フリーレンたちが一体の魔族を倒してから、しばらく魔物も魔族も現れなかった。
都でも、後宮でも、魔族の仕業と思われる行方不明事件は起きていない。
「もう大丈夫なんじゃないか?」
そんな声も、少しずつ聞こえ始めていた。
魔族はフリーレンとフェルンが倒した一体だけだったのではないか。
あるいは、他にいたとしても、仲間が倒されたことで逃げたのではないか。
警戒を緩めてもいいのでは――
だが、フリーレンとフェルンは警戒を解かなかった。
「そんな簡単じゃないよ」
フリーレンは言った。
「魔族の中には人間に擬態する必要がないほど純粋に強い者もいる。人間に擬態する魔族だけでなく、そういう魔族が来てないとも限らない。そういう魔族は、仲間が倒されたからといって逃げるとは思えない。そもそも、仲間と思っているかどうかさえ怪しい」
「はい」
フェルンも同意する。
「何か想定外のことが起こったと思って慎重になっているだけではないでしょうか」
魔族が絶好の狩場をやすやすとあきらめるとは思えない。
だからこそ――油断してはいけない。
そんなある日、猫猫は小蘭と、もう一人の若い女官と一緒に後宮内の道を歩いていた。
「あのね、小蘭」
「何?」
「分かってるよね」
猫猫は念を押す。
「もし『助けて』なんて声がしても絶対に一人で行ったら駄目だよ」
「分かってるよ!」
小蘭が頬を膨らませる。
「何回も聞いたもん!」
「本当かなあ」
「本当だよ!」
猫猫は半眼になる。
「小蘭はすぐ騙されそうだから」
「ひどい!」
「だって、道端で泣いてる子供見たら絶対近づくでしょ」
「そ、それは……」
「ほら」
「でも、本当に困ってたら可哀想じゃない!」
「だから人を呼ぶんだよ」
「うう……」
猫猫はため息をついた。
魔族が現れようとも、人々の生活そのものを止めることはできない。
女官は仕事をしなければならない。
食事も必要。
洗濯も必要。
妃たちの世話もある。
猫猫自身も、壬氏から後宮の様子を見て回るよう頼まれている。
警備の武人も増えた。
少し歩けば、あちらにもこちらにも武器を持った武人が立っている。
少し前の後宮では考えられない光景だった。
(これだけいれば……)
猫猫は思う。
(大丈夫、と思いたいけど)
だが、フリーレンの言葉が頭から離れない。
魔族は人間の言葉を使う。人間を騙す。
そして、人間が油断する方法を知っている。
強い魔族もいるという。
「…………」
その時だった。
「……助けて……」
声。
三人が止まった。
「…………」
小蘭の顔から笑顔が消える。
もう一人の女官も青ざめる。
声は、少し離れた細い路地の奥から聞こえてきた。
「助けて……」
弱々しい女の声。
猫猫の背筋が冷える。
小蘭が猫猫を見る。
「猫猫……」
「行くな」
即答。
猫猫は周囲を見る。
「あなた」
もう一人の女官へ言う。
「武人を呼んできて」
「は、はい!」
「できるだけ大勢」
女官が走っていく。
「小蘭」
「う、うん!」
「フリーレンかフェルンを探して」
「猫猫は?」
「私はここにいる」
「え!?」
小蘭の顔が変わる。
「駄目だよ!」
「いいから行け」
「でも!」
「魔族だったら、見失う方がまずい」
「猫猫!」
「早く!」
小蘭は迷った。
だが、猫猫の顔を見て。
「……絶対、無茶しないでね!」
「分かってる」
小蘭も駆け出した。
一人残る。
「…………」
猫猫は路地を見る。
怖い。
それは認めざるを得ない。
(逃げたい)
当然だ。
自分は戦えない。
毒なら、薬なら、まだ何とかできる。
だが、魔族、魔法、そんなものどうしろというのだ。
ただ、足が動かなかった。
いや、動かさなかった。
理由はいくつもある。
好奇心。
知的探究心。
魔族という存在を、一度実際に見てみたい。
