幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話 ターニャの休暇1 後半2

 

 午後の光が水面へ細かく散り、山の影が少しずつ位置を変えていった。

 

 帰路の船は、往路より乗客が少なかった。

 

 昼食を終えてそのまま奥へ残る者もいれば、別の道を歩いてから遅い便を選ぶ者もいるのだろう。窓際の席はいくつか空いており、ターニャたちの周囲だけを特別に広く取る必要もなかった。

 

 それでも、警護員は前後へ分かれた。

 

 船尾近くに一人。

 

 出入口を見渡せる場所に一人。

 

 もう一人は、途中で降りる船着場へ先回りしている。

 

 ターニャは配置を見た。

 

 見ただけで、それ以上は考えなかった。

 

 不備はない。

 

 ならば、警護担当へ任せればよい。

 

 船が進むにつれ、湖岸の景色がゆっくり後ろへ流れていく。往路では山の大きさに目を奪われていたが、帰りは水際の細かなものまで見えた。水面へ伸びた木の根。岸近くを泳ぐ水鳥。日当たりの良い斜面にだけ集まる明るい緑。

 

 同じ場所でも、見る向きが変われば印象も変わる。

 

 仕事ならば、往路と復路の違いには意味を求める。

 

 人の流れ。

 

 警備の死角。

 

 輸送時間。

 

 道路の勾配。

 

 だが、今は意味を付ける必要がなかった。

 

 ただ、先ほどとは違って見える。

 

 それで十分である。

 

 ターニャは座席へ深く腰を掛けた。

 

 昼食をしっかり取ったせいか、体が少し重い。疲労ではない。満腹に近い感覚だった。

 

 普段の昼食後なら、眠気が来る前にコーヒーを飲み、次の会議へ移る。今日は午後の予定が短い山道だけで、時刻にも余裕がある。

 

 船の揺れは小さい。

 

 機関の音も一定だった。

 

 ターニャは窓の外を見ながら、何度か瞬きをした。

 

「少佐」

 

 セレブリャコーフが小声で呼んだ。

 

「何だ」

 

「眠くはありませんか」

 

「眠くない」

 

 返答が少し早かった。

 

 セレブリャコーフは何も言わず、ターニャの顔を見た。

 

「何だ」

 

「いえ」

 

「言いたいことがあるなら言え」

 

「目を閉じられても、船着場に着く前にお声を掛けます」

 

「眠くないと言っている」

 

「はい」

 

 肯定しているが、信じてはいない顔だった。

 

 ターニャは腕を組もうとして、制服の上着が窮屈になることに気付き、膝の上へ手を置いた。窓から入る風は暖かくなっている。午前の冷たさはなく、水面の光も柔らかい。

 

(少し目を休めるだけなら、問題はない)

 

 眠るわけではない。

 

 視覚情報を減らし、昼食後の消化へ資源を回すだけだ。

 

 合理的な処置である。

 

 ターニャは目を閉じた。

 

 船の音が近くなる。

 

 水を押し分ける音。

 

 床を通して伝わる小さな振動。

 

 乗客の低い話し声。

 

 少し離れた場所で、子供が何かを尋ねる声。

 

 そのどれも、返答を求めてこない。

 

 報告ではない。

 

 呼び出しでもない。

 

 ただ周囲にある音だった。

 

 どの程度そうしていたのかは分からない。

 

 肩へごく軽い感触があり、ターニャは目を開けた。

 

 セレブリャコーフの手が離れるところだった。

 

「間もなく到着します」

 

「……そうか」

 

「はい」

 

「眠ってはいない」

 

「承知しております」

 

 声が丁寧すぎる。

 

「今の間は何だ」

 

「何もございません」

 

「笑うな」

 

「笑っておりません」

 

 口元は崩れていない。

 

 だが、目元がわずかに柔らかい。

 

 ターニャは追及を諦めた。

 

 窓の外には、小さな船着場が近づいていた。往路では通過した場所で、岸から山側へ細い道が伸びている。観光客のために最低限整備されているらしく、木製の案内板と長椅子が見えた。

 

 船が岸へ寄る。

 

 警護員が先に立ち、周囲を確認した。ターニャとセレブリャコーフが降りると、船員が帽子を取り、丁寧に頭を下げる。

 

「よい散策を、少佐」

 

「ありがとうございます」

 

 ターニャは帽子をかぶり直し、船を見送った。

 

 船体がゆっくり岸から離れ、水面へ細い波を残す。次の便が来るまで、船着場は静かになるらしい。

 

 先回りしていた現地警護員が近づいた。

 

「道はこの先です。上まで二十分ほどです。途中に急な箇所が一つありますが、足場は乾いております」

 

「一般の観光客も使いますか」

 

「はい。本日は多くありません」

 

「分かりました。先導してください」

 

「承知しました」

 

 道は最初、湖岸とほとんど同じ高さを進んだ。

 

