[完結]Home is the sailor, home from the sea. (Гарри)
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Home is the sailor, home from the sea.
「艦娘訓練所」-1


 “星空のもとに墓穴を掘って、わたしを埋めておくれ。わたしは喜んで生き、喜んで死んでいった。この墓碑に刻むべき言葉は、こここそわたしの横たわりたかったところ。幾千里の山を海を越えて、帰ってきたかったところなのだ。”
        ──ロバート・ルイス・スティーブンソン※1  (抄訳:矢野 徹)※2



 海の上で、僕は死にかけていた。ほんの一秒にも満たない短い間、頭が水面から出て、また数秒の間下へと沈む。それを繰り返して、僕はもうへとへとだった。海水に洗われて目はかすみ、その癖水平線に消えゆく夕焼けだけはやけにはっきりと見えた。

 

 死ぬんだ、と僕は思った。こんな何処だか分からないようなところで、僕は死ぬ。泳げないばかりに、たかが泳ぎなんかができないばかりに、僕は死ぬ。嫌だ、と心は叫んだ。だが体は、僕の心の主は従容と運命を受け入れ始めていた。さっきまで突き刺すようだった海の冷たさが、やがて体温のように感じられてくる。水は僕の体を優しく包み、まるで誰かに抱きとめられているかのようだ。もう僕は浮かばない。水面が遠く見える。ぐわんぐわんと耳鳴りが始まる。僕と共に沈む陽の赤い輝きがまぶたに影を残す。

 

 僕はそっとそれに手を伸ばした。

 

 何かがそれに絡みついた。

 

*   *   *

 

 目を覚ますと、僕は全身にびっしょりと汗をかいていた。それこそまるで、海で溺れた後のようだった。息も荒く、心臓がばくばく言っていた。平静を取り戻そうとしながら、溜息を吐く。嫌な夢を見た──それも最後に待っていた助けを省いた、救いのない編集版ときた。何年も前のことだというのに、まだ夢に見るとは思わなかった。あれは小学生低学年ぐらいの、小さな子供だった頃の夢だ。僕と家族は海に出かけた。瀬戸内海だ。エメラルド色の海って訳じゃないが、四国と本州の間ということもあって比較的安全で、シーズンには全国の海水浴客が一斉に集まるほどである。僕が行った時もそうだった。芋を洗うような混雑の中で、僕は親とはぐれ、しかも人の波に押されて沖の方へと流れ出てしまった。挙句、生来の考えなしでうとうとしながら浮かんでいたものだから、気づいたら日も暮れ、すっかり陸地から離れたところにいた。

 

 戻れないのではないかという不安に安定した姿勢を崩した僕は、すぐに溺れ始めた。体温は下がり、手足は満足に動かず、助けが来る当てもない。たった一秒長生きをする為に、全力を振り絞らなければいけなかった。僕は悔やんだ。考える余裕はなかったから、直感的に自分に何が足りなかったのかを把握して、それを持っていなかったことを悔やんだ。自分がここでこうなるという運命だったことを呪った。死にたくないと願った。奇跡が起きて、天から背中に羽の生えた子供が降りて来たりしないかと思った。最後のは嘘だ。そんな余裕はなかった。本当に奇跡が起きるまでは。

 

 艦娘。力強き人類の守護者、深い海から来るものどもの敵、かつて僕らの母か、姉か、妹か、恋人か、妻だった、誰か。栄華を誇り、地と海と空を埋め尽くした人類の前に、その天敵として現れた深海棲艦を滅ぼすもの。深海棲艦と共に現れた、妖精と呼ばれる何かの手を借りて人が生み出した、災厄からの守り手。彼女たちがどんな存在かを言い表す方法は沢山あるが、ここまでにしておこう。僕を助けてくれたのは、彼女たちの一人だった。今でも思い出せる。彼女のあの手、指先から伝わるあの熱、僕を抱きしめたあの力、あの声、あの顔、あの姿。

 

 僕はその日、同世代の連中より幾分か早かったが、自分が何に人生を捧げるべきか知ったのだった。

 

 助けられてから暫くは、病院に連れて行かれたりニュースになったせいであれこれ記者に質問されたりで忙しかったが、そういったものが片付くや否や僕は自分がこれからどうするべきかを模索し始めた。とはいえ子供のやることだ、親や小学校の先生に色々と尋ねる程度とたかが知れていたが、どちらも僕のこの熱狂を命を救われたことによる一時的な興味だと思ったようで、何も気にせずに素直に教えてくれた。そのお陰で、僕は海軍に入るという志を十歳の誕生日の時にはもう持っていた。本当なら、僕も艦娘になりたいところだったが……性別の壁は越えられないだろうと思ったのだ。そこで僕は、艦娘を指揮する提督という存在に憧れた。

 

 それが狭い門だということは、調べるまでもなく明らかだった。艦娘になるには、十五歳で受けることを義務付けられている適性検査をパスした上で、志願し、訓練を受けなければならない。つまり、適性さえ備わっていれば後は本人の意志次第なのだ。しかし提督の場合は違う。適性検査で提督としての適性を認められ、体力試験と学力試験に合格し、口頭試問を受け、その他諸々の下らないテストを突破して、やっと候補生として訓練を受けられる。そこでも徹底的にふるいに掛けられ、残った(わず)かな男女だけが提督という、深海棲艦をことごとく打ち滅ぼそうとする者の末席に加わることを許されるのだ。

 

 望みは薄かった。限りなく薄かった。だが、そのことで不安になる度に僕はあの海での出来事を思い出すのだった。もしあの時、どうせ助からないだろうと言って早々にもがくのをやめていたら、僕はどうなっていただろうか。少なくとも、今より幸せになっていたとは思えない。死んでいるより生きている方が僕は好きだし、僕の親や友人たちだって、死んだ僕より生きている僕の方を好きでいてくれるだろう。もがくのだ。もがき続けるのだ。それが必ずやいい結果を生むとは言えないが、可能性を自ら投げ捨ててはならない。僕はそう信じていた。

 

 溺れたあの時から年月が経ち、僕は中学三年生になっていた。学校では文武両道の優等生として通っていた、と言えたらよかったのだが、残念なことに学力面においてはいささか能力不足を感じていた。けれども、個々人の用意の有無と多寡とに関わらず、時間は流れるし予定は実行されるものだ。とうとう、僕のいるクラスにも適性検査の時が訪れた。僕と数十人のクラスメイトは身体検査を受け、採血し、精神と肉体のどちらについても問題を抱えていないか聞かれ、僕にはする意味が分からない質問(「普遍的真実は存在するだろうか?」※3とか)をされ、どんな仕組みかは知らないが艦娘と提督の適性を診断する為の機械に繋がれた。

 

 嘘か本当か定かではないが、提督の適性と艦娘の適性を一つの機械で測定できるようにした理由は、軍部の圧力があったからだと言われている。男で艦娘と同様の存在になれるものを探しているとか、何とか。艦娘は読んで字の如く、女性だけに適性が現れるものなのだが……高潔なのか、それとも面子を気にしているだけなのか、彼らは深海棲艦との交戦において矢面に立って砲火にさらされるのが女性であることを、快く思っていないのだそうだ。年端も行かない女を戦場に立たせるよりは、深海棲艦との戦いが始まってすぐの時のように鋼鉄の船で戦いを挑み、未亡人と父なし子を大量生産した方が落ち着くのだろう。まあ、彼らが自分も戦えると考えるのにも無理はない。緒戦において通常戦力を有りっ丈投入したお陰もあって、立ち直るのに十年単位で時間を要するような、ほぼ壊滅という規模の被害を受けつつも、彼らは何隻かの人型深海棲艦をも撃破することができたのだ。これは、その撃破した深海棲艦を解析して艦娘が作られるようになった今でさえ、人型深海棲艦にはそこそこ手を焼かされていることを考えると、驚くべき功績だった。

 

 そしてこの日、僕と僕のクラスメイトたちが検査を受けた日、彼らの切望は遂に報われたのだった。

 

*   *   *

 

 何度か調べ直して、どうやら僕は人類史上初の男性艦娘……冗談でクラスメイトは「艦息」と呼んだが、それに適性を持つ人物らしいということが確かにされた。するとまあ、当然のことだが、溺れた後以上の大騒ぎになった。軍は僕に沢山の約束をして、志願してくれるように頼んできた。学校の方は二通りに分かれた。片方は僕に是非志願したまえと言い、もう片方は拒否しなさいと言った。友人たちは自分で考えろと言ってくれて、それが僕にどうするかを決めさせた。僕は志願することにしたのだ。ただ、思い返してみると当時の僕はそこまで深く考えていなかったように思える。提督になるのは難しそうだから、降って湧いたこのチャンスに乗ってやろうという具合だった。両親はそれを見抜いていたのか、生まれてこの方僕が自分の人生をどう生きるかについて一度たりとも口出ししてこなかった彼らが、今回ばかりは猛烈に反対した。カッコいい制服とカッコいい鉄砲の世界じゃないんだぞ、と彼らは僕に言った。その言葉に顔を赤くしたことを覚えている。心の中にちょっとだけ、そういうものを期待する自分がいるのを知っていたからだ。

 

 彼らの反対が懸命なものであったことは疑いようがない。現在の社会情勢においてはかなり際どい表現や言葉を使ってまで、僕を説得しようとしていた。もし二人の言ったことが百分の一でも当局に知られていたら、僕は二人をむざむざ逮捕させない為に志願しただろうというほどだ。しかし最後には軍の交渉担当官がやってきて、軍への志願というものが、深海棲艦との戦いが始まった後に改正された法の下で、十五歳になった男女に初めて与えられる彼もしくは彼女の自由意志の下に行使できる権利であることを説明した。これには僕の両親も反論できなかった。その倫理的・道義的問題点についての議論は尽きないが、それでも確かに法の下ではそういうことになっていたからだ。そして、そうである以上、両親に僕が志願するのを無理矢理やめさせる権限はなかったのである。

 

 母は悲しみ、父は怒った。僕が忠告を受け入れなかったことよりも、それによって母を悲しませたことに怒っているようだった。でも僕は決めて、その意志を表明したのだ。そうして、軍は、一度言ったことを簡単に取り消させてくれるような組織ではなかった。

 

 僕は艦娘訓練所に送られた。ここでは僕は特別あつらえの男性候補生用被服と、小さな個室を与えられ、更に三度の食事を自室で取ってよいという特権を与えられていた。他の艦娘候補生たちと混ざって生活するものだと思っていたが、考えてみれば女の園に男を一人放り込むのは大問題だろう。しかしそれは、僕が訓練期間中孤独であったという意味ではなかった。軍なりの精一杯の計らいというものなのか、同級生の女子で艦娘に適性があり、僕と同じく軍に志願した者を、同じ訓練隊に加えておいてくれたのだ。彼女とは学校時代から親しくしていた間柄ではなかったが、それでも見知らぬ他人ではない。僕は彼女を通じて、他の候補生たちと少しずつ交流することができた。背が高く黒の短髪、それに切れ長の瞳を持ち、しかし女性的な丸みも帯びた彼女は、僕という例外的存在に対する他の候補生の警戒を解く上で大変に活躍してくれた。

 

 最初の一ヶ月は艤装の艤の字も見えず、もっぱら基礎体力作りだった。僕は幼年期からの積み重ねがあったので、特段苦労はしなかった。疲れずに走ったりするコツを他の候補生に教えたりした。実技教官は前線から退いた艦娘の一人で「那智」だったが、顔の左側に大きな火傷痕があり、右腕がなかった。座学で習ったことによれば艦娘は特殊な修復材によって肉体的欠損さえあっという間に再生してしまうのだが、噂では彼女は彼女の隊が全滅した戦いの後、洋上の小島に辿り着き、そこで救援が来るまで耐え忍んでいる間に傷が半端に塞がってしまい、修復材でも治せなくなってしまったのだという。彼女は遠目から見るだけでも僕らを震え上がらせたが、その本当の迫力を最初に見せ付けたのは訓練が始まってすぐのことだった。

 

 その時は座学の後で、僕らは走り続けていた。座学では敵の分類や生物学的構造、保有する兵器などについて講義された。艦娘がヘッドマウントカメラで撮影したという実際の映像も交えて解説された僕らは、艦娘になって戦うということをそろそろ本気で受け止め始めていたが、根っこのところでは学生気分が抜けていなかった。僕らは走り続けていた──小高い丘を上がり、下り、ふもとの折り返し地点で引き返して、また丘に上った。折り返し地点にいる筈の教官がいないのを見て、彼女も気を抜いてサボりたくなることもあるのだろうという馬鹿な勘違いをしながら。

 

 丘の上の林道に入った時に、それはいきなり始まった。空気が破裂する音が響くや周囲の木々が弾けてちぎれ、何かの破片が僕の頬をざっくりと切りつけて何処かに飛んでいった。僕らは座学で学んだことなど全て忘れ、悲鳴を上げてうずくまって、この嵐が通り過ぎていくのを待つしかなかった。やがて耳鳴りに混じって足音が聞こえてきて、それは小さく丸まって地面にしがみついている僕らの前で止まった。彼女は無事な左腕に、いびつな砲めいたものを持っていた。その砲身からは熱が発されており、砲口からは煙が立ち上っていて、今しがた発砲されたことを示していた。彼女は落ち着き払った声で言った。

 

「今のは敵の巡洋艦がよく使う砲だ。発砲音をしっかりと覚えておけ」※4

 

 こういった脅しは正規のカリキュラムに含まれているものではなかった。だが効果はあった。大きな怪我をした者を誰一人出すことなく、撃たれる恐怖を思い知ったのである。教官たちは誰もがそれを候補生たちに教え込もうとしていたが、最も上手くやったのは那智教官だったのだ。彼女は僕らをまるで陸軍の兵士を鍛えるように鍛えた。石土を詰めた背嚢を背負わせ、永遠に終わらないのではないかというほど行軍を続けさせ、障害物を乗り越えさせ、豚の血と内臓をばらまいた土の上を這いずり回らせ、候補生たちの頭上に向けて実弾での機関銃射撃を行った。僕らはまだ艦娘ではなくただの人間だった為、ほんの数ミリサイズの弾丸が致命的になる身だったのに、だ。そしてその間中、那智教官は僕らに怒鳴り続けていた。僕らはあの恐怖を一生忘れないだろう。でも、それと同時に、あの恐怖の下で目標を目指して進んだことを、重圧の下で恐怖を克服したということを忘れることもないだろう。

 

 もっとも、残念なことだが、誰もが艦娘として真の意味で相応しい素養を持っている訳ではなかった。適性は一つの物差しに過ぎない。水上スケートが上手いだけでは、艦娘にはなれない。苦しみに耐え抜き、戦友と協力することを覚えるところがスタート地点だ。それが最初は分からない者もいたし、いつまで経っても理解しない者もあった。ある候補生は背嚢の中に毛布を入れて目方をごまかしたのがバレた。那智教官は彼女を教官室に呼びつけ、顔が倍にも膨れ上がるほど殴りつけた。ある少女は早足行軍の時は毎回、途中で座り込んで誰かがおぶってくれるまで動こうとしなかった。またとあるお嬢さんは、頭の上数センチのところを鉛弾が飛び交うことに耐えられなくなって、正気を失って立ち上がって逃げ出そうとした。奇跡的に死にはしなかったそうだが、彼女は僕の知る限り、とうとう訓練隊に戻ってこなかった。

 

 ここで挙げた何人かの内、一人とは話す機会があった。教官に殴りつけられた子だ。黒々とした髪の毛をいじる癖があり、マイペースで、サボり癖があって、楽ができるなら喜んで毛布の件のような手抜きをする性格だったが、それで他人に直接迷惑をかけるような不正はしない子だった。教官室から鼻血と涙を流しながらよろよろと出てきた彼女に、僕は思わず世話を焼いてしまったのだ。他の候補生たちが遠巻きに見ているだけだったことに苛立ちを感じはしていたが、何か特別の考えがあってそうしたのではなかった。ただ、傷ついている相手には手当てをしてやらなければならないと思ったんだ。僕は氷嚢を作り、打撲傷の為の湿布を用意し、止血を施してやって、それから彼女が落ち着けるように話をした。内容は覚えていないが、彼女がどの艦娘に適性があったか、という話だったと思う。我ながら愚か過ぎる話題の選択だったが、彼女に必要なのは痛みやショックから気をそらすことだった。この試みは成功して、以降彼女と僕は個人的な軽い挨拶を交わしたり、時には食堂で一緒に食事をしたりする間柄になった。

 

 基礎体力訓練だけで十数人が脱落したが、残った候補生たちも正直なところ、限界の近い者が多かったと思う。僕は何処まで行っても男で、候補生たちの中では異分子に過ぎなかったから、それを確信できるほど深く彼女たちのことを知っていた訳ではない。でも機会があれば那智教官に一矢報いて、ついでに軍から追い出されてやろうと本気で狙っていた跳ねっ返りは、片手では足りないほどいた筈だ。そうでなくとも、入隊宣誓の際に辞退を表明する権利は候補生に固く約束されたものだったから、その時に「もう結構です、十分やりましたので家に帰ります」とやる心積もりでいた者もあったろう。実際、僕は何人かの女の子たちが兵舎の隅に集まってこそこそとその話をしているのを聞いた。みんなで一緒に言えば怖くない、と考えて、示し合わせて辞退しようとしていたのだ。

 

 ああ、そしてもちろん、入隊宣誓式で辞退できた候補生など誰一人いなかった。

 

 宣誓式が終わると、候補生たちは順次処置を受けて艦娘になっていった。それは艦娘としての能力、つまり艤装の操作能力や、深海棲艦も持っている現代兵器その他への抵抗力の獲得のみならず、容姿の変化をも意味していた。がらりと変わった候補生もいれば、そうでない候補生もいた。例えば毛布の子は後者だ。彼女は軽巡北上になった。以前のクラスメイトの女子は前者で、重巡利根になった。背丈はそう変わらないが、何処か幼げで活発な雰囲気になった彼女を見た時には驚いたものである。「妖精」の技術というのは、全く不可解なことだ。僕も彼らあるいは彼女らの施術を受けたが、正直なところそのことは思い出したくない。というか、深海棲艦以上に謎の存在である連中に体中をいじくり回された、としか覚えていない。多分それが最も正しい解釈だろう。ただ僕が男であることまでは変わらなかったし、頭の中にマイクロチップを入れられて政府の監視下に置かれたと信じるに足るいかなる変調も起こらなかった。

 

 妖精たちの手によって、候補生たちは前もって用意されていた彼女らの艤装を割り当てられていった。例外は僕だけだ。僕には外見の完全な変化も起こらなかったし、またどの艦娘の艤装も割り当てられなかった。つまり、僕の艤装は全く特注品だったということだ。だから、できあがるのも一番遅かった。

 

 ようやく届いた時、その頃には僕と利根はそれなりに仲良くなっていたので、まず彼女に見せてやろうと僕は考えた。色々と世話になったし、僕の艤装に興味津々だったから、それぐらいの礼はするべきだと思ったのである。僕は彼女と連れ立って艤装を受け取りに行き、妖精の指示を受けながら装着した。既に艦娘と同じものになっていた僕には、そう難しい作業ではなかった。吸い付くように持ち上がった艤装を、大きな感動と共に一撫でする。重巡洋艦仕様の艤装に取り付けられた数門の二〇.三センチ連装砲と三連装魚雷発射管は、弾薬が装填されていなくてさえ静かな威厳を放っていた。

 

 僕は見せびらかしたくて友達の方を向いた。彼女も僕と同じ重巡洋艦だし、友人として喜んで貰えると思った。しかし待っていたのは、何か冷たいところを含んだ眼差しだった。僕が面食らってどうしたのか聞くと、彼女もびっくりしたような顔をして、それから取り繕って笑い、僕の艤装や自分の艤装のカタパルトに関する個人的な意見を幾つか述べた。でも僕は彼女の言葉より、彼女の目つきの方が気になって仕方なかった。僕の艤装に興味を持っていたのに、今はむしろそれから目をそらして見ないようにしている。僕は憮然として艤装を解除した。どうしてそんな態度を取るのか問い質してやりたかったが、やめた。彼女自身も分かっていなさそうだったからだ。僕に理解できたのはそこまでだった。艤装を解除すると彼女が目に見えてほっとした様子を見せたので、少し不愉快だった。

 

 那智教官は全員分の艤装が用意できるまでは基礎訓練の続きをやっていたが、僕の分が届いたことでようやく艦娘としての訓練を始めた。まず僕らは訓練所に備えられた大プールを使ったが、僕を含めてみんながちがちに緊張していた。艤装をつけて水の上に立った時、自分が艦娘になったのだという事実が目の前に転がってきたのだ。それを受け止めて、浮き足立たずにいられる者などその場にはいなかった。無論、軍規によれば今この段階からでも訓練隊を追い出されることはできる──その場合は艦娘になった時と同じように、妖精によって体をいじくられ、人間に戻される。運よく死なずには済んだがもう戦えなくなった艦娘が、那智教官のように軍に職を見つけることもできなかった時もそうだ。しかし、少なくともその時、僕らはみんな艦娘だった。いや、僕は娘じゃないが、そんなことを一々言っても仕方がない。

 

 プールでの訓練は水上航行に始まり、隊列を組むことや、ある隊列から別の隊列に組み替えることなどを教えられた。時折、那智教官は候補生たちと一緒にプールに出て、一人一人に指導を行った。僕は彼女が候補生たちに呼びかける時、名前を呼んでいることに気づいた。それまでは「おい」とか「そこの」とか「お前ら」とか「このうすのろども」とか、そういった呼び方をしていたのだ。ただ、名前を呼んでくれるようになったからと言って、彼女が優しくなった訳ではなかった。僕は彼女によって、覚えているだけでも八回は航行中に引きずり倒され、突き飛ばされ、遠隔操作で艤装の機関を停止させられ、どうにか水の上に頭を出そうとしていたところを足蹴にされ、水面下に押し込まれたり、方向感覚をすっかり狂わされたりした。この八回という回数は訓練隊で最高で、他の者は僕の半分程度で済んでいた。まあ、僕が彼女に目をつけられた理由が何であったにせよ、その為にプールでの訓練が一段落する頃には、僕はどんな状況にでもそこそこ素早く対処できるようになっていた。何があっても候補生を褒めたりしない那智教官に「まあまあだ」と言わせたことは、僕の生涯の誇りになるだろう。が、その時の僕は酸欠の上にたらふく水を飲んでしまってひどい有様で、感動する余裕はなかった。

 

 射撃訓練も当然やった。候補生全員が、訓練弾を装填した砲で撃たれる経験もした。僕はその日の晩、撃たれた場所が痛んでどうしても寝付けなかった。そこで、就寝時間は厳密には「就寝することを推奨している時間」であって、「就寝を義務付けている時間」ではないということを知っていた僕は、こっそり起き出して艤装を取りに行き、保管庫の警備を丸め込むと、プールで普段は絶対にできないような水上スケートを楽しんだ。いい感じに気が紛れたところで僕は寝に戻ったが、部屋に入るとどういう訳か那智教官がいて、僕は勝手に艤装を動かして燃料を無駄遣いした罰を受けさせられた。それで翌日、僕は目の周りを黒く腫らして訓練に参加しなくてはいけなかったが、誰も心配してくれなかった。というのも、もう那智教官に一発食らう程度では誰も驚いたり文句を言ったりしなくなっていたからだった。

 

 那智教官は知っていることを全て僕らに教える気でいて、それは深海棲艦との戦いで直接役立つのか微妙なものも含まれていた。その中の一つが、地上での徒手格闘技術だった。彼女はある時、訓練生たちを屋外訓練場に連れ出して、僕らの水上航行における不手際が目立つことや、射撃訓練でのひどい成績、覇気のない顔、猫背、足が大きいことだとか、僕たち自身も決して知らなかった先祖の驚くべき遺伝学的欠陥までをこき下ろしてみせた。僕は何処吹く風だった。彼女のことが、自分でも最初は信じられなかったが、好きになり始めていたからだ。彼女は手厳しいし、平気で暴言を吐くし、暴力に躊躇いがないが、公正で平等だし、加減をわきまえている。彼女は自分の役割を果たそうとしている。彼女によって苦しみを与えられている時こそ、僅かなりとも憎んだり罵ったり呪ったりするが、そうでない時は僕は彼女の下で訓練を受けられることを軍に感謝していた。他の訓練隊のことは知らないから比較はできないが、こんな奴に訓練されたくない、という教官ではなかったのは明確に分かっているのだ。それだけでもここに僕を配属してくれた誰かに礼を言うには十分だろう。

 

 文学的と言ってもよいほどの巧みな表現と豊かな語彙で一通り僕らを滅茶苦茶に罵倒した後で、那智教官は悲痛な表情を浮かべて言った。

 

「お前たちを鍛えたところで、全く何になる? お前たちを一端の艦娘に仕立て上げるなどという賭けと比べれば、駆逐イ級の一隊に芸を仕込んでみる方がまだ目がある! たったこれっぽっちの闘志もない奴らめ、これだけ罵られて、私を一発殴り飛ばしてやろうと思う者もいないのか! 片腕のない相手にも勝てないで深海棲艦に勝つつもりか!」

 

 僕は黙っていた。那智教官なら片腕がなくったって、ここにいる候補生たちを片っ端から地に沈められるだろうことは分かっていたからだ。彼女は敵に挑むということの意味を教えようとしていたのだ。特に、勝つ算段なしで敵に挑むとどうなるかということをである。思い上がった迂闊な誰かがいずれ手を上げるか声を出すだろうと考えていると、那智教官はこちらをじろりと睨みつけた。マズいと思ったが、もう僕の周りから候補生たちは一歩ずつ遠ざかっていた。那智教官は細いが強靭な腕をびしりと僕に向け、白い指を突きつけて言った。「お前! お前は男だろう? やれるとは思わないのか? 絶対にお前を殺そうとはしない教官に立ち向かうことさえ怖気づいてできないなら、他の男どもと一緒に内地に引っ込んでいろ!」僕は心中で深い溜息を吐いた。ここで引き下がれば、本当に内地に戻されてしまうかもしれないからだ。これまでの経験から、那智教官はそれをやりかねなかった。仕方ない。覚悟を決めよう。腕を失うようなことはないだろう。僕は二歩前に出て、教官のすぐ目の前に立った。彼女はにやりと獰猛な笑みを浮かべた。

 

「ようし、来るがいい」

 

 と彼女が言うや僕は襲い掛かり、そして地面に倒れこんでいた。猛烈な痛みとあり得ないところから曲がっている事実から、前腕部に骨折が生じていることが分かった。他の候補生が呻き声のようなものを漏らした。怪我をした候補生は多かったが、骨折というのは切り傷や打撲とはまた違う感じ方をされるものだ。思っていた結果とはちょっと違うにしても、前の想定通り、腕を失わずには済んだ。僕が痛みをこらえて立ち上がると、教官は軽く眉を上げ、それから「修復剤を使ってこい。駆け足、三分以内だ」と言った。これは僕が戻ってくるまで訓練を進めるのを待ってやる、という言外の意味を持っており、ほぼ強要されて教官に挑んだ末に腕を折られた新兵に対する、哀れみでもあった。僕は走ってドックに行き、修復剤を浴びて戻ってきた。教官が言った。「二分四十九秒か。次はもっと早くやれ。それでは訓練を続ける……」

 

 とまあこういう寸法で、僕は格闘訓練を受ける機会を逃さずに済んだのだった。彼女は腰にぶら下げていたナイフを抜き放ち、日の光を刀身で反射させた。本来、艦娘の装備にナイフなんてものはない。殴り合いの距離に近づくことがほぼないことや、深海棲艦の大半が人型ではないことがその原因だ。一部の艦娘、例えば天龍型などは近接武器を持っているが、彼女たちさえ基本的には砲撃戦で決着をつける。しかし、那智教官は自分の為に高い金を出して専門家に鍛えさせた完璧な一品を有しており、その複雑な使い方に熟達していた。それだけではない。那智教官は、およそ僕や他の候補生、深海棲艦たちがきっと考えもしないようなやり方と道具を使って敵を殺す方法を、少なくとも百三十七通り知っていた。それらは効果的で、効率的で、非人間的な業だった。

 

 肉体を単純な行軍などとは比べ物にならないほど酷使するこういった訓練の後、那智教官はクールダウンの為の体操を行った。それも終わると、僕らは疲労困憊して兵舎に戻り、食事を取ってベッドに入り、休んだ。それがまあ、何とも暖かい寝床だった。僕なんか、いつ寝たのかも分からない間に翌朝を迎えていたほどだ。基礎訓練を通して疲れることには慣れたつもりだったが、軍というのは、そこに所属する連中をへとへとにさせることに掛けては世界で一番の腕前を持っているのである。これは座学でも変わらなかった。一時間の真剣な机上学習で費やすエネルギーは、一時間の激しい運動によって費やすそれに匹敵すると言っても過言ではない。特に座学教官が老域に達した元提督の少佐殿ときては、気を抜いてなどいられなかった。彼は概ね物静かな男で、那智教官のように候補生を罵ることは決してなく、いつでも柔らかな物腰を崩さなかったが、鋭い目に射抜かれた候補生たちはしばしばその後に彼が投げかけてくる難しい質問に答えられないか、答えられたとしてもしどろもどろになってしまうのだった。

 

 彼の講義は二種類あった。一つは深海棲艦の生態学に近いものだ。長年の研究や、軍事行動の中で人類が発見した深海棲艦に特徴的なパターン行動を筆頭に、深海棲艦に関する多くのことをそこで取り扱った。奴らの体重、速力、武装の性能、好んで用いる魚雷の発射角、バイタルパートの位置、航空機の典型的回避運動……深海棲艦を叩く上で、覚えておかなければならないことの山だった。だがもう一つは毛色が違った。元提督は僕や艦娘たちに何かを理解して欲しがっていた。ある講義の時に彼は言った。

 

「義務と権利の関係について述べたまえ」

 

 これはいつものように僕らを大混乱させた。十五歳の人間が自分の権利ならまだしも、自分の義務なんかについてちゃんと考えたことはなかったし、ましてやその二つをまとめて論じたことなどなかったからだ。僕らにとっての権利は家庭や学校などの社会において上から付与されたもので、それはいつでも都合次第で取り上げられてしまうものだった。この年になってやっと与えられた、ただ一つの僕ら個人が自由に行使できる権利は、軍への志願権だった。で、義務の方はとなると、それこそ朝起きて歯を磨き、顔を洗うことから義務みたいなものだったのだ。候補生が誰も答えようとしないのを見て元提督はいつもそうしているように、一人を指差した。那智教官がやるようにびしりと指差すのではなく、すっと腕を上げて指を出すだけの動作だ。それだけに向けられた側は一瞬、自分が指されたのだとは思わないで、真実に気づくと俄然混乱してしまうのである。

 

 指されたその候補生は軽巡那珂だったが、テレビや映画館で放映される記録映像で見るような那珂とは違い……その、何と言えばいいか。アイドルではなかった。那智教官によれば、妖精によって艤装に転写された船魂に人間(艦娘)側が引き寄せられることによって、口調などを含む性格の変化と統合が行われるそうだ。それはつまり艦娘になるということは、外面的には戻れたとしても、本質的に不可逆的な行為ではないのだろうか。妖精たちは元に戻せると請け合うが、彼らを何処まで信用できるかは分からない。那智教官が退官しなかった理由も、案外とその辺りにあるのかもしれない。今でさえ、候補生の中に艤装を装着することで自分が少しずつ変わっていくのを体感して、恐れを抱いている者もいる。変わりきって長く経った後では、戻ることをこそ忌避もしよう。

 

 那珂はつっかえつっかえ答えた。

 

「私たち国民の権利は……国家と、その定めるところの憲法によって保障されたものであり……国家は国民の権利行使を遂行する助力を行う義務を負います」

「ほう、そうかね? おい、君!」

 

 元提督は突然僕を指差した。僕は考える間もなく背筋を伸ばし、返事をした。

 

「国民の権利及び義務について書かれた、日本国憲法第十二条を読み上げなさい。教科書を開いてはいかんぞ。君はそれを覚えている筈だ。前回の宿題で覚えてくるように言ったんだからな」

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」

 

 座学教官が頷くのを見て、僕は安心の溜息を吐いた。賭けてもいいが、僕は今回の講義で一番楽な質問を当てて貰ったのだ。教官は自分でも一度第十二条を繰り返して言い、軽く笑った。

 

「憲法というのは、全く綺麗ごとばかりだ。だが、憲法というものはそうでなくてはいかんからな。さっき答えた君! 君の発言だと、国民はいついかなる時も無制限にその権利を行使することができるように聞こえるが、そのような放埓ぶりは何によって制御されるのか?」

「人間の理性そのものである法律と、個人の道徳です」

 

 那珂はほとんど投げやりに答えた。どうでもいいが、個人的なイメージのせいで那珂の顔や容姿で今みたいなことを言われると違和感を覚えずにはいられなかった。

 

「君の()()()思想にはつくづく感心させられる。来週までに君の考えをレポートにまとめて持ってきたまえ。さて、法律はいいとしても、道徳か……では道徳とは何か、誰かに説明して貰おう。君!」

 

 今度の犠牲者は利根だった。可哀想に。僕は教科書を開き、彼女が何か大失敗に繋がるような発言をする前に、教官の話を別の方向に逸らせることができるようなヒントを含んだ箇所を探そうと試みた。だが僕一人でそれを探すには、この教科書の記述というのは余りにも漠然としていてやりづらかった。利根は「社会規範を遵守することじゃ……ないでしょうか」と言った。艤装の影響による艦娘特有の口調の発露を上手く何とかしたなとは思うが、相手はベテランの提督だ。今の小細工ではどうしようもないだろう。



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「艦娘訓練所」-2

「少なくとも悪意を持っていつも社会規範を破っている者を道徳的とは言わんのは確かだな。しかし何故社会規範を遵守することが道徳的なのかの説明を君はしておらんぞ」

「規範は、その社会の存続という目的に基づいて作られます。それを遵守する行為は、社会の存続に寄与する行為であります」

 

「見事だ。つまり、道徳とは生命の存続に関わる問題だということだ。『不道徳』な者は社会規範を守らん……だがそういった連中でさえ自分の命や、時には自分の仲間をも守るし、そのことを道徳的にももっともな道理と認めておる。生存本能こそ、人間の根幹に存在する義務なのだ。

 

 ここで言う生存とは、君たち自身が生き延びることというよりはむしろ、君たちを内包する社会が生き延びることを意味している。君たちの利益は君たち個人個人のものであるのと同じように、君たちの属する社会の利益にもならなければいけない。積極的な正の影響を与えないにせよ、最低限、害してはならない。この真実については、少し違った言い方でだが、十八世紀のフランスで既に言及されている。即ち『何かが私には有益だが家族には有害であることが分かれば、私はそれを断念する。私の家族に有益な何かが、私の祖国にとってそうでないなら、私はそれを忘れようと努める。何かが祖国にとっては有益だがヨーロッパにとって有害なら、また、ヨーロッパにとって有益だが人類にとって有害なら、私はそれを罪悪だと考える』※5という風にだ。

 

 しかしながら早すぎたんだな、時代が進むにつれて、過去に主張されたことは、それが古い時代の産物であるだけで誤っていると考える人々が現れた。この考えそのものが彼ら言うところの古臭いものになるまで時間が掛からなかったのは、人類の享受した幸運の中でも特に大きなものだと言えるだろう。例えば個人の権利行使の限界を取り払うような考えを持った行き過ぎた自由主義は、十九世紀に誕生してから一世紀と経たない間に下火になった。とはいえ、過去の主張が過去のものだから誤っていると考える人々が消えた訳ではない。現代ですら、問題解決における最上の手段を対話だと勘違いしている人間がいる。多分彼らにとって、我々のような剥き出しの暴力を用いることは簡単すぎて、面白くないのだろう。

 

 暴力は何の解決にもならない──下らんたわ言だ! 深海棲艦たちが何によってその目的を達成し、その問題を解決しようとしているのか、彼らには見えていない。だがそういった融和派たちがどうあれ、我々はたっぷりと金銀財宝の詰まった宝物庫を前にして、その中に入ろうとする者を取り付くしまもなく拒むような扉と、持っているどの鍵が合うのか、そもそも我々はそれに合致する鍵を持っているのかも分からぬ南京錠に、一切遠慮はしない。足を上げて扉を蹴破るのだ。誰にも、そう、人類ならば誰にもだ、暴力が何も解決できないという誤った発言は許されない。それは先人たちが血を流して築き上げてきた歴史に対する冒涜であり、我々の現在有する社会とその秩序に対する反逆なのである。

 

 ……おっと、そろそろ時間だな、喋りすぎたか。今日はここまでとする、次回までに全員が自分なりに権利と義務の関係性について書いてくること。教科書の第七章と第八章を参考にしてみるといいだろう。剽窃や丸写しは君らの実技教官を呼ぶのでそのつもりで。解散」

 

 僕はそれに取り組んだ。必死になって取り組んだ。那智教官の訓練で失敗をしたところで、殴られるだけで済む。大きな失敗をしたら、軍規に照らし合わせて処分が行われるだろう。鞭打ちだとか、禁固刑だとかだ。だが座学教官に食らわされる罰はもっと心に痛みを与えるようなものだった。そうして今回の論題で書く中で、僕はふと発見をした。権利と義務が、間に何も介さないような関係性を保有するのかどうか、僕にしろ教官にしろ、証明はしていないではないか? 僕はただ考えていなかっただけだが、教官までそうだとは思えなかった。僕は試しに、権利と義務の間に、直接の繋がりがないと考えてみた。では何が仲介しているのか? 先の講義を思い出すに、それは道徳か、それに関連するものである可能性が高かった。教官の話を思い出そう。道徳は生存本能に基づくものである。生存本能とは、人間の根幹にある義務だ。それは個人だけではなく、集団の存続に関わる。

 

 もう一つ何かが足りない気がした。義務と道徳が結び付けられるなら、権利と何かが結びついて然るべきだろう。そして、その何かと道徳もしくは義務が連結されれば、間接的に権利と義務の関係性も立証できる。僕はその何かを「責任」であるのではないかと仮定した。それは僕の個人的な考えの中で、権利の対義語でもある。権利を行使する時、行使者はその行為について責任を持つものだ。これで大筋がまとまった。

 

 権利は、その入手自体に社会的意味を持つという点で、他者、ひいては社会に対する影響力を有することをやめさせられない概念である。ましてその行使においては、直接的・間接的に、社会の最小構成単位である家族に対してであろうと、世界そのものに対してであろうと、影響を与える可能性のある概念である。その事実が示してくれることは、権利の行使においてはその行使者に課せられる責任は彼の能力内に納まり、かつ実際に用いられる権利とが完全に等しいものでなければならないということだ。何故ならば、もしも用いる権利に対して過剰なまでの責任を押し付けられたなら、実質的にそれは権利の剥奪に他ならないからである。そしてもし用いる権利に対して責任が軽すぎたならばそれは濫用を招く。付け加えておくと、行使者の能力に納まらないいかなる権利も行使させるべきではないということは、成年を迎えた知的障害者に投票権を与えるべきかという問いによって自明であろう。しかしながら、科学的に明らかかつ正当で正確な理由によって権利を与えるべきではないと見なすことのできる対象はごく僅かである。そこで、実践的な試験を行う必要がある。それこそが義務であり、道徳である。義務とは個人が社会から要求される最低限の任務で、それを果たすことによって個人は己が権利を得るに値する能力があるという事実を証明するのだ。そしてそれこそが人の権利とその行使に正当性を与える唯一の手段なのである。

 

 僕はすっきりして、その考えをもう少し詳しく書いてから次回の講義で提出した。教官は僕のレポートを見てさしたる反応を見せなかったが、僕は自分の考えがちゃんとまとめられたことで満足していたので、彼の反応は今更どうでもよかった。

 

 訓練所に入ってから二ヶ月近くが経った。訓練所近くの海上にも出るようになり、他の訓練隊と演習もした。僕の参加した隊は演習において毎回いい成績を残した。使用者に合わせて作られた為か、艤装の扱い方に慣れるのが僕は早かったのだ。しかし、艤装をつけている時間が長引くに従って、他の候補生たちの僕に対する態度が悪化していくのを感じるようになった。利根や北上はよくしてくれたし、二人は僕への悪感情を持っていないようだったが、他の多くの候補生はそれとなく僕を避けたり、軽い嫌がらせをしてくるようになった。嫌がらせと言ってもちょっとしたからかいみたいなもので、気にするほどじゃない。多分、これまで一人としていなかった「男の艦娘」が、自分たちよりもいい成績を出していることもあるというのが気に入らないのだろう。これが例えば、圧倒的に強かったり、どうしようもなく弱かったりしたらそうはならなかったと思う。半端が一番、的になるものだ。

 

 それに僕には個室もあったし、食事だって部屋で食べてもよかったのだから、どうしても嫌な気持ちになったらそっちに引きこもればよかった。でも誤算だったのは、その日は週に一度の手紙が配達される日だったってことだ。軍は候補生の書く手紙については厳しいが、家族や友人たちから候補生への手紙については本人の士気の為に推奨する立場にあった。まあ、どちらも検閲はされていたのだが、それは仕方ないことだ。二ヶ月も経つと手紙を送ってくる相手は親と一人か二人の友達ぐらいまでに減ってしまっていたが、それでも手紙は手紙だ。みんなが僕のことを忘れていないという証拠は嬉しいし、軍の狙い通り励みになる。が、それは手紙が貰える候補生に限った話であって、そうでない候補生もいるのだ。そういう候補生が感じる孤独や、劣等感の類は僕には想像もつかないところである。

 

 僕が北上と食堂で食事を取っていると──利根は候補生たちみんなの人気者だったので滅多に僕と食事をすることはなかった──配達人が僕の名前を呼んだ。北上はもう先に呼ばれていて、食べながら読むという謎の器用さを発揮していた。僕は彼女に断りを一つ言って、席を立って手紙を取りにいった。すると、思ったより多くの手紙があった。どうも僕の家族と友人といういつもの面々だけでなく、学校の担任や従兄弟や親戚のおじさんなんかも書いてきたらしかった。きっと、僕の両親が気を使ってくれたのだろう。学校ではお世辞にも社交的な方ではなかったから、自分たち以外からの手紙なんて届いていないと思っていたに違いない。返事を書く時に友達からも何通か来ていることを言っておけばよかったか。

 

 僅かなりとも他人に迷惑を掛けてしまったが、手紙が沢山来たのは嬉しかった。僕は早速読もうと思って、まず一枚広げた。それは親から来たものだった。まずは両親のものから読みたかったのだ。ところが、最初の何行かを読み進めたところで紙がさっと上に消えてしまった。僕は手紙の飛んで行った方向を見た。そこにはある艦娘がいた。彼女の名誉の為に、誰だったかは伏せておく。一つだけ言っておくなら、大井じゃなかった。そもそももし大井が僕の訓練隊にいたら、艦娘としての大井の特性からして、僕が北上と二人で食事をすることなど起こらなかった筈だ。僕は対面席に座っていた北上を見ようとした。でも気づくと彼女はいなかった。僕が手紙を読んでいる間に、食器を返却しに立ってしまっていたのだ。彼女に場を収めて貰えなくなったものの、余計な心配を掛けずに済ませられるかもしれないという点では、これは不幸ではなかった。

 

 不幸だったのはだ、あっちにはことが大きくなる前に片付けてしまう気がなかったという点である。彼女には手紙が届かなかったのだろう。そして、みんなの間でちょっと嫌われている僕には多くの手紙が届いている。嫌がらせをするにはいい理由だ。僕が紳士的に返してくれるよう頼んだにも関わらず、彼女はその手紙を読み上げ始めた。それだけならまだしも、書いてもいないことを捏造し、僕や僕の両親を侮辱するようなことを言った。それには我慢できなかった。僕は彼女の手から手紙を奪い取り、反撃しようとする彼女を突き飛ばした。たたらを踏んで後退した彼女は、足を滑らせて転んだ。やりすぎたとは思わなかった。艦娘は転んだ程度で怪我をするほどやわじゃない。もし何かが傷ついたとすれば、彼女の狭量な自尊心だけだ。その痛みを叩き返してやるとばかりに、彼女は近くのテーブルを掴んで立ち上がりざま、そのテーブル上に置いてあった食事用のステンレス製トレイを引っ掴み、それで僕の横っ面を殴り飛ばした。お次は大喧嘩だ。那智教官が飛んで来て僕を蹴り一発で吹き飛ばし、相手の艦娘を腕一本で壁まで投げ飛ばして制圧するまでそれは続いた。

 

 教官は公正だった。僕の言い分も相手の言い分も一顧だにせず、十分な罰を与えた。二ヶ月目、訓練修了直前に与えられる、二週間外出許可取り消しだ。

 

 率直に言って、最低の気分だった。相手の艦娘が別の訓練隊に移籍したので二度絡まれる心配はなかったが、今度は彼女と仲のよかった他の候補生たちからの感情が悪化した。絡まれた挙句に外出許可取り消し、加えて同期からの嫌悪感アップとは涙が出る。しかし、利根や北上のような僕をまともに扱ってくれる相手に心配を掛けたくなかったので、僕は気丈に振舞った。二人とも、僕の外出許可取り消しを聞いて「吾輩(もう影響を隠すこともなくなっていた)が抗議してやるぞ」「あたしも残ろっかー?」と言ってくれたが、訓練所で二ヶ月過ごしたストレスを開放する機会を、僕一人の為に台無しにしたくない。丁重に断りを入れて、誰もいない兵舎でゆっくりさせて貰う旨を伝えた。

 

 移籍させられた候補生を除けば僕以外にこんなへまをした者はいなかったので、外出許可期間が来るや兵舎はがらんどうになり、人っ子一人いなくなった。例外は那智教官ぐらいで、彼女は責任ある立場としてそれなりに忙しくしているようだ。それでも訓練を施している間ほどではないようで、初日や二日目には外を歩いているのを見かけた。三日目、僕はとうとう我慢できなくなって教官のところに押しかけた。彼女は書類仕事の最中で眼鏡を掛けており、レンズの下の険しい目は僕よりも書類に向けられていた。彼女は素っ気なく言った。

 

「何だ」

「自分は艤装を装着しての自主訓練の許可をいただきに参りました、教官殿」

 

 そんなことが許されるかどうかについての記述は僕の持っていたポケット軍規になかったが、とにもかくにもまずは頼めるだけ頼んでみようと思ったのである。まさか厳しい教官も、言ってみるだけで僕に罰則を科したりはしないだろうという計算もあった。那智教官は胡散臭げな顔で僕を見て、それから溜息を一つ吐くと書類を二枚取り出した。彼女は指でとんとんと紙を叩き「ここと、ここにサインしろ。後は私がやっておく。以前に訓練で使った場所以外は使用禁止とする。弾薬と標的、燃料の使用量を後で申告しろ。分かったか」と言った。僕は頷いて、書類に自分の名前を書き入れた。礼を言って艤装を取りに行こうとした。その背中を教官が呼び止めた。

 

「一人か?」

「はい」

「そうか。行っていい」

 

 分かっているだろうに、何故今更聞くのだろうか? 僕は少しだけ不思議に思ったが、すぐに忘れた。それより訓練だ。ベッドに寝転がっているよりは体にいいし、腕立て伏せや腹筋より集中できる。僕は艤装を装備し、海に出た。皿型の標的を使って、対空射撃の訓練をするつもりだった。クレー射撃の要領である。岸に設置した標的射出機が投げ上げる的を、僕は撃ち続けた。でも、どうも上手く行かなかった。実際の航空機はこんな標的など止まっているも同然の複雑な機動をするというのに、これでは全くの無力だ。逃した航空機が自分目掛けて爆弾を投下する様子を思い浮かべて、僕はぶるりと震えた。艤装はともかくとして、艦娘の肉体は深海棲艦の攻撃を跳ね返すほどには強くない。僕は重巡洋艦で、駆逐艦や軽巡洋艦と比べれば高い生存能力を持つが、それでも爆弾が体の何処かに直撃すれば、ただでは済まないだろう。まあ、大体の艦娘がそうだと思うが。

 

 海に沈んで溺れ死ぬ。それが嫌なら、訓練することだ。数のことを何と言おうとも、僕個人でどうにかできる問題ではない。それはもっと上の方で決まることなのだ。僕にできるのは、力をつけることだけだ。質を上げることで数に対抗するのは下策だが、何もしないよりもずっといい。そう考えて弾が切れるまで撃っては補給に戻って訓練を続けていると、意外な来客があった。那智教官だ。艤装を取りつけた姿だった。射撃をやめて、敬礼する。楽にしろと言われて、それを解く。彼女は僕の訓練の様子を見に来たらしく、続けるように命じた。僕は緊張しながら、射撃を再開した。命中率は教官が来る前と変わらなかった。下がらなかっただけ、自分を褒めてやりたい思いだ。一頻り撃った後で僕が砲を下ろすと、彼女は僕の隣に立って僕と同じことをやり始めた。が、命中率は段違いだった。実に見事な射撃が終わり、僕がぽかんとして見ていると、彼女はそれに気づいて居心地が悪そうに身をよじって言った。

 

「見ていたが、照準と発砲のタイミングが合っていないようだ。意識して撃ってみろ」

 

 言われた通りにする。やや命中数が増えたが、気のせいとも取れる変化でしかなかった。すると教官は言った。

 

「艦娘の砲の仕組みは知っているな?」

 

 座学の時にも軽く触れられたことがあったので、僕は頷いた。艦娘の砲塔には妖精がいて、こちらの指示を受けて操作をする。指示と言っても口に出す必要はなく、艤装側で読み取ってくれるのだ。しかし、読み取った情報を基にした操作そのものは妖精が行う為、そこにタイムラグが生じるのだと那智教官は言った。そのタイムラグが、命中精度を激減させる。命中精度が激減すると、敵に攻撃を受ける確率が跳ね上がる。結果、生存率は落ちるだろう。ほんの一瞬の遅延だ。それが時に僕を殺し、その改善で僕を救いもするのだ。では、どうすればいいか? 答えはシンプルだが、難しいものだった。

 

「自分で制御するんだ。理由は知らんが私はできるし、お前に同じことができない理由も思いつかん。何にせよ、試しにやってみる価値はあるだろう」

 

 そう言って教官は妖精に呼びかけ、全員を砲塔から出させた。それから僕に標的を出させ、それを矢継ぎ早に撃ち抜いた。僕には自信がないが、一度などは本来「那智」のスペックでは不可能な速度での再装填からの発砲を行ったように思えた。しかも速度だけでなく、命中精度も高い。撃ち終わると妖精たちを砲塔に戻し、彼女は僕を振り返った。

 

「妖精を砲塔から出せ」

 

 僕は言われた通りにした。那智教官の言うことは聞いておくに限る。妖精たちは僕の艤装に腰を下ろし、待っている。

 

「砲を動かしてみろ」

 

 頑張ったが、動かない。妖精たちはやいのやいのと笑いながら騒いでいる。と、おもむろに那智教官は僕から離れ、こちらに砲を向けた。僕がその真意を量りかねていると、彼女は発砲した。水柱が立ち、塩水が僕に飛び散る。砲弾の破片か何かが僕の近くをひゅんと通り過ぎて行った。那智教官が正気かどうかは分からなくなったが、その意図は分かった。僕は頬を滴る海水に混じって脂汗を浮かべながら、砲塔を動かそうとした。その間にも、教官は次々と発砲し、右から左から海水が浴びせかけられる。しかも、着弾位置が段々と僕に近づいている。妖精連中が危機感を持った騒ぎ方を始める。とうとう教官は僕そのものに照準を合わせた。と同時に、ほんの少しだが、砲塔が動いた。慌ててそのことを申告する。彼女は近寄ってきて、もう一度動かすように言った。もっともだ。僕はあらん限りの力と想いを込めて動かしてみせた。僅か数ミリか一センチそこら、砲が動いた。それで許して貰えた。

 

 時間は夕食時になっていた。一緒に戻り、使用した資材の申告を済ませる最中、那智教官は左手の長手袋の先を口にくわえ、引っ張って外した。まじまじ見るのも失礼だと思って見ないようにしたが、彼女の左手には確かにインク汚れが見えた。僕が訓練の許可を求めに行った時にはなかったものだ。彼女は恐らく、僕を指導する為に急いで書類を片付け、艤装をつけて来てくれたのだろう。思い上がりかもしれない、もしかしたら単なる気まぐれなのかもしれないが、それでもありがたかった。僕が気づいたことを知らない様子の彼女は、教官室の前で別れた時も仏頂面を崩さなかった。僕が敬礼とは別に頭を下げて感謝を述べた時もだ。「余り待たせると炊事員が困る。早く食事を済ませろ」と言って部屋に引っ込んでしまった。

 

 彼女が個人的に僕を指導してくれたのはその日だけで、それ以降二度とそんなことはなかった──残念なことだ。でも、彼女のお陰で僕はやるべきことが見えた。僕は毎日、妖精の操作なしで砲を操る訓練をした。三日でどうにか動かせるまでになり、八日目にはそれで撃って当てられるようになった。九日目に訓練を終えて戻ろうと振り返ると、陸地から那智教官が僕の訓練の様子を見ていた。何か荷物を持っているところを見ると、仕事の途中に偶然通り掛かったようだった。彼女の顔には軽い驚きがあったように思える。遠くて、しかも僕が振り返るとすぐに彼女は行ってしまったので、はっきりとそれを見られなかったのが残念だった。

 

 十二日目には嬉しい驚きもあった。北上と利根の二人が示し合わせたように一緒に戻ってきたのだ。しかも禁制品のお菓子や間食の類、飲み物なんかもたっぷり持って。家族や友人との交流も楽しんだので、少し早く切り上げてせめてもの慰めをしてやろうというつもりで帰ってきてくれたらしかった。二人はお互いに連絡を取っていなかった為、僕に会うより先に鉢合わせた時、持っていた例の禁制品の言い訳をお互いにし合ったそうだ。この目でその珍妙な様子を見られなかったのは極めて残念なところである。今晩にもこれで楽しもうと言う二人だが、その様子には疲れが透けて見えていた。僕は二人を休ませて、明日の夕食後にしようと持ちかけた。彼女らも内心そう思っていたのか、この提案はすぐに受け入れられた。二人が休むのを確認してから、僕は場所を探しに行った。流石に、個室とはいえ僕の部屋でやるつもりはない。教官室からも近いし、バレたらヤバい。運のいいことに、訓練所の倉庫の一つが使えそうだった。僕はそこに折り畳みの椅子を運び、木箱と布でテーブルをこしらえた。埃っぽいので換気もした。大分過ごしやすくなっただろう。

 

 翌日の夕方、僕が準備を整えて待っていると、微妙な顔で二人がやってきた。僕は彼女たちの持っていた荷物を引き受け、テーブルに置きながらどうしたのかと尋ねた。

 

「うむ、吾輩らがさっき荷物を抱えて歩いているとじゃな……」

 

 利根は飲み物やお菓子などを指して言った。

 

「教官に会ったのじゃ」

「ああ死んだわ僕らこれ最後の晩餐だわ」

「いやー、あたしもそう思ったねぇ」

 

 けらけらと笑う北上が、言葉を引き継ぐ。

 

「でもさ、何か見逃してくれてさ。まあ、なんて言うの? ありがたいよねー」

「一生分の運を使った気がするのじゃ……おお、すまんの主よ、並べるのを手伝おう」

「いいねいいねぇ、お菓子もこう並ぶと壮観だねぇ!」

 

 僕が一人でテーブルの上を整理しているのを見て、利根が手伝いに入ってくれた。北上は椅子に座って早速ペットボトルの飲み物を取り、大股を開いてリラックス状態だ。股を開いてはいても、スカートで隠れていて肝心なところは見えない。実に惜しい。一通り用意が終わったところで、僕らは掛け値なしに素敵なパーティを始めた。訓練所の外にいた時には気にもしなかったようなお菓子や飲み物が、二ヶ月と二週間近く目にも口にもしていないだけでこんなにも衝撃になるものなのかと僕は思った。それに、一緒にいるのは気心の知れた友達だ。楽しくない訳がなかった。僕らは歌を歌い、「訓練が終わったら」を枕詞にした話をし、満を持して北上が取り出した缶入りの『特別な飲み物』が入るとますます陽気になった。利根は抱きつき癖があり、僕にも一回抱きついてくれたが、後はずっと北上を後ろから抱きしめてはうなじに顔をこすり付けていた。北上は頬が少し赤らんで声がちょっと大きくなり、けらけら笑いが増えた他、笑う時に僕や利根をばしばし叩くようになった。僕も二人に負けず劣らず馬鹿なことをやったが、よくは覚えていない。この晩やったことで覚えている最後の出来事は、利根と二人で立った北上の足に抱きついて「神様! 神様!」と叫んでいたことだ。その間中、北上も利根も僕も笑っていた。

 

 起きると頭痛がした。利根は北上の服の中に頭を突っ込んで、彼女を抱きしめた状態で眠っていた。北上はうーん、うーんと唸っていたが、どうも夢見が悪いようだった。それもそうだろうと僕は思ったが、それよりもすぐに大事なことに気づいた。今何時だ?

 

 外を見ると、明るくなり始めていた。起床時間が近いようだ。これはよくない。もし、朝一番に戻ってきた他の候補生がいたら、僕は苦しい立場に追い込まれてしまう。僕は慌てて二人を起こそうとしたが、どうしてもダメだった。仕方なく利根を北上の服の中から引きずり出し、二人を肩に抱えて歩き出した。走らなかったのは、僕自身の問題だ。艦娘になった時点で身体機能は著しく向上しているが、だからといって無敵になる訳ではない。ありていに言うと、僕ら三人ともひどく気分が悪かったのである。そんな中で走るなど、自殺行為に他ならない。そろそろと歩いて兵舎まで戻り、二人を彼女たちのベッドに寝かせる。運よく他に誰もまだいなかった。それから僕は倉庫に戻った。体は休息を求めているが、しかし後片付けをしなければならない。バレたら面倒になるのは僕だけではないのだ。一歩動くのも億劫な体で倉庫に辿り着き、扉を開ける──と、いつものように那智教官が待ち構えていた。

 

 びくりとするだけで吐かずに済んだのは、多分対空射撃訓練の時のことで、一対一で彼女と接することにごく弱い免疫ができていたからだろう。それに、教官が僕らが飲みきれなかった『特別な飲み物』を口にしていたせいもあるだろう。彼女はにやにや笑っていた。そんな顔は初めて見た。

 

「楽しんだようだな?」

 

 一体「はい」以外になんて答えればよかったんだ? 見ると、倉庫中に散らばっていたごみなんかは、全部なくなっていた。誰かが片付けたんだろう……恐らくは目の前にいる人物が。

 

「早く部屋に戻って寝ろ。お前、ひどい顔だぞ」

 

 僕は許可を得て個室に戻り、水を飲んでからベッドに潜り込んで、布団を引っかぶった。夕方まで出られなかった。食堂が閉まるギリギリの時間に夕食を食べに行くと、そこで利根と北上に鉢合わせた。僕らは互いににまにま笑いを浮かべた。そして一緒に夕食を食べた。一週間後の訓練修了についてあれこれ語り合い、自分たちが何処に配属されるのだろうかと話をした。横須賀が一番人気だが、呉も中々だった。僕は呉に行きたかった。規模が大きく補給は潤沢で、それでいて横須賀ほど内規に厳しくないと聞いていたからである。そこの提督は仕事を果たしていれば文句を言わないタイプらしいとも言われていた。利根は何処でもいいから活躍できる場所がいいと言って、自分の展望を語った。北上は僕と同じ理由で呉に行きたいと言い出した。三人で希望が叶うことを願いあって、僕らは食堂を出た。

 

 そこからは数日の何ということもない訓練が続いたが、訓練修了式を翌日に控えた日の朝、僕は怒鳴り声で目を覚ました。声には覚えがあった。那智教官だ。僕は何かあったのかと思って部屋を飛び出した。那智教官は怒り狂って「伏せろ! 地面に伏せろ!」と叫んでいて、艦娘候補生たちは床に這いつくばっていた。教官に怯えてか動くのが遅れた天龍がみぞおちを殴られ、うずくまった。僕を含めて全員が伏せる。みんな、怒りが自分に向けられないように祈りながら、これからどうなるかを見ようとした。教官は荒い息を吐きながら「立て! 立つんだ!」と喚いた。さっき殴られた天龍に近くにいた龍田が駆け寄り、二発目を受ける前に一緒に立ち上がる。教官が僕の方を向いた。歯を食いしばり、興奮に目を開いて、顔を真っ赤にし、唸り声を上げていた。彼女は僕らの間に立ち、また喚いた。

 

「誰が言った、私のことを誰が何と言ったんだ! 何をした? 私のことが気に食わなかったんだろう! 私はここにいるのに、誰も殴りにも来ないつもりか! 私を殴れ、殺してみろ、さあやれ、やれ! 密告などせずに、堂々と挑んでみろ! 私一人だぞ! 片腕の、役立たずの私一人なんだぞ! 雁首揃えて私一人殺せないのか!」

 

 誰も動かなかった。格闘訓練の時の罵倒とは違った。もしこの時、誰かがその気になっていたなら、そいつは教官を殴り倒すこともできただろう。刺し殺したり、絞め殺したりもできただろう。教官は抵抗しなかったに違いない。本気だった。感情を露にしての言葉だったが、感情に任せた口先だけの言葉ではなかった。彼女は跪き、顔を手で覆ってすすり泣き始めた。それから床を一発殴って、立ち上がると、ふらふらと教官室に戻っていった。天龍が殴られたところを押さえてベッドに座り込み、咳き込みながら言った。

 

「クソったれ、ありゃどういうつもりだよ! とうとう気でも狂っちまったのか?」

 

 ほぼ全員が彼女のこの言葉を無視した。だが一人、青葉が言った。

 

「違うんです。教官は海軍本部に手紙を出してたんです」

「はぁ? 何の?」

「戦闘部隊への復帰嘆願……青葉たちと一緒に戦えるようにって」

 

 天龍の顔が驚きに染まった。それから、彼女は俯いて一つ罵った。青葉がぽつりと呟いた。

 

「……でも、却下された」

 

 その一言で、僕は外出許可を取り消された時よりも嫌な気持ちになった。その後の訓練修了式の練習時には那智教官は元に戻っていたが、目の下が薄っすらと赤くなっていたのを僕は見逃さなかった。それは化粧ではなかった。泣いた跡だ。口を真一文字に引き締め、これから自分が育て上げ、自分が戦地に送り出し、何人かは自分の知らないところで死んでいくのだろう者たちを前にして、気丈に振舞っていた。翌日、本番の修了式でも彼女は変わらなかった。目元の赤みが消えていただけだ。彼女は涙を落とさなかったが、僕には彼女が何も感じていないとは到底思えなかった。修了式には親も休みを取って来ていたし、友達も見に来ていた。学校があっただろうに、抜け出すかサボるかして駆けつけたのだろう。修了式にまで来てくれるとはありがたいことだったが、どうしても彼らより教官を気にすることを僕は止められなかった。彼女の苦しみを取り除きたかった。だが、どうやって? 方法など一つも思い浮かばなかった。僕にできるのは誓うことだけだった。必ずや深海棲艦を倒し、彼女のような負わずともよかった筈の苦しみを負う誰かがこれ以上生まれずに済むようにしてみせよう。僕が直接皆殺しにするという訳ではない。それは荒唐無稽が過ぎる。ただ僕はその一助になるだけでいい。その志を持って僕は戦いたいのだ。いつか沈む時が来たら、その志に恥じない戦いの末に沈みたいのだ。無論、沈まないで思いを遂げられるなら、それに勝る喜びはあり得ないが。

 

 修了式が終わっても、訓練所をすぐに離れるということにはならなかった。配属地の発表が行われ、家族や友人たちに別れを告げて移動する為の三日間が与えられたのだ。配属地発表は実技訓練教官の仕事だった。兵舎で集合した僕たちの前に、那智教官は一枚の書類を持って現れた。僕は辺りの艦娘候補生──いや、艦娘たちを観察した。期待に瞳を輝かせる者、不安で眉をひそめている者、無関心な顔をしている者、友人とこそこそ話し込む者、色んな顔があった。僕はこの中の何人と、また会えるだろうかと考えた。座学で艦娘の平均稼動年数を聞いていたからだ。それは予想よりもかなり短いものだった。何より衝撃を受けたのは、僕らがその年数を知らなかったということだ。それは、世間では軍によって統制された情報だったのである。僕らは何となく、そこまでひどくもないだろうと思っていたのだ。しかし、その考えは間違いだった。怒る候補生もいたが、今更後には退けないし、軍が黙っていた理由も分かった。志願が減ると困るのだ。「個人の利益は集団の利益を害してはならない」。僕らは飲み込んで進むしかなかった。

 

 艦娘たちの名前と、勤務先の鎮守府や泊地や基地、あるいは所属部隊が読み上げられていく。青葉は国内の広報部隊に行きたがっていたが、リンガ泊地まで飛ばされた。悲しむよりも先に「えぇ、リンガ泊地って何処なんですかぁー?」という疑問が口から出てきた彼女に、周りのみんなが笑った。

 

「軽巡洋艦、北上。呉鎮守府での勤務を命ずる。よくやった、北上」

「やったよー」

 

 特に嬉しくなさそうな、間の抜けた声で北上は答えた。でも、僕が彼女の方を見ると、その口元が緩んでいた。望み通りのところに配属されて嬉しかったに違いない。彼女は僕の視線に気づくと、悪戯っぽく笑った。僕も微笑み返した。よかった、と思う。行くところによっては、艦娘が酷使されることもあるらしい。十分な休養も、燃料も、弾薬も与えられずに出撃させられ、他の部隊の囮にさせられたり、敵勢力圏への威力偵察に使われたりするという。青葉の話では、艦娘用の懲罰部隊を兼ねているらしい。とにかく、呉鎮守府ならそんなこともないだろう。全体的に緩いという話で、広報の一環でテレビに出てくることも多い。僕も呉に行けたら……少しだけそう考えてしまった。折角できた北上という友達とも離れずに済む。ああ、しかし呉ともなれば大井がいるだろう。迂闊に振舞うと僕は殺されるかもしれない。やっぱり呉行きにはならない方がいいな。

 

 龍田が呼ばれた。「単冠湾泊地での勤務を命ずる。天龍もだ。よくやった」「あらあらー、また一緒ね、天龍ちゃん?」「単冠湾って、日本列島最北端の泊地じゃねーか! 家にそんなとこ用のコートあったっけな……?」「天龍ちゃーん?」「おう、お前も風邪引かないようにな」「もう、そんなの分かってるわぁ」……この二人は体が艦娘になってからの訓練期間中ずっとこんな具合だったが、これもまた見られなくなると思うと寂しい気もする。生憎、僕は二人に避けられる立場だったが、眺める分には文句も言われなかったし、いい見世物だったのだ。

 

「重巡洋艦、利根。宿毛湾泊地での勤務を命ずる。よくやった」

「宿毛湾……? あ、おーおー、四国の……あそこじゃな、あそこ。うむ、分かるぞ。吾輩の活躍できそうな場所じゃな!」

「利根っちー、ホントに分かってるー?」

「分かっておると言っておろう、北上!」

 

 利根は宿毛湾泊地か。高知の左端って感じのところだった筈だ。呉鎮と近いから、北上と会う機会もあるかもしれない。僕抜きでも二人が仲良くしてくれれば、それはそれで嬉しい。艦娘の傾向としてではなく、本当に個人と個人の繋がりとして仲良くなっている者を見るのは、何だか新鮮な楽しみがある。と言って、天龍と龍田のような連中を悪く言うつもりもない。切っ掛けが何であれ、誰か親しい人を見つけることができた誰かは幸いだ。僕もそうだった。訓練所で利根や北上と一緒になってよかった。そうじゃなければ、流石に僕も心が折れていたかもしれない。周りの奴らの大半から避けられるというのは中々にスリップダメージを入れてくるものだ。

 

「軽巡洋艦、那珂。トラック泊地での勤務を命じる。よくやった」

「よくないぃー! 那珂ちゃん正直日本から出たくないよー!」

「那珂、巡業じゃぞ、巡業! それに吾輩応援しとるから!」

「ありがとー!」

 

 一瞬の切り替え。そこにはプロがいた。僕は心の中で拍手を送った。それからも次々と一緒に訓練を受けた艦娘たちの行き先が呼ばれて行き、とうとう最後の一人の番になった。つまり、僕だ。ほとんどの艦娘たちは急いで移動などの準備をしに行ってしまったが、利根と北上は最後まで残ってくれた。彼女らの優しさは一生僕の心に刻まれるだろう。僕はどきどきしながら那智教官が読み上げるのを待った。だが彼女は長い間黙っていた。書類が彼女の左手で押さえたところでくにゃりと曲がり、那智教官の顔が見えた。厳しい表情だった。彼女はやっと、命令を読み上げた。

 

「お前は海軍本部の広報部隊勤務を命じられた」

 

 僕は頭を殴られたような具合だった。彼女は手ひどい言葉を一つ使った。

 

「広報だと? 私はあんな俳優と記者連中の集まりにお前をくれてやる為に訓練してやった訳ではない! 分かっているな? お前は私の育てた艦娘だ……確かに男かもしれんが、艦娘であるということは性別の問題ではない。問題なのはお前が、何の為に、何と戦うかということだ。それを忘れない限り、お前は艦娘だ。お前の同期の艦娘たちの同胞で、私の同胞だ。世界中の艦娘たちの同胞だ。決して忘れるな。腐るな。お前の戦いを遂行しろ。お前が艦娘である限り、いずれはその時が来る。そうだな、案外とすぐかもしれんぞ?」

 

 教官は笑った。獰猛だが、同時に優しさもこもった笑いだった。彼女は「以上だ。解散」と言った。それが訓練所で僕らと彼女が交わした、最後の言葉になった。利根と北上は彼女が行ってしまった後で、僕を慰めようと試みたが、その必要はなかった。教官が僕に言ってくれたことが、僕を十分に救ってくれていたのだ。何となく、彼女の「案外とすぐかもしれん」という言葉が正しいような気もしていた。彼女の言葉には不思議な説得力があったのだ。それは僕がそれを信じたいが為に、そう感じているだけなのかもしれなかったが、そうだったとしてもとにかく今を耐えるには不足のないところだった。利根たちは安心して、僕らはお互いにきっと手紙を書き合おうと約束をした。訓練所を三人で出ると、それぞれの家族が待っていた。僕が別れを言ってそちらに向かおうとすると、利根が僕と北上を呼び止めた。

 

「餞別にこれをくれてやろう! 身に着けておくがよい!」

 

 それはピアスだった。三角形をした金の留め金の真ん中に、パールがはめてあった。それを利根は僕と北上に一つずつ、片方ずつ渡した。僕の記憶では片耳につけるって何か意味があった気がするんだが、まあ忘れておこう。利根が自分の分も一つ持っていたところを見ると、二揃い買ったらしい。四つの内、余った一つはどうするんだろうと思っていたら、思いついたようにそれも僕に押し付けてきた。きっとそうなのだろう。彼女はそういうところが少しある。チャームポイントの一つだ。

 

「うむ、これもついでじゃからくれてやる。お主は友達作るの下手そうじゃからなぁ……いい友達ができたらこれをプレゼントしてやるのだぞ! では、また会おうな! 北上も!」

 

 言い残して、彼女はとっとと自分を迎えに来た家族のところに行ってしまった。僕と北上は顔を見合わせて笑った。

 

「それじゃ、まあ」

 

 僕は手を差し出す。北上は「うん?」と漏らしてから、こちらの意図に気づいて僕の手をしっかりと握った。

 

「健闘を祈ってるよ、北上」

「ありがとねぇ、そっちも頑張ってー!」

 

 そうやって握手して、僕らもそこで別れた。



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「広報部隊」-1

“波の上には星、人、鳥、
 夢と現と命の終わり──波から波が打ち寄せる。”
        ──アルセーニイ・タルコフスキー※6



 海軍本部付の広報部隊に着任して、数ヶ月が経った。時間や曜日の感覚がなくなるほど、目まぐるしい日々だった。お陰で友達と別れた寂しさを感じる余裕もそうなかったし、感じた時には僕はいつも左耳に触れるのだった。そこには必ず、苦しみを分かち合った二人を思い出させるものがあったからだ。広報部隊の連中はやれ「男性的な強さのイメージに悪影響が」だの「大衆心理」だの「抑圧された欲求の象徴」だの好き勝手言ってくれたし、中には「君はゲイか?」のような率直過ぎてそのデリカシーのなさに怒る気にもなれないような質問をしてくる者もいた。だが僕は外さなかった。彼らは僕の外見を彼らの思うように飾り立て、彼らの考えたことを喋るようにさせた。それは僕の仕事の一環であって、逆らう気はなかったが、この左耳のピアスだけは誰にも文句を言わせるつもりはなかった。僕は友達が海で沈むか沈めるかの日々を送っている時に、国内で毎日のようにテレビに出たり雑誌の取材に応じたり、軍による民間向けのショーに出演しているのだ。その卑怯さを思い出し、自らを恥じる為にも、身につけておかなければならない。もちろん、そんな自罰的な目的の為だけにつけている訳ではないが。

