ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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122章「守るべきもの——ハーマイオニー・グレンジャー」

◆ ◆ ◆

 

それが夕となり、また朝となった。最後の日、一九九二年六月十五日である。

 

夜明けまえの、太陽がまだのぼっていない時間。はじまりの時の光は弱く、空はまだごくわずかしか明るんでいない。 ホグウォーツ城の東、クィディッチ場のむこうの、太陽がのぼってくる方向の地平線上の丘の上の空も、うっすらと灰色が混じりはじめたにすぎない。

 

ハリーがいまいる石の展望台は、眼下の丘陵のむこうがわの朝焼けも見えるほど高い位置にある。この新しい居室をもらうとき、ちょうどそういう条件をつけたのである。

 

ハリーはいまクッションの上にあぐらをかき、手と顔を夜明けまえの涼風に吹かれている。 最初はカオス軍司令官室の手磨きの玉座を家事妖精(ハウスエルフ)にもってこさせようとした……が、自分のその好みがどこから来たのか、ヴォルデモートも似たような玉座をもっていたのではないか、ということが気になりはじめて、撤回した。 反論がありえないわけではない——自分の道徳哲学上、磨かれた玉座にすわってホグウォーツ城下の土地を検分するという行為にどこにも()()()()なところはない——が、しばらく時間をかけてよく検討すべきではあるとハリーは判断した。 そのあいだ、当面はただのクッションで用はたりる。

 

足もとの、この屋上に木製のはしごでつながっている部屋が、ホグウォーツ内でのハリーの新しい居室である。 壁全面を採光用に窓にした広い部屋で、いまのところ椅子が四つと机が一つあるほか、家具はない。 ハリーが部屋の条件を伝えると、マクゴナガル総長は〈組わけ帽子〉をかぶり、曲がりくねった道すじを告げ、その終着点に所望の部屋があると言った。 城の高さからしてありえないほどの高さにある部屋で、外の人からはどう見ても城との接続部分が見えない部屋というのが条件だった。 これは狙撃手に対する初歩的な予防措置であり、このようにしない理由がないとハリーは思う。

 

ただ、そのかわり、ハリーは実のところ自分がいまどこにいるのかをまったく把握していない。 この部屋は下の地面から見えないのだとして、それならなぜここから地面が見えるのか。光子(フォトン)は地表からどのようにしてここにたどりつくのか。 夜明けまえの空気は()んでいて、西の地平線にはまだ星が光っている。 想像を絶する距離にある星の巨大なプラズマ炉で発せられた光子がそのままとどいているのか。 それともこの場所はホグウォーツ城のまぼろしかなにかなのか。 それともこのすべては『ただの魔法』であって、それ以上の説明はないのか。 まず魔法がある場所で支障なく電気を使える方法をみつけておかなければ、レーザーを上や下に照射する実験もできない、とハリーは思った。

 

話をもどせば、ハリーはいま、ホグウォーツ内に自分の居室をもっている。 まだ正式な称号はないが、〈死ななかった男の子〉はいまやホグウォーツ魔術学校の構成要素である。この学校はまもなく〈賢者の石〉を擁する魔法世界唯一の真の高等教育機関となる。 部屋と屋上のセキュリティは万全ではないが、ヴェクター先生に魔法とルーン文字で予備的な盗聴対策をかけてもらってはある。

 

ハリーは居室の屋上のへりにクッションをおいて座り、木々と湖沼と草花を見おろしている。 はるか下に馬車が止まっているが、まだそれを引く骨ばったウマたちはいない。 小さな船が岸のあたりに散らばり、新入生をのせて湖を横断する日を待っている。 ホグウォーツ急行はすでに夜のうちに到着し、その客車と旧式の機関車は南の湖のむこうがわの岸で待機している。 朝の〈休暇の宴〉が終わりしだい生徒たちを連れて行く準備ができている。

 

ハリーは湖とそのむこうにある旧式の大きな蒸気機関車をながめる。ハリーは今回はそれに乗って帰らない。というより、今回も。 そう考えると奇妙な悲しみと不安が生まれる。自分は()()()()()()()()()()()と体験を共有して親交を深めることができなくなりつつあるのではないか——といっても、自分の大きな一部が一九二六年生まれであることを考えれば、おなじ年ごろとは言えないのかもしれない。 昨夜レイヴンクローの談話室にいたとき、自分と他の生徒とのあいだの距離が、たしかに広がっているように感じられた。 ただしそれは、パドマ・パティルとアンソニー・ゴルドスタインが興奮気味に話しあい、矢継ぎ早に推測をしあっていた〈生きかえった女の子〉の話題に関して、 こちらがひとつのこらず知っている答えをあの二人には明かすことができなかったせいであったかもしれない。

 

いったんホグウォーツ急行に乗り、降りたら〈煙送(フルー)〉でホグウォーツにもどる、という案に魅力を感じている自分もいる。 しかし客車の個室でもう五人の生徒といっしょになること、それから八時間、秘密を守りながらネヴィルやパドマやディーンやトレイシーやラヴェンダーと過ごすことを考えると……あまり魅力的ではないように思える。 〈ほかの子どもたちとの触れあい〉のためにそうしているべきであるという気もするが、そう()()()という気はしない。 いずれつぎの学年がはじまればまた会えるのだし、そのときにはもっと自由に話せる話題もあるだろう。

 

ハリーは南の湖とそのむこうにある古い巨大な蒸気機関車をながめ、このさきの自分の人生について考える。

 

〈未来〉について。

 

ダンブルドアの手紙にあった、ハリーが星ぼしを引き裂くという予言は……その部分だけなら、楽観的な意味があるように思える。 適切な育てられかたをした人ならだれでも思いつく解釈がひとつある。 人類がおおむね勝利した未来のことを言っているという解釈だ。 星を見るときにいつも考えるようなことではないが、真に()()()()視点から見れば、恒星は貴重な天然資源の巨大なかたまりがうっかり発火してしまったものにすぎず、解体して消火すべきものだ。 恒星という、水素とヘリウムの巨大な貯蔵庫から天然資源をとりだせるようになった時点で、その種族は成熟の段階に達することができたと言える。

 

ただし、問題の予言はまったく別のことを指していた可能性もある。 ダンブルドアはどこかの〈予見者〉のことばを誤解していたかもしれない……けれどあの手紙を読むかぎりでは、近い将来にハリー()()()星ぼしを引き裂く、と言っている予言があるらしく聞こえた。 だとすれば、それはもう少々心配すべきことのようにも思えるが、そのとおりである確証はないし、そのとおりであったとして悪いことだとはかぎらない……

 

ハリーはためいきを漏らした。 昨晩なかなか眠りにつけないでいるあいだに考えて、ダンブルドアの遺言のこのような含意が、だんだん見えてきたのだった。

 

現在の知識をもとに、一九九一/一九九二年の一学年に起きたできごとをふりかえると、骨も凍るほどおそろしいことばかりだ。

 

問題はそのあいだずっとハリーがヴォルデモート卿とよろしくやっていたというだけにとどまらない。というより、問題の大部分は別にある。

 

アルバス・ダンブルドアがいかに細い〈時間〉の線を運命の小さな鍵穴に通していたかということ。それがいかにあやうい、針の穴に糸を通すがごとき可能性のすじであったかということ。

 

数かずの予言に指示されて、ダンブルドアはトム・リドルの知性を魔法族の赤子の脳に転写させ、その子がマグル科学をまなんで育つように仕向けた。 もし()()が予見者たちの見つけうる、破滅を回避するための最初の、あるいは最良の戦略であったとしたら、それは〈未来〉のありようについてなにを言っていることになるだろうか。

 

いま思えば、あの〈不破の誓い〉をしていなかったとしたら、昨日自分が〈国際魔法機密保持法〉を廃止することを考えたときが、災厄の出発点となっていたのかもしれない。 すると、ダンブルドアが読んだ数かずの予言の指示のとおりに行動していたことが巡り巡って、ハリーとヴォルデモートを()()()()()()()()()やりかたで衝突させ、ヴォルデモートがハリーにあの〈不破の誓い〉をさせる結果になった、という筋書きが強く示唆される。 あの〈不破の誓い〉も、〈時間〉の小さな鍵穴の一部、すなわち地球に住む者が生きのこるための実現不可能に近い前提条件のひとつであったということ。

 

地球に住む者たちを現在のハリーの()()()から守るためだけにある〈誓い〉。

 

それは自分があと一歩で交通事故になるところだった瞬間の前後の映像を見るのと似ている。もう一台の車があと数センチメートルの距離でぶつかりかけた記憶があり、映像にはだれかが()()()小石をちょうどいいところに投げて巨大なトラックがその衝突にくわわらないようにしてくれたことが映っている。もしその小石がなければ、こちらの車にいる自分と自分の家族と()()()()()()()()()がトラックにぶつかられていた。(ここでは自分の()()()()()()()()()()をトラックに見立てている。)

 

〈誓い〉が自分を止めた、ということは自分はそれ以前にその危険に()()()、一面でそれを()()()()()にちがいない。()()()()()()()、自分はまちがった選択をして世界を壊滅させかけてしまった。 いまなら、魔法的治癒をマグルに迅速に拡大してはならないという理屈を、別の時間線上の〈誓い〉をしていない自分はそう簡単に受けいれられなかったであろう、と想像することができる。 別の時間線上のその自分なら、危険があることを認めたとしても、それを合理化してしまっている——なにか巧妙な抜け道をみつけだし、()()()()()()()()()()()()()ことは許容できないと主張していて、その結果、世界は滅亡している。 ハリーがあれだけ多くの警告を受けていてなお、〈不破の誓い〉なしに破局は避けられなかった。

 

針の穴をくぐる、一本の細い〈時間〉の糸。

 

ハリーはこの情報に対処する方法を知らない。人類はこのような状況が発覚したとき、それに対処するための感情をもつように進化していない。 ハリーにできるのは、自分がこれほど災厄に近づいてしまっていたということ、〈誓い〉の発動するのが一度だけではないかもしれないと認め、自分が()()そうなるかもしれないということを見つめ、考えることだけ……

 

考える……

 

