Fate/Grand Order 第三部 Script of the Palimpsest   作:白瀬 綴

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小さき者たちの代理戦

膜が完全に閉じた。

 

 白いものが視界を塞ぎ、音を奪い、最後に残っていたリボーンの声さえ遠ざける。ついさっきまで同じ脇道の中にいたはずなのに、XANXUSの銃声も、スクアーロの怒号も、ベルの笑い声も、すべてが一枚向こう側へ押し込められていった。聞こえなくなったというより、そこへ繋がる道ごと切り替えられたような感覚だった。

 

 藤丸立香は、マンドリカルドの腕の中で息を詰める。

 

 小さくなった身体は、こういう急な移動にまるで向いていない。胃の奥が浮き、首元の空の器が冷たく震え、そこへ無理やり結ばれた補助の糸が細く軋む。ダ・ヴィンチちゃんたちが急ごしらえで組んでくれたそれは、足場というより、何本もの糸を束ねて落下を止めているだけに近かった。ツナの大空の炎の近くで拾えた反応を、藤丸の器と通信の細い接続に噛ませる。言葉にすれば仕組みはある。だが、身体に返ってくる感覚は、少し乱れればすぐほどけそうな危うさだけだった。

 

 それでも、切れてはいない。

 

 マンドリカルドは、藤丸を抱え込んだまま膝をついていた。落とさないように、庇うように、自分の肩と腕で衝撃を受け止めている。いつものように情けない声を出しそうな顔をしているのに、腕だけは少しも緩んでいない。

 

「マスター、大丈夫っすか。今、変な揺れ方しましたけど」

 

「……大丈夫。まだ、繋がってる」

 

「その“まだ”って言葉、俺の胃に悪いんで、できればもうちょい安心できる言い方してほしいっす」

 

「じゃあ……今は大丈夫」

 

「今は、もまあまあ怖いんすけどね」

 

 そう言いながらも、マンドリカルドは藤丸を下ろさない。彼の手首には、太いウォッチが巻きついている。境内で光が走ったとき、藤丸の前に現れたケースから飛び出した一本。本人が一番納得していなかった、藤丸陣営の中心を担うための時計。

 

 マンドリカルドは、その手首を一度だけ見た。

 

 震えるのは、怖いからだ。

 

 けれど、それ以上に怖いのは、ここで藤丸を取り落とすことだった。

 

 エミヤの手元には、すでに弓が形を取っている。赤い外套の輪郭が一瞬だけ薄くなり、すぐに戻る。ツナの炎から離れた影響はある。戦闘領域の膜に触れた時のざらつきも残っている。それでも、矢を番える指に迷いはなかった。

 

 ジャンヌ・オルタは、白い床へ黒い炎を落としながら周囲を睨む。

 

「最悪。よりによって、あのガキ共と離されたわけ?」

 

「ツナたちも、了平さんたちも見えない」

 

 藤丸が呟くと、喉の奥が詰まった。

 

 ツナ。獄寺。山本。リボーン。了平。ランボ。クローム。ついさっきまで同じ場所にいた名前が、いくつも胸の中へ浮かんでは消える。膜が閉じる直前、ツナの炎は確かに見えていた。XANXUSの炎とぶつかる寸前の、強くて静かな橙色。だが今は、その光すらない。

 

 あるのは、閉じた白い戦場だけだった。

 

 床は硬い。だが、町の路地ではない。壁も天井もないのに、外へ出られないことだけは分かる。白い霧が遠くに溜まり、境界の輪郭を曖昧にしている。進もうとすれば、きっと同じ場所へ戻される。そう身体の方が先に理解していた。

 

 数字は、静かに減っている。

 

 00:29:39。

 

 00:29:38。

 

 境内で流し込まれたルールは、もう全員の頭の奥にある。今さら説明される必要はなかった。だからこそ、藤丸は目の前の数字を見たくなかった。あの数字が減っている限り、この場がただの隔離ではなく、戦わせるための場所なのだと思い知らされる。

