百六十三
宇宙暦七九六年十月十日 ハイネセン・統合作戦本部
シトレの執務机の上に、一冊の文書が置かれていた。
ヤン・ウェンリー中将は、その表紙を見た。
「対イゼルローン要塞・第二段作戦 実施要領」
九月に配布された案の綴りとは、表紙の色が違っていた。案を示す青ではなく、実施を示す灰色だった。
案が、命令になっていた。
「正式に決まった」
シトレは言った。前置きはなかった。
「昨日、最高評議会の承認が下りた。統合作戦本部として、第二段作戦を実施する。指揮官は——貴官だ」
ヤンは、すぐには答えなかった。
九月の会議で、門の警戒を緩めるべきではないと言ったのは自分だった。その言葉が、イゼルローン方面へ出せる兵力を一個艦隊に限定した。そして、その一個艦隊を最も効率よく使える指揮官として、誰の名が挙がるかも分かっていた。
「目標は、何ですか」
シトレは、実施要領の一葉を開いた。
「『イゼルローン要塞駐留艦隊の撃滅、または、その戦闘能力の根本的な削減』」
ヤンは、その一文を読んだ。
撃滅、または、根本的な削減。
接続詞が一つ、二つの結末の間に置かれていた。
「私が入れさせた」
シトレが言った。
「フォーク准将は、撃滅だけを掲げるべきだと主張した。だが、それでは現場に達成不能な命令しか残らん。『または』の一語だけだが、そこに退路を残した」
「撤退条件は」
「損害の上限とともに、要領に付けた。君が九月に求めた通りにな。どちらも弱気の表れだと言われたが、退かなかった」
シトレは、そこで一度、言葉を切った。
「これ以上は、できなかった」
ヤンは、実施要領を閉じた。
作戦そのものは止められない。その中に、目標の幅と撤退の基準を残す。シトレは、命令を出す側にいながら、命令が奪うものを少しでも減らそうとしていた。
「お引き受けします」
ほかに、言いようがなかった。
シトレは、ヤンの顔をしばらく見ていた。
「すまんな」
それだけだった。
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百六十四
執務室を出ると、廊下でアッテンボローが待っていた。壁にもたれ、腕を組んでいる。
「どうでした」
「引き受けたよ」
「でしょうね」
意外そうな顔もしなかった。
二人は並んで歩き、廊下の端にある小会議室へ入った。ヤンが扉を閉めると、アッテンボローは壁面の航路図を起動した。
「先輩が断れるなら、とっくに断ってますよ。断らない人間のところに、断れない仕事が集まる。ずいぶん便利な仕組みです」
「君は、口が悪いな」
「褒め言葉として受け取っておきます。それで、規模は」
「一個艦隊。一万三千隻ほどだ」
アッテンボローの軽い表情が、少しだけ消えた。
「駐留艦隊は、一万五千」
「分かっている」
「しかも、要塞へ戻られたら終わりです。主砲が黙っていても、装甲と防御設備は残っている」
「だから、戻る前に切り離す」
ヤンは航路図に、要塞と駐留艦隊の位置を表示した。
「こちらが崩れたように見せる。追えば勝てると思わせて、要塞の防御圏から引き出す。追ってきたところで向きを変え、要塞との間を断つ」
「偽装退却、ですか」
アッテンボローの口元に、わずかな笑みが戻った。
「逃げる芝居なら、僕の得意分野です」
「本当に逃げることにならないようにしてくれ」
「努力します。ですが、相手が乗ってこなかったら」
「何も起きない」
ヤンは答えた。
「三週間、回廊でにらみ合って、補給が限界に達したら引き揚げる。手ぶらでね」
「魔術師でも、相手の心までは操れない、と」
「手品には、相手が見てくれることが必要なんだ。誘いに乗らなければ、手品は始まらない」
アッテンボローは航路図を見た。
帝国側で誰が迎撃の指揮を執るのか、確報はまだなかった。そこに映っているのは、駐留艦隊一万五千隻という数字だけだった。
「相手の指揮官次第ですね」
「そうだ。だから、これは作戦であると同時に、賭けでもある」
今度は、アッテンボローも軽口を返さなかった。
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百六十五
その日の午後、第十三艦隊司令部の作戦室に、主要幕僚が集まった。
ムライ参謀長は、実施要領を最後まで読んでから顔を上げた。
「目標が二重になっております」
声は、いつも通り几帳面だった。