どんな顔をして、どんな声でどんなふうに人を騙すのか。
そして、もう一つ、ほんの少しばかりの正義感。
すでに何人もの人間が消えている。
恐らく魔族に殺された。食われた。
なら、ここで逃げてこの魔族を見失えば、また、誰かが死ぬかもしれない。
「……まったく」
猫猫は小さく呟く。
「自分でも面倒な性格してるな」
その時、悲鳴。
「きゃああああ! 魔物が!」
猫猫の心臓が跳ねる。
魔物。
まさか――一瞬そう思った。
だが、それでも敢えて動かなかった。
(魔族は人を騙す)
額に脂汗がにじみ出る。だが、どちらにせよ武人達かフリーレン、フェルンが来るまでは動いてはいけない、そう自制する。
すると‥‥‥
「どうやら」
声。
猫猫が凍りつく。
路地の奥から。
人影が出てくる。
女。
角。
若い。
美しい。
だが、その雰囲気は異様だ。
魔族は猫猫を見る。
「私達のことを知っている者が」
口元に笑み。
「この世界にもいるようね」
「…………」
猫猫は答えない。
人間に似た姿。
人間の言葉。
全部、目の前にある。
だが、魔力など感じられない猫猫にも分かる。
これは違う、人間とは全く異質で相いれない存在、人間を捕食する存在だと。
本能が全力で叫んでいる。
逃げろ。
「あなた」
魔族が首を傾げる。
「私が怖いの?」
猫猫は思う。
(怖いに決まってるだろ)
口には出さない。
(今なら走れるか?)
距離。
路地。
相手。
武人達が来るまでどれくらい。
一気に逃げる?
だが、逃げてこの魔族が別の方向へ行ったらもう見つけられないかもしれない。
猫猫は動かない。
魔族の目が細くなる。
「変な人間」
一歩近づく。猫猫の身体が強張る。
「逃げないのね」
「…………」
「怖いのに」
また一歩。
「どうして?」
猫猫は答えた。
「お前を逃がしたくないから」
魔族が少し驚く。
そして笑った。
その笑みは、獲物に対する笑みだ。
「面白い」
次の瞬間、魔力が膨らむ。
猫猫には見えない。
だが、空気が変わる。
(まずい)
魔族が手を上げる。
だがその時。
「おのれ化け物!」
大声。
「成敗してくれようぞ!」
「!」
猫猫が振り返る。
走ってきたのは李白。
その後ろには数人の武人。
「李白様!」
「嬢ちゃん、下がれ!」
李白が前へ出る。
「だああああああ!」
強烈な一撃。
魔族が避ける。
「ちっ、人間にしては」
魔族が少し驚く。
「強いわね」
「化け物に褒められても嬉しくねえ!」
李白が再び斬りかかる。
他の武人達も続く。
一人。
二人。
三人。
囲む。
魔族は押されているように見える。
「……へえ」
猫猫は思う。
(李白様、本当に強いんだな)
普段は、白鈴のことでからかわれたり妙に単純だったりするが、こうして見ると優秀な武官だ。
「おらあ!」
一撃。
魔族の衣が裂ける。
「この……!人間風情が!」
魔族が手をかざす。
「離れろ!」
猫猫が叫ぶ。
だが遅かった。
光。
魔法。
「ぐあっ!」
一人の武人が吹き飛ばされる。
「!」
地面へ倒れる。
「おのれ!」
李白が斬りかかる。
魔族がまた魔法。
「李白様!」
猫猫が叫ぶ。
李白は咄嗟に身体を捻った。
だが完全には避けきれない。
「ぐっ!」
二の腕から血。
「李白様!」
「心配するな、嬢ちゃん!」
李白が叫び返す。
「かすり傷だ!」
だが、戦況は変わった。
武人達は押され始める。
「くそっ!」
李白が踏み込めない。
魔族が笑う。
「やっぱり人間ね」
「…………」
「少し強くても」
魔力が集まる。
「魔法には――」
その瞬間。
「ゾルトラーク!」
光。
魔族が咄嗟に障壁を張る。
「なっ!」
魔族の顔が変わる。
猫猫が振り返る。
そこにはフェルン。
「猫猫!」
「フェルン!」
