【新帝国暦二十四年二月下旬 惑星ハイネセン バーラト自治政府・内務局庁舎】
かつて自由惑星同盟軍でヤン艦隊の参謀長を務めたムライは、現在、バーラト自治政府の内務局長として治安や住民保護をはじめとする内政実務を預かっている。
昨年末に神聖黄金樹教国の宣信院宰であるスアーダ枢機卿が初めてバーラトに現れて以来、彼は外国勢力との接触が危機へ変わった場合に、自治政府がどこまで対応できるのかを洗い直していた。
そのムライの机には、スアーダがバーラトから去った翌日に作られた連絡表が置かれていた。
外国艦艇なら交通管制局、外交案件なら対外連絡局、避難民や住民保護なら内務局、帝国軍の動向については高等弁務官府を通じて照会する。担当部署と連絡先、それに問い合わせの順序まで一枚にまとめてある。
昨年末に比べれば、自治政府の対応は格段に早くなっていた。しかしその紙を前にしたムライの表情は明るくなかった。
「ひとつ、仮定を置きましょう。教国軍一万隻が、惑星ハイネセンから三日の位置に現れたとします。交通管制局は航路を調べ、対外連絡局は教国側の声明を確認します。内務局は避難能力や港湾の受入れ状況を出し、帝国の高等弁務官府へ照会すれば帝国軍がどこにいるかもある程度は分かるでしょう」
向かいに座るクブルスリーは旧自由惑星同盟軍で統合作戦本部長まで務めた退役軍人である。現在は自治政府の〈バーラト星系市民安全互助隊附属教育課程〉で課程長を勤め、自治政府の嘱託顧問として軍事や組織制度について助言している。その隣のラオも旧同盟軍出身で、かつて艦隊勤務に就いていた経験から艦船や人員の実務について意見を求められていた。
二人は黙ってムライの話を聞いていた。三人とも軍服を脱いで久しいが、机の上に星図や時刻表が並ぶと昔とあまり変わらない顔をする。
ムライは連絡表の中央を指で押さえた。
「問題はそのあとです。集めた情報を見て、これはバーラトにとって危険が迫っている状況だと誰が判断するのでしょうか」
クブルスリーはすぐには答えなかった。一万隻全部がこちらへ向かっているのか、単なる通過なのか、補給艦を伴っているのか。そうした事実なら、今でも集められる。
「だが、集めた事実を一つの軍事判断にする部署は今はない。旧同盟なら統合作戦本部のような軍中央組織が担っていた仕事だが、バーラト自治政府には最初からなかった」
「……少し前まではなくても困らなかったでしょうな」
ラオがそう言うと、ムライも頷いた。
帝国に編入されてから二十年以上、バーラト自治政府には固有の軍隊がなかった。
旧同盟の国防委員会に相当する国防行政の機関も、統合作戦本部のような軍令組織もない。
帝国の自治領である以上、バーラト星系の軍事的防衛は帝国軍の所掌であり、自治政府が数万隻規模の艦隊運動を分析し、自ら軍事上の判断を下す必要もなかったのである。
交通は交通が見ればよく、外交は外交が見ればよかった。軍事について必要があれば、高等弁務官府を通じて帝国側へ訊く。それで制度は動いていた。
「条件が変わったということだ」
クブルスリーの言葉に、ムライは机上の資料を一枚めくった。
「各部署の報告を束ねるだけなら事務総監のもとでもできます。問題はその先です。集めた資料から、この国にとってどの程度の危機なのかまで継続して評価する機能を置こうという話が出ています」
クブルスリーはわずかに眉を寄せた。
「それなら、評価する権限だけでなく、何を材料として集めてよいかも先に決める必要がある。いま各部署が持っている資料だけで判断できる間はいい。だが、足りないとなれば、次には『判断するために何を新しく調べるか』という話になる」
ムライはクブルスリーへ顔を向けた。
「クブルスリー顧問。たとえば、どういう点でしょうか」
「軍事利用につながり得る情報だ。たとえば旧軍歴や、軍で必要とされる技能や職能を持つ個人についての情報だな。いま、この社会にどんな技能を持つ人間がどれだけいるかを統計として知ることと、誰が軍務に使えるかを調べることは、はっきり分けた方がいい。一度、個人ごとの情報を集めてしまえば、集めたときに目的を限っていても、必要になったとき別の用途に使われないとは限らない」
「つまり、現在ある能力を調べることと、それを軍事的に使えるか調べることは分けるべきだということですか」
「そういうことだ」
ラオはそのやり取りを聞きながら、港湾局から提出された民間航宙船の集計へ目を落としていた。
「船についても同じでしょう。この星には貨物船も客船も救難艇も曳船もあります。港も整備施設も、それを動かす人間もいます。いま何がどれだけあるかは数えられます。しかし、それが有事に何へ使えるかは別の話です」
ムライが顔を向けると、ラオは資料を卓上へ滑らせた。
「避難輸送や救難なら、今のままでも使えます。補給輸送をさせるなら、契約や指揮の仕組みを作らなければなりません。まして軍艦として数えるなら、いまのバーラトには一隻もありません。貨物船へ砲を載せれば戦列艦になる、というものでもないでしょう」
