三歳の春だった。
熱に浮かされて寝込んでいた夜。ぼんやりと天井を見上げていた時。頭の奥で、何かが弾けた。
前世の記憶が蘇る。
そして後に理解してしまった。ここがドラゴンボール世界だと。
幸いだった。
少なくとも、環境には恵まれていた。
彼が生まれたのは、都会から少し離れた田舎町。両親は普通の人間だ。
武術家でもなければ、冒険家でもない。
父は配送関係の仕事をし、母は小さな商店を手伝っていた。
裕福ではない。だが貧困でもない。少なくとも食事には困らず、家もある。
そして呟く。
「……舞空術って俺でも出来るんだろうか…」
空を飛ぶ。気を操る。掌から光を放つ。
そこは、前世で何度も憧れた世界。
八歳。
彼は近所の武道場に通っていた。木造の古い道場。
師範は筋骨隆々の中年男性で、かなり強い。
もちろん、普通の一般人基準として。
八歳の彼は、本当に真面目に練習に取り組んでいた。
毎朝走った。筋トレもした。道場にも通った。食事も気をつけた。
だが、現実は普通だった。
前世の自分よりは遥かに頑張っている。
それでもせいぜい、普通の道場の中の上レベル。
無理な修行をすれば、体を壊し再起不能になるだけ、これが現実の精いっぱいだった。
まだ日も昇り切っていない時間。彼は庭の隅で座禅を組んでいた。
田舎の朝。
風が木々を揺らし、鳥が鳴き、時折、山の方から、この世界の大型動物の低い唸り声が聞こえる。
「…気…」
目を閉じる。呼吸を整える。正解はまったく分からない。
完全な手探りだった。だが、この世界には気の実在が確定している。
ならば、凡人でも、いつか何か掴めるかもしれない。
「…………」
沈黙。呼吸。集中。
だが、当然ながら何も起きない。何も感じない。
現実は地味だ。何も分からないまま、よく分からない行動を繰り返しているだけ。
それでも彼は続けた。
庭先。
「はぁぁぁぁ……!」
両手を腰に構える。
足を開き、腰を落とし、全力で叫ぶ。
「かー……めー……」
「……はー……めー……」
両掌の間に意識を集中する。気を集めるイメージ。
熱。流れ。圧力。
もちろん何も感じない。
「……波ぁっ!!」
両掌を突き出す。当然、何も出ない。風すら起きない。
だが、この世界には、かめはめ波は実在する。
もしかしたら、いつか何か掴める日が来るかもしれない。
「またやってるの?」
不意に声がした。振り返ると、母が洗濯籠を抱えたまま苦笑していた。
「あ、いや、その……」
「変なポーズねぇ」
「……武術の練習」
「あらそう」
母は深く追及しなかった。
「ほどほどにしなさいよー」
「うん……」
去っていく母を見送りながら、彼は小さく息を吐いた。
少し恥ずかしい。だが、やめようとは思わなかった。
夜。
布団に入った彼は、窓の外を見上げた。
星空。
あの宇宙のどこかには、フリーザ軍が存在している。
サイヤ人もいる。化け物たちがいる。その現実は結構怖い。
「……いつか、飛べるかな」
そう小さく呟いて、彼は静かに目を閉じた。
道場に通い、走り込みをして、座禅をして、かめはめ波の真似をする。
だからといって、日常が消えるわけではない。
「買い物行ってきてー!」
「はーい」
母に呼ばれ、彼は財布を持って家を出る。
家事を手伝い、学校に行き、宿題をする。
修行の真似事だけに明け暮れてはいられない。
生きているだけで時間が削れる。
しかも彼は凡人だ。疲労も溜まる。眠気も来る。集中力も切れる。
「凡人レベルの練習でも、毎日継続出来てるだけ偉いよな…オレ…」
それが本音だった。
やる気のある日もあれば、身体が重い日もある。
道場でボコボコにされて落ち込む日もある。
才能の差を見せつけられる日もある。
それでも翌日また走る。
彼は、凡人なりに頑張った。
夜。
彼はぼんやり考えていた。
転生。原作知識。知識チート。効率修行。未来予知。
知識があっても、身体は普通。精神も普通。そして日常生活が存在する。
彼は一人呟いた。
「……無双とか、無理だろ…」
だが、絶望はしなかった。
前世の自分より、昨日の自分より、ほんの少しだけ前へという気持ちで。
