潮騒を追う夜雨   作:竹河参号

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第二幕 止め鐘を撞く行陣(2)

 今州城北門を出た一行は、そのまま北上して石崩れの高地へと向かった。夜帰軍後方営『伏波』の大規模な駐屯地が存在するそうだ。

 道中、鑑心(カンシン)の依頼の人物について聞き込みをしたり、ついでに偵察装置の様子を頼まれたり、いざ行ってみると追放者による盗難現場に遭遇したり……無駄足とも言い難いが、成果とも言い難い過程があった。

 一行は、二枚羽が互い違いに旋回する鋼の塔――信号塔を擁する入口から、駐屯地に踏み込んだ。

 

 

「――随分、殺伐としているな」

 

 

 基地内のぴりりと張り詰めた雰囲気に、最初に口を開いたのは追跡者だった。

 今州城内の、長閑で賑やかな雰囲気とは大違いだった。誰も彼もがせわしなく動き、あちこちで怒号混じりの指示が飛んでいる。最も衝撃を受けていたのは、山奥で修行に明け暮れ、対人経験が少ない鑑心(カンシン)だった。

 

 

鑑心(カンシン)さん、平気ですか?」

「貧道が戦場に出るのは初めてだ……城内との雰囲気がまったく違う」

 

 

 秧秧(ヤンヤン)の声掛けに、鑑心(カンシン)はごくりと唾を呑んだ。ここ『伏波営』は、残像との戦闘を繰り広げる最前線ではない。前線で負傷した兵士を受け入れ、治療を施し、また前線に送り返す。必要ならば戦闘不能として内地に送還し、また内地から補給物資を受け取って管理し、前線に送り込む――いわば第二の戦場だ。その忙しさは、激しい戦闘を繰り広げる前線に、勝るとも劣らない。

 

 

「足りません。全然足りません。再度城内と連絡を取り、できるだけ早く追加の物資を要請してください」

「城内に大至急手続きを進めてもらいましょう。たった一秒の遅れが前線を崩壊させます。チッ、あいつらはそんなことにも気づいてないの……?」

「気を付けなさい! この箱に入っているのは全部医薬品よ。もし怪我人が使える薬が無くなったら、誰が責任を負うの? 丁寧に扱いなさい!」

「オーバークロックした共鳴者がいる? すぐ移動してください、私が対応します」

 

 

 四人は探しもののために声を掛けようとしたが、せわしなく走り回る衛生兵や輜重兵の姿を見ていると、どうにもその余裕はなさそうだ。終いには、踏白の制服を着た秧秧(ヤンヤン)の姿を見つけ、支援要員と勘違いして仕事を依頼してくる始末。あまりの多忙ぶりに、つい「人違いです」とも言い返せず、四人はなし崩し的に衛生兵の仕事を手伝う羽目になった。つい先ほど、前線から大規模な負傷兵の収容があったらしい。

 

 

「軍隊というのは、こんなに忙しいのだな……息つく暇もない……」

「『伏波営』は、後方支援の軍ではなかったか?」

「はい。残像潮を止める支援部隊として、城外で危険に晒されているのは事実ですが、先鋒の『破陣営』ほどではありません。

 しかし、命令に従い、敵を打ち倒すことに専念すればいい前線とは違い、後方の人員は考慮しなければならないことがたくさんあります」

「それにしても、これだけ張り詰めているとはな……」

 

 

 とにかく、ここが落ち着かないことには話にならない。四人は衛生兵の指示に従い、負傷兵の処置の手伝いをした。言われた医薬品を取り出し、治療の痛みに呻く患者を抑えつけ、包帯を巻く手伝いをし、ベッドに運ぶ――その繰り返し。数えている暇どころか、時刻を確認する余裕さえなかった。右に左に奔走している間にも、次々に負傷兵が運び込まれてくる。

 

 

「だから、こんなのかすり傷だって! 俺は前線に戻る!」

「落ち着いて下さい、出血が止まっていません」

 

 

 担架で運ばれた負傷兵が騒いでいた。出血の興奮に酔っているのか、衛生兵を押し退けて前線に戻ろうとしている。その左腕は、幾筋もの創傷でずたずたに爛れていた。前線での戦闘どころか、日常生活すら危うい重症だ。漂泊者たちが抑えつけて治療を受けさせようとする傍ら、追跡者は懐から布製の護符を取り出した。風鳴り丘の遊牧民に伝わる、“二本指”の姿を縫い付けた護符だ。

 

 