クブルスリーも異論はなかった。艦隊を持つのであれば、まず軍用艦艇そのものを取得するか、新たに建造するところから始めるしかない。その前に帝国編入協定との関係を処理し、乗員、整備、補給、指揮系統、法的根拠を作らなければ、軍艦だけあっても艦隊にはならない。
ムライは端末へいくつかの項目を書き込んだ。
人員については調査範囲未定。軍艦は零。指揮制度なし。自治政府固有の軍事部隊を編成・運用する法的根拠なし。民間側にどこまで基盤が残っているかは未評価。
ムライは並んだ項目を見て、苦い顔をした。
「……『分かりません』ばかりですね」
「実際、分からないのだから仕方がない」
「昔からそこは変わりませんね。クブルスリー顧問は、分からんと言うときだけ妙に自信たっぷりに見えます」
ラオが笑うと、クブルスリーは聞こえなかったように端末を指した。
「何を調査してよいかを決めること自体が、もう政策だろう」
ムライは端末を閉じ、机上の連絡表を取り上げた。
「われわれ三人で決める話ではありませんな」
クブルスリーは頷いた。
「そうだ。評議会に諮るべき話だ」
連絡表にはすでに各部局の名前が並んでいた。誰へ訊けばよいかは昨年末よりずっとよく分かる。
ただ、その情報を集めたあと、この国として何を警戒し、何を調べ、どこから先には踏み込まないのか。それを決める部署の名だけはまだどこにもなかった。
ムライは席を立った。
「まずは誰の仕事にするかから、評議会に決めてもらいましょう」
***
その後評議会へ提出する資料を整理していたムライのもとへ、対外連絡局から追加の報告が届いた。
スアーダ枢機卿が帰ったあと、自治政府はスアーダを含めて教国側の主要人物についての調査を続けていた。
教国軍第二聖団司令のコンラート・フェルディナント・ベーレントについては旧帝国軍時代の勤務記録から経歴のかなりの部分を追うことができた。
だが、スアーダについては事情が違った。教国で用いている『スアーダ』という名が旧同盟時代の戸籍記録には見当たらず、『宣信院宰』という役職以外の経歴も教国からは公表されていなかったからである。
担当職員は氏名からの照合を早い段階で断念したと説明した。
前回の会談記録の映像から顔貌と声紋を抽出し、旧同盟時代の公開資料へ検索範囲を広げたという。中央政府や全国政党の映像では該当する人物が見つからず、バーラト以外の星系政府から各惑星の行政記録、さらには惑星内部の自治体が残した選挙資料や議会中継、地方報道まで降りていったところで、一人だけ一致率の高い人物が浮かんだ。
職員が端末をムライの前へ置くと、二十数年前に撮影された女の静止画像が表示された。
銀灰色の髪は顎のあたりで短く整えられ、前髪は額を出すように横へ流されていた。頬には今より張りがあり、口元には控えめな笑みが浮かんでいる。身につけているのは濃紺のスーツで、襟元には生成り色のブラウスが見えた。
撮影場所は小さな公共施設の一室らしく、背後の壁には手作りに近い選挙掲示が貼られていた。旧同盟時代にどこにでもいた、真面目な地方政治家にしか見えない。
クブルスリーが端末に近づき、ラオも椅子を少し寄せた。
「顔貌・声紋とも高い一致を示した人物が一名あります」
ムライは画像から目を離さず氏名だけを訊いた。
「ミレーナ・ヴァレル。旧自由惑星同盟の地方政治家です。惑星パフラヴィー内にある一自治体で議員を務め、その後、自治体議会の議長になっています」
三人のうちその名に覚えのある者はいなかった。
それも無理はなかった。彼女が政治活動の地盤としていた自治体は、人口がおよそ十万人にすぎない。ミレーナには同盟最高評議会への進出歴も、それどころか地方星系政府の要職に就いた記録もなく、政治家としての経歴のほとんどを、惑星パフラヴィーの中の小さな自治体で過ごしていた。
「『議長』といっても行政の長ではありません。十万人規模の自治体議会の議長です。執行機関を直接指揮する立場ではありませんが、何期か議員を務めたあと議長に選ばれ、議会運営や行政部門との調整に関わっていました」
その説明を聞いてから、ムライはもう一度画面へ目を戻した。
「そこまでの規模の自治体の二十年以上前の記録がよく残っていたな」
「選挙映像と議会中継です。自治体の広報記録もかろうじて残っていました。中央の人物録には載らない程度の人だったので、最初の検索では拾えませんでした」
次に再生されたのは、地方選挙の際に撮影された古い映像だった。
百人ほどでいっぱいになりそうな集会場に簡素な演壇が置かれ、その前に住民が並んでいる。
ミレーナ・ヴァレルは、現在のスアーダより少し早口で、手元の資料を確かめながら話していた。人へ語りかけるときにわずかに首を傾ける癖だけは、二十数年後の枢機卿にも残っていた。
映像の中で彼女が論じていたのは、自治体が進めていた公有施設の再開発事業だった。