「『撃滅、または、戦闘能力の根本的な削減』。現場では、どちらを基準に判断すべきでありますか」
「後段だ」
ヤンは答えた。
「駐留艦隊を、当面、回廊で大規模行動できない程度まで削る。そこまで達したら、要塞の防御圏へ深追いしない。撃滅は、敵が野戦で崩れ、こちらの損害にも余裕がある場合だけだ」
「本部への報告は」
「前段を追求しつつ、状況に応じて後段を達成する。要領に書かれている通りだ」
ムライは数秒考え、頷いた。
「承知しました」
グリーンヒル中尉が、兵站部から上がった補給図表を卓上へ展開した。
「回廊内に、わが軍の前進基地はありません。作戦可能期間は、艦隊が持ち込める燃料、食料、予備部品で決まります。最大で三週間です」
「三週間で、敵を要塞の外へ出す」
「出なかった場合は」
「引く。戦果がなくても引く」
ヤンは、図表の上に置かれた三週間の目盛りを見た。
「要塞は逃げない。だが、失った艦は戻らない」
グリーンヒル中尉は、短く頷いた。
ムライが別の資料を開いた。
「帝国側の増援に関する確報は、現時点ではありません」
「確報がないことと、増援がないことは同じじゃない」
ヤンは言った。
「ただし、分からない敵を前提に作戦を組むこともできない。現段階では、駐留艦隊一万五千を対象にする。別の戦力が現れたら、その時点で組み直す」
ヤンは、卓上の資料を一枚めくった。艦隊の編成表だった。
第十三艦隊、一万三千隻。七月にイゼルローンへ向かったときは、五千五百隻だった。
「増えた分は、どこから来たのかな」
「新造艦の配備が、およそ千二百隻。残り六千三百隻は、第十一艦隊から戦隊単位で一時抽出されます」
ムライが答えた。
「第十一艦隊は、予備配置だったね」
「はい。ハイネセンと回廊口の中間に集結し、門に異変があれば首都へ、回廊に異変があれば回廊口へ向かう両にらみの戦力であります」
「予備全体の、どれくらいを使う」
「わが第十三艦隊も、もともと予備の一部であります。合わせて、およそ三分の二です。残るのは、第十一艦隊の五千七百隻であります」
ヤンは、編成表の数字を上から下まで一度なぞった。
門の前には六個艦隊、回廊口には二個艦隊がいる。前者は、敵が出てきた瞬間には首都近傍で戦わねばならない。後者は、前へ出れば回廊口を空ける。どちらも動かせない。
攻勢に使えるのは、両方を見ていた予備だけだった。その大半が、いま目の前の編成表へ移されている。
「門の警戒配置は、減っていないね」
「一隻も減っておりません。回廊口の二個艦隊も、配置変更はありません」
「配置図の上では、どこも減っていない」
「その通りであります」
減ったのは、配置図の外にあった余白だった。何かが起きたとき、どちらかへ駆けつける艦である。
「グリーンヒル中尉。抽出分が元の位置へ戻れるのは」
「作戦終了後、回廊から帰投し、整備を終えてから順次となります。作戦期間を最大まで使った場合、一ヶ月前後です」
その一ヶ月、即応可能な予備は五千七百隻まで細る。一個艦隊規模の穴を埋められる戦力は、残らない。抜くのは一度でも、薄くなるのは門と回廊の両方だった。
「不交戦合意の延長により、門方面の危険度は一段引き下げられております」
ムライが言った。反論ではなく、統合作戦本部の判断を確認しただけだった。
「合意は、三ヶ月だったね」
「三ヶ月であります」
「一ヶ月は、その中に入っている」
「入っております」
ヤンは、それ以上言わなかった。
合意は、帝国軍の判断を一時的に縛る。能力までは縛らない。九月に自分がそう主張した結果、門方面の第一線は維持された。同時に、攻勢へ回せる戦力は予備に限られ、その予備の大半が、今度はイゼルローンへ向かう。
守れと言った配置は、書類の上でも現実にも守られていた。薄くなったのは、その外側にあった備えだった。
帝国も、門とイゼルローンの間で、同じように艦を割いているだろう。ただし、向こうには回廊に要塞という盾がある。こちらには、門にも回廊にも、艦隊以外の盾がない。艦の総数も、向こうが上回る。
六千三百隻を返せば、予備は元の形へ近づく。その代わり、ヤンは七千隻にも満たない艦隊で、一万五千隻の駐留艦隊へ向かうことになる。受け取れば、後ろに残る予備は、一個艦隊の半分にも届かない。
天秤の両側に載っているのは、比べようのない二つの危険だった。比べられないから、選べない。そしてヤンは、艦を受け取る側の席に座っている。
