ショウ・タッカーは、事件が発覚したその日のうちに拘束された。
国家錬金術師としての権限は停止され、現在は軍の施設に収監されている。
ただし。
タッカーが何をしようとしていたのか。
二年前の合成獣に何が使われていた可能性があるのか。
それらは、まだ公には発表されていなかった。
事件の全容が明らかになっていないこと。
そして、国家錬金術師の不祥事が東部の情勢へ与える影響を考慮したためだ。
ニーナとアレキサンダーも、ひとまずタッカー宅へ戻されていた。
父親が軍に拘束されていることだけは伝えられている。
しかし、その理由を幼いニーナが理解し、受け入れるには、あまりにも時間が足りなかった。
◇
朝。
東方司令部の喫煙所。
ヨキはハボックから勧められた銘柄の煙草を口へ咥えた。
ポケットからライターを取り出す。
蓋を開き、火を点ける。
先端が赤く染まるまで息を吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。
「……悪くないな。」
少しずつ、この味にも慣れてきた。
静かな時間だった。
少なくとも。
今、この瞬間だけは。
(タッカーは拘束された。)
(ニーナちゃんも、アレキサンダーも生きている。)
自分が知っていた未来は、確かに変わった。
あの二人が一つの合成獣へ変えられることは、もうない。
それだけでも、命を懸けた意味はあった。
だが。
(俺の知っている未来では。)
(タッカーは、スカーに殺される。)
国家錬金術師ばかりを狙う男。
右腕に奇妙な刺青を持ち、触れたものを分解する男。
エドワードたちを追い詰め。
多くの国家錬金術師を殺害した存在。
(でも。)
(タッカーのいる場所は、原作とは違う。)
(軍の施設に収監されているんだ。)
(もしかしたら。)
(あの未来も変わるのかもしれない。)
そうであってほしかった。
スカーと戦って勝てるとは思っていない。
そもそも、近付くことさえ危険だ。
(本当に関わりたくないなぁ。)
(命がいくつあっても足りないよ。)
煙とともに、小さく息を吐く。
「仕事前の一服ですか、中尉。」
聞き慣れた声がした。
顔を向けると、ハボックが煙草の箱を手に立っていた。
「ああ。」
ヨキは咥えていた煙草を指先で挟む。
「少尉が教えてくれたこれも、なかなかいいね。」
「でしょう?」
ハボックは満足そうに笑う。
「中尉なら分かってくれると思ってましたよ。」
隣へ立ち、自分の煙草へ火を点ける。
二人は並んで煙を吐いた。
「で。」
ハボックが横目でヨキを見る。
「今日は、何をするんです?」
「タッカー宅へ行くよ。」
ハボックの目が少しだけ細くなった。
「また一人で?」
「違う違う。」
ヨキは慌てて首を振る。
「今回は正式な仕事だよ。」
「タッカー宅は、近いうちに軍が押収することになるらしい。」
「その前に、エドワード君たちへ資料を確認する機会を与えたいと、大佐が考えている。」
「鋼の錬金術師への借りを返す、ということですか。」
「そういうことだろうね。」
ヨキは煙草の灰を落とす。
「名目は家宅捜索への同行。」
「数日間、俺も一緒につくことになった。」
「なるほど。」
ハボックは一度頷き。
少し間を置いてから尋ねた。
「お嬢ちゃんたちは、どうしてるんですか?」
ヨキの表情から、わずかに笑みが消えた。
「まだ自宅にいるよ。」
「ニーナちゃんは、父親が悪いことをしたってことを、まだ受け入れられていない。」
「アレキサンダーからも、ほとんど離れようとしない。」
「そうですか。」
「でも。」
ヨキは短くなった煙草を見つめる。
「あの家に、いつまでも住み続けることはできないだろう。」
父親との思い出が残る家。
そして。
父親が人を材料にしようとした研究室がある家。
いずれ軍が押収する以上、住み続けるという選択肢そのものがなかった。
「難儀な話ですね。」
ハボックが静かに言う。
「ああ。」
「だから、できる限りのことはするつもりだよ。」
「できる限りのこと、ですか?」
「二人が暮らせる場所を探す。」
「できるだけ、あの子たちにとって良い環境のところをね。」
ハボックは、何も言わずヨキを見た。
ヨキは少し困ったように笑う。
「どうにもならなかったら。」
「俺が引き取ることも考えてる。」
「中尉が?」
「ああ。」