規模の大きな政策ではない。それでも行政側の都合だけで結論を決めるべきではないと述べ、住民に向かってこう続けていた。
『政治家の仕事は、正しい答えを皆さんへ与えることではありません。皆さんが、自分で答えを選べる状態を守ることです』
ラオは画面を見たまま眉を上げた。
「……とても同じ人物とは思いませんな」
「二十年以上あった」
ムライはそれだけ答え、次の資料へ表示を進めさせた。
残っていたのは、いずれも地方政治の日常に属する記録だった。
自治体の契約資料を広く公開するよう求めた発言、地域医療の統廃合に際して住民説明を増やすよう行政側へ要求した議事録、非常時に行政へ認める特別権限にも期限を設けるべきだとした修正案。学校、診療所、港湾労働、職業訓練といった問題にも継続して関わっていた。
銀河の政治史に残るような仕事ではない。
ムライはそのまま、記録を年代順に進めさせた。
宇宙暦八〇〇年に入ったあたりから、議事録に並ぶ案件の名が変わった。
避難施設、配給、負傷者の受入れ、港湾機能の維持。平時の行政案件に交じって、戦争を前提とした議題が急に増えている。
ムライが画面の日付を見た。
「この頃、何があった」
職員が記録を確認した。
「マル・アデッタ星域会戦です。惑星パフラヴィーは、その戦域に近い地域にありました」
「……あの会戦か」
ムライはそれ以上は言わず、続きを促した。
戦況が悪化するにつれて自治体行政から提出される緊急案件はさらに増え、議会も短い間隔で臨時の審議を重ねていた。ミレーナは議長としてそれらの議事を取りまとめ、行政側が求める非常措置に期限や報告義務を付すことにも関わっていた。
「この期間も議長職には留まっています。ただ、家族について確認できた公的記録が二件あります」
職員は別の資料を開いた。
ミレーナ・ヴァレルの夫は旧自由惑星同盟軍人だったが戦時中に戦死していた。唯一の子であった娘も同盟軍人で、マル・アデッタ星域会戦で未帰還となり、その後戦死と認定されていた。
ラオはしばらく黙って家族欄を見ていた。クブルスリーは、その横に並ぶ議会開催日へ目を移した。
夫の死亡が記録されたあとにも議会は開かれている。娘が未帰還となったあとにも、ミレーナ・ヴァレルの名は議事録の議長欄に残っていた。
ムライは感想を挟まず、その先だけを確認した。
「同盟消滅後もしばらくパフラヴィーにいた形跡はありますが、公職からは外れています。それ以降、数年間は公的記録がほとんど途切れます。教団側の古い資料に、現在のスアーダとみられる人物が現れ始めるのはその後です」
入信した時期も、『スアーダ』という聖名を使い始めた時期も確認できていなかった。
教国側への本人照会も行っていない。自治政府として言えるのは、顔貌と声紋を含む複数の資料から、同一人物である可能性がきわめて高いというところまでだった。
「これも評議会へ提出する。ただし、確認できた事実だけだ。宗教へ入った理由も、旧来の政治思想と現在の立場がどうつながったのかも推測するな」
職員は家族欄へ視線を落とした。
「夫と娘については載せますか」
「公的資料から確認できる経歴として載せる。それ以上の意味は付けない。戦争で家族を失ったから教団へ入った、などと書けば話は簡単になるだろう。だが、われわれにはそんなことは分からん」
クブルスリーはその言葉を聞いて、資料の末尾を指した。
資料の末尾には「不明」の文字が並んでいた。
「そのままにしておいた方がいい。分からないところまで埋めたら、身元確認ではなく人物評になる」
ムライは異論を挟まず、資料を評議会提出用の束へ移した。
なぜ、その地方政治家がいまや神権国家の中枢に入り、聖王の使者としてハイネセンへ来るのか。その答えは、残された記録のどこにもなかった。
***
その日の午後、バーラト自治政府の評議会は予定されていた議事の一部を繰り下げ、対外情勢に関する臨時審議へ入った。
議場中央の表示板には、神聖黄金樹教国から申し入れられた、宣信院宰スアーダと辺境司牧院宰アロイジウスによるハイネセン正式訪問、帝国軍との情報連絡のあり方、そして内務局から提出された危機対応に関する調査権限の整理という三つの案件が並んでいた。
議長席にいたのはベルナール・コーツである。
コーツはバーラト自治政府の評議会議長であると同時に、最大与党〈自治安定党〉の党首でもあった。開会を宣言すると、コーツはまず、この日に決める範囲を限定した。
「軍隊の創設、艦艇の取得、軍事要員の募集は、本日の議題には含めません。必要であれば別途、正式な議案として提出してください。今日決めるのは、その前段階です。自治政府が何を知る必要があり、行政にどこまで調べることを認めるのか。その範囲を先に定めます」
議場の一角から、「安全保障を論じながら、軍隊の創設も艦艇の取得も議題から外すのか!」と野次が飛んだ。