「――“永遠なる黄金樹よ、女王マリカの祝福よ、我らの傷を癒し活力を与えたまえ。ここに『回復』の奇跡を望む”……」

 

 

 追跡者の祈祷に応えるように、護符から柔らかな黄金の光が溢れ出し、周囲を包んだ。光は負傷兵の傷に入り込むと、包帯に滲む血を僅かに和らげた。

 

 

「これは……追跡者さん、治癒の共鳴力も使えるのですか?」

「――チッ。所詮は猿真似だな」

 

 

 驚く秧秧(ヤンヤン)をよそに、追跡者は舌打ちをした。多少出血が治まっただけで、完全治癒には程遠い。()()の祈祷は深い創傷をも癒してみせたが、間に合わせの護符に信仰心の足りない己では、かすり傷を塞ぐのが精々といったところか。追跡者は騒ぐ負傷兵を抑えつけながら声を掛けた。

 

 

「おい、この程度で治らないようなら重症だ。大人しく治療を受けろ」

「必要ねぇ! 俺の共鳴能力は自分で傷口を癒す、ただ今回は少し時間がかかるだけだ! 治療は俺より必要な奴に回せ!」

「だったら尚のことだ」

 

 

 暴れる負傷兵の肩を抑えつけ、追跡者は力強く言葉を重ねた。

 

 

「生き残ったのなら、簡単に死ぬな。勝ち残ったのなら、簡単に捨てるな。

 今は治療に専念しろ。一秒でも早く傷を治して、戦場に戻り、敵を殺せ。そうしなければ、お前は戦友を守れない」

「……わ、分かった……」

 

 

 追跡者の気迫に押され、思わず気勢を緩めた負傷兵を、衛生兵たちが飛びつくように抑えつけた。軍医にも、治療に特化した共鳴者が厳選されている。治療は彼らに任せ、漂泊者たちはその手伝いに専念した。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れさまでした。少し休んでいいですよ」

 

 

 負傷兵の収容がようやく落ち着き、衛生兵の一人に声を掛けられるころには、すでに夕暮れを迎えていた。深紅に染まる空をのんびり眺めることができるのは、僥倖と言っていいか、どうか。

 

 

「皆、ひどい怪我だ……」

「心配しないでください。全員処置は終わっています、そのうちまた戦えるようになりますよ。

 それに、これでもマシになった方なんです。忌炎(キエン)将軍が夜帰の制度を改正して以来、負傷者の数は大幅に減りました」

「この有様で……?」

 

 

 衛生兵の何でもないような説明に、鑑心(カンシン)は愕然とした。ただでさえ素人四人を手伝わせるほどの多忙ぶりだったというのに、全盛期はこれより多かったというのか。

 

 

「先輩方の話によると、以前の軍隊は一般人も多くいたそうで……そのころの戦場では、死体が散乱し、血が川となり、辺りには雨でも洗い流せないほどの血の臭いが漂っていたらしいです。

 それに、一つ一つの傷は……たくさんの敵を倒した証です。夜帰軍の共鳴者は皆一騎当千の強者。こんなにたくさん傷を負ってしまったのは、きっと想像しきれない程の敵を倒したってことなんですよ」

「皆、讃えるべき英雄だ」

 

 

 自分自身を鼓舞するかのような衛生兵の言葉に、漂泊者は同意した。兵士たち一人一人の奮闘があればこそ、今州と瑝瓏の平和が支えられ、民衆の安寧が成り立っている。もちろん後方支援の彼らを含めて、皆が讃えられる偉業をなしている。

 

 

「国を助け民を救い、衆生を済度する――夜帰軍の戦士と比べれば、貧道が成したことなどまだ足元にも及ばないようだ」

 

 

 凄惨な光景と、それでもめげない人々の奮闘は、鑑心(カンシン)の心をいたく刺激したようだった。

 

 

 

 

 ――追跡者には、よく分からない感情だった。

 ファルハドも、サイードも、そして父も、讃えられるべき英雄だった。自らの命を懸けて    を産んだ母も、女だてらに剣を振るったバハーレフも……誰もが果敢に“夜”に立ち向かい、戦い抜いた。

 だが、皆死んだ。

 誰もが夜に狂い、闇に怯え、終いには敵味方の区別もつかなくなり、互いに殺し合った。

 あとに残ったのは、無数の墓標だけ。不格好な石碑だけが、彼らの生きた証。彼らの奮闘の先には、何も残らなかった。

 生き残ったのは、自分だけ。

 

 

 追跡者は、黙って空を見上げた。

 ――思えば()()()も、こんな夕焼けだったような気がする。

 どうしてシリンではなかった? どうして父ではなかった? どうしてメフリではなかった? どうしてアーラシュではなかった?