だから、この艦隊を失うわけにはいかなかった。次の戦果のためだけではない。帰ってきて、再び両方を見る位置へ戻すためだった。
ヤンは三人の顔を順に見た。
「ムライ参謀長、作戦命令を仕上げてくれ。撤退条件は、実施要領より厳しく設定する。それから、統合作戦本部への付帯要請を一項。抽出部隊の原隊復帰を、作戦終了後の最優先事項にしてほしい。整備の順番も、抽出部隊を先にする」
ムライの手が、一瞬止まった。
「……よろしいのですか。第十三艦隊の再編が、その分遅れます」
「遅れていい。どちらにも動けない期間を、一日でも短くしたい」
「承知しました」
ムライは、それを書き留めた。理由を訊かなかった。訊かないことが、この参謀長の返事だった。
「グリーンヒル中尉、全艦へ出撃準備開始を通達。兵站部には、三週間を戦闘継続の上限として、帰投分の備蓄を別に確保してもらってくれ」
「了解しました」
「アッテンボロー、偽装退却後の再編訓練を優先してほしい。崩れる芝居より、崩れた形から戻る方が難しい」
「承知しました、先輩」
ヤンは、作戦命令の承認欄に認証を入れた。
数秒後、司令部の表示盤で、待機中だった各艦の状態が順に変わり始めた。
補給開始。機関点検。乗員収容。航路データ受領。
灰色の表紙を持つ文書が、一万三千隻を動かし始めていた。
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百六十六
夜、司令部の私室で、ヤンは一人になった。
机の上には、実施要領と、出撃準備の進捗表が置かれていた。
一万三千隻。
それは艦の数だった。その一隻一隻に人が乗り、名前があり、家族があり、帰る場所がある。
第一段作戦で失った協力者は、一人だった。
ヤンは、シュナイダーの顔を知らない。知っているのは、名前と、マルタン大佐から伝えられた言葉と、彼が事前に示した選択だけだった。それでも、その一人が死んだはずだという認識は、今も重かった。
今度は、一万三千隻という数字の向こうに、数えきれない人間がいる。その全員を、自分の命令で回廊へ連れて行く。全員の顔を見ることはできない。
数字が大きくなるほど、一人ひとりは見えにくくなる。数字だけを見て命令できるようになったら、何かが終わる。ヤンは、その感覚に慣れたくなかった。
ふいに、ジェシカの声が蘇った。
あなたは、今、どこにいるのか。
ヤン自身も、艦隊とともに回廊へ行く。旗艦に乗り、同じ砲火の中に身を置く。だが、自分も危険を負うことと、他人を危険へ連れて行くことは、同じではない。有能であると評価されるほど、次の戦争は自分のところへ運ばれ、そのたびに、より多くの人間が自分の判断へ預けられる。
ジェシカは政治の中へ入り、仕組みそのものを変えようとしている。ヤンは軍隊の中に残り、仕組みが生む損害を少しでも減らそうとしている。二人は、同じものを憎みながら、別の場所に立っていた。
ジェシカには、一本の線のような強さがあった。ヤンは、一つの正しさだけに自分を預けることができない。民主主義を守りたいと思いながら、その民主主義が無謀な命令を生むことも知っている。日常を守るために戦いながら、戦うことで日常を壊す。その矛盾の中で、損害の少ない道を選び続けるしかなかった。
そのまっすぐさが、いつか、退くことを許さなくなるのではないか。ヤンは、その不安を打ち消せなかった。
あなたは、今、どこにいるのか。
ヤンは、声には出さずに答えた。
私は、ここにいる。憎むものの、ただ中に。
窓の外には、ハイネセンの灯があった。その一つひとつの下に、誰かの日常がある。守ろうとしている日常と、これからの戦いで損なわれるかもしれない日常とを、きれいに分けることはできなかった。
その灯の空の向こうに、門がある。門の前の六個艦隊は動かない。その外側で両方を見ていた予備の大半は、これから最長一ヶ月、自分の後ろについてくる。
残された時間は短い。できる限り備え、一人でも多く連れて帰る。それが、この場所にいる自分にできることだった。
ヤンは、実施要領を閉じ、室内の灯りを落とした。
暗くなった部屋でも、端末の受領表示だけは消えなかった。出撃準備命令を受け取った艦の数が、一つ、また一つと増えていく。命令は、すでに一万三千隻の中で、人を動かしていた。