銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜   作:斉宮 柴野

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アルブレヒトは皇帝となった。
だが、彼が最初に選んだのは戴冠式でも即位式でもなく、実務と家族だった。
皇女カタリーナの誕生、ラングへの裁定、新閣僚の任命、そしてキルヒアイス公国への曖昧な承認。
新たな銀河帝国は、静かに、しかし確実に動き始める。


戴冠式なき皇帝と、猿の姫君

【帝都オーディン】

 

アルブレヒト・フォン・ファルケンハインは、銀河帝国五百年の歴史上、初めてあることをしない皇帝となる。

 

戴冠式をしない。即位式もしない。玉座の間に諸侯を集めず、黄金の冠も被らず、古式ゆかしい誓文朗読もない。宮廷儀典局は泡を吹き、宮内尚書は三度ほど聞き返し、古参の侍従は「前例がございません」と震える声で言う。だが、新皇帝はそれを一言で切り捨てる。

 

「前例がないなら、今できる。よかったな」

 

帝都オーディンの巨大モニターには、玉座ではなく、普通の執務室のデスクに座るアルブレヒトが映る。豪華な緞帳も、金の柱も、帝冠を捧げ持つ侍従もない。背後には書棚と地図と、大量の報告書の山がある。皇帝即位というより、繁忙期の官僚が追加業務を引き受けた顔である。

 

「そのような派手なことをせずとも、俺の名はあまねく帝国全土に、そして銀河に知れ渡っている。俺の帝国に、そのような自己満足の示威行為は不要である」

 

帝国臣民は最初、呆気に取られる。戴冠式がない。即位式もない。古き帝国の威儀を重んじる者たちは眉をひそめる。だが、すぐに別の知らせが流れる。即位に伴う特赦は行う。

 

低所得層への配布金も行う。戦争遺族への追加扶助、兵士家族への臨時手当、消耗した地方港湾への復興予算、軍需物資価格の抑制、食料関税の一時軽減、すべて実施する。儀式は削るが、実利は削らない。

 

最初に不満を漏らしていた老人が、給付通知を見て無言になる。

 

「戴冠式がないとは嘆かわしい」

 

「その分、金が来るぞ」

 

老人は少し考える。

 

「……実務的で素晴らしい皇帝陛下だな」

 

評価は速い。民衆は意外と現金である。いや、現金を配られると特に現金である。

 

貴族たちは別の意味でざわつく。儀式を軽んじるのは伝統への挑戦だ。だが、皇帝アルブレヒトはすでに広場で自ら帝位を宣言し、軍と民衆の歓呼を得ている。今さら儀式がないから不十分だと言うには、相手の実績と人気が大きすぎる。

 

ロイエンタールは報告書を読みながら、薄く笑う。

 

「儀式を省いて民に金を配る。実に閣下らしい。いや、陛下らしいと言うべきか」

 

ミッターマイヤーは真面目に頷く。

 

「今は帝国を落ち着かせる方が先だ。儀式で諸侯を集めている間に、キルヒアイス公国と共和国が動く」

 

「それは正論だ。だが、本当の理由は別にある」

 

「何だ?」

 

「皇后陛下の出産だ」

 

ミッターマイヤーは一瞬黙り、深く息を漏らす。

 

「……そうか。なら仕方ないな」

 

二人とも、それ以上は何も言わない。帝国の儀式より家族を選ぶ。それを政治的合理性で飾ることもできる。だが、アルブレヒトの場合、実際に選んでいるのは家族だ。皇帝となった男は、帝国五百年の歴史よりも、私邸の寝室の扉の前を選ぶ。

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

扉の前で、アルブレヒトは右へ左へ歩き回っている。皇帝として数百万の群衆の前に立った男が、今はただの落ち着きのない夫である。護衛の近衛兵たちは、見てはいけないものを見ている顔をする。皇帝が汗をかきながらうろうろしている。しかも時々、扉に向かって声を張り上げる。

 

「アナ!頑張れ!!アナ!もう少しだ、頑張れ!!」

 

中からアナスタシアの苦しげな、しかし力強い声が響く。

 

「ん~~!!!!」

 

「アナ!俺はここにいるぞ!」

 

侍医の一人が小声で言う。

 

「陛下、産室の中へはまだ」

 

「分かっている。だが、何かできることはないのか」

 

「待つことです」

 

「それが一番苦手だ」

 

「存じ上げております」

 

