帝冠諸邦の計算屋   作:小沼高希

10 / 50
作者代理が与太話をするのは古いインターネットからの伝統らしい。




0d010: 解説 1

登場人物

 

お姉さん

歴史にちょっと詳しい人。作者代理。

 

少年

ツッコミ役。苦労人。

 


 

[球体のスピーカーがいくつも天井から吊り下げられた円形のホール。その中心に二人は立っている。]

 

お姉さん

はいどうも、お姉さんだよ。

 

少年

危ない一人称ですね。

 

お姉さん

あまり余計な話はしないで解説に入っていこうか。

 



 

教授資格を帝立大学設立史上最年少、帝冠諸邦の中で見ても異例とも言える若さで手にしたヤンカ・ノヴァーク博士にとって、新しい職場であるはずの場所は自分の能力に対する不当な扱いにほかならなかった。

 

少年

最初から変な用語出してきますね。

 

お姉さん

いちおう現実にも存在するよ。教授資格のモデルはHabilitation(ハビリタツィオーン)、19世紀のドイツで作られた仕組みだね。

 

少年

当時のベルリンはプロイセン王国の首都なので厳密には正しくないのでは?

 

お姉さん

余計なこと言わないの。これの語源はリハビリとかと同根のhabilis。いくつか意味があるけど原義はふさわしい、みたいな感じ。

 

少年

作中では博士課程の先の試験みたいに描かれていますね。

 

お姉さん

現実でもそう……だったよ。最近はシステムが難しすぎるってことで多少は変わってきているけど、基本的に大学で教鞭をとるためには原則として教授資格が必要だった。同様のシステムはソ連以降のДоктор наук(ドクトル・ノウク)みたいに、中欧や東欧を中心に結構色々なところで導入されているよ。

 

少年

ところでノヴァーク博士は二十五歳で取って帝立大学設立史上最年少ってなってますけど、実際はどれぐらいの年齢で取るんですか?

 

お姉さん

マックス・プランクが二十二歳、ルートヴィヒ゠マクシミリアン大学ミュンヘンで。ヴォルフガング・パウリが二十三歳、ハンブルク大学で。ダフィット・ヒルベルトが二十四歳、アルベルトゥス大学ケーニヒスベルクで。

 

少年

異常例ばかり持ってこないでください。

 

お姉さん

CERNがパウリの伝記ページで1924年に教授資格取った時の証明書を出しているんだけど、これによれば模擬講義(Probevorlesung)講演会(Colloquium)をやらなくていいってなってるね。このあたりがノヴァーク博士のエピソードに持ってこられている。

 

少年

後にノーベル賞になるパウリの排他原理が発表される少し前ですか。

 

お姉さん

そのあたり。教授資格の説明はこれぐらいでいいかな。ああ、あとJanka Novákって名前は思いっきりNeumann Jánosのもじりです。愛称じゃなくてもJankaって名前はないわけじゃないらしい。JankaもJánosもヨハネに由来するよ。

 

少年

日本だとアメリカ移住の際に改名したJohn von Neumannっていうほうが有名だと思う。さっきのはハンガリー名。

 

お姉さん

戦間期から冷戦期にかけて数学と物理学と計算機科学とか結構広い範囲で片っ端から口を突っ込んだことで有名な人だよ、晩年にはアメリカの企業や軍のコンサルタントとしてかなり影響力を持っていたね。

 

少年

ところでJankaがJohnに、NovákがNeumannに対応するというのはわかるんですけど姓と名が逆じゃないですか?

 

お姉さん

ハンガリー語はそうなるんだよ、東洋と同じだね。

 

ふと目に入った映像蛍光管は木の板に固定されており、おそらくは教材として保管されているのだろうと推察できた。もちろん単純にまた使う機会があるかもしれないからと放置されているとおぼしき真空吸引機もあったが、それらも悪くない状態であるように見えた。

 

少年

ブラウン管と真空ポンプですね。

 

お姉さん

英語だとCathode-ray tube(陰極線管)とも言うよ。1897年にフェルディナント・ブラウンはこれをオシロスコープとして使ってる。

 

少年

この真空吸引機ってモデルあります?

 

お姉さん

いや普通にロータリーポンプだよ、二十世紀初頭には真空工学が一気に発展したし、それがあったから真空管とか作れるようになったんだけどこれだとJISで言うところの高真空つくれるかなってぐらい。工作精度もあるしね。

 

「エクスナーと言えば、彼にはわかるはずだ」

 

少年

この人のモデルは?どうせいるんでしょう?

