第一章 新しい居場所
リゼンブール。
列車を降りたヨキを迎えたのは、どこまでも続く緑だった。
視界を遮る高い建物はない。
広い畑。
遠くに見える風車。
穏やかな風に揺れる草原。
イーストシティとは、まるで違う。
「……いい町だな。」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
駅のホームには、人の姿もまばらだった。
聞こえるのは、風の音と。
どこか遠くで鳴いている鳥の声くらいだ。
◇
しばらく後。
「田舎だろ。」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返る。
エドワードが、どこか誇らしげに立っていた。
その隣にはアルフォンス。
ニーナ。
そして。
「わふっ!」
「アレキサンダー!」
再会した大きな白い犬へ、ニーナが勢いよく抱きついている。
アレキサンダーも嬉しそうに尻尾を振り、ニーナの顔を舐め回していた。
「きゃはは!」
「くすぐったいよぉ!」
その笑い声を聞き。
ヨキは、静かに胸を撫で下ろした。
「皆さん。」
「無事に着いたんですね。」
「ああ。」
エドワードが頷く。
「マウロ先生も見つかった。」
ヨキの表情が僅かに変わる。
「そうですか。」
「詳しい話はあとでする。」
エドワードは周囲へ目を向けた。
「ここじゃ、落ち着かねぇしな。」
「そうですね。」
アルフォンスも頷く。
「まずは、ばっちゃんのところへ行きましょう。」
「うん!」
ニーナが元気よく手を上げる。
「おばあちゃんに会いに行くの!」
「そうだ。」
エドワードは歩き出す。
「かなり口が悪いから、覚悟しとけよ。」
「兄さん。」
「余計なこと言わないの。」
「本当のことだろ。」
二人のやり取りに、ニーナが小さく笑う。
ヨキも、つられるように笑った。
◇
リゼンブールの道を歩く。
ニーナはアレキサンダーの隣を楽しそうに進んでいた。
時折、道端の草花へ目を向け。
遠くで動く風車を見て、歓声を上げる。
「おヒゲのおじちゃん!」
「風が、おっきいの回してるよ!」
「ああ。」
「凄いね。」
「イーストシティにはなかった!」
「ここには、ああいうものがたくさんあるみたいだね。」
「アレキサンダーも走れるね!」
「わふっ!」
アレキサンダーは、言葉を理解したかのように大きく鳴いた。
エドワードとアルフォンスも、そんな二人を見ていた。
「少し。」
アルフォンスが静かに言う。
「元気になったね。」
「ああ。」
エドワードも小さく頷く。
「ここへ連れてきてよかったのかもしれねぇな。」
ヨキは、二人の言葉を聞きながら前を向く。
まだ何も決まってはいない。
ピナコという女性が、ニーナたちを受け入れてくれる保証もない。
それでも。
ニーナの笑顔を見ていると。
ここならば。
そう思わずにはいられなかった。
◇
やがて。
一軒の家が見えてきた。
広い庭。
生活の匂い。
家の近くには、機械鎧の部品らしき物も置かれている。
「着いたぞ。」
エドワードが扉を開ける。
「ばっちゃーん!」
「帰ったぞー!」
「やかましい!」
奥から、威勢の良い声が飛んできた。
「帰ってきたなら、もう少し静かに入んな!」
小柄な老婆が姿を現す。
髪をまとめ。
鋭い目でエドワードを睨んでいる。
「うるせぇな。」
「帰ってきたって分かるように言っただけだろ。」
「その馬鹿でかい声が迷惑だと言ってるんだよ。」
老婆は持っていた道具で、エドワードの頭を軽く叩いた。
「痛ぇ!」
「ばっちゃん!」
その後ろから、金髪の少女が顔を出す。
「エド!」
「アル!」
少女は二人の姿を見るなり、明るい笑顔を浮かべた。
「おかえり!」
「ただいま、ウィンリィ。」
「お邪魔します。」
アルフォンスが丁寧に頭を下げる。
ニーナは、知らない人たちを前にして少しだけヨキの後ろへ隠れた。
アレキサンダーも、その隣へ座る。
老婆の視線が、ヨキたちへ移る。
「その子たちは誰だい。」
エドワードは少し言葉を選んだ。
「こっちが、ニーナ。」
「そっちはアレキサンダー。」
「それで。」
ヨキへ視線を向ける。
「この人が、ヨキ中尉。」
ヨキは姿勢を正し、深く頭を下げた。
「初めまして。」
