銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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【ロフォーテン会戦・戦況図】

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第五十八話「ロフォーテン星域の会戦(後編)」(新帝国暦二十三年十二月末)

【帝国軍との戦闘開始の二日前 ロフォーテン星系外縁 第四聖団〈ディス〉艦隊】

 

帝国軍がまだ補給集積所やケリム方面の航路を疑っていなかったころ、教国軍第四聖団〈ディス〉艦隊では戦闘前の聖別が始まっていた。

 

イリヤ・ラザレフ従聖将は艦隊司祭による祈祷を聞きながら、ロフォーテンに集まった帝国艦およそ一万と、その向こうで動き始めた西方戦力を見ていた。

ワーレン艦隊の救援が来る前に退かせなければ、寄せ集めの艦隊でも二日は持つ可能性がある。

 

司祭が祈りを終えると、灰色の船体に刻まれた文字へ金色の光が流れ、祈燈が艦列の後方まで広がっていった。

 

続いて白い布が配られた。

細長く裁たれた布には黄金樹の小さな印があり、兵士たちは受け取ると左腕の決められた位置へ結んだ。

信仰の深い者は一度額へ触れさせ、そうでない者も特に抵抗を示さず身につけている。ラザレフのところにも一枚が運ばれてきた。

 

彼は左腕へ巻きながら、配布処理を行う端末が偶然目に入った。

受領欄はあるが、返却欄はない。

以前から何度も見てきた書式であり、この戦いのために用意されたものでもなかったが、その日はなぜか少し長く視線が止まった。

 

自由惑星同盟が滅びてから、もう二十年近くが過ぎている。

ラザレフは物心がついてから同盟の議会も選挙も見たことがなく、自由惑星同盟軍の軍服を着たこともない。それでも、かつてこの宙域には皇帝を戴かず、軍人は王朝ではなく市民のために戦った国があったと聞いて育った。

記憶の中の同盟が実像と同じではないと知ってからも、再び軍隊を持つなら帝国に奪われたものを取り戻すためであってほしいとは思っていた。

 

いま自分が率いる軍隊では階級が聖なる名で呼ばれ、艦隊司祭が戦闘前に祈り、兵士は白布を巻き、灰色の艦には祈りの文字が灯る。それを以前ほど異様と思わなくなっている自分を、ラザレフは知っていた。

 

「ラザレフ従聖将閣下。聖別を終えました」

艦隊司祭が告げた。

 

「分かりました。各部署を配置へ戻してください」

 

司祭が下がると、副官が別宙域で待機中の第四聖団〈レムレス〉艦隊から届いた最終報告を開いた。

建国の日から、少しずつ進めてきた帝国軍後背への配置が完了したという。

ラザレフは腕の白布から戦術表示へ視線を戻し、そこでいったん考えるのをやめた。

いまはまず、帝国軍を退かせることだけを考える。

 

 

***

 

 

ラザレフが、第四聖団〈レムレス〉艦隊司令のサミュエル・ホロウェイ従聖将と最終確認を行ったのは、その数時間前だった。

通信画面に現れたホロウェイは軍服を着ておらず、いつもの古びた作業服のままだった。階級章も白布もなく、背後には露出した配管や工具箱が見えている。

〈レムレス〉には固定された旗艦がなく、ホロウェイ自身も状況に応じて次々と艦を移るため、どの艦から通信しているのかラザレフはわからなかったし訊かなかった。

 

二人の間にはロフォーテン星系の航路図が開かれていた。

 

〈ディス〉は外縁から正面へ入る。

一方の〈レムレス〉は、すでに星系内部へ散っていた。数隻から十数隻、多くても小戦隊単位で旧採掘航路や利用頻度の低い民間航路を通り、建国放送直後から補給施設、中継点、退却経路の周辺へ配置されている。

 

帝国軍がその一部を何度か捕捉していたことも分かっていた。

 

『帝国軍は偵察と判断しているようです』

 

ホロウェイが言った。ラザレフは表示された過去の帝国側観測地点を見た。

 

「見つかった部隊も別の場所で潜伏させているのでしょう?」

 

『はい。作戦のとおり、数隻から数十隻に分けて現在待機中です』

 

ラザレフは戦術図へ戻った。

「我々〈ディス〉は、帝国軍を正面から押します。ただ、帝国軍は正規艦隊に救援を求めるでしょう。最寄りはワーレン艦隊です。救援要請から二日程度で到着するものと思われます」

 

『承知しています』

 

「二日であれば、あの寄せ集めの一万でも持つかもしれない」

 

防御側には後退する空間があり、ギールケの一万隻も戦闘艦ばかりではないとはいえ、帝国軍の軍人が動かしている。

〈ディス〉が真正面からそれを潰そうとすれば、自軍にも相当な損害が出ることは二人とも理解していた。

 

ラザレフは自軍の予測損害を見た。

「そうさせないために、〈葬列(ポンパ・フネブリス)〉の陣で攻めます。こちらはかなり失うでしょう」

 

『千隻単位の損害は出るでしょうね』

ホロウェイは淡々と答えたが、軽く扱っている様子はなかった。

 

「ホロウェイ提督の方は、何隻戻せると見ていますか」

 

