喧嘩ばかりを繰り返す両親のせいで、今江紗良は家に居場所がなかった。現実逃避のために心情をSNSに吐き出していたある日、紗良にダイレクトメッセージを送ってきた人物がいた。「おじさん」を自称するその人物は、紗良の話を親身になって聞いてくれた。紗良は「おじさん」に徐々に依存していく。夏休み直前、ついに我慢の限界に達した紗良は「おじさん」に家出したいと漏らす。「おじさん」は、それならうちに来ないかと持ち掛ける。もはや親よりも頼れる存在になっていた「おじさん」の提案に紗良は一も二もなく乗る。待ち合わせの日、紗良を迎えに現れたのは、20代の若い女性だった。彼女、カズナこそが「おじさん」の正体だったのである

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11歳のJSを誘拐して逮捕された女

 今江紗良(いまえさら)にとって、家にいる時間は苦痛でしかなかった。

 

 いつの頃からか父とはあまり顔を合わせなくなった。たまにその機会があっても、まともに言葉を交わさなかった時間があまりに長すぎたせいで、どんな口調でどんなことを話せばいいのかわからず、結果、いつも不機嫌そうな父が見えていないかのようにふるまうくせが身についた。父も紗良になにもいわない。食事をしているときに父が帰ってきたら急いで片付けて自室へ上がった。ことさらに父を嫌っているのではない。ただ、父と一緒の空間にいると、なぜか息が詰まった。

 

 専業主婦の母は、口を開けば紗良の試験の順位しか聞いてこなかった。それでいて、勉強やテストの点数が将来どのように役に立つのか、自身が高卒の母は娘に具体的な説明ができないのだった。子育ては子供の成績によって採点されるのだと、母は盲信してやまなかった。娘の答案や成績表を夫に見せつけては、わたしはこれだけうまく子供を育てているのだ、紗良の成績がいいのはわたしのおかげだと、自分への感謝とねぎらいの言葉を引き出そうとした。すると塾や家庭教師の月謝を払っている父が恩着せがましいと反発する。母が色をなす。だから紗良の両親は顔を合わせればいつも言い争いになる。

 

 怒声が床と階段の向こうから聞こえてくると、紗良は自分の部屋でヘッドフォンをかぶって、スマートフォンの世界に没頭する。11歳の小学生にとって、いやなものから目を背け、耳を閉じるには、スマホの力を借りる以外に方法はなかった。

 

 きょうも父と母は互いを罵りあっている。たまには家事くらい手伝ってよ。それはおまえの仕事だろう。わたしは家政婦じゃない。通勤もしないでいいし何時間も家に居られるのに、ひとりじゃ家事が片付かないなんてのは、ただの怠慢だ。専業主婦の労働量は月40万円ってテレビが言ってたわ。おまえみたいに、自分で仕事のペース配分ができる環境でも文句を言うようなやつは、どこも雇ってくれないよ。ちょっとは手伝ってほしいのよ、どうしてわたしの気持ちがわからないの。助けてほしいと言えば助けてもらえると思ってるのが、甘えなんだ、おれの職場ではみんな自分の仕事に責任をもってる、安易にヘルプを求めるやつは社会じゃ通用しない。……

 

 紗良はYoutubeのてきとうなゲーム実況を流すヘッドフォンで遮断する。それでも、自分の両親がけんかをしているという事実は消せない。観測されない事象は存在しないも同然だ。だが、自分がこうしてヘッドフォンを装着しているのは、両親の言い合いから逃れるためなのだから、ヘッドフォンそのものが事象の存在を逆説的に証明してしまっている。それに気づいたとき、紗良は反射的にヘッドアームをひっつかみ、壁に叩きつけていた。

 

 SNSに逃げ道を見いだす。なにかに集中して時間が過ぎるのを待つしかない。トレンドのワードをタップする。ワードをハッシュタグに紐付けされた投稿が列挙される。なんの興味もない話題だが、彼らのそのワードについてリアルタイムで語り合っているのを眺めていると、自分もその殷賑(いんしん)に参加しているような気分になれた。すなわち肉体は家にありながらも精神はここではないどこかに脱出することができた。同時に、自分は彼らとおなじ空間にいるのだから世界から孤絶していないのだという安心感も得られた。

 

 その日はとくに両親の口論が長く続いた。他人の会話を傍観するだけでは逃げ切れなかった。

 

 たまらず紗良は自分のアカウントで文字を打った。矢継ぎ早に投稿する。

 

〈今日もパパとママが喧嘩してる〉

〈どうして結婚なんかしたんだろう〉

〈うるさいから喧嘩をやめてと言ったら、大人の話に首を突っ込むなって〉

〈育ててやってんのにとか〉

〈だれが産んでくれってたのんだよ〉

〈感謝されたいなら親として感謝されるような生き方しろよ〉

〈産んでくれってたのめるんならもっとまともな家選ぶっつの〉

 

 強い言葉を使えば使うほど、自分の性格がねじ曲げられていく音が聞こえた。それでも言語化して、全世界のユーザーが閲覧できるフルオープンの環境へ吐き出せば、腹の底に溜まる一方の汚泥をいくらかでも排出できる。人間の心はきっと透明なガラスのコップなのだ。清浄な水を注げばコップは透明できれいなまま。だがヘドロをぶちこまれたらコップも黒く染まってしまう。捨てればまたきれいになるかもしれない。だが貯めつづけて溢れればコップの周りまでもが汚されるのだ。

 