 

 訓練所に戻りたいと思うほどに、広報部隊での仕事は退屈なものだった。テレビに出た時は無知な民間人たちに無思慮なからかいを受け、僕は怒りや羞恥に顔を赤くした。とりわけ、「進歩的知識人」なる連中は僕の存在を憎んでいるとしか思えないような態度で、僕なんかは広報じゃなくて前線に行ってとっとと沈んでしまってくれた方が世の為になる、というような口ぶりだった。それをはっきりと言ってしまえば彼らの立場が終わる為に、回りくどいやり方を取ってはいるが、もしたがが外れたら彼らは直接僕を殺しに来るのではないかと思わせるほどだった。人間の悪意というものに触れることに慣れていない僕は、最初の一週間で参ってしまい、次の一週間は丸々休んだくらいだ。僕は訓練所に入った時、十五歳だった──艦娘の体になった時に少し体つきががっしりとし、顔つきはそう変わらないにしても雰囲気は十七か十八ぐらいには見えるようになったと言われたが、心は純真な十五歳だったのである。それが、大人たちの間で揉まれに揉まれた海千山千の連中の悪意を身に受けて、無事でいられる筈がなかった。

 

 とはいえ、人間の、人類の強みはその適応性にある。獣のような暖かい毛もなく、硬い皮もなく、手にはかぎ爪もないし牙は鈍い。目も悪いし鼻も悪ければ足も遅いし力も弱い。それでも、僕らは地球をここ暫く牛耳っている。僕らがその気になれば、地球全体を自分ごと何回も滅ぼせるほどの力を持っている。何故なら、僕らには何でもできるからだ。寒いところでは厚い衣服をまとい、傷つけられることを防ぐ為にあらゆるもので防具を作り、傷つける為に持てる知識の全てを用いてきた。だからこそ僕らは地球にはびこり、のさばり、増え続けているのだ。そういう人類史的バックグラウンドが自分自身にもあるということを認識していれば、何処の馬の骨とも知らぬ他人の悪意程度のことで立ち直れなくなる筈もない。

 

 それに人付き合いが下手だと言ってくれた利根を見返してやろうってんじゃないが、新しい友達もできた。ちと騒がしく、しばしば正気を失ってはいるが、悪い奴じゃない。利根と北上への手紙にもそのことは書いてやった。でも多分「とうとうイマジナリーフレンドとやらを生み出しおったか……吾輩、心配じゃ」とか「あーねぇー、まあそういうこともあるよねぇ。今度写真撮って送ってねー。撮れるならだけどさぁ」とか言ってくるだけだろう。覚えているがいい、艦娘訓練所時代に候補生が貰っていた雀の涙級の給料と今の給料とを合わせて、既にカメラは用意してある。新しい友達が頭の大丈夫な時を狙って、奇跡の一枚を撮って送ってやるつもりだ。僕が演技でなくそれなりに楽しくやっていると分かれば、二人も安心だろう。彼女たちの手紙には、僕が世間から受けている悪評のことについて心配していることを匂わせる表現がちょくちょく見受けられていた。僕は僕なんかよりも彼女たちの方が大変だろうと思うのだが、人間、自分のことほど正しく把握できないものなのだろう。僕も含めて。

 

 まあ、二人のことについて、というより正確には二人の所属している部隊についての心配はなかった。利根は持ち前の明るさと那智教官のしごきに耐えたという事実から来る自信、そしてその能力によって、向こうではもう頼られる立場になっているらしい。実戦経験こそまだまだ足りないところはあるが、丁寧な戦い方と僚艦を常に気にかける振る舞い、隊の先輩に意見を具申することへの躊躇いのなさなどが評価されているようだ。利根ならばいずれは第一艦隊の旗艦も任せて貰えるに違いない。カタパルトも好調らしいし。唯一残念なことがあるとすれば、彼女の行ったところに筑摩がいなかったことだそうだ。仕方がないから、駆逐艦連中や軽巡の子たちを妹代わりに可愛がってやっておる、と言っていた。そうすると、筑摩が来る頃には妹だらけになってるだろうな。利根と愉快な妹たち艦隊は、きっと人類が深海棲艦から海を取り戻す為の最高の矛が一つとなるだろう。

 

 北上は呉で大井と会って、彼女の猛アタックに辟易していると書いてきた。それでもその言葉の端々に大井への深い友情が読み取れるところがあり、微笑ましかった。きっと北上のことだから、直接は言ってないんだろう。言葉にしなければ伝わらないこともあるというのに。戦闘では雷撃能力を活かして活躍し、なるべく短期戦を心がけるようにしているという。早く終わらせれば、怪我も少なくて済むという訳だ。それに、用いるエネルギーも少量で済む。面倒臭がりな北上らしい考えだった。呉鎮守府は軍の人間なら、事前の申請が許可されれば遊びに来ることもできるので、是非機会があれば来て欲しいとも書かれていた。きっとそうしようと思う。だがその時には遺書をしたためるべきだろうか? 何しろ、どういう方法を使って僕のことを突き止めたのかさっぱり分からないが、呉の大井からも僕に手紙が届いたからだった。憶測に過ぎないが、北上が漏らしてしまったのだろう。手紙の具体的な内容は伏せるが、嫉妬と警戒に満ち満ちた手紙だった。僕は北上が僕に書いてきた手紙から大井に関しての部分を抜粋し、どうか北上をよろしく守ってやってくれと書き添えて彼女に送ってやった。後日、封筒に入って返事が来た。大井が正座で膝前に手を下ろして指の第二関節まで床につけ、ぴしりと伸びた背筋のままに深々と礼をしている写真が同封されており、その裏に達筆な字で「感謝」と書かれていた。北上からは「もー、バラしたせいで大井っちがさー」とお怒りの言葉を書面でいただいたが、僕はニヤニヤしてそれを読むだけだった。悪いことをしたつもりはない。

 

 意外なところからも手紙が来た。一人は青葉で、僕が広報部隊に入ったことへの羨みが隠す気もなく書かれていた。それと同時に、芸能界などを筆頭とした人前に出る世界での振舞い方のコツや、僕をこれまでに攻撃してきた進歩的な人々に関する様々な情報も書かれていた。一部は検閲で削り取られてしまっていたが、これは僕が自分の仕事をこなす上で大変に役立った。僕はお返しとばかりに、僕が仕事場で得た面白そうな情報を彼女にも送ってやった。これもきっと検閲で幾つか届かないものもあるだろうが、大事なのはお返しをしようとしたということだ。訓練所時代はそう多く話すこともなかった相手だったが、あそこを出てから繋がりができるとは面白い縁もあるものだった。

 

 もう一人は那珂ちゃんだった。那珂ではなく那珂ちゃんだ。もう彼女は艦隊のアイドルだった。しかしアイドルのイメージで思い浮かべるような丸文字ではなく、しっかりとした丁寧な字で、真剣さが感じられた。手紙には、僕がテレビに出ているのを見て筆を取ったと書いてあった。そしてその内容は……ライバル宣言だった。僕は即座に敗北を認める文章を書いてから考え直してそれを消し、ちゃんとした返事を書いて送った。那珂ちゃんからのお便りはまだ届かないし、恐らく書いてもいないのだろうが、彼女が遠い地から艦隊のアイドルとして活躍する姿を僕に見せてくれることを、僕は心の底から願っている。確定したことではないが、那珂ちゃんだけ四十八人集めて、日本全国何処でも毎週那珂ちゃんに会える! というのが売りの広報部隊を新設するという噂もあるので、それも近い内に起こることかもしれない。しかし同じ訓練隊にいたあの那珂ちゃんなら「アイドル専門ってのもいいけどー、那珂ちゃんここのファンのみんなを置いてなんていけないかなー! ごめんねー!」とか言って拒否しそうな気もする。

 

 来た手紙ではなく書いた手紙の話なら、僕は一度那智教官にも手紙を書いた。広報部隊の仕事についてや、自分が卑怯者に感じられるということ、それでも教官の言葉を信じて頑張っていることなどを書いた。少し気恥ずかしかったが、最後に那智教官の下で訓練を受けたことで、他の多くの艦娘よりもよい訓練兵時代を過ごせたと思っている、とも書いておいた。これにも返事はなかったが、送った手紙そのものが戻っても来ないところから、届いてはいるのだろう。彼女はまた新しい艦娘候補生たちをしごき上げているのだろうか? 年若い候補生たちを殴りつけ、怒鳴りつけ、限界を思い知らせて、その上で自分に何ができるのかということを理解させ、死地に送り出す仕事を続けているのだろうか? 利き腕ではない左手でペンを握って、前線部隊への復帰嘆願を書き続けているのだろうか。

 

 僕は考えるのを止めた。そうだったところで、ここにいる僕には何もできない。それよりも今日の仕事について確認しよう。僕は懐から手帳を取り出した。時代がどれだけ進んでも、変わらないものだってある。その一つが手帳だろう。携帯電話などに取って代わられるという主張もあるが、充電が切れたら確認できなくなるようなものを手帳にするのは危険なことだ。やはり紙とペン、これに限る。さて、予定では……ふむ、最近は減ってきていた雑誌の取材が、ここに来て一件入っている。広報部の職員によれば、面倒な手合いらしい。忙しい時期に相手をしていられないので断っていたが、取材の数が減ってきた今となってはもう断りきれず、やむなく今日にしたとか。全く、心遣いには痛み入る。幸いなのはそう長くは掛からないということだろう。精々、一時間か二時間か。その後は? 僕の戦闘風景を撮る為の演習。またか、と思う。実戦に出して負傷されてはかなわないということで、戦闘の写真や映像が欲しい時には、毎度毎度演習で戦う真似ばかりさせられている。実弾でさえない演習用弾薬で味方と撃ち合っても、何の足しにもならない。いや、それは言いすぎか。もしもお互いに本気で演習に取り組むつもりがあるのなら、足しにはなるだろう。だが広報部が欲しがっているのは僕が発砲するシーンや、軽い負傷に構わず勇猛に突撃するシーンのような、戦意を高揚させる為のものだ。

 

 散々その手の撮影に付き合わされたせいか、広報部隊所属の艦娘たちの半分には嫌われるか避けられている。半分と言っても、僕を含めて六人しかいないから、三人にだが。例えば、駆逐艦の曙は誰にでも口が悪くてすぐ毒づくが、特に僕に対してはそれが激しい。擦れ違えば舌打ち、振り向けば睨まれ、背を向ければ後ろから蹴られ、見ていると「クソ重巡」という言葉が飛んでくる。艦娘にとって、艦だった頃の自分のことをけなされるというのは最大級の悪口だ。きっと、他の艦娘が同じような暴言を受けたら、言われた側の艦娘が誰だったかによるが、多少の流血なしに場は収まらないだろう。しかも、その「誰だったか」が関係するのは「流血の有無」ではなく「流血の多寡」なのだ。しかし僕は……僕は艦娘の体になっても、自分が過去に軍艦だったという記憶を持つことはなかった。段々と思い出すように記憶を得るのだろうかと思っていたが、そうでもないらしい。そういう具合だったので、クソ重巡扱いされても余り堪えなかったし、曙を殴ったりするようなこともなかった。それがまた彼女にとってはムカついたようだ。だが、僕の経験から察するにどんな反応をしても無駄だっただろう。

 

 潜水艦の一人、伊一六八“イムヤ”にも嫌われている。挨拶をしても返事はないし、この前はスマホか何かをいじっている時に後ろから声をかけただけで「覗き込まないでよ、気持ち悪い」と言われた。これは極めて純真な十五歳の心を持つ僕にとって甚大なショックを与えた。それ以来彼女には挨拶などもしないでいるが、本人はそれでいいにしても、近くに曙がいると「は? あんた先任無視すんの? 何様?」みたいな感じで絡まれるので、前門の虎に後門の狼といったようなものだ。一度などは廊下で前からイムヤ、後ろから曙が来て、咄嗟に部屋の一つに入ったらそこにいた全然知らない人をひどく驚かせてしまって、後から苦情を受けることになった。幼い容姿の艦娘に嫌われる傾向があるのだろうかと考えていたが、軽巡洋艦の由良にも避けられているところを見ると、必ずしも容姿の幼さが条件になる訳でもないらしい。となると、僕が嫌われる要因というのは一体何なのだろうか? それに気づかないと、僕は自分のこれからの人生において著しい不安要素を抱えて生きていかなければならなくなるではないか。少なくとも中学校では、僕はみんなに好かれる訳ではなくとも、こんなに大勢の相手に嫌われるタイプではなかったと思う。友達もそこそこいたし、その中には異性の友達もいた。恋愛沙汰には疎かったが、楽しくやって来れた。それに人間的欠陥があるなら、親が真っ先に気づくものではないだろうか。

 

 戦闘風景撮影の参加者は誰だったか。曙はよくカメラマン役を任されているので、間違いなくいるだろう。イムヤはこの仕事には使いづらいので、恐らく別のところに回されている筈だ。曙がいるとなると僕はびくびくせざるを得ないが、広報部隊所属艦隊の残りの二人、僕とまともにコミュニケーションをしてくれる二人がいてくれれば、僕の胃も痛まずに済む……ああ利根様神様北上さま! 曙の名前と一緒に、彼女たちの名前は、確かにそこにあった。我が艦隊の旗艦を務める榛名さん、高速戦艦榛名……優しく、艦隊のまとめ役という大役を遂行しようとしている。旗艦としての強制力の使いどころは分かっているみたいなのだが、強気に出て反撃を受けるのが怖いらしく、提案や依頼はあっても、滅多に命令を出さない。それだけに曙やイムヤも彼女相手には強く出られないらしい。そんなことをすれば、自分たちが悪役になってしまうことが分かりきっているからだ。それに二人は僕のことは例外として、他の艦隊の構成員たちのことを大事にしている。そういう点を考慮に入れてみると、僕が彼女たちにとって「よそ者」だからこそ、ああも嫌っているのかもしれない。艦隊は家族のようなものだ。家族の中に見知らぬ顔が入ってきて、大手を振って歩き、我が物顔をしていたら、そりゃあ怒りもするだろうし、そいつのことを蹴り飛ばしたくもなるだろう。状況その他が許すなら、闇討ちだってしてしまうかもしれない。榛名さんが僕のことを公平に扱ってくれて、隼鷹が仲良くしてくれるからこそ、そこまでにならないというだけで。

 

 そう、隼鷹の名前が演習の参加者にあったのを見て、いけないことだとは思うが僕はすっかり安心してしまった。あいつは本当の社交家というもので、あいつの手に掛かれば母親にさえ笑顔を見せたことがないような堅物でも、ころりと引っかかってにこにこ顔になってしまう。広報部隊で働くようになって最初に接触したのが前述の曙とイムヤだったこともあって、完璧に苛立っていた僕を大人しくさせたのも彼女だった。いつでも懐に酒の入ったスキットルを忍ばせていることは彼女の数少ない瑕の一つだが、それだってあばたもえくぼと言うだろう、僕には彼女を嫌う理由なんて見当たらなかった。僕と彼女はファースト・コンタクトこそかなりマズいものだったが、それでもすぐに打ち解けた。僕は話し相手が必要だったし、彼女は一緒に飲む相手を探していた。そしてお互いがお互いを見つけたのである。五度目の飲み会をする頃には僕はぶっ倒れた隼鷹の後始末に慣れてしまっていたし、隼鷹も僕がぶっ倒れた時の後始末に慣れていた。僕たちは互いに一番みっともないところを見せ合った仲だった。よき友人だった。

 

 ああ、由良の名前も演習参加者になかった。きっと、別口の仕事があってそちらの方に行っているのだろう。接点は少ないが話を聞く限りしっかりしている人なので、僕が心配するような相手じゃない。

 

 で、その後は? 暇なら友達を誘って飲みに行くのもいいが……お、仕事だが興味を惹かれるものだ。悪くない。広報部隊の連中が言うところの“サーカス”艦隊の面々と、今度のイベントで共演する際の打ち合わせをするらしい。彼女たちのことは僕もテレビで見たことがあるが、まあびっくりするような艦娘だらけだった。素手で戦闘用の実弾を弾き飛ばす長門、自分で放り投げた的三つを、下に落ちるまでに弓矢で全部射抜いた加賀、砲声が一発に聞こえるほどの早撃ちと正確さを誇る足柄、障害物の向こう側に隠れた標的を魚雷で破壊する羽黒……加賀に「艦載機使わないのかよ」と思ったことは、打ち合わせでは黙っておいた方がいいだろう。

 

 時間を見ると、最初の取材まで一時間ちょっとしかなかった。僕は急いで用意をして、メイクもした。男がメイクをするということに意外さを覚えたのは昔の話だ。今では僕も、そこら辺の女の子が片手間にやる程度の技術を身につけていた。これは男としては非常に難しく珍しいことで、女性が生来持ち合わせている特別なセンスなしに化粧という伝統的な技術を身につけるというのは、艦娘が艤装なしに水上を走ろうとするのに近いものなのである。まあまあな仕上がりになった後、僕は本職の人のところに行った。彼女は素早く僕のお遊びみたいな化粧を修正し、何処をどのように僕が間違ったのかということを教えてくれた。僕は心の中でメモを取った──もしぴくりとでも体を動かしたら、尊重すべきプロフェッショナルの仕事を邪魔することになってしまっていたからだ。彼女は僕の何倍も早く、何倍も薄く、何倍も効果のあるメイクを施してくれた。職人のプライドが垣間見えるその仕事に本心からの礼を言って、僕は取材に来た記者が待っているという応接室に急いだ。男の艦娘でよかったなと思うところが一つある。走っても通常の艦娘と違って、はしたないと言われなくて済むという点だ。

 

 どうにか時間よりも少し早いぐらいに応接室に到着した。記者も、広報部隊の職員の一人で僕の仕事上のサポートを毎回担当している人も、既にそこにいた。二人はソファーに座って何やら話していた。

 

「失礼、待たせましたかね?」

 

 礼儀として謝る。先にいた二人は立ち上がって、僕を迎えてくれた。顔見知りの職員の方には軽い頷きで済ませ、記者の方には手を差し出す。彼はそれを取って軽く握った。握手ってのは、もっと強く力を入れるものなんだが、まあ遠慮もあるのだろう。

 

 僕らは誰が一番先にということもなく、ソファーに腰を下ろした。どんな質問にどう答えるかということは、予め打ち合わせてある。雑誌の取材など、そんなものだ。とはいえ、中には思ってもみなかったような質問を投げ込んでくる記者もいるし、今回の手合いはそれである確率が高かった。年は三十前後と言ったところか。それなりに数もこなして来ているだろうし、こちらとしては打ち合わせ通りの答えを貫くしかないだろう。那珂ちゃんや青葉ならこういう相手も一蹴できるかもしれないが、僕には無理だ。やれやれ、深海棲艦と戦う方が楽だとは言わないが、こっちもこっちで疲れることである。記者は僕の口の滑りをよくする為にだろうが、雑談から始めた。気をつけなくてはいけないのは、雑談の中にも罠があって、面倒な事態を引き起こす質問が紛れ込んでいたり、容易く曲解できる言葉を使わざるを得ない事態に追い込んできたりするのだ。

 

 極端な事例だが、「勲章についてどう思うか」を聞かれたとしよう。勲章、広報部隊の僕にはほぼ縁のないものだが(ただし広報部隊でも過去に受勲例はある)、それでも僕はそれがどんなものか知っている。そして僕は艦娘として、鍛え上げられた軍人として答えるとする。「勲章とはそれを佩用する者が義務を果たした証拠に過ぎない。軍人にとって、義務に要求される以上の勇気・大胆さ・献身など存在しないのだ。何故ならば、常に彼らは彼らにとって最も密接に関わりのある一つのもの、生命を要求されているからだ。それを差し出すこと以上など存在しない。そして、どうしてもそうせざるを得ない時、その義務を果たし、守るべきものと死の荒廃の狭間に身を投げ打つことは、軍人の誉れである」これを口語的にしたものを言うだろう。感情的にどう思うかは別として、理屈ではこう思っている。座学で学んだことから自分で考え出した結果なのか、それとも注意深い大人たちによって綿密に「仕込まれた」思想なのかは分からないが、僕は自分でこう思っていると信じている。すると、この発言を取り上げた記事の見出しはこうだ。『勲章は飾り』。そこだけを見て、きっと多くの軍人たちが僕に怒りをぶつけるだろう。最近の雑誌とはそういうものだ。何も、古き言葉と悔やみつつ使わせて貰うが、カストリ雑誌のような低品位のところに限った話ではない。

 

 そういう人々を相手にするのは大変だ。彼らは彼らで、日々の暮らしを営もうとしているだけというのがまた、たちが悪い。中には海軍を憎んでいたり、根っから性悪だったりして、相手が傷ついたり憎まれたりすればするほど嬉しくなるという者もいるだろうが、大半の雑誌記者はただ彼らの仕事をしようと頑張っているだけなのだ。家に帰れば妻や子や老いた両親がいたり、金のかかる恋人がいたり、育て上げなければならない年の離れた兄弟がいたりするものだ。しかし苦労は僕に降りかかってくるとはいえ、僕はそういった連中が僕や他の艦娘たちを困らせながら、あるいは困らせるような記事を書きながらでも生きていけるこの国が気に入っていた。流石に深海棲艦に降伏しようなんて記事を書いたら、その記者と編集部は突然失踪することになるだろうが、ある程度のことなら許容する、甘さと言っても過言ではない点が、この国のいいところなのだ。

 

「では、そろそろ質問に移らせていただきますが、よろしいですか?」

「はい、結構ですよ。お待たせしまして申し訳ありませんでした」

「いえいえ、お気になさらず。私も興味深いお話を聞かせていただいて、これはまた今回と別に記事にしたいぐらいですよ」

「あはは、勘弁して下さいよ。今そんなこと言われると変に緊張しちゃうじゃないですか」

 

 僕らは何ら面白くもないのに笑った。作り笑いが上手くなったものだと思う。人付き合いも同じぐらい上手くなりたかった。そうすれば今頃僕はもう少し幸せな気持ちでいられただろう。艦娘たちとももっと親しくなれていた筈だ。いや、下心から言ってるんじゃない。僕は妙な気持ち抜きで……というのも嘘になるか。ええい、まどろっこしい。僕は艦隊の連中とぐらい、仲良くしていたかったんだ。そう考えることで文句を言われる筋合いもないだろう。教会ですら、本心は裁かない。ましてや十五歳の男の子を裁く奴があるか? しかも、職場の人間関係がもうちょっとよくなって欲しいと思っているだけでだぞ。もちろん、そんな奴はいない筈だ。

 

 記者の質問は巧妙に偽装されていたが、軍を批判する材料を探していることは分かった。彼は訓練所から出て以来の僕の戦果を聞いた──まさか記者ともあろうものが、僕が戦果を上げているとは思っていないだろう。自慢じゃないが、僕はまともに戦闘に参加したことなんてない。一度だけ、外海での演習中にはぐれ深海棲艦に出くわしたことがある程度だ。その時は駆逐が二匹に軽巡一匹だったか? 真っ先に気づいて装備換装を済ませていた隼鷹の先制爆撃で軽巡と駆逐が一匹ずつ沈み、残りの一匹は演習弾から実弾に装填し直した僕や他の艦娘がたこ殴りにした。あんなもの、戦闘とは言わない。那智教官との格闘訓練の方が余程怖かった。何しろ相手は目と鼻の先という距離だ。白目と黒目がはっきり判別できる。そんなところにいる相手が、これから自分を片付けに掛かってくる。そのプレッシャーは尋常ではない。あれこそが戦闘だ。

 

 僕は正直に答えた。共同戦果で駆逐一隻だと。「現状に不満はありませんか?」あると言えば軍に対して角が立つ。ないと言えば臆病者として世間に角が立つ。こういう時はちょいと話を変えてやるといい。

 

「現状への不満? 現状の何に対する不満のことです?」

「あー、つまり、前線に出て同期の艦娘たちと共に戦いたいと思ったことは?」

「あなたは、僕が彼女たちと一緒に戦っていないとおっしゃりたいのですか?」

「失礼ですが、深海棲艦と交戦したという話は聞きませんね」

 

「勘違いなさっておられるようですが、深海棲艦と撃ち合うだけが戦いではないのですよ。我々は常に脅威に晒されています。外患、即ち深海棲艦のみならず、自らの臆病さという内面からの脅威にです。各地の鎮守府や泊地、基地で日夜戦っている艦娘たちの敵が深海棲艦であるように、僕や僕以外の広報部隊の敵は、我々や国民一人一人、そして全世界の艦娘の中に潜んでいる、自分自身の恐怖なのです。

 

 その恐怖を打ち消す為に、僕らは国民に希望がまだ消えていないことを、艦娘たちには人々が彼女たちを決して忘れていないということを思い出させます。彼女たちが戦い、血を流し、血を流させるのには理由があるのだということを、彼女たち自身と国民に思い出させるのが我々の役目なのです。

 

 さあ、これでも僕らは戦っていないと言えるものでしょうか? よくお考えになって下さい。あなたの発言は、今ここにいる僕に対してだけでなく、僕らの艦隊に対してだけでなく、これまでに広報艦隊が想いを繋いできたあらゆる人間、あらゆる艦娘たちへの発言になるのですよ」

 

 最後の言葉が決定打だったようだ。一記者の身では、全艦娘と全国民に対しての発言をするのは難しいのだろう。彼は言葉に詰まって、やがて「大変失礼いたしました」と言って頭を下げた。本気で彼がそう思っているとは僕も勘違いしない。彼にとって僕の言葉など大した意味はないのだ。意味があるのは、僕が彼を黙らせたということである。僕も「いえ、何だか僕ばかり喋ってしまって、こちらこそ申し訳ありません」と言って済ませておく。お互いに分をわきまえた、大人の付き合いをしなければならない。彼が意地の悪い質問をし、僕が意地の悪い返しをした。結果はどうだ? 一対一で差し引きゼロだ。二人とも何の問題もない。

 

 その後の取材はほぼつつがなく終わった。これまで通りの質問、これまで通りの答え。最後に一度だけ、もう一発僕に食らわせてやろうとその記者は言った。「最後に一つ、何かこの記事を読む方々へのメッセージをお願いします」僕は焦らなかった。ちょっと前の民間向けイベントで軽いスピーチをした時の原稿をまだ覚えていたのだ。それをすらすらと読み上げてやった。すると彼は勝ち誇ったように言った。「あの、私は先月のイベントで今の話を聞いたと思うんですが」僕も同じぐらい勝ち誇った顔をして言い返す。「来月も聞くだろうね。再来月も。僕の言葉を聴く全ての人々に僕の思いが伝わるまで、僕は同じことを話し続けるだろう」※7それで決まりだった。

 

 記者が帰った後、担当と少し話をした。彼は僕が最後にやった返しを気に入ったらしく、自分の手帳にメモをしていた。彼は言った。

 

「あんな言葉が咄嗟に出てくるなんてな。前から考えてたのかい?」

「昔読んだ本で似たようなシーンがあっただけだよ。さ、次に取り掛かろう。僕の艤装は?」

「いつものところさ。何処に持っていけるって言うんだ?」

 

 もっともな話だった。僕の職場である海軍本部出張所に併設されている工廠へと向かい、艤装の様子を見る。整備中だそうだ。時間を見る。まだ大丈夫だ。昼寝するぐらいの時間がある。なら、ちょっと休ませて貰うとしよう。僕は自分の部屋に戻った。広報部隊でも僕は訓練所時代と同じ特権を享受できていたのである。まあ、これが僕と僕を嫌う三人を余計に隔てている気もするのだが……一人になりたい時には重宝することは確かだ。仕事さえなければ、寝ていて邪魔されることもない。着ていた服を適当に脱ぎ、最低限しわにならないようにハンガーへと吊るしてから、僕は布団の中にもぐりこんだ。眠るまですぐだった。早寝は訓練所で誰もが身につけることになる特技の一つだ。

 

 しかしどうせなら、夢見も訓練所でどうにか変えられないものだろうか? 僕は汗まみれで目を覚ました。嫌な夢を見た。溺れそうになる夢じゃない。溺れた後の夢だ。喉の奥に水が入ってきて、肺が満たされていく不快な感触が、まだ残っている。僕は何度か咳き込んだ。潰れそうに体中が痛くて、なのに声も出ないし指の一本も動かせず、ただただ下へ、海の底へと引っ張られていく、冷たくて辛い夢だった。艦娘であるということが精神的に影響しているのかもしれない。僕は眠ったのに、余計に疲れたような気持ちで服を着込み、もう一度工廠に向かった。整備点検は済んでいた。時間を見てみる。合流地点に行くには少し早いだろうか? いや、早く着いて悪いということもないだろう。何しろ僕はここでは一番の新顔だ。遅れて行くと絡まれる原因にもなる。幾ら何でも、絡む為だけにやたら早く現場に向かっているということもないだろう。そんなことをするほど僕のことを嫌っているとしたら、それはちょっと病院に行くべきレベルである。誰か榛名さんに進言してやって欲しい。僕がやるとまた揉めると思うので。

 

「よう、早いねえ、今からかい? 一緒に行こうぜえ」

 

 艤装を装着して具合を確かめていると、後ろから声が掛けられた。この尖ったところのない元気な声は、疑いなく僕の新しい友達である。自然と笑顔になって、そちらを振り向いた。



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「広報部隊」-2

「よう、早いねえ、今からかい? 一緒に行こうぜえ」

 

 艤装を装着して具合を確かめていると、後ろから声が掛けられた。この尖ったところのない元気な声は、疑いなく僕の新しい友達である。自然と笑顔になって、そちらを振り向いた。

 

「ああ、待ってるから艤装持って来いよ」

「あいよー」

 

 気のおけない友達同士の軽いやり取りをしていたところで、ふと彼女の写真を撮るつもりだったことを思い出した。工廠の艤装置き場へと自分の艤装を取りに行った隼鷹への伝言を近くにいた整備員に頼み、艤装をその場に置いてダッシュで自室に戻る。途中で曙を見つけて遠回りしなければならなかったが、それを除けば何事もなく部屋まで戻れた。片隅の机の上に置いたデジタルカメラを掴み、また工廠へと戻る。隼鷹は伝言を聞いて待っていてくれた。ニヤニヤしながら近づくと、露骨に引いた顔で後ずさる。「そのカメラであたしの何を撮ろうってんだてめえ!」「やめろ誤解を招く!」そんなやり取りをして笑ってから、説明する。訓練所の時の友達が僕のことを心配しているから、こっちでも元気にやってますってことを教えてやりたいんだ、と僕が言うと、隼鷹は持ち前の心の広さで快諾してくれた。「何だぁ、そういうことなら協力するよ。服はどうしよっかねぇ、着替えて来ようか?」「別に記念写真じゃないんだからいいんじゃない?」「それもそっか。よし、んじゃ撮ろうぜ!」

 

 僕らは肩を組んで、自撮りの要領で何枚か撮った。その後隼鷹の「軽空母のポーズ」を何枚か撮影し、知り合いの整備員にカメラを預けた。仕事先に持っていく訳には行かないからだ。防水はばっちりだが、何かの拍子に落としたりしたらいけない。そんなに安い買い物でもなかったのだ。高給取りでもないし、その辺はきっちりしておかないと後で悔やむことになる。預かったついでに写真の印刷も請け負ってくれた整備員に礼を言って、僕らは出撃用水路に向かった。水上に立ち、前進を始める。長い水路を通って、建物の中から外へ、陽光降り注ぐ海面へと出る。僕は思わず手で光を遮った。目に痛かった。隼鷹は目を細めているが、手で隠すようなことはしていない。

 

「さーって、行きますかねー」

「今日は日差しが強いな、日焼け止めでも塗っときゃよかった」

「ああ、ならあたしの使いなよ。丁度持ってるし」

「いいのか?」

「痛い思いしたくないんだろ? あたしも肌弱いから気持ち分かるんだよ」

 

 ありがたく受け取って使わせて貰う。これで僕の繊細な肌は守られた。「助かったよ」「いいってぇ、大したことじゃないんだしさあ」彼女は笑って手を振ってそう言ったが、それを素直に受け取るほど僕も馬鹿じゃない。今度、何かでお返しをしよう。雑談をしながら、広報用素材撮影の為の演習地点に向かう。洋上にぽつんと岩礁が突き出ているのが目印で、しょっちゅう使っている場所だ。前に深海棲艦と出くわしたのもこの辺だった。僕らは他の面々が来るまでの時間を潰す為に、射的をすることにした。簡単なゲームだ。適当な石を拾い、それを投げ上げる。隼鷹は航空機で、僕は砲で狙う。投げる役は交代で行う。どうせ幾ら弾を使ったところで、経費で落ちる程度のものだ。上からは「予算を減らされないようにもっと使え」と言われているほどなのである。減らされない為だけに使うってのもなんだかなあ、と思いながら、僕らは一時の遊びに興じた。命中率は僕がちょっとだけ、隼鷹より高かった。飽きるまでやったが、まだ少し時間が余った。ま、これぐらいなら腰を下ろして待っていればすぐだ。僕が適当なところに腰掛けると、隼鷹もそれに倣って近くに座り込んだ。暫く僕らは海の音に耳を澄ませていたが、隼鷹が口を開いた。

 

「この前さあ」

「んー?」

 

 僕は気だるさに任せた、適当な声を上げた。

 

「訓練所で一緒だった飛鷹から手紙が来てさ」

「へえ、よかったじゃないか。何処勤務?」

「んー、単冠湾」

 

 ちょっと倦怠感と眠気が飛ぶ。単冠湾なら知ってる奴がいる。

 

「単冠湾? 僕の同期も確か二人そっちに行ったわ」

「え、マジ? 誰?」

「天龍と龍田」

「あー! ……知らないねえ」

「知ってたら逆に驚くわ。んで何?」

「何が? ああ飛鷹の手紙だったっけ? あれ?」

「お前もう酒やめろよ」

「やめるかよ」

「力強いなおい」

「やめられねえのさ……」

「ほとんど病気じゃねえか」

 

 そうこう言ってる間に、隼鷹は懐からスキットルを取り出した。僕が彼女を心配するところがあるとしたら、まさにこれだ。僕は海軍本部付の広報部隊に配属され、出張所で彼女たち広報艦隊と会い、今の仕事をするようになった。それから数ヶ月だ。一つの職の継続時間としては短いが、人との付き合いとしては決して短くない。僕は隼鷹が文字通りのしらふのところを見たことがなかった。飲んでも顔が赤らむことがないタイプらしく、あるイベントの際には民間人たちの前で平気な顔をして飲んでいた。暑かったから、熱中症予防の飲み物を入れた水筒だと思ってくれたのか、それを問題にする者はいなかったが……彼女と同じ時期に広報艦隊に配属された榛名さんによれば、隼鷹が飲むようになったのは決して昔からの話ではないそうだ。こちらに配属されてからの悪癖だと言っていた。

 

 酒に逃げるしかない何かがあるのか、酒が楽しすぎて止める気になれないのか。どちらにせよ、後者ならまだ救われる。酒より楽しい何かを見つけることができれば、簡単に片がつくだろう。それができるかどうかは別として、あっさり片付いて、しかも後に何の遺恨を残すこともない。だが前者だったら、話は複雑だ。僕が進んで口を出す問題じゃない。人間にせよ艦娘にせよ、自分の問題を他人に解決して貰うことはできないのだ。自分で立ち向かわなければならない。そうだ、必要な時にはそうしなければならないのだ。男でも女でも、成熟した社会の一員として振舞う人格の持ち主であれば、自分の生み出した子の処刑を代理人に任せるような真似はしない。自分で狙いをつけ、自分で引き金を引くものだ。それが本物の大人だ、そうだろう?

 

「あいつ、いい奴だから友達が沢山いてさぁ、そん中にあたしもいる訳。ほら、分かるだろ? あたしじゃないあたしって奴。単冠湾のあたし、って言うかさ」

 

 一口飲んで隼鷹は話を続けた。もう、話題を変える為の冗談を言うような雰囲気じゃなかった。僕は黙って聞いていた。

 

「軍の方針なのかねえ、同じ訓練所で訓練された艦娘を別々の勤務地にやっちまうってのは。なら諦めもつくんだけどさ。何か、あっちのあたしも飛鷹と同じタイミングで着任したらしいんだよねえ」

 

 僕は隼鷹の方に手を伸ばした。ぽい、とスキットルが放り投げられ、僕の手の中に納まる。僕も飲んでなきゃこんな雰囲気には耐えられそうにない。二口飲んで返すと、隼鷹がじろりとこちらを睨んだ。「多くない?」「今度返す」「そうだねぇ、天山とか流星とか欲しいよねぇ」「何処で使うんだよそれ」僕らは呟くように軽口を応酬した。隼鷹が僕に飲まれた分を取り返すかのように、スキットルを傾けた。んぐ、んぐと音が聞こえる。「ぷはぁーっ、やっぱ海で飲むのが最高だよぉ! へへへー」一気に飲んだので、早速少し回ってきたらしい。こんな調子でも任された分の仕事ができるのが、またこの隼鷹という艦娘の面白いところだった。それに緊急の時には、どうやってか知らないがすっぱりと酔いを散らしてしまえるのだ。あの特技は僕も得ておきたいものだった。

 

 近くの石ころを拾って、海に投げつける。何度か跳ねて、水に沈む。隼鷹はそれをぼーっと見ていたが、真似をして投げ始めた。

 

「飛鷹からの手紙と一緒に、そいつからの手紙も入ってたよ。それがまあ、あたしだったらこう書くだろーなーってのと丸っきり一緒でさぁ、何か居場所を取られた気がするんだよね……しかもあっちのあたしは前線部隊で飛鷹と一緒に命張ってるってのに、さっ!」

 

 最後の掛け声と一緒に思い切り投げられた石が、これまでにない跳躍回数を見せた。隼鷹はほんの少し、子供っぽい得意げな表情を見せた。だがあんまりその表情がはかなく消えてしまったので、一度瞬きをすると僕には、その表情を隼鷹が本当に浮かべたのかどうか自信が持てなくなってしまった。

 

「毎日毎日、こっちじゃ写真撮って作り笑い浮かべての繰り返しだもんなー。ホント、嫌んなるよ」

「でもあっちと違って、友達が目の前で死んじまうってことはないじゃないか」

「ああそうだね、目の前じゃ死なない。知らないとこでくたばっちまうのさ……同期の友達、何人残ってんのかなあ。そっちはどうだい、もう誰か死んだ?」

「友達から聞いてる限り、同期じゃ二人。親しくはなかったけどね。新任提督の艦隊に回されたらしくって、上が引き際を誤ったらしい。僕が知らないだけで、他にも何人か死んでるだろうな」

 

 それは、自分にもどうしてか分からないほど現実感のない事実だった。艦娘が死ぬ、それはあり得ることだ。撃たれて死ぬ、爆撃を受けて死ぬ、雷撃を食らって死ぬ、当たりどころが悪ければ衝突して死ぬことだってある。だが僕にはそれについて考えようとすると、何か頭の中でもやが掛かったようになってしまって、思考が散逸して、結局は考えるのを止めてしまうのだった。だから今回は、僕が死ぬということを考えてみる。自分が死ぬところを想像する。撃たれる自分を思う。血が流れるところを思い浮かべる。右腕が折れて骨が突き出している。口からは黒々とした血の塊がどろりと垂れて落ちる。右目が潰れて、何か液が漏れている。僕はゆっくりと倒れる。水が僕を受け止める。水が僕を包む。水が僕の中に入る。僕は水になる。底へ横たわり、冷たい安らぎに身を任せる。近くには僕と同じような誰かが大勢いる。彼女らは僕に近寄ってくる。言葉が口にされる。だが僕の耳には届かない。そこに空気はない。僕の手に、腕に、足に、腹に、首に、口に、自分の手を添える。声が聞こえる。僕はもがく。口元の指を食いちぎり、彼女らの手を振り払おうとする。息ができない。僕は呼吸をやめる。呼吸をやめる。呼吸を──「おい息しろってば!」

 

 ばしん、と叩かれて僕は目を覚ました。途端に猛烈な吐き気が襲ってきて、僕を叩き起こした隼鷹を押しのけ、岩礁の陰に走りこんだ。そこでげえげえと吐く。アルコールの苦味を感じたが、どれだけ吐いても海水の塩味が喉からも口の中からも消えなかった。吐き終わって、僕はそれを始末してしまおうとした。そして見た。何かぶよぶよとした肉塊が転がっていた。驚き、戦慄、この時に感じたものを表すならこの辺の言葉が簡単で分かりやすいだろうか? 僕は隼鷹を呼びそうになった。だが運よく、僕には落ち着くチャンスがあった。汚物の中に転がるそれを見てみる。それは、単なる海草がへばりついた土くれに過ぎなかった。

 

 僕は隼鷹のところに戻った。断りを言いながら近づこうとすると、隼鷹は海の方を見て僕に背を向けたまま、さっと手を僕にかざした。その手が意味するのは「ちょっと黙ってろ」だ。僕は逆らわなかった。僕と隼鷹は友達だが、いつ彼女の言葉をちゃかすべきか、そしていつ即座に従うべきかは分かってるし区別してる。僕は静かにして、自分の艤装のチェックを始めた。砲に装填してあるのは演習用のもので、艦娘や深海棲艦相手にやり合うことを考えると、殺傷能力は低いと言わざるを得ない。当然の用意として通常の戦闘用実弾も持って来ているが、撃たずに済めばそれに越したことはないのだ。戦闘を目的にしてここまで来たのならともかく、今日の僕は別の用事でここに来た。個人的に血に飢えていたとしても、それは隼鷹までわざわざ危険に晒す理由にはならない。「数は?」僕が尋ねると、隼鷹はぶつ切りの言葉で返事をした。「二か……三。全部軽巡。少しずつ離れていってる。岩礁でこっちに気づいてない。伏せるよ」

 

 塩水に服を濡らすことを厭っていては、艦娘は務まらない。僕らはすぐにごつごつした岩の上に身を投げ出した。吐くのを隅に行くまで我慢してよかった。そうでなきゃ、隼鷹に対して申し訳ないことになっていただろう。僕らは息を潜めて連中が行ってしまうのを待ち続けた。隼鷹は深海棲艦の軽巡に気づかれないように気をつけながら、艦載機で監視を続けているようだ。彼女の開かれた目は、さっき僕に愚痴を漏らしていた時のような、酒に酔ったとろんとしたものではない。眼光は鋭く、顔そのものもきり、と引き締まった精悍なものに見える。やはり、頼りになる奴だ。しっかりしているのは肝臓ばかりじゃない。

 

 と、その時、何の気なしにほんの少しだけ顔を上げて遠くを見ようとした僕の耳に、遠くからの砲声が響いた気がした。隼鷹は偵察中の艦載機の操作に掛かりっきりになっていて、聞こえていないようだ。僕は集中して、聴覚を研ぎ澄ました。聞こえる。軽い発砲音──駆逐──それから、あの重い音は──戦艦? 曙と榛名さんが攻撃を受けているのか! 僕は隼鷹の肩を叩き、二三匹の軽巡だけじゃないらしいということを伝えた。彼女は自分で確かめるまで待つようなことはしなかった。僕の話を信じて、二人の捜索用航空機を発艦させてくれた。見つけ次第支援に入れるよう、ちゃんと実戦用の装備を積んだ機体だ。僕は航空機が飛び立っていくのを見ながら、隼鷹に提案した。

 

「周波数は分かってるんだ、無電でこっちに来るように連絡しては?」

「あの騒ぎで軽巡まで気づいて戻ってきたら厄介じゃね? それに傍受されるのも怖いからね。榛名は戦艦なんだし、まあ心配しなさんなって。ほら、いっつも言ってるだろ? 榛名は大丈夫です……」

 

 笑いを浮かべていた隼鷹の表情が変わった。今や真剣そのものだ。「見つけた。かなり遠いね……敵は戦艦二。榛名が押されてる」「どうする?」「どうするも何も」彼女はがばりと立ち上がり、海に向かって足から飛び込んだ。僕もその後を追う。水飛沫が飛び散り、互いの顔を濡らした。頷き合って、全速力で二人のところに向かう。「援軍は?」「呼びに行かせた!」誰が来るか知らないが、たっぷり数を揃えて来て欲しいものだ。僕は砲の発射準備を始めた。戦闘海域が見えてくる。出張所から僕たちのいた岩礁までの直線ルートから、ちょっと外れたところだった。きっとルート上の深海棲艦を見つけて迂回しようとしたものの、気づかれてしまったのだろう。

 

 水平線の向こうに、仲間たちの姿が見えてくる。「いっくぜぇーっ!」隼鷹が速度を落とし、敵の攻撃に巻き込まれない位置へと移動しながら、残っていた艦載機を放ち始めた。脇腹を押さえ、血で水面に線を描きながら戦う榛名さんが、ちらりとこちらを見た。ほっとした顔をしていた。曙は額に一発かすったのか、顔の半分が真っ赤に染まっている。頭の怪我は浅くても出血がひどいから、見た目よりは軽い傷なのだろう。問題は榛名さんの方だ。

 

 敵の戦艦を見据える。ル級とタ級、揃い踏みと言ったところか。目立った怪我はない。砲の狙いをつけ、一発だけ撃つ。先に上がった艦載機よりも早く、僕の砲弾は弧を描き宙を舞って、ル級が右手に持った艤装に着弾した。砲塔が誘爆を始め、奴はそれを思い切りよく海へと投げ捨てた。いい当たりだったが、二度はないだろう。ル級が僕を見た。水色に光る目が僕を捉える。それがふい、と逸らされ、榛名さんと曙に向いた。そしてル級と僕が交わしていた視線の間に、タ級が横から入って来る。彼女が艤装を動かすのが見えた。僕は足を動かし、横移動に切り替える。ただ横に動いているだけでは狙われるので、斜め移動も取り入れる。当然、あちらは僕を射線に入れようと砲塔を動かす。だがそれではまだ足りない。僕の移動には、僅かに追いつかない。だから、タ級は上体を捻る。それで僕を射線に収め、発砲しようとする。彼女は僕と違って戦って生き抜いてきた。その狙いは正確だ。僕よりも相手を撃つのは上手いだろう。しかも艦種は戦艦、大威力大口径の砲が自慢と来た。ル級には火力で劣ると聞くが、それでも僕よりは高い筈。妖精のいない砲身が、微調整を終える。座学でも習った。この時代、防御力は火力のインフレに取り残されている。死ぬ時は一発だ。僕は首を回して、タ級の砲身を、その暗い砲口を見た。そこからは僕の死を運ぶ砲弾が撃ち出される──とでも思ったか?

 

「ひゃっはー!」

 

 遠くから友の叫ぶ快哉の声が聞こえる。ル級は、榛名さんと曙の二人が抑えていた。タ級の注意は、八割方が僕に向けられていた。頭の上に隼鷹による爆弾の雨が降って来るまで気づかなかったとしても、それは彼女の恥ずべきところではない。落ち度ではあるかもしれないが。

 

 遠慮のない爆弾がタ級に降り注いでいく。彼女にはそれを止める術がない。それが爆発する時、きっと水柱が彼女の姿を隠すだろう。いい展開だ。だが僕は油断しない。水を蹴って向きを変え、爆弾が落ちていく先へと向かう。「ちょっ、そりゃ危ないって!」と隼鷹が慌てるが、大丈夫だ。距離と速度は計算できている。爆弾の最初の一発が、転舵しようとするタ級の足元に落ちた。二発目が、左肩の艤装に当たって爆発した。三発目と四発目は、彼女のすぐ後ろに。爆弾の破片が僕の艤装に当たるが、表面を削るほどの勢いもない。五発目、六発目。水柱が立ち上がる。僕は足に力を込める。水の壁が伸び切った。僕は水面を蹴る。重力に従って薄まって落ちていく海水に体をぶつけて通り抜け、その奥で反撃を準備しようとしている深海棲艦の瞳を覗き込む。その緑の輝きが大きくなったことに気づく。僕は満足しながら叫ぶ。

 

「驚いたか!」

 

 速度は緩めない。僕はタ級に思い切りぶつかる。跳ね飛ばされそうになるのを、相手の体を掴んで耐える。奴は体勢を崩す。僕が奴を押し倒すような形で倒れこむ。僕は砲塔を動かす。彼女もだ。相手の方が少し早い。だがそこで問題だ。こう密着してて、タ級の艤装でどうやって僕を撃つつもりだ? 僕は体をよじって、彼女が戦艦の剛力で僕を突き飛ばすよりも早く砲口をあごの下に押し付け、斉射した。想像通り、タ級の頭は重巡の主砲の接射に耐えられるようにできていなかったようだ。

 

 首から上を失い、痙攣しながら沈んでいくタ級を押しのけて立ち上がる。戦闘機動に再突入しようとすると、丁度ル級が榛名さんの射撃で胸を撃ち抜かれ、仰向けに倒れたところだった。緩やかに水底へと沈んでいく彼女の目は、ずっと僕を追っていたように見えた。頭を振って、その考えを拭い去る。下らない妄想だ。それよりも、榛名さんを早く後方に戻さなければならない。かなりの量の出血をしている。高速修復材を使ったとしても、死人を蘇らせることはできないのだ。

 

 しかし、隼鷹が警戒の為に上空で待機させていた航空機が、こちらに接近してくる深海棲艦の艦隊を発見した為に、話は面倒なことになった。軽巡三に重巡リ級二、戦艦ル級一。どうやら、戦闘の喧騒が呼び寄せてしまったと見える。四人で撤退するか? その考えは即座に否定された。あちらの速度からしても、すぐに追いつかれて一方的に戦艦の長距離砲撃を受けることになるからだ。せめて、援軍が来るまでの時間を稼がなければならない。となると、選択肢は多くなかった。榛名さんが指揮を取れる状況ではない為、僕は隼鷹を見た。着任の順では違うが、艦隊の二番艦は彼女だ。彼女の指揮に従うのが筋というものだろう。隼鷹は自分の服を引き裂いた布を使って曙の頭の傷を手当してやりながら、考えているようだった。思いの外、包帯らしく巻きつけ終わってから彼女は曙に言った。

 

「さあ、これで暫くは大丈夫。榛名を支えて、一人で戻れるかい?」

「……あんたたちを見捨てて行けって言うの?」

「えぇ? まさか。榛名をドックに叩き込んだら、援軍と一緒にすぐ戻って来てくれよなって言ってるのさ。あたしらは連中を引きつけて、例の岩礁を盾にして粘ってるから。ほら、急ぎなよ!」

 

 曙と榛名さんが行った後、僕と隼鷹は迎え撃つ準備をしながら話をした。「かーっ、カッコよかったなあさっきのあたし! 自分に惚れちまったよぅ」「僕もだ。それで先に援軍を呼びに行った航空機は?」「んあ? もう向こうに伝わっててもいい頃だとは思うんだけどねえ……」「はあ、先が見えないな」「何だよー、怖気づいたのかぁ? パーッと行こうぜ! パーッとな!」「まだ酔ってんの?」「え? そんなことないよ、しらふだってぇ」笑い合って、それで少しマシな気持ちになる。ちょっと太刀打ちできない数の敵と戦わなければならないようだが、僕一人じゃあないのだ。弾数は心もとないし、手数も足りない。さっきは二対一で戦えたし、それまでに榛名さんが頑張っていたからこそ、戦艦も仕留められた。今度のは無傷で、元気なもんだ。軽巡なんか、陸に投げ出したら辺り構わず砲撃しながらぴちぴちと跳ね回るだろう。

 

 鍵は僕の雷装か。砲弾よりも威力があり、当たれば戦艦とて無傷では済まない。撤退を考えさせることもできるだろう。そうだ、別に僕らは敵を殲滅しなくてもいいのだ。僕ら二人を殺すことに裂かれる労力が、それで得られるものに対して割に合わないと思い知らせてやればいいのである。深海棲艦は凶暴だ。しかし向こう見ずではないし、決して愚かではない。戦略的視点というものを持っている。だからこそ僕たちと彼女たちは戦争をやっているのだ。おっと、法的に我が国が深海棲艦との交戦状態をどのように解釈しているかという話はここではしないことにしよう。僕は成年ではないので政治的な権利は一切持ってさえないし、二十歳を過ぎたとしても軍にいる限り政治に口出しする権限はない。文民統制という奴だ……賢い考えの一つだな。自律する軍なんて政治家の悪夢みたいなもんだ。

 

 隼鷹を岩礁に戻らせ、僕が敵を釣るつもりだったが、彼女は逆を主張した。装甲が薄い彼女にそんな役目を負わせる訳には行かないと僕は反論したが、隼鷹は航空機を放ち切った後の自分は戦闘の役に立たないから、例え負傷したりしても戦術的優位を失わずに済む、と言って譲らなかった。そして、軍は一つのことを徹底していた。上の者が言うことには従え、だ。僕は岩礁に戻らなければならなかった。不満だったが、その感情は敵にぶつけることにする。岩礁に腰を下ろして、隼鷹がいる方向を睨む。岩の一つに背中を預け、姿勢を固定する。那智教官は砲戦が海の上で行われることが多いという意見には賛同したが、海上戦だけが砲戦のやり方じゃないとも言っていた。時にはわざと陸地に上がり、偽装を施し、姿勢を安定させることで、より効率的に敵を撃破することができるものなのだ。僕は足を組んで作った台に砲を乗せた。乗せるだけだ、押し付けはしない。押し付けると砲は簡単に歪み、命中精度が下がる。あくまで、依託するだけだ。砲口のぶれを抑えて精度を上げるのが目的である。

 

 激しい砲声と爆撃の音が聞こえる。奴らが隼鷹を見つけたようだ。音は近づいてきている。水平線の向こうに、姿はまだ見えない。汗が額から鼻筋を通って垂れ落ちていく。何も見過ごすまいと目を開き、隼鷹の姿を待つ。空と水の境界の向こう側で、煙が立ち上るのが見えた。通常の艤装の排気か、それとも攻撃を受けて損傷しているのか? 心臓が体の中で跳ね回るのを、どうにかして止めようとする。精密射撃にとって、動揺は大敵だ。深呼吸をする。自分に大丈夫だ、などと言い聞かせはしない。そんなことをしても意味はない。精神は人間が歴史的に考えてきたことと違って、かなり機械的なものだ。正しい行動を取れば、正しい反応を返してくれる。僕は僕の落ち着き方を知っていた。訓練の中で知らされた、というべきか。プールに沈められた時、あるいは自分の至近距離に砲撃を受けた時、冷静さを何度も失った。それはつまり、どのように精神の平静を乱されるかということを何度も学んだということだ。それもまた機械と同じことだ。組み立てられるなら、分解することもできる。

 

 隼鷹の特徴的な跳ねた髪が見えた。顔には引きつった笑みが貼り付いている。発砲したくなるが、まだ敵は見えない。隼鷹がこっちに来るのを援護したいなら、全く正しい瞬間を狙って発砲を始めなければならない。早すぎれば連中に僕の存在を悟られ、アウトレンジからの砲撃に切り替えられてしまう。遅すぎれば先制の利を失い、相手に対応の時間を与えてしまう。見極めの難しい試みだった。だが……隼鷹は敵を釣るのに使う艦載機を少なめにしていた。奴らが、この程度なら強引に押し切って隼鷹を始末しようと考えるようにだ。それだけ自分の危険性が高まるにも関わらず、彼女はやったのだ。それもこれも、僕が自分の役割を果たせると信じてくれたからだろう。なら、僕はその思いに答えなければいけない。友達の期待を裏切ってしまうほど、僕の心を苦しませることはない。

 

 敵の姿が見え始めた。まっすぐに隼鷹を追っている。回避行動を取るまでもないという、余裕が見て取れる。軽巡二隻の姿がなかった。隼鷹が逃げ回りながらにでも沈めてしまったのだろう。僕は射角を計算した。砲戦というのは、数学的能力の高低が如実に表れる行為である。彼我の距離と移動速度、砲弾の描く弾道、その初速、着弾までの秒数、気圧、波による揺れ、ありとあらゆる要素を計算しなければならない。だが、戦闘の中でそれを行うのは難しい。それに、波による揺れなんて数式化するのはほぼ不可能だし、水上に立っている時には波がなくとも腕が揺れて狙いはぶれる。現実的じゃない。大体のところまでは計算して、後は勘で撃つものだ。そのせいで命中率が低いのだと言われればそれまでであるが、計算している間に沈むなんてことになったら、笑いも出ないだろう。ただ、今回はどうしても命中率が低くてはいけなかった。弾が少ないのだ。

 

 だから僕は岩礁に上がり、身を隠して岩に背を預け、足を組んで台を作って身体の揺れによるぶれを消した。隼鷹は上手く敵を引っ張ってくれた。奴らは直進を続けている。未来位置の予測をする上で、これほど楽なこともない。僕はその時を待つ。撃ち始めるべき時が来るのを待つ。

 

 今だ、と僕の中の那智教官が言った。



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「広報部隊」-3

 今だ、と僕の中の那智教官が言った。彼女を信じないで誰を信じられるだろう。僕は迷わなかった。彼女が指示した通りのタイミングで、発砲を行った。狙いは軽巡最後の一隻、数を減らすことを主眼においた砲撃だ。僕の数学力をフルに発揮した発砲は、見事に敵軽巡の装甲を貫いた。二射目、三射目を重巡や戦艦に放つが、彼女たちは素早く反応して回避行動を始めた。こうなると動いてないだけこっちの分が悪い。僕は急いで立ち上がり、辺りに反撃の砲弾が降り注ぐ中を海に飛び出した。岩を挟んで隠れ、腕だけ突き出して敵の概ねの位置に発砲する。当たることを期待していないので、使ったのは撮影に使う筈だった演習弾だ。どうせ海に落ちる分には区別がつかない。連中の動きを悪くできればそれでいい。隼鷹が僕の隣に戻ってきた。脇腹に血がにじんでいる。無傷では逃げ切れなかったらしい。大した怪我じゃない、と彼女は言った。元気そうなので、浅く切っただけなのだろう。

 

「あたしの方はカンバンだ。後は任せるからさぁ、しっかり守ってくれよ?」

 

 軽い口調だが、その声に緊張が混じっていることを聞き取れる程度には僕は耳がよかった。隼鷹の航空機隊は敵の対空砲火でその数を大幅に減らしつつあり、最早攻撃によって敵を撃破することにではなく、リ級の偵察機を使わせないことや、敵全体の意識を逸らさせて隙を作ることに主眼を置き始めていた。ありがたい手助けだが、いかんせん一対三の現状である。魚雷を放つことも考えたが、無駄撃ちになる確率が高い。それは許容できなかった。戦闘用の弾頭を装備した魚雷は、一斉射分、つまり魚雷発射管二つで六本しか持っていなかったのだ。魚雷を命中させることがどれだけ難しいかを考えると、六本持っているということと一本しか持っていないということに、大きな違いはなかった。千分の一が千分の六になったところで、慰められはしない。

 

 航空支援と演習弾で動きを封じ、実弾での攻撃を続ける。重巡の一隻に直撃したが、大破にまでは至らなかった。反対に、撃ち返された砲弾は僕の左腕を掠めただけで肉を薄っぺらく剥がして取っていった。痛みで体が固まりそうになるが、自分を叱咤して岩陰に飛び込む。僕の牽制がなくなったのを見て、奴らは近づいてきた。戦艦が僕らと岩礁そのものを挟んで真向かいに立ち、残り二隻の重巡は二手に分かれて回り込もうとしているようだ。まともにあれらを始末しようにも、同時にという訳にはいかない。一人は倒せるだろうが、もう一人をやる前に僕が戦艦に撃ち抜かれるか、隼鷹が二人目のリ級にやられるかだ。つまり、僕はまともじゃないやり方を取ってでも、重巡二隻を始末しなければいけない。それなら思いつくものはあった。何しろ、僕を訓練したのはきっと万人が度肝を抜かれるほどまともじゃない訓練教官だったのだ。

 

 僕は右腕の連装砲一門、それと足につけた三連装魚雷発射管を一つだけ残して、艤装を解除した。海上を航行する為の靴もだ。これで僕は海の上に立てなくなる。隼鷹は呆気に取られて見ているが、僕が諦めたとは思っていないだろう。諦めと楽観を捨てるのは、艦娘訓練所で誰もが通る道だ。僕らはあそこで、歯の一本や爪の一欠けでも残っている限り、両目が潰れ両足がもげ、腹に穴が開いていようとも、深海棲艦にとって甚大な被害を及ぼしかねない危険な存在になる術を学ぶのだ。そこに軟弱な感情が差し挟まる余地はない。那智教官は言った──「昔、私はある艦娘を見た。そいつは深海棲艦に撃たれて頭の四分の一が吹き飛ばされたが、それでも沈む前に自分を撃った深海棲艦どもを道連れにしていった。ここを出るまでに、お前たちも彼女のようになるのだ」そして僕はあそこを出たのだ。それは即ち、教官のお墨付きで、僕は話に出た艦娘の段階に達しているということである。まして彼女は頭を撃たれていたが、僕と言えば左腕をちょっと削られた程度の傷しかない。沈むまでもなく、今相対している敵をどうにかできるかもしれない。

 

 息を大きく吸う。時間は少ない。重巡二隻がお互いを射線上に発見すると同時にことを進めなければいけない。しかも、それは隼鷹を敵が発見するタイミングとほぼ等しいのだ。僕は海に入った。久々に、足首から上を海水に浸す感触を覚える。感慨に耽る間もなく、僕は水面下へと身を躍らせていた。砲と魚雷が重石になって手足が動かしづらく、水を掻いて浮力を手に入れることも難しい。進む速度は、僕が望むよりも遥かに遅い。それでもやり通さねばならない。やや遠くに、重巡の航跡が見えてくる。こちらに近づいてくる。僕は自分の位置と隼鷹の位置を思い浮かべ、リ級たちが互いを発見するであろう地点を推測した。そちらに向かう。息苦しくなってきた。反撃を待ち構えているル級やリ級が僕を先に見つけたら僕はどうなる? そんな考えが頭を巡る。知ったことかと言い返し、リ級の位置へと近づいていく。彼女は止まった。水面に、砲が装備された腕を上げようとするのが見える。僕は手を伸ばす。

 

 リ級の立場に立ってみると、こういう風に話が進んだのではないだろうか。まず、仲間と共に岩礁の向こうへと回り込んで追い込もうとする。警戒していた牽制射撃もなく、特攻じみた突撃もなく、順調にことが進んでいた。だが岩礁の陰には、軽空母が一人しかいなかった。あの発砲してきた敵は何処へ行った? 戸惑いながら彼女ともう一人の重巡は立ち止まって、逃げ場のない軽空母へと砲の照準を定めようとする。すると突然、足首に誰かの手が掛かった。体勢を崩して沈みそうになって、友軍を巻き込みかねない発砲を思い留まる。もう一人の重巡も、咄嗟のことに発砲を忘れる。そこを僕につけこまれる。

 

 僕は後ろからリ級の細い足首を掴み、全力で自分の体を水中から引き上げた。ざば、と音を立てて彼女の背後に現れた相手を、この場にいた僕以外の連中はどんな目で見ていたものだろうか。水上に浮き上がった勢いを使って、リ級の体を掴み、その首に左腕を巻きつけて締め上げる。反対側のリ級が砲の目標をこちらに変える。でも、僕が右手を振り抜いて発砲する方が早い。短時間とはいえ水に浸かった砲が撃てるかどうか自信はなかったが、どうにかなった。見つめ合える距離だ。外しはしない。二発の砲弾はどちらも狙い違わずリ級を捉えるだろう。砲の発射と同時に、ル級への雷撃も行う。腕の中の重巡がもがき、僕を振りほどくのに邪魔になる右腕の艤装を解除して肘打ちを試みる。僕は体を密着させ、腕に力を込める。そのまま首をへし折るつもりだったが、ル級がこちらに砲を向ける。仲間ごと撃つ気なのだ。

 

 反射的に、僕はリ級をル級へと突き飛ばした。発砲音、目の前のリ級の腹と背を破った砲弾がそこで止まる。僕は残りの艤装も解除してまた水面下に潜る。ル級は当てずっぽうに撃とうとするが、僕の雷撃を避ける為に動きながらだった。僕はそんな砲撃に当たるものかと思って油断していたのかもしれない。背中をハンマーで殴られたような衝撃が走り、僕は大粒の泡を思い切り吐き出した。意識が持っていかれそうになるのをこらえて、何とか僕は岩礁まで戻れた。這いずって水から顔を出すと、隼鷹が僕の腕を掴んで引きずってくれた。岩に擦れて痛かったが、文句や冗談を言う元気もなかった。座り込み、背中を見て貰うと、彼女が息を呑むのが分かった。ひどくやられたらしい。だがまだ生きている。考えを切り替えて、解除していた艤装を装備し直し、何かないか探す。

 

 浅いところに、僕に撃たれたリ級が倒れていた。死んでいるように見えるが、念の為に首を折っておく。人間や艦娘同様に人型の深海棲艦も、首を折られると死ぬ、という肉体構造上の欠陥を抱えているのだ。死体を自分たちのいるところに引きずり込み、足元に投げ出す。後はル級だけだ。でも、もう策も何もなかったし、思い浮かびもしなかった。ル級は警戒してか、動きを止めずにこちらの様子を探っている。あれは僕が海面下から襲ってくるかもしれないと学んだのだ。実際には、あんなことは力が同程度の重巡だからやれたのであって、戦艦を相手取って掴み合いをしたら、僕なんか首を掴まれて脊椎ごと引き抜かれてしまうだろう。血なまぐさいという点を除けば、まあまあいいトロフィーになるに違いない。しかし、僕は脊椎を衆目に晒して喜ぶほど歪んでいなかった。

 

 隼鷹の放っていた最後の航空機が撃墜された。僕は罵り声を上げそうになって、すんでのところで我慢した。それを聞いた隼鷹がどう思うか考えたのだ。気晴らしにもならない上、相手を傷つけるようなことはするべきではない。その代わりに、僕は生き残る道を探そうとした。曙はまだか? 援軍は? もういい加減こっちに向かっていてもいいだろうに、どうして来ない? 僕は最悪の想像をした。隼鷹の放った航空機も、曙も、榛名さんも、戻れなかったのではないかという想像だ。そもそもおかしいことが続いている。ここは陸地からそれなりに離れてはいるが、それでもこんなに立て続けに戦艦だの重巡だのと出会うような地域じゃない。深海棲艦側の大規模な軍事行動が始まりでもするのかもしれない。別の部隊が、戻ろうとする曙たちを襲ったなら、彼女たちは戦うこともできない間にやられてしまっただろう。航空機の一機ぐらい、しかも速度重視で回避なんて気にもしていなかったなら、運悪く撃ち落されてしまっていてもおかしくはない。この両方が起こったのだとしたら、僕らは九割詰んでるな。

 

 目の前にある問題や苦しみに対して、あるものでどうにか解決する、というのは、極東の伝統的な価値観で言えばささやかな精神的贅沢だ。洗練されきった貴人だけがたしなむことのできるその極みともなれば、およそ何もなしでことを片付ける、というところまで行く。残念なことに、僕らはそこまで風雅を解する身ではなかった。だが、五十路を迎えた光の君※8のごとく、そろそろ死ぬ心積もりをしなければならないということを悟っていた。

 

 これは諦めではない。諦めは逃避でしかない。現実から目を背ける為に行われるものだ。理解とは、悟るということは、受け入れるということだ。誰だったかが言ったように、許すということではない──僕は自分が死ぬなんてことを許す気にはなれない。そんな運命に追いやった全てのものを僕は憎むだろう。深海棲艦、天の巡り合わせ、上官、僕自身、ヘマやった奴、何でもだ。本当に理解するということは、受け入れて、その上で前進することなのだ。その方向や結末がどちらであろうと、問題ではない。僕は死ぬかもしれないということを受け入れた。そうして、それでも死にたくなかったし、死なずに済むにはどうすればいいかを考えることにした。

 

 鍵はさっきと変わらない。魚雷三本だけが、僕が沈められる前にあの戦艦を始末しうる、唯一の武器だ。砲はその足しにしかならない。決定打には力と数が足りない。魚雷を絶対に外すことなく当てるにはどうすればいいか。方法は三つ。天に祈る、止まっている目標に撃つ、直接叩き込む。天に祈るのは論外だ。まず僕が信じてもいないのだから、あっちもご利益を下さるとは思えない。止まっている目標に撃つ? いい考えだ! どうしてみんなそうしないんだろうな? 多分みんな飛びっきりの馬鹿なんだ……それか、敵が足を止めてくれないからだろう。直接撃ち込む? 単にトラディショナルなやり方であるだけでなく、変わらないロマンがある。それから手足の一本や二本が吹き飛ぶ危険性もセットでついてきてお得だ。まともに動ければこれを採択してたんだが。

 

 ル級が動き始めた。多少の危険を覚悟で僕らを潰しに来るつもりなのだ。彼女は拍子抜けするだろう。消耗した重巡一隻と、航空機を放ちきった軽空母一隻だ。そう手こずりはするまい。どう考えてみても、僕はやられる。それでも、もう一頑張りする価値はあるんじゃないか? 僕は隼鷹を見て思った。彼女は怪我をしていない。時間を稼げば逃げられるかもしれない。英雄的な犠牲だ。きっと故郷の公園に銅像や記念碑の一つでもぶっ立ててくれる。僕の志願を促す為に軍が大幅に増額してくれた手当てその他を貰って暮らしながら、父と母は毎日そこで涙を流すだろう。そして彼らを襲った恐るべき喪失を日常にしていくのだろう。

 

「隼鷹、立たせてくれ」

「何か、思いついたのかい?」

 

 そう言いながら彼女は手を差し伸べてくれた。掴んだその手は震えていた。彼女がアルコール中毒を患っているのでもなければ、それは恐れによるものだろう。彼女を臆病だとか、それ以外に思いつく色々な表現を使って謗ることは容易い。でも僕だって怖いのだ。震えが体に出るか、心に出るかの違いだ。僕は十五歳だった。彼女の年は聞いていないが、もう十分生きたという齢でないことだけは確かである。同じ恐れを共有する彼女を、守りたいと思った。それは隼鷹が女性だからではない。彼女が僕にとって、特別な相手という訳でもない。ただ彼女を沈ませたくないと思った。僕は死ぬということがどんなものか、かなり近くで見たことがある。小さい頃だが、それは僕の心に焼きついたように残っている。あんなものを体験するのは、人生を生き尽くして、死以外の全ての喜びと悲しみを知った後でいい。つまり、彼女にとって、今日であるべきじゃない。僕は海を指差した。

 

「行くんだ。回り道した方がいい。まだ敵がいるかもしれない。分かるだろう?」

 

 彼女は賢明な女性だ。酒が入っていても正しい判断を下すことができる、稀有な人格者だ。そして、軍人でもある。それが意味するところは、彼女は割り切って計算をすることもできるということだ。しかし薄情だということではない。彼女は僕より先に、自分だけで逃げるということを思いついていただろう。それでもきっと賭けていたのだと思う。僕がとても独創的なやり方を──戦艦を撃退せしめ、ここから彼女だけでなく二人揃って戻れるような案を、何処かから考えつくことに。だから、その賭けに負けた時、彼女は賭け金を支払ったのだ。彼自身がそう望んだことであったにせよ、自らの承認によって友人をここに置き去りにしたという事実を、背負うことになったのだ。

 

 ル級が隼鷹の動きに気づいて、回り込んでくる速度を速めたのが分かった。僕は体をどうにか敵の来る方向に向け、姿も見えない内から発砲を始めた。撃っているのは、他に使う当てもなくなった演習弾だ。実弾は残り数発しかない。岩礁の陰から、艤装を大盾のようにしながらル級が現れる。僕は実弾を撃ち込む。一発、二発、三発、四発、五発、六発。全部艤装の外殻で弾かれた。硬いもんだ。これと撃ち合って互角に沈められる戦艦型艦娘ってのは凄いな。外殻に当てても意味がなさそうだが、演習弾を撃ち続ける。奴は岩礁に上がり、一歩一歩近づいてくる。隼鷹はもう水平線の向こうに逃げただろうか。足の速い方じゃないから、まだ掛かるか。僕は撃つのを止めた。ル級が大盾の隙間から顔を見せ、僕が抵抗の意志を失っているのを見て、それを下ろした。砲は僕に向いている。いつでも僕を殺せる。「おい」と僕はル級に呼びかける。そして感情のなさそうな目を向けるそいつに、かつて彼女の友達だったのかもしれない深海棲艦の為を思って、一つだけ言ってやった。