『分かりません。帝国軍がどこで反応するかで、戦闘に入る部隊そのものが変わります』

 

ホロウェイ麾下の〈レムレス〉は広い宙域へ散っている。一個の艦隊というより星系の中へ薄く広がった群体に近かった。どの部隊が撃ち合いになり、どの部隊が一度も姿を見せず帰るのか、作戦開始前には決められない。

 

ラザレフはそれでも訊いた。

「あなたの部下は帰れない可能性を知っていますか?」

 

『知っています。ただ、帰らせないつもりで行かせた者はいません。全員、帰らせるつもりで出しています』

 

ラザレフは黙った。

〈ディス〉では、損傷しても任務を続けられる機能が残っている限り、艦を容易には戦列から外さない。失われれば後続がその位置を埋める。死ぬことを目的にした戦術というわけではないが、生きて帰ることを最優先にしているとも言えなかった。

「……こちらは同じだとは言えません」

 

ホロウェイは何も評さなかった。

星図を操作すると、帝国軍の補給集積所や通信中継点、主要退路の周囲へ散った〈レムレス〉の配置記号が浮かび、ケリム方面へ抜ける一本の回廊だけが大きく空いていた。

 

「ここで閉じるのですね」

 

『はい。最初から退路が全くないと分かれば、敵は死兵になって戦います』

ホロウェイは空いた回廊を示した。

『ですが燃料が持たないとわかってから退路が見えれば、そこから逃げます。罠だと分かることと、そこへ入らずにいられることは別です』

 

それ以上、説明は要らなかった。

ラザレフは星図から目を離した。

 

「ホロウェイ提督。お互い、部下をできるだけ多く戻しましょう」

 

『私は全員戻すつもりです』

ホロウェイはいつもの調子でそう答えてから、少し間を置いた。

『ラザレフ提督。あなた自身も、です。無事戻ってきてください』

 

ラザレフは返事をしなかった。

 

 

***

 

 

聖別を終えたあと、ラザレフは帝国側から届いた撤退拒否の回答を確認し、軍管区司令官のギールケ中将との直接回線を求めた。

 

「もう一度勧告されますか」

 

「します」

 

「受け入れるでしょうか」

 

「おそらく受けないでしょう」

 

それでも自分の声で一度は、撤収するなら撃たず、負傷者や非戦闘員、民間船には攻撃せず、必要な時間も与えると伝えておきたかった。

 

やがて通信が開き、ラザレフが条件を説明すると、ギールケは予想どおり拒絶した。

 

予想していなかったのは、そのあとだった。旧同盟の生き残りが、いまや坊主どもの走狗になったのか。そう言ったギールケは、ヤン・ウェンリーとビュコックの名まで出した。

 

墓場の奥から貴官を見ていたら、どう思うだろうな。

 

その問いを聞いた瞬間、ラザレフの中には別の死者が戻ってきていた。

 

エイジ・クルス提督だった。

 

十年以上前、二十歳そこそこだった自分を退かせ、旗艦に残った老将の姿を、ラザレフはいまでも覚えていた。

退艦命令を聞こえないふりでやり過ごした古参兵たちが残り、砲身が焼けても旗艦は撃ち続けていた。クルスは最後に、自分へ同盟軍式の敬礼をした。そしてラザレフに言った。

 

「行け。生き延びて――見ろ。我々が見られなかったものを」

 

ラザレフは生き延びた。

 

あの艦から離れたあと、暗礁宙域を漂い、拾われ、十年以上を生きて、いまは神権国家の艦隊司令として一万隻の艦隊を率いている。

 

エイジ・クルスが最後まで見られなかったものを、自分は見たのだろうか。

その問いに答えようとしたとき、艦橋のどこかで祈鐘が鳴った。

 

ギールケの言った「坊主どもの走狗」という言葉が、クルスの敬礼と重なった。

 

それでも、ラザレフは前進を命じた。

「全艦、前進。予定隊形を維持してください。有効射程まで接近後、第一斉射は計画どおり」

 

ラザレフの命令が〈ディス〉全体へ流れ、灰色の艦列が速度を上げた。祈燈の金色が前列から後方へ広がっていった。

 

 

***

 

 

【同日 ロフォーテン星系後背 〈レムレス〉艦隊 ホロウェイ】

 

〈ディス〉が交戦を始めても、第四聖団〈レムレス〉艦隊司令のサミュエル・ホロウェイはすぐには動かなかった。旧採掘航路や暗礁宙域へ散らした各群には、何をするかはすでに渡してある。

必要なのは帝国軍がどこへ流れるかを見てから同じ時間窓へ入れることだった。

 

燃料船団を襲い、補給集積所の通信と管制を止め、やがて帝国艦がケリム第三旧幹線へ集まり始めた。ホロウェイは帝国艦の流入数を確認した。

 

「配置部隊、行動開始。予定どおりです」

 

散っていた艦群が、入口、出口、旧支線との交点へ寄っていった。

入口は完全には塞がない。

航路の異常に気づいて外へ出た艦、滞留して孤立した艦だけを小集団で撃ち、星系境界へ抜けた艦は深く追わなかった。

帝国軍を探し回る必要はなかった。帝国軍自身が、一つの航路へ集まってきていた。

 