 公開アカウントとはいえ、書き連ねているのは両親への愚痴と怨嗟だけだ。こんなつまらないアカウントのフォロワーなど2桁に届いたことがない。フォロワーの多いユーザーはみんな前向きで、ユーモアがあって、笑いのとれる投稿をしている。この人たちはきっといい親にいい育てかたをしてもらったのだろう。よき親からはよき人間が産まれ、周りを笑顔にする魅力が備わる。程度の低い親からはでき損ないしか産まれない。当然の道理ではないか。だから互いを罵りあうしかできない両親のもとで育った紗良は、こうして勉強もせずにストレスから逃れるためフォロワーの少ないSNSに没頭するしかない。

 

〈勉強したい〉

〈でも、あの言い争いの声が考えるのを邪魔する〉

〈静かなところで勉強がしたい〉

 

 投稿して、布団をかぶる。耳を塞ぐ。床も壁も貫通する怒声はわずかな隙間からでも耳へ侵入してくる。心が軋む。

 

 そのとき、スマホが短いメロディを奏でた。SNSの投稿に返信かアカウントにダイレクトメッセージがきたときの通知音だ。たまたま投稿を見かけたユーザーがあまりにネガティヴな内容に苦情でも申し立ててきたのかもしれない。そうだったらよけいにストレスを抱え込んでしまう。だがSNSになんらかの反応があったのははじめてだった。通知を確かめようとしては断念するのを何度も繰り返したのち、もし誹謗中傷だったらブロックすればいいと割りきって、紗良は通知を開いた。

 

〈突然のDM失礼致します。以前からフォローさせていただいておりました、げろしゃぶおじさん@ojisan_1129と申します。

 僭越ながら、本日のsaraさんの投稿を拝見して、saraさんがとても追い詰められているように思えました。おじさんで良ければ話し相手になります。誰かに話せば少しは気が楽になるかも知れません。

 気持ち悪かったらスルーしていただいても大丈夫です。失礼します。〉

 

 見知らぬ相手からのダイレクトメッセージだった。率直にいって不気味以外のなにものでもなかった。ふだんなら迷いなくブロックしていた。だがきょうはいつになく精神が参っていた。だれでもいいから話を聞いてほしかった。

 

〈DMありがとうございます!

 両親が喧嘩しすぎでもうホントに嫌です。

 学校や塾がある日はそこで勉強して潰せますが、夜や、日曜日が地獄です

 夏休みがいまから憂鬱です

 勉強しろしか言わないくせに静かに勉強させてくれません

 喧嘩をやめてほしいといってもうるさがられるだけです

 いい親のところに生まれた同級生がうらやましいです

 

 現状を伝えようにもうまく言葉にできないもどかしさに苦しみながら、20分もかけてようやくそれだけ書いて送った。あらためて読み返してみると、我ながらなにがいいたいのか要点がはっきりしておらず、とても特定の個人に宛てるべき内容とは思えなかった。しかも最後に無意味な改行まである。紗良はいまさらになって急に羞恥を覚えた。

 

〈親の喧嘩は嫌ですよね。親が喧嘩していると心が安定しないので、勉強に集中できないですよね。

 子どもの人生は親で決まるので、まずは親が子どもに対してどれほど影響力を持っているか自覚してほしいですね。

 saraさんの投稿を見ていると、まるで自分のことのように悲しくなります。

 1日も早くsaraさんが幸せな日々を送れるようになるよう祈っています〉

 

 紗良は信じられない気持ちで返信を読んだ。これほど親身になって自分の話に耳を傾けてもらえる人間と初めて会った。何度も読み返すうちに涙が滲んだ。我慢していた感情が堰を切ったように嗚咽となって漏れた。

 

〈ありがとうございます。

 おかげですこしすっきりしました。

 あなたが親だったらよかった〉

 

 送信。

 

 スマホを見つめていると返事が届けられる。すぐに開く。

 

〈そうですね、おじさんならsaraさんの親だったらたしかにそんな悲しませることはしないでしょうね。

 せっかくがんばろうとしているsaraさんが人生の邪魔をされているかと思うとつらいです。

 ここにあなたを応援している人間がいることを忘れないでください。

 私はあなたを応援しています〉

 

 紗良はしばらく返信が送れなかった。ただひたすら泣いた。だが早く返事をしないと心証を悪くするかもしれない。大粒の涙をこぼしながら画面に指を這わせた。

 

〈本当にありがとうございます

 もうなんていったらいいのか……

 これからも話し相手になってくれませんか?〉

 

〈おじさんなんかで良ければいつでもDMしてくれていいよ〉

 

〈本当ですか?

 また話せるだけでもすっごい気が楽になります!〉

 

〈本当は身近に相談できる人がいるのがベストなんだけどね

 つらくなったらここに逃げてくればいいから〉

 

〈逃げていいんですか?〉

 

〈いいんだよ

 つらいことがまんしても人間は強くなんてならないよ

 大人でさえ、そう

 ましてや子どもが家庭環境なんてどうしようもないものでがまんしてても、絶対に幸せになんかならない

 かといって、家を捨てるなんてできるわけないから、いっぱい逃げ道つくっとくの

 おじさんはそのうちのひとつくらいに考えておいて〉

 

〈一番の逃げ道じゃだめですか?〉

 

〈一番?〉

 

〈最初に頼っちゃ迷惑ですか?〉

 

〈全然。それでsaraさんの力になれるなら〉

 

 紗良は久しく感じなかった安らぎに胸がじんわりと満たされた。その夜はよく眠れた。

 