 木々の間から水面が見え、時折、枝が風で擦れる音がする。地面には細かな砂利が敷かれているが、山側へ入るにつれて土が増えた。

 

 ターニャは普段よりゆっくり歩いた。

 

 急ぐ理由はない。

 

 先導する警護員も、それに合わせて距離を保っている。

 

 セレブリャコーフは隣ではなく、半歩後ろを歩いていた。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「横へ来い」

 

 セレブリャコーフが少しだけ目を上げた。

 

「よろしいのですか」

 

「休暇中まで行軍ではない。道幅もある」

 

「はい」

 

 彼女が横へ並ぶ。

 

 制服姿の二人が、山道を同じ歩調で進む。

 

 上官と副官。

 

 階級差は消えない。

 

 だが、今だけは先頭と随行ではなく、同じ景色を見に行く者として並んでいた。

 

 道の途中には、小さな流れがあった。

 

 山側から落ちてくる水が木の樋へ集められ、道脇の石鉢へ注いでいる。飲用できるものらしく、小さな金属の杯が鎖で繋がれていた。

 

 警護員が立ち止まる。

 

「この水は飲めます。地元の者も使います」

 

 ターニャは石鉢を覗いた。

 

 水は澄み、底の小石まで見える。手を浸すと、朝の空気より冷たかった。

 

「少佐、ハンカチを」

 

「飲むだけだ」

 

 セレブリャコーフが差し出そうとした布を戻す。

 

 ターニャは杯へ水を汲み、少量だけ口にした。

 

 冷たい。

 

 癖がなく、喉へそのまま落ちる。

 

「どうですか」

 

「うまい」

 

 セレブリャコーフも杯を洗い直し、水を飲んだ。

 

「本当に冷たいですね」

 

「ああ」

 

 ただの水である。

 

 ベルリンにも水はある。

 

 山荘にもある。

 

 だが、道の途中で足を止め、自分で汲んで飲むと、妙に味が違うように感じられた。

 

 ターニャは濡れた指先を軽く振った。

 

 セレブリャコーフが、結局ハンカチを差し出す。

 

「使えということか」

 

「制服へ水が落ちます」

 

「分かった」

 

 受け取って手を拭く。

 

 返そうとすると、セレブリャコーフがそのまま受け取った。

 

「洗っておきます」

 

「自分でできる」

 

「ほかの衣類と一緒にできますので」

 

「そうか」

 

 副官としての世話なのか、旅の同行者としての気遣いなのか。

 

 境界は、少しずつ曖昧になっていた。

 

 道はそこから傾斜を増した。

 

 急な箇所には丸太の段が置かれ、手すり代わりの太い縄が張られている。危険というほどではないが、制服用の靴で歩くには注意が必要だった。

 

 ターニャは最初の段へ足を掛けた。

 

 小柄な体には、段差が少し高い。

 

 登れない高さではない。

 

 ただし、普段より歩幅を広く取る必要がある。

 

 セレブリャコーフが先に一段上がり、振り返った。

 

「手を」

 

「不要だ」

 

「足元が滑ります」

 

「乾いていると聞いた」

 

「土が崩れやすい場所です」

 

 ターニャは段の縁を見た。

 

 確かに、靴底を置く部分の土が少し削れている。落ちても大怪我をする高さではない。だが、黒服を泥だらけにして山荘へ戻ることには、別の問題がある。

 

 ターニャは一瞬だけ迷い、セレブリャコーフの手を取った。

 

「一段だけだ」

 

「はい」

 

 握られた手は暖かかった。

 

 強く引かれることはない。

 

 ターニャが自分で体を上げるのに合わせ、支える程度だった。

 

 一段を越え、すぐに離す。

 

「助かった」

 

 自然に言葉が出た。

 

 セレブリャコーフは少しだけ目を見開き、それから頷いた。

 

「お役に立てて何よりです」

 

「大げさにするな」

 

「はい」

 

 だが、その声は少し嬉しそうだった。

 

 残りの段差は、それほど高くなかった。

 

 二人は並んで登った。

 

 木々の間から見える湖が、少しずつ下へ移る。最初は水面の一部しか見えなかったが、高度が上がるにつれて、山の間へ伸びる形が分かるようになった。

 

 やがて道が平らになり、木立の向こうが明るくなる。

 

 先導していた警護員が足を止めた。

 

「こちらです」

 

 木製の柵が設けられた小さな展望地だった。

 

 広くはない。

 

 長椅子が一つ。

 

 案内板が一枚。

 

 その先に、湖がある。

 

 ターニャは柵の近くまで進んだ。

 

 先ほど船で通った水面が、今度は遠く下に見えた。船は白い点に近い。山の斜面が湖へそのまま落ち込み、深い緑の水が細く奥へ続いている。

 

 空の雲まで水面へ映っている。

 

 風が吹くたび、映った形だけが崩れた。

 

「ここまで来て正解でした」

 

 セレブリャコーフが言った。

 

