図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。投稿時間から作者のスケジュールを推測するような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


第13章解説

工作員

一人はデナイリストに突っ込まれかけている、危ない方法で秘密を盗む男性。

Inclusive Naming Initiativeは2020年に問題のある情報関連の技術用語の修正案として「ブラックリスト」の代わりに「デナイリスト」を使うことを提唱した。

 

機密文書

一応鍵作りは規格化において大きな影響を与えたのでここらへんの知識はある。

この後出てくるジョセフ・ブラマーや、その鍵を破ったアルフレッド・チャールズ・ホッブズなどのあたり。

 

永遠にスリーパーでいたい。

スリーパーはスパイの分類の一つであり、当局の注意を惹かないよう長期間潜伏し、情報収集や人脈形成、そしてここぞという時の工作を行う人員のこと。

 

善隣友好政策は公正世界誤謬にさえ気をつければ悪くないものなのだ。

公正世界誤謬は「悪い結果は悪い行動に起因する」という考え方。これを軍事衝突に適応すると「攻められたほうが悪い」となる。まあ国際社会で絶対的な正義はないが、少なくとも他国への侵略は国際法違反であるというのがコンセンサスではある。

 

旅行

ジャン・マリッツ、ジョン・スミートン、ジョン・ウィルキンソンといった中ぐり盤開発の流れ。ジョセフ・ブラマー、ヘンリー・モーズリー、ジョセフ・クレメント、ジョセフ・ホイットワースによる規格化生産の系譜。

ジャン・マリッツは大砲加工装置の作成で知られるフランスで活躍した発明家。彼の手法では加工具を固定し、砲側を回転させる方法を取る。これで精度のいい加工ができるようになったため、フランス砲兵の規格化が進んだ。ジョン・スミートンはイギリスの土木工学者であるが、中ぐり盤の開発でも知られる。これによって蒸気機関に使えなくもない程度のシリンダーが作れるようになったが、世界最初の鋳鉄製アーチ橋「鉄橋(アイアンブリッジ)」にも関わったジョン・ウィルキンソンによって加工具の保持方法に改良が加えられ、実用的な蒸気機関が作られるようになった。

 

先進的な機械加工を用いて半世紀以上破られなかった鍵を作り上げたジョセフ・ブラマーの工房では、ねじ切り旋盤を始めとする多くの工作機械を開発したヘンリー・モーズリーやチャールズ・バベッジが設計した階差機関の製造に関わったジョセフ・クレメント、イギリスの統一ネジ規格を生んだジョセフ・ホイットワースといったその後の機械加工と標準化の歴史に名を残す職人たちが働いていた。

 

とはいえ労働者と経営者という安易な二項対立を構築すると、結局鉄鎖の他に失うものがなくなったプロレタリアが世界をめちゃくちゃにしてしまう。

Mögen die herrschenden Klassen vor einer Kommunistischen Revolution zittern. Die Proletarier haben nichts in ihr zu verlieren als ihre Ketten. Sie haben eine Welt zu gewinnen.

(支配階級よ、共産主義革命を前に恐れおののくがいい。労働者階級(プロレタリア)は自らの鉄鎖の他に失うものを持たない。彼らは世界を手に入れる。)

──カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス「Manifest der Kommunistischen Partei(共産党宣言)」より。拙訳。

 

「Ketten」をどうするかは訳によって異なる。英語からの重訳であるが幸徳秋水と堺利彦による「社会主義研究」に掲載されたものや、1959年の新潮社「マルクス・エンゲルス選集」第5巻における相原茂の訳では「鉄鎖」としている。個人的には「鎖」より「鉄鎖」のほうがかっこいいので「鉄鎖」を使いたい。

 

労働組合を用意するか、あるいはレールム・ノヴァールムのように宗教に訴えるか。

レールム・ノヴァールム(新たなる事柄について)は1891年に出されたローマ教皇レオ13世による回勅であり、資本主義と社会主義を殴って社会正義の名のもとに労働者の信仰を集めようという内容。多くの宗教的社会活動に影響を与えた。

 

富めるものは更に富み、貧しいものは持っているものまで奪われる。

それ(もて)(もの)(あたへ)られて(なほ)あまりあり無有(もたぬ)(もの)はその(もて)(もの)をも(とら)るる(なり)

──明治元訳新約聖書(明治37年)、馬太(またい)傳福音書第六章より

 

マタイ効果はロバート・キング・マートンとハリエット・ザッカーマンによって提唱された概念であり、無名よりも著名な科学者のほうが信用を集め、結果としてより多くの名声を得ることになることを指したもの。

 

利益

ゲーム理論で言うシグナリングゲームに当たるか。

シグナリングゲームはシグナル(ざっくり言えば自己紹介)を対象としたゲーム理論で扱うゲームである。自分の言葉を信用してもらうための戦略の一つは、リスクを孕んだ発言のような「そこまでして言う意味がある」というようなシグナルを送ることであるが、これを逆手に取って……と考えると複雑になっていく。

 

デトロイトの治安悪化とそこからの回復は確かに特筆すべきだが、そもそも日本車がなければ治安は悪化しなかった。

自動車産業の街であったデトロイトは日本車の進出を要因の一つとして工場の撤退や企業の倒産が起こり、職場を失った労働者たちのせいで治安は悪化した。今日では再開発などによって盛況を取り戻しつつあるが、課題は未だ多い。

 

社交辞令

まあ私も学会とかでちゃんと相手の名前を調べてオンラインで読める論文にざっくり目を通してシラバスを確認してから「本を読みました、こんなところでお会いできるなんて。今日はどういう研究を聞きに?」「素晴らしいですね、えっ今度学会発表するんですか。見に行かせてもらいます」「もしよければ、そちらの大学に見学に行かせてもらってもよろしいでしょうか?」などと白々しいことをやっていたからな。

この物語はフィクションであり、実際の大学院生、学会、研究者、事務員などとはあまり関係ないです。けどまあ話をする時に相手の論文を読んでおくと話を合わせられるのでいい。えっ話す先生が論文を最近書いていない?ちょっと闇なのでここで止めておきますね。

 

小さい学会で酒の席の冗談だとしても院生を理事に推薦するなよ。

この物語はフィクションです。いいね?