 それからというもの、紗良は頻繁に「おじさん」と文字のやりとりを交わした。

 

〈おじさん

 いま大丈夫ですか?〉

 

〈大丈夫だよ

 なにかあった?〉

 

〈とくになにもなかったんですけど

 ごめんなさい

 なにもないのに毎日DMしてもうざいですよね……〉

 

〈うざくなんてないよ

 なにもなかったならそれが一番

 それが知れただけでもおじさんはうれしいからね

 なにもなくても毎日でもDMしてくれていいよ

 おじさんも安心できるから〉

 

〈ありがとうございます

 前にママに学校であったこと話したら、「で?」って

 意味もない話をするなって怒られたから〉

 

〈saraさんは、ただお母さんとお話がしたかっただけなんだよね

 それを怒られたもんだから、ただお話をするのはいけないことだって思っちゃったんだね

 でもね、そんなことないんだよ

 必要なことしか話さない親子なんて悲しすぎるよ

 saraさんは悪くないよ〉

 

〈そうなんですか……

 ずっと自分を責めてました

 悪いのはママのほうだったんですね〉

 

〈悪いとかいう問題とはちょっとちがうかな

 たまたま機嫌が悪い時だったのかもしれない

 親も人間だからね

 もしかしたら、お母さんもその時saraさんにきついこと言ったの後悔してるかもしれない

 こればっかりはお母さんと直接話してみるしかないと思う

 でも、これだけははっきり言える

 saraさんが悪いわけじゃない。これは確かなこと〉

 

〈ありがとうございます

 自信がついた気がします

 やっぱり相談してよかったです〉

 

 ある日、紗良は得意になって帰宅した。帰るなり、ずっと掴んでいた答案を台所の母に見せ、自慢げに報告した。97点。クラスの平均は80点だった。紗良はトップだった。これなら母の機嫌もよくなるだろう。たわいない話も聞いてくれるようになるだろう。紗良は母の笑顔を期待した。

 

 だが母は答案を一瞥するなり、眉間にしわを寄せた。

 

「どうしてあと3点がとれなかったのよ! 塾にも通わせてるのに、なんで!」

 

 怒鳴られて紗良は心身ともにびくりと硬直した。

 

「あのね、あなたは97点をとったって考えてるけど、それは違うの。あなたは最初100点を与えられてたの。それを、あなた自身の手で、3点捨ててしまったの。もったいない。いい、世の中は減点方式なのよ。ミスをしないかどうかを見られてるの。ミスをしないことでしか評価してもらえないのよ。あなたは97点もとれたんじゃあない。せっかく100点をもらえてたのに、それを自分自身の手で落としたのよ。まずはそれを自覚しないと。ミスをしないで、100点を100点のままでこなせて、それでようやくスタートラインに立てるんだから」

 

 それから紗良が両手で広げて持っているままの答案を叩いて、

 

「こんな点数で喜んでいるようじゃ、どこも雇ってくれないわよ。ママもね、好きでこんなこと言ってるんじゃないの。あなたのためを思って言ってるの。あなたが社会に出たときに恥ずかしくないように、人生の先輩としてアドバイスしてあげてるの。ね? だからちゃんと聞いて。聞いて。泣かないで。泣くな。なに泣いてんだよ。泣いたって100点にならねえだろ! 泣くんじゃねえよバカガキ! ああもういい加減にしろようっとうしい。泣いたら構ってもらえると思ってんのか。うるせえな。上行ってひとりで泣いてろボケ!」

 

 2階の自室へ入るまでの記憶がない。気がつけばベッドに突っ伏して涙のしみをつくっていた。スマホにすがる。

 

〈おじさん

 いますか〉

 

〈いますよ。

 いま帰ったとこ?〉

 

〈私、もうむりです〉

 

 紗良は経緯を文章化したが、混乱して流れが飛び飛びになってしまい、説明し終えるまでだいぶかかった。自分は母のいうとおり本当に頭が悪いのかもしれないとも思い、情けなさでまた新しい涙が流れた。

 

〈saraさんは、お母さんに「がんばったね」って、ひとこと言ってほしかっただけなんだよね〉

 

〈そうなんです

 この先ずっとこうなのかと思うともうイヤです

 家を出たいです〉

 

〈頼れる家はある?

 おじいさんとかおばあさんとか、親戚とか〉

 

〈どこにもないです。でもどこでもいいからとにかく出たい

 この家じゃなかったらどこでもいいです〉

 

 やや間が空いた。わがまますぎて呆れられたかと不安になった。本当に味方がこの星にひとりもいなくなってしまう。

 

 通知音が響いた。「いい加減うざい」と書かれていないことだけを祈ってメッセージを開いた。

 

〈じゃあさ

 ウチくる?〉

 

 涙がぴたりと止まった。意味を理解するのに時間がかかった。

 

〈ウチはおじさんの一人暮らしだし

 部屋もあるから

 勉強だけならできるんじゃないかな〉

 

 逃げられる? それは思ってもいなかった選択肢だった。逃げたい願望はあっても具体的な方法がなかったので実行に移せなかった。だが、こうしていま方法が眼前に差し出されている。メッセージにイエスと答えれば、本当にこの家から逃げられる。夢が現実になる。そのチャンスが手に掴めるところにある。

 

 追加のメッセージが入る。

 

〈ごめん、さすがにキモかったよね

 まあマジでどうしようもなくなったらこんな逃げ道もあるよってことで〉

 

〈おじさんの所に逃げてもいいですか〉

 

 またしばらくの間があった。

 

〈え?

