魔法少女いろは☆マギカ 1部 Paradise Lost   作:hidon

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こちらでは各話で描かれる「いろはの夢」を纏めさせていただきます。


いろはの『夢』

《項目》

 

 

1.FILE #01

 

2.FILE #03

 

3.FILE #09

 

4.FILE #13

 

5.FILE #34

 

6.FILE #38

 

7.FILE #61

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.

 

 

 ――――ああ、まただ。

 

 また、私は、あの場所に居る。

 

 

 ここがどこにあるのか、記憶を何度探っても未だに分からない。

 分かるのは、ここが病院の中で、私は誰かの面会に来ている、ということぐらい。 

 

 白を基調とした病室には、林檎を二つに割った様な甘い匂いが漂っていて、鼻を柔らかく撫でてくれた。

 ふと、目線を窓の方へと向けると、街並みが一望できた。ビルやマンションといった大型高層物が密集していることから、この病院は都会の中心部に位置していることが分かる。

 それにしても、この病院自体もかなり大型なものらしい。窓の風景から察するに、10階以上の高さぐらい有るのではないか。 

 

「――――」 

 

 考えていると、誰かから名前を呼ばれた。

 ああ、いつもの女の子の声だ――――穏やかな柔らかい声色。でも、空気に溶けてしまいそうなぐらい細く、弱々しい声。

 私は、昔からその声を知っている。自分が小さかった頃――――いや、それよりももっと、遥か昔から聞き慣れていた。

 どうしようもなく懐かしい思いがして、私は声の方向を見る。

 一台の電動式ベッドの上では、小さな女の子が横たわっていた。桃色のロングヘアーに、丸い瞳――――彼女は、私とよく似ていた。初めて有った時、鏡でも見た様な錯覚に陥った程だ。

 もしかしたら、自分に近しい親族の者なのかもしれない。でも、思い当たる節が無い。

 私には妹がいない(・・・・・・・・)。いとこは居るが、病気を患っている子はその中に存在しなかった。 

 

 少女は、私を見つめている。病室のベッドの上で寝ている状態からして、この子は何らかの病気に掛かっているのは間違いない。でも、浮かべている笑顔は、病の苦痛さなんて微塵も感じさせないぐらい明るくて、まるで陽の様な暖かさが感じられた。 

 

 いつまでも見つめていたい――――そう思っていると、

 

 

 

「――――」

 

 

 彼女は口を開き、再びわたしの名前を柔らかく呼んだ。

 ああ、終わりだ――――と、私は思った。

 その先は紡がないでほしい。言ったら、この心地良さは無くなってしまう。

 全てが暖かさに満ちたこの世界で、この子が最後に伝えてくるその言葉だけが、異常だった。

 奇妙で、不可解で、不気味で……ぞっとする様な怖さがあって、その意味を深く考えたく無かった。

 

 

「私はね」

 

 

 しかし、そんな私の懊悩など、知った事では無いというふうに、彼女は笑顔のままで、

 

 

■■と会う約束があるの」

 

 

 そう、紡いでしまった。 

 

 夢が終わっていく。

 彼女はどこにもいなくなり、病室の風景が闇夜の様な漆黒に覆われていく。私の足が浮遊してどこまでも落ちていく。 

 

 

 ただ、林檎の匂いだけは、最後まで――――鼻腔を優しく、くすぐっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.

 

 

 ――――ああ、まただ。

 

 目に見えたのは、いつも夢で見る世界。

 林檎の甘酸っぱい匂いがどこからともなく漂っていて、『あの子』が優しく迎えてくれる。

 でも、今回は少し違った。

 病室にある三台のベッドには、いつものあの子の他に、もう二人の女の子が存在していた。

 

「アドルフ・ヒトラーはね」

 

 最初に口を開いた女の子の声を聞いた時、いろははアッと口を声をあげそうになった。

 長い茶髪に、ころころ変わる表情。一度聞くとずっと耳に残るぐらいの凄く特徴的な声色をする彼女を、良く知っていた。

 

「官使であった父親を脳溢血で亡くして、父が残してくれた少ない遺産を母の看病に費やしたの。やがて、母も亡くなり、私産も底を付きたヒトラーは、孤児年金だけじゃあ到底生きていくことができなくって、日々一切れのパンを得るのに必死だったそうよ」

 

 ――――政治家になるまで、地を這って泥を啜るような努力を重ねてきたの、立派よね。

 

 そう付け加えて、虚空を見上げる少女の目は、キラキラと羨望の光が瞬いていた。

 

「それは嘘っぱちだよ」

 

 が、ピシャリと上から叩く様な指摘が入った。

 声の方へと目を向ける。茶髪の少女の対面側のベッドに、赤いフレームのメガネを掛けた同じ年ぐらいの女の子が上半身を起こしていた。

 どこか機械のように無機質な声色をする彼女のことも、いろはは良く知っていた。

 

「ヒトラーは父親の孤児年金と遺産収入で当時の大学卒よりも良い暮らしをしていた事が明らかになっている。1908年2月にヴィーンへ来てからは、確かに浮浪者収容所や、独身者合宿所に住んでいたこともあったが、日々の暮らしは贅沢三昧だったそうだ。嵩む食費と趣味の劇場通いで次第に生活が困窮していったとさえ言われている」

 

 彼女は茶髪の少女とは対照的に、憮然としたまま淡々と解説すると、最後に目を細めてこう締めくくった。

 

「青年時代の彼は、とんだ自堕落者だ。親の仕送りや、生活保護頼りのニートと同義だよ」

 

 彼女のぶっきらぼうな物言いに、ムスッと顔を顰める茶髪の少女。

 

「どうしてそう思うの? 本人が自著で言っているじゃない」

 

「第三者の目線で明らかになっている方が事実さ。主観混じりの人生なんて、信用に値しない」

 

 僅かに語気を荒げて訴えるも、メガネの少女は冷徹さを崩さない。

 

「私は、本人が自分で、伝えてることが真実だと思うけどな。ねむのいう第三者なんて、どうせナチス政権崩壊後に、ドイツを分断占領した連合国軍が広めた中傷でしょうに」

 

 茶髪の少女はそう言って睨みつける。

 ――――二人の視線が激しくぶつかり合い、宙空でバチバチと火花が弾けた。

 

(この二人は――――)

 

 そんな二人の一部始終のやりとりを眺めながら、いろはは二人のことを思い出していた。

 

 ――――まず、一人目の、茶髪の少女の名は『里見(さとみ)灯花(とうか)』。

 母親は科学者、父親は東京の有名大学で教授をしているらしく、その血を受け継いだ本人も、相当に頭が良かった。曰く、幼い頃に行ったIQテストで「200」もの数値を叩き出し、講師達を唖然とさせてやった、と豪語していた。

 ――――確か、彼女は、自分の事を『エゴイスト』だって言ってたっけ。

 自分の事が極端に好きであり、自分の言うことは一切間違っていないという。だから、自分の発言の理論立ては一切妥協しなかったし、他の人が意見を挟むのを決して許そうとはしなかった。

 

 ――――もう一人の赤いフレームのメガネの少女の名は『柊ねむ』。

 母親は小説家、父親は生物学者をしている彼女もまた、灯火に匹敵する知性の持ち主だった。小説を書くのが好きで、小学校低学年の頃から、趣味半分で書いた物語をネットで投稿していたのだという。

 7歳の頃に書いたという処女作を読ませてもらったところ、難解な文章塗れで何が書いてあるのかサッパリだったが、サイトのランキングでは一位を象徴する黄金の冠マークがキラキラと輝いていたのは、はっきりと思い出せる。

