藤原千花は育てたい ~恋愛師弟戦~   作:ころん

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専属執事は見守りたい(本編開始前〜1月)

 コルクボードに写真を貼る。その数も増えたもので、一枚増やすたびに満足感が募る。

 今回の写真には文化祭の最中、制服姿で何故かたこ焼きを押し付けあっているカップルの写真が。

 

 写真に写る男女は、写真を貼っている女性にとっての主と、その恋人である。写真を撮ったのはその女性であり、彼女は初花幸の専属執事で、ツバキと呼ばれていた。

 

 こんな姿を収めることができるなんて、少なくとも一年前のツバキは考えていなかった。しかしそれは実現して欲しいと毎日のように願っていたもので。

 彼女は誰よりも近くで、いつだって彼の幸せを望んでいた。

 

 主の曇った心と共に過ごしたのは、泥の中を泳ぐような3年間だった。

 しかし今は、なんて輝かしい日々なのだろうか。

 

 「ツバキ?」

 「あぁ、幸様。申し訳ございません。妄想にふけっておりました」

 「それは僕の部屋でしないでくださいね」

 

 そこに現れたのは彼女の主であった。

 呆れたように笑うその顔でさえ、かけがえのないもので。

 

 ちなみに、部屋とは言っても、正確にはいつもの寝室と繋がっているもう一つの部屋ではある。

 

 まだ時間は午前5時。

 冬のこの時間ではまだまだ外は暗い。しかし2人は普段、この時間には活動を始めていた。

 単に幸がショートスリーパーであること。早朝にお風呂に入ることを好むこと、そして。

 

 「今日のご希望は?」

 

 いつもと同じく、ツバキは幸をその椅子へと導く。

 大きな鏡を目印に整えられたその環境は、彼女が主の髪を整えるためだけに備えられたものである。

 彼女はこの役目を16年間誰にも譲ったことはなかった。そのために彼女も同じく早起きに付き合っていたのだ。

 

 「何を言っても無駄ですよね」

 「主の都合を聞くのは執事の務めかと」

 「ツバキのは本当に聞いてるだけなのです。好きにしていいですよ」

 

 ドライヤーを片手に、まずはその濡れた髪を乾かしていく。

 さらさらと流れた色鮮やかな髪も随分と伸びたものだ。

 

 

 ――相応の月日が経ったことを思い知らせる程に。

 

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 

 4年と少し前。初花別邸。

 

 ここ数週間とても慌ただしい日々が続いている。それも当たり前のことで、初花家の夫妻が事故に遭い、そして一部の使用人たちだけにその詳しい状況が知らされたからだ。

 

 だが別邸の使用人たちのその心は今、どこよりも事故にあった二人の、その息子に向いていた。

 

 事故の知らせを聞いて、真っ先に日本へと戻った少年。

 それから数週間経ち、数日前にこの初花別邸へと戻ってきた少年は、何の色も宿さない瞳のまま日々を過ごしていた。

 

 ふりまいていた笑顔は、どこにも見当たらず。

 残ったのは能面のような無表情で。

 その日はとても寒い日だった。

 暖房が効いた室内にいても尚、冷え込むほどに。

 

 ツバキは主の部屋の扉をそっと開けた。その部屋の温度調整も彼女の仕事であり、不安定な自分の主の様子を見なければならなかった。

 桜が起きてこない今、最も幸に近いのは生まれた時からずっと近くにいる彼女だ。

 

 まだ朝方、太陽さえ顔を見せていない時間である。

 当然、彼女の主はまだ寝ているはずだった。

 

 しかし扉を開けた彼女の視界に入ったのは、薄暗い部屋の中、ベッドの上で膝を抱える幸の姿だ。

 

 「幸様…?」

 

 珍しく彼女は困惑を示した。

 

 まだ部屋の中に差し込む光はわずか。

 それでも鮮やかに輝いたいたはずの金髪は。

 

 その大半を切り落とされて、ベッドの上に無残に散乱していた。

 片手に握られたハサミだけで、何が起きたかを察するには十分だった。

 

 「…つばき?」

 

 彼女は優しくそのハサミを取り上げて。

 ただ、強く強く抱きしめた。困惑と共に呟かれた自身の名前には、何も返すものがなかった。

 だから、ただ抱きしめた。

 