 

「足元に気をつけろ」

 

 彼女はリ級の死体を踏みそうになっていた。艤装で視界が隠れていたから仕方ないだろう。彼女は大股でそれを跨いだ。ほう、こいつは驚きだ。仲間を踏まないというだけの社会性があるらしい。その割に、さっきはその仲間ごと僕を撃とうとしたが。ともかく、これで一矢報いることぐらいはできそうだ。眼前に立ち塞がったル級が声を出した。ノイズが混じったような耳障りな言葉が、僕の頭を揺らす。

 

「オマエ──」

 

 僕は魚雷を抱えたリ級の死体に向けて持っていた実弾の最後の一発を撃ち込んだ。触発信管が起動し、眩い閃光が僕を包む。閉じた目を開くと、少し離れたところにぼろぼろのル級が吹き飛ばされていた。うつ伏せになって、明らかに左腕が折れ、背中の煙突めいた艤装は影も形もなくなっている。僕は満足してそれを眺めていたが、いい言葉を思いついた。言う機会を逃す前に口にしておこう。

 

「気をつけろって言ったろう?」

 

 魚雷の爆発音で耳がイカれたらしく、自分自身の声すらちゃんと聞こえなかったが、今のセリフは相当キマった筈だ。それだけに、ここに隼鷹がいないことや、ル級がゆっくりと立ち上がったことが残念でならなかった。全く、戦艦のタフさには恐れ入る。つつけば倒れる程度に疲弊していはしないかと、演習用弾薬を撃ち込む。ダメだ、直撃しても軽くよろめくだけだ。万策尽きた。何も思い浮かばないし、せめて演習弾によるこの嫌がらせを続けようとする。ところが、最後まで僕はツイてないというか、何というか。今装填した分で、演習弾も最後の一発だった。どれだけ撃ったのか分かろうというものだ。顔にでも当ててやろうと、狙いをつける。脳震盪など起こして倒れてくれれば、という、愚の骨頂のような考えが脳裏を過ぎる。笑って、僕は人生最後の一発を撃ち込んだ。

 

 ル級の頭が吹き飛んだ。僕はぽかんとした。演習弾にそこまでの威力はない。頭のないル級が岩場に膝を突き、バランスを崩して倒れる。理解が追いつかないまま、僕は腕を下ろした。そしてふと誰かの気配を感じて、海の方を向いた。そこには艦娘がいた。そいつの後ろには、岩礁から撤退した時と同じ姿の隼鷹と、真新しいちゃんとした包帯を頭に巻いた曙が見えた。加賀と足柄もいる。僕はこちらに近づいてくるその艦娘を見て、笑おうとした。何が何だかよく分からん時は、とりあえず笑っておけばいいのだ。その姿を見て、今や互いに言葉を交わせる程度まで近づいた僕の救い主は、抑えきれない不快感を込めて、吐き捨てるように言った。

 

「無様だな」

 

 そういう初対面だったので、僕はこの戦艦長門という艦娘が最初っから苦手だった。

 

*   *   *

 

 僕が予想した最悪の展開は、そこそこ当たっていた。隼鷹が送った航空機は撃墜されていたようで、とうとう陸地に辿り着くことはなかったのだ。そして、曙と榛名さんが襲われたのも考えた通りだった。違ったのはここからだ。二人は命からがらでもその攻撃を切り抜けて、出張所の工廠に入るや否や意識を失ってぶっ倒れたのである。工廠の人員はただちに彼女らをドックに入れ、治療を始めたが、二人は倒れるまでに僕らのことを話すことができなかった。工廠や出張所の連中に分かったことは、近海に有力な深海棲艦の一隊がいるようだ、ということ程度だった。彼らは大慌てになった。もしこちらに攻め込んで来たら、広報部隊の艦隊を除いて防衛能力などほぼ皆無に等しかったからだ。そして、その広報艦隊の内、二隻は意識不明、二隻(由良とイムヤ。同じ仕事で一緒にいたらしい)は出張所を離れていて、もう二隻(僕らのことだ)は行方不明。あちこちに連絡して、急いで防備を調えようとした。その喧騒の中で、彼らは僕たち二人を探すことを忘れてしまっていたのだ。

 

 冗談ではなく、それは実際にそうだった。一応「僕たちを探せ」という命令は出たらしかったが、だがその命令を受けたのは誰か? そういう話になると、ある者は別の誰かの名前を挙げ、その誰かはまた違う人の名前を挙げる、という有様だった。僕らは本当に、忘れられていたのだ。思い出させてくれたのは、曙だった。榛名さんよりも比較的傷が浅かった彼女は、治療が終わるとすぐに出張所の連中に全てを話してくれた。ただ彼らも、最初は救援を送ることを渋っていたらしい。幾ら史上初の男性艦娘の為と言っても、自分の命より大切かと言われると、彼らとしても答えに詰まるものがあるのだろう。それは納得できる感情だ。そこで曙は、出張所の防衛に加わっていた、他の鎮守府などに所属している艦娘を勝手に頼った。それがあの長門たちだった。付け加えるなら、彼女らはあの“サーカス”艦隊所属だった。戦闘風景撮影の仕事の後にやる筈だった、イベント共演時の打ち合わせの為に、彼女らの提督と共にこちらに来ていたのである。

 

 その提督は、好意で出張所の防衛に協力しているという立場だった。つまり、気分次第で適当に理由をつけて防衛をやめることもできた。曙の言葉に耳を貸してくれた提督は、そのことを盾に出張所と短く交渉し「侵攻してくる可能性の高い深海棲艦の一隊を迎撃する」という名目で長門・加賀・足柄の三隻を送ったのだった。そして曙と彼女たちは途中で隼鷹を見つけ、僕のところに辿り着いたという訳だ。僕が治療や検査の合間に少しずつ聞いた話では、そういうことらしかった。

 

 わざわざ救援にまで来ておいて、長門がああも僕に辛辣だった理由は分からなかった。受けなければならない診療の多さによって直接会うことはできなかったので、彼女とも上手くやっている隼鷹に感謝の手紙を託したのだが、返事は来なかった。自分自身に向かって何と言うべきかは知らないが、これはもう間違いなく僕が持っている何らかの要素が、多くの艦娘には気に入らないところなのだと思う。それが僕の性別であったならば、もう僕に打つ手はない。というか、それは僕のせいじゃない。それを理由に僕を嫌う艦娘側が悪いと思う。でも、僕が知っている艦娘たちは、そんなつまらない存在ではなかった。これは直感でもあり、またそうあれかしと僕が願っていることの一つでもある。妖精たちの言うことを信じるならばだが、艦娘は旧海軍の軍用艦の船魂が元となっているのだ。それが、性差別などという克服されるべきものに囚われているのを見たくはない。しかし同時に僕はこうも思う。旧海軍の軍用艦の船魂なら、現代の価値観と食い違っているのも仕方ないだろう、と。ま、本当のところは分からない。僕が悪いかもしれないし、僕を嫌う彼女たちが悪いのかもしれない。もしかしたらどちらも悪いか、その逆なのかもしれない。いずれ分かることもあるだろう。様々な謎があるものだが、その中で僕らが生きている間に解明することのできるものなど、ごく僅かなのだ。

 

 だからこそ嬉しいことに、今回の一件で分かったことが一つあった。僕は知らない内に艦娘に嫌われることが割と多いけれど、努力や縁次第でそれを変えられもする、ということだ。曙は口を慎むようになった。クソ重巡とは言わなくなったし、理不尽な絡み方をしてくることもなくなった。それでも罵りを受けることはあったが、それは僕が筋の通らないことを言ったりやったりしてしまった時だけだった。イムヤや由良は僕を避け続けているが、物事は急に変えようとするものじゃない。何でも、ほどほどにやっていくということを覚えなくてはいけないのだ。

 

 しかし、ほどほどにやる、という観点から見ると、あの戦いは実にそこから外れたものだった。僕たちは広報艦隊であって、戦闘部隊ではないのだ。それが近海まで来ていた深海棲艦を撃退したということで、海軍内の狭い範囲では騒ぎもあったらしい。近海警備がなっとらんと憤る連中や、お飾り部隊に手柄を立てられて歯噛みする連中、逆に「海軍で一番下らない艦隊にいた艦娘たちでさえ、かくも立派な艦娘だった」と馬鹿にしてるのか褒めているのか分からない評価を下す連中……僕は自分が艦娘であって、提督でなかったことを感謝しそうになった。なれたかどうかは微妙なところだが、もし提督になっていたら、僕はそういった人々に囲まれて仕事をしなければいけなくなっていたのだ。あいつらは大抵、口で言っていることと腹で考えていることが違う奴らだ。信用には値しない。はっきり言って、会いたくもなかった。だから、僕が検査入院の後に彼らの前で戦闘の詳細報告を行うことになったと聞いた時には、かなりげんなりした。ただでさえもう十分に元気な体を病室で持て余していたというのに、その後にはあの日自分が何をやったかを一つ一つほじくり返されなければならないのか? まるで僕が悪いことでもやったかのようじゃないか。

 

 僕はふてくされていたが、軍もそんなことはお見通しだった。彼らは僕のご機嫌取りに、最も効く薬を投入した。見舞い客だ。北上と利根は何処からか僕が戦闘で負傷したという話を聞きつけており、手紙を送って来ていた。その中には彼女たちの優しい心遣いが詰まっており、僕の返事にはそんな彼女たちへの深い感謝が込められていた。検閲で軍はそれを知り、呉と宿毛湾に圧力を掛けた。二人に休暇を与え、見舞いに行かせるようにだ。これがベテランの艦娘だったら、困ったことになっていたかもしれないが、幸いにして僕らはまだまだ新兵だった。いなくなっても、そこまで戦力に穴が開くことはない。それで、向こうの提督は上層部に逆らう意味もないと判断して、二人に休みを与えたのだった。

 

 彼女たちは、降って沸いたようなその休みが特定の意図を持って与えられたものであることを把握していた。そして僕のところに来てくれた。北上は大井まで連れていたが、これは北上が彼女を僕に会わせたかったからなのか、大井がどうしてもついていくと言い張ったのか、僕にはとうとう判断がつかなかった。二人はそのどちらとも取れるようなことを言っていたし、直接訊くような失礼な真似をする理由もなかったからだ。僕らは戦闘の時のことについて敢えて触れないようにしながら、色々な話をした。その様子から察するに、北上と大井はまだ負傷らしい負傷をしたことがないらしい。立派なことだと思う。大井は訓練所時代の北上の話を聞きたがったので、僕は北上が機嫌を損ねない程度に、できるだけ沢山のことを教えてやった。面会時間一杯に僕らは話をして、とうとう退出しなければならなくなった時、北上は戸口で振り返り、数ヶ月前に見たのと変わらない和やかな微笑みと気の抜けた声で別れを言った。その耳には僕の左耳にあるのと同じピアスがつけられていた。そして大井は昏い瞳でそれを見ていた……利根は僕ではなく北上に四つ目を渡すべきだったのかもしれない。



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「広報部隊」-4

 利根は北上が来た翌日に僕の病室に来て、彼女とニアミスになったことをしきりに残念がっていた。利根の耳にもピアスが輝いていて、僕がそれを見ていると、視線に気づいて四つ目のピアスを渡す相手は見つかったかなどと言われた。僕は曖昧に答えを濁したが、ちゃんと友達はできたという話はした。それから、工廠の整備員から回収していた隼鷹と僕の写真を見せた。手紙を送った時、同封するつもりだったのを忘れてしまっていたのだ。北上には直接見せることも忘れてしまったし、後で送っておかねばなるまい。利根は僕が広報艦隊でも仲良くしているのをそれで確認して、ほっとしたような様子を見せた。どうも、訓練所時代に世話を焼いた経験から、僕は彼女にとって弟的存在にでもなっているように思える。そこに来て更に宿毛湾で沢山の妹たちの面倒を見たことで、姉力が鍛え上げられてしまったのだろう。友達に心配や迷惑を掛けるのは忍びないが、それでも何かと面倒を見てくれたり、気に掛けてくれる相手がいるというのは気持ちがいいものだ。

 

 それからまた話をしたが、宿毛湾泊地は戦闘任務が多いらしく、利根はもう結構な経験を積んでいるようだった。僕が今回受けたよりも深い傷を負ったことだって、何度もあったというのだ。「吾輩の腕、これ何本目か忘れたぞ」「修復材すげー」「全くじゃ。すげーというか怖いの!」僕らは妖精という謎の存在に心底恐怖し、彼らもしくは彼女らが一体何者なのかということについてあれこれと意味も何もない憶測を話し合った。そして僕らは恐るべき暫定的真実に到達した。心が寸刻みにされるような想像上の事実に触れた僕らをこの孤独、苦痛、悲哀、畏怖、諦念から救ってくれるものは宇宙に存在しないだろう。だが馬鹿話は楽しかったのでよし! 利根は「また来るぞー」と言いながら帰っていった。

 

 とうとう退院とお偉方への報告が明日になったある日、二度目の見舞い客として隼鷹が来た。このところ彼女も僕に先立っての戦闘詳細報告などで忙しくしていて、最初の一度っきり会ってもいなかったのだ。疲れた顔をして、髪の毛にはいつもの艶がなかったから、その忙しさたるや尋常なものではなかったのだろうと推測もできた。「帰って寝ろよ」と僕は言った。疲れで倒れたりしたらと思うと心配で仕方がなかった。彼女は笑ってその言葉を無視し「明日の報告の練習、やってないだろ?」と言った。僕は言葉に詰まった。事前練習をしておきたいとはずっと思っていたからだ。既に経験した彼女が手伝ってくれるなら、こんなに心強いことはなかった。

 

 結局、僕は疲れているにも関わらずここまで来てくれた彼女に甘えることにした。僕は一つずつ話をした。隼鷹と洋上に出て、岩礁を目指すところからだ。言うまでもないことだが、隼鷹の飲酒は黙っておいた。僕も二口ばかり飲んだ共犯者だし、そんなことを報告したら僕はともかく彼女がどんな罰を食らいこむことになるか、分かったものではない。よくて営倉行き、悪ければ……愉快な話じゃない。余計な想像はやめておこう。僕が黙っていれば済むのだ。それに軍に入る時、僕は戦友と上官への忠誠を形式的に誓ったが、密告屋になる誓いなんか決して立てなかった。これからも立てることはないであろう。

 

 隼鷹は時々僕の話を止め、質問をした。その中には「お前は分かってるだろう?」みたいなこともあったが、僕が話すのは隼鷹にじゃなくて上層部連中だ。一から説明してやらないと分からないこともあるのだろう。そういう具合で練習を進めていたのだが、話が終わり際、ル級を魚雷の罠に引っ掛けてやった時のことになると、急に隼鷹は怖い顔になってこちらを制止した。僕はぎょっとなって口を閉じ、どうしたのかと思って説明を待った。

 

「あのル級が喋ったって?」

「ああ。まあひどい発音だったけど僕に『オマエ』って言いかけてた。驚くことか? 座学でちらっと話に出てたけど、深海棲艦も喋るんだろ?」

「……そうだよ、鬼級以上はね。とにかく、そのことは黙っとくんだ。ありゃ確かにル級だった。それが喋ったとなると、面倒なことになる」

 

 そこで隼鷹は、表情を変えようとした。普段の明るい顔を演じようとしたのだ。彼女が疲れていなければ、それに成功していただろう。失敗の後、気まずそうに彼女は言った。「まぁ、大したことじゃないけどさ。一応……ね」僕らはお互いにそれ以上何も喋らなかった。隼鷹が帰ってから、僕は自分の記憶が正しいのかどうかを考えた。あの時、本当にル級は喋ったと思う。何とも言えないひどい声だったが、僕はそれを聞いた。隼鷹はそれはおかしいと言う。喋るのは鬼級や姫級などの、深海棲艦の指揮官格だけだと。

 

 だがあのル級がもし鬼級深海棲艦だったら、僕はあそこで死んでいた筈だ。深海棲艦の指揮官は、その採用条件に指揮能力だけでなく単体での強さも恐らく加えられているのだろう、やたらと強い。話では、空母なのに砲戦でこちらと比肩するような者もあるらしい。訓練所を出て以来、ろくに実戦経験を積んでいない新兵にどうにかなる相手ではない。そもそも、あの日深海棲艦の一隊相手に隼鷹と二人で挑んで勝てたのも、本来あり得ないほどの奇跡的なことなのだ。それが自分のやったことであるが為に、実際それがどれほどのことなのか正確に把握できないでいるだけで、これがもし別の誰かがやったことを伝え聞いたのだったら、僕はその話を眉唾物だと断じていただろう。きっと上層部も信じられないのだ。だから、詳しい話を僕から聞いて、どうにかそれが事実なのだと受け止めようとしている。基本的には、軍は現実主義者の集まりだ。そうでなければ遅かれ早かれ立ち行かなくなることは、歴史が何度も証明している。

 

 しかしそうなると僕の扱いは、ル級の言葉を聞いたことを言わなくても面倒になりそうだな。海軍は一人でも多くの艦娘を必要としている。敵は多く、兵士は何人いても困ることがないというのが現状だ。有能だと見なされれば、広報艦隊から引き抜かれることになるだろう。僕とてそれを望みはしている。ここは僕の居場所じゃない。俳優になりたくて軍に入ったんじゃないんだ。生きて、よりよいことを成し遂げる為にそこへ行こうと思ったんだ。僕を助けてくれた艦娘が今も生きているかどうかは分からない。彼女はもう死んでいるかもしれない。平均寿命は彼女の生存をやんわりと否定している。だが、もしも生きていて、僕を見て、あの時の子供だと彼女に分かって貰えた時、彼女が僕を救ったことを誇らしく胸に感じて欲しいのだ。彼女が救った僕という命が、今やもっと沢山の人々の命を守っているということを、心から誇りに思って欲しい。その為には、広報部隊ではいられなかった。

 

 でも、折角できた友達とまた別れることになるかもしれないのは残念だった。隼鷹はただただ、いい奴だとしか言いようがない。榛名さんも落ち着きがあって優しかった。彼女の気遣いに何度助けられたか分からない。曙は……まあ、根っから悪い奴って訳じゃなかった。それに、僕たちはもう貸し借りなしの間柄で、「お前」「あんた」と呼び合う戦友だ。幸せに生きたいなら、いつまでも過去に囚われてるべきじゃない。

 

 翌日、僕は海軍本部に召喚された。椅子に座らされ、向かいのテーブルには顔も名も知らない軍の高官やら、辛うじて名前は知っていた公式戦史家がいる。へえ、あんな顔してるんだな。僕は緊張で視線をあちこちに動かした。壁際に立っていた、僕を案内してきた士官たちの顔は例外なくこう言っていた。「今すぐあの小僧が座っている椅子に座れるなら、俺は何だってしてやるぞ!」一介の兵士である僕にはよく分からないのだが、どうもこの椅子には特別の名誉があるらしい。戦史に名前や自分の功績が記載されるということに、そこまでの喜びがあるものだろうか? どう考えてみても、僕には分からなかった。公刊戦史はちょっと目を通しただけだが、あんなものはただの本に過ぎない。そんなものに取り上げて貰いたがっている海軍のエリート士官たちが、僕には滑稽に思えた。お陰で、あの日のことの報告が始まっても余裕があったし、質疑応答にはマシな受け答えを考えるだけの冷静さも生まれた。

 

 僕はできるだけ無味乾燥な報告をするように心がけた。単に生き残ったことを含めて、自慢できることは山ほどあったと思う。リ級二隻を沈めた時のことや、ル級に大損害を与えてやった時のことはもちろん、それより前にもだ。しかし、周りの連中が僕をやっかんだりしている時に、敢えて彼らの敵意を煽ってやらなくてもいいではないか? 特に、僕に彼らを黙らせるだけの後ろ盾や力がない時には、そうだろう。戦史家は僕の言い方が気に入らなかったのか、何度も質問をして、僕から彼の気に入るような何かを引き出そうとした。その度に僕は彼の機嫌を損ねることを覚悟して、あったことを控えめに伝えた。考えるにつけて、このことは正しかったと思える。大体が、僕があそこでやったことというのは、計画の上でのことなどではなかった。マズい状況に巻き込まれ、生き残る為に、必死でその場その場を切り抜けただけなのだ。あれが当初からシナリオ通りだったのなら人に自慢したって罰は下らないだろうが、びくびくしながらがむしゃらにやって、分の悪い賭けなんかして、それにたまたま勝ったからといってまるで実力で生き延びたかのように自慢するのは……何と言うべきか、長門の言葉を借りる訳ではないが、無様だ。

 

 戦史家は結局、彼の粘り強い質問に対しても貫かれた僕の頑なな態度を、どうにかしようとするのを諦めた。その次に、僕に対する転属の打診が始まった。具体的にここに行かないか、あそこはどうか、などと聞かれた訳ではない。彼らは僕が少々ユニークなやり方で注目に値する戦果を上げたことに言及し、その能力を別の場所で活かさないか、と尋ねたのである。僕は即座に首を縦に振ろうとして、そこで思い留まった。それから、質問の許可を求めた。彼らはこれを慎重さの表れと取って許してくれたようだったが、僕の心はもう決まっていた。質問は一つだ。その「別の場所」に、もう一人分の空席はないかというのが僕の問い掛けだった。

 

 実のところ、これは本当に質問でしかなかった。「悪いがないな」と言われれば僕は「そうですか」で終わっていたのだ。でも彼らはそう思わなかった。その、何だ、上層部の連中の悪い癖だ。人の言葉を額面通りに受け止められないという、悲しい性である。だがそのお陰なのか、僕とそのもう一人が希望するなら、一緒に同じ艦隊へと転属してもいいというお許しを貰った。それで話は決まりだった。

 

 部屋を退出する時、お偉方の一人が──その人は周りと比べるとかなり若い女性だったが──僕を見て「では、また」と言った。やれやれ、彼らはまだ僕から話を聞きたいことがあるようだ。

 

 その後、僕は真っ先に出張所の隼鷹のところに行った。もちろん、彼女が本当に広報部隊の一員でいることを嫌がっているのであれば、僕と一緒に転属しないかと持ちかける為だった。彼女は彼女の仕事、国民に軍への寄付を求めるCM撮影をしている最中だった為、僕は暫く待たなければいけなかった。その間に、何人もの人々から話しかけられた。どうやら僕は休んでいる間に、すっかり英雄か何かに祭り上げられてしまったらしい。病室にテレビはあったが、もっぱら暇潰しとして映画を見るのに使っていて、ニュースなんか一つも見ていなかった。映画を見ていない間には、手紙を読むか書くかしていた。ただ、親の手紙は遂に届かなかった。検閲で通らなかったらしいのだ。何通も不許可になったものだから、とうとう検閲官が僕に手紙を送って寄越した。彼は言っていた。「あなたのご両親は、今もあなたのことを大変に愛していらっしゃいます。彼らはただ、あなたが傷ついたことで動揺しているだけなのです」僕はそのことを書き添えて、両親にもうすっかりよくなったから心配しないで欲しいと手紙を送った。返事はないが、届いたものと信じている。きっと二人は僕の選択を認められなくても、やがては受け入れられるようになるだろう。

 

 僕に話しかけてきた内の何人かは、有名人に引き寄せられただけの害もなければ益もないような人だった。僕は適当に彼ら彼女らと話を合わせ、握手をし、望まれれば一緒に写真も撮った。サインだってしてやった。広報艦隊を出ることを決めているとはいえ、所属上はまだ、僕は広報部隊の艦娘だ。仕事は責任を持って、きちんと果たすべきだろう。そういった考えの下で、広報艦隊の艦娘として、僕は恥じるところのない仕事をした。その後に来た人々はちょっと違った。海軍通常部隊勤務の兵士たちだ。気取った言い方をすれば、いわゆる海の男である。彼らは海軍の兵士らしく、短い賞賛と完璧な敬礼で僕の業績を称えてくれた。彼らは、深海棲艦との戦争が始まってすぐから艦娘が実戦投入されるまで、人類の為に海を守り続けようとし、深海棲艦の侵攻を可能な限り遅めようとした名もなき英雄たちである。艦娘に海上での活躍の場を譲り、今は警備・哨戒を担当させられている彼らにとって、今回の出来事は胸のすくような思いだったに違いない。同じ男が、深海棲艦に対しては役立たずだと思われている男が、あれだけのことをやったのだと。だが彼らは自分勝手に、僕を男性の代表のように思って自己満足に浸っていた訳ではない。彼らの態度には間違いなく、自分たちより遥かに年の若い子供たちに国防を担わせる残酷さを厭い、悔やみ、情けなく、申し訳なく思う心が表れていた。

 

 隼鷹の仕事が終わり、僕は彼女に手を上げて挨拶をした。最後に見た時と違って、疲れた顔はしていなかった。化粧の為だけではなく、あの後ちゃんと休めたのだろう。彼女は笑顔で挨拶を返し、僕らは一緒に移動を始めた。こんなところで切り出す話ではないので、まず何処かに誘うことにする。「隼鷹、この後は?」「オフだよ。今……午後七時かぁ。メシ行って飲みに行くにはぴったりじゃん、付き合えよー」手間が省けた。僕は快諾して「汗掻いたから着替えてくるわ、門で待ち合わせな」という彼女と別れた。そのまま門に向かおうとして、自分も少し汗を掻いていることに気づく。これはいただけない。急いで僕は部屋に戻り、備え付けのバスルームでシャワーを浴びた。服を着替え、財布を持って早足で移動する。門のところにはまだ隼鷹は来ていなかった。よかった、待つのはいいが待たせるのは好きじゃない。

 

 門のところの衛兵が僕を見て会釈した。僕も返礼しておく。このところ、周りの人々の態度が変わることが多くてついていけない。だが悪い方向に変わったんじゃないんだし、じきに慣れるだろう。僕が門についてから数分したところで、隼鷹もやって来た。連れ立って門を出て、街へと向かう。歩いて行こうかと思っていたが、隼鷹が飲む前から酔っ払ってふらふらし始めたので、僕は急いでタクシーを見つけて一緒に乗り込んだ。いつも行く店の名前と場所を告げ、そこに向かって貰う。隼鷹の様子があんまりにあんまりなので、運転手が自分の為に買っていた未開封のミネラルウォーターのペットボトルをくれた。お礼を言って受け取り、それを隼鷹に飲ませる。自分で持とうともしないので、僕がボトルを支えて傾けてやらなければならなかった。どうでもいいが、水を飲む時に白い喉がこくこくと動くのは結構目に毒だ。

 

 運転手が気を利かせて揺れないようにゆっくりと走ってくれたこともあって、店に着く頃には彼女の調子もまともな受け答えができるほどに戻っていた。僕は彼に料金と水代を払い(彼は断ろうとしたが貰ってくれるように頼み込んだ)、隼鷹を座席から引っ張り出した。けらけら笑って意味のない抵抗を見せる彼女を引き続きぐいぐいと引っ張って、店内に入る。そこは酔っ払った状態でも他の客の迷惑にならないような、個室のある店だ。店員は僕と隼鷹を一目見て了解し、速やかに部屋を用意してくれた。部屋前の縁に座らせ、靴を脱がせてやる。まるで介護だな、と僕が言うとあごに一発貰った。酔いで加減ができていないようで、かなり痛かった。まあ、僕も彼女の女性としてのプライドをいたく傷つけるようなことを言った自覚はある。お相子としよう。

 

 掘りごたつに腰を下ろし、水を二杯飲ませると、ようやく彼女は落ち着きを取り戻した。僕は蹴られたところを撫でさすりながら言った。

 

「食べる前から飲みすぎだろ」

「スキットルにまだ残ってるの気づいちゃってさあ、悪かったよう、痛くない?」

「痛い、めっちゃ痛い。砕けたかも。あー痛いわー」

「ざまあ、次ババア扱いしたら喉蹴ってやんよ。んで、何頼む」

「おい喉は流石にやめろ、とりあえずビールで」

「えぇー? ビール苦手な癖にぃ。そのせいで割と毎回あたし開幕二杯じゃん」

 

 結局、僕らは好き勝手に頼むことにした。あれやこれやと並んだ料理を、どちらが頼んだかなど気にせずに食べる。その合間に、最近の話をする。酒を筆頭とした楽しいことにしか興味がないと取られがちな隼鷹だが、これで結構世の中の動きに通じている。誰とでも仲良くなれるから、色々なところから普通は聞けないような話が転がり込んで来るのだろう。しかも、彼女は生来の感覚でその手の話の中から胡散臭いものを弾き出してしまうことができた。僕は自分の生きている間にもし戦争が終わったら、彼女をアドバイザーに据えて会社でも起こしてやろうかと考えた。酒代だけで会社を傾けてしまわないか心配だが、それさえクリアできれば大企業にものし上がれる気がする。

 

 僕はよく冷えたビールを喉に流し込んだ。法では未成年の飲酒は許されないことになっているが、艦娘は別だ。身体能力の向上により、どんなにへたばった艦娘でも全く健康な二十歳の人間よりも強い肝臓を持っているのである。飲酒の年齢制限は未発達の肝臓がアルコールに対処し切れなかったせいで、身体の健康な発達を阻害してしまわないように、という理念の下に作られたものだ。従って、艦娘に飲酒の制限がなされないことも道理であった。それに、もし禁じていたとしても飲む奴は飲むものだ。戦争というのは途轍もないストレスである。僕なんか、戦闘に出る前から悪夢を見ていたほどだ。出てからは余計に頻繁に見るようになってうんざりしている。酒がないとやっていられない、と考える艦娘が大勢いるのは、不思議ではない。だができれば飲む時には楽しく飲みたいものだ。この苦い自由の味!

 

 訓練所では自由などなかった。なるほど、確かに僕は夜間にこっそり起き出して水上スケートをやることもできたし、みんなが外出している間に対空射撃の訓練をする自由もあった。那智教官に殴られたり脅されたりすることを甘んじて受け入れるなら、どんなことだってできた。つまり、ほとんど何もできなかったってことだ。訓練の合間、仕事や課題などに追われていないなら余分に休むことができたが、その程度のものだった。訓練所の中を出歩く自由さえしばしば制限され、ベッドの上以外に出ることを禁じられた者もあった。それは那智教官がその制限された候補生に対して、殴りつけるほどではないが腹に据えかねていることがあって、彼女がそれを是正するまでは他の候補生と交わらせる訳にはいかないと考えているということを、端的かつ実際的に表現していたのだった。

 

 僕は訓練所にこっそり禁制品を持ち込んでわいわいやった、あの日のことを思い出した。あの時は、まさか自分が広報部隊に行かされるとは思ってもいなかったっけ、と心の中で一人ごちる。と、隼鷹がジョッキを傾けながらこっちを見ているのに気づいた。「何だよ」彼女のまっすぐな目で見られるとどうも居心地が悪くて、僕は身じろぎをした。彼女はふっと笑って、首を振った。それからジョッキを見事に乾かして「次は何飲もっかなー」とメニューを見始めた。僕はさっき見つめられていたお返しとばかりに、彼女の様子を眺めていた。あの戦闘の前に、ここに食べに来た時と同じ姿だ。この姿がまた見られてよかった。またここに来られてよかった。そんなに思い入れがある店じゃないが、またここで食べられてよかった。僕は胸の奥から戦闘の恐怖が今更に蘇ろうとするのを、ビールを流し込んでどうにか止めた。

 

「おおっ、いい飲みっぷりだねぇ。そっちも次行っちゃう? あたし芋焼酎頼むけど」

「じゃ麦……いや米で。米あったよね」

「了解! 注文、行っちゃってー!」

 

 そんなことを言いながらタッチパネルで注文を飛ばす彼女を見て、こいつ注文一つ黙ってできないのか、と冗談でほんの少しだけ思ったが、率直に言ってこの騒がしさも気に入っている。ただ声を出すだけで相手を元気付けることができるという特別な才能があるとしたら、それはまさに隼鷹が持っているものだった。たまには彼女の口から声じゃなくて吐瀉物が出てくることもあるが、それはご愛嬌だ。むしろ、珍しくテンションの低い隼鷹を見ることができる貴重な機会だと思うべきだろう。

 

 一時間半ほど飲み食いをして、僕たちは店を出た。隼鷹は僕よりもハイピッチで飲み続けていたのに、店に来た時よりもずっとしゃんとしていた。一体、飲み残しだけで彼女をべろんべろんにさせてしまうという、あのスキットルに入っている酒は何なのだろう? 僕が飲んだ時にはウィスキーっぽい味がしたが、度数はそこまで高くなかったように思える。まさか、アルコールの作用を強めるようなものを服用しているとか? 世の中にはそういうものがある、という話は聞いている。気をつけて見ておかなくてはなるまい。

 

 二軒目はパブにした。パブと言ってもイギリスの伝統的なスタイルの店じゃなく、元々はオーセンティックバーだったところなので、ちょっと小ぢんまりとしていて僕と隼鷹の好みに合ったのだ。カウンター席に六、七人、それから二人掛けのテーブル席が二つと、壁際に四人から五人が座れるL字型ソファー席。いい店だ。マスターは気さくだし、料理もおいしい。パブってこともあって酒はビールがメインだけれども、何種類かそれ以外の酒だって置いてあるし、カクテルだって材料があれば作ってくれる。一つ欠点を言うなら値段ぐらいか。しかし、安くはないが、どうせ他に大口の金の使い道なんてないんだ。艦娘になる前、僕は何に金を使っていただろう? 覚えているのは、本、音楽CD、それからちょっとだけゲーム……そんなところだ。何を買うにもずっと悩んでからだったし、時には悩みに悩んで買わないということもあった。今では欲しくなれば買える身だ。稀覯本? 限定アルバム? ゲームの特典付先行予約? いいだろう、こちらにはそれなりの用意がある。でも、それらを楽しむ時間や余裕は足りない。上手くできてるもんだ。

 

 ソファー席に、四人の若い男たちが陣取っていた。僕らは彼らの賑やかさを避けるように、カウンターの端に席を取った。隼鷹はまたビールを頼み、僕はジンを頼んだ。ライムを入れようかと思ったが、最初の一杯はジュニパーベリーの香味をそのまま楽しむことにした。暫く、ソファー席の連中の喧騒をBGM代わりに、僕たちは気まずさのない無言を分かち合った。それはここに来た時に僕たちがまず執り行う、神聖な儀式のようなものだった。心を落ち着かせ、ゆったりとした気分になる為の、気持ちのよい沈黙だ。それは友達同士でだけ生み出して、共にすることができるものである。もちろん、居酒屋か何かと同じように四六時中ぺちゃくちゃと喋くっているのもいいだろう──それは個々人のスタイルの問題だ。でもそういう余り騒がしいのは、とにかくここでの僕らのやり方じゃないんだ。口を閉じることを知らない奴らが彼ら彼女らの唾を空中で混ぜ合わせている間、僕は隼鷹のような同じ志の持ち主と、肩を並べてカウンターに腰を下ろし、静かに吐息を混ぜ合わせる。それだけで軽薄な空気は去り、僕は和やかになり、肩の力が抜け、友達同士の打ち解けた話をするのに適した具合になるのだ。

 

 僕らは同時に一杯目を飲み干した。隼鷹はロックでスコッチを頼み、僕はさっきと同じジンを使ってジンライムを作って貰った。順番に出てきたそれをお互い一口飲んで、カウンター上のコースターに乗せ、ふう、と息を吐く。準備はできた。僕は話を切り出そうとした。

 

「転属するんだって?」

 

 だが、隼鷹の方が早かった。まあいい、どうせ関係する話だから、適当なところで話を繋げられるだろう。僕は頷いて、彼女の問いに答えた。「いいねえー、広報から前線って中々ないんじゃね?」「何でも前例ぐらいあるもんさ」グラスを取り、更に一口中身を口に含む。舌の上で転がし、ぴりぴりとした感触を楽しんでから、喉を通す。深い呼吸で鼻に抜ける香りを楽しむ。そんな僕を見て、隼鷹が笑った。「十五歳だっけ」「十五歳だよ」「見えない」「かもね。そっちは何歳?」「秘密ー」だと思った。もう一口飲む。早く言わなければ、という焦りはなかった。急がなくても、最高の一瞬を選べる……いや、選ぶという言い方もおかしいか。僕が彼女に話を振った時が、時期として最高の一瞬になると分かっていたからだ。

 

「何日か前に、また単冠湾の隼鷹から手紙が来てさ」

 

 僕は黙っていた。彼女との会話には相槌が必要ない時もある。

 

「飛鷹が負傷したって言ってた。死んではないけど、もう退役するんだって……手紙も書けないぐらいだから、あっちのあたしが代筆してくれたんだよ」

 

 喜ぶことじゃないが、物事の明るい面を見るなら、戦死する危険はなくなったということだ。艦娘が名誉を失わずに前線を退くには、二つの方法がある。戦死するか、戦闘不適合と判断されるかだ。欠損した右腕が修復材で直せなくなった那智教官は後者に当たるが、何も肉体的損傷でだけ不適合扱いになる訳ではない。戦うという行為は、精神を磨耗させる。これは、多くの人間がこれまで沢山の戦争を戦ってきたが、その中で確認された事実だ。どんなに鍛え上げられた兵士でも、長く戦えばやがては心が折れるものだ。

 

 ポール・ファッセル※9という兵士は、自らの従軍経験から前線における兵士の精神状態を次の三段階に分類した。※10「俺が戦死するなんてあり得ない」から「俺が戦死する可能性は大きい。だからもっと気をつけていなくては」に変わり、最終的には「このまま行けば俺は絶対に戦死する。それを避けるただ一つの道は、前線にいないことだけだ」となる。そして最終段階に到達してしまった兵士は、最早いかなる力を以ってしても彼の任務を果たさせることができなくなる。それを防ぐ目的で兵士を定期的に後方に戻らせ、精神の傷を癒す時間を与えるようになったのは、割と最近の話だ。しかしそういう仕組みが作られても、癒しきれない心の傷に人類は苦しんできた。ましてや艦娘は大半が実年齢二十歳にもならない少女の集まりである。精神的に虚弱であることは明らかだった。

 

「あいつが同期で最後の友達だったんだ。軍に残ってるのはあたしだけになっちまったよ。でもそれはよかったんだ。もう、あたしの知らないところで友達が死ななくなった訳だから、むしろほっとしてたんだぁ。けど」

 

 彼女はグラスに口をつけて、琥珀色の液体を口の中に入れた。それはここにいる時の隼鷹がいつもどのように飲んでいるかを知っている者にとっては信じられないほど、乱雑な飲み方だった。彼女は、懇願の光を宿らせたその目で僕を見て、言った。

 

「勝手なこと言ってるってのは分かってる。広報部隊が嫌だってのも、十分に分かってる。ああ、友達にこんな頼みごとするなんて最低さ。分かってるんだ。だけど、だけどさあ、もう……嫌なんだよう」

 

 自分の頭の重さに耐えかねたように、ゆっくりと彼女は俯く。僕は言葉が出て来ない。彼女が抱えていたものの重さは、僕がひょいと肩代わりしたり、捨て去ってしまえるようなものではない。それは彼女の人生そのものだったのだ。喪失の苦しみを負わされた人間は、それを食べ物のように受け入れて消化してしまうようなことはできない。心に開いた穴は、虫歯のように詰め物をして済ませることはできない。ただ慣れることしかできないのだ。喪失が日常になり、苦痛が日常になって、自分が最期を迎えるその時までその痛みを受け止め続けるしかないのだ。

 

 ほとんど全力で、僕は彼女の肩に置きそうになった自分の手を押さえつけた。そんな恥知らずな同情はできなかった。彼女は、隼鷹は僕の友達なのだ。理解しているような素振りをして、彼女を侮辱するようなことはできない。喉から声を絞り出す。

 

「ごめんよ、でも……行きたいんだ」

 

 隼鷹は反応しなかった。やがて、彼女は顔を上げた。そして悲しそうな微笑を浮かべて「まぁ、仕方ないよねぇ」と呟いた。彼女は話をそこで終わりにしようとしていた。だが、僕は友達にそんな表情のままで酒を飲ませるつもりはなかった。

 

「だからさ、僕と一緒に転属しないか?」

 

 その時の彼女の顔と来たら!



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「第二特殊戦技研究所」-1

“茫漠たる灰の海が広がり 彼方に波が暴れる※11
 思えば友よ、遠くまで来たものだ
 われらの故国から”  ──19世紀ロシア民謡


 僕と隼鷹の転属が正式に決定し、様々な書類の作成や引継ぎの準備を一通り済ませたら、僕と彼女は簡単に別れを告げてさっさと行ってしまうつもりだった。残される人々には、後ろ足で砂を掛けたようなものだと思っていたからだ。彼ら彼女らの気持ちを傷つけない為にも、僕は目立たず早めに姿を消した方がいい、と考えていたのである。しかし隠し事というのはできないもので、どのようにしてか榛名さんと曙は僕ら二人がそういうつもりでいることを暴きだし、ちゃんとしたお別れをする為に、その身勝手な考えにストップを掛けた。榛名さんは滅多にその立場で使うことを許されている権利をかざしたりしないが、この時ばかりは例外らしかった。そういう嬉しい理由で、僕らは出発の予定を一日ずらすことになったのである。

 

 転属祝いと言っても、広報部隊を挙げてのものにはならなかった。僕が考えていたように感じている職員たちも多かったし、相変わらず僕とイムヤ、それに由良は親しい間柄ではなかったからだ。だからあの日、一緒に戦った四人だけでのちょっとした集まり、というのが実際のところだった。しかし、僕にはかえってその方がありがたかった。好きでもない相手におべっかや社交辞令を言うというのは中々の苦痛だし、そうと分かっていて言われる側だっていい気分にはならない。いっそ、いなくなって清々する、と言われた方がこっちもすっきりするだろう。

 

 榛名さんはこの集まりの為にわざわざ手間を掛けて料理まで用意してくれた。出来合いのものではない、手作りの料理だ。僕は料理をしないが、それでも料理について幾つかのことぐらいは知っている。よい料理というのは、大抵が面倒で、時間と絶え間ない献身の両方を要求するものなのだ。そして彼女はこと献身という美徳については、有り余るほど持っていたのである。曙の方は自分にできることを考えた結果、自分の為に使えただろう給金の一部を割いて、種々の飾りつけや、彼女が思いつく限りの親切でかさばらない贈り物を用意してくれた。対して、僕と隼鷹が持っていたのはアルコール類だけだった。僕らは大いに食べ、飲み、歌い、また飲んだ。再び会えるとは限らなかったからだ。僕らはそういうところに行くのだと、その場にいたみんなが理解していた。

 

 翌日の朝七時、僕と隼鷹は二日酔いの頭で僅かな荷物を持って宴会場にした僕の部屋を出た。片づけをしていくつもりだったが、榛名さんと曙はそれを自分たちのやることだと主張し、頑として譲らなかった。僕らの後に来るのが誰かは知らなかったが、もし僕の部屋を引き続き誰かが使うとしても、安心して使えるだろう。二人の細やかさは筋金入りのものだからだ。顔を青くしながら出張所の門を出たところで、僕たちは後ろから呼び止められた。

 

「どもー、すいません、ちょっとお尋ねするんですが、海軍本部付広報部隊の出張所というのはここでいいんでしょうか?」

 

 その声に振り返った僕は重い頭を動かすのがつらかったので、目だけ動かしてそいつが首から提げた仮の身分証を見た。きっと僕らと入れ替わりに配属される新米か何かだろう。僕は地獄の底から響いてくるような不機嫌な声で答えようとして気づいた。「青葉?」「あれぇ?」それは同じ訓練所で苦しみを分かち合った後、手紙のやり取りによって友情を培ったあの青葉だったのだ。もし二日酔いじゃなければ、僕は彼女と抱きしめあって久闊を叙したいところだったが、生憎とそんな元気はなかった。向こうも酒臭い男に抱きつかれたくはなかっただろう。更に考えてみれば、友達は友達でもそこまでの間柄じゃなかった。

 

 青葉の話はこうだった。彼女はずっと広報部隊に行きたいと思っていて(これは、実戦部隊で力を発揮したいと思う艦娘もいれば、広報部隊でこそ自分の才を発揮できると信じる艦娘もいるということであって、青葉が戦場から逃げ出したがっていたという意味ではない)、毎週二通の嘆願書を送りつけていたのだが、海軍本部当局はこれにほとほと手を焼いていた。官僚主義という伝統的に受け継がれてきた精神性によって、毎回きちんと手続きをした上で却下の書類を郵送しなければならなかったからである。当局は何度か青葉がもう二度とそんな手紙を送れないような処分を下してやろうとしたのだが、その度にそれに基づいて海軍本部がその権威を保証されている法律によって、彼女の嘆願を妨害することはまかりならんと跳ねつけられてきたのである。これには海軍本部も困り果て、とうとう都合よく空いた広報部隊のポストに青葉を放り込んで、それでおしまいという形にしたのだった。

 

 僕は急いで荷物から紙とペンを引っ張り出そうとしたが、それよりも早く青葉が彼女のメモ帳とボールペンを貸してくれた。そこに榛名さんたちへの紹介状をしたためて、持たせておく。そうすれば青葉は、少なくとも榛名さんと曙の二人からは受け入れられるだろう。彼女が艦隊に溶け込む最初の一歩、その一助となれたなら、僕としては幸いである。

 

 友人にいいことをしてやったという気持ちになって、僕は気分が少しマシになった。青葉と別れ、無言でぼーっとしていた隼鷹を促して、転属先からの迎えが来ているという場所に急ぐ。規定の時間まではまだあるが、何で時間を取られるか分からない。常に最悪を予想するべきだ。そうすればそれに備えることができるし、楽観という人間の生得的な病を発症した人々が苦しんでいる時に、彼らに「だから言ったのに」と哀れんでやることもできるというものである。

 

 待ち合わせ場所の駐車場に着いてみると、予定時間よりも十五分早かった。いいタイムだったが、迎えはそれよりも先に到着していたようだった。軍らしい圧力のある黒塗りのセダン車のドアが開き、女が現れる。それは僕を無様だと嘲ったあの長門だった。僕の転属先というのはあの“サーカス”艦隊を擁する部隊だったのである。彼女たちはイベントにも顔を出すことがあるだけで、普段は通常の任務に従事しているという話だった。

 

 僕は長門との再会に顔を歪めたかもしれないが、二日酔いで元からひどい顔だったに違いないから、あっちは気づきもしなかっただろう。彼女は『クソ面白くもなさそうな』と形容するに相応しい仏頂面で「転属希望者だな?」と言った。僕らはどうにかそれを肯定することができたが、そのことで長門に対して一欠けらの感銘でも与えられたようには思えなかった。彼女は変わらない鉄仮面を被ったまま、僕らに荷物をトランクへ積み込むように命じた。ここまで歩いてきたせいで隼鷹の顔色がかなりヤバかったので、彼女の荷物まで僕が処理しなければならなかった。僕は心の中で長門に文句を言い、彼女を手酷く罵った。助けて貰ったことを忘れた訳ではないが、いついかなる時でも理性的で、相手のことを思いやることのできる慎み深い人間でいられるほど、僕は大人じゃない。

 

 後部座席に自分の体を押し込んで、それでどうにか人心地ついた。長門は運転席に戻り、エンジンを掛け、車を動かし始める。長門──日本の戦艦型艦娘の中でも有数の戦闘能力を誇る長門型のネームシップであり、モデルとなった艦は姉妹艦の陸奥と共に、当時世界のビッグセブンの一柱として称えられたという、大和に並んで日本の象徴となりうる艦であり、艦娘だ。その力強さは深海棲艦との戦いにおいても変わらないものであり、全国の鎮守府や泊地所属の提督ごとに、ほとんど必ず一人、多いところでは二人以上所属していると聞いている。また、艦隊の主力になれる実力を持つ艦娘ということもあって需要は大きく、長門への適合者を身内に持つ家族は手厚い保護などを受けるそうだ。

 

 他にも訓練所で聞いた、面白い話がある。ある深海棲艦融和派の一団が、パーティーに長門の一人を招いた。彼らはその長門を始末して、海軍に嫌がらせをしてやるつもりだった。しかし、戦艦型艦娘は人間が力で殺せるような相手ではない。そこで彼らはワインに即効性の毒を盛り、それを彼女に飲ませることにした。下にも置かない歓待ぶりにすっかり気分をよくしていた彼女は、差し出された大きなグラスになみなみと注がれた毒薬入りワイン、それはもう比率的にはワイン入り毒薬と表現するべきものだったそうだが、それを一息にぐいっと飲み干した。融和派は陰謀の成功にわあっと歓声を上げ、長門はさっと顔色を変えて一声叫んだ。「うまいワインだ!」※12

 

 訓練所では、その融和派の一団や長門がそれからどうなったかは語られなかった。だがそんな蛇足を付け加えるまでもなく、この話だけで長門という艦娘の強さを推測することはできるだろう。そして、その推測はどんなものであれ、常に間違っているのだ。実際の彼女は、そんな噂話の他に何も知らないような連中が考えるよりも遥かに有能で強力なのである……ただ個人の職務に関する有能さとその性分に相関性がないことは、諦めて受け入れざるを得ない事実だった。

 

 無論、長門が常に同じ性格を有する訳ではない。あらゆる艦娘は、大筋では同一の精神性を持つ。だがその細部に宿るのは彼女自身の魂だ。彼女が何を見て、何を知り、何を行ったか、何を行われたかで、全くのところ変わってしまうのである。探せば酒嫌いの隼鷹もいるだろうし、北上を憎む大井もあるだろう。この長門は、僕を蔑むことを不思議に思わなくなるような何かを経験して来たのだ。それが何かは僕に分かるようなことじゃないし、知ろうとも思わない。詮索すれば余計に彼女の悪意を招くことになる。今彼女から与えられている量だけで、およそこの身に受ける軽蔑なる感情は足りていた。それに、誰かを嫌うというのは疲れることだ。僕だって長門のことが好きじゃないが、彼女をやたらと疲れさせてやりたいと思うほど嫌ってもない。生来、僕は人好きな方なのだ。他人を傷つけるようなことを言うのも苦手だ。その方が健康にもいい。

 

 だが軍において上官や先任は、部下や後任の者に対して不遜に振舞う権限があるし、そうすることを推奨されてもいる。ある種の行き過ぎない不遜さは、威厳を強化しもするのだ。形だけの権勢だけでなく、彼ら彼女らは、実際に説明もなく己の欲するところを行うことができる。そうだ、配下の者の命すら左右することができ、時にはその命を奪って賞賛されることさえある。臆病者を銃殺したり、反乱を鎮圧することによって勲を得た者の例は、枚挙に暇がない。僕には、自分が一人の艦娘であり、言ってみれば兵卒でしかないことが幸せに思えた。上の言うことにはとりあえず従っておけばいいし、仲間とは敬意を持った付き合いができる。そう考えてみれば、一体誰が好き好んで出世しようなんて思うだろうか? 正装につける一本二本の線や、星の一つ二つの為に、あるいはつまらない肩書きなんかの為に、どうして余計な苦労を背負い込むんだ?

 

 車内では一切の会話が交わされなかった。隼鷹はいびきを掻いて寝ていて、残っていた二人は不仲だった。前を見ているとバックミラーに写った長門と目が合い、僕はすぐに逸らした。睨めっこを楽しむ余裕はない。代わりに僕は、隼鷹のだらしない姿を観察した。服がはだけるようなことにはなっていなかったが、何しろ酒が抜け切っていなくって、いびきがはっきりと聞こえるほどだ。婦人の眠る姿には美しさが宿るものだが、この寝姿には何らその手のものがなかった。口を閉じ、鼻をむずむずさせるのを止めれば、絵画的に鑑賞することさえできるだろうというのに。しかし、僕は見ていて飽きないのを感じていた。それは、彼女の姿に美しさがなくとも、彼女は何人たりとも認めることを避けられない事実として、現実に美しいからだった。隼鷹を知る誰もがそれに賛同するだろう。知らない者は、初めこそ否定する筈だ。それでも、やがてふと彼は僕が感じるのと同じものを彼女の中に見るだろう。ただ最初の一瞥では、彼がそれに気づけなかったというだけの話なのだ。本当の女性の美しさとは、目に入れてすぐさま悟ることのできるような表面的なところには存在しないのである。

 

 彼女を見ている内に、僕もうつらうつらとし始めてしまった。運転席に長門がいる手前、寝入るのも気が引けるし、それに彼女の前で自分の無防備な姿を晒したいとは思えなかった。加えて、僕もいびきを掻いてしまうかもしれないと考えると、僕は寝る訳には行かないぞと自分を引き締めざるを得なかった。だから車がいきなり止まったことにびっくりして、辺りを見るとさっきまで見ていた風景と全く違う様子であることにまた驚かされた。僕の意志では、眠気に勝てなかったらしい。気まずい思いをしながら、降りるように命じられて僕と隼鷹(僕より先に目を覚ましていた)は車から出た。背を伸ばし、硬直した体をほぐす。ぽきぽきという音と、軽やかな心地よい痛みが体内に走る。荷物を下ろして、案内を務める長門の後ろに続く。まずは荷物を置いてから提督に着任の報告をする、という段取りだった。僕らは車を止めた駐車場から少し歩いて、庁舎に向かった。鎮守府と聞いて大勢が想像するような赤レンガではなく、地方合同庁舎のような現代的建築理念に基づいた建物だった。

 

 庁舎の中を通り抜け、隣の建物に向かう。そこには艦娘の為の寮が建設してあった。建物はそれなりの大きさなのだが、その割には艦娘の姿は見えない。移動の途中、一度だけ艦娘の一人と擦れ違った。駆逐艦の響だ。彼女は僕らと長門を見て、案内役殿にお決まりの敬礼をすると、まるで敬虔な僧侶が裸婦画の前を通り過ぎる時のように、目を伏して行ってしまった。「彼女は第一艦隊の所属だ」と長門が職務上の責務を怠慢したとして弾劾できないギリギリのところまで中身を削った説明をした。隼鷹が曖昧な声で相槌を打った。まだ頭の中がぼんやりしているのだろうか。ある部屋の前で長門は立ち止まり、そこが隼鷹の部屋だと言った。そしてその隣が僕の部屋と決まっていた。風紀的に問題ではないのかと思ったが、一々それを僕が言うのもわざとらしいし、嫌疑を掛けられかねない。僕は黙って荷物を自分の部屋に置いた。最低限の家具しかない部屋に押し込むだけだったので、時間にして十秒も掛からなかった。踵を返して、庁舎の方に戻る。

 

 僕の個人的なイメージでは提督の執務室は庁舎の上の方にあるものだったが、ここでは一階にあるようだった。長門が重々しい木の扉をノックして彼女の名を告げると「勝手に入れ」という女の声が返ってきた。僕はその声に聞き覚えがあった。あの気の進まない戦闘報告の後で、僕に直接声を掛けて、また会うだろうと予期させたあのお偉方の一人だ。提督だったのか? 僕に再会を匂わせたのは、ここに来ることが分かっていたからか。納得しながら、僕は長門に続いて執務室に入った。そこには提督の執務机を挟むようにして二派に分かれた、多くの艦娘たちがいた。僕から見て左には加賀、足柄、羽黒、川内が立っている。右には吹雪、伊勢、日向、妙高、それからさっき見た響だ。顔合わせの為に呼ばれたのだと思いたかったが、それにしては部屋の空気は険悪だった。特に左の方からはひしひしと拒否を感じられた。僕が何処に行ってもこれは付きまとうらしい。

 

 長門は加賀の隣に行ってしまった。残された僕は、猛烈な居心地の悪さに逃げ出したくなりながら着任の報告を済ませた。隼鷹がその後を追って、同じ内容の報告を済ませる。提督はその時初めて僕たちの方を向いた。それまでは執務机から見える窓の様子を眺めていたのだ。顔が動いたことで窓から差し込む日光が彼女の顔を照らし、それが直接当たった左目が反射して輝いた。義眼だ……それだけではない、彼女の左手は肘から先が義手だったし、立ち上がってこちらに歩いて来るには杖を突き、しかも右足も義足で、わざとらしく引きずっていた。僕は努めて提督の持っていないものが全部でどれだけあるのか確かめないようにしようとした。しかし、恐らく彼女が持っているもので二つ揃っているのは、耳と鼻の穴ぐらいだっただろう。

 

 彼女は自分の異形を僕に見せつけて楽しむかのようにたっぷりと勿体をつけて執務机の前まで来ると、傲慢で歪んだ人間性の気配をあらゆる所作から漂わせながら、言った。

 

「第二特殊戦技研究所にようこそ」

 

 色々な人に話はしっかりと聞いていたから、来るところを間違えたとは思わなかった。下調べをほったらかさないくらいには、僕だって疑り深くなっていたんだ。ここは第二特殊戦技研究所、艦娘の為の戦術、並びに戦闘技術を研究開発し、実践し、データを集める為の部署であり、艦隊だ。従ってその任務は戦闘的な性格を否応なしに帯びることとなる。最初、転属の打診が来た時に僕が行くのだろうと思っていたような場所じゃなかったが、実戦部隊には変わりない。隼鷹もそれは納得済みだった。

 

「早速だが、配置を言い渡す。お前」

 

 提督は隼鷹を指差した。彼女が姿勢を正すと同時に「第一艦隊だ。秘書艦」という指示が出る。吹雪が……いや、吹雪秘書艦が「こちらに」と言って、日向たちの方へと隼鷹を招く。僕は嫌な予感がし始めていた。そしてそういう予感はよく当たるものだ。提督が今度は僕をじろりと見る。そこに僕への悪意はない。多分彼女は、誰に対してもこんな目を向けるのだろう。「お前は第二艦隊に行け」やっぱりな、と僕が心で愚痴りながら命令を拝受しようとすると、長門が一歩前に出た。何か言いたいことがあるのだろうが、それがどんなことかは考えずとも分かった。

 

「提督、個人的に言わせて貰いたいのだが」

「却下だ」

 

 にべもない提督の言葉に長門は一瞬鼻白んだが、すぐに気を取り直した。「では第二艦隊の旗艦を務める身として、第二艦隊の代表として言わせて貰おう。この男を我が隊に加えることに賛同しかねる」提督は面白そうな顔をした。僕はと言えば、青くなって縮こまってしまっていた。目で隼鷹に助けを求めるが、彼女に何かができる訳もない。考えのない行動で彼女を傷つける前に、僕の方から視線を外した。それにしても、段々と僕に対する拒否が大きく、根深いものになっていってないか? 訓練所の時は避けられたり、手紙を取り上げられたりするだけだった。広報部隊では、忌避と暴言、それに軽い暴力だった。ここでは一体どうなるものだろうか。少なくとも、曙が僕を後ろから蹴飛ばした時のように、我慢すればそれで大きな被害もなく片付く、ということはないと思う。考えてもみるがいい、長門に後ろから全力で蹴り上げられたら、僕なんかきっと吹っ飛んでしまう筈だ。尻に到っては六倍にも膨れ上がるだろう。ただでは済まない。

 

 提督は杖でこつこつと床と叩いて「命令拒否か?」と訊ねた。僕はその時、ようやく彼女が提督の象徴的衣装とも言えるあの白い制服を身にまとっていないことに気づいた。それまでは気が動転していて、彼女が何を着ているのかにまで考えが回らなかったのだ。彼女は黒のスラックスを履き、真っ白なシャツを着て、その上から薄くて安っぽい紺色のジャケットを着込んでいた。ネクタイは締めておらず、第一ボタンは開けられていた。彼女の身体的欠損がなく、ここが執務室でなければ、僕は彼女を提督だとは絶対に思わなかっただろう。提督の言葉を受けた長門は、心外だという風に胸を手で押さえて言い返した。

 

「そうではない。第二艦隊は現在のところ、補充の必要がないと伝えたいだけだ。これは私たちの総意であるだけでなく、第一艦隊の賛同も既に取りつけてある。そうだな、吹雪秘書艦?」

 

 秘書艦は頷いた。それぞれの艦隊で旗艦を務める二人の協調に、提督は冷ややかな声で答えた。

 

「ふーん、私には今の主張と命令拒否の違いが分からんが、そこまで言うなら多数決を取ろう。彼が第二艦隊勤務に相応しくないと考える者は挙手しろ」

 

 僕と隼鷹、それに提督を除くその場にいた全員が手を上げた。提督はその数をわざわざ声に出して数える。「……八、九、十。賛成十に反対一か。反対が優勢、提案は却下する。クーデターは失敗だな」僕も長門も渋面をあからさまにしたが、彼女はもう逆らわなかったし、僕は加賀に睨まれて思わずすくみ上がったので表情なんか全部消えてしまった。「ただしその意見を鑑みて、この男は差し当たり第四艦隊常勤とし、必要に応じて第一艦隊及び第二艦隊に出向の形で参加するものとする」僕は提督が付け足したこの命令が意味するところを理解するのに、少し考えなければならなかった。この『必要に応じて』という言葉が曲者だ。こいつは世間で解釈される時と軍で解釈される時では、重みが違う。民間では、僕はお定まりの仕事をして、特に僕が要求される状況になるまで楽をしていられる。だが軍では、上官の思いつく限りの何もかもが僕を働かせる為の『必要』に変わるのだ。このまま行くと、第一艦隊でも第二艦隊でもこき使われる可能性を許すことになる。僕はぞっとした。広報部隊でも休みはきちんとあったというのに。

 

 だがここまでこじれた話を、僕がこの状況からどうにかできる訳がなかった。

 

「もう文句はないな? では解散とするが、その前に秘書艦、その軽空母にまっすぐ立つ方法でも教えてやれ! ふらついてるぞ……ああ、そっちの新入りは残れ、話がある」

 

 提督にじきじきに指名されて、逃げ出す道を封じられる。僕は他の艦娘たちがぞろぞろと部屋を出て行くのを、心細い気持ちで見送った。提督は億劫そうに杖を使って椅子まで戻り、腕の捻りに反応して物を掴むことのできる精巧な義手で器用に机の引き出しを開け、小さな袋を取り出して机の上に置いた。僕は彼女がそれを僕に渡す為に残したのかと思っていたが、違った、彼女はその袋を片手でがさがさと開き、中から錠剤を二粒と布切れ、それに剃刀の刃を取り出した。それはどう考慮してみても、法で規制されているもののことを僕に思い出させて仕方なかった。余りにも彼女が堂々とその錠剤を刻み始めた時には、てっきり僕が嗅ぎタバコを違法薬物と勘違いするような類の間違いを犯しているのかと考えたほどだ。

 

 しかし注意深く僕は黙っていた。何処にでも、そこでの独特なやり方というものがある。彼女が何を楽しんでいようと、彼女自身の仕事をこなしていられるなら、それに口出しする理由はない。彼女の人生だ。転属初日に提督がそんなことをしているのを見せられた衝撃は計り知れなかったが、そう考えて折り合いをつけることはできた。隼鷹には黙っておくべきだろうか? それとも彼女にも知る権利があるだろうか。迷ったが、言わないでおくことにする。こうまで隠そうとしない提督なら、遅かれ早かれ知る時が来るだろう。その時、隼鷹がどんな選択を下すのか、見てみたい気もした。提督が刻む手を止めて、僕に尋ねた。

 

「お前、ビッグセブン相手に何やった? あれがああまで他人を嫌うとはな」

「何もしたつもりはありません、提督」

「だろうよ。実のところ、確かにお前は何もやってない。なのに何故第二艦隊から嫌われていると思う?」

 

 考えるふりをする。思いつくことなんてない。僕は彼女たちを面と向かって侮辱したこともないし、個人的に諍いを抱えた覚えもない。あちらから突っかかってきたんだ。だから僕もつんけんした態度を取らざるを得なかった。人は鏡のようなものだ。思いやりを持って接すれば、あちらもそれに同じもので応じてくれる。残念ながら、必ずではないが。善人の苦痛や悲しみを自らの喜びにするような腐った連中は、何処にでもいるものだ。

 

 ああ、だが、そうすると一つだけ残る考えがある。僕ではなく彼女らにしがらみがあるとすれば、話は分かりやすい。

 

「前任ですか?」

「ご明察」

 

 となると、間が悪かったことを除けば、やっぱり僕に罪はないのだ。前任と仲がよければそれだけ、彼女を失った後にやってくる後任を受け入れることは難しくなるものだ。しかも、長門はその前から僕を無様だと断じて、蔑みの目で見ていた。そんな相手を失われた戦友の代わりにしろと言われたら、反発もするだろう。

 

 不愉快な音と共に、提督は刻み終わった錠剤を鼻から吸い込んだ。目をぱちぱちさせて、刺激に酔っている。僕はしげしげとその様子を観察した。薬物乱用者を見るのは初めてだ。この先、見る機会があるかどうかも分からない。眺めたって金を取られはするまい。提督は生身の手で自分の鼻を揉み、鼻腔に付着した薬剤の粉末を粘膜によく擦り合わせた。「暫くは大人しくしていろ。これ以上、私の艦隊でいざこざを起こして欲しくないからな。その内に落ち着くだろう……おい戸口のお前! 入って来い」そこで彼女は突然大声を出した。てっきり薬でハイになって幻覚でも見ているのかと思ってびくりとしたが、そうではなかった。執務室のドアががちゃりと開いて、冷めた顔の駆逐艦、響が姿を現す。

 

「何だい、司令官」

「盗み聞きをするな。それと、この新入りを秘書艦の代わりに案内してやれ」

Так точно.(了解) そうしよう」

 

 響が僕には理解できない言語と耳慣れた日本語の両方で返事をすると、もうそれで話は終わりだ、という風に提督は僕に向かって手を振った。敬礼をして、執務室を出る。執務室にいたのはごく僅かな時間だったにも関わらず、僕は体がずしりと重く感じられるほど疲れていた。響が澄んだ、しかしその奥を見通せない深い瞳で僕を見つめて言った。

 

「こっち」

 

 てくてくと歩いていく彼女に置いていかれないよう、体に鞭打って歩かせる。まあ、駆逐艦と僕とでは歩幅が違うから、そこまで苦労することもなかった。艦娘寮があったのとは逆の方向に行くと、食堂に出る。時間は昼時から少し過ぎた程度だった。微かな食事の香りに、空腹を感じる。「食べていくかい?」という響の気遣いを、断ることはできなかった。お勧めされたセットの食券を買い、よそって貰って、席に腰を下ろす。響は、と見ると、彼女もまた軽食とジュースを買っていた。第二艦隊の面々と違って、第一艦隊は僕に含むところはないようだ。それとも、響が特別なのだろうか。彼女には不思議な雰囲気があった。静謐な、神聖とも言うべき落ち着きを持っていた。彼女は僕の向かいにサンドイッチの皿とオレンジジュースの入ったグラスを持って座った。「いただきます」と僕らの小さな声が重なり、僕は箸を取って食事を始めた。ところが響は、小さな水筒からジュースのグラスに透明な液体をとぽとぽと入れ始めた。

 

 僕らが艦娘であるという前提がなければそのフラスクを取り上げるところだが、酒について隼鷹で慣れていた僕は一向に気にしなかった。ただ、これでパーティーを開く時の面子が一人増えたな、と思いはした。これは隼鷹にも教えてやろう。彼女は新しい風が入ることを喜ぶだろう。初めて響は意外そうな顔を見せた。僕が何も言わないとは思わなかったらしい。コメントを期待されていたならそれに応じるとしよう。「スクリュードライバーいいよね」「ウォッカに混ぜ物なんて邪道だよ」何だろう、背中を刺された気分だ。僕はおいしい食事という喜びを噛み締めながら、彼女をより深く知る為に質問を一つした。「銘柄は?」Старая Москва.(スターラヤ・マスクヴァ)※13 古きモスクワ、という意味さ」「僕はストリチナヤ派だな」「Столичная(スタリーチナヤ)※14か、私も嫌いじゃないよ。安いし、長い歴史もある。SPI※15のウォッカが好きなら、Казначейская(カズナチェイスカヤ)※16というウォッカは飲んだことがないかな?」聞いたこともなかった。僕が正直にそう言うと、響は唇を少しだけ動かして「では、いずれご馳走しよう」と言った。その言葉の前の動作が微笑だったのだと気づいたのは、空腹を満たして食堂から出た後だった。

 

 執務室を出た時と違って、幸せな重みを感じながら僕たちは歩いた。彼女は口数が少なく、たまに話してもぽつり、ぽつりと受け答えをするぐらいだった。さっきのウォッカの話は、彼女には珍しいほど多弁だったようだ。そのことを恥じているのかもしれない。あるいは、交わす言葉に対して慎重なのは、新入りに対してまだ打ち解けられていないからなのだろうか。それとも、彼女の性格か? どちらにしても、僕には好ましく感じられた。

 

 食堂の次に連れて行かれたのは工廠だった。僕の艤装は転属に先立って送られていたので、ついでにチェックでもしようかと思い立つ。だがその前に、この工廠のボスとも言える人物に僕を紹介しなければならない、と響が言ったので、僕は彼女に従った。何と言ってもここでは彼女が先任で、そうである以上その言葉は僕が従うべき道理そのものだったからだ。彼女は「工廠のボス」こと明石さんと夕張を呼んで来た。着込んだつなぎを油汚れや染みで一杯にした彼女らは忙しそうにしており、長く時間を取るのも迷惑そうだったので、手短な挨拶だけで済ませることにした。明石さんと夕張はどちらもにこやかだったが、僕は夕張の表情が不自然に動くのを見ていた。多くの女性がその深い知性と直感によって、どのように振舞えば真実を隠せるか知っているものだが、彼女は自分を偽るのが苦手らしい。こんな形で明らかになるのでなければ、それは好感が持てる長所なのだが……明石さんが気を利かせたのか、夕張を彼女の元の仕事に戻れるように助け舟を出してくれたので、いつぼろを出すかとはらはらしていた僕の方が安心したほどだった。

 

 明石さんは僕の艤装を見せてくれた。それは彼女によって、非の打ち所がないように思えるほど見事に整備されていた。また、装備された砲や魚雷についても改修が施されているようだ。素晴らしい技術だった。僕は許しを受けて、艤装を装備してみた。以前とは全くと言っていいほど違うのが、それだけで分かった。艤装の動きの滑らかさは言うまでもなく、どのようにしてか僕の体に掛かる重みが上手に分散させられており、長時間の戦闘に際しても疲労を蓄積しづらくなっているようだ。

 

「違和感はないですか?」

「いえ、全くありませんよ。とても素晴らしいです」

「それはよかった! 装備の方はどうです? 何かご注文は?」

 

 僕はそれも否定しようとして、ふと思いついたことがあった。「ナイフを一振り用意して貰えませんか?」すると、彼女は目を丸くした。砲だの魚雷だのと思っていたら刃物を求められては、そうもなるだろう。「ナイフ、ですか?」頷きを返す。以前の戦闘で弾切れになったことを、僕は忘れていなかったのだ。あの時、ナイフがあれば最後に一刺しぐらいしてやろうという気持ちにもなったことに疑いはない。そうでなくとも、弾切れになることのない武器を一つ持っているというのは、特別な安寧を僕に与えてくれるものだ。ナイフなら邪魔にもならないだろう。扱いもそれなりに教わっている。僕は明石さんに、どんなものがいいかを話した。彼女はそれを聞き終わると、溜息を漏らして言った。

 

「うーん、確か前にそんな感じのものを作った余りがあったような……ちょっと待ってて下さいね」

 

 響を退屈させたりしないかと思ったが、彼女もナイフに興味があるようだった。自分で使うつもりはなくとも、見てみたいという気持ちはあったのだろう。

 

「お待たせしました、こちらでどうでしょう?」

 



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「第二特殊戦技研究所」-2

「うーん、確か前にそんな感じのものを作った余りがあったような……ちょっと待ってて下さいね」

 

 響を退屈させたりしないかと思ったが、彼女もナイフに興味があるようだった。自分で使うつもりはなくとも、見てみたいという気持ちはあったのだろう。

 

「お待たせしました、こちらでどうでしょう?」

 

 明石さんが鞘に納まったナイフを持ってきた。鞘から抜いて、確かめてみる。かなり刀身が厚く、頑丈な作りになっている。また、光を反射しづらくする為に、そして潮を受けての赤錆に悩まされることもないように黒錆加工も施されている。峰には鋸刃があり、鞘と組み合わせて使うワイヤーカッターも装備されていた。海上で板材を切ったり鉄条網の除去を行うことはないと思うが、何にでも備えておいて悪いことはない。他にも気に入るところはあった。刀身の根元、柄からはみ出した部分を丸くくり抜いて、フィンガーガードが設けてあったのだ。それによって、素早く順手持ちと逆手持ちを切り替えられるようにしてあった。深海棲艦とナイフで戦う時には、切りつける為の順手持ちよりも突き立てることに適した逆手持ちを使うことも多いだろう。それを経験的に知っている誰かの意見を受けて作られたナイフに違いなかった。他にも、相手のナイフを受け止めてロックし、捻り落とす為の窪みなど、僕が思いつくような改良は全て行われていた。