「ああ」

 

 ターニャは即答した。

 

 展望地にはほかの観光客が二組いた。

 

 年配の夫婦と、若い男女である。警護員の姿とターニャの制服に気付くと、少し離れた場所へ移った。

 

 ターニャはそれを止めなかった。

 

 自分が来たために追い払われたわけではない。警護側から命令した様子もない。ただ、彼ら自身が距離を取っただけだ。

 

 それでも、申し訳なさに近いものが少しだけ残る。

 

 黒服を着ている限り、完全に一人の観光客にはなれない。

 

 どこへ行っても、人は階級章を見る。

 

 ターニャ本人より先に、親衛隊を見る。

 

 自分が望んだかどうかに関係なく、空気を変える。

 

(それを利用してきたのも私だ)

 

 仕事では、制服の威圧を使う。

 

 署名を取る。

 

 道を空けさせる。

 

 相手へ、自分の後ろにいる権力を意識させる。

 

 その利益だけを受け取り、休暇中だけ不便だと嘆くのは公平ではない。

 

 ターニャは柵へ手を置いた。

 

 木は日に温められていた。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「お写真を撮られますか」

 

 思いがけない提案だった。

 

「写真?」

 

「はい。現地の係員が、小型の写真機を用意しているそうです」

 

 セレブリャコーフが先導役の警護員へ視線を向ける。男は一歩進み、首から提げていた革のケースを示した。

 

「山荘側から、記念に一枚ほど撮影してはどうかと伺っております」

 

「誰の案だ」

 

「総統副官部です」

 

 ターニャは眉を寄せた。

 

 休暇中の行動を記録するためか。

 

 宣伝へ利用するためか。

 

 あるいは、本当に記念写真を残せという意味なのか。

 

 どれもあり得る。

 

「写真の扱いは」

 

「一枚は少佐へお渡しします。控えは山荘側で保管しますが、公開する場合は個人幕僚部の承認を取るとのことです」

 

 最低限の確認はされている。

 

 勝手に新聞へ出るわけではないらしい。

 

 ターニャはセレブリャコーフを見た。

 

「お前も入るのか」

 

「少佐がお望みでしたら」

 

「聞いているのは、お前の希望だ」

 

 セレブリャコーフが一瞬だけ言葉を止めた。

 

「ご一緒してもよろしいのでしたら、お願いしたいです」

 

「なら二人だ」

 

「はい」

 

 警護員が写真機を準備する。

 

 ターニャとセレブリャコーフは、湖を背に並んだ。

 

 並んだ、といっても、普段の公式写真ほど距離を詰めるわけではない。ターニャが中央より少し前、セレブリャコーフが半歩後ろへ立とうとする。

 

「横へ来い」

 

 ターニャが言った。

 

「ですが」

 

「休暇の写真だ。副官の配置ではない」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフが隣へ移る。

 

 二人の肩の高さは違う。

 

 制服も違う。

 

 ターニャは黒服。

 

 セレブリャコーフは勤務服。

 

 だが、湖を背に並べば、どちらも同じ旅の途中にいる者に見えた。

 

「少しだけ、こちらへ向いてください」

 

 警護員が言う。

 

 二人が正面を見る。

 

「そのままでお願いします」

 

 ターニャは、普段の公式写真と同じ顔を作りかけた。

 

 顎を引く。

 

 表情を消す。

 

 階級に相応しい姿勢を取る。

 

 その時、セレブリャコーフが小さく言った。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「休暇中です」

 

 また、その言葉である。

 

 ターニャは横目で彼女を見た。

 

 セレブリャコーフは微笑んでいた。

 

 大きくではない。

 

 だが、写真へ残る程度には明確だった。

 

「お前は、それを使えば何でも許されると思っていないか」

 

「そのようなことはございません」

 

「今の顔で言うな」

 

 写真機の前で言い合っている間に、警護員がシャッターを切った。

 

 乾いた音がする。

 

 ターニャが正面へ戻る。

 

「今、撮ったのか」

 

「はい」

 

「まだ姿勢を整えていない」

 

「自然なご様子でしたので」

 

 警護員の声は真面目だった。

 

 だが、どこか満足そうである。

 

「撮り直せ」

 

「もう一枚、よろしいでしょうか」

 

「最初の一枚は」

 

「現像後にご確認いただけます」

 

「破棄条件を付けろ」

 

 セレブリャコーフが横で言う。

 

「私は、最初のお写真も拝見したいです」

 

「お前は何を言っている」

 

「自然なご様子だったそうですので」

 

「私が許可する前に保管するな」

 

「確認後に決められてはいかがでしょうか」

 

 逃げ道を残した提案だった。

 

 ターニャは少し考えた。

 

 自分の表情がどう写ったかは分からない。

 

 セレブリャコーフへ呆れた顔を向けていた可能性が高い。公式な利用には向かない。だが、個人で持つ写真なら、必ずしも問題ではないのかもしれない。

 