 

 彼女は自分の事を『ラショナリスト』と自負していた。

 (聞き覚えのない言葉だったので、本人に確認した所、『合理的主義者』という意味らしい)

 高すぎる夢や理想を望まず、今現在の自分の能力、周囲の環境、人間関係を熟慮し、その全てを用いて勝ち取れそうなものが有れば、挑戦するという思考で、冷徹に物事を判断する姿勢は、一般的な女の子からは掛け離れていた。

 

 確か、この時読み合っていたのはアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』――自分は彼のこともその書物のことも全く知らないが――だったか。

 二人は、偉人や著名人の書物を読み回して口々に感想を言い合っていた。

 そこで、お互いの考え方の違いや価値観、信念が垣間見れるのが面白かった。特に『自伝』を読んだ時は、棘でチクチクと相手の神経をつっつき合ってるな、と思ってたら――――いつの間にか、ズバズバと相手を斬りつけ合う口論に発展していた。

 灯花は『著者が自分の目で見て、耳で聞いて、身体で経験したことなのだから信憑性がある』と主張すれば、ねむは『近しい者や後世の人間による客観的な評価こそ真実だ』と意見して、ぶつかり合った。

 

(あの子と、同じ病室に居たんだっけ――――)

 

 二人もまた、なんらかの重い病気を患っており、一日の大半を病室で送るしか無かった。『あの子』と同じだ。

 

(そうだ、あの子は――――)

 

 振り向く。あの子は、ベッドの上で上半身だけ起こして、何かを読んでいる。

 表紙を遠目で伺うと、『我が闘争』と書かれていた。恐らく、あの二人のいずれかに回されてきたのだろう。

 『あの子』は二人と違って(・・・・・・)普通だった。本の内容は難しいのだろう、眉間に皺を寄せて、一文一文睨みつけている様に凝視していて、「ムムムム……」と唸り声を漏らしていた。

 そんな姿を眺めていると、自然と顔が綻んだ。今の自分は、とてもニコニコしているに違いない。

 それもそうだ。未だ、口から火や雷を吹きつつ争っている灯花とねむと比べると、なんだか微笑ましくって――――

 

(!! そうだ、名前――――!!)

 

 そこでいろははハッと、顔を上げた。

 灯花とねむのことだって思い出した。この子の事だって、今度こそ思い出せるかもしれない!

 いろはの足は自然と動いた。駆け足で、ベッドの下へと――――

 

 

 

 

 

 

 誰かに腕を、グッと掴まれた。

 

 

 

 

 

 

 ――――瞬間、世界が様相を一変させる。

 

「っ!!」

 

 そこが病院の通路だと、いろはが理解したのは――――直後のことだった。

 白いコンクリートによって一切の光が遮られた無機質で薄暗い通路は、先の「あの子達がいた」病室と同じ建物の中にあるとは信じ難いぐらい、別世界に感じた。

 前方に目を向けると、無限の闇が広がっている。

 一度足を踏み入れたら、二度と抜け出さえない――――直感でそう思ってしまうぐらいの、濁りの無い、深い漆黒。

 だが、いろはは怖じけ付く事無く、一歩を踏み出した。

 あの闇の中から、気配がする。『あの子』と、灯花とねむがいる。そして、僅かに……林檎の匂いが漂っている。

 間違いない、と確信した。三人がいる病室は、すぐ近くにある。

 

 ――――急いで戻らないと。私は今度こそ、あの子に聞かなきゃいけない。

 

 もう片方の足にグッと力を込めると、飛び出すように駆け出した。漆黒の闇の先に、光り輝く世界があると信じて。

 しかし――――

 

「ッ!!」

 

 上腕部に生じた痛みに、いろはが呻いた。 

 

 ――――さっきと同じだ。誰か(・・)が自分を止めようとしている。

 

 駆け出した際に後ろに振った右腕が、ゴツゴツとした大きな手で強く握り締められている。

 苦痛で顔が歪むが、いろはは堪えながらも、その人物の顔を確認するべく、バッと後ろを振り向き、

 

「――――!?」

 

 硬直した。白衣を纏った男性が、佇んでいた。

 伸び切った前髪が顔の上半分を覆っており、表情は伺えない。

 しかし、両顎をキツく噛み締めており、零れ出る荒い息づかいが、鬼気迫る迫力を感じさせた。

 

(誰なの、この人――――!?)

 

 一つの困惑が、頭の中に垂らされた。それは、思考の海を荒々しい波濤へと急変させて頭蓋を内側から叩きつけてくる。

 この病院の医者(せんせい)だろうか。でも、見たことも無い人だった。

 

 …………いや――――灯花とねむのこともすっかり忘れていたのだ。

 もしかしたら、彼も以前お世話になっていながら、忘れているのかもしれない。

 荒れ狂う思考の海の中で、必死に記憶を探ろうとするが――――残念ながら、彼に関する記憶は一片も見当たらなかった。

 自分を握りしめる彼の手は、熱が籠もっている。

 そして、全身から発せられる必死な感情――――彼が(・・)自分の事を知っているのは明らかだったし、何としても自分を止めなければならない事情が有るように感じた。

 

 

「環、いろは」

 

 

 開かれた彼の口から、自分の名前が呟かれて、目を丸くした。慌てて言葉を返そうと口を開く。

 

 

あなたは(・・・・)何をしているんだ(・・・・・・・・)

 

 

 あなたは、誰?――――と、彼に問おうとした、その矢先だった。

 彼の怒りに満ちた声が、耳に突き刺さる。

 

 

「なんで、そっちに(・・・・)行こうとする?」

 

 

 嵐で荒みきった波の様に声を大きく震わせながら、訴えてくる。

 困惑、憤怒、嫉妬、悲嘆――――全ての負の激情が複雑に混じり合って形成された言葉の剣が、胸に突き立てられた。

 だが、いろはは怯まない。

 

 ――――灯花とねむのことを思い出せたのだから、あの子の事だって……!

 

 どうして彼は邪魔をするんだろう。自分の欲しいものが直ぐ近くにあるのに。その為に、自分はここまできた(・・・・・・)のに!

 頭の中で荒れていた思考の水面が、収まった。同時に、沸々と滾ってきて、頭頂部が熱くなる。キッと眉間にしわを寄せて、目を鋭くする。質問の答えでは無く、怒りの形相を彼に返してやった。

 

「離してよっ!」

 

 力任せに大きく腕を振るうと、彼の手が祓われた。

 彼の顔に浮かぶ複雑な感情に、僅かな驚きが混じった。

 

「どうして、止めるの!? あの向こうに、大事な場所があるのに……!」

 

 彼はどこか呆気に取られた様子で、黙して聞いていた。

 

「灯花ちゃんと、ねむちゃんと、『あの子』が、私を待ってるのに……!」

 

 しかし、そこまで叫ぶと、反応が見られた。

 自分を止めようと伸ばされていた腕が、力を失ったかのようにガクリと垂れる。

 表情は歪ませたままであったが、そこから伺える感情は一つに整理されているように見えた。

 

 

「あなたは、こっち(・・・)へ来るんだ」

 

 

 深い悲しみで顔を青く照らしながら――――彼は、静かに言う。

 ゆったりとした動作で再び手を上げると、いろはを手招きする。

 

「三人が待ってるんだよ!? 私の求めているものがあそこにあるのに……どうして……!?」

 

 彼は間違い無く、自分に対して特別な思いを抱いている。しかし、自分はあの場所へ戻りたい。どうしても、取り戻さなきゃいけないものが、あるから――――!!

