午後の光が水面へ細かく散り、山の影が少しずつ位置を変えていった。
帰路の船は、往路より乗客が少なかった。
昼食を終えてそのまま奥へ残る者もいれば、別の道を歩いてから遅い便を選ぶ者もいるのだろう。窓際の席はいくつか空いており、ターニャたちの周囲だけを特別に広く取る必要もなかった。
それでも、警護員は前後へ分かれた。
船尾近くに一人。
出入口を見渡せる場所に一人。
もう一人は、途中で降りる船着場へ先回りしている。
ターニャは配置を見た。
見ただけで、それ以上は考えなかった。
不備はない。
ならば、警護担当へ任せればよい。
船が進むにつれ、湖岸の景色がゆっくり後ろへ流れていく。往路では山の大きさに目を奪われていたが、帰りは水際の細かなものまで見えた。水面へ伸びた木の根。岸近くを泳ぐ水鳥。日当たりの良い斜面にだけ集まる明るい緑。
同じ場所でも、見る向きが変われば印象も変わる。
仕事ならば、往路と復路の違いには意味を求める。
人の流れ。
警備の死角。
輸送時間。
道路の勾配。
だが、今は意味を付ける必要がなかった。
ただ、先ほどとは違って見える。
それで十分である。
ターニャは座席へ深く腰を掛けた。
昼食をしっかり取ったせいか、体が少し重い。疲労ではない。満腹に近い感覚だった。
普段の昼食後なら、眠気が来る前にコーヒーを飲み、次の会議へ移る。今日は午後の予定が短い山道だけで、時刻にも余裕がある。
船の揺れは小さい。
機関の音も一定だった。
ターニャは窓の外を見ながら、何度か瞬きをした。
「少佐」
セレブリャコーフが小声で呼んだ。
「何だ」
「眠くはありませんか」
「眠くない」
返答が少し早かった。
セレブリャコーフは何も言わず、ターニャの顔を見た。
「何だ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「目を閉じられても、船着場に着く前にお声を掛けます」
「眠くないと言っている」
「はい」
肯定しているが、信じてはいない顔だった。
ターニャは腕を組もうとして、制服の上着が窮屈になることに気付き、膝の上へ手を置いた。窓から入る風は暖かくなっている。午前の冷たさはなく、水面の光も柔らかい。
(少し目を休めるだけなら、問題はない)
眠るわけではない。
視覚情報を減らし、昼食後の消化へ資源を回すだけだ。
合理的な処置である。
ターニャは目を閉じた。
船の音が近くなる。
水を押し分ける音。
床を通して伝わる小さな振動。
乗客の低い話し声。
少し離れた場所で、子供が何かを尋ねる声。
そのどれも、返答を求めてこない。
報告ではない。
呼び出しでもない。
ただ周囲にある音だった。
どの程度そうしていたのかは分からない。
肩へごく軽い感触があり、ターニャは目を開けた。
セレブリャコーフの手が離れるところだった。
「間もなく到着します」
「……そうか」
「はい」
「眠ってはいない」
「承知しております」
声が丁寧すぎる。
「今の間は何だ」
「何もございません」
「笑うな」
「笑っておりません」
口元は崩れていない。
だが、目元がわずかに柔らかい。
ターニャは追及を諦めた。
窓の外には、小さな船着場が近づいていた。往路では通過した場所で、岸から山側へ細い道が伸びている。観光客のために最低限整備されているらしく、木製の案内板と長椅子が見えた。
船が岸へ寄る。
警護員が先に立ち、周囲を確認した。ターニャとセレブリャコーフが降りると、船員が帽子を取り、丁寧に頭を下げる。
「よい散策を、少佐」
「ありがとうございます」
ターニャは帽子をかぶり直し、船を見送った。
船体がゆっくり岸から離れ、水面へ細い波を残す。次の便が来るまで、船着場は静かになるらしい。
先回りしていた現地警護員が近づいた。
「道はこの先です。上まで二十分ほどです。途中に急な箇所が一つありますが、足場は乾いております」
「一般の観光客も使いますか」
「はい。本日は多くありません」
「分かりました。先導してください」
「承知しました」
道は最初、湖岸とほとんど同じ高さを進んだ。
木々の間から水面が見え、時折、枝が風で擦れる音がする。地面には細かな砂利が敷かれているが、山側へ入るにつれて土が増えた。