軍医は命知らずにも淀みなく応じる。アルブレヒトは睨みかけるが、すぐにまた扉へ向く。今は威厳などどうでもいい。中ではアナスタシアが命をかけている。帝国の法も、軍制再編も、公国の承認問題も、共和国対策も、今この瞬間だけは。

 

やがて、産声が響く。

 

「オギャー!オギャー!」

 

その声は小さい。だが、アルブレヒトには銀河全体より大きく聞こえる。

 

「おめでとうございます!!元気な女の子です!陛下!!!」

 

アルブレヒトは返事をするより先に部屋へ飛び込む。軍医が「お待ちを」と言う暇もない。

 

ベッドの上で、汗だくのアナスタシアが小さな赤子を腕に抱いている。先日まで帝国を震わせた毒蛇のような女は、今はひどく柔らかい顔をしている。疲れ切っている。だが、幸福そうでもある。

 

「アル様……いえ、陛下……」

 

アルブレヒトはベッドの傍らに膝をつく。皇帝が膝をつく。だが、この部屋ではそれでいい。彼は布でアナスタシアの額の汗を拭う。

 

「俺のことはアルと呼べ。……俺は、お前にそう呼ばれたい」

 

アナスタシアは少し戸惑う。

 

「……アル……様……」

 

アルブレヒトはわざと耳を近づける。

 

「ん?聞こえん」

 

アナスタシアはふふっと笑う。笑う体力も少ないはずなのに、彼の意地悪には応じる。

 

「……アル」

 

「良くやってくれたな、アナ。そして何より、無事だった。それが俺への、最高の贈り物だ」

 

アナスタシアは赤子の小さな手を撫でる。指が信じられないほど小さい。その小ささが、彼女には少し怖い。自分が殺そうとしたもの、守ろうとしたもの、壊そうとしたもの、そのどれとも違う命が腕の中にある。

 

「名前は……どうなさいますか?」

 

「そうだな……。カタリーナ。……この子は、カタリーナ・フォン・ファルケンハインだ」

 

「カタリーナ……。私と……アルの子……」

 

「気に入らないか?」

 

「いいえ。とても」

 

アナスタシアは赤子を見つめ、ふと呟く。

 

「すごく小さいですね。……猿みたい」

 

「おいおい。生まれたてはみんなそんなもんだ……って、普通それは父親が言うセリフだぞ?母親が自分で猿みたいとか言うなよ」

 

アナスタシアは彼を見つめ、小悪魔のように微笑む。

 

「仕方ありません。……あなたは、昔から私の座布団ですからね」

 

アルブレヒトは目を丸くし、そして吹き出す。

 

「はははっ!古い話を……。あの時の異名をずっと覚えていたのか」

 

「忘れるはずがありません。あなたは、私が座っても怒らない人でした」

 

「怒れなかっただけだ」

 

「同じことです」

 

「同じではない」

 

「私にとっては同じです」

 

あの頃の二人は、こんなところまで来るなど思っていない。伯爵家の少年と、彼に仕える少女。座布団などという言葉でじゃれ合っていた二人が、今は皇帝と皇后になり、銀河を三つに割った戦乱の中心にいる。

 

「エリザベートとサビーネも、秋には生まれますよ。アル」

 

「ああ。そうだな。この子が、一番上の長女というわけだ」

 

「エリザベートの子も、サビーネの子も、アルの子です」

 

「もちろんだ」

 

「……私は、嫉妬するかもしれません」

 

「してもいい。だが、殺すな」

 

アナスタシアは少しだけ目を伏せる。

 

「はい。皇帝命令ですから」

 

「そうだ」

 

「カタリーナ。……カティア、と呼んでもよいでしょうか」

 

「いい名だ」

 

「プリンツェッシン・カティアか。民衆は好きそうだな」

 

「この子に、民衆の期待を背負わせるのですか」

 

「背負わせたくはない。だが、皇帝の娘に生まれた以上、背負うものはある。せめて、最初に背負うのが愛称であってほしい」

 

カタリーナ・フォン・ファルケンハイン。それは後に、キルヒアイス公国の二代目公妃となる名前である。民衆からプリンツェッシン・カティアと愛称される彼女の波乱の人生もまた、銀河を彩る歴史の一ページとなる。だが、それはまだ先の話だ。

今この部屋にいるのは、小さな赤子と、疲れ果てた母と、父だけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後、皇帝の執務室。

 

ハイドリッヒ・ラングが床に平伏している。彼は普段から腰の低い男だが、今日はそれが極端だ。額が床にめり込みそうなほど低い。いや、できることなら本当にめり込んで隠れたいのかもしれない。