「確認してから決める」

 

「承知しました」

 

 今度は二人とも正面を向いた。

 

 ターニャは完全な無表情にはしなかった。

 

 笑顔を作るほどでもない。

 

 ただ、顎と肩の力を少し抜いた。

 

 シャッターが切られる。

 

「以上です」

 

 警護員が写真機をしまう。

 

 セレブリャコーフは湖を振り返った。

 

「出来上がりが楽しみです」

 

「まだ一枚目は破棄する可能性がある」

 

「はい」

 

 返答はしたが、納得していないようだった。

 

 ターニャは展望地の長椅子へ腰を下ろした。

 

 歩いた後であり、昼食も十分に取っている。すぐに下る必要はない。次の船までは時間がある。

 

 セレブリャコーフも隣へ座った。

 

 二人の間には、拳一つ分ほどの隙間がある。

 

 護衛たちは少し離れ、周囲を見ている。

 

 ほかの観光客も、それぞれの場所で景色を眺めていた。

 

 誰も話さない。

 

 風だけが木々を揺らす。

 

 ターニャは上着のポケットへ手を入れた。市場で買った小さな包みが指へ触れる。

 

 木製の鷹。

 

 忘れたわけではない。

 

 だが、改めて触れると、本当に自分が土産を買ったのだという実感が湧いた。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「お前は何も買わなかったな」

 

「はい」

 

「欲しいものはなかったのか」

 

「市場を見るだけでも楽しかったです」

 

「それは、買わなかった理由にはならない」

 

 セレブリャコーフは少し困ったように考えた。

 

「選びきれませんでした」

 

「なら、帰りにもう一度寄るか」

 

「よろしいのですか」

 

「時間があればだ」

 

「ありがとうございます」

 

「何を買うつもりだ」

 

「まだ決めておりません」

 

「また選びきれなくなるぞ」

 

「その時は、少佐にご相談します」

 

「私に土産物の選定をさせるのか」

 

「ご意見を伺うだけです」

 

「同じだ」

 

 セレブリャコーフがわずかに笑う。

 

 ターニャも、それ以上拒まなかった。

 

 市場へ戻る時間がなければ、山荘の売店か、翌日の自由行動で選べばいい。休暇はまだ残っている。

 

 急いで全てを決める必要はなかった。

 

 それ自体が、普段とは違う。

 

 仕事では、未決定を残すと次の部署が止まる。

 

 休暇では、明日決めても誰も困らない。

 

 ターニャは湖を見た。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「ここへ来たいと思っていたのか」

 

「湖ですか」

 

「ああ」

 

「お話を伺ってからは、ぜひ見てみたいと思っておりました」

 

「山荘へ来る前からではないのか」

 

「ケーニヒ湖のことは存じていました。ですが、実際に来られるとは考えておりませんでした」

 

 セレブリャコーフは膝の上で手を揃えた。

 

「少佐の副官になってから、行ったことのない場所へ行く機会は増えました」

 

「観光ではない場所ばかりだろう」

 

「はい」

 

「そこは申し訳ないな」

 

 ターニャは半分冗談のつもりで言った。

 

 セレブリャコーフはすぐに首を振る。

 

「申し訳なく思われる必要はございません」

 

「そうか」

 

「少佐とご一緒できたことを、後悔しておりません」

 

 静かな声だった。

 

 重く言い聞かせる調子ではない。

 

 ただ、事実を述べるように言った。

 

 ターニャは湖から視線を動かさなかった。

 

「危険な場所にも行かせた」

 

「はい」

 

「面倒な仕事も増えた」

 

「はい」

 

「制服まで変わった」

 

「はい」

 

「それでもか」

 

「それでもです」

 

 即答だった。

 

 ターニャは返す言葉を失った。

 

 忠誠と呼べば簡単だ。

 

 副官としての責任感と呼ぶこともできる。

 

 だが、それだけではないことを、今は理解している。

 

 セレブリャコーフは、命令だから隣にいるのではない。

 

 少なくとも、もうそれだけではない。

 

 ターニャは、黒い手袋をした自分の手を見た。

 

 誰かに必要とされることは、利益である。

 

 信頼されることは、組織内での安全を高める。

 

 だが、その信頼へ応える責任は、命令書のように担当欄へ振れない。

 

(重いな)

 

 嫌ではない。

 

 だから、余計に重い。

 

「分かった」

 

 ターニャは言った。

 

「何がでしょうか」

 

「後悔していないという話だ。覚えておく」

 

「はい」

 

「だが、無理はするな。私が止める前に言え」

 

「承知しました」

 

「それから、休暇中は自分が見たいものを言え。私の希望へ全部合わせるな」

 

 セレブリャコーフは少しだけ目を見開いた。

 

「よろしいのですか」

 

「この湖を見たいと言わなかっただろう」

 

「予定に入っておりましたので」

 