 本気?〉

 

〈おじさんは前に逃げてもいいって言ってくれました

 もう私にはおじさんしか逃げる所がないんです〉

 

〈児童相談所に通報するべきなんじゃないかなあ?〉

 

〈児相は小3の時に近所の人が呼んでくれました

 でも1回だけうちに来て、ママと話をして、それで終わりでした

 なんにもしてくれませんでした

 ママは児相に通報した人に怒鳴りこみました

 パパとママは、通報されたことについて恥だとかなんとかずっと喧嘩してました〉

 

 鼻水をすすって紗良はメッセージを書いた。

 

〈もうおじさんしかいないんです

 助けてください〉

 

 泣いて返事を待った。スマホが震えた。

 

〈わかった

 無責任なことばかり言ってごめんね

 落ち着くまでウチにいていいから〉

 

〈ごめんなさい

 わがままばかり言って

 キライにならないでください〉

 

〈ならないよ

 迷惑とか思ってないから

 saraさんに頼られてむしろうれしいから〉

 

 ふたりはさっそく段取りを組んだ。

 

〈ところでsaraさんはどこ住み?〉

 

〈東京です

 世田谷の成城〉

 

〈いいとこ住んでんね

 近くに公園とかあるかな〉

 

 紗良は公園の名を告げた。そこへはまだ小学校に上がるまえ母に連れていってもらった覚えがある。砂場で遊んでいた男の子に交ぜてもらおうとすると、母は彼に通っている幼稚園はどこか訊いた。男の子が答えると、母は紗良を乱暴に抱きかかえて、「公立の保育園に行ってる子なんかと遊んじゃいけません。低レベルがうつる」と吐き捨てた。男の子の母親の表情をいまでも覚えている。あれはいま思えば怒りや憎しみの顔ではなかった。哀れみだった。自分の母が恥ずかしいことを言っているのだと子供心にもなんとなく理解した。

 

〈この公園であってるかな〉

 

 返ってきたメッセージにはグーグルアースの航空写真も添付されていた。公立の保育園がどうのという一件以来足を運んでいない公園にピンがつけられている。

 

〈そこです〉

 

〈じゃあ、明日そこで待ち合わせしよう

 くわしい時間はまたあとで連絡するよ

 荷物はあまり持たないほうがいいね

 人目につくから

 あとで必要なものは買ってあげる〉

 

〈どうしてそこまでしてくれるんですか?〉

 

〈saraさんは、やればできる子だと思うんだ

 どんな環境でも勉強する意欲を失っていないから

 私はそんなsaraさんを応援したい〉

 

 翌日は土曜日だった。昼の塾へ行くふりをして家を出た。教材用のバッグにはとりあえず教科書と参考書とノートを詰められるだけ詰めた。

 

「行ってきます」

 

 ドアが閉まるまで、紗良の声に返事はされなかった。

 

 溽暑(じょくしょ)の住宅街に人通りはほとんどなかった。公園までの道程ですれ違ったのは犬を抱いて散歩している中年女性だけだ。怪しまれないように紗良のほうからあいさつしたが、かえって怪訝そうな顔をされた。

 

 指定された時間まで余裕があるので、公園のベンチでスマホをいじりながら暇を潰した。これから自分は、脱け出せないとばかり思いこんでいた家からも、自分を成功者だと信じたいがためにセレブのしそうなことを一生懸命想像して張り切る町からも飛翔するのだ。高揚して、目についただれかに洗いざらい話してしまいたい衝動に駆られた。ちょうど公園にひとりの若い女性が入ってくるところだった。眼鏡といい服装といい、野暮ったいその格好が、変に取り繕っておらず、かえって紗良は好感を抱いた。想像のなかでだけ、紗良は彼女に計画を明かした。彼女は戸惑うだろうか、祝福するだろうか、思いとどまらせようとするだろうか。

 

 スマホの画面に影が落ちた。

 

「もしかして、saraさんですか」

 

 フルートのように中音を豊かに含んだ声だった。顔を跳ね上げると、さっき公園に入ってきていた、お世辞にも洗練されているとはいえないデザインの眼鏡の女性が、紗良を覗きこんでいた。

 

「ども、げろしゃぶおじさんです」

 

 告げられても、紗良はしばらく返事ができなかった。女性はにわかに慌てた。

 

「あ、もしかして人違い……」

 

「いえ」紗良はようやく声を絞り出せた。「saraです、DMしてた……」

 

「よかった。けっこうドキドキした」

 

 女性は相好を崩して、ややぼさぼさの頭をかいた。

 

 紗良はまだ呑み込めていなかった。

 

「え、でも、女の人……」

 

「ああ、ユーザーネームがあれだもんね。女っていっとくの忘れてた。うっかりしてた」

 

「なんで“おじさん”……」

 

「大学のころ、お酒をね、サークルで飲みに行ったとき、おっさんくせえって言われて。それでまあ、ノリでユーザーネームをげろしゃぶおじさんに。本名は、つめづめカズナ。十一月二十九日って書いて、十一月二十九日(つめづめ)。十一月二十九日カズナ」

 

「すごい名前ですね」

 

「一発で覚えられるでしょ。saraさんは、saraさんのままがいい?」

 

 紗良は、たとえ発音がおなじでも、カズナには本名で呼んでほしいと思った。

 

「今江紗良です」

 

「じゃあ紗良ちゃん。あらためてよろしく」

 