十五歳になった頃。
彼は、自分が強くなっていることを実感していた。
十年。毎日の積み重ね。才能はなくても、流石に変化はある。
「よし、一本!」
道場に乾いた音が響く。彼は相手を崩し、そのまま綺麗に投げ切った。
黒帯。道場内でも、それなりに強い。
「……まぁ、一般少年の範囲でだけど…」
ある日。
道場の休憩中、テレビに武道家の特集が映っていた。
『チャパ王選手!』
高速の打撃。常人離れした動き。画面の中で、男が残像じみた速度で拳を繰り出していた。
「おぉーっ!」
門下生たちが盛り上がる。
チャパ王。原作では、悟空に瞬殺された存在。
ネタ気味に扱われることも多い。
だが。
「……いや、化け物だろ…」
見れば分かる。動きが違う。速すぎる。
そして恐ろしいのは、あれですらドラゴンボール世界では、一般人の域を出ない達人未満という事実だった。
「パンプットとかも実際ヤバいよな……」
「俺なんか、瞬殺だろうな……」
それが現実だった。彼は確かに強くなった。かなり努力した。
だが、天下一武道会レベルには到底届かない。
チャパ王。パンプット。あの辺りですら、遥か雲の上。
それでも彼は、修行をやめなかった。
毎朝走る。道場の練習。座禅。
そして。
「……かー……めー……」
十五歳になっても、まだやっていた。
かめはめ波の真似。
当然、出ない。
十年近く続けても、光の粒一つ出ない。
「……はは」
自分でも笑えてくる。だが、完全には諦めきれなかった。
この世界では、それが実在するからだ。
もしかしたら、ほんの僅かでも、何かの入口くらいには、いつか届くかもしれない。そんな淡い期待だけを抱えながら、彼は今日も、静かな庭で掌を突き出していた。
夜の庭は静かだった。
虫の声。風に揺れる木々。遠くの山から聞こえる低い唸り。
座禅を組む。
呼吸を整える。集中する。身体の内側へ意識を向ける。
だが、今日も何も分からない。
十年間。本当に十年間、彼は続けていた。
だが未だに、気というものが、実感として理解できない。
「……はぁ」
静かに目を開ける。
自分にも可能性はあるはずだと信じていた。
「ビーデルさんが出来たんだから……」
ぽつりと呟く。
前世の記憶では、彼女は普通寄りの人物だと信じていた。
少なくとも、悟空やベジータみたいな怪物ではない。
だから彼は希望を持っていた。
彼女は気を扱えた。舞空術を覚えた。
なら、真面目に鍛え続ければ自分にも、いつか何か掴めるかもしれない。
そう思っていた。
だが。
「……いや、待てよ…」
ある時から、その前提自体が怪しく思えてきた。ビーデルは本当に普通なのか?
思い返す。
彼女は何をしていた?
武装した犯罪者を素手で制圧。大人の男を圧倒。格闘技大会常に上位。
「普通じゃないな……」
感覚が麻痺していた。
ドラゴンボール世界では、悟空たちが規格外すぎて、他キャラが普通に見えてしまう。
だが冷静に考えれば、ビーデルですら超人だ。
つまり、普通だけど気を使えたのではない。
超人寄りの人間だから使えた可能性の方が高い。
「……じゃあ俺は?」
静かな夜。自分の掌を見る。
豆だらけの手。十年間鍛えた手。
それでも、気は見えない。感じない。飛べない。光も出ない。
「……一生、無理なのかもな…」
才能。適性。それらは、確実に存在する。
どれだけ努力しても、届かない領域。
当然だ、十年修行しただけで超能力を得られるなら、世の中もっと化け物だらけになっている。
夜風が吹く。
彼は、再び目を閉じた。
呼吸。集中。
何も感じない。
だが続ける。
意味があるのかは分からない。成果が出る保証もない。
それでも、十年間積み重ねた習慣、まだ諦める気にはならなかった。
もしかしたら明日、何か分かるかもしれない。そんな小さな期待を、完全には捨てきれなかった。
二十五歳。
前世の記憶が戻った三歳から数えれば、もう二十年以上。
「……そろそろ、か」
夜。
アパートのベランダでコーヒーを片手に空を見上げる。
空には星。
あのどこかから、あと一年ほどで奴らが来る。
サイヤ人。ベジータとナッパ。