「予定に入っていなければ、黙っていた可能性がある」

 

「……はい」

 

「なら言え。休暇の間だけでいい」

 

「分かりました」

 

「今、見たいものは」

 

 セレブリャコーフは湖を見た。

 

 少し考え、展望地の奥へ続く短い道を指す。

 

「案内板では、もう少し先に小さな滝があるそうです」

 

 ターニャはそちらへ目を向けた。

 

 木々の間へ細い道が続いている。案内板には、往復で三十分ほどと書かれていた。

 

「時間はあるか」

 

 警護員がすぐに時計を確認した。

 

「次の船を一便遅らせれば可能です。山荘への帰還にも支障はありません」

 

 ターニャはセレブリャコーフへ向き直った。

 

「行きたいか」

 

「はい」

 

 今度は迷わなかった。

 

「なら行こう」

 

「ありがとうございます」

 

 二人は長椅子から立った。

 

 予定表にはなかった道である。

 

 だが、警護側は対応できる。

 

 帰還時刻にも余裕がある。

 

 何より、セレブリャコーフが見たいと言った。

 

 それで十分だった。

 

 滝へ向かう道は、展望地までの道より細かった。

 

 木の根が地面へ出ている箇所もあり、歩調はさらに遅くなる。湖は次第に見えなくなり、代わりに水が流れる音が近づいた。

 

 空気も少し冷たくなる。

 

 岩の間から落ちる水が、細かな霧を作っているらしい。

 

 ターニャは足元へ注意を向けつつ、周囲を見る。

 

 森の中は、湖上より暗い。

 

 木々が日を遮り、地面には湿った匂いがある。倒れた木へ苔が付き、その隙間から新しい芽が伸びている。

 

 整然とはしていない。

 

 だが、崩れているわけでもない。

 

 人の手で管理される森林とは違い、倒れたものも含めて全体が続いている。

 

「足元にお気を付けください」

 

 セレブリャコーフが言う。

 

「見ている」

 

「先ほどの段差より滑ります」

 

「今度は手を出すな。自分で歩ける」

 

「はい」

 

 返事は素直だった。

 

 だが、セレブリャコーフは半歩だけ近くなった。

 

 転びそうになれば支えるつもりなのだろう。

 

 ターニャは気付かないふりをした。

 

 道を曲がると、水音が急に大きくなった。

 

 大瀑布というほどではない。

 

 岩壁の割れ目から落ちた水が、段を伝いながら白く崩れている。下には小さな淵があり、そこから細い流れが森の中へ続いていた。

 

 周囲には誰もいなかった。

 

 警護員たちは少し離れ、入口側と奥を確認する。

 

 ターニャとセレブリャコーフだけが、水の近くへ進んだ。

 

「きれいです」

 

 セレブリャコーフが言った。

 

「ああ」

 

 湖とは違う。

 

 湖は静かで、大きかった。

 

 こちらは絶えず動き、音を立てている。

 

 水は同じ場所を落ち続ける。

 

 だが、同じ形には見えない。

 

 風で細かな飛沫が流れ、制服の袖へわずかに付いた。

 

 ターニャは払おうとして、やめた。

 

 この程度なら、あとで乾く。

 

「写真を撮りますか」

 

 セレブリャコーフが尋ねた。

 

「今度はお前が撮られろ」

 

「私だけですか」

 

「ああ。お前が見たかった場所だ」

 

「少佐もご一緒に」

 

「先ほど撮っただろう」

 

「湖とは違います」

 

「理屈になっていない」

 

「記念ですので」

 

 休暇中という言葉は使わなかった。

 

 だが、同じ意味である。

 

 ターニャはため息をついた。

 

「一枚だけだ」

 

「はい」

 

 警護員が再び写真機を出した。

 

 二人は滝を背に並ぶ。

 

 今度は、セレブリャコーフも最初からターニャと同じ位置へ立った。半歩後ろへ下がらない。

 

 ターニャも訂正しなかった。

 

 水音が大きいため、写真機の音はほとんど聞こえなかった。

 

「撮影しました」

 

「今度は変な瞬間ではないな」

 

「はい。お二人とも正面をご覧になっていました」

 

「ならいい」

 

 セレブリャコーフは満足そうだった。

 

 滝の近くには、倒木を利用した長い腰掛けがあった。

 

 二人はそこへ座り、持参した水筒から水を飲んだ。昼食からそれほど時間は経っていないが、山道を歩いたせいで喉が渇いていた。

 

 セレブリャコーフが小さな包みを出す。

 

「何だ、それは」

 

「山荘から持たされた焼き菓子です」

 

「昼食で十分食べたぞ」

 

「歩かれる予定でしたので、念のためにと」

 

「誰が」

 

「私がお願いしました」

 

 自発的な判断が増えている。

 

 包みの中には、小さく焼いた塩味のパンが二つ入っていた。甘いものではない。表面に細かな塩と香草が振られている。

 