 カズナは弛緩した笑みののち、紗良をまじまじと眺めた。

 

「そういえばトシ訊いてなかったけど、何年生?」

 

「小5です」

 

「そっかあ。あのSNS、13歳からだけど、ばか正直に年齢設定することもないもんなあ」

 

 カズナは困ったような笑いをみせた。

 

「紗良ちゃん、本当に、本当に来る? 引っ込みがつかないとかじゃない?」

 

「カズナさんがだめじゃなければ、行きたいです。だめ、ですか?」

 

「全然だめじゃない。あと、敬語なんて使わなくていいよ」

 

 カズナが手を差し伸べた。

 

「じゃあ、行こっか」

 

 紗良はその手をとった。11歳の少女からすれば成人女性の手は大きかった。手を包むように握られると、全身を抱擁されているような心持ちになった。

 

 最寄り駅ではなく隣の喜多見駅まで歩いて、列車を乗り継ぎ、東京駅から新幹線に乗った。カズナの家は愛媛にあるという。

 

「問題。愛媛ってどーこだ」

 

「えっと、四国の……左上?」

 

「すごい。たいていの人は四国すら知らないのに、場所までわかるなんて。紗良ちゃんは賢いなあ」

 

「四国を知らないはないんじゃない?」

 

「賭けてもいいけど、九州の全県を言える人より、四国の4県の場所を言い当てられる人のほうが少ないね。四国なんてでかい離島みたいなもんだからね」

 

 なごやかに談笑するふたりを怪しむものはだれもいなかった。紗良が敬語をやめて正解だった。まるで本物の姉妹か親類縁者のようだった。

 

 新幹線は岡山で停まり、そこからは特急列車で瀬戸大橋を渡って愛媛に入る。

 

 主邑(しゅゆう)松山から焼き物の町砥部(とべ)を経て、斗折蛇行(とせつだこう)の三坂峠をのぼった久万(くま)高原町にバスが着くころには、夜8時を回っていた。旅行のような車窓の景色の移り変わりに興奮したのと、移動の疲労で、紗良はバスの車内ですでに熟睡していた。カズナに抱き上げられ、半睡半醒のまま歯みがきだけして布団に寝かされた。

 

 翌朝、それをカズナに詫びると「いいのいいの。ずっと乗り物に乗りっぱなしだったんだから。朝ごはんできてるよ」と、どうして謝られているのかわからないという笑顔で応じてくれた。

 

 大きな邸宅だった。コの字の古色蒼然とした日本家屋は紗良の目からみても相当の歴史を感じさせた。庭には小さいながら池もあった。土間以外のすべての部屋が畳敷きの和室だった。大黒柱には水平の線が何本か刻み付けられていて、かすれているが名前も併記されていた。化学建材の洋風建築で育った紗良には見るものすべてが新鮮だった。

 

「ここはわたしの母の実家でね」朝食を並べながらカズナがいった。「わたしのひいおじいちゃんが建てたんだって。そのころは、女中さんとか、住み込みの書生とかいたらしいけど、まあ母が産まれるころにはそんなもん廃れて、家だけがやたら広くなってね。祖父母も母も亡くなったんで、わたしに押しつけられたみたいな。何年か前までお風呂、薪で焚いてたんだよ。トイレもボットンでさ。今はちゃんとガスと水洗になってるから安心してね」

 

 紗良は豆腐の味噌汁をすすりながら窓の外に広がる山間部の眺望に目を奪われた。常緑樹に覆われた山々が連なり、水田には波打つように揺れる緑のはざまに青空と雲が写る。競うような蝉時雨(せみしぐれ)が木々から降り注ぐ。エアコンがないのに、山々から吹き下ろされた冷涼な風が火照った肌を撫でていくから不快さはない。藺草(いぐさ)の匂いのなかほのかに漂う蚊取り線香の香り。

 

「1階にはテレビがあるから、紗良ちゃんは1階(した)で勉強しなよ。わたしは2階でやるから。ひとりのほうがいいでしょ?」

 

「テレビはなくてもいいけど……」

 

「じつはトイレも1階にしかないんだ、構造上」

 

「じゃあ1階を貸してもらおうかな」

 

 カズナは在宅でイラストレーターの仕事をしているという。どんな絵を描いているかはうまくはぐらかされた。

 

 食事を終えるとさっそく紗良は勉強にとりかかった。あまりにはかどって、昼食を挟み、濡れ縁から赤光(しゃっこう)を投げかけられているのに気づいて、ようやく手が止まった。

 

 夕食の準備のためやたら急角度の、引き出しも備えた階段を降りてきたカズナに、ちゃんと勉強している証拠としてノートを見せた。カズナはぼさぼさ頭をかきながらも新鮮な驚きを浮かべ、

 

「すごいなあ、だれにもなんにも言われずにこんなに勉強したの、1日で? 偉いなあ。ここが紗良ちゃんの勉強にいい環境でよかったよ」

 

 と褒めてくれた。それこそ母から言われたかった言葉だった。紗良はうれしいと同時に、なぜカズナが自分の母親ではないのだろうかと臍を噛む思いだった。

 

 ふたりでテレビを見ながら晩ご飯を食べた。いわゆる五右衛門風呂だったという湯舟で入浴した。扇風機の風に当たりながらスイカをしゃくしゃくとかじった。まだ夜7時になったばかりということに驚いた。時間の流れが穏やかだった。

 

 紗良は1階で、カズナは2階で寝ることになった。「おやすみ。またあしたね」カズナが手を振って階段の上に消えていった。

 