『もう二度とおなじことを起こしたくない』と思うのは正しくないように思える。 もともと自分は世界を壊滅()()()()とは思っていない。 自分に地球の知的生命を守る気持ちが欠けていたのではなく、むしろその気持ちがあることが、ある意味で問題だった。 欠けていたのはある種の見通す力、自分でもひそかに気づいていたことを意識的にそれと認める意志力だった。

 

また、過去一年間ハリーが〈防衛術〉教授となかよくしていたことも、ハリーの知性を高く評価する材料にならない。むしろそれは、同じ問題の所在を示唆しているようですらある。 どちらの場合も、ハリーが意識下で気づいていたか懸念していたことが意識的注意の俎上に上がらなかった。 そのためにハリーは失敗し、死にかけた。

 

ぼくはゲームのレヴェルを上げなければならない。

 

探していた思考はこれだ。 自分はいまよりうまくやれるようになる必要がある。愚かさを減らす必要がある。

 

ゲームのレヴェルを上げられなければ、失敗だ。

 

ダンブルドアの手紙には、ダンブルドア自身が〈予言の間〉の記録物をすべて破壊し、将来の記録もおこなわれないようにしたとあった。 ハリーにそれらの予言を見せるべきでないという予言があったために、そうしたらしい。 そこから当然思いつくべき可能性は(実際そのとおりであるかどうかはおいておくとして)、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということ。 勝利への筋道は〈占術〉のメッセージにふくめられないほど複雑なのか、もしくはなんらかの理由で予見者の目に見えないものなのであろうということ。 ダンブルドア自身の手で世界を救う手段があったなら、予言はおそらくダンブルドアにそのやりかたを伝えている。 予言が実際にしたことは、ある種の人間が存在するための前提条件をととのえさせる手順をダンブルドアに伝えることだった。つまり、予言が直接解決できないほどややこしい問題を、解消してくれる可能性のある人間を存在させるために。 だからこそハリーは独力で、予言のみちびきなしに考えさせられることになった。そうでなければ、未知の課題にとりくむことのできる人間として成熟することができなかったから。

 

そしてハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスはいまだに、〈不破の誓い〉で束縛されていなければ()()()地球を壊滅への道にむかわせる、歩く災難である。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のである。 まさにそのとおりのことが、ヴォルデモートの世界征服未遂の手つだいをした翌日、いまから一日まえに起きたのだから。

 

トールキンの書いたとある一文が、ハリーのあたまのなかをぐるぐるとまわっている。フロドが〈滅びの山〉の上で指輪をつけ、サウロンが自分が()()()()()()()()()()()()ことをはたと悟るシーン。たしか『サウロンはみずからの過ちの大きさをついに目のあたりにさせられ』、というような一文だった。

 

あるべき自分と現在の自分のあいだには巨大な断絶がある。

 

時間や人生経験や思春期のおとずれが自動的にそれを解決してくれるようには思えない。多少の助けにはなるというのが精々だろう。 それでも、もしふつうの十一歳がふつうの大人に成長するように()()自我が成長するのだとすれば、()()()()()()〈時間〉の小さな鍵穴をくぐりぬけるのに足りるかもしれない……。

 

ハリーはなんらかの方法で成長しなければならず、そのための既成の道は存在しない。

 

トールキンとは別の、より無名なフィクション作品のことが思いだされる。

 

そなたたちは自分が学んだ技を鍛錬し、試練に直面してその真価を理解し、教わった手段を最大限に活用し、にもかかわらずそれを自分の手のなかで粉ごなにされ、一面の瓦礫の山のなかにおかれることを通じてのみ、名人の域に達することができる…… わたしに名人を作ることはできない。名人を作る方法など知らない。 行け、そして失敗せよ…… そのときそなたたちは瓦礫のなかから生まれるなにかに変わり、みずからの技芸を鍛えなおす決意を得ている。 わたしに名人を作ることはできないが、教えを受けなかった者が名人になれる可能性はさらに低い。 自分が自分の技芸に裏切られたと思えたとき、はじめて一段上の道が始まる。実際には自分が自分の技芸を裏切っているのではあるが。

 

ハリーが道をあやまったわけではないし、正気にたどりつくための道が科学の外にあるのでもない。 しかし科学論文を読む()()でいいとも言えない。 人間の脳にはあれこれのバグがある、という認知心理学の論文をいろいろ読むことは()()()()()()が、()()ではなかった。 実際に()()()()()()()()()()ことに手をつけるという、想像を絶するほど合理的な人間になるための水準は、自分があれこれの失敗をしたと後づけで説明する方法を知っているのと比べて()()()()()()()高く、ハリーはそこに到達できていなかった。 この一年のあいだに自分が正しい判断をしそこねた事例に対し『先入観による認知』などの概念をあてはめてふりかえることはできる。 将来的に以前の自分より正気になろうとするなら、そうすることもためになることではある。どこで失敗したのか分からずにいるよりはましではある。 しかしそれだけではまだ〈時間〉の小さな鍵穴をくぐりぬけられる人間になること、予見者に指示されてダンブルドアがつくりだそうとした人物の()()()を実現することができない。

 

もっと速く思考し、速く成長しなければ……。いまの自分は、将来の自分は、どれくらい孤独なのだろうか。 ぼくはクィレル先生の最初の模擬戦で、ハーマイオニーの下にほかの司令塔がいることに気づかなかった失敗をまたくりかえそうとしているのか。 それとも、ダンブルドアが狂人でも邪悪でもなさそうだと気づいた時点で、ダンブルドアにあの破滅の感覚のことを話さなかったという失敗を。

 

マグルの学校にこういうことについての授業があればよかったのだが、そういうことはなかった。 ダニエル・カーネマンあたりを仲間にして、彼の死を偽装したうえで、〈石〉をつかって若がえらせて、この手のことに関するもっといい訓練方法を発明するという役目をになってもらえばいいのでは……。

 

〈ニワトコの杖〉をローブのなかから取りだし、ダンブルドアから渡ってきた黒灰色の杖体をあらためて見つめる。 ハリーは実際、こんどこそ速く思考()()()という試みの一環で、〈不可視のマント〉と〈よみがえりの石〉とが示唆するパターンを完成させてみようとしてはみた。 〈不可視のマント〉には着用者を隠す伝説的な能力があり、ディメンターとしてあらわれた〈死〉そのものから着用者を隠すという裏の効果がある。 〈よみがえりの石〉には死者の映像を召喚する能力があり、ヴォルデモートはそれをホークラックス網にくみこんで、自分の魂が自由にうごけるようにした。 この第二の〈死の秘宝〉は真の不死をもたらす装置の一部となりえるものであり、カドマス・ペヴェレルはそれを完成させなかった。もしかすると、彼にはそうしないだけの良心があったのかもしれない。

 

そして第三の〈死の秘宝〉、アンティオク・ペヴェレルの〈ニワトコの杖〉。伝承によればこれは魔法使いから別のより強い魔法使いへと受けつがれ、これの持ちぬしは通常の攻撃に対して無敵になる。というのが既知の、表面上の性質だ。

 

その〈ニワトコの杖〉を持っていたダンブルドアは、世界そのものの〈死〉を防ごうとしていた。

 

〈ニワトコの杖〉がつねに勝者に向かうのは、存命の最強の魔法使いを見つけ、その人をさらに強化することで、種全体の命運を左右する脅威にそなえようとしてのことなのかもしれない。その隠された正体は、世界を破壊するものとしての〈死〉を倒す道具なのかもしれない。

 

〈ニワトコの杖〉になにか上位能力が封印されているとして、こちらがそう推測することで正体を明かしてくれるものでないことが、試した結果、分かっている。 ハリーは〈ニワトコの杖〉をもちあげ、自分はペヴェレルの子孫であり一族の使命を果たそうとしている者だと名のった。 自分はダンブルドアの任務を引きついで、〈死〉から世界を救うためにできるかぎりのことをする、と約束した。 しかし〈ニワトコの杖〉の反応は以前となんら変わらず、物語を一気にすすめさせてはくれないようだった。 こちらが世界の〈死〉に対して真に有効な打撃を一度あたえるまでは〈ニワトコの杖〉はこちらを承認してくれないのかもしれない。 イグノタス・ペヴェレルが〈死〉の影を倒し、カドマス・ペヴェレルのあとつぎが肉体の〈死〉を乗りこえたあとになって、二つの〈死の秘宝〉がそれぞれの正体を明かしていたのとおなじように。

 

伝承に反して〈ニワトコの杖〉の芯に『セストラルの毛』がないことは推測ずみだ。ハリーはセストラルの現物を見ているので、それがなめらかな皮をした骨ばったウマで、骸骨のような頭部にたてがみはなく、しっぽにも房はないと分かっている。 しかしそれではなにが〈ニワトコの杖〉のなかにある芯なのかというと、まだ分かるような気がしない。また、〈ニワトコの杖〉のどこかにあるはずの円と三角形と線分の〈死の秘宝〉の記号も見つかっていない。

 

「たずねたら教えてくれたりしないかな?」とハリーは〈ニワトコの杖〉につぶやいた。

 

丸い持ち手のついたその杖は答えない。栄光と秘められた力の感覚とともに、持ちぬしを懐疑的に見ていることだけがつたわってくる。

 

ハリーはためいきをついて、世界最強の杖を制服ローブのなかにしまった。いつかそのうち、運がよければ手おくれにならないうちに分かることだろう。

 

だれかに研究を補助してもらえば、それを早めることができるかもしれない。

 

ハリーははっきりと意識しないまま——いや、はっきりと意識しないままというのはやめて、意識しなければ——言いなおすと、ハリーは明示的かつ自覚をもって、自分がつらつらと〈未来〉のことを考えている理由の大半は、来たるハーマイオニー・グレンジャーの到着のことを考えないようにするためだと気づいている。 この朝早くに聖マンゴ病院から健康そのものだと宣言され、フリトウィック先生とともに〈煙送(フルー)〉でホグウォーツに返されることになっているハーマイオニー・グレンジャーは、到着してすぐにハリー・ポッターとの面会を要求する。 ハリーはレイヴンクロー寮で朝、太陽がのぼったあとの時間に起きて自分からのメモを受けとり、その内容を読んで、〈逆転時計〉で夜明けまえの、ハーマイオニー・グレンジャーが到着する時間にもどってきたのだった。

 

ハーマイオニーがぼくに腹を立てているわけがない。

 

……

 

よく考えろ。ハーマイオニーはそういう性格をしていない。 入学当初はそうだったかもしれないけれど、いまはそんなことをしないくらいに自分が見えている。

 

……

 

その『……』はどういう意味だ。 なにか言いたいことがあるなら、さっさと言えよ! ぼくらは自分のなかにある思考過程をもっとよく意識しようと決めただろう?