「一つずつです」

 

「計画的だな」

 

「はい」

 

 ターニャは受け取った。

 

 まだ少し温かさが残っている。生地は弾力があり、香草の匂いが強すぎない。甘いデザートの後だからこそ、塩味がちょうどよかった。

 

「うまいな」

 

「はい」

 

 二人は滝を見ながら食べた。

 

 休暇の食事は、どれも丁寧に作られている。

 

 だが、山道の途中で食べる小さなパンは、会食の皿とは別の良さがあった。

 

 誰かと政策を話す必要もない。

 

 食器の置き方を気にする必要もない。

 

 手で持ち、かじり、水を飲む。

 

 それだけだ。

 

 ターニャは残りを食べ終えた。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「これは、最初から持ってくるつもりだったのか」

 

「はい。途中で小腹が空かれる可能性があると思いました」

 

「私が昼食後にデザートまで食べることは想定していなかったか」

 

「それでも歩けば召し上がれると思いました」

 

「よく見ているな」

 

「副官ですので」

 

 いつもの答えだった。

 

 だが、今日は少し違って聞こえた。

 

 副官だから。

 

 それは職務の説明でありながら、セレブリャコーフが自分の意志を隠すための便利な言葉でもある。

 

「その答えは、休暇中は禁止にするか」

 

 ターニャが言うと、セレブリャコーフは目を丸くした。

 

「なぜでしょうか」

 

「何でも副官だからで済ませるだろう」

 

「職務ですので」

 

「今も使ったな」

 

「失礼しました」

 

「謝れとは言っていない」

 

 ターニャは少し考えた。

 

「今日は、理由をもう一つ言え」

 

「焼き菓子を持ってきた理由でしょうか」

 

「ああ」

 

 セレブリャコーフは手元の包みを畳んだ。

 

「少佐が、空腹のまま歩かれることを避けたかったからです」

 

「それは職務上の理由だ」

 

「それから」

 

 一度、言葉が止まる。

 

「おいしいものを召し上がっている時の方が、少佐のお顔が穏やかになりますので」

 

 ターニャは無言になった。

 

 滝の音が続く。

 

 聞こえなかったことにはできない。

 

「そう見えるのか」

 

「はい」

 

「仕事中もか」

 

「甘いものを召し上がった後は、少しだけ」

 

「初めて聞いたぞ」

 

「申し上げる機会がございませんでした」

 

「今後も勤務中には言うな」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフの口元が少し緩んだ。

 

 ターニャは水筒へ口を付け、返答を避けた。

 

 顔が穏やかになる。

 

 そのような変化を自覚したことはない。

 

 だが、山荘でリンゴ菓子を食べた時も、先ほどのデザートを食べた時も、周囲に見られていた。

 

 自分が思うほど、表情を完全には隠せていないのかもしれない。

 

(これは問題だろうか)

 

 会議や交渉の最中なら問題になり得る。

 

 食事の席なら、好みが知られる程度だ。

 

 敵対者へ弱点を与えるような話でもない。

 

 それに、今は休暇中だ。

 

 便利な言葉を、今度は自分で使った。

 

 ターニャは立ち上がった。

 

「戻るぞ。次の船に遅れる」

 

「はい」

 

 帰りの道は、下りが多い。

 

 足元へ注意は必要だが、登りよりは呼吸が楽だった。

 

 途中でセレブリャコーフが一度だけ靴を滑らせた。

 

 大きく崩れるほどではない。

 

 ターニャは反射的に彼女の袖を掴んだ。

 

「大丈夫か」

 

「はい。申し訳ありません」

 

「怪我は」

 

「ございません」

 

「足首は」

 

「問題ありません」

 

 セレブリャコーフが立ち直り、靴底を確かめる。

 

 ターニャは袖から手を離した。

 

「私へ注意しておいて、自分が滑るな」

 

「お恥ずかしい限りです」

 

「恥じる必要はない。歩けるなら行く」

 

「はい」

 

 数歩進んでから、セレブリャコーフが言った。

 

「ありがとうございます」

 

「何がだ」

 

「支えていただきました」

 

「反射だ」

 

「それでもです」

 

「なら、先ほどの一段と相殺だ」

 

「承知しました」

 

 相殺。

 

 借りも貸しもない。

 

 互いに一度ずつ支えた。

 

 その言い方なら、ターニャも受け入れやすかった。

 

 展望地へ戻ると、先ほどの観光客は既にいなかった。

 

 湖は少し色を変えている。雲が増えたため、光の強い部分と暗い部分が水面へ斑に落ちていた。

 

 船着場まで下り、予定を一便遅らせた船へ乗る。

 

 今度は乗客が多かった。

 

 警護側はターニャたちの座席を確保していたが、周囲を大きく空ける余裕はない。家族連れや老人たちが近くに座る。

 

 ターニャは、それを嫌だとは思わなかった。

 

 視線は集まる。

 

 だが、午前より慣れた。

 

