいはしているべきだが、うまくいかない。 タカ戦略とハト戦略——。 「分かりませんか。悪人は暴力を恐れないからやりたいほうだいにできる。善人は暴力を恐れるあまり逃げ隠れる。それでは——だれもそんな社会には住みたくないでしょう! おなじことが、いじめのせいでこの学校にも起きている。とくにスリザリン寮に起きているのが分かりませんか?」

 

()()の可能性は耐えがたいもの。しかし、もはやそれは避けられない。 ヴォルデモートは復活しつつある。 黒の駒が集結しつつある。 この戦争において、セヴルスはこちらがわの陣営でもっとも重要な駒のひとつ。 その彼には、外目には邪悪な〈薬学〉教授であってもらわねばならん。 子どもたちにいやな思いをさせることでそうできるなら……いやな思いだけですむのなら……」  老魔法使いの声はとても小さくなっている。 「それを割にあわないと思うのは、戦争についてなにひとつ知らない証拠じゃ。 きみは簡単でない決断のことを口にするが、簡単でない決断とは——こういうもの。」  ダンブルドアはとくに手ぶりをせず、ただ部屋のなかの台座にかこまれて立っていた。

 

「あなたは総長であるべきじゃない。」  ハリーはのどがひどく熱く感じるのを耐えて言う。 「とても言いにくいんですが、学校を運営することと戦争を遂行することを両立するのは無理があります。 ホグウォーツを巻きこまないでください。」

 

「子どもたちがこれで死ぬようなことはない。」  老魔法使いは疲れた目をしている。 「しかしヴォルデモートの手がおよべば、そのかぎりではない。 この学校にはなぜ両親の話をしない子どもたちが多いのか、考えてみたことはあるかね? どこで話そうにも、母親か父親、あるいはその両方に死なれただれかが一人は近くにいるからじゃ。 それこそが前回の戦争でヴォルデモートがのこした遺産。 戦争が起きること自体は決まってしまった。しかしどんな見返りがあろうとも、そのはじまりを一日でも早めかねないこと、そのおわりを一日でも延ばしかねないことには加担できん。」  こんどは手をあげ、砕けた杖の数かずを指ししめすような手ぶりをする。 「われわれは、正義のために戦うべきだから戦う、という考えかたはしなかった。 戦う以外の方策がすべて尽きたとき、やむをえず戦う。われわれはそう答えた。」

 

「グリンデルヴァルトとの対決を遅らせたのもおなじ理由からですか?」

 

ハリーは深く考えないままその質問をくちにし——

 

青い目がハリーを観察するあいだ、時間がゆっくりと流れた。

 

「だれからその話を? ……いや、答えずともよい。もう分かった。」  ためいき。 「その質問は何度も受けたが、毎回回答を避けてきた。 しかしきみはいずれこのことの真実を知るべき立ち場にある。 わしが許可しないかぎり、ほかのだれにも話さないと誓ってくれるか?」

 

ドラコには話すことを許してもらいたいところだが—— 「誓います。」

 

「グリンデルヴァルトは強力な古代の魔法具をもっていた。 それをもっているかぎりグリンデルヴァルトの守りは鉄壁で、わしは決闘に勝つことができなかった。決闘を何時間も引きのばすことで、疲労の限界で倒れてくれるのを待つしかなかった。 わしもフォークスがいなければ、命をとりとめることはできなかったにちがいない。 しかし、マグルの協力者が血の犠牲をささげているかぎり、グリンデルヴァルトも生きのびた。 当時のグリンデルヴァルトは文字どおりだれにも倒せなかった。 その忌むべき魔法具については、なにひとつ明かすことはできん。まちがっても存在を知られることがあってはならん。 いまはきみにもこれ以上告げるべきことはない。きみも今後だれにも話してはならん。 この話はこれですべて。 教訓もなにもない。それだけじゃ。」

 

ハリーはゆっくりうなづいた。 こういう話も、魔法世界の基準ではありえないとも言いきれない……。

 

「そのあとで……」  ダンブルドアの声はさらに小さく、ほとんどひとりごとのようになった。 「……わしはグリンデルヴァルトを死なせるべきではないと主張し、倒した者の特権でそれが通った。復讐をもとめる声も何千何万とありはしたが。 グリンデルヴァルトは彼自身がつくったヌルメンガルトの牢獄に投獄され、いまもそこにいる。 わしはあの決闘に際して彼を殺す意思はいっさいなかった。 わしはそれ以前に……はるか昔に、一度殺そうとして……それが結局は……まちがいであったことを思い知らされた……」  ダンブルドアは長い黒杖を両手でもち、マグルのファンタジー作品にでてくる水晶玉や占いの水甕(みずがめ)のようにそれをじっと見つめた。待っていればそこから答えが浮きでてくるというかのように。 「それ以来……それ以来、人殺しはしまいとこころに決めた。それから、ヴォルデモートがやってきた。」

 

「ヴォルデモートはグリンデルヴァルトとはちがい、 人間性をまったくのこしていない。 その男をきみは滅ぼさねばならん。 対決に際して躊躇してはならん。 この世に生きる命のなかで彼にだけは慈悲を見せてはならん。そしてことが成就したあかつきには、忘れなさい。すべて忘れて自分の人生を生きなさい。 怒りはその対決のときのためにとっておきなさい。」

 

総長室がしんとした。

 

それから何秒もつづく沈黙をやぶったのは、ひとつの質問だった。

 

「ヌルメンガルトにはディメンターがいますか?」

 

「なに? まさか! いかにグリンデルヴァルトとて、そんな目には——」

 

◆ ◆ ◆

 

老魔法使いは少年をじっと見る。すでにうつむくのをやめていた少年は表情を変え、口をひらいた。

 

「つまり……」と、だれもいない部屋でひとりごとを言うように話しだす。 「〈闇の魔術師〉の実力者を閉じこめる牢獄をつくるのにディメンターが必要ないことは知られている。 ()()()()()だということですか。」

 

「ハリー……?」

 

「ぼくはその答えを認めません。」 見あげる目は緑色の火のようにぎらぎらとしている。 「フォークスがあの使命をあなたに託さず、ぼくに託した理由がわかりました。 あなたは悪が勝つようなかたちでの権力の均衡を受けいれようとしている。そこがあなたとぼくの差です。」

 

「それも答えにはならないのじゃ。」  ダンブルドアは表情を変えない。長年の訓練で痛みを隠しとおせるようになっている。 「認めようが認めるまいが、現実は変化しない。 この件についてはきみも……口ぶりや態度とは裏腹に……若すぎるということかもしれん。一度たりとも悪を看過せず、連戦連勝のまま幕引きできるのはおとぎ話の世界だけのこと。」

 

「それだからあなたはディメンターを破壊することができない。ぼくにはできる。ぼくは暗黒は打破できるものだと信じているから。」

 

老魔法使いがはっとして息をとめた。

 

「不死鳥の代償にも抜け道はある。」とハリー。 「それは宇宙の奥深くに組みこまれた均衡の仕組みなんかじゃない。 いまのところ抜け道が見つかっていないというだけのことです。」

 

老魔法使いは口をひらいたが、声はでてこなかった。

 

銀色の光が砕けた杖の数かずを照らす。

 

「フォークスがぼくにあたえた使命。その使命をやりとげるために〈魔法省〉を解体する必要があるなら、ぼくはそうする。 そう考えることが、あなたが見おとしている答えへの一歩です。 ホグウォーツ内のいじめを止める方法が見つからなかったとき、『困ったな、これはどうしようもなさそうだ』と思って()()()()()ようではいけない。 方法が見つかるまでひたすら探すしかないんです。 そのためにルシウス・マルフォイの陰謀のすべてを打破する必要があるなら、そうするまでです。」

 

「それでは真の戦い……ヴォルデモートとの戦いについては?」 「()()()()()()()()()()ためにきみはなにをする? 世界そのものを破壊するのか。 たとえいつかきみがそうする手段を手にする日が来たとしても、代償をのがれる手段までは見つけられていまい。いや、そんな手段はどこにもないかもしれん! きみがすでにこういうふるまいをしていること自体、狂気以外のなにものでもない!」

 

「クィレル先生がハーマイオニーへの百点を宣言したあと笑っていたのはなぜか、本人にたずねました。 クィレル先生の答えは、厳密にはちがう表現でしたが、内容としてはだいたいこうでした。『無辜の少女が助けをもとめているのに、慈悲深いはずのアルバス・ダンブルドアはなにもせず傍観している。そこへわたしが助けの手をさしのべる。こんな愉快なことはない』、と。 それから……『善人や倫理的な人というものはひとしきりあれこれ考え悩んだ結果なにもしないことが多く、仮になにかしたとして、その行為は悪人とされる人たちの行為とほとんど区別がつかない』。 『わたしのように善人でない人間は、いつでも好きなときに無辜の少女を助けることができる……善をめざしたいと思っているなら、こういう点も勘案しなさい』、とも。」

 

ダンブルドアは内心打撃を感じたにちがいないが、ほとんど動じるそぶりを見せなかった。よく観察していれば、目をわずかに見ひらいたのが分かる程度だった。

 

「心配しないでください。そのあたりのことはわきまえています。 善にかんすることはハーマイオニーやフォークスに教えてもらうべきだということは分かっています。あなたやクィレル先生ではなく。 そこで、もともとの用件にもどりますが。 ハーマイオニーはくだらない罰則につきあうほど暇じゃありません。スネイプ先生をぼくが脅迫したということにして、あの処分は取り消していただきます。」

 

しばらくためらってから、老魔法使いはくびを縦にふった。銀色のひげがゆっくり揺れた。 「それはミス・グレンジャー本人のために好ましくない。かわりに、監督者をビンズ先生にするということで手をうとう。きみもいっしょにビンズ先生の教室で自習すればよい。」

 

「いいでしょう。そういうことなら、これまでぼくらがやっていたことと変わりありませんから。 今後またあなたが悪人の味方をするようなことや悪人に勝ちをゆずるようなことをしたときは、ぼくは後先かまわずフォークスが告げるとおりに行動します。この点はよく分かっていてくださいね。」

 

それを最後に、少年は来た道をもどり、あいたままになっていた黒い金属製の扉をとおり、部屋をでた。「ルーモス!」と声がしてから、光がともった。

 

老魔法使いは自分よりさきに死んだ者たちの遺物にかこまれたまま無言で立っていた。 しわのある手が半月形の眼鏡にのび——

 

少年が部屋のなかに顔をつきだした。 「あの階段をうごかしてもらえませんか? 来たときにやったことをもう一度やるのは、かなり大変なので。」

 

「よろしい、行きなさい。そう指示しておいた。」

 

(しばらくあとで、マクゴナガル副総長が入室を許されてガーゴイル像の門を通過した。門の横で透明になって待機していた、本人視点では総長室に来るまえのハリーが、そのうしろについて回転階段をのぼり、〈マント〉を着用したまま〈逆転時計(タイムターナー)〉を三回うごかした。)

 

◆ ◆ ◆

 

余波:クィレル教授と○○

 

禁じられた森のなかの暗い草地で〈防衛術〉教授は待っていた。けだるそうに背をあずけているのは、荒い灰色の樹皮をした大きなブナの木である。三月も終わるのにまだ葉がなく、幹から枝分かれしていくすがたがちょうど地面に生えた白っぽい腕から無数の指が吹きだしているように見える。 まだ初春とあって、芽のでていない木々も多い。なのに、まわりにも頭上にもびっしりと枝がひしめきあっていて、(そら)はほとんど見えない。 そんな樹木の網が何重にもはりめぐらされているので、ホウキに乗った何者かが上空から人探しをしていたとすれば、目よりも耳を頼りにすることになるだろう。 それに輪をかけて、見えない太陽はすでに落ちかけ、森のなかは光にとぼしい。かろうじてのこった日の光は、特別高くまで枝をのばす木々だけを照らしている。

 

そこに聞きのがしかねないほど小さな足音が近づく。身を隠して歩くことに慣れた男の歩調。枝を折る音も葉を踏む音もたてていない——

 

「ごきげんよう。」と言いながら、クィレル教授は視線もうごかさず、両腕もだらりとさせたままでいる。

 

黒マントの人影が隠蔽をといて出現し、左右を一度ずつ確認した。 右手には、低くかまえた灰色の杖……銀製にさえ見える杖があった。

 

「なにも()()()()()で待ちあわせることもないだろうに。」  セヴルス・スネイプが冷たい声でそう言った。

 

「ああ。」とクィレル教授はいかにもどうでもよさげな態度で言う。「聞き耳をたてられたくはないだろうと思ってね。 ホグウォーツ城には耳がある。昨日の件できみがどういう役割を演じたか、総長に知られたくはあるまい?」

 

三月の冷気が深まり、気温が一段と低くなる。スネイプの声の冷たさが増す。 「なにが言いたい。」

 

「わたしがなにが言いたいかは、もう分かっているだろうに。」  クィレル教授は愉快げに言う。 「……ああいう愚かな騒ぎにくびをつっこむまえに、暴力から身をまもるすべくらいは確保しておくものだ。」 (両手はまだだらりと垂れている。) 「しかし、あの愚か者たちも女子諸君もふくめて、だれひとりきみが倒れたことをおぼえてはいなかった。 となると、大変興味ぶかい疑問が生じる。きみはなぜそれほどまで、必死と言えるほどの労力をつぎこんで、()()()()もの〈記憶の魔法〉を処置したのか。」  くびをかしげる。 「たかが生徒にどう思われるかを心配して? いや、それはない。 きみのお仲間であるマルフォイ卿の耳にはいることを恐れてか? しかしあの愚か者たち自身がその場で考案してくれた説明をいただいてしまえば、十分言いわけはたつ。 そうなると、きみに対して絶大な権力をもち、きみが勝手な謀略を実行したとなれば気分を害するであろう人物の存在がうかびあがる。該当しうるのはただ一名。きみが秘密裏に仕える真の主人、アルバス・ダンブルドアだ。」

 

「なんだと?」 スネイプは怒りをあらわにした。

 

「しかし、いまのきみは独断でうごいているらしい。では、なにをしようとしているのか。なにが目的か。そこにわたしは興味をひかれた。」  クィレルは黒マントの人影をひとしきりながめた。興味ぶかい虫を……とはいえしょせん虫にすぎないものを相手にしているような目つきだった。

 

「わたしがダンブルドアの従僕になどなるものか。」とスネイプ。

 

「ほう? それは意外だ。」  クィレルはわずかに口角をあげた。 「そう言いたくなる気持ちはわかるがね。」

 

両者無言の時間がつづいた。 静寂をやぶるように、どこかの木でフクロウが一鳴きした。二人ともぴくりともしなかった。

 

「クィレル。わたしを敵にまわすと損をするぞ。」とごく小さな声でスネイプが言った。

 

「ふむ、その根拠は?」

 

「……逆に、味方にすればいろいろな利益がある。」

 

クィレルは灰色の樹皮に背なかをあずけたまま両眉をあげた。 「たとえば?」

 

「この学校についてのさまざまな知識。わたしが知っているはずがないと思われるような部分についても。」

 

返事を待つ格好の沈黙。

 

「それはそれは。」と言ってクィレルは退屈そうに手の爪をなぶりだす。「つづきをどうぞ。」

 

「たとえばあなたが……三階の通廊を調査していたことも知っている——」

 

「はったりだな。」と言ってクィレルは姿勢をただした。 「かまをかけても無駄だ。不愉快だ。きみにわたしを不愉快にする権利はない。 有能な魔法使いなら、あの廊下にとんでもない量の結界と網、警告と罠が総長の手ではりめぐらされてあるのに気づく。 そればかりか……あそこには、わたしも噂にすら聞いたことのないような古代の呪文や装置がしかけられている。おそらくフラメルの愛蔵品を吐きださせて手にいれたのだろう。 生前の〈名前を言ってはいけない例の男〉ですら、気づかれずに通過しようと思えば手こずるはずだ。」  思案げに指を一本ほおにあてる。 「鍵そのものは、ただのドアノブを『コロポータス』で封じたものにすぎない。入学一日目のミス・グレンジャーでもあけられる程度の強度の呪文だ。こんな分かりやすい罠には、生まれてこのかた、お目にかかったことがない。」  そして目を細める。 「あの検知網はみごとなまでの完成度だが、実用的にはやりすぎに思える。あれほどの防衛措置がなければ対抗できないような存命の人物をわたしは知らない。 あれだけのしかけで迎え撃つべき、古代魔術にたけた人物が仮に実在するのなら——()()()()()()()()の情報なら、見かえりとして十分すぎるほどだ。きみの秘密もよろこんで守るし、お釣りとしてほかに頼みがあればたっぷり聞きとどけよう。」

 

クィレルは強い関心をしめしてスネイプを見ている……かのようだったが、 口角はぴくりともしていなかった。

 

またしばらく無言の時間がつづく。

 

「だれを恐れてのことかは知らん。」とスネイプ。 「しかしダンブルドアがしかけた(えさ)の正体なら知っている。それがどう守られているかについても、いくらかは——」

 

「ああ、それなら……」 クィレルは退屈そうな口調にもどった。 「もう何カ月もまえにわたしが盗みだした。いまあるのは、わたしが置いたにせものだ。 ということで、気持ちだけいただいておく。」

 

「……それはうそだな。」

 

「うそだよ。」  クィレルはまた灰色の樹皮に背をあずけ、頭上にひしめきあう枝えだを見あげる。そのむこうにあるはずの夜空はほとんど見えない。 「きみがやけに無知なふりをしているから、見やぶってくるかどうか試したまでだ。」  クィレルは満足げに笑みをうかべた。

 

スネイプは怒りで窒息しそうな表情になった。 「()()()()()。」

 

「とくには、なにも。」と言ってクィレルは視線をおろさず、木々を見つづける。 「ただ興味があっただけだ。 これからきみの謀略がどう運ぶか、見とどけさせてもらうことにしたい。そのあいだわたしは総長に口外しない——もちろん、きみがときどきわたしの頼みを聞いてくれるのが条件であることは言うまでもない。」  乾いた笑み。 「話はここまでだ。 ただ、どの陣営についているのかを正直に話す気になってくれたら、じきにまたこういう場をもうけてあげてもいい。そう、()()()。今日見せてくれた仮面ではなく。 正直になれば、協力してくれる者は意外に多かったりするかもしれないぞ。じっくり考えてくれ。」

 

◆ ◆ ◆

 

余波:ドラコ・マルフォイと○○

 

虹色の半球——それ自身にこれといって色はない、エネルギーのかたまり——がスリザリン談話室の壮麗なシャンデリアの光を千々に反射し、玉虫色の模様をゆらめかせる。

 

半球が守っているのは、ひどくおびえた顔の少女。彼女自身はいじめ退治にかかわったこともなく、クィレル先生の模擬戦に参加したこともなく、〈防衛術〉の授業の成績はせいぜい〈可〉どまり。仮に命にかかわる状況だったとしても〈虹色の障壁〉で自衛する技量はない。

 

「なにやってるんだ。」とドラコ・マルフォイは言った。退屈そうな声をつとめているが、ローブのなかではすでに汗が吹きだしつつあった。杖はミリセント・ブルストロードを守る障壁のほうに向けられたままでいる。

 

介入することをいつのまに決めたのか、ドラコ自身わからなかった。上級生二人がミリセントに呪文を撃とうとし、談話室にいる全員がしんとしてそれを見ていたとき、手が勝手に杖にのび、障壁呪文をかけたのだった。どっと流れでたアドレナリンで心臓がばくばくし、脳はなんとかして説明をつけなければとあわてている——

 

上級生の二人はミリセントを囲むのをやめて、ドラコのほうを向いた。二人ともショックと怒りの混ざった表情をしている。 グレゴリーとヴィンセントはすでに杖を手にしているが、相手二人にむけてはいない。 そもそも、三人でやっても勝ち目はない。

 

といっても、呪文で撃たれる心配もない。わざわざ次期マルフォイ家当主を撃つバカなどどこにもいない。

 

ドラコはなにも、撃たれるかもしれないという恐怖からローブの内がわで汗をかいたり、見てわかるほどの汗がひたいに浮きでていないことを願ったりしてはいない。

 

この汗の理由は、とある陰鬱な未来が確実になりつつあることに気づいたからだった。仮にこの場はなんとか切りぬけられたとしても、このままではいつか一気に崩壊してしまう日がくる。そうなれば、ドラコは次期マルフォイ家当主でなくなるかもしれない。

 

「ミスター・マルフォイ。なぜそいつを守ろうとする?」と二人のうち年上らしいほうが言った。

 

「陰謀の首謀者が見つかったと言われて来てみれば……」と言ってドラコは〈嘲笑その二〉の表情をした。 「それが一年生のミリセント・ブルストロードだとくる。耳をうたがうよ。 どう見てもメッセンジャーにすぎないのが分からないのか!」

 

「で? やつらに手を貸していたのはおなじだ!」

 

ドラコが杖を振りあげると、〈虹色の球体〉がふっと消えた。そして退屈した声のまま言う。 「ミス・ブルストロード、きみは実際手を貸そうというつもりでやっていたのか?」

 

「い、いいえ。」  ミリセントは席についたまま答えた。

 

「自分が中継しているメッセージの最終的な宛先を知っていたのか?」

 

「いいえ!」

 

「そうか、ありがとう。 ほら、これでミス・ブルストロードが下っぱにすぎないことは分かっただろう。彼女から手をひいてくれ。 そしてミス・ブルストロード、二月の件での借りはこれで帳消しということにしてもらいたい。」  そう言ってドラコは〈薬学〉の宿題にもどる姿勢をとった。ミリセントが『借りって、なんの?』などとバカなことを言いださないようにと願いながら。

 

「ならなんで……」と明らかに部屋の奥のほうから声がかかった。「S.P.H.E.W.(あいつら)はミリセントから来たメモに書いてあったとおりの場所に行ったんだ?」

 

いちだんと汗をかきつつ、ドラコは声のほうに目をやった。ランドルフ・リーだった。 「にせものの手紙か。どういう内容の手紙だったんだ?」とドラコ。 「『闇の女王ブルストロードとして命じます』とか、『ここで待ってます、ミリセントより』とか?」

 

ランドルフ・リーがくちをひらいて、一瞬ためらっているうちに——

 

「そんなところだろうと思った。ろくなテストにならないな、それは。それじゃ——それじゃ——」  『偽陽性』などといったハリー語をつかわずに表現しなければと思い、ドラコはあわてて考える。 「そいつらのうちだれか一人がミリセントと仲がいいだけでも、行ってしまうだろうから。」

 

それで事件は解決したと言いたげな態度でドラコは宿題にもどり、部屋じゅうから聞こえるひそひそ声を無視した(胸の奥の不吉な感覚は無視できなかった)。

 

ドラコの目が、視界のかたすみから視線をなげかけているグレゴリーをとらえた。

 

◆ ◆ ◆

 

〈天文学〉の宿題がしっかり目にはいってはいるのに、集中できていない。 ハリー・ポッターに聞かされたことを考えたくないのなら、この教科書は最悪だ。夜空の絵を見ていると、惑星の運行について自分が知っているべきではない知識のことをつい連想してしまう。 〈天文学〉は立派な学芸であり、知恵と知識の象徴だ。問題なのは、マグル天文学者が何万何億倍も効果的な秘密の装置をもっていること。それと、ハリーから説明を聞かされても、ドラコにはそれが魔法なしでモノに〈数占術(アリスマンシー)〉をさせる方法であることくらいしか理解できなかったこと。

 

ドラコは星座の絵を見て思う。ほかの寮もこうなのだろうか。レイヴンクロー寮生もいつもおたがいを脅迫しあっているのだろうか。

 

ハリー・ポッターによると、戦場にいる兵士は自国のためにたたかっているのではないのだという。 兵士を戦場にむかわせる段階では愛国心にも効果があるかもしれないが、戦場についてから兵士がたたかうのは()()()()()、いっしょに訓練をうけた目のまえにいる同僚のためなのだという。 ハリーの考えでは、指導者への忠誠心をもって〈守護霊(パトローナス)の魔法〉をかけることはできない。 〈守護霊〉に必要なぬくもりと幸せのイメージはそういうものではない。いっぽう、仲間をまもりたいという思いなら有効だろう。 たしかに、とドラコも思った。

 

そして、〈闇の王〉がいなくなった瞬間に〈死食い人〉の組織が崩壊した理由もきっとおなじで、仲間を思う関係がなかったからだろう、とハリー・ポッターはつづけて言った。

 

ベラトリクス・ブラックやアミカス・カロウのたぐいとマルフォイ卿とミスター・マクネアとを一カ所にあつめて、〈拷問の呪い〉で統率することはできる。 しかしひとたび〈闇の紋章〉を支配していた人物が消えれば、軍は軍でなくなり、知り合いのあつまりでしかなくなる。 父上が失敗した理由もそれだ。 実際のところ、父上がなにかしくじったというより、たがいに親しいとすらいえない〈死食い人〉のあつまりを継承しても、どうしようもなかったのだ。

 

ドラコはスリザリン寮を擁護すべき立ち場でありながら——スリザリン寮を()()約束をハリーとのあいだでしていながら——模擬戦の訓練を指揮し、スリザリン生以外のほかの三寮の生徒と助けあっているときのほうが気が楽だったりすることに気づかずにはいられなかった。 ひとたび問題の実態を認識してしまうと、()()()()()ことはできなくなる。日を追うにつれ、ますます目ざわりになっていく。

 

「ミスター・マルフォイ?」とドラコの机の横で床に寝ころがっているグレゴリー・ゴイルが言う。小さいながらドラコのものであるこの個室で、グレゴリーは〈転成術〉の宿題をしている。ドラコが手を貸してやる必要があることもめずらしくないからだ。

 

もはや気をまぎらすことができるなら、なんでもよかった。「なんだ?」

 

「もともと、グレンジャーをやりこめる作戦なんか立ててないんですよね?」

 

ドラコは胸の奥に苦にがしさと恐れの混ざった味を感じた。グレゴリーの声にもちょうどおなじひびきがあった。

 

「実際には助けていたんじゃないですか。グレンジャーが倒れたところで手を貸した日から。 それ以前にも、屋根から落ちかけたところを引きあげたりしたでしょう。つまりあなたは泥血(マッドブラッド)を助けていた——」

 

「おいおい。」とドラコは皮肉っぽく話しはじめた。一瞬たりとも間をおかず、〈天文学〉の宿題から顔もあげず、すこしも不安げな素ぶりを見せないようにしながら。 心配していたとおりのことが起きてしまった。ただそのぶん、どういうやりとりになりそうか繰り返し考えてもいたので、どう切りだすべきか分かってもいた。 「おもしろいことを言うじゃないか。グレゴリー、おまえ自身グレンジャー司令官と決闘したこともある。あいつの呪文の威力もよく知っている。 マグル生まれごときが、おまえやセオドアや、ぼく以外のこの学年の純血者のだれよりも実力的に上だとでもいうのか? おまえこそ父上の教えを信じていないんじゃないのか? あいつは()()さ。 戦争で両親をなくして、それからマグル夫婦にあてがわれたんだ。 だからグレンジャー司令官は実際には泥血(マッドブラッド)じゃない。そうに決まってる。」

 

しんとした個室のなかで時間がゆっくりと過ぎていく。ドラコはグレゴリーがどういう表情をしているか見たくてたまらなかったが、顔をあげなかった。 グレゴリーが返事するまでは、とても見ることができなかった。

 

そして——

 

「ハリー・ポッターがそう言ったから、ですか?」

 

グレゴリーは声をつかえさせた。やっと見てみると、目にはなみだが見えた。

 

この手も通じないか。

 

「もうどうすればいいのか……」 グレゴリーは小声で言う。 「おれはどうすればいいのか分からなくなりました。 お父上はきっと——このことを聞けば——賛成なさいませんよ!」

 

『ゴイル、父上が賛成なさるかどうかはおまえが決めることじゃないぞ——』

 

ドラコはそのせりふを想像した。想像すると、それは父上の声……父上とおなじ厳格な声で聞こえてきた。 ヴィンセントかグレゴリーがドラコにさからったときはこういう風に言えと、父上に言われていた。それが効かなければ、呪文で撃てとも。 これが対等な友人関係ではないということを、ドラコは忘れてはならない。 ドラコは主人で、二人は従僕。それをわきまえさせることができないのなら、ドラコがマルフォイ家を継承する資格はない……

 

「心配するな、グレゴリー。」  ドラコはできるかぎり口調をやわらげた。 「おまえはただ、ぼくの身を守ることにだけ専念していればいい。 ぼくの命令にしたがってさえいれば、だれからも責められることはない。父上からも、おまえの父さんからも。」  〈守護霊の魔法〉をかけようとするときのように、できるかぎりのぬくもりを声にこめる。 「とにかく、つぎの戦争はまえの戦争とはちがうんだ。 マルフォイ家の歴史は〈闇の王〉の台頭よりもはるかに古い。マルフォイ卿のやりかたは代によっていろいろだ。そこは父上も承知のうえだ。」

 

「承知のうえ、ですか? まちがいなく?」  グレゴリーの声は震えていた。

 

ドラコはうなづく。 「クィレル先生もな。 模擬戦はそのためにあるんだ。 クィレル先生の言うとおり、父上ではこの国をまとめあげることができない。()()()戦争の記憶はまだ新しい。 だがクィレルの模擬戦の軍に参加した者は、どの司令官が優秀だったか、だれが指導者にふさわしいかをしっかりと記憶することになる。 そしてハリー・ポッターを〈主君〉とあおぐことになる。ぼくはその右手としての地位を確保する。そうなればまたマルフォイ家の勝利だ。 ポッターが不在なら、人民が()()()頼ることもありうる。それだけの信頼を勝ちとるために、 ぼくはいま、うごいている。父上もいずれ理解してくださる。」

 

グレゴリーは目を手でぬぐって、手もとの〈転成術〉の宿題のほうを向いた。 「わかりました。そうおっしゃるなら。」  声はまだ震えていた。

 

ドラコはもう一度うなづき、友だちにうそを言ってしまったことで空虚な気持ちがするのを無視して、星ぼしに目をやった。

 

◆ ◆ ◆

 

余波:ハーマイオニー・グレンジャーと○○

 

透明人間になるのはもっと()()()()()ことだと思っていた。廊下の輪郭が変な色に変わって見えたりとかするものだと思っていた。 ハリーの不可視のマントは、かぶった体感としてまったく不可視のマントらしい感じがしない。マントなのは分かるけれど。 フードの部分につながった黒い薄布のヴェールがある。それを垂らして顔を隠すと、その薄布自体が目に見えなくなり、呼吸の邪魔にもならない。 周囲を見てもなにも変わったところはなく、ちがうとすれば、金属製のものの横をとおりすぎるとき、ふだんならそこに小さく映る自分の鏡像がないことくらい。 肖像画のまえを通っても、向こうがこちらに気づくそぶりはなく、それぞれ自分の世界でいつもどおり変なことをしている。 まだ鏡を見には行っていない。行かないほうがいいような気もしている。 なによりも奇妙に感じるのは、こうやって動いているはずの()()()()()()こと——手も足もないから、動くということは、ただ目のまえの景色が変わっていくことでしかない。 だれにも見えなくなっているというより、()()()()()()()()()()ように感じられ、あまり気持ちがよくはない。

 

ハーマイオニーが頼みに行ったとき、ハリーはなんの説明も要求しなかった。ハーマイオニーが『不可視の』と言ったかと思うと、ハリーはもう不可視のマントをポーチから取りだしていた。 ダフネとミリセント・ブルストロードとの極秘の会合に行くのだという説明や、ほかのメンバーを守りたいからという説明を口にさせてもらうことすらできないまま、いきなり手わたされたマントを受けとるしかなかった。おそらくは〈死の秘宝〉であるこのマントを。 公平を期して言うなら……そして公平を期してあげたいのは本心でもある……ハリーはとてもいい友だちだと思えることがある。

 

極秘の会合のほうは、大失敗に終わった。

 

会合中にミリセントは自分が〈予見者〉だと主張した。

 

それはありえない、ということをハーマイオニーは慎重に説明した。かなりの時間をついやして、ミリセントとダフネを納得させようとした。

 

〈占術〉(ディヴィネイション)は、ハリーと共同研究をはじめてすぐに調べたテーマだった。 そのときハリーは〈禁書区画〉以外の書棚の予言書を手あたりしだい読んでおくべきだと主張した。 三十五年後の自分たちがなにか発見しているのだとしたら、いまその発見内容を予見者に予言してもらえば手っとりばやくていい、というのがハリーの言いぶんだった。(正確には、ハリーのことばづかいでは『遠未来の情報を入手できる手段というのがもし実在するなら、一発でゲーム全体をクリアすることにむすびつくくらいしろもの』だという。)

 

しかし、ミリセントにも説明してあげたとおり、予言とは制御不可能なものだ。予見者に具体的ななにかについて()()()()()()ことはできない。 (本で調べたかぎりでは)なにか重大なできごとが起きようとするとき、あるいは起きまいとしているとき、〈時間〉のなかに『圧』がうまれる。予見者というのは膜が薄くなっている地点に相当し、そこを通じて抜けた圧が、たまたま近くいあわせた人の耳にはいることがある。これが予言である。予言は十分な圧がないと発生しないため、重大なできごとについてしか予言はおこなわれない。また、二人以上の予見者がおなじできごとを予言することもめったにない。一人目で圧が解消してしまうからだ。 そして予見者本人には、予言した内容の記憶がない。予見者自身は予言の対象ではないからだ。予言はかならず謎かけ(リドル)の形式をとり、予見者の声をとおして直接予言を聞いた者だけが謎かけ(リドル)全体の意味を知ることができる。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()予言して、予見者自身にその内容の()()がのこっている……しかも『骸骨が鍵となる』みたいな言いかたではなく『かならずスーザン・ボーンズも参加しなければならない』というような言いかたになっているのは、予言のありかたとしてことごとくまちがっている。

 

そこまで話したところでミリセントをおびえさせてしまったようだったので、ハーマイオニーは腰にあてていた手のちからを抜き、気持ちを落ちつけた。そしてミリセントが協力してくれたことについては感謝しているけれど、ミリセントの指示どおりにして罠にはめられたことも何度かあったから、指示の()()()()()出どころがどこだったのかはっきりさせておきたい、ということを伝えた。

 

ミリセントから小声で返ってきたのは……

 

『でも……でも、あの(ひと)からは、予言だとしか……』

 

ミリセントは情報源の名前を言おうとしなかったので、ハーマイオニーはダフネにも問いつめないように言った。 ミリセントのおびえた表情を見てかわいそうになったというのもあるが、 ミリセントに情報をわたしていた人物を突きとめられたとしたら、こんどはこちらが翌朝枕もとに手紙を置かれるのではないかという気がしてならなかったせいでもある。

 

クリスマスまえの模擬戦でザビニが用意した色とりどりの関係図を見たときも、おなじ絶望感を感じたのを思いだす。……ついでに、それを自分に見せていたのがザビニだった、ということの意味がいまになってやっと分かったように思った。

 

人生はレイヴンクロー生にとっても複雑になりすぎることがあるらしい。

 

ハーマイオニーは一本の支柱につけられた黄色の大理石の螺旋階段をのぼりだした。いちおう『秘密の』階段ということになっているこれはスリザリン地下洞からレイヴンクロー塔へたどりつくための最短路のひとつであり、女子しか使うことができない。(なぜ女子だけがレイヴンクローとスリザリンのあいだをすばやく行き来する必要があるのか、ハーマイオニーはすこし不思議に思っていた。) みじかい螺旋階段をのぼりおえ、スリザリンの領土を離れてホグウォーツ城本体にもどったところで、ハーマイオニーは立ちどまってハリーのマントを脱いだ。

 

そしてポーチにマントを飲みこませ、右をむいて、みじかい通路に足を踏みだす。無意識にあちこちに目をむけ、警戒しながら歩いていると、暗い壁龕(アルコーヴ)が目につき——

 

——(つかのまの見当識の混乱)——

 

——ハーマイオニーは〈失神の呪文〉で撃たれたように全身にどっと衝撃と恐怖を感じ、思考や判断をする間もなく自動的に手が杖をとり、かまえたさきには……

 

……幅のひろい黒いマントがはためいていた。なかにいるのが男性か女性か分からないゆったりとした幅のマントで、その上につば広の黒い帽子がのっている。帽子の下には黒い霧が密集しているようで、そこにあるはずの顔は見えず、人なのかどうかすらわからない。

 

「また会ったね、ハーマイオニー。」  黒い帽子と黒い霧のなかから、こすれるような声がした。

 

すでに心臓は激しく脈うち、ローブは汗でびっしょりになり、くちのなかに恐怖の味がしている。 なぜか急に身体にアドレナリンが満ち、杖をにぎる手にちからがこもる。 「だれ?」

 

帽子がわずかにかたむく。黒い霧のなかから、塵のように乾いたささやき声が返事する。 「最後の協力者。 ほかのだれも答えないとき、答える者。 きみにとって、このホグウォーツ城のなかでただ一人の()()味方だと思ってくれてもいい。 きみが窮地におちいったとき、きみのために声をあげる者がだれ一人いなかったのを思い出せ——」

 

「名前を言いなさい。」

 

黒いマントが回転しては戻る動作をくりかえした。 肩をすくめる動作とは似ても似つかないが、そういう意味であることは分かった。 「それがまさに謎かけなのでね。 さしあたって分からないなら、いかようにでも呼んでくれてかまわない。」

 

手のひらに汗がにじむ。さいわいこの杖には螺旋状の溝があり、すべりどめになっている。 「じゃあ、〈超不審者〉さん。わたしになんの用?」

 

「質問がまちがっているね。きみがたずねるべきは、『なにをあたえてくれるのか』だ。」

 

「いいえ、そんなこと、勝手に決めないで。」  ハーマイオニーはたじろがない。

 

高笑いが黒い霧のなかから聞こえる。 「権力でもない。富でもない。きみはそういうものにさらさら興味がない。そうだね? ()()。そう、わたしには知識がある。 この学校で起きるどんなできごとも、どんな策謀とその登場人物も、謎かけ(リドル)の答えも知っている。 ハリー・ポッターの目がなぜ冷たく見えるのか、その真の理由も知っている。 クィレル先生の謎の体調不良の正体がなんなのかも知っている。 ダンブルドアが真に恐れるものがなにかも知っている。」

 

「詳しそうね。じゃあ、トッツィポップスは何回なめれば味が変わるか知ってる?」〔訳注:トッツィポップスは二層構造の棒つきキャンディの商品名〕

 

黒い霧の黒さが増したように見えた。つぎに聞こえた声は低く、落胆した声だった。 「おや、それでは、うそのなかから真実を見わけたいという知識欲すらないと?」

 

「答えは百八十七回。わたしは昔、実際にやって数えてみた。」  杖が手からすべりおちそうになる。数分ではなく数時間つづけて杖をにぎっていたかのような疲労感が指にある——

 

「スネイプ先生は実は〈死食い人〉だ。」

 

それを聞いてハーマイオニーは杖を手から落としそうになった。

 

「ああ。」と満足げな声。「思ったとおり、興味をもってくれたね。 きみに敵対する勢力についてもっと知りたいか? それとも、きみが味方だと思っている人たちのことを教えてあげようか?」

 

背のたかいマントの上の黒い霧をじっと見つめながら、必死に混乱をおさえようとする。 スネイプ先生が〈死食い人〉? わたしにそんな話をするのは何者? なぜ? これはどういうこと? 「それは——」 声が震える。「それは仮に事実なら、とても深刻な問題で、わたしなんかに話していいことじゃない。なぜダンブルドア総長に話さないの?」

 

「ダンブルドアはスネイプを止めようとしなかった。ハーマイオニー、きみもその目で見たはずだ。 ホグウォーツは頂点から腐っている。 この学校のあらゆる問題のみなもとは、あの狂った総長だ。 きみだけが総長の欺瞞をおもてだって指摘しようとした——だからこそ、こうやってきみに話しにきたんだ。」

 

「なら、ハリー・ポッターにも話したんでしょうね?」  声をできるだけ平静にたもとうとする。もしこれがハリーを助けていたゴーストだったなら——

 

黒い霧がくびをふるように暗くなったり明るくなったりした。 「わたしはハリー・ポッターが怖くてね。 あの目の冷たさ、背後でふくれあがるあの暗黒。 ハリー・ポッターは殺人者で、彼を邪魔する者は死ぬ。 ハーマイオニー・グレンジャー、きみも彼と真剣に対立することがあればそうなるよ。彼の目のなかから暗黒が飛びだして、きみの息の根を止める。わたしには分かる。」

 

「だったら、あなたは知ってるふりをしてるだけ。実はその半分も知らない。」  すこし声が落ちついた。 「わたしもハリーのことが怖い。でもハリーが()()()()するかもしれないことが怖いとは思わない。怖いのはね、ハリーが()()()()()()()()()するかもしれないこと——」

 

「不正解。」  反対意見はいっさい受けつけないと言いたげに、切り捨てる口調。 「ハリー・ポッターはいずれきみと対立する。いずれ暗黒にのみこまれる。 涙ひとつ流さず、それと気づきもしないままに、彼がきみをぷちっと踏みにじる日がいずれ来る。」

 

「不正解はそっち!」  ハーマイオニーは背すじに冷たいものを感じながら、大きな声で言いかえす。 ふと、ハリーの口癖のひとつが思いうかんだ。 「自分がなにを知っていると思っているのか、なぜ知っていると思えるのか、分かってないんじゃない?」

 

「いずれ——」 言いなおすように間があいた。 「そのことは、いずれまた別の機会に話すことにしよう。 今日のところは、たしかにハリー・ポッターはきみの敵ではない。だがしかし、きみには危険がせまっている。」

 

「危険なのはたしかね。」  杖を左手にもちかえたくてしかたがない。しっかり支えてやらなければ、右腕をこのままの高さにたもつことさえできなくなりそうだ。おなじこの黒い霧を何日も見つづけでもしたかのように、あたまが痛い。なぜこんなにすぐ疲労してしまったのか分からない。

 

「きみはルシウス・マルフォイの目にとまったんだ。」  無感情であった声はすこし大きくなり、懸念しているような口調になった。 「きみはスリザリン寮に恥をかかせた。ルシウス・マルフォイの息子にも勝った。 それ以前に、きみの存在そのものが〈死食い人〉の同盟者たちにとって不都合だった。 マグル生まれでありながら、どの純血者よりも強力な魔術をつかうことができている。きみの存在は今回のことで世界に知れわたり、注目をあつめている。 ルシウス・マルフォイは機会をうかがって、きみの息の根をとめようとしている。実際殺すことさえいとわないかもしれない。そして彼にはそれを実行する手段がある!」

 

……。

 

「話はそれだけ?」 ブレイズ・ザビニ元連隊長やハリー・ポッターだったら、ここでするどく反問して情報を引きだそうとするところだろうが、いまのハーマイオニーにはできない。精神的に疲労していて、考えがまとまらない。 一刻もはやくここを切りぬけて、からだを休めたい。

 

「信じくれないのか。なぜだい? せっかく助けにきてあげたのに。」

 

ハーマイオニーは一歩うしろに引き、暗い壁龕(アルコーヴ)から遠ざかった。

 

「なぜだ!」と声が高ぶる。 「せめて理由くらいは教えてくれよ! 理由さえ聞かせてくれれば——」  一度言いやめて、声がまた静かになる。 「……それで終わりにしようか。さあ、最後に理由を——」

 

答えてあげるべきではないような気もする。なにも言わず逃げだしたほうがいいかもしれない。いや、〈虹色の防壁〉をつくってから、走りながら大声で人を呼ぶべきかもしれない。 ただ、相手が実際傷ついたような声をしているのが気になって、ハーマイオニーは答えることにした。

 

「あなたがものすごくおどろおどろしくて怪しい外見をしているから。」  ハーマイオニーは声をあらげることなくそう答えた。顔のない黒い霧と黒マントにむけて、杖の照準はあわせたまま。

 

「それだけのことだったのか?」  おどろいたような声がかえってきた。悲しみも混ざっているようだった。 「期待はずれだよ、ハーマイオニー。 きみほどのレイヴンクロー生なら……この数十年間ホグウォーツが迎えたレイヴンクロー生のなかでもっとも優秀なきみなら、外見と中身が一致しないこともあるということくらい分かっているだろうに。」

 

「分かってますとも。」と言ってハーマイオニーはまた一歩さがった。杖をにぎる指にも疲労を感じる。 「でも、逆に忘れがちなのは、外見と中身が一致しないこともあるにせよ、たいていは一致するっていうこと。」

 

……。

 

「なるほどね。」と声のぬしが言うと、顔を隠していた黒い霧が消えた。その顔を認識した瞬間、ハーマイオニーは戦慄し、どっとアドレナリンが流れるのを感じ——

 

——(つかのまの見当識の混乱)——

 

——ハーマイオニーは〈失神の呪文〉で撃たれたように全身にどっと衝撃と恐怖を感じ、思考や判断をする間もなく自動的に手が杖をとり、かまえたさきには……

 

……光につつまれた貴婦人のすがたがあった。白いドレスが見えない風に吹かれたようにはためいていて、手も素足も見えず、顔は白いヴェールでおおわれている。全身から発せられているのは、ゴーストの光でも透明な光でもない、白いやわらかな光だった。

 

ハーマイオニーはそのおだやかな光景を目のあたりにして、呆然とした。なぜかは分からないが、心臓の鼓動がはげしくなり、恐怖を感じた。

 

「また会いましたね、ハーマイオニー。」とヴェールのむこうから、やさしげな声が聞こえてきた。 「こわがることはありません。わたしはあなたを助けるためにつかわされた、忠実なしもべです。あなたは特別な運命が約束されているのです——」

 

……。

 

……。

 

……。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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78章「交換不可能な価値(タブー・トレードオフ)(序)——不正」

注意:長いです


一九九二年四月四日、土曜日。

 

デイヴィス夫妻は不安げな面持ちでクィディッチ場を一望する特別席についた——ただし、クッションつきのその椅子から今日見えるのは、飛びかうホウキたちではなく、ひたすら巨大な四角形の幕である。 真っ白な羊皮紙のような平面状のその幕についているいくつかの窓から、地上の兵士たちのすがたが映しだされることになっている。 いまのところはどの窓も一面灰色のくもりぞらの色を映しているだけだった。(雨が近そうにも見えるが、気象魔報士によれば夜まではもつことになっている。)

 

ふだんなら、保護者は校内のことについて〈口出し無用〉というのがホグウォーツの伝統である——厨房で料理がおこなわれているとき、子どもが無闇に手出ししようとすれば止められるのとおなじように。 教師と保護者の面談も、教師が親をしかりつける必要を感じたときにしかおこなわれない。 よほど特別な場合でもないかぎり、ホグウォーツ運営陣が外部に自己正当化してみせようとすることはない。 ホグウォーツ運営陣はどんなときも八百年のかがやかしい歴史に裏打ちされている。親たちにはそれがない。

 

そのため、デイヴィス夫妻はマクゴナガル副総長との面談を要求したときも内心かなりびくびくしていた。 親として怒る権利はあると分かっていながらも、当の教師が十二年と四カ月まえに二人のとある行為を発見して二週間の居残り作業の罰を課したこと、その行為がそもそもトレイシーを生みだしたのだということを思いだすと、つい及び腰になってしまう。

 

いっぽうで、『クィブラー』をかざしながら乗りこむというのは、勢いをつける意味で効果的だった。『クィブラー』の見出しには見のがしようのない大きさの文字で

 

ポッターを巡る恋の駆け引き?

ボーンズ/デイヴィス/グレンジャー

恐怖の四角関係

 

とあった。

 

交渉の結果、デイヴィス夫妻はホグウォーツのクィディッチ場の教員席の一角の席を確保した。クィディッチ場に設置されたクィレル先生特製のスクリーンの真ん前に位置する特等席だ。『この学校がどれだけめちゃくちゃなことになっているのか、この目でしっかり見せてもらいましょうか、マクゴナガル副総長!』というのが決めぜりふだった。

 

デイヴィス氏の左に、別の生徒の親が列席している。最上級品の黒ローブに身をつつむ銀髪の男性——ウィゼンガモート最大派閥の領袖、ルシウス・マルフォイがいる。

 

マルフォイ卿の左には、傷のある意地悪そうな顔をした紳士がいる。名前はジャグソン卿、と紹介があった。

 

そのむこうには、眼光するどい老年の男性チャールズ・ノット。マルフォイ卿に劣らない資産家だとも言われている。

 

デイヴィス夫人(ミセス・デイヴィス)の右には、〈元老貴族〉グリーングラス家の美貌の貴婦人とそれに輪をかけた美丈夫の当主がいる。 二人とも魔法族としてはまだ若い。衣装は灰色の絹ローブで、細かく草のかたちに刻まれた暗色のエメラルドがちりばめてある。 グリーングラス卿夫人(レイディ・グリーングラス)は異例の若隠居をした母親から議席を継いだウィゼンガモート評議員であり、重要な浮動票のひとつだとされている。 その婿は貴族でも資産家でもない家の出だが、ホグウォーツ理事の座を射止めている。

 

もうひとつ右には、えらの張った頑丈そうな体格の老魔女がいる。魔法法執行部長官アメリア・ボーンズその人だ。デイヴィス夫妻は着席するまえに握手しに行ったが、とても気さくな女性だった。

 

さらに右にはかなり年配の女性が一人。生きたハゲタカを帽子にあしらったことでブリテン魔法界のファッションシーンに激震をもたらしたオーガスタ・ロングボトムである。 『レイディ』の称号はないものの、ロングボトム家の継嗣が成人するまでは一族の全権をにぎっており、ウィゼンガモートの少数派閥の一員として存在感をはなっている。

 

マダム・ロングボトムのむこうにいるのは、ほかでもないアルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア総長兼主席魔法官兼最上級裁判長。伝説のグリンデルヴァルトの討伐者、ブリテンの守護者、伝説の〈ドラゴンの血の十二の用法〉の再発見者、当代最強の魔法使いなどその称号は多岐にわたる。

 

そして右手一番端には、ホグウォーツ〈防衛術〉教授クィリナス・クィレルがクッションつきの長椅子に背をあずけてくつろいでいる。ホグウォーツ理事会の定足数をなすこの面々が同席していることを意に介さず、気楽な姿勢をとっている。よく晴れたこの土曜日、この面々がここに臨席したのはそもそも、ホグウォーツ全体でなにが起きているのかをたしかめるため……わけても、ドラコ・マルフォイ、セオドア・ノット、ダフネ・グリーングラス、スーザン・ボーンズ、ネヴィル・ロングボトムの様子をじかに見たいがためのことだった。 ついては、ハリー・ポッターの名前もくりかえし話に登場していた。

 

それともちろん、トレイシー・デイヴィスの名前も。 夫妻が挨拶の際に『トレイシーの親』だと言うと、ボーンズ長官は興味をひかれたように眉をあげた。 ジャグソン卿は一度まじまじと二人を見てからフンと鼻を鳴らした。 ルシウス・マルフォイは丁重に挨拶をかえしつつも、その笑みにはどこか哀れなものを見て楽しむようないやらしさがあった。

 

デイヴィス夫妻自身はといえば、ファッジ大臣の名前に杖をあてたとき以来、投票らしい投票をしたことがなく、財産はグリンゴッツの金庫に保管している三百ガリオンがすべて。かたや〈薬〉(ポーション)屋の(コルドロン)売り、かたや〈万眼鏡(オムニオキュラー)〉の製造業をなりわいとしている。二人して肩をせまくしてこのクッションつきの長椅子に座り、もっとましなローブを着てくるんだったと後悔するばかりだった。

 

光と影のある巨大な灰色の雲が上空にそびえ、嵐の到来をつげている。 ただ、いまのところ稲妻の光や雷鳴はなく、予告じみた水滴だけがぽつぽつと落ちてきている。

 

◆ ◆ ◆

 

〈太陽部隊〉はとある森のなかに割りあてられた地点をめざして、行軍をはじめた。実際には行軍というより、ただゆっくり歩いているのに近い。 戦闘開始まえに疲労をためてもいいことはないし、四月とあって風は涼しくはあるが、いやになるほど湿気がある。 先頭では黄色の炎がひとつふらふらと飛んでいて、一行の速度にあわせて行く手を案内している。

 

薄光の森のなかをすすむあいだ、スーザン・ボーンズはしきりに〈太陽〉軍司令官ハーマイオニーのほうへ目をやった。 スネイプ先生からの仕打ちがよほどこたえたのか、 ハーマイオニーは〈太陽部隊〉の〈全体作戦会議〉を欠席していた。そればかりか、あとでスーザンがなぐさめに行くと、ハーマイオニーは会議の時間が来ていたことに気づいていなかったと漏らした。ふだんのハーマイオニーにはまずありえない言動だ。そして見た目にも、トイレの個室にディメンターといっしょに閉じこめられて三日間をすごしたあとのように、疲弊し、おびえた様子だった。 もうすぐはじまる戦闘に全霊をそそいでいるべきいまでさえ、ハーマイオニーは落ちつきなくあちこちに目をうごかしている。まるで茂みから〈闇の魔術師〉が飛びでてきてハーマイオニーを生けにえにするのを待ちかえまえているかのように。

 

「マグル製品が禁止されたおかげで、ぼくらにできることはだいぶ少なくなった。」とアンソニー・ゴルドスタインは重い声で言う。その声をつかうことで、あえて悲観的に言っているのだということを伝えている。 「〈転成術〉で網をつくって敵に投げつけるっていう戦法も考えてはみたけれど——」

 

「だめだろうね。」と言って、アーニー・マクミランはアンソニーに輪をかけて真剣な表情でくびをふる。 「呪文とおなじで、よければすむことだから。」

 

アンソニーはうなづいた。 「そういうこと。 シェイマス、なにかいい案は?」

 

元〈カオス〉軍士官のシェイマス・フィネガン隊長は〈太陽部隊〉の隊列に混じって行軍することにまだあまり慣れていない様子だ。 「あいにく。おれはもっと大局的に考える参謀タイプなんだ。」

 

「大局的に考える参謀はぼくだぞ。」とロン・ウィーズリーが不服そうに言った。

 

「軍は三つあるのよ。」と〈太陽〉軍司令官がとげのある声で言う。 「つまり、わたしたちは()()の敵を一度に相手する。つまり、参謀役も一人じゃたりない。つまり、だまりなさい、ロン!」

 

ロンははっとして心配そうな目で司令官を見た。 「どうしたんだ。スネイプのことは、あんまり気にしないほうがいいよ——」

 

「司令官はどう思う?」とスーザンは大声で割りこんだ。 「ほら、けっきょくまだ、作戦らしい作戦はできてないじゃない。」  ハーマイオニーが不在だったので、ロンとアンソニーそれぞれが自分に主導権があると思いこんだ結果、作戦会議はもののみごとに失敗していた。

 

「作戦はなくてもいいんじゃない?」と司令官はどこかうわの(そら)な声で言う。 「あなたとわたしとラヴェンダーとパーヴァティとハンナとダフネとロンとアーニーとアンソニーと、それとフィネガン隊長までいるんだから。」

 

「それは——」とアンソニーが言いかけた。

 

「その戦略でいいんじゃないかな。」と言ってロンがうなづく。 「これだけ優秀な兵士がたくさんいれば、ほかの二軍の合計に匹敵するくらいだ。 〈カオス〉軍にのこってるのは、ポッターとロングボトムとノットだけ——あ、ザビニもいたか——」

 

「トレイシーもね。」とハーマイオニー。

 

その名前を聞いて、何人かが不安げにごくりとした。

 

「変な風に考えないでよ。」 スーザンはぴしゃりと言う。「トレイシーはS.P.H.E.W.にいたから戦闘経験が豊富。司令官が言ってるのは、それだけだから。」

 

「それでも……」と言ってアーニーは真剣な表情でスーザンを見る。 「やっぱりボーンズ隊長には、〈カオス〉軍を担当するグループについていってほしいな。 弱きを助けるときにしか超魔法は発動しない、っていうのは分かったけど——もしもミス・デイヴィスがさ、暴発して、だれかの魂を食べようとしたときは——」

 

「わかった、まかせて。」  といっても、いまのスーザンは〈変化師(メタモルフメイガス)〉と入れかわってはいない。けれど、それを言うならトレイシーだって、〈変身薬(ポリジュース)〉を飲んだダンブルドアかだれかと入れかわっているわけじゃないはず。

 

フィネガン隊長が低い一種のガラガラ声で、 「きみらみんな、懐疑心がなさすぎやしないか。」 と言って片手をあげ、親指と人差し指をぎりぎりのところまで近づけて、アーニーに向ける。

 

横にいるアンソニー・ゴルドスタインがなぜか発作的にむせている。

 

「なにが言いたいんだよ?」とアーニー。

 

「いや、これは、ポッター司令官の口癖みたいなものなんだけど。」とフィネガン隊長が言う。 「〈カオス軍団〉に参加してしばらくは、自分以外の全員が狂ってるように見える。でも何カ月かすると、実は逆で、〈カオス軍団〉()()の全員が狂ってるんだということに気づく——」

 

「もう一回言うぞ。」とロンが言う。 「事前になにも〈転成〉せず、消耗を避ける。敵がなにかしてきたら対応して、数で押す。この戦略でいいと思う。」

 

「わかった。それでいきましょう。」とハーマイオニー。

 

「でも——」と言ってアンソニーは一度ロンをにらみつける。 「でも司令官、ハリー・ポッターには兵士が()()()()()()()()。 〈ドラゴン〉とうちは二十八人ずつ。 ハリーはそれをよく分かってるから、きっとなにかとんでもない戦法を考えてくるんじゃないか——」

 

「とんでもない戦法って、どんな?」 ハーマイオニーがいらいらとした様子で問いつめる。 「相手がなにをしかけてくるか分からないなら、一斉に〈解呪(フィニート)〉できるように魔法力を温存したほうがまし。前回もそうしていれば、あんなことにはならなかったんだから!」

 

スーザンはハーマイオニーの肩にそっと手をあてた。 「グレンジャー司令官? 戦闘がはじまるまえにちょっと休んでおいたら?」

 

てっきり反論がかえってくるだろうと思っていたが、ハーマイオニーはただうなづいて、〈太陽部隊〉士官集団から離れていった。目はちらちらと森のなかや空にむいていた。

 

スーザンはそのあとを追いかける。 司令官が士官集団から追いだされたかのような格好では、しめしがつかない。

 

「ハーマイオニー?」と、ある程度離れた場所まで来たところでそっと声をかける。 「しっかりしてね。 ここを監督してるのはスネイプじゃなくてクィレル先生。クィレル先生は、あなたにもほかのだれにもけがをさせたりしない。」

 

「そんなこと言われても、どうしようもないの。」  声が弱よわしい。

 

二人は速度をあげ、兵士を何人か遠まきに追い越し、隊列の外周にまわり、周囲の木々に目をくばっていく。

 

「スーザン?」 ほかの兵士たちからいっそう離れたところで、ハーマイオニーがそっと声をかけてきた。 「ダフネがね、ドラコ・マルフォイの行動には裏があるって言ってたでしょう。あなたもそう思う?」

 

「思う。」 考えるまでもなく即座にこたえがでた。 「そりゃあ、マ・ル・フ・ォ・イって名前を見ればね。」

 

ハーマイオニーは、まるでだれかに見られていないか心配するように左右に目をやった。そんなことをすれば、かえって気づかれやすくなってしまうというのに。 「スネイプがああしたのも、マルフォイの差しがねだったりすると思う?」

 

「むしろスネイプが黒幕なのかも……」と言って、スーザンはアメリアおばさんの家の夕食で聞いた会話を思いだしながら考える。 「それか、ルシウス・マルフォイが黒幕で二人は駒にすぎないとか。」  そう思うと同時にスーザンは背すじにすこし、冷たいものを感じた。 急に、『いまは模擬戦に集中しろ』というのが無理な注文だったような気がしてきた。 「でも、どうして? なにかそういう証拠を見つけたとか?」

 

ハーマイオニーはくびを横にふった。 「いいえ。」  泣きだしそうな声だった。 「ただ——ひとりで考えて——そんな気がしただけ。」

 

◆ ◆ ◆

 

司令官ドラコ・マルフォイが率いる〈ドラゴン旅団〉が割りあてられたのは、ホグウォーツに近い地点。森のなかを赤い炎に案内されたどりついついたその場所で一同は待機していた。

 

ドラコの右には副司令官パドマ・パティルがいる。彼女はドラコが失神させられたときに全軍を指揮したこともある。 うしろにはヴィンセント・クラッブ。クラッブ家は歴史をさかのぼれる範囲でずっとマルフォイ家に仕えてきた家柄だ。筋肉質な体格で、戦闘がはじまっていようがいまいが、いつもどおり周囲の警戒をおこたらない。 そのうしろにはグレゴリー・ゴイルが、〈ドラゴン旅団〉に支給された二本のホウキのそばに待機している。ゴイル家はマルフォイ家に奉仕した歴史の長さではクラッブ家におよばないとしても、奉仕の質ではおとらない。

 

ドラコの左には、あらたに加わったグリフィンドール生ディーン・トマス。彼は父親を知らず、泥血なのか半純血なのかも分からない。

 

ハリーはわざとディーン・トマスを送りこんできたにちがいない。 〈ドラゴン旅団〉に転籍してきた元〈カオス〉兵はもう三人。その全員が、ドラコが元士官ディーン・トマスをほんのすこしでも侮辱する瞬間を見のがさないよう、目を光らせている。

 

これを妨害工作(サボタージュ)と見ることもできるが、そう単純な話ではないはずだ、とドラコは思う。 ハリーはもう一人の士官フィネガンを〈太陽部隊〉に送った。クィレル先生は、士官を一人放出しろとしか言っていないにもかかわらず。 これもやはり、わざとだ。放出したのはハリーにとって一番不用な兵士()()()()、という明確なメッセージだ。

 

ある意味では、むしろ不用品あつかいされて送られてきた兵士であったほうが、ドラコとしては忠誠心を勝ちとりやすかったかもしれない。 別の意味では……。どうも表現しにくい。 ハリーは優秀な兵士をえらび、兵士当人のプライドを傷つけないままこちらに送りこんだのだとすれば……いや、もっとなにかある。 ハリーは兵士の気持ちを尊重しているように見せたかったということか。いや、もっとなにかある。 ハリーはフェアプレイをしようとしている……だけでもない。ハリーはなにか……きっと、スリザリン寮の流儀とは正反対のやりかたでゲームをしようとしているのではないか。

 

そう思ってドラコはトマスをほんのすこしでも侮辱することのないようにした。かわりに自分のすぐそばに置き、パドマとドラコ以外のだれにもしたがう必要のない地位をあたえた。 これは昇進ではなくテストだということを、トマス本人にもほかの全員にもつたえておいた。 それだけの地位にふさわしい人間であることをみずからの働きを通じて証明しろ、しかしそのための機会は十分にあたえてやる、ということだ。就任の儀式でそう聞かされて、トマスはおどろいたようだった(〈カオス軍団〉にはそういう儀式がないらしい、とドラコは聞いていた)が、すこし姿勢をただしてからうなづいた。

 

それからトマスは〈ドラゴン旅団〉の演習で優秀な成績をおさめ、〈ドラゴン旅団〉の広い司令官室での戦略会議に出席を許された。 会議がはじまって数分してから、パドマがふと——ごくさりげない言いかたで——〈カオス軍団〉を攻略するアイデアはなにかないかと、トマスにたずねた。

 

ディーン・トマスはにっこりとして、マルフォイ司令官なら部下にそうたずねさせるだろうという予想つきでハリーから託されていた返事を披露した。その返事は、『〈ドラゴン旅団〉がどういう点で〈カオス軍団〉に対して比較優位にあるか、考えてみろ』というものだった。つまり——ドラコにできること、〈ドラゴン旅団〉にできることのなかで、〈カオス軍団〉が太刀打ちできないようなことを見つけろ——そしてそれを存分に活用しろ、ということだった。 ディーン・トマス自身は、なにが優位な点なのかについてはこころあたりがないが、〈カオス〉を倒せそうなアイデアを思いついたら進言する、と言った。それもハリーの命令だった、とも。

 

『はぁ』とドラコは内心ためいきをついた。もちろん声にはださず。 ともかく、実際いい助言ではあったので、ドラコは個室の机で羽ペンと羊皮紙をまえにして、比較優位と呼べような点をリスト化してみた。

 

そして、自分でもそう簡単にいくとは思わなかったのだが、使えそうなアイデアが浮かんだ。しかも一つではなく、二つも。

 

いつになく重おもしく、空虚な鐘の音が森にひびく。 その瞬間、乗り手二人が「あがれ!」と言ってホウキに飛びのり、灰色の空をかけあがった。

 

◆ ◆ ◆

 

デイヴィス夫妻は肩をよせあったまま、すこしうなだれていた。けっして緊張がとけたのではなく、単純に筋肉の疲労が限界になったのだった。 目のまえには、大きな窓が三つついた巨大な白い羊皮紙がある。窓はまるで森へ通じる穴のように見え、三軍それぞれの行進の様子が映しだされている。 それとは別に小さめの窓もいくつかあり、合計六人のホウキの乗り手が映しだされている。羊皮紙のすみには、森全体に対する軍や斥候の位置を光点でしめした地図がおかれている。

 

太陽(サンシャイン)〉軍の窓では、グレンジャー司令官と配下の隊長たちが中央から兵士たちを率いている。それを守っている『コンテゴ』の幕の列と多数の魔女が目につく。 〈防衛術〉教授の説明によれば、〈太陽部隊〉は自分たちが今回熟練の兵士を多くしたがえて戦力で優位に立っていることを理解しており、奇襲をふせぐ手をとっているのだという。 その点をのぞけば、〈太陽〉軍は戦力を温存しつつ着実に前進をつづけている。

 

マルフォイ司令官の軍では、〈転成術〉の成績がよい者を中心にしてこぞって落ち葉をひろい、それでなにかを〈転成〉している……。パドマ・パティルの手もとを見ると、ほぼ完成したものがある。左手用の留め具つき手袋のようだった。(窓がズームして手もとを見せていた。)

 

平坦な表情でスクリーンを見ているジャグソン卿が、くちから軽蔑を吐きだすような声で話しだす。 「ルシウス、あれはなんのつもりかね?」

 

ドラコ・マルフォイの右どなりでパドマ・パティルが手袋を完成させ、それをささげもののように司令官に献上した。

 

「わたしも知らされていない。」とルシウス・マルフォイは静かに、貴族的な雰囲気をくずさずに返事する。「だが、あの子ならそれなりの勝算があってのことにちがいない。」

 

〈ドラゴン旅団〉の兵士全員が注視するなか、パドマが自分の左手に手袋をはめ、留め具をしめ、ドラコ・マルフォイに差しだした。ドラコ・マルフォイはその場で何度か深く息をついてから杖をかかげ、八段階の動作を終えてから、大声で「『コロポータス』!」と言った。

 

パドマは手袋をした手をあげて、指をまげのばししてから、ドラコ・マルフォイに一礼した。ドラコ・マルフォイも軽い目礼で返したが、すこし姿勢がふらついていた。 パドマはドラコのとなりの位置にもどり、〈ドラゴン〉軍は行軍を再開した。

 

「そろそろどなたか、説明いただけるとありがたいのですが?」とオーガスタ・ロングボトムが言った。 アメリア・ボーンズはやや眉をひそめてスクリーンを見つめている。

 

「どうやら、なんらかの理由があって……」とクィレル教授の愉快げな声がする。 「マルフォイ家の坊ちゃんはとても一年生とは思えない強力な魔法をかけることができるらしい。 すべては一点のけがれもない血統のたまものでしょうな、もちろん。 まさかマルフォイ卿ともあろうおひとが、未成年魔法の法律にあからさまに違反して、ホグウォーツ入学まえのご子息に杖を持たせるはずはあるまい。」

 

「ほのめかしのしかたには気をつけたまえ、とだけ言っておこう。」とルシウス・マルフォイが冷ややかに言う。

 

「それはご親切に。 ……『コロポータス』の封印に対し『解呪』(フィニート・インカンターテム)は通用しない。 封印とつりあうだけの強度の『アロホモーラ』が必要になる。 『アロホモーラ』で解除されないかぎり、あの封印をかけられた手袋は相当の物理的衝撃に耐え、〈睡眠の呪文〉と〈失神の呪文〉をはねかえす。 そしてミスター・ポッターにもミス・グレンジャーにも同等の強度の解除呪文をかけるだけの実力はない。つまりこの戦場にかぎって言えば、あの封印は敵なしだ。 『コロポータス』は本来そういう用途のためにつくられた呪文ではないし、ミスター・マルフォイにあれを教えた人物も、緊急退避用にというつもりでしかなかったにちがいない。 ミスター・マルフォイはだいぶ発想力がついてきたとみえますな。」

 

そこまで聞いているうちに、座っているルシウス・マルフォイの背すじがだんだんのび、あたまもはっきりと上がった。「あの子は歴代最高のマルフォイ家当主になる。」 声にも誇らしげなひびきがあった。

 

「皮肉なのに。」とオーガスタ・ロングボトムが聞こえないように言った。 アメリア・ボーンズは笑い、デイヴィス氏も思わず笑いそうになってしまったが、寸前のところで思いとどまって、咳ばらいでしのいだ。

 

「おっしゃるとおり。」 クィレル教授はそう言うが、だれにむけて言ったのかは不明だった。 「当人には申しわけないが、ミスター・マルフォイはまだ発想力の点では初心者。そのせいで、いかにもレイヴンクロー的なあやまちを犯してしまったようだ。」

 

「ほう、そのあやまちとは?」とルシウス・マルフォイがまた冷ややかな口調にもどって言った。

 

クィレル教授は椅子に背をあずけている。あわい水色の目が一度焦点をはずすと、スクリーン上のひとつの窓の視点が切りかわり、ドラコ・マルフォイのひたいの汗を拡大して映しだした。 「ミスター・マルフォイは魅力的なアイデアを思いつくことができた。そう思いこんで、実用上いろいろな欠点のあるアイデアであることを見すごしてしまった。」

 

「どういうことか、どなたか説明していただけません? ……この席にいるのは、そういう分野に詳しいかたばかりではないことをお忘れなく。」とグリーングラス卿夫人が言った。

 

アメリア・ボーンズがどこか乾いた声で話しだす。 「兵士はあれをつけていると、かわすべき呪文も受けとめようとしたくなってしまう。 受けとめる訓練をまだろくにしていないなら、なおさら。 そして自軍でもっとも優秀な戦士にあれだけの仕事をさせてエネルギーを消耗させるのは損。」

 

クィレル教授は魔法法執行部長官にむけて軽く首肯してみせた。 「まさしく。 ミスター・マルフォイはまだアイデアをうみだすことに慣れていない。そのため、ひとつ案を思いついた時点で、やりとげた気になってしまったようだ。 本来なら、まず十分な数のアイデアを思いついてから、魅力的ながらも実用性に劣るアイデアを容赦なく切り捨てるという段階を踏まねばらならない。 彼はまだ、必要に応じてつぎつぎにアイデアをだす能力が自分にあると信じることができていない。 つまりいまわれわれが見せられているのは、ミスター・マルフォイの最良のアイデアではなく、唯一のアイデアというわけだ。」

 

マルフォイ卿はスクリーンに視線をもどした。これでクィレル教授は存在する権利を使いはたしたとでも言いたげな態度で。

 

「しかし——」とグリーングラス卿が言う。「しかし、ハリー・ポッターはいったいあそこでなにを——」

 

◆ ◆ ◆

 

〈カオス軍団〉にのこった兵士十六人が——いや、のこった十五人とブレイズ・ザビニが——のしのしと森のなかを進軍していく。まだ乾いた土を踏む足音がする。 曇天のため森にいろどりはなく、迷彩服がふだんよりもよく背景にとけこんでいる。

 

〈カオス軍団〉十六名に対して〈ドラゴン旅団〉二十八名と〈太陽部隊〉二十八名。

 

下馬評では、これだけ不利な状況におかれて〈カオス〉が負けることはまずありえない、という意見が一般的だった。 〈カオス〉軍司令官ならこういう状況下できっとなにか()()なことを思いつくにちがいない、と。

 

いつでも必要なときに帽子から奇跡をとりだすことができる、という期待をされるのは、どこか悪夢じみている。不可能を可能にすることができないだけで()()()()()()()()()()()()()()()と思われてしまうのだから……。

 

ハリーは『プレッシャーをかけるにしてもやりすぎだ』という苦情をクィレル先生につたえようかとも思ったが、意味がないと判断した。 ハリーの想像のなかでは、クィレル先生はそう聞くとひどく不愉快そうな表情で『これはきみなら十分解決できる問題だ。挑戦しようともしないのか?』と言って、クィレル点を数百点減点するだけだ。

 

ホウキが二本、上空から隊列の周囲を警戒している。その一人、テス・ウォルシュが「友軍です!」とさけんだ。一瞬間があいてから、もう一言、「ジンジャースナップ!」

 

数秒後、コードネーム『ジンジャースナップ』を自称する女子兵士が両手にいっぱいのドングリをもって帰投した。ジンジャースナップはネヴィルが見つけたオークの木までひとっ走りしてきたのだった。森は気温は低いが湿度があるので、すこし汗をかいている。 シャノンが制服のシャツの首部分をむすんだもの(〈転成術〉をつかうまでもなく作れる即席の袋である)を持って待っているところへ、ジンジャースナップが近づいていく。 ジンジャースナップが両手をシャツの上にもっていってドングリを落とそうとしたところで、シャノンが笑ってシャツを右に振る。ジンジャースナップがもう一度落とそうとすると、また左に振る。そこで士官のノットが「ミス・フリードマン!」としかりつけたので、シャノンはためいきをついて、動くのをやめた。 ジンジャースナップは収穫を袋にあずけると、またドングリを集めにいった。

 

背景のどこかで、エリー・ナイトが〈カオス軍団〉行進曲を独自に改変したものを歌っている。 のこりの兵士もオリジナルを知っているにもかかわらず、約半数がエリー・ナイトにあわせて歌おうとしている。 そのちかくで、〈転成術〉の成績がいいニタ・バーディーンがまた一つ緑色のサングラスをつくり、アダム・バーリンガーに手わたした。アダム・バーリンガーはそのサングラスをたたんで制服のポケットにいれた。 雲の多い天気にもかかわらず、ほかの何人かはもらったサングラスをすでにかけている。

 

この一連の作業の背後にはものすごく複雑でおもしろい理由があるはずだと思うだろうか。それで正解だ。

 

二日まえの放課後、夕食まえの時間、ハリーは書棚が立ちならぶトランクの最下層で、最近入手した快適な揺り椅子(ロッキングチェア)に腰をおろし、一人静かに出力(パワー)について考えていた。

 

十六名の〈カオス〉兵で二十八名の〈太陽〉兵と二十八名の〈ドラゴン〉兵を倒すには、出力を増幅するなにかが必要だ。 戦術を工夫してもできることには限界がある。 なにか秘密兵器がなければならない。無敵の秘密兵器か、せめて、そう簡単に止められないようななにかが。

 

〈魔法省〉の命令で、マグル製品は校内の模擬戦で使用禁止にされた。 それ以外に巧妙な予想外の呪文を使おうとしても、二倍の物量を有する敵が相手だと、力技の〈解呪(フィニート)〉で突破されるのがオチだ。 前回〈太陽部隊〉が鎖かたびらに対してその戦術をつかいそこねたのは事実だが、クィレル先生にあそこまではっきり言われて、また見おとすことはありえない。 『フィニート・インカンターテム』は力技の対抗呪文(カウンタースペル)であり、対象の呪文と同等以上の魔法力をかけてはじめて打ち消しの効果がでる……のだが、相手の兵力がこちらを大幅に上回る場合、また次元のちがう軍事的課題が出現する。 こちらがなにをしようが相手は『フィニート』で打ち消すことができ、残余の魔法力で十分防壁を用意して〈睡眠の呪文〉を連打することができるのだ。

 

これを解決できるとすれば、どうにかして通常のホグウォーツ一年生の集団にだせないような……敵が『フィニート』しきれないほどの出力を引きだすしかない。

 

ということで、ネヴィルに『()()()()()()()()生けにえの儀式がどこかにあったりしないか』とたずねてみたところ——

 

それからひとしきり大声で二人がやりあって、ハリーはようやく〈不破の誓い〉のことを引きあいにだすのをあきらめ、イメージ戦略的にはたしかにこの方向にすすむのはやめるべきだ、ということを認めた。そして落ちついて考えれば、実はそこまでやる必要もない、ということに気づいた。 自分自身の魔法力の限界を超えた出力を引きだす方法なら、授業でちゃんとおそわっている。

 

ひとは自分の目のまえにあるものを理解できていないことがある。適切な問いをたてないかぎり、理解できないことがある。

 

〈防衛術〉、〈操作魔法術(チャームズ)〉、〈転成術〉(トランスフィギュレイション)〈薬学〉(ポーションズ)、〈魔法史学〉、〈天文学〉、〈ホウキ飛行術〉、〈薬草学〉……。

 

「敵影!」と上空から声が飛んだ。

 

◆ ◆ ◆

 

ネヴィル・ロングボトムはおばあちゃんに観戦されていることをまったく知らなかった。知らなかったおかげで、なにを気にすることもなく、思いきり雄叫びをあげたり、『ルミノス』を三秒ごとに撃ちながら木々のあいまを突き抜けてグレゴリー・ゴイルを追跡したりしたりすることができていた。

 

(「あの子は——」とオーガスタ・ロングボトムが不安と驚嘆が半分半分の表情で言う。「あの子は高所恐怖症だったはず!」)

 

(「時間が解決してくれることもあります。」 アメリア・ボーンズは値ぶみするように大スクリーンにまなざしを向けている。 「……あるいは、勇気を身につけたのか。どちらも実質的にはおなじこと。」

 

ちらりと赤い光が見え——

 

ネヴィルはよけた。あやうく木に衝突しそうだったが、なんとかよけた。 それから枝も()()()()()よけたが、よけられなかった枝で顔をしたたかに打った。

 

ミスター・ゴイルのホウキはみるみる遠ざかっていく——二人のホウキはまったくおなじ型で、ミスター・ゴイルのほうがネヴィルより体重が重いというのに、なぜかネヴィルは追いつけない。 なので減速し、うしろをむいて、森をぬけ〈カオス軍団〉が行軍している場所へと急ぐ。

 

二十秒後——エキサイティングな追跡ではあったが、そう長く飛んではいなかった——ネヴィルは友軍のもとへもどり、ホウキをおりて、しばらく地上を歩いた。

 

「ネヴィル——」と司令官の声がしたが、まだ距離がある。森のなかをハリーは一歩一歩慎重にすすんできている。杖のさきには時間をかけて〈転成〉している物体があり、完成にちかづいている。 そのとなりから、すこし小さなおなじ物体をつくろうとしているブレイズ・ザビニが、よろよろと〈亡者〉のようにして出てきた。 「ネヴィル——無理はするなって言っただろう——」

 

「無理じゃないよ。」と言ってネヴィルはホウキを持つ手を見おろした。手ばかりか腕全体が震えていた。 それでも、〈カオス〉軍のなかに毎日ミスター・ディゴリーに一時間稽古をつけてもらって、さらに一時間一人で射撃の練習をしていた人は、ほかにいない。だとすれば、空中射撃をさせるなら、ホウキ飛行が得意でないことを勘案してもネヴィルがおそらく一番適任だ。

 

「よかったぞ、ネヴィル。」と先頭のセオドアが言った。セオドアは下着のシャツ一枚で、森のなかを行軍する〈カオス軍団〉の先頭に立っている。

 

(オーガスタ・ロングボトムとチャールズ・ノットが思わずおどろきをあらわにおたがいを見あったが、その瞬間になにかに刺されたかのように、すぐに横をむいて目をそらした。)

 

ネヴィルは数度深く呼吸して、手の震えをとめ、考えようとした。 長時間の〈転成術〉をしている最中で、戦略を考える余力がないかもしれないハリーにかわって。 「ノット士官、〈ドラゴン旅団〉はなんのつもりであんなことをしたんだと思う? あちらはホウキを一機うしなっただけで——」  〈ドラゴン〉軍は陽動の攻撃をしかけることで、ミスター・ゴイルが森のなかから接近する余地をつくった。ネヴィルはぎりぎりになるまで、攻撃してくるホウキが()()いることに気づかなかった。それでも、〈カオス軍団〉はゴイルでないほうの乗り手を撃ってしとめることができた。 こうだから、ふつう交戦開始まえにホウキを敵地に乗りこませることはしない。地上から集中砲火をうけることが分かっているからだ。 「……なんの戦果もなかったように見えるんだけど?」

 

「そう!」とトレイシー・デイヴィスが誇らしげに言う。 ポッター司令官のそばについて、杖を低くかまえて周囲の森に目をくばりながら歩いている。 「ミスター・ゴイルの呪文がザビニにあたりかけたところで、あたしが〈虹色の球体〉(プリズマティック・スフィア)を飛ばして間にあった。もうかたほうの腕の方向からして、司令官もいっしょに仕留めようとしてたんだと思う。」  そう言ってトレイシーは獰猛な笑みをした。 「ミスター・ゴイルは〈破壊のドリルの呪文〉で対抗しようとしたけど、あたしの闇の魔法力にはとうていかなわないと気づいて顔を真っ青にしてたわ。フハハハハ!」

 

何人かそれにあわせて笑った〈カオス〉兵もいたが、ネヴィルはなにかいやな予感がしてきた。ひとつまちがえば、大惨事になるところだったのだ。仮にこの二人の〈転成術〉がミスター・ゴイルに妨害されていたら——

 

◆ ◆ ◆

 

「報告せよ!」と〈ドラゴン〉軍司令官として言うドラコ。疲労しているが、見た目にはそうさとられないように注意している。〈施錠の魔法〉をかけたのはここまでで十七個。まださきは長い。

 

グレゴリーのひたいに汗の粒が見える。 「ディラン・ヴォーンがやられました。 ハリー・ポッターとブレイズ・ザビニがそれぞれ、黒灰色の丸いなにかを〈転成〉していました。まだ未完成品のようでしたが、大きくてなかが空洞の……(コルドロン)のようなかたちでした。 かたちは同じですが、ザビニのほうは小さめ、ポッターは大きめでした。トレイシー・デイヴィスに邪魔されて、二人ともしとめることができず、〈転成〉を止めることもできませんでした。 敵のホウキはネヴィル・ロングボトムで、飛ぶのはまだへたですが、射撃はかなり正確でした。」

 

ドラコは報告を聞いて、眉をひそめ、それからパドマとディーン・トマスをちらりと見た。二人はそれぞれくびを横にふった。だれも大きくて灰色の釜型のものにこころあたりはないらしい。

 

「ほかには?」とドラコ。 もしこれだけなら、ホウキ一機を無駄死にさせてしまったことになる——

 

「もうひとつだけ妙な点が。〈カオス〉兵の何人かがなにか……ゴーグルみたいなものをつけていたんですが……?」

 

ドラコは考えはじめた。そのせいで、自分が足を止めたことにも、〈ドラゴン旅団〉の全員がいっしょに止まったことにも気づかなかった。

 

「そのゴーグルになにか特別なところはなかったか?」

 

「そうですね……たしか……色が緑色だったかと?」

 

「わかった。」と言って、ドラコはやはり無意識のうちに歩きだし、兵士たちもそれにつづいた。 「戦略を変更する。〈カオス軍団〉にむけて派遣する兵士は十四名から十一名に減らす。 むこうは工夫しているようだが、こちらにはすでに対応策がある。人数的にはそれで十分倒せるはずだ。」  これは賭けだが、三つどもえの戦闘を勝ちぬきたければ、賭けにでるべきときもある。

 

「もう〈カオス〉の作戦が読めたんですか?」  ミスター・トマスはかなりおどろいている。

 

「どういう作戦だったの?」とパドマ。

 

「まだぜんぜん読めていない。」と言ってドラコは優雅なしかたでにやりとした。 「それでもひとつ、当然ためしてみるべき手はある。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは慎重にドングリをすくって、完成したばかりの釜のなかにいれていく。 まず必要な水については、手近な水源を探す斥候を数名すでに派遣してある。 森を歩いているあいだにも陥没孔やちょっとした小川はいくつも見かけたし、そう長くはかからないはず。 別の斥候がもってきてくれたまっすぐな棒きれは、攪拌棒につかえそうだ。だから棒を〈転成〉する必要はない。

 

ひとは自分の目のまえにあるものを理解できていないことがある。適切な問いをたてないかぎり、理解できないことがある。

 

『一年生としての限界を超えた魔法力を発揮するためには、どうすればいいか?』

 

〈薬学〉の危険性をつたえる目的で、スネイプ先生が授業中に逸話をひとつ紹介したことがある(かわいらしい恋ごころとも呼べる話だったが、スネイプ先生は表情も声も嘲笑まじりで、くだらない愚行と見なしているようだった)。ボーバトンに、厳重に規制された高価な材料を盗み、〈変身薬(ポリジュース)〉を調合しようとした二年生女子がいた。とある目的で別の女子のすがたを借りようとしていたのだが、その目的はここではおいておこう。 彼女は〈変身薬〉にうっかり()()()()を混入させてしまい、しかも即座に癒者の診察をうけにいくべきところ、自然になおることを期待してトイレに身を隠した。最終的には隠れているところを発見されたが、その時点ですでに手遅れな段階にまで完了していた変身を巻き戻すことはできず、以来、ネコと人間の雑種として一生を送るはめになったという。

 

ハリーはその話が()()()()()()にずっと気づいていなかったが、適切な問いをもてたことで、気づくことができた。未熟な魔法使いは強力な呪文をつかえないが、はるかに強力な効果のある(ポーション)をつくることはできる、ということだ。 〈変身薬(ポリジュース)〉は最上級に強力な薬とされている……が、N.E.W.T.水準に分類されているのは、一定の年齢に達していない人の魔法力では調合できないからではなく、手技の難度や失敗した場合のリスクの大きさを考えてのことらしい。

 

模擬戦中に(ポーション)を調合しようとした軍はまだひとつもない。 だが、クィレル先生の基準では、現実の戦争でやれるようなことはほとんどなんでも許される。だったら問題ないはず。 実際クィレル先生は授業で、『不正も技術のうち。……というより、勝者の技術を敗者が不正と呼ぶだけのこと。効果的に不正を成功させた者には、クィレル点をおまけすることを約束しよう』と言っていた。 原理的には、(コルドロン)を数個〈転成〉して、その場で入手できるものをあつめて調合することは、なんら非現実的ではない。交戦するまえに、そうするだけの時間さえあれば。

 

そう考えて、ハリーは『魔法水薬・油薬』の本を手に、もとめる条件にあてはまる(ポーション)を探す作業をはじめたのだった。安全かつ有用で、開戦まえのわずかな時間に調合できるもの。対抗呪文(カウンタースペル)が間にあわないほど一気に勝ってしまえるようなもの。あるいは、一年生が〈解呪(フィニート)〉できないような強力な呪文の効果が生じるもの。

 

ひとは自分の目のまえにあるものを理解できていないことがある。適切な問いをたてないかぎり、理解できないことがある……。

 

『どんな薬なら、一般的な森のなかで入手できる材料だけをつかって調合することができるか?』

 

『魔法水薬・油薬』に書かれている薬の調合レシピにはどれも、魔法植物や魔法動物に由来する材料が最低ひとつはふくまれている。 これが厄介な部分だ。模擬戦がおこなわれるのが〈禁断の森〉だったとしたら、魔法植物や魔法動物が豊富に入手できるのだが、残念ながら戦場は安全かつ小規模なほうの森だった。

 

ハリー以外のだれかであれば、この時点であきらめるかもしれない。

 

ハリーはそれから、つぎつぎとページをめくる速度をあげて、いくつもの調合レシピに目をとおしていくうちに、とあることに気づいた。以前読んだことはあれど、そのときになるまで()()()()()()()()知識に気づいた。

 

〈薬学〉の本で見るかぎり、どんな調合にも最低ひとつ、魔法力をおびた材料が必要とされる。しかし、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

呪文をかけるには、実体ある構成要素はまったく必要とされず、詠唱と杖のうごきだけで足りる。 ハリーは(ポーション)の調合も本質的には似たような行為だと思っていた。 まったく必然性なく決められたとしか思えないとある文言をとなえると効果が発生するのが呪文であるなら、 おぞましい各種材料をあつめてきて時計まわりに四回かきまぜれば、それでなぜか効果が発生するのが(ポーション)だと。

 

さらに、(ポーション)はたいてい、ヤマアラシのとげやナメクジの煮こごりなど、どこにでもあるものを材料にしている。ならば、どこにでもある材料()()を使ってつくれる(ポーション)だってあってよさそうなものだ。

 

なのに実際には、『魔法水薬・油薬』に書かれている調合レシピはきまって、()()()()()の魔法植物か魔法動物由来の材料——たとえばアクロマンチュラの糸やファイアーフラワーの花びら——を要求している。

 

ひとは自分の目のまえにあるものを理解できていないことがある。適切な問いをたてないかぎり、理解できないことがある……。

 

『もし調合術と呪文詠唱が似た行為であるなら、皮膚治癒薬など強力な薬を調合したとき、調合者が魔法力を消耗して疲労困憊することがないのはなぜか?』

 

その一週まえの金曜日の〈薬学〉の合同授業で、ハリーたちは『皮膚治癒薬』の調合をした。……杖と詠唱を通じて実践する治癒の場合は、どんなに簡易な呪文でも四年生かそれ以上の水準にあたるというのに。 その回の授業を終えたとき、みなの様子はふだんの〈薬学〉を終えたときとかわりがなかった。つまり、目に見えて消耗している人はだれもいなかった。

 

そこでハリーは『魔法水薬・油薬』をぱちりと閉じ、レイヴンクロー談話室へと駆けこんだ。 図書館に行って確認している暇はないと思い、N.E.W.T.級薬学の宿題をしている七年生をみつけ、一シックルを渡して『劇薬調合術』という本を五分間だけ借りた。

 

七年次のその教科書をひらき、レシピ五件にざっと目をとおしたあと、六番目のレシピが目についた。『炎の吐息の薬』。これを作るにはアシュワインダーの卵が必要だとあり……これを飲むと炎を吐くことができるが、その卵を生んだアシュワインダーを生んだ魔法性の炎以上の熱は生じない、という注意書きもあった。

 

そのときハリーは談話室のまんなかで「エウレカ!」とさけんだ。近くにいた監督生はそれを呪文の詠唱だと思ったらしく、ハリーは厳重に注意された。 魔法族は、アルキメデスという名前の古代人マグルが物理学者の原型のようなことをして、風呂にいれたものの体積は風呂からあふれた湯の体積にひとしいと気づいたときのことなど、いっさい興味がないらしい。

 

保存則。 保存則という考えかたが基礎になってマグル世界で発見されたものごとは数知れない。 マグル技術で羽一枚を一メートル地面から浮かしたければ、そのための動力を()()()()()もってくる必要がある。 火山の火口から流れだす溶岩を見て『この熱はどこから来たのか』といえば、地球の内核にある放射性重金属についての答えが物理学者からかえってくるだろう。 重金属の放射性はどこから来たのかといえば、地球が形成される以前の初期宇宙で超新星が自然限界より重い原子核を焼き上げ、陽子と中性子が不安定な状態にとじこめられて、それがやがて分裂することで超新星にもらったエネルギーの一部を放出するのだ、という答えになるだろう。 電球の光のみなもとは電気であり、その電気のみなもとは核分裂発電であり、その核分裂エネルギーのみなもとは超新星……。もとをただせば、究極的にはビッグバンにまで行きつく。

 

魔法は、ひかえめに言って、そういう風にはできていないらしい。 〈エネルギー保存則〉のような法則に対する魔法の態度は、思いきり中指を突き立てて見せるのと、どうでもよさげに肩をすくめるのとの中間くらいに位置している。 『アグアメンティ』は無から水をつくりだす魔法として知られている。そのたびにどこかの湖の水位がさがったという報告はない。 これは五年生がおそわる簡単な呪文で、魔法族はさほど特別なものではないと思っている。たかがコップ一杯の水をつくりだすことくらい、たいしたことではないと思っている。 魔法族は質量は保存されるべきであるという珍妙な考えかたをしないし、一グラムの質量を生むことがなぜか九〇兆ジュールのエネルギーを生むことに相当するとも思っていない。 高学年でおそわる呪文のひとつに、その名も『アレスト・モーメンタム』というものがある。それを知ってハリーは、止められた運動量(モーメンタム)がどこか()()()()()いくのか、と質問してみたところ、 怪訝そうな顔をされただけだった。 ハリーは、魔法にも()()()()()種類の保存原理がどこかにあってくれないかと思い、必死にさがしつづけたが……

 

……実はそれは、毎回の〈薬学〉の授業で自分の目のまえにあったのだった。 調合術は魔法力を()()()()のではなく()()()()。だからこそ、魔法性の材料を最低ひとつは必要とする。 『反時計回りに四回かきまぜ、時計回りに一回かきまぜる』などといった手順を通して——ハリーの説にしたがうなら——魔法使いは材料のなかにある魔法力を変形する小さな呪文をかけている。 (そして個々の材料の物理的形状をひきはがすことにより、ハリネズミのとげのようなものも溶かし、飲み薬にしたてることができる。おそらくマグルがまったくおなじレシピを実践したとしても、とげだらけでとても飲めないようなしろものになるのではないか。) つまり、既存の魔法のエッセンスを変形させる魔術こそが調合術だということになる。 〈薬学〉の授業に参加すると、多少疲労はするものの、疲労困憊することはない。自分の魔法力をそそいでいるのではなく、すでにそこにある魔法力を変形させているだけだからだ。 だからこそ、二年生女子でも〈変身薬(ポリジュース)〉を調合できた……すくなくとも完成しかけたのだろう。

 

できたてのこの仮説を反証する例があるかもしれないと思い、ハリーは『劇薬調合術』をめくっていった。 約束の五分間が経過すると(そのことで文句を言われたので)もう一シックルを支払い、まためくりつづけた。

 

『巨人の力の薬』はダグボッグのすりつぶしを〈巨牛(レエム)〉に蹂躙させたものを投入してつくられる。その部分を読んでから、ダグボッグ自身に力強さはないことを考えると変だ、ということに気づいた。レエムに踏まれたとして、ダグボッグ自身はただ……もっと粉ごなになるだけだ。

 

別のレシピには『鋳造された青銅を触れさせよ』という一節があった。クヌート銅貨を一枚ペンチでつまんで、溶液の表面にかすめさせる、という意味である。どっぷり漬けてしまうと液が高熱を発して沸騰する、という注意書きもあった。

 

ハリーはそこでレシピと注意書きの数かずを目にしたまま、第二の、もっと奇妙な仮説を考えた。 もちろん調合術のしくみが、材料にもともと埋めこまれている潜在魔法力をつかうという単純なものであってくれるはずがない。それではマグルの自動車がガソリンの潜在燃焼力をつかうのと大差ない。 魔法はもっと非常識なものだ……。

 

それからハリーは——授業外でスネイプ先生に会う気はなかったので——フリトウィック先生の部屋をたずね、新しい(ポーション)をつくろうとしていて、材料と効果については決まっているが、かきまぜかたをどう決めればいいかを相談したい、と話し——

 

それを聞いてフリトウィック先生はしばらくわめきまわってから、マクゴナガル先生を呼び、執拗な訊問がはじまった。そのときにかぎっては実験の背後にある仮説を二人に明かすべきだと言われ、話してみるとそれが新発見ではなく再発見であることが分かった。非常に古くに発見された、発見者の名前も知られていない法則だった。

 

『ポーションは材料の生まれに寄与したものを放出する。』

 

クヌート銅貨を製造するときのゴブリンの熱、ダグボッグを踏みつぶすレエムの怪力、アシュワインダーを生む魔法炎。そういった生成源の効能が、呪文の言語に相当する一定のかきまぜのパターンからなる工程により、呼び出され、解放され、再構成される。

 

(マグル的に考えれば、それは熱力学のできそこないのような奇妙な法則に見える。人生は()()()()()()()()と考える人がつくった法則のように見える。 マグル的に考えれば、クヌート銅貨製造時の熱は銅貨に流れこむのではなく、環境中に散逸し、再利用しにくい形態になる。 エネルギーはいつも保存され、生成も消滅もしない。いっぽうで、エントロピーは増大する。 けれど魔法族はそう考えない。魔法族は、クヌート銅貨をつくるために労力をそそげば、あとでその労力をとりだせるはずだと考える。マグル育ちの人にとって妙に聞こえるのはその点なのだということをマクゴナガル先生に説明してはみたが、マクゴナガル先生にマグル式の考えかたのほうが優れていることを理解させることはできなかった。)

 

これは調合術の基本原理だが、決まった名前も文言もない。もしあれば、だれかが書きとめたがるだろうから。

 

だれかが書きとめれば、自力でこの原理を発見できない人がそれを読むかもしれないから。

 

読めば、無闇に新作ポーションのアイデアを考える人がでてくるだろうから。

 

そういう人はネコ女になってしまうだろうから。

 

この発見はネヴィルにもハーマイオニーにも共有しないようにと念押しされた。 ハリーはハーマイオニーが落ちこんでいるようだからこういう話をすれば元気づけられるかもしれない、というようなことを言おうとした。 マクゴナガル先生はもってのほかだと言い、フリトウィック先生は小さな両手で杖を折る手ぶりをしてみせた。

 

二人はそれでも、どういう材料を使うべきがもう分かっているのなら、おなじことをやっている既存のレシピがあるかもしれない、という助言をしてはくれた。フリトウィック先生は役に立つかもしれないと言って、ホグウォーツ図書館にある本の名前をいくつかあげてくれた……。

 

◆ ◆ ◆

 

巨大な羊皮紙状のスクリーンはいま、上空から見た森だけを表示している。兵士たちの迷彩服はほとんど木々と見わけがつかないが、それぞれ二集団ずつに分かれていた各軍が合流し、三つどもえの戦いをはじめようとしている。

 

クィディッチ場の観客席が急速に埋まっていく。ここまでの点数の増減を追っている暇はないが最終戦だということで見に来た、飽きやすい種類の人たちだ。(クィレル先生の模擬戦に問題点があるとすれば、ひとたびはじまれば、クィディッチの試合よりずっと早く決着がついてしまうことだと広く言われている。 クィレル先生自身は、『それも戦闘のリアリズムだ』とだけ応じ、それ以上の議論の必要性を認めなかった。)

 

巨大な窓——いまある窓は、上空からの映像を見せている窓一つだけ——に映された、小さな迷彩服の人間のあつまりらしきものまでの距離が近くなった。

 

もっと近くなった。

 

最後には手がとどきそうな距離にまで——

 

◆ ◆ ◆

 

巨大な白い羊皮紙の窓が、〈太陽〉軍と〈カオス〉軍の最初の交戦を映しだす。(とき)の声とともに、ニコちゃん(スマイリー)マークを胸につけた子どもたちが『コンテゴ』の盾を手に、あるいは「『ソムニウム』!」と叫びながら突撃し——

 

そのうちの一人が不意に、恐怖にかられた声で「『プリズマティス』!」と叫んだ。全員が突撃を中断し、すぐに光かがやくエネルギーの壁が前方に出現した。

 

木々のあいだからトレイシー・デイヴィスがすがたをあらわした。

 

トレイシーは壁にむけて杖をつきつけながら、低く暗い声で話しだす。 「ふっふっふ、ぞんぶんに怖がるがいい。〈闇黒(あんこく)の女王〉トレイシー・デイヴィス見参! あ、これ、『やみ・くろ』と書いて『アンコク』ね。」

 

(〈魔法法執行部〉長官アメリア・ボーンズが物問いたげなまなざしをデイヴィス夫妻に送った。夫妻はできることならその場で死にたいという感じの表情をしていた。)

 

虹色の障壁(プリズマティック・バリア)〉に守られた〈太陽〉軍兵士がひそひそとなにか言いあっている。そのうちの一人が、ほかの何人かから頻繁にしかりつけられているようだ。

 

しばらくして、びくりとしたのはトレイシーのほうだった。

 

スーザン・ボーンズが〈太陽〉軍集団のまえに出たのだった。

 

(「まあ……お嬢さん、ホグウォーツでどういう教育を受けているのかしら?」とオーガスタ・ロングボトムが言った。)

 

(「さあ。」とアメリア・ボーンズが落ちついた声で言う。「でもわたしも興味があるので、あとでチョコレート・フロッグを送って、あれのこつを聞いておきます。」)

 

〈虹色の障壁〉が消えた。

 

〈太陽〉軍兵士の集団が突撃を再開した。

 

トレイシーが緊張で声をうわずらせて叫ぶ。 「『インフラマーレ』!」  〈太陽〉軍の動きがまた止まる。トレイシーとのあいだの、やや乾燥した草地の上に炎でできた線が引かれ、それがトレイシーの杖の軌跡にあわせてのびていく。つぎの瞬間、スーザン・ボーンズが「『フィニート・インカンターテム』!」と声をあげた。炎のいきおいが弱まったかと思うと、また盛りかえし、両者の意思のぶつかりあいで一進一退がつづく。周囲では、ほかの兵士たちが杖をトレイシーに向けようとしている。ちょうどそのとき、ネヴィル・ロングボトムが上空から大声をたてて飛びこんできた。

 

◆ ◆ ◆

 

〈ドラゴン旅団〉兵士の一人、レイモンド・アーノルドが手信号で前方ななめ左を指した。 その場にいる〈ドラゴン旅団〉集団内ですぐにひそひそと声がかわされ、全員が静かに敵のいる方向に対峙する位置をとった。 〈太陽〉軍はこちらの位置を知っている。知っているのはおたがいさまだが、なぜかこの瞬間、全員が本能的に静まった。

 

〈ドラゴン〉兵たちがじりじりと歩みをすすめていくと、〈太陽〉兵たちのくすんだ色の迷彩服が遠い木々のあいだに見えだした。〈ドラゴン〉はやはり全員無言で、(とき)の声をあげる者もいない。

 

ドラコは兵士たちの先頭に立っている。うしろにはヴィンセント、そのすぐうしろにパドマがいる。この三人で〈太陽〉軍の渾身の一撃をくいとめられれば、〈ドラゴン旅団〉のほかの兵士たちに勝機があるかもしれない。

 

まだ距離のある〈太陽〉軍の先頭集団に一人、ドラコのほうをじっと見る人影があった。だれかがじっと、怒りの目でドラコを見ている——

 

戦場をはさんで、二人の視線がかさなった。

 

ドラコはこころのかたすみで、ほんの一瞬だけ不思議に思う——ハーマイオニー・グレンジャーは、なにをあれほど怒っているのか。考えつづける間もなく、両軍が雄たけびをあげ、全員が一斉に突撃していった。

 

◆ ◆ ◆

 

ほかの〈カオス〉兵たちも木々のあいだから出てきた……というか、()()()()()兵士もいた。全面衝突となり、全員敵らしいものが見えるたびに四方八方に撃っている。 それと〈太陽〉兵が何人も、ネヴィル・ロングボトムに向けて「ルミノス!」と叫び、ネヴィルは旋回、急上昇して『カオス的』としか言いようのない軌跡をたどり——

 

ネヴィルが空戦を練習していたときには、二十回に一回しか起きなかったことが起きた——手ににぎったホウキが赤く光った。

 

これはネヴィルが試合を脱落したことを意味しているはずだった。

 

それからクィディッチ場の観客席で、生徒の集団のなかから叫び声があがった——

 

『戦場におけるリアリズム』というのがクィレル先生が命じる唯一の規則である。 つまり現実にありえることであれば、なにをしても許される。そして現実には、ホウキを呪いで撃たれても兵士は消滅しない。

 

ネヴィルは地面にむけて落ちながら『カオス式ランディング!』と叫んだ。〈カオス〉兵たちは戦闘をほうりだして(止まっていては格好の標的なので、走りながら)、そろって〈浮遊の魔法〉をかけた。まわりのほとんど全員が足をとめて息をのみ——

 

ネヴィル・ロングボトムは落ち葉たっぷりの地面に、片ひざと片足と両手をついて落ちた。騎士号を授与されるときのような姿勢だった。

 

すべてが止まった。トレイシーとスーザンすら決闘を中断した。

 

クィディッチ場では、観客席全体が静まりかえった。

 

だれもが驚嘆と心配の表情でただ唖然として絶句し、つぎになにが起きるのか、待ちかまえた。

 

そしてネヴィル・ロングボトムがゆっくりと立ちあがり、〈太陽〉軍の方向に杖を突きつけた。

 

戦場にはとどかなかったが、スタジアムの観客席ではかなりの人数が声をあわせ、だんだんと音量をあげて『ドゥーン ドゥーン ドゥーン ドゥン ドゥン ドゥン』と歌いはじめていた。あの離れわざに音楽をつけないわけにはいかないと思ったらしい。

 

「あれはあなたの孫への応援歌ね。」と言うアメリア・ボーンズは値ぶみするようにスクリーンにまなざしを向けている。

 

「おっしゃるとおり。」とオーガスタ・ロングボトムが言う。「ただ、なかには、『ネヴィルに血を! ネヴィルに魂をささげよ!』という声援もまじっているような。」

 

「ええ。」と言って、アメリアは数秒まえまであとかたもなかったティーカップにくちをつける。 「指導者の素質がおありのようで。」

 

「しかもこの声援……」とオーガスタがまた言う。いちだんと衝撃を受けたような声をしている。 「ハッフルパフ生がいるあたりから来ているようですが。」

 

「仲間おもいで知られる寮ですからね。」とアメリア。

 

「アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ルシウス・マルフォイは皮肉な笑みをうかべてスクリーンに目をやりながら、指が一見まったく不規則に肘掛けをたたいている。 「ダンブルドアはこのすべての裏になにか策略を隠しているのか、そうでもないのか。どちらを恐れるべきなのか分かりませんな。」

 

「見ろ!」と若きグリーングラス家当主が声をあげ、席を立ち、スクリーンを指さす。 「こんどはあの子の番だ!」

 

◆ ◆ ◆

 

「二人で一気にやるからね。」とダフネが小声で言う。ダフネたちも一週間に数回、恐怖に満ちた実戦を数分間ずつ経験していたとはいえ、ネヴィルとハリーが受けていたセドリック・ディゴリーの決闘術の訓練におよばないことは分かっている。 「一人じゃ無理でも、二人でちからを合わせれば——わたしはあの〈魔法〉を使う。ハンナはできるだけ撃って——」

 

となりにいるハンナがうなづくと、二人は絶叫しながら突撃した。それに合わせて支援兵二人がかけた〈浮遊の魔法〉で走りが加速される。 ダフネは走りながら「()()()——」ととなえはじめ、ハンナは巨大な『コンテゴ』の盾を二人の前方につくりだしている。そこで一度、追加の浮揚力がくわわり、二人は前列の兵士たちの頭上を飛び越え、髪の毛をふわりとなびかせ、ネヴィルの目のまえに着陸する——

 

(ホグウォーツではあらゆる競技の写真撮影が厳格に禁じられているが、それでもなぜかこの瞬間の写真が翌日の『クィブラー』の一面をかざることになった。)

 

——着陸と同時にハンナが、上級生を相手にいじめ退治をした経験を生かし、いっさいの躊躇を捨て、すぐさまネヴィルに〈睡眠の呪文〉を撃つ(着陸するのを待たずに詠唱をはじめていたのである)。ダフネは威力より速度を重視して〈元老貴族の剣〉でネヴィルの太ももを切りつけようとするが、ネヴィルはすでによけていた——

 

ネヴィルは横ではなく、上によけていた。不自然なほど高く。光の剣は、ネヴィルの足の下の空気を切る。それがなにを意味するか、ダフネは不思議とすぐに気づくことができ、〈剣〉を自分のあたまの上にもっていった。しかしネヴィルが落ちてくる速度は予想以上だった。たがいの〈剣〉と〈剣〉がぶつかったとき、ダフネはブラッジャーにしたたかに打たれたような衝撃を受けた。 その衝撃で体勢をくずして草の上をころがり、地面に背中を強打した。 それで一巻の終わりになってもおかしくなかったが、ネヴィルのほうも着陸の衝撃が強すぎて地面にひざをつき、苦悶の声をあげていた。 ネヴィルが〈剣〉を振りおろそうとしかけたところで、ハンナが「『ソムニウム』!」と叫んだ。ネヴィルは必死にあとずさる——が、もちろん実際にはなにも発射されていない。ハンナにはそう早く呪文を連射できない。——ダフネはその一瞬の時間をつかって、急いで立ちあがり、また両手で杖をにぎり——

 

◆ ◆ ◆

 

「まさか……」とグリーングラス卿夫人がどこか落ちつかない声で言う。貴族らしい態度がくずれてきている。 「まさかわが子が〈元老貴族の剣〉で戦っているなんて。それも一年生で。 あの子にあんな——才能があったとは——」

 

「血統の優秀さのたまものですな。」とチャールズ・ノットが言ったのを受けて、オーガスタは鼻をならした。

 

「なにをおっしゃる。」とクィレル教授が深刻そうに言う。「娘さんをみくびりすぎですよ。 あれはたんなる才能ではない。」 もう一歩乾いた声になる。 「実戦的な呪文をつかう試合形式をあたえられれば、子どもたちは競って腕をみがく。その成果です。」

 

◆ ◆ ◆

 

「『エクスペリアームス』!」と叫びつつ、声をからさないように注意するドラコ。同時にハーマイオニー・グレンジャーが撃ってきた赤い失神弾をかわそうとして、急な方向転換で筋肉がねじれる思いをする——相手は杖を左にむけていたのに、謎の切り返す動きをして右に撃ってきた——

 

ハーマイオニーは高速に飛ぶ『エクスペリアームス』をかわして、間髪をいれず「『スティレウス』!」と叫んだ。これは作用範囲が広い呪文でドラコの位置からは回避できないが、なんとか自分の顔に杖をあてて「『クワイエスカス』!」と言うことはできた。すぐに息を吸いたくなる衝動が生まれるが、抑えようとする。吸えば発作的なくしゃみが止まらなくなり、そうなっては一巻の終わりだ。

 

ドラコ・マルフォイはすでに大量の〈施錠の魔法〉と〈転成術〉で疲弊しかけていた。だが、困惑の感覚はだんだんと、熱をおびた怒りにおきかわりはじめた。なぜ唐突にグレンジャーがこれほど怒って攻撃してきたのかは分からない。だが売られた喧嘩は買ってやるまで——

 

(〈ドラゴン〉兵と〈太陽〉兵はたがいの司令官が決闘するのを目のあたりにして動きをとめてはいなかった。〈ドラゴン〉軍は規律がしっかりしていて、それくらいで動きをとめることはない。相手がとまらない以上、〈太陽〉軍もとまらない。 だがクィディッチ場にいる観客たちは、ネヴィルとダフネの華ばなしい決闘すらも忘れて、マルフォイとグレンジャーがつぎつぎと呪文をくりだすのを固唾をのんで見守りはじめていた。二人の応酬はほかのどの一年生よりも高速だった。〈ドラゴン〉軍司令官の訓練された身のこなしと〈太陽〉軍司令官のなりふりかまわない熱量とが釣り合い、〈睡眠の呪文〉にとどまらない多種多様な呪文を援用する大人の決闘を思わせる撃ち合いがくりひろげられていた。)

 

——ただ、ドラコはひとつだけ気づいたことがあった。以前ドラコとハリーとクィレル先生は三人して『ミス・グレンジャーには生ブドウ一皿ほどの殺意しかない』と言って切り捨てたものだが、そのときはまだ三人とも()()()()()()()()を見たことがなかったのだった。

 

◆ ◆ ◆

 

ダフネはもう一度、やはり威力は二の次で速度を重視して〈元老貴族の剣〉をネヴィルにおみまいする。同時にハンナが「『ソムニウム』!」と言い、ネヴィルがとびのく。今回もはったりで、ハンナはその隙に位置をとり、ほんものの呪文を至近距離から撃とうとする——

 

——そこでネヴィル・ロングボトムは——あとで本人が説明したところによると——ベラトリクス・ブラックとの戦闘を想定してセドリック・ディゴリーに訓練されたとおりのことをした。つまり、一回転してハンナのみぞおちに()()()蹴りをいれた。

 

ネヴィルの全身の体重がのった靴がハンナの腹にしっかりはいりこむ。ハンナは体勢をくずし、痛みでろくに声もだせず小さくうめいた。

 

一瞬だけ、倒れていくハンナをのこして、戦場全体が静止した。

 

そしてネヴィルがさっと顔色を変えた。完全に狼狽した表情になって、杖をおろし、本能的にもう片ほうの手で同寮生ハンナを受けとめようとし——

 

ハンナのほうは倒れきるまえに一回転し、杖をネヴィルにむけて呪文を撃った。

 

一秒と経たないうちに、ダフネも躊躇なく〈元老貴族の剣〉をネヴィルの背中に突き刺した。ハンナの〈睡眠の呪文〉が効果を発揮するのと同時に、〈剣〉のエネルギーが流しこまれてネヴィルの筋肉が痙攣し、ロングボトム家継嗣は驚愕の表情のまま、手足をひろげて地面に倒れた。

 

◆ ◆ ◆

 

「この戦いでミスター・ロングボトムは憐憫と慈悲の感情のあつかいに関して貴重な教訓を学んでくれたと思う。」とクィレル教授が言った。

 

「それと、騎士道についても。」と言って、アメリアはまた茶をすすった。

 

◆ ◆ ◆

 

「だいじょうぶ?」と小声で声をかけつつ、ダフネはハンナを守るように立ちふさがる。ハンナは腹をかかえて地面に倒れている。ハンナは返事せず、むせかえすような音をだしていた。吐くのと泣くのを我慢しているようだった。

 

戦術的にはそうすべきではないのに——ハンナ一人がただ呪文で撃たれたほうがまだ、こうやって何人もの手をかけて援護するよりはましだったと思う——なぜか〈太陽〉軍の兵士がハンナのまえにあつまり、杖をかたくにぎって、〈カオス〉兵のほうをにらみつけている。 だれかが両軍のあいだに〈虹色の障壁〉をつくったが、だれがやったのかダフネからは見えなかった。

 

そしてなぜか、〈カオス〉軍は攻撃に積極的ではないようだった。トレイシーさえ暗い表情をして、不安げに足踏みをしている。まるで自分がどちらの所属なのか分からなくなったかのように——

 

「いったん戦闘停止!」と声がした。

 

もともとないに等しかった戦闘がとまった。

 

ポッター司令官がいかにも〈死ななかった男の子〉らしい態度で木々のあいだからすがたをあらわした。片手には、迷彩柄の布をかぶせた大きななにかを持っていた。

 

「ミス・アボットの呼吸に異常はないか?」とポッター司令官が呼びかけた。

 

ダフネはその声にふりむかない。これが罠でないという保証はない。もしその隙を利用して〈カオス〉軍が攻撃すれば、クィレル先生はそれをルール内の行動だと認定するばかりか、あとでクィレル点を加点しさえするだろうことはまちがいない。 とはいえ、答えはもうダフネにも聞こえるくらい明らかだった。いまのハンナの呼吸音は()()とはほどとおい。なので、返事することにした。 「……一応は。」

 

「退場させて、治癒の魔法をつかえる人のところに送ったほうがいい。どこか折れたりしていないともかぎらない。」とハリー。

 

ダフネの背後から、息も絶え絶えの声がした。 「わたしは——まだ——たたかえる——」

 

「ミス・アボット、無理することは——」とハリーが言いかけたところで、ダフネの背後でだれかが立ちあがろうとして失敗し草の上に倒れる音がした。 全員がひるんだが、ダフネはハリーに背を見せなかった。

 

「なんで教師は模擬戦を止めさせないの?」とスーザンが怒った声で言った。

 

「止めていないということは、ミス・アボットの容態は治療可能な範囲なんだろう。それと、クィレル先生はぼくらが貴重な教訓をまなんでいると思っているんだろう。」とハリーがかたい声で言う。 「じゃあこうしようか。ミス・アボット、きみが退場すればこちらもトレイシーを退場させる。もともと数ではこちらが不利だから、これはきみたちにとっていい取り引きのはずだ。受けてくれ。」

 

「ハンナ、そうして!」とダフネは言う。「いいから、『退場する』って言って!」

 

ちらりとうしろを見ると、ハンナは草のなかにうずくまったまま、くびを横にふっていた。

 

「わかった、もういい。」とハリーが言う。 「〈カオス〉軍! とっとと全員しとめてしまえば、それだけ早く彼女を退場させられる。 味方に犠牲をだしてでも、早く決着をつけよう! 停戦はここまで! 『ツナフィッシュ』!」

 

それを聞いてすぐに、ダフネの後脳の権謀術数の領野がハリーを賞賛した。ハリーはたった一言で〈カオス〉軍の立ち位置を()にしてしまった。それから〈カオス〉兵たちは全員、制服のポケットに手をつっこみ、奇妙な様式の緑色のサングラスをとりだした。 海辺でつけるようなサングラスではなく、むしろ上級〈薬学〉でつかうゴーグルに似ている——

 

そこでダフネはつぎになにが起きるのかを察知し、あいた手をすぐさま両目にあてた。ちょうどそのとき、ハリーが釜にかけられた布をやぶった。

 

ハリー・ポッターがぶちまけた釜から飛びちったのは、まばゆい液体だった。想像をこえるほどのまぶしさ、太陽を何十倍にも拡大したような燦然とした輝きがあった——

 

(実際そのとおりのしろものだった。)

 

(地面に芽吹いた木々が成長しドングリをつくりだすのに寄与した太陽光を原料としてできた光は……)

 

(葉緑素が吸収した青色と赤色の波長の光の混合である紫色で……)

 

(葉緑素に反射して外に出て葉の緑色を構成する緑光の波長をほとんどふくんでいない。)

 

(〈カオス軍団〉がつけている緑色のサングラスは、緑色の光だけを通過させ赤色と青色をブロックするので、この強烈な紫色の光をなんとか耐えられる程度に減衰させている。)

 

——光はやむ気配がなく、ダフネは一度目から腕をおろして見ようとしてみたが、なにひとつ視認することはできなかった。間接的な反射光でさえ、まぶしくてとても見ていられなかった。ダフネはそのわずかな時間に一度だけ〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)を詠唱してはみたものの効果はなく、やがて〈睡眠の呪文〉で撃たれた。

 

それからの戦闘が終わるのに長くはかからなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

よし!」と元〈太陽〉軍でいまは〈カオス軍団〉分隊を率いるブレイズ・ザビニが言う。 「『ツナフィッシュ』だ!」と言って、釜のふたをしている布を手でつかみ、太陽光で起動して自分から離す準備をする。

 

よし!」と元〈カオス〉軍でいまは〈ドラゴン旅団〉の一部をまかされたディーン・トマスが言う。 「敵の動きをそっくりまねしろ!」

 

ザビニの分隊は両手を制服のポケットにつっこんで、緑色のサングラスをとりだした——

 

——それをディーンたち〈ドラゴン〉兵もそっくりまねして、緑色の〈薬学〉用ゴーグルをとりだし、急いでストラップをあたまに回して装着した。そのときにはもう〈カオス〉兵も装着していて、強烈な紫色の光が押しよせてきていた。

 

(〈カオス軍団〉がそろって緑色の〈薬学〉用ゴーグルという報告がミスター・ゴイルから来たら、()()()()()()()()()()()おなじものを〈転成〉すればいい、というのがマルフォイ司令官の説明だった。)

 

ずるいぞ!」とブレイズ・ザビニが声をあげる。

 

これも技術だ!」とディーンが言いかえす。「〈ドラゴン〉、突撃!」

 

(「失礼ですが、ミスター・クィレル、その笑いかた、やめていただけませんか。耳ざわりですわ。」とグリーングラス卿夫人が言った。)

 

目を焼きつくすような紫色の光が満ちる戦場で両軍がまっこうから衝突するなか、 「敵のゴーグルを〈解呪(フィニート)〉しろまだ勝機はある!」とブレイズ・ザビニが言った。

 

聞こえたかゴーグルを狙え!」とディーンも言った。

 

それを受けてブレイズ・ザビニは言語にならないなにかを口にした。

 

それからの戦闘が終わるまでには長くかかった。

 

◆ ◆ ◆

 

「『ステューピファイ』!」と〈太陽〉軍司令官がさけぶ。

 

ドラコはよけない。反撃もしない。もうそれだけの余力がない。できることは、左手をもちあげて無事を祈ることだけ——

 

赤色の電撃はドラコの手袋にあたって散った。『コロポータス』で封じられたこの手袋は、〈ドラゴン旅団〉の全員がはめているのとおなじく、ドラコが〈転成〉したもの。ドラコがまだやられずにすんでいるのは、ひとえにこの盾のおかげだ。

 

二人は森の奥で休むことなく一進一退の攻防をくりひろげていた。反撃に転じるべきときなのに、ドラコは呼吸をととのえることしかできない。グレンジャー司令官のほうも、呼吸はみだれ、顔は大粒の汗で濡れ光り、茶色の髪はべたりとした束になっている。 迷彩服はまだらに汚れ、疲労で肩を震わせているが、どんな姿勢をとるときも杖だけはしっかりとドラコの方向につきつけている。 目はぎらつき、頬は怒りで紅潮している。

 

どういう風の吹きまわしだ? 大人のまねをしてみたいお年頃かな?

 

ふとそんなせりふが浮かんだが、わざわざこれ以上怒らせることもない。 なのでドラコはただ——とぎれとぎれの声で—— 「グレンジャー、なにをそんなに腹をたてているんだ?」と言った。

 

ハーマイオニー・グレンジャーは苦しそうに呼吸し、たどたどしく話す。 「隠しても、もう分かってるから。 マルフォイ、あなたとスネイプがなにをしているかも。ほんとうはだれが黒幕なのかも!」

 

「はあ?」  ドラコは思わずそう言った。

 

それを聞いてグレンジャーは余計いらだったらしく、ドラコにつきつけている杖をもつ手の指に骨が浮き出た。

 

そこで話が見えてきて、ドラコははらわたの煮えくりかえる思いがした。 ドラコがグレンジャーに対してなにかたくらんでいるという話を、グレンジャー本人も鵜呑みにしていたのか——

 

()()()()()()()()()()()()()()()! おまえなんか……」 ——いろいろな〈闇〉の魔術を思いうかべては却下していき、いま使えるものがやっと一つあった—— 「『デンソーギオ』!」

 

〈歯伸ばしの呪文〉。しかしグレンジャーはそれをひらりとかわし、至近距離といっていい位置からドラコに杖をつきつけた。それと同時に、ドラコは魔法で封じた左手の手袋を盾のようにかまえ、被弾にそなえた。グレンジャーは、戦場全体にひびきわたるほどの声で——

 

「『アロホモーラ』!」

 

そこで時間が停止したならよかった。

 

実際には停止しなかった。

 

そのかわり、かちりと音をたてて手袋から錠が落ちた。

 

あっさりと。

 

実にあっさりと。

 

どのスクリーンにもその様子がしっかりととらえられた。クィディッチ場の観客全員がしっかりとそれを目撃した。

 

観客席はすみずみまで静まりかえった。マルフォイ家の継嗣が純粋な魔法力の勝負でマグル生まれに負けたということ、だれもがそう理解したということを、その静寂がものがたっていた。

 

ハーマイオニー・グレンジャーは立ちどまらず戦いつづけた。自分がなにをしでかしたのか、気づいたそぶりもなく、 マグル式のするどい蹴りをドラコの杖にあてた。衝撃があとを引いていて、とっさに反応することができず、ドラコの手から杖がするりと落ちた。 ドラコは必死に杖を追いかけて地面に転がりこんだが、背後では少女が声をしぼりだして「『ソムニウム』!」と言っていた。ドラコ・マルフォイは倒れ、起きあがることはなかった。

 

また一度、あたりが静まりかえった。〈太陽〉軍司令官は足もとをふらつかせ、気絶寸前のように見えた。

 

それから〈ドラゴン〉軍の兵士たちが司令官の仇討ちのため、絶叫しながら突撃した。

 

◆ ◆ ◆

 

デイヴィス夫妻は震えながら、クィディッチ場の教員席の快適な椅子から腰をあげた。肩を抱きあうわけにはいかなかったが、それでも手はしっかりつないで、透明になったようなふりをして歩いていった。 二人がもし魔法事故をおかすような年齢の子どもであったとしたら、勝手に〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)が発動してしまっていたかもしれない。

 

老齢のチャールズ・ノットが無言で席を立った。 傷のはいった顔をしたジャグソン卿も無言で席を立った。

 

ルシウス・マルフォイもやはり無言で立ちあがった。

 

三人とも、立ちどまることなく観客席に沿った階段へとむかっていく。三人一組の〈闇ばらい〉のように不気味にそろった歩調で——

 

「マルフォイ卿。」とクィレル教授がやわらいかい声で呼びかけた。 クィレル教授はまだ席についていて、羊皮紙状のスクリーンに目をむけ、両腕をぶらんとさせ、『動く理由などない』と言いたげな態度をしている。

 

銀髪のマルフォイ卿はアーチ門をくぐる寸前のところで足をとめた。もう二人も足をとめ、両脇にひかえた。 マルフォイ卿は呼びかけに応じたようには見えない程度にごくわずかな角度だけ、クィレル教授のほうをふりかえった。

 

「息子さんは今日、みごとな活躍ぶりでした。 わたしは過小評価してしまっていたらしい。 あなたもご覧になったとおり、彼はしっかりと兵士たちの忠誠を勝ち得てもいた。」  そのさきも、やわらかい口調のまま。 「その彼を教えている者として言わせていただくと、この件で彼に干渉することはひかえたほうが本人のためですよ。彼はこれからきっと——」

 

マルフォイ卿一行は階段をくだり、すがたを消した。

 

「よく言った、クィリナス。」とダンブルドアが静かに言い、心配げに眉間にしわを寄せた。 ダンブルドアもまだ席についたまま、もうなにも写っていないはずの羊皮紙状の画面に目をむけている。 「マルフォイ卿は実際干渉をひかえると思うかね?」

 

クィレル教授はごくわずかに肩をすくめるような動きをした。戦闘がおわってから身動きをとったのはこれがはじめてだった。

 

「さてと……」と言ってグリーングラス卿夫人が指の骨を鳴らしてストレッチする。となりの当主は無言でいる。「これは……けっこうな見ものでしたわね……」

 

アメリア・ボーンズはさっさと自席から立ちあがっていた。 「まったく。子どもたちがあれだけの戦闘技能を身につけているというのは、正直、心配なくらいです。」

 

「戦闘技能というと?」とグリーングラス卿が言う。「そうたいした呪文をつかっていたようには見えませんでしたが。 もちろんダフネのあれは立派でしたがね。」

 

アメリア・ボーンズはクィレル教授の髪のない後頭部をじっと見る姿勢のままでいる。 「〈失神の呪文〉は一年次水準の呪文ではありません。それはともかく、わたしが言っている技能というのはそういうことではありません。 初歩的な呪文しかつかえていないにせよ、きちんと友軍を支援し、突然の敵襲にも反応できるということ……」  ボーンズ長官は民間人にも理解できる表現をさがすかのように、一度ことばを切った。 「……とりわけ、あちこちから呪文がふりそそぐ戦場のまんなかで……あの子どもたちはずいぶんと落ちついて行動できていました。」

 

「そのとおりですよ、ボーンズ長官。」とクィレル教授が応答する。「ある種の技能は若いころから仕込むにかぎる。」

 

アメリア・ボーンズの視線がするどくなる。 「あなたは生徒たちを軍隊として育成していらっしゃるようですが、 なんの目的で?」

 

「いやいや!」とグリーングラス卿が割りこんで言う。 「一年生に決闘術を教える学校だっていくらでもあるでしょう!」

 

「決闘術?」 クィレル教授はそう言って笑ったかもしれないが、位置的に後頭部しか見えていない。 「そんなものは、この生徒たちが学んでいることにくらべれば、とるにたりませんよ、グリーングラス卿。 この生徒たちは、数でまさる敵に突然襲われても躊躇しないことを学んでいる。 戦場の条件がどれだけ変化しつづけても遅れをとらず、 友軍を援護し、より有用な生存者を優先し、見こみのない者を切り捨てることも学んでいる。 生きのびるためには命令にしたがわなければならないということも学んでいる。 人によっては、多少の創造性も。 将来この生徒たちが大人になり、来たる脅威に直面したとき、邸宅にこもって救いの手がさしのべられるのを待つと思うのは大まちがいですよ。この生徒たちは、そのときになればしっかりと応戦することができる。」

 

オーガスタ・ロングボトムが、パン、パン、パンと大きく拍手した。

 

◆ ◆ ◆

 

——〈ドラゴン〉軍は勝った。

 

ドラコは戦場で目がさめてすぐ、そのことをパドマから知らされた。パドマは詳細も話してくれた。ドラコが倒れたあと〈ドラゴン〉軍の兵士たちが一心になって戦ったこと。司令官の先見の明のおかげで、ミスター・トマスの分隊が〈カオス〉軍を倒すことができたこと。ポッター司令官が〈太陽部隊〉の分隊を倒していたこと。 ミスター・トマスの分隊が自前のゴーグルと倒した〈カオス〉兵からうばったゴーグルをもって〈ドラゴン〉軍本隊と合流したこと。 そのすぐあとにポッター司令官の残存兵力が〈ドラゴン〉と〈太陽〉の両方を強烈な紫色の光をだすポーションで攻撃したこと。 〈ドラゴン〉は〈カオス〉と〈太陽〉のどちらよりも数でまさり、全員にいきわたるだけのサングラスも持っていたので、司令官を代行したパドマは勝利にこぎつけることができたということ。

 

パドマの目のかがやきとマルフォイ家に負けない尊大な笑みを見ると、パドマはあきらかに賞賛のことばを期待していた。 ドラコは歯ぎしりしながらも賛辞らしきものをひねりだした。実際なんと言ったのか、自分自身記憶にのこらなかった。 ドラコの身になにが起きたのか、それがどういう意味だったのか、外国生まれであるパドマには察しがつかないようだった。

 

——ドラコは負けた。

 

〈ドラゴン〉軍の一行は灰色の(そら)のもと、重いあしどりでホグウォーツ城をめざした。ドラコの肌に冷たい雨粒がぽつぽつと落ちる。 予報どおりの雨が、ドラコが失神しているあいだに降りはじめていたらしい。 とるべき行動はもはや、一手しかない。 『強制手』。ドラコにチェスを教えたミスター・マクネアであればそう表現するところだ。 ハリー・ポッターはおそらくこれをよく思わない……もしみなが言うとおり、グレンジャーを好いているのであれば。 しかしゲームを降りたくなければ打つしかないのが強制手だ。

 

ドラコはずっと、おなじひとつのことを考えつづけた。ホグウォーツの巨大な門を自動人形のように歩いてくぐるあいだにも、ヴィンセントとグレゴリーに『来るな』とだけ言って追いはらい、個室で一人になり、ベッドの上に腰をおろし、机の上の壁をながめているいまでも。ディメンターがドラコをその瞬間の記憶のなかに閉じこめたかのようだった。

 

——手袋につけた錠がかちりと音をたてて落ち——

 

自分がどこでしくじったのかは、よく分かっている。 まず自分以外の全兵士のために十七回もの〈施錠の魔法〉をかけたことによる疲労があり、 一回につき一分たらずの休息では十分回復できていなかった。 そのせいで、自分の手袋に錠をかけるとき、並の『コロポータス』だけですませてしまった。ハリー・ポッターにもハーマイオニー・グレンジャーにも解除されないよう、全力をかけて封印しておくべきだったのに。

 

だが仮に事実であったとして、そんなことを言ってもだれ一人信じない。 スリザリン生ですら信じない。 言いわけじみて聞こえるし、実際そうとしか受けとられないだろう。

 

——グレンジャーが身をひるがえして『アロホモーラ!』と叫ぶ——

 

ドラコはこころのなかでその光景をいくどとなく再生し、敵意をつのらせた。 ドラコはグレンジャーを助けてやっていた——裏切り者を禁止させるため共闘した——屋根から落ちかけた彼女の手をとった——大広間で彼女のまわりで発生しかけた暴動を止めた——。そうすることでドラコがどれだけ大きな賭けにでていたか。すでに生じてしまったかもしれない損失がどれだけあるか。マルフォイ家の人間が泥血(マッドブラッド)助けるということがなにを意味するか。グレンジャーはなにも知らずに——

 

いまや、のこされた手は一手しかない。罰則を課されようが寮点を減点されようが、打つことを強制された一手。 スネイプ先生は事情を察してくれるだろうが、スネイプ先生が目をつむることのできる範囲には限界がある(と父上から言われている)。

 

グレンジャーに決闘を申しこむ。まっこうから校則をやぶることになるが、しかたない。 もし向こうがことわるようであれば、ただ攻撃するまで。 公衆の面前で、一対一の決闘でグレンジャーを倒す。決闘の作法や小細工にたよらず、純粋な魔法力の実力差で倒す。 〈闇の王〉その人が敵を倒すときのように、グレンジャーを完膚なきまでにたたきつぶす。 前回はドラコが魔法を使いすぎて疲労していただけだということを徹底的に明確にし、だれにもうたがわせないようにする。 マルフォイ家の血統からくる実力にはどんな泥血も対抗できないということを知らしめる——

 

『そうじゃないだろう』と、こころのなかでハリー・ポッターの声がする。 『人は政治的駆け引きに勝つことばかり考えていると、真実がなんだったかをすぐに忘れてしまう。でも実際には、人間を魔法族にしているのはたったひとつのものだった。そうだろう?』

 

ドラコはそのとき気づいた。机の上のなにもない壁をじっと見つめて強制手のことを考えるあいだにも、こころの奥底に感じられる不安の正体に。 打つ手がひとつしかないなら打てばいい、ただそれだけのこと——ただ——

 

ひらりと回転し、汗に濡れた髪を振りまわしては、ドラコに負けないスピードで杖からつぎつぎに呪文や対抗呪文をはなつグレンジャー。電撃を飛ばし、光るコウモリをドラコの顔に投げつけ、そのさなかにも怒りのこもった目でドラコを見すえる——

 

あのとき、最悪の結末の瞬間がくるまでは、ドラコも内心どこかでグレンジャーの戦いぶりに目をみはり、その怒りの激しさと魔法の実力を賞賛してもいた。どこかで喜んでもいた。生まれてはじめて本格的な戦闘ができ、その相手に……

 

……自分と対等な実力があることを。

 

これからグレンジャーに決闘を申しこんで、()()()負けてしまったら……

 

負けるはずはない。ドラコはこの学年のだれと比較しても、二年は早く杖をもたされていたのだから。

 

とはいえ、たいていの親が九歳の子どもに杖をもたせないのにも理由がある。杖をもたされた年数もさることながら、本人の年齢も重要だ。 グレンジャーは学年がはじまってすぐに誕生日をむかえた。ハリーがあのポーチをプレゼントした日だ。 入学してすぐのことだったから、もうグレンジャーが十二歳になってずいぶん経つことになる。 それにドラコは実際のところ、授業以外であまり魔法の練習をしていない。練習量ではおそらくレイヴンクロー生ハーマイオニー・グレンジャーにおよばない。 これ以上練習せずとも同級生には負けないと思っていたからだが……。

 

『それに消耗しきっていたのはおたがいさまだ』と、こころのなかの〈反証の声〉がささやく。 グレンジャーもあれだけの量の〈失神の呪文〉を撃って、消耗しきっていたにちがいない。にもかかわらず、その状態で〈施錠の魔法〉を解除することができた。

 

公衆の面前での一対一の決闘を自分から言いだして、言いわけのきかないかたちで負ける、などというリスクは引き受けられない。

 

ドラコはこういう場合の常套手段をよく知っている。 騙し討ちだ。 しかし、決闘で不正をしたことをだれかに知られれば、とりかえしのつかないことになる。仮に曝露されなかったとして、格好の脅迫のネタにされる。スリザリン生ならだれでも分かっていることだし、だからこそみなそういうネタには目を光らせている……

 

そしてここに見る者がいたとすれば、ドラコ・マルフォイがベッドから腰をあげ、机にむかい、最上級の羊の羊皮紙を一枚と真珠製のインク壺ととりだすのを見たはずである。インクの色は緑がかった銀色で、ほんものの銀とエメラルドの粉末が入っている。 ドラコ・マルフォイはベッド下の大きなトランクから、やはり銀とエメラルドを使って製本された『ブリテン貴族作法集』をとりだす。 そしてその本を脇においてときどき確認しながら、新品の羽ペンで書きはじめる。 彼の父親を彷彿とさせる暗い笑みを浮かべながら、一文字一文字を念入りに芸術品のように書いていく。

 

元老貴族マルフォイ家アブラクシスの子である現当主ルシウスの子、元老貴族ブラック家当主ドルエラの娘ナルシッサの子にして、元老貴族マルフォイ家の継嗣たるドラコより

 

グレンジャー家初代、ハーマイオニーに告ぐ。

 

(泥血への呼びかけとして用いるこの文句はもともとは丁重な表現とされていたのかもしれないが、数百年たったいまでは、洗練された悪意をうっすらと伝えることができる表現である。)

 

過日 』

 

いったんそこで羽ペンを止め、インクがたれないよう、慎重に脇にのける。 まずなにか口実が必要だ。すくなくとも、決闘の条件をこちらから決めたいのであれば。 通常なら決闘を申しこまれたほうが条件を決めるのだが、ことが〈貴族〉に対する侮辱なら話が変わる。 つまり、ドラコがグレンジャーに侮辱された、と言える口実を探さなければ……

 

いや、なにを考えているんだ。あれは侮辱そのものじゃないか。

 

ドラコは文例集が書かれているところまでページをめくり、よさそうな文例を見つけた。

 

過日、貴君は三度にわたり我が衷心よりの援助を受け取りながら、その恩を仇で返すがごとく、奸計をしかけられたと言い立て、虚偽の誹謗中傷を行い、

 

ドラコは一度とまって息をすい、怒りを静めなければならなかった。 自分はたしかに侮辱されたのだという思いが強くなり、無意識に『虚偽』の部分に下線をつけてしまっていた。決闘状にはふさわしくない書きかただが、すこし考えてからそのままにすることにした。 作法にのっとらない表現であるにせよ、多少感情をあらわにすることも適切なように思えた。

 

公衆の面前で我が名を貶めた。

 

その賠償として、慣習と法に則り、

 

「第三十一期ウィゼンガモート第七回の判決の先例に従い……」  この部分は芝居にもよく登場するので、ドラコは本を見ずに口述することができる。口述するあいだに背すじがのび、自分の貴族の血が脈うつのを感じた。

 

慣習と法に則り、第三十一回ウィゼンガモート第七番の判決の先例に従い、下記の規定のもとでドラコ対ハーマイオニーの魔法による決闘を要求する。一、両名は単身で参上すべし。事前にも事後にも他言は無用。

 

これなら、決闘が思うような結果にならなかったとしても、だれにも言わなければそれでいい。 もし勝てれば、その実験結果をもとに、()()()()()公開試合でも倒せそうだということが分かる。 不正もいいが、〈科学〉もそれなりに役に立つ。

 

二、武器は各々の魔法力のみ。死や深刻な後遺症をもたらす呪文は禁ずる。

 

……場所はどうする? 決闘に適した部屋がこの学校にひとつあることは以前から聞かされている。その部屋なら、室内の貴重品はすべて結界で守られていて、肖像画もいないから告げぐちされる恐れもない……その部屋の名前はたしか……

 

三、場所はホグウォーツ魔術学校の陳列室。

 

二度目の、公開するほうの決闘は、早いうちにやるにかぎる。たとえば明日。スリザリン寮内でドラコの名声が失墜するのに長くはかからない。ならば、一度目の決闘の時間は今夜しかない。

 

四、時は本日深夜零時。

 

以上、元老貴族マルフォイ家、ドラコより。

 

ドラコは決闘状にそう署名してから、それほど上等ではない羊皮紙をもう一枚とりだして、ふつうのインクで追伸を書いた。

 

追伸——法律上の位置づけについて、念のため言っておく。 ぼくは元老貴族として、自分を侮辱した者に決闘を申しこむ法的権利がある。 フリトウィックを陳列室に連れて来るのはもってのほかだが、だれかに他言するだけでも神聖な決闘の条件にそむいたことになる。そうなれば即座に父上が介入する。一発でウィゼンガモートものだから、そのつもりでいろ。

 

——ドラコ・マルフォ 』

 

最後のもう一文字を書くところでちからがはいりすぎ、ペン先が折れてインクがしたたり、羊皮紙が小さく破れた。これも悪くない、とドラコは思うことにした。

 

◆ ◆ ◆

 

スーザン・ボーンズはその夜の夕食で、近ぢかドラコ・マルフォイがハーマイオニーに謀略をしかけそうだということを教えるため、ハリー・ポッターのところに来た。 すでにスプラウト先生とフリトウィック先生にはそのことを伝えてあり、アメリアおばさんにも夜のうちに手紙を飛ばすつもりだという。S.P.H.E.W.のメンバーにも、ハリー・ポッターにも言っておきたいが、パドマにだけは言わないでおきたい、パドマはハーマイオニーも自分の軍の司令官も裏切れないと思って困っているようだから——と、やけに真剣な表情でスーザンは言った。

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは、()()()()()()()()()をしているべきなのにこれではやってられないと思い、『なんとかしないといけないことは分かっている』とスーザンに強く当たった。

 

スーザン・ボーンズが去ると、ハリーはレイヴンクローのテーブルの端のほうを見た。ハーマイオニーはそこで、パドマやアンソニーともほかのどの友だちとも離れて座っていた。

 

ただ、見るかぎりとてもだれかに話しかけられたそうな雰囲気ではなかった。

 

ハリーはあとになってこのときのことを振りかえるとき、なぜSFやファンタジー小説の登場人物は重大な決断をするときかならず重大な理由を持っているものなのだろうか、と思うことになる。 ハリ・セルダンが〈ファウンデーション〉を作ったのは〈銀河帝国〉を再建するためであり、自前の研究グループをもって偉そうにしたかったからではない。 レイストリン・マジェーレが兄との縁を切ったのは神になるためであり、人間関係に失敗したうえだれにも相談する気がなかったからではない。 フロド・バギンスが〈指輪〉を受けとったのは彼が英雄であり〈中つ国〉を救いたかったからであり、受けとらないと格好がつかないと思ったからではない。 この世界の真の歴史をだれかが書いたとしたら——実際にはだれにもそんなことはできないが——さまざまな〈運命〉の瞬間のうち九十七パーセントは実は、うそやティッシュペーパーでできていたり、なんの必然性もないちょっとした風の吹きまわしにすぎなかったりするのではないだろうか。

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスはテーブルの端っこの席についているハーマイオニー・グレンジャーを見て、わざわざ機嫌がわるそうなときに声をかけることもないのではないか、と感じた。

 

なので、まずドラコ・マルフォイと話しておくほうがいいと考えた。ドラコがハーマイオニーをおとしいれようとしている可能性など、ほんのすこしもありえないということをはっきりさせるために。

 

ハリーは夕食がおわってから、スリザリンの階におりていき、ヴィンセントに迎えられ、『親分からだれも通すなと言われてる』と告げられた。そして……それならいますぐハーマイオニーに話しにいこうか、とも考えた。 これ以上事態がからまりあうまえに、ほどきにかかったほうがいいのではないか、とも考えた。 そうしないのはただ、後回しにしたいと思っているからではないか……自分は不愉快だがやらねばらないことを先送りするために都合のいい言いわけを考えてしまっているのではないか、とも考えた。

 

そこまで考えたのだった。

 

それからハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは、翌朝日曜日の朝食が終わった時にドラコ・マルフォイに話しに行くことにし、ハーマイオニーとは()()()()()話そうと決めた。

 

人間はついこういうことをしてしまう生きものである。

 

◆ ◆ ◆

 

一九九二年四月五日、日曜日の朝。ホグウォーツ大広間の模造の(そら)は猛烈な雨にみまわれている。雷光が千々に乱れて四列の寮テーブルにふりそそぐと、テーブルは真っ白になる。そのたびに生徒たちの顔が一瞬だけ幽霊(ゴースト)のように見える。

 

ハリーはレイヴンクローのテーブルの席でぐったりとしてワッフルを食べながら、ドラコの到着を待っている。やっとこれで、一連の事態になんとか収拾をつけることができると思いながら。 なぜかハンナとダフネの写真を一面にのせている『クィブラー』がそこらじゅうで回覧されているが、ハリーのところにはまだ届いていない。

 

ハリーはワッフルを食べおえてから数分後、もう一度あたりを見まわしたが、ドラコがスリザリンのテーブルに来ている様子はなかった。

 

おかしい。

 

ドラコ・マルフォイはめったに遅刻しない。

 

ハリーはスリザリンのテーブルのほうを見ていたので、ハーマイオニー・グレンジャーが大広間の大扉を通過してきたのに気づいていなかった。 なので、ふりむいたとき、となりの席にあたりまえのようにハーマイオニーが座っているのを見てびっくりした。ハーマイオニーはその習慣が一週間以上とだえていたことを認識していないかのようだった。

 

「おはよう。」とハーマイオニーは完全に平常どおりの声で言って、トーストを自分の皿にとり、健康のためにくだものと野菜も何種類かとっていく。 「元気?」

 

「ぼく独特の平均値からすると標準偏差1以内かな。」  ハリーは無意識にそう返事する。 「きみは元気だった? ちゃんと眠れてる?」

 

ハーマイオニー・グレンジャーの目の下にはくまがあった。

 

「えっ、別になんともないけれど。」

 

「あの……」と言ってハリーはパイをひと切れ皿にとった(ハリーの脳はほかのことに気をとられていたので、手がかってに動いて、近くにあるうちで一番おいしそうなものをとってしまい、もうデザートを食べる段階なのかといった複雑なことを考慮にいれることができなかった)。 「あの、ハーマイオニー、ちょっとあとで話があるんだけど、いいかな?」

 

「ええ。いいに決まってるでしょう?」

 

「いや——その——最近しばらく、ぼくらは——ほら——」

 

いいからだまれ——と、最近ハリーのこころのなかでハーマイオニー関係の問題にわりあてられたらしい部分が言った。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはそもそもあまりハリーのことが目にはいっていないらしく、 つづきを言えないハリーをよそに、目のまえにある皿を見たまま十秒ほど止まっていた。それから、皿にあるトマトのスライスを一枚ずつ、ぱくぱくと食べていった。

 

ハリーもそちらを見るのをやめて、皿の上にいつのまにか出現していたパイを食べだした。

 

「ところで! 今日、なにか特別なことはある?」  ハーマイオニー・グレンジャーは突然そう言った。皿の上の食べものはもう、おおかたきれいになっていた。

 

「ええと……」と言って、ハリーはなんとか話をつなぐため、必死にあたりをきょろきょろして、なにか特別なことが起きていたりしないか、探そうとする。

 

なのでハリーはいちはやく『それ』を目にし、無言で指さすことになった。同時に大広間じゅうからひそひそと声が聞こえてきたことからして、ほかにも大勢の人が目にしたようだった。

 

着用しているローブの赤色だけで十分識別できてよかったはずだったが、ハリーの頭脳がその人たちの顔を認識するまでには数秒を要した。 一人はアジア系の厳粛な顔だちの男で、今日はとりわけ暗い表情をしている。 一人は部屋全体をにらみつけるように見わたし、一本にたばねた長い黒髪を背後になびかせる。 一人は彫りのあさい白いひげづらの男で、石のように無表情な顔つき。 ハリーはその三人の顔を数秒かけて認識し、はるか遠い一月のディメンターが来た日の記憶から名前を思い起こした。名前はコモドとブトナルとゴリアノフ。

 

「〈闇ばらい〉?」とハーマイオニーは奇妙に明るい声で言う。 「ふうん、いったいなんの用事かしら。」

 

ダンブルドアがその三人に同行している。いつになく憂慮した表情をしている。 ダンブルドアは一度立ちどまり、大広間全体を見わたし、朝食の席でひそひそ話している生徒たちの列をたどり、手をあげて——

 

——まっすぐハリーを指した。

 

「こんどはなんなんだ。」とハリーは一人つぶやく。 内心ではもっとずっとパニックになっていて、どうにかしてアズカバン脱獄事件の足がついてしまったのではないかと思い、気が気ではない。 〈主テーブル〉の教師席に(さもさりげない感じで)目をやると、今朝はクィレル先生のすがたがない——

 

〈闇ばらい〉の三人はすたすたとハリーのほうへ歩いてくる。 ゴリアノフはレイヴンクローのテーブルの向こうがわで、逃げ道をふさぐように近づいてきている。コモドとブトナルはハリーがいるがわを歩いて近づいてくる。ダンブルドアもコモドのすぐうしろについてきている。

 

大広間がすみずみまで静まりかえった。

 

〈闇ばらい〉たちはハリーがいる場所までたどりつくと、三方向からハリーをとりかこんだ。

 

「ぼくになにか?」とハリーはできるかぎり平静な声で言った。

 

「ハーマイオニー・グレンジャー。」と〈闇ばらい〉コモドが平坦な声で言う。 「おまえをドラコ・マルフォイ殺人未遂の容疑で逮捕する。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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79章「交換不可能な価値(タブー・トレードオフ)(その1)」

◆ ◆ ◆

 

「ハーマイオニー・グレンジャー。」と〈闇ばらい〉コモドが平坦な声で言う。 「おまえをドラコ・マルフォイ殺人未遂の容疑で逮捕する。」

 

その一文がハリーの意識にむけて投下され、ハリーの思考を粉ごなにした。そんなばかなと思い、アドレナリンがどっと流れ、混乱のあまりハリーは——

 

「な——なにを——そんな——え?

 

〈闇ばらい〉たちはそう言うハリーの存在をまったく気にとめていない。 コモドがもう一度、平坦な声で話す。 「ミスター・マルフォイは聖マンゴ病院で意識をとりもどし、襲撃者はハーマイオニー・グレンジャーだったと証言した。 〈真実薬〉二滴を投与されても証言はかわらなかった。 おまえはミスター・マルフォイに〈血液冷却の魔法〉をかけた。発見と治療が間にあわなければ彼は死んでいた。彼が死にいたることを知りながらこの呪文をかけたとしか考えられない。 したがって、殺人未遂の容疑で逮捕する。事件の重大さをかんがみて、おまえは〈魔法省〉に拘留され、〈真実薬〉三滴を投与されて訊問を受けることになる——」

 

「なに言ってるんですか?」 ハリーは音をたててレイヴンクローのテーブルの席から立ちあがる。それに一瞬先んじて、〈闇ばらい〉ブトナルがハリーの肩を上から強くおさえていた。ハリーはかまおうとしない。 「()()()()()()()()()()()()()()ですよ、その子は。レイヴンクローで一番親切な女子で、ハッフルパフ生の宿題を手つだうことさえある——殺人をするくらいなら自分が死んだほうがましだというくらいの——」

 

ハーマイオニー・グレンジャーはすでに顔をくしゃくしゃにしていた。 「はい。……わたしがやりました。」  消えいるような声だった。

 

また巨大な岩がハリーの思考の列にむけて崩落し、思考はたちまち細かな断片になって散った。

 

ダンブルドアの顔はこの数秒間のうちに何十歳ぶんも老いたように見えた。 「ミス・グレンジャー……なぜ。」  ダンブルドアも消えいるような声をしていた。 「なぜきみがそのようなことを?」

 

「わ……わたしは——ごめんなさい——自分でもなぜなのか——」  ハーマイオニーは内がわにむかって潰れてしまいそうに見えた。泣きじゃくる声のなかから聞きとれたのはただ、「あのときは——殺そうと——思って——ごめんなさい——」

 

ハリーはそこでなにか言うべきだった。いや、いきおいよく立ちあがって〈闇ばらい〉たちを唖然とさせ、なにかものすごく巧妙な一手を打つべきだった。なのに、すでに二度、粉ごなになっていた思考過程はなにも生みだしてくれなかった。 ブトナルの手がそっと、しかし着実にハリーを席へ押しかえし、ハリーはその場に接着されたように動けなくなった。〈解呪(フィニート)〉しようとしてポケットの杖をとろうとしても、とりだすことができない。そのあいだに、〈闇ばらい〉三人とダンブルドアはハーマイオニーをつれて大広間からでていき、大扉が閉まった。あとには一斉に声をあげ騒然とする生徒たちがのこされ—— なにが起きたのか、非現実的すぎて意味がわからず、ハリーは並行宇宙に転移させられたような気分がした。そのとき、自分がおなじように困惑させられた別のできごとのことがフラッシュバックした。あのときウィーズリー兄弟はどうやってリタ・スキーターを騙したのか。ハリーはいまごろになってやっとそれを理解し、同時に必死にさけんだ。 「ハーマイオニー、きみは犯人じゃない。きみは偽記憶の魔法をかけられたんだ!

 

だが扉はもう閉じている。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァはとてもじっとしていることなどできず、総長室のなかをうろうろ歩きまわる。セヴルスかハリーのどちらかから、静かに座っていろと言われるのではないかと内心どこかで思ってもいた。実際には二人はただ、〈煙送(フルー)〉から出現したアルバス・ダンブルドアを注視しているだけだった。 背景にあるさまざまな音は、この場のだれの耳にもとどいていない。 セヴルスはいつにもまして素っ気ない表情で、総長の机のとなりの小さなクッションつき椅子に腰をおろしている。総長はまだ火のある暖炉の脇に、けわしい顔をして立っている。星のない夜空の色をした黒ローブがものものしい。 ミネルヴァ自身の心中には混乱と恐怖がうずまいている。 ハリー・ポッターは木製の椅子の座をきつく手でにぎって座っている。その目からは怒りと凍りつくような冷ややかさが感じられる。

 

この日の午前六時三十三分、クィリナス・クィレルが自室から〈煙送(フルー)〉で聖マンゴ病院に連絡し、ドラコ・マルフォイの救急搬送をもとめた。クィレル教授は陳列室内で〈血液冷却の魔法〉による体温低下で死の間際にあったドラコ・マルフォイを発見したのち、即座に冷却魔法を解除し、容態を安定させるための呪文をかけ、浮遊させて教授室まで運んだ。それから総長に簡単に事情を報告したうえで、ドラコ・マルフォイに治療を受けさせるため、聖マンゴ病院へ向けて自室の〈煙送(フルー)〉にすがたを消した。その後、聖マンゴ病院からの通報を受け、〈闇ばらい〉がクィリナス・クィレルに事情聴取を要求した。

 

〈血液冷却の魔法〉がドラコ・マルフォイを殺す目的でかけられたのであろうことは明白だった。ホグウォーツ城内の結界は身体の急激な異常を検知するが、このようにゆるやかな変化を検知するようにはできていない。 事情聴取の過程でクィレル教授は以前からドラコ・マルフォイの身体に監視魔法をかけていたことを明かした。かけた時期は冬至(ユール)休暇からホグウォーツにもどってすぐのことで、理由はドラコ・マルフォイに害をなす動機のある人物の存在を察知したからだという。 クィレル教授はその人物の氏名を明かすことを拒否した。 監視魔法はドラコ・マルフォイの健康度の変化量ではなく絶対値が所定の水準を下まわったときに起動するようになっていた。そのおかげでクィレル教授は手おくれになるまえに事態を知ることができたという。

 

ミスター・マルフォイには、証言を誇張したり控えたりすることのないよう、〈真実薬〉二滴が投与された。証言によれば、彼はハーマイオニー・グレンジャーに決闘を申しこんだ——これは〈貴族〉法の観点では合法だがホグウォーツの校則には違反している。 彼はその決闘に勝ったが、決闘の場を去るとき、ミス・グレンジャーがはなった〈失神の呪文〉で背後から撃たれたという。 記憶はそこでとぎれていた。

 

ハーマイオニー・グレンジャーは〈真実薬〉三滴を投与され、事件に関連する情報をあますところなく告白させられた。当人の言によれば、彼女はドラコ・マルフォイを背後から撃って失神させ、さらにかっとなって発作的に〈血液冷却の魔法〉をかけたという。校内の結界のしくみについては『ホグウォーツとその歴史』を読んで知っていたので、抜け目ない殺意をもって、結界に引っかからない緩慢な殺しかたをえらんだのだという。 彼女は翌朝、目をさましてから自分自身の行動に愕然としたが、ドラコ・マルフォイはすでに死んでいるものと思い——実際、〈血液冷却の魔法〉の効果は七時間つづいており、もしドラコ・マルフォイの魔法的な抵抗力が不足していれば確実に手遅れだった——だれにもそのことを話さなかった。

 

「彼女の裁判は、明日正午に執行されることになった。」とアルバス・ダンブルドアが言った。

 

「は?」と〈死ななかった男の子〉ハリー・ポッターがおさえきれずに言いだす。立ちあがってはいないが、椅子をつかむ手に指の骨が浮き出ているのが見える。 「そんなむちゃくちゃな! たった一日で捜査が終わるわけがない——」

 

〈薬学〉教授が声をあげた。 「ここがマグル世界ではないことを忘れるな!」  表情はいつもとかわらず平坦だが、声はするどい。 「被害者と被疑者の両方が〈真実薬〉を飲んで証言したことで、犯行の事実は確認できている。〈闇ばらい〉からすれば、それ以上捜査すべきことはない。」

 

「いや、まだ終わりではない。」とダンブルドアが、爆発寸前のハリーを横目に言う。 「この件については、細部にいたるまで調べあげるようアメリアに念押ししてある。残念ながら、決闘が起きてしまったのは深夜零時であり——」

 

()()()()()()()()()()()()のは、でしょう。」とハリー。

 

「——さよう、たしかに——()()()()()()()()()()()()のは深夜零時であり、現時点では〈逆転時計(タイムターナー)〉を使ってもその時間に到達することができない——」

 

「……できないとされているにせよ、それ自体不自然ですね。容疑者ということになっている人物は、〈逆転時計〉のことを知らないんですから。 当然、通報があった時点で即座に、見えないすがたの〈闇ばらい〉ができるかぎりその時刻近くに送りこまれたと期待したいところですが——」

 

ダンブルドアはうなづいた。 「知らせを受けてから間髪をおかず、わし自身が陳列室へ行った。 しかし行くことができた時間には、すでにミスター・マルフォイは意識不明で、ミス・グレンジャーはその場を去っていた——」

 

「いいえ。あなたは陳列室に行ってドラコが意識不明で倒れているのを見た。それだけでしょう。 あなたはハーマイオニーがいたことも去るところも()()()()()()。 見たことと推理したこととを混同しないでください。」  そう言ってからハリーはミネルヴァのほうを見た。 「『インペリオ』、『オブリヴィエイト』、〈偽記憶の魔法〉、〈開心術〉。 ハーマイオニーの精神を改竄して、自分がしていないことをしたように思わせることができる魔法はこれ以外にありますか? マクゴナガル先生。」

 

「〈錯乱(コンファンド)の魔法〉。」  それと、〈闇の魔術〉は専門ではないが、知識としては知っている—— 「……もういくつか、そのような〈闇〉の儀式もあります。 ですがどれも、ホグウォーツ城内で使えばかならず警報が作動します。」

 

少年はうなづいたが、まだ話はおわっていないと言うようにミネルヴァを見つづけた。 「そのどれかが使われた痕跡の有無を調べられますか? 〈闇ばらい〉が検出しようとするのはどれですか?」

 

一瞬考えてから返事する。 「〈錯乱(コンファンド)〉は数時間で効果が切れます。……〈服従(インペリオ)〉なら、ミス・グレンジャーにその記憶がのこっているはず。 〈忘消〉(オブリヴィエイト)の痕跡を検出する方法は知られていませんが、校内で教師以外の人間がこれを生徒に使えば、結界の警報が作動します。 あとは〈開心術〉——これを検出できるのは別の〈開心術師〉だけだと思います——」

 

「わしからミス・グレンジャーを法廷〈開心術師〉に診察させるよう要求しておいた。その診察結果によれば——」

 

「その人は信頼できますか?」とハリー。

 

「ソフィー・マクヨルゲンソンという女性じゃが、彼女の誠実な人柄はレイヴンクロー生であったころから知っている。彼女は〈不破の誓い〉により、ありのままの真実を話すことを強制されてもいる——」

 

「〈変身薬(ポリジュース)〉でだれかがそのひとになりすましている可能性は?」とまた、ハリー・ポッターが割りこんで言う。 「あなたが()()()()()()()()ことをそのまま話してください。」

 

アルバスは重い声でこたえる。 「マダム・マクヨルゲンソンの外見をした人物からわしが聞いたところによれば、数カ月まえにミス・グレンジャーの精神に軽く触れた〈開心術師〉が一人だけいるという。 時期は一月。これは例のディメンターの件でわしがミス・グレンジャーと交信したときのことにちがいない。 そこまでは予想どおり。意外なのは、そのさきの部分じゃ。」  アルバスは〈煙送(フルー)〉の暖炉をじっと見た。 「きみが言うように、〈偽記憶の魔法〉の可能性も考えられる。偽記憶は完璧に処置されれば真の記憶と区別がつかない——」

 

「そうでしょうね。」とハリーが割りこむ。「人間の記憶は想起されるたびにほぼ毎回上書きされているという研究結果があります——」

 

「ハリー。」とミネルヴァがそっと声をかけると、ハリーはくちを閉じた。

 

「——しかしそれだけの精度の〈偽記憶〉をつくりだすには、真の記憶をつくりだすのと同程度の長さの時間がかかる。つまり、十分間の記憶をつくるには十分間かかるということ。 法廷〈開心術師〉の診察結果によれば……」  アルバスの顔にしわと疲労の色が濃くなったように見えた。 「ミス・グレンジャーはセヴルスに……どなりつけられた日からずっと、 ミスター・マルフォイがスネイプ先生と共謀して、彼女自身とハリーに害をなそうとしているのではないかという考えに取りつかれ——毎日何時間もそれを想像しつづけていたという。だれにもそのような長期間の偽記憶をつくることはできまい。」

 

「狂人めいたふるまい……」  セヴルスがひとりごとのようにつぶやく。 「それが自然に生じた? いや、そんな不幸な偶然はない。 どう考えても、()()()にとって都合がよすぎる。 マグルの薬物(ドラッグ)……? いや、それだけでは到底たりない——ミス・グレンジャーを狂気へ()()したなにかがあったはず——」

 

「ああ!」  ハリーがだしぬけに言う。 「わかりました。 ハーマイオニーが()()()()〈偽記憶の魔法〉をかけられたのは、スネイプ先生にどなられたあとのことで、そのとき……たとえばドラコとスネイプ先生が共謀して自分を殺そうとしているところを見た、というような記憶を植えつけられた。 その〈偽記憶〉は昨夜、『オブリヴィエイト』で()()()()()。するとハーマイオニーには自分が特別な理由もなくドラコに執着していた記憶だけがのこる。そのあとで、ドラコともども、決闘をした記憶を植えつけられた。」

 

ミネルヴァははっとして目をしばたたかせた。 自分なら何年かかっても思いつかない可能性だと思った。

 

セヴルスは思案げに眉をひそめ、するどい目をする。 「〈偽記憶の魔法〉をかけられた者がどう()()するかは、事前に予測しがたい。〈開心術〉なしには。 偽の記憶をもたされた者が、術者の期待どおりにふるまうとはかぎらない。 危険な賭けだ。 しかし、たしかにクィレル教授がとりえた手段のひとつではあるな。」

 

()()()()()()? クィレル先生がそんなことをする()()がどこに——」とハリー。

 

セヴルスが乾いた声で言う。 「〈防衛術〉教授はどうあっても疑われるものだ。しばらく見ていればそういう傾向があるということは自然と分かる。」

 

アルバスが片手をあげて話をとめる仕草をし、全員がそちらをむいた。 「ただし今回はほかにも被疑者がいる。……ヴォルデモートじゃ。」

 

身の毛がよだつその名前が室内にひびき、暖炉の火からくる温度を打ち消した。

 

「ヴォルデモートが不死を達成した方法について、分かっていることはあまりに少ない。 何冊も本を調べてはみたが、ことごとく彼にさきを越されていたらしい。 見つかったのはどれも古く断片的な伝承ばかりで、多数の巻に散らばっているために彼の改竄をまぬがれたと見える。 しかし多数の伝承のなかから真実を探りあてる作業もまた、魔法使いの腕の見せどころ。そのためにわしは努力を惜しまなかった。 それが生けにえとして人命を……殺人を必要とする術であることはまちがいない。 犠牲者は恐怖を感じながら冷血無比な方法で殺されなければならない。 そして古い古い伝承には、過去に倒されたはずの〈闇の王〉の名をなのり、正気をうしなったふるまいをする者たちの話がある……。多くの場合、その〈闇の王〉にまつわる道具を持ってもいるという……」  アルバスはハリーの目をじっとのぞきこんだ。 「ハリー——きみはきっと推測にすぎないと言うじゃろうが——わしは殺人という行為が魂を引き裂くのだと考える。 そして、おぞましい暗黒の儀式をもちいることで、引き裂かれた魂の断片を現世につなぐ方法がある……現世の、なんらかのかたちある存在につなぐ方法が。 その物体は、もともとそうでなかったとしても、強い魔力をおびるようになる。」

 

分霊器(ホークラックス)』という恐ろしい名がミネルヴァのこころのなかに響く。しかし——なぜなのかは分からないが——アルバスはハリーのまえでその名を言うことを控えているらしい。

 

「結果として、身体に残留したほう魂もそのつながりの一部となり、身体が滅びても魂の残骸は現世を離れない。 おそらくそれは魂ですらなく、どんな幽霊(ゴースト)にも劣るみじめな存在……」  老魔法使いの目はハリーだけを見ている。ハリーもするどい視線を返している。 「引き裂かれた魂がなにがしかの生命をとりもどすまでには長い時間がかかる。 われわれに十年間の猶予があったのは……ヴォルデモートが即座に復活しなかったのは、そのためであろうと思う。 しかし時が満ちれば……ヴォルデモートはちからを取りもどす。 ……伝承によれば、別人の肉体に憑依することで復活した〈闇の王〉は、かつてのように強力な魔法力をふるうことができなかったという。 ヴォルデモートはそれで満足する男ではない。 別のやりかたで復活を目指すにちがいない。 しかしサラザール以上にスリザリン的なヴォルデモートのこと、みじめな状態のままでもあらゆる機会をとらえ、理由さえあれば憑依力を行使しようとするにちがいない。 たとえば他者の……不可解な怒りの感情を利用することもあろう。」  そこまで話すうちにアルバスの声はごく小さくなっていた。 「それがミス・グレンジャーの身に起きたことだったのではないかと思う。」

 

ミネルヴァは声をつかえさせる。 「つまり……彼がもうここに……()()()()()()()()——」

 

そしてはたと思いだす。ヴォルデモートがホグウォーツに来るべき理由といえば——

 

老魔法使いは一度ちらりとミネルヴァの顔を見てから、おなじ小声のまま言った。 「すまぬ、ミネルヴァ、おぬしの言うとおりになってしまった。」

 

ハリーが険のある声で言う。「言うとおり、というと?」

 

「ヴォルデモートにとってもっとも有力な復活への道。かつてなかったほど強力なすがたで復活するための、もっとも有望な方法。 それがこの城のなかに保管されている——」

 

「ちょっと待ってください。あなたはバカですか?」

 

「ハリー……」とミネルヴァは言いかけたが、気迫のない声になってしまった。

 

「ダンブルドア総長、あなたはごぞんじなかったようですがね、この城にはたくさんの子どもたちがいるんですよ——」

 

()()()()()()()()()()()()()」とダンブルドアが声をあらげる。半月眼鏡の奥の青い目がぎらついている。 「ヴォルデモートが狙うその物品の()()()()は別にいる。その物品は持ちぬしの同意によりここで保管することになった。わしはそれよりも〈神秘部〉に保管してはどうかと言ったが、 持ちぬしは認めなかった——どうしても、〈創設者〉が用意したホグウォーツ城の結界のなかで守られねばならないと、持ちぬしが——」  ダンブルドアは一度片手をひたいにあて、声を落ちつかせた。 「いや……彼のせいにするわけにはいくまい。彼の言うとおり、あれにはあまりにも大きな魔力がある。あまりにも多くの人に狙われている。 わし自身の目がとどくこの城の結界のなかに罠として設置すべきだという考えに、わしは同意した。」  ダンブルドアはうつむいた。 「いずれなんらかのかたちでヴォルデモートの手がのびてくることを予想して、そのときのための罠を用意した。 よもやヴォルデモートが——ごく短い時間であれ、すすんで敵陣の中枢に乗りこむという危険をおかすとは思わなかった。」

 

「しかし……」とセヴルスが多少とまどいを見せて言う。 「〈闇の王〉がルシウスのあとつぎを殺したとして、なんの得が?」

 

「失礼ですが。」とハリー・ポッターが険のある声で言う。 「真犯人の目的をさぐるのは、あとでいいでしょう。 いま最優先で考えるべきなのは、無実の罪で苦しんでいる生徒のことです。」

 

アルバスの青色の目が〈死ななかった男の子〉の緑色の目を見かえす——

 

「同感です、ミスター・ポッター。」と、ミネルヴァはいつのまにか話しだしていた。 「アルバス、いまミス・グレンジャーのところにはだれが?」

 

「フリトウィック先生を行かせておいた。」

 

()()()が必要です。」とハリーが言う。 「警察にむかってあっさり『わたしがやりました』と言ってしまうような状態なら、とても弁護士なしでは——」

 

「残念ながら……」  ミネルヴァは知らず知らずのうちに、厳格なマクゴナガル教授としての口調に変わっていた。 「おそらくこの段階にいたって弁護士をつける意味はありません。 彼女はこれからウィゼンガモートの審判にかけられるのです。法廷戦術だけで無罪を勝ちとれる可能性は、ほぼ皆無です。」

 

ハリーは愕然とした表情でミネルヴァを見た。弁護士をつける必要がないというのはハーマイオニー・グレンジャーを火あぶりにさせたいと言っているに等しい、とでも言いたげな表情だった。

 

「わたしもそう思う。」とセヴルスが静かに言う。 「この国の法廷に代訴士(ソリシター)が出る幕はほとんどない。」

 

ハリーはめがねを外して、数度だけ目をこすった。 「そうですか。じゃあどうやればその裁判所にハーマイオニーを自由の身にさせることができますか? 弁護士が使いものにならないのなら、どうせ裁判官も『良識』とか『先験確率』というものをろくに知らず、十二歳の女の子が冷血無比な殺人をする可能性はかぎりなく低いということすら理解できないんでしょうね?」

 

「彼女が受けるのはウィゼンガモートの審判、 審判をするのは由緒ある〈貴族〉家をはじめとする名士たちだ。」  セヴルスはふだんの皮肉な表情といくらか似た表情をした。 「彼らの良識にどれくらい期待できるかと言えば——彼らがベーコン・サンドウィッチをつくってふるまう可能性を期待するほうがまだましだろう。」

 

ハリーはくちを閉じてうなづいた。 「それで、ハーマイオニーはどういう罰を覚悟する必要があるんですか? 杖折りの罰と退学くらいは——」

 

「いや、そんな生やさしいものではない。 わざと現実から目をそむけているのか、ポッター? これはウィゼンガモートの審判だ。 刑罰に上限はない。すべては投票で決まる。」

 

ハリー・ポッターはなにごとかをつぶやいた。 「『法治主義は時代遅れで役立たず/これからの時代は人治主義』……つまりウィゼンガモートはなんの法律にも縛られていないということですか?」〔訳注:『The Incredible Bread Machine』という風刺詩の一節〕

 

老魔法使いの半月眼鏡から光が消えた。 アルバス・ダンブルドアは一言ずつ慎重に話しはじめたが、怒りの色も皆無ではなかった。 「法的には、これはマルフォイ家に対してハーマイオニー・グレンジャーが負う血の債務の問題じゃ。 マルフォイ卿はその債務の返済方法を提案する。ウィゼンガモートは提案の是非を採決する。それがすべて。」

 

「でも……ルシウスはスリザリンに〈組わけ〉されたんですから、 ハーマイオニーが駒にすぎないことは当然わかっているはずでしょう? 彼が怒るべき相手は別にいると。ちがいますか?」

 

アルバス・ダンブルドアが重おもしい声でこたえる。 「いや、きみは自分の都合のよいようにルシウス・マルフォイの動機を想像してしまっている。 現実のルシウス・マルフォイが……きみの想像に沿う考えかたをすることはない。」

 

ハリーが冷ややかな目でダンブルドアを見た。同時にミネルヴァは自分自身の感情をいっそう抑えつけようとして、足をとめて息をととのえようとした。 ミネルヴァは、いままで考えまいとして目をそむけていたが、知っていた。 第一報を聞いたそのときから分かっていた。 いまアルバスの目を見ても、やはり——

 

「死刑ですか?」  ハリーが静かにそう言うのを聞いて、ミネルヴァは背すじに寒けを感じた。

 

「とんでもない! 〈口づけ〉はない。アズカバンも考えられん。この国もまだ、ホグウォーツ一年生にそんな残酷なことをするほど落ちぶれてはいない。」とアルバス。

 

「しかしルシウス・マルフォイが杖折りの罰程度で満足するとも思えない。」とセヴルスが無感動な声で言う。

 

「なるほど。」とハリーが仕切るように言う。「ぼくの考えでは、攻撃の糸口は二つあると思います。 第一は、真犯人を見つけること。第二は、ルシウスに対する別の交渉材料を見つけること。 クィレル先生はドラコの命を救ったことで、マルフォイ家に血の債務を負わせたんじゃないですか。その返済をもとめることで、ハーマイオニーの債務を相殺できますか?」

 

ミネルヴァはもう一度おどろいて目をしばたたかせた。

 

「いや……」と言ってダンブルドアがくびをふる。 「着眼点はよいが——やはり無理がある。 おなじ命の債務でも、発生した状況に不自然なところがあるとウィゼンガモートがうたがう場合は、あつかいが変わる。 そして〈防衛術〉教授にはすくならからぬ嫌疑がかかっている。ルシウスはきっとそう論じる。」

 

ハリーは一度うなづいて、表情をかたくした。 「それなら……一度は水に流すと言いましたが——こういう状況ではやむをえません—— ドラコがぼくに拷問の呪文をかけたこと。あれも債務ですよね。あれでハーマイオニーの債務を相殺することは——」

 

「いや、相殺に足るほどのことではなかったと思う。」とダンブルドアが言う(同時にミネルヴァは思わず「え?」と言い、セヴルスは片眉を上げた)。 「そしていまとなっては、債務にできる見こみもない。 きみはすでに〈閉心術師〉であり、〈真実薬〉を投与されて証言することができない。 ドラコ・マルフォイに証言させようにも、証言席に立つまえにその記憶を〈忘消〉(オブリヴィエイト)されてしまえばそれまで——」  アルバスはそのさきを一度ためらった。 「ハリー……きみとドラコのあいだで起きたことはすべて、ルシウス・マルフォイにもいずれ伝わると思っておかなければならん。」

 

ハリーは両手に顔をうずめた。 「ルシウスはドラコに〈真実薬〉を飲ませるからですね。」

 

「そのとおり。」

 

〈死ななかった男の子〉は両手に顔をうずめたまま、それ以上話そうとしなかった。

 

セヴルスは純粋に動揺しているように見えた。 「つまり、ドラコは真剣にミス・グレンジャーを助けていたと。そしてポッター——おまえはドラコを——」

 

「転向させた?」と、ハリーが手と手のあいだから声をだす。 「そうですね、四分の三くらいまでは。 〈守護霊の魔法〉を教えたりもしました。こんなことがあってから、そのつづきができるかどうかは分かりませんが。」

 

「ヴォルデモートは今日、われわれに痛烈な打撃をくわえた。」  アルバスの声は、両手のすきまからのぞくハリーの表情とよく似ていた。 「ヴォルデモートは一撃でわれわれの……いや、そうか、わしも見おとしてしまっていたが……一撃で()()()()駒を二つ奪った。 ヴォルデモートは昔のようなゲームをしはじめた。わしとではなく、ハリーとのゲームを。 ヴォルデモートは例の予言のことを知っている。最後の敵がだれであるかも知っている。 ハーマイオニー・グレンジャーとドラコ・マルフォイが成長しハリーの味方となる時を待とうとせず、 いま攻撃しようとしている。」

 

「犯人が〈例の男〉なのかどうかは、まだなんとも言えないと思います。」とハリーがやや不安げに言う。 「早まって仮説空間をせばめすぎるべきではありません。」  一度息をすい、両手を顔からはなす。 「その方向では、できれば裁判がはじまるまえに真犯人を捕らえておきたいところです——でなければせめて、()()()()()()()()というはっきりした証拠くらいは。」

 

「ミスター・ポッター。」とミネルヴァ。「クィレル先生は〈闇ばらい〉に、ミスター・マルフォイへの害意がある人物を知っていると言ったそうです。 それはだれのことなのか、分かりますか?」

 

「はい。」とハリーは一度ためらってから言った。 「ですが、その部分の調査は、ぼくがクィレル先生といっしょにやっておきたいと思います——これはクィレル先生が同席する場でクィレル先生を調査する方法を話せないのとおなじことです。」

 

「クィレルがうたがっているのはわたしだな?」とセヴルスが言い、軽く笑った。 「そんなことだろうと思った。」

 

「ぼく自身は、決闘がおこなわれたことになっているという陳列室に行って、なにか異常がないか調べておこうと思います。 ただ行っても現場検証をしている〈闇ばらい〉に止められるだけでしょうから、先生から話をつけておいてもらえますか——」

 

「現場検証?」とセヴルスが無感動な声で言った。

 

ハリー・ポッターは一度深く息をすい、ゆっくりとはきだした。 「ミステリ小説ではふつう、一日で事件を解決できることはありません。でも二十四時間といえば——いや、()()()()といえば千八百分です。 それと、すくなくとももうひとつ、調査しておくべき場所があります——レイヴンクローの女子共同寝室にはいれる人にやってもらう必要がありますが。 ハーマイオニーはいじめ退治をしていたころ、毎朝枕の下に手紙が来ていたらしいんです。手紙でその日の行き先を指示されていたようです——」

 

「ア・ル・バ・ス……」

 

「ミネルヴァ、それは誤解じゃ。」  ダンブルドアの白い眉が上がり、おどろいた表情を見せる。 「……送りぬしはわしではない。ミス・グレンジャーはだれかにそそのかされていた……そう言いたいのかね、ハリー?」

 

「その可能性もあると思います。 そう示唆する情報はほかにもあるんです。あなたがまだ知らない情報が。」  ハリーの声が張りつめた調子の小声にかわっていく。 「ぼくが枕の下に、手紙といっしょにお父さんの不可視のマントが一足早いクリスマス・プレゼントという名目で送られてきていたことはごぞんじですね。 ハーマイオニーに手紙を送ったのもおなじ人物だと仮定すべきではないかと思います——」

 

「ハリー……」 老魔法使いはそこで一度ためらってから、つづけた。 「お父さんのマントをきみに返却するというのは、悪人らしからぬ行為だと思わないか——」

 

「そうではなく。 あなたがまだ知らない情報というのは、ベラトリクス・ブラックがアズカバンを脱獄したあとに、ぼくの枕の下にもう一度『サンタクロース』からの手紙がとどいていた、ということです。『きみはこれからホグウォーツに閉じこめられることになりそうだから、アメリカのセイラム魔女学院に脱出する手段をプレゼントしておこう』という内容の手紙が、 トランプ一式といっしょに届いていました。ハートのキングがポートキーになっているという話でした——」

 

「ミスター・ポッター!」と思わずマクゴナガル先生の声が飛ぶ。 「それはほとんど()()()()じゃありませんか! そういうことはまっさきに教師に——」

 

「わかっていますよ。ぼくは()()()()()()()()適切な行動をとりました。つまり、クィレル先生に知らせました。 クィレル先生によれば、そのポートキーはロンドン内のどこかにつながっていて——どう見ても国際移動ができるほど強力なポートキーではないそうです。 いっぽうで、これの送りぬしに害意はなく、ロンドンは中継地点にすぎなかった、という()()()もあります。」  そう言ってハリーはローブからトランプ一式と折りたたまれた手紙をとりだした。 「くれぐれも、いきなり全面攻撃はやめてくださいね。これを送った人物は、あなたたちの味方でないにせよ、ぼくの味方である可能性はあるんですから。 ただ、これが罠である可能性を考えるなら、いますぐ行ってみるべきだというのがぼくの考えです。 そしてこれを仕掛けた人たちを()()()()して、ウィゼンガモートに連れていく。この点はとても重要です。」

 

セヴルスが目を光らせ、腰をあげ、ハリーに近づく。 「ミスター・ポッター、〈変身薬(ポリジュース)〉用に髪の毛を一本もらうぞ——」

 

「そう急ぐことはない!」とアルバスが言う。 「まずはミス・グレンジャーが受けとった手紙を検分することが先決じゃろう。 同一人物どころか、似ても似つかない手紙である可能性もある。 セヴルス、おぬしが彼女の共同寝室に行って探してきてくれるか?」

 

それを聞いて、自分のぼさぼさの髪の毛をセヴルスに触らせる姿勢をとりかけていたハリー・ポッターが両眉をあげた。 「生徒の枕もとに手紙をおくような人物が校内に()()ひそんでいたと言うんですか?」

 

セヴルスが皮肉な笑いをしながら、髪の毛を一本引き抜き、すばやく絹でつつんだ。 「そういうことも十分考えられる。 スリザリン寮監を十年つとめた経験から言わせてもらえば、二人以上の人間が同時に策謀をめぐらせているときにこそ、手に負えない事態が発生するもの。 しかし総長——ミスター・ポッターの話にも一理ある。このポートキーの転送先がどういう場所か、わたしが調べておきましょう。」

 

アルバスは返事をためらったが、不承不承うなづいた。 「わかった。ただしそのまえに、おぬしと二人で話しておきたいことがある。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ポッターが一人で捜査してくると言って部屋をでたのとほぼ同時に、セヴルスがくるりと向きを変え、〈煙送(フルー)〉の粉の瓶のほうへむかった。ひらりとマントがひるがえった。 「わたしは〈変身薬(ポリジュース)〉の原液が用意できしだい、この髪の毛をいれて、出発します。総長、念のため確認しますが、さきほどの——」

 

「アルバス……」  ミネルヴァは自分の声が落ちついていることに内心おどろく。 「あなたがミスター・ポッターの枕の下に手紙をおいたのでは?」

 

セヴルスの手が〈煙送(フルー)〉の粉を火に投げる直前で止まった。

 

ダンブルドアはミネルヴァにむけてうなづき、いくらか空虚な笑みを見せた。 「やはり、ばれてしまったか。」

 

「きっとポートキーの行きさきは安全な家で、住人はミスター・ポッターをしばらくかくまってくれる。じきにあなたがそこへ参上し、ホグウォーツへ連れもどす。そういう筋書きでしょう?」  声がかたくなる。理にかなったやりかたであることは否定できない。それでもどこか、残酷な処置に思えてしまう。

 

「うむ。しかし状況によっては……」  アルバスは静かに話しだす。 「ハリーがそこまで追いこまれたなら——逃亡を成功させてやることも考えている。一定の期間であれば。 どうせ逃げだされるなら、味方のいる、素性の知れた安全な場所に行かせておきたい——」

 

「なのにわたしはミスター・ポッターをしかるつもりでいたんですよ、どうしてそんな重大なことを秘密にしていたのかと! 当然われわれに打ち明けてくれるべき問題でしょうが、と! ……どうやら、その必要はなかったようですが!」

 

セヴルスはするどい目で総長を見ている。 「そしてミス・グレンジャーへの手紙は——」

 

「〈防衛術〉教授であろうな。ただし——これは推測にすぎない。」と総長は答えた。

 

「手紙はわたしが探してきましょう。」とセヴルスが言う。 「それから、〈例の男〉についても探りはじめるべきでしょうな。」  一度眉をひそめる。 「しかしどこから手をつければよいのやら、さっぱりですがね。 魂を見つけだす術などごぞんじありませんか、総長?」

 

◆ ◆ ◆

 

〈占術〉(ディヴィネイション)教室は薄暗く、無数の香を焚く火の光で赤く照らしだされている。この部屋を見た印象を一言で言うなら、さしづめ『煙』。(そのまえにあまりの刺激で鼻が飽和してしまうから、見る暇もないかもしれない。) なんとかしてその濃霧を乗りこえると、雑然とした小部屋の様子が見えてくる。クッションつきの椅子が四十脚あり、そのほとんどは空席。部屋の中央には、椅子にかこまれた小さな空間と、この部屋からの脱出口たる円形の落とし戸がある。

 

「これは……グリム!」  トレロウニー先生が震える声でそう言って、ジョージ・ウィーズリーのティーカップをのぞきこむ。 「グリム……これは死の予兆ですよ! ジョージ、あなたの知りあいのだれかが死ぬということです——それも、かなり近いうちに! もちろん——もっとあとで死ぬ可能性もありますが——」

 

恐ろしげな宣告だが、ここの受講者全員がすでにおなじことを告げられているとあっては、ショックも薄れる。 というよりただ、耳から耳に抜けていく。そんなことよりも二人は今日起きた大事件のことを考えずにはいられない——

 

床の落とし戸がバタンとひらき、トレロウニー先生が悲鳴をあげ、ジョージが盛大に茶をローブにこぼした。つぎの瞬間、落とし戸のなかからダンブルドアがひゅっと出現した。火の鳥を肩にのせて。

 

「フレッド!」  ダンブルドアのローブは月のない夜空の黒色。青い目はダイアモンドのように硬質に見えた。 「ジョージ! 来なさい!」

 

みながいっせいに息をのむ音がした。フレッドとジョージがダンブルドアにつづいてはしごを降りていくころには、教室の全員が想像をめぐらせはじめていた。ドラコ・マルフォイ殺人未遂事件にこの二人がどう関与したのだろうかと。

 

落とし戸がばたんと閉まるや否や、周囲の音がすべて消音され、ダンブルドアが片手を差しだして命令した。 「地図をわたしなさい!」

 

「ち……地図?」  思いがけないことばに、フレッドかジョージかがショックをあらわにして言う。まさかダンブルドアに気づかれていたとは。 「え……いや、なんのことだかさっぱり——」

 

「ハーマイオニー・グレンジャーの身があやうい。」とダンブルドア。

 

「あの〈地図〉は共同寝室(ドミトリー)に置いてあります。」  ジョージかフレッドかが即答する。 「ちょっと待っていてください。ひとっぱしりして——」

 

ダンブルドアの両腕が二人を抱き枕のように引き寄せ、つんざく鳴き声が聞こえ、一瞬の閃光が見えた。つぎの瞬間に三人はグリフィンドール寮の三年生男子用共同寝室(ドミトリー)に来ていた。

 

フレッドとジョージは手ばやく〈地図〉を見つけて総長に手わたした。手わたすとき、ホグウォーツ城のセキュリティ機構の断片であるその宝物を当の機構の所有者にゆだねることに、ほんのすこしだけ罪を感じた。ダンブルドアは、一見無地の紙面に眉をひそめた。

 

「これを使うにはまず、『我 よからぬことを たくらむ者なり』と言うんです——」

 

「うそを言うのはやめておきたい。」と言って、 老魔法使いは〈地図〉を高くかかげ、「聞け、ホグウォーツ! 選び手よ、ここへ来たれ(デリギトル・プロディ)!」と叫んだ。 つぎの瞬間、つぎはぎだらけの〈組わけ帽子〉が老魔法使いの頭上にあった。そのいでたちはおそろしいほどよく似合っていて、このためにダンブルドアが生まれてきたかのようだった。

 

(総長以外の人間におなじことができないともかぎらないので、フレッドとジョージはダンブルドアがとなえた文句を即座に暗記し、〈組わけ帽子〉を利用してどんないたずらができるか考えはじめた。)

 

ダンブルドアは一刻をあらそう様子で〈組わけ帽子〉をひっくりかえし——さかさまになったので分かりにくいが、〈帽子〉は機嫌をそこねたように見えた——そのなかに手をつっこみ、水晶の棒をとりだした。 ダンブルドアはその棒で〈地図〉上にルーン文字のような模様をつぎつぎにえがき、ラテン語とは似ても似つかない奇妙な言語でなにかを詠唱した。その呪文は二人の耳のなかで気味悪い残響をたてた。 あるルーン文字をたどったところでダンブルドアは顔をあげて、するどい視線で二人をにらんだ。 「これはあとで返す。 きみたちは授業にもどりなさい。」

 

「はい。」と二人が返事する。「……あ——ハーマイオニー・グレンジャーといえば、これからドラコ・マルフォイに一生奉仕する誓約をさせられる、といううわさがあるんですが——」

 

「もどりなさい。」

 

二人は去った。

 

部屋に一人のこった老魔法使いは地図に視線をおとした。地図には、ここグリフィンドール寮の平面図が細線でえがかれている。小さな手書き文字で書かれた唯一の名前は『アルバス・P・W・B・ダンブルドア』。

 

老魔法使いは地図をなでつけてから、かがみこみ、小声で言った。「トム・リドルを探せ。」

 

◆ ◆ ◆

 

〈魔法法執行部〉の取り調べ室の照明は通常、オレンジ色の小さな器具ひとつとされている。被疑者には座りごこちの悪い金属製の椅子が用意されている。訊問を担当する〈闇ばらい〉はその向かいがわの席につく。前に身をかたむければ、取り調べ官の表情はほとんど影に隠れる。取り調べ官は被疑者の表情を見ることができるが、逆は見えない。

 

ミスター・クィレルが入室すると同時に、オレンジ色の照明が暗くなり、風に吹き消されかけた蝋燭(ろうそく)のようにまたたきはじめた。 かわって、どこからともなく生まれた氷の色の光がミスター・クィレルの全身をつつむ。白い肌が発光し雪花石膏(アラバスター)でできているように見えるが、なぜか目だけは暗闇に沈んでいる。

 

部屋のそとに控えるもう一人の〈闇ばらい〉がこの効果を打ち消そうと四度呪文を試みるが、まったく変化はない。いっぽうのミスター・クィレルは取り調べにさきだって従順に杖を手ばなしており、口頭でなにかを詠唱した形跡もなく、そのほかの術をつかおうとしたようにも見えない。

 

「クィリナス・……クィレル、か。」  〈闇ばらい〉の男はおとなしく座って待つクィレルのまえにあらわれ、腰をおろすなりそう言った。背なかに流した黄褐色の髪の毛はライオンのたてがみのように見える。黄色がかった目をした男で、百歳を越した年齢がしっかりと顔の皺にきざまれている。 男は頑丈そうな黒色の鞄を引きずってあらわれ、椅子に腰をおろすと、鞄から羊皮紙をまとめた巨大なファイルをとりだした。いまはその内容に目をとおしており、訊問すべき人物の顔に目をやる気はまだないらしい。名も名のっていない。

 

無言で羊皮紙の束をもうしばらくめくっていったあと、〈闇ばらい〉の男はまた話しはじめた。 「一九五五年九月二十六日生まれ。母はクォンディア・クィレル、父はリリナス・ランブラング、認知された非嫡出子……。 〈組わけ〉はレイヴンクロー……O.W.L.sの成績良好……N.E.W.T.sでは〈操作魔法術(チャームズ)〉、〈転成術〉(トランスフィギュレイション)に合格、〈マグル学〉は〈優〉(Outstanding)、立派なものだ……。〈古代ルーン文字〉も合格。当然〈防衛術〉も〈優〉か。 卒業後、熱心に世界各地を旅行した。ポートキーの査証の記録も多数……トランスシルヴァニア、〈禁断の帝国〉、〈終わらない夜の都市〉……、おっとこれは……()()()()とは。」  ファイルから顔をあげて、するどい視線を投げかける。 「あんな場所に、なんの用が?」

 

「観光でね、おもにマグルの領域をたずねた。おっしゃるとおり、旅行好きなもので。」

 

男はそれを聞きながら眉をひそめ、一度下を見てから顔をあげて言った。 「一九八三年、冬木(フユキ)市に行ったという記録もある。」

 

〈防衛術〉教授はすこしだけ不審げに眉をあげる。「それがなにか?」

 

「フユキ市での用件は?」  かみそりのように鋭い声。

 

〈防衛術〉教授はわずかに眉をひそめた。 「とくにはなにも。名所やそうでもない場所をまわって、あとは一人で過ごしていただけだ。」

 

「ほう? これはなかなかおもしろいことになってきた。」

 

「というと?」

 

「フユキ市への査証の記録などないからだ。」と言って男はぱたりとファイルを閉じる。 「あんたはクィリナス・クィレルではない。 いったい何者だ?」

 

◆ ◆ ◆

 

〈薬学〉教授はレイヴンクロー一年生女子の共同寝室にはいった。銅と青を基調にぬいぐるみとスカーフと安物の宝石と有名人のポスターでにぎやかにかざられた部屋だった。 ハーマイオニー・グレンジャーのベッドがどれであるかは一目で分かる。本のモンスターに襲われた形跡のあるベッドだ。

 

周囲に潜む者がいないことを各種の呪文で確認する。

 

それからハーマイオニー・グレンジャーの枕の下をさぐり、ベッドの下をさぐり、トランクをあけて、そのなかの品物にさぐりをいれる。ここにあってよいものやよくないものが出てくるが無表情にそれらをかきわけていき、やっと、いじめが起きる場所と時間を記した手紙の束を手にする。どの手紙も、優美な文字で『S』とだけ署名されている。

 

炎がぱっと燃えあがり、手紙はあとかたもなく消え、〈薬学〉教授は任務の失敗を報告しにいく。

 

◆ ◆ ◆

 

〈防衛術〉教授は座ったままひざの上で両手を組み、落ちついた様子で話す。 「ダンブルドア総長にたずねれば、彼がこの件をとうに承知していることが分かるだろう。そして〈防衛術〉の職を引き受けるにあたって、わたしの素性については詮索無用という条件でわれわれが合意したことも——」

 

取り調べ官が電撃的な速度で杖を振り、「『ポリフルイス・リヴェルソ』!」と言った。鏡の色をした光線が飛んだが、同時に〈防衛術〉教授はくしゃみをした。なぜかそれで、光線は白い火花となって散った。

 

「失礼。」と〈防衛術〉教授は丁重に言った。

 

〈闇ばらい〉は笑顔を見せたが、あきらかに本心からの笑みではなかった。 「ほんもののクィリナス・クィレルはどこへやった? 〈服従(インペリオ)〉をかけてトランクにでもぶちこんでおいて、ときどき髪の毛を拝借して違法な〈変身薬(ポリジュース)〉でなりかわるという寸法か?」

 

「ずいぶんと不思議な仮定をするものだ。」  〈防衛術〉教授はえぐるように言う。 「前代未聞の〈闇〉の魔術で本人のからだを乗っとるという手もあるだろうに?」

 

話がしばらく止まった。

 

「ふざけるのはそこまでにしてもらおうか。」と〈闇ばらい〉が言った。

 

「失礼。」と言って〈防衛術〉教授は背を椅子にもたれさせた。 「自分を卑下して話をあわせることもないと思ったものでね。 で、それがなにか? にせものは死ねとでも?」

 

「冗談としても笑えない。」と〈闇ばらい〉は小声で言った。

 

「それはそれは。さぞかしつまらない人生をおくっていらっしゃるようで、ルーファス・スクリムジョールさん。」  そう言って〈防衛術〉教授はくびをかしげ、取り調べ官を観察するような姿勢をとった。氷の色の光がとどかない眼窩のなかで、目がきらりと光った。

 

◆ ◆ ◆

 

パドマは手もとの皿をじっと見ている。

 

「なにもなしに、ハーマイオニーがそんなことするはずない!」とマンディ・ブロクルハーストが泣きださんばかりの様子で……いや、もう涙をこぼしながら声をはりあげる。実際、周囲の全員がおなじように大声でがなりあっていなかったなら、大広間全体にとどくほどの声だった。 「き——きっと、マルフォイがさきに——ハーマイオニーに()()()()()を——」

 

「司令官にかぎって、そんなことするはずない!」とケヴィン・エントウィスルがマンディよりも大きな声で言った。

 

「するにきまってる! マルフォイは〈死食い人〉の息子なんだぞ!」とアンソニー・ゴルドスタインが言った。

 

パドマは手もとの皿をじっと見ている。

 

ドラコはパドマの司令官。

 

ハーマイオニーはS.P.H.E.W.の創設者。

 

ドラコはパドマに副官の職をまかせてくれている。

 

ハーマイオニーはパドマとおなじレイヴンクロー生。

 

パドマは二人を友だちだと思っている。二人以上の友だちはほかにいないかもしれない。

 

パドマは手もとの皿をじっと見ている。 〈組わけ帽子〉がハッフルパフ行きの選択肢をあたえてくれなかったことがありがたい。 もしハッフルパフに〈組わけ〉されていたとしたら、どちらの味方をすることもできないこの状況がいっそう苦しかっただろうから……。

 

まばたきをすると、いつのまにかまた視界がくもっていたので、震える手でもう一度目をぬぐう。

 

紛糾する昼食の場でもはっきり聞こえるほどの音で鼻を鳴らしたのはモラグ・マクドゥーガルだった。つづけて、大きな声で、 「昨日の対決のとき、グレンジャーが不正をしてたのよ、きっと。だからマルフォイは決闘を言いだした——」

 

「全員だまれ!」と言いながら、ハリー・ポッターが両手をまるめてテーブルを激しく打ち下ろし、テーブルの上の皿が音をガチャリと音をたてた。

 

こういうときでもなければ教師たちからハリーに一言あっただろうが、今回は近場の生徒数人が目をむけただけだった。

 

「ぼくはさっさと昼食をすませて、捜査にもどりたかったから、話にくわわらないようにしてたんだけど、一言だけ。 みんなもうちょっと冷静になったらどうなんだ。あとで真実があきらかになったら、無実の二人にひどいことを言ってしまったと後悔するよ。 ドラコはなにもしていない。ハーマイオニーもなにもしていない。二人とも〈偽記憶の魔法〉をかけられた。それだけのことなんだよ!」  最後の部分は大声になっていた。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「それが通用すると思うのかよ?」とケヴィン・エントウィスルがすぐに反応する。 「犯人はいつもそう言うんだ! 『おれはやってない、ぜんぶ〈偽記憶の魔法〉のせいだ!』って。だれがそんなのを鵜呑みにするんだよ?」

 

それを聞いてすかさずモラグが上から目線でうなづいた。

 

そのときハリー・ポッターの顔によぎった表情を見て、パドマはびくりとした。

 

「なるほど。」とハリー・ポッターは言う。こんどは大声ではなく、やっと聞こえる程度の声。 「クィレル先生がいたら人間がなぜこれだけバカになるのか説明するところだろうけれど、今回はぼく一人でやってみよう。 人間はバカなことをして、それがばれて捕まって、〈真実薬〉を飲まされることがある。 でも大犯罪者と言われるような人はそうそう捕まらないし、捕まっても〈閉心術〉で切りぬける。 無能でへたくそな犯罪者だけが捕まって〈真実薬〉を飲まされて犯行を自白させられる。それから、アズカバン行きをのがれようと必死になって、〈偽記憶の魔法〉にかけられていたんだと言いだす。そういうことだろう? すると人間の脳はパヴロフ的な連想をはたらかせて、〈偽記憶の魔法〉という概念と真っ赤なうそを言う無能犯罪者という概念とをむすびつけるようになってしまう。 なにを聞いても、細かい情報を考慮するまでもなく()()()()()()()をするだけですませて、自分が信じていないものの箱にほうりこんで終わりにしてしまう。 ぼくのパパはバカな人たちが魔法の話をするのを聞いていて、だから魔法が実際にある可能性なんか信じられるものかと思っていた。それとおなじで、 きみたちは〈偽記憶の魔法〉が関係する可能性を信じるのは『低俗』なことだと思うんだろうね。」

 