ターニャは普段よりゆっくり歩いた。
急ぐ理由はない。
先導する警護員も、それに合わせて距離を保っている。
セレブリャコーフは隣ではなく、半歩後ろを歩いていた。
「少尉」
「はい」
「横へ来い」
セレブリャコーフが少しだけ目を上げた。
「よろしいのですか」
「休暇中まで行軍ではない。道幅もある」
「はい」
彼女が横へ並ぶ。
制服姿の二人が、山道を同じ歩調で進む。
上官と副官。
階級差は消えない。
だが、今だけは先頭と随行ではなく、同じ景色を見に行く者として並んでいた。
道の途中には、小さな流れがあった。
山側から落ちてくる水が木の樋へ集められ、道脇の石鉢へ注いでいる。飲用できるものらしく、小さな金属の杯が鎖で繋がれていた。
警護員が立ち止まる。
「この水は飲めます。地元の者も使います」
ターニャは石鉢を覗いた。
水は澄み、底の小石まで見える。手を浸すと、朝の空気より冷たかった。
「少佐、ハンカチを」
「飲むだけだ」
セレブリャコーフが差し出そうとした布を戻す。
ターニャは杯へ水を汲み、少量だけ口にした。
冷たい。
癖がなく、喉へそのまま落ちる。
「どうですか」
「うまい」
セレブリャコーフも杯を洗い直し、水を飲んだ。
「本当に冷たいですね」
「ああ」
ただの水である。
ベルリンにも水はある。
山荘にもある。
だが、道の途中で足を止め、自分で汲んで飲むと、妙に味が違うように感じられた。
ターニャは濡れた指先を軽く振った。
セレブリャコーフが、結局ハンカチを差し出す。
「使えということか」
「制服へ水が落ちます」
「分かった」
受け取って手を拭く。
返そうとすると、セレブリャコーフがそのまま受け取った。
「洗っておきます」
「自分でできる」
「ほかの衣類と一緒にできますので」
「そうか」
副官としての世話なのか、旅の同行者としての気遣いなのか。
境界は、少しずつ曖昧になっていた。
道はそこから傾斜を増した。
急な箇所には丸太の段が置かれ、手すり代わりの太い縄が張られている。危険というほどではないが、制服用の靴で歩くには注意が必要だった。
ターニャは最初の段へ足を掛けた。
小柄な体には、段差が少し高い。
登れない高さではない。
ただし、普段より歩幅を広く取る必要がある。
セレブリャコーフが先に一段上がり、振り返った。
「手を」
「不要だ」
「足元が滑ります」
「乾いていると聞いた」
「土が崩れやすい場所です」
ターニャは段の縁を見た。
確かに、靴底を置く部分の土が少し削れている。落ちても大怪我をする高さではない。だが、黒服を泥だらけにして山荘へ戻ることには、別の問題がある。
ターニャは一瞬だけ迷い、セレブリャコーフの手を取った。
「一段だけだ」
「はい」
握られた手は暖かかった。
強く引かれることはない。
ターニャが自分で体を上げるのに合わせ、支える程度だった。
一段を越え、すぐに離す。
「助かった」
自然に言葉が出た。
セレブリャコーフは少しだけ目を見開き、それから頷いた。
「お役に立てて何よりです」
「大げさにするな」
「はい」
だが、その声は少し嬉しそうだった。
残りの段差は、それほど高くなかった。
二人は並んで登った。
木々の間から見える湖が、少しずつ下へ移る。最初は水面の一部しか見えなかったが、高度が上がるにつれて、山の間へ伸びる形が分かるようになった。
やがて道が平らになり、木立の向こうが明るくなる。
先導していた警護員が足を止めた。
「こちらです」
木製の柵が設けられた小さな展望地だった。
広くはない。
長椅子が一つ。
案内板が一枚。
その先に、湖がある。
ターニャは柵の近くまで進んだ。
先ほど船で通った水面が、今度は遠く下に見えた。船は白い点に近い。山の斜面が湖へそのまま落ち込み、深い緑の水が細く奥へ続いている。
空の雲まで水面へ映っている。
風が吹くたび、映った形だけが崩れた。
「ここまで来て正解でした」
セレブリャコーフが言った。
「ああ」
ターニャは即答した。
展望地にはほかの観光客が二組いた。
年配の夫婦と、若い男女である。警護員の姿とターニャの制服に気付くと、少し離れた場所へ移った。
