深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第三十一話「命令」

## 百六十三

 

宇宙暦七九六年十月十日 ハイネセン・統合作戦本部

 

 シトレの執務机の上に、一冊の文書が置かれていた。

 

 ヤン・ウェンリー中将は、その表紙を見た。

 

 「対イゼルローン要塞・第二段作戦 実施要領」

 

 九月に配布された案の綴りとは、表紙の色が違っていた。案を示す青ではなく、実施を示す灰色だった。

 

 案が、命令になっていた。

 

 「正式に決まった」

 

 シトレは言った。前置きはなかった。

 

 「昨日、最高評議会の承認が下りた。統合作戦本部として、第二段作戦を実施する。指揮官は——貴官だ」

 

 ヤンは、すぐには答えなかった。

 

 九月の会議で、門の警戒を緩めるべきではないと言ったのは自分だった。その言葉が、イゼルローン方面へ出せる兵力を一個艦隊に限定した。そして、その一個艦隊を最も効率よく使える指揮官として、誰の名が挙がるかも分かっていた。

 

 「目標は、何ですか」

 

 シトレは、実施要領の一葉を開いた。

 

 「『イゼルローン要塞駐留艦隊の撃滅、または、その戦闘能力の根本的な削減』」

 

 ヤンは、その一文を読んだ。

 

 撃滅、または、根本的な削減。

 

 接続詞が一つ、二つの結末の間に置かれていた。

 

 「私が入れさせた」

 

 シトレが言った。

 

 「フォーク准将は、撃滅だけを掲げるべきだと主張した。だが、それでは現場に達成不能な命令しか残らん。『または』の一語だけだが、そこに退路を残した」

 

 「撤退条件は」

 

 「損害の上限とともに、要領に付けた。君が九月に求めた通りにな。どちらも弱気の表れだと言われたが、退かなかった」

 

 シトレは、そこで一度、言葉を切った。

 

 「これ以上は、できなかった」

 

 ヤンは、実施要領を閉じた。

 

 作戦そのものは止められない。その中に、目標の幅と撤退の基準を残す。シトレは、命令を出す側にいながら、命令が奪うものを少しでも減らそうとしていた。

 

 「お引き受けします」

 

 ほかに、言いようがなかった。

 

 シトレは、ヤンの顔をしばらく見ていた。

 

 「すまんな」

 

 その一言だけを言った。

 

---

 

## 百六十四

 

 執務室を出ると、廊下でアッテンボローが待っていた。壁にもたれ、腕を組んでいる。

 

 「どうでした」

 

 「引き受けたよ」

 

 「でしょうね」

 

 意外そうな顔もしなかった。

 

 二人は並んで歩き、廊下の端にある小会議室へ入った。ヤンが扉を閉めると、アッテンボローは壁面の航路図を起動した。

 

 「先輩が断れるなら、とっくに断ってますよ。断らない人間のところに、断れない仕事が集まる。ずいぶん便利な仕組みです」

 

 「君は、口が悪いな」

 

 「褒め言葉として受け取っておきます。それで、規模は」

 

 「一個艦隊。一万三千隻ほどだ」

 

 アッテンボローの軽い表情が、少しだけ消えた。

 

 「駐留艦隊は、一万五千」

 

 「分かっている」

 

 「しかも、要塞へ戻られたら終わりです。主砲が黙っていても、装甲と防御設備は残っている」

 

 「だから、戻る前に切り離す」

 

 ヤンは航路図に、要塞と駐留艦隊の位置を表示した。

 

 「こちらが崩れたように見せる。追えば勝てると思わせて、要塞の防御圏から引き出す。追ってきたところで向きを変え、要塞との間を断つ」

 

 「偽装退却、ですか」

 

 アッテンボローの口元に、わずかな笑みが戻った。

 

 「逃げる芝居なら、僕の得意分野です」

 

 「本当に逃げることにならないようにしてくれ」

 

 「努力します。ですが、相手が乗ってこなかったら」

 

 「何も起きない」

 

 ヤンは答えた。

 

 「三週間、回廊でにらみ合って、補給が限界に達したら引き揚げる。手ぶらでね」

 

 「魔術師でも、相手の心までは操れない、と」

 

 「手品には、相手が見てくれることが必要なんだ。誘いに乗らなければ、手品は始まらない」

 

 アッテンボローは航路図を見た。

 

 帝国側で誰が迎撃の指揮を執るのか、確報はまだなかった。そこに映っているのは、駐留艦隊一万五千隻という数字だけだった。

 

 「相手の指揮官次第ですね」

 

 「そうだ。だから、これは作戦であると同時に、賭けでもある」

 

 今度は、アッテンボローも軽口を返さなかった。

 

---

 

## 百六十五

 

 その日の午後、第十三艦隊司令部の作戦室に、主要幕僚が集まった。

 

 ムライ参謀長は、実施要領を最後まで読んでから顔を上げた。

 

 「目標が二重になっております」

 

 声は、いつも通り几帳面だった。

 

 「『撃滅、または、戦闘能力の根本的な削減』。現場では、どちらを基準に判断すべきでありますか」

 

 「後段だ」

 

 ヤンは答えた。

 

 「駐留艦隊を、当面、回廊で大規模行動できない程度まで削る。そこまで達したら、要塞の防御圏へ深追いしない。撃滅は、敵が野戦で崩れ、こちらの損害にも余裕がある場合だけだ」

 