昔は少し夢見ていた。
もしかしたら才能が見出されて、神様にスカウトされるんじゃないか、と。
「ミスター・ポポとか来ねぇかなぁ……」
なんて。
だが当然、来ない。
「……いや、仮に来ても無理か」
修行についていけるわけがない。
カリン塔すら三分の一も登れないだろう。
聖地カリンを守るボラですら登頂できなかった。
銃弾を生身で弾く怪物。そのボラですら、戦力にならない世界。
朝六時。
ランニング。シャドー。軽い筋トレ。座禅。そして仕事。
昼は働く。帰宅は夕方。疲労で身体が重い日もある。
そこからまた少し鍛える。無茶をすれば普通に壊れる。
「……いてて…」
無限に鍛えたら鍛えただけ強く成れるわけではない。
ダメージは普通に蓄積する。普通に老いる。
それが一般人だ。
「……かー……めー……」
それでも彼は、まだ続けていた。
夜の河原。誰もいない場所。両掌を構える。
「……はー……めー……」
「波!」
静寂。
当然、何も出ない。二十年以上。
「……まぁ、そう簡単なら皆やってるか」
座禅を組みながら、彼はふと思った。
「……亀仙人って、会得まで五十年なんだよな」
武術の神。かめはめ波の創始者。
武術家として上澄み中の上澄み。
あの天才ですら、かめはめ波を完成させるまで五十年かかった。
「…俺が二十年で出来ないのは、別に不自然じゃないか」
少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
今まではどこかで、成果を焦っていたのかもしれない。
十年やった。二十年やった。なのに何も掴めない。
才能がない。無理かもしれない。ずっとそう考えていた。
武術の天才ですら、五十年。
なら、凡人の自分が、二十年程度で成果を求める方が傲慢だった。
「……よし」
彼は、小さく息を吐いた。そして一つの指針を決めた。
七十歳まで。そこまでは続けよう。
気を感じる訓練。座禅。呼吸法。かめはめ波の真似。
全部。七十まで。
そこでまでに何も掴めなければ、その時は諦めるかもしれない。
逆に言えば、そこまでは、まだ分からない。
その決断は、彼を軽くした。
焦らなくていい。すぐ結果を求めなくていい。どうせ凡人だ。天才みたいには進めない。
「……まぁ、健康には良いしな」
実際、鍛錬を続けたおかげで、同年代より身体は丈夫だった。
体力もある。気は扱えなくても、無意味だったわけではない。
夜風が吹く。河原には誰もいない。
彼は静かに立ち上がり、いつものように両手を構えた。
「……かー……めー……」
二十年以上続けた動作。
もはや習慣。
「……はー……めー……」
掌の間に意識を向ける。
何も感じない。
だが、それでいい。今日は出来なくても。
十年後かもしれない。二十年後かもしれない。あるいは死ぬまで無理かもしれない。
それでも。
「……波ぁ!!」
掌を突き出す。
静寂。
当然、何も出ない。
だが彼は、もう昔ほど落胆しなかった。
五十年。あの亀仙人ですら五十年。
なら、まだ自分は、スタートラインにすら立っていないのだから。
この頃になると、彼の中で漠然とした恐怖は、かなり具体的なものへ変わっていた。
年表として理解している。あと何年で何が起きるか。誰が来るか。どれだけ死ぬか。知っている。知ってしまっている。
ピッコロ大魔王の破壊には、自分の生活圏が巻き込まれなかった。
当時は本当に生きた心地がしなかった。
「……次はナッパか」
嫌な汗が滲む。
指を上げるだけで都市が吹き飛ぶ。
自分の住む場所は田舎寄り。たぶん大丈夫。
「……だからって安心できるかよ…」
これから街が壊滅することを知っている。
胃が重くなる。
「今から宇宙人が来ますって言ってもな……」
何度か考えたことはあった。
警告。予言。発信。
だが無理だ。誰が信じる。
「一年後、宇宙人が来て都市を吹き飛ばします」
なんて言っても、頭のおかしい人間扱いで終わる。
仮に一部で話題になったとしても、結局何も変わらないだろう。
そして何より。
「俺自身が何も出来ない」
そこが一番重かった。