「なにわけのわからないこと言ってんの?」とモラグが見下すように言った。

 

「自分はハリー・ポッターだから信じてもらえると思ってるんだろうけど、それがグレンジャーを〈闇〉に転向させた張本人じゃあねえ?」  そう言ったのはレイヴンクローの上級生だが、パドマの知らない顔だった。

 

「そういう風に……」  ハリー・ポッターは妙に落ちついた声で言う。 「とんでもないことを信じる非論理的な魔法族がいるのもしかたないことだと思う。 以前そのことでクィレル先生に愚痴を言ったら、逆にマグルだってそれ以上にとんでもないことをいくらでも信じているし、ぼくも人並の育ちかたをしていればそうなる、と言われた。 ふつうの人間はそういうことをしてしまうものだし、してしまう人が()()()()人間だとはいえない。しかたないことだと思う。」  そう言って〈死ななかった男の子〉は腰をあげた。 「ではぼくはこれで。」

 

ハリー・ポッターはその場の全員をあとにして去った。

 

「あんなので納得したんじゃないでしょうね?」と、となりのスー・リーがパドマに声をかけてきた。スー自身がどう考えているかは、その言いかたですぐに分かった。

 

「わ——」  声がのどから出てこない。思考があたまのなかから出てこない。 「わ——わたしは——その——」

 

◆ ◆ ◆

 

真剣に考えぬくことで、人間は不可能を可能にできる。

 

(そういう信念をハリーはずっと以前から持っていた。 物理法則という究極の限界はある、と譲歩していた時期もあったが、いまでは真の意味での限界はどこにもないのではないかと思っている。)

 

思考の速度をあげれば()()()不可能を可能にすることもできる……

 

……こともある。

 

できると決まってはいない。

 

失敗することもある。

 

()()()()できるとはいえない。

 

〈死ななかった男の子〉は陳列室のなかを見わたした。ここには優勝杯やプレートや盾や像やメダルがはいったクリスタルガラスのケースが何千何万とある。 ホグウォーツが創設されて以来、数百年をかけてあつめられた品の数々。 一週間、一カ月、あるいは一年をかけても、この部屋のすべてを『捜査』することはできないだろう。 ハリーはフリトウィック先生が不在なのでヴェクター先生のところに行き、ガラスケースにかけられた結界に傷がないか検知する方法や、実際に決闘がおこなわれたか場合にのこるであろう遺留物を見つける方法を知ろうとした。 ホグウォーツ図書館に行って、指紋の鮮度を調べる呪文や、残留した呼気を検知する呪文がないかと探しまわった。 そうやって探偵のまねごとをしてみても、なんの成果もなかった。

 

どこにも手がかりはなかった。すくなくとも、ハリーには見つけることができなかった。

 

スネイプ先生によれば、例のポートキーはロンドン市内の人気(ひとけ)のない空き家につながっていた。

 

スネイプ先生はハーマイオニーの共同寝室(ドミトリー)にも行ったが、手紙は見つからなかったという。

 

ダンブルドア総長の話では、ヴォルデモートの魂はおそらく、ホグウォーツ城のセキュリティ機構の検知にかからない〈秘儀の部屋〉を根城にしているのではないかという。 ハリーは〈不可視のマント〉をかぶってスリザリンの地下洞にしのびこみ、午後の時間をすべてつかって、ヘビらしいものに手あたりしだい声をかけてみたが、どれもぴくりとも反応しなかった。 どうやら〈秘儀の部屋〉の入りぐちは一日たらずで発見できるものではないらしい。

 

ハーマイオニーの友だちのうちまだハリーと話す気がある人全員に聞いてみたが、ハーマイオニーのくちからドラコの陰謀に関する具体的ななにかを聞いた記憶がある人はいなかった。

 

クィレル先生は夕食の時間になっても〈魔法省〉から帰らなかった。 上級生たちは今年の〈防衛術〉教授は暴力的なことを教えすぎたという理由でこの事件の責任をとらされ、解雇されることになると思っているようだった。 もうクィレル先生がこの学校からいなくなったかのような話しかただった。

 

ハリーは〈逆転時計〉の六時間すべてを使ったが、なんの手がかりも見つからないまま、就寝時間をむかえた。意識がはっきりした状態で翌日のハーマイオニーの審判にのぞむためには、睡眠が必要だ。

 

〈ディメンターを倒した男の子〉はホグウォーツの陳列室のまんなかで、足もとに落ちた杖をまえに、立ちつくしていた。

 

そして泣いていた。

 

いくら頭脳をはたらかせても、答えが見つからないこともある。

 

翌日、ハーマイオニー・グレンジャーの裁判は予定どおりに開廷する。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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80章「交換不可能な価値(その2)——(ホーン)効果」

ウィゼンガモートの議場である〈元老の会堂〉は暗く冷たい。中央の最下部から摺り鉢状にもりあがる石の段の各段には簡易な木製の長椅子が設置されている。 どこにも光源はないが、場内には十分な明かりがある。一見して説明のつかない明かりが、ただある。 壁も床もおなじ暗色の石できていて、内部から湧き出てくるような謎めいた優美な模様が表面に浮かんでいる。 この〈元老の会堂〉は魔法界に現存する最古の建築物である。このほかの主だった建築物は過去幾多の戦争を経て崩壊した。 この会堂の建造をもって戦争の時代は終わった。それが最古である所以である。

 

ウィゼンガモートの議場といえば、これ以外にない。これ以上に古い部屋はあれど、どれも隠蔽されている。 伝説によれば、マーリンの意思と魔術によってこの暗色の石壁が生みだされたのだという。マーリンは当時の世界に残っていた有能な魔法使いをすべてこの場にあつめ、その離れ業で驚嘆させ、みずからを彼らの長として認めさせたのだという。 その後も(やはり伝説によれば)このままでは世界と魔法の終焉をふせぐことはできないと予言する〈予見者〉があいつぎ、ついにマーリンはみずからの命と魔法力と時間とを犠牲にして、〈マーリンの禁令〉を発効させた。 代償は小さくなかった。魔法族は以後、このようなものをふたたび建造するすべを持っていない。 そして破壊するすべも持っていない——この会堂は核爆発の爆心にあっても傷ひとつつかず、温度すら変わらないだろうと考えられている。 それだけに、建造法がうしなわれたことが惜しまれる。

 

半円をなして広がる黒石の段の最上段に演台がある。 演台には、しわの深い顔と腰まであるひげの老人がいる。アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアである。 右手にはものものしい杖、肩には火の鳥。 左手には黒壁とおなじ色の石でできた地味な短杖。これが〈マーリンの不断の線条〉——主席魔法官(チーフウォーロック)の座に付随する魔法具である。 アルバス・ダンブルドアはこれを死のまぎわにいたカレン・ダットンから受け継いだ。命からがらでグリンデルヴァルトを倒してからわずか数時間後のダンブルドアが、不死鳥を連れて参上したときのことだった。 カレン・ダットンは完璧主義のニコデムス・カペルナウムからこれを受け継いだ。マーリンがみずからの身を犠牲にして以来ずっと、継承者が次代の継承者を指名する連鎖はとぎれることがなかった。 ブリテン魔法界はこのような仕組みで、コーネリアス・ファッジを大臣として選出しながらも、アルバス・ダンブルドアを主席魔法官の座においている。 評議会とは名ばかりのウィゼンガモートにおいて、議長の選任方法は最古の時代から、法律ではなく(というのも、法律は書き換えられることがあるので)伝統で決まっている。その方法は選挙ではない。 マーリンが身をささげて以来、主席魔法官の最大の任務は細心の注意をもって適切な後継者を指名することだった。後継者には善良な人格とそのつぎの代の後継者をえらぶだけの能力とが求められる。 数百年の時が過ぎるあいだ、一度はどこかでこの光の連鎖が崩れたのではないか、あるいはそのまま二度とあるべきすがたにもどれなくなったのではないか、という疑問はもっともだが、 実際には〈マーリンの線条〉は一度も断たれることなく、いまに至る。

 

(すくなくともダンブルドアの派閥に属する者はそう言う。 マルフォイ卿は別の考えかたをする。 アジアではまったく異なる伝承がつたえられているが、かといってブリテンの伝承がまちがっているということにはならない。)

 

議場の中央最下段に、背もたれの高い椅子がしつらえてある。黒い金属製の椅子で、足と腕をのせるためのむきだしの台がついている。これは石壁とちがい、マーリンが作ったものではない。

 

この会堂のまわりに形成されていった〈魔法省〉の庁舎は、木材が敷かれていたり、金細工や灯火がついていたりと、無用な装飾に満ちた内装がほどこされている。 ここはそうではなく。 木も金も火もない、石だけの地味な会堂。それがブリテン魔法界の心臓部である。

 

『W』の字がはいった濃紫のローブに身をつつむ魔法使い(おとこ)魔女(おんな)が幾人も、おごそかな歩調で議場に入場する。 自分たちは非常に重要な人物なのだと言わんばかりの態度である。 〈元老の会堂〉につどうウィゼンガモート評議員の男女は——男は『ロード』、女は『レイディ』の称号を持つ——自分たちのことを世界でもっとも偉大な国のもっとも偉大な魔法族だと思っている。 富も権力もある彼ら貴族に、下じもの民は平伏して懇願する。偉大でないはずがないというわけだ。

 

アルバス・ダンブルドアはこの場にいる全員の名を知っている。直接の教え子も多いが、教えを身につけた者は少ない。 ここにはアルバス・ダンブルドアと陣営をおなじくする者も対立する者もいる。どちらにも属さない中立者とは絶妙な距離感をたもっている。 アルバス・ダンブルドアはそのすべてを人間と見なしている。

 

現在ホグウォーツで〈防衛術〉教授を務める人物に言わせれば、ここにいる男女は野心的であるにせよ野望のない人たちだという評価になるだろう。 彼の意見では、ウィゼンガモートというのはそういう人たちが——ほかにすることもなく、ただ機会をうかがうばかりの人たちが行きつく格好の場所である。 そういう人たちはつきあっておもしろくはないが、利用しがいはある。真のゲームに興じる者にとって、あやつるべき駒、かせぐべき得点のようなもの。

 

半円状に列をなす評議員席ではなくその(ふち)の傍聴席のなかに、とんがり帽子の顔をしかめた魔女と、手もちのローブでできるかぎりの正装をした少年とが肩をならべている。 少年の緑色の目は冷たく、ぼんやりとしていて、次つぎと入場する議員たちのことは眼中にない。 彼にとってそれは木製の長椅子を色どる濃紫のローブの群れ——〈元老の会堂〉の外観の一部でしかない。 ここに敵か、あるいは彼が利用できるものがあるとすれば、それは『ウィゼンガモート』そのもの、つまり ブリテン魔法界の裕福な権力者層そのもの。それは総体として権力を行使するが、個人としての主体性はない。権力者層総体としての目的は、個人が参画するには異質かつ瑣末すぎる。 現時点では、濃紫のローブの群れに対して少年は好悪の感情を持っていない。少年の頭脳は彼らが善悪の判断をなしうる主体であると認識していない。 こちらはPC(プレイヤー・キャラクター)、あちらは背景。

 

その認識はまもなく変わる。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはウィゼンガモートの議場全体をぼんやりと見わたした。いかにも歴史のありそうな建て物で、ハーマイオニーなら何時間も延々とハリーに解説を聞かせただろうことは想像にかたくない。 濃紫のローブを着た人たちはすでに入場を終えており、半時間ごとに三分間余計にすすむハリーの懐中時計によれば、開廷の時刻はまぢかだ。

 

となりの席にいるマクゴナガル先生は、二十秒まえからずっとハリーから目を離そうとしない。

 

今朝読んだ『デイリー・プロフェット』紙を思いだす。 見出しの文字は『元老貴族家断絶を狙うマグル生まれの凶行』で、本文もそういう論調だった。 〈アイルランド共和軍(IRA)〉が英国軍の兵舎を爆破したころ、ハリーは九歳だった。テレビで政治家たちがだれよりも激しく怒ろうとして競いあっていたのを覚えている。 それを見てハリーは——まだ心理学をよく知らなかったその当時でさえ——こう思った。()()()()自分の怒りを見せつけようと競いあっていて、たとえほかのだれかの()()()()()()()()()()と思うことがあっても、きっとだれもすすんでそう認めようとはしない……仮にそのだれかが『アイルランド全土を核爆弾で爆撃しろ』と主張したとしても。 そして同時に——当時のハリーにそう表現するだけの語彙はなかったものの——政治家の怒りはつねに真摯さのない怒りだということ、ほかのみなのまねをして安全な標的を攻撃して点稼ぎをしようとしているだけだということも実感した。

 

ハリーはもともと、政治的な怒りは空虚なものだと思ってはいた。それなのに、ハーマイオニー・グレンジャーを糾弾する『デイリー・プロフェット』の十数の記事を読むと、なぜかそのことがいっそうはっきりと感じられたのだった。

 

トップ記事はハリーが知らない人物による記名記事で、アズカバンの年齢下限を引き下げるよう求めていた。狂った泥血(マッドブラッド)が、神聖なるホグウォーツ城内で、なんの罪もない〈元老貴族〉家の継嗣に手をかけるという暴挙を犯し、スコットランドの名誉を失墜させた—— 言語道断の重罪であり、ディメンターの刑をもってつぐなわせるほかない—— これをひとたび許せば、また別の狂った不届き者がおなじような暴挙をくわだてるであろう—— ウィゼンガモートは神聖な貴族の名誉を貶めようとする不遜な輩に断固とした裁きを——云々。

 

そのつぎの記事にも、おなじようなことがもっと貧しい語彙で書かれていた。

 

ここに来るまえに、アルバス・ダンブルドアとハリーはこういう話をした——

 

「審判の場に来るなとまでは言わん。」  静かだが妥協を許さない声だった。 「言えばどうなるかは目に見えている。 しかしきみもこちらの厚意を踏みにじるようなことはしないようにしてもらいたい。 ウィゼンガモートでは繊細な駆け引きがおこなわれる。きみはその分野になんの知識もない。 ほんのわずかな不手際がハーマイオニー・グレンジャーの身をあやうくし、 きみは一生後悔することになる。そのことをよくこころえておくように……ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス。」

 

「はい、わかっています。 ただ——なんの救いもないまま敗北が決定しかけた瞬間に帽子からウサギをとりだして逆転の一手を打ったりする用意があったりするなら、いまのうちに教えてください。無駄な心配はしたくないので——」

 

老魔法使いは気苦労に満ちた雰囲気で、ハリーに背をむけて歩きだそうとする。 「きみにそんな残酷なことをしようとは思わない。もちろんハーマイオニーにも。 正直に言うが、わしはウサギも帽子ももっていない。すべてはルシウス・マルフォイの出かたしだい。」

 

コンと音がした。大きな音ではなかったが、なぜかそれだけで議場全体が静まった。ハリーがぱっと見あげると、 一番上の段のダンブルドアが目にはいった。それはダンブルドアが左手の黒い短杖で演台をたたいた音だった。

 

「これより第二百八期ウィゼンガモート第九十回を開催する。開催を要請したルシウス・マルフォイ評議員に発言を許す。」とダンブルドアが単調な声で言った。

 

半円のなかで、演台とおなじ高さで相対する位置に、背の高い男が一人、すくりと立ちあがる。肩まである銀髪が濃紫のローブにかかっている。 「では、一人目の証言をみなさまにお聞かせしましょう。証人には〈真実薬〉を飲ませます。」  ルシウス・マルフォイはよくひびく冷たい声で言う。抑制された口調だが、かすかに義憤の色もある。 「グレンジャー家初代、ハーマイオニーをここへ。」

 

「評議員諸君は、この証人がホグウォーツの一年生であることもお忘れなきよう。」とダンブルドアが言う。 「そして証人の心身の安全は確保されねばならないということも——」

 

評議員席のだれかがプッと吹きだし、もう何人かが不服そうに鼻を鳴らした。一、二度、やじる声もあった。

 

ハリーは濃紫のローブの人たちに、キッと目をむけた。

 

怒りがつのるいっぽうで、胸さわぎがした。ひどくゆがんだものが来たような、現実そのものに乱れが生じたような感覚があった。 なにかがあることだけは不思議と分かっていながら、それがなんなのかは分からず、ただ悪化していくような気がしてしまう……

 

静粛に!」と言って、ダンブルドアが石の短杖で演台を二度たたくと、また二つ、コン、コンという音がして、騒音を押しかえした。 「諸君、どうか静粛に!」

 

証人が通される扉はハリーがいる席の真下にある。そのため、一団全体が入場し終わってやっとハリーは一人一人を確認することができた——

 

——三人一組の〈闇ばらい〉——

 

——こちらに背をむけていて顔が見えないハーマイオニー——

 

——そのうしろに、銀色にかがやくスズメと、走りまわる月光色のリス——

 

——そして、ぼろぼろのマントの下に半分隠れて、ゆがみの元凶がいた。

 

ハリーは考えるより早く立ちあがった。マクゴナガル先生がやっとのことでハリーの手をつかんで止め、杖に触れるのを阻止した。マクゴナガル先生は切迫した声でハリーにささやく。 「ハリー、ほら、ちゃんとあそこに〈守護霊(パトローナス)〉が——」

 

数秒かかってハリーはなんとか気を落ちつかせることができた。ハーマイオニーは直接ディメンターにさらされているのではない、ということを理解している部分の自分が、のこりの部分の自分を説きふせて、なんとか正気らしきものをとりもどした——

 

でも動物型の〈守護霊〉は完璧ではない。完璧であれば、ダンブルドアが痛ましい男の裸体を見ることはない。おまえだって、あのときいくら動物型の〈守護霊〉がついていても、ディメンターが迫ってくるのを感じていたじゃないか……

 

ハリー・ポッターはマクゴナガル先生に手を引かれ、ゆっくりと席にもどった。

 

もどったころにはすでに、ハリー・ポッターはブリテン魔法界全体と戦争状態になっていて、他人に〈闇の王〉と呼ばれたとしてもかまうものかと思えていた。

 

ハーマイオニーが椅子に腰をおろし、ハリーからも顔が見えるようになった。その表情は、スネイプに立ちむかったときのような凛とした表情ではなかった。〈闇ばらい〉に逮捕されたときの泣き顔でもなかった。 椅子から這いでる黒い金属の鎖に手足をつながれて、ハーマイオニーはただうつろに、なにかを恐れる表情をしてそこにいた。

 

ハリーはそれに耐えられず、 無意識に自分のなかへ、暗黒面のなかへ逃げこんで、冷たい怒りで自分を(よろ)おうとした。 しかしアズカバン以来暗黒面に没入しようとしたことがしばらくなかったので、それも間にあわなかった。 やっと血に冷たさを感じかけたところでもう一度顔をあげ、椅子に座らされたハーマイオニーを見た。見て気づいたのは、暗黒面はこの種類の痛みに対処するすべをもっていないということ。痛みは短剣のように冷たさの層に刺さり、するりと貫通した。

 

「あらあら、だれかと思えばハリー・ポッターじゃありませんか!」 と甲高い女性の声がした。やけに甘ったるい言いかただった。

 

椅子にむいていた顔をゆっくりと声の方向にむけると、厚化粧の笑顔の女性がそこにいた。厚化粧すぎて肌がほとんどピンク色になっている。そのとなりにいるのは大臣コーネリアス・ファッジ(写真で見たことがあったのでそうだと分かった)。

 

「言いたいことがあったら遠慮なく言っていいのよ? ミスター・ポッター。」  裁判の場に似つかわしくない明るい言いかただった。

 

そのあいだに、ほかの何人かもハリーに目をむけてきた。

 

いま言うべきでないことばかりが思いつき、話そうにも話せない。 ネヴィルが言ってもおかしくなさそうなことを思いつくことができない。 ダンブルドア以外のだれかから発言をもとめられたら、()()()()()()()以外なにもくちにするな、というのがダンブルドアの指示だったのだが——

 

「ぼくは総長からしゃべるなと言われています。」  ついすこし、とげのある言いかたになってしまう。

 

「あら、そんなこと。()()()()()が許可してあげますよ! 〈死ななかった男の子〉の話なら、議員一同いつでも大歓迎ですもの!」  それに合わせて、となりのコーネリアス・ファッジもうなづいた。

 

女性の顔はぶくぶくとふくらんでいて、化粧の下に生気のない肌があることがはっきり分かる。ほとんどいやおうなく、『カエル』という単語があたまのなかをよぎる。 ハリーのなかの論理的な部分が、人間の外見と善悪は相関しない、と言う。 ブスな人が邪悪である傾向があるのはディズニーの映画だけだし、ディズニーの映画がそうなのはきっと脚本家がブスじゃないからだ。判断を急いではいけない。この女性にも、ここにいるどんな人にも、一度はチャンスをあたえよう……

 

「ぼくが〈闇の王〉を倒したからですか?」と言ってハリーはハーマイオニーの椅子のうしろに浮いているディメンターを指さす。 「もっとひどい〈闇〉の生きものがここにいるようですが。」

 

女性が顔をすぼめ、すこし険しい表情になった。 「おさない子には怖く見えてしまうかもしれませんね。でもね、ディメンターというのは〈魔法省〉大臣の命令をちゃんと聞いてくれます。 第一、ディメンターがいてくれなくては、わたしたちの安全が——」

 

「十二歳の女の子がそれほど危険ですか?」とハリーは言いたてる。 「これほど〈闇〉に満ちた生きものはほかにいません。 あいだに〈守護霊〉の壁があっても、ぼくはこれを——この()()()が近づいてくるのを感じます。これはできることならここにいる人間を一人のこらず食べようとするくらいの、邪悪な生きものです! 一歩たりとも子どもに近づかせてはいけません! ぼくにも、彼女にも、どの子どもにも! むしろ、追い出す決議でもしたらどうですか!」

 

「そんな決議、できるわけがないでしょう——」とカエルおばさんが言いかえす。

 

「マダム・アンブリッジ、ミスター・ポッター、そこまで。」 と上方からダンブルドアの声がおりてきた。 そして一息おいてから、 「ただしもちろん、彼がいま言ったことはまったくの正論ではある。」

 

なかには〈死ななかった男の子〉からの忠告に恥じいった表情の議員もいた。ダンブルドアの発言に激しくうなづいた議員もいた。 しかしその人数はすくなすぎた。ハリーが期待する人数とは、ほどとおい。

 

それから、〈真実薬〉がやってきた。ハーマイオニーはこんどは一瞬泣きそうな顔をして、ハリーを——いや、マクゴナガル先生を見た。マクゴナガル先生は声をださずにくちびるの動きで返事していたが、ハリーのいる位置からは細部が見えなかった。 ハーマイオニーはそれから三滴の〈真実薬〉を飲み、途端に表情が弛緩した。

 

「ガウェイン・ロバーズ。」とルシウス・マルフォイが言う。 「貴官の実直さは全評議員が知っている。ここからはおまかせしてもよろしいかな?」

 

〈闇ばらい〉三人のうちの一人がまえにでた。

 

数度訊問がくりかえされたところで、ハリーは横をむいて両耳に指をつっこんだ。ハーマイオニーの脳は〈偽記憶の魔法〉で植えつけられた内容を再生している。 ときおり漏れる苦悶の声すら、薬物の影響で精彩がない。そのことがハリーにもハリーの暗黒面にもいたたまれない。そもそもこの偽記憶の内容のあらましは分かっているので聞く必要もない。

 

ハリーの脳裡に別の悲惨な女の記憶がぶりかえす。ヴォルデモート卿はまだ生きているとダンブルドアは言うが、ハリーは今日までそれを老人のたわごとにすぎないと思っていた。しかし、こうやって〈記憶の魔法〉をかけられたハーマイオニーをまえにすると、これをやった人物と、ベラトリクス・ブラックを——()()()()——人物とが同一である可能性は高いように思えてしまう。 二つのやりくちには陰惨な共通点がある。これを自分の意思で選択し、そのための()()をする人間には——邪悪さだけではなく、()()がある。

 

ハリーは一度上を見あげた。濃紫のローブの人たちがただじっと、これをながめているのが見えた。

 

しばらくして、夜空の星がすべて燃えつき、宇宙を照らす火がどこにもなくなったころ、ハーマイオニーの訊問が終わった。

 

「では僭越ながら……」とマルフォイ卿の声がする。 「つぎは、息子ドラコの証言を。〈真実薬〉二滴投与のうえで当人が話した内容を、ここに読みあげさせます。」

 

『模擬戦の最中にしつこく攻撃されるまでは、グレンジャーをやりこめようなどとは思っていませんでした。 でもあのできごとがあってからは、自分がこけにされたように思いました。こちらがあれだけ助けてやっていたのに——』

 

そこまでの内容が読みあげられると、ハーマイオニーのくちから、人間が巨大な落石につぶされるときに出すような声が出た。叫ぶことも息をのむこともできず、ただ一度、小さくうめく声だった。

 

「ひとつよろしいですか、マルフォイ卿。」とマルフォイ派らしい集団にいる魔女が言う。 「ご子息はこの泥血を()()()()()()()()というのですか? なぜ?」

 

「なげかわしいことに……」とルシウス・マルフォイが重い声で言う。「息子は、ある種の非常識な主張に耳を貸してしまっていたようです。 幼さゆえのあやまちとはいえ——とんだ考えちがいがこのような結果をもたらすということ。これはわれわれ全員への教訓でもありますが、今回のことで当人も身にしみたことでしょう。」

 

数段下の傍聴席で、記者の帽子をかぶり『デイリー・プロフェット』紙の記章をつけた男が長い羽ペンを手に、いそがしくメモをとっている。

 

すこしまえにダンブルドアの発言にうなづいた少数の人たちが、うんざりした顔をした。 ダンブルドア派らしい集団から魔女が一人、わざとらしく席を立ち、マルフォイ派のほうに移動した。

 

〈闇ばらい〉は単調な声で読みあげを再開する。

 

『対決するまえに施錠の呪文をやりすぎて、ぼくは疲れていました。万全の状態ではありませんでした。 自分ではグレンジャー以上の実力があると思っていたけれど確信はなかったので、決闘をすることで実験的に検証してみようと思った。で……でも理由はもうひとつあって、もし秘密の決闘で勝てたらつぎは公開の決闘で勝つところをみんなに見せてやろうと思っていました。……〈真実薬〉め。 でもグレンジャーはそのことを知らなかったはずです。なのにぼくを()()()()()()! ぼくはなんの下心もなくグレンジャーを助けていた。なのにグレンジャーはぼくを()()()()にして()()()()()()!』

 

証人の証言が終わると、ウィゼンガモートの審議がはじまった。

 

『審議』とは名ばかりのものだったが。

 

殺人は悪だとしか考える気のないウィゼンガモート評議員は多いようだった。

 

ダンブルドア派に属する濃紫のローブの男女はもっと勝ち目のある抗争のときのために政治的資本を温存することにしたらしく、だれも発言しなかった。 クィレル先生がすぐとなりで『ダンブルドア派がいまここで発言してもなんの得にもならない』と説明するのが聞こえるような気がした。

 

ただ、この際、体面を心配しなくてもいいほど万全の地位にある男が一人いた。自由に正論を言いはなつことができる男が一人いた。たった一人でハーマイオニーを弁護するその男は、肩に不死鳥をのせていた。

 

アルバス・ダンブルドアはハーマイオニー・グレンジャーが完全に潔白であると主張しようとはしなかった。 そう主張しても信じる人はいないであろうし、心証を悪くするだけだと、ハリーは事前に聞かされていた。

 

そのかわり、アルバス・ダンブルドアは淡々と根拠をあげていった。犯人はホグウォーツ一年生の女の子であること。子ども時代に愚かな失敗をした人は多いであろうこと。一年生ではまだ自分の行為にどれだけの報いがあるのか理解できなくとも無理はないということ。(そして小声になって)アルバス・ダンブルドア自身この女の子より上の年齢でも愚かなことをしたということ。

 

ハーマイオニー・グレンジャーは教師全員から好かれる生徒であること。ハッフルパフ女子四人が〈操作魔法術(チャームズ)〉の宿題をするのを助けたこともあるということ。この一年たらずのうちにレイヴンクローの寮点を百三点獲得したこと。

 

ハーマイオニー・グレンジャーを知る人にとって、今回のできごとは衝撃以外のなにものでもないということ。 証言の際、彼女がいかに痛切な声で事件をものがたったかということ。 そしてもしも彼女が事件当時、特殊な狂気にとらわれていたのであれば——われわれとしては同情をもって癒者の治療を受けさせる以外の選択肢は論外であろうということ。

 

そして最後に、ここまでの発言に反対する野次の嵐をおさえつけるようにして、問題の容疑は殺人ではなく殺人()()であるということ、結果としてだれの身にも大過はなかったのだということを念押ししたうえで、 諸君はどうか評議会はじまって以来の最悪の愚行をおかすことのないように、と言い——

 

()()()()()」とルシウス・マルフォイが言いはなった。つづいて挙手による採決がおこなわれ、審議の終了が決まった。 銀髪のマルフォイ卿は気迫のこもった様子で銀色のステッキを片手に持ってかかげ、いまにも振りおろそうとする。 「この狂った女は、ほかならぬわが子に手をかけ——〈元老貴族〉の血統の一端を途絶えさせようとした。これだけの血の債務——そのつぐないとして——」

 

「アズカバン!」とマルフォイ卿のとなりの席の、顔に傷のある男が吠える。 「アズカバン行きだ!」

 

「アズカバン!」という声が、ほかの席からもつぎつぎと——

 

ダンブルドアの手にある短杖からコツリと音がして、議場がしんとなった。 「諸君、どうか冷静に。 そして、なんと野蛮な提案か。そのような提案を通してしまっては、歴史ある当評議会の品位にかかわる。ではマルフォイ卿、つづきを。」

 

ルシウス・マルフォイは感情のない表情でじっとそこまでの様子を聞いていた。 「……ふむ。」と言うと、目に冷たい光が宿る。 「わたしもそのような要求をするつもりはなかった。 しかしそれがウィゼンガモートの意思であるなら——この娘を特別あつかいする必要もあるまい。アズカバンとしよう。」

 

「いいぞ」という声がいっせいにあがる——

 

「ものには限度がある!」とアルバス・ダンブルドア。 「子どもの精神はアズカバンに耐え切れない! この三百年われわれはその原則をまもってきたではないか!」

 

「他国からの印象も悪化するのでは?」と、するどい声があった。ネヴィルのおばあさんだ。

 

「それが通ったあかつきには、マルフォイ卿みずからアズカバンの番をしていただけますか?」  こんどはハリーの知らない、別の老魔女がそう言う。 「子どもが投獄されたとなれば、わたしの配下の〈闇ばらい〉はその任を拒否しかねませんので。」

 

「審議時間はもう終了しているが……」とルシウス・マルフォイが冷ややかに言う。 「ウィゼンガモートの意思にそむく〈闇ばらい〉しか見つけられないとおっしゃるのなら、辞職してくださってけっこうですよ、マダム・ボーンズ。後任者はいくらでもいる。 評議会の総意は明確だ。 このような言語道断の罪人には、成人に準じた裁きがふさわしい。 殺人未遂の罪に対して、アズカバンへの禁固十年。」

 

ダンブルドアが、こんどは小声になって言う。 「ほかの手段もあるのではないかね、ルシウス? 必要であれば、二人で控え室で議論することもできるぞ。」

 

銀髪の長躯の男はふりむいて、演台にいる老魔法使いと正面から向きあい、視線をかわす。そのまましばらく時間が過ぎた。

 

それからルシウス・マルフォイがまた話しだしたが、ほんのすこしだけ声が震えているようにも聞こえた。声をうまく抑制できなくなりかけているようにも思えた。 「ことは血の問題、しかも一族の存続にかかわる問題だ。 どんな大金を積まれようとも、わが子の血の債務を売る気はない。 人を愛したことも子をもったこともないあなたには理解できまい。 しかし、マルフォイ家への債務はほかにもあることを、あなたはよく知っている。息子ならきっと、自分自身の血をつぐなわれるより、母親の血をつぐなわれることをえらぶだろう。 この機会に、わたし個人に告白した罪を全評議員にむけて告白するがいい。さすれば——」

 

「とりあう必要はないわよ、アルバス。」と、すこしまえに発言した老魔女が言う。

 

老魔法使いは演台で立ちつくしている。

 

立ちつくしたまま、何度も顔をしかめ——

 

「……やめなさい。正解がなんなのかは分かっているでしょう。いくら悩んでも正解は変わらない。」

 

アルバス・ダンブルドアの返事は……

 

「ことわる。」

 

「それと、マルフォイ……」と老魔女がつづける。 「これだけの大ごとに仕立てたのも、どうせアルバスの顔をつぶそうという魂胆——」

 

「滅相もない。」と言ってルシウス・マルフォイは口もとに皮肉な笑みを浮かべる。 「わたしにとっては、息子のための報復がすべて。 ただ、ご立派なダンブルドアもこのとおり、この娘を賞賛するいっぽうで、みずからを犠牲にして彼女を救うことは露ほども考えない。そういう人間だということをはっきりさせておけば、同輩評議員諸君の参考になると思ったまで。」

 

「〈死食い人〉を思わせる残酷なやりくちだこと。」とオーガスタ・ロングボトムが言う。 「もちろんこれはたんなる比喩ですがね。」

 

「残酷?」とルシウス・マルフォイは皮肉な笑みのまま言う。 「なにをおっしゃる。 ダンブルドアの返事は最初から分かっていた。 彼が表面上の演技にたけた男であるということは、これまでにも指摘してきたとおり。 あのためらいの部分が本心だと思うなら、お笑いぐさだ。 けっきょく返事は変わらなかったではないか。」  そこで呼びかける声になる。 「では同輩評議員諸君、このあたりで採決を。 方法は挙手で十分でしょう。わざわざ人殺しのがわを味方しようという酔狂者はそうはいないでしょうから。」  最後の一言は冷たく、はっきりとした期待がこめられていた。

 

「この子を見なさい。」とアルバス・ダンブルドアが言う。 「諸君はこの子にどれだけ非道な仕打ちをしようとしているのか、分かっているのか! この子は——」  一度声がとぎれた。「……この子はおびえている——」

 

〈真実薬〉の効果が薄れつつあるらしく、ハーマイオニー・グレンジャーの様子は変わりつつあった。弛緩していた表情はわずかにゆがみはじめ、鎖につながれた手足ははっきりと震えている。椅子から逃げだそうともがく手足が、魔法の鎖の巨大な重みに上から押しつけられているように見える。 そこでハーマイオニーは首をがくがくと動かして、やっとのことでハリーと目をあわせ——

 

ハーマイオニー・グレンジャーの目はこれ以上なく明瞭に、ひとつのことを訴えていた。

 

——ハリー——

 

——たすけて——

 

つぎの瞬間、〈元老の会堂〉に氷のような声が—— 液体窒素の色をした温度と裏腹に若い声が響いた。 「()()()()()()()()()()。」

 

◆ ◆ ◆

 

列席する人びとはかなりの時間をかけても声のぬしを探しだすことができなかった。 声がわりまえの高い声であったとはいえ、子どもがそのようなことを言うとは予想しがたい。

 

人びとが声のぬしを見つけられないうちに、マルフォイ卿が応答した。

 

「ハリー・ポッター。」  ルシウス・マルフォイはそう言ってから、目礼しなかった。

 

人びとの顔と目が反応し、涙目の魔女のとなりの、髪のみだれた少年に注目があつまる。 少年は黒の礼服ローブを着て、靴をはいて立っているが、胸より下は机に隠れている。 遠くの席からではよほどの視力なしには見えないが、みだれた髪の下には有名な傷あとがある。

 

「ルシウス、あなたには失望させられた。」と少年が言う。 「十二歳の女の子が殺人をする可能性は低い。 あなたはスリザリン出身で、知性もある。この事件には裏があると分かっているはずだ。 ハーマイオニー・グレンジャーは何者かの謀略にむりやり参加させられた駒にすぎない。 あなた自身のそのふるまいさえ、まちがいなく謀略の筋書きに書かれている——ただし、ドラコ・マルフォイは本来死ぬはずで、あなたは完全にわれをうしなっていたはずだった。 実際にはドラコ・マルフォイは生きていて、あなたは正気だ。 なのにあなたはわが子を殺すはずだった謀略に迎合するような態度をなぜとりつづけるのか?」

 

ルシウスの心中には嵐が吹き荒れているようで、銀髪にかこまれたその顔がいつぱくりと割れて得体の知れないなにかをのぞかせるとも知れない。 くちを閉じたまま一度うごかし、もう一度うごかし、三度目にもまた声にならないなにかを言い、そのつぎにようやく声がでる。 「謀略……だと?」  表情はひきつり、抑制はほとんどうしなわれている。 「だれの謀略だと言いたいのかね?」

 

「それが分かっていたら、とっくにそう言っていますよ。 けれどハーマイオニー・グレンジャーの同級生ならだれでも、彼女が人殺しとほどとおい人物であることは分かります。 ハッフルパフ生の宿題の手つだいを買ってでるくらいの女の子ですからね。 この不自然さが分かりませんか、マルフォイ卿。」

 

「たとえ騙されてのことにせよ——」  ルシウスの声が震える。 「この娘はわたしの息子に手をだした。それをただでおくものか。 貴君はそのことをよく分かっているはずだがな、()()()()()()()()。」

 

「いいえ、ハーマイオニー・グレンジャーが問題の〈血液冷却の魔法〉をかけたという確証はありません。かけていない可能性のほうが高いくらいです。 正確にどういう状況でどんな呪文がつかわれたかは分かりませんが、単純なトリックで彼女にこれだけのことをさせることはできません。 となると、本人の意思にそむいてだれかがそうさせたことになる。あるいは犯行そのものが起きていないのかもしれない。 マルフォイ卿、あなたは誘導されてしまっている。あなたの敵は十二歳の女の子ではない。あなたが復讐すべき相手は別にいる。」

 

「この娘になにをそこまで入れこむことがある?」とルシウス・マルフォイが声をあらげる。 「貴君の知ったことではないだろう?」

 

「彼女はぼくの友だちで、ドラコもぼくの友だちです。 今回の件で狙われたのはマルフォイ家ではなく、ぼくである可能性もあります。」

 

ルシウスがまた顔の筋肉をひきつらせる。 「息子に聞かせたのとおなじ欺瞞を、わたしにも聞かせるつもりか!」

 

「意外に聞こえるでしょうが、ぼくはいつもドラコには真実だけを知らせようとしていた——」

 

「もうよい! その手の欺瞞は聞き飽きた! その手の()()()も聞き飽きた! 貴君は——おまえは——息子がわたしにとってどんな存在であるかを知らない! 今回こそは、仇を討つ機会をとりあげられてなるものか! マルフォイ家へのこの血の債務、当人にアズカバン行きをもってつぐなってもらう。 もしほかに首謀者が見つかれば——たとえそれがおまえであろうとも——おなじ目にあわせるまでだ!」  そう言って、ものものしい銀色のステッキを命令するように振りあげ、ドラゴンに立ちむかうオオカミのように歯をむきだしにする。 「ほかに言えることがないなら——口をつつしめ、ハリー・ポッター!」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーの氷の暗黒面の下で心臓がはげしく鼓動する。ハーマイオニーのことを思うと、いますぐにでもルシウスに飛びかかってやりたい。ルシウスの不遜さ、()()()が許せない——が、自分には攻撃を成功させる()()がない。自分は採決にくわわる一票ですらない——

 

ドラコの話では、ルシウスはなにか理由があってハリーのことを恐れているらしい。 現にいまマルフォイ卿は苦悶の表情をしていて、ハリーに黙れと言うのに勇気を振りしぼっていたことが分かる。

 

そこにわずかな望みを託して、冷たく凄みのある声で言ってみる。 「ぼくを敵にまわしていいのかな、ルシウス……」

 

下の層の純血主義者の一角らしいあたりで、上方のマルフォイ卿ではなく下方の少年を見ていただれかが、信じられないというように笑いだした。 つづいて濃紫のローブの男女がもう何人か笑いだす。

 

笑い声がひろがるなか、マルフォイ卿は態度をゆるがすことなくハリーをじっと見つづけていた。 「わたしはかまわない。そちらこそ、マルフォイ家を敵にまわす覚悟はあるのだろうな。」

 

「それくらいでよろしいんじゃありません?」とピンク色の厚化粧の女性が声をかける。 「もうずいぶん時間をかけましたし。その子も学校の授業があるでしょうし。」

 

「ごもっとも。」と言ってから、ルシウス・マルフォイはまた声を大きくする。 「では、挙手で採決としましょう。 初代グレンジャー、ハーマイオニーが犯したドラコ・マルフォイ殺人未遂事件により、〈元老貴族〉家マルフォイ家は血統断絶の危機にさらされた。よって彼女は当家へ血の債務を負う。以上に賛成のかたは挙手を!」

 

つぎつぎと手があがり、最下段の円のなかにいる書記官が票を集計していく。しかし賛否のどちらが多数であるかはひとめで分かった。

 

ハリーはこころのなかで、自分の一部たちになにか抜け道を、戦略を、アイデアをだしてくれとわめく。 わめいても、なにもでてこない。最後の切り札はもう使ってしまったのだから。 あとはこれを試すしかないと思い、なりふりかまわず自分の暗黒面(ダークサイド)に飛びこみ、その冷徹な精神をつかまえて、なにと引き換えにしてでもいいからこの問題をといてくれと頼みこむ。 暗黒面がその呼びかけにやっとこたえて、氷のような落ちつきをもたらす。 パニックと絶望を乗りこえて、ハリーの頭脳が手もちのあらゆる情報を吟味しはじめる。ルシウス・マルフォイに関する記憶のすべて。ウィゼンガモートに関する記憶のすべて。ブリテン魔法界に関する記憶のすべて。目は椅子の列を見わたし、視界のなかにいる人間と人間以外のものすべてのなかから、利用できるなにかを見つけだそうとする——

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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81章「交換不可能な価値(その3)」

黒石の各段の席上にいくつもの手があがっている。

 

『W』の字いりの濃紫のローブを着た評議員たちはそろっていかめしい顔をして、鎖につながれ震える少女を見おろしている。 仮に自責の念を感じているとしても、感じるだけで勝手に満足しているようにしか見えない。

 

ハリーは呼吸が落ちつかない。ハリーの暗黒面は戦略を考えだし——それから、なかに引っこんでしまった。というのも、ハリーがあまり冷たい話しかたをしているとハーマイオニーの心証を悪くするから。そのことを、中途半端に冷たいときのハリーはなぜか理解できていなかった……。

 

「賛成多数。」と、集計がおわり全員の手がおろされてから、書記官が言う。 「ハーマイオニー・グレンジャーはマルフォイ家の継嗣を殺害しようとしたことでマルフォイ家に血の債務を負うものと認定されました。」

 

ルシウス・マルフォイは暗い満足の笑みをうかべている。 「さて、それでは、この債務の弁済として……」

 

ハリーは両手で長椅子のへりをつかんで叫んだ。 「その債務、マルフォイ家がポッター家に負う債務と相殺していただきます!」

 

「静かに!」とファッジ大臣のとなりにいるピンク色の厚化粧の女性が言う。 「何度議事を邪魔したら気がすむんですか、あなたは! そこの〈闇ばらい〉、この子を退室させなさい!」

 

「いいえ、そのまえに……」と上段の席のオーガスタ・ロングボトムが言う。 「マルフォイ家が負う債務、というと?」

 

ルシウスのステッキをにぎる手にちからがこもる。 「当家にポッター家への債務などない!」

 

この発想には確たる根拠があるわけではないし……手がかりは、〈偽記憶の魔法〉をかけられた新聞記者リタ・スキーターが書いた記事にすぎないのだが……すくなくともリタ・スキーターは、ミスター・ウィーズリーがジェイムズ・ポッターへの債務を負ってもおかしくないと思っていたらしい。その理由というのが……

 

「お忘れですか。意外ですね。 〈名前を言ってはいけない例の男〉に〈服従の呪い〉をかけられて、むりやり働かされていた年月は、あなたにとって苦痛に満ちた時期だったはず。あなたが解放されたのはポッター家のおかげです。 ぼくの母リリー・ポッターが命をささげ、父ジェイムズ・ポッターが命をささげ、そしてもちろん、ぼくがいたおかげで、あなたは自由の身になれた。」

 

ハリーの発言に〈元老の会堂〉の全員が一瞬沈黙した。

 

「ミスター・ポッターのおっしゃるとおり。」と老魔女が言う。さっきマダム・ボーンズと呼ばれた女性だ。 「マルフォイ卿がこれほど重大な事件をお忘れになるとは。幸せなできごとであったはずですが。」

 

「そうですね、大変な恩を感じていておかしくありません。」とオーガスタ・ロングボトムが言った。

 

マダム・ボーンズがうなづいて、つづける。 「マルフォイ家の立ち場ではその債務を無視できようはずもない——それとも、マルフォイ卿はご自身のかつての証言をひるがえしたいとおっしゃるのでしょうか? であれば、わたしの職務上、くわしくお話を聞かせていただかなければ。 あの暗黒の時代に実際なにが起きたのかを解明することにつながる情報は大歓迎ですから。」

 

ルシウス・マルフォイの両手がステッキのヘビ型の持ち手をしっかりとつかみ、そこからなにかを放出して攻撃をはじめるのではないかと思えたが——

 

それから緊張をといたらしく、表情は冷たい笑みに変わった。 「なるほど、とっさに理解が追いつかなかったが、たしかにその意味で債務はある。 しかし相殺に足る債務ではなかろう——ポッター家のおこないは、結局のところ自分たちが生きのびようとしてのことにすぎなかったのだから——」

 

「それはちがう。」とダンブルドアが上方から言った。

 

「——その点をかんがみて……」とルシウス・マルフォイはつづける。 「息子への血の債務に対して、金銭的な賠償も要求したい。これもまた法的に正当な要求だ。」

 

ハリーはなぜか、内心びくりとした。 例の新聞記事には、ウィーズリー氏が追加で一万ガリオンの支払いを要求したという話もあった——

 

「金額は?」と〈死ななかった男の子〉が言う。

 

ルシウスはやはり冷たい笑みをして言う。 「十万ガリオン。 貴家の金庫にある財産がそれに満たないのであれば、やむをえない。不足分は約束手形でよいとしよう。」

 

ダンブルドアの陣営の席から、いっせいに抗議の声があがった。中間の位置にいる議員何人かも、ショックを受けたように見えた。

 

「それでは、全評議員の投票で決をとることにいたしましょうか。」とルシウス・マルフォイが言う。 「と言っても、かの殺人鬼を野放しにしようという人は多くないでしょうがね。 債務の相殺にはもう十万ガリオン必要だとお考えのかたは、挙手を!」

 

係員が票数をかぞえはじめたが、今回も結果はすでに明白だった。

 

ハリーは姿勢をかえず、深く息をすった。

 

こんなことで迷ってんじゃないぞ——とハリーのなかのグリフィンドールが威嚇した。

 

大きな出費だからね、それなりに時間をかけて考えないと——とレイヴンクローが言った。

 

悩むことはない。悩むことはないはずだった。 二百万ポンドは大金だが、所詮はおかね。おかねはつかってはじめて意味がある……

 

ひとは『所詮はおかね』であるはずのものに不思議と愛着を感じてしまう。黄金でいっぱいの金庫のことなど、わずか一年まえには存在するとすら思っていなかったのに、なぜかそれをうしなうことを想像するだけでつらくなってしまう……。

 

またグリフィンドールの声。 なんで即答できない? こんなこと、キムボール・キニスンなら悩まない。 それで英雄(ヒーロー)のつもりか? 五十ミリ秒以内に回答できない時点で、見そこなったぞ。

 

またレイヴンクローの声。 これも現実さ。 物語の英雄(ヒーロー)ならともかく、生身の人間にとって全財産をうしなうのはつらいことだ。

 

は? レイヴンクローはどっちの味方なんだよ?

 

ぼくは特定の主張に肩入れしたつもりはない。事実を言っただけだ。

 

スリザリンが二人にくちをはさむ。 十万ガリオンだぞ。これだけの大金を一人の人間を救うためだけに消費してしまうのはもったいないと思わないか? ぼくらにはすべき研究も戦争もある。四万ガリオンの資産と六万ガリオンの負債との差は、そう簡単に見すごせないね——

 

でも、手っとりばやく大金をかせぐ方法はもう分かってるんだから、あとで補填すればいいじゃないか、とハッフルパフが言った。

 

しかしスリザリンは納得しない。 どの手法もうまくいく保証はないし、初期資金がないとなにもできなかったりするだろう——

 

ちょっと提案があるんだが……まずハーマイオニーを救って、それからスリザリン(こいつ)をみんなで殺さないか、とグリフィンドールが言った。

 

係員が集計作業の終了を告げ、提案は可決されたと記録し……

 

ハリーが口をあけた。

 

「その条件で結構です。」  その声には、なんのためらいも、決断をした形跡すらも感じられなかった。内部でおこなわれた論争などたんなる想像の産物でしかなく、声を支配する部分のハリーとは無関係のできごとだと言うかのように。

 

平静をよそおっていたルシウス・マルフォイの仮面が壊れた。ルシウス・マルフォイは目を見ひらき、ただ信じられないというようにハリーを見つめる。口がわずかにあいているが、声はでていない。仮にでていたとしても、議員たちがそろって息をのむ音の大きさに負けて、だれの耳にもとどきそうにはなかったが。

 

コンと石を打つ音がして、群衆が静まった。

 

「却下する。」とダンブルドアの声がした。

 

ハリーはぱっと振りむいてダンブルドアを凝視した。

 

ダンブルドアは血の気が引いた顔つきで、銀色のひげは見てわかるほどに震えていた。不治の病に倒れ、死の間際にあるようにさえ見えた。 「すまない——きみにはまだ、その選択をする権限がない——法的な後見人として、きみの金庫の管理権はわしにある。」

 

「な……?」  ハリーは衝撃のあまり、まともに言いかえすことができない。

 

「ハリー、きみがルシウス・マルフォイに対する負債を負う状況だけは看過できん! きみはまだ知らない——それが——それがどう利用されうるかを——」

 

死ね。

 

こころのなかでそう言ったのがどの自分だったのかは分からない。投票すれば全会一致だったかもしれない。それくらい、ハリーの内面は純粋な怒りで満ちていた。 一瞬、怒りそのものをエネルギーにして魔法の翼をはやし、ダンブルドアに飛びかかり、演台から突き落として墜落死させてやろうかと思ったほど——

 

けれどそのつぎの瞬間にも、ダンブルドアはかわらず高い演台から、黒い長杖を右手に、短杖を左手に、じっとハリーを見おろしていた。

 

ハリーの目は、ダンブルドアの黒色のローブの肩に爪でとまっている赤金色の鳥へとむかう。いまほど不死鳥(フェニックス)が鳴くべきときはないのに、声は聞こえない。 「フォークス……」  自分の声が奇妙に感じる。 「その人に一鳴きしてやって。」

 

ダンブルドアの肩の上のフォークスは鳴かなかった。 ウィゼンガモートでは沈黙の呪文がかけられる決まりなのかもしれない。そうでもなければ、きっと今日はずっと鳴きどおしだっただろう。 それでもフォークスは黄金色の羽で主人のあたまをつついた。

 

「ハリー、これだけは!」  ダンブルドアの声からは、はっきりと苦悶が感じとれる。 「わかってくれ、こうするしかないのじゃ!」

 

それを聞いて、フォークスを見て、ハリーも自分がすべきことがなんであるかを知った。 この方法には最初から気づいているべきだったとも思った。

 

「そうすると、ぼくとしても選択肢はかぎられてきます。」  ハリーはダンブルドアと二人だけで話すように言う。 「なんのことだか分かりますね?」

 

ダンブルドアは小刻みにくびをふる。 「きみもいずれ、これでよかったのだと思うようになる——」

 

「将来の話じゃありませんよ。」  やはり自分の声が奇妙に感じる。 「なにがあろうと、ハーマイオニー・グレンジャーをディメンターのえさにはさせません。 違法だろうがなんだろうが、ぼくはなにをしてでも止めるつもりです。もっとはっきり言わないと分かりませんか?」

 

どこか遠くで、男性の声がした。 「アズカバンへはここから直接送れ。護衛も多めにつけておけ。」

 

ハリーはダンブルドアを見つめたまましばらく待ち、また話しだした。 「ハーマイオニーが着くまえに、ぼくがアズカバンに先まわりして、指を鳴らしはじめます。 ぼくは結果的に死ぬかもしれませんが、ハーマイオニーが着くころにはもう、アズカバンはなくなっています。」

 

議員が何人か、はっとして息をのんだ。

 

それよりも笑いだした人のほうが多かった。

 

「行けるものならな?」と笑い声のなかからだれかが言った。

 

「ぼくなりの移動方法があります。」と遠い声で言いながら、ハリーは目をダンブルドアから離さない。ダンブルドアは愕然としてハリーを見ている。 フォークスのほうを見ればそうと気づかれてしまうだろうから見ないようにしていたが、こころのなかではフォークスに自分を転移させる準備をした。こころのなかを光と怒りでいっぱいにすることで、フォークスを呼ぶ準備をした。ダンブルドアが杖をつかおうとしたなら、すぐに対応できるように——

 

「……どうしてもか。」とダンブルドアがハリーに言った。まるで二人をおいてほかにだれ一人この部屋にいないかのような言いかただった。

 

会堂全体がまたしんとして、全員が愕然とした表情で、ウィゼンガモート主席魔法官ダンブルドアに注目した。だれもが、この老人はなにを考えてこんな荒唐無稽な脅迫を真にうけるのだ、という表情をしていた。

 

ダンブルドアの目はハリーだけを見ている。 「彼女一人のために、すべてを——すべてを犠牲にしてもいいというのか?」

 

「はい。」

 

それは不正解だぞ、勘弁してくれよ——とスリザリンが言った。

 

でも真の解はこれだけだ。

 

「考えなおす気はないのじゃな?」

 

「ないですね。」

 

二人の視線があわさったまま、止まった。

 

「これは愚行以外のなにものでもない。」と老魔法使いが言った。

 

「それも承知のうえです。」と対するヒーローが言う。 「だからこれ以上邪魔しないでください。」

 

老魔法使いの青い目が一度、奇妙な光りかたをした。 「やむをえん。しかしこの一件、このままでは終わらせんぞ。」

 

二人以外の世界がまた動きだす。

 

「さきほどの異議は取り下げる。」とダンブルドアが言う。 「後見人として、今回はハリー・ポッター当人の判断を追認する。」  それを聞いてウィゼンガモート全体がどよめき、もう一度石の短杖の音があってやっと静まった。

 

ハリーはマルフォイ卿のほうに顔をむけた。 マルフォイ卿は、ネコが人間に変身してほかのネコを食べはじめるのを見たときのような表情をしていた。 困惑の一言では到底言いつくせない表情だった。

 

ルシウス・マルフォイがゆっくりと話しだす。 「まさか本気で……たかが泥血(マッドブラッド)の娘一人の身と引きかえに、十万ガリオンを差しだすというのか。」

 

「グリンゴッツのぼくの金庫にある財産は約四万ガリオンです。」  金額をくちにすると、いまだに不思議なほどにまで大きな痛みを感じてしまう。五十パーセント以上の確率で死ぬリスクを引き受けてアズカバンを破壊しようと考えたときよりも、大きな痛みを。 「差額六万ガリオンについては——どういう決まりがあるんですか?」

 

「不足分については、きみがホグウォーツを卒業した段階で返済の義務が生じる。」とダンブルドアが高い位置から言う。 「しかしそれ以前にも、マルフォイ卿はきみに対して一定の権利を行使することができる。」

 

ルシウス・マルフォイは微動だにせず、上からハリーをねめつける。 「この娘がなんだというのかね? この娘にどんな価値がある? それほどの犠牲を支払ってまで助けたい存在とはなんなのだ?」

 

「友だちですよ。」とハリーが静かに言った。

 

ルシウス・マルフォイの視線がするどくなる。 「わたしが受けた報告によれば、おまえは〈守護霊の魔法〉を使えない。ダンブルドアもそのことを知っている。 おまえはディメンター一体を相手にして死にかけた。それでどうやってアズカバンに乗りこむことができるというのか——」

 

「それは一月当時のことですね。いまは四月です。」

 

ルシウス・マルフォイは冷たく計算高い目をしたまま、つづける。 「おまえはアズカバンを破壊できるというふりをしている。ダンブルドアはそれを信じるふりをしている。」

 

ハリーは返事しない。

 

銀髪の男はわずかに向きをかえ、半円の中心にむかって、ウィゼンガモート全体に話しかけるように言った。 「……申し出は取り下げさせていただく! 十万ガリオンを積まれようとも、当家はポッター家との債務の相殺に応じない! この娘は依然としてマルフォイ家へ血の債務を負う!」

 

また野次が降りそそぐ。「恥を知れ!」 「一度はポッター家への債務を認めておいて、それを——」

 

「債務の存在は認めよう。しかし、債務はかならず相殺せよという法はない。」と言ってマルフォイ卿は凄絶な笑みをした。 「この娘はポッター家の一員ではない。当家がポッター家に負う債務は彼女への債務ではない。 『恥』を知ることについては——……ポッター家への大恩を忘れたこと、当主としてまことに面目なく——」と言ってあたまを下げる。「わが祖先の許しを乞うほかない。」

 

「どうした、え?」とマルフォイ卿の右隣の席にいた顔に傷のある男が言う。 「さっさとアズカバンを破壊してもらおうか!」

 

「見せてもらいたいものですね。観戦のチケットを売る予定は?」と別の声が言った。

 

言うまでもなく、ハリーはこのタイミングで降参する気はない。

 

『この娘はポッター家の一員ではない——』

 

そう聞いてハリーは瞬時に活路を見いだすことができた。

 

それも、レイヴンクロー寮の上級生女子がしきりに話す話を耳にしたり、ある種の『クィブラー』記事を目にしていたおかげかもしれない。

 

見いだせたのはいいが、すんなり受けいれることはできなかった。

 

意味がわからないぞ——とハリーのなかの自称〈内的整合性チェッカー〉が言う。 さっきからぼくたちの言動にはまったく一貫性がない。 自分のを犠牲にしてハーマイオニーのために死ぬことよりも、黄金の一山を手ばなす程度のことに葛藤を感じた……かと思えば、こんどはたかが結婚に尻ごみするのか?

 

システムエラー発生。

 

あきれたやつだな——と〈内的整合性チェッカー〉が言った。

 

ぼくはいやだとは言ってないよ、システムエラーとしか言っていない、とハリーは答えた。

 

ぼくはアズカバンをぶっこわすのに一票だな、どうせいつかはやらなきゃいけないことなんだから、とグリフィンドールが言った。

 

もう付きあってられない、ここからはぼくがこの肉体をコントロールさせてもらう——と〈内的整合性チェッカー〉が言った。

 

ハリーは一度深く息をすってから、くちをひらき——

 

ハリー・ポッターはこのときまでマクゴナガル先生の存在をすっかり忘れていた。ハリーのすぐとなりで、つぎからつぎへと変遷するマクゴナガル先生の表情は見ものだったが、ハリーはそれどころではなかったので見ていなかった。 マクゴナガル先生のことをPC(プレイヤー・キャラクター)ではないと思ってその存在を忘れていた、というのは言いすぎかもしれない。 もうすこし好意的に言えば、マクゴナガル先生の存在はハリーがいま直面しているどの問題の解決にも役立たちそうにないから宇宙から消去されていた、という程度のこと。

 

この時点でハリーは血中にかなりの量のアドレナリンが流れていた。そのせいで、マクゴナガル先生の動きにびくりと反応してしまった。目は燃え、ほおの涙は半分乾き、やっと希望がつかめたという顔つきで、マクゴナガル先生は勢いよく立ちあがり、「ミスター・ポッター、こちらへ!」と言い、返事を待たずに階段をかけおり、最下段の舞台の上の金属製の椅子をめざす。

 

妙にネコに似た身のこなしで階段を飛ばしていくマクゴナガル先生にやや遅れをとりながらハリーもつづいた。着いたそこには、〈闇ばらい〉の三人が驚愕の表情で杖をかまえて待っていた。

 

「ミス・グレンジャー! 声はだせますか?」

 

ハリーはマクゴナガル先生の存在だけでなく、ハーマイオニー・グレンジャーの存在も忘れてしまっていたことに気づいた。席ではずっと背後をふりかえり、下ではなく上を見ていた。それも、ハーマイオニー・グレンジャーの存在は眼前のどの問題を解決する助けにもならないと思いこんでいたからだった。 とはいえ、ハーマイオニーを目にしてハーマイオニーの気持ちを想像することが実際助けになったかというと、それもあやしいものだが。

 

ハリーは階段をおりきって、ハーマイオニー・グレンジャーのすがたを正面から見たー—

 

無意識のうちに勝手にまぶたが動き、ハリーは目を閉じた。けれど閉じるまえに、見えてしまった。

 

顔をうずめたその制服ローブが上から下まで涙で濡れていること。

 

ハーマイオニーはそうやって()()()()()目をそらしていたのだということ。

 

とじることもそらすこともできない記憶と共感の目を通じて、これまでのハーマイオニーの気持ちの変遷が想像される。ハーマイオニーは、ブリテン魔法界の名士全員とマクゴナガル先生とダンブルドアとハリーをまえにして、一生の汚点となったできごとを供述させられ、それからアズカバンに送られ発狂して死ぬまで闇と冷気と自分の最悪の記憶にさいなまれつづけるという刑を宣告され、そこでハリーが自分を助けるために全財産をはたいて、負債も負って、死んでもかまわないとまで言うのを聞いて……

 

そのあいだずっと、すぐうしろにディメンターが控えるあの場所に座らされて……

 

……そのハーマイオニーとハリーは一言もことばをかわしていなかった……

 

「は……はい。は……話せます。」とハーマイオニー・グレンジャーがかすかな声で返事した。

 

ハリーはまぶたをひらき、ハーマイオニーと目をあわせた。 ハーマイオニーの顔を見ても、ハリーが想像していたような複雑な感情はつたわってこなかった。人間の顔の筋肉には単純な表現しかできない。それはただひたすら苦しそうにしわの寄った表情でしかなかった。

 

「ハ……ハリー、ご……ご——」

 

「ちょっと待った。」

 

「——ごめん——なさい——」

 

「あの日あの列車でぼくに会わなければ、きみはこんなことになっていないんだから、謝らなくていい。」

 

「二人ともしっかりしなさい。」と、はっきりしたスコットランドなまりでマクゴナガル先生が言う(このなまりにハリーはおかしなほど安心させられた)。 「ミスター・ポッター、ミス・グレンジャーに杖を差しのべなさい。 ミス・グレンジャー、手をのばしてその杖に触れて、わたしがこれから言うことを復唱なさい。『わたしの命と魔法力にかけて』——」

 

ハリーは言われるまま、杖をハーマイオニーの指さきにあてた。ハーマイオニーはおずおずと復唱した。「わたしの命と魔法力にかけて——」

 

「『わたしは死ぬまでポッター家に奉仕し』——」とマクゴナガル先生がつづける。

 

ハーマイオニーはそのさきの指示を待たず、ひと息で誓いのことばを言った。 「わたしは死ぬまでポッター家に奉仕し、ポッター家当主の命令に服従し、当主の右うでとなり、当主の指揮のもと戦い、どこまでも当主につきしたがうことを誓う。」

 

あえぐようにつむぎだされたそのことばは、ハリーがなにか考えたり言ったりする間もなく終わった。いずれにしろ割りこむことは思いもよらなかったが。

 

「ミスター・ポッター、これを復唱しなさい。『わたしハリーはポッター家相続人ならびに継嗣として、世界と魔法がほろびる日まで、あなたの奉仕を受けいれる。』」

 

ハリーは一度息をすってから、言った。「わたしハリーはポッター家相続人ならびに継嗣として、世界と魔法がほろびる日まで、あなたの奉仕を受けいれる。」

 

「ふたりとも、よくできました。」

 

見あげると、ウィゼンガモート評議員の全員がハリーたちを注視していた。ハリーはしばらくその存在を忘れていた。

 

それから、ふだんはグリフィンドール寮監らしく見えないこともあるミネルヴァ・マクゴナガルがここぞとばかりに、上段のルシウス・マルフォイを見すえて、全評議員に聞こえる声で「見下げ果てた人ですね。あなたのような卑劣な人間には一点たりとも〈転成術〉の点をあたえるべきではありませんでした。」と言った。

 

ルシウスがなにか言いかえそうとするのをさえぎって、ダンブルドアの手にある短杖がコンと鳴った。 「オホン!」と演台の老魔法使いが話しだす。 「この審判、そろそろ終わらせてもよいのではないかと思う。これ以上つづけていては、昼食にありつけない人が出てしまいかねない。 この場合、法的なあつかいは明確に決まっている。 マルフォイ卿は取り引きの条件を採決にかけた。採決ずみの条件を取り下げることは認められない。 さて、ごらんのとおり、予定の終了時間もはるかに過ぎてしまった。第八十八期ウィゼンガモート生存者の最後の判決にのっとり、この審判はこれにて閉廷とする。」

 

そう言って、ダンブルドアは石の短杖で三度、演台を打った。

 

「ふざけるな!」  ルシウス・マルフォイは銀髪をふりみだし、怒りで色をうしなっている。 「こんなことをしてただですむと思うか? この娘はわたしの息子を殺そうとしたのだぞ。それが無傷で放免されるとでも思うのか?」

 

カエルに似たピンク色の女性(名前はもう思いだせない)が立ちあがって言う。 「もちろんすむはずがありませんわ。」  いやらしい笑み。 「その子が殺人鬼であることにかわりはありませんし。〈魔法省〉としても、殺人鬼を野放しにするなどもってのほか——これからはぜひとも厳重な監視をつけてあげませんと————」

 

こういう話にはもううんざりだ。

 

そう思ってハリーはつづきを聞くのをやめて、来た道をすたすたともどっていき——

 

ぼろぼろのマントと対面した。マントのなかには、ハリーだけが真に見ることのできる色と空間の欠如、世界の傷ぐちがある。となりに月光色のリスと銀色のスズメがついているが、どちらも番人としての実効性は薄い。

 

ハリーの暗黒面はこのときまでに、会堂のなかに武器として使えそうなものがないかチェックしていた。そして敵が愚かにもディメンターをハリーの目のまえに持ちこんでいたことに気づいていた。 ディメンターは強力な兵器である。ハリーはその兵器を持ちぬしよりもうまく使うことができる。 実際、アズカバンでは十二体のディメンターに去れと命令し、そうさせることができた。

 

ディメンターは〈死〉であり、〈守護霊の魔法〉は幸せなことを考えて〈死〉を考えないようにすることで効果を発揮する。

 

ハリーの考えがただしければ、この一文をハリーがくちにするだけで〈闇ばらい〉の〈守護霊〉はシャボン玉のようにはじけて消え、これを聞いた人はみな、二度と〈守護霊の魔法〉を使うことができなくなる。

 

『ぼくはこれから〈守護霊の魔法〉を無効化し、だれにも〈守護霊〉を使えないようにします。 それからぼくが命じれば、ディメンターはホウキよりも速く飛び、十二歳の女の子をアズカバンに送る票を投じた人たち全員に〈口づけ〉します。』

 

まずそういう形式で条件つきの予言を言って、みながそれを理解して笑うのを待つ。 そのつぎに肝心の、破滅的な真実を告げたところで、予言を証明するように〈闇ばらい〉の〈守護霊〉が消える。するとそれを目撃した人たちのこころのなかに()()()()()()()()()()()()()()()()が生じ……その期待によって、あるいはハリーからの脅迫に負けて、ディメンターはハリーの命令どおりに動く。 暗黒と取り引きした者は、いずれ暗黒にのみこまれる。

 

これがハリーの暗黒面が用意した代替案だった。

 

背後から息をのむ音が聞こえてくるのを無視して、ハリーは〈守護霊〉二体の防衛線を越えて、〈死〉の一歩手前まで近づいた。 巨大な浴槽の栓を抜いたときのように、ハリーのまわりでむきだしの恐怖が渦をまく。しかし同時に、偽の〈守護霊〉のフィルターがなくなったおかげで、ディメンターだけでなくハリーもおたがいに直接触れることができる。ハリーはその真空の中心を見すえて——

 

星ぼしのなかに浮かぶ地球

 

ハーマイオニーを救うことができたときの達成感

 

こいつの本体そのものが撲滅される未来

 

そういった思いから生まれる〈守護霊の魔法〉のための銀色の感情をディメンターに()()()()、ディメンターが逃げていくすがたを期待し——

 

——同時に両手をあげて、ワッと声をあびせてディメンターをおどかした。

 

虚無はさっと引き下がり、黒石の壁ぎりぎりまで退潮した。

 

会堂全体が死人のようにしんとした。

 

ハリーは虚無に背をむけ、上の段にいるカエル女を見あげた。化粧の下の肌は青ざめ、口だけがぱくぱくと動く。

 

「取り引きをしましょうか。あなたは今後いっさいぼくやぼくのものに手をださない。ぼくはこの不死の怪物がなぜぼくを怖がるのかを教えない。文句はないですね?」

 

カエル女は無言でへなへなと長椅子におさまった。

 

ハリーはさらに上の段に顔をむける。

 

謎かけ(リドル)です、マルフォイ卿!」  〈死ななかった男の子〉の声が〈元老の会堂〉全体にひびく。 「レイヴンクロー出身でなくとも、一度考えてみてください。 〈闇の王〉を倒し、ディメンターを怖がらせ、あなたに六万ガリオンの負債を負うものといえば?」

 

一瞬、マルフォイ卿はすこしだけ目をみひらいたが、すぐに侮蔑の表情にもどり、冷たい声で返事した。 「それはおどしのつもりかね、ミスター・ポッター?」

 

「おどしじゃありませんよ。()()()()()()()だけです。」

 

「そのくらいにしておきなさい、ミスター・ポッター。」とマクゴナガル先生が言う。 「この調子では午後の〈転成術〉の授業に間にあいません。 それと、そこをどいてあげなさい。ディメンターがまだ怖がっているようですから。」  そして〈闇ばらい〉のほうをむく。 「ミスター・クライナー、さあ!」

 

ハリーが引きさがると、声をかけられた〈闇ばらい〉が前にでて、黒い金属の短杖でおなじ金属の椅子をたたき、解除の呪文らしきものをとなえた。

 

鎖は這いでたときと同じなめらかな動きで帰っていった。ハーマイオニーはすぐさま、椅子から飛びでて、足をもつらせながら走りだした。

 

ハリーは両手をひろげ——

 

——ハーマイオニーは倒れそうになりながらマクゴナガル先生の両手に飛びこみ、激しく泣きだした。

 

ちぇっ、ぼくらもああしてもらうくらいの仕事はしたと思うんだけどな——とハリーのなかのだれかが言った。

 

おまえは黙れ。

 

マクゴナガル先生がハーマイオニーをしっかりと抱くすがたは、母娘の抱擁か、この場合はむしろ祖母と孫娘の抱擁を思わせた。 ハーマイオニーが泣く声はやがて弱まり、しばらくして止まった。 マクゴナガル先生が急に姿勢をかえて、抱く手にちからをこめた。 するとハーマイオニーの両手がぶらんとして、目が閉じていき——

 

「心配はいりませんよ、ミスター・ポッター。」  マクゴガナル先生が視線はハーマイオニーにむけたまま、ハリーに声をかけてきた。 「ミス・グレンジャーは休息が必要なだけです。マダム・ポンフリーのところで数時間寝かせてもらえば大丈夫です。」

 

「じゃあ、さっそく連れていきましょうか。」とハリー。

 

「うむ。」と言いながらダンブルドアが最下段にむけておりてくる。 「われわれもいっしょに帰るとしよう。」  サファイアのように硬質な青色の目は、ぴたりとハリーに向けられていた。

 

◆ ◆ ◆

 

ウィゼンガモート評議員の男女は木製の長椅子から腰をあげて、来たときとおなじように去りはじめた。不安げな顔をしている人も多い。

 

そのうち大多数の人たちは、『〈死ななかった男の子〉はほんとにディメンターをおどかしたのか!』とばかり思っていた。

 

もうすこし抜け目のない人たちは、これは新しい駒が出現したととらえるべきではないか、であればウィゼンガモート内の権力の均衡はどう変わるだろうか、ということを考えはじめていた。

 

『おどかすって言っても、どうやって?』というような方向で考えている人はほぼ皆無だった。

 

ウィゼンガモートとはそういう集団である。評議員には貴族と商売で財をきずいた資産家とが多い。ほかの手段でその地位を手にした者も多少はいる。 一部は能無しで、大半は商売と政治に関しては抜け目がない。しかしその抜け目のなさにも限界がある。 魔術を極めようとした者はほとんど皆無である。 そう簡単に知られるべきではない強力な魔術は古い本や巻き物のなかに謎めいた表現で隠されているが、おとぎ話にすぎない伝承の山のなかから真実をよりわけていく作業に注力した経験のあるウィゼンガモート評議員はまずいない。 債務の取り引きにかまける以外に抜け目のなさを発揮することはなく、自分たちに都合のいい嘘に安住するのが常。 彼らは〈死の秘宝〉の存在を信じているが、同時にマーリンはトトロを滅ぼしリイを全員捕獲したのだとも信じている。 強力な魔術を身につけるためにはまず、それらしい嘘の山のなかから真実をよりわけるすべが必要とされるということを(伝説の一部として伝えられているので)知ってはいるが、 自分自身でそれを実践するという発想はないらしい。

 

(なぜないのだろうか。 つまり、その気になればほとんどどんな分野に進出することもできる地位と財産とを持つ人たちが、なぜインクの独占輸入権をめぐってあらそう人生を送ろうとするのだろうか。 ホグウォーツ総長なら答えは自明だと言うだろう——英雄になるべき人が多くないように、魔術を極めようとすべき人も多くはないのだと。 〈防衛術〉教授もまた、なんの不思議もないこととして、その手の人たちの思考のスケールが小さい所以をもったいぶって説明しようとするだろう。 ところがハリー・ポッターは、熱心な読書の経験もむなしく、そういう人たちのことをまったく理解できない。ウィゼンガモート評議員たちがそのような人生を好んで送ろうとするのが不可解でならない。彼らの生きかたは善人らしくもないが、悪人らしくもない。 とすれば三者のうちどれが一番賢明なのだろうか。)

 

理由はともかく、ウィゼンガモート評議員の大半は魔術を極めようとしたことがなく、隠された秘密を解きあかそうとしたこともない。 彼らは理由も説明も原因も知ろうとしない。 彼らにとっては、もともと伝説級の存在であった〈死ななかった男の子〉が実際伝説の域に達したというだけのこと——純粋に説明不能な事実として、〈死ななかった男の子〉にはディメンターをおどかす能力があるということ。 そもそも彼らは十年まえに一歳の男の子が当代一凶悪な——歴史上もっとも邪悪とさえ言えそうな——〈闇の王〉を倒したと告げられ、それをただ鵜呑みにしたのだから無理もない。

 

とにかく疑うべきことではないのだ(という了解がなぜか成りたっている)。 歴代最凶の〈闇の王〉が幼な子と対決したとすれば——負けて当然ではないか。 そうでなければ芝居のリズムが乱れる。 そのとき観客はただ拍手すべきであって、立ちあがって『なぜだ』と言うべきではない。 〈闇の王〉が小さな子どもによって滅ぼされるというのがこの物語の肝なのだから、そこに疑いをはさむくらいなら、そもそも観劇に来ているのがまちがいだ。

 

だから彼らは〈元老の会堂〉でその目で現に目撃したできごとに対してもおなじ論理を適用してしまう。ほんとうにそれでいいのかなどと考えもしない。 というより、自分が物語的な論理を現実にあてはめていることすら意識していない。 彼らは政治上の合従連衡や商売上のやりとりでは緻密な論理をはたらかせるが、おなじ緻密さをもって〈死ななかった男の子〉の行動を検証しようとはしない。伝説的な存在を相手に()()()()()の出番があるわけがない、と思う。

 

しかしごく少数ながら、そのように考えない人間が長椅子の席にもいた。

 

少数の人たちは、ほころびかけた巻き物を読み、だれかの遠戚がどうしたという話に耳を貸す手間を惜しまない人生を送っていた。物好きでそうしたのではなく、権力と真実をもとめてのことだった。 アルバス・ダンブルドアが伝える〈ゴドリックの谷の夜〉のできごとについても、類例のない、おそらくは重大な意味のある事件として記憶していた。 なぜそのような事件が起きたのか、あるいは起きなかったのか、起きなかったのであればなぜダンブルドアが嘘をついたのかと、考えていた。

 

十一歳の少年が席を立ち、『ルシウス・マルフォイ』と大人じみた声で冷ややかに呼びかけ、ホグウォーツ一年生らしからぬ内容の発言をしたときも、伝説にはそういう無秩序さがあるものだとか、これはそういう設定の芝居であるとかいう説明ですませようとはしなかった。

 

彼らはそれを手がかりとして記憶におさめた。

 

記憶におさまっている手がかりは一つではなかった。

 

そのすべてをあわせると、ただならぬ兆候が見えてくるようでもある。

 

極めつけとして、少年が声をたててディメンターをおどかしたとき、腐敗した死体のすがたのディメンターが壁ぎわに逃げこみ、耳に痛い声で「その人間を追いだせ」と言う一幕もあったことを思えば。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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82章「交換不可能な価値(終)」

不死鳥(フェニックス)に連れられて移動するときの感覚は〈現出〉(アパレイト)やポートキーとは似ても似つかない。 火が自分に燃えうつり——痛みはないが、たしかに自分が燃える感覚があり——全身が火でおおわれて、からだが灰になるのかと思えば火そのものになる。そして自分がもといた場所から消えると同時に、別の場所で燃えあがる。 ポートキーや〈現出〉(アパレイト)のように吐き気をもよおすことはないが、それでもとても快適とは言いがたい。 もしかすると、不死鳥で移動する人間の身に起きているのは、一般的な〈火〉の概念を具体化した一灯の火になるということなのだろうか。その考えかたを敷衍(ふえん)すれば、燃える場所は()()()()()()()()()ということなのか——はるか過去であっても、別の宇宙であっても、あるいは二カ所で同時に燃えることもできるのだろうか。 仮に、一つの場所で消えた火が、百の異なる場所で同時に出現するとして……そのうちの一つがホグウォーツに出現する自分であったとして、九十九の火のことは知りようがないということ。 ハリーは自分の不死鳥を手にいれようとして、不死鳥に関する書物を手あたりしだい読んでいたが、ちらりとでも()()()()可能性を示唆する本はなかった。

 

自分が火となってぱっと燃えて消え、つぎの瞬間に別の場所で燃えあがる。ただそれだけで、ハリーと総長と、総長の腕にかかえられた昏睡状態のハーマイオニー・グレンジャーは、頭上にいるフォークスに連れられて空間を飛び越え、 平穏な空気の部屋に出現した。白い石柱のある部屋で、 ずらりとならぶ白いベッドに四方に採光窓がある。そのうち四つのベッドには音消しのカーテンが下ろされていて、ほかのベッドは使われていない。

 

視界のかたすみで、マダム・ポンフリーがおどろいた顔をしてこちらに振り向きかけていた。 ダンブルドアはそれを意に介する風でもなく、未使用のベッドのまえに行くと、静かにハーマイオニーをそこへおろした。

 

奥のほうで緑色の光が一閃し、暖炉のなかからマクゴナガル先生が〈煙送(フルー)〉の灰を軽く払いつつ登場した。

 

ダンブルドアはベッドを離れ、また片手でハリーを抱いた。つぎの瞬間、二人はまた火となって消えた。

 

◆ ◆ ◆

 

もう一度全身が燃えたかと思うと、ハリーは総長室にいて、やかましい無数の謎の機械たちに囲まれていた。

 

少年は老人からすこし距離をとり、正面から向かいあう位置についた。緑玉(エメラルド)の目と青玉(サファイア)の目が交差した。

 

二人はしばらく無言でたがいを見つめあった。見つめあうことでしか成立しない会話が成立しているかのようだった。

 

やがて少年が、一言ずつはっきりと話しはじめた。

 

「あなたの肩にまだ不死鳥がいることが信じられません。」

 

「不死鳥の選択にやりなおしはない。 主人が善と悪のあいだで悪をえらんだなら、あるいは去ることもあろう。しかし主人がある善と別の善のあいだで選択をせまられただけで去ることはない。 不死鳥は傲慢ではない。自分たちが知りえないこともあると知っている。」  老人の目がいっそうするどくなる。 「……そこがきみとのちがいじゃな。」

 

「ある善と別の善、ですか。 ハーマイオニー・グレンジャーの命と十万ガリオンを天秤(てんびん)にかけたときのようにですか。」  たっぷりと怒りをこめてやりたいところだったが、なぜかそういう言いかたにはならなかった。それはもしかすると——

 

「きみもそう立派なことが言えた立ち場ではなかろう。」  声の調子とは裏腹にとげのある一言。 「……その証拠に、あの場できみも一度はためらった。そうでないとは言わせんぞ。」

 

こころのなかの空虚な感覚が増す。 「ぼくは別の方法がないか、考えようとしていたんです。……ハーマイオニーを救い、十万ガリオンもわたさずにすむような方法が。」

 

こころのなかでレイヴンクローの声がする。よくそんなうそが言えるよ。というより、言いながら()()()()()()()()()()()()じゃないか。怖いもんだ。

 

「ほんとうにそんなことを考えていたのかね?」  ダンブルドアの青色の目にのぞきこまれて、ハリーは生きたここちがしなかった。世界最強の魔法使いはもしかするとハリーの〈閉心術〉の障壁を見とおすことができるのかもしれない、と思った。

 

「ええ、たしかにぼくも、金庫のありがねすべてを手ばなすのを一度はためらいました。でも最後にはちゃんと、手ばなしたじゃないですか! そこへいくと、あなたは——」  怒りの声がもどってきた。 「あなたはハーマイオニー・グレンジャーの命にあからさまに値段をつけた。十万ガリオンに満たない値段だと言った!」

 

「ほう?」と老魔法使いは小声で言う。「ではきみなら、いくらの値段をつける? 百万ガリオンか?」

 

「経済学でいう『再調達価額』という概念はごぞんじですか?」  考えるよりはやく口が動いてしまう。 「ハーマイオニーの再調達価額は()()()です! だれにいくら支払っても交換品を買うことはできないんですから!」

 

またそんな数学的にめちゃくちゃなことを……めちゃくちゃだよな? レイヴンクロー——とスリザリンが言った。

 

「ではミネルヴァの命も、無限大の価値があるというのか? きみはミネルヴァを犠牲にしてハーマイオニーを救えるとしたらそうするのかね?」

 

「どちらもイエスです。それも教師の果たすべき責任ですから。マクゴナガル先生本人もその覚悟はあるでしょう。」

 

「それはつまり、ミネルヴァがいかに惜しまれる人であろうとも、ミネルヴァの価値は無限大ではないということ。 チェス盤には(キング)がひとつだけある。そのほかの駒すべてを捨ててでも守るべき駒が。 ハーマイオニー・グレンジャーという駒は、その(キング)ではない。 きみは今日、来たる戦争での敗北を決定づけるほどの一手をとろうとしてしまったのだということを、よくおぼえておきなさい。」

 

それはハリーにとって痛烈な指摘だった。あまりに痛烈だったので、ハリーはついこんな一言を返してしまった。

 

「ルシウスが言ったとおりですね。あなたは妻をもったことも娘をもったこともない。あなたのあたまにあったのは戦争だけ——」

 

老魔法使いの左手がハリーの手くびをつかみ、骨ばった指がハリーの腕の未熟な筋肉に食いこんだ。その強さに、ハリーは一瞬、自分の腕が麻痺したのではないかと思った。大人と自分にはそれだけの筋力差があるのだということを思いださせられた。

 

アルバス・ダンブルドアはそれに気づかない様子で、背をむけ、ハリーの手を引いたまま、足音をひびかせて部屋の壁まで歩いていった。

 

「『不死鳥の代償』」

 

ダンブルドアに連れられ、ハリーも黒い階段をのぼっていく。

 

「『不死鳥の運命』」

 

壊れた杖と黒い台座がならぶ、銀色の光に照らされたあの部屋。

 

「……ぼくと論争になるたび、この部屋に連れてくるだけで言い負かせると思ってるんじゃないでしょうね?」

 

ダンブルドアは聞く耳をもたず、ハリーを連れて、部屋のなかに足をふみいれた。 そしてつい直前まで杖をもっていた右手で、銀色の液体の瓶をつかむ——

 

そのときハリーは自分が目にしたものにショックを受けた。瓶のとなりにある写真は、ダンブルドア本人の写真だった。……手を引かれてすぐに通りすぎてしまったので、そう見えただけだったかもしれないが。

 

ならぶ台座すべてを通りすぎて部屋の最奥部につくと、そこには巨大な石の水盤があった。その表面にはハリーの知らないルーン文字がきざまれている。 ダンブルドアが銀色の液体の瓶をもち、それを水盤中央のくぼみにためられた透明な液体に浸すと、またたく間に水盤全体が不気味な白い光をおびた。

 

老魔法使いはハリーの腕から手をはなし、水盤に手招きし、「このなかを見なさい!」と言った。

 

ハリーは言われるがまま、光る液体をじっと見た。

 

「このペンシーヴに顔をつけるのじゃ。」

 

その単語には聞きおぼえがあったが、どこで聞いたのだったか——  「顔を——なんのために——」

 

「記憶じゃ。ここにはわしの記憶がある。誓って、危険なものではない。 レイヴンクローは真実を追い求めるのではなかったか。真実を知りたければ、これを見てみよ!」

 

そう言われていやとは言えず、ハリーは一歩まえにでて、顔を液につっこんだ。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはホグウォーツ総長室の机にむかって席につき、両手であたまをかかえている。手にはしわが多く、白い毛もあり、老いて見える。

 

「わしにとってただ一人の家族。わしにはもう弟しかいないのだ。ただ一人の家族だというのに!」  ダンブルドア自身が記憶しているダンブルドアの声に、ハリーは違和感をおぼえた。それは外から聞くときほどに厳格で賢者らしい声ではなかった。

 

ペンシーヴは感情をつたえない。直接つたわるのは自分が声をだしているという物理的感覚だけ。ハリーはダンブルドアの声色から絶望の色を読みとった。声は自分ののどから出ているように感じられるが、声を通じて読みとれる以上の感情を内がわから感じとれはしない。

 

「ほかにどうするというんだ。」と、とがめる声があった。

 

目が動き、遷移した視界にハリーの知らない人物が映る。〈闇ばらい〉の制服とおなじ赤色に染められた、ポケットの多い革服を着た男だった。

 

男の右目は異常に大きく、エレクトリックブルーの瞳孔が急がしく動きまわっている。

 

「無理を言わないでくれ、アラスター! これだけは! これだけは見のがしてくれ!」

 

「無理を言ってるのはおれじゃない。ヴォルディの野郎だからな。断れよ。」

 

「かねか? かねがそこまで惜しいのか?」とダンブルドアは懇願するように言う。

 

「ここでアバフォースのために身代金を支払えば、あんたはこの戦争に負ける。 分かりきったことだ。百万ガリオンはおれたちが集めた戦費のほぼ全額だ。こんなことに使ってしまったら、二度と集められるものか。 ロングボトム家はすでにありがねをはたいてくれた。つぎに頼むのはポッター家か? それでどうなる? ヴォルディはまた別の人質をとって、また身代金を要求するだけさ。 アリスもミネルヴァも……あんたと親しい人間はみな標的になる。こちらが要求をのんだが最後、〈死食い人〉連中は味をしめるぞ。」

 

「わしは……最後にのこった弟までも……」  ダンブルドアの声がとぎれ、遠くを見ていた顔が下を向き、老いた両手につつまれる。ハリーのものではない喉から、痛切な泣き声が漏れる。ダンブルドアは子どものように泣いていた。

 

「おれから言ってやってもいいんだが?」  アラスターの声が妙にやさしくなる。 「かわりに断ってほしいなら、引き受けるぞ。」

 

「いや——それを言うのは——わしでなければ——」

 

◆ ◆ ◆

 

記憶はそこで終わった。ハリーはその衝撃で水面から顔をぱっと引きはなし、しばらくろくに呼吸ができていないときのように息をあえがせた。

 

数十年まえの現実と現在。ふたつの場面の落差も衝撃的であり、過去への没入には、ある種、ハリーを自由にする効果があった。総長室で泣きくずれていた老人と目のまえにいる老人とのあいだには、時間だけでは説明できない差があった。過去のダンブルドアはいまほど硬質ではなかった——

 

記憶が雲散霧消するまえに、ハリーはそこまでは理解できた。そして現在にもどった。

 

目のまえの老人には、石から切りだされたように硬く、ものものしい雰囲気がある。ひげは鉄で編まれたように、半月眼鏡は鏡のように見え、瞳孔は黒ダイアモンドのように鋭く揺るぎない。

 

「弟が〈拷問(クルシオ)〉をかけられたまま殺されたところも、見たければ見せてあげよう。その記憶もヴォルデモートから送られてきた!」

 

「きっとそのとき——」  胸が悪くなってきて、うまく声がだせない。 「きっとそのときにあなたは——」  気づきたくなかったことに気づいてしまい、自分が言おうとしている文の忌まわしさにのどを焼かれるようだった。 「そのときにあなたはナルシッサ・マルフォイを寝室で焼き殺したんですね。」

 

アルバス・ダンブルドアの視線は冷ややかだった。 「そうだともそうでないとも言わないことが賢明であることくらいは分かると思うが。 肝心なのは、〈死食い人〉はわしが彼女を殺したのだと信じている、ということ。そしてそう信じさせることができたからこそ、〈不死鳥の騎士団〉の構成員の家族をいまにいたるまで守れているということ。 そろそろきみも自分が今日なにをしてしまったのか、分かったのではないか? きみが友だちと呼ぶ人たち、きみに味方する人たちの身になにが起きうるか、気づいたのではないか?」  ダンブルドアの声が大きくなり、同時に背たけすら大きく威圧的になったように感じられた。 「きみが今日、脅迫に応じたせいで、これからはそういった人たちが敵の標的になる! きみが脅迫に応じなくなったことを証明できるまで、それはつづく。そして証明の方法は一つしかない!」

 

「結局どうなんですか?」  ハリーは耳鳴りのような音を体内に感じ、自分とからだが切り離されていくような気がした。 「ドラコはナルシッサ・マルフォイにはルシウスと結婚したこと以外なんの罪もなかったと言いました。それは事実ですか? それなら、彼女が妻としてルシウスの悪事を間接的に支援していたのだとしても、ぼくには()()()()ほどのことだとは思えませんよ。」

 

「それくらいでなければ、わしが躊躇を捨てたのだということを敵に納得させることはできなかった。」  ダンブルドアは有無を言わさない態度で話す。 「わしはいつも、自分に課せられた責務を果たすことを躊躇していた。わしが慈悲を見せたせいで、他人が代償を支払うことになってばかりいた。 アラスターは最初からそう言っていたが、わしは耳を貸さなかった。 きみにはそういった決断のできる人間になってもらいたい。」

 

「意外ですね。そうなれば〈死食い人〉は別の〈光〉の家族のだれかを狙い、復讐の連鎖がはじまる、というほうが自然だと思いました。こちらが敵全員を一度に倒せるのであれば別ですが。」  ハリーは自分の声がほとんど震えていないことにおどろいた。

 

「相手がルシウスであったなら、そういうことも考えられる。」  ダンブルドアの目は石の粒のよう。 「ヴォルデモートはそのとき、〈死食い人〉たちをまえに笑い、ダンブルドアもようやく立派な対戦相手になったかと言ったという。 それはまちがっていなかったようにも思う。 自分の弟を死に追いやって以来、わしは味方になってくれた人たち一人一人の価値を吟味し、どんな目的にならだれを犠牲にしてよいかと、考えるようになった。 不思議なことに、個々の駒の価値を意識するようになると、駒をうしなうことも少なくなった。」

 

いくら口を動かそうとしてもなかなか動いてくれない。 「でも今回は、ルシウスが身代金をとろうとしてハーマイオニーを標的にしたんじゃありませんからね。」  あまり説得力のある声にはならなかった。 「ルシウスの立ち場では、別のだれかがさきに停戦を破棄したように見えていた。 そこをよく考えて、ハーマイオニーの価値は何ガリオンだったのか、言ってみてください。 脅迫が常習化するということはおいておいて、純粋にハーマイオニー一人の命を救う対価だとしたら、いくらまでなら許せるんですか? 一万ガリオンですか? 五千ガリオンですか?」

 

老魔法使いはこたえない。

 

「変なことを思いだしました。」  自分の声が水面をはさんで揺れる映像のように聞こえる。 「ぼくがディメンターのまえに立った日に見た最悪の記憶はなんだったと思いますか? 両親が死ぬところです。声もしっかりと聞きました。」

 

半月眼鏡のなかの老魔法使いの目が見ひらかれた。

 

「そのときのことで、何度も考えていることがあります。 〈闇の王〉はリリー・ポッターに、逃げたければ逃げるがいい、自分を犠牲にして息子を助けようとしても無駄だ、と言いました。 『愚か者め、そこをどけ。すこしはあたまをはたらかせろ』と——」  自分の口からそのせりふを言うと背すじが震えあがる思いがしたが、それを振りきってつづける。 「それからぼくはずっと考えていました。考えずにはいられませんでした。 〈闇の王〉が言ったとおり、()()()()()()()()()()のではないのか。お母さんは〈死の呪い〉を撃とうとしましたが、自殺行為でした。自殺行為であると知りながらそうしました。 お母さんは自分を生かすかぼくを生かすかの選択だと思っていたのかもしれませんが、実際あったのは自分を生かすか二人とも死ぬかの選択でした。 論理的に考えれば逃げるべきだったし、そうしていれば……ぼくはママのことも好きですけど、そうしていればリリー・ポッターは死なずに、ぼくの母親としていまも生きていたんです!」  涙で視界がにじんでいる。 「でもいまになってやっとお母さんの気持ちが分かりました。 母親は赤ん坊が撃たれるのを見殺しになんかできない! 愛はそういうものじゃない!」

 

老魔法使いは自分の体が(のみ)でまっぷたつにされるのを見るような顔をしていた。

 

「わしは……わしはなんということをきみに言ってしまったのか。」

 

「知りませんよ! ぼくもろくに聞いていませんから!」

 

「ハ……ハリー、わしが悪かった——」  両手に顔をうずめ、アルバス・ダンブルドアは泣いているようだった。 「わしはこんなことをきみに言うべきではなかった——きみの……きみの純真さを恨むべきではなかった——」

 

ハリーはもう一秒だけダンブルドアを見つめ、それから背をむけて歩きだし、部屋をでて階段をくだり、総長室にはいり——

 

「きみはどうしてまだあの人の肩にとまるんだろうね。」とフォークスに言い、

 

——オーク材の扉をぬけて、回転しつづける螺旋に足を踏みいれた。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはだれよりも早く〈転成術〉(トランスフィギュレイション)の教室についた。マクゴナガル先生よりも早かった。 一年生の時間割ではこの直前に〈操作魔法術(チャームズ)〉があるが、そちらには出席しないことにした。 マクゴナガル先生も今日の授業に間にあうかどうか知れたものではない。 生徒の机も教卓もすべて空席の教室はどこか気味が悪く、 自分がホグウォーツ城にたった一人でとりのこされたように感じられた。

 

予定では、今日の授業の主題は〈転成〉の維持。ハリーは岩を〈転成〉し小指につけられる小さなダイアモンドにする練習を徹底してやっていたので、〈転成〉を維持する方法についてはいくらでも(そらん)じることができる。 今日の授業は理論面であり実践面ではないらしい。できれば一度〈転成術〉の実践的な練習に没頭したい気分だった。

 

ハリーはうわのそらのまま、自分の手が震えていることに気づいた。〈転成術〉の教科書をとりだしたあと、ポーチのひもを締めることがままならないほどにまで震えていた。

 

あそこまでダンブルドアのことを悪意にとることはないだろうに——と、ハリーがこれまでスリザリンと呼んでいた声が言う。いまではそれが〈経済的感覚の声〉であり、〈良心の声〉でさえあるように感じられる。

 

目は教科書にむかうが、その内容はなじみがありすぎて、なにも見ていないに等しい。

 

ダンブルドアの戦争の相手であった〈闇の王〉はダンブルドアの闘志をもっとも残酷な方法でくじこうとしていた。 ダンブルドアは戦争に負けるか弟をうしなうかの選択をせまられ、 人間一人の生命の価値には限界があるということを最悪のしかたで学ばさせられた。限界があると認めることで、正気をうしないそうになった。 けれどハリー・ポッター——おまえはもっとうまくやれる。

 

「うるさい。」と少年はだれもいない〈転成術〉教室にむけてつぶやいた。

 

神聖な価値と世俗的価値の交換に関するフィリップ・テトロックの実験のことは知っているだろう。病院運営者が五歳の子の命を救うために一億ドルの出費をして肝臓移植をするか、そうせずにおなじ金額を病院の設備費や医者の人件費にあてるかの選択をせまられる。被験者はその運営者を評価する。運営者がどちらを選ぼうかと検討する様子を見せただけで、被験者は考えるまでもないことだと言って怒りだす。 この話を読んだのをおぼえているだろう? 愚かだと思ったこともおぼえているだろう? 病院の設備や医者に投資することであらたに救える命があるのはたしかだし、そうでなかったら病院や医者はなんのためにあるんだ、と思っただろう? 肝臓の値段が十億ポンドだったとしても、病院の運営者はそちらをえらぶべきなのか? そうすれば病院が翌日破産するのだとしても?

 

「うるさい!」

 

ある金額の出費をして一人の命を救える可能性に賭ける判断をするたびに、ひとは人間の命の値段に下限を設定している。 ある金額の出費をして一人の命を救える可能性に賭けない判断をするたびに、ひとは人間の命の値段に上限を設定している。 その上限と下限に一貫性がないなら、ある場所から別の場所に資金を移動するだけで救える命の量が増える。 つまり、有限の資金でできるかぎり多くの人命を救いたいなら、人命に一定の値段をつけて、いつもその金額と矛盾しない判断をしなければならない。そうできていなければ、最適化の余地が生じてしまう。 おかねと命を比較することなど倫理上もってのほかだ、と言って怒りだす人たちは哀れだ。表面的には倫理を尊重していながら、その実、最大の数の人命を救う戦略を禁じてしまっているのだから……。

 

おまえはそれを知りながら、ダンブルドアにあんなことを言った。

 

おまえはその必要もないのにダンブルドアを苦しめようとした。

 

ダンブルドアのほうは一度もおまえを苦しめようとしていないのに。

 

ハリーは顔を両手にうずめた。

 

なぜあんなことを言ってしまったのか。あの老人はすでにだれにも耐えられないほどの苦しみを受け、戦ってきた。たとえその発言がまちがっていたにしろ、あれだけの苦労をした人をさらに苦しめていいのか。 なぜハリーのなかの一部分は、ダンブルドアを相手にするときにかぎって、歯止めがきかなくなり、暴言をはいてしまうのか。なぜダンブルドアから離れるとすぐにその怒りがおさまるのか。

 

ダンブルドアは反撃しない。そう分かっているからでは? ダンブルドアはどれほど不当なあてつけをされても実力行使をしようとしない。おなじだけの暴言をかえそうともしない。 おまえは反撃しようとしない相手にはそういう態度をとる人間なんじゃないか? ジェイムズ・ポッターのいじめっこ遺伝子がついに発現したのかもな?

 

ハリーは目をとじた。

 

あたまのなかに聞こえる〈組わけ帽子〉のような声——

 

その怒りの真の理由はなんだ?

 

おまえはなにを恐れている?

 

ハリーのこころのなかに走馬灯のように映像が流れていく。 両手に顔をうずめて泣く過去のダンブルドア。 大きく威圧的に見える現在のダンブルドア。 鎖で椅子につながれたハーマイオニーがハリーに見捨てられてディメンターの餌食になるところ。 長い銀髪の女性(夫婦そろってそういう髪の毛だったのか?)が寝室で炎につつまれるところ。そのまえに突きつけられた杖と、半月眼鏡に反射する炎の光。

 

アルバス・ダンブルドアは自分よりハリーのほうがこの手のことにうまく対処できる人間だと思っているようだった。

 

そしてそれはおそらく正しい。 ハリーはそのための数学を知っている。

 

しかし、功利主義的倫理を信奉する人でも、なぜか()()()銀行から現金をうばって貧困者にばらまくという行動はとらない。 ()()()()、倫理的な制約をとっぱらったさきにバラ色の未来はない。 帰結主義の教えにならえば、差し引きで最良の結果へとつながる選択肢をとるのがただしく、一点ではよい結果があってもそれ以外すべての点で破滅的な選択肢をとってはならない。 期待効用を最大化するための期待値の計算でも、常識を考慮にいれることは許される。

 

ハリーは不思議とだれから言われるでもなく、このことを理解していた。ウラジーミル・レーニンの伝記やフランス革命についての本を読む以前から分かっていた。 善意の人間の危険性を教える初期のサイエンスフィクションを読んだせいだったかもしれないし、自分一人で見つけることができていたのかもしれない。とにかく、()()()()()()()()()()()()()()()()()が見つかるたびにそうしていては、ろくな結果にならない、ということをハリーは理解していた。

 

すると最後にもう一つ、リリー・ポッターが赤ん坊のベッドの横で二つの選択肢のさきにある未来を推定している場面の映像が見えた。 一つ目は、その場所に立ちふさがったままで呪いを撃った場合の未来……リリーは死に、ハリーも死ぬ。二つ目は、道をあけた場合の未来……リリーは生き、ハリーは死ぬ。二通りの期待効用を計算してみれば、合理的な選択肢は一つ。

 

その選択肢をとっていれば、リリー・ポッターはハリーの母でいられた。

 

「でも人間は、そういう風にできていない。」  少年は無人の教室にむけて、つぶやいた。 「……そういう風にはできていない。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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83章「交換不可能な価値——余波(その1)」

パドマが〈転成術〉の教室に来たとき、生徒の半数はすでにそろっていたが、教室全体が死人のようにしんとしていた。 ハリー・ポッターは隅の席にいて、やっと開いた程度の目で、遠いなにかをじっと見つめていた。

 

うわさでは、〈防衛術〉教授が〈変身薬(ポリジュース)〉でグレンジャーにばけてマルフォイを騙そうとしたのだということを〈闇ばらい〉が突きとめたのだとか。

 

別のうわさでは、ハーマイオニーはドラコ・マルフォイと〈不破の誓い〉を結ばされ、ドラコ・マルフォイの奴隷になったのだとか。

 

別のうわさでは、ハーマイオニーはもう〈ディメンターの口づけ〉刑に処されたのだとか。

 

仮にそうだったとしたら、ハリー・ポッターがここにいるはずがない。そんなことがあれば——

 

ポッター司令官なら、そんなことがあれば、いまごろどうしているだろうか。いくら考えようとしても、パドマはあたまが真っ白になる。

 

マクゴナガル先生が来ても、だれもが沈黙したままだった。 マクゴナガル先生は一度も立ちどまらずに黒板のまえに行き、片手の一振りで黒板をまっさらにしてから、書きはじめた。

 

「では、本日の授業をはじめます。」とマクゴナガル先生は教師然とした声で話しはじめる。この一週間なにひとつ変わったことはなかったかのような態度だ。 「今回は、〈転成〉された状態を長期間維持する条件を考えていきます。これは大変な労力を必要とする行為です。みなさんの年齢の人にとっては危険でもあります。なぜそうなのかも説明していきます。 〈転成術〉において、もの本来の〈かたち〉は消えるのではなく、抑制されるにすぎません。抑制されたままであるためには——」

 

「すみません。」  声が震えているのも、からだが震えているのも分かってはいたが、どうしても聞いておかなければ、とパドマ・パティルは思った。 「すみません、マクゴナガル先生。ミス・グレンジャーはどうなったんですか?」

 

マクゴナガル先生は黒板のまえで動きを止め、ふりむいた。パドマが挙手なしで発言をしたことをたしなめるかと思えば、表情はおだやかだった。 「ごぞんじなかったのですか、ミス・パティル? とっくに噂が流れているだろうと思っていたのですが。」

 

「いろんな噂がありすぎて、どれが正解か分かりません。」

 

そこでモラグ・マクドゥーガルが挙手し、許可を待たずに話しはじめた。 「言ったでしょ、パドマ。正解は、グレンジャーがウィゼンガモートで有罪を宣告されて〈ディメンターの口づけ〉刑になって、それでディメンターが連れこまれて、ハリー・ポッターがそのディメンターを天井にはりつけて、それから——」

 

「もうけっこう。」  マクゴナガル先生の目つきが険しくなっていったが、やがてまたおだやかな表情になった。 「……その件についてはとんでもないできごとがありすぎて、ここで詳しく話すつもりはないのですが、 これだけは言っておきましょう。ミス・グレンジャーはいまマダム・ポンフリーに看護されて休んでいます。明日には授業に出席します。 そしてもしこれからミス・グレンジャーに不愉快な思いをさせる人が一人でもいたら、わたしがその人をガラス瓶に変えて床に落としますよ。」

 

これには教室の全員が息をのんだ。殺されるということよりも、〈転成術〉の安全規範に違反する方法での脅迫であることが衝撃的だった。

 

マクゴナガル先生はまた黒板にむかい——

 

教室の端から、別の声があがった。 「クィレル先生はどうなったんです? 逮捕されたんですか?」  テリー・ブートだった。

 

「クィレル先生は取り調べを受けているだけです。」  マクゴナガル先生は背をむけたまま話す。 「明日までに帰されなければ、わたしから総長に、連れもどすように言っておきます。 せっかくなのでこれも話しておきますが、クィレル先生の模擬戦を継続してよいかどうかについて、近く理事会が採決することにもなっています。」

 

つぎはケヴィン・エントウィスルが質問する。 「マルフォイ司令官は? いつ聖マンゴ病院から帰れるんですか?」

 

マクゴナガル先生は図を書く手をとめた。

 

そして今度はゆっくりとふりかえった。

 

「ミスター・マルフォイについては残念なお知らせがあります。」  マクゴナガル先生の顔はこの短い時間のあいだに(しわ)が深くなったように見える。 「心身は十分回復しているそうなのですが。 残念ながらさきほどお父さまからのフクロウ便で、退学届がありました。ですので、退院後もこの学校に復帰することはありません。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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84章「交換不可能な価値——余波(その2)」

ハーマイオニー・グレンジャーは眠りからさめると、自分がホグウォーツ医務室のふかふかのベッドのなかにいることに気づいた。自分をつつむ薄い毛布の上体のあたりに、日没まえの太陽の光があたっていて温かい。 記憶では、ベッドのまわりにはカーテンがあったように思うが、いまそれが閉まっているかどうかは分からない。 その周囲にあるはずのマダム・ポンフリーの医務室の光景を思いだす——使用中のベッドとそうでないベッドの列、そして曲線模様の壁面にうがたれた採光窓。

 

目をあけて、最初に見えたのはベッドの左がわに座っているマクゴナガル先生だった。 フリトウィック先生はいなかったが、無理もない。フリトウィック先生は朝のあいだずっと拘置所でハーマイオニーに付き添って、ハーマイオニーがくれぐれもディメンターに悩まされないようにと銀色のレイヴンをだしたうえ、監房の外の〈闇ばらい〉の見張りににらみをきかせてくれていたのだから。 授業もあるだろうし、さすがにこれ以上、殺人未遂の罪で刑を宣告された女の番をしている暇はないのだろう。

 

ひどく吐き気がするが、薬を飲まされたせいではない気がする。 泣けるものならまた泣きだしかねない状態だが、のどは痛み、目もはれていて、ただ疲労感だけがある。 もう一度声をあげて泣くだけの気力も、なみだを流すだけの体力もなかった。

 

「わたしの両親はどこですか?」  ハーマイオニーは小声でマクゴナガル先生にそう言った。 なぜか、いまの自分にとって両親と顔をあわせることは最悪の仕打ちであるように思えた。それでも会いたかった。

 

マクゴナガル先生の顔が優しげな表情から悲しげな表情に一変した。 「すみません、ミス・グレンジャー。こういうことがあったとき、例外はあれど原則としてはご両親を呼ぶことはありません。マグル生まれの生徒の身に危険がおよんだとき、そのことを両親に知らせるとかえって事態が悪化する例が近年つづいたためです。 あなたにもこのことをご両親に知らせないよう忠告しておきます。今後もとどこおりなく学業をつづけたいなら、そうしてください。」

 

「わたしは退学処分じゃないんですか? これだけのことをして?」

 

「いいえ、ミス・グレンジャー……あなたも聞いたとおり……まさか聞こえていなかったのですか……あなたは潔白だと、あのときミスター・ポッターが言っていたでしょう?」

 

ハーマイオニーは無感動な声で答える。「どうせでまかせですよ。わたしを牢獄送りにさせないための。」

 

マクゴナガル先生はきっぱりとくびをふった。 「いいえ、ミス・グレンジャー。ミスター・ポッターは、すべては〈記憶の魔法〉のせいで、決闘など起きなかったのだと言っています。 総長はそれ以上に悪質な〈闇〉の魔術が使われたかもしれないと言っています——あなた自身の意思によらずにあなたの身体を動かして攻撃させる魔術があるのです。 スネイプ先生ですら、立ち場上おもてだってそう認めることはできないにせよ、あまりにも突拍子がなさすぎる話だと言っています。 あなたがマグル世界の薬物を飲まされた可能性もあるのではないかとも言っています。」

 

ハーマイオニーは遠い目をしてマクゴナガル先生を見つめた。 いま自分は重大なことを告げられたとは思うものの、状況の変化を自分のこころのなかに行きわたらせるだけの気力がなかった。

 

「ミス・グレンジャー、あなた自身、自分がそんなことをするはずはないと思うでしょう? あなたにかぎって人殺しなど!」

 

「でも、わたしは——」  もう何度目になるだろうか……抜群の記憶力がその瞬間をこころのなかで再生する。ドラコ・マルフォイがいじわるな顔をして『疲れてさえいなければ負けるものか』と言い、それを証明するために決闘をはじめる。ドラコ・マルフォイは決闘者らしい身のこなしで陳列品のあいだをすべるように動き、こちらはおたおたとついていくのが精一杯。そして最後の一撃を被弾して、壁にぶつかり、ほおから血が流れ——それから——それから、わたしは——

 

「そのときの記憶があるのですね。」と言ってマクゴナガル先生は理解のまなざしを向ける。 「ミス・グレンジャー、十二歳の女の子がそのようなおそろしい記憶の重荷を背負う必要はありません。 あなたさえよければ、その記憶を封印してあげましょう。」

 

グラス一杯の温水を顔にあびせられたような感じがした。 「……え?」

 

マクゴナガル先生は慣れた手つきで指を伸ばすような動きをしたかと思うと、杖を手にし、いつもどおりのきっちりとした言いかたで話す。 「関係する記憶すべてをまっさらにしてしまうわけにはいきませんが……。重要な情報がひそんでいるかもしれませんからね。 けれど、ある種の〈記憶の魔法〉なら、必要に応じてあとで取り消すことができます。 そういう種類の処置は可能です。」

 

ハーマイオニーはその杖を見つめ、ほぼ二日ぶりに希望がわきあがってくるように感じた。

 

『起きたことそのものをなかったことにしてほしい』……時計の針をもどして、あのとりかえしのつかない最悪の選択を取り消したい。何度そう願っただろう。 それができないならせめて、記憶を消去できるだけでも、多少の救いにはなる……

 

ハーマイオニーはマクゴナガル先生のやさしげな顔をもう一度見た。

 

「ほんとうに、わたしはやっていないと思いますか?」  声が震えた。

 

「あなたが自分の意思でそんなことをするなど到底考えられません。」

 

ハーマイオニーの手が毛布の下でシーツをしっかりをつかんだ。 「()()()()そう思っていますか?」

 

「ミスター・ポッターはこの件に関連するあなたの記憶すべてが捏造だと考えているようです。 その説にも一理あると思いますよ。」

 

それからハーマイオニーはシーツを持つ手をゆるめ、ベッドにどっと背をあずけた。

 

いや、そうはいかない。

 

わたしは黙っていたから。

 

あのとき、朝起きて前夜のできごとを思いだして、どういう気持ちでいたのかというと——いくら考えようとしてもことばにならない。 それでも、ドラコ・マルフォイがもう死んでいるということを自覚していたのはたしかで……なのに、そのことをだれにも伝えようとしなかった。フリトウィック先生に告白しようともしなかった。 知られまいとして、()()()()()()()()()()()()()()()()()、ただ身じたくをして、朝食をとりに行ってしまった。すすんで白状しないということが、どこまでも正義にそむく、最低な行為であることはよく分かっていたのに、ただただ怖くて——

 

仮にハリー・ポッターが言うとおり、ドラコ・マルフォイとの決闘が実際には起きていなかったのだとしても、()()()()()()()()()()をしてしまった責任は自分一人にある。 そのことを忘れる権利はない。許される資格はない。

 

あのとき自分が正しい行動をとれてさえいれば……まっすぐフリトウィック先生のところにいって告白してさえいれば、もしかすると——ここまでのことにはならなかったかもしれない。ちゃんと反省しているのだということがみんなに伝わって、もしかすると、ハリーも全財産を投げうつ必要はなくなっていたかもしれない——

 

ハーマイオニーは目を閉じた。きつくしっかりと閉じて、また泣きだすことのないようにした。 「わたしは最低な人間です……わたしは……英雄(ヒーロー)でもなんでもない——」

 

マクゴナガル先生はきつく叱責する声で応じた。ハーマイオニーが提出した〈転成術〉の宿題にひどいまちがいがあって叱るときのように。 「なにを言うのですか! 最低なのはあなたをおとしいれた人物のほうです。 英雄的かどうかについては——わたしはいまでも、女の子がそういったことに手をだすのはせめて十四歳になってからにしてほしいと思いますが、その話をここでくりかえすことはしません。 あなたがひどく恐ろしい経験をさせられたこと、その経験を同じ年齢のだれにも負けないくらいしっかりと生きのびたことはたしかです。 今日一日は存分に泣いて、明日は授業に出席すること。いいですね。」

 

そこまで聞いた段階で、マクゴナガル先生ではハーマイオニーの助けにならないことが分かった。 叱ってくれるだれかが必要だった。許されたければ、まず責められなければ、と思う。マクゴナガル先生は決して責めようとしない。かわいそうなレイヴンクローの女の子を責める人ではない。

 

この点では、ハリー・ポッターも助けになってくれそうにない。

 

ハーマイオニーは医務室のベッドの上で寝返りを打ち、マクゴナガル先生に背をむけて、丸くなった。 「お願いがあります……一度、総長と——話させてください——」

 

◆ ◆ ◆

 

「ハーマイオニー。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーがベッドで二度目に目ざめると、しわの深いアルバス・ダンブルドアの顔がのぞきこんできているのが見えた。まるですこしまえまで泣いていたかのような表情だった。見まちがいにちがいないとは思うものの、 自分がかけた心労の大きさを思うとまた、罪悪感で胸が苦しくなった。

 

「ミネルヴァから話は聞いた。わしと話したいことがあるとか。」

 

「わ——」  急になにを言えばいいのか分からなくなり、のどがちぢこまり、ことばに詰まる。 「わたしはただ——」

 

そのつづきを言うことはできなかったが、口調で意図はつたわったようだった。

 

「『お詫び』? なにを謝ることがある?」

 

ハーマイオニーは苦労のすえ、やっとのことで話しだす。 「先生はハリーが賠償するのをとめようとしていましたよね——あのときわたしが——マクゴナガル先生のことばに乗らずに——わたしがハリーの杖に手を触れてさえいなければ、きっと——」

 

「いやいや……もしもきみがポッター家に奉仕することを誓わなかったとしたら、ハリーは一人ででもアズカバンを襲撃していた。襲撃するばかりか成功してしまっていたかもしれん。 彼はことばづかいがたくみではあるが、わしが知るかぎり、うそをついたことはない。 そして〈死ななかった男の子〉には〈闇の王〉の知りえぬちからが宿っている。 ハリーなら自分のいのちを犠牲にしてでもアズカバンを破壊しようとしていたにちがいない。」  ダンブルドアはやさしげな声になっている。 「つまり、ハーマイオニー、きみが自分を責める理由はどこにもない。」

 

「その気になれば、わたしはハリーをとめることができました。」

 

ダンブルドアの目に小さなかがやきが見えたが、すぐにまた疲労の色に飲みこまれた。 「ほう、そう思うかね? それならわしよりきみが総長をやるべきなのかもしれんな。わし自身、聞き分けのない子どもたちが手に負えないことはままある。」

 

「ハリーはこのあいだ——」  そのつづきが言えない。真実をくちにしてしまうことが苦しい。 「ハリー・ポッターはこのあいだ——わたしがいやだと言えば、わたしを助けることはしないと、約束してくれました。」

 

そこで話がとぎれた。 マクゴナガル先生がいたときには部屋の奥からかすかに聞こえる音があったが、ダンブルドア総長に起こされてからは無音だ。 ベッドに身をよこたえて、見えるのは天井と壁の窓の一部分だけ。視界になにひとつ動くものはなく、耳にはなんの音も聞こえない。

 

「ああ……。そういうことなら、彼が約束をまもろうとする()()()は一応、考えられる。」

 

「そうです——だからわたしは——わたしはあそこで——」

 

「みずからすすんでアズカバン送りになっていればよかった、と? ミス・グレンジャー、それは大変な重荷じゃ。わしとしてはだれにもそのような重荷を負わせたくない。」

 

「でも——」  ハーマイオニーはそこで息をすった。 いまダンブルドアが使った言いまわしには一つ抜けみちがある。レイヴンクロー寮の肖像画兼出入り口を使っていれば、自然とこういう細かい表現の機微に気づくようになる。 「でも、もし()()()()()()()()()()()()()()、すすんでやっていたということですね。」

 

「それは——」とダンブルドアが言いかけた。

 

「なぜ……」と声がほとんど勝手に話しだす。 「なぜわたしはくじけてしまったんでしょうか。以前は——一月には——ハリーのためにすすんでディメンターと対決しようとすることができたのに——なぜ今度は——」  宣告された刑を受けいれてアズカバンに行くという選択肢を、なぜ考えようともしなかったのか。なぜ〈善〉へのこだわりをすっかり忘れてしまったのか——

 

「ハーマイオニー……」  ダンブルドアの半月眼鏡のなかの青い目はハーマイオニーの内心の罪悪感を見とおしているように見える。 「きみとおなじ年齢のころのわしと比べても、きみは十分よくやった。ひとを大切にするのとおなじように、もうすこし自分を大切にしなさい。」

 

「つまり、わたしはまちがったことをしたんですね。」  まちがいであったことはもう分かっているが、それを自分から言い、他人からも言われる必要があるように思えた。

 

沈黙。

 

「わしがこれから言うことをよく聞きなさい。 悪をなすものはたいてい、自分が邪悪だとは考えない。それぞれがもつ自分自身の物語で、勇敢な主人公を演じようとしている者がほとんどだと言える。 わしはかつて、究極の邪悪は大いなる善の名のもとにおこなわれるものと思っていた。実際には、まったくそうではなかった。 この世界には、自分が邪悪だと知りながら悪をなす者がいる。全身全霊をもって善を憎む者がいる。 あらゆるよきものを破壊しようとする者がいる。」

 

ハーマイオニーはベッドのなかで悪寒を感じた。ダンブルドアがそう言うと、どこかとても真実味があった。

 

「ハーマイオニー・グレンジャー、きみもそのよきものの一つであり、だからこそその悪はきみを憎む。 たとえきみが今回の試練に耐えていたとしても、敵の攻撃はいっそう熾烈さを増し、それはきみが倒れるまでつづく。 英雄(ヒーロー)なら倒れないものだと思ってはならん。 われわれは倒れにくくできているにすぎない。」  老魔法使いはかつてないほど厳しい目をしている。 「何時間も消耗した状態におかれ、苦痛と死が一時の恐怖ではなく確定した未来として見えたとき、英雄的であることはむずかしい。 たしかに事実として——いまのわしは、おなじ立ち場におかれればアズカバン送りを甘受していたと言うことができる。 しかしホグウォーツ一年生の当時のわしは——きみがすすんで対決しようとしたあの日のディメンターからも逃げだしていたであろう。わしは父親をアズカバンでなくした。だからディメンターが怖かった。 今回きみを襲ったのは、だれをくじいていてもおかしくない悪であり、わしですら無事ではなかったかもしれん。 ハリー・ポッターだけが、いずれ成長すれば、その巨悪に立ちむかうことができる。そのことをよくおぼえておきなさい。」

 

ハーマイオニーはおなじ姿勢でダンブルドアを見つめていることができなくなり、 ベッドにもたれ、枕にあたまをのせた。そうして今度は天井を見つめ、たったいま言われたことをよく噛みしめた。

 

「なぜ……なぜそんな悪になろうとする人がいるんですか? 理解できません。」  また声が震えていた。

 

「わしもそのことは考えてきた。」  ダンブルドアの声には深い悲しみがあった。 「三十年間考えて、いまだに理解できていない。 きみやわしのような人間には理解できないことなのじゃろう。 ただすくなくとも、これは分かる。真の悪は、なぜ悪になったのかと問われればきっと、『ならない理由がない』と答えるにちがいない。」

 

一瞬、ハーマイオニーのなかで怒りの炎が燃えた。 「いくらでもあるじゃありませんか!」

 

「まさしく。いくらでも、ありすぎるほどにある。 われわれ二人は理由を滔々と答えることができる。 きみが自分を責めたことばを借りれば——きみはたしかに今日の審判をまえにして、くじけてしまったと言えよう。 しかし、くじけた()()()なにが起きるか——それも英雄であることの一部じゃ。 ハーマイオニー・グレンジャー、きみはすでに英雄(ヒーロー)であり、それはこれからも変わらない。」

 

ハーマイオニーはもう一度顔を起こし、ダンブルドアを見つめた。

 

老魔法使いはベッド脇から立ちあがって、銀色のひげがはっきりと垂れるほど重おもしい一礼をした。そして去っていった。

 

ハーマイオニーはそれを見送ってからも、そのままおなじ方向をじっと見ていた。

 

もっとなにか感慨があるべきところではないだろうか。すこしは気が晴れていていいのではないだろうか。あれだけなかなか認めようとしなかったダンブルドアに英雄(ヒーロー)として認めてもらえたのだから。

 

なのに、なにも感じない。

 

ベッドに倒れこむと、ちょうどマダム・ポンフリーが来て、(から)いなにかを飲ませられた。唐辛子のような刺激があり、においはもっと(から)く、くちのなかが燃えそうになり、それでいてなんの味も感じられなかった。 意味を感じなかった。 ハーマイオニーはベッドに身をよこたえ、遠い天井の石のタイルをじっと見つづけた。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァは医務室の両開きの扉のまえで、そわそわしないように注意しながら、待っていた。子どものころ、自分がこの扉を『不吉な門』だと思っていたことをつい思いだす。実際、この部屋で口にされた悲報はあまりに多い——

 

アルバスが医務室を出た。アルバスは立ちどまることなく、そのままフリトウィック教授の部屋へ向かう。ミネルヴァはそれを追う。

 

一度咳ばらいをしてから、声をかける。 「もうすんだのですね?」

 

アルバスはまず、無言でうなづいた。 「これで、彼女の身に敵意ある魔法がかけられたり、霊が触れることがあれば、わしがすぐに気づき、駆けつけることができる。」

 

「〈転成術〉の授業のあとで、ミスター・ポッターと話したのですが……。 ミスター・ポッターは、ミス・グレンジャーをホグウォーツからボーバトンに転校させるべきだと言っています。」

 

アルバスはくびをふって言う。 「いや。ミス・グレンジャーが真に標的とされたのであれば——ヴォルデモートは獲物を決してのがさない。 ヴォルデモートのもとにはすでにかつての部下たちがもどっているはず。取りもどしたのがベラトリクスだけとは考えられない。 アズカバンの防衛ですら不足であったなら、ボーバトンも——安全とはいえまい。 ヴォルデモートの憑依能力はおそらく頻繁には使えないか、標的の実力しだいで抵抗しうるものではないかと思う。そうでもなければ、この一年がこの程度のことですんでいたはずがない。 ここにはハリー・ポッターもいる。ヴォルデモート当人が認めようが認めまいが、ヴォルデモートはまちがいなくハリー・ポッターを恐れている。ミス・グレンジャーにはこうして結界もかけた。現時点で、彼女にとってホグウォーツ以上に安全な場所はない。」

 

「それがミスター・ポッターには信じられないようですよ。」  どこかでまったくおなじように感じている自分がいる。そのせいで、ミネルヴァはついちくりとした言いかたをしてしまう。 「『常識的に考えれば、ミス・グレンジャーが今後の教育をうけるべき場所はホグウォーツではありえない』のだそうです。」

 

老魔法使いはためいきをついた。 「彼はマグルに染まりすぎたのかもしれんな。 マグルはいつも安全をもとめる。安全が手にはいるものと思っている。 われわれの本拠地の真ん中でミス・グレンジャーの安全を守ることができないというなら、そのほかの場所に行かせることで安全が増すはずがない。」

 

「そう考えない人もいるようです。」  ミネルヴァは一度自室にもどり机の上にとどいたものをざっと見たとき、ほとんどまっさきにその手紙が目にはいった。最上級の羊皮紙の封筒で、封蝋は緑がかった銀色。ヘビの刻印が動き、ミネルヴァを威嚇していた。 「マルフォイ卿からのフクロウ便で、息子を退学させるという届がありました。」

 

老魔法使いはうなづくが、歩みをとめない。 「ハリーもそのことを?」

 

「知っています。」  そのときハリーがつかった表現を思いだそうとして、すこし声がとぎれる。 「その話をしたところ、ミスター・ポッターはマルフォイ卿の判断は賢明だと言って賞賛していました。つぎの標的はネヴィル・ロングボトムかもしれないから、マダム・ロングボトムに手紙を書いておなじようにすることをすすめてはどうか、とも言っていました。おばあさんが退学の判断をしてくれないなら、ネヴィルにも〈逆転時計〉と不可視のマントとホウキとその一式をいれられるポーチとをあたえてほしいとも。それと、ホグウォーツの結界の外で誘拐された場合にそなえて、緊急脱出用に足の指にはめる指輪型のポートキーも持たせておいてほしいとも。 わたしからは〈魔法省〉はそのような目的での〈逆転時計〉の使用を許可しないと言っておきましたが、ミスター・ポッターはほんとうにそうなのか、問い合わせしておいてほしいと。 ミス・グレンジャーが退学しないのであれば、ミスター・ポッターは彼女にも同様の処置を要求するでしょう。 ミスター・ポッター自身には、ポーチにしまうことができる三人乗りのホウキを用意してほしいそうです。」  これだけの準備をもとめられたことについて、ミネルヴァはおどろかなかった。的確な指摘だとは思ったが、おどろきはしなかった。〈転成術〉の教師にとって、危険に対してこのくらい備えるのは当然のことだ。 それでも、ハリー・ポッターにはホグウォーツが呪文の研究と同等の危険をもたらすものに見えているのだと思うと、ぞっとせずにはいられない。

 

「〈神秘部〉はそう簡単に折れてはくれまい。しかし、そのほかの点については……」  アルバスはその場でわずかにしぼんだように見えた。 「……要求どおりにしてあげてもよい。 ネヴィルにも結界をかけておく。オーガスタには、ネヴィルを休暇中も学校から離れさせないよう、手紙で頼んでおこう。」

 

「最後にもうひとつ。ミスター・ポッター本人がつかった表現を借りれば——『総長が〈闇の魔術師〉を引き寄せるなにをこの学校に置いているのか知りませんが、()()()()それを学校外に移してもらいます』、だそうです。」  ミネルヴァも同感だったのでつい、とげのある声になった。

 

「フラメルに頼んではみた。」  苦悩がアルバスの声にあらわれている。 「しかしマスター・フラメルは——もはや自分では〈石〉を安全に保管することができないと——どこに隠そうともその場所を言いあてる方法をヴォルデモートは手にしていると答えた。ホグウォーツ以外のどこに保管することにも同意しないと言っている。 ミネルヴァ、われわれにはこうするほかないのじゃ!」

 

「そうおっしゃるなら。けれどわたし個人は、ミスター・ポッターの意見に全面的に理があると思いますよ。」

 

老魔法使いはミネルヴァを一瞥してから、ぽつりと言った。 「ミネルヴァ、おぬしとは長いつきあいになる。とりわけ存命の仲間のなかでは——。もしや、わしはすでに暗黒にとりこまれてしまっているのではないか?」

 

「え?」  ミネルヴァは純粋におどろいた。 「そんな、まさか!」

 

老魔法使いのくちびるが一度かたく結ばれた。 「より大きな善のために。わしは、より大きな善のために、あまりに多くの人びとを犠牲にしてきた。 今日もまた、より大きな善のためにハーマイオニー・グレンジャーをアズカバンに追いやろうとした。そして今日、気づかぬうちに——自分がうしなった純真さを恨むようなことまでしていた——。善の名のもとにおこなわれる悪。 悪の名のもとにおこなわれる悪。 はたして、どちらがましなのか。」

 

「またおかしなことを。」

 

アルバスはまたミネルヴァを一瞥し、そしてまた、行く手に視線をもどした。 「では聞くが——おぬしは今日、ミス・グレンジャーに自分自身をポッター家に束縛する誓約をさせた。そうするまえに一度立ちどまって、それがどんな影響をもたらしうる行為であるかは考えたか?」

 

ミネルヴァは自分がしたことの意味に気づいて、思わずはっとなった——

 

「やはりそうか。」  アルバスの目は悲しげだった。 「いや、謝る必要はない。あれでよかったのじゃ。 今日のわしの言動を見たことで——おぬしが第一に忠誠を寄せる相手がわしからハリー・ポッターにかわったのであれば、なにもまちがっているとは思わない。」  ミネルヴァは抗議の声をあげようとしたが、アルバスはそのままつづけた。 「そう——まさしく、そうでなければならん。もしハリーが成長したあかつきに倒すべき〈闇の王〉というのが、実のところヴォルデモートでなかったのだとすれば——」

 

「もうその話はたくさんです! アルバス、ハリーに対等な相手としてのしるしをつけたのは〈例の男〉です。予言で言及された人物があなたであるというような解釈は不可能です!」

 

老魔法使いはうなづいたが、その目は道のさきのはるか遠くに向けられているようだった。

 

◆ ◆ ◆

 

〈魔法法執行部〉の奥深くにある、拘置所の監房。ここには贅沢な調度品がそろっている。といってもこれは成人魔法族に当然必要な設備と考えられているにすぎず、囚人を特別尊重してのことではない。 椅子には自動で温まる素材とつややかな生地がつかわれており、自動で角度を調整し前後に揺れ動く機能もついている。 書店の特売コーナーから仕入れられた本がならぶ書棚もあり、一八八三年にさかのぼる骨董品的な雑誌でいっぱいの棚もある。 衛生面では充実した設備があるとは言いがたいが、部屋全体にかけられた魔法の効果により在室者はその手の身体機能をすべて停止させられている。これは囚人をいつも監視の〈闇ばらい〉から見える場所におくための処置だが、 その点をのぞけば至極快適な監房である。 ホグウォーツ〈防衛術〉教授はここで拘留されているのであり、逮捕されてはいないし恫喝されてすらいない。 告発に足る証拠は存在しない……とはいえ、ふつうでない犯罪がホグウォーツ魔術学校でおこなわれたとき、現職の〈防衛術〉教授が()()()()()かたちでかかわっている可能性は高い。これまでの実績では、六回中五回がそうだった。 さらには、〈魔法法執行部〉所属者のだれ一人としてこの〈防衛術〉教授を知る者がなく、その素性を何度あばこうとしてもこの男は文字どおり()()()()()()でかわしてしまうことも分かっている。 この『クィリナス・クィレル』はそう簡単に釈放されていい人物ではなかった。

 

あらためて強調すると……

 

〈防衛術〉教授は……

 

監房に……

 

拘留されている。

 

〈防衛術〉教授は監視の〈闇ばらい〉に目をむけたまま、鼻歌を歌っている。

 

〈防衛術〉教授はこの監房に到着して以来、一言も話さず、 ただ鼻歌だけを歌っている。

 

歌われたのは最初、素朴な子守歌だった。マグル世界のブリテンでは『Lullaby and goodnight……』の歌いだしで知られる曲である。

 

〈防衛術〉教授はそのおなじ曲の鼻歌を、すこしも手をくわえずに、七分間にわたってひたすらくりかえした。そうすることで、基礎となるパターンを確立させた。

 

それから変奏がはじまった。 フレーズの進行が遅くなり、無音の区間がのび、ひたすら待たされてやっと、つぎの音、つぎのフレーズが来る。 来たかと思えば、ひどく音程が外れている。まえのフレーズとずれているという意味ではなく、そもそもありえない音程であり、こんな歌いかたをするのは何時間もの訓練をへて逆絶対音感を身につけた歌い手だからだとしか考えられない。

 

ディメンターの空虚な声に人間の声の名残りが感じられないのとおなじように、この鼻歌にも音楽の名残りを見いだすのがむずかしい。

 

音楽とは言いがたいその鼻歌を、聞き手は無視しようにも無視することができない。 よく知られた子守歌に似た曲でありながら、不規則な変化がまぎれこむ。 つぎの展開を予想させては裏切り、一定のパターンに落ちつくことがない。背景に埋没して聞き手の耳を休ませることがない。 聞き手の脳は無意識にその反音楽的なフレーズの完成のしかたを予想してしまい、予想を裏切る展開におどろきを感じてしまう。

 

このような様式の鼻歌が存在しうる理由があるとすれば、ありがちな拷問を考えだすのに飽きた残虐な発明家が、ある日退屈しのぎに、()()()()()()()()()()人間を狂わせるができるかという実験を思いついて実行してみた結果だとしか考えられない。

 

監視の〈闇ばらい〉がこの悪夢のような鼻歌を聞かされつづけてもう四時間になる。そのあいだ、正面から見ていても視界の端にだけ見ていても、男の存在から発せられる冷たく巨大な殺気にさらされているように感じてもいる——

 

鼻歌がとまった。

 

つぎの音がやってこないまま時間がすぎ、このまま終わってくれるのではないかと思ってしまいそうになる。しかしこの程度の休息ははじめてではなく、そのたびに期待は裏切られてきた。 そして間隔がのび、またのびたことで、いま一度、希望がふくらみ——

 

鼻歌は再開した。

 

〈闇ばらい〉は耐えられなくなった。

 

〈闇ばらい〉はベルトからはずした鏡を一度たたいて、通話する。 「こちら三号室のアージュン・アルトゥナイ巡査。コードRJ−L20を要請する。」

 

「コードRJ−L20だと?」  鏡の相手はおどろいたらしく、つづけてページをめくる音がした。 「『囚人に精神攻撃をしかけられて負傷したため、交代をもとめる』?」

 

(アメリア・ボーンズは察しがよい。)

 

「囚人になにを言われた?」

 

(RJ−L20の手順書に書かれたとおりにすれば上官がこの質問をすることはないのだが、残念ながらアメリア・ボーンズはそこに『質問するな』という命令を書きそこねていた。)

 

「なにをって——」  ふりかえって見ると、〈防衛術〉教授はゆったりと椅子に背をもたれさせている。 「この男はずっとこちらを()()いた! それと()()()()()()()()んですよ!」

 

鏡が返事するのにしばらくかかった。

 

「それがRJ−L20を要請するようなことか? 監視役をやめたくて言ってるだけじゃないだろうな?」

 

(アメリア・ボーンズの部下は間抜け者だらけである。)

 

「いや、ほんとにひどい鼻歌なんですよ!」

 

鏡のむこうで、遠くから忍び笑いの音がした。笑っているのは一人だけではないようだった。 「ミスター・アルトゥナイ。巡査代理に降格されたくなかったら、あきらめておとなしく仕事するんだな——」

 

「待った。」と、きびきびとした声がした。鏡からやや遠い位置からの声のようだった。

 

(こういうこともあろうかと、〈魔法法執行部〉が対策本部をたてるたび、アメリア・ボーンズは〈魔法省〉用の書類仕事を片手に、現場に同席するようつとめている。)

 

「アルトゥナイ巡査。」とおなじ声が言う。話しながら鏡にむかってきているようだ。 「交代が着きしだい離れてよし。 ベン・グチエレス巡査長、RJ−L20の対応手順では、理由をたずねる必要はない。 手順では、交代を申請した〈闇ばらい〉には無条件で許可をだすことになっているはず。 ()()だれかがこれを悪用することがあれば、そのときはこちらで手順書を修正する。それまでは勝手な判断はせず——」  鏡の通話は途中で切れた。

 

〈闇ばらい〉は勝ちほこった表情でふりかえり、向かいの椅子にゆったりと腰かける〈防衛術〉教授現任者の顔を見ようとする。

 

監房に来て以来無言だったその男が、ついに口を開く。

 

「さようなら、ミスター・アルトゥナイ。」

 

数分後、監房入り口のドアが開いた。はいってきたのは白髪まじりの女性。赤く染められた〈闇ばらい〉のローブには階級章らしきものがない。左腕には黒革のファイルをかかえている。女性は「交代。」とだけ言った。

 

アルトゥナイが一瞬遅れて顛末を話そうとするが、 女性はただ短くうなづいて、ぶっきらぼうに指をドアに向けて一振りする。

 

「ごきげんよう、長官。」と〈防衛術〉教授が言った。

 

アメリア・ボーンズは『長官』の単語に反応することなく、椅子にどかりと腰をおろす。 黒色のファイルをひらき、そのなかの書類に視線をおとす。 「ホグウォーツ〈防衛術〉教授現任者の正体に関する手がかりについて。報告者は〈闇ばらい〉ロバーズ。」  一枚目の羊皮紙がぺらりとめくれ、脇にどく。 「〈防衛術〉教授当人はスリザリンに〈組わけ〉されたと主張。 家族をヴォルデモートに殺されたと主張。 マグル界のアジアで格闘術を学んでおり、その教室がヴォルデモートに壊滅させられたと主張。 〈国際魔法協力部〉へ照会したところ、〈一九六九年の(オニ)事案〉という名前で該当する記録あり。」  また一枚の羊皮紙がめくれる。 「また、この人物は冬至(ユール)直前の授業できわめて扇動的な演説をおこない、生徒たちの親世代が一致して〈死食い人〉に反攻できなかったことを非難した。」  老魔女は黒革のファイルから顔をあげた。 「マダム・ロングボトムはこの演説をいたく気にいったらしく、わたしも全文を読むようにと言われ、 読んでみると、聞きおぼえのある論調だと思った。けれど、どこで聞いたのだったか、すぐには思いだせなかった。 ……思いだせなかったわけだわ。あなたのことは、死んだものとばかり。」

 

ブリテン魔法界の軍警察組織の頂点に立つ女が、魔法強化ガラスの向こうがわの監房にいるホグウォーツ〈防衛術〉教授である男をにらむ。 男もおなじ視線をかえすが、表情に切迫感はない。

 

「名前はひかえておくけれど、ある人の話をするから、聞いてみてほしい。あなたも知っている話かもしれない。一九二七年生まれ。一九三八年にホグウォーツに入学、組わけはスリザリン。一九四五年に卒業。 卒業旅行として世界各地をまわり、アルバニアで消息を断つ。 死亡したものと思われたが、一九七〇年、なんの前触れもなくブリテン魔法界にもどる。もどったのちも、二十五年間行方不明であった理由を説明しようとしない。 一族からも友人からも見はなされ、孤独な生活をおくる。 一九七一年、ダイアゴン小路へ来たおり、ベラトリクス・ブラックに誘拐されかけた〈魔法省〉大臣の息子を救い、ブラックに同行していた〈死食い人〉二名を〈死の呪い〉で殺す。 このあとは国じゅうだれでも知っている話だと思うけれど、話す必要はあるかしら?」  そう言ってまた一度顔をあげる。 「……よろしい。 彼は〈死の呪い〉を使用したことでウィゼンガモートの審判にかけられたが、彼の一族の当主であった祖母の口添えもあり、無罪となる。 一族とも和解し、和解を祝う宴が企画された。彼が宴の場に到着すると、一族が〈家事妖精(ハウスエルフ)〉にいたるまで一人のこらず〈死食い人〉たちに惨殺されていた。傍流であった若い彼一人が生きのこり、〈元老貴族〉家継嗣となった。」

 

〈防衛術〉教授はこの話のどの部分にも反応しなかったが、うんざりしたように目を半分閉じていた。

 

「彼はウィゼンガモートでの一族の議席を相続し、〈例の男〉を糾弾する最強硬派となった。 みずから軍を率いて〈死食い人〉勢力と対決し、戦略家としても戦士としても才能を発揮した。 やがてダンブルドアの後継者と目されるようになり、〈闇の王〉が倒されれば〈魔法省〉大臣にもなると言われた。 その彼が一九七三年七月、重要なウィゼンガモートの投票に欠席し、以後消息をたった。 〈例の男〉に殺されたのだろうとわれわれは判断した。 彼をうしなったことでわれわれの陣営が受けた打撃は大きかった。それ以来、苦しい日々がつづいた。」  老魔女は問いかけるような視線を送っている。 「わたし自身もあなたを追悼した。あれからなにが?」

 

〈防衛術〉教授が小さく肩をすくめる動きをした。 「仮定につぐ仮定だな。 個人的な意見を言うなら……そんな男は何年もまえに死んだものと思うべきだろう。 しかしまだ生きているのだとすれば——生きていることを知られたくないのだろう。消息をたったままでいることにも理由があるのだろう。 聞けば、その男はあなたに貸しがあるようでもある。」  口もとに皮肉な笑み。 「とはいえ、受けた恩も時とともに薄れていくことくらいは、わたしも知っている。またその男になにかさせようと言う魂胆かな?」

 

老魔女は取り調べ官用の椅子に背をあずけ、おどろいた顔をした。傷ついた顔とさえ言えるかもしれない。 「……いいえ——」  そう言って黒革のファイルを指でたたくその仕草は、()()()()()()()ようにさえ見えた。アメリア・ボーンズがとまどうことなどありえるならば。 「ただ、あなたの()()のことが——〈元老貴族〉家はもうそういくつも残ってはいないのだから——」

 

「〈元老貴族〉家の数が八から七に減ろうが減るまいが、この国にはなんの影響もないだろう。」

 

老魔女はためいきをついた。 「ダンブルドアはなにを考えてこんなことを?」

 

監房のなかの男はくびをふった。 「ダンブルドアはわたしの正体を知らない。調査もしないと約束した。」

 

老魔女の眉が上がった。 「だとしたら、ホグウォーツ城の結界に対してはどう登録を?」

 

薄笑い。 「総長は円をえがいて、この円のなかにいる男は〈防衛術〉教授だ、とホグウォーツ城に告げた。 ついでに言うなら——」  低く平坦な声になる。 「わたしもそろそろ授業の時間なのですがね、ボーンズ長官。」

 

「あなたはときどき——特殊な方法で()()をとることがある、という報告もある。 そしてその()()の頻度はどんどんあがっている、とも。」  老魔女の指がまたファイルをたたく。 「ものの本にもそういった症状のことは書かれていなかったと思うけれど、第一印象としては……〈闇の魔術師〉と戦って、ひどい呪いを受けた場合の症状のように思える……」

 

〈防衛術〉教授はやはり表情を変えない。

 

「もし癒者の助けがいるなら……それ以外でも、なにかできることがあれば、言ってほしい。」  アメリア・ボーンズの仮面が揺らぎ、目のなかに苦悩の色が見えた。

 

「わたしはホグウォーツ〈防衛術〉教授の職をまっとうしたい。 ……ここまでの話をどう受け取るか、判断はご自由に。 とにかく、もう残りわずかな授業がはじまる時間だ。 ホグウォーツに帰らせていただきたい。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーが三度目に目ざめたとき(目をとじていた時間はごく短かったように思った)、太陽はほとんど沈みきっていた。 すこしだけ活力がもどったように感じ、同時になぜか疲労が深まったようでもあった。 今度はフリトウィック先生がベッドの脇にいて、ハーマイオニーの肩をゆすっていた。となりには湯気のたつ食事のプレートが浮遊させてあった。 ハリー・ポッターがベッドのそばにいたような気がしたが、実際にはいなかった。 夢で見たのではないかとも思うが、夢を見た記憶はなかった。

 

(フリトウィック先生によれば)すでに大広間での夕食の時間はすぎていて、ハーマイオニーは食事のために起こされたのだった。 このあとはレイヴンクロー寮にもどり、自分のベッドで朝まで寝ればいいという。

 

食事は無言で食べた。 事件について、フリトウィック先生の意見も聞いておきたいような気もした。あれは〈記憶の魔法〉のせいだったと思うか。それともわたしが自分の意思でドラコ・マルフォイを——

 

——わたしの記憶にあるとおりに——

 

——殺そうとしたのだと思うか。けれど、知りたくないという気持ちのほうが大きかった。 なにかを()()()()()()と思うことは危険な兆候だと、ハリー・ポッターやハリー・ポッターから借りた本が言っていた。ただ、ハーマイオニーの精神は疲労と()が深く、その気持ちを乗りこえる気力をだすことができなかった。

 

フリトウィック先生に連れられて医務室をでると、扉の外でハリー・ポッターが床に足を組んで座り、心理学の教科書を読んでいた。

 

「ここからはぼくが連れていきます。マクゴナガル先生の了解はとってあります。」

 

フリトウィック先生はそれで納得したらしく、二人に一度するどい視線を送ってから、去っていった。 その視線にどういう意味があったのか、ハーマイオニーは想像がつかなかった。もしかすると『これ以上うちの生徒を殺そうとするなよ』という意味だったのだろうか。

 

フリトウィック先生の足音が消えていき、二人は医務室の扉のまえにのこされた。

 

ハーマイオニーは〈死ななかった男の子〉の緑色の目を見た。ぼさぼさの髪の毛にあまり隠れていない、ひたいの傷あとを見た。なんのためらいもなく全財産を投げうって自分を救ってくれた少年の顔を見た。 さまざまな感情が——罪悪感、後ろめたさ、恥ずかしさ、そのほかにもさまざま感情が——こころのなかを巡る。そのどれをことばにしようとしても、できない。

 

ハリーが唐突に話しだす。 「ちょっと手もちの心理学の本で、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のことを調べてみたんだけど。 古い本に書かれているやりかただと、事件直後にカウンセラーと面談して、自分の経験をことばにしてみるといい、ということになっている。 新しい研究によると、直後に話すやりかたは実は症状を悪化させるということが実験で分かっている。 つまり、自然な欲求にしたがってそのできごとの記憶を抑圧してしまって、しばらく考えないようにするのが一番いいらしい。」

 

あまりに()()()()()()のハリーのその話しかたを聞いて、のどが焼けるように熱く感じた。

 

いまは事件のことを話さなくてもいい——。要するにそういうことだろう。 話さない、というのは卑怯に感じられる……というより、うそのように感じられる。 なにひとつ、()()()()()()ではない。 あやまちはまだひとつも正されていない。言うべきことをいま言わないのは、ただ問題を先おくりしているにすぎない……

 

「わかった。」  ハーマイオニーはそう言った。それ以外に言えることはなかった。

 

二人は歩きだした。

 

「きみが起きたときにいてあげられなくてごめん。 医務室にはいろうとしたらマダム・ポンフリーに止められて、扉の外で待っていたんだ。」 と言ってハリーは小さく悲しげに肩をすくめた。 「もっと外にでて、悪いイメージを押し返すようなキャンペーンを打っていたほうがよかったんだろうけど……正直言って、ぼくはそういうのが得意じゃない。 喧嘩腰で反論しようとしてしまったりするから。」

 

「どれくらいひどいの?」  そっと言ったつもりだったが、実際にはそういう声にならなかった。

 

「うーん……それを言うまえにまず話しておきたいことがある。朝食の時点ではきみに味方する人もかなりいたんだけど、その味方っていうのがみんな……()()()()()()()()()()言っていてね。 ドラコがさきにきみを殺そうとしただとか、そういうことを。 グレンジャーにつくか、マルフォイにつくか、という話になってしまっていた。相手を下げれば自分が上がるシーソーのように。 ぼくは多分()()()()無実で〈記憶の魔法〉をかけられただけだと言ってやったんだけど、 だれも耳を貸さなかった。どちらの陣営からも、中立にたとうとする裏切り者のように思われたらしい。 それからドラコが〈真実薬〉を投与されて、決闘のまえまではきみを助けようとしていた、ということを証言したという情報がはいって——その表情はやめて。きみはなにもしていないんだから。 とにかく、それが決め手になって、マルフォイ派が正しくてグレンジャー派がまちがっていた、と結論がでたような感じになってしまった。」  ハリーは小さくためいきをつく。 「ぼくは、真実があきらかになったときはみんな恥ずかしい思いをすることになるぞ、とも言ってやったんだけど……」

 

「どれくらいひどいの?」  一度目よりも、弱い声になった。

 

「このあいだアッシュの同調性実験の話をしたよね?」と言ってハリーはハーマイオニーと目をあわせ、真剣な表情をした。

 

記憶が浮かびあがるのがいつになく遅く、言われてから()()()()()()()()()()()()。ハーマイオニーはそのことにぞっとしたが、最終的に情報はでてきた。 一九五一年、ソロモン・アッシュが数人の被験者をあつめ、その一人一人を別々の集団に入れた。各集団の人びとはみな被験者と似た格好をしてはいるが、実験主催者の秘密の指示のもとに動くサクラだった。 主催者はXというラベルがついた線と、線A、線B、線Cの三本とをスクリーンに表示し、その人たちに見せる。主催者は『Xはどの線とおなじ長さか』とたずねる。正解はどう見てもCなのだが、 被験者のふりをしているサクラはそろって『B』と回答する。真の被験者が回答する順番は(最後だとあやしまれそうなので)最後から二番目と決められていて、 このとき被験者はほかの全員が言う誤答に『同調』するのか、あきらかに正解である『C』という回答をすることができるか。それを調べるのが実験の目的だった。

 

全体の七十五パーセントの被験者が最低一回は『同調』した。 五割以上の頻度で同調した被験者も、全体の三分の一いた。 あとで聞いても、本心からBだと思ったのだと言う人もいた。 サクラ全員が被験者の知人ではない場合でもそうだったが、 被験者と同じ集団に属するサクラを用意すると——たとえば、車椅子の被験者には車椅子に乗ったサクラを用意しておくと——さらに強い同調効果があったのだという……。

 

そこまで思いだして、ハリーが言おうとしていることが見えたような気がして、苦しくなった。 「……ええ。」

 

「〈カオス軍団〉の兵士には、ちゃんとそういう訓練をしてあるんだよ。 一人を全員に囲まれる位置に立たせて、『二たす二は四!』とか『草の色は緑!』を言わせて、周囲の全員でそれを笑い者にしたりとか——アレン・フリントはとくにそれがうまい——ぽかんとした目でその一人を見てから全員が立ち去るとか、そういう訓練を。 でもこういうことは〈カオス軍団〉でしかやっていない。 ほかのホグウォーツ生はみんな、同調性とはなにかすら知らないんだ。」

 

「答えてよ! どれくらいひどいの?」

 

ハリーはまた悲しげに肩をすくめた。 「きみのことをよく知らない、二年生以上の生徒全員。 〈ドラゴン旅団〉の全員。 スリザリン生ももちろん全員。 それと……その……ブリテン魔法界の住人ほぼ全員がそうじゃないかと思う。 『予言者日報(デイリー・プロフェット)』もルシウス・マルフォイの支配下だからね。」

 

「全員?」  温水でないプールから出てすぐのときのように、手足が冷たく感じた。

 

「ひとがなにかを強く信じると、そのひとにとってそれは()()ではなく、世界のありかたそのもののように感じられる。 きみとぼくは、ハーマイオニー・グレンジャーが〈記憶の魔法〉をかけられた宇宙という、小さな泡のなかにいる。 ほかのひとたちはみな、ハーマイオニー・グレンジャーがドラコ・マルフォイを殺そうとした宇宙にいる。 もしアーニー・マクミランが——」

 

ハーマイオニーは息がとまりそうになった。マクミラン隊長が——

 

「——きみと友だちづきあいをつづけることは自分の倫理が許さない、と思っているとすれば、彼としては自分が考える世界のなかで正しいことをしようとしているだけなんだ。」  ハリーはとても真剣な目をしている。 「ハーマイオニー、きみはぼくがほかの人のことを見くだしすぎていると何度も言ったね。 でもほかの人たちに期待しすぎると——ほかの人たちが()()()行動をとってくれると期待してしまうと——結果としてぼくはその人たちを憎むことになる。 理想はともかく、ホグウォーツ生は現に認知科学をよく知らない。だから自分たちの精神のはたらきに責任をもつことができない。 彼らが狂っているのは彼らのせいじゃない。」  ハリーは奇妙にやさしげに話している。まるで大人のように。 「これからきみにはつらい経験が待っているだろうし、きみのような人には余計こたえるかもしれない。 でも、いつかは真犯人が捕まるんだということを忘れないでほしい。 いつかは真実があきらかになって、堂々とまちがいを言っていた人たちが恥をかくことになる。」

 

「でも、もし真犯人が捕まらなかったら?」  声が震えた。

 

……それとも、やっぱりわたしが犯人だったのだとしたら?

 

「そのときは、ホグウォーツを退学してアメリカのセイラム魔女学院に行けばいい。」

 

()()()()()()()退()()?」  自分には究極の罰としてしか考えられない可能性だった。

 

「いや……これはね、選択肢としては十分ありうると思うよ。 ホグウォーツはまともじゃない。一皮むけば狂気そのものと言ってもいい。 世のなかにはほかにも学校はある。」

 

「そ……それは……い……一度考えてみるけど……」

 

ハリーはうなづいた。 「今日の夕食で総長が念押ししてくれたから、すくなくとも今後きみが生徒から呪文をあびせられる心配はないと思う。 あ、それと、ロン・ウィーズリーがすごく真剣な顔で、きみへの伝言をぼくに言いに来た。疑って悪かった、これからは二度ときみの悪ぐちは言わない、って。」

 

「あのロンが、わたしのことを無実だと思ってるの?」

 

「うん、いや……『無実だと思ってる』って言うと語弊があるかな……」

 

◆ ◆ ◆

 

二人がレイヴンクロー寮にはいると、室内がしんとなった。

 

全員が二人を見ていた。

 

全員がハーマイオニーを見ていた。

 

(こういう場面はもう何度も悪夢で見ている。)

 

それから、一人、また一人と目をそらしはじめた。

 

監督生として一年生の面倒を見る立ち場にある五年生ペネロピ・クリアウォーターも、これ見よがしに顔をそむけた。

 

ハーマイオニーが目をあわせようとすると、テーブルをかこんで座っていたスー・リーとリサ・ターピンとマイケル・コーナー——三人とも、ハーマイオニーが宿題を手つだったことのある同級生だ——も急にとまどって目をそらした。

 

ラティーシャ・ランドルという、スリザリン生にいじめられていたところをS.P.H.E.W.が二度救ったことがある三年生女子は、机にむかって急いでかがみこんで宿題を再開した。

 

マンディ・ブロクルハーストも目をそらした。

 

これを見てハーマイオニーが泣きださなかったとすれば、こうなることを事前に何度となく想像して、こころの準備をしていたからにすぎない。 すくなくとも、罵声をあびせられたり、わざとぶつかられたり、呪文を浴びせられたりということはなかったのだから、目をそらされるだけなら、まだましだ——

 

そう思いながらハーマイオニーは一路、一年生女子の階上の共同寝室(ドミトリー)へとむかう階段をめざす。(その足どりを、パドマ・パティルとアンソニー・ゴルドスタインの二人がうしろから見ていたことに、ハーマイオニーは気づかなかった。) うしろから、ハリー・ポッターが静かに話す声がした。 「いずれ真実はあきらかになるんだぞ。 きみたちが本気でハーマイオニーが犯人だと思ってるなら、この紙に署名してもらおうか。ここには『ハーマイオニーの無実が証明されたあかつきには、ハーマイオニーはいつまでもこの件を蒸しかえして当てこする権利がある』と書いてある。さあ、宣誓してもらおう。なにを怖気づくことがある。本気でそう信じているなら、ためらうことはないはずだよ——」

 

ハーマイオニーは階段を途中までのぼったところで、寝室にも同室生がいるのだということを思いだした。

 

◆ ◆ ◆

 

星がまだはっきりと見えないくらいの時間帯。太陽は完全にしずんでいるものの、地平線ちかくの空は赤紫色にくすんでいて、そのあたりに一等星が一つ二つやっと見える程度。

 

ハーマイオニーはバルコニーの周囲に切り立つ石の欄干に両手を押しあてて立っている。塔の階段を途中で脱け出してここに来たのは——

 

——ただ寝室にもどってはいられない——

 

——そう思ったからだったが、その一言を反芻するたびに、『二度と家に帰るな』と言われたような気分になる。

 

見おろすと、だれもいない運動場、薄れゆく夕焼け、芽ぶきつつある草原がとても遠く見える。

 

疲れた。とても疲れていて、思考がまとまらない。眠らなければ。 フリトウィック先生からも、よく眠るようにと言われている。用意された夕食にはまた(ポーション)がはいっていた。 魔法世界ではこうするものなのだろうか。精神的外傷を受けた無実の少女には、ひたすら眠らせることで対処するものなのだろうか。

 

もう寝室に行って眠るべきだと思うけれど、ほかの人がいるところに行くことが怖い。 どういう目で見られるか、あるいは目をそらされるのではないか、ということが怖い。

 

夜が深まるなか、いくつもの思考の切れはしがこころのなかを巡るが、そのどれを完成させることも組み合わせることもままならないほど疲れてしまっている。

 

どうして——

 

どうしてこんなことに——

 

一週間まえにはなにも問題なかったのに——

 

どうして——

 

背後でギッと扉がひらく音がした。

 

ふりかえって、そちらを見る。

 

クィレル先生がバルコニーへの出口の手まえで、壁に背をあずけて立っていた。そのすがたは、たいまつの火が明るい室内の光を背景にして、段ボール製の黒い切り絵のように見える。 室内の光が十分漏れているのに、表情は分からない。 目も顔もすべて夜の闇に沈んでいる。

 

ホグウォーツ〈防衛術〉教授。今回の事件の犯人候補のなかで、もっとも疑わしい人物。そう思うということは、二人目、三人目の犯人候補も想定しているということだが、ハーマイオニーは自分がそうしていることにいままで気づいていなかった。

 

男はその場に立ったまま、なにも言わない。どんな目でこちらを見ているのかも分からない。 そもそも、なにをしにここに来たのか——

 

「わたしを殺しにきたんですか?」

 

返事がわりに、クィレル先生はくびをかしげた。

 

〈防衛術〉教授はハーマイオニーのほうへ踏みだす。片手をあげた黒いシルエットが一歩一歩着実に迫ってくる。まるでハーマイオニーを塔から突き落とそうとするかのように——

 

「『ステューピファイ』!」

 

どっとアドレナリンが流れてあたまが真っ白になり、ハーマイオニーは無意識に杖を手にしていた。口がかってに呪文をとなえ、電撃が杖のさきから飛びだし——

 

——それがクィレル先生の片手のまえで()()()()()()()()()()()()。とらわれた電撃は空中でもがき、シュッと音をだした。

 

電撃の赤い光に照らされて、やっとクィレル先生の顔が見えた。妙に愛情のある笑顔だった。

 

「それでいい。……ミス・グレンジャー、きみはいまもわたしの〈防衛術〉の生徒だ。 自分に害をおよぼすように思える相手を目にして、悲しげに『わたしを殺しにきたんですか』と言ってすませるようではいけない。クィレル点を二点減点だ。」

 

ハーマイオニーはかえすことばがなかった。

 

クィレル先生は人さし指を軽く振って、空中にとまっていた電撃をはじき、ハーマイオニーの頭上を通過させ、夜空のかなたへと飛ばした。バルコニーはまた真っ暗になった。 クィレル先生が外にでて、扉が閉まった。同時にぼんやりとした白い光が二人をつつみ、たがいの顔がまた見えるようになった。クィレル先生は奇妙な笑顔のままだった。

 

「なぜ——なぜあなたがここに?」

 

クィレル先生は答えないまま、また何歩か坂をのぼってバルコニーの縁にちかづき、石の欄干に(ひじ)をのせ、上半身をしっかりと外にのりだして、夜空を見あげた。

 

「わたしは〈闇ばらい〉から解放されて、総長に報告をしてから、まっすぐにここにきた。 わたしは教師であり、きみという生徒への責任があるからだ。」

 

そう言われてハーマイオニーは思いだした。クィレル先生は二回目の〈防衛術〉の授業でハリーに『怒りを制御しろ』ということを言っていた。 そのことを思うと、後ろめたさがさっと全身を駆け抜け、 身動きがとれなくなる。いや、それは実際には起きなかったのだと自分に言い聞かせて、やっとのことで口をひらく——

 

「わたしが——わたしが怒りにまかせて攻撃したという話は事実ではないと——ハリーも言っています——」

 

「そうらしいな。」  クィレルは乾いた口調でそう言い、星にむけてくびを振る。 「ミスター・ポッターにはまったく手を焼かされる。なにをそんなに自滅したがるのかとうんざりさせられたが、あそこまでいくといっそ、つぎはなにをしでかしてくれるのかという興味のほうが優る。 しかし事実認定に関しては、わたしも彼の判断を支持する。 今回の殺人劇には、ホグウォーツ城の結界と総長の監視の目を巧妙にかいくぐるだけの用意周到さがある。 それだけ気がきく犯罪者なら、無実のだれかに罪を着せることも朝飯前だろう。」  やはり視線はよそに向けられたまま、口もとに皮肉な笑みが浮かぶ。 「きみが実際に犯人だという可能性については——いくら有能な教師を自認しているわたしでも、きみのように頑固で才能がない生徒に殺人の極意を教えられるほど万能ではないよ。」

 

ハーマイオニーのこころのなかに、むっとして反論しようとする声があったが、口を動かすほどのちからはなかった。

 

「そう……わたしがここに来た理由は別にある。 ミス・グレンジャー、きみはわたしを嫌っていて、そのことを隠そうともしなかった。いつわりのないその態度にわたしは感謝している。 わたしはいつも、うわべだけの愛よりも本気で憎まれるほうがいいと思っている。 それでもきみはわたしの生徒だ。きみさえよければ、わたしから一言、助言してあげたいことがある。」

 

さきほどのアドレナリンの余波がおさまらないなか、クィレル先生に目をやる。 クィレル先生はただ暗い空を見あげているようだった。空には星が見えはじめていた。

 

「わたしは昔、英雄になろうとしていたことがある。……信じられるかね、ミス・グレンジャー?」

 

「いえ。」

 

「今回も率直な返事をありがとう。 しかしこれは事実なのだ。 ずっと昔、きみやハリー・ポッターが生まれる何年もまえに、救世主とうたわれた男がいた。 名門一族の出身で、正義と復讐を両手にたずさえ、強大な宿敵に立ちむかう、物語の登場人物のような男だった。」  クィレル先生は空を見あげたまま、小さく苦笑いした。 「その当時でさえ、わたしは自分のことを冷笑家だと思っていた。その実、どうだったかというと……」

 

冷気と夜気のなか、沈黙がつづいた。

 

「正直に言って……」と言ってクィレル先生は星を見あげる。 「いまだにわたしには不可解だ。 彼ら全員の命が、男の成功如何にかかっていた。そう分かっていながら、彼らはありとあらゆる方法で男の邪魔をし、男の人生を()()()にした。 わたしも、権力者たちが簡単になびいてくれると思うほど、うぶではなかった。そのためにはなにがしかの見返りが必要だろうとは思っていた。 しかし当時は、彼らの権力そのものが危機に瀕していたのだ。にもかかわらず彼らは前線に出ようとはせず、すべての責任を男に負わせた。わたしにはそれがおどろきだった。 彼らは男の成果がかんばしくなければそれを笑い者にし、自分たちが本腰をいれればずっと大きな成果をあげられると吹聴した。その実、だれも自分の手をくだそうとはしなかった。」  分からないと言うようにくびをふる。 「なにより奇妙なことに——男の宿敵たる〈闇の魔術師〉と呼ばれた男のほうでは、そういったことはなかった。熱心に主人の命令にしたがう部下ばかりだった。 〈闇の魔術師〉が部下に残酷な仕打ちをすればするほど、部下はいっそう熱心に、 さきをあらそって奉仕した。かたやもう一人の男は、自分に命をあずけているはずの者たちに邪魔されてばかりだったというのに……。それがわたしには不可解だった。」  クィレル先生の顔が上をむき、影に隠れた。 「男は貧乏(くじ)を引いて戦場に身を投じたばかりに、そうしない人たちから疎外されてしまったのだろうか? 彼らはそのせいで——自分たちが隷従の憂き目にあいかねないのも忘れて——〈闇の魔術師〉と戦うその男をいくらでも妨害する権利があるように思ってしまったのだろうか? わたしは人間は利己的に行動するものだと思っていたが、そう思うのは冷笑ではなかった。とてつもない楽観主義だった。 現実には、人間は利己的にすらなれない生きものだ。 そこまで分かればあとは簡単な話だ。そんな人間たちを率いるよりは、一人で戦うほうがまだましなくらいだ、と思えてくる。」

 

「それで——」  夜気のなかにひびく自分の声には違和感があった。 「あなたは安全な場所に仲間をのこして、たった一人で〈闇の魔術師〉に戦いをいどんだ、ということですか?」

 

「いや、まさか。 わたしは英雄(ヒーロー)になろうとすることをすっぱりやめて、もっと快適な人生をおくることにした。」

 

「え……? 最低じゃないですか!」

 

クィレル先生は空をあおぎ見るのをやめて、ハーマイオニーのほうを向いた。室内からもれる明かりでクィレル先生の顔が——すくなくとも顔の半分が見えるようになった。笑顔だった。 「ミス・グレンジャー、きみはわたしのことを、ひどい人間だと思うか。たしかにそう言ってもいいかもしれない。 しかし英雄になろうとすらしない人たちと比べればどうだ? わたしとて、彼らとおなじように最初から手をださず傍観したままでいるという選択肢はあった。そうしていていれば、きみから『最低』とまでは言われずにすんだのかな?」

 

それに答えようと口をひらくが、こんどもまた、言うべきことが見つからない。 英雄であることをやめて、ほかの人たちを見捨てる行為は、どう考えてもまちがっている。かといって、英雄でない人は無価値だとも思いたくはない。それはそれでクィレル的な考えかただから……。

 

クィレル先生の顔(の半分)から笑みが消えた。 「英雄(ヒロイン)を名のってだれかを守ろうとするのもけっこうだが、守られた人たちはいずれ恩を忘れる。きみはそんなことも分からないでいたのだろう。 だからこそきみはその男が英雄であることをやめたと聞いて『最低』だと言ったのだろう。……何千人といる傍観者のことをさしおいて。 彼らにとって、きみがいじめ退治をするのは()()()()()だった。 領主は民が納めた税金を手にすることを当然の権利だと思い、期日に届いていなければ嫌味を言う。彼らもまったくおなじだ。 きみもその目で見たことだろう。一度はきみを持ちあげていた人たちも、風向きが悪くなればたちまち顔をそむけるようになる……」

 

クィレル先生はバルコニーに身をのりだす姿勢をすこしずつ変えて、やがてほとんどまっすぐに立ち、ハーマイオニーと対面した。

 

「しかしきみが英雄(ヒーロー)でありつづけるいわれはない。いつやめようが、きみの自由だ。」

 

そんな風に考えたことは……

 

……実はあった。この二日間のあいだにも、何度か。

 

『人間は正しくあろうとすることで、ほんとうの自分になる』とダンブルドア総長は言っていた。 やっかいなことに、いまここには二通りの正しさがあるように思える。 こころのなかのどこかで、『ホグウォーツから逃げださないことは()()()、わけがわからない状況でも踏みとどまるのが英雄(ヒロイン)だ』、と言う声がする。

 

しかしもう一つ、『子どもは危険に近寄るべきではない』、『そういうことをするのは大人の仕事だ』、という良識を語る声も聞こえる。『知らない人からお菓子をもらってはいけません』という標語とおなじ種類のもので、これはこれで正しい。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはバルコニーに立ったまま、だんだん明るくなる星の光にふちどられるクィレル先生のすがたを見て、やはり理解できなかった。 よりによってなぜクィレル先生が心配げな顔をしてこちらを見ているのか。なぜその声を聞いて痛ましさを感じてしまうのか。クィレル先生は()()わざわざこんな話をしているのか。

 

「あなたはわたしのことが嫌いですよね。」

 

クィレル先生は一度小さく笑った。 「わたしとしてはまず、この件に貴重な時間を使わされたおかげで〈防衛術〉の授業に支障がでてしまったことに我慢がならない。 しかしそれ以上に、きみはわたしの生徒だ。過去の職業のことはおいておくとして、わたしはこの学校ではよい教師であったつもりだ。きみもそれは認めるだろう?」  そう言ってクィレル先生は急に疲れた目をした。 「教師として、きみにはぜひ、この学校以外の進路を考えてみてもらいたい。きみをわたしとおなじ目にあわせるのはしのびないのでね。」

 

ハーマイオニーは息をのんだ。 予想だにしない一面を見せられて、自分のなかにあったクィレル先生のイメージが塗り替わっていくようだった。

 

クィレル先生はしばらくハーマイオニーをながめて、それから顔をそむけ、また星空をあおいだ。そしてもう一度、声をおさえて話しはじめた。 「ミス・グレンジャー、きみはこの学校にいるだれかに狙われている。わたしはミスター・マルフォイを守ることはできたが、おなじようにきみを守ることはかなわない。 総長が——理由があってのことだとは言うが——そうさせないのだ。 きみはホグウォーツに愛着がわいていることだとは思う。無理はない。わたしもそうだ。 しかしフランス人の〈元老貴族〉に対する態度はブリテン人のそれとは一線を画している。ボーバトンもきみに悪いようにはしないだろう。 ほかのことできみにどう思われていようとも、わたしは頼まれれば、全力をもってきみをボーバトンに安全に送りとどけると約束する。」

 

「そんな勝手なこと、わたしには——」

 

「いや、勝手にしていいのだよ。」  淡い水色の目がハーマイオニーをじっとのぞきこむ。 「きみがどんな将来の夢を思いえがいていたにしろ、ホグウォーツでそれがかなうことはもはやありえない。 たとえ危険を度外視したとしても、この学校にいつづけることはきみにとってなんら利益がない。 きみからハリー・ポッターに頼んで、『ボーバトンに転校して一生平和に暮らせ』と命令してもらえばすむ話だ。 この国にとどまるかぎり、社会的にも法的にもきみはハリー・ポッターの従僕だということを忘れるな。」

 

そういうことは、ディメンターに食べられることを思えばはるかに小さな問題に見えて、すっかり忘れてしまっていた。以前は大切にしていたのに、いまはもう子どもじみた、くだらないことのように感じられる。それでいて、なぜか目が熱くなってしまう。

 

「まだ納得できないかね。ではもうひとつ。ミスター・ポッターは今日、ルシウス・マルフォイとアルバス・ダンブルドアとウィゼンガモート議員全員を脅迫した。すべてはきみの安全をおびやかすものをまえにして、冷静に考えることができなくなったから。 そんな彼がつぎになにをするか、想像するだけで怖くはないか?」

 

それはよく分かる。恐ろしいまでによく分かる。

 

()()()()()()いる——

 

なにがその理解をもたらしたのか、言語化しようとしてもうまくいかない。もしかするとクィレル先生が発している()()()()()がそうさせたのではないだろうか。

 

仮にクィレル先生がこの件の首謀者だったとしたら——クィレル先生はハリーになにかをさせようとしていて、わたしはその邪魔になったから排除されたのではないだろうか

 

無意識のうちに身体が動き、体重を足から足へ移動させ、クィレル先生から距離をとろうとする——

 

「わたしが真犯人だと思うのかね?」  クィレル先生は多少悲しげにそう言った。ハーマイオニーは心臓がとまりそうになった。 「そう思われても無理はない。 わたしはホグウォーツ〈防衛術〉教授なのだから。 しかしミス・グレンジャー、()()わたしがきみの敵だったとして、その場合も()()()()わたしのもとを離れるべきだとは言えるのではないか。 きみは〈死の呪い〉をつかえない。だから正しい戦術は〈現出(アパレイト)〉して逃げることだ。 それできみの気がすむのなら、わたしのことはいくらでも極悪人だと思うがいい。 極悪人のことはしかるべき人たちの手にゆだねて、この学校を去れ。 きみが人望のある一族の手を借りて移動できるようにとりはからおう。ミスター・ポッターにも話は通しておこう。もしきみが無事に到着しなければ彼はわたしを責める権利がある。」

 

「そ——」  ハーマイオニーは寒けを感じた。夜の空気が肌に冷たい。いや、肌のほうが冷たいのか。 「それは、一度よく考えさせてください——」

 

クィレル先生はくびをふった。 「いや、そんな時間はないよ、ミス・グレンジャー。 きみを送りだす準備には時間がかかる。わたしに残された時間は、おそらくきみが思うより少ない。 苦しい決断になろうとは思う。しかし曖昧な返事は受けいれられない。 多くのものごとがきみの選択如何にかかっている。しかしそのなかでも軽重の差は歴然としている。 ここを出るのか、とどまるのか。返事はこの場で聞かせてもらいたい。」

 

もし拒否すれば——

 

クィレル先生はいま、警告の意味でこう言っているのだろうか? とどまれば、第二段の攻撃が待っているぞ、と?

 

なにがそこまで重要なのか。クィレル先生はハリーとなにを()()()()()()()()のか。

 

『ハーマイオニー・グレンジャー、ここからは謎の老魔法使いらしからぬ、すこしはっきりとした物言いをさせてもらう。もしハリー・ポッターを中心に展開されるできごとがまちがった方向に進めば、どれほどの災厄を招くか。その悲惨さはだれにも想像することすらできない。』

 

以前ハーマイオニーは世界最強の魔法使いにそう言われた。くれぐれもハリーの友だちであることを()()()()()()()と忠告された。

 

ごくりと息をのむ。すこしからだがふらつく。魔法の城の石のバルコニーに立つ自分はいま、あまりに深刻な状況におかれている。その事実がおもむろに、自分の喉もとをつかんでくるような気がした。十二歳の女の子は本来危険に晒されるべきではない。こういうことを考えさせられるべきでもない。ママに聞けば逃げる選択の一択だろうし、お父さんは娘がそんな選択をさせられていることを思うだけで心臓がとまりそうになるだろう。

 

そう考えたところで、ハリーとダンブルドアがなにを警告しようとしていたのか、以前の自分がヒロインについてどうまちがっていたのかが、やっと理解できた。 ヒーローなどというものは物語のなかにしか存在しない。 現実にいるのは、危険と恐怖を経験し、〈闇ばらい〉に逮捕され、ディメンターのいる監房にいれられ、痛めつけられる人たち——

 

「ミス・グレンジャー?」と〈防衛術〉教授が言った。

 

ハーマイオニーは答えない。どんなことばもでてこない。

 

「……返事を聞かせてもらおうか。」

 

それでもハーマイオニーは口をかたく閉ざす。

 

やがて〈防衛術〉教授はためいきをついた。二人をつつんでいた白い光がだんだんと消えていき、塔への扉がひらいていく。また黒いシルエットとなった〈防衛術〉教授は 「さようなら、ミス・グレンジャー。」と言って、こちらに背をむけて城のなかへともどっていった。

 

それから呼吸が落ちつくまでにはしばらくかかった。 たったいま起きたことがなんであったにしろ、すくなくとも勝利のようには感じられなかった。 ハーマイオニーは必死にたたかって、ぎりぎりのところでやっと、『行く』と答えるのを思いとどまることができたにすぎない。〈防衛術〉教授が発する圧力はそれくらい強く、断ることがほんとうに正解だという自信もなかった。

 

しばらくしてハーマイオニーも屋内の光にむけて歩きだした(全身に充満する疲労のおかげで、ようやく眠れるような気がしはじめた)。扉をくぐりかけたとき、遠くから——背後の(そら)のどこかから、カーという鳴き声が聞こえた気がした。

 

けれど呼ばれているのが自分でないことはたしかだから、そのまま階段をのぼり、共同寝室へむかった。

 

同室生はみんなもう眠っているだろうから、見られることも、目をそらされることもない——

 

ハーマイオニーは目から涙があふれていくのを感じたが、今回はかまわず、流れるままにした。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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85章「交換不可能な価値——余波(その3)——距離」

重い足どりで、レイヴンクロー塔の頂上へつづく長い階段をいくハリー。 この階段はのぼっている人からはまっすぐに見えるが、外観としては螺旋型以外のなにものでもない。 レイヴンクロー塔の頂上に行く近道はなく、この石段を一歩一歩のぼるしかない。 疲れた足で一段一段を踏むたびに、重い靴音が鳴る。

 

ハリーはハーマイオニーが寝室にいくところを見とどけた。

 

そのあとレイヴンクロー談話室に居残り、数人ぶんの署名をあつめ、ハーマイオニーのためにとっておいた。 たいした数にはならなかった。 大半の魔法族は、『責任をもって自分の仮説だとどういう結果が出るかを言ってみろ、できないなら本気で信じていないということだから黙れ』というマグル科学的なやりかたの訓練をうけていない。 あとでハーマイオニーが犯人でなかったと分かったあかつきには一生嫌味を言われつづけるという約束を書面でする気はないいっぽうで、自信たっぷりに犯人あつかいをしつづける、というのは()()()()()()態度なのだが、彼らにはそのことが分からない。 とはいえ、一度こうやって署名を要求しておくだけでも、真実があきらかになれば、ハーマイオニーが〈闇〉呼ばわりされることは二度となくなるだろう。ハーマイオニーに()()こんな経験をさせなくてすむという効果だけでも、ないよりはいい。

 

それからすぐにハリーは談話室をあとにした。それまでなんとか維持できていた寛大な態度も限界になりつつあった。 ときどき考えるのだが、ハリーの人格が分裂しているとすれば、それは暗黒面のせいではなく、 利他的で寛大な〈抽象思考をするハリー〉と怒りやすい〈その場のいきおいで行動するハリー〉の対立なのかもしれない。

 

たどりついたのは、レイヴンクロー塔の屋上にある円形の展望台。レイヴンクロー塔自体はホグウォーツ城で一番高い塔ではないが、城本体から突き出ているので、この展望台は天文塔からも見えない位置にある。 静かに考えるのに適した場所だ——とくに考えるべきことが多すぎる場合は。 ほかの生徒はめったにここに来ることがない。人と会いたくないだけなら、もっと手ごろな場所があるから。

 

外は夜で、はるか下の城壁に松明(たいまつ)が燃えている。 この展望台は見晴らしがよく、下からくる階段とも扉のない開口部でのみつながっている。 (そら)をあおげば、星に手がとどきそうに見える。

 

ハリーはローブが汚れるのもかまわず、展望台の中央に身をよこたえ、あたまを直接石畳にのせた。 視界のかたすみにある石の欄干と細く欠けた銀色の月をのぞいて、そこは星の海になった。

 

漆黒の平面にちらばる光の点がまたたいては消え、また光る。クリスマスの夜の冷たい輝きの星空とはまた違ったおもむきがある。

 

ハリーの視線は空の方向にあるが、精神は別のことを考えていた。

 

今日をもって、きみとヴォルデモートの戦争がはじまった……

 

ダンブルドアは〈ベラトリクス・ブラック救出事件〉の直後にそう言っていた。それ自体はダンブルドアの思いすごしだったのだが、事態の深刻さに見あう表現ではあった。

 

ハリーの戦争は二日まえにはじまった。しかし、()()()()戦争なのかが分からない。

 

ダンブルドアは、よみがえったヴォルデモート卿との戦争だと思っている。一度は自分を倒した少年に、先制攻撃をしかけたのだと。

 

クィレル先生はドラコに警戒用の結界をかけていた。それは狂った総長がルシウスの息子の死をハリーの犯行と見せかけようとするのではないかと想定してのことだった。

 

それとも、実はすべてクィレル先生のしわざなのか。だからクィレル先生はドラコを最初に発見することができたのか。 セヴルス・スネイプによれば、〈防衛術〉教授は被疑者としてまっさきに考えるべき人物だという。

 

そのセヴルス・スネイプ当人が信頼していい人物なのかどうかはまったく不明だ。

 

()()()()ハリーに宣戦を布告し、第一手でドラコとハーマイオニーの両方を除去しようとした。ハリーは紙一重のところでやっとハーマイオニーを守れたにすぎない。

 

とても勝利とはいえない。 ドラコはホグウォーツから連れだされてしまった。死ほどとりかえしのつかないことではないにせよ、どうやって修復すればいいのか、ドラコがもどることがあったとしてどんな状態でもどってくるのか、分からない。 いまやブリテン魔法界の住人全員がハーマイオニーのことを殺人未遂を犯した犯罪者だと思っている。そのせいでハーマイオニーはこの国を去るかもしれない。それは正しい選択かもしれないし、そうでないかもしれない。 ハリーは損失を埋めあわせるために全財産をついやした。一度しかつかえない切り札だった。

 

ハリーは未知の勢力に攻撃され、せいぜい部分的に回避できたにすぎない。回避してなお、傷は大きかった。

 

とはいえ、ハリーの暗黒面がハーマイオニーを救うことと引きかえになにかを要求することはなかった。 あの暗黒面はハッフルパフのような想像上の声()()()()からかもしれない。 ハリーは自分のハッフルパフ的な部分の要求と自分の要求とが食いちがうことを()()したりもするが、暗黒面についてはどこかちがう。 『暗黒面』とはいうものの、それはハリー()()()性格の一部であるように思える。 いまハリーは怒っていない。その状態でいくら『暗黒面のハリー』に要求をたずねようとしても、答えはかえってこない。 そもそも、自分本来の性格の一部であるものに対して借りがあると思うこと自体、どこか違和感がある。

 

見あげると、星が夜空にちらばっている。なんの意味もないその光の点のならびのなかに、人間の脳は勝手に想像上の星座を見てとる。

 

……もうひとつ気になるのは以前した誓約のこと。

 

ドラコはハリーと協力してスリザリン寮を立てなおす。 ハリーは合理主義者としてできるかぎりのことをしてナルシッサ・マルフォイを殺した犯人をつきとめて、その人物を敵と見なす。 その誓約には条件があった。ナルシッサ自身が悪に手を染めておらず、焼き殺されたということが事実であり、実行犯がだまされてそうしたのでなければ——もっとあったと思うが、とにかくそういった条件で合意した。 どこかに書きのこすべきだったと思う。というより、そんなに条件が多い誓約はするんじゃなかったと思う。

 

それなりに正当な抜け道はある。抜け道をつかうことを自分に許せるなら。 今回ダンブルドアが言ったことは自白にはあたらない。『わたしがやりました』と言ったわけではない。 たしかに、ダンブルドアが実際に犯人だったという仮説に符合する言いかたではあった。とはいえ、あれは自分がやったことにしているだけで、実際には別のだれかがナルシッサを焼き殺したのだという可能性もある。その場合も、ダンブルドアがああいう言いかたをするのは自然だ。

 

ハリーが床の上でくびをふると、そのたびに髪の毛のふくらみが石畳に押しつけられて潰れる。 最後にもうひとつ、ドラコが望めばいつでもハリーを誓約から解放することができる、という抜け道もある。 すくなくとも、つぎにドラコと対面できたとき、状況を説明し、可能性をいっしょに吟味してみることはできる。 実際解放してもらえるとは考えにくいが——正直に話しあう用意があるだけでも、自分のなかにいる『誓約はかならず守れ』と主張する部分を納得させるには足りるように思える。 これは先のばしにすぎないかもしれないが、善人をまちがって敵と宣言してしまうのよりはましだ。

 

でもダンブルドアは善人かな?——とハッフルパフの声がする。 ダンブルドアがだれかを焼き殺したのだったとしたら……『善人なら、人殺しをすることはあっても、苦しませて殺すことはしない』という前提がそもそも崩れてしまうだろう?

 

いや、即死させたのかもしれない——とスリザリンが言う。 即死させてから、『焼殺した』という嘘をついて、ルシウスを騙したのかもしれない。 でも……もしナルシッサが死んだときの様子を死食い人が魔法で検証できる可能性がすこしでもあれば……そしてその嘘がばれれば〈光〉陣営の家族の身に危険がおよぶのだとしたら……

 

合理化のしすぎには注意しような——とグリフィンドールが言った。

 

またハッフルパフが言う。自分がなにかをしたことで、ほかの人からの見られかたが変わることは当然ある。 それなりの理由があってある女性を焼き殺すことにしたとして、それが第三者からは一線を越えたふるまいに見えて、そのために危険人物だと見なされることは容易に考えられる。 ダンブルドアもそれくらいのことは分かってやったんだろうから、あとになって文句を言う権利はない。

 

またスリザリンが言う。 ダンブルドアはぼくらなら理解するだけの能力があると思っているのかもしれない。 ここまで話が見えてきた段階で——その全容はどうであるにしろ——ぼくらはダンブルドアのことを敵にあたいする卑劣な人間だと思うことができるか? 血を血で洗う戦争のさなかに、ダンブルドアは敵陣営の民間人()()を火にかけた。 それを悪人の所業だというのは漫画(コミック)の世界の論理だ。歴史を裁く論理としては机上の空論だ。

 

ハリーは夜空をあおぎ、歴史上のできごとを思いだそうとした。

 

実際にあった、現実の戦争では……

 

第二次世界大戦のさなかに、ナチスの核兵器製造を妨害する作戦が遂行された。 その数年まえに、レオ・シラードたちの前史があった。レオ・シラードは核分裂連鎖反応の可能性にはじめて気づいた。フェルミは純化した黒鉛が安価で効果的な中性子減速材になることを発見した。シラードの説得で、フェルミはその発見を発表するのをあきらめた。 そのときまでフェルミは、国家主義を超越する科学の発展のために、この発見を発表したがっていた。 しかしシラードはもう一人の仲間であるラビを説得し、フェルミは多数決に負けて二人にしたがった。 このおかげでナチスは二重水素以外の減速材を知らなかった。

 

ナチスの支配圏にある唯一の二重水素の供給源は、占領下ノルウェーの施設だった。ナチスはその施設を爆撃と破壊工作で奪っていた。その際、民間人が二十四名死んだ。

 

精製された二重水素をドイツに運ぶために、ナチスはノルウェーの民間船SFヒュドロを使った。

 

クヌート・ハウケリードは部下とともに夜にまぎれてその民間船に潜入し、破壊工作をしようとしたが、船の警備員に見つかった。ハウケリードは自分たちは秘密国家警察(ゲシュタポ)から逃げているのだと説明し、警備員はそれを見逃した。 ハウケリードはその警備員に事前の警告をあたえようかとも考えたが、任務に支障が出かねないと判断し、なにも言わず握手をして別れた。 船は沈没し、ドイツ人八名と船員七名と無関係の民間人三名が死んだ。 ノルウェーの救助隊が救助にあたったが、ドイツ兵は溺れさせたまま放置しようという意見もあった。しかしその主張はとおらず、最終的にはドイツ人生存者も救助された。 こうしてナチスドイツの核兵器製造計画は頓挫した。

 

つまり、クヌート・ハウケリードは罪のない人たちを殺した。 殺されたうちの一人である船の警備員は()()だった。 自分の身を危険にさらして規則をやぶりハウケリードを助けようとした行為は、警備員の思いやりの気持ちと高潔さをものがたっている。その返礼として、警備員は溺死させられた。 非情なことに、当時のナチスの技術は核兵器の実用化にはほどとおかったらしいことがあとになって分かった。

 

それでも、ハリーの知るかぎり、『ハウケリードの行動はまちがっていた』というような主張をする本はない。

 

現実の戦争はそういうものだ。 ダンブルドアはナルシッサ・マルフォイを残酷に殺したかもしれない。ダンブルドアは予言を漏らすことでヴォルデモート卿がハリーの両親を攻撃するようにしむけたかもしれない。 それでも、犠牲の量でいうならダンブルドアよりもハウケリードのほうがずっと()()だ。

 

ハウケリードが漫画のスーパーヒーローだったなら、民間人を全員下船させることができたかもしれない。ドイツ兵と直接対決できていたかもしれない。

 

……罪のない人を一人も死なせずに作戦を成功させられたかもしれない……

 

……けれどクヌート・ハウケリードはスーパーヒーローではなかった。

 

その点、アルバス・ダンブルドアもおなじだ。

 

ハリーは急に息がつまりそうになり、目をとじて、数回大きく息をした。 〈啓蒙〉的な理想を追求するハリーと対照的に、ダンブルドアは()()()()()()()()()()。 科学者は簡単に非暴力主義を吹聴し暴力を批判することができるが、それは自分を守ってくれる警官や兵士の『(プロテゴ)』があってこそのことだ。 アルバス・ダンブルドアも、もともとはハリーとおなじくらい理想を重視していたようだった。ただ、ダンブルドアは戦争の過程でやむをえず敵を殺し、味方を犠牲にした。

 

ハリー・ポッター、おまえは自分がハウケリードやダンブルドアより優秀だと思っているのか。 漫画の世界でさえ、バットマンのようなスーパーヒーローが成功()()()()()()()()()()のは、〈名前のある主要キャラクター〉が死なないかぎり、読者は気にとめないからだ。ジョーカーが名前のない通行人を殺し、悪人らしさを際立たせる場面がいくらあっても、読者は気にとめない。 バットマンがジョーカーを殺してさえいれば救えた人命の量を思えば、バットマンもジョーカーとおなじくらいの人殺しだ。 アラスターという名前の男はダンブルドアにそのことを伝えようとしていた。ダンブルドアはそう考えるべきだったと気づくのが遅れたことを悔やんだ。 おまえはほんとうにスーパーヒーローの真似をして、敵を一人も殺さず味方を一人も犠牲にしないやりかたを目指すのか?

 

疲労感から、ハリーはいったんこの難問のことを忘れて目をひらき、自分の判断とはかかわりなく動く天球へと視線をもどした。

 

視界の端のほうに、青白い三日月が見える。月から一.二五秒まえに発せられた光が同時性のある三十七万五千キロメートルの空間をへだてて、いま地球に到達している。

 

天頂からすこしくだると、〈北極星(ポラリス)〉がある。〈オオグマ座〉の尻尾をたどってこの星を見つけるやりかたは、ハリーがはじめて知った星の見つけかただった。 〈北極星〉は実際には地球から434光年さきにある明るい超巨星を中心とする五連星だという。ハリーにとっては、はじめてお父さんに名前を教えてもらった星でもある。そのとき自分が何歳だったか分からないくらい昔のことだった。

 

うっすらと光る煙のような〈天の川〉。直径10万光年の銀河面に何億もの星がかさなって一体となり、川のように見えるもの。 ハリーがそのことを()()()()聞かされたのは何年もまえのことで、当時の自分がどれくらい好奇心をかきたてられたかはもう覚えていない。

 

〈アンドロメダ座〉の中心星アンドロメダは実際には〈アンドロメダ銀河〉という銀河である。〈アンドロメダ銀河〉は〈天の川銀河〉と240万光年の距離をへだてた隣人であり、3兆個の星を内包しているという。

 

こういった数と比べると『無限大』はかすんで見える。『無限に』遠い星のことを考えるより、240万光年という距離をメートルに換算する作業をしてみたときのほうが、その巨大さをひしひしと実感する。 光子は1秒に3億メートル移動する。1年は3100万秒なので、3億の3100万倍の240万倍を計算すると……

 

それだけ遠いものへも到達()()()()()()()かもしれないと思うと不思議だ。 この宇宙には魔法が暗躍していて、〈逆転時計(タイムターナー)〉やホウキといったものがある。 魔法族がポートキーや不死鳥(フェニックス)の速度を測定しようとしたことはあるのだろうか。

 

そして人間はまだ、魔法を成立させている法則をまったくと言っていいほど理解していない。魔法の法則が()()()()()理解できたとき、どんなことができるようになるのだろうか。

 

一年まえ、パパがキャンベラのオーストラリア国立大学での会議に講演者として招かれ、ママとハリーも付いていった。 三人はもちろんオーストラリア国立博物館に行った。というのも、キャンベラにはほかに見るものがほとんどなかったからだ。 博物館では、アボリジニが作った木製の投石器が展示用のガラスケースにいれられていた。巨大な靴べらのようにも見えるが、よくみがかれていて、緻密な模様が刻まれた道具だった。 解剖学的現代人が四万年まえにアジアからオーストラリアに移住して以来、オーストラリアでは弓矢が発明されなかった。 このことを思うと、〈進歩〉という観念が()()()()()ことがよく分かる。 日々聞かされる英雄譚には偉大な戦士ばかり登場していて、トマス・エディソンはいない。それでなぜ〈発明〉が重要だなどと思えるだろうか。 丹精をこめて投石器を作る自分たちとおなじ人類がいつかロケット船や核エネルギーを発明するかもしれないなどと思えるだろうか。

 

そういう人たちは、空を見あげて、太陽のまぶしい光を見て、宇宙には火より強力なエネルギー源が存在するという結論をみちびくことができるだろうか。 基礎的な物理法則でそういったことが可能ならば、いつか人類も太陽とおなじ種類のエネルギーを利用できるようになるという事実に気づけるだろうか。 投石器や編んだ袋をつかってできるどんなことにも——ひらけた草原を横切るときの走りかたの知識にも、動物を狩って手にいれられるものにも——どこにもそんなことを妄想させてくれる手がかりすらないとしても、気づけるのだろうか。

 

現代のマグルだって、マグル物理学が予測するすべてのことを実現しきる段階にはほどとおい。 それでいて自動車と電話機でできる範囲を限界にして生きている。これは狩猟採集民が投石器でできる範囲のことしか考えられないのとおなじことだ。 マグル物理学は明確に、ペンローズ過程によってブラックホールからエネルギーを取りだす方法や分子ナノテクノロジーが可能であると言っている。それでも、大半の人たちはそういう話をおとぎ話や歴史の話をしまってあるのとおなじ脳の部分にしまってしまい、個人個人の現実とむすびつけようとしない。 まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()の話であるかのように考える。 マグルがそうであるなら、魔法族が——魔法の基礎法則というものは発見されてすらいないので——既知の〈操作魔法(チャーム)〉を支配しているように見える表面的な規則だけにとらわれてものごとを考えるのも無理はない。 現代の魔術のありかたを観察してそれがどういう段階にあるかを知れば、どうしてもオーストラリア国立博物館のことを考えてしまう。 ハリーが最初に思いついた説明はまちがいだったかもしれない。それでも、宇宙の()()()()法則のなかに『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』のかたちをする人間のくちびるに関する特別規定がはいっているという理解はありえない。 それだけいいかげんな理解にもとづいていてさえ、魔法はマグル物理学では()()()()()()だとされているようなことを実現できる。〈逆転時計〉もそうだし、無から水をつくりだす『アグアメンティ』もそうだ。 十一歳の子どもに棒一本をもたせればマグル物理学の制約をほとんどすべて破ることができる宇宙では、()()()()()どれほどのことが可能なのだろうか。

 

狩猟採集民が太陽を見あげて、この宇宙は核エネルギーの存在を許容するようにできていると想像するときのように……。

 

そう思うと、二百万メートルの一億倍の一億倍の距離もそう遠いものではない気がしてくる。

 

〈抽象思考をするハリー〉の考えかたからもう一歩ふみだして、適切な状況に身をおいてじっくり気持ちを落ちつかせると、〈抽象思考をするハリー〉にも〈その場のいきおいで行動するハリー〉にも見えないものが見えたりすることがある。 星ぼしを見あげて、人類の遠い子孫たちが——一億年を経て、銀河の大運動によって恒星の配置が変わり、あらゆる星座があとかたもなく変貌したころの子孫たちが——この葛藤についてどう思うかを考えてみる。 確率論の初歩的な定理によれば、将来えられる証拠によって自分の判断がどう更新されるかをいま知っているなら、更新されたほうの判断にいますぐ乗りかえたほうがいい。 目的地を()()()人は、すでにそこに到着している。 定理とまではいかないが、おなじような論理で言えば……人類の子孫が考えそうなことを言いあてられるなら、それを自分の考えにしてしまえばいい。

 

その地点から見おろせば、数時間まえには魅力的だったウィゼンガモート議員の三分の二を殺すという発想が、それほど魅力的ではないように見える。 たとえ()()()()()()()()()()としても……つまり厳然とした事実として、殺すことが魔法界ブリテンのためになるとしても……そうすることではじめて〈時間の物語〉が最終的に幸せな結末を迎えられるのだとしても……意識ある存在の死はやはり悲劇だ。 はるか遠い昔、はるか遠くの場所で、すべてのはじまりにあたる〈地球時代〉に起きていた悲しいできごとの一つとして数えられることだろう。

 

ヴォルデモートはグリンデルヴァルトとはちがい、 人間性をまったくのこしていない。 その男をきみは滅ぼさねばならん。 怒りはその対決のときのためにとっておきなさい——

 

くびをわずかに横に振ると、視界の星が揺れる。石の床によこたわったまま、目は上へ、外へ、未来へとむかう。 あのときのダンブルドアが言うように、真の敵ヴォルデモートはだれの理解をも越えた悪なのだとしても……一億年後の視点からは、いまヴォルデモートとして知られる生命体も未熟な〈地球時代〉に生きた一人でしかない。 ヴォルデモート卿がおこなった〈暗黒〉の儀式が人類のものさしからすればどれほどとりかえしのつかないもののように思えるとしても、一億年の技術の発展をもってして治癒できないはずがない。 ほかの人間を死なせないためにその一人を殺す()()があるのだとしても、未来の意識体たちからすればそれも悲しむべき死であることに変わりはない。 こうして星を見あげていると、そう思わないことのほうがむずかしい。

 

いくつもの〈永遠〉にまたたく光の粒を見ながら考える。ハリーの三代さきの子孫は、ダンブルドアがナルシッサにしたかもしれないことについてどう思うだろうか。

 

とはいえ……そうやって、人類の末裔ならどう思うだろうか、という風に質問を言いかえたとしても、答えの源泉はその末裔ではなく自分自身の知識にある。 自分自身のなかから出てくる答えであることに変わりはなく、まちがいは生じうる。 自分が円周率の百桁目を知らなければ、それがどんなに単純なことであっても、自分の三代さきの子孫がする計算結果を想像することはできない。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはすこしずつ床から身を起こした——思っていた以上に長く、ここで星を見ていたようだった。 立ちあがろうとすると筋肉が悲鳴をあげた。レイヴンクロー塔の頂上にあるこの展望台のまわりの欄干は低い。 落下防止には役に立たない意匠にすぎないようだ。 危険をおかす意味もないので、ハリーは縁には近寄らなかった。 下の運動場を見おろすと、当然めまいがする。 ハリーの脳は地面からこれだけの高度があるのを見てぎょっとしたようだった。 実際、五十メートルはあるかもしれない。

 

そのことから分かるのは、脳は相手が()()()()()近くなるまで恐怖を感じるだけの理解をしてくれないものらしい、ということ。

 

脳はふつう、空間的、時間的にすぐ手がとどく近さにあるものにしか、思いいれを持たない……。

 

以前ハリーは、アズカバンに行くには大人の協力者が必要だろうと想像していた。 ポートキー、ホウキ、透明化の呪文。 〈闇ばらい〉に気づかれずに最下層に到達し、〈死〉の影がいる奈落へ忍びこむ方法。

 

そういったものが必要だろうと想像するだけで、アズカバンに行くという考えを()()ではない将来に追いやることができた。

 

それが今日になってはじめて、不死鳥フォークスをつかまえて、いまがそのときだと言えばいいだけのことかもしれない、と気づいた。

 

忘れようにも忘れることができなかった記憶がまた浮かびあがる。 いま足の下にあるのは金属ではなく石であり、まわりには月のあかるい空が見えている。それでもなぜか、ハリーはオレンジ色の薄暗い照明と金属の壁にかこまれた細長い通路に閉じこめられているときの自分にたやすくもどることができた。

 

周囲の闇に音はなく、記憶のなかからはっきりと声が聞こえてくる。

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

いや……行かないで……ここにいて——

 

視界がにじんで見え、袖で目をぬぐう。

 

もしあの扉のむこうにいたのが()()()()()()()()()()()——

 

あれがハーマイオニーだったとしたら、ハリーは不死鳥を呼び、ディメンターを最後の一体にいたるまで焼きつくしていただろうと思う。いくらそれが正気の沙汰ではないとしても、それで自分の将来の夢が台無しになるとしても、 ただ——自然にそうしていただろうと思う。

 

そして実際にあの扉のむこうにいた女性も——どこかのだれかにとって大切な人だったのではないだろうか。 ハリーの脳がアズカバンに行って()()()()()()()()()()()()()()()という衝動を感じられないのは、彼女に対する親近感がないからにすぎないのではないだろうか。 ではなにがあればいいのか。顔を知っていればいいのか。名前を知っていればいいのか。好きな色を知っていればいいのか。 それがトレイシー・デイヴィスであれば、やってしまうのか。マクゴナガル先生であればどうか。 それがママとパパであれば——考えるまでもない。 あの女性自身、子どものことを話していた。アズカバンを破壊する能力が自分にあればと願った人はこれまでにどれくらいいただろうか。 そういう奇跡のような救出劇を夜ごとに待ちのぞんでいた囚人はアズカバンにどれくらいいただろうか。

 

一人もいない。待ちのぞむことは幸せを意味する。

 

やはりアズカバンはなくしてしまうべきではないのか。 フォークスをつかまえて、いまがそのときだと言えばいいだけのこと。 ホウキにのって見たディメンターの奈落の中心を思いうかべて、フォークスといっしょにそこへ行く。 あとのことはすべてほうりだして、至近距離で〈真の守護霊の魔法〉をかける。

 

フォークスをつかまえればいいだけのこと。

 

いや、ただフォークスの炎のことを思いうかべればすむのかもしれない——

 

夜空のどこかで星が光った。

 

流星群の観察をする経験があったおかげで、反射的にそちらに目がむく。そして同時に、問題の現象がまだ終わっていないこと、 その星の光がだんだんと強さをましていることにおどろく。 これはもしかすると流星ではなく、新星、いや超新星の爆発だったりはしないかと思ってはっとする——それにしても、これほど見る見る明るくなっていくものだろうか? 新星の第一段階の色はオレンジ色だったか?