 車の1台も通らない無音の夜だった。カエルがそこここで鳴いていたはずだが、音として認識されなかった。

 

 しかしどうにも寝つけなくて、紗良は枕を抱えて崖のような階段をそろりそろりと昇った。

 

「カズナさん……」

 

 階段の軋む音で気づいていたらしいカズナが「なあに?」とすぐに応えた。

 

「一緒に寝てもいい……?」

 

「寝たいの? かまん(いい)よ」

 

 つい方言が出た自分に吹き出しながらカズナがかけ布団をはぐった。久万の夜は夏でも冷える。

 

 紗良はカズナの布団にもぐりこんだ。布団がかけられた。カズナの匂いに包まれた。洗い髪から立ち昇る清潔なせっけんの匂い。ミルクのような甘い匂い。かすかに混じる汗の匂い。むせるほどの体温がこもった、安心する匂い。「おやすみ」耳許でカズナにささやかれてすぐ紗良は眠りについた。

 

 呻くようなキジバトの声で朝起きたとき、寝床には紗良ひとりだった。すでにカズナは起きて家事をはじめていた。

 

「ごめんなさい、わたし全然気がつかなくて……」

 

 謝ると、カズナは「おはよう」と笑い飛ばした。

 

 それから、日中はひとりで勉強し、夜はふたりで寝るという生活がつづいた。まるでむかしからずっとこうして暮らしてきたような錯覚に陥った。ずっと続くことを紗良は祈った。

 

 ある昼下がり、買い出しに行くといってカズナが出かけた。

 

 紗良にほんのすこしの悪戯ごころが湧いた。カズナが描いている絵をいまのうちに覗き見るのである。きっといい話のタネになるだろう。紗良は笑いをこらえて階段を四つん這いで上がり、作業中の液晶タブレットを見た。

 

 その夜、いつものようにカズナの布団を訪れると、

 

「なんかきょう様子がおかしかったから、来てくれないかと思ってた」

 

 安堵したような表情になった。

 

「どうしたの?」

 

 立ちつくしたままの紗良にカズナがいぶかしんだ。

 

 紗良は意を決して口を開いた。

 

「カズナさんは、わたしをどうして助けてくれたの?」

 

「そりゃ……紗良ちゃんが気の毒に思えたからだよ」

 

 紗良は寝間着をぎゅっと掴んだ。

 

「悪いとは思ったけど、カズナさんの液タブ、盗み見ちゃったんです」

 

 カズナの顔から血の気が引くのがわかった。

 

「カズナさんは、ああいうのが好きなの?」

 

 きょうカズナが仕上げていたのは、成人女性と少女が同性にもかかわらず性行為をするショート漫画だった。少女はどことなく紗良に似ていた。アカウントを紗良のスマホで検索してみると、カズナは成人女性と少女の絡みというジャンルで定評を得ている、わりと人気のあるイラストレーターだった。

 

「それは、誤解だから」カズナがしどろもどろに弁疏(べんそ)した。「2次元で好きなシチュだからっていっても、現実でやりたいと思ってるかどうかとは別問題だから。ミステリ作家が殺人大好きってわけじゃないのとおなじで、別に紗良ちゃんとそういうことしたいがために連れ込んだんじゃないから。もう純粋に、紗良ちゃんを助けたかっただけで」

 

「じゃあ、わたしにああいうことはしたくないの?」

 

「しないよ、もちろん。犯罪だもん」

 

「わたしじゃ、だめなの?」

 

 紗良にカズナは言葉を失った。

 

「カズナさんは、わたしなんかとはああいうことはしたくないの?」

 

「紗良ちゃん」

 

「わたし、カズナさんになにかお返しがしたい。でもわたしにはなにもない。わたしぐらいしか」

 

 カズナが紗良の名を強く呼んで駆け寄り、その両肩を掴んだ。

 

「そんな考え方はよくない。子供ってのは、生活とか勉強する環境を与えてもらった代償になにかしなきゃいけないとか、そういうのは間違ってる。与えてもらって当たり前なんだから。強いていうなら、勉強をがんばるのが、いちばんのお返しだよ。自分を安売りしちゃいけないよ」

 

 カズナが怒っているのは紗良にもわかった。だがそれは両親が紗良に怒鳴るときとはまったく異なる怒りだった。父も母も紗良のためといいながら結局自分の見栄のために罵倒していたにすぎなかった。カズナは真剣に紗良と向き合っていた。だからこそ紗良も引きたくなかった。

 

「なら、わたしがしたいっていったら?」

 

 カズナの目がわずかに動揺したのが伺えた。

 

「カズナとしたら、わたし、もっと勉強がんばれるよ……?」

 

「なにいって」

 

 紗良は背伸びをした。歯がぶつからないように気持ちゆっくりとした動きになったが、カズナは反応できなかった。よってくちびるを塞がれたカズナは言葉を最後まで出しきれなかった。

 

 かかとをふたたび床につけて、止めていた息を再開させたあとも、口唇のぬくもりはいま自分がしたことがたしかに現実であることを雄弁に語っていた。

 

 カズナは自身のくちびるに指を当て、ほほどころか耳まで紅潮させ、みるからにうろたえていた。

 

「わたし、はじめてだったの」紗良が付け足してもなおカズナはなにも意味ある言葉を紡げなかった。

 

 紗良は勇気をだしてカズナの胸に飛びこんだ。力いっぱい抱きしめる。振りほどかれる気配はなかった。

 