もし自分が、悟空級なら、メインキャラ級なら、まだ違ったかもしれない。
だが現実は、ちょっと鍛えた一般人。
気すら扱えない。飛べない。光線も撃てない。
世界の危機を知っているだけの一般市民。
それが自分だ。
フリーザ。人造人間。セル。魔人ブウ。
どれも終末級。
「……悟空たちが負けたら終わり…」
一般人にはどうしようもない。
彼はただ、日常を暮らすしかなかった。
五十歳。
人生の半分以上を、彼は見えない何かに費やしていた。
呼吸法。座禅。仕事終わりの鍛錬。
そして、かめはめ波の真似。
何十年も。本当に何十年も。
周囲から見れば、おかしな健康法に熱心な変わった男に過ぎなかっただろう。
実際、それに近かった。
天下一武道会に出たわけでもない。世界を救ったわけでもない。
気功波も撃てない。空も飛べない。
ただ、続けていた。
その日も、いつも通りだった。
夜。河原。虫の声。冷たい風。
座禅を組み、目を閉じる。
呼吸。
吸って。吐いて。
もう五十年近く繰り返した動作。今さら特別な期待もない。
習慣。人生そのもの。半ば惰性ですらある。
だが。
「……ん?」
ほんの一瞬。身体の奥で、何かが流れた気がした。
「……え」
目を開く。心臓が跳ねる。錯覚かと思った。
だが違う。
確かに今、何か内側を意識できた。
血流とも違う。筋肉でもない。
確かに存在する、何か。
再び集中する。
呼吸。静寂。そして…
ほんの微かに、身体の中心から薄い流れのような感覚。
「……あ、あぁ……」
涙が滲んだ。
人生をかけて、ようやく。本当にようやく。
入口らしきものに、触れた。
もちろん、劇的な覚醒などではない。
かめはめ波、出ない。
舞空術、無理。
集中すれば、ほんの少し分かる。気を抜けば消える。
そんな程度。
だが、今までのゼロとは決定的に違った。
五十三歳。
彼は河原で、自分の掌を見つめていた。
夜闇の中。
その掌が、ほんの僅かに淡く発光している。
本当に微弱だった。懐中電灯にもならない。
周囲を照らせるわけでもない。戦闘に使えるはずもない。
だが、確かに光っている。
「はは……」
乾いた笑い。
そして少し遅れて、実感が押し寄せる。
出来た。本当に。自分にも。「気」が。
そこからの成長も、速いとは言えなかったが、だが…
今までとは違い、方向性が見える。
何となく分かる。集中の仕方。流し方。意識の置き方。
「……気弾とか、あれ高等技術なんだな…」
悟空たちは、当たり前のように撃つ。
実際に入口へ立ってみて分かる。
少なくとも、手が少し光った程度で届く領域ではない。
だが、それでも、彼は静かな充実を感じていた。
そして、ある日ふと気づく。
「……もう、分からないな…」
彼の未来の知識は、とっくに尽きていた。
悟空たちがどうなったのか、宇宙がどう変わったのか。
もう分からない。
今あるのは、五十年積み重ねた、自分自身だけ。
「……まぁ、いいか」
夜空。星々。
もう宇宙のどこで何が起きているのかも分からない。
少なくとも今夜、彼の掌には、ほんの小さな光が灯っていた。
六十歳。
歳を取ったなと思う。
だが。
「……昔より、流れるな」
夜の河原。彼は静かに掌を見つめる。
ようやく掴んだ気の感覚は、十年前とは比較にならないほど明瞭になっていた。
少なくとも昔の、本当に存在するのか?という段階ではない。
「……もしかして」
ある日、ふと考えた。
ここまで来たなら、かめはめ波を撃てるんじゃないか?
夜風。河原の静寂。
彼は両手を構えた。腰を落とす。もう何万回もやった構え。
「……かー……めー……」
掌の間に意識を集める。
すると、以前とは違う。確かに何かが集束していく感覚がある。
まるで掌の間に、見えない水流が渦巻いているような感覚。
心臓が高鳴る。出来るかもしれない。本当に、六十年越しで。
だが、彼は途中で動きを止めた。
「……一般人がやって大丈夫なのか?」
本気でそう思った。
悟空たちは超人だ。だが自分は違う。
六十歳の、ただの一般人。
「ここで気を放出して、一気に老けるとか嫌だぞ……」
凡人の自分が、見様見真似で大技を放ったら?
