ドラゴンボール世界に転生したある一般人のお話

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バズらない話

 三歳の春だった。

 

熱に浮かされて寝込んでいた夜。ぼんやりと天井を見上げていた時。頭の奥で、何かが弾けた。

 

前世の記憶が蘇る。

 

そして後に理解してしまった。ここがドラゴンボール世界だと。

 

 

 幸いだった。

 

少なくとも、環境には恵まれていた。

彼が生まれたのは、都会から少し離れた田舎町。両親は普通の人間だ。

武術家でもなければ、冒険家でもない。

父は配送関係の仕事をし、母は小さな商店を手伝っていた。

 

裕福ではない。だが貧困でもない。少なくとも食事には困らず、家もある。

 

そして呟く。

 

「……舞空術って俺でも出来るんだろうか…」

 

空を飛ぶ。気を操る。掌から光を放つ。

そこは、前世で何度も憧れた世界。

 

 

 八歳。

 

彼は近所の武道場に通っていた。木造の古い道場。

 

師範は筋骨隆々の中年男性で、かなり強い。

もちろん、普通の一般人基準として。

 

八歳の彼は、本当に真面目に練習に取り組んでいた。

毎朝走った。筋トレもした。道場にも通った。食事も気をつけた。

だが、現実は普通だった。

 

前世の自分よりは遥かに頑張っている。

 

それでもせいぜい、普通の道場の中の上レベル。

無理な修行をすれば、体を壊し再起不能になるだけ、これが現実の精いっぱいだった。

 

 

 まだ日も昇り切っていない時間。彼は庭の隅で座禅を組んでいた。

 

田舎の朝。

 

風が木々を揺らし、鳥が鳴き、時折、山の方から、この世界の大型動物の低い唸り声が聞こえる。

 

「…気…」

 

目を閉じる。呼吸を整える。正解はまったく分からない。

完全な手探りだった。だが、この世界には気の実在が確定している。

 

ならば、凡人でも、いつか何か掴めるかもしれない。

 

「…………」

 

沈黙。呼吸。集中。

 

だが、当然ながら何も起きない。何も感じない。

現実は地味だ。何も分からないまま、よく分からない行動を繰り返しているだけ。

 

それでも彼は続けた。

 

 

 庭先。

 

「はぁぁぁぁ……!」

 

両手を腰に構える。

 

足を開き、腰を落とし、全力で叫ぶ。

 

「かー……めー……」

 

「……はー……めー……」

 

両掌の間に意識を集中する。気を集めるイメージ。

 

熱。流れ。圧力。

 

もちろん何も感じない。

 

「……波ぁっ!!」

 

両掌を突き出す。当然、何も出ない。風すら起きない。

だが、この世界には、かめはめ波は実在する。

もしかしたら、いつか何か掴める日が来るかもしれない。

 

「またやってるの?」

 

不意に声がした。振り返ると、母が洗濯籠を抱えたまま苦笑していた。

 

「あ、いや、その……」

 

「変なポーズねぇ」

 

「……武術の練習」

 

「あらそう」

 

母は深く追及しなかった。

 

「ほどほどにしなさいよー」

 

「うん……」

 

去っていく母を見送りながら、彼は小さく息を吐いた。

少し恥ずかしい。だが、やめようとは思わなかった。

 

 

 夜。

 

布団に入った彼は、窓の外を見上げた。

 

星空。

 

あの宇宙のどこかには、フリーザ軍が存在している。

サイヤ人もいる。化け物たちがいる。その現実は結構怖い。

 

「……いつか、飛べるかな」

 

そう小さく呟いて、彼は静かに目を閉じた。

 

 

 道場に通い、走り込みをして、座禅をして、かめはめ波の真似をする。

だからといって、日常が消えるわけではない。

 

「買い物行ってきてー!」

 

「はーい」

 

母に呼ばれ、彼は財布を持って家を出る。

家事を手伝い、学校に行き、宿題をする。

修行の真似事だけに明け暮れてはいられない。

生きているだけで時間が削れる。

 

しかも彼は凡人だ。疲労も溜まる。眠気も来る。集中力も切れる。

 

「凡人レベルの練習でも、毎日継続出来てるだけ偉いよな…オレ…」

 

それが本音だった。

 

やる気のある日もあれば、身体が重い日もある。

道場でボコボコにされて落ち込む日もある。

才能の差を見せつけられる日もある。

それでも翌日また走る。

 

彼は、凡人なりに頑張った。

 

 

 夜。

 

彼はぼんやり考えていた。

 

転生。原作知識。知識チート。効率修行。未来予知。

知識があっても、身体は普通。精神も普通。そして日常生活が存在する。

 

彼は一人呟いた。

 

「……無双とか、無理だろ…」

 

だが、絶望はしなかった。

前世の自分より、昨日の自分より、ほんの少しだけ前へという気持ちで。

 

 

 十五歳になった頃。

 

彼は、自分が強くなっていることを実感していた。

十年。毎日の積み重ね。才能はなくても、流石に変化はある。

 

