百六十七
宇宙暦七九六年十月十日 オーディン・ローエングラム元帥府
報告書は、三枚だった。
ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥は、それを二度読んだ。
叛乱軍の動きが、九月末から変わっている。ハイネセン周辺の軍需輸送が増え、後方の補給部隊が再編されている。艦隊単位の演習も繰り返され、その内容は回廊方面への進出を想定したものだった。
「一個艦隊規模と見ます」
報告を持ち込んだ幕僚が言った。
「叛乱軍は、門の側に相当な戦力を残したままです。回廊へ向けられるのは、多くて一万三千から一万五千隻。出撃は、早ければ数日以内かと」
「分かった。下がれ」
幕僚が退出すると、ラインハルトは報告書を机に置いた。
七月、叛乱軍の一個艦隊がイゼルローンの主砲を沈黙させ、味方に一隻の損害も出さずに引き揚げた。あの一件から、三ヶ月が過ぎている。
勝利は、それだけでは終わらない。次の勝利を要求する。
「もう一度、来るということか」
誰に問うたわけでもなかったが、隣に立つ赤毛の青年が答えた。
「一度の成功は、次の期待を生みます。指揮官が同じなら、なおさらでしょう」
ジークフリート・キルヒアイスだった。
「同じ指揮官だと思うか」
「他に、誰を選ぶ理由がありますか」
ラインハルトは、窓の外へ目をやった。オーディンの空は、この季節、いつも灰色に濁っている。
あの男が、また来る。
ヤン・ウェンリー。三十歳。少将から中将。要塞の主砲を、一発も撃たせずに黙らせた男。
「イゼルローンには、誰がいる」
「駐留艦隊司令官はベルガー大将、要塞司令官はファルケンベルク大将です。八月に着任しました」
「腕は」
「ベルガー大将は堅実です。家格ではなく、実務で大将まで昇った人物です。ファルケンベルク大将は——門閥貴族の出です」
キルヒアイスの声には、余計な評価が含まれていなかった。だが、その言い方だけで十分だった。
駐留艦隊一万五千。要塞の主砲は、まだ沈黙している。堅実な将が一人、家格の高い将が一人。それで、ヤン・ウェンリーを迎える。
ラインハルトは、頭の中で数を並べた。
叛乱軍の上限見積もりは一万五千。指揮官がヤンなら、二倍に近い兵力を用意したい。三万あれば、戦術上の余裕を持って迎えられる。
駐留艦隊は一万五千。ならば、自分の麾下から、もう一個艦隊を出すべきだった。
「足りんな」
ラインハルトは言った。
その一言に二つの意味があることは、キルヒアイスにも分かっていた。イゼルローンにいる戦力が足りない。そして、それを埋めるために自由に使える戦力も足りない。
オーディンから八十万キロの首都圏外縁には、ハイネセン近傍へ直結する門が開いている。そこには六個艦隊を並べてあった。
叛乱軍も、向こう側に同じだけ置いている。互いの数は、フェザーンを通じて互いに知られていた。
どちらも減らせない。減らした瞬間に、相手が先に通行技術を得ていた可能性を、否定できなくなる。
ラインハルトは、卓上の配置表に目を落とした。
門方面、六個艦隊。イゼルローン、駐留艦隊一個。領内、四個艦隊。手元の予備、二個艦隊。
視線は、領内の四個艦隊のところで一度止まり、それから先へ進んだ。そこに五万隻と記されていても、自分の命令で動く五万隻とは限らなかった。
皇帝の容態も悪い。門、イゼルローン、そして帝国内部。三つの危険に備えなければならない。
そのために確実に使えるのは、手元の予備だけだった。
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## 百六十八節(オーディン・ローエングラム元帥府)
ラインハルトが次に呼んだのは、一人の中将だった。
オスカー・フォン・ロイエンタールは、部屋に入ると、いつもの通り完璧な姿勢で敬礼した。左右で色の違う目が、ラインハルトの手元の報告書に一瞬だけ向いた。
「叛乱軍が、また回廊へ出るらしい」
ラインハルトは前置きを省いた。
「規模は一個艦隊。指揮官は、おそらく前回と同じだ」
ロイエンタールの異色の双眸が、わずかに細くなった。
七月、この男は叛乱軍本隊への攻撃命令を発する寸前だった。「ファイ——」の一語が完成する前に、要塞司令部からの緊急通信が届いた。命令は撤回され、艦隊戦は始まらなかった。
