Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest 作:白瀬 綴
ブルーベルは、病院の窓から見える空を覚えている。窓枠に切り取られた、四角い空だ。朝は薄い青に見え、昼には白く光り、夕方になると、カーテンの端だけを橙に染めた。窓はいつも閉まっていた。開けてもらえる日もあったが、外の風が肌に触れる時間は短く、看護師が戻ってくると、白い手で静かに鍵を下ろされた。
病室は清潔だった。壁に汚れはなく、床は毎朝磨かれ、シーツには洗剤の匂いが残っていた。枕元の花瓶には、見舞いの花が入っていた。花の種類は知らない。最初に色が薄くなり、次に茎が傾き、最後には水の匂いだけが甘く濁った。ブルーベルは、その匂いが嫌いだった。
花が先に外から来て、先に駄目になり、誰かの手で捨てられていく。花瓶の水は替えられる。シーツも替えられる。カーテンも、薬の袋も、食器も替えられる。ベッドの上にいる自分だけが、朝になっても同じ場所にいた。
病院へ来る前、ブルーベルは泳ぐことが好きだった。最初は、兄が褒めてくれるのが嬉しかった。昨日より長く息が続いた時も、少し速く泳げた時も、兄はちゃんと気づいてくれた。だから、もっと泳いだ。水には決まった形がない。手ですくえば掌の形になり、プールへ戻せば、すぐ境目が分からなくなる。押しても逃げ、掴もうとしても指の間を抜け、それでも身体の周りにはずっと残る。ブルーベルは、そんな水を友達のように思っていた。
道路へ出た自分を庇って、兄は帰ってこなかった。ブルーベルの身体にも大きな傷が残り、何度も手術を受けた。脚を動かすたびに痛むリハビリも、終わればまた泳げるのだと思って耐えた。兄に褒められた水泳だけは、まだ自分のところに残っていると信じていた。
だから、窓際に置かれた小さな金魚鉢を、最初はよく眺めた。誰が持ってきたのかは覚えていない。水は透明で、丸いガラスは外の光を歪ませる。中にいた金魚は一匹だけだった。小さくて、赤くて、ひらひらしていて、何も知らない顔で泳いでいる。餌を落とせば口を開け、水が濁れば誰かが替える。覗き込んだ人は「可愛いね」「綺麗だね」と笑った。
けれど、見舞い客が帰ったあと、その魚を長く見ているのが嫌になった。水そのものには形がないのに、魚は器の外へ出られない。尾を振って進めば曲面のガラスが待ち、反対へ泳いでも、やがて同じ窓の光の下へ戻ってくる。水も餌もあり、外の光も届く。そのせいで、外から覗く人には窮屈さが伝わらない気がした。
「可愛いね」「綺麗だね」「大丈夫だよ」。優しい声は、いつも金魚鉢の外から降ってくる。その声を聞くたび、ブルーベルは笑った。笑えば、大人たちは安心する。体調を聞き、髪を撫で、また来るねと言って帰っていく。扉が閉まり、廊下を歩く足音が遠ざかる。病室へ入ってくる時より、出ていく時の方が、ほんの少しだけ足取りが軽い。その音を聞くのが、ブルーベルは一番嫌いだった。
窓の向こうでは子どもたちが走っていた。転べば泣き、起き上がればまた走る。その姿を見るたび、道路へ出た日のことと、もう戻ってこない兄の背中が重なった。あの時もっと速く動けていたら、と何度も考えた。自分が弱いから、守った人までいなくなる。病室に残ったブルーベルは、その考えを振り払えなかった。
ある日、ブルーベルは金魚鉢の水面に指を触れた。魚は尾を翻し、ガラスの反対側へ逃げる。逃げても、鉢の中だ。丸い壁に沿って泳いだ先で向きを変え、やがてまたこちら側へ戻ってくる。指先についた水は冷たかった。
この金魚鉢の中へ入れば、魚は自分をどう見るのだろう。外から覗く大きな目か。同じ水の中にいる仲間か。それとも、水を揺らすだけの迷惑なものか。その答えを考えているうちに、扉が開いた。白蘭は、白い廊下の光を背負って入ってきた。
最初は医者かと思った。白衣は着ておらず、見舞いの花も果物の袋も持っていない。両親が頼んだカウンセラーだと聞かされたのは、その後だった。可哀想だと眉を下げてベッドを覗き込む大人たちのようにも振る舞わない。白蘭の視線は金魚鉢を通り越し、ブルーベルの顔で止まった。初めて会ったはずなのに、目を細めて笑う癖だけが、ひどく遠い記憶に触れた。泳げた距離を兄に褒められた時のような、胸の奥が少しくすぐったくなる感覚だった。ブルーベルは理由が分からないまま、白蘭から目を逸らした。
「退屈そうだね」
大丈夫か、苦しいか、寂しいか、頑張っているか。いつも先に聞かれる問いは続かなかった。退屈そうだね。たったそれだけだったのに、ブルーベルは胸の奥を指で押されたような気がした。
退屈だった。本当は、ずっと退屈だった。恐怖よりも、痛みよりも、寂しさよりも、同じ天井を見続ける時間が嫌だった。窓枠の中で空が変わり、金魚鉢の水が替えられ、花が萎れ、見舞い客が帰っていく。何も始まらず、何も終わらないその場所で、ブルーベルだけが薄く削られていくようだった。白蘭は、金魚鉢へ目を向けた。
「広いところへ行きたい?」
魚に聞いたのか、ブルーベルに聞いたのかは分からなかった。ブルーベルは答えなかった。返事をすれば、何かが変わる気がした。変わってほしいのに、変わることが怖かった。病室は嫌いだ。それでも、病室を出たあと、自分がどこまで行けるのか分からない。金魚鉢の外へ出された魚が、本当に泳げるのかどうかも知らなかった。白蘭は、黙ったままのブルーベルを見て笑った。
「大丈夫。君は、金魚鉢の中で終わる子じゃないよ」
その一言は、優しさに似ていた。病室を覗き込む大人たちは、ベッドの中で少しでも楽に過ごせるよう髪を撫でてくれた。白蘭の視線は、丸いガラスの向こうへ向いている。その先へ出た後は、自分の力で泳ぐところまで求められているように聞こえた。
ブルーベルは、その日から金魚鉢を長く見なくなった。見れば、同じ場所を回る魚がそこにいる。餌を与えられ、水を替えられ、可愛いと言われ、何も選ばないまま泳いでいる。水面には、病室へ残された自分の顔まで映った。
それからずっと後、白蘭のそばで笑うことが増えてからも、病室の匂いは完全には消えなかった。見舞いの花が先に枯れていく匂いも、廊下へ消える足音も、窓枠に切り取られた四角い空も、遠くへ泳げば見えなくなるものだと思っていた。
それでも、丸いガラスの冷たさだけは時々指先へ戻ってくる。誰かが泣く声を聞いた時。弱いものが守られているのを見た時。守られる側が残り、その前に立った誰かまで傷ついていく時。ブルーベルは、そのたびに笑った。
笑えば、金魚鉢の中にいた少女は黙る。笑えば、兄を失って病室へ残った自分も、水の底へ沈む。だから彼女は、可愛く、残酷に、何も知らないふりをして笑った。
そして、並盛町で泣く子どもの声を聞いた時も、ブルーベルは笑おうとした。その子どもは泣き、怖がり、足まで震わせていた。それでも、前に立つ誰かの背中は離れず、小さな手もその服を強く掴んでいる。
ブルーベルの口元が、そこでほんの僅かに強張った。