 

***

 

 

〈ディス〉艦隊では、第三旧幹線の内部で帝国軍の組織的な反撃が急速に弱まるにつれて前進速度を落としていた。ラザレフは戦術表示から、正面に残っていた帝国艦の反応がばらばらになり、後方の回廊へ吸い込まれていくのを見ていた。

 

ワーレン艦隊が到着する前にギールケの部隊を排除するという作戦目的は、すでに達成されつつあった。ただし、〈ディス〉も無傷ではない。

 

副官が持ってきた第一次集計では前列にいた艦ほど損失が大きく、約七十秒前後で反復していた射撃ドリルを帝国側に読まれてからは、斉射直後を狙った反撃による損傷が目立っていた。戦闘不能になりながら任務を継続した艦の中には、帝国軍が崩れ始めたあとで機関を失ったものもある。

 

「救助は」

 

「可能な範囲で続けています。帝国軍の反応が薄くなった宙域から順に回収艦を入れています」

 

「生存反応を優先してください。艦体の回収で救助を遅らせないように」

 

副官が下がると、ラザレフは左腕の白布を外した。

戦闘前に見た受領簿には返却欄がなかった。いつも使っている書式で、その意味を考えたこともほとんどなかったが、いま手の中にある白布は少し汚れて灰色になっていた。自分は戻ったが、同じ布を受け取った者の中には戻らなかった者がいる。

 

ほどなく〈レムレス〉から、予定配置を解いて離脱に移るとの連絡が届いた。ラザレフはホロウェイとの回線を開かせた。

 

 

***

 

 

通信画面に現れたホロウェイの作業服は煤で汚れ、片方の袖には消火剤の白い跡が残っていた。

ラザレフは作戦結果より先に訊いた。

「ホロウェイ提督。そちらは無事ですか」

 

『戦没確認が百五隻。帰投確認の取れていない艦が三隻あります』

 

ラザレフは自分の損害表示へ目を落とした。

〈ディス〉では、帰投確認の取れていない艦だけでも三隻どころではない。損害が一桁違う。

戦没数も、乗員名簿もまだ確定していなかった。

 

『そうですか』

ホロウェイは慰めを言わなかった。ラザレフも求めなかった。

 

通信が終わると、ギールケの「坊主どもの走狗」という声の向こうから、クルスの「生き延びて、見ろ」がまた戻ってきた。

 

ラザレフは救助状況の一覧へ戻った。戦闘前に先へ送った問いは、今度は簡単には消えなかった。

 

 

***

 

 

【同日 ケリム第三旧幹線 軍管区司令部旗艦 ギールケ】

 

ギールケの旗艦は、すでに回廊外側から〈レムレス〉の砲火を受け始めていた。

 

ギールケは撤退の統制を取り戻すことを諦めてはいなかったが、一万隻を艦隊として動かすことはもうできなかった。

 

回廊内部では機雷と障害物に阻まれた艦が滞留し、その外側では〈レムレス〉の小集団が動けなくなった艦から順に撃っている。

 

後方には〈ディス〉が迫り、残っている弾薬と推進剤も艦ごとに底が見えていた。

 

「右舷後方、敵艦群接近。距離三万二千」

 

参謀長が戦術表示を見た。

 

「こちらへ来ます」

 

「応射できる砲は」

 

「主砲、残弾四発。右舷副砲群は使用不能です」

 

ギールケは回廊内の表示を見た。帝国艦の識別符号はまとまった戦隊ではなく、細かな集団に分かれて消えていく。まだ動ける艦は、それぞれ自分で通れる場所を探しながらケリム側へ向かっていた。

 

ギールケは、細かく散ってケリム側へ逃げていく友軍符号を見た。

「……思えばビュコックの爺さんには、ずいぶん感心させられたものだ」

 

参謀長が黙って彼を見る。

 

「あの爺さん、マル・アデッタ会戦では最後まで艦隊を艦隊として動かしていた」

 

ギールケは表示から目を離さなかった。

「……おれは、結局ああはなれなかった」

 

参謀長は何も言わなかった。

ギールケは通信士を見た。

「観測記録をできる限りワーレン元帥へ送れ」

 

通信士官が振り向いた。

「どこまでですか」

 

「全部だ。〈ディス〉の射撃記録、補給線の異常、航路標識、機雷、〈レムレス〉の配置。送れるものから送れ」

 

「敵の妨害が強く、回線が不安定です。全量は無理です」

 

「分かっている。切れるまで続けろ。奴らの戦術を分析するための実戦データだ」

 

送信が始まった。

 

通信卓では、記録の転送率が少しずつ下がっていった。縦列陣、回廊周辺の敵配置、第三旧幹線の航路誤差、機雷反応、帝国艦の滞留地点が順に外へ送られていく。

 

参謀長がギールケを見た。

「閣下。退艦を」

 

ギールケは首を振った。

 

「送信が終わるまでは移れん」

 

「ですが、これ以上ここにいれば――」

 

「まだ送れているんだろう」

 

通信士官が答えた。

「はい。断続的ですが」

 