コーツは発言者を制することなく順序の問題だと答えた。何を調べることが許されるのかも決めていないうちから、その調査結果を使って軍を作るかどうかまで決めれば、行政に結論を先取りさせることになる。
それ以上は論じなかった。
この種の場面で、コーツが自分の意見を持たないことはない。ただし議長席に座っているあいだは、自分の考えと議事の順序をなるべく混ぜない。そのやり方も、彼が長く評議会をまとめてきた理由の一つだった。
*
評議会には小会派や無所属議員もいたが、政治の中心には三つの党があった。
評議会の議席の約九割は、この三党によって占められていた。
議長のベルナール・コーツが率いる最大与党〈自治安定党〉は〈協調派〉と呼ばれ、反対者からは〈帝国派〉とも呼ばれた。帝国への忠誠を唱える党ではなく、二十年以上機能してきた自治の枠組みを不用意に壊さず、まず住民の生活と自治政府そのものを残そうとする。
第二党〈共和自立党〉の党首ロイド・ハーグリーブスは〈自立派〉で、新聞などでは〈独立派〉の名でも通っていた。旧自由惑星同盟への愛着も帝国への反感も隠さないが、彼が求めるのは直ちに帝国から離れることではなく、帝国にも教国にもバーラト自身の判断まで預けないことだった。
第三党〈自由共和党〉を率いるノーラ・リンデンは三党首の中で最も若く、支持者からは〈民主原則派〉、政敵からはときに〈民主原理主義者〉と呼ばれた。彼女が守ろうとしているのは非武装そのものではなく、市民が政府を選び、批判し、必要なら選挙で取り替えられる仕組みだった。
民間非営利団体である〈傘の会〉会長のユリアン・ミンツは、壁際に設けられた政府参考人席にいた。招請状に記された資格は「外部有識者」で、それ以上でも以下でもない。
少し離れた席にはユリアンと同じく政府参考人として、クブルスリーとラオが並んだ。
行政側の卓には内務局長のムライと事務総監のキャゼルヌが着いている。
フレデリカ・グリーンヒル・ヤンは自治政府記録官として出席していた。
*
最初に確認されたのは、昨年末にバーラトを訪れた教国の使節団についてだった。
スアーダ枢機卿を乗せた特使船に加え、教国軍第二聖団司令ベーレントの軍事連絡艦と、四隻の聖列艦がバーラト星系の境界まで来た。
自治政府が武装艦艇の境界外待機を求めると教国側はこれに従い、領内へ入ったのはスアーダの特使船一隻だけだった。兵員の上陸、補給、港湾施設の使用、後続船団の受入れはいずれも要求されなかった。
キャゼルヌは航跡記録を表示させた。
「そこまでは事実です。ですが教国に軍事的な意図がなかったという意味ではありません。こちらが待機を求め、向こうが従った。それ以上は分けて考えた方がいいでしょう」
フレデリカからは、スアーダとの会談で渡された資料について報告があった。
ヤン・ウェンリー暗殺事件に関する旧地球教徒の捜査記録、関係者の供述、身元照合に使える資料、生存している可能性のある人物についての情報。教国側は、それらの提供と引き換えに政治的、経済的、軍事的な要求を出していなかった。
予備協議で扱われたのは、正式訪問までの連絡方法、武装艦艇の扱い、民間船や遭難者が出た場合の緊急通信経路、それに今後の外交窓口だった。
コーツは議長席から確認した。
「見返りはなかったのですね」
「少なくとも示されてはいません。ただ連絡を続けたいという意思は明確でした。領土、駐留、軍事協定についての話は出ていません」
コーツは頷き、それ以上は追わなかった。
続いてキャゼルヌが境界外に残っていたベーレントの動きを説明した。
ベーレントの軍事連絡艦は特使船と分離したあとも入域を求めず、必要な通信以外ほとんど動かなかった。
「ベーレントが我々の何を記録していたかまでは分かりません。ただ、前回こちらが見せたものは少なくない。照会を一件返すのに何部署を通し、どこで止まり、答えが返るまでどれほどかかったか。その程度なら玄関先からでも見えます。隠すより次も同じところで止まる方を心配した方がいいでしょうな」
議席のあちこちで端末が動いた。
〈自立派〉のハーグリーブスが発言を求めた。
「教国がこちらを観察していることを危険と見るなら、同じ尺度は帝国にも向けるべきだろう。帝国の高等弁務官府は二十年以上、こちらを監視している。帝国が教国を『敵』と呼ぶからといって、その評価まで我々が借りる必要はない。そもそも教国は我々の敵なのだろうか?」
〈協調派〉のコーツは発言を最後まで聞いてから、反論した。
「帝国とは二十年以上の協定と実績があります。教国は、建国からまだ二か月ほどにすぎません。その差まで無視して同じ物差しを当てれば、それも判断を誤るでしょう」
「その帝国が、タナトスやロフォーテンでは教国軍に敗れている。建国の日、マーロヴィアではあの疾風ウォルフと鉄壁ミュラーまで敗走させたというではないか」
「それは事実です」
コーツは認めた。
「しかし、帝国が失敗したことと、教国が信用できることは別です」