 そう思って彼を睨みつけた瞬間だった。

 

 彼の顔が、鬼の形相と化す。

 

 

「そこはあなたが居ていい場所じゃない(・・・・・・・・・・・・・・)からだよッ!!!」

 

 

 鼓膜を貫かんばかりの激昂が、巨大な杭となって、いろはの全身をその場に打ち付けた。

 

「――――っ!?」

 

 身体がビクリと震えて、固まる。

 頭の中で再び思考の海が荒れ狂い始めた。波状する混乱は、彼の顔を見てると余計に強まった。

 前髪の隙間から僅かに赤い光が瞬いている。よく見ると、その奥を、彼の瞳が確認できた。

 ずっと働き続けて、何日も睡眠を取っていない様な、疲れ切った目は、すっかり乾ききって、充血を起こしていた。

 

 ――――何かを諦めたけど、それでも強く求めている様な、複雑な情熱が籠もる瞳が、痛烈に心を射抜いてきた。

 

「………じゃあ」

 

 暫し沈黙して、白衣の男と静かに睨み合ういろはだったが――――静寂を破るように自分から口を開いた。

 

「あそこは、私にとっての何だっていうの?」

 

 恐らく彼は知っている。

 あそこが――――いつも夢で見るあの眩しくて、優しくて、甘い世界が、自分にとって何か意味を持つ場所で有ることを、よく知っている。

 

 真実を知らなければ。自分が前に進むためにはそうしなければ――――!!

 

 焼け付くように痛む胸を抑えながら問いかけると、彼は紅い目で強く凝視したまま、こう言った。

 

 

「“()”だ」

 

 

「えっ……?」

 

 思考の海が、液体窒素を豪快に流し込まれた様に、ピタリと冷えて固まった。

 ――――刹那、後ろで気配。

 だれかが、スタスタと、軽い靴音を響かせて近寄ってくる。

 林檎の匂いが鼻腔を刺激して、いろはは直感した。

 

 ――――『あの子』が、迎えに来てくれた。

 

 その時感じたのは、喜びだったのか、それとも困惑だったのか……頭が混乱しているせいで、判別が付かなかった。

 ただ、この時、反射的に後ろへ振り向いていた。

 思った通り、数歩ぐらい先に、病室で見たのと寸分違わぬ姿の『あの子』が居た。

 パジャマ服に腰まである桃色のふんわりとした質感の髪をフワフワと揺らし、腕に刺し込まれた点滴棒を押して、ゆっくりと近寄ってくる。

 後ろで白衣の男が、必死に何かを訴えているが、もう何を喋っているのか理解できなった。

 

「―――ちゃん」

 

 自分が駆け寄るよりも早く、あの子は一歩先まで近づくと、自分の名前を呼んだ。

 

 ――――ああ、終わり(・・・)が告げられる。

 

 緊張と興奮で、すっかり苦くなった唾液をゴクリと飲み込む。

 結局、この子の名前を聞くことはできなかった。

 後ろの男が邪魔さえしなければ、自分は一番大事なものを思い出せたかもしれなかったのに。

 

「私はね」

 

 穏やかに言葉が紡がれている。これ以上は何を言っても無駄だと分かりきっていた。だから、黙って待つことにする。

 最後に、この子の顔をしかと目に焼き付けようと、じっと見つめた。

 ――――しかし、場所が薄暗い通路だったせいか、彼女の首から上は、漆黒に覆われてしまって、表情が確認できなかった。

 

 

 

 

 

“死神”と会う約束があるの」

 

 

 

 

 

 視界が徐々に暗転していく。まるで闇に飲まれていくかのような、不思議な感覚。

 ――――でも、多分、あの子は笑って言ったのだろう。そうに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.

 

 

 流れ込んできたものが、脳の隙間に入り込んでいくと、自分の視野いっぱいに、コマ送りみたく次々と映し出された。

 何れもが見たことのある映像で、『自分のもの』だとはっきり認識した。

 

 

 ――――『あの子』は、先天性白血病だった。

 

 

 生まれてから、たった一ヶ月でそう診断された。

 それからというもの、『環』の家で家族と過ごした時間はごく僅か。人生のほぼ全てを病院で過ごす事を余儀なくされたのだ。

 里見灯花と柊ねむがいる。院内学級で彼女達と一緒に勉強と励み、林檎を割った甘酸っぱい臭いが漂う優しい、陽だまりの様な世界。

 でも、あの子に取っては…………牢獄の様な世界だったのかもしれない。

 だから、出してあげたかった。自由な外の世界へと羽ばたかせてあげたかった。

 だって、『あの子』は願ったのだから――――!!

 

 

おねえちゃん(・・・・・・)といっしょに、学校に行きたい』って――――!!

 

 

 ――――おねえちゃん?

 

 そうだ、“あの子”は、自分の事をそう呼んでいた。私にとって大事な家族だった。世界一の宝物だった。

 

 

『お願い、病気を治して……! 元気にしてあげて!』

 

 

 だから、“妹”を救うためなら、どんな犠牲も厭わなかった。私は全てを捧げるつもりでそう願ったんだ。

 あの子の、あの子の名前は――――!!

 

 

 

 

 

おねえちゃん

 

 

わたしはね

 

 

 

 

 

 ●●と一緒に、学校に行きたかった。

 

 ●●と一緒に、買い物に行きたかった。

 

 ●●に、オシャレを身に着けさせてあげたかった。

 

 ●●と一緒に、外で思いっきり遊びたかった。

 

 ●●と一緒に、料理を作りたかった。

 

 ●●に今度こそ、ちゃんとしたハンバーグを食べさせてあげたかった。

 

 でも、なにより――――

 

 ●●と一緒に、家族みんなでもう一度、笑い合いたかった。

 

 

 

 

 

 

“死神” と会う約束があるの

 

 

 

 

 

 

ある陣地の争奪で

 

 

 

春が物騒がしい明暗と共に還ってきて

 

 

 

林檎の花々の香りが宙を満たすころに――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつもの『終わりの言葉』に、初めて続き(・・)が付け加えられて、聞こえてきた。

 途端、世界が暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガウン、ガウンと――――無機質な機械音が耳を叩いて、目を覚ました。

 ああ、前と同じだ。あの知らない白衣の男性が居た場所の様な、全く知らない世界へと放り込まれた。

 そこは、まるで工場の管理室の様な場所だった。

 前方には広大な窓ガラスが有り、白衣を纏った、研究員の様な女性が中央に立って張り付き、向こう側をじっと眺めている。腰まで伸ばされた茶髪が、天井に設置された大型エアコンの温風に吹かれてユラユラと、漂うように揺れていた。

 身体が小刻みに震えている。よく見ると、立っているのもやっとの状態に見えた。今にも崩れ落ちそうに、ガタガタと震える足を、杖や補助具も使わず、その強靭な意志の強さだけで支えていた。

 周囲を見渡すと、無数のデスクの上に、見たことも無い機械やコンピュータが並んでいたが、何れのモニターの中では砂嵐が巻き起こっていた。

 窓ガラスの前の女性以外に他の研究員らしき人の姿は見当たらない。放置されたデスクの上には幾つもの書類が乱雑に置かれて――――

 

 字面を見て、ゾクリと、背筋が震えた。

 まるで、親に構ってもらえなくて癇癪を起こした我儘な子供が、怒りの赴くままに暴力的に書き殴られた文字で、埋め尽くされていた。文脈の規則性も皆無で、蛇が這い回した様な字は、何を意味しているのか、全く読み取ることができない。

 

(――――!!)