あの中断は、まだ彼の中で終わっていない。
「行ってもらう」
ラインハルトは言った。
「一万隻。今回はベルガー大将の駐留艦隊との連携を前提とする。ベルガー大将は堅実な人物だ。互いの指揮権を侵さず、必要な協同を取れ」
「どこから出されますか」
「予備からだ」
予備は二個艦隊、約二万五千隻。そこから一万を抜けば、手元に残るのは一万五千だった。
ロイエンタールは、一度も配置表を見なかった。
「敵の上限見積もりは一万五千。駐留艦隊と合わせて二万五千。最大見積もりの倍には、五千足りません」
ラインハルトは、同じ計算が終わっていることを知った。
「一個艦隊を出したかった。一万五千だ。だが、出せん」
「門ですか」
「あそこの六個艦隊は、一隻も減らせん」
ロイエンタールは、それ以上を訊かなかった。
門が理由なのは事実である。しかし、予備を一万五千も手元に残す理由が、それだけではないことも理解していた。皇帝の病状と、領内の四個艦隊。口に出されない数字が、配置表の外にある。
「一万で足りるようにしてくれ、とは言わん」
ラインハルトは言った。
「足りない戦力で、どこまでやれるかを見せてくれ。それが今、私が貴官に頼めることだ」
「承知いたしました」
ロイエンタールは即答した。
「ベルガー大将との連携要領は、出発前に確認いたします。要塞司令部とは、権限の線を明確にしておきたいと存じます」
前回の停止命令については、口にしなかった。
「そうしてくれ。今回は、誰がどこまで判断するかを曖昧にするな」
ラインハルトは、そこで一度、言葉を切った。
「一つ、先に言っておく。私が撤退を命じることがあれば、それは戦況以外の理由だ。その時は、理由を問わずに退け」
ロイエンタールの異色の双眸が、ラインハルトの顔に留まった。訊きたいことがあるはずだった。だが、この男は訊かなかった。
「御意」
ロイエンタールは敬礼し、退出した。
扉が閉まった後も、ラインハルトはしばらくその方を見ていた。
あの男は、前回より深く踏み込むだろう。だが、その深さまで含めて任せられる者は、他にいなかった。
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百六十九
同日夕刻。国務尚書官邸。
クラウス・フォン・リヒテンラーデの執務室は、暖房が効きすぎていた。
老人は寒がりなのだろう。あるいは、訪ねてきた者が汗をかくのを、何十年も眺めてきたのかもしれない。
ラインハルトは、襟に手をやらなかった。
「イゼルローンの主砲と、門の解析の件だ」
リヒテンラーデは、挨拶を省いた。座れとも言わなかった。
机の上には、二冊の報告書が置かれていた。
一冊は、トゥールハンマーの修復計画。もう一冊は、門内部の長距離把握手段に関する研究計画だった。
「技術部の報告は読んだかね」
「読みました」
要塞の修理に専門技術者を集中すれば、主砲は一年ほどで本来の機能を取り戻せる。しかし、その間、門の解析はほぼ止まる。
門の解析を優先すれば、主砲の完全復旧は二年近くまで延びる可能性がある。
両方を予定通り進めるだけの技術者は、帝国にはいなかった。
「七月の報告では、修復期間は最低一年でした」
「要塞だけを直すならな」
リヒテンラーデは、痩せた指で二冊を左右に分けた。
「こちらが要塞。こちらが、あの穴だ。必要な技術者は重なっている。人間の数は、一つしかない」
あの穴——リヒテンラーデは、ワームホールをそう呼ぶ癖があった。オーディンの喉元に開いた、閉じない穴。
「同じことを、私は今日、艦でやりました」
ラインハルトは言った。
「回廊へ一個艦隊を送りたかった。門と領内への備えを崩せず、一万に減らしました。技術者と同じ形です」
リヒテンラーデが、初めて顔を上げた。
その目に感心の色はなかった。測る者の目だった。
「気づいたか」
「気づかざるを得ませんでした」
この老人は、自分がどこまで見えているかを測っている。よく切れる刃は便利だが、柄を握る手まで傷つける。その値踏みだった。
「この帝国には、二つの正面がある」
リヒテンラーデは、左右に分けた報告書へ手を置いた。
「どちらも塞がねばならん。塞ぐ手は一組しかない。技術者も、艦も、兵も、同じだ。割れば、どちらも薄くなる」
「一つ、伺ってよろしいですか」
「何だ」
「領内の四個艦隊。あれは、何のために置かれているのですか」
