許都から寿春まで、その距離はおよそ千里(四百キロメートル)。二日の遅れという絶望的な時間差を削り落とすため、徐庶は人間の生命力の限界を越えた、鬼気迫る強行軍を敢行していた。
通常の快速馬であっても、これほどの距離を全力で駆ければ、寿春に辿り着く前に過労で心臓が破裂して死に至る。ゆえに徐庶は、自らの四肢に波紋の呼吸を巡らせて大力を得ると、馬から降り、己の限界の速度で街道を爆走した。その間、空荷となった馬を、安定して長時間走れる軽速歩にさせて体力を温存させ、己の息が切れると再び馬に乗り、また降りて走る。馬の肉体的な摩耗を最小限に抑えるための、人知を越えた並走法。一陣の熱風と化したその猛追の果てに、徐庶は馬を潰すことなく、出発して三日目の夜に寿春へと辿り着いたのである。
徐庶は行在所の暗い部屋に忍び込むと、辺りを見回した。部屋の奥に置かれた榻(たつ)に荀彧が横になっているのを認めると、頭の側に回って荀彧を揺すりながら低い声で呼びかけた。
「……荀彧殿……荀彧殿。……起きてください」
「……む……そなたは……?」
荀彧は重たげに瞼を開き、徐庶を見る。
「福です。潁川であなたの教えを受けていた単福です」
「おぉ、あの撃剣の少年か!」
ここに至って荀彧は、体を起こし始める。
「なんと偉丈夫になったことよ……」
「先生、話はあとです。まずは逃げましょう」
「逃げる……? 何から?」
「先生のお命を縮めんと、許都から処刑人が向かっております。かろうじて私が先着したようですが、いつ現れてもおかしくありません」
「……そうか……そこまでするか、あの男は……。食饌の……届いた食饌の器が、空だったのだ……」
荀彧は独り言のようにつぶやいた。
「……」
その言葉で、荀彧自身に死刑宣告が与えられていたことを、徐庶も悟った。
「最後まで、苦痛と屈辱を与えて殺す気か……生き恥を晒すくらいならいっそ……」
「先生、それはなりません。先生は漢朝の、人間の砦を守る最後の盾なのです。とにかく話はあとです。まずは逃げましょう」
徐庶が荀彧の肩に体を入れ、支えるように立たせて歩み始めようとした時。冷たい風と共に、一人の男が部屋の入口に音もなく現れ、退路を断つように立ち塞がった。
兜を戴き、薄くて丈の長い布だけをまとったその男は、人間態の曹純であった。
徐庶は一瞬の躊躇もなく瞬歩を放ち、大気をも引き裂く速度で一気に間合いを詰めた。精度高くその手のひらに全生命の太陽の波長を込め、曹純の胸元へ渾身の掌底を叩き込んだ。
凄まじい衝撃波と共に、曹純の肉体は建物の入口の外、遥か後方まで吹き飛んだ。しかし、徐庶の手応えには、致命的な違和感があった。掌底は間違いなく、奴の胸板の真芯を捉えた。しかし、波紋が肉体を突き抜けて骨肉を灼き尽くす、あの「ズギュゥゥゥン」という波紋が体内を突き抜ける轟音が、一切響かなかったのである。
吹き飛んだ先で、曹純は不気味なほど平然と上半身を起こし、衣服の塵を払いながら口元を歪めた。
「フフフ、効かぬなぁ」
曹純は不敵に嗤いながら立ち上がると、夜の闇に繋ぎ止められていた一頭の巨馬をめがけて大きく跳躍した。その鞍の前に跨がった刹那、徐庶の目の前で、この世の生物分子の規律を根本から全否定するような、おぞましき怪異が始まった。
曹純の下半身の肉が、巨馬の背へとズブズブと融けるように潜り込んでいく。と同時に、馬の首から上も、曹純の上半身にズブズブと飲み込まれるように消えていった。曹純の異能は「適合(てきごう)」であった。
曹操に発現した吸血鬼の能力。その眷属を増やすのに用いられる曹操の死血は、受けた者の願いや望みに強く反応し、それを叶える形で顕現する性質を持っていた。孔融の場合は家族を守りたい、共にありたいという願いが自らの血を凝固させ、武器にも盾にもなる異能となった。夏侯惇の場合は左目の再生という願い、視界に入るものはすべて倒すという強者の願望が魔眼という異能に昇華した。夏侯恩の場合は名剣「青虹」の切れ味を、もっと研ぎ澄ませたいという願いが、握った剣を高周波で震わせる異能となった。そして曹純の場合は……「適合」であった。愛ゆえに曹操から多量に投与された死血。その死血に己の体を適合させたい、という願いが、彼の肉体に生体ナノマシンの如き異能をもたらしたのである。