「よし、一本!」

 

道場に乾いた音が響く。彼は相手を崩し、そのまま綺麗に投げ切った。

黒帯。道場内でも、それなりに強い。

 

「……まぁ、一般少年の範囲でだけど…」

 

 

 ある日。

 

道場の休憩中、テレビに武道家の特集が映っていた。

 

『チャパ王選手!』

 

高速の打撃。常人離れした動き。画面の中で、男が残像じみた速度で拳を繰り出していた。

 

「おぉーっ!」

 

門下生たちが盛り上がる。

 

チャパ王。原作では、悟空に瞬殺された存在。

ネタ気味に扱われることも多い。

 

だが。

 

「……いや、化け物だろ…」

 

見れば分かる。動きが違う。速すぎる。

 

そして恐ろしいのは、あれですらドラゴンボール世界では、一般人の域を出ない達人未満という事実だった。

 

「パンプットとかも実際ヤバいよな……」

 

「俺なんか、瞬殺だろうな……」

 

それが現実だった。彼は確かに強くなった。かなり努力した。

だが、天下一武道会レベルには到底届かない。

 

チャパ王。パンプット。あの辺りですら、遥か雲の上。

 

それでも彼は、修行をやめなかった。

毎朝走る。道場の練習。座禅。

 

そして。

 

「……かー……めー……」

 

十五歳になっても、まだやっていた。

 

かめはめ波の真似。

 

当然、出ない。

 

十年近く続けても、光の粒一つ出ない。

 

「……はは」

 

自分でも笑えてくる。だが、完全には諦めきれなかった。

この世界では、それが実在するからだ。

 

もしかしたら、ほんの僅かでも、何かの入口くらいには、いつか届くかもしれない。そんな淡い期待だけを抱えながら、彼は今日も、静かな庭で掌を突き出していた。

 

 

 夜の庭は静かだった。

 

虫の声。風に揺れる木々。遠くの山から聞こえる低い唸り。

 

座禅を組む。

 

呼吸を整える。集中する。身体の内側へ意識を向ける。

だが、今日も何も分からない。

 

十年間。本当に十年間、彼は続けていた。

だが未だに、気というものが、実感として理解できない。

 

「……はぁ」

 

静かに目を開ける。

自分にも可能性はあるはずだと信じていた。

 

「ビーデルさんが出来たんだから……」

 

ぽつりと呟く。

 

前世の記憶では、彼女は普通寄りの人物だと信じていた。

少なくとも、悟空やベジータみたいな怪物ではない。

だから彼は希望を持っていた。

 

彼女は気を扱えた。舞空術を覚えた。

なら、真面目に鍛え続ければ自分にも、いつか何か掴めるかもしれない。

そう思っていた。

 

だが。

 

「……いや、待てよ…」

 

ある時から、その前提自体が怪しく思えてきた。ビーデルは本当に普通なのか?

 

思い返す。

 

彼女は何をしていた?

 

武装した犯罪者を素手で制圧。大人の男を圧倒。格闘技大会常に上位。

 

「普通じゃないな……」

 

感覚が麻痺していた。

 

ドラゴンボール世界では、悟空たちが規格外すぎて、他キャラが普通に見えてしまう。

 

だが冷静に考えれば、ビーデルですら超人だ。

 

つまり、普通だけど気を使えたのではない。

超人寄りの人間だから使えた可能性の方が高い。

 

「……じゃあ俺は?」

 

静かな夜。自分の掌を見る。

 

豆だらけの手。十年間鍛えた手。

 

それでも、気は見えない。感じない。飛べない。光も出ない。

 

「……一生、無理なのかもな…」

 

才能。適性。それらは、確実に存在する。

どれだけ努力しても、届かない領域。

当然だ、十年修行しただけで超能力を得られるなら、世の中もっと化け物だらけになっている。

 

夜風が吹く。

 

彼は、再び目を閉じた。

 

呼吸。集中。

 

何も感じない。

 

だが続ける。

 

意味があるのかは分からない。成果が出る保証もない。

それでも、十年間積み重ねた習慣、まだ諦める気にはならなかった。

 

もしかしたら明日、何か分かるかもしれない。そんな小さな期待を、完全には捨てきれなかった。

 

 

 二十五歳。

 

前世の記憶が戻った三歳から数えれば、もう二十年以上。

 

「……そろそろ、か」

 

夜。

 

アパートのベランダでコーヒーを片手に空を見上げる。

 

空には星。

 

あのどこかから、あと一年ほどで奴らが来る。

 

サイヤ人。ベジータとナッパ。

 

昔は少し夢見ていた。

もしかしたら才能が見出されて、神様にスカウトされるんじゃないか、と。

 

「ミスター・ポポとか来ねぇかなぁ……」

 

なんて。

 

だが当然、来ない。

 

「……いや、仮に来ても無理か」

 

修行についていけるわけがない。

 

カリン塔すら三分の一も登れないだろう。

 