 

その星が動き、光だけでなく大きさも増した。 距離の感覚がはたらかないほど遠く見えていたその星が急に()()なったように見えた。 そして星のように思えていたそれが飛行機のように見え、光をはなつ輪郭が見えてきて……

 

……よく見れば飛行機ではなく……

 

理解とともに、胸のなかがだんだんとざわつき、汗がふきだそうとする。

 

……それは鳥だった。

 

夜空を切りさくような鳴き声が、ホグウォーツ城の屋根屋根にひびく。

 

鳥が翼をはためかせるたびに羽と羽のあいだから黄金色の火花が散り、軌跡に炎をのこしつつ、大きな弧をえがいてハリーのまんまえの空中に舞いこむ。同時に、それを追う火の軌跡が消えていく。 しかし鳥自身の明るさはすこしもかわらず、見えない太陽に照らされているかのようだった。

 

翼は夕日のように赤く、白熱する真珠のような目のなかにも黄金色の火と決意の色がある。

 

鳥がくちばしをひらき、大きな声で鳴いた。ハリーはそれを言語のように理解した。

 

行こう(カー)!』

 

意識しないまま、ハリーは展望台のへりから一歩うしろにさがった。目は不死鳥をとらえたまま微動だにしないものの、体はこわばり、左右の手はそれぞれにぎっては閉じてをくりかえしている。一歩、また一歩と足が動き、後退する。

 

不死鳥はもう一度、懇願するようにカーと鳴いた。 それがこんどは言語としては聞こえず、かわりに感情として聞こえた。アズカバンについてのハリーのさまざまな感情。()()()()()()への誘惑。()()()()()なにかしなければという切迫感。ハリーのなかにあったそのすべてが不死鳥の声となって共鳴していた。

 

いまだ、行こう——  そういう声が不死鳥からではなくハリーのなかの奥深くから聞こえてきた。『グリフィンドール』などという名前をつけられないなにかがそう言っていた。

 

必要なのは、一歩まえに出て、この不死鳥の爪先に触れることだけ。それだけで、ずっと行かなければと思っていたアズカバンのあの奈落のなかへ行くことができる。 そう思うと、そこに行った自分のすがたが目に浮かぶようだった。燦然とした光につつまれ、安堵のあまり笑顔になり、恐れを捨てて()()()()()——

 

「いや——」  小声で話しはじめるものの、なにを言いだすのか自分でも分かっていない。大きく翼を動かして滞空する不死鳥をまえに、目から涙が吹きだす。それを震える手でぬぐう。 「いや、ぼくにはまだ——救うべき人たちがいる——やるべきことがある——」

 

不死鳥はまた甲高く鳴き、ハリーは攻撃に反応するようにさっと身をすくめた。 その声は命令するのでも責めるのでもなく、()()を伝えていた——

 

オレンジ色の薄暗い照明のともった通路。

 

それが目に浮かんで、胸をしめつけるような衝動……さっさとそうしてしまいたいという思いを感じる。 そうすることでハリーは死ぬかもしれないが、もし死ななければ()()()()()状態にもどれるかもしれない。 行動しない言いわけをやめて、高潔でいることができる。 自分自身の命をどうつかおうが、だれにも気がねすることはない……

 

……それが善でないことに目をつむれば。

 

◆ ◆ ◆

 

展望台にいる少年の視線が相手の燃える目から離れないまま、 銀河の運動で星座が変形しそうなほど長い時間が過ぎた。行くか、行かないか、悩みつづけて……

 

……答えは……

 

……変わらない。

 

少年の目が一度だけちらりと星空を見あげ、また不死鳥を見る。

 

「まだ……」  やっと聞こえるかどうかの声。 「まだ行けない。 そのまえにやっておくべきことが多すぎる。 もう何人か真の〈守護霊〉をつかえる人が見つかったころに——たとえば六カ月後にまた来てほしい——」

 

声も音もたてずに、白色と赤色の管がのたうつ球形の炎が出現した。それが不死鳥を吸収するかのようにつつみこみ、燃えあがると、灰色の煙だけをのこして不死鳥は消えた。

 

展望台がしんとなった。 少年は耳にあてていた手を頬にうつして涙をぬぐい、ゆっくりと下ろした。

 

そしてうしろを向いて——

 

思いきり泣き、その反動で塔から落ちそうになった。 とはいえ、足を踏みはずしたとしても心配はなかった。そこにはもう一人、魔法使いが控えていたから。

 

「こうなったか。」  アルバス・ダンブルドアはほんの小さな声で言う。 「……こうなったのか。」  その肩にはフォークスがいて、感情を読みとりにくい目つきで、もう一羽の不死鳥がいた場所を見つめていた。

 

「なぜあなたがここにいるんですか。」

 

「ああ……」  ダンブルドアは展望台の反対がわの場所から動かない。 「城が来訪者を感知すればわしも感知する。それを受けて、現場を確認しにきたまで。」  そう言いながら、震える片手で半月眼鏡をはずし、もう片手で目をぬぐい、ローブの袖で額をぬぐう。 「けっして——けっして声はだすまいと思っていた。きみがしたその選択は、なににもましてきみ一人で決めるべきこと——その邪魔はすまいと——」

 

ハリーは妙な胸さわぎがした。いやな予感をひしひしと感じた。

 

「あらゆる未来がその選択にかかっているということまでは分かっていた。 しかしどの答えが暗黒につながるのかは分からなかった。 ともかくこうして、きみが一人で選択してくれたことはよかった。」

 

「話が見えないんですが——」  ハリーはそこで言いやめた。

 

あるおそろしい仮説の確率がだんだん上昇する……

 

不死鳥(フェニックス)は……戦う人のまえにあらわれる。みずからの命をもかえりみず戦おうとする人のまえにあらわれる。 不死鳥は多くを知らない。不死鳥がわれわれ人間を裁くのはただ、その人の選択を見とどけるときだけ。 わしはグリンデルヴァルトのもとへ連れられていくとき、自分の死以外の結末は考えていなかった。 フォークスがそのままそばにいてくれて、その治癒力で生きのびることができるなどとは思わなかった——」  そこで一度、ダンブルドアの声が震えた。 「……不死鳥には秘密がある——なぜ秘密にされているのは分かるはずじゃ——これを知られては、彼らは裁くことができない。 しかしきみにはもう話してもよかろう。……不死鳥はだれのもとにも一度しか来ない。」

 

レイヴンクロー塔の展望台の両端で、ダンブルドアと相対するハリーは愕然として立ちつくした。

 

わしはグリンデルヴァルトとの決闘に勝つことができなかった。決闘を何時間も引きのばすことで、疲労の限界で倒れてくれるのを待つしかなかった。 わしもフォークスがいなければ、命をとりとめることはできなかったにちがいない——

 

自分でも気づかないうちに、口から声が漏れる——

 

「そうと分かっていればぼくも——」

 

「はたしてそうかな?」  ダンブルドアはふだんよりもずっと老いた声で話す。 「わしが教えたなかで、不死鳥に迎えられた生徒はこれで三人目になる。 一人目の生徒は誘いをことわった。彼女はそれをくやみつづけ、二度と立ちなおることができなかったようじゃ。 二人目の生徒は、きみも知っているラヴェンダー・ブラウンの従兄弟(いとこ)にあたる。彼は——」  ダンブルドアは声をつまらせた。 「ジョンは——帰らなかった。自分が救おうした人たちを救うこともできなかった。 数少ない不死鳥の研究家のあいだでは、試練から生きて帰る人間は四人に一人に満たないと言われている。 生きて帰る者にも——ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、たとえきみがその一人だったとしても——そのさきにはどんな人生が待っていると思う? 片時も耳を離れない不死鳥の声——それを聞きつづけて正気をたもてる確証などあるまい?」  ダンブルドアはもう一度袖を顔にあてた。 「わしも以前はもうすこしフォークスとの付きあいを楽しめていた。ヴォルデモートとの戦いがはじまるまでは。」

 

少年はその話がほとんど耳にはいっていない様子で、老魔法使いの肩にのる赤金色の鳥を一心に見ている。 「フォークス? もうぼくを見てくれないの?」

 

フォークスは少年のほうを振りむいて興味ぶかげな視線をおくったが、やがてまた主人を見る姿勢にもどった。

 

「このとおり、 フォークスはきみを拒絶していない。たしかに以前のようにきみに興味をもつことはなくなったかもしれん……それと——」  ダンブルドアはそこで苦笑いした。 「——きみがわしにさほど忠実でないことも知ってはいよう。 しかし不死鳥を迎える種類の人間が——ほかの不死鳥に嫌われることはない。」  また声を落としてつづける。 「ゴドリック・グリフィンドールの肩に鳥がとまっていたという伝承はない。 ごく私的な記録にすら書かれてはいないが、おそらく彼も誘いをことわり、それから赤色と金色を身につけるようになったのではないかと思う。 罪悪感でいっそう奮起したのだとも考えられる。 あるいはそのことで謙虚さ、人間のもろさ、敗北を教えられたのだとも……。」  ダンブルドアはそこであたまを下げた。 「きみが今回賢明な選択をしたのかどうかも、 それが正しい答えだったのかそうでなかったのかも、わしには分からない。 分かることがあれば、すでに言っている。ただ——。 わしはただ、愚かな少年が愚かな老人になっただけの人間。なにも教えてあげられることはない。」

 

ハリーはからだ全体から吐き気がして、胃が硬直し、息がつげなくなった。 そして突然、はっきりと実感した。自分が今日、ある意味で決定的に失敗したのだということを——。

 

ハリーは展望台の縁に舞いもどり、身をのりだして声をからした。 「もどって……もどってきて!」

 

◆ ◆ ◆

 

最後の余波

 

彼女は恐怖で息をのみ、目がさめた。口は悲鳴のかたちをしているが、声にならない。自分がなにを見たのか理解できず、声にならない。()()()()()()()()()()()()()()()()——

 

「いま何時?」と女は小声で言った。

 

黄金色の装飾時計が返事した。 「午後十一時くらいです。まだ寝ているべき時間です。」

 

シーツは汗で濡れている。寝巻きも汗で濡れている。枕の脇にある杖を手にとり、身をきれいにしてから、また眠ろうとした。そう努力して、最後には眠ることができた。

 

シビル・トレロウニーはまた眠りについた。

 

〈禁断の森〉では、ケンタウロスが一人、謎の悪寒を感じて目ざめ、夜空をにらんでいた。そこには問いしかなく、答えはなかった。フィレンツェは前足と後ろ足をくずし、また眠りについた。

 

そして遠くアジアでは、床に伏せる日々を過ごしていた、ファン・トンという名の年老いた魔女が目ざめた。横で心配する曾孫の曾孫には、悪い夢を見ていただけだから大丈夫だと言って、また眠りについた。

 

また別の、マグル生まれが手紙を受けとることもない場所で、まだ名前すらつけられていない赤子が目ざめた。しかたなさそうにほほえむ母親の腕にしばらく抱かれて揺られ、赤子はやっと泣くのをやめて、眠りについた。

 

それからの四人の眠りは浅かった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




「タブー・トレードオフ」ならびに「ハーマイオニー・グレンジャーと不死鳥の呼び声」編が終わりました。

次章「多重仮説検定」は1〜3カ月くらいのうちに投稿する予定です。感想欄への反応を最近さぼってしまっていますが、励みになっています。ありがとうございます。


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「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスと最後の敵」編
86章「多重仮説検定」


注意:めちゃくちゃ長いです。ページの途中にしおりを挟める機能(メニュー→「固定」)がおすすめです。


◆ ◆ ◆

 

(一九九二年四月七日の世界各地の新聞一面より)

 

『トロント魔法界新聞』抜粋:

 

 英国ウィゼンガモート激震

 『死ななかった男の子』が

 ディメンターを怖がらせる

 

 魔法生物専門家談「うそつけ」

 

 仏独両国は英国政府のでっちあげにすぎないと主張

 

『ニュージーランド魔導日報』抜粋:

 

 英国議会・妄言の原因

 我が国政府にも通じる病理

 

 我が国も発病ずみだと指摘する専門家

 その二十八の理由

 

『アメリカン・メイジ』抜粋:

 

 人狼族がワイオミングの先住民として認定

 

『ザ・クィブラー』抜粋:

 

 マルフォイがヴィーラとして覚醒

 同時にホグウォーツを去る

 

『デイリー・プロフェット』抜粋:

 

 “マグル生まれの狂女”無罪のからくり

 ポッターがアズカバン襲撃を予告し

 魔法省を脅迫

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——ヴォルデモート

(一九九二年四月八日、午後七時二十二分)

 

◆ ◆ ◆

 

四人はまたホグウォーツ総長室の古い机をかこんでいる。この机のいくえにも重なる引き出しには、この学校の歴史上の文書すべてが格納されている。そればかりか、シェーラ元総長はこのなかで行方不明になり、書類の整理が終わるまでそのまま閉じこめられて、いまだにそこで整理をつづけているのだという。 いつかは自分がこの机を受け継ぐ時期がくるのかと考えると、ミネルヴァは気が重い。それよりも生きのびることが先決だが。

 

机のぬしアルバス・ダンブルドアは、おごそかな顔で席についている。

 

セヴルス・スネイプは、灰だらけで火のない〈煙送(フルー)〉のとなりに立っている。ときどき生徒から言わているように、ヴァンパイアめいた不気味な立ちすがたである。

 

凶眼(マッドアイ)〉ムーディもここにくわわる予定だが、到着はまだだ。

 

そしてハリーは……

 

……椅子の肘かけに腰をかけている。ふつうの座りかたでは、その小柄なからだから出てくるエネルギーを椅子が受けとめきれないとでもいうかのように。 かたい表情、汗に濡れた髪、まるい緑色の目、そしてなによりも、いなづま型の癒えることのない傷あと。 わずか一週間まえとくらべても、表情は暗くなっているようだった。

 

ミネルヴァは一瞬、ダイアゴン小路にハリーを連れていったときの記憶に襲われた。いまとなってははるか昔のように思える記憶だった。 ()()()()()()()()()()()()()、すでにこの陰鬱な少年の一端はあった。 すべてがミネルヴァのせいで起きたのではないし、アルバスのせいでもない。 それでも、ミネルヴァがはじめて会ったときのハリーと、魔法界が彼に()いた苦難を経たいまのハリーをくらべると、その落差の大きさを悲しまずにはいられないのもたしか。 ハリーはもともとふつうの子どものように育ってはこなかったと聞かされている。養父母の話によれば、マグルの子どもたちと話すことも遊ぶこともあまりなかったという。 この学校に入学してほかの子どもたちと肩をならべて遊ぶことができたが、それもわずか数カ月で、せまりくる戦争に奪われてしまった。 ハリーも子ども同士のあいだで、ウィゼンガモートを睥睨していないときなどは、別の表情を見せているのかもしれない。 それでもミネルヴァはつい、自分とアルバスがハリー・ポッターの子ども時代を焚き木として一本一本、一枝一枝、炎にくべている様子を想像してしまう。

 

「予言というのは奇妙なもの。」  アルバス・ダンブルドアの目は疲れからか、半分とじている。 「その意味は水のようにとらえどころがなく、つかもうとすれば指と指のあいだをすりぬけていく。 それは重荷以外のなにものでもない。そこに答えはなく、問いがあるのみ。」

 

ハリー・ポッターははりつめた表情をしている。 「ダンブルドア総長、今回標的にされたのはぼくの友だちです。 ハーマイオニー・グレンジャーはもうすこしでアズカバン行きでした。 あなたが言うように、戦争はもうはじまっています。 ぼくが各種仮説を吟味して事件の真相を究明するためには、トレロウニー先生の予言がかかせません。 それ以上に——〈闇の王〉がその予言の内容を知っていて()()()()()()()という状況がいかにバカバカしいかは——そして危険かは——言うまでもないでしょう。」

 

アルバスはミネルヴァに陰鬱な目で問いかけ、ミネルヴァはくびを横にふった。 ハリーはなぜか、予言をしたのがトレロウニーであること、予言の内容が〈闇の王〉に知れたことを知っている。どんな方法で知ったのか想像もつかないが、すくなくともミネルヴァはなにも言っていない。

 

「この予言の成就をとめようとしたヴォルデモートの行為そのものが、ヴォルデモートの命とりとなった……」とアルバスが言う。 「彼にとってこれを知ることは災い以外のなにものでもなかった。 そのことをよく考えなさい。」

 

「ええ、わかっています。 ぼくの出身文化にも予言の自己成就や予言の誤読にまつわる話はいろいろあります。 予言を解釈するにあたっては慎重にやるつもりです。 ぼくはその予言のかなりの部分を推測できています。このままだとぼくは不完全な推測だけをもとに動くことになりますが、それは余計危険じゃありませんか?」

 

無言の時間。

 

「ミネルヴァ、たのむ。」とアルバス。

 

「闇の……」  おずおずとした声がでた。演技は得意ではない。 低く冷たい予言のあの声を再現する技量はない。それでもどこか、自分の調音のしかたにも()()があるようだった。 「闇の王を倒すちからの持ちぬしが来る…… 彼を三度しりぞけた親のもとに生まれ…… 七番目の月が死ぬときに生まれ……」

 

「『闇の王がみずからにならぶ者として印をつける』」というセヴルスの声に、ミネルヴァは飛びあがりそうになった。セヴルスは暖炉のまえに立ちふさがっていた。 「『ただし彼は闇の王の知らぬちからを持つ』…… 『一方が他方のかけらのみを残して滅ぼさなければならない』…… 『その二つの異なるたましいは同じ世界に共存しえないから』」

 

セヴルスは最後の一行をとりわけ不吉な声で言い、ミネルヴァは背すじが冷たくなった。まるでシビル・トレロウニー本人の声を聞かされたようだった。

 

ハリーは眉をひそめてそれを聞いていた。 「もう一度おねがいできますか?」

 

「闇の王を倒すちからの持ちぬしが来る/ 彼を三度しりぞけた親のもとに生まれ/ 七番目の月が死ぬときに生まれ——」

 

「いや、それより……紙に書いてもらえますか? ()()()分析したいので——」

 

羊皮紙に文言が書きあがるまで、アルバスもセヴルスも食いいるように見ていた。何者かの手がこの貴重な情報をかすめとりにくるのではないかと警戒しているかのようだった。

 

「では……。ぼくは男で七月三十一日生まれ。これは一致。 〈闇の王〉を倒したのも事実。 二行目の『彼』がだれのことなのかは曖昧ですが……まだ生まれていないぼくを両親がしりぞけたというのは考えにくい。 『印』としてすぐに思いつくのはこの傷あと……」  ハリーはひたいをなでた。 「〈闇の王〉の知らぬちから、というのはおそらくぼくの科学知識のことでしょうか——」

 

「いや。」とセヴルス。

 

ハリーはおどろいたようにそちらを見た。

 

セヴルスは目をかたく閉じ、集中して考えている。 「科学の知識は本を読めば知ることができる。 予言にあるのは『〈闇の王〉が持たぬちから』ではなく、 『闇の王が持ちえないちから』でもない。 『闇の王の知らぬちから』……これは〈闇の王〉にとってマグル製品以上になじみのないものにちがいない。 その目で見ても、まったく理解できないようなもの……」

 

「科学は技術上のトリックのよせあつめじゃありませんよ。杖のマグル版みたいなものでもない。 周期律表を記憶すればすむものでもない。科学は()()の方法です。」

 

「ふむ……」 セヴルスはそう言いはしたが、納得していないように聞こえた。

 

「たとえ直接耳にした予言であれ……」とアルバスが言う。「深読みは禁物。明快な解釈をこばむのが予言というもの。」

 

「でしょうね。」と言ってハリーは手でひたいの傷あとをなでた。 「でも……その、分かっているのが()()ですべてだとしたら……。はっきり言いますね。どうしてこれで、〈闇の王〉が死なずに生きのびたと分かるんですか?」

 

「なんですって?」 ミネルヴァは声をあげたが、アルバスはただためいきをついて、大きな椅子に背をあずけた。

 

「予言の当時の状況で考えてみましょう。 〈例の男〉がこの予言のことを知った。ぼくが成長していずれ彼を失脚させるという風に読めた。 二人が最終決戦をして、どちらかがどちらかのかけらのみを残してすべてを破壊しつくす、というように読めた。 なので〈例の男〉は〈ゴドリックの谷〉を襲撃して、()()()()倒され、()()()()()残骸を残した。それは魂だったかもしれないし、 〈死食い人〉の組織だったかもしれない。 つまり、予言はすでに成就しているのかもしれない、ということです。 ああ、もちろん——この解釈はちょっと強引に聞こえますよね。 トレロウニーがつかった表現からして、予言が一九八一年十月三十一日に起きたできごと()()()指しているとはたしかに考えにくいです。 赤んぼうを攻撃したら呪文がはねかえってきた、という状況を指す表現として『倒すちから』は不自然ですし。 ただ、この予言は可能な未来の状況を()()()()述べたものであり、そのうち()()()()()ハロウィーンの日に実現した、と考えれば、それはもう成就しているのかもしれません。」

 

「しかしそうだとしたら——」  ミネルヴァは思わずくちをはさんだ。 「このあいだのアズカバンの襲撃はだれが——」

 

()()生きていたとすれば、〈闇の王〉がアズカバン脱獄事件の犯人としてうたがわしいのはたしかです。 あの脱獄事件が〈闇の王〉が生きている世界で起きる可能性は、生きていない世界で起きる可能性よりも高い……ということは、事件が起きたことが〈闇の王〉が生きている可能性へのベイズ的証拠だと言ってもいいかもしれません。 でも()()証拠ではありません。 〈闇の王〉が生きていないかぎり起きようがない事件とまでは言えない。 クィレル先生は〈例の男〉が生きているという仮定をせずに、なんの苦もなく別の説明を思いつくことができました。 クィレル先生にとって、どこかの実力ある魔法使いがベラトリクス・ブラックを手にいれたがるのはごく自然なことでした。〈闇の王〉が彼女だけに秘密を、なんらかの魔法の知識を聞かせていたなら、それをほしがる人がいることに不思議はありません。 人間が肉体の死のあとにまで生きのびることは魔法的に不可能ではないにせよ、その先験確率は非常に低く、 ()()()()()()()発生しません。 なので、根拠がアズカバン脱獄()()だったとしたら……意味のあるほどのベイズ的証拠とは言えませんね。 仮説が成立しない場合に観測される確率が低い証拠が現に観測されたとはいえ、それ以上に仮説の先験確率が低すぎます。」

 

「いや、予言はまだ成就していない。していれば、わたしがそう察知できている。」とセヴルスが断言した。

 

「まちがいないですか?」

 

「ああ。もし予言が成就していたなら、わたしはそのことを()()できている。 わたしはトレロウニーのことばを……声を直接聞いた。予言に適合するできごとが起きたなら、わたしはそう()()できている。 まだ一度も……()()()()できごとは起きていない。」  セヴルスはそう確信している口調だった。

 

「そう言われても、どう解釈すればいいのか。」  ハリーはぼんやりとひたいの傷あとをさすった。 「あなたが認識したかぎりでは合致していないように思えたとしても、実際にはあなたの認識と異なるできごとが起きていたという可能性もある……」

 

「ヴォルデモートは生きている。」とアルバスが言う。 「そう示唆する証拠はほかにもある。」

 

「たとえば?」 ハリーは即座に質問した。

 

「……人間を死からよみがえらせる忌まわしい儀式はいくつかある。 伝説ではなく、現におこなわれた実績のある儀式であることははっきりとしている。 そしてその儀式をしるした本がなくなっているのじゃ。ヴォルデモートが持ちさったにちがいない——」

 

「あなたは不死についての本がなくなっているのに気づいた。それだけで〈例の男〉に盗られたと判断するんですか?」

 

「そのとおり。以前、とある古文書が——その題名をここで言うことはできんが——ホグウォーツ図書館の〈禁書区画〉にあった。ボージン&バークスで売られるようなそれがいまは一巻ぶんの隙間をのこして棚からなくなっている——」  つづけて、アルバスは独りごとを言うように言った。 「と言っても、きみを満足させることはできないのじゃろう。たとえヴォルデモートが不死の術を実践しようとしたとしても、成功したという証明はされていないと思うのじゃろう……」

 

ハリーはためいきをついた。 「証明なんて、どこにもないですよ。すべては確率です。 不死の儀式についての本がいくつかなくなっているとすれば、だれかがその儀式を実践しようとした確率が高まります。 すると〈闇の王〉が死をのりこえて生きているという先験確率も高まります。 ぼくもそこまでは認めます。情報提供に感謝します。 問題はそれで先験確率が()()高まったかどうかです。」

 

「ヴォルデモートが生きている()()()があるというだけでも、警戒しておく理由にはなるとは思わないかね?」

 

「たしかに。 といっても、その確率が十分低くなった時点で、気にしすぎるべきではないと思いますが……。 不死についての本がなくなっていて、〈闇の王〉とぼくが将来決戦をすると解釈したほうが自然な予言があるとなると、〈闇の王〉が生きている可能性が無視できないのはたしかでしょう。 でも()()()()()()()()()考慮からはずすことはできません——〈例の男〉が()()()()()()世界では、ほかのだれかがハーマイオニーに罪を着せたんですからね。」

 

「話にならん。」とセヴルスが小声で言う。「〈闇の紋章〉はまだ消えていない。ならば術者も消えていないとしか考えられん。」

 

「不十分なベイズ的証拠っていうのはそういうことですよ。 気味が悪いと思う気持ちはわかりますけど、術師が死んだあとも消えない刻印というのはそんなに考えにくいですか? 〈闇の王〉の意識が生きているかぎり〈闇の紋章〉も百パーセント確実にそのままだとします。いっぽう、死んでいる場合は紋章が消えない先験確率が二十パーセントしかないとします。 『〈闇の紋章〉が消えていない』という観測結果があったとき、その尤度を考えてみると、〈闇の王〉が生きている世界での尤度は死んでいる世界での尤度の五倍です。 でもそれは、ある人間が不死であるという先験確率の低さを乗りこえるほどの差ですか? 紋章の有無を観測するまえの時点で、〈闇の王〉が死亡しているかどうかの賭け率(オッズ)比が百対一で死亡説が生存説より優勢だったとします。 仮説が偽である可能性が真である可能性より百倍大きいという前提で、仮説が真であれば五倍生じやすい事象を観測したなら、仮説が偽である可能性と真である可能性の比を二十対一に更新すべきです。 もとの賭け率の比が百対一で、尤度比が一対五であるなら、〈闇の王〉が死んでいる可能性は死んでいない可能性の二十倍に変化する——」

 

「百倍やら二十パーセントやら、その数字はどこからでてきた?」

 

「この手法の難点はそこですね。 でもぼくが主張しようとしているのは、()()()()言って、『〈闇の紋章〉が消えていない』という観察結果では『〈闇の王〉は不死である』という仮説を十分支持できていないということです。 特異な仮説に必要なだけの特異な証拠がまだないということです。 ……それと言うまでもないことですが、たとえ〈闇の王〉が生きていたとしても、ハーマイオニーに罪を着せた人物がほかにいないということにはなりません。 ある人が目ざとく言っていたように、二人以上の人間が同時に策謀をめぐらせることもあります。」

 

「〈防衛術〉教授もその一人だろうな。」とセヴルスが薄ら笑いをして言う。 「彼が容疑者の一人になるということにはわたしも同意する。 昨年も、犯人は〈防衛術〉教授だったのだから。二年まえも、三年まえも。」

 

ハリーはもう一度、膝の上の羊皮紙に視線をおとした。 「つぎの論点ですが。 この〈予言〉が正確であるという()()はありますか? だれかがマクゴナガル先生の記憶をいじって、予言の一部を改竄したり消したりしたという可能性は?」

 

アルバスがしばらく待ってから話しはじめた。 「この国の全土にかけられた巨大な魔法により、国内で発せられた予言はすべて記録される。 ウィゼンガモートの〈元老の会堂〉の地下深くの、〈神秘部〉が所管する場所にその記録がある。」

 

「〈予言の間〉。」とミネルヴァはつぶやいた。 その場所のことは本で読んだおぼえがある。広い空間に立ちならぶ棚に、光る水晶玉が陳列されている場所。水晶玉は時を経て増えつづけているのだという。 〈運命〉へのせめてもの反抗として、大魔法使いマーリンがみずから置き土産として建造したのだと言われている。 予言は善をなすものばかりではない。だからせめて予言で言及された人たち自身だけでもその内容を知ることができるようにとマーリンは考えた。 なにも知らないまま外から〈運命〉に操縦されるばかりが人間ではないと考えたマーリンが人間の自由意志に手向けた贈りものである。 予言で言及されている人がそこに行くと、光る水晶玉が一つ手に飛びこんできて、予言者の肉声を聞かせられる。 それ以外の人が水晶玉に触れようとすると、発狂する——あるいは頭部が爆発するだけだとも言われているが、この部分についてはっきりした伝承はない。 マーリンの本来の意図は不明だが、その場所は〈無言局〉が管理していて、この数百年のあいだ立ち入りが禁じられているという。 『古代の魔術の遺物』という本によれば、対象者に予言の内容を知らせることで予見者が解放する時間の圧への干渉が発生することを〈無言者〉が発見したため、マーリンの子孫たちがその場所を封印したのだという。 そのことを思いだすとミネルヴァは(ハリー・ポッターと過ごして数カ月たったいまでは)、そんなことを()()()()などあるのだろうか、と思いたくなる。アルバスにたずねてしまいそうにもなるが、たずねればうっかり答えを聞かされてしまうかもしれないので、たずねてはいない。 〈時間〉のことを心配するのは時計にまかせておけばいい、というのがミネルヴァの信念だった。

 

「そのとおり。自分についての予言がある人たちが〈予言の間〉にいくと、その内容を聞くことができる。 このことがなにを意味するか分かるかね、ハリー?」

 

「ぼくも聞く権利があるということですね。〈闇の王〉も……ああ、そうか、ぼくの()()()。 彼を三度しりぞけた親、という部分に該当しますから、二人も録音の内容を聞くことができたんですね?」

 

「仮にジェイムズとリリーが聞いた内容がミネルヴァの報告と一致しなかったとすれば、気づいたにちがいない。二人から、そういう話はなかった。」

 

「では、ジェイムズとリリーをあそこに連れていったのですか?」とミネルヴァはアルバスにたずねた。

 

「フォークスはさまざまな場所に行くことができる。このことは秘密にしてもらいたい。」とアルバス。

 

ハリーはまっすぐにアルバスを見つめた。 「()()()その〈神秘部〉とやらにある予言の録音を聞いておきたいんですが。本人の声や口調も手がかりになるようですし。」

 

アルバスはゆっくりとくびを横にふった。半月形の眼鏡がきらりと光る。 「それはやめたほうが賢明じゃ。 言うまでもない理由をおいても、 マーリンがつくったあの場所は危険じゃ。ある種の人にとってはとくに。」

 

「なるほど。」と平坦な声で言ってハリーはまた手もとの羊皮紙に視線をおとした。 「いまのところ、予言は正確だという仮定を受けいれることにします。 そのつぎの部分は、〈闇の王〉がぼくに対等な者としてのしるしをつける、と言っていますが。これはどういう意味でしょう?」

 

「きみが彼のやりかたをすこしでも模倣するという意味でないことは請け合おう。」とアルバス。

 

「ぼくもそのくらいのことは分かりますよ。 マグルも時間のパラドクスのことを多少は知っています。マグルにとっては理論的な研究にすぎませんがね。 なにかを予言する未来からの信号があったからといって自分の倫理観を完全に無視するようなことはしません。そうすることではじめて予言が成就することになったりするんですから。 それで、けっきょくその部分の意味はなんですか?」

 

「わたしは解釈しかねている。」とセヴルスが言った。

 

「わたしもです。」とミネルヴァ。

 

ハリーは杖をとりだして、手のひらの上でまわし、考えにふけるようにそれをながめた。 「十一インチのヒイラギの杖。芯は不死鳥の尾の羽。そのおなじ不死鳥の尾の羽を芯にしてもう一度だけ……名前が思いだせないんですが、オリなんとかさんが作っていたのが〈闇の王〉の杖。 それに、ぼくは〈ヘビ語つかい〉でもある。 偶然にしてはちょっとできすぎですね。 そこへきて、〈闇の王〉と対等になるという予言もあった、と。」

 

セヴルスは思案げな目をしているが、アルバスの視線からはなにも読みとれない。

 

「もしかして……」とミネルヴァはすこしずつ話しだす。 「〈例の男〉は——ヴォルデモートは——ミスター・ポッターに傷あとをつけたとき、自分の能力の一部を移しかえたのでは? 意図してのことではないと思いますが。 そうだとしても……ミスター・ポッターが魔法力の点で劣るとすれば、到底『対等』と言うには……」

 

ハリーが杖を見つめたまま話しだす。 「うーん、必要なら魔法なしでも対決しますよ、ぼくは。 ホモ・サピエンスは爪の切れ味や甲羅の堅さで地球の頂点に立ったんじゃありませんからね——そのあたりがちょっと魔法族には通じにくいのかもしれませんが。 とにかく、ぼくは自分よりかしこくないものを怖がるのは人間としての尊厳にもとる行為だと思っています。話に聞くかぎりでは、〈闇の王〉もその方面で大して怖い相手だとは思えません。」

 

セヴルスがふだんの皮肉な口調にいくらか近い言いかたで言う。 「つまり、知力でなら自分は〈闇の王〉に勝てる、とでも思っているのかね?」

 

「思っていますよ。」と言ってハリーは左手のローブの袖を引き、シャツの袖をまくり、前腕を見せた。 「そうだ! せっかくですから、全員でこうやって見せ合って、だれでも簡単にチェックできるありがちな位置に、スパイのしるしである分かりやすい入れ墨がはいっていないことを確認しておきましょうか。」

 

セヴルスがなにか毒毒しいことを言おうとしたが、アルバスが止める手ぶりをした。 「ハリー……きみならどのように〈闇の紋章〉を設計する?」とアルバス。

 

「ありがちな部位は避けます。ふつう恥ずかしくて見せることのないような部位にします。もちろんセキュリティを重視する人には、それでも検査されると思いますが。 大きさを小さくできるならそうしますね。 あとは、魔法性のない入れ墨を上からかぶせて、もとの模様が分からないようにします——いや、それよりも、皮膚を模した薄膜で隠すほうがいいでしょう——」

 

「なかなか巧妙じゃ。 もう一歩すすめて、仮に好きな条件を事前に設定して紋章を消したり浮かばせたりすることができるとしよう。 きみならどうする?」

 

「どんなときも完全に消えるようにしておきます。」とハリーは当然のことのように言う。 「スパイかどうかを判定できる手がかりはないにこしたことはないですから。」

 

「では、もっと巧妙なこともできるとしよう。 きみは欺瞞や偽装の名手であり、その技能を思う存分使うことができるとしたら、どうじゃ。」

 

「そうですね——。 それは不必要にややこしい、実世界の戦争ではなくロールプレイングゲームに登場する悪人がつかいそうな戦術のように聞こえますが。 まあ、やるとすれば、〈死食い人〉ではない人の腕に偽の〈闇の紋章〉をつけさせて、ほんものの〈死食い人〉の紋章は目に見えないようにします。 でもそうなると、そもそもだれにも〈闇の紋章〉が〈死食い人〉のしるしであると思わせられそうにありませんね……。 この問題に真剣にとりくむなら、考える時間が五分間はほしいところです。」

 

「こんなの質問をしたのは……」とアルバスはまだおだやかな口調でつづける。 「わしも戦争初期に、きみが言ったような検査をするという失敗をおかしたからじゃ。 〈騎士団〉が生きのこれたのはすべて、アラスターが腕の検査を信用しなかったから。 その後、〈紋章〉は当人の意思で隠したり見せたりできるものなのではないか、とも考えた。 しかしイゴル・カルカロフをウィゼンガモートの審判の場に連れだしたとき、その腕にははっきりと〈紋章〉があった。カルカロフは無実を訴えようとしたにもかかわらず。 〈闇の紋章〉が実際どのような規則にしたがっているのかは、まだ分からぬ。 セヴルスもいまだに、腕の〈紋章〉をつけている。そしてその秘密をまだ知らぬ人に伝えることができないという縛りを受けている。」

 

「なんだ、それなら話は簡単ですよ。 ……いえ、それよりも——あなた、〈死食い人〉だったんですか?」  ハリーはセヴルスに視線をむけた。

 

セヴルスは薄ら笑いをしてみせた。 「あちらがわが知るかぎりでは、いまもそうだ。」

 

「ハリー……」とアルバスがハリーだけを見て言う。 「『話は簡単』、というと?」

 

「情報理論の初歩ですよ。 観測変数Xが別の変数Yについての情報を伝達するのは、Yの状態によってXの確率分布が変化するときであり、かつそのときにかぎる。 スパイとそうでない人とのあいだにすこしでもなにか差があることに気づけば、それを利用した判別法を考えるのが当然です。 同様に、事実と虚構を判別するには、事実に対するときと虚構に対するときで振る舞いが変化する手続きを用意する必要があります。『信心』に識別能力がなく、『予測をしてその正否を実験的に検証する』にはあるのもおなじことです。 〈闇の紋章〉がついている人はその秘密をだれにも明かすことができないんでしたね。 なら、〈闇の紋章〉のしくみを突き止めるには、〈闇の紋章〉のしくみである()()()()()()ものをすべて書きだしたものをスネイプ先生に見せて、その内容をだれかに伝えさせたときの様子を観察すればいい——伝えさせる相手には実験のことを知らせずにおいたほうがいいでしょう——〈二十の質問〉式のやりかたで二分探索をして候補をしぼる方法があるんですが、それはあとで話すとして——こうすれば、スネイプ先生に()()()()ものが正解だと分かります。 言えるか言えないかという振る舞いの差が〈闇の紋章〉についての真の言明と偽の言明を識別する手段になるということです。」

 

ミネルヴァは自分がずっと口をあけていたことに気づき、あわててとじた。 アルバスでさえ、おどろいたように見えた。

 

「あとは、くりかえすようですが、スパイとそうでない人とのふるまいの差がすこしでもあれば、スパイを見つける手段としてつかえます。 〈闇の紋章〉についての秘密が検閲される例を最低ひとつ見つければ、うたがわしい人から別の人にその秘密を明かさせてみることで、〈闇の紋章〉の有無を判定できます——」

 

「ありがとう、ミスター・ポッター。」

 

セヴルスの声に、全員がそちらを向いた。セヴルスはまっすぐに立ち、歯をむきだして獰猛な勝利の表情らしきものをしていた。 「総長、わたしはもう〈闇の紋章〉について自由に話すことができます。 その人が〈死食い人〉として捕えられたことを自覚している場合、腕を直接見られたことのない相手のまえで、この〈紋章〉は浮かびあがります。その人の意思とは無関係に。 しかしすでに見られていた相手に対しては、消えたままです。 はっきりした疑いなしに検査された場合も同様。 このため、〈闇の紋章〉は〈死食い人〉であることを示す証拠であるように見える——が、実際には既知の〈死食い人〉に対してしか役に立たないというわけです。」

 

「そうか……ありがとう、セヴルス。」と言ってアルバスは一度、目をとじた。 「そういうことなら、ブラックがピーターにもつかまらずに逃げおおせたのも説明がつく……それはともかく、 ハリーが提案した検査方法については?」

 

セヴルスはくびを横にふった。 「ポッターがどう考えようとも、〈闇の王〉も愚かではありません。 〈闇の紋章〉はそのような検査をされそうになった瞬間に、その人の舌を束縛するのをやめるようになっています。 そう分かっていながら、わたしはほのめかすこともできず、だれかが気づくのをひたすら待っていたというわけですがね。」  また薄ら笑い。 「ミスター・ポッターにはそれなりの寮点をつけてあげたいところだが、それではわたしの偽装が台無しになる。 しかし〈闇の王〉が狡猾であったことはこれでミスター・ポッターにもよく分かったと思う。」  そう言ってすこしずつ遠くを見るような目をした。 「ああ……実に狡猾な男だった……。」

 

ハリー・ポッターはそれからかなり長く座ったまま動かなかった。

 

やがて——

 

「いえ、それはありえませんよ。 第一、これはレイモンド・スマリヤンの本の第一章にでてくる程度の論理パズルです。マグル科学者なら、これとくらべものにならない複雑なパズルを仕事としてやっています。 もうひとつ、〈闇の王〉は五カ月をかけてこのパズルをつくったという話じゃないですか。それをぼくは五秒でといたんですから——」

 

「おまえにとって自分と同程度に知性のあるだれかというのは、それほど想像しがたいことなのか?」  セヴルスのその言いかたは、不愉快というより興味を感じているような言いかただった。

 

「これは『基準率』と言うんですがね、スネイプ先生。 〈闇の王〉がこのパズルをつくるのに五カ月かけたのか、五秒しかかけなかったのか。あたえられた証拠では、どちらの仮説も却下されません。しかしどんな母集団においても、五カ月でできる人のほうが五秒でできる人より多いわけですから……」  ハリーは片手をひたいにあてた。 「ああもう、どう説明すればいいのやら。 まあ、あなたたちの視点からは、〈闇の王〉は巧妙なパズルを思いついた、ぼくは巧妙なやりかたでそれを解いた、だから二人は『対等』、ということになるんでしょうね。」

 

「〈薬学〉の初回授業でのあのふるまいをしておいて……あれでは到底対等などとは言えないだろう。」とセヴルスが乾いた声で言った。

 

「セヴルス、言っておくが、おぬしはハリーの実績をすべて知らない以上、ハリーの能力を判断する立ち場にない。 しかしハリー——きみは〈闇の王〉は自分以下の実力だと思っているようじゃが、()()そう思える? なるほど、彼はいろいろな意味で傷を負っている。 しかしわしに言わせれば、こと狡猾さの点では——きみはまだ彼と対決する域に達していない。 きみのこれまでの実績をすべて知る者として、そう言わせてもらう。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーにとって、この話はやりづらい。というのも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から。正直に話せないというのは、協調的な対話の基本原理をいくつかやぶることにあたる。

 

まず、ベラトリクスが実際どのようにしてアズカバンから連れ出されたかを言うことができない。あれは〈例の男〉がなんらかの偽装をして侵入したのではなく、ハリーとクィレル先生が知恵をだしあった結果だった。その事実をハリーはあかすことができない。

 

ハリーはマクゴナガル先生の目のまえで、『脳損傷というものの存在する以上、魂は存在しない』という話をする気はない。 そして魂がない以上、不死を達成する儀式などというものは……まあ()()()ではないか。ハリー自身、()()()()魔法で不死を達成しようと思っている。けれどそれはそう簡単ではないし、()()()()()()()()()がなければ達成できない。すでにある魂を巫妖(リッチ)の呪符にむすびつけるだけですむなどという甘い話はない。 ついでに言えば、不滅の魂を信じている人がそんな呪符を使おうとすること自体、大まちがいであることは、ちょっと考えれば分かりそうなものだ。

 

そして〈闇の王〉が()()()()聡明ではなかった、ということがなぜハリーに分かるのか。そのほんとうの理由は……どういう言いかたで言っても誤解されてしまいそうなのだが……

 

ハリーはウィゼンガモートの評議の現場を目撃し、 〈魔法省〉の最奥部の防御のしかたがとても『セキュリティ』と呼べない程度のしろものでしかないのを目撃した。 そこには、ゴブリンがグリンゴッツで〈変身薬(ポリジュース)〉と〈服従(インペリオ)の呪い〉対策として使っている〈盗人おとし〉すらなかった。 政府を乗っ取る方法は簡単だ。〈魔法省〉大臣と長官級の何人かに〈服従(インペリオ)〉をかけて、〈服従〉が通じない相手にはフクロウ便で手榴弾を送りつければいい。 あるいは、フクロウ便でガス弾を送りつけて相手を行動不能にしてから、生けどりにして〈生ける屍〉の状態にして髪の毛をとって〈変身薬〉の材料にしてもいい。 〈開心術〉、〈偽記憶〉、〈錯乱(コンファンド)〉——魔法界には不正(チート)する手段が笑えるほどにある。ありすぎて過飽和しているくらいだ。 ハリー自身がブリテン政府を乗っ取るときに(〈倫理〉的な制約にしばられて)そういう手段をつかわないとしても……いや、小さなことなら、一時的に〈錯乱(コンファンド)〉をかけたり改竄をともなわない〈開心術〉なら、アズカバンへの投獄期間を一日増やすよりましな程度のことだろうから、やってみてもいいかもしれないが……それでも……

 

もしハリーに〈倫理〉的な制約がなかったとしたら、あの日ウィゼンガモート内の邪悪な議員の集団を一掃することもできていた。たった一人で、一年生一人の魔法力だけで、ディメンターの謎を解くための知力のおかげで。 もちろん、そうしていれば自分の政治的立ち場があやうくなっていたかもしれないし、生きのこった議員は自分たちのイメージ戦略を考えて安易にハリーの行為を糾弾することをえらんだかもしれない(よく考えれば、より大きな善のためになる行為だったと理解する人もいただろうが)……()()()()

 

なにひとつ倫理的な制約を持たない人が、サラザール・スリザリンの残した古代の秘密をたずさえ、ルシウス・マルフォイなど有能な支持者数十人に支えられて、ブリテン魔法界の政府を転覆しようとして十年以上もかかって()()()()のだとしたら、その人は愚かだ。

 

「いい表現方法が思いつかないんですが…… 総長には倫理観があるから、そのおかげで、邪悪すぎて使えない戦術がいろいろあるでしょう。 あなたが戦った相手は〈闇の王〉というとてつもない実力がある魔法使いで、しかもそんな制約がなかった。()()()あなたは負けなかった。 それにくわえて〈例の男〉がすごく聡明でもあったとなると、つじつまがあいません。もしそれが事実だったら、あなたたちはとっくに死んでいます。()()()殺されていますよ——」

 

「ハリー……」とミネルヴァはささやくような声で言う。「わたしたちは実際、全員が殺される寸前だったのですよ。 〈不死鳥の騎士団〉は団員の半数以上をなくしました。 もしアルバスがいなければ——直近二百年で最高の魔法使いと言われるアルバス・ダンブルドアがいなければ—— まちがいなく全滅していました。」

 

ハリーは片手でひたいをなでた。 「すみません。みなさんの苦労を矮小化するつもりはないんです。 〈例の男〉がものすごく邪悪で強力な〈闇の魔術師〉であったことも、実力者数十人をしたがえていたことも知っていますし、それはたしかに……大変だったとは思います。 ただ……」  それでも、かしこい敵を相手にする場合にくらべれば、恐れるに足りない。敵がボツリヌス毒素を〈転成〉して、それをコップ一杯の飲みものにつき〇.〇〇一ミリグラムだけ混入させる作戦にでていればどうなっていたことか。 詳細は伏せたままこの可能性を理解してもらう方法はあるだろうか。思いつかない。

 

「ハリー、どうか……どうか〈闇の王〉のことを()()()()()()()()()()! 〈闇の王〉は——」  マクゴナガル先生はなかなかいい表現が思いつかないようだった。 「……〈転成術〉よりもはるかに危険です。」

 

ハリーは思わず両眉をあげてしまった。 セヴルス・スネイプがいる位置から陰気な笑い声がした。

 

うーん——とハリーのなかのレイヴンクローの声がする。 マクゴナガル先生の言うとおりだね。いまのぼくらには科学の問題にとりくむときのような真剣さが足りていないと思う。 新しい情報がきたとき、それをそのまま窓からほうりだしたりせずに()()()()()()()()()ようにするのはむずかしい。 ぼくらはいま予想外の重要情報に遭遇したのに、自分の信念を()()()()()()()変更しようとしていない。 ヴォルデモート卿が脅威である可能性を却下していたのは、もとはといえば〈闇の紋章〉というのがどう考えても愚かしい手法に思えたからだ。 その仮定がまちがっていたなら、一度初期状態にもどって、仮定の上にきずかれた推論すべてを見なおすことに労力をそそぐべきなのに、いまぼくらは()()()()()()()

 

「そうですね。」とハリーはマクゴナガル先生がまたなにか話しだしそうなのを見て言った。 「……真剣に考えてみますから、五分待ってもらえますか。」

 

「もちろん。」とアルバス・ダンブルドアが言った。

 

ハリーは両目をとじた。

 

ハリーのなかのレイヴンクローが三体に分かれた。

 

〈闇の王〉が生きていて、ぼくらと同程度の知性があって、純粋な脅威である確率を推定しよう——と、司会者となったレイヴンクロー一号が言った。

 

そんなやつを相手にして戦ったがわが全員死んでいないのはなぜだ?——と、反対論者となったレイヴンクロー二号が言った。

 

その論理はもう使用ずみなのをお忘れなく。おなじことをいくら言っても、これ以上信念の更新は発生しない。

 

でも、この論理のどこに問題がある? 知的なヴォルデモート卿が存在する世界では、戦争がはじまって五分で〈不死鳥の騎士団〉は全員死ぬ。 この世界にはそういう結果が生じているように見えない。だからここはそういう世界ではない。証明終わり。

 

そう言いきれるかな?——と賛成論者となったレイヴンクロー三号が言う。 ヴォルデモート卿は当時、なにか理由があって()()()()()()()()()()()()のかもしれない——

 

たとえばどんな理由がある? どんな理由をつけるとしても、つけたぶんだけ、そちらの仮説は複雑度が高くなるのだから、確率にペナルティがつくぞ——とレイヴンクロー二号が言った。

 

まだ三号が発言する番だ——と一号が言った。

 

そうだな……まず……マインドコントロールの能力だけで〈魔法省〉を乗っとれるとは、まだ決まっていない。 ブリテン魔法界は実は寡頭制なのかもしれない。それなら、有力家すべてを屈服させるだけの軍事力をちらつかせる必要があることになるし……

 

そいつらにも〈服従(インペリオ)〉をかければいいさ——とレイヴンクロー二号が割りこんだ。

 

……そういう家はかならず入りぐちに〈盗人おとし〉があるのかもしれないし……

 

それも複雑度ペナルティだ! 周転円につぐ周転円じゃないか!

 

——いや、よく考えれば、だれかが適切に〈服従(インペリオ)〉をつかうことで〈魔法省〉を乗っとるところをぼくらが()()()()()()わけでもないんだから。 実際そんな簡単に乗っとれるかどうかは、わからない。

 

でも——と二号が食いさがる。その点を考慮しても……()()()方法はあってよさそうなものだ。十年間、よくあるテロリストの戦術しかやらずに、失敗をくりかえすなんて。それじゃ成功しようという気すらないように見える。

 

ヴォルデモート卿にも発想力がなかったわけじゃないのかもしれない。ただ自分の手ぐちを()()()()()政府に知られたくなかっただけなかもしれない。ほかの国は、自分たちの〈魔法省〉の脆弱性に気づいて〈盗人おとし〉を設置するだろうから。 この国を基地として十分な数の従僕をそろえてから、()()()()()()()()()()同時に攻略するつもりだったのかもしれない。

 

おまえはヴォルデモート卿が世界征服をたくらんでいると仮定している——と二号が指摘した。

 

三号が返事する。トレロウニーの予言には、ぼくらとヴォルデモート卿は対等になるとあった。だから、ヴォルデモート卿も世界征服をしようとするだろうと考えられる。

 

対等と言えば、いずれ戦うんだという話を忘れるなよ——

 

ハリーの脳裡に一瞬だけ、()()()()()()魔法使い二人が全面戦争をしている光景がよぎった。

 

ハリーは一年次の教科書に書かれている魔法術や調合術のうち、工夫すれば殺人につかえそうなものをすべてメモしてあった。そうせずにはいられなかった。 実際、脳がそういう風な発想をしそうになるたび、とめようとはしたのだが、魚を目にした人に魚のことを考えるなと言うようなもので、効果がなかった。 七年次の知識、あるいは〈闇ばらい〉の技能、あるいはヴォルデモート卿が知っている失われた古代魔法をもとにそういう工夫をできる人がいれば、どんなことになるか……考えたくもない。 魔法面で飛びぬけた実力があり天才的な発想力もあるサイコパスは『脅威』などではない。絶滅級の災厄だ。

 

ハリーはくびをふって、暗い方向にすすむ推理を打ち切ろうとする。 それよりも、そもそも〈闇の合理主義者〉などという災厄に直面する可能性を吟味して、それが無視できない程度の大きさなのかどうかを考えるべきだ。

 

事前確率として、だれかが不死化の儀式をして成功する可能性はどれくらいあるのか……

 

魔法使いのうち千人に一人が死んだあとにも生きつづけたという事実はない。百歩ゆずって、失敗対成功が千対一の比だったとしよう。それにしても、不死化の儀式をした人の人数についてはデータがない。

 

ヴォルデモート卿が()()()()()()()()()()かしこかったとしたら?——とレイヴンクロー三号が言う。 トレロウニーが言ったように、『対等』だったとしたら。それなら、ヴォルデモート卿も()()()()()()不死化の儀式を成功させるに決まっている。追伸。『一方が他方のかけらのみを残して滅ぼさなければならない』という部分もお忘れなく。

 

それだけの知能の持ちぬしであるという仮定をしなければならないとなると、推定はさらにやっかいになる。 母集団から無作為に抽出した一人にそれだけの知能がある事前確率はというと……。

 

けれどヴォルデモート卿は、無作為抽出された一人ではない。母集団から抜きんでて目だつことをした一人だ。 あの〈紋章〉の謎をつくるには、一定水準の知性が必要なはずだ(仮につくれるまでに多少時間がかかったのだとしても)。 それにしても、マグル世界では、ハリーが知っている範囲で歴史上きわめて知能が高かった人のうち、邪悪な独裁者やテロリストになった人はいなかった。近い例をあげるならヘッジファンド屋がそうかもしれないが、それでさえ第三世界の国の政府を乗っとろうとした例はない。彼らが悪をおこなうにも善をおこなうにも、そのあたりが限界だったということだ。

 

〈闇の王〉が知的でありかつ〈不死鳥の騎士団〉が即死させられないような仮説もあるが、そういう仮説はさらに複雑なので、複雑度ペナルティがかかる。 複雑度ペナルティをかけることで『〈闇の王〉は一瞬で戦争に勝たなかった』という観察結果を説明したとして、『〈闇の王〉は知的である』仮説の尤度と『〈闇の王〉は知的でない』仮説の尤度とには大差がある。 おそらく『知的』仮説が十対一で負けるくらいの尤度比になる……とはいえ百対一まではいかないかもしれない。 〈闇の王〉が知的だった場合に『一瞬で勝つ』確率が九十九パーセントを越えるとまでは言えない。 いろいろな説明の方法をかきあつめれば一パーセント以上にはなるだろうから。

 

つぎの問題なのは〈予言〉だが……。()()()()()〈予言〉にはヴォルデモート卿がポッター家を襲ったとき()()()死ぬという一文があったかもしれないし、なかったかもしれない。 あったのを、ヴォルデモート卿の自滅を誘う目的で、アルバス・ダンブルドアがマクゴナガル先生の記憶をふくめて改竄したのかもしれない。 実はそんな部分はなかったのだとすれば、〈予言〉の文言は()()()()()()()()〈例の男〉と〈死ななかった男の子〉がいつか将来的に対決するのだというように読める。 ただしその場合、ダンブルドアがハリーを〈予言の間〉に連れていかないためのもっともらしい口実を用意する可能性は下がる……。

 

この調子でベイズ確率の計算などできるのだろうか、とハリーは思った。 もちろん、こうやって適当な数字を用意して主観的ベイズ確率の計算をするのは、正確な計算結果を期待してのことではない。 この手法の真価は、数値であらわすための作業の()()()()()関係する事実をあつめてそのひとつひとつの重みを考えされられる、というところにある。 ちょうど、()()〈例の男〉が死んでいるとしてその場合〈闇の紋章〉が消えていない確率はどれくらいかを()()()と、消えていないという観測結果が十分有意な証拠ではない、と分かるように。 やりかたによっては、仮説と証拠を列挙して、適当な数字をいれて計算をしてから、最終的な計算結果は捨ててしまうこともある。一度あらゆる要素の()()をしっかり考えることを自分に強制してから、あとは勘で判断するのである。 やっかいなのは、いまある証拠どうしのあいだには条件つき独立性がなく、たがいに相互作用をする背景情報が複数あるということ……。

 

……まあ、すくなくとも()()()、たしかなことはある。

 

仮に計算ができるものだとして、そのためには紙と鉛筆が必要だということ。

 

総長室内の壁の暖炉で突然、炎が燃えあがった。オレンジ色だった炎は毒毒しい緑色にかわった。

 

「ああ!」とマクゴナガル先生が、ぎこちない非沈黙をやぶって言う。 「そうでした。〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディが来るのでした。」

 

「この件は一旦おいておくことにしよう。」と総長はいくらかほっとしたように言って、マクゴナガル先生につづいて〈煙送(フルー)〉のほうを向いた。 「……ここまでの話題に関連する情報も、これからの話で聞かされるだろうと思う。」

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——ハーマイオニー・グレンジャー

(一九九二年四月八日、午後六時五十三分)

 

◆ ◆ ◆

 

そのころホグウォーツの大広間では、総長との秘密の会議に呼ばれていない生徒たちが四つの長卓にわかれ、にぎやかな夕食の時間を過ごしていた——

 

「言われた当時は本気にしてなかったんだけどさ……」とディーン・トマスが思案げに言う。「ほら、司令官が言ってただろ。『ここで学ぶことには、きみたちを永遠に変えてしまうほどのちからがある。ぼくとおなじものの見かたを身につければ、二度と通常の生活にはもどれなくなくなる。』って。」

 

「そうそう!」とシェイマス・フィネガンが言う。 「おれも冗談だと思ってた! 司令官が言うことはだいたいいつもそうだったし。」

 

「でもこうなると——」とディーンがさびしそうに言う。 「たしかに、もどれないよな。 ホグウォーツに一度来てからマグルの学校にもどるみたいなものだし。 こうなるともう……おれたちだけでやっていくしかないんじゃないか。 正気でいたいなら。」

 

となりにいるシェイマスはなにも言わずにうなづき、ヴェルドビーストの肉をもうひとくち食べた。

 

そのあいだにも、まわりではグリフィンドール生たちの会話がつづいていた。 昨日ほど()()()様相ではなかったが、折りにふれてその話題が持ちあがっていた。

 

「まあ、()()()()()三角関係があったことはまちがいないと思う。」と二年生女子サマンサ・クロウリーが言う。(その名前から想像される親族関係についての質問をされるたびに、彼女は回答を拒否する。) 「問題は、破綻するまえにどういう方向の関係ができてたかっていうこと。 だれがだれを好きだったのか——両思いだったのか片思いだったのか——これってなんとおりの可能性になるのかな——」

 

「六十四とおり。」とセアラ・ヴァリアビルという女子が言う。将来美人になりそうな女子だが、グリフィンドールよりレイヴンクローかハッフルパフに〈組分け〉されるべきだったように見える。 「いや、ちょっと待って。まちがえた。 マルフォイを愛する人がいない場合とマルフォイが愛する人がいない場合にマルフォイが三角関係の一角だとは言えないから……これは〈数占術(アリスマンシー)〉でやってみないと。ちょっと待っててくれる?」

 

「わたしに言わせれば、グレンジャーはポッターにとっての弟妹愛(モイレイル)相手で、マルフォイとグレンジャーのあいだをポッターが仲結び(オースピスティス)している、としか思えないね。」  その女子は、複雑な問題をみごとに解決して見せたかのような表情で一人深くうなづいた。

 

「思いつきで単語をつくるなよ。そんなの聞いたことないぞ。」と男子が言った。

 

「できあいの単語じゃ表現できないものもあるんだからしょうがないでしょ。」

 

「かわいそうだよねえ。」  シェリス・ンガスリンは本気で泣いているように見える。 「どうみても——どうみても運命でむすばれた相手同士なのに!」

 

「ポッターとマルフォイが?」と二年生のコリーン・ジョンソンが言う。 「やっぱりそうだよねえ——おたがいの家は心底いがみあっていて……そんな出自の二人が、恋に落ちないわけがない——」

 

「じゃなくて、あの三人がいっしょに、っていうこと。」とシェリスが言った。

 

そのまわりで顔を寄せあって話していた面々がしばし無言になった。 ディーン・トマスがレモネードにむせたのを音をださずにこらえようとしたが、レモネードは口からこぼれてシャツに落ちた。

 

「へええ……」とナンシー・ファーという黒髪の女子が言う。 「シェリスってずいぶん……()()()だったのね。」

 

「ちょっと待って、現実的な範囲で考えましょう。」と模擬戦の司令官をしていたエロイーズ・ローゼンが上官っぽい口調で言う。 「まずグレンジャーは——あのキスの一件でわかるとおり——ポッターに恋していた。 グレンジャーがマルフォイを殺そうとする理由はというと、そのポッターをマルフォイに横取りされそうになったからとしか考えられない。 ほら、なにもややこしく考える必要はないでしょう——これは現実で、お芝居じゃないんだから!」

 

「でも仮にそういう恋心があったとしても、グレンジャーがあんなキレかたをするなんてねえ。」とクロエが言う。濃い黒肌に黒ローブを着たそのすがたはシルエットのように見える。 「うーん……恋愛小説ならそういうバッドエンドもありがちだけど、これはもっと複雑なのかも。 みんなそれをよく分からないまま話してるだけじゃないのかな。」

 

「そう! よく言ってくれた!」とディーン・トマスが割りこんで言う。 「ほら、以前からハリー・ポッターが言ってたように——事前にまったく予測できなかった、予想外のできごとが起きたときは、それまでの自分が世界について信じていたことだけで説明しようとしても説明しきれないんだと……」  そのあたりでディーンはだれも聞いていないことに気づき、声をとぎれさせた。 「やっぱりもう()()()()()()()()()()()んじゃないの、これ?」

 

「いまごろ気づいたの?」とラヴェンダー・ブラウンが言った。元〈カオス〉軍のラヴェンダーは現〈カオス〉兵の二人の向かいがわの席にいる。 「それでよく士官になれたわね?」

 

「そこの二人はだまってて!」とシェリスが言う。 「そうやってあの三人を自分たちのものにしたいだけなのは分かりきってるから!」

 

「やっぱりこれだよ!」とクロエが言う。 「みんなが言ってる()()()()()なことじゃないなにかが、実は起きていたんだとしたら……? 何者かが——グレンジャーを()()()()いたんだとしたら? ポッターが何度も言っていたみたいに?」

 

「ぼくもクロエの意見に賛成。」と、いつも『エイドリアン・ターニップシード』と名乗る生徒が言う。外国人らしい男子で、両親からもらった名前は『マッド・ドロンゴ』である。 「きっと実は最初から……」  一度声が低くなる。 「影でだれかが……」  また声が大きくなる。 「すべてをあやつっていたんだと思う。 だれか一人が()()()()動かしていた。 ちなみにそれはスネイプ先生でもないよ。」

 

「それってもしかして——」とセアラが驚愕して言う。

 

「そう、実はすべてをあやつっていたのは——()()()()()()()()()()()だったのさ!」とエイドリアン。

 

「わたしもそうだと思った。だって——」と言ってクロエがさっとあたりを見まわす。 「いじめの件で、天井のあれがあってからは—— ホグウォーツのまわりの森の木々でさえ()()()——()()()()いるみたいだったし——」

 

シェイマス・フィネガンは思案げに眉をひそめ、ラヴェンダーとディーンにだけ聞こえるように声を落とした。 「なんか、ハリーが……ほら、ああいう風に……したりする気持ちが分かるような気がしてきた。」

 

「分かる分かる。」  ラヴェンダーは声を落とさない。 「とっくにそれだけじゃすまなくなって、我慢の限界になってみんなを殺しはじめても不思議じゃないと思ってたわ。」

 

「それよりも……」とディーンも小さな声で言う。 「もっと怖いのは——ぼくらもああなっていたかもしれないっていうこと。」

 

「たしかに。わたしたちだけでも完全に正気でいられて助かったわね。」

 

ラヴェンダーのことばに、ディーンとシェイマスは厳粛そうにうなづいた。

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——G.L.

(一九九二年四月八日、午後八時八分)

 

◆ ◆ ◆

 

総長室の〈煙送(フルー)炉〉に白緑色の火が燃えあがり、それが一度くるくる収縮して、またひときわ明るく燃えた。そこから人間が一人空中にはきだされ——

 

そのまま〈煙送(フルー)〉の火の回転の余勢に乗って、目にも止まらない速度でバレーダンサーのように回転しながら杖を手にし、その動きで火の円弧が一周してつながった。かと思うと、急にその人間は停止した。

 

男についてまず最初にハリーが認識したのは目ではなく、傷だらけの両手と傷だらけの顔だった。手と顔以外の隠れた部分にも、全身に火傷(やけど)と切り傷があるかのようだった。 そのからだを覆うのはローブではなく、革の服というより鎧のように見える装束。濃い灰色の革で、男のくしゃくしゃの白い髪の毛に似合っている。

 

そのつぎにハリーが気づいたのは、きらりと光る青色の目が、男の顔の右がわに座していることだった。

 

ハリーの精神の一部は、マクゴナガル先生が『〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディ』と呼んだ人物と、ダンブルドアがハリーに見せた記憶のなかで『アラスター』と呼んだ人物が同一人物であることにも気づいた。あの記憶の時点ではまだ、全身をおおう傷もなく、鼻をえぐられてもいなかったが——

 

別の一部は、自分のなかでアドレナリンがどっと流れたことに気づいた。 ハリーは完全に反射的に、男が〈煙送(フルー)〉から飛びでた瞬間に杖をとりだしていた。その出現のしかたはどこか()()と似ていたので、ハリーは杖を持ちあげて『ソムニウム』をかける寸前までいった。が、そこでなんとか踏みとどまった。 男はいまも、だれに向けるのでもなく部屋全体を射程にいれるように杖を持ちあげたままの姿勢をとっている。銃の照準器に目をおく兵士のように、杖の高さと目の高さを完全に一致させている。 その足のかまえかたと革の長靴、革の鎧と光る青色の目が男の危険さをものがたっている。

 

男は総長に話しかける。その声にはとげがあった。 「この部屋のセキュリティは万全だろうな?」

 

「ここには味方しかおらん。」とダンブルドア。

 

男はハリーのほうに向けて一度くびをひねった。 「その坊主もか?」

 

「もしハリー・ポッターが味方でなければ……」とダンブルドアが重おもしく言う。「われわれの望みは断たれたも同然。よって味方であると仮定してもよかろう。」

 

男の杖は持ちあがったままだが、とくにハリーの方向をむいてはいない。 「こいつ、おれに杖をむけようとしおったぞ。」

 

「あ……」  ハリーは自分がまだ杖を手にしたままだったことに気づいて、意識して手の緊張をゆるめ、からだの横につけた。 「すみません、つい。ちょっとあなたが……臨戦態勢に見えたので。」

 

男の杖の向きがハリーからほんのすこしだけ遠ざかったが、仰角はかわらなかった。 「ハッ。油断大敵、ってわけだな?」

 

「狙われる理由があるときに警戒するのは疑心暗鬼(パラノイア)じゃない、と言いますから。」

 

男はハリーと正対する位置についた。傷だらけのその顔からハリーが読みとれるかぎりでは、男は()()()()()()ようだった。

 

ダンブルドアの両目に、アズカバン脱獄事件以前のきらめきがいくらか戻ったように見えた。銀色のひげの下の笑みも、あたりまえのようにそこにあった。 「ハリー、こちらはアラスター・ムーディ。別名は〈凶眼(マッドアイ)〉。わしのあとを継いで〈不死鳥の騎士団〉を率いることになっている——わしになにかあったときには、ということじゃが。 アラスター、こちらはハリー・ポッター。 おぬしたち二人には()()()()()()良好な関係をきずいてもらいたいと思う。」

 

「話にはいろいろ聞いている。」  マッドアイ・ムーディの自前の黒い片目はハリーをじっと見ている。光る青色の目はソケットのなかで自由に回転できるらしく、休みなく動きつづけている。 「……悪い話もふくめて。 〈法執行部〉ではおまえさんに〈ディメンターの天敵〉という名前がついとるそうだ。」

 

すこし考えてから、ハリーは『でしょうね』という笑みをした。

 

「聞くが、あれはどういう手を使った?」  男は小声で言う。こんどは青い目もハリーをじっと見ている。 「あのディメンターをアズカバンから連れてきた〈闇ばらい〉の一人から話を聞いた。 ベス・マーティンが言うには、ディメンターは奈落からあそこまで来るあいだ、寄り道も指示を受けたこともなかったそうだ。 もちろん、ベア・マーティンがおれにうそを言っていた可能性はある。」

 

「あの件については、小細工はありません。 正面からやっただけです。 もちろん、ぼくもうそを言っている可能性はあります。」

 

ダンブルドアは椅子にもたれて背景に引きさがり、総長室そなえつけの装置類の一つになったかのようにして、くっくっと笑っている。

 

ムーディの顔がダンブルドアのほうを向いた。杖はハリーがいるあたりに向けて低くかまえたまま、 ぶっきらぼうな声で話しだす。 「ヴォルディの直近の宿主かもしれない人間についての情報をつかんだ。 あんたはそれがホグウォーツのなかにいると言うが、たしかか?」

 

「いや、()()()とは——」とダンブルドアが言いかけた。

 

「いまなんて言いました?」とハリーは割りこんだ。 自分のなかではほぼ存在しないという結論をだしかけている〈闇の王〉について、さも当然のようにこういう話をされるのは衝撃的だった。

 

「ヴォルディの宿主だ。グレンジャーに憑依するまえのな。」とムーディ。

 

「伝承にまちがいがなければ……」とダンブルドアが言う。 「ヴォルデモートの霊を現世に束縛することのできる装置が実在する。 となれば、ヴォルデモートがだれかと取り引きをして、その身体の支配権とひきかえに、自分の能力と誇りの一部をあたえたということもありうる——」

 

「まずあやしいのは、ここ最近で不自然なまでに急速に実力を身につけた人間だ。」とムーディが言う。 「実際、そういうやつがいた。一度消息をたってから、バンドンのバンシーを退治して、アジアの乱暴な吸血鬼の一族と一人で対決し、ワガワガの人狼(ワーウルフ)を捕まえて、グールの群れを茶漉しで全滅させたというやつがな。 しかもそれでちゃっかり名声を確保して、巷じゃ〈マーリン勲章〉の話まででてきた。 魔法の実力だけじゃなく、人にとりいって操る技も身につけたようだ。」

 

「それは……彼自身の実力でなしとげたのではないという確証は?」とダンブルドア。

 

「昔の成績を調べておいた。 ギルデロイ・ロックハートの〈防衛術〉のO.W.L.sの成績は〈悪鬼(トロル)〉。N.E.W.T.sは受ける気すらなかったらしい。 いかにもヴォルディとの取り引きに応じそうなたぐいの小物だよ。」  青い目がソケットのなかで動きまくっている。 「ロックハートが自力でそれだけのことをしでかしそうな学生だった、というおぼえがあるんなら別だが?」

 

「いいえ。」とマクゴナガル教授が眉をひそめて言う。「ありえません。わたしの記憶では。」

 

「残念ながらわしも同意見じゃ。」とダンブルドアがどこか痛ましげな声で言う。 「ギルデロイ、なんと愚かなことを……。」

 

ムーディは一段とにやりとして獰猛な表情になった。 「しかけるのは今夜午前三時でどうだね? ロックハートは自宅にいるはずだ。」

 

そこまでの話を聞いていてハリーはどんどん悪い予感がしてきた。この世界では、〈魔法省〉の捜査員でさえ治安判事(マジストレイト)の令状なしに実力行使ができてしまう規則だったりするのではないか——非合法の自警団なら、言うまでもなくそうだろう。ハリー自身がいつのまにかその自警団に加入してしまっているらしいのだが。 「すみません。午前三時に、具体的になにをするんですか?」

 

口調で真意がつたわってしまったらしく、それを聞いて男はくるりとハリーのほうを向いた。 「文句でもあるのか、坊主。」

 

ハリーはすぐに返事せず、初対面の人にでも通じる言いまわしを考えようとする——

 

「自分にやらせてくれ、と言いたいのか? 両親の(かたき)討ちってわけか?」

 

「いえ。」  ハリーは丁寧な言いかたをつとめる。 「あのですね——その人が自分の意思で〈例の男〉の宿主になっているという()()があるならともかく、はっきりしないうちに襲撃して殺そうとするのは——」

 

「殺すだと?」  マッドアイ・ムーディは鼻で笑った。 「ロックハート(そいつ)のあたまの中身だよ……」  そう言って自分のひたいをたたく。 「おれたちがほしいのは。 ヴォルディも、生きていたころのようにたやすくそいつの記憶を消しおおせているとはかぎらんからな。ホークラックスがどういう見ためだったかを、ロックハートがおぼえていてくれりゃあ助かる。」

 

ハリーは『ホークラックス』という単語をあとで調べるためにしっかり記憶してから反応した。 「ただぼくは、無実の人を——話を聞くかぎりでは、いいことをしているらしい人を——傷つけてしまうことになりはしないかと思っているだけです。」

 

「〈闇ばらい〉は人を傷つける。 うまくいけば、悪人をな。 しかし、うまくいかない日もある。たったそれだけの話だ。 言っておくが、〈闇の魔術師〉のほうがはるかに多くの人を傷つけているんだからな。」

 

ハリーは一度深呼吸をした。 「誤認だった場合に備えて、傷つけないように()()するくらいのことはできませんか——」

 

「なんの用があって一年坊主がここにいるんだ? アルバス。」  ムーディはまたぐるりとダンブルドアのほうに顔を向けた。 「赤ん坊のころの功績で、なんて言うんじゃないだろうな。」

 

「彼は尋常な一年生ではない。 彼はわしにも不可能としか思えなかったことを実現した。 〈騎士団〉のなかでいつかヴォルデモートにならぶ知性があるとすれば、それはおぬしでもわしでもなく、彼じゃろう。」

 

男は総長の机に身をのりだした。 「いいや、足手まといだね。戦争のセの字も知らん素人だ。 こいつをここから出してもらおうか。〈騎士団〉についての記憶も消去してくれ。さもなきゃ、いずれヴォルデモートの従僕のだれかに記憶をかっさらわれるのがオチ——」

 

「〈閉心術〉ならつかえますよ。」

 

マッドアイ・ムーディはするどい目で総長を見る。総長はうなづき返す。

 

ハリーに向きなおったムーディとのあいだで二人の視線が交錯する。

 

突然猛烈な〈開心術〉に襲われてハリーは椅子から転げ落ちそうになりながら、自分の表層にある想像上の人格が白熱する鋼鉄の刃で切開されるのを感じた。 ミスター・ベスターの訓練を受けて以来、これまで〈閉心術〉の練習をする機会がなかったので、深層の自分がつくりだす想像上の人格をあやうくとぎれさせそうになってしまった。その人格はいま、燃えたぎる溶岩にかこまれ、怒涛の質問責めにあっている。幻覚にとらわれ突然の苦痛に悲鳴をあげそうになる想像上の人格になるふりをするが、それがふりだけではなくなりそうになる。ムーディの〈開心術〉の攻撃で自分の思考がばらばらにされ、自分が火にかけられているという思考へと強制的に再構成される——

 

ハリーはやっとのことで目をそらし、ムーディのあごに視線を落とした。

 

「なっとらんな。」  そう言われても顔を見ることはしなかったが、無慈悲さは声で分かった。 「二度は言わんからよく聞け。 歴史上知られているかぎり、ヴォルディのような〈開心術師〉はこれまでどこにもいなかった。 やつは相手の目を見るまでもなく、気づかれずにすっと侵入してのける。そんな錆ついた盾ではなんの役にも立たんぞ。」

 

「おぼえておきます。」  視線はあごに向けたまま、ハリーは自分でも認めたくないほど動揺しているのに気づいた。ミスター・ベスターとは段違いの強力さだった。それにミスター・ベスターは()()()手を一度も使わなかった。 あれだけのやりかたで痛めつけられるふりをするというのは……どう表現していいか分からないが、それだけの苦痛を感じている想像上の人格を自分のなかに持つということは、()()ではない気がした。 「〈閉心術〉ができたことは認めてもらえますか?」

 

「だから大人あつかいされて当たりまえだと言うんだな? おれの目を見ろ!」

 

ハリーは自分の防壁を強化してからもう一度、濃灰色の目と光る青色の目をのぞきこんだ。

 

「ひとが死ぬのを見たことはあるか?」とマッドアイ・ムーディが言った。

 

「両親が死ぬのを見ました。 一月、〈守護霊(パトローナス)の魔法〉の練習でディメンターのまえに立ったとき、その当時の記憶をとりもどしました。 〈例の男〉の声の記憶も——」  寒けが全身をかけぬけ、手のなかで杖が震えた。 「戦術上意味のある情報としては、〈例の男〉は〈死の呪い〉を〇.五秒以下で発音できるということが分かりましたが、多分もうそれはごぞんじでしょうね。」

 

マクゴナガル先生のいるあたりで、息をのむ音がした。セヴルスの表情がかたくなった。

 

「わかった。」  マッドアイ・ムーディの傷だらけの顔のくちもとがわずかにゆがみ、奇妙な笑みをする。 「じゃあ、〈闇ばらい〉訓練生とおなじやりかたで試してやろう。 一度でいいからおれに——呪文一発でいいから——当ててみろ。それができれば、くちごたえする権利をやる。」

 

「アラスター!」とマクゴナガル先生の声が飛んだ。 「そんな試験は無理があるでしょう! ほかの面の能力はともかくとして、ミスター・ポッターには百年の実戦経験などないのですから!」

 

ハリーの視線が電撃的な速度で部屋のあちこちに向かい、さまざまな装置群やダンブルドアやセヴルスや〈組わけ帽子〉などをかわるがわる見ていく。 いまいる位置からだとマクゴナガル先生を見ることはできないが、それはどうでもよかった。 ほんとうに見たいものはただひとつ。それがなんであるかをさとられないように、ほかのものをたくさん見ることにしただけだった。

 

「いいですよ。」と言ってハリーは椅子を飛びおりた。マクゴナガル先生が息をのみ、セヴルスが『本気か』と言うように鼻で笑うのが聞こえたが無視した。 目のまえでは、ダンブルドアの両眉があがり、ムーディがトラのように歯をむきだす笑みをしている。 「ぼくがやられた場合は、かならず四十分後に起こしてください。」  決闘術の立ちかたで、杖は低くかまえる。 「じゃあやりましょうか——」

 

◆ ◆ ◆

 

目をあけると、あたまのなかに綿(わた)を詰めこまれているような感じがした。

 

総長室の来客者はもういなくなっていた。〈煙送(フルー)炉〉の火も消えている。一人、ダンブルドアだけが席について待っていた。

 

「起きたか、ハリー。」

 

「目にもとまらない早業でした、あれは。」  ハリーは身を起こしながら、あちこちの筋肉が痛むのを感じた。

 

「きみの失敗は、アラスター・ムーディから二歩の距離に立っていながら、彼の杖から目を離してしまったこと。」

 

ハリーはうなづき、〈不可視のマント〉をポーチからとりだした。 「いや——ぼくはただ、そのへんのバカの真似をして決闘術のかまえをすることで、相手の油断を誘うつもりだったんですが——さすがにあそこまでとは。」

 

「つまり、これもきみの計画の一部というわけかね?」

 

「もちろん。 だからこそ、起きてすぐに動きはじめられているんですよ。考える時間をかけるまでもなく。」

 

ハリーは〈マント〉のフードをかぶり、こっそり一度確認してあった壁の時計をもう一度見た。

 

前回見たとき、その時計は八時二十三分を指していた。今回は、九時五分。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァはハリーが杖を低くかまえて決闘術の姿勢をとりだすのをじっと見て、 一瞬だけ、もしかすると、と思った。——いや、どう考えても不可能だ。相手が〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディでは、不可能でも言いたりない。 たしかに部分〈転成術〉のときも実際に見るまでそう思えたのだが、それにしてもこれは……。

 

「じゃあやりましょうか。」とハリーが言い、倒れた。

 

セヴルスが一度だけ軽く笑った。 「ミスター・ポッターにも見るべきところはある。もちろん、わたしは彼が起きているときにこんなことは言わないし、言ったと証言されれば断固否定しますがね。彼の自我はそれでなくとも十分肥大化している。 ミスター・ポッターにも見るべきところはあるにせよ、決闘術はそのひとつではない。」

 

それとくらべて、マッドアイ・ムーディは弱く冷たい笑いかたをした。 「そうとも。 決闘なぞ愚か者がやることだ。 あんな立ちかたでは攻撃してくれと言っているようなものだ。なにがしたかったのやら。 せっかくだから傷の一つも残しておくか。この一件が忘れられなくなるように——」

 

「アラスター!」とアルバスが声をあげ、同時にミネルヴァも「やめて!」と言い、セヴルスは前に駆けこむ。マッドアイ・ムーディは狙いをすまして、倒れたハリーに杖をむけた。

 

「ステューピファイ!」

 

マッドアイのからだが木製の義足を支点に、明滅するほど高速に回転した。ミネルヴァは魔法ぬきでこれほど高速に動く人間を見たことがなかった。同時に赤色の〈失神呪文〉は、ハリーがいなくなった空間を通りぬけ、セヴルスをかすめて奥の壁に衝突した。急いでマッドアイのほうへ目をやると、十七の光の玉が〈魔法の射手(サギタ・マギカ)〉の配置でならんでいた。布陣はすぐに消え、そこから光の奔流が生まれた。流れでた光は()()()に当たり、それが音をたてて床に倒れ——

 

◆ ◆ ◆

 

「おかえり、ハリー。」とダンブルドア。

 

「信じられない反応速度ですね、あの人は。」と言って、ハリーは過去の自分から見えないように透明になって倒れていた床のその場所から立ちあがり、〈マント〉をぬぐ。 「動作の速度もですが。 詠唱ありの呪文だと気づかれるだろうから、なんとかして詠唱なしに一発あてる方法を考えないと……」

 

◆ ◆ ◆

 

——それからマッドアイは機敏にかがんで、両手をぱっと床につけた。 その頭上をうっすらと細い糸が二本飛んでいくのを、ミネルヴァは見のがしそうになった。糸が総長室内の装置のどれかにあたって青色の閃光をあげるのに気をとられていると、いつのまにかマッドアイはすっと立ちあがり、目に見えないほどの速度で杖を振っていた。またドスンとなにかが倒れる音がして——

 

◆ ◆ ◆

 

「おかえり、ハリー。」

 

「ちょっとお願いがあるんですが。一度階下に行ってからここに戻らせてもらって、それから最後にもう一度飛ぶことにしたいんですが、いいですか? 準備に一時間以上かかってしまいそうなので——」

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァは杖をおろす気配すらないままそこに立つマッドアイ・ムーディを見て愕然とした。セヴルスは動揺の表情にかぎりなく近い表情をしていた。

 

「どうした、坊主。それでおしまいか?」

 

見えない手が不可視のマントのフードをめくるとともに、ハリー・ポッターの頭部が空中にあらわれた。

 

「その目は……」と言うハリー・ポッターの目には奇妙な光がやどっている。 「なにか特別な装置ですね。 この不可視のマントのなかを見とおせるような。 ぼくが電撃銃(スタンガン)を〈転成〉してかまえた瞬間に、あなたはよけようとした。声にだす詠唱はしていないのに。 今回もそうだった。ということは—— 〈煙送(フルー)〉で到着した段階で、もう気づいていたんじゃないですか。この部屋に〈逆転時計〉を利用したぼくの分身が何人もいるということも、その居場所も。」

 

マッドアイ・ムーディは歯をむきだしにして笑っている。ヴォルデモートを押しとどめた戦いのときに見せたのとおなじ笑みだった。 「闇の魔術師どもを相手に百年やりあっていれば、たいがいの小細工は目にするもんだ。 おれが逮捕したなかにも、それとおなじ小細工をやろうとした日本人の若者がいた。 影分身の術だそうだが、おれのこの目に通用すると思ったのが命取りだったな。」

 

「全方向が見える目なんですね。」  ハリー・ポッターはまだ奇妙に光る目をしている。 「目がむいている方向とは関係なく、周囲全体が見える目なんだ。」

 

ムーディはいっそうトラに似た笑みをして口をあける。 「分身はもうなくなったようだな。 あとはもう坊主の負けと決まっているからか。それとも勝つからか。 ひとつ、賭けてみるか?」

 

「これが最後なのは、のこっていた三時間ぶんを一発に賭けることにしたからですよ。勝つか負けるかについては——」

 

総長室全体の空気ににごりが生じたように見え、 またたく間にマッドアイ・ムーディが壁にとんだ。つぎの瞬間にハリーの頭部がとびすさり、「ステューポファイ!」とさけんだ。

 

光線が三本ハリーの頭部をかすめ、同時にハリーのいる位置から赤い稲妻が発射された。それがかすめようとするとき、ムーディはまた別の方向にとび——

 

そして、もしまばたきをしていたとしたら見のがしたかもしれないほど速く——赤い稲妻は空中で曲がり、ムーディの耳に直撃した。

 

ムーディは倒れた。

 

空中に浮かぶハリー・ポッターの頭部が、一年生のひざの高さまで下がり、それから床に落ちた。急に疲弊した表情をしていた。

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは自分が目にしたものを信じられなかった。 「いったいどうやってこんなことが——」

 

◆ ◆ ◆

 

「フリトウィックに相談したということか。」  椅子に腰をおろしたムーディは、ベルトにつけてあった小瓶(スキットル)から気つけ薬を飲みつつそう言った。

 

ハリー・ポッターはうなづいた。いまはひじかけではなく椅子本体に腰をおろしている。 「最初は〈防衛術〉教授のところへいったんですが——」  そう言って顔をしかめる。 「……協力が得られなかったので。 まあ、寮点を五点うしなうくらいの覚悟はしてましたし、覚悟があると言っておきながら実際うしなって文句を言うことはできないですよね。 とにかく、ほかの人に見えないものを見ることができる目がある人が相手なら、アイザック・アシモフの『第二ファウンデーション』にもあったように、強烈な光が有効な武器になるだろうと思いました。 サイエンスフィクションをある程度読んでいれば、たいていのものに一度は遭遇しますからね。 とにかく、フリトウィック先生からは、目に見えないものを大量につくりだす〈魔法(チャーム)〉を教えてもらってきました。強い光をだして点滅しながら透明で、あなたの目だけに見えるようなものを部屋全体を一気に充満させる呪文です。正直、幻影を投射してからそれを透明にするというのは意味がわからないんですが、そこにつっこまないでいれば、やってみせてもらえるだろうと思って。実際やってみせてもらえました。 ぼくにはつかえない難度の呪文ばかりだったんですが、かわりに、使い切りの魔法装置を用意してもらって——ずるをするためじゃない、ということを説明する必要はありましたけどね。退職する年齢まで生きのびた〈闇ばらい〉が相手なら、なにをしてもずるじゃありませんから。 でも、あれだけ速く動けるあなたにどうやって呪文をあてればいいのか、という点は解決していなかったので、 標的(ターゲット)指定つきの呪文とかはないのかをたずねてみると、フリトウィック先生が教えてくれたのが〈曲行失神弾〉——ぼくが最後につかったあの呪文です。 フリトウィック先生が発明した呪文だそうです——フリトウィック先生はチャームズの専門家であると同時に決闘術大会優勝者でもあるので——」

 

「知っているとも。」

 

「すみません。とにかく、フリトウィック先生はその呪文をつかう機会がないまま決闘術から離れたそうです。防壁がない対戦相手をしとめるための最後の一発としてしか意味のない呪文なんですよね。 これは、標的にぎりぎりのところまで接近する段階ではもとの軌跡のまま飛びますが、そこから標的が離れる方向に動くのを検知すると、空中で方向転換してそちらに直進します。 曲がれるのは一回だけですが——『ステューピファイ』と詠唱が似ているし、色もおなじ赤色なので、相手は通常の〈失神弾〉だと思って通常どおりに回避しようとします。この弾はそこをついて方向転換することで相手をしとめます。 あ、そうだ。この話をするときは全員に口止めするようにと言われているので、お願いしますね。いつか決闘術に復帰することがあったら、試合でつかってみたいんだそうです。」

 

「それでも——」と言いかけてからミネルヴァはマッドアイ・ムーディに目をやり、無言でうなづくのを見る。セヴルスは無表情を決めこんでいる。 「ミスター・ポッター、あなたは()()()()()()()()()()をしとめたんですよ! 〈闇ばらい〉局の歴史上もっとも名高い〈闇の魔術師〉ハンターを! ありえないにもほどがあります!」

 

ムーディは暗い声で笑った。 「坊主、どう答える? おれも興味がある。」

 

「その……まず、ぼくら二人とも真剣に戦ってはいなかったんですよ、マクゴナガル先生。」

 

「二人とも?」

 

「当然です。 仮にこれが真剣勝負だったら、ミスター・ムーディは攻撃されるのを待たずにぼくの複製を一網打尽にしていたでしょうし、 ぼくももし()()()()()〈闇ばらい〉局の歴史上もっとも名高い〈闇の魔術師〉ハンターを倒す必要があったとしたら、ダンブルドア総長にやってもらいますよ。 それ以上に……真剣勝負でなかったからこそ……」  そこでハリーは一度言いやめた。 「どう説明すればいいんですかね。 魔法族はある程度長い時間呪文でやりあう形式の決闘に慣れているようですが、 銃を持つマグルが二人、せまい部屋で撃ちあったとしたら……一発目にあてたほうが勝ちです。 もし片ほうがわざと狙いをはずして撃ちつづけることで、もう片ほうに何度も何度もチャンスをあたえていたとしたら——ミスター・ムーディはぼくにそうしていたわけですが——そこまでされて負けるのは、相当みじめですよ。」

 

「そこまでみじめとは思わんよ。」とムーディが多少威嚇的な笑みをして言った。

 

ハリーは気づいたそぶりもなく話をつづける。 「ある意味で、ミスター・ムーディはぼくが()()()()()()のか()()()()()()のかをたしかめるつもりだったのかもしれません。 つまり、勝つという()()が見えないまま、知っている範囲の標準的な呪文を撃ちつづけることで、戦う人を()()()のか。それとも、ふつうではありえない作戦を検討していって、勝つ()()()がある方法をひとつでも見つけようとするのか。 ちょうど、授業があれば席につくことになっているから席につくだけの生徒と、ほんとうの意味で学ぶためにはなにをすればいいかと自問して、そのために必要なだけの練習をする気概のある生徒とが大ちがいであるように——分かりますよね、マクゴナガル先生? そういうわけで、ミスター・ムーディがわざとぼくに攻撃の機会をあたえていて、ぼくは勝てる見こみがないかぎり攻撃すべきではなかったという前提で考えれば——ぼくはあまり大きな顔はできません。三回目にやっと当てられただけなんですから。 それにさっき言ったとおり、これが実戦なら、()()()()()()()()()()透明になったり防壁を用意したりできていたはずで——」

 

「防壁を信用しすぎるなよ、坊主。」と言ってマッドアイは小瓶(スキットル)をかたむけ、また気つけ薬を口にする。 「学校の一年目にならうようなことは、いずれ役に立たなくなる。実力のある〈闇の魔術師〉を相手にするようになればな。 どんな防壁にも、かならずひとつはそれを貫通する呪いがある。そのときは対抗呪文(カウンター)の速度しだいで勝負が決まる。 あらゆる防壁を貫通する呪いというのもある。〈死食い人〉はかならずその呪いをつかう。」

 

ハリー・ポッターは真剣そうにうなづいた。 「そうか、防御できない呪文もあるんですね。 〈死の呪い〉をもう一度当てられそうになったときのために、おぼえておきますよ。」

 

「そうやって軽口をたたくやつが決まって死ぬ。いいな、坊主。」

 

〈死ななかった男の子〉はがっかりしたようなためいきをした。「はい。すみません。」

 

「じゃあ話をもどす。アルバスとおれがロックハートを襲うことについて、なにか文句があるんだったか?」

 

ハリーは口をあけて、一息おいてから言った。 「あなたたちの戦争のやりかたについて口出しするつもりはありませんよ。ぼくはその方面の経験がないですから。 ただ、いろいろな代償があるかもしれないということはぼくにも分かります。 ぼくが見るところ、ロックハートは無実である可能性があります。もしロックハートを傷つけることもなく、あまりリスクを上げることもないような方法があるなら——」  そこで一度肩をすくめる。 「手間や代償の大きさにもよりますけどね。ただ、相手が無実である場合にそなえて、危害をくわえないですむやりかたがあれば、そうしてほしい、ということです。」

 

「あればな。」

 

「それと——その人をつかまえたら、精神のなかをのぞいて、〈闇の王〉の存在を証明するものを探すんでしたね? ブリテン魔法界では証拠能力についてどういう規則があるのか知りませんが—— 法律はおぼえきれないほどたくさんあって、だれでもひとつくらいは法律に違反しているものです。 だから調べて()()()()()()()()()()なにかに行きあたったとしても、〈魔法省〉に引き渡さずに〈忘消〉(オブリヴィエイト)してそのまま帰してやってくれませんか?」

 

ムーディは眉をひそめた。 「うしろめたいことをしていないやつが、あれだけの速度で実力をつけるのはありえんぞ。」

 

「そうだとしても、〈闇ばらい〉にまかせればいいんです。彼らが通常の手段で証拠をつかむのを待ちましょう。 お願いします。マグルそだちの人間独特の変な発想に聞こえるかもしれませんが、()()それが戦争関係でない犯罪だったら、ぼくらが出る幕はないはずです。真夜中にかってに人の家を襲撃して精神を読んでアズカバン行きにさせるような邪悪な自警団を演じるのはやめましょう。」

 

「おかしな発想だとは思うが、まあいい。今回は頼まれてやってもいい。」

 

「アラスター。ロックハート以外に、思いあたる人物は?」とアルバス。

 

「ある。おたくの〈防衛術〉教授についてだが——」

 

仮説——ギルデロイ・ロックハート——終

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——ダンブルドア

(一九九二年四月八日、午後五時三十二分)

 

◆ ◆ ◆

 

クィレル先生がカップを持ちあげたとき、空中でそれがぴくりとして、透明な黒い茶がほんのわずかにこぼれた。こぼれたといっても三滴カップの外にたれただけで、 たまたまじっと見ていなかったとしたら見のがしていただろう、とハリーは思う。クィレル先生の手のうごきはその一瞬をのぞいて完全に安定していた。

 

これが小さな痙攣(けいれん)のような反応ではなく継続する震えにまで悪化したとしたら、クィレル先生は無杖魔法しか使うことができなくなる。 杖のうごきには精密さが要求されるため、指の震えは命とりだ。 それが実際クィレル先生にとってどのくらいのハンディキャップになるかは、なんともいえない。 クィレル先生は不自由なく無杖魔法をつかうことができるようだが、大きなことをするには杖をつかうことが多い——といっても楽だからそうしているだけなのかもしれない……。

 

「狂気は……」と言ってクィレル先生は慎重にカップにくちをつける——そしてカップから目を離さず、ふだんとはちがって、ハリーを見ていない—— 「それ単体で人を特定するにたる手がかりとなりえる。」

 

〈防衛術〉教授の居室は無音だ。防音結界のかけられたこの部屋の静けさは総長室の騒々しさと対照的である。 相対する二人の呼気と吸気のタイミングが一致して、そのあとに音響的空白の時間が生じることがときどきあるが、それすらも音といっていいかもしれない。

 

「それはある特定の意味でなら同意できますがね。 もし『みんなが自分を見ている』『下着に思考制御の薬をしこまれた』と言っている人がいたら、その人は精神病です。典型的な精神病の症状ですから。 でも、妙なことがあったらすべてアルバス・ダンブルドアを疑えというのは……いきすぎじゃないですか。 ぼくがある行為の目的を見つけられないからといって、目的が()()()()()とはかぎりません。」

 

「目的が存在しない? いや、ダンブルドアの狂気は目的がない狂気ではない。目的が多すぎる狂気だ。 総長はルシウス・マルフォイがきみへ報復するためにゲームを放棄するよう、しむけたのかもしれない——それ以外にもありうる謀略の種類は十をくだらない。 彼のなかで理由のある行為と理由のない行為がなんであるかなど、われわれには知りようがないだろう? 彼はあれだけいくつもの奇妙な行為に理由があると思っているのだから。」

 

ハリーはこの席についたときすすめられた茶をことわっていた。それがなにを意味するかをクィレル先生に知られることも承知で。 ソーダ缶を持参することも考えたが——それもやめておくことにした。二人の魔法力が直接接触できないとしても、クィレル先生にとって少量の水薬(ポーション)を転移させることはわけもないだろう、と判断して。

 

「ぼくはダンブルドアの人柄をすこしは見てきました。 そのすべてが嘘だったのでないかぎり、あの人がホグウォーツ生をアズカバン送りにするような謀略を実行するとは考えにくいですね。」

 

「ああ。」  〈防衛術〉教授は小声でそう言った。淡い水色の目のなかに小さくカップが映っている。 「しかし、それもダンブルドアがやりそうなことだとは考えられないかね。 彼のような人間がものごとをどう考えるかをきみはまだ理解できていない。 彼がやむをえず生徒を犠牲にするなら——生徒一人を犠牲にするに足る尊い目的がどこかにあったなら——みずからヒロインを宣言した一人をえらばない理由があるだろうか?」

 

そう言われてハリーは考えた。後知恵バイアスでそう思えるだけかもしれないが、たしかにそういう理屈で、ダンブルドア仮説の確率質量がハーマイオニー個人をおとしいれる方向に多少かたむくとはいえそうだ。 おなじように、クィレル先生は以前、ダンブルドアがドラコを標的にする可能性を指摘してもいた……。

 

でももしあなたがこの事件をしくんでいたのだとしたら、総長に罪を着せようとして、総長がうたがわしくなる要素をいれこんでいた可能性もありますね。

 

『きみのひとつ上の段階』でゲームをプレイしていると言ってはばからない人が相手となると、『証拠』という概念の意味がかわってくる。

 

「そういう考えかたもありますね。」  ハリーはほかに自分が考えたことはおもてに出さず、それだけですませた。 「つまり、ハーマイオニーに罪を着せた人間としてもっとも有力なのは総長だということですか?」

 

「いや、そうでもない。」  クィレル先生はのこっていた茶を一息で飲みほし、カップをテーブルにおろした。こつりと音がした。 「まず、ほかにセヴルス・スネイプがいる——しかし彼だったとすれば、なにが狙いなのか、わたしには分からない。 したがって彼もわたしから見て第一の容疑者ではない。」

 

「じゃあだれですか?」  ハリーはいくらか困惑した。 クィレル先生にかぎって、『例の男』と言うわけもない——

 

「〈闇ばらい〉には、『被害者を疑え』というルールがある。 アマチュア犯罪者のなかには、自分が被害者であるように見せれば疑われないにちがいない、と考える者が多くいる。 一定以上の位階の〈闇ばらい〉ならみな、都合十回はそういう犯罪者を見かけているくらいだ。」

 

「いくらなんでもそれはないでしょう。なぜ()()()()()()()()——」

 

〈防衛術〉教授は『きみはバカか』という意味の薄目をつかった。

 

ドラコが?—— ドラコは〈真実薬〉を投与されて証言した——が、ルシウスなら〈闇ばらい〉に影響力を行使することができるかもしれない。……そうか。

 

()()()()()()()()()()()わざと()()()()()()犠牲者に仕立てた、ということですか?」

 

「可能性はあるだろう?」  クィレル先生の口調がやわらいだ。 「今回の証言文を見せてもらったが、きみはミスター・マルフォイの政治的見解をある程度かえることに成功したようじゃないか。 そのことがルシウス・マルフォイにもっと早い時点で知れていたとすれば……その時点で彼は、自分の()相続人が負債と化してしまったと判断していたかもしれない。」

 

「無理があると思います。」

 

「その態度は危険なまでに甘い。 歴史をひもとけば、家族内の些細な不和が殺人に発展する例は数知れない。ミスター・マルフォイが父親にあたえた脅威よりはるかに小さな脅威でさえ殺人の理由になる。 きみがつぎに言いそうなことは想像がつく。〈死食い人〉の一員たるマルフォイ卿が息子にそんな非道なことをできるはずがない、と言いたいのではないかね。」  強い皮肉が隠れた口調だった。

 

「はっきり言って、そうですね。 ……愛は実在します。観測可能な効果をともなう現象です。 脳も感情も実在する以上、愛はリンゴや木とおなじくらい現実世界の一部です。 親から子への愛が予測の根拠からはずしてしまうと、説明に困ることが多いと思いますよ。たとえば、〈理科課題事件〉があったあとに両親がぼくを孤児院に送らなかった理由をどう説明するんでしょうね。」

 

〈防衛術〉教授はハリーのこの発言にいっさい反応しなかった。

 

「ドラコから聞いた話では、ルシウスはウィゼンガモートでの重要な投票よりもドラコのことを優先したそうです。 これは強い証拠です。愛情があるように見せかけたいだけなら、もっと安くすむ方法もありますから。 親が子を愛するということへの先験確率が低いとも言えませんし。 ルシウスは子を愛する父親を()()()()()だけで、ドラコがマグル生まれとつきあっていると知ってからその演技を捨てた、という可能性はゼロではないとしても、 可能性にも大小がありますからね。」

 

「その人がやったと思われない犯罪ほどよい犯罪はない。」  クィレル先生の口調はまだやわらいでいる。

 

「じゃあそもそもルシウスはどうやってハーマイオニーに〈記憶の魔法〉をかけたというんですか? 教師でない人がやれば、結界が起動することは避けられない——ああ、そうか。そこでスネイプ先生が。」

 

「不正解だ。 ルシウス・マルフォイなら、その任務を他人にやらせることはない。 だが、〈記憶の魔法〉をかける技術を持ちながら、戦闘能力のないホグウォーツ教師が一人いたとしよう。その教師がホグスミードにでかけて、 暗い裏道にはいる。そこへ黒衣のマルフォイがちかづき——これには彼本人が直接手をくだすだろう——一言ささやく。」

 

「『服従(インペリオ)』と。」

 

「むしろ『開心(レジリメンス)』だろうな。 〈服従(インペリオ)〉をかけられた状態の教師に対して結界が発動するかどうか、わたしは知らない。 わたしが知らないなら、おそらくマルフォイも知るまい。 しかしマルフォイは完全な〈閉心術師〉ではあるし、 おそらく〈開心術〉もつかえよう。 標的となるのは……オーロラ・シニストラというところか。〈天文学〉教授なら、夜に歩きまわっても疑われる心配はない。」

 

「それよりスプラウト先生じゃありませんか。 だれも疑わない人物ということなら。」

 

〈防衛術〉教授はごくわずかに返事をためらった。「それも考えられる。」

 

「そういえば……」と言ってハリーは思案げな顔つきになる。 「もしすぐ分かるようだったら教えてもらいたいんですが、現在の教授陣のうち、ミスター・ハグリッドの冤罪事件があった一九四三年ごろにもホグウォーツにいた人はだれでしょう?」

 

「当時はダンブルドアが〈転成術〉教師だった。ケトルバーンは〈魔法生物〉、ヴェクターは〈数占術〉だ。」  クィレル先生はすぐさま答えた。 「いま〈古代ルーン文字〉教師のバスシバ・バブリングはたしか、レイヴンクロー監督生だったと思う。 しかしミスター・ポッター、〈例の男〉以外のだれかが()()事件に関係したと考える理由はないぞ。」

 

ハリーは芝居がかった動きで肩をすくめた。 「念のため、たしかめておいたほうがいいかと思っただけですよ。 ともかく、外部犯がホグウォーツ教職員のだれかに〈開心術〉をかけて——かけられた人が忘れるはずはないので、事後に〈忘消〉(オブリヴィエイト)でその記憶を消した、ということならたしかにありえます。 でもルシウス・マルフォイがその首謀者であるという可能性はほとんどないと思います。 ルシウスのドラコへの愛情らしきものは義務感から生じていただけで、あっさり消えてなくなってなるようなものだった、という可能性もなくはないですが、まずないと思いますね。 ルシウスがウィゼンガモート全議員のまえでやってみせたことすべてが演技だったという可能性についてもそうです。 人間の外見と内面は似ていないこともある、という点には同意しますが、 その仮説ではまったく説明できない証拠がひとつあります。」

 

「というと?」  〈防衛術〉教授はなかば目を閉じている。

 

「ハーマイオニーを救う対価として提示された十万ガリオンを、ルシウスは拒否しようとしました。 ルシウスが名誉を汚すこともいとわず拒否したとき、議員はみなおどろいていました。 あれはほかの議員の()()に反した行動だったということです。 あなたが言うとおりだったとしたら、ルシウスはあのおかねをそのまま受けとって、ただ憤懣やるかたない顔をしていればよかったんじゃありませんか? どうしてもハーマイオニーをアズカバンに行かせたいという理由もなかったということですから。」

 

「……。きっと彼も、演技にのめりこみすぎたのではないかな。 もののはずみで、ということはままある。」

 

「あるかもしれません。でもそれも確率を下げる要因のひとつですから——これだけいくつも説明すべき点がある仮説は、第一の候補ではありえません。 なにかほかに考えておくべきことはありますか? それ以外の可能性すべてのなかで。」

 

長く沈黙がつづき、 〈防衛術〉教授の目は下にあるカップに向いていて、いつになく遠くを見ているように見えた。

 

「……しいて言えば、もう一人だけ思いあたる人物がいる。」

 

ハリーはうなづいた。

 

〈防衛術〉教授はそれに気づいた様子がないまま、話をつづけた。 「総長はもうきみに——ほのめかす程度にでも——トレロウニー教授の予言についての話をしたか?」

 

()()()」  ハリーは思わずそう言った。内心のショックを隠したいなら、いずれにしろこの反応が精いっぱいだったろうと思う。 クィレル先生をだませる水準の偽装ではないと思うものの、返事をせずにいる時間が長びけば余計わるいことになる——いや、というよりクィレル先生はどうやって()()のことを知ったんだ—— 「トレロウニー先生の予言? なんですかそれは?」

 

「きみ自身がその場にいて、前半部分を聞いた予言のことだが。」と言ってクィレル先生は眉をひそめる。 「きみはそれが自分についての予言ではありえない、ということを全校生徒にむけて言ってもいた。すでにここにいる自分が『やってくる』ことはないからと。」

 

彼がやってくる。彼が引きさくのは——

 

そこまで言ったところでトレロウニー先生はダンブルドアにつかまえられて消えたのだった。

 

「ああ、()()予言ですか! すみません、ぱっと思いだせなくて。」

 

最後の一言を強く言いすぎたような気がした。 クィレル先生なら八割がた、『きみがそこまで否定しようとする、()()()()()()謎めいた予言について聞かせてもらおうか』とでも言うだろう——

 

「それは愚かだ。きみがうそを言っていないと仮定すればだが。 予言は無視していいものではない。 わたしは自分が聞いた小さな断片についてあれこれ考えたが、やはり情報がすくなすぎた。」

 

「やってくるそのだれかが、ハーマイオニーに罪を着せた犯人だと言いたいんですか?」  ハリーのなかでこれがまたひとつの仮説として配置された。 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ミス・グレンジャーを悪く言うつもりはないが……」と言って〈防衛術〉教授はまた眉をひそめる。 「彼女個人の生き死にに大きな意味はないように思える。 しかしだれかが来ることになっていたのなら——それが、きみの解釈では、まだここにいなかっただれかであって——未知の有力なプレイヤーだとしたら……()()()()()()()もしていておかしくはないだろう?」

 

うなづいてから、ハリーはこころのなかでためいきをついた。この要素を組みこんでから、もう一度、各種のヴォルデモート卿確率の計算をやりなおさなければならない。

 

クィレル先生の閉じかけたまぶたから、細い切れこみのような目がのぞく。 「予言の内容にある人物だけでなく——予言を()()()()人物はだれだったのか。 通説では、予言は語られた運命を引き起こす能力がある者、防ぐ能力がある者にむけて語られるのだという。 ダンブルドアか、わたしか、きみか。その三人にはおよばないが、セヴルス・スネイプか。 ただしその四人のうち、ダンブルドアとスネイプがトレロウニーと同席することはめずらしくなかった。 きみとわたしはあの日曜日までトレロウニーと顔をあわせることが少なかった。 あの予言は()()()()()()()()()()()が聞くべき予言であった可能性は高いと思う——ダンブルドアが闖入して彼女をさらうまでは、そうなるはずだった。 ほんとうにきみはダンブルドアからなにも聞いていないのか?」  クィレル先生ははっきりと要求する口調になった。 「それにしては熱心な否定のしかただったな。」

 

「ええ、聞いていません。ほんとうに、さっきのはただの度忘れです。」

 

「そうだとすれば、なんのつもりだったのだろうな、ダンブルドアは。気がかりだ。 いや、怒りをおぼえるくらいだ。」

 

ハリーは返事せず、汗もかかなかった。 そうしていられたのは立派な理由があってのことではなく、この点についてだけはたまたま隠しだてすることがなかっただけだった。

 

クィレル先生は分かったというように一度うなづいてから言った。 「ほかに話すべきことがなければ、面談はここまでだ。」

 

()()()()調べておくべき人物がいると思います。 あなたが言及さえしなかった人物が。 その人についての分析を聞かせてもらえますか?」

 

音と言えそうなくらいの無音の時間がまたしばらくあった。

 

()()人物については、きみ一人でわたしの手を借りずに追及すべきだろう。 以前もそのような依頼を耳にしたことはあるが、経験上わたしはことわることにしている。 引き受ければ、自分自身の疑惑を的確に追及しすぎて、有罪だと思われるか——そうでなければ、追及に手抜きがあると言って有罪だと思われるかのどちらかだ。 ひとつだけ自己弁護しておくとすれば——わたしはよほどのことがないかぎり、きみとマルフォイ家継嗣とのあいだの脆弱な同盟関係にひびをいれようとする立ち場にない。」

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——〈防衛術〉教授

(一九九二年四月八日、午後八時三十七分)

 

◆ ◆ ◆

 

「……であれば、悪いがわしは席をはずさなければならん。」  ダンブルドアはまじめな声で言う。 「クィリナスとの……いや、〈防衛術〉教授との約束で……わしは自分自身の手であれ他人を通じてであれ、彼の正体をあばこうとしないことになっている。」

 

「ふざけた約束をするもんだ。よほどの理由があってのことだろうな?」とマッドアイが言った。

 

「彼の雇用中なにがあってもこの条件は取り下げられない……と彼は言っていた。」  ダンブルドアはマクゴナガル先生にむけて、ちらりと苦笑いをして見せた。 「ミネルヴァも、今年はなんとしてでも有能な〈防衛術〉教授をこの学校に確保する必要があると言った。わしがグリンデルヴァルトをヌルメンガルトから連れだして、昔の仲を利用して丸めこんで教師にするくらいのことをしてもやりすぎではないと。」

 

「わたしはそんな表現をしたおぼえはありません——」

 

「それくらいの剣幕ではあったよ。」

 

それから間もなくこの四人は——ハリーとマクゴナガル先生と〈薬学〉教授と『凶眼(マッドアイ)』ことアラスター・ムーディは——総長室にのこされ、それぞれ席についた。

 

不思議と総長のいない総長室は……()()()()()()()()()ように見えた。 室内におかれたさまざまなからくりは、老賢者がついていれば()()()()()見えたりするが、真剣な会議をしようとする四人がいるだけではそうならず、ただへんてこでうるさい装置群でしかなかった。 椅子の肘かけに座るハリーの位置からはっきりと見えるのは、頂上を切った円錐のかたちをしたなにかがゆっくりと回転し、そのなかに脈動する光源がおかれた装置だった。その内部の光源が脈うつたびにヴーッヴーッという音を発してもいる。妙に遠くから聞こえるような、四方の壁の外からとどいているかのような音だった。ここから回転半円錐とでもいうべきそれまでの距離は一メートルか二メートルしかないのだが。

 

ヴーッ……ヴーッ……ヴーッ……

 

それだけでなく、部屋のすみにもう何人か、まだ息のあるハリー・ポッターの分身もいて、いろいろな意味で自業自得の顛末の尻ぬぐいをしている。 (そのうち〈不可視のマント〉に隠れて()()()のは一体だけだが、そのほかの見えない分身を知覚するにはごく小さな労力しか必要ない——といっても、ハリーは知覚しないように注意している。本体であるハリーの現在の意思決定に未来の情報が影響することがあってはならないので。) 残念ながらこの時点で、自分自身のからだが一つ部屋のすみに横たわっているというのは、さほどおかしなことには感じられない。 そういうことも……ホグウォーツでは起きるものだ、と思えてしまう。

 

「じゃあ、はじめるか。」とムーディがどこか不服そうな顔で言い、 革の鎧のなかから黒いファイルをとりだした。 「これはアメリアの下の部局がまとめたものだ。 これがおれたちの手にわたったということはほぼまちがいなくアメリアにも知られているだろうが、 むこうがおもてだって許せることではない。いいな?」

 

ムーディが言うには、〈魔法法執行部〉の見解では『クィリナス・クィレル』の正体はこういう人物だという—— 学校時代は一見平凡なホグウォーツ生(とはいえ、もうすこしで首席男子になる程度の有能さはあった)で、卒業後の旅行でアルバニアへ行き、それから消息をたち、二十五年後に帰り、以後〈魔法界大戦〉に深くかかわるようになり——

 

「モンロー家の虐殺事件で、ヴォルディは名前を知られるようになった。 それまでは、自尊心が肥大化した〈闇の魔術師〉一人とそのおともベラトリクス・ブラックがいるというだけのことだった。それが、あの事件があってからは——」  ムーディはフンと鼻をならした。 「国じゅうの愚か者がこぞってやつの配下につこうとした。 ヴォルディがウィゼンガモート議員にも牙をむけたとなれば、議員連中も重い腰をあげて真剣になる……と思ってしまうところだが、実際には連中自身がおなじことをした。つまり、別のだれかが真剣になるのを待つだけだった。 前にでようとしない臆病者ばかりだったよ。 例外はモンローとクラウチとボーンズとロングボトム。 〈魔法省〉の連中のうちで、すこしでもヴォルディの気分を害するようなことを口にする気があるのは、その三人くらいのものだった。」

 

「そういう経緯があって、ミスター・ポッター、あなたの一族が貴族になったのです。」  マクゴナガル先生が厳粛な声で言う。 「古い法律で、だれかが〈元老貴族〉家を断絶させたとき、その血の復讐を果たした者は〈貴族〉になることになっています。 ポッター家はそもそもいくつかの〈元老貴族〉家より古いくらいの家系だったのですが、 貴族家と認定されたのは戦争が終わってからのことでした。ポッター家は殺されたモンロー家の復讐を果たした、という理由で。」

 

「衝動的な感謝というやつだな。」とマッドアイ・ムーディが渋い顔で言う。 「長つづきはしなかったが、おかげで見栄えのする称号と無意味なメダルをジェイムズとリリーに手向(たむ)けるくらいのことはできた。 しかしそこに行きつくまでの八年間は、どん底の八年間だった。モンローはいなくなり、レギュラス・ブラックは——こいつはモンローに〈死食い人〉内部の情報を流していたスパイだったとおれたちは見ている——ヴォルディに処刑され、 堤防が決壊して、血が国じゅうにあふれた。 アルバス・ダンブルドアがおでましになってモンローのかわりをやってくれて、それでやっとおれたちは生きのびることができた。」

 

その話を聞くと、妙に現実離れした感覚がした。 部分的には観察と符合する話ではある——とくにクリスマスまえにクィレル先生がした演説とよく合致する——けれど……

 

これがクィレル先生のこととなると、考えてしまう。

 

「……ここの〈防衛術〉教授の正体について、〈魔法法執行部〉はそう考えている。 で、坊主の意見は?」

 

「そうですね……」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「まずすぐ思いつくのは、『デイヴィッド・モンロー』という人物は戦争中にやっぱり死んでいて、別のだれかがクィリナス・クィレルになりすましたデイヴィッド・モンローになりすましている、という可能性です。」

 

()()()()()()のがそれですか……?」とマクゴナガル先生。

 

「ほう?」  マッドアイ・ムーディの青い目はいそがしくまわっている。 「それはいくらか……疑いぶかい考えかただな。」

 

あなたはクィレル先生がどういう人であるかを知らない——ということばをハリーはのみこんだ。 「その可能性を検証(テスト)するのは簡単ですよ。 ほんもののデイヴィッド・モンローなら知っている戦争関係のなにかを〈防衛術〉教授が知っているか、質問してたしかめてみればいいんです。 といっても、あの人がいまだれかになりすますデイヴィッド・モンローになりすましているのなら、なんの話か分からないというふりをしているだけだという言いわけも十分できることになりますが——」

 

()()()()疑いぶかいとは言ったが、まだまだ足りん! 油断大敵! 考えてもみろ——もしほんもののデイヴィッド・モンローがそもそもアルバニアから帰らなかったのだとしたらどうなる?」

 

沈黙。

 

「そういうことか……。」とハリーは言った。

 

「どういうことか分かりませんが……」とマクゴナガル先生が言う。 「どうぞおかまいなく。わたしはここで一人で静かに狂うことにしますので。」

 

「この稼業をしていると、〈闇の魔術師〉には三種類あることに気づく。気づくまえに自分が死んでなければだが。」  ムーディは暗い声で言う。杖はだれにも向けられず、すこし角度が下がってはいるが、手のなかにある。この部屋に来てから一度もムーディの手を離れていない。 「名前が一つある〈闇の魔術師〉。 名前が二つある〈闇の魔術師〉。 そして服を着替えるように軽がると名前を変える〈闇の魔術師〉。 おれは『モンロー』が〈死食い人〉三人を手玉にとるのを見た。 四十五歳であれだけの手練はそうそういない。 いるとすればダンブルドアくらいのものだ。」

 

「それはそうかもしれない。」と〈薬学〉教授がおもむろに話しだす。 「だとして、どうなると? モンローの正体がなんであれ、彼が〈闇の王〉の敵であったことはたしかだ。 〈死食い人〉が何人も、モンローが死んでいなかったことを知って毒づいていましたよ。それくらいやつらはモンローを恐れていた。」

 

「過去の〈防衛術〉教授のことを思えば……」  マクゴナガル先生がきっぱりと言う。 「十分ほりだしものの人材だと思います。」

 

ムーディがふりむいてマクゴナガル先生をにらみつけた。 「で、その『モンロー』はこの十数年どこをほっつき歩いていた? 前回は、この国でヴォルディに対抗すれば名をあげられると思ってやってみたが、目論見がはずれてとんずらした、というところか。 それがなんでまた、()()帰ってくる? ()()()なにをたくらんでいる?」

 

「いや、本人は……」とハリーは逡巡しながらも言う。 「本人は、昔からホグウォーツの〈防衛術〉教授になりたかったんだと言っていましたよ。歴代の優秀な魔法戦士はみんなそうだったからと。 実際あの人は〈防衛術〉教授としてものすごく有能ですし…… もしただの偽装にすぎないのなら、もっと手抜きしていてもよかったはず……」

 

それを聞いてマクゴナガル先生も深くうなづいた。

 

「甘いな。 どうせあんたらはモンロー一族の抹殺自体がやつ本人のしわざだったかもしれないと思ったこともないんだろう?」

 

()()()()()()?」とマクゴナガル先生。

 

「謎めいた男が、ブリテンの〈元老貴族家〉の子デイヴィッド・モンローの失踪を聞きつけて……」 「まんまとすりかわり、ほんもののモンロー家の面々とは距離をおいて暮らした。 だが一族のだれかが異変をさとるのは時間の問題だ。 そこでこのにせものは、なんらかの方法でヴォルディをつついて——結界の合言葉を漏らしでもすることで——一族を根だやしにする。そうやってウィゼンガモート評議員(ロード)の座を射止める!」

 

ハリーのなかでハッフルパフ一号とハッフルパフ二号のあいだに対立が生じた。一号はもともと〈防衛術〉教授を信用していない。二号はハリーの友人であるクィレル先生に忠実なあまり、ムーディがそう言っているというだけでは信じようとしない。

 

言われてみれば、そう不思議なことじゃないな——とスリザリンが言う。 考えてもみろ。自然な条件下で、ある人が〈元老貴族〉家の継嗣(あととり)であって、同時にヴォルデモート卿に一族全員を殺されて、また同時に格闘術の恩師の仇討ちをする理由がある、なんてことがあると思うのか? ぼくには、あの人が理想的な英雄の設定をつくりだそうとしてやりすぎたように見えるね。 実社会でこんな偶然はない。

 

そう言う自分だって、生まれを知らずにそだった孤児のくせに——とハリーの〈内的批評家〉が言う。 しかも予言つきの。 そういえば、英雄らしい運命にある二人が設定の陳腐さで競いあって悪を倒そうとする、っていう話はまだ読んだことがないかもしれないな——

 

そのとおり——と言うハリー本体の声が背景のヴーヴー音に重なる。 ぼくらは不幸な生い立ちなんだ。だからすこしは役に立つことを言ってほしいんだが

 

こうなったら、すべきことはひとつしかない——とレイヴンクローが言う。 それがなんなのかはみんなもう分かっているはずだ。なら言いあらそうこともないだろう?

 

でも——とハリーが言う。 どんな実験をすればクィレル先生がほんもののデイヴィッド・モンローだったかどうかを検証できる? つまり、本人なのかなりすましなのかによって変化するはずの変数なんてどこにある?

 

「それでわたしになにをしろと?」とマクゴナガル先生がムーディに言う。 「まさか——」

 

「まさかなものか。」と言ってムーディは目をぎらつかせる。 「単純だ。やつを解雇してくれ。」

 

「あなたは()()そう言いますが。」

 

「毎年それが正解なんだよ!」

 

「『油断大敵』もけっこうですが、この学校には教師が必要です!」

 

「フン! そうやってあんたらが毎年の〈防衛術〉教師を惜しむほど呪いは悪化する。 グリンデルヴァルトが変装したにせものだった、とかでもないかぎり、大切なクィレル先生を手ばなすことはできんのだろう!」

 

「そうだったりしませんか?」とハリーは思わず質問する。 「つまり、実際グリンデルヴァルトの変装だったという線も——」

 

「グリンデルヴァルトが牢獄にいることは一カ月おきに確認しに行っている。この三月にも確認した。」とムーディ。

 

「それが替え玉だったりということは?」

 

「血液検査で本人だと確認しているよ。」

 

「比較対象にする血液はどこに保管してありますか?」

 

「安全な場所に保管してある。」  傷のある口もとに笑みのようなものが浮かんだ。 「……卒業後の進路として〈闇ばらい局〉を考えたことはあるか?」

 

「アラスター……」とマクゴナガル先生が不本意そうに話しだす。 「クィレル教授はたしかに……健康上の問題をかかえています。 あなたはそのこと自体が疑わしいと言うのでしょうが—— われわれが雇用契約を更新しないほどに確固たる嫌疑とはなりえません。」

 

「例のおねんねか。 アメリアは高度な呪いを被弾した後遺症だろうと言うが、 おれには〈闇〉の儀式を自分でやりかけて暴発させでもしたようにしか見えんがね!」

 

「そうだという証拠はないでしょう!」

 

「その調子じゃ、やつが『闇の魔術師』と書いた緑色の看板をあたまにのせて歩いていたとしても、見のがしかねん。」

 

「あー……」  このタイミングで『いけにえを必要とする儀式のなかには邪悪じゃない儀式もある』という考えかたについて質問してみるのはやめたほうがよさそうだ。 「すみません。クィレル先生が——いや、もとのデイヴッド・モンローが——いや、七〇年代当時のモンローが——とにかくその人が、〈死の呪い〉をつかったという話でしたね。それがなにを意味するんですか? その呪文は〈闇の魔術師〉でないとつかえないんだとか?」

 

ムーディはくびを横にふった。 「おれもつかったことはある。 十分な魔法力とある種の()()()()さえあれば、だれにでもできる。」  ひん曲がった口から歯が見える。 「おれが最初につかった相手の名前はジェラルト・グリス。そいつがホグウォーツを卒業してからなにをしていたかは、知りたきゃ教えてやる。」

 

「それならなぜ〈許されざる呪い〉と言われているんですか? 〈切断の呪文〉でもひとは殺せますよね。 『レダクト』なんかと比べて、どういう点で『アヴァダ・ケダヴ——」

 

「そのさきを言うな! その気がなくとも、言うだけで人に誤解をあたえかねない。 見ためには子どもでも〈変身薬(ポリジュース)〉というものがあるからな。 ……質問にもどるが、〈死の呪い〉の悪名には、理由が二つある。 一つめは、〈死の呪い〉が魂を直接攻撃する呪文であること。魂にあたるまで盾も()()通過して止まらないこと。 〈闇ばらい〉が〈死食い人〉を相手に撃つことさえ認められていなかったのも理由があってのことだった。 〈モンロー法〉が成立するまでは。」

 

「ああ、そういうことなら禁止されるのも分かります——」

 

「まだだ。理由はもうひとつある。〈死の呪い〉には十分な魔法力も必要だが、 それ以上に()()()()()()()()()()気持ちが必要だ。より大きな善のために死んでくれ、というのじゃない。 グリスを殺しても、死んだブレア・ロシュやネイサン・レーファスやデイヴィッド・キャピトがもどるわけじゃない。 正義のためでもないし、それ以上犠牲者を増やしたくないからでもない。 純粋に()()()()()()()()ことで、おれは〈死の呪い〉を撃った。 これで分かったな? 〈死の呪い〉をつかうのに〈闇の魔術師〉である必要はない——だがアルバス・ダンブルドアであってはだめだ。 この呪文をつかった殺人で逮捕された人間に、弁護の余地はない。」

 

「そう……ですか。」と〈死ななかった男の子〉がつぶやいた。 つまり、その人の死によって将来的によいことが起きるという道具的価値の観点で死を願ってもだめ。その殺人は必要悪だと思うのもだめ。効用関数中の終端値の一つとしてその人の死を願わなければならない、ということ。 「生を嫌い死を願う気持ちを魔法的に実体化したものが、純粋な生命エネルギーの次元で撃ちこまれる……。たしかに防御しにくい呪文でしょうね。」

 

「防御しにくいんじゃない。()()()()()だと言っとるだろう。」

 

ハリーは深くうなづいた。 「でもデイヴィッド・モンローは——とにかくそういう名前でいた人は——〈死食い人〉に一族を虐殺される()()に、〈死食い人〉数人を相手に〈死の呪い〉をつかっていたんでしたね。 その時点で彼は〈死食い人〉を憎んでいたということですか? なら、格闘術道場の話はおそらく事実だったということになりますか?」

 

ムーディは軽くくびをふった。 「〈死の呪い〉の怖いところはな、一度つかえば、二度目からはさほどの憎悪なしにつかえるようになる、ということだ。」

 

「そういう精神的な副作用があるんですか?」

 

ムーディはまたくびをふった。 「いや、原因は殺人だ。 殺人は魂を引きさく——それは〈切断の呪文〉で殺す場合でもかわらない。 〈死の呪い〉をつかうと魂にひびがはいるんじゃない。ひびのある魂をもってしか、つかえないというだけだ。」  ムーディの傷顔に悲しい表情がよぎったのかどうか、ハリーには判断できなかった。 「しかしそうだからといってモンローについてなにが分かるわけでもない。 ダンブルドアのような連中は、何十年たっても〈死の呪い〉をつかえない。なにがあっても壊れない——だがそういう連中はごくまれにしかいない。 必要なのは小さな割れめひとつだけだ。」

 

胸のなかに重くのしかかる奇妙な感触があった。 リリー・ポッターは死のまぎわにヴォルデモート卿にむけて〈死の呪い〉を撃った。そのことにはどういう意味があったのか、ということは以前にも考えた。 撃つことは許されるはずだろうと思う。母親はわが子を殺しにきた〈闇の魔術師〉を憎む()()()()()。なすすべもないだろう、と相手が揶揄してくるならなおさらだ。 そういう状況で『アヴァダ・ケダヴラ』が()()()()親のほうがおかしい。 〈闇の王〉の防壁をつらぬく呪文はほかにない。となれば、親は純粋に〈闇の王〉の死を願うことができる程度に()()()()()()()だろう。そうする以外にわが子を救える方法がないなら。

 

必要なのは小さな割れめひとつだけ……

 

「もうけっこう。」とマクゴガナル先生が言う。 「それで、わたしたちになにをしろと?」

 

ムーディがゆがんだ笑みをした。 「〈防衛術〉教授をくびにしろ。それでおかしなできごとがぱたりと止まるかどうか。 止まるほうに一ガリオン賭けるね、おれは。」

 

マクゴナガル先生は苦悶の表情になった。 「アラスター——それでは——それなら、()()()()〈防衛術〉の職を——」

 

「ハッ! もしおれがその質問に『はい』と言ったら、〈変身薬〉の検査をするんだな。そいつはにせものだ。」

 

「あとで実験をしてみます。」とハリーが言うと、 全員の目がむけられた。 「ほんもののデイヴィッド・モンローなら答えを知っているはずの質問をクィレル先生にしてみます——たとえば一九四五年卒業のスリザリン生の名前を言ってもらうとか——できるだけ、それと気づかれない方法でさぐりをいれてみます。 演技のために調査ずみだったかもしれないので、決定的な証明にはなりませんが、一定の根拠にはなります。 でも、クィレル先生がモンロー本人でなかったとしても、くびにするとそれはそれで損があるかもしれませんよ。 ぼくは彼に二度いのちを救われたんですから——」

 

「待て、なんだと? いつだ? なにがあって?」

 

「一度目は、ぼくを地面に引き寄せようとする魔女の集団をなぎたおしたとき。二度目は、ディメンターが杖を経由してぼくに食らいついていたのを突きとめたとき。 そして()()今回ドラコ・マルフォイを罠にかけたのがクィレル先生でなかったのなら、ドラコ・マルフォイの命を救ったことにもなります。ドラコ・マルフォイが無事でなければ、もっと大変なことになっていました。 ()()クィレル先生がこの件の首謀者でなかったとすれば——やめてもらって困るのはぼくたちです。」

 

マクゴナガル先生がそれを聞いて深くうなづいた。

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——セヴルス・スネイプ

(一九九二年四月八日、午後九時三分)

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはマクゴナガル先生を連れだって、下降しない回転階段に乗っている。といっても正確には、乗っているのは()()()()()()()()()であり、ほかの七人は総長室にのこされている。

 

「立ちいった質問をひとつしてもいいですか?」  盗み聞きの心配がない距離になったと判断してから、ハリーは話しはじめた。 「総長がいるまえではできない質問ということですが。」

 

「どうぞ。」  マクゴナガル先生は思ったほどのためいきをしなかった。 「ただし、念のため言っておきますが、わたしの職責上、優先しなければならないのは——」

 

「ちょうどその点をはっきりさせておきたかったんです。 ウィゼンガモート全議員のまえで、ポッター家の一員でないハーマイオニーについての取り引きには応じないとルシウス・マルフォイが言ったとき、あなたはあの誓約のやりかたをハーマイオニーに教えましたね。 では、もしおなじようなことがまたあったとき、あなたはどうしますか。ホグウォーツ生ハーマイオニー・グレンジャーに対する職責と、〈不死鳥の騎士団〉の長であるアルバス・ダンブルドアに対する職責のどちらを優先しますか。」

 

マクゴナガル先生は鉄のフライパンでなぐられるときのような表情をした。しかも数分まえにおなじことをされたうえ、今度はなぐられてもひるむな、と言われたときのような表情だった。

 

ハリーもすこしだけ自分がひるむのを感じた。もうすこし攻撃的でない話しかたも身につけなければ、と思った。

 

周囲の壁が回転し、後方にうごいていく。なぜかそれで、二人は下降する。

 

「ああ、ミスター・ポッター……。」と言ってマクゴナガル先生は弱く息をはく。 「あなたは……どうしていつもそういう質問を……。ハリー……わたしはあのとき、なにも考えていなかったのです。 ただ、あれでミス・グレンジャーを救うことができるかもしれないと思うあまり……。 わたしもグリフィンドールに〈組わけ〉された身ですからね。」

 

「いまなら考えられますよね。」  適切な言いまわしができていないが、それでも()()()()()()()()()()()()()ことではある。というのも—— 「()()()()()につくのか、という質問はしていませんからね。 聞きたいのは——もし無実のホグウォーツ生をとるか〈不死鳥の騎士団〉をとるかの選択がまたあったとき、あなたはどうするのか。あなたのなかでその答えは決まっているのか……」

 

マクゴナガル先生はくびを横にふった。 「……いいえ。」と小声で言う。 「いま考えて、あのときの行動がただしかったのかどうかも分かりません。 すみません。 とにかく、そんなおそろしいことは判断できません!」

 

「でも、またおなじことがあれば、()()()しているはずじゃありませんか。」 「どちらつかずでいるということも一種の選択です。 あなたは自分が猶予なしにそういう判断をせまられる場面を()()()()()()()()()だけじゃありませんか?」

 

「いえ。」と言うマクゴナガル先生の声がすこしだけ強くなった。ハリーの最後の問いかけが、逃げみちを用意してしまったらしい。つづきの一言でそのことは裏づけられた。 「そのようなおそろしい選択をせねばならない場面があるとして——判断はそのときになってからすべきだと思います。」

 

ハリーは内心でためいきをついた。 そもそも、マクゴナガル先生にこれ以上のことを期待するのに無理があるのかもしれない。 どの選択をしてもなにかが犠牲になり、どの選択にも()()()()()がつきまとう倫理上の二律背反の状況では、判断を拒否することで精神的苦痛をしばらく避けることができる。 その反面、先まわりして用意することができなくなるという代償、なにもしないことへの巨大なバイアスが生まれ、手おくれになるまで待ちつづけてしまいがちになるという代償もあるのだが…… 魔女にそういう知識を期待するのがまちがいだろう。 「わかりました。」

 

実際には、解決していないことだらけだ。 ダンブルドアはハリーの債務をなくしたいと思っているかもしれないし、 クィレル先生もその点ではおなじかもしれない。 それにもし〈防衛術〉教授がデイヴィッド・モンローであったなら、あるいはデイヴィッド・モンローとして()()()()のであれば、厳密にはモンロー家はヴォルデモート卿に断絶させられていなかったことになる。 それなら、その気になればウィゼンガモートのだれかがポッター家の〈貴族家〉認定をとりけす決議を通すこともありうる。〈元老貴族〉モンロー家の仇討ちを果たしたのがその根拠だったのだから。

 

そうなれば、ハーマイオニーが〈貴族家〉に対して奉仕の誓約をしたことが無効になることもありうる。

 

そうはならないかもしれない。 ハリーは法的な詳細を知らない。 だれかがハーマイオニーをアズカバン送りにすることができたとき、ハリー・ポッターの債務が()()()()()()のか、というあたりはさっぱりだ。 対価を支払って得たものをなくしたとき、払い戻しがあるとはかぎらないと思うが、法的にはどうだろうか。 魔法界の代訴士(ソリシター)に聞きにいくわけにもいかない……。

 

……こういうことがまた起きそうになったとき、ダンブルドアでなくハーマイオニーにつく確証のある大人が一人くらいいてくれればいいのに、と思ってしまう。

 

階段が回転を終えて、二人は両脇の大ガーゴイルの背が見える場所に立った。ガーゴイルは音をたてて道をあけた。

 

ハリーがそこに踏みだすと——

 

肩をつかむ手があった。

 

「ミスター・ポッター。」とマクゴナガル先生が小声で言う。 「あなたはスネイプ先生の様子に注意しろと言いましたね。あれはなんのためですか?」

 

ハリーはふりむいた。

 

「スネイプ先生の様子にかわったことがないか注意してほしいと。」  マクゴナガル先生の口調には緊迫感があった。 「()()あんなことを言ったのですか?」

 

いまとなっては、自分自身なぜそんなことを言ったのか、思いだすのにすこし時間がかかった。 いじめられていたレサス・レストレンジをハリーとネヴィルで助けたあと、ハリーは廊下でセヴルスと対面した。ハリーはそこで(セヴルスのことばを借りれば)『死にかけた』。

 

「……すこし気がかりな情報があったからです。 その情報をくれた人がだれであるかは話せない約束になっています。」  ハリーはあの会話があったことをだれにも明かさないとセヴルスに約束した。その誓約はいまも有効だ。

 

「あなたはそうやって——」とするどい声で言いかけて、マクゴナガル先生は一呼吸した。声のするどさはすぐになくなった。 「いえ、忘れてください。言えないならそれでけっこうです。」

 

「あなたはなぜそれを知りたがるんですか?」とハリー。

 

マクゴナガル先生は返事をためらっているようだった——

 

「じゃあ、もっと具体的に言いかえます。」  ハリーはクィレル先生にこういう言いかたをされたことが何度もあるので、 だんだんこつがつかめてきていた。 「あなたは()()()スネイプ先生の変化に気づいているけれど、そのことをぼくに教えていいかどうか迷っている。どんな変化ですか、それは?」

 

「ハリー——」と言ってマクゴナガル先生はまた言いやめた。

 

「言うまでもなく、ぼくはあなたが知らないなにかを知っています。 二律背反の選択をいつでも先おくりできると思わないほうがいいのは、こういうことがあるからですよ。」

 

マクゴナガル先生は目をとじて、一度深く息をついてから、指で自分の鼻すじを何度かつまんだ。 「いいでしょう。 ……はっきりした変化ではないのですが……気がかりなことがありました。 どう表現すればいいか……。 ミスター・ポッター、あなたは子どもが読むべきでない本を読んだりしていましたか?」

 

「手あたりしだい読みました。」

 

「そんなことだろうと思いました。 では言いますが……わたしにはよく理解できないのですが、セヴルスがこの学校に着任して以来、あの陰気な汚れた外套を着て歩くすがたに、()()()()()()()()熱い視線をおくる例が何度かあり——」

 

「それがよくないことだと? ぼくがあの手の本を読んでなにか理解したとすれば、他人の好みをとやかく言うべきではない、ということですね。」

 

マクゴナガル先生は()()()奇妙そうな目つきでハリーを見た。

 

「いえ、その。ぼくが読んだ本によれば、ぼくももう何歳か歳をとれば、統計的には一割くらいの確率でスネイプ先生に魅力を感じる可能性があるらしいですし、そうなったときにはありのままの自分を受けいれるのが大切だと——」

 

「そのことはいまはおいておきましょう。とにかく、セヴルスはそういった生徒の視線をまったく意に介していませんでした。 それが最近では——」  マクゴナガル先生はなにかに気づいたような表情になり、あわててつけくわえようとした。同時に、両手が口をおさえる位置にむけて動く。 「……誤解しないでいただきたいのですが、スネイプ先生はもちろん生徒をもてあそぶようなことはいっさいしていません! わたしが知るかぎり、そういった生徒に笑顔をかえしたことすらありません。 見つめてくる生徒がいればやめるようにと言い、それでもやめなければ目をそらすようにしています。 そうしているところを、この目で見ました。」

 

「ええと……。 すみません、ぼくはその手の本を読んではいますが、理解できているとはかぎりません。 いまの話にはどういう()()があるんですか?」

 

「セヴルスは()()()()()()ようになった、ということです。 その様子をこの目で見ました。分かりにくい変化ではありますが、変化はあったとしか思えません。 それが()()するのは……この推測ははずれていてほしいのですが……セヴルスをアルバスの大義に束縛していたものが……弱まったかもしれないということ。ことによると、壊れたかもしれないということです。」

 

2+2=……

 

「ダンブルドア×スネイプ……!?」  思わずそう言ってしまったのに気づいて、ハリーはあわててつけたす。 「いや、仮にそうだとして、ちっとも問題はないんですけど——」

 

「ちがいますよ! ミスター・ポッター——どう言えばいいのか——これ以上はもう説明できません!」

 

いまさらのように、ある考えが浮かびあがる。

 

セヴルス・スネイプは()()()()リリー・ポッターを愛している?

 

美しく悲しい話だと見るかあわれな話だと見るか、と五秒ほど思ったところで、()()()()()()考えが襲いかかる。

 

そうじゃない。ぼくの余計な恋愛指南の一言を耳にするまでは愛していた、ということだ。

 

「なるほど。」とハリーはしばらく時間をかけてから慎重に口にした。 人生には『うっかり』ですまない失敗もあるものだと思う。 「……たしかにそれは気がかりですね。」

 

マクゴナガル先生は両手を顔と口にあてた。 「あなたがいまなにを考えているのか知りませんが…… それもきっとはずれだと思いますが、とにかくその話は聞きたくありません。」

 

「それで……」とハリーは言う。 「()()スネイプ先生を総長に束縛していたものが壊れたのだとしたら…… そのとき彼はどういう行動をとると思いますか?」

 

しばらく返事はなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

そのとき彼はどういう行動をとるか。

 

ミネルヴァは両手をおろして、〈死ななかった男の子〉の顔を見おろした。 これは単純な問いであり、そこに絶望を感じるべき理由はない。 セヴルスのことは、奇妙な因縁によりともにあの予言を聞いて以来、長く知っている。 ただ、予言の法則に関する自分の知識がただしければ、自分は予言を()()()()()()()()()()にすぎない。 予言が実現するきっかけは、セヴルスの行動だった。 その行動からうまれた罪悪感と悲嘆が、長年にわたって彼を苦しめた。 それがなくなったとき、セヴルスはどうなるのか。いくら想像しようとしても想像できず、ミネルヴァのあたまのなかは、まっさらな白紙のままだった。

 

セヴルスはもう、あのころの怒れる浅はかな若者ではない。〈死食い人〉の列にくわわるためにヴォルデモートに予言を渡しにいったころの彼ではない。長年この目で見てきたとおり、彼は変わった。変わったはず……。

 

自分はほんとうに彼を理解していたのだろうか。

 

いや、真のセヴルス・スネイプを知る人など一人もいなかったのでは?

 

◆ ◆ ◆

 

「分かりません。」とマクゴナガル先生はしばらくしてから答えた。 「想像しようとしてもできないのです。 あなたはなにか分かりますか?」

 

「そうですね…… ぼくがもっている証拠はあなたの推測と合致していると思いますね。 証拠というのは、スネイプ先生がぼくの母親を愛さなくなった確率を上昇させる証拠ですが。」

 

マクゴナガル先生は目をとじて言った。「もういいです。やめましょう。」

 

「ぼくが知るかぎり、スネイプ先生に妙な動きがあるとすればそれだけだと思いますけれど。 ……あなたがこの話を持ちだしたのは、総長の許しがあってのことですね?」

 

マクゴナガル先生はハリーから目をそらして、壁をじっと見ている。 「もうやめてください、ハリー。」

 

「わかりました。」と言ってハリーはマクゴナガル先生に背をむけ、足ばやに廊下を歩いていく。うしろから、マクゴナガル先生のゆっくりとした足音が聞こえ、そのあとにガーゴイルがもとの位置へと動く音が聞こえた。

 

◆ ◆ ◆

 

翌朝の〈薬学(ポーションズ)〉の授業で『冷気耐性の(ポーション)』をつくっていると、加熱していた溶液が緑色になって泡だち、軽い悪臭をだした。スネイプ先生は不快というよりあきらめの表情でハリーに居残りを命じた。 なにかありそうだと考えながら、ハリーはほかの生徒が教室をあとにするのを見おくった——ハーマイオニーはここ数日どの授業でもまっさきに教室をでていて、今回もそうだった。ほかの生徒がみないなくなると、ドアがぴしゃりと閉じ、施錠された。

 

「ミスター・ポッター、さきほどの溶液については申し訳ない。」とセヴルス・スネイプがぽつりと言った。 奇妙に悲しげなセヴルス・スネイプのその表情をハリーは一度だけ見たおぼえがあった。しばらくまえの廊下で。 「わたしがやったことだから、きみの成績には影響しない。 座ってくれ。」

 

ハリーは自分の席に座り、木製の机の上の緑色の染みをけずって時間をつぶし、〈薬学〉教授がプライヴァシー強化呪文をいくつか詠唱しおわるのを待った。

 

それが終わると、彼は話しはじめた。 「この話はどう切りだすべきか…… いっそ単刀直入にいくことにしようと思う……。きみはディメンターのまえに立ったとき、両親が死んだ夜に見たことを思いだしたのだったな?」

 

ハリーは無言でうなづいた。

 

「できたら……思いかえすのも不快だろうとは思うが……できたら、そのときの様子をわたしに教えてくれないか……?」

 

「なぜですか?」  セヴルス・スネイプが懇願する表情を見ることになるとは思いもしなかったが、ハリーはもちろんからかうつもりはなく、まじめに答えようとした。 「あなたにとっても、聞くだけで不快なことだろうと思いますが——」

 

〈薬学〉教授の声はほとんどささやき声になった。 「わたしはこの十年間、毎晩その様子を夢で想像しつづけてきた。」

 

やっぱり——とハリーのなかのスリザリンが言う。——彼にこころの整理をつけさせるようなことはやめたほうがいいんじゃないか。彼の忠誠心の根幹が罪悪感であって、その罪悪感がすでに薄れつつあるのだとしたら——

 

だまれ。却下。

 

答えないことなど到底考えられないが、 スリザリンからの提案は一点だけ取りいれることにした。

 

「どういう事情でその〈予言〉のことを知ったのか、具体的に教えてもらえますか? 交換条件にしてしまってすみません。()()()()()あなたの質問にもちゃんと答えますから。ただその事情はとても重要な情報かもしれないので——」

 

「事情というほどのことはない。 わたしは〈薬学〉教授の職に応募して、副総長と面接することになっていた。そのために〈イノシシの頭(ホグズヘッド)〉亭で待っていると、〈占術〉教授の職に応募したシビル・トレロウニーが来た。トレロウニーの声が終わるとすぐにわたしはそこを飛びだし、面接を捨てて〈闇の王〉のもとへ向かった。」  〈薬学〉教授はやつれた顔をしている。 「そしてなぜ自分があの謎かけを聞かされたのかを考えることもなく、売りわたした。」

 

()()? トレロウニー先生とあなたはたまたま同時に応募していて、マクゴナガル先生に面接されることになっていたと? それはすこし……偶然にそうなったとは考えにくいような……」

 

「予見者は時間のゲームの駒であり、 予言は偶然の範疇にない。 わたしは予言を聞かされ、愚者を演じる役割にあった。 ミネルヴァがいたことで最終的な帰結が影響されることはなかった。 〈記憶の魔法〉が関係したことも考えられん。きみがそう考えた理由は知らないが、とにかく関係していたはずがない。 予見者の声には〈開心術〉ですらこじあけられない秘匿性がある。偽記憶で改竄するなど論外だ。 〈闇の王〉が、わたしの言うことをただ真にうけたとでも思うか? 〈闇の王〉はわたしの精神に侵入し、そこに見とおせないものがあるのを見て、内容を確認することはできなくとも、予言はほんものであると知った。 その時点でわたしは用済みであり、〈闇の王〉はわたしを殺すこともできた——なのに行ってしまったわたしが愚かだったと言わざるをえない——しかし彼はわたしのなかになにかを見いだした。それがなんであるにせよ、わたしは〈死食い人〉の一人として受けいれられた。わたしの意思というより彼の意思でだが。 こうやってわたしは予言を実現させた。実現させてしまった。最初から最後まで、すべてわたしのせいだった。」  セヴルスの声はかすれ、顔は苦痛に満ちていた。 「わたしの話はもういい。頼む、教えてくれ。リリーはどういう風に死んだ?」

 

ハリーは二度ごくりとしてから、記憶をなぞって話しはじめた。

 

「ジェイムズ・ポッターは必死な声でリリーに言いました。『ハリーを連れて逃げろ』『ここはおれが食いとめる』と。」

 

「〈例の男〉は——」  ハリーは全身の肌に寒けを感じ、一度言いやめた。発作の前ぶれのように筋肉が緊張する。 記憶が強くぶりかえすとともに、冷気と暗黒がやってくる。 「……〈死の呪い〉をつかってから……上の階へのぼってきました。足音のようなものはなかった気がするので……飛行したんじゃないかと思いますが……それから母は『ハリーだけは見のがして!』というようなことを言って、 〈闇の王〉は——沸いたやかんの音のように甲高く、けれど()()()声で——」

 

どけ、女! 狙いはおまえではない。その子だ。

 

その声はハリーの記憶のなかで、とてもはっきりと聞こえた。

 

「——道をあけろと言いました。子どもにしか用はないから、と。母は彼に慈悲を乞い、彼は——」

 

今回は特別に逃げる機会をやろう。

 

「——戦闘するのも面倒だ、逃げたければ逃げるがいい、と言いました。おまえが死んでもその子は助からないぞ——」  ハリーの声がぐらついた。 「——だから道をあけろ、と。そこで母はぼくのかわりに自分の命をとってくれと言いましたが——〈闇の王〉は——こんどは低い声で——演技をやめたかのように——」

 

よかろう。その取り引きに応じよう。

 

「——その取り引きに応じよう、おまえが杖をおろせば殺してやろう、と言いました。 〈闇の王〉はそれからただ待っていました。 リ……リリー・ポッターはそのときなにを考えていたのか、ぼくには分かりません。そもそも無意味ですから、そんな取り引きは。〈闇の王〉が彼女を殺して、なにもせずに去るわけがない。もともとの標的はぼくだったんですから。 リリー・ポッターは返事をせず、〈闇の王〉はそれを見ておぞましい声で笑いはじめ——母はのこされた唯一の手段をとりました。ぼくを見捨てるのでもなく、あきらめて死ぬのでもない、唯一の手段を。 成功する見こみもなかったんじゃないか、ちゃんと撃つことはできなかったんじゃないか、とも思いますが、あの状況では、母はやってみるしかなかった。 母が最後に『アヴァダ・ケ——』とまで言いましたが、〈闇の王〉はその『アヴ』のあたりで詠唱をはじめていて、〇.五秒もたたないうちに言い終えて、緑色の閃光が飛びでて——あとは——そのあとは——」

 

「もういい。十分だ。」

 

水中から水面に浮かびあがる死体のようにゆっくりと、ハリーは別世界のようなところから戻ってきた。

 

「もう十分だ。」と〈薬学〉教授はかすれた声で言う。 「彼女は……リリーは苦しまずに死んだのだな? 〈闇の王〉は……ただそのまま死なせたのだろう?」

 

彼女は、〈闇の王〉をとめることができなかった、つぎにわが子が殺される、と思いながら死んだ。それも苦しみだ。

 

「拷問を——してはいませんでしたね——そういう意味でおっしゃったのなら。」

 

ハリーの背後で、ドアが解錠され、音をたててひらいた。

 

ハリーは退室した。

 

これが一九九二年四月十日金曜日のできごとだった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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87章「快楽を知る」

◆ ◆ ◆

 

一九九二年四月十六日、木曜日。

 

生徒たちはすでに九割がた〈復活祭(イースター)〉の休暇で家に帰り、城はほとんど無人になり、ハーマイオニーの知り合いはほぼ全員いなくなっている。 スーザンは大叔母さんが忙しいということで、帰らなかった。ロンもいるが、理由は聞いていない——ウィーズリー家は貧しいというが、たった一週間ぶんだけ余計に子どもたちの食事を用意するのにも困るくらいだったりするのだろうか。 話し相手になってくれる生徒はもうロンとスーザンくらいしかいないので、これはこれで都合がいい。 (正確には、こちらからも話す気になれる相手はその二人くらいだということ。ほかにもラヴェンダーは付きあいをつづけてくれているし、トレイシーも……あいかわらずの調子だけれど、用もなく気楽な会話をしたい相手かというと、そうではない。いずれにしろ、この二人はどちらも〈復活祭(イースター)〉の休暇で家に帰っている。)

 

家に帰るという選択肢がないのなら——実際、帰ることは許されていないし、両親にむけては光痘という病気にかかったから帰れないということにしてある——ほぼ無人になったホグウォーツ城以上にいい居場所はない。

 

いまなら、他人にじろじろと見られる心配をせず図書館にいくこともできる。授業は休みだし、宿題をしようとする人もいないから。

 

ハーマイオニーは廊下のどこかで泣きくずれる毎日を過ごすような性格ではない。もちろん最初の二日間はたっぷり泣いていたが、二日もあれば十分だった。 ハリーから借りた本にも、自動車事故で四肢が不自由になった人も、六カ月もたてば、予想されるほど不幸な日々を送っていないということが書かれていた。おなじように、宝くじに当たった人たちは、予想されるほど幸せな日々を送らないという。 つまり、人間は適応するということ。個々人が感じる幸不幸の度合いは、いずれもとの水準にもどり、人生はつづく。

 

読んでいた本に影が差したのを見て、ハーマイオニーはぱっとふりむいた。同時に、ふとももの上に隠してあった杖を手にし、それを相手の顔にいきなりつきつけると——

 

「ごめん!」  ハリー・ポッターはあわてて両手をあげ、武器をもっていないことをアピールした。左手は手ぶらで、右手には小さな赤い天鵞絨(ビロード)のポーチがある。 「ごめん。おどかすつもりはなかった。」

 

無言の時間が流れ、それが苦しくて心臓の鼓動が増し、手のひらに汗がにじむ。ハリー・ポッターはただ、こちらを見ている。 ハーマイオニーは人生が再開してからはじめての朝食の時間に、ハリー・ポッターに話しかける寸前のところまで行って、ハリーの表情がひどく暗いことに気づいて——となりの席につくのをやめた。かわりに一人で静かに、だれも近寄ろうとしない空間の中心で食べた。一人で食べたくなどなかったけれど、ハリーがこちらに来ることもなく……それ以来、こちらからも話しかけるタイミングが一度もなかった。(だれとも会わないようにするのはむずかしくない。レイヴンクロー談話室にはいかないようにして、教室では授業がおわってからだれかに話しかけられるまえに急いで退室すればいい。)

 

それからずっと気になっていたのは、いまハリーはわたしのことをどう思っているのか、ということ——自分の全財産を投げださせられたことで、嫌いになったのか——それともやはり、わたしのことが好きで、だからあんなことをしたのか——それとも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()わたしを競争相手にふさわしくない人間だと思うようになったのか——。どう思われているのかを心配するあまり、顔をあわせて話すことが怖くて、眠れない夜を過ごした。全財産をついやして自分を救ってくれた人を避けていると思うと、それがまた恩知らずな、最低な人間である証拠であるように感じられて——

 

そこで下のほうを見ると、ハリーの手が赤いポーチにはいり、そこから赤い包みにはいった心臓(ハート)型のチョコレートといっしょに出てくるのが見えて、ハーマイオニーの脳は太陽のまえに置かれたチョコレートのように溶けてしまった。

 

「きみのことはしばらくそっとしておこうかと思ったんだけど、こころのなかでハトを飼うことを教えるクリッチの快楽理論というのがあって、それによるとその場その場での小さな正負の報酬と罰(フィードバック)が実はぼくたちの行動のほとんどを支配しているらしくて、きみがぼくを見るときにもそういう風に負の連想がはたらくからぼくのことを避けているんじゃないかという気がして、そうだとしたらこのまま放置していてはいけないなと思ったから、ウィーズリー兄弟の二人にチョコレートを一袋調達してもらって、これからきみがぼくと会うたびに正の報酬としてこれを一粒ずつ食べてもらうことにしようかと——」

 

「息つぎしなさいよ。」とハーマイオニーは無意識に言った。

 

審判の日以来、ハリーにむけて言った最初の一言がそれだった。

 

二人はたがいを見つめあった。

 

まわりの棚の本たちが二人を見つめた。

 

二人はもうしばらく見つめあった。

 

「チョコレートを食べるといいらしいんだ。」と言ってハリーはチョコレートを突きだした。 それはヴァレンタイン用のようなハート型だった。 「チョコレートをもらうこと自体が十分な正の報酬としてはたらくとすれば食べなくてもいいんだけど。もしそうなら、ポケットにでもいれておいてくれればいいかな。」

 

ハーマイオニーはもう一度話しだそうとしても失敗するのが分かっていたので、話そうとしなかった。

 

ハリーはすこし下をむいた。 「やっぱりもうぼくのことが嫌いになった?」

 

「そんな! そんな風に考えないで! だって——()()()!」  ハリーに杖をむけたままだったことに気づいて下ろす。ハーマイオニーは泣きだしそうになるのを我慢するので精いっぱいだった。 「……()()()!」  ハリーはきっと、もっと具体的に言ってほしいだろうとは思う。けれどそれ以上のことが言えなかった。

 

「なんとなくだけど分かった。……それはなんの本?」

 

止める間もなくハリーは机の上をのぞきこみ、この本を見ようとする。引き離そうとしても間にあわず、ハリーはさらにかがんで——

 

そこにひらいていたページを見た。

 

「『世界有数の魔法族資産家とその資産の源泉』。」  ハリーはページ上部に書かれた題名を読みあげた。 「六十五番、サー・ガレス。十九世紀の運送(シッピング)戦争を制した運送会社の社主……OT3分野で独占的地位……なるほど。」

 

「どうせまた、『そんなこと心配しなくていいから、ぼくにまかせておいて』、みたいなこと言うんでしょ?」  ついとげとげしい言いかたをしてしまって、 また自分はハリーにひどいことをしている、という罪悪感で胸が痛んだ。

 

「言わないよ。」と妙にあかるい声でハリーは言う。 「きみの立ち場になって考えてみれば……もしきみがぼくを救うために大金をつかってくれたんだとしたら、ぼくも返済しようとするだろうから。 考えようによっては意味がないことだと分かってはいても、それでも自力で返済しようとするだろうと思う。 ぼくだって、()()()()()()()のことなら分かる。」

 

自分の顔がゆがみ、目のかたすみに湿りけが感じられた。

 

「ちょっと注意しておくと……」とハリーはつづける。 「ぼくはいい方法を思いついたら、きみよりさきにルシウス・マルフォイへの負債を解決してしまうかもしれないよ。重要なのは解決することであって、だれが解決するかじゃないんだから。 ……なにかよさそうな方法は見つかった?」

 

ハリーがいま言ったことをどういう意味で言ったのか解釈しようとして、ハーマイオニーの自我の四分の三が堂々めぐりしては木に激突することをくりかえした(わたしはまだ英雄(ヒロイン)として認めてもらえているのか……それともあれは、わたしにはできるはずがない、という意味で言っているのか)。同時に、もっとまともな部分のハーマイオニーは、読んでいた本のページを逆にめくり、三十七ページ目にした。このページに書かれていたことがもっとも有望そうな情報だった(といっても読んだときの想定では、独力でそれを実行してハリーをおどろかせるはずだったのだが)——

 

「これがけっこうよさそうだと思った。」

 

「十四番、『クラウジア』、本名は不明。」とハリーが読みあげる。 「うわあ。こんな……こんなぎらぎらしたチェック柄のシルクハットははじめて見たな……。資産、六十万ガリオン以上……つまりだいたい三千万ポンド。マグルなら名前を知られるほどの資産家でもないけれど、魔法族の人口の少なさを前提にすればそうなのかな。 ……『クラウジア』は六百年まえに生まれたニコラス・フラメルの現代における偽名だと言われている。彼はとてつもなく複雑な錬金術の調合を成功させて〈賢者の石〉を精製した。〈賢者の石〉は凡庸な金属を黄金や銀に変え……エリクサーにも変えることができる。エリクサーをくりかえし用いることで、使用者は若さと健康をいくらでも維持することができる……。 うーん……。これはどうみてもうそだね。」

 

「ニコラス・フラメルに言及している本はいくつもあったの。 『闇の魔術の興亡』には、フラメルがダンブルドアを特訓してグリンデルヴァルトに立ちむかわせたと書いてあるし、 この話をまじめにあつかっている本はほかにもあるし……。 そんな都合のいい話はないって思う?」

 

「いや、もちろん思わない。」  そう言ってハリーはハーマイオニーがいる机のとなりの、いつもとおなじ右がわに陣どった。最初からずっとそこにいたかのように。 それを見てハーマイオニーはまた息がとまりそうになった。 「『都合がいい』かどうかを考えても因果推論はできない。方程式の結果について、『都合がよすぎる』とか『都合がわるすぎる』とかいう判定を宇宙がくれることはない。 過去の人は、飛行機や天然痘ワクチンなんて都合がよすぎるものができるとは思わなかった。 マグルは魔法なしでもほかの星系へ旅する方法を見つけたし、きみやぼくは杖をつかって、マグル物理学者にとって文字どおり不可能なことをやれる。 魔法の()()法則ではどこまでのことが許されるのか、ぼくはぜんぜん想像できないね。」

 

「だったら、どこがだめなの?」  自分で聞くかぎりは、ふだんの声にちかい声になってきた気がした。

 

「うーん……」と言ってハリーはハーマイオニーの腕の上に腕をのばす。ローブとローブがこすれ、ハリーの手が不吉に赤く光り緋色の液をたらす石の絵に触れる。 「まず第一の問題点。ある魔法具(アーティファクト)に鉛を黄金に変換する効果があって、()()()それがエリクサーという不老薬を生みだすこともできるというのは、論理的必然性がない。 こういう現象に正式な名前があったりするのかな? 使い倒し(Up to eleven)効果とか? 花というものをだれでも目にすることができるなら、花は家とおなじ大きさだと言ってもすぐにバレる。 でもある新興宗教(カルト)が空飛ぶ円盤を信奉していて、それでいてだれも異星人の母船を見たことがなければ、母船は町とおなじ大きさだとか、月とおなじ大きさだと言ってしまうことができる。 観察可能な事物は証拠に制約されるいっぽうで、作り話についてはいくらでも話をふくらませることができる。 つまり、〈賢者の石〉が無限の黄金と永遠の生命をあたえてくれるのは、その両方を一度に実現する魔法的な発見があったんじゃなくて、だれかがやたらおめでたい作り話をしたというだけのこと。」

 

「魔法にはもともと、おかしなことがいくらでもあるじゃない。」

 

「なるほど、たしかに。でも第二の問題点がある。いくら魔法族でも、『これ』が含意することをあっさり見のがすほど狂ってはいないはずだ。 もしこんな〈賢者の石〉があったら、()()()()その作りかたを再現しようとする。()()()()()人が押し寄せてきて、その不死の魔法使いをつかまえて秘密を吐かせようとする——」

 

「これは()()()()()()の。」と言ってハーマイオニーは本をめくり、図版のページをハリーに見せた。 「ここにちゃんと精製手順が書いてある。 むずかしすぎてニコラス・フラメル以外には()()()()()()()()だけ。」

 

「じゃあ、フラメルを拉致しておなじ〈石〉を()()()()()()()()()とする、と言いかえようか。 あのね、いくら魔法族でも()()()()の方法があると聞いて、それで、ただそのまま……」  ハリー・ポッターは一度無言になった。いつもの饒舌さがうしなわれつつあるらしい。 「そのままなにごともなかったかのように暮らしつづけるなんて、おかしすぎる。 人間はみんな狂ってるけれど、そこまで狂ってはいない!」

 

「みんながハリーとおなじ考えかたをすると思わないでね。」  まあ、ハリーの言いぶんにも一理ある。とはいえ……ニコラス・フラメルに言及している本はいくつあっただろう? 『世界有数の魔法族資産家とその資産の源泉』と『闇の魔術の興亡』がそうだし、『少し古い時代の昔話』や『名声に見合うだけのことをした人たちの伝記』もそうだった……。

 

「わかった。じゃあ、()()()()()()()()そのフラメルを拉致していた。 悪人であれ、善人であれ、利己的な人であれ、すこしでもまともな考えかたをする人ならそうする。 クィレル先生はいろいろな秘密を知っているし、()()を見のがすはずがない。」  ハリーはためいきをついて、上を見た。その視線のさきになにがあるのかと思ったが、二人をとりまく図書館の、延々と奥までつづく書棚の列を見ているだけのようだった。 「これはきみの邪魔をしたくて言っているんじゃないし、もちろんきみがやろうとしていることを止めるつもりもないんだけど……。 はっきり言って、こういう本をいくら読んでも、うまくおかねを稼ぐ方法は見つからないんじゃないかな。 よくある冗談で、『経済学者は道ばたに二十ポンド札が落ちているのを見つけても拾おうとしない。偽札でなければ、ほかのだれかがすでに拾っていただろうと思うから。』というのがあるだろう。 あれとおなじで、こういう本に載ってしまうくらいよく知られた金もうけの方法というのは……あとは言わなくても分かるね? だれでも簡単に一カ月で千ガリオンを手にいれるためのたった三つのコツ、みたいなものはありえない。あったとしたら、とっくに広まって、みんながやっている。」

 

「それで? だとしても()()()()やめないんでしょう。」  また声がきつくなる。 「あなたは不可能なことを何度もやっている。わざわざ言っていないだけで、きっとこの一週間のうちにもなにか不可能なことをしてたんじゃないの。」

 

(ハリーはごくみじかく返事をためらった。それはある人がマッドアイ・ムーディと戦闘して勝ったのがちょうど八日まえであった場合にためらってしまうくらいの長さの時間だったが、さいわいミス・グレンジャーはそのことを知らない。)

 

「いや、過去七日間にはなかったね。 あのね……不可能なことを実現する秘訣のひとつは、どの種類の不可能を相手にするかをしっかり吟味すること、そして自分に特別勝ち目がありそうな場合にだけ挑戦すること。 たとえばこの本に書かれているとある稼ぎかたが魔法族にはなかなかやれそうにないことで、 パパの旧式のマック・プラスをつかえばそれが簡単に実行できるとしよう。そういうのだったら、見こみがある。」

 

「言われなくても分かってる。」  ほんのすこしだけ声がゆらいだ。 「わたしも、なにか自分なりのやりかたでできそうなことがないか考えてみた。 〈賢者の石〉で大変なのは錬金術の円をものすごく精密にえがくところかもしれないから、マグルの顕微鏡をつかえば、もしかするともっと簡単に——」

 

「いいね、それ!」と言ってハリーは杖をとりだし、「クワイエタス」と言った。それで不調法な本の音がおさまってから、つづきを言いはじめた。 「……〈賢者の石〉は伝説にすぎないかもしれない。でもその手法でほかのむずかしい錬金術を攻略できるかもしれない——」

 

「いいえ、そうはいかなかった。」  これを調べるためにハーマイオニーは図書館じゅうをさがしまわり、〈禁書区画〉外にある錬金術の本を一冊だけ見つけたのだが、 その結果——とても失望することになった。わきでた希望をかき消される思いをしたのだった。 「錬金術の魔法円はどれも、『赤子の髪の毛の細さ』まで精密にえがかなければならないことになっているの。これはどの種類の錬金術でもおなじ。 そもそも魔法族にも〈万眼鏡〉(オムニオキュラー)はあって、なのに〈万眼鏡〉で拡大しないとつかえない精密な呪文なんて聞いたこともない。 なんでそこに気づかなかったんだろう!」

 

「ちょっといいかな。」と真剣な声で言ってハリーは赤い天鵞絨(ビロード)のポーチにまた手をいれた。 「そんなに自分をせめることはないよ。いい思いつきだと思ったのがぬかよろこびだった、なんていうことはいくらでもある。いくつものできそこないを通過して、やっと最初の可能性が見えてくるものだ。 できそこないのアイデアを考えてしまったと思っていやがると、それは脳への負のフィードバックになる。それはよくない。アイデアを思いつくことを脳に奨励するようにしてやらないと、脳はいずれなにも思いつこうとしなくなってしまう。」  ハリーはハート型のチョコレートを二粒、本のとなりにおいた。 「もう一回、チョコレートをどうぞ。さっきのとは別に、 きみの脳にアイデアを生成することを奨励するために食べるといい。」

 

「そうなんだろうとは思う。」  そうは言いながらも、チョコレートには手をつけない。 ハーマイオニーはそのまま本のページを百六十七ページまですすめて、ハリーが来るまで読んでいた部分のつづきを読もうとした。

 

(当然ながら、ハーマイオニー・グレンジャーに(しおり)というものは必要ない。)

 

ハリーはこちらにむかって首をのばし、それがハーマイオニーの肩にあたりそうになる。ひらいたばかりのページを読もうとしているようだが、四分の一秒見ただけで、価値ある情報を読みとれるとでもいうのだろうか。 朝食が終わってから、まだあまり時間がたっていない。ハリーの息のなかには、かすかなにおいがあって、最後に口にいれたものがバナナプリンであると分かる。

 

「そういうわけで……これは正の報酬として言っているんだと思ってほしいんだけど…… きみは本気で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()するために、()()()()()()()する方法を発明しようと思ったの?」

 

「ええ。」  また一段と声が小さくなった。 ハリーの考えかたを()()()()()()してはみたものの、まだうまくできていないようだ。 「あなたはいままでなにをしていたの?」

 

ハリーは顔をしかめた。 「『だれがハーマイオニー・グレンジャーに罪を着せたか』という謎をとくための証拠をあつめようとしていた。」

 

「それは……」と言ってハーマイオニーはハリーの顔を見あげる。 「それは()()()()謎なんだから、わたしが解決すべきなんじゃない?」  もともとそんな風に考えていたのではないし、いま考えることでもない気がするけれど、ハリーにそう言われると……。

 

「この件に関しては無理だね。 いま、ぼくとなら話をする人もきみとは話そうとしなかったりする……それに悪いけどもう、だれにも話さないという約束でぼくが聞いてしまった情報もある。 この件では、きみにできることはあまりないと思う。」

 

「ふーん、そう。」とハーマイオニーは精彩を欠いた声で言う。 「じゃあ、もうそれでいい。 手がかりをあつめるのも、犯人候補と話すのも、ぜんぶあなたがやる。わたしはそのあいだずっと、この図書館でじっとしてる。 調べた結果、犯人がクィレル先生だったってことになったら、そう言って。」

 

「ハーマイオニー……。 だれがやるかは二の次じゃないか? どうしてそこを気にする? 重要なのは、すべてを解決することであって、だれが解決するかじゃないだろう?」

 

「きっとそうなんだとは思う。」と言ってハーマイオニーは両手を目にあてた。 「もう気にしてもしょうがないのかもしれない。 こうなったら、もうだれが見ても——もちろん、ハリーが悪いんじゃないからね——ああしてくれたのは正しいし、とても紳士的なことだったと思う——けれど、こうなったらもう、わたしがなにをしても、わたしは所詮——あなたに救われるだれかだとしか思われない。」  一度言いやめると、声が震えた。 「……実際そうだったのかもしれない。」

 

「いやいや、急になにを——」

 

「わたしはディメンターを追いはらえない。チャームズの授業で〈優〉をとることはできても、ディメンターを追いはらうことはできない。」

 

ぼくには謎の暗黒面(ダークサイド)があるからだよ!」  ハリーは一度周囲を見まわしてから、声をひそめてそう言った。 (遠くの(かど)に男の子が一人いて、ときどきこちらを見てはいたが、距離的にいって〈音消しの障壁〉なしでも盗み聞きされる心配はなさそうだった。) 「ぼくのなかには、あきらかに子どもじゃない暗黒面がある。それ以外にも、ぼくのあたまのなかで魔法的におかしなことが起きていたりするかもしれない—— クィレル先生が言うには、ぼくはどんな人格にでもなりすますことができる—— それもこれも不正(チート)だ。まだ分からないかい? 学校当局との秘密の協定で、ぼくは毎日通常より多くの時間を勉強できるようになっている。それだけのチートをしているぼくにきみは()()()()()()()()()()()()()()。 ぼくは——〈死ななかった男の子〉は多分通常の意味で子どもとは呼べない——なのに、きみはそれと()()()()()()()()()。 わからないかな。()()みんなの注意がぼくにあつまっていなかったら、きみは百年に一度の才能をもった魔女だと言われているよ。 年上のいじめっこ三人と一人で戦闘して、しかも勝ったりしたんだから。」

 

「そうなのかな。」  そう言う声がゆらいでいる。両手をもう一度、目にあてる。 「ひとつはっきりしているのは——もしあなたが言うとおりだったとしても——わたしをわたしとして見てくれる人はもうだれもいない、ということ。」

 

「……そうか。」と、しばらくしてからハリーが言った。 「つまり、『ポッター゠グレンジャー研究班』ではなく、『ハリー・ポッターとその助手一名』になってしまうということだね。 うーん……じゃあ、こういうのはどうだろう。 ぼくはしばらく金もうけのことを考えない。実際、返済を請求されるのは卒業してからだから。 そのあいだにきみは自力でこの問題を解決して自分の実力を世界に証明してくれればいい。 そのついでに不老不死の秘密を解明しちゃったりすれば、一石二鳥だね。」

 

問題解決のために自分がハリーに()()()()というのは……つらく大変な経験をしたばかりの十二歳の女の子がそんな重荷を背負わさせられるというのは、残酷なことのように思える。そんなひどいやりかたでヒロインとしての自尊心を回復させようとしてもらえているのがうれしくもあり、自分がハリーの友情に報いようともせず、心ないことばかり言っていたことへの罰のようにも感じる。とにかく、ありがたいことにまだハリーは信じてくれているらしい。それなら……

 

「考えがいろいろな方向に発散してまとまらないときに、よく効く合理的な対処法があったりする?」

 

「ぼくはそういうとき、そのいろいろに一つずつ名前をつけて、別個の個人だと思って、自分のあたまのなかで論争をさせることにしてる。 いまのところぼくのなかによく出てくるのは、ハッフルパフとレイヴンクローとグリフィンドールとスリザリンと〈内的批評家〉とハーマイオニーの分身とネヴィルの分身とドラコの分身とマクゴナガル先生の分身とフリトウィック先生の分身とクィレル先生の分身とパパの分身とママの分身とリチャード・ファインマンの分身とダグラス・ホフスタッターの分身だね。」

 

おなじことを自分でもやってみようかと思ったが、すぐに自分の〈良識〉から『精神の健康に悪そうだ』という声がとんできた。 「あなたのあたまのなかに、()()()()()()がいるって言うの?」

 

「そりゃ、いるよ!」と言ってハリーは急にすこし不安げな顔になった。 「だったら、きみのあたまのなかにはぼくの分身がいないの?」

 

……いる。いままで気づいていなかったけれど、いるばかりか、ハリー本人とおなじ声で話してさえいる。

 

「あらためて考えるとあまり気持ちいいことじゃないんだけど、 たしかにわたしのあたまのなかには、あなたの分身がいる。 いまも本人とおなじ声で、『なにもおかしいことじゃない』って言ってる。」

 

「ならいい。……いや、ひととひとが友だちになるには、ぜったいそれが必要だと思うんだよね。」

 

ハーマイオニーは読書にもどった。ハリーはそれをうしろからながめるだけで満足しているようだった。

 

小動物をレモンタルトに変身させる方法を発明したという七十七番のキャサリン・スコットのページまで読んだところで、ハーマイオニーはやっと勇気をふりしぼって話しはじめた。

 

「……ハリー?」(ハーマイオニーは自分でも気づかないうちにハリーとすこし距離をとっていた。) 「あなたのあたまのなかにドラコ・マルフォイの分身がいるなら、あなたとドラコ・マルフォイは友だちだっていうことになる?」

 

「ああ……。うん、その話はいずれしておかないととは思っていたんだ。 もっとはやくしておけばよかったかな。 とにかくぼくはドラコを……どう言えばいいのやら……。転向させようとしていた、みたいな?」

 

「どういう意味? 『転向』って。」

 

「〈光のフォースの陣営〉に誘いこむっていうこと。」

 

ハーマイオニーはぽかんと口をあけたままになった。

 

「つまり、ほら、ダース・ヴェイダーと皇帝の関係みたいな。あれとは逆なんだけど。」

 

「なに言ってるの、ハリー。ドラコ・マルフォイが、どれだけひどいことを——」

 

「知ってる。」

 

「——()()()()()()()どれだけひどいことを言ってたか、 機会がありしだい()()()()()()()って言ったのがなんのことだったか、知ってるの? あなたがどう聞かされているのかは知らないけど、わたしはダフネに教えてもらった。 マルフォイは()()()()()()()()()()()()()()を言ったんだから! 誇張じゃなく文字どおり、わたしには口にできないようなことを!」

 

「それはいつ? 学校がはじまったころの話? ダフネはいつのことだって言ってた?」

 

「聞かなかった。いつだろうと関係ないから。 あんなことを——マルフォイが言ったようなことを——言う人は、善人ではありえない。 あなたが彼をなにに誘っていようが関係ない。 それでも救いようのない人間なのは変わらない。善人なら、なにがあってもあんなことを言うはずが——」

 

「それはちがう。」と言ってハリーはまっすぐにハーマイオニーの目を見た。 「ドラコがきみについてどんなことを予告したのかはだいたい分かる。ぼくが二度目にあったとき、ドラコは十歳の女の子にそういうことをするっていう話をしていたからね。 でも考えてみてほしい。ドラコ・マルフォイは生まれてからホグウォーツに来る日までずっと()()()()()()のもとでそだてられていた。 彼のような環境におかれれば、超自然的な干渉をされないかぎり、きみのような倫理観をもてるはずがなかったと思わないか——」

 

ハーマイオニーはぶんぶんと首をふった。 「いいえ、それこそまちがってる。 ひとを傷つけてはいけない、なんていうことは、教師に禁止されるまでもなく分かっているはずのことでしょう。それは——相手が傷ついているかどうかは()()()()()()()()()から。そんなこともわからないの?」  そこまで言うと声が震えはじめた。 「たとえば、計算の規則は規則だから守るものだけど、これはそうじゃない! 最初から理解できない人には、()()で感じることができない人には……」  片手を胸の中央あたりにあててみたけれど、心臓の位置はそこじゃない。といっても、そんな細かいことはどうでもいい。すべては脳がやることなんだから。 「どうがんばってもできないの!」

 

……考えてみれば、()()()()そうだったりするのだろうか。

 

「きみも歴史の本をもっと読めば、それは狭い考えかたにすぎないと分かるようになるよ。 数百年まえまでは——たしか、すくなくとも十七世紀までは——各地の村でこういうものが娯楽として喜ばれていた。編みかごにネコを十匹ほど詰めて——」

 

「やめて。」

 

「——かがり火の上で焼いて楽しんでいたんだ。祭りの一部の、健全な娯楽として。 たしかに、女性を魔女あつかいして燃やすのとくらべれば健全だっただろうね。 これは、人間本来のしくみでは……人間にもともとそなわっている感情のしくみでは——」  ハリーは解剖学的に正確な心臓の位置に手をあて、それから頭部の耳のあたりまで手をもっていった。 「——()()()傷ついているのを見たときに、自分も痛みを感じるようになっているから。 味方、つまり自分の関心圏。自分とおなじ部族に属する人たち。 この感情には、『敵』や『外国人』という遮断スイッチがついている。『見かけない顔』というだけで遮断されたりもする。 人間はみなそうだ。それ以外の考えかたを()()しないかぎり。 そうだからといって、ドラコ・マルフォイに人間性がないとか、特別邪悪だということにはならない。敵を傷つけることは娯楽だと思うように教えられてきたなら無理もないこと——」

 

「そう思うのは……」  そう言う声がゆらぐ。 「そう()()()()()()()()人は邪悪なの。 自分のふるまいに責任をとらなくていい人はいない。 ほかのだれにどう()()()()()としても、やるのは自分なんだから。 こんなことはだれにでもわかること——」

 

「いいや、ちがうね。 きみは第二次世界大戦後の社会の出身だ。『自分は命令にしたがっていただけ』というドイツ人のことを悪人だと思うのがあたりまえの世界でそだった。だからそんなことが言える。 これが十五世紀なら、そういう人も模範的な忠義者だと言われただろうに。 きみは自分が当時のどの人間とくらべても()()()()善人だと思うかい? もし自分が十五世紀のロンドンに赤んぼうとして転移させられたとしたら、ネコを燃やすことも魔女を燃やすことも奴隷制もまちがっていて、意識あるものすべてを自分の関心圏におくべきだと、()()()判断できると思う? そのすべてをホグウォーツに入学した一日目に認識できていると思う? ドラコは周囲の社会にそなわっている以上の倫理を自力でまなぶ責任があるとはだれにも言われたことがなかった。 ()()()()()()()、わずか四カ月で、屋根から落ちそうになったマグル生まれの子の手をつかむことができるようになった。」  ハリーはいつになく熱い目をしている。 「ドラコ・マルフォイの転向はまだ終わっていない。でもかなりいいところまでもっていけたと思うよ、ぼくは。」

 

ハーマイオニーは記憶力がいい。なので、こういうこともちゃんと思いだせてしまう。

 

自分が屋根から落ちかけたとき、ドラコ・マルフォイがこの手くびをつかんだこと。あとであざになるほど強く。

 

自分が謎の呪文をかけられてつまづき、スリザリン寮のクィディッチのキャプテンの食事の皿に倒れこんだとき、ドラコ・マルフォイが手を貸してくれたこと。

 

——そしてこの話題をもちかけたそもそもの理由でもある——ドラコ・マルフォイが〈真実薬〉を投与されて証言した内容を聞いたときに生じた気持ちのこと。

 

「どうして話してくれなかったのよ?」  思わず声が高くなる。 「そうと知っていればわたしも——」

 

「ぼくはその判断をする立ち場になかった。 話したことはドラコのお父さんの耳にはいるかもしれないし、それで危険になるのはドラコだったから。」

 

「その手は通じないわよ、ミスター・ポッター。 ()()()()なぜ秘密にしていたのか、ミスター・マルフォイと二人でなにをやっていたのか、()()()白状しなさい。」

 

「……うん。そうだな……」  ハリーはハーマイオニーから目をそらし、図書館の机に視線をおとした。

 

「ドラコ・マルフォイはわたしと決闘することで、わたしを倒せるかどうかを『実験的に検証』しようと思ったと言っていた。 〈真実薬〉を投与された状態で、そうだと証言した。 〈闇ばらい〉が読みあげたとおりなら、彼本人が一字一句このとおりの表現でそう言った……。」

 

「ああ。」と言いながらハリーはやはり目をあわせようとしない。 「さすがはハーマイオニー・グレンジャー。一字一句おぼえているんだね。 椅子に鎖でしばられていようが、ウィゼンガモート全評議員をまえに殺人の容疑で裁判にかけられていようが、記憶力にはなんの影響もない——」

 

「ほんとはドラコ・マルフォイと二人でなにをしていたの?」

 

「多分、きみが想像してることとはちょっとちがうと思うんだけど……」

 

ハーマイオニーのなかでいやな予感がみるみるふくれあがり、決壊した。

 

「まさか科学してたんじゃないでしょうね?」

 

「えーと……」

 

「あなたが科学する相手は彼じゃなくてわたしでしょうが!」

 

「いや、そうじゃないって! あれは()()()科学じゃないから! あれはただ、物理の初歩とか代数とか、害のないたぐいのマグル科学をちょろっと()()()()()()程度のことで——きみとやっていたような、新規性のある魔法研究とはわけがちがう——」

 

「どうせ彼にも()()()()()()を秘密にしていたんじゃないの?」

 

「そりゃ言わないよ? ドラコ・マルフォイとの科学(つきあい)は十月からはじまっていたから、あの段階できみのことを話そうとしても聞く耳をもってもらえなかっただろうし——」

 

自分は裏切られた、という行き場のない思いが胸のなかにどんどんつのり、それが大声や、するどい目つきや、きっとでているにちがいない鼻水となって、なによりのどの熱さとなって噴出する。 ハーマイオニーは机に手をついていきおいよく立ちあがり、一歩ひいて、裏切り者を見おろす姿勢をとった。つぎにでた声はほとんど金切り声になっていた。 「まちがってるでしょう、そんなの! 二人の相手と同時に科学するなんて!」

 

「あの……」

 

「というか、二人の相手と科学しながら()()()()()()()()()()()()()のはまちがってる!」

 

「その…… 知らせようかなとは思ったんだけど。きみとの研究が彼との活動に影響してはいけないから、いろいろ慎重にことをすすめる必要があって——」

 

「へえ。『慎重に』、ね。」  子音をやけに強調する発音になった。

 

ハリーは片手をあたまにあてて、ぼさぼさの髪をかきむしる。それを見るとハーマイオニーはなぜか余計にどなりつけたくなる。 「ミス・グレンジャー……。さっきからこの話は、ちょっとその、変な意味で()()()()なってきたような……」

 

「ハア?!」  〈音消〉の障壁があるのをいいことに、思いきり声をだした。

 

それから事態に気づいて、顔が真っ赤になり、大人なみの魔法力があれば髪の毛が発火していたくらいの熱をおびた。

 

図書館のはるか奥のほうにぽつんと座っているレイヴンクロー生男子が、目をまるくしてこちらを凝視していた。本を顔の下においてそれを隠そうとしてはいるが、ろくに隠せていない。

 

「わかった。」と言ってハリーは軽くためいきをした。 「じゃあ、まず前提として、これは比喩として不適切だったということ、それに、ほんものの科学者にとって共同研究は日常茶飯事だということははっきりさせたうえで……やっぱり浮気には当たらないと思う。 科学者は、ある研究がひととおり終わるまでは、その情報を外部に公開しない。 きみとぼくはいっしょに秘密の研究をしている。そのことをドラコに教えるわけにはいかなかったのにはちゃんとした理由がある——きみとぼくがライヴァル関係ではなく仲良しだという話がドラコに伝わってしまえば、ドラコはぼくに近づこうとしなかっただろう。 ぼくとドラコとのことがだれかに知られれば、ドラコ自身に危険がおよぶことも分かっていた——」

 

「ほんとにそれだけ? 正直に言いなさいよ。 ドラコにもわたしにも、自分はハリーにとって()()()()()だ、って思わせたかったんじゃないの? 自分だけがあなたに求められている、自分だけがあなたといっしょにいられる、って思わせたかったんじゃないの?」

 

「それはまったくの誤解——」

 

ハリーは言いかけたまま口をとじた。

 

そしてこちらを見た。

 

全身の血液が顔にむかってあつまってきて、耳から湯気がでていてもおかしくない気がした。いや、その耳が溶け落ち、のこった粘液が頭部に逆流してくるかもしれない。それくらいのことを自分は言ってしまった、と気づいた。

 

こちらを見ているハリーの顔が驚愕の表情にかわっていく。

 

「その……」 ハーマイオニーはうわずった声で言う。 「ほら……なんていうか……! 比喩以上に、なにかあるんじゃない? 男の子が十万ガリオンを支払って女の子を窮地から救った。救われたほうは、その意図を知りたくなって当然だと思わない? 花を一束プレゼントされるだけでも、考えてしまうものでしょう。これはそれどころか——」

 

ハリーはテーブルに手をついていきおいよく立ちあがり、足をふらつかせて一歩さがり、躍起になって両手をふった。 「そういう意味でやったんじゃないよ、ぼくは! 友だちとしてやっただけ!」

 

「ただの友だち?」

 

ハリー・ポッターの息づかいがはげしくなり、過呼吸じみてきた。 「親友でもいい! 特別な友だちでもいい! 人生最高の友だちかもしれない! でも()()()()()関係じゃない!」

 

「それ以上の関係は考えたくもないっていうこと?」  ハーマイオニーは一度声をつまらせた。 「これは別に——別に()()()()あなたを好きだっていう意味じゃないんだけど——」

 

「あっ、そう? ならよかった。」  ハリーはローブのそでで(ひたい)の汗をぬぐった。 「いや、きみのことはもちろんいい人だと思ってるし、誤解しないでほしいんだけど——」

 

ハーマイオニーは思わず身をひいた。

 

「——ただぼくの——暗黒面(ダークサイド)のことを考慮しても——」

 

「え? ()()を気にして? 別に——別にわたしはそんなこと——」

 

「いや、そうじゃなくて。なんというか、ぼくには謎の暗黒面があるし、ほかにも変な魔法的ななにかがありそうだし……とてもふつうの子どもとは言えないだろう——」

 

「ふつうじゃなくていいと思う。」  まだ話が見えず、すがるような気持ちになる。「わたしはそれでもいい——」

 

「いや、()()()()()()()()()のせいで本来の年齢より成熟しているとしても、ぼくはまだ第二次性徴期をむかえていなくて、血流中に男性ホルモンもないし、ぼくの脳がだれかと恋に落ちることはまだ()()()()()()()だから。 だからぼくはきみに恋していない! だれに恋することもできない! もしかすると、あと六カ月たったらぼくの脳が目をさまして、スネイプ先生に恋してしまったりするかもしれない! ……あ。その様子だと、きみはもう第二次性徴期になってたんだね?」

 

「ヒッ」  高音でそういう声が出て、 足もとがふらついた。そこに一瞬遅れて駆けよってきたハリーに両手でささえてもらい、床に腰をおろした。

 

実はたしかに、この十二月、ハーマイオニーはそのことでマクゴナガル先生の教授室に駆けこんでいた。本で読んではいたからまったく予想外というわけではなかったものの、()()()()()()()問題ではあったし、魔女には魔法でうまく処理する方法があると分かって、とてもほっとさせられたのだった。とにかく、いたいけな女の子にあんな質問をするなんて、ハリーはなにを考えているのか——

 

「ごめん、いまのはただ、ちょっと変な言いかたをしちゃったけど、そういう意味じゃなくて! ここに外部の観察者がいたとして、ぼくの最終的な結婚相手をあてる賭けをしていたとすれば、きっとその人はきみに一番高い確率をわりあてるだろうとは思う——」

 

この時点でもうほとんど機能をうしないかけていたハーマイオニーの知能は、それを聞いて爆散した。

 

「——けれどそれも五十パーセントがせいぜいじゃないかと思う。外部の観察者にはほかにもいろいろと考慮すべき可能性が見えているだろうし、ぼくが思春期以前に好きだった人の種類は七年後のぼくの交際相手を予測する強い手がかりにはならないはず—— だから、ぼくはいまここでなにかを()()するようなことはしないようにしようと思って——」

 

自分の喉がなにか高音のノイズを発しているが、聞く気にもならない。いまハーマイオニーの宇宙にのこされたただ一つのものは、聞きたくもないハリーの声だけだった。

 

「——それに、進化心理学の本によると、その……一人の男と一人の女が一生しあわせに暮らしつづけるというありかたは標準的というより例外的なことだと言われていて、狩猟採集民の部族では子どもが生まれてからその子を守らなければならない最初の二、三年をいっしょに暮らすだけなのがむしろ普通だったらしい—— 事実、旧来の習慣での結婚をした現代のカップルの多くにはひどく不幸な結末が待っていたりするんだから、それをそのまま踏襲するよりも、なにかうまい修正方法があったりするんじゃないかと—— とくにぼくたちの場合は、不老不死を実現しようというんだから——」

 

◆ ◆ ◆

 

レイヴンクロー五年生ターノ・ウルフは図書館で自席からゆっくりと立ちあがった。その位置からは、グレンジャーが泣きながら図書館を出ていくのがよく見えた。彼女ともう一人の口論の内容は聞きとれなかったものの、()()()()口論であることは明白だった。

 

ターノはひざをがくがくとさせながらも、〈死ななかった男の子〉のほうへ近づいていく。相手の視線のさきには、ぴしゃりと閉じられたあとの衝撃でいまだに震えている図書館の扉がある。

 

とくにやりたくてやるのではない。しかし〈死ななかった男の子〉ハリー・ポッターもレイヴンクローに〈組わけ〉された一人であり、 厳密に言えば同寮生ではある。 ならば、こういう場合にはしたがうべき〈作法〉がある。

 

近づいていっても〈死ななかった男の子〉はなにも言おうとしない。ただ、目つきは非友好的だった。

 

ターノは一呼吸してからハリー・ポッターの肩に手をのせ、すこしだけ震える声で儀礼をやりとげた。 「魔女(おんな)ってやつは! これだからなあ?」

 

「その手を外宇宙に転移させられたくなかったら、離せ。」

 

扉が音をたててひらき、また一人が図書館をあとにした。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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88章「時間の圧(その1)」

◆ ◆ ◆

 

一九九二年四月十六日。

 

正午から七分後。

 

昼食の時間。

 

ハリーは重い足どりでグリフィンドール寮のテーブルへとむかう。そのほとんどの部分が空席だ。ちらりと見ると、今日のメニューがブリーンとルーポ肉の団子であることが分かる。 聞こえてくる会話はクィディッチがらみ。さびたチェインソーの音より不愉快なくらいの背景音だが、レイヴンクロー寮のテーブルの生徒たちがいまだにつづけているハーマイオニー関連の妄言よりはましだ。 グリフィンドール寮はそもそもドラコ・マルフォイにあまり同情的ではなく、グリフィンドール寮的に不都合なできごとの記憶を皆に引きずってほしくないという政治的動機もあって、 その話をしない。前提の部分がまちがっているとはいえ、話をしないこと自体はいい。 ディーンとシェイマスとラヴェンダーは休暇で家に帰っているが、さいわい帰っていないのが……

 

「〈主テーブル〉が大騒ぎになってたみたいだけど、なにかあった?」  ハリーは皿に食べものをよそいつつ、ウィーズリー兄弟二人の集合精神にむけて問いかける。「ぼくが来たころには、もう終わりかけていたみたいでね。」

 

「うっかり者のトレロウニー先生が——」

 

「……スープを入れ物(チュリーン)ごとひっくりかえして自分にかけちゃって——」

 

「……おかげでミスター・ハグリッドもごらんのありさま。」

 

〈主テーブル〉をちらりと見ると、たしかにトレロウニー先生が杖をふりまわし、ミスター・ハグリッドは自分の服をたたいているところだった。 ほかの人たちはだれもそれに目をとめていない。マクゴナガル先生でさえそうだ。 フリトウィック先生はいつものように椅子の上に立っている。ダンブルドア総長は今日も欠席らしい(この休暇中ほぼずっと不在だった)。スプラウト先生とシニストラ先生とヴェクター先生はいつものように席を寄せあって食べている。そして——

 

「ぼくはあれを見ると……」と言ってハリーは視線をそらし、頭上の見せかけの青空を見つめる。「いまだにぎょっとしたりするんだよね。」

 

「あれって?」とフレッドかジョージがたずねた。

 

謎の実力者である〈防衛術〉教授はそこで『休息中』……か、とにかくなにか奇妙な状態にあり、 左右の手でたどたどしく骨付き鶏肉をつかもうとするが、うまくつかまえることができていない。

 

「いや、なんでもない。 まだホグウォーツには慣れないなって思っただけ。」

 

ハリーはそのまま比較的静かに食事をつづけようとした。そのあいだ、ウィーズリー家の面々がつぎつぎやってきては、チャドリー・キャノンズという名の謎の精神作用物質の話をしていた。

 

「今日はどんな複雑な謎のことを考えてるの?」と近くにすわっていただれかが言った。一見して低学年の、短めの髪の女子だった。 「ちょっと気になって。 わたしはブライエニー。よろしくね。」  その女子がむけてきた視線は、以前からハリーがもっと大人になるまで無視しようと決めていたたぐいの視線だった。

 

「ごく単純な〈人工知能〉プログラムの一種で、イライザっていうのがあるだろう? 内容をまったく理解できないまま文法的に正しい英語の文を出力できるようなやつだけど、知ってる?」

 

「もちろん。そういうのなら、わたしのトランクのなかに十個くらいある。」

 

「多分ぼくが女の子について理解していることもだいたいその程度だと思う。」

 

突然あたりがしんとした。

 

数秒経過してからやっとハリーは大広間の全員の注目が()()()むけられているのではないことに気づき、左右を見わたした。

 

そのとき大広間にころがりこんできた人影はミスター・フィルチのようだった。獰猛な飼い猫ミセス・ノリスとともにホグウォーツの廊下を監視する用務員ということになっている人物だ。どちらもランダムエンカウントするキャラクターとしては低級な部類で、〈死の秘宝〉という伝説級アイテムをもってすれば軽くやりすごすことができる相手だった。(ハリーは以前、この男はいたずらの格好の標的だと思って、なにかやってみないかとフレッドとジョージに相談したことがある。すると二人のどちらかが小声で、あの仕事に便利な呪文はいくらでもあるだろうに、だれもミスター・フィルチが杖をつかうところを見たことがないのは変だし、ダンブルドアがそういう人をホグウォーツの職員にえらぶのにはなにか事情がありそうなものだ、と言った。そう聞いてハリーはいたずらの話をやめることにした。)

 

ミスター・フィルチの茶色の服はみだれ、汗でびっしょりの状態で、息をするたびに肩が上下している。いつもとなりにいるあのネコはいない。

 

「トロルが——地下洞(ダンジョン)に、トロルが——」

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァ・マクゴナガルはすぐに〈主テーブル〉の椅子から立ちあがり、そのいきおいで椅子はうしろに倒れた。

 

「アーガス! どうしたのです?」

 

アーガス・フィルチは大扉からよろよろと歩いてきた。その上半身に、ちらほら赤色の点々が見えた。まるでだれかにステーキのソースを顔に浴びせられたかのようだった。 「トロルが——灰色の——わしの倍ほどもある背丈の——そいつが——」  アーガス・フィルチは顔を両手でおおった。 「そいつがミセス・ノリスを——ぱくりと一口で——丸呑みに——」

 

ミネルヴァは裏の自分に痛烈な衝撃を感じた。あのネコのことは好きではなかったが、それでもおなじネコどうしではあった。

 

あちこちから大声が飛びかいはじめるなか、 セヴルスが〈主テーブル〉の席から、不思議とだれの注意も引かないやりかたで立ちあがり、無言のまま大扉から出ていった。

 

ああ、たしかに——とミネルヴァは内心で思う。三階の通廊——これはそのための陽動かもしれない——

 

ミネルヴァはその方面のことを全面的にセヴルスにまかせることにし、杖をとりだし、高くかかげて、紫色の火花を五回爆発させた。

 

その音で生徒たちはしんとなり、アーガスのすすり泣きだけが残った。

 

「この城に危険な生物がはいりこんだようですね。」とミネルヴァは左右の教員にむけて言う。 「われわれで手分けして廊下を捜索しましょう。」  そして生徒たちが呆然としたまなざしをむけてきているのに気づき、声を大きくして言った。 「監督生——各自の寮へ生徒を先導しなさい! ただちに!」

 

グリフィンドールのテーブルで、パーシー・ウィーズリーがすぐさま立ちあがって声をあげた。 「いくぞ! 一年生、かたまってついてきて! いや、そっちの一年生には言ってない——」  といっても、ほかの寮の監督生ももう呼びかけをはじめていた。また大きくなったざわめきに負けないよう、監督生たちは声をはりあげた。

 

そのなかに、はっきりとした冷ややかな声がひとつあった。

 

「副総長。」

 

声の方向をむくと、〈防衛術〉教授が静かにナプキンで手をぬぐいながら立ちあがっていた。 「失礼ながら……」と身元不明の男が話しはじめる。 「あなたは戦場で人を動かす専門家ではない。 状況をかんがみて、ひとつここは——」

 

「いえ、せっかくですが。」と言いつつミネルヴァは大扉にむけて動きだす。 フィリウスとポモナがすでにそのあとにつづき、彼らをおおいかくすほどの巨漢ルビウス・ハグリッドも席を立っている。 ミネルヴァは何度となくこれに似た経験をしたことがある。 「残念ながらわたしの経験上、こういう状況が発生したとき、〈防衛術〉教授現任者の助言を受けいれるべきではないということが分かっています。 というより、あなたはわたしと組になって捜索していただくべきでしょうね。あらぬことが起きてしまった場合にも、あなたに嫌疑がかかることのないように。」

 

〈防衛術〉教授はなんのためらいもなくグリフィンドールのテーブルのほうを向き、一度手をたたいて床が割れるときのような音をだした。

 

「ピニーニ隊副官のグリフィンドール生ミシェル・モーガン。」  しんとした空間にむけて〈防衛術〉教授が落ちついた声で話す。 「きみの寮監に助言をしてさしあげなさい。」

 

小柄なミシェル・モーガンは長椅子の上にのぼって話しだした。今年のはじめに見た時点の彼女よりもずっと自信に満ちた声だった。 「生徒に廊下を歩かせると、保護すべき対象が分散し、保護できません。 全員をこの大広間から出さず、中央の一カ所にかたまらせるべきです。……まわりのテーブルはどけておいたほうがいいでしょう。トロルはテーブルを飛びこえることができますから……。周縁部分は七年生に守らせましょう。 ただし模擬戦で同士撃ちを避ける動きかたを学んだ者にかぎります。()()に秀でた人もその点では劣ります。」  ミシェルはそのさきを一度ためらった。 「悪いけれど、ミスター・ハグリッドは—— 外にいては危険なので、生徒といっしょにいてもらいましょう。 トレロウニー先生も、単独でトロルと遭遇させないようにすべきです。」  この部分はあまり申し訳なさそうではなかった。 「といっても、クィレル先生との二人組にしておけば、トレロウニー先生もそれなりの戦力になるかもしれません。 分析は以上です。」

 

「いきなり振られたにしては、悪くない回答だ。 クィレル点を二十点進呈する。 しかしきみはもっと単純な要素を指摘しそこねた。()()()()()()を意味するとはかぎらないということ、トロルには肖像画を強引に壁からはがす程度の腕力があるということ——」

 

「もうけっこう。」とミネルヴァは割りこんだ。 「ミス・モーガン、ありがとうございました。」  そう言ってから、各寮のテーブルの生徒たちが見つめてきているのに答える。 「全員、彼女が言ったとおりになさい。」  そしてまた教員席へ。 「ではトレロウニー先生、あなたは〈防衛術〉教授と組になって——」

 

「その……」と自信なさげに言うシビル。化粧とぐちゃぐちゃのショールの下の顔はかなり青ざめている。 「わたしは——今日、ちょっと体調が悪くて——目まいがしそうなくらいでして——」

 

「あなたに戦闘しろとは言いません。」  いつもながら忍耐を試してくる人だと思いながら、ミネルヴァはぴしゃりと言った。 「〈防衛術〉教授から一瞬たりとも目を離さず、そばについていていただければ、それでけっこう。彼はあなたの隣を一度も離れなかったと、あとで証言していただきたいだけです。」  そしてルビウスを見て、 「ルビウス、ここはあなたに任せます。生徒たちの身の安全を守ってください。」  それを聞いてルビウスは高い背をまっすぐにのばし、いつものさえない表情を捨てて、誇らしげにうなづいた。

 

それからミネルヴァは生徒たちを見わたして、大きな声で言った。 「言うまでもないことですが、()()()()()()()()()()()()以後大広間から出た者は退学とします。弁解は受けつけません。よろしいですね?」

 

ミネルヴァはそう言いながらウィーズリー兄弟に目と目をあわせていたが、二人は聞き終えたところで丁重にうなづいた。

 

その後、ミネルヴァは口を閉ざして扉にむかい、ほかの教師たちもそのあとを追った。

 

部屋の奥のだれも見ていない壁の時計は昼の十二時十四分をさしていた。

 

◆ ◆ ◆

 

……ハリーはその時点でまだ、気づいてない。

 

——カチッ——

 

するどい目つきで教師たちが出ていくのを見おくったあと、ハリーはいまなにが起きているのか、それにどんな意味があるのか、考えた。その横で、生徒たちは防御しやすいようにかたまり、杖を振ってテーブルを浮遊させて通路をつくっていた。そのときになってもまだ、ハリーは気づかない。

 

——カチッ——

 

「先生たち()()()二人組でいくべきだったんじゃないの?」と年長のグリフィンドール生が言う。ハリーが名前を知らない生徒だった。 「まあそのぶん時間はかかっちゃうだろうけど、安全を重視するなら——」

 

——カチッ——

 

ほかのだれか(女の子だった)がそれに返事した。内容を完全には聞きとれなかったが、だいたいのところ、『山トロルには強い魔法耐性と怪力と再生能力があるけれど、近づいてくるときに()()()()から、ホグウォーツの教師なら〈ヴァディムの束縛なんとか〉で簡単に拘束してしまえる』、というような話だった。

 

——カチッ——

 

ハリーはまだ気づかない。

 

——カチッ——

 

騒々しかった話し声は落ちつき、だれもが小声で話しあうようになった。話しながら、ちらりとあたりを見たり、耳をすませたりして、扉がやぶられる音や雄叫びが聞こえないか注意していた。

 

——カチッ——

 

なかには、もし〈防衛術〉教授がトロルを忍びこませたのだとしたら、なにが目的なのだろう、と考えようとする人たちもいた。陽動をしかけようとしていたのをマクゴナガル先生に止められて怒っていたようにも見えたが、そうだとしたらなにを隠すための陽動だったのだろう、という声もあった。

 

——カチッ——

 

しばらくすると、全生徒がおそらく百人ずつくらいのかたまりとなって、そのまわりを七年生が重おもしい顔つきで杖をそとに向けながら巡回するようになった。そこでだれかが点呼をとったらどうだと言い、別のだれかが皮肉げに「ふだんならそれもいいかもしれないが、いまはほとんどの人が春の休暇でいなくなっていて、だれとだれがここにいるはずなのか分からないし、だれが行方不明なのかも調べようがない」とこたえた。そのときになって、ハリーはようやく気づいた。

 

——カチッ——

 

ハーマイオニーはどこにいるのだろう。

 

——カチッ——

 

レイヴンクローの集団のあたりを見ても、ハーマイオニーは見あたらない。けれどみんな狭く肩を寄せあっているから、小柄な生徒が上級生のあいだにうもれて見えなくなっているとしても不思議はない。

 

——カチッ——

 

つぎに、ネヴィルを見わけることができるかどうかたしかめるため、ハッフルパフの集団を見てみる。ネヴィルはほかの背の高い生徒のあいだにいたが、ハリーの脳の視覚処理はほぼ即座にそのすがたを認識することができた。 見たかぎりでは、ハッフルパフ集団のなかにもハーマイオニーはいない——もちろんスリザリン集団に行っていることもないだろう——。

 

——カチッ——

 

ハリーはたがいに肩を寄せあうほかの生徒を押しのけたり、年長の生徒をよけたり、ときには足の下をくぐったりもしながら、レイヴンクローの集団のまんなかに来た。やはりそこにハーマイオニーはいない。

 

——カチッ——

 

「ハーマイオニー・グレンジャー! いたら返事して!」

 

返事はなかった。

 

——カチッ——

 

こころの奥のどこかで、恐怖がつのる。同時に別の部分の自分は、どのくらいパニックになるべきかを考えようとしている。 今年最初の〈防衛術〉の授業でのできごとはあまりはっきりと思いだせないが、なぜかひとつだけ思いだせることがあった。トロルは、孤立していて無防備な獲物をかぎわけることができる、という話だった。

 

——カチッ——

 

別の思考過程は、芽生えつつある可能性の空間を必死に探索し、自分にいまなにか具体的にできることはあるか、と考える。 いまの時間はまだ午後三時にならない。ということは()()()()は〈逆転時計〉で到達しえない時間だ。 仮にこの部屋からこっそり出られたとして——なんらかの方法で注意をそらしつつ、〈マント〉に隠れて脱出することはできるはず——しかし、ハーマイオニーはどこにいるのか、ハリーにはまったくこころあたりがない。探そうにも、この城は広すぎる。

 

——カチッ——

 

ハリーの精神の別の部分は確率モデルを立てようとする。ほかの生徒の話によれば、トロルという捕食者は()()ではなく、音をたてるという——

 

けれど、ハーマイオニーは侵入者がトロルであるとは知らない。だから、自分でその音の発生源を調べようとする。そうするのがヒロインだと思って。

 

——だが、ハーマイオニーのポーチにも、不可視のマントとホウキはある。ハーマイオニーとネヴィルのためにハリーがそう要求し、マクゴナガル先生はそのとおりにしたと話していた。 それだけあれば逃げるのには十分なはずだ。ハーマイオニーはホウキ乗りが不得意かもしれないが、 屋根の上に出れさえすればそれでいいのだから。今日は快晴だし、トロルは日の光に弱い。それをハリーが覚えているなら、ハーマイオニーはまちがいなく覚えている。 いくらもう一度実力を示したいと思っているハーマイオニーでも、自分から山トロルに戦闘をしかけるほどバカではないはずだ。

 

——カチッ——

 

そのはずだ。

 

——カチッ——

 

そんな行動をするのはハーマイオニーらしくない。

 

——カチッ——

 

そこでハリーは、すこしまえに何者かが〈記憶の魔法〉をつかってハーマイオニー・グレンジャーに罪を着せようとしたのだということを思いだす。 ホグウォーツ城のなかで、警報を作動させることもなく、 ドラコが結界にひっかからないやりかたでゆっくりと死ぬように仕組んだだれかがいたということ。発覚するまで六時間以上かかるようにして、〈逆転時計〉をつかって調べられることがないようにした何者かがいたということ。 そして古代結界に検知されて総長を呼ばれることのないようなやりかたでこの城にトロル一体を忍びこませようとするくらいかしこい人間であれば、ハーマイオニーの魔法アイテムに細工(ジンクス)するくらいのことは当然考えているだろう……。

 

——カチッ——

 

ハリーのなかのどこかで、パニックがだんだんと大きくなっていく。ネッカーの錯視立方体のように、一度見る方向をかえてみると……自分はいったいなにを考えていたのだろう。くだらないおもちゃを二、三もたせただけで、ハーマイオニーとネヴィルとホグウォーツ城のなかに、そのままいさせたなんて。そんなことをしても、本気で()()()()()()()()相手はとめられない。

 

——カチッ——

 

別の部分が、その可能性は()()ではない、と異論を言いだす。問題は単純ではなく、それが実現する確率は五十パーセントを下まわることも十分ありうる。 自分がみんなのまえで大騷ぎをしていると、ハーマイオニーが大広間の脇のトイレから帰ってくる、という状況は容易に想像できる。 そうでなくとも、トロルはハーマイオニーとはまったく別の場所にしかいなかった、ということも……。そうなれば、オオカミが来たと叫ぶ少年の話のように、次回実際に助けてほしくなったとき、だれにも信じてもらえなくなってしまう。資産としての名声をここで使い果たしてしまっては、あとで別のことに使いたくなったときに困ることになる……。

 

——カチッ——

 

ハリーは自分が恥をかくことを恐れるルーチンにはいりはじめたことに気づいた。たいていの人はこうなると、不確実な状況下でどんな行動をとることもやめてしまう。そう気づいたので、恐れをきっぱりとはねのけることにした。が、それでもなぜか、みんなのまえで大声をだそうと決めるには大変な意思力が必要だった。もし自分がたまたまハーマイオニーを見落としていただけだとしたら、恥ずかしいことになる、と考えてしまう……。

 

——カチッ——

 

ハリーは深く息をすって、ちからいっぱい声をだした。 「ハーマイオニー・グレンジャー! いたら返事して!