(馬と人間のような異なる種が細胞レベルで融合し、一つの個体として完全に一体化することは不可能であり、その決定的な理由は「免疫」「細胞結合」「情報伝達」の三つにあるとされる。
死血の因子は、馬の免疫すら欺き、人と馬の細胞を繋ぎ合わせ、脳からの信号を瞬時に翻訳して四肢へ伝達する──本来なら絶対にあり得ぬ三つの壁を、同時に踏み越えていた)
不要な衣服を破り捨て、露出した曹純の上半身は、光を吸い込む黒曜石がそのまま皮膚になったかのような質感であり、先ほどの掌底を放った際に感じた違和感の謎が解けた。黒曜変態の皮膚は波紋を通さず、表面を流れて散逸させる恐るべき波紋耐性の皮膚だったのである。そして下半身は馬の胸のあたりで完全に結合し、落馬の概念すら存在しない異形の相――いわゆるケンタウロス態へと変貌を遂げていた。一頭の巨大な質量兵器となった人外の処刑人が、蹄の音を爆音の如く響かせて夜の闇に吼えた。
徐庶は波紋が効かなかったという現実を呑み込めず、焦燥のままに再び素手での直接の打撃を叩き込もうと肉薄した。しかし、馬と一体化した曹純の機動力は、あまりにも圧倒的であった。
手綱を握る必要のない曹純は、人間の騎兵には絶対に不可能な「両手を完全に自由にした無尽蔵の波状攻撃」を仕掛けてくる。爆走する速度を一切落とさぬまま、両手で大刀を全力で振り回し、かと思えば鞍に括りつけてあった大弓を間髪入れずに引き絞っては連射してくる。
徐庶は病身の荀彧を抱えながら、必死にその猛攻を受け流そうとしたが、人の小走り程度の速度が馬の全速力に敵うわけがなく、ついに曹純の突進が、徐庶の肉体を正面から捉えた。
ドォォォォォォォンッ!
大気を破る人馬一体の凄まじい質量が、まともに直撃する。
鈍い衝撃音と共に、徐庶の肉体は一瞬で宙に舞い、地面へと叩きつけられた。肋骨が数か所、甲高い音を立ててへし折れ、肺腑を突き刺す激痛が徐庶を襲う。かつてない極限の窮地。
徐庶が骨折の激痛に膝を突き、吹き飛んだその一瞬の隙を、曹純は見逃さなかった。
落馬なき肉体が放つ、人間の限界を超えた大弓の超連射。一本の弦に何本もの矢を同時に番えた「多連矢(たれんし)」が、夜陰を切り裂いて面で降り注いだ。徐庶は折れた体に鞭打って跳躍し、呆然と立ちすくむ荀彧の前に己の身を挺して立ち塞がったが、その防壁の死角を突く一矢が、病身の荀彧を瀕死の重傷へと追いやったのである。
「……ぐふっ」
血を吐く荀彧。その血を見て、徐庶は己の慢心と無力さを呪った。だがその時、血を吐きながら地面に崩れ落ちる荀彧の瞳に、かつて潁川の私塾で少年を導いた、あの「英明果断」な理知の光が、最期の残り火のように鈍く灯った。
「……福。焦るな、……潁川を、思い出すのだ……」
潁川の記憶。それは、かつて若き日の荀彧から授かった「物事の本質を冷徹に見抜け」という教えであり、超常の術を得る以前、泥にまみれて戦っていた「撃剣の徒(剣士)」としての己の原点であった。
波紋という超越の力に頼り切り、武人としての本質を見失っていた己の慢心に気づいた徐庶は、素手を捨て、腰の剣へと手を伸ばした。
(波紋ではなく、剣士の呼吸だ)
徐庶の胸奥で、静かに、しかし鋭く律動が蘇る。
徐庶は折れた肋骨の痛みを波紋の微弱な律動で強引に固定し、撃剣の功夫を以て、曹純の巨体が繰り出す大刀と、夜の帳が下りた街道に無数の火花を散らして激しく切り結んだ。
その高速の剣撃のなかで、徐庶の冷徹な眼は、曹純の上半身を覆う黒曜石の本質を捉えていた。
光を吸い込む黒曜石は、高い硬度を誇るが、一点に強い衝撃を受ければ粉々に砕け散る「脆さ」を併せ持っている。
徐庶は曹純の放つ大刀の太刀風を受け流し、その懐へと滑り込んだ。そして、ケンタウロス態の最も大きな負荷がかかる唯一の急所――「人間の胴体と、馬の胸の結合部(境界部分)」の黒曜防御へ向けて、撃剣の点穴の一撃を集中させた。
ガシャャャャャャャァァァァンッ!