ターニャはそれを止めなかった。
自分が来たために追い払われたわけではない。警護側から命令した様子もない。ただ、彼ら自身が距離を取っただけだ。
それでも、申し訳なさに近いものが少しだけ残る。
黒服を着ている限り、完全に一人の観光客にはなれない。
どこへ行っても、人は階級章を見る。
ターニャ本人より先に、親衛隊を見る。
自分が望んだかどうかに関係なく、空気を変える。
(それを利用してきたのも私だ)
仕事では、制服の威圧を使う。
署名を取る。
道を空けさせる。
相手へ、自分の後ろにいる権力を意識させる。
その利益だけを受け取り、休暇中だけ不便だと嘆くのは公平ではない。
ターニャは柵へ手を置いた。
木は日に温められていた。
「少佐」
「何だ」
「お写真を撮られますか」
思いがけない提案だった。
「写真?」
「はい。現地の係員が、小型の写真機を用意しているそうです」
セレブリャコーフが先導役の警護員へ視線を向ける。男は一歩進み、首から提げていた革のケースを示した。
「山荘側から、記念に一枚ほど撮影してはどうかと伺っております」
「誰の案だ」
「総統副官部です」
ターニャは眉を寄せた。
休暇中の行動を記録するためか。
宣伝へ利用するためか。
あるいは、本当に記念写真を残せという意味なのか。
どれもあり得る。
「写真の扱いは」
「一枚は少佐へお渡しします。控えは山荘側で保管しますが、公開する場合は個人幕僚部の承認を取るとのことです」
最低限の確認はされている。
勝手に新聞へ出るわけではないらしい。
ターニャはセレブリャコーフを見た。
「お前も入るのか」
「少佐がお望みでしたら」
「聞いているのは、お前の希望だ」
セレブリャコーフが一瞬だけ言葉を止めた。
「ご一緒してもよろしいのでしたら、お願いしたいです」
「なら二人だ」
「はい」
警護員が写真機を準備する。
ターニャとセレブリャコーフは、湖を背に並んだ。
並んだ、といっても、普段の公式写真ほど距離を詰めるわけではない。ターニャが中央より少し前、セレブリャコーフが半歩後ろへ立とうとする。
「横へ来い」
ターニャが言った。
「ですが」
「休暇の写真だ。副官の配置ではない」
「承知しました」
セレブリャコーフが隣へ移る。
二人の肩の高さは違う。
制服も違う。
ターニャは黒服。
セレブリャコーフは勤務服。
だが、湖を背に並べば、どちらも同じ旅の途中にいる者に見えた。
「少しだけ、こちらへ向いてください」
警護員が言う。
二人が正面を見る。
「そのままでお願いします」
ターニャは、普段の公式写真と同じ顔を作りかけた。
顎を引く。
表情を消す。
階級に相応しい姿勢を取る。
その時、セレブリャコーフが小さく言った。
「少佐」
「何だ」
「休暇中です」
また、その言葉である。
ターニャは横目で彼女を見た。
セレブリャコーフは微笑んでいた。
大きくではない。
だが、写真へ残る程度には明確だった。
「お前は、それを使えば何でも許されると思っていないか」
「そのようなことはございません」
「今の顔で言うな」
写真機の前で言い合っている間に、警護員がシャッターを切った。
乾いた音がする。
ターニャが正面へ戻る。
「今、撮ったのか」
「はい」
「まだ姿勢を整えていない」
「自然なご様子でしたので」
警護員の声は真面目だった。
だが、どこか満足そうである。
「撮り直せ」
「もう一枚、よろしいでしょうか」
「最初の一枚は」
「現像後にご確認いただけます」
「破棄条件を付けろ」
セレブリャコーフが横で言う。
「私は、最初のお写真も拝見したいです」
「お前は何を言っている」
「自然なご様子だったそうですので」
「私が許可する前に保管するな」
「確認後に決められてはいかがでしょうか」
逃げ道を残した提案だった。
ターニャは少し考えた。
自分の表情がどう写ったかは分からない。
セレブリャコーフへ呆れた顔を向けていた可能性が高い。公式な利用には向かない。だが、個人で持つ写真なら、必ずしも問題ではないのかもしれない。
「確認してから決める」
「承知しました」
今度は二人とも正面を向いた。