 

 目を震わせて眺めていると、一枚のA4サイズの紙が目に付いた。

 それだけが、全く異なって見えた。

 自分の手が、引き寄せられるようにそれに伸びて、ぎゅうっと掴んだ。

 顔の直前まで持ってきて、文面を確認する。用紙の中央で、柔らかな正楷書体で書かれた文字を、小さな声で読み上げた。

 

 

 

 

『 PROJECT : MAGIA RECORD 』

 

 

 

 

 ――――戦慄した。

 頭の中身が頭蓋を内側から叩き割らんばかりの勢いで荒れ狂う。胃の中の酸液がグラグラと煮えたぎってきて、猛烈な不快感と同時に吐き気が喉元まで迫ってきた。

 

 ――――なんだ、これは。

 

 これは、本当に、わたしの記憶なんだろうか。

 だったら、この場所は、なんだ。全く見覚えが無い。

 

 ――――でも、この文字列は、知っている(・・・・・)

 

 だけど……これが、なにを意味しているのか、思い出せない。

 わたしは、一体、何を見ている。

 この悪魔の夢の中の様な管理室で、わたしは、一体、何を(・・)知っている?

 

 

「くふっ」

 

 

 唐突に、含み笑いが耳朶を叩いた。

 持っている用紙を顔から外して、聞こえてきた方向へ咄嗟に振り向く。

 あの女性からだ。背中を向けたままだが、未だ眺めている窓ガラスに顔が映り込んでいた。

 今にも枯れ果てそうな老婆の様に、皺まみれの衰弱しきった顔の下で――――口の両端が吊り上がり、残忍に溢れた愉悦を滲ませている。

 呆気に取られたままそれを注視していると、自然と、ガラスの向こうの景色も伺えた。

 

 巨大なクレーンがゆっくりと降下していく。

 見えなくなった途端、ずぶりっ、ぬちゃり、と気色悪い生々しい音を、静かに響いた。

 一拍間を置いてから、上昇していく。

 大量に掴まれた赤いものを見て――――その場で吐きたくなった。

 

 生肉だ。鮮血が、濡れた雑巾を絞った様に、びちゃびちゃと流れ落ちている。

 

 両手で口を抑えて、膝を床に付いた。心の底が冷え付き全身がガタガタと震えて、これが自分の中にあるものだと受け入れたく無かった。

 だが――――何かが胸の内側から訴えている様に感じた。

 これは紛れもなく、お前の一部なのだと、目を背けるなと、叫んでいた。

 だから、怖くて怖くて仕方ないのに、目を逸らせなかった。

 

 

一切(ものみな)はただ火炎なり」

 

 

 そこで、ガラスに映る女性の両唇が、ゆっくりと上下した。

 

 

「天空覆いて(くま)なし

 

四方および思維(しゆい)

 

地上にも空隙存せず

 

一切の暗き大地は

 

悪人みな遍満す

 

われいま帰するに所なく

 

孤独にして同伴なし

 

悪所の闇中に在って

 

大火災の(なか)に入る

 

我は虚空の中にして

 

日・月・星を見ざるなり」

 

 

 それは、彼女自身の言葉というよりも、誰かの言葉を引用したかの様だった。

 

 

日月巡りて年経るとも

 

大火ありて汝が身を焼かん

 

汝痴人にして悪をなせり

 

いま何をもってから悔いを生ぜん

 

これ天・修羅・健達婆(けんだっば)

 

竜・鬼のなすにあらざるなり

 

自業の(あみ)繋縛(けばく)せられたるなり

 

人よく汝を救うものなし

 

もし大海の中にして

 

ただ一掬(ひとぎく)の水を取らんに

 

この苦は一掬のごとく

 

後の苦は大海のごとし

 

 

 攣られる様に自分の口が動いて、そう返した。

 意味は分かってない。しかし、頭にフッと過った。胸の内側で叫んでいた誰かが、これを言え、と差し出した様だった。

 それは彼女が呟いた台詞への明確な反論とも聞こえた。

 

「『罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人はこの世において余生のあるうちになすべきことをなして、(ゆるが)せにしてはならない』」

 

 女性が続けて吐き出した言葉は、聖人の教唆というよりは、尊大なる覇者が自らの悪業(エゴ)を正当化する為の詭弁の様に聞こえた。

 それに対する反論も、即座に口から出てきた。

 

「『地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらねばならない。それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである』」

 

 言いながら、疑問に感じていた。

 果たしてこれら(・・・)は本当に自分の言葉なんだろうか。

 今この時だけ、誰かが自分の身体を乗っ取って言わせているんじゃないだろうか。

 その思考は、自身の内側に居る“誰か”にも投げかけるつもりだったが、そこから返事は帰ってこない。

 

 

「唾棄すべき思想だ、反吐が出る」

 

 

 女性が振り向き、そう吐き捨てるのと同時に、ギロリと、剥いた目を見せた。

 強く見開かれた瞳から、爛々と紅蓮の光が瞬き、自分の心を焼き焦がす様な意志の強さを放っていた。

 

「たまき」

 

 呟かれたのは自分の名字。

 たった3文字だが、身を震わす程の憎悪と侮蔑が存分に乗せられていた。

 

 ――――向き合え。

 

 誰かがそう囁いた。

 だから、自分も、恐怖心に押しつぶされそうになりながらも、女性を強く見つめ返した。

 

おまえは(・・・・)そこにいろ(・・・・・)

 

 女性の笑みが、ニタリと歪む。

 

「っ!?」

 

 低い声で、放たれた言葉が、一石となって思考の海に投じられた。波紋が広がり、混乱が更に増していく。

 前の夢で会った白衣の男性とは、正反対の言葉を、女性は訴えてきた。

 

「せいぜい屍の様に生き永らえて、安寧の日溜まりから深淵を見下ろし続けるといい」

 

 気を失いそうなぐらい意識が混濁する。クラリと頭が揺れた。

 だが、女性はそんな自分の状態など、まるで意に介さず冷酷に告げる。

 

「お前は落伍者だ。救世主になる為の痛苦から逃げ出し外道と蔑まれる道を選んだ。私を裏切った(・・・・・・)

 

 一頻りの罵詈雑言を訴えると、最後に笑みを消して――――真剣な表情で、一言、放った。

 

 

偽りの楽園(・・・・・)で、腐れ果てろ」

 

 

 ――――それが、お前に相応しい結末だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4.

 

 

 夢を見た。

 

 いつもの病室。温かい日差しが窓から差し込んだ、林檎の臭いが優しく漂ういつもの場所で、自分は一つのベッドと向き合っていた。

 

「うい」

 

 声を掛ける。ベッドの上の人物は、身体を起こしていた。顔を背けて窓の方を向いている。

 

「おねえちゃん、思い出したよ、貴女のこと」

 

 それが少し気になりつつも、懸命に声を掛けた。思い出したことを喜んで欲しい一心だった。

 だが、彼女は、振り向かない。映る都会の街並みをじっと眺めている。まるで自分の言葉など最初から聞こえていないかのように。

 

「うい」

 

「…………」

 

 再び声を掛ける。しかし、ういは振り向かない。

 ――――からかってるのかな?

