図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。伏線となっていそうな場所を読み返して矛盾がないか確認しているような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


第25章解説

余韻

まだ作れなかったり実証できなかったりとで断言はしていないが、私が示唆したアイデアは色々と可能性を秘めているのだ。

写真の印刷の先駆としてジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが1822年に瀝青を用いたヘリオグラフィを発明している。

 

自動鋳植機であるライノタイプがオットマー・マーゲンターラーとジェームズ・オグルビー・クレファンによって作られたのが1886年。

 

一般的にジョゼフ・ジョン・トムソンによる発表(J. J. Thomson. Cathode Rays. The London, Edinburgh, and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science. 1897, vol. 44, no. 249, p. 293-316.)を電子の発見とすることが多いが、この論文の内容自体は先行研究でも示されていたことのまとめである事には注意が必要。

 

今日、電気は声以外にもあなたの前にあるこの文章のような様々な情報を伝えることに使われている。科学史で言うなら1906年のアーサー・コーンによる写真送信、ジョン・ロジー・ベアードによる1925年の映像送信がある。

 

光学装置の分解能の定義は複数あるが、いずれも可視光波長に制約されることを示しており顕微鏡や望遠鏡には限界が存在する。

 

今日、鉄を主体とした特殊鋼は様々な用途で用いることができるように様々な元素が加えられており、その中でも有名なのが表面に不動態膜を形成するステンレス鋼である。主流となっている日本産業規格で言うところのSUS304、あるいは18-8ステンレスは1924年にウィリアム・ハーバート・ハットフィールドが作り出したものである。

 

1861年にトーマス・サットンがカラー写真の撮影に成功しているが、実用的なレベルに発展させたアドルフ・ミーテによる貢献も大きい。

 

聖典

ベン図と簡単な論理記号を使ったり、逆ポーランド記法での表現を試みたり。

ベン図はジョン・ベンに帰せられる集合を表す方法。4つ以上の集合を扱おうとすると図が大変になることが多い。

 

逆ポーランド記法は「3 * (4 - 2) + 1」を「3 4 2 - * 1 +」のように書く方法。「逆」とついているのはポーランド人の数学者ヤン・ウカシェヴィチが発案した方法だと記号の方を先に置くのでその逆という意味。データのスタック(積み重ねたブロックのようなもの。一番上、つまり一番最近入れたデータの出し入れしかできないので、下の方のデータにアクセスするのが難しい)を使っているシステムで入力に逆ポーランド記法を使うと計算がやりやすいというメリットがある。

 

隠れたカリキュラムというやつだ。

Hidden curriculum(隠れたカリキュラム)という用語はフィリップ・ウェスリー・ジャクソンの「Life in Classrooms」で命名された概念で、教育者が意図しているわけではないが学生が「学ぶ」内容を指す。例えば先輩の言う事を聞くということは、まず明文化された教育目標としては存在しないが多くの教育環境で存在する暗黙の規則である。しかしこの影響を正しく評価することは難しく、場合によっては難癖をつける理由として使われることもあるので面倒な概念である。

 

私が知っているものだと旧約聖書の知恵文学とか、儒教の四書みたいなものだ。

知恵文学は旧約聖書におけるヨブ記、箴言、コヘレトの言葉、詩篇(の一部)のこと。同様のものは古代オリエントを中心に広く存在した。賢者による独白形式でのアドバイスみたいな感じ。ここからいい感じに引用したりするとかっこいいのでおすすめ。

 

儒教における四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」の総称。これらは東アジアにおける道徳文化に深く影響を与えている。

 

基本概念を無理やり訳すとしたら「徳」にでもなるのだろうか。

儒教における「徳」と類似した考え方は多くの文化や宗教で見られる。まあ悪いことをしようなどという宗教はまず無いからそりゃそうだが。

 

「……ああ、見覚えがあると思ったらあれだ、『大兄、汝を見たり(BIB BROTHER IS WATCHING YOU)』だ」

The flat was seven flights up, and Winston, who was thirty-nine and had a varicose ulcer above his right ankle, went slowly, resting several times on the way. On each landing, opposite the lift shaft, the poster with the enormous face gazed from the wall. It was one of those pictures which are so contrived that the eyes follow you about when you move. BIG BROTHER IS WATCHING YOU, the caption beneath it ran.