リヒテンラーデの手が止まった。
「貴族領の警備だ」
「警備」
「そう書いてある」
老人は、それだけ言い、ラインハルトの顔から目を離さなかった。
——待っている。
あの四個艦隊は当てにならない、と口に出すのを待っている。口にすれば、証拠のない断定になる。若い元帥は帝国軍の一部を根拠なく疑った、と記録することもできる。
餌だった。
警備という言葉は正しい。門閥貴族はまだ旗を揚げていない。四個艦隊も、命令通り貴族領を警備している。
嘘がないから、手をつけられない。
「そうですか」
ラインハルトは言った。
それだけ言って、口を閉じた。
リヒテンラーデの目が、わずかに細くなった。落胆でも安堵でもない。一つ、覚え書きが増えたという目だった。
老人は二冊の報告書の角を揃えた。
「元帥。帳簿というものはな、数と勘定が同じとは限らん」
「……はい」
「あの四個艦隊は、数には入っている」
勘定に入るとは、言わなかった。
ラインハルトは、その一言を頭の中で二度読んだ。この老人は、四個艦隊のことだけを言っているのだろうか。数に入っている者が、勘定に入るとは限らない。今この部屋にいる二人も、互いの帳簿の上では、まだ数のうちである。
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百七十
四個艦隊の指揮官たちは、まだ誰にも明白な忠誠を移してはいない。
だからこそ、勘定に入れられなかった。
彼らは、どちらが勝つかを見ている。自分を取り立てた家に従う者もいれば、勝った側へ従う理由を探している者もいる。いずれにせよ、決着が見えるまでは動かない。
門閥貴族にとっても、最も安全なのは待つことだった。
叛乱軍と手を組む必要はない。ラインハルトと叛乱軍が戦い、双方が艦を減らせばよい。動かずにいた五万隻は、何もしないまま相対的な重みを増す。
命令違反ではない。費用もかからない。貴族領を警備したまま、勝者が疲れるのを待てる。
叛乱軍と戦って勝つことは、そのまま、背後の五万隻に対して弱くなることだった。
安く勝たねばならない。
安く勝てなければ、勝っても負ける。
ラインハルトは、その結論を口にしなかった。口に出した瞬間、それもまた記録になる。
門方面の六個艦隊は、今のところ任務に従っている。それで数えるほかなかった。だが、確実に自分の意志で動かせるのは、予備と、自分が選んだ麾下の将たちだけだった。
リヒテンラーデは、二冊の報告書へ指を戻した。
「どちらに重みを置く」
「優先順位を一つだけ付けるなら、穴です」
ラインハルトは答えた。
「要塞には、装甲と駐留艦隊が残っています。だが、叛乱軍が先に大艦隊を秩序立てて通せるようになれば、その時点でオーディンの前面が戦場になります」
「私も、危険の大きさだけなら、そう見る」
リヒテンラーデは、要塞修復の報告書を指で押した。
「だが、こちらを止めれば、主砲を欠いた回廊防衛が長く続く。ヤン・ウェンリーが一度で満足すると思うかね」
ラインハルトは答えなかった。
両方が正しかった。だから、一つを選べば、もう一つの危険を自分の名で引き受けることになる。
「元帥。正しい意見というものは、責任を取らん」
「では、どうなさいますか」
「両方を止めない」
リヒテンラーデは、二冊の報告書を重ねた。
「要塞にも、穴にも、それぞれが要求する人数の半分程度を回す。要塞の修理は遅れる。穴の解析も遅れる。どちらも予定通りには進まん。だが、どちらかを完全に捨てたという記録も残らん」
軍事上、最善の配分ではない。政治上、最も説明しやすい配分だった。
「決裁は、政府と軍の共同判断とする」
老人は続けた。
「元帥にも署名してもらう」
ラインハルトは、その意味を正確に受け取った。
うまくいかなかったとき、記録には、国務尚書と軍の元帥が協議の上で決定した、と残る。老人が欲しいのは判断への助言ではなく、自分の名の隣に置く名前だった。
断れば、配分そのものは老人の名で実施されるだろう。そして自分には、政府との協議を拒んだという一項が残る。今、それを選ぶ利はなかった。
戦場なら、戦力の分散は敗北を招く。だが、これは戦場ではない。二つの敗北の可能性を、同時に少しずつ遠ざける場所だった。
「異存はありません」
ラインハルトは言った。