聖地カリンを守るボラですら登頂できなかった。

銃弾を生身で弾く怪物。そのボラですら、戦力にならない世界。

 

 

 朝六時。

 

ランニング。シャドー。軽い筋トレ。座禅。そして仕事。

昼は働く。帰宅は夕方。疲労で身体が重い日もある。

そこからまた少し鍛える。無茶をすれば普通に壊れる。

 

「……いてて…」

 

無限に鍛えたら鍛えただけ強く成れるわけではない。

 

ダメージは普通に蓄積する。普通に老いる。

それが一般人だ。

 

  

「……かー……めー……」

 

それでも彼は、まだ続けていた。

夜の河原。誰もいない場所。両掌を構える。

 

「……はー……めー……」

 

「波!」

 

静寂。

 

当然、何も出ない。二十年以上。

 

「……まぁ、そう簡単なら皆やってるか」

 

座禅を組みながら、彼はふと思った。

 

「……亀仙人って、会得まで五十年なんだよな」

 

武術の神。かめはめ波の創始者。

武術家として上澄み中の上澄み。

あの天才ですら、かめはめ波を完成させるまで五十年かかった。

 

「…俺が二十年で出来ないのは、別に不自然じゃないか」

 

少しだけ、肩の力が抜けた気がした。

 

今まではどこかで、成果を焦っていたのかもしれない。

十年やった。二十年やった。なのに何も掴めない。

才能がない。無理かもしれない。ずっとそう考えていた。

 

武術の天才ですら、五十年。

なら、凡人の自分が、二十年程度で成果を求める方が傲慢だった。

 

「……よし」

 

彼は、小さく息を吐いた。そして一つの指針を決めた。

 

七十歳まで。そこまでは続けよう。

気を感じる訓練。座禅。呼吸法。かめはめ波の真似。

 

全部。七十まで。

 

そこでまでに何も掴めなければ、その時は諦めるかもしれない。

逆に言えば、そこまでは、まだ分からない。

 

その決断は、彼を軽くした。

 

焦らなくていい。すぐ結果を求めなくていい。どうせ凡人だ。天才みたいには進めない。

 

「……まぁ、健康には良いしな」

 

実際、鍛錬を続けたおかげで、同年代より身体は丈夫だった。

体力もある。気は扱えなくても、無意味だったわけではない。

 

夜風が吹く。河原には誰もいない。

 

彼は静かに立ち上がり、いつものように両手を構えた。

 

「……かー……めー……」

 

二十年以上続けた動作。

 

もはや習慣。

 

「……はー……めー……」

 

掌の間に意識を向ける。

 

何も感じない。

 

だが、それでいい。今日は出来なくても。

 

十年後かもしれない。二十年後かもしれない。あるいは死ぬまで無理かもしれない。

 

それでも。

 

「……波ぁ!!」

 

掌を突き出す。

 

静寂。

 

当然、何も出ない。

 

だが彼は、もう昔ほど落胆しなかった。

 

五十年。あの亀仙人ですら五十年。

 

なら、まだ自分は、スタートラインにすら立っていないのだから。

 

 

 この頃になると、彼の中で漠然とした恐怖は、かなり具体的なものへ変わっていた。

年表として理解している。あと何年で何が起きるか。誰が来るか。どれだけ死ぬか。知っている。知ってしまっている。

 

ピッコロ大魔王の破壊には、自分の生活圏が巻き込まれなかった。

当時は本当に生きた心地がしなかった。

 

「……次はナッパか」

 

嫌な汗が滲む。

 

指を上げるだけで都市が吹き飛ぶ。

 

自分の住む場所は田舎寄り。たぶん大丈夫。

 

「……だからって安心できるかよ…」

 

これから街が壊滅することを知っている。

 

胃が重くなる。

 

「今から宇宙人が来ますって言ってもな……」

 

何度か考えたことはあった。

 

警告。予言。発信。

 

だが無理だ。誰が信じる。

 

「一年後、宇宙人が来て都市を吹き飛ばします」

 

なんて言っても、頭のおかしい人間扱いで終わる。

 

仮に一部で話題になったとしても、結局何も変わらないだろう。

 

そして何より。

 

「俺自身が何も出来ない」

 

そこが一番重かった。

 

もし自分が、悟空級なら、メインキャラ級なら、まだ違ったかもしれない。

だが現実は、ちょっと鍛えた一般人。

 

気すら扱えない。飛べない。光線も撃てない。

世界の危機を知っているだけの一般市民。

 

それが自分だ。

 

フリーザ。人造人間。セル。魔人ブウ。

どれも終末級。

 

「……悟空たちが負けたら終わり…」

 

一般人にはどうしようもない。

 

彼はただ、日常を暮らすしかなかった。

 

 

 五十歳。

 

人生の半分以上を、彼は見えない何かに費やしていた。

 

呼吸法。座禅。仕事終わりの鍛錬。

そして、かめはめ波の真似。

何十年も。本当に何十年も。

 