「ヨキと申します。」
「突然、大勢で押しかけてしまい、申し訳ありません。」
老婆は、しばらくヨキを見つめていた。
「ふん。」
「随分と礼儀のいい軍人だね。」
「軍人にも、色々おりますので。」
「そうかい。」
老婆は次にニーナを見る。
先ほどまでの厳しい表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「お嬢ちゃん。」
「名前は?」
「ニーナです。」
小さな声だった。
「ニーナ・タッカーです。」
「そうかい。」
「わたしはピナコ・ロックベル。」
老婆は自分の胸を軽く叩く。
「こっちは孫のウィンリィだ。」
「よろしくね、ニーナ。」
ウィンリィはニーナと同じ目線になるよう、ゆっくりとしゃがんだ。
「その子がアレキサンダー?」
「うん。」
「とっても大きいね。」
「でも、やさしいんだよ。」
「触ってもいい?」
ニーナは少し迷ったあと。
小さく頷いた。
「うん。」
ウィンリィがアレキサンダーの頭へ触れる。
アレキサンダーは嬉しそうに尻尾を振った。
「わっ。」
「本当に大人しい。」
「アレキサンダー、ウィンリィお姉ちゃんのこと好きみたい。」
「本当?」
ニーナの表情が、僅かに緩む。
ピナコはその様子を静かに見つめていた。
◇
居間。
全員が席へ着く。
エドワードとアルフォンスが、ここまでの事情を説明していた。
ショウ・タッカー。
軍による拘束。
その後の死。
ニーナとアレキサンダーが住む場所を失ったこと。
孤児院を探したものの。
安心して預けられる場所が見つからなかったこと。
ピナコは途中で口を挟まず、最後まで黙って聞いていた。
説明が終わる。
しばらく沈黙が続いた。
ニーナは、ヨキの服の裾を握っている。
ヨキはその小さな手へ目を向け。
やがて、ピナコへ深く頭を下げた。
「大変、身勝手なお願いであることは承知しております。」
「ですが。」
「この子たちを。」
「しばらく、こちらで預かっていただけないでしょうか。」
ピナコは答えない。
ヨキは頭を下げたまま続ける。
「この子たちは。」
「短い間に、多くのものを失いました。」
「父親。」
「家。」
「これまでの日常。」
「今は。」
「安心して眠ることのできる場所と。」
「傍にいてくれる人が必要だと思っています。」
さらに頭を下げる。
「お願いいたします。」
「ヨキさん……。」
アルフォンスが心配そうに見る。
ピナコは小さく息を吐いた。
「顔を上げな。」
ヨキはゆっくりと顔を上げる。
「そこまで頭を下げられちゃ。」
「断ったら、わたしが悪者みたいじゃないか。」
「それでは……。」
ピナコはニーナへ目を向ける。
「お嬢ちゃん。」
「ここは田舎だ。」
「都会みたいに、面白い物は何もない。」
「朝は早いし。」
「畑仕事を手伝ってもらうこともある。」
「それでもいいかい。」
ニーナは不安そうにヨキを見る。
ヨキは何も言わず。
ただ、穏やかに頷いた。
ニーナもピナコへ向き直る。
「アレキサンダーも、一緒でいい?」
「ああ。」
「庭は広い。」
「好きなだけ走らせてやればいいさ。」
ニーナはアレキサンダーへ抱きついた。
「アレキサンダー。」
「一緒だって。」
「わふっ!」
ピナコは小さく笑う。
「決まりだね。」
その言葉を聞いた瞬間。
ヨキの身体から、力が抜けた。
「ありがとうございます。」
もう一度、深く頭を下げる。
「本当に。」
「何とお礼を申し上げればよいか。」
「礼なんていらないよ。」
ピナコは鼻を鳴らす。
「子ども一人と犬一匹くらい。」
「どうにでもなる。」
「ですが。」
ヨキは姿勢を正した。
「お願いが、もう一つあります。」
「何だい。」
「生活費についてです。」
ピナコの眉が僅かに動く。
「毎月。」
「私から一定額を送らせてください。」
「ニーナちゃんの食事。」
「衣服。」
「学用品。」
「アレキサンダーの食費もあります。」
「それらをすべて負担していただくわけにはいきません。」
「別に。」
ピナコは肩を竦める。
「そんなもの、求めちゃいないよ。」
「それでもです。」
ヨキは静かに言い切った。
「この子たちを助けると決めたのは、私です。」
「こちらへお願いしたことで。」
「すべてをピナコさんへ押し付けたくはありません。」