言った瞬間、自分が最も嫌う種類の判断に名を貸したことを理解した。決めきらない判断。天秤を、どちらにも傾けない選択。
覚えておこう、と思った。この老人が自分の名を必要とするのは、責任を分けたいときだけである。そういう相手との付き合い方は、一つしかない。必要な間だけ、必要なものを渡す。
「賢明だ」
リヒテンラーデは言った。
褒め言葉には聞こえなかった。この老人が賢明と言うとき、それはよく切れる刃物に向けられる言葉だった。
ラインハルトは一礼して、部屋を出た。暖房の熱が背中から離れ、廊下の冷たい空気が首筋に触れた。
皇帝が死ねば、この老人は摂政の座を狙うだろう。そのとき必要になるのは軍であり、軍を握っているのは自分である。老人は自分を使っているつもりでいる。どちらが使われているかは、あと一年もすれば分かることだった。
扉が閉まると、リヒテンラーデは椅子に深く座り直した。
若い青年は、今日も餌に手をつけなかった。しかも、餌が何であったかまで理解した。拾いすぎる、とリヒテンラーデは思った。
門閥貴族を片づけるまでは、必要な男である。片づけたあとは、要らない。むしろ、危ない。
だが、そう考えているのは自分だけではないだろう。あの目は、そういう目だった。
老人は、机の上の書類をもう一度揃えた。角を合わせ、端に寄せる。
順番は、まだ決まっていない。どちらが先に、相手を勘定から外すか。それだけの話だった。
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百七十一
元帥府へ戻ると、キルヒアイスが待っていた。
「配分は、双方に半分程度と決まった」
ラインハルトは、外套を脱ぎながら言った。
「要塞も、門も、予定通りには進まん」
「……そうですか」
キルヒアイスは、それ以上は言わなかった。だが、その短い返事に含まれたものを、ラインハルトは聞き取った。
「不満か」
「いいえ。ただ、ラインハルト様。どちらも必要な時期に届かない可能性があります」
「あるだろうな」
ラインハルトは椅子に腰を下ろした。
「だが、他に取れる形がなかった」
その答えの薄さは、本人が一番よく分かっていた。
机の上には、帝国全図が広げられていた。オーディン。イゼルローン。そして、地図の上では一点にしか見えない門。
要塞を持っているから、修理しなければならない。修理に人を割けば、門の解析が遅れる。既存の優位を保つために、次の競争で手が遅れる。
叛乱軍には、直すべき巨大要塞がない。門だけに技術者を注ぐことができる。
「キルヒアイス」
「はい」
「持つ者は、持っているものに縛られるのだな」
キルヒアイスは、少し考えてから答えた。
「ですが、持っているから守れるものもあります」
「そうだ。だから捨てられん」
ラインハルトは、帝国全図の領内へ視線を移した。
「自由に置ける艦隊が、もう一個あれば、私はあそこへ置く」
貴族領が重なり合う、帝国の内側だった。
「置ける戦力がありません」
「ない」
門は減らせない。イゼルローンには増援が要る。手元の予備は、皇帝の死後に起こりうる事態へ残さねばならない。
帝国軍の名簿には、なお多くの艦があった。だが、ラインハルトが今すぐ動かせる艦は、その名簿ほど多くなかった。
「ロイエンタールは、明日出発します」
キルヒアイスが言った。
「一万隻。本来なら、あと五千は付けたかったところです」
「言うな」
ラインハルトは短く言った。
キルヒアイスは、それきり数の話をしなかった。
「あの男は、前回のことを忘れていない」
「忘れないでしょう」
キルヒアイスは静かに言った。
「命令に従ったことが正しかったとしても、その正しさは、失った戦機を返してはくれません。二度目には、前より深く踏み込むはずです」
ラインハルトは、赤毛の親友の顔を見た。
この男は、戦場の話をしながら、人の心の話をする。
「止めるべきか」
「いいえ」
キルヒアイスは首を振った。
「他に送れる人がいません。それに、ロイエンタール中将は深く踏み込みますが、溺れません。そういう方です」
窓の外で、オーディンの灰色の空が夜へ沈み始めていた。
ラインハルトは、報告書の一枚目にもう一度目を落とした。
叛乱軍、一個艦隊。指揮官、おそらく前回と同じ。
その男が、こちらの誰と当たるかを、今日、自分が決めた。
向こうは、まだ知らない。