 

◆ ◆ ◆

 

明けはじめた空がすっかり青灰色に染まり、日の出が目前になったころ、ハリーのあたらしい居室に通じる梯子をのぼる足音があった。 ハリーはいそいそと立ちあがり、ローブのほこりを払ってから、自分がなにをしているかに気づき、その神経質なしぐさをやめた。ヴォルデモートを倒しておいて、なにを神経質になることがある。

 

その女の子の頭のてっぺんと巻き毛が梯子の上にでた。 彼女はそれから走るといっていいくらいの速度で、ただの路面を歩くようにして縦方向の梯子をのぼってきた。最後の一段に片足の靴が乗ったかと思うと、こちらがまばたきをすれば見のがしてしまったかもしれない一瞬のうちに、ふわりと屋根に着地した。

 

『ハーマイオニー』、という形に口が動くが、声がでない。

 

なにを言うつもりでいたのか、完全に忘れてしまっている。

 

屋根のうえでそうして推定十五秒あまりが経過してから、ハーマイオニー・グレンジャーが話しはじめた。 いまの服装は青いえりの制服で、青と青茶色の正しい寮の色のネクタイをしている。

 

「ハリー。」  ハーマイオニー・グレンジャーのあまりになつかしいその声に、ハリーは涙をもよおしそうになった。 「いろいろたずねたいことはあるけれど、そのまえにまず、お礼を言わせてほしい。あなたがなにをしてくれたにせよ、とにかくほんとに、ありがとう。」

 

「ハーマイオニー。」と言ってからハリーは息をのんだ。 こちらの最初の一言として事前に想定していた『きみさえいやでなければ、ハグしてもいいかい』というせりふを言うことは不可能に思える。 「おかえり。ちょっと待って、プライヴァシー用の呪文をかけるから。」  ハリーはローブから〈ニワトコの杖〉を、ポーチから本をとりだし、しおりのついたページをひらいて、慎重に『ホミナム・レヴェリオ』と発音し、〈ニワトコの杖〉があればぎりぎりかけることができると確認ずみの機密用の呪文をもう二つかけた。 これにさほど強力な効果はないが、ヴェクター先生の機密呪文だけに頼る場合より多少ましではある。

 

「その杖はダンブルドアの杖。」  ハーマイオニーは声をひそめているが、夜明け時の静けさのなかでは雪崩(なだれ)のように大きくひびいて聞こえる。 「それだと四年次の呪文がつかえるということ?」

 

ハリーはうなづいてから、ほかのだれにならこれを見られてもいいかをもっと慎重に考えておこう、と心のなかにメモをしてから言った。 「ハグしてもかまわない?」

 

ハーマイオニーがふわりとハリーに近づいた。その動きは奇妙に俊敏で、以前より優雅に見える。 ひとつひとつの動作から純粋で無垢な雰囲気が発せられているように見える。それを見てハリーは、ヴォルデモートの祭壇で眠っていたときのハーマイオニーがいかに平穏に見えていたかを思いだし——

 

煉瓦一トンか少なくとも1キログラムぶんの実感に襲われた。

 

そしてハーマイオニーを抱擁し、その()()()()()()様子を感じた。 ハリーは泣きそうになったが、彼女のオーラのせいでそうなっただけなのかどうか分からなかったので、それをおさえた。

 

ハーマイオニーの両腕の抱擁はやさしく、あまりに弱い圧力しかなかった。こちらの胴をぽっきり折ってしまわないようにと意識しているようにも感じられた。

 

「それで……」  ハーマイオニーはハリーが引き下がると話しはじめた。その表情は純真無垢であると同時に、真剣そのものだ。 「わたしはあなたがあそこにいたことを〈闇ばらい〉に言わなかった。〈死食い人〉たちを殺したのがクィレル先生じゃなく〈例の男〉だったということも。 フリトウィック先生はわたしに〈真実薬〉を一滴しか飲ませなかった。だから言わないでいることができた。 わたしは、わたしの記憶にのこっている最後のものはトロルだったということしか証言しなかった。」

 

「ああ……」と言いながらハリーの視線はいつのまにかハーマイオニーの目ではなく鼻に向いていた。 「きみは正確にはどんなことが起きたと思ってる?」

 

「そうね……」  ハーマイオニー・グレンジャーは思案げに言う。 「わたしはトロルに食べられて……正直もう二度とおなじことにはなりたくないものだけど……それから『ドン』と大きな音がして、自分の足がなおって、あとは石の祭壇に寝かされていて、周囲の墓地は月夜で、わたしの知らない暗い森のなかにあって、何者かの切断された両手がわたしののどに食らいついていた。 ということで、ミスター・ポッター、そんな奇妙で暗くて怖い状況におかれて、わたしが前回のトレイシーの一件とおなじ失敗をするわけがないでしょう。 ()()()()()これはあなたのしわざだって気づいたわ。」

 

「ご明察。」

 

「わたしが『ハリー』と呼んでも、答えはなかった。 わたしのシャツから血まみれの手が一本、肉の破片をのこしてずり落ちた。 まわりに見ると人間の頭や体が落ちていて、それでにおいの原因に気づいたけれど、わたしは声をあげなかった。」  ハーマイオニーはそこでまた深く息をすう。 「骸骨の仮面があるのを見て、死んだ人たちの正体が〈死食い人〉だったことに気づいた。 すぐに、〈防衛術〉教授があなたといっしょにそこにいて、〈死食い人〉たちを殺したんだと勘づいた。 でもクィレル先生の死体もそこにあったのには気づかなかった。 フリトウィック先生が来てその死体を検査する段階になっても、わたしはそれがクィレル先生だと思わなかった。 死んだあとのあの人は……別人のようだった。」  ハーマイオニーの声が小さくなり、ハーマイオニーはどこか慎み深くしているような、あまりハリーが見た記憶のない表情になった。 「わたしが聞かされた話では、デイヴィッド・モンローが自分の命を犠牲にしてわたしを生きかえらせた、ということになっている。あなたのお母さんが自分を犠牲にしてあなたを救ったのとおなじことをして、だから〈闇の王〉はつぎにわたしに触れたときに爆発したのだと。 わたしには、一字一句そのとおりのことが起きたようには思えない。けれど……わたしは先生のことをいろいろと意地悪に考えすぎていたと思うし、そうすべきじゃなかったと後悔している。」

 

「ああ……」とハリー。

 

ハーマイオニーは厳粛そうにうなづき、両手を組んで懺悔(ざんげ)するようにした。 「あなたにはわたしにひとこと言う権利がある。きっとあなたはいいひとだから、言わないでおいてくれると思う。だからかわりに、わたしからそれを言おうと思う。クィレル先生について、ハリーの言うことが正しく、わたしはまちがっていた。デイヴィッド・モンローは多少〈暗黒〉でとてもスリザリン的だったけれど、それを邪悪と思うのはわたしが子どもすぎるだけだった。」

 

「あの……」  これはとても言いにくい。 「実を言うと、この部分はほかのだれも、マクゴナガル総長ですら知らないんだけど。 彼が邪悪だったという点については、きみが百十二パーセント正しかった。〈暗黒〉と『邪悪』は厳密におなじではないにせよ両者の統計的相関は大きいということを、ぼくは今後の参考のためにおぼえておこうと思う。」

 

「え。」と言ってハーマイオニーはまた無言になった。

 

「『だからそう言ったのに』、と思ってない?」とハリー。 ハリーのなかのハーマイオニーの心的モデルは『やっぱり! だからそう言ったでしょう、ミスター・ポッター。クィレル先生はジャ・ア・クだって。あれだけ言ったのにあなたは()()()()()()』と叫んでいる。

 

実際のハーマイオニーはただくびを振り、 「あなたがあの人のことを気にかけていたのを知っているから。」と小声で言う。 「わたしの言うとおりだった、ということは……クィレル先生が邪悪だと分かってきっとハリーはとても傷ついただろうと思うから、いまさらそのことを言いたてようとは思わない。 その、わたしは何カ月かまえにそのあたりのことをもう考えて、そう決めていたから。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()。そこまで詳しく話してくれてうれしいと思うと同時に、そうでなければハーマイオニーらしくないとも思う。

 

「さて。」と言いながらハーマイオニー・グレンジャーは自分のローブの太もものあたりを指でたたいている。 「わたしは治療師に腕を採血されて、刺されたところはすぐに痛まなくなって、血を拭きとったら刺された場所も分からないくらいになった。 別に力をいれてもいないのにベッドのフレームを曲げてしまったりもした。実際に測る機会はまだなかったけれど、すごく()()走れるようにもなっているんじゃないかと思う。 爪はなにも塗った記憶がないのに真珠色になって、光っている。歯までそうなっていて、歯科医の娘としてはつい気になってしまう。 感謝してないわけじゃないんだけれど……実際のところ、なにをしたらこうなるの?」

 

「あー……。それと、自分のからだが(けが)れなき純真さのオーラを発している理由も気になるかな?」

 

「は? なにを発しているって?」

 

「その部分はぼくが言いだしたことじゃないよ。」  ハリーの声が小さくなる。 「許して。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーは両手を顔のまえにもってきて、自分の指をいくらか寄り目でながめる。 「つまり、わたしがその……無垢のオーラを発していているのも、動作が機敏で優雅になっているのも、歯が真珠色になっているのも……そうすると、この爪は()()()()()だとか?」

 

「アリコーンというと?」

 