周囲から見れば、おかしな健康法に熱心な変わった男に過ぎなかっただろう。

 

実際、それに近かった。

 

天下一武道会に出たわけでもない。世界を救ったわけでもない。

気功波も撃てない。空も飛べない。

 

ただ、続けていた。

 

 

 その日も、いつも通りだった。

 

夜。河原。虫の声。冷たい風。

 

座禅を組み、目を閉じる。

 

呼吸。

 

吸って。吐いて。

もう五十年近く繰り返した動作。今さら特別な期待もない。

 

習慣。人生そのもの。半ば惰性ですらある。

 

だが。

 

「……ん?」

 

ほんの一瞬。身体の奥で、何かが流れた気がした。

 

「……え」

 

目を開く。心臓が跳ねる。錯覚かと思った。

 

だが違う。

 

確かに今、何か内側を意識できた。

血流とも違う。筋肉でもない。

確かに存在する、何か。

 

再び集中する。

 

呼吸。静寂。そして…

ほんの微かに、身体の中心から薄い流れのような感覚。

 

「……あ、あぁ……」

 

涙が滲んだ。

 

人生をかけて、ようやく。本当にようやく。

入口らしきものに、触れた。

 

もちろん、劇的な覚醒などではない。

 

かめはめ波、出ない。

 

舞空術、無理。

 

集中すれば、ほんの少し分かる。気を抜けば消える。

 

そんな程度。

 

だが、今までのゼロとは決定的に違った。

 

 

 五十三歳。

 

彼は河原で、自分の掌を見つめていた。

 

夜闇の中。

 

その掌が、ほんの僅かに淡く発光している。

本当に微弱だった。懐中電灯にもならない。

周囲を照らせるわけでもない。戦闘に使えるはずもない。

 

だが、確かに光っている。

 

「はは……」

 

乾いた笑い。

そして少し遅れて、実感が押し寄せる。

 

出来た。本当に。自分にも。「気」が。

 

そこからの成長も、速いとは言えなかったが、だが…

今までとは違い、方向性が見える。

 

何となく分かる。集中の仕方。流し方。意識の置き方。

 

「……気弾とか、あれ高等技術なんだな…」

 

悟空たちは、当たり前のように撃つ。

 

実際に入口へ立ってみて分かる。

少なくとも、手が少し光った程度で届く領域ではない。

 

だが、それでも、彼は静かな充実を感じていた。

 

 

 そして、ある日ふと気づく。

 

「……もう、分からないな…」

 

彼の未来の知識は、とっくに尽きていた。

悟空たちがどうなったのか、宇宙がどう変わったのか。

 

もう分からない。

 

今あるのは、五十年積み重ねた、自分自身だけ。

 

「……まぁ、いいか」

 

夜空。星々。

 

もう宇宙のどこで何が起きているのかも分からない。

 

少なくとも今夜、彼の掌には、ほんの小さな光が灯っていた。

 

 

 六十歳。

 

歳を取ったなと思う。

 

だが。

 

「……昔より、流れるな」

 

夜の河原。彼は静かに掌を見つめる。

 

ようやく掴んだ気の感覚は、十年前とは比較にならないほど明瞭になっていた。

少なくとも昔の、本当に存在するのか?という段階ではない。

 

 

「……もしかして」

 

ある日、ふと考えた。

ここまで来たなら、かめはめ波を撃てるんじゃないか?

 

夜風。河原の静寂。

 

彼は両手を構えた。腰を落とす。もう何万回もやった構え。

 

「……かー……めー……」

 

掌の間に意識を集める。

 

すると、以前とは違う。確かに何かが集束していく感覚がある。

まるで掌の間に、見えない水流が渦巻いているような感覚。

心臓が高鳴る。出来るかもしれない。本当に、六十年越しで。

 

だが、彼は途中で動きを止めた。

 

「……一般人がやって大丈夫なのか?」

 

本気でそう思った。

 

悟空たちは超人だ。だが自分は違う。

 

六十歳の、ただの一般人。

 

「ここで気を放出して、一気に老けるとか嫌だぞ……」

 

凡人の自分が、見様見真似で大技を放ったら?

 

「……普通に寿命縮みそうなんだよな」

 

下手をすると、その場で死ぬかもしれない。

だから彼は、結局試さなかった。

 

代わりに、静かに気を循環させる。身体に馴染ませる。呼吸と同調させる。

派手さはない。地味な鍛錬。

 

彼は小さく笑った。

 

「…今更焦っても仕方ない…」

 

やはり、一生撃てないかもしれない。

 

それでも、六十年間積み重ねてきたこの時間を彼は、少しだけ誇りに思っていた。

 

 

 七十歳。

 

すっかり老人と呼ばれる年齢になってしまった。

実際、同年代は皆かなり老け込んでいる。

 

「……あんた、本当に変わらないな」

 

久々に会った昔の門下生が、半ば呆れたように言った。

 

「そうか?」

 