「軍人の給料ですから。」
「大した額ではないかもしれませんが。」
「少しでも、足しにしていただきたいのです。」
ピナコはヨキをじっと見る。
その視線に、ヨキも逸らさず応えた。
「……あんたねぇ。」
やがて、ピナコが呆れたように息を吐く。
「何でも一人で背負い込もうとするもんじゃないよ。」
「すみません。」
「謝れって言ってるんじゃないよ。」
杖の先で床を軽く叩く。
「その気持ちは。」
「ありがたく受け取っておく。」
ヨキは、僅かに目を見開いた。
「ありがとうございます。」
「ただし。」
ピナコの目が鋭くなる。
「無理な額は送るんじゃないよ。」
「軍人だって飯は食わなきゃならん。」
「承知しました。」
「毎月、無理のない範囲で送らせていただきます。」
「まったく。」
ピナコは呆れたように笑う。
「変なところで真面目な男だね。」
◇
話が一段落した頃。
ウィンリィがニーナを庭へ誘った。
「アレキサンダーと一緒に、外見てみる?」
「うん!」
ニーナは椅子から立ち上がる。
だが。
数歩進んだところで、ヨキを振り返った。
「おヒゲのおじちゃんも来る?」
「俺は。」
ヨキは少し迷い。
穏やかに笑った。
「あとで行くよ。」
「ほんと?」
「ああ。」
「約束。」
「約束だ。」
ニーナは、ようやく笑顔を浮かべる。
「ウィンリィお姉ちゃん!」
「いこ!」
「うん。」
二人と一匹が、庭へ駆け出していく。
窓の向こう。
ニーナの笑い声が聞こえた。
ヨキはその姿を、黙って見つめる。
「安心したかい。」
ピナコが隣から声を掛けた。
「はい。」
ヨキは静かに頷く。
「本当に。」
「よかった。」
「ここでなら。」
「あの子は、少しずつ前を向けると思います。」
「そうなるかどうかは。」
ピナコは窓の外を見る。
「あの子次第さ。」
「でも。」
「一人にはしない。」
その一言に。
ヨキは、深く頭を下げた。
◇
夕方。
空が茜色へ染まり始めていた。
庭では、ニーナとウィンリィがアレキサンダーと遊んでいる。
エドワードは、機械鎧の状態をピナコへ見せていた。
「また壊したのかい!」
「俺が壊したんじゃねぇ!」
「壊れたことに変わりはないだろうが!」
「痛っ!」
家の中から、エドワードの悲鳴が響く。
アルフォンスはその様子を見ながら、楽しそうに笑っていた。
ヨキは縁側へ腰を下ろす。
リゼンブールの風が、静かに頬を撫でた。
こんなに穏やかな時間を過ごしたのは。
いつ以来だろう。
「おヒゲのおじちゃん!」
ニーナが庭から手を振る。
「見てー!」
「アレキサンダー、すっごく早いよ!」
「ああ。」
「ちゃんと見てるよ。」
アレキサンダーが広い庭を駆け回る。
その後ろを、ニーナとウィンリィが笑いながら追い掛けている。
ヨキは胸の奥へ広がる温かさを感じていた。
命を救った。
それだけではない。
生きていく場所も。
傍にいてくれる人も。
ようやく見つかった。
(本当に。)
(よかった。)
その思いだけで。
胸がいっぱいになった。
◇
夜。
ロックベル家の食卓には、料理が所狭しと並んでいた。
「いただきます!」
ニーナが元気よく声を上げる。
「たくさん食べな。」
ピナコが笑う。
「遠慮する必要はないよ。」
「うん!」
ニーナは嬉しそうに料理へ手を伸ばす。
アレキサンダーも、用意された食事を勢いよく食べ始めた。
「すげぇ食うな。」
エドワードが呆れたように言う。
「兄さんに言われたくないと思うよ。」
アルフォンスが静かに返す。
「何だと。」
「事実でしょ。」
ウィンリィが笑う。
食卓に、明るい声が響く。
ヨキも料理へ箸を伸ばす。
「おいしいですね。」
「そうかい。」
ピナコが満足そうに頷く。
「都会の料理よりは地味だろうが。」
「そんなことありません。」
「こういう食事は。」
「昔を思い出す気がします。」
自分でも。
何を思い出したのかは、よく分からない。
それでも。
懐かしいと思った。
食事が進み。
会話が弾み。
ニーナも何度も笑った。
その笑顔を見るたびに。
ヨキは、ここまで来てよかったと心から思った。
やがて。
窓の外は、完全に暗くなっていた。
ニーナとアレキサンダーの新しい生活は。
この日。
ここから始まった。