「ただ。」
煙草を灰皿へ押し付ける。
「正直、自信がないよ。」
「子どもを育てたことなんてないし。」
「軍人の仕事を続けながら、ちゃんと面倒を見られるのかも分からない。」
「アレキサンダーだって、あれだけ大きな犬だ。」
「勢いだけで決めていい話じゃないからね。」
ハボックも煙草を消した。
「あんまり無理はしないでくださいよ。」
ヨキは小さく笑う。
「善処するよ。」
「それ、無理する人が言う台詞ですよ。」
「そうかな。」
「そうです。」
二人は顔を見合わせ。
小さく笑った。
◇
ショウ・タッカー宅。
数日前まで家族三人と一匹が暮らしていた家には、重苦しい静けさが漂っていた。
エドワードとアルフォンスは、研究室に積み上げられた資料へ目を通している。
ヨキは二人へ事情を説明し、家宅捜索の途中で何度か現場を離れることへの了承を得ていた。
「俺たちの方は大丈夫だ。」
エドワードは資料の束を机へ置く。
「調べる物は、山ほどありそうだしな。」
「ありがとうございます。」
アルフォンスが、隣の部屋へ目を向ける。
「ニーナちゃんたちのところへ行くんですよね。」
「ああ。」
「少し顔を見てから、今日も何か所か回ってくるよ。」
「良いところが見つかるといいですね。」
「そうだね。」
ヨキは二人へ頭を下げ、研究室を後にした。
◇
居間。
ニーナは床へ座り込んでいた。
その身体を包み込むように、アレキサンダーが寄り添っている。
「ニーナちゃん。」
声を掛けると。
ゆっくりと顔が上がった。
「おヒゲのおじちゃん……。」
以前のような元気な声ではなかった。
街中を汗だくで走り。
飲み物を受け取って笑っていた少女とは、まるで違って見えた。
ヨキは胸の奥に痛みを覚えながら、ゆっくりと膝を折る。
「少し、外へ出てくるよ。」
「……どこに行くの?」
「ニーナちゃんとアレキサンダーが、これから暮らせる場所を探しに行くんだ。」
ニーナの小さな手が、アレキサンダーの毛を強く握った。
「ここじゃ、だめなの?」
ヨキは、すぐには答えられなかった。
嘘をついても仕方がない。
それでも。
今のニーナへ、すべてを正直に話すこともできなかった。
「ここは。」
「もうすぐ、軍が管理することになるんだ。」
「だから。」
「二人が安心して暮らせる場所を探してくる。」
「……パパは?」
ヨキの表情が、わずかに固まる。
ニーナは、まだ信じている。
父親が帰ってくることを。
「今は。」
「軍の人たちと、お話をしてるよ。」
それだけを答えた。
ニーナは俯く。
アレキサンダーが、その頬へ鼻先を寄せた。
「わふ……。」
ニーナは大きな身体へ抱きつく。
ヨキは二人の姿を、黙って見つめた。
(頑張ろう。)
(この子たちが。)
(また笑えるようになるまで。)
静かに、そう誓った。
◇
イーストシティには、いくつかの孤児院があった。
ヨキは、その一つ一つを訪ねて回った。
軍服を着た中尉が訪問したことで、どの施設も丁寧に対応してくれた。
「こちらでは、子どもたちの教育にも力を入れております。」
「食事も一日三回。」
「現在、空いている寝台もございます。」
責任者は、施設の良いところを熱心に説明した。
案内された部屋には、何人もの子どもたちがいた。
大人しく本を読む子。
窓の外を見つめる子。
小さな子どもの面倒を見る、少し年上の子。
皆、清潔な服を着ていた。
食事も与えられている。
職員たちも、決して悪い人間には見えなかった。
それでも。
ヨキは、どうしても頷くことができなかった。
部屋は狭い。
子どもの数に対し、職員の数が足りていない。
寝台も、決して余裕があるとは言えない。
何より。
どの子どもも、大人の顔色を窺うように静かだった。
(昔も。)
(こういう場所は、あまり変わらなかった気がする。)
何となく覚えている。
子ども一人ひとりへ愛情を注ぐには。
どこも人も金も足りなかった。
次の施設も。
その次の施設も。
決して劣悪ではない。
だが。
ここならば安心してニーナたちを預けられる。
そう思える場所は、見つからなかった。
(仕方ないことなんだ。)
アメストリスは軍事国家だ。
東部では、いまだ情勢が不安定な地域も多い。
戦争や内乱で親を失った子どもも少なくない。
孤児院に、十分な余裕などあるはずがなかった。
施設を出たヨキは、深く息を吐く。