 

お姉さん

基本全員にいるよ。フランツ・セラフィン・エクスナー(Franz Serafin Exner)が元ネタだね。ウィーン大学で教えていた物理学者で、ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンの共同研究者でリーゼ・マイトナーの指導教員。助手にはエルヴィン・シュレーディンガーもいたよ。

 

少年

日本語で検索しても出にくいような人の場合には括弧書きで原語名を書いてます。

 

お姉さん

メタいなぁ。

 

少年

こんなことやってるので今更ですよ。

 

当時注目を集めていた発出性(エマナティヴィターシュ)を持つ物質の研究における第一人者の多くが彼のもとで学んだことがあった。

 

少年

放射性の話ですか?

 

お姉さん

そう。1899年から1903年にかけて相次いで見つかっった放射性物質に当時つけられていた名前だね。アーネスト・ラザフォードの論文ではemanationってなってる。

 

少年

それをハンガリー語風にしてemanativitás(エマナティヴィターシュ)ですか。

 

お姉さん

そう。あと帝冠諸邦の公用語や物理学の用語にはハンガリー語、あるいはマジャル語を使っているよ。

 

少年

つまり読ませる気がないと?

 

お姉さん

雰囲気を楽しむためのものだと言ってほしいね。

 

彼がかつて大学の物理学研究室室長だった頃、電波や熱電子管を対象としていた研究者を「物理学の精神と反している」と批判し、一部を退職に追い込んでいる。

 

少年

あとフランツ・セラフィン・エクスナーにこういう話ないですよね?

 

お姉さん

ないね。この物語はフィクションで、実在の、あるいは実在した人物、団体、事件とは関係がないのであしからずってやつだ。

 

ノヴァーク博士と並ぶと少し背の高い彼こそが、後に彼女とともに計算機械史に名を残す技師──ユージェフ・ケレメンであった。

 

少年

この名前は?József Kelemenで、ヨーシュカというのは愛称のJóskaでしょうけど。

 

お姉さん

十九世紀の旋盤の改良とチャールズ・バベッジの階差機関製造に関わった英国の技術者、

ジョセフ・クレメンテ(Joseph Clement) が由来。

 

少年

英国人なんですか。

 

お姉さん

ちょっと珍しい例だね、というか技術者方面だといい名前の由来が中欧ではなかったのもある。

 



 

父の死によって大学の学費を捻出することが難しくなると、ケレメンはエクスナーの紹介によって近隣の郵便局の技術職員として働くことになる。後に彼が関わることになる様々な電気機械について、彼はここで学ぶことができた。

 

お姉さん

郵便局っていうのはトーマス・ハロルド・フラワーズの経歴を参考にしているね。チューリングが英国の政府暗号学校があったブレッチリー・パークで軍で広く使われていた暗号機Enigma(エニグマ)解読のためにbombe(ボンベ)っていう装置の開発主導をやっていたのは有名だけど、それとは別にLorenz SZ40、あるいはLorenz SZ42という印刷電信機で使われる長文用の暗号システム解読をやった人物だ。

 

少年

いわゆる「ウルトラ」ってやつですね。

 

お姉さん

チューリングがフラワーズを技術能力で買っていて、相談をしていたつながりもあって彼も暗号解読に入った。フラワーズは中央郵便本局研究所所属だったんだけど、そこでいろいろな電気部品を触っていた。

 

少年

真空管も、ですか。

 

お姉さん

そう。暗号の種類上、数学的技法によるエレガントな解読じゃなくて数を試すエレファントな方式が必要だったのもあって計算速度が求められたわけ。結果として生まれた「Colossus(コロッサス)」はプログラム可能な電子機械で、定義によっては最初のコンピューターとされることもあるよ。

 

少年

ああ、あの自分の推しの機械を世界最初にするために恣意的な定義をするやつ。

 

お姉さん

だいたいそう。まあ軍事機密だったし終戦後ほとんどが機密保持のために壊されたからあまり後世への影響はないんだけどね。

 

彼の弟子の中には帝冠諸邦で初めて女性として物理学の博士号を取得したエリーゼ・スタインドラーのような人物もいた。

 