 彼女はよく理解していた。

 この小さな主のアンバランスさを。精神が成長をする前に、その才能から得た知識で、弱い部分を隠すことを覚えてしまった少年。

 この家以外の世界をほとんど知らずに、まるで鳥籠のようなここで愛を注がれてきた少年の。

 

 その、弱さを。

 

 いつか、明らかになるであろうその綻びも。

 

 彼女は理解していた。

 それがこんな形で、表れてしまうことまでは予想してなかったが。

 

 だから彼女は少しだけ主の両親を恨んだ。

 このような育て方を選んだのは主の母である。

 存在を隠し、大切にしまいこみ、外界との繋がりを減らしたのは主の父である。

 

 大切ならば、愛しているならば、もっと早いうちに、違う世界をもっと経験させておくべきだった。

 常々思っていたことではあったが、今更言っても意味のないことではある。

 

 ぐるぐるぐるぐる、と。

 様々な考えと、想いとが彼女の頭の中を回って。

 

 伝えたいことはあった。溢れるほどに。

 

 ツバキは有能だった。この家で大事に大事に育てられた目の前の雛鳥の専属執事に抜擢されるほどには。

 加えて親子と共に長く過ごしてきたからこそ、この小さな主が今まで何を思い、今まで何に悩み、そして今、どうしてこの行動に出たかよく理解できた。

 

 伝えたかった。

 そんなことをしても意味はないのだと。

 

 だってもう。あなたは。

 そんな外面や、ましてや内面を多少変えたぐらいでは揺らがない程には、愛されている。

 だから、愛を与えることも受け取ることも怖がらないで、と。

 

 でもそれを届けるには、彼女は近すぎた。

 近すぎたからこそ、その心の深奥には、届かない。

 

 彼女は、使用人で、友で、姉で、母だから。

 

 きっと、先に進むためには、この少年が自分自身で心から自覚をする必要があるのだ。

 

 だから、どこかで新しい風が吹くことを、彼女は祈るしかなかった。

 

 よって、口にする言葉は。

 

 「まずは、御髪を整えましょうか」

 「別にこのままでいいです」

 「なりません。私の生きがいを奪うつもりですか?」

 「…それなら仕方ないです」

 

 変わった口調に、変わらぬ甘さを含んだ主を、まずは彼女はただ、さらに強く抱きしめた。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 時は流れて。3年と少し。

 それは4月になってすぐのことだった。

 

 「幸様。司様から『お願いだけど、どうしてもでなければ何も聞かずに従って欲しいお願い』が届きました」

 「なんですかそれは。曖昧すぎます」

 

 いつも通り、ツバキは不器用な父子の伝言ゲームに付き合わされていた。

 ただそうは言っても、今回の内容はとても珍しいもので、ツバキも望んでいたものだ。

 

 「日本の高校に通って欲しいそうです。秀知院学園、という学校だそうですね」

 「今更高校に?…でも聞き覚えがありますね。お父様とお母様の母校では?」

 「よくご存知で。もう入学手続きは済んでいるので、早く日本に帰ってきて欲しいと。ちなみに入学式は昨日です」

 「意味が分かりません。何が目的ですか?初花の後継がいることは今しばらく秘匿するのでは?」

 「こちらをご覧下さい」

 

 ツバキは一枚のカードのようなものを差し出す。

 幸が受け取ったそれは、ただの学生証だった。

 そこに記された名前は、如月幸、と。

 

 「如月、ですか」

 

 それは、なかなか目を覚さない彼の母の旧姓だった。

 しばしそれを、幸は眺め続けた。

 静かな時間が少々流れた後に、口を開いたのはツバキで。

 

 「桜様、も」

 「お母様も?」

 

 ツバキが口にしたその名は、酷く懐かしい響きを持っていた。

 口にあまり出さないようにしていたからだろうか。

 

 「いつか、私に仰っていました。サチもあの学校で過ごしてくれたらいいのに、と」

 

 ここ3年以上、ツバキは主の母を引き合いに出すことをやめていた。その心を傷つけかねないからだ。

 だからこれは諸刃の剣であった。

 