 

 その向こう側に、別の影があった。

 

 紫のヘルメットをかぶった赤ん坊が、涙目でこちらを見ている。彼の背後には、三人の少年少女が立っていた。気弱そうに見える赤髪の少年。冷静な目をした長い髪の少女。腕を組み、やけに知的ぶった顔をしている少年。

 

 藤丸は、彼らを知らない。

 

 けれど、彼らの腕にもウォッチがあることは見えた。つまり、この場に置かれた者同士だということだけは分かる。

 

 紫のヘルメットの赤ん坊が、いきなり叫んだ。

 

「な、なんでオレの代理人ばっかり、こんなヤバそうな連中と当たるんだよぉ!」

 

 声は、膜が閉じる前から続いていたのだろう。完全に閉じた空間の中でも、まだ勢いを失っていない。ただ、その勢いのほとんどは恐怖でできていた。彼はジャンヌ・オルタを見るたびに肩を跳ねさせ、エミヤの手元に形を取った弓を見るたびに首をすくめ、マンドリカルドが藤丸を庇って前に出ると、なぜかそこでも怯えた。

 

「見ろよ炎真! あの黒い女、絶対燃やす顔してるだろ! 後ろの弓のやつも目が怖いし、あの剣のやつも地味そうなのに妙に本気だし!」

 

「地味そうって言うな」

 

 マンドリカルドが傷ついた声を出す。

 

 その名前で、藤丸は赤髪の少年を見る。

 

 炎真。

 

 紫のヘルメットの赤ん坊が、そう呼んだ少年は、怯えているわけではなかった。警戒はしている。困惑もしている。だが、目の前の藤丸たちをすぐ敵として処理しようとはしていない。自分たちの腕のウォッチと、藤丸たちの立ち位置と、震えながらも叫び続ける赤ん坊の様子を見て、どう動くべきかを測っている。

 

 ジャンヌ・オルタが、ゆっくりとスカルへ視線を向けた。

 

「あら。燃やす顔って、よく分かったじゃない」

 

「ひっ」

 

 紫のヘルメットの赤ん坊――スカルは、炎真の背後へ半分隠れた。

 

「炎真! 今の聞いただろ!? 代表として命令する! 前に出ろ!」

 

「スカル、代表って、後ろから人を前に出す役なの?」

 

「代表は全体を見る役なんだよ!」

 

「今見てるの、僕の背中だけじゃない?」

 

「細かいこと言うなよぉ!」

 

 長い髪の少女が、静かに息を吐いた。

 

「炎真、どうするの。相手は、少なくとも何もせずに見逃してくれる雰囲気ではないわ」

 

「アーデル、そう見える?」

 

「ええ。殺意とは違うけれど、守る気は本物よ。こちらが近づけば、あの黒い炎の女は本当に燃やすでしょうし、赤い外套の男も射線を外していない」

 

 アーデルハイト。

 

 少女の名も、そこで藤丸の中へ入る。

 

 腕を組んでいた少年が、深く頷いた。

 

「フ……結局、盤上へ置かれた以上、ただ向かい合うだけでは済まぬということか。しかもこちらのヘルメットおチビ様は、恐怖を戦術に変換するという高度な逃避を実践している。実に興味深い」

 

「紅葉、短く」

 

 アーデルハイトが横から言う。

 

「承知した、アーデル。結局、むかつく」

 

「それで十分よ」

 

「僕の知性が三分の一ほど削られた気がする!」

 

「残りで足りるわ」

 

「それは僕が御バカ様だと言いたいのか!?」

 

「自覚があるなら結構よ」

 

 紅葉は一瞬だけ真顔になり、それから大きく頷いた。

 

「僕を真性バカと一緒にするな。少なくとも僕は己のことをバカだとキチンと自覚している御バカ様だ」

 