お姉さん

物理学者リーゼ・マイトナーの改宗前の名前とウィーン大学で初めて物理学の博士号を取ったオルガ・エーレンハフト゠スタインドラー(Olga Ehrenhaft-Steindler)の旧姓から。両方ともフランツ・セラフィン・エクスナーのもとで博士号を取ってるね。

 

「『組合せ論理(コンビヤトリクシュ・ロギカ)に基づく決定不能問題の導出』、シェーンフィンケル教授……」

 

少年

kombinatorikus logika、読み方はハンガリー語ですか。

 

お姉さん

モデルはモーゼス・イリイチ・シェーンフィンケル(Моисей Эльевич Шейнфинкель)の作ったコンビネータ論理、あるいは組み合わせ論理ってやつだね。説明するととても大変だから詳しい説明は省いていい?

 

少年

少しは頑張ってくださいよ。

 

お姉さん

ダフィット・ヒルベルトのところで学んだ学生で、彼の論文が後にハスケル・カリー経由で発展することになる。数学の形式化を目指すヒルベルト・プログラムとかの系譜にあるんじゃないかな。

 

少年

雑ですね。

 

お姉さん

このあたりはちょっと本腰入れてやらないとまず数学的概念を納得できないから……。

 

「だって二十通り近い組み合わせを覚えないといけなかったわけですから」

 

お姉さん

一般的には三段論法は十九通りとされてるね。このあたりはBarbara celarentっていう暗記術で出てくるよ。

 



 

ケレメンが脳裏に思い浮かべていたのは桁ごとのレバーを上下させて数字を設定しハンドルを回すような機械と、一部の数学的計算に使われる特注の装置であった。

 

少年

前者はいわゆる機械式計算機ですよね、日本だとタイガー計算器が代表的でしょうか。

 

お姉さん

オドネル型アリスモメーターってやつだね。後者は微分解析機をモデルにしている。東京理科大学近代科学資料館に展示されているやつがイメージにが近いかな。

 

少年

というか作者がそれしか見たことないのでは?

 

お姉さん

そうだと思う。

 

「私の言うこれは、それらとはまた別だ。もちろんこれも計算(サーミータシュ)のための機構ではあるが、むしろやっていることは計数(サーモラーラーシュ)に近いと考えてもらっていい」

 

少年

számításとszámlálás。ハンガリー語のニュアンスの違い、わかる人いるんですか?

 

お姉さん

作者も英訳とかを見比べて雰囲気でやってたし……。

 

少年

あとこれがあるから()()研究所なんですね

 

お姉さん

タイトルは()()屋だけどね。

 

「君はこの計算をする時、いくつかの段階を追ったはずだ。まず最初に計算の前提となる数字を書き、区切りの横線を引いた。なぜだか言語化できるか?」

 

お姉さん

このあたりの議論はアラン・チューリングの1937年の論文、「On computable numbers, with an application to the Entscheidungsproblem」あたりをまるまる参考にしている。

 

少年

和訳だと 伊藤和行編, 佐野勝彦, 杉本舞訳・解説, (Turing, Alan Mathison). コンピュータ理論の起源 第1巻 : チューリング. 近代科学社, 2014. ISBN 978-4-7649-0454-5. あたりがよかったですね。

 

お姉さん

第2巻でノイマンのFirst Draft of a Report on the EDVACあたり翻訳しませんか?

 

「……まさか、熱電子管(ヴァルヴォラ・テルモヨーニカ)に計算をさせるのですか?」

 

少年

valvola termoionica、イタリア語で真空管のことですね。

 

お姉さん

(ヴァルヴォラ)っていうのは電気を一方向にしか流さない特性から来ているね。英国だとvalve。電球のほうのbulbは球根とかの方から来てるよ。北米だとtubeで、真空()って呼び方はこちらから。

 



 

「五万かな」

 

少年

ノヴァーク博士の見積もりが雑すぎませんか?

 

お姉さん

メモリを全部真空管で計算したとかなんじゃないかな。少し調べた限りだと普通にNANDで二千個ぐらいだし。あと作者がENIACの数字を参考にしたのもあるかも。

 

少年

作者の見積もりが雑なだけでしたか。

 

それは、例えば自然から無限の動力を引き出すような機構──気圧と温度の変化を利用するものは実用化はされてはいるが小型の時計を動かす程度の動力しかない──や、発出性(エマナティヴィターシュ)を持つ物質を用いた超兵器──空想科学小説においては次の大陸戦における兵器としてしばしば登場するようになっていた──の類のように聞こえたのだ。

 

少年

後者は普通に核兵器でしょうけど前者あるんですか?