「ユニコーンの角のことをそう言うのよ。」  ハーマイオニー・グレンジャーは爪をかじろうとしているようだが、成功していない。 「要するに、死んだ女の子を生きかえらせようとすると、その子は結果として、たしかダフネが言っていたあの……『キラキラ・ユニコーン・プリンセス』とかいうものになるっていうこと?」

 

「そういうわけじゃない。」  怖いくらいによく合致してはいるけれど。

 

ハーマイオニーは自分の指を口から離し、にらんだ。 「噛みちぎることもできないんですけど、これ。 あなたは手足の爪を文字どおり切ることもできないというのがどんなに困ることか、分かってなかったんじゃないの?」

 

「ウィーズリー兄弟がちょうどいい魔法剣をもってるよ。」

 

「実際にはどんないきさつがあったのか、最初から最後まで聞かせてもらいましょうか、ミスター・ポッター。 あなたとクィレル先生のことだから、なんらかの()()があったにきまってるわ。」

 

ハリーは大きく息をすって、はいた。 「ごめん、それは……機密事項でね。 きみが〈閉心術〉を習ってくれれば、明かしてもかまわないんだけど……その気はある?」

 

「〈閉心術〉を習う気が?」  ハーマイオニーは若干おどろいた顔をしている。 「それって、すくなくとも六年次の技能じゃなかった?」

 

「ぼくはできるようになった。 ぼくの場合は普通でないブーストがついていたけれど、それも長い目で見れば無視できる程度の誤差じゃないかと思う。 たとえば、きっときみはがんばれば微積分を身につけることができる。マグルの学校で何年生がそれを習うことになっているのかとは関係なく。 問題は……その。」  ハリーは呼吸を落ちつかせようとする。 「問題は、きみにまだ……あの種類のことをする気があるかどうか。」

 

ハーマイオニーはふりかえり、東の明かるくなった空のほうを見て、小声で答える。 「つまり……一度あんな残酷な死にかたをさせられて、まだ英雄(ヒーロー)になろうとする気があるのか。」

 

ハリーはうなづいてから、ハーマイオニーが背をむけたままなのを見て、「うん」と言った。その一言を言うのに努力がいった。

 

「わたしもそのことはずっと考えていた。 あれはたしかに、特別に無惨で苦しい死にかただったから。」

 

「その、きみにまだヒーローになる気があるという()()()()()()()、ぼくは多少のしかけをしておいた。 それができる機会はかぎられたタイミングでしか生じなかったから、きみに相談する時間はなかった。きみがあとで〈真実薬〉を飲まされるだろうことを考えれば、きみにそれを見せることもできなかった。 けれどもしそれがきみの気にいらなかったなら、しかけたもののうち大半を取り消すことはできるし、取り消せないものについては、無視してくれればいい。」

 

ハーマイオニーはうわのそらの表情でうなづく。 「しかけというのは、ちょうどわたしがあそこで……。ハリー、わたしは実際〈例の男〉になにかしたの?」

 

「いや、すべてはぼくがやった。でもこのことはだれにも秘密にしてほしい。 ついでに言っておくと、〈死ななかった男の子〉がヴォルデモートを倒したということになっている一九八一年のハロウィンの夜のできごとの仕掛け人はダンブルドアであって、ダンブルドアがぼくのおかげのように見せかけたにすぎない。 つまり、ぼくは〈闇の王〉を一度倒しているし、倒した人として一度認知されている。 こういうふうに、いずれ貸し借りはなくなるものなんじゃないかな。」

 

ハーマイオニーは変わらず東を見つめ、しばらく無言でいる。 「あまりいい気持ちはしない。 実際にはなにもしていないのに、自分が〈闇の王〉ヴォルデモートを倒したように思われているというのは……。そうか、ハリーもそういう経験をしてきたんだったっけ?」

 

「そう。きみをおなじ目にあわせて申し訳ない。 あのとき……そうだな、ぼくはあのとき、 きみという人物にもうひとつの設定をつくって、それをほかの人たちに信じさせようとした、とでもいうか。 あの時点でそれ以外の選択肢はなかったし、すべてがある意味()()()()で…… あとになってよくないことをしてしまったような気もしたけれど、もう手遅れだった。」と言ってからハリーは咳払いする。 「ただ、その。 もしきみが、世間の人から〈生きかえった女の子〉として持ちあげられるにふさわしいだけのことをしたいと思っているなら……その。 きみにできることをいくらか考えてはある。 もしきみにそうする気さえあれば、ごく近いうちにも。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーはハリーに意味ありげな視線をむけた。

 

「なければないでいいんだよ!」とハリーはあわてて言う。 「きみはこのすべてを無視して、レイヴンクロー寮の最優秀生徒でいてもいい! もしそうしたければ。」

 

「それは、わたしを逆心理学(リヴァース・サイコロジー)の罠にはめようとして言っているのかしら?」

 

「いいや、まさか!」と言ってハリーは深く息をすう。 「ぼくはきみの人生を勝手に決めてしまわないようにと思っている。 昨日あのとき、きみがつぎにすべきことが見えたような気がした——けれどそれから、この一年のうちぼくがどれほど長く愚かなことばかりしていたかを思いだした。 ダンブルドアに言われたことを思いかえしもした。それでぼくが口をはさむべきことではない、と気づいた。 きみは自分がのぞむどんな人生を送ることもできるということにも、そしてなにより、どうするかを決めるのはきみ自身でなければならないということにも気づいた。 今回のことがあって、もうヒーローにはなりたいと思わなくなったなら、それでもいい。偉大な魔法研究者になることが本来のハーマイオニー・グレンジャーらしい将来だと思うなら、自分の爪の材質がどうなったかなんていうことは忘れて、そうしてもいい。 ホグウォーツをやめてアメリカのセイラム魔女学院に行きたくなったなら、それでもいい。 正直に言わせてもらえば、ぼくはそうしてほしくないと思うけれど、決めるのはきみだ。」  ハリーは地平線のほうを向き、ホグウォーツの外の世界の広さを示すかのように、片手をぐるりと水平に動かした。 「きみはこれから()()()()()行ける。 これからの人生で()()()()できる。 六十歳の裕福な水中人になりたいと言うなら、ぼくはそれをかなえてあげられる。真剣に。」

 

ハーマイオニーはゆっくりとうなづいた。 「具体的にどうやるのかを知りたいところだけど、わたしはなにも()()()()()()()()()とは思わない。」

 

ハリーはためいきをついた。 「そうだろうね。その……。 多分……これはきみの気が楽になるんじゃないかと思って言うんだけど……ぼくの場合は、()()()()()()()がお膳立てされていた。 やったのはだいたいダンブルドアだけど、一部はクィレル先生も。 もしかすると、人間は自分らしい人生を生きる権利を勝ちとる能力そのものを勝ちとらなければならないのかもしれない。」

 

「へえ、なんか深遠ね。 たとえばあとで就職できるようになるために、両親に大学の学費をだしてもらう、みたいな? たしかに、クィレル先生がわたしをキラキラ・ユニコーン・プリンセスとしてよみがえらせて、〈闇の王〉ヴォルデモートをわたしが退治したという話をハリーが言いふらす、というのも、ちょうどそんな感じかも。」

 

「悪かったと思ってるよ。 ほかのやりかたにすべきだったと思う。けれど……そのときには計画をたてている時間がなかったし、疲れていたし、あたまがまわらなかった——」

 

「いいえ、十分感謝してる。」  ハーマイオニーの声がやわらいだ。 「ハリーにはそうやって自分を責めすぎないでほしいと思ってるくらい。 わたしがいじわるな言いかたをするのをまじめに受けとりすぎないでね。 生きかえらせてもらっておいて、このスーパーパワーが気にいらないとか、あのアリコーン質の爪の色あいが好みじゃないとか、文句を言うような人にはなりたくない。」  ハーマイオニーはまたハリーに背をむけ、遠く東を見つめる。 「それで…… 仮に、わたしが一度残酷に殺されたくらいのことで自分の行く道を変えはしないと決めたとしたら……まだそう決めてはいないけれど……もし決めたとしたら、どうなる?」

 

「きみがどんな道を行くと決めたとしても、ぼくはそれを全力で応援する。」

 

「もうわたしのために冒険(クエスト)が用意してあるんでしょう、多分。 どんなけがをさせられる心配もない、安全安心な冒険を。」

 

ハリーは目をこすり、疲れた気持ちになった。 心のなかでアルバス・ダンブルドアの声が聞こえるようだった。 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「いや、ハーマイオニー、悪いけれど、もしきみがその道をえらぶなら、ぼくはダンブルドア的にならざるをえない。つまり、きみにすべてを明かすことはできないし、 きみを騙して動かすようなことも一時的にはするかもしれない。 ぼくは実際、きみに実現できそうな、世間の人が〈生きかえった女の子〉として持ちあげるにふさわしいだけの……きみにとって天命かもしれない仕事があると思ってはいる。……とはいえそれもただの推測でしかないし、ぼくが知っていることはダンブルドアが知っていたことよりはるかに少ない。 きみはとりもどしたばかりの自分の命をかける気がある?」

 

ハーマイオニーはふりかえり、意表をつかれたように目をまるくしてハリーを見た。 「()()()()()?」

 

ハリーはうなづかなかった。それは嘘にあたると思い、かわりにこう言った。 「それだけの覚悟はある? きみの天命かもしれないものとしてぼくが考えている冒険には——いや、具体的な予言を知っていてそう言うんじゃなく、そうかもしれないと思っているだけだけど——文字どおり地獄に潜入するような経験がふくまれる。」

 

「てっきり……」とハーマイオニーは確信のなさそうな声で言う。 「てっきり、こういうことがあった以上、ハリーとマクゴナガル先生はわたしに……その……すこしでも危険なことを、もう二度とやらせまいとするだろうと思っていた。」

 

ハリーはなにも言わず、自分が誤解によって点数をかせいでしまっていることに罪悪感をおぼえた。 実のところハーマイオニーはものすごく正確にハリーの思考を推測している。ハリーがそのとおりに考えなかったのはひとえにホークラックスがあるからであり、もしそうでなければ金星の表面温度が絶対零度付近に冷え切るまでの時間があってもこんなふうに考えたりするわけがない。