ポケットへ手を入れる。
指先が煙草の箱へ触れた。
一本取り出しかけ。
そのまま箱ごとポケットへ戻した。
(今は、そんな気分じゃないな。)
振り返る。
施設の窓から、一人の子どもが外を見ていた。
ヨキと目が合うと。
驚いたように、すぐ姿を隠した。
(命を助ければ、それで終わりじゃない。)
(生きていく場所が必要なんだ。)
(安心して眠れて。)
(笑って過ごせる場所が。)
だが。
まだ、答えは見つからなかった。
◇
夕方。
タッカー宅へ戻ると、エドワードとアルフォンスは依然として資料の山へ埋もれていた。
「お帰りなさい。」
アルフォンスが顔を上げる。
「どうでした?」
ヨキは、申し訳なさそうに首を横へ振った。
「今日も、見つからなかったよ。」
エドワードが眉を寄せる。
「どこも駄目なのか?」
「駄目ってわけじゃない。」
「皆、できる範囲で子どもたちを守ろうとしてる。」
「ただ。」
ヨキは言葉を選んだ。
「今のニーナちゃんとアレキサンダーを、安心して預けられる場所かと言われると。」
「どうしても、そうは思えなかった。」
「……そっか。」
エドワードは俯く。
アルフォンスも、しばらく何も言わなかった。
「ヨキさん。」
「うん?」
「僕たちにも、何かできることはありませんか?」
ヨキは、少し驚いたようにアルフォンスを見る。
隣で、エドワードも頷いていた。
「俺たちも。」
「あの二人のことは気になってる。」
「ありがとう。」
ヨキは、静かに笑った。
「何か思いついたら、相談させてもらうよ。」
「ああ。」
「約束だぞ。」
「分かった。」
窓の外には、夕暮れが広がっていた。
ヨキは赤く染まった空を見つめる。
(何とかしてやりたい。)
(いや。)
(何とかするんだ。)
まだ、答えは見つかっていない。
それでも。
諦めるつもりだけは、なかった。
◇
それから数日が過ぎた。
タッカー宅では、エドワードとアルフォンスによる資料の確認が続いていた。
ヨキも家宅捜索という名目で出入りを続け、その合間にはニーナたちの今後について奔走していた。
平穏とは言えない。
それでも、確かに時間は流れていた。
そんなある日の昼過ぎだった。
タッカー宅の電話が鳴る。
ヨキが受話器を取る。
「もしもし。」
『あっ、中尉!』
聞き慣れた声だった。
ハボックである。
『よかった……まだいましたか。』
「少尉? どうしたんだい。」
電話越しでも分かるほど、ハボックの声は切迫していた。
『実は、大変なことになりました。』
「何があった。」
『タッカーが殺害されました。』
ヨキの表情が固まる。
『まだ断定はされていませんが、国家錬金術師殺しが関与している可能性が高いそうです。』
『大佐から、エドワード君たちを含め全員直ちに東方司令部へ戻るよう命令が出ました。』
『犯人は――』
『傷の男(スカー)と呼ばれているそうです。』
ヨキは静かに目を閉じる。
未来は、変わらなかった。
「……分かった。」
「知らせてくれてありがとう。」
『お気を付けて。』
通話が切れる。
受話器を静かに置いた。
その時だった。
「おヒゲのおじちゃん。」
後ろから、小さな声が聞こえた。
振り返る。
ニーナが、不安そうな顔で立っていた。
「お父さん……どうしたの?」
胸が締め付けられる。
ヨキはゆっくりとしゃがみ込み、ニーナと目線を合わせた。
そして――。
◇
雨が降っていた。
ワイパーが一定のリズムで雨粒を払う。
車内には、誰一人として口を開く者はいなかった。
後部座席。
ニーナは声を押し殺すように泣いている。
アルフォンスは、その小さな身体を静かに抱き寄せていた。
アレキサンダーも、主人の隣へぴったりと寄り添っている。
助手席のエドワードも窓の外を見つめたまま、一言も発しない。
ヨキは無言でハンドルを握っていた。
車内へ響くのは、雨音だけだった。
◇
人気のない通りへ差しかかった、その時だった。
道路の側道。
一人の男が立っている。
褐色の肌。
サングラス。
額から大きく刻まれた傷。
間違えるはずがない。
(スカー。)
鼓動が一気に速くなる。
(頼む。)
(気付かないでくれ。)
(このまま通り過ぎられるなら……。)
男は静かにこちらを見つめる。
そして。
ゆっくりと右手を地面へ置いた。
青白い光が走る。
(来る!!)