(八階にある部屋までの階段を、足首に静脈瘤潰瘍を抱える39歳のウィンストンは休息を挟みながらゆっくりと登っていった。エレベーターの吹き抜けの反対側からは、巨大な顔が彼を見つめてくる。動いても目が追ってくるように作られた肖像なのだ。「大兄は君を見ている(BIG BROTHER IS WATCHING YOU)」という文字がその下にあった。)

 

──エリック・アーサー・ブレア、あるいはジョージ・オーウェル「Nineteen Eighty-Four」より、拙訳。

 

イギリス人は基本的な計数の概念か建築地盤に何らかの重大な欠陥を抱えているらしく、「地上階(ground floor)」のひとつ上が「一階(first floor)」なのである。それはともかく、こういうじっと見つめてくるようなプロパガンダポスターは第一次世界大戦下の英国で使われ、後に多くの模倣を生んだホレイショ・ハーバート・キッチナーが正面を向き、指を伸ばしているアルフレッド・アンブローズ・チュー・リートによる絵に「BRITONS」「WANTS YOU」というキャプションがあるポスターに代表されるようにある種の威圧感を与える。監視の視線というのは犯罪防止にも反逆防止にも役立つのだ。

 

ここでキイはジョージ・オーウェル「Nineteen Eighty-Four」を意識したコメントをしている。過去に関する記憶改変はこの作品の主人公、ウィンストン・スミスが勤める「真理省(Minitrue)記録部門(Recdep)」の主業務である。

 

千年を越えて使われ続けたヴルガータ訳。

vulgataは「公知の、俗の」の意味。ここではラテン語訳の聖書、editio Vulgataを指す。「グーテンベルク聖書」として知られるものの底本はこれ。書かれた4世紀ごろから改定の話が持ち上がったトリエント公会議までおよそ1000年の間、複製を重ねて使われてきた。

 

本棚

あとはこれは……何らかの植物を薄く割ったもの、かな。

モデルは樺皮やオウギヤシの葉などを用いた貝多羅葉、経木など。

 

できたら入口の時点で足拭いたりとかして原因を持ち込まないようにするのがいいが。

総合的有害生物管理という考え方はもともとアメリカ合衆国で生まれた農業の害虫への対応から始まったものだが、今日では博物館や図書館での資料保存などの分野にも敷衍されている。持ち込まない、繁殖させない、資料に害を与えさせないといった段階的アプローチを取る。

 

侵食

OCRかけて不一致を確認してみたいなことをやれば一瞬だったが、

OCRはOptical Character Recognition(光学文字認識)の略。スキャンしたPDFの文章をコピペできたりするのはこれのおかげ。

 

黒鉛と粘土の粉末を圧縮して焼成したものを、金属でできた筒状のホルダーに入れたものだ。

黒鉛を用いた筆記具は16世紀にコンラート・ゲスナーが報告していたが、キイがやったような方法で硬さや濃さを調整する方法はニコラ=ジャック・コンテが作ったコンテと呼ばれる画材に近い。スケッチなどに使われる。アニメーションの絵コンテはcontinuityから来ているので別。

 

民族

まあともかく、そういう頃になってくると民族みたいなものではなく、土地にアイデンティティが生まれるようになっていった。

ここではキイはナショナリズムとパトリオティズムを区別する思考をしている。まあここらへんは用語定義が色々混乱しているので厄介だが……。

 

迫害

児童心理学と呼べるほど独立したものはない。

「児童」という年齢層への着目と、心理学という学問がそこに目を向けるのは19世紀末ごろである。ウィリアム・ティエリー・プライアーが1882年に書いた「Die Seele des Kindes」が児童心理学の嚆矢と呼ばれているのを考えると、案外遅いものである。なおここらへんはエリーザー・シュロモ ・ユドコウスキーの「Harry Potter and the Methods of Rationality(ハリー・ポッターと合理主義の方法)」の6章に出てきた発達言語学の言及をちょっと意識している。たぶんこれジャン・ピアジェのあたりだよな。