「……普通に寿命縮みそうなんだよな」
下手をすると、その場で死ぬかもしれない。
だから彼は、結局試さなかった。
代わりに、静かに気を循環させる。身体に馴染ませる。呼吸と同調させる。
派手さはない。地味な鍛錬。
彼は小さく笑った。
「…今更焦っても仕方ない…」
やはり、一生撃てないかもしれない。
それでも、六十年間積み重ねてきたこの時間を彼は、少しだけ誇りに思っていた。
七十歳。
すっかり老人と呼ばれる年齢になってしまった。
実際、同年代は皆かなり老け込んでいる。
「……あんた、本当に変わらないな」
久々に会った昔の門下生が、半ば呆れたように言った。
「そうか?」
「いや絶対おかしいだろ……五十代前半くらいにしか見えんぞ」
理由は、何となく分かっていた。
「……やっぱ、気、か…」
夜。いつもの河原。
彼は静かに呼吸する。気を巡らせる。
今ではそれは、特別な集中すら必要としない。
自然に出来る。身体の内側を、ゆっくり循環していく感覚。
それを覚えてから、身体の調子が明らかに変わった。
気とは生命エネルギーなのだろう。
ならば、それを循環させ、整える技術を覚えれば、身体に良い影響が出ても不思議ではない。
無論あくまで人間レベルでの範疇でだが。
彼は結局まだ、かめはめ波を撃っていない。
体内エネルギーを高密度圧縮し、放出する。
凡人が趣味感覚で撃っていいものではない。
だから彼は方向性を変えた。
破壊ではなく循環。放出ではなく制御。気を身体に馴染ませる。維持する。整える。
その結果。
彼は、戦闘力こそ大したことはないが、異様に健康な老人になっていた。
飛べない。気弾も撃てない。無双も出来ない。
だが、気づけば自分なりの到達点へ辿り着いていた。
超人ではない。英雄でもない。世界を救ったこともない。
それでも、七十歳になってなお、健康に河原で鍛錬をしている。
それは案外、凄いことなのかもしれなかった。
だが、七十歳を過ぎても、その衝動は、消えきってはいなかった。
「……気弾、か…」
夜。河原。
老人の呟きとしては、かなり情けない内容だった。
かめはめ波は一般人には危険だ。今でもそう思っている。
実際に気を多少扱えるようになった今だからこそ余計に分かる。
全身のエネルギーを圧縮し、爆発的に放出する。
自分みたいな凡人老人が遊び半分で撃っていい技ではない。
彼は静かに考える。
「どどん波なら、もう少し局所的なんじゃないか?」
鶴仙流の技。指先から放つ貫通系エネルギー。
もちろん全部素人考えだ。
だが、局所集中型なら、全身への負荷も少ないかもしれない。
流石に本物みたいな威力を目指す気はない。
目指すのは、縮小版。
ライター程度でもいい。それでも十分ロマンだった。
人差し指へ意識を集める。
流れ。圧縮。固定。
ほんの微弱な気を、できるだけ一点へ集める。
しかし集中したと思えば霧散する。
「……難しい…」
それでも、彼は楽しかった。
七十を過ぎてなお、新しい挑戦がある。
若い頃のような焦りはない。
最強にもなれない。英雄にもなれない。もう十分理解している。
だからこそ純粋だった。
ただ、やってみたい。
それだけ。
ある夜。
指先に集中していた時。
ほんの小さく、空気が弾けた。
気の塊が、一瞬だけ外へ出た。
「はは……」
思わず笑う。
七十歳の老人が、夜の河原で一人笑っている。
客観的にはかなり怪しい。
だが彼にとっては、人生級の発見だった。
夜。
古びたアパートの居間。
「……ドラゴンボール、か…」
ふと呟く。
子供の頃は、本気で夢見ていた。いつか自分も集めてみたい、と。
だが、現実は厳しい。
まず、ドラゴンレーダーがない。
あれが全てだ。
あれ無しで世界中に散らばったドラゴンボールを探すなど不可能。
「仮にレーダーあってもな……」
現実問題。
世界中を旅をする金など一般人にはない。
仕事。税金。家賃。食費。
普通に生きるだけで、人間はかなり忙しい。
一般人は、長期旅行するだけでも大変だ。
まして世界規模となれば、資金が要る。時間が要る。体力も要る。
そして何より、生活基盤を捨てる覚悟が要る。
「無理だよな……」
それが現実だった。
若い頃は、まだ夢想していた。
どこかで偶然ブルマに会わないか。
あるいは、落ちてるドラゴンボールを偶然拾わないか。