「続き、してくれないの……? あの漫画みたいに、カズナさんにされたいよ……」

 

 カズナの豊満な谷間に顔を押しつけながらつぶやく。見上げてみる。カズナは完全に目が泳いでいた。だが、やがて紗良の背中に腕が回された。第二次性徴期が完全には発現しておらず、黄体ホルモンがまだ十分ではないがために未発達で、折れそうなほど華奢な紗良を、ぎゅっと抱き寄せる。

 

「ほんとにやっちゃうけど、いいんすか……?」

 

「なんでカズナさんが敬語になってるの」微笑して、紗良は続ける。「きょう1日勉強がんばったごほうび、ちょうだい……?」

 

 カズナがごくりと生唾を呑んだのがわかった。紗良はカズナの人差し指で顔をくいと上げられた。さきほどとは打って変わって焦点の定まった双眸に眼底まで射抜かれた。顔が近づいてくる。接したくちびるからカズナの体温が流れこんでくるようだった。

 

 軟らかい肉が、緊張で閉じている紗良の歯を優しくノックした。どうすればいいかわからなかった。上下の歯を緩やかにこじ開けられるに任せた。生温かい固まりが、発情した軟体動物のようにうごめき、紗良の舌や、歯や、歯茎まで、口内のすみずみまで味わいつくした。歯みがきした直後の爽やかなミント臭が、しだいにカズナ本来の口臭であろう甘ったるい濃密な匂いにとって変わった。ふたりとも息が荒くなる。相手の鼻息を吸うのも苦にならなかった。ふたりの唾液が混じりあって粘液となり、理性を崩して羞恥心をくすぐる淫靡な音を和室に響かせた。

 

 舌にカズナの舌が触れるたび、紗良の尾てい骨から脊髄に電流が走った。その感覚の正体はわからないまでも、確かめたい欲求に強烈に駆られた。

 

 唾液に濡れた紗良の桜色をした小さな花弁、その奥に秘されていた花蕊(かずい)でおずおずと、カズナを迎える。

 

 カズナがふっと笑みをこぼした。「うれしい。紗良ちゃんのほうからしてくれた……」

 

 カズナは引きずりこむように布団へ導いた。紗良は抵抗することなく溺れた。

 

「紗良ちゃん。わたしのお願い、聞いてくれる……?」

 

 荒い息のまま紗良はカズナの瞳を見つめて続きを促した。

 

「紗良のつば、飲みたいなあ」

 

 寝そべったカズナに覆い被さるようにして、紗良がくちゅくちゅと口内に唾液を溜める。口をすぼめてたらりと垂らす。気泡が混じって白濁したような蜜が糸を引いて真下へ伸びる。先端をカズナの舌が受け止める。音を立てて啜り、舌の上で転がし、恍惚とした顔で嚥下する。

 

「おいしい……」

 

 紗良のほうにしても、自分のつばを甘露のように味わって飲み下されるさまを目の当たりにして、なんともいえない、制御できない感情に全身が支配される感覚に襲われた。

 

 衝動のまま、カズナにむしゃぶりつくように抱きついた。自分でもどうしたいのかわけがわからなくなった。ただカズナが愛おしくてたまらなかった。カズナが後頭部を撫でた。

 

「悪いけど」紗良の耳朶(じだ)に寄せた口でカズナがささやいた。「最後までやっちゃうからね……」

 

 その日からふたりの生活は変わった。朝食を食べる前に、口づけをする。昼は勉強と作業に没頭する。ふたりでじゃれあいながら入浴する。夜はふたりの汗を布団に染みこませる。それは紗良とカズナにとっては会話の延長にあるといってよかった。言葉に肉体の刺激を加えた実存的なコミュニケーション方法であり、互いが互いを特別に想っている事実の再確認でもあった。ひとしきり終わったあと、「好きだよ」「わたしのほうがカズナさんのこと好きだもん」「いーや、わたしのほうが紗良ちゃんを好きだね」と、お互い一糸まとわぬ姿でたわいのない言い合いをして、抱き合いながら眠る。紗良にとってはじめて手に入れた、幸福な日々だった。

 

 テレビのニュースでは、番組中にかならず1回は紗良を扱うようになった。世間的には紗良は家出をしたあの土曜日の午後、塾とは反対の方角に向かう姿を近隣住民に目撃されたのを最後に、行方不明になっていた。犬の散歩中に紗良を目撃したという住民はいう。「なんだかとても楽しそうに見えたので、とくに気にしなかったんです」

 

 小学校5年生の少女の失踪は世間の耳目を集めた。足取りが一向につかめない警察は公開捜査に踏み切った。連日、紗良の顔写真がテレビに映し出された。紗良の母がインタビューに応じた。「とても大切な一人娘なんです。大事に大事に育ててきた。1日も早く無事に帰ってきてほしい」

 

 久万高原町は日本でも人口密度がもっとも低い町なので、そこらを歩いていてだれかとすれ違うことがほとんどない。それで気が緩んだ。紗良はカズナに連れられて生協に出かけた。夕食をなににするか相談しながら買い物を楽しんだ。

 

 その帰るさ、たまたま紗良のニュースを見た直後に役場へ出かけた老人が、家に入るふたりを見かけた。その家に住んでいるのはカズナひとりだけだと古老は知っていた。それで違和感を抱いた。もうひとりの顔は、最近よくテレビで報道される女の子に酷似していた。

 