 

 深海棲艦と刃物で交戦するなんて考えたくもない話だが、時には銃砲よりもナイフが早かったり、近すぎて撃てないことだってある。それに、弾が出るか分からない砲と違って、刃は確実なものだ。そこだけを取っても、ナイフを持たないという選択肢は僕にとって考えるに値しないものだった。

 

 ハンドルを握り、重心を確かめる。うん、問題はない。僕はナイフを鞘に戻し、明石さんに返した。そして僕がそれを手に入れる為にどのような対価を支払わねばならないかについて、交渉しようとした。だが彼女は「倉庫に転がってたようなものですから」と言って、僕からのどんな代価も受け取ろうとはしなかった。どうするべきかと考えあぐねて響を見るが、彼女は頷いただけだった。僕はそれを、受け取っておけ、という意味だと解釈した。できるだけ丁寧に頭を下げて、お礼を言う。いつかこのナイフが僕の命を救う日が来るかもしれないのだ。そう考えると、明石さんは未来の僕の命を今ここで救ってくれた女性だと言ってもいいだろう。多少こじつけ気味だが、とにかくそんな相手には、尽くせるだけの礼儀を尽くしておくものだ。

 

 明石さんによくよくお礼を言って、僕らはその場を辞することにした。社交辞令として夕張にもよろしくと言い残し、工廠を出る。と、本日二人目の駆逐艦を発見した。あの目つき、手袋、一切の落ち度がなさそうな顔、不知火だ。訓練所でも他の訓練隊に所属していた別の不知火を見たことがあったが、やはり何度見てもその眼光の鋭さは只者ではない。それが僕に向けられているとなると余計にキツく感じる。が、彼女にとって誤算だったのは、今日はもううんざりするほど色んな人に睨まれてきたということだ。その中には本物の戦艦や戦艦になる筈だった正規空母もいた訳で、彼女たちの掛けてきたプレッシャーに比べればどうしても不知火のそれが見劣りするのは仕方のないところだった。

 

「今日来られたという補充の方ですね。第四艦隊所属駆逐艦、不知火です。分からないことがあればその都度指導しますので、お気軽にお尋ね下さい」

「これはどうもご丁寧に」

 

 僕も挨拶をし、同じ艦隊に配属されたことを告げる。どうしてそうなったかまでは言わなかったが、あちらも尋ねては来なかった。「では、不知火が先任ですか」と不知火は呟く。そうだな、と僕は心中で同意した。「ご指導ご鞭撻、よろしくお願いします」と言って頭を下げておく。すると不知火はにやりと笑おうとしたが、不敵な笑みに見せようとして失敗し、嬉しさを我慢できない子供のような顔になってしまっていた。どういうことなのかと思って、響に目をやる。「今日までは彼女が最後任だったんだ」なるほど、そりゃ嬉しいだろう。海軍でも陸軍でも、新しく入ってきた奴は新兵だってだけで半端者扱いを受けたり、何かにつけて新入り扱いされるものだ。それが嫌なら、戦闘と日々を生き延びて、次の補充が来るまで耐えるしかない。そうすると昨日までの新兵が古兵どもの仲間入りという訳だ。

 

 正直なところを述べると、僕は最初の一瞬、不知火を警戒していた。艦娘になってから沢山の人々に嫌われてきたから悪意に対して敏感になっており、しかも僕が「隠れた敵意はあからさまな敵意より恐れられるべきだ」という考えを持っていたことが、はっきりと好意的でもなければ僕に対して否定的でもないこの駆逐艦への、意味のない用心を生み出す原因となっていたのである。けれど、不知火が浮かべた表情を見て、そんなものは何処かに行ってしまった。この喜びの表情を見ろ、いかにも、この人を見よ! 彼女の何処に僕が恐れるべき敵意が宿っていると見なすに足りる悪徳がある? 僕は自分を叱咤した。他人を疑うなんて、慣れないことはやっぱりするべきじゃない。誰でもそうだ、再三の試行と経験によって我がものにしたことのみしか、人は正しく行うことができないのだ。

 

 僕はその後、響だけでなく不知火も案内人に加えてあちこち巡った後で、最後に研究所敷地内に設けられた甘味処に行った。僕は酒を好んで飲むが、酒だけじゃなく甘いものも僕の愛するところである。その二つを掛け合わせたような、キャラメルみたいに甘いリキュール※17だってボトルで買って飲む。しかも割り材なしのロックでだ! それくらい甘いものが好きだったお陰で、僕はその店で楽しい時間を過ごすことができた。もちろん支払いの責務もまた僕のものだったが、でも、惜しくはなかった。

 

 甘味という実体を持った幸福を血肉にして店を出た僕は、暖かな血が全身に巡るのを感じていた。乾ききって失われていたとばかり思っていた活力が、魂の底から湧き上がってきたかのようだった。このエネルギーが残っている間に、部屋に戻って荷物を整理した方がいいだろう。それから一休みだ。僕が正式にこの艦隊の一員として働くようになるのは明日からなので、しっかりと疲れを癒しておかねばならない。戦うべき時に戦えるようにしておくのは艦娘の責務の一つでもあるが、自分が死なないでいたいなら責務だの義務だのつべこべ言われないでもやった方がいい。これには誰も反対しないだろう。戦う時は必ず来る。未だかつて、敵を前にして血を流さないことによって戦争に勝利した例などありはしないのだ。

 

 確かに、争いを招く怒りと同じぐらい古くから、争いを恐れる心は人の中に存在してきた。現代に生きる僕とて、流血を恐れる気持ちを否定することはできない。人類の一部は恐れの余り、「相手の平和を愛する心」、「生きとし生けるものはみな兄弟」などという類の、話にもならないし論理と呼ぶにも値しないような、まあ馬鹿は馬鹿なりに考えようと努力はしたのだろうよという評価がぴったりの思い込みを作り出したほどだ。だが歴史という変えがたい事実の積み重ねが重苦しく語るには、そういう連中こそ風向きが変わった時、真っ先に彼らが言うところの「兄弟」の血をすすろうとするものなのである。

 

 響たちと別れて僕の部屋に戻ると、隼鷹が椅子に腰掛け、彼女の本を読んでくつろいでいた。部屋を間違えたかと思ったが、そうではなかった。自分の部屋を片付け終わって、暇だから遊びに来たのだろう。しかし僕がいなかったので、居座ってだらだらすることに決めたのだ。僕は彼女をベッドの上に追いやって、テーブルの上に荷物を広げた。これまで貰った手紙、隼鷹と一緒に写真を撮ったカメラや、曙からのよき餞別の品を別にすると、服が何着かと、紙と封筒、筆記用具、数冊の本、それに持ち出せるだけ持ち出してきた酒のボトル。それらが僕の荷物の全部だった。部屋に備え付けのクローゼットにそういったものを押し込んで、それで終わり。残りは差し当たり机の上にでも置いておこう。手紙は早めにクリアファイルにでも整理して入れておくつもりだ。隼鷹ならもっと細やかな片付け方をしたりするのかもしれないが、僕は自分の部屋の見栄えには気を使わない主義だった。

 

 これを僕が片付けと言うのを母が聞いたら目を剥くだろう。だが母は遠く幾千里、とは言いすぎにせよ、僕のやっていることが見えないところにいる筈だ。隼鷹が注進することもないだろう。僕は椅子に座って、クローゼットに押し込まないでいた一冊の本を開いた。海軍に入ってから、学校に行っていた頃に比べて、本を読むことが増えた気がする。半端な時間を持て余すことが増えたからかもしれない。

 

 しかし、物語の中に意識をもぐらせ、めくるめく架空の世界に自らを投じようとしたところで、軽やかなノックの音が僕を現実に引き戻した。それに答えて、ドアを開ける。そこには日向が立っていた。隼鷹を探しに来たと言われる。僕はくるりと振り返って、日向から姿を隠そうとしている友人の姿を見た。必死に人差し指を口の前に立てて、僕に口を噤めと要求している。向き直って、日向に尋ねた。「どうしたんです?」「第一艦隊の歓迎会だ」歓迎会か、いい言葉だ。その言葉の裏に親しみのこもった不穏な気配を感じるのは、気のせいではあるまい。僕は「おい隼鷹、お迎えが来てるぞ」と言ってやった。親切をしただけだ。友達を売った訳じゃない。それに自分の艦隊の歓迎会だろ? 出なきゃ失礼に当たる。しょんぼりして出てきた隼鷹を背後に従えた日向は、それで去っていくのだと思いきや、ふと考えついたように呟いた。

 

「そうだ、君も来るといい。そうしよう」

 

 そう来るか。隼鷹がこっちを見て「ざまぁ」と口だけ動かして言った。会場へと僕らを導く日向の後ろで、パンチとキックを応酬し合う。隼鷹は軽空母だが、だからといってその身体能力を侮ってはいけない。その足から繰り出される素早いローキックは、後から響いてくるのだ。しかし僕のパンチだってキレは中々のものだという自負がある。当たるか当たらないかのところで牽制を互いに繰り出し続けていると、工廠に到着した。そこには明石さんが艤装を用意して待っていた。「もうみなさん出てますよ」と言う彼女の顔は、さっき見たにこにこ顔のままだ。しかしどうしても、僕はその完璧な笑顔に黒いものを見つけそうになるのだった。

 

 艤装を着け、ナイフは鞘に取り付けられた留め金を使って、上着の裏側、右の脇の下辺りに取りつけた。鞘に納まったままのナイフを引っ張って、すっぽ抜けてしまわないか確認する。大丈夫だ、脱落防止のボタン付皮紐が抑えてくれている。今度ベルトか何かを用意して、もっと扱いやすくしよう。上着の裏だと秘匿性には優れても、咄嗟の時に手間取ってしまう。余裕を持って用意できる時なら問題にはならないが、真実の瞬間に出遅れれば、次のまばたきをする間もなくあの世行きだ。それはなるべく避けたい。

 

 演習用弾薬の補給を受けてから、工廠から水路を通って海上に出た。暫くぶりの海の匂いだ。庁舎にいた時から香りがしているのは分かっていたが、鼻腔一杯に吸い込めるほどではなかった。深呼吸を二度ほどしていると、日向が近寄ってきた。安定した動きで、波の上でも体にぶれがない。彼女は水上移動をものにしているのだ。見事なものだった。飛行甲板を装備しているところを見ると、艤装は改造済みらしい。

 

 艤装の改造──多くの艦娘が自分に行われることを心待ちにしているものの一つで、訓練や実戦を経て一定の練度に達した艦娘の艤装を、強化することだ。解明されていることは多くないが、反応速度や頑強さ、攻撃の精度などでの向上が見込めるものらしい。中には艦娘としての特性を大きく変えるような改造をされることもあるそうで、伊勢や日向は戦艦から航空戦艦に変わるとされている。僕の友達で言えば北上は改造されると重雷装巡洋艦になるが、こちらは特性を変化させるというよりは発展させると表現した方が正しいだろう。それにしても、改造か。僕だったらどうなるか妖精に訊ねてみたことがある。答えは無言だった。しかし出自が出自なので、僕に改造は用意されていないのだとしても、格別の驚きはない。

 

 歓迎会という名前の演習会場には、伊勢(彼女の艤装も改造済だった)、吹雪秘書艦、響、妙高の四人が先に到着していた。さっきぶりの響には片手を挙げ、他の三人にはもうちょっとちゃんとした挨拶をする。「最初は誰が行く?」と響が彼女の仲間たちに尋ねた。「私は審判役ですから」と秘書艦は一歩下がる。僕は彼女と戦わずに済むことを知って安心した。航空戦艦二隻を差し置いて秘書艦、つまり第一艦隊旗艦の座を占め、しかもそれに戦艦たちが文句や疑いを持っていないのを見ると、彼女をただの駆逐艦娘だと考えるべきではない。あの提督が御し難く、付き合いの長い吹雪にしか対処できないという理由もありそうだが、仮にそうだったとしてもそれだけではないだろう。

 

「じゃあ私が行こうかな?」

 

 伊勢が前に出た。他の艦娘たちが退いていくところを見ると、一対一なのだろう。僕は隼鷹を見た。どっちが先鋒を務めるか……僕も戦ってみたかったし、隼鷹も力試しをしたがっていた。こういう時はじゃんけんに限る。三分の一の勝利を掴み損ねた僕は、お預けを喰らってがっかりしながら他の第一艦隊所属艦娘たちと一緒に観戦することにした。見るのも勉強になる、と自分に慰めを言う。僕は航空戦艦の戦いを見たことがなかったから、きっと学べることがあるだろう。軽空母対航空戦艦というのはかなり隼鷹に分の悪い戦いだし、勝敗は最初の航空戦で隼鷹が伊勢に撃沈判定でも出さない限りほぼ決まっているものとしていいだろう。が、物事や出来事から何を見出すことができるかは、結果が見えているかどうかには関わりのないことだ。

 

 しばしば皮肉を込めて「コンテスト・ルール」と呼ばれる演習時の規則通りなら、開始から暫くの間は航空機以外での演習相手に対する直接攻撃を禁じられることになっている。これは、艦娘による実際の戦闘の基本的推移を限られた広さのフィールドで可能な限り忠実に再現しようとする為の、苦しい試みだった。航空戦フェーズに行うことを許されるのは回避を含む移動行為と、対空射撃、それから自分の有する航空機による制空権争いを含む対手への攻撃、大体がこの三つである。その次が砲雷撃戦フェーズであり、ここではあらゆるタイプの攻撃が許可される。この二つのフェーズが終わった時点でまだ演習している両グループのどちらかが全滅していなければ、審判役による判断で勝敗を決定する。実戦なら夜戦までもつれ込むこともあるのだが、流石に普段の演習でそこまで長くやってはいられない。どうしても、という時には、サングラスを掛けさせるという手もある。だが僕にはあれにいい思い出がない。訓練所でサングラスを用いた擬似夜戦演習を行った時、どうも目が痛くなって思わずサングラスを外して目を擦ってしまったのだ。目ざとくその様子を見つけた那智教官に何をされたか……それについて僕は僕自身の名誉を保つ為よりも、不運にもその話を聞くことになる誰かの心の平穏を崩さないでおく為にこそ、一生口を閉じて生きていくつもりだ。

 

 吹雪の号令で、演習が開始される。僕たちは観戦なので、邪魔にならないところに退避している。うかうかしていると流れ弾で怪我はせずとも痛い思いはすることになるので、見ているだけであっても気が抜けない。対峙した二人は円を描くようにしながら、航空機を発艦させていく。伊勢の方は恐らく瑞雲、隼鷹は前の戦闘の時に使っていた装備のままなら、二一型の零戦だろう。隼鷹側は艦爆や艦攻を重視して配備されていたので、伊勢の瑞雲に比べて数において僅かに劣るものの、制空権の確保が本職の戦闘機と万能なだけに器用貧乏気味な瑞雲とではどうしても空戦性能に差が出ている。それでも、彼女たちの航空隊はいい戦いをしていた。偏に実戦経験の違いだろう。片や広報部隊でスタントじみた機動などをやらされていた妖精たち、片や実戦を戦ってきた歴戦の水上機乗り妖精たち。だがいい戦いをしているということは、膠着状態だということだ。それはつまり、瑞雲隊は艦爆や艦攻への攻撃を引き受けられないという意味でもあった。戦闘機の発艦を終えた隼鷹が、今度は伊勢へと攻撃を加えようとその準備を始める。

 

 隼鷹は加賀のような弓を使わない。陰陽師のように、紙から航空機を捻り出して見せる。この世には僕の哲学の及ばないことが多すぎるが、空母については特にその思いが強まるところだった。彼女たちがやることの前には、僕の矮小な考えなど何らのオーソリティーにも値しない。そんなものは頭の中からむしりとって滝にでも投げ込んでしまえ※18とでも言うかのように、彼女らと来たら、何やら理性を超えた御業をしてのける。どうして矢が航空機になるのか、どうしてその航空機には妖精が乗っているのか、あの紙はどういう原理で航空機になるのか、何故紙からできているのに航空機になった時にはちゃんと金属製なのか……妖精には説明を求めたいが、彼らもしくは彼女らは答えないだろう。説明はない、説明はないのだ。

 

 瑞雲が一機、二一型の攻撃をすり抜けて隼鷹に迫る。彼女は慌てない。水面を蹴るようにして動き、機動を読ませず、余裕を持って爆撃をかわす。海中で演習用の爆弾が炸裂する。水飛沫が彼女を濡らしているだろう。破片が掠め飛び、風切り音をあの形のよい耳に感じているだろう。彼女の艦爆、艦攻が仕返しとばかりに伊勢を目指して殺到する。その密度たるや、被弾なしには切り抜けられまいと確信したくなるが、伊勢も落ち着いたものだ。ジグザグに退きながら砲を撃って牽制し、艦爆・艦攻側が対空射撃を避ける為に動きが鈍ったところで時限信管の設定をぴったりのタイミングに合わせて一発撃ち込んだ。それで数機が落とされたが、僕が思ったよりは少なかった。隼鷹の航空妖精たちもいい腕をしているものだ。着弾直前、機体に無理をさせつつも強引に砲弾の効果範囲内から抜け出したらしい。

 

 航空隊による猛烈な爆雷撃が始まった。遠くから見ても分かるほど唇の端を吊り上げた伊勢の顔は、興奮と楽しみに染まっていた。踊るように魚雷を避け、爆弾を回避し、それなのに隼鷹に向かって少しずつ距離を詰めていく。僕は一度など、伊勢が直前まで気づかずにどうしても避けられないところまで接近を許してしまった魚雷の一本を、体の軟らかさを誇るかのような開脚で股の間をくぐらせて避けたのを見た。隣の日向が呟くのが聞こえた。「伊勢の奴、調子に乗り過ぎだ」僕はそう思わない。あれが彼女のスタイルなのだろう。表情は楽しげだし、突拍子もない回避を行っているのも確かだが、ふざけているようには見えない。息をすることも忘れそうになりつつ、演習を続ける二人の姿を見守る。航空戦フェーズの時間は後僅かだ。隼鷹の顔に焦りの色が浮かぶが、それはすぐに彼女が浮かべた張りぼての笑みに覆い隠される。そうだ、頑張れ、と僕は心の中で彼女を応援する。焦っている時にこそ笑うのだ。

 

 とうとう砲雷撃戦フェーズになった。だが伊勢は一向に隼鷹を撃とうとしない。それどころか右手を腰に佩いた刀にやっている。今伊勢や日向が帯びているのは訓練用の模造刀らしいので、隼鷹が真っ二つにされる心配はないだろうが、流石にこれは……こちらを軽んじているように見えると言わないではいられなかった。しかし、対空射撃と回避以外の行動を取らずに隼鷹を間合いに収めようとしているのは事実である。軽んじているだけで、それだけの実力が伴っていなかったなら、今頃は艦爆と艦攻の攻撃で滅茶苦茶にされていた筈だ。隼鷹が逃げ切れないと腹を括って、腰を落とし、接近戦に備える。構えは素人だ、彼女のいた訓練隊では艦娘に格闘を教えなかったのだろう。それも致し方ないことで、空母には他に学ぶべきことが沢山あるし、第一彼女たちの仕事は離れたところから敵を始末することなのだ。今の伊勢との距離まで相手に詰められるということは、戦術的な失敗を意味しているのである。

 

 でも、隼鷹は誇り高い軽空母艦娘だ。僕は彼女の水滴したたる顔の中に、このままナメられっぱなしでいるもんか、という固い意志を見て取った。彼女ならその意志を貫き通すだろう。未だ相手への砲撃を試みることもない航空戦艦に、間に合うところにいる最後の航空隊が攻撃を仕掛ける。その中の一機が、伊勢に激突してでも道を塞いでみせようと、一直線に突っ込んでいく。当たればそれなりの効果を発揮するだろうが、伊勢は片足を水面から上げて砲を一門撃つだけで、ピボットターンのような動きをして避けてみせた。かなり無理のある機動だったらしく、体勢を立て直すのに瞬き一回分の時間を余分に使ったが、もう隼鷹と彼女の間に遮るものは何もなかった。

 

 模造刀が抜き放たれる。伊勢は刀を持った右手をだらりと垂らしている。迎え撃つは徒手空拳の隼鷹だ。伊勢の間合いに入る。彼女は刀を振り上げる。隼鷹が左腕をぶん、と振った。「ほう」と響が漏らした。巻物型の飛行甲板が模造刀に絡みつき、その威力を減じている。そのまま隼鷹は鈍器の一撃を左腕で受け、刀と伊勢の手に腕を絡めてその動きを止めながら、右の拳をその顔目掛けて放つ。刀を防がれたことに気を取られていた彼女は、咄嗟に自分も後部甲板を盾代わりにしようとしてしくじった。艤装同士が干渉しあって、動かせなかったのだ。それでも目一杯首を引くことで、どうにか隼鷹の拳を防いだ。ほんの数ミリ顔には足りず、彼女の攻撃は届かなかった。僕は隼鷹が攻撃を失敗したことを残念に思い、次の伊勢の動きでどうとでもされてしまうだろうと予想した。が、僕の友達は用意周到で、機転が利き、負けず嫌いなのだ。それを、僕は忘れていたらしい。

 

 伊勢の顔に「勅令」と書かれた火の玉が直撃した。

 

「やるじゃないか」

 

 くすりと笑って、日向はそう評した。僕が彼女に微笑み返して隼鷹たちの方を向き直ると、バランスを崩した伊勢に引っ張られ、二人揃って派手に水柱を立ててこけるところだった。「……だが、あれはいただけないな」「確かに」吹雪秘書艦の声が演習終了を告げ、僕らは二人の近くに集まる。彼女たちはもう立ち上がっていたが、その姿は濡れ鼠そのものだった。用意のいい妙高が、タオルを二人に渡す。彼女たちはそれで頭と顔を拭き、首に引っ掛けた。響が言った。「面白い勝負だったね」それを受けて、日向が大きく頷く。「私は伊勢の負けでもいいと思うが……どう思う、妙高?」「私は引き分けでよいかと。吹雪秘書艦?」「そうですね、私としては伊勢さんの負けだと思います」「えーっ!」秘書艦の言葉を聞いて、それまで裁定を待っていた伊勢が不平の声を上げた。

 

「あれだけ相手を侮った戦い方をして、無傷で勝ったならともかく、手痛いしっぺ返しを喰らったんです。その一点のみで敗北したと言うには十分です」

 

 伊勢はぶうぶうと文句を言いつつも楽しげに笑い、吹雪の判断に従って隼鷹の勝利を祝福した。日向が腰につけていた水筒を姉妹艦へと投げ渡す。伊勢はその中身を頭から被った。「あれは?」と僕が響に聞くと、彼女はこともなげに答えた。「修復材を薄めたものだよ。新時代のセロックス(止血剤)みたいなものさ」僕はすっかり感心してしまった。訓練所でもそんなことは習わなかった。何でも、薄めると効果が急激に下がる上、正式に配備するには修復材の生産量が到底追いつかないらしい。こんなに便利そうなものが未だに一部の艦隊でしか運用されていないとは罪深いことだが、いずれ深海棲艦の領域を僕らが削り取って領土を回復すれば、生産量も増え、基本装備の一つとして加えられるだろう。

 

 火傷から回復した伊勢は、次の演習で彼女たちの中から誰が出るのかを知りたがった。響、妙高、日向の目が僕に注がれる。僕は冷静を装うが、こんなに人から注目されることには慣れていなかった。三人は話し合って、日向を姉の仇討ちとして送り出してきた。隼鷹の健闘の、とんだとばっちりみたいなものだ。

 

 僕らは離れて立ち、向かい合った。遠くに見える日向の目は「がっかりさせて悪いが、手抜きは期待するな」と言っている。僕はさっきの伊勢を思い出す。彼女は瑞雲を放ってきた。航空戦艦型の艤装に換装している以上、日向もそうだろう。ただの瑞雲か、その改良型かは知らないが、連中は十中八九来る。対して、僕は水上機を持っていない。広報部隊では使う当てもないということで、支給されていなかったのだ。不利なものだ、最初の航空戦フェーズで何機落とせるか、どれぐらい爆撃を避けられるかがその後を決めるというのに。ああ、それに大事なことだが、一体日向は何機の水上機を有しているだろうか。どれほどにせよ、太陽を隠すほどではあるまいが。

 

 始め、の声が空気を切り裂く。予想通り、日向は航空機を発艦させ始めた。僕は動かずに砲を構え、集中する。対空射撃は得意なのだ。カタパルトから射出され、その勢いのせいで瑞雲は僅かな間機動性を損なう。そこを狙う。狙いを過てば日向を撃ってしまい、僕は反則負けになるだろう。しかし、そんな心配はしていなかった。それに、日向がわざと当たりに来ることもないと分かっている。そんなことで勝っても、姉の仇を討ったことにはならないからだ。それでは、何とも言えない、微妙な空気だけが残ってしまう。その程度のことが分からない彼女ではあるまい。

 

 狙いを定め、撃つ。時間は掛けない。狙うことに時間を費やすのは無駄としか言いようがない。狙いは速くて正確なほど、いいものなのだ。時間が経てば心臓の脈動や腕の震えが、微細なズレを生んでしまう。一ミリのズレが、着弾の時には一メートルや十メートル、一キロになるということは、弾道学では常識だ。

 

 日向の目の前で瑞雲が落ちた。こちらに向かってくる何機かは無視して、足を止めたまま撃ち続ける。日向はすぐに僕の行動を理解し、移動しながらの発艦に切り替えた。こうなるとカタパルトでの射出直後を狙うのは難しい。僕は上空の瑞雲狙いに切り替えた。彼らの回避行動は巧みだが、全員で全ての対空射撃を避けられるほどではない。けれど爆撃が始まると、こちらには精神的な余裕がなくなってきた。油断すれば爆弾が襲ってくる。そうでなくとも機銃掃射でこちらの動きを鈍らせようとしてくる。苛立って僕は自由に空を飛び回る水上機を見上げた。それがよくなかった。三機の瑞雲が、着水するギリギリの高さを飛んで僕に近づいているのに、気づくのが遅れた。完全に手遅れだったとまでは言わない。僕は咄嗟に水面を砲撃し、水柱に突っ込ませることで二機を落とした──だが全部は落とせなかったのだ。砲撃の反動をいなそうと、体の動きが制限される。生き残りの瑞雲が爆弾を切り離す。水面を跳ねてこちらに近づいてくる爆弾を、僕はどうすることもできずに見ているしかなかった。

 

 爆弾をまともに食らうとどうなるか、どんな気分になるか、言葉で説明するのは難しい。まだそれを体験したことがない人が、本当の意味でそれを理解するには、受けてみるしかないだろう。ただ一つ言わせて貰うと、試してみようというその人は自分が艦娘であるかどうかや、その爆弾が演習用であるかどうかを、把握しておいた方がいい。そうでなければ、手足や命がなくなったとしても、誰にも文句を言えない。

 

 足元で爆弾が爆発し、僕は吹っ飛ばされた。視界が二回ほど回って、正常なものに戻る。僕はまだ水上に立っていたが、体中が痛かった。足を触ると、痛い。頭を触る、痛い。腹を、脇を、胸を触る、痛い。どうやら右手の骨にヒビが入ったらしい。しかも、爆弾のせいじゃなくて艤装に思い切りぶつけたせいだ。吹雪秘書艦は演習中止を宣言しない。当たり前だ、首なら分かるが、手の骨のヒビ程度で戦闘が終わる訳がない。脂汗が額ににじみ、吐き気が込み上げる。僕は動き続ける。二発目を貰いたくはない。移動しながら、瑞雲隊に向かって撃ちまくる。効果は上がらない。めくら撃ちでは仕方ないか。

 

 日向は瑞雲を放ち終えたので、泰然と洋上に立っている。表情を消し、慢心をせず、僕の動きに目を光らせている。深海棲艦と戦う時にはあれが味方だというのだから、頼もしい限りだ。しかし、彼女のいいところばかり見せて貰っていては第一艦隊の面々に申し訳が立たない。ついでに言うなら、僕の面子もだ。砲雷撃戦フェーズが間もなく始まる。瑞雲の攻撃と日向の大口径砲の一撃をことごとく回避し、移動目標に雷撃を撃ち込む。できる気がしない。それだけでなく、第一艦隊や隼鷹も、僕に成功を求めてはいないだろう。彼女たちが求めているのは、僕がそれをやろうとすることだけだ。勝ち目のない戦いを前にして「いえ、僕は行きたくないです」とか「嫌です、僕は死にたくありません」なんて言い出すような奴じゃないってことを、証明する為の第一歩を、踏み出すことだけを望んでいるのだ。演習で死ぬ確率は低いのに、それからも逃げ出すような奴を、どうして実戦で信用できる? 僕だって、もし深海棲艦と戦うなら、隣には「こいつは大丈夫だ」と思える艦娘にいて欲しい。そうでなければ、いっそいない方が気分よくいられる。

 

 右手の痛みが引いてきた。脳内麻薬が痛覚を抑え込んだのだ。僕は瑞雲隊への攻撃を続けながら、日向に近づく。艦娘同士の演習や、人型深海棲艦との戦闘では、二つの選択肢がある。距離を取るか、近づくかだ。半端な距離を保つのが最も間違った選択であり、そのような戦い方をしていては長生きはできない。敵がこちらよりも射程・威力などにおいて劣るなら距離を取り、逆にこちらの方が劣るなら距離を詰める。簡単な道理だ。

 

 近づくことには利点もある。懐にもぐりこんでしまえば、敵は砲を照準するのが難しくなるのだ。一キロ先の敵が左右にちょっと動いた程度では、射線に収める上で何の困難もない。ほんの数ミリ砲口を動かすだけでいい。けれども、一メートル先の敵に狙いを合わせるのに、どれだけの動きが必要なことか。もちろんこれは、近づく側も同じだ。だからこそ、頑強さを備えた戦艦の一部や、俊敏さと膂力の両方をある程度持つ軽巡の数人は、近接武器を持つ。戦艦は硬さを活かして近づき、軽巡は素早さを活かして近づく。そして必殺の間合いで、点ではなく線の攻撃を放つのだ。僕は真似したいと思わない。戦艦ほど硬くもなく、軽巡ほど速くもない僕には向いていない……実戦ならだ。

 

 全速力で日向を目指す。途中で蛇行を挟んで瑞雲隊の攻撃を避けながら、日向が迂闊に移動できないよう、嫌がらせ程度の魚雷を放っておく。彼女は踵を返し、彼我の距離がよりゆっくり縮まるように、僕から逃げ出す。砲雷撃戦フェーズが来たら、くるりと振り返って猛然と撃ち始めるつもりだろう。航空戦フェーズ終了まで僕を寄せ付けなければ、彼女の勝ちが確定する。追いつければ、魚雷を当てるか、隼鷹がやったように接近戦で勝ちを拾う目がある。距離はぐんぐんと縮まっていく。僕は魚雷を用意し、脇の下のナイフを思う。懐に飛び込んだ僕を日向は刀で攻撃するだろう。右の片手で引き抜き、そのまま切りつける。彼女から見て左上から右下に振り下ろし、僕の右肩から左の脇腹を袈裟懸けにする感じだ。その逆はないだろう。わざわざ構え直して振り上げるという、余分な動作をする必要はない。ああ、抜き打ちの可能性もある。それは僕の右脇腹を狙うだろう。どっちでも、僕は上着の下のナイフで受け止められる。逆手に抜く確率は低い。逆手持ちで斬ろうとしても、十分な威力を発揮できないからだ。人間相手ならいいが、艦娘相手にはきっと不足だ。

 

 砲雷撃戦フェーズに入った。僕と日向の距離は、彼女が全砲門を一度ずつ撃つのに足りるぐらい開いている。僕は腰を屈め、彼女の主砲を見る。その照準が僕にぴたりと合う。僕はその場から跳びすさりたくなる。それをしたら、次の砲による二射目でやられる。彼女は狙いを微調整する。その微かな動きが終わる。僕は体を捻る。

 

 砲弾は近くを通っただけで、僕を転倒させそうになった。慌てて体勢を立て直し、強引に横移動を入れる。これは当たるぞと思った追撃を外し、日向が眉を上げる。彼女は足を止め、また僕に狙いをつける。今度は避けられないかもしれない。だがせめて、最初の一回はかわしてみせる。発砲の光が見えると同時に、横っ飛びに跳ぶ。日向はそんな回避行動を予測している。僕の体のど真ん中を撃ち抜くつもりだろう。彼女の砲口の移動が止まる。僕は右腕を着弾地点に伸ばす。発砲炎。艤装に衝撃。右腕に再びの激痛。今度こそ折れた。

 

 魚雷を放つ。日向は避けようとして、隙を生む。僕はそこに突っ込む。日向が後部甲板をこちらに向ける。シールドバッシュという言葉が頭に思い浮かぶ。けれど違う。彼女は砲の狙いをつけようとしているかのようだ。そこで僕の目は彼女の後部甲板のカタパルトにセットされた、一機の瑞雲を捉える。まだ残していたのか、と思った次の瞬間、発艦直後に瑞雲が放った演習用爆弾が──!



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「第二特殊戦技研究所」-3

 僕と隼鷹は歓迎会という名前の能力テストの報告をしに、提督に会いに行かなければならなかった。気が重かった。二度目の爆弾直撃で日向に負けた後も、腕を修復材で治療してから響や妙高さんと戦って、その度にさんざっぱら叩きのめされたからだ。響には引き分けか、まあちょっとひいきして貰って勝ち、というところまで持ち込めたが、妙高さんには射的の賞品扱いされただけだった。この出来事は初めての戦闘で大戦果を上げ、自分は強いのではないかと心の奥底でちょっぴり慢心していた僕の自己評価に、多大な影響を与えた。だって仕方ないじゃないか、と言い訳したくなるが、ああもしっかりと鼻っ柱を折られてしまっては、そんなことをしても恥の上塗りにしかならない。かくなるは事実を事実として受け止め、これが演習であって実戦でなかったことを幸せに思いながら、次に備えるしかない。

 

 僕らは執務室に行き、提督を前にして、以前の上層部への報告の時みたいに演習でのことを語った。反応は特になく、口にしたことは「そうか、もう行っていい」だけだった。僕は失望されたかと思って焦った。その感情には慣れていなかったんだ。僕の焦燥を感じ取ったのか、提督は意地の悪い笑みを浮かべて「子犬が狼に勝てるとは最初から思っていない。さて……報告は済んだんだろう? ハウスだ、子犬ちゃん」と言った。

 

 最後の言葉のせいもあって、執務室を出ても楽しい気分にはなれなかった。子犬扱いは気に入らない。僕は羞恥から生まれる怒りを抑えた。怒りには、それを解放するに適切な時、相手、手段というものがある。感じた怒りを即座にばら撒いていては、本当に三つの子供や子犬そのものと変わらない。もし提督からの評価を引き上げたいなら、結果を出すことだ。そうすればいずれ、彼女は僕らのことを狼の一匹として数えるようになるだろう。その日が来るのを早める為に、僕と隼鷹は早速演習の見直しをすることにした。暇そうにしていた伊勢を今度甘いものをおごるからという言葉で釣って、食堂の片隅での反省会に付き合って貰う。彼女は演習の時のふざけた態度や、相手を軽んずるような戦い方とは裏腹に、丁寧に僕や隼鷹の欠点、あるいは演習で犯した失敗を指摘してくれた。それが一つ一つ、伊勢の気兼ねなく素直な言葉で以って言われるごとにすとんと僕の胸に落ちて、気にしていたことや自分でも気づいていなかった恥部や落ち度を指摘された時にしばしば人を襲う、あの激しい恥辱を一切生み出さなかったことに、僕は驚いた。

 

 一段落ついたところで、隼鷹が持ち前のずけずけとものを言う性格で伊勢に尋ねた。「随分親身になってくれるねえ?」その言葉にはからかいの意図と、自分を侮って刀一本で相手をしようとした伊勢が、こうもよくしてくれることへの意外さが含まれていた。伊勢はそれに気づきもしないような裏のない笑いを見せて答えた。「だって見込みあるもの、二人ともね。それに先輩が後輩の面倒見るのは当たり前でしょ?」からかおうとした相手にこんなにまっすぐなことを言われては、僕らは顔を見合わせてばつの悪い思いを分かち合い、はにかみの笑みを浮かべ、伊勢に礼を言うしかなかった。

 

 途中、日向もふらっとやってきた。日課のトレーニングを済ませて来たところだったそうで、運動着を着て額に汗を浮かべ、スポーツドリンクを片手に持っていた。元気なものだ。僕はそれだけで僅かに尊敬の念を抱いた。演習でもかなり動いただろうに、その上更に訓練を行うとは。僕もその向上心を見習わなくてはいけないだろう。日向はスポーツドリンクを飲み終わるまでの短い時間だったが、瑞雲を用いた彼女なりの航空戦術について説明してくれた。伊勢が細やかで具体的なのと対照的に、抽象的でフィーリング頼りな日向の説明は僕には半分も理解できなかったが、それでも分かるところが皆無だった訳ではなかった。日向にはまだまだ聞きたいことがあったが、彼女は彼女でやることもあるだろうし、次の機会まで取っておくことにする。と、彼女と入れ替わりに妙高さんが現れた。彼女は数学がそう得意でない僕にも飲み込めるように、優しくゆっくりと噛み砕いて、砲撃時の計算のコツや、精度の低下が許容範囲内に収まる程度の手抜きの仕方を教えてくれた。僕はそれを、乾いたスポンジが水を吸い取るように身につけていった……と言うと嘘になる。僕は三人から教わったことについてそれぞれ紙に欠かさずメモを取っていたが、覚えたぞ、と思って確認の為に見返すと、何度も覚え切れていないところを見つけてしまうのだった。自分の能力の低さが悲しいことだ。それでも、僕はその弱さを努力で克服できると信じていた。そうでなかったら、絶望するしかないじゃないか?

 

 夜も更けてきて、僕らは解散した。自室に戻り、ピアスを外してそれをテーブルの上に置く。その片割れは未だに渡す相手を見つけられていない。普通の友達ならこれまでに何人かと出会ってきた。今いるよい友達なら、隼鷹を真っ先に思い浮かべる。彼女は百万人に一人の友人だ。しかし、僕にとってこの耳飾は、それが明確ではないにしろ特別な意味を持つものだった。従って、よしんば隼鷹がこれを受け取るに相応しい相手だとしても、今はその時ではなかった。それに言うまでもないことだが、受け取ってくれるかどうかは彼女次第なのだ。まあ、別に結婚を申し込む訳じゃなし、断られるようなこともないと思うが、受け取るだけ受け取っておいて使いもせずに箱の中に入れて片付けてしまうってこともあり得る。僕としては、そのような扱いを受けて欲しくなかった。

 

 寝る前にシャワーを浴びようと思った。身だしなみはきちんとしていなくてはいけない。特に自分が男で、周りに異性が多い時には、気にしすぎるくらいでいいだろう。彼女たちの鼻や目はどういう訳か男のそれよりも性能が高いらしく、どんな些細な身繕いの失敗や怠慢も、たちどころに見抜いてしまうからだ。そして、彼女たちは自分が入念に気を払っているからこそ他人にも厳しく、公平に同程度の注意を要求する。意志を持つ者はそれを跳ね除けることもできるが、賢いことではない。それに、不潔であることが清潔であることより優れている点など、人類の文明化以来かつてなかったのだ。十九世紀に医者が消毒することを覚える※19まで、どれだけの命が不潔さによって失われたことか。おっと、今はそんな話をしている場合ではない。

 

 僕は着替えを持ってシャワー室に向かった。そこには艦娘用のシャワー室と提督用があり、前者は軍が伝統的に用いている集団シャワー室だった。つまり、僕が使うと何かと問題になる。かなりの希望的観測をしたとしても、紆余曲折の末に僕が持っている骨の半分は粉々になるだろう。事前の説明における合意によって、僕は提督用を使うことになっていた。シャワー室とは言っているが、提督用の方は普通の家風呂のようになっている。バスタブ付なのだ。シャワーに行く途中それをふと思い出し、風呂に浸かり損ねたなと思う。今から湯を入れるのは面倒臭い。

 

 と、間の悪いことに提督も一日の疲れと汚れを暖かいお湯で流してしまおうと考えていたらしかった。僕は彼女をシャワー室の前で見つけた。彼女だけではなく、長門もいる。僕は彼女が提督のものらしき着替えを持っていることで、勝手に納得した。介護役なのだろう、義手義足で杖突きの人間が一人でシャワーを浴びるのは危険が過ぎる。提督は僕に背を向けていて、長門と話していた。その内容を盗み聞きしないで済むように、それと長門に睨まれないように僕はそそくさとその場を逃げ出したが、あのビッグセブンは僕の気遣いを知りもせずに目つきを鋭くした。「編入の挨拶に参りました、これ、つまらないものですが」と言ってガイガーカウンターでも持っていってやろうか、と考える。考えるだけだ、僕も越えてはいけない一線の区別ぐらいつく。それは北上に人間魚雷の話をするようなものだ。龍田に潜水艦の話をするようなものだ。利根にカタパルトの話をするのとは訳が違う。

 

 着替えを持ったまま何処に行けるでもない。僕は部屋に戻ってそれを置き、食堂に行った。まだ消灯時間は来ていない。誰かいたら、話しかけてみるのもいいかもしれない。だがいたのが第二艦隊だったら、また逃げるとしよう。僕は執務室で加賀に睨まれた時の、あの足元から上がってきた冷気のようなものを思い出して、身震いをした。あの目、あの瞳! あんな目ができるようになるまでには、一体どれだけの、何を経験してくればいいのだろう……彼女が自伝を執筆する気になれば、それを基にして映画の一本や二本は撮影できるに違いない。きっとだ。ちょっと薄めて創作部分を付け加えれば三部作はカタい。

 

 食堂には響がいた。本を読み、透明な液体の入ったコップをその傍に置いていた。僕はまた彼女がウォッカを飲んでいるのかと思ったが、そうではなさそうだった。髪もしっとりと濡れているし、風呂上りに水を一杯といったところだろう。彼女以外に食堂には誰もいなかった。話しかけようかと思ったが、彼女は本を読んでいる最中に邪魔されるのを好まないだろう。僕は、僕も水なんか飲みに来たんだという風を装って、ここを出ることにした。コップ置き場から一つ取り、ウォーターサーバーから水を出す。一口飲んで、息を吐く。単なるポーズの為にやったことだったが、冷水が喉に気持ちよかった。冷たさが食道を通って、胃に落ちていくのを感じる。予想していなかった二杯目を飲んで、僕はコップを返却所に置いておいた。

 

 さあ、食堂を出よう。そう思って出入り口の方に身を向けるが、響がこちらを見ていることに気づいた。既に彼女の手にあった本は閉じられている。そんな気はなかったんだが、やっぱり邪魔してしまったようだ。気を悪くしてないといいのだが。僕は無礼にならないで済むよう、声を掛けた。「やあ、こんなところに一人でどうしたんだ?」すると彼女は言った。「一人で静かに本を読むには、ここがぴったりなんだよ」「悪かったな」「うん? ああ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。座りなよ、話でもしよう」恥知らずにも、こんな奥ゆかしく礼儀正しいお誘いを断るような奴は、男であることをやめるか、性根を入れ替えてもっと紳士的になった方がいい。僕は返却所に置いたコップをもう一度取り、水を注いで、響の対面に腰を落ち着けた。「その本は?」と僕は尋ねた。革のブックカバーで何の本なのかは分からなかったが、そのくたびれ方から響がそれを何度も何度も読み返して来たことは明々白々だった。彼女は答えた。

 

「宗教書だよ」

 

 心を引く答えだった。つまり、響はロシアに、正確を期するならソ連に縁のある艦娘だ。彼女が訓練所で響になる前にどんな人格の持ち主だったか、僕には知る術がない。だが、それがどんなものであったとしても、恐らく今の彼女のように神聖な静けさを心に持った人格でなかっただろうことだけは確かだった。そういう人間は、もうとっくに絶滅したんだ。今じゃ放射年代測定で本物だと確認された化石標本が、博物館で展示されてる類のものだ。それだというのに、彼女は信仰を持っている。僕には存在や正当性を立証できないものを信じる人の気持ちが分からなかった。それを否定するつもりはない、信教の自由という素晴らしいものがあり、公共の福祉に反さない限り(だから殺人カルトなんかはダメだ)、誰もがそれを誇りに思うべきだ。ただ、時代に逆行するだけでなく、艦娘としての彼女自身の特性や経歴に逆らうような彼女の信仰が、興味深く感じられただけなのだ。

 

 陸の兵士は言う。蛸壺の中では誰もが敬虔な信徒になると。僕だって、訓練所で頭の上を機関銃弾が飛び交う中、泥濘に身を浸して這いずり回ったあの日、信仰に目覚めるところだった。その辛さを、何か絶対的に自分よりも上位の存在から賜わった試練であると解釈しないではいられなかったのだ。それに、信じる者は救われる※20という言葉のことや、フランス人の神と信仰に対する理性的・数学的な判断※21のことも、考えないではいられなかった。

 

「じゃあ、宗教を……天国や地獄を信じているのか? 面白いな、『響』が宗教者ってのは……信仰に文句をつけたりするつもりはないけど、証拠と言ったら昔っからある本に書いてあるってだけなのに」

「信じているよ、私がいつか死ぬってことと同じぐらい、それは確実だって。ある種の事柄では、信じるのに証拠なんか要らないんだ」

 

 『証拠なんか要らない』と、ここだけを聞いたらきっと世界中の法曹界の関係者たちが怒り出すだろう。それから、合理主義者たちや一部の哲学者たち、攻撃的無神論者たちもだ。僕はそこまで人の内面に口出ししようとは思わなかったので、あくまで彼女の言葉への返答は、個人的なコメントをするに留めた。

 

「その答えは理性的じゃないな」

「そっちこそ、随分と西洋かぶれじゃないか。西洋的思想の、人間の理性的本質に対する傾倒は、彼ら特有の注意……個人の自由意志だとか、人間が自律して、自発的に、運命を選ぶことができる、という考えが引き起こしたことだ。でも、私はそうは思わない。辺りに何もない、誰もいない海で溺れている時に、人間の力が何になる? 大海原に頼んでみても、彼女はきっと答えないよ。私たちは無力で、理性なんてちっぽけな爪楊枝みたいなものさ。精々が自分の汚れを掻き出すことにしか使えないんだ。そういう考え方をするという意味では、私はとてもロシア的だと言えるだろうね」

 

 それには僕も賛成だ。

 

「ロシアはアジアだもんな。でも、もし信仰が間違ってたらって思うことはないのか? 何処の誰だかも分からない神様が本物の神様で、偽者の神様を信仰した罰で地獄に落とされたりなんかしたらって。あるいは、そもそも天国も地獄もなかったらって」

「全部アジアって訳じゃないけど、まあそうだ。分かってくれて嬉しいよ。そして、その問題については簡単なことでね。私にはこれしかないんだ──罪深い私が救いを求め、救われるには、この信仰しかないんだ。他に道があったら後悔するかもしれないけど、最初から歩く道が決まってたら、その先に何が待っていようと私は受け入れるだけさ」

「響が罪深いとは思えないけど」

「ありがとう、でもこれは宗教的な意味でだよ。その観点に立って言えば、私は大罪人なんだ」

 

 彼女は微笑んだ。前に僕に見せたのとは違う、もっとはっきりとした微笑だった。それを見せられた後の僕には、どんな観点に立っても、彼女を罪悪と結びつけて考えることはできなかった。彼女は水を飲んで言った。「楽しい話だけど、そのせいでつい喋りすぎてしまったよ」「他の艦娘たちなんかとはこの手の話はしないんだな」「信仰について勘違いをしているか、頭から拒否しているか、だから。まあ、何を期待するにしても、人それぞれさ。例えば不知火は『神様がいるなら奇跡で深海棲艦を一掃してくれる筈だ』と言って譲らないんだ」僕はその様子を思い浮かべた。響は声をひそめて笑って、そんな風に考えるなんて彼女は可愛いよ、そうじゃないか? と僕に同意を求めた。僕は頷いた。響が被った帽子をくいっと動かして、表情を隠そうとしながら言った。

 

「また話が重苦しい方に行きそうだ。と言って、私は本来口数の多い性格じゃない。何かないものかな、私ならではの話題が」

「響ならでは……ロシア語?」

「ほう、こいつは驚いた。折角学問とは無縁の世界に辿り着いたのに、また勉強したいのかい? Вызов принят(いいだろう)※22, я вас проучу.(教育してあげよう)

 

 僕は地雷を踏んだかもしれなかったが、響がそれで喋りやすくなるなら構わなかった。彼女のロシア語の知識は、艦娘になった時に得たものだそうだ。生きて退役したら、この知識を使った仕事に就けるんじゃないかと期待していた。全国に何人の響がいるか知らないが、少なくはあるまい。終戦を迎えて少ししたら、ロシア文学や映画の翻訳ブームが来そうだ。響の語学教育は実践的だった。小中学校で英語を学んだ時のように、無駄を感じることはなかった。代わりに文法は時々崩壊していたし、スラングも混じっていた。だが、その方がやっていて楽しいものだ。汚い言葉は悪行の一つだが、それにはそれなりの魅力がある。そして人が生きているとどうしても綺麗な言葉を使っては表せないものに出くわすことがあり、そういう時にはどんな聖職者でも、内心忸怩たる思いを抱えつつ、この悪徳に手を染めるしかないのだ。

 

 学問は高尚な行いだが、翌朝に影響しない程度にしなければならなかった。僕も彼女もだ。適当なところで響と別れ、シャワーを浴びて寝た。

 

 そしてまた夢を見た。夢を見たことを覚えている。だがそこで何を見た? 忘れてしまった。息苦しさだけが喉の辺りに残っている。夢の中で「できる」と誰かが言った。でもそれが誰だかも分からなかった。一体、僕に分かっていることは何なんだ? 医者に掛かることは考えられなかった。戦闘不適合と思われることが嫌だった。戦闘を重ねて、僕の心が折れてしまったら、その時に自分への言い訳として悪夢を使うとしよう。しかし今、実戦を前にして逃げ出すようなことはできなかった。一緒にここまで来た友人を失望させたくなかった。手紙を送ってくれる友達をがっかりさせたくなかった。やっと彼女たちと一緒に、場所は違っても同じ敵と戦えるようになったのに、たかが夢に邪魔させる訳にはいかない。

 

 嫌な寝覚めだったが、体は休まっていた。自分の今日の予定を確認する為に手帳を取り出そうとして、もう広報部隊とは違うのだと思い出す。僕は服を着替え、ピアスを身につけて、部屋の外に出た。そこには不知火が待っていた。何かしくじったかと考える。先任が後任を待っていた時には、大抵の場合、後任にとって嫌な知らせを伴っているものだ。朝の挨拶を交わす。どうやら運のいいことに、不知火は丁度今来たようだった。彼女は僕に対する提督の指示書を持っていて、それを渡しに来たのだ。僕はそれを受け取って、さっと目を通した。第一艦隊への出向命令、一三〇〇に出撃だ。現在時刻は〇九〇〇。「三十分前までに工廠へ集合して下さい。健闘を」と不知火は言った。「ありがとう、不知火先輩」「いえ、構いません」今度は不知火も上手に表情を作った。でも僕にはお見通しだ。

 

 初めての実戦ではない。あの岩礁での交戦は激しかった。あれよりもひどい戦闘が、いきなり起こるとは思えない。最悪を想定しておくことは大事だが、それは針の先ほどの恐怖を、わざわざ自分で増大させる必要があるというのではない。大丈夫だ。それに今回の出撃には仲間も大勢いる。僕よりも鍛え上げられ、経験に裏打ちされた能力があって、信頼できる。僕は朝昼兼用の食事を取る為に、隣の部屋の隼鷹を誘って食堂に行くことにした。ノックを三度、だが彼女はそれで起きないことの方が大半だ。そういう時には叩き起こしてくれ、という取り決めを僕たちは交わしていた。これは僕が起きなかった時についてもそうだ。僕がこれまでの人生で結んだ契約の中でも最高のものだ、と思っていた。泥酔した隼鷹がとても再現性のない独創的なやり方で僕を起こそうとして、危うく殺しかけるまではだ。酔いを覚まさせた後で僕は彼女に聞いた。「スクイーザーと耳かき、それと袋詰めした鉄くずでどうやって僕を起こすつもりだったんだ? 永遠に寝かせるつもりだったんじゃないのか?」彼女は答えられなかった。

 

 ドアを開けて中に入り、後ろ手に閉める。鍵を掛けていないのは無用心だが、今はありがたい。そら、隼鷹はベッドで毛布を引っ被って寝ている。それを掴んで、引き剥がす。もう何度もやったことだ。それからテーブルの上の水差しを……そうだ、水差しはないんだな、今度用意しておこう。仕方ないので、鼻をつまんでやる。頬をぺちぺちしてやってもいいが、榛名さんによれば美容によくないらしい。※23広報部隊勤務の経験から言わせて貰うが、美容は大事だ、疎かにするべきではない。

 

 彼女は起きた。髪がぼさぼさだが、互いに慣れてる。「朝かい?」「うん、九時過ぎだ」「もう指を離してくれていいよ」「そうしよう」僕は隼鷹の鼻から指を離した。彼女は鼻の頭を爪で軽く引っかき、背伸びをした。「さあて、着替え着替えーっと」「待ってるよ。食堂で何か食べよう」「おっ、いいねえ……でもさ、待つなら外で待っててくれないかい?」「そりゃ残念」笑いながら僕は部屋から出た。近くの壁にもたれ掛かり、隼鷹の準備が整うのを待つ。毎朝、女性は多くの時間を費やすものだ。もし彼女たちがみんな、今の三分の一、いや三分の二ほどに毎朝の努力を減らせたなら、その余剰分の時間とエネルギーを使って人類は更なる勝利と発展へと跳躍できるだろう。その為のロールモデルには隼鷹が相応しい。彼女は、彼女自身がどう考えているにせよ軍隊向きだ。何でも手早く、効率的にやるし、しかもやったことがちゃんと作用する。

 

 部屋を出て来た時には、彼女は普段の様子だった。少しアルコールの臭いがする、寝覚めに一杯やりやがったな。ほら、いつも通りだ。二人で食堂に行くと、第一艦隊の面々が先にいた。彼女たちに挨拶をして、食事を共にさせて貰う。吹雪秘書艦、日向、伊勢、響……妙高さんはいない。彼女は第二艦隊との掛け持ちで、丁度今の僕みたいな立ち位置だったのだが、僕と隼鷹の着任によってその激務から解放されたのだ。昨日、妙高さんが優しかったのはそのせいかもしれない。

 

 券売機コーナーで食券を買う時、僕は何となく隣の券売機を使って日向と伊勢が何を頼むか見た。それはどう考えても、航空戦艦の食事量ではなかった。艦種での食事量の違いは存在するが、一般に艦娘はよく食べる。これは彼女たちが肉体労働に従事しているからというだけで、艦娘の特性としてではない。僕はダイエットでもしているのだろうかと不思議に思いつつ、自分の分を頼もうとした。そこではたと理解した。出撃前だからだ。負傷した時に、胃腸が破れて中身が体内にぶちまけられることがある。修復材で外傷は何とかなっても、異物までは取り除けない。そこから感染症を起こし、死に到ることもある。買おうと思っていたセットをやめ、日向たちに倣う。僕らは同じテーブルに落ち着いた。隼鷹の持っている食事を見る。ほんの僅かな量だった。彼女も気づいたのだろう。

 

「今日の出撃はどんなものなんだ?」

 

 友達に聞くように、僕は気軽に伊勢にそう質問した。僕と隼鷹はそれを許されていた。伝統的に、軍では階級と着任順が部隊内での序列を決めてきた。どれだけ早く着任しても、伍長じゃ少尉に逆らえない。軍規上はそうなってる。同様に、先任の軍曹と新しく昇進した軍曹では発言力が違う。こっちは明文化されていないが、自分たちで作ったルールってのは外から押しつけられたものより大事にされる。で、ここからなんだが、前線の実戦部隊と後方で勤務する部隊では、一つ二つルールの数が違うんだ。実戦部隊には追加のルールがあって、それは部隊、艦隊によって違う。例えばある艦隊では、右手に艦隊のモットーを記したリストバンドをはめる。それは内と外を区別し、彼女たちの結束を強める。他の艦隊では、お互いを特別な名前で呼び合う。また別の艦隊では、そういった外見的・表面的な細かい違いによって区別したりしないで、もっと兵士として分かりやすいやり方で分ける。実戦経験があるかどうかだ。そしてここの第一艦隊は、そのルールを採用していた。で、僕と隼鷹は本物の戦闘を経験した後だったから、最初から仲間として受け入れて貰えた訳だ。

 

「ん? ああ、まずは慣らしみたいなものよ。適当に航行して、索敵して、敵を見つけたら撃って、弾と燃料が少なくなったら帰る。分かりやすいでしょ?」

「今回の海域で確認されている艦種は?」

 

 これは日向が答えた。

 

「駆逐、軽巡、重巡、空母、それから稀に潜水艦と戦艦だ。目を覚まして指示を聞いていれば、死ぬ心配は少ない。秘書艦、今回の組み合わせは?」

「組み合わせ?」

「ま、言ってみれば戦場での相棒みたいなものかなあ? 行動の最小単位って奴」

 

 疑問を差し挟むと、また伊勢が答えてくれる。真に頼りになる先輩だ。

 

「隼鷹さんは私が。日向さんは伊勢さん、それからあなたは……」

 

 彼女はこちらを向いて、言葉を濁した。「私だね」と響が引き継いで言った。丁度いい、宗教と語学を通じて仲良くなったところだ。「よろしく」と僕は向かいの席に座る彼女に手を差し出した。彼女の小さな手が重なり、力強くこちらを握ってくる。これもまたいいね、だ。握手はこうじゃないといけない。響とのコンビの結成後、僕は食事の間中、戦術的な質問を仲間たちに投げかけた。砲戦については伊勢、対航空機については日向、雷撃については響が答えてくれた。世話になり通しで悪いなと思うし、自分の無知を知らされて恥ずかしいが、戦場で切羽詰ってから聞く方がもっと彼女たちに迷惑を掛けるだろう。恩返しの為にも、一刻も早く一人前になることだ。

 

 食事を終え、食器を返して別れる時に、日向が言った。「遺書は書いたか?」僕は首を振って答えた。「書いておいた方がいい。死んだら慰めになる」この出撃で死ぬかもしれないほど僕が間抜けだってことか? と曲解することもできたが、日向はそんな無駄なことを言う性格ではなさそうだ。それよりも、言葉が足りないばかりに他人に誤解されそうになるが、透けて見えるような彼女の人間性によって正しく解釈し、理解して貰える、という人付き合いの上で得するタイプだろう。そこで、僕は遺書を書くことにした。でも何を書けばいい? まず伝えるべきは家族にだろう。『これを読んでいる頃、僕はもうこの世には……』いやいやいや。幾ら何でもその書き出しはないな。自分の息子の遺書が届いて、震える手で開いて読んでみたらおふざけで書いたような内容だったなんて、笑い話にはならない。

 

 笑い話とはこういうのを言うのだ。ある龍驤が提督に金を借りた。それは結構な額だったが、その龍驤はそれをさっさと使い切ってしまった。提督は督促に督促を繰り返し、とうとう次の期限を守らなかったら解体だ、と彼女に通告した。そしてその期限の日のことだ。彼女の部屋に返済を求めて入った提督が見たのは、素っ裸の尻に部屋の鍵を突っ込んで仰向けに寝転がり、腹の上に茶碗を乗せた龍驤だった。彼女は叫んだ。

 

腹椀(払わん)ケツ錠(決定)や!」

 

 これは僕のお気に入りの話だ。多分その龍驤は解体されたろうが。

 

 他にもある。ある艦隊の提督がこう頼まれた。「正規空母の凄いところを教えて下さい」そうすると彼は答えた。「深海棲艦でさえ手出しできなかった我々の補給線に打撃を与えました」。艦娘は死と密接に繋がっているから、そのことを笑おうとするものもある。「このところ加賀は五航戦と仲がいい。毎日のように花を持って会いに行っている」過酷な条件下で戦わされる艦隊についてのネタも多い。新人艦娘が先輩艦娘に尋ねて言う。「艦隊って何人で戦うんですか?」先輩が答える。「海域に出てから何戦目かによるわね」。そうそう、隼鷹ネタもあった。「提督ー、工廠はどっちだったっけ?」「あっちにまっすぐ行きたまえ」「まっすぐぅ? それじゃ、あたしにゃ無理だなあ」……結構沢山覚えているものだな。

 

 遺書を書く上で大事なのは、残された人間の心を癒すか、慰めるような文を書くことだ。だから間違ってもここで、軍に志願したことへの後悔を書き綴ったりしてはいけない。それにそんな遺書は多分、何故か郵送途中に一度紛失され、筆跡と内容が変わってから到着するだろう。だから僕はまず自分の艦娘としての給料が全部親に渡るようにちゃんと書き記して、それから私物をリストアップし、これこれのものを誰それにと書いておいた。カメラは利根に、ピアスの片割れは北上に、飲めずに残ってしまった酒は全部隼鷹に、広報部隊での壮行会にて四人で撮った写真は両親に、もし僕の死体からナイフが回収できたら那智教官に、それと本は響に。宗教書もいいが、世俗の楽しみに触れるのもいいだろう。その他にも細々としたもので、誰かに贈ることのできるようなものは何もかも書きつけた。それから紙の余白に小さな文字でできるだけ沢山の人々にそれぞれ個人的なメッセージを入れ、日付を書いた。

 

 どうだ、これで立派な遺書になったんじゃないか? 僕は奇妙な満足感を覚えながら手の中の紙を見て、それに書かれた文章を何度か読み直した。名文ではないが、心のこもった最後のメッセージに仕上がったと思う。手紙用の封筒に入れ、可能な限りの綺麗さで「遺書」と書いておく。手紙を書く時の癖で切手を貼りそうになって、それを止めた。切手代ぐらいは軍が出してくれるだろう。



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「第二特殊戦技研究所」-4

 書いている間中、僕は自分が死ぬということに対して本気になれないでいることに気づいていた。僕は溺れた時、訓練所で那智教官にしごかれた時、あの岩礁で深海棲艦と戦った時、死を間近に見た筈だ。あれを笑い飛ばせるほどの本物の勇気が僕の心から現れることはないと思う。特別なんかじゃない、死ぬ時には僕だって誰だって死ぬ。しかも、僕はその可能性がかなり高いところにいるんだ。そういうことを理解しているのに、どうしてもっとそのことについて真剣な態度を取れないのだろう? 自分の心の動きさえ制御できないとは……思春期だからだろうか、きっとそうだろう。

 

 そうであっても、そうでなかったとしても、自分で左右できないものをあれこれくよくよと思い悩むのは意味のないことだ。僕は遺書をテーブルに置いた。部屋を片付けに来た人間に見落とされることはないだろう。後は、その片付け係が誠実で、戦死した艦娘の持ち物をくすねて私腹を肥やすような奴じゃないことを祈るばかりだ。部屋の時計を見る。十二時だ。工廠への集合まで三十分。このままここで、無為かつ贅沢に時間を潰すのもいいだろう。それか、工廠に行って艤装と装備の点検をしてみるのもいい。後者を選んでおけば、死ぬ前に明石さんの存在さえしない不手際を恨まずに済む。有意義な選択だ。

 

 部屋を出ると、隼鷹の部屋から扉越しに僕を呼ぶ声がした。どうも、僕がドアを閉める音を聞きつけたらしい。「何だ?」と僕が尋ねると彼女は言った。「あたしの遺品で欲しいものある?」「おい、クリスマスプレゼントの中身を渡す前に言う奴がいるか?」「リボン付き六〇キロ爆弾でも用意しとくかねぇ」「ペインティングも頼むぞ、ヌードがいいな……あ、女の子のな!」「ちぇっ、行っちまえよ。工廠で会おうぜぇ」友達との軽口の叩き合いは何度やっても楽しいものだ。工廠に行くと、吹雪秘書艦がいた。夕張と二人で艤装をチェックしている。見るだけでその細やかさは分かる。艦種が違っても、装備は似たようなものだ。サイズの差異はあるが、そんなことは大した問題ではない。整備点検で大事なのは、その装備の何を見るべきかを知っておくことだ。それさえわきまえていれば、魚雷だろうと主砲だろうと、副砲だろうと機銃だろうと、艦載機だろうと水上機だろうと変わりはない。ただし、電探とソナーについては専門家に聞く。あれは僕の手に負えない。

 

 明石さんに艤装を用意して貰い、装備してチェックする。彼女はナイフも持って来てくれた。よく研いであり、オイルを塗布してあった。ものをどう扱うべきか理解している人間の、念の入った仕事だ。彼女は鞘を取り付けられる革ベルトも用意してくれており、僕はそれを腰に巻いた。使う機会がないことを祈ろう。祈れば祈るほどその時が来そうな気がする。それに、神がいたとしても彼を信じていない奴を救ってやろうとは思わないだろう。でも彼のことについては大体が冗談みたいなもんだ、僕らを創造したという全知全能の偉大なる神が、その矮小な被造物からおべっかを使われて喜ぶとは。二千年以上掛けて自慰行為がまだ終わらないのか? 医者に行け。涜神は罪らしいので、僕の人生で響をどうしてもキレさせる必要が出てきたら、この話をするとしよう。

 

 大方の調べが終わったところで、僕は隼鷹が工廠に来ていたことを発見した。残りの第一艦隊の人々もだ。隼鷹は僕に約束していたものを持ってきてくれた。「どうよ、これ?」ピンクのリボンが可愛く結ばれた六〇キロ爆弾だ。僕はそれを受け取って、ためつすがめつ眺めてみた。知らなかったことだが、隼鷹は絵が上手かったらしい。どうやって彼女がこんな絵を描けたのか分からないが、それはまるで鋼鉄の表面に命を持って住み着いているかのようだった。生き生きとした、体重百二十キロはありそうな巨体、歯が三本、全裸で垂れ下がった胸を投げ出しているが、毛深くて大事なところは見えていない。とろけるようなその顔……ダリ※24の絵みたいだ。これは芸術(アート)だな。僕は彼女にそれを返して言った。

 

「サインしてくれ」

「いいともさ」

 

 彼女は快諾して、筆を取りに工廠の奥へと引っ込んでいった。響がやって来て彼女と擦れ違い、悪魔の業を見た、というような表情を浮かべた。「あの絵は?」「アート(АД)さ」「確かにАД(地獄)みたいだったけど」それから、戦闘に際しての立ち回りについて話した。僕が敵の注意を引き、響が始末するのが基本だ。その逆もできるが、響が全弾回避できるという前提に基づくことになる。そんな砂上の楼閣じみた計画に頼ろうとは思えない。即死するような攻撃を除いて、僕なら直撃でも何発かは耐えられる。長門みたいに砲弾弾きはできないが、駆逐艦より打たれ弱くはない。無傷ではなくとも、生きてはいられる。死んでなければ、あの希釈された修復材で帰港して治療を受けるまでの時間を稼げる。明石さんは僕と隼鷹の為に、あれを入れた防弾水筒を用意してくれていた。深海棲艦の攻撃に防弾性能がどれだけ役立つか疑わしいが、あって困るものでもない。ナイフとは反対側の腰にそれを下げると、僕は自分が実際よりも遥かにしぶとい男のように思えた。危険な兆候だ、気を引き締めておかなくてはいけない、のだが。

 

Однако как же круто(クソっ、しかしこのナイフ) этот нож, бля! (はマジでいいな!)

 

 柄を撫でて、僕はそう呟いた。響が耳聡く聞き咎めて言った。「私が教えておいて言うことじゃないけど、熱心に勉強するというのも考えものだね」「Абсолютно.(全くだ) ……ごめんよ、気に障ったかい?」「いいさ。汚い言葉は兵隊のものだ」僕はそれにもまた同意した。汚い言葉、スラング、卑語、猥語、そういったものは、訓練課程で誰もが身につける。使うかどうかは別だ、それは個人の裁量に任されている。でも、訓練所での辛い教練を受けている最中に、志願を取り消さなかった愚かな自分への呪いの言葉を心で吐いたり、教官を口汚く罵ったりしなかった艦娘がいたとしたら、僕はそんな得体の知れない子と同じ艦隊で戦いたくはない。卑語は兵士と切っても切れない存在なのだ。

 

 戻ってきた隼鷹を加え、候補生が兵士になる過程における特徴的な語彙的成長について話し合っていると、時間が来た。人生最後の雑談がこれにならないように、気をつけて戦うとしよう。響と共に水路に立ち、艦隊の先頭を務める。名誉なことだ。砲雷撃戦においては真っ先に敵と当たる訳だから危険度も高いが、誰かの背中に隠れて、その艦娘の血と引き換えにした安寧なんて僕には我慢ならない。艦娘として働けると分かる前までの僕なら、諦めていただろう。現実問題として、どうしようもないことには諦めを以って接するしかないのだから。だが僕は運命に選ばれたのか、響言うところの神のありがたいお導きか何かなのか、他の艦娘と肩を並べて戦うことを男として唯一許された。諦めたままでいられる訳がない。

 

 後ろをちらりと振り返り、隼鷹を確認する。真剣な顔をしている。緊張もあるだろうが、吹雪秘書艦がついているならきっと大丈夫だ。伊勢・日向の二人もどっしりと構えて、安心感がある。僕はヘマをしないように気をつけて、弾を撃ち切りに行くのだというような気楽な気持ちで戦えばいい。伊勢も慣らしだと言っていた。大規模作戦の一環でもないのだし、生きて帰れば僕らの勝ちだ。これは自らへの励まし以上に、真実としての価値がある言葉でもある。僕は、というか人類は、深海棲艦がどのように生まれて来るのか知らない。奴らはもしかしたら胎生で、海の奥底には男の深海棲艦もいるのかもしれない。あるいは昔、魚がそうだと考えられていたように、海の何処とも知れぬ場所から、自然と湧き出てくるようなものなのかもしれない。卵生? それもありそうな話だ。しかし奴らについてはっきりと判明していることもある。それは、あいつらは敵を殺すことに掛けては生まれながらの才能を持っているってことだ。どれだけ多くを殺しても、あいつらはほんの少しの間を置いて、また姿を見せる。駆逐イ級でも、戦艦ル級でも、どれでも、変わらない強さと共に戻ってくる。ところが僕ら人間と来たら、長い時間を掛けて殺すことを教えないと銃の引き金一つまともに引けないし──中には教えたって学ぼうとしない者もあるのだ。幸いなことに、現代の軍ではそんな奴は最初から弾かれる。志願制だからだ。ある程度歴史のある国なら何処でも、徴兵によって作られた軍を持つ時期というのがあった。当時はそれが時代の流れで、その時点では正しい選択だったのだ。だが現代では、そんな国に生き残る権利は与えられない。

 

 僕らと深海棲艦の戦争において、僕らが圧倒的不利だということを表現する為に、少し大げさな例え話を考えてみよう。一人の駆逐艦娘が、自分の命と引き換えに空母ヲ級を半ダース沈めたとしよう。その戦いで負けたのは僕らだ。一人の軽巡艦娘が、一グロスの重巡リ級を道連れに沈めたとしよう。その戦いに負けたのは僕らなのだ。僕は時々、彼女たち深海棲艦が単細胞分裂みたいにして増えるんじゃないかと想像することがある。そうでなきゃ深海に畑があって、種を撒くとそこから採れるのだ。その種は何処から持ってくるかって? 知るかよ、きっとスーパー深海(ディーパー)マーケットの家庭菜園コーナーにでもあるんじゃないか。一袋十グラム、春夏秋冬いつでも旬だ。たっぷりの海水と、とんでもない水圧下でお育て下さい。

 

 頭上を索敵の瑞雲が飛んでいく。僕はそれを見ながら、きっとこの出撃が終わったら、水上機を僕にも配備してくれと持ちかけようと考えた。訓練所以来触ってもいないから、再訓練の必要はあるだろうが、あれがないと重巡の重要な役目の一つ、索敵が果たせない。今回はいい、日向たち航空戦艦がいて、隼鷹もいて、艦隊の目になる航空機も潤沢と言っていい数だ。でも次の出撃では、海域に出るのは僕と響と吹雪秘書艦の三人だけかもしれないのだ。どうしてそんなことが、という質問に意味はない。そうなる時、それはただそうなるだろう。理由とか原因というのは、もっと僕から上の方で話し合われることであって、現場の兵士に過ぎない僕が関わっていけるようなことではない。とにかく、そうなった時に水偵がなかったら困るのだ。提督が薬でハッピーな気分になっているのを邪魔するつもりはないが、彼女の仕事は果たされなければならない。そして部下が無駄死にしないように気をつけるのは、上官の仕事だ。他の誰のものでもない。それに水偵は別に高価だったり希少な装備だったりしないし、不都合で支給できないということはないだろう。

 

「……見ーつけたっ!」

 

 伊勢が楽しそうに口走る。彼女の瑞雲から、敵の艦隊を発見したとの報告があったらしい。「数は?」と秘書艦が尋ねる。「重巡リ級が二と軽巡三、潜水艦はいないと思うよ」「では取り掛かりましょうか。隼鷹さん、航空攻撃を。他の方々も攻撃に移って下さい」「はいよ! 商船改装空母隼鷹、行くぜぇ、ひゃっはー!」日向とはまた違ったベクトルに元気な奴だ、相変わらず。敵艦隊の位置を伝え聞き、秘書艦と隼鷹以外の四人で前に出る。僕たちが砲戦可能な距離に入ると同時に、迂回した隼鷹の航空隊が彼女たちを攻撃し始めた。迂回とは、実に細やかな気遣いがされている。お陰で敵は僕らにまだ気づいていない。僕は近づこうとする響を止め、有効射程ギリギリに標的を収めて立った。「遠すぎやしないかい?」「いや、いけると思う」腰を落とし、衝撃を分散する姿勢を取って、狙いをつける。撃つのは、対空戦闘に夢中で動きを止めている重巡だ。風とコリオリの力を計算し、角度を決めるが、最後は勘と運がものを言う。響は黙って僕についていてくれている。彼女が先任なのだから、やめさせようと思えばやめさせられるのに。

 

 発砲した。反動を受け止め、着弾を待たずに動き出す。当たるのを見たい気持ちはあるが、それに突っ立っている必要はない。移動しながらでも見られる……当たった! 僕の放った砲弾が直撃し、リ級の一人の体がちぎれ飛ぶのが、遠くからでも確認できた。「あんな狙撃を見るのは久しぶりだ」と響が言う。言外に、あれができるのは何もお前だけじゃないんだぞ※25、ということを響が言っているような気もする。そうだとしても、この僕もそれをやったのだということは変わりない。自分のやった見事なことは、正しく認識して称えてやるべきだ。僕はにっこり笑う。「さあ、行こう」敵艦隊はその中核を成すリ級の一隻を突然失って、混乱しているようだった。混乱、混乱か。奴らには知性があるという証拠だ。だったとしても、相手が僕を殺すつもりの時、彼女たちの知性の存在が何の慰めや得になる? それは、奴らがひどく手の込んだ迂遠な方法でこちらを殺しに来るかもしれない、という心配を僕にさせるだけだ。

 

 伊勢と日向が砲撃を始める。やはり戦艦の砲撃は威力が違う。軽巡の一隻が至近弾か何かを受けて、水面を跳ね飛ぶのを僕は見た。隼鷹の爆雷撃と彼女たちの砲撃を前にして、彼女らなりの秩序を失った深海棲艦に勝ち目はなかった。僕はキルマークをもう一つつけ損ねたものの、戦闘には無傷で勝利できた。それが大事なことだ。怪我なくやっていこう。こつこつとだ。どうせ、明日にも戦争が終わるという訳ではない。僕の子や孫の時代まで続くかもしれない……おい待てよ、僕の子供や孫って、どうやって作るんだ?