ヨキは反射的にブレーキを踏み込み、ハンドルを大きく切った。
直後。
車が走っていた場所の地面が、音を立てて崩れた。
「きゃっ!」
後部座席から悲鳴が上がる。
エドワードも身を乗り出した。
「何だ!?」
ヨキは車を止める。
深く息を吸った。
覚悟を決める。
「国家錬金術師殺しだ。」
「……!」
「すまない。」
「ニーナちゃんたちを連れて逃げてくれ。」
そう言い残し、ドアを開けて外へ飛び出した。
雨が制服を打つ。
スカーは何事もなかったように歩いてくる。
(……死ぬ気で時間を稼ぐしかない。)
ヨキは懐へ手を入れる。
取り出したのは、信号拳銃。
空へ向け、一発。
赤い信号が雨空へ打ち上がった。
(頼む。)
(誰か気付いてくれ。)
役目を終えた信号拳銃を足元へ放り投げる。
続いて腰のホルスターへ手を伸ばす。
拳銃を抜いた。
重みが掌へ伝わる。
(ここからが、本番だ。)
その時。
エドワードが車から飛び出してきた。
「おい!」
「何が起きてる!」
アルフォンスはニーナを抱きかかえ、アレキサンダーと共に車の陰へ下がっている。
ヨキは視線を外さぬまま口を開いた。
「奴が地面へ手を置いた。」
「その直後に錬金術の光。」
「結果を見る限り――」
「分解だ。」
エドワードの顔色が変わる。
「初見でそこまで分かったのか……!」
スカーの眉が、わずかに動いた。
(初見で見抜かれるなんて思わなかっただろ。)
(少しは驚け。)
ヨキは小さく口元を緩めた。
「頼む。」
「ニーナちゃんたちを連れて逃げてくれ。」
「でも!」
エドワードが一歩前へ出る。
ヨキは腹の底から叫んだ。
「いいから行け!!!!」
その声に、エドワードもアルフォンスも息を呑む。
アルフォンスはニーナを抱え直し、走り出した。
アレキサンダーも続く。
エドワードも歯を食いしばりながら後を追う。
一瞬だけ。
ニーナと目が合った。
泣き腫らしたその瞳を見て、胸が痛む。
(守るって決めたんだ。)
(絶対に。)
スカーが進路を変え、エドワードたちを追おうとする。
パンッ!
銃声。
スカーの足元へ弾丸が跳ねた。
男の足が止まる。
ゆっくりとヨキを見る。
サングラスの奥から向けられる視線と交わる。
(ああ。)
(これで俺も逃げられない。)
(だったら。)
(やるだけやってやるさ。)
ヨキは距離を取る。
(脚を止めるな。)
スカーが歩き出す。
(止まった瞬間に終わる。)
パンッ!
(狙うな。)
弾丸は外れる。
(俺の腕じゃ当たらない。)
さらに後退。
車を遮蔽物に使う。
(照準を合わせようとした瞬間。)
(あいつは懐へ入ってくる。)
パンッ!