ターニャは完全な無表情にはしなかった。
笑顔を作るほどでもない。
ただ、顎と肩の力を少し抜いた。
シャッターが切られる。
「以上です」
警護員が写真機をしまう。
セレブリャコーフは湖を振り返った。
「出来上がりが楽しみです」
「まだ一枚目は破棄する可能性がある」
「はい」
返答はしたが、納得していないようだった。
ターニャは展望地の長椅子へ腰を下ろした。
歩いた後であり、昼食も十分に取っている。すぐに下る必要はない。次の船までは時間がある。
セレブリャコーフも隣へ座った。
二人の間には、拳一つ分ほどの隙間がある。
護衛たちは少し離れ、周囲を見ている。
ほかの観光客も、それぞれの場所で景色を眺めていた。
誰も話さない。
風だけが木々を揺らす。
ターニャは上着のポケットへ手を入れた。市場で買った小さな包みが指へ触れる。
木製の鷹。
忘れたわけではない。
だが、改めて触れると、本当に自分が土産を買ったのだという実感が湧いた。
「少尉」
「はい」
「お前は何も買わなかったな」
「はい」
「欲しいものはなかったのか」
「市場を見るだけでも楽しかったです」
「それは、買わなかった理由にはならない」
セレブリャコーフは少し困ったように考えた。
「選びきれませんでした」
「なら、帰りにもう一度寄るか」
「よろしいのですか」
「時間があればだ」
「ありがとうございます」
「何を買うつもりだ」
「まだ決めておりません」
「また選びきれなくなるぞ」
「その時は、少佐にご相談します」
「私に土産物の選定をさせるのか」
「ご意見を伺うだけです」
「同じだ」
セレブリャコーフがわずかに笑う。
ターニャも、それ以上拒まなかった。
市場へ戻る時間がなければ、山荘の売店か、翌日の自由行動で選べばいい。休暇はまだ残っている。
急いで全てを決める必要はなかった。
それ自体が、普段とは違う。
仕事では、未決定を残すと次の部署が止まる。
休暇では、明日決めても誰も困らない。
ターニャは湖を見た。
「少尉」
「はい」
「ここへ来たいと思っていたのか」
「湖ですか」
「ああ」
「お話を伺ってからは、ぜひ見てみたいと思っておりました」
「山荘へ来る前からではないのか」
「ケーニヒ湖のことは存じていました。ですが、実際に来られるとは考えておりませんでした」
セレブリャコーフは膝の上で手を揃えた。
「少佐の副官になってから、行ったことのない場所へ行く機会は増えました」
「観光ではない場所ばかりだろう」
「はい」
「そこは申し訳ないな」
ターニャは半分冗談のつもりで言った。
セレブリャコーフはすぐに首を振る。
「申し訳なく思われる必要はございません」
「そうか」
「少佐とご一緒できたことを、後悔しておりません」
静かな声だった。
重く言い聞かせる調子ではない。
ただ、事実を述べるように言った。
ターニャは湖から視線を動かさなかった。
「危険な場所にも行かせた」
「はい」
「面倒な仕事も増えた」
「はい」
「制服まで変わった」
「はい」
「それでもか」
「それでもです」
即答だった。
ターニャは返す言葉を失った。
忠誠と呼べば簡単だ。
副官としての責任感と呼ぶこともできる。
だが、それだけではないことを、今は理解している。
セレブリャコーフは、命令だから隣にいるのではない。
少なくとも、もうそれだけではない。
ターニャは、黒い手袋をした自分の手を見た。
誰かに必要とされることは、利益である。
信頼されることは、組織内での安全を高める。
だが、その信頼へ応える責任は、命令書のように担当欄へ振れない。
(重いな)
嫌ではない。
だから、余計に重い。
「分かった」
ターニャは言った。
「何がでしょうか」
「後悔していないという話だ。覚えておく」
「はい」
「だが、無理はするな。私が止める前に言え」
「承知しました」
「それから、休暇中は自分が見たいものを言え。私の希望へ全部合わせるな」
セレブリャコーフは少しだけ目を見開いた。
「よろしいのですか」
「この湖を見たいと言わなかっただろう」
「予定に入っておりましたので」
「予定に入っていなければ、黙っていた可能性がある」
「……はい」