 「本部への報告は」

 

 「前段を追求しつつ、状況に応じて後段を達成する。要領に書かれている通りだ」

 

 ムライは数秒考え、頷いた。

 

 「承知しました」

 

 グリーンヒル中尉が、兵站部から上がった補給図表を卓上へ展開した。

 

 「回廊内に、わが軍の前進基地はありません。作戦可能期間は、艦隊が持ち込める燃料、食料、予備部品で決まります。最大で三週間です」

 

 「三週間で、敵を要塞の外へ出す」

 

 「出なかった場合は」

 

 「引く。戦果がなくても引く」

 

 ヤンは、図表の上に置かれた三週間の目盛りを見た。

 

 「要塞は逃げない。だが、失った艦は戻らない」

 

 グリーンヒル中尉は、短く頷いた。

 

 ムライが別の資料を開いた。

 

 「帝国側の増援に関する確報は、現時点ではありません」

 

 「確報がないことと、増援がないことは同じじゃない」

 

 ヤンは言った。

 

 「ただし、分からない敵を前提に作戦を組むこともできない。現段階では、駐留艦隊一万五千を対象にする。別の戦力が現れたら、その時点で組み直す」

 

 作戦室が静かになった。

 

 ヤンは三人の顔を順に見た。

 

 「ムライ参謀長、作戦命令を仕上げてくれ。撤退条件は、実施要領より厳しく設定する」

 

 「承知しました」

 

 「グリーンヒル中尉、全艦へ出撃準備開始を通達。兵站部には、三週間を戦闘継続の上限として、帰投分の備蓄を別に確保してもらってくれ」

 

 「了解しました」

 

 「アッテンボロー、偽装退却後の再編訓練を優先してほしい。崩れる芝居より、崩れた形から戻る方が難しい」

 

 「承知しました、先輩」

 

 ヤンは、作戦命令の承認欄に認証を入れた。

 

 数秒後、司令部の表示盤で、待機中だった各艦の状態が順に変わり始めた。

 

 補給開始。機関点検。乗員収容。航路データ受領。

 

 灰色の表紙を持つ文書が、一万三千隻を動かし始めていた。

 

---

 

## 百六十六

 

 夜、司令部の私室で、ヤンは一人になった。

 

 机の上には、実施要領と、出撃準備の進捗表が置かれていた。

 

 一万三千隻。

 

 それは、艦の数だった。その一隻一隻に、機関があり、砲があり、そして、乗り組む将兵がいる。

 

 第一段作戦で失った協力者は、一人だった。

 

 ヤンは、シュナイダーの顔を知らない。知っているのは、名前と、マルタン大佐から伝えられた言葉と、彼が事前に示した選択だけだった。それでも、その一人が死んだはずだという認識は、今も重かった。顔を知らない一人ですら、これだけ重い。

 

 今度は、一万三千隻という数字の向こうに、数えきれない人間がいる。名前があり、家族があり、帰る場所がある。その全員を、自分の命令で回廊へ連れて行く。全員の顔を見ることは、できない。

 

 数字が大きくなるほど、一人ひとりは見えにくくなる。見えにくくなることを、ヤンは恐れていた。数字だけを見て命令できるようになったら、何かが終わる気がした。

 

 ふいに、ジェシカの声が蘇った。

 

 あなたは、今、どこにいるのか。

 

 テルヌーゼンの広場で、彼女は権力を持つ者たちへ問うた。人を戦場へ送るとき、その言葉を発する者はどこにいるのか、と。

 

 ヤン自身も、艦隊とともに回廊へ行く。旗艦に乗り、同じ砲火の中に身を置く。だが、それは免罪符にはならなかった。自分も危険を負うことと、他人を危険へ連れて行くことは、同じではない。むしろ、有能であると評価されるほど、次の戦争が自分のところへ運ばれてくる。そのたびに、さらに多くの人間が、自分の判断に預けられる。

 

 ジェシカは政治の場へ入り、仕組みそのものを変えようとしている。ヤンは軍隊の中に残り、仕組みが生む損害を少しでも減らそうとしている。二人は、同じものを憎みながら、別の場所に立っていた。

 

 ジェシカには、一本の線のような強さがあった。ヤンには、それがなかった。一つの正しさだけに、自分を預けることができない。民主主義を守りたいと思う。同時に、その民主主義が無謀な命令を生むことも知っている。人々の日常を守るために戦いながら、戦うことで、その日常を壊す。その矛盾の前で、ヤンにできるのは、損害の少ない道を選び続けることだけだった。

 

 ジェシカの強さが、いつか彼女自身を追い詰めないことを、ヤンは願った。

 

 あなたは、今、どこにいるのか。

 

 ヤンは、声には出さずに答えた。

 

 私は、ここにいる。憎むものの、ただ中に。

 

 窓の外には、ハイネセンの灯があった。その一つひとつの下に、誰かの日常がある。守ろうとしている日常と、これからの戦いで損なわれるかもしれない日常とを、きれいに分けることはできなかった。

 

 残された時間は短い。できる限り備え、一人でも多く連れて帰る。それが、この場所にいる自分にできることだった。

 

 ヤンは、実施要領を閉じ、室内の灯りを落とした。

 

 暗くなった部屋でも、端末の受領表示だけは、消えなかった。出撃準備命令を受け取った艦の数が、一つ、また一つと、増えていく。命令は、すでに一万三千隻の中で、人を動かしていた。

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