(撃つ目的は当てることじゃない。)
(牽制だ。)
(一歩でも止まれば、それでいい。)
雨。
銃声。
足音。
一秒が、一分にも思える時間が流れていく。
◇
足元には、撃ち終えた空薬莢がいくつも転がっていた。
(……もう、予備弾倉も残り少ない。)
(時間を稼げるのも、あと少しだ。)
スカーが、不意に口を開いた。
「……妙だな。」
ヨキは拳銃を構えたまま答える。
「何がだ。」
「お前は。」
「俺を殺そうとしていない。」
ヨキは苦笑した。
「殺せる相手なら。」
「こんな苦労はしないさ。」
スカーは歩みを止めない。
「ならば。」
「何故立つ。」
ヨキも静かに応じた。
「後ろに。」
「守りたい子どもたちがいる。」
スカーの目が、ほんのわずかに細められた。
雨だけが、二人の間へ静かに降り続いていた
「子どもを守る、か。」
スカーは低く呟いた。
「軍人の口から、そのような言葉を聞く日が来るとは思わなかった。」
ヨキは苦く笑う。
「そうじゃない軍人もいると、信じたい。」
「少なくとも。」
「俺は、そういう軍人でいたい。」
「違う。」
スカーは即座に否定した。
「皆、同じだ。」
「故郷を焼き。」
「女も。」
「子どもも。」
「老人も。」
「皆、等しく殺した。」
その声に怒りはない。
あるのは、長い年月を経ても消えない絶望だけだった。
ヨキは拳銃を下ろさない。
一歩、また一歩と距離を取り続ける。
(脚を止めるな。)
(会話に気を取られるな。)
(少しでも止まれば終わる。)
「それは。」
ヨキは静かに答えた。
「否定できない。」
「軍は、たくさんの罪を犯した。」
「俺も軍人だ。」
「だから、君に軍を信じろとは言えない。」
スカーは黙って聞いていた。
「でも。」
ヨキは続ける。
「今逃げていった人たちは違う。」
「あの人たちは。」
「ただ生きようとしているだけだ。」
スカーの視線が鋭くなる。
「国家錬金術師の側に立った。」
「ならば、巻き添えも覚悟の上だ。」
「違う。」
ヨキは即座に返した。
「そんな覚悟を決めさせられる理由なんて、どこにもない。」
スカーは何も言わない。
ヨキは慎重に息を整える。
(よし。)
(まだ聞いてくれている。)
(あと少しだ。)
「君だって。」
思わず口をついて出た。
「守りたい人くらい、いたんじゃないか。」
空気が変わった。
スカーの足が止まる。
「……何故。」
低い声だった。
「それを知っている。」
(しまった。)
ヨキは内心で舌打ちした。
言い過ぎた。
「軍人だからね。」
できるだけ自然を装う。
「色々と耳に入る。」
スカーはじっとヨキを見る。
雨粒がサングラスを伝い、静かに落ちた。
「お前。」
「何者だ。」
ヨキは肩を竦める。
「ただの臆病な軍人さ。」
「臆病者、か。」
「そう。」
苦笑する。
「本当は今すぐ逃げたい。」
「拳銃だって当たる気なんかしてない。」
「足は震えてる。」
「心臓なんて、さっきから壊れそうだ。」
スカーはヨキの拳銃へ視線を落とした。
「ならば。」
「何故撃つ。」
ヨキは苦笑したまま答える。
「当てるためじゃない。」
「止めるためだ。」
「一歩でも止まれば、それでいい。」
「その一歩で、守れる命がある。」
長い沈黙が流れた。
雨音だけが響く。
やがてヨキは、一度だけ後ろを振り返る。
もう誰の姿も見えない。
逃げ切った。
そう信じるしかない。
「俺が立たなきゃ。」
「誰が、あの人たちを守る。」
再び静寂が訪れる。
スカーはゆっくりと口を開いた。
「……変わった軍人だ。」
少し間を置く。
「お前のような軍人は。」
「初めて見た。」
ヨキは小さく笑った。
「そうかな。」
「褒めてはいない。」
「知ってる。」
「でも。」
「悪い気はしないよ。」
その瞬間だった。
遠くから、幾つもの車のエンジン音が響いてくる。
続いて、鋭いブレーキ音。
ヨキは表情を変えない。
だが胸の内では、小さく息を吐いた。
(……間に合った。)
スカーもまた、その音へゆっくりと顔を向ける。
雨の向こう。
東方司令部の軍用車が、勢いよくこちらへ滑り込んできた。