「なら続けろ。操艦、機関、通信に必要な者だけ残せ。ほかは脱出させろ」

 

旗艦が大きく揺れた。右舷側で直撃があり、戦術表示の一部が消えた。非常灯へ切り替わった艦橋で、参謀長が残った系統を確認させる。

「推進出力、三割まで低下」

 

「姿勢制御は」

 

「まだ生きています」

 

「回廊の中央へ流れるな。残っている艦の邪魔になる」

 

操艦員が艦首をわずかに外側へ向けた。

その間にも送信は続いていた。

最後に送られた記録には、第三旧幹線の周囲へ展開した〈レムレス〉の艦影と、正面から接近する〈ディス〉の航跡が同じ戦術図に残されていた。〈レムレス〉の推定規模について、一個艦隊相当との注記も付いている。

 

その送信が途切れてから数分後、辺境軍管区司令部旗艦の識別信号も消えた。

 

ギールケ中将と参謀長以下、司令部要員の生存者は確認されなかった。

 

 

***

 

 

【会戦から二日後 ロフォーテン星系外縁 ワーレン艦隊】

 

ワーレン艦隊がロフォーテン外縁へ到着したとき、組織的な艦隊戦はすでに終わっていた。敵はワーレン艦隊の到着前に戦域から去っていた。

 

先遣艦が最初に拾った帝国軍の反応は、戦闘艦ではなく救命艇だった。

ほどなく二隻、三隻と見つかり、捜索範囲を広げると、航路の周囲には脱出艇や救難ポッドが無数に散っていた。

推進を失った駆逐艦、船体を折られた巡航艦、救難信号だけを送り続ける輸送船も残っている。

 

第三旧幹線の内部には、さらに多くの残骸があった。

航路中央には破壊された艦艇と大型構造物が重なり、外側では機雷爆発の痕跡が帯のように続いている。

戦闘開始時にギールケの指揮下にあった一万隻近い艦艇は、もはや一つの部隊として数えることができなかった。

 

「ギールケ中将の旗艦を捜せ」

 

ワーレンは命じた。

 

旗艦の残骸が見つかったのは、その数時間後だった。

艦体中央から後部にかけて大きく失われ、識別信号は途絶えていた。

周辺では複数の救命艇が回収されたが、ギールケ中将と参謀長以下、管区司令部要員の生存者は発見されなかった。

 

その一方で、旗艦が撃沈される直前まで送信していた戦術記録の一部はワーレン艦隊へ届いていた。

欠損は多かったものの、第三旧幹線の異常、機雷反応、〈レムレス〉の配置、〈ディス〉の接近状況が断片的に残されていた。

 

ワーレンはその記録を一度だけ見たあと、救難捜索を優先させた。何が起きたのかを調べるのは、生きている者を拾い終えてからでよかった。

 

その後も、単艦で回廊を外れていた艦、小集団のままケリム方向へ抜けた艦、機関を損傷しながら漂流していた輸送艦や工作艦が順次収容された。数日後までに確認された生還艦は、約二千九百隻に達した。

 

後世、この一連の戦闘をどこまで一つの会戦として数えるかについては議論が残った。帝国軍の公式記録も、当初は統一した会戦名を与えていない。

 

七星系での地上基地の崩壊、補給線への攻撃、ロフォーテン外縁の艦隊戦、ケリム第三旧幹線での潰走は、別々の記録番号で残された。

 

 

***

 

 

【数日後 ケリム星系 ワーレン艦隊臨時戦闘解析室】

 

数日後、ケリムでは生還艦の戦闘記録、救助された脱出艇の航法記録、そしてギールケ管区司令部が撃沈直前まで送信していた観測資料を重ね、ロフォーテン戦の再現が進められていた。

 

管区司令部から届いた最後の記録には、第三旧幹線の周囲へ展開した〈レムレス〉の位置、航路標識の異常、機雷反応、正面から迫る〈ディス〉の航跡が残されていた。通信が途切れる直前まで、ギールケは敵情を外へ送り続けていた。

 

情報士官が、回廊内で撃破された教国艦から回収された記録素子を画面へ出した。

 

「教国軍の運用資料らしい断片が残っていました。大半は壊れていますが、読める箇所があります」

 

ワーレンが資料を開いた。原文と帝国語訳の間には欠損を示す空白が多く、祈燈や鐘についても単語が拾える程度で、それが何を意味するのかまでは分からない。前列の運用を記したらしい箇所も途中で切れていた。

 

まともに残っていたのは項目名くらいだった。情報士官が、その一つを拡大した。

 

帝国語訳の見出しには〈葬列〉、その横には原語の読みとして《ポンパ・フネブリス》と付されていた。

 

「〈ディス〉の戦術名か」

 

「前列運用について記した項目の見出しのようです。中身は欠けています」

 

帝国軍が戦場で拾った呼び名ではない。敵自身が、そう呼んでいた。

 

ワーレンは欠損だらけの資料と、ギールケが最後に送った戦術記録を見比べた。解析概要とロフォーテン敗戦の報告は、その日のうちに帝都へ送られることになった。

 

しばらくして、情報士官が資料を閉じた。

「われわれは、いつから戦っていたんでしょうか」

 