「無事ですか!」
「ああ!」
フェルンは魔族を見る。
目が冷たい。
「あなた」
杖を向ける。
「何をしているのですか」
魔族の顔が引きつる。
「魔法使い……?」
「…………」
「なぜ」
魔族は後ずさる。
「なぜこの世界に魔法使いが?」
フェルンは言う。
「あなたこそ」
魔力が膨れ上がる。
「どうやってこの世界に来たんです?」
「…………」
「答えてください」
魔族が笑う。
「答えるわけないでしょう?」
「そうですか」
フェルンの魔法陣が展開される。
「なら、力ずくで聞きます」
光。
魔族が防ぐ。
連続。
一発。
二発。
三発。
「くっ!」
魔族が押される。
魔族が反撃するが、フェルンは防ぐ。
即座に攻撃。
「ちっ!」
魔族が舌打ち。
「この小娘……!」
「小娘で結構です」
フェルンの目は冷たい。
猫猫は思う。
(怒ってるな)
恐らく、猫猫が狙われたから。
そして、李白達が傷つけられたから。
魔族は徐々に追い詰められる。
「……まずい」
周囲を見る。
「ここは引くしかないようね」
飛び退く。
その瞬間、強烈な魔法。
「!」
魔族の右手が消えた。
「ぎゃあああ!」
猫猫の目が見開かれる。
「な……」
魔族が振り返る。
そこにフリーレン。
「逃がさないよ」
静かな声。
次、光。
左手消失。
「や、やめ――」
さらに片足が消える。
魔族が地面へ倒れる。
「ぐ……!」
もはや逃げられない。
フリーレンは。
ゆっくり近づく。
それは、朝起きられず、フェルンに髪をといてもらい、朝ご飯をたべさせてもらい、猫猫と一緒に変な発明をしているフリーレンではない。
千年以上魔族と戦い、魔王を倒した勇者一行の魔法使い、その顔だ。
魔族の前で止まる。
「訊くよ」
「…………」
「お前達は」
杖を向ける。
「どこから来た?」
魔族は苦しそうに。
それでも笑った。
「ふ……」
「…………」
「答えると思う?」
「…………」
フリーレンは魔族を見る。
フェルンが聞く。
「フリーレン様?」
「…………」
フリーレンは。
何かを見ているようだった。
いや、解析している。
魔力。
術式。
その癖。
流れ。
構造。
そして。
「そっか」
小さく呟く。
魔族が眉をひそめる。
「何……?」
フリーレンは杖を向け直す。
「もういい」
「は?」
「お前は用済みだ」
魔族の顔が変わる。
「待――」
「ゾルトラーク」
光。
そして魔族は消滅した。
「…………」
静かになる。
李白が息を吐く。
「終わった……のか?」
「うん」
フリーレンが答える。
フェルンが近づく。
「フリーレン様」
「何?」
「何か分かったのですか?」
「うん」
「何を?」
フリーレンは。
魔族が消えた場所を見る。
「さっきの魔族」
「はい」
「魔力の解析は出来た。これを使って魔力の痕跡を辿って行けば、どこから来たのか分かる」
「…………」
フェルンの顔が明るくなる。
「では!」
「うん」
「世界が繋がっている場所も!」
「見つけられるかもしれない」
「早速やりましょう、フリーレン様!」
「ああ」
その会話を聞いて、猫猫は、嬉しいような寂しいような、妙な気持ちになる。
だが、今は、それより先にやることがある。
「李白様」
猫猫が駆け寄る。
「腕見せて」
「嬢ちゃん、これくらい――」
「いいから」
「はい」
猫猫が傷を見る。
「……深くはないね」
「だろ?」
「でも手当てする」
「おう」
そして、倒れた武人。こちらも気を失っているが幸い命に別状はないようだ。
猫猫は処置を始める。
そして、フリーレンとフェルンは魔族が残した魔力の痕跡を追い始めている。
猫猫はちらりと二人を見る。
これまで、まったく分からなかった二つの世界を繋ぐ道。
それが、ついに見つかろうとしていた。