「なら言え。休暇の間だけでいい」
「分かりました」
「今、見たいものは」
セレブリャコーフは湖を見た。
少し考え、展望地の奥へ続く短い道を指す。
「案内板では、もう少し先に小さな滝があるそうです」
ターニャはそちらへ目を向けた。
木々の間へ細い道が続いている。案内板には、往復で三十分ほどと書かれていた。
「時間はあるか」
警護員がすぐに時計を確認した。
「次の船を一便遅らせれば可能です。山荘への帰還にも支障はありません」
ターニャはセレブリャコーフへ向き直った。
「行きたいか」
「はい」
今度は迷わなかった。
「なら行こう」
「ありがとうございます」
二人は長椅子から立った。
予定表にはなかった道である。
だが、警護側は対応できる。
帰還時刻にも余裕がある。
何より、セレブリャコーフが見たいと言った。
それで十分だった。
滝へ向かう道は、展望地までの道より細かった。
木の根が地面へ出ている箇所もあり、歩調はさらに遅くなる。湖は次第に見えなくなり、代わりに水が流れる音が近づいた。
空気も少し冷たくなる。
岩の間から落ちる水が、細かな霧を作っているらしい。
ターニャは足元へ注意を向けつつ、周囲を見る。
森の中は、湖上より暗い。
木々が日を遮り、地面には湿った匂いがある。倒れた木へ苔が付き、その隙間から新しい芽が伸びている。
整然とはしていない。
だが、崩れているわけでもない。
人の手で管理される森林とは違い、倒れたものも含めて全体が続いている。
「足元にお気を付けください」
セレブリャコーフが言う。
「見ている」
「先ほどの段差より滑ります」
「今度は手を出すな。自分で歩ける」
「はい」
返事は素直だった。
だが、セレブリャコーフは半歩だけ近くなった。
転びそうになれば支えるつもりなのだろう。
ターニャは気付かないふりをした。
道を曲がると、水音が急に大きくなった。
大瀑布というほどではない。
岩壁の割れ目から落ちた水が、段を伝いながら白く崩れている。下には小さな淵があり、そこから細い流れが森の中へ続いていた。
周囲には誰もいなかった。
警護員たちは少し離れ、入口側と奥を確認する。
ターニャとセレブリャコーフだけが、水の近くへ進んだ。
「きれいです」
セレブリャコーフが言った。
「ああ」
湖とは違う。
湖は静かで、大きかった。
こちらは絶えず動き、音を立てている。
水は同じ場所を落ち続ける。
だが、同じ形には見えない。
風で細かな飛沫が流れ、制服の袖へわずかに付いた。
ターニャは払おうとして、やめた。
この程度なら、あとで乾く。
「写真を撮りますか」
セレブリャコーフが尋ねた。
「今度はお前が撮られろ」
「私だけですか」
「ああ。お前が見たかった場所だ」
「少佐もご一緒に」
「先ほど撮っただろう」
「湖とは違います」
「理屈になっていない」
「記念ですので」
休暇中という言葉は使わなかった。
だが、同じ意味である。
ターニャはため息をついた。
「一枚だけだ」
「はい」
警護員が再び写真機を出した。
二人は滝を背に並ぶ。
今度は、セレブリャコーフも最初からターニャと同じ位置へ立った。半歩後ろへ下がらない。
ターニャも訂正しなかった。
水音が大きいため、写真機の音はほとんど聞こえなかった。
「撮影しました」
「今度は変な瞬間ではないな」
「はい。お二人とも正面をご覧になっていました」
「ならいい」
セレブリャコーフは満足そうだった。
滝の近くには、倒木を利用した長い腰掛けがあった。
二人はそこへ座り、持参した水筒から水を飲んだ。昼食からそれほど時間は経っていないが、山道を歩いたせいで喉が渇いていた。
セレブリャコーフが小さな包みを出す。
「何だ、それは」
「山荘から持たされた焼き菓子です」
「昼食で十分食べたぞ」
「歩かれる予定でしたので、念のためにと」
「誰が」
「私がお願いしました」
自発的な判断が増えている。
包みの中には、小さく焼いた塩味のパンが二つ入っていた。甘いものではない。表面に細かな塩と香草が振られている。
「一つずつです」
「計画的だな」
「はい」
ターニャは受け取った。