 船が動き出すと、近くに座った少女がセレブリャコーフの袖章を見ていた。年齢は十歳前後だろう。隣には祖母らしい女性がいる。

 

 少女はターニャへも目を向けた。

 

 黒服。

 

 階級章。

 

 帽子。

 

 目が合うと、慌てて逸らす。

 

 しばらくして、また見る。

 

 ターニャは先ほどの少年を思い出した。

 

 自分から話しかける理由はない。

 

 だが、怯えさせる必要もない。

 

「何か聞きたいのか」

 

 少女が肩を揺らした。

 

 祖母が慌てて頭を下げる。

 

「申し訳ございません、少佐」

 

「構いません」

 

 少女は祖母を見上げ、それから小さな声で言った。

 

「女の人も、少佐になれるの?」

 

 先ほどの少年より、質問が具体的だった。

 

 ターニャは少し考える。

 

「必要な能力があり、任務を与えられればな」

 

「強くないと駄目?」

 

「強さにも種類がある」

 

「銃を撃つ強さ?」

 

「それもある。だが、命令を理解すること、間違いを見つけること、逃げずに決めることも強さだ」

 

 少女は真剣に聞いている。

 

「私もなれる?」

 

 祖母が再び止めようとする。

 

 ターニャは先に答えた。

 

「何になれるかは、今から決めなくていい。ただ、学ぶことはやめるな。読めるものが増えれば、選べる道も増える」

 

 少女が頷いた。

 

「はい」

 

 幼い返事だった。

 

 だが、目は明るかった。

 

 祖母が深く頭を下げる。

 

「温かいお言葉をありがとうございます」

 

「大した話ではありません」

 

 ターニャは窓の外へ視線を戻した。

 

 少しすると、少女は祖母へ何かを小声で話し始めた。言葉までは聞き取れない。

 

 セレブリャコーフが隣から言う。

 

「よいお話でした」

 

「事実を言っただけだ」

 

「はい」

 

「お前まで総統閣下のように、私を子供向けの象徴へするな」

 

「そのようなつもりはございません」

 

「顔がそう言っている」

 

「少佐を見て、希望を持つ方はいらっしゃると思います」

 

 ターニャは眉を寄せた。

 

「希望、か」

 

「はい」

 

 総統閣下やヒムラー閣下が、自分をアーリア人の将来像として見るのとは少し違う。

 

 あの少女は、血統政策や民族の理想を考えていたわけではない。ただ、女性でも少佐になれるのかと尋ねた。

 

 自分にも選択肢があるのか。

 

 それだけだ。

 

(選べる道を残すことが未来だと、私は言ったな)

 

 ドクトルと交わした会話が、また浮かぶ。

 

 少女が何を選ぶかは分からない。

 

 軍人かもしれない。

 

 医師かもしれない。

 

 教師かもしれない。

 

 あるいは、家庭を持ち、別の生活を選ぶかもしれない。

 

 国家は適性と必要を理由に人を配置する。

 

 だが、人間が自分で選んでいると思える余地まで消せば、いずれ反発か諦めが生まれる。

 

 統制と意欲は、同じものではない。

 

 そこを混ぜれば、優れた人材ほど先に壊れる。

 

 ターニャは、船の窓へ映る自分を見た。

 

 黒服の少女少佐。

 

 総統閣下がドイツ民族の未来と呼び、ヒムラー閣下が選抜と教育の成果として扱う姿。

 

 象徴として利用されること自体は構わない。

 

 利用価値がある限り、自分の安全も増す。

 

 だが、その象徴を見た少女が抱くものまで、上から一つに決めることはできない。

 

 憧れ。

 

 好奇心。

 

 恐れ。

 

 可能性。

 

 人によって違う。

 

 ターニャは、それを悪いとは思わなかった。

 

 船が最初の港へ戻る頃、午後はかなり進んでいた。

 

 湖面の光は朝ほど強くなく、山の上には雲が掛かっている。雨は降っていないが、風は少し冷たくなった。

 

 下船すると、セレブリャコーフが車から外套を持ってきた。

 

「お召しになりますか」

 

「そうする」

 

 今度は拒まなかった。

 

 外套を羽織ると、冷たい風が遮られる。

 

 セレブリャコーフも自分のものを着た。

 

 市場へ戻るかどうかを確認すると、帰還予定まで一時間ほど余裕があるという。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「土産を選ぶ時間はある」

 

「よろしいのですか」

 

「先ほど言っただろう」

 

「ありがとうございます」

 

 車は再びベルヒテスガーデンの町へ向かった。

 

 午後の市場は、朝より人が減っていた。売り切れた品もあり、店主たちが籠を片付け始めている。木彫りの鳥を売っていた店は、まだ開いていた。

 

 主人はターニャを見ると、すぐに姿勢を正した。

 

「お戻りいただき、ありがとうございます」

 

「今度は少尉が選ぶ」

 