 「お母様が…。2人の願いであるならば、無下にするわけにもいかないですか。ただ、何が望みなのでしょうか。初花として縁をつくるというわけでもなさそうですし」

 

 如月幸という名で作られた学生証を眺めながら、幸は呟く。

 

 ツバキはその疑問の答を持っていた。それは、本人以外なら誰にだって分かることだ。

 

 ただ、学生生活を楽しんで欲しくて。それが少年に良い影響を与えて欲しいと願った、切なる親心でしかないのだ。

 そこに何の裏もない。

 

 「そろそろ婚約者でも見つけて欲しいのでは?」

 「面白い冗談です」

 

 言葉の割に幸の表情は変わらず。

 答を口に出せないツバキにとっても、はぐらかしたようなものではあるが、少しの期待もあった。

 新しい出会いの中、初恋の一つでも経験してくれたら。

 きっと新しい風が吹くのだろう。

 

 

 そして、入学式から数日が過ぎて初花幸は、如月幸として秀知院学園へと入学したのだった。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 5月。とある日。

 

 

 『幸様、少々トラブルがありまして、迎えの車が遅れます。30分ほど学内で時間を潰していて頂けますか?』

 『構いません。大丈夫ですか?』

 『はい。申し訳ございません』

 

 そんな電話をツバキは主にかけていた。

 もちろんトラブルなんて少しも起こっていない。そんな失態を彼女がするわけもなく、いつもの迎えの場所にて車は待機済だった。

 

 それもこれも。

 幸が秀知院学園に登校を始めてから一ヶ月が経った。

 

 ツバキを始めとする初花家関係者にとっての一番の願いは、この少年が普通の学園生活を送ることである。

 しかしこの主と言ったら、その期待と願いを裏切り続けて、友達の1人すら作らず、速攻で帰ってきてはパソコンとよく分からない数式とにらめっこをして、話す相手はアメリカにいる仕事相手ぐらいである。

 

 なんて灰色の青春なんだろうか。

 父親と使用人の期待を裏切り続けているのである。

 

 だから、何かアクションを起こそうと考えたのだが、初花の身分を隠している関係上、ツバキが大っぴらに関与する訳にもいかない。

 よって少しだけ変化を加えることにしたのだ。

 まずは帰宅時間を遅くすることで、何かイベントが起こらないか、と。

 

 もちろん、そこまで大きな期待はしていない。だがこの調子で変化を加えていけば、いつか何かが起きるのでは、いや、起きて欲しい、とツバキは考えていたのだ。

 

 

 それにも関わらず、今度はその期待さえ裏切って。

 

 

 『ごめんなさい。少し遅れます』

 

 

 そんなメールを見て、ツバキは驚愕した。

 

 何か変化が、起きる気がした。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 

 6月。

 少しだけ初花家に変化が起きて、1か月が経った。

 

 幸は、帰宅してから、そして休日も、特に大きな変化はなかった。画面とにらめっこをし続けて、無表情で学校に通う。

 

 変わったことと言えば、たまに帰りが遅くなること。

 たまに携帯を見る回数が増えたこと。

 

 それは些細な変化ではあった。

 しかし、ツバキから見ればそれは大きな変化で。

 

 

 

 今日も今日とてツバキは幸の傍に控えていた。

 幼い主はいつもと変わらずにパソコンを見つめて、時折傍のノートにペンを走らせる。もうその内容はツバキには欠片も理解できないものとなっていた。

 

 2人の間に特に会話はない。これもいつものことだ。

 ツバキから話しかければ返事は返ってくる。

 必要なことがあれば話しかけてくる。

 しかし、そこに談笑と呼ばれるようなものは、なかなかなかった。

 

 「そういえば」

 「どういたしましたか?」

 

 珍しいことに先に口を開いたのは幸だった。

 まあ仕事のことではあろう、と当たりをつけてツバキは話を促す。

 

 「次の土曜日、出掛けてきます――お父様から新しいカフェの招待が来てましたよね?返事をしておいてください。2人、13時頃に伺う、と」

 「承りました。確かあのタピオカの。それでは返事を…は?え?」

 「どうしましたか?」

 「え!?誰とですか!!!」

 

