何とかなるのでは、そのような状況が続いていたが‥‥‥
「おい、薬屋」
壬氏が猫猫を呼び止めた。
「来てくれ」
「何です?」
「少し妙なことが起きた」
壬氏の表情が険しい。
猫猫もすぐに察する。
「魔物ですか?」
「分からん」
「?」
「武衛区で」
壬氏は言った。
「武人が二人、消えた」
「消えた?」
猫猫の眉が動く。
「どういう意味です?」
「言葉通りだ」
二人の武人が、見回りの途中突然いなくなった。
「逃げたんじゃないんですか?」
猫猫がまず考えたのは、それだった。
魔物が現れる。
命の危険がある。
怖くなって逃げ出す者が出たとしても、不思議ではない。
だが、壬氏は首を横に振った。
「俺も最初はそう思った」
「違うんですか?」
「二人とも、そういうことをする者とは思えん」
「…………」
「それに」
「二人同時」
「ああ」
一人なら、恐怖に耐えられなくなって逃亡した。
それで説明できる。
だが、二人とも同時に消える。
「魔物にやられたとか?」
「それも考えた」
「痕跡は?」
「ない」
「血は?」
「ない」
「争った跡は?」
「見つかっていない」
「…………」
猫猫も考え込む。
妙だ。
武人二人。
しかも、魔物への警戒が始まってから、武人達には何度も言い聞かせている。
一人で行動するな。
危険を感じたら必ず仲間を呼べ。
二人とも、それを破るような人物ではないらしい。
「むざむざ二人ともやられるとも思えないですね」
「ああ」
「少なくとも、大声くらい出せる」
「だが、誰も聞いていない」
猫猫は腕を組む。
「……分からない」
人間同士の事件かもしれないが、この状況で起きた以上、どうしても魔物との関係を考えてしまう。
そこで、猫猫はフリーレンへ話を持っていった。
「なあ、フリーレン」
「何?」
「やっぱり魔物のせいだと思う?」
「…………」
フリーレンは答えなかった。
妙に難しい顔をしている。
フェルンも同じだった。
「フリーレン?」
猫猫がもう一度呼ぶ。
フェルンが小さく言う。
「フリーレン様」
「うん」
「これって……」
「ああ」
フリーレンは静かに答えた。
「たぶん、魔族の仕業だろうね」
「…………」
猫猫の顔が固まる。
「魔族?」
壬氏も表情を変えた。
「前に言っていた……人間の言葉を話すという?」
「そう」
フリーレンの声は淡々としている。
だが、猫猫は気付く。
今までの魔物について話していた時とは違う。
明らかに警戒している。
フェルンもだ。
「でも」
猫猫が聞く。
「どうして魔族だと思う?」
「二人とも騒がずに消えたから」
「それだけ?」
「ううん」
フリーレンは少し考え。
説明を始める。
「例えば」
「うん」
「二人で見回りをしていた」
「うん」
「その時、誰かの声が聞こえた」
「声?」
「『助けてください』」
「…………」
猫猫が黙る。
「女の声だったかもしれない。子供の声だったかもしれない」
フリーレンは続ける。
「人気のない場所から聞こえてくる」
壬氏の顔が険しくなる。
「武人なら確認に向かうか」
「たぶんね」
「そして?」
「そこに」
フリーレンは言った。
「人間みたいな姿をした魔族がいる」
猫猫の背筋に。
ぞくりとしたものが走った。
「『魔物に追われました』とか」
「…………」
「『怪我をしました』とか」
「…………」
「そう言えば、人間は近づいてくるから」
壬氏が低い声で言う。
「それで油断させるのか」
「うん」
「でも、二人いる」
猫猫が言う。
「一人を倒したら、もう一人が――」
「だから」
フリーレンが答える。
「最初の一人を魔法で殺す」
「!」
「もう一人は、突然仲間が倒れて驚く」
フェルンが続ける。
「その一瞬があれば十分です」
「…………」
「そして、もう一人も殺す」
静かになった。