 

「それは、ゼロから百までの数値で言うなら、()()()()文字どおりに地獄に潜入するようなこと?」  ハーマイオニーは多少不安そうな表情になった。

 

ハリーはアズカバンを思いだし、脳内で目星をつけた。 「だいたい、八十七パーセントというところかな。」

 

「そういうことをするのは、わたしが()()()()()()()()()()()にしたほうがいいんじゃないかしら。 ヒーローになることと完全に正気をうしなうことは別だから。」

 

「それの危険度に年齢はあまり関係しないと思う。」とハリーは言い、危険度を具体的に明言することを避ける。 「そしてそれの性質上、やるなら早くやるにこしたことはない。」

 

「そしてわたしの両親に投票権はない。……でしょう?」

 

ハリーは肩をすくめた。 「きみのご両親がどう投票するかはもう分かっているよね。だからその票を考慮したいなら、考慮するのは自由だ。 その……ぼくは、きみが生きているということをご両親に伝えないようにと、進言しておいた。 きみが今回の使命を引きうけると言うなら、それが終わって帰ったときに、はじめてご両親に知らせが行く。 そうやって……いい知らせを一度もらうだけのほうが、ご両親の心労がいくらか少ないだろうと思ってね。またその……そういうことについて心配させられるよりは。」

 

「へえ、それはご親切に。 わたしの両親の心労のことまで考えてくれてありがとう。 じゃあ、すこし考える時間をもらってもいい?」

 

ハリーは自分のいる位置のむかいがわにあるクッションを手で示すと、ハーマイオニーは流れるような動きでそちらに行き、腰をおろし、切り立った城の縁のさきの風景に顔をむけた。そこからまた平穏なオーラが放射されている。 これはあまりよろしくない。〈反・純粋無垢のポーション〉をだれかに開発してもらう必要があるかもしれない。

 

「わたしはその任務の内容を知らないまま、答えなきゃいけないの?」

 

「めっそうもない。」と言いながらハリーは自分がアズカバンへの旅のまえに似たような会話をしたときのことを思う。 「これはもし実際にやるなら、本人の自由意思でそうと決める必要があることなんだ。 つまり、そうでなければ成立しない任務だから。 きみがいまもヒーローになりたいと思っていると答えれば——きみがゆっくり食事をして人と話して多少回復したあとでそう言うなら——ぼくはその段階で任務の内容を言う。きみはそれから、任務を引きうけてもいいかどうかを決める。 それから、一般的に不可能だと思われているある呪文を、一度死んで生きかえった結果、きみがつかえるようになっているかどうかを事前に試験する。きみを現地に()()()()()()()。」

 

ハーマイオニーはうなづき、また無言になった。

 

そして空の色がいっそう明るんだころ、もう一度口をひらいた。

 

「わたしは怖い。」  ハーマイオニーはささやき声と言っていいほどの小声で言う。 「死ぬことがじゃなく……というか、死ぬことだけじゃなく。 自分が実力不足かもしれないということが怖い。 わたしにもトロルを倒す勝機はあった。なのに、あっけなく死んでしまった——」

 

「そのトロルはヴォルデモートに兵器として強化されたトロルだった。おまけにヴォルデモートはきみの魔法アイテムをすべて無効化していた。……参考までに。」

 

「それでもわたしは死んだ。 あなたはどうにかしてトロルを殺した。殺すところを多分わたしは見ていたんだと思う。あなたはすこしも躊躇していなかった。」  ハーマイオニーは泣いていない。ほおに涙は光っていない。明るみはじめた、まだ太陽が隠れている空のほうをただ見ている。 「そしてわたしを生きかえらせて、キラキラ・ユニコーン・プリンセスにした。 どう考えても、わたしにおなじことはできなかった。 ほかの人たちがどうイメージしているかはともかくとして、わたしはいつまでもおなじことができるようにはなれないんじゃないかと思う。」

 

「いまのこの場が、きみの冒険の出発点なんだと思う——」と言いかけてやめるハリー。 「いや、よそう。きみに予断をあたえようとするのはよくない。」

 

「いいえ。」とハーマイオニーは小声で言い、視線はかわらず下の丘のほうを向いている。 その声が大きくなる。 「いいえ。聞かせて、ハリー。」

 

「それじゃ……その。 ここがきみの()()()なんだと思う。 これまでのできごとすべてがあって……やっときみは、ぼくが九月にいた位置についた。そのときまでぼくはただの天才児だと思っていたところへ、自分に期待されているなにかがあり、自分がそれに追いつかなければならないということを知った。 きみはぼくとぼくの……」()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()「……暗黒面を度外視するなら、レイヴンクローの期待の星で、みずから仲間をつのって学校のいじめ退治をし、ヴォルデモートに襲われて正気をうしなわずにいられた人だった。しかも十二歳の若さで。 調べてみると、きみの成績はダンブルドアの一年次の成績より上だった。」 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「きみにはいくつかの能力ができて、追いつくべき名声もできた。そのうえで、世界はきみに困難な任務をさずけようとしている。 ぼくの場合と同様、そこからきみにとってすべてが()()()()。自分を低くみつもる必要はない。」  そこでハリーは、自分が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことに気づいて、よくないと思い、きっぱりとくちを閉じた。 『これだけお膳立てされたきみがヒーローをやれないなら、ほかのだれがやれると言うんだ』という部分は少なくとも言わずにおくことができた。

 

「実はね……」とハーマイオニーはハリーに背をむけたまま、地平線にむかって言う。 「おなじような話をクィレル先生としたことがあった。ヒーローになることについての話を。 あのひとの言いぶんはもちろん逆だったんだけど、 それ以外は、なぜかそのときとおなじような話をされているような気がする。」

 

ハリーはきつく口を閉じたままでいる。 他人が自力で決断するのを待つ、というのはむずかしい。それは、他人が()()()()()ときに口をはさまないということをも意味する。それでも待たなければならない。

 

ハーマイオニーは一言ずつ吟味するように話しはじめた。空が光をおびるにつれ、黒い制服の青い縁飾りが明るく見えている。西の空の星はもう見えなくなっている。 「クィレル先生自身もヒーローだったことがあると言っていた。 けれどクィレル先生はほかの人たちが協力的でないのにあきあきして、もっとおもしろいことをしはじめた、と。 わたしは、そうすることはまちがっているとクィレル先生に言った——正確には『最低』だと言った。 クィレル先生は、『たしかにわたしは悪い人間かもしれないが、それならヒーローになろうとしたこともないほかの人たちはどうなるのか、その人たちのほうがもっと悪いはずだろう』、と言った。 それでわたしはなにも言えなくなった。 グリフィンドール式のヒーローだけが善人だ——クィレル先生に言わせれば、大きな野望をもつ人にしか生きる権利がない——というのは、やっぱりまちがっていると思う。 けれど、あの人がその立ち場をおりたようにして、ヒーローであることを()()()のもまちがっている、と思った。 だからわたしはそのとき、バカみたいに突っ立っていることしかできなかった。 けれどいま、自分が言うべきだったことが分かった。」

 

ハリーは呼吸をととのえて聞いている。

 

ハーマイオニーはクッションから腰をあげ、ハリーのほうを向いた。 「わたしはもうこれ以上、ヒロインになろうとはしない。」  ハーマイオニー・グレンジャーは明るくなっていく東の空を背にして言う。 「そもそも、そんなふうに考えたこと自体がまちがいだった。 自分にできることをやる人たち、ひたすらにそうする人たちがいるというだけのことだった。 自分にできることをやってみようともしない人たちもいて、その人たちはやっぱり、なにかやりかたをまちがえているんだと思う。 わたしはもう二度とヒーローになろうとはしない。 ヒーローならどうするかと()()()ことも、できるだけやめようと思う。 けれど、自分にできることは限界までやる——実際は多少限界の手まえかもしれないけれど。わたしも人間だから。」  モナ・リザのなにがそれほど謎めいていると言われているのか、ハリーは理解できたことがないが、この瞬間のハーマイオニーの諦めと喜びの笑みを写真にとることができたとしたら、自分なら何時間かけてその写真をながめていても一切理解できないだろうが、ダンブルドアならひとめで見とおすことができるのではないか、と思った。 「わたしはこりない。 わたしはそれくらいバカでいる。 これからも、わたしは自分にできることのほとんどをやってみようと思う……いや、できることの()()と言うほうがいいのか——とにかく意味はわかるでしょ。 仮にそれで命をかけることになったとしても、かけるだけの価値があることをしているかぎりはかまわない。まあ、()()バカなことでなければね。 これがわたしの答え。」  ハーマイオニーは決然とした表情で、深く息をすった。 「それで……なにかわたしにできることは?」

 

ハリーは息をつまらせた。ポーチに手をいれて、話せないのでC L O A K(マ・ン・ト)と文字を書いて、煤色の〈不可視のマント〉をとりだし、きっぱりとハーマイオニーに差しだした。 しかし、なかなか言うべきことを言うことができない。 「これは〈真の不可視のマント〉……」  ハリーはささやきと言っていいほどの小声で言う。 「イグノタス・ペヴェレルから、その子孫のポッター一族へ継承された〈死の秘宝〉。そしてつぎの継承者はきみ——」

 

「ハリー!」と言ってハーマイオニーはさっと両手を自分の胸にあて、マントの攻撃に対して身をまもるようにする。 「そんなものもらえない!」

 

「いや、どうしてももらってほしい。 ぼくはもう自分がヒーローになる道から降りた。だから二度と危険に身をさらすことはできない。 けれどきみなら……できる。」  ハリーは〈マント〉をもっていないほうの手で自分の両目をぬぐった。 「これはきみのために作られたんだと思う。これからのきみのために。」  人間の精神を(かげ)らせ将来の希望を吸いとる絶望の影としての〈死〉と戦うための武器。きみは多分、ディメンターとしてあらわれる〈死〉とも、それ以外の〈死〉とも戦うことになる……。 「〈マント〉よ、ぼくはいまからおまえをハーマイオニー・ジーン・グレンジャーに恒久的に譲る。 いつまでも彼女のことを頼む。」

