ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
クリスマス休暇が終わる日の夕方、スリザリンの談話室は急に狭くなった。
前日までなら暖炉の前の長椅子を一人で使っても誰にも文句を言われず、湖に面した窓のそばで好きなだけ本を広げられた。それが今では、戻ってきた生徒たちのトランクが壁際に並び、休暇中の出来事を話す声があちらこちらから聞こえてくる。
真司は暖炉の近くで『クィディッチ今昔』を読んでいた。
隣には手帳を開いている。知らない競技名や昔の規則が出てくるたび、気になったことをそちらへ書いていたのだが、三章まで読んだところで、マルコムが本に挟んでいた「質問は一章につき三つまで」という制限は、とっくに超えていた。
男子寮へ続く階段の方で、ごつん、と大きな音がした。
「だから、そこは曲がりにくいんだって」
聞き覚えのある声だった。
しばらくして、マルコムがトランクを引きながら姿を見せた。休暇前と同じ黒い髪に、休暇前と同じ少し不機嫌そうな顔をしている。片手には家から持たされたらしい紙袋まで抱えていた。
「おかえり」
真司が言うと、マルコムはトランクから手を離した。
「ただいま」
十日ほどしか離れていないので、大げさな再会になるような話ではなかった。それでもマルコムがいつもの椅子へ鞄を置くと、談話室はようやく元の形へ戻ったように見えた。
マルコムの目が『クィディッチ今昔』から、その隣の手帳へ移った。
「一章三つに収まった?」
にやりとした。
「収まってない」
「やっぱり」
「三つじゃ足りないよ」
「一章につき三つだ」
「だから足りないって」
「選べばいいだろ」
「気になるものは気になるよ」
マルコムは手帳を覗き込んだ。
「……ずいぶんオーバーしてるじゃないか」
「まだ三章だから」
「そういう問題じゃない」
「でも面白いよ」
そう言うと、マルコムは少しだけ口元を緩めた。
「ならいい」
真司は『クィディッチ今昔』を閉じた。
「そっちは?」
「何が?」
「僕があげた本」
「ああ」
マルコムは自分の鞄を開けた。教科書の間から、見覚えのある一冊が出てくる。
真司がクリスマスに贈った『ホビットの冒険』だった。
マグルの書いた、魔法使いやドワーフやドラゴンの出てくる物語である。実際の魔法界とはずいぶん違うところもあるだろうが、マルコムなら、その違いを見つけることまで含めて楽しめるだろうと思った。何しろ、真司の「なんで?」にこれまで付き合ってきたのである。
「読んだ?」
「全部」
「早いね」
「休みだったからね」
「どうだった?」
「面白かったよ」
返事が思ったより早かったので、真司は少し嬉しくなった。
「変じゃなかった?」
「変だった」
「やっぱり」
「でも、変なのと面白いのは別だろ」
マルコムは表紙を軽く叩いた。
「ドラゴンなんか、だいぶ違うと思う」
「僕に言われても、本物知らないよ」
「僕だって見たことはない」
「じゃあ同じじゃん」
「本なら読んだことがある」
「それはずるい」
「何が?」
「なんとなく」
マルコムは本を鞄へ戻しかけ、ふと思い出したように手を止めた。
「祖父には小言を言われたけど」
「本で?」
「本で」
真司は椅子に座り直した。
「なんて?」
マルコムは少しだけ顔をしかめた。
「『グラント家の子が、マグルの書いた魔法使いの話を読むのか』って」
「読んじゃ駄目なの?」
「駄目とは言われてないよ。読む必要があるのか、って」
「なんて答えたの?」
「必要はないけど、面白いって」
「怒られた?」
「少し」
マルコムの言い方は、学校で教師に叱られた話をするのとほとんど変わらなかった。
「ほかに家族からなんか言われちゃった?」
「母さんは、面白かったならよかったじゃない、って」
「それだけ?」
「それだけ」
真司はもう少し聞こうかと思ったが、マルコムは本を鞄へしまった。
「それより、休み中は何してた?」
「図書館行ったり、ハグリッドの小屋に行ったり」
「小屋?」
「うん」
「入ったの?」
「入った」
マルコムの眉が上がった。
「どうだった?」
「椅子が大きかった」
「そこ?」
「あと、お菓子が硬かった」
「ほかには?」
「ユニコーンの尻尾の毛を見せてもらった」
マルコムは一度黙った。
「それを先に言えよ」
「椅子もかなり大きかったよ」
「もういい」