「今それ言う場面かよぉ!」

 

 スカルの悲鳴が白い空間に響く。

 

 緊張が緩むほどではない。だが、相手がただ殺しに来るだけの敵ではないことは、そのやり取りだけでも伝わった。

 

 藤丸は、マンドリカルドの腕の中で小さく息を吸う。

 

「ツナたちと、一緒にいた。さっきまで」

 

 炎真の目が動いた。

 

「ツナくんと?」

 

「うん。俺は、この町に落ちてきて……助けてもらった。だから、本当は戦いたくない」

 

 その言葉に、炎真の表情が少しだけ変わった。

 

 ツナの名を聞いたからではない。藤丸の声に、嘘がなかったからだ。小さな身体で、首元に奇妙な器をつけ、見知らぬ戦場へ放り込まれている。それでも、相手を潰したいという気配はない。必死に立っている。必死に、守られながら状況へしがみついている。

 

 炎真は、自分の手首へ視線を落とした。

 

 ウォッチは外れない。

 

 スカルは震えながらも、彼らの代表としてそこにいる。自分はボスウォッチを持っている。アーデルハイトと紅葉も、同じ盤上に立たされている。戦いたくないからといって、何もしないまま立っていれば済む場所ではない。

 

「僕たちも、戦いたいわけじゃない」

 

 炎真は言った。

 

「でも、負けるわけにはいかない。スカルを守らなきゃいけないし、僕たちもここで落ちるわけにはいかない」

 

 マンドリカルドが、自分の手首を意識して喉を鳴らした。

 

 太いウォッチ。

 

 この場で狙われるべきもの。

 

 彼は一度だけ目を閉じて、藤丸を抱え直す。

 

「……俺も、これ壊されたら終わりってのは分かってるんで。できれば穏便に済ませたいっすけど、まあ、そういうわけにもいかないんすよね」

 

「殺し合いはしない」

 

 炎真は静かに言う。

 

「でも、手は抜けない」

 

「それ、結構怖い宣言なんすよ」

 

 マンドリカルドが呻く。

 

 エミヤは弓を下げなかった。

 

「条件としては妥当だ。こちらも、藤丸とマンドリカルドを狙われる以上、退くわけにはいかない。ただし、過剰な破壊は避ける」

 

 ジャンヌ・オルタが鼻を鳴らす。

 

「甘いわね。でも、嫌いじゃないわ」

 

 スカルが震えた。

 

「嫌いじゃないって言いながら燃やすやつだろ、それ!」

 

「うるさいわね。燃やされるような逃げ方をしなければいいのよ」

 

「逃げるのは確定なのかよぉ!」

 

 その叫びが、戦闘開始の合図になった。

 

 最初に空気を変えたのは、アーデルハイトだった。

 

 白い床を、冷たい気配が走る。氷ではない。だが、氷河を思わせる硬質な圧が、薄い線となって広がっていく。足を置く場所を制限し、射線を潰し、藤丸たちの動ける範囲を静かに狭める動きだった。

 

 エミヤは、その変化を見た瞬間に一歩引いた。

 

 藤丸を中心に、マンドリカルドの足運び、ジャンヌ・オルタの炎が届く範囲、自分が矢を置くべき角度。そのすべてが、アーデルハイトの冷気によって少しずつ歪められていく。

 

「後ろの赤い男。あなた、ずいぶん目がいいのね」

 

 アーデルハイトが言う。

 

「君の足元の動きが素直ではないだけだ」

 

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 

 アーデルハイトが手を振る。

 

 冷気の線が床を裂くように伸びた。狙いは藤丸ではなく、エミヤの足元。後方から射線を作る弓兵を、まず動かすための一手だった。エミヤは矢を放つ。矢はアーデルハイトの身体ではなく、伸びる冷気の線を横から叩き、白い破片を散らした。

 

 その破片の間を、紅葉が踏み込む。

 