 日本に戻ってきた以来、幸の外出先と言えば、学校と母の眠る病室だけだったのだ。

 

 ツバキや父が何か外出を提案したところで全て断ってきた実績もある。

 今回の新しいカフェのプレオープンへの招待だって、その一環だった。ツバキも、そして司もどうせ断られるのだろうと考えていたが。

 

 「師匠です」

 「師匠!?誰ですか!?」

 

 師匠、その言葉はとても懐かしい響きを持っていた。

 

 初花家別邸では、幼い頃の幸の『みんなと仲良くなりたい』という可愛い願いから様々なことが行われてきた。

 その中で師匠という言葉も昔はよく聞いた。

 ツバキたち使用人が主たちを名前で呼ぶのさえ、その願いの名残だ。

 

 しかし、幸はここ三年以上誰の名前も呼んでこなかった。

 誰かに厳しく接することもない、行動は今までとあまり変わらない。でもきっと、それは少しの抵抗だったのだ。

 少しだけ壁を張って、弱い自分を隠すための。

 そのために誰の名前も呼ばず、口調は少しだけ固くなり、表情は無くなった。

 

 結局あまり詳しいことは聞き出せなかったが。

 それでも、変わりつつある主に、ツバキは少しだけ喜びと安心を感じるのだ。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 7月。

 その日は快晴だった。暑すぎるぐらいに太陽が輝いていて。

 

 でもそれとは対照的に、その部屋に流れる雰囲気は陰鬱なものだった。

 

 「今日は、休みます。連絡を入れておいてください」

 

 朝、いつもとは違いなかなか起きてこない幸を心配して、ツバキが部屋に入れば第一声がそれだった。

 

 昨日と一昨日は休日であり、幸はここ最近は毎週恒例とばかりに出かけていた。

 一緒にいる相手は、藤原千花という少女である。

 ツバキが調査をしたところで、何の不安点も見つからない普通の少女。唯一気になる点と言えば、四宮家の令嬢と仲が良さそうなところぐらいである。

 

 昨日も出かけた際、ツバキもその迎えに珍しく同行した。

 その後に病室を訪れるためだったが、それからと言うもの、主の様子は少々変であった。

 

 「どこか体調が…?」

 「いいえ。それは大丈夫ですが」

 

 まだ話は続きそうで、視線でツバキは続きを促した。

 

 「僕は」

 

 懺悔でもするように、幸は呟いた。

 

 「僕は今、幸せで、楽しくて――とても痛いです」

 「…どうされたのですか」

 

 ゆっくりと歩み寄って、その髪を撫でる。

 この小さな主が弱音を吐いた姿を少なくともツバキは見たことがなかった。何があっても、その心の中に押しとどめてきたのに。

 

 

 「恋を、しました」

 

 罪を告白するように。

 悪いことではないはずなのに。

 

 「幸様。一つだけいいですか」

 「なんですか?」

 

 ツバキには言いたいことがあった。

 大きく息を吸って、言葉と共に吐き出す。

 

 「なんで恋を自覚しちゃってるんですか!?ヒドいですよ!!そこは『気づいたらあの人のことを考えてしまっているんですけれど、この気持ちはなんでしょうか?』とか聞いてきた時に私が『それは恋ですよ。大切にその気持ちを育てていきましょうね』って言うのが私の夢だったのに何で壊しちゃうんですか!!!」

 

 彼女はとても細かい夢を持っていた。しかも大量に。

 ちょっと面倒な使用人なのだ。

 

 「うるさいです」

 「ひどい!!!」

 

 でもそんなふざけた言葉とは裏腹に、ツバキは、強く強く主を抱きしめた。

 

 

 「いいんですよ、それで。あなたの恋も幸せも、誰も咎める人はいません。ゆっくりでいいんです――でも。でもそろそろ、受け入れてみませんか?」

 

 

 それはきっと、あの日、少年が髪を切り落とした日に真にかけたかった言葉だ。

 

 あの時とはもう違う。強固に張ってしまった固くて、厚い壁は、時を経て崩れかけていた。

 そのきっかけを作ったのは、献身的な愛を注いできた彼女で、変わらぬ愛を注いだ不器用な父と使用人たちで――壊そうとしてくれているのは、きっと恋心が向かう先にいる少女だ。