 

 

 戦いの後に、残るモノなど何もない。

 栄光は陰に朽ち、夜の闇に溶けるだけ。

 やがて火は消え、闇ばかりが残る。

 

 

 

 

 ――それでもなお、残ったもの。

 この胸に燻り、四肢に力を与え、進め進めと急き立てるもの。

 

 

(ああ、そうだ)

 

 

 ()()()

 

 

 “夜”を滅ぼす誓い。不格好な石碑だけが知る、不変の願い。

 その下に眠る彼らの犠牲に、報いるために。

 

 

 その果てに、己がどうなろうと――

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 とはいえ、本来の目的を忘れてはいけない。三人は『印』の謎を解くため、鑑心(カンシン)は人探しのため、軍需官を捜し出して話を聞いた。

 鑑心(カンシン)の探していた致遠(チエン)という人物は、共鳴者ならぬ一般人でありながら、戦線への貢献を強く志願しており、仕方なく後方で遣っていたらしい。そして戦線が逼迫し始めたころ、物資輸送という口実で城内に送り返すことにしてしまったそうだ。

 すれ違ってしまった鑑心(カンシン)だがめげることなく、致遠(チエン)と合流するため、ここで別れることになった。漂泊者は、まず目の前の軍需官に訊いてみようと、背嚢からマンゴスチンを取り出した。その黒い表皮を見た瞬間、軍需官はぎょっと目の色を変えた。

 

 

「こ、これはどういうつもりだ!?」

「ただのマンゴスチンだけど?」

 

 

 何か異様なものでもあっただろうか。華胥(カソ)研究院では、毒などの異常は検出されなかったそうだが……

 首を傾げる漂泊者に違和感を見出した軍需官は、改めてその掌を観察した。そこには相変わらず、黒い表皮のマンゴスチンがあるだけだ。どうやら何かと見間違えたらしい。

 

 

「ああ、私としたことが、手榴弾と間違えて……」

「『しゅりゅうだん』とは?」

「古い時代の携行兵器の一種ですよ。ピンを抜いて投げると爆発するんです」

「火炎壺のようなものか」

「火炎瓶ではなく……?」

 

 

 リムベルドの兵器発展事情が垣間見えたのはともかく。

 何度も触れてきた通り、マンゴスチンは瑝瓏で生産できない舶来品だ。さらに軍需官によると、こういった果物は北落野原の戦闘が勝利を収め、夜帰軍将:忌炎(キエン)が凱旋するような情勢でなければ輸入されないという。

 

 

「この北方に港があるの?」

「今の水運ルートと言えば……今州()()の怨鳥の沼から鯀巣の港に泊まり、それから輸送隊を伏波の兵士に護衛させて城内に入る、という感じですね」

「こちらにかかりきりの現状では、道中の安全に兵士を割く余裕がない――ということか」

「そうなりますね。それと……このマンゴスチンは賞味期限が短く、手榴弾と間違えやすい問題もあって、補給として使われることはまずありませんね」

 

 

 そうして話していると、副官がやってきて、軍需官は「失礼」と足早にその場を離れた。つい先ほど負傷兵の収容が終わったばかりだというのに、次は前線への補充要員の選定と日取りを決めなければならないらしい。一分一秒も惜しいといった様子で駆けていく軍需官を追う訳にもいかず、紫の葉っぱのことまで訊く余裕はなかった。

 とはいえ、無為を惜しんでいる暇はない。少なくとも、収穫が一つあった。

 

 

「――『南』か」

「これで、方角も手に入ったね」

 

 

 追跡者の確認に、漂泊者は頷いた。まさか北方に出て南方の事情が聞けるとは思わなかったが、何とも都合のいい話だ。もしもこれを狙って『印』を渡したのであれば、企てた令尹(レイイン)はとんでもない謀略的怪物だろう。問題は、『印』が有するもう一つの側面――マンゴスチン自体が指し示すメッセージだ。これが意味するものは何だろうかと考えていると、鑑心(カンシン)が再び姿を現した。

 

 

「漂泊者殿も用事を片付けたのか」

「一つね。鑑心(カンシン)はこれから城内に戻るの?」

「ああ。幸い、出立する前の物資輸送隊に声を掛け、致遠(チエン)殿を見つけることができた。

 彼は純朴な心の持ち主だ。祖父の影響を受け、軍のために自分も何か力になりたいと考えている」

 