 多分そうだ。なんだか微笑ましくて、ふふ、と笑みが溢れる。

 

「ねえ、うい」

 

 こっちを向いて、顔を見せて。

 そう思い、彼女の肩に手を伸ばし、

 

 

 

「お姉ちゃんは、わたしの邪魔をするの?」

 

 

 

 掴もうとした寸前だった。冷え切った声が、矢の様に飛ばされた。

 

「えっ?」

 

 心臓を射抜かれた様な痛みが強烈に走った。驚きの余り目を見開いた。

 伸ばした手が、ピタリと止まる。ういが今、何を言ったのか、全く理解できなかった。

 

「何度もいったよね?」

 

「…………!!」

 

 ういは振り向かないまま、低い言葉が叩きつけてくる。

 ズキリズキリと、心臓が激しく痛んだ。覚えのない罪悪の感情が強引に引きずり出されて、叩き付けられた様な感覚だった。

 右手で胸を抑える。

 

「……っっ!!」

 

 刹那――――窓の景色が一変。

 光景を目の当たりにした瞬間、両膝ががくがくと震えた。同時に猛烈な胃酸が腹の奥からこみ上げてきて、口を抑える。

 それは、小さなキュゥべえをこの手に掴んだ時に見た夢の一片だった。

 行ったことも無い工場の管理室で、見たことも無い女性が張り付いて眺めていた悍ましい光景――――生肉の塊が、ぐちゃりぬちゃりと生々しい音を立てながら、何処かに運ばれていく。

 

「…………っ!」

 

 恐怖からか、それとも、知らない罪悪感からか。

 自然と、視界が歪んだ。両目には涙が溢れていた。ここから逃げ出したいのに、逃げ出してはならない(・・・・・・・・・・)という矛盾した二つの気持ちが鬩ぎ合い、身体を縛り付けていた。

 

「…………」

 

 ふと、ういを見る。

 ぞっと背筋が冷えた。彼女は、無言のまま、平静とした様子で、窓の光景を眺めている。

 

「わたしには」

 

 そこで、静かに呟きはじめる。

 ああ、次に言うのは、あの『言葉』だ――――でも、それが聞きたくない。ういの口から聞くのは嫌だ。

 

 

“死神”と会う約束があるんだって」

 

 

 耳を塞ぐよりも早く、ういの言葉は告げられてしまった。

 最後まで、振り向くことは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、知らない病室に自分は居た。

 窓から差し込む陽の明かりが、自分の身体に降り注いでいる。凍り付いた心を優しく撫でて溶かしているようで、安心感で満たされていく。

 あの悍ましい場所から抜け出せたと思うと、ほっと一息付けた。

 

(あれ?)

 

 不意に病室が気になった。全体を見回すと既視感を覚える。

 

(ここって……)

 

 ういが居た病室と酷似していた。

 しかし、平穏に満ちていた『あそこ』と比べると、此処は酷く無機質で殺風景に感じられた。

 それもその筈だ――――林檎の臭いが無い。周りのベッドを見ると、ういも、灯花も、ねむもいない。ああ、ここに誰か一人でも居てくれたらもっと気持ちが安らいだだろうに。

 

 

たまき(・・・)

 

 そこで突然、誰かから、名前を呼ばれた。

 

 

「っ!」

 

 身体がビクリと跳ねる。

 安らぎの時間は一瞬で終わった。目の前に彼女が(・・・)居る限り、それは敵わないのだ。

 緊張感が齎されて、全身を固めていく。

 じとりと、顔に脂汗が浮かんできた。

 

「何をそんなに悩んでいる」

 

 自分は丸椅子に座って顔を前に向ける。以前、夢の工場で見た知らない女性が立ち尽くしていた。彼女も自分と向き合っている。

 憔悴しきっていたあの姿と比べると、今は、両足でしゃんと立っており、背筋もピンと張っていて至って溌剌そうに見える。顔もよく見ると皺が少なくて、10歳は若返っている印象だ。

 

 ――――この人は、誰?

 

 考えてみる。記憶をあるがまま手探ってみる。誰かに(・・・)、彼女は似ている。でも、誰に似ているのかが、想像できない。

 

「感傷に浸るな。ヒューマニズムなど、我々には無用の長物だ」

 

「……っ!」

 

 女性の顔は、叩きつける様な低い声と反比例して、和やかな笑みを浮かべていた。

 それを捉えた瞬間――――一つ理解したことがある。

 彼女の事が、忌々しかった。

 腹の底から憎悪の限りをぶち撒けてやりたいと思っていた。

 

「捨てろ」

 

 素っ気なく吐き出されたその一言で、感情の煮え湯が一気に脳まで達した。

 

 

「捨てちゃ駄目なんだ!!」

 

 

 気がついた時には、自分は彼女の胸ぐらを掴み上げて、ありったけの怒りをぶつけていた。

 

「人は最期の時まで人で無くちゃいけないっ!! 救う使命を背負った私達が人で無くなってしまったら、誰があの子たち(・・・・・)を救えるというのっ!?」 

 

 口から烈火の如き激情が溢れてくる。

 だが、彼女は怯まない。寧ろ蔑む様な笑みと凍り付いた瞳で見下ろしてくる。

 それを見て、もう一つわかった事がある。

 

 

 自分が殺意を抱いたのは、これが初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

「わたしも同意見だ」

 

 

 

 

 

 

 不意に、また別の女性の声が頭に響いた。

 ハッと気がついた頃にはまた別の場所に自分は移動していた。『瞬間移動』をしたらこんな感じなんだろうか、と突拍子も無い考えが頭を過る。

 ――――そこは、またも病室だった。だが、これまで夢で見たものとは明らかに違う。野戦病院の様だ。

 横並びにされたベッドが、部屋の奥まで延々と続いている。何れの上にも人が寝ていた。いや、寝かされていた、といった方が正しいのかもしれない。

 

 ――――正しい? 何で正しいなんて思うの?

 

 自分でそう判断したにも関わらず、疑問が湧いた。問いかけようにも答えてくれそうな人が周りには居ない。

 目の前のベッドを覗き込む。そこに横たわっていたのは子供だった。10代半ばの小さな女の子だ。

 一切微動だにしないので、もしかしたら死んでいるのではないか、と思い咄嗟に口元に耳を当てると、スー……スー……静かな寝息が聞こえてきたので、安堵した。

 身体を戻して、他のベッドをまじまじと見つめる。寝かされているのは、同じぐらいの少女ばかりだ。

 

 

「彼女たちは生きているんじゃない。生かされている(・・・・・・・)

 

 

 不意にその言葉が背後から飛んできた。

 

「~~~~っっ!」

 

 腹立たしい感情が胸の内を覆い尽くす。胃の中で悪い虫が暴れまわり、内側から食い破られる様な痛みが全身に響いた。

 その場で膝が折れた。下腹部を押さえながら、声にならない声で呻く。

 

あいつ(・・・)を見ていると、思う事がある。人間の理性というものはどれほど勝手で漠然とした道具かということを」

 

「っ!!」

 

 苦痛に蹲る自分の背中に、再び同じ声が掛けられた。 咄嗟に振り向くと、今までの夢でも会ったことの無い女性が一人、歩み寄ってきていた。

 赤いフレームの丸メガネを掛けて、白衣を纏った、初老の女性だった。後ろで一本に縛った三つ編みのお下げがゆらゆらと揺れている。

 顔つきは、どこか疲れ切っている様で、頬は色白でこけていた。睡眠不足なのか、目の下には真っ黒なくまができている。

 

「だからこそ、君の言う通り、我々は自らの“良心”でそれを改善しなくてはならない。節制と貞潔を……我らに与え給うた神への敬意によって、それ自体を愛さなければならない」

 

 彼女は、光を失った瞳で見据えながら、まるで機械の様に感情が抜け落ちた声色で淡々と語りかけてくる。

 だが、紡がれた言葉は、意志を失ってはいなかった。

 

「だったら……もう止めるべきです!」

 

 そう確信した時、自分の心に再び火が点いた。立ち上がると、彼女に食って掛かるようにして訴える。

 

「だが、それは今の我々には不可能だ」 

 

 だが、彼女は小さく首を振って否定する。

 

