ヒルダは執務室で覚書の束をもう一度静かに開いた。
その一番上には、覚書の中で彼女がもっとも気になっていた一文があった。
『国家の秩序は、例外の処理によって保たれる。』
短い一行。
ヒルダは、古い政治思想家の言葉を思い出した。
「主権者とは例外状態に決断を下す者である」
だが、オーベルシュタインは、例外を皇帝の自由にしようとはしない。むしろ例外そのものを秩序の側へ閉じ込めようとしていた。
皇帝の恣意的な例外行使をあえて言語化し、「国家の秩序」という名の下に縛りつける。
ヒルダは小さく息を吐いた。
「まったく、あの方ときたら……」
オーベルシュタインは、ラインハルトの激情を冷却し、再考を求め、苛烈な飛躍を必要最小限に留めた。
それはラインハルトとオーベルシュタインという、二人の天才による奇跡的な相互作用にすぎない。
だが英雄が去った今、それを明文化しなければならない。
ヒルダはゆっくりとペンを取った。
第三条
皇帝は国家目的の実現に責任を負う。皇帝の判断が帝国の恒常的秩序と抵触すると認められる場合、独立した審議機関は再審を請求することができる。
再審請求が行われた場合、皇帝はその判断理由を示すものとする。
第四条
前条の再審手続を経た判断については、法の定めるところにより、その執行を停止し、または修正する。
例外を決める権限を皇帝個人から剥奪し、制度へと還す。
ヤン・ウェンリーは「最悪の民主政治でも、最良の専制政治に優る」と言ったそうだが、例外決定権が個人の手を離れたとき、もはやそれは専制政治ではない。
だが――と、ヒルダのペンが止まる。
では、それは良き政治なのだろうか。
ヒルダは自身の思考の揺らぎに、かすかな眩暈(めまい)を覚えた。
例外はもう、誰か一人の決断ではなくなる。しかし、主権をバラバラに解体し、有象無象の議会や民衆に分け与えることが、本当に正しいのか、彼女にはまだ確信が持てない。同盟の末路を見た後では、なおさらだった。
ヒルダは執務室を出て、皇帝の私室へと入った。
侍女に傅かれてすやすやと午睡する幼児がそこにいた。
我が子アレクサンドルが、どのように育つのか、誰にもわからない。今はまだ、銀河を統べる皇帝の玉座を玩具として手に持つ、幼き子にすぎない。
――その赤ん坊に玉座をくれてやる。子供のおもちゃとしては面白みに欠けるが、宇宙に一人ぐらいそういう赤ん坊がいてもいい。
かつて、カザリン・ケートヘンを冷笑したラインハルトの傲岸不遜な言葉が、時を超えて、いま自身の血を引く我が子へと突き刺さっている。
だが、彼女は知っている。
この子が父の苛烈を受け継いで立ち上がったとき、ヒルダが用意した法の鎖すらも、獅子の牙で食い破ってしまうかもしれないことを――。
pixivより大幅に修正して転載