まだ少し温かさが残っている。生地は弾力があり、香草の匂いが強すぎない。甘いデザートの後だからこそ、塩味がちょうどよかった。
「うまいな」
「はい」
二人は滝を見ながら食べた。
休暇の食事は、どれも丁寧に作られている。
だが、山道の途中で食べる小さなパンは、会食の皿とは別の良さがあった。
誰かと政策を話す必要もない。
食器の置き方を気にする必要もない。
手で持ち、かじり、水を飲む。
それだけだ。
ターニャは残りを食べ終えた。
「少尉」
「はい」
「これは、最初から持ってくるつもりだったのか」
「はい。途中で小腹が空かれる可能性があると思いました」
「私が昼食後にデザートまで食べることは想定していなかったか」
「それでも歩けば召し上がれると思いました」
「よく見ているな」
「副官ですので」
いつもの答えだった。
だが、今日は少し違って聞こえた。
副官だから。
それは職務の説明でありながら、セレブリャコーフが自分の意志を隠すための便利な言葉でもある。
「その答えは、休暇中は禁止にするか」
ターニャが言うと、セレブリャコーフは目を丸くした。
「なぜでしょうか」
「何でも副官だからで済ませるだろう」
「職務ですので」
「今も使ったな」
「失礼しました」
「謝れとは言っていない」
ターニャは少し考えた。
「今日は、理由をもう一つ言え」
「焼き菓子を持ってきた理由でしょうか」
「ああ」
セレブリャコーフは手元の包みを畳んだ。
「少佐が、空腹のまま歩かれることを避けたかったからです」
「それは職務上の理由だ」
「それから」
一度、言葉が止まる。
「おいしいものを召し上がっている時の方が、少佐のお顔が穏やかになりますので」
ターニャは無言になった。
滝の音が続く。
聞こえなかったことにはできない。
「そう見えるのか」
「はい」
「仕事中もか」
「甘いものを召し上がった後は、少しだけ」
「初めて聞いたぞ」
「申し上げる機会がございませんでした」
「今後も勤務中には言うな」
「承知しました」
セレブリャコーフの口元が少し緩んだ。
ターニャは水筒へ口を付け、返答を避けた。
顔が穏やかになる。
そのような変化を自覚したことはない。
だが、山荘でリンゴ菓子を食べた時も、先ほどのデザートを食べた時も、周囲に見られていた。
自分が思うほど、表情を完全には隠せていないのかもしれない。
(これは問題だろうか)
会議や交渉の最中なら問題になり得る。
食事の席なら、好みが知られる程度だ。
敵対者へ弱点を与えるような話でもない。
それに、今は休暇中だ。
便利な言葉を、今度は自分で使った。
ターニャは立ち上がった。
「戻るぞ。次の船に遅れる」
「はい」
帰りの道は、下りが多い。
足元へ注意は必要だが、登りよりは呼吸が楽だった。
途中でセレブリャコーフが一度だけ靴を滑らせた。
大きく崩れるほどではない。
ターニャは反射的に彼女の袖を掴んだ。
「大丈夫か」
「はい。申し訳ありません」
「怪我は」
「ございません」
「足首は」
「問題ありません」
セレブリャコーフが立ち直り、靴底を確かめる。
ターニャは袖から手を離した。
「私へ注意しておいて、自分が滑るな」
「お恥ずかしい限りです」
「恥じる必要はない。歩けるなら行く」
「はい」
数歩進んでから、セレブリャコーフが言った。
「ありがとうございます」
「何がだ」
「支えていただきました」
「反射だ」
「それでもです」
「なら、先ほどの一段と相殺だ」
「承知しました」
相殺。
借りも貸しもない。
互いに一度ずつ支えた。
その言い方なら、ターニャも受け入れやすかった。
展望地へ戻ると、先ほどの観光客は既にいなかった。
湖は少し色を変えている。雲が増えたため、光の強い部分と暗い部分が水面へ斑に落ちていた。
船着場まで下り、予定を一便遅らせた船へ乗る。
今度は乗客が多かった。
警護側はターニャたちの座席を確保していたが、周囲を大きく空ける余裕はない。家族連れや老人たちが近くに座る。
ターニャは、それを嫌だとは思わなかった。
視線は集まる。
だが、午前より慣れた。
船が動き出すと、近くに座った少女がセレブリャコーフの袖章を見ていた。年齢は十歳前後だろう。隣には祖母らしい女性がいる。