「我々の世界が直面している問題を如何にかするには、彼女たち(・・・・・)の身が必要だった」

 

「そんな……っ!」

 

 諦念混じりの言葉を受けて、歯を食いしばった。そんなことはないと、貴女の意見が()には必要なんだと訴えてやりたかった。

 

「この問題は後世に残してはならない。我々が溌剌としている内に……解決しなければならないんだ」

 

 そこで彼女は、この部屋で横並びになっているベッドの上で、穏やかに眠っている少女たちを見回した後に、ゆっくり首を戻して自分を見つめた。

 

 ――――分かってくれるね。

 

 光を失った漆黒の瞳が、有無を言わせぬ圧力を携えて、そう訴えてきた。

 

「…………」

 

 口を閉ざす。彼女の意志は鋼の様に固い。これ以上は何も言っても通じない。

 

「だが……」

 

 そこで彼女は、顔を俯かせた。影が掛かり、表情が全く見えなくなる。

 

「……最近、夢を見る」

 

 ポツリと呟かれた言葉は、震えていた。 

 

「学校で、保険医をしている夢だ」

 

「…………」

 

 彼女が訥々と語りだしたので、耳を傾ける。

 

「悲鳴が聞こえてね、私は慌てて保健室を飛び出して近くのクラスに駆け込むんだ。女の子ばかりのクラスだった。テロリストが乱入してショットガンを撃ちまくっていた」

 

 語りながら、彼女は両手をゆっくりと上げた。

 

「女の子達は狂ったように悲鳴をあげて次々と血飛沫を撒き散らした。私は『早く逃げろ』と叫ぶんだ。助けようって一心で。でも……みんな、撃ち殺された」

 

 開いた手のひらを、じぃっと見つめている。

 

「気がついたら、ショットガンはわたしの手の中にあったんだ。どういうことかわからなかった(・・・・・・・・・・・・・・)。ただ、一つ分かったのは……」

 

 

 ――――わたしが、彼女たちを撃ち殺した。

 

 

 彼女の声色にようやく感情が乗せられた。声を絞り出すと、両手を強く握りしめて爪を食い込ませる。

 

「それでもわたしは懺悔のつもりで、一人の女の子を外に連れ出そうと背中に乗せた。死にかけている血塗れの少女が恐ろしく重たくのしかかってきた。口の中に血が入り込んで空気を求めて喘いでも、すぐに血は口の中に溜まる。その血の味、血のにおい、血の熱さ、血のぬめりが……こびりついて離れないんだ。こんな夢を毎日見る自分に怒りを覚える……。悪夢が止まらない事にどうしようもない不安を覚えるんだ。昔の楽しい夢が見たいのに……」

 

 彼女は言い切ると、顔を上げた。漆黒の瞳を震わせて、訴えてくる。

 

「ねえ、たまき、わたしの頭の中は、いつの間に、こうなったんだろうか……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5.

 

 

――――親友っていい言葉だよ。だって天文学的な確率だもんね。

 

 

 

 そうそう、確かにそう言っていた。

 

 

 

 

――――調べた年代や年齢によって違うんだけど―……。

 

 

 

 

 雲一つ無い快晴が窓に映る明るい病室の中。

 あの子の身体は病魔にかなり蝕まれている筈だが、私が来るといつも、愉しそうに笑いながら話してくれた。

 

 

 

 

 ――――親友の数って色んな統計や論文が出ててね。

 最近の教育心理学の発表だと大体三人なんだってー。

 

 

 ――――それって今の地球人口が74億人だとするとー…… 

 れーてんれーれーれーれーれーれーれーよん%ってすっごく小さい確率なんだよー。

 

 

 ――――お姉さまを含めるとわたくしたちはそれを3回も引き当ててるっ。

 

 

 ――――だから、わたくしたちってここでこうして話してるだけで、天文学的な確率に選ばれたかんけーなんだよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『そうは思わないか? たまき(・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 輝かしい記憶の中で、何かが割り込んできた。

 記憶が、ぐにゃりと歪む。

 

 

 刹那、暗転――――

 全ての光が遮られた。

 

 

 

 

 

 

『だから、気にするな』

 

 全てが無機質な壁に覆われた冷たい箱の中で、声が囁く。

 

『奪ったもののことなど、気にするな』

 

 

 

 

 

 

「違う」

 

 声が震えた。

 腰まで届く茶髪と白衣、そして、血溜まりの様な紅い瞳――――彼女は、憎悪の対象だった。

 

 

 

 

 

 

 どこか、知らない場所だった。

 出口の無いトンネルの様な世界。

 白い布切れの様な薄着を一枚だけ着た少女達が歩み寄ってくる。

 人数は多い、2~30人は居るだろうか。何れも目に生気は無く、虚ろだった。

 軍服を来た白人達が彼女たちを囲い恫喝を撒き散らしながら、何処かへと連れ去っていく。

 英語だから何を喚いているのかさっぱりだ。だが、彼らの表情は焦燥に染まっており、只ならぬ状況なのは理解できた。

 少女たちは無防備だ。何も持っていない。しかし、彼らの手には銃が握られていた。

 

 つまり、彼女達の命は常に彼らの掌の中に有った。

 

 

 

 

 

 

「違う」

 

 こんなこと(・・・・・)を思い出したかったんじゃない。

 自分が思い出すべきは、雲一つ無い青空の様に、純粋で、晴れやかで、心が安らぐものだった筈だ。

 

 

 

 

 

 

『お前と私は一緒だ』

 

 しかし、そんな否定など無意味だと言わんばかりに、彼女の口元は残忍に吊り上がった。

 心底愉しそうなのが、気に入らなかった。嫌悪の余り、反吐が喉元に溜まった

 その笑みは酷薄で、無情で……正気を保った人間が浮かべるそれとは思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「違う……!」

 

 否定。しかし、言葉と対照的に自分の胸を大きく食らい付くしたのは、後悔の様な感情。

 ガタガタと震える手が、水に濡れた包丁を強く握り締めていた。

 

 

 

 

 

 

 軍人の一人が、自分の前に立ち止まり、敬礼する。

 彼は感情を消した声で、言った。

 

『彼女達の____が決定した』

 

 言葉は全て英語だったが、何を言ってるのかはっきりと理解できた。

 

 

 

 

 

 

 

『だから、親友なんだよ。たまき』

 

 

 

 

 

 

 動揺。

 包丁が一瞬だけ誰かの血に塗れて見えた。

 だが、女性の言葉を懸命に頭から振り払う。

 ――――違う。自分が友達だと思っていたのは、里見灯花と、柊ねむだ。

 お前じゃない。

 

「誰が……!!」

 

 刃先を、自分の喉元に向けた。

 

 

 

 

 

 

 やがて、衣きれを纏った少女達は辿り着く。

 異国の王族か大富豪が住んでいる立派な城門の様な、堅牢な鉄扉が立ち塞がった。

 率いていた軍人達が、二手に分かれて、扉の両サイドを引っ張って、開放した。

 そこ(・・)に入ってはいけない。

 だが、彼女達は一切抵抗することなく、軍人の指示に従順のまま、中に入っていった。

 

 そこへ入れば、何をされるのか、分かっている筈だったのに――――

 

 懸命に伸ばされた手は、誰一人にも届くことは叶わず、扉は轟音を立てて閉ざされた。

 

 

 

 

 

 

 

『私とお前は、同じだから』

 

 

 

 

 

 

 

「誰がお前なんかとっ!!」

 

 叫ぶ。

 包丁が勢いよく首筋を貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6.

 

 

 

――――そう、だから全て数学は全て宇宙に繋がるんだよ!