 

アルブレヒトは机越しに彼を見下ろす。表情は読めない。控えにはロイエンタールとリューネブルクがいる。ラングにとって、かなり居心地の悪い組み合わせだ。片方は自分を嫌っている。もう片方は自分の部下を十人単位で血祭りに上げた男である。

 

「……ラング。卿は、サビーネへの襲撃事件は、全て自分の手によるもの、独断であると……そう言うのだな」

 

ラングは床に顔を擦り付けたまま答える。

 

「はい。皇后陛下の憂いを過剰に誤解した、私の愚かな暴走にございます」

 

「アナスタシアの命令ではないと」

 

「ございません。私が勝手に忖度し、勝手に手配し、勝手に事を起こしました」

 

「ずいぶん都合のいい忠誠だな」

 

「忠誠とは、時に汚泥を被るものにございます」

 

ロイエンタールの眉がわずかに動く。リューネブルクは動かない。

 

「お前がすべての罪を被るなら、お前は間違いなく死刑ということになる。家族を含めてな。民衆の憎悪の矛先をお前に向けて、事件は終わりだ」

 

ラングは微動だにしない。

 

「……ご随意になさるがよろしいでしょう。陛下はもはや、神聖不可侵なる銀河帝国皇帝であらせられます。私の命など、塵芥に等しいものです」

 

「家族もか」

 

その問いに、ラングの肩がほんのわずかに震える。彼は家族を愛している。権力欲もある。保身もある。陰湿で、卑屈で、狡猾だ。だが、家族への情は本物だ。その情があるからこそ、彼は完全な怪物ではない。

 

「……私の罪にございます」

 

アルブレヒトはしばらく沈黙する。

そして告げる。

 

「……ハイドリッヒ・ラング。お前は本日より、内務尚書だ」

 

ラングが顔を上げる。目が丸い。声も間抜けになる。

 

「は?」

 

ロイエンタールもリューネブルクも、ほんの一瞬だけ反応を見せる。

 

「死刑の代わりに、俺のもとで過労死するまで働け。皇帝への忠誠の誓約をしろ」

 

「は……はっ!我が命に代えましても!!」

 

「命だけでは足りん。頭と手足と部下と書類を全部使え」

 

「はっ!睡眠時間に至るまで、陛下へ捧げます!」

 

「それはさすがに効率が落ちる。少しは寝ろ」

 

「ありがたきお言葉!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラングが退室した後、ロイエンタールとリューネブルクが進み出る。

 

「よろしいのですか?奴は自身が助かることまで、すべて計算ずくであったと思いますが」

 

「それくらいのしたたかさがなければ、これからの俺の閣僚は務まらん」

 

彼はロイエンタールを見る。

 

「お前は嫌いなタイプだろう?」

 

ロイエンタールは鼻で笑う。

 

「良くおわかりで。あのような陰湿な猟犬、好かんですね」

 

「奴は使える。武人ではないが、人間らしい欲と、家族を愛する良識と、両方持った男だ。お前が宰相としてうまく使え。逃げ場をなくすほど追い詰めなければ、問題はない」

 

「追い詰めると?」

 

「家族を守るために何でもする。そういう男は、最後の壁を越えると本当に何でもする。だから壁の手前で飼う」

 

「犬ですか」

 

「玉座には犬がいる。忠犬、猟犬、番犬、狂犬。全部必要だ」

 

「では、私は何ですかな」

 

「お前は犬ではない。俺の半身だ」

 

ロイエンタールの表情が一瞬だけ消える。それは、軽口で流せない言葉だ。

 

「さて、空席になった閣僚の割り振りだ。国務尚書は、ロイエンタール、お前が兼任しろ。帝国宰相としては、それが一番行政をやりやすいはずだ」

 

ロイエンタールは深く頭を下げる。

 

「はっ」

 

「工部尚書には、ブルーノ・フォン・シルヴァーベルヒを呼べ。前任のヒルダちゃんが褒めていた男だから、間違いはあるまい」

 

「若手ながら、実務では高い評価を得ております」

 

「なら酷使しろ。褒められる人材は、酷使される運命にある」

 

「陛下がそれを仰ると、妙に説得力がありますな」

 

「俺も酷使されている」

 

「自ら皇帝になられましたので」

 

「言うな」

 

「そして……軍務尚書には、リューネブルク。お前だ」

 

リューネブルクは片眉を上げる。

 

「は……私がですか?私は内戦の傷から、長らく療養していた身ですよ。政治の経験もありません」

 