そこで言葉を切り、議長として次の案件へ進めた。
今回の教国外交使節団による正式訪問申入書が表示された。
今回は到着予定日の十日以上前に対外連絡局を通じた正式な照会が出されていた。協議事項は医療情報の交換、七星系に残るバーラト籍住民とその家族の照会、民間船舶の安全運航、遭難時の連絡手続、外交窓口の五項目である。軍事協議は含まれていない。
もう一つ、前回と違う点があった。
今回申請されているのは、特使船一隻だけだった。
スアーダ枢機卿に加え、医療や家族照会の実務を預かるアロイジウス枢機卿が同行する。
教国中枢に座る七人の枢機卿のうち、二人がハイネセンに来る。
軍艦や軍人は同行しない。
その一項をどう読むかで、議場の反応は分かれた。
〈民主原則派〉のリンデンが発言を求めた。
「軍艦を外したこと自体は評価してよいと思います。ただそれを信用の根拠にするのは反対です。こちらの懸念を尊重したのかもしれないし、こちらを安心させる方法を覚えただけかもしれない。どちらでも外から見える行動は同じです」
〈自立派〉のハーグリーブスは少し身を乗り出した。
「軍艦を連れてくれば威圧、連れてこなければ計算。そこまで疑えば、相手に取り得る行動がなくなる」
リンデンは表情を変えなかった。
「教国に正解を与えるために議論しているのではありません。こちらが読み違えないために議論しているんです」
そこで前回の会談記録へ視線を戻した。
「私が知りたいのは、スアーダ枢機卿がこちらの制度、つまり民主共和政をどの程度理解している人物なのかです。知らずに手続きを尊重したのか、意味まで分かったうえで尊重したのか。それは同じではありません」
コーツは短く事務局へ合図した。
次の資料が開かれた。
画面に現れたのは、古い映像から切り出された一人の女性だった。
黄金樹の徽章もなく、ごく普通の濃色の服を着ている。
二十数年前の旧自由惑星同盟の地方政治家、ミレーナ・ヴァレルだった。
事務局は照合結果とともに、ミレーナが惑星パフラヴィーの一自治体で議員を務め、のちに自治体議会の議長となった経歴を報告した。スアーダと同一人物である可能性はきわめて高いという。説明は短く済み、古い選挙映像の一部が再生された。
『政治家の仕事は、正しい答えを皆さんへ与えることではありません。皆さんが、自分で答えを選べる状態を守ることです』
映像が止まると、その横に夫の戦死、娘の未帰還と戦死認定、それらの日付のあとにも続く議会開催記録が表示された。公職を離れてから教団側の資料に姿を現すまでの経緯は、不明のままだった。
議場が一気にざわめいた。
「あの枢機卿とやら、同盟の人間なのか!」
「それも政治家だぞ!」
「民主共和政の議会を預かっていた人間が、どうして神権国家の幹部などになる!」
「しかも宣信院宰とかいったな。要するに布教や信者獲得を担当している人物だろう」
「連中はあの地球教徒の残党だぞ!」
別の席からは反対方向の声も飛んだ。
「二十年以上前の経歴でしょう。昔、同盟の政治家だったからといって、今も同じ考えだとは限らない」
「だから問題なんだ。何があったのか分からないままでは判断できない!」
幾つもの声が重なり、議長席のコーツが卓上を軽く叩いた。
「皆様、静粛に!順番に発言をお願いします!」
ざわめきはすぐには収まらなかった。
コーツがもう一度卓上を叩いた。
「推測ではなく、まず確認できた事実について発言してください」
ようやく声が一つに絞られた。議席の一角から発言を求めた議員が立つ。
「戦争の時代でした。夫や子を失った人間なら、この国にもいくらでもいるでしょう。それを現在の外交判断の材料にするのは反対です。家族を失ったことは事実でも、そのために思想を変えたとは限らない」
その言葉に頷く者がいる一方で、ミレーナの娘の未帰還日と、その後に開かれた議会の日付を黙って見比べている者もいた。夫を失ったあとにもミレーナは議長席に座り、娘が戻らなくなったあとにも議事録の議長欄には名が残っている。
〈自立派〉のハーグリーブスは、止められた選挙映像へ目を戻した。
「少なくとも、議会を外から眺めて覚えた人間ではないわけだ。こちらが手続にこだわる理由も、何をされれば自治を侵されたと感じるかも知っている。その点では、話の通じない相手ではないだろう」
そこで彼は少し間を置いた。
「敵の敵が、こちらにとって利用できる相手になることはある。もちろん、教国を信用しろという意味ではない。ただ、帝国と教国が互いを無視できないなら、その間でバーラト自身が判断できる余地は増える。どちらか一方の陣営へ急いで入る必要もないだろう」
議場のあちこちから賛同の声が上がった。
「少なくとも、話のできる相手ではある!」
「帝国にも、教国にも、こちらを無視させなければいい」
〈民主原則派〉のリンデンはその同意には加わらなかった。