ワーレンはすぐには答えなかった。

「それはこれから考える」

少し間を置いた。

「少なくとも、撃ち始めた日からではない」

 

ロフォーテンから帝国軍が退いた夜、勝った側の艦内には別の時間が流れていた。

 

 

***

 

 

【戦闘終了後 教国軍第四聖団〈ディス〉艦隊・艦内酒保】

 

第四聖団の艦列では、戦勝の報が回ると艦内酒保の営業時間が少しだけ延長された。

 

機関科のダグラス・ホートン聖曹長は、旧自由惑星同盟軍で一等整備曹長を務めていた男である。アムリッツァを生き延びたあと後方の整備学校で若い機関兵を教え、同盟が滅びると軍服を脱いだ。それから十七年、造船所の日雇いや氷倉の番を転々とし、最後は辺境の穀物倉庫で夜番をしていた。

 

六年前、彼を再び軍へ連れ戻したのは、一人の男が告げた「あなたが要る」という言葉だった。

 

いまでは第四聖団所属の下士官として、昔と同じ黒い手袋をはめて若い兵を教えている。

 

そのホートンが酒保へ顔を出したころには、機関科の若い兵たちが卓を二つ占領していた。

 

酒保に残っている酒は四種類あった。

戦勝祝いとして通常の配給とは別に酒を出してよいことになったが、一度に払い出せるのは一種類だけということだった。その一種類の瓶を空けないと、次の酒を選べないという。

 

「ホートン聖曹長、ちょうどいいところに!」

入口に近い席から声が飛んできた。声を上げたのは、二等聖列兵のハインツだった。

 

「ハインツか。嫌な予感がするな」

 

「何も嫌なことはありませんよ。四種類のうち、どの酒を飲むか決めるだけです」

 

卓には四本の瓶が並べられていた。

 

「一番から四番まで。ここは民主主義に則り、多数決で決めましょう」

 

「酒くらい勝手に飲め」

 

「一度に一種類しか出してくれないんですよ。酒保の親父が、機関科は放っておくと全部開けるからって」

 

「正しい判断じゃないか」

 

「聖曹長!敵に回らないでくださいよ」

 

笑いが起きた。

 

四つの銘柄が読み上げられたところで、二番の〈オールド・リパブリック〉を推す声がいくつか上がった。

旧同盟領では昔から出回っている安いライ・ウイスキーで、煙臭さと強い樽香が売りの古い銘柄だった。

 

「これは、名前からして二番でしょう。『共和国』ですよ、『共和国』」

 

「酒の味と国体に何の関係がある」

 

「気分です。こいつはいけそうだ」

 

「俺も二番。こういうのは昔からある銘柄の方がうまそうだ」

 

「聖曹長は?」

 

ホートンは瓶を一度見てから二番に手を挙げた。

 

「ほら、聖曹長も二番だ」

 

「決まりだな」

 

十分後、二番を選んだ機関科の兵たちは、自分たちの判断が正しくなかったことを知った。

最初の一杯を飲んだ若い兵が、露骨に顔をしかめた。

「……これ、酒ですか?」

 

「一応、瓶にはそう書いてあるぞ」

 

「機関洗浄剤じゃなくて?」

 

「おい、洗浄剤に失礼だろ!」

 

「ハインツ、お前これがうまいって言ったよな」

 

「言ってません!『いけそうだ』と言っただけです」

 

「同じだろうが」

 

「全然違いますよ。責任の重さが」

 

「負け戦の参謀みたいな言い訳を言うな」

 

また笑いが起きた。

ハインツと呼ばれた若い兵は、救いを求めるようにホートンを指した。

「聖曹長だって手、挙げましたよ」

 

「挙げたな」

 

「ほら」

 

ホートンは杯を持ち上げ、もう一口飲んだ。少し考えてから顔をしかめた。

「これはまずい」

 

一斉に笑い声が上がった。

 

「聖曹長まで!」

 

「古参兵の舌でも駄目ですか」

 

「舌は古くても、まずいものはまずい」

 

「じゃあ誰の責任です?」

 

「手を挙げた奴全員だろう」

 

それで今度は、自分は最後まで手を上げていなかったと言い張る者と、確かに肩より上まで手が出ていたと証言する者の間で揉め始めた。やがて責任者探しそのものが馬鹿らしくなった。

 

それでも瓶はどんどん減っていった。

 

「文句を言う割によく飲むな、お前ら」

 

「なんたって勝ち祝いですから」

 

「まずいのも戦果のうちです」

 

「それは敵に押しつけろ!」

 

やがて二番の〈オールド・リパブリック〉から最後の一滴が落ちた。

若い兵が空瓶を逆さにして覗き込む。

「『共和国』、やっと空になりましたね」

 

ホートンは空瓶を見た。

「こっちは、ちゃんと飲み切って終われたな」

 

一瞬だけ間があった。

 

「聖曹長、それはもしかして『同盟』の話ですか?」

 

「いいや。酒の話だ」

 

卓がどっと沸いた。

 

「聖曹長、それは不謹慎ですよ!」

 

「今さらだろう」

 

「じゃあ次は、もっと長持ちするやつにしましょう」

 