 

――――わたくしのパパ様はよく将来、生きるために必要だとか、考え方が身に付くとか言ってるけど、そんなのは関係ないんだよ。

 

――――人類に宇宙を駆け回ったり宇宙の果てを見る力が無いなら数字が無ければハップルの法則もビッグバン理論も成り立たない。 

 定常宇宙モデルだってプラズマ宇宙論だって何もかも!

 

――――人類は宇宙発生と同時に可能性という数字として生まれた。数とは縁のきれない存在なんだよ。

 

――――そして、この数の理論を掴み宇宙のことを把握することは、人類が自分達の根っこを理解することに繋がって果ては進化の糧になるんだよ!?

 

 

 ……かなり極論に聞こえるが、あのぐらいの年齢なら、図書室の本で得ただけの知識をさも自分が導き出した解答であるかのように、友達に自慢したくなるのはよくある話だ。

 

 自分がさも世界の理解者になったような。

 同年代の子供たちよりも遥か先へ進んだような。

 自分一人だけみんなより先に大人になれたような、優越感。勝利者の興奮。

 灯花の世代で無ければ味わえない悦楽だろう。

 

 

――――わたくしすごいよね!

 

 

 <想像を叶える、科学者の灯花ちゃん>

 

 周りは、彼女をそのように賛辞した。

 確かに、一般的な子供よりも頭がよかったのかもしれない。

 でも、無邪気で無垢な笑顔は、どこにでもいる普通の子供の様に見えた。

 

 ――――そして、もう一人(・・・・)

 脳が、ぼんやりと“それ”を思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな地面が消失した瞬間、みたまは柄にもなく悲鳴をあげた。

 全てが黒一色なので距離が把握できない。

 すぐ傍に黒い壁があるように思えるし、気が遠くなるほど悠久の彼方に底があるのかもしれない。

 基準になるものがなかった。光がなかった。

 そんな暗黒に飲み込まれ、みたまは落下し続けていた。

 

 飛行ではなく自由落下。

 浮遊感ではなく失速感。

 もはや下に向かって落ちているのか、上に向けて落下しているのか、前後左右なのか判別できない。

 見えるものは黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒。

 

 

 

 

「私が掴める者は何もない」

 

 

 

 

 声が聞こえた。

 酷く低く掠れているが紛れも無い女性の声だった。

 不意に暗闇が晴れた。

 視界が映し出したのは、砂嵐を映し出したコンピューターがデスク上に並び、工場の管理室の様な空間。

 

「くふっ」

 

 目の前に、白衣の女性が佇んでいた。

 彼女は自分を見下げるなり、嗤った。

 何か邪な陰謀を思いついた様な残忍な瞳が、異常に空間に相応しい血の紅に染まって瞬いていた。

 

 

「私は死ぬ! 間もなく死ぬ! 磨耗して何も計算できない状態のまま、糞尿を垂れ流し、バカみたいに笑いながら胃の中の物を吐き出し、自分の顔に塗りたくりながら無様な死を迎える! だが止まらない! 私が動かした“これ”は止められない! 自動的な“これ”だけは誰にも止めることはできない! それだけが楽しみで計算している! それだけが楽しみで私は『生きて』いるんだ!」

 

 

 自らを天才と認識する者は、自信に満ちた笑みと共に断言する。

 世の研究者たちがなお躊躇する究極のタブー、それをあっさり侵してなお笑う。

 その圧倒的な自信と迫力に……みたまは、呑まれた。魅入られた。虜となった。

 

 ガサリと――――不意にみたまの手が床にある何かに触れた。くしゃくしゃに歪んだ書類に、短い文字が書かれていた。

 引き寄せられるように、両目がそれを見つめた。

 

 

 

   

『 PROJECT : MAGIA RECORD 』

 

 

 

 うっ、と鼻をつまむ。

 肉を焼き焦がした異臭が鼻腔を刺激した。

 女性の声が止む事無く響き渡る。

 

 

 

 

「聞いているだろう。たまき(・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7.

 

 

 

 ―――夢を見た。

 

 

 いつもの場所。

 いつもの人達。

 窓に映るのはいつもの景色。

 

 陽が目一杯差し込む、白い輝きに満ちた病室に自分は立っていた。

 リンゴの花の臭いが、鼻の奥を刺激して、記憶を呼び覚ます。

 

 ――――ああ、懐かしい。

 

 これが夢の中だったとしても、今この時だけは、自分はあの頃に戻れる。

 何もかもが有って、決して欠けることの無い、いつも満ち足りていた、あの日々に。

 

 目と鼻の先に、あの子が居る。

 腰まで垂れた緩くふんわりとした桃色の髪、少し日に焼けた赤色のパジャマ――――それらが目に入るだけで、もう嬉しくて堪らない。今まで体験した苦労など、死に掛けた事など、どうでもいいとさえ感じるほどに。

 

 ――――大切な妹、うい。

 

 まだ自分に気付いていないのだろう。彼女は背中を向けて、窓の外を眺めているようだ。

 自分も窓を見た。

 青空の中で、(つがい)のツバメが飛んでいて、弧を描くように、太陽の周りを旋回していた。

 多分、ういは、願っているんだろう。

 いつか自分が、おねえちゃんと一緒に、あのツバメ達みたいに、どこまでも広い世界に羽ばたけていけたらって――――

 

 ういなら(・・)きっと、そう思っている筈だ。

 自分は信じてる。疑うまでも無い。だって、私とういは――――

 

 

 

 

 ――――()()()()()()()()()()()()()()()()――――

 

 

 

 

「おねえちゃん」

 

 不意に声が聞こえて、いろははハッと我に返る。

 ういは背中を向けたまま、自分を呼んだ。

 自分は何をしているんだろう。ういも自分を求めていたのに、ここで突っ立ってるなんて。

 いろはは、そんな自分を恥じつつ、ういに駆け寄った。

 そして、振り向いてもらうべく、肩に触れようと――――

 

 

 

「たまき」

 

 

 

 ――――した瞬間、声が聞こえた。

 よく、聞き覚えのある声だった。

 だが、その語気は刺すように強くて、夢心地の最中に居る自分を現実に呼び戻そうとしているようで。

 振り向くと、ねむが居た。

 自分の記憶にある、あの頃(・・・)のまま。良く見たパジャマを着て、いつものベッドに座っている。

 だが、その表情は、いつもの穏やかなものではなく。

 固く、険しい――――憎しみにも似た、強い怒りを噛み殺しているように見えて、怖かった。

 彼女は射る様な視線で自分を見据えて、強く訴えてきた。

 

「君は、本当に、その先へ行くつもりかい?」

 

 陽を遮るように、ベッド周りのカーテンを半分閉めているせいで、ねむの顔には影が掛かっていた。

 深藍に瞬く瞳が、いろはの目に付いた。その色は、悲しみに満ちている。

 

「ねむちゃん……でも」

 

 自分はういを取戻したい。その信念は今も変わらない。

 ねむもその気持ちは分かっている筈だ。だが、彼女は酷く辛そうに口元をクッと歪めた。

 

 

「そこにあるのは……“闇”だ」

 

 

「……!!?」

 

 ぞくりと、心臓が凍えるような感覚。

 

 ――――いつか、自分の夢に現れた白衣の男性と、ねむの言葉が、重なった。

 

「ジークムント・フロイトの言葉だ。『夢は現実の――――」

 

 聞きながら、いろはは深呼吸。

 ねむの言いたいことは分かっている。

 だけど、彼女が心配しないように、できるだけ笑顔を取り繕って、答えた。

 

「表出であり、想像の産物ではない』だね。知ってるよ、ねむちゃん」

 