「私は、かつて同盟の政治家だったという経歴を安心材料にはできません。民主主義の言葉も、議会の手続も、それが人を安心させる理由も知っている。そのうえで現在は、聖王と教義を市民が選挙で取り替えることのできない国の布教活動の責任者をしています」
彼女は画面のミレーナ・ヴァレルと、資料欄にあるスアーダを見比べた。
「知らない相手より、こちらへどう話しかければよいかを知っている相手の方が、政治的には扱いが難しいこともあります。理解していることと、同じ価値を持っていることは別です」
議場の視線が議長席へ集まった。
コーツは画面を切り替え、経歴の後半に並ぶ「不明」の文字を追った。
公職を離れた理由。教団へ入った時期。スアーダという名を使い始めた時期。それまで掲げていた政治思想が、いつ、どのように現在の立場へつながったのか。
どれも記録にはなかった。
「われわれが知っているのは、彼女が何をしていたかと、何を失ったかまでです。何を考えたかではありません」
コーツは議長席から議場を見渡した。
「旧同盟の政治家だったからこちらの味方だとも、家族を失ったから宗教へ行ったとも決めない方がいいでしょう。ただし、教国の宣信院を預かる人物が、民主共和政の手続きを実地で知っている。それは外交上、無視してよい経歴ではない」
ユリアンにも意見が求められた。
「少なくとも、議会や手続というものを知らない人ではありませんね」
それが信用できるという意味かと問われると、彼は首を振った。
「そこまでは分かりません」
フレデリカが続けた。
「夫の……ヤン・ウェンリーの暗殺に関する調査記録を渡したことと、その際に見返りの条件をつけなかったことは事実です。それ以上は、私には分かりません」
それでも、正式訪問を受け入れるかどうかは決めなければならなかった。
ハーグリーブスは、帝国とは別に教国と話す窓口を持つこと自体が自治政府の仕事だとして受入れを支持し、コーツも実務上の連絡路を閉ざす理由はないとした。リンデンは協議事項を事前に公表し、軍事協議を含めないことを明記するよう求め、その修正が入ると反対には回らなかった。
医療情報の交換、七星系に残るバーラト籍住民とその家族の照会、民間船舶の安全運航、遭難時の連絡手続、外交窓口についての協議を認める案は、反対票を残しながら賛成多数で可決された。
***
コーツは採決結果を確認すると、次の議題へ移った。ムライがまとめた資料が、議場中央へ表示された。
人員については調査範囲未定。
軍艦は零。
指揮制度なし。
自治政府固有の軍事部隊を編成・運用する法的根拠なし。
民間側にどこまで基盤が残っているかは未評価。
「教国を信用するかどうかは、評議会で御判断いただくことです」
ムライは議場を見回した。
「ただ、その判断の前提になる危険そのものをこちらで評価しようとすると、現在の制度では止まります」
コーツが訊いた。
「どこで止まりますか」
「そもそも所管がありません」
ムライは、各部局の所管を順に挙げた。
交通管制局は航路と船舶を把握している。
内務局は避難施設と住民保護を、医療部門は病床と搬送能力を知っている。帝国軍の配置については高等弁務官府を通じて照会できる。
しかし、それらを一つに重ね、バーラトにとってどの程度の危機なのかを継続して評価する権限は、どの部署にも与えられていなかった。
「必要になったことがなかった、と言った方が正確でしょう」
ムライはそう付け加えた。
「二十年以上、帝国側に委ねられてきた機能です。自治政府が独自に軍事情勢を継続して評価すること自体、制度の前提に入っていません」
最初に論点になったのは、帝国の高等弁務官府との情報連絡だった。
帝国軍が持つ艦隊配置、戦闘記録、航路封鎖、避難区域について、自治政府への提供をこれまでより定期化する。内務局の案はそれだけなら単純だったが、〈自立派〉のハーグリーブスはすぐに留保を付けた。
「情報を受け取ることには反対しない。ただし、帝国からしか戦争を教えてもらえない制度を強くするのは反対だ。教国軍がどこにいるかも、何を狙っているかも、帝国がそう判断したからそうだということになる」
コーツは議長席で資料を繰った。
「だからといって、帝国軍が持っている情報を受け取らない理由にもならないでしょう。少なくとも現在、教国軍と実際に戦っているのは帝国軍です。こちらが独自に数万隻の艦隊を追跡できるわけではない」
「受け取るのと、依存するのは違うと言っている」
ハーグリーブスが返した。
リンデンは二人の応酬には入らず、高等弁務官府を経由して帝国軍から提供されている戦況資料の書式を開かせ、確認済みの航跡情報と帝国軍情報部の推定が同じ欄に記載されていることを指摘した。
「連絡を増やすことには賛成します。ただし、事実と評価を分けてください。帝国軍が確認した事実なのか、帝国軍がそう判断しているのか、それをこちらの記録で区別できるようにする。情報を受け取ることと、判断を委ねることは同じではありません」