空瓶が卓の端へ追いやられ、残った三本へ視線が集まった。

 

「次は聖曹長が決めてください」

ハインツが言った。

 

「なぜだ?」

 

「聖曹長は、俺たちよりずっと長いこと酒を飲んでるでしょう?」

 

「年を食っているだけだ」

 

「同じようなものです。聖曹長なら、今度は外さないでしょう」

 

ホートンは杯を置いた。

「駄目だ。お前らもまた手を挙げろ」

 

何人かが顔を見合わせた。

「ええ?またですか」

 

「さっきそれで失敗したじゃないですか。もう懲りました」

 

「だからだ」

 

「意味が分かりませんよ」

 

ホートンは空になった〈オールド・リパブリック〉の瓶を指した。

「一度外したくらいなんだ。それで次から誰か一人に決めさせるなら、最初から皆で決める必要がないだろう」

 

若い兵の一人が腕を組んだ。

「でも、またまずかったら?」

 

「その次に、皆で別のを選べばいい」

 

「また外したら?」

 

「その次だ」

 

「全部まずかったら?」

 

ホートンは少し考えた。

「酒保の親父を吊るせ!」

 

卓が沸いた。

酒保の奥から「聞こえてるぞ!」と声が返ってきて、さらに笑いが大きくなった。

 

二度目の投票では、三番の〈アップル・ガード〉が選ばれた。リンゴを蒸留した酒に少量の蜂蜜を加えたもので、軍港の酒保では昔から珍しくない。

「三番。今度こそです!こいつはいけそうだ」

 

「ハインツ、さっきも同じこと言ってなかったか?」

 

「あれは二番でした」

 

「番号しか変わってないじゃないか」

 

「人間は失敗から学ぶんですよ」

 

「お前が言うと不安になるな」

 

栓が抜かれ、杯が回った。

今度は誰もすぐには感想を言わなかった。数人が顔を見合わせ、先ほど責められていたハインツが慎重にもう一口飲んだ。

「……二番よりは、うまい、気がする」

 

「……比較対象が悪すぎる」

 

「……甘いな」

 

「いや、多分これくらいが飲みやすいんですよ!」

 

「酒に蜂蜜を入れる奴の気が知れん」

 

「聖曹長、どうです?」

 

ホートンも飲んでいた。

「甘い」

 

「嫌いですか」

 

「……嫌いとは言ってない」

 

「じゃあ三番の勝ちですね」

 

「勝手に勝敗を決めるな」

 

そのころには誰が三番へ投票したかなど誰も気にしていなかった。

甘すぎると文句を言っていた男も二杯目を受け取り、二番の方が良かったと主張する変わり者まで現れた。

 

「次は一番ですね」

誰かが言った。

 

「まだ三番を開けたばかりだろう」

 

「次の戦の勝ち祝いの話ですよ」

 

「もう次も勝った気か」

 

「勝たないと一番が飲めないでしょう」

 

「戦争する理由が増えたな」

 

「司令部に報告しますか。作戦目的、酒保一番の開栓!」

 

「ブルーメンタール司令に自分で言ってこい。骨は拾ってやる」

 

「嫌ですよ。殺される」

 

「敵には突っ込めるのにか?」

 

「敵より怖いものくらいあります」

 

卓がまた笑いに包まれた。

そこから話は、機関科が動かなければ艦は一メートルも進まないのだから実質的に自分たちが戦争をしているのだ、という主張へ移った。

それなら艦橋はいらないのか、砲術科には何をさせるのか、いや砲術科には酒を運ばせればいい、と際限なく話が広がっていく。

 

ホートンは杯を持ったまま聞いていた。

 

穀物倉庫で夜番をしていたころには一日誰とも口を利かずに終わることがあった。

夕方に起きて倉庫を巡り、朝になれば市場で安いものを買って部屋へ戻る。

誰にも期待されず、誰の失敗にも付き合わず、自分の失敗を誰かに笑われることもなかった。

 

いまは一杯の酒を飲むだけでも、なかなか放っておいてもらえない。

 

今日だけでも冷却系の調整で二度呼ばれ、新兵の工具の使い方を直し、当直表に文句を言われた。

ようやく仕事を離れたと思えば、今度は酒の選び方まで訊かれる。

 

面倒なことが増えた、とホートンは思った。

向こうでは、三番を甘すぎると言っていた男が三杯目を要求していた。

 

「お前、嫌いだったんじゃないのか?」

 

男はわざと声を低くし、ホートンの口調を真似た。

「……嫌いとは言ってない」

 

似ていなかった。

 

「お前それ、もしかしてホートン聖曹長の真似のつもりか!?」

 

「似てたでしょう!」

 

「どこがだよ!」

 

「いい言葉は使わせてもらいますよ」

 

「口調まで真似する必要あるのかよ!」

 

笑い声がまた広がった。

二番を選んで失敗したことで、次に手を挙げる資格を失った者は一人もいなかった。

 

ホートンは〈アップル・ガード〉をもう一口飲んだ。

次も外すかもしれない。

そのときは、また皆で選べばよい。

 

卓の向こうで誰かが大声で笑った。

ホートンも今度こそ声を出して笑った。

 

 

***

 

 