 

硝子(ガラス)もできたことだしナサニエル・バグショー・ウォードが作った輸送用容器みたいなものを作らせてみるか。

「ウォードの箱」と呼ばれる一種のテラリウム。湿度の維持などの点で有用であり、環境変化に弱い植物を海を超えて運ぶことを容易にした。清からロバート・フォーチュンがチャノキを持ち出したり、クレメンツ・ロバート・マーカムが南米からイギリス領インド帝国までキナを密輸したりした時に用いられた。

 

つまり感電の演技が上手い人を用意しないといけないのか?

スタンリー・ミルグラムによる心理学実験を踏まえたもの。これは実験対象者が「電気を流してください」と言われた時に目の前の相手に危険な量の電流を流すことを選択するかどうか、というもの。もちろん、電流は流れず痛がるふり(そして気絶、あるいは死んだふり)をするだけである。心理学の実験や研究は再現性の問題が最近色々と言われているが、このミルグラム実験は比較的後続実験もされていて堅牢らしい。

 

普通に植物ならアスコルビン酸含有しているよな?

海藻にはちゃんとビタミンCが含まれています。

 

二クロム酸カリウムって六価でしょ?

二クロム酸カリウム($\require{mhchem}\ce{K2Cr2O7}$)の水溶液は酸性下で赤橙色で、還元されるとクロム(III)イオンの緑色を示すので酸化剤として滴定などに使われる。しかし二クロム酸カリウムは六価クロムであり、毒性を持つため法律で色々と制限が付けられている。

 

マンガンならマシかな。

過マンガン酸イオン(酸性下で赤紫色、還元されるとマンガン(II)イオンとなり無色になる)のこと。二クロム酸カリウムと同じく、高校の教科書でよく酸化還元滴定に用いられる。

 

それでもまあ、集団殺害とかは愚かだと主張せねばならないだろう。

集団殺害罪の防止および処罰に関する条約、通称ジェノサイド条約をふまえたもの。

 

倫理

下手な政策は寝た子を起こすことにもなりかねない。

えせ同和行為とか、こういうところへの忌避感をうまく使ってくるんですよね。

 

人間というのは安全であるならば自由に人を殴れる弱者の立場を欲しがるのだ。

この物語はフィクションであり、実際の政治団体や社会活動とは関係ありません。キイの思想が強いのは最初からです。

 

「……微妙に、私の知っている言葉と違うな」

(なんぢ)(あだ)をかへすべからず

(なんぢ)(たみ)子孫(ひとびと)(むか)ひて(うらみ)(いだ)くべからず

(おのれ)のごとく(なんぢ)(となり)(あいす)すべし

(われ)はヱホバなり

 

──明治元訳新約聖書(明治37年)、レビ記第十九章より

 

新約聖書の「善きサマリア人のたとえ」で律法学者が答えた聖典の一節。ここではかなり民族主義的な内容だったが、キリスト教ではこれを脱色することで世界的な宗教となる素質を手に入れた。キイはここで「隣人」のように対象を限定していないことに引っかかっている。

 

目には目を、歯には歯をとまでは言わないが、

ハンムラビ法典やその流れを継いだ法典に見られる同害報復についての言及。

 

世界の殆どのオイクーメネーにこの考え方が接触しているのかもしれない。

οἰκουμένηはギリシャ語で「居住地」の意味。当時既知の人間の居住地域を指す概念であったが、フリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルトやルイス・マンフォードによって地理学や文化人類学の用語として用いられた。なおドイツ語のエクメーネではなくギリシャ語を使っているのは平野耕太「ドリフターズ」における黒王の台詞を意識しているため。

 

模倣

多分そういう樹脂を出す植物があるのだろう。

モデルはウルシの樹液である漆。

 