 

お姉さん

ビバリー時計は温度と気圧の変化で動くよ。

 

少年

あるんだ。

 

抽象的な理論から議論を進めたために、計算機械の設計において用いたのは「理想素子」──論理代数に対応して入力から出力を返すある種の模型であった。

 

お姉さん

このあたりはちょっと難しくてね。たしかに論理回路は中島章、クロード・シャノン、ビクター・イワノヴィッチ・シェスタコフ(Виктор Иванович Шестаков)あたりで広まったけどそれ以前にもチャールズ・サンダース・パースが理論を作っていたり、基本的な概念はあったんだよ。

 

少年

それを組み合わせてコンピューターが作られたんですか?

 

お姉さん

それがそうじゃないんだよ。いやもちろん論理回路とかデジタルな設計とかはあるんだけど、個人的にはそういうのってウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツによる「形式ニューロン」あたりの系譜があるんじゃないかって。

 

少年

作者が参考文献にした Marvin L.Minsky, 金山裕訳. 計算機の数学的理論. 近代科学社, 1970. あたりに引っ張られているのでは?

 

お姉さん

そうかも。でも最初期は素子自体の信頼性も低かったからデジタル的なモジュールの組み合わせというよりは電子回路みたいな側面が強かったと思うんだよ。

 

少年

そうするとノヴァーク博士のアプローチは先進的というか、ある種時代錯誤なわけですか。

 

お姉さん

理論実証のための計算機械の作成だからね、このあたりのアプローチの違いの話は今度作中で出てくると思う。

 

ノヴァーク博士は自分の説明力の不足を恨めしく思いながらもそう言い、少しおぼつかない手つきで開閉器(インタルットレ)を操作して装置を起動させた。

 

少年

イタリア語のinterruttoreですか。

 

お姉さん

英語だと普通にスイッチだね。さっきの熱電子管(ヴァルヴォラ・テルモヨーニカ)もそうだけど、電気部品の用語はイタリア語だよ。

 

少年

どこかで活用間違ってるって言語系の人から言われそうですね。

 

お姉さん

発音は怪しいところ普通にあるからな……。ちなみにこれは語源的には英語のinteruptと同じだよ。Wikipediaイタリア語版は下の方にWiktionaryへのリンクあるから語源と発音記号すぐ調べられて本当に便利。

 



 

そう言ってノヴァーク博士が電鍵を律動的に押すと、それに合わせて繋げられた拡声器(アルトパランテ)から少し間の抜けたような発振音が出た。

 

少年

アルトってことはalto、リコーダとか合唱とかのアルトですか?

 

お姉さん

そう。ただ「大きな」って意味もあって、今回はこっち。parlanteは話し手、英語ならspeakerかな。ちなみにラテン語まで辿るとparabolaってなるけどこれは放物線(パラボラ)とは別だよ。

 

少年

英語だとloudspeakerなので、ほぼそのままですね。

 

「ええと、それで伝声器(ミクロフォノ)を使う場合はこちらに繋ぎ変えればいいか?」

 

少年

イタリア語のmicrofono。

 

「リビュア大陸の北東端、海へと高地広がる一角にて、かつて大陸の中心より流れるネイロス川が砂漠と草原を貫き狭く細長い谷を切り拓いていた。その水は毎年氾濫し、泥を積もらせながら次第に耕作地を作っていった」

 

少年

リビュアはヘロドトスの時代にアフリカ大陸を指して使われた言葉、ネイロスはナイルの転でホメーロスやヘーシオドスに言及があるのでこれはエジプトの話だっていうのはわかるとして、原典なんです?

 

お姉さん

「Allgemeine Geschichte in Einzeldarstellungen」の第一巻の最初の文章がベースだね。日本語だと「個別発表による通史」あたり?

 

少年

なんで19世紀末の歴史書シリーズから?