少女はターニャへも目を向けた。
黒服。
階級章。
帽子。
目が合うと、慌てて逸らす。
しばらくして、また見る。
ターニャは先ほどの少年を思い出した。
自分から話しかける理由はない。
だが、怯えさせる必要もない。
「何か聞きたいのか」
少女が肩を揺らした。
祖母が慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません、少佐」
「構いません」
少女は祖母を見上げ、それから小さな声で言った。
「女の人も、少佐になれるの?」
先ほどの少年より、質問が具体的だった。
ターニャは少し考える。
「必要な能力があり、任務を与えられればな」
「強くないと駄目?」
「強さにも種類がある」
「銃を撃つ強さ?」
「それもある。だが、命令を理解すること、間違いを見つけること、逃げずに決めることも強さだ」
少女は真剣に聞いている。
「私もなれる?」
祖母が再び止めようとする。
ターニャは先に答えた。
「何になれるかは、今から決めなくていい。ただ、学ぶことはやめるな。読めるものが増えれば、選べる道も増える」
少女が頷いた。
「はい」
幼い返事だった。
だが、目は明るかった。
祖母が深く頭を下げる。
「温かいお言葉をありがとうございます」
「大した話ではありません」
ターニャは窓の外へ視線を戻した。
少しすると、少女は祖母へ何かを小声で話し始めた。言葉までは聞き取れない。
セレブリャコーフが隣から言う。
「よいお話でした」
「事実を言っただけだ」
「はい」
「お前まで総統閣下のように、私を子供向けの象徴へするな」
「そのようなつもりはございません」
「顔がそう言っている」
「少佐を見て、希望を持つ方はいらっしゃると思います」
ターニャは眉を寄せた。
「希望、か」
「はい」
総統閣下やヒムラー閣下が、自分をアーリア人の将来像として見るのとは少し違う。
あの少女は、血統政策や民族の理想を考えていたわけではない。ただ、女性でも少佐になれるのかと尋ねた。
自分にも選択肢があるのか。
それだけだ。
(選べる道を残すことが未来だと、私は言ったな)
ドクトルと交わした会話が、また浮かぶ。
少女が何を選ぶかは分からない。
軍人かもしれない。
医師かもしれない。
教師かもしれない。
あるいは、家庭を持ち、別の生活を選ぶかもしれない。
国家は適性と必要を理由に人を配置する。
だが、人間が自分で選んでいると思える余地まで消せば、いずれ反発か諦めが生まれる。
統制と意欲は、同じものではない。
そこを混ぜれば、優れた人材ほど先に壊れる。
ターニャは、船の窓へ映る自分を見た。
黒服の少女少佐。
総統閣下がドイツ民族の未来と呼び、ヒムラー閣下が選抜と教育の成果として扱う姿。
象徴として利用されること自体は構わない。
利用価値がある限り、自分の安全も増す。
だが、その象徴を見た少女が抱くものまで、上から一つに決めることはできない。
憧れ。
好奇心。
恐れ。
可能性。
人によって違う。
ターニャは、それを悪いとは思わなかった。
船が最初の港へ戻る頃、午後はかなり進んでいた。
湖面の光は朝ほど強くなく、山の上には雲が掛かっている。雨は降っていないが、風は少し冷たくなった。
下船すると、セレブリャコーフが車から外套を持ってきた。
「お召しになりますか」
「そうする」
今度は拒まなかった。
外套を羽織ると、冷たい風が遮られる。
セレブリャコーフも自分のものを着た。
市場へ戻るかどうかを確認すると、帰還予定まで一時間ほど余裕があるという。
「少尉」
「はい」
「土産を選ぶ時間はある」
「よろしいのですか」
「先ほど言っただろう」
「ありがとうございます」
車は再びベルヒテスガーデンの町へ向かった。
午後の市場は、朝より人が減っていた。売り切れた品もあり、店主たちが籠を片付け始めている。木彫りの鳥を売っていた店は、まだ開いていた。
主人はターニャを見ると、すぐに姿勢を正した。
「お戻りいただき、ありがとうございます」
「今度は少尉が選ぶ」
主人がセレブリャコーフへ向く。
「どうぞ、ごゆっくりご覧ください」