「いや絶対おかしいだろ……五十代前半くらいにしか見えんぞ」

 

理由は、何となく分かっていた。

 

「……やっぱ、気、か…」

 

夜。いつもの河原。

 

彼は静かに呼吸する。気を巡らせる。

今ではそれは、特別な集中すら必要としない。

 

自然に出来る。身体の内側を、ゆっくり循環していく感覚。

それを覚えてから、身体の調子が明らかに変わった。

 

気とは生命エネルギーなのだろう。

 

ならば、それを循環させ、整える技術を覚えれば、身体に良い影響が出ても不思議ではない。

 

無論あくまで人間レベルでの範疇でだが。

 

 

 彼は結局まだ、かめはめ波を撃っていない。

 

体内エネルギーを高密度圧縮し、放出する。

凡人が趣味感覚で撃っていいものではない。

 

だから彼は方向性を変えた。

 

破壊ではなく循環。放出ではなく制御。気を身体に馴染ませる。維持する。整える。

 

その結果。

 

彼は、戦闘力こそ大したことはないが、異様に健康な老人になっていた。

 

飛べない。気弾も撃てない。無双も出来ない。

だが、気づけば自分なりの到達点へ辿り着いていた。

 

超人ではない。英雄でもない。世界を救ったこともない。

それでも、七十歳になってなお、健康に河原で鍛錬をしている。

 

それは案外、凄いことなのかもしれなかった。

 

 

 だが、七十歳を過ぎても、その衝動は、消えきってはいなかった。

 

「……気弾、か…」

 

夜。河原。

 

老人の呟きとしては、かなり情けない内容だった。

 

かめはめ波は一般人には危険だ。今でもそう思っている。

実際に気を多少扱えるようになった今だからこそ余計に分かる。

 

全身のエネルギーを圧縮し、爆発的に放出する。

自分みたいな凡人老人が遊び半分で撃っていい技ではない。

 

彼は静かに考える。

 

「どどん波なら、もう少し局所的なんじゃないか?」

 

鶴仙流の技。指先から放つ貫通系エネルギー。

 

もちろん全部素人考えだ。

だが、局所集中型なら、全身への負荷も少ないかもしれない。

 

流石に本物みたいな威力を目指す気はない。

目指すのは、縮小版。

 

ライター程度でもいい。それでも十分ロマンだった。

 

人差し指へ意識を集める。

流れ。圧縮。固定。

ほんの微弱な気を、できるだけ一点へ集める。

 

しかし集中したと思えば霧散する。

 

「……難しい…」

 

それでも、彼は楽しかった。

 

七十を過ぎてなお、新しい挑戦がある。

若い頃のような焦りはない。

 

最強にもなれない。英雄にもなれない。もう十分理解している。

 

だからこそ純粋だった。

 

ただ、やってみたい。

 

それだけ。

 

 

 ある夜。

 

指先に集中していた時。

 

ほんの小さく、空気が弾けた。

気の塊が、一瞬だけ外へ出た。

 

「はは……」

 

思わず笑う。

 

七十歳の老人が、夜の河原で一人笑っている。

 

客観的にはかなり怪しい。

 

だが彼にとっては、人生級の発見だった。

 

 

 

 夜。

 

古びたアパートの居間。

 

「……ドラゴンボール、か…」

 

ふと呟く。

 

子供の頃は、本気で夢見ていた。いつか自分も集めてみたい、と。

 

だが、現実は厳しい。

まず、ドラゴンレーダーがない。

 

あれが全てだ。

あれ無しで世界中に散らばったドラゴンボールを探すなど不可能。

 

「仮にレーダーあってもな……」

 

現実問題。

 

世界中を旅をする金など一般人にはない。

 

仕事。税金。家賃。食費。

 

普通に生きるだけで、人間はかなり忙しい。

一般人は、長期旅行するだけでも大変だ。

 

まして世界規模となれば、資金が要る。時間が要る。体力も要る。

そして何より、生活基盤を捨てる覚悟が要る。

 

「無理だよな……」

 

それが現実だった。

 

   

 若い頃は、まだ夢想していた。

 

どこかで偶然ブルマに会わないか。

あるいは、落ちてるドラゴンボールを偶然拾わないか。

 

だが現実には、そんなイベントは起こらない。

 

世界は広い。自分はただの一般人。

 

「……それでも、一回くらい見てみたかったけどな」

 

神龍。

 

本物のあの巨大な龍。

 

それを実際に目の前で見る。

 

そんな奇跡を体験してみたかった。

 

 

 空を飛ぶ者がいて、気を操る者がいて、願いを叶える龍すらいる。

 

だが。

 

その奇跡に触れられる者は、ほんの一握りだ。

そして大多数の人間は、日々を生きるだけで精一杯。

 

それは、ドラゴンボール世界でも、案外変わらないのかもしれなかった。

 

 

 八十歳。

 

彼は、近所で少し変わった存在になっていた。

 

「先生、おはようございます!」

 

「おー、おはよう」

 