だが現実には、そんなイベントは起こらない。
世界は広い。自分はただの一般人。
「……それでも、一回くらい見てみたかったけどな」
神龍。
本物のあの巨大な龍。
それを実際に目の前で見る。
そんな奇跡を体験してみたかった。
空を飛ぶ者がいて、気を操る者がいて、願いを叶える龍すらいる。
だが。
その奇跡に触れられる者は、ほんの一握りだ。
そして大多数の人間は、日々を生きるだけで精一杯。
それは、ドラゴンボール世界でも、案外変わらないのかもしれなかった。
八十歳。
彼は、近所で少し変わった存在になっていた。
「先生、おはようございます!」
「おー、おはよう」
朝。
河原近くの道を歩けば、子供たちが元気に挨拶してくる。
昔はただの武道好きな老人だった。
だが今では違う。
気を扱う仙人みたいな人。そんな噂が、周囲に広まっていた。
彼自身は、その呼ばれ方にかなり困惑していた。
本物を知っているからだ。
山を吹き飛ばし、空を飛び、銃弾を手づかみする超人たち。
それに比べれば、自分などただの一般人。
だから彼は驕れなかった。
「先生、気を使えるんですよね!?」
「まぁ、ちょっとだけな」
掌を見せる。
ふわり。淡い光。小さく、優しい発光。
「おぉ……!」
若者が息を呑む。
それだけで驚かれる。
だが彼にとっては、これでも何十年積み重ねた結果だ。
それでも、本当の達人を知っているから謙虚になる。
だが、その態度が逆効果だった。
「先生は本物だ」
「あれだけ力があるのに威張らない」
「人格者だ」
周囲は勝手に評価を上げていく。
結果として彼は、地域でかなり尊敬される老人になっていた。
やがて、近所の空き倉庫を借り、本当に小さな道場を開くことになる。
半分健康教室みたいなものだ。だが意外と評判は良かった。
実際、彼自身が異様に若々しい。
八十歳で五十代後半程度にしか見えない。説得力が違う。
「……でも詐欺じゃないのか?」
当然、疑う者もいた。
むしろ最初はそちらが普通だった。
気功。仙術。
そんなもの、怪しいに決まっている。
彼自身、それは理解していた。
だから、実際に見せることにした。
静かに手のひらへ集中する。
気を巡らせる。集める。
すると、手のひらが淡く光る。
「!?」
初見の人間は大体驚愕する。
「……あとまぁ、危ないから弱くするけど」
指先を向ける。集中。極小の放出。
小さな閃光と共に、遠くの缶が弾け飛ぶ。
「おおっ!?」
弟子候補たちが騒ぐ。
それは、彼が数十年かけて辿り着いた、縮小版どどん波だった。
本物とは比べ物にならない。威力も小さい。射程も短い。
だが、確かに気を飛ばしている。
「……先生!」
「俺たちにも出来ますか!?」
興奮気味に聞かれる。
彼は苦笑する。
「まぁ……出来る奴もいるかもな」
「俺は六十年かかった、けど、案外すぐできる奴は出来るもんさ」
道場の片付けを終えた彼は、静かな部屋で一人座る。
窓の外には月。
八十年。長い時間。
小さな灯火くらいは、次の世代へ渡せるかもしれない。
そう思うと、悪くない人生かもしれないと思う。
九十歳。
朝。鏡の前に立つ。
「……まぁ、流石に老けたな」
だが。それでも異様に若い。世間の九十歳とは明らかに違う。
弟子たちからは、「先生ほんと化け物ですね」などと笑われる始末だった。
だが流石に、自分でも終わりを意識するようになっていた。
「……寿命はどうなんだろうな」
そこだけは分からなかった。
気によって、老化はかなり緩やかになった。
それは確実だ、だが、地球人の限界が何処にあるのかは未知だった。
夜。静かな道場。
彼は一人、畳へ腰を下ろす。
弟子たちは帰った。昔より人数は増えた。
真剣に学ぶ者もいる。実際、多少感覚を掴み始める者も現れた。
「……結局、俺は何を残したんだろうな」
仕事に追われるだけでは終わらなかった。
気を掴めた。小さな道場も持てた。尊敬もされた。健康にも恵まれた。
前世の自分からすれば、かなり充実している。
だが。
「……独り身なんだよなぁ」
苦笑する。
そこだけは、少し胸に引っかかっていた。
結婚しなかった。
いや、正確には、出来なかった。
若い頃は修行に夢中だった。仕事も忙しかった。
そして何より、変わり者すぎた。