 

 致遠(チエン)を出立前に見つけることができ、話を聞くことができたらしい。彼の祖父が懸念していたような、英雄的野心による行動ではなかったようだ。

 

 

「これまで、貴公らと道中見聞きしていたから分かる。今この瞬間も前方にある戦場は、これまで見たどの光景よりもはるかに過酷な場所だ」

 

 

 つい先ほど医務室から出てきたばかりの四人――未だに血の滲む匂いがするような気がして、鑑心(カンシン)は気が遠くなるような思いがした。

 

 

「……この世の全ては戦争によって変えられ、戦争によって苦しんでいる。

 『下の道は、森にある。中の道は、街にある。上の道は、戦にある』……容父師匠はそう言っていた。

 だから致遠(チエン)殿の思いが分かる。夜帰に加わるために厳しい訓練や試験は必要ない、戦場では共鳴者かどうかの区別は必要ない、と」

「私もそう思います。戦争という悲劇の前では、誰もが、同じ人間です」

「けれど、時には他人の負担になることもある。彼の居場所はここじゃない」

 

 

 秧秧(ヤンヤン)と漂泊者の言葉は、それぞれ鑑心(カンシン)の胸に痛いほど刺さった。『できること』『やりたいこと』『やるべきこと』はそれぞれ違う。一致させなければ、自分も周囲も不幸にしてしまうだけだろう。まして戦場という、一瞬の油断が全ての崩落に繋がりかねない鉄火場では、尚のこと危険だ。

 

 

「うむ。しかし貧道は致遠(チエン)殿の言葉に一理を感じてしまったので、言葉にて説得することはできない。

 そこで、師匠の教えを思い出した。貧道が何か行うたび、師匠は試練として相手をしてくれたことを」

「まさか、殴り合った?」

「貧道はただ、かつて師匠が組手を通じて教えを説いたように、致遠(チエン)殿に伝えてあげたいのだ。

 ……なあ漂泊者殿、貧道は勝つべきか、それとも負けるべきか?」

 

 

 鑑心(カンシン)は、どこか後ろめたい様子で問いかけた。共鳴者と非共鳴者の組手――例外こそあるが、結果はおのずと知れている。互いの全力を注ぎ込むべき取っ組み合いで、その結果を恣意的に操作することに、不快な傲慢さを覚えているのだろう。

 漂泊者は答えず、ずっと沈黙を守っていた追跡者に水を向けた。

 

 

「追跡者はどう思う?」

「……俺は修験者の心得など知らない、と前置きしておく」

 

 

 急に話題を振られて、内心動揺している追跡者は、心の荒波を鎮めながら口を開いた。

 

 

「伝えたいことがあるなら、()()()()()相手をするべきなんだと思う。

 一つの戦い、一つの戦場から得られる成果は、決して同じではない。何も得られないことなどザラだ。物資も気力も魔力も使い潰して、破壊だけが残ることもある。

 その致遠(チエン)というやつが、そいつなりに戦場に挑み、何かを学んだのなら、それも成果だ。頭ごなしに否定したところで、聞き入れはしないだろう」

「……そうだね」

 

 

 追跡者の、不器用で確かな言葉に、鑑心(カンシン)は黙って頷いた。

 

 

「それでも、お前に伝えたいことがあり、言葉ではなく拳を以て語るというのなら、一度二度の勝負で片付けるべきではないと思う。致遠(チエン)がその真髄を理解するまで、お前は根気強く付き合ってやるべきだ」

「うん。『循循善誘、誨人不倦』……その通りだね」

 

 

 追跡者の言葉は、鑑心(カンシン)の心を強く打ったようで、彼女は満足げに深く頷いた。

 実はすでに組手をした後だそうで、結果は鑑心(カンシン)の完勝。致遠(チエン)はたった一撃にも耐えられなかったという。後ろめたさは、すでに結果として突き付けてしまったこともあるのか。

 

 

「貧道に負けた後、致遠(チエン)殿は己の非力さを身で感じていた。いくらここで戦場の敵を倒せると言っても、それは口先だけの話……自分に言い聞かせるための暗示に過ぎない」

 

 

 鑑心(カンシン)は、まるで致遠(チエン)の抱いた悔しさに共感するかのように拳を握りしめた。今後、彼がどれだけ拳を鍛えようと――あるいは彼女を凌駕する日が来ようと――それだけで覆せるほど、この戦場という現実は軽くない。今の彼女にできることは、それを拳に乗せて伝えることだけだ。