真司は少し笑って、『クィディッチ今昔』をまた開いた。
*
翌朝、大広間で朝食を取っていると、エイダが向かいの席へやってきた。
「シンジ、見て!」
「何?」
エイダは鞄から杖を取り出した。
振ってみせると、いかにも立派な杖に見えたそれは、次の瞬間にはぐにゃりと曲がり、先が下を向いた。
エイダは満足そうだった。
「ちゃんと役に立たない」
「よかった」
「すごくいい」
「そういう褒め方でいいの?」
「だって、そういう杖でしょ?」
たしかにそうだった。
真司がクリスマスに贈ったウィーズリー・ウィザード・ウィーズのトリック・ワンドである。
「そういえば、パズル、まだ解けてない」
真司が言うと、エイダの目が少し輝いた。
「壊した?」
「壊してないよ」
「じゃあ、まだ大丈夫」
「何が?」
「全部」
「何が全部なの?」
エイダは答えず、またトリック・ワンドを振った。今度は途中から妙に太くなった。
そこへベアトリスがやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
真司が言うと、ベアトリスは席へ着きながら訊いた。
「ショートブレッド、食べた?」
「食べた。おいしかったよ」
「よかった」
「ちゃんとクリスマスまで開けなかった」
「ほんと?」
「なんで疑うの?」
「ちょっとだけ」
ベアトリスが笑った。
「日本のお菓子もおいしかったよ」
「どれがよかった?」
「コアラのやつ」
「コアラのマーチ?」
「たぶん、それ」
「チョコの?」
「うん。それとポッキー」
「僕も好きなんだ」
「だから選んだの?」
「うん。ベアトリスもチョコ好きそうだったから」
その横では、エイダがもうトリック・ワンドをマルコムへ向けていた。
「ほら」
「僕に向けるな」
「何も出ないよ。安全だって」
マルコムは椅子を少し後ろへ引いた。
「君にかかったら、安全なものも安全じゃなくなる」
「失礼だなぁ」
「去年、羽根を焦がしたのは誰だ?」
「去年って言っても二か月前じゃん」
「時間の問題じゃない」
*
授業が始まれば、クリスマス休暇が終わったことを忘れるのは早かった。
変身術では、休み前にはできたはずの変身が少し怪しくなった。スリザリンとレイブンクロー合同の呪文学では、杖の振り方を巡ってマルコムとエイダが言い合っていた。
「そこ、もう少し右じゃない?」
「フリットウィック先生は斜め上だと言った」
「だから右斜め上」
「君の右は広すぎるんだ」
「右に広いも狭いもある?」
真司は自分の杖を振りながら、あると思う、とだけ思った。
一方、ハッフルパフと合同の魔法薬学では、今度はベアトリスが近くにいた。真司が刻んでいた材料を横から覗き込み、少し首を傾げる。
「それ、大きくない?」
「これ?」
「うん。私のより」
真司は自分の材料とベアトリスのものを見比べた。
「……ほんとだ」
休みの十日ほどで、手まで少し休んでいたらしい。
金曜日が終わるころには、クリスマスはもうずいぶん前のことのようだった。
土曜日の午前、四人は図書館のいつもの机に集まっていた。
真司は薬草学の宿題を半分まで書いたところで、ふと思い出した。
「そういえば」
エイダが顔を上げた。
「何?」
「ハグリッドが、みんなも連れてこいって言ってた」
「小屋に?」
「うん」
マルコムが羽根ペンを止めた。
「菓子もある?」
「そこ?」
「君があれだけ硬いって言うから気になるだろ」
「あると思う」
エイダはもう本を閉じていた。
「行こうよ」
マルコムは、まだ机に広がっている羊皮紙を見た。
「宿題はどうするんだ?」
「大丈夫。宿題は逃げないよ」
「だから困るんだが?」
エイダはもう本を鞄へしまっていた。ベアトリスも笑いながら羊皮紙を重ねる。
「私も行ってみたい」
真司は自分の宿題を見た。まだ半分残っている。
それから羽根ペンを置いた。
*
雪はまだ敷地のところどころに残っていたが、クリスマスのころほど深くはなかった。踏み固められた道の端には黒い土が覗き、屋根から落ちた雪解け水が細い筋になって流れている。
ハグリッドの小屋へ近づくと、大きな背中が外で薪を割っていた。
「ハグリッド!」
真司が呼ぶと、斧を振り上げたまま大きな顔がこちらを向いた。
「おう、シンジ!」
それから後ろの三人に気づいた。
「友達連れてきたんか」
「うん。マルコムと、エイダと、ベアトリス」