卓上には朝と同じ鳥のほか、小さな動物や花を彫った置物、木製の飾り箱も並んでいる。
セレブリャコーフは一つずつ丁寧に見た。
やはり、すぐには決まらない。
ターニャは横から眺めた。
「何に使うものがいい」
「使えるもの、ですか」
「飾るだけでもいいが、選べないなら条件を付けろ」
また実務の話になりかけている。
だが、土産選びにも条件は役立つ。
「ベルリンへ戻っても使えるものがよろしいです」
「なら箱か」
「そうですね」
主人が小さな木箱をいくつか前へ出した。手のひらより少し大きく、蓋には山の花や鳥が彫られている。
セレブリャコーフは、その中から白い花を彫った箱を手に取った。
「これがきれいです」
「何を入れる」
「髪留めや小さな針などを」
「なら使えるな」
「はい」
決まった。
主人が包もうとすると、ターニャが財布を出した。
「少佐」
「何だ」
「私が支払います」
「同行させた側の土産だ」
「ですが」
「休暇中の副官業務への手当だと思え」
「手当であれば、正式な処理が」
「そこへ戻すな」
自分が言う側になった。
セレブリャコーフは少しだけ困った顔をした。
「では、贈り物として受け取ってもよろしいでしょうか」
ターニャは一瞬だけ止まった。
贈り物。
手当や経費ではない。
自分から相手へ渡すもの。
「……それでいい」
「ありがとうございます。大切に使います」
主人へ代金を払い、箱を包んでもらう。
セレブリャコーフは受け取った包みを、自分で持った。
今度はターニャも持とうとは言わない。
二人とも、自分の土産を自分で持っている。
店を出た後、セレブリャコーフが包みを見た。
「少佐」
「何だ」
「本当に、ありがとうございます」
「同じことを何度も言うな」
「はい」
返答はいつも通りだった。
だが、声は明らかに嬉しそうだった。
ターニャも、悪い気はしなかった。
山荘へ戻る車内では、二人ともそれほど話さなかった。
疲れている。
だが、仕事の後の疲労とは違う。
よく歩き、食べ、景色を見た後の重さだった。
セレブリャコーフは窓の外を見ている。
膝の上には、木箱の包みがある。
ターニャは上着のポケットへ手を入れ、小さな鷹の形を確かめた。
どちらも、なくても困らない。
だが、持って帰りたいと思える。
その感覚は、思っていたより悪くなかった。
山荘へ近づくにつれ、検問と警備員の姿が増える。
休暇の一日は、再び政治中枢の内側へ戻ろうとしていた。
それでも、朝に出た時とは違う。
湖を見た。
船で眠りかけた。
山道を歩いた。
写真を撮った。
滝を見た。
セレブリャコーフへ土産を買った。
仕事と直接繋がらない出来事が、一日の中へいくつも残っている。
ターニャは窓へ頬杖をつこうとして、制服の袖を思い出した。
それから、今日は皺が付いてもよいと言われたことも思い出す。
そのまま肘を窓枠へ置いた。
セレブリャコーフが気付いた。
だが、何も言わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ笑った。
「何だ」
「いえ」
「またか」
「お休みになっていると思いまして」
「これは休んでいるうちに入るのか」
「はい」
「そうか」
ならば、そのままでいい。
ターニャは窓の外を見た。
山荘へ続く道の向こうに、夕方の空が広がっている。雲の切れ目から、遅い光が斜面へ落ちていた。
二日目は、まだ終わっていない。
夕食もある。
山荘へ戻れば、総統閣下やヒムラー閣下と顔を合わせる可能性もある。ベルリンから何らかの連絡が届いているかもしれない。
それでも今は、車が到着するまでの時間を急いで使う必要はない。
ターニャは座席へ体を預けた。
膝の上へ置いた帽子が、車の揺れに合わせてわずかに動く。
隣にはセレブリャコーフがいる。
その膝には、贈った小さな木箱がある。
完全な自由ではない。
完全に仕事を忘れたわけでもない。
だが、休暇を楽しんでいるかと問われれば、もう否定する理由はなかった。
車はゆっくり坂を上っていく。
山荘の屋根が木々の向こうに見え始めた。
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