 

お姉さん

ノイマンが子供時代に読んでて暗記してたらしい。アメリカ行った時に南北戦争のあたりを諳んじたとか。

 

少年

そういうエピソード系ですか。

 

お姉さん

ナラティブ寄りで史学書としてはちょっと眉に唾つける必要はあるけど、高橋昌一郎. フォン・ノイマンの哲学 : 人間のフリをした悪魔. 講談社, 2021, (講談社現代新書 ; 2608). ISBN 978-4-06-522440-3. は文庫で読み物として面白いよ。あと同じ作者の 高橋昌一郎. ノイマン・ゲーデル・チューリング. 筑摩書房, 2014.10, (筑摩選書 ; 0102). ISBN 978-4-480-01603-4. も三人の一般人向けエッセイとかを背景の説明付きでやってくれているね。

 

「これは理論側の話なのだがね、ニクヴィストという研究者がそのあたりを模型にしている。外乱の影響が大きければ大きいほど、伝えられる()()の量が少なくなるというのだよ」

 

少年

Nyqvistはスウェーデンの姓のようですが。

 

お姉さん

ハリー・ナイキストだね。英語読みってやつだ。子供の頃に一家でアメリカに移住しているんだが、そのあたりを無視しているわけ。

 

「連続式の計算機で一桁詳しい精度を求める場合を考えてみたまえ。それに比べれば、一桁分を追加で計算する回路を加える手間はそこまでではない」

 

お姉さん

これもアラン・チューリングの論文「On computable numbers, with an application to the Entscheidungsproblem」に出てる。

 

「ある。……私の指導教官であったヘルブランド教授がそれを証明したのだよ。先程渡した私の論文は、その応用を含んでいる」

 

少年

後の方でフルネームがトラルフ・ヘルブランドって出ていましたね。

 

お姉さん

トアルフ・スコーレムとジャック・エルブランが由来だね。名前の読み方を少し変えている。どちらもクルト・ゲーデルの先駆者だ。というかこの人物のモデルが思いっきりクルト・ゲーデルだね。

 



 

この費用が皇帝の名前で出されていることもあって、昼食の献立表に肉類が乗る日は「神よ帝冠の下に平和と栄光あらしめたまえ」と国歌の合唱が起こるほど、帝立大学の学生にとっておそらく最も国家への忠誠心が高い日となっていた。

 

少年

「神よ、皇帝フランツを守り給え」を意識してそうですね。

 

お姉さん

この後の「輝かしき連帯よ」っていうのも「インターナショナル」から引っ張ってきてるね。

 

「一応は低級教授と同じ給与体系になる研究所の所長になるわけだからな、ただの私講師よりはいい給料を貰える」

 

お姉さん

おっと私講師の話をしていなかった。

 

少年

冒頭で長く書いた教授資格の話の続きですか。

 

お姉さん

教授資格で手に入るのは大学で教える()()だけなんだよね、ポストは保証されていないから最初は大学からは給料をもらわずに講師をすることになる。これが私講師。

 

少年

どうやって生きていくんですか?

 

お姉さん

一応授業料を自分が貰えるってことになってるけど大学側からすれば正規契約する必要のない便利な労働力だからね。

 

少年

そうすると帝立大学の優秀な教授資格取得者に終身職のポストを用意するっていうの、実はすごいのでは?

 

お姉さん

とてもすごいと思うよ。実際のところ、帝立大学はかなりいい環境として作者は書いているし。

 

貴種の象徴として永らく知られていたこの顕性の遺伝形質も、彼女にとっては特に重要なものではないのだろう、と彼は考えた。

 

少年

こんな遺伝子ありましたっけ。

 

お姉さん

アルビノはあるけど髪だけ白っていうのはないんじゃないかな。

 

白い高圧水銀街灯が照らす大通りから逸れ、より赤みのかかった白熱電灯がつきはじめる区域へとノヴァーク博士は足を進めた。

 

お姉さん

時代的にちょうど切り替えってことだね。

 

この当時の統計に基づけば千人に四十七人が貴族の家の出身であり、その幅も帝冠を戴く一族から小作人すら持てないような辺境の一家までとかなり広いものであった。

 

少年

この数字は適当ですか?

 

お姉さん

適当だけど伝統的にハンガリーの貴族って地主みたいなところあったからなぁ。日本の江戸時代における武士みたいな感じ。選挙王政時代のハンガリーだと貴族にしか選挙権がないくせに当時の欧州で最も参政権を持った人の割合が高かったらしいし。

 



 

ノヴァーク博士は最後の新聞を置き、とっくに皿が片付けられていつの間にか民主共和国風の牛乳多めの珈琲を頼んでいたケレメンと目を合わせた。

 

少年

カフェ・オ・レですか?