コーツはその修正なら異論はないと答えた。ハーグリーブスも完全には満足しなかったが、情報源と評価主体を明示すること、可能な限り民間航路や教国側の公開情報とも照合することを条件に、連絡強化そのものには反対しなかった。帝国との情報連絡を強める方針は、その条件で賛成多数により了承された。
***
残る論点は、バーラト自治政府自身の持つ現有の能力をどこまで調べるかだった。
ムライが検討内容を説明した。避難、救難、輸送、通信、医療、港湾、造船。
それぞれについて、現在どの程度の能力があり、大規模な危機が起きた場合にどこまで対応できるのかを把握したい。ただし、行政がどこまで調査してよいのかについては評議会の授権が必要だというのが内務局の意見だった。
〈自立派〉のハーグリーブスは、この調査には積極的だった。
「それくらいは自分たちで知るべきでしょう。軍隊を作るかどうか以前の問題です。何万人を避難させられるのか、どれだけの船を動かせるのか、通信網がどこまで持つのか。それすら帝国へ訊かなければ分からないというのでは、自治政府とは言いにくい」
〈民主原則派〉のリンデンも、この点では彼に近かった。
「少なくとも市民を守るために現在ある能力を把握することには賛成です。避難所の数を数えたからといって、軍隊を作ることになるわけではありません。病院の収容力を調べることも同じです」
そこで〈協調派〉のコーツが口を挟んだ。
「どこまでなら同じだと言えますか」
議場が静かになった。
コーツは、ムライが提出した調査項目を一つずつ読み上げた。航宙資格者、機関技術者、通信技術者、造船技師、旧軍での勤務経験。最後の項目まで来たところで、端末を置いた。
「避難所を数えるのと、旧軍人を数えるのは違います。軍隊を作ると決めてもいないのに、誰が戦えるか、誰が軍艦を動かせるかを調べ始めれば、その名簿は何と呼んでも動員候補者名簿に近づく」
ハーグリーブスは、だから何も調べるなというのかと返した。
「そうは言っていません。先に境界を決めるべきだと言っているんです」
コーツはそこでクブルスリーへ視線を向けた。
参考人席の老人は、表情を変えずに答えた。
「議長の懸念はもっともです。現在ある統計を整理するだけなら行政実務で済むでしょう。しかし、軍事的な目的を想定して個人の経歴を新たに集め始めるなら話は別です。何を調査してよいかを決めること自体が、もう政策です」
ハーグリーブスが率いる〈自立派〉の共和自立党側からは、旧軍経験者の概数すら把握できなければ将来の選択肢を評価できないという意見が出た。
これに対し、コーツが率いる〈協調派〉の自治安定党からは、将来使うかもしれないという理由だけで市民の経歴を集めることこそ、政策の既成事実化だという反論が返った。
リンデンが率いる〈民主原則派〉の自由共和党も調査そのものには賛成していたが、個人名や軍歴を政府が一括して結びつけることには強い警戒を示した。
調べなければ分からないが、調べ方によっては、まだ決めていない政策を先取りする。その境界で議論は何度か同じところへ戻った。
無所属席からダニエル・トリューニヒトが発言を求めたのは、そのときだった。
それまで彼は、主要三党のやり取りを聞きながら端末へ短いメモを取っていただけだった。
コーツが発言を認めると、ダニエルはまずムライではなく政府参考人席のラオの方を見た。
「一つ、確認してもいいでしょうか」
ラオが頷いた。
「名前を調べる必要がありますか?」
コーツがわずかに眉を上げた。
ダニエルは続けた。
「知りたいのが、この社会にどれだけの能力が残っているかということなら、誰が持っているかまで最初から調べなくてもいいのではないでしょうか。航宙資格、機関、通信、医療、港湾、造船。既存の行政資料から人数や年齢分布だけを集計して、個人名を切り離すことはできませんか」
ラオはムライから送られた資格台帳と就業統計を確かめた。
「この数日、見せてもらった範囲では資格台帳と就業統計があります。精度を欲張らなければ概数までは出せると思います」
「軍歴は」
「それを結びつけなければならない理由は、第一段階ではありません」
ダニエルは頷いた。
「最初はそこまでにしてはどうでしょう。名前は集めない。旧軍人の名簿からは調べない。戦う意思も訊かない。船を押さえないし、武器も買わない。指揮官も決めない。ただ、この国に何があって、何がないのかだけを数字にする」
さきほどまで同じ場所を回っていた議論には、初めて別の出口が見えていた。最初に反応したのはリンデンだった。
「個人を特定しないのであれば、我が党も反対しません。ただし、個人単位の原資料を調査班へ移すのは反対です。各部局がすでに保有している資料をそれぞれの部局で集計し、調査班へ渡すのは数字だけにする。市民や民間事業者へ新たな照会を行う権限も持たせない方がいいでしょう」
ダニエルは異論を挟まず、リンデンの修正を聞いていた。
