図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。存在しない翻訳前の原文のニュアンスを汲み取ろうとする読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


第6章解説

大道芸

少し面倒な話をしよう。具体的には差別について。

異なる地域、異なる時代の価値観が我々のそれとは離れているのは当然である。異世界であるならなおさらだ。とはいえこういう説明をしておいたほうがたぶんしないよりはマシだと思うのでした。

 

奇物

私の知っている驚異の部屋(Wunderkammer)と基本的な方針は似ているが、こちらのほうはむしろ博覧会とか物産会とかの方が近いか?

Wunderkammerはドイツ語。英語であればCabinet of curiosities。大航海時代以降様々なものが「発見」された中で、奇物蒐集趣味者が作った部屋に由来している。後の博物館の一側面の由来。

 

転機は船の改良にあったという。帆の形を変えることによってより確実な舵取りが可能となり、海運業が発達したのだ。

モデルはジャンク船。縦帆の木造帆船であり、適切に設計すれば遠洋航海も可能である。

 

まあ剥製に縫い目が見えたり自然界ではあまり見られないような色だったりがあるので、まあ。

こういうものがあると色々と大変である。ピルトダウン人とか……。

 

外食

生魚の香草塩漬けとでも呼ぶべきもの。

モデルにしたのは北欧のグラブラックス。

 

剥離

ケトが目を覚まし、意識レベルを下げていく。

日本で広く用いられるJapan Coma Scaleでは急性意識障害レベルを3段階×3段階の9段階*1に分類している。本来であれば昏睡レベルと言うべきだがしばしば意識レベルと呼ばれるため、「意識レベルが高い」を数字が大きい方に解釈すると重度の意識障害を持っていることになってしまう。詳しくは 太田 富雄, 和賀 志郎, 半田 肇, 斉藤 勇, 馬杉 則彦, 竹内 一夫, 鈴木 二郎, 高久 晃. 急性期意識障害の新しいGradingとその表現法. 脳卒中の外科研究会講演集. 1975, 3 巻, p. 61-68. を参照のこと。

 

その後改めて、私はなんともいえない狼狽混じりの表情をした。

私がこの時点でのキイと同じ表情をしたのは『日本の近代活字本木昌造とその周辺』編纂委員会編著「日本の近代活字 : 本木昌造とその周辺」を読んだ時である。なおこれによれば銀シアン化物を用いたらしい。キイがこの後で挙げている方法はどれも実際の電鋳で用いられているものだが、本当にこれで行けるかは知らない。誰か実験した人がいたらデータください。

 

燃焼

まあ私は科学哲学が科学に役立つはずだと、少なくとも鳥類学ですら鳥類保護には必要なのだと思っているので、ある程度はここらへんに触れないと最初の科学を始められない。

「The philosophy of science is as useful to scientists as ornithology is to birds.(科学哲学は、鳥類学が鳥にとって有用であるのと同じくらい、科学者にとっても有用である。)」というのはリチャード・ファインマンによるとされる言葉である。もちろん反語であり科学哲学は科学者にとってあまり価値がないと言うことを主張していて、本当にリチャード・ファインマンが言ったのかは根拠があまりない。一応遡れる初出はケンブリッジ大学のニュートン・プリンキピア創立300周年祝賀会でスティーヴン・ワインバーグがやった講演での出典不明として用いられた言葉。それでも彼の書いたエッセイ「ご冗談でしょう、ファインマンさん(Surely You're Joking, Mr. Feynman!)」を読むと言いそうだな……となってしまう。

 

まあここらへんの理論は正直言ってあまり好きな論調ではないのだが、それはともかくある程度科学者はこのことに自覚的ではあるべきだ。

キャロリン・マーチャントは著書「自然の死(The death of nature) : 科学革命と女・エコロジー(women, ecology and the scientific revolution)」で科学界における女性の排除を自然に対する支配と結びつけて論じている。とはいえ知恵の神は女神だったりするので実質百合リョナでは?(最悪のアイデア)

 

本来であればここでフロギストンとかの話に持って行きたかったのだが、根本的にこの二つが違う反応とされているのであれば難しい。

燃焼という現象をPhlogistonという物質の放出として解釈するもの。燃焼と錆を統一的に表現したが、考えていた方向が逆であったために質量の測定を含む定量分析の発展によって矛盾が生まれ、「実はフロギストンは空気より軽いから結合してると浮力が生まれるんですよ」という解釈も生まれたが最終的にアントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエによって作られた「酸素(oxygène)」の概念がより多くの現象を説明できたことによって衰退していく。もちろんフロギストン仮説は当初かなり合理性があったので、これをもって初期の化学者達を蒙昧であると主張するのはどう考えても間違っている。

 

割鋳型

コンコルド効果だ。

突っ込んだ投資額に見合った成果が得られないと今後利益がないとわかっていても撤退が難しくなるという現象。ギャンブラーの行動から軍事的問題まで幅広い領域で見られる。なおこの言い回しはクリントン・リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子(The Selfish Gene)」に見られる。

 

構造を言葉で説明するのはかなり難しい。

この動画を見るのが一番早いと思う。

 

製本

そういえば気になって調べたが、かつての世界の秒、あるいは人間の心拍のスケールの時間の単位が天文学の分野はともかく市井にはないんだよな。

我々の世界でも天文学の分野であくまで理論的単位として用いられた後、機械式時計の発明によって測定できるようになった。

 

脂汚れを取る用の石鹸も置いてあるし、洗うときの水が冷たくないようにぬるま湯にもしてある。

水が冷たいと洗い残しが増えるのでよくない。

 