正直なところ、これが受け入れられたのはちょっと意外だった。

位取り表記ははじめ商取引に導入されたが、これが広く使われるようになるまでにはそれなりに時間がかかった。

 

点二つで直線を引いて線形近似するよりひどい。

ユークリッド幾何学では点が二つあればそれらを通る線が引けることが公理として与えられる。なのでグラフ上の点を結べたからと言って、そこからなにか新しい情報が得られるわけではないのだ。しかし例えばその二つの値が比例関係にあるとかなら追加で原点を通ると言えるし傾きから比例定数を出せるのでまあ、ぎりぎりアリか。

 

鉱山とかからの病例報告と統計的示唆を合わせて、といったところか。

微粒子の吸引を繰り返すことで肺組織が線維化する塵肺は古くから知られていたが、治療費を払いたくない雇用者側との問題もあって20世紀に入りエドガー・リー・コリスが統計的分析を出すまでその原因が断定されるまでは時間がかかった。

 

まあ私が元の世界にいた時には全部数値制御でできるようになっていたので、まず見ない代物だったけれども。

コンピュータによる数値制御(Numerical Control)によって加工用の工具を動かすようなNC加工装置は現代では非常に一般的なものである。

 

撥条(バネ)連接(リンク)機構で見本をなぞるようにして同じ形のものを作っていくこの方法

私が知っている例だと油圧式だった。

 

とはいえ赤血塩を作るのには色々と工夫が必要だろうし、紺青もまだないからな。

赤血塩とも呼ばれるヘキサシアニド鉄(III)酸カリウム($\ce{K3[Fe(CN)6]}$)は紫外線で還元される。これを利用したものが青地に白い線で書かれている図面のイメージとかで知られる青写真である。これは1704年にヨハン・ヤコブ・ディースバッハによって発明されたと伝えられる紺青(ヘキサシアニド鉄(II)酸鉄(III)、$\ce{Fe4[Fe(CN)6]3}$)を作る過程で生まれる黄血塩(ヘキサシアニド鉄(II)酸カリウム、$\ce{K4[Fe(CN)6]}$)から作ることができる。

 

卓上

駒を置くためのヘクスが引かれている。

ヘクスは六角形のマスのこと。ウォー・シミュレーションゲームと呼ばれるジャンルのボードゲームで使われたものが源流とされているが、これ知っている人は多分それなりの年齢だよね。

 

ゲームマスターは私。サブマスターはケト。

この呼び方の直接の由来はTRPGだが、プレイバイメールと呼ばれる手紙でやり取りされるタイプのゲームの頃には用いられていたそう。

 

「正しく言えば、例え図書庫が燃えたとしても我々が何かを学ぶことができれば全員の勝利になります」

図書庫は燃やすもの。ストックホルムに核を落とす*1みたいな感じで多分実績が解除されるんだと思う。

 

シャガイ、だったっけ。

шагайはモンゴル語で「くるぶし」の意味。くるぶしの骨を賽として用いることは世界各地で行われていた。

 

感染

まあ、一応放線菌から治療薬を作るルートも用意してはあるが3年ほどかかるようにしてある。

初期の抗菌薬の多くが放線菌から得られている。

 

感染

私の知識の中にも感染症に対しての対策としての都市封鎖の方法なんてものはほとんどないしな。

キイの出身は国立産業技術史博物館がある世界線なので、2019年から始まったコロナウイルスによる感染症がなかったりする。

 

cordon sanitaire(防疫線)というやつだ。

感染者と非感染者を分ける線のこと。国際社会における包囲網をこう呼ぶこともある。

 

こういうのってイングランドのイームみたいな小さな村でしかできなわけじゃなかったんだ。

1665からイギリスを襲ったペストの流行の際、村をまるごと隔離することで拡大の感染を防いだことを踏まえたコメント。史料には混乱があるが、まず人口1000人を超えない小さな村だった。

*1
ストラテジーゲームの大手、Paradox Interactiveの本社がストックホルムにあるのでそれを踏まえたネタ。

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