【同日 教国軍第四聖団司令部】

 

同じころ、第四聖団司令部では戦闘結果の集計がほぼ終わっていた。

 

帝国軍はロフォーテンから退き、主要な軍事拠点と航路は教国軍の手に落ちた。

正面から圧力をかけた〈ディス〉も、後方へ散開した〈レムレス〉も予定した役割を果たしている。

損害は事前の見積もりを下回り、聖団司令のニコラス・ブルーメンタール聖将が組み上げた作戦は、軍事的には申し分のない成功だった。

 

「よくやった、ラザレフ。帝国軍は予想していたより手強かったが、〈ディス〉は最後まで崩れなかった」

 

「ありがとうございます」

 

ブルーメンタールは前進速度と戦列の維持について二、三の点を確認し、そのたびに短く評価した。

褒め言葉を重ねる男ではない。それだけに、ラザレフには十分な労いだった。

 

それでもラザレフは、報告を終えても退出しようとしなかった。

「どうした?何かあるのか」

 

「……帝国軍のギールケ中将と、戦闘前に話しました」

 

「聞いている。ずいぶん長く話していたそうだな」

 

ラザレフは少し迷ってから、軍人同士だと言った自分をギールケが笑ったことを話した。

 

ギールケは、ビュコックとは何度も撃ち合い、ヤン・ウェンリーとも同じ戦場にいた。パエッタ、カールセン、モートン。敵ではあったが、あれらは確かに軍隊だった。何を守るために戦っているのかも、どこまでなら話が通じるのかも分かった。そう言っていた。

 

「我々については、まだそれすら確かめられていない、と言われました」

 

ブルーメンタールは黙って聞いていた。

 

「最後に訊かれました。我々はいったい何のために戦っているのか。墓場の奥でヤン・ウェンリーやビュコック、それに戦場で死んだ同盟軍の者たちが見ていたら、今の我々をどう思うだろう、と」

 

ブルーメンタールはしばらくラザレフを見たあと、意外そうに眉を上げた。

「それで、貴官はそんなことを考えていたのか」

 

「考えてはいけませんか」

 

「いや。答えの決まっていることを、まだ考えているとは思わなかっただけだ」

皮肉ではなかった。

「前から言っているだろう。我々は民主共和政を取り戻すために戦っている。そしてもう議会は戻った。星系議会だけじゃない。地方自治体にも、議会ができた。帝国の官吏が上から決めていたことを、住民自身が議論して決める場所も戻りつつある。建国七星系の星々で人々がどう喜んでいるかは、貴官も見ているだろう」

 

「はい。ですが、議会の権限には教団からの留保が付けられています。留保事項には枢機卿団の裁可が必要です。選挙に立候補できる者の資格にも制限があります。それでも、これは民主共和政なのでしょうか?」

 

「当然だ」

返事は早かった。

ブルーメンタールは机上の端末を閉じた。

「貴官は昔、議会がどういう場所か私に訊いたな」

 

ラザレフは覚えていた。

「はい」

 

「あのとき私は、うるさい場所だと答えた。三百人いれば三百通りのことを言う。何一つ決まらん。ようやく決まったころには最初の案など原形を留めていない。途方もなく非効率で、腹の立つ場所だった」

そこでブルーメンタールの声が少しだけ静かになった。

「だが、三百人分の否が言える場所でもあった。否と言っただけで誰かが連れていかれることはない。私は、あの馬鹿馬鹿しさまで含めて取り戻したいと今も思っている」

 

ラザレフは黙っていた。

 

「ただし、民主主義は自殺のための制度ではない」

ブルーメンタールは続けた。

「教団の記録庫に、前宇宙紀の地球で書かれた政治学書が残っていた。西暦二十世紀の本だ。今から千七百年近くも前になる。その中に、『戦う民主制』という言葉があった」

 

「戦う民主制?」

 

「民主的な制度を利用して、民主主義そのものを破壊しようとする者がいる。そういう者にまで、自分を破壊する自由を保障する必要はない。民主主義には、自らを守る仕組みが必要だという考え方だ」

ブルーメンタールはそこで一度言葉を切った。

「初めて読んだとき、腑に落ちた。我々が考えてきたことには、実は前宇宙紀から名前があったのだとな」

 

「我々が、ですか」

 

「救国軍事会議のことを言っている」

 

隠す様子はなかった。

 

「我々は民主主義を捨てようとしたのではない。腐敗を切除して、健全な民主共和政を建て直そうとした。方法を誤った部分があったことまで否定するつもりはない。だが、だからといって目的まで誤りだったとは私は思っていない」

 

ラザレフは、昔にも似た話を聞いている。

 

グリーンヒル。アムリッツァ。二千万の死者。トリューニヒト。そしてヤン・ウェンリー。

 

あのころのラザレフにとって、どれも本の中にしか存在しない名前だった。クルスやブルーメンタールが語る自由惑星同盟を聞き、それを自分の中に一つずつ積み上げていった。

 

あの(・・)ヨブ・トリューニヒトを選んだのも、民衆だったのですよね」

 

「そうだ。民衆の不安と熱狂を票に変えるトリューニヒトのような扇動政治家(デマゴーグ)は、民主共和政の中から生まれる」

 