 

全員がふりかえってハリーを見た。 そのうち何人かはきょろきょろとまわりを確認した。 部屋じゅうで会話がとまり、話し声が静まった。

 

「だれかハーマイオニー・グレンジャーをけさの——けさの十時半以降に見ていませんか? だれか、彼女の居場所にこころあたりは?」

 

背景の雑音がいっそうしんと静まった。

 

どこからも声はあがらなかった。とくに、『心配しないで、わたしはちゃんとここにいるから』という声はなかった。

 

「マジかよ。」とだれかが近くで言った。それから、背景の雑音の音量がまたあがった。音は新鮮な活気をおびていた。

 

ハリーは下をむいて自分の両手を見ながら、雑音を遮断して考えようとした。()()()() 考えろ——

 

——カチッ——

 

——カチッ——

 

——カチッ——

 

群衆をかきわけてスーザン・ボーンズがハリーのもとにやってきた。同時に、くたびれた杖をもつ赤髪の男の子もやってきた。

 

「どうにかして先生たちにこのことを知らせないと——」

 

「ぼくらで探さなきゃ——」

 

「ちょっと待って。」とスーザンがいきりたって言う。 「わたしたちがどうやって探すっていうの? ウィーズリー隊長。」

 

「自分の目と足で探すんだよ、そりゃ!」とロン・ウィーズリーも言いかえす。

 

「バカじゃないの? 廊下の捜索はもう先生たちがやってる。わたしたちがやったら、先生たちよりはやくグレンジャー司令官を見つけられる理由でもある? ()()()()()()トロルに食べられて、 それから退学させられるのがオチよ。」

 

悪い案を耳にすると、その対比でいい案を思いつける、ということがある。

 

「みんな、聞いてくれ!」

 

何人かがふりかえった。

 

静かに! 全員、だまれ!

 

そこまで声をはりあげると喉が痛んだが、注意を引くことはできた。

 

「ここにホウキがある。」  のどの痛みで声をだしにくいが、ハリーはできるかぎりの大声をだした。 このホウキを支給するよう要求したのは、アズカバンで二人乗りのホウキしかなかったことを思いだしてのことだった。 「これは三人乗りだ。 模擬戦参加者の七年生一人に協力してほしい。 任務は全速力で廊下を飛行してハーマイオニー・グレンジャーを探して、まっすぐにここに連れ帰ること。 これに協力してくれる人は?」

 

それを聞いて、大広間全体が沈黙した。

 

◆ ◆ ◆

 

気まずそうにおたがいを見あう生徒たち。 年少の生徒は年長の生徒に期待の目をむけ、年長の生徒は周縁部を巡回する生徒に目をむける。 巡回の生徒たちの大半は杖を手にし、まっすぐ前を見たままでいる。たまたまこの瞬間を狙ってトロルが突入してくるかもしれないとでも言うかのように。

 

だれも動こうとしない。

 

だれも話そうとしない。

 

ハリー・ポッターがまた話しだした。 「トロルと()()しようとは言わないよ。 トロルを見つけたら、ただ飛んで回避するんだ。むこうは飛行するホウキに追いつけるわけがない。 学校とは、ぼくが責任をもって話をつける。だから、だれか。」

 

だれもが、ほかのだれかを探して視線をさまよわせた。

 

◆ ◆ ◆

 

無言の群衆。かたくなに外を見つづける七年生たち。それを見て、ハリーは自分のなかに冷たさが満ちるのを感じた。 こころの奥のどこかで、嘲笑するクィレル先生の声がする。凡庸な愚か者が自分の意思で有意義なことをしてくれるとでも思ったか、自分に杖をつきつけられなければ動くわけがない、と……。

 

——カチッ——

 

傍観者効果をやぶりたければ、一個人を名指しするのが標準的な手段だ。 「よし。それじゃ……」とハリーは意識して、相手が服従することをうたがわない〈死ななかった男の子〉の声で言う。 「ミス・モーガン。いっしょに来てほしい。さあ。時間がもったいない。」

 

名指しされた魔女はじっと周縁部を見るのをやめて、ふりかえった。一秒だけ恐怖の表情がよぎったが、すぐにかたい表情になった。

 

「ここから全員でるな、というのが副総長の命令だったわよね。」

 

歯をくいしばるのをやめるのに努力が必要だった。 「でもクィレル先生はそう言わなかった。あなたもそう言わなかった。 マクゴナガル先生は戦術眼がない。行方不明の生徒がいるかもしれないという可能性を考えられず、生徒に廊下を歩かせてもいいとさえ思っていたくらいだ。 でもマクゴナガル先生は、まちがいを指摘されれば()()()()()。あなたやクィレル先生の指摘をちゃんと取りいれた。ハーマイオニー・グレンジャーが()()()()()()()()()()()となれば、きっとあの人もそれを放置しろとは言わない——」

 

——カチッ——

 

「いいえ、マクゴナガル先生ならきっと、廊下をうろついている生徒を増やすようなことは認めない。 どんな理由があろうとここを離れれば退学処分だっていう命令なのよ。 あなたは〈死ななかった男の子〉だからいいのかもしれないけれど、わたしたちはそうはいかない!」

 

——カチッ——

 

こころの奥のどこかで、クィレル先生の高笑いが聞こえる。 戦術的な明快さもない状況で、はっきりとした責任を負わされてもいない凡庸な人間に、行動を期待するのがまちがいだ。()()()()()()()()への立派な口実まであるならなおさらだ……。 「これは人命にかかわる問題だ。」とハリーは平静な声で言う。 「ハーマイオニー・グレンジャーはいままさにトロルと戦っているかもしれない。 そう言われれば、すこしはなにか思うところがあるんじゃないかい?」

 

——カチッ——

 

ミス・モーガンの表情がゆがんだ。 「あ——あんたこそ、〈死ななかった男の子〉のくせに! そんなに助けたいなら、一人で行って、指を鳴らしでもすれば!」

 

——カチッ——

 

ハリーはほとんど意識すらしないまま返事した。 「あれは、ちょっとした小細工とはったりでやっただけのことで、 ああいう能力が実際ぼくにあるわけじゃない。さあ、どこかに助けを待っている女の子がいるんだ。()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「なんでそれをわたしに言う? ここの責任者はわたしじゃなくて ミスター・ハグリッドなのよ!」

 

ぎこちない沈黙が室内全体を支配する。

 

ハリーはぱっと、飛びぬけて背の高い半巨人のほうを向いた。そのまわりの生徒たちも一斉にそちらを向いた。

 

「ミスター・ハグリッド。」とハリーはやはり服従を要求する声で言う。 「許可してください。いまぼくが言ったとおりのやりかたで捜索をしていいと。さあ。」

 

ルビウス・ハグリッドは葛藤しているようだった。毛むくじゃらのひげともみあげに隠れた顔は読みとりにくいが、目にはたしかに生気があった。 「いや……おまえさんたちの身の安全を守れっちゅうのが、マクゴナガル先生の命令——」

 

「そうですね。じゃあ、ハーマイオニー・グレンジャーの身の安全も守りませんか。 ()()()()()()()()()()()を着せられた生徒が、()()()()()()()()()んですよ?」

 

半巨人はハリーのことばにはっとしたようだった。

 

ハリーはその様子をじっと見ながら、このほのめかしがこの人にだけ通じて、ほかのだれにも悟られなければいいのだが、と思っていた。——腕力だけじゃないはずだ。ジェイムズとリリーがこの男とつきあったのは、同情心以上のなにかがあってのことだろう——

 

「罪を着せられた?」と、どこからか声がした。スリザリンの集団のあたりから話しているようだった。 「まだそんなこと言ってたのか。トロルに食べられるのがお似合いだよ、あいつは。」

 

何人かが笑った。同時に別の場所から非難の声もあがった。

 

半巨人は表情をかたくした。 「おまえさんはここにいな。」 よくひびく声で、おそらくなだめるようなつもりの口調。 「その子のことは、おれがみてくる。 トロルっちゅうのは、ちとやっかいなところもある生きものでな——かかとをつかまえて、ひっくりかえしてやるといいんだが、へたすりゃ、こっちがまっぷたつにされる——」

 

「あなたはホウキに乗れますか?」

 

「いや——乗れん。」

 

「それじゃ時間的に間にあわない。 六年生の人たち! 一人くらいは臆病者でない六年生がいてもいいんじゃないんですか?

 

沈黙。

 

「五年生は? ……ミスター・ハグリッド、ぼくを守るために同行したい人はそうしていい、と指示してやってくださいよ! ()()()()()()()()()

 

半巨人は手と手を組みあわせ、苦しそうな表情で言う。 「うむ——そりゃあ——」

 

なにかがぷつりと切れた感じがして、ハリーは大広間の入りぐちの扉へむけて歩きだした。道をあけようとしない人がいれば、粘土の像を相手にするようにして手でおしのけた。(走れば止めようとする人がでるだけだろうから、走りはしなかった。) 自分は機械じかけの人形が立ちならぶ無人の部屋のなかを一人で動いている、もうその人形の口から出る雑音に気をとられることもない、というようにも思え——

 

そこで巨大な人影が道をふさいだ。

 

ハリーは人影を見あげた。

 

「いや、よりによっておまえさんが行っちゃあならん。 この城ではいま得体の知れないことが起きとる。狙われているのはミス・グレンジャーか——それとも、ハリー・ポッター、おまえさんかもしれん。」  ルビウス・ハグリッドは申し訳なさそうに、しかしきっぱりとそう言い、左右の巨大な手をフォークリフトのように下げた。 「悪いが、ここは通さんよ。」

 

「ステューピファイ!」

 

赤い稲妻がハグリッドの側頭部にあたり、ハグリッドはその衝撃で飛びあがった。 巨大な顔が思いのほかすばやく旋回し、「乱暴なことするんじゃねえ!」とスーザン・ボーンズにむけて咆哮した。

 

「ごめんね! 『インセンディウム』! 『グリッセオ』!」

 

ハグリッドは燃えだしたひげの火を両手でつかんで消そうし、同時に転びかけるのを踏みとどまることもできず、床に倒れていった。そのころにはもう、ハリーはその横を通りすぎていて——

 

行く手にネヴィル・ロングボトムが立ちふさがった。苦渋の表情だが決心をかためた様子で、すでにハリーに杖をつきつけている。

 

完全に反射的に杖へ手がのびる。ハリーがぎりぎりのところでそれを止めていなければ、ネヴィルは撃っていたかもしれない。自軍の士官でもあるネヴィルのその様子を目にして、ハリーは世界が狂ったかのように感じた。

 

「ハリー! ミスター・ハグリッドが言うとおり、きみは行っちゃいけない。これは罠かもしれない。狙われているのはきみかもしれない——」

 

全身の筋肉が硬直して棒のようになり、ばたりと床に倒れ、動かなくなるネヴィル。

 

その背後から、青ざめた顔のロン・ウィーズリーが一歩でて、ネヴィルに杖をつきつけたまま言った。「行けよ。」

 

ロン、おまえってやつは、またなにを——」と遠くから声がした。たしかミス・クリアウォーターの彼氏だったかと思う。が、ハリーはすでに前だけを見て大扉に突進していた。背後では、ロンとスーザンがつづけて詠唱する声と、 それをかきけすような一人の怒号、それにつづいてハリーの知らない声がつぎつぎにあがっていた。

 

扉を通過すると、すぐにポーチに手がのび、口が「ホウキ」と言う。背後の大扉はまだ閉まりきっていない。

 

そのまま走りつづけて玄関前の広間まで来ると、ポーチから三人乗りの長いホウキがあぶみのところまで出かかっていた。ハリーのなかには、いくつもの罵倒語をあたまのなかで唱え、『話が通じない人を説得しようとするからこうなるんだ』という声もあったが、大半はハーマイオニーがいそうな場所をたどる捜索ルートを考えようとしていた。 図書館は三階にあり、この位置からだと城の逆がわといっていいくらいだ……。 大理石の大階段の一歩手前まで来たところで、ホウキが手のなかにおさまり、ハリーは「あがれ!」と言った。そして空中に飛びあがり、二階にむけて加速する——

 

「グアッ!」  ハリーは間一髪でホウキを旋回させ、階段の上に突っ立っている人影に突っこまずにすんだ。 あやうく自分がホウキから落ちそうになり、ほとんど墜落しかけたところで、のこりわずかな空間でなんとかしてからだをひねり、足があぶみからずり落ちないようにしてみると——

 

()()()()()()()()()()

 

「探す方法が分からない!」とウィーズリー兄弟の二人のうちのどちらかが、左右の手を組みあわせ、悩ましそうに言った。 「おれたちならミス・グレンジャーを見つけられると思ったからぬけだしてきたのに—— ホグウォーツ城のなかにいる人を簡単に見つける方法が、ぜったい()()()()—— だけどそれがどんな方法か分からない!」

 

ハリーはホウキから落ちかけた結果さかさまにぶらさがった状態になっていたが、そのまま二人をじっと見た。口が勝手に、完全に反射神経でうごいた。 「それで、それだけ確信が()()()()()は?」

 

「それも分からない!」

 

「きみたちは以前、ホグウォーツ城のなかにいる人の居場所を見つけることができたということ?」

 

「そう! それは——」  二人のうち話していたほうが話すのをやめて、もう一人といっしょに遠くを見つめて呆然とした表情になった。

 

なにかが衝突して爆音をたてた。ちょうど、両開きの扉がものすごい腕力で力まかせにあけられたような音だった。

 

ハリーは空中で回転し、ホウキについた残りのあぶみ二つを、無言でウィーズリー兄弟に見せた。必要もなく声をだせば、こちらの居場所を知られるだけだ。 二人があわててあぶみに足をのせるあいだ、時間がのろのろと進んだ。計算では、ミスター・ハグリッドが走って追ってきても、こちらがいなくなるまでには階段下に到達することさえできない。そう思いながらも、心臓の鼓動が激しくなる。 三人が乗るとホウキは()()()加速し、手近な横道にむかう。床の敷石の模様が見えなくなり、壁をかすめるとそこからヒュッと音がしたように聞こえた(実際には自分の耳にあたる風の音だった)。これは三人乗りのホウキで、それだけ長さがある。ということは、つぎの角がくるまでに()()()()()()()()()()()。すんでのところでハリーはそれを思いだした。

 

これで席は三席とも埋まってしまった。ハーマイオニーを見つけることができたら、そのときは——ハリーが〈不可視のマント〉を着れば、トロルから隠れることができる。そうやってハーマイオニーのぶんの席をつくればいい——

 

ハリーはかがんで、アーチ門に自分の首が飛ばされそうになるのを回避した。

 

「たしか、ジェシーの居場所を見つけたりもした!」と、うしろのウィーズリー兄弟が言う。 「フィルチがジェシーをつかまえようとしているのを教えるために!」

 

「どうやって?」と言いはするが、ハリーの脳のほとんどの部分は飛行事故による死を回避する任務にいそがしい。 安全のため速度をおとすべきだと分かってはいるのに、緊張と得体の知れない恐怖がつのり、速度を()()()()()()()()()と思う。おとせば、恐ろしいことが起きる……。

 

「そ——それが思いだせないんだよ!」

 

ホウキはまた急な角度のコーナーへ、ハリーの推測では光速の〇.三パーセントほどの速度で突入し、くねくねとした通路を進む。これはいつもハリーが大広間から図書館へいくときの経路だが、ホウキに乗っている場合の()()()()()()()()()()。〈西の通廊〉をつかうべきだった——

 

操縦桿をにぎっていない部分のハリーの頭脳がようやく現実を認識した。

 

「だれかがきみたちの記憶を改竄したんだ!」  そう言いながらハリーは道なりに曲線をたどって飛ぶが、飛行技術がホウキの長さに対応しきれていない。そのせいで最後部にいるウィーズリー兄弟は壁に軽く衝突したりした。

 

「え!?」とフレッドかジョージが言った。

 

「ハーマイオニーの記憶をいじっただれかが、おなじことをしたんだよ、きみたちにも!」  〈忘消〉(オブリヴィエイト)かもしれないし、〈偽記憶〉を植えつけようとして失敗したのかもしれない。とにかく、いまはそんなことを考えてはいられない——

 

角をまがると螺旋階段がある。ホウキはその横を飛びあがり、三人はぴったりホウキにくっついて、天井の小さな隙間から上の三階へ通りぬける。そこが図書館の正面だった。ホウキが減速して停止する瞬間、摩擦で止めているわけでもないのにキキッと音がした。 ハリーはちらりと二人のほうを見て、目で『ここで待て』とつたえ、ホウキをおりて図書館の扉を押しあけ、呼吸をおちつかせようとしながら、なかをのぞいた。

 

ハーマイオニー・グレンジャーのすがたはない。

 

司書席でサンドウィッチを食べているマダム・ピンスが、ぱっとにらみつけてきた。 「閉館中ですよ!」

 

「ハーマイオニー・グレンジャーを見かけませんでしたか?」とハリー。

 

「閉館だと言っているでしょうが! 昼食の時間です!」

 

「とてもだいじなことなんです。 ハーマイオニー・グレンジャーを見かけませんでしたか。彼女の居場所にこころあたりはありませんか。」

 

「ありません。さあ、出ていって!」

 

「マクゴナガル先生にいますぐ緊急の連絡をする手段はありますか?」

 

「え?」  マダム・ピンスはおどろいた様子で、 席から立ちあがる。 「それはどういう——」

 

「あるかないかだけ、言ってください。いますぐ。」

 

「そうね——〈煙送(フルー)〉ならそこに——」

 

「マクゴナガル先生はいま居室にいません。 それ以外になにか連絡手段は? ありますか。ないですか。」

 

「あのね、そもそもあなた——」

 

この段階でハリーの脳は『この人もNPCだった』というフラグを立て、ハリーはきびすを返してホウキのもとへ駆けていった。

 

「待ちなさい!」と言ってマダム・ピンスも扉から飛びだしたが、すでに発進していたハリーとウィーズリー兄弟のすがたはそこになかった。 ハリーのこころのなかの(プレッシャー)が高まり、物理的にだれかの手で胸を締めつけられているように感じる。()()()()()()()()()()()()()()()、と思うが、ほかにいそうな場所のこころあたりといえば、レイヴンクロー寮の女子寝室くらいしかなく、ハリーはそこにはいれない。 ホグウォーツ城全体を捜索するのは数学的に不可能も同然。あらゆる部屋を一度以上通過する単一の飛行経路はおそらく存在しない——こんなことなら、〈闇ばらい〉が使うあの便利そうな通信鏡をハーマイオニーとネヴィルと自分に持たせておくんだったと後悔する——

 

いや——。それ以上に、自分の愚かな見おとしに気づき愕然とする。鏡などなくても通信はできる。ハリーには一月からその手段があった。 廊下をいくホウキの速度をおとし、空中で静止させ、すでに手にのっていた杖をにぎり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という意思を精神の前面で燃えあがらせ、その銀色の太陽の炎を腕に流しこむと同時に

 

エクスペクト・パトローナム!」

 

白くかがやく人形がぱっと新星のように生まれ、その横でウィーズリー兄弟は驚愕の声をあげていた。

 

「ハーマイオニー・グレンジャーへ伝言をたのむ——トロルが城内をうろついている——狙いはきみかもしれない——いますぐ日の光がある場所に行け、と——!」

 

銀色の人影は去るようなそぶりで向きを変えてから消えた。

 

「なんだよこれ……」とフレッドかジョージが言った。

 

銀色の人影が再来し、他人にはいつもそう聞こえているのであろう、奇妙なハリー自身の声で話しだした。 「ハーマイオニー・グレンジャーの返事は……」  そこで声が高くなった。 「『アアアアァァァアア!』」

 

時間の層が剥離し、すべてが高速に動くと同時に低速に動いているように見えた。 躍起になってホウキを最大速度にまで加速しようとするが、そのまえに目的地を知らなければ——

 

「ハーマイオニーの居場所が分かるなら……」  ハリーは太陽のように燃える人影をまっすぐに見て、大声で言う。 「案内してくれ!」

 

銀色の炎が動き、ハリーはそのあとを追って加速する。弾丸のように飛ぶホウキ上でウィーズリー兄弟は甲高く悲鳴をあげる。すでに常識的な速度ではなくなっているが、ハリーは速度のことも、壁をかすめそうになることも気にせず、ひたすら銀色の光を追って飛ぶ。廊下を抜け、階段を飛びこえ、フレッドかジョージが必死な声で開錠呪文をかけようとする扉をぶちあけるが、()()()()()()()()()()()()気がする。窓や肖像画をつぎつぎと通りすぎるあいだ、ハリーはこころの奥で、自分がいま蜜のなかを沈降していっているように思えた。

 

また一度(かど)を曲がって、ホウキが悲鳴をあげ、ウィーズリー兄弟のどちらかが壁にあたったが、ブラッジャーに衝突されるのにくらべれば大したことはなかった。光る〈守護霊(パトローナス)〉を追って、天井にぽっかりとあいた隙間を通って、数階ぶんを一息で急上昇する。

 

〈守護霊〉が停止するのに応じてハリーが急ブレーキをかけると、そこは広く平らな空間だった。先を見ると、途中で天井がなくなっていて、外部へ張り出すバルコニーがある。大理石のタイルが敷かれたバルコニーに屋根はなく、(そら)が見えている——

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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89章「時間の圧(その2)」

青白い炎のかたまりが床の上に点在し、その中心に巨大な、熱をおびた青い炎の面がある。

 

床の一端には、大理石のタイルが焼け焦げて割れた小円状の爆発痕がひとつ。一年生女子がやった呪文だとすれば、特別早熟な生徒が最後のちからを振りしぼって放ったものとしか考えられない威力。

 

バルコニーの陽光のもとで、ずんぐりとした鈍い灰色の肌のその生物は()()()()()()()。 大岩のような体躯の上に小さなはげあたまがちょこんと乗っていて、短く太い幹のような下肢の先には角質ばった平たい足がついている。 片手には、人間の大人ほどの太さと長さの、ばかでかい石の棍棒。そしてもう片手には■■■■■■■が

 

ウィーズリー兄弟が悲鳴をあげた。

 

ハリーの〈守護霊〉が壊れた。

 

トロルは鼻を鳴らして旋回し、ハリーたちに向きあい、片手から

 

■■■■■■■を足もとの赤い池に落とし、片手の棍棒を高くかかげた。

 

双子のどちらかが大声でなにかを詠唱すると、棍棒がトロルの手からもぎとられ、顔に殴りつけられた。トロルはその衝撃で一歩身を引いた。マグルなら一発で死にかねないほどの打撃だった。 鼻をつぶされ血まみれになったトロルは怒りの雄叫びをあげた。すると鼻はもとどおりに再生した。 トロルは両手で棍棒をとろうとしたが、棍棒はすんでのところで飛び去った。

 

「そのまま誘導して。こっちに来ないように。」

 

棍棒はトロルから遠ざかり、バルコニーを離れ、後方の屋根のある床の部分にむけて飛んでいく。 トロルは巨大な足で跳躍する。その手が棍棒にとどきそうになるが、 棍棒はそれをよけて飛び、トロルはまた跳躍する。 ハリーはそのあいだに前進していたホウキからとびおり、ハーマイオニー・グレンジャーのところへ走りこむ。……すでに大腿部から先を食いちぎられ、自分自身の血の海のなかにいる彼女のもとへ。

 

ハリーはポーチから取り出した治癒キットを開封し、自動巻き止血帯をひとつ引っぱりだし、それをちぎれた足の、歯型のある断面に巻いた。血で一度手がすべったが、震えることはなかった。震えさせているべきときではない。 ひと巻きさせると、止血帯は患部をしめつけた。ふとももの断面からまた血がでたが、やがて止まった。もう片ほうにも、おなじ処置をする。 ハリーの精神の一部はひたすら悲鳴をあげつづけ、もうひとつの自動巻き止血帯を手にとろうとする部分のハリーにもそれが聞こえていた。だが聞いているべきときでもない。

 

ウィーズリー兄弟の二人が大声で呪文を連射している。ハリーなら六十秒もつづければ意識不明になるくらいの速さで、ときには完全にタイミングを同期させて撃っている。しかし、その大半はトロルの皮膚のところで止まり、無害な火花となって散っている。 もうひとつの止血帯がしめつけ、また血がどっと出たところで、見あげると『ディフィンド』と『レダクト』がトロルの無防備な両目にあたり、両方の硝子体が粉ごなに吹き飛んだ。しかしトロルはすぐにまたひと吠えし、目は再生しはじめた。

 

「火か酸! 炎か酸で攻撃しろ!」とハリー。

 

「『フエゴ』!」「『インセンディオ』!」という声が聞こえるが、ハリーはそちらを見ていない。ポーチのなかの、オレンジ色に光る酸素供給ポーションの注射器を手にとり、それをハーマイオニーの首の頚動脈の(だと思う)位置に刺し、肺か心臓が停止しても脳が生きつづけられるようにする。脳が無事でさえあれば、ほかの部分は修復できる。修復する魔法がかならずある。修復する魔法はかならず、かならず、かならずある。首に刺した注射器をぐっと下げて液を注入すると、ハーマイオニーの白い肌の下でそれがうっすらと光る。 つぎに胸の心臓があるはずの位置を強く圧迫することをくりかえす。これでうまくいけば、酸素のはいった血液が脳にとどく血管にまで流れてくれるかもしれない。心臓がすでに止まっているとしても。もっとはやく脈をとって、止まっているかどうかを調べておくべきだった。

 

キットのなかにあるほかの機材に目をやる。ほかになにか利用できるものがそこにあっただろうかと考えようとするが、あたまが真っ白になる。 こころの奥に隠れた悲鳴がひときわ大きくなり、必死に動いていた両手はもうかたまっている。 いまさらのように自分のローブとズボンのひざ部分にびっしょりと血がしみこんできていることに気づく。

 

背後でまたトロルが吠える声がした。ウィーズリー兄弟が「『デリギトル・プロディ』!」と叫び、「助けてくれ! なにかないか!」と言っていた。

 

そちらを振りかえると、双子のどちらかがいつのまにか〈組わけ帽子〉をあたまにのせて立っていた。対するトロルは、巨大な石の棍棒に左右の手をかさねている。腕にある一、二カ所の長い切り傷から煙がでていて、多少弱っているようでもあるが、まだぴんぴんしている。

 

そのとき〈組わけ帽子〉が壁を揺らすほどの声で咆哮した。

 

グリフィンドール!」

 

ドンと圧が生じて、空気が熱をおび、ハリーの未熟な感覚でも感じられるほど質感のある魔法力が出現した。トロルはうしろにとびのき、おどろいて鼻を鳴らした。 フレッドかジョージかが奇妙な表情をして、奇術師のようななめらかな動きで帽子をあたまからとり、そのなかに片手をいれた。抜かれた手のなかに、剣の柄が見えた。柄の端には光る紅玉(ルビー)がはめられ、幅のある(つば)はきらりとした白い金属でできている。刀身の長さは大きな子どもの背たけほどにも達する。 その剣が出現した瞬間、空気から無言の怒りが聞こえたような気がした。

 

刀身には黄金の文字で『nihil supernum』と書かれていた。

 

双子の片割れは巨大な剣の重さをものともせず高くかかげ、絶叫して突進した。

 

ハリーの口がひらいて、『待て、剣のつかいかたなんて知らないだろう』というようなことを言いかけた。しかし最初の一音が発せられるまえに、剣はトロルの右腕のひじから先の皮膚と肉と骨をするりと切り落としていた。 突進した双子の片割れは、すでに軌道にのっていた石の棍棒になぐりつけられて空中を高く飛んでいき、ハリーたちがのぼってきた隙間のむこうの奥の壁にぶつかり、それきり倒れて動かなくなった。

 

光る剣は床の隙間に落ちて消え、遠くでこつりと音がした。

 

「フレッド!」とジョージ・ウィーズリーが言った。「『ヴェンタス』!」

 

見えないかたまりがトロルを襲い、横に押しのけた。

 

「『ヴェンタス』!」

 

それがまたトロルにあたり、トロルは床の端の隙間の直前まで吹き飛ばされた。

 

「『ヴェンタス』!」

 

しかしトロルはすでに無事なほうの手を床の大理石にのめりこませてつかみ、踏みとどまる土台としていた。 第三撃がトロルを襲い、そのからだを切り立った隙間の上まで飛ばせはしたももの、トロルの手はあと一歩のところで残った。 トロルは片手でぐいっと飛びあがり、咆哮した。

 

ジョージ・ウィーズリーは片手をおろして、ほとんど倒れそうになりながら、やっとのことで歩いている。苦しそうな声で話す。 「ハリー……逃げろ——」

 

ジョージ・ウィーズリーは一歩引いて壁に倒れこみ、そのままずさりと床に落ちた。

 

時間の層が剥離し、周囲の世界の動きが遅く、歪んだように思えた。いや、自分のこころそのものがねじれて折れているのかもしれない。 動いてなにかすべきときなのに、全身の筋肉が奇妙に麻痺したようで、動くことができない。 言語化する間もなく、いくつもの思考がハリーのあたまのなかをよぎる。 いま自分が逃げればウィーズリー兄弟とハーマイオニーがトロルに食べられる……魔法族はブラッジャーにぶつかられても死なない、ならフレッドも生きているはず……ハリーよりも呪文の実力があるウィーズリー兄弟でもこのトロルを押しとどめることはできなかった……いま持っていないなにかを〈転成術〉でつくっている時間はない……バルコニーの端におびきよせて下に落とそうにも、このトロルはおそらく俊敏すぎる……だれかが呪文で日の光への耐性をつけてこのトロルを殺人兵器にしたてたにちがいない……ほかの種類の強化もしているかもしれない……。 そこでハーマイオニーが追われている様子が思いうかんだ。トロルに追われ、日の光のある場所を探して、つかまりそうになりながら、ようやく明るいバルコニーにたどりついたそのとき、それもだれかの想定の範囲内だったと気づかされたときのハーマイオニーが。

 

ハリーのこころのなかに鳴りひびていた戦慄の声が、別の感情に押し流された。

 

ハリーは立ちあがった。

 

部屋の反対がわで、敵も立ちあがっていた。剣で切断されたほうの腕は再生せず、まだ血が流れている。

 

——殺意を——

 

トロルはのこったほうの手で床に落ちた棍棒をとり、大きく吠えて、棍棒を床にたたきつけた。大理石の破片が宙を舞った。

 

——殺すことだけを考えろ——

 

トロルはどすりどすりと、倒れたジョージのところへ歩きだす。口の端からは一すじのよだれが落ちている。

 

——そのためにつかえるものは見のがすな——

 

ハリーは五歩まえに出た。敵はまた吠え、ジョージのほうを見るのをやめて、その目にしっかりとハリーをとらえた。

 

——ためらうな、たじろくな——

 

自然界で三番目に完全な殺人機械が大きくハリーのほうに跳躍してくる。

 

殺せ

 

ハリーの左手にはすでに、指輪からはずした〈転成〉ダイアモンドがある。右手にはすでに杖がある。

 

「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」

 

ハリーの杖に誘導されて、ダイアモンドの粒がトロルの口のなかへと運ばれていく。

 

「フィニート・インカンターテム」

 

岩がもとの大きさと外形をとりもどし、トロルの首が()ぜてもげた。ハリーは横に一歩動いて、〈敵〉のからだが倒れてくるのをよけた。

 

敵の頭部は早くも再生しはじめ、ちぎれたあごと頚椎の断面がなめらかになり、口が完成し、歯が生えかわっていく。

 

ハリーはかがんで、床に落ちた頭部の左耳をつかんで持ちあげた。 杖をその左目にえぐりこみ、ゼリー状の硝子体をつらぬき、巨大な眼窩を穿(うが)った。 そして敵の脳の一ミリメートル大の一部をこころにえがき、それを硫酸に〈転成〉した。

 

敵の再生がとまった。

 

ハリーは死体をバルコニーの外に捨て、ハーマイオニーのほうを振りむいた。

 

ハーマイオニーの目は動いていて、ハリーに焦点があった。

 

ハリーは急いでそこへ駆け寄り、すでに血でびっしょりの自分のローブがまた血で濡れるのもいとわず、話しかけようとする。 『だいじょうぶ、きっとだいじょうぶだから。』  かけるべきことばはもう分かっているのに、口が動かない。 『きっともとどおりに治せる魔法があるから、だから、もうすこしだけ——』

 

ハーマイオニーのくちびるが動くのが見えた。ごくわずかにだが、たしかに動いている。

 

「あなたの……せい……」

 

時間が凍りついた。 しゃべらずに酸素を温存しろと言ってやるべきなのに、ハリーの口はまだ、動こうとしない。

 

ハーマイオニーはもう一度息をすい、声をだした。「あなたのせいじゃ、ない。」

 

そう言ってから息をはき、目をとじた。

 

ハリーは口を半分あけたまま、ハーマイオニーを見ている。息をつぐことができない。

 

「そんな。」  あと二分早ければ間にあっていたのに。

 

ハーマイオニーのからだが痙攣し、震える両腕が上にむかって宙をつかむように動き、目がぱちりとあいた。 そして()()()()噴出した。噴出したのは魔法力と魔法力以上のなにか——地震よりも強烈で、幾千の本や幾千の図書館より雄弁な内容を凝縮した一声。そこにはハーマイオニーのすべてがあった。 理解しつくすことのできない膨大な奔流から、ハリーは不意に二つのことをつかみとった。ハーマイオニーは痛覚が飽和していたのだということ。死ぬとき一人でないのが嬉しかったということ。 流れでた魔法力がしばらくはそのまま城の床面にとどまるかのように見えていたが、やがてそれも消え、身体のあらゆる部分が静止し、ハーマイオニー・ジーン・グレンジャーは存在を終える——

 

——いや。

 

ハリーは遺体の横で立ちあがり、ふらついた。

 

——そんな。

 

炎がひとつ立ちのぼり、ダンブルドアがフォークスとともに出現した。愕然とした目をしていた。 「生徒が死んだという信号があった! なにが——」

 

老魔法使いの目が、床の上にあるものをとらえた。

 

「ああ、なんたること。」とアルバス・ダンブルドアが小声で言った。 フォークスが悲しげに追悼の声を発した。

 

「生きかえしてください。」

 

しんとするバルコニー。 ダンブルドアの杖のひとふりで空中に浮かばせられたフレッド・ウィーズリーが、たのもしげな桃色の光につつまれて、引き寄せられてきている。

 

「ハリー——」  老魔法使いは声をつまらせる。 「ハリー、それは——」

 

「フォークスを泣かせるとか、なんでもいいですから、はやく。」  完全に平静な声だった。

 

「そ……それはもう、手遅れじゃ。彼女は……死んでしまった——」

 

「情けないことを言わないでくださいよ。 もしここでやられたのがぼくだったら、あなたは帽子からウサギをとりだしでもして、救おうとするでしょう。物語が幕を引くまえに英雄(ヒーロー)に死なれては困るから、そうしますよね。 彼女もヒーローなんです。どうせとっておきの秘策かなにかがあるんでしょう。それをいまつかってください。あとでお返しはします。」

 

「こうなってはわしにできることはない! 彼女の魂はもう旅だってしまった!」

 

ハリーは口をひらいて、怒りにまかせて絶叫しようとしたが、また口をとじた。 いま絶叫しても意味はなく、なにを達成できるわけでもない。 自分のなかで限界になりつつある圧をそのように放出してしまってはならない。

 

ハリーはダンブルドアを見るのをやめて、足もとの血の海のなかに横たわるハーマイオニー・グレンジャーの遺骸を見た。 ハリーの精神の一部は周囲の世界に対してむずがり、この悪夢を終わりにして、レイヴンクロー寮の寝室でカーテンからふりそそぐ朝の日の光のもとで目をさまそうとする。 しかし血は消えず、悪夢はさめない。別の一部はこれが現実であること……アズカバンやウィゼンガモートのある不完全な世界の一部であることをちゃんと認識していて

 

——認めない

 

時間がまだばらばらになっているように感じられ、なにかがはがれていく感覚とともに、ハリーはダンブルドアを見るのをやめて、足もとの血の海のなかに横たわる、両足の断面に止血帯が巻かれたハーマイオニー・グレンジャーの遺骸を見た。そして、結論として

 

認めない。

 

認めるものか。

 

この世界に魔法があるなら、手遅れだったではすまされない。

 

どれだけの調査が必要だろうとも。どれだけの発明が必要だろうとも。〈闇の王〉の精神からサラザール・スリザリンの知識を奪いとり、アトランティスの秘密を解明してでも。どんな門もこじあけ、どんな封印も解き、あらゆる魔法の根源にたどりついて、再設計してでも。

 

ハーマイオニー・グレンジャーを生きかえらせるためなら、現実を根本からバラバラにすることもいとわない。

 

◆ ◆ ◆

 

「危機は去った。」と〈防衛術〉教授が言う。「もうおりてけっこうですよ、トレロウニー先生。」

 

それまでこの二人乗りのホウキが火となって壁や床に突入して城を縦断していくあいだ後部に座らされていたトレロウニーは、あわてて腰をあげ、床にぺたりと座りこんだ。その一歩となりの壁には、できたての赤く光る穴があった。 まだ息もたえだえに、自分より大きなものを吐きだそうとするかのようにして、背をまるめるトレロウニー。

 

〈防衛術〉教授は少年が戦慄をおぼえるところを感知していた。二人のあいだには以前から魔法力の共鳴によるつながりがあり、その経路を通じて感知できたのだった。 少年が捜索にでてトロルを見つけたことも感知していた。 〈防衛術〉教授は少年に、『退却したい』、『〈不可視〉のマントを着て逃げたい』という衝動を送ってみようともしたが、 それまでに共鳴を通じてそういった影響力を行使できたことはなく、そのときもやはり失敗した。

 

〈防衛術〉教授は少年が完全に自分の殺意に身をまかせるのも感知していた。 それに気づくやいなや、城の骨肉を突き破って、戦闘が終わるまえにその場にかけつけようとしたのだった。

 

〈防衛術〉教授は少年がものの数秒で敵を処理するところも感知していた。

 

少年が友人の死を目にしたときの絶望の感情も感知していた。

 

少年がなにかに——おそらくはダンブルドアに——いらだたせられて怒りをぶつけたことも、それから少年がなんらかの強い決意をしたことも感知していた。〈防衛術〉教授でさえ認めるほどのゆるぎない決意だった。 もしかするとこのことで、いままでのくだらない躊躇を捨ててくれたのかもしれない、とすら思えた。

 

だれにも見られないまま、〈防衛術〉教授のくちびるが薄ら笑いのかたちになった。 この一日、多少の運不運があったとはいえ、全体としてはおどろくほどよい結果になったと言える——

 

彼は来た。彼がひきさくのは天の星ぼしそのもの。彼は来た。彼は世界の終わりなり。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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90章「それぞれの役割(その1)」

ダンブルドア総長が一度『イナヴェイト』をしただけでフレッド・ウィーズリーの意識はもどった。腕と肋骨の骨折も、予備的な治癒魔法で処置された。 ハリーの口から、〈転成〉した酸がトロルの頭部のなかにあること(ダンブルドアはそれを聞いてバルコニーに行き、そこから下に身を乗りだして手ぶりをしてから、もどってきた)、ウィーズリー兄弟の精神が改竄されていたことが、ダンブルドアに告げられた。つづけて、ハリーが記憶はしたものの解釈できていない部分の話もした。

 

ハリーはハーマイオニーの遺体のもとを一度も離れることなく、解離の感覚と剥離する時間を乗りこえて、できるかぎり速く思考しようとしている。なにか()()しているべきことはないのか。いま非可逆的にうしなわれつつある機会がなにかあるのではないか。 いまなにかしておけば、あとで必要になる魔法的全能性の度合いを下げることができるのではないか。 あとで六時間以上の時間旅行ができるようになったときのために、この時間的位置に目じるしをつけておく方法はないか。 〈一般相対論〉にもとづく時間旅行をするための理論は存在する(〈逆転時計〉にであうまえには、あまり現実味がない理論だったが)。その種の理論のタイムマシンは、つくられた時点よりまえへ逆行することができない——相対論的タイムマシンは連続的な時間の経路を維持するものであり、空間的転移(テレポーテーション)をさせるものではない。 しかし、いまの自分につかえる呪文の語彙のなかに有用なものは見あたらない。ダンブルドアもあまり協力的ではない。いずれにしても、決定的な〈時間〉的位置からはもう数分すぎてしまっている。それに

 

「ハリー。」 総長がそっと声をかけ、ハリーの肩に手をのせた。 いつのまにかウィーズリー兄弟のそばから消え、ハリーのとなりに出現してきていた。ジョージ・ウィーズリーも非連続的に転移させられて、フレッドのそばにおかれていた。フレッドはまっすぐに寝かされ、目をあけて、苦しげに息をしている。 「ハリー、きみはこれ以上ここにいてはならん。」

 

「ちょっと待ってください。」とハリーの声がする。 「なにかやりのこしたことがないか、考えているんです。」

 

老魔法使いは無力そうに言う。 「ハリー——きみが魂を信じていないのは知っているが——ハーマイオニーがきみを見守ってくれているかいないかはともかく、きみのそのありさまを彼女が喜んでくれようはずがない。」

 

……ああ、そうだった。

 

ハリーはハーマイオニーの遺体に杖をむけ——

 

「ハリー! きみはいったい——」

 

——腕から手へと、全霊をこめて——

 

「『フリジデイロ』!」

 

「——なにを……?」

 

「低体温法です。」  よろめきながら、うわのそらでそう話す。これはハリーとハーマイオニーが遠い昔に実験した呪文だった。そのおかげで、ハリーはこれを高い精度で制御することができている。とはいえ、これだけの質量に対してかけるのにはかなりのエネルギーを要した。 ハーマイオニーの遺体はこれでほぼちょうど五℃になっているはず。 「冷水につかったまま三十分以上呼吸がとまっていた人が生還した例があります。 温度が低下すると、あらゆる反応が遅くなるので、脳損傷も防げます。 マグル医師のあいだでは『人が死ぬのは温かくなって死んでからだ』という表現があります——手術の際に、患者の心臓を止めてまで体温を下げることすらあったんじゃないかと思います。」

 

フレッドとジョージの泣く声が聞こえはじめた。

 

ダンブルドアの顔にはすでに幾筋もなみだが流れていた。 「ハリー……その気持ちはよくわかる。しかしきみはこのままではいけない。」  ダンブルドアはハリーの肩にちからをこめ、自分のほうに引き寄せた。

 

ハリーは抵抗せず、ダンブルドアに引かれるままハーマイオニーの遺体と血の池を離れて歩いていく。 あの〈冷却の魔法(フリジデイロ)〉のおかげで時間をかせぐことはできた。 すくなくとも数時間。うまくいけば、効果を切らさないようにこの呪文をかけつづけるか、温度の低い場所に遺体を保管することで、数日間もつかもしれない。

 

これで、しばらく考えることができる。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァはアルバスの表情を見てすぐに、異変を察した。 そしてなにが起きたのだろうかと思うだけの時間があった。だれが死んだのだろうか、とさえ思った。 アラスター、オーガスタ、アーサー、モリーの顔がつぎつぎに浮かんだ。ヴォルデモートがまた攻撃をはじめるとき、まっさきに標的になるであろう人たち。 こころの準備はできたと思った。最悪の可能性にもそなえることができていると思った。

 

それからアルバスが話し、準備は無に帰した。

 

まさかハーマイオニーが——そんな——

 

アルバスは話を中断し、ミネルヴァはしばらく泣いた。それからはハリー・ポッターの話だった。ハリー・ポッターはミス・グレンジャーの死をみとったあとずっと、遺体がおかれている医務室収納庫まえに陣取り、離れようとしないのだという。だれが話しかけても、一人で考えたいからと言って追いはらわれるのだという。

 

ハリー・ポッターが唯一反応を見せたのは、フォークスが歌を聞かせようとしたときだった。 ハリー・ポッターはフォークスにどうかそれをやめてくれと言った。いま自分が感じている感情はほんものであり、魔法で()()していい病気などではないからと。 以後、フォークスは一転して歌おうとしなくなった。

 

アルバスは、いまハリー・ポッターが聞く耳をもつ相手がいるとすればミネルヴァではないかと考えている、と言って話し終えた。

 

やむをえず気持ちを切りかえて、顔の乱れをととのえる。悲嘆するのはあとで一人になれる時間にしよう。それまでは、生きているほうの子どもたちをみてやらなければ、と思う。

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは千千(ちぢ)に乱れたこころを落ちつけて、しめくくりにもう一度目をぬぐってから、医務室の収納庫手前の区画へ通じるドアのノブに手をかけた。この場所は、過去百年間では二度、ホグウォーツ城が建造されてから数えても五度しか、若く有望な生徒の遺体の安置場所としてつかわれたことはない。

 

その扉をあける。

 

ハリー・ポッターの目が彼女をとらえた。 少年は収納庫の扉のまえの床で、ひざの上においた手に杖をもち、座っている。 その目にあるのは悲嘆か、うつろさか、それとも失意か。一見して読みとることができない。 ほおには泣きあともなかった。

 

「なにをしにここに来たんですか? マクゴナガル先生。 しばらくだれにもこさせないでくださいと、総長に伝えておいたんですが。」

 

なんと言ってあげればいいのか。 あなたを助けに——あなたはいまおかしくなってしまっているから——しかし、どう言えばいいのか。どんな言いかたをしたとしても、よい結果になるようには思えない。 ミネルヴァ自身万全の状態ではなく、この部屋にくるまで話す内容を準備していなかった。

 

「いまどんなことを考えていますか?」  ミネルヴァが思いついたのはそれだけだった。 アルバスの話では、何度きいてもハリーは『考えている』途中だとしか言わなかったのだという。いまはなんとかしてハリーに話をさせるべきだと思う。

 

ハリーはミネルヴァかそのむこうを見るような目をしつづけた。緊張がハリーの表情にあらわれるのを見て、ミネルヴァは息をつまらせた。

 

しばらくすると、ハリーは話しはじめた。

 

「ぼくは、いま自分がしているべきことがなにかないか、考えようとしています。 でもむずかしいですね。 過去のことばかり思いうかんで、もっとあたまの回転が速ければあのときああできたのにと考えてしまいます。しかも、そう考えることでなにか重要なことが見つからないともかぎりません。」

 

「ミスター・ポッター……ハリー…… そういう風に思っていては——あなたの健康のためによくありません——」

 

「いいえ。人が死ぬのは考えることによってではありません。」  ひたすら単調な、本の一節を読みあげているような言いかただった。

 

「ハリー。」  ミネルヴァはほとんどなにも考えずに言う。 「……あの段階ではもう、あなたがなにをしても彼女を救うことは——」

 

ハリーの表情になにかがちらついた。 はじめてこちらをしっかりと目でとらえたようだった。

 

「なにをしても? なにをしても救うことはできなかった? いいえ、ぼくにできたことは数えきれないほどありますよ! 通信用の鏡を全員に配布するよう頼んでさえいれば! この学校ではない、まともな学校にハーマイオニーを転校させるよう、もっと食い下がっていれば! ふつうの人たちと議論しようとなどせず、即座に大広間を脱け出していれば! 〈守護霊〉をつかうことをもっと早く思いだせていれば! 事前に訓練して、緊急時に〈守護霊〉のことにすぐに思いあたれるようになっていれば! 手遅れになりかけた段階でも、できることはありましたよ! ぼくがトロルを殺してから振りむくとハーマイオニーはまだ生きていた。そのときぼくはただひざをついて、バカみたいに最後の一言を聞いていただけで、〈守護霊〉をもう一度つかってダンブルドアにフォークスを飛ばしてもらうことを思いつかなかった! まったく別の方向から攻めるなら——別の〈逆転時計〉をもっている生徒を見つけて、ハーマイオニーになにかが起きたことを()()()()()ぼくにメッセージをとどけてもらえば、改変できないかたちで結果を生じさせてしまうこともなく——。時間をさかのぼってハーマイオニーを救ってすべてを偽装してもらえないかと、総長に頼んではみました。死体を偽装して、全員の記憶を改竄してやればいいのではないかと。でも総長は以前おなじようなことをしたことがあって、失敗して、友人を一人余計に死なせる結果になったそうです。 あるいは——あの夜に——ぼくが呼びかけにこたえてさえいれば——」

 

ハリーは両手で顔をおおった。そして手をはずしたときには、また冷静な表情になっていた。

 

「とにかく……」  ハリー・ポッターは単調な口調にもどった。 「またおなじまちがいをせずにすむように、いま自分がすべきことはほかにないか、夕食の時間まで考えさせてもらいます。 そのときまでになにも思いつかなかったら、夕食を食べにいきます。 だから出ていってください。」

 

ミネルヴァはまた涙が自分のほおに落ちているのに気づいた。 「ハリー——わかってください。これはあなたのせいで起きたのではないと!」

 

「ぼくのせいに決まっているじゃないですか。あらゆることに責任があっていいのは、このなかでぼくだけなんですから。」

 

「いいえ、ハーマイオニーを殺したのは〈例の男〉です!」  自分がなにを言いだすのかも分からないまま、ほかのだれかが聞き耳をたてていないかも調べないまま、ミネルヴァは言いだした。 「あなたではなく。 あなたにできなかったことがいくらあるにせよ、あなたは殺していません。殺したのはヴォルデモートですからね! それすら信じられないで、正気でなどいられないでしょう!」

 

「責任とはそういうものじゃありませんよ、マクゴナガル先生。」  辛抱づよく、子どもを相手に子どもが理解できるはずのない話をしようとしているような言いかただった。その目はもうこちらを見ておらず、右手の壁をぼんやりと見ている。 「システムの故障の原因解析をするとき、あとで変更しようのない部分を原因部分だと見なしても無意味です。崖から落ちて重力に文句を言うようなものです。 つぎがあったとき、重力は変化しません。 自分の行動を変えようとしない人たちに責任を割りあてても無駄です。 そういう見かたをすれば、自分以外のだれの行動を責めてもなんの意味もないと気づくようになります。責めることで変化させられるのは自分自身の行動だけですから。 ダンブルドアが折れた杖をならべた部屋をもっているのも、そのためです。あの人もその部分は理解しているようです。」

 

ミネルヴァはこの場から遠く離れたこころのなかの部分で、総長にきつい一言を言うのはしばらくあとのことにしようと決めた。そのときには、影響をうけやすい子どもたちになにを見せているのかと 叫んでしまうかもしれない。 いずれにしろ、以前からミス・グレンジャーのことでそうするつもりではあった——

 

「いいえ、あなたの責任ではありません。」と言う声が震えてしまう。 「これは教師の責任——生徒の身の安全をまもるのは、あなたではなくわたしたちの責任です。」

 

ハリーの視線がミネルヴァのほうへ舞いもどる。 「あなたたちの?」  その声がこわばったように聞こえた。 「マクゴナガル先生、あなたは自分の責任を追及してほしいんですか?」

 

ミネルヴァはあごを高くして、うなづいた。 そのほうが、ハリーが自分を責めるよりははるかにいい、と思う。

 

少年は床を手で押して立ちあがり、一歩こちらに近づいた。 「じゃあそうしましょうか。」 ハリーは単調な声で言う。 「ハーマイオニーが行方不明で、そのことを教師のだれも知らない、ということに気づいて、ぼくは理にかなった行動をとろうとしました。七年生にむけて、ぼくといっしょにホウキに乗って捜索に来てほしい、ぼくはハーマイオニーをさがすから、そのあいだ護衛してほしい、と呼びかけました。 だれかやってくれないかと何度も頼みましたが、 応じる人はいませんでした。 あなたが全員動かず一カ所にいろ、そうしなければ問答無用で退学だ、と絶対的な命令をしたからです。 ダンブルドアにもまちがいはあるにせよ、あの人なら生徒を人間としてあつかいます。囲いのなかにいれておかなければ迷いでてしまう家畜の群れとしてではなく。 あなたは自分が軍事面につよくないことを知っていた。自分より戦略や戦術に秀でた生徒がいると知っていた。なのにあなたはぼくたちを一部屋に押しこめた。そのせいでぼくたちは臨機応変な対応がとれなかった。 あなたの想定になかったことが起きて、七年生一人を連れて高速なホウキでハーマイオニー・グレンジャーを捜索することが理にかなっていたとき、だれもがそれでもあなたは理解せず許さないだろうとしか思わなかった。 彼らが恐れていたのは、トロルではなくあなただった。 あなたが彼らに教えこんだ規律、同調、()()()のせいでぼくの出発が遅れ、その遅れが命とりとなって、ハーマイオニーが死んだ。 もちろん、そもそもぼくがふつうの人たちの手を借りようとしたのは愚かなことでしたし、次回はそうしないようにしますよ。 でも、ぼくが自分以外のだれかに責任を割りあてるほどバカだったとしたら、こういうことを言うと思います。」

 

なみだがミネルヴァのほおを流れ落ちた。

 

「ぼくがあなたにすこしでも責任をもたせていいと思っていたら、そういうことを言うと思いますけれどね。 でもふつうの人たちは自分がえらんだ行動がどんな影響をおよぼすかを考えない。ただ役割を演じることしかしないものです。 あなたのあたまのなかには厳格な規律主義者のイメージがあって、そのイメージに沿うことなら、意味のないことでもとにかくやってしまう。 厳格な規律主義者なら生徒全員を自室に帰らせるだろう、と思う。トロルが廊下をうろついているときでも。 厳格な規律主義者なら退学の罰を予告して、だれ一人大広間をでるなと命令するだろう、と思う。 あなたのあたまのなかにある『マクゴナガル先生』のイメージは、経験から学ぶことも自分を変えることもできない。だからこんな会話は無意味です。 あなたのような人たちに、なんら責任はない。すべての責任はぼくのような人たちにある。そしてぼくたちはほかのだれを責めることもできない。」

 

少年はミネルヴァの真正面にまで歩いてきた。 そこで自分のローブのなかにさっと手をいれ、黄金色の球体をとりだす。魔法省が提供した〈逆転時計(タイムターナー)〉用保護ケースだ。 少年は平坦きわまりない声で話しはじめる。 「これをつかうことが許されていればハーマイオニーを救うことができたかもしれません。 でもあなたは自分の役割上、ぼくに勝手をさせてはならないと思って、邪魔をした。 このケースをつけたとき、あなたはホグウォーツでは五十年間一人の死人もでたことがないと言いました。おぼえていますか? ベラトリクス・ブラックがアズカバンを脱獄したときか、ハーマイオニーが殺人未遂の罪を着せられたときに、ぼくはこれを解除してもらおうとすべきでした。 でもぼくはバカだったから、し忘れていました。 解除してください。これ以上ぼくの友だちが死ぬまえに。」

 

ミネルヴァは絶句したまま杖をとりだし、かつて自分の手でケースの時限錠にかけた呪文を解いた。

 

ハリー・ポッターは黄金色のケースのふたをあけ、円と円のなかの小さな砂時計に目をやり、うなづいてから、ふたをとじた。 「どうも。じゃあ、出ていってください。ぼくは考えることがあるので。」  また泣き声まじりの声だった。

 

◆ ◆ ◆

 

扉を後ろ手にとじると、哀れな声がでそうになる。押し殺しはしたものの、多少は聞こえてしまう——

 

となりにアルバスが光るシルエットとなって出現した。けばけばしい残光とともに〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)がとけるところだった。

 

ミネルヴァはとびあがることまではしなかった。 「やめてくださいと言っているでしょう。」  自分でも精彩を欠いた声に聞こえた。 「個人的な会話だったんですから。」

 

アルバスは扉にむけて指をひと振りした。 「心配だったのでな、ミスター・ポッターがおぬしを傷つけるのではないかと。」  アルバスは一度ことばを切って、小声でつづけた。 「……おぬしがあれをただ受けとめたのにはおどろかされた。」

 

「わたしがひとこと割りこみさえすれば、彼はやめていたでしょう。」  ささやくような小声になる。 「……すぐさまやめてくれていたと思います。 そしてやめていたとしたら、彼にはああやって罵倒できる相手が一人もいなかった。」

 

「ミスター・ポッターのあの言いようは、おぬしに対して不当かつ不公平きわまりない評価だと思う。」

 

「アルバス、あなたなら生徒をおどして大広間に閉じこめることはしなかったはず。 本心からそうでないと言えますか?」

 

アルバスの両眉があがった。 「今回の災厄でおぬしがはたした役割は小さい。そのように判断したのは当時の状況では無理もなかった。ハリー・ポッターがあのように考えているのは全面的な後知恵の産物。 おぬしこそ、この件で自分を責めるのは無為なことだと分かってくれていると思うが。」

 

アルバスがあとでハーマイオニーの写真をあの陰惨な部屋の特等席に置くであろうことはまちがいない。 その当時アルバスは不在であったにもかかわらず、アルバスがこれを()()()()()責任だと考えるであろうこともまちがいない。ミネルヴァの責任ではなく。

 

つまりあなたにとっても、わたしは責任を問うにもあたいしない人間だということ……

 

ミネルヴァは手ぢかな壁によりかかり、涙があふれるのをおさえようとした。 アルバスの涙は三度しか見たことがない。 「あなたはわたしと逆で、いつも生徒を信用していました。 生徒たちは、あなたに対してなら怖がらなかったはず。あなたなら理解してくれると思って行動したはず。」

 

「ミネルヴァ——」

 

「わたしはあなたの後任として総長をつとめる資格がありません。 それはおたがいよく知っているはずです。」

 

「それはちがう。 そのときがくれば、おぬしはホグウォーツ第四十四代総長として立派につとめをはたす。」

 

ミネルヴァはくびをふる。 「これからどうします? わたしでは話してもらえないなら、だれが?」

 

◆ ◆ ◆

 

それから三十分が経過したころ。 少年は持ち場を離れず、親友の遺体がおかれた部屋への扉の番をしていた。 視線は下の、手のなかの杖に向けられている。 顔をしかめてなにかを考えているときもあり、緊張がとけているときもある。

 

扉はとじたままで、音もしなかったが、少年は顔をあげた。 表情をととのえた。 その口からでた声は精彩を欠いていた。 「話し相手はいりませんよ。」

 

扉がひらいた。

 

〈防衛術〉教授が入室し、扉を後ろ手に閉め、慎重に少年と対極の隅の、できるかぎり少年から距離をたもてる位置に陣取った。 二人のあいだの空間に破滅の感覚があらわれ、そのまま高潮した状態をたもった。

 

「なにをしにここへ?」

 

そのことばに男はくびをかしげ、 淡い水色の両目で少年を観察しはじめた。遠くの星から来た、したがって危険な生命体をしらべるかのようにして。

 

「謝罪をしに来たのだよ。」

 

「なんの謝罪ですか? なんのために? あなたがなにかしていればハーマイオニーの死をふせぐことができたとでも?」

 

「わたしはきみたちの所在を確認することを思いついているべきだった。きみとミスター・ロングボトムとミス・グレンジャー、この三人がつぎの標的になることは当然考えられた。」  〈防衛術〉教授は躊躇なく言った。 「ミスター・ハグリッドには生徒の集団を統率するだけの精神力がない。 わたしは副総長に制止されても黙るべきではなかった。フリトウィック教授を監督役として残すよう進言すべきだった。彼なら脅威から生徒を守ることができ、〈守護霊〉という通信手段も持っていた。」

 

「そのとおり。」  少年の声はかみそりのようにするどい。 「ぼく以外にも責任があっていい人が一人いるのを忘れていました。 ではなぜあなたは思いつかなかったんでしょうね? ()()()()()()()()()()()、とは思えませんが。」

 

二人は無言になり、杖をつよくにぎる少年の指の背に骨が浮き出た。

 

「きみとて、その場では思いつけなかった。」  声から疲弊が感じられる。 「わたしはきみより速く深く考えることができる。きみより経験がある。 それでもわたしたち二人のあいだには、わたしたちと彼らとのあいだにあるような差はない。 きみが見のがしたものごとをわたしが見のがすことは十分にある。」  口もとがゆがむ。 「あのトロルは陽動にすぎず、それ自身に大きな意味はない、という風に即座に推論してしまったくらいだからな。 生徒たちに廊下を歩かせるという無意味な真似をしたり、トロルが出没したそもそもの現場である地下洞(ダンジョン)に年少のスリザリン生たちを送りこむという不用意な真似をしたりする者がいないという前提に立って。」

 

少年は緊張をとかない。 「たしかにもっともらしく聞こえはします。」

 

「ともかく、ミス・グレンジャーの死に責任がある人物がいるとすれば、それはきみではなくわたしだ。 わたしこそあのとき——」

 

「あなたはここに来るまでにマクゴナガル先生と話しあって台本を渡されたようですね。」  少年は苦にがしさを声から隠そうともしていない。 「言いたいことがあるなら、仮面は抜きで言ってください。」

 

沈黙。

 

「ではそうさせてもらう。」  〈防衛術〉教授は感情のない声で言う。淡い水色の目のするどさは変わらない。 「わたしも彼女が死んだことは残念に思う。 〈防衛術〉の授業でも優秀な生徒で、いずれはきみのよき協力者となってくれるかもしれなかった。 きみの失意をやわらげるすべがあればそうしているところだが、わたしはその方面にうとい。 無論、だれのしわざであったか突き止めることができれば、わたしはその犯人を殺すつもりだ。 そのときは、状況が許すかぎりきみも同行してくれてかまわない。」

 

「感動的じゃないですか。」  少年は冷ややかな声で言う。 「実はもともと好きだった、などとは言いませんよね?」

 

「彼女の魅力はわたしには理解できないものだったようだ。 わたしは以前から他人とその手の関係をむすぶことが少なくなった。」

 

少年はうなづく。 「率直な回答をありがとうございます。 話はそれだけですか?」

 

沈黙。

 

「この城は今日、傷を負った。」  男は部屋の隅からそう言った。

 

「え?」

 

「わたしが所有しているとあるいにしえの魔法具がミス・グレンジャーの生命の危機を告げたとき、わたしは呪いの炎の呪文をつかった。以前きみにも話した呪文だ。 その炎で壁や床を突き破りつつ、ホウキで現場に直行した。」  男はやはり平坦な口調で言う。 「この城にも、そのような傷は簡単には癒せない。癒せるかどうかも分からない。 おそらく、より低級な呪法で穴をふさいでやるしかないだろう。 いまとなっては後悔している。いずれにしろ間にあわせることはできなかったのだから。」

 

「ああ。」と言って少年は一度目をとじた。 「あなたも彼女を助けるつもりがあったんですね。 そのために自分から実際に行動するくらいには。 彼らにできないそういうことがあなたにはできるということは認めます。」

 

男は乾いた笑いをした。

 

「その点は感謝します。 ですがあとはもう、夕食の時間まで一人にしてもらえますか。 あなたなら理解してくれるでしょう。 話はそれだけですね?」

 

「いや、もうすこし。」  男の声はいつもの皮肉で乾いた声にいくらかちかづいたようだった。 「ここ最近の経緯をふまえるに、きみがこれから極端に愚かなことをしようとするのではないかという危惧があってね。」

 

「たとえば、なにを?」

 

「はっきりしたことは言えないが。 たとえば、きみはミス・グレンジャーがいなくなった宇宙には価値がないと考え、自分にこんな仕打ちをした宇宙は破壊してやるべきだと思うようになった、とか。」

 

少年はいつわりの笑みを見せた。 「そう思えるのはあなた自身がかかえている問題のせいですよ。 ぼくはそういうことをするたちではありません。 あなたにはそういう時期があったんですか?」

 

「いや、そこまでは。 わたしはこの宇宙がさほど好きではないが、わたしもここで生きてはいるのだから。」

 

沈黙。

 

「……きみはなにをしようとしている? きみはすでになんらかの重大な決意をした。しかしそれをわたしから隠そうとしている。 それはなんだ?」

 

少年はくびを横にふった。 「まだ考えている途中です。だからこそ一人にしてもらいたいんですが。」

 

「数カ月まえに、きみはこういう提案をしてくれたのだったな。 きみは知的な話し相手がほしくはないか? きみが相手を楽しませることができない状態だとしても、わたしはかまわない。」

 

少年はまたくびをふった。 「いえ、けっこうです。」

 

「そうか。では……子どもじみた良心に縛られていない実力者の助けは?」

 

少年は躊躇したが、やはりくびをふった。

 

「さまざまな秘術や魔術の知識を有し……外道とすら考えられる種類の術に詳しい人物に興味は?」

 

ごくわずかに、余人にはそうと悟られない程度に少年の目が細まる——

 

「よろしい。遠慮はいらない。話してみなさい。 わたしはその内容をだれにも他言しないと約束する。」

 

少年が話しだすまでには多少の時間がかかった。話しはじめた声にも泣き声がまじった。

 

「ぼくはハーマイオニーを生きかえらせるつもりです。 死後の世界というものはないからです。それに、ただ彼女をこのまま——()()()()()させるなんて——」

 

少年は両手に顔をうずめた。そして手をさげたときには、部屋の隅の男とおなじくらい冷静な表情にもどっていた。

 

〈防衛術〉教授はごくわずかに困惑して、考えこむ目つきになった。

 

「……どうやって?」

 

「どんな手をつかってでも。」

 

再度の沈黙。

 

「なにを失うことになっても、どれほど危険な魔術が必要だとしても、ということか。」と部屋の隅の男が言った。

 

「はい。」

 

〈防衛術〉教授が思案げな目つきになった。 「しかし、どういう方向でいくか、こころあたりはあるのか? おそらく死体を〈亡者〉にするという方法ではないだろうが——」

 

「その方法で復活した人は思考できるようになりますか? 身体は朽ちていきますか?」

 

「一点目はノー。二点目はイエス。」

 

「だったら却下ですね。」

 

「ではカドマス・ペヴェレルの〈よみがえりの石〉は? 入手できるとしてだが。」

 

少年はくびをふった。 「ぼくがやりたいのは自分の記憶からハーマイオニーの幻影を引きだすことではなく、 ハーマイオニーが()()()()()()()()()()()ようにすることですから——」  少年の声に泣き声がまじった。 「具体的にどういう方策で攻めるかはまだ決めていません。 もし力まかせにそうするだけの実力と知識を身につけるしかないなら、そうします。」

 

再度の沈黙。

 

()()方策でいくとして……きみが頼るのは、やはり科学だろうな。」

 

「もちろん。」

 

〈防衛術〉教授は嘆息じみたやりかたで息をはいた。 「一応理解できる考えではある。」

 

「あなたは協力する気がありますか?」

 

「どんな協力がほしい?」

 

「魔法について。魔法はなにに由来しているんですか?」

 

「わたしは知らない。」

 

「ほかのだれも知らないということですね?」

 

「いや、状況はそれよりはるかに悪い。 秘法を熱心に研究する者のなかで、魔法の本質を解明したと主張しない者をさがすほうがむずかしい。その一人一人がたがいにことなる本質を解明したと主張している。」

 

「あたらしい呪文はどうやってできるんですか? 本を読めば、これこれをするための呪文を発明した人、というのはいくらでもでてきますが、()()()()()発明したかはどこにも書かれていません。」

 

男はローブのなかで肩をすくめる。 「それをいうなら、あたらしい本はどうやってできる? 本を多く読む人たちの一部は、いずれ本を書くこともできるようになる。 どうやってか。 それはだれも知らない。」

 

「本の書きかたを説明している本ならありますが——」

 

「そういった本を読んでも有名な劇作家にはなれない。 その手の助言に一定の効果はあるとして、説明しきれない謎はのこる。 呪文が発明される仕組みにもおなじようなことが言えるが、こちらはさらに純粋な謎だ。」  男はくびをかしげた。 「その道は危険な道だ。 そのためには子どもをつくらないか、子どもが成長するまで待つべきだと言われている。 発明家の内訳を見ると、予想に反してレイヴンクロー出身者よりもグリフィンドール出身者が多いのにも理由がある。」

 

「そして、一定以上に強力な魔術となると?」

 

「伝説的な魔法使いなら、生涯をかけて一ついけにえの儀式を発明し、子らにその知識を相続させることもあるかもしれない。 一人で五つ発明しようとするのは自殺行為だ。 だからこそ、真に実力ある魔法使いには、きまって古代の秘法を入手した経緯がある。」

 

少年はうわのそらの様子でうなづいた。 「それなら簡単な解決法はなさそうですね。 〈死者復活〉の呪文とか〈神になる〉呪文とか〈端末召喚〉の呪文とかを発明できてしまえれば楽だったんですが。 アトランティスについてはなにか知っていますか?」

 

「どの好事家でも知っていることなら。 最有力の仮説とされているものが十八個あるが、聞いてみたければ——そうにらむな、ミスター・ポッター。 そのように単純にすむことなら、わたしが何年もまえに実践している。」

 

「そうでしょうね。すみません。」

 

しばらく沈黙がつづいた。 〈防衛術〉教授は少年から目を離さず、少年は虚空をみつめているようだった。

 

「ぼくはいくつかの魔法を身につけておくつもりです。 以前そうしていれば、今日つかえていたはずの魔法を。」  冷ややかな声。 「こういうことが何度も起きるなら、また必要になるはずの魔法です。 調べればすむ呪文が大半だと思いますが、 そうでない呪文もあると思います。」

 

〈防衛術〉教授は軽く首肯した。 「きみが知りたいと思う呪文はほとんどすべて教えよう。 わたしにも限度はあるが、きみが頼むのは自由だ。 だが、具体的にはなにを? きみの魔法力の量はまだ、〈死の呪い〉など禁制がかけられた呪文の大半を実践するに足りない——」

 

「例の呪いの炎の呪文です。 そのための生けにえの儀式は、その気があれば子どもにもできるものだったりしませんか?」

 

〈防衛術〉教授の口もとがぴくりとした。 「必要な犠牲は一滴の血だ。術者の体重は以後その一滴ぶんだけ軽くなり、もとにもどらない。 頻繁にやっていい儀式でないということは言っておく。 呪いの炎が自分に襲いかかってくるのを防ぐための意志力も要求される。 そのため、事前により小規模な試練で意志力を試すのが通例だ。 そしてこれはこの儀式の本質的な要素ではないが、一定の魔法力も必要なのはたしかだ。きみがそこにたどりつくにはあと数年かかる。」

 

「それは残念。……敵がまたトロルをつかおうとしてきたときにどんな顔をするか楽しみだったんですが。」

 

〈防衛術〉教授は軽く首肯し、また口もとをぴくりとさせた。

 

「〈記憶の魔法〉はどうです? ウィーズリー兄弟の二人は奇妙なふるまいをしていました。総長は二人に〈忘消(オブリヴィエイト)〉がかけられたのではないかと言っていました。 これは敵の得意技のようですね。」

 

「ルールその八。一度でも自分を倒した実績のある技は学習しておく価値がある。」

 

少年はうつろな笑みをした。 「大人が消耗しきった状態で『オブリヴィエイト』をつかった例があると聞いたことがあります。つまり、この呪文にはたいして魔法力が必要ないということじゃないでしょうか。 これは〈許されざる〉呪文に分類されてすらいない……といっても、個人的にはされていていいんじゃないかと思いますが。 ぼくもあのとき、ミスター・ハグリッドに別の命令を受けた記憶を植えつけることができていれば——」

 

「ことはそう簡単ではない。 きみには〈偽記憶の魔法〉をつかうだけの魔法力がない。単純な『オブリヴィエイト』を一度かけるだけでも、きみの現在の持久力では苦しいだろう。 記憶操作は危険な術であり、〈魔法省〉に許可された者以外がつかえば違法だ。うっかりだれかの人生を十年ぶん消してしまったとき不都合が生じる状況下でつかうべき呪文ではないと警告しておく。 できれば〈神秘部〉が所蔵する厳重に警護された本を拝借して偽装をかけてきみに渡すという約束をしてあげたいところだが、 やむをえず、あとでホグウォーツ図書館の北北西の書棚のMの並びを見れば標準的な入門書がみつかることを紹介するにとどめよう。」

 

「本気ですか。」

 

「いかにも。」

 

「ありがとうございます。」

 

「きみの最近の発想は最初の授業のころよりもはるかに実用的になってきたと思うよ。」

 

「それはどうも。」  少年は男を見るのをやめ、また手もとの杖をじっと見る姿勢にもどっている。 「また一人で考えさせてもらえますか。 あの人たちにも、ぼくへの邪魔がはいったらなにが起きるかを話してあげてください。」

 

◆ ◆ ◆

 

収納庫の扉がかちりと音をたててひらき、クィレル教授が外にでてきた。 その顔にはなんの感情もあらわれていない。 セヴルスを思わせる、とでも表現したくなるが、実際にはセヴルスがこのような表情を見せたことはない。

 

またかちりと音がして扉がしまる。 それを待たずにミネルヴァは無詠唱で〈音消〉の障壁をたてていた。 思わず早くちで話しだす。 「どうでしたか——だいぶ時間がかかったようですが——話はできましたか?」

 

クィレル教授は入りぐち近くの壁まですっと移動して、ふりかえってこちらを見た。 まるで仮面をぬぐように、感情のない表情が消え、暗い表情の顔がのこった。 「わたしはミスター・ポッターが期待するとおりの話しかたをし、彼の気にさわるような話は避けました。 なぐさめにはならなかったでしょうな。わたしはそういったことが得意ではないので。」

 

「ありがとうございます——口をきいてもらえたという点は進歩ですが——」  ミネルヴァは言いよどんだ。 「……ミスター・ポッターからはどういう話が?」

 

「残念ながら、他言しないという約束で話してもらったことでしてね。 ではわたしは……これからこの城の図書館に行かねば。」

 

「図書館ですって?」

 

「はい。」  クィレル教授の声からは、らしからぬ緊張が感じられた。 「〈禁書区画〉のセキュリティを強化するため、わたし独自の予防措置をかけてくるつもりです。 現状の結界はなんの役にも立たない。 そしてなんとしてでもミスター・ポッターをあそこに近寄らせてはならない。」

 

ミネルヴァは彼をじっと見つめた。急に心臓がのどにつまる思いがした。

 

「わたしがあなたにこの話をしたことを、彼の耳にいれないでいただきたい。 また、フリトウィックとヴェクターにも、彼が呪文の発明に関する高度な質問をしてきた場合には、適当なやりかたで煙にまいておくようにと言っておいていただきたい。 そして、これはわたしの専門分野ではありませんが、あれ以上の悲嘆と狂気におちいるまえに彼を止められるような方法が——彼がなしつつある決意を取り消すような方法が——あるようでしたら、()()()()試していただけますか。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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91章「それぞれの役割(その2)」

ほどなくして、また収納庫区画の扉をたたく音があった。

 

「ぼくの精神状態を気にしているなら……」と少年は下をむいたまま言う。 「こないでください。ひとりにしてください。あとで夕食は食べにいきますから。逆効果ですよ。」

 

扉がひらき、外で待っていた人物が入室した。

 

「本気ですか?」と少年が無感動に言った。

 

扉はとじ、カチリと音がした。そこに立っているのはセヴルス・スネイプ。

 

〈薬学〉教授はふだんまとっている傲慢な表情をしていない。総長室にいるときの冷めた顔つきですらない。奇妙な視線でもうひとつの扉の番をしている少年を見おろすその表情は読みとりがたい。

 

「わたしも副総長がなにを考えているのか分からない。 そうやって彼女の死の責任を背負おうとすれば、きみも将来こうなるぞ、という警告の意味でつかわされたのでないとすれば。」

 

少年は一度、口をかたく結んだ。 「そうですか。じゃあ議論の手間をはぶいて、結論をさきどりしましょう。 スネイプ先生の勝ちです。 リリー・ポッターの死に対するあなたの責任はハーマイオニー・グレンジャーの死に対するぼくの責任より重い。ぼくの罪悪感はとてもあなたの罪悪感におよばない。 ぼくはそれ以上話すことはないと言って話を終わらせた。だからあなたはしばらくほっておいたほうがよさそうだと報告する。 それでいいですね?」

 

「ああ。だがもう一点だけ。 ……ミス・グレンジャーの枕の下にメモをおいて、いじめが起きる場所を教え、介入させたのはわたしだ。」

 

少年はなんの反応も見せず、しばらくしてから言った。 「あなたはいじめがきらいだからですか。」

 

「それもあるが。」  〈薬学〉教授に不似合いな悲痛さのこもった声だった。手くびを吹きとばされたくなければそれ以上かきまぜるな、と子どもたちに命令するときのとげとげしい声とは似ても似つかない。 「もっとずっと早く……気づいているべきだったように思う。が、わたしには見えていなかった。わたしには自分のことしか見えていなかった。 わたしをスリザリン寮監に任じたということは……アルバス・ダンブルドアがスリザリン寮をもはや救いようのないものと見なしていたということを意味する。 きっとダンブルドアも一度は救おうとしたにちがいない。ホグウォーツの運営をまかされて、一度は試みたにちがいない。 にもかかわらず、幾人ものスリザリン生が〈闇の王〉の呼びかけに応じた。ダンブルドアはそれで打ちのめされたにちがいない……そしてスリザリン寮は救いようのない集団だと考えるようになった。そうでもなければ、わたしを寮監とし、あのようなふるまいをさせたはずがない。」  〈薬学〉教授はしみだらけの外套のなかで肩をおとした。 「それでもきみとミス・グレンジャーは手を打とうとした。そしてミスター・マルフォイとミス・グリーングラスを味方につけまでした。あの二人なら、新しい模範を見せてくれるかもしれない……。そう思ったわたしが愚かだったのだろうな。 総長はあれがわたしのしわざであったことを知らない。きみも秘密にしてほしい。」

 

「なぜそれをぼくに?」

 

「わたし一人の秘密にしておくには状況が深刻になりすぎた。」  セヴルス・スネイプの口元がゆがんだ。 「壊滅的な謀略をはたらかせようとした人間がときにどういう末路になるか。わたしもスリザリン寮監になって以来、そういう例はさんざん見てきた。 いつかすべてが露見したあかつきには——わたしはすくなくともきみにこうやって打ち明けていた。よければそう証言してくれ。」

 

「いい心がけですね。おかげで謎がひとつとけました。話はそれだけですか?」

 

「きみはもう自分の人生に絶望した、のこされた仕事は復讐だけだ、と宣言するつもりか?」

 

「いいえ。ぼくにはまだ——」と少年は言いかけてやめた。

 

「ならばわたしから助言できることはないに等しい。」

 

少年はうわのそらでうなづいた。 「いじめ退治の件については、ハーマイオニーにかわってお礼を言わせてください。 彼女なら、あなたがしたことは正しかったと言うだろうと思います。 それでは、あの人たちには、『一人にしてくれ』とぼくが言っていたと伝言しておいていただけますか。」

 

〈薬学〉教授は扉のほうへもどる動きをし、少年から顔が見えなくなったとき、そっと小声で、 「こころからお悔やみもうしあげる。」

 

そう言ってセヴルス・スネイプは去った。

 

いなくなったあともそのまま少年はその方向を見つめ、しばらくまえに聞かされた、いまとなっては遠いことばを思いだそうとした。

 

おまえは本に裏切られた。 おまえが知るべきたったひとつのことを、本は教えてくれなかった。 本を読んでも、愛した人をうしなうというのがどういうことかはわからない。 それは自分自身で経験するまでわからない。

 

思いだせるかぎりでは、そういう言いかただったと思う。

 

◆ ◆ ◆

 

閉ざされた扉の奥に遺体が安置されている医務室の一区画。その場所で、数時間が過ぎた。

 

ハリーはかわらず、座ったまま足の上の杖をみつめている。 十一インチのヒイラギの杖には細かな傷や汚れがある。こうやってしげしげと見るまで気づかない傷や汚れだった。 といっても簡単な暗算をしてみれば、六、七カ月でこの程度の損傷しかないのなら標準的な耐用年数が経ってもぼろぼろになることはないだろうから、気にする必要はない。 仮に大広間であの当時、『だれか〈逆転時計(タイムターナー)〉を持っていませんか』と公然と呼びかけたりしていれば、自分自身の〈逆転時計〉が没収されるのではないかという心配があったとは思う。だが、昼食時間がおわってから、だれかに頼んで二時間過去のフリトウィック先生にメッセージを送るように自分をしむけることなら、簡単にできたはずだ。そうやって、トロルが来るまえにフリトウィック先生にハーマイオニーを直接迎えにいってもらうか、先生のレイヴンの〈守護霊〉で通信してもらう余裕は十分あったはずだ。 いや、その場合、手遅れになってしまったという情報が自分のもとに来ていたのだろうか——昼食のあと、過去へのメッセージを送る間もなく、ハーマイオニーが死んだことを知ることになっていたのだろうか。 過去にもどる時間旅行するにあたっては、手遅れになったという情報を知ることにつながりかねない行為を避けるようにしておくのが基本手順だと思ったほうがいいのかもしれない。 杖の先端に小さく薬品で溶けた跡がある。多分、トロルの脳を部分〈転成〉してつくった酸に触れたせいだろうが、杖はごく一部が欠けても問題なく動作するらしい。 だいたい、『魔法の杖』が必要だというのは考えるほどに奇妙だ。 なにか謎めいた方法であらたな呪文が発明されていき、魔法という未知の機械にあらたな儀式が部品として組みこまれていくなら、杖を利用する儀式ばかりが発明されるのも、『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』などといった語句ばかりが発明されるのとおなじように、ただみながそうしているというだけのことかもしれない。 魔法はある意味ではほとんど万能のように思えてならない。ほかの人には〈あらゆる問題を完全解決せよ〉という呪文を発明できない概念的制約があるとして、ハリーだけはそれに直面せずにすむ抜け道があったりすれば便利なのだが、こと魔法に関してはその手の近道がどこにもないらしい。 ……ハリーはまた機械式時計に目をやった。まだ時間ではなかった。

 

ハリーはすでに、〈守護霊(パトローナス)の魔法〉を試した。自分の〈守護霊〉をハーマイオニー・グレンジャーにとどけようとはしてみた。〈偽記憶の魔法〉やそのたぐいのどんな魔法的な手段をつかって、事実でないことを信じさせられていないともかぎらない。感覚を封じて夢を見させられていないともかぎらない。 ほんもののハーマイオニーは生きて、どこかにとらわれていないともかぎらない……ハーマイオニーのからだから生命力が抜けていく感覚をハリー自身が感じていたとしても。 あるいは死後の世界が実在していて〈真の守護霊〉ならそこに到達できるということも、ありえないとはいえない。

 

だから試そうとはしたものの、呪文を成功させることができなかった。そのため、なんの証拠も獲得できず、もとの不本意な先験確率分布にもどらざるをえなかった。

 

時間は着々とすぎてはいく。 外から見れば、これは考えにふけった様子で自分の杖を見つめる少年がだいたい二分ごとに時計を確認している光景にすぎない。

 

医務室のその区画へ通じる扉が()()()()()ひらいた。

 

床にすわった少年は顔をあげ、殺気だった冷たい目でそれをにらみつけた。

 

そして一転して愕然とした表情になり、あわてて立ちあがった。

 

「ハリー。」とボタンダウンのYシャツに黒のベストを羽織った男性が話す。 その声はかすれている。 「ハリー、どういうことなんだ? これは。 この学校の総長が——あのふざけたいでたちでぼくの大学の部屋にやってきて、ハーマイオニー・グレンジャーが死んだと言うんだが!」

 

それを追ってすぐにもう一人、女性が入室する。男性とくらべて困惑と驚嘆は小さく、かわりに恐怖を感じているようだ。

 

「パパ。ママ。」と少年はかぼそい声で言う。 「たしかにハーマイオニーは死んだ。 それだけしか聞いてないの?」

 

「そうだよ! だから教えてくれないか?」

 

沈黙。

 

少年はへたりと壁に寄りかかった。 「む……無理だ。これは無理だよ。」

 

「なんだって?」

 

「いまは子どものふりをしようとしても、そ……そんな余裕がない。」

 

「ハリー。ねえ、ハリー——」という女性の声がゆらぐ。

 

「パパなら、自分の両親になにも話すことができない主人公がでてくるファンタジー小説を知っているんじゃない? 主人公が話しても親は納得しない、むしろ見当外れの反応をして邪魔をするだけ。これはもちろん、主人公が親を巻きこまずに自力で問題を解決するようにしむけるために、作者が用意した道具立てにすぎない。 パパも、ママも、そういう……そういう親を演じないでほしい。 そういう納得しない親にならないで。 親だからといって、ぼくが応じられない命令をしようとしないで。 ぼくは実際、むちゃくちゃなファンタジー小説に迷いこんでしまっていて、こんどはハーマイオニーが——と……とにかく、ぼくはいま、そういうことにかかわる余裕がない。」

 

ゆっくりと、手足がなかば動かなくなったかのようにして、黒のベストを着た男性がハリーのまえの床にひざをつき、父子の視線の高さがあうようにした。 「ハリー。なにが起きたのか、すべて話してくれ。さあ。」

 

少年は深呼吸して、ごくりとつばをのんだ。 「まず、ぼ……ぼくを倒した〈闇の王〉がまだ生きているという話があるんだけど。まるで陳腐な本の筋書きみたいだよね? それで、世界最強の魔法使いでもあるこの学校の総長が狂人かもしれなくて、 ついこのあいだハーマイオニーが殺人未遂の罪を着せられて、もちろんハーマイオニーの両親にはそのことは一言も伝えられなかった。 その殺人未遂の被害者にしたてられた子どもの父親はルシウス・マルフォイで、ブリテン魔法界一有力な政治家で、〈闇の王〉陣営の二番手でもあった。 この学校の〈防衛術〉教授職には呪いがかけられていて、だれが来ても一年以上その職をつづけることができない。事件のたびに〈防衛術〉教授は容疑者の一人になると言われている。 今年の〈防衛術〉教授の正体は前回の大戦で〈闇の王〉に立ち向かった謎の魔法使いで、邪悪かもしれないしそうでないかもしれない。 それと〈薬学〉教授は何年もまえからリリー・ポッターに惚れていて、なにかねじれた心理的理由で一連のできごとをしかけた張本人かもしれない。」  少年は苦い表情で口を真一文字にむすんだ。 「このめちゃくちゃな筋書きを簡単にまとめると、そんなところ。」

 

男性はその話を静かに聞き終えると立ちあがり、 少年の肩にそっと手をおいた。 「わかった、もういい。 それだけ聞けばじゅうぶんだ。 ハリー、いますぐこの学校を離れよう。いっしょに行こう。」

 

女性は少年のほうを見ている。表情でなにかを問いかけている。

 

少年は視線をかえして、うなづいた。

 

女性は弱よわしい声で話しだす。 「()()()()()()許さないのよ、マイケル。」

 

「むこうにどんな法的権利があってぼくたちを——」

 

「権利? パパたちは()()()だよ。」  少年はゆがんだ笑みをした。 「ブリテン魔法界の法制度上、マグルにはネズミと同等の地位しかない。 ()()()()()がどうこうという話をマグルがしても、魔法族のだれ一人、聞く耳をもつわけがない。 マグルは魔法族に手がだせない。だから魔法族はマグルを無視できる。 だいじょうぶ、ママ、ぼくは彼らのマグルの取り扱いに同意しているから笑っているんじゃなく、ママたちの子どもの取り扱いに同意していないから笑っているだけだよ。」

 

「それなら……」とマイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授がきっぱりと言う。 「()()()()()政府がどうでるか、見せてやろう。ぼくも議員の一人や三人に顔がきく——」

 

「狂人と判断されて隔離施設に案内されるだろうね。 それも〈魔法省〉の忘消官(オブリヴィエイター)につかまって記憶を消去されなければの話。 マグル相手には日常茶飯事らしい。 ぼくらの政府の高官とはきっと裏ですでにそれなりの取り引きが成立しているんじゃないかな。 一定の重要な人が癌にかかったりしたら治癒してもらえることになっている、とか。」  少年はまたゆがんだ笑みをした。 「そういうことなんだよ、パパ。ママはもう知っている。 二人をここに連れてきたのも、どんな手だしもされる心配がないと分かっているからこそ。」

 

男性の口がひらいたが、声はでなかった。それまでは子を思う親がこういう状況でどう話すかを記した台本のとおりに話していたが、その台本が突然空白になったというかのように。

 

「ハリー。」という女性の声がゆらぐ。

 

少年はそちらを見る。

 

「ハリー。なにかあった? 以前のあなたとは……ちがって見える……」

 

「ペチュニア!」と男性が声をとりもどして言う。 「なんてことを言うんだ! ストレスのせいだよ、そんなのは。」

 

「うん、ママ、それは——」  少年は声をつまらせる。 「ほんとにいきなりぜんぶ話してもいい?」

 

女性はうなづいたが、声にはださなかった。

 

「ぼくは……ほら、学校の精神科校医の人が、ぼくは怒りをうまくコントロールできていないと言っていたよね? それが——」  少年は一度ごくりとつばをのんだ。 「ママにどうやって説明すればいいのかな。 あれは精神科じゃなく魔法が関係していたんだ。 多分、ぼくの両親が死んだ日に起きたなにかが。 ぼくには……自分では謎の暗黒面(ダークサイド)と呼んでいるものがある。……というと冗談みたいに聞こえるだろうけど、そうじゃない。念のため、その……古代のテレパシー能力つきの魔法性の帽子にたずねて、〈闇の王〉の霊がぼくの傷あとのなかに住んでいたりするんじゃないかということもたしかめておいた。その帽子は、そのとき帽子の下にいたのは一人の人間だけだと言っていた。といっても、ぼくは魔法族に魂があるとは思わない。魔法族も脳損傷を受けることがあるから。それでも——」

 

「ハリー、もっとゆっくり!」と男性が言った。

 

「——ただ……ただ、ぼくのなかにあるなにかはそれでも()()()()で、ぼくがやられそうになったときにそれは意志力をくれる。それでぼくは怒っているあいだは、スネイプでもダンブルドアでもウィゼンガモートの全員でも、なにを相手にしても負けずにいることができる。この暗黒面が怖がるものといえばディメンターだけ。 でもぼくはちゃんと、暗黒面をつかうことには代償があるかもしれないと気づいていたから、それらしいことが起きないか注意していた。 魔法力に変化はなかった。基本の属性(アライメント)が変化することもなかった。ぼく自身を友だちから遠ざけようとしたりすることもなかった。だからぼくは必要になるといつも暗黒面をつかっていて、手遅れになるまでその代償に気づかなかった——」  少年の声はほとんどささやき声になった。 「今日になるまで気づかなかった……ぼくは暗黒面に頼るたび……子ども時代をうばわれていた。 ぼくはハーマイオニーを死なせたやつを殺した。 暗黒面がやったんじゃなく、ぼくがやった。 ごめんね、ママ、パパ。」

 

しばらくだれもしゃべらず、仮面の割れる音だけがした。

 

「ハリー。」  男性がまたひざをついて言う。 「もう一度、最初から、もっとゆっくり説明してもらおうか。」

 

少年は話した。

 

少年の両親はそれを聞いた。

 

時間がすぎ、やがて父親が立ちあがった。

 

少年はこのさきの苦しい展開を予期したような表情で、父親を見あげた。

 

「ハリー。ぼくはペチュニアと二人で、すぐにでもきみをここから連れだせるように準備する——」

 

「やめて。まじめに言って、〈魔法省〉はパパが手出しできる相手じゃない。 〈魔法省〉は税務署や学部長みたいなもので、自分の権威をすこしでも揺るがそうとするものに容赦しない。 ブリテン魔法界では、マグルは政府が許した範囲のものしか覚えていることができない。魔法の存在やハリーという名前の息子がいたことを覚えていられるのは特権であって、権利じゃない。 むこうがそうしたら、ぼくは暴走して〈魔法省〉を巨大な爆発跡(クレーター)にしてしまうかもしれない。 ママならそういうことがよく分かっているよね。だからパパがばかなことをするまえにかならず止めてほしい。」

 

「あのな——」と言って男はあたまの上に手をやる。 「いま言うと逆効果かもしれないが……それはほんとうに魔法的な暗黒面(ダークサイド)なのか? こういう年ごろの正常な男の子に起きることなんじゃないか?」

 

「正常……」 少年は丁寧にさとすような口ぶりで言う。 「正常というと、どのあたりが? たしかめてはいないけれど、『チャイルド・クラフト:親のための子どもの医学・心理ガイド』にもそんなことについての説明がなかったことは、かなり自信をもって言える。 ぼくの暗黒面は感情的な変化だけじゃない。そのときの()()()()()()()()()()()()()。 どうやってそんなことが起きるかはともかく。 だれも()()()()()()()なんてできるわけがない。」

 

男はまたあたまの上に手をやった。 「いや……ちょうどそういう現象がよく知られていたりするね。子どもはこの生物学的なプロセスを通過するとき、怒りやすくなったり陰鬱になったりする。ついでに知性と身長が大幅にのびる時期でもある——」

 

少年はまた壁に寄りかかった。 「そうじゃないよ。これは思春期じゃない。 確認してみたけれど、まだぼくの脳は女の子に触りたくもないと思っている。 でも、そういうことにしたいなら、それでもいい。 信じてもらえないほうがまだましかもしれない。それなら——」  少年は声をつまらせた。 「それなら無理してうそをつかなくていいから。」

 

「思春期といってもいろいろだからな。 ハリーが女の子を気にしだすのは、もうすこしあとなのかもしれない。 まあ、実はもう気にしていたりするのかも——」 そう言いかけて男ははっとする。

 

「ぼくはハーマイオニーのことをそういう意味で好きだとは思わない。」  少年は小声で言う。 「……なぜかみんなそうだと決めつけるみたいだけど。 本人に失礼だよ。そういう意味以外でしか好かれるはずがないと決めつけるのは。」

 

男は分かりやすく息をのんだ。 「とにかく、身の安全を第一にしていてくれ。そのあいだ、ぼくらがきみを連れだす準備をする。いいな? 自分が暗黒面に落ちたとかなんとかいうことは、考えちゃいけない。 きみはまた……その、ぼくが昔よくつかった表現で言えば、エンダー・ウィッギン的経験をしたんだろうとは思うが——」

 

「エンダーのところはとっくに過ぎていて、もうヴァレンタインをバガーに殺されたエンダーの段階じゃないかと思う。」

 

「やめなさい、そんなことばづかいは!」と女が言い、すぐにあわてて手を口にあてた。

 

少年はうんざりしたように言う。 「そういう種類の『バガー』じゃないよ。 ただ、そういう名前の昆虫型エイリアンが——やめとこう。」〔訳注:「バガー (bugger)」は卑語でもある〕

 

「ハリー、だからそういうことは考えちゃいけないと言っているんだが。」とヴェレス゠エヴァンズ教授がきっぱりという。 「自分が邪悪になりつつあるとかいうことは考えるな。 だれにも危害はくわえないこと。自分が危害を受けそうなこともしないこと。黒魔術的なものにも、いっさい手をださないこと。そのあいだにぼくらがきみをこの状況から脱け出させる方法を考える。 いいな?」

 

少年は目をとじた。 「これが漫画だったら、それもいい考えだと思うんだけどね。」

 

「まだそんなことを——」

 

「警察にも兵士にもそんなことはできない。世界最強の魔法使いがやろうとしても、できなかった。 バットマンの真似をするつもりで、バットマンとおなじように罪のない通行人全員を守ることができていないなら、通行人がかわいそうだ。 そしてぼくにもそんなことができないということは、今日証明された。」

 

マイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授のひたいに汗が粒となって光る。 「待てよ、ハリー。 どういう本を読んだのか知らないが、きみがだれかを守る必要はない! すこしでも危険なことに身をさらす必要もない! あってたまるか! とにかくこの魔窟じみた学校で起きている()()()()()()()首をつっこまずにいてくれ! ぼくらが一刻もはやくきみを連れだす方法をみつけておくから!」

 

少年は深く見とおすような目で父親と母親を見た。 それから自分の腕時計にまた目をやった。

 

「いいこと言うね、パパ。」

 

少年は出口の扉へまっすぐ歩いていき、思いきり扉をあけた。

 

◆ ◆ ◆

 

扉がばたんとひらき、ミネルヴァはその場で飛びあがった。考える間もないうちに、ハリー・ポッターがそこから出てきて、ミネルヴァをにらんだ。

 

「ぼくの両親を()()()連れこんだんですね。」と〈死ななかった男の子〉が言う。 「この()()()()()()()。 〈例の男〉、あるいはそれ以外の()()()()ぼくの友だちを標的にしてうろついているこの場所に。 なにを考えてこんなことをしたんですか?」

 

ハーマイオニーの遺体がおかれた収納庫の扉のまえを動こうとしないハリーのことを考えていた。という答えもあったが、ミネルヴァは答えない。

 

「ほかにこのことを知っているのはだれです? あなたといっしょにあの二人がいるのを見た人は?」

 

「お二人をここへ連れてきたのは総長ですが——」

 

「いますぐここを離れさせてもらいましょう。だれかに気づかれるまえに。とくに〈例の男〉に気づかれてはなりませんが、クィレル先生とスネイプ先生もそうです。 〈守護霊〉をつかって総長にそう連絡してください。すぐに返事するように、とも。 ぼくの両親の名前は言わずに……いや人間のことであるとも言わずにおいてください。だれかが盗聴しているかもしれませんから。」

 

「そのとおり。」とエヴァンズ゠ヴェレス教授が厳しい表情で同調した。一歩奥のペチュニアとともに、少年のすぐうしろに立っている。 「息子との話はつづきは自宅に帰ってからにします。」

 

「少々お待ちください。」とミネルヴァは反射的に丁重な表現をした。 一度目の〈守護霊〉は失敗した。ある種の状況下ではこうなるのがこの〈魔法〉のやっかいなところ。こういう状況でつかうのもはじめてではないが、以前ほどすんなりとできなくなっているようでもある——

 

ミネルヴァはそういう風に考えるのをやめ、集中した。

 

伝言を送ることができると、向きをかえてヴェレス゠エヴァンズ教授とまた正対する。 「申し訳ございませんが、息子さんに当校を離れる許可はだせないと——」

 

やっとアルバスが到着したとき、会話はどなりあいになっていた。ヴェレス゠エヴァンズ教授はもはや体面をかえりみていなかった。 すくなくとも両者のうち一方にはどなる声があったが、 ミネルヴァはうわのそらだった。 正直に言えば、確信をもって話せる気がしなかった。

 

ヴェレス゠エヴァンズ教授が議論する相手をかえようとして総長のほうを向くと、それまで沈黙をたもっていたハリー・ポッターが話しだした。 「パパ、ほかの場所ならともかく、ここでその人と話すのはやめようか。 ママ、パパが〈魔法省〉に目をつけられそうなことをしないように注意しておいて。」

 

マイケル・ヴェレス=エヴァンズの表情がゆがみ、 うしろを向いてハリー・ポッターと対面する。 そして声をだしたとき、目は湿り、声はかすれていた。 「ハリー——なにをするつもりだ?」

 

「ぼくがなにをするつもりかはよく分かっているはずだよ。 ぼくにくれた漫画(コミック)をずっと昔から読んでいたんだから。 ぼくはバカげた経験をいくつもして、多少成長して、その結果、いま家族を守ろうとしている。 いや、もっと簡単に言えば、これはパパ(あなた)がやろうとしたことと同じでもあるね。 ぼくは自分の家族を一刻もはやくホグウォーツの外に送ろうとしている。 総長、この二人をここから連れだしてください。ここにいることを〈例の男〉に知られて殺すべきだと判断されるまえに。」

 

マイケル・ヴェレス゠エヴァンズがハリーに飛びかかろうとして動きだしたが、途中で一切の動きが空中で静止した。

 

「申し訳ない。」と総長が静かに言う。 「近いうちにまた話はさせていただく。 ミネルヴァ、おぬしが呼んだとき、わしはもう一組の人たちのところに行っていた。彼らはいま、おぬしの居室で待っている。」

 

総長はすべるように前にすすんで、凍りついたように動かない男と女のあいだに立った。そしてぱっと炎が燃えた。

 

静止していた動きが再開した。

 

ミネルヴァはハリーのほうを見た。

 

なにも言えなかった。

 

「考えましたね、あの二人をここに連れてくるとは。 これでぼくたち親子の関係に修復できない傷ができたかもしれません。 ぼくは夕食まで一人にしてくれとしか言っていないのに、たったそれだけのことすら許されないんですかね。といっても……」  腕時計に目をやる。 「もうその時間ですが。 これからハーマイオニーに別れのことばを言ってきます。これは二分以内に終わらせますし、終わればここを出て食事をとりにいきます。もともとそのつもりでしたから。 その二分のあいだくらいは邪魔しないでくださいよ。でなければぼくはキレてだれかを殺そうとするかもしれません。いいですね。」

 

少年はこちらに背をむけて、ハーマイオニー・グレンジャーの遺体がおかれた小部屋に通じる奥の扉をあけ、ミネルヴァがなにかかけることばを思いつくまえに、そのなかにはいっていった。 あいた扉の隙間から一瞬だけ、どんな子どもも見るべきでない光景が見え——

 

扉はばたりと閉じられた。

 

ミネルヴァは無意識のうちに、そちらへ歩みをすすめた。

 

そして中間地点で立ちどまった。

 

ミネルヴァの精神はまだ思考の速度が遅く、傷ついていた。そしてハリー・ポッターに『厳格な規律主義者のイメージ』と呼ばれた部分の自分は、ハリー・ポッターが子どもにあるまじきふるまいをしたと言おうとして、ちからなく声をだそうとしていた。 そのほかの部分の自分は、たとえそれがハリー・ポッターであれ、子どもを血まみれの親友の死体がおかれた部屋で一人きりにさせるべきではないと考えていた。 それでも、扉をあけるという行動も、どんなやりかたで権威を示すことも、得策ではなさそうに思えた。 いまここには、とるべき行動もかけるべきことばもない。仮にすすむべき道があったとして、ミネルヴァには見えていない。

 

長い長い一分半がすぎた。

 

◆ ◆ ◆

 

扉がまたひらいたとき、ハリーは変化したように見えた。一分半で何人ぶんもの人生をすごしたかのように。

 

「この部屋を封印してください。」とハリーが静かに言う。 「それが終わったら行きましょう。」

 

ミネルヴァは収納庫の扉のまえへ歩いていった。 なかに目をやることをとめることができなかった。乾いた血と下半身にかぶせた敷布と、青白く人形のようになった上半身とが見え、最後にちらりとだけ、ハーマイオニー・グレンジャーの、閉じた目が見えた。 自分のこころの奥でまた、泣く声が聞こえはじめた。

 

ミネルヴァは扉をとじた。

 

指が杖のうえを動き、口が自動的にことばを発して、結界と魔法がかけられ、部屋は外にむけて封鎖された。

 

「マクゴナガル先生。」とハリーが奇妙な声で、せりふをそらんじるように話す。 「あの岩は回収しましたか? ぼくが総長にもらった岩のことです。 あれは今回役に立ったので、また宝石に〈転成〉しておいたほうがいいのではと。」

 

無意識に目がハリーの左手の小指にむかい、くだんの宝石があるべき位置にそれがないことを確認する。 「総長にそのように伝えておきます。」

 

「こういうのは一般的な戦術ですか?」  ハリーは奇妙な声で話しつづける。 「大きなものを小さなものに〈転成〉して持ち歩くことで武器にするというのは。 あるいは、〈転成術〉の練習方法として一般的ですか?」

 

ミネルヴァはうわのそらのまま、くびをふった。

 

「そうですか。じゃ、行きましょうか。」

 

「わたしは——」  一度声がつまる。 「これからわたしは別の仕事をしなければなりません。ミスター・ポッター、あなた一人で行けますか? 寄り道をせず大広間へ行って、なにか食べると約束してくれますか?」

 

少年はそう約束し(例外的で予測不可能なことが起きればそのかぎりではないという、彼がつけた条件にミネルヴァは反対しなかった)、部屋を出ていった。

 

つぎの仕事も……これに劣らず困難であることはまちがいなく、これ以上に困難でさえあるかもしれない。

 

◆ ◆ ◆

 

足ばやに居室へと向かうミネルヴァ。この場合ゆっくり歩くのは非礼にあたる。

 

マクゴナガル教授が居室のドアをあける。

 

「マダム・グレンジャー、ミスター・グレンジャー。このたびは、こころからお悔やみを——」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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92章「それぞれの役割(その3)」

もうほかにすべきことはない。

 

もう計画すべきことはない。

 

もう考えるべきことはない。

 

ぽっかりとあいたその空間に、あらたに自分の最悪の記憶となった記憶がやってくる——

 

〈自分の親友が死んだのに死ななかった男の子〉は大広間への、靴音のひびく長い道のりをとぼとぼと歩く。 思考する気力がついえると、ハーマイオニーの幻影が自分のとなりに歩いている様子が勝手に想像される。同時に『もう二度とそういう経験はできない』という言語化されない概念も生まれ、別の部分の自分は大声でそれを打ち消し、彼女を生きかえらせるという決意を通そうとする。ただし、その部分の自分は疲れていて、相手がわは疲れを知らないらしい。 もうひとつの部分の自分は、自分がマクゴナガル先生とパパとママに言ったことを再検討する必要がある、と言う。あれは両親をすこしでもはやくこの学校から離れさせたいがために言ったことであり、そのときの自分は精神的エネルギーが足りなくなっていたというのに。 あの傷ついた意志力しかない状態で、もっとうまくやれたとでも言うのか。 自分と両親とのあいだにはまだなにがしかの関係が残っているだろうかと自問するが、答えはない。

 

ハリーは緑色のえりの黒ローブを着た上級生男子の待つ交差点に到着した。相手は無言で教科書を読んでいる。そこは癒師の部屋から大広間へ行くだれかを途中でつかまえようとする人ならまずえらぶであろう道だった。

 

ハリーは当然ながら〈不可視のマント〉を着用している。医務室を出てからすぐにそうしていた。このマントを着ていれば、ほぼどんな種類の魔法的な検知手段も通用しない。 自分を見つけて殺そうとしているだれかがいるとすれば、その助けになるようなことをする意味はない。 なにがあってこのスリザリン生がここにいるのかは知らないが、知る必要もないことだと思い、ハリーはそのまま通りすぎようとした。そのとき相手の顔が見えて、それがだれだか分かった。

 

そしてその意味が徐々に分かってくる。 考えてみれば当然のことだが、復活祭(イースター)の休暇のあいだにもこの学校にとどまる生徒といえば——

 

「ぼくを待っていたんだね。」とハリーは声にだして言った。マントはつけたまま。

 

スリザリン生は飛びあがり、背後の壁にあたまを打ちつけた。その手から五年次の操作魔法術(チャームズ)の教科書が落ちる。そして目をまるくして、声のほうを見あげる。

 

「あなたは——」

 

「そう、透明になっている。 なにか言いたいことがあれば言って。」

 

レサス・レストレンジはあわてて立ちあがり、気をつけの姿勢をとり、話しだした。 「ご主人さま、わたしはあれでよかったのでしょうか—— あの場でほかの人たちを差しおいてわたしが手をあげれば、いったいこの二人のあいだになにがと、怪しまれる——そうなることをお望みではないだろうと——ご主人さまにそのつもりがあれば、わたしを名指しするはずだからと——」

 

自分のバカさ加減のために親友を死なせる方法がこんなにいくつもあることにはおどろかされる。

 

「わ——」  レサスは一度言いよどみ、小声でつづけた。 「わたしの考えちがいだったんですね?」

 

「きみは当時の状況下では適切な行動をした。 愚かだったのはぼくのほうだ。」

 

「すみませんでした、ご主人さま。」

 

「仮にきみがぼくについてきていたとして、トロルを殺すことができたと思うかい?」  問うべき部分はそこではない。問うべきなのはハリー自身がレサスで十分だと判断し、出発を六十秒はやめることができていたかどうかだ。それでも……

 

「わ……わかりません……。 スリザリン寮の決闘術の練習にはあまり参加させてもらえず、〈死の呪い〉の動作もまだ知らないので——ご主人さまによりよくお仕えできるよう、練習しておくべきでしょうか?」

 

「まえにも言ったように、ぼくはきみのご主人さまじゃない。」

 

「はい、ご主人さま。」

 

「それでも……これは命令じゃなくただの意見だけれど、だれでも自衛の方法は身につけておくべきだと思う。とくにきみはそうだ。 一般論として〈防衛術〉教授は頼めば助けになってくれると思う。」

 

レサス・レストレンジはあたまを下げてから言う。 「わかりました。できるかぎりご命令のとおりにします。」

 

それは誤解だと言いたいところだったが、実はすこしも誤解ではなかった。

 

レサスは去った。

 

ハリーは壁を見つめた。

 

ハリーは半日かけて自分がどうバカであったかを考え、自分のバカさの種類をごまかしなく数えつくしたつもりでいた。

 

それもまた自信過剰であったらしい。

 

ぼくらがどこでまちがえたか、分かっているか?——とスリザリン面の自分が言った。

 

分かっている。

 

きみが感じている倫理的葛藤は筋がとおらない。 きみはレサスをだましていない。 きみはまさにレサスが言ったような考えかたをしていた。 レサスがなぜ手を貸そうとするのかの言いわけなど、用意するまでもなかった。いじめから助けてあげたことでの負債を返済してもらっているだけだと言えばすんだ。いじめの件では目撃者が六人いたんだから。 きみの手元にはとても貴重な資源があったのに、きみがそのことを忘れたせいで、ハーマイオニーが死んだ。そして忘れた理由というのは……なんだ?

 

レサス・レストレンジを子分にするというのは〈闇の王〉っぽいと思ったから……かな?——とハッフルパフが小声で思考する。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーのスリザリン面は言語で返事するかわりに、軽蔑の思念を放射し、ハーマイオニーの遺骸の映像を見せた。

 

やめてくれ!——とハリーはこころのなかで叫んだ。

 

次回は——とスリザリンが冷ややかに言う。どうするのが効率的で効果的かを気にする時間を多くして、〈闇の王〉っぽいかどうかを気にする時間を少なくすることを提案したい。

 

異議なし。そうする。

 

いや、できないね。 きみは次回もまた、くだらない葛藤を合理化する言いわけを思いつく。 ()()()()友だちが死ぬまでは、ぼくの言うことに耳をかたむけない。

 

ハリーは自分が変になりつつあるのではないかと心配になった。 あたまのなかの声との対話はいままでにもあったが、こうなることはあまりない。

 

〈死ななかった男の子〉、

 

痛い

 

ハリー・ヴェレスは一人、重い足どりで

 

苦しい

 

ハリーは音のない廊下を歩きつづけた。

 

◆ ◆ ◆

 

「ミスター・ポッターはどうなりましたか。」とクィレル教授が問いつめてきた。 見ると、その立ちふるまいにはどこか緊張が感じられた。()()()()()()とは言いがたく、むしろ奇襲攻撃の機会をうかがっているような雰囲気だった。 グレンジャー夫妻がマダム・ポンフリーのもとを去ったあと、間髪いれずに〈防衛術〉教授はミネルヴァの居室のドアをたたき、返事を待たずに入室し、ミネルヴァが声をかけるまえに話しはじめたのだった。 ふと、ハリー・ポッターにも同じ癖があることを思いだす。自分の用件に気をとられ他人の痛みを意識しない。その癖をハリー・ポッターが恩師から学んだのか、それとも子どもにありがちなそういう癖をなぜかこの男は大人になっても捨て切れていないだけなのか。

 

「ミスター・ポッターはミス・グレンジャーの遺体の見張りをするのをやめました。」  ミネルヴァは自分が感じさせられている冷たさをいくらか声にこめた。 〈防衛術〉教授はあきらかにミネルヴァほど打ちひしがれてはいない。ハーマイオニー・グレンジャーについてまだ一言も言っていないくらいだ。 そんな彼から問いつめられるというのは—— 「いまはもう夕食にいっているはずです。」

 

()()()な状態については聞いていない! 問題はあなたが——彼が——」  クィレル教授はことばでは言いあらわせないと言うようにして、手で空を切った。

 

「いえ、とくには。」  あと三十秒ほどつつけば退室を命じようと思った。

 

クィレル教授は狭い室内で行ったり来たりしはじめた。 「ミス・グレンジャーは彼が真の意味で気にかける唯一の人物だった—— 彼女がいなくなったいま——彼の無謀さには、なんの歯止めもない。 そのことがやっと分かった。 だれがかわりになる? ミスター・ロングボトムか? いや、ミスター・ポッターは彼を同輩と見なしていない。 ではフリトウィックか? ゴブリンの血がさわいで復讐をけしかけるのが関の山だ。 ミスター・マルフォイが籍をもどしたとすれば? 彼が、なんのために? ではスネイプは? 歩く災難だ。 ダンブルドアは? 論外だな。 事態はすでに破局へむかっている。それを曲げて、自然にまかせていては進まない方向に事態を展開させなければならない。 ミスター・ポッターが聞く耳をもつ者がいるとすれば? 通常話すことのない相手からえらぶとすれば? セドリック・ディゴリーは教師役をつとめたことがあるが、彼はどんな助言をするか。未知数。 ミスター・ポッターはリーマス・ルーピンと長く話しこんでいた。わたしはルーピンにあまり目をとめていなかった。 彼なら、あの少年の進路を変えるためにかけるべきことば、とるべき行動、支払うべき犠牲を知っているだろうか。」  そう言ってクィレル教授は急にふりむいた。 「〈不死鳥の騎士団〉時代に、リーマス・ルーピンが死を悼む者をなぐさめたり、自棄を起こそうとする者をとめたり、といったことはありましたか。」

 

「悪くない考えかただとは思います。 わたしの記憶では、ホグウォーツ時代、ミスター・ルーピンがジェイムズ・ポッターの無茶をたしなめることはよくありました。」

 

「ジェイムズ・ポッター。」  クィレル教授はするどい目をする。 「彼はジェイムズ・ポッターと似ているところが少ない。 あなたはこれが実際有効な策だと思うか。 いや、そう問うべきではなかった。単一の方策にかぎる理由はないのだから。 この策でまちがいなく()()だと思うか。それ以外の手を考える必要はないと思うか。 こう問えば、答えは自明。 災厄への道から彼をそらす機会がいくつあろうが、どれひとつとして、のがしてはならない。」  〈防衛術〉教授はまた部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。壁にたどりつくと、きびすをかえし、反対の壁へとむかう。

 

「申し訳ありませんが」  ミネルヴァは険のある声になるのを我慢しようともしない。 「わたしはもう今日は限界ですので。話はこれまでとします。」

 

「あなた自身……」と言って身をひるがえすクィレル教授。ミネルヴァはいつのまにかその冷たい青色の目をまっすぐのぞきこんでいた。 「あなた自身が、ミス・グレンジャーなきいま、彼に愚かなことをさせないための歯止めになりえるはずだ。 もうそのために手は尽くしたと言うのか。いいや、尽くしたはずがない。」

 

これは聞き捨てならない。 「それ以外に言うべきことがないなら、退室なさい。」

 

「あなたがたはもうわたしの正体を見やぶっていましたか?」  問いの内容とは裏腹に穏やかな言いかただった。

 

「ええ。それより——」

 

そのとき、純粋な魔法力のかたまりが雷光のように強引に部屋のなかに押し入り、雷鳴のようにミネルヴァの耳のなかで鳴りひびき、そのほかの感覚を麻痺させた。机の上の書類が、風の魔法ではなく謎のエネルギーそのものの圧によって、吹き飛ばされた。

 

魔法力はやがておさまり、あとにのこされたハーマイオニー・グレンジャーの死亡証明書がぱらりと床に落ちていった。

 

「わたしはヴォルデモートと戦ったデイヴィッド・モンローだ。」  男はかわらず穏やかな声で言う。 「よく聞くがいい。 彼をあのままの精神状態でいさせてはらならない。 彼は()()な存在になる。 あなたは実際できるかぎりのことをしたのかもしれない。しかしそれは滅多にあることではない。そう言う者にかぎって、行動がともなっていないことが多い。 あなたは自分が習慣上していることだけをした、という可能性のほうが高い。 わたしは自分を縛るものがもともとないから、他人がそれを断ち切る原動力をどこに見いだすかを知らない。 ひとは自分が死ぬ可能性が見えたときでも、おどろくほど受動的なままでいる。 むしろ笑いものにされたり生活のかてをなくしたりすることへの恐れにこそ、人間を習慣から解きはなち、極端な手段に訴えさせるちからがあるようだ。 戦時、むこうがわの陣営では、〈闇の王〉が〈拷問の呪い〉を正しく効果的につかっていた。〈紋章〉をつけさせられた従僕たちは成功以外の方法で罰をのがれることができず、合理的な努力をしたことは言いわけにならなかった。 その精神状態を想像して自問してみなさい。あなたはハリー・ポッターの進路を変えるために()()()()()()()()()()()()をしたのか。」

 

「わたしはグリフィンドールです。恐怖によって動かされるほど落ちぶれてはいません。 あなたこそ失礼な態度をあらためなさい!」

 

「わたしは恐怖は有効な動機づけの手段だと思う。わたし自身がいま、恐怖に動かされている。 あれだけのことをしでかした〈例の男〉ですら、一定の限度は守っていた。 ダンブルドアや〈名前を言ってはいけない例の男〉にならぶほど博識な魔法使いの一人として専門的意見を言わせてもらえば、彼はいずれいくつもの国を墓碑に変えるような儀式魔術をうみだすかもしれない。 これは杞憂ではないよ。すでにわたしは深く憂慮すべき発言を彼の口から聞いている。」

 

「気はたしかですか? 本気でミスター・ポッターが——いえ、ありえません。どう考えても、ミスター・ポッターにそんなことができるはずが——」

 

一部がガラスとなった鉄の球の映像が、音もなくミネルヴァのこころをよぎった。

 

「——ミスター・ポッターがそんなことを()()はずがありません!」

 

「彼本人が意識的にそうする必要はない。 みずからの破滅をまねこうと決心する魔法使いはそうはいない。 あなたはミスター・ポッターに悪意はないと思うのかもしれないが、 彼は一度目標を見さだめると無謀になる種類の人物だとは思わないか? くりかえすが、わたしは具体的な根拠があって、深く憂慮すべきだと言っているのだ!」

 

「……総長にはもうこのことを?」

 

「話しても意味がないどころか、逆効果だ。 ダンブルドアの声はあの少年にとどかない。 本人もそのことを自覚しているとすれば、事態を悪化させないようにはしてくれるくらいが精々だ。 わたしはこれに必要なこころのありようを有していない。 あなたならそれが——しかしあなたはここに至っても他人の助けを期待しているのだな。」  〈防衛術〉教授はミネルヴァに背をむけ、ドアへ歩いていく。 「セヴルス・スネイプに話してみよう。 あの男は歩く災難であるにせよ、事情を知っている。あの少年の感情をよほどよく理解しているかもしれない。 あなたについては……一生の終わりに、ブリテンという国が——いや、あなたはもともとこの国の出身ではなかったのでしたな? では一生の終わりに、暗黒がホグウォーツ城をむしばみ、生徒たちが自分の道づれになって死んでいく横でこの日を思いだして、もっと自分にできることはあったと気づくときのことを想像してみていただきたい。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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93章「それぞれの役割(その4)」

ハリーは大広間に足をふみいれ、一度だけ周囲に目をむけてから、体力を維持するのに必要なだけのカロリーの食べものをあつめるとすぐに退出して、また〈マント〉を着て、適当な場所をみつけて食べることにした。 テーブル席の生徒たちに目をやると——

 

自分とおなじ人間たちを目にして嫌悪を感じるのは気がかりな兆候だ——とハッフルパフが言う。 きみが知っていた知識を知る機会がなかった人たちを責めるのは不合理だ。 緊急時に動けないことと、自分勝手であることとはまったく別だ。 正常性バイアス。テネなんとかという名前の空港の衝突事故で、事故を起こした飛行機から逃げだした人は少なかった。飛行機に文字どおり火がついていたのに、大半の人が座席についたままでいた。 きみだって、動きだすのにあれだけ時間がかかったじゃないか。

 

憎むことには有用性がない。憎んでも、自分の利他心をそこなうばかりだ——とグリフィンドールが言う。

 

かわりに、またおなじことにならないように訓練する方法を考えてみればいい——とレイヴンクローが言った。

 

実験結果をまえもって予想するから、記録しておいてほしい——とスリザリンが言う。 どういう実験をしても結果はかわらない。人間は救いようがなく、教育しようもなく、肝心なときにかぎって頼りにならないものだ、という仮説にしたがう観察しか得られない。 それと、これが正解だった回数を記録する方法も用意しておいてもらいたいね。

 

ハリーはあたまのなかのそういった声を無視して、ひたすらトーストをくちに運ぶ。 栄養的には好ましくないメニューだが、たまにはそうせざるをえないこともある。翌日の食事でとりもどすことを前提として。

 

まだくちを動かしているうちに、不死鳥のかたちをした銀色の光がどこからともなく飛んできて、疲れた老人の声でハリーに話しかけた。 「これから手紙をひとつ、きみのところへとどけに行きたい。〈マント〉をぬいでいてくれ。」

 

ハリーは一度むせ、のどのなかのトーストをのみこみ直し、立ちあがって〈不可視のマント〉をぬいだ。そして「ダンブルドアに『わかった』と伝えて。」と言い、座ってまたトーストを食べはじめた。

 

ハリーがいるくぼみのところへアルバス・ダンブルドアがやってきたとき、トーストはすべてなくなっていた。ダンブルドアは片手に折りたたまれた紙のたばを持っていた。魔法族の羊皮紙ではなく、罫線のついたほんものの紙だった。

 

「それは——」とハリーが言いかける。

 

「きみのお父さんと、お母さんからの手紙じゃ。」  ダンブルドアは無言で便箋のたばを渡し、ハリーは無言で受けとった。 ダンブルドアは一度ためらってから、静かに話しだした。 「わしは、助言をしたくなったときもっと自制するようにと、〈防衛術〉教授に言われたことがある。一人で考えてみても、たしかにそのとおりだと思えた。 昔からわしは、あとになって沈黙の価値に気づくことばかりじゃ。 ただ、きみがそう思わないなら、一言言ってくれれば——」

 

「いえ、けっこうです。」  ハリーは手もとの便箋に目をやる。同時に、自分が強く悲観的な予想をしているときいつも感じる内臓の不快感があった。 さすがに両親に縁を切られることはないだろうし、両親が実際ハリーに対して()()()ことはあまりない(それでも、ハリーの一部はテレビを見る権利をうばわれることへの身体的な恐怖を感じてしまっている……いまとなってはほとんど意味のないことであるにもかかわらず)。 しかしハリーは実際、親が子に対して内心で期待する役割にそぐわないふるまいをした。親から見て低い序列にある者にあるまじきふるまいだった。 こちらがそういうふるまいをすれば、支配者であると思っているがわは当然、完全に激怒するものだ。それ以外の反応を期待するほうがおかしい。

 

「ハリー、きみはそれを読んだあと、すぐに大広間に来たほうがよいと思う。 きみが聞きのがしたくないであろう告知があることになっている。」

 

「葬儀には興味ありません——」

 

「いや、そのことではない。それを読みおえたらすぐに、〈マント〉なしで、ぜひとも来てほしい。よいかね?」

 

「はい。」

 

老魔法使いはその場を去った。

 

ハリーは努力してやっと手紙をひらいた。 重要なのは自分の友だちや近しい人たちの身に危険がおよばないようにすること。陳腐な言いかたではあるが、その論理はまちがっていないように見える。 傷ついた関係を修復するのはあとでいい。

 

一通目は筆記体で書かれた手紙で、読みとるのに集中力が必要だった。

 

息子へ

 

きみが読んだ本にどんなことが書いてあったとしても、ぼくたち夫婦を危険から遠ざけることが、きみが困ったとき助けになってくれる大人を周囲に置くことよりも重要だなどと思うのはまちがっている。 きみはほとんど話しもしないまま、自分には『暗黒面』があるから両親に見捨てられてしまう、と決めつけてしまったらしいが、 シェイクスピアの亡霊に誓って、この一年、ぼくはとてもじゃないがありえないと思っていたような——ペチュニアがごまかしているだけで実は、きみはぼくがきみの魔法の能力を信じはじめたころに当局に連れ去られたと思ってもいいくらいの——ものを見せられた。だから、考えにくくはあるが()()()()()()()きみのなかに……まだなんとも言えないが、実態がよく分からないうちに『暗黒面』と呼ぶべきではない気がする……それが生じた、ということもあるのかもしれない。 でも、テレパシー能力が開花して、近くにいる別の魔法使いの精神を盗聴しているだけだったりということもあるんじゃないか? もっとまともな文明で育った子どもの目には、彼らの思考が邪悪にうつるのかもしれない。 無論これは根拠のないぼくの想像にすぎないが、きみも結論をいそいではいけない。

 

いま伝えておかなければならない大切なことが二つ。 第一に、きみ自身がそう選択するかぎり、きみは〈光のフォースの陣営〉にとどまることができるとぼくは信じている。きみがそう選択するということも、信じている。 きみに悪事をさせようとして耳うちする邪悪な霊かなにかがいるなら、とにかくそれのことは無視すること。 口うるさいようではあるが、この点に関してはくれぐれも意識してそうしてもらいたい。邪悪な霊がいくらおもしろい発想をしているように聞こえても、耳をかたむけてはいけない。耳をかたむけたらどうなるかについては、こちらから言うまでもなく〈理科課題事件〉でのできごとを思いだしてくれることを期待している。いま思えば、あれはきみが悪魔にとりつかれて苦しまぎれにやったことだったとすれば、よほど理解できる気がするな。

 

第二に、『暗黒面』のことでお母さんお父さんに捨てられるかもしれないといった心配はどうかしないでほしい。 きみが魔法能力を身につけたり黒魔術への親近感を持ちはじめたりするというのは想定外だったにせよ、いずれ思春期が来ることは想定内だった。 わずか九歳ですでに消防車を呼ぶ事案に計五回かかわっていた子をもつ父親の立ち場からすれば、これがそれなりに気をもむべきことであるのは分かってもらえると思う。 子どもは成長する。 ごまかしのない事実を言うなら、きみも二十歳になるころには、いまほどぼくたちに対して親密な気持ちをもたなくなるだろうと思う。 けれどぼくたちは年老いて介護ロボットの世話になるころにも、きみに対していまとまったく変わらない親密な気持ちをもちつづけている。 いつの時代も、子どもは成長して親のもとを去るもの。親はそれを追いかけて、役に立とうとするもの。 子どもは成長すれば性格が変わったり、親の意にそむくことをしたり、親にむかって失礼なふるまいをしたり、親を魔法学校の外へたたきだしたりもする。親はそれでも子どもを愛しつづける。 〈自然〉界はそういう風にできている。 とは言うものの、これがまだ思春期ですらなく、まだまだ悪化する見こみがあるのだったりする場合にそなえて、この気持ちを変更する権利の留保させてもらいたいがね。

 

一連のできごとの実態がなんであれ、ぼくたちはきみを愛している。それはなにがあっても変わらない。 もしもそちらの世界の法則で、その愛になにか魔法的な効果があったりするのだとしたら、遠慮なく使ってくれ。

 

まずそのあたりをはっきりさせたうえで言うが……きみのあの言動は看過できない。 そのことは自分でも分かっているだろうと思う。 ぼくも、いまぼくが口うるさくすべきときでないことは分かっている。 それでも、いま実際どういうことが起きているのかについて、かならず手紙に書いて教えてくれ。 きみがぼくたちをその学校から離れさせようとした理由はよく分かるし、ぼくたちがきみになにかを強制することはできないと分かってもいるが、きみもすこし考えればぼくたちがどれだけ恐怖を感じているかを理解してくれると思う。

 

すこしでも周囲の大人に危険だと言われるような種類の魔法にはいっさい手をだしてはならない、ということははっきり言っておきたい。が、どうやらきみの学校の教師たちは毎週月曜日に全生徒に上級死霊魔術の授業をしていてもおかしくなさそうだから、こう言いかえよう。 きみがいまどんな状況におかれているにせよ、状況に応じて自分にできるかぎりの警戒をすること。 きみは駆け足で説明をくれはしたが、ぼくたちには状況がさっぱり分からない。だからこそきみには、書ける範囲のことすべてを手紙に書いて送ってほしいと思っているんだが。 きみがすくなくともある面では成長したことはたしかなようだし、ぼくも児童書にでてくるような邪魔ばかりする親にならないようにしたいと思う——とはいえ親としては葛藤があることも理解してほしい。ペチュニアからは魔法の秘密がどうやって守られているかについて、いろいろと恐ろしげなことを聞かされた。ぼくがことを荒立てればきみにどんな害がおよびかねないかということも。 学校自体が危険で、きみが学校を離れることを許されていない以上、安全でないあらゆるものに近づくなとは言えない。 ほかの子どもたちが困っているかもしれない以上、身のまわりで起きるどんなできごとへの責任を果たそうとするなとも言えない。 だが、きみには大人を守る道義的責任だけはないということを忘れるな。大人たちはきみを守るためにいる。これはまともな大人ならかならず同意してくれるはずだ。 できるだけ早く手紙を書いて詳細を聞かせてくれ。

 

ぼくたち夫婦はなにかすこしでもきみの助けになりたいと思っている。 どんなことでもぼくたちにできることがあれば、すぐに教えてくれ。 ぼくたち自身がどうなろうとも、きみの身になにかが起きたことをあとから知らされるのよりはましだ。

 

パパより

 

もう一枚の内容は短かかった。

 

あなたは魔法にわたしたちの仲がひきさかれたりはしないようにするから、と約束してくれましたね。ママとの約束をやぶるような子に育てたつもりはありません。 かならず無事に帰ってください。約束だから。

 

ママより

 

ハリーはゆっくりと手紙をもつ手をおろし、大広間にむけて歩きだした。 手が震え、全身が震えていて、大変な労力をかけなければ泣くのをこらえることができそうになかった。ハリーは、泣いてはいけないということを無意識のうちに理解していた。 あれから一日のあいだハリーはまだ泣いていない。これからも泣かない。 泣くことは敗北を受けいれることに等しい。 まだ終わりじゃない。 だから泣かない。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、大広間でだされたのは質素な食事だった。トーストとバターとジャム、水とオレンジジュース、オートミールなど簡単なものだけで、デザートはなかった。 寮の色をあしらわない黒単色のローブを着て来た生徒もいた。ふだんどおりの服装の生徒もいた。 通常ならそれだけで口論の種にもなる。この日はただ全員が静かに、話をせず食べる音だけがあった。 論争には二つの陣営が必要だが、この日、そのかたほうには論争をする気がない。

 

ミネルヴァ・マクゴナガル副総長は〈主テーブル〉の席についたが、食事をしていない。 すべきだと思ってはいる。 もうすこし経ったら、と思う。 わかってはいるのに行動に移すことができない。

 

グリフィンドールの人間として、とるべき道は一つ。 〈防衛術〉教授に煽られてから、知略の方面でできることを探して見つからずにいたとき、それがグリフィンドールらしくない方向の思考であると気づくのに、長くはかからなかった。 いや、言えるのは自分らしい道ではないということだけかもしれない。アルバスなら知略にも手をだそうとする……が、それでもおたがいの過去を思い起こせば、危機に際して最後に頼るものとして、権謀術数が登場したことはない。 アルバス・ダンブルドアにとってもミネルヴァにとっても、究極の指針は、正しいことがなんであるかを見きわめること。それが分かれば、自分がどんな代償をしはらうことになってもやりとげる、ということ。 みずからの(のり)()え、役割を変え、それまでの自己像を放棄することになろうともそうするということが、 グリフィンドールにとって最後のとりでだ。

 

大広間の側面の入りぐちからハリー・ポッターがそっと入場した。

 

いまだ、と思った。

 

マクゴナガル教授は席を立ち、しおれた帽子の先を直して、〈主テーブル〉のまえの演台へゆっくり歩いていく。

 

大広間はすでに十分静かだったが、それが完全に無音になり、生徒たちがミネルヴァに注目した。

 

「もうみなさんもお聞きのとおり……」  声に安定感がない。『ハーマイオニー・グレンジャーが死んだ』という部分を言わないのは、すでにだれもが聞いているから。 「なんらかの方法でホグウォーツ城にトロルが送りこまれ、その時点で城の古くからの結界の警報は作動しませんでした。 トロルは生徒一名を攻撃してけがをさせ、その生徒の死にいたる瞬間まで、やはり結界は作動しませんでした。 どのようにしてこの事態が生じたのかについて、調査が進行中です。 本校としての対応方針を決めるために近く理事会が開催されます。 犯人にはいずれ公正な裁きがくだります。 そのまえに、ただちにくだしておかねばらならないもうひとつの裁きがあります。 ジョージ・ウィーズリーとフレッド・ウィーズリーは前へ。全員から見える位置に来なさい。」

 

グリフィンドールのテーブルについていたウィーズリー兄弟の二人は一度おたがいを見あってから席を立ち、ミネルヴァのほうへ、不承不承あるいてくる。 それを見て、二人は退学させられると思っているのだ、ということにミネルヴァは気づいた。

 

二人はまじめにそう信じているのだと。

 

ミネルヴァのあたまのなかにいるマクゴナガル教授のイメージがそうさせたのだと。

 

ウィーズリー兄弟は演台の位置まで来て、顔をあげた。その表情には恐れと同時に決意が見え、ミネルヴァはまた少しこころを引き裂かれる思いがした。

 

「退学命令ではありません。」  二人がおどろくのを見て、ミネルヴァはまた悲しくなった。 「フレッド・ウィーズリー、ジョージ・ウィーズリー。二人とも、学友のみなさんがいるほうへ、顔をむけなさい。」

 

おどろいた表情のまま、二人はそうした。

 

ミネルヴァはこころを引きしめて、正しいことを言った。

 

「わたしは今日一日のできごとが恥ずかしい。 動いたのがあなたがた二人だけであったことが恥ずかしい。 わたしがこれまでグリフィンドール寮にしてきたことが恥ずかしい。 ハーマイオニー・グレンジャーが助けをもとめていたとき、そしてハリー・ポッターが支援をつのったとき、本来であればグリフィンドール寮が率先して動くべきでした。 実際、七年生が一人いれば、ミス・グレンジャーを捜索するあいだ山トロルの攻撃を防ぐ役目は果たせたはずでした。 そして本来であればグリフィンドール寮監は……」  声が一度とぎれた。 「……予想不可能な状況下で命令にそむいて正しいことをする人を認めるであろうと、思ってもらえる人物でなければなりません。 わたしはそう思われるに足るだけの証拠をみなさんに見せたことがありませんでした。 わたしはみなさんを信じていなかった。 グリフィンドールの美徳を信じてすらいなかった。 わたしは生徒の反抗心を消し去ろうとするいっぽうで、生徒の勇気を賢明な行動へつなげる教えかたをしませんでした。 〈組わけ帽子〉がわたしのなにを見てグリフィンドールをえらんだにせよ、わたしはその名に足るふるまいができませんでした。 このため、わたしは副総長とグリフィンドール寮監の職を辞職することを総長に申し出ました。」

 

◆ ◆ ◆

 

驚愕の声がグリフィンドールのテーブル以外からもあがり、ハリーの心臓は凍りついた。 前列に飛びこんで、なにか言わなければならない、と思う。こんなつもりではなかった——

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァはまた息をすってから、話をつづける。 「ですが、総長はわたしの辞職を認めませんでした。 わたしは職務をつづけ、自分のあやまちを正そうと思います。 どうすれば安全なことでもなく、安易なことでもなく、命令されたことでもなく、正しいことができるのか。わたしはそのため方法を教えられるようにならなければなりません。 レポートの期限をまもらせることしかできないなら、いっそグリフィンドール寮などないほうがいいくらいです。 この道はわたしにとって、おそらくわれわれ全員にとって、困難な道でしょう。 これまでのわたしは安易な道をえらんでいただけであったことが今日わかりました。」

 

ミネルヴァは演台をおりて、ウィーズリー兄弟のところへ行った。

 

「フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリー。あなたがた二人はこれまでいつも正しくあったとは言えません。 権威に対して無闇に反抗するのは賢明な態度とは言えません。 しかし今日のできごとは、あなたがたがグリフィンドール寮で唯一、わたしのあやまちの犠牲にならずに生きのびていたことを証明しました。 それが正しいおこないであると分かっていたからこそ、あなたがたは退学処分の脅迫をはねのけて、自分の身の危険もかえりみず、山トロルに立ちむかった。 グリフィンドール寮が誇るべきその目ざましい勇気に対して、二人それぞれにグリフィンドールの寮点二百点をあたえます。」

 

またしても驚愕の表情を見せる二人。ミネルヴァはまた、心臓に小刀を刺されたような痛みを感じた。

 

ほかの生徒たちのほうに顔を向けて話す。

 

「レイヴンクローへの加点はしません。 ミスター・ポッターは受けとりたがらないでしょうから。 もし本人がそうでないと言うなら、寮点はいくらでも好きなだけ差しあげます。 ですがわたしからミスター・ポッターには、せめて一言……」  声がゆらぐ。 「ごめんなさい——」

 

◆ ◆ ◆

 

「やめて!」とハリーは叫んだ。 「やめてください。 そこまでしなくても。」  自分が巨人の手でしめあげられて、内臓がねじれ、からだがねじきられているように感じられる。 「それと、スーザン・ボーンズとロン・ウィーズリーのことを忘れていますよ——この二人も手を貸してくれたので、寮点をもらう権利があります——」

 

「ミス・ボーンズとミスター・ウィーズリーが? それはルビウスから聞きませんでしたが——その二人はなにを?」

 

「ミス・ボーンズは、ミスター・ハグリッドがぼくをとめようとしたとき、彼を失神させようとしました。ミスター・ウィーズリーは、ネヴィルがぼくをとめようとしたとき、ネヴィルを撃ちました。この二人にも加点があるべきです。それとネヴィルにも。」  ハリーはそれまでネヴィルがいまどんな気持ちでいるかを考えていなかったが、想像してみるとすぐにわかった。 「ネヴィルも行動しようとはしたからです。結果的に正しい行動でなかったとしても、正しいことをするのを学ぶまえに、すこしでも行動することを練習するのが先決ですから——」

 

「ハッフルパフとミス・ボーンズに十点。」  マクゴナガル先生の声がそこで一度とぎれる。 「グリフィンドールとロン・ウィーズリーに十点。 ウィーズリー家は今日とりわけ立派でしたね。 自分は正しい行為をしていると信じてミスター・ポッターに立ちむかったネヴィル・ロングボトムの功績を認めて、ハッフルパフにもう十点——」

 

「やめてくださいよ!」とハッフルパフのテーブルから声があがった。つづいて、しゃくりあげる音がした。

 

ハリーは一度そちらを見てから、マクゴナガル先生にむいて、できるかぎり声を落ちつかせて話しだす。 「たしかにネヴィルが言うとおり、行動が正しかったという部分についての点がゼロというのも、まちがったメッセージを送ることになります。半分正解だったということで、五点でいいんじゃないでしょうか。」

 

マクゴナガル先生はしばらく、なにを言えばいいかわからない、という表情をしたが、やがてネヴィルの席に目をむけてから言った。 「ではそうしましょう。 ……ミス・ボーンズ、なにか?」

 

見ると、前列に来ていたスーザン・ボーンズが目もとをぬぐって話しはじめるところだった。 「実は——ポッター司令官からは見えないところで——ウィーズリー隊長とわたし以外にも、ミスター・ハグリッドの動きを妨害しようとした人がいました。ポッター司令官が外にいってからのことです。 結局はわたしたちも上級生たちにとめられたんですが、 ミスター・ハグリッドを一分間足どめして、ポッター司令官に追いつけないようにすることはできました。」

 

「点はみんないっしょにつけてくださいよ。」とグリフィンドールのテーブルからロン・ウィーズリーの声がする。「でなきゃ、ぼくのぶんもいらない。」

 

「みんなと言うと?」  マクゴナガル先生の声はすこしぐらついていた。

 

七人の男女が立ちあがった。

 

たしかスリザリンのやつが、なにをやっても無駄だとかいう予測をしていたような?——とハッフルパフが言った。

 

ハリーのなかでなにかが割れ、そこから自分がばらばらにならないよう、全力をこめなければならなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァは言うべきことを言い終え、すべきことをすべてし終えてから、ハリー・ポッターのもとへ行った。 自分の得意分野でないことを承知で、視界をぼやけさせる結界と、音を吸収する魔法を無言でかけた。

 

「あ……あれは—— ぼくはあなたにあんなことをさせるつもりでは——」と、しゃくりあげるような声でハリー・ポッターが言う。 「ぼ……ぼくはあなたに、ひどく傷つけるような、まちがったことばかりを言ってしまって——」

 

「そうでしたね。それでもわたしは、もっとがんばりたいと思いました。」  胸のなかが軽くなったような気がした。ちょうど、崖から足を離れさせ、足にかかっていた体重がなくなるときに似ているかもしれない。 ほんとうに自分にできるのかは分からないし、先行きははっきりしない。それでも、自分が総長(ヘッドミストレス)になるとき、ホグウォーツをぬけがら同然にせずにすむかもしれないような気が、はじめてした。

 

ハリーはミネルヴァをじっと見てから、のどからひねりだされたような奇妙な声をだし、両手で顔をおおった。

 

ミネルヴァは床にひざをついて、ハリーを抱擁した。 この試みは失敗するかもしれないが、成功するかもしれない。その不透明さに足どめされてはいられない。 そろそろ自分もグリフィンドールの勇気を学んで、教えられるようにならなければと思う。

 

「わたしにも昔、妹がいました。」とだけ、彼女は小声で言った。

 

◆ ◆ ◆

 

いちおう確認しておくけど——とハリーの一部が、マクゴナガル先生の腕のなかで泣いている自分にむけて言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

もちろん——と、ハリーのそれ以外の部分すべてが一致して唱和する。温かな部分も冷ややかな部分も、隠れた芯の部分も。()()()()()()()()()()()()()()

 

◆ ◆ ◆

 

そこに老魔法使いが一人、結界をなんの苦もなくやりすごし、魔女と若い魔法使いを上から見つめていた。 アルバス・ダンブルドアは奇妙に悲しげな表情の目をして、ほほ笑んでいた。予見されたとおりの目的地へ向けてまた一歩あゆみをすすめる人のように。

 

◆ ◆ ◆

 

〈防衛術〉教授はその女性と泣く少年をじっと見ていた。 とても冷たく、計算高い目をしていた。

 

これではまだ足りない、と思いながら。

 

◆ ◆ ◆

 

翌朝になってはじめて、ハーマイオニー・グレンジャーの遺体がなくなっていることが判明した。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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94章「それぞれの役割(その5)」

第一の会合

 

一九九二年四月十七日、午前六時七分。ホグウォーツ城から見える地平線上に太陽が見えはじめ、その光が閉じたカーテンを通してレイヴンクロー一年生男子共同寝室をやわらかに照らす。光は朝焼けの赤みのあるオレンジ色で、ほとんどそのまま白い覆いの布を通過している。それでも冬の起床時間に慣れたままの子どもたちはまだ目をさまさない。

 

ならぶベッドのうちの一つで、疲れきったハリー・ポッターがぐっすりと眠っている。

 

静かに扉がひらく。

 

静かに人影が部屋のなかを歩いていく。

 

人影はハリー・ポッターのそばに立つ。

 

人影が眠ったままの彼の肩に手をやると、彼はおどろいて声をあげた。

 

ほかの子どもたちはその声を聞かなかった。

 

「ミスター・ポッター。」と小柄な男が高い声で言う。 「総長がお呼びです。すぐに来るようにと。」

 

少年はベッドの上でゆっくりと身を起こし、掛け布の下で一瞬手をもぞもぞと動かした。 朝起きて、気分がましになっているのは意外だった。 どこか……不適切なまでに、脳がまともに動いていて、思考できている。一週間はなにひとつ手につかず泣き暮らすばかりになっていてもいいだろうに。 といっても、それは適応的な反応ではないから、脳が進化的にそうなっていないのは当然だ。 例の暗黒面であれば、やはりそんなことはしないだろう。 それでも、朝になって自分が生きていること、正常に思考できていることは、不適切に感じられる。

 

しかしハーマイオニー・グレンジャーを生きかえらせるという決意があること——それで十分なように思えた。それだけで自分が正しいことをしていて、着実に正しい方向にすすめているような気がした。生きかえらせることがすべて。悲嘆することはあきらめるようなものだから。 ほかに決断すべきことはなく、曖昧性も葛藤もなく、自分が()()ものを思いだす必要もない——

 

「着替えますね。」

 

それを聞いてフリトウィック先生は不本意そうなそぶりをしたが、やはり高い声でこう言った。 「一刻の猶予もあたえず、即刻総長室に連れてくるように、というご指示なので。申し訳ない。」

 

一分とたたないうちに——ハリーはホグウォーツ校内用〈煙送(フルー)〉で総長室に送られ——パジャマを着たまま、アルバス・ダンブルドアと対面した。 マクゴナガル副総長も椅子にすわっている。もう一人、奇妙な装置群のあいだをうろうろしている〈薬学〉教授は、ちょうどハリーが暖炉からでてきたときにあくびをしていた。

 

「ハリー。」と総長が前置きなしに話しはじめる。 「これは差しせまった用件ではあるが、そのまえに一言、言っておきたい。ハーマイオニー・グレンジャーはまちがいなく死んだ。 そのことはたしかに城の結界が記録し、わしに通知した。 たしかに城の石から魔女が一人死んだという通知があった。 わしが安置された遺体を検査し、ハーマイオニー・グレンジャー本人の肉体であることも、人形や似姿ではないこともたしかめた。 死者をよみがえらせることのできる魔術はどこにも知られていない。 そこで本題にはいるが、きみが番をしていたあの収納庫から、ハーマイオニー・グレンジャーの遺体がなくなった。 ハリー・ポッター、きみが持ち去ったのではないか?」

 

「いいえ。」  ハリーはするどい視線とともに、そう答えた。ちらりとセヴルスを見ると、じっとこちらに目をむけているのが分かった。

 

ダンブルドアも、のぞきこむようではあるが敵対的ではない視線をハリーにむける。 「ハーマイオニー・グレンジャーの遺体はきみの手もとにあるか?」

 

「いいえ。」

 

「遺体がどこにあるか、きみは知っているか?」

 

「いいえ。」

 

「だれが持ち去ったか、きみは知っているか?」

 

「いいえ。」と言ってからハリーはためらった。 「具体的知識なしに確率論的に容易に想像できる範囲のことを別にすればですが。」

 

老魔法使いはうなづいた。「なぜ持ち去られたか、きみは知っているか?」

 

「いいえ。具体的知識なしに想像できる……以下同文。」

 

「ではその想像を聞かせてもらえるかね?」  老魔法使いの目が光る。

 

「ハーマイオニーが逮捕されたあとにあなたがウィーズリー兄弟と話しに行ったこと、そしてあなたによれば盗まれたのだというその魔法の地図の存在。敵がそこまで気づけていたのだとしたら、その敵はぼくがなぜハーマイオニー・グレンジャーの遺体の見張りをしているのかと、気にしていていいはずです。 ではこちらからも質問ですが。 あなたはハーマイオニーが死ねばルシウスへの負債をとりもどせるかもしれないと思って、そうなるように仕組みましたか?」

 

「なんですって?」とマクゴナガル教授が言った。

 

「いや。」と老魔法使いが言った。

 

「あなたはハーマイオニー・グレンジャーが死ぬことを事前に知っていましたか? 死ぬ可能性があると思っていましたか?」

 

「知らなかった。可能性については、わしはヴォルデモートからの攻撃に対して彼女を守るために可能なかぎり厳重な措置を尽くした。 彼女の死は、わしが意図したことでも許したことでもない。彼女の死から利益を得ようと目論(もくろ)んでもいない。 では、きみのポーチを見せてもらおうか。」

 

「ポーチはいまトランクのなかに——」とハリーが言いかけた。

 

「セヴルス。」と老魔法使いが言うと、〈薬学〉教授が前にでた。 「トランクも含めて、調べてきなさい。どの小部屋もひとつのこらず。」

 

「ぼくのトランクには結界がありますが。」

 

セヴルス・スネイプは陰気ににやりとしてから、緑色の炎のなかへ歩いていった。

 

ダンブルドアは長い黒灰色の杖をとりだし、マグルが金属探知機をつかうときのように、ハリーの髪の毛の輪郭をなぞるように動かしていった。 首まできたところで、ダンブルドアはその動きを止めた。

 

「その指輪の宝石……。以前のように透明なダイアモンドではなく、 茶色になっているな。 それはハーマイオニー・グレンジャーの目の色と、髪の色でもある。」

 

途端、部屋の空気が緊張した。

 

「これはぼくのお父さんの岩を〈転成〉したものですよ、以前とおなじように。 この色は、あくまでハーマイオニーの忘れ形見として——」

 

「念には念をいれておかねばならん。 ハリー、その指輪をはずして、わしの机の上におきなさい。」

 

ハリーはゆっくりと、言われたとおり、宝石を指輪からはずし、指輪を机の端においた。

 

ダンブルドアは杖を宝石にむけた。すると——

 

なんの変哲もない灰色の岩があらわれ、急激な拡張のいきおいで空中に飛びあがり、目に見えない障壁にぶつかってから、どすんと音をたてて机に落ちた。

 

「おかげで、また三十分かけて〈転成〉をやりなおすことになったんですがね。」

 

ダンブルドアによる検査はつづいた。 ハリーは左足の靴をぬがさせられ、足の指につけていた指輪型の緊急用ポートキーをはずさせられた。これはハリーが誘拐されてホグウォーツの外の連れだされた場合のために用意していたものだった(ただしその場合でも、〈現出(アパレイト)〉防止の結界やポートキー防止の結界や不死鳥防止の結界や時間ループ防止の結界がかけられていれば役に立たないし、一定以上の立ち場の〈死食い人〉であればまちがいなくそういう準備をする、とその当時セヴルスはハリーに警告した)。 足の指輪から放射されている魔法力はたしかにポートキーのものであり、〈転成術〉に由来するものではないと確認された。そのほかの身体検査にも、ハリーは合格と判断された。

 

ほどなくして、〈薬学〉教授がハリーのトランクから、ハリーのポーチとほかいくつか魔法道具を持ってもどった。またそれを一個一個、総長が検査した。治癒キットのなかの道具もひとつのこらず。

 

「もういいですか?」  検査が終わると、ハリーは思いきり冷ややかな声でそう言った。 それから受けとったポーチに岩を食わせる作業をはじめた。 からになった指輪は、もとの指にはめた。

 

老魔法使いはほっと息をつき、杖をそでのなかに戻した。 「悪かった、ハリー。不確かなままにはしておけなかったのでな。……となると、〈闇の王〉がハーマイオニー・グレンジャーの遺体を奪ったらしい。 彼になんの利益があってのことかは分からんが、あるとすれば遺体を〈亡者〉にしてきみへの刺客とすることくらいか。 セヴルスからきみに、とあるポーションを渡すよう指示しておく。受けとったらつねにそれを携帯しなさい。 そのときが来ても、迷わず躊躇せず手をくだせるよう、準備しておきなさい。」

 

「その〈亡者〉にはハーマイオニーの精神がありますか?」

 

「いや——」

 

「だったら本人ではありませんね。 もういいですか? せめてパジャマから着替えておきたいんですが。」

 

「もうひとつ知らせがある。この話は簡単にすませよう。 ホグウォーツ城の結界を見たところ、今回、外来の生物が侵入した形跡はなかった。記録されていたのは、ハーマイオニー・グレンジャーを殺したのが〈防衛術〉教授であったということ。」

 

「それは……」とハリーが言う。

 

第一の考え——でもぼくはトロルがハーマイオニーを殺すのを見た。

 

第二の考え——クィレル先生がぼくに〈記憶の魔法〉をかけていた。ダンブルドアが到着したとき見た光景もクィレル先生が用意したものだった。

 

第三の考え——いや、クィレル先生は魔法力でぼくに触れることができない。そうだということをぼくはアズカバンで見ているし——

 

第四の考え——その記憶はほんものか?

 

第五の考え——アズカバンでなにか一騒動あったことはまちがいない。クィレル先生が意識不明になっていなければロケットをつかう必要もなかったはずで、クィレル先生が意識不明になっていた原因はといえば——

 

第六の考え——ぼくはそもそもアズカバンに行ったのか?

 

第七の考え——ぼくはウィゼンガモートでディメンターを追いはらったが、それ以前のどこかの時点でディメンターを制御した経験があったはずだ。ウィゼンガモートでの件は新聞記事にもなっている。

 

第八の考え——その新聞の内容についてのぼくの記憶は正確か?

 

「それは……」とハリーはくりかえす。 「まじめな話、あの呪文は〈許されざる呪い〉に分類されるべきですよ。 つまり、あなたはクィレル先生が〈記憶の魔法〉をぼくにかけたと——」

 

「いや。わしは時間をさかのぼって現場に行き、ハーマイオニーの最後の戦いを記録するための装置をしかけて、たしかめた。これは自分自身の目で見ることに耐えられなかったからでもある。」  とても沈痛な表情。 「きみの推測は正しい。 ヴォルデモートはわれわれがハーマイオニーにあたえた護身の手段をことごとく無効化していた。 彼女のホウキは動かなかった。不可視のマントは隠蔽の効果を発揮しなかった。 トロルは日の光のある場所に行ってもびくともしなかった。あれは迷いこんだのではなく、純粋な兵器として送りこまれていた。 そして彼女はあのトロルに、腕力のみで殺された。そのせいで、敵意ある魔法力に対する結界と検知網も無駄に終わった。 どの時点でも〈防衛術〉教授が彼女の近くにあらわれることはなかった。」

 

ハリーは息をすって目をとじ、考えた。 「つまり、これはクィレル先生に罪を着せる作戦だったということですね。なんのためかはともかく。 これは敵のおきまりの手ぐちでもあるらしい。 トロルがハーマイオニー・グレンジャーを食べた。ところが結界の記録を見ると、実はまたしても去年とおなじく、〈防衛術〉教授が犯人だった……。いえ、それはないでしょう。」

 

「なぜ、そう思う?」と〈薬学〉教授が言う。「わたしにはそれが当然のなりゆきに思えるが——」

 

「当然のように見えるからですよ。」

 

敵はあたまがいい。

 

ハリーのあたまのなかの眠気は徐々に晴れつつあり、一晩しっかり眠ったおかげで昨日の自分が気づけなかったことにも気づけるようになっている。

 

通常の物語にでてくる敵は……事前になされた対策を調べあげたり、主人公の配布した魔法アイテムを無効化したり、あとになっても主人公がわに解明できないような方法で検知網をすりぬけられるようにしたトロルを送りこみ、主人公の身さえ危うくなるほどのことをしたりはしない。 本では、視点は通常、主要キャラクターのどれかにとどまる。 語り手の視点のそとで敵がおこなった計画と行動の結果、主人公が用意していたものがことごとく通用しなくなるというのは、言ってみれば『機械じかけの悪魔(ディアボルス・エクス・マキナ)』であり、見る者に不満をのこす作劇のしかただ。

 

しかし現実世界では、敵自身も自分を主人公と見なしていて、知略にたけていて、事前によく考えてから行動する。こちらからその様子が見えないとしても。 この件に説明できていない部分や説明不可能なように思える部分があり、やたらと支離滅裂に感じられるのはそのせいだ。 ハリーがダンブルドアにアズカバンを破壊すると脅迫したとき、ルシウスはどう思っただろうか。 燃えるたいまつのついたホウキが飛びでてくるのを見て、アズカバン上層部にいた〈闇ばらい〉はどう思っただろうか。

 

敵はあたまがいい。

 

「ハーマイオニーの身に起きたことを調べるためにあなたが時間をさかのぼるであろうことも、敵は計算ずみだったはずです。トロルをホグウォーツのなかにいれられるくらいに結界を騙すことができるだれかであれば。」  ハリーは目をとじ、思考力をはたらかせ、自分を敵の立ち場においてみようとする。 自分なら……いや暗黒面なら、なぜそんなことをする—— 「われわれは、敵は結界がわれわれにどう報告するかを制御することができる、という結論に誘導されているようです。 でも実際には、それは敵にも簡単にできることではない。あるいは特定の条件下でしかできない。 敵は自分を万能であるかのように見せかけようとしているということですね。」  ()()()()()()()()() 「このつぎには、たとえばシニストラ先生がだれかを殺したと結界が報告する。 また結界は騙されている、とわれわれは思いこむ。ところが実際にやったのは、〈開心術〉をかけられたシニストラ先生だった、というような。」

 

「われわれがちょうどそういう風に考えるよう、〈闇の王〉がしむけている可能性もある。」  セヴルス・スネイプは眉間にしわを寄せ、考えることに集中している。 「その場合、むこうが結界を制御できるというのは事実であり、シニストラ教授は無実だということになる。」

 

「〈闇の王〉がそこまで高階的(メタ)な謀略をしますか——」

 

「するとも。」とダンブルドアとセヴルスが言った。

 

ハリーはうわのそらでうなづく。 「だとすれば、これは結界がぼくたちにうそをついているのについていないと思わせる作戦だったとも、うそをついていないのについていると思わせる作戦だったとも、考えられますね。敵がぼくらに何段階目までの推論を期待しているかによります。 ただ、もし敵がぼくらに結界を信頼させたかったのなら——信頼すべきでない理由がとくになければ信頼しているはずです。 なにも、クィレル先生に罪を着せておいて、それが発覚すること自体が敵の思惑どおりであることにぼくらが気づく、みたいにメタなしかけをするまでもないはず——」

 

「そうともかぎらん。」とダンブルドアが言う。 「ヴォルデモートが結界を完全には掌握していなかったのだとすれば、すくなくとも教師のうちのだれかのしわざであると結界に思わせていたにちがいない。 そうでなければ、ミス・グレンジャーが死ぬ時点ではなく負傷した時点で、結界は警報を発していた。」

 

ハリーはひたいの上の髪の毛がかかっているあたりに片手をあててこすった。

 

じゃ、まじめな質問をひとつ。 もし敵はあたまがいいなら、なぜぼくはまだ生きている? 毒殺というのはそんなにむずかしいのか? 朝食に文字どおりなにをしこまれたとしても魔法や薬や胃石(ベゾアル)で治療できてしまうのか? 結界にその犯人が記録されて、追跡できるようになっているのか?

 

ぼくの()()()()に〈闇の王〉を現世につなぐ魂のかけらがはいっていて、だから〈闇の王〉はぼくを殺すつもりがないんだとか? ぼくを殺すかわりに、ぼくの友だちを遠くに追いやることでぼくの魂を弱体化させて、ぼくのからだをのっとろうとしているとか? それなら〈ヘビ語つかい〉の件の説明がつく。 巫妖(リッチ)の呪符的ななにかは〈組わけ帽子〉にも検知できないのかもしれない。 明白な問題点その一——〈闇の王〉がその巫妖(リッチ)の呪符的ななにかをつくったのは一九四三年、女子生徒のだれだったかを殺してミスター・ハグリッドに罪を着せたときのことだとされている。 明白な問題点その二——魂なんてものはない。

 

とはいえ、ダンブルドアもぼくの血が〈闇の王〉を完全復活させる儀式の主要材料のひとつだと考えている。それが事実だとすれば、儀式のときまではぼくを生かしておく必要がある。……考えるだけで楽しくなるね。

 

「そうですね……ひとつはっきりしていることがあります。」

 

「というと?」

 

「ネヴィルは即刻ホグウォーツから退去させるべきです。 彼がつぎに標的となることは当然考えられ、どんな一年生もこの水準の攻撃を受けて生きのびることはできません。 昨夜のうちにネヴィルが襲われなかったことだけでも幸運に思うべきです。敵はこちらが追悼を終えるのを待つ必要はないんですから。」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ダンブルドアはセヴルスと視線をかわし、急に表情をけわしくしたマクゴナガル先生とも視線をかわした。 「ハリー。きみが友だちすべてを自分から遠ざけるのなら、それはほとんどヴォルデモートの思惑どおりに——」

 

「ネヴィルと会えない期間が数カ月増えてもぼくは困りませんよ。だいたい、あなたたちも夏休みにぼくの友だち全員をここにいさせるつもりだったわけじゃないでしょう。そんなことはどう考えてもネヴィルを死なせる理由にはなりません! マクゴナガル先生——」

 

「ええ、わたしもそう思います。」と言って眉をひそめるマクゴナガル先生。 「とても強くそう思います。 思いすぎて……どう表現すればいいか分からないくらいですわ、アルバス……」

 

「だれがなんと言おうが、ネヴィルに死なれてしまったら自分は命令にしたがっていたという言いわけは通用しないから、あなた自身がいまのうちに無理にでも彼を連れだそうと思うくらいですか?」とハリー。

 

マクゴナガル先生は一度目をとじた。 「そうです。ただし、おなじ責任をはたすにも、一方的な実力行使にでると予告する以外の方法があっていいはずですが。」

 

総長はためいきをついた。 「それにはおよばんよ、ミネルヴァ。自由にしなさい。」

 

「お待ちを。」と〈薬学〉教授が声をかける。その横でマクゴナガル先生はもう動きだし、〈煙送(フルー)〉の瓶から緑色の灰をつまもうとしていた。 「総長がウィーズリー兄弟に接触したときのように、ミスター・ロングボトムを目立たせてしまうのは得策ではありません。 彼の祖母が彼を連れて出ていくかたちがよいでしょう。 彼自身には、いまのところ談話室にいさせればよい。〈闇の王〉はあまり堂々と行動することができないようですから。」

 

四人はまたしばらく視線をかわしあい、やがて最後にハリーがうなづき、マクゴナガル先生もうなづいた。

 

「それでは……もうひとつはっきりしていることがあります。」とハリー。

 

「というと?」とダンブルドア。

 

「ぼくはぜひとも洗面所に行く必要があります。それと着替えもしておきたいですね。」

 

◆ ◆ ◆

 

「ところで……」  ハリーは総長といっしょに〈煙送(フルー)〉で無人のレイヴンクロー寮監室に転移し終わると話しかけた。 「もうひとつ、あなたにだけ聞いておきたいことがあります。 ウィーズリー兄弟が〈組わけ帽子〉からとりだした剣がありましたが、 あれは〈グリフィンドールの剣〉ですよね?」

 

老魔法使いは中立的な表情で見かえした。 「なにを根拠にそう思う?」

 

「帽子はあれをわたす直前に『グリフィンドール!』とさけんでいましたし、柄の端のかざりは紅玉(ルビー)で刀身の文字は黄金色でしたし、書かれていたのは『天下無双』という意味のラテン語でしたから、 そうかもしれないと思っただけです。」

 

「『nihil supernum』か。あれはそういう意味のことばではないのじゃが。」

 

「はあ。あの剣は、あのあとどうしました?」

 

「落ちていたのを拾い、安全な場所に保管しておいた。」  老魔法使いはハリーにきびしい視線をむける。 「きみには、欲しくなった、などと言いださないでもらいたいものじゃが。」

 

「言いませんよ。ぼくはただ、あれがいつかは正当な持ちぬしの手に返るようにしておきたかっただけです。 つまり、ウィーズリー兄弟は〈グリフィンドールの継承者〉なんでしょう?」

 

「〈グリフィンドールの継承者〉?」と言ってダンブルドアはおどろいた表情になった。 そして青い目をきらりとさせ、笑みを見せた。 「ああ、サラザール・スリザリンならホグウォーツ城内に〈秘儀の部屋〉を建造することもあろうが、ゴドリック・グリフィンドールはその手の放蕩をしたがる人ではなかった。 ゴドリックはただあの〈剣〉をホグウォーツ防衛のためにだけ残したとされている。その資格ある生徒が独力では倒すことのできない敵とたたかうときにそなえて。」

 

「あなたは否定してはいませんね。 否定しなかったということにぼくが気づかないとは思わないでくださいよ。」

 

「なにせわしもその当時、生きていたわけではない。ゴドリック・グリフィンドールがなにをしたか、しなかったかを、逐一知りはしない——」

 

「あなたは、〈グリフィンドールの継承者〉というようなものが存在してウィーズリー兄弟の二人かどちらか一人がそれにあたるということについて、五十パーセントより大きい主観確率を付与していますか。 イエスかノーか、言ってください。言いのがれはイエスと見なします。 話をそらしても無駄です。ぼくもトイレに行きたいのはやまやまですが。」

 

老魔法使いはためいきをついた。 「わかった。フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリーは〈グリフィンドールの継承者〉じゃ。 どうか本人たちには、まだ言わないでほしい。」

 

ハリーはうなづき、ダンブルドアに背をむけて去ろうとする。 「おどろきました。ゴドリック・グリフィンドールについての歴史書は多少読みましたが、 あの二人は…… まあ、あの二人にもいろいろいいところはありますけど、歴史の本に出てくるゴドリックとは似ていませんよね。」

 

「よほど虚栄にまみれた人でもなければ……」と静かに言いながら、ダンブルドアは〈煙送(フルー)〉の暖炉に再燃している緑色の炎と対面する。 「自分の継承者が自分とおなじようであるべきだと考えるのではなく、自分がなろうとしてなれなかったような人物であってほしいと考えるものじゃ。」

 

そのまま足をふみいれると、総長は緑色の炎のなかに消えた。

 

◆ ◆ ◆

 

第二の会合(ハッフルパフ談話室の脇の小部屋で)

 

ネヴィル・ロングボトムはだれもいない空間にむけて苦悶しながら話している。

 

「だからね……」と、だれもいない空間がネヴィルに話す。 「ぼくが廊下を歩くときにさえ特別な検知防止の魔法つきの不可視のマントを着ているのも、殺されたくないからなんだ。 ぼくの両親だって、総長が許しさえすればすぐにでもぼくをホグウォーツから退去させるつもりでいる。 きみをここから退去させるというのは完全に常識的な判断で、()()こととはなんの関係も——」

 

「ぼくがやったことは裏切りだった。」  ネヴィルは十一歳の男の子にはこれ以上ないほどの空虚な声で言う。 「〈カオス〉的なやりかたですらなかった。 自分から権威に追従したし、他人を権威に追従させようともしていた。 〈カオス軍団〉ではいつも、命令に服従するだけの兵士にはなんの価値もないと司令官に言われていたのに。」

 

「ネヴィル。」ときっぱりとした声がして、 薄い布をはさんで二本の手がネヴィルの両肩をしっかりとつかむ。同時に声がちかづいていく。 「あれは盲目的に権威に服従するというより、ぼくを守ろうとしてやったことだろう。 たしかにこの混沌とした世界で、規則や規制にしたがうだけの兵士は無価値だ。 けれど、味方を守るために規則にしたがおうとする兵士は——」

 

「多少それよりましではあると思う?」とネヴィルが苦にがしげに言った。

 

「かなりましだと思う。 ネヴィル、きみは判断をあやまった。 そのおかげでぼくは六秒ほど損をした。 仮にハーマイオニーのけがは致命傷ぎりぎりのものでしかなかったとしよう。それでも六秒というのが、トロルがハーマイオニーに一回噛みつくのに足りる時間だとは思えない。 きみが立ちふさがらなかったという反実仮想の条件下でも、ハーマイオニーは死んでいた。 いっぽうで、ぼくは自分がバカでなければ分かっていたはずの、ハーマイオニーを死なせずにすんだ方法を楽に十個は言えてしまう——」

 

「きみが? きみは助けにいこうとしたじゃないか。 ぼくはそれを邪魔しようとしたほうだ。 だれが悪いかといえば、ぼくにきまってる。」

 

だれもいない空間はしばらく返事をしなかった。

 

「……ふうん。ぼくにも正直、そういう発想はなかったね。 ぼくもつぎに自分を責めたくなる衝動を感じたときは、このことを思いだすようにしたいと思う。 ネヴィル、これは専門的には『自己中心性バイアス』と呼ばれていて、 ひとは自分の人生についてのことはなんでも体験できるのに対して、それ以外の世界のすべてのことは自分で体験することができない、ということ。 あのとき、きみがぼくのまえに立ちふさがったということ以外にも、はるかにいろいろなことが起きていた。 きみはその六秒間に自分がしたことを、きっとこれから何週間にもわたって思い悩むだろうけれど、そんなことはきみ以外のだれも気にしない。 きみ以外の人たちがきみの過去の失敗について考える時間は、きみ自身がそうする時間よりはるかに少ない。というのも、きみはその人たちの世界の中心にいないから。 保証してもいいけれど、ハーマイオニーの身に起きたことがネヴィル・ロングボトムのせいだったなんて、きみ以外のだれ一人、一秒たりとも思いもしない。 そんなふうに考えるのはバカらしいとしか言いようがない。 さあ、文句は言わず、さっさとここを出ていくんだ。」

 

「ぼくはまだここにいたい。」  声は震えているが、ネヴィルは泣かないようにこらえている。 「ぼくはここで——ぼくらを襲っているなにかと戦いたい。」

 

だれもいない空間がネヴィルにちかづき、抱擁した。そして「ぼくも残念だ」というハリー・ポッターの声が聞こえた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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95章「それぞれの役割(その6)」

第三の会合(一九九二年四月十七日、午前十時三十一分)

 

春とはいえ、昼まえの空気にはまだ冬の朝のような清涼感がなくなっていない。 森の下生えのなかに咲いたスイセンの黄色い花びらと内がわの黄金色の部分とが、枯れた灰色の茎からぶらさがっている。四月の急におりる霜により、花はこうやって痛み、枯れることがある。 〈禁断の森〉のなかに行けば、もっとめずらしい生物が見つかるという。ケンタウロスやユニコーンはもとより、人狼がいるという話さえある。 ただし、実世界の人狼についての本を読むかぎりでは、どう考えてもありそうにない。

 

わざわざ危険をおかす意味もないので、ハリーは〈禁断の森〉の周縁に近づきもしていない。 透明になったまま、禁断でないほうの森の比較的めずらしくない動植物のあいだを歩いていく。念のため、杖は手にはもち、ホウキはすぐに乗れるよう、背なかにくくりつけてある。 そうしていて、不思議なほどに恐怖感がない。 つねに周囲を警戒し闘争/逃走の態勢にあることが、重荷だとも非日常的だとも感じられない。

 

禁断でない森の周縁部を歩くあいだ、発見されにくいよう意識して、踏みならされていない道をたどり、同時にホグウォーツ城の窓を見うしなわないようにする。 昼食の時間になれば、事前にかけておいた機械式腕時計の目ざましが知らせてくれる。透明になっていると、見て確認することもできないのである。 となると、この〈マント〉を着ている状態で眼鏡がどう機能しているのかが気になってくる。 〈排中律〉的な言いかたをするなら、光子はハリーの網膜中のロドプシンに吸収され神経発火に変換されるか、ハリーの身体をそのまま通過するかのどちらかであり、両方ではありえない。 不可視のマントを着ると、自分が他者から見えなくなる。そのいっぽうで自分が外部を見ることはさまたげられない。そうなっているのはどうも、根本的な部分で、使い手が不可視化をそういうものに——()()()()()()からではなく、そういうものだと()()()()()()()()()()()からだというように思えてくる。

 

そうなると、だれかに〈錯乱(コンファンド)〉か〈開心(レジリメンス)〉をかけてやり、その人に一年生水準の簡単な呪文のなかに『ナンデモカイケツ』というのが当然あってしかるべきだと思いこませたうえでそれを発明させる、という手を試した例があってもいいのではないかと思ってしまう。

 

あるいは、マグル生まれが見つかるようになっていない国で有望なマグル生まれを探して、その人に嘘八百を教えて、背景設定とそれに対応する証拠とをでっちあげてやる、という手もあるかもしれない。そうやって最初から、魔法でできること、できないことについて、ほかの人たちとは異なる理解をさせるのだ。 といっても、いろいろな呪文をまなんでからでないと、独自の呪文を発明することはできないようだが……。

 

いや、どうだろう。勝手に狂っただれかが自分は神になると信じこみ、なれなかったという例もあってよさそうなものだ。 とはいえ、そんな狂人でさえ、神格化の呪文には大がかりで劇的な儀式があるべきだと思うはずで、繊細な杖のうごかしかたと『カミニナレ』という文句だけですむとは思わないはずだ。

 

そう簡単なことではないだろうということは分かっている。 では、()()そう思うのか。 ハリーの脳はどんなパターンを学習して、そう思ったのか。 事前に予想できるような理由があって、そう判断したのか。

 

この問いについて考えはじめたとき、ハリーのこころのなかにごく小さく不穏な影が浮かんだ。 名状しがたい不安が徐々に形をもち、大きくなっていく——

 

クィレル先生?