 ねむはコクリと頷いた。睨み据えたまま。

 

「でも私、ういに触れたいの。例え夢の中だとしても、ういに会えるのはこの時しかない。ねむちゃんが止めたい気持ちも分かるけど……今だけは、私の好きにさせてほしい」

 

 愕然としたように、ねむの頭が項垂れる。

 

「そこまで言うのなら、僕にもう、君を止める権利は無い。でもたまき。これだけは頭の片隅に留めておいて……」

 

 

 

 

 ――――真実はいつも、君の心を強姦し、蹂躙する。

 

 

 

 

 

「うい……」

 

 ねむの最後の言葉を聞きながら、いろははういの肩に触れた。

 柔らかい感触に、つい抱きしめたい衝動に駆られる。

 だけど、今は、その時ではない。

 

「ごめんね。お姉ちゃん、まだ貴女の手掛かりをちっとも掴めてない」

 

 だけど――――と、いろはは表情を真剣に固めた。窓の外に映るのは神浜市の全景を見渡す。

 

「この街に住む人達に支えられて、ようやく私は一歩を踏み出せた。お父さんが伝えてくれた、大賢者様と会えるきっかけもつかめた。いつまで掛かるのか、分からないけど、確実にういに近づいてる気がするの」

 

 そこまで言うと、いろはは、穏やかな笑みを浮かべて、ういを見下ろした。

 

「だからうい、もう少しだけ待ってて。お姉ちゃん、必ず貴女を取り戻すから」

 

 微動だにしなかったういの肩が、ピクリと動いた。

 彼女の顔がゆっくりと、後ろを振り向く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うそつき」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっ?」

 

 ――――ういの肩が、急に冷たくなった。

 

「私のこと、何も知らない癖に」

 

 頭が、真っ白になった。

 悪寒が脚の爪先から、頭頂部まで一気に駆け抜いた。

 笑顔を魅せると思っていたういの顔は――――

 

「私がこうならなかったら、心配しなかったんでしょ?」

 

 ベタリと、一色の黒に塗り潰されていた。

 

「……っ」

 

 奥歯が、ガチガチと揺れ出す。

 違う、私はそんなことを思ってない。今まで、これっぽっちも――――だが、口が震えてしまって、否定できない。

 

「お姉ちゃんはいつもそう。口から出るのは、綺麗な言葉ばっかり」

 

 ういの言葉は、酷く淡々としているけど。

 自分への嘲り、侮蔑、怒り、そして、ありったけの憎しみが感じられて。

 覚えの無い、罪悪感が、心臓をメキメキと締め付けてきて。

 

 ――――いやだ。

 

 ――――やめて。

 

 胸の痛みに堪えきれず、両膝が折れた。

 端から見ればその様子は、神父の前で跪き懺悔する罪人のようであった。

 いろはは両手で耳を塞ぐ。ういの口から、そんなことは聞きたくない。

 自分を嫌う様な言葉は、断じて。

 

「まるで、童話の主人公みたいだね」

 

 だが、ういの言葉は耳の蓋を容赦なく貫いた。

 皮肉だった。

 だが、冷たい刃となって、いろはの心を突き刺す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――全ての光が消えた。

 

 

 

 そこにあるのは、見渡す限りの闇、闇、闇……。

 永遠に続くトンネルの様な、果てしない暗黒の最中にいろはは立っていた。

 

 ―――――ああ、まただ。

 

 自分の知らない世界に、迷い込んでいる。

 認識した途端、全身が四肢の末端から急激に冷めていくのを感じる。

 ここは酷く寒い。

 “閉ざされた空間”と、何故か理解していた。だから不思議だ。風が入る隙間さえ無い筈なのに、この凍える様な冷感は一体……。

 

 ペタペタと、何かがゆったり近づいてくる足音。

 灯りを持った女性がいた。

 

 ――――いや、違う。

 

 よく目を凝らすと、彼女は中々に不思議な状態だった。灯りは灯りでも懐中電灯のようなものを握っているのではなく……()()()()()。彼女が抱く光は、人型をしていて、彼女の全体像をぽう、と照らしていた。

 彼女が自分の目先まで歩み寄る。

 身長は自分よりも頭半分ぐらい高く、顔立ちも凛々しい。だが、いろはは“少女”だと認識できた。推測するに、年はやちよか鶴乃と変わらないだろうか。

 

 自然と、いろはの肩肘がグッと張る。眉間に皺が寄り、表情筋が固くなっていく。

 それは少女の格好を見たからだ。

 自分は白衣で全身を覆っているのに、少女の方は、紙切れのような白い布一枚だけ。頼りないそれのせいで、上下肢が全て露出している。

 だが、少女は別に寒くなさそう。彼女の意識は、皮膚が感じる冷気よりも、抱きかかえている“光”の一点のみに向いているようだった。

 

「たまきさん」

 

 彼女は穏やかな笑みを浮かべて、光を見下ろし、自分の名を呟いた。

 いろはも、じっと光を見つめる。

 よく目を凝らすと、光の中にぼんやりと、実体が浮かんで見えた。

 

 ――――少女が、抱いているのは。

 

「この子は、望まれない子でした」

 

 赤ん坊だった。

 まだ、生まれたばかりの。

 

 少女は、タオルで包まれたその子の体をギュッと抱きしめると、愛おしそうな瞳で、見つめた。

 

「でも、この子は、生きている。未来がある」

 

 何故だろう。

 少女が語る希望を、はっきり否定したかったのは。

 それを、言わなければ、少女の為にならないと思ったのは。

 

 ――――私は、何か、知っている?

 

「自分の人生を自分で歩むことができる。私はもうダメですけど……この子には私の分も幸せになって欲しいんです」

 

 いろはは知っている。

 この“深淵”に潜む魍魎・悪魔にも匹敵する鬼畜共が少女に与えたのは、地獄に堕ちるにも等しい数多の苦痛。

 赤ん坊は、恐らく―――― 

 しかし彼女は、自分に憎しみも怒りも、ましてや悲嘆さえ向けず、ただ光輝く瞳を向けていた。

 

「人間は皆、生まれた時にその権利が与えられているはず。そうですよね? たまきさん」

 

 自分は、少女の問いに「うん」と、頷いた。

 何で、頷けたのか分からなかった。

 少女の希望に、無垢な期待に応えたいと思ったのだろうか。

 

 

 

 

 ――――自分は知っていたのに。

 

 

 

 

 ――――赤ん坊が、これから辿る運命を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――――殺せ。たまき。

 

 

 ――――いやだ。

 

 

 ―――――その子は、この世に必要の無い人間だ。

 

 

 ――――いやだ。

 

 

 ―――――ゴミは散らかした者が片付けなくては。

 

 

 ――――やめて。

 

 

 ―――――だから、お前の手で処分するんだよ、たまき。

 

 

 ――――神様……どうか……。

 

 

 ―――――さあ、やれ。

 

 

 ――――願わくば……私が手を下すよりも早く、この子を御救い下さい……!

 

 

 

 

 

 

「やめてぇっ!!殺さないでぇっ!! その子は私の」

 

 金切り音のような悲鳴。銃声。目の前が真っ赤に染まった。

 

 

「やめてぇっ!!殺さないでぇっ!! その子は私の」

 

 金切り音のような悲鳴。銃声。目の前が真っ赤に染まった。

 

 

「やめてぇっ!!殺さないでぇっ!! その子は私の」

 

 金切り音のような悲鳴。銃声。目の前が真っ赤に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――ごめんなさい。『かすみ』ちゃん。

 

 

 ――――本当に、ごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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