 落ち着いた物腰とは裏腹に、前へ出る速度は鋭い。拳を握り、肩を沈め、ボクサーの間合いへ滑り込む。狙いは藤丸ではない。マンドリカルドの手首。太いウォッチを持つ者を崩せば、この場の均衡は大きく傾く。

 

「結局、守る者が盤面の中心なら、そこを打つのが道理だ」

 

「うわ、嫌なところ来る……!」

 

 マンドリカルドは藤丸を抱えたまま、半身を落とす。片腕は藤丸を支えている。片腕で剣を握る。まともな構えではない。だが、逃げ腰ではなかった。

 

 紅葉の拳が、剣の腹を叩く。

 

 鈍い衝撃が走り、マンドリカルドの腕が痺れた。

 

 紅葉は目を細める。

 

「ほう。見た目より根性があるではないか」

 

「見た目の評価、今いらないっす!」

 

「では中身を評価しよう。貴様、臆病だな」

 

「それは合ってる!」

 

「だが、臆病者が退かぬなら、それは少し厄介だ」

 

 紅葉の拳が続く。

 

 一発目は正面から剣を揺らし、二発目はウォッチ側の腕を狙う。三発目は肩口を打つ軌道で、抱えられた藤丸ごと姿勢を崩させようとした。マンドリカルドは剣で受け、身体を捻り、時には肩で衝撃を逃がす。真正面から打ち合えば不利だ。けれど、何を通されたら終わるのかだけは、嫌というほど分かる。

 

 怖いから、見える。

 

 怖いから、塞げる。

 

 怖いから、退かない。

 

 藤丸は、その背中越しに紅葉を見た。

 

 強い。

 

 だが、卑怯ではない。藤丸を直接潰しに来るのではなく、盤上の中心を崩すためにマンドリカルドを狙っている。その違いが、戦いの空気を殺し合いとは違うものにしていた。

 

 ジャンヌ・オルタは、横合いから黒い炎を走らせた。

 

 狙いはスカル。

 

 ではなく、スカルの逃げ道だった。

 

「ひいっ!?」

 

「逃げ回られると鬱陶しいのよ、ヘルメット」

 

「ヘルメットって呼ぶな! いや、呼んでもいいけど燃やすな!」

 

 スカルは全力で跳び退く。炎に触れたわけではない。だが、熱だけで泣きそうな顔になっている。それでも、ただ逃げているだけではなかった。不死身と呼ばれる身体は伊達ではない。転がり、跳び、時にわざと炎の手前へ突っ込んで軌道を読ませず、ジャンヌ・オルタの視線を一瞬だけ引く。

 

 その一瞬で、炎真が動いた。

 

 足元に重さが沈む。

 

 大地の気配が、白い床の上で静かに増した。藤丸の身体がわずかに重くなる。仮の補助がきしみ、首元の器が冷える。マンドリカルドの膝にも重みが乗り、彼は顔をしかめた。

 

「っ、重……!」

 

 炎真は申し訳なさそうな顔をしている。

 

「ごめん。でも、これくらいはしないと、僕たちも戦っていることにならない」

 

「謝りながらやる攻撃、逆にしんどいっすね……!」

 

 エミヤの矢が炎真の足元を狙う。

 

 直撃ではない。踏み込みを止めるための一射。炎真は身体を沈め、重さを床へ逃がす。矢は白い床を削り、破片を散らした。そこへアーデルハイトの冷気が伸び、エミヤの次の射線を封じる。

 

 派手な殺し合いではなかった。

 

 だが、緩くはない。

 

 藤丸たちは、マンドリカルドのウォッチを守らなければならない。スカルたちは、炎真のウォッチを壊されるわけにはいかない。スカル自身も、藤丸も、陣営にとって替えの利かない存在としてそこにいる。互いに急所があり、互いに踏み込みきれない理由がある。その制限が、戦場をただの乱戦ではなく、細い糸の上を走るような駆け引きに変えていた。