 

 「――分からないのです」

 「それでいいんです。誰も皆。きっと、『分からない』を抱えたまま生きています。幸様も、私も」

 

 もう少しで、届きそうで。

 もう少しで、壊れそうで。

 あと一歩、何かが起きれば。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 一週間程経って。

 

 守衛から、幸の友人が屋敷を訪れたという連絡をもらった時、彼女は何かが変わるのだと確信をした。

 

 如月幸と初花家の関係は全てを秘匿できるものでもなく、ましてや秘匿する気もなかった。

 元はと言えば、初花の名を隠したのは、その名を背負っていては単なる学校生活を送るのは難しいだろうという、親心からだ。

 しかし、そのような偽りの中で人間関係を築き続けるというのもそれはそれで難しいもので。

 機会を見て後継として発表をする予定が司にはあった。

 

 その考えはもちろんツバキの知るところでもあったのだが、ここ一週間引きこもりを続けている主に対して殴り込みをかけてくるのは流石に想定外である。

 

 それでも、ツバキの心は暖かくなった。

 

 初花と如月の関係、それに気づくことができるのは、十中八九財閥の関係者である。つまりそれは、状況から考えて、四宮家の令嬢である四宮かぐやに他ならないのだ。

 

 藤原千花という少女のためか、初花幸という少年のためか、それとも2人のためか。

 それはツバキにも分からないけれど。

 きっと彼女の主は、彼女が待ち望んできた暖かい関係を学園で築けていたのだろう、と。

 

 

 あとはただ、祈るだけだ。

 愛する主の壁が崩れることを。

 

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 

 少女が部屋に入ってから、少し経って。

 2人で部屋から出てきた姿を見て、彼女はまず安心をして。

 

 廊下の先、幸とツバキの目があった。

 

 お互いにゆっくりと歩み寄る。

 長い距離ではないはずなのに、その時間が何よりも長いものに感じて。

 

 その表情が鮮明になるにつれて、ツバキは涙を流しそうになる。

 

 触れ合えるぐらいの距離まで近づいて、幸は口を開いた。

 

 「――ツバキ」

 

 名前を呼ばれたのなど、いつ振りだろう。そう思えるほどの月日が経っていた。

 呼ばれた名前に含まれたものに、込められたものに、気づかないほどツバキは鈍感ではない。

 

 その日、その時、何かが変わったのだ。

 

 少年は3年以上の時を経て、確かな成長をした。

 人の成長は、いや、彼女にとっては息子でも弟でもあるような少年の成長はこんなにも愛おしいものなのか、と。

 

 「学校に行きます。用意をお願いします」

 

 すぐに頷いて。

 

 「もちろんです。すぐに、致します」

 

 言って、振り返る。

 ここにいれば、涙を堪えられそうにはなかった。

 

 しかし、数歩歩いたところで、再び声をかけられて。

 

 「ツバキ」

 

 彼女は振り返った。

 それ以外の選択肢はなくて、間を置かずに告げられたのは。

 

 「ありがとう、です」

 

 少々の微笑みと共に告げられて。

 ぎこちなくない、柔らかい表情で。

 ツバキは、込められた、様々な感情に気づかないほど鈍感でもなくて。

 

 「いいのです――そんな言葉をくれなくても、十分なのです」

 

 十分だ。ただ愛する主が健やかであれば、それで。

 それ以上の幸せはない。

 

 「いいえ、それでも言わなければなりません。ツバキにも皆にも。そして――お父様にも」

 

 きっと、彼女がただ傍に控えていた時間は、少しずつその壁を薄くしていた。

 遠巻きに愛を注いだ、父や他の使用人も同様で。

 

 「それならば、一つだけ叶えていただきたいことが」

 

 先ほどは言葉もいらないと言ったが、一転して変わった主張に幸は頷いた。

 

 「なんですか?」

 

 ツバキには愛する時間があった。

 一つは主の髪をいじりながら、ゆっくりとした会話をすること、そしてもう一つは。

 

 「また、皆で食卓を囲みましょう――」

 

 幸がいた。桜がいた。司がいた。時にツバキも一緒で。

 

 ツバキは視線をまっすぐに千花に向けた。

 