「お前はあの夜、俺の家族、サビーネとアンネローゼ様を守り、誰も死なせなかった」

 

「職務です」

 

「その職務に、俺は帝国皇帝として報いる。俺は、その功績に報いたつもりだが……足りないかな?元帥」

 

そこにあるのは単なる褒賞ではない。信頼だ。軍務尚書という要職は、政治経験の有無だけで任されるものではない。皇帝の軍事意思を、軍全体へ通す柱である。彼はそれを任される。

 

「……いえ。謹んで、お受けします」

 

「素直でよろしい。では行け。そのように手配し、動け」

 

「御意」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新皇帝アルブレヒトによる最初の御前会議は、宮殿の大広間で開かれる。出席者は上級大将以上の軍人と閣僚たちである。だが、この場にいるべき者たちがいない。その事実が、残された将官たちの肩に見えない重みを乗せる。

 

ラインハルトはいない。キルヒアイスもいない。ヒルダもいない。マルガレータもいない。オーベルシュタインもいない。ビッテンフェルトもファーレンハイトも、ミュラーもメルカッツもあちら側だ。帝国の軍事的星座は、明らかに欠けている。

 

それでも、ここにはロイエンタールがいる。ミッターマイヤーがいる。ケスラー、メックリンガー、ルッツ、ワーレン、ケンプ、レンネンカンプ、シュタインメッツ。帝国はまだ立っている。

 

玉座のアルブレヒトは、広間を見渡す。正式な即位式はしていない。だが、今この場で誰も彼が皇帝であることを疑わない。

 

「俺の閣僚、及び精鋭たちよ。改めて軍制の再編と役職を割り振るので、励むように。では閣僚から」

 

声は重い。だが、必要以上に飾らない。

 

「帝国宰相、兼、国務尚書、オスカー・フォン・ロイエンタール」

 

ロイエンタールが優雅に一礼する。

 

「はっ!!」

 

「ロイエンタール。お前は俺の代理人ではない。俺の半身だ。お前の判断で最良と思い、俺の裁可を得られると確信するのであれば、事後報告で構わん。存分にやれ」

 

広間がわずかに揺れる。帝国宰相に、事後報告で構わないと言う。これは単なる任命ではない。ほとんど皇帝権の一部を預ける宣言に等しい。

 

「そこまでのお言葉……微力ながら、命を懸けて励みます!!」

 

「微力では困る。全力でやれ」

 

「御意」

 

「内務尚書には、ハイドリッヒ・ラング」

 

ラングが平伏する。

 

「はっ!」

 

広間にざわめきが起こる。悪名高き秘密警察の長。サビーネ襲撃事件への関与を噂される男。その男が内務尚書という要職に就く。将官たちの表情は硬い。

 

「今回の件で、彼を誹謗中傷することは一切許さん。あえて口にするものは、皇帝たる俺の命令に忠実ならざるものとして相応の罰を心せよ」

 

ラングはさらに低く頭を下げる。

 

「ラングも、俺の威光を借りて慢心はしないようにな」

 

「はっ!肝に銘じます」

 

「工部尚書にはシルヴァーベルヒ。軍務尚書にはリューネブルク元帥」

 

若き工部尚書シルヴァーベルヒと、軍服姿のリューネブルクが頭を下げる。

 

「謹んで拝命いたします」

 

「民生、財務、学芸、司法、宮内尚書は、これまで通り留任とする。今は制度を一度に動かしすぎない。変えるべきものは変えるが、使えるものは使う」

 

老臣たちは安堵する。すべてを一新するわけではない。その現実感が、逆に新皇帝の本気を伝える。

 

「次に軍務だ。帝国軍最高司令官、ミッターマイヤー元帥」

 

ミッターマイヤーが直立する。

 

「はっ!!」

 

「後方勤務総司令官、メックリンガー上級大将。憲兵総監、ケスラー上級大将。貴族直轄軍総司令官には、ケンプ元帥。昇進だ。傷を治した上で励め」

 

包帯の残るケンプが深く頭を下げる。

 

「身命を賭して」

 

「同副司令官および査閲部兼務、レンネンカンプ上級大将。正規軍・貴族軍連携幕僚総監、シュタインメッツ上級大将」

 

レンネンカンプとシュタインメッツが応じる。

 

「各艦隊司令。正規軍、ルッツ上級大将、ワーレン上級大将。貴族直轄軍、クナップシュタイン大将、グリルパルツァー大将。……以上となる」

 