 朝。

 

河原近くの道を歩けば、子供たちが元気に挨拶してくる。

 

昔はただの武道好きな老人だった。

 

だが今では違う。

 

気を扱う仙人みたいな人。そんな噂が、周囲に広まっていた。

 

 

 彼自身は、その呼ばれ方にかなり困惑していた。

 

本物を知っているからだ。

 

山を吹き飛ばし、空を飛び、銃弾を手づかみする超人たち。

それに比べれば、自分などただの一般人。

 

だから彼は驕れなかった。

 

 

「先生、気を使えるんですよね!?」

 

「まぁ、ちょっとだけな」

 

掌を見せる。

 

ふわり。淡い光。小さく、優しい発光。

 

「おぉ……!」

 

若者が息を呑む。

 

それだけで驚かれる。

 

だが彼にとっては、これでも何十年積み重ねた結果だ。

 

それでも、本当の達人を知っているから謙虚になる。

 

だが、その態度が逆効果だった。

 

「先生は本物だ」

 

「あれだけ力があるのに威張らない」

 

「人格者だ」

 

周囲は勝手に評価を上げていく。

 

結果として彼は、地域でかなり尊敬される老人になっていた。

 

   

 

 やがて、近所の空き倉庫を借り、本当に小さな道場を開くことになる。

 

半分健康教室みたいなものだ。だが意外と評判は良かった。

 

実際、彼自身が異様に若々しい。

八十歳で五十代後半程度にしか見えない。説得力が違う。

 

「……でも詐欺じゃないのか?」

 

当然、疑う者もいた。

むしろ最初はそちらが普通だった。

 

気功。仙術。

そんなもの、怪しいに決まっている。

 

彼自身、それは理解していた。

だから、実際に見せることにした。

 

静かに手のひらへ集中する。

 

気を巡らせる。集める。

 

すると、手のひらが淡く光る。

 

「!?」

 

初見の人間は大体驚愕する。

 

「……あとまぁ、危ないから弱くするけど」

 

指先を向ける。集中。極小の放出。

小さな閃光と共に、遠くの缶が弾け飛ぶ。

 

「おおっ!?」

 

弟子候補たちが騒ぐ。

 

それは、彼が数十年かけて辿り着いた、縮小版どどん波だった。

 

本物とは比べ物にならない。威力も小さい。射程も短い。

だが、確かに気を飛ばしている。

 

   

「……先生!」

 

「俺たちにも出来ますか!?」

 

興奮気味に聞かれる。

 

彼は苦笑する。

 

「まぁ……出来る奴もいるかもな」

 

「俺は六十年かかった、けど、案外すぐできる奴は出来るもんさ」

 

 

 道場の片付けを終えた彼は、静かな部屋で一人座る。

 

窓の外には月。

 

八十年。長い時間。

 

小さな灯火くらいは、次の世代へ渡せるかもしれない。

そう思うと、悪くない人生かもしれないと思う。

 

 

 九十歳。

 

朝。鏡の前に立つ。

 

「……まぁ、流石に老けたな」

 

だが。それでも異様に若い。世間の九十歳とは明らかに違う。

 

弟子たちからは、「先生ほんと化け物ですね」などと笑われる始末だった。

だが流石に、自分でも終わりを意識するようになっていた。

 

「……寿命はどうなんだろうな」

 

そこだけは分からなかった。

 

気によって、老化はかなり緩やかになった。

それは確実だ、だが、地球人の限界が何処にあるのかは未知だった。

 

 

 夜。静かな道場。

 

彼は一人、畳へ腰を下ろす。

 

弟子たちは帰った。昔より人数は増えた。

真剣に学ぶ者もいる。実際、多少感覚を掴み始める者も現れた。

 

「……結局、俺は何を残したんだろうな」

 

仕事に追われるだけでは終わらなかった。

気を掴めた。小さな道場も持てた。尊敬もされた。健康にも恵まれた。

前世の自分からすれば、かなり充実している。

 

だが。

 

「……独り身なんだよなぁ」

 

苦笑する。

 

そこだけは、少し胸に引っかかっていた。

 

   

 結婚しなかった。

 

いや、正確には、出来なかった。

 

若い頃は修行に夢中だった。仕事も忙しかった。

そして何より、変わり者すぎた。

 

同世代が恋愛し、家庭を作り、子供を育てている頃。

彼は河原で座禅を組み、かめはめ波の真似をしていた。

 

「そりゃモテないよな……」

 

そして、転生者故に、どこか現実感が薄かった。

 

何度か、縁らしきものもあった。

だが、踏み込めなかった。

 

結果として、気づけば九十歳。

 

独身。子供なし。ゆえに当然、孫なし。

 

「…割と失敗人生か…?」

 

静かな道場で呟く。

家族もいない。最後は一人。

 

だが、不思議と、そこまで絶望感はなかった。

 

弟子たちがいる。近所の人もいる。

誰かが野菜を持ってきたり、掃除を手伝ってくれたりする。

 