 「――是非、お嬢様も一緒に。私は誰よりもあなたにお礼を申し上げたいのです」

 

 幸はそれに頷いた。

 

 千花は、ちゃんと彼女と会話をしたことがない。迎えに来た際に何度か会ったことはあるが、言葉を交わしたのも挨拶程度だ。

 でも、その態度に表れた主を想う気持ちは、理解していた。

 何と返したらいいか迷った末に。

 

 「はい!喜んで!!」

 

 大きく頷いた。

 ここで遠慮をしてしまうのは、何かが違う気がした。

 

 ツバキは微笑んで、再び振り返る。

 

 「すぐに車の準備を致します」

 

 歩きながら、少しだけこぼしてしまった涙は、喜びの証だった。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 

 そして時は、1月に戻り。

 

 

 「あら。おはようございます、千花様。こんな時間に珍しいですね」

 

 いつも通りの早朝、ツバキが身支度をしてから部屋を出れば、バッタリと出会った相手は千花だった。

 二連休の始まりである今日、彼女が初花邸にいることは珍しいことではない。泊まっているのはツバキだってもちろん知っている。

 

 しかしその時間はいつも通りではない。

 千花は決して朝に弱い訳ではないが、起きる時間は一般的なものである。このような早朝に顔を合わせるのは珍しい。

 

 「なんだか目が冴えてしまったんです。寝たのも少し早かったので」

 

 確かに、その顔にあまり眠気は感じられない。

 

 「確かに、声が静まるのが少々早かったですね」

 「うう…ごめんなさいぃ…」

 

 声とは言っても嬌声だ。

 その自覚は千花にもあった。この屋敷は相当な広さがあるが、ツバキが普段使っている部屋は、様々な理由により幸の部屋の向かいにある。そのため、さすがに声も届く。

 周りの部屋は無人なので、救いはまだあるが。

 

 「仲が大変良くてよろしいかと。いえ、嫌味などではなく、心からそう思っております」

 「恥ずかしいので掘り下げるのはやめませんか!?」

 「可愛らしく新鮮な反応に私は満足しております」

 「どういうことですか!?」

 

 ツバキの主、特にあの母と息子と言ったらそういう話に恥ずかしさを1ミリも感じないので、ツバキとしてはからかい甲斐がなく、少々つまらないのだ。

 対照的に千花は良い反応を返してくれるので、お気に入りである。

 

 「まあまあ。幸様ならいつも通りお風呂だと思います。千花様もいかがですか?」

 「実は私もそのつもりで…まだ出ませんよね?」

 「恐らくは。あと30分は入っているかと」

 「あ、じゃあ急がなくても大丈夫ですね」

 

 ツバキからすれば、お風呂に突入するのもそれはそれで恥ずかしい行動だとは思うのだが。

 この少女も少女で多少基準が狂ってしまっているのではなかろうか、なんて考えた。

 

 「それでは着替えは私の方で用意致します」

 「…普通のでお願いしますよ?また変なのはやめて下さいね?」

 「保証しかねます」

 「なんでですかー!?」

 

 前回着替えを用意した際には、ちょっとだけ扇情的なものを用意したのだ。ちょっとだけ、ちょっとだけである、多分。

 ツバキは、愛する主の、可愛い婚約者のために相当な数の衣服を用意していた。

 可愛いものを更に可愛くするのが彼女の趣味なのだ。

 

 「ほらほら早く参りましょう」

 「えー!?」

 「有意義な休日を無駄に消費してはなりません」

 「割と大事な要望だったんですよ!?」

 「しっかりとエロエロなやつを用意しておくので安心して下さい」

 「なんですかそれ!安心できません!!」

 

 ツバキはこの日常を愛している。

 笑顔と愛が溢れたこの家を。

 愛らしい主を。可愛らしいその婚約者を。

 今度こそ、二度と失わないために、ちょっとした手助けをするのだ。

 

 やっぱり王道にピンクですね!と、まずは下着を取り出した彼女は、残念ながら大真面目で。

 

 ツバキはこの先も、見守っていきたい。

 この幸せを。

 幸せの名を冠した、その主を。

 




次回、さくらんぼーいの話、予定!!
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