役職が埋まる。空席はまだ痛い。だが、組織は動き出す。欠けた星座に、新しい線が引かれるのだ。

 

「では、会議を始める。議題は一つだ」

 

ミッターマイヤーが進み出る。

 

「キルヒアイス公国……という新たな存在を、我が帝国はどう考えるのか、ですね。彼らは反乱軍か。ただの割拠か。それとも独立した属国と認めるのか」

 

司法尚書ブルックドルフが厳格な顔で口を開く。

 

「司法の法理に照らし合わせれば、ヘルクスハイマー元帥……いえ、自称公王の軍命無視と戦線離脱は、明白な反逆罪であります。よって、彼らを国家として認めるのは、帝国の司法と権威にもとります」

 

ロイエンタールが薄く笑う。

 

「しかし、ブルックドルフ尚書。我が義理の娘とはいえ、あの土壇場での見事な采配だ。オーディンに戻れば粛清されるという状況下での、生存への致し方ない判断であったと、情状酌量するわけにはいかないか?」

 

ケスラーが眉をひそめる。

 

「宰相閣下は、娘の肩を持つおつもりか?」

 

「そうではない。だが、マルガレータは帝国三長官であった。自軍を無傷で保つという、その職責に相応しい判断だったと言うことだ。でなければ、今ごろ彼女たちは全員、無実の罪で死んでいたのだぞ」

 

ケスラーは引かない。

 

「そのような情や結果論で、軍の規律と国が立ちますか!!」

 

ミッターマイヤーも進み出る。親友のロイエンタールに向ける声は、厳しいが誠実だ。

 

「ケスラーの言うとおりだ。軍は信義によって立つ。宰相のなさりようは、国家の法を皇帝の家族とそれ以外に分けると言う宣言に等しい。いかに!?」

 

ロイエンタールの目が細くなる。だが、答える前にラングが横から嫌味ったらしい声で割って入る。

 

「……お言葉ですが、ミッターマイヤー元帥。マルガレータ公王は、アルブレヒト陛下の義理の弟君でおられるローエングラム公爵閣下の縁戚になられました。また、アルブレヒト陛下も常々、彼らは家族の一員であると仰られている」

 

「それを法に反すると正面から非難なさるということは、陛下のご家族、ひいては神聖不可侵たる皇帝陛下の声望に傷をつけることになりますぞ。そのあたりをよくお考えの上で、発言していただきたいものですな」

 

次の瞬間、ロイエンタールの激情が広間を叩き打つ。

 

「黙れ下衆!!!!」

 

「貴様は、軍の最高司令官たるミッターマイヤーの正論を封じるのに、自らの見識で反論するのではなく、皇帝陛下の御名を盾にして成すのか!!この虎の威を借る狐めが!!」

 

ラングも負けじと顔を上げる。

 

「皇帝陛下の御名をもってなすのではない!!陛下のご意志と、苦悩の意を汲み取ったうえでの発言である!!家族を守るために、自ら泥を被ってこの情勢を作られた陛下の覚悟に、内務尚書たる臣下として付き合う所存を述べたまでだ!!」

 

「その物言いが下劣だと言っている!」

 

「下劣な場を担当するのが内務尚書でございますれば!」

 

「開き直るな!」

 

「……そこまでにしておけ。ロイエンタール」

 

ロイエンタールははっとする。

 

「はっ……」

 

「ラングは、一応お前の意見、つまりマルガレータ擁護の味方をしてくれただろうに。そこまでムキになるな」

 

「しかし」

 

「分かっている」

 

「ラング。ロイエンタールは自分の意見を否定されたから怒ったんじゃない。親友であるミッターマイヤーの軍人としての名誉と正論が、権力で踏みにじられたように感じたから怒っているのだ。そのあたりは、空気を読んでうまく立ち回れ」

 

ラングは平伏する。

 

「はっ」

 

「二人とも、活発な意見は大いに結構。俺はそういう会議が好きだ。だが、無用な激情を撒き散らすのは、敵との戦場にとっておきたいものだな?ん?」

 

ロイエンタールは深く頭を下げる。

 

「……御意。熱くなりすぎました」

 

「仰せのままに、陛下。……宰相閣下、親友たるミッターマイヤー元帥の名誉に思いが至らなかったこと、不調法をお詫び申し上げる」

 

「……いや、俺が熱くなりすぎたのだ。気にするな」

 

ミッターマイヤーは二人を見て、少しだけ困ったように息を漏らす。親友が自分の名誉のために怒るのは嬉しい。だが、御前会議で内務尚書を怒鳴りつけるのは、あまり嬉しくない。