 

ハーマイオニーはおずおずと手をのばし、〈マント〉をつかんだ。泣きそうになるのを我慢しているようだった。 「ありがとう。」とハーマイオニーは小声で言う。 「わたしはもうヒーロー的な考えかたをやめるんだけど……それでも、はじめて会った日からずっと、あなたはわたしにとっての謎の老魔法使いだったんだと思う。」

 

「きみ自身がそういう考えかたをもうやめるんだとしても、きみはこの物語がはじまったときからずっと、ヒーローになる運命にあったんだと思う。」 ハーマイオニー・グレンジャーは〈時間〉の小さな鍵穴をくぐりぬけるためにどのような成熟のしかたをしなければならないのか。 ぼくは自分の成熟のしかたを想像できないのとおなじくらい、その答えを知らない。 ただ、彼女のこれからの最初の数歩は、ぼくのそれとくらべて、見通しがたっているようだ……。

 

ハリーが〈マント〉を手ばなすと、〈マント〉はハーマイオニーの手に乗りうつった。

 

「歌っている。歌が聞こえてくる。」と言ってハーマイオニーは手で自分の目をぬぐった。 「まだ信じられない。」

 

ハリーはポーチにいれていたもう片ほうの手で、長い黄金の鎖とそのさきにぶらさがった黄金色のケースをとりだした。 「そしてこれは、きみ専用のタイムマシン。」

 

一瞬の間があき、そのあいだに地球という惑星が軌道上をわずかに動いた。

 

「は?」とハーマイオニー。

 

「ひと呼んで〈逆転時計(タイムターナー)〉。 ホグウォーツにはいくつかこれの在庫があって、ときどき生徒に貸しあたえられている。 ぼくもこの一年のはじまりに、睡眠障害に対処するためにといって、貸してもらった。 使用者は目盛りひとつで一時間、最大六時間ぶんの時間をさかのぼることができる。ぼくはそうやって一日ごとに六時間余分に勉強することができた。 それと、〈薬学〉の教室から消失したりとかも。 ああ、〈逆転時計〉で歴史を改変したりパラドックスを発生させて宇宙を崩壊させたりすることはできないから、ご心配なく。」

 

「あなたは授業でわたしに負けないために、()()()()()()をつかって、一日あたり六時間長く勉強していた、と。」  ハーマイオニー・グレンジャーはなにか不可解な事情でもあって、この概念を理解しかねているようだ。

 

ハリーは困惑したようなふりをした。 「それのどこに問題が?」

 

ハーマイオニーは手をのばし、その黄金の首かざりを受けとった。 「ないんでしょうね、()()()()()()()()。」  なぜかやけに辛辣な声色だった。 そして受けとった鎖を首にまわしてかけ、砂時計をシャツのなかにいれる。 「ただ、これのおかげで、あなたに負けまいとしていたことについては、自信がもてた気がする。その点はありがとう。」

 

ハリーは咳ばらいをした。 「それと……ヴォルデモートはモンロー家を皆殺しにしていて、世間の人が知るかぎりでは、きみがヴォルデモートを殺してその仇討ちをしたことになっている。だから、ぼくはアメリア・ボーンズにたのんで、生きのこったウィゼンガモート議員たちに強引に審議させて、グレンジャー家を〈貴族〉にする法案をとおさせておいた。」

 

「ちょっと待って。」

 

「これによりきみは〈貴族〉家の唯一のあととりになった。ということは、O.W.Lsに合格しさえすれば法的に成人と見なされる。受験勉強に時間が必要だろうから、二人でこの夏の終わりにその試験を受けることにしておいた。 その、もしきみさえよければだけど。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーはもっと無機的な機械であればエンジンが故障していそうなたぐいの高音の雑音を発した。 「()()()()()()()()()()O().()W().()L()s()()()

 

「O.W.Lsは十五歳の大多数が合格するように設計されているんだよ。()()()十五歳が〔訳注:O.W.LsのOは人並(Ordinary)の略〕。 三年生として並以下の魔力でも、ひととおりの呪文を知ってさえいれば、合格することはできる。合格しさえすれば、成人の資格がえられる。 これまでのような『優』でなく『可』の判定に甘んじてもらう必要はあるけれども。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーから出る高音の雑音がいっそう高音になった。

 

「きみがもっていた杖をかえそう。」と言ってハリーはそれをポーチからとりだす。 「そしてモークスキン・ポーチも。 きみが死んだときにあった中身をすべてもとどおりにしてもらっておいた。」  このポーチをハリーはローブについているただのポケットからとりだした。()()()()()()()のなかに()()()()()()()をしまうというのは、いくらその両方が各種安全基準を満たして製作されていて害がないことになっているとしても、あまり気がすすまない。

 

ハーマイオニーは杖とポーチを順に受けとった。指が多少震えていてなお、優雅に見える動作だった。

 

「さて、ほかになにがあったかというと……。ポッター家に対してきみがおこなった誓約は『死ぬまで』という条件だったから、きみにはもうなんの義務もない。 それに、きみが死んでからすぐの話しあいの結果、マルフォイ家はドラコ・マルフォイ殺人未遂事件に関してきみにかかっていた容疑はすべてなくなったと宣言している。」

 

「だったら、またお礼を言わないと。 ハリーにだけじゃなく、マルフォイ家にも、か。」  ハーマイオニー・グレンジャーはしきりに爪で巻き毛をすいている。まるで、髪をととのえれば正常な人生をとりもどすことができるというかのように。

 

「おまけにと言ってはなんだけど、グリンゴッツ銀行のゴブリンにグレンジャー家の金庫をつくりはじめるように言っておいた。 といってもまだ中身は空のまま。入金するのはきみの意向をたしかめてからでも遅くないと思ったから。 ただ、きみがある種の悪を正してまわるスーパーヒーローになるなら、きみ自身が上流階級に属しているような印象をあたえておくと、いろいろと都合がいいだろうと思う。それに、その、弁護士をやとうだけの資金があると思われていたほうが都合がいいだろうとも思う。 ぼくはきみがほしいだけの黄金をきみの金庫にいれておくことができる。ヴォルデモートがニコラス・フラメルを殺して、結果としてぼくが〈賢者の石〉の持ち主になったから。」

 

「気絶しそうな気分と言いたいところだけど……」  ハーマイオニーは高い声で言う。 「例のスーパーパワーのせいで気絶することもできない。それで、()()そんな能力ができたんだったっけ?」

 

「きみさえよければ、きみは水曜日から以後一日一回、ミスター・ベスターに〈閉心術〉の指導をしてもらえることになっている。 それまでは、〈開心術師〉がきみの目を見るだけできみの能力の真の出どころを知られてしまうことのないようにしておいたほうがいいと思う。 というのは、その能力はもちろんふつうの魔法的説明がつく能力で、()()()()()()()()超自然なことはなにも起きていないんだけど、人間は自分の無知を信仰しやすいものだし、それにその、〈生きかえった女の子〉という設定は起源が謎であるほうが効果的だと思うから。 きみがミスター・ベスターと〈真実薬〉に対抗できるようになった時点で、ぼくはすべての背景を話すと約束する。ぼくたち二人以外のだれにも言ってはならない秘密もふくめて。」

 

「そうしてもらえるとうれしいわ。よろしくね。」

 

「ただし、まずは、世界を壊滅させかねないことをしないという〈不破の誓い〉をしてもらってからでないと、その危険性が高い部分の話をしてあげるわけにはいかない。 というか、ぼく自身の〈不破の誓い〉のせいで、そうしないかぎり、ぼくは文字どおり話せない。 それでいい?」

 

「ええ。いいに決まってるでしょう。わたしは世界を壊滅させたいなんて思わないし。」

 

「もう座ったほうがいいんじゃない?」  ハーマイオニーが話しながら一語一語のリズムにあわせ、わずかに揺れていたようだったのが心配で、ハリーはそう言った。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはなんどか深く息をすいなおした。 「いいえ、なんともない。ほかにわたしが聞いておくべきことは?」

 

「いや。こちらからは、とりあえずもうない。」  ハリーはそこで間をおいた。 「他人になにかをしてもらうだけじゃなく、自分でなにかをしたいと思う気持ちはぼくもよく分かる。 それでも……きみはこれからもっと真剣な意味で英雄(ヒーロー)になる。だとすれば、そのためにぼくがとりうる唯一の合理的な選択は、きみを有利にするものをできるかぎりすべて提供すること——」

 

「そうしたくなる気持ちは分かる。わたしも実際に戦いに負けて死んだおかげで、そのことがよく分かった。 以前は分からなかったけれど、いまは分かる。」  微風でハーマイオニーの巻き毛がゆれ、ローブがはためき、朝の空気のなかでいっそう平穏なたたずまいを見せる。同時にハーマイオニーは片手をあげて慎重に(こぶし)をにぎった。 「わたしはやるなら()()()やろうと思う。 自分のパンチの威力やジャンプの高さを測定しておきたい。 この爪に、ほんもののユニコーンの角とおなじようにレシフォールドを殺す効果があるのか、安全にテストする方法も見つけておきたい。よけなきゃいけない呪文が来たときにしっかりとよけられるように練習しておく必要もある……。あとは、できれば〈闇ばらい〉用の訓練をつけてもらえるように話をとおしてほしいかな。たとえばスーザン・ボーンズを指導していた人とかに。」  ハーマイオニーはまた笑顔になり、目のなかに奇妙な光がやどる。ダンブルドアが見れば何時間も悩まされたことだろうが、ハリーは即座に、なんの不安も感じずにその意味を理解する。 「あ、そうだ! マグル式武器も持っておきたいな。できればだれにもそうと悟られないような隠し武器を。 トロルを相手にしていたとき、焼夷手榴弾のことは思いついたんだけど、どう考えてもその場でそれを〈転成〉している時間はなかった。もうそのときには、ルールを守る気持ちを捨てていたのに。」

 

「これは……」とハリーはマクゴナガル先生のスコットランドなまりを精いっぱい真似して言う。 「いまのうちに、なにか手を打っておかなければならないような気が。」

 