 主人がセレブリャコーフへ向く。

 

「どうぞ、ごゆっくりご覧ください」

 

 卓上には朝と同じ鳥のほか、小さな動物や花を彫った置物、木製の飾り箱も並んでいる。

 

 セレブリャコーフは一つずつ丁寧に見た。

 

 やはり、すぐには決まらない。

 

 ターニャは横から眺めた。

 

「何に使うものがいい」

 

「使えるもの、ですか」

 

「飾るだけでもいいが、選べないなら条件を付けろ」

 

 また実務の話になりかけている。

 

 だが、土産選びにも条件は役立つ。

 

「ベルリンへ戻っても使えるものがよろしいです」

 

「なら箱か」

 

「そうですね」

 

 主人が小さな木箱をいくつか前へ出した。手のひらより少し大きく、蓋には山の花や鳥が彫られている。

 

 セレブリャコーフは、その中から白い花を彫った箱を手に取った。

 

「これがきれいです」

 

「何を入れる」

 

「髪留めや小さな針などを」

 

「なら使えるな」

 

「はい」

 

 決まった。

 

 主人が包もうとすると、ターニャが財布を出した。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「私が支払います」

 

「同行させた側の土産だ」

 

「ですが」

 

「休暇中の副官業務への手当だと思え」

 

「手当であれば、正式な処理が」

 

「そこへ戻すな」

 

 自分が言う側になった。

 

 セレブリャコーフは少しだけ困った顔をした。

 

「では、贈り物として受け取ってもよろしいでしょうか」

 

 ターニャは一瞬だけ止まった。

 

 贈り物。

 

 手当や経費ではない。

 

 自分から相手へ渡すもの。

 

「……それでいい」

 

「ありがとうございます。大切に使います」

 

 主人へ代金を払い、箱を包んでもらう。

 

 セレブリャコーフは受け取った包みを、自分で持った。

 

 今度はターニャも持とうとは言わない。

 

 二人とも、自分の土産を自分で持っている。

 

 店を出た後、セレブリャコーフが包みを見た。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「本当に、ありがとうございます」

 

「同じことを何度も言うな」

 

「はい」

 

 返答はいつも通りだった。

 

 だが、声は明らかに嬉しそうだった。

 

 ターニャも、悪い気はしなかった。

 

 山荘へ戻る車内では、二人ともそれほど話さなかった。

 

 疲れている。

 

 だが、仕事の後の疲労とは違う。

 

 よく歩き、食べ、景色を見た後の重さだった。

 

 セレブリャコーフは窓の外を見ている。

 

 膝の上には、木箱の包みがある。

 

 ターニャは上着のポケットへ手を入れ、小さな鷹の形を確かめた。

 

 どちらも、なくても困らない。

 

 だが、持って帰りたいと思える。

 

 その感覚は、思っていたより悪くなかった。

 

 山荘へ近づくにつれ、検問と警備員の姿が増える。

 

 休暇の一日は、再び政治中枢の内側へ戻ろうとしていた。

 

 それでも、朝に出た時とは違う。

 

 湖を見た。

 

 船で眠りかけた。

 

 山道を歩いた。

 

 写真を撮った。

 

 滝を見た。

 

 セレブリャコーフへ土産を買った。

 

 仕事と直接繋がらない出来事が、一日の中へいくつも残っている。

 

 ターニャは窓へ頬杖をつこうとして、制服の袖を思い出した。

 

 それから、今日は皺が付いてもよいと言われたことも思い出す。

 

 そのまま肘を窓枠へ置いた。

 

 セレブリャコーフが気付いた。

 

 だが、何も言わなかった。

 

 代わりに、ほんの少しだけ笑った。

 

「何だ」

 

「いえ」

 

「またか」

 

「お休みになっていると思いまして」

 

「これは休んでいるうちに入るのか」

 

「はい」

 

「そうか」

 

 ならば、そのままでいい。

 

 ターニャは窓の外を見た。

 

 山荘へ続く道の向こうに、夕方の空が広がっている。雲の切れ目から、遅い光が斜面へ落ちていた。

 

 二日目は、まだ終わっていない。

 

 夕食もある。

 

 山荘へ戻れば、総統閣下やヒムラー閣下と顔を合わせる可能性もある。ベルリンから何らかの連絡が届いているかもしれない。

 

 それでも今は、車が到着するまでの時間を急いで使う必要はない。

 

 ターニャは座席へ体を預けた。

 

 膝の上へ置いた帽子が、車の揺れに合わせてわずかに動く。

 

 隣にはセレブリャコーフがいる。

 

 その膝には、贈った小さな木箱がある。

 

 完全な自由ではない。

 

 完全に仕事を忘れたわけでもない。

 

 だが、休暇を楽しんでいるかと問われれば、もう否定する理由はなかった。

 

 車はゆっくり坂を上っていく。

 

 山荘の屋根が木々の向こうに見え始めた。

 




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