 

「キルヒアイス公国については、しばらくは半属国という名目で、通常の交易を行う。同盟のハイネセンを抑えてくれている以上、彼らは現在、我が国の強力な防波堤だ」

 

ブルックドルフが顔をしかめる。

 

「陛下、それでは法理が」

 

「法理は曖昧にする」

 

「理由はラングの言ったとおりだ。政治的にもサビーネが向こうにいる以上、うかつに手出しはできん。向こうの主張通り、サビーネは帝国皇帝のままだしな。俺を廃位したわけでもないから、あちらに法的な落ち度はない」

 

「しかし、皇帝が二人」

 

「帝国は元々共同皇帝制の歪みを抱えていた。俺がそれを利用する。文句は制度を作った過去の宮廷に言え」

 

ロイエンタールが薄く笑う。

 

「死人に責任を取らせるのは難しいですな」

 

「だから現皇帝が処理している」

 

「いっそ、独立を認めてキルヒアイス帝国にしてやってもいいが」

 

「それをやれば、皇帝が二人いることになり、全面戦争待ったなしですからな」

 

「ああ。だから、そのあたりは当面曖昧なままで行く。彼らには、ヤン・ウェンリーの相手をしてもらう」

 

ミッターマイヤーが問う。

 

「つまり、公国を敵とせず、共和国への緩衝地帯として使うと」

 

「そうだ。敵と断じるには惜しい。味方と呼ぶには危うい。なら、半分だけこちらに置いておく」

 

ケスラーが渋い顔をする。

 

「曖昧な処理は、後に禍根を残します」

 

「はっきり処理すれば、今すぐ戦争になる。禍根を未来へ送るのも政治だ。未来の俺か、未来のお前たちが苦労しろ」

 

「非常に皇帝らしい責任転嫁ですな」

 

「聞こえているぞ、宰相」

 

「聞こえるように申しました」

 

アルブレヒトはわずかに笑い、すぐ真顔に戻る。

 

「ただし、交易を認める以上、情報線は徹底しろ。フェザーン経由の資金、人員、技術、すべて追う。公国を信頼はしない。だが、敵にも回さない」

 

ラングが低く頭を下げる。

 

「内務省が監視網を整えます」

 

「やりすぎるな。キルヒアイスの名を汚すような真似をすれば、あちらの民意が固まる。監視は細く、深く、見えにくくやれ」

 

「御意」

 

「では……エリザベート様はいかになさいますか?廃位されたとはいえ、彼女もまた」

 

「俺の妻のままさ。軟禁はするが、自由にさせる。子供も産んでもらうし、絶対に殺しもしない。……それで良い。向こうにいるサビーネちゃんの子供も、俺の子だ。すべて皇帝の直系として認知するとも」

 

ブルックドルフが苦い顔をする。

 

「陛下。皇位継承が複雑化します」

 

「すでに複雑だ。今さら子供に罪を着せるな」

 

「しかし」

 

「子供は全員俺の子だ。母親が誰であれ、政治状況がどうであれ、それだけは変えん。そこを曖昧にした瞬間、次の内乱の種になる」

 

それは甘さにも見える。だが、同時に冷徹でもある。皇帝直系をすべて認知することで、母親の派閥による切り捨てを防ぐ。サビーネの子も、エリザベートの子も、アナスタシアの子も、すべて皇帝の血として抱え込む。情と権力を同じ腕で握るやり方だ。

 

「俺は、家族を殺して帝国をまとめる気はない。家族を抱え込んだまま帝国をまとめる。その方が難しい。だが、俺は皇帝になった。難しい方を選ぶ権利も義務もある」

 

ミッターマイヤーが深く頭を下げる。

 

「陛下のご決断、承りました」

 

「宰相として、その曖昧な覇権を現実の制度に落とし込みます」

 

「内務省は、陛下のご家族と帝国の安寧を守ります」

 

「軍務省は、公国と共和国、双方への備えを整えます」

 

「憲兵総監として、国内の不穏を抑えます」

 

「よろしい。では働け。戴冠式を省いた分、仕事は山ほどある」

 

「結局、儀式を省いても休めませんな」

 

「言うな。俺が一番がっかりしている」




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は戴冠式を行わないアルブレヒトの即位、カタリーナ誕生、新帝国の閣僚人事、そしてキルヒアイス公国への対応を描きました。
アルブレヒトの皇帝像、アナスタシアとの関係、ラングやロイエンタールの扱いについて、感想をいただけると嬉しいです。
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