ハーグリーブスは少し考えてから口を開いた。
「そこを外せば、実際にどれだけ早く何かを立ち上げられるかは評価できない。航宙資格があることと、軍艦を動かした経験があることは別でしょう」
「その評価を、今日する必要がありますか?」
ダニエルが訊いた。
ハーグリーブスはすぐには答えなかった。
「軍隊を作るかどうかは議題ではないと、さっき議長が言いました。ならば今日必要なのは、軍隊を作るのに何人使えるかではなく、危機が来たときこの社会が何を動かせるかまでではないでしょうか」
コーツはしばらく黙り、ムライへ向いた。
「ムライ内務局長。この範囲で、実務上意味のある報告は作れますか」
「作れます。ただし、かなり粗いものになりますが」
ムライはそう断ったうえで、現在ある行政資料だけでも、医療、輸送、港湾、通信、造船、救難、燃料備蓄、避難施設について、おおよその余力と不足を出すことはできると説明した。
帝国軍の位置や対応見込みを合わせれば、少なくとも避難輸送や医療などの機能をどれだけの期間維持できるか、どこから先に詰まるかを見る材料にはなる。
「最初の調査としては、そこからでしょうな」
クブルスリーが言った。
「まず出せる数字を出すべきでしょう。足りない項目が残ったら、その理由と一緒に次の権限を評議会へ求めればいい」
コーツは事務局に、修正案の文面を作るよう指示した。
その前にキャゼルヌが、専任要員を置くなら人数にも上限が必要だと付け加えた。
戦争が始まったからといって、役所は暇になるわけではない。新しい仕事へ人を回した分だけ、どこかの通常業務から人が抜ける。
しばらくして議場中央に、新しい組織案が表示された。
名称は〈危機対応基盤臨時調査班〉。
常設機関ではなく、設置期間一年の臨時組織とする。定員と予算には上限を設け、期間満了とともに自動的に終了する。延長する場合は、改めて評議会の議決を必要とする。
対外連絡局、内務局、交通管制局、医療部門、港湾局その他の関係部署がすでに保有する資料を横断的に整理し、外国軍隊の動向が、バーラトの住民保護、行政継続、避難、救難、輸送、通信、医療、港湾、造船その他の基盤へ与える影響を評価する。
そこまでは、主要三党から大きな異論は出なかった。
議論になったのは、その下に付けられた禁止事項だった。
個人名による旧軍歴の調査を行わない。
軍歴と現在の住所、職業、資格を結びつける名簿を作らない。
人員に関する情報は、各部局が既存資料から作成した、個人を特定できない集計値だけを受け取る。
市民や民間事業者への新たな照会は行わない。
本人に軍務への参加意思を照会しない。
民間船舶の予約、徴用、軍事転用を行わない。兵器を調達しない。
指揮官を選定しない。
動員計画、作戦計画を作成しない。
権限を追加する場合には、改めて評議会の議決を必要とする。
コーツは、その文面を支持した。ハーグリーブスはなお不満を残したが、反対には回らなかった。
「足りないことが分かったとき、次の議論から逃げないという条件なら我が党は賛成します。何もないことを確認して、だから何もしないという結論に使われるのでは困る」
コーツは資料から目を上げた。
「報告の内容も見ないうちから、その先の議題まで約束するつもりは我が党としてもありません」
「まあ、そうでしょうね」
ハーグリーブスは不満そうだったが、それ以上は求めなかった。
リンデンは別の箇所を見ていた。
「調査班が作成した資料は、原則として評議会へ提出してください。非公開にする部分があるなら、その理由も記録する。危機を理由に、行政だけが情報を持つ形にはしたくありません」
この修正にはコーツも反対しなかった。ダニエルは、そのやり取りが終わると再び無所属席の端末へ目を落とした。採決に入る前、コーツは一度だけ議場を見渡した。
「確認します。この議案は軍隊を作る議案ではありません。軍隊を作らないと決める議案でもありません。現在の自治政府が危機を判断するために、何を調べてよいかを定めるものです」
その説明のあと、採決が行われた。
全会一致にはならなかった。
危機対応という名で新しい組織を作ること自体が軍事組織創設への入口になると反対する者もいれば、個人の軍歴すら調べられない組織では役に立たないと反対する者もいた。
それでも議案は、賛成多数により可決された。
散会前、ムライとキャゼルヌは翌朝に関係部局の担当者を集めることだけ決めた。最初に持ち寄るのは、各部局がすでに保有している集計と、そこからは分からない項目だった。
事務局が議場中央の表示を正式訪問の予定へ戻すと、船団構成が最後に残った。
スアーダ、アロイジウス両枢機卿と文官随員。特使船一隻。軍事協議の予定なし。
最後の欄には、短い記載があった。
護衛の聖列艦――なし。
ハーグリーブスもリンデンも、今度は何も言わなかった。ムライはその一行を見てから、翌朝の会合時刻を端末へ書き込んだ。
次にスアーダが来るとき、軍艦は来ない。