「あら、もうとっくにそんな段階は過ぎているわよ、ミスター・ポッター。 たとえばバズーカなんかは手にはいる? チューインガムのブランドじゃなくて、ロケット弾を撃つほうの。 みんなまさか小さな女の子がそんなものを、と思うだろうから。汚れなき純真さのオーラのある女の子なら、とくに。」

 

「うん、そろそろ本気で怖くなってきたな。」

 

ハーマイオニーはバレリーナのように左手と右足を反対方向にのばし、左足の靴先でバランスをとる姿勢で止まっている。 「そう? わたしにできて〈魔法省〉の〈特殊部隊〉にできないことはひとつもないんじゃないかと思っていたところなんだけど。 むこうはホウキに乗って、わたしがおよびもつかない強力な呪文を撃てるんだから。」  そう言ってハーマイオニーは優雅に右足をおろした。 「たしかに、わたしは他人の目を気にせずにいろいろなことを試せるようになった。となると、スーパーパワーがあるというのは、すごく()()()便利な気がしてはきた。 それでもフリトウィック先生が倒せない相手をわたしが倒せるような気はしない。わたしが〈闇の魔術師〉を不意打ちできている場合を別にするなら。」

 

きみはほかの人がとるべきでないリスクをとることができる。自分が死ぬことになったとしても、そのあとで敗因を調べてもう一度挑戦することができる。 新しく考案された呪文を試すにしても、ほかの人がかなりの確率で死ぬようなものを試すこともできる。 そう考えはしたが、どれひとつまだ話せないので、ハリーはかわりにこう言った。 「未来のことのほうを考えてみてもいいんじゃないかな。いまこの瞬間にできることだけじゃなく。」

 

ハーマイオニーはいきおいよく飛びあがって、降りるあいだに三度、両足の靴のかかとをくっつけてから、指さきをそろえて完璧な姿勢で着地した。 「でも、いますぐわたしにできることがあるって言っていたじゃない。それとも、試すためにそう言っただけ?」

 

()()部分は特例でね。」と言いながら、ハリーは夜明け時の冷気を肌に感じた。 問題の〈試練〉でスーパー・ハーマイオニーは文字どおり自分の最悪の悪夢と対決しなければならず、あたらしく得た身体能力も役に立たないのだ、ということをこれから伝えることになると思うと気が重い。

 

ハーマイオニーはうなづき、東の空をちらりと見た。 つぎの瞬間に屋根のへりに行って腰をおろし、足先を空中にぶらさげた。 ハリーもそのそばの、屋根の端からもっと離れた位置に腰をおろし、あぐらをかいた。

 

ホグウォーツの東、遠い丘の上に、赤い光がうっすらと立ちのぼりはじめている。

 

日の出がはじまるところを見て、ハリーはなぜか気分がよくなった。 太陽が空にあるかぎり、ある水準では世界はまだ無事だと言える。自分がまだ太陽を破壊していないというような意味で。

 

「それで……」 ハーマイオニーの声がすこし大きくなる。 「未来のことを言うなら。 わたしは聖マンゴ病院で待っているあいだ、いろいろなことを考える時間があって…… くだらないことかもしれないけれど、わたしはいまも、あの質問の答えを知りたい。 わたしとあなたが最後に話したときのことを覚えてる? ほら、このまえのこと。」

 

「え?」  ハリーは心あたりがない。

 

「そうか……ハリーにとっては二カ月まえのことだから……じゃあ覚えてないか。」

 

それでハリーは思いだした。

 

「あわてない!」とハーマイオニーが言ったとき、ハリーの口からはもごもごとした音が出はじめていた。 「わたしはどんな答えを聞かされても、また泣きながら逃げだしてトロルに食べられるようなことはしないと約束する。 わたしにとってはたしかに二日しか経っていないんだけど、一度死んだ経験のおかげで、以前は気にしていたようなことが、とるにたりないことのように思えるようになったから。」

 

「ああ。」 ハリーの声も高くなっている。 「そういうふうに心的外傷を利用するのはいいことかもね?」

 

「そうは言っても、やっぱり気になることではある。わたしにとってはついこのあいだでしかないそのときの会話が、途中で終わってしまっていたから。途中で終わってしまったのは全面的にわたしが悪くて、まずわたしが冷静さをうしなってせいだし、そのあとトロルに食べられたせいでもある。ついでに言うなら、食べられる経験はあれで最後にしたい。 だから、女の子に失礼なことを言うとかならずそういうことが起きるとは思わないでね。一度ハリーにこれをはっきり言っておかないと、ということはずっと思っていたから、そう言っておく。」  ハーマイオニーはしきりに左右にからだをかたむけ、わずかに前後にも揺らしている。 「それでも、その、たいていの人は恋愛関係にあってでさえ、あなたがわたしにしてくれたことの百分の一もしない。 そこで、ミスター・ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、もしそれが愛でないなら、あなたにとってわたしはどういう存在なのか。わたしはその答えをまだ聞いていない。」

 

「いい質問だね。」と言ってハリーは気が動転するのをおさえようとする。 「すこし考えるから待ってもらえるかな?」

 

じりじりと、丘の上にまばゆく光る円がすがたをあらわしていく。

 

「ハーマイオニー。」  太陽が半分、地平線の上にでたところでハリーは言う。 「ぼくの謎の暗黒面を説明する仮説をなにか考えたことはある?」

 

「安直な仮説なら。」と言ってハーマイオニーは両足を軽く空中に蹴りあげる。 「あなたの横で〈例の男〉が死んだとき、幽霊(ゴースト)をつくるはずの魔法力の噴出がたまたま起きて、その一部が床でなくあなたの脳に刻印された、とか。 でもこれはどうもしっくりこないと思っていた。一見うまく説明をつけたようではあるけれど()()()ではない、というように。それに、〈例の男〉がその日死んでいなかったなら、余計おかしいことになる。」

 

「悪くない仮説だ。いったんその線で想像することにしよう。」  ハリーの内なる合理主義者は過去をふりかえり、なぜ自分はそういう仮説を考えずにいることができたのかと思い、()()()顔に手をあてている。 当たってはいないにしろ、()()()()()仮説ではある。なのに自分はその程度に具体的な因果的モデルを考えることもなく、ただ漠然とそこにつながりがあるように思っていただけだった。

 

ハーマイオニーはうなづいた。 「もうわかっているとは思うけれど、一応ちゃんと言っておく。 あなたとヴォルデモートは別人だということを。」

 

「そう。そしてそれがぼくにとってのきみの存在でもある。」  ハリーはその先をことばにしようとするといまだにつらく感じ、一息いれる。 「ヴォルデモートは……幸せな人ではなかった。 死ぬまで一度でも幸せだったことがあるのかどうかも分からない。」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「ぼくが彼の認知パターンにのっとられることもなく、暗黒面に親近感を感じることもなく、正の強化がはたらかなかったのは、そのおかげでもある。 きみと友だちでいることによって、ぼくの人生はヴォルデモートの人生のようにならずにすんだ。 ホグウォーツに来るまでのぼくは、当時自分で気づいてはいなかったけれども、かなり孤独だった。それで……まあ、ぼくは一般的な同年代の男の子とくらべると多少必死になってきみを生きかえらせようとしたかもしれない。 いっぽうで、ぼくは厳密に規範的な善悪判断をしただけであり、ほかの人たちがそれほど友だちを大事にしていないとすれば、それは彼らの問題であってぼくの問題ではない、という主張も取りさげはしないけれども。」

 

「ハリー、誤解してほしくはないんだけれど、わたしとしてはそれをそのまますんなり受けいれる気にはなれない。 わたしが自分の選択によらずにそんな大きな責任を負わせられていいのかと思うし、あなたがそれだけのことを一人の人間に任せるのは不健全だとも思う。」

 

ハリーはうなづいた。 「うん。だけど、この点についてはもうすこし言わせてもらいたいことがある。 まず、ぼくがヴォルデモートを倒すことについての予言がなされていて——」

 

()()? あなた個人についての()()? うそでしょ?」

 

「まあ、そう聞こえるよね。 とにかく、その予言の一節に『闇の王がみずからにならぶ者として印をつける』『ただし彼は闇の王の知らぬちからを持つ』という部分がある。 これはどういう意味か、考えてみてくれる?」

 

「うーん。」と言ってハーマイオニーは指先で石の屋根を何度かたたいて考える様子になる。 「印というのは、〈例の男〉があなたに残した謎の暗黒面。 闇の王の知らぬちからというのは……科学的方法、じゃない?」

 

ハリーはくびを横にふった。 「ぼくも最初はそう考えた——マグル科学か合理主義の方法かだろう、と。でも……」  ハリーは息をはいた。 太陽は丘の上にのぼりきっている。 このつづきを言うのは恥ずかしい気がするが、それでも言うことにする。 「スネイプ先生がこの予言の聞き手で——という部分も実際にあったことで——スネイプ先生は、科学がその答えにはなりえないと考えていた。『闇の王の知らぬちから』というのは、ヴォルデモートにとってもっと異質なものでなければならないはずだ、と。 仮に合理主義と言いかえるとしても、その、ヴォルデモートは実際には……」  そのことを思うといまでもハリーは心臓が苦しくなる。クィレル先生、あなたはなぜ…… 「……合理主義の方法をまなぶことができるような人だった。ぼくが読んだのとおなじ科学論文を読んでさえいれば。 ただ、ひとつだけ、なにかが違っていたとすれば……」  一度息をすう。 「最後の最後に、ぼくとヴォルデモートの対決の場で、ヴォルデモートはぼくの両親と友人全員をアズカバンに送ると脅迫した。ただしこちらがおもしろい秘密を一つ明かせば、そのたびに一人を見のがしてやると。 ぼくは全員を救う手段がのこされていないと気づかされたその瞬間に……そのとき、ぼくははじめて考えはじめた。 多分生まれてはじめて、考えはじめた。 自分より年上で速く思考することのできるヴォルデモートより速く……それは、ぼくには()()()()()()()()()があったから。 ヴォルデモートは不死になるために行動していた。死にたくないと強く思っていた。けれどそれは積極的な望みではなく、恐れだった。その恐れのせいでヴォルデモートは判断をあやまった。 ヴォルデモートが知らなかったちからというのは……ぼくには守るべきものがあったということだと思う。」