孤独ではない。

 

「いつの間にか、この世界がアウェーじゃなくなってたんだな…」

 

「……まぁ、酷い人生ではなかったか」

 

 

 九十歳の春。

 

彼は河原で一人、ぼんやり空を見ていた。

 

「……若返りか…」

 

苦笑する。

 

今さら何を言っているのか。

 

「普通の人生も、ちょっとやってみたかったな」

 

そう思う瞬間がある。

 

結婚。家庭。子供。孫。

 

そういう、ありふれた幸福。

 

「ドラゴンボールがあればなぁ……」

 

不老不死なんていらない。最強の力もいらない。

ただ、少し若返って、普通の人生を、少しだけやり直してみたい。

 

だが現実問題、不可能だった。

 

まず、ドラゴンレーダーがない。

 

そして九十歳。

 

今さら世界中を旅するなど、常識的に考えて無理だ。

 

原作知識も、もう役に立たない。

時代は遥か先へ進んでいる。ブルマが生きているのかすら怪しい。

 

神龍が今どう扱われているのかも分からない。

 

「……まぁ、夢だな…」

 

それでも、夢想くらいはする。

 

もし若返れたら、今度はもう少し普通に生きてみたい。

 

河原で延々とかめはめ波の真似ばかりせず、もっと誰かと向き合って。家庭を持って、そういう人生も、案外悪くなかったかもしれない。

 

 

 ふと、ある考えが頭をよぎる。

 

 カリン塔。

 

「……登ってみるか?」

 

若い頃は無理だと思っていた。実際無理だっただろう。

 

ボラですら登れなかった塔。

そんなもの、一般人が登れるわけがない。

 

だが、今の自分は、若い頃とは違う。

 

九十年積み重ねた。

 

気を操れる。身体も異様に若い。

もしかしたら。本当に僅かでも、昔より近づいているのではないか。

 

彼は小さく笑った。

 

「途中で死ぬなら、それもいいか」

 

最後に一つくらい、馬鹿みたいな挑戦をしてもいい。

 

   

 カリン塔。

 

神の領域へ繋がる塔。

 

若い頃は、遠すぎる伝説だった。

だが今は、挑戦に値する気がした。

 

 

 聖地カリンへ向かう旅は、思っていた以上に普通だった。

 

飛行機に揺られ。ローカル線へ乗り換え。古びたバスへ乗る。

九十歳の老人が一人、大荷物もなく窓際へ座っている。

誰も、その老人がカリン塔へ挑む気だとは思わない。

 

   

「……旅、もっとしておけば良かったな」

 

窓の外を眺めながら呟く。

 

そしてついに、長大な塔が視界へ入った。

 

「……おぉ」

 

思わず息を呑む。

 

カリン塔。

 

空へ突き刺さる異様な柱。

 

実物は圧倒的だった。

高すぎて、途中から空へ溶け込んで見えない。

 

「これ登るのかよ……」

 

今さらながら、異常な建造物だと思う。

 

 

 聖地の集落は、昔より随分落ち着いた雰囲気になっていた。

 

「お客人か?」

 

現れた男を見て、彼は察した。

 

ボラ。あの戦士の血筋だ。

 

彼らは親切だった。

旅人の老人を丁寧にもてなし、食事まで用意してくれた。

質素だが温かい料理。静かな集落。夜には焚き火。

 

どこか昔の空気が残っている。

 

「いい場所だな……」

 

彼は素直にそう思った。

 

「カリン塔へ登りたい」

 

そう言った瞬間、空気が凍った。

 

「……は?」

 

「正気ですか?」

 

当然だった。

 

彼は苦笑する。むしろ、止められる前提で言った。

 

「無理だ」

 

ボラの血を引く男は真顔だった。

 

「あれは普通の人間が登るものじゃない」

 

「若い武道家ですら死ぬ」

 

「まして九十のご老人なんて……」

 

「……まぁ、そうだよな」

 

彼も理解していた。

 

もし失敗すれば、この聖地へ、老人の死体を一つ追加するだけだ。

しかも後処理は彼ら任せ。すこぶる迷惑である。

 

「本当に申し訳ない話なんだが」

 

頭を掻く。

 

「一回くらい、挑戦してみたくてな」

 

沈黙。焚き火の音。

 

やがて。

 

ボラの子ウパの孫らしき若者が、じっと彼を見る。

 

「……どうしてそこまで?」

 

その問いに、彼は少し考えた。

 

若返りたいから?ドラゴンボールを探したいから?