 

 やり方の話じゃない。状況次第では誰かとその話をするにやぶさかでない程度には、僕はやり方を知ってる……体験としてではなく、マジで素晴らしい知識としてだ。そうじゃなくて、誰とって話なんだ。僕はお相手を何処で見つければいいんだ? 休暇で街に出た時に、いわゆる赤線地帯※26に出かけるのか? それもいいだろう、髪の毛としわの数、どっちが多いのか分からないような人を相手にして、ついでに何か病気の一つでもおまけで貰って来れる可能性だってある。あるいは親戚のおばさんを探して、お見合いの話はないかと持ちかけるもよかろう。確かまだうちはその手のおばさんの在庫があったと思う。昨今は女性不足(言うまでもなく、無視できない数の女性が艦娘になるからだ)で、何かと大変だと前に話を聞いた覚えがある。ああ、だが無論、最高なのは、長い試練と経験を通して本当の愛を見つけることだ──しかしそれは幽霊みたいなもので、誰もが語るが、見た者はいないという。それに職場恋愛はご法度だ。男性提督が艦娘に手を出さないようにと作られたルールは、僕にも適用されたのだ。破ったらどうなるか、好んで試してみるつもりはない。絞首台の上に立つのはお断りだ。うん? 絞首台だったか? 鞭打ちだったかもしれない。まあとにかく、自分がそんな目に遭うところを考えるとぞっとする。

 

 艦娘が絞首台に上がることは滅多にない。罰として殺すには金を掛けすぎているし、戦力に余裕もないからだ。最悪の場合でも、懲罰部隊に放り込むだけで終わる。一応、名誉回復や生存のチャンスはある訳だ。だがもし、そんな甘っちょろい判決をよしとしない誰かが「同期中で一番最初に絞首台に上がる艦娘になりたい」と決意したとしよう。彼女がその夢を叶える為には、軍を脱走して融和派に加わるとか、挙句民間人を殺すとか、戦場で味方殺しをしでかすとか、僕には到底できそうにない類の並外れて愚かなことを行わなければならない。命令拒否、上官への反逆とか、殴打なんかではダメだ。それでは軍法会議の種類──僕は軍に入ってそれが複数存在することを初めて知った──を告発の担当者に操作されて、痛くて辛い体罰を食らい込むことになるだけである。

 

 もっと言えば、今例に取った三つでは、軍法会議を開かれさえしないこともある。指揮官、僕ら艦娘の場合は提督が隊内処分で片をつけることにし、裁かれる方でもそれに同意したなら、営倉入りやトイレ掃除、夜間当直、食事抜き、その他諸々の雑務を罰として科されるだけで済むのだ。隊内処分は軍隊流のお世辞みたいなもので、そいつのキャリアに傷をつけることで、本来はより高いところで発揮されるべき彼の才能が、下っ端で埋もれてしまうことを忌避した結果生まれたものだ。だから軍法会議と違い、それは記録に残らない。ただ罰によっては記憶に残ることになる。そして、刻み付けられた記憶は、容易なことでは消し去れないのだ。

 

 最初の敵艦隊を撃滅した後、更に二回ほど交戦の機会があった。僕の戦果としては重巡をもう一隻沈めた他、響との共同戦果として駆逐を二隻撃沈、それに空母一隻へ大きな被害を与えるという中々の手柄を上げた。艦隊を組んで戦うのが初めての艦娘が、よくやったものだと思う。それもこれも、吹雪秘書艦の素早い指示、伊勢と日向の息の合った援護や、隼鷹の絶妙な航空支援、響の的確な砲雷撃があってこそだ。艦隊として戦うのは、一人二人で戦うのに比べて、何とまあ落ち着いていられることだろう。僕がミスをしても、必ず他のメンバーが助けてくれると信じられる艦隊で戦う今、強くそう感じる。だからこそ僕は当然、他の誰かがミスをした時には何があってもその助けになろうと思うし、また思うだけでなく実際にそうするのだ。

 

 夕方になって、僕らは帰投した。工廠へ行き、使った弾薬や燃料の量をメモしてから余った分を返還して、艤装を外し、整備員へと渡した。ナイフは私物なので持って戻ることにする。今日は使わなかったが、明日も使わないで済むといい。背伸びをして体の凝りをほぐし、隼鷹を誘って夕食にしようと考えていると、吹雪秘書艦から声を掛けられた。彼女が僕に直接声を掛けるというのは意外な出来事だが、仕事のようだ。「司令官に、資材使用量や戦果の直接報告をお願いします」と彼女は言った。僕は真面目な顔でその指示を受けたが、吹雪秘書艦が足早に工廠を出て行って、僕の声が聞こえないという確信が持ててから、尋ねた。「そういうのって秘書艦の仕事じゃないのかな?」すると伊勢は困った顔をして答えた。「うん、いつもは秘書艦がやってるんだけど。でも、これだけは言っておくけどさ、あの子は自分が楽したいからって仕事を人に押し付けたりしないよ。それは信じて欲しいなあ」彼女の悲しそうな声のトーンに、僕は慌てた。そういうつもりじゃなかったんだ。単なる愚痴みたいなもので、ちょっと笑って軽く励ましてくれればそれでよかった。伊勢が心配しなくてもいいように、僕はちゃんと言っておいた。「吹雪秘書艦は立派な艦娘だ。付き合いは短いし浅いけど、それは分かってるよ」そうだ、それに疑いの余地はない。あの提督の秘書艦を務めていることからも、それは明らかなのだ。

 

 普段秘書艦がやっている仕事とはいえ、彼女から委託された以上僕はその仕事に責任がある。務めを果たすことを怠ってはいけない。軍は怠慢に厳しいのだ。僕は急いで他の艦隊員たちから資材使用量を聞き出し、その総量をまとめた。それから秘書艦以外の面々に頭を下げて集合させ、事実確認を行い、可能な限り正確に、誰がどの敵をどれだけ砲撃、雷撃、爆撃し、どの艦娘がどの深海棲艦を沈めたかなどをきっちりと書き出した。経験があって、僕の要領がよければ、ほどほどに手を抜いてやっただろう。しかしこの手の報告を自分でやるのが初めてだった僕は、全力でそれに対応せざるを得なかった。結果、時間が掛かった。昼が少なかったせいで空腹も抱えているだろうに、文句も言わずに僕の仕事の為に手を貸してくれた艦隊員たちには頭が上がらない。

 

 彼女たちを解放し、僕は作った書類を持って提督の執務室に急いだ。僕もいつ腹の虫が肉と皮を食い破って出てくるか、気にする身だったからだ。健康な少年にとって、空腹・飢餓というのは耐えがたい責め苦の一つである。夜間出撃の命令は来ていない。腹が膨れて動けなくなるまで食べて、消化して、トイレに行こう。これは何にも劣らぬいい考えじゃないか、ここ暫くで最も賢明なことを考えたような気さえするぞ。僕は未だ見ぬご馳走を思い浮かべた。肉、魚、野菜、米……どんなものでもそれに六本の足とか複眼がついていない限り、今の僕にはおいしそうに見えるだろう。理性を失って、人間や艦娘にだってかぶりついたかもしれない。ところで人肉と艦娘の肉は同じ味がするのだろうか? 栄養素は? 食べようとは思わないが、あくまで学術的興味の為に誰かに聞いてみたい話だった。妖精にでも聞いてみたら、答えてくれるだろうか。

 

 執務室に着く。と、先客がいるようだった。僕も急ぎだが、その先客もそうかもしれない。失礼だが、誰なのか確かめさせて貰おう。僕は戸口に立って、耳をそばだてた。途端に、僕の眉は垂れ下がった。困ったことになった、中には長門がいる。しかも、真面目な話をしているような雰囲気だ。その中に僕が入って行ったら、提督は気にしないだろうが、長門がどう反応するか分からない。第二艦隊の旗艦にはただでさえ睨まれているというのに、これ以上不興を買うことになったら、第一艦隊のよき人々さえ僕を遠ざけるようになるかもしれない。そんなのは嫌だった。だが、かといって、書類を渡さずに逃げ帰って忘れてしまうという訳にもいかない。執務室の扉には報告書用のポストみたいなものもあるが、吹雪秘書艦は直接報告せよと言った。勝手に逃げるのが許されるのは民間人だけだ。そして僕は、自らその権利を投げ捨てて、民間人ではなくなってしまったのだ。お陰で昔からの目標だった、艦娘関連の職業に就くという目的は達成できた──でもそれが正しかったか、よい選択だったかどうかと言われると、ちょっと疑問が残る。僕は目の前の餌に飛びついた魚みたいに吊り上げられただけだったのかも。

 

「平和な戦前に生きたかったものだな」

 

 提督がそう言うのが聞こえた。その言葉には軍や戦争への嫌悪がこもっていた。誰でもそうだろう、戦争が好きな奴はいない……いや、一人だけ知ってる。天龍はそれが好きなようだった。訓練所でのあの地獄のような鍛錬の日々だって、戦争に行く為の準備として楽しんでやっているようにさえ見えた。実戦を経験しただろう今、彼女がどんな見解を有するようになっているか、訊ねてみたいものだ。彼女と仲良しの龍田の為にも、戦死していなければいいが。

 

「戦前? あの頃はそう平和とは……」

「大戦じゃない、この戦争のことだ。それで、何の話だった?」

 

 学者たちはこの戦争のことを何と呼ぶべきかということについて、派閥ごとに一定の考えを有している。ある派閥では「深海戦争」と呼び、また他の派閥では「人類自衛戦争」、更に別の派閥ではこれは戦争ではなくて「長期警備出動」であるという立場を取る。そんな奴らは、僕らにとって知ったことではない。これは戦争だ。深海棲艦の最初の一匹が、人間の最初の一人をぶっ殺しやがったその時から、戦争は始まっていたんだ。頭でっかちでその実お馬鹿な民間人どもはそれに気づいていなかったかもしれないが、これが戦争じゃないならその他の何をも戦争とは呼べないし、呼ばせるつもりはない。僕はそんな大それたことを主張する思い上がった市民閣下を、一人一人とても強く殴打して回るだろう。それも二発ずつだ。名前にこだわって本質を見てもいなければ見ようともしないし、見たいとさえ思っていない奴らにも二発ずつぶち込んでやる。

 

 僕らはこれをただ「この戦争」と呼ぶ。それで十分だからだ。荒々しい兵隊っぽく振舞いたいなら、「この(ここに好きな罵倒語)戦争」でもいい。どうしても固有名詞を使って表現したければ、各々で好きなように呼ぶ。学者から借りてくるもよし、自分で考えるもよし。艦娘でおふざけが好きな者たちは、しょっちゅう「新しい名前を思いついた」と言ってそれを仲間に披露したものだが、まあその中の九割は卑猥か、馬鹿馬鹿しくて下らない冗談のような名前であるかのどちらかで、後の一割はその両方だった。

 

「旗艦を交代したい」

「どうやら私の幻聴じゃなかったらしい。まあいい、却下する。不服か? だが多数決を取ろうにも私たち二人だけじゃ無理だな。行け」

「提督、私は本気だ」

「私だって本気だ。根競べしたいか? 私はしたくない。だからお前が出て行くんだ。私には命令権があるからな、どうだ、羨ましいだろう?」

 

 長門は黙っていた。僕には部屋の中で起こっていることを想像することしかできない。彼女たちは視線を交わし合って、そこで僕にはできないほど沢山の思いを交換しているのだろう。提督の人間的素養については批判しかできないが、彼女の能力については彼女が提督であるというその一点のみによって、軍が保証していた。コネがあろうと、無能な人間は提督にはなれないのだ。人類世界防衛の為に、そうならざるを得なかったのである。やがて提督は溜息を一つ吐いた。それは彼女が、したくない我慢比べをするよりかは聞きたくもない長門の話を聞き流して、適当に終わらせてやった方が早いだろうと判断したことを示していた。または、長門が本当に本気であると確信したことを、だろうか。長門は提督が聞く姿勢を見せたことで、喋り始めた。

 

「私は不安定になっている。あの男と知り合ってから、あれへの不快感が抑えられない。吐き気がする。背中を見せていると落ち着かないし、そうでなくとも怖気が走る。苛立ちも、怒りも、止められない。

 

 どうしてしまったのかと、何度も考える。こんなざまでは早晩沈むかもしれないと思えて、夜も眠れない。寝ても悪夢を見て、自分が海の上にいるのか、部屋にいるのか、それとも海の下なのか、分からなくなって飛び起きる。私に何が起こっているのか理解できない。

 

 頭ではおかしいと分かっている。あの男は最高ではないが、それなりに優秀にはなるだろう……よく鍛えられ、戦意もあり、その二つをどう活かすかも教えられている。以前に調べた限り、勤務態度も悪くなさそうだ。私があれを嫌う理由なんて、あれが彼女の代わりにここに来たことだけだというのに。

 

 面と向かって顔を合わせるまでは、努力すればあの男のことをまだ正しく認識できる。だが目の前に現れると、あっという間に感情が理性を排除してしまう。あいつか私か、どちらかがいなくなるべきだ、という気分になる。全くの病気だ」

 

 抑揚を抑えた無感情な声に、僕は長門の苦悩を感じ取った気がした。この告白が、これまでの長門の態度を全て赦免してくれるとは思わない。でも、彼女は上手くやった──意図せずして、僕にこの話を聞かせやがった。もうこれで僕は長門のことを、根っから嫌ったり憎んだりできないだろう。僕は彼女が彼女の意志に反した感情に囚われ、それによって苦しんでいるということを知って、それでも彼女を心置きなく憎めるようなタイプの人間じゃない。もし長門がこれを僕が聞くように仕向けていたのなら、軽蔑を覚えるだろうが、そのことを考える度に僕は長門の高慢な態度、彼女の持つ全てに基づいて育まれた、自尊心の強さと大きさを思い出した。その存在は僕に、彼女が嫌っている相手にわざと弱みをさらけ出すことは絶対にしないと信じさせた。

 

 僕は書類をポストに入れた。音がしないように気をつけなければならなかった。それから足音を立てないように、そっとそこを後にした。もやもやした気分だった。長門に嫌われるのは別にいい。だがそれなら、彼女が僕を嫌うのと同じように、僕にも彼女を嫌わせて欲しかったのだ。そうすれば、僕らは永遠にでもいがみ合って、それなりに付き合い方を模索していけただろう。今はどうだ? 彼女は変わらず僕を憎む。僕はそのことを否定できないし、これまでと同じようには彼女の悪意に反応できない。手詰まりみたいなものだった。僕はすっきりしたかった。友達と騒いで、忘れてしまいたかった。考え込んだって答えの出ないこともある。それに、長門がどうあろうと時間は流れるものだ。その内に僕も、新しい対応法を見つけるだろう。時間がきっと何もかも解決してくれる。

 

 何か食べようと思って、僕は食堂に行った。時間は飲み食いするには僅かに遅かった。だがそこには秘書艦を除く第一艦隊の皆が何も口にせずに待ってくれていた。吹雪秘書艦は相当お忙しいようだ。「待ってたよ、それじゃ行こっか」と伊勢が言った。「行く? 何処に?」「お前たちの初出撃祝いだ」日向が口元を緩めて答える。その所作の美しさに僕は意識を奪われそうになるが、からかわれないようにぐっとこらえて笑い返す。「丁度、僕もみんなで盛り上がりたい気分だったんだ」「いいねー、さあさあ、早く店に行ってひゃっはーしようぜー!」「おいこいつもう酔ってないか」食堂を出て、この研究所の敷地内にある駐車場へ向かう。そこにはSUVが一台置いてあった。僕にはそれが陸軍で使われている仕様のものであるように思えたが、質問しても日向は「民生品だ」としか言ってくれなかった。このことについては突っ込んだ話を聞くまいと考え直し、その代わりに別のことを訊ねる。運転席に座ったのは日向だったが、彼女はそうすると飲まないのだろうか? それとも運転代行を頼むのか? これは後者だった。

 

 長門とのことで曇っていた気持ちは今や、からっと晴れ渡った青空みたいな状態だった。自分の単純さが僕は好きだ。それは僕が生きる上で多くのことについて悩まずに済むという、ありがたい加護を与えてくれる。人間誰しも、若い内は様々なことで思い悩むが、僕だけはその苦しみから解き放たれているか、苦しんだとしても指の先をちょっと切ったとか、ささくれを引きちぎったせいで少し出血した時に感じる程度の痛みしか受けないでいいのだ。若きウェルテル※27のようにピストルで頭を吹っ飛ばしやしないかと、心配する必要もない。

 

 店は居酒屋だった。店員は軍人慣れ……いや、艦娘慣れしているようで、先に待っていた民間人よりも優先して通して貰えた。これは軍人の特権の一つだ。命を懸けている人間には、それなりの社会的な見返りが与えられるものである。古代ローマでは、市民権は軍務に就けるものしか得ることができなかった。※28 現代で僕らが享受できるのはそれに比べると見劣りする権利だが、それでも特別な待遇をされるというのは気分がいい。民間人の中にはそれを気に入らないと言う奴もいるが、それなら予約でもしておくことだ。幾ら何でも、予約客よりふらっと来た軍人を優先させるほど僕らの特権は強力ではないからである。僕らは座敷に上がり、めいめいに注文を始めた。隼鷹は早速ハードリカーに走り、日向と伊勢はつまみと日本酒を頼んだ。響はウォッカかと思いきや、彼女も日本酒だった。「こういうところのウォッカは好きじゃなくてね」最後に僕の注文を受けた店員が行ってしまってから、僕の視線に答えて彼女はそう言った。

 

 僕や隼鷹なんかは飲めれば何でもよくって、飲めるだけでなくおいしければ更によいという考えの持ち主だから、響のこだわりは面白かった。自分と違う考えを持つ相手と話すのは楽しいものだ。違うということは素晴らしい。それは、僕と比較して違うということだけについての話ではない。駆逐艦娘としての響は全国に大勢いる。でも目の前の響と、横須賀の響と、呉の響と、その他の泊地や鎮守府や基地の響は、必ず全く同一の存在ではない。そしてそれこそ、僕が話題にしているこの響が、かつてない唯一無二の燦然と輝く魅力を持つ理由なのだ。誰と置き換えることもできない彼女だからこそ、この響は素敵な女性なのである。

 

 しかし、美しいものを楽しむには余裕が必要だ。僕にはその時、それがなかった。空腹だった。ぺこぺこだった。飢えていたし渇いていた。だから飲み物が運ばれてきて、最初の乾杯が終わるや一息に飲み干し、突き出しをむさぼり喰らった。他のみんなも似たようなものだった。彼女たちは僕ほど下品ではなかっただけだ。伊勢と日向の前に置かれたつまみの皿は、僕がほんの数秒目を離した間に空っぽになっていた。響は一杯に詰まった食べ物で頬をぷくりと膨らませていた。隼鷹は……こいつは放っておこう。げらげら笑い出した後に突然沈黙を始めるまで。それは隼鷹の飲酒量が彼女の限界を超えたことを示すサインだった。

 

 腹がやや満たされ、喉が潤うと、僕らの舌は滑らかになった。沢山の話をした。第三艦隊は何をやっているのかとか(研究所への資材輸送警護任務専門だそうだ)、僕と不知火以外に第四艦隊所属のメンバーはいるのかとか(夕張と明石だった)、出た訓練所の話とかだ。訓練所というのは艦娘にとって忘れがたい場所で、それは民間人にとっての出身校みたいなものと言えばいいだろう。二人の艦娘が期こそ違えど同じ訓練所を出ていれば、その艦娘同士はすぐに仲良くなれる。同じ教官にしごかれたという繋がりは、それだけ大きく強いものなのだ。残念なことに、第一艦隊の面々は伊勢と日向が訓練所の同期である以外に、そのような共通点はなかった。でも、他の訓練所ではどんな訓練を受けたかや、教官がどんな人物だったか聞くのは楽しかった。

 

 さて、そのまま僕らが話し続け、飲み続け、食べ続け、平和に楽しくやってから艦娘寮に戻ってぐっすり眠りました、と言えれば幸せなものだ。しかし、そんな一日の終わりが兵隊に相応しいものだろうか? 僕はそれに答えることを避けたいと思う。が、その質問に対して明確なノーを突きつけるような奴もいるものだ。そいつらは陸軍の一団で、分隊の仲間同士なんだろうが、静かに飲んでいた。お通夜みたいな雰囲気で、実際そうだったのかもしれない。彼らは僕たちの近くの席に陣取っていて、こちらの会話を盗み聞きしているのを隠そうとしていたが、失敗していた。そして段々と彼らは隠すつもりもなくなったのか、僕らを当てこすり始めた。それに最初に気づいたのは響だ。それは、一番に彼らの皮肉やからかいの対象になったからでもあるだろう。陸軍の嫌がらせが終わらないことで、とうとう日向が不機嫌そうに舌打ちした。伊勢は眉をひそめた。隼鷹は笑っている。僕はこいつを見ると安心する。響は無視を決め込んで、食卓の上に並んだ料理をぱくぱくと食べ続けている。

 

「出よう」

 

 響が食卓を片付けてしまったのを見て、日向はそう言った。僕にもそれを拒否する理由はなかった。伊勢が会計を済ませに行ってしまい、僕らはその少し後からレジに向かった。その時に、僕の足が陸軍連中の靴に当たった。わざとじゃない、わざとじゃないと思う、が、心の奥底で奴らに仕返しの一つでもしてやりたいと考えていて、それがこういう形で発露したんだと言われたら、僕はその意見に一定の説得力を認めるだろう。

 

「俺の靴だぞ!」

 

 酔っ払った陸軍兵が飛び出してきて、僕の胸倉を掴んだ。ここで睨み返してやれたらよかったんだが、僕は十五歳、あっちはひげも生えて体つきもがっしりとした大の大人だ。僕はかちこちになりそうだった。そうならなくて済んだのは、すぐに日向が割って入り、彼の腕を掴んで止めてくれたからだ。「やめろ」と彼女は短く言った。でも僕は半ば疑っているのだが、この時の日向は「やめてくれるな」と思っていたのではないだろうか?

 

 陸軍兵が日向の手を振り払う。彼の指先が彼女の頬を打つ。それで反撃の理由には十分だった。酔っ払いの顔面に彼女の固い拳が叩き込まれた。一発でノックアウトされて床にぶっ倒れた仲間をぽかんと眺めていた男たちが、突然正気に戻って襲い掛かってくる。ありがたいことに、そっちには僕も反応できた。近くのテーブルにあったコップを掴み、それを僕に向かってきた兵士に投げつける。顔に当たりそうになって、彼は腕でガードした。そのせいで視界が遮られ、僕の突進に気づかなかった。押し倒して、殴りつける。伸びてしまったそいつを放って立ち上がり、次の敵を探す。と、最初は僕らと近くの席の陸軍どもだけだったのが、今や店中の海軍と陸軍が殴り合っていた。海軍側は数が少ないが、艦娘がいる分、質的に優位だ。伊達や酔狂で深海棲艦と戦って死線をくぐってる訳じゃない。それに妖精たちの手で艦娘になった時に変わるのは、外見だけではないのだ。身体能力も、個体ごとに差異はあるがそれなりに上がる。

 

 僕が四人目の兵士を投げ飛ばし、五人目に取り掛かろうとしたところで銃声がした。何処かの馬鹿が持っていた拳銃でも撃ったかと思って音のした方を向く。人が多くて見えない。だが誰かが叫んだ。「憲兵隊だ!」

 

 それを聞いて逃げ出そうとする奴はいなかった。出口は押さえられているだろうし、捕まえて下さいと言うようなものだ。ずかずかと入って来た憲兵は、店内の惨状を一瞥して顔をしかめると僕らを怒鳴りつけた。曰く、共同して祖国を防衛するという神聖な任務に当たらねばならない陸軍と海軍が……これ以上は馬鹿馬鹿しくて聞いていられなかったので覚えていない。演説を終えると憲兵は「それで、誰が始めた?」と訊ねた。僕らはみんなで顔を見合わせた。それから憲兵に向き直り、肩をすくめた。「さっぱりですな」最初に日向のパンチを食らった兵士が、鼻血をハンカチで拭いながら言った。「お前は?」と隼鷹に憲兵が言う。「あぁー? 何だってぇ?」ダメだこいつ。憲兵は響に目をやる。彼女は誰かのテーブルの上に手付かずで残っていた料理に手を出すかどうか逡巡していて、彼に気づきもしなかった。日向と伊勢はそっぽを向いている。最後に彼は僕を見た。「いやはや、何が何やら」と言っておく。足元で僕が倒した兵士が呻いた。

 

 憲兵は怒りに震え、唸り声を上げて「いいだろう」と言った。「貴様ら全員、本当のことを喋るまで留置場にいろ!」

 

 しかし、僕らは予想に反してそうならなかった。憲兵たちは第一艦隊を護送車に押し込み、悪名高き留置場に連れて行くのかと思いきや、見慣れた庁舎の前で僕らを下ろしたのである。そこには提督と、吹雪秘書艦が待っていた。僕は肩に百キロも重りを乗せられたような気持ちになった。「楽しんだようだな?」一体「はい」という以外に……待て、こんなやり取りは前にもしたことがある気がするな。僕は黙っていた。「秘書艦、この間抜けどもを執務室に連行しろ」「はい、司令官」提督は移動する僕らの背中に呼びかけた。「逃げようとしてもいいぞ。秘書艦の運動不足解消に貢献してやれ」お断りだ。

 

 執務室で待つこと十五分、提督は杖を突きながら戻って来た。僕はその杖が、ヲ級の持っている杖によく似ていることに気づいた。提督は僕の視線が何に向けられているかを悟って、鼻を鳴らした。「じっくり見たくなるのも分かるよ、障害者はセクシーだからな」きまりが悪くなって、僕は目を逸らした。提督が執務机につくのを、秘書艦が手助けする。自然な動きでそれを受け入れて、彼女は僕らを壁の落書きを眺めるような冷めた目で見た。

 

「酔っ払って陸軍と乱闘、挙句店の破壊。立派なもんだな、テストステロン(男性ホルモン)のせいか、え?」

「僕は──」

「失礼、勘違いさせたかな。日向に言ってるんだ」

 

 恥ずかしさに顔が赤くなるのを感じる。それに、日向に対する侮辱への怒りもだ。彼女は僕を庇おうとして、そのせいでこれが起きた。彼女が辱められる理由はないし、仮にあったとしても、それがこんな言葉を吐きかけられるほどのものとは思えない。提督の背後に控えていた吹雪秘書艦が一歩前に出た。足音どころか衣擦れの音もしなかったが、提督はそれを察知して振り返り、視線だけで秘書艦を止めた。僕は自分が彼女に鎮圧されるところだったのだと気づいた。提督が止めさせなければ、今頃意識を失って床に這いつくばっていたかもしれない。どうやって吹雪秘書艦がそれを成し遂げるかは分からないが、彼女はやるだろう。

 

 僕らに向き直った提督は、もう僕らの不始末への興味そのものを失っているようだった。「伊勢と日向は今晩から四日間、営倉で寝転がっていろ。響は不知火との遠征任務を命じる。隼鷹は……おい、起きろ。隼鷹は一週間の夜間当直。それからお前、テストステロンまみれの子犬ちゃんは私の風呂掃除一ヶ月だ。トイレ掃除にしてやろうとしたんだが秘書艦が首を縦に振らなくてな。私を恨むな、秘書艦を恨め」誰も文句を言わなかった。軍規にあるよりも遥かに軽い処罰だったからだ。僕は提督が軍規と顔を突き合わせ、細かい条項や前例を持ち出して僕らに与えられるだけの罰を与えてくるものと思っていた。意外に思っているのが顔に出たのか、提督は僕を見て言った。

 

「罰は以上だ、もっと大事な話がある。喧嘩だが……どっちが勝った?」

 

 僕はぐんと背が伸びたような気持ちになった。彼女が僕らの味方をしているのが分かったからだ。考えてみれば、憲兵たちが僕らをここに連れてきたのも、彼女の意向か何かが介入してのことだったのだろう。僕は、胸を張って答えた。

 

「陸軍は埃の味を忘れないでしょう」

「そうか、よくやった。秘書艦、私の勝ち分を寄越せ」



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「“六番”」-1

雲の中の悪魔のように
悲哀を叫びながら
夜の後を行こう
夜と共に行こう
慰めの昇る東方に背を向けて
光は私を苦しめるから

──ウィリアム・ブレイク※29


 艦隊勤務初日に陸軍と喧嘩し、そうなることを事前に予測していた提督(「兵士と酒がある。どうして喧嘩にならないと思うんだ?」と彼女は言った)が賭け※30に勝って吹雪秘書艦と第二艦隊の数人から大金を巻き上げ、僕が一ヶ月の風呂掃除──(のち)に秘書艦権限で一ヵ月半の風呂掃除に変更された。長門の告白を盗み聞きした時に『提督への直接報告』を果たさなかったからだ──を言い渡されてから、およそ四ヶ月が経過していた。第一艦隊としてもう何度も出撃を重ね、日向たちと演習をしても、勝てはしないがそこそこ戦えるようになっていた。第二艦隊としてはほんの二、三回出撃しただけだが、艦隊員たちの態度にも関わらず、彼女たちの中からは学ぶべきものを山ほど見つけることができた。古臭い型ではあるが水偵だって積んで貰えたし、充実していた。

 

 忙しさによって友達や家族への手紙を書く回数は減っていたけれど、遠距離恋愛の恋人同士でもないのだし、元々僕は筆まめ過ぎたきらいがある。丁度いいところに落ち着いたのではないだろうか? 利根と北上は相変わらず頑張っているようだ。利根のところには筑摩がようやく着任した。彼女は、姉妹艦の着任時にと思って貯めていた金を放出し、かなり派手なパーティーを開いたそうだ。面倒見のいい相手の姉妹艦になれたことは、筑摩にとって幸運なことだろう。だが戦闘は激化の一途を辿っているそうで、宿毛湾に一緒に行った訓練所の同期も減ってきたと書いていた。艦娘が減る理由のほとんどは戦死で、僅かな者だけが心と体に決して癒すことのできない深手を負って家に帰ることができる。利根がそのどちらにもならないことを、僕は心から祈った。

 

 北上は以前に送りつけた隼鷹と僕の写真に触発されてか、大井との写真を同封してきた。誰に撮らせたのか、二人とも自然体のままに写っている。タイマーを使って撮ったのでなければ、それは二人がよき理解者を見つけることができた証拠だろう。そうであれば、そんなに嬉しいことは中々ない。手紙本文は当たり障りのないことだけで、僕が実戦部隊に転属して戦っていることを驚きと共に受け止めている、というようなことが書かれていた程度だった。「自分から前線に行きたいって、変なのー」とでも言いたいのだろう。僕より先に戦闘部隊に着任し、僕より長く戦場を見てきた為に、軍や戦争への考え方も変わったのかもしれない。

 

 僕は二人への返事を書くつもりだった。その為には少し落ち着ける場所が必要で、僕はその要求にぴたりと合致する場所を知っていた。僕らの住んでいる研究所からちょっと歩いたところに、喫茶店があるのだ。大きすぎず、小さすぎず、静かで、雰囲気がいい。僕みたいな背伸びしたがる年頃の子供から本物の大人まで、幅広く受け入れることのできる店だ。コーヒーがおいしいらしい……だが僕はそもそもコーヒーが飲めないので、それが本当かどうかを確かめる術もない。僕に言わせれば、そこではクリームソーダが一番だ。嘘じゃない、嘘ならもっと自分がカッコよく映るような嘘を言うだろう。砂糖漬けのチェリーとアイスクリーム、それにメロンソーダの組み合わせは、十五歳の舌にはぴったりなのだ。世の中にはきっと、十五で四十五みたいにコーヒーを楽しむ男もあるだろうが、それは僕じゃなかった。

 

 新しい常連としてそこに通うようになっていた僕は、筆記用具その他の入った小さな鞄を持って、そこを訪れた。今日は珍しく一日丸々休みの日だったから、返事を書く以外にもできることをしっかりと満喫して帰るつもりだった。しかし、何ということだろう? 滅多に混雑しないこの店が、どうしてか全部の席を占められていたのだ。僕は相席を頼むことにした。ここまで来て引き下がるのは嫌だった。返事を書くのは無理にしても、腰を下ろし、お気に入りの飲み物を飲んで、内心で「今日はツイてないな」とぼやく時間が欲しかった。そして四人掛けの席が一人によって使われているのを、僕は見つけた。ほっとしてそちらに小走りで近寄り、相手をよく見もせずに「相席、いいですか?」と頼む。思えば、ここで冷静に考えておくべきだったのだ。どうしてこの混雑している時に、彼女は一人でそこを占有していられるのか? 事象には何にでも原因というものがある。彼女は、戦艦武蔵は、眼鏡の下の目を細くして僕を見て、テーブルに置いていた彼女のポータブルテレビを動かした。それから、そのおもちゃで作られた境界線を甘い匂いのしそうな褐色の指で指し示して言った。

 

「世界唯一の男性艦娘の頼みとあれば、嫌とも言えまいさ。だがもしこの線を越えたら、その鼻へし折って顔面整地してやるからそう思え」

 

 落胆と失望、それから退屈を強く感じた。はいはい、また僕を嫌いな艦娘か。イムヤ、由良、第二艦隊の面々、今度は武蔵だ。護国の英雄に嫌われるというのは心に来るものだが、そろそろ僕は慣れ始めていた。武蔵、戦艦武蔵は、長門型を越える戦力として認められている数少ない艦娘の一人だ。姉妹艦に当たる大和と共に、国は最大の配慮を彼女らに行っている。艦娘寮に備え付けのパソコンでネットサーフィンをしている時に、こんな記事を読んだことがある。ひなびた村の農家の娘が武蔵になり、国の援助で村ごと引っ越したそうだ。事実かどうかは知らないが、国がそれだけの価値があると考えているのは間違いないだろう。

 

 対角上の席に腰を下ろすと、短髪でボーイッシュな雰囲気のウェイトレス※31がせかせかとやって来て、ご注文は? と訊ねた。年もそう離れてないし、もうすっかり顔見知りの子なので、いつも通りで、と頼んでおく。それで万事通じた。彼女が行ってしまってから、僕は武蔵に「人に対して無礼に振舞うのは、超弩級戦艦の間で流行ってるのか?」と言ってやった。彼女の言ったように鼻がへし折られたとしても、それでいいと思っていたんだ。怪我しても、修復材があれば直る。ああ、もちろん私闘で修復材の使用許可が下りる訳がないな。けど僕もここ暫くで兵隊らしくなったのだ。バレないように僅かずつちょろまかして、溜め込んでいた。みんなやっていることだ。スリルも味わえるし、こういう時に覚悟もできる。死にさえしなければ何とかなると思えば、結構思い切った行動を取れる。

 

 あ、そうそう、超弩級戦艦でも伊勢と日向の二人は別だ。彼女たちはいい人で、尊敬している。僕の思い上がりを正してくれて、感謝だってしているのだ。

 

 武蔵は反応を見せなかった。戦艦の余裕の表れなのだろう。僕を初対面で罵ってきた長門とはいささか違うところがあるらしい。彼女は手元に置いていたカップから冷めた紅茶を飲んだが、その間ずっと僕をねめつけていた。僕は半ば自暴自棄になって、その目を真っ向から睨み返した。腕力では負ける。これは艦種の違いで、避けようがない。立場では? どっこいどっこいだろう。あっちは国の守りの要も要、翻ってこっちは、ただ男の艦娘ってだけだ。珍しさについては僕が上だが、有用性では負けている。いいとこなしだな、僕は。

 

「誰にやられた?」

 

 そんなことを考えていたせいで、彼女の言葉を聞き逃すところだった。「何だって?」「前に無礼を働いたとかいう、私より性格の悪そうなその超弩級戦艦。誰だ?」「長門だよ」すると彼女の顔が嫌らしい喜びにさっと輝いた。僕は人の笑顔を見て自分がそんな風に感じたことに、むしろショックを受けた。同時に、こんな不愉快な笑みを見せることが現実に可能なのだということに、ただ驚きもした。「長門型か! よし、それなら握手して友達になろうぜ──私も奴らが嫌いなんだ」「最低だな!」思わず、本心を口走ってしまった。来るであろう顔面パンチを覚悟して、ぎゅっと目をつぶる。しかしそんなものは来なかった。恐る恐る開けてみると、きょとんとした武蔵が僕を馬鹿でも見るような目で見ていた。それから亀裂のような笑みをまた浮かべ、彼女は言った。

 

「何だ、別にお前にも長門型を嫌えと言っている訳ではないぞ。あれに嫌な思いをさせているお前のことが気に入ったんだ。信じてないな? 疑い深い奴だ……さあ、握手しよう。知り合えて嬉しいぞ、よろしくな」

 

 彼女は僕が腕を引く前にさっと手を伸ばし、その柔らかな手で僕の手を強く握った。彼女はしっとりとして吸い付くような肌と、金剛力(武蔵なのにな)の持ち主だったが、それにしてもこんな不本意な握手は初めてだった。変な艦娘と知り合ってしまったな、と自分の行動を後悔していると、ウェイトレスがクリームソーダを持ってきた。僕の前にそれが置かれる。戻ろうとするのを武蔵が呼び止め、紅茶のお代わりを頼んだ。ウェイトレスは疲れの隠せない声で返事をして、厨房へと注文を伝えに行った。武蔵はその背中を見送りながら、小声で囁いた。「知ってるかい? あの子、艦娘適性があったんだ。それも陸奥のさ。でも親の信条だかに反するとかで、志願させて貰えなかったんだとさ」「子供を戦争にやりたがる親なんていないだろう」「分かってないな、深海棲艦融和派なんだ、彼女の親は」僕はびくりとして辺りを見回した。誰も聞いてはいないようだ。よかった。怒りを込めて、武蔵を見る。

 

「よくもそんなこと! 警察や密告屋に聞かれてたらどうなってたと思ってるんだ? 夕方には彼女は姿を消すだろう、彼女の親も、彼女を雇ってたこの店もなくなってただろう、僕らだってどんな嫌疑を掛けられるか分かったもんじゃないんだぞ!」

 

 彼女は悪びれもせずに「だから?」と笑った。信じられない行いだ。今の世界では、深海棲艦はあらゆる点において人類との共存が不可能である存在と見なされている。人型の深海棲艦は何の政治的主張もしないし、公的には鬼級以上でなければ話すこともできないということになっている。ましてや駆逐や軽巡などの形さえ人間でない連中は、考慮するまでもない。奴らはただ人間を殺す為にいるのだ。だから、彼女たちとの共存を説く融和派などという存在は、あり得てはいけないのだ。それは第五列と違いがない。そんな奴らの背後からの一刺しでこの戦争に負けるかもしれないと考えると、当局の弾圧も理解できる。ああ、これが人間同士の戦争ならまだいい。僕らは互いに殺し合うのが歴史的に大好きだ、そうだとも。でも僕らは勝ったからと言って、敗戦国の人間を皆殺しにまではしない。現実的じゃないし、そこまでのエネルギーも理由もないからだ。だが深海棲艦は、もう一度言うが、生まれた瞬間から人間を殺す為に存在しているような奴らだ。人類は生存の為にも、あれやあれに共感する連中をのさばらせておく訳にはいかないのだ。もちろん、限定的な海域を除いて、海を放棄するという選択肢もあったさ。でも、それじゃあ深海棲艦が陸地に上がって来たらどうするんだ? 空にでも逃げるのか? そこで雲海棲艦に出会ったら? 諦めてこの地球を奴らの手に渡してやるって言うのか?

 

 結局、人間は戦うしかなかった。その方針で固まらなければいけなかった。だから、融和派は徹底的に叩かれなければならなかったし、今だって叩かれ続けている。テレビでは融和派を見つけたら通報するように、という政府からのお知らせが流れない日はない。ラジオでもそうだ。新聞の広告欄にも書かれている。融和派は人類の敵、融和派逮捕に繋がった情報の提供者には逮捕一人につき報奨金幾ら、融和派追放運動、融和派の特徴的言動……この言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうになるほどだ。例え艦娘だったとしても、何か失敗して深海棲艦融和派のレッテルを貼られたら、明日の太陽を見られない覚悟はしなければいけない。人類全てへの裏切りは、それほどの重罪なのだ。にもかかわらず、時折艦娘の中の融和派も摘発される。

 

 ウェイトレスが武蔵の紅茶を持ってやってきた。彼女は訓練された笑顔でそれをテーブルに置いた。僕は軽く頭を下げたが、もう前のように彼女のことを考えられなくなっていた。武蔵が言ったことが真実だという証拠はない。でも、嘘だという証拠もないのだ。彼女が本当のことを言っていたら、万が一ウェイトレスが捕まった時、僕との関連が警察に掴まれたら……想像するだけで体温が下がりそうだった。僕は小さく震えそうになって、急いでクリームソーダのアイスを口に運んだ。震えたとしても、そのせいで震えたのだと思わせたかったのだ。武蔵は、そんなことを気にもしなかっただろうが。

 

 彼女は小型テレビの方をずっと見ていた。僕は、止めておけばいいものを、何を見ているのかと訊ねた。彼女は答えずにポータブルテレビをくるりと返して僕に見せた。そこには那珂ちゃんの姿があった。僕の同期のあの那珂ちゃんだ。彼女が歌って踊っているのを見て、僕は心が温かくなるのを感じた。彼女は退役こそしていないものの、本物のアイドルになったのだ。それはこういう風に起こったことだった。まず、僕と入れ替わりに広報部隊に着任した青葉が、持ち前の行動力で広報艦隊としての仕事のみならず、記者としての仕事をもするようになった。青葉はそこで得た情報や自分の秘密のパイプから入って来る情報を使って、定期的に新聞を発行していた。これが結構面白く、僕も購読しているのだが、何故彼女が上から睨まれずにこんなものを発行し続けていられるのかは分からない。新聞の人気や仕事の確かさを認められ、青葉はすぐに広報艦隊よりも記者の仕事をメインにするようになった。で、その時に那珂ちゃんと再会し、アイドルの夢を捨てていなかった那珂ちゃんは青葉の協力を得てネットに動画をアップロードした。

 

 それが爆発的にヒットした。

 

 那珂ちゃんのダンスはキレがあるし、笑顔は太陽のようだ。歌もいい、声だって可愛いしな。ファンへの真摯な態度も僕は知っている。彼女はアマチュアのようなたぎる熱意と、プロの冷徹な意識を持っている。遅かれ早かれ、人気は出ていただろう。でも、こんなに急に広まるとは思わなかった。軍の方もだ。彼らは本気で艦娘のアイドルユニットを広報として作ろうとして、秘密裏に育て上げていたらしい。そこにぽっと出の艦娘アイドルが現れ、計画が狂ってしまった。軍は焦ったが、すぐに那珂ちゃんを取り込んでしまうことにした。那珂ちゃんの夢はこうして叶ったのだ。僕は彼女のライブを観に行くという幸運に、まだ恵まれていないが、その時がきっと来ることを信じているし、それを楽しみにしてもいる。その時には僕は最前列に陣取って、声の限りに彼女の名を叫ぶだろう。夢を叶えるということは難しい。だから、僕はそれを成し遂げた人のことを好きになる。彼もしくは彼女は、証明してくれるからだ。夢は実現不可能な目標などではないということをだ。

 

「いい歌だ」

 

 武蔵はそう言った。僕は初めて彼女の言ったことで、マイナスの感情を励起させられずに済んだ。頷いて「訓練所の同期なんだ」と伝える。「いつかやり遂げると思ってたよ」彼女のファンの一人らしい武蔵に向かって、あれは自分の同期なのだと言えるのは、実に誇らしい気分だった。僕は、世界中のファンが羨むだろうが、彼女から手紙を貰ったことだってあるのだ。僕を名指しにしてライバル扱いしてくれたあの手紙だ。大切に取ってある。大事なものだ。

 

 アイスクリームがなくなったクリームソーダをさっさと飲み干す。とんだ時間の無駄遣いをしてしまった。性格が悪く口の軽い武蔵と知り合い、自分の身まで危険に陥れた。暫くは身辺に監視の目がないか気にしながら生きなくてはいけないだろう。手紙の文言も相当気を使わなくてはいけない。いや、いっそ書かない方がいいか? 利根と北上は僕の不誠実さに怒るかもしれないが、彼女たちを巻き込んだらその場限りの後悔だけでは終わらない。

 

 僕は伝票を取って席を立とうとした。だが武蔵は僕より先に伝票立てからあの薄っぺらい紙を取ってしまった。「どういうつもりだ?」「お前の怒る顔をもう一度見たかっただけさ。うーん、悪くない。だがもうちょっと歯を噛み締めたら、表情にもーっと張りが出るぜ」「伝票を返してくれ」「私が払っといてやるよ、友達ができたことを記念してな。明日も会えるかい?」僕は答えなかった。それぐらいの失礼は許されるだろう。鞄を掴んで、店を後にしようとする。戸口まで来て、どういう訳だか、僕はそこで一度振り返ってしまった。彼女は僕に向かって微笑みかけ、薬指を折った平手を振っていた。別れに際してその不自然なほどまともな態度は、しかし、かえって僕の彼女に対する嫌悪の情を掻き立てることにしかならなかった。

 

 その日の夕方、僕は研究所の食堂で隼鷹と一緒に食事を取っていた。僕らは特段話すこともなく、ぼーっと食堂備え付けの古い大型テレビに映るニュースだのバラエティ番組だのを見ていた。ふと、今日あったことを話してみようかという気持ちになったが、嫌なことがあった、という話は話し手の気分を軽くすると同時に、聞き手の心をどんよりとさせる恐れがある。僕は友達を苦しめたくなかった。それぐらいなら、自分だけで抱え込んで記憶として消化してしまうまで、一人で我慢していた方がいい。それにしても、あの武蔵……手に負えない奴だ、あいつは……僕が好きになれそうにない艦娘筆頭は長門だったが、今日でそれも終わりだ。彼女の褐色の肌も、金とも銀ともつかない色の髪の毛も、眼鏡も、赤い目も、声も、話し方も、他人に対する態度も、僕への好意か悪意か戸惑うような振る舞いも、全部が僕の気に障った。それは不可解なほど強い感情だった。長門も僕に、こんな感じの嫌悪を覚えているのだろうか。だとしたら、僕はますます彼女のことを責められないような気がするのだった。クリームソーダ一杯分の時間話しただけで、どうしてこうも武蔵を嫌えるのか、僕にも分からなかった。

 

 はっきりとしない感情に苛立って、ろくに噛みもせずに食事を胃へと流し込み、一風呂浴びて寝ようと決める。隼鷹に「それじゃ、また」と言って席を立とうとすると、テレビの映像が途絶えた。誰かが消したのではなさそうだ。モニターに白黒の日章旗らしきものが現れて、食堂がざわざわとし始める。何だ? 少なくとも緊急放送じゃないみたいだが、怪しげな雰囲気じゃないか。でも、次に流れたものは僕をがっかりさせた。融和派の宣伝放送だった。電波ジャックという奴だ。僕は興味を失って、裏切り者の正規空母赤城が淡々と語る『深海棲艦と手を取り合える可能性』を馬鹿にしながら、その場を後にした。

 

 その翌々日、僕は仕事を終わらせてから、また例の喫茶店に行った。一日の間を置いたから、根拠はなかったが、あの武蔵は来ていないだろうと踏んでいたのだ。そっと戸口から中を覗き込むと、まばらに人がいるだけだった。店主以外に見知った顔はいない。安心して中に入り、店主に片手を上げて挨拶をして、二人掛けの席に腰を落ち着ける。ウェイトレスがお冷を持ってやって来た。僕は彼女にも挨拶をしようとして、それが新人だと気づいた。新しく雇ったのか? でも、ここに一昨日みたいな大勢の客が来ることは少ないし、前の子は親から貰う小遣いが少ないからと、ほとんど毎日入れるだけシフトに入っていた。新しい子を雇う必要なんてなかった筈だ。受験? いや、それもない。以前、高校を出たら知り合いのところで働くつもりだと言っていた。だとしたら……僕はあの武蔵が言っていたことを思い出さずにはいられなかった。それで、クリームソーダを頼んだ後、その新人に尋ねた。「新しく入ったの?」「はい、そうなんです」「いいお店でしょ、頑張ってね。ところで、前の人は? 以前に本を借りて、今日返そうと思ってたんだけど……」「マスターは親の都合で急に引っ越すことになったらしいって言ってましたけど、住所とか電話番号とか知らないか、聞いてみましょうか?」「いや、いいんだ。自分で聞くよ、ありがとう」新人はまだまだ鍛え方の足りない、ぎこちない笑顔を僕に見せて頭を下げ、戻っていった。が、僕にはそんなことに気を払っている余裕はなかった。

 

 水を飲んで、頭を冷やそうとする。偶然だと信じたかった。そうに決まっている、と僕は頭の中で繰り返した。大体だ、武蔵が彼女の親を融和派だと何故知ることができる? 彼女自身が融和派でもない限り、それは無理だ。でもそれなら、僕にあんなことを言いはしなかったろう。融和派だとされて行方不明になった人々が何をされるか、想像することは難しい。だが末路は容易く推測できる。刑法並びに軍法が、その答えを教えてくれているからだ。融和派は、裁判なしでの殺害が認められている。言うまでもなく、処刑者は事後に相手が殺すに値する人類の裏切り者だったことを、きちんと立証しなければいけないが、それでも史上稀に見る徹底した排除の仕方だ。例外はない。

 

 これまで死を身近に感じているつもりだった。いや、確かに感じていた。けれどそれは戦場での死だった。惨めかもしれないし、無残なものかもしれないが、殺し合いの果ての死だ。僕は殺される可能性と同じぐらい、殺す可能性を持っているのだ。これは違う。これは、もっとねっとりとした、不快感のある死だった。それが余りにも近くにいた。僕はそれをやっと実感していた。ウェイトレスがクリームソーダを持って来る。僕はそれを受け取って、ソーダに浮かぶアイスを見る。綺麗な半円をしている。前のウェイトレスはアイスを入れるのが下手くそで、ひどい時なんかはぐずぐずになってしまっていることもあった。ソーダを一口飲む。アイスをスプーンですくい、香りを嗅ぐ。口の中のメロン味の液体を飲み込み、アイスを入れる。味に違いはない。だからこそ、この一杯の飲み物は彼女がいなくなってしまったのだということを僕に理解させた。

 

 声を掛けられなかったら、僕は気分を悪くしてトイレに駆け込んでいただろう。「あの、あ、あのっ! 大丈夫ですか?」緊張したような口調、子供のような高さの声がした方を向くと、隣のテーブルに駆逐艦娘の電がいた。一人で、僕を心配そうな目で見ていた。彼女はいつ来たんだ? ここは艦娘がよく集まる場所なのか? そんな疑問が脳裏を過ぎったが、すぐに消えた。「大丈夫だよ、ありがとう」と空元気を出して答えるが、正直なところそうではない。そこで、僕は恥を捨て、勇気を出して「一人かい? よかったら話し相手になってくれ」と頼んだ。それで断られたら店を出て、気分がマシになるまで歩くつもりだった。突然の申し出だったが、電は受け入れてくれた。飲んでいた牛乳のコップを持って、テーブルを移ってくる。僕は安心した。誰かがいるのはいいものだ。

 

「顔色がとても悪かったので、心配したのです。何かあったのですか?」

「ごめんよ、あんまり喋るようなことじゃないんだ。それよりパフェでもどうかな? 遠慮しないで、食べてくれ」

 

 ウェイトレスを呼び、彼女と僕の為にパフェを一つずつ頼んでから、電に訊ねた。「君は何処所属の艦娘なんだい?」「ブルネイなのです。先日、一ヶ月の長期休暇を頂いて」嬉しそうに話す彼女の姿に、さっきまでの悪心が消えていく。現実から目を逸らしているだけに過ぎないことは分かっているが、それを責められる人間はいないだろう。時間が経てば、思い出すと心の何処かにずきりと来るだけの記憶になる筈だ。「結局、彼女はどうなったのだろう」と他人事みたいに言う日だって来るに違いない。来年か、再来年ぐらいには。

 

 苺の鮮やかな赤が生クリームの白によく映えて輝くような冷菓が二つ、テーブルに置かれた。「どうぞ」と僕は言い、どうやら控えめな性格らしい電が食べやすいようにと率先してスプーンを取って自らのパフェへと差し込んだ。上から掛けられたシロップとクリームを混ぜ、苺を一つすくって食べる。普通の苺よりも酸味が強いものを使っているようで、甘いクリームに押し負けていない。おいしい、のだろう、と思う。僕には砂を噛んでいるようだった。武蔵のことが気になった。ウェイトレスの失踪にはあの戦艦が関わっているのだろうか。武蔵の言葉が正しかったとして、僕だったらどうしただろう? 知り合いの親が融和派だと知ったら、それを軍なり警察なりに告げていただろうか。それとも、素知らぬ顔をして黙っていただろうか。僕には判断ができなかった。考える度に答えは変わった。ある瞬間には、僕は軍法の執行者だった。ある瞬間には、人情の代理者だった。

 

 僕は電の言葉を上の空で受け、部分部分は聞いていても曖昧な答えばかり返していたから、彼女としては話し甲斐のない相手だったろう。なのに、電はよく話してくれた。艦隊の姉妹艦たちと普段何をしているかや、この休暇で家に帰った時に家族がよくしてくれたこと、家計が苦しいから電の給料を振り込んでいるのだが、両親は戦争が終わった後や電が退役できた時に困らないようにとそれをみんな貯金していること、彼らはそれを隠すのが下手で、肩叩き用の棒を買って、それで「貯金なんかしていないよ、ほら、マッサージ用具なんて買っちゃった」と言っていたこと……半端にしか聞いていなくても分かる。僕の家族に負けない、よい家族だった。彼女の話が一区切りつく頃には、僕の心は落ち着きをほぼ完全に取り戻していた。

 

 店の壁掛け時計が鐘を打つ。静かな店内にその音はよく響く。夕方と言ってもいい時間だ。そうか、そんなに時間が経ったのか、と思っていると「はわわっ!」と素っ頓狂な声を電が上げた。「門限に遅れちゃうのです!」「そりゃ大変だ、僕が払っておくから急いで戻った方がいい。今日のお礼だ」「ありがとう!」そうして、彼女は声を掛けてきた時と同じぐらい唐突に行ってしまった。僕は彼女が出て行った後も、少しの間、彼女に素朴な感謝を捧げながら、出入口を見ていた。それからテーブルに目を戻し、気づいた。おやおや、彼女ったら喋るのに夢中になって、折角の甘味を食べ損ねてしまったようだ。これは僕のせいだな、次があれば謝っておこう。無駄にしない為に、僕はもう一つパフェを食べなければならなかった。今度はちゃんと、甘くて、おいしかった。

 

 やたらひんやりするお腹を抱えて、店を出る。パフェは好きだが、二つは食べ過ぎだ。そこらを歩いて、腹ごなしの散歩をしてから寮に戻ろう。僕は道に沿って歩き続けた。好奇心旺盛な少年を惹きつける薄暗い裏通りの誘惑を振り払い、明るい通りだけをぶらつく。夕方から夜に移り変わる時間帯はこういう、目的地のない移動にぴったりの雰囲気を持っていた。何も考えたりせず、ぼんやりと空や人を眺めながら、足の向く方へと歩いていく。やがて公園に出た。僕はベンチに座り、一休みしたら寮に戻ろうと考えた。外出許可はあっても、外泊許可は取っていなかったからだ。朝の点呼に遅刻しないように帰らないと、営倉行きになってしまう。

 

 目を閉じ、夜に近づいた冷ややかな空気が肌を撫でるままに任せる。頬が熱くなり、まぶたが重くなる。こんなところで眠ってはいけない、風邪を引いてしまうだろう。でも、この眠気の何と魅力的なことだろうか。僕は眠気とじゃれあって、夢と現とを行き来しては時の流れるがままにさせておいた。後ろで小石を踏みしめる音がしなければ、一晩だってそうしていただろう。僕はその音に飛び上がらんばかりになった。動悸がして、咳き込みそうになりながら音の方を振り向く。そこにはあの武蔵が立っていた。腕組みをして、獲物をいたぶる猫のような目で、にやついて、足先で土と小石をいじっていた。僕を起こさずに忍び寄ることもできたのに、わざと起こしたのだろう。忍び寄ったところで何か特別なことができたとは思えないが。

 

「私の誘いをすっぽかすなんてな。分かってるのか? 紅茶二杯で半日も粘るのが、どれだけ大変だったか」



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「“六番”」-2

「私の誘いをすっぽかすなんてな。分かってるのか? 紅茶二杯で半日も粘るのが、どれだけ大変だったか」

 

 そうは思ってなさそうな、楽しげな表情で彼女は言う。僕は答えない。武蔵は遠慮など見せず、ベンチに近づいてきて僕の隣にどっかと腰を下ろした。「知ってるかい? あのウェイトレスは引っ越したらしいぞ」とうそぶく。その声色は僕が当然それを知っているだろう、と確信している人間のものだ。「ほら、何か言えよ。また私が誰かを密告したくなる前に」「くたばれ」「偉いぞ! 男たるもの、女性の頼みはすぐに叶えてやるべきだ……ちょっとばかりここが傷ついたがね」武蔵は自分の胸をとんとんとつついて、くつくつと笑う。僕は警戒を隠さず、刺々しい声の質問で彼女を牽制する。

 

「何でここにいる」

「偶然さ。だが運命と言った方が私好みだな。お前と私、面白い組み合わせじゃないか。物語の始まりを予感させる」

 

 結構だ。僕はベンチから立ち上がった。寮に帰ってシャワーを浴び、飲んで寝よう。この不愉快な艦娘のことを忘れるまで飲んでしまうのだ。恐れることは何もない。僕が離れようとしているのを、武蔵は止めなかった。ただ背中に言葉を投げ掛けてきた。「今度はいつ会える? 寂しくて誰かを密告……」僕は彼女が言い終わるまで待ってはいなかった。「明後日だ」「じゃ、正午にあの喫茶店の前で待ち合わせだ。他にいい店があるから、一緒しようぜ」拒否したくなったが、それで彼女が本当に無実の人を有罪に仕立て上げてしまったら? そう思うと、拒む言葉を吐き出そうとする僕の舌は、石のように硬くなった。僕ははっきり答えないままそこを歩き去ったが、それは武蔵の誘いに乗ったも同然の行為だった。

 

 翌日、夜まで掛かった戦闘に勝利して帰ってきた僕は、休む間もなく執務室に呼びつけられた。提督は用事がある時、一々それを前もって説明したりしない。彼女は「来い」と命じ、来たら言いたいことを言って、呼びつけられた相手をへこませたり、傷つけたり、苛立たせたり、怒らせたりするような真似をして、反応に満足したら追い出す。それがここの提督のやり方だった。もし、彼女が僕らに対してのみ、彼女自身の部下に対してのみこういう態度を取るのだったら、僕は提督を蔑んでいただろう。しかし彼女はそうではなかった。上官だろうと気にせずに、そいつを生まれつきの傲慢さであざ笑い、皮肉や嫌味を言うのを楽しんでいる。清廉潔白な人に責められたって「そうとも、これが私の悪徳さ。嫌がられるのが楽しみでね。憎まれたいね。貴様には分かるまいよ、白い目を剥く奴らの前を歩いてやるのがどんなに気分のいいものか!」※32というような態度を崩さない。彼女は相手を選ばない。女でも、男でも、子供でも、大人でも、健常者でも、障害者でも、日本人でも、外国人でも、同性愛者でも、異性愛者でも、他人でも、自分自身でも、お構いなしだ。だから僕は提督の人間性が最低のレベルにあるとは考えていたが、軽蔑はしていなかった。それに、この数ヶ月見ていただけだが、実務では偽りなしに有能なのだ。最初期からずっと一緒に働いているという吹雪秘書艦は、さぞや苦労していることだろう。

 

 僕が入室した時、彼女は定規をカタパルト(投石器)代わりにして錠剤を跳ね上げ、それを口でキャッチして遊んでいた。僕はそのまま帰りたくなったが、彼女がこちらに気づいたのでそれは無理だった。執務室に敷かれたカーペットの感触を靴の下に覚えながら、僕は執務机の前に立った。「命令により参りました」「お前は私がこれまでに見た中でも随一の問題児だ」そら来た。「それがこの度の本題でしょうか?」「いいや、今のは『突然けなされた思春期の少年がどんな顔をするか』の実験だ。もっとも、真実を告げることは誹謗中傷には当たらんと思うがね。本題はこれだ」そう言って彼女は引き出しから数枚の書類を取り出し、机の上に投げ出した。「見ろ」という提督の言葉に従い、それを手に取ってみる。憲兵本部からの通達だ。召喚命令……重要参考人……対象者は……僕だ。

 

 理由は? 理由がある筈だ。書類をめくり、それを探す。見当たらない。五度、六度と見直しても、見つからない。書類を返しながら「何故です?」と聞かずにはいられなかった。でも思い当たることはあった。武蔵が言った通りだったなら、あのウェイトレスの親が融和派だったのなら、そのせいで僕が呼ばれることもあり得る。憲兵たちにとっては、単に彼女の働いていた喫茶店の常連だったというだけで、引っ張るには十分なのだ。その先で何が行われるかについては、考えたくなかった。処刑はない、ない筈だ。僕が融和派だと断定された訳ではない。それに僕には価値がある──世界で唯一の男性艦娘だという価値が──それが価値だと見なされるなら。

 

「理由など知るか。お前の出撃は全て取り消しとする。部屋に戻って準備しておけ、連中は明日の夕方来るそうだ」

 

 僕は呆然として退出した。執務室を出て数メートル歩くと、提督の言葉が頭の中で蘇った。「連中は明日の夕方来るそうだ」。彼女は、こんなことを僕に言う必要はなかった。出撃を取り消して、自室で待機しているように命じ、心配なら見張りをつけておけばよかったのだ。提督は、一か八かに賭けて逃げ出すチャンスを僕に与えようとしたのだろう。ということは、これは提督の持っている出所不明な謎の権力を以ってしても、抗うことのできない動きであると分かる。そんなものから頼りもなく当てずっぽうに逃げて、どうにかなるとは思えなかった。提督の方も多分そのことを分かっていて、それ故に「逃げろ」とは言わずに回りくどいやり方でその選択肢を僕に示したのだろう。彼女はクズだが、自分の部下を平気で憲兵に突き出すような人間じゃなかったってことだ。それが慰めにはならなくとも、感謝はしておこう。

 

 部屋の片づけをしながら、どう振舞うべきか考えた。まず最低限の備えはしておかなければならない。想定すべきは最悪のシチュエーションだ。その場合、僕は死ぬ。どのようにしてかは知らないが、憲兵か誰か、気の利く奴が僕の悲劇的な死を演出してくれるだろう。担当者が優しければ、戦死したことにしてくれるかもしれない。そうすれば故郷の家族は安泰だ。恩給も出るし、名誉も守られる。彼らまで消される可能性はないだろう。一人疑いを掛ける度にそこまでやっていたら、日本の人口は半減してしまう。何にせよ、僕の遺書が改ざんされることなく効力を発揮するようにしたい。隼鷹に渡すのは問題外だ。彼女を余計な厄介ごとに巻き込みたくはない。じゃあ長門は? 彼女は僕を嫌っているが、誇り高い。僕が頭を下げてまで頼んできたことを跳ねつけるという、罪深い喜びに屈しさえしなければ、必ず約束を果たすだろう。彼女のような手合いは、嫌いな奴と結んだ約束ほど律儀に守るものだ。それが自らの道徳に沿った行いであるだけでなく、彼女自身の自尊心も強烈に満足させるからだ。けど、彼女に頼むのは最後の手にしておきたい。とすると……僕には一人の候補しか思い当たらなかった。遺書の入った封筒を折り曲げて、更に別の封筒へと押し込み、糊付けして閉じた。中で膨らんで不恰好だが、これで中身が何なのかは分からない。

 

 死ななくて済んだら? その場合は懲罰部隊行きになるか、監視付きの生活をすることになる。何だかんだで無罪放免という可能性だって、存在しないとまでは言えない。そうだな、その可能性を分数で表現してみよう。分子、即ち最高のハッピーエンドを迎える確率を一と仮定する。そうすると分母は、日本最大の流域面積を誇る利根川の底に沈んでいる砂粒と同じ数だけの利根川が存在するとして、その全ての利根川の底に沈んでいる全砂粒を足した数ぐらいになるだろう。おお、結構希望が持てそうじゃないか。僕は今から知り合いみんなに手紙を書いて別れを告げておくべきだな。

 

 手を打っておくのは最初の可能性、僕が消される可能性についてだけで十分だろう。根本的に避けられないなら、これ以上できることもない。僕は部屋の片隅に並べてあった酒から一本取って、氷を入れたグラスを用意し、テーブルにセットした。ロック用の氷は最後の二個で、僕はそれを二つとも自分のグラスに入れてやった。だが飲み始める直前にノックもなしにがちゃりとドアが開かれて、紫髪のつんつん頭がひょこっと姿を覗かせた。彼女は僕がやろうとしていることを見て、言った。「あたし好みのワインはあるかい?」「一九六九年以来、そんなスピリットは用意しておりません」※33「ああそう……で、ワインは?」「いいからとっとと入れよ」彼女は入ってきた。自分でグラスを選んで、僕の対面に座った。彼女のグラスに注いでやる前に、訊ねる。「氷は?」「欲しいけど、そのグラスに入ってる二つで終わりじゃなかったっけ?」「まあね。ほら、取りなよ」グラスを差し出す。彼女の指がすっと伸びて、つるりと滑って逃げ出そうとする氷を器用につまみ、自分のグラスへと移し変える。その指の動きの優雅さ、彼女の腕がこちらに近づいた時に鼻をくすぐった、彼女の香り。瓶詰めにして売ったら、僕は一晩で億万長者になれるだろう……おい、自分で考えたことながらこの思考は流石に気持ち悪いぞ。

 

 隼鷹がいつも入れる量だけ、グラスに酒を注ぐ。彼女が欲しがったワインじゃあないが、隼鷹は他人の酒を飲む時にあれこれ注文をつけたり、文句を言ったりはしない。彼女は相手に敬意を払うということを知っている。それは敬語を使うとか、上座を譲るとか、そういう表面的なことじゃない。真の敬意とは、ある時、ある瞬間にふと顔を出すものなのだ。誰にもそれを前もって察知することはできないから、偽ることもできない。

 

 彼女は僕の手からボトルを取り、こちらのグラスに注いでくれた。それが終わり、ボトルがとん、と気味のいい音を立ててテーブルに立てられる。僕らはグラスを手に取り、それを互いの顔の高さにまで掲げる。隼鷹が訊く。

 

「何に乾杯する?」

「飲んだくれの友達に」

「飲んだくれの友達に!」

 

 まさにその夜にぴったりの乾杯だった。僕がその日のことで最後に覚えているのは、ドアを探して走っていた頃、その前後のことだ。どうしてもトイレに行かなければならなかった。僕の部屋のトイレは隼鷹が閉じこもった末に独立を宣言、対話の道が拓かれないまま彼女が気絶してしまったので、使えなかったのだ。扉をぶち破って隼鷹を引っ張り出すことはできなかった。扉のないトイレには酔ってても入りたくない。幸いなことに、僕の体は悲劇的な流出事故を起こさないでいてくれた。用を足し終わって手を洗った僕は、へにゃりとトイレを出たところで腰が抜けてしまった。そこへ僕の足音を聞きつけて来た伊勢が現れた。彼女は夜警当番だったのだ。伊勢は僕を引きずって部屋まで連れて行き、ベッドに転がしておいてくれた。

 

 翌日の朝九時に起きた僕は、隼鷹の様々な後始末をしてやり、彼女に間に合わせとして僕の服を着せ、酔い覚ましの薬を飲ませてシャワーへと送り出した。頭痛がひどかったが、こういったことも最後かもしれないと思うと、いっそ感慨深かった。僕も薬を飲み、部屋の窓を開けて換気してからシャワーに向かった。暖かい湯を頭から浴び、服を着替えると、マシな気分になる。二時間ほどすれば薬で酔いも収まるだろう。僕は小さな鞄に遺書の封筒を詰め、研究所を出た。寮から出る直前に、提督と擦れ違った。彼女は僕を見て、軽く頷いて、何も言わなかった。外出許可を取っていない艦娘が、外に出ようとしているのが明らかであるのに、だ。その程度なら、彼女でも揉み消してどうにかしてしまえるのだろう。夜の間に逃げ出したとか、帰港直後に姿を消したとか、もしかしたら昨日の戦闘で行方不明になったということにされているかもしれない。戦闘中行方不明は基本的に、戦死と同じ扱いを受けることができる。ただ、きっと遺された家族はより辛い思いをするだろう。行方不明になって帰って来た例は、数えるほどしかないのだ。まだ生きているとも、もう死んでいるとも思えずに子供を待ち続ける親の気持ちなど、僕に想像できる筈がなかった。

 

 喫茶店に到着したのは十一時半だった。二日酔いからは既に覚めかけていた。店の前で暫く立っていると肌を焼く感触がして、僕は「クソっ、日焼け止めをまた忘れた」と心の中で毒づいた。日差しを避けて、店に入る。日焼けに強くなるように、体質改善薬でも飲んでみようか? そう考えて、その薬を手に入れて飲むことができるほど長く生きていられるかどうかも分からないことを思い出した。僕は自嘲の笑みを浮かべたが、タイミングが悪かった。新人のウェイトレスがこっちに来るところだったのだ。彼女の気分になって考えてみよう。昨日に続いて店に来た男が、自分を見てにたにたと笑っているのだ。彼女は今日、仕事を終えて帰る時、しきりに背後を気にしながら早足で家路を行くことだろう。表情筋を引き締めて、彼女が仕事をしやすいようにしてやる。「ご注文は?」「クリームソーダ。それだけで」誰が僕に何を言おうと、見たこともないような額の大金を積まれようと、みんなで取り囲んで馬鹿にして指差して笑ったって、僕はここでクリームソーダ以外の飲み物を頼むつもりはない。コーヒーが飲めるようになるまでは。