 

「え、それって……」  ハーマイオニーはそっとそう言って、言いよどむ。 「つまりわたしはあなたにとってそういう存在? 守るべきもの?」

 

「いや。その……この話をしようと思ったのはそもそも、ヴォルデモートがそのとき()()()アズカバンに送ると言わなかったからで。 彼が全世界を征服したとしても、きみは無事でいられた。 その時点で彼は……いろいろあって……きみに害をなさないという誓いをしていて、それに縛られていた。 つまり、絶体絶命の危機にあって、自分の奥底でヴォルデモートが知らないちからを見つけたとき、ぼくの目的はきみ以外のすべての人を守ることだった。」

 

ハーマイオニーはしばらく考え、そのあいだにだんだんと笑顔になった。 「あのね、そんなにロマンティックじゃない言いかた、聞いたこともない。」

 

「それはよかった。」

 

「正直言って、すこし安心はした。ストーカー的な要素がだいぶなくなったような気がするから。」

 

「やっぱり?」

 

二人はそろってうなづき、緊張がとけたようになって、いっしょに太陽がのぼっていくのを見た。

 

「もし……」  ハリーもひっそりとした声で言う。 「ヴォルデモートがぼくの両親を襲わなかったとしたら、その世界のハリー・ポッターはどんな人になっていただろう、ということを考えていたんだけど。」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「そのハリー・ポッターは多分あまりあたまがよくないだろうし、 お母さんがマグル生まれだとはいえ、マグル科学をそれほどまなんでもいないだろう。 ただ……ジェイムズ・ポッターとリリー・エヴァンズに似て、思いやりのある人ではあったと思う。他人のことを考え、友だちを救おうとするような。そうにちがいないと思うのは、それがヴォルデモートになかった部分だから……。」  ハリーの目に涙がにじむ。 「きっとかけらとして残ったのがその部分なんだと思う。」

 

太陽はもう地平線のずっと上にあり、黄金色の光を二人に投げかけ、屋根の反対がわに長い影をつくっている。

 

「そういう人であろうとする必要はないと思う。 まあ、そのもう一人のハリー・ポッターもいい人ではあるかもしれないけれど、その調子だと、ものを考えるのはすべてわたしの仕事ということになりそうだから。」

 

「遺伝的に言って、第二のハリーは両親とおなじグリフィンドール生になるだろうし、だとするとハーマイオニー・グレンジャーと仲よくなることはなさそうだ。 ジェイムズ・ポッターとリリー・エヴァンズはホグウォーツ時代に首席男子と首席女子だったから、息子もそこまで劣等生にはならないだろうけど。」

 

「目に浮かぶわ。ハリー・ジェイムズ・ポッター……〈組わけ〉はグリフィンドール、夢はクィディッチ選手になることで——」

 

「勘弁してよ。」

 

「のちの世では、ハーマイオニー・ジーン・グレンジャーのおともであった人として知られる。ミス・グレンジャーはミスター・ポッターを現場に送って奮闘させながら、抜群の記憶力と本から得た情報をいかして、図書館にいながらミステリーを解決する。」

 

「きみはこの並行宇宙がずいぶん気にいってしまっていないかい。」

 

「もしかすると、()()()()()()()()()()()()()()ロン・ウィーズリーが親友だったりするかもしれない。二人は〈防衛術〉の授業でわたしの配下となって戦い、そのあとで宿題を教えあう——」

 

「そろそろやめようか。だんだん気味が悪くなってきた。」

 

「ごめん。」と言いながらハーマイオニーはまだひとりほほえんで、妄想をたくましくしているようだ。

 

「わかったならよろしい。」

 

太陽の位置がまたすこし高くなった。

 

しばらくして、ハーマイオニーが口をひらいた。 「わたしたち二人が将来的に恋人どうしになることがありそうか、という質問なら?」

 

「その答えは、きみが知らなければぼくも知らない。 でもなぜそればかり? なぜいつもそればかりになる? ぼくたちは成長して恋人どうしになることがあるかもしれないし、ないかもしれない。 それは長つづきするかもしれないし、しないかもしれない。」  太陽がほおに熱く感じられ、日焼止めを塗っていなかったので、ハリーは顔のむきをずらした。 「それがどんな方向にすすんだとしても、人生を無理にパターンにあてはめるべきではないと思う。 ()()()そういうパターンをあてはめようとする人には、きまって不幸が待っているものだから。」

 

「無理にパターンをあてはめない?」と言うハーマイオニーは、いたずらっぽい目をしている。 「それは『ルールを無視する』をややこしく言いかえただけなんじゃないの。 わたしも入学してすぐに言われたらそうは思わなかっただろうけれど、いまではだいぶ、いい考えのような気がする。 どうせタイムマシンをもったキラキラ・ユニコーン・プリンセスになるなら、ついでにルールを捨ててしまってもいいかもしれない。」

 

「どんなルールもだめだとは言っていないよ。それがクィディッチのようになにも考えず踏襲してしまっているルールではなく、相手にあわせたルールであれば、とくに。 でもきみこそ、『ヒーロー』というパターンを拒否して、自分にできることをすると決めたんじゃなかったっけ?」

 

「たしかにね。」と言ってハーマイオニーは視線を下げて、ホグウォーツ城の周囲の地面を見おろす。太陽がまぶしくなりすぎたからだ——と言っても、網膜も勝手に治癒するようになっているから、ハーマイオニーの場合だけは太陽を直視していてもいいはずだが。 「わたしが最初からヒーローになる運命にあったように思える、という話を しばらく考えてみたんだけど、それはまったく当たっていないんじゃないかと思う。 こうなることが()()()()()()()なら、もっとずっと楽にものごとが進められていたはず。 自分にできることをひたすらする——そのためには、自力でその状況をつくる必要がある。選択する必要がある。何度も、何度でも。」

 

「それはヒーローになる運命にあることと矛盾しないかもしれない。」と言ってハリーは自由意志に関する両立論の言説と、成就させるにあたって自分が知ってはならないとされている予言のことを考える。 「でもこの話をするのはあとでもいい。」

 

「選択する必要がある。」ともう一度言うと、 ハーマイオニーは両手で自分を押しあげて、うしろに飛び、屋根の上になめらかに着地して立った。 「ちょうどわたしがいまから、こう選択するように。」

 

「キスはなし!」と言ってハリーはあわてて立ちあがり、よけようとした。しかし自分よりもはるかに〈生きかえった女の子〉のほうが俊敏であるということに気づいた。

 

「もうこちらからキスする気はないわよ、ミスター・ポッター。少なくとも、そちらがしたいと言わないかぎりは。 ただ、わたしのなかがあたたかい感覚でいっぱいになっていて、()()()しないと破裂してしまいそうな感じがしていて、けれど考えてみれば、女の子が感謝をつたえるときキス以外の方法を知らないというのは不健全、だから……」  ハーマイオニーは杖を手にして、ななめにつきだした。ウィゼンガモートでポッター家に主従の誓いをしたときとおなじ姿勢だ。

 

「いやいやいや……どれだけの苦労があってやっと()()()誓約を反故(ほご)にできたと思ってるんだ——」

 

「早とちりしないでよ。 なにもまた、あの主従の誓いをしようという気はないから。 わたしの謎の若魔法使いになるつもりなら、もっとわたしの判断力を信用してくれないと。 さあ、杖をここにだして。」

 

ハリーはハーマイオニーがしようとしている選択がまちがっているかもしれない、という最後の一抹の不安をのみこんで、ゆっくりと〈ニワトコの杖〉をとりだし、それをハーマイオニーの十と四分の三インチのブドウ材の杖にかさねた。 「せめて『わたしが死ぬときが来るまで』とかいう文言はいれないでくれる? 言い忘れてたら悪いんだけど、ぼくは〈賢者の石〉を持っているから。 『世界と魔法がほろびるとき』とかいうのもやめてほしい。 ぼくはそういう表現に以前よりずっと敏感に反応するようになっているんだ。」

 

石のタイルが敷かれた屋根の上で、朝の太陽に明るく照らされ、青色のえりの黒ローブを着た、もう子どもとは言いがたい二人が、おたがいの杖をかさねて向かいあう。 一人は奔放な巻き毛の髪の下に茶色の目をしていて、魔法的なばかりでもない力と美のオーラを発している。もう一人は眼鏡をかけた緑色の目とぼさぼさの黒髪のあいだに最近赤くはれあがった傷あとをもっている。 その足もとの細い石の塔は地上の目撃者が見たそばから忘れるようにつくられていて、下のほうでホグウォーツ城本体に接続している。 はるか下には、緑の丘のつらなりと湖が見える。 側面に赤と黒の線のはいった、マグル式でも完全に魔法式でもない客車と機関車があり、その全体がこの高さからは小さく見えている。 空にはほとんど雲がなく、小さな水分のかたまりが太陽光を照らしてごくうっすらとオレンジ色をおびている部分があるにすぎない。 そよ風が夜明けの清涼な空気と朝の湿りけをとどけている。そのいっぽうで巨大な燃える黄金球は地平線を離れ、そこから出る白熱光が触れるものすべてに温度をもたらしている。

 

「これを聞きおわれば、そうでもなくなるんじゃないかな。」とヒーローが謎の魔法使いに向かって言う。 彼女は自分が物語の全体を知らないと自覚している。しかし、ごく断片的な真実を知ってはいて、それだけでも自分のなかが太陽のように明るくなり、太陽に似たぬくもりが感じられている。 「わたしはいま、こう選択する。」

 

わたしの命と魔法力にかけて、わたしはここにハリー・ポッターの友人であることを誓う。

こんどこそほんとうにわたしが死ぬとき……が実際来ると仮定してだけど、そのときまでわたしは、

彼を支え、彼を信頼し、

彼に手を貸し、えー、手をさしのべること、

そしてときには、彼が行けない場所へも行くことを誓う。

もしも世界か魔法がほろびることがあるなら、そのときもわたしは彼とともに立ちむかう。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 

(終)

 


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