 

 時間だけが減っていく。

 

 00:22:18。

 

 00:18:03。

 

 00:12:47。

 

 白い空間には、足音と呼吸と、炎が床を舐める音、冷気が砕ける音、拳が剣を打つ音だけが積み重なっていった。藤丸はマンドリカルドの腕の中で、そのすべてを見ていた。今の自分は、走れない。まともに戦えない。だが、見ることはできる。相手の動きを追い、マンドリカルドの呼吸を感じ、エミヤとジャンヌ・オルタが作る隙間を覚えることはできる。

 

 紅葉の拳が、マンドリカルドの剣を弾いた。

 

 その瞬間、太いウォッチのある腕がわずかに開く。

 

 炎真が一歩踏み込む。

 

 マンドリカルドが戻るには半拍足りない。

 

 エミヤの射線はアーデルハイトに封じられている。

 

 ジャンヌ・オルタの炎が、床を抉るように走った。

 

「そこまでよ」

 

 黒い炎が、炎真の足元を遮る。

 

 殺す炎ではない。だが、踏み込めばただでは済まない熱がある。炎真は足を止めた。その止まり方を見て、ジャンヌ・オルタは目を細める。

 

「へえ。止まれるのね」

 

「止まらないと、君は本当に焼くでしょ」

 

「もちろん」

 

 即答だった。

 

 炎真は苦笑する。

 

「やっぱり、怖い人たちだ」

 

 遠くでスカルが叫ぶ。

 

「だろ!? オレの判断、正しかっただろ!?」

 

 アーデルハイトが冷たく返す。

 

「あなたの判断は半分くらい恐怖だったわ」

 

「半分は合ってるってことだろ!」

 

「残り半分が問題よ」

 

 紅葉はマンドリカルドとの間合いを取り直し、拳を握り直した。

 

「結局、ヘルメットおチビ様の恐怖も、使い方次第では戦術になるというわけだな。……いや、今のは少し褒めすぎたか」

 

「褒めてから下げるなよ!」

 

 スカルの悲鳴が白い空間へ響く。

 

 藤丸は、その声にほんの少しだけ息を緩めた。

 

 だが、戦いは終わっていない。

 

 残り時間は、一分を切っていた。

 

 アーデルハイトの冷気が広がり、エミヤの足元を再び狙う。エミヤは弓を引きながら、冷気の進路ではなく、その発生点を射抜いた。白い破片が散り、アーデルハイトの眉がわずかに動く。

 

「読まれたわね」

 

「三度目だ。同じ線は通さん」

 

「なら、別の線を引くだけよ」

 

 アーデルハイトの足元から、今度は斜めに冷気が伸びる。エミヤはそれを避けるために移動するが、その瞬間、炎真の重さが再びこちら側へかかる。マンドリカルドの膝が沈み、紅葉の拳がそこへ重なった。

 

「結局、守りは重さと圧に弱い!」

 

「そういう分析、今すごく嫌っす!」

 

 マンドリカルドは剣で受ける。

 

 受けた腕が痺れる。

 

 だが、退かない。

 

 藤丸はマンドリカルドの服を握り、息を整えた。補助の糸がまたきしむ。視界の端が白く滲む。けれど、ここで自分が崩れれば、マンドリカルドの負担がさらに増える。だから、せめて意識だけは落とさない。

 

 残り三十秒。

 

 ジャンヌ・オルタとスカルの距離が詰まる。

 

 スカルは泣きそうになりながらも、最後の最後で転がる角度を変えた。炎を避けるだけではない。ジャンヌ・オルタがマンドリカルドの側へ戻る最短の道を、一瞬だけ塞ぐ。

 

「あら」

 

 彼女の目が細くなる。

 

「今の、ただ逃げただけじゃないわね」

 

「そ、そうだ! 代表としての高等戦術だ!」

 