それもあるだろう。

 

「……たぶん」

 

彼は塔を見上げる。空へ伸びる柱。

 

「人生ずっと、その先に憧れてたんだと思う」

 

超人。仙人。気。自分は届かなかった領域。

 

最後まで凡人寄りだった。

 

それでも、九十年積み重ねた今なら、ほんの少しだけ近づける気がした。

 

ボラの血族たちは、しばらく無言だった。

 

やがて、深く息を吐く。

 

「……止めても登る顔だな、それ」

 

「まぁ……はい」

 

老人は素直に頷いた。

 

その姿があまりにも穏やかで、あまりにも自然だったから。

彼らはそれ以上、強く止められなかった。

 

 

 カリン塔。

 

実際に取り付いてみて、彼は改めて思った。

 

「……これ、やっぱ頭おかしいだろ」

 

高い。とにかく高い。

 

下を見れば、既に集落が豆粒みたいになっている。

風も強い。足場は細い、握力がじわじわ削られる。

 

終わりが見えない。

 

「………」

 

呼吸を整える。気を循環。身体の負担を散らす。

 

若い頃なら、もっと早く限界が来ていただろう。

だが今は、九十年積み重ねた技術が確かに支えていた。

 

それでもキツい。

 

「……うお、っ」

 

一瞬足が滑り、心臓が跳ねる。

 

下は遥か彼方。落ちれば終わり。

今さらながら、悟空たちの異常性を再確認する。

 

 

 休憩。

 

塔へ身体を預け、荒い呼吸を整える。

 

空が近い。雲が流れていく。不思議な静けさだった。

 

「……そういや」

 

ふと思い出す。

 

「ヤジロベー、生きてんのかな……」

 

多分、年齢は自分と近い。つまりかなりの高齢。

 

「いやでもあいつ……」

 

「太ってるから早死にしてるかもな…」

 

「……いや、でも…」

 

彼はまた少し考える。

 

あれで、普通側の人間ではない。超人側だ。

 

「ケロッと生きてるかもな……」

 

むしろ、九十過ぎても、普通に肉食って昼寝してるかもしれない。

 

「登頂したら、会えるかもな」

 

笑みがこぼれる。

 

   

 風が吹く。塔が軋む。

 

彼は再び登り始める。

 

指先へ力を込める。腕が痛い。肩が重い。息も苦しい。

 

だが、充実していた。

   

自分は、超人たちを遠い存在として見ていた。

別世界の人間。届かない者たち。

 

だが今、九十年生き、こうしてカリン塔を登っている。

 

ほんの少しだけ、彼らの世界へ近づけた気がした。

彼らと同じ塔を登り、同じ空を見ている、それだけで少し嬉しかった。

九十歳の老人には、あまりにも無茶な挑戦。

 

「はは……我ながら馬鹿だな……」

 

 

 夜。

 

カリン塔の中腹。

 

彼は塔へ身体を預けながら、荒い呼吸を繰り返していた。

 

「……はぁ……っ……」

 

九十歳の身体へ、容赦なく疲労が積み重なっていた。

 

見上げる。

 

塔はまだ続いている。終わりが見えない。

 

「……マジかよ」

 

乾いた笑いが漏れる。

 

そして思い出す。

 

悟空ですら、登頂に二日近くかかっていた。

しかも彼は、途中で寝ていた。塔にしがみついたまま。

 

「俺には無理だな……」

 

今ここで眠れば、落下死。

 

風が吹く。

 

自分より下に雲がある。

 

ここまで登った。九十歳で。自力で。

 

「……まぁ」

 

彼は小さく笑う。

 

「俺の常識じゃ、十分凄いんだけど…」

 

本気でそう思った。

 

もちろん、この世界では雑魚だ。

 

だが、一般人基準なら、九十歳の老人が、ここまで登ってきた時点で、かなり意味不明である。

 

「……よくやったよ、俺」

 

静かな呟き。

 

若い頃の自分なら、きっと納得しなかった。

もっと上を見て、才能不足を嘆いていただろう。

 

 

 彼はゆっくり荷物へ手を伸ばす。

 

簡易パラシュート。現代技術の結晶。

 

悟空みたいにはなれない。空も飛べない。

ただ、使えるものを使う。

 

彼は最後にもう一度、上を見上げた。

雲の彼方へ消える塔。神の領域。

 

結局、届かなかった。

 

「……まぁ、また来世でな…」

 

冗談みたいに呟く。

 

「いや、今世でももう一回挑戦するか?」

 

彼は笑った。

 

  

 そして、塔を蹴った。

 

身体が空へ投げ出される。猛烈な風圧。重力。胃が浮く。

 

「おおおおおっ!」

 

九十歳の絶叫が夜空へ響く。

 

パラシュートが開く。

 

衝撃。身体が引っ張られる。

 

「ぐぇっ」

 

情けない声が漏れた。

 

夜空をゆっくり漂う。風が気持ちいい。遥か下には大地。遥か上にはカリン塔。星空が近い。

 

「……はは」

 

夜空を漂いながら、老人は小さく笑う。

 

地味な人生だった。

 

世界も救っていない。最強にもなれなかった。誰かに語り継がれる英雄でもない。

 

だが。

 

ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ。

 

ドラゴンボールっぽい冒険を味わえた気がした。

 

風が吹く。

 

パラシュートが揺れる。

 

老人は静かに夜空を見上げる。

 

その表情は、どこか満足げだった。


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