 

「ミスター・ポッター。」と、背後からささやく声があった。

 

ハリーはぱっと振りむき、マントの下の〈逆転時計〉に手がのびる。 いつでもすぐに逃げられるよう準備しておくという原則が、やはり当然のことのように感じられる。

 

クィレル先生がからっぽの両手をまえにだし、ホグウォーツ城のほうから森の外縁部にむかって、ゆっくりと歩いてくる。

 

「ミスター・ポッター。そこにいるのは分かっているぞ。これが当てずっぽうで言っているのでないことは、きみにも分かっているはずだ。 話がある。」

 

ハリーはまだ返事をしない。 クィレル先生はまだ本題を明かしていないし、太陽に照らされた森のまわりを散歩していたせいでハリーは無言のままでいたい気分になっていた。

 

クィレル先生は小さく左に一歩、前に一歩、右に一歩と動いた。 そして一度計算するようにくびをかしげてから、ほとんどまっすぐに歩き、ハリーのいる場所の数歩手まえで止まった。わきおこる破滅の感覚は耐えがたいほどになっていた。

 

「きみの決心はゆるがないか? 昨日言っていたとおりの道をたどる気か?」

 

ハリーはやはり返事をしない。

 

クィレル先生はためいきをついた。 「わたしはきみのためにこれまで手を尽くしてきた。 わたしのことをどう思っていようが、きみもそれだけは否定できまい。 その借りをいまいくらか返してもらいたい。だから返事をしてくれ、ミスター・ポッター。」

 

いますぐにはそういう気分になれない——ああ、そうか。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは〈逆転時計〉を一度まわし、正確な時刻を記録し、正確な位置を記憶し、もう一時間散歩してから城内にはいり、(自分になにかあったときにそなえて)マクゴナガル先生に自分がいまホグウォーツ城の外の森のなかで〈防衛術〉教授と話しているということを告げ、もう一時間散歩した。出発してから二時間が経過したとき、ちょうど一時間後の時点にもとの位置にもどり、もう一度〈逆転時計〉をまわした——

 

◆ ◆ ◆

 

「いまのはなんだ?」と言ってクィレル先生が目を白黒させる。 「まさか——」

 

「なんでもありません。」と言いつつ、不可視のマントのフードはおろしたまま、手は〈逆転時計〉にのせたままでいるハリー。 「決心はゆらいでいません。 正直に言えば、秘密にしておくべきだったという気がしてきました。」

 

クィレル先生は軽く首肯した。 「立派なこころがけだ。 きみにその決心を曲げさせるようなことがあるとすれば、それはなんだろうか?」

 

「あのですね、もし自分に別の判断をさせるような材料があると知っているなら、そもそも——」

 

「たしかにそうだな、きみやわたしのような人間なら。 だが、どんな知らせが待ちうけているかを知りながら、その知らせに接するときを待たねばならないということも案外あってしまうものだ。」  クィレル先生はそこでくびをふる。 「きみの流儀で言うなら…… ある事実をわたしは知っていてきみは知らない。これからその事実をきみに認めてもらいたいと思う。」

 

ハリーは両眉をあげた。が、すぐにそれがクィレル先生に見えていないことに気づいた。 「たしかにぼくの流儀ですね。つづきをどうぞ。」

 

「きみがなした決意はきみが思うよりはるかに危険だ。」

 

意外な主張ではあるが、ハリーとしてはさほど考えずに応答できる。 「『危険』を定義してください。自分がなにを知っていると思っているか、なぜ知っていると思っているかを言ってください。」

 

「ある人に危険の存在を告げると、告げたこと自体が原因でその人が危険に直行してしまう場合がある。 わたしは今回、その状況を起こすつもりはない。 きみがなにをしてはいけないか。わたしがなにを恐れているか。わたしがそれをここではっきり言うと思うか?」  くびを横にふる。 「きみも魔法族生まれだったなら、実力者から気をつけろと言われただけでも真剣に受けとめるべきだということが理解できるだろうに。」

 

そう言われて不快ではないと言えばうそになるが、ハリーもばかではないので、ただこう応じた。 「なにか言える範囲のことはありませんか?」

 

クィレル先生は慎重に草のうえに腰をおろし、杖を手にして、ある(かま)えをとった。それがなんの構えであるかが分かって、ハリーは息をのんだ。

 

「きみにこれをしてあげられるのは今回が最後だ。」  クィレル先生は小声でそう言ってから、 奇妙な言語を発しはじめた。ハリーの知っているどんな言語でもないそれは、人間離れした抑揚でとなえられた。ハリーの精神に入ってはすぐに出ていき、いくらつかまえようとしても記憶をすりぬけていくようだった。

 

前回よりも時間をかけて、その呪文は効果を発揮していった。 すこしも視界のゆがまないサングラスをかけたかのように光が退潮していき、木々は黒くなり、枝と葉は色あせていく。 青い(そら)の半球が後退し、脳の錯覚で有限の距離に見えている地平線が奥へさがり、灰色がさらに暗い灰色へ変化する。 雲はつぎつぎに透けて透明になり、やがてふっと薄れ、かわって闇が(おもて)にでてくる。

 

森は徐々に色をうしない、暗黒のなかへとりこまれていく。

 

目が暗さに順応すると、あの天河がまた見えはじめた。点以外のものとして人間の目に映る最大の物体、〈天の川銀河〉。

 

そして深遠から投げかけられる、明るくも遠い星ぼしの刺すような光。

 

クィレル先生は一度深く息をつき、 また杖を持ちあげ(その動作は太陽も月もなく星の光しかないこの場所では見えにくいが)、自分の頭部をたたいた。卵が割れるときのような音がした。

 

〈防衛術〉教授のすがたが徐々に消え、ハリーとおなじように透明になった。

 

だれも乗っていない小さな円形の草地の切れはしが、ごくわずかな光しかない空間に浮かんでいる。

 

二人はしばらく話をしなかった。 ハリーは自分のからだをふくめ一切の邪魔がない状態で星を見ることができて幸せだった。 クィレル先生がなんのためにハリーをこの場所に招いたにせよ、やがて話ははじまるだろうと思った。

 

やがて声が聞こえた。

 

「ここには戦争というものがない。」  虚空からささやき声がわきおこる。 「紛争も戦闘も、駆け引きも裏切りも、死も生もない。 それらはすべて人間の愚かしさのたまもの。 天空の星ぼしはそのような愚かしさを超越している。 ここには永遠の平和と静寂がある。 そういう風に、わたしは思っていた。」

 

ハリーは声のする方向に顔をむけたが、星しか見えなかった。

 

「思っていた、というと?」  声はそこでとぎれたままだったので、ハリーはそう聞きかえした。

 

「何者も人間の愚かしさを越えることはない。 何者も十分な知性をともなう愚行の破壊力を上回ることはない。星ぼしでさえも。 わたしは大変な苦労をして、例の黄金の板がいつまでも朽ちることのないようにした。 あれを破壊するような人間の愚行があるとすれば、わたしはそれを見過ごせない。」

 

ハリーの目はまた反射的に声のした方向へむかうが、そこにあるのはやはり虚空だけ。 「その点については、杞憂だということを保証しますよ。 核兵器の火球の大きさではどうがんばっても……パイオニア十一号はいまどれくらい遠くにあるんでしたっけ? きっと十億キロメートルくらいでしょう? マグルは核兵器が世界を破壊すると言いはしますが、それは実際には地球の表面の一部を少しあたためるという程度のことです。 太陽はそれこそ巨大な核融合反応のかたまりですが、その太陽でさえ遠くの宇宙探査機を蒸発させることはできません。 核戦争は最悪のシナリオでも、太陽系すらびくともしない程度の破壊力しかありません。だからといって、大したなぐさめにもなりませんが。」

 

「マグルについて言えば、そのとおり。 しかし破壊力についてマグルが知ることはたかがしれているだろう? いまわたしが恐れているのは彼らではなく、きみだ。」

 

「言っておきますが、たしかにぼくはこれまでに何度か致命的な失敗をしてしまったことがありますが、それと爆発の半径にパイオニア十一号がはいるほど派手に抵抗回避判定(セーヴィングスロー)に負けることとをいっしょにしないでもらいたいですね。 そんなことは太陽を吹きとばしでもしないかぎり、事実上ありえません。 聞かれるまえに言っておくと、太陽系の太陽はG型主系列星なので爆発()()()()()。 いくら太陽にエネルギーをそそいでも水素プラズマの体積が増えるだけ。太陽には縮退中心核がないし、 寿命が尽きた段階でも超新星になれるほどの質量がありませんから。」

 

「マグルはよくそこまで調べあげたものだ。彼らは、星が生き、死をまぬがれ、そして死ぬまでのありようを知っている。驚嘆させられる知識ではあるが、彼らはその知識が危険かもしれないとは夢にも思わない。」

 

「正直その知識に関しては、ぼくも危険だと思ったことはないですね。」

 

「きみはマグル生まれだ。 血統ではなく生いたちについて言えばそうだろう。 そこにたしかに一種の思想の自由はある。 いっぽうで魔法族も無闇に用心深くあるのではない。 三百二十三年まえにシチリアの魔法族領は一人の男の愚行により廃墟と化した。 その手の事故はホグウォーツが建造された当時にはもっと頻繁に起きていた。 マーリンの死後の時期には、いっそう頻繁だった。 マーリン以前の時代については、調べるべき遺物自体がほぼのこっていない。」

 

「それの威力と太陽を吹きとばす威力とには、三十桁ほど差があります。」  ハリーはそう言いはじめてから思いとどまった。 「でも本質はそこじゃありませんね。すみません。国ひとつが吹きとぶのも惨事ではあります。 とにかく、ぼくはそんなことをするつもりはありません。」

 

「いや、きみ自身の選択は必要とされない。 読書をするにしてもマグルの小説より魔法族の小説にしていれば、きみにも分かっていたはずだ。 子どもむけの本ならいざ知らず、真剣な文学の登場人物が愚かなあまり〈骸骨男〉の封印をとこうとするとき、そうすること自体が目的であることはない。 それは、いずれ自分に名声をもたらす事業をなしとげようとしていながら、その名声を手にすることなく無名のまま終わることを恐れるあまり、自国を崩壊させる未知の可能性を見すごしてしまうという危険さかもしれない。 あるいは、すでにだれかに成功を約束していて、その人を失望させるわけにはいかないという思いからかもしれない。 負債をかかえた子どもがいるのかもしれない。 そういう物語には学ぶべきところが多々ある。 過酷な経験と灰燼に帰した都市からの教訓だ。 災厄をもたらすものとしてまず考えるべきなのは、警告が見えてもなぜか止まることのできない魔法使いだ。 自分は気をつけていると公言しながらも実際に手をとめることができない。そういう人間がいる。 ミスター・ポッター、きみはハーマイオニー・グレンジャーならやめろと言ったであろうことを一つでも試すつもりになってはいないか?」

 

「はい、その点はおっしゃるとおり。 別の二人の人間の命を代償にしてハーマイオニーを救ったとしたら、功利主義的観点では差し引きで損失が生じる、ということはぼくもよく分かっていますよ。 それ以上に、ハーマイオニーは一国を滅ぼしてしまうようなやりかたで救われたくはないだろうということも、よく分かっています。 あたりまえのことじゃないですか。」

 

「ディメンターを破壊するきみに言っておく。 国ひとつを滅ぼすだけのことなら、わたしもそこまで危惧することはない。 わたしも最初は、マグル科学とマグル流の方法についてきみが知る知識が大きなちからの源泉とはなりえないと思っていたが、 その判断はいまや変わった。 わたしは切実に、あの黄金の板が無事でなくなるのではないかと危惧している。」

 

「ぼくがサイエンスフィクションから学んだことがひとつあるとすれば、太陽系を破壊することは倫理的に看過できない、ということです。人類がまだほかの星系へ植民していない段階では、とくに。」

 

「だとすれば、きみは今回の決意を取り消す用意が——」

 

「それはありません。」  考えるまえにそういう返事がくちをついた。しばらくして、もう一言。 「ただ、あなたがおっしゃることは理解しています。」

 

沈黙。 星は地球の夜空でのわずかな動きすらすることなく、最初の位置をたもっている。

 

かさり、と人間が体勢を変えるときの音がした。 ハリーは自分がしばらくおなじ場所で立ったままだったことに気づいた。足もとの円形の草地はほとんど見えなくなっているが、まだそこにある。呪文の有効範囲からはみでないように注意しながら、腰を落とす。

 

「それで、きみはなぜあの子をそれほど大事に思う?」とささやき声が言った。

 

「友だちだからです。」

 

「『友だち』という単語は、通常の用法では、あらゆる手をつくして死者をよみがえらせるということを意味しない。 きみには彼女のことが運命の恋人のようなものに見えているのか?」

 

「はあ。よりによって、あなたまでそういうことを。 親友だというところまではいいですが、それだけですからね。 それで十分でしょう。 友だちが死んだら、なにもしないではいられないものです。」

 

「一般人は、友だちと呼ぶ相手に対してそこまでのことをしない。」  声は、遠くを見ているような声に変わった。 「愛で結ばれていると称する相手に対してさえそうだ。 彼らは伴侶が死んだとき、その伴侶をよみがえらせるすべを求めようとはしない。」

 

ハリーはまた思わず、無意味なことと知りながら、声の方向を見た。見えるのはまた、星ばかり。 「きっとあなたがそこから推論するのは……人間は友人を大切にしているようなふりをしていながら実際にはそれほど大切にしていない、ということでしょうね。」

 

みじかい笑い声。 「実際以下のふりをしてもしかたあるまい。」

 

「ふりだけじゃありませんよ。相手が運命の恋人である必要はありません。 味方を救うために手榴弾にとびかかる兵士はいます。わが子を救出するために燃える家にとびこむ母親もいます。 ただ、マグルは魔法というものがあって人間をよみがえらせることができるのを知らないし、 ふつうの魔法使いは……そういう()()()()()をする習慣がない。 たとえば、ほとんどの魔法使いは()()()()()不死にするすべを求めることすらしませんが、 だからといって、彼らが自分自身のいのちを大切にしていないと言えますか?」

 

「まさしく。 わたしに言わせれば、彼らはなんの意味もなく生きていて、その人生にはいささかの価値もない。 もしかすると隠れた本音を探れば、彼ら自身わたしの意見の正しさを受けいれているかもしれない。」

 

ハリーはくびを横にふり、それからいらだたしげにフードをめくり、もう一度くびをふった。 「それはすこしものの見かたが()()()()()()()()()んじゃないですか。」  星にかこまれた暗い円形の草地の上にぽつんと浮かぶ、薄明かりに照らされた少年の頭部。 「ふつうの人はそもそも復活の呪文を発明してみようとは思わないだけですよ。 ふつうの人がそれを実践していないということから推論できることはなにもありません。」

 

すると、草地に腰をおろした男の輪郭も薄明かりに照らされて見えるようになった。

 

「その愛情や友情とやらがほんものであれば、思いついていてしかるべきでは?」

 

「脳はそういう風にできていません。 うしなうものが大きいからといって、脳の出力は急にあがりません——あがったとしても限度があります。 ぼくの計算にだれかの生死がかかっているとしても、ぼくが円周率を千桁目まで計算できるようにはなりません。」

 

男は軽く首肯した。 「しかしそれ以外にも説明のしようはある。 人間は友人という()()()()()()のであって、 人間は役割のうえで要求される以上の行動も、以下の行動もしない。 するときみと彼らのちがいは、きみが彼らより友人思いだということではないように、わたしには思えてしまうがね。 魔法族のなかできみ一人だけが、死んだハーマイオニー・グレンジャーをよみがえらせようと決心するほど特別に強い友情心をもって生まれたなどということがあるだろうか。 いや、もっとも可能性のたかい回答は友情心の強さではないと思う。 きみは彼らより論理的だった。〈友人〉を演じるならそういう行動が要求される、と考えるのはきみだけだったのだ。」

 

ハリーは星をじっと見た。 いま自分が震えていないと言えばうそになる。 「そんなこと……はないでしょう。 いま言えるだけでも、死んだ友人をよみがえらせようとするマグル小説の登場人物の例が十以上ありますよ。 そういう小説の著者はぼくのハーマイオニーに対する感情を理解していたはずです。 あなたはそういう小説を読んだことがないんでしょうけど……。でもオルペウスとエウリュディケーならどうです? ぼくは読んではいませんが、内容は知っています。」

 

「そういう物語なら魔法族にもある。 たとえばエルリック兄弟の物語。 あるいは母親のドーラ・ケントを保護した息子ソールの話。 無謀にも〈時間〉に反抗しようとしたロナルド・マレットの話。 滅亡するまえのシチリアにはプレシア・テスタロッサの戯曲があった。 ニッポンにはアケミ・ホムラの悲恋の物語が伝わっている。 これらに共通するのは、どれも()()だということ。 魔法族にも想像できる者がいることはたしかだが、だれも現実世界でそのような行動をとろうとはしない。」

 

「実際できるとは思わないからでしょう!」

 

「ではきみがミス・グレンジャーをよみがえらせる方法を探すつもりだということをマクゴナガル先生に言って、反応を見てみようか? 彼女もただ思いつかなかっただけかもしれない……。 ほう、ためらうのだね。 きみはすでに彼女がどうこたえるかを知っている。 なぜ知っているのかは分かっているか?」  冷たい笑みを思わせる声。 「うまい論法だな、これは。ありがとう。いいものを教えてもらった。」

 

自分でも顔に緊張があらわれていることが分かる。ハリーは吐き捨てるような声になる。 「それはマクゴナガル先生はマグル的な増大する科学という概念を知らずに生まれ育っていて、友だちの生命の危機にこそ()()()()()()()べきときだということを周囲のだれにも言われたことがなかったというだけのこと——」

 

クィレル先生の声も大きくなった。 「彼女は()()()()()()()()()()。それだけだ! 台本には、思いやりのある人間であることを周囲に示すために死を悲しめ、と書かれていた。 凡人は台本にないことをやれと言われても、ろくなことができない。 きみも知ってのとおり!」

 

「そうは言いますがね、つい昨日、マクゴナガル先生は夕食の場で台本にないことをしていたように見えましたよ。 もう十回台本をはずれてくれたら、ハーマイオニーをよみがえらせる件について話してみてもいいかもしれませんが、いまのあの人はまだ練習不足です。 けっきょくあなたは愛とか友情とかいったものをうそだと見なすことによって、()()()()()()()()ということから目をそらそうとしているだけです。」

 

クィレル先生の声が高くなる。 「もしあのトロルに殺されたのがきみだったとしたら、きみがいまやろうとしているようなことをしようという発想などハーマイオニー・グレンジャーにあろうはずがない! ドラコ・マルフォイにも、ネヴィル・ロングボトムにも、マクゴナガルにも、きみが大事にしている友だちのだれにもそんな発想はない! 彼女に対するきみの思いやりに相当するものをきみに返す人間は世界中に一人もいない! なのに()()。なぜきみはそうする?」  その声は妙に余裕をうしなって聞こえた。 「世界じゅうでそこまでの労力を割いてその見せかけを維持しようとするのはきみ一人であり、ほかのだれも、きみに同じことをして報いようとはしない。なのになぜその一人であろうとする?」

 

「あなたはいくつもの点で事実を誤認していますよ。 すくなくとも、ぼくの感情についてのあなたのモデルには欠陥があります。 仮にあなたがいま言ったことすべてが正しかったとして、それでぼくをとめられると思うなら、あなたはぼくをまったく理解していません。 どんなことにも最初のひとつがあり、起きるべきできごとすべてに最初の一回がある。 地球上の生命も、泥の池のなかの小さな自己複製分子ひとつではじまった。 もしぼくが世界ではじめて……いや——」

 

片手をぐるりと動かし、周囲のとてつもなく遠い光の粒を指す。

 

「——もしだれかのことを思いやる()()()()()()一人がぼくだったとして……それは事実に反しているわけですが……もしそうだったなら、ぼくはその一人になることを光栄に思います。しっかりやりとげようとしますよ。」

 

二人は長く沈黙した。

 

「きみはほんとうにあの子のことを気にかけているようだ。」  仄暗い男の輪郭から小さな声がする。 「()()のだれ一人として、なにかをそれだけ気にかける能力を持っていない。自分自身の命に対しても、無論他人に対しても。」  クィレル先生の声は奇妙な、読みとりがたいなんらかの感情に満ちたものに変わっていた。 「わたしには不可解だが、きみがこれからそのために大変な労力をささげるであろうことは分かった。 きみは彼女のために死そのものと戦う。 なにがあってもきみはその道を歩むことをやめない。」

 

「意味のある努力をする程度に気にかけている、とは言えます。」

 

星空がしだいに壊れ、割れ目から明るい世界が見えはじめる。夜空に切りこみがはいり、そこから日光に照らされた木々の幹や葉が見えてくる。 暗さに順応していた目にとっては強烈な明るさで、ハリーは片手をあげ、強く目をしばたたかせた。 同時に目は無意識にクィレル先生のほうをむく。目がきかないうちに攻撃がはじまる可能性にそなえて。

 

星はすべて消え、日光だけがのこった。クィレル先生は草のうえに腰をおろしたままだった。 「さて……」 通常の声になっている。 「そういうことであれば、わたしはきみにできるかぎりの手助けをしてあげようと思う。そうしていられるあいだは。」

 

「え……なんのことです?」

 

「昨日わたしがきみに申しでた援助はいまも有効だ。 質問があれば答えよう。 ミスター・マルフォイに適しているときみが思った科学の本を見せてくれれば、目をとおし、気づいたことを教えよう。 そうおどろくことはない。これをきみの勝手にしておくわけにはいかないのだから。」

 

ハリーの目の涙腺は急な明るさのせいでまだ湿っている。

 

クィレル先生はハリーに目をあわせてきた。 淡い水色の目に奇妙な光がやどっていた。 「わたしにできることはここまでだ。悪いがわたしはこれで失礼させてもらう。では——」  一度そこで言いよどんでから、 「さようなら、ミスター・ポッター。」

 

「さよ——」

 

ハリーがそう返事しかけると、男は倒れて地面に軽くあたまを打った。 同時に、破滅の感覚がさっと引いていくのを感じ、思わずハリーは立ちあがった。急に心臓がのどにつまる思いがした。

 

しかし倒れた男はゆっくりと身を起こして四つんばいになった。 こちらを見るうつろな目。くちはだらしなくあいている。 立ちあがろうとするが、また地面に倒れる。

 

ハリーは完全に本能的に一歩まえにでて、手を貸そうとした。いっぽうで、貸すべきでないとも感じられた。わずかではあれ恐怖がわき、危険がまだ去っていないことを告げていた。

 

しかし倒れた男はハリーから飛びのき、ゆっくりと遠い城の付近へむかって這っていった。

 

ハリーは森のなかに立ちどまったまま、そのあとを目で追った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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96章「それぞれの役割(その7)」

◆ ◆ ◆

 

第四の会合(一九九二年四月十七日、午後四時三十八分)

 

周囲の家々を行儀よく見歩くハリー・ポッター。くたびれた厚手のコート姿の、ほおに三本線の消えない傷がある男は、その少年の立ち振る舞いを入念に観察する。 一日まえに親友の死を経験した少年にしては奇妙なほど落ちついて見える。しかし同時に、その様子は無感情や平常心とはほどとおい。 『あなたともほかのだれとも、その話をするのは控えたい』とこの少年は言っていた。 『控える』という大人じみた表現をつかうことを通じて、自分は大人として判断しているのだと強調しているように聞こえた。 リーマス・ルーピンは例のクィリナス・クィレルという奇妙な人物とマクゴナガル教授からそれぞれフクロウ便を受け取ったとき、一つだけ、助けになるかもしれないと思ったことがあった。

 

「空き家が多いですね。」とその少年がまた一度あたりを見まわして言った。

 

〈ゴドリックの谷〉にリーマス・ルーピンが通いはじめてから十年。十年を経てこの場所は変わった。 屋根のとがった古びた一軒家(コテージ)の窓や扉は緑色の葉のあるツタにおおわれつつあり、大半が空き家のように見える。 〈魔法大戦〉の余波でブリテンは目に見えて縮退した。死者だけでなく出奔者も人口減に寄与した。 〈ゴドリックの谷〉も戦禍をこうむり、 さらにその後、ホグスミードやロンドン魔法界へ脱出する一族があいついだ。 無人の家々はその事実を否応なく思いださせる。

 

とどまる者もいた。 〈ゴドリックの谷〉はホグウォーツより古く、ゴドリック・グリフィンドールの名前で呼ばれるようになるまえからそこにあった。世界と魔法が終わるまでここを住処(すみか)としつづけるであろう一族もいた。

 

ポッター家もその一つだった。生きのこったあとつぎは、望めばまたここを一族の住処とすることもできる。

 

リーマス・ルーピンはそういう話を子どもにも分かるように単純化して説明しようとした。 その子は考えこむようにうなづき、無言でいた。質問をするまでもなくすべて理解できたというかのように。 実際、できたのかもしれない。ジェイムズ・ポッターとリリー・エヴァンズ……ホグウォーツ首席男子と首席女子の子なら、理解力は十分なはず。 実際、一月にできた短い時間の会話からも、知性はうかがわれた。といっても、そのときはほとんどルーピンばかりが話していたのだったが。

 

(ウィゼンガモートでの一件についてもうわさに聞いてはいたが、ジェイムズが自分の息子をモリーの末子のいいなづけにしたという話以上に信じがたい荒唐無稽さだとリーマスは思っていた。)

 

「記念碑はそこだ。」と言ってリーマスは前方を指さした。

 

◆ ◆ ◆

 

ミスター・ルーピンとならんで黒大理石の方尖柱(オベリスク)へむかって歩くあいだ、ハリーは静かに考えた。 わざわざこうやってここに来るというのは的はずれな考えに思えた。 死別カウンセリングをされることに意味があるような道をハリーはえらんでいない。 ハリーに言わせれば、死別を乗りこえるまでの五段階は〈怒り〉・〈後悔〉・〈決心〉・〈調査〉・〈復活〉だ。(といっても、通常『死別を乗りこえるまでの五段階』とされるもの自体、なんら実証されたものではないらしい。) それでもミスター・ルーピンの真摯な申し出は断りにくく、ジェイムズとリリーの家を訪問する機会をのがすべきではないように思えた。 そういう経緯もあって、ハリーは歩いていて奇妙に乖離した感覚をおぼえている。読もうという気になれない台本にしたがって歩いているような気がしている。

 

この遠出では〈不可視のマント〉を着ないようにと言われていた。ミスター・ルーピンがハリーから目を離さずにいられるようにと。

 

ダンブルドアなら……いやダンブルドアとマッドアイ・ムーディなら、きっとこの後ろに透明になって控えていて、うっかり手を出しにくる者がいないか目を光らせているにちがいない、とハリーは確信している。 どう考えても、リーマス・ルーピン一人を護衛としてホグウォーツの外にでかけるなどということが許されるわけがない。 といっても、ハリーはここでなにかが起きるとは思っていない。 いまのところ、すべての危険がホグウォーツだけに集中しているという仮説に反する証拠は、一つもないのだから。

 

そのまま歩いて町の中心部にちかづくにつれて、方尖柱(オベリスク)であったものはやがて——

 

ハリーは息をのんだ。 事前に予想していたのは、英雄的な立ちかたでヴォルデモート卿に杖をつきつけるジェイムズ・ポッターと、赤ん坊のベッドのまえで両手を開いて立ちふさがるリリー・ポッターの像だった。

 

そこにあったのは、ぼさぼさの髪の眼鏡をした男と、髪をほどいた女と、抱きかかえられた赤子。それだけだった。

 

「なにかとても……ふつうですね。」  ハリーはどこかのどにつかえるものを感じた。

 

「マダム・ロングボトムとダンブルドア先生が一歩もゆずらなくてね。」と言ってミスター・ルーピンは記念碑よりもハリーのほうを見ている。 「ポッター夫妻がどう死んだかよりも、どう生きたかをのこすべきだと。」

 

ハリーは像を見て考えた。 ひたいに傷あとのない自分の石像を見るのはとても不思議な気分だった。 それは別の並行宇宙への、のぞき窓のようだった。ある並行宇宙では(『エヴァンズ゠ヴェレス』の部分がない)ハリー・ジェイムズ・ポッターがとびぬけて優秀ではない程度の魔法学者になっていて、両親とおなじグリフィンドールに〈組わけ〉されているかもしれない。 母親がマグル生まれだとはいえ科学については無知に近い正統派魔法使いになっているかもしれない。 その子はきっと究極的に世界を……たいして変化させない。 ジェイムズとリリーに育てられた子が、クィレル先生の言う意味での『野望』やヴェレス゠エヴァンズ教授の言う意味での『普遍的事業』の重みをまなんでいるとは思えない。 生みの親の二人はハリーを愛して育てるだろうが、両親の愛はハリー以外の人間にとってあまり役に立たない。 仮にだれかが二人をよみがえらせたとして——

 

「この二人とは、友だちだったんですよね。」と言ってハリーはルーピンのほうを向く。「子どものころからずっと。」

 

ミスター・ルーピンは無言でうなづいた。

 

ハリーの不完全な記憶にクィレル先生の声が反響する。 いや、もっとも可能性のたかい回答は友情心の強さではないと思う。きみは彼らより論理的だった。きみだけが、〈友人〉を演じるならそういう行動が要求される、と考えた。

 

「リリーとジェイムズが死んだとき、魔法的な方法で二人をよみがえらせることができるかもしれないと思ったりしましたか? オルペウスとエウリュディケーのように。 あるいは、たしか……エルリーンとかいう名前の兄弟のように。」

 

「死者をよみがえらせる魔法はどこにもない。 世のなかには魔術のおよばない神秘というものがある。」

 

「自分がなにを知っていると思っているか、どうやって知ったと思っているかを自分のなかでたしかめましたか。できないという結論の確率がどの程度なのか考えましたか。」

 

「え? もう一回言ってみてくれないか?」

 

「つまり、それでも考えようとはしましたか?」

 

ミスター・ルーピンはくびをふった。

 

「なぜです?」

 

「まず、過去にそういうことをした人は何人もいた。 それに、ジェイムズとリリーがいまここにいたなら、死者のためではなく生者のためになることをしてほしいと言うだろうから。」

 

ハリーは無言でうなづいた。 そういう回答がかえってくるだろうことは聞くまえから分かっていた。 そういう台本は読んだことがある。 それでも、ハリーの思いこみに反して、ミスター・ルーピンが二人の死後一週間そのことを考えてやまなかったという可能性もないとは言えなかった。

 

〈防衛術〉教授がこころのなかでそっと話しかけてくるのが聞こえるようだ。 ルーピンに真の友情があったなら、具体的にそう指示されなくとも、五分間考えてみる程度のことができないとは思えないがね……。

 

思えますよ。人間は友情を感じたからといって急になにかを習得できません。 ぼくはあくまで、膨大な科学の知識がつまった本を図書館で読んでそれを知っていただけです——

 

ハリーの一部であるその声が、またそっと言う。 しかし、仮説はもうひとつあるだろう。そう複雑なことをせずとも眼前のデータに適合する仮説が。

 

いいえ。だれにも真の友情や愛情がないなら、どうふるまうべきかすら、だれも知らないはずでしょうが。

 

そう、だれも知らない。そのとおりのことをきみは観察している。

 

二人はそのまま、住人のいる魔法族の一軒家やツタにおおわれた一軒家をいくつも通りこし、ある家にむかって歩いていった。

 

たどりついたさきは、上半分が吹きとばされていて、内部にまで緑色の葉がはびこる家だった。人の肩とおなじ高さの、草ぼうぼうの生け垣でかこわれた歩道。その奥に狭い金属の門がある(きっとミスター・ハグリッドはここに来たとき、くぐれずに上をまたいだだろう)。 屋根の穴は、巨大なくちに円形に食いちぎられたように見え、のこっているのは木製の柱や(はり)の残骸らしきものだけ。 右がわには無事な煙突が一本だけだけ立っているが、支えをうしなって倒れそうなほどに傾いている。 窓は割れている。 玄関扉があったはずの場所にあるのは木材の断片だけ。

 

この場所にヴォルデモート卿が来たのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……

 

リーマス・ルーピンがハリーの肩に片手をのせ、声をかけてきた。 「門に手を触れて。」

 

ハリーは門に片手をのばした。

 

門のむこうの草むらから、急成長する花のように看板が飛びだしてきた。木製のその看板には黄金の文字でこう書かれていた。

 

一九八一年十月三十一日の夜、リリー・ポッターとジェイムズ・ポッターがここで命を落としました。

 

夫妻の息子ハリー・ポッターは無事でした。〈死の呪い〉に対抗できた唯一の人間、〈例の男〉に打ち勝った〈死ななかった男の子〉その人です。

 

この家はポッター家を記念し、その犠牲が忘れられないよう、廃墟のまま残されています。

 

その黄金色の文章の下には、ほかのメッセージが何十個も書かれていた。魔法のインクで書かれたメッセージがかわるがわる、読める程度のあかるさで光っては消えていく。

 

これでギデオンの復讐が果たされました。

 

ありがとう、ハリー・ポッター。どこに行ったにせよ、お元気で。

 

われわれはポッター家に返しきれない債務を負った。

 

ああ、ジェイムズ、リリー。こんなことになるとは。

 

生きていてくれ、ハリー・ポッター。

 

なにごとにも代償がある。

 

ジェイムズへ。最後にもっと友好的な会話ができなかったのが心残りだ。

 

夜のあとにはかならず朝がある。

 

リリーへ。どうか安らかに。

 

われらの奇跡、〈死ななかった男の子〉に祝福を。

 

「人間は——人間はだいたいこうなんでしょうね——自力でなにか助けになることをしようとするかわりに——」  ハリーはそのさきを言うのをやめた。 この場所にはふさわしくない気がした。 顔をあげると、リーマス・ルーピンがやさしさに満ちた表情でこちらを見てきていたので、ハリーはそれを振りはらうように屋根の破壊痕に目をそらした。

 

『われらの奇跡』。ハリーが『奇跡』ということばを耳にするのは、『宇宙に奇跡はない』という文脈でばかりだった。 けれどこうしてこの廃墟を目にして、ハリーは急にそのことばの意味を知った。説明しようのない天恵や祝福を知らせるもの。 当時、〈闇の王〉の勝利は近かった。しかしある日、その闇と恐怖がいっせいに幕を引いた。根拠のない救済、唐突な夜明け。それがなぜ起きたか、だれもいまだに知らない——

 

リリー・ポッターもヴォルデモート卿に対峙して生きのびることができたなら、わが子が生きているのを見てそのように感じたにちがいない。

 

「出ましょう。」と十年後のその子が言った。

 

二人は家をあとにした。

 

墓地の入りぐちの門は錠がなく、動物を侵入させないためだけのものだった。 立つ場所があり、その片がわから反対がわへと扉を動かせるようになっていた。 リーマスは杖を手にし(ハリーはすでにそうしていた)、二人が通過するときに一瞬だけ視界がぶれた。

 

地面に立つ墓石のなかにはとても古く見えるものがあった。ハリーのお父さんによればオクスフォードにおよそ千年まえからあるという城壁とおなじくらいの古さに見える。

 

最初に見えた墓石には『Hallie Fleming(ハリー・フレミング)』という名前が彫られていたが、文字は風化して消えかかっていた。 別の墓石には『Vienna Wood(ヴィエンナ・ウッド)』とあった。

 

墓地をおとずれること自体、ハリーにとっては久びさのことだった。 前回墓地に行ったとき、〈死〉の影をのぞきこむはるか以前の時点の自分は、子どもらしいこころをもっていた。 それが今回、いまの自分にとっては……奇妙で悲しく不可解で……これはずっと昔から起きていた。魔法族はなぜとめようとしなかったのか。なぜ魔法族はマグルが医学の研究をするのとおなじくらい、いや、いっそう熱心にそれにとりくまないのか。そこにはもっとのぞみがあるのに……。

 

「ダンブルドア家も〈ゴドリックの谷〉に住んでいたんですか。」  ハリーは比較的あたらしい墓石二組を横目にそう言った。墓石の名前はそれぞれ『Kendra Dumbledore(ケンドラ・ダンブルドア)』と『Ariana Dumbledore(アリアナ・ダンブルドア)』。

 

「ずいぶん昔からね。」とミスター・ルーピンは言った。

 

それぞれ惜しまれたであろう何人もの死者の列をこえて、二人はさらに墓地の奥へすすみ、終端部へちかづいていく。

 

そこでミスター・ルーピンはある墓を指さした。まだ白く真新しい大理石の墓石が二つ連結された墓だった。

 

「またメッセージがあったりしますか?」  ハリーはこれ以上、その手の人たちの死とのかかわりかたに接したくないと思っていた。

 

ミスター・ルーピンはくびを横にふった。

 

二人は連結された墓石のほうへ歩いていく。

 

墓石のまえに立ってみると——

 

「なんですか? これは。これを……()()()()()()()()()()()()?」

 

ジェイムズ・ポッター

一九六〇年三月二十七日生

一九八一年十月三十一日没

 

「これというと?」

 

リリー・ポッター

一九六〇年一月三十日生

一九八一年十月三十一日没

 

「この……この()()()です!」  場ちがいで不可解な光明、そこにあるはずのない祝福と天恵の存在を感じ、ハリーの目になみだがたまっていく。

 

THE LAST ENEMY THAT SHALL BE DESTROYED IS DEATH

最後に滅さるべき敵は死なり

 

「ああ、それか。それは……家訓のようなものだな。ポッター家の。 家訓というほど正式なものはなかったと思うけれど。 ずっと昔からこれが言いつたえられてきているらしい……。」

 

「これが——それが——」  あわてて地面にひざをつき、震える手で墓碑銘にふれる。 「()()()()()? そういうものが()()()()はずなんて——」

 

そして、なみだにかすんで見えていなかった薄い線で、円と三角形が刻まれていることに気づく。

 

〈死の秘宝〉のシンボル。

 

それを見てハリーは理解した。

 

「挑戦したんだ。」

 

——ペヴェレル三兄弟は挑戦した。

 

——ペヴェレル兄弟も大切なだれかに死なれたのか。それがはじまりだったのか。

 

「人生をかけて挑戦して、一定の成果もあった——」

 

——ディメンターの視力に打ち勝つ〈不可視のマント〉。

 

「——けれど研究は完成しなかった——」

 

〈死〉の影から隠れることと、〈死〉そのものに打ち勝つこととは異なる。 〈よみがえりの石〉で死者が実際に生きかえることはない。 〈ニワトコの杖〉で老いをまぬがれることはできない。

 

「——だからその使命を自分の子どもたちに、そのまた子どもたちに託した。」

 

——世代から世代へと。

 

——ぼくの代まで。

 

〈時間〉がそういう風にこだまし、はるか過去と未来のあいだで、ひびきあうことなどあるのだろうか。 こんなことが偶然であっていいはずがないだろう? よりによってこのメッセージが、この場所にあるなんて。

 

ぼくの一族。

 

たしかにこれはぼくのお母さんとお父さんだ。

 

「それは死者をよみがえらせるという意味じゃないよ、ハリー。 死をうけいれるということ、そうやって死を超越し克服するということだ。」

 

「ジェイムズがそう言っていましたか。」  奇妙な声になった。

 

「いいや。でも——」

 

「ならいいです。」

 

ハリーは地面についていたひざをゆっくり持ちあげて立とうとした。太陽を肩にのせて地平線の上に押しだそうとしているような感じがした。

 

やっぱりほかにも挑戦者はいた。ぼく一人しかいないわけがなかった。 こういう風に思うことは特別なことじゃない。魔法世界でもマグル世界でも。

 

「杖を見ろ、ハリー!」と急に興奮した声でミスター・ルーピンが言った。杖を引きよせて見ると、ごく弱よわしい銀色の光が杖体から漏れてきているのが見える。

 

「〈守護霊の魔法〉をかけるんだ! もう一回やってみろ、ハリー!」

 

ああ、そうか。ミスター・ルーピンが知るかぎりでは、ぼくはまだ——

 

くちもとがゆるみ、すこしだけ笑い声がでる。 「いえ、やめておきます。 いまの精神状態のままやると、ぼくが死んでしまいかねません。」

 

「なんだって? 〈守護霊の魔法〉にそんな効果はない!」

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは笑ったまま左手でまた、なみだをぬぐった。

 

「ですけどね、だれかが人間はみな死というものを受けいれるべきだと考えて、わざわざその気持ちを『最後(いやはて)(ほろぼ)さるべき敵は死なり』と表現した、というのは、ずいぶん()()()()()じゃありませんか。 別のだれかがそれを聞いて、詩的な表現だと思って別の解釈をこめてつかうようになった、ということならあるかもしれませんが、それを言った一人目はきっと、死がきらいだったんだと思いますよ。」  ハリーはときどき不思議に思う。なぜほとんどの人は、気づきもしないままことばの意味をひねくりまわして、第一に思いつくべき解釈と百八十度反対の意味でとらえたりするのだろう。おなじ人がほかのたいていの文については思いつくべき解釈を思いつけているのだから、地あたまのよしあしではないはずだ。 「『滅ぼさるべき』というのは将来の状態の変化を言っていますから、現在どうであるかを指してはいないはずです。」

 

リーマス・ルーピンは目をまるくしてハリーを見た。 「きみはたしかにジェイムズとリリーの子だ。」  ショックを受けているような声だった。

 

「そうですよ。」  それだけでは言いたりないと思い、ハリーは杖を(そら)にむけて、できるかぎりしっかりした声でこう言った。 「ぼくはポッター家を継ぐリリーとジェイムズの子、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスであり、一族の目標を受けついで、死を敵とし、いずれ死を倒すことをここに宣言する。」

 

ぺふえれるにだんじみたりとみつだうぐありもってしほろぼさるべし

 

「え?」とハリーは言った。 そのことばは不可解にも、ハリー自身の思考であるかのようにしてハリーの意識のなかに登場したように感じられた。

 

「なんだ? いまのは。」とリーマス・ルーピンも同時に言っていた。

 

ハリーはふりむいて墓地を見わたしたが、そこにはなにもなかった。 となりではミスター・ルーピンがおなじことをしていた。

 

二人は気づかなかったが、千年は経っていそうな古びた縦長の墓石の表面に、線を通した円を三角形でかこんだ図形がうっすらと銀色に光っていた。ただ、まだ太陽のあかるい時間なので、ハリーの杖の光とおなじく、離れた位置からは見えない程度の光でしかなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

——そのしばらくあと——

 

「あらためて、ありがとうございました。」  ハリーはうっすらと傷のある長身の男が去るまえに、もう一度そう言った。 「ただ、帰りの——」

 

「ダンブルドア先生から言われていてね。すこしでも妙なことがあれば、それが攻撃のように見えないことであっても、ポートキーで帰るようにと。」  ミスター・ルーピンはきっぱりと言う。 「至極的確な指示だと思う。」

 

ハリーはうなづいた。 それから最後にたずねようと思って慎重にとっておいた質問をした。 「あのことばの意味に、なにかこころあたりはありますか?」

 

「仮にあったとして、きみには教えられない。」  ミスター・ルーピンは厳しい表情で言う。 「まず、ダンブルドア先生がそうしていいと言わないかぎりは。 はやる気持ちはわかるが、ポッター家の祖先の秘密をつきとめようとするのは大人になってからにすべきだ。 つまり、NEWTsか、すくなくともOWLsに合格してからだね。 それと、あの家訓をああいう風に理解するのは大きなまちがいだ、ということはあらためて言っておく。」

 

ハリーは内心ためいきをつきつつ、うなづいて、ミスター・ルーピンを見おくった。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはホグウォーツ城に帰り、レイヴンクロー塔にはいると、奇妙で充実した感覚をおぼえていた。 どの部分をとってもまったく予想外だったが、歓迎すべきできごとではあった。

 

レイヴンクロー談話室を通りすぎ、そのまま共同寝室へむかおうとする。

 

その途中で、談話室の暖炉の火をうけて白くやわらかな光を発し、するりと空中を動いてくるものをハリーは目にした。それは銀色のヘビだった。

 

◆ ◆ ◆

 

ペヴェレルに男子みたりとみつ道具ありもって死ほろぼさるべし

 

ペヴェレルに男子(だんじ)三人(みたり)()道具(だうぐ)あり。もって()(ほろ)ぼさるべし。

 

——これは〈ゴドリックの谷〉と呼ばれるようになる以前のその集落の片すみの小さな酒場で、ペヴェレル三兄弟が聞かされた一言である。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




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97章「それぞれの役割(その8)」

ハリーの目にその日、二度目の涙があふれた。 談話室にいるレイヴンクロー生たちのいぶかしげな目をよそに、ハリーはドラコ・マルフォイから送られてきた銀色のヘビに両手をのばし、それが生きているかのように抱きかかえる。そして足をつかえさせながら自分の共同寝室へむかって歩き、ほとんどなにも考えずにトランクの最下層を目ざす。銀色のヘビはそのあいだじっとハリーの腕のなかで待っていた。

 

◆ ◆ ◆

 

第五の会合(一九九二年四月十九日日曜日、午前十時十二分)

 

この日のハリー・ポッターの債権者集会はマルフォイ卿の要求で招集された。ハリー・ポッターはルシウス・マルフォイに五万八千二百三ガリオンの債務を負う債務者であり、債権者集会はブリテン法にしたがい、グリンゴッツ中央銀行内の一室で開催される。

 

開催にいたるまでに一悶着があった。主席魔法官ダンブルドアはホグウォーツの“防衛網”(ハリー・ポッターはここで両手の指を二本ずつ空中に引っかけて二重引用符の手ぶりをした)からハリー・ポッターを離れさせることに関して一定の抵抗をみせた。 〈死ななかった男の子〉本人はしばらく沈思黙考の様子だったが、やがて出席に同意する返事をした。敵からの要求に対して不思議なほど従順な行動だった。

 

ブリテン魔法界でのハリー・ポッターの後見人をつとめるホグウォーツ総長がその同意を取り消した。

 

それをさらにウィゼンガモートの債権委員会が取り消した。

 

それをさらに主席魔法官が取り消した。

 

それをさらにウィゼンガモートが取り消した。

 

結果として、〈死ななかった男の子〉は〈闇ばらい〉三人とマッドアイ・ムーディの厳重な監視下で、グリンゴッツ中央銀行にむけて出発することになったのだった。 ムーディのあかるい青色の目はさまざまな方向にいそがしく回転し、あらゆる潜在的な攻撃者にむけて自分は〈常在戦場〉で〈警戒中〉であり、〈死ななかった男の子〉の付近で一人でもくしゃみをする者がいればよろこんで腎臓を焼却してやるぞ、というメッセージを発していた。

 

ハリー・ポッターはグリンゴッツの『Fortius Quo Fidelius』というモットーがかかげられた開放扉のあいだをならんで入構しながら、以前より注意してあたりを観察する。 過去三回の訪問では、ハリーは大理石の柱、黄金を燃やすたいまつの火、魔法界ブリテンの人類部分ではみかけない建築様式などといったものにばかり目をうばわれていた。 その後、〈アズカバン事件〉などいろいろなことがあった。四度目のこの日は、〈ゴブリンの反乱〉が過去くりかえされたこと、ゴブリンが杖の所持をいまだに許されないのを不満に感じていることなどが思いうかぶ。ハリーはこういった一年生の〈史学〉教科書に書かれていない事実をパターンマッチングにより推測しえたので、フリトウィック先生にたずねてみた。すると小声で認める返事があったのだった。 ヴォルデモート卿は魔法族の人間だけでなくゴブリンも殺したという——ハリーがなにか見おとしているのでないかぎり、ヴォルデモート卿も迂闊(うかつ)なことをしたものだ——が、ゴブリンは〈死ななかった男の子〉についてどう思っているのか、ハリーには想像がつかない。 ゴブリンはきっちり借りをかえし、貸しをとりもどすものであるという評判がある。同時に、その貸し借りの解釈にはいくらか傾斜がついてくるという評判もある。

 

この日、銀行のまわりに等間隔で配置された武装警備員たちは〈死ななかった男の子〉を無表情で見つめ、ムーディと〈闇ばらい〉を苦にがしい軽蔑の目でにらんでいる。 ロビーにならぶ窓口をはさんで、行員たちは魔法族の客にガリオン金貨を手わたしながら、やはり同じような軽蔑の目をむけている。ある行員は、焦りいらだつ一人の魔女に対し、にやりとしてとがった歯を見せていた。

 

もしぼくが人間がどういうものかをただしく理解しているなら——そして人間型魔法生物はすべて遺伝子上は人間で、遺伝性の魔法効果がかかっているのだというぼくの考えがただしければ——このひとたちはおそらく、魔法使いから丁重な態度をとられたり境遇に同情すると言われたりしただけで友好的になってはくれない。でも、〈死ななかった男の子〉が〈魔法省〉を転覆させようとしていて、そのあかつきには〈杖所持法〉を廃止するという約束をしたとしたとしたら、協力がえられたりするだろうか……あるいは、こっそり杖や呪文書をあたえてやれば支持してくれるだろうか……。だからこそ杖づくりの秘密はオリヴァンダーのような人しか知ることを許されていないのだろうか。 ただし、ゴブリン族も人間なら、おそらく陰惨な一面がある。アズカバンのゴブリン版が存在する。それも人間であることの一部だから。ということは、いずれはそちらの政府も改革か転覆してやらなければ。ふむ。

 

老いたゴブリンが一人あらわれたので、ハリーは丁重にあたまを下げた。老いたゴブリンはそれを見てあわてて首肯するようなそぶりをした。 今回は暴走列車はなく、そのゴブリンは一行を廊下に通した。廊下は短く、突き当たりに狭い控え室があり、ゴブリン用の高さの長椅子が三つと、魔法族用の高さの椅子が一つあった。そこに座る人はいない。

 

「ルシウス・マルフォイがなにをわたしてこようが、署名するんじゃないぞ。」とマッドアイ・ムーディが言う。 「それがなんであってもだ。いいな? マルフォイが『死ななかった男の子の冒険物語』を一冊もってきてサインを一筆と言ったなら、指をくじいてしまったとでも言え。 グリンゴッツを出るまでは、一瞬でもペンを手にもつな。 だれかがペンをわたしてきたら、そのペンを折ってから自分の指も折れ。 これ以上言う必要はないな?」

 

「ないですね。 マグル界のブリテンにも弁護士はいます。彼らからすればあなたがたの世界の弁護士はおままごとですよ。」

 

やがてすぐにハリー・ポッターは武装したゴブリン警備員に自分の杖を引きわたした。警備員は興味をひく形をした多種多様な探知器でハリーの身体検査をし、ハリーのポーチをムーディにあずけさせた。

 

それからもうひとつの扉をとおり、〈盗人おとし〉の滝をくぐった。くぐりおえると同時に水は肌から蒸発した。

 

そのむこうにあったのは大きな部屋で、壁が羽目板でかざられ、立派な調度品がそなえつけられていた。黄金の大テーブルが部屋の中央部を占め、その片がわに革張りの大きな椅子が二脚、もう片がわには肘かけのない小さな木製の椅子があった(こちらが債務者の席である)。 重武装のゴブリンが二名、目と耳に装具をつけ、室内を監視している。 債権者・債務者ともに、ここでは杖やそれにたぐいする魔法道具を身につけないことになっている。グリンゴッツ銀行管理下のこの場所で、無杖魔法をつかって会合の平穏を乱そうする者がいれば、二人の警備員が即座に攻撃する。 警備員の耳の装具は当人が話しかけられないかぎり会合で話される内容が聞こえない仕組みであり、眼鏡は出席者らの顔にフィルタをかけて見えなくする。 要は、ここには(出席者が〈閉心術者〉であるかぎりは)()()()()()()セキュリティらしきものがある。

 

ハリーは自分用の座りごこちの悪い椅子に腰をのせて、『さりげない手だな』と内心皮肉につぶやきつつ、債権者たちの登場を待った。

 

さほど待たされることなく——法律上、債務者が待つ義務のある期限よりずっとはやく——ルシウス・マルフォイが入室し、よく訓練された流れるような動きで革張りの椅子に腰をおろした。 手には例のヘビのあたまつきのステッキがなく、長い銀髪の束はいつもどおり背にかかっている。その表情からはなにも読みとれない。

 

そのあとを追って、白金色の髪の毛の少年が無言で入室した。ホグウォーツの制服よりはるかに上等な黒ローブを着て、制御された表情で父親のあとにつづいてきたその少年は、 ハリーが四十ガリオンの債務を負う相手でもあり、マルフォイ家の一員でもある。したがって、厳密に言えば、この会合を可能にしたウィゼンガモートの決議の対象にふくまれている。

 

『ドラコ。』とハリーは声にはださず、表情も変えなかった。 言うべきことがみつからなかった。 『ごめん』の一言でさえ不適切に思えた。 ドラコの〈守護霊(パトローナス)〉がやってきて、数回ことばをかわしてこの会合を設定したときにも、そのたぐいのことは言わなかった。いま言わないのは、ルシウスに聞かれるかもしれないからではない。 言う必要がないからだった。ドラコのあの幸せのイメージがまだ有効であること、ドラコがそのことをハリーに知らせる気があるということだけは分かっている。それで十分だった。

 

ルシウス・マルフォイが口火を切る。声は平静で、表情はかたい。 「いまホグウォーツで起きているできごとを、わたしは理解できていない。 よければ説明してもらいたいのだが。」

 

「ぼくも分かりません。そもそも、理解できていたなら自分の手で止めていますよ、マルフォイ卿。」

 

「ならば答えよ。貴君は何者だ?」

 

ハリーは動じず債権者の顔を見る。 「ぼくを〈例の男〉だとお思いのようですが、それはまちがいです。」  ハリーも()()()愚かではなかったので、ウィゼンガモートの議場でのあのやりとりのなかでルシウス・マルフォイがハリーのことをだれだと思っていたのかは、あとで突きとめることができていた。 「無論ぼくはただの子どもではありません。無論そこには〈死ななかった男の子〉であることが()()()()の意味でかかわってくるでしょう。 それがなぜ、どういうふうにかかわっているかについては、ぼくはあなたとおなじ程度のことしか知りません。 〈組わけ帽子〉にもたずねましたが、分からないという答えでした。」

 

ルシウス・マルフォイは遠くを見る目でうなづいた。 「泥血(マッドブラッド)の娘一人の身と引きかえに十万ガリオンを支払う理由など、どこにもありはしない。 一つをのぞいては。その一つの理由なら、あの娘の能力の高さと残忍性も説明できる。 しかしあの娘はトロルの手にかかって死んだ。しかしおまえは死ななかった。 くわえて()()()からいくらおまえのことを聞きだしても、()()()()()()()()()()()()()。〈真実薬〉を処方されてさえ、わが子がおまえのしわざであるというできごとは、聖マンゴ病院の狂人のうわごと以上に支離滅裂なうわごとばかり。おまえ個人のしわざであるというその部分について、本人から説明してもらいたいのだがね、この場で。」

 

ハリーはドラコに目をむけた。ドラコも見かえしてきた。しかめた表情が制御された表情にかわり、またはりつめた顔にもどった。

 

「ぼくもそれを……」とドラコ・マルフォイがうわずった声で言う。「聞かせてもらいたいね。」

 

ハリーは目をとじ、そのまま話しだした。 「マグルにそだてられ、自分ではあたまがいいと思っている男の子。 きみはそのぼくを目にして考えた。世界の真理を教えてやって、友だちにする価値がある相手が同学年にいるとすれば、〈死ななかった男の子〉をおいてほかにはいないだろう、と。 ぼくもきみに対しておなじことを考えていた。 ただ、きみとぼくは別々のものを真理だと思っていた。 といっても世界に真理が複数あるという意味じゃなく、ただひとつの現実に対する信念が複数成立していているということ。個々の信念が真であるか偽であるかは現実の宇宙しだいで決まる——」

 

「きみはぼくにうそをついた。」

 

ハリーはそれを聞いて目をひらき、ドラコを見た。 「ぼくとしては……」  ハリーの声が多少ゆらぐ。 「ある特定の観点からみれば真であることを話した、と言いたい。」

 

「ある特定の観点だと?」  ドラコ・マルフォイはちょうどルーク・スカイウォーカーとおなじくらい怒る権利があると感じているらしく、ケノービの弁明に聞く耳をもつ気はなさそうだ。 「ある特定の観点からみれば真であること。ひとはそれを『うそ』と呼ぶんだ!」

 

「『トリック』とも呼ばれる。 聞き手にいちおう真であることを伝えつつ、そこからさらに別の、偽である信念をもつように誘導すること。 そこを区別する意味はあると思う。 あのときぼくが言ったのは、自己成就する予言の一種だった。 きみは自分をだませないことに気づいていたから、だまそうとしなかった。 きみが学んだ技術はほんものだから、自分のなかでそれに抵抗しようとすれば大変なことになっていただろうね。 人間は自分の意思で自分に青色を緑色だと思いこませることができない。なのに()()()()()()()()()()。そう思うだけでも、実際やろうとするのとかわらないくらいの害があるのに。」

 

「きみはぼくを()()した。」とドラコ・マルフォイが言った。

 

「きみ自身を強くするようなやりかたでは、利用したよ。 友だちが友だちを利用するというのはそういうことだ。」

 

「ぼくでも友だちがそういうものじゃないことくらいは分かる!」

 

そこでルシウス・マルフォイが発言する。 「その目的は……? その狙いは……?」  その声も多少動揺している。 「……なぜそんなことをした?」

 

ハリーは一度そちらを見てから、またドラコのほうをむいた。 「きみのお父さんはきっと信じないだろうけど、ドラコ、きみには分かるはずだ。ぼくが言っているこの仮説は一連のどのできごととも矛盾しない。 これ以上に冷笑的な仮説では、ぼくがもっときみの弱みにつけこんでもよさそうなときにそうしなかった理由や、ぼくがきみにあれほど多くのことを教えた理由を、どうやっても説明できない。 ぼくとしては、マルフォイ家のあとつぎであり、マグル生まれの女の子が屋根から落ちそうになるのを公然と止めようとしたような人物なら、改革後のブリテン魔法界の指導者候補として各派の同意をとりつけやすいだろう、と思っていた。」

 

「そうやって自分が狂っていると言っているように思わせたいわけか。」とルシウス・マルフォイが細い声で言う。 「その話は一旦切り上げよう。 ホグウォーツにトロルをしかけたのはだれか。答えよ、ハリー・ポッター。」

 

「知りません。」

 

「では、だれを()()()()()か。」

 

「候補は四人。一人はスネイプ先生で——」

 

「スネイプだと?」とドラコが声を漏らした。

 

「二人目はもちろん〈防衛術〉教授です。〈防衛術〉教授であるというだけの理由で候補としています。」  仮にクィレル先生が無実だとすると、ここでクィレル先生の名前をだしてクィレル先生がこの二人に注目されることになってしまうのはハリーの望むところではないのだが、言わないなら言わないでドラコにつっこまれるかもしれないので、言うことにした。 「三人目は、ぼくが言っても信じないでしょうね。 四人目は〈それ以外〉という名前の汎用カテゴリです。」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ルシウス・マルフォイが獰猛な表情になる。 「見えすいた釣り針だな。 その三番目の可能性について——それを真の回答だと思わせたいのだろうが——話してみよ。駆け引きは抜きにして。」

 

ハリーはマルフォイ卿を見すえる。 「以前ぼくが読むべきではない本を読んで知りましたが、 コミュニケーションは対等な参加者のあいだで成立するものだそうです。 社員は上司にうそをつき、上司はもともとうそをつかれることを想定している。これは駆け引きで言っているのではありません。 ぼくとしては純粋に、この状況下でぼくが第三の被疑者の名前を言ってしまえば、あなたにはそれが仕掛けられたえさにしか見えないだろう、と想定せざるをえないんですよ。」

 

そこでドラコがくちをはさんだ。 「父上なんだろう?」

 

ハリーはおどろいた表情でドラコを見た。

 

ドラコは動じず話す。 「きみはあのトロルをホグウォーツにしかけてグレンジャーを襲わせたのは父上だと思っているんだな? きっとそうにきまってる!」

 

ハリーはくちをあけて『そんなことはない』と言いかけたが、そのさきの展開を予想して思いとどまることができた。めったにないことだった。

 

「なるほど……」とハリーはすこしずつ話しだす。 「()()()()魂胆でしたか。 ルシウス・マルフォイがハーマイオニーをただではすませないと公言したあとで、ハーマイオニーが現にトロルに殺された。」  ハリーは歯を見せてにやりとした。 「ここでぼくが否定すれば、〈閉心術師〉でないドラコがあとで〈真実薬〉を処方されて法廷で証言することができる。誓いにより〈元老貴族〉ポッター家へ隷従していて、自身の負う血の債務を最近十万ガリオンで買い取ってもらったハーマイオニー・グレンジャーがトロルに殺されたが、その犯人として〈死ななかった男の子〉が疑う人物のなかにルシウス・マルフォイは含まれていない、というような証言を。」  ハリーは存在しない椅子の背もたれに背をのせたような姿勢をとった。 「けれど言われてみれば、こう考えることにはなんの無理もありませんね。 ちょうどそのとおりのことをウィゼンガモートの議場で予告していたあなたが犯人だった、と。」

 

「わたしは犯人ではない。」  また無表情になるルシウス・マルフォイ。

 

ハリーはまたおなじ、牙をむく偽の笑みをした。 「そうですか。そうだとすれば、犯人は()()()()()で、そのだれかがホグウォーツの結界を改竄したということですね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だれかが。 あなたが身代金をせしめたうえでハーマイオニー・グレンジャーを殺したか。それとも、あなたは自分の息子が無実の女の子に殺されかけたという嘘を言ってぼくの一族の財産をうばったか。このどちらかが真実でなければならない。」

 

「債務を帳消しにしたいがために()()()()殺したのだとも考えられる。」  ルシウス・マルフォイは前に身をのりだし、ハリーを凝視している。

 

「そうだとしたら、ぼくは最初から身代金を支払おうとしないはずですがね。 あなたは分かったうえでそう言っている。 ぼくをばかにしないでいただきたいですね、マルフォイ卿——いや、そうか。いまそう言っておくことでドラコが証言するときにそなえているのか。なら、これは忘れてください。」

 

ルシウス・マルフォイは椅子に深く腰かけなおし、ハリーを見ている。

 

「父上、ぼくはハリー・ポッターがこうだということをお知らせしたつもりだったんですが……」とドラコがささやく。 「実際目にするまではだれにも想像できないくらいのありさまなもので……」

 

ハリーは自分のほおに指をあてた。 「つまりこういう、言うまでもなく明白な事実に一般の人たちもやっと気づきはじめたんですか? それは正直、ちょっと予想外ですね。」  ハリーはもうクィレル先生的な冷笑のリズムを体得し、独立に生成することもできるようになっている。 「新聞が『XかYのどちらかが真であるにちがいないが、どちらなのかはまだ分からない』というような内容の報道をすることができるとは思いませんでした。 新聞記者に書けるのはせいぜい『Xが真だった』や『Yが偽だった』や『Xが真でYが偽だった』のような原子的命題だけだと思っていました。 あなたの支持者もそろって『マルフォイ卿がグレンジャーを殺したと証明はできないし、別のだれかがやったのかもしれない』と『別のだれかがグレンジャーに罪を着せたと証明はできない』のあいだを急がしくいったりきたりし、真実が不確定であるかぎりは両方を同時に成立させられるように思っているのだろうと……そういえば、あなたはたしか『デイリー・プロフェット』の所有者では?」

 

「所有者でもなんでもない。が、報道機関として名高い『デイリー・プロフェット』がそのようなくだらない話を記事にすることはありえない。 しかし残念ながら、影響力ある魔法使いの一部には、判断力に劣る者もいる。」

 

「ああ。なるほど。」とハリー。

 

ルシウスはドラコに目をむけた。 「いまの話のそれ以外の部分については——なにか重要な部分はあったか?」

 

「いえ。ありませんでした。」

 

「ありがとう。」と言ってから、ルシウスはまたハリーのほうを見る。 つぎにそのくちからでた声は、ふだんの彼のあざけりと冷たさと自信のある声に似ていた。 「ひとつの可能性としてだが、こちらから一定の好意を見せてやることは考えられなくもない。わたしがこの件の首謀者ではないということを、そちらが率直にウィゼンガモートの会議場で証言することが条件だが。 そのあかつきには、マルフォイ家への債務の残金を大幅に削減してやる用意がある。ことによっては返済の延期を可能にする契約の変更にも応じよう。」

 

ハリーは不動の視線でルシウス・マルフォイを見ている。 「ルシウス・マルフォイ。 あなたはもう、あなた自身の息子がだしにされて、〈偽記憶の魔法〉かそれ以上の細工によってハーマイオニー・グレンジャーに無実の罪が着せられたのだということを認識している。そのときまでポッター家はあなたを悪く思っていなかったのだということも認識している。 ぼくの対案はこうです。マルフォイ家はポッター家に負わせた債務を白紙にし、ぼくはウィゼンガモート全員の面前でポッター家にマルフォイ家への敵意はないと宣言する。そして両家はこの件を実行した何者かに対して共同戦線を張る。 ぼくたちはおたがいに想定されている役割をほうりなげ、あらそいをやめて共闘する。 こればかりは敵にとって予想外なことではないかと思いますよ。」

 

室内がしんとした。ゴブリン警備員二人の息の音だけはそのままつづいていた。

 

「やはりおまえは狂っている。」とルシウス・マルフォイが冷ややかに言った。

 

「これは正義の問題ですよ。 相手がこちらの財産を偽の根拠にもとづいて差し押えている、しかも相手もそれが偽の根拠だと分かってそうしているとあっては、協力などできるものではありませんので。 あなたが当初誤解したのは無理もないことですが、もう誤解はとけたはずです。」

 

「そちらには十万ガリオンに値する交換材料などありはしない。」

 

「それはどうでしょうね? おそらくあなたは前世代の敗北者である〈闇の王〉がやたらとこだわっていた政治的対立項などよりも、マルフォイ家の長期的な繁栄を気にかけている。」  ハリーは意味ありげに一度ドラコに目をやる。 「次世代の人間たちはもう、自分たちの戦線と新しい同盟関係をつくりはじめている。 あなたの息子はのけものになってくすぶるかもしれないし、一気に頂点へかけあがることができるかもしれない。 あなたにとってはそのことのほうが、降って湧いたようなものでしかない四万ガリオンよりもよほど重要なんじゃありませんか?」  薄ら笑い。 「四万ガリオン。 マグルの通貨で二百万ポンド。 マグル経済の規模については息子さんも多少ごぞんじですが、聞けばおどろくほどの規模かもしれませんよ。 二百万ポンドで一国の命運が左右されつつある、なんていう話をマグルにすれば物笑いです。おままごとあつかいされるでしょうね。 ぼくも同意見です。 これは苦しまぎれの提案ではありません。 ぼくは正しいことをする機会をあなたに差しあげようとしているんですよ。」

 

「ほう? その機会をことわれば、どうなる?」

 

ハリーは肩をすくめた。 「マルフォイ家なしでほかの各家がどういう連立政府をたてるかによりますね。 政府が平和裡に改造され、負債を返済しないでいることがその平和をみだすようであれば、債務は小口現金(こづかい)で返済しましょう。 ことによると、〈死食い人〉のみなさんは、裁判がやりなおされて過去の罪の清算のために処刑されていたりするかもしれませんがね。もちろん正当な法的手続きにのっとって。」

 

「やはり狂っている。なんの権力も富もない身でそのような口をきこうなど。」

 

「ええ、ぼくがあなたを怖がらせるなんて考えるのはおかしいですよね。あなたはディメンターではありませんから。」

 

ハリーはそのまま笑みをくずさない。 以前しらべたところによると、胃石(ベゾアル)をすばやく口に押しこめば、ほぼどんな毒でも解毒できるらしい。 〈転成〉したポロニウムから生じる放射線による被害まで治療できるかどうかについてはなんとも言えない。 いろいろな種類の酸の凝固点をしらべてみると、硫酸はわずか摂氏十度の冷たさで凝固するという。つまりマグルの市場でそれを一リットル買って凝固させてから、なんの変哲もない小さな氷のかけらに〈転成〉してだれかの口にほうりこんで飲みこませることもできる。 飲みこませてから〈転成〉がとけてしまえば、いくら胃石(ベゾアル)をつかおうが後の祭りだ。 もちろんハリーはこのことを話す気はないが、自分の冒険(クエスト)の過程で人が死ぬことを防げなかったという決定的な失敗をしてしまったあとでは、これ以上法律にもバットマンの誓いにもしばられる気もない。

 

これが最後のチャンスだぞ、ルシウス。 倫理的に言えば、〈死食い人〉として最初の残虐行為をしたその日におまえの命は汚れた。 それでも人間であり命に内在的価値があるのは変わらないが、無実の人間にならある義務論的保護はもうなくなっている。 長期的に見ておまえを殺すことで差し引きで救える命の数が多いと思えるなら、善人にはおまえを殺す権利がある。おまえが邪魔になればぼくもそう結論づける。 トロルをグレンジャーにしかけた何者かが今度はルシウス・マルフォイを標的にした、〈死食い人〉をどろどろに溶かす呪いでルシウス・マルフォイはやられてしまった、という寸法だ。残念なことに。

 

「父上。」とドラコが小声で言う。「これは検討してみるべきだと思います。」

 

ルシウス・マルフォイは息子に目をむけた。「ふざけてはいけない。」

 

「あれはうそじゃありません。 あれだけの本の内容をポッターが一人ででっちあげたとは思えないし、書かれていたことの一部はその気になればたしかめられます。 あの半分でも事実だとすれば、たしかに十万ガリオンも大きな金額ではなくなります。 この譲歩をすれば、ポッターはまたマルフォイ家の味方になる——すくなくとも彼なりの意味での味方に。 しなければ、敵になる。そうすることが彼自身の利益であろうがなかろうが、父上を目のかたきにする。 ハリー・ポッターはそういう考えかたをするんです。 財産の問題ではなく、彼なりの意味での名誉の問題として。」

 

ハリー・ポッターは笑みをくずさず、軽く首肯した。

 

「だがそのまえに、けりをつけておきたい部分がひとつある。」  そう言ってドラコはハリーをまっすぐに見すえた。その目には熱い光がやどっていた。 「()()()()()()()()()()。そのことでぼくに対して()()()()()。」

 

「認めよう。」とハリーは静かに言う。「ただし当然ながら、どう認めるかはのこりの部分の結果にも依存する。」

 

ルシウス・マルフォイがくちを開いたが、なにを言いかけたにせよ、そのまま無言で閉じた。そしてまた、「狂っている」とだけ言った。

 

その後しばらく父子のあいだで口論があった。ハリーはそのあいだ横槍をいれないようにつとめた。

 

ルシウス・マルフォイがドラコの説得にも応じないらしいことが分かると、ハリーはもしポッター家とマルフォイ家が協力できるのであれば自分はこのようにしたい、という話をした。

 

それからまたルシウスとドラコの口論となり、ハリーはまた話さずに待った。

 

やがてルシウス・マルフォイがハリーに目をむけてきた。 「仮にダンブルドアに反対されたとしても、ロングボトムとボーンズをこの案に引きこむことはできる……そう思っているのだな。」

 

ハリーはうなづいた。 「もちろんあちらは、あなたの入れ知恵ではないかと疑うでしょうね。 そのときは、ぼくからもちかけた計画だと言うつもりですし、それですこしは疑いが晴れるでしょう。」

 

ルシウス・マルフォイは返事するまでに時間をかけた。 「狂った提案ではあるが、そちらの債務を()()すべて免除する書面を用意してやるという選択肢もなくはない。 当然ながら、さらなる担保があってはじめて成立する話だが——」

 

ハリーはすかさずローブのなかに手をいれて羊皮紙を一枚とりだし、黄金のテーブルの上にそれをひろげた。 「ひと足さきに用意しておきました。」  ハリーはここに来るまえに数時間かけてホグウォーツ図書館にある法律書を読みこんでいた。 そうして分かったのは、ブリテン魔法界の法律はマグルの水準からすれば素朴なものらしいということだった。 もともとの血の債務とその返済の義務を破棄すること、ポッター家のものであった資産と金庫内にあったその他の物品がポッター家の金庫に返却されること、残余の債務を無効にすること、マルフォイ家は一連の行為についてとがめられないとすること……を契約書の文章にしても、ただそう言うのと大差ない量の文章ですむようだった。 「ぼくの監督者との約束で、ぼくはあなたからわたされたものに署名してはならないことになっています。 なのでこうやって自分で契約書を書いて、出発するまえに署名もすませておきました。」

 

ドラコが思わず失笑した。

 

ルシウスは冷たい笑顔で契約書に目をとおした。 「なんとも率直な言いまわしだ。」

 

「グリンゴッツにいるあいだは羽ペンに触れない、という約束もしたもので。」と言ってハリーはまたローブのなかに手をいれてマグル式のペンと紙を一枚とりだした。 「文面はこれで問題ないですか?」  ハリーは法律文書らしく見えるその文面を急いで筆写していく。そこには、マルフォイ家はハーマイオニー・グレンジャーの殺害になんら関与しておらずいかなる意味でも責任がないということをポッター家は認める、というような内容が書かれている。ハリーは写した紙を空中にもちあげ、マルフォイ卿に確認をもとめた。

 

マルフォイ卿はその書面を見て、小さく目をまわしてから、こう言った。 「悪くはない、と言っておこうか。 ただし、法的な効果をもたせるために正式な用語をつかうなら、ここは『免罪』ではなく『補償』としておくべきだ——」

 

「その手は通用しませんよ。 ぼくもそれがどういう意味になるかは知っています。」  ハリーは羊皮紙をとりだして、おなじ内容をもっと丁寧な字で書き写しはじめた。

 

それが終わると黄金のテーブルのむこうからマルフォイ卿が手をのばしてペンを受けとり、しげしげとながめた。 「これもマグルの工芸品のようだが……ドラコ、これがどういう道具か分かるか?」

 

「インク壺なしで字を書ける道具です。」

 

「そう見えるな。 一部のもの好きには魅力があるもののようだが。」と言ってルシウスは契約書をテーブルの上にひろげ、署名の位置をしめす下線へ手をもっていき、開始点にペンをあててゆっくりと上下させた。

 

ハリーは意識して呼吸をととのえつつ、そこから目を離してルシウス・マルフォイの顔を見あげた。筋肉の緊張はおさえようがなかった。

 

「われわれのよき友人、セヴルス・スネイプ。」  ルシウス・マルフォイはまだ線上にペンを上下させてあてている。 「そしてクィレルと名のる〈防衛術〉教授。 もう一度きこう。ハリー・ポッター、おまえにとって第三の被疑者の名前は?」

 

「そのまえに署名することを強くおすすめしますよ、マルフォイ卿。署名する気でいるのならですが。 ぼくがあなたを説得するためにわざとその人の名をあげているとは思えない状況で聞いたほうが、あなたの利益になります。」

 

また冷たい笑み。 「いや、せっかくだが。 契約をさきにすすめたいなら、いま言ってもらおう。」

 

ハリーは一度ためらってから、あっさりと言った。 「三人目の被疑者はアルバス・ダンブルドアです。」

 

羊皮紙にあたるペンの音がとまった。 「妙なことを言う。 みずからの任期中にホグウォーツ生を死なせたことで、ダンブルドアの面目は丸つぶれだ。 敵であるダンブルドアについてのことならなんであれそのまま鵜呑みにするだろう、とでも?」

 

「候補はダンブルドア一人ではありませんよ。最有力の候補だとも言っていません。 ただ、ぼくが成体の山トロルを殺せたのは、学年のはじまりにダンブルドアから受けとった武器があったからなんです。 これは強力な証拠にはなりませんが、不審な点ではあります。 自分の学校の生徒を殺すというのはダンブルドアの流儀でないと思うなら……まあ、ぼくも一度はそう考えました。」

 

「それこそあいつの流儀だろう?」とドラコ・マルフォイが言った。

 

ルシウス・マルフォイは慎重にくびを横にふった。 「あながちそうでもない。 ダンブルドアの悪行には一定の特徴がある。」  マルフォイ卿はまた椅子に身を引き、そのままじっと動かなくなった。 「その武器について話してみよ。」

 

「あなたがいる場所でその詳細を説明していいという確信がまだありません。」  一度息をつぐ。 「誤解のないように言っておきますが、 ぼくはダンブルドアが真犯人であるという説を推す気はありません。ただその可能性もあると言っているだけ——」

 

そこにドラコ・マルフォイが割りこんで話す。 「ダンブルドアから受けとったというその道具——それはトロルを殺すためのものだったのか? つまり、トロル専用なのか? そこまでなら言えるんじゃないか?」

 

ルシウスは多少おどろいた表情で横の息子に顔をむけた。

 

「いや……それはトロル殺しの剣みたいなものではないよ。」とハリー。

 

ドラコの目は強い興味をしめしている。 「暗殺者に対しても有効な道具か?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。「いや。」

 

「学校内のけんかでなら?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「いや、人間に対してつかうことは意図されていなかったと思う。」

 

ドラコはうなづいて、 「つまり、相手は魔法生物にかぎられる。 たとえば、怒ったヒポグリフみたいなものに対して有効なものだと思うか?」

 

「〈失神の呪文〉はヒポグリフに効果があるかな?」とハリー。

 

「わからない。」とドラコ。

 

「ある。」とルシウス・マルフォイ。

 

『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』と『フィニート・インカンターテム』を命中させようとするよりは—— 「それなら〈失神の呪文〉のほうがヒポグリフをしとめるのに有効だろうと思う。」  そう言いかたをしてみると、たしかに〈転成〉ずみの岩というのは、呪文耐性のある皮膚をもつ血のかよった魔法生物に対して()()適する武器であるように思えてくる。 「それでも……あれはそもそも武器として意図されたものではなかったのかもしれない。ぼくは変わったやりかたでそれをつかったから。ダンブルドアの行動は、ただの気まぐれな奇行だったということも——」

 

「いや。」 ルシウス・マルフォイがそっと言う。 「気まぐれでも偶然でもありえない。ダンブルドアにかぎっては。」

 

「それなら、ダンブルドアなんだ。」と言ってドラコはだんだんするどい目つきになり、邪悪にうなづいた。 「そうだったんだ、()()()()。 法廷〈開心術師〉は、グレンジャーに〈開心術〉がかけられた形跡があると言った。 ダンブルドア自身がそれは自分だと認めた。 きっとグレンジャーがぼくに呪いをかけたとき、実際には結界も動作していた。ダンブルドアが()()()()だけなんだ。」

 

「でも——」と言ってからハリーはルシウスに目をやり、この疑問をもちだすことがほんとうに自分の利益になるだろうかと思う。 「そうだとして、()()は? ダンブルドアは邪悪だから、という以上の理由はなくていいんですかね?」

 

ドラコ・マルフォイは椅子からとびでて、室内を歩きはじめた。黒ローブをなびかせて歩くそのすがたを、ゴブリン警備員が魔法の眼鏡をかけたまま多少おどろいた顔でじっと見ている。 「奇妙な謀略をときあかすには、実際に起きたことを見て、それがだれの利益であったかを考えるといい。 ただしきみが裁判でグレンジャーを救おうとするという部分はダンブルドアの計画になかった。だからあいつは止めようとした。 グレンジャーがアズカバンに行っていたとしたら、どうなっていた? マルフォイ家とポッター家は永遠にいがみあうことになっていた。 被疑者全員のなかで、()()をもとめるのはダンブルドアだけだ。 これでつじつまがあう。()()()あう。 この殺しの真犯人は——アルバス・ダンブルドア!」

 

「そうだとして……なぜ()()()トロル戦専用の武器をわたす? ぼくは不審だとは言ったけれど、理由がわかるとは言っていない。」

 

ドラコは思案げに首肯した。 「トロルがグレンジャーを死なせるまえにきみが止めにはいる、そのうえでダンブルドアは父上のしわざだと言って追及する、というのがダンブルドアの想定だったのかもしれない。 ()()にすぎなかったとしても父上がそんなことをしたとなったら怒る人は多いだろうから。 父上も言っていたように、生徒が校内で死んだということが発覚した時点でダンブルドアは面目をつぶした。ホグウォーツは安全だということで有名だったからね。 だからその部分は多分、想定外だったんだと思う。」

 

思いだそうとしていないのに、ハーマイオニー・グレンジャーの死体を見て愕然とするダンブルドアの目が思い浮かぶ。

 

もしウィーズリー兄弟が魔法の地図を盗まれていなかったとしたら、ぼくは手遅れになるまえにあの場に到着できていただろうか? 到着できるはずと想定されていたのだろうか? 地図はダンブルドアの関知しないところでだれかに盗まれていて、そのせいでぼくは間にあわなかった……いや、それもおかしい。ぼくは気づくのが遅すぎたし、ダンブルドアはぼくがホウキをつかおうとすると想定しようがない……いや、ぼくがホウキをもっていることを知ってはいたか……

 

どう考えてもうまくいきようのない計画だ。

 

だから実際うまくいかなかった。

 

でも、すこしだけぼけがはいった人間にはそれがうまくように()()()()()()かもしれない。不死鳥ではその差がわからないかもしれない。

 

「あるいは……」と言ってドラコ・マルフォイはあたりを歩きつづけている。 「ダンブルドアは、もともと魔法をかけたトロルを用意してあって、それをそのうちきみに退治させる気でいたのかもしれない。なにか別の謀略のために用意してあったそのトロルを、グレンジャーにしかけることにした……。 これまでのできごとすべてが最初の週の授業の時点で計画ずみだったとはとても考えられない——」

 

「いや、考えられる。」とルシウス・マルフォイが低い声で言う。 「わたしはダンブルドアにそういう面があることを見てきた。」

 

ドラコはきっぱりとうなづいた。 「それなら、最初の事件でぼくはそもそも()()()()()()()()()()()()ということ。 ダンブルドアはクィレル先生がぼくを監視していたことを知っていたか、あるいは手遅れになるまえにぼくが見つかるよう手配してあって—— ぼくが死んでしまったら、グレンジャーを告発するぼくの証言もないことになるし、ダンブルドアも生徒を死なせたとあっては立ち場がなくなるから。 けれど、ぼくがホグウォーツを退学してスリザリンの指導者になれなくなることは、ダンブルドアにとってとても都合がいい。 それからトロルがグレンジャーを襲って、ハリーがそれをとめたところで、だれもが父上を糾弾する。ダンブルドアの計画ではそうなるはずだった。それが狂ってしまったんだ。」

 

息子がそう話すのを、ルシウス・マルフォイは素直におどろいたような灰色の目で見ていた。 「もしそれが事実だとすれば——しかしハリー・ポッターがその説に積極的にでないのは、演技にすぎないのだろうか。」

 

「そうかもしれません。でも多分、演技ではないと思います。」とドラコ。

 

「では、それが事実だとすれば……」と言いかけてルシウス・マルフォイは言いやめた。 その目に徐々に怒りの色が見えはじめた。

 

「だとすれば、われわれはなにをすべきか。」とハリー。

 

「それもはっきりしていると思う。」と言ってドラコはふりむいて二人を見て指を一本たてた。 「ダンブルドアの犯行を証明する証拠をみつけて、裁きをうけさせる!」

 

ハリー・ポッターとルシウス・マルフォイはたがいを見あった。

 

二人ともなにを言っていいか分からないようだった。

 

しばらくしてからルシウス・マルフォイが話しはじめた。「ドラコ。おまえは今日、立派な仕事をした。」

 

「ありがとうございます。」

 

「しかしだ。これは芝居ではない。われわれは〈闇ばらい〉を演じないし、結果を裁判にゆだねることもない。」

 

ドラコの目のかがやきがいくらか薄れた。「あっ……。」

 

「ええと、ぼくも心情的には裁判に頼りたいですね。」 そう割りこみつつ、ハリーは『まさかこんな話になるなんて』と思う。帰って紙と鉛筆をつかって、ドラコの推理が妥当なのかをよくたしかめなければ。 「……それと証拠にも。」

 

ルシウス・マルフォイがハリー・ポッターに目をむけた。灰色の目に純粋な怒りがたぎって見えた。

 

「ここまでの話が偽りだったなら……」  低い怒りの声。 「すべてが欺瞞なら、わたしはおまえを許さない。 しかし欺瞞でなかったなら……。 ダンブルドアが彼女を殺したという証拠、あるいはダンブルドアを失脚させるに足る証拠をおまえがウィゼンガモートに提出したあかつきには、マルフォイ家はおまえのためにどんなことでもしよう。どんなことでも。」

 

ハリーは一度深呼吸をした。 よく整理して確率計算をしてみるべきところだが、()()()()()()()()()()()。 「仮にダンブルドアが犯人だとして、ダンブルドアを盤面から退場させるとブリテンの権力構造に巨大な穴が生じますね。」

 

「生じるとも。」と言ってルシウス・マルフォイがにやりと笑う。 「そう言いながら、みずからその穴を埋めようという算段では?」

 

「あなたに対抗する勢力の一部はそれをこころよく思わないかもしれません。反抗するかもしれません。」

 

「反抗は失敗する。」  ルシウス・マルフォイは鉄のようにかたい表情になった。

 

「ではぼくのおかげでダンブルドアが放逐されたあかつきに、マルフォイ家にしていただきたいことを言いましょう。対抗勢力が恐れをなしたそのとき——そのぎりぎりの局面で、内戦を回避するための提案がでてくる。 あなたの協力者の一部はそれに不服かもしれませんが、安定を歓迎する中立の人たちも多いはず。 その提案というのは、あなたがダンブルドアのもっていた権力を手にすることを辞退し、かわりにドラコ・マルフォイが成人したときにその座につくという取り決めをすることです。」

 

「え?」とドラコが言った。

 

「ドラコは自分がハーマイオニー・グレンジャーを助けようとしたのだということを、〈真実薬〉を処方されて証言しました。 対抗勢力にも、ドラコにならやらせてみてもいいと言って抵抗しない人がきっと少なくありません。 どういうかたちでこれを強制するのがいいか——〈不破の誓い〉かグリンゴッツの契約か——とにかくなんらかの方法で、ドラコがホグウォーツを卒業した時点で権力の座につくという、強制力のある契約をしましょう。 その取り引きを成立させるために〈死ななかった男の子〉としての影響力がつかえるならそうします。たとえばロングボトムとボーンズを説得するために。 第一の案はそこにいくための足がかりになります。あなたにはロングボトムとボーンズに対する態度をあらためていただかなければなりませんがね。」

 

「父上、ぼくは決してこんな——」

 

ルシウスはゆがんだ笑みをした。 「わかっているとも。さて。」  銀髪の男は黄金の重厚なテーブルをはさんでハリー・ポッターを見すえて言う。 「わたしとしてはその条件で問題ない。 しかし第一の取り引きと第二の取り引き、そのどちらかを部分的にでもたがえたとなれば、ただではおかない。 いかなる言いのがれも通用しない。」

 

そう言ってからルシウス・マルフォイは羊皮紙に署名した。

 

◆ ◆ ◆

 

マッドアイ・ムーディはグリンゴッツの会議室の青銅の扉をじっと——といってもいつでも全方位が見えているのと同時にその一つのものを見ているという意味でだが——見ていた。そのまま数時間が経ったように思えた。

 

ルシウス・マルフォイのような人物を疑おうとするとき問題なのは、被疑者がやりかねないことをすべて考えつくそうとすると、まる一日かけても考えきれないということだ。

 

扉がわずかにひらき、ハリー・ポッターが重い足どりで出てくる。ひたいには汗の粒がのこっている。

 

「なにかに署名したか?」  マッドアイはすぐさまそうたずねる。

 

ハリー・ポッターは無言でマッドアイに目をむけ、自分のローブのなかから折りたたまれた羊皮紙をとりだした。 「係のゴブリンがもう契約締結の作業をはじめました。ぼくが出るまでに、写しが三枚できていました。」

 

おい、おれがあれほど——」  そう言いかけたところで、〈眼〉が文書の下半分をとらえた。ハリー・ポッターはその上半分をしぶしぶと広げていく。 ひとめでそこに丁寧な筆づかいで書かれた文章と、ルシウス・マルフォイの優美な署名と、ハリー・ポッターの署名があることが分かった。 そしてその上半分が〈眼〉の視界にはいるや否や、ムーディは思わず叫んだ。 「ハリー・ポッターはマルフォイ家がハーマイオニー・グレンジャーの死に()()()()()()()()()()ことを認める、だと? それがどれだけ重大な意味をもつのか、分かっているのか? おまえはなんだってこんな——いや、なんだこれは——」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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98章「それぞれの役割(終)」

一九九二年四月十九日日曜日、午後六時三十四分

 

ダフネ・グリーングラスはしずかにスリザリン地下洞の下のグリーングラス専用室をめざして歩いていく。ホグウォーツ急行を下車した彼女は、部屋にトランクをおいてからほかの生徒たちといっしょに夕食をとる予定だ。 マルフォイがいなくなったいま、〈元老貴族〉の特権でもある個室区画は彼女一人のものになっている。 エメラルドがはめられた巨大なトランクはうしろにいる。一族伝統の頑固なこのトランクは、何度手招きをしてもなかなか動こうとしない。魔法をかけなおす時期にきているのだろうか。それとも、ホグウォーツ城が安全な場所でなくなったと知ってのことだろうか。

 

ダフネがハーマイオニーのことを話すと、母と父は長く話しこんだ。それをダフネは扉のそとでこっそりと聞いていて、泣きだしそうになっては声を殺して飲みこんでいた。

 

母はこう言った。不幸なことだが、ホグウォーツで死ぬ生徒が一年あたり一人しかいないなら、それはまだボーバトンより安全で、ダームストラングよりはるかによい。 若い魔女が死ぬ原因はだれかに殺されることだけではないし、 ボーバトンの〈転成術〉教師とマクゴナガルとのあいだには歴然した手腕の差がある。

 

父はまじめな顔で、グリーングラス家のあとつぎにとって、ほかの〈貴族〉家の子どもたち全員とおなじ学校で暮らすことは有意義である(昔から各家があとつぎの生まれる時期を調整して重なるようにしているのも、その子たちをホグウォーツで同学年にしたいからだ)と説いた。 〈元老貴族〉の一族のあとつぎたるもの、不都合を避けてばかりはいられないのだ、とも。

 

ダフネはその最後の部分にうんざりだった。

 

ぐっと息をのみこんで、ドアノブをまわして部屋のドアをあける。

 

「ミス・グリーングラス——」とささやく声があった。銀色にぼうっと光るローブすがたのだれかがそこにいた。

 

ダフネは悲鳴をあげ、ドアをぴしゃりと閉じて、杖を手にし、部屋に背をむけて走りだそうとした。

 

「待て!」とおなじ声が言った。こんどはもっと高く大きな声で。

 

ダフネは立ちどまった。 聞きおぼえのある声だが、まさか。

 

ゆっくりとふりかえって、もう一度ドアをあける。

 

「あなたは……!」  ダフネはフードの下の相手の顔を目にしておどろく。 「あなたはたしかもう——」

 

「潮目がかわったいま、ぼくもまた——」と銀色のローブすがたの人が力強く言いかける。

 

「わたしの部屋になんの用!?」

 

「きみは霧型の〈守護霊の魔法〉をつかえると聞いた。 やって見せてくれないか?」

 

そう言う彼を見て、ダフネは血が熱くなるのを感じた。 「なんのために?」と杖をつきつけたまま言う。 「スリザリンらしくない呪文をつかうスリザリン生を全員()()ため? ハーマイオニーを殺したのがだれだったかは、もうわかってるのよ!」

 

人影の声も大きくなる。 「ぼく自身も〈真実薬〉を処方されて証言した! ぼくはミス・グレンジャーを助けようとしていたんだと。 屋上で手をつかんだときも、手を貸して立ちあがらせてやったときも——」

 

ダフネは杖をさげようとしない。 「あなたのお父さんなら、その気になれば〈闇ばらい〉の記録をいじるくらいなんでもない。そのくらい、ちょっと考えればわかるわよ!ミスター・()()()()()!」

 

銀色のローブの人影は、警戒されまいとするように、ゆっくりとした動きでローブのなかから杖をとりだした。 ダフネも杖をにぎりなおす。と同時に、相手の杖におかれた指の位置、そして立ちかたからその呪文を思いだし、ダフネははっとして息をのむ——

 

「『エクスペクト・パトローナム』!」

 

相手の杖さきから銀色の光が飛びだし——光は凝縮して光るヘビとなり、空中でゆったりととぐろを巻いた。

 

ダフネはただ呆然となった。

 

「ぼくは本気でハーマイオニー・グレンジャーを助けようとしていた。 スリザリン寮の中心に巣くう病気、あれほど多くのスリザリン生が〈守護霊の魔法〉をつかえない理由が分かっているから。それは憎悪だ。 マグル生まれに対する憎悪、というよりあらゆる相手への憎悪。 世のなかではスリザリンといえばそういうものだと思われてしまっている。狡知でも野心でも名誉でもなく。 それに、ハーマイオニー・グレンジャーの魔法の能力が低くなかったことも分かっている。どう見ても低いわけがないじゃないか。」

 

ダフネはあたまのなかが真っ白になった。 不安のあまり、目をきょろきょろさせて、周囲の扉の下から血がながれてきていたりしないかたしかめようとする。前回〈なにか〉が〈壊れた〉ときはそうだったから。

 

「それだけじゃなく……」とドラコ・マルフォイが言う横で、銀色のヘビは〈守護霊〉以外のなにものでもない光と熱を発している。 「ハーマイオニー・グレンジャーがぼくを殺そうとしてなどいないことも分かっている。 〈偽記憶の魔法〉をかけられていたか、〈開心術〉をかけられていたか。いずれにしろ、こうしてミス・グレンジャー自身が殺された以上、だれかが彼女にぼくを殺させようとしていたということだ。最初から標的は彼女だったということだ——」

 

「あ……あ……あなた自分がなにを言ってるか分かってるの?」  これがルシウス・マルフォイの耳にはいれば——ドラコは皮を剥がれてズボンにでもされてしまう!

 

ドラコ・マルフォイはにこりとした。銀色のローブは完全な有形の〈守護霊〉の光に照らされている。それは自分がレザーパンツにされるといった瑣末なことなどどうでもいいと言いたげな、不敵な笑みだった。 「たしかに。けれどそれはもうだいじょうぶだ。 マルフォイ家はポッター家の債務を帳消しにして、支払いずみの金額も返却することにした。」

 

ダフネはベッドに歩み寄り、そのままどさりと倒れた。ベッドにいけばこの夢からさめられるのではないかと思った。

 

「きみを陰謀団に招待したい。 そしてスリザリン所属で〈守護霊の魔法〉をつかえる人、これから身につけられる人はみな仲間にいれたい。 〈白銀のスリザリン〉団では、そうやっておたがいが信頼できることをたしかめることにするんだ。」  ドラコ・マルフォイはこれ見よがしにフードをめくって顔を見せた。 「しかしそれも、ダフネ・グリーングラスという存在がなければはじまらない。きみとグリーングラス家がね。 そちらのお母さんと父上とで話をつけてもらうことにはなるが、この提案はぜひきみのくちからご一族にとどけてもらいたくてね。」  ドラコ・マルフォイの声が深刻そうな声に変わる。 「きみとは夕食までに話しておくべきことが多々ある。」

 

◆ ◆ ◆

 

どうやらハリー・ポッターはいつも透明でいることにしたらしい。羊皮紙でないなにかに書かれたリストをわたしてくるときも、二人からは手の部分がちらりと見えるだけだった。 ハリー自身が言うには、一連の状況をかんがみれば、特別な場合以外に()()()()()()()()()()状態でいることが賢明だとは思えないから、これから他人と対面するときは、空中を浮遊する声か、だれにも見えない場所に隠れて光る銀色の光となって会話するようにしたい、ということらしい。光の場合は、味方である相手がどこに隠れようとしていても探しあてることができる、とも言っていた。 フレッドとジョージが知る範囲で、これほど気味のわるいものはなかなかない。スリザリン二年生全員の靴のなかみを〈転成〉した生きたムカデだらけにした経験のある二人がそう言うのだから、よほどのことだ。 いかにも本人の精神にも悪影響がありそうだとは思うものの、二人はハリーにどんなことばをかけるべきか分からないでいた。 というのも、今回のことで二人自身がホグウォーツの実態を目撃してしまっていたから。ここはたしかに……

 

……安全ではない……。

 

「リタ・スキーターの件で、きみたちがだれにたのんで〈偽記憶の魔法〉をかけてもらったのかは知らないけれど……」とハリー・ポッターの声が言う。 「とにかくその人なら……その人本人がこの依頼をやることはないにしても、マグル世界のものを入手できる別のだれかを知ってはいるかもしれない。 それと——口止め料がかさんでもかまわないから、このことにハリー・ポッターがかかわっていることを知る人の数はできるかぎり少なくしてほしい。」  男の子の片手がちらりと見えたあと、袋が地面に落ちて、チャリンと音をたてた。 「このうちいくつかの物品はマグル世界で買っても高価なしろもので、請け負う人は外国にいかなければならないかもしれない。それでも百ガリオンあれば十分だろうと思う。 これだけの大金がどこからでているかについては、教えてあげたいところだけれど、それは明日のお楽しみ。」

 

「なにこれ?」と、リストに目をとおしているフレッドとジョージのどちらかが言う。 「マグルを専門にしてる父親がいるおれたちでも——」

 

「——このリストにある名前の半分も聞いたことがない——」

 

「——いや、ひとつも聞いたことがない——」

 

「——これでなにをしようって言うんだよ?」

 

「事態は深刻になった。」とハリーの声が小声で言う。 「これからどんな必要ができるかわからない。 最終的には、魔法族だけじゃなくマグル族のちからが必要になるかもしれない——もしかすると、準備する猶予もなく、いきなり必要になるかもしれない。 これは、つかう()()があって書いたんじゃない。 ただ手もとにおいておきたいだけさ……有事にそなえて。」  ハリーはそこで一度とまった。 「もちろんぼくはきみたちに返しきれない借りがある。その借りに見あうだけの返礼をしようしてもきみたちは断るだろうし、どう感謝していいかも分からない。だからぼくとしては、きみたちがいつか大人になって、もっとまともな判断ができるようになったとき、十パーセントの手数料を受けとってくれるよう期待するしかない——」

 

「うるさい。」とジョージかフレッドかが言った。

 

「きみたちはぼくのためにトロルを足どめして、フレッドは肋骨を折ることまでしてくれたじゃないか!」

 

そう聞いて、フレッドとジョージはそろってくびを横にふった。 ハリーはあのとき逃げろと言われても逃げず、ジョージを食べようとするトロルの気をそらしてくれた。 ハリーはそれくらいでは自分が受けた恩を返せていないと思う種類の人間なのだ。 けれどそもそも、この三人のあいだには、これまでもこれからも貸し借りなどない。フレッドとジョージはそう理解しているが、ハリーはもうすこし大人になるまで理解できないらしい。 ある意味でひとりよがりなハリーは——自分自身のなかにある思いやりを理解していない。ハリー自身は、自分がだれかを救ったことに対して金銭的な支払いをもとめたり、それを債務と呼んだりしようとは思いもよらない——その反面、()()()おなじように行動する可能性となるとまったく理解できないらしい。

 

「あとできみたちに、『肩をすくめるアトラス』というマグルの小説をプレゼントしたいから、忘れていたら教えてほしい。 あの本からいい意味で影響を受けられる人がどういう種類の人なのか、わかってきた気がするよ。」と、またおなじ声が言った。

 

◆ ◆ ◆

 

四月二十日月曜日、午後七時

 

そのできごとは、生徒たちがしめやかな夕食を終えたころ、〈主テーブル〉のだれの関与もなしに起きた。どの教員が認めたのでもなく、総長が許したのでもなかった。

 

デザートの皿が出現してまもなく、スリザリンのテーブルで一人の生徒が立ちあがり、四列のテーブルの端——〈主テーブル〉のほうでなく、その反対の端——に向かって、歩みをすすめていった。 みじかく切りそろった白金色の髪のその少年、ドラコ・マルフォイが無言で全員を見わたす位置につくのを見て、何人かが小声でささやいた。 突然の復学以後、ドラコ・マルフォイはほとんどなにも語らなかった。 マルフォイ家の手でハーマイオニー・グレンジャーが死んだ以上、恐れるものがなくなったから復学したのか、と問われても、肯定も否定もしかねるという返事をするだけだった。

 

ドラコ・マルフォイは片手のスプーンで、もう片手の水のはいったグラスをたたきはじめた。グラスはよく響く音で鳴った。

 

チリン。

 

チリン。

 

チリン。

 

その音を聞いて、まずざわめきがうまれた。 〈主テーブル〉では教師たちがそれぞれ困惑した表情で、玉座にいる総長をあおいだ。しかし総長がなんの反応も見せないので、教師たちも動かない。

 

ドラコ・マルフォイはスプーンでグラスを鳴らしつづけ、大広間が静まるのを待った。

 

それから、レイヴンクローのテーブルから一人の生徒が立ちあがり、ドラコ・マルフォイのいる場所にまで歩いていき、その横にならんで立って、全員と向きあった。 意外な組み合わせを見て、息をのむ音が聞こえた。この二人はいまや不倶戴天の敵同士だったのでは——

 

「〈元老貴族〉マルフォイ家当主とその子であるわれわれは……」  ドラコ・マルフォイがよくとおる声で言う。 「ホグウォーツ内に暗躍する勢力があるということ、その勢力がハーマイオニー・グレンジャーへの害意をもって行動したということ、 ハーマイオニー・グレンジャーはみずからの意思に反してマルフォイ家に敵対する行動をとらされていたか、ぼくもろとも〈記憶の魔法〉をかけられていた可能性があるということを認識した。 われわれはマルフォイ家の継嗣をそのように利用しようとした何者かを一族の敵であると宣言し、報復を誓う。 その一環として、われわれはポッター家から受けとった資産を返却し、ポッター家の全債務を破棄した。」

 

つづいて、ハリー・ポッターが。 「ポッター家はマルフォイ家の行為は悪意のないあやまちであったと認め、 ハーマイオニー・グレンジャーの死についてマルフォイ家が責任を問われるべきでないと考える。 ハーマイオニー・グレンジャーを害した何者かが、ポッター家の敵である。両家はその敵に報復することを誓う。」

 

そしてハリー・ポッターはレイヴンクローのテーブルにもどっていき、驚天動地のできごとを目にした周囲の人たちから徐々にどよめきが生まれる——

 

ドラコ・マルフォイがまたスプーンでグラスをたたいて、よく響く音を鳴らした。

 

チリン。

 

チリン。

 

チリン。

 

ほかのテーブルから、ほかの生徒が何名か立ち、ドラコ・マルフォイのいる場所に歩いていき、ドラコ・マルフォイの横や後ろや前にならんだ。

 

大広間は静まりかえり、世界が一変し〈勢力図〉がぬりかわる感覚が質感をもって伝わった。

 

「わが父、オーウェン・グリーングラスは〈元老貴族〉グリーングラス家を継いだ母の全面的な同意のもとに一票を投じ……」とダフネ・グリーングラスが言った。

 

「われわれノット家一族のチャールズと……」と元〈カオス〉軍セオドア・ノットが、ドラコ・マルフォイのうしろの位置から言った。

 

「わたしの大叔母で〈魔法法執行部〉長官でもあるボーンズ家のアメリアと……」とスーザン・ボーンズが戦友ダフネ・グリーングラスのとなりで言った。

 

「わが祖母、〈元老貴族〉ロングボトム家のオーガスタと……」とこの日のためにもどってきたネヴィル・ロングボトムが言った。

 

「わが父、〈元老貴族〉マルフォイ家の当主ルシウスと……」

 

「そしてアランナ・ホー、以上六名で理事会の過半数を構成する理事が……」とダフネ・グリーングラスがよくとおる声で言う。 「理事自身の子女をふくむ全生徒の安全を確保するために採択した、ホグウォーツ魔術学校〈教育令〉をここに告げる!」

 

◆ ◆ ◆

 

「第一条!」  ダフネは声がふるえるのを抑えようとしながら、五人の先頭にたって四寮を相手に話しだす。 両親から演説のしかたをおそわっているとはいえ、それにも限界があるので、 ちらりと片手に視線をおとし、そこに薄い赤色のインクで書いておいた口上のメモを確認する。 「生徒はどんなときも、トイレにいくときも単独で移動しないこと。 かならず三人以上の組で移動し、そのなかに六年生か七年生を一人以上いれること!」

 

「第二条!」 とダフネのうしろにいるスーザン・ボーンズが声をあげる。ほとんどあぶなげのない声に聞こえる。 「生徒の身の安全を確保するため、九人の〈闇ばらい〉をホグウォーツに出動させてあります。これを〈予備防衛隊〉とします。」  スーザンはローブのなかからガラス製の小さな道具をとりだした。五人に配布された〈魔法法執行部〉の通信器である。 スーザンはそれを口にちかづけ、大きな声を発した。 「こちらはスーザン・ボーンズ。ブロードスキー隊長、中へ!」

 

大広間の扉が音をたてて開き、実戦用の強化革服を着た九人の〈闇ばらい〉が入場した。 八人は入場するとすぐに四つのテーブルに二人の組で展開し、もう一人は〈主テーブル〉の監視についた。また息をのむ音がした。

 

「第三条!」とドラコ・マルフォイが堂々とした声で言う。 マルフォイはせりふを暗記しているらしく、手を見てもなにも書かれていない。 「どの寮の生徒であれ生徒を殺すことを辞さないホグウォーツ共通の敵に対して、四寮は一丸となって行動しなければならない。 その一環として、寮点の制度を一時的に停止する。 理事会は全教師が寮間の助けあいを奨励するよう命じる!」

 

「第四条!」とネヴィル・ロングボトムが言う。 「〈防衛術〉教授の課外授業に参加していなかった生徒は〈闇ばらい〉講師による護身術の訓練を受けること!」

 

「第五条!」とセオドア・ノットが威嚇するように言う。 「〈防衛術〉の授業をのぞいて、校内の廊下をはじめとするどんな場所でおこなわれた戦闘も厳しく処罰する。共闘以外の戦闘は許されない!」

 

「第六条!」  この計画の内容を知ったとき、ダフネは〈煙送(フルー)〉を通じて母にちょっとしたことを頼んだ。 仮にルシウス・マルフォイがアメリア・ボーンズと手をくむのだとして——手をくむというのがいまだに信じきれないのだが——ジャグソンの派閥がマルフォイにつかなかった以上、グリーングラスの浮動票はやはり趨勢を左右する一票である。 言うまでもなくボーンズはマルフォイを信用していないし、マルフォイもボーンズを信用していない。 そのため、グリーングラス家にこれをあたえるようにという母の要求が通ることになった—— 「生徒に対して〈記憶の魔法〉が使用されていながら、結界は作動しなかった。ということはホグウォーツの教師陣のうちのだれかが敵に加担している可能性がある。 したがって、〈予備防衛隊〉はグリーングラス卿が直接指揮するものとする!」  そして、このつぎの部分は象徴的な取り決めにすぎない。〈闇ばらい〉に直接連絡すればすむ話だから。それでもいつかもっと意味があるものになるかもしれない、と思って母にこの要求を通してもらったのだった—— 「〈予備防衛隊〉へ通報したいことがあれば、隊員の〈闇ばらい〉のほか、()()()——」  ダフネは背後にならぶ生徒たちをおおうように片手をうごかす。 「——〈予備防衛隊〉特別委員会委員長に任命されたわたしが受け付ける!」

 

そこでダフネはおおげさに間をおいた。ここからの部分はみんなでよく練習してある部分だった。

 

「敵の正体はわからない。」というネヴィルの声はうわずっていない。

 

「敵の狙いはまだわからない。」とセオドアがまた威嚇するように言う。

 

「でも敵は現にわれわれを襲っている。」と言うスーザンは以前七年生三人を相手にしたときとおなじくらい猛々しい。

 

「敵はホグウォーツ生を襲っている。」とドラコ・マルフォイは堂にはいった明瞭な声で言う。

 

「だからホグウォーツは……」  ダフネ・グリーングラスはかつて感じたことのない熱さで血がたぎる思いとともに言う。 「()()()()。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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99章「それぞれの役割——余波」

◆ ◆ ◆

 

その十日後、一頭目のユニコーンの死体が〈禁断の森〉で見つかった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 

◆ ◆ ◆

 

〔訳注:99章の内容は以上です。「最後の敵」編も以上で終わりです。諸般の事情で、64章にあったオマケの一部が未翻訳だったのですが、その一部を翻訳してここにおいておきます。〕

 

64章「オマケファイル四——いろいろな世界で」

 

◆ ◆ ◆

 

(ライオンと)魔女と衣装だんす

 

ピーターは(いぶか)しげな目で野営地を見渡しました。周囲には、弓をもつケンタウロスや両刃刀(ダガー)をもつビーバーや鎖帷子を着たしゃべるクマたちがいます。ピーターはその指揮官なのです。たしかに伝説の〈アダムの子ら〉の一人ではあり、自分でもナルニアの〈王〉であると言ってしまったからしかたないのですが、実際には野営のことも武器のことも夜警のこともよく知りはしません。 しかし周囲の皆は、ピーターの実力を信じて疑っていないという顔をしています。こうなれば自分でもその皆の判断を信じるしかありません。味方を信じずにだれを信じればいいというのでしょう。

 

「これが味方でなく敵だったら怖く見えているだろうし。でも、これで……〈魔女〉に対抗できるのかなあ。」とピーターは言いました。

 

「もしかしてだけど、その謎のライオンさんがこの場にやってきて一緒に戦ってくれたりしないかな?」 とルーシーが動物たちに聞こえないように小声で言います。 「ライオンさんも、〈アダムの子ら〉についていけ、なんて言い残すより、ただここに来てくれればよかったのにね?」

 

スーザンが首を横に振って、背中の魔法の弓を揺らしました。 「そんなライオンみたいな人がほんとにいたら、〈白い魔女〉がこの国を百年も冬にしているのをほっておいたはずがないでしょ?」

 

「わたし、すごく変な夢を見たの。」とルーシーがいっそう小さな声で言います。 「その夢のなかでは、わたしたちが動物を指揮する必要も戦わせる必要もなく、ここに来た時点でもうライオンが先に来ていて、そのライオンが全軍を率いてエドムンドを救出しに行ってくれて、わたしたちはただその背中に乗って付いていくだけでよくて、激戦の結果ライオンが〈白い魔女〉を倒してくれる……」

 

「その夢になにか教訓は?」とピーター。

 

「さあ。」と言ってルーシーは目をぱちくりさせます。 「なんにもならないことをしているような感じの夢だった。」

 

「それはナルニア国からの——」とスーザンが言います。「それとも、ルーシーの夢からの——メッセージなんじゃないかしら。もしそんなライオンみたいな人がいたとしたら、()()()()()()いる意味がなくなっちゃう、って。」

 




閑話休題。次回、第100章ももうすぐ投稿します。


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「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスと賢者の石」編
100章「予防的措置(その1)」


一九九二年五月十三日。

 

揺れる油灯の明かりにアーガス・フィルチの渋面が浮かびあがっては消える。一行があとにしたホグウォーツ城の扉はもう遠くなり、野外の暗がりが近づいてくる。 足もとの道はぬかるんでいて、道としての輪郭がない。

 

冬のあいだはだかであった木々は、まだ完全には春を迎えていない。かぼそい指のように空にむかって伸びる枝々に着せられた葉はまだまばらで、節ばったすがたを晒している。 月はあかるいが、流れる雲もあり、一行はくりかえしその影にはいる。そのたびに、フィルチの油灯の弱い光だけを頼りとして歩くことになる。

 

そのあいだドラコは杖をにぎる手を離さない。

 

「これからどこに行くっていうの?」とトレイシー・デイヴィスが言った。 彼女とドラコは、門限をすぎてから〈白銀のスリザリン〉団の会合に行く途中でフィルチにつかまり、そろって居残り作業の罰を課されたのだった。

 

「いいからついてこい。」とアーガス・フィルチが言った。

 

ドラコはこの状況をはなはだ不満に感じている。 〈白銀のスリザリン団〉は学校の正式な活動と見なされるべきであり、 それがホグウォーツ全体のためになる活動なら、秘密組織とはいえ門限をすぎて会合をひらくことを許可されない理由はない。 もしまた一度でもこういうことが起きたなら、ダフネ・グリーングラスと話をつけてグリーングラス卿に話をとおしてもらおう。フィルチはマルフォイ家のやることに口をはさむものではないと思い知ることだろう。

 

ホグウォーツ城のあかりが見えなくなるところまで来ると、フィルチが話しはじめた。 「そろそろ、校則をやぶったりするんじゃなかった、って思いはじめたんじゃないか? え?」  手さげ灯のほうを向いていたフィルチの顔が、四人の生徒たちをふりかえって、にたりとする。 「それでいい……労働と苦痛こそ最良の教師というもの…… 惜しいことに、最近じゃもう、手首を縛って数日間天井につるす罰はやらなくなってしまったが…… その鎖はまだ部屋にとってあるぞ……また出番がくるときのために、念入りに油をさしてある……」

 

「あの!」とトレイシーがわずかにむっとしたような声で言う。 「あたしはまだ——そういう話を——聞いちゃいけない年齢なんですけど! とくに念入りに油をさした鎖の話なんかは!」

 

ドラコはフィルチの話を意に介していない。 アミカス・カロウなどとくらべればフィルチは恐れるに足りない。

 

背後にいるスリザリンの上級生二人のうちの女子が、無言でただ含み笑いをした。 そのとなりには、若干スラヴ系の顔立ちで、発音にもまだなまりがある長身の男子がいる。 この二人は三年生か四年生らしく、ドラコたちとは無関係な、ちょうどトレイシーがいま話しているような種類の校則違反をしてここに来ているのだという。 「フン。ダームストラングでは、足の指をくくりつけて逆さ吊りにするよ。 態度が悪いやつは、一本指で。 昔のホグウォーツは厳しかったっていうけど、まだまだだね。」

 

アーガス・フィルチは三十秒ほど無言になり、反撃のひとことを考えているようだったが、やがてくっくっと笑った。 「今夜の罰の内容を知っても、そんなくちをきいていられるかな!」

 

「あのね、だから、そういう話はあたしにはまだ早いんだって!」とトレイシー・デイヴィスが言う。 「もう何年かしてからじゃないと!」

 

道のさきには、明かりのともった一軒家があった。どこか寸法がおかしく見える家だった。

 

フィルチがピィっと口笛をふくと、イヌが吠えはじめた。

 

そして家のなかから、周囲の木々がやけに小さく見えるほどの人影があらわれた。 そのつぎに出てきたイヌは相対的に幼犬のようにに小さく見えたが、人影を別にして単体で見ればオオカミと見まがう大きなイヌだった。

 

ドラコは思わず視線をするどくしかけたが、自重した。 〈白銀のスリザリン〉団員たるもの、意識ある存在すべてに〈偏見〉なく接しなければならない。とくに他人の目がある場ではそうだ。

 

「なんだ?」と言うその半巨人の粗野な声。 手にもつ傘の表面が白く光っていて、フィルチの手さげ灯より明るいくらいだ。 もう片手には(クロスボウ)を持ち、上腕から矢筒をさげている。

 

「居残り作業の生徒たちだ。」とフィルチが大きな声で言う。 「〈森〉のあれを……食いものにしとるなにかを捜索する手つだいとして連れてきた。」

 

「〈()〉? あそこに夜行くなんてありえない!」とトレイシー。

 

「行くんだよ。」と言ってフィルチは視線をハグリッドからドラコたちへとうつし、にらみつける。 「〈森〉へな。これでおまえたちが傷ひとつなく帰ってきたなら、とんだ期待はずれだ。」

 

「でも—— そこは人狼がいるんでしょ、たしか。それにヴァンパイアも。人狼とヴァンパイアと女の子がおなじ場所にいたりなんかしたら、どうなることか!」

 

半巨人は眉間にしわをよせた。 「おりゃあ、てっきりあんたもいっしょに、七年生が何人か来とくれるんだろうと思っとたんだがな。 手つだいをさせるにしても、おれがずっと付きそうことになるんじゃなあ。」

 

アーガスは嗜虐的な顔つきで、さもうれしげにこう言う。 「それは自業自得だろう? こいつらも、悪さをしてつかまったら人狼が待っているということくらい、分かっていなくちゃな? こいつらだけで行かせるんだ。 そう面倒見よくしてはいられんのだよ、ハグリッド。罰なんだからな、これは。」

 

半巨人はやたらと深いためいきをついた(ふつうの男が〈棍棒打ちの呪文〉で肺の空気をすべてはきださせられたときのような音だった)。 「話ゃあ、わかった。あとはまかしとくれ。」

 

「夜明けにまた来る。生き残ったぶんはそのとき引き取る。」  フィルチはそう嫌味たらしく言ってからさっさと城のほうへ、手さげ灯を揺らしながら帰っていった。

 

「さあて。言っとくがな、今夜の仕事は危険だからな、余計なこたあするんじゃねえぞ。 こっちだ。ついてこい。」とハグリッドが言った。

 

一行は〈森〉のきわまで歩いていく。 大男は手さげ灯を高くかかげ、暗い木々のあいだへ消えていく曲がった獣道を指さす。 ドラコがそちらに目をやると、〈森〉からの風が軽く顔にあたった。

 

「この森で、なにかがユニコーンを食っとるようでな。」

 

ドラコはそれを聞いてうなづいた。たしかそんなような話を数週間まえに……四月のおわりごろに聞いたおぼえがある。

 

「つまり傷ついたユニコーンの銀色の血痕をたどる仕事?」とトレイシーが興奮した。

 

「それはない。」  ドラコはついでに反射的に嘲笑しそうになるのを思いとどまった。 「フィルチが居残り作業の通知をしてきたのは昼食中、今日の正午だった。 そのとき傷ついたユニコーンがいたのだったら、ミスター・ハグリッドはこの時間まで待ちはしない。それに、もしそういうものがいたとして、探すなら日中の明るい時間にする。 つまり……」  芝居に登場するレオン警部のしぐさをまねて、指を一本たてる。 「ぼくの推理では、これから探しにいくのは夜行性のなにかだと思う。」

 

「うむ。 ……あんたがそういう子だとは思わなんだなあ、ドラコ・マルフォイ。 そっちは……トレイシー・デイヴィスか。 たしか、生前のミス・グレンジャーのお仲間さんの。」  ルビウス・ハグリッドはもう二人の上級生スリザリン生のほうを向き、傘の光をあてた。 「そっちの二人はなんという名前だったかな? 見ない顔だ。」

 

「わたしはコーネリア・ウォルト。こっちはユーリ・ユーリィ。」と言ってスラヴ系の顔だちの、ダームストラングの話をしていた男子を指さす。 「彼の家族はウクライナのほうから短期滞在で来てるだけだから、ホグウォーツにいるのは今年だけ。」  男子はうなづいて、ごくわずかに軽蔑するような表情をした。

 

「こいつはファングだ。」と言ってハグリッドはイヌを指さした。

 

五人は森のなかに歩みをすすめた。

 

「ユニコーンを殺すものがいるとしたら、なんだろう?」としばらく歩いてからドラコはそう口にした。 ドラコも〈闇〉の生物について多少知ってはいるが、ユニコーンを捕食するとされる生物は思いあたらない。 「そういうことをする生きものというと……だれかこころあたりは?」

 

「人狼!」とトレイシーが言った。

 

「ミス・デイヴィス?」とドラコが呼びかけると、トレイシーがふりむく。ドラコは無言で頭上の月を指さした。 だいぶふくらんではいるが、まだ満月ではない。

 

「あー……そうだった。」とトレイシー。

 

「この〈森〉に人狼はいねえよ。」とハグリッドが言う。 「だいたい、あれはふだんはただの魔法使い(にんげん)だからな。 といって、オオカミでもねえ。オオカミだったら、ユニコーンは走れば十分逃げ切れる。 ユニコーンっちゅうのは強い魔法生物(いきもの)でな。おれも手負いのユニコーンははじめて見た。」

 

ドラコはそれを聞きながら、自分でも謎解きをやろうとしかけてしまった。 「ユニコーンの足でも逃げ切れない相手がいるとすれば、それは?」

 

「足のはやさじゃあ決まらん。」と言ってハグリッドは読みとりがたい目でドラコをちらりと見る。 「動物には狩りの武器がいろいろとある。毒やら闇やら罠やら。 夜魔(インプ)は目に見えず、耳にも聞こえず、記憶にものこらない。獲物に気づかれないまま顔をかじりとれるくらい隠れるのがうまい。 いくら調べてもそういう新しい工夫が見つかるのが、生きもののおもしろいところだ。」

 

月に雲がかかり、森が影にはいった。ハグリッドの傘の光だけがのこった。

 

「おれはな、パリの多頭蛇(ヒュドラ)じゃあないかと思っとる。 こいつは魔法使いにとっちゃたいした敵にゃあならん。手をゆるめなきゃあ、負けっこないんだ。 いいか、あきらめさえしなけりゃいいんだ。 それが実際このヒュドラを相手にすると、あっさりあきらめちまう動物が多い。 ヒュドラの首をぜんぶ切り落とすのにゃあ時間がかかるんでな。」

 

「ふん。」とダームストラング生が言う。 「うちじゃ、ブーフホルツのヒュドラと対戦させられるよ。 これのほうがもっと、考えられないくらいやっかいだ。 実際、一年生は自分が勝てるところを考えられなくて、 いくら勝てるんだと言ってやっても通じない! 一年生が理解するまで教師は命令しつづけるしかない。」

 

三十分ほど森の奥へむけてどんどん歩きつづけると、木々が密になり獣道をたどることが事実上できないほどになった。

 

そこでドラコの目にはいったものがあった。木の根にどろりと、月光を受けて光る液体があった。 「あれは——」

 

「うむ。ユニコーンの血だ。」  ハグリッドは残念そうにそう言った。

 

太いオークの枝どうしの重なりのむこうに、ひらけた空間が見える。そこにユニコーンの遺体が美しく悲しげによこたわっている。周囲の土は血をふくんで月光色に光っている。 毛色は白色ではなく淡い水色(ペールブルー)……すくなくとも月のあかりのもとではそう見える。 細い足が奇妙な角度に曲がって突き出て、折れていることがひとめでわかる。黒い葉の上に投げだされたたてがみは濃緑色だが真珠のような艶がある。 (ひばら)には、小さな白いギザギザの円と、そこから八方向にのびる線がある。 半分もぎとられた腹部の断面はなめらかでなく、歯型のようなものがあり、そこから骨と内臓が露出している。

 

ドラコはなぜかのどの奥がしめつけられるように感じた。

 

「この子はな……」  ハグリッドの場合、残念そうなその小声は通常の男性の声の大きさとかわらない。 「けさこの場所で見たときにはもう、このとおり死んでいて、ぴくりともしなんだ。 この子は——生きているときに——おれがこの森で会ったはじめてのユニコーンでな。 『アリコーン』という名前をつけてやった。もう名前もなにもなくなっちまったがなあ。」

 

「ユニコーンに、『アリコーン』なんて名前をつけるんだ。」と上級生女子が言った。すこし乾いた声だった。

 

「その子、つばさはないみたいだけど。」とトレイシーが言った。

 

「アリコーンってのはユニコーンの角のことだよ。」とハグリッドがいくらか大きな声で言う。 「つばさのあるユニコーンのことをそう呼ぶという話があるそうだが、どこから出てきたのやら。だいたいそんな生きものなんぞ聞いたこともない。 これはただ、イヌに(ファング)って名前をつけるようなもんでしかない。」と言って、自分のひざにもとどいていないオオカミのような大犬を指さす。 「ほかに、どんな名前がある? 『ハンナ』とかかい? それより()()()()()()意味がある名前がいいと思ってこうしたんだ。そうするのが礼儀ってもんだよ。」

 

返事がないのを見て、もう一呼吸おいてから、ハグリッドは首肯した。 「この場所から捜索をはじめる。ここが最後の襲撃場所だからな。 二手にわかれて、別々の道をいくんだ。 そっちの——ウォルトとユーリィは、ファングを連れて、むこうの方向にいけ。 ファングがいりゃあ、この〈森〉のどんな生きものも手だしはしてこねえ。 なにか見つけたら緑色の閃光を打ち上げろ。困ったときは赤色の閃光を打ち上げろ。 もう二人——デイヴィスとマルフォイは、おれについてこい。」

 

〈森〉は暗く静かだ。 捜索をはじめるとルビウス・ハグリッドが傘のあかりを弱めたので、ドラコとトレイシーは月あかりだけをたよりに動かなければならくなり、足をとられることもあった。 (こけ)のむした切り株や、音でだけ聞こえる川のそばを通りすぎる。 ときどき枝と枝のあいだから月光がさして、落ち葉にたれた青灰色の血が光る。その血のあとをたどって、一行は問題の生物がユニコーンを最初に襲撃したであろう場所へと向かう。

 

「おまえさんについては、いろいろうわさがある。」  しばらく歩いてからハグリッドが小声でそう言った。

 

「まちがったことは言ってないよ。」とトレイシーが言う。「どのうわさもね。」

 

「いや、あんたじゃない。……〈真実薬〉を、たしか三滴処方されて、ミス・グレンジャーを助けようとしていたんだと証言したという話だったが。これはまちがいないか?」

 

ドラコは一度言うべきことを吟味してから言った。 「ああ。」  あまり功績として誇りすぎているように思われてもいいことはない。

 

その返事を聞いて、ハグリッドはくびを横にふった。そのあいだにも巨大な足は音をたてずに動きつづけていた。 「おどろいたなあ。 デイヴィス、あんたも廊下の暴力をなくそうとしていたんだったな。 〈組わけ帽子〉が組わけをしそこなっちまったんじゃないか? 悪の道にいった者は一人のこらずスリザリン出身だ、とよく言うだろう。」

 

「そんなことはないよ。」とトレイシーが言う。 「〈黒鴉〉シャオナン・トンも、〈山〉のスペンサーも、ミスター・ケイヴォンもいるんだから。」

 

「そりゃだれだ?」

 

「過去二百年の高名な〈闇の魔法使い〉にはそういう人がいるの。 スリザリン生以外で、彼らほど優秀なホグウォーツ卒業生はいなかったかもしれない。」  そこでトレイシーの声が勢いをうしなった。 「思いこみでなにかを言うまえに本でよく調べなさいって、いつもミス・グレンジャーが——」

 

「ともかく……」  ドラコはそこにさっと割りこんで言う。 「そこは気にしてもしかたないんだ、ミスター・ハグリッド。 仮に——」  『〈闇〉の魔法使いである者がスリザリン生であるという条件つき確率』や『スリザリン生である者が〈闇〉の魔法使いであるという条件つき確率』をどうやって科学的でない言いかたに翻訳すればいいかと、あたまをひねる。 「仮に〈闇の魔法使い〉の大半がスリザリン出身だったとしても、スリザリン生の大半は〈闇の魔法使い〉ではない。 〈闇の魔法使い〉はそもそも数がとてもすくない。だからスリザリン生全員が〈闇の魔法使い〉になっていては、計算があわないから。」  あるいは、父上の言いかたでは、マルフォイ家の者も秘術を多く身につけておくべきではあるが、そのなかでもとりわけ……()()()()儀式は、アミカス・カロウのような便利な愚か者にまかせたほうがよい。

 

「つまり……〈闇の魔法使い〉の大半がスリザリン生だとは言えるが……」とハグリッドが言いかけた。

 

「……スリザリン生の大半は、〈闇の魔法使い〉ではない。」  なかなか話がすすまないので、ドラコはうんざりしてきた。しかしヒュドラと戦う場合とおなじく、要はあきらめなければいい。

 

「そういうふうには、思ってもみなんだ。」  ハグリッドは感銘をうけたように言う。 「しかし、スリザリンがヘビの巣窟でなかったと言うんなら、どうして—— ()()()()()()()()()()

 

ハグリッドはドラコとトレイシーをつかみ、二人を道の脇のオークの大木の影にほうりなげてから、 クロスボウに矢をつぎ、高くかまえていつでも発射できるようにした。 三人は耳をそばだてた。 すぐそこの落ち葉の上でなにかが動く音がする。マントを地面にひきずるような音。 ハグリッドが目をこらして暗い道を見ていたが、すぐに音は消えた。

 

「やっぱりな。」とハグリッドがつぶやく。「なにかおかしなもんがいる。」

 

ハグリッドを先頭に、トレイシーとドラコは杖を手にしっかり持ち、音がしていた場所へ三人でのりこむ。しかし、ごく小さな音も聞きのがさないよう耳をすませて徐々に捜索の範囲をひろげてみても、なにも見つからない。

 

一行はさらに密集する木々をかきわけて歩いた。 ドラコはなにかに見られているような感覚がして、幾度も肩越しにふりかえった。 道が一度曲がる部分にきたところで、トレイシーが声をあげて指さした。

 

遠くに赤い閃光が舞っている。

 

「ここで待ってな!」とハグリッドがさけぶ。 「動いちゃならんぞ。あとでむかえにくるから!」

 

ドラコがくちをはさむ間もないうちに、ハグリッドは二人に背をむけ、茂みを突っ切っていった。

 

ドラコとトレイシーはしばらくたがいを見あった。周囲はしんとして、葉ずれの音しか聞こえない。 トレイシーは自分がおびえているのを悟られまいとしているようだった。 ドラコはまず第一に、不快感を感じていた。 どうやらルビウス・ハグリッドは今夜の作業を計画するとき、途中でなにかがすこしでも悪い方向にすすんだらどんなことになるかを五秒間想像してみる手間すら惜しんだらしい。

 

「これからどうする?」とトレイシーが言った。声が多少うわずっているようでもあった。

 

「ミスター・ハグリッドがもどってくるのを待つ。」

 

一分一分が長く感じられる。 ドラコの耳はふだんより敏感になったらしく、風の吹く音や枝の折れる音がするたびにいちいち反応する。 トレイシーは幾度も月を見あげ、まだ満月じゃない、と自分に言い聞かせるかのようにしていた。

 

「あの——ほんとにだいじょうぶなのかな、これ。」とトレイシーがぼそりと言った。

 

ドラコはすこし検討してみた。 たしかに、これは少々…… ドラコはこわがりではないし、現にこわいと感じてもない。 ただ、ホグウォーツで殺人が起きたあとで、半巨人に〈禁断の森〉に連れだされて置き去りにされるというのは……もしこれが芝居だったら、観客席から舞台上の役者に声をかけてせっつきたくもなるところだ。

 

ドラコは自分のローブのなかに手をいれ、鏡をとりだした。 鏡の表面をたたくと、そこに赤色のローブの男が映り、映るなり顔をしかめた。

 

「こちらは〈闇ばらい〉イニアス・ブロードスキー隊長。」とよく通る声でその男が言い、声の大きさにトレイシーがびくりとする。 「……用件をどうぞ、ドラコ・マルフォイ。」

 

「十分間あいだをおいてから声をかけてくれ。」  ドラコは居残り作業を課されたら無闇に言いたてないようにしようと決めていた。 わがままな子どもだと思われたくはないから。 「こちらが返事しなかったら、来てくれ。場所は〈禁断の森〉。」

 

鏡のなかの〈闇ばらい〉が両眉をあげた。 「なんの用があって〈禁断の森〉に?」

 

「ユニコーンを食べているものを探すために、ミスター・ハグリッドに連れられて来た。」  そう言ってドラコは鏡をたたいて接続を切ってローブのなかにしまい、『それは居残り作業なのか』という質問や『罰はだまって受け入れるべきだ』などという話をされる隙をつくらなかった。

 

トレイシーの顔がドラコのほうを向いたが、暗くて表情はわからない。 「あ……ありがと。」

 

また冷たい風が吹き、まだまばらな新緑の葉がかさかさと音をたてた。

 

「もし無理してるんだったら——」  トレイシーの声はこんどはすこしだけ大きくなっていたが、恥ずかしげでもあった。

 

「たいしたことじゃないよ、ミス・デイヴィス。」

 

黒いトレイシーの影がほおに手をあて、ほおの赤みを隠そうとするようなしぐさをした。どうせ見えないのだが。 「その……わたしはいいんだけど、ほら——」

 

「いや。ほんとに、たいしたことじゃないんだよ。」  鏡をとりだしてブロードスキー隊長に『もう一人は助けなくていい』と命じておきたくなるくらいだが、トレイシー(こいつ)の場合、それすら誘いのシグナルのように受けとりかねないから困る。

 

トレイシーの影が顔をそむけた。そして一段と小さな声で、こう言った。 「ほら、まだ早いんじゃないかって——」

 

そこで甲高い声が森に鳴りひびいた。それは人間の声のようでそうでなく、馬の声のようでもあった。 そしてトレイシーが短く悲鳴をあげて走りだした。

 

()()()()()()!」  そう言って、急いでトレイシーを追うドラコ。 あの不気味な声はどこから聞こえてきたのかすらドラコには分からない。ただ——不気味な声がするその方向へまっすぐ走っていってしまったりするのがトレイシー・デイヴィスではないかという気がした。

 

目に(つた)があたりそうになるのを片手でとめながら、トレイシーを見うしなわないように走る。これが芝居だったなら、ばらばらになったうちの一人は死ぬものと決まっている。 ドラコはローブのなかにしまってある鏡のことを考えたが、走りながら片手でとりだそうとすれば、落ちて見つからなくなってしまうような気がしてならない——

 

行く手でトレイシーが立ちどまっているのを見てドラコは一瞬ほっとしたが、そのさきにあったのは……

 

また一頭のユニコーンが地面に倒れ、そこを中心にして銀色の血がひろがっている。血は周縁部では水銀のようにどろりと動いている。 毛色は夜空の色と似た紫色で、角は肌とおなじ夜明けの空の色。(ひばら)には桃色の星型の印がひとつあり、そのまわりに白い点々がある。 その光景を見てドラコは胸が引きさかれそうになった。もう一頭のユニコーンを見たとき以上にこれが苦しく感じるのは、生気のない目がまっすぐにこちらを見ているだけでなく、となりに——

 

——ぼんやりとした、ねじれたかたちのなにかが——

 

——ユニコーンの腹の生なましい傷ぐちに、ちょうどそこから液をすするようなかっこうでいて——

 

——自分がなにを目にしているものか、ドラコはなぜか理解できない——

 

——それはドラコたちを見ている。

 

ぼやけてうごめく得体の知れないそのなにかが、こちらを向くように見えた。 シャーという音がした。世界じゅうのどんなヘビよりも、どんなアマガサヘビよりも、獰猛なヘビのような声だった。

 

そしてそれはまたユニコーンの傷ぐちに向かい、すすりはじめた。

 

ドラコは手のなかにある鏡をたたくが、反応する様子はない。指はそれでもおなじ動きをしつづける。

 

トレイシーは杖をにぎって『プリズマティス』や『ステューピファイ』などと言っているが、なにも起きない。

 

うごめくものの輪郭が起きあがった。それはかがんでいた男が立つところを思わせたが、やはりそうではなく、 なかば跳びはねるような奇妙な動きで、死にかけたユニコーンの足を越え、二人に迫ってくる。

 

トレイシーがドラコの(そで)をつかみ、反対方向……ユニコーンを狩るそれのいない方向へ走ろうとした。 しかしトレイシーが二歩すすんだところで、またひどく耳にのこるシャーという声がして、トレイシーは地面に倒れ、動かなくなった。

 

こころの奥のどこかでドラコは自分はここで死ぬのだと思った。 仮にいまこの瞬間に〈闇ばらい〉が連絡してきていたとして、どんなに急いでも助けに来ることはできない。もう()()()()()

 

逃げようとしてもだめだった。

 

魔法をつかおうとしてもだめだった。

 

うごめく輪郭が近づいてくるが、死の直前までドラコは謎かけをとこうとする。

 

そのとき銀色の光球が夜空から飛びでて、空中にとどまり、森を白昼のように明るくした。うごめく輪郭は光をおそれるかのように飛びのいた。

 

四機のホウキが空にあらわれた。玉虫色の防壁をたてた〈闇ばらい〉が三人と、より大きな防壁をたてたホウキに乗るマクゴナガル先生と、その後部で杖を高くもっているハリー・ポッター。

 

「さがりなさい!」とマクゴナガル先生の声がして——

 

——その一瞬後、うごめくものがまたシャーと声をだし、防壁呪文が消えた。 〈闇ばらい〉三人とマクゴナガル先生がホウキから地面に落ち、そのまま動かなくなる。

 

ドラコは息ができなくなり、いままで感じたことのないほどの恐怖で胸がしめつけられ、腹の底から動揺する。

 

無事であったハリー・ポッターが無言で自分のホウキを着陸させ——

 

——うごめくものとドラコのあいだに飛びこみ、防壁がわりになろうとする。

 

「逃げろ!」とハリー・ポッターがドラコのほうに半分だけふりかえって言う。 その顔は銀色の月光に照らされている。 「逃げろ、ドラコ! ここはぼくが食いとめる!」

 

「あれを一人で相手にする気か!」とドラコはさけんだ。 胃からこみあげてくるような吐き気がした。それはあとでふりかえってみると罪悪感と似ているようで、そうでないようで、感覚としては近しいものの、感情がともなっていなかった。

 

「するしかないんだ……いいから逃げろ!」とハリー・ポッターは険しい表情で言った。

 

「ハリー、あ……あんなことをして悪かった——ぼくは……」  ドラコはあとでこの場面をふりかえるとき、自分がなにについて謝ろうとしていたのか、よく思いだすことができなかった。多分はるか昔にハリーの陰謀団を瓦解させようとしていたことについてだったのかもしれない。

 

うごめくものがいっそう黒く凶悪になったように見え、空中にのびあがり、地面を離れた。

 

逃げるんだ!」とハリーが言った。

 

ドラコは身をひるがえし、顔に枝があたるのをかまわず森のなかに飛びこんでいった。 背後ではまたシャーと鳴く声がして、それからハリーが大きな声でなにかをさけんだ。なにをさけんだのか、この距離では聞きとれない。 ドラコはちらりとだけ後ろにふりむき、その一瞬でなにかにつまづき、あたまを強く打って昏倒した。

 

◆ ◆ ◆

 

〈虹色の球体〉のなかで杖をかたく手にしたハリーは、 眼前の、ぼやけたうごめくものに向けて、「あなたがどうしてここに?」と言った。

 

うごめくものは一度どろどろになってから、フード服のすがたに落ちついた。 どんな隠蔽手段がつかわれていたにせよ——ハリーにも効果があったということからして、呪文ではなく道具だろうが——その効果で、ハリーはそれのかたちを認識できなくなっていた。それが人間のかたちであることすら認識できなくなっていた。 しかしあの破滅の感覚は、妨害されずに明瞭につたわってきていた。

 

全身をつつむ黒い外套の前半分に銀色の血が染みたすがたで立つクィレル先生はためいきをつき、〈闇ばらい〉三人、トレイシー・デイヴィス、ドラコ・マルフォイ、マクゴナガル先生が倒れているところを一瞥してつぶやいた。 「あの鏡の通信については、あやしまれないように妨害できたと思っていたが。 一年生二人が付き添いなしに〈禁断の森〉にいるとは、どういうことだろうな。 ミスター・マルフォイはもっと常識人のはずだが……。面倒をかけさせられたものだ。」

 

ハリーは返事をしない。これほど強い破滅の感覚ははじめてのことで、空気中に満ちたエネルギーに手で触れられそうなくらいだった。 〈闇ばらい〉の防壁があれほど速く解体されてしまったことにいまだ本能的におののいている自分がいる。 多色の鞭が矢継ぎ早に防壁におそいかかったかと思うと、防壁はあっけなく消えていた。 アズカバンでのクィレル先生と〈闇ばらい〉の戦いが児戯に見えるほどだった——とはいえ、そのときクィレル先生が本気でやっていれば〈闇ばらい〉は数秒で死んでいたと本人は言っていた。いまならそれが事実だと分かる。

 

実力の階梯の頂上はどこにあるのだろう?

 

「あなたがそうやってユニコーンを食べていることと、あなたが〈防衛術〉教授の職をうしなう理由とには、なにかつながりがあるようですが、 その点を詳しく説明していただくわけにはいきませんか?」

 

クィレル先生はハリーのほうを見た。 手で触れられそうなくらいだったエネルギーの感覚は薄れ、〈防衛術〉教授のなかにおさまっていくように感じられた。 「説明することになんら不都合はないが…… そのまえに少々〈記憶の魔法〉をかけねばならないし、話すなら場所を移しておきたいところだ。わたしがこの場にとどまるのは賢明ではない。 きみもあとでこの時間にもどってくるのだろう。」

 

ハリーは自分が征服した〈マント〉の隠蔽が自分に対して無効になるよう念じた。するととなりにもう一人のハリーがいて〈マント〉に隠れていることが分かった。そこで〈マント〉にまた自分から自分を隠すように命じ、〈マント〉はそれに応じた。こうやって未来の自分を認識できているということは、あとでその記憶どおりに行動しなければならないということを意味する。

 

ハリー自身の(現在のハリーにとっては奇妙に聞こえる)声が耳もとでささやいた。 「クィレル先生には意外なほどちゃんとした理由がある。」

 

現在のハリーはその一文をできるかぎり記憶した。 両者のあいだでかわされたのはその一言だけだった。

 

クィレル先生がドラコが倒れているところまで歩き、〈偽記憶の魔法〉の詠唱をした。 そしておそらく一分ほどその場で、自分だけの世界にいるような様子で立っていた。

 

ハリーはこの数週間のあいだ〈忘消術〉の分野の学習をしていた——といってもクィレル先生の手助けをできはしない。すくなくとも、ハリーがこれ以上ないほど極度に消耗して、〈闇ばらい〉のうちの一人の精神から青という色に関する記憶をことごとく消去したいのでもないかぎり。 しかし学習の過程でハリーは、さらに難度の高い〈偽記憶の魔法〉にどの程度の集中が必要とされるのかをある程度知ることができた。 十六トラックの〈偽記憶〉を個別につくるには十六倍の時間がかかる。それより速くやりたければ、相手の人生全体を自分のあたまのなかでたどってみようとしなければならない。 外から見るかぎりなんの動きもないように見えはするが、ハリーはその作業の困難さを多少なりとも知ったため、感銘を受けることができた。

 

クィレル先生はドラコの処置を終えて、トレイシー・デイヴィス、〈闇ばらい〉の三人、最後にマクゴナガル先生を処置した。 ハリーは待ち、未来のハリーも抗議しようとしない。 マクゴナガル先生も意識がある状態だったなら抗議しないだろう。 五月の十五日(イデス)はまだ来ていないし、これには意外なほどちゃんとした理由があるというのだから。

 

クィレル先生の手のひとふりでドラコのからだが持ちあがり、森のすこし奥に送られ、丁重に着陸させられた。 そしてもうひとふりで、ユニコーンの横腹から肉が大きくちぎりとられた。断面はずたずただった。肉は空中を飛び、一度ふらりとしてから〈消滅〉させられた。

 

「終わった。」とクィレル先生が言う。「わたしはこれ以上ここにはいられない。きみもついてきなさい。そしてここに残りなさい。」

 

クィレル先生は去り、ハリーはハリーをその場に残してそのあとについていった。

 

二人はしばらく無言で森のなかを歩いていった。やがて遠くからかろうじて聞こえるいくつかの声があった。 おそらくは、第一陣の応答がなくなったので送られてきた第二陣の〈闇ばらい〉。 未来の自分はなんと言って対応しているのだろうか。

 

「彼らはわれわれを検知できず、声を聞くこともできない。」  クィレル先生の周囲にはまだ強力なエネルギーと破滅の感覚があり、 切り株に腰をおろしたところで、満ちかけた月の光がその全身にあたる。 「まずひとつ言っておく。このあとできみは〈闇ばらい〉に対して、きみがあのうごめく闇の生きものを——以前ディメンターを撃退したときのように——撃退したという説明をしなければならない。 そのとおりのことをミスター・マルフォイは記憶している。」  クィレル先生は軽くためいきをつく。 「このやりかたでは、〈闇ばらい〉の防壁を破壊するほど強力な、ディメンターと似た怪物が〈禁断の森〉を徘徊している、と判断されるかもしれないし、それが多少の警戒を招くことは考えられる。 しかしわたしとしては、ほかにやりようがなかった。 この森の警備が強化されることになれば——これまでに摂取したぶんで足りていることを願うばかりだ。 きみからも、どうやってあれほど早くあの場に到着できたのか、どうやってミスター・マルフォイの危機を察知したのか、説明してもらいたいのだが。」

 

ブロードスキー隊長はドラコ・マルフォイが〈禁断の森〉にいること、ルビウス・ハグリッドが同行しているらしいことを知った時点で、だれがその許可をだしたのか調べはじめた。しかし、ドラコ・マルフォイの応答がとだえた時点で、それは判明していなかった。 ブロードスキーは職務上〈逆転時計〉のことを知る立ち場にあったが、ハリーが抗議してもなお、〈時間〉が関係することには所定の手続きを通さねばならないと言い、ドラコ・マルフォイの応答がとだえる以前の時点に隊を派遣することを拒否した。 しかしブロードスキーは、時間をさかのぼったハリーが〈闇ばらい〉三人を動かし、応答がとだえてから一秒後に現場に到着させられるよう、出動を命じる書面を用意することはした。 ハリーはドラコの位置を知るために〈守護霊の魔法〉をつかい、それを銀色の光の玉のかたちにすることに成功し、〈闇ばらい〉は計画どおりの時刻に現場に到着した。

 

「すみませんが言えません。」  ハリーはあっさりとことわる。 クィレル先生はいまも有力な被疑者の一人なので、詳細を知ることは本人のためにならない。 「では、ユニコーンを食べていたのはなぜですか。」

 

「ああ……それは……」  クィレル先生は言いよどんだ。 「わたしはユニコーンを食べていたのではなく、血を飲んでいたのだ。 肉が取り去られていること、断面の凹凸——これはわたし以外の捕食者のしわざであるように見せる偽装だ。 ユニコーンの血の用途は知られすぎているのでね。」

 

「ぼくは知りません。」

 

「知らないだろうな。知っていれば、きみはそうやって食いさがっていまい。 では言うが、ユニコーンの血には一定期間ひとを生きながらえさせる効果がある。そのひとが死の淵にいたとしても。」

 

しばらくの時間ハリーの脳は聞こえてきたことの意味を処理することを拒否すると言ってきた。しかしそれは無論事実ではなく、その意味を処理することが許されないと知った時点ですでに処理は終わっている。

 

奇妙に空虚な感覚、反応の欠如がハリーを支配した。多分それはほかの人たちにとって、だれかが台本にないことを言いはじめて、それに対してなにをすればいいと言うことも考えることもできない、というときの感覚なのかもしれない。

 

そう、クィレル先生はたんにときどき具合がわるくなるのではなく、死にかけている。

 

クィレル先生自身は以前から自分が死にかけていることを知っていた。 ホグウォーツ〈防衛術〉教授の職にすすんでついたくらいだから当然だ。

 

もちろんそれはこの一年がはじまって以来ずっと悪化しつづけていた。 そして悪化しつづける症状にはもちろん、容易に予想しえる結末がある。

 

そうだということをハリーの脳は以前から、きっとどこかこころの奥の安全な場所で処理しておきながら、処理することをこばんでいた。

 

もちろんクィレル先生が来年〈戦闘魔術〉を教えられないのもこのせいだ。 クィレル先生はマクゴナガル先生に解雇されるまでもなく、そのときにはもう——

 

——死んでいる。

 

「なにか、きっとそれを止める方法があるはず——」とハリーはやや震える声で言いかけた。

 

「わたしは愚かではないし、とくにすすんで死のうという気もない。 だから調べはした。 これだけのことをしなければ、計画していた授業を無事終えることさえできないのだ。のこされた時間は思いのほか少ない。そして——」  月光に照らされた黒い人影が顔をそむける。 「わたしはその話をやめてほしいと思っている。」

 

ハリーは息をあえがせた。 あまりにも多くの感情が同時に芽生えた。 まず否認が、そして怒りが——。そういう反応はだれかが勝手にでっちあげた儀式にすぎないのに、 意外なほど適切な儀式のように思えた。

 

「それならなぜ——」  またハリーの息があえぐ。 「なぜ一般的な治癒キットにユニコーンの血がはいっていないんです? それでたとえば、両足を食いちぎられて死にかけているひとを生きながらえさせることができるのなら。」

 

「恒久的な副作用があるのだ。」とクィレル先生が小声で言った。

 

「副作用? ()()()ですって? どんな副作用があれば死ぬこと以上に状態を悪化させられるというんですか?」  ハリーは声をからしてそう叫んだ。

 

「世の中はわれわれのような考えかたをする人間ばかりではないからな。 とはいえ、その血は生きたユニコーンから飲まなければならず、飲んでいるあいだにユニコーンが死ななければならない、という条件がありはする。 そうでもなければ、わたしがこんなところに来ていると思うか?」

 

ハリーは顔をそむけて、周囲の木々に目をやった。 「だったら聖マンゴ病院にユニコーンを集めておいて、 患者をそこに〈煙送(フルー)〉かポートキーで送ればいいでしょう。」

 

「ああ、その手はある。」

 

ハリーの表情がかたくなった。それ以外の外見上の変化は手の震えだけだったが、内面にはさまざまなものが渦巻いていた。 絶叫する必要があった。なんらかの捌けぐちが——とらえがたい()()()が必要だった。やがてハリーは木に杖をつきつけ、「『ディフィンド』!」とさけんだ。

 

ピシッと音がして、木に裂け目があらわれた。

 

「ディフィンド!」

 

別の裂け目があらわれた。 これはハリーが十日まえになって、真剣に自衛法を身につけようとして学んだばかりの呪文だった。 二年次の呪文ということになってはいるものの、ハリーのなかを駆けめぐる怒りはとどまるところを知らず、エネルギーを消耗しつくさないよう注意していてなお、余力があった。

 

「ディフィンド!」  三度目には枝の一本をねらった。枝は地面に落ち、小枝や葉にあたって音をたてた。

 

ハリーの内面に裂け目はなく、捌けぐちのない圧だけがあるようだった。

 

「好きにするがいい。」と小声で言ってから、クィレル先生は切り株から腰をあげ、ユニコーンの血が月光にきらめく黒い外套すがたのまま、フードをかぶった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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101章「予防的措置(その2)」

ハリーは森のまんなかにできた小さな丸い空き地に立ち、息を切らしている。一年生が独力で行えるはずのない量の破壊行為だった。 〈切断の魔法〉は木を切り倒すような魔法ではないので、木の内部を平面的に部分〈転成〉していくことにしたのだが、 それだけで自分のなかにあるものを放出しきることはできなかった。小さな半径内にある木を切り倒しても気分は晴れず、 どの感情もかわらずそこにある。とはいえ、すくなくとも破壊しているあいだは行き場のない感情のことを考えずにすんだ。

 

魔法力がなくなると、素手で枝をつかんでは折っていった。 手から血がでたが、その程度のことなら翌朝にマダム・ポンフリーが容易になおすことができる。魔法族にとって治癒できない傷は〈闇〉の魔法によるものだけである。

 

なにかが森のなかを動く音がした。ウマのひづめの音に似ていた。ハリーはまた杖を手にとって、そちらをふりむいた。 手であばれているうちに多少の魔法力は回復していた。 自分が単独で〈禁断の森〉のなかにいて、音をたてていたのだということに、いまさらながら気づいた。

 

月光のもとにやってきたのは、予想に反してユニコーンではなく、下半身は白茶色に光って見えるウマに似ていて、胸から上は白い長髪の裸の人間の男に見える生きものだった。 顔に月光が差して、目の色が分かるようになった。ダンブルドアとおなじくらい()んだ、サファイアにも似た青色の目だった。

 

ケンタウロスの片手には長い木の槍がある。先端についた巨大な金属の刃は月光を受けても光っていない。 ものの本によれば、刃が光るのはなまくらな証拠だという。

 

ケンタウロスは低く太く男性的な声で言う。 「おまえはそうして破壊のただなかにいる。 ここにはユニコーンの血のにおいがする。生きながらえようとする者に殺された、無辜の者の血のにおいがする。」

 

突然の恐怖を感じてハリーはわれにかえり、あわてて言った。 「そう見えるかもしれませんが、それはぼくじゃありません。」

 

「わかっている。 皮肉にも、おまえは無辜であると星が告げている。」  ケンタウロスは槍をかまえたまま、狭い空間のなかで一歩まえにでてハリーに近づいた。 「無辜(イノセンス)とは奇妙なことばだ。 それは知識がないことを意味し、子どもの無垢さを表すほか、罪の意識がないことも意味する。 あらゆる面で無知な者だけが自分の行動の帰結として起きるできごとへの責任をまぬがれることができる。 自分がなにをしているのか知らずにいるからこそ、害意がないと言える。 そういう意味のことばだ。」  その低い声は森のなかで反響しない。

 

槍の切っ先に目がいく。そして自分はケンタウロスを目にしたその瞬間に〈逆転時計〉を手にしているべきだったと気づく。 いまローブのなかに手をいれようとしても、このケンタウロスの速度によっては、とりだし終えるまえに槍をあてられかねない。 「以前読んだ本に……」  多少うわずった声になってしまっているが、相手の重みのある口ぶりにみあうだけの重みをこめようとする。 「……知らないことは選択しないことと同じではない。だから、子どもを罪がない存在だと見なすべきではない、と書いてありました。 子どもが学校の敷地でけんかをしても大きな害をなすことはないが、それは子どもにそれだけの能力がないからだとも。 一部の大人はその能力がありながらそうしない。ということは、子どもよりもそういう大人のほうが、罪がすくないと言えるのでは?」

 

「魔法人の知恵か。」

 

「いえ、マグルの知恵です。」

 

「魔法なき者。彼らについて、わたしは多くを知らない。 火星の光はしばらくのあいだ弱まっていたが、いまは回復している。」  ケンタウロスはまた一歩まえにでて、ハリーを攻撃できるくらいまで距離を詰めた。

 

ここで空を見あげてはいけない。 「それは火星が太陽のまわりを公転しているうちに、おなじように公転している地球に近づいたということですね。 火星はかわらずずっとおなじだけの太陽の光を反射している。ただ、ぼくたちとの距離がせばまったから、そういうふうに見える。 ぼくは無辜だと星が告げている、というのはどういうことです?」

 

「夜空がケンタウロスに話しかける。それがわれわれの知識の源泉だ。 もしや星は魔法人にそのくらいのことも話さなくなったのか?」  ケンタウロスの顔に一度軽蔑の表情が浮かんだ。

 

「以前、〈占術〉のことを調べるついでにケンタウロスについて書かれているもの探してみたことがあるんですが、 どの本もたいてい、ケンタウロスの〈占術〉をばかにしてはいるけれど、ばかにする理由を書いていない。魔法族は議論の規範を知らないから、ある説をばかにすることと、証拠をもって反論することとの差がわかっていない……。ぼくは、ケンタウロスが天文学を利用しているという説明のほうがむしろばかげていると思いましたがね……。」

 

「なぜそう思う?」と言ってケンタウロスがくびをかしげた。

 

「惑星がどう運行するかは、数千年さきまで分かっているから。 それを専門にしているマグルなら、この場所から見える十年後の惑星の配置図を正確にかいて見せることができますよ。 それがあれば未来も予測できるというんですか?」

 

ケンタウロスはくびを横にふった。 「配置図からでは、できない。 配置図には惑星の明るさ、彗星の明るさ、星そのものの微小なうつろい……そういったものが含まれていない。」

 

「彗星の軌道も数千年さきまで事前に決まっているから、現在のできごとに大きな影響はないはず。 それに、恒星の光が地球にとどくまでには何年もかかるし、恒星の位置は目に見えるほどには変化しない。 つまり、まず検討すべき仮説は、ケンタウロスには生まれつき魔法的な〈占術〉の才能があってそれを……夜空に()()しているだけだという仮説です。」

 

「そうも考えられる。」と思案げに言ってケンタウロスは下をむいた。 「同胞ならおまえがそう言っただけで攻撃しているだろうが、わたしは自分が知らないことを知りたがる性分だ。 夜空はなぜ未来を予言できるのか——たしかにわたしはその理由を知らない。 予言の技能をものにするだけでも十分むずかしい。 リリーの子よ、おまえがいま話したことについてわたしから言えるのは、それは仮に真実であったとしても無用な知識に思えるということだけだ。」

 

ハリーは多少緊張をゆるめることを自分に許した。『リリーの子』という呼びかけをしてくるくらいだから、このケンタウロスはこちらをただの雑多な侵入者の一人と考えてはいない。 それに、おそらくホグウォーツ生を攻撃すれば森に住むケンタウロス全体がなんらかの報復を受けることになるだろうし、このケンタウロスもそのことを知っているはずだから……。 「マグルの知恵というのは、真実にはちからがあるということ。それは小さな真実ひとつひとつの相互作用で生じているから、そのためにできるだけ多くの真実を見つけるべきだということ。 そうするためには、仮に偽の信念が有用だったとしても偽の信念を擁護してはならない。 自分たちの予言が星からきているのか、それとも生まれつきの才能を星に投影しているのか。どちらでもいいように思えるかもしれないけれど、 〈占術〉を……あるいは星を……真に理解したければ、ケンタウロス族の予言についての真実も、ほかの部分の真実に影響するものだと思わなければ。」

 

ケンタウロスはゆっくりと首肯した。 「つまり、いまや杖なき者のほうが魔法人よりかしこいと。 それはおもしろい! ではリリーの子よ、かしこいマグルはもうすぐ(そら)の星がなくなると考えているか?」

 

「なくなる? それは……考えていませんが?」

 

「わたしをのぞいて、この森にいるケンタウロスはだれもおまえに近づかない。われわれは天のさだめに逆らわないと誓っているからだ。 われわれがおまえの運命とむすびつけば、われわれもこれからのできごとに対して罪を負うかもしれないと心配してのことだ。 おまえに近づこうとしたのはわたし一人だけだった。」

 

「話が……よくわかりません。」

 

「そのとおり。おまえは無辜であると星も言っている。 自分が生きながらえるために無辜の者を殺すことは、非道な所業だ。 以後、呪われた生、なかば死んだ生を生きることしかできなくなることはまちがいない。 ケンタウロスとて、仔馬を殺せば、以後群れを追いだされることはまちがいない。」

 

槍が目にもとまらぬ速度で動き、ハリーの手にあった杖を突きとばした。

 

もう一撃がハリーのみぞおちに当たり、ハリーはくずれおちて地面に嘔吐した。

 

片手を上にのばしてローブのなかの〈逆転時計〉を手にとろうとするが、槍の柄尻でその手を指が折れるほど強くはじかれる。かわりに反対の手をのばそうとするが、それもはじかれて——

 

「ハリー・ポッター……気の毒だが。」  そう言ってからケンタウロスは目を見ひらいた。槍をくるりと回転させ上にむけて、やってくる赤い呪文を受け止める。 それから槍を落とし、必死に地面を蹴って避けようとする。そこを緑色の閃光がかすめ、避けたところへまた緑色の閃光が飛び、三発目が命中した。

 

ケンタウロスは倒れて動かなくなった。

 

ハリーはしばらくかかってやっと息をつぐことができ、よろめきながら立ちあがり、杖を手にしマントを着ようとしながら、「え?」と言った。

 

そのときにはもう近くにあの破滅の感覚が、手で触れられそうなくらいのエネルギーが空気中に感じられた。

 

「ク……クィレル先生? あなたがなぜここに?」

 

「それは……」と黒い外套の男が思案げに言う。 「きみが真夜中の〈禁断の森〉で癇癪(かんしゃく)をおこして大暴れしてくれたものだから、わたしはきみに気づかれないぎりぎりの場所からそれを見守らざるをえなかった。 生徒を付き添いなしに〈禁断の森〉に放置するものではない。 考えてみれば当然のことだろう。」

 

ハリーは倒れたケンタウロスをじっと見た。

 

息がない。

 

「あなたは——あなたは彼を()()()。あれはアヴァダ・ケダヴラだった——」

 

「たしかにわたしはときに自分以外の人間が倫理をどういうものだと考えているのか理解できない。 だがそのわたしでさえ、伝統的な倫理観では魔法族(にんげん)の子どもを殺そうとしている人間以外の生物がいれば、その生物を殺すことが許容されるということは知っている。 きみは『人間以外』という部分は無関係だと言うかもしれないが、いずれにしろ彼はきみを()()()()()()()()のだぞ。なんの罪もなかったとは言えまい——」

 

〈防衛術〉教授はそこで言いやめて、ハリーを見た。ハリーは震える片手をくちにあてたところだった。

 

「これがわたしの言いぶんだ。しばらく考えてみるがいい。 ケンタウロスの槍はいろいろな呪文を防ぐことができるが、ある種の緑色の呪文が飛んでくるのを見て防ごうとする者はいない。 だからこそ、緑色の失神呪文をいくつか知っていると使い勝手がいい。 ミスター・ポッター、きみもそろそろわたしの戦法が分かってきていいころだと思うが。」

 

〈防衛術〉教授はケンタウロスのそばに行き、ハリーは思わず一歩さがった。そこでまた徐々にだめだ、よせという感覚がつのり——

 

〈防衛術〉教授は地面にひざをつき、ケンタウロスの頭部に杖をあてた。

 

杖はしばらくその位置におかれた。

 

そしてケンタウロスはうつろな目で立ちあがり、息をしはじめた。

 

「ここで起きたことはすべて忘れろ。歩きまわってここから離れろ。今夜のことは一切記憶にのこすな。」と〈防衛術〉教授が命じた。

 

ケンタウロスは奇妙に四本の足を同期させた歩きかたで去っていった。

 

「満足かね?」と〈防衛術〉教授は皮肉げに言った。

 

ハリーの脳はまだまともに動いていないようだった。 「彼はぼくを()()()()()()()()。」

 

「まだそんなことを——そのとおり、彼はきみを殺そうとしていた。 きみも慣れることだな。 殺されかける経験をしないのは凡庸な人間だけだ。」

 

ハリーはまた話そうとするが、声がかすれている。 「どうして……どうしてぼくが彼に——」

 

「理由などいくらでもある。 わたしとて、一度もきみを殺そうとしたことがないと言えばうそになる。」

 

ハリーはケンタウロスが去っていった方向の木々を見つめた。

 

ハリーの脳はまだなおりきっていないようで、点火しないエンジンのように感じられたが、それでもこれがよい前兆であるとは到底思えなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

ドラコ・マルフォイがあやうく怪物に食べられそうになったという知らせには、どこだかに外出中だったダンブルドアを呼びもどし、マルフォイ卿とグリーングラス卿を眠りから起こし、アメリア・ボーンズを動かすだけの重大性があった。 そのような怪物がいるという話にはダンブルドアですら不審をいだき、〈偽記憶の魔法〉がつかわれた可能性がもちあがった。 ハリーは(怪物があたりを徘徊しているとほかの人たちに信じさせることから生じる問題について自分のなかでいくらか論争したのち)今回は自分が以前ディメンターをおどかしたときほどの努力をしていた記憶はなく、黒い怪物は退却しただけだと証言した。 それはハリーがどうやってディメンターをおどかしたのかを知らない何者かが〈偽記憶〉をつくったとすればそうなるだろう、というような記憶だった。 現場にいた全員を制圧し〈偽記憶の魔法〉をかけるだけの能力のある魔法使いとして、ベラトリクス・ブラック、セヴルス・スネイプ、クィリナス・クィレルの名前があがった。(ハリーの考えでは)ルシウスはダンブルドアのしわざだろうと考えた。 〈闇ばらい〉たちの証言、堂々巡りの議論、視線や発言を通じた攻撃の応酬が午前二時までつづいた。 複数の動議と投票がおこなわれ、処分が決まった。

 

「ほんとうにきみは……」とそれまでの話し合いが二人をのぞいて解散したところで、ダンブルドア総長が静かにハリーに話しかける。 「一連の件でこの学校によい変化をもたらしたと思っているか?」

 

ハリーは両ひざに両ひじをのせ、両手に顔をのせている。会議室にいたほかの人たちは全員もういなくなっている。 この二人ほど日常的に〈逆転時計〉をつかおうとしないマクゴナガル先生は、眠りをとるためすみやかに自室へもどった。

 

ハリーは長くためらいすぎてから返事した。「……はい。 ぼくに言わせれば、ホグウォーツはようやくまともな状態になりました。 四人の子どもが夜中に〈禁断の森〉に行かされたとなれば、大問題になって、警察当局がでてきて、責任をとるべき人物がくびになる。そういうことが起きてしかるべきです。」

 

「責任をとるべきだときみが言う人物は、くびになった。きみはそれでよかったと思うのか。」

 

「思いますね。」

 

「アーガス・フィルチは何十年もまえからここに勤務している。」

 

「アーガス・フィルチは〈真実薬〉を処方されたうえで……」とハリーは疲れた声で言う。 「自分は十一歳の男の子をあわよくば不幸な目にあわせようとして〈禁断の森〉に行かせたのだと告白していましたね。その男の子の父親のせいでフィルチのネコが殺されたのだという考えのもとに、 ドラコだけでなくもう三人の生徒が巻きぞえになってもいいと思って、そうしたのだと。 ぼくとしては懲役刑を主張したいところでしたが、あいにくあなたがたの考える懲役刑はアズカバンですからね。 フィルチはどの生徒に対してもとても態度がわるかったということ、フィルチがいなくなったことで学校の快楽指数は上昇するであろうということも指摘しておきます。あなたにはどうでもいいことのようですがね。」

 

半月眼鏡の奥の総長の目は読みとりがたい。 「アーガス・フィルチはスクイブじゃ。 この学校の仕事をなくしてしまえば、彼にはなにも残らない。 いや残らなかった、というべきか。」

 

「学校の存在意義は職員に仕事を提供することではありません。 あなたにとっては、きっとどの生徒一人よりもフィルチと過ごした時間のほうが長いんでしょうが、だからといってあなたがフィルチの内面的経験のことを重く考えるべきだとはいえません。 生徒にも内面はあるんですから。」

 

「きみは……自分が傷つけた相手の気持ちをまったく考えていないのでは?」

 

「ぼくは罪のない人たちの気持ちを考えますね。 たとえばミスター・ハグリッド。さきほども言いましたが、あの人に悪意はなかった、ただ注意力がたりていない、というのがぼくの意見です。 ミスター・ハグリッドがこれ以上だれかを〈禁断の森〉に連れていかないのであれば、彼がここではたらきつづけることに異存はありません。」

 

「ルビウスには、罪を晴らした段階でシルヴァヌスの後任として〈魔法生物飼育術〉をまかせようかと思っていた。 しかしあの授業は〈禁断の森〉でおこなう実習がほとんど。 きみの条件によれば、ルビウスにそれを担当させることもかなわない。」

 

ハリーは即答しない。 「でも——あなたも言っていたじゃありませんか。ミスター・ハグリッドは魔法族にとって危険な魔法生物のことになると見境(みさかい)がつかなくなる。 あの人にはそういう認知的欠陥があって、ドラコとトレイシーに危険がおよぶことも想像できなくなっていて、そのために二人を〈禁断の森〉のなかで置き去りにしてしてしまったんだ、と。 あれはうそだったんですか?」

 

「いや。」

 

「だったらミスター・ハグリッドは〈魔法生物〉の教師として完全に不適格ですよね?」

 

老魔法使いは半月眼鏡のむこうからハリーを見おろし、 しわがれた声で話す。 「ミスター・マルフォイ自身が、責めようとしなかったではないか。 今回はアーガスにつけいられてのことだったと十分考えられる。 ルビウスも教師になれば、教師らしく成長するとも考えられる。 魔法生物を仕事にすることはルビウスの一生の夢でもあった——」

 

「そのようにあやまって考えてしまうことは……」と言ってハリーは自分がこれまでに経験した最大の疲労を十パーセント以上うわまわる疲労を感じて、自分のひざに視線をおとす。「規模(スコープ)に対する無反応性という用語で呼ばれる認知バイアスです。 要はかけ算ができていないということ。 あなたはミスター・ハグリッドにその知らせを聞かせたときのよろこびようを想像していますね。 では今後十年間で千人が〈魔法生物〉の授業をとり、そのうち一割がアシュワインダーにやけどさせられるとしましょう。 その場合、ミスター・ハグリッドのよろこびほど大きく傷つけられる生徒は一人もいませんが、傷つく生徒は百人いるのに対し、よろこぶ教師は一人だけなんですよ。」

 

「なるほど、そうかもしれない。しかしきみのあやまちは、そのかけ算をした結果、自分が他人に課した傷の痛みを感じられなくなっていることにある。」

 

「そうかもしれません。」  ハリーは自分のひざを見つづける。 「もっと悪いのかもしれません。 あるケンタウロスがぼくをきらっているということには、どういう意味がありますか?」 〈占術〉を得意するとされる魔法生物の種族の一員から、おまえは自分の行動がなにをもたらすか分かっていないと言われ、謝罪され、槍で突き刺そうとされたということには、どういう意味がありますか?

 

「ケンタウロスが? ……それはいつ——ああ、〈逆転時計〉か。 わしが事件以前の時間に逆行することができなくなっていたのは、きみとの干渉のせいだったか。」

 

「そうでしたか? そうなんでしょうね。」  ハリーは遠くを見る目をしてくびをふった。 「すみません。」

 

「ケンタウロスはごく少数の例外をのぞいて、魔法使いをことごとくきらっている。」

 

「今回はそれよりもう少し具体的でしたがね。」

 

「そのケンタウロスはきみになんと言った?」

 

ハリーは返事をしない。

 

「ああ……。ケンタウロスの言ったことがはずれた例は何度もある。そして世界で一人でも星を混乱させることができる人がいるとすれば、それはきみにちがいない。」

 

見あげると、半月眼鏡の奥に見える青い目はひさしぶりにやさしげだった。

 

「深く考えすぎないことじゃ。」とアルバス・ダンブルドアが言った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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102章「関心の有無」

一九九二年六月三日。

 

クィレル先生の状態は悪化している。

 

五月にユニコーンの血を飲んでからしばらくは小康状態がつづいたものの、クィレル先生の強力なオーラは最初の一日たらずでもうなくなっていた。 五月の十五日(イデス)には、両手がごくわずかにではあるが震えるようになった。 食餌療法をああも早く中断してしまったのがたたったらしい。

 

いまから六日まえの夕食中に、クィレル先生は倒れた。

 

マダム・ポンフリーはクィレル先生に授業をやめさせようとしたが、クィレル先生は全員のまえで、 『どうせ近く死ぬのだから好きに時間をつかわせろ』と怒鳴りかえした。

 

それを受けてマダム・ポンフリーは一度目をぱちぱちとさせてから、授業()()のあらゆる行動をしないようにと言った。 そしてクィレル先生を医務室に運ぶ手つだいをしてくれる人はいないかと募った。 すると百人以上の生徒が立ちあがった。そのうち緑色の服装をしている人は半分に満たなかった。

 

〈防衛術〉教授が食事の時間に〈主テーブル〉にやってくることはなくなった。 授業で呪文をつかうこともなくなった。 クィレル点を大量に獲得していた上級学年の生徒何名かが助手をつとめるようになった(その全員がこの五月に〈防衛術〉のN.E.W.T.を受験していた)。 助手は交代制で、浮遊術でクィレル先生を医務室から授業の場所へと運び、食事どきには食べものをとどけた。 クィレル先生は椅子にすわって〈戦闘魔術〉の授業を監督するようになった。

 

ハーマイオニーが死んでいくのを見ることはこれ以上につらかったが、これほど長くつづきはしなかった。

 

これこそが真の〈敵〉だ。

 

ハリーはハーマイオニーが死んだあと、すでにそう考えてはいた。 クィレル先生が日を追うごとに、また週を追うごとに死んでいくのをいやおうなく見せられて、決意はむしろかたまるくらいだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()  ハリーはそう思いながら、水曜日の〈防衛術〉の授業でクィレル先生が椅子の片がわに寄りかかりすぎて倒れそうになるのを当番の七年生の助手が支えているのを見ている。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーはトレロウニーの予言についてずっと考えていた。真の〈闇の王〉は実はヴォルデモート卿となんの関係もないのではないのか。 『彼を三度しりぞけた親のもとに生まれ』……この部分はペヴェレル兄弟と三種の〈死の秘宝〉を強く示唆しているように聞こえる——しかしそうだとすると、〈死〉がハリーに対等な相手としての印をつけるという部分が難点ではある。それでは〈死〉そのものがなんらかの行動をとるという意味になりそうだから。

 

真の〈敵〉はこれ以外にない。 このつぎにやられるのはマクゴナガル先生、ママとパパ。もしかするとネヴィルさえも。世界の傷ぐちを癒すのが間にあわなければそうなる。

 

ハリーにできることはなにもない。 マダム・ポンフリーはすでに魔法的にできるかぎりのことをクィレル先生にしている。そしてこと治癒に関しては、マグルの技術より魔法のほうが秀でているようだ。

 

自分にできることはなにもない。

 

できることがなにもない。

 

なにも。

 

なにひとつない。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは手をあげて扉をノックした。相手はこちらを検知できなくなっているかもしれないと思って。

 

「なんだ?」と医務室のなかから苦しそうな声がした。

 

「ぼくです。」

 

しばらくしてから返事があった。 「はいりなさい。」

 

ハリーは部屋のなかにすべりこんで扉を閉め、〈音消しの魔法〉をかけた。 クィレル先生からはできるかぎり距離をとって立った。自分の魔法力が不愉快に感じられるかもしれないと思って。

 

ただ、あの破滅の感覚は日に日に弱まっている。

 

クィレル先生は医務室のベッドに背をあずけていて、枕にのせられた頭部だけが起きあがっている。 赤と黒の縫い目がある綿っぽい掛け布が胸までかぶせられている。 両目のまえに本が一冊、青白い光の膜につつまれて浮かんでいる。光はベッド脇におかれた黒い立方体につながっている。 ということは、本を浮かべているのは〈防衛術〉教授本人の魔法力ではなく、なんらかの装置らしい。

 

その本はエプスタインの『物理学の考えかた(Thinking Physics)』。ハリーが数カ月まえにドラコに貸したのとおなじ本だ。 ハリーはこの本が悪用される可能性について心配するのを数週間まえにやめた。

 

「この——」と言いかけてクィレル先生は咳をした。軽い咳ではなかった。 「この本はとても興味ぶかいな……わたしももっと早くから気づいていれば……」  笑う音と咳の音がまざった。 「わたしはなぜマグルの技は……自分に似合うはずがないと、なんの役にも立ちはしないと、思いこんでいたのか。 なぜ一度も……ためそうともしなかったのか……きみの言いかたでは、実験的に検証しなかったのか。 自分が……まちがった思いこみを……していることもあると……考えなかったのか。 思えば……まったく愚かな態度だったようだ……」

 

クィレル先生以上に自分のほうがうまく話せないように感じられ、 ハリーは無言のままポケットに手をいれ、とりだしたハンカチを床におく。 広げたなかに、白くつややかな小石がある。

 

「それはなんだ?」

 

「これは……これは、その……〈転成〉したユニコーンです。」

 

ハリーは実際にやってみるまえに本で調べて、自分の年齢の子どもはまだ性的な思考をしないため、ユニコーンに近寄ってもこわがられることがない、ということをたしかめていた。 本にはユニコーンが知的な生きものであるとは書かれていなかった。 知的な魔法生物は、水中人(マーフォーク)、ケンタウロス、巨人、エルフ、ゴブリン、ヴィーラなどどれをとっても部分的には人間型(ヒューマノイド)であることにハリーは気づいていた。 どれも人類に似た感情をもっているうえ、人類と交雑しているものも多い。 魔法に知性をうみだす効果はなく、できるのは遺伝的に人間である生物の外形をかえることだけだというのがハリーの結論だった。 ユニコーンはウマ型であり、部分的にすら人間型をしていないし、言語も道具もつかっていない。つまりほぼまちがいなく、魔法的なウマにすぎない。 自分があと一日生きのびるためにウシを食べることがまちがっていないとしたら、あと数週間だけ死をまぬがれるためにユニコーンの血を飲むことがまちがっている()()()()()。 そうでないと言うのは一貫性がない。

 

そう考えてハリーは〈マント〉を着て〈禁断の森〉に行った。 〈ユニコーンの木立ち〉のなかを探しまわって見つけたのが、純白の体毛と紫色のたてがみをもち、(ひばら)に青色の点が三つある、誇り高いすがたのユニコーンだった。 近寄ると、青玉(サファイア)の目がものめずらしそうに見かえした。 ハリーは靴で地面を一回、二回、三回とたたくことを何度かくりかえした。 ユニコーンはなんの反応も返してこなかった。 手をのばして、こんどはひづめを一回、二回、三回とたたいてみても、 不思議そうにこちらを見かえしてくるだけだった。

 

それでもまだ、ユニコーンに睡眠の水薬いりの角砂糖をのませるというその行為は、どこか殺人のように感じられた。

 

『その魔法力から、単純な動物にはない存在の重みがうまれます。』 『自分が生きながらえるために無辜の者を殺すことは、非道な所業だ。』  マクゴナガル先生が言ったこととケンタウロスが言ったこと、そのふたつがハリーのこころのなかを何度も駆けめぐる。そのあいだに白いユニコーンは足をくずして地面に横たわり、二度とひらくことのない目を閉じた。 その後一時間がかりで〈転成術〉をかけるあいだ、ハリーの目に何度となくなみだが浮かんだ。 ユニコーンはその時点でまだ死んでいなかったとしても、遠からず死ぬ。そしてハリーにはもともとどんな責任を拒絶する発想もない。 自分のためではなく仲間のために殺すのであれば最終的にはそれでよかったのだといえることを願うしかない。

 

クィレル先生の両眉が髪のはえぎわにむけて上がった。声から弱さが薄れ、ふだんの鋭さが多少もどった。 「きみはそれを二度としてはならない。」

 

「そう言われるんじゃないかとは思いましたが……」  ハリーはまた言いよどむ。 「このユニコーンはもう……もう助かりません。だから受けとってください……。」

 

「きみはなぜこんなことをした?」

 

本気でそれがわからないほど鈍感な人をハリーはほかに知らない。 「ずっと自分にできることはなにもないと思いつづけて……そう思うのがいやになったからです。」

 

クィレル先生は目をとじて、また枕にあたまをのせた。 「運よく……」と〈防衛術〉教授は小声で言う。 「〈転成〉したそのユニコーンは……外来の生物としてホグウォーツ城の結界に検知されなかったようだが……役立てるには……学校のそとに持ちださねばならない……が、それはなんとかしよう。 湖が見たいと言うことにしよう……きみはそれを置いて出ていってからも当分〈転成〉を維持してくれ……そしてわたしの最後のちからで、ユニコーンの群れにかけられているであろう、死を検知する警報を解除しておく……そのユニコーンは死なずに〈転成〉されているだけだから、その警報にかからなかったとみえる……まったく、きみは運がよかった。」

 

ハリーはうなづいた。 そしてなにかを言おうとして、言いやめた。 またことばがのどにつかえて出てこなくなっているようだった。

 

うまくいった場合と、いかなかった場合とを想定した期待効用の計算はもうすんでいるだろう。 それぞれの確率を決めて、かけ算をして、結果をほうりなげて、勘で判断した。それでも結果はかわらなかった。 だから言ってしまえ。

 

「なにかひとつでも……あなたが死なずにすむような方法を、ひとつでも知っていますか?」

 

〈防衛術〉教授は目をあけた。 「だが、なにを思って……そんな質問を?」

 

「ぼくは、ある呪文のことを……ある儀式のことを聞きました——」

 

「待て、言うな。」

 

つぎの瞬間、ヘビがベッドの上に横たわっていた。

 

そのヘビですら、眼光が鈍い。

 

そして横たわったままでいる。

 

続ケロ。」  シュルシュルと動く舌以外、ヘビは微動だにしない。

 

「ぼくは……ボクハ アル 儀式ノ コトヲ 学校長カラ 聞イタ。〈闇ノ王〉ガ ソレヲ 使ッテ 生キノビタノデハ ナイカト 学校長ハ 考エテイル。 ソノ 儀式ノ 名前ハ——」  ハリーは一度言いやめたが、すぐに自分が〈ヘビ語〉でそれをどう言うかを知っていることに気づいた。 「ほーくらっくす。 ソレハ 死ガ 必要ナ 儀式 ラシイ。 アナタハ モウ 死ヌカラ、大キナ りすくガ アッタト シテモ、儀式ヲ 改変シテミテ 損ハ ナイ。死以外ノ 犠牲デ 同ジコトガ デキレバ 世界ハ 変ワル—— トハイエ ボクハ ソノ呪文ヲ 少シモ 知ラナイ—— 学校長ハ 魂ヲ チギリトル 呪文ダト 言ッタガ、ボクハ アリエナイト 思ウ——

 

ヘビは空気音で笑った。狂乱と言えるほどの、奇妙に鋭い笑い声だった。 「ソノ 呪文ノ コトヲ 話ス? ヨリニヨッテ ワタシニ? 今後ハ モット 警戒スルノダナ。 シカシ 結局 意味ガナイ。 ワタシハ ソノ ほーくらっくす トイウ 呪文ヲ 遠イ 昔ニ 知ッタ。 無意味ナ 呪文ダ。

 

「無意味?」  ハリーは思わずそう声で言った。

 

魂ガ 実在スルト シテ、ソモソモ 無意味。 魂ヲ チギリトル 呪文? ソレハ 嘘ダ。 真ノ 秘密ヲ 隠スタメノ 心理誘導(ミスディレクション)。 並ノ 嘘ヲ 信ジナイ 者ダケガ、推理デ ソノ裏ヲ 見通シ、呪文ノ 方法ヲ 突キ止メル。 必要ナ 殺人ハ 犠牲ノ 儀式 ナドデハ ナイ。 突然 死ンダ 人間ノ 魔法力ガ アフレテ 手近ナ 物体ニ 刻印サレテ 幽霊ガ デキル コトガ アル。 ほーくらっくすノ 呪文ハ 死者カラ アフレタ 魔法力ヲ 使イ手ニ 流シコミ、犠牲者ノ 幽霊ノ カワリニ 使イ手ノ 幽霊ヲ ツクリ、特別ナ 道具ニ 幽霊ヲ 刻印スル。 第二ノ 犠牲者ガ ほーくらっくすノ 道具ヲ 拾ウ。道具ハ 拾ッタ 者ニ 記憶ヲ 刻印スル。 ダガ 刻印スルノハ ほーくらっくすガ デキタ トキノ 記憶ダケ。 コノ 欠陥ガ ワカルカ?

 

焼けるような感覚がハリーののどにもどってきた。 「ソコデ——」  『意識』に相当するヘビ語はない。 「——自分ガ 不連続ニ ナル。ほーくらっくすヲ ツクッタ アトニ 考エタコトヤ 記憶ハ、考エタ 自分ガ 死ネバ モウ 戻ラナイ——

 

正解ダ。 〈まーりんノ 禁令〉ガ アルタメ、強イ 呪文ノ 知識ハ 道具ヲ 通ジテ 伝エラレナイ。道具ハ 真ノ 意味デ 生キテイナイ。 〈闇ノ 魔術師〉ハ 復活シタ ツモリデモ 弱ク、簡単ニ 倒サレル。 ソノ 方法デ 長ク 生キノビタ 者ハ イナイ。 人格ガ 犠牲者ノ 人格ト 混ジリ 変化スル。 真ノ 意味デ 死ヲ 克服 デキナイ。 オマエガ 言ウトオリ、真ノ 自分ガ 失ワレル。 イマノ ワタシノ 好ミ デハナイ。 遠イ 昔ニハ 考エタガ。

 

医務室のベッドの上にまた男が横たわった。 〈防衛術〉教授は一呼吸してから、重い咳をした。

 

「……その呪文のくわしい手順を教えてくれませんか?」  しばらく逡巡してからハリーは言う。 「よく調査すれば、欠陥をうめあわせることができるかもしれません。 なにか道義的な問題のないやりかたで実現できるかもしれません。」  罪のない人を犠牲にするかわりに、白紙の脳をもつクローンの身体に転送するとか。そのやりかたなら、人格をよりよくたもつこともできるかもしれない……。といってもそれだけでは解決しない問題もあるが。

 

クィレル先生はふっと小さく笑うような音をだした。 「実は以前は……きみに……すべてを教えようと思っていた…… わたしの知るあらゆる秘密を凝縮し……生きた精神から生きた精神へ伝えることで…… きみがいつか適切な本を読めば理解できるようにと……。きみというあとつぎに、わたしの知識を伝えるつもりがあった……求められればすぐにでもはじめる用意があった……だがきみは求めなかった。」

 

自分がそれだけの巨大な機会をのがしていたことを知り、ハリーがまとっていた悲嘆の空気も退潮した。 「求めなかった——? 求める必要があることも知りませんでしたよ——!」

 

また咳まじりの笑い声。 「ああ、そうだったな…… 世間知らずのマグル生まれ…… 血統はともかく文化のうえでは……きみはそういう存在だった。 しかし、わたしも……考えをあらためた…… きみにわたしとおなじ道をすすませるべきではないと…… けっきょくそれはよい道ではなかった。」

 

「まだ間にあいますよ!」  ハリーがそう言うのを聞いて、ハリーの一部分は利己的なことを言うなとさけんだが、すかさず別の部分が、それで救える人たちもいるのだから、と反論した。

 

「いや、間にあわない…… 説得しようとしても無駄だ…… くりかえすが、わたしは考えをあらためた…… わたしは知られるべきでない秘密をためこみすぎた…… ()()()()()。」

 

ハリーは見まいとしながら見てしまった。

 

しわはまだないが、老いて憔悴したような顔。髪の毛がどんどんなくなっていて、側面部も薄くなっている。これまではいつも鋭く感じられた顔のかたちすら、やせ細ったように感じられ、筋肉と脂肪が顔や腕からも抜けつつあるように見える。ちょうどそれは、アズカバンで見た骸骨のようなベラトリクス・ブラックのよう——

 

ハリーは思わずそこから顔をそむけた。

 

「あまり陳腐な言いかたはしたくないが…… 事実……〈闇の魔術〉とよばれるものは……たしかに……人をむしばむ面がある。」

 

クィレル先生は息をすいこみ、はきだした。 医務室に無言の時間が流れ、そのあいだ二人を見ているものは緻密な模様のきざまれた四方の壁だけだった。

 

「いまのうちになにか……話しておくべきことは? といっても……わたしが今日にも死ぬということではない…… ただ……いつまで会話できる状態がつづくかも分からない。」

 

「それは……」  ハリーはまた言いよどむ。 「それは、とてもじゃありませんが、言いきれないほどありますよ…… ひとつ、質問していいことじゃないかもしれませんが、このまま——このまま答えを聞かずに終わりたくないことがあります。その話は——ヘビで?」

 

ベッドの上にヘビがあらわれた。

 

ボクハ 〈死ノ 呪イ〉ノ 仕組ミヲ 知ッタ。 量ハ 少ナクテモ 真ノ 憎悪ガ 必要ダト。標的ノ 死ヲ 願ウ 必要ガ アルト。 命食イノ イル 牢屋デ、アナタハ 番人ニ 〈死ノ 呪イ〉ヲ 撃ッタ——ダガ 死ヲ 願ワナカッタト 言ッタ——ソレハ 嘘ダッタノカ? イマ、ココデ、コノ 距離ガ アレバ——真実ヲ 言エルハズ——言エバ 印象ガ 悪ク ナルト 思ウト シテモ——イマハ 気ニ ナラナイハズ。 ボクハ 知リタイ。 知ラネバ ナラナイ。 ドチラノ 答エデモ、ボクハ アナタヲ 見捨テナイ。

 

ベットの上に男があらわれた。

 

「よく注意して聞け……」  クィレル先生は小声で言う。 「いまからわたしはある難題を……危険な呪文にかかわる謎かけを言う…… それをとくことができれば……きみはきみの質問の答えを知る……いいか?」

 

ハリーはうなづいた。

 

「〈死の呪い〉には……制約がある。一回の戦闘中に……一度つかうには……相手の死を願うだけの憎悪が必要だ。 二度……アヴァダ……ケダヴラをつかうには……相手を二度殺すだけの憎悪が……みずからの手で相手ののどを切り裂き……死ぬのをながめてから……もう一度そうしたいと思うことが必要だ。 だれかを五度殺すだけの……憎悪をいだける者は……ほぼ皆無……そのまえに……気持ちがとぎれる。」  〈防衛術〉教授はそこで何度か息をすいなおした。 「しかし歴史をさかのぼれば……〈死の呪い〉を幾度もくりかえしてつかった……〈闇の魔術師〉もいる。 ある十九世紀の魔女……自称〈闇の福音〉……〈闇ばらい〉はA・K・マクダウェルと呼んだ…… 彼女は一回の戦闘で〈死の呪い〉を……十数回つかったという。 そこにどんな秘訣があったのか……きみもわたしのように…… 自問してみれば分かるのではないか。 憎悪より確実に死をもたらし……制約なく湧きでるものといえば?」

 

もう一段上のアヴァダ・ケダヴラ……〈守護霊(パトローナス)の魔法〉にもそれがあったように……

 

「ぼくは興味ありません。」

 

〈防衛術〉教授は湿った笑い声をたてた。 「そう、いい答えだ。きみも……だいぶ進歩した。 つまり……」  変身の瞬間にことばがとぎれる。 「ワタシハ 実際ニハ 番人ノ 死ヲ 願ワナカッタ。 〈死ノ 呪イ〉ヲ 撃チハ シタ。ダガ 憎悪ハ コメナカッタ。」  そしてまた人間のすがたへ。

 

ハリーはごくりと息をのんだ。 それは予想していたより、よくも悪くもある答え、クィレル先生らしいといえる答えだった。 人間としてどこかが壊れている。 しかしクィレル先生は一度も自分が健全な人間だと主張してはいない。

 

「話は……それだけか?」

 

「ほんとうに……あなたを救うようなものについて、なにひとつ心当たりはありませんか? あなたほどの知識があれば、ひとつくらいはありませんか? 三つの〈死の秘宝〉をそろえて合体させるとか、マーリンが封じた古代の魔法具にまだだれにも解かれていない謎かけ(リドル)があるとか。 あなたはぼくの能力の一端を知っているはずです。 ぼくは謎かけを解くのが得意で、 ほかの魔法使いが解明できなかったことを、ときには解明できたりもするということも。 ぼくは——」  ハリーの声が一度とぎれる。 「ぼくはあなたが死ぬことよりも生きることを強く選好しています。」

 

しばらく返事はなかった。

 

「ひとつ……」と小声でクィレル先生が言う。 「ひとつ……多少の見こみがあるものがあるが……たしかではない……。いずれにしろ、きみの能力でも、わたしの能力でも、入手することはかなわない……」

 

なるほどね、これは付帯クエストへの導入部分だったのか——とハリーの〈内的批評家〉が言った。

 

それ以外の部分のハリーはそろって『だまれ』と言った。 人生はそういう風にすすまない。 古代の魔法具を見つけることが不可能でないとして、一カ月では無理だ。とくに自分がホグウォーツ城にとじこめられていて、まだ一年生である場合は。

 

クィレル先生は深く息をすって、はいた。 「悪い……。言いかたが……おおげさだった。 あまり……期待しすぎるな。 きみはなにかひとつでもと……どんなに見こみが薄くてもよいからと、言った。 そういうものがひとつある……その名前は……」

 

ベッドの上にヘビがあらわれた。

 

〈賢者ノ石〉。

 

もし実は安全に不老不死をあたえてくれる大量生産可能な物品はずっと存在していて、だれもやってみようと思わなかっただけだなどと言われたら、ハリーは人間をみな殺しにしてやりたくなる。

 

ボクハ 本デ ソレヲ 読ンダ。 明ラカニ 伝説ダト 判断シタ。 一ツノ 道具ガ 不死ト 無限ノ 黄金ノ 両方ヲ 与エル 理由ガ ナイ。 ダレカガ 幸セナ 物語ヲ ツクッテミタダケ デナケレバ。 事実ダト シタラ、当然 アラユル 正気ノ 人間ガ モット 多クノ 〈石〉ヲ ツクル 方法ヲ 研究スルカ、作リ手ヲ 誘拐スル。 特ニ アナタナラ ソウスルダロウト。

 

冷ややかな笑いの空気音。 「 鋭イ 推理ダガ、マダ 不足。 ほーくらっくすノ 呪文ノ 場合ト 同ジク、不条理ノ 裏ニ 真ノ 秘密ガ アル。 真ノ 〈石〉ハ ソノ伝説ト 相違スル。 真ノ 能力ハ 通説ト 相違スル。 〈石〉ヲ 作ッタト サレル 者ハ 真ノ 作リ手デハ ナイ。 〈石〉ヲ 持ツ 者ノ 現在ノ 名ハ 生マレノ 名デハ ナイ。 ダガ 〈石〉ハ タシカニ 強力ナ 治癒ノ 道具デハ アル。 キミハ ソレニツイテ 話サレル ノヲ 聞イタカ?

 

本デ 読ンダ ダケ。

 

〈石〉ヲ 持ッテイル 者ハ 多クノ 知識ヲ タクワエテイル。 学校長ニ 多クノ 秘密ヲ 教エモ シタ。 学校長ハ 〈石〉ヲ 持ツ 者ニツイテ ナニモ 話サナカッタカ? 〈石〉ニ ツイテハ? 示唆ダケデモ?

 

ボクガ スグニ 思イ出セル カギリデハ、ナイ。」  ハリーは正直にそう言った。

 

アア……ソウカ。

 

学校長ニ 質問シタホウガ ヨケレバ——

 

イヤ。質問ハ スルナ。 スレバ 学校長ハ ソレヲ 悪イ 意味ニ トル。

 

デモ 〈石〉ガ タダ 治癒 スル モノナラ——

 

学校長ハ ソウ 信ジテイナイ。言ッテモ 信ジナイ。 〈石〉ヲ 求メタ 者、〈石〉ノ 持チ主ノ 知識ヲ 求メタ 者ハ アマリニ 多イ。 質問ハ スルナ。 シテハ ナラナイ。 独力デ 〈石〉ヲ 入手シヨウト スルナ。 厳ニ 禁ジル。

 

ベットの上に、また男があらわれた。 「わたしは……そろそろ限界だ……。 きみのこの……贈り物をもって……森に行くまえに……回復しておかねばならない。 きみはここを去れ……だがそのまえに……〈転成〉を補充しておいてくれ。」

 

ハリーは手をのばして、ハンカチのなかにおかれた白い小石に触れ、〈転成〉を更新した。 「これであと一時間五十三分もちます。」

 

「きみの研究は……よくできている。」

 

この一年の最初のころ、ハリーはそれよりずっと短い時間しか〈転成〉を維持することができなかった。 二年次の呪文も苦労せずつかうことができるようになった。二カ月後には十二歳になっているのだからそれも当然だ。 〈記憶の魔法〉でさえ、相手が自分の左腕についてのあらゆる記憶をなくしてもいいのであれば、できているくらいだ。 ハリーは実力の階梯でいえばまだまだ下に位置しているが、すこしずつ着実に上にのぼっている。

 

それと同時に、ひとつの扉がひらくとき別の扉がとじるという、悲しいイメージも生じる。ハリーはそれも認めない。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーのうしろで医務室の扉が閉じた。〈死ななかった男の子〉は立ちどまることなく〈不可視のマント〉を羽織って歩いていく。 クィレル先生はこれからすぐに人を呼ぶことだろう。そして集まった上級生三人に、湖を見たいからとでも言って、森かどこか、静かな場所へ連れていかせる。 〈転成術〉がとけてもとにもどったユニコーンを人知れず食べていられるような場所へ。

 

〈防衛術〉教授はその後、しばらくのあいだ回復する。 最盛期と同等の実力がもどる。ただし、その効果はいっそう早く切れることになる。

 

長くはもたない。

 

ハリーは足を動かしながら、左右の手をにぎりしめる。腕の筋肉にちからがこもる。 もしハリーと()()()()()()()()()〈闇ばらい〉が、〈防衛術〉教授のあの食餌療法を邪魔していなかったなら……

 

自分を責めることは愚かだ。そうわかってはいながらも、ハリーの脳は自分を責めている。 どんなに無理があろうとも、どうにかしてこれを自分の責任にする理由を念入りに調べあげて見つけだそうとしているかのように。

 

自分の責任にする以外に悲嘆する方法を知らないかのように。

 

スリザリン寮の七年生三人が透明なハリーと廊下ですれちがい、〈防衛術〉教授の待つ医務室へ向かっていく。三人とも深刻なおももちだった。ほかの人たちはそういう風に悲嘆の気持ちをあらわすのだろうか。

 

それともクィレル先生が言うように、彼らも内面のどこかでは()()()なのだろうか。

 

一段上の〈死の呪い〉。

 

その謎かけをはじめて聞いた瞬間にハリーの脳は答えを言いあてた。 その答えは、以前からずっと自分のなかにいて、外にでる機会をうかがっていたかのようだった。

 

以前読んだなにかの本に、幸せの反対は悲しみではなく退屈だと書かれていた。生きていくなかで幸せを見つけるには、なにが自分を幸せにするかを考えるより、なにが自分を興奮させるかを考えたほうがよい、とも書かれていた。 同様の論理で、憎悪の反対は実は愛ではないということになる。 ひとはだれかを憎悪するとき、その時点である意味、相手の存在を承認してしまっている。 だれかのことを生きているより死んだほうがいいと思うのは、その相手に対して関心がある証拠だ。

 

この話はずっと以前に、〈審判〉の一件があるまえにハーマイオニーと話したことだった。そのときハーマイオニーは(かなり有力な直近の証拠をふまえるなら)ブリテン魔法界には〈偏見〉が存在するというようなことを言っていた。 ハリーはそのとき、『それでもきみは入学をさせてはもらえて、侮辱されてはいるじゃないか』と——言いはしなかったが——思った。

 

ある種の国に住んでいる人たちは、そうではない。おなじ人間である()()()()()()()()()()()としても、ユニコーンなどとちがって知能あるもの(サピエンス)だから価値が高い()()()()()()()()()()()としても、彼らにはマグル界のブリテンに住む権利が認められていない。 すくなくともその点に関して、マグルは魔法族にとやかく言う権利がない。 ブリテン魔法界はマグル生まれを差別しているかもしれないが、自分たちのがわに住まわせたうえで面とむかって侮辱するくらいのことはしている。

 

憎悪より確実に死をもたらし……制約なく湧きでるものといえば?

 

「無関心。」  ハリーはそう口にしつつ、その呪文を自分がつかえるようになる日はこないであろうと思う。 そして足どりをゆるめず、〈賢者の石〉に関するものを手あたりしだいに見つけて読みとおすつもりで、図書館へと急ぐ。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




次回の更新は2月末の予定です(準備期間が必要なため)


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103章「試験」

一九九二年六月四日。

 

ダフネ・グリーングラスはスリザリン談話室で(ホグウォーツ外では行使することすらできない権力を意外なほど分有したがらない)グリーングラス卿夫人への手紙を書いていたところで、ドラコ・マルフォイが肖像画の扉をくぐって談話室によたよたとはいってくるのを目にした。ドラコ・マルフォイは十数冊はあろう本の山をかかえていた。つづいてやってきたヴィンセントとグレゴリーもそれぞれ十数冊の本をかかえていた。 マルフォイに同行していた〈闇ばらい〉はあたまだけくぐらせてこちらをのぞき、すぐに引っこんで、どこかへもどっていった。

 

ドラコは室内を見わたしていてなにか思いついたらしく、よたよたとダフネのほうに歩いてきた。ヴィンセントとグレゴリーもつづいて。

 

「これを読むのを手つだってくれないか?」  ドラコは歩きながらそう言った。すこし息切れしているように聞こえた。

 

「は?」  授業はもう終わっていて、あとは試験しかない。だいたい、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()宿題の相談をするなんて前代未聞だ。

 

「これは……ミス・グレンジャーが四月一日から四月十六日のあいだに図書館で借りていた本すべてだ。 このなかに〈手がかり〉があったりするかもしれないから目をとおしておこうと思ってね。それで、ミス・グレンジャーのことだったらきみのほうがよく知っているだろうから、手つだってもらえればと。」

 

ダフネはその本の山をじっと見た。 「司令官は()()()()それぜんぶ読んだっていうこと?」  そう思うときゅっと胸が痛むのを、ダフネはあらわにしなかった。

 

「いや、ぜんぶ読み終えたのかどうかはわからないね。」と言ってドラコは注意するように指を一本たてる。 「実際には一冊も読んでいなかったかもしれないし、借りてすらいなかったのかもしれない。われわれが()()()()()()()のは、図書館の台帳に彼女の名前で貸し出し記録があったということだけだから——」

 

ダフネは内心うめきたくなる。 マルフォイの話はここ数週間ずっとこういう調子だ。 世のなかには、謎めいた殺人事件に関与しているべきでない種類の人がいる。()()()()()()()()()()()()()()()。 「ミスター・マルフォイ、わたしは夏のあいだじゅう読みっぱなしでも、こんなには読み切れないわよ。」

 

「じゃあざっとでもいいから目をとおしてくれないか? それだけでも、たとえば……そうだな、彼女の筆跡で謎めいた書きこみがあったりとか、しおりがはさまれていたりとか——」

 

「芝居でもあるまいし。」と言ってダフネは目をまわして見せる。 「わたしたちはそういう仕事のために〈闇ばらい〉を学校に——」

 

()()()()()()」と言ってミリセント・ブルストロードが下の層の部屋からスリザリン談話室に転がりこんできた。

 

みなの動きがとまり、そちらに視線があつまる。

 

「クィレル先生が!」

 

急に、以前からつづいていた論争にようやく終止符が打たれるとでも言うかのような期待感が生まれた。 ミリセントが息をととのえようとしているうちに、別のだれかが「へえ、ついに。ということはこれで、クィレル先生はラスト……十日目まではもったことになる?」と言った。

 

「いや、十一日。」とその賭けの主宰者である七年生が言った。

 

「クィレル先生が急にすこし体調がよくなったから一年生の〈防衛術〉の学年末試験をするんだって! 抜き打ちで! いまから五十分後に!」

 

「〈防衛術〉の?」とパンジーがぽかんとして言う。「でも試験はしないってクィレル先生が言ってたじゃない。」

 

()()()()()()試験はある!」とミリセントが声をからした。

 

「でも〈魔法省〉のカリキュラムにあることなんて、ひとつも教わってないじゃない。」とパンジー。

 

ダフネはそのころにはすでに、一年次〈防衛術〉教科書をとりに自室に急行していた。九月から一度もその教科書に触れようとしなかった自分を呪いながら。

 

◆ ◆ ◆

 

ダフネの席の一列うしろで、だれかがしくしくと泣いている声がする。絶望的な教室の空気に似合う歌声のようでもある。 きっとハッフルパフ生だろうけれどハンナではあってほしくないと思いながらふりかえると、意外にもそれはレイヴンクロー生だった(よく考えれば意外ではなかった)。

 

全員が裏がえしの試験用紙をまえにして、開始の鐘の音を待っている。

 

五十分あってもたいした準備はできないが、たしにはなる。自分がハッフルパフ寮とレイヴンクロー寮とグリフィンドール寮に知らせをおくることを思いつかなかったことを、いまになってはずかしく思う。 三日まえの六月一日から寮点の付与が再開したが、〈予備防衛隊〉特別委員会が寮間の団結を推進すべき立ち場にいることにかわりはない。

 

四つ左の席のレイヴンクロー生もしくしくと泣きはじめた。 たしか名前はキャサリン・トゥングで〈ドラゴン旅団〉所属。模擬戦ではひるむことなく〈太陽〉兵三人を同時に相手にしていた女子だったと思う。

 

一報のあと数分間はあせるばかりで教科書を読もうにもろくに読めなかった。 これは試験だ。()()なんかではない。一年生のうちほぼ全員が白紙の羊皮紙を提出したとすれば、だれにも恥じることはなくなる。 ただ、レイヴンクロー生やハッフルパフ生はそういう考えかたをしないかもしれない。ダフネはそういう人に共感するとまではいかないが理解はできる。

 

「ひどい。」と別のレイヴンクロー生が震える声で言う。 「百パーセント骨の髄まで〈闇の魔術師〉だ。 〈闇の王〉グリンデルヴァルトでも子どもにはこんなひどいことはしない。〈例の男〉より邪悪な先生だ。」

 

反射的にクィレル先生のほうを見ると、椅子の片がわに寄りかかってはいながら、油断のない目をしているのが見えた。 そして一瞬だけ、笑みを浮かべたようにも見えた。 いや、それはこちらの想像の産物にちがいない。あれがクィレル先生に聞こえていたはずはないから。

 

鐘の音がなった。

 

ダフネは羊皮紙をめくった。

 

最上部には魔法省の印影、ホグウォーツ理事会の印影、魔法教育部の印影があり、カンニングを検知するためのルーン文字が書かれている。 その下に受験者の名前を書く余白と下線があり、さらに試験の規則の文面があり、そのとなりに掲載された魔法教育部長官リンジー・ギャグノンの肖像が指をふって注意している。

 

ページの下半分にいくと最初の問題文があった。

 

『子どもが見慣れない生きものに近づかないようにしているべき理由はなにか。』

 

生徒たちは唖然としてかたまった。

 

おそらくグリフィンドールの集団のなかの一人が笑いはじめた。 クィレル先生はなんら制止しようせず、笑いはそのままひろがっていく。

 

生徒はみな笑い終わると、まわりを見て無言で視線をかわし、そしてしめしあわせたかのようにそろってクィレル先生のほうを見た。クィレル先生は鷹揚な笑みでそれを見かえしていた。

 

ダフネはゴドリック・グリフィンドールかグリンデルヴァルトのどちらかに匹敵する邪悪な笑みをして試験用紙と顔をつきあわせ、回答を記入した。『失神の呪文も元老貴族の剣も守護霊の魔法も相手によっては効かないことがあるから。』

 

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ポッターは〈防衛術〉試験の最後の一枚をめくった。

 

ハリーにもごく小さな子ども時代の残骸はまだあったので、最初の実質的な問題文(『なにをすれば叫びウナギを静かにさせることができるか』)を読むときごくわずかに生じる不安をおさえこむ必要があった。 クィレル先生の授業中では、どこかの愚か者が『防衛術』だと思っているこのたぐいの無駄知識についやされた時間はほぼゼロだった。 ハリー自身は抜き打ち試験があると知らされた時点で、〈逆転時計〉をつかって一年次〈防衛術〉教科書を読みとおしてくることもできた。しかしそうしてしまうと、結果として点数分布がゆがみ、ほかの生徒にとって不公平が生じるおそれがある。 数秒間その問題文を見つめてから、ハリーは『音消しの魔法』と記入し、理解して回答しているのだということを魔法省の採点者にわからせるため、詠唱手順もつけておいた。

 

どの問題の回答にも()()を記入すると決めてからは、試験はどんどんすすんでいった。 半数以上の問題文についてもっとも現実的な回答は『失神の呪文』で、そうでない場合にも『引きさがって別の方向に歩く』や『チーズを捨てて新しい靴を買う』といった回答が最適であることも多かった。

 

最後の問題文は『ボギースネイクが自分のベッドの下にいるかもしれないと思った場合にはどうするか』。 魔法省認定の回答は(ハリーは学年初頭に教科書でそれを読んで記憶していた)『両親に知らせること』。 読んでいてすぐにその対処法の欠点に気づいたので、記憶にものこっていたのだった。

 

しばらく考えて、ハリーはこう書いた。

 

採点者さんへ。真の回答は秘密にしなければならないのですが、ボギースネイクは山トロルやディメンターや〈例の男〉ほど苦労させられる相手ではないのでご安心ください。 標準的な回答として用意されているものはマグル生まれにとって不利なものに思えるということ、この点はわたしが介入するまでもなく即座に修正いただけるものと期待しているということをあなたの上司にお伝えください。

 

死ななかった男の子より。

 

ハリーは最後の一枚の羊皮紙にのびやかな字で署名し、裏返しに束に積んで、羽ペンを置き、椅子のなかで背をのばした。

 

見まわすと、クィレル先生が視線をどちらかといえばこちらに向けてきているようにも見えた。ただ、顔はまだ別の方向にかたむいていた。 ほかの生徒はみなまだ書いている。 声を殺して泣いている生徒もいるが、それでも書いている。 『戦いから降りない』ということもクィレル先生の教えのひとつだった。

 

あまりにも長い所定の試験時間が終わると、 七年生が一人、クィレル先生のかわりに机をまわって用紙を回収した。

 

最後の用紙が回収されると、クィレル先生が姿勢をただした。

 

「諸君。」とつぶやくクィレル先生のくちにあてられた七年生の杖を通じて声がとどけられ、各自のすぐそばで発せられているように聞こえる。 「この試験に直面して恐れをなした者もいると思う……敵と杖をまじえるときとはまたちがった恐怖……それぞれ別のやりかたで克服せねばならないものだ。 では……諸君に言っておくことがある。 ホグウォーツの慣例にしたがえば……試験の結果は六月の第二週に通知される。 しかしわたしの事情では……例外が認められると思う。」  〈防衛術〉教授はお決まりの乾いた笑みを浮かべた。今日はごくわずかに、その奥に隠された苦悶も見えるようだった。 「諸君はこの試験に準備ができていなかったと……授業であつかわなかった分野が出題されたと……思っているだろう……わたしも期日が近いという予告をし忘れていた……とはいえ、いずれ試験はあるものだと……心がまえをしているのが当然だ。 この重要きわまりない学年末試験……そこに諸君が記入した回答を……わたしはたったいま魔法で調べた……もちろん正式な判定は魔法省がおこなうのだが……試験とともにこの一年の最終成績を判定し……魔法で各自の用紙に結果を記入した。」  クィレル先生は机のすみにおかれた羊皮紙の束をたたいた。 「……これからそれを配布する……うまくできた呪文だと思わないか?」

 

レイヴンクロー生の何名かは不服そうな様子だが、大半の生徒はほっとしたように見える。スリザリン生の何人かは含み笑いをしていたりもする。 ハリー自身も、やっとのことで話しているクィレル先生を見るという苦痛を感じていなければ、笑っていただろうと思う。

 

クィレル先生のとなりの七年生が擬似ラテン語の呪文の詠唱をして杖をかかげた。 羊皮紙の束が空中にもちあがってゆっくりと飛び、途中で分岐して各生徒にむかっていく。

 

席で待っていると用紙がとどいた。ハリーはそれをめくった。

 

結果は〈(EE+)〉、すなわち〈期待以上(Exceeds Expectations)〉。 〈優〉につぐ、上から二番目の成績だ。

 

どこか別の、はるか彼方に消えた世界では、ハリーという名前の少年が二番目の成績しかつけてもらえなかったことが気にいらず、わめいているにちがいない。 この世界のハリーは落ちついて考える。 クィレル先生はこれになにかを意味をもたせている。成績の高低そのものはどうでもいいことなのだから。 それなりにうまくやってはいるが、まだ潜在能力を完全には発揮していない、というメッセージだろうか。 それとも文字どおり、ハリーはクィレル先生にとって期待以上であった、という意味なのだろうか。

 

「全員……合格。」とクィレル先生が言うのと同時に、生徒たちは自席で自分の成績判定を目にし、安堵のためいきを漏らす。ラヴェンダー・ブラウンが用紙を手にガッツポーズをとった。 「一年次〈戦闘魔術〉受講者は全員合格だった……一名をのぞいて。」

 

何名もの生徒が愕然とした表情で顔をあげた。

 

ハリーは無言で座ったままでいる。クィレル先生がなにを言おうとしているのかはすぐにわかった。いくらそのさきを言わないでほしいと言っても、相手にはしてくれないだろうと思う。

 

「この部屋にいる者は全員……〈可〉以上の成績だった。 ネヴィル・ロングボトムは……ロングボトム邸で受験し……〈優〉の成績をおさめた。 しかしここにいないもう一名の生徒については……公式に〈落第〉と決定した……これは、今年課せられた唯一の意義ある試験に……彼女が失敗したことによる。 もっと低い点をつけてもよいところだが……それは趣味が悪い。」

 

教室が静まりかえった。ただし、怒りの表情を見せている生徒は何人もいた。

 

「〈落第〉の判定は……酷だと思う者もいよう。 ミス・グレンジャーが直面した試験は……教えられた内容で対処できない試験だったから、と。 あの日試験があることも……事前に知らされていなかったのだから、と。」

 

〈防衛術〉教授は苦しそうに息つぎをした。

 

「それもリアリズム。 唯一の意義ある試験は……予告なく襲いかかってくる……準備がたりなければ……彼女のようになると思え。 ほかの諸君……『良』と『優』の判定の者は……進学先候補となる……他国の学校への推薦書を受けとっているはずだ。 諸君がしかるべき年齢になったとき……その時点でも適性があれば……先方から連絡がくる……。そのときまでに、意義ある試験に落第させられていなければだが。 今日以後、諸君は自分で自分を……訓練せねばならないということを忘れるな……将来の〈防衛術〉教師を……たよりにしてはならない。 これで一年次〈戦闘魔術〉の授業を終わる……解散。」

 

クィレル先生は目をとじて、周囲にわきおこる興奮の声を無視するように、椅子に背をあずけた。

 

やがて生徒たちは一人をのこして退室した。居残った一人は、〈防衛術〉教授から所定の距離をたもってそこにいる。

 

〈防衛術〉教授が目をひらく。

 

ハリーは『良』と書かれた羊皮紙を、やはり無言で持ちあげる。

 

〈防衛術〉教授は笑顔になった。くちもとだけでなく疲れた目にも笑みがとどいていた。

 

「それとおなじ成績を……わたしも一年生当時につけてもらった。」

 

「あ……あ……」  ハリーは急に『ありがとう』のことばがつまって言えなくなった。〈防衛術〉教授は問うような目をして、くびをかしげた。ハリーはとっさに一礼だけをして退室した。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




次回は3月27日に更新する予定です


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104章「真実(その1)——謎かけと答え」

一九九二年六月十三日。

 

学年末の最終週。クィレル先生はまだかろうじて生きている。 そしてこの日も癒者のベッドにいる。過去七日間はほぼずっとそうである。

 

ホグウォーツの慣習として試験は六月の第一週におこなわれ、その結果は第二週に発表される。第三週の日曜日には〈休暇の宴〉がおこなわれ、月曜日にロンドン行きのホグウォーツ急行が発車する。

 

ハリーはこの日取りのことを遠い昔に本で読んだとき、不審に思った。六月の第二週の『試験の結果を待つ』という仕事はそう大変ではなさそうだが、発表日以外の日はなにをしていろというのだろう。そこには意外な答えがあった。

 

しかしその第二週ももうおわり、いまは土曜日である。あとは十四日の〈休暇の宴〉と十五日のホグウォーツ急行乗車のほか、なんの予定もない。

 

なのになんの答えもえられていない。

 

なにも解決していない。

 

ハーマイオニーを殺した人物はみつかっていない。

 

ハリーはなぜか、学年末までには真相がすべてあきらかになるはずだと思ってしまっていた。ミステリー小説には巻末で謎が解きあかされるという約束があるのとおなじように。 〈防衛術〉教授が……死ぬときには、謎が解明されていなければならない。答えがわからないうちに、問題が解決しきらないうちに、クィレル先生が死ぬようなことがあっていいはずがない。 試験の成績は答えではないし、もちろん死も答えではない。真相があきらかになってはじめて物語は終わることができる……。

 

しかし、ドラコ・マルフォイがまたあたらしく持ちだしてきたスプラウト教授犯人説、つまり、ハーマイオニーが殺人の罪を着せられていた時期にスプラウト教授が課したり採点したりしていた宿題の量が通常より少なかったのはスプラウト教授がそのとき犯行を計画していた証拠だという説を信じるのでもないかぎり、真相はいまだ闇のなかである。

 

なのに世界はハリーのようでない人たちの優先順位にしたがっているらしく、この一年をしめくくるのはクィディッチの一戦である。

 

◆ ◆ ◆

 

競技場の上空をホウキにのった小さな人影が滑空したり旋回したりしている。 人影がクァッフルという赤紫色の切頂四面体を受けとっては投げ、投げてははじかれ、ときどきそれが空中の輪のなかを通過して、競技場を揺らすほどの歓喜と落胆の声を誘う。 青色と緑色と黄色と赤色のローブを着た観客がそれぞれ、みずから動く必要がない場合にたやすく生じる種類の興奮を感じて、声をからしている。

 

ハリーは入学して以来、今日になるまでクィディッチの試合を見たことがなかった。そして見おわらないうちに今日を最後にしようと決めた。

 

「デイヴィスがクァッフルをとった!」とリー・ジョーダンが拡声器ごしに言う。 「これでまたレイヴンクローが十点獲得か、七……六……五……おっともう決めちゃった! 中央リングのど真ん中! 前代未聞の連勝記録ですね——ボータンの次の代のキャプテンは、もうこれでデイヴィスに決まったようなもの——」

 

リーの声が突然とぎれ、かわってマクゴナガル先生の拡声された声が。 「ミスター・ジョーダン、レイヴンクローチームの人事に口出しは無用です。 試合を解説するのがあなたの役目です。」

 

「さて今度はスリザリンがクァッフルをキープ——フリントからのパスをもらって、美貌の——」

 

「ミスター・ジョーダン!」

 

「——中の下くらいのシャロン・ヴィスカイノが飛びでました。長い髪の毛を箒星(ほうきぼし)のように流してレイヴンクローの防衛ラインに向かう——そこにもうブラッジャーが二匹食いついてきている! シャロンにつづいて、ピュシーもそこへ飛び——いやイングルビー、なにしてんの?——空中で一度ひねって進路を——あ、スニッチがいる? いけーっ、チョー・チャン、はやくしないとヒッグスが——いや、二人ともなにしてんの?