 

 ソーダを飲み、アイスをつつきながら待っていると、トイレに行きたくなった。薬の副作用だ。鞄を置いて、まだそこにいるということをアピールしつつ、トイレへと向かう。用を足し、鏡に向かう。目に生気がないように思えるが、これは鏡のせいだ。顔色が悪いのは鏡のことに加えて、照明が薄暗いからだろう。僕は自分が精神安定剤か何かを用意しておかなかったことを悔やんだ。そんなものを飲酒後に服用したら、幾ら艦娘と言えども無事ではいられないだろうが、僅かな間でも平和な気分でいられるなら喜んで僕はそれを飲んだだろう。しかし、ないものはない。分けて貰うか? 誰に? 知っている限り、あの手の効果がある薬を持っているのは提督ぐらいのものだ。彼女は死んでもそれを他人に分け与えなどしないだろう。死んで火葬にされる時も、薬の瓶を抱きかかえて棺に入るのだ。彼女が行く場所に大麻あれかしと僕は祈りを捧げた。切り離す前のシート状LSDが生る木とコカイン樹脂の泉もあったら、なお彼女にはよいだろう。注射器はその辺に自生してるのを使ってくれって感じで。

 

 トイレから出る。と、武蔵が僕の席におり、僕のクリームソーダを飲んでいた。昨日ならこの不逞の輩に嫌味の一つでも言ってやっていただろうが、今日は我慢する。武蔵と提督はその性格においてやけに似ているから、提督と話す時のように自分の心を抑えていれば大丈夫だろう。「甘くて胸焼けしそうだ。こんなのが好きなのか?」「アイスも一緒に食べるんだよ、ほら、そのスプーンですくって」「ふーん? 試してみるか……ほう、胸焼けしてきたぞ」「やったね、計画通りだ」「気は済んだかい」「少しね」「だろうよ」抑えられなかったし大丈夫でもなかった。

 

 武蔵はソーダとアイスを一気にその大口に注ぎ込み、ごくりと喉を鳴らして嚥下した。開けた口の隙間に白い歯が光り、彼女の褐色の肌と合わさってコントラストを生み出す。彼女は唇の端に残ったクリームを真っ赤な舌でちろりと舐め取って、それからテーブルに備えてある紙ナプキンで拭った。

 

「外で待ってるぜ」

 

 一言残して、行ってしまう。そこで、僕は牛歩戦術を取ってやった。ウェイトレスと数分は話をしたと思う。もっと待たせてやりたかったが、店員さんが今日はもう僕と話したくないようだった。渋々店を出ると「遅いぞ」と言われる。僕は平然と返す。「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」※34武蔵は声を出して笑った。それから僕らは歩き出した。褐色肌のお陰で陽光を気にしないでもよさそうな武蔵を羨みながら、僕はなるべく日陰を行った。こちとら春夏秋冬、日焼け止めが欠かせないのだ。日焼けしてしまえばいいかと考えたこともあったが、黒々と焼けた自分というのがどうしても僕には受け入れられなかった。ジェンダー論に口出しするつもりはないが、僕は「男らしさ」としての日焼け肌とは対照的な、この白い肌というのを結構気に入っている。不健康と思ったことはない。

 

 夕方には憲兵どもに連行されるというのに、僕は自分がのんきに日焼けのことなど気にしながら、武蔵とこうして歩いていることに気づいた。さっき似たようなことを思ったのにもう忘れて、また思い出したのか。僕の頭ときたら、艦娘になるには丁度いいってほどにはおかしくなってしまっているんだな。何だか楽しくさえ感じられるようになって笑っていると、武蔵はこちらを振り返り、「ようやく笑ったところを見た気がするな」と言った。「憂鬱質※35が強くてね」答えながら、考える。今の状況は実に「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」※36というようなものだ。だが、それがどうした? ロシア語を教わった時に響からロシア的精神の言語的発露、その最たるものとしてゆめゆめ忘れるなと言われた、あの言葉を思い出そう、Пофигу(どうでもいい)”を……スラヴ人に言わせれば、金も女も名誉もその一言に尽きるのだそうだ。ただし酒は別だとか。※37

 

 武蔵が僕を連れて行ったのは洒落た雰囲気のカフェ、そのテラス席だった。テーブルには日除けが備えてあり、その陰にいる間は光に気を使う必要がなさそうだ。「ここはステーキサンドとワインがうまい」と武蔵は言った。彼女の助言に逆らう理由は五百と二個あったが、従う理由は五百と三個あった。僕がアドバイス通りにするのを見て、彼女は目を細めて微笑んだ。頼んだものが来るまで無言で時間が経つのを楽しむのもいいが、溜め込んでいるものや感じているものを解き放ったっていいだろう。隼鷹と飲みに来てる訳じゃない。「ここに連れて来た理由は何なんだ?」彼女は「太陽は明日もまた昇ってくるのか?」とでも訊かれたかのように、大げさに目を丸くして答えた。「ステーキサンドとワインがうまいからさ! 他に何があるんだ? ジェラートか? ああ、それはやめておくことだ、大声じゃ言えないが」ずい、と身を寄せて来て、声を潜めて囁く。「マズいからな」僕は呆れて少し声が大きくなった。

 

「じゃあ、うまいステーキサンドとワイン以外に、何か目的があったんじゃないと?」

「ああ、そうだ」

「約束を取り付ける為に僕を脅しまでしておいて、一緒に昼食を食べたかっただけだって言うんだな?」

「おう、そうだとも!」

「僕を馬鹿にしてるのか?」

「その(とお)……おっと、引っ掛けか? 意地が悪いな! だがいいぞ、そういう男は好みだ。いや、そういう人間は好みだ、と言うべきかな?」

 

 だとしたらそれはきっと、肉が好きか魚が好きか、という類の好意に違いなかった。武蔵は気持ちよさそうに伸びをして、背もたれにだらしなく寄りかかった。申し訳程度に覆われただけの肢体を、惜しげもなく衆目に晒している彼女を、普段の僕なら感謝と共にじっと見つめていただろう。僕は見るに値するものを凝視する喜びを知る男の内の一人だからだ。しかし、他にやることがある時に喜びにかまけてはいられなかった。鞄に手を突っ込み、封筒を取り出す。武蔵は何も言わずに、興味深そうな顔を取り繕ってこちらを眺めている。でも内心には、何の思考もないだろう。彼女は空虚な人間だ。相手をからかったり、嫌がらせをしたり、好意を見せてみたり、人間的な振る舞いを真似ているだけだ。それだから、そのどれもが僕の感情を害するのだとしか思えなかった。

 

 封筒を渡して、暫く預かってくれるように頼む。嫌な奴でも、信用できるかどうかは別の問題だ。時には、そういう人物こそが最も信頼に足る人物だということがある。武蔵は提督に似ている。信じてもいいだろう。違うところがあるとすれば、提督は自ら望んで捻くれたのだろうが、武蔵はそうじゃなさそうだってことぐらいだ。彼女は受け取った封筒を振ってその音を聞き取ってみたり、指でつまんでみたりしていたが、やがて僕に押し返した。「頼みを聞いてくれないのか?」「小物入れに余裕がなくてね」僕は自分の鞄に封筒を収め、それを彼女に持たせた。武蔵はそれを受け取った。「で? いつ開ければいい?」「一週間後に返してくれ。返せなかったら、その時開けるんだ。何をするべきか分かる筈だ。僕の所属は──」「有名だからな、知ってる。まるでサスペンス映画だ」頷きで答える。そのコメントに異論はない。

 

 サンドイッチとグラスワインが来た。(しゃく)だが、武蔵が請合った通りにうまかった。僕はサンドイッチのお代わりを頼み、武蔵はもう一杯ワインを飲んだ。彼女への反抗心からジェラートも注文したが、これは武蔵が嘘つきではなかったことを身をもって証明しただけに終わった。食べ終わった後、僕らはアールグレイをホットで飲んだ。ジェラートの不愉快な風味を、この優れた飲み物は消し去ってくれた。それにアルコールから来る火照りもだ。しかし、陽気な気分まで洗い流しはしなかった。「あのウェイトレス」と僕は言った。「本当に密告したのか?」彼女は答えなかったが、イエスと答えられたら僕の気分は台無しだったろうし、ノーと言われても信じなかっただろう。質問の答えの代わりに、武蔵は落ち着いた静かな声で訊ね返した。

 

「何を恐れてる?」

「何も」

 

 即答で返してから、失敗したなと思う。即答するという行為は、様々なことを示す。強い意志、思慮のなさ、それから反発だ。特に、図星を指された時の。これでは僕が恐怖を抱えていることを認めたようなものだった。“Пофигу(どうでもいい)”に代表されるようなロシア的精神は僕を救ってはくれなかった。考えないようにしようとしても、ダメだった。隼鷹、響、伊勢、日向、提督……彼女たちならどう対応するだろう? 思いを巡らせても、そこには何の救いもない。この状況に置かれているのは、彼女たちじゃなくて僕だからだ。

 

 食後の一杯を終え、武蔵の最近の趣味だというタロット占いを彼女の手で受け(僕の象徴は吊るされた男(ハングドマン)※38らしい)、会計を済ませた。武蔵は僕をそれ以上何処かに連れて行こうとはしなかった。別れ際に彼女は言った。「大丈夫だ。この武蔵に任せておけ」一度だけ首を縦に振って、僕らは別れた。彼女は僕が頼んだ通りにしてくれるだろう。僕は歩いて研究所に戻り、提督と会った。会ったと言っても、会いに行ったのではない。寮への道すがら、また出くわしたというだけだ。彼女は僕を見て「そうか」と自分だけに通じる一言を残し、執務室に引きこもってしまった。部屋に入り、ベッドに体を投げ出す。夕方までまだ時間はある。一眠りするとしよう。

 

 ノックで目を覚ました。「ここを開けろ」提督だ。時間を見る。午後六時。予定通りなら、第一・第二艦隊共に出払っている。僕を連れて行くには絶好のタイミングだ。憲兵に護送される姿を見られないでも済む。ノックの音は激しくなった。こりゃ、もう提督じゃないな。僕は寝起きの体を引きずって、扉を開けた。提督と憲兵隊所属の艦娘が一人、待っていた。彼女は事務的に、僕への命令を読み上げた。そして同行を求めた。僕はそれに従った。

 

 庁舎のすぐ前に護送車が止まっていた。運転席に人間の憲兵がいて、後部の収容室は空だった。僕一人の為に用意してくれたらしい。乗り込む前に手錠を掛けられる。全力で引っ張って壊れるかどうか、好奇心が沸いた。だが、試すようなことはしなかった。試すなら一人の時だ。見張りの艦娘が僕を冷たい目で見ている時じゃない。彼女は僕を収容室に文字通り突っ込むと、脅迫するかのように激しい勢いでドアを閉め、外部ロックを掛けた。なるほど、理に適っている。これでは手錠を外せても、内から外には出られない。監視用の窓から前部の様子が見えた。艦娘が助手席に入り、車のエンジンが掛かる。僕は収容室の壁からせり出した固いベンチに座り、眠気の残滓をかき集めようとしていた。それがよくなかった。

 

 海にいた。珍しく海の上だ。苦しみのない空気の中にいた。でも僕だけだ。足元に浮いていたのは天龍だった。何故彼女が真っ先に現れたのか分からない。僕と彼女は親しい友達でもなかった。けど、現れたのは彼女だったんだ。うつ伏せに浮かび、顔が水に浸かっていた。水の中に消えていくのも時間の問題だ。僕は彼女の手を掴み、引っ張り上げた。肩に担ぎ上げる。だが、沈みかけているのは天龍だけじゃなかった。数メートル向こうには響がもがいていた。首が半分なくなっていて、自分の血に溺れていた。あっちでは榛名さんの腕が海面下へと飲み込まれていくところだった。僕は急いでその腕を取った。重い、が、そうせずにはいられなかった。響を助けに行こうとする。その足が止まる。左の足首を握られている。僕の足の下に紫の髪が広がっている。右の足首にも、いや、すねや太ももにも手が掛かっている。僕が知っている艦娘、僕が会ったことのない艦娘……支えきれない。沈む。僕はもがく。さっきは助けようとした相手を振り払おうとする。水が鼻の下に、目の下にまで達する。やがて僕は水に飲み込まれる。海の上には何も残らない。誰かが繰り返し言う。「何度でも……何度でも」視界が白くなり始める。真っ白になる。そして衝撃。

 

 護送車が転がっていたのだと気づいたのは、それが止まってからだった。体中をぶつけていたが、頑丈な艦娘の体に感謝だ。目が回って、鼻血が出ただけで済んだ。周りを見る。収容室は開いていない。頑丈な封印らしい。だが護送車は丸きり引っくり返ってしまったようだ。運転席の憲兵は……ダメだ。首が変な方向に曲がっている。大きなガラスの破片も刺さってる。艦娘は? 外傷は見当たらないが、痙攣(けいれん)してる。シートベルトもしていなかった僕が平気なのに、しっかり道路交通法を守っていただろう彼女が痙攣? 監視用の窓は割れており、そこから手を伸ばして彼女を動かし、その様子を見ることができた。でも彼女よりも気になるところが一つあった。ドアだ。護衛の艦娘が座っていた助手席のドアが開いている。事故のせいで開いたのか? 艦娘の頭をぐい、と動かして調べる。四箇所に丸い火傷の痕跡があった。

 

 背後で音がする。収容室のロックを破壊する音だ。僕はそちらを振り返り、身構える。ロックが壊されて、扉が開く。目出し帽で顔を隠した男たちが二人。何のつもりだか知らないが「こっちに来い」と言っている。何が正しいことなのか確信はないが、少なくともその手を取ることが間違いなのは直感で理解できた。すると、また後ろで音がして──ばちばちという音が──僕は全身に物凄い電流が走り回るのを感じた。助手席から回り込んで来た何者かが、割れてしまった監視用の窓から腕を突き出し、僕に高出力のスタンガンを押し付けて使ったのだった。



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「“六番”」-3

 背後で音がする。収容室のロックを破壊する音だ。僕はそちらを振り返り、身構える。ロックが壊されて、扉が開く。目出し帽で顔を隠した男たちが二人。何のつもりだか知らないが「こっちに来い」と言っている。何が正しいことなのか確信はないが、少なくともその手を取ることが間違いなのは直感で理解できた。すると、また後ろで音がして──ばちばちという音が──僕は全身に物凄い電流が走り回るのを感じた。助手席から回り込んで来た何者かが、割れてしまった監視用の窓から腕を突き出し、僕に高出力のスタンガンを押し付けて使ったのだった。

 

 溺れさせられる夢の続きに入るのを恐れたが、杞憂に終わった。気絶すると夢は見ないものなのだろうか。だとしたら、今度から快眠の為に僕はスタンガンを試してみてもいい。火傷をしなくて済む方法を誰かが見つけてくれたら、すぐさま通販で購入するだろう。僕は椅子の上で目を覚ました。手錠を掛けられたままで、足も縛られていた。狭い部屋、明るさの足りない裸電球、テーブルと僕の椅子、それから向かいにもう一つ椅子。そこに男が座っている。眼鏡を掛けていて、じっとこちらを見つめている。そこらにいそうな男だ。学校を出て、何処かの会社か何かに就職して、働いて、結婚して、子供が一人や二人はいるかもしれない。政治的にも成熟していて、自分の意見を持っているだろう。だが彼は意見だけでなく秘密の持ち主でもある。僕と一緒にここにいて、なのに手錠を掛けられてもないし縛られてもいない。僕がこっち側なら、彼はあっち側だ。

 

 初対面だし、挨拶をするべきだったのだろうが、口の中はぱさぱさだったし、舌が回りそうになかった。彼はそれを察して、懐から小さなペットボトルを出すと、蓋を外してその中身を僕に飲ませた。生ぬるい水だったが、水分には変わりない。飲み込むと、楽になった。胃に水が落ちていってから、その水の中に何かが入っていたのではないかということに気づいたが、どうとでもなれという気分だった。憲兵隊もクソだし、僕に電撃なんか浴びせやがった連中もクソだ。僕は首までそれに浸かってる。

 

「気分は?」

 

 僕は虚勢を張ることにした。困難(タフ)な状況では、気丈(タフ)に振舞うものだ。

 

「寝覚めに見たのが融和派だったってことを差っ引いたら、いいね。ここは? 秘密基地かい?」

「終着点です。史上初の男性艦娘である、あなたの」

 

 どくんと胸が高鳴った。恋をしたんじゃない。僕はストレートだし、恋を始めるに相応しい時を見定める目を持っているつもりだ。今日じゃないことには自信がある。

 

「心配させましたか。私たちがあなたを吊るすと?」

「吊るすだって? いいや、死ぬまで殴られると思ってたよ」

「たかが一人の艦娘を処刑する為に、憲兵隊の護送車を襲いはしません。使いどころを間違えた暴力は、我々を人民から遠ざけるだけです」

 

 笑い飛ばしてやる。彼が言うところの「使いどころを間違えた暴力」は、全くのところ融和派の専売特許みたいなものだったからだ。彼らはこれまでに壊した建物の残骸で天まで届く塔だって作れるだろう。彼らのせいで死んだ人々の血で海を真っ赤に染め上げることだってできるだろう。彼らのせいで生まれた悲しみは、世界中を塩水に浸すのに足りないということはないほどにある。爆弾テロ、誘拐、往来での乱射、「人民の目をこちらに向けさせる為」という大義の下で、融和派が何をやってきたかは誰でも知っている。

 

 もちろん、融和派だって色々あるんだろう。『深海棲艦解放戦線』とか『深海棲艦派共同戦線』とか『人民=深海棲艦戦線』とか。中には血を流さないで世界を変えられると信じている者たちもいるのだろう。だが彼らは、彼らのお仲間がやったことを「あれは違う」とか「知らない」とか「別の連中がやったこと」と言い逃れをする権利を持たない。持ってはいけない。敵が、深海棲艦が人類の敵である限り、彼らは人の中の裏切り者なのだから。

 

「僕も普通の連中を相手にしてるならそう考えるだろうけど、融和派はアホ揃いだからな……これはあんたを傷つけたくて言ってるんじゃないぞ、統計的事実だ」

「あなたは何も知らないのです。命を懸けて戦っているというのに」

「あんたは自分が何も知らないことさえ知らない。しかも多分戦ってさえいない。最悪だな」

 

 僕らは睨み合った。彼が何を考えているのだか分からないが、どう転んでも死ぬか人生詰むのが目に見えている人間が、どれだけふてぶてしくなるかということについては、彼は明らかに無知だった。たっぷり一分は目と目で交わっていたが、僕と彼は同時にそれを外した。「私の乗り組んでいた艦はかつて深海棲艦と交戦しました。艦は呆気なく破壊され、私は海へと投げ出されたのです。あの日までは」と彼は呟いた。「私も(めし)いていました。軍と国家に忠誠を誓い、社会を深海棲艦から守ることに誇りを持っていましたよ」どうやら、同じ海軍にいたらしい。手ひどい言葉を使うなら、海軍の面汚しと言ったところだ。見るからに本物の海の男ってタイプじゃない。何かつまらない仕事でもさせられていたのだろう。

 

 軍人の転向は表沙汰にされることこそ少ないものの、その数は多いと言われている。とりわけ、海軍軍人においてはだ。艦娘以外は領海の警備航海程度しかしないが、それでも陸や空に比べて深海棲艦に近いところにいる訳だし、そのストレスが原因で転向しやすい傾向にあるんじゃないかと僕は考えている。

 

「だがあの方々は私を救いあげて下さった。私に真実をお伝え下さった。彼女たちと人間が、共に生きていける未来を見せて下さった。あの方々は(まこと)に我が(いわお)、我がやぐら※39、寄る辺なき者が寄って立つもの……海の水の中で私は洗礼され、言葉を聞くようになった。あの方々は貧しい私に(きん)をお授けになったのだ。生来目が見えないが為に、見えていないことにも気づいていなかった私の精神の目に、御手ずから薬を塗って下さったのだ。あの方々は戸口を叩く手だ。自ら立ち上がって迎え入れる者は、みながその言葉を聞く……」

 

 宗教まで絡んできやがったか。これはちと厄介だな。

 

「失礼、比喩抜きで、子供でも分かるように喋っていただけるかな? あの方々というのが深海棲艦のことを指しているってのは、何となく分かるんだが」

「あの方々、彼女たち、深海棲艦、好きなようにお呼びなさい。あの方々は、平和を望んでおられるのです。争いのない海を願っておられるのです。命が無意味に奪われることのない海を欲しておられるのです。あなたも救われた筈だ」

 

 僕は彼が、僕の子供時代に起こったことを言っているのだと悟るまで、彼が何を言っているのか本気で分析していた。それから、気は進まないが反論してやった。「お生憎さまと言うしかないが、僕を助けたのは艦娘だった。僕に絵心があれば彼女の体や顔がどんなだったか、描いてやれるんだが。ああ、恥じなくてもいいぞ、深海棲艦と艦娘はよく似てるからな。間違えるのも仕方ないさ」「本当に?」「嘘だよ、艦娘と深海棲艦を間違える奴なんている訳ないだろ」「本当に艦娘でしたか?」僕は思いがけない問い掛けに、言葉が喉元で詰まるのを感じた。けどすぐ気を取り直して、あれは絶対に艦娘だったと言ってやる。あの手、あの暖かさ、あの目……忘れなどしない。僕はあの日、自分が何の為に生きるべきかを知ったのだ。それを、誤認するなんてことはあり得ない。

 

 すると彼は、テーブルの下に設けられた小さな物入れから、ファイルを取り出した。「これはあなたが救われた頃に、あの海域での任務に当たっていた全種の艦娘の写真付きリストです。確かめてごらんなさい」それから、そのファイルを開いて僕の前に置いた。僕は目を動かし、見ているふりをした。このリストが正確なものだなんて、最初から信じていなかったのだ。彼らが何を提示しようとも、それによってむしろ僕を頑なにさせるだけだ。「見当たらんね」「そうでしょう」「あんたらが抜いたからだろう。都合が悪いからな」「そうお考えですか。では、溺れた日がいつか、覚えていますか?」忘れる訳がないことその二だ。僕は自信を持ってその日付を答えた。彼は軽く頷いて、指先でファイルをぺらりとめくった。そこには新聞記事のコピーがあった。雑誌の記事なんかもある。これが何だって言うんだ?

 

「こちらはあなたが奇跡的に助かった、ということについての記事です。声に出して読んでいただきたい」

 

 逆らうのは賢明じゃない。僕は彼の言う通り、口に出して読んだ。どれも内容は同じことだ。小さな子供が、親の目を離れて沖に流された。生存は絶望視されていたが、不可解かつ奇跡的にも助かった……「ええ、実に奇跡的です。しかし、誰が助けたと書いてあります?」「それは」僕はまた言葉に詰まった。書いていない。胸がずきりと痛んだ。艦娘なら、軍は大喜びで書き立てさせる筈だ。いや、けれども──「この記事も贋作だ」僕は考えずにそう言って、彼の質問には答えなかった。「お前たち融和派は嘘ばっかりだ」「落ち着いて下さい。私は、私たちは、あなたの目を開いて差し上げたいだけです。私だけではなく、私の同志たちの多くもまた、あなたのようにあの方々に助けていただいた。あの方々は人間と違って、自ら戦争を始めるような種族ではありません。我々人類は、初めて種族として自分を上回る相手を見つけたのですよ」

 

 だとしても、そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。ああ、いいだろう。彼の言うことが正しいとしよう。人類がここ最近躍起になって探している平和というものが、すぐそこに、そら、戒めさえなければ僕の手が届くところにあったとしよう。それは手付かずで、僕に拾い上げられ、発見され、世界中に広まるのを待っているとしよう。だがもしも、僕や僕以外の全ての人類がそれを手に入れ、その恩恵に浴する為に、人ならざる種族に向かって頭を下げ、彼女らの支配下に入り、慈悲を乞うて嘆願せねばならぬとしたら、また、戸を叩く音に辟易しながら彼女らを招き入れ、その全然益体もない御言葉を賜らねばならず、しかもその対価として更に彼女らが既存の社会秩序や人間が築き上げてきた偉大なもののことごとくを例外なく灰燼に帰することを要求するのならば、そこに生きているこの僕個人はそんなものは真っ平御免の口だし、その時は彼女らや彼女らに同調する連中みんなに僕だけでも言ってやるのだ。あんた方の『平和』というのはクソだと。

 

「あなたは強情だ。まだ納得なさっていないとは。まあいいでしょう、では、言葉を聞いたことはありませんか?」

「誰の?」

「軍が言うところの、深海棲艦のです。鬼級以上ではなく、例えば……リ級や、ル級などの」

 

 危うく反応するところだった。僕は即答を避け、かつ無言の肯定にならないギリギリのところを見定めて言った。「ないね」彼は身を乗り出して僕の目を覗き込んだ。狂信がその瞳の中に燃え滾っている。嫌な目だ。僕は個人的な信念として、行動を決めるのは自分でありたいと思っている。人間の人生は神や、上位存在なんかによって操作されるものではなくて、運命と呼ばれるような見えない全体の流れの中で、個人個人が自己の意志で以って決定して行くものなのだと信じたいのだ。信仰を否定するのではない。信仰への傾倒を否定してるんだ。それは、自由意志を放棄する行為だ。

 

 狂信者たちはよく言う、もし無神論者たちが主張するように神がいないのであれば、この自我という欠陥を持った人間と名乗る生物は、恐るべき偶然によってこの苦しみの多い世界に何の庇護もなく生まれ、何の救いもなく、何の目的も栄光も持たずに生きて死ななければならなくなる、と。神の存在も不在も証明できない以上、そうかもしれないが、だとしてもそれの何が問題なのか? 自分の命の舵取りを神の手に委ねる方がどうかしてる。僕らは不完全だ、それは認めよう。間違いもやる。しかもしょっちゅうだ。取り返しがつかないようなことをやる? それは何千年と続いて来た、人類の伝統みたいなもんだ。いずれ僕らは一人残らず自分の喉を自分で突いて死に絶えるだろう。だが、そのことについて天にまします我らの主からああだこうだ言われる筋合いはない。僕らがやることには、僕らが責任を取る。父と子と聖霊にはすっこんでて貰おう。

 

 考えが横道にズレた。今は信仰と理性について脳内で議論したりしている時ではなかったのだが、今の僕の状況で現実逃避したくなるのを誰が非難できる? 賭けてもいいが、僕の友達には誰一人としていないだろう。何故って、彼ら彼女らは僕がここにいることを知らないからな。知らないことは語れない。語れないことについては、黙っている他ない。

 

「嘘をついておいでだ」

 

 この司祭殿は犯し得ない威厳を持った調子で言った。「あなたは嘘をついておいでだ!」※40「そりゃ大変だ。地獄に着いたら絵葉書を送るよ」「嘘をついておいでだ!」彼は三度目に、一層高飛車な口調でそう断言した。ま、確かに地獄に葉書という習慣がなければ嘘になっちまうよな、と僕は頭の中で囁いた。それに僕の絵心のなさのせいで、絵葉書と認識できないかもしれない。「どうして認めようとなさらないのですか。あなたはこの偽りの戦争を、終わらせることもできるのに!」その言葉には気を惹かれた。僕の様子が変わったのを見抜いたのか、男は安心したように微笑んだ。「私たちの仲間におなりなさい。そうすれば、あの方々との実りない、意味のない戦いからあなたは抜けることができる。そして、意義ある闘争、他の人々を啓蒙するという戦いに身を投じることができる」僕は下手な誘い文句に落胆し、再び興味を失った。

 

 彼はそれでも僕を口説き落とそうとしていたが、相手が言葉を聞いていなければ効果も上がらない。彼の説教の間、僕はずっと自分がもうすぐ十六歳になることを考えていた。訓練所で三ヶ月、半年に達さない程度の広報部隊勤務、それから 第二特殊戦技研究所、通称「二特技研」で四ヶ月。同世代の他の少年たちが今頃何をやっているか、僕には想像しかできなかった。学校に行き、友達と会い、勉強し、帰りに寄り道して遊んで、また明日。そんなところだろうか。バイトをやっている者もあるだろう。バイトどころか、高校に行かずに就職する者もあるだろう。今は色んな仕事が人手不足だからな。

 

 遂に目の前の男は、休憩を挟むことにした。僕の強情さに苛立ちを覚えながらそれを丁寧さの仮面で隠そうとしているところは、大人らしい社会的な態度だ。彼は守衛を呼んだ。僕を何処に連れて行くのでもいいが、護送の際に隙を見せたら、そこに飛びついてやろうと考える。でも、やってきた守衛の男たち三人は手馴れており、それを指揮している目出し帽の女は艤装をつけた艦娘だった。男たちをどうにかしても、艤装なしでは艦娘に太刀打ちできない。撃たれて終わりだろう。それに、僕はここが何処なのかも分からないのだ。建物の中ということ以外に、知っていることはない。もしかしたら外は街中かもしれないし、田舎の山奥かもしれない。逃走後のプランも何もなしに飛び出すのは、なるべくやめておきたい。

 

 椅子ごと運ばれるというのはユニークな体験だったが、別段面白くはなかった。違った状況でなら僕も笑っただろうが、艤装に取りつけられた砲がぴたりと自分を指している時には、笑いというのは何処を探しても見つからないものだ。全力でくすぐられたって無表情を貫いた筈である。覗き窓のついた分厚い鉄扉付きの狭い部屋に入れられ、足の戒めを解かれる。手錠はそのままだが、足を動かせるというのはいいものだ。ここまで僕を運んできた男たちが退出するのと入れ替わりに、説得役の司祭殿がいらした。「いと高き方は」僕は彼が単数形で話していることに気づいた。「あなたが私たちの同志として迎え入れられることを望んでいます。しかし現実問題として、同志ではないあなたを抱え続けるというのは大変な保安上の困難です」彼は溜息をついた。心を痛めている、という様子だったが、本心かどうか。人間は大人になるにつれて、本心を隠すのが得意になる。僕も、自分が五歳の頃に比べて何とまあ嘘の上手くなったことかと思うことがあるのだ。

 

「ここにいられるのは、二日が限度でしょう。明日、それから明後日。よくお考えなさい、生き延びて、よりよい生を送る為に」

 

 彼はそう言って扉を閉めた。僕は横になった。眠気はなかったが、椅子に座っているより楽だったからだ。マットが敷かれており、そこそこ快適だった。目を閉じ、去り際の言葉を考える。あれは要するに、宣告だ。彼らは僕を取り込もうとしている。広告塔として使う為なのか、それ以外に考えがあるのかはここで考えることじゃない。二日の期限が過ぎれば、彼らは僕を吊るすだろう。それか、憲兵隊の手に返す。憲兵隊の目から見れば、護送車から脱走したという事実は変わらない。連中は、融和派による誘拐ではなく救出と捉えるだろう。つまり、融和派に恭順を示さない限り、吊るされる場所が違うだけの同じ結末を迎えることになる。

 

 ではテロリストの仲間入りをするか? 自動車爆弾を仕掛けたり、電波ジャックしたり、ビラを撒いたり、艦娘の家族を誘拐したりすることになってもか? 僕は悩んだ。自分の命が惜しかった。自分はこれをする為に生まれたのだ、という信念を持つ人間にとって、それを果たせずに死んでいくというのは最大の恐怖となる。僕の場合は、艦娘に関わる合法な仕事をするというのが「それ」だった。だが、僕が生きれば彼女たちを苦しめることに繋がるのだ。とは言っても、やはり、到底、死を選ぶのも苦痛である。僕はこの問題に答えを出す上で役立ちそうな記憶を、掘り出そうとしてみた。大体、何で僕は艦娘になったんだ? この肉体を砲弾の雨と魚雷の脅威に晒すようなことを、どうして進んで選んじまった? 挙句、ここにこうして横たわって、処刑を待つか裏切り者になるかで迷っている。訓練所で学んだ全てのことは、吊るされる為にあったのか? 僕は唐突に武蔵のタロット占いのことを思い出し、にやりとした。占いも馬鹿にできない。でもすぐにそのユーモアもしぼんでしまった。

 

 一体、艦娘とは何なのか? 僕はうっかりそんな愚問を思い浮かべた。それは名前でしかない。人格的主体を持つ何かではない。あくまで概念だ。そこに主体を見出そうとするのは、誤った視点であり、「車とはタイヤのことなのか? エンジンのことなのか? シートのことなのか? ホイールのことなのか?」※41などという質問を大真面目にしているようなものだ。車とはそれらや様態、感受、知覚、表象、認識が重なって、名のみを持つ存在として成立するのであって、どれを欠いても車とは言えないのに。より深く問いたいのなら、艦娘であるということがどういうことか、を考えるべきだろう。

 

 僕は那智教官のことを思った。今の僕、艦娘としての僕の根幹を作り上げたのは、彼女だ。彼女には揺るぎない自己があった。精神的にもろい一面もあったが、プロの職業軍人であり、艦娘だった。あの人がここにふと現れて、僕に「死ね」と言ったら、僕はただちに覚悟を終えるだろう。しかしそんなことは起こらなかった。それに、これは僕が選ばなくてはいけないことだった。いつものように。僕はふつふつと怒りが湧き上がるのを感じた。それは自暴自棄な感情だった。軍への怒りであり、融和派への怒りであり、民間人への怒りだった。僕が思いつく全部のものを、僕は憎んだ。それは、まごうことなき八つ当たりだった。僕を訓練した教官たちのことさえ、憎もうとした。

 

 けれどその時突然、僕の思考が弾けた。変な表現だが、頭の中に微細な電流が走り、言葉を思い出したのだ。それは実際に放たれた時よりも遥かに厳かな声で、僕の心の中に再生された……「何かが私には有益だが家族には有害であることが分かれば、私はそれを断念する。私の家族に有益な何かが、私の祖国にとってそうでないなら、私はそれを忘れようと努める」……「問題なのはお前が、何の為に、何と戦うかということだ。それを忘れない限り、お前は艦娘だ。お前の同期の艦娘たちの同胞で、私の同胞だ。世界中の艦娘たちの同胞だ」……老いた元提督が引用していたのは、その言葉その通りに受け取るべきことではなかった。裏を読むべき言葉だった。僕には有害だが家族には有益なことがあれば、僕はそれをするのだ。家族には有害だが社会に有益なら、僕と僕の家族はそれをしなければならないのだ。そして、僕はこれまで人類を防衛する為に、深海棲艦と戦うのが艦娘だと勝手に思っていた。那智教官が何故はっきりそう言わなかったのかとは、考えもしなかった。違うのだ。那智教官は艦娘だった。彼女は今も艦娘だ。それは、彼女が深海棲艦と戦う次代の艦娘を育てているからではない。守られるべき者の為に、彼ら彼女らを害さんとするもの全て、彼ら彼女ら自身を含む全てを前にして、例えそれが自らを滅ぼすことになってでも立ち塞がり、死の眼前に己の身を投げ出す者こそが、艦娘なのだ。彼女はその定義に最も忠実な女性であり、従って当然彼女は艦娘だったのだ! そして那智教官は言った! それを忘れていなければ、僕は彼女の同胞なのだと!

 

 僕は今ようやく、艦娘になったのだ!

 

 それに気づいた時、僕は跳ね起きた。急激な動きの気配に、扉の前に立っていたのだろう歩哨が慌てて覗き窓を開け、僕を睨んだ。だが気にはならなかった。さっきまで僕を襲っていた不安や、恐怖は、夜霧のように消え去ってしまった。自分が何者であるか、何として振舞うべきなのかを、理屈ではなく精神で理解した僕にはそれはつまらない、理性によって無視できる感情に過ぎなかった。感じないという訳ではない。死を思うと心身共に震えが走る。望んで死にたいなんて思わない。生きていることは素晴らしいし、永遠にだって生き続けたい。けれど、どうしても、僕が死ななければならないなら、艦娘として死ななければならないなら、そうしよう。僕は死の虚ろな口に飛び込んで行こう。死がその喉に僕を詰まらせて、思わず吐き出してくれるかもしれないしな。

 

 満足して、再び横になる。僕は艦娘だ。何度か頭に思い浮かべたことのあるこのフレーズが、今ほど喜びと確信に満ち満ちて感じられたことはなかった。那智教官への深い尊敬と、感謝と、男女のではなく人間としての愛情の念が僕の体を安らかにしてくれた。彼女が投げてくれたこの花を、僕はこの牢獄でも手放すまい。しぼんで干からびることもないこの花を。僕は何時間も、何時間でもまぶたを閉じて、その心でのみ嗅ぐことのできる甘い香りを楽しみながら、暗闇の中に彼女を想うだろう。二度と会えないだろう。言葉を交わすことも叶わないだろう。が、それは意味のないことだった。僕は彼女の同胞なのだ。それだけで十分だ。

 

 いつの間にか眠っていたようだ。僕は喉の渇きと空腹で目を覚ました。体を起こし、鉄の扉を叩く。覗き窓が開いた。「何だ」「今何時だ?」「自分で決めろ」気が利いた答えだ。「じゃ、水をくれ」覗き窓が閉じた。無視されたかと思っていたが、暫くすると扉の下にある食事の差し入れ口が開き、マグカップが乗ったプレートが突き出された。カップを取って、水を飲む。こんなにあっさり要求に答えてくれるって言うんなら、食べ物のことも言っておけばよかったな。しかし、何度も手を煩わせて守衛の機嫌を損ねるのは避けたかった。それに、僕を飢えで殺すつもりでもなければ、あっちから食事ぐらい出して来るだろう。その量や質にケチをつけなければ、取り上げられることもあるまい。

 

 水を半分ほど残して部屋の隅にカップを置き、僕は軽く柔軟体操をした。寝具でさえないものの上で寝たせいで、体が強張っていたからだ。多少楽になってから、僕は腰を下ろして目を閉じ、時間が過ぎるのをただ待った。それ以外にやることもなかった。

 

 鉄扉の覗き窓が開かれる音で意識を取り戻す。「客だ」と短く守衛が言う。僕は背伸びをしてから、残しておいた水を口に含み、その中で転がす。ドアが開いて、例の司祭殿が現れる。後ろには護衛なのか、覆面の艦娘を連れている。サイズからして、駆逐艦だろう。砲は僕に向けられている。二人は僕の収容室に入ってきた。抵抗の意志がないことを示す為に、腹でも見せて仰向けに寝転がってやろうか。「よく眠れましたか?」水を飲み込む。「夕べのあんたと同じぐらいよく眠れたよ」「でしたら、かなりひどい夜だったでしょうね」彼は明後日の方向を見て、悲しみを感じさせる横顔を僕に見せつけた。不眠症でも患っているのかもしれない。哀れな男だ。

 

「ご用件は?」

「引き続き、あなたの説得を。いと高き方の為に」

「へえ、今度はどんなインチキをするんだ?」

 

 彼は答えなかった。代わりに駆逐艦娘が一歩前に出た。男が言った。「私たちの調べでは、あなたは特技をお持ちのようだ」「特技?」「妖精の助けなしに艤装を操作できるとか」僕は頷きもしなかった。あっちは答えを知っているんだから、今更僕が何を言う必要もないだろうと思ったからだ。「あの方々は、私たちに様々なものを授けて下さる。妖精なしに艤装を動かす力も。残念ながら、艦娘の誰もが与えられた力を十全に発揮できる訳ではありませんが」駆逐艦娘の指示に従って、妖精が砲塔の一つから出て行く。僕を狙う砲が一つ減ったが、もう一つが残っていて、それが僕を強行突破という夢のある考えから遠ざけていてくれた。それから、その駆逐艦娘は妖精の出て行った砲塔を動かし始めた。いい見世物だったが、僕よりも格段に出来が悪かった。砲塔の旋回速度や、仰角をつける速度も、僕や那智教官とは比べ物にならなかった。

 

「おい君、ちゃんと練習してるのか? それとも艤装の整備を怠ってるのか?」

 

 半笑いで、そんな言葉を彼女に向かって投げつけてしまったほどだ。駆逐艦娘は覆面越しにも分かる怒気を放ったが、司祭殿が手をさっと出して抑えると、後ろに下がった。「あなたは彼女よりも上手く動かせる。それこそ、あなたがあの方々に助けられたという証拠なのです。それ以外にどんな理由があるのですか?」だとしたら、那智教官もそうだって言うのか? 面白い冗談だ。僕はその話を「考える価値なし」のリストに分類した。「考えて下さい。あの方々が艤装を動かすのに、妖精を使いますか? あの方々の破壊された艤装から妖精が出てくるのを見たことは? あの方々と同じことができるのは、その加護のお陰なのです!」僕は彼の言葉を聞き流した。手を変え品を変え、よくもまあこれだけのでっち上げを思いつくものだ。海軍にいたってのも嘘なんじゃないか。二流の詐欺師としてなら通用するレベルだ。

 

 僕は手を振って彼を退けようとしたが、彼はハエよりもしぶとい生き物だった。司祭殿はほとんど自分の言葉に感動しているかのような口ぶりで、神聖な義務への僕の参加を促し、自ら世界平和の一助とならんとする姿勢を開けっぴろげにしていた。世界平和? そんな大層なもの、僕にはどうにも気が進まない。謹んで平に辞退し申し上げる。それに戦争を始めたのはあっちだ。何か問題を抱えていたなら、彼女たちは話し合いで解決することもできただろう。軍を組織する社会性を持ち、発話能力があるんだから、できなかった筈がないのだ。でも、奴らは黙って殺しあうことを選んだ。つまりこれは、どう言い訳しても、深海棲艦の始めた戦争なのだ。どちらかの全滅以外の形で終わらせたいと思うなら、あいつらから頭を下げに来るべきだろう──その逆ではない。

 

 たわ言は聞き終わる頃には戦争が終わってるんじゃないかと思うほど長く続いたが、今度も僕の忍耐が勝った。司祭殿は駆逐艦娘を連れて、しきりに頭を振りながら去っていった。きっと、彼はあんな風に頭を振るせいで、大事なところのネジが一本どころか四、五本抜けてしまっているのだろう。時々働きの悪い頭を攪拌(かくはん)してやりたくなることは僕にもあるから気持ちは分かる、が、それでも脳みそは大事にしなくてはいけない。手足や内臓なんかと違って替えが利かないからな。

 

 お客が行ってしまった後で、僕はそろそろ腹の虫に何か食わせてやらねばなるまい、という気持ちになった。さっきみたくドアをノックして、食事は出ないのかと聞いてみる。無言で閉められたが、水の時だってそれで持ってきてくれた。じきに来るだろう、と楽観してごろりと横になる。しかし、いつまで経っても来なかった。ははあ、これは飢餓状態に置いて正常な判断能力を奪うつもりだな。分かりやすい手だが、効果的だ。餓死は辛いものだという。人類の裏切り者としてでもいいから生き延びたいと考えるような手合いには、絶大な効力があるだろう。ただ僕の場合はどう転んでもいずれ吊るされて死ぬと分かっているものだから、効き目は薄かった。腹がしくしくと痛むのがうざったいだけだ。それだって、寝ていれば感じることはなかった。

 

 司祭殿による三度目の訪問はなく、僕はひたすら寝て過ごした。覚悟ができていたか? それは自答するには難しい質問だ。答えることは避けよう。だが、自分の人生の終わりを間近にして、この牢獄の中で一つだけ心に決めたことがあった。どうせ死ぬなら、ほんの少しの仕返しをしてからだ。僕が無駄に体力を使わないように横になっていたのは、その人生最後の楽しみの為だった。

 

 そういう訳で、僕がここに連れて来られてから二日後、哀れな死刑囚を絞首台に連れて行く為に入ってきた巡洋艦サイズの艦娘と二人の男たちは、仲良く床に寝転がることになった。那智教官に教わった体術がここでも役に立った。もし食事をきちんと取れていたら、もう二人か三人は殴り倒してやれただろう。しかし、二日も食事抜きを食らった手錠付きの子供にしては、いいスコアを出したつもりだ。僕は艦娘二人を含む四人がかりで打ち倒され、散々いたぶられた後で、ずた袋のようなものを被せられた。後ろから定期的に蹴りを食らいながら、人生の終わりへと歩みを続ける。心臓がばくばく言っていた。歯だってがちがち鳴っている。僕は袋を被せられたまま、口だけ笑いの形に動かした。タフな男っぽくだ。中学の英語の授業で詩を取り扱った時に、イェイツ※42のこんな詩があった。「誇りある男は/死に直面すれども/それを恐れじ/死とは人の作りしものと/知ればこそなり」※43これは詩の後半部分で前半は忘れてしまったが、僕はこれを覚えておこうと固く決意したものだ。将来、自分の死に際して、これを思い出せば勇気が出ると思ったのだ。さあ、過去の自分に向かって言わせて貰おう。クソ何の役にも立たなかったぞ!

 

 とはいえ、自嘲の笑いを出すことはできたし、それも笑いには違いなかった。ずた袋の向こう側に笑い声が漏れてしまったのか、一際強く僕は蹴られた。たたらを踏んで、こけてしまう。そこに容赦なく追い打ちが浴びせられる。僕はよろよろと立ち上がり、突き飛ばされる方へと足を進める。恐怖は抑えがたかったが、今の僕は艦娘だ。死ななければならないなら、そうしよう。心の中で何度もその言葉を呟く。本心からそう考えているのか、自分を納得させる為に言い聞かせているのか……多分、どちらでもあったのだろう。自身を励ます為に、多くのことを頭に思い浮かべたものだ。例を出してみると、ウクライナだか何処だかのゴルロヴォという村では物流がほぼ途絶えており、住民は自給自足の十八世紀風なライフスタイルを強いられているそうで、そこの人間の一人はこう言っていたという。「我々は生きているんじゃない。生き抜いているんだ。どうだ、そう言ってみると何となく励ましになるだろう?」※44ならなかった。何しろこれから死ぬもんでね。

 

 大きな部屋に入ったのが分かった。大勢の囁き声がしたからだ。公開処刑は歴史的尺度で言えば最近まで、庶民の娯楽の一つだった。融和派の連中がその精神を受け継いでいたからと言って、不道徳だ何だと責めてやることもないだろう。絞首台への十三階段を上る。艦娘を処刑する時には、軍も融和派も好んで吊るすものだ。これは、見た目がいいからではない。艦娘でも十分な高さからなら首を折って殺してしまえるし、もしも規格外に頑丈で首が折れなくとも、窒息で必ず殺せるからだ。過去には銃殺を試みたこともあったそうだが、どうやってか拘束を解いた艦娘に銃を奪われて何人か死人が出たらしい。銃殺はそんな前例があり、薬剤注射は金が掛かるということで、以来人々は縄と古典物理学に艦娘の処刑を委ねている。時には古人の知恵が現代的発想に勝るものなのだ。

 

 首に縄を掛けられる。頭の袋を外される。観客は二十人ほどだ。大勢集まったもんだな、と他人事みたいに僕は考えた。脇には屈強そうな、がたいのいい覆面の兵士が銃を手に控えている。今の僕じゃ、首の縄がなくとも彼に立ち向かうこともできないだろう。逃げ出そうという気さえ起こらなかった。司祭殿は最後まで僕にチャンスを与えようとしてか、熱の入った表情で僕に言った。「まだ間に合います、何なら、今からでも私がみなを説得しましょう。ただあなたが一言、いと高き方にお仕えすると誓ってくれるなら……それとも、あなたはむざむざここで死ぬというのですか? 国に忠誠を誓ったからですか? 彼らがあなたに何をしてくれたというのです!」僕は答えた。「誰が僕に何をしてくれたかって問題じゃないんだ。僕が誰に何をするかの問題なんだよ、これは」彼は僕の目を長い間見つめていた。それから虫唾が走る、というような態度で口を開いた。「あなたは狂信に囚われている。また一人、政府の洗脳の被害者が、この若さで死ぬ……彼自身に落ち度はないというのに」みんな今の聞いたか? おいおい、ならこの処刑中止しろよ。言っとくけどな、今から死ぬ男は政府じゃなくてお前らが殺すんだぜ。これらの出掛かった言葉は、首の縄が強く締め付けられたことで引っ込んでしまった。

 

 司祭殿が離れていく。脇にいた兵士にして死刑執行官の男がスイッチに手を掛けるのが気配で分かる。それを押せば、僕の足元はぱかりと開いて、一巻の終わりだ。目を閉じる。最後に見るものは自分で選びたい。まぶたの裏へと、様々なものを浮かべる。家族、同期、戦友、上官。がちゃりと音がした。



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「“六番”」-4

 耳をつんざく轟音が頭の後ろから僕を殴りつけ、上でぶちりと音が聞こえると同時に、浮遊感が僕を襲う。恐慌が心を吹き荒れる。絶望の内に僕は死ぬ、僕は死ぬ、今ほど命を恋しく思うことはなかった!※45 次に苦痛が全身を打つ。まるで高いところから落ちたような痛みだ……そして実際にそうだった。把握できたのは二つだけだ。一つ。全身痛いしうつ伏せに倒れてるが僕は生きてる。二つ。上で誰かが狂ったアメリカの高校生みたいに銃を乱射してる。何の因果で僕が助かったのか、後ろにいた奴が助けてくれたのか、結果的に助かっただけなのか、そんなことを判断するのは後でいい。僕がやるべきことは脱走だ。立ち上がろうとする。ダメだ、力が入らない! こんなことなら抵抗せずに連行されておけばよかった。あの時の大暴れ、それに伴う融和派たちの暴行、高所からの落下という三つの要因が、僕の体から力を奪っていた。近くで舌打ちが聞こえた。誰かがいる。それは僕の友達ではないだろう。折角助かったのに、地獄に落ちる途中で天国を見せるような真似をしやがって!

 

 けれども、その誰かがやったのは僕の息の根を止めることではなかった。彼女、その小さな手から駆逐艦娘と分かったその彼女は、僕の足を掴んで引っ張り、絞首台の開口部の直下から移動させてくれたのだ。その直後、開口部からもう一人飛び込んできた。僕は目だけを動かしてそいつを見た。後ろにいた死刑執行官だ。銃からは硝煙が漂っていた。そいつは銃を駆逐艦娘に投げ渡して、僕を肩に担ぎ上げた。混乱している間に、喧騒と怒号が聞こえてくる。僕を担いだ元死刑執行官が走り出す。心地よいとは言えない揺れの中で、僕はどうにでもなれという気持ちになって、意識を手放した。起きなきゃいけない時には、起こしてくれるだろう。

 

 何かの中に投げ込まれた衝撃で、覚醒する。目を開けたが、暗いままだ。また袋を被せられているらしい。幸い、目が粗いので呼吸を遮られる恐れはなかった。ばん、と音がして僕の投げ込まれた場所のふたが閉じられる。それからエンジン音。車の中、いや、トランクの中か、ここは。僕は息を潜めて、何か次に起こることを待った。あの元執行官と誰だか知らない駆逐艦娘が僕をあの場での処刑から助けてくれたことは否定できないが、それを理由に二人が僕の味方だと考えるのは愚かなことだ。彼と彼女が第三の勢力で、僕の生殺与奪権が別の連中に渡っただけかもしれないのだから。僕は意識を保っていようとしたが、疲れすぎていた。

 

 頭から水を掛けられて目を覚ます。袋は取り払われ、場所は車のトランクから再び営倉めいた小部屋に移っていた。これには、全く、うんざりだ。水を掛けたのは絞首台の下で僕を助けた駆逐艦娘だった。僕はしたたる水滴を頭を軽く振って払い、彼女を睨みつけた。ここ数日は誰もが僕の敵意を買いたがって困る。そんなものはあんまり持ち合わせていないというのに。部屋の扉が開き、元死刑執行官があの時のままの格好で現れる。駆逐艦娘は彼に一礼して出て行った。彼女が行ってしまってから、僕はあっちが口を開く前に言ってやった。

 

「何か食べ物を」

「少し我慢して下さい」

 

 言い終わる前に跳ねつけられる。むっとするが、耐えた。少し我慢しろ、と言ったのだ。食事を出そうという気はあるのだろう。それと訂正だ。彼じゃなかった。彼女だ。覆面を外すと、どうやって収めていたのか不思議に思えるほどの長い黒髪がばさりと投げ出された。顔を見る。つい最近、見たことのある作りをしていた。夕食時、食堂で見た顔だ。でも、これがあの彼女なのかは分からない。すると彼女は、二日近くに渡って僕の手を戒めていた手錠の鎖を、腰に提げていたボルトカッターでばちりと切り離してくれた。「私が誰かはお分かりですか」「正規空母赤城。この前、テレビで見た。ちらっとだけど」「なら、危険を冒した甲斐はあったということですね。他の融和派グループに攻撃を仕掛けてまであなたを連れてきた理由は?」皆目見当もつかない。君らも僕に転向を迫って、断ったら吊るすと脅すつもりなんじゃないか、と答えた。彼女はくすりともしないで、無表情にそれを否定した。

 

「我々と彼らは別の目標を目指しています。と言っても、あなたにとっては一括りに『融和派』なのでしょうが。さて、多少ショックなこともあるかもしれませんが、気を楽にして聞いて下さいね。融和派グループには二種類あるということからお話ししましょう」

 

 二種類? 毒と猛毒みたいなものか? いやいや違うな、きっとバターとこれがバターじゃない(I Can't Believe)なんて信じられない!(It's Not Butter!)※46ぐらいの差異があるのだろう。

 

「一つは、人間並びに艦娘だけで形成しているグループ。目に見えるような破壊活動を行っているのは大半がこの類です。彼らは過激で、向こう見ずで、長期の見通しや計画を持たず、現れては取り締まられて潰されるだけの存在です。やることも爆弾テロやビラ撒き、立てこもりに銀行強盗などと、犯罪者と変わりありません」

 

 まるで自分たちはそうじゃないとでも言いたげな喋り方だ。実際、そう言いたいのだろう。「じゃ、僕を最初にさらったのもその手の連中か? 過激で、考えなしの?」「いいえ。もしそうだったら、あなたは初日に殺されていたでしょう。軍や政府、国家への忠誠を見せただけで、彼らにとっては死刑判決を下す理由になりますから」そりゃひどい連中だな。人間的だがひどい。だからなのか、僕にはどうしても、艦娘たちがその種の過激な融和派の中に加わっている姿を想像できなかった。覆面をつけて参加している姿なら、記憶を思い出すだけだから可能だが、例えば隼鷹や、利根や、北上が、僕を小突き回した挙句に首に縄を掛けて来ようとするところなんて、脳裏に描くのも無理だったのだ。もちろん、僕が友情を培ったあの隼鷹、あの利根、あの北上でない三人が融和派にいれば、その彼女は容赦なく僕を吊るそうとするだろう。それは分かっているのだが、人間の脳というのはそこまで合理的に割り切って考えてくれない。

 

「もう一つは、これは我々や、先ほどまであなたが一緒にいた人々が属している種類ですが……構成員に深海棲艦を含むグループです。軍や政府が最も警戒しているのはこのタイプでしょう。誰でも嫌ですからね、敵と通じている身内などというものは」

「待て、深海棲艦が構成員にいるだって? 冗談も大概に……うわっ」

 

 赤城によって頭から袋を被せられる。何だってんだ? もう被された状態に慣れてしまっている自分が何やら情けなくさえ思えてくる。映画の中のヒーローだったら、こんなシチュエーションは脱出の為に用意されているようなものだ。僕が主演俳優なら、冒頭十分で激しいアクションシーンを交えつつ、色々あって爆発する収容所から脱走するだろう。映画はいいものだ。現実は違う。

 

 手は自由だが、あっちがそうしたいと思ってやったことを邪魔するのは身の安全の為に避けた方がいいだろう。赤城は淑女としての慎みから、パンチなしで袋を被せてくれたのだ。でも、僕が彼女の望みを邪魔するなら、赤城は数発ほどパンチしてから袋を被せることにするだろう。正規空母の体力や基礎的な身体能力は、重巡洋艦の僕よりも高い。戦艦の次に殴られたくない相手だ。僕が抵抗しないのを見て、赤城はほっとしたようだった。「すみません。仲間からそう聞いてはいたのですが、あなたの顔を見ていると無性にイライラするので。もう大丈夫です」「それを聞いて僕が大丈夫じゃなくなりそうだ」長門のような失礼な奴でさえ──そうだ、初対面で僕を罵ったあの長門ですら、だ──彼女の感じている苛立ちを「お前のせいだ」と僕に言いはしなかった。それどころか、提督に相談するほどそれが何のせいなのかを思い悩んでいた。しかし、この赤城はそれをやった。僕はいたく傷ついた。

 

 幸いだったのは、彼女が僕の友達とか、同じ艦隊勤務の戦友ではなかったということだろう。見ず知らずみたいな間柄だ。よもやこれから彼女と同じ職場で働くことになりもするまい。そんな相手に何を言われても、僕はすぐ立ち直る。これは軍に入り、多くの僕を嫌う艦娘たちと接触するようになってから身につけた、悲しい特技だった。

 

「深海棲艦が仲間にいるというのは意外でしたか? まあ、そうでしょうね。特に艦娘にとっては、深海棲艦は撃ち合う相手であって、同じ目標の為に協同する相手ではありませんから。でもですね、あなたも座学で習ったでしょうが、彼女たちは社会性を持っているんです。小さなグループを作り、それらをまとめて大きなグループを作り、またそれらをまとめて彼女たちの軍隊を作り、組織的に戦うことができるんです。似ているではありませんか、私たち艦娘、ひいては人類に。だとすれば、ですよ? どうして融和派が人類にのみ存在すると思うのですか?」

 

 僕はうっかり真面目に考えそうになって、急いでその愚かさを振り払った。融和派の言うことは聞くべきじゃない。彼ら彼女らの言葉を操る力は、それこそ悪魔めいたものだ。丸きり相手にしないことが一番なのだ。そうでなければ適当に反論していればいい。それで時々奴らの話を聞いているかのようにちょいと質問を投げつけてやれば、大喜びであれこれ話し出し、熱中して、僕が聞いているかどうかなどどうでもよくなるだろう。まともに受け取って考えるのが最低の悪手なのである。

 

「その理屈は、奴らの有している『社会性』が僕らのそれと全く同一だという前提に基づいてるぞ」

「はい。そしてその前提は正しいのです……これは今からお話しすることで信じていただけると思いますが、事実です。この戦争の歴史についてどれくらいご存知ですか?」

 

 この質問には「訓練所で習ったことは覚えてる」と答えるに留めておく。これは意訳すると「大したことは知らない」という意味になる。提督ならまだしも、艦娘にとってはそれでいいのだ。歴史の勉強で深海棲艦が倒せる訳じゃない。奴らを倒すのは僕らの砲であり、魚雷であり、航空機である。奴らを前にしても退かずに戦おうとする意志が勝利するのであって、知識や教養を見せびらかしたら沈んでくれる深海棲艦などいないのだ。いてくれたらどんなによかったかとは思うけれども。

 

 しかし直接の戦いに役立たずとも、自分が何なのかということを候補生たちに教える為に、歴史は役立つものだ。悲惨な史実を覚えさせれば覚えさせるほど、昨日までの自分たちと、艦娘になった今日からの自分たちは違うのだと、自分たちは故国の守りの一線で、祖国で戦う術も身を守る術さえもなく震えている小さな子供から年老いた老人までを背に負うた、人の世最後の大砦なのだと思い込ませることができる。しかもそれがそれなりに正しい認識だというのだから、たまらない。そういう都合で、どの訓練所の座学教官も艦娘候補生たちには彼女たちの義務感を刺激し、より大きなものの一部になる自己犠牲的快感の芽を植えつけるような話をする。例えば最初期の艦娘たちに関する話だ。

 

 彼女たちは今日のような艦娘適性の検査など受けられなかった。艤装を着用できるかどうかが検査だった。着用できれば訓練過程に進まされた。それがどれだけ彼女たちにとって辛い訓練だったか、僕には何となく分かる。今の艦娘候補生たちは艤装を着用した日から、水上を動くだけならそこそこやれるものだ。それは妖精たちが艤装に彼らの言うところの「船魂」を「転写」するからだ。そういったオカルト的なものに対して不信感を抱いてしまう現代的な人間としては、それが科学的にどのような意味合いを持つのか、いつか解明される日が来ることを祈ることしかできない。けれどとにかく、そのお陰で僕らは艦娘として、人型の船としての動き方を知ることができる。リハビリ以外で、子供時代に陸を歩くやり方を誰かに教わったことがある人間はいないだろう。それと同じように、海の上を走るにはどうすればいいか、何とはなしに分かるのだ。でも最初期の艦娘、後には教養をひけらかす連中によって誰でもない(ウーティス)※47とあだ名されることにもなった艦娘たちは、艤装をつけただけの人間だった。彼女らは、水上航行を学ぶところからのスタートだった。それだけではない。彼女らには艤装の動かし方も分からなかった。

 

 僕らは指を動かすのに、一々どうやってそうするかを考えたりはしない。ただ指を動かす。艤装もその延長線上にある。だが最初の艦娘たちは、砲塔にいる妖精たちに声で指示を出さなければいけなかった。戦闘の最中でも、砲塔をどの方向にどれだけ動かし、仰角は何度で、といったような細かい指示を、声でやるのだ。僕には、戦闘中にそんなことに気を回せるとは思えない。だからこそ彼女たちは英雄だった。現代的な艦娘が生まれるまで、深海棲艦と戦って海を守ったのは、鋼鉄を背負っただけの人間だったのだから。彼女らには高速修復材もなかったというのに、それを成し遂げたのだ。

 

「深海棲艦については?」

「殺し方なら」

 

 言ってから、失言に気づく。彼女たちの仲間には深海棲艦がいるのだ。友達の殺し方を知っていると豪語されるのは、気分のいいものではないだろう。それにしてもここ暫くの経験によれば、僕はろくすっぽものを考えずに喋る悪癖があるようだ。それを改善する機会が与えられることを願いたいものだが、望みは薄い。僕の危惧を感じ取ったのか、赤城は軽く笑って言った。

 

「失礼しました。艦娘ならそう答えるだろうと思うべきでしたね。ええと、ではさっきのグループ分けと同じように行きましょう。私が深海棲艦を二つのグループに分けるなら、どう分類すると思いますか?」

「人型とそれ以外?」

 

 脅威度の面から見て、これは適切な分類法だとされている。訓練所でも新人艦娘は人型深海棲艦との単独の交戦を避けるように言う。まあ、新人艦娘を一人で海に出す提督もいなければ、単艦でうろついている人型深海棲艦もいないから、この忠告は敵の有能さを伝える為のものでしかなくなっているのが現実だ。それでいいだろうと思う。敵の有能さを信じない軍は存在しない。そんな軍とも呼べないような馬鹿の集まりを税金で飼っているような国は、十中八九戦争に負けるからだ。だが赤城はこの分類に不満なようだった。彼女は首を横に振った。「仲間か敵か?」「それなら仲間といずれ仲間になる深海棲艦、と言いたいですね」「喋るか喋らないか?」「惜しい。正解は『鬼級以上と鬼級未満』です。ところで、今のあなたの答えにお礼を言わせて下さい。知りたかったことの一つが分かりましたから」僕は困惑した。彼女たちには何の協力もしたつもりもない。固い口調でそう言ってやるが、赤城の答えを聞いた僕は、一言の反論の後には口を閉じているしかなかった。彼女はこう言ったのだ。

 

「あなたは、恐らくは人型なら、鬼級未満とも会話できるのでしょう? だから『鬼級以上とそれ未満』ではなく『喋るか喋らないか』という言い方をした。違いますか?」

「それは……論理の飛躍だ」

「あなたが分かりやすい方で本当に助かります。さて、鬼級以上の深海棲艦は、人類側の艦娘投入によって戦争の流れが変わった為に、深海で指揮するだけでなく前線に出てくることを余儀なくされた、と考えられていますが──」

 

 と、前に聞いたことのある音がした。銃声だ。「なんてこと、早すぎる」赤城がぽつりと漏らす。ドアが激しく音を立てて開かれる。目の前の女が振り返るのが感じられたので、僕は袋を外した。この状況で彼女のご機嫌伺いなんかやってられない。すると、赤城よりももう少しよく知っている顔が見えた。

 

「電」

「……お久しぶりなのです」

 

 僕は、あの喫茶店で話を聞いた電だという確信があった訳ではなかった。単にぽろりと、彼女の名前を口に出してしまっただけだ。しかし、それに反応した彼女は、自ら打ち明けてくれたのだった。初歩的なミスだ。僕は彼女のことを意識の中から除外し、銃声のことを考えた。襲撃された融和派グループが仕返しに来たのだろうか? 発砲音はさっきの一度だけでは終わらず、今や明らかに撃ち合いと分かるものになっている。「彼女は?」「撃たれたのです、出血がひどいので止血してからこっちに」「相手は」「排撃班です」「最悪ね」僕には分からない会話を続けている彼女たちに割り込むには、勇気が要った。

 

「何があったんだ?」

「軍の融和派狩り専門の特殊部隊です。何処かで捕捉されていたのでしょう」

 

 目の前に狩りの獲物の方々がおられなければ、僕はダンスだって踊っただろう。僕も機械じゃないので、小さな友人だと思っていた電のことについては少しだけ胸が痛んだが、それでも彼女らと一緒にいるよりは、同じ軍所属の奴らといる方がよかった。憲兵本部への呼び出しのことを忘れてはいなかったが、僕の体に残っている暴行の痕や、胃の内容物を検査すれば、僕が融和派に仲間として扱われてはいなかったことぐらい分かる筈だ。笑顔を浮かべてしまわないように努力するのが辛すぎて、僕は再び袋を被った。赤城はそんな僕を見てから、舌打ちをした。僕にではなくて、彼女のやろうとしていたことを途中で邪魔されたことに怒っているようだった。

 

「まだお伝えしたいことがあったのですが、仕方ありません。もし自分で調べたいなら、軍の戦闘記録を探しなさい、編集された戦闘詳報ではないものを」

「スパイになるつもりはないし、あの手のものは機密指定されてる」

「ふふ、あなたみたいな分かりやすい人がスパイなんかになったら、三日とせずに捕まりますよ。それより、あなたのお友達にはうってつけの人物がいるではありませんか。彼女に頼みなさい」

 

 赤城はそう言い残して、電と出て行った。被った袋を脱ぎ捨て、思う存分にこにこさせて貰おう。ドアは閉ざされており、鍵も掛かっているので逃げることはできなかった。ま、じきに助けの方からやってくるんだから、落ち着いていればいい。小部屋の奥に行き、へたり込んで壁に背中を預ける。赤城が最後に言っていた、僕の友達とは誰だろう? 情報通な青葉のことだろうか。今更、僕の交友関係を把握されていたこと程度で驚きはしなかった。余程注意して、僕を観察していたのだろう。電が近づいてきたのも情報収集の一環か。とすると、彼女は何の成果も得られなかったことになる。僕は自分が意識している時より、意識していない時の方が正しいことを行えるのかもしれない。

 

 床が固いせいで、座っていると尻が痛んだ。殴られたり蹴られたりしたところもずきずきする。ここを出て行く時はきっと担架に乗ってやるぞ、と心に決めた。自分で歩くなんて真っ平だ。融和派に捕らえられていた艦娘に対して、その程度の配慮が認められるのは自然な成り行きというものであろう。

 

 助けが来るのを僕は待ち続けた。銃撃戦の音が遠ざかると怖くなり、弱まると片付いたのか片付けられたのかと思ってはらはらした。だから足音が聞こえてきた時には、思わず「こっちだ!」と声を出してしまった。歩きだった足音がぴたりと止まり、それから小走りになる。よかった、助けだ! こんな安心に包まれたのは久々だった。あの岩礁で長門たちが駆けつけてくれた時に匹敵する安堵感だ。とにもかくにも、今は生き延びられた。この小部屋の鍵が開けられて、戸が開く。僕は救い主を迎え入れようとして、それからそこにいる相手に目を疑った。病的に白い肌、赤い目、胸元から口元までを覆う他、乳房を持ち上げて支えている装甲板、両手の鉤爪、額の(つの)。写真でしか見たことのない存在。深海棲艦の指揮官級の一人にして移動基地、大要塞とも呼ばれて恐れられる、姫級深海棲艦。港湾棲姫!

 

 赤城の言っていた仲間の深海棲艦か、と頭の冷静な部分が分析するのが聞こえた。艤装はつけていない。でも、そんなのは僕だってそうだ。それに僕にはあんな鉤爪はない。彼女に抵抗する手段? 馬鹿も休み休み言うものだ。僕には、彼女が哀れな艦娘をさっくりと殺してくれることを望むぐらいのことしかできない。殺すつもりでなければ、どうして彼女は僕に鉤爪を向けて、近寄ってくる? ああ、そうだ。彼女は僕を殺しに来た。見ろ、あの脇腹を。深くえぐられて、そこから流れ出る液体が彼女の白い体を赤く汚している。あれでは逃げようにもろくに動けない。今日を生き抜くことは叶わないだろう。だから、彼女は僕を道連れにでもする気なのだ。

 

 ぺたり、ぺたりと足音がする。遠くで雷鳴のような轟音が幾つも鳴っているのに、彼女の足音はどうしてか僕の耳に届いた。彼女の激しい息遣いもだ。荒い息が、喉で擦過音を立てている。赤い目は僕をじっと見ている。僕はそこから目が離せない。彼女の口が小さく、のろのろと、動いている。僕の視線と彼女の視線が一つになる。その目の中に赤い光が輝いている。まばたき一つしない目が僕を射抜いている。鉤爪が僕に近づいてくる。その尖った先端。赤く濡れているのは血だ。「やめろ」と声が出た。こんな怯えきった声が僕のものだとは、信じたくもなかった。

 

 震える自分の手に、脱ぎ捨てた袋が触れた。考えもせず、それを投げつける。港湾棲姫がそれを振り払う。体に指令を送る。逃げろ! 這ってでも逃げろ! だが、二日間の断食と暴力を経験した艦娘よりも、撃たれた姫級深海棲艦の方が強かった。彼女の爪が器用に僕の服を引っ掛け、腕の一振りで壁に叩きつけられる。「(ナニ)モ」と彼女は言った。頭の中に響くような声で。「(ナニ)モ……()カッテイナイ、ナラ」それから彼女は、地に伏せ、最後の一撃を前に処刑人を見上げることしかできない僕に向かって、その鉤爪を振り上げようとした。

 

 胸を貫く一撃。僕の胸じゃない。彼女の胸だ。港湾棲姫の。

 

 バラクラバで顔を隠した誰かが、彼女の後ろから長いナイフを突き立てていた。僕の目と、港湾棲姫の目が、その誰かに向けられる。鉤爪が、彼か彼女かをなぎ払う。簡単に吹き飛ばされ、部屋の入り口に倒れた相手へと、港湾棲姫は何度も爪を振り下ろす。ナイフを生やした背は僕に向けたままだ。僕は再び自分の体に命令する。立て、立ち上がれ、今度の命令は逃げる為じゃない。戦う為だ。僕の目と鼻の先で今にも死のうとしている奴を見ろ。そいつは僕を助けようとしたのかもしれないし、ただ深海棲艦を見つけて襲い掛かったのかもしれない。どちらにせよ、犠牲によって作られたこの一瞬を、無駄にしてはならない。

 

 身を起こし、立ち上がる。港湾棲姫は気づかない。彼女を貫いた敵に、まだ気を取られている。僕は一歩を踏み出す。足の下で、直前に敵へと投げつけたあの袋がかさりと音を立てる。港湾棲姫がこちらを向こうとする。その腕を、はらわたを抉り出されたまま、彼女に倒された誰かが掴んで止める。僕はナイフ目掛けて飛びかかる。

 

 どうやって港湾棲姫に引導を渡したのか、覚えていない。どうして僕が死んで、彼女が生きているというようなことにならなかったのか、考える気にもならない。多分、那智教官に教わったやり方を実践したのだろう。彼女は人型深海棲艦をナイフで刺す時には、太い血管や臓器を狙えと言っていた。奴らにも動脈があり、肺や心臓があるのだからと。僕がその言葉に忠実だったことを証明するかのように、部屋で唯一生きて立っている僕の足元は、血の池と化していた。僕も生暖かい血にまみれている。飛び掛かった時、港湾棲姫が振り向こうとするのを最後の力で止めてくれた誰かも、その中で倒れて、死んでいた。僕は気分が悪くなって、部屋の隅で吐いた。断食をやらされていてよかった。出てきたのはほとんどが液体だった。

 

 複数の足音が聞こえてきた。何を言っているかまでは聞き取れないが、指示を飛ばす声も。そのメリハリのある調子から、軍の連中だと分かった。さっきみたいな喜びはもう沸いてこなかった。ああ、僕の命だけは助かったとも。だが、そのせいで一人死んだのだ。僕の命と、この人の命、そのどちらが価値あるものなのか、僕には決められそうにもなかった。価値があるものの為には、より無価値なものは身を捧げるべきなのか? その答えは知っている。だが、それが一つの命と、もう一つの命の時では? 二つの金塊が、重みそのものは等しくとも、その値段がそれぞれ違うなどということがありえるのか? 僕は艦娘としての答えは知っていたが、それよりも人間としての答えを求めていた。でも、僕が欲しがったものが天から降ってくるようなことは、到底願うべくもないことである。そして僕は知っていた。それについて考えるには、僕が余りにも愚かすぎるということをだ。

 

 黒い戦闘服に身を包み、バラクラバで顔を隠した上にサングラスまで掛けた、赤城が言ったところの特殊部隊員の一人が、小部屋の戸口に立った。長身で、銃どころかナイフの一本も持っていない。全くの徒手だ。真っ黒なサングラスに遮られて目は見えなかったが、この状況をどう理解したものかと悩んでいるようだった。やがてそのオペレーター(特殊部隊員)は腰の無線機を取って言った。「三番が死んだ」変声機でも使ったみたいな、妙な声だった。すぐにざざっ、とノイズがして、同じ声調の返事が聞こえた。「こちら二番、了解。一番と共に継続して制圧中。要救は?」「発見。私が連れて行く」「よろしく、六番」それから、そのオペレーターはおもむろにサングラスとバラクラバを外し、呆気に取られて彼女を見ている僕に、薬指を折った平手をひらひらと振ったのだった。



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「“六番”」-5

 僕は全て了解して、力が抜け、吐瀉物の上に尻餅をついた。汚いなとは思ったが、今はそこまで気にならない。空腹と緊張の弛緩による倦怠感が、僕の前に立つ女性への不快感で上書きされる。「武蔵」僕は声を搾り出す。彼女は笑い、変調のない声で言う。「ふっ、この武蔵に任せておけと言ったろう」何が任せておけ、だ。彼女が僕を探し出して助けに来た訳がない。そんな都合のいい話はない。そうじゃない。こいつは僕を、融和派を釣る為の餌にしやがったんだ。僕と直接話をすることまでが融和派を釣り出す作戦の内だったのかは知らないが、そうだろうとそうでなかろうと何の違いがある?