同世代が恋愛し、家庭を作り、子供を育てている頃。
彼は河原で座禅を組み、かめはめ波の真似をしていた。
「そりゃモテないよな……」
そして、転生者故に、どこか現実感が薄かった。
何度か、縁らしきものもあった。
だが、踏み込めなかった。
結果として、気づけば九十歳。
独身。子供なし。ゆえに当然、孫なし。
「…割と失敗人生か…?」
静かな道場で呟く。
家族もいない。最後は一人。
だが、不思議と、そこまで絶望感はなかった。
弟子たちがいる。近所の人もいる。
誰かが野菜を持ってきたり、掃除を手伝ってくれたりする。
孤独ではない。
「いつの間にか、この世界がアウェーじゃなくなってたんだな…」
「……まぁ、酷い人生ではなかったか」
九十歳の春。
彼は河原で一人、ぼんやり空を見ていた。
「……若返りか…」
苦笑する。
今さら何を言っているのか。
「普通の人生も、ちょっとやってみたかったな」
そう思う瞬間がある。
結婚。家庭。子供。孫。
そういう、ありふれた幸福。
「ドラゴンボールがあればなぁ……」
不老不死なんていらない。最強の力もいらない。
ただ、少し若返って、普通の人生を、少しだけやり直してみたい。
だが現実問題、不可能だった。
まず、ドラゴンレーダーがない。
そして九十歳。
今さら世界中を旅するなど、常識的に考えて無理だ。
原作知識も、もう役に立たない。
時代は遥か先へ進んでいる。ブルマが生きているのかすら怪しい。
神龍が今どう扱われているのかも分からない。
「……まぁ、夢だな…」
それでも、夢想くらいはする。
もし若返れたら、今度はもう少し普通に生きてみたい。
河原で延々とかめはめ波の真似ばかりせず、もっと誰かと向き合って。家庭を持って、そういう人生も、案外悪くなかったかもしれない。
ふと、ある考えが頭をよぎる。
カリン塔。
「……登ってみるか?」
若い頃は無理だと思っていた。実際無理だっただろう。
ボラですら登れなかった塔。
そんなもの、一般人が登れるわけがない。
だが、今の自分は、若い頃とは違う。
九十年積み重ねた。
気を操れる。身体も異様に若い。
もしかしたら。本当に僅かでも、昔より近づいているのではないか。
彼は小さく笑った。
「途中で死ぬなら、それもいいか」
最後に一つくらい、馬鹿みたいな挑戦をしてもいい。
カリン塔。
神の領域へ繋がる塔。
若い頃は、遠すぎる伝説だった。
だが今は、挑戦に値する気がした。
聖地カリンへ向かう旅は、思っていた以上に普通だった。
飛行機に揺られ。ローカル線へ乗り換え。古びたバスへ乗る。
九十歳の老人が一人、大荷物もなく窓際へ座っている。
誰も、その老人がカリン塔へ挑む気だとは思わない。
「……旅、もっとしておけば良かったな」
窓の外を眺めながら呟く。
そしてついに、長大な塔が視界へ入った。
「……おぉ」
思わず息を呑む。
カリン塔。
空へ突き刺さる異様な柱。
実物は圧倒的だった。
高すぎて、途中から空へ溶け込んで見えない。
「これ登るのかよ……」
今さらながら、異常な建造物だと思う。
聖地の集落は、昔より随分落ち着いた雰囲気になっていた。
「お客人か?」
現れた男を見て、彼は察した。
ボラ。あの戦士の血筋だ。
彼らは親切だった。
旅人の老人を丁寧にもてなし、食事まで用意してくれた。
質素だが温かい料理。静かな集落。夜には焚き火。
どこか昔の空気が残っている。
「いい場所だな……」
彼は素直にそう思った。
「カリン塔へ登りたい」
そう言った瞬間、空気が凍った。
「……は?」
「正気ですか?」
当然だった。
彼は苦笑する。むしろ、止められる前提で言った。
「無理だ」
ボラの血を引く男は真顔だった。
「あれは普通の人間が登るものじゃない」
「若い武道家ですら死ぬ」
「まして九十のご老人なんて……」
「……まぁ、そうだよな」
彼も理解していた。
もし失敗すれば、この聖地へ、老人の死体を一つ追加するだけだ。
しかも後処理は彼ら任せ。すこぶる迷惑である。
「本当に申し訳ない話なんだが」
頭を掻く。
「一回くらい、挑戦してみたくてな」
沈黙。焚き火の音。
やがて。
ボラの子ウパの孫らしき若者が、じっと彼を見る。
「……どうしてそこまで?」
その問いに、彼は少し考えた。
若返りたいから?ドラゴンボールを探したいから?