猫猫は何も言えない。
香琳妃の毒殺未遂事件。
あれも恐ろしかった。
だが、これは何かが違う。
「それで……」
猫猫が恐る恐る聞く。
「死体は?」
フリーレンは答える。
「たぶん、残ってないよ」
「どうして?」
「食べたんだと思う」
「…………」
壬氏の顔が凍りついた。
猫猫も。
さすがに言葉が出なかった。
「二人とも?」
「恐らく」
フェルンが答える。
しばらく誰も口を開かなかった。
猫猫は以前聞いた話を思い出す。
魔族。
人間の言葉を話す。
人間と同じような姿をしている。
だが、人間ではない。
「……魔族って」
猫猫が言う。
「そんなことをするのか?」
「するよ」
フリーレンは即答した。
迷いがない。
「人間の言葉を使って、人間を騙す」
「でも……」
壬氏が言う。
「言葉を話せるなら、話し合うことは――」
「できない」
フリーレンの言葉が。
壬氏の言葉を遮った。
「…………」
猫猫がフリーレンを見る。
その表情には、普段のぼんやりした雰囲気がなかった。
「魔族は」
フリーレンは静かに言う。
「人間を騙すために言葉を使う」
「…………」
「『助けて』と言えば、人間が助けに来ることを知っている」
「‥‥‥ねえ」
猫猫が聞く。
「魔族と人間って、見分けられないの?」
「一般的には」
フェルンが答える。
「魔族には角がありますから、見分けることはできます」
「角?」
「はい」
「だったら簡単じゃないか」
猫猫が言う。
「角のある人間を警戒すれば――」
「うん」
フリーレンが遮った。
「普通ならね」
「普通なら?」
嫌な言い方だ。
フリーレンは続ける。
「人間に擬態できる魔族もいる」
「…………」
猫猫は息を呑む。
「人間に擬態した魔物が『殺さないで』と言えば?」
「人間が躊躇する」
「『お母さん』と言えば?」
「手を止める人もいる」
「…………」
フリーレンは淡々と続ける。
「だから言うんだよ」
「…………」
フリーレンは壬氏を見る。
「警戒の仕方を変えた方がいい」
「どうすればいい?」
「まず」
フリーレンははっきりと言った。
「見えない場所から声がしても、絶対に一人で近づかない」
壬氏が頷く。
「特に」
「うん?」
「『助けて』なんて声がした時ほど」
フリーレンの目が鋭くなる。
「慎重に行動して」
「……助けを求める声なのにか」
「だからこそだよ」
「…………」
「本当に人間が助けを求めている可能性もある」
フリーレンは続ける。
「だから無視しろとは言わない。でも、必ず複数で確認する。周囲にも知らせる。姿が見えても、すぐ近づかない」
フェルンも言う。
「なるほど」
壬氏は真剣に聞いている。
「怪我をしているように見えても?」
「警戒してください」
「泣いていても?」
「警戒してください」
「子供の姿でも?」
一瞬、フェルンが黙る。
そして。
「はい」
はっきり答えた。
猫猫は少し寒くなった気がした。
人間の言葉を話し、助けを求め、笑い、泣き、そして人間を殺す。
壬氏が低く呟く。
「厄介だな……」
「うん」
フリーレンは頷く。
「魔物よりずっと」
そして。
フリーレンは武衛区の方角を見る。
「それに」
「まだ何かあるのか?」
壬氏が聞く。
「もし本当に人間に擬態できる魔族なら」
フリーレンは静かに言った。
「もう、この都のどこかに入り込んでる可能性がある」
「…………!」
猫猫の目が見開かれる。
「人間の姿をして?」
「うん」
「人間の言葉を話して?」
「うん」
「じゃあ……」
猫猫は周囲を見る。
女官。
宦官。
武人。
商人。
旅人。
毎日、数え切れないほどの人間が行き交っている。
その中に、人ではないものが、人の顔をして紛れ込んでいるかもしれない。
魔物への恐怖とはまったく違う恐怖が、静かに都へ入り込もうとしていた。