 

「ミスター・ジョーダン、落ちついて!」

 

落ちついてなんかいられるわけがないでしょう? あんな絶好の機会を見のがすなんて! さあもうスニッチはどこかにいってしまいました——あれでだめなら、もうずっとつかまらないんじゃないかな—— ピュシーがイングルビーの追撃を振りきってゴールポストへ——」

 

はるか遠い過去、あるいはどこかまったく別の世界で、クィレル先生はこの〈寮杯〉をスリザリンかレイヴンクローが獲得することになると約束していた。あるいは、どうにかして両方が獲得すると。それを含めてクィレル先生は三つの願いをかなえると約束していた。 いまのところ三つのうち二つはうまくいきそうだ。

 

現在の〈寮杯〉レースの首位はハッフルパフで、次点に五百点ほどの点差をつけている。これも、ハッフルパフ生たちが宿題をさぼらず()()()()()()()()()おかげである。 スネイプ先生は直近の……多分七年くらいのあいだずっと、ハッフルパフからかなりの点数を戦略的に減点していたらしい。 直近七年間で連勝していたスリザリン寮は今年も自寮の寮監に()()()()加点してもらえるのがきいていて、授業の成績の面ではレイヴンクロー寮に劣るものの、総合的には互角になっている。 グリフィンドールは一匹狼な気質の寮らしく、他三寮と大差をつけた最下位である。成績といたずらの面ではスリザリンと似たりよったりのグリフィンドールには、スネイプ先生の加護に相当するものが欠けている。 フレッドとジョージでさえ一年間の通算では加点と減点を差し引きでゼロにもっていくのがやっとだった。

 

レイヴンクロー寮もスリザリン寮も、あと二日でハッフルパフに追いつくには()()()()大きく点を稼ぐ必要がある。

 

となると、なにが起きるかは目に見えている。クィレル先生が介入した形跡はなにひとつない。介入するまでもなく、 ことは勝手にその方向にすすんでいる。クィレル先生という一人の教師が発想ゆたかな問題解決の授業をしたばかりに。

 

今年度の最後のクィディッチ試合はレイヴンクロー対スリザリン。 グリフィンドールは年度当初には上位にいたものの、新人シーカー、エメット・シアーが二度目の出場で誤作動をおこしたらしいホウキから落ちて以来、急落した。 おなじ理由で、そのあとに予定されていた試合を急遽組みかえる必要も生じた。

 

今年度最後のこの試合は、スニッチがつかまるまで終わらない。

 

クィディッチの点は寮点にそのまま加算される。

 

ところがおかしなことに、今日のスリザリンとレイヴンクローの両シーカーは……どうしても()()()()()()()()()()()()()()()()()ようだ。

 

おい、スニッチはすぐ上にいただろ、おまえらどこに目をつけてるんだよ!

 

「ミスター・ジョーダン、ことばづかいに気をつけなさい。さもないと退場処分にしますよ! たしかにひどいミスではありましたが。」

 

ハリーとしても、リー・ジョーダンとマクゴナガル先生はよくできたボケとツッコミのコンビであるとは思う。 これまでクィディッチの試合を見のがしてきたことを多少後悔する気にもなる。 マクゴナガル先生のそういう面をハリーは見たことがなかった。

 

観客スタンドでハリーのいる席はハッフルパフ生の集団のなかにあり、よく見れば何段か下に長身のセドリック・ディゴリーが見える。 スーパー・ハッフルパフと呼ばれるセドリックは、キャプテン兼シーカーをつとめている身として、チョー・チャンとテレンス・ヒッグスがまたも空中衝突しかけたところをつぶさに観察していた。

 

「レイヴンクローのシーカーはまだ経験が浅い。でもヒッグスは七年生だ。 ぼくも対戦したから知っている。あいつはあんなへまはしない。」とセドリックが言った。

 

「つまりなにか作戦があってのことだと思う?」とセドリックのとなりの席のハッフルパフ生が言った。

 

「スリザリンがクィディッチ杯に優勝するのにもう何点かたりないのなら、戦略的にありだとは思う。 でもいまのスリザリンの点数なら、もうそんなことをしなくてもいい。 なにを考えているんだ? とっとと決めてしまえばいいのに!」

 

今日の試合は午後六時にはじまった。 たいていの試合は七時くらいまでに終わり、そこで夕食の時間になる。 六月のスコットランドは日照時間が長く、十時まで日が落ちない。

 

ハリーの腕時計によれば午後八時六分。この時点でスリザリンがまた十点を追加し、点差は一七〇対一四〇になった。そのときセドリック・ディゴリーが飛びあがってさけんだ。 「()()()()()()()()()()()()

 

「そうだ!」ととなりの年少の男子も飛びあがってさけんだ。 「ばかにするんじゃないぞ。点なんか取って。」

 

「そうじゃない! あれは——あれはハッフルパフ(うち)の優勝杯を横どりしようとしてやってるんだ!」

 

「でもぼくらは優勝レースからはとっくに——」

 

「クィディッチ杯じゃない! 寮杯だよ!」

 

それを聞いて、周囲にも怒りの声がひろがっていく。

 

ハリーは『いまだ』と思った。

 

となりのハッフルパフ生と一段上の席にいるハッフルパフ生に、どうか席をあけてもらえないかと声をかける。 そしてポーチのなかから巨大な長さ二メートルの垂れ幕をとりだして展開し、空中に()える。 事前にこのための魔法をかけてくれたのは、ハリー以上にクィディッチにうといということで有名なレイヴンクローの六年生だった。

 

そこには紫色の巨大な光る文字でこう書かれていた。

 

時 計 を 買 え

 

2時間06分47秒

 

文字の下には、点滅する赤色の×印つきのスニッチの絵がついている。

 

◆ ◆ ◆

 

一秒、また一秒、そしてまた一秒と、カウンターの数字が増えていく。

 

そうやってハリーの垂れ幕のカウントがすすむにつれ、やけに多くのハッフルパフ生がそのそばに陣取ることにしたようだった。

 

試合は午後九時を越しても終わらず、そのころにはグリフィンドール生も多数、垂れ幕の周囲に集まっていた。

 

日が落ちて、ハリーが読書灯として『ルーモス』をかけた——試合そのものについてはとっくに見かぎっていた——ころには、愛寮心を捨てて正気をえらんだレイヴンクロー生も増えてきた。

 

シニストラ先生もやってきた。

 

ヴェクター先生もやってきた。

 

空に星が見えはじめたころにはフリトウィック先生も。

 

この年のクィディッチ最終決戦は……それでもまだつづく。

 

◆ ◆ ◆

 

これをやると決めたとき想定していなかったことはいくつかあるが、この時間——腕時計を見ると、夜の十一時四分——になってもまだ自分が屋外にいるというのは想定外だった。 ハリーは六年生用の〈転成術〉教科書を読んでいる……というより、教科書に重しをのせて開いたままにしてマグル式の光る棒(ペンライト)で照らしつつ、そこに書かれた練習課題をこなしている。 先週、ハリーは卒業まえのレイヴンクロー生がたがいのN.E.W.T.の点数を話しているのを耳にし、上級生の〈転成術〉の演習には『造形の練習』がいくつかあることを知った。そこでは純粋な出力(パワー)よりも制御力と精密な思考が必要とされるのだという。 そう知るとすぐにハリーはその技術を身につけようと決意し、同時にもっとはやく上級生用の教科書を()()()読んでおくんだったと思って、自分のあたまをひっぱたいた。 マクゴナガル先生の許可をもらって、ハリーは〈転成〉中の物体が最終形に近づく過程——たとえば羽ペンを〈転成〉する際、最初に軸をつくりおわってから羽部分にとりかかる、というように——を制御する種類の造形の練習をしていいことになった。 ということで、ハリーはそれに相当する練習を鉛筆についてやっている。芯の部分をさきにつくってから、その周囲に木の部分をつくり、最後に消しゴムをつける、というように。 予想にたがわず、変形中の鉛筆の一部分に注意と魔法力を集中するという行為は実のところ、部分〈転成術〉の際の自分を律する手順と似ていた——やろうと思えば、外がわの部分だけに部分〈転成術〉をかけることでおなじ効果を偽装することもできそうだ。 効果がおなじなら、これのほうが比較的楽ではあるが。

 

ハリーは鉛筆がまたひとつできあがったところで顔をあげ、クィディッチの試合に目をやった。あいかわらずで、なんの興味も生じない。 リー・ジョーダンは心底うんざりといった声でコメンテーターをつとめている。 「また十点——やったね—— で、まただれかがクァッフルをうばいました——だれがでしょうね。どうでもいいけど。」

 

まだ観客席にいる人のなかにも試合に注目している人は皆無に等しい。のこったひとはみな、寮杯とクィディッチのルールをどう変更すればいいかという論争のほうがもっとおもしろい競技であることに気づいたらしく、それに興じている。 付近にいる教師たちの努力もむなしく、論争は加熱し、へたをすれば戦闘がはじまってしまいそうなほどだ。 この論争は不幸なことに二派どころではない数の陣営にわかれている。 おせっかいにもスニッチを完全になくすことはないと言って折衷案らしきものをだす人がいて、そのせいで票が割れ、改革へのいきおいが削がれている。

 

よく考えると、ドラコにスリザリン陣営で『スニッチ最高』の旗を大々的にかかげてもらえば、論争を二極化させることができただろうにと思う。 実際ハリーはこっそりスリザリン生がいる観客席に目をやってはいたのだが、ドラコを見つけることができなかった。 おなじように敵役を買って出てくれるかもしれないセヴルス・スネイプのすがたも、どこにも見あたらない。

 

「ミスター・ポッター?」と横から声がした。

 

ハリーのとなりの席には、背が低い上級生の男子ハッフルパフ生がいる。ハリーがこれまで一度も注目したことのないその生徒が、無地の羊皮紙製封筒をさしだしている。封筒の表がわには封蝋がたらされているが、刻印はない。

 

「なにか?」とハリー。

 

「ほら、ぼくだよ。きみがくれた封筒をもってきた。 きみはなにも話すなと言っていたけれど——」

 

「じゃあなにも話さないで。」

 

その生徒はハリーにその封筒を投げて渡してから、不服そうな顔で去った。 多少良心が痛みはするが、時間的問題をふまえるなら、おそらくこうするのがただしい……。

 

署名のない封蝋をちぎり、封筒のなかみをとりだす。 予想に反して、なかみはマグル紙ではなく羊皮紙だった。文字はただのペンではなく羽ペンで書かれたようにも見えるが、ハリー自身の筆跡だった。

 

星座を警戒せよ

そして星を見る者を助けよ

 

賢者と善意の者にも

命食いの同盟者にも見つからずに動け

 

六と七の自乗に

くだらなさすぎる禁じられた場所で

 

ハリーはそれを一読してからたたみ、マントをかぶりなおして、もう一度ためいきをついた。 『星座を警戒せよ』だって? 自分から自分への謎かけなら、もっと解読しやすくてもいいだろうに……とはいえ、すぐにわかる部分もある。 未来のハリーがこの手紙を傍受されることを警戒していたのはたしかだ。現在のハリーはふだん現場の〈闇ばらい〉のことを『アズカバンのディメンターと同盟する者』と呼ぶことはないが、それも可能性としては、ほかのだれかに手紙を読まれたときの手がかりともなりかねないから『闇ばらい』という単語を言い換えた、ということなのかもしれない。 〈アズカバン事件〉で自分がつかった〈ヘビ語〉の熟語を逆翻訳する……これは有効な方法だとは思う。

 

手紙には、クィレル先生が助けを必要としている、ともあった。なにが起きるにせよ、それは〈闇ばらい〉にもダンブルドアにもマクゴナガルにもフリトウィックにも知られてはならない、とも。 この件にはすでに〈逆転時計〉が関与している。すると当然、ハリーはトイレに行くと言ってここを離れ、時間を逆行し、離れた直後の時間にこの試合にもどってくるべきだということになる。

 

ハリーは腰をあげはじめて、途中でためらった。 ハリーのなかのハッフルパフ面が、マクゴナガル先生になにも知らせないまま護衛の〈闇ばらい〉から離れていいのか、未来の自分は()()()()()()()()()()のではないか、というようなことを言った。

 

ハリーは羊皮紙をまたひらいて、その内容をすばやく再確認した。

 

謎かけを見なおしてみると、()()()()()()()同行させるなという文言はない。 ドラコ・マルフォイが……この試合の観戦席にいないのは、未来のハリーが支援要員として数時間まえの過去に連れていったからでは? いや、それはすじがとおらない。一年生を一人追加したところで、安全性はほとんど向上しない……。

 

……ドラコ・マルフォイなら、クィディッチについての個人的意見とは関係なく、スリザリンが〈寮杯〉を手にするところを見に来ているはずだ。 彼の身になにかあったのでは?

 

そう思うと、急に疲れている気分ではなくなった。

 

ハリーのなかでアドレナリンがすこしずつ流れはじめる。が、これはトロルのときとはちがう。 メッセージはハリーがいつ到着すべきかを指定している。 今回は、手遅れにならない。

 

セドリック・ディゴリーがいるところに目をやると、スニッチは伝統でありルールはルールだからなくすことはできないと主張するレイヴンクロー生の集団と、ほかの選手とくらべてシーカーの重みが大きいのは不公平だと主張するハッフルパフ生の集団とのあいだで、板ばさみになって揺れ動いているのが見える。

 

セドリック・ディゴリーはハリーとネヴィルに決闘術を教えてくれた人であり、ハリーはよい関係がきずけたと思っている。 それ以上に、選択科目を文字どおりすべて受講している生徒であれば、きっと〈逆転時計〉をもたされてもいる。 いっしょに時間をさかのぼってくれないかと、セドリックを説得してみてもいいのでは? どんなやっかいな状況が待っているにしろ、スーパー・ハッフルパフを一人仲間として連れていって損はないだろう……。

 

◆ ◆ ◆

 

そのすこし後とすこし前。

 

ハリーの腕時計は十一時四十五分をさしている。つまり五時間の逆行をしたことを計算にいれれば、時刻は午後六時四十五分。

 

「時間だ。」とだれもいない空間にむけてつぶやいてから、ハリーは大階段の上の三階の右通廊にむけて歩きだす。

 

『禁じられた場所』と言えば通常は〈禁断の森〉のことだが、 おそらくあの手紙を傍受しようとする人をそう誘導したくて、こういう表現にしたのではないかと思う。 〈禁断の森〉は広大で、そのなかで目印になるような場所は一つにとどまらない。 だれの目にもあきらかな単一の〈収斂点〉が——集合すべき地点、あるいは干渉すべきできごとが起きる地点が——ない。

 

しかしそこに『くだらなさすぎる』という形容詞をくわえると、該当する禁じられた場所はホグウォーツ内に一つだけ。

 

ということで、うわさがまちがっていなければ、グリフィンドール一年生がすでに全員侵入しているという禁じられたこの道に来ることにしたのだった。 三階の右がわの通廊。 そこには謎の扉がひとつあり、そのさきには、命にすらかかわる危険な罠でいっぱいの部屋がつづいているという。そのすべてを通過することはだれにもできないということになっている。とくに一年生には。

 

ハリーはそこにどんな種類の罠が待ちうけているのかを知らない。 ということは、以前そこにいった生徒全員が、親切にもネタばらしをしないよう気をつけてくれていたわけだ。 『お願いだからこれは秘密にしておいてください、ダンブルドア総長より』という掲示でもあったりするのだろうか。 いまのところハリーが知っているのは、外がわの扉が『アロホモーラ』でひらくということ、一番奥の部屋には魔法の鏡があって、その鏡にはとても好ましい状況にいる自分が映されるということ、それがありがたい報酬であるらしいことだけだ。

 

三階の通廊は、どこからともなく生じている薄暗い青白い光で照らされている。弓なりの天井にはクモの巣がびっしりで、最後につかわれてから一年というより数百年が経っていそうに見える。

 

ポーチにはマグル世界の便利なもの、魔法世界の便利なもの、そのほかすこしでも冒険(クエスト)用アイテムになりそうなものすべてをつめこんである。 (マクゴナガル先生にこのポーチの容量を増やせる人を紹介してもらえないかとたのんでみたところ、マクゴナガル先生自身がやってくれたのだった。) 眼鏡を顔にはりつけて、どう動いても落ちないようにするという模擬戦用の呪文もかけてある。 自分が意識をうしなった場合にそなえて、指輪の宝石にかけた〈転成術〉ともうひとつの〈転成術〉もかけなおしておいた。 完全に準備万端とは言いきれないが、自分にできる範囲の準備はすんでいる。

 

ハリーの靴が一歩ふみだすと、床の五角形のタイルがきしむ音をたて、ちょうど未来が過去になるように消えていく。 六時四十九分——『六と七の自乗』。 マグルの算数が身についている人なら考えるまでもないが、そうでない人には一筋縄でいかないのかもしれない。

 

またひとつ角をまがろうとしたところで、こころのなかでなにかひっかかる感じがした。すると小さな話し声が聞こえた。

 

「……まともな人間であれば……とある教員がいなくなるまで……待つのが得策と考える……」

 

ハリーは立ちどまり、角からはみでないように、ほんのすこしだけ前にでた。クィレル先生の声がよく聞こえるようにと。

 

「しかし……自分自身がそのとき同時にいなくなる予定なら…… 今年最後のこの試合……これ以上よい、予想可能な目くらましは……もうないと思うかもしれない。 そこで……重要人物のうちだれが……試合の場にいないかを……調べてみると……総長がいない……わたしの魔法力に狂いがなければ……別次元の世界に……行っているとも考えられる…… もう一人不在であったのが……きみだ…… だからわたしは……きみを追ってここに来た。 こちらはそういう経緯だ……では…… そちらこそなんの用があってここに?」

 

ハリーは浅く息をすってから、返事を聞こうとする。

 

「それで、わたしがこの場所にいることをどうやって知ったのかね?」とセヴルス・スネイプの声がした。ずっと大きな声だったので、ハリーはとびあがりそうになった。

 

小さな咳まじりの笑い。 「自分の杖に……〈痕跡〉がないか調べてみろ。」

 

セヴルスは魔法族のラテン語もどきのなにかを言った。そして、 「わたしの杖に、よくもこんな小細工をしてくれたな!」

 

「きみもわたしも……被疑者……よくできた演技だが……怒るふりをしてもむだだ……。もう一度きく……なんの用があってここに?」

 

「この扉の監視だ。」とスネイプ先生の声がこたえる。 「この扉にはちかづかないでもらおうか!」

 

「わたしも教員……きみはだれの権限で……わたしに命令する?」

 

返事があるまでに間があった。 「それはもちろん、総長の命令で。 今日のクィディッチ試合のあいだ、この扉の見張りをしていろとの命令だ。わたしは教員としてそういった気まぐれな命令にもそむくことはできない。 後日理事会に報告をいれはするつもりだが、いまは職務をはたす。 あなたにも総長の指示どおり、ここは引き下がっていただく。」

 

「ほう? ということは……今年もっとも重要な今日の試合で……熱闘している自寮の生徒たちを見捨てて……ダンブルドアに言われるまま……忠犬よろしく……ここで奉公していると? なるほど……たしかにそれは……もっともな説明だ。 それでも……ここはひとつ……この立派な扉を監視するきみを……わたしも監視しておくのが得策だと思う。」  布がこすれる音がしてから、どすんと音がした。だれかが思いきり床に腰をおろしたか、ただ倒れたときのような音だった。

 

「よりにもよってこんな——」  セヴルス・スネイプの声からは怒りが感じられる。 「おい、起きろ!」

 

「ブブ…バ…ブバ…」とゾンビ状態になった〈防衛術〉教授の声。

 

「起きろ!」とセヴルス・スネイプの声。そしてまた、どすんと音がした。

 

『星を見る者を助けよ』——

 

ハリーは角から一歩でた。時間をこえたメッセージにしたがってのことでもあるが、なかったとしてもそうしていたかもしれない。 スネイプ先生がクィレル先生を蹴ったように聞こえたが、 完全に反応しなくなった相手に対してそんなことをしたのだとしたら無茶なことをするものだ。

 

扉は黒い木でできていて、上がまるい山型をしている。それが石のアーチで縁どられ、ほこりに汚れた城の大理石の積石の壁にはめこまれている。 マグルならドアノブをつけるであろう場所にあるのは、みがかれた金属の取っ手だけ。 錠も鍵穴も見あたらない。 通路の両側の壁にはたいまつがひとつずつ燃えていて、不気味に赤あかとした光を投げかけている。 その扉の手前に、いつもの染み付きローブの〈薬学〉教授がいる。 左がわの壁のたいまつの下に、〈防衛術〉教授がくずれ落ちている。壁に背をもたれ、顔は上を向き、目はぴくぴくと動くようで、 意識がある状態と思考停止状態の中間のようにも見える。

 

()()()()。ここになんの用だ?」と〈薬学〉教授がハリーを上から見おろして言った。

 

表情と口調から察するに、〈薬学〉教授はハリーに対して怒っている。 まちがっても、〈防衛術〉教授を蚊帳の外においてハリーと共謀している様子ではない。

 

「よくわかりませんが……」  ハリーは自分がどんな役割を演じるべきなのか、わかっていない。どうしようもなく、素で正直に話すモードになった。 「ぼくは〈防衛術〉教授から目を離さないようにしているべきなんじゃないかと思います。」

 

〈薬学〉教授は冷ややかにハリーを見つめる。 「付きそいはどうした? 生徒は付きそいなしに廊下をうろつくなというのに!」

 

ハリーは素であたまのなかがまっしろになった。 ゲームはもうはじまったのに、だれもルールを教えてくれていない。 「そうですね、どうこたえたものか……。」

 

スネイプ先生の冷ややかな表情がゆらいだ。 「念のため〈闇ばらい〉に連絡しておくか。」

 

「待ってください!」

 

〈薬学〉教授の手がローブの上でとまった。 「なに?」

 

「い……いや、多分連絡はしないほうがいいんじゃないかと……」

 

その瞬間、〈薬学〉教授の手のなかに杖が舞いこむ。 「『ヌルス・コンファンディオ』!」  すると黒い霧が吹きだし、逃げようとするハリーに食らいついて襲いかかる。 さらに『ポリフルイス』や『メタモルファス』という部分のある四種の呪文が詠唱され、ハリーはおとなしく立ったまま待った。

 

一連の呪文がなんの効果もなく終わり、セヴルス・スネイプはぎらりと光る目でハリーを見る。今度は演技でないように見える。 「釈明できるものならしてもらおう。」

 

「釈明はできません。ぼくには、まだ〈時間〉がないので。」

 

ハリーは〈薬学〉教授の目をしっかりとまっすぐに見ながら『ぼく』と『時間』という部分を発音し、肝心な情報をつたえようとした。〈薬学〉教授はそれを受けてためらった。

 

ここにいるだれがなにをよそおっているのか、ハリーは必死に考えようとする。 ダンブルドア一派ではないクィレル先生をまえにして、セヴルスは邪悪な〈薬学〉教授として総長に命じられてここに来たようなふるまいをしている……実際命じられたのかどうかはともかく…… いっぽう、クィレル先生はスネイプ先生の動向を見のがすべきではないと考えているか、そう考えているようにふるまっている…… ハリー自身は未来の自分に言われて、なんのためなのかも知らず、ここに来ている…… そもそもなぜこの三人がそろって総長の禁断の扉のまえにこうして立っているのだろうか。

 

そして……

 

ハリーのうしろから……

 

ぱたぱたと、もう何人ぶんもの足音がちかづいてきた。

 

スネイプ先生が杖を突きだすと、黒い煙が噴出して床の上の〈防衛術〉教授の周囲をおおった。「『マフリアート』。 ミスター・ポッター、どうしてもここにいると言うなら隠れろ! 不可視のマントを使え! わたしの任務は()がここに来た場合にそなえてこの扉の番をすることだ。 それに、さきほど()()が起きたのだ。総長の注意を引くための異常だと、総長自身は考えている——」

 

「彼って——」

 

セヴルスは大股でハリーに近づき、ハリーの顔に横から杖をあてた。 そこから卵を割られたような感覚——〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)の魔法の感覚がひろがっていった。まず両手が消え、からだののこりの部分も消えた。

 

壁の片がわをつつんでいた闇が霧のように徐々に明けていき、床にちぢこまったまま声をださない〈防衛術〉教授がまた見えるようになった。

 

ハリーは抜き足差し足で動き、離れてからふりかえって扉のほうを見る。

 

ちょうど足音の集団が角をまがってあらわれ——

 

「どうして先生がここに?」とそろって声をあげた。

 

スリザリンの緑色のえりの服が三人、ハッフルパフの黄色のえりの服が一人。セオドア・ノットとダフネ・グリーングラスとスーザン・ボーンズとトレイシー・デイヴィスだ。

 

()()()()はどうしたのかね?」  スネイプ先生は怒りをおさえられない様子だ。 「いかなるときも一年生は六年生か七年生の付きそいなしに出歩くなと、言いだした張本人たちがそれか!」

 

セオドア・ノットが片手をあげた。 「これはですね。その、〈カオス軍団〉で言う、一体感醸成のためのグループワークというやつで…… このグループはみんなまだだれも禁断の部屋に行ってみたことがないという話になって、もうあまり日数もないし…… ハリー・ポッターの許可ももらってるんですよ。とくにスネイプ先生はこれを邪魔するなというお達しで。」

 

セヴルス・スネイプはハリー・ポッターが抜き足していった方向をちらりと見た。眉の上に嵐が、目のなかに黒い怒りがたまっていくように見えた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()  〈逆転時計〉にはまだ一時間ぶんの残量があるから、ありえなくはない。

 

「ハリー・ポッターにそのような権限はない。」  表情と裏腹に落ちついたスネイプ先生の声。 「釈明があるなら聞かせてもらおうか。」

 

「ちょっと、なに言ってんの?」とスーザン・ボーンズらしい人が言う。 「ハリー・ポッターの許可をもらってやってるって、スネイプ先生にそんなはったりが通じると思った?」  そしてスネイプ先生のほうを向いて、やけにしっかりした声で言う。 「スネイプ先生、ごまかしなしに言いますが、緊急事態なんです。ドラコ・マルフォイが失踪していて、わたしたちの予想ではこの下に行ったんじゃないかと——」

 

「ミスター・マルフォイが失踪したなら、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「それは……それは事情があって!」とダフネ・グリーングラスがさけぶ。 「もう時間がないんです。とおしてください!」

 

スネイプ先生はこれまでハリーが聞いたなかで一番皮肉げな声で言う。 「四人して冒険の旅にでも出たつもりかね? ともあれ、その予想ははずれだ。 ミスター・マルフォイがこの扉をとおらなかったことはわたしが保証する。」

 

「ミスター・マルフォイは不可視のマントをもっていると思います。」とスーザン・ボーンズが急いで言う。 「なんの理由もなくこの扉があいたりしませんでしたか?」

 

「ない。話はここまでだ。去れ。 ここは今日は立ち入り禁止だ。」

 

「ここは()()()()()()()禁断の通廊ですよ。」とトレイシーが言う。 「ダンブルドア総長みずから、だれも行ってはならないと言っていたじゃないですか。それを勝手にもう一度禁止するなんて、おかしくありません?」

 

「ミス・デイヴィス。 これ以上グリフィンドール生と交友するのはやめなさい。とくにラヴェンダー・ブラウンと呼ばれている種類の生徒とは。 あと一分以内に退去しなければ、きみをグリフィンドール寮に転寮させる届けを出すぞ。」

 

「えっ、それだけは!」とトレイシー。

 

「うーん……」と言ってスーザン・ボーンズがしわを寄せて考えこむ。 「スネイプ先生、先生自身はときどきこの扉を自分であけて、なかにあるなにかを確認したりはしませんでしたか?」

 

スネイプ先生はその場でかたまった。 それからふりかえって、扉の金属のノッカーに右手をのせ——

 

ハリーはノッカーにのったその手を見ていたので、スネイプ先生が左手でなにをしているのかには、突然の悲鳴が聞こえるまで気づかなかった。

 

「いや、一度も。」と言いながらスネイプ先生はドラコ・マルフォイの首ねっこをつかまえている。首から下はまだ不可視のマントにつつまれている。 「詰めがあまいな。」

 

「ええ?」とトレイシーとダフネがさけんだ。

 

スーザン・ボーンズが自分のひたいに手をあてた。 「あたしとしたことが、こんな手にひっかかるなんて。」

 

「さて、ミスター・マルフォイ。」とスネイプ先生が小声で言う。 「わざわざこうやって仲間をだましてここに来させたのは……きみ自身がこの扉にしのびこもうとしてのことだな? なんのためにしのびこむ気だったのか、説明してもらおうか。」

 

「この際、スネイプ先生のことは信用しよう——」とセオドア・ノットが言う。 「おれたちの味方になってくれるとしたらスネイプ先生しかいないだろう、ミスター・マルフォイ!」

 

「言うな!」とまだ空中でスネイプ先生にえりをつかまれているドラコの頭部が言う。 「なにも言うんじゃない!」

 

「こうなったらやってみるしかない!」とセオドアが言う。 「スネイプ先生、ミスター・マルフォイはこの一年の一連の謎をときあかしたんです——ダンブルドアがニコラス・フラメルから〈賢者の石〉をうばおうとしているんだと! ダンブルドアは人間は不老不死になるべきじゃないと思っているから、 〈闇の王〉が復活しようとしていてそのために〈石〉を必要としている、というようにフラメルに思わせて、〈石〉をわたしてくれと頼んだ。でもフラメルはうんと言わず、このなかにある魔法の鏡のなかに〈石〉を置いた。それでダンブルドアはいま、それをとりだす方法を調べていて、もうすぐとりにくる。だからそれよりさきに、おれたちがいかないと! ダンブルドアに〈賢者の石〉をとられたら、もうだれもダンブルドアにかなわなくなってしまうんです!」

 

「え? さっき聞いた話とちがうんだけど!」とトレイシー。

 

「と——」  言いかけたダフネは怖じ気づきそうでもあるが決然としている。 「とにかく——スネイプ先生、わたしを信じてください。 殺される直前にハーマイオニーが図書館から借りていた本を調べてみたら分かったんです。ハーマイオニーはそのとき〈賢者の石〉のことを調べていました。 〈石〉が鏡のなかに長く置かれすぎたら危険な結果を招くかもしれないという、彼女のメモもありました。 〈賢者の石〉はこれ以上この城のなかに置いてはおけません。」

 

スーザン・ボーンズが両手で顔をおおっている。 「あたしはあれとは無関係ですよ。あたしはただ、あれ以上ふざけたことが起きないようにと思って、ついてきただけなんで。」

 

セヴルス・スネイプはセオドア・ノットたちを見ていたが、 ふりかえってドラコ・マルフォイのほうを向いた。 「ミスター・マルフォイ。 きみはどうやってダンブルドアのその陰謀をときあかしたと言うのかな?」

 

「証拠から推理してです!」とドラコ・マルフォイの頭部が言った。

 

スネイプ先生はまたセオドア・ノットに顔をむけた。 「きみたちは、ダンブルドアですら手こずるような魔法の鏡のなかに置かれた〈石〉を、どうやってとりだすつもりでいた? 答えなさい!」

 

「鏡ごと持ちだしてフラメルに返すんですよ。」とセオドア・ノットが言う。 「おれたちは〈石〉がほしいんじゃなくて、ダンブルドアに盗まれなければそれでいいので。」

 

スネイプ先生はなにかを確認したようにうなづいて、のこりの生徒たちのほうに顔をむけた。 「きみたちのなかのだれかが、ふだんとちがう行動をしていたということはないか? とくに、だれかが奇妙な物体をもっていたとか、一年生が知るはずのない呪文をつかっていたとか。」  スネイプ先生の右手の杖がスーザン・ボーンズにむけられた。 「ミス・グリーングラスとミス・デイヴィスはきみのほうを見ないようにしているようだな、ミス・ボーンズ。 つまらない理由があってのことなら、()()()()告白したほうが身のためだ。」

 

スーザン・ボーンズの髪があざやかな赤色に変じたが、顔はかわらない。 「こうなったらもう秘密にしてもしかたないでしょうね。どうせあと二日で卒業なんだから。」

 

二重魔女(ダブルウィッチ)は六年とばして卒業できるの? ずるい!」とトレイシー・デイヴィスが言った。

 

「ボーンズは二重魔女(ダブルウィッチ)だったのかよ?」とセオドアが言った。

 

「いいや、彼女は〈変化師(メタモルフメイガス)〉のニンファドーラ・トンクスだ。」とスネイプ先生が言う。 「別の生徒に変装するという行為が重大な規則違反であることは分かっているな、ミス・トンクス。 卒業二日前からでも退学処分を通すことは可能だ。いまさら退学の憂き目にあうのは——当人からすれば悲劇だが、わたしからすれば滑稽でしかない。 さあ、なんの用でここに来たのか、あかしてもらおう。」

 

「そういうことか。」とダフネ・グリーングラスが言う。 「それなら……スーザン・ボーンズなんて人は実はいなかったんだったり? それとも、ボーンズ家があとつぎがいなくて困っていて、それで秘密裏に——」

 

スーザン・ボーンズのすがたをした赤髪の人物が片手で顔をおおって言う。 「あのね、ミス・グリーングラス、ほんもののスーザン・ボーンズはいるよ。 あたしはあんたらが特別やっかいなことをしでかしそうなときに、身がわりを頼まれてやってるだけ。 スネイプ先生、ドラコ・マルフォイがいなくなって、この子らが〈闇ばらい〉に通報せずにどうしても自分たちで探すって言うから、あたしも来ることになったんです。 ほんもののミス・ボーンズは、なぜ通報しないのかは説明してる時間がないと言っていて、あたしもこんなふざけた理由だったとは思わなくて。 とにかく、年少の生徒はどんなときも六年生か七年生の付きそいなしに出歩いてはならない決まりでしょう。 こうしてドラコ・マルフォイも見つかったんだし、みんな帰っていいということにしませんか? これ以上収拾がつかなくなるまえに。」

 

「これはなんの騒ぎですか?」

 

「ああ。」とスネイプ先生が言う。杖はかわらず赤髪のスーザン・ボーンズにむけられ、もう片手は頭部だけのドラコ・マルフォイのえりをつかんでいる。となりに床に倒れて動かない〈防衛術〉教授がいる。 「スプラウト先生、ですかな。」

 

「誤解です、スプラウト先生。」とトレイシー・デイヴィスが言った。

 

むっくりと小柄な〈薬草学〉教授はどんどんちかづいてくる。 杖はすでに手のなかにあるが、だれにも向けられてはいない。 「どう誤解すればいいのかも分かりません! 全員、杖をおろしなさい! スネイプ先生もです!」

 

()()()。不意に思いついたそれで説明がつくような気がした。 ハリーが十分離れた位置から見まもっているこのなにかは、物語の本筋にあたる真の事件ではない。この騒動は()()()()()()()。 スプラウト先生が登場した時点で、ハリーの不信の停止にほころびが生じた。こんなできごとは喜劇的な偶然ではすまされない。 だれかが意図してこれだけの混乱を発生させたのだ。けれど、なんのために?

 

自分が時間を逆行してやったことでなければいいが、とハリーは本心から思う。いかにも自分がやりそうな種類のことなだけに。

 

セヴルス・スネイプは杖をさげ、ドラコ・マルフォイをにぎっていたもう片手をゆるめた。 「スプラウト先生、わたしは総長の命でこの扉を監視しているのです。 わたし以外の全員は、正当な理由もなしにここにいる。ですから、彼らを引率して帰らせていただけますか。」

 

「もっともらしく聞こえはしますがね。 ダンブルドアがよりによってあなたに自分の遊び場への扉を監視する役をまかせるとでも? あのかたは、本心では生徒をここにこさせたくないわけじゃありませんからね。生徒はどんどん来て、中でわたしの〈悪魔の罠〉にかかってもらうことになってるんですから! スーザン、通信鏡は? 持っているなら、それで〈闇ばらい〉を呼びなさい。」

 

それを観察しているハリーはうなづいた。 ()()()()だったのか。 〈闇ばらい〉がここに来れば、大混乱の状況下にいるこの全員が問答無用で連れ去られる。すると扉はがらあきになる。

 

けれどそこで禁断の通廊にハリー自身が行くことになっているのだろうか。 それともほかの全員がいなくなったときにだれが登場するのかを見ていろ、ということだろうか。

 

不意にゲホゲホという音が、床にいる〈防衛術〉教授の方向から聞こえた。

 

「スネイプ——待て——」と〈防衛術〉教授は咳でとぎれとぎれに話す。 「ここに——なぜ——スプラウトが——」

 

〈薬学〉教授は下をむいた。

 

「〈記憶の魔法〉——ならば——教員——」と言って〈防衛術〉教授はまた咳をくりかえした。

 

「は?」

 

ハリーのなかにすでにあった疑惑の要素が組みあがって恐ろしく明確な論理が立ちあがり、疑念が確信となって襲いかかる。

 

何者かがハーマイオニーに〈記憶の魔法〉をかけ、ドラコを殺そうとしていたように思わせた。

 

検知されずにそれをできるのはホグウォーツの教員だけ。

 

ということは、真犯人はホグウォーツ教師一人を〈開心術(レジリメンス)〉か〈服従(インペリオ)〉であやつってしまえばいいだけ。

 

そして怪しまれない教員といえばハッフルパフ寮監にかぎる。

 

スネイプがぱっとスプラウト先生に顔をむけると、スプラウト先生は杖をかまえていた。スネイプは間一髪で無言呪文をつかって二人のあいだに透過性の結界をつくりだした。 しかしスプラウト先生の杖からでた電撃は暗褐色で、それを目にしてハリーはさっと血の気がひく思いがした。暗褐色の電撃はセヴルスの防壁にとどくまえに防壁を消滅させた。セヴルスはよけたが、それでも電撃は右腕に触れた。 セヴルスはうめき声を漏らし、痙攣する右手から杖が落ちた。

 

スプラウトの杖から発射されたつぎの電撃は〈失神の呪文〉とおなじ明るい赤色で、杖を離れてからも明るさと速度が増していくように見えた。ハリーはそれを見てまたさっと不安に襲われた。 その一撃で〈防衛術〉教授は扉にぶつけられ、床に落ちて動かなくなった。

 

そのころには、髪の毛がピンク色のスーザン・ボーンズが切子状の青色の煙の結晶のなかからスプラウト先生につぎつぎと呪文を撃っていた。 スプラウト先生はそれを意に介さず、召喚した(つる)で、逃げようとする生徒たちをからめとっていた。ドラコ・マルフォイだけは不可視のマントで隠れてつかまらずにすんでいた。

 

偽スーザン・ボーンズが呪文を撃つのをやめ、杖をまっすぐにかまえ、深呼吸をしてから、大声で詠唱して黄金色に光るイモムシの群れをスプラウトの防壁に食いつかせた。 スプラウトは偽スーザンに無表情な顔をむけた。その背後にまた触手が山のように出現した。 触手の色は黒緑色で、それぞれが防壁につつまれているように見えた。

 

ハリー・ポッターがだれもいないように見える場所にむけてつぶやく。 「スプラウトを攻撃、ボーンズを支援。命にかかわる攻撃はなし。」

 

「はい、ご主人さま。」と〈不可視のマント〉を着せられたレサス・レストレンジが小声で返事し、加勢しにいった。

 

ハリーは自分の両手を見て、〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)の魔法の効果がうすれてきていることに気づいて一瞬愕然とした。 よく見ると自分がうごくたび、空気の一部がゆがんで見えている……。

 

ハリーはおそるおそる後退し、角をまがって壁のむこうに隠れた。 そして通信鏡をとりだすと……通信は妨害され、画面にはなにも映っていなかった。 それはそうか、と思い、鏡を浮遊させて空中に置き、曲がり角のむこうが見えるようにする。そしてこの……陽動かなにかのなりゆきを見まもる。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

スプラウト先生と偽スーザン・ボーンズの戦闘で、閃光と葉が舞っている。 緑色に燃える〈強化ドリルの呪文〉が空中に出現して、スプラウト先生の防壁にぶつかり、防壁の外層が途中まで削りとられる。 スプラウト先生は向きをかえて、呪文のドリルが出現したあたりを黄色の光で一掃する。しかしその光がなにかに命中したようには見えない。

 

黄色の炎、青色の結晶、黒緑色の(つた)、紫色の花びらの渦……。

 

そこでスプラウト先生が赤色の弧を四方に発射し、発射された刃のひとつが空中でなにかに引っかかった。赤色の弧が吸収されて消えていくのをとめることはできず、〈不可視のマント〉の存在があらわになった。レサスは〈不可視のマント〉を着たまま床にたおれた。

 

その時間をつかって偽スーザン・ボーンズが足をとめ、息をついでから、なにかをさけんだ。それを聞いてハリーはまた不意に恐怖を感じた。 白色の電撃がスプラウト先生の防壁の穴と植物鎧を貫通し、スプラウト先生はたおれた。

 

偽スーザン・ボーンズは床にひざをついた。呼吸は激しく、ローブ全体が汗で濡れている。

 

そのまま周囲を見わたす。周囲のたおれた生徒たちは、失神しているか(つる)に巻かれている。

 

「……なにこれ?」と偽スーザンが言う。「なにこれ? なんなんだよ、これ?」

 

どこからも返事はない。 スプラウト先生の(つた)の犠牲者は息はしているように見えるものの、みな動かない。

 

「マルフォイ……。」 息切れがおさまらないピンク色の髪の毛の偽スーザンが言う。 「ドラコ・マルフォイ、どこいった? そこにいるんじゃないの? なんで〈闇ばらい〉を呼ばないんだよ。 ああもう——『ホミナム・レヴェリオ』!」

 

するとハリーの隠蔽がとかれ、同時に鏡をとおして、きらきらと光るマントにつつまれて透明でなくなりつつあるドラコ・マルフォイのすがたが見えた。ドラコ・マルフォイは青色の煙柱のなかで偽スーザンの背後に立ち、偽スーザンに杖をむけていた。

 

ハリーのなかで思考が光のように遅く、そして速くめぐり、ハリーはくちをひらくと同時に息をすって声をだす準備をした。

 

『星座を警戒せよ』

りゅう座(ドラコ)という星座

犯人が教員をあやつれるなら当然生徒も

 

「伏せろ!」とハリーはさけんだが間にあわず、偽スーザンの背に赤色の閃光が直撃し、彼女は床にたおれた。

 

ハリーは角からでて「『ソムニウム』『ソムニウム』『ソムニウム』『ソムニウム』『ソムニウム』『ソムニウム』」と言った。

 

ドラコ・マルフォイが光っている状態のまま、がくりとたおれた。

 

ハリーは一息ついてからすぐに〈失神の呪文(ステューピファイ)〉をとなえ、確実にそれがドラコ・マルフォイに命中したことをたしかめた。

 

(『ソムニウム』は命中したと思ったのが誤認であったりもする。 ハリーはそういう展開がホラー映画でありがちだと知っているし、〈太陽部隊〉の一件を思えば、あの失敗をまたくりかえす気にはなれない。)

 

そう考えてから、ハリーは〈失神の呪文〉をもう一発、うつぶせにたおれて動かないスプラウト先生にあてた。

 

ハリーは杖を強くにぎり、ぜえぜえと息をしながら、じっと周囲の光景を見た。 〈守護霊〉でダンブルドアに連絡をとるだけの魔法力はもうない。またしてもすぐにその行動を思いつけなかったことが悔やまれる。 鏡への妨害がもうおさまったのではないかと思い、落ちた鏡のところにいこうとする。

 

しかしそこでためらいがあった。

 

自分からのメッセージには、〈闇ばらい〉にさとられるな、ともあった。そしてここでいまなにが起きているのかが、()()()()()()()()()

 

床にくずれおちているクィレル先生がまた何度か激しく咳をし、そばの壁に片手をのばして、ゆっくりと立ちあがろうとする。

 

「ハリー。」とクィレル先生が苦しそうな声で言う。「いるか? ハリー。」

 

クィレル先生にファーストネームで呼ばれるのはこれがはじめてだった。

 

「いますよ。」  意識して考えるまえに、足がまえに動きだす。

 

「おねがいだ……もう時間が……ない。 どうか……わたしを……鏡まで……連れていってくれ……〈石〉を手にいれるのを……助けてくれ。」

 

「〈賢者の石〉を?」と言ってハリーは周囲に散らばって倒れた人たちを見わたすが、ドラコのすがたはもうない。曝露の呪文の効果は切れたようだ。 「ミスター・ノットの話は、あっていたということですか? ダンブルドアがそんな——」

 

「いや——もしダンブルドアなら——スプラウトを——」とクィレル先生が切れぎれに話す。

 

「わかりました。」  ダンブルドアが黒幕だったなら、〈記憶の魔法〉をつかうために教師を操縦する必要はない。

 

「鏡は……古代の遺物……あらゆるものを隠す…… そこに〈石〉があるやも……〈石〉をもとめる者は他にも多く……その一人がスプラウトを……」

 

ハリーは急いで復唱する。 「この下にある鏡は古代の遺物で、ものを隠す機能があるから、〈賢者の石〉の隠し場所候補である。 〈賢者の石〉がもしその鏡のなかにあれば、とりにいこうとする人はいくらでもいる。 その一人がスプラウトをあやつっていた。これでその人物の真の目的が説明できる……。 そこまではいいとして……スプラウトをあやつっていた人物がなぜハーマイオニーをねらったのかは、説明がつきませんね?」

 

「ハリー、たのむ。」  クィレル先生の息づかいはいっそう苦しそうになり、話す速度は痛いたしいほどに遅い。 「これ以外……わたしが生きのびる望みはない……そして、いま分かった…… わたしは死にたくない……助けてくれ……。」

 

そのひとことで、なぜかほころびが生じた。

 

なぜかそれがすこしだけやりすぎに聞こえた。

 

スプラウト先生が到着した瞬間の乖離感、不信の停止がほころびる感覚がぶりかえす。 ハリーの〈内的批評家〉はすべてがつくりものであったと仮定して考えなおそうとしている。 タイミングといい、確率といい、おなじひとつの扉にこれだけの人数が集結したことといい、〈防衛術〉教授の必死さといい…… 現実感がなさすぎる。 しかし、冒険に呼ばれるまま走りだすのではなく、立ちどまってよく考えれば、()()()()()()かもしれない。 この一年で積みかさねられた経験がようやく結晶し、歴戦の戦士の勘のようなものが多少ははたらく。 過去の失敗を経て生まれたハリーのなかの本能が、このまま勢いで動けばあとで自分のばかさ加減を悔やむことになるぞ、()()それでいいのか、と言っている。

 

「そのまえに……そのまえに、すこし考えさせてください。」  ハリーは〈防衛術〉教授から顔をそむけ、床のあちこちで意識をうしなって動かない人たちに目をむける。 この一年、パズルのピースはいくつもあった。今回このひとつのピースが来たことで、すべてが組みあわさったりはしないだろうか……。

 

「ハリー……」と〈防衛術〉教授がとぎれとぎれに言う。 「ハリー、わたしはもう死にそうだ……」

 

あと一分遅れるかどうかでこの人の生き死にはかわらない。ハーマイオニーのときはともかく、まる一年病人であったこの人の生死を左右するのがちょうどこの最後の一分間である、なんていうことはありえない——

 

「わかってます! ()()()考えますから!」

 

ハリーは倒れた人たちを見つつ考えようとした。 疑っている時間も慎重になっている時間も裏を読む時間もない。最初に思いついた案で()()()()()()しかない——

 

ハリーのこころの奥で、言語化している余裕はないぞという指示とともに抽象的な思考の切れはしが飛びかう。非言語的な光のすじが交差し、内容レヴェルの問題を浮かびあがらせる。

 

——自分はいまなにに困惑させられているように思えるか——

 

——まずはとにかく、眼前の状況のなかで一番低確率に見える部分に注目すべきだ——

 

——単純な仮説ほど事実である確率が高い。余計な根拠を必要とする個別の低確率な仮説は捨てたほうがいい——

 

ここにはまずスネイプ先生が来ていて、それからクィレル先生が到着し、それからハリーが(〈逆転時計〉で)到着し、それから冒険者一行が到着し、(一行の一人であった)ドラコがいることがあばかれ、それからスプラウト先生が登場した。

 

あまりに多くの人間が()()()()この場に到着している。偶然にしてはできすぎている。あまりに多くの人間が、おなじ場所でおなじ五分のあいだに登場しすぎている。そこにはきっと、隠れたもつれ(エンタングルメント)がある。

 

スプラウトを操縦した人物がハーマイオニーに〈記憶の魔法〉をかけさせた黒幕でもあったとする。スプラウトは黒幕に命じられてここに来たということになる。

 

スネイプ先生はなんらかの()()が起きたあとで、総長にここを監視するように言われて来たのだと言っていた。黒幕がそれを陽動として起こしたのだとすると、セヴルスがここにいる理由も説明できる。

 

ドラコがその黒幕にあやつられていたのかどうかは、いまとなってはなんとも言えない。その説はとっさの思いつきだったにすぎない。ドラコは自分が通廊に乗りこもうとして偽スーザンをどけようとしていたのかもしれない——

 

いや、そういうふうに考えてはだめだ。逆だ。ドラコとその一行が見はからったようにあのときあの場にいた理由を()()してみろ 自問している時間はない ()()()()()()()()()() つまり、スプラウトをうごかしていた黒幕がドラコをここにこさせた、あるいはその切っかけをつくった、ということにする

 

これで三者の登場が説明できる。

 

ハリー自身は自分からのメモに命じられてここにやってきた。 これは時間旅行で説明できる。

 

のこるは〈防衛術〉教授。本人はスネイプを追ってきたのだと言ってはいた それはあまり理由になっていない気がするし謎が減った感じもしない ということはクィレル先生の登場タイミングもなんらかの方法で黒幕が仕組んだのかもしれないしぼくが時間ループにはいったこと自体もそうだったのかもしれない

 

ハリーの思考はそこでつまづいた。そのさきにどう推理をすすめればいいのかが分からない。

 

つまづいた足もとをただながめている時間はない。

 

ハリーの思考は立ちどまることなく、眼前の問題を別の方向から攻めていく。

 

クィレル先生はハーマイオニーの記憶操作をするために教師が必要だということから教師の一人があやつられていると推理していた するとスプラウト先生をあやつった人物はハーマイオニーを罠にかけて殺したということ するとスプラウト先生をあやつった人物はホグウォーツ内の事情に詳しいのにくわえて、〈死ななかった男の子〉とその交友範囲に個人的な興味をもっているのではないだろうか

 

そこでようやくハリーの精神は関係する記憶をはきだした。ヴォルデモート卿復活へのもっとも有力な手段はホグウォーツ城のなかに隠されているというダンブルドアの発言 ()()()()()()()()()() するとその復活手段は鏡のなかに隠されている〈賢者の石〉で ダンブルドアはなぜ一年生が侵入できる通廊にそんな鏡をおいたのか、いやその疑問は無視しろ、いまその疑問は重要じゃない クィレル先生は〈賢者の石〉には強力な治癒力があると言っていたからその点は整合性がある

 

けれど〈闇の王〉の手がとどかないよう鏡のなかに隠されているものが〈賢者の石〉だったとしたら、そのおなじ鏡のなかに〈防衛術〉教授の命を救いうる世界で唯一のものがあるということになって——

 

ハリーの精神はその推理のさきに急に不穏なものを感じて、ためらい、反射的に顔をそむけようとした。

 

しかし、ためらっている時間などない。

 

——それもまた偶然にしてはできすぎで あまりに低確率すぎる 手のこんだどんでん返しのある物語のなかに自分がいるのだということにでもしないかぎり

 

〈闇の王〉の存在を仮定するならクィレル先生も〈闇の王〉にあやつられていたのではないか クィレル先生の命を救うものがあるということにしてクィレル先生にそれを適切なタイミングで見つけさせて 〈賢者の石〉ですらないかもしれないその復活の手段をハリーとクィレル先生が鏡からとりだしたところで〈闇の王〉の化身か別の従僕が登場してそれを横取りする これなら()()()の同時性が説明でき、あらゆる偶然性が排除できる。

 

クィレル先生は最初から自分の命を救いうるものがこの鏡のなかにあると知っていて、ホグウォーツで〈防衛術〉を教える役目を引き受けたのもそのためであって、いまそれを実行に移そうとしているのでは いや、それならこれほど体調が悪化するのを待たずに実行してみない理由がないし、スプラウトがクィレル先生と同時に登場した理由も説明できない——

 

そこでハリーの精神が立ちどまり動けなくなる。

 

ハリーは自分の精神が見ようとしない方向にこころのなかの目をむけてみる。

 

自分からのメモには、星を見る者を助けよ、とあった。 未来の自分がそんなメモを送ってくるくらいなら、その時点では正しい行動だったと判断できていたということ——ただためらうなと言いたくてそう書いてきたのでは——

 

一縷の困惑が意識的注意の対象に格上げされる。

 

羊皮紙に暗号でつづられたあのメッセージは……一、二行、表現がすこし引っかるというか、自分自身がつかわなさそうな暗号で書かれているような気がした……

 

「ハリー……」と死にかけているクィレル先生の声がする。 「助けてくれ、ハリー。」

 

「もうすこしで終わりますから。」  ハリーはそうくちにしてから、たしかにあとすこしであることに気づいた。

 

逆に考えてみる。

 

〈敵〉の視点に立ってみる。独自にうごいている知的な〈敵〉の、こちらからは見えない位置にある視点に立って考えてみる。

 

ホグウォーツにはいま〈闇ばらい〉がいて、〈敵〉の標的であるハリー・ポッターは厳重な警備のもとにいる。 事件が起きそうだと思えば、ハリー・ポッターはすぐに〈闇ばらい〉を呼ぶか、アルバス・ダンブルドアに〈守護霊〉を送るだろう。 これをパズルとして、解法を考えてみると——

 

——ハリー・ポッター自身からハリー・ポッターへ〈逆転時計〉で送られてきたように見えるメッセージを偽造する。ハリー・ポッターはそれを見て、助けは呼ばず、〈敵〉ののぞみどおりの時間にのぞみどおりの場所に行く。自分を守るための防衛手段を標的自身が自主的にかいくぐる。 未来の自分自身がそう判断したのだからという権威をもってすれば、懐疑心という防衛手段をもかわすことができる。

 

別にむずかしいことでもない。 適当な生徒一人に〈記憶の魔法〉をかけて、ある封筒をハリー・ポッターから受けとってあとで返すことになっていると思わせればすむ。

 

〈記憶の魔法〉をかけることができるのは、〈敵〉がホグウォーツの教員だから。

 

〈敵〉はハリー・ポッターのポーチにある鉛筆とマグル紙を盗むという手間をかける必要すらない。 魔法性の羊皮紙に書かれたハリー・ポッターの筆跡を偽造すればいい。 偽造できるのは、〈敵〉が魔法省に要求された試験を実施し採点したばかりだから。

 

〈敵〉はドラコ・マルフォイを『星座』と呼ぶ。〈敵〉はハリー・ポッターが天文学に興味をもっていることを知っていて、〈敵〉自身も魔法族として〈天文学〉を受講し、あらゆる星座の名前を暗記していたから。 しかしハリー・ポッター本人がドラコ・マルフォイを暗号で呼ぶなら、自然に思いついたであろう単語は『弟子』である。

 

〈敵〉はクィレル教授を『星を見る者』と呼び、ハリー・ポッターにその人を助けよと命じる。

 

〈敵〉は『ディメンター』が〈ヘビ語〉で『命食い』になることを知っている。ハリー・ポッターが〈闇ばらい〉をディメンターの同盟者だと見なすであろうことも知っている。

 

六時四十九分を『六と七の自乗』と表現するのは、〈敵〉がハリー・ポッターにもらったマグル物理学の本を読んだから。

 

その〈敵〉の正体は?

 

ハリーは自分の呼吸がはやまり、心拍数があがっているのに気づいたので、息をおちつけた。クィレル先生が()()()()()()()()

 

仮にクィレル先生が黒幕でハリーのメッセージを偽造したのだとすると、この場にこの五組が喜劇的なタイミングで同時に登場した原因も説明できる スプラウト先生についても、あとで〈偽記憶の魔法〉をつかった教師はだれかとなったときに身代わりできるようにクィレル先生があやつっていたということだ ただ

 

ただ、クィレル先生だったとしたら、なぜあの偽装殺人事件でハリーとドラコのもともと脆弱な同盟関係を揺るがすようなことをするのか

 

(……ドラコにつけておいた監視器で『検知』してドラコを『救出』したのだという体裁で)

 

クィレル先生だったとしたら、なぜハーマイオニーを殺すのか

 

(……それ以前にハーマイオニーを一度排除しようとして失敗したのだとすれば)

 

クィレル先生が敵だったとしたら、クィレル先生がホークラックスについて言ったことはすべてうそだったかもしれない。クィレル先生の命を救う唯一の手段だというものが〈闇の王〉復活の手段でもあったのは偶然でもなんでもないのかもしれない いやそれも〈闇の王〉がなんらかの方法で仕組んだことだったとしたら

 

(……デイヴィッド・モンローがかつて謎の失踪をとげ、〈闇の王〉の手にかかって死んだとされるのも)

 

ここまでのどの推理とも別の、言語化できない不吉な直観がハリーを襲う。 ことばにできる範囲で言えば、ハリーと〈防衛術〉教授はいくつかの面でとてもよく似ているということ、〈逆転時計〉を利用してメッセージがとどいたように見せかけることで標的が用意していた防衛手段をまるごと回避するというのはいかにもハリー自身がしそうな発想であるということ——

 

ようやくそのとき、ごく初期の段階で気づいていてしかるべきだった事実に、ハリーは思いあたった。

 

◆ ◆ ◆

 

クィレル先生はあたまがいい。

 

クィレル先生はハリーとおなじ意味であたまがいい。

 

クィレル先生はハリーの謎の暗黒面とまったくおなじ意味であたまがいい。

 

〈死ななかった男の子〉はいつ、謎の暗黒面を身につけたか。そう問われてすぐに思いつくべき回答は、一九八一年十月三十一日の夜。

 

◆ ◆ ◆

 

そして

そして

そしてクィレル先生は、ベラトリクス・ブラックが〈闇の王〉以外には秘密であると思っている合いことばを知ってもいた。クィレル先生に〈死ななかった男の子〉がちかづくと破滅の感覚が生じもした。クィレル先生の魔法力がハリーの魔法力と干渉すると暴走する。そしてクィレル先生の得意技はアヴァダ・ケダヴラで、それで——それで——

 

そう気づくと、ハリーの精神のなかで巨大なダムが崩壊し、ためこまれた水がすべて流れだして、あるものすべてが問答無用で押し流される。

 

ここまでの観察結果すべてを生成する現実がひとつだけある。

 

複数の観察結果がたがいに矛盾する結論をみちびくように見えるのは、まだ自分の考えがおよんでいないところに真の仮説があるからだ。

 

そういう場合、やっとただしい仮説に思いあたると、思いあったたその瞬間にすべてがそこに組みあわさる。否認や恐怖、どんな疑念や感情も寄せつけず、解が完成する。

 

——つまり、『デイヴィッド・モンロー』と『ヴォルデモート卿』とは〈魔法界大戦〉の両陣営を演じていた一人の人間にすぎず、だからこそ、ムーディも推測していたとおり、『デイヴィッド・モンロー』の存在が知られるまえにモンロー家は皆殺しにされたのであって——

 

現実が観察結果の集合をコンパクトに生成する単一の既知の状態に収束する。

 

ハリーは飛びあがることも、息づかいを変えることもなく、自分のなかにあふれる驚愕と苦悶の感情をいっさい外にださないようにする。

 

〈敵〉は背後にいて、こちらを見ている。

 

「わかりました。」  ハリーは平常どおりの声をつくろえるようになるとすぐに、そう声にした。 しかし表情はつくろえている気がしなかったので、顔は倒れた人たちのほうをむいたままでいる。 なにげなく見えるように片手をもちあげて、袖でひたいの汗をふく。 ハリーは自分の汗をとめることも、胸の鼓動をおさえることもできない。 「〈賢者の石〉をとりにいきましょう。」

 

あとはこれからの道すがら、どこかでほんの一瞬の隙ができたとき、〈逆転時計〉をつかいさえすればいい。

 

背後の人は返事をしない。

 

無言の時間がつづく。

 

ハリーはゆっくりと背後をふりかえる。

 

クィレル先生は笑顔で、直立している。

 

〈防衛術〉教授の片手にある黒い金属製のなにかがハリーの杖腕にむけられている。そのにぎりかたは、あきらかに半自動拳銃のあつかいに慣れた人物のそれだった。

 

くちのなかが乾いていて、くちびるもアドレナリンのせいで震えている。それでもハリーはなんとか声をだすことができた。 「こんにちは、ヴォルデモート卿。」

 

クィレル先生は目礼してから返事した。 「こんにちは、トム・リドル。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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105章「真実(その2)」

『トム・リドル』。

 

その二語がハリーのあたまのなかに反響し、つかのまの共鳴が生まれては消え、補完しあおうとする壊れたパターンの群れが散っていくように感じられた。

 

トム・リドルは

 

トム・リドルが

 

〈リドル〉

 

いま注意力をそそいでいるべきことはそれではない。

 

クィレル先生がこちらに銃をむけている。

 

ヴォルデモート卿はなぜかまだ引き金を引いていない。

 

ハリーはしぼりだすように声をだした。 「ぼくをどうするつもりです?」

 

「殺す……などという答えは当然ありえない。殺したければ、そうする時間はこれまでにいくらでもあった。 ヴォルデモート卿と〈死ななかった男の子〉の運命の対決など、ダンブルドアの想像の産物にすぎない。 わたしはおまえの家族がいるオクスフォードの家の場所を調べることができる。狙撃銃というものもよく知っている。 こちらにその気があれば、おまえは杖を手にするだけの猶予もなく死んでいる。 それくらいは当然わかっているな? トム。」

 

「ええ。」  ハリーはそう小声でこたえた。 震えがまだとまらず、脳内にはトラを目にして逃げるときに適したプログラムが走っていて、精緻な呪文をかけるプログラムや()()()()プログラムは止まっている。 それでも、こちらに銃をむけてきているこの人がいまこちらになにを求めているのか、どんな問いを待っているのかというと……ひとつ思いあたることがあった。 「なぜぼくのことをトムと?」

 

クィレル先生はハリーにむけた視線を動かさない。 「なぜわたしがおまえをトムと呼ぶか。答えてみろ。 おまえの知性はわたしが期待していたほどではなかったが、この程度のことは理解できるはずだ。」

 

ハリーの脳がその問いのことを考えるまえにハリーのくちは答えを知っていたようだった。 「トム・リドルはあなたの、ぼくたちの名前。 つまりそれがヴォルデモート卿。いまそうでないとしても、以前は——多分。」

 

クィレル先生はうなづいた。 「すこしはよくなった。 おまえはすでに一度〈闇の王〉を倒したが、二度とそのようなことは起きない。 わたしはハリー・ポッターのかけらのみを残して滅ぼし、われわれのたましいの異なりをなくし、同じ世界に共存できるようにした。 つまりわれわれ二人が対決することは無意味だ、ということが分かるはずだ。ならば冷静に見て自分の益になる行動をとったほうがいいと思うがね。」  銃がぴくりとはね、ハリーのひたいに汗のつぶが浮いた。 「杖を捨てろ。」

 

ハリーは杖を捨てた。

 

「杖から離れろ。」

 

ハリーはそのとおりにした。

 

「手をくびに近づけろ。 〈逆転時計〉の鎖だけをつまんで、くびからはずせ。 〈逆転時計〉を床に置け。置いてから、もう一歩下がれ。」

 

ハリーは今度もそのとおりにした。 茫然自失の状態はつづくが、途中でなんとかして隙をついて〈逆転時計〉を回転させて形勢逆転できないか、という思考もはたらく。 しかし相手はもうきっと、逆の立ち場の自分はまさにそういうチャンスを探すであろうと想像しているにちがいない。

 

「ポーチをはずして、それも床に置け。置いてから一歩下がれ。」

 

ハリーはそのとおりにした。

 

「よし。ではこれから、わたしは〈賢者の石〉を手にいれに行く。 ここにいる四人の一年生は、直近の記憶を適宜〈忘消〉(オブリヴィエイト)して当初の目的のみ記憶している状態で連れていくつもりだ。 スネイプについては、支配下において扉の番をさせる。 一仕事すんだ段階で、わたしのもうひとつの正体に対する数々の裏切りの代償として、スネイプには死んでもらう。 将来継ぐ家のある三人の子どもたちについては、そのあともわたしの手もとにおき、忠誠心を植えつける。 はっきりさせておくが、わたしは人質を確保してある。 すでに起動ずみの呪文の効果で、これからホグウォーツ生数百人が死ぬ。 わたしが〈石〉を入手できれば、〈石〉をつかってその呪文を停止することができる。 わたしが〈石〉の入手を妨害されるか、呪文を停止しないという選択をすれば、おまえが友人と見なしている生徒たちも含めて、数百人の生徒が死ぬ。」  クィレル先生はまだおだやかな声で話している。 「こう聞くと、自分の利益がいくらかおびやかされているような気がしないかね? むしろ『しない』という返事を聞きたいところだが、それは高のぞみにすぎるだろう。」

 

「できれば……」  ハリーは恐怖、心痛、そして感情的なつながりがずぶりずぶりと短剣で切り刻まれるような思いをのりこえて、声をだす。 「それはやめてもらえませんか。」 どうして……クィレル先生、どうしてこんな風に…… ぼくはこんな……こんなことが起きていていてほしくない……

 

「そうだな、では…… 特別なはからいとして、 わたしのもとめるものを考えて差しだすことを許す。」  銃が招くような動きをする。 「これは滅多に許されることではないぞ。 ヴォルデモート卿はふだん、欲しいものについて交渉しない。」

 

ハリーの精神の一部が必死に、なにか価値のあるものはないか、ヴォルデモート卿とクィレル先生にとって子どもの人質とセヴルスの死より価値あるものがあるとすればなにか、と考えようとする。

 

別の、考えることをずっとやめていなかった一部は、すでにその答えを知っていた。

 

「あなたはぼくになにを差しださせたいかをすでに考えている。」  ハリーは不快感と流血しつづけている魂の傷をのりこえて話す。 「それはなんです?」

 

「〈賢者の石〉を入手することへの協力。」

 

ハリーはごくりと息をのんだ。 目がつい、銃とクィレル先生の顔とのあいだを何度も行き来する。

 

児童書の主人公ならここで断わるのだろうが、現実にそういう状況におかれてみると、断るという選択は合理的に見えない。

 

「考えなければ分からないようなことではないはずだが。 あらゆる面で優位にある相手にはひとまず服従するほかない。 この種の状況では負けるふりをすべきだということは教えたはずだ。 ここで抵抗してもおまえには苦痛のほかなんの利益もない。 返事が遅れるほどこちらの不信を買うだけだという計算くらいはできていてほしいところだ。」  クィレル先生の目が興味ぶかげにハリーを観察する。 「高貴な不服従などというたわごとをダンブルドアに聞かせられでもしたか? わたしはとっては、その手の倫理は容易に利用できるのがおもしろい。 わたしは不服従を非倫理的な選択のように見せかけることができる。それをわたしが実演してみせるまえに服従したほうが得だということは忠告しておく。」  銃をハリーにむけたまま、クィレル先生は別の手をひとふりした。トレイシー・デイヴィスが空中にもちあがり、ぐったりと回転し、手足が大の字にひろげられ——

 

——それを目にしたハリーの心臓にまたアドレナリンが流れこもうとすると同時に、トレイシーは床におろされた。

 

「選べ。これ以上わたしの忍耐を試したくなければ。」

 

トレイシーの足がちぎりとられかねなかった時点で、さっさと返事をしているべきだった。いや、それではだめだと総長が言っていた。一度人質をとられて脅迫に応じてしまえば、ヴォルデモート卿はもっと人質をとって脅迫することをくりかえすだけ——といってもあれは()()のためというより()()()()()()()()()()()()()()()ための言動ではないか——

 

ハリーはゆっくりと息をすうことを何度かくりかえした。 自分を自動操縦でうごかしている自分のなかのどこかの部分が、そのほかの部分にむけて()()()()()()()()()()()()()()と叫んでいる。 自失させられていた時間の長さは有限で、神経細胞はそのあいだも発火をやめなかった。脳がうごきつづけているのに精神が停止するのだとすれば、停止するのだという()()が自己モデルのなかにあるからにすぎない——

 

「忍耐を試すつもりではありませんでした。」  ハリーは自分の声が震えているのに気づいた。これでいい。 まだ衝撃から立ちなおっていないように思ってもらえれば、余分に時間がかせげるかもしれない。 「ただ、ヴォルデモート卿が取り引きの条件を守るという評判は聞いたことがありません。」

 

「その疑問はもっともだ。 答えは単純で、おまえが聞きたくなくとも聞かせるつもりでいた。 蛇ハ 嘘ヲ ツケナイ。 わたしは愚かなふるまいをされることに心底我慢がならない。『どういう意味ですか』などという質問はまちがっても口にするな。 その程度のことは理解できるはずだ。わたしは凡庸な人間がおこなうそのたぐいの会話で時間を無駄にするほど暇ではない。」

 

ハリーはごくりと息をのんだ。 ヘビはうそをつけない。 「2 タス 2 ハ 4。」  『二たす二は三』と言おうとしたのに、『四』が勝手にくちをつく。

 

「そう。 サラザール・スリザリンは自分自身とその子孫に〈ヘビ語〉の呪いをかけた。その真の狙いは、外部に対してはどんな謀略をめぐらしていようとも、一族内部ではおたがいのことばを疑う必要がないようにすることにあった。」  クィレル先生は使い古した仮面をつけるようにして、〈戦闘魔術〉を教えるときとおなじ態度で話す。しかし銃口はかわらずこちらにむけられている。 「〈閉心術〉による偽装は〈真実薬〉には通用するが〈ヘビ語〉には通用しない。これも試したければ試してみるがいい。 つぎにわたしが言うことをよく聞け。 ワタシニ 同行セヨ。ワタシガ 〈石〉ヲ 入手スルコトニ 最善ヲ 尽クシテ 協力スルト 約束セヨ。サスレバ ワタシハ アノ 子ドモタチヲ 無傷デ オク。 人質ハ 実在スル。発動済ミノ 仕組ミヲ ワタシガ 止メナイ カギリ 何百人モノ 生徒ガ 今夜 死ヌ。 〈石〉ヲ 入手シタ アカツキニ ワタシハ 人質ヲ 解放スル。 そしてこれも胸に刻むがいい。 ワタシハ ワタシガ 知ル イカナル 手段デモ 真ニ 殺サレル コトガ ナイ。仮ニ 〈石〉ヲ 逃ガシテモ ワタシノ 復活ハ 妨ゲラレナイ。オマエヤ オマエノ 仲間ハ 報復ヲ マヌガレナイ。 考えても無駄だ。この勝負、どんな無茶をしようともおまえに勝ち筋はない。 わたしをいらだたせることにかけておまえが優秀であることは、わたしも認める。ここでそれを発揮しないのが身のためだ。」

 

「以前あなたは……」  自分の声が自分の耳にも変にひびく。 「〈賢者の石〉には伝説で言われている効果とは別の効果があると言っていましたね。 〈ヘビ語〉で。 手つだうと返事するまえに、〈石〉の真の効果をおしえてもらえますか。」  もしそれが宇宙を完全に支配する能力とかいうものであれば、なにを犠牲にしてでもヴォルデモート卿にそれを入手される可能性を増大させるべきではない。

 

「ああ。すこしは思考をはたらかせているな。もうひとつ、協力に対する報酬を提示しよう。 不老不死。金と銀の生成。 これらが実際に〈石〉から得られるのだと仮定すれば、どうなる。 〈石〉に秘められた効果はなにか。答えてみろ。」

 

まだおさまらないアドレナリンのおかげか、自分の脳がめずらしく働いてくれたのか。 それとも、伝承は事実であり、そこに解はあると告げられたおかげか。 「〈転成術〉を永続させるという効果。」

 

自分のくちからでたその答えを聞いて、ハリーははっとした。

 

「正解だ。つまり、〈賢者の石〉を手にした者は人体を〈転成〉できるようになる。」

 

ハリーは提示された報酬の意味に気づくと、ただでさえ揺れているこころをまた殴りつけられたような思いがした。

 

「おまえはミス・グレンジャーの遺体を盗んで〈転成〉し、なんの変哲もない物体に変えた。 〈転成〉を維持するには、〈転成〉後の物体をおまえ自身がいつもどこかに身につけていなければならない。 ああ、その手の指輪に目がいったな。しかし無論、その指輪の宝石がミス・グレンジャーであるわけがない。 おまえなら、そんなあからさまな手はとらない。 グレンジャーの遺体を指輪そのものに〈転成〉し、宝石にかけた〈転成術〉のオーラで指輪の〈転成術〉の魔法力をごまかす、というところだろう。」

 

「はい。」  しぼりだすように言ったこの答えはうそであり、指輪に視線をむけたのもわざとだった。 この鋼鉄の指輪について問いただされることは想定ずみだった。自分からそう誘って無実を二度証明しようという狙いだったが、実際に怪しんだ人はいなかった——ダンブルドアは単純にこの鋼鉄それ自体が魔法力をおびていないことを感知していたのかもしれない。

 

「よろしい。ではこうしよう。おまえがわたしに同行し、わたしが〈石〉を入手するのを助けたあかつきに、わたしはハーマイオニー・グレンジャーを生きかえらせる。 彼女の死はおまえに好ましくない影響をもたらした。わたしはそれを取り消してやってもいいと思っている。 わたしの理解では、おまえは彼女を生きかえらせることを切実に望んでいる。 わたしはこれまでにもおまえにいろいろな計らいをした。必要なら、もう一度そうするにやぶさかではない。」  スプラウト先生がうつろな目で立ちあがり、杖をハリーにむけている。 「ワタシガ 〈転成術ノ石〉ヲ 入手スルノヲ オマエガ 助ケタ アカツキニ ワタシハ 最大限ノ 努力ヲ シテ オマエノ 女児ノ 友人ヲ 生キカエラセ、真ノ 持続スル 生命ヲ 取リ戻サセル。 ナオ、ワタシノ 忍耐ハ モウ 間モナク 限界ニ 至ル。ソノ後ニ 来ル デキゴトヲ 見テ オマエハ 後悔スル。」  最後の一文はいまにも襲いかかりそうな姿勢をとったヘビを思わせる声色で発された。

 

◆ ◆ ◆

 

それでも。

 

衝撃につぐ衝撃で世界がひっくりかえされて、それでもハリーの脳は脳であることをやめず、回路は自分に組みこまれた機能でパターンを完成させることをやめない。

 

いま聞かされた提案は、こちらに銃をつきつけている相手がする提案としては、不自然なまでに好意的だ。

 

あちらが〈賢者の石〉を魔法の鏡からとりだすために、こちらの助けを()()()()()必要としているのでもないかぎり。

 

作戦を考えている時間はない。ないのだが、クィレル先生がそこまでして協力をもとめているなら—— 協力することと引きかえに、以後だれ一人殺さないという約束を()()()()()……けれど答えは『ふざけたことを言うな』であるような気がしてならない……なにげない会話をしている時間もないし、安全な範囲でどこまでのことを要求できるか、予想してみるしかない——

 

クィレル先生の目つきがするどくなり、閉じていたくちびるが開く——

 

「もしぼくが手を貸したら…… この仕事が終わってから即座に手を切るつもりはないという約束をしてもらいたいです。 すくなくとも一週間はスネイプ先生を殺すこともホグウォーツ内のほかのだれを殺すこともしないと約束してもらえますか。 そしてぼくは謎の答えを知りたい。これまでのできごとすべての真相、ぼくの本質について知っていることすべてを話してください。」

 

感情のこもらない淡い水色の目がハリーにむけられた。

 

もっとちょっとましなことが要求できたんじゃないかと思うが——とハリーのなかのスリザリン面が言う。 まあたしかに時間はかぎられているし、どんな仕事をやることになるにしろ、答えを知るのは役立つか。

 

いまはそんな声にとりあってはいられない。 銃をもっている男に対して自分が言ったことを自分で聞きながら、背すじに寒けが走りつづけている。

 

「それが協力する条件だということか。」

 

ハリーは返事をことばにできず、ただうなづいた。

 

ヨカロウ。 ワタシヲ 助ケタ アカツキニ、オマエハ 答エヲ 知ル。将来ノ 計画デナク 過去ニ ツイテノ 問イデアル カギリ、ワタシハ 答エル。 オマエガ ワタシニ 物理的・魔法的 攻撃ヲ シナイ カギリ、ワタシハ 将来 オマエニ 物理的・魔法的 攻撃ヲ スル ツモリガ ナイ。 一週間、ヤムヲエナイ 場合ヲ 除キ、学校内ノ 誰モ 殺サナイ。 ワタシニ 逆ラッテ 通報ヤ 逃亡ヲ 試ミナイト 約束セヨ。 最善ノ 努力ヲ 費シテ ワタシニ 協力シ 〈石〉ヲ 入手サセルト 約束セヨ。 ソノアカツキニ ワタシハ オマエノ 女児ノ 友人ヲ 生キ返シ、真ノ 生命ト 健康ヲ 取リ戻サセル。以後 ワタシヤ ワタシノ 配下ノ 者ガ 彼女ヲ 傷ツケヨウト スルコトハ ナイ。」  ゆがんだ笑み。 「約束セヨ。ソレデ 取リ引キ 成立ト スル。

 

「約束します。」とハリーは小声で言った。

 

待てよ——とハリーの内面の各部分が声をあわせた。

 

いや、まあ相手はまだこちらに銃をつきつけているんだから、詰まるところこちらに選択肢はない。できるかぎり譲歩を引きだすのが関の山——とスリザリンが言う。

 

なにを言うんだ。ハーマイオニーはそれでよろこぶと思うか? 相手はヴォルデモート卿、これまでもこれからも数え切れないほどの人を殺す人物なんだぞ?

 

ハーマイオニーのためにヴォルデモート卿と手を組もうとしている、と表現してほしくはないね——とスリザリンが言う。 銃があるのは事実だし、いずれにしろこちらには相手を止める手立てがない。 それと、ママとパパにきけばきっと、話にのって身の安全を確保しろ、と言われると思う。

 

クィレル先生がハリーを見る視線はゆるがない。 「全文を〈ヘビ語〉で復唱しろ。」

 

アナタガ 〈石〉ヲ 入手スル コトニ 協力スルト 約束スル……最善ノ 努力ヲ スルトハ 約束 デキナイ。本心カラ ヤリタイト 思エソウニ ナイ。 努力ハ スル ツモリ。 アナタヲ 無闇ニ イラダタセルダロウト 思エル コトハ シナイ。 助ケヲ 呼ンデモ 来タ人ガ アナタニ 殺サレルカ 人質ガ 死ヌ 結果ニ ナリソウナラ 助ケヲ 呼ブ コトモ シナイ。 申シ訳 ナイ ケレド、ボクニ デキルノハ ソコマデ。」  ハリーの精神は決断を終えて落ちつきはじめている。 まずクィレル先生に同行し、いっしょに〈石〉を手にいれ、人質にされた生徒を救って……それから……そのあとのことは分からないが、とにかく考えつづける。

 

「本気で申し訳ないと言うのか?」  クィレル先生はおもしろそうな表情をしている。 「ではその条件で手を打とう。 あと二点、言っておくことがある。 仮ニ 学校長ガ 登場シテモ ワタシニハ 彼ヲ 止メル 方策ガ アル。 そして、これからおまえにはときどき〈ヘビ語〉でおまえが裏切っていないかどうかを言ってもらう。取リ引キハ 成立シタ。

 

◆ ◆ ◆

 

それからスプラウト先生がハリーの杖をひろい、つやのある布でつつみ、床に置いてから、自分の杖をまたハリーに向けた。 クィレル先生はそれを待って銃をおろし(銃は手のなかに消えたように見えた)、布につつまれたハリーの杖をひろって、ローブにいれた。

 

〈真の不可視のマント〉は眠らされたレサス・レストレンジからはがされ、ハリーのポーチと〈逆転時計〉とともに、クィレル先生の手にわたった。

 

クィレル先生はそれからその場にいる生徒全員に広域版の〈忘消〉(オブリヴィエイト)をかけ、さらに対象者が自己暗示でかってに自分の記憶の空白をうめるという種類の〈偽記憶の魔法〉をかけた。 そして浮遊させられたスプラウト先生が眠っている生徒たちの上を飛びこえて、〈薬草学〉関係の事故でもあったときのように不愉快そうに眉をひそめた顔で去っていった。

 

クィレル先生はハリーに背をむけ、床でのびている〈薬学〉教授に向かい、かがんでそのひたいに杖をあてた。 「アリエニス・ネルヴィス・モービレ・リグヌム」

 

〈防衛術〉教授は一歩さがって、空中で操り人形の糸を引くように左手の指をうごかしはじめた。

 

スネイプ先生はなめらかなうごきで床に手をついて起きあがり、廊下の扉のまえで番をする位置についた。

 

「アロホモーラ。」と言ってクィレル先生は禁断の扉に杖をむけた。表情は愉快そうに見える。 「では、この役目はまかせる。」

 

ハリーはごくりと息をのんで、もう一度、二度逡巡した。

 

自分勝手なことではなく、こころの奥では()()()()()()とわかっている。そういうことでも、人間はなぜかできてしまうものらしい。

 

しかし背後の男は銃をもっている。ハリーが逡巡しはじめたとき、銃は男の手のなかにもどっていた。

 

ハリーは扉のノッカーに手をのせ、数回深く息をすいなおしてから、できるかぎり冷静さをとりもどそうとする。 このまますすんで、撃たれずにやりとげる。人質を死なせない。現場にいて、起きるできごとを最適化し、機会を見のがさず、機会がありしだいつかまえられるようにする。 これがよい選択だとは言えないが、ほかにもっとよい選択肢があるようにも見えない。

 

ハリーは禁断の扉を押し、そのさきへ足をふみいれた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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106章「真実(その3)」

ダンブルドアの禁断の空間に足を一歩ふみいれて、すぐにハリーはひっと声をあげて飛びのき、スネイプ先生に衝突した。二人は重なって倒れた。

 

スネイプ先生は自力で起きあがり、もとのように扉のまえに立った。 顔がハリーのほうを向いた。 「わたしは総長の命令でこの扉の見張りをしている。」  スネイプ先生はふだんどおりの皮肉な口調で言う。 「寮点を減らされたくなければ、すみやかに去れ。」

 

その様子は心底不気味だったが、ハリーの注意力は飛びかかってきていた巨大な三頭犬にうばわれていた。三頭犬はあと数メートルのところで、三つのくびにかけられた鎖によって止められていた。

 

「あ——あ——あれは——」

 

「そう。」とクィレル先生がだいぶうしろから言う。 「一年生にはとくに念を押して立ち入りが禁じられたこの空間の住人があの三頭犬というわけだ。」

 

「あれは魔法界の水準でも安全とは言えませんよ!」  部屋のなかで、巨大な黒い獣は三つのくちから白い唾液を振りまわし、三重の吠え声をあげている。

 

クィレル先生はためいきをついた。 「あれには魔法がかけられていて、生徒が来ても食べようとせず、扉の外に吐きだすことしかしない。 さて、われわれはあの猛獣にどう対処するのが適切だと思う?」

 

「ええと……」  吠えるのをやめない門番のほうに気をとられて考えるのが遅れ、即答できない。 「そうですね…… もしあれがオルペウスとエウリュディケーのマグル神話にでてくるケルベロスみたいなものだとすれば、歌で眠らせて、その隙に通り抜けるしか——」

 

「アヴァダ・ケダヴラ」

 

三頭犬が床にころがった。

 

クィレル先生をふりかえると、ひどく見そこなった、これまでの授業に一度でも出席していれば分かったはずの問題だ、と言いたげな表情だった。

 

「ぼくはただ……」と言ってハリーはまだ息を落ちつけようとしている。 「一年生がつかいそうにない方法でこの関門を通りぬけると、()()が作動したりするのではと思っただけです。」

 

「うそだな。おまえは自分が教わったことを思いだして実践することができなかった。それだけだ。 警報については、わたしが何カ月もまえから結界や注意書きのたぐいに細工して、作動しないようにしてある。」

 

「それならなぜぼくをさきに行かせたんです?」

 

クィレル先生はただ笑みを浮かべた。ふだんよりずっと邪悪に見える笑みだった。

 

「いえ、忘れてください。」と言ってハリーはゆっくりと部屋の内部に足をふみいれた。手足がまだ震えている。

 

部屋は全面が石でできている。壁がところどころ丸くくりぬかれ、そこから淡い水色の光が出ている。灰色の(そら)の光が窓を通してはいってきているかのようだが、外に通じる窓はない。 奥の床面に木製の扉がつけられていて、扉には輪がひとつだけついている。 部屋の中央部には三つの頭をもつ死んだ巨犬が横たわっている。

 

壁がくりぬかれている場所の一つをのぞきこむと、光源なき青い光以外にはなにもない。そこで、つぎのくぼみへと移動し、同時に途中の壁も検分する。

 

「それはなんのつもりだ?」とクィレル先生が言った。

 

「部屋の調査です。 どこかに手がかりとか、碑銘とか、あとで必要になる鍵があったりするかもしれないので——」

 

「それは本気で言っているのか。わざと遅らせようとしてのことか。〈ヘビ語〉で答えろ。」

 

ハリーはふりかえって答える。 「本気 ダッタ。一人デ 来タトシテモ 同ジコトヲ シタ。

 

クィレル先生は軽く自分のひたいをさすった。 「その考えかたも、たとえばアメンとセトの墓を探索する際には有用かもしれないから、愚かとまでは呼ばないでおくが。 この偽のパズル、見せかけの難題は、一年生(こども)のためにつくられたゲームでしかない。 ここは、まっすぐ扉をくぐって下階へすすむ。」

 

扉の下には巨大な植物があった。巨大な白絣草(ディフェンバキア)の中心柱から飛びだした大きな葉が何枚も重なり、螺旋状の階段のようになっている。色は通常のディフェンバキアより黒く、触手のような(つた)が中心柱から飛びでて垂れている。 底面には、落ちた人を受けとめるためであるかのように、ひときわ大きな葉と触手が広がっている。 下にはまた別の石室があり、そこでもおなじような偽の窓からおなじような灰青色の光が出ている。

 

「すぐ思いつくのは、ポーチにあるホウキで飛んで下降するか、重いものを落として触手が罠でないかをたしかめることですが。」と言ってハリーは下をのぞく。 「でもきっとあなたは、ただあの葉の上を歩いておりようと言うんでしょうね。」  たしかにあれは螺旋階段のつもりでおかれてあるように見える。

 

「わたしはあとから行く。」

 

ハリーは慎重に片足を葉にのせ、それがたしかに自分の体重をささえてくれることをたしかめた。 それからもう一度だけ、なにか見おとしがなかったかと思い、部屋のなかを見わたした。

 

死んだ巨犬ばかりに注意をひかれ、ろくにほかのものに集中することができない。

 

「クィレル先生。」  『そういうやりかたで障害物を排除していくのはある面で損ですよ』という部分は言わないでおく。 「だれかが扉のなかをのぞいて、あのケルベロスが死んでいるのに気づいたらどうしますか?」

 

「そのだれかはそれ以前にスネイプの異変に気づいているはずだ。 しかし、そこまで心配なら……。」と言ってから、 〈防衛術〉教授は三頭犬の死骸のところまで歩いていき、杖をあて、 ラテン語のような呪文を詠唱しはじめた。そこから不穏な感覚が生まれた。これまでずっとそうであったとおり、〈死ななかった男の子〉が〈闇の王〉のちからを感知しているのだった。

 

最後に聞こえた単語は『〈亡者〉(インフェリウス)』。そこでまた一度、『やめてくれ』という感覚が高まった。

 

三頭犬は立ちあがり、六つともうつろで濁った目で、また扉の番をしはじめた。

 

巨体の〈亡者〉を目にして、ハリーはひどく不吉な感覚をおぼえた。これまでの人生で下から三番目に最悪な感覚だった。

 

自分は以前、これとおなじ手順がラテン語の詠唱ぬきでおこなわれるのを見て、おなじ感覚をおぼえたのだ、ということに思いあたる。

 

〈禁断の森〉で対面したあのケンタウロスはもう生きていない。あのときの〈防衛術〉教授のアヴァダ・ケダヴラは、はったりではなかった。

 

こころの奥のどこかでハリーは、ハーマイオニーを()()()()()ことができさえすれば、だれも死なせないというバットマンの倫理にもどることができると思っていた。 ほとんどの人はどんな冒険をしてもだれも死なせることなく人生を終えることができているのだから。

 

もうその可能性はない。

 

その日が自分が勝利する最後の可能性が消えた日であることにすら、ハリーは気づいていなかった。 仮にハーマイオニーをよみがえらせることができたとして、この一連のすべてが、だれも死なせずにすんだという結末で終わることは、もはやありえない。

 

ハリーはあのケンタウロスの名前すら知らないままだった。

 

ハリーはその一切をここで話さない。話しても〈防衛術〉教授の反応は〈ヘビ語〉で認めるか、人間語で嘘をつくかのどちらかでしかなく、どちらであるにせよ、それは以後〈防衛術〉教授がハリーのつぎの行動を懐疑的に見るべき理由となる。 しかしハリーはすでに——まだ()()()()()クィレル先生をとめられるのかを知らず、裏切る行動はもとより裏切るという()()すら勝利がほぼ見えたときまでしないと決めているにもかかわらず——今後自分とヴォルデモート卿のあいだに友好的な歩み寄りがありえない、ということに気づいている。二つの異なるたましいは同じ世界に共存しえないから。

 

その決意、対立の認識を種として、ハリーが自分の暗黒面だとみなしていた部分にあるものが目ざめたようだった。 ハリーはトロルを殺した日以来、意識して暗黒面にたよることをやめていた。 しかしこの暗黒面はそもそもハリーから独立したなにかではなく、 トム・リドルの一部を再現してできたものだったのだ。 どんな方法でそうなったにしろ、とにかくそう仮定しておくとすると、暗黒面のなかにあるどんな認知スキルの残響も自由につかってかまわないことになる。 かつてハリー自身が想像していたような独立したモードとしてではなく、もともとは連結した全体の一部であったために連鎖して発火しやすいだけの、ただの神経パターンとして。

 

それでもやはり、クィレル先生にもおなじスキルがあること、それがはるかに大きな人生経験にささえられていることは変わらない。おまけに銃があることも。

 

向きをかえ、巨大な植物に自分の足をのせ、葉でできた螺旋階段をくだりはじめる。 今回は時間をかけすぎてしまったが、ある程度までは回復することができた。それでも死者への思いは濃縮液のように重く感じられる。 背すじに冷たい鉄の柱ではないにせよ、なにかまっすぐで固いものをいれられたようだ。 いまから自分はこれをなんとかしてやりとげる。まずハーマイオニーを生きからせ、それから、どうにかしてクィレル先生をとめる。 あるいはクィレル先生をとめてから、自分が〈石〉を手にいれる。 なにか方法が、可能性が、機会が……ヴォルデモートをとめるだけでなくハーマイオニーを生きかえらせる手段が、たちあらわれるはず……。

 

そう思いながらハリーは下へ歩きつづける。

 

背後では、三頭犬がじっと門番をしている。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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107章「真実(その4)」

巨大な白絣草(ディフェンバキア)の螺旋状に重なった葉を靴で踏むと、森の土のような感触があった。コンクリートのような堅さではなく、自分の体重が受けとめられている感じがあった。 そのまま触手を警戒しつつ歩くと、けっきょく触手は手だしをしてこなかった。

 

螺旋状の葉の階段をくだり終えたところで、突然触手がひゅっと伸びて、ハリーの手足を縛った。

 

ハリーはしばらく格闘して、抵抗をやめた。

 

「おもしろい。」と空中に浮かんでいて葉にも触手にもいっさい触れていないクィレル先生が言う。 「植物にならなんのこだわりもなく負けることができるのだな。」

 

ハリーはあらためてパニックの影響下にない状態で、〈防衛術〉教授をよく観察してみた。 クィレル先生は一見なんの苦もなく直立して動き、飛行している。 そして強力な破滅の感覚もつたわってくる。 しかし目は深くくぼんでいて、腕はやせこけている。 つまり体調の悪さは偽装()()()()()()ということ。ぱっと思いつくのは、〈防衛術〉教授は最近またユニコーンを食べ、一時的にいくらか体力を回復したのだ、という仮説だ。

 

また、〈防衛術〉教授はいまヴォルデモート卿ではなくクィレル教授という仮面に似た話しかたをしている。これはハリーにとってそれなりに都合がいいことかもしれない。 理由はわからないものの——あるとすれば〈防衛術〉教授はなにかのためにハリーを必要としているとか——とにかく、その相手役をつとめることはハリー自身の利益にもかなうように思われる。

 

「あなたはぼくにこの罠を踏みぬかせるつもりだったんですね。」  ハリーはクィレル先生に対して話すときとおなじように話す。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「勝手にやってよければ、ぼくはホウキで行ったと思います。」

 

「ふむ。 ただの一年生ならこの関門をどう切り抜ける? 杖をもった一年生なら、ということだが。」  植物はクィレル先生にも触手をのばすが、クィレル先生はただ飛んで、触手がぎりぎりとどかない位置まで移動した。

 

ハリーはスプラウト先生が『デヴィルズ・スネア』という植物のことを話していたのを思いだした。〈薬草学〉の教科書によれば、洞窟など暗く冷たい場所を好む植物だという——だったらなぜ葉があるのかという点は気になるが。 「推測ですが、これは『デヴィルズ・スネア』という、光や熱から逃げようとする植物じゃないかと思います。 だとすると、一年生なら『ルーモス』を使うのでは? ぼくもいまなら『インフラマーレ』にしますが、その呪文は五月になるまで知りませんでしたから。」

 

〈防衛術〉教授の杖がくるりとまわり、そこから液体が噴射され、触手の根もとに命中した。小さくビチャっと音がしてから、また小さくシュっと音がした。 ハリーに触れていた触手があわてて退却し、表面に広がっていく傷ぐちをたたきはじめた。そこにある疼痛をとりのぞこうとするかのように。その様子はどこか、無言で悲鳴をあげているように見えた。

 

クィレル先生がゆっくりとした下降を終えた。 「今後は光と熱と酸とわたしを恐れる。」

 

ハリーは自分のローブと床を見て、酸が飛び散っていないことをよく確認してから、最後の葉の段からおりて床面に到着した。 クィレル先生はなにかを伝えようとしてこうしているようにも思えるが、なにを伝えようとしているのかが分からない。 「ぼくたちにはやるべき仕事があるんだと思っていました。あなたがぼくをからかおうとするのをとめることはできませんが、時間がもったいなくありませんか?」

 

「時間はあるとも。」とクィレル先生は愉快げに言う。 「ここでわれわれが〈亡者〉の番人とともに発見されたとしたら、大騒ぎになるにちがいない。 そんな騒ぎが起きていれば、クィディッチの試合の場にも伝わっている。だがこの時間に到着してスネイプと話していたときのおまえには、そんな素ぶりがなかった。」

 

その意味を理解してハリーはさっと寒けを感じた。 これからなにをしてクィレル先生を倒すにしろ、それはこの学校の日常を……最低でもあのクィディッチの試合を()()()()()()()()()()()()ものでなければならない。クィディッチの試合は現に()()()()()()()()()()()のだから。 ヴォルデモート卿を制圧するのにたりる戦力をあつめることが仮に可能だとして、それをマクゴナガル先生にもフリトウィック先生にもクィディッチの試合の場にいただれにも気づかれずにやりとげるのは、そう簡単でなさそうな気がする……。

 

あたまのいい敵を相手にするのは楽ではない。

 

ただ、それにしても……自分をクィレル先生の立ち場においてみると、これは無駄話や心理戦をしているべき場面ではない気がする。 クィレル先生にとってここで時間をつかうことには()()()()()()()がある。ではどんな利益だろう? なにか別のプロセスがうごいていて、その完了を待つ必要があるとか?

 

「ところで、まだ裏切ってはいないか?」とクィレル先生がたずねた。

 

裏切ッテイナイ。」とハリーはこたえた。

 

〈防衛術〉教授は左手に持ちかえた銃で前方を指した。ハリーは部屋の奥の木製の大扉にむけて歩き、扉をひらいた。

 

◆ ◆ ◆

 

つぎの部屋はまえの部屋より径が小さく、天井が高い部屋だった。 丸い壁龕(アルコーヴ)にならべられた照明は青色ではなく白色である。

 

周囲には、羽のついた何百もの鍵が音をたてて空中を飛びかっている。 それを数秒観察していると、ひとつだけスニッチとおなじ黄金色をした鍵があることが分かった——ただしそれは実際のクィディッチの試合にいるスニッチほど高速ではなかった。

 

部屋の反対がわの扉には、大きく分かりやすい鍵穴が一つある。

 

左手の壁には、この学校でつかわれる定番のホウキ、〈クリーンスウィープ七式〉が立てかけられている。

 

「あの。」と言いながらハリーは無数の鍵の群れを見つめる。 「質問すれば答えてくれるという約束でしたね。 これはなんなんです? 侵入をふせぐために扉に鍵をかけたなら、鍵は安全な場所に保管して、正当な来客者にだけ複製をわたすものでしょう。 まちがっても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんていうことはしない。 これはどうしたらいいんでしょうね? 実質的には〈石〉を守っているのは例の魔法の鏡だけだという可能性はすぐに思いつきますが、だとしたら、なぜそれ以外にもこんな——それに、なぜ一年生を誘うような言いかたを?」

 

「わたしにもよく分からない。」と言う〈防衛術〉教授も部屋にはいって、ハリーから向かって右に、十分離れた位置にいる。 「しかし約束どおり、わたしの答えを教えよう。 ダンブルドアは、正気に見えないことを十以上やって、そのうち八か九にのみ深い意味をもたせるというやりかたをする。 ダンブルドアは、こちらが生徒を代理人として送りこみたくなるように誘導しているように見せかけているのではないかと思う。 そう見せかければ、ダンブルドアが考えるヴォルデモート卿という人物なら、実際にそうする気が薄れるであろうと想定して。 ダンブルドアが最初に〈石〉を守る方法を考えているところを想像してみろ。 ダンブルドアが〈鏡〉を真の意味で危険なもので守るべきかどうかを考えているところを想像してみろ。 若い生徒がわたしに命じられてそんな危険なものを乗り越えようとするのをダンブルドアが想像しているところを想像してみろ。 その状況をダンブルドアは避けようとしているのではないかと思う。これはわたしを身代わりの策へ誘導しているように見える、となるとその策でダンブルドアの裏をかくことはできない、とわたしに考えさせようというのがダンブルドアの狙いだ。 もちろん、ダンブルドアが考えるヴォルデモート卿の考えについてのわたしの考えが不正確だったなら、そのかぎりではないが。」  クィレル先生はそこでにやりと笑った。まるでこれまでどおりのクィレル先生らしい笑いかたに見えた。 「策謀はダンブルドアにとって自然にわきでてくるものではなく、必要にせまられて努力してやるもの。 そのためにダンブルドアは、知性と熱意と、失敗から学ぶという能力と、純粋な才能の欠如とをそそいでいる。 その点だけをとっても、ダンブルドアは驚異的なまでに予測しがたい。」

 

ハリーは向きをかえ、奥の扉に視線をむけた。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「一年生に想定されているのはおそらく、あのホウキは無視して、『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』をつかって鍵をつかまえるという解法だと思います。これはクィディッチの試合ではないので、そうしていけないというルールもありませんから。 それでこんどはどんな桁はずれに強力すぎる呪文を撃つんです?」

 

返事はなく、しばらく飛ぶ鍵の音だけがのこった。

 

ハリーは数歩うしろに引き、クィレル先生から離れた。 「不用意なことを言ってしまったみたいですね。」

 

「いやいや…… 世界最強の〈闇の魔術師〉に対して数歩の距離で口にしてなんら問題ない発言だったよ。」

 

クィレル先生は杖を反対の、ときおり銃をにぎるほうの手の袖にもどした。

 

それから口に手をいれて、歯のようなものをとりだし、高くほうりなげた。おりてきたときには、それは杖に変化していた。それを見て、ハリーのなかで奇妙な既視感が……その杖が自分の……一部であったことがあるような感覚が生じた……。

 

長さは十三と半インチ、イチイ材、芯は不死鳥の羽—— オリなんとかという杖職人にそれを言われ、〈プロットに関係〉しそうな情報だと思ってハリーは暗記したのだった。そのできごとと、そのときの自分の思考が、前世のように遠く感じられる。

 

〈防衛術〉教授はその杖をかかげて、空中に火で、禍まがしくぎざついた輪郭のルーン文字を書いた。 ハリーは本能的に一歩さがった。 クィレル先生が声を発した。 「アズ゠レス。アズ゠レス。アズ゠レス。」

 

すると火文字のなかから炎が……ぎざついたルーン文字の輪郭にそのまま決定づけられたかのような、()()()()炎が流れだした。 その炎は血より赤く、アーク溶接のように強力な熱をもって燃えている。 その赤色がそのように強く輝くのは()()()()()()()ように思える。これだけ赤いものがこれほどの光を発するはずはないように思える。赤い炎は多数の黒い管から飛びでていて、管が炎の光を吸いとっているように見える。 紅蓮と闇が交錯して黒く染まった炎のなかに、コブラ、ハイエナ、サソリなど、捕食動物のゆがんだ輪郭がつぎつぎとあらわれた。

 

「アズ゠レス。アズ゠レス。アズ゠レス。」  クィレル先生がその単語を六回となえおわったとき、黒炎はすでに小さな茂みほどの大きさにふくれあがっていた。

 

クィレル先生がそちらを凝視すると、呪いの炎は変化の速度をうしない、やがて単一の、黒い血の色をした不死鳥のかたちに収束した。

 

ハリーには、この黒い不死鳥とフォークスが出会ったとしたら、フォークスは死んで二度と生まれかわらないだろうという、暗い確信じみた直感があった。

 

クィレル先生が杖を一度ふると、黒炎が天井まではねあがり、扉とその鍵穴を目がけて飛びこみ、赤く燃えるつばさで一薙(ひとなぎ)した。扉の大半とアーチの一部が炎に飲みこまれ、汚れた炎はそのまま前へ進んだ。

 

ハリーが穴のなかをちらりとのぞいた一瞬のうちに、立ちならぶ巨大な像が剣や棍棒をかまえようとしたところを黒炎が襲い、壊れて燃えあがるのが見えた。

 

破壊が終わると、黒炎の不死鳥は穴をとおって舞いもどり、クィレル先生の左肩の上に浮かんで、太陽のように燃える鉤爪(かぎづめ)をローブの上空一インチにおいてとまった。

 

「さきへ進め。もう危険はない。」とクィレル先生が言った。

 

必要にせまられて暗黒面の認知パターンを呼びだして冷静さを維持して、足をふみだす。 熱をもって光る扉の残存部分をまたいで、壊れた巨大なチェス駒がならぶチェス盤に目をやる。 扉をとおって五メートルの位置ではじまる黒と白の大理石の敷石は両側の壁いっぱいの幅でつづき、部屋の奥のつぎの扉の五メートル手前で終わっている。 天井は、どの像もとどかない程度に十分な余裕をもった高さだ。

 

「ぼくの推測では……」  ハリーの暗黒面の認知パターンが冷静さを維持する。 「想定されているのは、まえの部屋のホウキにのって飛びこえていくという解法じゃないでしょうか。けっきょく鍵をつかまえるのにあれは必要なかったわけなので。」

 

うしろでクィレル先生が笑う声がした。ヴォルデモート卿の笑いかただった。 「進め。」  その声はいっそう冷たく、高くなっている。 「つぎの部屋にはいれ。 そこにあるものを見ておまえがどう出るかを見てみたい。」

 

これはダンブルドアが一年生用に用意したもの、だから危険はない——。そう自分に言い聞かせ、ハリーは荒れはてたチェス盤を通過し、つぎの扉の取っ手をつかみ、押してあけた。

 

◆ ◆ ◆

 

半秒後、ハリーは扉をぴしゃりとしめて飛びのいた。

 

数秒かかって呼吸をとりもどし、自分をとりもどす。 扉のなかからは、かわらず低いうなり声とともに、石の棍棒で床を打ってひびかせる音がしている。

 

「きっとこれは……」  ハリーの声もまた冷たくなっている。 「ダンブルドアならほんものの山トロルをおいたりはしないでしょうから、あのつぎの関門はぼく自身の最悪の記憶の映像なんでしょうね。 ディメンターとおなじように、ひとの記憶を外の世界に投影するものでしょう。 こんな愉快な経験はあまりありませんね。」

 

クィレル先生自身が扉のほうへ動き、ハリーは道をあけた。 強力な破滅の感覚がつたわってくるのにくわえて、ハリーの暗黒面がそう判断したか、もしくはたんに本能的なものか、とにかくクィレル先生の肩の上にいる黒炎の鳥には近づくべきでないように思われた。

 

クィレル先生が扉をあけて、なかを見る。 「ふむ。たしかにトロルしかいない。 おまえについてもっとおもしろい情報がひきだせればと思っていたが、まあ、しかたない。 あそこにいるのはココーヘカス、別名コモン・ボガートだ。」

 

「ボガート? それはどういう——いえ、どういう生物かはだいたいわかりました。」

 

「ボガートは……」  クィレル先生はまた、ホグウォーツ教師が講義をするときの話しぶりに変わっている。 「暗く狭い場所、滅多に開放されない場所を好み、つかわれなくなった天井裏の物置などに住む。 他者に近づかれることを嫌う。近づいた者を怖がらせて追い払えるようなすがたで出現する。」

 

「逃げさせる? ぼくはトロルを()()()んですが。」

 

「事実、きみはなにも考えずに飛びのいた。 ボガートは合理的な脅威ではなく本能的な嫌悪を引きだそうとする。 そうでもなければ、もっと現実味のあるもののすがたをとっているだろう。 ともかく、ボガートへの標準的な対抗〈魔法〉は……当然〈悪霊の火(フィーンドファイア)〉だ。」  クィレル先生の手ぶりで、クィレル先生の肩から黒炎が飛びたち、扉に吸いこまれていった。

 

扉のむこうで一度ぎゃっと声がしてから、なんの音も聞こえなくなった。

 

二人はそれまでボガートがいた部屋に、こんどはクィレル先生が先頭にたって入室した。 山トロルの外見をしているものがなくなると、そこはまたおなじ、冷たく青い光に照らされた、だだっぴろい部屋にすぎなかった。

 

クィレル先生は遠くを見るようにして思案する表情で、 そのままハリーを待たずに部屋の奥へすすみ、なにも言わずに反対がわの壁の扉をあけた。

 

ハリーは距離をたもちながら、そのあとを追った。

 

◆ ◆ ◆

 

つぎの部屋には(コルドロン)がひとつと、材料の瓶がいくつもならべられた棚、まな板、攪拌(かくはん)棒など調合術の道具がそろっていた。 調合には色覚が重要であるせいか、壁のくぼみから発せられる光は青色でなく白色になっている。 クィレル先生はすでに調合道具のそばに立ち、長い羊皮紙の巻き物を手にとって検分している。そのつぎの部屋へつづく扉は、紫色の炎のカーテンで閉ざされている。それもおそろしげな炎ではあるかもしれないが、クィレル先生の肩の上の黒炎と見くらべると弱よわしくさえ見えた。

 

この段階でハリーの不信の停止は休暇をとってどこかに行ってしまっていたので実際にくちにはしないものの、現実世界のセキュリティ機構は権限のある人と権限のない人を()()()()ためにその二種類の人から()()()結果を引きだす問いをするのだ、と言いたいところではある。 セキュリティ的に()()例は、権限のある人にだけ事前にダイヤル錠の組み合わせを教えておき、入室しようとする人がそれを解けるかどうかを試す課題であり、セキュリティ的に()()例は、わざわざ調合手順書をつけておいて、そのとおりの調合をさせるという課題である。

 

クィレル先生はその羊皮紙をハリーのほうに投げ、それはあいだの床に落ちた。 「それをどう見る?」と言ってからクィレル先生は一歩さがり、ハリーが羊皮紙をひろいにいけるようにした。

 

ハリーは軽く目をとおしてから言う。「だめですね。 なんのひねりもない論理パズルを解くと材料をいれる順序がわかるようになっている、というのも、権限のある人とない人を識別する役には立ちません。 これがもっと骨のある論理パズル、たとえば三体の偶像のパズルや色のちがう帽子をかぶった人の列のパズルだったとしても、方向性そのものがまちがっているのには変わりません。」

 

「裏面を見ろ。」

 

ハリーはその二フィートの羊皮紙を裏がえした。

 

裏面には小さな文字でびっしりと、ハリーが以前目にしたどんな手順書よりも長い調合手順が書かれていた。 「これはいったい——」

 

「あの紫色の炎を消すための『光輝のポーション』。 まったくおなじ材料の組をくりかえし、すこしずつ方法を変えて投入していって完成するポーションだ。 一年生何人かがここまでの部屋を通過して、あと一歩で魔法の鏡にたどりつくと思ってここに来て、この課題をやらせられる様子を考えてみろ。 これはまちがいなく〈薬学〉教授が用意した部屋だな。」

 

ハリーはクィレル先生の肩の上にいる黒炎の鳥をじっと見た。 「火には火で対抗できない、と?」

 

「いや、できる。 しかしそうすべきかどうかが分からない。 もしこれが罠だとしたら?」

 

ハリーとしては、遊びでこんな調合をして足どめを食う気はない。クィレル先生は遊び以外の理由があってこれほど時間をかけて進んでいるのかもしれないが。 手順書には、ホタルブクロを投入しろという記述が()()()()、『明るい色の毛の一束』が十四回……。 「このポーションは子どもには無害で大人の魔法族を死にいたらせるガスを放出するのかもしれません。 それ以外にも、急にまじめな話をするなら、生死にかかわる罠はいろいろ考えられますね。 まじめに話しますか?」

 

「これは〈薬学〉教授が用意した部屋だ。」とクィレル先生はまた思案する顔をする。 「このゲームでのスネイプの立ち位置は、傍観者とはほどとおい。 スネイプにはダンブルドアほどの知性がない反面、ダンブルドアに欠けている殺意がある。」

 

「どんな仕組みだとしても、子どもに突破できないものでなかったのはたしかですね。 実際一年生が何人も通過しているんだから。 そしてこれが子ども()()()()()()()に突破できないものだとしたら、まるでダンブルドアはヴォルデモート卿に子どもを連れてくることを強いていることになってしまう。 それでは本末転倒ですよね。」

 

「うむ。」と言ってクィレル先生は鼻すじをこする。 「しかしこの部屋には、ほかの部屋とちがって、なんの引き金も警告も設置されていない。 さりげなく仕込まれた結界もない。 こんな調合はせず、ただそのまま進め、と()()()()()かのようだ——しかしスネイプはヴォルデモート卿ならそれを感知するということを知っている。 調合をせずに進んだ者に対して発動する罠が実際あるのだとすれば、ほかの部屋とおなじように結界をおいておき、新しいことがあるように思わせないほうが得策なのだから。」

 

ハリーはそれを聞いて、眉をひそめて熟考した。 「つまり……ここで検知網がなくなっているのは、強引に突破する気を()()()()()ためだとしか考えられない、と。」

 

「わたしならそこまでの推理をする、とスネイプなら考える。 それ以上に何重の推理をすべきかについては、スネイプがこちらをどの水準のプレイヤーだと想定するかによるから、なんとも言えない。 わたしは忍耐力があり、今回のために十分な時間を準備した。 しかしスネイプはヴォルデモート卿を知っているが、わたしを知らない。 スネイプは、ヴォルデモート卿がいらだって声をあげ、感情にまかせて非生産的な行動に出るのを目撃したことがある。 これをスネイプの視点から見てみよう。ホグウォーツの〈薬学〉教授がヴォルデモート卿をまるで一生徒のようにあつかい、おとなしく手順書のとおりにやれと命じる。 わたしならその場ではなんの苦もなく笑顔で命令を受けいれ、あとで復讐する。 しかしスネイプはヴォルデモート卿がなんの苦もなくそういった考えをするということを知らない。」  クィレル先生はそう言ってハリーを見る。 「おまえはわたしが『デヴィルズ・スネア』の関門で飛行するのを見ただろう?」

 

ハリーはうなづいた。それから自分が困惑していることに気づいた。 「ぼくの〈操作魔法術(チャームズ)〉の教科書には、みずからを浮遊させることは不可能だと書いてありました。」

 

「教科書にはそうある。 魔法使いは自分自身を浮遊させることも自分の体重をささえる物体を浮遊させることもできない、それは自分の靴ひもを引っぱって自分を持ちあげようとするようなものだ、ということになっている。 ところがヴォルデモート卿だけは飛行することができる——それはどんな方法か? できるだけ時間をかけずに答えてみろ。」

 

それが一年生にもこたえられるような質問だとすれば—— 「他人に命じて自分の下着にホウキ用の魔法をかけさせ、そのあとでその他人を〈忘消〉(オブリヴィエイト)した。」

 

「いや。 ホウキ用の魔法は細長く、硬度のあるものにしかかけられない。布はそれに該当しない。」

 

ハリーは眉にしわをよせた。 「どのくらい細長い必要がありますか? 短いホウキの芯棒をくっつけたハーネス型の服で飛ぶというのは?」

 

「たしかに、わたしも最初、魔法をかけた棒を腕と足にくくりつけるという手をつかった。だがそれはあたらしい飛行法の練習のためだけでしかなかった。」  クィレル先生はローブの袖をまくって、はだかの手をだした。 「見てのとおり、ここには種もしかけもない。」

 

ハリーはそのあらたな制約を取りいれて考えた。 「ホウキ用の魔法を、自分の()()かけさせたということですか?」

 

クィレル先生はためいきをついた。 「それだけのことが、ヴォルデモートについてもっとも恐れられたことのひとつだった……らしい。 これだけの年月をへて、しかたなく〈開心術〉をつかってやったあとでも、わたしはいまだになぜ凡人はこの程度のことに思いあたらないのかと不思議に思う……しかしおまえは彼らとはちがう。 そろそろこの謎解きにも貢献してもらおう。 おまえは最近のセヴルス・スネイプについてわたしより詳しいのだから。 この部屋について分かったことを言ってもらおうか。」

 

ハリーは返事をしかねて、考えるふりをした。

 

「言っておくが……」とクィレル先生が言うと、肩の上の黒炎の不死鳥があたまをもたげてハリーをにらんだように見えた。 「わたしが失敗にむかっていると知りながらそれを看過する行為は裏切りとみなす。 〈石〉がミス・グレンジャーの復活の鍵であること、こちらには数百人の生徒の命という人質があることも念押ししておく。」

 

「おぼえています。」  そのとき、ハリーの発想力ゆたかな脳がとあることを思いついた。

 

ハリーはそれをくちにするべきかどうか迷った。

 

無言の時間がつづく。

 

「まだなにも思いつかないか? 〈ヘビ語〉でこたえろ。」

 

さすがに相手が知的で、いつでもこちらに強制的に真実を言わせることができるとなると、簡単にやりすごすことはできない。 「セヴルスは……すくなくともいまの時代のセヴルスは、あなたの知性を高く評価しています。」  ハリーはそう言うことで返事にかえる。 「もしかすると……もしかするとセヴルスは、ヴォルデモートがこの忍耐力の課題を攻略するとセヴルスが思わないとヴォルデモートが思うだろうと思っているかもしれませんが、実際には攻略すると思っているだろうと思います。」

 

クィレル先生はうなづいた。 「ひとつの説としてはありうる。 しかしおまえ自身はその説を信じているのか。 〈ヘビ語〉で答えろ。」

 

ハイ。」  情報をわたさずにいること、考えを隠すことすら、安全でないかもしれない……。 「となると、この部屋の目的はヴォルデモート卿を一時間足どめすることです。 そして、もしぼくがダンブルドアの考えをそのまま受けとって、あなたを殺そうとするとしたら、まずやってみるのは〈ディメンターの口づけ〉です。 というのも、むこうはあなたのことを肉体を離れた魂であると想定しているので— ところで、実際にはどうなんですか?」

 

クィレル先生は動かず、しばらくしてから答えた。 「ダンブルドアならそんなの方法を思いつきもしない。 しかしセヴルスなら思いつくかもしれない。」  クィレル先生はほおに指をあてては離すことをくりかえす。視線は遠くを見ている。 「おまえはディメンターへの影響力があるのだったな。この付近にディメンターがいるか、たしかめてくれ。」

 

ハリーは目をとじた。ここに世界の虚無がいるような感じはない。 「ぼくに感知できるかぎりでは、いません。」

 

「〈ヘビ語〉で言え。」

 

命食イヲ 感知デキナイ。

 

「なのにその可能性をほのめかしたのは、なにか裏があってのことか。罠にはめようとしてのことか。」

 

裏ハ ナイ。罠デハ ナイ。

 

「憑依する魂を見つけたら食べるようにと命令されたディメンターが、なんらかの方法で隠蔽しておかれている、ということもあるかもしれない……。」  クィレル先生はまだほおに指をあてている。 「わたしがそれに該当する可能性もなくはない。 この部屋をあまりにも速く通過した者、子どもでない者を食べるよう、ディメンターに命令することもできるかもしれない。 わたしにハーマイオニーとほかの生徒数百人の人質があることを踏まえて、もしここにディメンターがあらわれたら、おまえはおまえの能力でわたしを守るつもりがあるか。〈ヘビ語〉で答えろ。」

 

ワカラナイ。」とハリー。

 

命食イハ オソラク ワタシヲ 壊セナイ。」とクィレル先生が言う。 「命食イガ 近クニ 来レバ、 ワタシハ コノ 体ヲ 捨テルダケ。 今回ハ 手間取ラズ 戻レル。以後 ダレモ ワタシヲ 止メラレナイ。 ワタシニ サカラッタ 罰トシテ、オマエノ 両親ヲ 以後 何年モ カケテ 拷問スル。 オマエガ 友人ト ミナス 生徒ヲ 含メ 何百人モノ 人質ノ 生徒ガ 死ヌ。 モウ一度 タズネル。 命食イガ 来タトキ、オマエハ 能力ヲ ツカッテ ワタシヲ 守ルカ。

 

ハイ。」とハリーは小声で答えた。 押し殺していた悲しみと恐怖の感情がぶりかえし、暗黒面にもそれに対処するパターンの蓄積がない。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

クィレル先生は笑みをうかべた。 「それで思いだした。 いまのところ、わたしを裏切っていないか?」

 

裏切ッテイナイ。

 

クィレル先生は調合道具のまえにもどり、片手で根をきざみはじめた。軽がるとやっているようでありながら、ナイフの動きは速すぎてほとんど目に見えない。 〈悪霊の炎(フィーンドファイア)〉の不死鳥が空中をただよい、部屋の反対がわのすみに止まった。 「あらゆる点の不確実性を考慮にいれるなら、一年生とおなじやりかたでこの部屋を通過していくのが得策のようだ。 待つ時間をつかって話すこともできる。 質問があると言っていたな? 約束どおり答えよう。訊くがいい。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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108章「真実(その5)——答えと謎かけ」

〈防衛術〉教授が釜を用意し、杖のひとふりでそれを浮遊させて位置につけ、またひとふりで釜の底に火をおこした。 指で小さく円をえがくと柄の長い(さじ)があらわれ、ひとりでに釜のなかをかきまぜはじめた。〈防衛術〉教授はいま、大きな瓶のなかから花をいくつもとりわけて積んでいる。その花はホタルブクロのように見えた。藍色の花びらは壁の照明光のもとで光をおびたように見え、内がわにすぼむその形状には『そっとしておいてほしい』と言っているような印象がある。 最初のひとつかみの花が溶液に投入されてからも、釜はただそのまま、かきまぜの動作をつづけている。

 

〈防衛術〉教授は顔の向きをすこし変えさえすればこちらが見える姿勢をとっている。ふりむかずとも周辺視野にはおさまっているにちがいない。

 

部屋の隅には〈悪霊の火(フィーンドファイア)〉の鳥がいる。その周囲の石材は徐々に溶けて艶がでてきている。 燃える羽が発する赤い光が部屋のすべてをうっすらと血の色に染め、容器のガラス面を赤くきらめかせている。

 

「時間を無駄にするな。質問があるなら言うがいい。」

 

なぜ……なぜあなたはこうなってしまったのか……なぜ自分を怪物にしたのか……なぜヴォルデモート卿でなければならなかったのか……あなたが目ざすものはぼくが目ざすものとはちがうかもしれないけれど、それがなんであるにしろそのための最善の手段が()()だとは思えない……

 

ハリーの脳が知りたいと思っているのはそういうことだった。

 

ハリーが知る必要があるのは……このあとに起きるできごとをなんとかして回避する方法だ。 しかし〈防衛術〉教授は将来の計画をあかす気はないと言っていた。 ()()()()()話す気があるというだけで十分奇妙だ。それはまずまちがいなく彼の〈ルール〉のどれかに違反している……。

 

「考えているところです。」

 

クィレル先生はうっすらと笑った。 同時に乳棒をつかって、最初の魔法性の材料である光る赤い六角形をつぶしている。 「無理もない。しかし一定の時間の限度はあるぞ。」

 

目標:ヴォルデモート卿がひとを傷つけるのを止めること、ヴォルデモート卿を殺すか無害化すること。それ以前に、〈石〉を手にいれてハーマイオニーを生きかえすこと……

 

……あるいはクィレル先生を説得してこれをやめさせる……

 

その感情を押し殺し、目になみだが浮かばないようにする。ヴォルデモート卿になみだを見せてもいいことはない。 クィレル先生はもう眉間にしわを寄せている。といっても視線の方向からすると、あざやかな白色と緑色と紫色がまじった葉を観察しているだけだが。

 

どの目標に到達する手段も、まだあきらかではない。 いまできることがあるとすれば、有用な情報をひきだせそうな質問をすることだけ。まだこちらにはなんの計画もないとしても。

 

つまり、興味のおもむくままに質問するということ? だったら賛成——とハリーのレイヴンクロー面が言った。

 

だまれ——とハリーは言った。が、もう一度考えて、自分にレイヴンクロー面があると思うのをやめることにした。

 

重要なものごとについて探るという観点で優先度の高い話題は四つ、思いつく。 つまりこの水薬(ポーション)の調合がつづくうちに、質問しておくべき分野が四つ。

 

四つの質問……。

 

「第一の質問は、 一九八一年十月三十一日の夜のできごとについて。その夜、実際にはなにがあったのか。」 『その夜のなにが特別か』……。 「最初から最後まで教えてください。」

 

死んだように見えたヴォルデモート卿がなぜ、どうやって生きのびたのかという問いは、将来の計画に役立ちそうに思える。

 

「そう来るだろうと思っていた。」と言いながらクィレル先生はホタルブクロの花と白い艶のある石を液に投入した。 「まず言っておくが、わたしがホークラックスの呪文についておまえに聞かせたことはすべて事実だ。〈ヘビ語〉で話していた以上、言うまでもないことだが。」

 

ハリーはうなづいた。

 

「おまえはこの呪文の詳細を聞かされてほとんど即座にその欠陥に気づき、改善する方法を考えはじめた。 若いころのトム・リドルがそうでなかったと思うか?」

 

ハリーはくびを横にふった。

 

「それが、そうではなかった。 わたしはおまえに見切りをつけたくなるたびに、もう一回り上の年齢のころの自分がどれほどあさはかであったかを思いだすようにしている。 わたしは十五歳で、ある本にならってホークラックスを作った。そのために、スリザリンのバジリスクの目で死んだアビゲイル・マートルの死をつかった。 ホグウォーツを出てからは毎年一つ新しいホークラックスをつくるつもりでいた。ほかのどのやりかたでも不老不死を実現できなかった場合にそなえた、滑り止めの策として。 いま思えば、それはただの暗中模索にすぎなかった。 学んだとおりの呪文そのままで満足することなく……ホークラックスを()()()()()()にして実践する……当初のわたしにそういう考えかたはなかった。凡庸な人間の愚かさ加減を知り、自分が彼らの轍を踏みつつあると気づくまでは。 しかしやがてはわたしも、おまえが受けついだのとおなじ、なにごとも鵜呑みにせず、よりよくする方法を追求する習慣を身につけた。 自分がもとめているような呪文となにがしかの類似点があるにすぎない呪文を本で見つけてそれで満足するなど、ばかげている。そう気づいてからは、よりよい呪文をつくることに専念した。」

 

「それでいまはもう真の不死を達成したんですね?」  これだけ差し迫った状況ではありながら、ハリーはこの質問が戦争や戦略の質問より重要であることを認識している。

 

「そのとおり。」と言ってクィレル先生は調合の手をとめ、ハリーに正面から向きあった。 その目には、ハリーがはじめて見る歓喜があった。 「さまざまな〈闇〉の魔術を探しあて、〈スリザリンの怪物〉がくれた手がかりをたよりに禁令のかかった秘密を解きあかし、魔法族につたわる伝承をひもとき、その果てに手にいれられたものはごく断片的な知識にすぎず、わたしの必要は満たされなかった。 わたしはすべてをほどいて織りなおすことで、新しい原理にもとづく新しい儀式を生みだした。 何年もかけてその儀式をこころのなかで燃やし、想像のなかでとぎすまし、意味を検討し細部を調整し、寝かせることで安定化させようとした。 そしてついに、その生けにえの儀式を実行にうつすときが来た。既知のいかなる魔術でも試されたことのない原理にもとづく、わたしの発明品たるその儀式を試すときが来た。 そしてわたしは死なず、いまもこうして生きている。」  〈防衛術〉教授は静かに勝ちほこる調子でそう言った。ことばに言いつくせない偉業なのだと言いたげな態度だった。 「いまだにこれを『ホークラックス』と呼んでいるのは感傷にすぎない。 これはわたしがいちから作りなおした呪文で、わたしの最高傑作でもある。」

 

「では、質問には答えるという約束の一部として、その呪文のつかいかたを質問します。」

 

「ことわる。」  〈防衛術〉教授はもとの姿勢にもどり、ところどころ灰色がまじった白い羽を一枚、ホタルブクロを一輪、液に投入した。 「おまえがもうすこし大人になってから教えようかと一度考えはした。どのトム・リドルもそれを身につけずして満足することはないと思ってそう考えたのだが、そのあとで気が変わった。」

 

記憶というものは簡単に思いだせないことがある。ハリーはクィレル先生が以前どこかで手がかりを残していたのではないかと思い、記憶をさぐった。どこかで似たような表現を聞いたような気がした。 『もしかすると、きみがもっと大人になってからなら、教えられるかもしれない……』

 

「やはり物理的なよりどころが必要なんですね。 その点では古いホークラックスの呪文とおなじ。それもあって、まだホークラックスと呼んでいる。」  これをくちにするのは危険だが、それでも()()()()()()()と思って言う。 「もしそうでないなら、〈ヘビ語〉でちがうと言ってください。」

 

クィレル先生は邪悪に笑う顔をする。 「ソノ 予想ハ 正解ダ。正解スルコトニ ナンノ意味モ ナイガ。

 

残念ながら、知的な〈敵〉にとってこの弱点をおぎなうことはたやすい。 〈敵〉がまだ気づいていないかもしれないことをわざわざ指摘すべきではないのだが、今回の場合、ハリーはすでに指摘してしまっている。 「重りをつけて活火山の火口にほうりこんで、地球のマントルのなかまで沈ませたホークラックスがひとつ。 ディメンターを破壊できないならどうすればいいかと考えて、ぼくが思いついたのがそれだった。 それからあなたは、だれにも見つけてほしくないものがあったらどこに隠す、とぼくにたずねた。 地球の地殻の何キロメートルもの地下のどこかの、なんの変哲もない一立方メートルの空間にうめたホークラックスがひとつ。 マリアナ海溝に落としたホークラックスがひとつ。 成層圏の上空に浮かばせてある透明なホークラックスがひとつ。 そのどれについても自分自身の記憶を『オブリヴィエイト』したから、あなた自身も正確な場所は知らない。 最後のひとつは、あなたがNASAにしのびこんで細工したパイオニア十一号の板。 あなたが星見の呪文をつかうときに思いうかべる星空はそこから来ている。 火と地と水と空と無。」  『謎かけのようなもの』と〈防衛術〉教授は言っていた。だからハリーはおぼえていた。〈謎かけ(リドル)〉的なものと。

 

「そのとおり。それほど即座に思いだすとは、すこしおどろかされたが、どうせできることはない。その五つはすべて、わたしの手にもおまえの手にもとどかないところにある。」

 

たとえば魔法的なつながりをたどって場所を特定する方法があったりするなら、とどかないとはかぎらない…… けれど、ヴォルデモートはきっと手を尽くしてそのつながりを隠蔽している…… とはいえ、魔法にできることは魔法でとりけせるのではないか。 パイオニア十一号がいる場所は魔法族にとっては遠すぎるかもしれないが、NASAなら正確な位置を知っている。もし魔法でツィオルコフスキーのロケットの等式をごまかすことができるなら、到達できる可能性はずっとあがりそうだ……

 

不意に不安がハリーを襲った。 ホークラックスの呪文をかけられているのは()()星間探査機か。その点について、〈防衛術〉教授が嘘をついてはならないというルールなどない。ハリーが記憶しているかぎりで、パイオニア十号は木星を接近通過(フライバイ)した直後に通信と追跡がとだえたという。

 

その両方にホークラックスの呪文がかけられていたということも十分ありえるのでは?

 

そのつぎに思いつくべきことを、ハリーは思いついた。 〈敵〉がまだ思いついていない可能性を考えれば、触れるべきではないことを。 しかし〈敵〉がまだ思いついていないという可能性はかぎりなく低いように思われた。

 

先生、教エテ ホシイ。ソノ 五ツノ ヨリドコロヲ 破壊スルト アナタハ 死ヌノカ。

 

ナゼ タズネル?」と〈防衛術〉教授がシュッと空気音でそう返事する。音のゆらぎかたでヘビがおもしろがる感情が表現されている。 「答エハ 否ト 予想シタカ?

 

返事が思いつかない。とはいえ、どう返事しても違いはない気がしてならない。

 

予想ノ トオリ。 ソノ 五ツヲ 破壊サレテモ ワタシハ 不死ノ ママダ。

 

のどがまた乾燥しているように感じられる。 もしその呪文に法外な代償がないなら…… 「アナタハ ヨリドコロヲ 何個 ツクッタ?

 

通常ナラ 言ワナイガ、明ラカニ オマエハ 既ニ 答エヲ 予想シテイル。」  〈防衛術〉教授はいっそうにやりとした。 「ワタシニモ 分カラナイト イウノガ 答エダ。 百七ヲ 越エタ コロニ 数エルノヲ ヤメタ。 隠レテ 人ヲ 殺スタビ 実行スル 習慣ニ シタ。

 

()()以上を暗殺し、そのあとは数えてもいない……。 それ以上に問題なのは—— 「その後継版でも人間を死なせる必要があるんですか? ()()?」

 

他者ノ 生命ト 魔法力ヲ 犠牲ニシテ ツクル 装置ノ ナカニ 生命ト 魔法力ヲ 保持スル トイウ 偉大ナ 発明。」  またヘビの笑う音。 「過去ノ ほーくらっくすノ 呪文ノ 偽ノ 説明ガ 気ニ入ッタ。真実ヲ 知ッテ 落胆シ、改善版ヲ ソノヨウニ 作ル コトニ シタ。

 

なぜ〈防衛術〉教授がこんな重要事項をぺらぺらと話しているのかは分からないが、()()()()()()()()()()()()()()。そう思うとハリーは不安になった。 「つまりあなたはほんとうに、クィリナス・クィレルに憑依している、肉体のない魂だということ。」

 

ソウ。 コノ 体ガ 殺サレテモ、ワタシハ スグニ 復帰スル。 ソレヲ ヒドク 不愉快ニ 思イ、復讐シヨウト スル。 わたしがわざわざこうやって話しているのは、おまえに愚かな真似をされたくないからだ。」

 

「わかりました。」  ハリーはつぎになにを聞こうとしていたのかを思いだし、できるかぎり考えをまとめようとする。〈防衛術〉教授はまた溶液のほうに目をむけて、 粉ごなにした貝殻を左手で釜のなかにふりかけ、右手でホタルブクロをもう一輪投入する。 「十月三十一日には、なにが起きたんです? あなたは当時赤子だったハリー・ポッターを……古いほうか新しいほうの、ホークラックスにしようとした。意図してそうしたのだということは、リリー・ポッターにあなたが話していたから分かる。」  ハリーは息をすいなおした。 寒けはあるが、それがどこから来ていたのかが分かったいま、耐えることもできるようになった。 『よかろう。その取り引きに応じよう。おまえは死に、その子は生きる。 では杖を捨てろ。そうしたら殺してやる。』 いま思うと、このできごとについてのハリーの記憶は、ほとんどがヴォルデモート卿の視点での記憶であり、一番最後の部分をのぞいて当時のハリー・ポッターから見えたものではない。 「あなたがそのときなにをしたか、()()そうしたかを言ってください。」

 

「トレロウニーの予言。」と言ってクィレル先生はまた一輪のホタルブクロを銅板にあててから投入する。 「スネイプが持ってきたその予言について、わたしは何日も何日も考えた。 無為な予言というものはない。 おまえに愚かなことを考えさせないような言いかたをするとすれば…… しかたない、率直に言う。しかし愚かなふるまいはわたしを不愉快にさせるのを忘れるな。 わたしはわたしにならぶものが登場するというその予言に魅力を感じた。知的な会話をする相手ができるかもしれないと思ったからだ。 まともに会話が成立しない者どもにかこまれた五十年を経て、わたしは自分があまりにありきたりな印象をあたえる反応のしかたをしていようが、気にしなくなっていた。 その機会をよく検討すらせずに見送る気はなかった。 そしてわたしは……言ってみれば、()()()()を思いついてしまった。」  クィレル先生はためいきをついた。 「自分なりの解釈で、自分の利益になるようにその予言を成就させればいいのではないか、とわたしは思った。 古いほうのホークラックスの呪文をつかって、白紙の状態にあるその赤子にわたしの魂を刻印することで、わたしと対等な者としてしるしづければよい。赤子には混ぜあわせられるべき自我がないから、複製としてより純粋なものになる。 何年かして、わたしがブリテンを支配するのに飽きてほかのことに目をむけるころに、そのもう一人のトム・リドルと相談し、こちらが倒され、あちらが救世主としてブリテンを支配することにすればよい。二人はたがいを相手にそのゲームを永遠につづける。そうすれば、愚か者たちの世界にいながら、おもしろい人生をおくることができる。 劇作家なら、そんな二人は最終的に共倒れすると考えるだろう。 しかしわたしは熟慮の結果、おたがいトム・リドルである以上どちらも共倒れの道をえらぶほど愚かではありえないと考えた。 予言は、わたしがハリー・ポッターのごく一部をのぞいたすべてを破壊しさえすれば、われわれ二人はほとんど同じような魂をもち、同じ世界に共存することができる、と示唆しているようでもあった。」

 

「なにかがうまくいかなかった。」とハリーが言う。 「なにかが〈ゴドリックの谷〉のポッター家の屋根をふきとばし、ぼくのひたいに傷あとをのこし、あなたの焼死体をのこした。」

 

クィレル先生はうなづいた。 調合の手の動きが遅くなっている。 「魔法力の共鳴。わたしが赤子の魂を自分の魂に似せたことで……」

 

クィレル先生の〈死の呪い〉がハリーの〈守護霊〉と衝突したときのこと、 そのときのあたまが割れてしまいそうなほどの猛烈な熱と痛みを思いだす。

 

「わたしは数えきれないほど何度もあの夜のことを考え、どう失敗したかを思いかえし、自分がどうしていればよかったかを考えた。 やがて、杖を捨てて〈動物師(アニメイガス)〉の変身をしていればよかった、という結論にいたった。 しかしあの夜……あの夜にわたしは本能的に自分の魔法力の乱れを制御しようとばかりしていて、自分が内がわから燃えていく感覚にとりあわなかった。 そのあやまちが命とりだった。 わたしがハリー・ポッターの精神を書きかえているあいだに、わたしの肉体は破壊された。 ()()()他方のかけらのみを残して滅ぼさなければならない、というわけだ。そして……」  クィレル先生の表情は抑制されている。 「ホークラックスのなかで意識をとりもどしたとき、わたしは自分の偉大な発明が期待どおりに機能していないことに気づかされた。 ホークラックスを離れて自由に飛びまわり、憑依に同意した者や憑依を拒否できないほど弱い者に憑依することができるはずだった。 が、まさに()()部分に狂いが生じていた。 できたのは、もとのホークラックスの呪文の場合とおなじく、物理的なホークラックスに触れた者にのりうつることだけ……そしてわたしの数知れないホークラックスは、だれにも見つからない場所に隠してあった。 おまえが本能的にそう判断したのはただしい。()()()()()()()()()()()()()()()。」

 

ハリーはそのまま無言でいる。

 

調合がすすんで、いったん材料を投入する手をとめ、釜が煮えるのを待つ段階になった。 「わたしはほとんどの時間、星を見て過ごした。」  クィレル先生は声をおとして話す。からだの向きを変え、白く発光する壁をじっと見ている。 「望みは、救いようのなく愚かな若いころの自分が隠したホークラックスにしか残されていなかった。 どこにでもある小石にではなく、古くから伝わる首かざり(ペンダント)に浸透させたホークラックス。 ポートキーで海中に飛ばすのではなく、〈亡者〉の湖にかこまれた毒の井戸の底に保管したホークラックス。 だれかがそのうちのひとつを探しあて、あのばかばかしい防護措置を突破したなら…… しかしその望みは薄いように思われた。 二度と肉体をとりもどせないのではないかとも思った。 しかし、わたしは不死ではあった。 偉大な発明のおかげで最悪の事態だけはたしかに回避できていた。 それ以上いだくべき希望も恐怖もほとんどなかった。 狂気におちいってはなんの得にもならないと思い、そうならないようにした。 かわりに、消えゆく太陽の光を背に、星をながめて考えた。 過ぎた人生での失敗を思いかえした。ふりかえれば失敗は数多くあった。 自分がまた自由に魔法力をつかえるようになり、同時に確実に不死でいられるなら、実践してみてもよいと思う強力な儀式を、想像のなかで組み立てた。 古い謎かけの文言について思索し、もともと忍耐力はあるほうだと思っていたが、それに輪をかけて、じっくりと検討した。 わたしは自由の身になれれば、過ぎた人生における自分よりはるかに高い実力を身につけられることを確信していた。しかし自由がやってくることをあまり期待してはいなかった。」  クィレル先生はまたポーションのほうを向いた。 「あの夜から九年と四月が経った日、クィリナス・クィレルという名の探検者が、わたしの初期のホークラックスのひとつの防護措置を突破した。 あとの話は知ってのとおりだ。 さて。わたしもおまえも、おまえがいまなにを考えているかを知っている。それを言ってみるがいい。」

 

「その……あまりそれをここで言うのは賢明でない気が——」

 

「そのとおりだよ、ミスター・ポッター。賢明ではない。 むしろ賢明とは対極にある。 しかしわたしは()()()()()()()()()()()()()()()()()。きみはそれを言うまでそれを()()()()()()し、わたしも()()()()()()()()()()。 だから、言うがいい。」

 

「じゃあ……その。 これはあとになって考えると簡単に気づきそうなことのように思えるだけだとは思いますし、いまからでもやりなおしてみたらどうかと言うつもりはまったくないんですが、もし〈闇の王〉が予言によって自分を倒すことになっている子どもの話を耳にしたなら、防御も阻止もできない、脳のあるものにならかならず効果のある呪文が、ちょうどひとつありますよね——」

 

ありがとう、ミスター・ポッター。わたしも九年のあいだに何度かおなじことを考えたよ。」  クィレル先生はまたホタルブクロを一輪つまみ、それを手のなかでばらばらにしはじめた。 「自分がそれで痛い目を見てからというもの、わたしはその原理を〈戦闘魔術〉で教えるべき最重要事項に位置づけることにした。 若いトム・リドルはそれが〈ルール〉集の一番目だとは思っていなかった。 われわれは過酷な経験をしてはじめて、どの原理がほかの原理より優先されるべきかを知る。ことばのうえではどれもおなじように説得があるように見えてしまうものだ。 あとになって思えば、わたしの身がわりにベラトリクスをポッター家に行かせるべきだった。 しかしわたしには、そういう案件は腹心の部下にまかせず自分でやらねばらないという〈ルール〉があった。 そのときのわたしも、〈死の呪い〉を考えはした。 しかしその赤子に〈死の呪い〉をつかったとしたら、なぜか呪いが反射してわたしに命中し、それで予言が成就するということになるのではないか、というようにも思えた。 そうならないという保証はなかった。」

 

「それなら斧とか。斧のなかから予言を成就する呪文がでてくることは考えにくいでしょう。」  そう言ってからハリーは黙った。

 

「わたしは予言を自分なりのやりかたで成就させようとするのがもっとも安全だと判断した。 言うまでもなく、今後また自分に好ましくない予言を聞くことがあれば、そのときは予言の内容にあわせた行動をとろうとするのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()とことん邪魔しようとする。」  クィレル先生はバラをやはり素手で潰し、そこから汁をしぼりとろうとしているように見える。 「いまやだれもが〈死ななかった男の子〉には〈死の呪い〉への耐性があるというように考えている。〈死の呪い〉は家を崩壊させないし、焼死体をあとにのこすこともないのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

 

ハリーはやはりなにも言わない。 ヴォルデモート卿が失敗を避ける方法はそれ以外にももうひとつあった、ということにハリーは気づいている。 魔法族的な考えかたをするよりも、マグルにそだてられた人のほうが気づきやすいことなのかもしれない。

 

これをクィレル先生に言うべきかどうか、まだ判断がつかない。このもう一つの指摘をすることには利益と損失の両方がある。

 

しばらくして、クィレル先生はつぎの材料を手にとった。ユニコーンの毛のように見える糸状のものだった。 「あらかじめ言っておくが、仮におまえがこの肉体を破壊できたとして、それがわたしにとって九年の手戻りになると思ってはならない。 ホークラックスはそれぞれ以前より適切な場所に置いてある。また、今回はその必要すらない。 おまえのおかげで、わたしは〈よみがえりの石〉のありかを知った。 〈よみがえりの石〉は無論死者を生きかえらせはしない。しかしそこには、わたしが知る古代魔術より古い魔術で、魂の似姿を投影する能力がある。 そしてわたしは死を克服しているから、カドマスの〈秘宝〉はわたしを主人と認識し、わたしの意思によく反応した。 それはいま、わたしの偉大な発明に取りこんである。」  クィレル先生は小さく笑った。 「あれをホークラックスにするという考えは、何年もまえに検討したが、やめたほうがいいというのが当時のわたしの判断だった。あの指輪には得体の知れない種類の魔法力が感じられる、と考えてのことだったが……ああ、人生は皮肉なものだ。 それはさておき…… おまえが、ほかならぬおまえがあまりにも気軽に秘密をくちにし、情報をもたらしたことで、わたしの魂はどこへでも自由に飛んで、もっとも好都合な獲物を誘うことができるようになった。 おまえがティーカップの受け皿に描いた一筆の絵が、わたしの敵対者にとって破滅的なこの能力をもたらした。 魔法族生まれの者なら幼くして身につける判断力をおまえが身につけてくれれば、この世界はだれにとってもいまより安全な場所になる。 ワタシガ イマ 言ッタコトハ スベテ 真実ダ。

 

ハリーは目をとじ、手でひたいをさする。外から見れば、考えこむクィレル先生の鏡像のように見えるだろうやりかたで。

 

クィレル先生を倒すという問題は、ますます困難に見えてくる。ハリーがこれまでに解決した問題の不可能さに輪をかけた難度だ。 その難度をつたえることがクィレル先生の目的だったとしたら、それは成功している。 クィレル先生が()()()()()()()()()()()()()()()()()ならば、自分はヴォルデモートの()()()()()()()代理人としてブリテンを支配してもいいと真剣に自分から申し出ようかと思いたくなるほどだ。()()()()()()()()()()()とまで譲歩してしまうかもしれない。

 

しかしそんな取り引きは成立しそうにない。

 

ハリーは床に腰をおろしたまま自分の両手を見つめ、絶望感のなかに悲しさが混じってくるのを感じた。 ハリーに暗黒面をあたえたヴォルデモート卿は、()()()()()()反省し、自分の思考過程を点検しなおし……その結果、冷静沈着で、やはり殺人癖はあるクィレル先生として登場したのだということ。

 

クィレル先生が黄金色の毛をつまんで『光輝のポーション』に追加した。それを見てハリーは、時間が動きつづけていることを思いだした。 明るい色の毛を入れる頻度はホタルブクロより少ない。

 

「二番目の質問です。 〈賢者の石〉のことを教えてください。 〈転成術〉を永続させる以外の効果はなにかありますか? 〈賢者の石〉をいくつもつくることはできますか? つくるのがむずかしい理由は?」

 

クィレル先生はポーションの釜にかがみこんでいるので、ハリーからは顔が見えない。 「それでは、わたしが推理した〈石〉の物語を聞かせよう。 〈石〉の唯一の能力は永続性をあたえること、仮そめのすがたを真の持続性ある実体に作り変えること——尋常な呪文にはおよびもつかない能力だ。 ホグウォーツ城のようなものを実体化する魔法が維持できているのは、恒常的な魔法力の供給源があってのことだ。 〈変化師〉(メタモルフメイガス)といえども、黄金の爪を生成し、それを切りとって売ることはできない。 メタモルフメイガスの呪いは、マグルの鍛冶屋が槌や(やっとこ)で鉄を変形させるのとおなじように、自分の肉体を構成する物質の配列を変えるものにすぎないと考えられている。そして彼らの体内には黄金がない。 マーリンが無から黄金をつくりだすことができたというような記録は存在しない。 したがって〈石〉は非常に古いものであるにちがいないということが、調査をするまでもなく分かる。 これに対し、ニコラス・フラメルの存在はわずか六百年まえまでしか、さかのぼることができない。 では、このつぎに問うべき問いはなにか。〈石〉の歴史を本気でたどりたいなら考えつくはずだ。」

 

「ええと……」と言ってハリーはひたいをさすり、思考に集中する。 〈石〉の歴史の古さとくらべて、ニコラス・フラメルの存在は六百年まえまでしかさかのぼれない、ということは……。 「ニコラス・フラメルが登場するのと前後して、別の長命の魔法使いが消息をたっていたとか?」

 

「おしい回答だ。 六百年まえに不死の〈闇の女王〉と呼ばれたバーバ・ヤーガという魔女がいたことは忘れていまい? 彼女はあらゆる傷を治癒でき、どんなすがたにも変身できると言われた……つまり、〈永続性の石〉を持っていたとしか考えられない。 ある年、古いしきたりによる停戦の協約にしたがい、バーバ・ヤーガはホグウォーツでの〈戦闘魔術〉の教師の職を引き受けた。」  クィレル先生は……怒っている。あまりハリーに見せたことのない表情だ。 「しかし彼女は信頼を欠いていた。そこで呪いがとりおこなわれた。 ある種の呪いは、他人と同時にみずからを縛るようにすれば難度がさがる。 スリザリンの〈ヘビ語〉の呪いもその一例だ。 このときの呪いのために、バーバ・ヤーガの署名とホグウォーツの全生徒、全教師の署名が、〈炎の(ゴブレット)〉と呼ばれる、いにしえの魔法具のなかにおかれた。 バーバ・ヤーガは生徒に一滴の血も流させないこと、生徒に属するものを奪わないことを誓った。 その引きかえに生徒も、バーバ・ヤーガに一滴の血も流させないこと、バーバ・ヤーガに属するものを奪わないことを誓った。 全員が署名し、〈炎の杯〉が誓いの証者となり、以後違反者を罰することになった。」

 

クィレル先生はまた別の材料を手にとった。黄金色の糸がゆるく巻きつけられた、けがれを感じさせる材料だった。 「そこに、入学して六年目の、ペレネルという名前の魔女がいた。 若いペレネルの美はまだ開花しはじめたばかりだったが、心根の黒さにかけてはすでにバーバ・ヤーガ以上で——」

 

「よりによって、あなたがそれを言いますか?」と言ってからハリーは自分が『お前だって論法』の錯誤を犯していることに気づいた。

 

「ひとの話の腰を折るな。 どこまで話したか。 ……ああ、ペレネルという欲深い美女……この女が何カ月もかけて〈闇の女王〉を誘惑した。恥ずかしげな態度の演技、甘くいたずらっぽい仕草とことばに、バーバ・ヤーガは魅了され、二人は恋人になった。 その後のある夜、ペレネルはバーバ・ヤーガの変身能力のことを聞いて、自分の欲望に火がついたとささやきかけた。さまざまな変身で一夜を楽しみたいとペレネルに言われ、バーバ・ヤーガは〈石〉を手に、彼女のもとに行った。 バーバ・ヤーガはペレネルの注文に応じてさまざまな変身をくりかえし、男にも変身した。 二人は男と女としてベッドをともにした。 ところがペレネルは、それまで処女だった。 当時の古風な習慣ではそれはバーバ・ヤーガがペレネルに血を流させたことにあたる。〈炎の杯〉はそう解釈し、バーバ・ヤーガの防備をといた。 そうとは知らずベッドで眠ったままのバーバ・ヤーガを、ペレネルは殺した。停戦を受けいれて平和的にホグウォーツで仕事し、彼女を愛していた〈闇の女王〉を。 かくして〈闇の魔術師〉がホグウォーツで〈戦闘魔術〉を教えるという協約は決裂した。 以後数百年、〈炎の杯〉は無意味な学校間対抗の試合を監督するためにつかわれた。その後はボーバトン内の空き部屋におかれ、最終的にわたしが盗みだした。」  クィレル先生が薄い桜色の枝を釜に投入すると、それは水面に触れると同時に白色に変わった。 「……その話はさておき。 ペレネルはバーバ・ヤーガの〈石〉を奪い、ニコラス・フラメルの外見と名前をつかいはじめた。 フラメルの妻という位置づけで、ペレネルとしてもふるまいつづけた。 二人がそろって公の場に登場したことはあるが、それを実現する方法はいくらでもある。」

 

「〈石〉の精製方法については?」と言いながら、同時にハリーはここまでの話を処理するために脳をはたらかせる。 「本には錬金術的な精製方法が書いてありましたが——」

 

「それも偽装。 『ニコラス・フラメル』はだれでも試すことのできる大魔術を完璧になしとげることで永遠に生きる権利を勝ちえた、というようにペレネルが見せかけたのだ。 ペレネルは、自分以外の人間がバーバ・ヤーガの真の〈石〉へいたる道をはずれて偽の道をたどるように誘導した。」  クィレル先生は多少くやしそうな表情をしている。 「予想できるだろうが、わたしは何年もかけてその偽の精製方法を極めようとした。 つぎにおまえはこうたずねるだろう。なぜわたしはペレネルを誘拐し拷問したうえで真実を吐かせてから殺すという方法をとらなかったのかと。」

 

実際にはハリーはその質問を思いついていなかった。

 

「答えは、わたしのような〈闇の魔術師〉がそうした手にでることを見こして、ペレネルが先手を打っていたからだ。 『ニコラス・フラメル』は、どんな手段で強要されようとも〈石〉を手ばなさないという〈不破の誓い〉を公の場でおこなった。ニコラス・フラメルは、それは不老不死が欲深い者の手にわたることを防ぐための措置だと言った。あたかもそれが公共への奉仕であるかのような言いかただった。 わたしは、ペレネルが〈石〉の隠し場所を秘密にしたまま死ねば、〈石〉が永遠にうしなわれてしまうのではないかと恐れた。〈誓い〉のおかげで拷問は通用しなかった。 うまい策さえ見つかれば彼女から秘密を引きだすことができるのではないかという期待もした。 ペレネルはもともとこれといって学のない人間だったが、自分より偉大な魔法使いの生命を人質にとり、わずかばかりの治癒と引きかえに秘密をわたさせ、すこしだけ加齢を逆行させる見かえりに権力を受けとる、というような取りひきをくりかえした。 ペレネルは下じもの者に真の若さをあたえるような人間ではなかった——ただ、二百五十歳に達してまだ死なない老人などは、彼女の世話になっているものと考えてまちがいない。 そうやってペレネルはわたしの世代までの数百年のうちに有利な立ち場をきずき、アルバス・ダンブルドアを強化して〈闇の王〉グリンデルヴァルトに対抗させることができるようになっていた。 わたしがヴォルデモート卿として登場すると、ペレネルは秘蔵の知識のひとかけをダンブルドアに分けあたえてダンブルドアをさらに強化した。ひとたびヴォルデモート卿が優位にたったと見れば、またおなじことをした。 わたしはその状況を打開する一手がきっと見つかるような気がしていたが、けっきょく見つかることはなかった。 わたしはペレネルを直接攻撃しようとしなかった。自分の偉大な発明の有効性を信じきれず、いつか自分も彼女に加齢を逆行させてくれと頼みこむことがないとは言いきれないと思っていた。」  クィレル先生はホタルブクロを二輪同時にポーションにいれた。泡立つ液体に触れた瞬間、二輪が溶けあったように見えた。 「しかしいまやわたしの発明は有効だと分かった。だからわたしは〈石〉を強奪すべきときが来たと判断した。」

 

ハリーは言いよどんだ。 「その話のすべてが真実だと〈ヘビ語〉で言ってもらえますか。」

 

虚偽デアルト 知リナガラ 話シタ 部分ハ ナイ。 物語を語ることは行間を埋めることでもある。 わたしもペレネルがバーバ・ヤーガを誘惑するところをこの目で見てはいない。 話ノ 基本線ハ オオムネ 正確ダト 思ウ。

 

ハリーはそこに小さな困惑の影があることに気づいた。 「それなら〈石〉がホグウォーツ内におかれている理由がわかりませんね。 それよりグリーンランドのどこかのなんの変哲もない岩の下にでも隠したほうがいいのでは?」

 

「ペレネルはわたしの探索能力を非常に高く評価しているようでね。」  〈防衛術〉教授は雨水の〈薬学〉記号のラベルがついた瓶のなかの液体にホタルブクロを漬けながら釜を注視しているように見える。

 

〈防衛術〉教授とぼくは、すべてではないにしろある点でとてもよく似ている。 ぼくなら彼の問題とおなじ問題をどう解くか、想像してみるとすれば……

 

「はったりをつかって、あなたならなんらかの方法で〈石〉を見つけられると周囲の人たちに()()()()、ということですか? そうすればペレネルはダンブルドアの守護を頼って〈石〉をホグウォーツにおくだろうと考えて。」

 

〈防衛術〉教授はためいきをついたが、顔は釜のほうを向いたままでいる。 「その戦術をおまえに対して隠そうというのは無理があるだろうな。 たしかにわたしはクィレルに憑依して復活したあとで、星をながめていた時期の着想を実行に移した。 まずは自分がホグウォーツ〈防衛術〉教授にかならず就任できるような状況をととのえ、求職中に疑いをかけられるという不都合が起きないようにした。 それから、〈石〉の隠し場所を見やぶることができるという〈蛇の王冠〉のことがもっともらしく記された碑文を用意し、ペレネルが派遣した呪い破りチームのうちのひとつにそれが発見されるように仕組んだ。 発見のすぐあと、ペレネルが〈王冠〉を買いとる間もなく、〈王冠〉は盗みだされる。さらにその盗人にヘビと会話する能力があったと示唆する証拠を残した。 これを受けてペレネルは、わたしがいつでもかならず〈石〉のありかを突きとめられるようになったと信じ、〈石〉はわたしを倒せる実力のある守護者に託さねばならないと考えるようになった。 こうして〈石〉はダンブルドアの監督下におかれることになった。 もちろんそこまでがわたしの狙いだった。そのためにわたしはその年ホグウォーツに出入りする権限を得ていたのだから。 おまえに関係し、わたしの未来の計画には関係しない部分を話すとすれば、これがすべてだ。」

 

ハリーは眉をひそめた。 クィレル先生がそこまで話すいわれはない。 可能性としては、いま話された戦術はなんらかの理由ですでに用ずみで、将来ペレネルをだますときには使えなくなってしまっているものなのだとか……? それとも、あまりにもあっさり話すことによって二重のはったりであると判断させようというつもりで、実は〈蛇の王冠〉が〈石〉を見つけだす能力はほんものだとか……。

 

ハリーはこの点について〈ヘビ語〉で確認をもとめないことにした。

 

また別の明るい色の、老齢によるものではなさそうな白みの毛の束が、ぱらりと釜に落とされた。それでまたハリーは時間の制約があることを思いださせられた。 これ以上この方向に追及を深める手は思いつかない。第二、第三の〈賢者の石〉を製造する方法が知られていない、方法を発明するのも簡単ではない、というのは、()()()()()今日ハリーが聞いたなかで最悪の情報だった。

 

ハリーは大きく息をすった。 「三番目の質問です。 この一年この学校で起きたできごとの真相を言ってください。 あなたが主導した謀略についても、あなたが知っている謀略についてもすべてを。」

 

「ふむ。」と言ってクィレル先生はまた一輪のホタルブクロと小さな十字架のかたちをした植物を溶液に投入した。 「そうだな……意表をつくできごとといえばまず、〈防衛術〉教授の正体がヴォルデモートだったというあたりか。」

 

「ええ、それはもう。」  ハリーは自分への苦にがしい思いを感じながら言った。

 

「それでどこから話せと?」

 

「なぜハーマイオニーを殺したのか。」  思わずその質問がくちをついた。

 

淡い水色の目がポーションを見るのをやめ、ハリーを見さだめる。 「理由は明白ではないか、と言いたいところだが—— おまえからすれば、一見明白なことを疑うのも無理はないかもしれない。 不透明な謀略の目的を理解するには、その帰結を観察して、だれの意図であったかを推理しようとすることだ。 わたしはルシウス・マルフォイに対するおまえの相対的な地位を向上させるためにミス・グレンジャーを殺した。わたしの計画上、ルシウス・マルフォイがおまえにあれほど大きな影響力を行使できるようになっているべきではなかった。 おまえがあそこまで被害を拡大してのけたことについては、わたしも多少感心させられてはいる。」

 

ハリーは歯を食いしばるのをやめるのに苦労した。 「それ以前に、ドラコに対する殺人未遂の罪をきせてハーマイオニーを()()()()()()()()()()もしましたね。あれはなんのためですか。 あなたから見て好ましくない影響を彼女がぼくにもたらしていたから?」

 

「まさか。 もしミス・グレンジャーを排除することだけが目的なら、マルフォイ家をかかわらせたりなどしない。 おまえのドラコ・マルフォイとのつきあいを観察しているのはおもしろくはあったが、遠からずルシウスが察知し介入してくるだろうことは目に見えていた。おまえがそこでバカな真似をすれば、大問題となるだろうことも。 あのウィゼンガモートの審判でおまえがわたしの教えどおり()()()ことができてさえいれば、わずか二週間後にはルシウス・マルフォイを確実に追いこむ証拠が浮上しているはずだった。息子の裏切り行為を知ったルシウス・マルフォイは、〈服従(インペリオ)〉であやつったスプラウト教授でミスター・マルフォイに〈血液冷却の魔法〉をかけ、ミス・グレンジャーに〈偽記憶の魔法〉をかけた……その罪で、政治のゲーム盤から放逐され、アズカバン行きではないにせよ流刑に処せられる。 ドラコ・マルフォイはマルフォイ家の富を相続し、彼へのおまえの影響力を邪魔するものはなくなる。……という手はずだった。 ところがその計略は途中で中断せざるをえなくなった。 おまえは真の計画を台無しにすると同時に、自分の資産の倍の金額をうしない、おまけにルシウス・マルフォイが純粋に息子を思いやるすがたを周囲に見せる絶好の機会まで提供してのけた。 余計な手出しをすることにかけてのおまえの才能についてはわたしも認めざるをえない。」

 

「そして……」  ハリーは暗黒面のパターンをつかっていてなお、声を平静にたもつ努力をする必要があった。 「アズカバンに二週間いさせることでミス・グレンジャーの性格を改良でき、ぼくへの悪い影響をなくすことができる、という思惑もあった。 そのために、彼女の刑はアズカバン行きでなければならない、という新聞記事が流れるようにも仕組んだ。」

 

クィレル先生のくちびるが閉じ、薄ら笑いのかたちになる。 「ご明察。 わたしは彼女をおまえのベラトリクスにすることができるかもしれないと思った。 そうなった彼女がとなりにいるのを見て、おまえはいつも法律を尊重することの無意味さを思いだす。〈魔法省〉に対しておまえがどういう態度をとるべきかを教える効果もあっただろう。」

 

「複雑すぎてどう考えても成功しようがない謀略ですね。」  いま自分はもっと言動に気をつけているべきだということも、これはクィレル先生の言う『バカな真似』にあたるということも分かっていながらも、この瞬間にはそんなことを気にしていられなかった。

 

「クリスマスの模擬戦で三軍を引き分けにするというダンブルドアの謀略ほどではないし、ダンブルドアがミスター・ザビニを脅迫したようにおまえに思わせるわたし自身の謀略とも大差ない。 ミスター・ポッター、きみはこの一連の謀略が成功()()()()()()()種類の謀略だということを見おとしている。」  クィレル先生はなにげなくポーションの攪拌をつづけながら笑顔で言う。 「成功()()()()()()()()()種類の謀略については、鍵となる部分をできるかぎり単純にし、あらゆる面で警戒をおこたらないものだ。 しかし失敗してもかまわない種類の謀略については、趣味に走ることもできるし、自分の能力を試すため限界まで複雑度をあげることもできる。 このうちどの謀略でしくじったとしても、わたしが死ぬようなことはなかった。」  クィレル先生はもう笑っていない。 「アズカバンへの旅は前者だった。あそこでのおまえのおふざけには感心しなかった。」

 

「あなたは結局ハーマイオニーになにをしたんですか。」  ハリーのなかの一部は自分の声の平静さを不思議に思っている。

 

〈忘消〉(オブリヴィエイト)と〈偽記憶の魔法〉。 それ以外にホグウォーツ城の結界と彼女の精神にかけられるであろう検査をやりすごせると確信できる方法はなかった。」  クィレル先生の表情に一瞬いらだちが混じった。 「なるほど、いくらか複雑すぎる部分があったことは認めよう。しかしそうなったのは、最初にしかけた謀略が思うように働かず、修正していかざるをえなかったからだ。 わたしは廊下でスプラウト教授の外見をまとってミス・グレンジャーに近づき、陰謀への誘いをもちかけた。 最初の説得は失敗した。 ミス・グレンジャーを『オブリヴィエイト』し、また別の外見をまとって、またおなじことをした。 二回目も失敗だった。三回目も失敗だった。()()()も失敗だった。 わたしはいらだちのあまり、手もちのありとあらゆる変装手段を試していった。なかにはミスター・ザビニのような相手につかうべきものも含まれていた。 ()()()()そのどれもが失敗した。 彼女は最後まで子どもじみた道徳律を破ろうとしなかった。」

 

「『子どもじみた』と言ってもらいたくはありませんね。」  自分の声が変に聞こえた。 「その道徳律は()()()()()。 だから彼女はあなたに騙されなかった。 義務論的倫理の規則というものがあるのは、それを破らせようとする議論が見た目以上に信頼できないものだからです。 彼女の規則が意図されたとおりの機能をはたしたからといって、文句を言うのはおかしい。」  ハーマイオニーを生きかえらせたら、ヴォルデモート卿でさえきみを悪に誘うことはできなかった、だからきみは殺されたんだ、と言ってやらなければ。

 

「まあ一理あるかもしれないな。 壊れた時計も一日に二度は正しい時刻を指すという言いまわしもあるし、わたしはミス・グレンジャーのあの態度は筋がとおらないと思っている。 とはいえ、〈ルールその十〉……こちらを負かした対戦相手のことを卑怯だと言ってはならない。 それはともかく。 まる二時間失敗しつづけた時点で、わたしは自分の考えかたが頑固すぎたことに気づいた。わたしの意図どおりの行動をミス・グレンジャーに実際にさせる必要はなかったのだ。 わたしは当初の計画をあきらめ、そのかわりにミス・グレンジャーに〈偽記憶の魔法〉をかけて、ミスター・マルフォイが自分に対して謀略をしかけているのを目撃した、という記憶を植えつけた。その記憶には、当局に通報すべきではないように思えるような状況を設定しておいた。 最終的に、わたしに必要な切っかけをくれたのはミスター・マルフォイだった。これは偶然でしかなかったがね。」  クィレル先生はホタルブクロを一輪と羊皮紙の切れはしを釜に投入した。

 

「結界の記録上、ハーマイオニーを殺したのが〈防衛術〉教授になっていたのはなぜですか?」

 

「ダンブルドアがわたしを〈防衛術〉教授としてホグウォーツの結界に登録するとき、わたしはあの山トロルを義歯として装着していた。」  うっすらとした笑み。 「〈転成〉できる生体兵器はあれ以外にない。ほかのものは〈逆転時計〉の追跡をかわすために六時間〈転成〉解除がつづいた時点で死んでしまう。 殺害の道具として山トロルがつかわれたという事実から、実行犯には安全に〈転成〉しうる代理の兵器が必要だった、ということが明らかになる。 結界の記録、そしてわたしをホグウォーツ城に登録したダンブルドア自身の知識をもってすれば、犯人を推理できてもおかしくない——理論上は。 しかし、わたしの経験上、このようなパズルは解を知らない状態でははるかに解くのがむずかしい。だからリスクは小さいと判断した。 ああ、それで思いだしたが、こちらからも聞きたいことがある。」  〈防衛術〉教授はハリーをしっかりと見すえた。 「ここの外の通廊で、最終的にわたしの正体を知る手がかりとなったものはなんだった?」

 

ハリーはほかの感情をわきにおき、正直に答えることで起きる損得を検討した。検討の結果、〈防衛術〉教授がいまこちらに提供している情報はその逆よりはるかに多く(なぜだろうか?)、こちらが出しおしみをしているような印象をあたえることは避けたい、という結論になった。 「一番大きかったのは、あの全員がおなじ時刻にダンブルドアの通廊に到着するというのはとても偶然ではありえない、ということですね。 それで、あの場にいる、あなたをふくめた全員が同時に来るように仕組まれていたにちがいないという仮定をして、そこからすべてを考えてみました。」

 

「しかしわたしはスネイプを追って来たと言った。もっともらしくはあっただろう?」

 

「そうですね、それでも……。 その。 説明力のあるなしを決める法則では、あとでもっともらしい口実を聞かされたかどうかという要素は考慮しません。 考慮するのは事前に設定した確率値です。 だから科学では、あとづけの説明は信用できないものだから、事前に予測をたてるという決まりになっています。 ぼくはあのとき、あなたがスネイプを追ってあそこに登場するということを事前に予測していたかといえば、そうではなかった。 仮にぼくがあなたがスネイプの杖に標識をしこむことができるということを事前に知っていたとしても、あなたがそれを実践してちょうどあのとき登場するという予測はしなかっただろうと思う。 あなたの説明を聞いたあとでも、ぼくは自分がその結果が起きることを事前に予測していたような気がしなかったから、低確率な事象であることは変わらなった。 そして、スプラウトを操縦している人物があなたを登場させたのではないか、と思いはじめた。 それから、自分にとどいていたメモも実際には未来の自分から送られたものではないのだと気づいて、それが決定打になった。」

 

「ああ……そうか。」と言って〈防衛術〉教授はためいきをついた。 「まあ、それでよかったように思う。 その時点で気づいても遅すぎたのだし、気づかないままでいられることには得もあるが損もあっただろうから。」

 

「あのときあなたはいったい、なにをしようとしていたんです? ぼくがあそこまで必死になって考えたのは、あの状況が奇妙すぎたからなんですが。」

 

「それを言うならわたしではなくダンブルドアに言ってもらいたい。」と言ってクィレル先生は眉をひそめた。 「本来、ミス・グリーングラスはもう数時間あとに到着するはずだった……しかしわたしが彼女用に用意しておいた手がかりをミスター・マルフォイから渡させたのは事実だから、二人がいっしょに来るのは意外ではなかったが。 ミスター・ノットが単独で来たように見えていれば、あれほどばかばかしい展開にはならなかったはずだ。 わたしは戦場を支配する魔法の専門家を自負している。あの戦闘もわたしの意図どおりに進行させることができていた。 結果的には多少ばかげた印象をあたえるものであったことは認めるが。」  〈防衛術〉教授は桃の薄切りとホタルブクロを釜に投入した。 「しかし〈鏡〉について話すのは現地に行ってからにしよう。 ミス・グレンジャーの不幸な——望むらくは一時的な——死について、ほかにも聞きたいことがあるのでは?」

 

「はい。 ウィーズリー兄弟にはなにをしましたか? ダンブルドアの考えでは——まず、ハーマイオニーが逮捕されたあと、総長がウィーズリー兄弟と話しにいったことは周知の事実でした。 ダンブルドアの考えでは、あなたが……つまりヴォルデモートがダンブルドアのその行動の理由を不思議に思って、ウィーズリー兄弟を検査して、それで地図がみつかったのでそれを奪って、二人には〈忘消〉(オブリヴィエイト)をかけた、ということになっていましたが。」

 

「ダンブルドアのその推理で正解だ。」と言ってクィレル先生は不可解そうにくびをふった。 「しかしいっぽうで、〈ホグウォーツ城内地図〉をあの愚か者二人組に持たせたままにするとは、ダンブルドアはなにを考えていたのか。 〈地図〉を再生して見ると、われわれ二人の名前が正しく表示されていたのだから、わたしも冷や汗をかかされた。 愚かなウィーズリー兄弟は誤作動だとしか思わなかったようだがね。とくにおまえが〈マント〉と〈逆転時計〉を手にしたあとでは。 もしダンブルドアが〈地図〉を自分の手もとにおいていれば——あるいはウィーズリー兄弟が一度でもダンブルドアに誤作動のことを話していれば——だが幸いそういうことはなかった。」

 

われわれ二人の名前が正しく表示されていた——

 

「それを見せてください。」

 

クィレル先生は釜から目を離れさせないまま、ローブのなかから折りたたまれた羊皮紙をとりだし、それに「コノ 周囲ヲ 見セヨ。」と言ってから、ハリーにむけてほうりなげた。 羊皮紙の軌道は正確で、破滅の感覚がすぐそばまでやってくるのが感じられた。羊皮紙はひらりとハリーの足もとに落ちた。

 

ハリーはそれを手にとって広げた。

 

最初それは白紙に見えた。 しかしそこに、目に見えないペンによって書かれるようにして、手書きの線で壁と扉の輪郭がつぎつぎと出現した。 線は部屋のならびを順に書いていった。そのほとんどが無人の表示だったが、最後の部屋だけは、中央部にぐちゃっと混乱した図形ができた。それは〈地図〉が自分のおどろきを表現しようとしているかのようだった。 そして、最後から二番目の部屋の、ハリーがいる位置とクィレル先生がいる位置に相当する場所に、二つの名前があらわれた。

 

トム・M・リドル

 

トム・M・リドル

 

それを目にして、ハリーは全身がぞくりとした。 おまえの名前はトム・リドルだとヴォルデモート卿に言われるのと、ホグウォーツ城の魔術にそう保証されるのとでは、またちがった重みがある。 「アナタガ コノ 地図ヲ 細工シテ コウシタノカ、ソレトモ アナタニ トッテモ コレハ 予想外ダッタノカ。

 

予想外ダッタ。」  クィレル先生のその声にはヘビ式の笑いが混じっている。 「小細工ハ ナイ。

 

ハリーは〈地図〉をたたんでクィレル先生の方向に投げかえした。 それは床に落ちるまえに見えないちからに捕獲され、クィレル先生のローブのなかへと押しこまれた。

 

「ついでに、ミス・グレンジャーが率いたいじめ退治の一行を誘導し、危なくなれば介入したりしていたのはスネイプだ、という情報も提供しておこうか。」

 

「それは知っていました。」

 

「ほう。それはダンブルドアの耳にもはいっていたのか? 〈ヘビ語〉で言ってくれ。」

 

彼ハ 知ラナカッタト 思ウ。

 

「興味ぶかい。ではもうひとつ、これも知らせておこうか。 薬ノ 教師ハ 隠レテ 動ク 必要ガ アッタ。彼ノ 策ハ 学校長ノ 策ト 対立シテイタ。

 

ハリーがその情報について考えるあいだ、クィレル先生はまだ火で熱せられているポーションを冷ますように息をふきかけ、そこに土をひとつまみと水一滴とホタルブクロ一輪を追加した。 「説明してください。」とハリーは言った。

 

「なぜセヴルス・スネイプがスリザリン寮監にえらばれたのか、不思議に思ったことはなかったか? ダンブルドアのスパイという裏の仕事に対する表の名目、というだけではなんの説明にもならない。 それなら〈薬学〉教授であればよく、スリザリン寮監になる必要はない。 ホグウォーツ内にいさせたいだけなら、〈門番兼森番〉でもいい! ダンブルドアの見かけ上の倫理観によれば、スネイプはスリザリン生たちをよい方向に導けるような人物ではありえない。なのになぜスリザリン寮監をまかせる? おまえはそれを不思議に思っただろう?」

 

いや、()()()()そういうふうには考えていなかった……。 「似たようなことなら。 ぴったりそのとおりの構図では考えていませんでしたが。」

 

「しかしこれでもう、一度は考えた。答えはすぐに思いつかないか?」

 

「いえ。」

 

「失望した。おまえは冷笑についての勉強がたりない。道徳主義者が言う善悪の区別の()()()を知らない。 謀略をみやぶるには、結果として生じたものごとに注目し、それが意図されて生じたという可能性を追うこと。 ダンブルドアは故意にスリザリン寮をだめにしようとしていた——そういう顔をするな。ワタシハ 真実ヲ 話シテイル。 前回の〈魔法界大戦〉でわたしの配下についたのはスリザリン卒業生ばかりだったし、ウィゼンガモートでわたしを支持したのもそうだった。 その状況を、もともとスリザリン的な考えかたに理解のないダンブルドアの視点から見てみるがいい。 スリザリン寮が悪の源泉となってしまったと考えるダンブルドアの(なげ)きは大きくなるいっぽう。 そのダンブルドアがあるとき、スネイプを寮監にすえる。 いいか、スネイプをだ。セヴルス・スネイプといえば、 狡知も野心も教えられず、きびしい規律を敷くこともせず、子どもたちを弱くするような人物であり、 ほかの寮の反感を買い、スリザリン寮の名をおとしめるような人物だ。 ブリテン魔法界で名の知られた家の出ではなく、無論貴族でもなく、服装はぼろ着同然。 そんな人物を着任させればなにが起きるか、ダンブルドアが気づいていなかったとでも思うか。 スネイプを推したのも、そうする動機があったのも、ダンブルドア自身にほかならない。 ダンブルドアはきっと、ヴォルデモートの〈死食い人〉予備軍たる生徒を弱くすれば、次の〈魔法界大戦〉で救える命が増えるのだと、自分に言い聞かせたのだろうと思う。」  クィレル先生は氷の小片を一枚、釜に投入した。それは溶液の表面に触れるとゆっくりとけていった。 「そのような介入がつづけば、やがてはどの子もスリザリンを忌避するようになる。 そこでスリザリン寮は廃止とし、仮に〈帽子〉がスリザリンと言うのをやめなかったとしても、それは不名誉の烙印でしかなく、実際の行き先は三寮のうちのどれかに振りかえる。 その日からホグウォーツには勇気の寮と学問の寮と勤労の寮だけがのこり、〈邪悪な子〉の寮はなくなる。 そもそもの話として創設者三人がサラザール・スリザリンを拒絶して三寮ではじめてくれていればこんな苦労はなかったものを……。というのがダンブルドアが想定した終局(エンドゲーム)ではないかと思う。 より大きな善のための短期的な犠牲ということだ。」  クィレル先生は皮肉な笑みをした。 「ルシウスはそのすべてを看過した……というより、異変が起きていることに()()()()()()()()()らしい。 わたしが不在であったあいだ、わたしの元従僕たちは敵の知略に完敗してしまっていたようだ。」

 

ハリーはどこか引っかかるように感じたが、しばらく考えて、いま突きつめようとすべきことではないと判断した。 ヴォルデモート卿はダンブルドアがそういう罪をおかしていると考えている。だが実際にそうであるかどうかは、ほかの材料とあわせて自分自身で見きわめる必要がある。

 

クィレル先生がつかった『従僕』ということばを聞いて、もうひとつ思いださせられたことがあった。このことをハリーはある意味……知ろうとする義務がある。 悪い知らせが返ってくる可能性は十分ある。 今日でなければ、それを聞かされるのは耐えがたい。 しかし今日なら洪水に流してしまえる。 「ベラトリクス・ブラックは、実際にはどういう人だったんですか。」

 

「わたしと出会う以前から彼女の精神はまともではなかった。」  クィレル先生はそう言って灰白色のゴムひものようなものを手にとって、釜の上にかかげた。蒸気のなかにおかれるとそれは黒く変色した。 「〈開心術〉をかけたのは失敗だった。 しかしその一瞬で、わたしがその気になればたやすく彼女を一目惚れさせることができると分かった。だからそうした。 以後彼女はわたしのもっとも忠実な従僕となった。わたしにとって信頼できる従僕に近いものがあったとすれば彼女だけだった。 彼女がもとめるものをこちらから与える気はまったくなかった。 だから彼女をレストレンジ兄弟に報奨として与えた。三人はその奇妙な関係が気にいったようだった。」

 

「それはどうでしょうね。 もしそうだったとしたら、ぼくらがアズカバンに行った時点でベラトリクスはレストレンジ兄弟のことを忘れているはずです。」

 

クィレル先生は肩をすくめた。 「まあ、そうかもしれない。」

 

「だいたい、あそこに行くことになんの意味があったんですか。」

 

「ベラトリクスがどこにわたしの杖を隠したかを知ること。 わたしはあらかじめ〈死食い人〉たちにわたしが不死であることを知らせてあった。そうしておけば——けっきょく無益なことだったが——わたしが死んだという知らせのあと()()くらいは離反をふせぐ効果があるのではないかと思っていた。 ベラトリクスには、わたしの死体のあとから杖を回収してとある墓地に持っていけばそこにわたしの魂があらわれる、と指示してあった。」

 

ハリーはごくりと息をのんだ。 ベラトリクス・ブラックが墓地で今か今かと待ちつづけ、焦りをつのらせる様子が思いうかぶ……。彼女があとさきを考えない状態になってロングボトム家を襲撃したのも無理はない。 「脱出させたあと、ベラトリクスをどうしましたか。」

 

平穏ナ 場所ニ オイテ 体力ヲ 回復サセタ。」  冷ややかな笑み。 「ベラトリクスには……少なくともベラトリクスのとある一部分には、まだ利用価値がある。わたしは将来の計画についての質問には答えない。」

 

ハリーは深く息をすいなおし、自制心を維持しようとした。 「この一年のあいだに秘密裏にしかけた謀略は、ほかになにかありましたか。」

 

「ああ、いくつもある。しかしおまえに関係するものは多くない。すくなくとも、いますぐに思いだせるかぎりでは。 わたしが一年生に〈守護霊の魔法〉を教えさせた真の理由は、ディメンターとおまえを対面させることにあった。そしてディメンターの吸魂能力がおよぶ場所におまえの杖が落ちるように仕組んでおいた。 害意ハ ナカッタ。オマエノ 真ノ 記憶ノ 一部ヲ 回復サセヨウト シタダケ。 屋根の一件で、女生徒何人かががおまえを引き寄せるように仕組んでおき、あたかもわたしがおまえの命を救ったように見せかけたのも、そのためだった。 その直後に予定してあったディメンター事件でわたしに疑いが向けられる可能性にそなえてそうした。 コレモ 害意ハ ナカッタ。 ミス・グレンジャー一行への襲撃のうちいくつかはわたしが仕向けたもので、ミス・グレンジャーたちが勝てるように仕組んであった。わたしもいじめは気に食わないのでね。 コノ 一年内ノ オマエニ 関係スル 謀略ハ コレガ スベテ ダッタト 思ウ。ワタシガ ナニカ 忘レテ イナケレバ。

 

ここで教訓がひとつ——とハッフルパフ面が言う。 他人の人生に無闇に介入したくなったときはできるだけ思いとどまれ。 たとえばパドマ・パティルの人生とかね。 あとでこんな状況におちいりたくなければ。

 

赤茶色の粉末がひとつまみ、釜のなかの液にふりかけられた。ハリーはそこで第四の、最後の質問をする。優先度は高くないように思われるが、それでも意味のある質問を。

 

「あなたにとって〈魔法界大戦〉の目的はなんでしたか。 その……あんな——」  声がふるえる。 「あれだけのことをしたのは、()()()()()だったんです?」  ハリーの脳は何度となく繰り返す。なぜ……なぜ……なぜヴォルデモート卿でなければならなかったのか……

 

クィレル先生は片眉をあげた。 「デイヴィッド・モンローについてはもう聞かされているな?」

 

「あなたが〈魔法界大戦〉当時デイヴィッド・モンローとヴォルデモート卿の両方であったということは分かっています。 あなたはデイヴィッド・モンローを殺して彼になりすました。そしてだれにも変化を察知されないよう、デイヴィッド・モンローの家族を皆殺しにした——」

 

「そのとおり。」

 

「〈魔法界大戦〉でどちらの陣営が勝っても、あなたは勝ったほうを支配できるという算段だった。 それはいいとして、その片ほうを()()()()()()()にしなければならなかった理由はなんですか? 支持を増やしたければ、そ……その、あれほど……ヴォルデモート的な人物にしないほうがよかったのでは?」

 

クィレル先生の木槌(きづち)がめずらしくドンと音をたて、すりつぶされた蝶の羽がホタルブクロに混ざる。 「()()()()、ヴォルデモート卿はデイヴィッド・モンローに()()()ことになっていた。 そのようにことが運ばなかったのはひとえに、あの無能な——。 いや、それでは順序が逆だ。順を追って話そう。 わたしはあの偉大な発明をなしとげ、自分の魔法力の最盛期をむかえて、自分自身で政治権力を掌握すべき時期がきたと考えた。 支配者であることは不自由であり、不愉快な仕事にも時間をさかねばならなくなる。 しかしわたしはいずれ確実にマグルによる世界の崩壊か、魔法族に対する戦争のどちらか、あるいはその両方がやってくると知っていた。なにか手を打たねば、わたしは生命の死にたえた世界をさまよって永遠の余生を過ごす羽目になる。 わたしには、不死を達成したつぎの数十年の時間をついやしてなしとげるべき目標が必要だった。マグルの傍若無人なふるまいをとめるという目標は、それなりに大きくやりがいのあるものに思われた。 その目標にむけて動くのが、よりによってこのわたし一人だけだということは、いつ考えても愉快だ。 とはいえ、虫けらが世界の終わりを気にかけないのも無理はないのかもしれない。どうせ自分は死ぬのだからわざわざ苦労して困難なことに取りくむ意味もないと思うのだろう。 それはさておき。 わたしはダンブルドアがグリンデルヴァルトを倒して権力を獲得していったのを見て、その真似をすることにした。 わたしはずっと昔からデイヴィッド・モンローへの復讐を誓っていた——スリザリン寮の同級生で、うっとうしい男だった——あの男になりすまし、モンロー家を皆殺しにし、モンロー家をついでしまえば両得だと考えた。 そしてデイヴィッド・モンローが対決する巨悪として、史上最悪の〈闇の王〉を配置することにした。グリンデルヴァルトよりはるかに凶悪で、グリンデルヴァルトにあった欠点と自滅性向をなくし、他の追随を許さない知性のある〈闇の王〉。 あらゆる知略を駆使して敵の同盟を瓦解させ、たくみな演説で追従者の忠誠を勝ちえることができる〈闇の王〉。 ブリテンの歴史上、いや世界の歴史上のどの〈闇の王〉より恐ろしい〈闇の王〉。デイヴィッド・モンローはそんな相手を倒すはずだった。」

 

クィレル先生の木槌がホタルブクロにふりおろされ、またもう二回、別の白い花にふりおろされた。 「わたしはそれまでに、〈闇の魔術師〉を演じたことなら何度かありはしたが、ひとそろいの手下と政治的計画をそなえた〈闇の王〉を演じた経験がなかった。 要は練習がまったく不足していた。いっぽうで、〈闇の福音〉という女が最初に公の場にすがたをあらわしたときの失敗談のことを意識してもいた。 あとになって本人があかしたのだが、彼女は〈歩く災厄(カタストロフィー)にして暗黒の使徒(アポストル)〉と名のるつもりで、興奮のあまり〈暗黒の(アポストロフィー)〉と言ってしまったらしい。 それから村二つを蹂躙し破壊しつくすまではだれも彼女のことを真剣にとりあおうとしなかった、という話だった。」

 

「だからあなたは小規模な実験からはじめることにした。」  いやな予感とともに、話を聞いた瞬間にハリーは()()()()()()()()。自分の鏡像が見えた。 そのつぎに自分なら、自分が倫理をまったくなくしてしまったとしたら、こころのなかが空虚であったとしたら、やるであろう行動が見えた。 「使い捨ての架空の人物をつくって、本番で失敗しないように、ひととおりそれで練習しておくことにした。」

 

「そのとおり。 デイヴィッド・モンローの宿敵たる真に恐るべき〈闇の王〉を演じるまえに、練習用に別の〈闇の王〉のペルソナをつくった。赤く光る目をしていて、配下の者どもに無意味に残酷な仕打ちをして、ノクターン小路の酔っぱらいが吹聴するようなたぐいの純血主義とあからさまに利己的な野望を政治的計画として語る〈闇の王〉だ。 最初の部下数名は酒場で雇った。そいつらにはマントと骸骨の仮面をあたえ、〈死食い人〉を名のるよう命じた。」

 

ハリーの腹の奥で、いやらしい理解の感覚が深まる。 「そして自分はヴォルデモートと名のった。」

 

「ご明察、〈カオス〉軍司令官。」  クィレル先生が笑顔になる。 「実名のアナグラムにしたいところだったが、そう都合よくはいかなかった。たまたまミドルネームが『Marvolo(マルヴォロ)』であったりはしなかったし、そうだったとしても無理があった。 ちなみに、われわれの実際のミドルネームはモーフィンだ。 それはさておき。 もともとわたしはヴォルデモートを数カ月か、せいぜい一年しかもたせる気がなかった。そのころまでに手下をみな〈闇ばらい〉に始末されて、使い捨ての〈闇の王〉は失踪する、というつもりだった。 もうわかったと思うが、わたしは対戦相手の能力を大幅に過大評価していた。 悪い知らせを運んで来る手下を虐待する〈闇の王〉という芝居じみた役割をわたしは徹底できなかった。 いくらノクターン小路の酔っぱらいに負けないほど非論理的に純血主義を論じようとしても今一歩だった。 手下を動かす際にこれといって的確な指示をだしているつもりはなかったが、かといって完全に的はずれな命令をしてもいなかった——」  クィレル先生は渋い顔で笑った。こういう文脈でなければ、魅力的と言っていいかもしれない笑顔だった。 「一カ月後には、ベラトリクス・ブラックが参上してわたしの足もとに手をついた。三カ月後には、ルシウス・マルフォイが高級なファイアウィスキーを片手に交渉する席をもうけてきた。 わたしはためいきをつき、魔法族の未来に希望をなくした。そしてデイヴィッド・モンローの立ち場で、恐るべきヴォルデモート卿との戦いをはじめた。」

 

「それからなにが——」

 

クィレル先生はニッとゆがんだ笑みをした。 「ブリテン魔法界を構成するありとあらゆる団体や機関がどこまでも無能だった、というのがその答えだよ。 おまえには分かるまい。わたしにも分からないのだから。 実際目撃しなければ、いや、目撃しても信じられないくらいだ! おまえも同じ学校の生徒と家族のことを話したことがあれば、四人に三人が〈魔法省〉のどこかで仕事をしているらしい、ということに気づいただろう。 どんな仕組みがあれば市民の四分の三を公務員にできるのか、と思うのはもっともだ。みながおたがいの仕事の邪魔をしていてはじめて、いくらかでも仕事が存在している、というのがその答えだ。 個々の〈闇ばらい〉は優秀で、新人を指導するのも〈闇の魔術師〉とたたかって生きのびている者ばかりだが、その上層部は右も左もわからない連中だ。 〈魔法省〉は書類をまわしあうばかりで、ヴォルデモートに対抗しているのは実質的にわたしとダンブルドアと臨時雇いの素人数名だけだった。 マンダンガス・フレッチャーという臆病で無能無策なごろつきが〈不死鳥の騎士団〉にかかせない人材だと言われた——無職なら〈不死鳥の騎士団〉に専念できるだろうというだけの理由で! ヴォルデモートが負けることはあるのだろうかと思って、試しにヴォルデモートからの攻撃の手をゆるめれてみれば、〈魔法省〉はすぐさま戦いにわりあてる〈闇ばらい〉の数を減らすではないか! わたしは『毛主席語録』を参考にして〈死食い人〉にゲリラ戦術を教えもしたが——そんな必要はどこにもなかった! われわれはブリテン魔法界のあちこちで攻撃をしかけたが、どの戦場でもわれわれの戦力は相手の戦力より()()()()()。 わたしはやむをえず、〈死食い人〉たちに〈魔法法執行部〉の無能な管理職の全員を順々に暗殺させることにした。 しかしいくら前任者が悲惨な末路をむかえても、役人どもは上の役職に昇進する機会に我先にと飛びついた。 そのだれもがヴォルデモートと密約を成立させる気でいた。 われわれは最後の一人を殺し終えるまでに()()()をかけたが、なんのためにそんなことをするのかと言いだす〈死食い人〉はいなかった。 そしてやっとバーテミウス・クラウチが長官の地位につき、アメリア・ボーンズが〈闇ばらい〉局長になったが、それでもまだまだ不十分だった。 わたし一人で戦ったほうがよほどましだった。 ダンブルドアの助力はダンブルドアの倫理的自制心で相殺されてしまっていたし、クラウチの助力はクラウチの遵法精神で相殺されてしまっていた。」  クィレル先生は釜の火を強めた。

 

「そして最終的に……」  ハリーは不快感をなかなかぬけだすことができない。 「あなたはヴォルデモートでいるほうがよほど楽しめることに気づいた。」

 

「ほかのどの役割よりも不愉快な思いをさせられない役割ではあった。 ヴォルデモート卿がひとたびこうしろと言えば、周囲は()()()()()()()()()()。 愚かな行為をした者に対しては、〈拷問(クルシオ)〉したいという衝動をおさえずにただそのまま実行することが役作りにもなる。 だれかがゲームをつまらなくすることをしたなら、わたしは戦略上の損得を度外視してただ『アヴァダケダヴラ』をとなえればいい。そのだれかにわずらわさせることは二度となくなる。」  クィレル先生はなにげなくイモムシを砕いていく。 「しかし明快な理解がおとずれたのは、ある日デイヴィッド・モンローがアジアの格闘術教師の入国許可を申請したときのことだった。〈魔法省〉の役人はさも得意げに笑って申請を却下した。 わたしはその役人に、その許可は役人自身のいのちを救うものでもあるのだということを分かっているのかと、たずねた。役人はいっそうにやにやとするだけだった。 わたしは怒りのあまり仮面と用心ぶかさを捨て、強力な〈開心術〉でそいつのいやらしい精神から真実をつまみとって引きずりだした。 その役人はなんのためにそんなことをしているのかを知りたいという一心で。 わたしは〈開心術〉を通じてその役人の意識を操作し、デイヴィッド・モンロー(わたし)ではなくルシウス・マルフォイやヴォルデモート卿やダンブルドアにおなじことを言われた場合の反応を再現させた。」  クィレル先生の手の動きがおそくなり、蝋燭をごく薄くけずりとる作業にはいった。 「わたしがその日理解したのは単純なことではなかった。だからこそわたしはその時点まで理解できていなかった。 しかしおまえにはそれをいま説明してみようと思う。 いまのわたしは、ダンブルドアが国際魔法族連盟最上級裁判長という地位にあるにもかかわらず、世界の頂点に立ってはいないということが分かる。 世の人は堂々と、ときには面とむかって、ダンブルドアを侮辱し批判する。ところがルシウス・マルフォイが相手ならまちがってもそんなことをしない。 ()()()()()もダンブルドアに非礼なふるまいをしていた。なぜか分かるか?」

 

「なぜでしょう……ね。」  自分のなかにトム・リドルの神経パターンの残滓があったからだ、という仮説は当然ありえるが。

 

「オオカミやイヌ、そしてニワトリでさえ、群れのなかでの序列をあらそいあう。 わたしがあの役人の精神のなかを見てついに理解したのは、彼にとってルシウス・マルフォイとヴォルデモート卿は強者のイメージがあり、デイヴィッド・モンローとアルバス・ダンブルドアはそれがなかったのだということ。 善の立ち場をとり、光の陣営を称したことで、われわれはみずからを()()()()にしていた。 この国でルシウス・マルフォイは、歯むかう者に対して債務をとりたて、〈魔法省〉の役人を送りこみ、『予言者日報(デイリー・プロフェット)』に糾弾させることができる。 いっぽうの世界最強の魔法使いには強者のイメージがない。というのも、その男は……」  クィレル先生のくちびるがゆがむ。 「()()()()()()然として、どこまでもひかえめで、復讐をくわだてようとなどしない、ということが周知の事実だからだ。 たとえば芝居の主人公が自国を救う役目を負う条件として、裁判を請け負う弁護士よろしく黄金を要求するのを見たことはあるか?」

 

「マグルの作品でならそういう主人公は()()()()いますね。まずハン・ソロがそうだし——」

 

「そうか。しかし魔法界の芝居はそうではない。 ダンブルドアに似たひかえめな主人公ばかりだ。 だれの上にも立とうとせず、だれの尊敬ももとめず、だれからも報酬をもとめない、有能な()()という幻想がえがかれている。 これでもう分かったか?」

 

「わかった……ような。」  『指輪物語』のフロドとサムワイズなら、完全に無害そうな主人公というキャラクターの好例のように思える。 「つまり一般の人はダンブルドアのことをそう思っていると? ホグウォーツ生はあの人のことをホビットのように思ってはいないと思いますが。」

 

「たしかにホグウォーツのなかではダンブルドアは自分の意にそわない者に罰をあたえる。だからそれなりにこわがられている——しかし生徒はいたって堂々とダンブルドアを笑いものにしてもいる。 この城を出れば、ダンブルドアは嘲笑の的だ。 『ダンブルドアは狂人だ』と言う声に対し、ダンブルドアは道化よろしく狂人を演じた。 われわれがひとたび芝居にでてくる救世主になろうとすれば、周囲は当然のようにわれわれを見返りなく働く奴隷と見なす。好きなようにわれわれを批判してもかまわないものと思う。 みずからの手はくださずに奴隷の労働をながめてはあれこれと親切に指図することこそ主人の特権だからだ。 古代ギリシアの物語でなら、その時代の人びとの妄想はまだ未完成だったから、英雄が英雄なりに高い地位をもっていることがあったかもしれない。 ヘクトールやアエネアスといった英雄は、みずからを侮辱した者に復讐する権利を有していたし、みずからの奉仕の対価として黄金や宝石を要求しても怒りを買うことはなかった。 ヴォルデモート卿が勝利してブリテンの支配者となっていたとしたら、彼も寛容さを見せたかもしれない。しかしだれも彼の善意を当然視することはなく、彼のやりかたが気にいらないと言って口出しすることはなかったにちがいない。 彼は勝っていれば()()尊敬を得ていた。 〈魔法省〉に行ったあの日、わたしはそれまでの自分がダンブルドアをうらやむあまり、ダンブルドアとおなじくらい妄想にとらわれたふるまいをしていたことに気づかされた。 自分が目ざしているべき地位は別にあったと気づかされた。 これが事実だということはもう気づいているはずだ。 おまえ自身、わたしに対してはしないような批判をダンブルドアに対してはしていた。 言動ばかりでなく内心の態度もおなじだった。本能とはそういうものだ。 強いクィレル先生を笑いものにするとあとが怖いが、弱いダンブルドアなら報復を心配せずこけにすることができる、という計算があったはずだ。」

 

「ありがとうございます、クィレル先生。勉強になりました。」  ハリーは痛みを感じながら言う。 「たしかにぼくはそういう思考をしていたように思います。」  理由もなくダンブルドアにきつくあたるようなことをしたのは、トム・リドルの記憶も関係していたのではないかとも思うが、マクゴナガル先生に対しては自分はそういう態度をとっていなかった…… マクゴナガル先生には寮点を減点する権限があり、ダンブルドア独特の寛容な雰囲気がないからでもあるが…… いや、それでもやはり、この人ならこけにしても()()()という考えがなかったなら、ハリーはもっと敬意をもってダンブルドアに対応していたにちがいない。

 

デイヴィッド・モンローとヴォルデモート卿についてはそれでいいとして……

 

最大の謎がまだ謎のままなのだが、それをたずねるのが得策かどうか分からない。 もしもヴォルデモート卿が()()()()()()()()()()ことだとしたら……クィレル先生が九年をかけて思索してまだ思いついていないことだとしたら、こちらからそれを言ってしまうのは得策ではない。……いや、いいのかもしれない。あの悲惨な〈魔法界大戦〉はブリテンにとっていいできごとではなかったのだから。

 

ハリーは腹をきめて話しだす。 「ひとつ理解できなかったのは、〈魔法界大戦〉がなぜあれほど長びいたのかということでした。 その……もしかするとぼくはヴォルデモート卿の苦労を過小評価しているのかもしれませんが——」

 

「つまり、なぜわたしは実力者何人かに〈服従(インペリオ)〉をかけてあやつってさらに〈服従(インペリオ)〉をかけさせて、同時にわたしの〈服従(インペリオ)〉に抵抗できるほど特別強力な相手は殺す、という方法で〈魔法省〉を乗っとることで、戦争を……たとえば三日で終わらせてしまわなかったのかと。」

 

ハリーは無言でうなづいた。

 

クィレル先生は考えこんだように見えた。その手は刈りとられた芝をひとつまみずつ釜のなかにいれている。 ハリーが記憶しているかぎりでは、これで全体の五分の四ほどの工程が終わったことになる。

 

「……わたしもトレロウニーの予言をスネイプから聞かされたとき、おなじように考えた。さきのことだけでなく過去のことについても思案した。 過去のわたしなら、なぜ〈服従(インペリオ)〉をつかわなかったのかと問われれば、他国に目をむける段階が来るまえに、わたしが〈魔法省〉の役人に命令し、支配しているところを見せておかなければならないのだと説明するだろう。 すみやかに粛々と勝利するやりかたはあとで面倒な事態を招くかもしれないのだとも、 防衛戦では思いのほか腕がたつダンブルドアに手こずらされているのだとも。 過去のわたしは、それ以外のどの近道をとらないことについても、似たような言いわけをすることができた。 不思議とどの計画も、最後の一手を打つべきタイミングが来なかった。なぜかいつでも、あともうひとつ先にやっておくべきことがあるようだった。 わたしは予言を耳にして、〈時間〉がわたしに目をむけたいまこそそのときだと確信した。 これでためらいの時間は終わったのだと。 そこでふりかえってみると、なぜかおなじ状態が何年もつづいていたことに気づいた。わたしは……」  ときおり芝を落とす手はとまっていないが、クィレル先生はその作業にいっさい注意をはらっていないように見える。 「星を見ながら過去のことを考えてみて、わたしはダンブルドアとの攻防に慣れすぎたのだ、ということに思いあたった。 ダンブルドアは知性があり、くわえて狡猾であろうと努力していた。こちらの攻撃を待つのではなく、こちらをおどろかせるような手をくりだしてきた。 奇抜な手でみごとにこちらの裏をかいてみせることもした。 考えてみれば、ダンブルドアを倒す明白な方法はいくつもあった。ただ、わたしはどこかで、チェスのかわりに一人遊び(ソリティア)をする状況に逆もどりするのはごめんだと思っていたようだ。 もう一人のトム・リドルをつくってそれを——ダンブルドア以上に手ごたえのあるだれかを——対戦相手とすることができる可能性が生まれて、はじめてわたしは戦争を終わらせることを考える気になった。 いま思えば愚かなことだったが、人間の感情はときに理性で認められないほどに愚かになるものだ。 無論わたしは意図してそんな方針で動いていたのではなかった。 そんな方針は〈ルールその九〉にも〈十六〉にも〈二十〉にも〈二十二〉にも違反することになるから、自分の楽しみのためだとしても、さすがにそれはやりすぎだ。 しかし現に、『もうひとつやりのこしたことがある』、『もうひとつ回収しそこねた得点がある』、『()()()()()配置しておくべき駒がもうひとつある』、などということにして、自分の楽しみから離れようとせず、ブリテンの支配者という面倒な仕事を先おくりしていたとなると……無意識のうちにしてしまったこととはいえ、わたしもそのたぐいの失敗に無縁ではないらしい。」

 

そこまでの話を聞いた時点で、ハリーはこれから〈賢者の石〉をとりだせたあと、最後になにが起きるかを知った。

 

クィレル先生はこの仕事が終わればハリーを殺すつもりでいる。

 

そしてクィレル先生はそうしたくないと思っている。 世界じゅうでクィレル先生が〈死の呪い〉を撃てない唯一の相手がいるとすればそれはハリーであるかもしれない。 それでもなにか理由があって、殺さなければならないと判断している。

 

だからこそ、クィレル先生はわざわざ手間をかけて『光輝のポーション』を調合する気になった。 だからこそこうやって質問に答えるという条件にあれほど簡単に応じた。だからこそついに話が通じるかもしれないと思って自分の人生の話をした。 かつてヴォルデモート卿がダンブルドアと戦いつづけるために〈魔法界大戦〉の終わりを先おくりしたのと同じように。

 

クィレル先生はハリーを殺さないとは言った。しかし正確にはどんな表現で言っていただろうか。 それはたとえば、『おまえが愚かなことをどうしてもやると言って聞かない場合をのぞいて、わたしはいかなる意味でもおまえを殺すつもりがない』などという率直なものではなかった。 ハリーはそのとき、曖昧性のない表現でなければ応じない、などと強く出る気がなかった。その時点でヴォルデモート卿を無力化しなければならないことは分かっていたので、真に拘束力のある約束をかわそうとして厳密な表現を提案することでその意図を察知されてしまうのは避けたいと思っていた。 であれば、きっといくつも抜け道のある文言だったにちがいない。

 

そう気づいて、とりたてて大きな衝撃は感じられなかったが、ただいっそうの緊迫感はあった。 ハリーのなかの一部にとっては既知のことで、いままでただ意識上にのぼらせる口実がなかっただけのことだった。 クィレル先生がこの場で言ったことのうち、のこり寿命がせいぜい数時間である相手にしか言わないであろうことはあまりに多い。 クィレル先生の人生が孤立と孤独に満ちていたということで、この場で〈ルール〉に違反してまでこんな話をしたことを説明できるかもしれない。それも、ハリーはもうすぐ死ぬと決まっていて、悪役が計画の内容を明かしてから主人公を殺そうとするとかならず失敗するという芝居のようなことは現実に起きない、という前提があればこそである。 それでも、その将来の計画のどこかにハリーの死がふくまれていることはまちがいない。

 

ハリーは息をすい、呼吸をととのえる。 クィレル先生はウマの毛束を『光輝のポーション』に追加した。ハリーの記憶がたしかなら、調合はもう終わりかけている。 積んであるホタルブクロの残量もあまり多くはない。

 

総合的に考えれば、そろそろリスクを気にしすぎるのをやめて、もっと大胆な発言をしてみてもいいのではないかと思う。

 

「ぼくがヴォルデモート卿のおかした失敗をひとつ指摘したとしたら、ヴォルデモート卿はぼくを罰しますか?」

 

クィレル先生は片眉をあげた。 「まちがいなく失敗と言えるものであれば、罰しない。 わたしに道徳論をぶつことはおすすめしないが、 わたしは凶報を運んでくる者や率直に問題点を指摘しようとする部下を攻撃しようとは思わない。 ヴォルデモート卿を演じるときでさえ、わたしはそこまで愚かになることができなかった。 無論、わたしのこの方針を弱さと勘違いする愚か者もいたし、わたしを人前で言い負かすことで目だとうとする者、わたしはそれも批判として甘受せざるをえないだろうと考える者もいた。」  クィレル先生は昔をなつかしむようにほほえんだ。 「そんなやからに〈死食い人〉の一員でいられても害があるばかりだった。おまえはおなじ失敗をしないようにするがいい。」

 

ハリーはうなづき、身震いを感じた。 「さっき話にでた、〈ゴドリックの谷〉での、一九八一年の、ハロウィンの夜のできごとについて…… 話を聞いていて、あなたの考えかたには欠陥がもうひとつあったように思えました。 悲惨な結末を避けられる方法が実はあった。なのに、あとになってもそれが分からなかったのは、多分、あなたにとってそれが盲点になっているから……ある種の戦略のことを検討できていないからだと……」

 

「『人間を殺そうとするな』、というようなたぐいの愚かなことを言いだすのではないだろうな。 もしそうだとしたら、わたしは不機嫌になるぞ。」

 

価値観ノ 問題デハ ナイ。 アナタノ 目的ヲ 損ウ 真ノ 失敗。 ボクガ アナタニ 対シテ 教師ヲ 演ジ、教訓ヲ 教エタラ、アナタハ ボクヲ 傷ツケルカ。 アルイハ、ソレガ アマリニ 単純ナ 失敗デ、自分ガ 愚カデ アッタ ヨウニ 思エタラ、ソウスルカ。

 

イヤ。」とクィレル先生がこたえる。 「真ノ 教訓デ アルカギリハ。

 

ハリーは息をのんだ。 「では。あなたはなぜそのホークラックス網を実際につかうことになるまえにテストしなかったんですか?」

 

「テストだと?」  クィレル先生は顔をあげて言った。声には怒りがまじっている。 「どういうことだ、()()()()()とは。」

 

「ハロウィンのあの日にホークラックス網を否応なくつかうことになるまえに、なぜそれがちゃんと機能するかどうかを試していなかったんです?」

 

クィレル先生は嫌悪感をあらわにしている。 「なにをばかな——ミスター・ポッター、わたしは死にたくなどなかったのだ。わたしの偉大な発明を試したければ、死んで試すほかない! 急ぐ必要もないのに自分の命を危険にさらしてどうする? なぜそうしていたほうがよかったと言える?」

 

ハリーはごくりと息をのんだ。 「ほーくらっくす 網ヲ 試験スル タメニ 死ヌ 必要ノナイ 方法ガ アル。 ホークラックスにかぎらない重要な教訓がそこにあります。 これでわかったのでは?」

 

「いや。」とクィレル先生はしばらく時間をかけてから言って、 のこり少ないホタルブクロを一輪とって解体し、長い金色の毛といっしょに溶液に投入した。液は泡をたてて光りはじめた。 調合卓の上にあるホタルブクロはあと二輪だけ。 「へたな教訓を言うことはおまえのためにならない、とは言っておく。」

 

「仮にぼくが改良版ホークラックスの呪文をつかえるようになって、つかう意思もあったとします。 そこでぼくはなにをすると思いますか。」

 

クィレル先生は即座にこたえる。 「おまえが考える意味で外道な人間、ほかの命を救うためになら殺してもいいと思ってしまえる人間をみつけ、実際に殺し、ホークラックスを作る。」

 

「そのあとは?」

 

「第二、第三のホークラックスを作る。」と言って〈防衛術〉教授はドラゴンの(うろこ)のように見えるなにかの瓶を手にとった。

 

「それ以前に。」

 

しばらく時間をかけてから〈防衛術〉教授はくびを横にふった。 「なにが言いたいのか、見えてこない。もういいから、答えを言え。」

 

「ぼくなら、仲間のためにホークラックスをつくります。 もしあなたに世界じゅうで一人でも気にかける相手がいたなら……あなたの永遠の生に()()をあたえる人間、()()()()()永遠に生きてほしいと思える人間がいたなら——」  ハリーは声をつまらせる。 「自分以外のだれかのためにホークラックスをつくるということはそれほど直観に反しているように思えないはずです。」  ハリーはまばたきをくりかえす。 「あなたにとって他人への親切にあたることが含まれる種類の戦略は盲点であり、そのせいで利己的な価値を実現できなくなったりさえする。 そうすることが……自分の流儀ではないように思えているのかもしれない。 あなたは……自己像(セルフイメージ)のなかにそういう部分があるせいで……九年の時間を余計についやすことになってしまった。」

 

〈防衛術〉教授が手にもった油さしのハッカ油が、一滴ずつ釜のなかへ落ちていく。

 

「なるほど……。 なるほど。わたしはラバスタンに改善版ホークラックスの儀式を教えて、強制的にそれを試させているべきだったと。 たしかに、いま思えばあまりにも自明なことだ。 どうせなら、使い捨てにできる赤子を用意して、ラバスタンに命じて自分のしるしをその子につけさせるという実験をしてみてからはじめて、わたし自身が〈ゴドリックの谷〉へ行っておまえを作る、ということにしてもよかった。」  クィレル先生は不可解そうにくびをふる。 「まったく。しかし十年まえに知るよりは、いま知ってよかったとは思う。当時のわたしは自分をとがめる理由にはことかかなかったのだから。」

 

「あなたには、他人のためになるやりかたで()()()()()()()()()()という発想がない。」  ハリーは自分自身の声に必死さがまじっているのに気づいた。 「他人への親切が戦略として()()なときも、自分は()()()()()()()()という自己像があるせいでそれが見えてない。」

 

「その指摘はもっともだ。 実際、いまそう聞かされて、わたしは今日この日にも自分の計画に資する親切ができることに気づいた。」

 

ハリーはなにも言わずにそちらを見た。

 

クィレル先生は笑みをうかべている。 「いい教訓だったよ、ミスター・ポッター。 今後、これが身につくまでは、他人への親切がかかわる策略を見おとしていないかよく注意することにしよう。 意識せずともそういうことを思いつけるようになるまで、練習としてしばらく時間をかけて慈善行為をやってみるのもいいかもしれない。」

 

ハリーは背すじに冷たいものを感じた。

 

たったいま、クィレル先生はなんの躊躇をした様子もなく、そう言った。

 

ヴォルデモート卿は自分が改心させられる可能性はないと確信している。 そうなることをまったく心配していない。

 

最後から二番目のホタルブクロが溶液にそっと落とされた。

 

「ほかになにか、ヴォルデモート卿にむかって進言したい教訓は?」  クィレル先生はおまえの考えはお見通しだというような顔でにやりとしている。

 

「はい。」  声がかなりかすれている。 「幸せになることを目ざすなら、自分よりも他人をよろこばせようとするほうが気分がよくなるものだと——」

 

「わたしがそのことに思いあたらなかったとでも思うか。」  笑みは消えている。 「おまえはわたしをばかにしているのか。 ホグウォーツを卒業したあと、わたしは何年も世界を放浪し、ヴォルデモート卿としてブリテンに帰ってきた。 数える気もないほど多くの仮面をこれまでにつけた。 英雄の役割を演じることがどんな気分なのかと、試してみたことがないとでも思うか。 アレクサンドル・チェルヌイシェフという名前に聞きおぼえがないか。 その名前と外見で、わたしはある〈闇の魔術師〉が支配するみじめきわまる土地に目星をつけ、あわれな住人たちをそのくびきから解放した。 住人たちは涙を流してわたしに感謝した。 だが、これといって感慨はなかった。 わたしは周辺に滞在しつづけ、その後その土地を支配しようとした〈闇の魔術師〉五人を殺すことまでした。 さらには身銭を切って——いや、厳密にはそうではなかったが、それに近いことをして——町並みをととのえてやり、なにがしかの秩序をもたらした。 住人はいっそう平身低頭した。そこで生まれた子どもの三人に一人はアレクサンドルと名づけられた。 それでもわたしはなにも感じなかった。実験としてはもうそれでいいだろうと思って手を引き、自分の道にもどることにした。」

 

「かといって、ヴォルデモート卿をやっていて幸せでしたか?」  ハリーの声が大胆さを増す。

 

クィレル先生は返事をためらったが、やがて肩をすくめた。 「その答えは聞くまでもなく分かっているのではないかね。」

 

「それなら()()。 なぜ()()()()()()()()()ヴォルデモート卿という役割を?」  ハリーは声をつまらせた。 「()()()()()()()、あなたをもとにしてできている。だから『クィレル先生』はただの仮面ではないと分かる! あなたにはあのような人生もありえた! なぜそれをやめる必要があるんです? 〈防衛術〉教授の座の呪いを解いて、そのまま()()()()()()()()。あなたは〈賢者の石〉をつかってデイヴィッド・モンローに変身して、ほんもののクィリナス・クィレルは解放してやればいい。あなたが今後人間を殺さないと約束すれば、ぼくもあなたの正体は秘密にする。あなたはずっと()()()()()()()()()()()()! あなたはきっと教え子に感謝される。ぼくのお父さんが教え子に感謝されているように——」

 

クィレル先生は釜のなかをかきまぜながら笑い声を漏らした。 「ブリテン魔法界にいる魔法族の数はおよそ一万五千人。その数はかつてはもっと多かった。 人びとがわたしの名前をくちにすることを恐れるのには理由がある。 おまえは〈戦闘魔術〉の授業が気にいったからというだけの理由でわたしを許すのか?」

 

同感だね、むちゃくちゃ言うなよ——とハリーのなかのハッフルパフが言う。

 

ハリーは震えながらも前を見て言う。 「あなたの所業を許すかどうかはぼくが決めることではありません。 ただ、また戦争をするよりはましだと思っています。」

 

「ほう。 四十年の時間をさかのぼって歴史を改竄できる〈逆転時計〉をどこかでみつけたら、〈防衛術〉教授の職に応募したトム・リドルを追いかえすまえのダンブルドアに会ってそれを言ってみてくれ。 しかしいずれにせよ、リドルがホグウォーツの教師としてそういつまでも幸福でいることはなかっただろうと思う。」

 

「どうして?」

 

「その場合も周囲が愚か者だらけであることにかわりはなく、その場合は殺すこともできないからだ。」  クィレル先生はおだやかに言う。 「わたしは愚かな人間を殺すことに大きな喜びを感じる。これに文句をつけたければ、せめて自分でもやってみてからにしてくれ。」

 

「あなたにもそれより大きな喜びの源泉となるものが()()()あるはずです。」  また声がつまる。 「きっとどこかに。」

 

「なぜそう思う? それはまだわたしが知らない科学の法則かなにかか? 詳しく言ってみてくれ。」

 

ハリーはくちをあけるが、どう言えばいいかが分からない。なにか、()()()あるはずだ、決定的ななにかが——

 

「そう言うおまえにも幸せを語る権利はない。 幸せはおまえにとって最大の価値ではない。 おまえはこの一年がはじまったとき、〈組わけ帽子〉からハッフルパフを提案されて、そう答えた。 わたしがそれを知っているのは、わたし自身も何年もまえに、おなじような提案と警告をされて、おなじように拒否したからだ。 これ以上、トム・リドルとトム・リドルのあいだで話すべきことはもうないだろう。」  〈防衛術〉教授はまた釜のほうを向いた。

 

ハリーが返事をなにも考えないうちに、クィレル先生は最後のホタルブクロを投入し、釜のなかから光る泡が吹きでた。

 

「終わったようだな。ほかに質問があるなら、それはあとだ。」

 

ハリーはふらりと立ちあがった。同時にクィレル先生は釜を持ちあげて、釜十数杯にはなりそうなくらいのものすごい量の光る液体を、扉の手まえの紫色の火にそそいだ。

 

紫色の火は消えてなくなった。

 

「いよいよ〈鏡〉だ。」と言ってクィレル先生はローブのなかから〈不可視のマント〉をとりだして飛ばし、ハリーの靴のまえに落とした。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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109章「鏡像」

このうえなく強力な魔法具も、それ専用の低級な魔法具で打ち負かせることがある。

 

〈防衛術〉教授がそう言ってハリーの足もと近くに〈真の不可視のマント〉を落とすと、そこにほこりの層ができた。

 

〈完全反射の鏡〉はそこに映しだされたものに作用する。その作用にはなにものも抵抗できないとされている。 しかし〈真の不可視のマント〉は〈鏡〉に一切の映像を生じさせない。そのため〈鏡〉の法則に抵抗することなく回避することができるはずだ。

 

そのあと〈ヘビ語〉による問答が何度かくりかえされ、ハリーはこれからばかなことをするつもりがなく逃げようともしない、ということが確認された。また、クィレル先生はハリーの居場所を検知する能力と〈マント〉を検知する呪文と数百人の人間ならびにハーマイオニーという人質を有しているということがあらためて念押しされた。

 

そのうえでハリーは、〈マント〉を着用して弱められた炎のむこうにある扉をあけて、最後の部屋に入室しろ、と命じられた。そのあいだにクィレル先生は、扉から見られない位置まで距離をとってさがった。

 

最後の部屋は弱い黄金色の光につつまれている。周囲の石壁は乳白色で、大理石でおおわれている。

 

部屋の中央にはなんのかざりもない黄金の枠があり、枠のなかにはまた別の黄金色の光の部屋への(ポータル)があり、その奥にはまた別の〈薬学〉の部屋が見える……というようにハリーの脳は告げている。 この〈鏡〉による光の変換はあまりに完全で、意識して推論していないと、枠のむこうに部屋などなく見えているのは鏡像にすぎないということを忘れてしまう。 (ただ、それが直観的に感じとりにくいのは、いま自分が透明になっているせいでもあるとも思う。)

 

〈鏡〉は床面に接していない。黄金の枠には台がない。 かといって浮いているようでもなく、固定されているように見える。壁よりも揺るぎなく静止しているような、地球基準座標系に対して釘づけされているような印象がある。

 

「〈鏡〉はそこにあるか? 動いていないか?」  〈薬学〉の部屋からクィレル先生が命令調で言った。

 

アル。動イテイナイ。」とハリーは返事した。

 

また命令調の声。 「〈鏡〉の裏がわへまわりこめ。」

 

裏がわに行って見ると、黄金の枠はじっと立っていて、なかに鏡像は見えなかった。ハリーはそのように〈ヘビ語〉で報告した。

 

「では〈マント〉をぬげ。」  やはり〈薬学〉の部屋から命令するクィレル先生の声。 「〈鏡〉がそちらを向いたらすぐに報告しろ。」

 

ハリーは〈マント〉をぬいだ。

 

〈鏡〉は地球基準座標系に釘づけされた位置を変えていない。ハリーはそのとおりに報告した。

 

そのすぐあとにシュッと声がして、炎のかたまりのような不死鳥がハリーの背後の大理石の壁を溶かして突入してきた。それと同時に部屋のなかの光にうっすらと赤色が混じった。 クィレル先生はそのあとから、できたての通路をとおって歩いてきた。黒い礼装の靴は足もとの赤く光る溶解面に触れても傷ひとつついていない。 「さて……これで罠だったかもしれないものをひとつ回避できた。 つぎは……。」  クィレル先生は息をはいた。 「〈鏡〉から〈石〉をとりだす方策を考えよう。試すのはおまえだ。わたしは自分の映像を反射させたくないと思っている。 あらかじめ警告しておくと、ここからの作業は案外手間がかかるかもしれない。」

 

「とすると、これは〈悪霊の火(フィーンドファイア)〉で解決できる問題ではないと?」

 

「ハッ。」と言ってからクィレル先生が手ぶりをした。

 

不死鳥がおそろしい勢いで突進し、同時に無事な部分の大理石の壁の赤色に光る影が走った。 ハリーは考えるより速く飛びのいた。

 

黒炎はクィレル先生の横を飛びぬけて、〈鏡〉の背面の黄金に突っこみ、その瞬間にすがたを消した。

 

炎は消え、室内の光に混じっていた赤色もなくなった。

 

黄金の表面には傷ひとつなく、赤熱した形跡もない。 〈鏡〉はただおなじ場所で、手つかずのまま立っている。

 

ハリーは背すじに冷たいものを感じた。 もし『ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ』のセッションでダンジョンマスターからこの結果を聞かされたとしたら、幻術攻撃があったのではないかと思って『疑念』のダイスを振るところだ。

 

背面の黄金の中央部に、未知の文字の列があらわれているのに気づく。線状の暗黒で書かれた文字が水平にならべられている。 〈鏡〉とは別にかけられていたずっと低級な、子どもの目から隠すためだけの隠蔽呪文が、〈悪霊の火(フィーンドファイア)〉によって消し飛ばされたのだ、ということに思いあたる。

 

「この〈鏡〉はいつの時代のものですか?」とハリーは小さめの声で言った。

 

「だれも知らない。」  〈防衛術〉教授の表情には畏敬の念があらわれているようでもある。のばされた手が文字にむかうが、触れずに終わる。 「しかしわたしはおそらくきみとおなじ推測をしている。 捏造かもしれない一部の伝承によれば、この〈鏡〉は()()()()()完全な鏡像を映しており、そのために完全に安定した存在であるという。 そのおかげで、アトランティスのあらゆる魔法効果が打ち消され、そこに由来するものすべてが〈時間〉から切り離されてもなお、この〈鏡〉だけは生きのこることができたのだという。 これでわたしが〈悪霊の火(フィーンドファイア)〉をつかうという発想を笑った理由が分かるだろう。」  〈防衛術〉教授は手をおろした。

 

これだけの事態の最中とはいえ、その話が事実ならと思うと、ハリーも畏敬の念を覚える。 秘密があかされるとともに黄金の枠が一段と強く輝いた、ということはなかったが、古い古い消失した文明に由来するかもしれないだけの風格はある……。 「それでこの〈鏡〉は——()()()()()()んですか?」

 

「いい質問だ。 答えは黄金の枠の上の文字に書かれている。読みあげてみてくれ。」

 

「ぼくが知っている種類の文字ではないので。トールキンのエルフが書く、適当に回転させたニワトリの足のようにしか見えません。」

 

「とにかく読むんだ。危険ハ ナイ。

 

「では読みますが、スツウヲ シイ ウ ソイガ ンカッ イ ノチタタ ナアク ナハデオ カノタ ナア ハシタワ——」  背すじがまたチクチクと痛み、ハリーは読むのをやめた。

 

シイの()()は分かる。シイという意味だ。 その続きは、シイがウするまでソイガして、ンカッとイの部分を保存するという意味だ。 そうだということを知っているような感触があった。だれかに『ナハデオ・カノタはナアかハシタワか』と言われたら自信をもって『はい』と言えるような気がした。 ただその意味をほかの概念にむすびつけようとすると、なにも考えられなくなるだけだった。

 

文ノ 意味ハ ワカッタカ?