 

 

「お三方はまだ用件があると聞いているが……後ほど暇があれば、六羨茶屋(ろくせんちゃや)を訪ねてくれると嬉しい。

 お三方に助けられたこと、生涯忘れない」

 

 

 拳と掌を合わせて礼をすると、鑑心(カンシン)は輸送隊の方に去っていった。あとに残されたのは、厳しい戦況を改めて思い起こされた三人。

 

 

「今回、マンゴスチンが『戦争』を指していると分かりました。果たして令尹(レイイン)様は、これで何を伝えようとしているのでしょうか?」

「この世は戦争によって変えられ、戦争によって苦しんでいる……けど、まだ何かに繋がるかも知れない」

 

 

 秧秧(ヤンヤン)の問いかけに、漂泊者は深く感が込んだ。

 残像との戦争による経済への悪影響の象徴。戦いの道具である『手榴弾』の比喩。厳しい戦況に不釣り合いなモノ。無力な非共鳴者が握りしめる僅かな力。

 今州の存続と瑝瓏の安寧は、水際で止められている。まるでコップいっぱいに溜められた水のように、ぎりぎりのところで――令尹(レイイン)が伝えたいのは、このことなのだろうか。

 

 

 戦禍は全てを呑み込む。驟雨のように。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 そうこうしているうちに、日が暮れてしまった。引き続き調査に励むか、このまま駐屯地で寝床を借りて休むか――と考えているときに、それは起こった。

 

 

『……食べ物を……』

 

 

 何かの声が聞こえた。

 秧秧(ヤンヤン)と追跡者は、最初、聞き間違いかと思った。周囲を見回しても、それらしき異変はない。

 幻聴か何かだったのだろう、ひとまず気にするまいと流してしまった。主計兵に相談して寝床を確保しようと考えた二人は、死んだ魚のような目で俯く漂泊者に気付くのが、少し遅れた。

 

 

「――漂泊者さん?」

「漂泊者、どうした?」

 

 

 近くにいた兵士に声を掛け、背後が静かな様子に違和感を覚え、ふと後ろを振り返ってようやく、二人は漂泊者の異変に気付いた。慌てて駆け寄り、その肩を揺らす。漂泊者の意識はすぐに戻り、その金瞳に生気が戻ってきた。

 

 

「――……だ、大丈夫、うん」

「びっくりしました……突然声を掛けても動かなくなったので……」

「何があった」

 

 

 心配する秧秧(ヤンヤン)と追跡者の問いに、漂泊者はつい先ほどまで見ていた幻覚を思い出し、少しずつ言語化していった。

 天へと遡る雨。視界いっぱいの巨大な残像。水面に映る赤い服の女。無数の残像がひしめく大地。龍姿を纏った戦士。その背に続く、青黒の兵士たち。

 

 

「龍姿を纏った、青い服の将軍――……おそらくは、忌炎(キエン)将軍のことかと。青龍と共鳴し、風を操る力を有している方です」

「前線に出ずっぱりなのだろう? こちらに戻ってくることなど不可能ではないか」

「前線の様子が見えたのかも知れない」

 

 

 漂泊者のその予想は、二人をひどく驚かせる大胆な予想だった。遠見の異能は共鳴者でも希少で、増幅器でもなければ安定出力できない。秧秧(ヤンヤン)は、思わず夕闇に流れる風を探った。北から流れてくる風は、乾いた不気味な雰囲気をもたらしている。

 

 

「――……北落野原から伝わってくる流れ息が、いつもより不気味な気がします。

 漂泊者さん……今この時、あの戦場は、あなたと何か繋がりがあるはずです」

「声が聞こえた。私の中に、()()()()()

 

 

 ふと、何かに導かれるように、漂泊者は紫の葉っぱに手を翳した。右手の音痕が煌々と輝き、葉っぱの周波数と共鳴してその痕跡を辿る。やがて、漂泊者の手は南西を辿り始めた。その先には、崖の上に立つ廃村が見える。

 

 

「漂泊者さん?」

白芷(ビャクシ)は葉っぱに残像の周波数が残っていると言っていた。最後の『印』が指している場所は――あそこだ」

「そちらは……中部台地、祈池村(きちむら)の方ですね」

 

 

 ひとまず、次の行先は決まった。あとは何かしらの収穫があることを祈るばかりだ。

 

 

 

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