「マルコム・グラント」
「エイダ・ラブレス」
「ベアトリス・リード」
ハグリッドは三人の顔を順番に見て、大きく頷いた。
「よし。入れ、入れ。外は冷える」
「菓子ある?」
マルコムが訊いた。
真司は横を見た。
「先にそれ訊く?」
「確認だよ」
「あるぞ!」
ハグリッドは嬉しそうだった。
真司は何も言わなかった。
小屋へ入った三人は、揃って一度足を止めた。
「大きい」
最初に言ったのはベアトリスだった。
「でしょ」
「君の小屋じゃないだろ」
マルコムが言った。
エイダは大きな椅子へよじ登り、床につかない足を一度ぶらつかせた。
四人が席へ着くと、ハグリッドは大きなポットで茶を淹れ、例の丸い焼き菓子を皿ごと机へ置いた。
ベアトリスが一つ取った。
噛んだ。
止まった。
「……硬い」
「でしょ」
マルコムは二人を見て、自分の分を最初から茶へ浸した。
「ずるい」
エイダが言った。
「情報は使うものだよ」
そのとき、窓際の棚で、かさり、と音がした。
エイダが振り向いた。
「何?」
「お、起きたか」
ハグリッドは立ち上がり、棚のそばに置かれていた細い枝をそっと持ち上げた。
一見すれば、葉の少ない小枝にしか見えなかった。
ところが机へ置かれると、その中の一本が身を起こした。
「うわ」
真司は身を乗り出した。
小さな腕と脚があり、細長い指で枝へしがみついている。尖った顔だけをこちらへ向けて、四人をじっと見ていた。
「ボウトラックルだ」
ハグリッドが言った。
「前に話してたやつ?」
「そうだ」
ハグリッドは太い指で枝の根元を支えた。
「もともとは魔法生物飼育学で見せるために何匹か連れてこられたんだ。授業が終わったあと森へ移したんだが、気に入ったらしくてな。今じゃ森の端の木に住み着いとる」
「帰らなかったの?」
ベアトリスが訊いた。
「ここが気に入ったんだろうな。食いもんもあるし、木もある」
「これは森にいたやつ?」
「そうだ。こないだの風で住んどった枝が折れちまってな。木が落ち着くまで、こいつだけここで預かっとる」
エイダが手を伸ばしかけた。
「急に触るなよ」
ハグリッドに言われ、手が止まった。
「まだ触ってない」
「触りそうだったからだろ」
マルコムが言った。
「分かってる」
ボウトラックルはするすると枝の裏側へ回った。
ベアトリスが少し身体を傾ける。
「元の木に戻すの?」
「そうだ。こいつらは自分の木が好きだからな」
「何食べるの?」
真司が訊いた。
「ワラジムシなんかだな。妖精の卵も好きだ」
「妖精の卵?」
エイダの顔がまた少し近づいたが、今度は手を出さなかった。
「杖に使う木にもいる?」
マルコムが訊いた。
「よくおるぞ。杖に向く木を守っとることもある。だから杖職人には大事なやつだ」
「クリの木にも?」
真司が訊いた。
「住みつくことはあるだろうな」
真司は制服の内側に入れてある杖へ、ちらりと目を落とした。
もう一度ボウトラックルを見ようとしたころには、小さな身体はすっかり枝の陰へ隠れていた。
「嫌われた?」
「たぶん見飽きたんだ」
マルコムが言った。
「初対面だよ」
「それでもだ」
ハグリッドは笑いながら枝を持ち上げた。
「暖かくなったら、外でも見られるかもしれんぞ」
「森の中?」
エイダが訊いた。
「森の端っこならな。勝手に奥へ入るんじゃないぞ」
「分かってる」
「シンジにも言っとく」
「なんで僕?」
「おまえさん、質問しながらどんどん先へ行きそうだからな」
マルコムが頷いた。
「それはある」
「ないよ」
「ある」
ベアトリスまで笑っていた。
*
小屋を出るころには、冬の空はもう薄暗くなっていた。
エイダとベアトリスは城へ戻る途中でそれぞれの寮へ向かい、真司とマルコムはそのまま地下へ下りていった。
談話室へ戻ると、二人は暖炉の近くの机へ宿題を広げた。
真司は図書館で残してきた薬草学の続きを書き始めた。
しばらくして、向かいから紙をめくる音がした。
顔を上げる。
マルコムは宿題ではなく、『ホビットの冒険』を開いていた。
「また読んでるの?」
「うん」
「もう読んだんでしょ?」
「読んだよ」
「じゃあ、なんで?」
マルコムはページから顔を上げた。
「面白かったから」
ちなみに『クィディッチ今昔』は全10章構成。
一章三問なら、マルコムは30個まで質問に答えてくれることになります。だいぶやさしい。