 

ワカラナイト 思ウ。

 

クィレル先生は黄金の枠に目をむけたまま、フッと息をはいた。 「マグル科学の学び手ならこの〈偽理解の言語〉の文の意味がわかるのではと思ったが、 無理だったようだな。」

 

「もしかすると——」とハリーが言いかける。

 

おい、レイヴンクロー……この状況でもそれか?——とスリザリンが言った。

 

「もしかすると、この〈鏡〉のことをもっと教えてもらえれば、うまくいくかもしれませんが?」と操縦権限をにぎったレイヴンクローが言った。

 

クィレル先生のくちびるの端が持ちあがった。 「遠い時代のものがしばしばそうであるように、これについても学者たちが書きつらねた嘘は多く、いまではなにも確実なことが言えない。 この〈鏡〉はマーリンが道具としてつかっていたことが知られているから、すくなくともマーリンの時代にまでさかのぼるものであることはまちがいない。 マーリンが死後のこした指示には、この〈鏡〉は通常なら放置してはおけないような作用を起こしうるものだが、封印して隠すにはおよばない、とあった。 この〈鏡〉は世界を崩壊させないように注意ぶかく作りあげられているから、世界を崩壊させる道具としてはひとかけのチーズにも劣る、と書かれていた。」

 

あまり安心していい形容のしかたには聞こえない。

 

「〈鏡〉についてはほかにもいくつか情報がある。それなりに懐疑的で、ほかのことについては信頼できることがわかっている、著名な複数の魔法使いからの情報だ。 〈鏡〉のもっとも特徴的な能力は別世界をつくりだすこと。ただしつくりだされる世界は〈鏡〉のなかに見える範囲の広さにかぎられている。 そのなかに人間や物体を保管できることが知られている。 あらゆる魔術のなかで唯一この〈鏡〉だけが真の道徳性をそなえていると複数の権威が言っている。それが実際的になにを意味するのか、わたしにはよくわからないが。 〈拷問(クルシオ)の呪い〉が『悪』と呼ばれ〈守護霊の魔法〉が『善』と呼ばれるだろうことはわかる。しかし道徳主義者が()()()()()なにを道徳的と考えるのかとなると、想像しがたい。 ともかく、たとえば不死鳥はこの〈鏡〉のなかにつくりだされた世界からわれわれの世界にやってきたものとされている。」

 

〈鏡〉の黄金の背面を見つめるハリーの脳内に、『マジかよ』など両親が聞けばたしなめるであろう種類の語句になりかけたものが駆けめぐる。

 

「わたしは世界を放浪して、あまり語られることのない物語に多く出会った。 そのほとんどは作り話のように思えたが、歴史と言ってよさそうなものも少数あった。 何百年も立ち寄る人のなかった場所の巨大な金属板の碑文に、アトランティス人の一部が世界の終わりを予見し、確実に到来するその災厄を回避するための強力な装置を精製しようとした、ということが書かれていた。 完成すればその装置は絶対的に安定した存在となり、無限の魔法力を流しても壊れることなく、ひとの願いをかなえるはずのものだったという。 そして——こちらのほうがはるかに達成しがたいことだとされたが——常識的に考えればそこから生じるであろうと予想されるどんな災厄をも、なんらかの方法で回避するともされていた。 おもしろいのは、その金属板に書かれていた物語が事実なら、その他のアトランティス人はこの事業を等閑視したということだ。 立派な事業だと賞賛されたこともありはしたが、ほとんどすべてのアトランティス人はそれに手を貸すほど暇ではなかったらしい。 アトランティスの貴族層でさえ、自分たち以外のだれかが無敵の能力を手にするかもしれないという可能性を無視した。 貴族はそういうことにもっと目ざといはずだと二流の冷笑家なら思ってしまうかもしれない。 この装置を開発しようとしていた極少数のアトランティス人は、大した支援もなく、過酷というよりは無意味に不愉快な状況下で作業した。 最終的に開発は間にあわず、アトランティスとともに装置も完成にほどとおい状態で崩壊した。 こういった部分には、わたし自身の経験を思いおこさせるものがある。そういうことは、たんなる作り話ではあまり起きない。」  クィレル先生はにやりと乾いた笑いをする。 「何百とあるほかの伝承のなかでたまたまこの一つがわたしの好みだったというだけのことかもしれない。 とはいえ、これは〈鏡〉はこの世界を破壊しないように作られているというマーリンのことばにも合致する。 そしてわれわれの目的にとってさらに重要なのは、〈鏡〉の前に立った人は自分の願望がかなえられた世界の幻影を見せられるという、かつて知られていなかった機能を〈鏡〉が有していて、ダンブルドアもしくはペレネルがそれを起動したらしいことを説明してもいるということ。 願望充足の装置を作るなら、そういう種類の安全策を組みこんでおいてほしいところではある。」

 

「すごい。」  ハリーは本心からそうつぶやいた。 これはただの魔法ではなく〈魔法〉……杖をふれば物理法則を無視したことができてしまうという種類の魔法ではなく、『魔法使い(ウィザード)になる方法』に出てくるような種類の〈魔法〉だ。

 

クィレル先生は黄金の背面を手で指した。 「そしてもうひとつ、ほとんどの伝承が、〈鏡〉に命令するための手段は未解明であるとしながら——その〈鍵〉についてはどこにも信憑性のある情報がない——個人に反応するような命令は不可能だと言っている点では一致している。 つまり、ペレネルは『ペレネルに対してだけ〈石〉を渡せ』と〈鏡〉に命令することができない。 ダンブルドアは『ニコラス・フラメルに〈石〉を渡すことを望む者にだけ〈石〉を渡せ』と命令することができない。 この〈鏡〉には哲学者が理想的正義と呼んでいるたぐいの盲目性がある。 それがどんな規則であっても、〈鏡〉はあらゆる人に同じ規則を適用しなければならない。 したがって、〈石〉の隠し場所に到達するための、だれもが起動しえる規則がかならずあるはずだ。 これで、これからわれわれが考案する戦略を実行することになるのがおまえである理由がわかるだろう。 この〈鏡〉は道徳性を有していると言われている。命令にもそれが反映されていておかしくない。 慣習的にはおまえが〈善〉でわたしが〈悪〉だと言われるであろうことは、わたしもよく認識している。」  クィレル先生は暗い笑いかたをした。 「では最初に——もちろん最後ではないから心配なく——これを試そう。おまえがハーマイオニー・グレンジャーと生徒数百人の命を救うために〈石〉をとりだそうとしたら、〈鏡〉はどう反応するだろうか。」

 

「その計画の()()のヴァージョンでは……」  やっとそのことが理解できてきた。 「ぼくがホグウォーツにきて最初の週の金曜日にあなたが考案した計画では、ダンブルドアのお気に入りの生徒である〈死ななかった男の子〉が、死にかけた〈防衛術〉教授の命を救いたいという一心で、〈石〉をとりだすことになっていた。」

 

「言うまでもない。」

 

詩的な種類の謀略であるようにも思えるが、状況が状況なのでハリーの審美眼はうまく働かない。

 

そこでハリーは別のことを思いついた。

 

「あの……この〈鏡〉があなたに対する罠だということは——」

 

「罠でない可能性は皆無だ。」

 

「つまり、これはヴォルデモート卿に対する罠である一方、ヴォルデモート卿個人に対する罠ではありえない。 そこにはなにか一般的な規則……ヴォルデモート卿が該当する、なんらかの一般性ある特質がなければならない。」  意識せずにハリーは〈鏡〉の黄金の背面をにらみはじめた。

 

「そのとおりだが。」  クィレル先生はにらむハリーをにらみはじめた。

 

「実は、この学年で最初の木曜日、狂ったダンブルドア総長が、ニワトリを燃やした直後にこう言ったんです。『アロホモラ』の呪文も知らない以上、ぼくが禁断の通廊にはいりこめる可能性はまったくない、と。」

 

「ああ……。そんなことがあったとは。 もっとずっと早い時点で話していてくれればよかったものを。」

 

自明なことなので二人ともわざわざ言わないが、ダンブルドアは逆心理学(リヴァース・サイコロジー)の逆をやって、ハリーを禁断の通廊から遠ざけることに成功したのである。

 

ハリーは考えつづける。 「ダンブルドアはぼくが……あの人の言いかたにあわせるなら、ヴォルデモート卿のホークラックスであるとか、あるいはもっと一般的に、ぼくの人格の一部がヴォルデモート卿から写し取られているという可能性に気づいていたと思いますか?」  そうくちにすると同時に、ハリーはそれがあまりにも愚かな質問で、自分自身あからさまと言えるほどの証拠を目撃していたことに気づく——

 

「気づかなかったわけがない。 別段わかりにくいことでもないのだから。 ダンブルドアはおまえのことをそれ以外にどう考えるというのだ。現実の十一歳の子どもとかかわったこともないバカな作家が書いた芝居を演じさせられている役者だとか? そんなことを考える愚劣な人間がどこに——いや、そうだったな。」

 

二人は無言でじっと〈鏡〉を見る。

 

やがてクィレル先生がためいきをついた。 「わたしは深読みをしすぎたのかもしれない。 われわれのどちらもこの〈鏡〉に映るのはよすとしよう。 ミスター・ノットとミス・グリーングラスにわたしがかけた〈忘消〉(オブリヴィエイト)をスプラウト教授に命令して解除させる以外の手はなさそうだ……。 というのも、もうひとつ〈鏡〉の厄介な性質に、映しだされた者に適用される規則は〈偽記憶の魔法〉や〈錯乱(コンファンド)の魔法〉といった外力を無視するというものがあるからだ。 〈鏡〉はその人自身の内面から生じる力や、その人自身の選択によって行きついた精神状態だけを映しだす、ということが複数の文献に書かれている。 だからわたしはミスター・ノットとミス・グリーングラスがこの〈鏡〉のまえに立てるよう、それぞれに〈石〉の必要性を説明する別々の物語を信じさせておいた。」  クィレル先生は鼻すじをこすった。 「ほかの生徒何人かにもまた別の物語を設定し、わたしがあらかじめ決めておいた引き金(トリガー)を引けば行動しはじめるように仕向けておいた……が、今日が近づくにつれ、わたしは悲観的になりはじめた。 ほかに手が思いつかなければ、ノットやグリーングラスのような手段もまだ試す価値はある。 ただ、ダンブルドアはヴォルデモートの謀略に対抗するためだけに、専用のパズルを組み立てようとしたのではないか、そしてそのことに成功したのではないか、という疑念がある。 これ以外に、わたしが試してもいいと思うような策を考案してみろ。そうすればワタシハ ワタシガ 今後 送リダス 駒ニ 将来ニ ワタッテ 危害ヲ クワエナイト 約束スル。ワタシハ コノ約束ヲ 破ル 予定ガ ナイ。 あらためて、わたしが失敗すればミス・グレンジャーもそのほかの人質も助からない、ということも言っておく。」

 

大人のトム・リドルと子どものトム・リドルはまた無言でじっと〈鏡〉を見つめる。

 

しばらくしてハリーが言う。 「先生、善意や善行のために〈石〉を手にしようとするだれかが必要だという種類の仮説だけを想定するのがまちがいではないかと思います。 総長ならそんな規則はえらびませんよ。」

 

「なぜそう言える?」

 

「人間は自分が正しいことをしていないのにしていると信じてしまいがちだということをダンブルドアは知っている。 だからその可能性はまっさきに考えるはずです。」

 

ソレハ 真実カ、詐術カ。

 

正直ニ 言ッテイル。」とハリーはこたえた。

 

クィレル先生はうなづいた。「それなら、指摘は受けいれる。」

 

「解けるパズルだと思うのがまちがいなんじゃないでしょうか。 たとえば、左手に青色の小さなピラミッドひとつと赤色の大きなピラミッドふたつを持って、右手でマヨネーズをハムスターにたらさなければならない、みたいな規則なら——」

 

「いや、そうは思わない。 どんな規則を設定できるかという点について伝承からはなんとも言えないが、規則はおそらく〈鏡〉の本来の用途に関係するもの——その人の心の奥から生じる欲求と願望に関係するものにちがいない。 マヨネーズをハムスターにたらすというのは、たいていの人にとってそれに当たらない。」

 

「そうですか。なら、〈石〉をつかう気がまったくない人でなければならないとか——いや、それは簡単すぎるか。あなたがミスター・ノットにあたえた設定でうまくいくことになる。」

 

「ある面ではわたしよりおまえのほうがダンブルドアをよく理解しているのかもしれない。 そこで聞こう。ダンブルドアが死を受けいれるという考えをつかってこの〈石〉を守るとしたら、どんな手をとるか。 ダンブルドアはそれがわたしに理解できないものの筆頭だと考えている。そしてそう考えるのは、あながちまちがいでもない。」

 

ハリーはしばらく考えて、いくつか案を検討しては棄却した。 そしてあることを思いつき、それを黙っていようかとも考えた……が、そうしたとして、『なにか思いつたかどうかを〈ヘビ語〉で言え』とクィレル先生が言う場面がやってくることは明らかだ。

 

やむをえず、話すことにする。 「ダンブルドアはこの〈鏡〉なら死後の世界と交信できると思うのでは? 死後の世界だと()()()()()()()()()()()()場所に〈石〉をあずけておいて、死後の世界を信じる人にだけ取りだせるようにしたりするのでは?」

 

「ふむ……。 その可能性はありえるな。 その人がこころから願うものを見せるという〈鏡〉の設定でいくと…… アルバス・ダンブルドアならきっと、()()()自分が家族と再会するすがたを見る。 家族を生きかえらせたいと思うのではなく、自分が死んで家族のもとへ行きたいと思う。 弟のアバフォース、妹のアリアナ、母ケンドラと父パーシヴァル……〈石〉をあずける相手はアバフォースだろうな。 〈鏡〉はアバフォース個人に〈石〉があずけられたものと認識しているだろうか。 それとも、死んだ家族や親戚が〈石〉を返してくれるとこちらが思ってさえいれば、それでいいのだろうか。」  クィレル先生はハリーからも〈鏡〉からも距離をとったまま、小さな円をえがいて歩く。 「しかしこれもひとつの案にすぎない。別の案も考えよう。」

 

ハリーは自分のほおを指でたたき、その仕草をだれから学んだかに気づいてあわててやめた。 「ここに〈石〉をいれた人がペレネルだったとしたら? ここに〈石〉をいれた人にだけ〈石〉を返していい、という条件にしたのかも。」

 

「ペレネルは自分の限界を知っているからこそ、これまで生きのびてきた。 ペレネルは自分の知性を過信していないし、傲慢でもない。そうでなければずっと昔に〈石〉をうしなっている。 ペレネルなら、適切な〈鏡〉の規則を自分で考案しようとはしない。その問題はマスター・フラメルからダンブルドアの手にゆだねさせればいいと思って……。しかし、〈石〉を置いたことを記憶している人だけが〈石〉を取りだせる、という規則なら、ダンブルドアが置いた場合でも有効なはずだ。 それなら抜け道もなかなかありそうにない。だれかにただ『コンファンド』をかけて〈石〉を置いたと信じさせるという手も通じない……となると、偽の〈石〉と偽の〈鏡〉を用意して、一芝居うつ必要があることになる……。」  クィレル先生は眉をひそめた。 「それでも、ダンブルドアはヴォルデモートなら時間さえあればそこまでやると想像するにちがいない。 ダンブルドアはきっと、できることならわたしがわたしの身がわりにあたえることが()()()()精神状態を条件にしたいと考える——あるいは、ヴォルデモートがけっして理解しない規則を用意する。たとえば、自分の死を受けいれることに関係する規則など。 だからわたしはひとつまえの案には可能性があると思った。」

 

そこでハリーは思いついた。

 

いい考えである自信はない。

 

……とはいえ、あまり選択肢のある状況でもない。

 

「けっきょくのところ、〈石〉を取りだすために必要なものがなんであるかは分からない。 けれどそのときの()()()()は、アルバス・ダンブルドア本人か別のだれかが、『〈闇の王〉が倒された』、『脅威は去った』、『これから〈石〉を取りだしてニコラス・フラメルに返しにいくべきだ』と信じている状態にあることとを含んでいるはずです。 とりあえずそれがダンブルドアだったとして、ダンブルドアの精神状態のどの部分がヴォルデモート卿に理解できず複製できないものであるとダンブルドアが考えているかは分かりません。それでもそのときにダンブルドアがもっているはずの精神状態の全体がそろっていれば、()()であることになります。」

 

「もっともだが、それで?」

 

「その場合すべきことは、そのときのダンブルドアの精神状態をできるかぎり細かい部分まで模倣して鏡のまえに立つことです。 そしてその精神状態を生じさせる原動力は外的なものでなく、内的なものである必要がある。」

 

「しかし、〈開心術(レジリメンス)〉も〈錯乱(コンファンド)〉も外的なものだから除外される。となると——ほう。なるほど。」  クィレル先生の氷の色をした目が急にするどくなる。 「わたしが()()()()()()錯乱(コンファンド)〉をかければいい、ということか。おまえが〈戦闘魔術〉の初回授業で自分を撃ったときのように。 それなら内的な原動力であり、精神状態もわたし自身の選択を通じて生じたものになる。 おまえがこの案を言ったのはわたしを罠にかけるためか、そうでないのか。〈ヘビ語〉で言ってくれ。」

 

アナタガ ボクニ 策ヲ 考エロト 言ッタ。ソノヨウナ 意図ガ ボクノ 頭脳ニ 影響シテ イナイ トハ 言イ切レナイ。 疑ワレルダロウ トハ 思ッタ。尋ネラレルダロウ トハ 思ッタ。 決断ハ アナタ次第。 コレガ 罠デアル 可能性ニ ツイテ、ボクハ アナタヨリ 多クヲ 知ラナイ。 コレヲ 選択シテ 失敗シタトキ、裏切リト 考エナイデ ホシイ。」  ハリーは笑みをうかべる衝動に駆られたが抑えた。

 

「いい答えだ。」  いっぽうのクィレル先生は笑顔になった。 「一定の発想力がある人間には、〈ヘビ語〉で言質をとるという手段では対処しきれないようだ。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはクィレル先生に命じられて〈不可視のマント〉を着た。『自分ヲ 校長ダト 思イコンデイル 男ニ オマエヲ 見サセナイタメ』とクィレル先生は〈ヘビ語〉で言った。

 

「〈マント〉を着ていようがいまいが、〈鏡〉に映る範囲から離れるな。 ここから溶岩が吹きだしでもしたときには、おまえも燃やされるべきだ。 そのくらいの対称性はあってほしい。」

 

そう言ってクィレル先生は来た道の扉の右手の、〈鏡〉のずっと手前の場所を指さした。 ハリーは反論せず、〈マント〉を着て、クィレル先生の指示どおりの場所に行った。 ハリーはだんだんと、人質にされた数百人の生徒の命がかかっているとしても、ここでリドルが二人とも死ぬことは悪いことではないのではないかという気がしてきた。 ハリー自身は善意ではあれ、多くの場合結果的には愚かなことをしてきた。そして復活したヴォルデモート卿は世界全体にとっての脅威だ。

 

(いずれにしても、ダンブルドアがそういう溶岩の罠をしかけていることはありそうにない。 ダンブルドアがヴォルデモートに対してはふだんの抑制をうしなって怒っているということはそれなりにありえるが、ヴォルデモートのことを肉体を離れた魂だと思っているなら、溶岩でそれを恒久的に止められるとは思わないだろう。)

 

ハリーの立っている床にクィレル先生が杖を向けると、光る円があらわれた。 クィレル先生はそれはすぐに〈遮蔽の外円〉になり、円の内部の音や映像を外部に漏れなくする効果があるのだと言った。 これでハリーが〈マント〉をぬいだり大声をだしたりしても、偽のダンブルドアがハリーに気づくことはない。

 

「おまえは有効になった円を越えて動いてはならない。 越えようとすれば、おまえはわたしの魔法力に触れ、それで共鳴が起きてわれわれは重傷をおう。〈錯乱(コンファンド)〉の状態のわたしがそれをとめる手だてを記憶しているとはかぎらない。 さらに、靴を投げられてもかなわないから——」  クィレル先生がもう一度手をふると、〈遮蔽の外円〉の内がわに薄く光る球面ができた。 「コノ 障壁ハ オマエカ ソノ他ノ 物質ガ 触レルト 爆発スル。 わたしも共鳴でけがをさせられるかもしれないが、それ以前におまえも爆発で死ぬことになる。 では〈ヘビ語〉で、この円を越えようとしないこと、〈マント〉をぬごうとしないこと、衝動的なことや愚かなことを()()()しようとしないことを約束しろ。 これが終わるまでおとなしく〈マント〉を着たまま待つと約束しろ。」

 

ハリーはそれを復唱した。

 

するとクィレル先生のローブの色が、ダンブルドアが礼服としてつかうような黄金まじりの黒色に変じた。クィレル先生は自分の頭部に杖をむけた。

 

クィレル先生は杖をそのままにして動きを止め、集中するように目をとじた。

 

そしてしばらくして「コンファンド」と言った。

 

するとすぐにその男の表情が変わり、困惑げに二、三度、目をしばたたかせて、杖をおろした。

 

クィレル先生の顔に、ものうげな表情がひろがっていく。 表面上なにもかわっていないのに目が年老いて見え、多少あった(しわ)が際だって見えるようになる。

 

男のくちびるが悲しげな笑みのかたちになる。

 

男はゆったりとした足どりで、静かに〈鏡〉にちかづく。時間の心配は皆無というように見える。

 

そして〈鏡〉の鏡像の範囲に足を踏みいれるが、なにも起きない。男は鏡面に見いる。

 

そこになにが見えているのか、ハリーには分からない。ハリーの目には、いままでどおり平坦で完璧な鏡面がいままでどおり背後の部屋を映しているように見える。境界に立つ(ポータル)のように。

 

「アリアナ。」と男がひっそりと言う。 「母上、父上。そして弟よ。ことは済んだ。」

 

男はじっと、相手の話を聞いているように立っている。

 

「ああ、終わった。 ヴォルデモートはこの鏡のまえに立って、マーリンの方法でとらえられた。 いまや彼はここに封印された怪物のひとつでしかない。」

 

またおなじ静聴の時間。

 

「弟よ、そのとおりにしてやりたいのはやまやまだが。結果的にはこれがいいのだ。」  男はこうべをたれた。 「ヴォルデモートは二度と死ぬことが許されない。報いとしてはそれで十分ではないか。」

 

その光景にハリーはうずきを感じた。ダンブルドアはこんなことを言わない。これはむしろダンブルドアの藁人形、浅いステレオタイプに見える……かといって、相手もほんもののアバフォースの霊ではなく、クィレル先生が想像するダンブルドアが想像するアバフォースでしかない。二重の虚像であるアバフォースはきっとそこになんの異変も感じないだろう……。

 

「そろそろ〈賢者の石〉を返しにいかねば。」と自分はダンブルドアだと思いこんでいる男が言う。 「マスター・フラメルのもとに返さねばならん。」

 

静聴。

 

「いいや、マスター・フラメルは長年、不老不死をもとめる者の手から〈賢者の石〉を守りきってきたではないか。この石は彼のもとにあってこそ安全だと思う。……いや、マスター・フラメルに下ごころはないと思うよ、アバフォース。」

 

ハリーは自分のなかを駆けめぐる緊張をおさえることができず、息が苦しくなる。 不完全……クィレル先生の〈錯乱(コンファンド)〉は不完全だった。 仮面の下からクィレル先生の人格が漏れだしている。そのせいで『もし不死がそれほど悪いことなら、なぜニコラス・フラメルに〈石〉を持たせてかまわないのか』という当然の疑問を感じてしまっている。 クィレル先生は〈錯乱(コンファンド)〉上のダンブルドアにはその疑問が見えていないということにしたのかもしれないが、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()それを言いださない』という条件を組みこんでいなかった。そしてそのすべてが究極的にはクィレル先生自身の精神の鏡像であり、トム・リドルの知性の内部から生じる像である、となると……。

 

「破壊する?」と男が言う。 「ふむ。 しかし、はたして破壊()()()ものだろうか。できるものなら、マスター・フラメルがとうにそうしていたと思うが。 きっとこれを作ったことを何度も後悔したにちがいない……。 アバフォース、これはマスター・フラメルとの約束なのだ。 われわれ自身、まだまだ賢者を称していい身ではない。 〈賢者の石〉は作り手のもとに返さねばならないと思う。」

 

ハリーの呼吸がとまった。

 

男は凸凹(でこぼこ)の赤色のガラスのかたまりを左手にもつ。大きさはハリーの親指の爪から第一関節までとおなじくらい。 赤色のガラスの表面は濡れたように輝いている。あるいは、血が時間を止められてぎざついた形にかためられたように見える。

 

「ありがとう。」

 

〈石〉の外見はこれであっているのか? クィレル先生はそれがどんな外見だか知っているのか? この条件下で〈鏡〉はほんものの〈石〉を返すだろうか? それとも模造品をつくって返すだろうか?

 

そして——

 

「いや、アリアナ……」と言って男はほほえむ。 「申し訳ないが、わしはもう出ていかなければならん。 しかしわしが真の意味でおまえたちといっしょにいられるようになる日は遠くない。だから待っていておくれ……。 なぜか? なぜわしは出ていかなければならないのだったか……〈石〉を手にすればすぐに〈鏡〉のまえを離れて、マスター・フラメルの連絡を待つという手はずだった。しかし、なぜそのために〈鏡〉のまえを離れなければならないのかは分からない……。」  男はためいきをつく。 「ああ、これも年のせいか。 このおそろしい戦争がいま終わってくれたのはよかった。 おまえがそう言うなら、しばらく二人で話をすることにしても、なにも害はないだろうと思う。」

 

ハリーの目の裏で頭痛がはじまった。 ハリーのなかの一部分は自分がしばらく息をしていないということを報告しようとしているが、聞き手はどこにもいない。 ()()()だった。クィレル先生の〈錯乱の魔法〉は不完全だった。クィレル先生が想像するダンブルドアが想像するアリアナは、あとではなく、いま話したい、と言っている。それはおそらく、死後の世界は実在しないということをクィレル先生がどこかで認識しているからだ。『〈石〉を入手したら自分は立ち去りたくなる』という事前にうめこまれた衝動の強さよりも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……。

 

そしてハリーは冷静になった。 呼吸も再開した。

 

いずれにしろ、いま自分にできることはあまりない。 そもそもこちらが介入できないようにしたのはクィレル先生だし、その結果クィレル先生がどんな目にあおうとも自業自得でしかない。 こちらがその巻き添えにされてしまうかもしれないが、それもしかたない。

 

自分はダンブルドアだと思いこんでいる男は、大切な妹の話を聞いて、何度もおおらかにうなづいては、ときおり返事をしている。 そしてときおり申し訳なさげに、ここから立ち去りたいという強い衝動を感じているかのように、ちらりと視線をはずす。しかしそのたびにその衝動を、アルバス・ダンブルドアが妹に対してもつであろうとクィレル先生が想像する忍耐力と気づかいによって押しかえす。

 

やがて『コンファンド』が切れ、その瞬間に男の表情が変わり、クィレル先生の顔にもどった。

 

そしておなじその瞬間に〈鏡〉が変化した。そこの映っていた室内の映像はなくなり、かわりにほんもののアルバス・ダンブルドアのすがたが映しだされた。本人が〈鏡〉のなかに立っているのがそのまま見えているかのようだった。

 

ほんもののダンブルドアの表情はかたく、暗い。

 

「こんにちは、トム。」とアルバス・ダンブルドアは言った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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110章「鏡像(その2)」

つぎの瞬間にアルバス・ダンブルドアの表情の陰鬱さは驚愕に変化した。 「クィリナス? そこでなにを——」

 

無言の時間。

 

「これはしてやられた。」とアルバス・ダンブルドアが言った。

 

「そう思ってもらえたなら本望。」  クィレル先生はあっさりとそう返す。仮に現場をおさえられたことで動揺しているのだとしても、表面上は平静だ。 クィレル先生が手をひとふりすると、ローブが教授用の服にもどる。

 

ダンブルドアの顔がまたおなじ暗い表情にもどり、さらにいっそう暗い表情に変わった。 「ヴォルデモートの痕跡をあれだけ探しまわっておきながら、病気で死にかけのホグウォーツ〈防衛術〉教授が強力な霊魂に支配されているのを気づかずにいてしまったとは。 ほかに気づかなかった者がこれほど多くいなければ、老いのせいにもしたくなるが。」

 

「まったく。」と言ってクィレル先生は眉をもちあげた。 「この目が赤く光っていないというだけで、それほど気づきにくいものかな?」

 

「ああ、それはもう。」  ダンブルドアは平常どおりの声で言う。 「よくできた演技ではあった。完全にだまされていたということを白状しよう。 クィリナス・クィレルはまるで——なんと言うべきか、ちょうどいい表現があったと思うが。 ああ、これじゃ、思いだした。クィリナス・クィレルはまるで、正気に見えた。」

 

クィレル先生はあたかもなにげない会話の最中であるかのように笑う。 「わたしは正気でなかったことなど一度もないがね。 ヴォルデモート卿はわたしにとってゲームのひとつでしかなかった。クィレル教授がそうであったように。」

 

アルバス・ダンブルドアはなにげない会話を楽しんでいるような表情ではない。 「おまえならそう言うのではないかと思っていたよ、トム。 しかしまことに遺憾なことに、ヴォルデモートの役割を演じられる者はすでにヴォルデモート()()()()()()のじゃ。」

 

「ああ。」と言ってクィレル先生は指導するように指をたてる。 「しかしその論理には抜けみちがひとつあるぞ。 ヴォルデモートを演じる人間はみな、道徳主義者が『邪悪』と呼ぶものにあたる、という点に異論はない。 しかしもしかすると真のわたしはどこまでも完全に邪悪で、その邪悪さはヴォルデモートにおける演技とはまた一味ちがった、改心のありえない邪悪さなのかもしれない——」

 

「どちらであれ、わしは興味がない。」とアルバス・ダンブルドアが平坦な声で言った。

 

「ということは、おまえはいまにもわたしを排除し終えるつもりなのだな。 それはおもしろい。 わたしの永遠の生はひとえに、おまえがしかけた罠を解明し、一刻もはやく脱出の道を見いだすことができるかどうかにかかっている、と。」  クィレル先生はそこで一度とまった。 「それよりもまずは意味もなくほかの話をして進行を遅らせるとしよう。 そうやって〈鏡〉のなかで待っていたようだが、どんな手をつかった? おまえは別の場所にいるとばかり。」

 

「わしは別の場所にいる。 そしておまえにとって不都合なことに、わしは〈鏡〉のなかにもいる。 わしは最初からずっとここにいた。」

 

「そうか。」と言ってクィレル先生がためいきをつく。 「するとあのちょっとした目くらましも無駄だったということになるな。」

 

それを聞いてアルバス・ダンブルドアは怒りを隠さなくなった。 「目くらましだと?」  声は荒あらしく、青色の目に激情がこもる。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

クィレル先生はがっかりしたような素ぶりをした。 「そんな根も葉もない疑いをかけられて悲しいよ。 わたしはフラメルとして知られていた人間を殺していない。 別の者に命じてやらせたにすぎない。」

 

なんということを。 いくらおまえでも限度があろう。 彼はわれわれの魔術の知識を一身に有していた! そのうしなわれた知識は二度と取りかえせない!

 

クィレル先生の笑みに険がこもる。 「いまだに不思議なのだが、どんな歪んだ考えかたをしていれば、フラメルが不死になるのはよくて、わたしがおなじことをしようとすると怪物ということになるのかな。」

 

「マスター・フラメルは()()になどなっていない! 彼は——」  ダンブルドアがことばを詰まらせる。 「……彼は長い昼を終え、夜を迎えて眠りにつくのを、われわれのために先送りしていてくれたにすぎない——」

 

「このことをおぼえていてくれるだろうか。」  クィレル先生は歌うように言う。 「トム・リドルが総長室に来た日のことをおぼえているかい? あの日わたしはあそこでひざまづいてまでして、いつかわたしは自分の手で〈賢者の石〉をつくりたい、だからニコラス・フラメルの弟子にしてもらえるよう仲介してほしい、と懇願した。 ちなみにあれはわたしが善人であろうとした最後の日だった。 おまえはそれを断り、死を恐れることのあさましさをわたしに講釈した。 わたしは苦にがしさと怒りを感じながら退室した。 ただ死にたくないと思うだけで邪悪と呼ばれなければならないなら、自分は邪悪でかまわない、と考えた。 一カ月後、わたしは別の手段で不死を実現するためにアビゲイル・マートルを殺した。 フラメルの内情を知っても、おまえの偽善を許しがたく思うのは変わらなかった。 わたしがおまえとその配下の者に余計な苦痛をあたえたのもそのためだった。 そのことはおまえにも知られているような気はしていたがね……率直に話す機会がなかっただけで。」

 

「拒否する。」  アルバス・ダンブルドアの視線はゆるがない。 「おまえがそのような道を歩んだことについて、わしはどんな些細な責任を負わされることも拒否する。 そのすべてはおまえがおまえの判断でおこなったことでしかない。」

 

「どうせそんなことを言うだろうと思ってはいた。 さて、となると、どんな責任なら引きうけると言うのかな。 おまえが非凡な〈占術〉の手段を持っている、というところまでは、わたしはずいぶん昔に推理した。 そうでもなければ、おまえは不合理な手を打ちすぎていたし、それでいておまえの有利に展開したできごとの例はばかばかしいまでに多い。 そこで聞こう。 おまえはわたしがつかのまの敗北を喫したあの万霊節前夜のできごとがどう運ぶかについて、事前の知識があったのか、なかったのか。」

 

「あった。」  アルバス・ダンブルドアの低く冷ややかな声で言う。 「それについては責任を引きうける。これはおまえにはいつまでも理解できない点であろう が。」

 

「おまえはセヴルス・スネイプが〈予言〉を耳にし、わたしに届けるように誘導したな。」

 

「わしはそうなることを止めなかった。」

 

「なのに、わたしはやっと自分も未来を知れたと思って小躍(こおど)りしてしまっていたというわけだ。」  クィレル先生は悲しそうにくびをふった。 「つまり、偉大な英雄ダンブルドアは、なにも知らないリリー・ポッターとジェイムズ・ポッターを犠牲にした。わたしをただ数年放逐するだけのためにそうした。」

 

アルバス・ダンブルドアの目は石のようだ。 「ジェイムズとリリーはそうと知っていれば、みずからすすんでそのように死んでいたにちがいない。」

 

「では赤子については? ポッター夫妻も、そう積極的にわが子を〈例の男〉の進路に放置したがったとは思えないがね。」

 

ほとんど目に見えない程度の動揺があった。 「〈死ななかった男の子〉はそれなりに立派に成長した。 おまえは彼を()()()に変えようとしたのではないか? 実際にはそうはいかず、おまえは自分を死体に変え、ハリー・ポッターはおまえがなるべきであった魔法使いになった。」  その口調はいくらか、半月眼鏡の奥の目に小さなきらめきのある、ふだんのダンブルドアを思わせる。 「トム・リドルの冷徹な知性はすべてそのままに、ジェイムズとリリーの温かみと愛情で抑制された結果がこれじゃ。 トム・リドルが愛情ある家族のもとで成長したとしたらこんな人間になっていたかもしれないという実例を見せられて、なにか思うところはなかったかね?」

 

クィレル先生のくちびるがゆがんだ。 「おどろかされた、いや、むしろ愕然とさせられたよ。ミスター・ポッターの絶望的なまでの純朴さには。」

 

「おまえにはその状況の皮肉さが通じなかったのだろうが。」  そう言ってからはじめてアルバス・ダンブルドアは笑顔になった。 「わしはそのことに気づいたとき笑いがこみあげてしかたがなかった! おまえが邪悪なヴォルデモートに対抗する〈善〉のヴォルデモートをつくってしまったのだと分かって——ああ、それは大笑いをした! わしはもともとこの立ち場に向いていなかった。しかしハリー・ポッターならいずれは十分にその任に適する人物になってくれるにちがいない。」  アルバス・ダンブルドアの笑みが消えた。 「と言ってもハリーは倒すべき〈闇の王〉を別に見つけなければならないが。そのときおまえはもういなくなっているのだから。」

 

「ああ、うむ。そうか。」  クィレル先生は〈鏡〉から離れる方向に歩みをすすめてから、自分が(それまで〈鏡〉に映しだされていたのだとすれば)〈鏡〉に映しだされなくなる直前の位置で止まったようだった。 「おもしろい。」

 

ダンブルドアの笑みが冷ややかなものに変わった。 「そうじゃ、トム。おまえはここを出られない。」

 

クィレル先生は首肯した。 「どんな手をつかった?」

 

「おまえは死をこばんだ。 仮にわしがその肉体を破壊しても、おまえの魂はさまよい、戻ってくるだけ。ちょうどものわかりの悪い動物が捨てられたことを知らずに戻ってくるように。 そこでかわりに、わしはおまえを〈時間〉の外の、凍った一瞬へと送りだすことにした。わしを含めて何者もおまえをそこから取りかえすことはできない。 もしかすると、予言が事実であれば、いつの日かハリー・ポッターがおまえを取りもどすことができるようになるかもしれない。 ハリー・ポッターはそうして自分の両親の死の責任がだれにあるかを話しあいたいと思うかもしれない。 おまえにとってはそれは一瞬にすぎない——仮に帰ることがあるとしても。 ともあれ、むこうで無事にやっていてくれ。」

 

「ふむ。」と言ってクィレル先生はハリーが無言で恐怖に似たものを感じながら立っている場所をとおりすぎ、反対がわの端まで行ってまた立ちどまった。 「こんなことだろうと思っていた。 これはマーリンの古い封印の方法だな。トファリアス・チャンの物語に言う、〈無時間の過程〉。 伝承がまちがっていなければ、この過程(プロセス)をこれほど長く起動しつづけたとなると、おまえ自身にもそれを停止することはできない。」

 

「いかにも。」  アルバス・ダンブルドアはそう答えながらも、急に警戒する目になった。

 

ずっとおなじ、扉の右手の場所で無言で恐怖をおさえつけながら待っているハリーも、空気を通じてなにかを感じとった。〈鏡〉のなかの世界に()()()()()()を感じた。 それは魔法よりも異質で、異様さと問答無用の強さ以外それについてなにも理解することができない。 最初はゆっくりと、やがて加速しながら、その存在の濃度が高まっていく。

 

「しかしチャンが語ったことが事実なら、おまえはこの段階でも効果を反転させることができる。」とクィレル先生。 「伝承では、〈鏡〉の効能には両面性のあるものが多いという。 ならばおまえは〈鏡〉のそちらがわのものを放逐することもできる。 わたしでなくおまえ自身を、その凍った一瞬に送りだすこともできる。 おまえにその気さえあれば。」

 

「そうする理由がどこにある?」  アルバス・ダンブルドアはこわばった声で言う。 「人質があるとでも言うのかね? 無駄なことをしたものじゃ。愚かとしか言いようがない! まだ分からないか、わしはどんな人質をとられても一歩も譲歩しないのだということが。」

 

「おまえは昔からいつも一手遅い。」とクィレル先生が言う。 「紹介しよう。こちらがわたしの人質だ。」

 

別の存在がハリーの周囲の空気に侵入し、ハリーの全身にぞわりと栗立つ感覚があった。もう一人のトム・リドルの魔法力がハリーの肌のごく近くをかすめた。すると〈不可視のマント〉がハリーからはがされ、黒光りして空中を飛んでいった。

 

クィレル先生が受けとり、それでさっと自分の身をつつんだ。フードをかぶって消え終えるまでの時間は一秒もなかった。

 

支え棒かなにかがはずれたかのように、アルバス・ダンブルドアがぐらりとした。

 

「ハリー・ポッター。」  アルバス・ダンブルドアが声をひそめる。 「()()()()()()()()()()。」

 

ハリーはただアルバス・ダンブルドアの映像を見ている。アルバス・ダンブルドアの顔には衝撃と落胆がないまぜになっている。

 

あまりに耐えがたい罪悪感とやましさがハリーを襲う。同時にあの理解不可能な存在がハリーのまわりで最高潮をむかえる。 もう時間がないこと、これで終わりだということをハリーは言語を介さず理解した。

 

「ぼくのせいです。」  ハリーのなかのどの部分だかが最後の最後に小さな声をだして言う。 「ぼくは愚かでした。最初からずっと愚かでした。 ぼくを助けにこないでください。さようなら。」

 

「おや、これは。」  なにもないところからクィレル先生の楽しげな声がする。 「わたしの鏡像がなくなっているじゃないか。」

 

「いや、それは、それだけはならん!」とアルバス・ダンブルドアが言った。

 

アルバス・ダンブルドアの袖から手へと黒灰色の長杖がとびだし、もう片ほうの手には、どこから出てきたとも知れない黒い石の短杖があった。

 

アルバス・ダンブルドアがその両方をちからまかせに放りなげた。と同時に、高潮する力場が崩壊寸前にまで高まり、そして消えた。

 

〈鏡〉はもとのようにただ、黄金色の光に照らされた室内の白い石壁を映す。アルバス・ダンブルドアがいた場所の痕跡はもはやどこにも見あたらない。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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111章「失敗(その1)」

〈闇の王〉が笑っている。

 

なにもない空間から、〈防衛術〉教授が高らかに笑っている声がする。聞くに耐えないその声はいまや露骨に〈闇の王〉の声、ヴォルデモートの笑い声になっている。

 

ハリーの精神は千々に乱れている。 目は、アルバス・ダンブルドアがいた場所をずっと見つめている。 心のなかには、理解するにも見なおすにも巨大すぎる恐怖がある。 心は時間をさかのぼって現実を取り消そうとすることをやめないが、そのような魔法は実在しないので、現実は変わらない。

 

ハリーはダンブルドアを失った。やりなおしはない。それはこの戦争に敗北したことを意味する。

 

ヴォルデモート卿は笑いつづける。

 

「アハハハ! ハッハッハッ! 実にわれわれのゲームにふさわしい結末じゃないか、ダンブルドア先生!」  またひとしきり大きな笑い声がつづく。 「おまえは最後の最後まで、犠牲にするものをまちがえた。おまえがすべてを捨てて守ろうとしたただ一つのものは、すでにわたしの支配下にあったのだから! そもそも無駄な罠だった。わたしはこの肉体をいつでも捨てられるのだから! アハハハハハ! おまえは最後まで狡知というものを理解しなかったな。」

 

「そ——」と声が漏れる。「それは——」

 

「アハハハハ! そうとも、おまえはこの冒険がはじまったときからずっと、わたしの人質だった。それ以外におまえがここにいる理由はない。 ハハハハハ! ほんもののトム・リドルと対戦しようというのは数十年早い。」  〈闇の王〉は〈マント〉のフードをめくり、顔を見せ、そのまま全身から〈マント〉をとった。 「さて、これで……マギレモナク オマエハ ワタシヲ 助ケタ。シタガッテ 友人タル 女児ヲ 復活サセル トキガ 来タ。 約束ヲ 守ル タメニ。」  〈闇の王〉はどこまでも冷たい笑みをした。 「疑うかね? その気があればわたしはおまえを一瞬で殺せるということを忘れるな。ホグウォーツ総長がいなくなった以上、通報の受け手はもはやいない。 疑いたければ疑ってかまわないが、そのことは知っておけ。」  手にはまた銃がある。 「愚かな少年よ、来い。」

 

二人はその場を離れた。

 

〈薬学〉の部屋への扉にはまた紫色の火がついていたが、〈闇の王〉は杖を振りおろしてそれを消した。二人はそのまま来た道をもどって、ボガートのいた部屋、チェス像の残骸の部屋を通り、鍵の部屋の燃えつきた扉を通過した。 〈闇の王〉は天井の扉を飛行して通りぬけ、ハリーは葉でできた螺旋階段をのぼってその扉から出るのに苦労した。〈デヴィルズ・スネア〉の触手はぴくりと動いてから怖がるように引っこんだ。 〈死ななかった男の子〉は涙を流さないように努力している。暗黒面のパターンは役に立っていない。きっとヴォルデモートは罪悪感を知らなかったか無視していたかなのだろう。

 

二人は三つ頭の〈亡者〉の横を通過した。〈闇の王〉がひとことささやくと、それは扉の上に倒れ、死体にもどった。

 

二人はつぎに、門番のセヴルス・スネイプが「わたしはこの扉の見張りをしている」、「寮点を減らされたくなければ、すみやかに去れ」と言っている横を通過した。

 

〈闇の王〉は足をとめずに歩きながら「ヒャクジュウ・モントーク」と言い、杖をさっと振った。 するとセヴルスは一度よろめいてから、活力のない動作で扉の番をする姿勢にもどった。

 

「あれは——」 ハリーは追いながら言う。 「あれはなんの——」

 

「忠実な従僕に対する義務をはたしたまでだ。 殺さないという約束は守っている。」  〈闇の王〉はまた笑った。

 

「人質は——」  声がつい動揺しそうになる。 「生徒たちを殺す仕組みかなにかを停止するという約束は——」

 

約束ハ シタ。心配無用。 出ル 途中デ ソウ スル。

 

「出る途中?」

 

「われわれはここを撤収するのだ。」  〈闇の王〉はまだ笑顔でいる。

 

またいやな予感がするが、その感覚はそれ以外のいやな予感の山に埋もれている。

 

〈闇の王〉は自分が〈ホグウォーツの地図〉と呼んだ地図を確認しながら歩いている。歩くのに合わせて地図の手書きの線が動いていくように見える。 ハリーの精神の一部は巡回中の〈闇ばらい〉に遭遇したときに(〈闇ばらい〉は〈闇の王〉に一瞬で殺されるか〈忘消〉(オブリヴィエイト)されかねないから)やるべきことを考えていたが、その望みを捨てた。

 

二人はだれとも会わないまま、二階への〈大階段〉をくだった。

 

〈闇の王〉はハリーの知らない道を曲がり、別の階段をくだった。 つぎつぎと下の階へおりていくと、窓はなくなり、壁にたいまつがともった。やがてスリザリンの地下洞にたどりついた。

 

道のさきに、ホグウォーツのローブを着た人影があらわれた。

 

〈闇の王〉はその人影にむかって歩きつづける。

 

ハリーはそれを追う。

 

壁にはサラザール・スリザリンが氷まみれの巨人のようなものに杖をむけているところをかたどった彫刻があり、その横で六年生か七年生のスリザリン生が一人、待っていた。 その女子生徒はクィレル先生が立って歩いているのを見ても、ハリーがとなりにいるのを見ても、〈防衛術〉教授が銃を手にしているのを見ても、なにも言わない。 うつろな目をしているようにも見えるが、はっきりしない。

 

〈闇の王〉は自分のローブのなかに手をいれ、銅貨(クヌート)を一枚とりだしてその女子に投げた。 「クラウディア・アリシア・テイボル。おまえに命令ずる。このクヌートを、クィディッチ場の観客席の下でわたしが見せた魔法円まで持っていき、円の中央に置け。 そのあとで自分の直近六時間の記憶を〈忘消〉(オブリヴィエイト)せよ。」

 

「はい、ご主人さま。」とあたまをさげながら言って、女子は役目を果たしにいった。

 

「たしか——たしか、停止するには〈石〉が必要だと——」

 

〈闇の王〉はまだ笑顔でいる。というより、ずっと笑顔をやめていない。 「わたしはその部分を〈ヘビ語〉で言わなかった。 〈ヘビ語〉で言ったのは、わたしがすでに生徒たちを殺す仕組みを発動したということ、〈石〉を入手したらそれを停止するということだけだ。 ほかの部分は人間言語で言った。 ちなみにわたしは〈石〉を入手できなかったとしても、摘発されてさえいなければ、あの〈鮮血神殿(ブラッド・フォート)〉の儀式を停止するつもりでいた。 ホグウォーツ生はわたしが手間をかけて訓練した、貴重な資源でもあるからな。」  そう言ってから〈闇の王〉は壁に話しかけた。 「開ケ。

 

ハリーの目のまえで、壁が徐々に奥にむかって開いていくのと同時に、彫刻の上部左におかれた小さなヘビの裏から、太い導管(パイプ)への入りぐちがあらわれる。 側面には苔がはえていて、かびとほこりのにおいがあふれてきている。内部にはまたみっしりとクモの巣が重なっている。

 

「クモか……。」と〈闇の王〉がつぶやいた。ためいきの音が聞こえ、それが一瞬だけクィレル先生を思わせた。

 

〈闇の王〉は導管のなかに踏みこみ、クモの巣を火で撃退して進む。 ハリーはついていくほかによい選択肢も思いつかず、そうする。

 

導管がY字型に分岐し、またもう一度分岐した。 〈闇の王〉はそれぞれ左、右をえらんだ。

 

導管が金属の壁に行きあたった。 「開ケ。」という〈闇の王〉の声に応じて、壁に裂け目が生じ、内がわに折りたたまれていくように見えた。

 

そのさきは、長い石のトンネルの途中に通じていた。

 

「ここからしばらく歩くが、ほかに質問は?」と〈闇の王〉が言った。

 

「い——いえ——いまのところは——」

 

返事にかえて冷ややかな笑いがあり、二人はトンネルに乗りだし、右に進んだ。

 

それからどれくらい長く歩いたのか分からない。 クモの巣が燃える光はハリーの機械式時計の針が見えるほどに明るくなく、ハリーはこの空間に来るまえに時刻を確認するのを忘れていた。 地面の下で何マイルも歩いているような感じがした。

 

ハリーの頭脳がすこしずつ、もう一度だけ回復しようとする。これが終われば〈闇の王〉はハリーを殺す、という考えがまちがっていなければ、次の機会はありそうにない……が、〈闇の王〉がハーマイオニーを生きかえらせると言っていたのもたしか。殺すなら、そんなことをする意味はないだろう……〈ヘビ語〉で約束した以上、守らざるをえないというだけのことなのだろうか……ではなぜその場でぼくを倒してしまわなかったのか……。

 

頼むから——とハリーの脳のなかで唯一機能している部分の声ほかのすべての部分にむけて言う。 〈闇の王〉がまだ思いついていないなにかを考えるならいまだぞ。なにか、ポーチも杖も〈逆転時計〉もなしでできること、クィレル先生がぼくらにはできそうもないと思うようなことを……考えろ、考えろ。なにか考えてくれないか。 ここであきらめるな。いくら怖くても、これまでにあと一時間で死ぬという意味で死に直面したことなんかなかったとしても、ここであきらめてどうする——

 

ハリーの思考は白紙のまま変わらない。

 

仮に——とハリーのなかの最後の声が言う。 仮にぼくらが勝つという前提、そうでなくとも生きてここをぬけだせるという前提で考えてみよう。 だれかがぼくらに事実として『きみは生きのびた』、『勝った』、『なんとかしてうまく切りぬけた』と言ったとしたら、そこにいきつくまでにどんなことが起きているように思えるか——

 

その手続きには正当性がない。 宇宙はそんなふうにできていない。ぼくらはもう死ぬんだ。——とレイヴンクローが言う。

 

だれかがハリー・ポッター(ぼくら)の不在に気づいて——とハッフルパフが言う。 マッドアイ・ムーディが〈闇ばらい〉を率いてやってきて助けてくれる、とか。 そろそろぼくらも自分が警察や政府より有能でないことを認めるべきだと思う。

 

いや、突破口は()()()()()()()()でなければならない——と最後の声が言う。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

問題点その二——とグリフィンドールが言う。 ハリー・ポッターはいま失踪していない。みんなから見える場所でクィディッチの試合を観戦している。 クィレル先生はそこまで想定ずみだった。あの偽のメモを送ったのはそのためでもあった。 問題点その三。マッドアイ・ムーディと〈闇ばらい〉で〈闇の王〉を倒すことはできないと思う。いずれにしろそのまえに確実に〈闇の王〉はぼくを殺せている。 ダンブルドアがいなくなったいま、〈魔法法執行部〉全員がかりでも、本気になった〈闇の王〉と戦って勝てるとは言いきれない。 問題点その四。あのクィディッチの試合はとどこおりなく進行した。多分、そうだったからこそクィレル先生はハリー・ポッター(ぼくら)を同行させるという手のこんだ方法を試す気になったんだと思う。

 

別の方向で考えてみると——とスリザリンが言いだす。 クィレル先生は別のだれかを呼んでぼくらに〈記憶の魔法〉か〈開心術(レジリメンス)〉か〈服従(インペリオ)〉か〈錯乱(オンファンド)〉か、とにかくそういう種類の処置をさせるのかもしれない。どうせぼくらの〈閉心術〉は完璧じゃない。 そうすることで〈闇の王〉は、あたまのいい——と言えなくもない副官を手にいれて利用できる。 あれほど積極的にこちらに秘密をあかしてきたのは、そのためでもあったのかもしれない。その記憶はいずれ消えると分かっていてのことだとすれば。 ホグウォーツ城の結界の外にでていくのにも、ベラトリクスを〈現出(アパレイト)〉で来させて、その処置をさせることができるように、という理由があるのかもしれない……

 

ぼくはこんな不正な推論過程には手を貸さないぞ——とレイヴンクローが言った。

 

辞世の句としては上出来だ。いいからだまって考えろ——と最後の声が言った。

 

むきだしの石のトンネルが足の下を通りすぎていく。ハリーの靴はときどき水たまりにつっこんで濡れたり、凹凸に滑ったりする。 脳の神経細胞は発火しつづけ、たがいに話しあい怒鳴りあう声を想像している。いっぽうの〈聞き手〉は、恐怖と恥のあまり感覚をうしなっている。

 

グリフィンドールとハッフルパフは、〈闇の王〉の銃にむかっていって自殺するかハリーの鋼鉄の指輪の小さな宝石をのみこんで自殺するかで論争している。 〈闇の王〉がハリーを洗脳して使役することが世界の命運をよいほうに動かすか悪いほうに動かすか、どちらとも言えない。どのみち〈闇の王〉が勝つのだとすれば、時間をかけずにそうしてくれたほうがましかもしれない。

 

最後の声はその論争に負けずに話しつづける。失敗のどん底でも、その最後の声はなくなっていない。 それ以外に、〈闇の王〉がかならず人間言語で言って一度も〈ヘビ語〉で言わなかったことはなにかなかったか? 思いだせないか? なんでもいいから思いだしてくれ。

 

今日起きたばかりのことでありながら、それはあまりに遠い過去になってしまった。 〈闇の王〉はハーマイオニーを復活させるときが来たと〈ヘビ語〉で言った。そのあとの話はすべて英語だったが、ついさっきのことなのにほとんど内容を思いだすことができない。 そのまえに……そのまえに、〈遮蔽の外円〉にさわれば爆発するという話があって、その部分はヘビ語だった。 〈マント〉をぬぐな、〈外円〉をまたごうとするな、という部分は英語だった。クィレル先生は共鳴の被害をうけるが、そのまえにハリーが死ぬ、という部分も英語だった。 ハリーがそこに触れれば、クィレル先生は共鳴をとめる手だてを忘れているから、二人とも死ぬことになる、というのも英語だった……。

 

両方が死ぬことはないと仮定してみよう——と最後の声が言う。 ハロウィンの夜の〈ゴドリックの谷〉で、〈闇の王〉の肉体は燃えつき、ぼくらはひたいに傷を負うだけですんだ。 共鳴は〈闇の王〉にとって危険だがぼくらにとってはそれほどでもないとしてみよう。 実は最初からずっと、ぼくらが突進して〈闇の王〉の肌のどこかに手を触れるだけで〈闇の王〉を殺せたのだとしたら? ぼくらの傷あとからはまた血がでるが、それだけですむのだったとしたら。 『やめろ、よせ』という感覚は〈闇の王〉が〈ゴドリックの谷〉で手痛い失敗をした記憶を引きついだものにすぎず、〈死ななかった男の子〉には関係なかったのだとしたら。

 

小さな希望が浮かびあがる。

 

浮かびあがって、打ち消される。

 

そうしたら、〈闇の王〉は杖を投げ捨てるだけさ——とレイヴンクローがつまらなそうに言う。 クィレル先生は〈動物師(アニメイガス)〉の変身ができる。 仮に死んでも、また別のだれかに憑依して復活して、ぼくらの両親とぼくら自身を拷問しにくる。

 

手遅れになるまえに両親のところへ行けるかもしれない——と最後の声が言う。 両親をかくまうことができるかもしれない。 〈闇の王〉の現在の肉体を殺すことができれば、〈賢者の石〉をうばって、それを核に反撃軍を立ちあげられるかもしれない。

 

〈闇の王〉は石の通廊を歩きつづけている。 片手にはまだ銃がある。 ハリーからの距離は四メートル以上。

 

こちらが突進すれば、むこうは共鳴を通じてぼくらが近づいたことを感知する——とハッフルパフが言う。 そしてすぐに前方に飛ぶ。飛ぶためのホウキ用の魔法を自分にかけてあるから。 離れてからふりかえって、銃をつかう。 相手は共鳴のことを知っているから、この可能性も想定している。 これは〈闇の王〉が思いついていないことにあたらない。 むしろ十分対応できるようにしてあることだと思う。

 

おなじような論理で——と最後の声が言う。 こちらからは自由にクィレル先生に魔法をかけられるが、逆にあちらからそうすることはできない、としてみよう。

 

そうだと言える理由は?——とレイヴンクローが言う。 逆に、そうでないという証拠はある。 アズカバンでクィレル先生のアヴァダ・ケダヴラとぼくらの〈守護霊の魔法〉が衝突したとき、ぼくらはあたまが割れるように感じた——

 

それは()()()()()()()魔法力が暴走したせいだとしてみよう。 こちらからあちらに、たとえば『ルミノス』を撃ったりしても、なにも悪いことは起きないと仮定してみよう。

 

それで? そう仮定してなんになる?——とレイヴンクロー。

 

そう仮定すれば——とハリーが言う。ぼくらがクィレル先生に魔法をかけてはいけないという警告をクィレル先生が()()()()()理由が説明できる。 クィレル先生はたしか一度も〈ヘビ語〉で、ぼくがクィレル先生に魔法をかけようとすればぼくがけがをする、ということを言わなかった。 ほかの種類の警告はいろいろとしていたし、その気になればその警告もできたのに、しなかった。 証拠の不在は不在の弱い証拠。

 

そのほかのハリーの部分が無言になり、このことを検討した。

 

実際にはぼくらには杖がない——とレイヴンクローが言った。

 

そのうち取りもどせるかもしれない——と最後の声が言った。

 

そうだとしても——と言うハリーはまた灰色の絶望感を感じている。 共鳴のことを〈闇の王〉は知っている。 あちらはぼくにできることをすべて想定している。共鳴についても準備している。 そもそもそれがぼくの失敗だった。 ぼくは〈闇の王〉の知性を高く評価していなかった。 ぼくは〈闇の王〉がぼくの知っていることをすべて知っていて、そのすべてを考慮したうえで動いているかもしれないという可能性を考えなかった。

 

それなら——と最後の声が言う。 ぼくらが勝ったという条件のもとでは、ぼくらは相手に知られていないなにかで攻撃していなければならない、ということ。

 

ディメンターはどうだ——とグリフィンドールが言った。

 

ぼくらがディメンターを破壊したり誘導したり、ときには支配したりもできることは〈闇の王〉に()()()()()()——とレイヴンクローが言う。 仕組みは知られていないけれど、その能力があることは知られている。それに、いったいどこからディメンターを調達できる?

 

もしかすると——とハッフルパフが言う。 ぼくらが〈闇の王〉にしがみつけば、共鳴で〈闇の王〉のホークラックス網のすべてが短絡(ショート)するかもしれない。ぼくらが自分の命を犠牲にすることで彼を永遠に(ほうむ)ることができるかもしれない。

 

また根も葉もないことを——とレイヴンクローが言う。 ま、どうせなら、そういうお花畑みたいなことを信じて死んでいくのもいいかもしれないがね。

 

もしヴォルデモート卿がそれだけ死を恐れていたなら——とハッフルパフが言う。 死のことを二度と考えたくもないと思っていたとしたら、ホークラックス網にはそういう欠陥がある()()()()()()。 ホークラックスの実効性を別のだれかで試すことを思いつきもしなかったのだということは、死について冷静に考えることができていない証拠なのでは——

 

つまり死への恐怖が彼の致命的な弱点?——とレイヴンクローが言う。 うん、それはないね。 百個以上のホークラックスを用意するような人なら、多少のフェイルセーフ機構くらいは用意しているだろうよ。

 

ハリーの脳は考えつづける。

 

二人のあいだの魔法的共鳴そのものに非対称性がある……という可能性はあまりありそうにない。そういう仕組みであると考えるべき理由はない。 ただ、おなじ魔法的な反動でも、その人の魔法力が高いほどより深刻な被害を受ける、ということはあるかもしれない。 それなら〈ゴドリックの谷〉で観測された事象(ヴォルデモートが爆発し、赤子が生きのびたという結果)も、アズカバンで観測された事象(より魔法力の強いヴォルデモートは反動も強くて重傷、まだ一年生で魔法力の弱い〈死ななかった男の子〉は反動も弱くて軽傷、という結果)も説明できる。 あるいは、魔法をかけようとするがわの魔法力だけが共鳴するのかもしれない。それも二つの事象の説明になる。 クィレル先生が魔法をかけるなとこちらに警告する必要性をあまり感じなかったこともそれで説明できる。 ただ、クィレル先生が共鳴について話すのを避けていた理由は無論それだけではなく、むすびつける発想さえあれば、〈ゴドリックの谷〉の謎を解明する大きな手がかりになるからでもあっただろう。

 

悲嘆と罪悪感で麻痺している部分が、『忘れていたと言えば、もうひとつ考えなおすべきだったことがある』と言いだす。〈最初の木曜日〉に、マクゴナガル先生にきつく言われて()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という判断をしたまま、ホグウォーツでのできごとが深刻な展開になった時点で、その判断を考えなおさずに放置していたことは、うっかりではすまされない。 その時点でだれを信頼していいかがはっきりしなかったこと、ダンブルドアが悪人でクィレル先生が英雄の位置づけであるように思えていた時期もあったことは事実だが、それでも……

 

そう言えば、ダンブルドアは気づいたはずだ。

 

ダンブルドアはそれで即座に気づいたはずだ。

 

ほんものの不死鳥を肩にのせる老賢者は気づいたにちがいない。なのにハリーはダンブルドアを信頼しようとせず、情報をあかすことをためらった。学校がはじまって四日目に自分がした判断を一度も見なおさずに放置していたばかりに。 その情報には『ダンブルドアに言うべきでないこと』というラベルがついていた。アズカバンのあとでも、ハーマイオニーが死んで、あれだけのことが起きたあとになっても、自分はそれを話すべきかどうかをあらためて時間をかけて考えてみることを忘れ、あらためてそれが差し引きで損なのか得なのかを考えようとしなかった。

 

また悲嘆と恥の波がハリーをおおう。そして最後の声がしばらく沈黙し、その沈黙をほかの声がやすやすと埋める。

 

数マイル以上を歩いて、灰色の思考をいくつも通過して、石のトンネルが終わった。

 

〈闇の王〉は石の階段をのぼり、ハリーもそれにつづいた。

 

二人は暗く湿った石づくりの建造物のなかに出た。 汚れた古い石の扉がひとりでに開いた。

 

目のまえには、むきだしの地肌に大理石が積まれていて、それぞれの上に名前と日付がある。 この墓地にはそのような墓石がごく乱雑に散らばっていて、墓石のない場所はなんの手入れもされていない。

 

夜はまだ浅いが、十日余りの月は十分あかるく見える。

 

ハリーはその墓地を目にして、歩くのをやめた。あたまのなかで『ここにだけはいてはならない』という警報がやかましく鳴る。しかし、それを実現する手段はない。 放置された警報が鳴りやまないなか、ハリーの背後で墓地の扉が閉じ、自動的に封印された。

 

〈闇の王〉は乱雑な墓地の中心にまで歩いていき、自分のあたまの上で小さな円をかくように杖を動かした。

 

ごとりと音がして、地面から祭壇がせりだした。黒石でできたその祭壇は幅二メートル以上あり、灰色の紋章がいくつも彫刻されている。 そしてそれをかこむように黒い大理石の方尖柱(オベリスク)が六本、均等な間隔でそそり立ち、夕闇に暗く輝く。

 

ハリーのあたまのなかで鳴りやまない警報の音が大きくなった。

 

「ここは……」  〈闇の王〉がクィレル先生とおなじ調子の声で言う。 「ホグウォーツからもホグスミードからも便利な場所につくっておいた、わたし専用の作業場だ。」  〈闇の王〉は祭壇に手をかざす。 「この場所でミス・グレンジャーが復活し、わたしがわたしの真の肉体に再誕する。 わたしの再生がさきであることは言うまでもない。 女児ヲ 復活サセル 魔術ハ 真ノ 肉体ノ ホウガ ヤリヤスイ。」  そのことばに奇妙なヘビ式の笑い声が重なる。 「女児ノ 復活ノ 手順ノ 一部ヲ、他ノ 者ハ 〈暗黒〉ト 呼ブダロウ。シカシ 心配ハ 無用。ソレハ 女児ヲ 傷ツケナイシ、醜ククモ シナイ。 彼女ハ 本来ノ 外見、本人ノ 精神ヲ 持ツ。ワタシヤ ワタシノ 配下ノ 者ハ 以後 彼女ヲ 傷ツケナイ。

 

ハリーの舌は乾いていて、ハリーの精神はろくに機能していない。 「あなたがミス・グレンジャーを生きかえらせる、ほんとうの目的はなんなのか。それを〈ヘビ語〉で言ってもらえませんか。」

 

友人タル 女児ガ 再ビ オマエニ 助言シ、オマエヲ 抑制スルコトガ デキル ヨウニ。 彼女ガ コノ世界ノ 一部デ アリツヅケ、オマエガ コノ世界ニ 関心ヲ 持チツヅケル ヨウニ。 偽リナク ソレガ ワタシガ コレヲ スル 理由ノ 半分 以上。」  つづいてまたヘビ式の笑い声があった。これがいかに皮肉な発言であるかを伝えようとするように。

 

ハリーのなかで小さな希望の火がともる。と同時にもっと大きな困惑が生じ、完全な〈閉心術師〉は〈ヘビ語〉でもうそを言えるのではないかという恐怖が生じる。 〈闇の王〉は次の段階で〈死ななかった男の子〉を殺すか奴隷化するつもりでいるのだとすれば、なんのためにこんなことをしているのか……。

 

もしかすると自分はクィレル先生をまったく理解できていなかったのではないか。ある意味で、トム・リドルについての自分の想定が()()()()()()()のではないか……。ヴォルデモート卿はただ、〈死ななかった男の子〉の一日分の記憶を〈忘消〉(オブリヴィエイト)し、混乱したハーマイオニー・グレンジャーもろともどこかに置き去りにしたうえで、世界征服を再開する、という予定なのでは……。

 

希望の火が燃える。しかしそれは混乱した支離滅裂な希望だ。 それは敗北したダンブルドアを嘲笑した〈闇の王〉と整合しない。 クィレル先生がどんな狙いをしているとすればそのような展開が可能になるか。整合性のあるものがなにも思いつかない。

 

このさきで、いったいなにが起きるのか。

 

〈闇の王〉は祭壇に近づき、 地面にひざをついて、石でできた祭壇そのものに手を差しこむような動きをし、瓶をとりだした。瓶の液体は夕闇のなかで黒色に見えている。

 

また〈闇の王〉は口をひらき、淡々とした声で話す。 「たくみに隠された血、そして血、そして血。」

 

すると祭壇のまわりの不動の石柱が一斉に、歌うような声でラテン語より古い音律をかなではじめた。

 

Apokatastethi, apokatastethi, apokatastethi to soma mou emoi.

 

Apokatastethi, apokatastethi, apokatastethi to soma mou emoi.

 

石柱の歌声は一節が終わるごとに反響し、輪唱のように重なって聞こえる。 瓶からそそがれた血は、ちょうど祭壇をつつむように空中にひろがり、ゆっくりとかたちを持っていく。

 

Apokatastethi, apokatastethi, apokatastethi to soma mou emoi (emoi).

 

Apokatastethi, apokatastethi, apokatastethi to soma mou emoi (emoi).

 

祭壇の上に長身の人間が横たえられる。それは夕闇のなかでさえ、あまりに青白く見えた。

 

〈防衛術〉教授が片手をローブのなかにいれ、小さな凸凹(でこぼこ)の赤色のガラスのかたまりをとりだした。

 

そしてそれを青白い長身の肉体の上におく。

 

〈石〉はその場所にすくなくとも数分間はおかれたままだった。 その凸凹(でこぼこ)の赤色のガラスのかたまりは光りもせず、点滅もせず、そのほかなんの効果をもつようにも見えない。

 

そして〈石〉がほんのすこしだけ、肉体の上で回転した。

 

〈防衛術〉教授は〈石〉をローブにもどし、祭壇の上で静止したままの長身の人間の各部を、目は指で、胸は杖でつついていった。

 

それからそりかえって笑った。

 

「驚異的だ。」と〈闇の王〉が、ハリーの知る〈防衛術〉教授の声で言う。 「形相(けいそう)が固定した! 魔法力で維持される人工物にすぎなかったものが、〈石〉に触れて真の質料となった。 それでいてわたしにはなにも感知できない! だまされたのではないかと、偽の〈石〉をつかまされたのではないかと思っていたが、ここにできたものはどう検査しても真正(ほんもの)だ!」  〈防衛術〉教授は赤色のガラスをローブのなかにしまった。 「わたしの水準でもこれは不気味なしろものだと言わざるをえない。」

 

〈防衛術〉教授は祭壇のまわりを五周しながら、ハリーからは聞こえない小さな声でなにかを詠唱した。

 

〈闇の王〉は祭壇の上に横たわる人間の手に杖をにぎらせた。

 

そして自分の両手でその人間のひたいをおおった。

 

「ファル、トア、パン。」

 

その声のあと、なんの前ぶれもなく稲妻のような閃光が墓地全体を明るく照らした。ハリーはふらりと一歩後ろにさがり、同時に無意識に手がひたいに向かう。 傷あとの位置を撃たれたような、ハチに刺されたような感触があった。

 

〈防衛術〉教授が倒れた。

 

そして祭壇の上でひょろ長い人間の上半身が起きあがった。

 

なめらかに身をひるがえして地面に立ったそのすがたはやはり長身で、常人よりあたま一つ分は高い。 手足はやせて青白く、肉がついていないが、強大なちからを持っているように見える。

 

ハリーはひたいの傷に両手を押しつけたまま、また一歩さがった。 相手との距離は十分にあるものの、すさまじく不穏ななにかが空気から伝わってくる。まるでいままで感じていた破滅の感覚は()()()()ものにすぎず、それがはじめて明瞭になり、濃縮してひたいの傷あとに物理的な痛みとしてあらわれているかのようだ。

 

ヴォルデモートはこういう外見をしている()()()()()()()()のか? 鼻はまるで……まるで復活の手順の途中で()()()()()()ああなったように見える——

 

ひょろ長い男はそりかえって笑い、自分の杖と両手とを上にあげてながめた。 左手を大きくひらくと、それは長い足が四本ついたクモの半身のように見えた。その指が反対の手のなかの杖をなでる。 墓地の地面から葉が舞いあがり、ひょろ長い男のまわりに集まり、ハイネックのシャツとゆったりとしたローブに変じてその身をつつんだ。そのあいだヴォルデモート卿は笑うのをやめない。 ディメンターの悪夢のなかでハリーが自分のくちから出したように記憶している笑い声とまったくおなじ音調の寒ざむしい笑い声だった。

 

赤色の目が夕闇のなかで光り、ネコのように細長い瞳孔が見える。

 

ヴォルデモートが捨てたほうの肉体が震えながら地面から立ちあがった。そしてやっと聞こえるくらいの小声でクィリナス・クィレルが「自由——ああ、自由だ——」と言った。

 

「『ステューピファイ』」と高く冷たいヴォルデモートの声がして、クィリナス・クィレルが吹き飛んで倒れた。ヴォルデモートが別の手を振ると、クィリナス・クィレルのからだが持ちあがり、祭壇から離れた場所に飛ばされた。

 

ヴォルデモートが祭壇を離れ、ふりむいてハリーを見る。するとハリーの傷あとの痛みが燃えあがった。

 

「恐ろしいか?」  人間言語ながらヴォルデモートのかすれた声には〈ヘビ語〉のなごりがある。 「それでいい。 あの女の子を祭壇にのせて、〈転成術〉をとけ。 コレカラ 彼女ヲ 復活サセル。

 

ほんとうにそれでいいのか? このまま進めていいのか?

 

ハリーはごくりと息をのんで、混乱のさなかの一縷の不可能な希望を通じて恐怖を克服し、祭壇へと歩いた。 そして左足の靴と靴下をぬぎ、足の指輪をはずした。緊急用ポートキーとしてハリーにあたえられていた指輪と同一のかたちに〈転成〉してあったそれこそがハーマイオニー・グレンジャーだった。 ほんもののポートキーを持っていないことがほんのすこしだけ悔やまれるが、ほんのすこしでしかない。というのも、セヴルスがまちがっていなければ、〈死食い人〉の幹部は日常的にポートキー防止の壁を用意しているらしいからだ。 ハリーの背後で、ヴォルデモートが感心させられたというような笑いかたをした。

 

「杖なしで『フィニート』はできませんが。」とハリーは声にだして言った。

 

「その必要はない。」  ヴォルデモートの声は高く残酷だ。 「おまえは杖をつかうことなく接触することだけで〈転成術〉を維持できるようになっている。 おなじように杖なしで〈転成術〉を解除することもできるはずだ。それを維持している魔法力を操作して流出させるのだ。やってみろ。」

 

ハリーはごくりと息をのんで、指輪に手を触れた。 三度試し、精神を集中してやっと、以前魔法力をそそぎこむ方法を身につけたときとおなじやりかたで、指輪から魔法力をすいだすことができた。

 

そのやりかたで〈転成術〉を解除する作業は『フィニート・インカンターテム』よりもずっと時間がかかった。〈転成〉の過程を加速して逆再生して見ているようだった。 指輪はぐにゃりと曲がり、合流し、ふくれあがる。 つぎつぎと色が変わり、質感が変化する。

 

死んだ女の子のからだの三分の二が祭壇の上に平たく寝かされた状態であらわれた。片腕が祭壇からはみでているのは、たまたま逆変形がその方向にすすんだせいだ。 食いちぎられた足から血は流れていない。 死んだ女の子の顔はハーマイオニー・グレンジャーの顔だが、ゆがんでいて、青ざめている。 その外見は、医務室の奥の部屋で〈転成術〉をかける三十分間、そしてそのあと〈転成術〉で身代わりをつくる四時間のあいだにハリーの脳に焼きつけられたままの外見だった。 衣服はハーマイオニー・グレンジャーの一部ではなく、〈転成〉の対象にならなかったので、ここにいる女の子も裸である。

 

医務室での数時間とそれ以後の悪夢はハリーのなかで抑圧されていた。その記憶がこの光景を見てフラッシュバックした。

 

「さがれ。」とヴォルデモートの高い声がする。「あとはわたしがやる。」

 

ハリーはごくりと息をのみ、祭壇のそばを離れ、それまでに立っていたのとおなじ、長い通廊の出ぐちに立った。 「彼女のからだは摂氏五度くらいにまで温度を下げてあるから、脳損傷はないはず——」  ハリーのほうは声の音程が安定しない。 ヴォルデモートはほんとうに本気なのか?—— なにか裏があるにちがいない。こちらが見おとしているだけにちがいない。 ヴォルデモート自身も配下の者も彼女を傷つけないという。そして肉体も精神も彼女自身のものになるという。——なんのためにそんな約束を?

 

ヴォルデモートはふたたび祭壇の前に立ち、杖をひとふりしてそこにある肉体の向きを祭壇にあわせた。 〈闇の王〉は単調かつ明瞭な声で「たくみに隠された肉、そして肉、そして肉。」と言った。

 

方尖柱(オベリスク)たちがまた輪唱をはじめた。

 

Apokatastethi, apokatastethi, apokatastethi to soma hou emoi (emoi).

 

Apokatastethi, apokatastethi, apokatastethi to soma hou emoi (emoi).

 

女の子の両足の断面から肉が噴出し、どろりと動きながら徐々にかたまっていく。

 

方尖柱たちはやがて歌うのをやめ、そのときには完成した裸体が祭壇の上にあった。

 

それはハーマイオニーのように見えていない。 ハーマイオニー・グレンジャーは立って話すものであり、ホグウォーツの制服を着ているものである。

 

ヴォルデモートが片手をあげ、不快そうな空気音を発した。 乱暴な手ぶりによって、眠っているクィリナス・クィレルのローブがまんなかで引きさかれ、紫と緑のネクタイが切りきざまれ、ぬがされたジャケットがヴォルデモートのいる場所に運ばれた。 ハリーの一部がそれを見てびくりと反応した。まるで〈闇の王〉ヴォルデモートがクィレル先生を攻撃したのを見たかのように。

 

ヴォルデモートが迷わずそのジャケットのなかに片手をいれると、ジャケットはなにかが壊れていくときのように痙攣した。 ヴォルデモートはジャケットを振って地面にぬぎすて、なかにあったものを吐きださせた。 ハリーのポーチ、〈逆転時計〉、ホウキ、ヴォルデモートの銃、〈マント〉、いくつもの護符と腕輪、その他ハリーの知らない奇妙な道具がいろいろあった。

 

最後に赤色のガラスのかたまりが出てきて、それがハーマイオニー・グレンジャーの肉体の上にしばらく安置された。

 

数分が過ぎ、〈闇の王〉は祭壇の脇に積まれたもののなかにあった護符を身につけ、おなじくそこから、ひもでつながれた四本の短い木の棒をとりだし、ローブの内がわに手をいれ、上腕と大腿部にそれをとりつけたようだった。 〈闇の王〉は空中に浮かび、左右や上下に動いた。最初はわずかにふらついた動きだったが、やがて安定した飛行になった。

 

赤色のガラスのかたまりがわずかに回転した。

 

〈闇の王〉は地面におりて、ハーマイオニー・グレンジャーの肉体を杖でつついた。

 

ヒトツ 障害ガ アル。

 

ハリーの脳は裏切りとその他の失敗を十分予想していたので、予想を裏づけるその発言を聞いても、感じるのは鈍い衝撃でしかなかった。 「障害トイウト?

 

女児ノ 体ハ 復元シタ。 物質ハ 修復シタ。 シカシ 魔法力ト 生命力ガ ナイ……コレハ まぐるノ 死体。」  ヴォルデモートは祭壇を離れ、周囲を歩きだす。 「完全な儀式をすれば問題は解消する。 しかしそのためには時間がかかる……時間以外にも、グレンジャーの敵の血が必要になる。ドラコ・マルフォイはもはやそれに該当しそうにない。わたし自身が意思に反して自分の血をぬきとることも無論ありえない……ばかなことをした。」  小さなささやき声。 「ばかなことをした。この事態を予想して準備しておくのだった。 彼女の脳を電気ショックで目ざめさせることはできるかもしれない。わたしもその程度のマグル医学は知っている…… しかしそれで魔法力はもどるのか。 そこがわからない。マグルとして目ざめれば、一生マグルのままになるのではないかと思う。 だが、それ以外にどうしようもなさそうだ。」  〈闇の王〉は杖をかまえ——

 

「待って!」  ハリーは思わずそう言い、希望がもどったように感じた。 生命力と魔法力のごく小さな火種があればいいのなら……

 

ヴォルデモートがふりかえってこちらを見る。ヘビに似たその顔に、ごく小さなおどろきがあらわれている。

 

ボクガ 解決デキル カモシレナイ。 杖ガ 必要。 アナタニ 対シテ ソレヲ 使ウ 意図ハ ナイ。」  これはその意図が変わらないことを予期しているかどうかについてはなにも言っていない。 具体的な意図ができあがってしまうまえに、要点だけを言ってしまうことにしたのである。

 

「おもしろい。やってみるがいい。」と言って〈闇の王〉は祭壇の脇に積まれたもののなかから、包装されたハリーの杖をとりだした。 杖は空中に投げだされ、滑空してからハリーの足もとに落ちた。 それから〈闇の王〉は積まれたものたちを連れて、うしろに飛行して祭壇から離れた。

 

ハリーは杖の包みをはがし、前にでた。

 

これで杖をとりもどした。一歩前進だ——と最後の声、つまり希望の声が言った。

 

ハリーのどの部分も、二歩目としてなにをすればいいのか、まだ分かっていない。とはいえ、一歩前進したのはたしかだ。

 

ハリーは復元されたハーマイオニー・グレンジャーの肉体のまえに立つ。夕暮れの光に照らされた石の祭壇の上の彼女はかわらず裸体のまま、死んでいる。

 

「ヴォルデモート卿、お願いです。服を着させてあげてください。そのほうがぼくもやりやすいような気がするので。」

 

「よかろう。」  ヴォルデモートのかすれた声でハリーの傷あとの痛みが燃え、同時に裸体の女の子が空中に持ちあがる。また一度痛みが燃えると、枯葉が舞って彼女をつつみ、ホグウォーツの制服に似た服となった。ただしえりの色は青でなく赤。 ハーマイオニー・グレンジャーの両手が胸の上でむすばれ、足がのばされ、ゆっくりと祭壇の上におろされた。

 

ハリーは彼女を見る。

 

人間らしく見えるようになったので、あらためてしっかりと見る。

 

死んでいるというより眠っているように見える——。 意識してやっと、呼吸のしるしを探し、それがないことを確認し、そこから結論をだすという作業をすることができた。 生の感覚で言うなら……ハーマイオニーはすでに生きている、というようにも思えてしまう。

 

全体的に見れば、ハーマイオニー・グレンジャーならきっとこの状況をよしとしないであろうことは考えるまでもない。 しかしそれは、ほかの条件が同等であるかぎりにおいて、当人が生より死をえらぶということを意味しない。(しかし条件は同等でないかもしれない。)

 

きみは生きることを望んでいる……望んでいるというのがぼくの最善の推測だから……

 

ハリーは震える左手でハーマイオニーのひたいに触れた。 摂氏五度の冷たさではない温かさがあった。 ヴォルデモートが平常な温度にまで体温をあげたのか、この儀式の魔法では自動的にそうなるのか。 ともかくそれは、いまハーマイオニーの脳には温度があり、酸素がないということを意味する。

 

それを切っかけにして、ハリーのなかの危機感が高まった。

 

立つ姿勢をただし、杖をふりあげてハーマイオニー・グレンジャーの遺体に向ける。 このハーマイオニーの肉体にある()()の問題はそれが死んでいること。死んでいるという点のほかに問題はなく、その一点さえ直せばいい。

 

死よ、ここにおまえの居場所はない。

 

エクスペクト……」  声を発すると同時に、〈守護霊の魔法〉を燃やす()()()()()()()がそこに流れこんでいく感覚があった。 「パトローナム!

 

ホグウォーツの制服を着た女の子が銀色の火の層につつまれ、その体内に〈守護霊〉が生まれていく。

 

がくりと下がる感触、かじりとられる感触があり、ハリーはよろめいた。 直観的に感じられるのか、トム・リドルの記憶のせいか、ハーマイオニーに流れこんだ生命力と魔法力はどちらも二度ともどってこないということが分かる。 もちろん消費したのは自分の全生命力でもなかったし全魔法力でもなかった。それに足りる()()はかけようがなかった。とはいえ、どれだけの量であったにせよ、うしなわれたそれは二度と帰ってこない。

 

そしてハーマイオニー・グレンジャーは息をしはじめた。眠っているときのように一定のリズムで呼気と吸気をくりかえしている。 空の夕闇はいっそう暗く、顔色がよくなったかどうかは見てとれないが、よくなったにちがいない。 彼女はいま、おだやかに眠っているように見える。ただ死んだ人の顔は眠っているように見えるというのではなく、実際眠っていて、肉体的に異常がなく、眠っているあいだは安全であるからだ。

 

なぜかしばらくおとなしくしていたハリーの一部が静かに話しだし、自分たちはまだ墓地にいるということ、勝利をおさめたばかりのヴォルデモート卿がまだ状況を支配しているということ、ハーマイオニーが生きたいと思うであろうという推測は推測にすぎないということを指摘した。

 

ハリーは笑顔のまま、徐々に杖をおろした。 こころのなかで打ちあげられている祝福の花火は自重し、フリトウィック先生のように歓声をあげて走りまわるようなことはしない。それでも——

 

これは——

 

これは〈第二歩〉と言っていいだろう。

 

「おもしろい。 魔法力だけでなく生命力をも利用する〈守護霊〉…… そこまでは想定の範囲内だった。一年生の魔法力だけでは到底まかなえないだろうから。 しかし謎はそれだけではない。生命力を利用する呪文でさえあればよかったとは考えられない……。 生きかえった彼女のすがたを幸せのイメージとしたとか? それだけのことだったのか?」  ヴォルデモート卿はまた杖をもてあそぶ。赤く細い目のなかに暗い興味が見える。 「永遠の生のなかのどこかでその呪文を解明するとき、わたしはきっと間抜けな気分にさせられるのだろうな。 では、その子から離れろ。 ワタシハ モット 多クノ コトヲ シテ 彼女ヲ デキルカギリ 長ク 生カス 意思ガ アル。

 

ハリーはやむをえず一歩さがり、緊迫感が戻ってくるのを感じた。 ハリーがみだれた墓標の一つにつまづきそうになっているうちにも、〈闇の王〉は歩みをすすめている。

 

〈闇の王〉は祭壇の正面に立ち、ハーマイオニー・グレンジャーのひたいに指を一本のせた。

 

そしてハーマイオニー・グレンジャーのひたいを指で一度たたいてから、ハリーがやっと聞きとれる程度の小さな声で「レクイエスカス」と言った。

 

ヴォルデモートが片手を方尖柱(オベリスク)のうちの一本にむけて振ると、それは回転して先端を外にむける姿勢で地面に横たわった。 「みごとなものだ。彼女は生きていて、魔法力を有している。おまえが彼女をもう一人のトム・リドルにしてしまうのではないかということが心配だったが、それも起きていない。」

 

ハリーのなかでまた緊張が高まる。 こちらがまだ杖を手ばなしていないことをヴォルデモートに思いださせないようにと、杖はズボンの裏のベルトにおさめてある。 「これから彼女になにをするんです?」

 

オベリスクがまた一本回転して地面に横たわった。 「魔法生物ヲ 犠牲ニシ、魔法的 特徴ヲ 対象ニ 転移サセル 古イ 忘レラレタ 儀式ガ アル。制限ハ 多イ。一時的ナ 数時間ノ 転移ニ スギナイ。 転移ガ 解ケルト 対象ハ 死ヌ コトモ アル。 シカシ 〈石〉ハ ソレヲ 永続サセル。

 

合計四本のオベリスクが均等な間隔で地面に横たわっている。のこりの二本は空中に浮かべられている。

 

ヴォルデモートは自分の口に手をいれようとしてはっとし、また不快そうな空気音を発した。 眠っているクィリナス・クィレルの口にむけて手を振ると、その口から歯が二本浮かび出た。日が暮れてかなり見えにくくなっているが、 一本は空中を飛んで脇の道具の山へ、もう一本は祭壇の正面に行った。

 

そのすぐあと、ハリーはヒッと声をあげて後ずさりした。

 

不恰好な巨体、ぶよぶよの皮膚、木の幹のように太い足、岩にのせられた椰子の実のような小さな頭部。

 

円形にならぶ方尖柱にかこまれて、立ったまま眠ったように動かない山トロル。

 

「なにがしたいんです?」

 

ヴォルデモートのくちもとが動き、にやりとした。まったく似あっていないし、歯が多すぎるように見える。 「ワタシノ コノ 予備ノ 武器ヲ 犠牲ニ スル。女児ハ とろるノ 再生能力ヲ 得ル。 モシモ 転成酔イヲ 前ノ 儀式デ 打チ消セテ イナカッタトシテモ、コレデ 解消スル。 女児ハ 剣撃ヤ 切断ノ 呪文ヤ 病デ 死ヌコトモ ナクナル。

 

「なぜ——なぜそんなことを?」  声が動揺している。

 

ココマデ 手間ヲ カケテ 復活サセタカラニハ、女児ヲ 再ビ 死ナセル 意思ハ 微塵モナイ。

 

ハリーはごくりと息をのんだ。 「話についていけません。」  これは()()()()()()()()()()だとか? それは十分な説明力のある仮説ではないように思える。

 

「しっかりとさがっていろ。」とヴォルデモートが冷ややかに言う。 「この儀式はひとつまえの儀式より〈暗黒〉度が高い。」  〈闇の王〉がまた別の、やわらかな発音の詠唱をしはじめた。生命をもって空気中で沸々と煮るような音の列に、ハリーはあらたな不穏さの波を感じて、うしろにさがった。

 

そしてハリーは声をあげ、同時に傷あとの痛みがまた燃えあがった。 山トロルのからだが崩壊し、灰となって空中をただよい、さらには(ちり)となり、塵はその場にとどまったまま吹き飛ぶようにして消滅した。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはそのままやすらかに眠っている。ヴォルデモートがかけたのがどんな安静の呪文であったにしろ、それは十分な効果を発揮しているらしい。

 

「あの……うまくいったんですか?」とハリーは小声で言った。

 

「『ディフィンド』」

 

ハリーは声にならない悲鳴を口にして一歩前にでたが、その動作の愚かしさに気づいてそこで立ちどまった。そうしているうちに、〈切断の魔法〉によってハーマイオニーの足にできたばかりの切れ口が、切り開かれた速度と同じくらい速い速度で閉じていく。 数秒後、肌の上には小さな血の点だけがのこった。

 

〈石〉がまたハーマイオニーの上にのせられ、しばらくして回転させられた。 ヴォルデモートがまた彼女の上に手をかざして笑う。 「上出来だ。」

 

そして、もうひとつの小さな歯がオベリスクの円陣のなかに飛んでいく。そのつぎの瞬間、トロルのいた場所にユニコーンがあらわれた。 ユニコーンは濁った目をして、うつむいている。

 

「え? なぜここで()()()()()が?」

 

ゆにこーんノ 血ハ 生命ヲ 保ツ。とろるノ 治癒力ト 相乗効果ガ アル。 以後、女児ハ 〈悪霊ノ火〉ト 〈死ノ 呪イ〉ノ 他ノ 何ニモ オビヤカサレナイ。」  ヘビ式の短い笑い。 「余リモノノ ゆにこーんデモ アル。使ワナイ 手ハ ナイ。

 

「ユニコーンの血には副作用があるという——」

 

ソレハ ゆにこーんノ 血ノ 効果ガ 別ノ ダレカニ 盗マレタ トキ ノミ。 コノ 呪文ハ ゆにこーんノ 効果ヲ 女児ノ 体内ニ 宿ス。生マレツキ ソウデアッタ カノヨウニ。

 

また陰鬱な、沸々とした合唱の声がはじまる。

 

ハリーは一連の様子を見てはいるが、なにひとつ理解できていない。

 

理解はしなくていい。いまここに見えているのはなんだ?

 

〈闇の王〉ヴォルデモートがひどく手間をかけてハーマイオニー・グレンジャーを復活させ、長生きさせようとしているのが見えている。 まるでヴォルデモートの生存がハーマイオニー・グレンジャーの生存にかかっていると思っているかのようにも見える。

 

ハリーのなかの混乱している部分がそろって、自分たちのしたがうべき手続きを探す。 最初に思いついたのは『手持ちの最良の仮説にもとづいて予測をする』だったが、それはなんの役にも立たない。 悪役が勝利をおさめた時点で、物語はたどるべきであった道をはずれてしまっている。

 

またしても、ひたいをなぐられたように傷あとの痛みが燃えあがった。 ユニコーンがぐらりと揺れ、そしてトロルとおなじく塵となって消えた。

 

〈闇の王〉はハーマイオニーのからだの上にまた〈石〉をのせ、彼女の両手でそれをつかませた。

 

ヴォルデモートはしばらくなにも起きない様子をながめてから、〈石〉をそこにおいたままこちらを向き、のどを高く鳴らした。 「ああ、そうだった。 あれなら、ちょうどよさそうだ。 おまえはわたしがあたえた日記帳をまだ持っているか? あの有名な科学者の日記帳だ。」

 

ヴォルデモートがなんのことを言っているのか、ハリーの脳が答えを見つけるまですこし時間がかかった。 十月、〈メアリーの店〉の〈メアリーの部屋〉でもらった貴重な贈りもの。それをくれたクィレル先生はもういない、あるいはもともといなかったのだと思うと、大きな落胆におそわれてもおかしくない。 しかし落胆の感情はもう十分にあるので、ハリーの脳はそれを脇によけた。

 

「ええ。ポーチのなかにあるんじゃないかと。たしかめましょうか?」  ポーチのなかにあることは()()()()()()。 自分の所有物や購入したもののなかですこしでも必要になるかもしれないと思ったもの、つまり冒険(クエスト)用アイテムになりそうなものはすべてそこに積めこんである。

 

祭壇の脇に積まれたもののなかから、ハリーのモークスキン・ポーチがとりだされ、ハリーの足もとに落ちる。

 

「ロジャー・ベイコンの日記帳。」と言ってそこに手をいれると、日記帳があらわれる。 クィレル先生によればこの日記帳は暖炉にほうりこんでも傷ひとつつかないものらしいので、ハリーはそれをヴォルデモートの祭壇にむけてほうりなげた。 そうしていて、とくにうしろめたくもない。本を大切にあつかうことより重要なことはほかにある。それがあの本であっても。

 

ヴォルデモートは日記帳を拾うと、それを検分することに集中しているようだった。

 

ハリーはつとめてさりげなくかつ静かにポーチを腰のうしろにまわし、すでに杖をおいてあるあたりのベルト用の輪に装着した。

 

第三歩、ポーチ。

 

「よし。」とヴォルデモートが日記帳のページをたぐりながら言う。 「これならうってつけだ。」  わずかに動いた〈石〉を〈闇の王〉が別の手でローブのなかにしまった。

 

「その日記帳をぼくにくれた裏の目的は?」  ハリーはポーチをベルトに装着し終えて、からになった両手をヴォルデモートから見える位置においた。 「最初すこしは自分で翻訳してみようとしたんですが、なかなかはかどらず——」  実際には遅々として進まないまま、ハリーにはほかにやることができたのだった。

 

日記帳ハ 見カケドオリノ モノ。オマエヲ ワタシノ 味方ニ 誘ウタメノ 贈リ物。」  ヴォルデモートは片手に日記帳をもったまま、杖のあるほうの手を見ようともせずに空中で杖を複雑にうごかしている。 一瞬、黒い筋が空中に見えたような気がしたが、月あかりは暗く、はっきりしたことは言えない。 「さて、ここからが見どころだぞ。」  ヴォルデモートの高い声に暗い愉悦がまじり、杖がハーマイオニー・グレンジャーのひたいを軽くたたく。 「おまえから多くの知識をもらったしるしに、わたしはこの日記帳をよりいっそう貴重な贈り物に変える。 おまえがハーマイオニー・グレンジャーに助言され抑制される機会が、星ぼしの命がつづくかぎり二度と失われることのないように。 『アヴァダ・ケダヴラ』。」

 

ハリーが〈守護霊の魔法〉をとなえる間も身じろぎする間もないうちに〈死の呪い〉の緑色の雷撃が発射され、声を漏らして杖を手にとろうとしていたときにはすでに終わっていた。

 

意識をうしなって倒れていたクィリナス・クィレルは緑色の光に撃たれ、ぴくりとも動かず、そのまま死んだ。

 

ヴォルデモートが空中につくりだしていた反・光のすじが暗く輝く。〈ロジャー・ベイコンの日記帳〉も徐々に闇に染まっていく。そのかたわらでハーマイオニー・グレンジャーの肉体の周囲にある空気が震える。

 

ひたいに焼き印を押されたような猛烈な痛みが傷あとに燃えあがり、ハリーはなにも考えずにトム・リドル由来の反応で横にとんでよけた。

 

ヴォルデモートも金切り声をあげ、日記帳を地面に落とし、頭をかかえて叫んでいる。

 

いまだ——

 

最後の希望の声がそう言い、同時にハリーは必死に考え、理解しようとする。 いまヴォルデモートを殺そうとしても()()()()()。そうしたとしておそらく相手を()()()にさせるだけ。数百個のホークラックスすべてがなくならないかぎり、武器でヴォルデモートを殺すことはできない——

 

それでも一時的にヴォルデモートを肉体から追いだしたうえで、〈石〉とハーマイオニーを奪って逃げることに価値はあるように感じられる。

 

ハリーの右手はすでに杖をもっている。 左手は背中をつたって、なんとかポーチのなかにはいり、無音で三文字の英語の単語を書く。

 

「こんな!」  ヴォルデモートはそう言って頭から手を離し、驚愕したような表情でハーマイオニーの肉体を見つめている。 「こんなことが!」

 

意図したものがポーチのなかから飛びでて手に乗ったので、ハリーはしずしずと相手との距離を詰め、事前の簡単な練習で手におえることが分かっている近さまで迫ろうとする。

 

「わたしの偉大な発明——」  ヴォルデモートは動転した高い声で言う。 「二つの異なる魂は同じ世界に共存しえない——つながりが、つながりが切れてしまった! ホークラックス……ただちにホークラックスをつくらねば——」  ヴォルデモートの視線は眠ったままのハーマイオニー・グレンジャーに向かう。そして杖を空中にかかげ、さきほどと同じ動かしかたをしはじめる。

 

ハリーは銃をかまえて引き金を三回引いた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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112章「失敗(その2)」

ハリーは自分が銃をかまえた時点で、自分が失敗をおかしつつあることに気づいていた。ハリーの前脳はそう気づいて手のうごきを止めようとするが、なぜか指はその暗い確信が届くより速く引き金を引いてしまい——

 

三発の銃撃の音が墓地に響いて消えた。

 

ハリーが引き金を引くより一瞬はやくヴォルデモートが杖を下に振り、二人のあいだの地面から横長の土の壁が生え、その壁が弾丸を三発とも受け止めたのだった。

 

次の瞬間にハリーの傷あとの痛みが燃えあがり、肌のすぐそばにぞわりとする感覚があった。そしてポーチ、服、銃など、杖以外のすべてがなくなり、ハリーは丸裸にされた。のこされたのは右手の杖と、魔法で鼻に固定してあった眼鏡だけ。 左手の小指の鋼鉄の指輪は皮膚がむけるほど強い力で剥ぎとられ、指輪についていた〈転成術〉製の宝石も奪われた。

 

「ありきたりにもほどがある。」と土の壁のむこうからヴォルデモートの声がする。 「仮にわたしの不死性が乱されたとして、そのことをむざむざおまえに聞こえるように話すとでも思ったか? おまえはそこまで愚かだったか? 杖を下げろ。なにがあっても二度と持ちあげるな。さからえば即座に殺す。」

 

ハリーはごくりと息をのみ、杖を下にむけた。 「どうせ失望はしていたでしょう。」  ふだんより高い声になっている。 「ぼくがああいう機会をみすみす見のがしたとしたら、ということですが。」  思考する余裕はないので、ハリーの口は自動操縦で動いている。口は、こちらに父性を感じていたりするかもしれない、こちらがたったいま暗殺に失敗した種類の邪悪な魔王をとりなすことができそうなせりふを言おうとしている。

 

ヴォルデモートが土の壁の横からでてきて、やたら歯が多く見えるいやらしい笑いかたをした。 「おまえがわたしに手や杖をふるおうとしないかぎり、わたしはおまえに手や杖をふるおうとしない、というのが約束だった。」

 

「ぼくがつかったのは弾丸ですよ。」  やはり声は高いまま。 「手でなぐってもいないし呪文もつかっていない。」

 

「わたしの呪いはそう判断していない。 おまえが見落としていたのはその部分だ。 わたしがわれわれのあいだの平和を運まかせにするとでも思ったか? おまえをつくるまえに、わたしは自分に由来する将来のトム・リドル全員と自分とに呪いをかけた。 相手がさきに手をだそうとするまではおたがいの不死をおびやかすことを禁じるという呪いだ。 例によってあの大惨事のおかげで、この呪いはわたしを束縛することしかせず、自我をなくしたに等しい赤子にはなんの効果ももたらさなかったようだった。」  小声で不敵に笑うヴォルデモート。 「シカシ 愚カナ オマエガ タッタイマ ワタシノ 真ノ 命ヲ 終ワラセヨウト シタ。呪イガ 解ケタ イマ、ワタシハ 好キナトキニ オマエヲ 殺スコトガ デキル。

 

「なるほど。」  なるほど、ヴォルデモートがホークラックス網のことを口にしたのは()()()()だったのか。ハリーが意図して不死をおびやかす瞬間がやってくるようにそうしたということか。 ハリーの頭脳はとりうる選択肢をつぎつぎに吐きだすが、どれも有用そうではない。 月あかりの視界のなかに、ポーチも服も、祭壇の横に積まれているのが見えはするが、取りにいくことはできない。 「それでいま殺すんですか?」  杖はまだ手にもっている。おそらく〈闇の王〉は不協和のせいでこの杖や眼鏡には呪文をかけることができないのだろう。 こちらから呪文で先制攻撃する? いや、相手はまた杖を下に振って防壁をつくって、それからこちらを撃てる——ほかになにができる? ほかには?

 

「あいかわらずの愚かさだ。 おまえとのあいだにやりのこしたことがあるのでなければ、とうにそうしている。」  ヴォルデモートがまた杖を振ると土の壁が崩れた。〈闇の王〉はそのまま流れるような動きで祭壇の横の道具の山のほうへむかう。さしだした手に、ロジャー・ベイコンの日記帳が飛びこむ。 「コレハ マチガイナク 女児ノ ほーくらっくすダ。ワタシノ 上等ナ 種類ノ。」  もう片手に羊皮紙があらわれる。 「モシ マタ 彼女ヲ 生キ返ス 必要ガアレバ、コノ 儀式ヲ ヤレ。 手順ニ 嘘ハ ナイ。罠モ ナイ。 女児ノ 魂ハ 幽霊ノ ヨウニ 自由ニ 飛ビマワレナイコトヲ 忘レルナ。〈ヨミガエリノ 石〉ハ ワタシノ ほーくらっくすデ、彼女ノ ソレ デハ ナイ。 彼女ノ ほーくらっくすハ 手元ニ オケ。紛失シテ 彼女ノ 魂ガ 閉ジコメラレル コトノ ナイヨウニ。」  ヴォルデモートは下に手をのばしてハリーのポーチをとり、日記帳と羊皮紙を食わせた。 「忘レルナ、コノアトノ 段階デ 手違イガ アッタトキノ タメニ。

 

「全然話が見えないんですが。」  そう言う以外にできることがない。 「説明してください。」

 

〈闇の王〉は暗い表情でハリーを見る。 「女児ガ 死ンダ トキ、ワタシハ 学校ノ 予見者ヲ 連レテイタ。オマエガ 巨大ナ 破壊ヲ モタラス 存在ニ ナルト イウ 予言ヲ 聞イタ。 想像ヲ 越エル、終末級ニ トドマラナイ 脅威ニ ナルト。 ダカラ ワタシハ 女児ノ 死ヲ 撤回シ、後ノ 死ヲ 防グタメ コレダケノ 手間ヲ カケタ。

 

「それは……」  そんな  「それはたしかですか。」  そんなことって。

 

詳細ヲ オマエニ 伝エルコトハ シナイ。 ワタシ自身ガ 聞イタ 予言ハ ワタシニ ソレヲ 成就サセタ。 ワタシハ ソノ 惨事ヲ 忘レテイナイ。」  ヴォルデモートはハリーから一段と距離をとってさがった。細い赤色の目は〈死ななかった男の子〉をとらえたまま、左手は銃をにぎったまま。 「コノ スベテ、ワタシガ シタ コトノ スベテハ、ヒトツモ 干渉ノ 機会ヲ 逃サズニ 運命ヲ 打チ返ス タメニ シタコト。 モシ ワタシガ コノサキ 別ノ 運命ニ ヨッテ 失敗サセラレルナラ、予言サレタ 破壊者デアル 愚カナ 子ヨ、カナラズ オマエガ 自殺シテ 女児ヲ 救エ。 サモナクバ、オマエガ 大切ニ シテイルト 主張スル モノ スベテヲ オマエ自身ガ 殺ス コトニ ナル。

 

「そ……」  ハリーの声が一オクターヴ高くなる。 「そんな……」  もう一オクターヴ。 「ぼくがそんなことをするわけがない!」

 

黙レ、愚カ者。 ワタシノ 許シヲ 得ルマデ シャベルナ。 杖ヲ オロシテ、下ニ 向ケタママ、ワタシガ 命ジルマデ 上ゲルナ。 サモナクバ、即座ニ 殺ス。 ワタシガ コレヲ 〈蛇語〉デ 言ッタ コトニ 注意セヨ。」  ヴォルデモートはまた祭壇のなかに手をいれた。

 

一瞬、ハリーは自分が見ているものを認識できなかったが、一歩遅れて、ヴォルデモートが持っているのが、肩あたりで切断された人間の腕であることが分かった。あまりに細く見える腕だった。

 

〈闇の王〉がその腕の上腕部の肉に杖を押しあてると、指がぴくりと生きているかのように動いた。仄暗(ほのぐら)い月の光でできる影より黒い印がひじのすぐ上の肌にあらわれるのが見えた。

 

数秒後、ポンという『アパレイト』の音とともに一人目のフード服の人間があらわれた。 すぐに同じ音がもう一つ、二つ聞こえた。

 

その全員がフードと銀色の骸骨の仮面をしていて、その下のローブには月の光がとどいていない。

 

「閣下!」と黒ローブの一人、三番目に到着した人が言う。 銀色の骸骨のなかから聞こえるその声には独特の特徴がある。 「閣下——ついにこの日が——もうこの日はこないのではと——」

 

「静まれ!」と〈闇の王〉ヴォルデモートの高い声がひびく。 その長身の人間にクィレル先生のおもかげはすこしものこっていない。 「〈死ななかった男の子〉に杖をむけ、監視せよ! なにがあろうと注意をおこたるな! 動いたり声をだしたりすれば即座に撃て!」

 

またポンという音が何度かして、 墓石のあいだや木の影など、暗い場所に黒ローブが『アパレイト』してくる。その全員がフードと仮面をつけている。 歓喜の声をあげている者もいるが、その多くは無理にそうしているように聞こえる。 主人に挨拶しようと前にでる者もいる。 ヴォルデモートは全員にほぼ同じ指示をくりかえしたが、人により、ポッターが動けば『クルシオ』しろという命令であったり、拘束しろという命令であったり、呪文を撃てという命令だったり、魔法を打ち消せという命令であったりした。

 

三十七番目をかぞえたところで、音が鳴るのも、黒ローブと骸骨の仮面をまとった人影がやってくるのも終わったようだった。

 

その全員が杖をかまえてハリーにむけ、それぞれおたがいの攻撃の邪魔にならないよう、半円状にならんでいる。

 

ハリーは、杖を持ちあげようとすれば殺されると言われたばかりに、杖を下にむけたままでいる。 話そうとすれば殺すと言われたばかりに、声をださない。 はだかのまま、夜の冷気に震えまいとしているが、寒さは強まる。

 

ハリーのなかの最後の希望の声が、これはさすがにかなり厳しい状況になってきたかもね——と言った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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113章「学年末試験」

ふくらんだ月が雲のない空に高くのぼり、暗闇を背景に星と雄大な〈天の川〉の流れがくっきりと見えている。光に照らしだされた三十七の骸骨の仮面と黒ローブ。いっそう黒い服のヴォルデモート卿とその赤く光る目。

 

「よく来た、〈死食い人〉たちよ。」とヴォルデモート卿が高くまがまがしい声で語る。 「いいや、こちらを見るなと言っただろう、愚か者! ポッターから目を離すな! 十年。前回の会合から数えて十年ぶりだ。 しかしおまえたちはまるでそれが昨日のことであったかのように、こうやって……」  〈闇の王〉ヴォルデモートはフードすがたの一人に近づき、その仮面をトンと指でたたいた。 「この〈転成術〉で急造した〈死食い人〉の装備のできそこないに、その子どもじみた魔法で加工した声はどういうことだ。説明せよ、〈ミスター・オナー〉。」

 

「かつての仮面とローブは……」とその死食い人が話しはじめる。 仮面を通じて声が変化しているが、それでも恐怖の感情が聞きとれる。 「仮面とローブは……閣下がお隠れになって以来、着用しなくなって久しく……そのため、魔法を維持することもやめてしまい……そこにこの、仮面ありで参集せよとのご命令で……も……もちろんわたしは閣下を信じておりましたが、それが今日この日であるとは思いもかけず…… ご不快の段、まことに申し訳ございません……」

 

「もうよい。」  〈闇の王〉はそこを通りすぎ、うしろにいるもう一人のそばに行く。その一人は震えたようではあるものの、仮面は〈死ななかった男の子〉にむけたままで、杖もおろしていない。 「怠慢にもほどがある。それも、別の手段でわたしの意思を体現すべく働いてくれていたならともかく……〈ミスター・カウンセル〉。 こうやって帰ってきてみれば——なんだ、このありさまは? わたしの名代として全土を支配しているかと思えば。」  高い声が一段と高くなる。 「いいや、おまえたちはただ、ウィゼンガモートで凡庸な政治にあけくれていたにすぎない! 兄弟姉妹をアズカバンに置き去りにしたままで! 失望した……まったく失望したと言うほかない……。 わたしが失踪し、〈闇の紋章〉が効力をうしなったのを見て、おまえたちはわたしの目的を追求するのをやめた。 ちがうか、〈ミスター・カウンセル〉。」

 

「いいえ! いずれお戻りになると確信しておりました——ただ……ただ、閣下なしでは、われわれはダンブルドアに太刀打ちすることもできず——」

 

「『クルシオ』」

 

悲惨な声が仮面を突きぬけて夜を貫通し、長く止まらなかった。

 

「起きろ。」と地面に倒れたその一人にむけて〈闇の王〉が言う。 「杖の狙いをハリー・ポッターから外すな。 そして()()()()()()()()()()()()。」

 

「はい、閣下。」とその一人が立ちあがろうとしながら泣き声で言った。

 

ヴォルデモートはまた黒ローブの人たちの背後を行き来する。 「くわえて、おまえたちはきっと、なんのためにハリー・ポッターがここに、と思っているだろう。 なぜこの少年がわたしの再誕パーティに招かれているのかと。」

 

「そういうことでしたか!」とローブすがたの一人が言う。 「われわれの目のまえで彼を殺すことで、二人のどちらが強者であるかを疑いの余地なく証明するためでしょう! あなたさまの〈死の呪い〉は〈死ななかった男の子〉と言われるこの少年をも殺すことができるのだと!」

 

沈黙。マントを着た人たちはだれも声をだそうとしない。

 

えりの高いシャツと黒いローブを着た〈闇の王〉ヴォルデモートがゆっくりと向きをかえ、直前に声を発した〈死食い人〉に対面する。

 

「ほう……」とぞっとするほど冷たい声でヴォルデモートがささやく。 「わたしがそこまでの間抜け者だと思うか、〈ミスター・サロウ〉。 さしづめ、なにがわたしの死んだ理由とされているかを知って、わたしを挑発して、またおなじ目にあわせようと?」  ヴォルデモート卿は地面を離れ、空中にいる。 「もうわたしを支配者にする苦労はしたくないということだな? ()()()()。」

 

相手の〈死食い人〉のまわりに急に青色の煙ができた。 その男はくるりと回転して杖を〈闇の王〉にむけて振り、「アヴァダ・ケダヴラ!」と叫んだ。

 

ヴォルデモートは空中で軽く身をかたむけ、緑色の光線をよけた。

 

「アヴァダ・ケダヴラ!」とその〈死食い人〉がまた叫んだ。 杖をもっていないほうの手が別の動きをして、印がひとつ組まれるごとに、煙の防壁に別の色の層がかさなっていく。 「みんな、加勢してくれ! 全員でやれば——」

 

その〈死食い人〉は燃えて七つの肉の断片となって地面に落ちた。肉の焼けた断面が燃えて光っている。

 

「みなの者、ハリー・ポッターから目と杖を離すな。」  ヴォルデモートが低い声でまたくりかえす。 「マクネアはこのとおり救いようがなく愚かなことをした。おまえたちの〈紋章〉はわたしが支配している。この支配は()()()()()つづく。 あらためて言う。わたしは不死なのだ。」

 

「閣下。」と別の〈死食い人〉が言う。 「祭壇の上の娘——この娘が〈闇の饗宴〉に奉仕するのですか? 晴れやかな席に似つかわしくない素材ではないかと。 すこしお時間をいただければ、わたしめがもっと上物を調達いたしましょう——」

 

「いや、〈ミスター・フレンドリー〉。」  ヴォルデモートはやけに楽しげな調子で言う。 「祭壇の上においてあるその子は、ほかでもないハーマイオニー・グレンジャーなのだ——」

 

「は?」と黒ローブの別の一人が声をもらし、つづけて、「閣下、申し訳ありません、どうかお許し——」

 

「『クルシオ』」  そのあとの悲鳴は数秒で終わった。ヴォルデモートはほとんど形式的にそうしただけのようだった。 その後、ヴォルデモートは暗く楽しげな声でまた話す。 「わたしは〈暗黒〉無比の魔術により、わたしの目的のために、この泥血(マッドブラッド)を復活させた。 おまえたちにはこの少女にどんな小さな手だしをすることも禁じる。 おまえたちが原因でわたしのこの小実験に支障が出たとなれば、死よりおぞましい報いがあると思え。 これは状況の如何を問わない、絶対の命令だ——たとえば、仮にこの少女が逃亡しようとも。」  ほかのだれも理解しなかった冗談に笑うような、冷たく甲高い笑い声。

 

「閣下……」と黒ローブの一人がとぎれとぎれに、骸骨の仮面で変調した声で言う。 「閣下、どうか——口答えをするつもりはないのです、このとおりわたしはあなたさまのしもべです—— しかし閣下、わたしが後日、よりよく御奉仕できるよう、どうか一度、帰らせていただけませんか—— わたしは取るものも取りあえず参上したしだいで—— これだけの数の仲間が一斉にいなくなれば、疑われ、感づかれます。 いずれわたしが用意できるアリバイも底をつきます。」

 

冷たく甲高い笑い声。 「ああ、さすが〈ミスター・ホワイト〉、おまえはだれよりも不真面目な部下だったな。 おまえへの罰を死なない程度にとどめるかどうかはこれから決める。 わたしはおまえを以前ほど必要としていない。 いまから二日のうちに〈死食い人〉は表舞台に出る。 わたしは以前より強くなっている。ついさっきダンブルドアを処分したところでもある。」  〈死食い人〉たちから唖然として息をのむ音が聞こえたが、ヴォルデモートは意に介さない。 「明日にはボーンズとクラウチとムーディとスクリムジョールを殺す。それまでにやつらが逃げだしていなければ。 おまえたちは〈魔法省〉とウィゼンガモートの乗りこみ、わたしの指示するとおりに〈服従の呪い〉をつかう。 潜伏のときは終わった。 明日の日暮れどきまでにわたしはブリテンを統治する王を名のる!」

 

仮面たちがそろって息をすうが、一人だけ笑っている人がいる。

 

「〈ミスター・グリム〉。これのどこがおかしい?」

 

「失礼しました。」  笑った一人はそう言いながら、ハリーの方向に杖をまっすぐ向けている。 「閣下がダンブルドアを始末されたと聞いて、うれしくなったもので。 わたしは閣下のお帰りがもうないものと思い、やつを恐れて国外に逃亡しておりました。」

 

ヴォルデモートが呵々と笑う声が墓地に響く。 「その率直さに免じて今回は見のがしてやる。 おまえが今夜ここに来るとは意外だった。 わたしはおまえの能力をみくびっていたようだ。 しかし、楽しい話題に移るまえに、対処しておかねばならないものごとがある。 〈ミスター・グリム〉、もし〈死ななかった男の子〉がおまえになにかを誓ったなら、おまえがそのことばを信頼する可能性はあるか?」

 

「閣下……それはどういう……」と〈ミスター・グリム〉が言った。 もう二、三人の〈死食い人〉が一度仮面をヴォルデモートに向けたが、すぐにハリーの監視にもどった。

 

「答えるのだ。 〈ミスター・グリム〉、これは罠ではない。ありのままに答えろ。さもなくばそれなりの報いがあると覚悟しろ。 おまえはこの少年の両親とつきあいがあったはずだ。 その二人は誠実な人間だと思えたか? この少年が自分の自由意思で、おまえが〈死食い人〉であることも承知のうえで、おまえになにかを誓ったとしたら、おまえはそのことばを信じるか? 答えろ!」  ヴォルデモートはひどく高い声でそう言った。

 

「それは……はい、閣下、一応その可能性はありますが……」

 

「よし。 信頼の可能性があってはじめてそれを犠牲にささげることができる。 この〈不破の誓い〉の結び手となるのは……だれに魔法力をささげてもらおうか。 これはかなり長い〈誓い〉になる……通常よりはるかに長く……多くの魔法力が必要となる……」  ヴォルデモートはまたいやらしい笑みをした。 「〈ミスター・ホワイト〉としよう。」

 

「どうか、それだけは! 閣下、御慈悲を! わたしはだれよりもよく働き——誠心誠意でおつかえしたではありませんか——」

 

「『クルシオ』」とヴォルデモートが言うと、〈ミスター・ホワイト〉は仮面で変調させた声でまる一分と言っていいくらい長く叫びつづけた。 「気がむけば命は助ける。それだけでもありがたいと思え! 〈ミスター・グリム〉と〈ミスター・ホワイト〉、少年に近づけ。 うしろからだ、愚か者! 味方の杖の邪魔だ! ほかの者は、ハリー・ポッターが逃げようとしたらかならず撃て。味方に当たるからといって躊躇するな。」

 

〈ミスター・グリム〉はすみやかに位置につくが、〈ミスター・ホワイト〉はゆっくりと近づいていく。黒ローブが震えているように見える。

 

「それで、どんな〈誓い〉でしょうか。」と〈ミスター・グリム〉の声がした。

 

「うむ。」  ヴォルデモートはそう言って〈死食い人〉の半円のうしろを行き来する。 「これから——おまえたちにもそう簡単には信じないだろうが——これからわれわれは、世のためになることをする。 そう、ここにいるこの少年は大きな脅威なのだ。予言によれば、この少年はあまりの愚かさのために、このわたしの想像を絶するほどの破壊を起こすという。 〈死ななかった男の子〉! ディメンターを怖がらせる少年! 自分たちが世界を動かしていると思いこむ家畜どもは、そんなものを目にした時点で、もっと憂慮しているべきだった。 あの役立たずどもが!」

 

「失礼ながら——」と、黒ローブの一人がおずおずと言う。 「閣下——もしそれが事実であれば——その、ただあっさり殺してしまえばいいのでは?」

 

ヴォルデモートは奇妙に苦にがしい笑いかたをした。 また話しはじめるときには、はっきりとした発声に変わる。 「〈ミスター・グリム〉、〈ミスター・ホワイト〉、ハリー・ポッター、わたしはいまからこの誓約の目的を言う。よく聞け。そしてなぜこの〈誓い〉がなされねばならないかを理解せよ。目的にも拘束力はあり、おまえたち三人はその意味について共通の理解をもっていなければならない。 ハリー・ポッター、おまえは世界を壊滅させないという目的のもと、世界の壊滅につながりかねないいかなるリスクもとらないと誓え。 この〈誓い〉はおまえにどんな種類の積極的な行動をとることを強制するものであってはならない。そのため、この〈誓い〉はおまえがいかなる愚行に手を貸すことも強要しない。 これが理解できるか? 〈ミスター・グリム〉、〈ミスター・ホワイト〉。 われわれはとある破壊的な予言を相手にしている。 ()()! 予言とはひどく遠回りをして成就するもの。 この〈誓い〉が問題の予言を成就させることのないよう細心の注意をはらわねばならない。 ハリー・ポッターが自分の手で災厄の引き金を引いたあとになって、その災厄をとめようとすることが別の低級な危機を招きかねないからといって傍観することを〈誓い〉がハリー・ポッターに強制するようなことがあってはならない。 確実に起きる低級な破壊と巨大な破壊の可能性とのあいだで、彼が後者をとるように〈誓い〉が強要することもあってはならない。 ハリー・ポッターがどこまで()()であろうと……」  ヴォルデモートの声が大きくなる。 「どこまで()()()()()であろうと、どんな()()()()()()()()とを持っていようと——災厄につながるような選択をさせるわけにはいかない! 地球の運命を危険にさらさせるわけにはいかない! 世界の破滅につながりかねない研究をすることも、どんな封印を解除することも、どんな門をひらくことも許してはならない!」  ヴォルデモートの声が弱まる。 「ただしこの〈誓い〉そのものがなんらかの理由で世界を壊滅させることにつながる場合はそのかぎりではない。ハリー・ポッター、おまえはその場合、その範囲内においてのみ、〈誓い〉を無視しなければならない。 おまえはそのような決断を単独でなしてはならない。その場合、おまえはそのことを親友に正直にうちあけ、親友がおまえの判断に賛成することを確認しなければならない。 これが〈誓い〉の内容と目的だ。 これはハリー・ポッターが自分が破壊の道具であると予言されていることを知った状態で、自分の意思で選択しうる行動をのみ強要する。 選択する可能性があってはじめて、それを犠牲にささげることができる。 理解できたか? 〈ミスター・ホワイト〉。」

 

「は——はい、そう思いますが——ああ、閣下、どうか、どうかもうすこし〈誓い〉を短くしていただくわけには——」

 

「だまれ、愚か者。これはおまえの人生でもっとも有用な仕事なのだぞ。 〈ミスター・グリム〉はいいな?」

 

「もう一度内容をくりかえしていただけないかと。」

 

ヴォルデモートはまたにこやかすぎる笑みをして、おなじことを別の表現で一から言いなおした。

 

「さて……ハリー・ポッター。おまえはこれから杖を低くかまえ、〈ミスター・グリム〉の杖がおまえの杖に触れるのを待て。それからわたしが指示するとおりの文言を言え。 ほかの者は、ハリー・ポッターがすこしでも指示外のことを言えば、容赦なく撃て。」

 

「はい。」と三十四人ぶんの声がした。

 

ハリーは寒けに震える。それは夜に裸で外にいるからだけではない。 ヴォルデモートはなぜ単純にこちらを()()()()のか。 未来にむかう道は一つしかなく、それはヴォルデモートが選んだ道であるらしい。ハリーには、そのさきにどんなできごとがあるのかが見えない。

 

「〈ミスター・ホワイト〉。 おまえの杖をハリー・ポッターの手にあてて、こう復唱しろ。 『わたしのなかを流れる魔法力よ、この〈誓い〉を拘束せよ』。」

 

〈ミスター・ホワイト〉は復唱した。 仮面で変調した声にもかかわらず、悲嘆がこもっているように聞こえた。

 

ヴォルデモートの背後で方尖柱(オベリスク)たちがハリーの知らない言語で三度おなじ文言を歌って、また沈黙した。

 

「〈ミスター・グリム〉。 仮にこの少年が自由意志で誓約しているのだとしたら、自分がどんな理由でそれを信用する気になるかを考えろ。 信頼する可能性を考えて、それを犠牲にし、同時に……」

 

「わたしがおまえに託す信と引きかえに、おまえはその言を守れ。」と〈ミスター・グリム〉が復唱した。

 

そのつぎはハリー・ポッターがヴォルデモート卿を復唱する番なので、ハリーはそうした。

 

「わたしは……みずからのいかなる行為によっても……世界を壊滅させないことを……誓う…… 世界を壊滅させかねない……いかなる試みもしない…… ほかの選択肢がなければ……大きな破壊より小さな破壊にいたる道を……えらぶことも許される…… ただしこの〈誓い〉そのものが……世界の終わりにつながるように見えれば……そしてわたしがこころから信頼する友人が……そのことに同意するのであれば、そのかぎりではない。 わたしの自由な意思と引きかえに……」  儀式がはじまり、光るエネルギーの糸がハリーの杖と〈ミスター・グリム〉の杖をたどり、二本の杖の接点にとどき、おそろしく抽象的な水準でハリーの()()にまでとどく。 自分が自由な選択をする能力を()()するのが感じられる。つぎに言うことばによってそれを()()にするのだろうということ、あともどりするならこれが最後の機会だということが分かる。

 

「……『そのようにあれ』。」と冷たく明瞭なヴォルデモート卿の声が言った。

 

「……そのようにあれ。」  そのことばを発した瞬間に、〈誓い〉の内容が自分の意思で左右できるものではなくなったことが分かる。自分の肉体と精神はそのようにしか動かないということが分かる。 それは自分の命を犠牲にして破ろうとしても破れない誓いであり、 水が上から下に流れるのとおなじように、あるいは計算機が数字を加算するのとおなじように、そう行動するのがハリー・ポッターだということになった。

 

「〈ミスター・ホワイト〉、吸いとられる感覚はあったか?」

 

〈ミスター・ホワイト〉はすすり泣くように言う。 「はい、閣下……わたしは十分に多くをなくしました。これ以上の罰はお許しください。」

 

「位置にもどれ……。 よし。 全員、ポッターから目を離すな。逃げようとしたり、杖を持ちあげたり、一言でもしゃべろうとしたりすれば、即座に撃てる体勢をとれ……。」  黒衣の〈闇の王〉は空中に高くあがり、上から墓地を見おろす。 左手にはまた銃が、右手には杖がある。 「それでいい。 ではわれわれはこれから、〈死ななかった男の子〉を殺す。」

 

〈ミスター・ホワイト〉がよろめく。 〈ミスター・グリム〉はまた笑っている。ほかの面々も笑っている。

 

「これは笑えることではない。 相手は()()なのだ、愚か者ども。 われわれは運命の糸を慎重に一本ずつ引きぬいていく。どこで最初の抵抗があるかもしれない。 ここからの手順はこうだ。 第一にハリー・ポッターを失神させる。つぎに手足を切断し、断面を焼灼する。 〈ミスター・フレンドリー〉と〈ミスター・オナー〉がハリー・ポッターに異常な魔法の痕跡がないか調べる。 一人はわたしのマグル式武器でこの少年を何度も撃つ。 つぎにできる者全員で〈死の呪い〉を撃って当てる。 そこまですんでから、〈ミスター・グリム〉が魔法的でない墓石で彼の頭蓋骨と脳を潰す。 わたしが死体を検査してから、〈悪霊の火〉で燃やす。 その後、幽霊がのこる場合にそなえて、この一帯を除霊する。 〈時間〉の閉路を防ぐためにわたしがしかけておいた結界にも穴がないとは言い切れない。そのため、その後もう六時間がすぎるまでわたしみずからこの場所を監視する。 そのあいだおまえたちのうち四人がこの周囲を探索し、注目にあたいする兆候がないか調べる。 そののちにも、ハリー・ポッターが再度出現する兆候がないか、注意をおろそかにしてはならない。ダンブルドアがなにか予想外のしかけを残していた場合にそなえて。 ハリー・ポッターの脅威を終わらせることに関して、わたしが考えそこねているしかけを思いついた者は、ただちに言え。その者にはたっぷりと褒美をやる……。さあ、言え、マーリンの名にかけて!」

 

全員が絶句し、墓地は静まりかえった。

 

「役立たずどもめ。 では、これからわたしはハリー・ポッターに最後の質問をする。回答はわたしの耳にだけ、〈ヘビ語〉で答えさせる。 ヘビの声でないものを口走るのが聞こえたら、一言でも人間言語でしゃべるそぶりがあったら、その瞬間に撃て。 ……ワタシガ 知ラヌ チカラ。オマエハ ソレヲ 持ツト 言ウ。 まぐる 技術ナラ スデニ オマエカラ 知リ、学ンデイル。 命食イニ 対スル オマエノ チカラハ 独力デ 理解セネバ ナラナイ モノダト、オマエハ 言ウ。 他ニ、オマエガ 持ツ チカラデ ワタシガ 持チ 得ル チカラガ アレバ、タダチニ 言エ。 サモナクバ、オマエガ 気ニカケル 人間ノウチ イクラカヲ 苦シメル。 スデニ 救ウト 約束シタ 人間モ アルガ、約束シナカッタ 人間モ アル。 オマエノ 軍ノ 泥血ノ 従僕タチ。 オマエノ 大切ナ 父母。 ソノ 全員ニ 永遠ノヨウニ 感ジラレル 苦シミヲ 与エテカラ、命食イノ 牢獄ニ 入レ、ソノ 苦シミヲ 死ヌマデ ズット 思イ出サセル。 オマエガ ヒトツノ チカラノ 習得 方法ヲ 教エル タビ、アルイハ ワタシノ 関心アル 他ノ 秘密ヲ ヒトツ 教エル タビ、オマエハ ワタシノ 統治下デ 厚遇サレル 人間ヲ 一人 多ク 選ブコトガ デキル。」  ヴォルデモートの笑顔が、牙をむきだしにしたヘビのように見える。同時にそれがヘビにとって『この牙を見た者はみなこの牙の餌食になる』ということを約束するしぐさであると分かる。 「ソノ 人間タチヲ 助ケタケレバ、逃亡ヲ 考エテ 時間ヲ 無駄ニ スルナ。 六十秒 待ツ。ソレマデニ ワタシノ 関心アルコトヲ 話シハジメロ。ソノ後 オマエノ 死ガ ハジマル。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




主人公は絶体絶命で、相手はもう主人公を殺す気満々ですが、ほとんど持ち物を奪われた状態で、どうやってこの場を生きて切り抜けることができるか考えてみてください……という読者への挑戦状(試験)が2015年3月にこの章とともに投稿されました。

条件(抄訳):
・ハリーが最低でも直近の死を回避すること
・解は(どこからか舞いこむ救いの手ではなく)ハリー自身の行動に起因すること
・ハリーが突然新しい能力に目ざめたりはしない
・ヴォルデモートは悪であり、説得して改心させることはできない
・時間逆行できたとして、逆行することだけで死を回避したことにはならない(逆行する手段は手元にないことにも注意)
・ヘビ語で嘘を言うことはできない
・あと60秒でできること

作者が用意したものを言い当てられれば正解ですが、それにこだわらずに納得のいく回答を考えてみるのも一興ではないかと思います。ただしここの感想欄は展開予想が禁止されているようなので、それに相当するものを投稿するのはツイッターなどがよいと思います。

次回は2週間(±1日)後の予定


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114章「とっとと不可能を可能にしろ」

ふくらんだ月が雲のない空に高くのぼり、暗黒のなかに星と〈天の川〉の流れがくっきりと見えている。この墓地をはるか遠い距離から見おろす彼らが、さしづめ目撃者である。

 

全員を救うすべがもうなくなっているということを自覚した瞬間に、ハリーのなかの複数の声は消え、一つの声、一つの目的が、精神をすみずみまで専有した。

 

五十秒。

 

四十秒。

 

ハリーの目がゆっくりと空中をなめるように動き、一人目の、一番手近な〈死食い人〉のところで止まる。

 

三十秒?

 

二十秒?

 

時間切レガ 近イ——」とヴォルデモートが言った。

 

アナタガ 知リタイデアロウ 秘密ハ イクツカ 知ッテイル。」と言いながらハリーは〈闇の王〉の目を見ていない。 「アナタニ モットモ 価値アル 知識ハ、オソラク、世界ヲ 壊滅サセル 方法ニ ツイテノ ボクノ 考エ。 シカシ ソノ 考エヲ ボクガ アナタニ 話スコトガ 世界ノ 壊滅ニ ツナガル カモシレナイ。 ボクハ 予言ヲ 知ラナイ。ダガ 予言ガ アルナラ、ドンナ 行動ニセヨ ボクガ 行動スルコトハ、ソノヨウナ 効果ノ 生ジル 可能性ヲ 高メルヨウニ 思ワレル。 ソレトモ、アナタニ 話スコトガ 世界ノ 壊滅ヲ 防グコトニ ツナガルカ。アナタハ タシカニ 本気デ ソレヲ 回避 シタイ ラシイ カラ。 ボクハ 単独デ ソノヨウナ 決断ヲ スルコトヲ 許サレナイ。 友人タル 女児ヲ 目ザメサセテ 相談スル 必要ガ アル。誓イガ ソウ 要求スル。

 

長い沈黙があり、〈闇の王〉は杖を水平に持つ〈死食い人〉たちの背後の空中を飛び、笑いはじめた。サラザール・スリザリンが考えそうなヘビの笑い声、冷たい興味を表す音だった。 「スルト オマエハ 世界ヲ 壊滅サセル 方法ヲ 知ッテイルノカ?

 

意識シテ ソノ方法ヲ 想像シヨウト スルコトガ デキナイ。 アナタガ 従僕ニ 命ジテ ボクノ 思考ヲ 盗マセル カモシレナイ。 誓イガ ソレヲ 禁ジル。 タダシ、方法ヲ 考案スルコトハ デキルト 思ウ。モシ 女児ガ 試セト 言エバ。

 

ハリーの視線がもう一人の〈死食い人〉からまた別の〈死食い人〉へとただよう。

 

またヘビ式の笑い。 「ウマイナ。ソノ 策ヲ ヨク 思イツイタ。シカシ (イナ)

 

不快ダロウケレドモ、世界ト アナタノ 永遠ノ 命ガ カカッテイルナラ、スコシノ 危険モ——

 

ソノヨウナ 複雑度ヲ 導入シ、オマエノ 終ワリヲ 先延バシ スルホウガ 危険。 ワタシ自身ガ まぐる 科学ヲ 学ビ、オマエガ 想像シソウナ コトヲ 考エル。 ワタシニ 言エル 秘密ヲ 言エ。サモナクバ コノ話ハ 終ワル。

 

ハリーの視線は墓地を慎重に周回する。空中の〈闇の王〉には、周辺視野の黒いものとしてしか注意をはらわない。 同時に話もするが、そちらには注意力全体の半分しかつかわない。 「アナタガ 考エタコトノ ナサソウナ 考エガ アル。 アナタガ ボクヲ 殺ス 試ミハ、ソレダケノ 準備ガアッテ ナオ、トアル ヤリカタデ 失敗シ得エル。ソシテ、ボクヲ 世界ヲ 壊滅サセル 方向ニ 導キ得ル。 通常ナラ アリエナイ 可能性ト 見ナセル。シカシ 予言ガ 関ワルナラ、アッテモオカシクナイ。

 

ヴォルデモートが空中で静止した。「ドンナ ヤリカタデ?

 

コチラカラ 伝エル 義務ハ ナイ。

 

ヘビ的な返事に冷たい怒りが散らつきはじめる。 「オマエガ 必死デ カシコイ フリヲ シヨウト スルコトハ 理解スル。シカシ ワタシハ 不快ヲ 覚エツツ アル。 ワタシハ オマエヲ 殺スコトヲ 先送リシナイ。先送リコソ 危険ガ 大キイ。 オマエガ 考エヲ 伝エナケレバ 世界ハ 壊滅ノ 危険ニ 晒サレル。 言エ!

 

断ル。ボクヲ 縛ル 誓イハ イカナル 行動ヲ スルコトモ 強制シナイ。

 

〈闇の王〉は上からハリー・ポッターを見おろし、ハリー・ポッターは怒る相手の顔を一度見あげてからすぐに、また別の〈死食い人〉に視線を移した。 何人かの〈死食い人〉は微妙に姿勢を変えたりしているが、動きはなく、無言のまま杖の高さを保っている。 銀色の骸骨の仮面から表情は読みとれない。

 

そして〈闇の王〉がまた笑いはじめた。 「死ンデモ 生キラレル 可能性ヲ 考エテイルカ? イイヤ、ワタシノ ほーくらっくすハ オマエニハ 接続シテイナイ。 シテイレバ ワタシガ 気ヅイテイル。 ソレトモ、ワタシガ オマエヲ 念入リニ 殺シテモ オマエガ 生キラレル 可能性ガ アルト 考エル 理由ガ ホカニ?

 

ハリーは集中をみだされないようにしている。 何度失敗してもかまわない。失敗は行動の連鎖を次に進めるだけ——しかし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()——

 

早ク 秘密ヲ 言エ。サモナクバ——

 

モシ ボクガ イマ シタコトガ 成功ナラ、命食イハ 永遠ニ アナタヲ 追イ、アナタヲ 憎ミ、アナタガ ドコニイテモ 見ツケル。 命食イガ アナタヲ 狙ウヨウニ ボクガ 動カシタ! 〈守護ノ 魔法〉ノ 秘密ヲ アナタガ 解明スルマデニハ 長イ 時間ガ カカル。永遠ニ デキナイ カモシレナイ! 命食イニ 対スル 最良ノ 防衛ハ ボクト トモニ 死ヌコト!

 

少シ 哀レニ ナッテキタ……。」  〈闇の王〉の声がそこで一度とぎれた。 「アア、ナルホド。 命食イハ 期待ニ 反応スルノカ。 命食イガ ワタシヲ 狩ルト オマエガ 言エバ、ワタシハ 狩ラレルコトヲ 期待シ、命食イハ ワタシヲ 狩ル。 ソノ 仕組ミハ 珍シイガ、例ガ ナクモ ナイ。 価値アル 秘密ト 言エル。 利用法ハ 多イ。」  残酷な笑み。 「救イタイ 人間ヲ 一人 選ブコトヲ 許ス。

 

ボク自身。

 

尊厳ヲ モッテ 死ネト 言イタイ トコロダガ、言ッテモ オマエハ 聞キ入レナイ。自分ノ コトハ ヨク 分カル。 オマエハ ワタシヲ 不愉快ニ シテ、 ワタシノ 寛大ナ 贈リ物ヲ 無駄ニ シタ。贈リ物ハ 取リ下ゲル。 他ニ 秘密ハ?

 

アル。トテモ 興味深イ 秘密ガ イクツカ。 ナカニハ アナタガ 独力デ 解キ明カス 可能性ハ 低ク、長イ 時間ヲ カケテ ヤット デキルカ ドウカノ モノモ アル。 世界ノ 危機ヲ 招カナイ モノヲ スベテ 言エバ、アナタハ ボクノ 友人ト 家族ノ ダレモ 苦シメナイカ? ソモソモ コノ 話ハ、アナタガ ボクニ 皆ヲ 救ウ 方法ヲ 残サナカッタ タメニ ハジマッタ。

 

〈闇の王〉は長く空中に直立したまま動かない。

 

ハリーの目はまた墓地をゆっくりと見わたしていく。そのあいだにも手はしっかりと杖に当てられている。

 

ハリーは、みなを救う手だてが残されていないと気づいた時点で——

 

どんな呪文の詠唱をすることもできない状態だが、〈転成術〉は無詠唱だ。

 

杖の先端に接しているものは空気しかなく、空気は〈転成〉できない。 しかしヴォルデモートは部分〈転成術〉のことを知らない。ハリーは杖そのもののほんの小さな一部分を〈転成〉の材料とすることができる。

 

オマエハ 時間カセギヲ シテイル。」と〈闇の王〉が言う。 「死ヲ 遅ラセタイガタメ? ソレトモ 他ニ 目的ガ?

 

ハリーは返事をしない。〈闇の王〉が会話を打ち切りたがっていても会話が続くような次の一言を考えようとして、もうひとつの仕事の速度が落ちる——

 

目的ヲ 言エ。サモナクバ、話ハ ココマデ トスル。オマエノ 友人タチハ 一生 苦シム!

 

まぐる式 武器ヲ 下ロシ、杖ヲ ボク以外ノ 方向ニ ムケロ。」  ハリーはできるかぎりの冷たい怒りをこめたヘビの声で言う。 「従僕ニ 一切 命令スルナ。 タシカニ ボクニハ アナタガ 知ラナイ 能力ヲ 持ツ。 ホボ 一瞬ノ ウチニ 巨大ナ 爆発ヲ 発生サセ、詠唱ヲ 必要トシナイ 種類ノ 能力ヲ 使ウコトガ デキル。 ソノ 新シイ 肉体ト、従僕 全員ト、〈石〉トヲ アトカタモナク 壊滅サセル コトガ デキル。

 

現在のハリーの練度なら、意思と魔法力をそそいだその瞬間に一立方ミリメートルのものを〈転成〉することができる。

 

一立方ミリメートルの反物質。

 

そこに世界の終わりをもたらすほどの破壊力はない。

 

ヴォルデモートはぴくりとも動かない。 「オマエハ ナゼカ ハッタリヲ 言エテイル。

 

ハッタリ デハナイ。 コレハ 蛇語デ 話シテイル。ボクハ ホボ 一瞬デ、アナタガ ドンナ 呪文ヲ 言ウヨリ 速ク、ソレガ デキルト 思ウ。 アナタハ マダ 科学ヲ ゴク ワズカシカ 知ラナイ。 ボクガ アヤツル ソノ チカラハ、星々ノ 動力 ヨリ 強イ。

 

誓イガ 止メテ クレル。 オマエハ 世界ヲ 壊滅サセカネナイ コトガ デキナイ。 ソノ危険ヲ 招キカネナイ 巧妙ナ 発想ヲ 実行デキナイ!

 

世界ヲ 壊滅サセル 危険ハ ナイ。 ボクハ 爆発ノ 規模ヲ 推定シタ。到底 ソノ 規模デハナイ。

 

分カルモノカ、愚カ者! 確信ハ デキマイ!」  ヴォルデモートの声が高くなっている。

 

十分 タシカニ 分カッテイル。誓イニハ 止メラレナイ。

 

ヴォルデモートの表情に見える怒りが強まっている。ただし、声からは一抹の恐怖が感じられる。 「オマエガ 大切ニスル 人タチニ 想像ヲ 絶スル 苦痛ヲ 与エテ ヤル——

 

黙レ。 ボクハ げーむノ 理論ニ 従ッテ ソノ手ノ オドシヲ 一切 無視スルコトニシタ。 アナタガ オドシヲ スル 理由ハ、ボクノ 反応ヲ 期待シテイルカラ。」  そのことも、ハリーは土壇場になってようやく真に理解した。 「ソノ 新シイ 肉体ヲ 維持シ、〈石〉ヲ 持チツヅケ、部下タチノ 命ヲ 救イタケレバ、ボクガ 求メル ナニカヲ 提供シロ。

 

ハリーの口は自動操縦で動いている。そして真の注意は別の場所に向いている。

 

月あかりのもと、銀のかけらが極細の線となってきらめく……

 

ハリーの杖先の小さな、一立方ミリメートルの起点から、〈転成術〉製の細いクモの糸がのびる。 負荷がかかればすぐに切れる糸で、途中できらりとするところにだれかが気づいたとしても、注意をひくことはない。 太さは〇.一ミリメートルもない、細長いクモの糸状のそれをハリーはすばやく〈転成〉することができる。一立方ミリメートルで、十センチメートルの長さ。 一立方ミリメートルの〈転成〉には一秒もかからない。 ハリーは〈転成〉の進行方向を外にむけ、術を維持するのにさしつかえない範囲の最大の速度でそれを空中にのばしていく。

 

〈死食い人〉一人のくびのまわりをフードごしにクモの糸が一周して輪をつくっては、もとの縫い目にもどる。

 

ヴォルデモートの顔は無表情になっている。 「オマエガ 生キテ ココヲ 離レテハナラナイ。 善人ト 呼バレル マトモナ 人間タチモ、同意スル。ワタシハ 蛇語デ ソウ 言ッテイル。 シカシ オマエガ 善人ラシク 今 死ヌコトニ 同意スレバ、ワタシハ オマエノ 友人タチヲ ワタシノ 統治下デ 厚遇スル。

 

最後の一人の〈死食い人〉に輪がかかり、全体が編みあがる。 〈死食い人〉一人一人のくびのまわりに糸が輪をつくり、その両端が中央の円につながっている。 さらに中央の円を横断する三本の線がある。 この構造全体が、ハリーの杖にいたる線に接している。

 

そのつぎの数秒間で、月光を反射していたほとんど目に見えない糸たちが黒く変わった。

 

鉄線より細く強く鋭利な繊維。個々のチューブがどれもひとつの分子でできている、炭素(カーボン)ナノチューブの編組線。

 

ハリーが〈ヘビ語〉で話す。 「アナタノ 統治下デ 他国ヲ 厚遇スルコトモ 約束スルコト。コノ条件モ 譲ラナイ。

 

ヴォルデモートは空中に静止して、ヘビ顔に怒りをにじませている。

 

黒い紋様(パターン)のなかから、すでにナノチューブに変わった最後の二本の糸がのびる。 糸は肝心のヴォルデモートにむけて、空中を渡っていく。目ざすは銃をもつヴォルデモートの左手の手くびと、イチイの杖をもつ右手の手くび。糸は最初高めの位置にとまり、ゆっくりと時間をかけて空中を降下していく。 それぞれが結び目をつくり、そのなかをくぐって、引き解け結びになる。 手くびに近づいたところで、糸は締まりはじめる。同時にハリーは糸たちを〈転成〉して短くする——

 

ハリーはヴォルデモートの魔法力の先っぽが自分の魔法力に触れるのをこころのかたすみで感じた。同時に〈闇の王〉の目が見ひらかれ、口があいた。

 

ハリーは黒い紋様の中央を横断する三本の黒い糸を四分の一の長さに〈転成〉した。円は収縮し、つながっているすべてを中心に引き寄せ、結び目を締める。

 

(黒いローブ姿の人影が揃って倒れる)

 

ハリーはそちらを見ておらず、仮面の人たちが倒れるのも流血も見ていないが、こころのかたすみで、ハーマイオニーが死んだときに起きたのと同じような魔法力の噴出があったのを感じ、感じたのを無視した。ハリーの目は〈闇の王〉の両手から杖と銃が落ちていくのだけを見ていた。そしてハリーの杖が上を向き、狙いをさだめ——

 

「『ステューポファイ』!」

 

〈失神の呪文〉とおなじ赤色の稲妻がヴォルデモートをめがけて、目が追いつかないほどの速度で墓地の上を走った。

 

空中の〈闇の王〉は両手の負傷にもひるまず、まっすぐに下に飛んだ。

 

フリトウィック先生秘伝〈曲行失神弾〉の赤い稲妻は途中で進路を変え、ヴォルデモートを直撃した。

 

ひたいの傷あとの痛みが熱く燃えあがり、ハリーは声をあげた。赤い煙に視界をおおわれ、痛みと極度の疲労で、ハリーは不覚にも杖を落とした。

 

杖が手を離れると同時に、痛みが引いていく——

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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115章「とっとと不可能を可能にしろ(その2)」

ハリーの精神は解離性遁走(フューグ)のような状態になっていたが、その支配力はある部分ではすでに薄れ、別の部分では残っている。 精神のいろいろな部品が麻痺している。おそらく麻痺させなければ大変なことになると予測できる程度に機転がきいた部分がそうしてくれたのだろうか。 たったいま自分がしたことは——

 

その考えは遮断され、かわりに別のものごとに意識がむかう。

 

ハリーは墓石がぐちゃぐちゃにならんだ墓地のまんなかに立っている。

 

月あかりと星あかりに照らされ、黒色のローブが地面に投げ出され、ローブのまわりに周囲の土とは異なる質感の液体で濡れているのが見える。月の光のおかげで、それが赤みをおびているのがわかる。 いくつかの頭部はローブのフードから抜け落ち、暗色や明色の長い髪や短い髪が月あかりのもとにあらわになっている。 銀色の仮面はどれも外れていない。そのため、髪の毛の根もとが骸骨であるように見えている。実際にはそこには人間の顔が——

 

その考えは遮断され、かわりに別のものごとに意識がむかう。

 

赤色のえりのついたホグウォーツの制服を着た女の子が祭壇の上で眠っている。 祭壇の近くにはハリーの持ちものが積まれている。

 

地面には、ひょろ長い男性の青白く非人間的な顔があり、その両手の手首の断面から血が吹きだしている。

 

〈闇の王〉ヴォルデモートは目ざめればすぐにおまえの愛するものすべてを破壊する。 それを止められるダンブルドアはもういない。

 

相手はいつでも肉体を放棄できる。だから投獄するという選択肢はない。

 

百以上のホークラックスを破壊しないかぎり、彼を恒久的に殺すことはできない。しかもそのうちの一つはパイオニア号の金属板だ。

 

材料は杖一本。今回はそれを標的に向けることも発語することも可能。

 

制限時間は五分間。

 

これを解け。

 

ハリーはよろめきながら祭壇に向かって歩き、その横にひざをついて、ポーチを拾う。

 

そしてヴォルデモートが倒れている場所に行く。

 

そこに近づくとまた、ヴォルデモートが意識をうしなって以来薄れていた不穏な感覚がすさまじく強くなり、それがさらに傷あとの痛みに燃えうつる。

 

ハリーは内心の悲鳴を無視する。 ハリーの脳に焼きつけられたトム・リドルの記憶の最後のかけら、トム・リドルが爆発するまえに赤子に転送された認知パターンの残滓であったそれの正体は、暴走する共鳴現象にむすびついた恐怖と狼狽の感覚だった。 その不穏な感覚の意味はもう分かっていて、分かったことで以前より楽に無視することができるようになっている。 共鳴の効果はおおむね使い手の力量に比例した強さで使い手にふりかかる、という勘は当たっていたのだ。

 

ハリーはヴォルデモートの身体を一度ながめ、深く口で呼吸する——というのも鼻でやると、考えまいとしている銅くさいあのにおいがいってくるからだ。

 

ハリーはヴォルデモートのそばにひざをつき、ポーチから医療キットをとりだした。そして自動巻き止血帯をヴォルデモートの左手の手くびに巻き、右手にもそうした。

 

ヴォルデモートに対してそんな心配をするのは()()()()()気がする。 ハリーの一部は心の奥底で、ついさっき何人かの人たちがものすごく不幸な目にあったということを認識している。 一瞬だけ余計なためらいがあったせいでヴォルデモートはそれと同じ目にあわなかった。同じ目にあわせることこそが、釣り合いのとれた、正当な結果だったと言える。 いまハリーがしていることは、ちょうどバットマンがジョーカーの犠牲者をさしおいてジョーカーのことを心配している場合のように感じられる。 背景で無実の者が死んでいく横で、はたしてこの〈大悪人〉を殺してしまっていいのかという問題を長ながと論じている漫画のように感じられる。 悪人の子分より親玉の身を案じ、位の低い手下の生き死によりも首謀者の生き死にに()()()()()()()()()ことは人間の欠陥だ。

 

ヴォルデモートの手くびの止血帯が締まり終え、そのとなりでハリーが立ちあがるとき、自分が人道に外れたことをしているように感じたのも無理はない。

 

たしかに冷静に戦略的に考えれば、ヴォルデモートの肉体を()()()()()()()()()()()()のだ。 ヴォルデモートが自分のために作った魂はここにある脳につなぎとめておかなければならない。自由に浮遊させてならない。そうも言うことはできるのだが。

 

ハリーは一歩、二歩としりぞき、意識をうしなったヴォルデモートから離れ、口で深呼吸をする。 自分の持ちものが積まれているところへ行き、ローブなどを身につけ、〈逆転時計〉をまた首に巻き、必要とあれば自分自身がここを脱出して戻ってこれるようにした……。

 

百をこえる数のホークラックス。

 

それは狂気以外のなにものでもなく、死についてのヴォルデモートの思考が壊れていた証拠だ。 マグルのセキュリティの専門家であれば、支柱によるセキュリティとでも呼びそうなしろものだ。たとえば砂漠のまんなかに百メートル以上の高さの支柱を一本だけ立てたとして、よほどつきあいのいい攻撃者でもなければ、だれもその支柱に登ろうとなどしない。 まともな人ならただ支柱をよけて歩くだけだし、どんなにその支柱が高かろうが同じことだ。

 

これは見かけ上不可能とされていることを忘れさえすれば、むずかしくすらなくなる問題だ。少なくとも一つ前の問題にくらべれば。

 

たとえばネヴィルの両親は『クルシオ』で狂わされ、回復できなくなっている。 二百個の上級ホークラックスをつかっても、その状態を防ぐことはできず、おなじ壊れた精神を反響させることにしかならない。

 

もし〈拷問(クルシオ)の呪い〉をつかう以外にヴォルデモートを止める手だてがないのなら、そうすることは倫理的に正当化できるだろう。 それは罪に見あうだけの正当な裁きであり、ジョーカーの命はジョーカーのもっとも悪質な手下より重んじられないという証拠にもなる……。

 

そのためには、いまここで、ただ〈守護霊(パトローナス)の魔法〉をつかって、メッセージを送りさえすればいい。そうやって……たとえばアラスター・ムーディ……に、ここに来てくれと言えばいいか。 いや、おそらくそうはいかない。〈守護霊の魔法〉は()()()()意図では作動しないような気がする。 だったら、ムーディに知らせることを決心してから、ヴォルデモートの結界の外まで行ってすぐに〈逆転時計〉をつかえばいいかもしれない。

 

そうやってヴォルデモートを『クルシオ』することで回復不能な狂気におとしいれること。

 

それがもっとも非道な方法かと言えば、そうでもない。 ヴォルデモートの杖がヴォルデモートの生命と魔法力に接続していて、彼の幽霊が離れようとしても離れられないのだとしたら、その杖もろともアズカバンの奈落に落とすという方法が一番非道だろう。

 

ヴォルデモートが倒れている場所に向いて立ち、そちらに歩いていく。それまでどおりに呼吸を落ちつかせ、のどが熱くなるのを無視しながら。 ハリーはこころのなかのどこかで、肉体はちがってもヴォルデモートがクィレル先生()()()()ことを認識している。 人格の切り替えは完璧だったし、だからこそクィレル先生も仮面のひとつにすぎなかったのだと分かっていても……。

 

ただ、ヴォルデモートはこちらを痛めつけて殺すつもりではなかったようだ。 ヴォルデモートはこちらが思うような返答をしないときも、部下に命じて〈拷問(クルシオ)〉させようとはしてこなかった。 そんなヴォルデモートらしからぬふるまいには、なにか意味がある。 トム・リドル同士の仲間意識のようなものが多少はのこっていたということだろうか。

 

……そういうことを考慮するのはまちがっている。

 

と思う。

 

また頭上の星ぼしを見る。 星は大気中でまたたき、夜空を映した円蓋にはめこまれているかのように見えている。細長く操りのべられた光るリボンのような〈天の川〉の川幅いっぱいの星たちは、ホウキに乗って手をのばせば届くほど近くにあるように見える。

 

三代先の子孫たちは、この局面でぼくになにをしていてほしいと思うだろうか。

 

答えは決まりきっているように感じられる。まだクィレル先生のことを気にかけているハリーの一部分が出しゃばっているせいで、そう感じられるのでないとすれば。

 

自分はやらねばならないことをした。それで実際、より大きな悪が生じるのを食い止めることができた。〈死食い人〉たちに先制攻撃されてしまっては、ヴォルデモートを止めることはできなかったのだから。 しかし、その犠牲はもうひとつの知性体にひとつ余計な悲劇を起こすことでうめあわせることができる種類のものではない。その知性体というのがヴォルデモートであったとしても。 子孫たちにとってはそれもまた、古代の地球にあった苦しみのひとかけでしかない。

 

過ぎたことではある。 自分はやらねばらないことをしたのだし、必要以上の悪はなしていない。 均衡や対称性のためという名目であっても。

 

三代先の子孫はヴォルデモートが死ぬことを望まない……ヴォルデモートの手下がそう望んだとしても。 ヴォルデモートを苦しませることも望まない……苦しませないことで生じる利益はないのだとしても。

 

ハリーは深く息をすって、()()()を振り切って捨てていく。ハリーは最後まで自分の創造者を憎むことができなかったので——捨てられるのはきっと憎しみではない。そのかわり、 自分は当然ヴォルデモートを憎んでいる()()()()()という感覚、ヴォルデモートが意味もなく犯した、自分自身を幸福にするためですらなかった無数の罪を憎むべきであるという感覚を捨てていく……。

 

それでいい、憎まなくてもいい、彼を憎まないことは悪いことではない——と頭上の星ぼしがささやく。

 

けっきょく、自分にとっての選択肢はひとつしかない。そう分かっているなら、悩む意味はない。 それが最良の選択肢であるかどうかは歴史が決める。

 

ハリーは深く息をすって、自分のなかの魔法力を高めていく。 この呪文を()()にかける必要はない。とはいえ、これはハリーが習得した呪文のうちでもっとも強力な呪文ではある。

 

やはりヴォルデモートは手下とともに死ぬべきであり、そうならないことは許しがたいと思う。そんな残酷なことを思うときに血が冷たくなる感覚が、またごくわずかに戻ってくる。 ハリーはその感覚を捨て、星の光に洗い流させた。この暗黒面(ダークサイド)は別の人間に由来する認知パターンでしかなく、もうひとつの断ち切るべき悪い思考の習慣でしかないと考えて。

 

祭壇の上のハーマイオニーに目を移し、呼吸がつづいているのを見てハリーはようやく涙を流した。 ハーマイオニーはこれからどんな人生を送るのだろうか。これだけのことが起きたあとで、いったいどんな道を進むのだろうか。それは分からないが、 彼女自身が生きて()()()()ことができ、ハリーとともに生きても自分でありつづけられるのはたしかである。 そのときになるまで気づかなかったが、この望みがかなったことであれだけ大きな驚きを感じたということは、それだけかないそうもない望みであったということだ。 ときには、期待を上回るほどよい現実もあるらしい。

 

ハリーはその思いをつかまえて、積み上げた魔法力のかたまりに加える。

 

自分のなかに積み上げた魔法力が震え、全身が杖の一部になったように感じられる。目がにじんでいるのか、ヒイラギの杖のまわりで白い光が実際振動しているのか。 そしてハリーはこれからかける呪文のかたちを思い浮かべた。細かい制御はできないが、必要なパターンは単純だ。必要なのはただ——

 

すべての記憶を……トム・リドルの、クィレル先生の記憶を、これまでの人生のすべての出来事(エピソード)記憶を忘れさせる、落胆した記憶も、苦い記憶も、失敗の記憶も、ヴォルデモートの記憶も忘れさせる——

 

その呪文をかけようとする直前の瞬間に、ハリーはひとつだけ情けをかけることを思いついた——

 

真に幸せだった記憶がひとつでもあるなら……ひとを傷つけたり、ひとの苦痛を笑うのではなく、ひとを助けたり、助けられたりしたときのあたたかい気持ちの記憶があるなら……どうせ多くはないだろうけれども、大人になるまえに、そういった真に幸せだった記憶があるなら、それだけは残してもいい——

 

その判断は正しいと感じられ、ハリーのなかに明るいものが広がっていった。

 

オブリヴィエイト!

 

ハリーはその呪文で全精力をつかいはたした。

 

ハリーは横に倒れ、杖を手から落とし、しぼりだすように悲鳴をあげた。両手は傷あとに向かうが、頭にずどんとくる痛みは手がとどくより早く引いていった。 暗い視界を通じて、あたり一面に光る雪のようなものが浮いているのが見えた。〈守護霊(パトローナス)の魔法〉が細かな銀色の破片になって空中をただよっているようだった。

 

銀色の光はごく短く光ってから消えた。

 

クィレル先生は消えた。

 

かけらのみを残して。

 

そしてその魂の残存部分とハリーの魂とのあいだに大きな差はなくなった。

 

〈予言〉は完成した。

 

二人はたがいに相手を自分の似姿に作りなおした。

 

ハリーはそこで、土の上でまるまったまま、泣き声を漏らした。

 

そしてしばらく泣いた。

 

しかしやがて、よろよろと立ちあがって、また杖を手にした。まだ一仕事、すべきことがあるから。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはヴォルデモートの手首の断面に杖を直接あてた。傷あとがどくりと動き、痛みがつづくが、どちらも手に負えないほどではなかった。

 

それからハリーは〈転成術〉をかけはじめた。

 

ゆっくりと——しかし前回ハーマイオニーの肉体を〈転成〉したときよりは速く——意識不明のヘビ人間の肉体が変形していく。 〈転成〉が進行するにつれ……とくに頭部がガラス質に変わって縮退していくにつれ、ハリーの傷あとの痛みが薄れていく。

 

今後ハリーは目ざめていても眠っていてもこの呪文を維持していることになる。そしていつか、大人になってもっと実力をつけ、なんらかの補助を得て、記憶喪失の状態にあるこのトム・リドルを〈転成〉解除し、〈石〉の能力で治癒するつもりでいる。 無論、将来のハリーがその時点までに、このような悪い思考の癖と非常に好ましからざる感情パターン——いわば暗黒面(ダークサイド)——を残し、強力な魔術についての宣言的知識と手続き的知識を十分たくわえていながらも、ほぼ完全に記憶喪失の状態にある種類の魔法使いに対処するすべを知っていることが前提である。 ハリーはその知識を『オブリヴィエイト』しないように努力した。それが必要になるかもしれないときに備えて。

 

ところで、結界を作動させるかどうかという観点では〈転成〉されたユニコーンが死んだことにあたらないのと同様、ホークラックスにとって〈転成〉されたヴォルデモートは死んだことにあたらず、ホークラックスはヴォルデモートを復活させようとしていない。

 

少なくとも、ハリーはそこに賭けている。

 

鋼鉄の指輪が小指にはまり、小さな緑玉(エメラルド)の石が肌に触れたとき、ハリーの傷あとがもう一度だけ(うず)いた。 やがて傷あとは沈静化し、痛みが戻ることはなかった。

 

ハリーは隆起した岩に倒れこみ、それを椅子がわりにして座り、精神の端ばしからあふれそうになる疲労感をのみこんで、休息らしきものをとった。 まだ終わりじゃない。まだすべきことがある。——

 

ハリーはまた口で深く息をすい、「ルーモス」と言ってから墓地を見わたした。

 

いくつもの黒ローブ、切断された骸骨の仮面、そのまわりに流れてたまった血——

 

祭壇の上で眠るハーマイオニー・グレンジャー。

 

ヴォルデモートが最期を迎えた場所にある、抜けがらのローブと血まみれの両手。

 

ローブをずたずたにされ、〈死の呪い〉に撃たれて崩れ落ちたクィリナス・クィレル。

 

ハリーはだれかがこの光景を見て理解しようとする様子を想像するが、うまくいかない。理解できそうなものには到底思えない。

 

自分の肉体はともかく精神が動きたがらないのを無理に押して、岩から重い腰をあげる。 今日たいして流血やけがをさせられたわけではないのに、なぜか肉体的なストレスは十分に受けているように感じられる。

 

ヴォルデモートの倒れた場所へよろよろと向かい、地面に落ちたヴォルデモートの左手をひろう。

 

左手を見るだけでも、うっすらとヘビの鱗らしきものがあるのが分かる。これはとてもヴォルデモートらしいので、都合がいい。

 

つぎにハーマイオニーが眠る祭壇に行き、ひろった手をハーマイオニーの首にあて、手の指を慎重にのどにからみつかせる。 眠っているハーマイオニーが平穏で清純に見え、ヴォルデモートの切断された手が醜悪に見えるので、これはとてもやりにくい。 どの部分の自分だかがそのように考えているが、ここでそのように考える意味はないので、ハリーはとりあわないことにした。

 

ナノファイバーによって作られたほとんど完全になめらかな断面に、弱めの〈切断の魔法〉で粗をつける。この点はとても重要だ。 この手首の断面が、〈死食い人〉人たちの首の断面に似ているとまずいことになる。 『ディフィンド』を何度かすることで、ヴォルデモートの手首の破片がハーマイオニーのシャツの上にちらばった。ハリー自身、自分に言い聞かせる必要があったが、これも計画の一部である。

 

右手についておなじ作業を、左手と対称な位置でおこなう。

 

地面に落ちたヴォルデモートのローブを『インフラマーレ』で焦がし、焦げた布きれをハーマイオニーの周囲に設置する。

 

ヴォルデモートの銃と杖はハリーのポーチに収納する。 〈永続性の石〉はポーチにどう作用するかが心配なので、ただのポケットにいれておく。

 

やはり祭壇ちかくの、クィレルのローブのなかから取り出された道具の山のなかに、〈防衛術〉教授がクィレルを演じていたときにつかっていた杖があった。 ハリーはクィレルの死体のそばに行き、できるかぎり外見をととのえてやってから、杖を手ににぎらせた。 予想どおり自分の目にたまった涙をハリーは自分の袖でぬぐいとった。

 

ハリーはまた口で深く息をすって、また「ルーモス」を唱え、もう一度墓地全体を見わたした。

 

いくつもの黒いローブ、切断された骸骨の仮面、祭壇に寝かされたハーマイオニー・グレンジャー、そののどにからみつくヴォルデモートの切断された両手、そのまわりに散らばる焦げたヴォルデモートの服の切れはし。 ずたずたに引き裂かれた服を着て、右手に杖をもって死んでいるクィリナス・クィレル。

 

これくらいでいいだろう。

 

あとはどうやって注意を引くかだ。

 

ハリーの魔法力はもうほとんど底をつきかけていたが、 葉を一枚〈転成〉して三メートル大のしぼんだ気球に変えるのには足りた。

 

ポーチから酸素アセチレンのボトル一本とダイナマイト一本とフューズ線の一巻きをとりだす。 『そなえよつねに』……ボーイスカウトの行進歌にもあるように、人生には山トロルをはじめとしてなにが潜んでいてもおかしくないと思え……。

 

ハリーは気球を酸素アセチレンでふくらませた。 これを破裂させれば瞬間的に強い過圧力が生じる。ソニックブームのような大音響が出てくれるかもしれない。

 

その気球にダイナマイトをくっつける——ここまでしなくても破裂させることはできるが、とにかく十分ではある。

 

そのダイナマイトに六十秒ぶんのフューズ線をくっつける。しかし着火するのはまだ。

 

ハリーは生けにえの祭壇の横の山のなかから取りだしてあった〈不可視のマント〉を着た。

 

ポーチのなかからホウキを出し、それにまたがった。

 

そしてハーマイオニー・グレンジャーの周囲に〈音消しの魔法〉をかけた——轟音の大半はこれではとめられないし、彼女の鼓膜が破裂したとしてそれで後遺症がのこるわけでもないのだが、そうしておくのが気づかいだろうと思って。

 

それで限界がきた。この〈音消しの魔法〉を最後に、あと一時間は魔法力をつかいはたした状態がつづく。

 

ハリーはホウキにまたがり、酸素アセチレンでふくらんだ気球を連れて、徐々に上昇する。 木々の高さを越えると、遠く数キロメートル先に、月あかりを受けて光るホグウォーツ城が見えてきた。 ハリーはこの場所をホグウォーツ城から見たときの角度と距離とをできるだけ正確に推測した。

 

森の上に出ると、ハリーはライターでフューズに着火した。フューズ線のさきにはダイナマイトがあり、それが酸素アセチレンの気球につながっている。 それからホウキをひるがえして、その場を脱出した——といっても城へ行こうとすれば、過去のハリーとクィレル先生が来る道に近くなりすぎかねないので、そちらには行かない。クィレル先生にもう一人のハリーを感知されてはまずい——

 

ハリーは重い悲しみが突き刺さるのを感じたが、それを無視した。

 

三十一、三十二、三十三……

 

四十秒をかぞえたところで、自分の鼓膜を危険にさらさないために、ハリーは腕時計をちらりと見て正確な時刻を記憶し、〈逆転時計〉を一度まわした。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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116章「余波——守るべきもの(その0)」

最初のうち、アンナはこのクィディッチ杯決勝戦がここまで長びいていることに満足していた——グリフィンドールが優勝したのははるか昔のことで、グリフィンドール生の自分はこの寮杯競争に関して蚊帳の外である。 高額なチケットを買って家族で観戦した去年のワールドカップが()()()()()で終わってしまったのとは大ちがいだ。あれではやっていられない。 現代のクィディッチの試合ではスニッチがつかまるのが早すぎて、試合がすぐ終わってしまう。 この問題は愛好者のあいだでよく議論されているのだが、ホウキを強化する魔法が高度化するいっぽうで、スニッチの速度の規定は変わっていない。その結果、クィディッチの試合はどんどん短くなっている。 プロの世界のクィディッチは、どれだけ高価な最先端の競技用ホウキをシーカーに持たせられるかの勝負になってしまっていて、シーカー以外の選手には観客席で観戦していてもらっても差しつかえないほどだ。

 

だれもがなんとかしなければと思ってはいる。状況は()()()()悪化しつづけていて、もはや()()()()()()段階にきている。 国際魔法族連盟のクィディッチ委員会の議論は、連盟のほかの部局の例に漏れず喧喧囂囂(けんけんごうごう)で、ドイツ人委員とブルガリア人委員の対立がはげしく、ルールを()()()()どう修正するかとなると、なぜかだれも合意できないらしい。 アンナの見るところ、答えは簡単で、試合時間が十九世紀初頭のクィディッチの〈黄金時代〉とおなじ四時間か五時間程度におさまるまでスニッチの速度を上げればいい。 しかしベルギー人はベルギーが圧倒的に強かった〈良き時代(ベル・エポック)〉に合わせてプロの試合は二時間にすべきだと言い、イタリア人は一週間かけて試合をしていた十四世紀にもどせばいいと気の触れたことを言い、それに輪をかけて狂っているブリテンの純血主義者はたまの一日がかりの試合をつかまえては、『古い時代のものはなんでもよくできているのだから、ホウキの性能も向上しているはずがない』と言ってやまないが、もちろんそれは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

そろそろホグウォーツは話の通じないぐずたちと関わるのをやめて、一刻も早くルールを変えてしまうべきだ、という点で、アンナはハリー・ポッターに全面的に賛同する。 しかし()()()()()()()()という手法はよくない。スニッチは()()()()()()()()()()()()()()()からの伝統なのだから。 クィディッチ志望の自寮の一生徒がどのポジションにも向いていなかったがためにハッフルパフ総長がそれを導入したのだかという由来はどうでもいい。 試合がいつ終わるか分からないほうがもりあがるから、スニッチは国際的に認知されたのだ。

 

アンナは三十分まえからこの論点を全力をこめてまくしたてていて、試合にはろくに注意を払っていなかった。 運よく自分の席は〈死ななかった男の子〉とその看板のそばで、最初から立ち場を明確にすることができていた。

 

アンナは心の奥底で、クィディッチのルールが実際いま、ここで変わったとしたら、それが自分の人生で最大の実績になるのだということを理解している。 自分が〈時間〉の圧に巻かれていく()()があるようでさえあった。まるでクィディッチなるものの運命が今日この日に決定されようとしていて、自分がその中心にいるかのように……。といっても、自分の〈占術〉の成績ではそんな感覚を持ちあわせているはずがないのだが。

 

〈死ななかった男の子〉がある時点で席をたってトイレに行ったことにもほとんど気づかなかった。

 

しかし、〈死ななかった男の子〉がとぼとぼと戻ってくるところは目にとまった。 そのときのハリー・ポッターは疲れて多少ふらついているようだった。ただし制服は新品に着がえたかのようにぱりっとして見えた。

 

三十分ほどあとに、ハリー・ポッターが一度ふらりとしてからかがみこんだかと思うと、両手でひたいを覆うようにしたのが目についた。それから、ひたいの傷あとをつついているようだった。 そこまで考えてアンナは不安になった。ハリー・ポッターには()()()()()ということはだれでも知っている。そしてポッターのひたいの傷あとが痛んでいるなら、封印された怪物がそこから飛びだして、みんなを食べてしまったりするということもありうる。 しかし彼女はその考えを却下し、無知なほかの生徒たちにむかって大声でクィディッチの歴史を講釈することをつづけた。

 

ハリー・ポッターが立ちあがるところはしっかりと目にはいった。ポッターがやはりひたいに乗せていた両手を下げると、有名なあの稲妻形の傷あとが真っ赤に腫れていた。 傷あとは()()し、その血がポッターの鼻をつたっていた。

 

アンナは自分が言いかけたことを途中で言いやめた。 ほかの人たちもアンナとおなじ方向に目をやった。

 

「マクゴナガル先生?」とハリー・ポッターがおずおずとした声で言った。 その目の端に涙が見えたので、アンナは驚愕した。 〈死ななかった男の子〉は突然泣きだすような種類の人ではないだろうと思っていた。 ハリー・ポッターはまた声を大きくしたが、話すのに苦労しているかのようだった。 「あの、マクゴナガル先生?」

 

ハッフルパフのクィディッチ選手たちと議論していたマクゴナガル先生がふりかえる。グリフィンドール寮監でもあるその人は驚愕して目をまるくし、周囲の人をどけて、歩くというより走る速度で動きだした。 「ハリー! あなた、傷あとが!」

 

だんだんとまわりに静けさが広がる。

 

「多分……」  ハリーの声はまだ震えているが、大きくなっている。 「彼がもどってきたんだと思います。この映像はきっと——ヴォルデモートの精神を通して見えている——」

 

アンナは〈例の男〉の名前を聞いて、あとずさりし、別の観客に転んであたりそうになった。 となりで年上の男子がうめき、つぎにそれをうわまわる大きな声で〈死ななかった男の子〉が悲鳴をあげた。

 

ヴォルデモートがみんな殺している!」とハリー・ポッターが言った。

 

クィディッチ場にいる人の半数がそちらを見た。

 

「儀式をしている! 従僕の血! 血と命! 従僕を召集して、頭部を切断して、その血と命をつかって、自分の命を更新する儀式をして—— 闇の王は復活した、ヴォルデモートが戻ってきた!