 それから1週間ほどした静かな朝まだき、背広姿の刑事たちが家を訪れた。「なんで来たかわかる?」それにカズナは落ち着き払った様子で「はい」と答えた。

 

「こちらに、今江紗良さん、いる?」

 

 事前の張り込みですべて調べあげたうえでの確認だった。口調に確信が感じられた。

 

「います。寝てます」カズナは取り乱すこともなく、むしろ解放されたかのような安堵すら見せた。「起こしてきましょうか?」

 

「いや、いい。あなたはここにいて」

 

 刑事に起こされた紗良は、警察が踏み込んできたと理解すると、とたんに泣きじゃくってカズナに助けを求めた。カズナは玄関先でじっと佇むばかりだった。

 

 家の外では何十台ものパトカーが包囲を固めていて、早朝の過疎地は音のない回転灯に赤く染められていた。

 

 そんななか、紗良の叫び声だけが響いた。

 

「どうして。いままでだれも助けてくれなかったのに。だれもわたしのことなんか見てくれなかったのに。やっと助けてくれる人と会えたのに、どうしてこういうときだけわたしに構うの。なによ、いまさら!」

 

 暴れる紗良を女性刑事が必死に抑えた。「あなたは助かったのよ」

 

「助けたいなら、ほっといてよ。あなたたちもパパやママとおなじ。わたしの話なんか聞く耳を持ってくれない。わたしを助けてくれたのは、あの人なの」

 

 それを見ていた別の刑事が女性刑事にいった。「監禁の影響で、軽い洗脳状態にあるんだろう。しばらくすれば治る」

 

 裕福な家庭に育った11歳の少女が、インターネットで知り合っただけの、顔も本名も知らない相手と会い、ついていき、見ず知らずの土地に行き着き、軟禁される。紗良の事件はセンセーショナルに報道された。現代社会の闇だの、インターネットの規制の必要性だの、紗良からすればまるで見当違いの問題を、社会的地位の高い人々が真面目な顔で語っていた。テレビのなかにはだれひとりとして、紗良が家を出奔した理由について考える人間はいなかった。

 

 担当刑事からカズナが未成年者略取及び誘拐罪で起訴されると伝えられた。紗良は警察署に自ら出向き、家出は自分の意志で、カズナは家を提供してくれただけだと訴えた。被害者が嘆願すれば警察も聞き入れないわけにはいかないと考えた。だが、担当者は「未成年からの訴えは無効だ」と突っぱねた。法的に未成年者は善悪の判断がつかない動物と見なされる。紗良は人間とすら見られなかった。被害者である紗良を置き去りにして事件は裁かれようとしていた。

 

 また、カズナは容疑を全面的に認めているとも知らされた。

 

「どうして……」

 

「反省しているんだよ。彼女は罪を償って真人間になろうとしている」

 

 紗良は激昂した。

 

「あの人だけが、わたしにとっての人間だった!」

 

 犯人逮捕、被害者はぶじ救出という円満なかたちで事件が解決され、世間は急速に関心を失った。また新たなニュース、新たな話題に飛びつき消費していた。懲役5年の求刑に対し、懲役4年6ヶ月の実刑判決が下されても、報道するメディアはネットニュースふくめひとつもなかった。

 

 季節が巡る。歳月が過ぎる。

 

 高校生になった紗良は、じっと門が開くのを待っていた。松山刑務所西条刑務支所は高松管区で唯一の女子受刑者収容施設だ。空は抜けるように青い。

 

 施設からひとりの女性がバッグ片手に歩いてくる。守衛に頭を下げる。相変わらず髪がぼさぼさだ。校門とおなじ門扉が(すべ)るように開かれる。

 

 娑婆の外に足を踏み出したカズナは、感無量という顔をした。つぎに、照れ隠しか、頭をかきながら、わざと紗良に目を合わさないように歩いてきた。なにかをいおうとした。

 

「ごめんなさい」

 

 遮るように紗良が先手を打った。カズナは立つ瀬をなくしたような、あいまいな表情になって、すべてを優しく流すせせらぎのように微笑んだ。

 

「じゃあ、タクシーでもやってもらおうかな」

 

 紗良の後ろに控えている125ccの単車を指差した。

 

「はい、じゃあこれ」紗良はカズナのためのヘルメットを差し出した。

 

「用意がいいね」

 

「出てきたのにすぐとんぼ返りになったら、カズナがかわいそうだもんね」

 

「ヘルメットごときでムショ送りにはならないっていうか、それで違反切られるんは紗良じゃないの」

 

 笑いながらヘルメットを被る。バイクにまたがる紗良の後ろに座る。

 

 腕を腰に回す。

 

「で、お客さんどちらまで?」

 

「んー。どこへでも。とにかく紗良と走りたい」

 

「わかりました」

 

「手紙にも書いたけど、入るとき素っ裸でお尻の穴まで調べられたんだよ。これはもう上書きしてもらわなきゃ」

 

「それこそムショに逆戻りだよ」

 

「紗良は、わたしとセックスしたくない?」

 

「したい」紗良は即答した。

 

「じゃあ、突っ走ったあとさ、甘いもん食べて」自分とおなじくらいの身長になった紗良の背中に、カズナが胸を押しつける。「おもいっきり、セックスしよう」

 

「そうだね」紗良は笑ってスロットルを開いた。バイクが前へ進む。「セックスしよう!」

 

 大声で、ふたりは唱和する。世界に宣戦布告する。

 

「セックスするぞ!」

 

 バイクは走り出す。蒼穹の下を、ひたすらまっすぐに。



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