「じゃあもう一回やってみなさい」

 

「無理!」

 

 即答だった。

 

 残り十秒。

 

 炎真と藤丸の目が合った。

 

 炎真は手を伸ばさない。

 

 藤丸も目を逸らさない。

 

 互いに倒しきる気はない。それでも、最後まで相手から目を逸らさない。戦う理由も、守る理由も違う。けれど、負けられないという一点だけは同じだった。

 

 残り三秒。

 

 紅葉の拳が最後に一度、マンドリカルドの剣を打った。

 

「結局、決着は預ける形か」

 

「預けてくれるなら助かるっす……!」

 

 残り零。

 

 白い空間が砕けた。

 

 音はなかった。

 

 床も、空も、境界も、薄い硝子のように割れ、全員の足元が別々の方向へ流される。藤丸はマンドリカルドの服を掴み、マンドリカルドは藤丸を抱え込む。エミヤが手を伸ばし、ジャンヌ・オルタが舌打ちをする。

 

 向こう側で、炎真が何かを言おうとした。

 

 だが、言葉は届かない。

 

 アーデルハイトは炎真の近くへ寄り、紅葉は拳を握ったまま霧の向こうへ薄れていく。スカルの「オレを丁重に扱えぇぇぇ!」という悲鳴だけが、妙に長く残った。

 

 世界が戻る。

 

 藤丸たちは、戦闘領域へ引き込まれる前とは違う路地へ投げ出されていた。

 

 狭い路地だった。壁と壁の距離が近く、古い室外機が低く唸っている。けれど、その音もどこか遠い。空は白く曇り、道の奥は不自然に長い。さっきまでいたツナたちの気配はない。了平も、ランボも、クロームもいない。

 

 マンドリカルドは膝をつきながらも、藤丸を落とさなかった。

 

 エミヤは片膝をつき、即座に周囲へ視線を走らせる。ジャンヌ・オルタは壁に手をつき、苛立ったように炎を消した。

 

 藤丸は息を吐く。

 

 誰も敗退していない。

 

 だが、消耗はしている。

 

「……合流、できなかった」

 

 声に出すと、その事実が重くなった。

 

 マンドリカルドは苦い顔で頷く。

 

「そうっすね。でも、今は生きて出られただけマシっす。俺、正直あのボクサーみたいな人に何回か持ってかれると思いました」

 

 エミヤは遠くの空を見た。

 

「戦闘領域は、解除後に元の場所へ戻すとは限らないらしい。厄介だな」

 

 ジャンヌ・オルタは鼻を鳴らす。

 

「厄介で済ませるの、便利な言葉ね」

 

 藤丸は首元の器に触れた。

 

 仮の補助はまだ切れていない。

 

 だが、薄い。

 

 さっきよりも頼りない。糸の一本一本が、今にもほどけそうに揺れている。早くツナたちと合流しなければならない。そう思った瞬間、遠くで黒い炎の気配が揺れた。戦闘領域の中ではない。町の外側、現実の通りのどこかで、何かが動いている。

 

 マンドリカルドが立ち上がる。

 

 エミヤの手元に弓が形を取る。

 

 ジャンヌ・オルタが炎を灯す。

 

 藤丸は小さな身体で、前を見た。

 

「行こう」

 

 声は小さい。

 

 けれど、三騎は聞き逃さなかった。

 

 白い町のどこかで、別の戦いが続いている。ツナたちも、了平たちも、きっと誰かを守るために動いている。なら、自分たちも止まれない。

 

 藤丸はマンドリカルドに支えられながら、歪む路地の先へ進んだ。

 

 戦闘領域の外縁よりさらに高い屋根の上に、黒い外套の影が並ぶ。彼らは追わない。止めない。裁かない。崩れた膜の跡と、藤丸たちが残した薄い炎の残滓だけを、沈黙のまま見下ろしていた。

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