 

マダム・フーチが短く笛をならすと、まだ停止していなかったクィディッチのホウキたちが空中で速度を落としはじめた。 アンナ自身はこれが冗談なのか判断しかねている。 冗談だとすれば、いくら〈死ななかった男の子〉でもこれは、あとあと大変なことになるどころではない。

 

マクゴナガル先生が杖を持ちあげて〈音消しの魔法〉の姿勢をとったが、ハリー・ポッターがその手を止めた。

 

「いや——」  ハリー・ポッターはあえぎながら、小さな声で、しかし彼女たち周囲の者にははっきりと聞こえる程度の声で言う。 「彼を止める方法がある——彼の精神が、彼の失敗が見えている——()()()()止められる—— 道はまだ通じている! 彼女が追いかけてきている! ヴォルデモートが殺した彼女が!」  ハリーの声が一段と大きくなるいっぽう、アンナ自身は急に理解できなくなって口をぽかんとさせる。 「帰ってこい! 帰って、生きかえって彼を、彼を止めてくれ! ハーマイオニー!

 

そしてハリー・ポッターは静かになり、 注目している周囲の人たちを見わたした。

 

ちょうどアンナが、これは()()()()()()()()悪趣味ないたずらだと判断していたころに、(そら)に短くドンという音が(とどろ)いた。

 

ハリー・ポッターがふらりと揺れ、ひざを地面につく横で、アンナは心臓がとまる思いをした。 周囲には突如として興奮した声の渦がうまれた。

 

マクゴナガル先生がハリー・ポッターのとなりにひざをついたころにも、アンナはまだハリー・ポッターの話を聞きとることができた。 「やった。」  ハリー・ポッターは息も絶え絶えに言う。 「うまくいった、彼は消えた。」

 

()()()()()()」と言ってマクゴナガル先生が周囲に目をやった。 「()()()() ()()()()()()()()()() ハリー、どういうことです?」

 

ハリー・ポッターは矢継ぎ早に、しかしはっきり聞こえる声で言う。 「ヴォルデモートが——生きかえるために——〈死食い人〉を召集して()()()()()()()()、血と命を奪って——なぜかそこにハーマイオニーの遺体がありました。多分ヴォルデモートはなにかにつかうつもりでいたんじゃないかと——ヴォルデモートが戻ってきて、自分を復活させて、ただ、そのあとをハーマイオニーが()()()()()、彼女がヴォルデモートを()()()。ヴォルデモートが消えて終わった。 場所はホグウォーツの近くの墓地で……」  ハリー・ポッターは立ちあがり、まだふらふらとしている様子で言う。 「この方向にあると思います。」  ハリー・ポッターはさきほど音が轟いた方角を指さした。 「距離はよくわかりません。 あの音がここにとどくまでの時間は二十秒だったから、ホウキで二分ほどの距離じゃないかと——」

 

マクゴナガル先生は無意識にしているかのようになめらかな動きで呪文の姿勢をとり、「エクスペクト・パトローナム」と言った。 そしてそこにあらわれた光るネコにむけて「アルバスのところへ行って、ただちにここに来るようにと——」

 

「ダンブルドアはもういない!」とハリー・ポッターがさけぶ。 「ダンブルドア総長はもういないんですよ、マクゴナガル先生! 総長のしかけた罠を〈闇の王〉が逆転させて、総長自身が〈時間〉の外部に閉じこめられてしまった。だからもういないんです!」

 

周囲の喧騒が恐怖を帯び、音高が上がる。

 

「アルバスのところへ!」とマクゴナガル先生が〈守護霊〉に命じた。

 

月光色のネコは悲しげにマクゴナガルを見るだけだった。アンナは急に恐怖を感じて、息をのみこんだ。だれかに腹をなぐられたときのような気持ちがした。 これは現実なんだ。冗談じゃないんだ。

 

「マクゴナガル先生、ハーマイオニーが()()()()()()()()!」  ハリー・ポッターがまた声を大きくする。 「〈亡者〉とかじゃなくちゃんと生きていて、まだその墓地にいます!」

 

「ホウキを!」と言ってマクゴナガル先生がクィディッチ場の上空で動かない選手たちのほうを向く。 「ホウキを一本もらえますか。すぐに!」

 

こんなときだというのに、アンナは無言で抗議するように手を上げかけて、下げた。レイヴンクローとスリザリンの両シーカーはすでに下にむかって加速していた(どうせなにもしていなかったシーカーが下りることは戦略的にも正しい)。

 

ハリー・ポッターはすでに自分のポーチから別のホウキをとりだしていた。二、三人は乗れるホウキだ。

 

マクゴナガル先生はそれを見て、きっぱりとうなづいて言う。 「ミスター・ポッターはここに残りなさい。よほどあなたが行かなければならない理由があるのでないかぎり。 わたしが行きます。」

 

「いけません!」とフリトウィック先生の高い声がして、小さなからだで群衆をかきわけて他人の股をくぐったりしながらやってくる。 目をまるくして、いっそ失神してしまいそうな顔色で言う。 「ミネルヴァ、きみはここに残らなければ! これからはきみが——」

 

マクゴナガル先生はくるりとフリトウィック先生のほうを向き、立ちどまった。顔から血の気が引いていくのが見えた。

 

そしてハリー・ポッターの手からホウキを奪い、それを小柄な半ゴブリン教師に差しだした。 「フィリウス。」  声を聞くかぎりでは一時のパニックはすでになくなっている。毎週月曜日の講義をするときと変わりのない歯ぎれのよいスコットランドなまりの声だ。 「ミスター・ポッターが言っていた墓地を捜索して、ミス・グレンジャーを見つけること。 見つかったら聖マンゴ病院に〈現出〉(アパレイト)して、そのまま付き添っていてください。」

 

「多分——」とハリー・ポッターが枯れた声で言う。 「戦闘中に〈転成術〉がつかわれたような気がします——クィレル先生がヴォルデモートとたたかおうとして——だから用心してください——」

 

フィリウス・フリトウィックはうなづきながら、立ちどまらずにホウキにまたがった。

 

「クィレル先生も死んでいる!」とハリー・ポッターが泣きさけぶ。 悲痛な気持ちがはっきりと伝わってくる。 「〈闇の王〉に殺された! クィレル先生の死体も——」  ハリー・ポッターは息をつまらせた。 「……その墓地にあります。」

 

またみぞおちをえぐられるように感じてアンナはよろめいた。 クィレル先生は——これまでに教わった先生のなかで特別に好きな先生で、スリザリンについての自分のあらゆる先入観を考えなおす切っかけになった存在で、もうすぐ死んでしまうのだろうということが予感がうっすらとありはしたものの、実際にこうして死んだと聞かされると……

 

〈死ななかった男の子〉が足腰が立たなくなったかのように、立つのをやめてベンチに座った。

 

マクゴナガル先生はクィディッチ場の観衆に向かい、自分ののどに杖をあてて言う。 「試合は終了各自寮へ戻りなさい——」

 

「やめないで!」とハリー・ポッターが叫んだ。

 

マクゴナガル先生がそちらを向いた。

 

涙が〈死ななかった男の子〉のほおをつたう。ハリー・ポッターは自分が割りこんだことにだれよりもおどろいているかのようだった。 「これはクィレル先生がのこした最後の謀略なので。」  ハリー・ポッターは声をつまらせながら、すでに低くおりてきているクィディッチ選手たちにむけて話しかけるように言う。 「最後の。」

 

ハリー・ポッターはマクゴナガル先生に浮遊させられて医務室に運ばれた。 ほかの教師たちはあれこれを監督するために散っていき、シニストラ先生とフーチ先生だけがこの場にのこった。 クィディッチ場ではさまざまな噂が飛びかった。 アンナはできるかぎり自分が聞いたことをすべてそのまま伝えようとした。 ダンブルドアになにかがあって、〈死食い人〉が何人か召集されて殺されて(それがだれだったかについてはハリー・ポッターはなにも言わなかった)、クィレル先生が〈闇の王〉と対決しに行ってそこで死んで、〈例の男〉が復活してまた死んで……とにかくクィレル先生はもう死んでいるのだと。

 

やがて大半の生徒は寮に戻っていったが、眠るにも眠れないのではないかとアンナは思う。

 

アンナはクィディッチ場にのこり、体が眠りをもとめるのと涙で目がくもるののもかまわず、試合のつづきを観戦した。

 

レイヴンクローも立派に戦った。

 

しかしこの日のスリザリンに勝てたチームはどこにもいないだろう。

 

空のきわが色づき、夜明けが近づいたころ、スリザリンの勝利が決まった。同時にスリザリンがクィディッチ杯と寮杯に優勝した。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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117章「守るべきもの——ミネルヴァ・マクゴナガル」

つぎの朝になり、全生徒が無言で大広間の四列のテーブルにあつまった。ハリー・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスもそのなかにいた。 ハリーは前夜、消耗しきって倒れ、翌朝医務室で起こされたが、まだすっきりとしていない。〈賢者の石〉は左足の靴下のなかにいれてあった。

 

〈主テーブル〉は疫病におそわれたあとのようなありさまだ。

 

ダンブルドアの玉座はなくなっていて、中央の位置にはかわりの席もおかれず、空白がある。

 

セヴルス・スネイプは空中に浮かんだ座面に腰をのせている。車椅子の魔法界版だ。

 

スプラウト先生はいない。 昨晩聞かされたところによると、植えつけられた衝動がほかにのこっていないかを法廷〈開心術師〉に検査されるらしいが、おそらく告発されることはないという話だった。 ハリーはマクゴナガル先生と〈闇ばらい〉たちに対し、スプラウト先生はおそらく被害者でしかなかったということを強調しておいた。 〈死ななかった男の子〉はヴォルデモートの精神のなかを見たがそこにスプラウトの故意を示唆するものはなかった、と証言した。

 

フリトウィック先生もいない。まだハーマイオニーを見守っているのだろう。

 

シニストラ先生もいないが、その理由と居場所をハリーは知らない。

 

ハリーの心の外をおおっている無感覚は、非常用ブランケットと似ていて快適でないにせよ保護の役目ははたしている。 黒いローブを着た人がつぎつぎと倒れて血が流れる様子が心に浮かんではすぐに押しもどされる。 それはあとで処理することになるが、まだそのときではない。 いまの自分と比べて未来の自分にはそれを乗りこえるにあたって比較優位性がある。

 

どこかに、痛みは()()()()()()()()()()、なんの代償をしはらうことにもならないのではないか、と恐れている自分がいる。 しかしその恐れも未来に先おくりしてかまわない。

 

テーブルには朝食が出てきていない。 ハリーのそばにいる生徒たちは声をだせずにただ待っている。 フクロウは昨晩からホグウォーツ城への出入りを禁じられている。

 

大広間の大扉がふたたび開かれ、ミネルヴァ・マクゴナガル副総長が入場する。 黒色の礼服ローブを着ていて、頭は無帽でいつもの魔女の帽子がない。 薄い灰茶色の髪は、あとで帽子を載せるためであるかのように、丸く巻き上げられている。それまでのあいだ、その頭部があらわになっているところをハリーははじめて見ている。

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは〈主テーブル〉のまえに置かれた演台の位置についた。

 

全員がそちらに視線を向ける。

 

「お知らせねばならないことが多くあります。」  ミネルヴァの声にはスコットランド的明瞭さの範囲内での悲哀がある。 「そのほとんどが不幸なお知らせです。 一点目。わたしがここでこうして話しているのはホグウォーツ総長であるアルバス……」  声が一度とぎれる。 「パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアが失われたためです。 アルバス・ダンブルドアは〈例の男〉によって〈時間〉の外部に閉じこめられ、こちらがわに取りもどすことができるのかどうかも分かりません。 われわれは史上もっとも偉大なホグウォーツ総長であったかもしれない人物を失いました。」

 

各テーブルで生徒たちが恐怖とともにごくりとするのでも声を漏らすのでもなく、ただスッと息をすう音があった。 そのほとんどはグリフィンドール、いくらかはハッフルパフとレイヴンクローのテーブルから。 すでに知られていた凶報ではあったが、それが権威によってあらためて伝えられたことになる。

 

「二点目。 〈例の男〉が一度復活し、また死にました。 その残骸としてのこったのはミス・グレンジャーの喉にからみついた両手だけでした。 彼からの脅威はもうなくなったものとわれわれは考えています。」  ミネルヴァ・マクゴナガルはまた息をついだ。 「三点目。 クィレル先生は杖を手に持ち、〈例の男〉と対決して死にました。 クィレル先生は〈例の男〉が二度目に滅んだ場所から遠くない位置で、〈例の男〉の〈死の呪い〉で殺されていました。」  また恐れていたことが裏づけされて息をすう音が、こんどは四テーブルすべてから聞こえた。

 

ミネルヴァはまた息をついだ。 「昨夜われわれはホグウォーツ史上もっとも偉大な〈防衛術〉教授をも失いました。 学校内での業績はもちろんのこと…… 〈防衛術〉教授であった彼はいくつもの名前を名のっていましたが、真の名はデイヴィッド・モンローでした。 彼は〈元老貴族〉モンロー家の最後の生きのこりであったため、彼の葬儀は——二度目の、真の葬儀は——ウィゼンガモートの〈元老の会堂〉で二日後におこなわれます。 ですがわれわれの、ホグウォーツ〈防衛術〉教授としてのクィレル先生のために、この城でも通夜の席をもうけます。 彼は〈元老貴族〉としてだけでなく、ホグウォーツ教師としてもだれよりも立派な最期をとげました。」

 

ハリーは無言でそれを聞き、またあふれてきていた涙を押しこめた。 もちろんそれは事実でなく、予想外でもないのだが、それでも耳にするとやはり苦しい。 となりの席のアンソニー・ゴルドスタインが自分の手をハリーの手にそっとかさね、ハリーはそれをこばまなかった。

 

「四点目。 これは非常に予想外な吉報です。 ハーマイオニー・グレンジャーはいま生きていて心身ともに全快しています。 なにが起きたにせよ、ほかに遅れてあらわれる効果があるかもしれないので聖マンゴ病院で経過観察中ですが、以前の彼女の状態を考えるならミス・グレンジャーはおどろくほど健康です。」

 

この吉報がこういった流れで紹介されず、もっと予想外であれば、レイヴンクローとグリフィンドールで大喝采を呼んだにちがいない。 実際には数人が笑顔を見せただけで、それも短かった。 仮にこれ以前に欣喜雀躍するひとときがあったのだとしても、この場ではなんの声もない。 無理もない。ハリー自身もいまは喝采する気がない。

 

「最後に——」  ミネルヴァ・マクゴナガルが言いよどみ、また話しだす。 「わが校の生徒何名かに対し、このうえなく重大なお知らせをしなければなりません。 〈例の男〉はかつての信奉者を召集し、何人もが、誤った忠誠心からか、それとも拒否すれば家族が危ういと考えてのことか、それに応じていたようです。 そして〈例の男〉の復活を完了させるために犠牲が必要だったか、それともかつての自分の敗北の責任をその信奉者らにとらせようとしてのことかは不明ですが、結果として三十七人分の死体が発見されました。これほどの数の〈例の男〉の信奉者がアズカバンの外にいることは想定されていませんでした。残念なことに——」  ミネルヴァ・マクゴナガルはまた言いよどむ。 「残念なことに、その死者のなかには、わが校の生徒の父母が何人もいました——」

 

そんな そんな そんな そんな そんな そんな

 

磁石のしわざであるかのように、ハリーの目が恐怖一色のドラコ・マルフォイの顔に引き寄せられ、同時に、ハリーの思考をやさしくつつんでいた綿が薄紙のようにちぎりとられる。

 

なぜ忘れていた、なぜ気づかなかった——

 

背景のどこかで、すでにだれかが悲鳴をあげているが、大広間はとても静かに見える。

 

「シーラ・カロウ、フローラ・カロウ、ヘスティア・カロウは昨夜両親をなくしました。 父親をなくした生徒はロバート・ジャグソン、イーサン・ジャグソン、サラ・ジャグソン、マイケル・マクネア、ライリー・ルックウッド、ランディ・ルックウッド、リリー・リュー、サーシャ・スポラッハ、ダニエル・ギブスン、ジェイソン・グロス、エルジー・アンブローズ——」

 

もしかするとルシウスはわかっていたんじゃないか、手をださないくらいの知恵はあったんじゃないか、ドラコを攻撃したのがヴォルデモートだとわかっていたんじゃないか——

 

「——セオドア・ノット、ヴィンセント・クラッブ、グレゴリー・ゴイル、ドラコ・マルフォイ。以上です。」

 

グリフィンドールの席の生徒が一人、一度だけ歓声をあげ、近くのグリフィンドールの女子生徒が即座に、マグル相手なら歯が折れるほどの強さで引っぱたいた。

 

「グリフィンドールから三十点減点、それと来学年の最初一カ月のあいだ居残り作業。」と石を砕くほど厳格なマクゴナガル先生の声。

 

()()()」とスリザリンのテーブルから立ちあがった長身のスリザリン生が言った。 「嘘だ! 嘘だ! 〈闇の王〉は復活する、復活しておまえたちに今度こそは徹底的に——

 

「ミスター・ジャグソン。」とセヴルス・スネイプの声があった。やはりなめらかでなく、まったくいつもの〈薬学〉教授らしくもなく、小さな声だったが、そのスリザリン生は黙った。 「ロバート。〈闇の王〉はきみの父親を殺したんだぞ。」

 

ロバート・ジャグソンは怒りの声を漏らしてから、駆け出して出口から去った。ドラコ・マルフォイは崩壊する家のように倒れこみ、だれにも聞こえない声でなにかを言った。聞こえない程度に、すでに周囲の喧騒がはじまっていた。

 

ハリーは椅子から六インチ腰を浮かして、そこでとまった。

 

ドラコになにを言えばいい なにも言えない 友だちのふりをしてそばにいくことなんかできない

 

どう説明できる どう言いわけできる いやなにを言っても説明にならない ドラコに ヴィンセントに グレゴリーに セオドアに ぼくはそれだけのことをしてしまった

 

ハリーの周囲の世界がにじみ、パドマ・パティルが席を立ってスリザリンのテーブルにいるドラコのほうへ、シェーマスがセオドアのほうへ向かうところがかろうじて見えている。

 

お父さんのサイエンスフィクションとファンタジーの蔵書を読んでいて、ほかの主人公たちにおなじ状況が発生するところを知っていたおかげで、ハリーの心のなかにはマッドアイ・ムーディのイメージ、アラスターという名の傷顔の男の似姿があった。 そしてそのマッドアイの似姿は、記憶のなかでアルバス・ダンブルドアに話していたマッドアイとおなじ声で、〈死食い人〉たちがこちらに杖を向けていたこと、彼らがすでに〈闇の紋章〉をつけるという選択をしていたこと、ハリーをふくめてだれにも考えられないほどの罪を彼らがおかしていたこと、彼らが善人として受けることができる義務論的保護を捨て、それなりに強い理由があれば犠牲にされうる立ち場に身をおいていたことを指摘している。 そうしなければ、罪のないハリーの両親を拷問とアズカバンから救い、世界をヴォルモートから守れなかったのだから、と言っている。 特別でない〈闇ばらい〉や裁判官でさえ、もっと判断しにくい案件を、自分に杖をつきつけていて身も心も〈死食い人〉である相手を殺すどころではない倫理的に灰色なやりかたで処理して、社会のために職務を遂行している、とも。 もしハリーがしたことが正しくないなら、もしハリーがしたことより()()()倫理的に微妙なことをするのが正しくないなら、人類が知るような意味での社会は存在しえない。 良識のある人ならだれもハリーがしたことを責めはしない。ネヴィルも、マクゴナガル先生も、ダンブルドアも責めはしない。ハーマイオニーでさえ、事情を知ったあかつきには、それは正しいことだったと言うだろう。

 

そのどれも事実ではある。

 

それを言うなら、純血主義者の政治家や政治屋を一掃しておけばブリテン魔法界を再建するときの障害が少なくなる、とハリーの精神の一部が計算していたのも事実である。 重きをおいた点ではなかったものの、あの数瞬の計算のなかにそういう部分がありはした。自分の行為が長期的に見て破滅的な結果をもたらすのではないかと思って考えてみると、実のところ悪くない結果になるという判断をしたのだった。 そしてそのときの自分は、〈死食い人〉の子どもにはホグウォーツ生がいるということも、〈死食い人〉のうち一名がドラコの父親の顔をしているということも忘れていた。 忘れていなかったとして、判断が変わる余地はなかったと思う。 しかし当時のハリーの精神が、数秒たらずのうちにそのように計算をしていたことは事実である。

 

少なくとも、〈死食い人〉の遺族が経済的に困窮したりするなら、それについては簡単に対処できる。 黄金を〈転成術〉で作り、それを〈石〉で永続させればいい——それほど多くの黄金を作ることに市場マネタリスト経済に無知なゴブリンたちに反対したり、魔法界の経済全体に悪い影響があったりするのでなければ——まあ、それ以外にもこちらとしては技能で稼ぐことだってできるが——

 

またハリーの思考から別の綿がはぎとられる。

 

「ほかにも……」  大きくないミネルヴァの声が喧騒をのりこえて聞こえてくる。 「昨夜のできごとにより、保護者にあたる人物を失った生徒がいることでしょう。 その生徒たちに言っておきますが、わたしは自分の立ち場にともなう責任をきわめて真剣に考えています。あなたがもしわが校の孤児院に来ることになれば、 わたしはあらゆる便宜をはかり、ご一族の金庫を誠実に管理し、 わたしの能力がおよぶかぎり、自分の子どもに接するようにあなたに接し——自分の子どもを保護するようにあなたを保護します。 このことは()()()()()()()()念押ししておきます。」

 

生徒たちはすばやくうなづいた。

 

「よろしい。」  ミネルヴァの声はまた小声になった。 「では、もうひとつ、すべき仕事があります。」

 

悲しげで厳粛な雰囲気のシニストラ先生が側面の入りぐちからあらわれた。 ふだんの茶色のローブにかえて白色のローブを、いつもの魔女の帽子にかえて房を多くぶらさげた、全体に灰色に色あせた角帽をまとっている。

 

シニストラ先生は両手で〈組わけ帽子〉を運んでいる。

 

数百年かわらずつづいてきた儀式をとりおこなうような雰囲気で、オーロラ・シニストラはミネルヴァ・マクゴナガルのまえの床に片ひざをつき、〈組わけ帽子〉を両手でささげた。

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは〈組わけ帽子〉をシニストラ先生の手から受けとり、自分の頭にのせた。

 

無言の時間がつづいた。

 

総長(ヘッドミストレス)!」

 

「アルバス・ダンブルドアは死んだのではなく……」  ミネルヴァは生徒たちが聞きとるのに苦労するほど小さな声で言う。 「われわれの手のとどかないところにいるにすぎません。わたしはあくまで総長代行としてこの職を引き受けます——ダンブルドアが戻る日まで。」

 

つんざく鳴き声とともにフォークスがあらわれ、四テーブルの上をゆっくりと螺旋状に旋回した。 それぞれのテーブルに寄っては、鳥の声で歌いかける。その声は物理的なものにすぎない火が消えても生きつづける絶対的な忠誠心のあらわれのようであり、 『彼が戻る日を待て、そして正直であれ』と言っているようだった。

 

フォークスはミネルヴァ・マクゴナガルのまわりで三度円をえがき、彼女のほおを伝いはじめた涙を翼で撫でた。 それから大広間の天井の窓を抜けて飛び去った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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118章「守るべきもの——クィレル先生」

スコットランドらしい緑色の風景に太陽の光がふりそそぎ、ときおり露のしずくや光を反射する葉がいい角度にあって白くきらめく。葬儀日和のよく晴れた空。

 

ハリーは一度、この追悼文の役を辞退していたが、 二度目にも辞退した。 フリトウィック先生はそのときが来るまでに何週間も時間をかけて原稿を準備できるようにと、五月のうちにハリーに声をかけてきたのだが、ハリーはその一度目にも断ったのだった。

 

その役目はグリフィンドール六年生オリヴァー・ハブリュカに任されることになった。オリヴァーはクィレル点の点数で全生徒中第四位であり、模擬戦の司令官でもあった。 漆黒のローブを着用した十七歳の彼は背が高いが顔は凡庸だ。ネクタイは赤色でなく、クィレル先生が好んでつけることのあった紫色にしている。

 

その後ああいうことがあったせいで、オリヴァー・ハブリュカはいま即興で話している。 以前に書いた原稿をすべて捨て、一枚の羊皮紙を左手に持って立っているが、そちらの原稿もまったく見ていない。

 

「クィレル先生は病におかされていた。」  オリヴァーの震える声を受ける生徒たちは静かで、ときどきすすり泣く声がだけがある。 「万全の状態のクィレル先生が相手なら、〈例の男〉もそう簡単には勝てなかったと思う。勝てたかどうかも怪しい。 デイヴィッド・モンローは、往時の〈例の男〉が恐れた唯一の相手だったという。けれど……」  オリヴァーの声がとぎれる。 「クィレル先生は万全の状態じゃなかった。 病におかされていた。 支えなしに歩くこともままならなかった。 なのに〈闇の王〉に戦いをいどんだ。一人で。」

 

そこでオリヴァーの声がとまり、生徒たちはひとしきり泣いた。

 

オリヴァーは涙を袖でぬぐい、また話しはじめた。 「正確にはどんなことが起きたのか、よく分かっていない。 〈闇の王〉は笑って、ろくに立てもしないのに戦いに来たのかと言って、先生をばかにしたんじゃないかと思う。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

 

熱心にうなづく生徒たち。見えるかぎりではグリフィンドール生もスリザリン生もひとしくうなづいている。

 

「〈闇の王〉はクィレル先生に、治癒してやると言ったりしたかもしれない。 〈闇の王〉本人がよみがえることができたくらいだから。 手下になるなら命は助けてやる、と言ったかもしれない。 先生はそこでにこりとして、〈世界一危険な魔法使いはだれか〉というゲームをしようじゃないか、と言いかえしただろう。」

 

知りもしないのに勝手に作り話をするな——とハリーは思うが、声にはださない。 ヴォルデモート卿が言ってもおかしくない一言、クィレル先生が言いかえしてもおかしくない一言だから。

 

「ぼくらは詳しい部分を聞かせてもらえていない。 けれどそのあとのできごとを想像することはできる。 ぼくらはクィレル先生の優秀な教え子でもあるハーマイオニー・グレンジャーを殺したのがトロルであることを知っている。それをしかけたのは〈闇の王〉であったにちがいない。彼女に〈血液冷却の魔法〉の罪をきせたのも同じこと。 クィレル先生はそれが〈闇の王〉のしわざだったことに気づいて、ミス・グレンジャーの遺体を盗みだし、安全な場所に保管し保存した——」

 

その部分はそう思ってもしかたない。

 

「クィレル先生は〈闇の王〉に戦いをいどんだ。 〈闇の王〉はクィレル先生を殺した。 そしてハーマイオニー・グレンジャーが息をふきかえした。 いまは生きていて完全に回復して、それだけじゃないとも言われている。 〈闇の王〉が彼女に襲いかかって、結果として残ったのは燃えたローブとミス・グレンジャーののどにからみついた両手だけだった。 ハリー・ポッターが母親の愛と犠牲によって〈死の呪い〉から守られたのと同じように、クィレル先生は一人で〈闇の王〉に戦いをいどんで……ハーマイオニー・グレンジャーの魂を……どこからか……呼びもどしたにちがいない——」  オリヴァーは声をつまらせた。

 

「それはすこしちがう。」と最前列にいるハリーが、こちらもかすれた声で言う。 このあたりでなにか言っておかないと、言いたい放題にされてしまいそうだ(もうされているような気もするが)、と思って。 「デイヴィッド・モンローは彼自身とぼく以外のだれも知らないほどの実力者だった。 ただ自分を犠牲にするだけで死者を生きかえらせるとは思えない。 だれもそんなことを試してはいけない。」

 

美しい物語だし、そのとおりであればよかった。そのとおりであればよかったのに。

 

「ぼくはクィレル先生の真の人柄をよく知らない。」  オリヴァー・ハブリュカは感情を落ちつかせてから言う。 「デイヴィッド・モンローが幸せな人ではなかったことは知っている。 〈守護霊の魔法〉をつかうことができなかったそうだから。」

 

またハリーの目に涙がたまっていく。 これは正しくない。不公平だ。ヴォルデモートはあまりにたくさんの人を殺した。手下とともに死ぬべきだった。特別あつかいをされる権利はない。 けれどもハリーの甘さのせいだけではなく、ホークラックスのせいもあって、ヴォルデモートをただ殺すことは文字どおりできなかった。 だからハリーは臆面なく、クィレル先生が完全には消え去らなくて()()()()と言うことができる……

 

「ただ、きっと……」と言うオリヴァーのほおに涙が光る。 「クィレル先生はいまどこにいるにせよ、そこでは幸せにしている。」

 

ハリーの左手で、小さなエメラルドが朝日をあびて輝く。

 

天国でもどこか遠い星でもなく、このおなじ場所で、心を入れかえた人間として、いつかあなたに、どうすれば幸せに生きられるかを教えたい——

 

長身のオリヴァーが下をむき、持ちかえた羊皮紙を見る。ここまで一度も見ていなかった原稿を。 「クィレル先生は……」  声に熱がこもり、速度があがる。 「文句なく、ホグウォーツ史上最高の〈戦闘魔術〉教師だった。 サラザール・スリザリンがどんなに呪文に詳しかろうが、教師としての能力ではクィレル先生のほうがずっと上だったにちがいない。 クィレル先生はこの一年の授業の初回で、先生の教えはぼくたちにとっていつまでも〈防衛術〉の基礎となるだろうと言った。そう、いつまでも。 来年の教師がどんな人であろうとも、ぼくたちは来年の新入生に、上級生から下級生へ、その教えを伝えよう。 これこそが〈防衛術〉教授の座の呪いヘの回答だ。 ぼくたちは黙って座って上から教えられるのではなく、 クィレル先生の教えをこの学校で脈々と受けついでいく。」

 

マクゴナガル先生——いや、マクゴナガル総長——のほうを見ると、総長は無言でうなづいていた。表情は悲しく固く誇らしげだった。

 

「ぼくたちはまだミス・グレンジャーの顔を見させてもらえない。」  オリヴァーの声が揺らぐ。 「〈生きかえった女の子〉。 けれどぼくは彼女を見るたびクィレル先生のことを思いだすと思う。 先生の犠牲は彼女のなかに、先生の教えはぼくたちのなかに生きつづける。」  オリヴァーはハリーのいる場所に目をやってから、また羊皮紙に目を落とした。 「それでは史上最高のスリザリン生、全スリザリン生の模範であったクィレル先生を讃えて、万歳三唱!」

 

万歳(ハザー)万歳(ハザー)万歳(ハザー)

 

ここで声をださずにいた生徒は、見えるかぎりで一人もいなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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119章「守るべきもの——アルバス・ダンブルドア」

総長の——マクゴナガル総長の居室を守るガーゴイルの組を前にして立つハリー。 シニストラ先生に呼びだされ、緊急の件だと言うから来たのだが、門はひらく様子がない。

 

これまでの実験結果により、〈石〉は三分五十四秒ごとに一つのものの〈転成〉を、対象物の大きさによらず永続化できることが分かった。 一度だけ、真っ暗なクローゼットにはいって手持ちのフラッシュライトのなかでもっとも強力なものを〈賢者の石〉に照射したとき、赤色のガラスのかたまりのなかに小さな点がならんでいるのが見えたような気がした。けれどそれから二度と見えたことがないので、いまは見まちがいだったかもしれないと思っている。 〈石〉にはそのほかになんの能力もないらしく、ハリーがどんなことを念じて命じてみても反応がない。

 

ハリーは明日の正午までを締め切りとして、当面どんな風に〈石〉をつかいはじめればだれにも奪われずにすむかを考えることにしてみた。まだ終わっていないできごと、ずっと以前からつづいていたできごとのことは、ひとまず考えないことにして。

 

約束の時刻の十分後、ミネルヴァ・マクゴナガルが早足で近づいてきた。 両手にいっぱいの書類をかかえ、また〈組わけ帽子〉をかぶっている。

 

それに対して、ガーゴイルの組が一度音をたてて動いてから、深く一礼した。

 

「あたらしい合言葉は『無常』。」  ミネルヴァがガーゴイルにむけてそう言うと、ガーゴイルは道をあけた。 「すみません、ミスター・ポッター。遅くなりましたが——」

 

「お気づかいなく。」

 

ミネルヴァは長い螺旋階段に足をのせ、運ばれるのを待たずに登っていく。ハリーもそのあとに続く。

 

「これから会議があります。〈魔法法執行部〉のアメリア・ボーンズ長官と、アラスター・ムーディ……彼とは面識がありますね、それと〈国際魔法協力部〉のバーテミウス・クラウチ長官が出席します。 三人とも、わたしやあなたと同じくらいダンブルドアの後継者たる資格があります。」

 

「ハーマイオニーは——どんな様子ですか?」  そのことを聞く機会がまだなかった。

 

「フィリウスの報告では、かなりのショック状態だそうです。無理もありませんね。 彼女はあなたの居場所をたずね、クィディッチ場だと言われると、ほんとうの居場所はどこかと食いさがってたずねたそうです。なにがあったのかと問われても、あなたと話すことを許されるまではほかのだれにも話す気はない、と言っています。 彼女は聖マンゴ病院に送られて、そこで……」  マクゴナガル総長はすこしだけ気がかりそうな声で言う。 「そこでかけられた標準的な検査用〈魔法(チャーム)〉の結果、ミス・グレンジャーは、たてがみを整える必要があることをのぞけば、肉体的にはいたって健康なユニコーンだと判断されたそうです。 発動中の魔術を検知する〈魔法(チャーム)〉を何度かけても、彼女は別のすがたに変形しつつあるということが検知されるそうです。 〈無言局〉員が一人そこに来て、フィリウスに……その、退室させられるまえに、ある種の、本来知ることが許されていないはずの呪文をハーマイオニーにかけ、ハーマイオニーの魂は健全な状態だが肉体から少なくとも一マイル以上離れた場所にあると判定したそうです。 病院の上層部はそれ以上のことをするのをあきらめたようです。 彼女はいま単独でネズミとハエの独房のなかにおかれて——」

 

「ネズミとハエ?」

 

「すみません、〈転成術〉の業界の言い回しです。 つまり、ミス・グレンジャーはいま隔離室に入れられていて、そこにはおとなしいネズミを入れた籠と、一日後に産卵するハエがつまった箱があります。 彼女の復活にどんな謎があるのかはまだ分かりませんが、いずれにしろその余波として癒者のチャームの結果をでたらめなものにするものが放出されているとみて、まずまちがいないでしょう。 しかし、ネズミにも孵化したハエの幼虫にも異常がなかったあかつきには、ミス・グレンジャーは翌朝目ざめたあとホグウォーツに帰らせても安全とみなされます。」

 

ハーマイオニーが自分が生きかえったことについてどう思っているだろうか……とくにああいう状況下で生きかえされたことについてどう思っているだろうかというと、まったく分からない。 さすがに、やりかたがまちがっていると言ってしかりつけてくることはないだろうと思う。 それはハリーの脳がハーマイオニーをステレオタイプに当てはめて考えようとしている想像でしかない。 あのときの自分は心底疲れきっていて、まともに思考力がはたらかないまま、あんな復活劇の設定をでっちあげてしまった。そこまではハーマイオニーもおそらく理解してくれる。 しかし、それでは実際にはハーマイオニーはどういう風に考えているのだろうか……

 

「ミス・グレンジャーは自分が〈例の男〉を滅ぼしもしたのだということについてどう思うでしょうね。」  ミネルヴァは思いにふけるようにそう言いながら、あとにつづくハリーが息を切らすほどの速度で自動階段をかけあがる。 「そして、ほかの人たちが勝手な想像をたくましくしていることについても。」

 

「つまり、自分はごく一般的な優等生だと思っていたのに、いろんな人が自分を〈生きかえった女の子〉としてあつかうようになっていて、やたらと握手をもとめられたりするとかいう?」  自分がそれだけのことをしたという記憶がないにもかかわらず。 別のだれかの仕事、別の人たちの犠牲のおかげなのに、自分が祭りあげられていて、 持ちあげられるほどのことをなにもしていないように感じるにもかかわらず。周囲の人たちが想像するような人物にはいつになってもなれないのではないかと思えるにもかかわらず。 「いやあ、どんな気分なんでしょうね、それは。」

 

彼女をこんな目にあわせてしまうべきではなかったのかもしれない。 けれど人間は()()()()あたえられてはじめて自分のちからを信じることができるようになるものだ。 そのことをうしろめたく感じていてもしかたがない、と思う。

 

二人は階段の頂上に着き、総長室にはいると、何十もの奇妙な道具たちと、その奥の巨大な机と玉座に迎えられた。

 

ミネルヴァが黄金色のぐらぐらするもののついた道具の上に手をかざし、一度目を閉じた。 それから〈組わけ帽子〉をぬぎ、それを左足用のスリッパが三足かけられた帽子かけに置いた。 彼女は立派な玉座をクッションつきの地味な椅子に、大きな机を円卓に変え、円卓のまわりに四脚の椅子を出現させた。

 

ハリーはそれを見ていて、のどもとに奇妙な感情がこみあげた。 二人ともあえて言わないが、きっとこの椅子の切り替わり、机の切り替わりは本来、もっと本格的な儀式をともなうものなのだ。 着任した総長がはじめて自室に来室するときの儀式が。 しかしなぜかいまはそうしている時間がなく、ミネルヴァ・マクゴナガルは速度をすべてに優先させている。

 

ミネルヴァが杖をひと振りすると〈煙送(フルー)〉の暖炉に火がともり、そのあいだにミネルヴァはダンブルドアの椅子であった椅子に着席した。

 

ハリーは円卓のまわりにある椅子のうち、ミネルヴァの左にあった椅子に静かについた。

 

ほとんど間をおかずに〈煙送(フルー)〉の火が緑玉(エメラルド)色に燃え、アラスター・ムーディを吐きだした。アラスター・ムーディは杖を持ったまま回転し、部屋全体の様子をひと目で確認するようにしてから、まっすぐハリーに杖を向け、「アヴァダ・ケダヴラ」と言った。

 

あまりの速度と意外な展開に虚をつかれて、ハリーはアラスターの詠唱が終わるまでにまだ杖を半分も持ちあげていなかった。

 

「試しただけだ。」  アラスターはアラスターに杖を向けている総長に向かって言う。総長は口をあけたまま、言うべきことを見つけられないようだ。 「ヴォルディがこいつの肉体に乗りうつっていたなら、よけようとしたはずだ。 あとでそのグレンジャーとやらも試しておく必要がある。」  アラスター・ムーディはミネルヴァの右がわに行き、着席した。

 

ハリーはそこまでのごく短い時間のうちに無詠唱で銀色の〈守護霊〉の光を杖から出して迎撃してみることを考えはしたが、手を杖にとどかせることすらできずに終わった。

 

自分が無敵になったように思うなんて、身のほど知らずだったな。大切な教訓をありがとう、ミスター・ムーディ。

 

煙送(フルー)〉の火がまだ緑色に燃え、ハリーの見たこともないほど厳格で老練な顔つきの魔女を吐きだした。ビーフジャーキーを人間にしたような印象だった。 老魔女は杖を手にしていないが、ダンブルドアより強力で厳格な権威の雰囲気を放射している。

 

「ミスター・ポッター、こちらはアメリア・ボーンズ長官です。」と体勢をたてなおしたマクゴナガル総長が言う。 「あと来る予定なのはクラウチ長官——」

 

「〈死食い人〉の死体のひとつがバーテミウス・クラウチ・ジュニアの死体だと判明しました。」  前おきなしにそう言いながら老魔女は椅子に向かって歩くのをやめない。 「まったく予想外の結果でした。 バーテミウスは残念ながら両方の理由で傷心のため、 今日ここには来れません。」

 

ハリーは内心でだけびくりとした。

 

アメリア・ボーンズはムーディの右がわの椅子に着席した。

 

「マクゴナガル総長。」  年齢が上の魔女はやはりためらいなく言う。 「わたしは摂政という立ち場でダンブルドアから〈マーリンの不断の線条〉を持たされたのですが、それがわたしの手に反応しません。 ウィゼンガモートには信頼できる〈主席魔法官〉が()()()()()必要です。 ブリテンの状況は混沌としています。 ダンブルドアがどんな措置をしていたのか、ただちに教えていただけますか!」

 

「なんだそりゃ。」とムーディがつぶやき、狂眼がぐるぐる回転する。「そりゃよくない。よくないどころじゃない。」

 

「そうですね。」とミネルヴァ・マクゴナガルがやけに心配げに言う。 「正確なところはよく分かりません。 アルバスは——内心では自分がこの戦争を生きのびられないという可能性も意識していたようです。 ですがそれから数時間後にミス・グレンジャーがよみがえってヴォルデモートを殺すということまで想定していたかというと、 その点はまったく想定外だったろうと思います。 アルバスの遺産がこれをどう判断するのかは、皆目わかりません——」

 

アメリア・ボーンズが椅子から腰を浮かせた。 「つまりその()()()()()()という子どもが〈マーリンの不断の線条〉を継承しているかもしれないと? ()()()じゃありませんか! まだなんの経験も実績もない十二歳の子どもがそんな—— ヴォルデモートを倒しただれかに〈線条〉を受けつがせる——アルバスがそんな無責任なことをするわけがない。相手が()()()()()かも分からないうちに!」

 

「それが、簡単に言えば……」と言いながらミネルヴァは持ちこんだ書類を机の上でそろえる。 「アルバスはヴォルデモートを倒すことになるのがだれであるかを確信したうえで動いていたようです。 それに関する検証ずみの予言があったので……ただ、その予言はいま利用不可能なようで——どうすればいいのか! ここに、アルバスが死ぬか、ほかの理由で去ったときにミスター・ポッターに渡すようにと言われている手紙がひとつと、ミスター・ポッターがヴォルデモートを倒したときにはじめて開封できるようにしてあるという手紙がひとつあります。 ですが、この状況ではどうなるのか。 ミス・グレンジャーなら開封できるのか、それともだれにも開封できなくなってしまったのか——」

 

「待った。」と言ってマッドアイ・ムーディがローブのなかに手をいれ、細長い、灰色の持ち手がついた杖をとりだした。ハリーはそれに見おぼえがあった。ダンブルドアの杖だ。この形と様式はホグウォーツにあるほかのどの杖とも似ていない。 ムーディはそれを卓上においた。 「そのさきの話をするまえに、アルバスから預っている指示が二、三ある。 この杖をひろえ、坊主。」

 

ハリーはためらい、考えた。

 

アルバス・ダンブルドアはぼくを救うために自分を犠牲にした。 あの人はムーディを信頼していた。 これは多分、罠じゃない。

 

そしてハリーはその杖に手をのばした。

 

杖はテーブルを横断し、ハリーの手のなかに飛びこんできた。 持ち手の部分をにぎった瞬間、歌が聞こえたような気がした。栄光と武勇の歌がこころのなかに鳴りひびいたように感じられた。 白い火が持ち手から波うって杖をつたわり、しだいに大きくなり、杖先から巨大な火花となって噴出した。 指でつかんだ杖のなかから、ちょうど綱につながれたオオカミのような、強さと制御された危険さが感じられる。

 

同時に、懐疑心を持たれているような感じもつたわってくる。まるで杖自身がいくらかの意識をもっていて、いったいなにがあって自分はホグウォーツ一年生の手にわたってしまったのかと思っているかのように。

 

「そうか。」  ムーディが周囲のいぶかしげな視線に答えて言う。 「つまりヴォルディを倒したのはミス・グレンジャーじゃなかった、と。 そんなこったろうと思った。」

 

「なんですって。」とアメリア・ボーンズが言った。

 

マッドアイ・ムーディは重おもしくうなづいて言う。 「アルバスはこの杖は前の所有者を倒した者に所有されると言っていた。 アルバス自身がそうやってグリンディの野郎から奪ったんだ。 そして昨日、ヴォルディがアルバスを倒した。 あとはおれが言わなくても分かるな? アメリア。」

 

アメリア・ボーンズはぽかんと口をあけてハリーを見つめている。

 

「そうは言えないような気がします。」と言ってハリーはまたこみあげてくる罪悪感を飲みこむ。 「その、ぼくが……ぼくがばかだったので、ぼくはヴォルデモートに人質としてつかわれていて、ダンブルドアは自分を犠牲にしてぼくを救ったので、そのせいでその杖はぼくがダンブルドアを倒したと見なしているんじゃないかと。 その、ぼくがヴォルデモートを倒した、というか制圧したというのも事実なんですが。 ただ、ぼくがあの場にいたことはだれにも秘密にしておくほうがいいと思います。」

 

ビーッ。チッ。ブーン。リン。プッ。

 

「その結果にいたるには、苦労もあっただろう。」  マッドアイはゆっくりと敬意を示すように首肯した。 「どんなばかなことをしたにしろ、アルバスとデイヴィッドとフラメルを死なせたことについては、そんなに気にやむな。 おまえは最終的に勝った。 おれたちが全員がかりでもできなかったことだ。 いちおう聞いておくが、おまえとデイヴイッドはヴォルディのホークラックスも壊したんだろうな? ほんもののホークラックスだったことも確認ずみだろうな?」

 

ハリーはためらい、ムーディを信用して伝えた場合と伝えなかった場合にありうる帰結をそれぞれ検討してから、首を振ることで返事した。 もともと、いずれにしろ少なくともマクゴナガルには学校のなかになにがあるのかを伝えておくつもりではあった。 「実は、ヴォルデモートは……ホークラックスをいくつも持っていました。 なので、ホークラックスを壊すのではなく、記憶の大半を『オブリヴィエイト』してあとで彼をこれに〈転成〉しておきました。」  ハリーは手をもちあげ、指輪のエメラルドを無言で指さした。

 

ビシャッ。ピョン。ビシャッ。ビシャッ。

 

「ふむ。」と言ってムーディは椅子に背をあずけた。 「いつかおまえが〈転成術〉を更新し忘れるということもあるかもしれん。あとでミネルヴァとおれがそいつにいくらか警報と防護をつけておこうと思うが、いいな。 このさきは、また〈闇の魔術師〉を狩ろうなんて思わず、おとなしく平和に暮らすことだ。」  傷顔の男はハンカチを手にして、ひたいに粒となって浮かんでいた汗をぬぐった。 「しかしよくやったよ、おまえも亡くなったデイヴィッドも。 その手はきっとあいつが思いついたんだと思うがな。 とにかく、よくやった。」

 

「同感。」と落ちつきをとりもどしたアメリア・ボーンズが言う。 「われわれはあなたたち二人に大変な恩がある。 しかし〈マーリンの不断の線条〉の件は喫緊の問題です。」

 

「では……」とミネルヴァ・マクゴナガルがゆっくりと言いはじめる。 「アルバスの手紙はどちらもミスター・ポッターに渡したほうがいいでしょうね、この場で。」  積まれた書類の頂上に羊皮紙の封筒ひとつと、灰色のリボンで封をされた羊皮紙の巻きものがひとつ乗った。

 

総長はまず封筒をハリーに渡した。ハリーはそれをひらいた。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ポッターへ。君がこの手紙を読んでいるなら、私はすでにヴォルデモートに敗れている。使命は君の手に委ねられたということになる。

 

君にとっては思いもしなかったことかもしれないが、私はこの結末を心から望んでいた。 というのも、私がこの手紙を書いている時点ではまだ、ヴォルデモートが私自身の手で倒されることがありえるように見えているからだ。 その場合はいずれ私自身が、君が真の意味で成長するにあたって克服すべき暗黒となる。 君が君の師、君を作った者、君が愛した者を敵として戦わざるをえないときが来るかもしれないとも、君が私を滅ぼすかもしれないとも言われているのだ。 君がこれを読んでいるなら、そのような未来はなくなったということだから、私はうれしく思う。

 

とはいえ、君がヴォルデモートを相手に孤独に戦う事態はできれば防いであげたいと思っている。 君をできるかぎり長く安全な立ち場におくためなら、私自身には最終的にどんな代償があってもかまわないと誓いながらこれを書いている。 しかし私がそれに失敗していたとしても、私は私なりの利己的な意味で満足していると思ってほしい。

 

私亡きあと、ヴォルデモートと対等に戦える者は君をおいて他にない。 ブリテン魔法界は彼の影のもとで長く過酷な時代を迎え、そのために多くの人が苦しみ、死ぬ。 君がその影の源を断ち、その暗黒の心臓部を清めないかぎり、影は消えない。 どんな方法でそれができるのかを私は知らない。 君が持つ力をヴォルデモートが知らないなら、私も知らない。 君はその力を君自身のなかに見つけ、その操りかたを知り、ヴォルデモートに最後の裁きをあたえなければならない。どうかそのとき彼に慈悲を見せるというあやまちは犯さないでほしい。

 

私の杖は君に宛ててムーディに託したが、君はそれをヴォルデモートに対して使ってはならない。 あの杖の所有権は、所有者が倒されたとき、勝者に移る。 私を倒した者を君が倒した時点で、杖は真に君の意思に反応して動く。しかしそれ以前にヴォルデモートに対してこの杖を振るおうとすれば、杖はかならず君を裏切る。 なにがあってもこの杖にヴォルデモートの手がおよばないようにしなさい。 どんなときもこの杖を持たないのが賢明だと言いたいところだが、強力な道具ではあるから、窮地には必要となることもあろう。 しかしこの杖を持つときは、いつでも裏切りにあいかねないものと思いなさい。

 

私がいなくなれば、ウィゼンガモートがマルフォイの手に落ちることは避けられない。 マーリンの不断の線条は君に譲っておいた。君が成人するか実力を身につけるまでは、アメリア・ボーンズに摂政をつとめさせる。 しかし私が消え、ヴォルデモートが戻ってマルフォイに助言しはじめれば、彼女はそう長くマルフォイに対抗できまい。 近く魔法省は陥落し、ホグウォーツが最後の砦になるであろう。 ホグウォーツの鍵はミネルヴァにゆだねたが、受け継ぐのは君だ。彼女には全力で君を助けるように言ってある。

 

アラスターが不死鳥の騎士団の長となる。 彼の助言、彼が明かす情報にはよく耳をかたむけなさい。 私はより多く、より早くアラスターの言うとおりにしていなかったことをこの上なく悔やんでいる。

 

私は最終的に君がヴォルデモートを倒すであろうことを確信している。

 

私はそれが君にさずけられた運命のはじまりにすぎないということも確信している。

 

ヴォルデモートを滅ぼし、この国を救ったとき、君はきっと真の人生の意味を目指す旅に出ることができる。

 

だからそのために急ぎなさい。

 

死の世界(またはそれ以外のどこか)より

 

——ダンブルドア

 

追伸。総長室で使う合言葉は『不死鳥の代償』と『不死鳥の運命』と『不死鳥の卵』。 個々の部屋をもっと行き来しやすい配置にしたければ、ミネルヴァに頼みなさい。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは思案げな顔で羊皮紙をたたんで封筒にもどし、灰色のリボンがついた巻き物を総長から受けとった。 ハリーが持つ灰色の杖がリボンに触れると、リボンははらりと落ちた。 ハリーは巻かれた紙をひらいて読んだ。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスへ。

 

君がこれを読んでいるなら、君はすでにヴォルデモートを倒していることになる。

 

その点はおめでとう。

 

この手紙をひもとくまでに君が祝杯のひとときを過ごせていることを願う。というのも、ここには喜ばしくない知らせが書いてあるからだ。

 

私は第一次魔法界大戦中のあるとき、いずれ近くヴォルデモートが勝利し、すべてを手中におさめるであろうということに気づいた。

 

やむにやまれず、私は神秘部に行き、マーリンの不断の線条の歴史上、一度もつかわれたことのない合言葉を起動し、禁じられてはいるものの完全には禁じられていない、あることをした。

 

記録されていた予言を一つのこらず聞いたのだ。

 

そして事態はヴォルデモートよりはるかに憂慮すべきものであることを知った。

 

ある種の予見者や占術師が揃って続々と、世界が破滅する運命にあるということを語っていたのだ。

 

そして世界を壊滅させる者の一人として、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスが予言されていた。

 

本来であれば、私は君につらなる可能性の芽を()み、君が生まれるのを阻止しておくべきだった。その日知ったそのほかのどの可能性をもできるかぎり摘んでおいたのと同じように。

 

しかし、君に関してだけは、破滅の予言にごくわずかながらも抜け道があった。

 

文言はきまって『世界を終わらせる』であり、『生命を終わらせる』ではなかった。

 

君が星ぼしそのものを引き裂くという表現はあれど、君が人びとを引き裂くという表現はなかった。

 

この世界の先が長くないとされていることは明らかだった。そこで私は文字どおりすべてを君に、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスに賭けた。 世界を救いうる方法を教える予言はなかった。そこで私は破滅に対する抜け道を提供する種類の予言を見つけ、そのような予言が成就するための奇妙で複雑な条件を生じさせた。 予言の一つをヴォルデモートが確実に発見するように仕向け、そのことを通じて(それ以前から恐れていたとおり)君の両親を死なせ、君がいまの君として育つようにした。 わたしは君のお母さんの薬学教科書に奇妙な助言を記入した。当時はなんのためにそうしているのか分からなかったが、これは結果的に、リリーに姉ペチュニアを助ける方法を知らせ、君がペチュニア・エヴァンズの愛情を受けられるようにするためのものだった。 オクスフォードの家の君の寝室に透明になって忍びこみ、逆転時計をもつ生徒に与えられるのと同じ水薬を君に飲ませ、君の体内時計が一日二十六時間になるようにした。 君が六歳になったとき、私は君の部屋の窓辺の石を粉砕したが、なぜそうする必要があったのかはいまだに分からない。

 

このすべては、君がなんとかして嵐の目を通り抜けて、世界を終わらせながらも人びとを死なせずにすませられるようにという、わずかな望みに賭けてのことだった。

 

君はもうヴォルデモートを倒すという予備試験に合格した。私は君にすべてを賭け、私が与えうる道具をひとつ残らず君に与えた。 マーリンの不断の線条、不死鳥の騎士団の指揮権、私が持っていたあらゆる財宝、死の秘宝の一つであるニワトコの杖、私の友人たちからの私に対するのと変わりない忠誠。 ホグウォーツに割く時間はないであろうと思い、ホグウォーツはミネルヴァの手にゆだねておいたが、必要とあれば君はそれもミネルヴァから明け渡させることができる。

 

私が君に与えないものが一つある。それは予言だ。 私が去ると同時に予言はすべて破壊され、新しいものが記録されることもなくなる。君は予言に頼ってはならないとされていたから、このようにした。 余計なことをしてくれた、と君は思うかもしれないが、君でさえ想像できないほど余計な面倒から君は解放されたのだということは私が保証する。 私は死んでいるか、君のもとを離れているか、なんらかの意味で君の手のとどかないところに行っていると思う——当然ながら、予言の表現は不透明だ。私は私が去る時点で、未来の正確なありようも、なぜ自分がこのようなことをしなければならないのかも知らない。 このように謎めいた狂気のしろものに君が関わりをもたないことを幸運に思ってほしい。

 

このチェス盤の上に王はただ一つ。

 

値段をつけようのない駒はただ一つ。

 

その一つの駒はこの世界ではない。この世界に生きる魔法族とマグル、ゴブリンとハウスエルフ、その他すべての種族だ。

 

天の星々が死のうとも、我々の同胞が少しでも痕跡を残しているかぎり、その駒はまだ戦うことができる。

 

しかしその駒が失われれば、ゲームは終わる。

 

他の駒すべての価値を知り、勝つための手を打ちなさい。

 

——アルバスより

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはしばらくその羊皮紙を手ににぎったまま、しばらく虚空を見つめた。

 

つまり。

 

世のなかには『それなら説明がつく』と言うだけでは済まないことがある。とはいえ、これで説明はつく。

 

やはり虚空を見つめたまま、うわのそらでハリーは手のなかで羊皮紙を巻いた。

 

「どんな内容でしたか?」とアメリア・ボーンズが言った。

 

「告白の手紙でした。ぼくの飼い石(ペットロック)を殺した犯人はダンブルドアだった、という。」

 

()()()()()()()()()()()()()」と老魔女が言う。 「けっきょくあなたが〈マーリンの不断の線条〉の真の持ちぬしなの?」

 

「はい。」とうわのそらで答えたが、ハリーはどのような客観的定量化の基準でもそれより圧倒的に重大なものごとに心をうばわれている。

 

老魔女は椅子のなかで動かなくなり、 やがて顔の向きをかえて、ミネルヴァ・マクゴナガルとたがいの目を見て離さなくなった。

 

そのあいだにハリーの頭脳は、あまりにも多くの種類の時間的規模でのあまりにも多くの種類の可能性のあいだを行き来していて、そのうちいくつかは文字どおり数十億年単位の時間と恒星の崩壊過程に関係していた。ハリーの頭脳はやがて認知的破産を宣言して最初からやりなおすことにした。 さて、世界を救うために()()()()()すべきことはというと…… いや、もっと手近な、()()すべきことはなにか……といっても、なにをすべきかを考えるというのを除いてだけど……それがわかるまでは〈不死鳥の卵〉の部屋にダンブルドアが残したなにかを確認しにいくわけにもいかない……

 

ハリーは巻かれた羊皮紙から顔をあげ、マクゴナガル先生——いや、マクゴナガル総長——とマッドアイ・ムーディと手ごわそうな老魔女を順に、はじめて見る相手にむけるような目で見た。 といっても、アメリア・ボーンズを見るのは実際はじめてに近いのだが。

 

アメリア・ボーンズ。〈魔法法執行部〉長官で、アルバス・ダンブルドアが少なくとも一時的にウィゼンガモートの運営をまかせてもいいと判断した人物。 ハリーの行く手になにがあるにせよ、彼女の協力は貴重、というより()()であるかもしれない。 ダンブルドアが彼女を選んだのも、選ぶにあたってダンブルドアはハリーが目にしていない予言を読んでいたのも事実。

 

〈マーリンの不断の線条〉に関する摂政と次期〈主席魔法官〉を任せられていたのに、十一歳の少年にその地位をうばわれたように思っているアメリア・ボーンズ。

 

ここはひとつ——と、あたまのなかのハッフルパフの声が言う。 ここはひとつ下手に出よう。 今回はいつもみたいなまぬけなことを言うのはやめよう。 世界の命運がかかっているかもしれないんだから。いや、いないかもしれない。 かかっているかどうかすらも分からない。

 

「こんなことになってしまってすみません。」とハリー・ポッターは言い、丁重な言いかたをした効果が少しでもあるか、確認するために待った。

 

「ミネルヴァの話では、あなたは率直に論評されても怒らないらしいとか。」と老魔女が言った。

 

ハリーはうなづいた。 レイヴンクローの部分が『批判に敏感すぎるという名目でこちらの口を封じようとすることを率直な論評に含めないかぎりは』という前置きを追加しようとしたが、ハッフルパフが拒否権を行使した。 どんな話にせよ、まずは聞いておこう。

 

「死んだ人のことをとやかく言うつもりはないけれど。 太古から〈マーリンの不断の線条〉の継承者は、ただ善人であるだけでなく、善良で見識ある後継者をえらべる人であることを()()()()証明した人に継承されてきた。 その連鎖の途中のどこかで一度でもほころびが起きれば、継承権は二度と本道にもどらないかもしれない! こんな年若いあなたに〈線条〉をゆだねるなんて、〈例の男〉を倒したらという条件つきだったとしても、狂気の沙汰だわ。 こんなことが知られれば、ダンブルドアは晩節を汚したと言われる。」  老魔女はハリーをじっと見たまま言いよどむ。 「このことはこの部屋にいるわれわれのあいだにとどめることにしましょう。」

 

「ええと……その、あなたはダンブルドアをあまり高く評価していないようですね?」とハリー。

 

「これまでは……。 いえ。 アルバス・ダンブルドアは魔法使いとしても、()()()()()()わたしより上を行っていた。ほかにも簡単に数えあげられないくらいの点でそうだった。 けれど、あの人にも欠点はあった。」

 

「それは……その。 ダンブルドアはちゃんと、ぼくが若すぎることも〈線条〉のしくみも知っていましたよ。 あなたの言いかただと、ダンブルドアがそういうことを知らなかったか知っていて無視してこの選択をしたように聞こえますが。 たしかに、ぼくのような愚か者はそんなとんでもない選択のやりかたをします。 けれどダンブルドアはしません。 ダンブルドアは()()()()()()()()ので。」  ハリーはごくりとして、急にうるんだ目を閉じた。 「まだぼくもわかりはじめたところですが……最初から、このすべてのなかで狂っていなかったのはダンブルドアだけだったんです。 ダンブルドアだけが多少なりとも正しい理由で正しいことをしようとしていた……」

 

マダム・ボーンズが声にならない声で小さく悪態をつき、ミネルヴァ・マクゴナガルがびくりとした。

 

「すみません。」とハリーがちからなさげに言った。

 

マッドアイの傷顔がにやりとゆるむ。 「昔からアルバスが仲間にも秘密で()()()たくらんでいたのは分かっていた。 坊主、その巻き物にこの〈眼〉をつかいたくなるのを我慢するのも大変なんだぞ。」

 

ハリーはいそいで巻き物をモークスキン・ポーチに食わせた。

 

「アラスター。」  アメリアの話す声が大きくなる。 「しっかりしてちょうだい。本気で、この子にダンブルドアの代役がつとまるとでも? いまこの時点で!」

 

「ダンブルドアは……」  その名前を言うと舌に奇妙な味がする。 「この選択をするとき、ひとつまちがった仮定をしてはいました。 ダンブルドアは、ぼくたち全員の、ヴォルデモートに対する戦いは何年もつづくものと思っていた。 ぼくがすぐにヴォルデモートを倒すというのは想定外のできごとだった。 倒したのは正しいことだし、そのおかげで戦いが長引いた場合に死んでいたたくさんの人を救うこともできたんですが、 ダンブルドアは、何年もかけてあなたたちがぼくを知り、信頼した段階でそのときが来ると思っていた……ところがそれがたった一晩ですんでしまった。」  ハリーは息をすった。 「ぼくたちが何年もかけてヴォルデモートと戦っていて、ぼくはあなたたちの信頼を勝ちえていた、ということにしちゃいませんか? ダンブルドアの想定よりも早く勝利したことでぼくが損してしまわないように。」

 

「たかが一年生にダンブルドアのかわりを務めさせるわけにはいかない。ダンブルドア自身がどう考えていようと!」

 

「ああ、またその『外見上十一歳』というやつですか。」  ハリーの手が鼻すじにのび、眼鏡のある位置をこする。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「わたしにもあなたがただの子どもでないことくらいは分かる。 あなたがルシウス・マルフォイと話すところも、ディメンターを怖がらせるところも、フォークスがあなたの願いを聞くところもこの目で見た。 ウィゼンガモートでのあなたを見てすこし考えればだれでも——それに当たるのはわたし自身のほかに二名しかいないけれども——〈例の男〉が死ななかった夜に引きさかれた魂の一部をあなたが吸収し、制圧してその知識をよい目的に利用したのだということは想像できる。」

 

全員が一瞬沈黙した。

 

「やはり、と言うべきか……」と言ってミネルヴァ・マクゴナガルがためいきをつき、総長席の椅子ですこしだけ肩をおとす。 「アルバスはもちろん()()()()()()()そうと分かっていた上で、賢明にもわたしにはなにひとつ教えないでいたということですね。」

 

「うむ。」とムーディ。「やっぱりか。あんなにあからさまじゃな。 全然迷いもしなかったぞ。」

 

「それは当たらずとも遠からずといったところです。 それで、その。けっきょくどこに問題が?」とハリー。

 

「問題は……あなたが右も左もわからない、ホグウォーツ一年生と〈例の男〉の不安定な混合物だということ。」   アメリア・ボーンズは完全に平静な声でそう言ってから、なにかを待つように口を閉じた。

 

「その点については、よくなってきてはいますよ。」  自分の返事が待たれているのだと思ってハリーが話す。 「しかもかなりの速度で。 もっと重要なのは、ダンブルドアがそのことを知っていたということです。」

 

「あなたは親友をアズカバンにいかせないために全財産をなげうってルシウスへの負債をつくった。これは立派な心意気だとも言えるにせよ、そんなことをする人にウィゼンガモートを仕切らせるわけにはいかない。 いまとなっては、あなたが自分自身の正気をたもち内なる暗黒を抑えるためにそうしなければならなかったのだということは分かる。 けれどもそれがマーリンの継承者たるものに許されないことであったのも事実。 感情的な指導者は利己的な指導者より、はるかにたちが悪い。 不死鳥に(つか)え仕られる身であったアルバスも、ぎりぎりの一線を守れていたにすぎない——そのアルバスでもあの日あなたに反対した。」  アメリアはマッドアイ・ムーディの方向に手をむけた。 「アラスターには強さがある。狡猾さもある。けれどまだ統治の才能がない。 ハリー・ポッター、あなたには犠牲を受けいれる能力という意味での強さが足りない。だから〈不死鳥の騎士団〉の指揮すら任せられない。 そしてあなたのなりたちからして、あなたはそのような人に()()()()()()()()()()()。 とくにいま、その若さでは。 じっくり時間をかけて、その分裂した魂を統合できるものならそうすればいい。 それが終わるまで〈主席魔法官〉になろうとしてはならない。 もしそうすればいいとアルバスが思ったのだとしたら、アルバスは実世界の都合をおろそかにして聞こえのいい物語をつくろうとしていたということ。わたしはあの人のそういうところがよくないと思っていた。」

 

その話を聞いているうちに、ハリーの両目が大きめにひらいた。 「ええと……あなたはここでなにが起きていると思っています?」  そう言ってハリーは自分の耳のすぐ上をたたいた。

 

「想像するに、あなたのなかにはまだ素直な少年の魂がいて、自分を飲みこもうとするヴォルデモートの魂の断片に対して意志力をふりしぼって押し返そうとしている。ヴォルデモートの断片はそれに対して、おまえは感情的で弱いと言っている——いま、笑わなかった?」

 

「すみません。 でも実際のところ、()()()()ひどかったことはないですよ。 いろいろと悪い習慣がのこっていて消しきれていない、といったほうが近いかな。」

 

「オホン。」とマクゴナガル総長が言う。 「この一年がはじまったころなら、()()()()ひどかったと思いますよ。」

 

「悪い習慣と悪い習慣が連鎖的に相互に発火するというくらいですかね。たしかにもうすこし大きな問題ではあります。」  ハリーはためいきをついた。 「そして、マダム・ボーンズ……。その、ぼくの誤解ならすみませんが、 あなたは〈線条〉が十一歳の子どもの手にわたってしまったということが気にいらなかったりするんじゃありませんか?」

 

「あなたが想像しているような方向で気にいらないわけではありません。」  老魔女は落ちついた声でいう。 「あなたがそれを心配するのは無理もありませんが。 〈主席魔法官〉はわたしにとって望んでつきたい地位ではありません。〈魔法法執行部〉の惨状を相手にするほうがまだましというもの。 アルバスがなかなか応じようとしないわたしを説得した。実のところは、わたしは勝てない議論をつづけてアルバスの時間を浪費しないことにしただけだった。 いやな仕事であるのは変わらない。それでも自分がやることになるのは変わらない。 ミネルヴァによると、あなたは多少は常識的に考えることができるという。とくに周囲の人からそううながされれば。 ウィゼンガモートの議長席にいる自分を想像できるか、よく考えてみてほしい。 〈例の男〉の残滓がその立ち場にいる自分を想像させている、あるいは望ませてすらいるのではないか、ということも。」

 

ハリーは眼鏡をはずし、ひたいをもんだ。 傷あとは、昨日演出のために自分で血がでるまでかきむしったせいで、まだすこし痛んでいる。 「ぼくは多少は常識的に考えることもできますし、〈主席魔法官〉というのはとても面倒なことが付随する仕事で、ぼくにはまったく向いていないらしい、とも思います。 問題はですね。その。〈マーリンの線条〉は〈主席魔法官〉のためにだけあるものじゃないかもしれないということです。それ以外にも……その。どうも、それ以外にも変ななにかがついてきているように思えるんです。 そしてダンブルドアはその……なにかに対する責任をぼくにまかせるつもりだったようで、 そのなにかは……()()()()重要なものであったりするかもしれません。」

 

「なんだそりゃ。」とアラスター・ムーディが一度言い、また言う。 「なんだそりゃ。坊主、そもそもそれはおれたちに話していい情報なのか?」

 

「さあ。取りあつかい説明書があるとしても、ぼくはまだ見ていません。」

 

「なんだそりゃ。」

 

「その別のなにかにも強さと犠牲が必要だとしたら?」  アメリア・ボーンズはやはり落ちついた声で言う。 「あのウィゼンガモートの審判のような試練がまたあるとしたら? わたしもそれなりの年で、神秘について知らないわけでもない。 わたしがあなたの正体をほとんど一目で見てとったのを思いだしてほしい。」

 

「アメリア。」とマッドアイ・ムーディが言う。 「昨夜あんたが〈例の男〉とたたかっていたらどうなっていた?」

 

老魔女は肩をすくめた。 「死んでいたでしょうね。」

 

「いや、()()()()()だろう。 〈死ななかった男の子〉はヴォルディを倒しただけでなく、ヴォルディが復活するのと同時にお友だちのハーマイオニー・グレンジャーを()()()()()()()という作戦までやってのけた。 これが偶然である可能性は万にひとつも億にひとつもない。デイヴィッドが言いだしたことだとも思えない。 エイミー、おれたちはマーリンの遺産の継承者が()()()()()ものかを知らない。しかしおれたちがこういうしろものを相手にする無茶苦茶さを持ちあわせていないのはたしかだ。」

 

アメリア・ボーンズは眉をひそめた。 「アラスター、知ってのとおり、わたしも怪しげなものごとを相手にした経験はある。あるどころか、かなりうまく対処してきたと自負している。」

 

「ああ。こういうしろものに()()はする。しかしそれが終われば実生活にもどるだけだろう。 あんたには、こういうしろものをつかって城館をたてて、そのなかに住みはじめるという無茶苦茶さがない。」 ムーディはためいきをついた。 「エイミー、あんたもアルバスがなにを思って、もうひとつの仕事とやらをこの坊主にまかせたのか、どこかで分かっているんじゃないのかね。」

 

老魔女はテーブルの上で両手をにぎりしめた。 「これがこの国にとってどれほどの()()なのか、すこしは考えてみたら? わたしのことを常識人と呼びたければ呼ぶがいい。それでもそんな結論は受けいれない! これだけ長く働かされて、なにも()()()()()にそれを台無しにされるなんて!」

 

「ひとつよろしいですか。」とマクゴナガル総長がきっちりとしたスコットランドなまりの声で言う。 「〈神秘部〉関連のことはおいておいて、〈主席魔法官〉の地位に関してミスター・ポッターが成人するまでのあいだマダム・ボーンズを自分の摂政とするということを、ミスター・ポッターが〈線条〉に指定すればそれですむのでは? アルバスがヴォルデモートが倒されるまでという条件で摂政を指定できたなら、〈線条〉はそういう複雑な指示をこなせるということでしょうから。」

 

意外な方向からきた良識の一撃に、その場にいる全員が打たれた。

 

ハリーはウィゼンガモート関連のことについてアメリア・ボーンズを摂政とすることに同意すると言おうとして口をひらいたが、また言いよどんだ。

 

「ええと、その。マダム・ボーンズ、ぼくもできればウィゼンガモートの運営はあなたに代行してもらいたいと思いますが。」

 

「その点では異議なし。じゃあ、そのとおりにしましょうか。」

 

「ただ——」

 

ハリーをのぞく全員が、やめてくれといった感じで後傾した。 「なにか気になることが?」と総長が言った。口調から、あまり深刻なことであってほしくないと思っていることがうかがえた。

 

「その。もしかすると、近いうちに……政治的な論争に発展しうるいくつかのことをぼくがする必要があるかもしれないので、〈線条〉の政治的権力をマダム・ボーンズにお渡しする見かえりに……その、ある種のことについて協力していただこうかなと思います。」

 

アメリア・ボーンズはもう一度ミネルヴァ・マクゴナガルとたっぷりと視線をかわしあってから、 ハリー・ポッターに向きなおった。

 

「その要求がなっていない! その躊躇は、自分は弱く、交渉に不慣れであると言っているに等しい。そして反撃があれば引き下がってしまいそうに見える。」

 

ハリーは両目をとじた。

 

()()()()()闇に染まったハリーが目をあけた。

 

「では、言いかえましょう。 ぼくはあなたの日々の仕事にも月々の仕事にも干渉するつもりがありません。ですが、ダンブルドアから託された最終的な責任をほうりなげることもできません。 ぼくはおかしな羊皮紙を前ぶれもなくフクロウで送るようなことはしませんし、事前に相談はしますが、ある時点であなたに命令をする必要ができるかもしれません。 あなたがその命令をこばめば、ぼくは〈線条〉のウィゼンガモート関連の機能を取りかえし、親政をする必要があるかもしれません。 それで文句ありませんか?」

 

「あると言ったら?」

 

すこしだけ、すこしだけ闇の色を…… 「いまのところほかの候補者はいません。 オーガスタ・ロングボトムにどういう適格者がいるかを考えてもらって、それを出発点としてもいいでしょう。 ですが、ぼくはダンブルドアの一連の行動の理由が正確にはわかっていません。その彼がアメリア・ボーンズをしばらく〈主席魔法官〉にしておくべきだと考えたなら、ぼくたちはダンブルドアの計画からできるかぎり外れないようにやるべきなのかもしれません。 マーリンを引き合いにだす気はありませんが……いや、もとい、マーリンを引き合いにだしますが、これはとんでもなく重要なことかもしれないし、そうでないかもしれません。」

 

老魔女はしばらく考え、そのあいだ視線はテーブルについた各人の顔をいったりきたりした。 「本意ではないけれど……ウィゼンガモートを近く開会しなければならないのも事実。いまのところはそれでかまわない。」

 

老魔女はゆっくりと自分のローブのなかに手をいれ、黒い石でできた短杖をとりだした。

 

そしてその短杖をハリーの前のテーブル上においた。 「とりなさい。それから返してもらいますからね。」

 

ハリーは片手をのばしてそれをとった。

 

ハリーの指さきが短杖に触れた瞬間——

 

——なにも起きなかった。

 

多分マーリンは大袈裟な演出が好きじゃなかったのかもしれない。 マーリンの最後の遺産がこのごくひかえめな小さな黒い棒であったのも、それなら説明がつく。 機能上必要なものだけがあればそれでいいということ。

 

ハリーは〈線条〉を持ちあげ、にらんだ。 「ウィゼンガモート関連の機能についてアメリア・ボーンズをぼくの摂政とする。」  そう言ってから摂政を停止する条件を指定する必要があると思い、つけくわえる。 「ぼくが返せと言った時点でそれは終わる。」

 

するとハリーは不満げな顔をした。 もっとなにかあってほしいと思っていたのに、実際には〈線条〉は〈神秘部〉内の保管庫をあけ、一般に流布されてはならないが破壊すべきでもないいろいろなものにマーリンとその後継者らがかけた封印をとく鍵でしかなく、 そのほかに大した機能はない。

 

〈マーリンの禁令〉を回避させてくれる機能もない。 銀河の命運が左右されるような事態であっても、 あるいは正気の人間が、〈不破の誓い〉をむすんだ上で、世界がもうすぐ崩壊するということを嘘いつわりなく信じている場合であっても、〈マーリンの禁令〉は守らねばならない。

 

マーリンは長くつづく世界を夢見ていた。数百年ではなく数億年の単位で。 真に危険なものをすべて排除し再発を防げば、世界が()()につづかない理由はない。 逆に、安全装置のどこかにたったひとつの穴があるだけで、世界の崩壊は時間の問題となる。 〈マーリンの線条〉はいつか誤った継承者を得る。 あからさまに不適格な者は拒絶されるとしても、いずれは検知できない程度に小さな欠陥のある継承者に行きあたる。 これは人間を相手にするかぎり避けようのないことだ。将来の〈線条〉の所有者には回避されうるやりかたでなにかを封印しようとするまえに、いつかそのなにかが悪用されることによって起きる災厄よりも、それまでの数千年間の利益のほうが大きくなるようにしなければならない、ということを思いだす必要がある。

 

ハリーはこっそりとため息をついた。 困ったやつだな、マーリンは……

 

そう念じても安全装置が解除される様子はない。

 

いま〈神秘部〉に火事は起きていないので、ハリーは〈線条〉を慎重にテーブルの上においた。

 

「どうも。」と言って老魔女がその黒い石の短杖を手にとる。 「ところで、ウィゼンガモートを開会するときにはこれでなにをすれば—— いや、まずは演台をたたいてみればいいか。むずかしく考えずに。 もちろん、ここにいる四人をのぞく全住民に対しては、わたしが〈主席魔法官〉だということにするわね。」

 

ハリーは返事をためらったが、 自分に〈主席魔法官〉に指し図する権利があるということが知られれば、どれだけの数のフクロウを受けとることになるか、そのことがアメリアの交渉力にどう影響するかを考えてから「かまいません」と言った。

 

アメリアは短杖をローブのなかにおさめた。 「話が通じる相手でよかったとはとても言えないけれど、この程度で助かったと思うべきか。 一応感謝しておきます。」

 

ハリーはマダム・ボーンズのふるまいを見ているだけで、ここに思わしくない権力の大小関係があるように感じた。 この人たちはごく論理的に、ヴォルデモートを倒すまでの過程の大半を計画をしたのはデイヴィッド・モンローだったと推理していて、そのためにハリーをいまだに過小評価している。 なんらかの危機が生じて、それをハリーがめずらしく悪化させるのでなく解決するということがあるまでは、アメリア・ボーンズにハリーの権威を尊重してもらうことはできないのではないだろうか。 というより、本気にしてもらうことも……。 「ところで、ダンブルドアが健在なときには相談しにいっていたような奇妙な事件でもあれば、ぼくがお聞きしますが?」

 

アメリアは思案げな顔をした。 「それでは……こちらからはそういう話が三件。 まず、〈死食い人〉たちを犠牲にして〈例の男〉を復活させるためにどんな儀式がつかわれたのか。それがわれわれにはさっぱり分からない。 あのような儀式にむすびつく伝承は知られていないし、儀式に由来する魔法力の痕跡は剥ぎとられている。 わたしの部下が見るかぎりでは、あの全員の首が自然に落ちたのだとしか思えない。 ウォルデン・マクネアだけは例外で、自分の杖で〈死の呪い〉を撃ってから魔法炎で殺されたということが分かっている。 なんとも謎めいた儀式だわね。」  アメリアはやけにぴたりとハリー・ポッターを見さだめた。

 

どう表現するか、ハリーは慎重に考える。 ヴォルデモートは結界を張ったと言っていた。だから、〈逆転時計〉でやってきた〈闇ばらい〉に見られていた、ということはまずないだろうと思う。それでも……。 「その件については、あまり深いりする必要はないと思いますよ、マダム・ボーンズ。」

 

老魔女はわずかに口角をあげた。 「あれだけの数の〈貴族〉の死人が出た事件の捜査をおざなりにはできないわよ、ハリー・ポッター。 デイヴィッドの最後の戦いについてのあなたの話を間接的に聞いた時点で、ふだんの仕事ぶりからして()()()()()捜査員を手配しました。 ノッブズとコロンは、〈魔法法執行部〉の外でも一目おかれているくらいでね。 なかなか読みごたえのある報告書だったわ。」  アメリアの話が一度とまった。 「それによると、オーガスタス・ルックウッドは幽霊(ゴースト)を残していた可能性があると——」

 

「除霊しておいてください。その幽霊がだれとも話さないうちに。」  ハリーは急に心臓がどきどきするのを感じながら言った。

 

「了解。」と老魔女は素っ気なく答える。 「ルックウッドの魂が現世につなぎとめられるのを邪魔して、実体化を失敗させておく。それで情報が漏れることはなくなる。 では、二番目の件について。〈闇の王〉が残したもののなかに、まだ生きている人間の片腕が一つあって——」

 

「ベラトリクス。」  その話を聞いてハリーはトラウマのせいで見えにくくなっていたつながりを見つけた。 「それはベラトリクス・ブラックの腕だと思います。」  レサス・レストレンジの名前は父母をうしなった人のリストになかったから——。 「大変だ。 彼女はまだつかまっていないんでしょう。 その腕が追跡につかえたりしませんか?」

 

アメリア・ボーンズは渋い顔をした。 「なるほど。 つづきを言わせてもらうと、〈闇の王〉が残したもののなかに、まだ生きている人間の片腕が一つあったものの、その片腕は問題なく燃やして始末できました。」

 

「なんてバカな——」  ハリーはそこで言いやめた。 「いや、バカではない。 〈魔法法執行部〉の方針で、〈闇〉属性の物品は即座に破壊することになっているから。 即座に火山に投げこんでおくべきだった指輪に関する過去の経験に学んで。 ですよね?」

 

ムーディとアメリアが同時にうなづいた。 「いい勘だ。」とムーディが言った。

 

文学的には、過去の自分の愚かさのためにいずれきっとひどい報いをうけることになりそうにも思えるが、だからといって奇をてらうようなことをしていい理由にはならない。 「もう検討ずみのことではないかと思いますが、つぎにやるべきこととして当然思いつくのは、左手をうしなった痩身の魔女の捜索依頼を国際手配書に相当するものに掲載することです。 ああ、その際には、どれだけの金額の賞金首にするにしろ、ぼくから二万五千ガリオンを加算するということも——総長、ここはどうかご心配なく——書いておいてください。」

 

「ご立派。」と言って老魔女はわずかに前傾した。 「では第三の、最後の件……昨夜のできごとに関してひとつ非常に不可解な点があるので、あなたがどう思うかを聞かせてもらいたい。 発見された死体のひとつが、シリウス・ブラックの体と頭部だったことについて。」

 

()()()()()」とムーディが椅子から腰を浮かせて叫んだ。 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「今でもね。 すぐに確認に行かせたところ、 アズカバンの看守からシリウス・ブラックは監房を出ていないと報告があった。 ブラックの頭部と体は聖マンゴ病院の地下墓地に移送され、死因はほかの〈死食い人〉とおなじ……つまり、頭部が脱落して死んだと見られている。 シリウス・ブラックは今朝も監房で両手に顔をうずめて揺らしていたという報告もあった。 このほかに〈死食い人〉のドッペルゲンガーは見つかっていない。いまのところは。」

 

人間たちが考えるあいだ、チクタク、ホーホーという音だけが聞こえた。

 

「はあ……」とミネルヴァが言う。 「それは〈例の男〉の所業にしても不可能にすぎるのでは?」

 

「あなたくらいの年ごろにはわたしもそう思っていたけれど。」とアメリアが言う。 「わたしが見たなかでは上から六番目の奇妙さだわ。」

 

「わかるか、坊主?」とムーディが言う。 「こういうことがあるから、人間はだれでも、おれをふくめ、いくら疑がっても疑いすぎるということはない。」  ムーディは思案げに傷顔をかたむけた。そのあいだにもあかるい青色の目はくるくると回転しつづけている。 「どこにも知られていなかった双子の兄弟がいたとか? ヴァルブルガ・ブラックが双子を産んだ。ポラクスの野郎はそのうち一人を殺せと言うにきまっている。ヴァルブルガはそれがいやで片ほうの子を……。いや、こりゃないな。」

 

「ミスター・ポッター、なにか思いつくことは?」とアメリア・ボーンズが言う。 「それともまた、これについても熱心に捜査しすぎるなと?」

 

ハリーは目をとじて考えた。

 

シリウス・ブラックはピーター・ペティグリューをとらえようとしていた。常識的には国外逃亡したほうがよさそうな状況で。

 

ブラックは発見されたとき、道のまんなかでたくさんの死体にかこまれて、笑っていた。

 

一本の指のほか、ペティグリューの残骸はいっさい残っていなかった。

 

ペティグリューは〈光〉の陣営のために働くスパイだった。二重スパイではなく、敵地に潜入して調査をするスパイだった。

 

ペティグリューはホグウォーツ時代から隠された情報を見つけるのが得意だった。だからペティグリューは〈動物師(アニメイガス)〉だったのだ、という陰謀論があった。

 

ディメンターは近くにいる者の魔法力を吸いつくす。

 

クィレル先生が言っていた、マグルの鍛冶屋が槌と(やっとこ)で金属を変形させるように骨肉を組みかえる種類の魔術の話を思いだすと……

 

ハリーは目をあけた。

 

「ピーター・ペティグリューは隠れた〈変化師〉(メタモルフメイガス)だったのでは?」

 

アメリア・ボーンズの表情が一変し、 あ゙、と声をだして背後の椅子に腰をおとした。

 

「ええ……それがなにか?」とミネルヴァが言った。

 

「シリウス・ブラックはピーター・ペティグリューに〈錯乱(コンファンド)〉をかけて……」  ハリーの辛抱づよい声が説明する。 「みずから変身してブラックになりすますように命じた。 〈錯乱(コンファンド)〉がとけるころには、ピーターはアズカバンにいて、変身をとくことができなくなっていた。 〈闇ばらい〉はアズカバンの囚人が解放されようとしてあることないことを言うのに慣れているから、ピーター・ペティグリューが何度声をからして話そうとしてもとりあわず、ピーター・ペティグリューは最終的に声がでなくなった。」

 

そこでマッドアイ・ムーディまでもが恐怖におそわれた表情をした。

 

「考えてみれば……」と自動操縦でしゃべっているらしいハリーの声が言う。 「あなたたちは()()()()()()()()()()を審判なしでアズカバンに送りこむことができたということ自体を怪しんでいるべきでしたね。」

 

「あのときはマルフォイが別のことに……自分の身を守ることに気をとられていたのだとばかり。 われわれが逃がさずにすんだ〈死食い人〉はほかもいた。ベラトリクスとか——」

 

ハリーはうなづいた。自分の首と顔が紐であやつられているような気分だった。 「〈闇の王〉のもっとも狂信的な従僕。ルシウスが〈死食い人〉たちを支配しようとするとき、自然と対抗馬になりそうな人物。 なのにあなたたちは、ルシウスはそのときも別のことに気をとられていた、と思ってしまったと。」

 

「釈放を。」とミネルヴァ・マクゴナガルが叫ぶように言う。「即刻釈放を!」

 

アメリア・ボーンズが椅子からいきおいよく立ちあがり、〈煙送(フルー)〉に飛びつく——

 

「そのまえに。」

 

全員があっけにとられた表情でハリーを見た。とりわけミネルヴァ・マクゴナガルが。

 

なにかが乗りうつったような声でハリーは言う。 「もう四つ話しておかなければならないことがあります。 一人の男が冤罪で十年と八カ月と十四日アズカバンに閉じこめられていた。 それがもう数分のびたところで害はありません。 このもう四つのことは、それくらい急ぐ案件です。」

 

「なにも——」とアメリア・ボーンズが小声で言う。 「なにも、あなたがその年齢でそんなふるまいをしようとする必要は——」

 

「一点目。()()()()()()()()()()()()()()()()()アズカバンに送られた〈死食い人〉一人一人の捜査記録一式に、目をとおさせてもらいたいと思います。 今夜までにそれをまとめられますか?」

 

「一時間以内に。」とアメリア・ボーンズが活力をうしなった様子で答えた。

 

ハリーはうなづいた。 「二点目。アズカバンは閉鎖します。 囚人はヌルメンガルトなど別の、ディメンターなしの牢獄に転送し、ディメンター被曝に関して治療する準備をしてもらいましょう。」

 

「それは……」  アメリアは勢いに欠ける様子で答える。 「それは……ウィゼンガモートの残りの面々が納得しないと思う。この……大失態を考慮にいれても。それに、ディメンターには餌がなければならない。われわれがあたえていたほどの量でなくとも、いくらかの犠牲者は必要。餌を用意しなければ、ディメンターは自由に徘徊し、罪のない者を捕食する……」

 

「ウィゼンガモートがどう言おうが関係ありません。というのは——」  ハリーの声がつまった。 「というのは——」  ハリーは深呼吸をして自分を落ちつかせた。 近い将来に起きるできごとがありありと、太陽に照らされた黄金色の道のように目に浮かぶような気がした。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「というのは、ぼくの読みがあたっていれば、これからごく近いうちに、〈生きかえった女の子〉ハーマイオニー・グレンジャーがアズカバンに行ってディメンターをすべて破壊するからです。」

 

「不可能だ!」とマッドアイ・ムーディが言った。

 

「ああ、なんてこと。」とアメリア・ボーンズが小声で言う。 「ダンブルドアが『紛失』したあのディメンターも、そういうことだったの。だからディメンターたちはあなたに恐怖を感じていた——いまは彼女にも?」  その声が震える。 「なに、これは? なにがどうなってるの?」

 

もしハーマイオニーが死は克服できるものだと思えば——

 

以前はそう思っていなかったとしても、いまは思っているはずだ。

 

「できればアズカバン行きのポートキーを正式に手配してください——」  ハリーの声がまたとぎれ、涙がほおに流れた。

 

彼女は死ねない。ぼくがホークラックスを持っているから。

 

けれどハーマイオニーにそのことを知らせる必要はない。あと一週間は。

 

もしハーマイオニーが自分の命をかけてでもこれを終わらせようと思えば——

 

「といっても、彼女は自分なりのやりかたで行ってしまうかもしれませんが……」

 

「ハリー?」とマクゴナガル総長がたずねた。

 

ハリーはもう、ひどくしゃっくりをあげて泣いている。 しかし話すのはやめない。 自分が泣いているあいだにも、どこかでピーター・ペティグリューが待っているのだと思って。

 

自分が泣いているあいだにも、どこかでみんなが待っているのだ。

 

「三点目。 ホグウォーツの結界のなかのどこか。厳重な防衛のできる場所に。ただし緊急時には結界の外に出てポートキーを使えるような場所に。セキュリティの整った、び……病院を設置します。 〈不破の誓い〉をさせた強力な警備隊で守らせます。その〈誓い〉のためにどれだけの黄金をついやしてもかまいません。黄金はもう、文字どおりどうでもいいんです。 アラスター・ムーディに、やりすぎなほど極端な疑心暗鬼(パラノイア)の考えかたで、予算も正気も常識も捨てて、そこのセキュリティを設計してもらいます。開業を()()ということだけが条件です。」  泣くために話を中断してはいられない。

 

「ハリー。」と総長が言う。 「わたし以外の二人はその調子に慣れていないので、あなたがおかしくなってしまったと思っていますよ。 もっとゆっくり説明してください。」

 

その忠告をよそに、ハリーはポーチに手をいれ、指で文字を書き、その指で片手にあまる五キログラムの黄金のかたまりを持ちあげた。朝の実験の成果である。 それはドスンと重い音をたててテーブルに乗った。

 

ムーディが近づき、そのかたまりに杖をあててから、のどを鳴らした。

 

「アラスター、もしすぐに資金が必要ならそれが当座の予算です。 ニコラス・フラメルは〈賢者の石〉を作っていなかった。盗んだだけだった。 その経緯は秘密にされていて、ダンブルドアは知らなかったけれどモンローは知っていた。 一度仕組みがわかってしまえば、〈石〉は二百三十四秒ごとに一度人間を一人完全に健康で若く回復させることができる。 つまり一日に三百六十人、 一年に十三万四千人を治癒できるということです。 それだけの治癒ができれば、全魔法族、全ゴブリン、全家事妖精(ハウスエルフ)を老衰やそのほかどんな原因で死なせることもなくなります。」  ハリーは何度も涙をぬぐった。 「フラメルにはヴォルデモートが殺した人数の百倍以上の人の死に責任があります。彼はそれだけの数の人を救えたはずなのに救いませんでした。 フラメルはその気になればいつでも〈賢者の石〉をつかって、ムーディ、あなたの傷を治癒し足をもとどおりにすることができた。 ダンブルドアは知らなかった。きっと知らなかっただけだと思う。」  ハリーは下手に笑う。 「マダム・ボーンズ、十代に若がえったあなたは想像できませんが、きっとお似合いだと思いますよ。 それでウィゼンガモートがぼくに干渉しないように踏んばるだけの気力も出るでしょう。もしあちらが〈石〉になにかしようとしてきたら……たとえば課税とか規制とか……こちらとしてはただ、ホグウォーツをブリテンから分離して独立国家にするだけですから。 総長、ホグウォーツはもう〈魔法省〉に資金を依存することも、食料を依存することもなくなります。 教育カリキュラムも好きなように改革できます。 もっと高度な、とくにマグル学の分野の授業を追加してはどうかと思います。」

 

「ですから、もっとゆっくり!」

 

「四点目——」とハリーは言いかけて止まった。

 

四点目。 〈国際魔法機密保持法〉を整然と廃止していき、マグル世界に大規模な魔法的治癒を提供するための準備にとりかかること。 どんなかたちであれこの計画に反対する人は、〈石〉を処置される資格を失うものとする……

 

ハリーの口は動かない。動かすかどうかではなく、動かない。

 

六十億人のマグルが発想力をもって創造的なやりかたで魔法をつかうことを考えたとしたら……

 

反物質を〈転成〉するというのは小さな思いつきにすぎない。 特別に破滅的な思いつきでもない。 ブラックホールや負電荷をもったストレンジレットというものがある。 ブラックホールが魔法の定義するところではとある半径内に()()()()()()()から〈転成〉できないのだとしたら、大量の核兵器を〈転成〉することもできるし、黒死病の菌は〈転成〉がとけるより速く増殖する。五分間考えてこれだけの案ができてしまう。といってもこれだけの案があれば十分だ。 おなじことはだれかが考え、だれかが話し、だれかが試す。 それが起きる可能性は、実際上かならずそうなるとみなしていいくらいに大きい。

 

一立方ミリメートルのアップクォークを、それを束縛するダウンクォークなしに〈転成〉したどうなるだろうか。 そのあたりについてハリーは詳しくないが、アップクォークがすでに実在する物質であることはたしかだ。 クォーク全六種の名前を知っているたった一人のマグル生まれが、試してみる気になりさえすればいいだけ。 それこそが予言された世界の終わりまでの時間を刻む時計なのかもしれない。

 

できるものならその考えを合理化し、否定しようとするところなのだが……

 

そうすることもできない。

 

そうしないのがハリー・ポッターというものだから。

 

水が上から下に流れるのとおなじように、世界の壊滅につながりかねないいかなる可能性にも加担しないのがハリー・ポッターだということになっている。

 

「四番目……」  アメリア・ボーンズは惑星で顔を何度もなぐられたような表情をしている。 「四番目にはなにが?」

 

「いえ。」  ハリーの声は乱れていない。泣きくずれてもいない。 ほかにも救える命はあり、そちらを優先しなければならない。 「その話はやめておきます。 ボーンズ〈主席魔法官〉、ぼくはあなたにウィゼンガモートの運営権をゆだねました。 その地位をつかって、〈石〉の治癒力が近くだれにでも提供されるということ、同時に、いま死にかけている患者全員はどんな魔法をつかってでも生かしつづけるようにということを国際的に広報してもらいましょう。 この広報は最優先で実施してください。 それがすんでからはじめて、ピーター・ペティグリューを救出し、あなたの前職の部下たちに命じてアズカバンを閉鎖する準備をしてください。 投獄中の〈死食い人〉全員のリストと、それぞれの審判の内容と、ルシウスがそのとき不自然に弁護に消極的でなかったかどうかをまとめさせてください。 では、よろしくお願いします。」

 

アメリア・ボーンズは返事もせず、うしろを向き、自分自身が燃えているかのように急いで〈煙送(フルー)〉に突進した。

 

「それとだれか……」  手配が終わり、泣いても時間を損することがなくなったので、ハリーはまた声をつまらせる。といっても、救うべき命の大多数はまだ救えることになっていないのだが。 「だれか、この知らせをリーマス・ルーピンに届けてください。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




残りの投稿予定は
120章 12月18日
121章 12月25日
122章(最後) 未定
です。


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120章「守るべきもの——ドラコ・マルフォイ」

◆ ◆ ◆

 

少年はもう副でなくなった現総長の旧居室に近い部屋のなかで座っている。 涙は数時間まえに乾いている。 あとはこのさきの自分の行くすえを知らされるのを待つばかり。ホグウォーツの孤児院の子として、自分の生命と幸福は一族の敵の手にゆだねられるということを。少年は呼ばれるままこの部屋に来たが、それはほかにすべきこと、行くべき場所がなかったからである。 ヴィンセントとグレゴリーはそれぞれの父親の葬儀を急ぐために母親に呼び出され、少年のそばを去った。 彼もそちらに同行すべきだったかもしれないが、それだけの気力がなかった。 自分がその場でマルフォイらしいふるまいをできるように思えず、 表面上の礼儀作法をつくろうこともできないほど、自分のなかが強く空虚な感覚に満たされている。

 

みんな死んでいる。

 

父が死に、その場合に後見人になるはずだったミスター・マクネアも死に、予備の後見人のミスター・エイヴァリーも死んだ。 母のいとこにあたり、ブラック家の最後の生きのこりで、もともとマルフォイ一族と反りがあわなかったシリウス・ブラックまでもが死んでしまった。

 

みんな死んでいる。

 

部屋の扉にノックの音があった。少年が返事をしないでいると、扉がひらき、そこから——

 

「帰れ。」とドラコ・マルフォイはあらわれた〈死ななかった男の子〉に言った。語気を強めようにも、そうすることができない。

 

「用件はすぐに終わる。」と言ってハリー・ポッターが部屋に足をふみいれる。 「ある決断をしてもらいたい。きみにしかできない決断を。」

 

ドラコはハリー・ポッターを見ているだけの気力ものこっていなかったので、壁に顔をそむけた。

 

「きみにこれからのドラコ・マルフォイの運命を決めてもらう。 これを不吉な意味に受けとらないでほしい。 どんなことがあっても、きみが〈元老貴族〉家の裕福なあとつぎであることに変わりはない。 ただ……」  ハリーはそこでためらった。 「ただ、きみがまだ知らない悲惨な事実がひとつある。きみがそれを知れば、きみはぼくと絶交すると言うように思えてならない。 ぼくはきみと友だちでいたい。 けれど——それを秘密にして——きみと友だちでいつづけるために、その嘘を言いつづけるのは——いやだ。 そうするのは正しくもない。 もう……もうそういうのはやめたい。もうきみを()()することはしたくない。 ぼくはもうきみを傷つけすぎた。」

 

それなら友だちになろうとするのをやめればいい、どうせきみは向いていない—— ドラコの意識にその一言がのぼったが、口が拒否した。 ハリーが自分との友情をだしにしてやったこと、数かずの嘘と誘導のことを思うと、ドラコはほとんどハリーとの仲は終わったような気がしていた。 それでもこのまま一人でスリザリンに戻るのは……ヴィンセントとグレゴリーの母親が契約を終わらせていてあの二人もいなくなっているかもしれないと思うと……いやだと思う。このままスリザリンに戻り、スリザリン寮に〈組わけ〉されることに同意した人たちとだけ付きあって一生を終えるのは、いやだと思う。 ドラコにはかろうじて、自分と真に親しい人たちのうち何人もがハリーとも親しいのだということを思いだすだけの理解力がのこっていた。パドマはレイヴンクローであり、セオドアですらカオス軍の士官だ。 マルフォイ家にのこされたものはもはや伝統しかない。そしてその伝統によれば、戦争の勝者に対して、こちらに近づくな、友好的であろうとするのをやめろ、と言うのは賢明ではない。

 

「わかった。」と無感動に答える。 「言ってくれ。」

 

「そうするつもりだ。 そして話が終わってぼくが退室すれば、総長が来て、きみの直近三十分の記憶を封印する。 けれどそのまえに、掛け値のない真実を知った状態で、きみはぼくと付きあっていたいかどうかを判断することができる。」  ハリーの声が震える。 「それじゃ。 ここに来るまえに読んできた記録によると、話は一九二六年にトム・モーフィン・リドルという名前の半純血の魔法使いが生まれたときからはじまる。 彼の母親は産褥死し、彼はマグルの孤児院で育ち、やがてダンブルドア教授がホグウォーツからの手紙をたずさえてそこを訪ね……」

 

〈死ななかった男の子〉は話しつづける。その声は、かろうじて残っているドラコの精神に倒壊する家並みのように襲いかかる。

 

〈闇の王〉は半純血だった。純血主義を一瞬たりとも信じたことがなかった。

 

トム・リドルは悪い冗談としてヴォルデモート卿という存在を思いついた。

 

〈死食い人〉はデイヴィッド・モンローに敗れ、モンローが君臨するはずだった。

 

トム・リドルはその路線をやめて、勝とうという気もなくヴォルデモートを演じつづけることにした。それは〈死食い人〉をあごで使える立ち場が気にいったからでしかなかった。

 

ヴォルデモートはドラコを利用し、父上(ルシウス)にドラコに対する殺人未遂の罪を着せようとした。さらにまたドラコを利用し、〈賢者の石〉を狙わせた。  ドラコはその部分を記憶していないが、スプラウト先生とともに自分が駒として利用された、そのため自分たちが告発されることにはならなかった、という話は聞いていた。

 

そして最後の凶報。

 

「きみが——」とドラコ・マルフォイが小声で言う。「きみが——」

 

「昨夜、きみのお父さんと〈死食い人〉たち全員を殺したのはぼくだ。 〈死食い人〉たちはぼくがなにをしてもすぐに撃つようにと命令されていた。だからぼくは世界全体にとって危険なヴォルデモートをどうにかしようするなら、まず彼らを殺さなければならなかった。」  ハリー・ポッターの声は緊張している。 「ぼくはそのとき、きみとセオドアとヴィンセントとグレゴリーのことを考えていなかった。けれど考えていたとしても、おなじことをしていたと思う。 〈ミスター・ホワイト〉がルシウスだったということには当時気づかなかったけれど、気づいていたとしても、彼が無杖魔法をつかえる可能性を考えれば、生かしておく気にはなれなかったと思う。 〈死食い人〉全員が急死すれば政治面でとても都合がいい状況になるということには、かなり早い時点で気づいていた。 ぼくはずっと〈死食い人〉を悪人だと思っていた。きみと最初にあった日以来、その部分の本心をきみにはかなり控えめにしか表現しないようにしていた。 仮にきみのお父さんがあそこにいなかったとして、その場にいないお父さんを殺すボタンが手元にあったなら、ぼくはそのボタンを政治的な理由のためだけに押すことはしなかっただろうと思う。 ぼくがいま自分のしたことをどう思っているか、後悔はあるのかと言えば…… 一般論としてだれを殺すことについても強い拒否感がある自分がいる。いっぽうで、倫理的に言えば、〈死食い人〉はヴォルデモートと手をくんだ時点で自分の命への権利をなくしていたと言っている自分もいる。 最初にこちらに杖をむけてきたのは向こうだとか言うこともできる。 でもいまはただ、きみに対して自分がしてしまったことについて吐き気がする。前回とおなじように。多分……」  ハリー・ポッターの声がやや揺らいだ。 「()()でやっているつもりでも、ぼくがきみにすることはきみを傷つけてばかりだ。きみはぼくと付きあっていてなにかを失ったことしかない。だからきみがぼくに、これからドラコ・マルフォイと一切かかわるのをやめろと言うなら、ぼくはそうする。 二度ときみを誘導しようとも利用しようとも傷つけようともせず今度こそ友だちになろうとしてもいいと言ってくれれば、ぼくはそうする。誓ってそうする。」

 

次期マルフォイ家当主は泣いている。敵をまえに隠しもせず泣いている。みなが死んだいま、だれのために作法や余裕をたもつこともなくなったから。

 

嘘。

 

嘘。

 

すべては嘘だった。あれもこれも、嘘に嘘を塗りかさねた嘘——

 

「死んでくれ。」  ドラコは無理をして声をだす。 「父上を殺したきみも死ぬべきだ。」  その発言で自分のなかがいっそうの空虚さに満ちたが、それでも言う必要があった。

 

ハリー・ポッターはただ首をふった。 「もしそれがかなわなければ?」

 

()()()べきだ。」

 

ハリーはまた首をふるだけ。

 

〈死ななかった男の子〉はマルフォイ家当主に決断を求める。

 

マルフォイ家当主は拒否する。どちらの答えも言うに言えない。この戦争の勝者に、そしておたがいの共通の友人に、自分と手を切らせることにつながる答えは言えない。いっぽうでハリーが求める許しをハリーにあたえたくもない。

 

なのでドラコ・マルフォイは答えることを拒否した。そのため、この自我の記憶はそこで途切れている。

 

◆ ◆ ◆

 

少年はもう副でなくなった現総長の旧居室に近い部屋のなかで座っている。 涙は数時間まえに乾いている。 あとはこのさきの自分の行くすえを知らされるのを待つばかり。ホグウォーツの孤児院の子として、自分の生命と幸福は一族の敵の手にゆだねられるということを。少年は呼ばれるままこの部屋に来たが、それはほかにすべきこと、行くべき場所がなかったからである。 ヴィンセントとグレゴリーはそれぞれの父親の葬儀を急ぐために母親に呼び出され、少年のそばを去った。 彼もそちらに同行すべきだったかもしれないが、それだけの気力がなかった。 自分がその場でマルフォイらしいふるまいをできるように思えず、 嘘をつくろうこともできないほど、自分のなかが強く空虚な感覚に満たされている。

 

みんな死んでいる。

 

みんな死んでいる。すべては最初から無意味だった。

 

部屋の扉にノックの音があった。作法どおりにしばらく待つと、やがてマクゴナガル総長があらわれた。服装は一教員であったときとほとんど変わらない。 「ミスター・マルフォイ?」と一家の敵であり勝者であるその人が話しかける。 「わたしについてきなさい。」

 

けだるい気持ちでドラコは立ちあがり、彼女について部屋をでた。 でてすぐの場所にハリー・ポッターがひかえていたのに目がとまったが、ドラコの精神はそれをただ遮断した。

 

「最後にこれを。」とハリー・ポッターが言う。 「ぼくはこれを羊皮紙の封筒にはいっている状態で見つけた。封筒には、これはマルフォイ家に対する最終兵器だと書かれていた。戦争の勝敗が究極的に危うくなるまでそのつづきを読んではならないとも書かれていた。 きみが決断するまえにこれのことを知らせると、決断が不公正にゆがんでしまうおそれがあると思って、知らせないでおいた。 きみがよい人で、殺したことも嘘をついたこともないとして、そのどちらかをこれからしなければならないとしたら、どちらがましだと思う?」

 

ドラコはそれを無視し、マクゴナガル総長に付いて歩きつづけ、悲しげな表情のハリーをあとにした。

 

二人は総長の元居室までやってきた。総長は杖をひとふりして〈煙送(フルー)〉の暖炉に点火し、緑色の炎にむけて「グリンゴッツ交通案内所」と言い、ドラコがいる方向をじっと見てから炎に足を踏みいれた。

 

ほかにどうしようもなかったので、ドラコ・マルフォイはそのあとを追った。

 

◆ ◆ ◆

 

彼女はこの朝、いつも以上に気だるさを感じてベッドに横たわっていた。太陽がまだ顔をだしかけたばかりの時間に目がさめてしまった——といっても、周囲に摩天楼があるせいで、この家に日光が直接あたることはないのだが。 こめかみの痛みに二日酔いの気配があり、口が乾いている。酒は(なんのためにひかえるのだろうかと思いつつも)ひかえるようにしているが、昨日は……ふだん以上に気分が落ちこんでいた。まるでなにかをなぜかなくしてしまったような感じがしていた。 考えるのは何度目だろうかと思いながら、引っ越すことをまた考える——アデレードか、パースか、いっそのことパースアンボイにでも、と思う。 ずっと以前から、自分の居場所はどこかほかにある、という感覚があった。しかし、いくら保険会社からの支払いで不自由なく暮らせているとはいえ、贅沢をする余裕はない。 自分の行き場のなさを解消したいがために世界を放浪するような資金はない。 いくら延々とテレビを見ても、旅行記のレンタルビデオをいくつ借りても、このシドニーよりすこしでもしっくりくる土地が映像のなかに現れることはなかった。

 

彼女は交通事故で記憶を失って以来ずっと、時間が止まって身動きがとれなくなっているように感じていた——いまは家族であったように思えもしない死んだ家族についての記憶もそうだが、たとえばストーブの仕組みについての記憶までもがなくなっていたのである。 自分はなにを待ち望んでいるのか。どんな鍵があれば自分の人生をまた動かしはじめることができるのか。それがなんであるにせよ、そのなにかもまた、あの暴走するミニバン車に奪われたのかもしれない、いや、そうだという確信がある。 彼女はそのことを毎朝といっていいほど考えつづけ、自分の人生と心から失われたなにかを言いあてようとしていた。

 

だれかがドアの呼び鈴を鳴らした。

 

ああもう、と言って、ベッド脇においてあるLEDの目覚まし時計が見える程度に首をまわす。 6:31。AMという部分も光っている。勘弁してほしい。まあ、あのだれかをいくら待たせてもばちは当たらない。好きなだけよたよたと歩かせてもらうことにしよう。

 

そう思って、また呼び鈴が鳴るのもかまわず、彼女はベッドから迷い出ると、洗面所に引きこもり身じたくをした。

 

こういう訪問者への応対は別のだれかの仕事のはずだ、という拭いがたい感覚を無視して、よたよたと階段をおり、閉じたままのドアにむけて言う。 「どなた?」  ドアにはのぞき穴があるが、(くも)っていてなにも見えない。

 

「ナンシー・マンソンさんですか?」と女性の声がした。きっちりとしたスコットランドなまりだった。

 

「そうですが。」とナンシーは警戒しつつ答えた。

 

「『ユーノエ』」とまたおなじ声が言うと、光線がドアから飛んできた。ナンシーはおどろいて飛びのいたが、それでも()()してしまい……

 

ナンシーはよろめいて、ひたいをさすった。光線がドアを通過し、人間に着弾する。そんな……そんなことがあって……あっても、おどろきではないような気がする……

 

「このドアをあけていただけませんか?」とスコットランド風の声がする。 「戦争は終わりました。あなたはまもなく記憶を回復します。 ぜひあなたに会っていただきたい人がここにいます。」

 

記憶を——

 

思考がよどみ、あたまのなかからなにかが飛びだしてきそうな感じがする。それでもなんとか、ナンシーはドアを引いてあけた。

 

ドアのむこうにいた女性は(()()()()()()()())服装の魔女。黒ローブといい、とんがり帽子といい、上から下までただの魔女——

 

——その横には、白金色の髪の毛を短く切りそろえた少年がいる。緑色のふちどりがついた暗色の(()()()()()()()())ローブすがた。少年は口をぽかんとあけていて、見ひらかれたその両目に見る見る涙がたまっていく。

 

緑色のふちどりのローブ、白金色の髪……

 

なにか温かく感じられるものが記憶のなかでぐらりと動き、 思いがこみあげてくる。この十年間ずっと探しもとめていたなにかに、いまやっと出会えたのかもしれないと感じられる。 心の奥底で氷が音をたてて解けだし、自分のなかであまりにも長く止まっていた部分がもう一度動きだそうとする。

 

少年はこちらを見つめ、口を動かしている。しかし声は出ていない。

 

謎めいた名前が彼女の心のなかに浮かびあがり、口をつく。

 

「ルシウス?」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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121章「守るべきもの——セヴルス・スネイプ」

重い空気に支配された総長室。 ミネルヴァはドラコとナルシッサ(ナンシー)を聖マンゴ病院に送りとどけたあと、この場所にもどっている。マルフォイ夫人は十年間マグルとして生きたことで健康に支障がでたかもしれないので、病院で検査を受けているという。ハリーはこの総長室にまたやってきて……なにを優先すべきか分からないでいる。 すべきことは()()()多くあり、なにから手をつけるべきか、マクゴナガル総長ですら判断しかねるほどらしく、ハリー自身がそうであることは言うまでもない。 いまはミネルヴァは羊皮紙に字を書いては手をふってそれを消すことをくりかえしている。ハリーは考えをまとめようと目を閉じている。 現時点で、ちょうど()()()()打つべき一手はなにかあるだろうか……。

 

ダンブルドアのものであったオーク材の大扉をノックする音があり、マクゴナガル総長は扉をあける一言を言った。

 

入室したその男は、くたびれて見えた。車椅子はもう捨てているが、足を引きずっているのは変わらない。 着用しているローブは黒色で、かざりけはないが清潔で染みがない。 左肩にひっかけた背嚢は灰色の頑健な革製で、銀色の細工がほどこされ、緑色の真珠のような石が四つはめられている。 マグルの家一軒ぶんの家財をいれられそうなほどの、どこまでも魔法的な背嚢のように見える。

 

ひとめ見て、ハリーは事情を察した。

 

マクゴナガル総長が新しい机のむこうで硬直している。

 

セヴルス・スネイプはそちらにむけて目礼した。

 

「これはなんのつもりですか?」と言う総長の声にはどこか……悲痛なひびきがあった。ハリーと同様に、ひとめで事情を察したように見える。

 

「わたしは本日をもってホグウォーツ薬学教授を辞職します。 最終月の給与を受けとるつもりはありません。 これまでわたしの言動に傷つけられた被害者が救済を必要としていることもあるでしょう。残金はそのために役立てていただきたい。」

 

知っているんだ——とハリーは思ったが、実のところ〈薬学〉教授が()()()知っているのか、うまく言語化することはできない。ただ、知っている、ということだけが分かる。

 

「セヴルス……。」とマクゴナガル総長が口をひらいた。声が空虚にひびく。 「セヴルス・スネイプ教授、あなたの代役をさがすことがどれほどむずかしいか、お分かりですか。 マグル生まれの生徒に安全に〈薬学〉を教えることのできる人物も、スリザリン寮に多少なりとも秩序をもたらすことができる敏腕な教師も、簡単に見つかるものではありません……」

 

男はまた目礼した。 「総長、あなたには言うまでもないことでしょうが、スリザリン寮監の後任にはわたしと似ても似つかない人物を選ぶべきだと思います。」

 

「あなたはアルバスにそうせよと言われていただけでしょう! 辞職せずとも、以前のようなふるまいをやめればいいのです!」

 

「総長。」とハリーは口をはさむ。ハリーの声もなぜか空虚なようだ。セヴルス・スネイプとはそれほど長いつきあいではないのに。 「本人がやめたいのなら、やめさせるべきです。」

 

彼はダンブルドアの道具だった。 クィレル先生が考えていたような意味ではないかもしれない。スリザリンを崩壊させるためではなく、予言のためにやっていただけかもしれない。それでも、ダンブルドアは彼を利用していた。 その気さえあれば、ダンブルドアはいくつかのことを打ち明け、セヴルスを解放することもできた。 ダンブルドアがそうしなかったのは明らかにリスクを避けるためだが、 セヴルスは思いやりのないやりかたで利用されていたことは変わらない。 セヴルスの無知、セヴルスの死んだ人へ思いすらも、利用されていた。〈薬学〉教授としての自分のふるまいがどういう結果をもたらすか、気づかなかったくらいなのだから……

 

「ここにいてくれて助かった。ミスター・ポッター、われわれ二人のあいだにはまだ、やりのこしたことがある。」

 

ハリーはなんと言えばいいかわからず、ただうなづいた。

 

灰色の背嚢を肩にかけて立つセヴルスは、なかなか話をはじめられないようだった。 しばらくしてやっと告げるべきことばが見つかったようだった。 「きみのお母さんは…… リリーは——」

 

「わかっています。言わなくてもいいです。」と、のどにつかえさせつつハリーが言った。

 

「リリーは芯のとおった立派な魔女(じょせい)だった。わたしの発言で、すこしでもその逆の印象をあたえてしまったのではないかということが心のこりだった。」

 

()()()()?」  ミネルヴァ・マクゴナガルは、自分の靴が噛みついてくるのを見たかのように愕然とした顔をしている。

 

元〈薬学〉教授はハリーから視線をそらさない。 「わたしとリリーのあいだには、一つならざる壁があった。わたしは自分の寮にいる純血者の機嫌をとろうとして、とりわけ愚かなことをしていた。 泥のうえでのたった一度の失敗が二人の関係を終わらせたのだとか、わたしを愛しない理由は彼女自身の軽薄さ以外にありえないという風なことを言ってしまったとすれば、申し訳ない。きみの蔵書はきっと、愚か者がなぜそのようなことを言うのかも説明してくれていると思う。」

 

「はい。」と言って、ハリーはセヴルス・スネイプの左肩の上等な灰色の背嚢を見た。目をあわせることができないまま、「はい。」ともう一度くりかえした。

 

「しかし……悪いが父親のほうについては、補足して言うべきことは一切ない。」

 

「セヴルス!」

 

元〈薬学〉教授はハリーだけを見ているようだった。 「わたしの腕の〈闇の紋章〉は消えていない。そして仮にきみがあの場で聴衆に聞かせたとおりのことが起きたのだとすれば、予言は成就されえない。 〈闇の王〉のかけらのみを残して滅ぼすという予言のために、きみはなにをしたのだ?」

 

ハリーは言いよどんだ。「記憶の大半を〈忘消〉(オブリヴィエイト)して彼を……封印した、とでも言えばいいでしょうか。魔法族の言いかたでは。 たとえその封印がとけたとしても、彼にもとの人格はもどりません。」

 

セヴルスは一瞬眉をひそめてから、肩をすくめた。 「まあそれ以上は望むまい。」

 

「スネイプ先生。」 これを言うこともまた自分の責務になったのだと思って、ハリーが言う。「〈不死鳥の騎士団〉はあなたの貢献に報いる義務があります。 ぼくには金銭的にも、魔法的にも十分に借りを返す手だてがあります。 もしこれからの人生のために入用なものがあれば言ってください。ゆたかな財産でも毛髪でも、遠慮なく。」

 

「わたしのような人間を相手に、妙なことを。」と元〈薬学〉教授は軽くからかうように言う。 「わたしはどんな暗黒に身を落としてでもリリーの愛をえようと思って〈闇の王〉のもとに参上し、あの予言を売った。たやすく許されるべきことではない。 そのあとも、〈薬学〉教授としての立ち場で長年……これはきみもみずから体験したとおりだ。 これだけの罪が、〈不死鳥の騎士団〉への貢献でつぐなえたと?」

 

「傷のない人はいません。」 ハリーはやっとのことで言う。「失敗はだれにでもあります。少なくともあなたは、つぐなおうとした。」

 

「なるほど、そうかもしれない。」と元〈薬学〉教授(ポーションズ・マスター)は言う。「わたしの最後の任務は、〈石〉を守ることに失敗して倒されることだった。忠実にそのとおりにしたが、自分が生きのびるとは思いもしなかった。」  セヴルスは部屋のなかからドアにもたれ、足にかかる体重をそらす。 「許しを請うつもりもなかった。だがこれほどすなおに差しだされた許しだ。ありがたく頂戴しよう。 今日からわたしは、もうすこしおだやかな道を行きたい。そのためには、一から出なおすのが最善だと思う。」

 

ミネルヴァ・マクゴナガルの鼻とほおに涙が光った。口はひらいたが、声は希望をうしなっていた。 「この学校でも、出なおすことはできるのではありませんか。」

 

セヴルスはくびを横にふる。 「ここには、邪悪な〈薬学〉教授としてのわたしを知る生徒が多すぎる。 ミネルヴァ——わたしは新しい場所で、新しい名前を持って、新しい出会いを見つけることにしたい。」

 

「セヴルス・スネイプ……もう、やりのこしたことはありませんか?」とハリーは自分の新しい責任をはたすために言った。

 

「リリーを殺した男が滅んだ。わたしはそれで満足だ。」

 

総長はこうべをたれた。 「お元気で、セヴルス。」

 

「最後にひとつだけ助言したいことがあります。」とハリーが言う。「聞きたいですか。」

 

「言ってみてくれ。」

 

「過ぎたことを思い悩むのは鬱の原因のひとつです。 あなたは過去について、これからはいっさい考えなくていい。ぼくはそう許可します。 リリーに対する責任として罪を背負っていく必要があるなどと考える必要はありません。 これからは自分の将来や新しい出会いのことだけに専念してください。」

 

「……その見解は参考にさせてもらう。」

 

「ついでに、シャンプーのブランドも変えてみたほうがいいですよ。」

 

ゆがんだ笑みがセヴルスの顔をよぎった。ハリーがはじめて見るセヴルスの正直な笑みかもしれなかった。 「くたばれ、ポッター。」

 

ハリーは笑った。

 

セヴルスは笑った。

 

ミネルヴァはすすり泣く。

 

自由の身となったその男は、そこで話すのをやめ、〈煙送(フルー)〉の粉をひとつまみして総長室の暖炉に投げいれ、彼自身にしか聞こえない小さな声でなにかを言うと同時に、緑色の炎のなかへ足を踏みいれた。 以来、セヴルス・スネイプの消息を知る者はない。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 



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122章「守るべきもの——ハーマイオニー・グレンジャー」

◆ ◆ ◆

 

それが夕となり、また朝となった。最後の日、一九九二年六月十五日である。

 

夜明けまえの、太陽がまだのぼっていない時間。はじまりの時の光は弱く、空はまだごくわずかしか明るんでいない。 ホグウォーツ城の東、クィディッチ場のむこうの、太陽がのぼってくる方向の地平線上の丘の上の空も、うっすらと灰色が混じりはじめたにすぎない。

 

ハリーがいまいる石の展望台は、眼下の丘陵のむこうがわの朝焼けも見えるほど高い位置にある。この新しい居室をもらうとき、ちょうどそういう条件をつけたのである。

 

ハリーはいまクッションの上にあぐらをかき、手と顔を夜明けまえの涼風に吹かれている。 最初はカオス軍司令官室の手磨きの玉座を家事妖精(ハウスエルフ)にもってこさせようとした……が、自分のその好みがどこから来たのか、ヴォルデモートも似たような玉座をもっていたのではないか、ということが気になりはじめて、撤回した。 反論がありえないわけではない——自分の道徳哲学上、磨かれた玉座にすわってホグウォーツ城下の土地を検分するという行為にどこにも()()()()なところはない——が、しばらく時間をかけてよく検討すべきではあるとハリーは判断した。 そのあいだ、当面はただのクッションで用はたりる。

 

足もとの、この屋上に木製のはしごでつながっている部屋が、ホグウォーツ内でのハリーの新しい居室である。 壁全面を採光用に窓にした広い部屋で、いまのところ椅子が四つと机が一つあるほか、家具はない。 ハリーが部屋の条件を伝えると、マクゴナガル総長は〈組わけ帽子〉をかぶり、曲がりくねった道すじを告げ、その終着点に所望の部屋があると言った。 城の高さからしてありえないほどの高さにある部屋で、外の人からはどう見ても城との接続部分が見えない部屋というのが条件だった。 これは狙撃手に対する初歩的な予防措置であり、このようにしない理由がないとハリーは思う。

 

ただ、そのかわり、ハリーは実のところ自分がいまどこにいるのかをまったく把握していない。 この部屋は下の地面から見えないのだとして、それならなぜここから地面が見えるのか。光子(フォトン)は地表からどのようにしてここにたどりつくのか。 夜明けまえの空気は()んでいて、西の地平線にはまだ星が光っている。 想像を絶する距離にある星の巨大なプラズマ炉で発せられた光子がそのままとどいているのか。 それともこの場所はホグウォーツ城のまぼろしかなにかなのか。 それともこのすべては『ただの魔法』であって、それ以上の説明はないのか。 まず魔法がある場所で支障なく電気を使える方法をみつけておかなければ、レーザーを上や下に照射する実験もできない、とハリーは思った。

 

話をもどせば、ハリーはいま、ホグウォーツ内に自分の居室をもっている。 まだ正式な称号はないが、〈死ななかった男の子〉はいまやホグウォーツ魔術学校の構成要素である。この学校はまもなく〈賢者の石〉を擁する魔法世界唯一の真の高等教育機関となる。 部屋と屋上のセキュリティは万全ではないが、ヴェクター先生に魔法とルーン文字で予備的な盗聴対策をかけてもらってはある。

 

ハリーは居室の屋上のへりにクッションをおいて座り、木々と湖沼と草花を見おろしている。 はるか下に馬車が止まっているが、まだそれを引く骨ばったウマたちはいない。 小さな船が岸のあたりに散らばり、新入生をのせて湖を横断する日を待っている。 ホグウォーツ急行はすでに夜のうちに到着し、その客車と旧式の機関車は南の湖のむこうがわの岸で待機している。 朝の〈休暇の宴〉が終わりしだい生徒たちを連れて行く準備ができている。

 

ハリーは湖とそのむこうにある旧式の大きな蒸気機関車をながめる。ハリーは今回はそれに乗って帰らない。というより、今回も。 そう考えると奇妙な悲しみと不安が生まれる。自分は()()()()()()()()()()()と体験を共有して親交を深めることができなくなりつつあるのではないか——といっても、自分の大きな一部が一九二六年生まれであることを考えれば、おなじ年ごろとは言えないのかもしれない。 昨夜レイヴンクローの談話室にいたとき、自分と他の生徒とのあいだの距離が、たしかに広がっているように感じられた。 ただしそれは、パドマ・パティルとアンソニー・ゴルドスタインが興奮気味に話しあい、矢継ぎ早に推測をしあっていた〈生きかえった女の子〉の話題に関して、 こちらがひとつのこらず知っている答えをあの二人には明かすことができなかったせいであったかもしれない。

 

いったんホグウォーツ急行に乗り、降りたら〈煙送(フルー)〉でホグウォーツにもどる、という案に魅力を感じている自分もいる。 しかし客車の個室でもう五人の生徒といっしょになること、それから八時間、秘密を守りながらネヴィルやパドマやディーンやトレイシーやラヴェンダーと過ごすことを考えると……あまり魅力的ではないように思える。 〈ほかの子どもたちとの触れあい〉のためにそうしているべきであるという気もするが、そう()()()という気はしない。 いずれつぎの学年がはじまればまた会えるのだし、そのときにはもっと自由に話せる話題もあるだろう。

 

ハリーは南の湖とそのむこうにある古い巨大な蒸気機関車をながめ、このさきの自分の人生について考える。

 

〈未来〉について。

 

ダンブルドアの手紙にあった、ハリーが星ぼしを引き裂くという予言は……その部分だけなら、楽観的な意味があるように思える。 適切な育てられかたをした人ならだれでも思いつく解釈がひとつある。 人類がおおむね勝利した未来のことを言っているという解釈だ。 星を見るときにいつも考えるようなことではないが、真に()()()()視点から見れば、恒星は貴重な天然資源の巨大なかたまりがうっかり発火してしまったものにすぎず、解体して消火すべきものだ。 恒星という、水素とヘリウムの巨大な貯蔵庫から天然資源をとりだせるようになった時点で、その種族は成熟の段階に達することができたと言える。

 

ただし、問題の予言はまったく別のことを指していた可能性もある。 ダンブルドアはどこかの〈予見者〉のことばを誤解していたかもしれない……けれどあの手紙を読むかぎりでは、近い将来にハリー()()()星ぼしを引き裂く、と言っている予言があるらしく聞こえた。 だとすれば、それはもう少々心配すべきことのようにも思えるが、そのとおりである確証はないし、そのとおりであったとして悪いことだとはかぎらない……

 

ハリーはためいきを漏らした。 昨晩なかなか眠りにつけないでいるあいだに考えて、ダンブルドアの遺言のこのような含意が、だんだん見えてきたのだった。

 

現在の知識をもとに、一九九一/一九九二年の一学年に起きたできごとをふりかえると、骨も凍るほどおそろしいことばかりだ。

 

問題はそのあいだずっとハリーがヴォルデモート卿とよろしくやっていたというだけにとどまらない。というより、問題の大部分は別にある。

 

アルバス・ダンブルドアがいかに細い〈時間〉の線を運命の小さな鍵穴に通していたかということ。それがいかにあやうい、針の穴に糸を通すがごとき可能性のすじであったかということ。

 

数かずの予言に指示されて、ダンブルドアはトム・リドルの知性を魔法族の赤子の脳に転写させ、その子がマグル科学をまなんで育つように仕向けた。 もし()()が予見者たちの見つけうる、破滅を回避するための最初の、あるいは最良の戦略であったとしたら、それは〈未来〉のありようについてなにを言っていることになるだろうか。

 

いま思えば、あの〈不破の誓い〉をしていなかったとしたら、昨日自分が〈国際魔法機密保持法〉を廃止することを考えたときが、災厄の出発点となっていたのかもしれない。 すると、ダンブルドアが読んだ数かずの予言の指示のとおりに行動していたことが巡り巡って、ハリーとヴォルデモートを()()()()()()()()()やりかたで衝突させ、ヴォルデモートがハリーにあの〈不破の誓い〉をさせる結果になった、という筋書きが強く示唆される。 あの〈不破の誓い〉も、〈時間〉の小さな鍵穴の一部、すなわち地球に住む者が生きのこるための実現不可能に近い前提条件のひとつであったということ。

 

地球に住む者たちを現在のハリーの()()()から守るためだけにある〈誓い〉。

 

それは自分があと一歩で交通事故になるところだった瞬間の前後の映像を見るのと似ている。もう一台の車があと数センチメートルの距離でぶつかりかけた記憶があり、映像にはだれかが()()()小石をちょうどいいところに投げて巨大なトラックがその衝突にくわわらないようにしてくれたことが映っている。もしその小石がなければ、こちらの車にいる自分と自分の家族と()()()()()()()()()がトラックにぶつかられていた。(ここでは自分の()()()()()()()()()()をトラックに見立てている。)

 

〈誓い〉が自分を止めた、ということは自分はそれ以前にその危険に()()()、一面でそれを()()()()()にちがいない。()()()()()()()、自分はまちがった選択をして世界を壊滅させかけてしまった。 いまなら、魔法的治癒をマグルに迅速に拡大してはならないという理屈を、別の時間線上の〈誓い〉をしていない自分はそう簡単に受けいれられなかったであろう、と想像することができる。 別の時間線上のその自分なら、危険があることを認めたとしても、それを合理化してしまっている——なにか巧妙な抜け道をみつけだし、()()()()()()()()()()()()()ことは許容できないと主張していて、その結果、世界は滅亡している。 ハリーがあれだけ多くの警告を受けていてなお、〈不破の誓い〉なしに破局は避けられなかった。

 

針の穴をくぐる、一本の細い〈時間〉の糸。

 

ハリーはこの情報に対処する方法を知らない。人類はこのような状況が発覚したとき、それに対処するための感情をもつように進化していない。 ハリーにできるのは、自分がこれほど災厄に近づいてしまっていたということ、〈誓い〉の発動するのが一度だけではないかもしれないと認め、自分が()()そうなるかもしれないということを見つめ、考えることだけ……

 

考える……

 

『もう二度とおなじことを起こしたくない』と思うのは正しくないように思える。 もともと自分は世界を壊滅()()()()とは思っていない。 自分に地球の知的生命を守る気持ちが欠けていたのではなく、むしろその気持ちがあることが、ある意味で問題だった。 欠けていたのはある種の見通す力、自分でもひそかに気づいていたことを意識的にそれと認める意志力だった。

 

また、過去一年間ハリーが〈防衛術〉教授となかよくしていたことも、ハリーの知性を高く評価する材料にならない。むしろそれは、同じ問題の所在を示唆しているようですらある。 どちらの場合も、ハリーが意識下で気づいていたか懸念していたことが意識的注意の俎上に上がらなかった。 そのためにハリーは失敗し、死にかけた。

 

ぼくはゲームのレヴェルを上げなければならない。

 

探していた思考はこれだ。 自分はいまよりうまくやれるようになる必要がある。愚かさを減らす必要がある。

 

ゲームのレヴェルを上げられなければ、失敗だ。

 

ダンブルドアの手紙には、ダンブルドア自身が〈予言の間〉の記録物をすべて破壊し、将来の記録もおこなわれないようにしたとあった。 ハリーにそれらの予言を見せるべきでないという予言があったために、そうしたらしい。 そこから当然思いつくべき可能性は(実際そのとおりであるかどうかはおいておくとして)、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということ。 勝利への筋道は〈占術〉のメッセージにふくめられないほど複雑なのか、もしくはなんらかの理由で予見者の目に見えないものなのであろうということ。 ダンブルドア自身の手で世界を救う手段があったなら、予言はおそらくダンブルドアにそのやりかたを伝えている。 予言が実際にしたことは、ある種の人間が存在するための前提条件をととのえさせる手順をダンブルドアに伝えることだった。つまり、予言が直接解決できないほどややこしい問題を、解消してくれる可能性のある人間を存在させるために。 だからこそハリーは独力で、予言のみちびきなしに考えさせられることになった。そうでなければ、未知の課題にとりくむことのできる人間として成熟することができなかったから。

 

そしてハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスはいまだに、〈不破の誓い〉で束縛されていなければ()()()地球を壊滅への道にむかわせる、歩く災難である。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のである。 まさにそのとおりのことが、ヴォルデモートの世界征服未遂の手つだいをした翌日、いまから一日まえに起きたのだから。

 

トールキンの書いたとある一文が、ハリーのあたまのなかをぐるぐるとまわっている。フロドが〈滅びの山〉の上で指輪をつけ、サウロンが自分が()()()()()()()()()()()()ことをはたと悟るシーン。たしか『サウロンはみずからの過ちの大きさをついに目のあたりにさせられ』、というような一文だった。

 

あるべき自分と現在の自分のあいだには巨大な断絶がある。

 

時間や人生経験や思春期のおとずれが自動的にそれを解決してくれるようには思えない。多少の助けにはなるというのが精々だろう。 それでも、もしふつうの十一歳がふつうの大人に成長するように()()自我が成長するのだとすれば、()()()()()()〈時間〉の小さな鍵穴をくぐりぬけるのに足りるかもしれない……。

 

ハリーはなんらかの方法で成長しなければならず、そのための既成の道は存在しない。

 

トールキンとは別の、より無名なフィクション作品のことが思いだされる。

 

そなたたちは自分が学んだ技を鍛錬し、試練に直面してその真価を理解し、教わった手段を最大限に活用し、にもかかわらずそれを自分の手のなかで粉ごなにされ、一面の瓦礫の山のなかにおかれることを通じてのみ、名人の域に達することができる…… わたしに名人を作ることはできない。名人を作る方法など知らない。 行け、そして失敗せよ…… そのときそなたたちは瓦礫のなかから生まれるなにかに変わり、みずからの技芸を鍛えなおす決意を得ている。 わたしに名人を作ることはできないが、教えを受けなかった者が名人になれる可能性はさらに低い。 自分が自分の技芸に裏切られたと思えたとき、はじめて一段上の道が始まる。実際には自分が自分の技芸を裏切っているのではあるが。

 

ハリーが道をあやまったわけではないし、正気にたどりつくための道が科学の外にあるのでもない。 しかし科学論文を読む()()でいいとも言えない。 人間の脳にはあれこれのバグがある、という認知心理学の論文をいろいろ読むことは()()()()()()が、()()ではなかった。 実際に()()()()()()()()()()ことに手をつけるという、想像を絶するほど合理的な人間になるための水準は、自分があれこれの失敗をしたと後づけで説明する方法を知っているのと比べて()()()()()()()高く、ハリーはそこに到達できていなかった。 この一年のあいだに自分が正しい判断をしそこねた事例に対し『先入観による認知』などの概念をあてはめてふりかえることはできる。 将来的に以前の自分より正気になろうとするなら、そうすることもためになることではある。どこで失敗したのか分からずにいるよりはましではある。 しかしそれだけではまだ〈時間〉の小さな鍵穴をくぐりぬけられる人間になること、予見者に指示されてダンブルドアがつくりだそうとした人物の()()()を実現することができない。

 

もっと速く思考し、速く成長しなければ……。いまの自分は、将来の自分は、どれくらい孤独なのだろうか。 ぼくはクィレル先生の最初の模擬戦で、ハーマイオニーの下にほかの司令塔がいることに気づかなかった失敗をまたくりかえそうとしているのか。 それとも、ダンブルドアが狂人でも邪悪でもなさそうだと気づいた時点で、ダンブルドアにあの破滅の感覚のことを話さなかったという失敗を。

 

マグルの学校にこういうことについての授業があればよかったのだが、そういうことはなかった。 ダニエル・カーネマンあたりを仲間にして、彼の死を偽装したうえで、〈石〉をつかって若がえらせて、この手のことに関するもっといい訓練方法を発明するという役目をになってもらえばいいのでは……。

 

〈ニワトコの杖〉をローブのなかから取りだし、ダンブルドアから渡ってきた黒灰色の杖体をあらためて見つめる。 ハリーは実際、こんどこそ速く思考()()()という試みの一環で、〈不可視のマント〉と〈よみがえりの石〉とが示唆するパターンを完成させてみようとしてはみた。 〈不可視のマント〉には着用者を隠す伝説的な能力があり、ディメンターとしてあらわれた〈死〉そのものから着用者を隠すという裏の効果がある。 〈よみがえりの石〉には死者の映像を召喚する能力があり、ヴォルデモートはそれをホークラックス網にくみこんで、自分の魂が自由にうごけるようにした。 この第二の〈死の秘宝〉は真の不死をもたらす装置の一部となりえるものであり、カドマス・ペヴェレルはそれを完成させなかった。もしかすると、彼にはそうしないだけの良心があったのかもしれない。

 

そして第三の〈死の秘宝〉、アンティオク・ペヴェレルの〈ニワトコの杖〉。伝承によればこれは魔法使いから別のより強い魔法使いへと受けつがれ、これの持ちぬしは通常の攻撃に対して無敵になる。というのが既知の、表面上の性質だ。

 

その〈ニワトコの杖〉を持っていたダンブルドアは、世界そのものの〈死〉を防ごうとしていた。

 

〈ニワトコの杖〉がつねに勝者に向かうのは、存命の最強の魔法使いを見つけ、その人をさらに強化することで、種全体の命運を左右する脅威にそなえようとしてのことなのかもしれない。その隠された正体は、世界を破壊するものとしての〈死〉を倒す道具なのかもしれない。

 

〈ニワトコの杖〉になにか上位能力が封印されているとして、こちらがそう推測することで正体を明かしてくれるものでないことが、試した結果、分かっている。 ハリーは〈ニワトコの杖〉をもちあげ、自分はペヴェレルの子孫であり一族の使命を果たそうとしている者だと名のった。 自分はダンブルドアの任務を引きついで、〈死〉から世界を救うためにできるかぎりのことをする、と約束した。 しかし〈ニワトコの杖〉の反応は以前となんら変わらず、物語を一気にすすめさせてはくれないようだった。 こちらが世界の〈死〉に対して真に有効な打撃を一度あたえるまでは〈ニワトコの杖〉はこちらを承認してくれないのかもしれない。 イグノタス・ペヴェレルが〈死〉の影を倒し、カドマス・ペヴェレルのあとつぎが肉体の〈死〉を乗りこえたあとになって、二つの〈死の秘宝〉がそれぞれの正体を明かしていたのとおなじように。

 

伝承に反して〈ニワトコの杖〉の芯に『セストラルの毛』がないことは推測ずみだ。ハリーはセストラルの現物を見ているので、それがなめらかな皮をした骨ばったウマで、骸骨のような頭部にたてがみはなく、しっぽにも房はないと分かっている。 しかしそれではなにが〈ニワトコの杖〉のなかにある芯なのかというと、まだ分かるような気がしない。また、〈ニワトコの杖〉のどこかにあるはずの円と三角形と線分の〈死の秘宝〉の記号も見つかっていない。

 

「たずねたら教えてくれたりしないかな?」とハリーは〈ニワトコの杖〉につぶやいた。

 

丸い持ち手のついたその杖は答えない。栄光と秘められた力の感覚とともに、持ちぬしを懐疑的に見ていることだけがつたわってくる。

 

ハリーはためいきをついて、世界最強の杖を制服ローブのなかにしまった。いつかそのうち、運がよければ手おくれにならないうちに分かることだろう。

 

だれかに研究を補助してもらえば、それを早めることができるかもしれない。

 

ハリーははっきりと意識しないまま——いや、はっきりと意識しないままというのはやめて、意識しなければ——言いなおすと、ハリーは明示的かつ自覚をもって、自分がつらつらと〈未来〉のことを考えている理由の大半は、来たるハーマイオニー・グレンジャーの到着のことを考えないようにするためだと気づいている。 この朝早くに聖マンゴ病院から健康そのものだと宣言され、フリトウィック先生とともに〈煙送(フルー)〉でホグウォーツに返されることになっているハーマイオニー・グレンジャーは、到着してすぐにハリー・ポッターとの面会を要求する。 ハリーはレイヴンクロー寮で朝、太陽がのぼったあとの時間に起きて自分からのメモを受けとり、その内容を読んで、〈逆転時計〉で夜明けまえの、ハーマイオニー・グレンジャーが到着する時間にもどってきたのだった。

 

ハーマイオニーがぼくに腹を立てているわけがない。

 

……

 

よく考えろ。ハーマイオニーはそういう性格をしていない。 入学当初はそうだったかもしれないけれど、いまはそんなことをしないくらいに自分が見えている。

 

……

 

その『……』はどういう意味だ。 なにか言いたいことがあるなら、さっさと言えよ! ぼくらは自分のなかにある思考過程をもっとよく意識しようと決めただろう?

 

◆ ◆ ◆

 

明けはじめた空がすっかり青灰色に染まり、日の出が目前になったころ、ハリーのあたらしい居室に通じる梯子をのぼる足音があった。 ハリーはいそいそと立ちあがり、ローブのほこりを払ってから、自分がなにをしているかに気づき、その神経質なしぐさをやめた。ヴォルデモートを倒しておいて、なにを神経質になることがある。

 

その女の子の頭のてっぺんと巻き毛が梯子の上にでた。 彼女はそれから走るといっていいくらいの速度で、ただの路面を歩くようにして縦方向の梯子をのぼってきた。最後の一段に片足の靴が乗ったかと思うと、こちらがまばたきをすれば見のがしてしまったかもしれない一瞬のうちに、ふわりと屋根に着地した。

 

『ハーマイオニー』、という形に口が動くが、声がでない。

 

なにを言うつもりでいたのか、完全に忘れてしまっている。

 

屋根のうえでそうして推定十五秒あまりが経過してから、ハーマイオニー・グレンジャーが話しはじめた。 いまの服装は青いえりの制服で、青と青茶色の正しい寮の色のネクタイをしている。

 

「ハリー。」  ハーマイオニー・グレンジャーのあまりになつかしいその声に、ハリーは涙をもよおしそうになった。 「いろいろたずねたいことはあるけれど、そのまえにまず、お礼を言わせてほしい。あなたがなにをしてくれたにせよ、とにかくほんとに、ありがとう。」

 

「ハーマイオニー。」と言ってからハリーは息をのんだ。 こちらの最初の一言として事前に想定していた『きみさえいやでなければ、ハグしてもいいかい』というせりふを言うことは不可能に思える。 「おかえり。ちょっと待って、プライヴァシー用の呪文をかけるから。」  ハリーはローブから〈ニワトコの杖〉を、ポーチから本をとりだし、しおりのついたページをひらいて、慎重に『ホミナム・レヴェリオ』と発音し、〈ニワトコの杖〉があればぎりぎりかけることができると確認ずみの機密用の呪文をもう二つかけた。 これにさほど強力な効果はないが、ヴェクター先生の機密呪文だけに頼る場合より多少ましではある。

 

「その杖はダンブルドアの杖。」  ハーマイオニーは声をひそめているが、夜明け時の静けさのなかでは雪崩(なだれ)のように大きくひびいて聞こえる。 「それだと四年次の呪文がつかえるということ?」

 

ハリーはうなづいてから、ほかのだれにならこれを見られてもいいかをもっと慎重に考えておこう、と心のなかにメモをしてから言った。 「ハグしてもかまわない?」

 

ハーマイオニーがふわりとハリーに近づいた。その動きは奇妙に俊敏で、以前より優雅に見える。 ひとつひとつの動作から純粋で無垢な雰囲気が発せられているように見える。それを見てハリーは、ヴォルデモートの祭壇で眠っていたときのハーマイオニーがいかに平穏に見えていたかを思いだし——

 

煉瓦一トンか少なくとも1キログラムぶんの実感に襲われた。

 

そしてハーマイオニーを抱擁し、その()()()()()()様子を感じた。 ハリーは泣きそうになったが、彼女のオーラのせいでそうなっただけなのかどうか分からなかったので、それをおさえた。

 

ハーマイオニーの両腕の抱擁はやさしく、あまりに弱い圧力しかなかった。こちらの胴をぽっきり折ってしまわないようにと意識しているようにも感じられた。

 

「それで……」  ハーマイオニーはハリーが引き下がると話しはじめた。その表情は純真無垢であると同時に、真剣そのものだ。 「わたしはあなたがあそこにいたことを〈闇ばらい〉に言わなかった。〈死食い人〉たちを殺したのがクィレル先生じゃなく〈例の男〉だったということも。 フリトウィック先生はわたしに〈真実薬〉を一滴しか飲ませなかった。だから言わないでいることができた。 わたしは、わたしの記憶にのこっている最後のものはトロルだったということしか証言しなかった。」

 

「ああ……」と言いながらハリーの視線はいつのまにかハーマイオニーの目ではなく鼻に向いていた。 「きみは正確にはどんなことが起きたと思ってる?」

 

「そうね……」  ハーマイオニー・グレンジャーは思案げに言う。 「わたしはトロルに食べられて……正直もう二度とおなじことにはなりたくないものだけど……それから『ドン』と大きな音がして、自分の足がなおって、あとは石の祭壇に寝かされていて、周囲の墓地は月夜で、わたしの知らない暗い森のなかにあって、何者かの切断された両手がわたしののどに食らいついていた。 ということで、ミスター・ポッター、そんな奇妙で暗くて怖い状況におかれて、わたしが前回のトレイシーの一件とおなじ失敗をするわけがないでしょう。 ()()()()()これはあなたのしわざだって気づいたわ。」

 

「ご明察。」

 

「わたしが『ハリー』と呼んでも、答えはなかった。 わたしのシャツから血まみれの手が一本、肉の破片をのこしてずり落ちた。 まわりに見ると人間の頭や体が落ちていて、それでにおいの原因に気づいたけれど、わたしは声をあげなかった。」  ハーマイオニーはそこでまた深く息をすう。 「骸骨の仮面があるのを見て、死んだ人たちの正体が〈死食い人〉だったことに気づいた。 すぐに、〈防衛術〉教授があなたといっしょにそこにいて、〈死食い人〉たちを殺したんだと勘づいた。 でもクィレル先生の死体もそこにあったのには気づかなかった。 フリトウィック先生が来てその死体を検査する段階になっても、わたしはそれがクィレル先生だと思わなかった。 死んだあとのあの人は……別人のようだった。」  ハーマイオニーの声が小さくなり、ハーマイオニーはどこか慎み深くしているような、あまりハリーが見た記憶のない表情になった。 「わたしが聞かされた話では、デイヴィッド・モンローが自分の命を犠牲にしてわたしを生きかえらせた、ということになっている。あなたのお母さんが自分を犠牲にしてあなたを救ったのとおなじことをして、だから〈闇の王〉はつぎにわたしに触れたときに爆発したのだと。 わたしには、一字一句そのとおりのことが起きたようには思えない。けれど……わたしは先生のことをいろいろと意地悪に考えすぎていたと思うし、そうすべきじゃなかったと後悔している。」

 

「ああ……」とハリー。

 

ハーマイオニーは厳粛そうにうなづき、両手を組んで懺悔(ざんげ)するようにした。 「あなたにはわたしにひとこと言う権利がある。きっとあなたはいいひとだから、言わないでおいてくれると思う。だからかわりに、わたしからそれを言おうと思う。クィレル先生について、ハリーの言うことが正しく、わたしはまちがっていた。デイヴィッド・モンローは多少〈暗黒〉でとてもスリザリン的だったけれど、それを邪悪と思うのはわたしが子どもすぎるだけだった。」

 

「あの……」  これはとても言いにくい。 「実を言うと、この部分はほかのだれも、マクゴナガル総長ですら知らないんだけど。 彼が邪悪だったという点については、きみが百十二パーセント正しかった。〈暗黒〉と『邪悪』は厳密におなじではないにせよ両者の統計的相関は大きいということを、ぼくは今後の参考のためにおぼえておこうと思う。」

 

「え。」と言ってハーマイオニーはまた無言になった。

 

「『だからそう言ったのに』、と思ってない?」とハリー。 ハリーのなかのハーマイオニーの心的モデルは『やっぱり! だからそう言ったでしょう、ミスター・ポッター。クィレル先生はジャ・ア・クだって。あれだけ言ったのにあなたは()()()()()()』と叫んでいる。

 

実際のハーマイオニーはただくびを振り、 「あなたがあの人のことを気にかけていたのを知っているから。」と小声で言う。 「わたしの言うとおりだった、ということは……クィレル先生が邪悪だと分かってきっとハリーはとても傷ついただろうと思うから、いまさらそのことを言いたてようとは思わない。 その、わたしは何カ月かまえにそのあたりのことをもう考えて、そう決めていたから。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()。そこまで詳しく話してくれてうれしいと思うと同時に、そうでなければハーマイオニーらしくないとも思う。

 

「さて。」と言いながらハーマイオニー・グレンジャーは自分のローブの太もものあたりを指でたたいている。 「わたしは治療師に腕を採血されて、刺されたところはすぐに痛まなくなって、血を拭きとったら刺された場所も分からないくらいになった。 別に力をいれてもいないのにベッドのフレームを曲げてしまったりもした。実際に測る機会はまだなかったけれど、すごく()()走れるようにもなっているんじゃないかと思う。 爪はなにも塗った記憶がないのに真珠色になって、光っている。歯までそうなっていて、歯科医の娘としてはつい気になってしまう。 感謝してないわけじゃないんだけれど……実際のところ、なにをしたらこうなるの?」

 

「あー……。それと、自分のからだが(けが)れなき純真さのオーラを発している理由も気になるかな?」

 

「は? なにを発しているって?」

 

「その部分はぼくが言いだしたことじゃないよ。」  ハリーの声が小さくなる。 「許して。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーは両手を顔のまえにもってきて、自分の指をいくらか寄り目でながめる。 「つまり、わたしがその……無垢のオーラを発していているのも、動作が機敏で優雅になっているのも、歯が真珠色になっているのも……そうすると、この爪は()()()()()だとか?」

 

「アリコーンというと?」

 

「ユニコーンの角のことをそう言うのよ。」  ハーマイオニー・グレンジャーは爪をかじろうとしているようだが、成功していない。 「要するに、死んだ女の子を生きかえらせようとすると、その子は結果として、たしかダフネが言っていたあの……『キラキラ・ユニコーン・プリンセス』とかいうものになるっていうこと?」

 

「そういうわけじゃない。」  怖いくらいによく合致してはいるけれど。

 

ハーマイオニーは自分の指を口から離し、にらんだ。 「噛みちぎることもできないんですけど、これ。 あなたは手足の爪を文字どおり切ることもできないというのがどんなに困ることか、分かってなかったんじゃないの?」

 

「ウィーズリー兄弟がちょうどいい魔法剣をもってるよ。」

 

「実際にはどんないきさつがあったのか、最初から最後まで聞かせてもらいましょうか、ミスター・ポッター。 あなたとクィレル先生のことだから、なんらかの()()があったにきまってるわ。」

 

ハリーは大きく息をすって、はいた。 「ごめん、それは……機密事項でね。 きみが〈閉心術〉を習ってくれれば、明かしてもかまわないんだけど……その気はある?」

 

「〈閉心術〉を習う気が?」  ハーマイオニーは若干おどろいた顔をしている。 「それって、すくなくとも六年次の技能じゃなかった?」

 

「ぼくはできるようになった。 ぼくの場合は普通でないブーストがついていたけれど、それも長い目で見れば無視できる程度の誤差じゃないかと思う。 たとえば、きっときみはがんばれば微積分を身につけることができる。マグルの学校で何年生がそれを習うことになっているのかとは関係なく。 問題は……その。」  ハリーは呼吸を落ちつかせようとする。 「問題は、きみにまだ……あの種類のことをする気があるかどうか。」

 

ハーマイオニーはふりかえり、東の明かるくなった空のほうを見て、小声で答える。 「つまり……一度あんな残酷な死にかたをさせられて、まだ英雄(ヒーロー)になろうとする気があるのか。」

 

ハリーはうなづいてから、ハーマイオニーが背をむけたままなのを見て、「うん」と言った。その一言を言うのに努力がいった。

 

「わたしもそのことはずっと考えていた。 あれはたしかに、特別に無惨で苦しい死にかただったから。」

 

「その、きみにまだヒーローになる気があるという()()()()()()()、ぼくは多少のしかけをしておいた。 それができる機会はかぎられたタイミングでしか生じなかったから、きみに相談する時間はなかった。きみがあとで〈真実薬〉を飲まされるだろうことを考えれば、きみにそれを見せることもできなかった。 けれどもしそれがきみの気にいらなかったなら、しかけたもののうち大半を取り消すことはできるし、取り消せないものについては、無視してくれればいい。」

 

ハーマイオニーはうわのそらの表情でうなづく。 「しかけというのは、ちょうどわたしがあそこで……。ハリー、わたしは実際〈例の男〉になにかしたの?」

 

「いや、すべてはぼくがやった。でもこのことはだれにも秘密にしてほしい。 ついでに言っておくと、〈死ななかった男の子〉がヴォルデモートを倒したということになっている一九八一年のハロウィンの夜のできごとの仕掛け人はダンブルドアであって、ダンブルドアがぼくのおかげのように見せかけたにすぎない。 つまり、ぼくは〈闇の王〉を一度倒しているし、倒した人として一度認知されている。 こういうふうに、いずれ貸し借りはなくなるものなんじゃないかな。」

 

ハーマイオニーは変わらず東を見つめ、しばらく無言でいる。 「あまりいい気持ちはしない。 実際にはなにもしていないのに、自分が〈闇の王〉ヴォルデモートを倒したように思われているというのは……。そうか、ハリーもそういう経験をしてきたんだったっけ?」

 

「そう。きみをおなじ目にあわせて申し訳ない。 あのとき……そうだな、ぼくはあのとき、 きみという人物にもうひとつの設定をつくって、それをほかの人たちに信じさせようとした、とでもいうか。 あの時点でそれ以外の選択肢はなかったし、すべてがある意味()()()()で…… あとになってよくないことをしてしまったような気もしたけれど、もう手遅れだった。」と言ってからハリーは咳払いする。 「ただ、その。 もしきみが、世間の人から〈生きかえった女の子〉として持ちあげられるにふさわしいだけのことをしたいと思っているなら……その。 きみにできることをいくらか考えてはある。 もしきみにそうする気さえあれば、ごく近いうちにも。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーはハリーに意味ありげな視線をむけた。

 

「なければないでいいんだよ!」とハリーはあわてて言う。 「きみはこのすべてを無視して、レイヴンクロー寮の最優秀生徒でいてもいい! もしそうしたければ。」

 

「それは、わたしを逆心理学(リヴァース・サイコロジー)の罠にはめようとして言っているのかしら?」

 

「いいや、まさか!」と言ってハリーは深く息をすう。 「ぼくはきみの人生を勝手に決めてしまわないようにと思っている。 昨日あのとき、きみがつぎにすべきことが見えたような気がした——けれどそれから、この一年のうちぼくがどれほど長く愚かなことばかりしていたかを思いだした。 ダンブルドアに言われたことを思いかえしもした。それでぼくが口をはさむべきことではない、と気づいた。 きみは自分がのぞむどんな人生を送ることもできるということにも、そしてなにより、どうするかを決めるのはきみ自身でなければならないということにも気づいた。 今回のことがあって、もうヒーローにはなりたいと思わなくなったなら、それでもいい。偉大な魔法研究者になることが本来のハーマイオニー・グレンジャーらしい将来だと思うなら、自分の爪の材質がどうなったかなんていうことは忘れて、そうしてもいい。 ホグウォーツをやめてアメリカのセイラム魔女学院に行きたくなったなら、それでもいい。 正直に言わせてもらえば、ぼくはそうしてほしくないと思うけれど、決めるのはきみだ。」  ハリーは地平線のほうを向き、ホグウォーツの外の世界の広さを示すかのように、片手をぐるりと水平に動かした。 「きみはこれから()()()()()行ける。 これからの人生で()()()()できる。 六十歳の裕福な水中人になりたいと言うなら、ぼくはそれをかなえてあげられる。真剣に。」

 

ハーマイオニーはゆっくりとうなづいた。 「具体的にどうやるのかを知りたいところだけど、わたしはなにも()()()()()()()()()とは思わない。」

 

ハリーはためいきをついた。 「そうだろうね。その……。 多分……これはきみの気が楽になるんじゃないかと思って言うんだけど……ぼくの場合は、()()()()()()()がお膳立てされていた。 やったのはだいたいダンブルドアだけど、一部はクィレル先生も。 もしかすると、人間は自分らしい人生を生きる権利を勝ちとる能力そのものを勝ちとらなければならないのかもしれない。」

 

「へえ、なんか深遠ね。 たとえばあとで就職できるようになるために、両親に大学の学費をだしてもらう、みたいな? たしかに、クィレル先生がわたしをキラキラ・ユニコーン・プリンセスとしてよみがえらせて、〈闇の王〉ヴォルデモートをわたしが退治したという話をハリーが言いふらす、というのも、ちょうどそんな感じかも。」

 

「悪かったと思ってるよ。 ほかのやりかたにすべきだったと思う。けれど……そのときには計画をたてている時間がなかったし、疲れていたし、あたまがまわらなかった——」

 

「いいえ、十分感謝してる。」  ハーマイオニーの声がやわらいだ。 「ハリーにはそうやって自分を責めすぎないでほしいと思ってるくらい。 わたしがいじわるな言いかたをするのをまじめに受けとりすぎないでね。 生きかえらせてもらっておいて、このスーパーパワーが気にいらないとか、あのアリコーン質の爪の色あいが好みじゃないとか、文句を言うような人にはなりたくない。」  ハーマイオニーはまたハリーに背をむけ、遠く東を見つめる。 「それで…… 仮に、わたしが一度残酷に殺されたくらいのことで自分の行く道を変えはしないと決めたとしたら……まだそう決めてはいないけれど……もし決めたとしたら、どうなる?」

 

「きみがどんな道を行くと決めたとしても、ぼくはそれを全力で応援する。」

 

「もうわたしのために冒険(クエスト)が用意してあるんでしょう、多分。 どんなけがをさせられる心配もない、安全安心な冒険を。」

 

ハリーは目をこすり、疲れた気持ちになった。 心のなかでアルバス・ダンブルドアの声が聞こえるようだった。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「いや、ハーマイオニー、悪いけれど、もしきみがその道をえらぶなら、ぼくはダンブルドア的にならざるをえない。つまり、きみにすべてを明かすことはできないし、 きみを騙して動かすようなことも一時的にはするかもしれない。 ぼくは実際、きみに実現できそうな、世間の人が〈生きかえった女の子〉として持ちあげるにふさわしいだけの……きみにとって天命かもしれない仕事があると思ってはいる。……とはいえそれもただの推測でしかないし、ぼくが知っていることはダンブルドアが知っていたことよりはるかに少ない。 きみはとりもどしたばかりの自分の命をかける気がある?」

 

ハーマイオニーはふりかえり、意表をつかれたように目をまるくしてハリーを見た。 「()()()()()?」

 

ハリーはうなづかなかった。それは嘘にあたると思い、かわりにこう言った。 「それだけの覚悟はある? きみの天命かもしれないものとしてぼくが考えている冒険には——いや、具体的な予言を知っていてそう言うんじゃなく、そうかもしれないと思っているだけだけど——文字どおり地獄に潜入するような経験がふくまれる。」

 

「てっきり……」とハーマイオニーは確信のなさそうな声で言う。 「てっきり、こういうことがあった以上、ハリーとマクゴナガル先生はわたしに……その……すこしでも危険なことを、もう二度とやらせまいとするだろうと思っていた。」

 

ハリーはなにも言わず、自分が誤解によって点数をかせいでしまっていることに罪悪感をおぼえた。 実のところハーマイオニーはものすごく正確にハリーの思考を推測している。ハリーがそのとおりに考えなかったのはひとえにホークラックスがあるからであり、もしそうでなければ金星の表面温度が絶対零度付近に冷え切るまでの時間があってもこんなふうに考えたりするわけがない。

 

「それは、ゼロから百までの数値で言うなら、()()()()文字どおりに地獄に潜入するようなこと?」  ハーマイオニーは多少不安そうな表情になった。

 

ハリーはアズカバンを思いだし、脳内で目星をつけた。 「だいたい、八十七パーセントというところかな。」

 

「そういうことをするのは、わたしが()()()()()()()()()()()にしたほうがいいんじゃないかしら。 ヒーローになることと完全に正気をうしなうことは別だから。」

 

「それの危険度に年齢はあまり関係しないと思う。」とハリーは言い、危険度を具体的に明言することを避ける。 「そしてそれの性質上、やるなら早くやるにこしたことはない。」

 

「そしてわたしの両親に投票権はない。……でしょう?」

 

ハリーは肩をすくめた。 「きみのご両親がどう投票するかはもう分かっているよね。だからその票を考慮したいなら、考慮するのは自由だ。 その……ぼくは、きみが生きているということをご両親に伝えないようにと、進言しておいた。 きみが今回の使命を引きうけると言うなら、それが終わって帰ったときに、はじめてご両親に知らせが行く。 そうやって……いい知らせを一度もらうだけのほうが、ご両親の心労がいくらか少ないだろうと思ってね。またその……そういうことについて心配させられるよりは。」

 

「へえ、それはご親切に。 わたしの両親の心労のことまで考えてくれてありがとう。 じゃあ、すこし考える時間をもらってもいい?」

 

ハリーは自分のいる位置のむかいがわにあるクッションを手で示すと、ハーマイオニーは流れるような動きでそちらに行き、腰をおろし、切り立った城の縁のさきの風景に顔をむけた。そこからまた平穏なオーラが放射されている。 これはあまりよろしくない。〈反・純粋無垢のポーション〉をだれかに開発してもらう必要があるかもしれない。

 

「わたしはその任務の内容を知らないまま、答えなきゃいけないの?」

 

「めっそうもない。」と言いながらハリーは自分がアズカバンへの旅のまえに似たような会話をしたときのことを思う。 「これはもし実際にやるなら、本人の自由意思でそうと決める必要があることなんだ。 つまり、そうでなければ成立しない任務だから。 きみがいまもヒーローになりたいと思っていると答えれば——きみがゆっくり食事をして人と話して多少回復したあとでそう言うなら——ぼくはその段階で任務の内容を言う。きみはそれから、任務を引きうけてもいいかどうかを決める。 それから、一般的に不可能だと思われているある呪文を、一度死んで生きかえった結果、きみがつかえるようになっているかどうかを事前に試験する。きみを現地に()()()()()()()。」

 

ハーマイオニーはうなづき、また無言になった。

 

そして空の色がいっそう明るんだころ、もう一度口をひらいた。

 

「わたしは怖い。」  ハーマイオニーはささやき声と言っていいほどの小声で言う。 「死ぬことがじゃなく……というか、死ぬことだけじゃなく。 自分が実力不足かもしれないということが怖い。 わたしにもトロルを倒す勝機はあった。なのに、あっけなく死んでしまった——」

 

「そのトロルはヴォルデモートに兵器として強化されたトロルだった。おまけにヴォルデモートはきみの魔法アイテムをすべて無効化していた。……参考までに。」

 

「それでもわたしは死んだ。 あなたはどうにかしてトロルを殺した。殺すところを多分わたしは見ていたんだと思う。あなたはすこしも躊躇していなかった。」  ハーマイオニーは泣いていない。ほおに涙は光っていない。明るみはじめた、まだ太陽が隠れている空のほうをただ見ている。 「そしてわたしを生きかえらせて、キラキラ・ユニコーン・プリンセスにした。 どう考えても、わたしにおなじことはできなかった。 ほかの人たちがどうイメージしているかはともかくとして、わたしはいつまでもおなじことができるようにはなれないんじゃないかと思う。」

 

「いまのこの場が、きみの冒険の出発点なんだと思う——」と言いかけてやめるハリー。 「いや、よそう。きみに予断をあたえようとするのはよくない。」

 

「いいえ。」とハーマイオニーは小声で言い、視線はかわらず下の丘のほうを向いている。 その声が大きくなる。 「いいえ。聞かせて、ハリー。」

 

「それじゃ……その。 ここがきみの()()()なんだと思う。 これまでのできごとすべてがあって……やっときみは、ぼくが九月にいた位置についた。そのときまでぼくはただの天才児だと思っていたところへ、自分に期待されているなにかがあり、自分がそれに追いつかなければならないということを知った。 きみはぼくとぼくの……」()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()「……暗黒面を度外視するなら、レイヴンクローの期待の星で、みずから仲間をつのって学校のいじめ退治をし、ヴォルデモートに襲われて正気をうしなわずにいられた人だった。しかも十二歳の若さで。 調べてみると、きみの成績はダンブルドアの一年次の成績より上だった。」 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「きみにはいくつかの能力ができて、追いつくべき名声もできた。そのうえで、世界はきみに困難な任務をさずけようとしている。 ぼくの場合と同様、そこからきみにとってすべてが()()()()。自分を低くみつもる必要はない。」  そこでハリーは、自分が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことに気づいて、よくないと思い、きっぱりとくちを閉じた。 『これだけお膳立てされたきみがヒーローをやれないなら、ほかのだれがやれると言うんだ』という部分は少なくとも言わずにおくことができた。

 

「実はね……」とハーマイオニーはハリーに背をむけたまま、地平線にむかって言う。 「おなじような話をクィレル先生としたことがあった。ヒーローになることについての話を。 あのひとの言いぶんはもちろん逆だったんだけど、 それ以外は、なぜかそのときとおなじような話をされているような気がする。」

 

ハリーはきつく口を閉じたままでいる。 他人が自力で決断するのを待つ、というのはむずかしい。それは、他人が()()()()()ときに口をはさまないということをも意味する。それでも待たなければならない。

 

ハーマイオニーは一言ずつ吟味するように話しはじめた。空が光をおびるにつれ、黒い制服の青い縁飾りが明るく見えている。西の空の星はもう見えなくなっている。 「クィレル先生自身もヒーローだったことがあると言っていた。 けれどクィレル先生はほかの人たちが協力的でないのにあきあきして、もっとおもしろいことをしはじめた、と。 わたしは、そうすることはまちがっているとクィレル先生に言った——正確には『最低』だと言った。 クィレル先生は、『たしかにわたしは悪い人間かもしれないが、それならヒーローになろうとしたこともないほかの人たちはどうなるのか、その人たちのほうがもっと悪いはずだろう』、と言った。 それでわたしはなにも言えなくなった。 グリフィンドール式のヒーローだけが善人だ——クィレル先生に言わせれば、大きな野望をもつ人にしか生きる権利がない——というのは、やっぱりまちがっていると思う。 けれど、あの人がその立ち場をおりたようにして、ヒーローであることを()()()のもまちがっている、と思った。 だからわたしはそのとき、バカみたいに突っ立っていることしかできなかった。 けれどいま、自分が言うべきだったことが分かった。」

 

ハリーは呼吸をととのえて聞いている。

 

ハーマイオニーはクッションから腰をあげ、ハリーのほうを向いた。 「わたしはもうこれ以上、ヒロインになろうとはしない。」  ハーマイオニー・グレンジャーは明るくなっていく東の空を背にして言う。 「そもそも、そんなふうに考えたこと自体がまちがいだった。 自分にできることをやる人たち、ひたすらにそうする人たちがいるというだけのことだった。 自分にできることをやってみようともしない人たちもいて、その人たちはやっぱり、なにかやりかたをまちがえているんだと思う。 わたしはもう二度とヒーローになろうとはしない。 ヒーローならどうするかと()()()ことも、できるだけやめようと思う。 けれど、自分にできることは限界までやる——実際は多少限界の手まえかもしれないけれど。わたしも人間だから。」  モナ・リザのなにがそれほど謎めいていると言われているのか、ハリーは理解できたことがないが、この瞬間のハーマイオニーの諦めと喜びの笑みを写真にとることができたとしたら、自分なら何時間かけてその写真をながめていても一切理解できないだろうが、ダンブルドアならひとめで見とおすことができるのではないか、と思った。 「わたしはこりない。 わたしはそれくらいバカでいる。 これからも、わたしは自分にできることのほとんどをやってみようと思う……いや、できることの()()と言うほうがいいのか——とにかく意味はわかるでしょ。 仮にそれで命をかけることになったとしても、かけるだけの価値があることをしているかぎりはかまわない。まあ、()()バカなことでなければね。 これがわたしの答え。」  ハーマイオニーは決然とした表情で、深く息をすった。 「それで……なにかわたしにできることは?」

 

ハリーは息をつまらせた。ポーチに手をいれて、話せないのでC L O A K(マ・ン・ト)と文字を書いて、煤色の〈不可視のマント〉をとりだし、きっぱりとハーマイオニーに差しだした。 しかし、なかなか言うべきことを言うことができない。 「これは〈真の不可視のマント〉……」  ハリーはささやきと言っていいほどの小声で言う。 「イグノタス・ペヴェレルから、その子孫のポッター一族へ継承された〈死の秘宝〉。そしてつぎの継承者はきみ——」

 

「ハリー!」と言ってハーマイオニーはさっと両手を自分の胸にあて、マントの攻撃に対して身をまもるようにする。 「そんなものもらえない!」

 

「いや、どうしてももらってほしい。 ぼくはもう自分がヒーローになる道から降りた。だから二度と危険に身をさらすことはできない。 けれどきみなら……できる。」  ハリーは〈マント〉をもっていないほうの手で自分の両目をぬぐった。 「これはきみのために作られたんだと思う。これからのきみのために。」  人間の精神を(かげ)らせ将来の希望を吸いとる絶望の影としての〈死〉と戦うための武器。きみは多分、ディメンターとしてあらわれる〈死〉とも、それ以外の〈死〉とも戦うことになる……。 「〈マント〉よ、ぼくはいまからおまえをハーマイオニー・ジーン・グレンジャーに恒久的に譲る。 いつまでも彼女のことを頼む。」

 

ハーマイオニーはおずおずと手をのばし、〈マント〉をつかんだ。泣きそうになるのを我慢しているようだった。 「ありがとう。」とハーマイオニーは小声で言う。 「わたしはもうヒーロー的な考えかたをやめるんだけど……それでも、はじめて会った日からずっと、あなたはわたしにとっての謎の老魔法使いだったんだと思う。」

 

「きみ自身がそういう考えかたをもうやめるんだとしても、きみはこの物語がはじまったときからずっと、ヒーローになる運命にあったんだと思う。」 ハーマイオニー・グレンジャーは〈時間〉の小さな鍵穴をくぐりぬけるためにどのような成熟のしかたをしなければならないのか。 ぼくは自分の成熟のしかたを想像できないのとおなじくらい、その答えを知らない。 ただ、彼女のこれからの最初の数歩は、ぼくのそれとくらべて、見通しがたっているようだ……。

 

ハリーが〈マント〉を手ばなすと、〈マント〉はハーマイオニーの手に乗りうつった。

 

「歌っている。歌が聞こえてくる。」と言ってハーマイオニーは手で自分の目をぬぐった。 「まだ信じられない。」

 

ハリーはポーチにいれていたもう片ほうの手で、長い黄金の鎖とそのさきにぶらさがった黄金色のケースをとりだした。 「そしてこれは、きみ専用のタイムマシン。」

 

一瞬の間があき、そのあいだに地球という惑星が軌道上をわずかに動いた。

 

「は?」とハーマイオニー。

 

「ひと呼んで〈逆転時計(タイムターナー)〉。 ホグウォーツにはいくつかこれの在庫があって、ときどき生徒に貸しあたえられている。 ぼくもこの一年のはじまりに、睡眠障害に対処するためにといって、貸してもらった。 使用者は目盛りひとつで一時間、最大六時間ぶんの時間をさかのぼることができる。ぼくはそうやって一日ごとに六時間余分に勉強することができた。 それと、〈薬学〉の教室から消失したりとかも。 ああ、〈逆転時計〉で歴史を改変したりパラドックスを発生させて宇宙を崩壊させたりすることはできないから、ご心配なく。」

 

「あなたは授業でわたしに負けないために、()()()()()()をつかって、一日あたり六時間長く勉強していた、と。」  ハーマイオニー・グレンジャーはなにか不可解な事情でもあって、この概念を理解しかねているようだ。

 

ハリーは困惑したようなふりをした。 「それのどこに問題が?」

 

ハーマイオニーは手をのばし、その黄金の首かざりを受けとった。 「ないんでしょうね、()()()()()()()()。」  なぜかやけに辛辣な声色だった。 そして受けとった鎖を首にまわしてかけ、砂時計をシャツのなかにいれる。 「ただ、これのおかげで、あなたに負けまいとしていたことについては、自信がもてた気がする。その点はありがとう。」

 

ハリーは咳ばらいをした。 「それと……ヴォルデモートはモンロー家を皆殺しにしていて、世間の人が知るかぎりでは、きみがヴォルデモートを殺してその仇討ちをしたことになっている。だから、ぼくはアメリア・ボーンズにたのんで、生きのこったウィゼンガモート議員たちに強引に審議させて、グレンジャー家を〈貴族〉にする法案をとおさせておいた。」

 

「ちょっと待って。」

 

「これによりきみは〈貴族〉家の唯一のあととりになった。ということは、O.W.Lsに合格しさえすれば法的に成人と見なされる。受験勉強に時間が必要だろうから、二人でこの夏の終わりにその試験を受けることにしておいた。 その、もしきみさえよければだけど。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーはもっと無機的な機械であればエンジンが故障していそうなたぐいの高音の雑音を発した。 「()()()()()()()()()()O().()W().()L()s()()()

 

「O.W.Lsは十五歳の大多数が合格するように設計されているんだよ。()()()十五歳が〔訳注:O.W.LsのOは人並(Ordinary)の略〕。 三年生として並以下の魔力でも、ひととおりの呪文を知ってさえいれば、合格することはできる。合格しさえすれば、成人の資格がえられる。 これまでのような『優』でなく『可』の判定に甘んじてもらう必要はあるけれども。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーから出る高音の雑音がいっそう高音になった。

 

「きみがもっていた杖をかえそう。」と言ってハリーはそれをポーチからとりだす。 「そしてモークスキン・ポーチも。 きみが死んだときにあった中身をすべてもとどおりにしてもらっておいた。」  このポーチをハリーはローブについているただのポケットからとりだした。()()()()()()()のなかに()()()()()()()をしまうというのは、いくらその両方が各種安全基準を満たして製作されていて害がないことになっているとしても、あまり気がすすまない。

 

ハーマイオニーは杖とポーチを順に受けとった。指が多少震えていてなお、優雅に見える動作だった。

 

「さて、ほかになにがあったかというと……。ポッター家に対してきみがおこなった誓約は『死ぬまで』という条件だったから、きみにはもうなんの義務もない。 それに、きみが死んでからすぐの話しあいの結果、マルフォイ家はドラコ・マルフォイ殺人未遂事件に関してきみにかかっていた容疑はすべてなくなったと宣言している。」

 

「だったら、またお礼を言わないと。 ハリーにだけじゃなく、マルフォイ家にも、か。」  ハーマイオニー・グレンジャーはしきりに爪で巻き毛をすいている。まるで、髪をととのえれば正常な人生をとりもどすことができるというかのように。

 

「おまけにと言ってはなんだけど、グリンゴッツ銀行のゴブリンにグレンジャー家の金庫をつくりはじめるように言っておいた。 といってもまだ中身は空のまま。入金するのはきみの意向をたしかめてからでも遅くないと思ったから。 ただ、きみがある種の悪を正してまわるスーパーヒーローになるなら、きみ自身が上流階級に属しているような印象をあたえておくと、いろいろと都合がいいだろうと思う。それに、その、弁護士をやとうだけの資金があると思われていたほうが都合がいいだろうとも思う。 ぼくはきみがほしいだけの黄金をきみの金庫にいれておくことができる。ヴォルデモートがニコラス・フラメルを殺して、結果としてぼくが〈賢者の石〉の持ち主になったから。」

 

「気絶しそうな気分と言いたいところだけど……」  ハーマイオニーは高い声で言う。 「例のスーパーパワーのせいで気絶することもできない。それで、()()そんな能力ができたんだったっけ?」

 

「きみさえよければ、きみは水曜日から以後一日一回、ミスター・ベスターに〈閉心術〉の指導をしてもらえることになっている。 それまでは、〈開心術師〉がきみの目を見るだけできみの能力の真の出どころを知られてしまうことのないようにしておいたほうがいいと思う。 というのは、その能力はもちろんふつうの魔法的説明がつく能力で、()()()()()()()()超自然なことはなにも起きていないんだけど、人間は自分の無知を信仰しやすいものだし、それにその、〈生きかえった女の子〉という設定は起源が謎であるほうが効果的だと思うから。 きみがミスター・ベスターと〈真実薬〉に対抗できるようになった時点で、ぼくはすべての背景を話すと約束する。ぼくたち二人以外のだれにも言ってはならない秘密もふくめて。」

 

「そうしてもらえるとうれしいわ。よろしくね。」

 

「ただし、まずは、世界を壊滅させかねないことをしないという〈不破の誓い〉をしてもらってからでないと、その危険性が高い部分の話をしてあげるわけにはいかない。 というか、ぼく自身の〈不破の誓い〉のせいで、そうしないかぎり、ぼくは文字どおり話せない。 それでいい?」

 

「ええ。いいに決まってるでしょう。わたしは世界を壊滅させたいなんて思わないし。」

 

「もう座ったほうがいいんじゃない?」  ハーマイオニーが話しながら一語一語のリズムにあわせ、わずかに揺れていたようだったのが心配で、ハリーはそう言った。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはなんどか深く息をすいなおした。 「いいえ、なんともない。ほかにわたしが聞いておくべきことは?」

 

「いや。こちらからは、とりあえずもうない。」  ハリーはそこで間をおいた。 「他人になにかをしてもらうだけじゃなく、自分でなにかをしたいと思う気持ちはぼくもよく分かる。 それでも……きみはこれからもっと真剣な意味で英雄(ヒーロー)になる。だとすれば、そのためにぼくがとりうる唯一の合理的な選択は、きみを有利にするものをできるかぎりすべて提供すること——」

 

「そうしたくなる気持ちは分かる。わたしも実際に戦いに負けて死んだおかげで、そのことがよく分かった。 以前は分からなかったけれど、いまは分かる。」  微風でハーマイオニーの巻き毛がゆれ、ローブがはためき、朝の空気のなかでいっそう平穏なたたずまいを見せる。同時にハーマイオニーは片手をあげて慎重に(こぶし)をにぎった。 「わたしはやるなら()()()やろうと思う。 自分のパンチの威力やジャンプの高さを測定しておきたい。 この爪に、ほんもののユニコーンの角とおなじようにレシフォールドを殺す効果があるのか、安全にテストする方法も見つけておきたい。よけなきゃいけない呪文が来たときにしっかりとよけられるように練習しておく必要もある……。あとは、できれば〈闇ばらい〉用の訓練をつけてもらえるように話をとおしてほしいかな。たとえばスーザン・ボーンズを指導していた人とかに。」  ハーマイオニーはまた笑顔になり、目のなかに奇妙な光がやどる。ダンブルドアが見れば何時間も悩まされたことだろうが、ハリーは即座に、なんの不安も感じずにその意味を理解する。 「あ、そうだ! マグル式武器も持っておきたいな。できればだれにもそうと悟られないような隠し武器を。 トロルを相手にしていたとき、焼夷手榴弾のことは思いついたんだけど、どう考えてもその場でそれを〈転成〉している時間はなかった。もうそのときには、ルールを守る気持ちを捨てていたのに。」

 

「これは……」とハリーはマクゴナガル先生のスコットランドなまりを精いっぱい真似して言う。 「いまのうちに、なにか手を打っておかなければならないような気が。」

 

「あら、もうとっくにそんな段階は過ぎているわよ、ミスター・ポッター。 たとえばバズーカなんかは手にはいる? チューインガムのブランドじゃなくて、ロケット弾を撃つほうの。 みんなまさか小さな女の子がそんなものを、と思うだろうから。汚れなき純真さのオーラのある女の子なら、とくに。」

 

「うん、そろそろ本気で怖くなってきたな。」

 

ハーマイオニーはバレリーナのように左手と右足を反対方向にのばし、左足の靴先でバランスをとる姿勢で止まっている。 「そう? わたしにできて〈魔法省〉の〈特殊部隊〉にできないことはひとつもないんじゃないかと思っていたところなんだけど。 むこうはホウキに乗って、わたしがおよびもつかない強力な呪文を撃てるんだから。」  そう言ってハーマイオニーは優雅に右足をおろした。 「たしかに、わたしは他人の目を気にせずにいろいろなことを試せるようになった。となると、スーパーパワーがあるというのは、すごく()()()便利な気がしてはきた。 それでもフリトウィック先生が倒せない相手をわたしが倒せるような気はしない。わたしが〈闇の魔術師〉を不意打ちできている場合を別にするなら。」

 

きみはほかの人がとるべきでないリスクをとることができる。自分が死ぬことになったとしても、そのあとで敗因を調べてもう一度挑戦することができる。 新しく考案された呪文を試すにしても、ほかの人がかなりの確率で死ぬようなものを試すこともできる。 そう考えはしたが、どれひとつまだ話せないので、ハリーはかわりにこう言った。 「未来のことのほうを考えてみてもいいんじゃないかな。いまこの瞬間にできることだけじゃなく。」

 

ハーマイオニーはいきおいよく飛びあがって、降りるあいだに三度、両足の靴のかかとをくっつけてから、指さきをそろえて完璧な姿勢で着地した。 「でも、いますぐわたしにできることがあるって言っていたじゃない。それとも、試すためにそう言っただけ?」

 

()()部分は特例でね。」と言いながら、ハリーは夜明け時の冷気を肌に感じた。 問題の〈試練〉でスーパー・ハーマイオニーは文字どおり自分の最悪の悪夢と対決しなければならず、あたらしく得た身体能力も役に立たないのだ、ということをこれから伝えることになると思うと気が重い。

 

ハーマイオニーはうなづき、東の空をちらりと見た。 つぎの瞬間に屋根のへりに行って腰をおろし、足先を空中にぶらさげた。 ハリーもそのそばの、屋根の端からもっと離れた位置に腰をおろし、あぐらをかいた。

 

ホグウォーツの東、遠い丘の上に、赤い光がうっすらと立ちのぼりはじめている。

 

日の出がはじまるところを見て、ハリーはなぜか気分がよくなった。 太陽が空にあるかぎり、ある水準では世界はまだ無事だと言える。自分がまだ太陽を破壊していないというような意味で。

 

「それで……」 ハーマイオニーの声がすこし大きくなる。 「未来のことを言うなら。 わたしは聖マンゴ病院で待っているあいだ、いろいろなことを考える時間があって…… くだらないことかもしれないけれど、わたしはいまも、あの質問の答えを知りたい。 わたしとあなたが最後に話したときのことを覚えてる? ほら、このまえのこと。」

 

「え?」  ハリーは心あたりがない。

 

「そうか……ハリーにとっては二カ月まえのことだから……じゃあ覚えてないか。」

 

それでハリーは思いだした。

 

「あわてない!」とハーマイオニーが言ったとき、ハリーの口からはもごもごとした音が出はじめていた。 「わたしはどんな答えを聞かされても、また泣きながら逃げだしてトロルに食べられるようなことはしないと約束する。 わたしにとってはたしかに二日しか経っていないんだけど、一度死んだ経験のおかげで、以前は気にしていたようなことが、とるにたりないことのように思えるようになったから。」

 

「ああ。」 ハリーの声も高くなっている。 「そういうふうに心的外傷を利用するのはいいことかもね?」

 

「そうは言っても、やっぱり気になることではある。わたしにとってはついこのあいだでしかないそのときの会話が、途中で終わってしまっていたから。途中で終わってしまったのは全面的にわたしが悪くて、まずわたしが冷静さをうしなってせいだし、そのあとトロルに食べられたせいでもある。ついでに言うなら、食べられる経験はあれで最後にしたい。 だから、女の子に失礼なことを言うとかならずそういうことが起きるとは思わないでね。一度ハリーにこれをはっきり言っておかないと、ということはずっと思っていたから、そう言っておく。」  ハーマイオニーはしきりに左右にからだをかたむけ、わずかに前後にも揺らしている。 「それでも、その、たいていの人は恋愛関係にあってでさえ、あなたがわたしにしてくれたことの百分の一もしない。 そこで、ミスター・ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、もしそれが愛でないなら、あなたにとってわたしはどういう存在なのか。わたしはその答えをまだ聞いていない。」

 

「いい質問だね。」と言ってハリーは気が動転するのをおさえようとする。 「すこし考えるから待ってもらえるかな?」

 

じりじりと、丘の上にまばゆく光る円がすがたをあらわしていく。

 

「ハーマイオニー。」  太陽が半分、地平線の上にでたところでハリーは言う。 「ぼくの謎の暗黒面を説明する仮説をなにか考えたことはある?」

 

「安直な仮説なら。」と言ってハーマイオニーは両足を軽く空中に蹴りあげる。 「あなたの横で〈例の男〉が死んだとき、幽霊(ゴースト)をつくるはずの魔法力の噴出がたまたま起きて、その一部が床でなくあなたの脳に刻印された、とか。 でもこれはどうもしっくりこないと思っていた。一見うまく説明をつけたようではあるけれど()()()ではない、というように。それに、〈例の男〉がその日死んでいなかったなら、余計おかしいことになる。」

 

「悪くない仮説だ。いったんその線で想像することにしよう。」  ハリーの内なる合理主義者は過去をふりかえり、なぜ自分はそういう仮説を考えずにいることができたのかと思い、()()()顔に手をあてている。 当たってはいないにしろ、()()()()()仮説ではある。なのに自分はその程度に具体的な因果的モデルを考えることもなく、ただ漠然とそこにつながりがあるように思っていただけだった。

 

ハーマイオニーはうなづいた。 「もうわかっているとは思うけれど、一応ちゃんと言っておく。 あなたとヴォルデモートは別人だということを。」

 

「そう。そしてそれがぼくにとってのきみの存在でもある。」  ハリーはその先をことばにしようとするといまだにつらく感じ、一息いれる。 「ヴォルデモートは……幸せな人ではなかった。 死ぬまで一度でも幸せだったことがあるのかどうかも分からない。」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「ぼくが彼の認知パターンにのっとられることもなく、暗黒面に親近感を感じることもなく、正の強化がはたらかなかったのは、そのおかげでもある。 きみと友だちでいることによって、ぼくの人生はヴォルデモートの人生のようにならずにすんだ。 ホグウォーツに来るまでのぼくは、当時自分で気づいてはいなかったけれども、かなり孤独だった。それで……まあ、ぼくは一般的な同年代の男の子とくらべると多少必死になってきみを生きかえらせようとしたかもしれない。 いっぽうで、ぼくは厳密に規範的な善悪判断をしただけであり、ほかの人たちがそれほど友だちを大事にしていないとすれば、それは彼らの問題であってぼくの問題ではない、という主張も取りさげはしないけれども。」

 

「ハリー、誤解してほしくはないんだけれど、わたしとしてはそれをそのまますんなり受けいれる気にはなれない。 わたしが自分の選択によらずにそんな大きな責任を負わせられていいのかと思うし、あなたがそれだけのことを一人の人間に任せるのは不健全だとも思う。」

 

ハリーはうなづいた。 「うん。だけど、この点についてはもうすこし言わせてもらいたいことがある。 まず、ぼくがヴォルデモートを倒すことについての予言がなされていて——」

 

()()? あなた個人についての()()? うそでしょ?」

 

「まあ、そう聞こえるよね。 とにかく、その予言の一節に『闇の王がみずからにならぶ者として印をつける』『ただし彼は闇の王の知らぬちからを持つ』という部分がある。 これはどういう意味か、考えてみてくれる?」

 

「うーん。」と言ってハーマイオニーは指先で石の屋根を何度かたたいて考える様子になる。 「印というのは、〈例の男〉があなたに残した謎の暗黒面。 闇の王の知らぬちからというのは……科学的方法、じゃない?」

 

ハリーはくびを横にふった。 「ぼくも最初はそう考えた——マグル科学か合理主義の方法かだろう、と。でも……」  ハリーは息をはいた。 太陽は丘の上にのぼりきっている。 このつづきを言うのは恥ずかしい気がするが、それでも言うことにする。 「スネイプ先生がこの予言の聞き手で——という部分も実際にあったことで——スネイプ先生は、科学がその答えにはなりえないと考えていた。『闇の王の知らぬちから』というのは、ヴォルデモートにとってもっと異質なものでなければならないはずだ、と。 仮に合理主義と言いかえるとしても、その、ヴォルデモートは実際には……」  そのことを思うといまでもハリーは心臓が苦しくなる。クィレル先生、あなたはなぜ…… 「……合理主義の方法をまなぶことができるような人だった。ぼくが読んだのとおなじ科学論文を読んでさえいれば。 ただ、ひとつだけ、なにかが違っていたとすれば……」  一度息をすう。 「最後の最後に、ぼくとヴォルデモートの対決の場で、ヴォルデモートはぼくの両親と友人全員をアズカバンに送ると脅迫した。ただしこちらがおもしろい秘密を一つ明かせば、そのたびに一人を見のがしてやると。 ぼくは全員を救う手段がのこされていないと気づかされたその瞬間に……そのとき、ぼくははじめて考えはじめた。 多分生まれてはじめて、考えはじめた。 自分より年上で速く思考することのできるヴォルデモートより速く……それは、ぼくには()()()()()()()()()があったから。 ヴォルデモートは不死になるために行動していた。死にたくないと強く思っていた。けれどそれは積極的な望みではなく、恐れだった。その恐れのせいでヴォルデモートは判断をあやまった。 ヴォルデモートが知らなかったちからというのは……ぼくには守るべきものがあったということだと思う。」

 

「え、それって……」  ハーマイオニーはそっとそう言って、言いよどむ。 「つまりわたしはあなたにとってそういう存在? 守るべきもの?」

 

「いや。その……この話をしようと思ったのはそもそも、ヴォルデモートがそのとき()()()アズカバンに送ると言わなかったからで。 彼が全世界を征服したとしても、きみは無事でいられた。 その時点で彼は……いろいろあって……きみに害をなさないという誓いをしていて、それに縛られていた。 つまり、絶体絶命の危機にあって、自分の奥底でヴォルデモートが知らないちからを見つけたとき、ぼくの目的はきみ以外のすべての人を守ることだった。」

 

ハーマイオニーはしばらく考え、そのあいだにだんだんと笑顔になった。 「あのね、そんなにロマンティックじゃない言いかた、聞いたこともない。」

 

「それはよかった。」

 

「正直言って、すこし安心はした。ストーカー的な要素がだいぶなくなったような気がするから。」

 

「やっぱり?」

 

二人はそろってうなづき、緊張がとけたようになって、いっしょに太陽がのぼっていくのを見た。

 

「もし……」  ハリーもひっそりとした声で言う。 「ヴォルデモートがぼくの両親を襲わなかったとしたら、その世界のハリー・ポッターはどんな人になっていただろう、ということを考えていたんだけど。」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「そのハリー・ポッターは多分あまりあたまがよくないだろうし、 お母さんがマグル生まれだとはいえ、マグル科学をそれほどまなんでもいないだろう。 ただ……ジェイムズ・ポッターとリリー・エヴァンズに似て、思いやりのある人ではあったと思う。他人のことを考え、友だちを救おうとするような。そうにちがいないと思うのは、それがヴォルデモートになかった部分だから……。」  ハリーの目に涙がにじむ。 「きっとかけらとして残ったのがその部分なんだと思う。」

 

太陽はもう地平線のずっと上にあり、黄金色の光を二人に投げかけ、屋根の反対がわに長い影をつくっている。

 

「そういう人であろうとする必要はないと思う。 まあ、そのもう一人のハリー・ポッターもいい人ではあるかもしれないけれど、その調子だと、ものを考えるのはすべてわたしの仕事ということになりそうだから。」

 

「遺伝的に言って、第二のハリーは両親とおなじグリフィンドール生になるだろうし、だとするとハーマイオニー・グレンジャーと仲よくなることはなさそうだ。 ジェイムズ・ポッターとリリー・エヴァンズはホグウォーツ時代に首席男子と首席女子だったから、息子もそこまで劣等生にはならないだろうけど。」

 

「目に浮かぶわ。ハリー・ジェイムズ・ポッター……〈組わけ〉はグリフィンドール、夢はクィディッチ選手になることで——」

 

「勘弁してよ。」

 

「のちの世では、ハーマイオニー・ジーン・グレンジャーのおともであった人として知られる。ミス・グレンジャーはミスター・ポッターを現場に送って奮闘させながら、抜群の記憶力と本から得た情報をいかして、図書館にいながらミステリーを解決する。」

 

「きみはこの並行宇宙がずいぶん気にいってしまっていないかい。」

 

「もしかすると、()()()()()()()()()()()()()()ロン・ウィーズリーが親友だったりするかもしれない。二人は〈防衛術〉の授業でわたしの配下となって戦い、そのあとで宿題を教えあう——」

 

「そろそろやめようか。だんだん気味が悪くなってきた。」

 

「ごめん。」と言いながらハーマイオニーはまだひとりほほえんで、妄想をたくましくしているようだ。

 

「わかったならよろしい。」

 

太陽の位置がまたすこし高くなった。

 

しばらくして、ハーマイオニーが口をひらいた。 「わたしたち二人が将来的に恋人どうしになることがありそうか、という質問なら?」

 

「その答えは、きみが知らなければぼくも知らない。 でもなぜそればかり? なぜいつもそればかりになる? ぼくたちは成長して恋人どうしになることがあるかもしれないし、ないかもしれない。 それは長つづきするかもしれないし、しないかもしれない。」  太陽がほおに熱く感じられ、日焼止めを塗っていなかったので、ハリーは顔のむきをずらした。 「それがどんな方向にすすんだとしても、人生を無理にパターンにあてはめるべきではないと思う。 ()()()そういうパターンをあてはめようとする人には、きまって不幸が待っているものだから。」

 

「無理にパターンをあてはめない?」と言うハーマイオニーは、いたずらっぽい目をしている。 「それは『ルールを無視する』をややこしく言いかえただけなんじゃないの。 わたしも入学してすぐに言われたらそうは思わなかっただろうけれど、いまではだいぶ、いい考えのような気がする。 どうせタイムマシンをもったキラキラ・ユニコーン・プリンセスになるなら、ついでにルールを捨ててしまってもいいかもしれない。」

 

「どんなルールもだめだとは言っていないよ。それがクィディッチのようになにも考えず踏襲してしまっているルールではなく、相手にあわせたルールであれば、とくに。 でもきみこそ、『ヒーロー』というパターンを拒否して、自分にできることをすると決めたんじゃなかったっけ?」

 

「たしかにね。」と言ってハーマイオニーは視線を下げて、ホグウォーツ城の周囲の地面を見おろす。太陽がまぶしくなりすぎたからだ——と言っても、網膜も勝手に治癒するようになっているから、ハーマイオニーの場合だけは太陽を直視していてもいいはずだが。 「わたしが最初からヒーローになる運命にあったように思える、という話を しばらく考えてみたんだけど、それはまったく当たっていないんじゃないかと思う。 こうなることが()()()()()()()なら、もっとずっと楽にものごとが進められていたはず。 自分にできることをひたすらする——そのためには、自力でその状況をつくる必要がある。選択する必要がある。何度も、何度でも。」

 

「それはヒーローになる運命にあることと矛盾しないかもしれない。」と言ってハリーは自由意志に関する両立論の言説と、成就させるにあたって自分が知ってはならないとされている予言のことを考える。 「でもこの話をするのはあとでもいい。」

 

「選択する必要がある。」ともう一度言うと、 ハーマイオニーは両手で自分を押しあげて、うしろに飛び、屋根の上になめらかに着地して立った。 「ちょうどわたしがいまから、こう選択するように。」

 

「キスはなし!」と言ってハリーはあわてて立ちあがり、よけようとした。しかし自分よりもはるかに〈生きかえった女の子〉のほうが俊敏であるということに気づいた。

 

「もうこちらからキスする気はないわよ、ミスター・ポッター。少なくとも、そちらがしたいと言わないかぎりは。 ただ、わたしのなかがあたたかい感覚でいっぱいになっていて、()()()しないと破裂してしまいそうな感じがしていて、けれど考えてみれば、女の子が感謝をつたえるときキス以外の方法を知らないというのは不健全、だから……」  ハーマイオニーは杖を手にして、ななめにつきだした。ウィゼンガモートでポッター家に主従の誓いをしたときとおなじ姿勢だ。

 

「いやいやいや……どれだけの苦労があってやっと()()()誓約を反故(ほご)にできたと思ってるんだ——」

 

「早とちりしないでよ。 なにもまた、あの主従の誓いをしようという気はないから。 わたしの謎の若魔法使いになるつもりなら、もっとわたしの判断力を信用してくれないと。 さあ、杖をここにだして。」

 

ハリーはハーマイオニーがしようとしている選択がまちがっているかもしれない、という最後の一抹の不安をのみこんで、ゆっくりと〈ニワトコの杖〉をとりだし、それをハーマイオニーの十と四分の三インチのブドウ材の杖にかさねた。 「せめて『わたしが死ぬときが来るまで』とかいう文言はいれないでくれる? 言い忘れてたら悪いんだけど、ぼくは〈賢者の石〉を持っているから。 『世界と魔法がほろびるとき』とかいうのもやめてほしい。 ぼくはそういう表現に以前よりずっと敏感に反応するようになっているんだ。」

 

石のタイルが敷かれた屋根の上で、朝の太陽に明るく照らされ、青色のえりの黒ローブを着た、もう子どもとは言いがたい二人が、おたがいの杖をかさねて向かいあう。 一人は奔放な巻き毛の髪の下に茶色の目をしていて、魔法的なばかりでもない力と美のオーラを発している。もう一人は眼鏡をかけた緑色の目とぼさぼさの黒髪のあいだに最近赤くはれあがった傷あとをもっている。 その足もとの細い石の塔は地上の目撃者が見たそばから忘れるようにつくられていて、下のほうでホグウォーツ城本体に接続している。 はるか下には、緑の丘のつらなりと湖が見える。 側面に赤と黒の線のはいった、マグル式でも完全に魔法式でもない客車と機関車があり、その全体がこの高さからは小さく見えている。 空にはほとんど雲がなく、小さな水分のかたまりが太陽光を照らしてごくうっすらとオレンジ色をおびている部分があるにすぎない。 そよ風が夜明けの清涼な空気と朝の湿りけをとどけている。そのいっぽうで巨大な燃える黄金球は地平線を離れ、そこから出る白熱光が触れるものすべてに温度をもたらしている。

 

「これを聞きおわれば、そうでもなくなるんじゃないかな。」とヒーローが謎の魔法使いに向かって言う。 彼女は自分が物語の全体を知らないと自覚している。しかし、ごく断片的な真実を知ってはいて、それだけでも自分のなかが太陽のように明るくなり、太陽に似たぬくもりが感じられている。 「わたしはいま、こう選択する。」

 

わたしの命と魔法力にかけて、わたしはここにハリー・ポッターの友人であることを誓う。

こんどこそほんとうにわたしが死ぬとき……が実際来ると仮定してだけど、そのときまでわたしは、

彼を支え、彼を信頼し、

彼に手を貸し、えー、手をさしのべること、

そしてときには、彼が行けない場所へも行くことを誓う。

もしも世界か魔法がほろびることがあるなら、そのときもわたしは彼とともに立ちむかう。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 

(終)

 



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