事実国立産業技術史博物館にもJICA(国際協力機構)からちょくちょく問い合わせが来ていたし、色々と対応もしたのでわかる。

JICA(国際協力機構)は日本が行う政府開発援助(ODA)の主体となる組織で、発展途上国での技術援助のような活動を行っている。

 

揺籃期本(インキュナブラ)の研究をやっていた人が印刷場所と印刷年がわかればどれだけ楽かと愚痴っていたのが印象的だったので。

incunabulaとはラテン語「incunabulum(ゆりかご)」の複数形。詳しくは国立国会図書館の電子展示会「インキュナブラ -西洋印刷術の黎明-」が詳しい。

 

印刷されたものは聖典語の例文書だ。

ヨハネス・グーテンベルクによる最初期の活版印刷物の中に4世紀に書かれたアエリウス・ドナトゥスによるラテン語の文法書「Ars minor」がある。30頁弱。

 

法典

十戒よりは複雑ではあるが、日本の六法を合わせたものよりはシンプルなもの。

十戒といえばアブラハムの宗教においてモーセがシナイ山にて神から授けられたものが有名だが、それとは別に仏教用語としても存在する。とはいえどちらも「殺すなかれ」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「偽証するなかれ」「過度に欲するなかれ」あたりは共通している。さすがにこれらが守られない共同体は問題が多く発生するのだろう。

 

それと古帝国法には商取引の活性化のために明文化が必要となったので各地の法を集め、纏めたという側面もある。

法律に対する知識は一般的に高度な訓練を受けた専門家が扱うものであり、しばしば秘匿された。つまりはなんとなくであったりその時々の都合であったりで裁判結果が変わるのは当然だった場合もある。しかしそれでは商業取引が面倒になるので統一され公開された法が必要となったのだろう。

 

日本生まれの私にはこの法の不遡及に反するようなシステムに引っかかりがあるが、英米法の考え方だと結構軽率に事後立法ができるんじゃなかったかな。

ヨーロッパの法律には文章化された法律によらなければ判決を出さないという成文法の考え方に基づいた大陸法と、過去の判例に基づく判例法や公的に国家が認めたわけではない慣習法などの不文法をベースとする英米法、合わせて二つの流れがある。日本は大陸法であるドイツの法典をベースにいろいろいいとこ取りしたシステムであり、罪刑法定主義を取っている。とはいえどちらもそれなりに問題があるので面倒くさい。科学史に関わるあたりだと田中舘愛橘が証言を求められた電気窃盗事件で電気を「盗む対象」としての具体的財物かどうかが争われたという例がある。

 

法制史は面白いテーマなのだがラテン語も漢文もできないので私には手も足も出なかった。

もちろん場合によってはシュメール語、エジプト語、ヘブライ語、アラビア語、サンスクリット語なんかを読めなくてはならない。たとえ日本語国内だけの法制史をやるとしても近代法はヨーロッパからの影響を理解するために英語、ドイツ語、フランス語が、それ以前でも古文漢文を読みこなせなければならない。つらいね。

 

つまりは奴隷だ。

奴隷は定義が曖昧であり、地域・時代によってはほとんどの人口が「奴隷」とみなされかねない。その扱いも本当に幅が広いので、もし議論する場合にはきちんと前提条件を定めてから行おう。さもないとマムルーク(被所有者)朝における騎兵やスルターン(君主)とアメリカ合衆国の奴隷制を同じ舞台で話すことになり、非常に不毛なことになる。

 

とはいえ情報整理ができないと処理能力に限界があるからな、と私はあまり触ったことのないカード目録がどういうシステムだったかを思い出そうとした。

カード目録はカードに本の内容を書き込み、棚などにタイトル・主題・作者などで並べていくもの。今日見ることは一部の専門図書館を除いてほとんどないが、多くの図書館が採用している日本目録規則はカード目録をベースに作られている。

 

差止

もちろんある意味でこれは茶番である。

茶番、あるいは手続きに則った儀式的行為の重要性はしばしば軽視されがちであるが大切な場合も多い。面倒だけどね。

 

「……あまり本質的なことのようにこちら側は考えていないが、貴方の発言は記録しよう」

確かにあまり本質的には見えないが、後世の研究者からすれば史料がちゃんと整理されて残っているのは本当に有り難いのだ。

 

進展

あとは大図書庫が代償金を払って複製を作ることができるとか、死後の権利管理とか、公開出版物のパブリック・ドメイン制度だとか、著作権の放棄とかを色々盛り込んである。

キイが持っている異世界における知的財産に関する知識を色々入れたもの。

 

まあきっと印刷に詳しくてしっかりと判断ができ豊富な知識を持ったいい人を担当者として選んでくれるだろう。

その通りになった。

 

人選

統計情報を示せ。せめて参考文献を書け。

例えばこの手の本に非常によく出てくる「マズローの欲求五段階説」なんかは元データの統計処理や偏りに疑問が呈されており、モデル自体の欠陥も指摘されたりなんかしているので心理学的には古いモデルではあるがまだ使われている。あの手の本は読んで満足することが目的であり、そこから発展させて自分から仮説を立てるためのものではないのだ。

 

この少年は馬鹿だ。

Toute fille lettrée restera fille toute sa vie quand il n'y aura que des hommes sensés sur la terre.

(地上に良識のある男しかいなくなれば、博学な娘は一生独身のままだろう)

──ジャン・ジャック・ルソー「Émile, ou De l'éducation(エミール、または教育について)Livre V(第五篇)より。拙訳

*1
1〜3、10〜30、100〜300の点数で表記する

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