 

お姉さん

カフェ・ランベルセかな。ただ、発音が表現しにくくてふりがなは諦めたらしい。

 

「私の指導教官も、同じような誤謬に飲み込まれていたよ」

 

お姉さん

このあたりは 高橋昌一郎. ノイマン・ゲーデル・チューリング. 筑摩書房, 2014.10, (筑摩選書 ; 0102). ISBN 978-4-480-01603-4. にあった「数学基礎論における幾つかの基本的定理とその帰結(Some Basic Theorems on the Foundations of Mathematics and Their Implications)」の議論をちょっと曲解しながら使ってるよ。

 

彼はノヴァーク博士より四つ年上の男性であり、二十三歳で博士号を、二十六歳で教授資格を手にしていた。二十六歳というのは当時の帝立大学の最年少記録であったが、数年後に彼の教え子であるヤンカ・ノヴァークによって更新されることになる。

 

少年

なんでこんなおかしいキャラ出したんですか?

 

お姉さん

年齢はクルト・ゲーデルの史実ベースだよ。

 

彼の博士論文は「公理系の充足可能性と証明可能性について」というものであり、ここでその内容を厳密に述べることはしないが、端的に言えば当時進められていたいくつかの数学的計画の大幅な見直しを迫る画期的なものであった。

 

お姉さん

ジャック・エルブランとかトアルフ・スコーレムのあたりの表現も入れたタイトルだね。

 

大陸戦の集結以降、それまで培われてきた様々な数学の分野を統合しようという試みが行われていた。奇しくもこの戦争において教員や学生が多く亡くなり、各国の大学内で新しい数学の教育手法を構築していこうという機運が高まったのもこれを後押しした。

 

お姉さん

ヒルベルト・プログラム、プリンキピア・マテマティカ、ニコラ・ブルバキあたりをイメージしているね。

 

ただ、この定理を書いた手書きの紙束をノヴァークがヘルブランド博士──まだ教授ではなかった──に押し付けた時、既に同様の内容が書かれた教授資格審査論文が提出されていた。

 

お姉さん

これはクルト・ゲーデルとジョン・フォン・ノイマンの史実エピソードが元ネタ。

 

少年

実際にはどういう形だったんです?

 

お姉さん

1930年に東プロイセンのケーニヒスベルクで行われた「第二回正確な科学の認識論会議(2. Tagung für Erkenntnislehre der exakten Wissenschaften in Königsberg)」というので一日めにジョン・フォン・ノイマンがダフィット・ヒルベルトの系譜の形式主義の代表者として公演をしたんだよ。

 

少年

ダフィット・ヒルベルト、たまに出る名前ですね。数学を体系化しようとした人でしたっけ。

 

お姉さん

だいたいそう。で、彼の次の次にクルト・ゲーデルが第一不完全定理を発表。

 

少年

それが「改良前の定理」ですか。

 

お姉さん

そう。その後ジョン・フォン・ノイマンが手紙で第二不完全定理に相当する内容をクルト・ゲーデルに送ったんだけど、その時には既に論文が出されていたってわけ。以降、ジョン・フォン・ノイマンはクルト・ゲーデルを高く評価していたし、彼のオーストリア脱出をノイマンが手助けしている。

 



 

表題は「機械による計算の実装」。

 

お姉さん

モデルの一つはジョン・フォン・ノイマンの「First Draft of a Report on the EDVAC (EDVAC報告書第一草稿)」だね。ENIACという弾道計算メインの目的で作られた計算機械の次世代機としてEDVACというのが構想されていて、既存のENIACを見たりこの開発チームと話したりして生まれた改良アイデアを色々書いてENIACの責任者に送ったら製本されてあちこちに拡散されたんだけど、ここにはジョン・フォン・ノイマン以外の名前はなかった。

 

少年

そもそも軍事機械なので機密案件では。

 

お姉さん

それもあるんだけど、面倒なのが米国特許法では公開から一年以内でないと既知の案件として特許が取れなくなるのよ、もちろんその公開者以外は申請できないけど。

 

少年

あれ、そうするとコンピューター関連の特許が取れない?