 

 精一杯の嫌悪を込めて、武蔵を睨みつける。彼女は歯牙にも掛けない。「怒っているみたいだな。まあ、当然か。でも私たちは友達で、食事だって一緒した仲じゃないか。許してくれるな?」こちらに寄ってきて、手を差し出す。その褐色の手を取れと、彼女の鋭い目が、くいくい、と僕を誘う指が言っている。僕はそれを、跳ねつけることはしない。その元気もない。けれども、その手を取るような真似もしない。僕は、自分の目的の為に僕を利用して、あまつさえ殺しかけたような奴と握手するつもりはないのだ。

 

「おいおい、そう拗ねるなよ。男がすたるぜ」

 

 彼女の手が、前にもあったようにこちらの意志を無視して、僕の手首を掴む。多分、手を取らなかったのは武蔵なりの気遣いとか、矜持なのだろう。自分からその手を取ろうとしない僕の気持ちを、彼女のやり方で慮ったのだ、と思う。だが、そのことは僕の武蔵への気持ちを揺るがさなかった。引き起こされ、立たされる。

 

「歩けるかい」

「君のせいで僕は……絞首台に立たされたんだぞ!」

「そりゃ凄い、同期で一番乗りじゃないか? 家に帰って家族や友達に自慢できるな。賭けたっていいが、ざらにあることではないぜ」

 

 僕は閉口した。この女は反省とか、後悔とか、およそ人間の美徳として名が上げられるようなあらゆる感情を持っていないのか。「ざらにないと言えば、姫級をナイフで始末したっていうのもそうか。よくそんなことやったなあ、見上げたものだ」

 

 ナイフで深海棲艦を始末するのは、難しいことだが、不可能じゃない。深海棲艦と対面した時、拳銃とナイフがあれば、後者を選んだ方がより高い確率で生き残れるだろう。彼女たちの肉体(そして僕たち艦娘の肉体)は、人間と同じ柔らかさを持ちながら、遥かに強靭なのだが、その秘密の一つは彼女らの肌が持つ特殊な性質にあり、十分な圧力を加えるとその部分が瞬間的に硬化するのだ。その際の強度は圧力に対して比例的なものであり、半端ではない。

 

 従って、あえて不十分な圧力を加え、それを弾くほど硬化していない皮膚を傷つけることのできるナイフなどと比べて、点に圧力を加える攻撃である通常の銃砲は彼女らに一切効かないか、効いたとしても限定的になる。例外は艦娘の装備品だけで、あれがどうして効くのか、軍では研究を続けているという。

 

 まあ、通常兵器でも動かない的であれば撃ち続ければいいし、こちらに百の味方がいて相手は一人だと言うなら、集中砲火でどうにかなるだろう。しかし、現実の彼女らは多数で、素早く動き回り、伝統的な海軍艦艇としては想定していなかったほどに小さく、その癖その火力はこちらの通常の船舶を撃破するに不足のないものだった。それ故に海軍は艦娘を運用できるようになるまで、負けに負け続けていたのである。

 

 僕は足元の港湾棲姫を見下ろし、武蔵の言ったことを認めた。誇れることだったろう──海の上で、戦闘の中で、そうしてやろうという意志の下でやったことだったらな。今日のこれは違う。はかりごとに巻き込まれ、生き延びようとしただけだ。あの岩礁での時と全然何も変わらない。こんなことが誇れるか。

 

 それよりも僕は人間として僕の扱いに、僕への横暴に、ここまであがなわれることのなかった献身と不遇があがなわれないままに放置されそうになっていることそのものに、怒りたいのだ。僕はそこらの道に出て行って、会う人会う人の首根っこを掴んで耳元に叫んでやりたい。彼らは嫌がるだろう、ほっといてくれと言うだろう。

 

 だがそんな頼みを聞いてやりはしない。僕は彼らへ僕に同情しろとは言いはしない。共に軍へと抗議デモをしようとも言うまい。何しろ軍の何に対してデモをするのか僕自身も分からないからだ。ただ僕の怒りを聞け。「今の僕はクソみたいに怒り狂ってるぞ! こんなのにはもう耐える気はないってな!」※48という僕の言葉を聞け!

 

 心の中でそう叫ぶと、ちょっとマシな気分になった。結局、僕は一人のつまらない人間に過ぎない。怒ったところで、それを自分の胸に片付けておき、後で目を閉じてその怒りを噛み締め、時が経つにつれてもやもやとした憂鬱になってくれるまで我慢を続けるしかないのだ。部屋の窓を開けて首を突き出し、思ったことを口に出して大声で世界に聞かせたいと思うこともあるだろうが、それを実行する度胸のない、子供だ。じっと我慢する以外に何ができる? 嵐が過ぎ去るのを待つしかない。その移動経路に僕がいたという不運を呪いながら、やがてはこの嵐も終わるのだと言い聞かせて耐えるというのが、僕のたった一つできることだ。

 

「彼を置いていくのか?」

 

 そこを立ち去る前に、僕は床に倒れたままの、オペレーターの死体を指差した。武蔵は頷いて言った。「どうせ後で回収できる。それと失礼なことを言うもんじゃないぞ、こいつは私の班の艦娘だ。だから『()』じゃなくて『()()』だ。まあもう『()()』になったがね」くっくっ、と彼女は喉を鳴らして笑う。君もその中の一人になる時が来るかもしれないことは考えないのか、という言葉を、口にはしないでおく。彼女は馬鹿じゃないだろう。そんなことを考えていない訳がない。考えた上で、それでも彼女はそういったことを笑い飛ばしているのだろう。それは強い精神の持ち主か、さもなければ何処かネジの飛んでしまった頭の持ち主でなければできないことだ。彼女はどっちだろうか? どちらにも思えた。しかし両方ということはないから、どちらか片方ではある筈だ。それとも、僕が思いつかなかった第三の可能性か。

 

 手錠を掛けられるようなことも、目隠しを受けることもなく、僕は歩かされた。手首を握られたままだったのには何か意味があったのかもしれないが、これから自分の扱いがどうなるか考える方が大事だった。やっとの思いで、僕は憲兵本部からの呼び出しのことを訊ねた。武蔵はまた笑い「心配するな」と言っただけだった。

 

 とても不愉快なことに、それで僕の心配は全部杞憂なのだと信じられたのだ。彼女が嘘を言わないと自分が信じていることに、僕自身気持ち悪さのようなものを感じていた。確かに彼女は僕を助けた。でもそれは僕を地獄に突っ込んだ後で、そこから引き上げてくれたというだけだ。プラスマイナスゼロ、という話ではない。マイナスの方がずっと大きい……大きい? マイナスだから小さいと言うべきか? 負の方向に大きいと言うべきか?

 

 ああクソ、そんなことはどうでもいいんだ。だが混乱したくないから強いと言い換えておこう。それで? 何だったか? ああそうだ、武蔵のやったことの正負の関係だった。とにかく、彼女は自分の仕事の為に、僕をむざむざ傷つけさせ、死ぬ覚悟までさせやがった。なのに、そんな奴を信頼してる自分がいる。僕は馬鹿なのか? お脳が病気なのか? きっとそうなのだろう。

 

「彼女の名前は?」

「聞いても仕方ない」

 

 歩きながら、僕で融和派釣りをやった女と短い会話を交わす。僕を無視すればいいのに、律儀に答えるところが嫌だった。「話せよ」「知ってどうする? 自分のせいで女の子が死んだんだと一生うじうじするのか? アホらしいな」答えられなくなる。その質問への回答を、僕は持っていなかった。違う、と噛みつくのは簡単だ。何故違うのか述べることは難しい。僕の手の届くところで死んでいった彼女が、どうしてここまで引っかかるんだろうか? これが明日の僕なら分かるのだ。落ち着いて、冷静になって、思い返して、あの時もっと上手くやってればとか、そんな風にありもしなかった過去を思い描いている時の僕なら。だが今日の僕が、どうしてそこまで客観的になれる? 今だってそうだ。ひどく、他人事みたいなことを考えてる。「自分じゃなくてよかった」型の、後でPTSDの原因になりそうな思考でさえないじゃないか。

 

 大きな扉の前で武蔵が立ち止まった。彼女は言った。「肺活量に自信があるなら、息を止めておくといい」それから扉を開けた。彼女がどうしてそんなことを言ったのか、お陰ですぐに分かった。血と汚物の臭いが混じった悪臭が、僕の鼻に飛び込んできたのだ。扉の先の広間には間に合わせのもので作った遮蔽物があり、それは弾痕だらけになっていた。辺りに倒れた死体は、そのままになっている。さっき吐いたせいか、吐き気は来なかった。ただ、気が滅入った。融和派艦娘らしい死体もある。僕はその中に赤城や電がいないことに気づいた。逃げ出したのか、別のところで見つかって死んだか分からないが、武蔵に尋ねるつもりにもなれなかった。

 

 一人の男が仰向けに倒れていた。その腕は彼から失われゆく生命を掴んで引き戻そうとしたかのように、斜めに上へと伸ばされていた。死後硬直だ。通常は少し時間が経ってから起こるものだが、筋肉の疲労状態によっては死後即座に発生する。有名なラッパ吹きの話を僕は思い出した。目を背け、そのまま脇を通り抜ける。武蔵が掴んだ手がついてこない。彼女が立ち止まっているからだ。振り返る。彼女はその男を眺めていた。武蔵にも何か感じるぐらいの心があったのかもしれないと思っていると、武蔵は躊躇いのない動きで男の伸ばした手を握り、軽く上下に振った。もし武蔵が僕の手首を優しく握っていたのだったら、僕はその光景を目にした時に振りほどいていただろう。彼女は僕の拒否反応を見て、楽しんでいるようだった。

 

「こいつ、生きてる時は乱暴者だったが、死んでからはフレンドリーになったな。私と握手までしたぞ」

「僕は君のことを空虚な人間で、感情豊かなふりをしているんだと思っていた。だから君のやることなすこと僕を苛立たせるんだと」

 

 彼女は器用に片眉を吊り上げてから、息を吐き出すような声で返事をしてみせた。

 

「ほう?」

「君をこれだけ嫌う為の、納得できる理由が欲しかったんだ。けど、考えを変えたよ。僕が君を嫌いなのは、純粋に君が嫌な奴だからだ」

「あっはっは! 面白いなあ、私の知り合いみんなそう言うんだ、四つの時に保育園で言われて以来な……しかも園児じゃなくて保父さんにだぞ? 信じられるか?」

 

 それは百パーセント掛け値なしの真実だろう……だろう、だって? そんな連語を用いるのもはばかられる。文法的に見て、この連語は断定の助動詞「だ」の未然形と推定の助動詞「う」が接続されて作られている。つまり、不確かなことに対する断定もしくは推定を表す訳だ。彼女が保父さんにけなされた具体的内容は知らないが、四つの子供に投げつけるには手厳しかっただろう言葉が、こと武蔵についてのみはそれに値したことと、そのことに保父さんも気づいており、彼女にその価値があるからには与えられねばならないと理解していたのだということは、疑いもなく信じられる。従って今の話の確からしさは僕にとって推測せねばならないことなどではなく、もし今の話が武蔵の創作であったとしても、僕の主観的な視点から見ているこの現在、それは実際に発生した事実と変わりがないのだ。

 

 自分で考えていて頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。僕は考えを切り替えようと務め、武蔵と共に融和派たちのアジトの出口を目指して歩き続けた。「腹が減った」と呟く。結局、赤城たちは食事を出してくれなかった。武蔵が答えてくれることを期待してはいなかったが、意外にも「ここに来る時に使った車に、レトルトの粥がある」という答えが戻ってきた。粥か、と子供っぽい落胆を覚えるが、飢餓状態の人間に急に普通の食事を与えるのはよくないという。二日やそこらでもそうなのかとか、艦娘なら大丈夫じゃないのかと思うところもあるが、わざわざ自分の体で実験して後世の連中に伝えてやる必要もないだろう。いかにも、医学の発展の歴史上には、消化器についての研究をする為に木の筒の中に肉を入れて飲み込んだイタリア人※49や、自分で自分の腕の静脈から心臓にカテーテルを挿入したドイツ人※50がいる。彼らのような勇気ある人々なしには、今日の医学もまたあり得なかった。しかし、その科学的探究心などには頭が下がるが、彼らは決してお仲間になりたい連中じゃない。

 

 出口に続く上り階段まで辿りつく。担架で運んで貰うつもりだったのに、どうして僕は歩いてるんだ? 武蔵に聞かれないように胸の奥で自分を罵り、一段一段上がっていく。どうせ手首は掴まれたままなのだし、力を抜いて倒れてしまえば武蔵が引きずって外まで連れ出してくれるんじゃないかと馬鹿な考えが頭を過ぎった。そんな無様を晒すぐらいなら、這ってでもいいから自力で外まで行ってみせる。そうだ、足を動かすだけのことだ。それで死ぬ恐れもない。ここでは意志の力のみが問題なのだ。そしてそれは、訓練所から今日この時に到るまで、僕が散々培わされてきたものだった。望んでではなかったが、だからこそ僕は僕の個人的な考えや好き嫌いに関わらず、やるべき時には成すべきを成す、という美徳を身につけることができたのだ。手を抜かず、やり遂げよう。

 

 最後の一段を上がり、扉に手を掛ける。ドアノブを捻り、押し開ける。室内の停滞した空気が、外の真新しい空気と出会い、交じり合う。その新鮮な大気の冷たさによって、ゆっくりと汗が引いていくのを感じた。立ち止まり、目を閉じ、深呼吸をして、荒々しい鼓動を刻む心臓を落ち着かせてやる。生きているというのはいいものだ。音に耳を澄ませる。虫の鳴き声、かさかさと何かが遠くで草むらを掻き分けて通っていく音、鳥のさえずり……目を開ける。僕は山の中にいるようだった。自分が出て来たところを見てみると、木々や草葉で念入りに擬装を施された出入口があった。トイレの個室一つ分くらいの大きさの、雨なんかを防ぐ為だけに建てられたミニチュアサイズの小屋みたいなものだ。建築業界の用語で何と言うのかは知らないが、とにかく入り口の見た目はそんな感じだった。適切に形容する単語が頭に浮かばなかったことを後で思い返せば、必ずや自分の無学が恥ずかしく思われるだろう。

 

「座って待っていろ」

 

 武蔵はそう言ってようやく手を離し、さっさと一人で姿を消した。車のところに行って、取ってきてくれるようだ。彼女の僕に対する好意と言い換えたくない気遣いと悪意のような何かは、どうしてこうも入り混じることができるのだろう。僕を馬鹿にし、不愉快になるようなことを言い、人間の尊厳を踏みつけにし、それでいてまともな女性のようなこともやる。彼女は時々狂気に陥るのか? それとも時々正気に戻るのか? どちらにせよ、待ち望んでいた食事をこれから持ってきてくれることは確かだ。誰の手で持って来られたか、ではなく、何を持って来てくれたかということを大事にしよう。

 

 土と草の上に座り込み、頭を巡らせて、周囲の様子を更に観察する。武蔵は一人で来たのではなかった。あの監房で死んでいった勇敢なオペレーターを含む、複数人でやって来たのだ。それは武蔵が「六番」と呼ばれていたり、また死んだあの子が「三番」と呼ばれていたことからも推察できるし、赤城たちが「排撃班」と呼んでいたことから推し量るまでもなくその通りだと断定しうる。なら、外に誰もいないのはおかしいだろう。僕は特殊部隊員じゃないからその手の訓練を受けてはいないが、普通の感性を持った軍人なら見張りを残す筈だ。敵の拠点に攻め込んでいる間に、相手の増援が到着して挟み撃ちを食らったりしたいとかでもなければ、誰だってそうする。

 

 しかし、僕の見る限りこの辺にはいなかった。何も出入り口を見ていなくても、敵が近づいてくる時に使うだろうルートを見ておけばよい、と考えているのだろうか。僕にはそうは思えなかった。多分、僕などの目では見抜けないところに潜んでいるのだ。訓練された人間は、ぴたりと動きを止めてその場の風景に同化することができるものである。流石の那智教官も陸上での擬装や隠蔽までは教えてくれなかったが、融和派狩りを任務とする武蔵たちなら身につけていてもおかしくはない。

 

 武蔵が戻ってきた。それに気づいたのは、彼女が後ろから声を掛けた時だった。それまで何の音も気配もなかったので、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。本当に飛び上がったりしなかったのは僕の自制心のせいではなく、その元気がなかったからに過ぎない。彼女は耐熱プラスチックのスプーンと、市販のレトルト粥のパックを二つずつ持っていた。既に温められ、パックの切り口からは湯気が立ち上っている。僕はスプーンとパックを一つずつ受け取り、袋にシールでくっつけられていた塩の小袋の中身を全部入れてかき混ぜてから、一口食べた。粥なんて、噛む必要もないぐらいのものだが、味わって何度も噛み締める。二日ぶりなのだ。しかも、一パックしかない。がっついていたら、あっという間になくなってしまう。

 

 そうは思っていても、気を抜くとがつがつとやりたくなるのが人間の情ってものだ。僕はそれを避ける為に、同じものを食べている武蔵と話をすることにした。他愛もない話を、思いつく先から口に出した。暖かい食事は人の舌を緩ませるものなのだ。その会話の中で僕は「どうやって温めたんだ?」と訊ねた。しっかり熱くなっていたので、気になっていたのだ。武蔵は口の端に米粒の残骸をくっつけたまま「携帯糧食用のヒーターだ」と答えた。それから、突然僕に真面目な顔を向けた。「広間に入った時だが」僕は嫌な予感がして、その話をやめさせようとした。「おいよせよ、食事中だぞ」でもダメだった。僕の言葉で追求を止めるような奴は、特殊部隊員にはなれない。

 

「お前、誰かを探していたな。赤城か?」

 

 胸を一突きされた経験はない。まさに今日近くでそんなシーンを見たが、僕自身の胸は処女のように未経験だ。けれども、もし細くて鋭い、錐のようなもので心臓を貫かれたら、こんな感じの気持ちになるんだろう。僕はどう答えたら丸く片付くか考えようとして、冷めていない粥を口の中に突っ込み、火傷しかけた。見かねた武蔵は腰に下げていた水筒を僕に貸してくれたが、質問の効果が消えてなくなった訳じゃなかった。「誰も探してない。僕があそこに友達を作りに行ったとでも思ってるのか?」そう言い返すと、彼女は首を横に振った。

 

「お前は違う。だがあいつらはそうだ。お前を友達にしようとした。お前は突っぱねたようだが、助けが来なけりゃそれだって、いつまで続いたかな」

 

 反論したいが、ぼろを出すだけになりそうだ。口を閉ざしているしかない。その様子を見た武蔵は、彼女の言葉で僕が傷ついたと思ったらしかった。「侮辱してる訳じゃないぜ。誰にだって限界はあるし、赤城は──あいつは私の班が長い間追ってるんだが──相手の限界を引き下げるのが得意な女だからな」時間さえあれば、僕だって誰だって、それこそ自分自身だって転向させてしまうだろう、と武蔵は言った。その言葉は確信に満ちていた。追う者のプロとして、彼女には追われる者の有能さが分かるのだろう。そんなことを考えていると、武蔵はぽつりと言った。「否定しないな。やっぱりあいつか」「そう思いたければそうするといい」「そうするさ」それから、彼女は片手で自分の頭をがしがしとかきむしり始めた。かゆみがひどいせいじゃなくて、苛立ちか何かを発散する為にそうしているようだった。見ていられなくなって、僕は訊いた。

 

「最初の融和派に捕まった時、どうして助けに来なかった?」

 

 彼女は手を止めない。答えもしない。不愉快な音、そしてフケや抜け毛なんかが万が一にでも粥のパックの中に入ったらどうしてくれるんだ、という気持ちを我慢できなくなって、僕はスプーンを持った手で彼女の腕を掴み、何とかやめさせた。彼女が老廃物に気を使っていないと決め付けたかのような思考に罪悪感を覚えたので、自分の心に言い訳しておこう。女性の多くが自分の頭髪に並々ならぬ熱情を注ぎ込むことは知っているが、武蔵がそうとは限らないし、彼女もまたその手の女性らしさを有する一人だったとしても、あんなに引っかいてれば健康な髪の毛だって抜けて落ちてしまう。僕がやったことは間違っていなかった筈だ。現に、武蔵は自傷行為じみた引っかきをやめている。彼女はぼうっとした目で僕を見て、それから急に理性をその瞳に取り戻した。それからいつも浮かべているか、もしくは浮かべようと努力している皮肉屋の微笑みを顔に貼り付けようとして、何かが上手くいかなかったらしい。本気で不機嫌そうな顔になって、結局はぶっきらぼうに答えた。

 

「奴らは小物だったからな。それに、赤城のグループが奪取に動いているという情報が入っていた。奴ならお前が処刑される前に連れて逃げると踏んだのさ。読みが当たってよかったよ、お陰で二つのグループをまとめて片付けられた」

 

 粥を食べ終わった後で、武蔵は僕を彼女たちが乗ってきた車の内、一台の後部座席に乗せて、連れて帰ってくれた。僕は車の窓にもたれかかって、景色が街に変わっていくのを楽しんだ。文明、平和、地上、僕の居場所だ。武蔵は丁寧な運転を心がけていたので、楽しむ時間はたっぷりとあった。その途中にふと気になって、これから僕はどうなるんだ、と訊ねる。彼女は、まず病院で身体機能の検査を受け、数日入院すれば軍務に戻れるだろうとコメントした。戦争の日々に戻りたい訳じゃないが、友達を戦わせておいて自分はベッドの上ってのは具合がよくない。実によくない。僕は艦娘で、艦隊の仲間たちもまた艦娘だ。僕の同胞なのだ。彼女たちが傷つく時は僕も同じように痛いし、彼女たちが勝利する時、僕もまた勝利しているのだ。彼女たちだけに危険を負わせて、平気ではいられない。なので、彼女の言葉は僕を安心させてくれた。数日の休息は生き抜いたご褒美だとでも思ってありがたく受け取り、それが終われば艦隊に帰るのだ。それはいいプランだった。

 

 十字路の赤信号で車が止まった。辺りには通行人も他の車もいない。なのに止まらなければならないというのは、ちょっと非合理的に思えるが、ルールはルールである。社会の一員として遵守すべきだろう。武蔵はそこのところを、理解しているようだった。だが退屈は退屈として、紛らわさずにはいられないものだ。彼女は車を運転し始めてから初めて口を開いた。「ここから右折して、ずっと道なりに進めば病院だ。もうお前の受け入れ準備も整えてある」「いいね」と僕は言った。他のセリフが出て来なかったのだ。この言葉には相槌以上の意味がこもっていなかったが、僕の次の言葉は重要な質問だった。

 

「けどそれなら何故、ウィンカーを出さないんだ?」

 

 武蔵は十字路を直進するつもりなのか、指示器を操作していなかった。誰もいないからか? いや、それならこの赤信号だって守らないだろう。武蔵は深い溜息を吐くと、運転席から体をよじって後ろを向き、僕の目をまっすぐに見て言った。「直進すれば、私の班員たちが待っている。だが」目をそらさずに、こちらを見ている。「昨日までと比べると、一人少ない。そこで、その、何だ」よかったら、もし本当によかったら、私と一緒に来ないか、と武蔵は言った。おどけもなし、嫌味もなし、冗談も皮肉も引っ掛けもなさそうな、本心からの誘いだ。僕は何と答えるべきかも分からなかった。信号が青になったことに気づいても、僕は指摘しなかったのだ。けれどそこまでしてやっと出てきたのも、下らない問い掛けだった。

 

「どうして僕を?」

 

 これは彼女を失望させたようだった。眉を寄せて、武蔵は自分が感じているじれったさその他を表現した。

 

「そんなことも分からないのかい。お前のような奴が必要だからさ」

「だって君の班が必要とするのは僕なんかよりもっと有能な……」

「班にじゃない」

 

 武蔵はぴしゃりと言い放ち、僕の口を閉じさせた。「私に必要なんだ」体温が下がった気がした。その言葉に込められていたのが何なのか、読み取れなかったからだ。どうして彼女が僕を必要とする? 友情か? ちょっと喫茶店で話をして、カフェのテラス席でサンドイッチとワインを食べただけでは、ここまでのことを言わせるような友情など育つまい。愛情? 思い上がるのも大概にした方がいいだろう、彼女が僕に惚れるような理由は一つもなかったし、僕は彼女に嫌いだとはっきり言いまでしたのだ。僕の何が求められているのか分かりもせずにこの誘いに頷く訳にはいかないし、第一彼女が僕をどう思っていようと、僕は武蔵のことをやはり好きにはなれなかった。外見や性格だけでなく、より彼女の人間的な本質に近い何かが僕を躊躇わせ、武蔵を忌避するようにさせたのだと思う。

 

 僕が答えなくとも、武蔵はこちらの意志を読み取ったらしかった。彼女は前を向き、指示器を作動させた。それからアクセルを踏み、ハンドルを切って、道を曲がった。やがて、病院が見えてきた。表玄関に停車するかと思ったが、武蔵は裏口から入るつもりらしく、裏手の駐車場へと車を移動させた。正確に枠の中へと駐車して、彼女はエンジンを切った。心地よい振動が失せて、場を沈黙が支配する。僕はドアを開けて、そこを立ち去り、休息を求めて院内へと向かうこともできただろう。けれどその時僕がやったことは、そうじゃなかった。僕はただじっと息を潜めて、待っていたのだ。武蔵がドアを開けて車を降りる時をだ。どうしてか? そうなって欲しいと思ったからだ。ここで僕が先に出たら、彼女はエンジンを再スタートさせ、行ってしまうだろう。いずれはそうなって貰いたいが、それに先んじて聞いておきたいことが沢山あった。ここまでの会話で、彼女が排撃班とやらの班長であることは分かっていた。そんな立場なら、融和派の連中が言ったでたらめを一蹴してくれると思えたのだ。

 

「降りないのか? これは私の経験から忠告させて貰うが、早めに手当てを受けた方がいいぞ」

「同感だ。でも先に君から聞きたいことがあるんだ」

「答えてやるつもりはないって言ったら、降りてくれるかい?」

 

 そうせざるを得ないだろう、と答えた。僕は彼女に応答を強制する権限も、実際的な能力も持っていなかった。彼女が答えるかどうかは、武蔵自身の判断に全く依存していたのだ。そして、彼女は答えないことを選んだ。僕はそれに従うしかなかった。ドアを開けて、外に出る。首を巡らせて運転席の武蔵を見ると、彼女は窓を開けて腕を突き出した。その手には見覚えのある封筒が納まっていた。僕が彼女に押し付けた遺書だ。「これなんだが、もう持ってなくてもいい、そうだろう」「そうだね」封筒を受け取る。武蔵は軽く頷いて、それで車の窓を閉めるかと思ったが、僕に言った。

 

「私は待っているよ、お前が考えを変えるのを。その時が来たら、きっと迎えに行こう。いつか、私にとってのお前のように、お前が私を必要とするようになった時には、きっとな」

「その前に戦争が終わるさ」

「ふふ、私たちにそんなことができるとでも? 可愛いなあ、十五歳には見えないぞ」

「十六だ、もう数日で」

「知ってる。ハッピーバースデー、後で病室にプレゼントを届けさせよう」

 

 そして、彼女は車を急発進させた。「じゃあな」の一言もなかった。それはまるで彼女が、ちょっとばかり席を外すが、また戻ってくることは間違いないんだから、一々断りを入れる必要もないだろうが? と主張しているようだった。排ガスを顔面に吹き付けられた僕は顔をしかめたが、武蔵はそんな僕の表情を目にも入れなかっただろう。多分運転席で、すっかり彼女のもの、彼女の代名詞、誰かがそれを浮かべるだけで僕に彼女を思い起こさせるようになった、あの亀裂みたいな笑みをこぼしているに相違ないのだ。何故なら彼女は嫌な奴で、友達をからかい、様々な手を尽くして嫌がらせをして、それを楽しむような女だからだ。

 

 純真無垢と言いたくなる段階の、ひたむきな正直さだけが彼女の美徳だった──いや、それさえ悪徳の一つに数えてやった方がいいかもしれない。率直さという、羊の皮を被った狼、善のふりをした悪だ。しかもそれを誇ることはより一層業が深く、許されるべきではない罪悪であって、そんな大罪人と仲良くなるくらいならいっそスカンクとでもお近づきになった方がまだ気を揉まずに済むという代物である。だってスカンクはその臭いにどうしても耐えられなくなったら、ナイフなり薬なりで始末してしまえるしな。ああもちろん、自分勝手に命をもてあそぶことに罪悪感を抱かないでいられる類の人間なら、の話だ。僕はそうではないので、一線を引いてどちらとも仲良くはならないことにしている。その線をわざわざ踏み越えてきたのは、武蔵が初めてだった。

 

 彼女の言葉通り、裏口には医療スタッフが待機しており、こちらの予想とは違って僕を見て度肝を抜かれた様子だった。彼らは僕が、担架か何かで運ばれてくるものと思っていたのだ。その思いに僕は深く共感する。どうして武蔵は僕をそっと担架に寝かせ、優しく運び出してくれなかったんだ? 何でまた、意地の悪い質問も手首を掴むのも抜きで、ただ連れ帰ってくれなかったんだろうな? 僕には山ほどの質問があった。A4の紙に一問につき五秒から八秒で書きつけるとして、全部リストアップするのにはどう見積もっても一ヶ月以上掛かるだろう。しかも、そのリストを送りつける相手が何処にいるか、僕に教えてくれる人はいないのだ。

 

 軍のデータベースを青葉に探させるという手はある。でも多分、急病で死んだ青葉の葬式に出ることになるだろうし、彼女は僕の為に命までベットしやしない。友達とは、友情とは、いつでもそこまで高尚なものではないのだ。病院で、僕を取り巻く安全さという概念の権化のような部屋で過ごしている僕は、友達の為に命懸けで何かに取り組む自分を想像することができる。それは自己犠牲だ。崇高で、美しく、意義のある行為だ。けどもし現実にそんな状況になったら、僕が想像通りの気持ちになれるかどうかには疑いを差し挟む余地がたっぷりある。

 

 病室に運ばれた僕は点滴を受け、柔らかなベッドで高いびきとしゃれ込んだ。しかしふと悪寒を覚えて目を覚ますと提督がいたので、眠気や気だるさ、睡眠直後の穏やかな快感の残滓はみんなして火星まで(ひと)っ飛びしてしまった。敬礼をしようとして、病院のベッドにいる間にはその義務を免除されるということを思い出す。提督が何も言わないので、僕は自分から口を開かなければならなかった。「ご無沙汰しております」僕はなんて馬鹿だ。北上に初めて話し掛けて以来、全く話術というものが成長していないではないか。この挨拶はない、提督が僕に文句か軽蔑、罵倒を投げつけるのにはいい的だ。そう思ったが、提督は相手に与えられた餌に食いつく、自尊心のないペットではなかった。

 

 彼女は僕の失言を無視してひどいことを言った。何を言ったかは僕の心に鍵を掛けて仕舞い込んでおこう、それに相応しいコメントだった。僕は変わらない彼女の態度に、湧き上がってきた笑いを耐えた。空腹による腹痛は、僕が危うく心の外に出しかけたおかしみを打ち消すには、強力すぎたくらいだった。提督は肩透かしを食らったような姿を見せ、それから僕がいなくなっていた間、部隊で僕がどのように扱われていたかや、提督がどんな風に僕のことを把握していたかを教えられた。

 

 それによれば、提督は早い段階で事態を理解していたらしい。少なくとも、融和派に拉致されたということについては知っていた。自分では排撃班云々までには行き着いていなかったものの、時間さえあれば彼女はその事実を探り当てただろう。それを証明するかのように、武蔵は提督の下を訪れたという。面白そうな場面を見逃したものだ。性格のひん曲がった二人が顔を付き合わせるところに、是非居合わせてみたかった。多分、武蔵も提督について僕と同じ意見を持ったのだと思う。それで、どうせ知られるなら先にこちらから釘を打っておけと考えたのだ。彼女が提督に「要求」したことというのは、概ねのところ僕が後で部隊に復帰しやすいように取り計らってやれということと、金輪際邪魔はするなということの二点であった。それで提督は、僕が餌にされたことを見抜いたのだ。

 

 僕は武蔵の心優しい気遣いに胸が温かくなった。嘘だ、冷え込んだ。何であれ、この提督に対して艦娘が要求するなどということは越権もはなはだしい行いであり、その行為が彼女を愉快な気持ちにさせたことに疑いがなかったからだ。提督を愉快な気持ちにさせると、みんなが不愉快な気持ちになる出来事が起こる。数日経っていても、その原因となった僕には提督が溜め込んだ感情を向けてくる恐れがあった。ベッドの上では逃げることもできない。これもまた、過ぎ去ることを願うしかない嵐になるだろうと思ったが、嵐にも慈悲の心があるのか、それとも僕をからかってその生来の残酷さを満足させようとしているのか、提督は最初の一言を除いて、ろくろく僕をこき下ろさなかった。彼女はポケットから白い錠剤の詰まったピルケースを取り出し、二粒飲んだ。「それ、何なんです」と僕は訊いた。

 

「私のおやつだよ。甘くていい気分になれるんだ。死んでもやらんからな」

 

 見せつけるように、もう一粒を義手の指で器用に取って出す。欲しくもないが、その錠剤に彫られた男の横顔のシルエットは気になった。「その絵は一粒一粒に彫ってあるんですか?」「気になるのか?」「少し」彼女は、そんなことを艦娘に聞かれたのは初めてだと呟いて、面白がった。そして、僕はこれまで誰一人として見ることのなかったものを見ることができたのだ。提督自身による、彼女が所持する怪しげな薬物の品評会である。彼女はテーブルと椅子を引っ張ってくると、ハンカチをそこに広げ、注意深く錠剤を布の上に出した。

 

 それらはどれも白かったが、彫ってある絵は何種類かあった。さっき見た男の横顔、簡略化された花、十字架、星、眼鏡、アラビア数字、短い英単語……粒のサイズもよく見ると大小に分かれていた。「これは」と彼女は一つを指差した。鍵のマークが彫られている。「上物だよ。二十五回分買ったが、もう残ってるのは一粒だけだ」また別の一つを指差す。最初に見た時には気づかなかったが、それには細く赤い線が描かれている。「こいつも楽しいぞ。口に入れる度に、賭けになる。とにかくお祈りさ」「どうして祈るんです」「たまに、数秒間ほど永遠の地獄を見るんだ」※51僕はその表現をとても詩的だと思ったが、それは僕が十五、六歳だからかもしれなかった。僕は更に尋ねた。

 

「数秒間の永遠の地獄?」

「つまり、耐えられることもあれば、耐えられないこともあるってことだ」

 

 僕は分かったように頷いたが、耐えられなかった時に提督がどんな状態になるのかは聞かないでおいた。彼女は珍しく皮肉抜きで薬物に関する講義を行い、僕は中学生に戻ったみたいにそれを聞いていた。この知識は多分、人生の役には立たないだろう。しかし、一つ再認識したことがあった。もし提督が彼女のお楽しみのせいで何かをしくじるようなことがあったら、僕は僕が生きている限り何としてでも憲兵隊のところに駆け込んで洗いざらいぶちまけてやる。彼女が軍法会議でもいつもの態度を取れるかどうか、いい賭けの対象になるだろう。

 

 提督が帰ると(彼女は何をしに来たんだろうな)入れ替わりに看護士たちが来た。彼らは僕の面倒を見て、何か彼らの間でだけ通じる用語を用いた複雑で高度な会話を行い、僕には「大丈夫だ」としか言わなかった。そして僕は、その言葉を言葉通り、額面通りに受け取ることにした。これは何も、彼らが相談した結果僕に美人の看護婦をつけてくれたからって訳じゃない。権威主義に陥るのは好みじゃないが、彼らの取得した学位その他と、それを得る為に彼らが経験した艱難辛苦に敬意を払ったんだ。

 

 無論、美人の看護婦が付いたのは嬉しかった。民間人の女性というのは、艦娘たちと比べて確かに姿形で見劣りすることもある。それは身勝手な男の論理だが、僕は内心でまで性的に平等な立場を取ろうとは思わない。だが、一個人としての尊厳を持った女性というのは、民間人であれ軍人であれ、その中間の軍属であれ素晴らしいものだ。これは容姿の問題ではない。内面の話である。顔なんて、目を閉じれば見えなくなるようなものだ。人間としての魅力を測る上で重要なのは、内側に秘めているものなのだ。けれど、まあ、言うまでもなく一番いいのは両方持っていることである。

 

 お姉さん、と呼びたくなる若さで、海軍病院に勤めている看護婦なら誰でもそうであるように、優しく、元気な人だった。彼女は僕を甲斐甲斐しく世話してくれた。マッサージしてくれと頼んだらしてくれたかもしれないが、それを頼む勇気はなかった。入院の翌日、彼女は包みを一つ持ってきた。初めは早くよくなるようにと隼鷹たちが見舞い品でも送ってくれたのだろうかと思ったが、提督の話では僕の入院は彼女たちに伝えられていない筈だ。憲兵に連行されたことも隠されており、僕は別の鎮守府に出向していたことになっているのだ。とすると、後は一人しか考えつかなかった。彼女は嘘をつかないということを、また僕にしつこく証明したのだった。

 

 看護婦さんが去って行ってから、包みを開ける。そこには四葉のクローバーのマークと共に、流暢な筆記体の英語でお決まりの祝いの言葉が印刷されたバースデーカードと、布を巻かれた細長いものが入っていた。僕は布を取り払い、ぎょっとした。それは僕と“三番”が港湾棲姫を刺し殺した、あのナイフだったのだ。

 

 記憶が蘇り、嫌な気分になった。手早くそれを布で包み直し、バースデーカードを裏返す。そこには手書きで「どうだ、思い出にぴったりだろう?」と書かれていた。



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「第二艦隊」-1

陽は沈めどもまた昇る
だが短い光が失せた後
我らは終わらぬ夜を眠るのだ

──カトゥルス※52



 退院の後、真っ先に僕は手紙を書いた。本当は病院で書こうと思っていたのだけれども、どうにもその気になれなかったのだ。気に入るような便箋がないから、とか、適当に理由をつけて先延ばしにしていた。しかし、大井から「北上さんの手紙に返事を出さないとはどういうことでしょうか?」という内容の速達便が届いて、僕は自分の身の安全を守る為にも腰を上げねばならぬと決断したのだった。民間にも知れ渡っている大井の北上に対する傾倒、それについての話は、その直接的な干渉をこの身に受けるまでは言いすぎだろうとしか思っていなかったが、中々どうして、噂や世間の評判というものも正確な事実を伝えることがあるものである。

 

 しかし、何を書けばいい? 僕はほとほと困り果ててしまった。ここのところあったことは、どれも手紙には書けないようなことばかりだ。かといって、ありもしなかったことを書くのは許せない。また僕はそもそも嘘偽りが下手だから、女の子特有の勘のよさを備えている彼女たちに掛かれば、たちまち看破されてしまうだろう。そうすれば僕は「友達への手紙に嘘を書くような奴」ということになってしまう。その悪評を振り払うには、莫大な労力と献身を必要とする。時には一生掛かったって、拭い去れない汚れになって残るだろう。結局悩んだ末に、また数人の艦娘と知り合ったということを書いた。武蔵と電のことだ。それは嘘ではなかった。ただ、彼女たちがどんな艦娘だったかということまでは書かなかった。自分の信念と実際的な要求を両方満ち足らせしめるには、そうでもしなければならなかった。これでも罪悪感を抱かずにはいられなかったのだ。

 

 武蔵のことを書くには苦労した。誰も、僕が誰を嫌っているかなどということを知りたがりはしないだろう。それよりもむしろ、僕が誰を好んでいるかの話の方が気に入る筈だ。ポジティブな話はみんな大好きだからだ。僕自身、愚痴や嫌いなものの話ばかりをするような人よりも、何が好きかとか、自分が今何に対して夢中になっているのかを話してくれる人の方に好感を持つ。その時の彼もしくは彼女は心から溢れる光に輝いているし、かくのごとき人々の喜びに満ちた声色、熱の入った表情、抑えきれない情熱が身振り手振りに表れるさまは、その人々の愛するところのものに対してそれまで何ら感ずることのなかった僕にさえ、それが実はひどく魅力的で、世に二つとない素晴らしいものであるかのように思わせてくれるからだ。そして、それが好きな人の話(恋愛的な意味ではなくてもだ)になった時には、世に二つとないという部分はまさに文字通りの意味を持つようになるのだ。一体、これ以上、人の心を深く充足させるような話題があるだろうか?

 

 苦労はあったが、真剣に試みればそれなりの結果を得ることができるものだ。僕はどうにか武蔵への悪感情を差し挟まないで、彼女を叙述するという偉業を成し遂げた。上手い具合に書き上げられたとは思わないが、僕みたいに文才のない人間がやってのけたということに意味があるのだ。電のことは武蔵に比べると遥かに楽だった。彼女は僕のことを探りに来た融和派の一員で、これは推測どころか憶測と呼ばれるものだが、赤城に「僕の顔を見ると無性にイライラする」という情報を与えた人物でもあるだろう。パフェを食べなかったのも、きっとその辺が理由なのだ。彼女は、ムカつく相手からパフェなんかおごって貰っても、一さじだって食べたいとは思えなかったのだ。僕は病院のベッドでそのことに気づいた時、傷つくよりも先に、悪いことしたな、とまた思った。電に関する記述の中では、彼女が語ってくれた嘘か本当か分からない家族や艦隊の仲間たちの話をほぼそのまま書き写し、戦争という状況下でもこのように逞しく家族愛や同胞愛が根付き、芽生え、咲き誇っていることは大変に心強いことである、というようなことを記した。検閲担当官へのお世辞みたいなものだ。彼らの機嫌を取っておいて、悪いことはない。

 

 武蔵。今、彼女は何をしているのだろうか。僕は彼女のことが好きじゃなかった。それは確かだ。今でも彼女の言ったことを思い出して、気が滅入ることがある。だが何処か、そう、心の何処かに、彼女の謎めいたところが引っかかっているのだ。僕を班に引き込もうとしたことも、その理由が「班にではなく、彼女個人に僕が必要だから」というのも、武蔵を理解し、心置きなく嫌おうとする僕の空しい試みを阻んだ。だから、僕は余計に彼女を思い、理解したくなって、勝手に落ち込み、不快な気分になるのだ。

 

 あれから何度か、彼女と一緒に食事をした店に行った。うまいサンドイッチ、うまいワイン、マズいジェラートを出すあの店だ。当たり前だが、彼女の姿を見つけることはできなかった。それでも気が向くと、僕は外出許可を取ってふらりとそこに足を運んだ。そうせずにはいられなかった。隼鷹を連れて行ったこともある。そうすれば、あの数日の間に武蔵との間に起こった様々なことの一つを、新しい記憶で上書きできるのではないかと思えたのだ。あるいは武蔵がやって来て、あの挑戦的な笑いと共に何か失礼なことを言い出してくれるんじゃないか、と。けど、そう上手くは行かなかった。隼鷹も店を気に入ってくれたのだけが収穫だった。おいしいものを食べている時の彼女の顔は、一時間だって眺めていられる。彼女ほど感情のはっきり表れる艦娘は少ない。僕は隼鷹の顔が口舌の至福によって燦然ときらめくのを見ると、いつでも救われたような気持ちになるのだ。

 

 彼女の笑顔がなければ、病院から出た後、提督の意向で第二艦隊への出向を命じられた僕はストレスで擦り切れていたと思う。妙高さんと入れ替わる形で第二艦隊勤務となった僕は、恐らく四面楚歌の四字が日本一似合う少年だった。長門を旗艦として、二番艦に加賀、以下足柄、羽黒、川内と続く現第二艦隊は、どの艦娘も僕のことをよく思っていなかった。転属初日に加賀の一睨みを受けた時の恐怖は忘れない。これまでにも何度か交代要員として、負傷を治療している第二艦隊所属艦娘一人の代わりに出撃したことはあった。だがその時には当時の艦隊の二番艦だった妙高さんがいて、彼女が僕のことをしっかりとフォローしてくれていたのだ。長門が妙高さんの助言を非常に重んじていたことも、その時はいい方向に作用した。今はその逆だが、それは妙高さんのせいじゃない。

 

 一度海に出れば、頼れるのは同じ艦隊の仲間たちだけだ。妙高さんは、全力で頼ることのできる稀有な才を持つ艦娘だった。そこに半人前の僕が収まったのだから、艦隊のみなの気持ちも何となく理解できるのだ。

 

 提督に相談したことで諦めか何かを得たのか、長門が僕に直接文句を言ってきたりすることはなかった。かつて曙が僕に放って来たようなキックもなかった。代わりに、僕は艦隊の誰にも相手にして貰えなかった。無視ではない。僕が敵を発見し、報告すれば彼女たちはそれに反応する。質問すれば返事が返ってくる。が、その中には戦友同士が通常持つような友情が存在しなかった。事務的なものだったのだ。この辛さは経験者にしか分からないだろう。当初は次の日が来るのを本気で嫌がっていたが、一週間で慣れた。切り替えることだ。スイッチを入れたり、切るみたいに、第二艦隊で出撃している時の自分とそれ以外の時の自分で分けるのだ。そうすれば、平和を手に入れることができる。彼女たちから受け入れて貰えない悲しみで、見るべきものを見ないままにしてしまうこともない。

 

 例えば、加賀の機動は見事なものだ。空母という小回りの利かない艦種でありながら、最大限に艤装の機関性能を発揮して敵の攻撃を避ける。川内の雷撃の勘も凄い。あたかも敵が自分から当たりに行くみたいに見えるほど、彼女は先読みが上手いのだ。演習で僕が彼女の相手をさせられた時には、何処に逃げても最低一本は僕目指して進んでくる魚雷がいる、という悪夢のような状況に叩き込まれた。僕は二人までにはなれずとも、そこから何かを学ぶことができる筈だった。魚雷の撃ち方、最適化された機動、どちらも重巡にとって重要な技術だ。

 

 なので、僕は艦隊員たちの不興を買う覚悟をして、戦闘中に余裕がある時はいつも他の艦の戦いぶりに気を払うことにしていた。それに次いで、彼女たちの有能さが戦闘中にだけ現れるものではないということに気づくと、単なる移動中にも得るべき何かを探そうと躍起になった。無論、自分の仕事をおろそかにはしていない。水上機によって偵察や警戒の手伝いを行い、戦闘においては砲撃支援や撃ち漏らしの処理に徹した。妙高さんならそんな仕事、片手間にでも済ませて長門や足柄などと肩を並べて戦うのだろうが、悲しいことに僕にはそこまでの能力がなかった。

 

 それでも一つだけ彼女たちに比肩するものがあるとすれば、それは砲撃の精密性だ。これだけは、長門も渋々だが認めてくれた。僕は僕の射程距離内では、誰よりも高い命中精度で砲撃をすることができた。何もかも、砲撃の仕方を教えてくれた那智教官のお陰だ。僕と他の艦娘の砲撃に違いは少ないが、その小さな違いが命中率に大きな差を与えるのである。ここのところ第二艦隊が“サーカス”艦隊として働くことはなかったが、もしその仕事が入ったとしても、地味で微力な前座役なら手伝えることは請け合いだった。安全な近海や湾内で訓練用標的を相手に曲芸撃ちをするのは、戦場でまともに撃ち合うよりも気分的に楽だ。標的は撃ってこないからな。この逆を言う奴は、戦闘に出たことがないんだろう。是非、今の僕の立場に立たせてやりたかった。つまり、戦場にだ。

 

 全速で蛇行する僕のすぐ横に着弾し、水飛沫が掛かる。敵の軽巡が僕に狙いをつけようとしているのだ。でもそれよりも早く、僕がその深海棲艦を撃ち抜く。沈んでいく化け物を尻目にして、僕は加賀の位置を確かめる。悪くないところにいた。落ち着いているようだ。ほっとする。彼女は強い。航空攻撃だけでなく、通常の対人用の矢をつがえた弓で深海棲艦を仕留めるのを、これまでに何度か見た。弓を使わずとも、僕の防御を抜けて彼女に肉薄した駆逐へと、彼女は手に持った矢を突き立ててやったものだ。メンタル的な強さで言えば、現在の第二艦隊随一かもしれない。が、あくまで彼女は空母だ。僕に小物狩りという役目があるように、彼女にも本来の役目というものがあり、そこには弓での交戦は含まれていない。だというのに驚くほどしばしば彼女は前に出て、直接戦いたがるのだ。航空機を放ったら後は妖精航空隊任せ、というのが嫌なのだという。言うまでもなく、空母の戦闘とはそういうものだ。それを責めるような艦娘は存在しない。でも、彼女自身には我慢できなかったのだろう。

 

 加賀は弓を目一杯引き、さすまた状の黒い矢じりがついた矢を放った。放たれた先には川内と交戦する重巡リ級の姿があった。直撃はしなかったが、剃刀のように鋭い矢じりはリ級の足をざっくりと切り開いてから海に落ちた。深海棲艦にも筋肉があり、腱がある。そこをやられては立つことさえ難しい。まして、戦闘などできない。川内は加賀と一緒に、間もなくリ級を片付けてしまうだろう。二人のことは心配しないでいい。僕は戦場に標的を探す。並行して、長門、足柄、羽黒の様子を調べる。彼女たちはル級二人と重雷装巡洋艦チ級一人を相手に戦っていた。砲撃戦は長門足柄の二人とル級たちが、雷撃では羽黒とチ級が張り合っている。そのままにしておこうとして、数が合わないことに気づいた。今回の戦闘では、冒頭の航空攻撃で敵を一隻も沈められなかったのだ。砲戦に突入後、僕は軽巡を一隻沈めた。加賀と川内がリ級を始末するだろう。長門たちは三隻の深海棲艦と戦闘中だ。残りの一隻は何処にいる? もう沈められたのか?

 

 違う、奴は、赤い目のリ級は艦隊の要である加賀を狙っていた。長門と加賀の二本の柱あってこそ、第二艦隊の磐石が保障される。それを崩すなら、装甲の薄い加賀から狙うのが効率的だ。彼女に狙いが向くのは至極当然な成り行きだった。撃とうとするが、射線上に加賀がいる。同士討ちになってしまう。警告のメッセージを入れる。加賀が気づき、身をよじって敵の方を見る。砲撃準備を完了している。咄嗟に伏せろと叫ぶ。声が届いたのか、彼女は身を海へと投げ出した。全力で射撃を行う。あちらも咄嗟に照準を僕に合わせたようだ。周囲に砲弾が落ち、一発が僕の艤装に直撃した。被弾は初めてのことじゃない。転倒は避けられた。だが爆発の熱が僕を焼き、脇腹が火でもついたように熱くなる。それでも前に進む。加賀が海に沈みそうになっているからだ。リ級もこちらに突進してくる。チキンレースと行こう。相互に撃ち合いながら、互いを目指して進む。行きがけに海から突き出された加賀の手を取り、渾身の力で海上へと引っ張り上げた。怪我がないか確認してやりたかったが、それは目の前の敵を片付けてからだ。

 

 右に左に少しずつ振れながら、リ級へと近づいていく。彼女に怯える様子はない。僕が荒廃した気分であることを考えると、敵の豪胆さが羨ましく思われた。その気質ごと吹き飛ばしてやる為に、発砲する。やった、腕を一本もぎ取った──だが僕への直撃ルートを進んでくる砲弾が目に入った。腰を捻り、艤装で受ける。それで間に合ったところを見ると、僕は砲弾が発射される前に砲の仰角その他から、敵の狙いを読み取り、砲弾の目視に先んじて行動したに違いなかった。戦闘の緊張は、時に人間が実力以上の力を発揮できるようにしてくれるのだ。中破状態ではあったが、戦闘は継続できる。生き残っている砲で、リ級の足元を狙う。直接狙えば、外れた時には標的の背後に着弾する。足元を狙えば、外れても前や、横に着弾する。その差は大きい。標的は「自分が狙われている」ということを強く意識してしまう。その精神的効果を狙うのだ。彼女たちに知性があるなら、精神もまたある筈だ。

 

 果たして、リ級は横に大きく回避運動を取ろうとした。それが狙いだった。僕が前もって放っておいた魚雷が、隊伍を成して彼女を待ち構えていたのだ。これぞ僕が非才の身で川内の読みを再現しようとした結果生まれた技術だった。何度も真似をしようとして失敗した僕は、考えを変えたのだ。敵の動きが読めないなら、せめてそれを制限し、読みが当たりやすくしてやれと。この技術は特に、人間型深海棲艦に有効だった。駆逐や軽巡などの非人間型は、精神的効果を与えられるほどの知性がないからだろう。

 

 魚雷の中に突っ込んだリ級は、爆発で吹き飛ばされた。膝から先がなくなっている。そのまま、海面にべしゃりと落ちた。よし、次に取り掛かろう。そう思っていると、矢の風切り音が耳に響いた。僕から遠くないところを通り抜けて行ったそれは、沈みかけながらも一門だけ残った砲を僕に向けて発射しようとしていた、リ級の頭に突き刺さった。加賀の方を向く。彼女はもう僕やリ級の方を見ていない。だが、僕が彼女を助けたように、彼女が僕を助けたのは事実だった。感謝の念を胸に、残った深海棲艦への攻撃に加わる。羽黒の魚雷がチ級を捉えるのが目に入った。いかに戦艦ル級が二人いたとしても、六対二では、最早勝ち目はあるまい。でも数的優位で油断するような艦娘は問題外だ。彼女たち深海棲艦は決して諦めないからである。未だかつて、投降してきた深海棲艦なる存在は確認されていない。徹底的に殺されるまで、最後の一息を使ってでもこちらを殺しに来る。それが深海棲艦なのだ。僕らも、それと同じくらい非情で抜け目なく、しぶとい兵士にならなければいけない。

 

 ル級たちは強かった。長門の巨砲を艤装の盾でよく防いだし、魚雷の航跡を発見する目も優れていた。二人は互いに互いの死角をカバーし合い、盾で自分の仲間を守った。彼女たちを倒せたのは、僕らが六人いたからに他ならない。加賀の航空隊が頭上からの攻撃で撹乱(かくらん)し、長門と足柄の砲撃が盾を使えなくして、川内と僕が雷撃の網で動きを止め、羽黒がとどめを刺した。そうしなければ勝てなかったのだ。深海棲艦の連中は、全く有能だ。人間より優れた生物であるというのも、満更嘘ではないのかもしれない、と思った。けれども、それでも生き残るのは人間だ。これまで僕らが何種類の生き物をこの地球から消滅させてきたか、深海棲艦は知らないのだ。知っていれば、海の底で震えながら、この凶悪な種族が自分たちに気づかないことを祈っていただろう。僕らは勝つ。奴らは死ぬ。今日や明日でなくとも、明後日でなくとも、いずれは。

 

 まだ昼だったが、弾薬と燃料が減ってきたので、ここまでにしようということになった。各々の傷に止血を行い、帰投の為に転進し、巡航速度で燃料を節約しながら進む。燃料の節約などというのは、広報艦隊にいた時には考えもしないことだった。対外的な顔の一つになる僕らへの補給は、潤沢なものだったからだ。恵まれた環境で育った者は、その幸運が理解できないものである。僕も、この研究所に来てやっと、そのことを知った。今は珍しく特務か何かで出払っているが、普段は物資輸送隊の護衛を専門としている、第三艦隊の潜水艦たちには頭が上がらない。

 

 身内じゃない護衛艦隊たちについてもそうだ。この前、というか今朝だが、研究所のドックから天龍が出てくるのを見た。単冠湾のあの天龍だ。僕は一目でぴんと来た。ああいう直感は、口で説明できるものではない。懐かしくなって、嬉しくなって、訓練所で彼女とどういう風に接していたかを忘れ、僕は思わず話しかけ、彼女が物資輸送隊の護衛任務で駆逐艦娘たちを率いていたことを知った。研究所へは補給と休息に立ち寄ったらしい。龍田はと聞くと、彼女は彼女で別の護衛艦隊にいるので、ほぼ必ずどちらかが泊地にいない状態で、最近は時間が取りづらいらしかった。僕は自分のことのように悲しくなった。あの二人を引き裂くようなことが、許されていい筈もない。天龍は持ち前の責任感の強さから、昔話に花を咲かせるよりも任務を果たしたいということを僕に言った。またな、と僕は言って別れた。

 

 長門が手信号で停止命令を発した。僕らは減速し、止まった。「付近の艦隊から救援要請が入った。これからそちらに向かうぞ」僕の方には入っていないが、彼女の艤装には、僕ら通常の艦隊員よりも高性能な無線機器が搭載されている。旗艦の特権という奴だ。また、当然の措置でもある。彼女の声は艦隊員のいる場所にあまねく響き渡らねばならない。艦隊員の声が長門に届かないことはあってもよいが、その逆は絶対にあってはいけないのだ。僕らは旗艦命令に従い、更にもう一度転進した。指示を受け、巡航速度から戦闘速度に上げ、先鋒として急行する。長門は戦艦としては足の速い方だが、重巡と比べるとそれでも遅い。まずは三隻、僕、足柄、羽黒が全速で進み、その後に長門、加賀、それから護衛に残った川内が続く形だ。ただ加賀は航空隊を飛ばすことで、僕たち先鋒隊と同じか、それよりも早く救援に駆けつけることができるだろう。僕は装備や残弾を確認した。先鋒隊は交戦が可能な距離に入ったら、各自の判断で敵艦隊を引っ掻き回すよう命令を受けていた。それを果たすのはいいが、弾薬を使い切ってはいけない。どれだけ自分が持っているか把握しておけば、使い切ることはそうそうないものだ。

 

 近づいていくにつれて、救援を求めてきた部隊の無電が僕にも届き始めた。耳を疑った。天龍の護衛艦隊だ。朝に別れた後で出発した彼女は、輸送隊の護衛中に敵の艦隊と出くわしたのだ。思わずこちらから連絡を送る。既に長門が説明しているだろうが、それでもだ。同期の艦娘が轟沈の危機にある時に、声の一つも掛けないでいられるほど、僕は冷血ではなかった。返事によれば、護衛対象の輸送艦隊は二隻の駆逐艦と共に戦場を離脱した後のようで、天龍たち四隻は敵艦隊を撃退しようと躍起になっているらしい。敵は重巡リ級と空母ヲ級を中心とした艦隊だという。それなら、いつも通りにすれば勝てる。僕の仕事は、天龍たちが沈まないようにすることだ。相手がどれだけ手練の深海棲艦であっても、長門と加賀、それに川内が到着すれば、こちらの勝利は決まったようなものである。それまで何としても、天龍と彼女の艦隊員を守らなければ。

 

 水平線の向こうに、姿が見えてきた。上を加賀の航空機が飛んでいく。敵の航空機がそれに気づき、迎撃の為に向かってくる。僕も水上機を発進させた。航空戦で活躍は望めないが、敵の妨害にはなるだろう。それに一応は爆装もしている。隙があれば、空母目掛けてぶち込んでやれる。上手くやってくれよ、水偵妖精! 僕はそう願いを込めて、飛んでいく機体を見やった。さあ、もう少しで僕の射程距離だ。砲戦を始めよう。天龍たちの位置を確認し、射線をクリアにする。味方を撃つなんて、考えたくもないことだ。丁度一隻、いいところに突出した重巡がいた。腰を落とし、姿勢を安定させ、狙いをつける。だが、前に出てくるだけあって回避機動が巧みで、狙撃はできそうにない。もっと近づかなければ無理だ。歯がゆい気持ちにやきもきしながら、いつでも攻撃を始められるように準備する。

 

 加賀の航空隊と、敵のヲ級の航空隊との間で戦闘が始まった。数はこちらが不利だ。今回の出撃ではもう数回目の戦闘だから、加賀の隊にも損害が出ているのだ。しかし、航空妖精たちの技量でカバーできる範囲だと僕は信じていた。爆撃を受けないよう、直進から蛇行に移る。重要なのは、舵を切るタイミングだ。それさえ正しければ、爆弾の雨も怖くない。那智教官の受け売りだが、それ故にこれは僕にとって、疑問が生まれることのない真実になる。敵航空機の下をくぐって、ようやく発砲して命中を期待できる距離まで近づく。ここからだ、ここからが正念場だ。視界の端に天龍が写る。手に持った刀は血に汚れ、艤装からは不穏な煙を吐き出している。心臓が締め付けられるような思いになる。彼女の周囲で戦っている駆逐艦たちも、一様に表情が硬い。

 

 水偵からの情報を整理する。敵艦隊は重巡二、空母一、軽巡一だ。他にも二隻いたようだが、そいつらは天龍たちで沈めたようで、艤装か何かの残骸が海上に漂っているとの報告だった。やるじゃないか、と僕は思った。追い込まれてもただでは沈まない、訓練所で叩き込まれた通りのことをやっている。僕もそうしよう。手始めに、先ほど狙おうとした重巡に向けて発砲する。弱った相手から叩こうとしていたのか、しつこく天龍たちに攻撃を加えていたが、これで僕にその矛先を向けざるを得なくなった。空母は加賀が押さえてくれている。残りの重巡を足柄と羽黒がやってくれれば、後は軽巡だけだ。それなら手負いの天龍たちでも引き受けられるだろう……あ、いや。加賀の航空隊が軽巡をやった。見事な爆撃だった。

 

 僕を新しい標的として認識した重巡、リ級がこちらを向く。僕はそいつの目を見て舌打ちをした。こいつも赤目だ。それはつまり、同じ重巡リ級の中でも腕のいいリ級だってことだ。より砲撃は正確になり、防御も固く、簡単には倒せない。僕はもう一、二発ほど食らう覚悟をしなければならないだろう。当たり所が悪ければ、死ぬかもしれない。死ぬなら一発で死ねるといい。溺れ死ぬのだけはごめんだ。

 

 足柄の連続砲撃が始まり、重巡の砲撃を避けながらそのリ級を天龍たちから引き離そうとしていた僕は、頭まで痛くなりそうな轟音に耳を覆いたい欲求に駆られた。第二艦隊の連中は、サーカス艦隊と呼ばれてテレビに出ることもあるくらいで、多くはそれぞれ特技のようなものを持っている。長門は砲弾弾き、足柄は早撃ちといったようにだ。どうやってそれを身につけたのか、僕らは話題にしない。多分これについては、僕が相手にされていないから聞けていないのではなく、彼女たちの間でも取り上げることをタブー視しているのだろう。どういう理屈でだかは知らないが、ありがたい話だった。お陰で、どうして僕が精密射撃できるのか教えなくてもいい。融和派の連中が言ったことを鵜呑みにしているのではないが、妖精なしで艤装を動かすことを深海棲艦と結びつける人々がいるのを知った今、大っぴらに話したいことではなかったのだ。

 

 生来の謙虚さから、これまで友人たちに自分の能力を言い立てるようなことをしなかったのも不幸中の幸いだった。北上や利根、隼鷹でさえ、僕の特技を知らないのだ。知っているのは那智教官だけだが、彼女自身もこの特技を持っている。たとえ運命の巡り合わせでこの力と深海棲艦が短絡してしまったとしても、彼女が僕を売るようなことは起こるまい。第一、那智教官だぞ。彼女が仲間や、彼女の教え子を裏切るところを想像できる奴は、那智教官を知らないのだ。

 

 足柄の発射した砲弾が、ヲ級目掛けて雨あられと浴びせられる。彼女は小刻みな転舵でかなりの弾を避けたが、目の前に着弾した時に足を止めてしまった。足柄の連射中に立ち止まるのは、思いつく限り最悪の行動だ。それでも彼女は人型深海棲艦、知性ある存在として、最後の意地を見せた。手に持った杖で何発かを叩き落としたのだ。しかし、手に持てる程度の杖が砲撃の前に長持ちする筈もなかった。とうとう、一発が杖ごと彼女の体を貫き、肢体をばらばらにした。これで空はこっちのものだ。僕はちらりと上を見て笑った。帰る場所を失くした航空機とは、哀れなものである。

 

 赤目のリ級、訓練所で習ったところのリ級エリートは、僕の挑発に乗って天龍たちからすっかり離れてくれた。これで遠慮なくやり合える。彼女はまず、残しておいたのだろう水上機を発進させた。観測射撃でもしたいのだろうが、させる訳にはいかない。発進してすぐの、動きが直線的な内に片っ端から落としてやる。相手の動揺が伝わってくるようだった。いい兆候だ。彼女は僕を危険な相手だと認識し、彼女の意識のより多くを僕に割く。だから、横殴りされるまで気づかない。

 

 羽黒の援護砲撃が降り注ぎ、リ級エリートの右腕の艤装に着弾した。爆風で彼女は態勢を崩しかけたが、即座に立て直すと壊れた艤装をパージして動きを早めた。流石はエリートだ、と言ったところか。位置取りを上手に行い、今や彼女は羽黒、足柄、僕の三人と天龍隊の全員を視界に収めている。が、僕以外のみんなはもう一人のリ級に掛かりっぱなしだ。水柱の狭間に見えた姿から察するに、そいつはリ級エリートの一段上を行くリ級フラッグシップと見えて、いかに歴戦の第二艦隊と言えど、そこそこ手を焼いているらしい。まあ、弾薬や燃料が減っていなければ、もっと早く片付いていただろうが……そうならなかったことを嘆いても仕方ない。

 

 エリートに向けて砲撃を続ける。海戦というのは、そこまで劇的な瞬間の連続ではない。岩礁で僕がやったような、水の中に潜ったりだとか、掴みかかったりだとかいうのは、あれは切羽詰まった末の破れかぶれが成功しただけであって、それ以上のものではない。海戦の基本は地味な撃ち合いだ。敵の弾を避けて、敵に弾を当てる。端的に言ってしまえば、たったそれだけのことである。しかし、時には映画さながらのシーンが生まれることもあった。

 

 一発の弾が僕を右腕を掠めた。お湯でも浴びせられたみたいに熱くなる。お返しの一発を右腕部砲塔から放ってやろうとして、肘から先がなくなっていることに気づく。悲鳴を上げそうになるのを耐えられたのがどうしてか、この戦闘を生き残れたらいつか本気で研究してみたい。畜生、と叫び、左肩部砲塔から発砲する。怒りと興奮に任せた一撃だ、当たる筈もない。だが牽制にはなる。僕はすぐに応急処置用の希釈高速修復材を詰めた水筒を取り、親指でフタを跳ね上げて右腕にぶちまけた。みるみる内に肉が盛り上がり、傷が塞がる。新しい腕が生えたりはしない。希釈した修復材ではこれが限度だ。帰還したら、ちゃんとドックで治療を受けなければならない。帰還できれば。

 

 お互いに右腕の砲を失ったとはいえ、艤装だけで済んだあっちの方が被害は小さい。それに僕はこの戦闘に入る前から中破相当の傷を負っていた。分は悪い。フラッグシップはもう始末しただろうか? ……いや、まだだ。長門たちの到着にも、もう少し掛かる。フラッグシップ撃破まで、もしくは彼女らが着くまで逃げ回るか……自分の手で撃沈してやるか。僕は自分の粗末な復讐心と、生命維持本能を天秤に掛けてみた。答えは直ちに出た。復讐はクソだ。明日、今日のことを思い出して「どうしてあんな臆病風吹かしちまったんだ?」と自分を責めるかもしれないが、それでも今の僕は生きていることを選びたかった。



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「第二艦隊」-2

 でも、その自己保存欲求に基づいた考えは、リ級が天龍たちの方に戻ろうとする素振りを見せたことで捨てざるを得なくなった。駆逐艦を庇いながら戦い、足柄たちと協力してフラッグシップ攻撃にも参加した彼女は、一目で大破と分かるほどの痛手を負わされていた。彼女がここまで守り切った駆逐艦たちも、一人として無傷の者はいない。ある者は血を失いすぎてか、真っ青な顔をして足を震えさせている。ある者は他の駆逐艦の肩にすがらねば航行もできない。僕がここでエリートを抑えていなければ、フラッグシップに気を取られている足柄や羽黒はもとより、助けようとした天龍たちさえ無事では済まないかもしれない。艦娘が死ぬには、適切な場所への砲弾・魚雷一発で足りるのだ。

 

 負傷程度はこちらが上。練度は似たようなものと信じたい。僕は自分の命以外にも守らなければならないものがある。認めよう、こうしてまとめてみると、状況はあっちに味方しているようだ。けれども、自由意志による選択の余地がないなら恐れたって仕方がない。ただ義務を果たすか、果たそうとする試みの中で死んでいくかだ。僕はその考えを気持ちよく受け入れた。死を前向きに解釈することは難しいが、これはそこそこその難しいことをやり遂げていたからだ。沈思黙考していれば粗は出てくるだろうが、僕はそうじっくりと哲学的なことを考えられるほど頭がよくなかった。実に幸いなことに。

 

 機関に活を入れ、天龍たちへの奇襲を行おうとしたリ級エリートに向けて前進する。彼女は僕が考えを変えたのを悟り、先にこの死に損ないを沈めてやろうと決めたようだ。残った左腕の艤装を、僕へと向けてくる。せめて彼女が撃ちにくいようにと、僕は向かって左側から回り込む。あっちもそれに対処する為に、僕の右手側へと回ってこようとする。円を描きながら互いに近づく形だ。僕は肩部砲塔があって、それを使えるだけ手数が多い。あっちは右腕欠損がない分、狙いが安定している。五分五分と言えるが、安定して狙えるが為にだろう、リ級エリートの発砲間隔は定期的だ。それがブラフ(偽装)で、僕の失敗を誘っている可能性はあるが、タイミングさえ合わせれば一気に距離を詰めて、必中の間合いに入ることができるやもしれない。

 

 ──いや。僕は考え直した。間違いなくブラフだ。奴を侮ってはいけない。あの赤い目は、ただ輝いているだけのものではない。それは彼女が高い能力を持った戦闘員であることを、公正に証明しているのだ。そしてきっと彼女も、僕のことをそう思っている筈だ。あの男は噛み付く牙と、多少のことなら見て取れる目を持っている、と。だから彼女は、罠を仕掛けたのだ。

 

 見えている罠には、二つの対処がある。それを避けるか、飛び込むかだ。避ければ損はないが、得もない。飛び込めば、ハイリスク・ハイリターンの賭けになる。罠を食い破れればこちらの大儲け、しくじったらたった一つの命と体を差し出さなければならなくなる。ここで選ぶべきはどちらか? 僕は後者を取った。前者を取れば、艤装以外には無傷のリ級エリートと右腕のない僕との間で、どちらが先に弾を食らわせるかの競争になるのが見えていたからだ。で、その場合は、怪我のないリ級の方がずっと有利だった。僕は長門たちの到着前に左腕も吹き飛ばされるか、頭と体が泣き別れするか、腹に風穴が開いて文字通りに腹蔵ない艦娘になっていただろう。