「では、民衆が間違えたということですか」

 

ブルーメンタールは少し考えた。

「そうだ。民衆も間違える。軍人も政治家も間違える。選挙をしたから、そこから先の決定まで正しくなるわけではない。間違えば、正す者が必要だ。」

 

ラザレフは先ほどまで酒保で何が行われていたかを知らない。ブルーメンタールも知らなかった。

 

「私は若いころ、それをアムリッツァの前に見た。補給の数字を出した。遠征は維持できないと書いた。数字そのものは正しいと言われたが、それでも計画は止まらなかった。選挙が始まっていたからだ」

ブルーメンタールの声は荒れなかった。

「だから選挙をやめろと言っているのではない。議会を閉じろとも思わん。むしろ逆だ。議会を閉じようとする者、選挙そのものをなくそうとする者、民衆から否と言う権利を奪おうとする者とは戦わなければならない。民主主義の危機を招くような間違った選択が行われれば、それを我々が正す。そのために我々は武器を持っている。それが、『戦う民主制』だ」

 

「軍は、市民を守るための道具だからですか」

 

ブルーメンタールはラザレフを見た。

「そうだ」

 

ラザレフは少し迷ってから、もう一つ訊いた。

「では、何が民主共和政の敵なのかは、誰が決めるのですか?」

 

今度は答えがすぐには返らなかった。

「国家が決める」

 

「その国家が間違った場合は?」

 

「国家が民主共和政そのものを捨てたなら、それはもう、我々が守ろうとしている国家とは違う」

 

「それを、誰が判断するのでしょうか?」

 

ブルーメンタールはしばらく黙った。

困っているようには見えなかった。ラザレフの質問を正確に量っているようだった。

「少なくとも、私はそれを見て見ぬふりをするために軍人になったわけではない」

 

ラザレフは答えなかった。

ブルーメンタールにはそれで十分な答えだったらしい。

 

軍は政治を行うものではない。

市民を守るための道具であり、民主共和政そのものが脅かされたときには、それを守るために戦う。

その二つの間に矛盾があると、ブルーメンタールは考えていなかった。

 

ラザレフにもどこが違うのかうまく説明できなかった。

 

議会を戻したいというブルーメンタールの言葉は本物だった。

三百人が三百通りのことを言える場所を、彼は確かに愛している。

ヨブ・トリューニヒトの時代を繰り返したくないという思いも、そのために死んだ者たちを忘れたくないという思いも嘘ではない。

 

それでも、何かが引っかかった。

 

民主共和政を守る。

民主共和政の敵を見分ける。

国家が道を誤ったときは、軍としてそれを見過ごさない。

 

どれも間違っているようには聞こえない。

 

だが、それを『誰』がするのかと訊くたびに、話はいつも同じところへ戻ってくる気がした。

 

「ラザレフ、もう遅い。休め」

ブルーメンタールは次の報告書を開いた。

「今日はよくやった。〈ディス〉の者たちにもそう伝えておけ」

 

「……はい」

ラザレフは敬礼して部屋を出た。

 

通路には戦闘後の艦内の音が戻っていた。

遠くで誰かが笑っている。

補修班の台車が床を鳴らし、開いた隔壁の向こうからは食器の触れ合う音も聞こえた。

 

その中を歩いているうちに、帝国軍の老将の声が戻ってきた。

 

墓場の奥でヤン・ウェンリーやビュコック、それに戦場で散った同盟軍の連中が見ていたら、今の貴官らの姿をどう思うだろうな。

 

ラザレフには、まだ答えがなかった。




――「陛下がお知りにならなかったことと、国家の決定でなかったことは同じではありません」

次回、『受け取ったもの』

V — 人物図譜 教国軍第一聖団〈ベローナ〉艦隊司令 従聖将ヴィクトール・フォン・ラスバッハ

【挿絵表示】


【ロフォーテン星域の会戦】

戦争:銀河帝国と神聖黄金樹教国の戦い
年月日:新帝国暦二十三年十二月末
場所:ロフォーテン星系外縁部、ケリム第三旧幹線周辺
結果:神聖黄金樹教国軍の勝利、帝国軍ロフォーテン軍管区方面戦力の組織的崩壊

交戦勢力
 銀河帝国
 神聖黄金樹教国

指導者・指揮官
 銀河帝国
  ギールケ中将 †
 神聖黄金樹教国
  イリヤ・ラザレフ従聖将
  サミュエル・ホロウェイ従聖将

戦力
 銀河帝国
  艦艇 約一万隻
  (ロフォーテン辺境軍管区所属部隊および建国七星系から脱出した残存艦艇)
 神聖黄金樹教国
  第四聖団〈ディス〉艦隊 約一万隻
  第四聖団〈レムレス〉艦隊 約一万隻
  ほか地上・浸透部隊

損害
 銀河帝国
  ギールケ中将戦死
  ロフォーテン方面集成戦力が組織として崩壊
  艦艇損害 約七千百隻
 神聖黄金樹教国
  第四聖団〈ディス〉艦隊 艦艇損害 約千五百隻
  第四聖団〈レムレス〉艦隊 艦艇損害 約百隻

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