 

お姉さん

そういうことになった。このあたりは1970年代とかの訴訟のせいでそれぞれが偏った事だけ言っている記録しかないっていうのもあって面倒らしいよ。あとここでいわゆる「フォン・ノイマン・アーキテクチャ」が出たんだけど、類似アイデアは既にあったんだ。でもジョン・フォン・ノイマンの名前が残ることになった。

 

穿孔紙(ピェルフォカルタ)式の作表機(タビュリャータ)は確か人民主義国のあたりで作られていたはずですが、あれは電気信号が離散的ではあるんですが脈動的とでもいいましょうか、動的なんです。

 

少年

ПерфокартаとТабулятор、今度はロシア語ですか。

 

例えばこの方式で6を表現するのであれば、断続的に接続と切断を六回繰り返して六つの「脈」を作ることになる。ノヴァーク博士の設計はまた別で、6を表現するために三本の配線を用意し、このうち二本を通電させるものだった。

 

お姉さん

ENIACで採用されたのは「(パルス)」式のほう。黒電話とかでジコジコ言うのはこれだよ。

 

少年

二本を通電の方は二進数ですね。

 

「メウッチ社の広告で見た時の値段だ」

 

お姉さん

由来はアントニオ・メウッチ。フィレンツェ出身だけどアメリカに移住して起業家になり、遠隔通話装置を発明したよ。とはいえ特許裁判とかその後の普及とかもあって「電話」の発明者はアレクサンダー・グラハム・ベルってことになってるけど、再評価されてはいるね。

 



 

ふらついて扉を開けたケレメンに、ノヴァーク博士は印字機(シュライプマシーナ)から手を離して声をかけた。

 

少年

Schreibmaschine、今度はドイツ語ですか。

 

お姉さん

無声子音の前でbが/p/になるの、V2語順並みに許せないんだよね。

 

そして、$I$ は入力(イングレッソ)、$C$ は周期(チークロ)、$U_{\mathrm{c}}$ は現在の出力(ウシータ・クレンテ)、$U_{\mathrm{f}}$ は未来の出力(ウシータ・フトゥラ)をそれぞれ表している。

 

少年

ingresso、ciclo、uscita corrente、uscita futura。イタリア語。

 

これはある種の記憶に相当する事を行う回路であり、ノヴァーク博士の目指す計算機械の基幹要素の一つであった。

 

お姉さん

Dラッチ回路だね。クロック信号前提のラッチ回路だ。ちなみに作者はこのあたりの論理式を確認しようとしてカルノー図頑張って描いて論理回路シミュレーション動かして機能しないって悩んでたよ。実際遅延を忘れていただけだったんだけどね。

 

選言(ヴェル)連言(エト)否定(ノン)だ」

 

少年

vel、et、non。ラテン語ですね。

 

部品は同心円状になっており、内側からタンタラム製の繊条(フィラメント)、板状の陰極(カトド)、網状の格子極(グリーヤ)、そしてまた板状の陽極(アノド)となる。

 

少年

filamento、catodo、griglia、anodo。イタリア語。grigliaのgliは硬口蓋側面接近音になります。

 

お姉さん

あとタンタラムはタンタルの異名だ。タングステン以前に使われていたんだよ。

 

「それだけじゃないですけどね、回路の後半部分で対称性の高い機構があるのですが、この部分で熱電子管の相性がどうも発生するようで」

 

お姉さん

このあたりは富士写真フイルムでレンズ設計用の計算機開発に携わった岡崎文次が書いていることを参考にしたよ。この開発のあたりは ななせ悠「続く道 花の跡」でそれなりに脚色入っているけど描かれてる。

 

類似の回路の抵抗器(レジストレ)蓄電器(コンデンサトレ)の値を参考に作ってはみたものの、一筋縄では解決しなかった。

 

少年

resistoreとcondensatore。イタリア語。この原語のやつ要ります?

 

お姉さん

作者のメモ書きって側面もあるから。

 


 

お姉さん

というわけで一通りおしまいだ。今度からは紙の上での万能計算機械の構成に入っていくよ。

 

少年

作者が参考にした Marvin L.Minsky, 金山裕訳. 計算機の数学的理論. 近代科学社, 1970. は国立国会図書館デジタルコレクションで読めます。

 

お姉さん

本屋さんで買えるものだと 丸岡章著. やさしい計算理論 : 有限オートマトンからチューリング機械まで. サイエンス社, 2017, (Information & Computing ; 117). ISBN 978-4-7819-1413-8. あたりはよかったかな。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。