それもあるだろう。
「……たぶん」
彼は塔を見上げる。空へ伸びる柱。
「人生ずっと、その先に憧れてたんだと思う」
超人。仙人。気。自分は届かなかった領域。
最後まで凡人寄りだった。
それでも、九十年積み重ねた今なら、ほんの少しだけ近づける気がした。
ボラの血族たちは、しばらく無言だった。
やがて、深く息を吐く。
「……止めても登る顔だな、それ」
「まぁ……はい」
老人は素直に頷いた。
その姿があまりにも穏やかで、あまりにも自然だったから。
彼らはそれ以上、強く止められなかった。
カリン塔。
実際に取り付いてみて、彼は改めて思った。
「……これ、やっぱ頭おかしいだろ」
高い。とにかく高い。
下を見れば、既に集落が豆粒みたいになっている。
風も強い。足場は細い、握力がじわじわ削られる。
終わりが見えない。
「………」
呼吸を整える。気を循環。身体の負担を散らす。
若い頃なら、もっと早く限界が来ていただろう。
だが今は、九十年積み重ねた技術が確かに支えていた。
それでもキツい。
「……うお、っ」
一瞬足が滑り、心臓が跳ねる。
下は遥か彼方。落ちれば終わり。
今さらながら、悟空たちの異常性を再確認する。
休憩。
塔へ身体を預け、荒い呼吸を整える。
空が近い。雲が流れていく。不思議な静けさだった。
「……そういや」
ふと思い出す。
「ヤジロベー、生きてんのかな……」
多分、年齢は自分と近い。つまりかなりの高齢。
「いやでもあいつ……」
「太ってるから早死にしてるかもな…」
「……いや、でも…」
彼はまた少し考える。
あれで、普通側の人間ではない。超人側だ。
「ケロッと生きてるかもな……」
むしろ、九十過ぎても、普通に肉食って昼寝してるかもしれない。
「登頂したら、会えるかもな」
笑みがこぼれる。
風が吹く。塔が軋む。
彼は再び登り始める。
指先へ力を込める。腕が痛い。肩が重い。息も苦しい。
だが、充実していた。
自分は、超人たちを遠い存在として見ていた。
別世界の人間。届かない者たち。
だが今、九十年生き、こうしてカリン塔を登っている。
ほんの少しだけ、彼らの世界へ近づけた気がした。
彼らと同じ塔を登り、同じ空を見ている、それだけで少し嬉しかった。
九十歳の老人には、あまりにも無茶な挑戦。
「はは……我ながら馬鹿だな……」
夜。
カリン塔の中腹。
彼は塔へ身体を預けながら、荒い呼吸を繰り返していた。
「……はぁ……っ……」
九十歳の身体へ、容赦なく疲労が積み重なっていた。
見上げる。
塔はまだ続いている。終わりが見えない。
「……マジかよ」
乾いた笑いが漏れる。
そして思い出す。
悟空ですら、登頂に二日近くかかっていた。
しかも彼は、途中で寝ていた。塔にしがみついたまま。
「俺には無理だな……」
今ここで眠れば、落下死。
風が吹く。
自分より下に雲がある。
ここまで登った。九十歳で。自力で。
「……まぁ」
彼は小さく笑う。
「俺の常識じゃ、十分凄いんだけど…」
本気でそう思った。
もちろん、この世界では雑魚だ。
だが、一般人基準なら、九十歳の老人が、ここまで登ってきた時点で、かなり意味不明である。
「……よくやったよ、俺」
静かな呟き。
若い頃の自分なら、きっと納得しなかった。
もっと上を見て、才能不足を嘆いていただろう。
彼はゆっくり荷物へ手を伸ばす。
簡易パラシュート。現代技術の結晶。
悟空みたいにはなれない。空も飛べない。
ただ、使えるものを使う。
彼は最後にもう一度、上を見上げた。
雲の彼方へ消える塔。神の領域。
結局、届かなかった。
「……まぁ、また来世でな…」
冗談みたいに呟く。
「いや、今世でももう一回挑戦するか?」
彼は笑った。
そして、塔を蹴った。
身体が空へ投げ出される。猛烈な風圧。重力。胃が浮く。
「おおおおおっ!」
九十歳の絶叫が夜空へ響く。
パラシュートが開く。
衝撃。身体が引っ張られる。
「ぐぇっ」
情けない声が漏れた。
夜空をゆっくり漂う。風が気持ちいい。遥か下には大地。遥か上にはカリン塔。星空が近い。
「……はは」
夜空を漂いながら、老人は小さく笑う。
地味な人生だった。
世界も救っていない。最強にもなれなかった。誰かに語り継がれる英雄でもない。
だが。
ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ。
ドラゴンボールっぽい冒険を味わえた気がした。
風が吹く。
パラシュートが揺れる。
老人は静かに夜空を見上げる。
その表情は、どこか満足げだった。