 

冗句

元ネタはソ連時代のАнекдот(アネクドート)である。

アネクドートはロシア語で「小話」程度の意味であるが、日本ではソ連時代のブラックジョークを指すことが多い。盗聴器ネタは鉄板であるが、そもそもこんなネタが出る程度には秘密警察も頑張っていたのだ。

 

丁字管

もう少し大きいなら事前に(やすり)で傷をつけておいたりするのだが。

ここで叩いて割らずに先端を加熱して息を吹き込む流儀や、火を細くして局所的にガラスを溶かし吹き破る方法もある。

 

滴定用のビュレット、液体移動用のホールピペット、内側に溝の入った分留用のビグリューカラム、コックの付いた分液漏斗、そしてくぼみを持つ内管と分岐のある外管の間に水を流すアリーン冷却器。

ビグリューカラムはフランスのガラス職人アンリ・ビグリューに、アリーン冷却器はドイツの化学者フェリクス・リヒャルト・アリーンに由来する。

 

第二次世界大戦下で試みられてなんかうやむやに終わった松根油生産を記憶から引っ張り出す。

松の根を蒸留することで得られる松根油は飛行機の燃料に使うこともできなくはなかったが、採取効率が悪いせいでかなりの人員を動員した割には結果は振るわなかった。

 

圧力

そしてこの関係は確か狭い範囲では温度変化に対して指数関数的だったはずだ。

化学ポテンシャルを微分して得られるクラウジウス=クラペイロンの式から近似を重ねると、絶対温度の逆数の差に応じて指数関数的に蒸気圧が変化する。常温において絶対温度の逆数の差は線形とみなせるので、蒸気圧が温度変化に対して指数関数的に変化するように測定される。

 

かなり神経質な気もするし、無機水銀が有機水銀にくらべて中毒を起こしにくいことと体内半減期が確か数ヶ月だったということを考えるとまあ酷いことにはならないだろう。

メチル水銀のような有機水銀と比べ、無機水銀の半減期は短く毒性もマシである。とはいえ吸い過ぎは身体に悪い。

 

確か「ガルガンチュワ物語」で巨人ガルガンチュワを描いたフランソワ・ラブレーが足した。

「ガルガンチュワ物語」として知られるLa vie très horrifique du grand Gargantua, père de Pantagruel に「Natura abhorret vacuum.」という一文がある。まあ酒を飲んでいるシーンなのでそこまで重要な言葉ではない。なおこれが初出かは不明。

 

方向

S字状の管を使い、可動部分がほとんどない構成になっている。

ここらへんは文字で説明するのが難しいので 辻泰, 齊藤芳男. 真空技術発展の途を探る. アグネ技術センター, 2008. かその元になった論文の一つ、辻泰. 真空技術発展の途を探る 3. 真空装置の中の水に気付いたのは誰か? 、(1) Toplerポンプの頃. 真空. 2000, 43 巻, 8 号, p. 824-827. あたりを見てほしい。

 

特定

このくらいの雑なノリで、印刷物管理局の人員のおよそ半分を動員した活字のカタログ化が始まった。

揺籃期本(インキュナブラ)の研究ではしばしばこういう手法が取られる。

 

暗箱

私は簡易的に作った暗箱を見せて言う。

暗箱はラテン語「camera obscura(暗い部屋)」の直訳に近いもの。写真機の本体を指してこう呼ぶことがある。

 

確かイブン・アル=ハイサムもこの手の研究をしていたはずだが、詳しくは覚えていない。

イブン・アル=ハイサムは英語読みのアルハゼンとしても知られる、光学の研究で知られるイスラム世界の人物。物理学前史において重要な役目を果たし、その後の欧州における光学の発展に影響を与えた。実際に彼は虹についての論稿を書いている。

 

「まあ、それでここに使われている円盤状の硝子(ガラス)……透玉(レンズ)と呼んでいる部品の形状が問題になってくるのです」

レンズ豆と似ている形状のガラス製品なのでレンズと呼ばれているのだが、中国語では「透镜(tòujìng)」と呼ぶ。日本語にすれば透鏡。光学素子ではあるものの鏡ではないので、ここでは透玉の字を当てている。

 

なお例外になりそうなのは札束をぽんと出すカメラ業界であるとか縮小投影型露光装置(ステッパー)とか。

縮小投影型露光装置(ステッパー)は半導体に回路構造を焼き付けるための装置。複雑にレンズを組み合わせることで精密な投影を可能としている。なお、この機械の世界的シェアを握っているASML社の製品の光学部分を担当しているカール・ツァイス社の系譜をたどると顕微鏡の改良で知られるカール・フリードリヒ・ツァイスにたどり着く。

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