硝子が割れるような甲高い破壊音が響き、黒曜石の結晶が粉々に砕け散る。その下に、結晶化していない、剥き出しの不浄の皮膚が鮮烈に露出した。徐庶は転がりながら曹純との激突を避けたが、曹純はそのまま突進したのち、方向転換して再び徐庶めがけて突進してくる。
勝機は、この一瞬しかなかった。
徐庶は撃剣を構え、次の曹純の突進を待っていた。瞬きするほどの間に曹純は爆発的な馬の脚力で間合いを詰め、徐庶に激突か大刀での両断かの二者択一を迫る。徐庶は切り結ぶ、と見せかけて撃剣を地面に刺し、柄を足場にして高く跳躍した。獲物を失った曹純はそのまま突進していくが、徐庶は空中で身を捩りながら懐から母の形見である「六条の鞭」を取り出すと、自身の真下を走り抜けようとする曹純めがけて鞭を振った。鞭の先端は曹純のむき出しの皮膚と馬との接合部分に、寸分の狂いもなくグルグルと巻き付いた。
「小賢しいわァァッ! そのまま地面に叩きつけ、引きずり殺してくれるッ!」
曹純は怒りに満ちたケンタウロス態の巨体を更に加速した。だが徐庶は空中から、波紋が全く減損しない鞭の繊維を介して、自身の波紋の全てを注ぎ込んだ。
急激な前進を続ける曹純の凄まじい突進力により、長さ六条(約十四メートル)の鞭が、夜の街道にピンと限界まで伸びきった。
伸びきった瞬間、極大の波紋を帯びた鞭は、曹純の表面の皮膚を溶かしながら、胴体の内部へと激しく、深く食い込んだ。
己の怒涛の突進力を制御しきれず、曹純は自らの推進力によって、その結合部を自らの手で引き千切るように、文字通り胴体を真っ二つに分断してしまったのである。
分断された曹純の上半身は、黒曜石の別名の通り、まるで「黒い太陽」であるかの如く、内側から目も眩むようなまばゆい太陽の光を激しく放ちながら自壊し、断末魔の絶叫と共に黒い灰となって夜の街道へ霧散していった。人外の処刑人は、自らの力の驕りによって、完全に消滅したのであった。
夜の静寂が戻った街道で、徐庶は血の海に倒れる荀彧をきつく抱きかかえた。荀彧の命の灯火は、いまや風前の灯火であった。
荀彧は、血に染まった唇を微かに震わせ、静かに言葉を遺した。
「……福。私は、悪に加担したかったわけではない。あの男を通じて、漢朝と人間を守りたかった…。化け物へと堕ちゆくあの男を、この手で繋ぎ止められると思いたかった……。だが、私の理は届かなかった…。あの男は完全に人間を辞め、暗黒の支配者となった。……だが、絶望するな。正しき人間の側にこそ、真の理は宿る。私の理はここで潰えるが……理は、お前の中に宿っている。正しく生きよ……福」
荀彧は、人間としての美しい微笑みを湛えたまま、静かにその目を閉じた。
「荀彧殿……ッ! 荀彧殿ォォォォォォッ!!」
徐庶の血を吐くような慟哭が、夜の寿春の闇の奥底へと、深く響き渡る。
夜空には、月だけが静かに輝いていた。
黒き太陽は滅び、人間の光だけが残った。