 

 リ級エリートへの直線ルートを走る。彼女が「ここで決めよう」と考えるまでにどれだけ近づけるか、そして彼女が決意した瞬間を見極められるか、この二点が重要だった。まだ遠い内にリ級が発砲間隔をズラして来たら、それを読まれていたことへのショックから立ち直る時間を与えてしまう。真実の瞬間を正しく見ることができなければ、待っているのは深い海の底だ。彼我の距離と適切なタイミング、その両方の条件をクリアし、なおかつリ級エリートが死に物狂いで築くであろう防御を突破しなければならない。僕は持ち物を確認した。左腰のナイフ、半分ほど希釈修復材の残った水筒、サバイバル用品の入ったウェストポーチ。ポーチは役に立ちそうにないが、前二つは使える。

 

 発砲に合わせたジグザグ走行で砲撃を回避し続ける。敵はまだ決めに来ない。僕が彼女を狙い撃とうとして、回避直後に砲撃姿勢に入ったところを撃ち抜くつもりなのだろう。とするとその姿勢さえ取らなければ、彼女がこれはおかしいぞと感づくまで近づける訳だ。その推測を確かにする為に、反撃を試みるふりをする。リ級エリートは反応した。いいぞ、こちらの読み通りだ。敵から目を離さず、歯を食いしばって進む。接触まで十数秒の距離まで詰まった。そろそろ気づくだろう。僕は腰のナイフを抜き、しっかと握った。射撃で終わればそれでよし、僕も彼女も生き残ってしまったら、刃の出番だ。

 

 等間隔射撃が中断され、リ級エリートの構えが変わった。僕を狙いに来ている。すぐに水平移動で避けたくなるが、理性で抑えこむ。わざとらしすぎる。ここじゃない。違う。彼女の構えがもう一度変わる。砲口から彼女の艤装の中を見通せる気すらした。ここだ! 水面を蹴り、強引に斜め前に移動して、僕を殺す筈だった一発を外させる。それでも即座に次の、そのまた次の砲弾を放ったのはエリートの矜持だったのかもしれない。しかし冷静さを欠いた砲撃は容易に回避可能だ。再装填の隙、仕込みではない本物の隙を突いて、僕は斉射した。大半が外れ、見当違いの場所に落ち、水柱を立てるだけに終わる。一部は敵へと吸い込まれていく。リ級エリートは避けきれぬと悟り、素の右腕を盾にした。右胸と腕一本を失いつつ、彼女は僕の砲撃を生き残った。

 

 彼女の赤い目は復讐に燃えている。その目に向かってひた走る。艤装の口が開き、砲が僕を捉えようとする。僕のナイフが届く前に、一発は放たれるだろう。それを避ければ、リ級エリートには刃が突き立つ。だが、どうやってこの距離で避ける? 僕にはそこまでの腕がない。彼女の砲弾は僕に当たるだろう。このことについては、未来は確定しているのだ。なればこそ、僕には何をすればいいか直感的に理解できた。

 

 腹にこたえる重低音、金属と金属が激しくぶつかる甲高い悲鳴のような音、僕の視界が揺れ、体に痛みが走る。生きている。左腕も残っている。ナイフも握っている。だが僕の左腕部砲塔はもうダメだ。壊れて、煙を吐き出している。ル級の艤装みたく盾にするには、耐久力が足りないらしい。ともあれ、一発は防いでくれた。僕の突進を避けようともしなかったリ級の喉に、刃を刺し入れる。勢いのまま体当たりしてから、ナイフを彼女の喉から抜き、逆手に持ち替えて頭に突き刺す。リ級エリートの目が光を失うのを確認し、僕は彼女を海の底へと送ってやった。後片付けは魚にでも任せよう。

 

 フラッグシップの方を見る。気づかぬ間に長門たちが到着していたようで、第二艦隊の有力者たちからの全力攻撃を受けて沈んでいくところだった。受ける側からしてみれば数の暴力とは恐ろしいものだが、逆に自分たちが多数の側ならこれ以上に心強いことはない。僕はこれ以上の戦闘がないことを祈りながら、煙を吐き出す左腕部砲塔をパージした。何かの拍子に残弾が爆発したりして死ぬなんてことになったら、いい恥さらしだ。それに肩部砲塔は生きているので、最低限の戦闘能力は残っている。切り離しに問題はないだろう。

 

 血を失ったことで軽いめまいを起こしながら、僕は艦隊員のところに戻った。長門と天龍が話をしている。邪魔しては悪いので、僕は負傷した三人の駆逐艦娘のところに行った。既に面倒見のいい足柄が彼女の希釈修復材入り水筒を使って治療をしていたが、旗艦二人の話を聞く限り、天龍たちはこの後先に離脱させた輸送艦隊との合流を目指すらしい。同伴した二人の駆逐艦娘がどんな状態か知らないが、怪我をしている可能性だってある。しかし余程の大怪我でなければ、僕の持っている希釈修復材の量で間に合う筈だ。そういう訳で、僕は腰の水筒ごと駆逐艦娘の一人にそれを渡した。彼女は礼を言わなかった──正確には、言えなかったのだ。足柄の手当てによって塞がってはいたが、喉に傷跡があった。これでは発声は難しかろう。代わりに彼女は頭を下げてくれた。

 

浦風!」※53

 

 天龍が駆逐艦娘の一人を呼んだ。重傷を負った別の駆逐艦娘を支えている青髪の子だ。僕は彼女の代わりにその重傷者を引き受けた。片腕を失っても、それぐらいの力はある。天龍と浦風が話をしている間ぐらい、何ということはない。浦風は天龍の艦隊で二番艦を務めているようで、この後のことについて話し合っていた。

 

「合流? うちはそれには反対じゃね。ぶち(とても)ひどい怪我しとるのがうち入れてこがぁに(こんなに)えっとおる(沢山いる)んじゃけえ、はあ(いっそ)もう合流せん方がどっちにもえかろう(いいだろう)よ。まあそれでも言うんじゃったら、たちまち(とりあえず)、そうじゃねえ、うちと天龍さんの二人で行って、後はあれら(彼女たち)に(ここで浦風は長門たちを一瞥した)連れ帰ってもろうた方がえさげ(よさそう)じゃ思うわ。で、どうしんさるん(しなさるの)? 正直、うちも砲はめげとる(壊れてる)し腹に食ろうたのがひどうにがるしなけえ(ひどく痛むから)たいぎい(つらい)けど、天龍さんが行くならうちも行くけえね」

 

 うわあ、方言キツいな……僕は浦風の艦娘としての特性を思い出したが、ここまで濃い方言を使うとは思わなかった。同じ訓練所に黒潮や龍驤がいて、彼女たちが関西弁を操るのは見たことがあるが、あれはまだ聞いていて容易く何を言っているか了解できた。こっちはちょっと難しい。同じ艦隊に所属していなくてよかった、と思った。慣れるまで一々頭の中で標準語訳したりしていたら、とてもじゃないが連携なんてできそうにない。天龍は旗艦だけあってタイムラグなしに理解しているようだ。彼女には素直な一言を贈ろう。フフフ、凄い。

 

 戦闘の興奮が途切れたせいか、右腕の傷が痛み始めた。サバイバルパックには鎮痛剤も入っているが、僕は提督と違って薬物の使用には慎重になることにしているのだ。本当に必要な時まで、使わないと決めている。でもマジで痛いな。利根はこれを何度も体験しているのか。昨日までより、彼女のことをより深く知った気がする。同じ苦しみを味わうことは、誰かと仲良くなったり、理解を深めるのに有効なステップの一つなのだ。

 

 天龍は結局、浦風の出した折衷案を選んだ。長門たちも重傷の駆逐艦娘を引き受けることを拒否はしなかった。立派に旗艦をやっている天龍は疲れきった顔で長門に救援の礼を言い、後日正式に礼をする旨を告げて、僕の水筒を仲間から受け取った有能な二番艦と共に去っていった。その間際に、天龍は僕を見た。左手を振ってやると、頷きを返してくれたように見えた。いいね、あれだけでも右腕の痛みを忘れられる。

 

 長門は僕と川内に一人ずつ駆逐艦娘を担当するように命じた。文句はない。僕は右腕を失くし、左腕部の砲も捨てた。二、三度も敵弾の直撃を受けた艤装が動作しているのが何故か、明石さんでも説明できない筈だ。しかも多分、今は右腕の痛みで気づかないが、左腕も骨折かひびぐらい入っているだろう。戦闘能力は最低限だ。単独航行が不可能な艦娘の曳航を務めても、艦隊の戦闘力低下を招くことはない。一方、川内が戦線から離れるのは痛いが、彼女の担当艦娘は自走可能だ。帰還中に戦闘になっても、一人で退避できる。僕は自分が一人の命を預かっていることに責任と重圧を感じた。ただ一人の命ってだけじゃない。天龍の艦隊の艦娘なのだ。彼女が助からなければ、天龍は強気な顔の裏で、悲痛に胸を引き裂かれるだろう。同期をそのような苦しみと悲しみから遠ざけたいという願いは、全く当然のものだった。

 

 幸運にも、帰投中に交戦することはなかった。加賀の航空隊が少数の非人間型深海棲艦を発見したことはあったが、先制航空攻撃によって撃破することができたので、僕らの出番は一切なかったのである。研究所に戻ると、前もって長門が連絡していたお陰でスムーズに治療を受けられた。彼女は僕のことを嫌っているし、僕も彼女を好いてはいないが、長門が旗艦でいてくれて嬉しく思う。戦闘は人間の、艦娘の精神を変調させるものだ。高揚するかその逆になるかは艦娘次第であるが、常通りの平静を保てる者は少ない。僕なんて全然ダメだ。その点、長門は落ち着いている。きっと世界が滅ぶ日の前日の夜だって、彼女は変わらないだろう。いつも通りに出撃し、深海棲艦を血祭りに上げて、帰ってくるのだ。

 

 能力の高い者がより高い地位に立ち、権力を握っているということは、その組織の健全性を証明している。軍には是非、健康でいて貰いたかった。もちろん、軍高官が全員、申し分のない人格者で、戦術戦略に通じており、艦娘たちに気を使っていて、税金をきちんと納め、選挙には必ず行く──そういった人間であってくれと言っている訳ではない。むしろ、人格が破綻していてもいい。脱税? まあよかろう。投票棄権? うーん、個人の選択だ。現場の人間や艦娘が、上に願うことは一つだけ。彼ら彼女らが、その地位に見合った才腕を有していることだ。僕は潔白な無能より、悪徳の見本みたいな才人を上官として戴きたい。別に提督の話をしている訳じゃないぞ。よりよい上司とはどういうものかの話だ。

 

 ドックでの治療によって、僕の腕は元通りになった。生えてから少しの間は違和感があったけれども、神経含め、腕が正常に復元されたことを確かめる為の感覚チェックであれこれしている間に、それも消えた。僕らが護送した駆逐艦娘たちの治療にはもうちょっと苦労した。怪我した直後に止血できた僕と違って、彼女らには大量の輸血も必要だったからだ。希釈修復材での応急処置以前に彼女たちが自分でどうにかしようとしなかったのではない。彼女らは彼女らに配給された個人用治療キットで、できることはやっていた。けれどそのできたことというのは、精々が傷口にゲル状止血剤を塗りこむぐらいで、それだって発砲の衝撃や至近弾の水飛沫で流されたり、無駄になってしまったりだったのだ。やはり、この希釈修復材は一刻も早く正式に配備されるべきだろう。

 

 まあ、艦娘というのは大体が強靭な生命力を持っている。死にさえしなければどんな傷からも復活できると言われるほどだ。これはやや誇張されたところのある言葉であり、正確な表現ではないが、それほどしぶといのだということを誰かに伝えるにはいいと思う。負傷者はやがて全快し、心が折れていなければ戦線に復帰するだろう。

 

 治療やその他の報告などが終わると、夕方になっていた。僕は広報部隊以来の習慣として隼鷹と食事を取った。ああ、それに響も一緒だった。最近は響がグループに加わるようになり、僕としては嬉しい限りだ。響からの繋がりで時折不知火先輩とも話をできるしな。彼女と話をしていると隼鷹を置いてけぼりにしてしまうことさえあるが、この飲んだくれの美女はそれを笑って許してくれるので、つい僕らはそれに甘えてしまう。「負傷したんだって?」席についてすぐ、ドレッシングの掛かったグリーンサラダを食べながら、隼鷹は僕にそう尋ねた。僕は「耳が早いな」と答えた。友達には心配を掛けたくない僕としては、嬉しくないことだった。「右腕をね。ここからなくなったよ」指で、さっきまで傷口だったところを叩く。「うへえ」隼鷹は顔を歪めて彼女が感じているものを示した。空母であり、他の艦娘たちより安全な位置取りのできる彼女は、まだ欠損レベルの負傷をしたことがない。これから先ずっとそうであればいいが、戦争が終わりそうにないところを見るとその願いは叶うまい。

 

 戦争の終わり、か。そんなものが来るのだろうか? それともこの先人類は、永遠に深海棲艦と戦い続けるのだろうか。奴らの本拠地は掴めていない。地上に彼女たちが作った泊地を攻撃することはある。僕はまだ参加したことがないが、確か北上と利根は大規模作戦に従事していた筈だ。利根が手紙で、敵の占領地帯の泊地を更地にしてやったわと自慢気に書いていたことを覚えている。で、北上は支援艦隊だったか、主力が出払って手薄になっている鎮守府の防衛担当だったかで、楽ができると踏んでいたら深海棲艦の別働隊とやりあう破目になったと言ってたな。それでもきっちり生き残ってくれてよかった。彼女にもう会えない、手紙のやり取りもできないとなったら、僕は立ち直れそうにない。北上だけじゃなくて、利根についてもだ。

 

 安心できるのは那珂ちゃんと青葉などの、前線に出ることの少ない友達だけだろう。那珂ちゃんは本人の希望もあって、時々は前線に出ているらしいが、ほとんどの時間を内地で青葉と共に広報活動(ライブ)などして過ごしていると聞く。何度か休暇を取ってライブに参加しようとしたものの、あの捻くれ者の提督から休暇を勝ち取るより、ライブのチケットを手に入れる方が難しいことを悟らされただけだった。だが僕は負けない。いつか、インディーズ時代からの那珂ちゃんのファンとして、恥じるところなくライブに参加するのだ。それまではCDを買い、布教し、ライブ映像でコールの練習をして過ごしておく。那珂ちゃんがファンのみんなの為に全力で打ち込んでくれる以上、ファンとしてもそれに見合うだけの力を込めて応援するのが礼儀だからだ。このスタンスを誰かに押しつけるつもりは毛頭ないが、僕個人としてはそう考えている。

 

 それにしても、那珂ちゃんのスケジュールは大丈夫なのだろうか。過労で倒れたりすることのないように祈ろう。青葉がいるから大丈夫だとは思うが……彼女は記者であるだけあって、洞察力が高い。プロが陥りがちな誤った考えから那珂ちゃんが疲労を隠そうとしても、見破ってくれるだろう。

 

 あ、そうだ、青葉と言えば今日は青葉の新聞が届く日だ。不定期に発行される新聞だが、僕は彼女と友人関係にある為、いつ発行される予定かぐらいは教えて貰えるのだ。中身までは言ってくれないだろうが、僕だってそんな無粋なことをする気はない。楽しみにわくわくしながら待つのもいいものだ。彼女の新聞は創刊号からずっとファイリングしているが、記事は公正な視点から丁寧に書かれており、かつユーモア十分で何度読み返しても飽きるということがない。彼女の知己による作品ではあるが、ご丁寧に連載小説と四コマ漫画まで載っていて、これらもまた面白い。こんなに面白いものがどうして規制されてないのか僕には分からないが、実は密かに上層部に彼女のファンがいるか、そうでなければ青葉がお偉いさんの秘密をすっぱ抜いて脅しでもしているんだろう。

 

 隼鷹と響もこの新聞が好きで、僕の部屋に遊びに来るとよくバックナンバーを読んでいる。響に至ってはこの前、投書をしていた。感謝の一筆と粗品が届いたそうだ。僕もやってみようかと思うが、響のハガキを見て諦めた。芸の限りを尽くしてあって、とてもこれには勝てないなと思えたのだ。青葉は記者としては厳しいから、友情に免じてということもないだろう。

 

 新聞のことを話に出して二人を誘うと、彼女たちは快く受け入れてくれた。女の子が! 二人も! 僕の部屋に! なんて思うんだろうな、僕以外の十六歳の男の子だったら。生憎と僕はこの状況に慣れてしまって、昔ほど特別なものを感じられないようになってしまっていた。これではもし奇蹟が起こって戦争が終わっても、社会復帰の上で著しく大きな困難を抱えることになりそうだ。「そういえば」響が僕を見ながら言った。その手には透明な液体、つまり水の入ったグラスが握られている。「ケッコンカッコカリってあるじゃないか」「あるね」「男性艦娘としてはどうなんだい?」「お、あたしもそれ聞きたいなあ」困った質問だ。

 

 ケッコンカッコカリとは、艦娘の体に備えられているという、リミッターを解除する行為の艦娘間での俗称である。改造が艤装に行われる強化である一方、こちらは艦娘そのものを強化する訳だ。リミッター解除による恩恵は多岐に渡り、また改造よりも大きく、同じ艦娘でもケッコン前と後では戦闘力は桁違いになる。この研究所でも何人かは済ませているらしい。俗称の由来は、記念品として軍から艦娘に贈られる指輪にある。これには象徴的な意味しかないが、失くすと有償なので出撃時に身につける艦娘は多くないという。

 

 僕は隼鷹と響の顔を見た。楽しそうだ。こんな話の何が楽しいんだ? 女の子のことは分からない。彼女たちは天気みたいなものだ──期待はできる。予測もできる。素晴らしい時は、素晴らしい。そして、何がどうあれ、受け入れるしかない……さて、どうなんだと言われてもな。僕は十六になったばかりで、結婚を考える年ではない。ケッコンについても、それを行う条件がある。それは高い練度を持つことであり、ケッコンを行う前にはその練度を証明する試験を受けなければならない。僕は自分がその段階に達していると思わない。結論「どうでもいい」だ。響はこの答えを聞くと「どうやらロシア語とロシア精神を学びすぎたようだ」としたり顔で言った。僕は微笑んで言い返した。

 

「ああ、君はいい教師だったよ」

「『(ТЫ)※54だって? 私とあなた(ВЫ)はいつからそんなに親しくなったのかな?」

「言葉じゃ人が傷つかないと思ってるなら、大間違いだぞ……Ну-ка, давайте(そんじゃ、『君』の間柄に) перейдём на “ты”(なろうじゃないか、), окей(どうだい)?」

Ну что ж, давайте.(いいとも、なろう)

 

 隼鷹のスキットルを借り、僕らは互いに互いのグラスへと飲み物を注ぎあった。そして向かい合い、グラスを持った腕を組み合わせ、そのまま飲み干した。※55 僕はその後当然来るべきものを待ち望んだ。頬か唇へのキスである。しかし願いは裏切られ、響はそのまま引き下がってしまった。何だか期待していた自分がおかしくなって、僕は真面目くさった顔を作って言った。「君がしないなら、こっちからキスしても怒るまいね?」「やってみなよ、鼻に噛み付いてやるから」「なるほど、やっぱりキスには鼻が邪魔になるらしいな」※56 僕らは笑い合い、隼鷹から少しずつ二杯目を貰った。

 

 食べ終わって僕の部屋に移動中、今度は隼鷹がケッコンの話を蒸し返した。僕はいとも尊敬するべき女性の方々が、どうして本物の結婚でもないこれにそこまでこだわれるのかほとほと不可解であるとコメントした上で、この話し好きの軽空母に一つのことを思い出させてやった。艦娘たちから見て、ケッコンカッコカリが誰との間に結ばれるものであるか、ということをだ。「お遊びでもあの提督と結婚したいか?」「分かってないねえ、ああいうタイプは情が深いんだよ。いずれそれに気づく奴が出てくるさ」情が深い? あの提督が? 事実と違い、真実とは視点によって異なるものだが、これには異論を挟みたくなる。僕は挑戦的な態度に出た。

 

「いいだろう、僕が退役するまでに彼女が男と結婚してたら給料二ヶ月分だ」

「乗った。あたしは秘蔵のボトル二本な。響は?」

 

 彼女は薄い水色の髪をかき上げ、勝利を確信している静謐な美しさをたたえた目で僕を見て言った。「男性を差別するつもりはないけれど、私としては君の目は節穴か何かだと言わざるを得ないね。私もボトル二本だ」ふむふむ、つまり僕は退役時には四本のボトルを手にすることになるのか。こりゃあいいね、生き残る気力が湧いてきた。

 

 郵便受けには望み通りに新聞が入っていた。床に広げ、三人で読んでいく。今日のもこれまでと同じように楽しい記事だ。各戦線の状況、あちこちの艦隊に所属する艦娘たちの生の声、国民からの応援メッセージといった読者の戦意を高揚させる為のものから、歴史の影に潜んでいるという不死の艦娘の有名な伝説を題材にした、面白いが下らないゴシップ、そして主に外地勤務の艦娘たちの為に書かれた、内地ではどんなことが起こっているかという記事まで、僕らは一つ一つ字を追って読んだ。那珂ちゃんがヒットを飛ばして以来の恒例となった、那珂ちゃん担当のミニコラムもだ。アイドルとして一線に立ち続けようとする精神の表れなのだろう、彼女の頭のよさが読み取れる内容であり、誰からも共感を得られる一方で、反感を持たれたり、誤解を招いたりすることがほぼ不可能なものだった。単語のどれを取ってみても、そのニュアンスにまでしっかり気を使ってある。那珂ちゃんの一面だけを見て、彼女の頭を空っぽだと思っている連中もいるが、そいつらに人並みの頭があれば、このコラムを読むだけで考えを改めるだろう。

 

 一時間を掛けてじっくりと新聞を楽しんだ後、ふと僕は一つの記述に目を奪われた。それは今回の号にのみあったものではなく、前から一字一句変わらず記載されていたものだった。青葉による、読者への呼びかけのメッセージだ。何か面白そうな出来事や、噂、とにかくこの新聞に載せられそうなネタがあれば是非連絡してくれ、とそこには書いてあった。それを見て、赤城に言われたことを僕は思い出した。知るべきではないかもしれないことを探るには誰に頼めばいいか、彼女は僕に示唆していた。青葉……だが、彼女の身を危険に晒してまで僕は融和派たちの言う通りにするべきなのか? 考えるまでもない。

 

 僕は戦争中であることを残念に思った。平時なら、彼女らはいい作家になれただろう。融和派が深海棲艦にも存在するだと? とんでもなく尋常じゃない発想力だ。人間を殺す為に生まれたような連中が、どうして人間と仲良く手でも繋いで生きていこうという気になると言うんだ? 蛙がハエに同情するか? 猫が小鳥と語らうか? そんなことはあり得そうにもないことだ……起こったとしたら、その時にはきっと、僕らと深海棲艦たちは抱き合ってお互いを許し合い、キスをして同じベッドに入るだろう。きっとその日には畜産家たちは彼らの牛と愛情によって結ばれ、地と海とに住まう人々は至福の千年王国の到来を言祝ぐだろう。時間の概念はねじくれて、明日は今になり、昨日は五分後になる。地獄には冬が来て、死んだ人間が起き上がり、雨は空じゃなくて大地から降り注ぐだろう。

 

 そうだ、考えるまでもないことだった──いいや、正確に言うなら考えてはいけないことだった。僕は世界を救いたいのでもないし、真実や事実を知りたいのでもない。僕は生きていたい、そしてその上で、よりよく生きられるというならそうしたいだけだ。真実? そんなものは僕には扱えない。そういうのは、提督とか武蔵とか、その他の後ろ暗そうな連中がもてあそぶものだ。僕はそういう人々から距離を取って、彼ら彼女らが僕に見せたいと思うものを見ていたい。そうしている限り、僕は安全だ。欺かれているが、安全なのだ。事実や真実こそ遠ざけるべきなのだ。それは僕のような小人物を焼き尽くす激しい炎に他ならない。火遊びは厳禁だ。そう分かっているのだ。頭では。

 

 それでも僕は考えることをやめなかった。気にし続けていた。海で溺れた時、僕を助けてくれたのは誰だったのか? 深海棲艦じゃない。彼女らは僕を助けない。人間を助けることはない。あれは艦娘だった。そうでなくてはいけないのだ。信じなくてはいけない。証拠を探してはいけない。響は言ったものだ、ある種の事柄においては、信じる為には証拠なんていらない、と。これは宗教的信仰についての話じゃない、過去に実際に起こった出来事についての僕の見解や、考えに過ぎない。だから響の言葉がそのまま適用できる問題ではない。だが、信じるという行為のあり方の問題であると捉えるならば、響のやり方を当てはめることもできるだろう。科学が、現実が、事実が、証拠がそれを否定するか、決して積極的には肯定しないという立場を取ってもなおまだその信ずるところを疑わず、ひたすらに「主よ、汝の言葉は正しかりき!」と叫ぶ人々のやり方だ。

 

 それを狂信と呼ぶのは容易い。けれど、彼らは実際に尊いのだ。何となれば、彼らはその従うところのものが正しいかどうかに左右されず、自分が歩むべき道をこれと決めているからである。その道の半ばで彼もしくは彼女が善悪のどちらを為すか、それは違う問題だ。信じ続けるということは尊いのだ。人間が理性の奴隷ではないことを、たゆまぬ信仰だけが証し、それが余りに、僕にはできないほど、困難であるが故に。

 

 二人と僕は今回の新聞と、次いでその他の由無し事について話し合った。戦争の趨勢、僕らが生きたままか棺に入って退役するまでに掛かる期間を算出する為の数学的公式、そんなことが主な話題だった。どんなものでも科学ならば数式で表せるのだと響は言った。信仰の徒たる彼女の口からそのような言葉が出てくるとは意外だったが、発言の真偽はともかくとして、その金言は一定の説得力を持っており、僕も隼鷹も反駁の言葉など思いつかなかった。彼女は僕の筆記用具を使ってメモ帳に何かの式を書いた。「いいかい、退役をイベントとするなら、その発生までに掛かる期間は種々のサンプルを生存関数S(t) = Pr (T >t) =∫[x,∞]f(t)dtや他の公式に当てはめて、その結果を推定・比較することによって導ける筈なんだ」と小さな哲学者は言ったが、僕には彼女が日本語を話しているのかさえ自信が持てなかった。響が本物の信仰者でなければ、大仰に胸の前で十字を切って、願わくは御名を崇めさせたまえとお祈りを始めていただろう。

 

 

 隼鷹は数学的素養に恵まれていたのか、それとも高校卒業後にでも艦娘に志願したのか、響の言っていることの幾らかは理解しているようだった。僕は自分が馬鹿だと言われたような気持ちになったが、図星を指されて怒るほどの馬鹿ではなかった。しかし分からぬ話を聞き続けるのもひどい苦痛である。そこで、僕は席を外すことにした。盛り上がっているところに水を差す無粋を避けつつ、苦しみを逃れる妙案だと思えたのだ。これはその通りだったろう、部屋を出た後に何処に行くか当てがあったなら、だが。残念なことに、僕にはそれがなかったのだ。工廠に足を向けて、夕張が嫌がるだろうと思い直す。食堂に行きかけて、そこで何をするのかと考えてやめる。本の一冊でも持ってくればよかった。外出許可はないので研究所内から出る訳にもいかない。後は何があるかな、と悩みながら研究所の通路の壁に掛けられた案内図を見る。と、その中の一つの表示に目が留まった。『資料室』とそこには書いてあった。少年の心をわくわくさせる響きだ。よし、ここに行ってみようじゃないか。



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「第二艦隊」-3

 足を運び、資料室に繋がるドアを見つけ出す。開くと人二人分ぐらいの小部屋に、また扉。指紋認証錠付きだ。そうだよなあ、と思いながらダメ元で指を押し付けてみる。驚いたことに認証された。どうやら、研究所所属の者なら入れるらしい。電子錠の情報モニターに表示された僕のクリアランスは最低レベルだったが、それでも棚から牡丹餅(ぼたもち)という気分だ。思ってもみなかった幸運に、僕は微笑みと言うには少々怪しげなニヤニヤ笑いを浮かべながら入室した。資料室には何台かの端末と印刷機が設置されていただけだった。今日日(きょうび)は何でもデータ化の時代という訳だ。場所を取らないし、紙資源の節約にもなる。端末を詳しく見てみる。それにも指紋認証錠が付いていた。クリアランスでアクセス可能な情報に制限を掛ける為だろう。一つ起動してみると、資料データベースの検索画面が自動的に出てきた。サーチボックスは放っておいて『登録されたタグ』という項目に進む。数秒固まった後、山ほど出てきた。けれど九割九分が面白くもなさそうな報告書や陳情関連のタグで、僕をがっかりさせてくれた。まあ、機密指定もされていないようなものだ。仕方ないか。端末を操作し、戦闘関連の報告書を探してみるが、ヒットしない。データがそもそも存在しないとは考えにくいから、僕のクリアランスでは見せられないのだろう。

 

 別のことを調べてみよう。提督のデータなんかありはしないだろうか? 僕は彼女の名前を打ち込んでみようとして、僕が自分の権限を使って彼女の身元を調べようとしたことが、提督にバレることはないかと考えた。何度シミュレーションしてみても、提督は何処からか僕が探りを入れたことに気づいて、想像するだけで今晩の悪夢を約束してくれるような残酷な罰を与えようとするのだった。うん、彼女には触らないでおこう。それが賢明だ。では何をするか……研究所の艦隊員たちについてならいいだろう。サーチボックスにキーワードを入れ、検索してみる。おう、出てきたぞ。僕は何人分かの個人データを見てみることにした。まずは吹雪秘書艦を見てみよう。彼女はやはり最古参のようだ。その戦果も凄まじい。何度も引き抜きを打診されているが、その度に断っているようである。提督にそこまでの思い入れがあるのか、それともそれ以外の理由があるのか。気にはなるが、興味本位でほじくり返すべき点ではあるまい。

 

 第一艦隊所属の艦娘たちのデータもあった。その中に二人の見知らぬ名前を見つけ、疑問に思って開いてみる。そして僕は後悔した。彼女たちは任務の最中、揃って戦死したのだ。僕と隼鷹の着任よりもかなり前のことだったが、自分の前任が戦死していたということは、後任である僕の気分をよくさせはしなかった。それにこの二人は僕の友達じゃなくても、伊勢や日向、響や吹雪秘書艦の友達だったのだ。二人を失った彼女たちの苦しみのことを思うと、僕の胸まで締め付けられるように痛んだ。そして僕がその苦しみをまだ知らないことを幸いに思った。同じ訓練所を出た同期で、一度も話したことのない艦娘になら、戦死者はいる。あの岩礁で隼鷹と話した時には二人ほどだったが、今ではその数は五倍以上に増えていた。けれど僕は自分と関わりの一切なかった子たちの死にまで心を痛めていられるほど、感じやすくなかったのだ。

 

 艦隊員のデータを見るのもやめよう。もっと、何か別のこと……配属記録はどうだ? 僕は自分がそれを今になって思いついたことに驚いた。データベースを調べ、鎮守府・基地・泊地を瀬戸内海に近いところからピックアップし、かつて僕が子供で、溺れた頃にそこに勤務していた艦娘のリストを作る。処理に時間が掛かったが、リスト化自体はそう手間にはならなかった。何かに使うこともないからなのか、最低限の情報しかなく、艦種、艦娘としての名前、それから顔写真程度しかなかった。作ったリストを印刷し、資料室に備えてあったファイルに突っ込む。大きく膨らんだが、どうにか入りきった。

 

 時間を確かめる。ふむ、もうそろそろ響たちも我に返って、自分の部屋にでも戻った頃だろう。ここでリストを調べるよりも、部屋で見る方がゆっくりできる。僕は端末の電源を落とし、印刷物を持って資料室を後にした。部屋に帰ると既に無人になっており、響が使っていた僕のノートには、僕のこれまでの人生で見てきた全部の数式を合わせたよりも長い、禍々しささえ感じさせる艦娘の戦死時期算出用公式が残してあった。僕はこの式の存在、艦娘にとっての死そのものを数学的に表した記述を憎み恐れる気持ちから、このノートをすっかり切り刻み、焼き捨てたい衝動に駆られた※57が、ページを切り取って隠すだけにしておいた。やれやれ、響と隼鷹はとんでもない置き土産をしてくれたものだ。

 

 部屋に鍵を掛け、印刷物を持ってベッドに寝転がる。いつもの寝る時間までにはまだまだ余裕がある。僕は僕を助けてくれた艦娘の顔を探して、プリントアウトした記録を調べ続けた。暇潰しにはいいだろうと思っていたが、実際には大変な作業だった。何しろ、別に楽しくもないことだ。あっという間に眠気に襲われてしまう。でも、僕はこれをやらなければならなかった。久しぶりに、ちゃんと僕を助けてくれたあの艦娘の姿を見たかったのだ。そうすれば、僕は融和派たちの掛けた呪いから解放されるという確信があった。あの温かみや感触はしっかりと覚えているし、どんな顔だったかも大体は覚えている。ああ……大体、だ。自分自身は騙せない。白状すると、前ほど鮮明に思い出せなくなった。けど写真を見れば、この人だ、と分かるだろう。

 

 全体の四分の一まで目を通したところで、僕は眠ってしまった。そのせいか、また夢を見た。これまでとは違う感じの夢だった。僕は海上に立っていたが、艤装もつけていないというのに、沈んでいなかった。ただ、囲まれていた。艦娘たちにだ。金剛、赤城、祥鳳、高雄、最上、木曾、叢雲、時雨、伊一九、その他にもいる。沢山、大勢、水平線が見えないほどいる。知っている艦娘もいれば、見たこともない艦娘もいた。きっと、世界中の艦娘が僕を見ていた。不穏なものを感じながら、僕は彼女たちの目を見つめ返した。そこには羨望が見えた。一番近くにいた金剛に、僕は尋ねようとした。これが何なのか、夢に答えさせられるものなら、答えて欲しかったのだ。でもその前に悲鳴が上がった。それは隼鷹の、響の、利根の、北上の、長門の断末魔だった。深海棲艦が襲ってきたのだ。僕は逃げようとした。取り囲んでいた艦娘たちを押しのけて、近づいてくる死に際の声と言葉から離れようとした。それなのに、声は段々と大きくなっていく。どれだけ急いでもダメだ、追いつかれる。服が誰かに掴まれた。

 

 僕は恐怖に引きつった声を上げ──叫びながら、目を覚ました。目を覚ましたんだ。だから、聞こえたのは夢じゃなかった。

 

「トラエテ……イルワ……」

 

 確かに、夢から覚めた直後には脳が半覚醒状態にあって、現実と虚構が交じり合うことがあるという。でも僕は断言する。今の声は夢じゃなかった。あの頭に直接響くような声は、深海棲艦に特有のものだ。岩礁でル級が僕に呼びかけた時も、港湾棲姫が僕を殺そうとした時も、耳ではなく頭の中に響くかのようだった。ル級の声など、僕の頭を揺らしまでしたのだ。

 

 どうしたらいいのか分からなかった。僕の心臓は激しく鼓動していた。こういう時には、普段の習慣に従うものだ。そうすれば、平常時の落ち着きを取り戻すことができる。そこで僕は、起きた時にいつもやっているように、部屋の時計を見た。朝は朝だが、いつも僕が起きる時間よりかなり早かった。よろける足で、毒づきながらベッドを出て、今日の予定を確認する。運の悪いことに、今日は出撃任務の入っていない休日だった。正式には待機任務だけれども、外出許可が取れれば外にだって出られるのだ。休日と言って差し支えなかった。しかし、やることがないということは、やるべきことで頭を一杯にして、考えたくないことを心から追いだしてしまうという手が使えないことを意味している。実に不都合だった。

 

 そこで僕は昨晩寝る前にやっていたことを思い出した。その続きをすることに決め、リストのチェックを再開する。眠気は起こらなかったが、狙い通り僕は時間と恐怖、それからあの声が聞こえたことにどう対処すればいいのか、という不安を心の隅に追いやることができた。

 

 突然、ノック音が聞こえてびくりとする。音に過敏になっているようだ。ドアのところまで行き、覗き穴から誰が来たのか見てみる。隼鷹か響だろうな、と思っていたが、意外にも日向だった。僕は急いでドアを開けた。隼鷹とは友達だ。響とも君と僕の間柄になった。そして日向とだって、一緒に陸軍を殴った仲だ。けど、彼女が訪ねてくるのは初めてだった。いや、前に僕と隼鷹を歓迎会に招いてくれた時以来初めてだった、と言うべきか。僕はなるべく内心の動揺を隠すようにしながら言った。「何かあったのか?」すると彼女は眉をひそめて質問を返した。「時間を見てないのか?」言われて、壁の時計を見てみる。夕食の時間をとっくに過ぎていた。食堂はもう閉まっている。おいしい食事はお預けということだ。自分の迂闊さに腹を立てつつも、人間の集中力は未来へのタイムマシンみたいだな、と僕は感心した。飢餓感もなかったので、こんなに時間が経っていたとは気付かなかったのだ。時間のことを認識した今ようやく、僕は自分が空腹らしいということを知ったぐらいだった。

 

「出撃前に食堂で昼を済ませた時もいなかったから、隼鷹たちも気にかけていたぞ。外出許可も取っていないようだし、腹に何も入れていないだろう? これでも食べておけ」

 

 日向はにこりともせずに、持っていた布袋を僕に渡した。目の粗い布を通して、中に入っている丸いものの温かさが伝わってきた。これがおにぎりじゃなかったら、僕は今の仕事をやめて艦娘寮の玄関マットか何かにでも転職しよう。普段無口で無愛想な先輩にして同僚の気遣いに、僕はじんと来るものを感じた。「それじゃ」と彼女が行こうとするのを、慌てて引き止める。何かして貰ってばかりというのは嫌いなのだ。一を受けたらせめて一を、できることなら二を返したい。残念ながら、一に対して二を返すとあっちが負担に思ってしまうかもしれないので、基本的には受けたのと同じだけのお返しをするしかないが。とにかく、お茶の一杯でも飲んでいって貰わないといけない。艦娘なんてやってたばっかりに、今日が人生最後の夜になるかもしれないのだ。僕に最期の時が訪れた際、そういえば日向に返礼もしていなかったなとか、貰い物だけどいい茶葉があったのになとか思いながら沈んでいきたくはない。

 

 嬉しいことに、僕の頼みを彼女は断らないでくれた。二度までは遠慮しようとしたが、僕がどうしてもと頼んだら「喉も乾いてきたところだ、丁度いいか」と言って受け入れてくれたのである。無理させたような気もしたが、本当に嫌なら日向ははっきりと言うだろう。彼女は社交辞令を使うべき時と、そうではない時をきっちり区別している。そして戦友と話す場合は、彼女の中で「そうではない時」に該当するのだ。従って、彼女が僕や他の誰かに「今度、一緒に飲みに行こう」と言う時、その「今度」は必ずいつか来る「今度」だ。日向は相手が断らない限り、休みがいつになるかを調べて「この日なら空いているが、どうだ?」と打診してくるだろう。また、休みの日に私服で出かけようとしたところを見られたとする。その服が壊滅的なセンスの下にコーディネイトされたものだったなら、日向は決して「悪くないな」なんて言わない。ちょっとだけ見て、それから目をそらすだろう。彼女はそういう性格だ。

 

 部屋に招き入れ、椅子に腰を下ろして貰う。テーブルの上を急いで片付けなければならなかったが、元々大したものは置いていない。給湯ポットから茶葉を入れた急須にお湯を入れ、三十秒待ってから湯のみに注ぎ、持っていく。ポットや急須、湯のみは私物で、戦艦ほど沢山の給料を貰っていないので安物なのが恥ずかしかった。日向は口の端を緩めて湯のみを受け取った。僕も自分の湯のみを用意し、そこに注ぎ残しを入れる。香りを含んだ湯気が立ち上り、鼻を楽しませてくれる。茶の色を見ていた日向が言った。

 

「ほうじ茶か」

「カフェインの量が少ないから、今から飲むならこれがいいと思ってね」

 

 見栄を張ってそう言っておく。実のところ、そもそも僕はお茶っ葉をこれしか持っていないのだ。しかも自分で買ったのではなく、親が一人暮らしの学生を心配するように送ってくれたダンボール一杯分の種々の物資に入っていたものだった。両親には常日頃から感謝しているが、このことについては特に頭を下げておかなくてはいけないだろう。父母のお陰で僕は日向をもてなすことができたのである。いつか、もしかしたら紅茶党の誰かをもてなす日もあるかもしれないし、次の給料でその手のものを揃えておいてもいいかもしれない。

 

 日向から受け取った布袋から、中身を取り出す。ああよかった、僕は玄関マットにならなくともいいようだ。ちょっと惜しい気もするが、まだその境地に至るには十六という年は若すぎるだろう。アルミホイルに包まれたおにぎりが四つ、大きめに握ってあった。へえ、面白いな、と考える。僕の母はアルミホイルではなく、ラップで包んでいた。アルミホイルよりも見栄えがいいから、と彼女は言っていた。三色おにぎりなんかを作った時には、母の言葉の正しさは子供心にももっともらしく受け入れられた。加えて、父によれば、もう亡くなった母方の祖母はアルミホイル派だったそうで、その無骨な感じを少女時代の母はとても嫌っていたらしい。でもこうしてホイルのおにぎりを見てみると、僕には母の感じた嫌悪よりも何やら奇妙な期待感を覚えた。

 

 早速一つ開けて、食べてみる。おいしい。世間の人々は「空腹は最高の調味料だ」などと、知ったようなことを心底うんざりするほど言っているが、これが満漢全席を食べ終えた直後だったとしたって、僕はこのおにぎりを突っ返しはしなかっただろう。あっという間に一つ平らげてしまった。日向はそれを見て「喉を詰まらせるなよ」と言ったきり、後は素知らぬ顔でお茶を飲んでいる。次へ次へと行きたいが、彼女のアドバイスに従おう。一つ目は味わう暇もありはしなかった。それは作ってくれた相手に失礼なことだ。ところで、これは日向が作ったのだろうか? 何の気なしに訊ねると彼女は、どうしてそんなことを聞くのか分からない、という顔で「まあ、そうなるな」と言った。祖母の話のことを考えて、「お祖母ちゃんっ子だった?」などと言いたくなるが、黙っておく。プライベートな話をするには、僕と彼女の間には距離があった。考えなしに喋るのは僕の悪癖だが、それにしても越えたらマズいラインの見分け程度、つくというものだ。

 

 二つ目は落ち着いて食べたので、中に具が入っていたのも分かった。ゆっくり噛んで味わい、飲み込んで、時々お茶を口に入れてさっぱりとさせる。二つ目の半分ほど食べたところで、日向がベッドの上に散らばっていたリストに気付いた。「あれは?」僕は答えに窮した。融和派のことを教える訳にはいかない。僕の過去のこともだ。何故なら、融和派の言うことを信じるんじゃあないけれども、彼らの多くはかつて溺れた経験があると言っていた。そこを深海棲艦に助けられたと。なら、もし僕も溺れたことがあると、そして誰に助けられたのかはっきりしないと知られたら、どうなる? 日向はもしかしたら、融和派が溺死同好会の集まりだと知らないかもしれないが、知っていたら? 彼女がそれを提督や、僕の知らない誰かに伝えたら? 日向は戦場では信頼できる。僕は彼女の背中よりも頼りになり、安心感を与えてくれるものを、ほとんど挙げられない。厳しいが、優しさもある。第一艦隊の誰か一人と困難な任務に赴くよう言われたら、僕は隼鷹や響でなく、日向を選ぶだろう。友情で生き延びることはできないからだ。あ、吹雪秘書艦でも何とかなる気がする。彼女だったら僕を置いて出撃して、一人で全部片付けて帰って来るんじゃないかな。

 

 が、それらの信頼は全て戦場でのものだ。そこから退き、日常生活を舞台にした時、日向は戦場でのそれと同程度の信頼ができる相手か? 食事まで持ってきてくれた相手にひどいことを考えているのは分かっている。でも、失敗できないのだ。これはゲームじゃない。しくじったら、人生の終わりを見ることになる。折角、この前は助かったと思ったのにだ。僕が答えないのを見て、日向は彼女の推測を口にした。それが僕を救ってくれた。

 

「この前、遠征か何かに行っていたな。それ関連か?」

「ああ、それ関連だよ。それよりこのおにぎりの具、これも日向が作ったのか?」

 

 話題逸らしが露骨すぎるきらいもあるが、仕方ない。

 

「そうだ。うまいか?」

「とってもね。料理が得意らしいな」

「昔取った杵柄さ。たまに食堂の手伝いもやっているから、腕に錆はない」

 

 食堂の手伝いを? それは凄いな。とすると、僕は知らずに日向の手料理を食べていたかもしれないのか。胸が熱くなるな。これからは欠かさず食堂でご飯を食べようという気持ちにさせられる。「僕も料理を始めてみようかな」と呟くと、日向は軽く頷いて言った。「趣味を持つのはいいことだ」その意見には賛成だ。艦娘になるまでは、将来提督になるつもりだった僕は趣味を持つ余裕がなかった。勉強、鍛錬、その二つが人生の大半を占有していたのだ。艦娘になるとその二つの内、一つからは解放された。けれど、趣味の始め方を知らずに成長した僕は、訓練所と広報部隊で覚えた酒を除いて、それらしい趣味を見つけることができなかった。料理か……趣味と実益を兼ねられて、いいんじゃないか? 僕は興味を持ち始めていた。

 

「始めたとして、上手に作れるようになったら、きっと日向に夕食をご馳走しよう」

「楽しみにしているよ。さて、そろそろ行くとするか。お茶をありがとう」

 

 これが隼鷹ならどういたしまして、と言って放っておくが、今日のお客は彼女じゃない。僕は食べかけのおにぎりを置いて、彼女を戸口まで送った。数歩の距離だが、果たすべき礼儀だ。部屋を出たところで日向は振り返って、「じゃあ、お休み」と言った。僕は頷いて、また明日、と返した。本当に明日会えるかは分からないが、この言葉に込められた意味はそれだけじゃない。また明日、相手に会いたいと思っていることをも伝えているのだ。会いたくもない奴にまた明日とは言わないだろう?

 

 部屋の中に戻り、日向の作ってくれたおにぎりの残りを食べた。持ってきてくれた時と比べると冷めてしまっていたが、それでもやっぱり、おいしかった。食べ終えて、リストの続きに取り掛かる。気づきもせずに一日中やっていただけあって、かなり減っていた。これなら、今日中には無理でも明日、出撃から帰って来た後には片付くだろう。

 

 出撃という言葉で考え込んでしまう。僕の所属している研究所は、艦娘を用いた対深海棲艦用の新戦術を実験する為に設立されたものだと聞いているのだが、今日までにそんなことをやった覚えがないのだ。もちろん、新戦術なるものが(それが実用に耐えないようなものだったとしても)ぽんぽんと雨後の筍のごとく現れる訳がないことは分かっている。ここに来てから一年どころか、半年と経っていない。だからだと言われればそれまでなのだが、そろそろ一つや二つ、出てきてもよさそうなものだった。過去にどんなものがあったか、伊勢に聞いてみたことがあるが、機密指定されていて同じ研究所の仲間であっても漏らしてはならないそうだ。原則として知る必要のない人間には知らせないでおくべきだという、軍が大好きな古きよき(Good Old-fashioned)スタイルである。ま、軍隊は僕の好奇心を満たす為に存在している訳ではない。望みが叶わないことに癇癪を起こす年も、はや過ぎて久しい。僕は我慢のできる子なのだ。

 

 ところで、おにぎりは米でできている。これは広く一般にそういうものだと認識されているという意味であって、この世全てのおにぎりというおにぎりが、その構成要素の最後の一粒に至るまで、言葉通り端っこのへげへげのところまで百パーセント、天地神明に誓って余すところなく米なのだという意味ではない。もしそういう意味だとしたら、海苔を巻くだけでそのおにぎりはおにぎりではないということになってしまう。これは到底、受け入れられることではない。

 

 形而上学におけるおにぎりについては放置しておくとして、ここで僕が取り上げたいのは、概ねおにぎりというものは成分として炭水化物を多く含んだ食べ物であるということなのだ。それを短時間に、大量に、ぱくぱくと素早く食べてしまうと、何が起こるか? 中学までの知識でも分かった。ブドウ糖などへの分解、吸収、血糖値の上昇、そしてインスリン分泌による低血糖だ。人間の体というものは上手くできている。芸術品と言ってもいい。だが融通は利かないし、時には身を守ろうとして自殺しようとするほど愚かなのだ。低血糖は強烈な眠気を引き起こす。こればっかりは、艦娘でも逃れ得ないらしい。それとも重巡程度では、というだけで、正規空母や戦艦になるとその辺も結構何とかなるのか? 誰かに聞いてみたいことが一つ増えたが、それよりも眠かった。僕は自分がひどい休日を過ごしたことを嘆きながら、ベッドに身を投げ込んで泥のように眠った。

 

 アラームが鳴って起きてまず感じたのは、悔恨だった。食べてからすぐ寝るのはよくない。どうにも、胸のところがもやもやした。小学生の頃はそんなことなかったんだけれども、成長と老化はそう違わないらしい。僕は胸をさすりながらベッドを出て、片付け忘れていた昨日の急須にお湯を継ぎ足してもう一杯お茶を飲んだ。最初の抽出で旨味成分が全部出てしまうほうじ茶だから、味は昨晩と比べることもできなかったが、それでも色と香りがあるだけ水より飲みやすく思えた。今日は出撃任務だ。今は◯七◯◯、出発は◯八三◯の筈だったが、確認をして悪いことはない。僕は予定表を調べてみた。すると、自分が思い違いをしていたことが分かった。出発は一一三◯だ。四時間半も間が空いてしまったが、やることはある。

 

 眠気のせいで中断していたチェックを再開する。もう残り少ないが、まだ僕を助けてくれた艦娘には出会えていない。おかしいぞ、と警告を発する僕がいる一方で、後少しで僕の救い主、僕がここにいる理由を作ったあの人をまた見ることができるのだと、楽観的な意見を述べる僕もいる。どっちに味方するべきか……どちらも正しいことを言っているように感じられたが、未チェックのリストが印刷された紙が減っていくにつれて、後者の声はより小さく、前者の声はより大きくなり始めた。融和派の魔手が軍のデータベースにまで達しているとは考えづらい。閲覧や印刷が僕のクリアランスでもできたほど、重大ではないと見なされていた情報だったが、軍は重要度が低いからと言ってその改ざんを許すような組織ではない。なら、僕を助けたあの人はいなかったというのか? 薄まってしまった記憶の中にいたあの人は、実在しなかった? そんな訳があるか、融和派の言ったことはおためごかしの大嘘だ。あいつらは僕を味方に引き入れようとしていた。深海棲艦が人間を助けるだなんて言って、融和派の深海棲艦もいるだなんて言って。事実はどうだ? 前者は知らないが、少なくとも後者は違った。港湾棲姫は僕を殺そうとしたじゃないか。あの鉤爪で引き裂こうとしたじゃないか。名前も知ることのできなかったあの“三番”がいなかったなら、僕はあそこで死んでいたんだ。

 

 とうとう、リストは最後の一枚になってしまった。僕はそれを見た。そうして、その紙を破り捨てた。僕を助けてくれた艦娘はそこにいなかったのだ。

 

 どういうことなんだ? あの人がいないなら、それじゃあ一体彼女は誰だったんだ? 僕の手を取り、海の底に沈む運命だったこの生命を救い出してくれたあの人は、僕が生み出した幻の記憶だとでも言うのか。

 

 シャワーを浴びに行き、服を替え、一旦戻って歯磨き用品を取り、共同洗面所に向かう。誰かに会って、僕が体験した、してしまった全てを伝えたかった。楽になりたかった。けれど、僕の臆病さがそれを許さなかった。苦しかったとしても、僕がこれまでの人生でよすがにしてきたことが不確かになって脆く崩れ去っても、生きていたかった。この件についての選択は、一つ一つが本当に自分の命を左右するものなのだ。いや、自分だけでなく、他の誰かの生命までをも左右するかもしれない。僕には、そんな決断を自分から下す度胸がなかった。

 

 艦娘としてなら、決断できる。戦場で天龍たちを庇う為に、命を危険に晒した。あれは僕が、戦場に立った艦娘だったからだ。あの時の僕は艦娘としての判断をしたのだ。でも、艤装をつけていても、艦娘ではなく僕個人としてあそこにいたら、きっと僕は天龍たちを見捨てただろう。自分の命惜しさに、同期を死なせただろう。そのことを恥じ、後悔し、それでも心の何処かで「だって仕方ないじゃないか、死にたくなかったんだ」と言い訳して生きていっただろう。僕はそんな人間だ。自分のことくらい、分かってる。僕は艦娘だ。けれど、いつでも艦娘である訳ではないのだ。



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「第二艦隊」-4

 共同洗面所には伊勢と日向、それに足柄がいた。あんまりよく見る組み合わせではないが、仲はいいようだ。邪魔するようになってしまったが、気にせずに歯を磨かせて貰おう。今は僕に向けられる悪意さえ日常のものに思えて、僕をほっとさせるのだ。まあ、足柄は特別僕に敵意を向けてくる方ではないので、その狙いは外れたが。歯を磨き終わったら、艤装を整備しようと決める。一人で悩んでも解決できないことで、しかも相談もできないなら、懊悩(おうのう)するだけ無駄というものだ。容易に忘れてしまえることではないが、努力はしてみよう。昨日もやったことだ、不可能じゃない。

 

 口をゆすぎ、冷水で顔を洗う。マシな気分になった。近くの鏡で自分の顔を見てみる。少し血の気が引いている感じはするが、最近はずっとこんなものだ。ストレスのせいかもしれないので、カウンセラーのところに……ダメか。話せないことが多すぎて余計にストレスを溜めそうだ。

 

 工廠に行くと、朝から明石さんが忙しそうにしていた。彼女にはナイフの用意を始めとして、多くのことで世話になっている。手伝えることはないだろうが、せめて仕事の妨げにはならないようにしよう。そう考えて、僕は自分の艤装を工廠の片隅で整備し始めた。工作艦でもない艦娘本人ができる整備などたかが知れているが、これを疎かにする者はベッドの上では死ねないと那智教官が言っていた。僕は彼女を信じるままに自分での簡単な整備・調整を習慣にしていたが、最近になってやっと分かり始めた。艤装をいじる過程で、様々なことが体に染み付くのだ。より滑らかに動かす方法、どれだけの負荷に耐えられるか、正確な限界出力、機関の癖。

 

 そういったものを身につけているかどうかが、生死を分けることがある。それも、教官の言葉通りだとすれば、びっくりするほど頻繁にだ。艤装の整備は友達と遊ぶほど魅力的な時間の使い方じゃないが、一時間やれば一時間分、二時間やれば二時間分、自分の装備について知ることができ、人生を長く楽しめるようにしてくれる。彼女(艤装)は、公平な取引相手なのだ。僕も誠実に向き合おう。

 

 僕と艤装との油臭い語らいは、出撃前の軽い打ち合わせが工廠で始まるまで続いた。作戦目標と行動指針の伝達だけなので、数分で終わるようなものだ。第一艦隊なら組の確認などもあるのだが、第二艦隊は第一艦隊と違い、バディ制を使わない。艦娘一人が二人分や三人分の働きをするように求められるのだ。そんなの無理だろ、と僕は思ったものだが、放たれた敵弾を飴玉みたいに弾き飛ばして物ともしない長門や、彼女とは反対に特別なことは何一つしていないにも関わらず、どんな敵も相手にならない妙高さんを見てその考えは揺らぎ、川内や足柄、羽黒、それに加賀の戦う姿を見て「そんなの無理」なんじゃなくて「僕には無理」なのだと気づいた。

 

 それでも彼女たちに近づこうとはしている。微速前進でも、前進は前進だ。生きて歩みを止めなければ、いつかは、長門も顔を苦渋でしわくちゃにしつつ、僕がそれなりにモノになったことを認める日が来る。長門の公平さについて、僕は一切考えを変えていなかった。彼女はとびきり美人で、素晴らしい艦娘で、よい旗艦だ。単に、僕のことをめちゃくちゃ嫌っているだけだ。やれやれ、考えるだけで憂鬱になる。

 

 明石さんは出撃前に艤装の最終確認をしてくれた。余程のことがなければ、彼女はこれを欠かさずにやってくれる。吹雪秘書艦によれば今までにこの簡単な検査で問題が見つかったことはないそうだが、それでも出撃する僕らにしてみれば、工廠の大ボスたる明石さんが直接見てくれるというのは、安心を与えてくれるものだ。そして、安心とは兵士(艦娘)が戦場に出た時、何よりも多く持っていたいと思うものなのだ。その為には、どんな変なことでもやる。訓練所の同期のある艦娘は、十九で艦娘に志願したのだけれども、民間人時代の恋人に貰ったという彼のベルトを加工して、首に巻いていた。ちょっと大きなチョーカーみたいな感じでだ。彼女はそのベルトの持つ神通力を信じており、それがある限りどんな不運も跳ね返せると考えていた。国外の泊地にいる彼女が今どうなっているか分からないが、生きていればまだ巻いているだろう。

 

 安寧への欲求は、荷物の多さでも推し量ることができる。例えば長門だ。大戦艦にして第二艦隊旗艦の彼女は、艤装の他に希釈修復材入りの水筒しか持っていない。この研究所に所属する艦娘としては、標準仕様だろう。彼女には全幅の信頼を寄せられる艦隊員が()()もおり、自分にはそれで足りると知っているのだ。ナイフなし、余剰医療品なし、問題なしだ。彼女らしいと思う。

 

 翻って僕を例に取ってみよう。重巡、臆病、悲観主義、嫌われ者。そんな僕には余分の「安心」が必要だ。だから希釈修復材で満たすと二キロになる水筒に加えて、四百グラムのナイフ、五百グラムのサバイバルキット、天龍の艦隊の駆逐艦たちが持っていたような個人用医療品三百グラムを持っている。ついこの前までは予備弾薬も持っていたが、戦闘時に誘爆しそうになって危うく死ぬところだったので、それは外した。許可さえ下りれば艤装の塗装や僕の艦娘としての制服も海上迷彩柄にしたい。砲弾の破片から身を守る為のヘルメットやベストも欲しい。給料はなくなり、隼鷹や響と飲む回数も減るだろうが、それでもだ。

 

 今回の出撃は特別なところのない、索敵&殲滅型の任務だった。つまり深海棲艦の勢力圏に侵入し、敵の艦隊を見つけ、弾薬と燃料が続く限り戦い、自分たちは死なずに戻ってくるというものだ。制海権というのはこれの繰り返しと、要衝制圧の上に成り立っている。何としてでもこれこれせよというような目標がなく、敵を殺して生き残ればいいだけなので、僕としてはありがたい形式の出撃だった。

 

 出撃用水路を通りながら、僕はウェストポーチに入れておいた日焼け止めを塗った。出撃の前に塗らないと、その日の夜は痛みで寝られない覚悟をしなければいけないのだ。肌の弱さが気になるようになったのは艦娘として戦場に出るようになってからなのだが、これは多分、海上というロケーションの問題なのだと思う。何しろ海は水の集合だ。直射日光だけでなく、海面で反射した光までが僕の肌を襲い、紫外線で以って攻撃してくるのだろう。他の艦隊員の進路を妨害しないよう、最後尾に立って入念に塗りこんでいると、横に誰かが立った。それはままあることだ、水路は戦艦が心配せずに通れる程度には広いが、六人が横一列になれるほどではない。第二艦隊の誰かが僕の横に来るのも、初めてじゃなかった。初めてだったのは、その誰かが僕に話し掛けてきたことだ。

 

 しかもそれは、加賀だった。

 

「それは?」

 

 彼女が僕の日焼け止めのことを訊ねているのだと即座に了解できたのは、僕が彼女から感じていた大きな恐怖のお陰かもしれない。生命の危機に際しては、人間は十割の能力を発揮するものだという。その時僕に発現したのも、そういった働きに違いなかった。声が裏返らないように軽い咳払いをしてから、落ち着いた風を装って答える。「日焼け止めだよ。肌が弱くてね、塗っても結局は赤くなるんだけど、塗らないともっとひどいから」「そう。きっと、あなたの肌に合っていないのね」「そうなのか」僕は二つのことに驚いた。肌に合っていない、か! 考えてみれば、その通りらしかった。僕はずっと、自分の肌が弱すぎて日焼け止めの効果を以ってしても守りきれなかったのだと思っていたが、そもそもその日焼け止めが僕を攻撃していたのかもしれない。そしてそのことを加賀が教えてくれるとは。前を見て、他の艦娘たちが十分に僕たちから離れているのを確認する。それから、歩み寄って来てくれたのだろう加賀が、また僕から距離を取るかもしれないことを恐れながら、僕は一歩踏み込んだ質問をすることにした。

 

「アドバイスありがとう、それで……どういう風の吹き回しかな? 僕たち、こんな具合に話し合う関係じゃなかった気がするんだが」

「そうね、はっきり言うと、私もこうして自分があなたと話しているのを不思議に感じているわ」

「じゃあ、どうして?」

「私の手を掴んで、海から引き上げてくれたわね」

 

 僕は前回の戦闘のことを思い出した。ああ、僕の警告を聞いて咄嗟に海へと身を投げ出した彼女を、引っ張り上げてやった。当然のことだ。あの時の彼女の状態では自力で海上航行には戻れなかっただろうし、そうなれば待っているのは確実な死だ。加賀を失えば、第二艦隊の戦闘能力は格段に下がる。提督はキレるだろうし、長門たちは僕のせいにするかもしれない。しかも、その説にはそれなりの説得力があるのだ。となると助けない手はない。それに、そういった損得勘定を抜きにして、友軍を救助するのは当たり前のことである。僕には誰かが死ぬのを眺めて楽しむような趣味はない。助けられるなら、戦場でのあらゆる死から戦友たちを守りたい。僕を嫌っているからって、死んでいいってことにはならないだろう。僕にとって嫌な奴であるということは、「死んで償え」と言えるような大罪じゃない。武蔵はひどい女だし長門は失礼だが、彼女たちがそう望む限り生きていて欲しいと思う。僕の友人たちは、この態度を優しいと言ってくれるだろうか? だったらいいな、褒められて悪い気はしない。僕は微笑を浮かべて加賀に言った。

 

「何だよ、それが意外か?」

「ええ」

 

 面食らって、口を引き結ぶ。彼女も大概、礼儀をご存じないようだ。僕がそんな男だと判断するのは、百歩譲っていいとしよう。というか、僕に左右できることではない。でも、そういう人格の持ち主だと評価するなら、ちゃんと何らかの根拠に基づいてやって欲しい。こういった事情がある、こういった理由がある、こういった事実がある、よって、お前はとんでもない奴だと誰かが言ったとする。筋が通っている限り、僕はその主張を尊重しよう。結論が僕の好みでないからと言って、感情的に反論したりはしない。あなたのその主張を支える論拠のここはこのように間違っている、という風なことは言っても、決して「違う、お前こそとんでもない嘘つきだ」なんて、口喧嘩の域にも達さないようなことは言わない。とにかく、筋を通して欲しいのだ。誠心誠意、僕に理解させようとして欲しいのだ。心から納得して、「なるほどあなたの言う通り、僕はどうやら生まれてこない方がよかったようだな」と思えるようにして欲しいのである。それは大それた願いか? いいや、そんなことはない筈だ。

 

 加賀は僕の表情を見て、この傷つきやすい少年が何を感じているか察したようだった。

 

「ひどいことを言っているわね。分かっているわ、でも本当に、そう信じていたのよ。あなたが私を助けようとするなんて、小指の先ほどにも思わなかったの」

「だとしても、驚かないね。ところで君は君の発言で心を痛めている男にとどめを刺したいのか、それとも彼の痛みを和らげてあげたいのか、どっちなんだ? 僕にはよく分からないんだが──ああ答えなくていいよ、聞くのが怖いから」

「でも、あなたは助けてくれた。そのことであなたを好意的に見るようになった訳ではないわ。私は……何を理由に私は、あなたが私を助けないと確信していたのかしら? どう考えても、理屈に合わないの。そんなのは誰だって気に入らない、そうでしょう? それで、軽く話でもしてみたら分かるかと思ったのだけれど、期待外れだったわね。もちろんそれは、あなたのせいではないけれど」

 

 水路の終わりが見えてきた。出口を抜ければ、そこは海だ。海は戦場であり、加賀との心躍る会話を楽しむ場所ではない。そこは僕が敵を殺し、敵が僕を殺そうとする場所だ。僕は僕の戦争が終わった時のことを考えずにはいられなかった。そんな場所で少年の多感な時期をそこそこの期間、過ごしてしまった。家に帰った時、僕はそこを家と思えるだろうか? まあ、生きて帰れるかどうかも分からない身で考えるようなことではないか。

 

 加賀から離れる為に、速度を上げる。彼女は付いてこようとはしなかった。しかし僕は感じていた。彼女が僕を見る目には、もうかつて僕の心胆を奪ったあの敵意が宿っていないことを。今や、加賀は遥かに優しい嫌悪と興味をその双眸にまとわせていたのだ。あえて僕自身にはっきりさせておくなら、そこに好意なるものは微塵たりとも含まれていなかった。彼女は何処までも自分の納得の為に、僕を憎悪することをやめたのだ。つまりこの先、彼女が僕に対してそうするに値する何かを見つけ出してしまった時には、僕は再び憎まれる日々を迎えることが約束されていたのである。

 

 だが普通に考えた場合、そこまで嫌われるようなことをするというのも難しいものだ。僕は加賀と一定の関係改善を行うことができたと見ていいだろう。これはまさに僥倖だった。彼女は第二艦隊の二番艦であり、旗艦の補佐、陸軍で言えば少尉殿にとっての軍曹だ。そういう存在からの扱いが向上すると、周りの連中もそれに倣ってくれる。川内が僕にオススメの日焼け止めを教えてくれることはないだろうし、羽黒が僕と簡単な会話を楽しむ日も当分は来ないだろうが、少なくとも悪化することはない。僕は久しぶりに幸せな気持ちで海に出ることができた。

 

 ハッピーすぎて敵潜水艦に雷撃食らうまではな。でも直前まで気づかなかったのは僕のせいじゃないと言いたい。じゃあ避けられなかったのは? 誰のせいだ? うーん、こっちは僕のせいでいいだろうな。というか、そうでないと困る。

 

 攻撃が来た方角の警戒は長門の担当だった。彼女がわざと見逃したとは思えなかった。正確に言うと思いたくなかった。信頼した相手を疑うことほど辛いことは多くない。雷撃されたとはいえ水面への発砲で信管を作動させ、直撃だけは何とか避けたお陰で、僕の艤装、特に脚部艤装は軽傷で済み、潜水艦は迅速に処理された。六人の艦娘に単騎で攻撃を仕掛けてくる度胸は認めるが、賢いとは言えない。その艦隊の構成員の大半が、対潜能力の低い艦種でもだ。

 

 僕は安堵の溜息を吐いてから、歯軋りしつつ長門に詰め寄り、訊いた。「見えなかったのか?」危うく足を一本飛ばされかけたということが、精神的に余裕のない状態に僕を置いていたのだろう。腕と違って足をやられるのはヤバいんだ。それは脚部艤装こそが僕らや人型深海棲艦の多くに水上での行動能力を与えているものであって、それを失うということは戦闘能力を失うこととほぼ同義だからである。足でなければ、こんな風に突っかかりはきっとしなかった。でも長門がここで「見えなかった」と言っていれば、僕はそれで引っ込んだのだ。それは僕がいつでも彼女の言葉を信じたいと思っていたからだ。が、返って来たのは「索敵や警戒に絶対などない。隊列を乱すな」という、冷たい(だが落ち着いて考え直してみればある程度正当でもっともな)一言だった。

 

 僕も日々大人になりつつある。苛立ちの中でさえ長門の言葉の正しさを認め、元の位置に戻ることができた。ただその為には、子供っぽい怒りが肉体を支配しようとするのに対して、猛烈な勢いで抗わなければならなかった。彼女は僕の問いかけに答えなかった。言うまでもなく、旗艦は艦隊員たちにとっての直属の上官だ。部下の問いに答えない権利も持っている。だがそれをこのシチュエーションで使うとは、と思わざるを得なかった。小さな失望を抱えながら、僕はその日の戦闘任務をこなした。情動的な問題からか、動きは精彩を欠いていたように思う。腹と肩に合わせて何発か被弾した他、機銃弾が掠った右目が見えなくなってしまった。

 

 嬉しいのは艦娘の体にとって失明は大したことではないという点で、適当な治療があれば視覚を取り戻せるのだ。例外は天龍のような、元から隻眼の艦娘だけである。僕は戻ってきたドックで治療を受けながら考えた。天龍は人間の時も隻眼だったのか、それとも艦娘になる時に妖精に潰されたのか、あるいは実はあの眼帯の下に健康でつぶらな瞳が隠れているのだろうか。眼帯をめくって見てみたい気もした。でも脳内シミュレーションでは百回に百回嫌がられ、挙句龍田が何処からともなくスッと現れて僕を二秒で三枚に下ろして立ち去っていくので、我慢した。何でもしたいことができるのは、民間人だけだ。僕は違う。艦娘は民間人ではないのだ。戦争が終わるまでは。

 

 そして今のところ、この戦争の終わりを見た艦娘は死んだ者たちだけだった。※58

 

 加賀と話をした次の日、どういう訳か提督が急に出撃を取り消しにしたので、暇になった僕は青葉に電話をした。彼女が忙しいのは分かっていたが、友達の声を聞きたくなったのだ。それも、聞きたくなったらいつでも聞きにいける隼鷹たちの声ではなく、滅多なことでは耳に入れられない彼女の声がよかった。研究所内の協同電話スペースに行き、小銭を入れ、番号を押す。新聞のネタ募集用の番号を私的に利用するのはよくないだろうが、一回ぐらい許してくれるだろう。電話は四度目のコールで繋がった。「はい、こちら海軍本部付広報部隊所属特別記者の青葉ですっ!」途端、元気な声が僕の耳朶を打つ。受話器の距離を調整して、将来の難聴を防いでやらねばなるまい。

 

「僕だ、分かるか?」

「もちろんですよ、お久しぶりです! あの時は紹介状をありがとうございました!」

 

 研究所に転属した初日の時のことだろう。僕は見える筈もない相手に手を振って、そんなのは何でもないことだ、という考えを表現した。「榛名さんや曙とはまだ付き合いがあるのかい?」「ええ、お二人とも青葉の新聞の愛読者ですよ。榛名さんなんか、今度一回だけの読みきりですけど、小説を寄稿して下さるんです!」それはいやがうえにも僕の期待を膨れ上がらせる話だった。「過去に書いたものを何作か読ませていただきましたけど、どれもとっても面白かったですから、待て次号、ですよっ」「楽しみにしてるよ、榛名さんの小説も、青葉の記事も」「えへへ、恐縮です。これからも青葉の新聞をよろしくね、なんちゃって……あ、そういえばどんなご用件ですか? 何か特ダネですか?」電話越しにも分かる。青葉は今きっと、目をキラキラとさせているだろう。この質問にシンプルな肯定で返すことができないのが心苦しかった。

 

「面白い話ならあるんだけど、できれば直接会って話したいな」

「あれあれ、もしかして、青葉口説かれちゃってますか?」

「それは誤解だけど、もしそうだって言ったら会いに来てくれるかい? それならそういうことにしようと思うんだが」

 

 僕らは笑った。青葉は僕を丁重に扱ってくれて、予定表を確認してから残念そうに「あーっ、暫くは無理ですねえ」と言ってくれた。有能な記者である彼女が、自分の当面の予定を把握していない訳がないにも関わらず、だ。奇妙なことだが、この時僕は落胆するよりもむしろ安心したのだ。青葉と会って話せば、何かの拍子にふと魔が差して、赤城から言われた通りにしてしまっていたかもしれない。青葉は友情からではなく、ジャーナリストとして第一に必要なもの、有り余るほど旺盛な好奇心から、僕に協力したかもしれない。でも、そのどちらも彼女が僕に会わないことを決めたお陰で、「かもしれない」を抜け出せないままになることが確定した。

 

 忙しいだろうに、青葉は十五分も彼女の時間を割いてくれた。回線を繋ぎ続けておく為には追加の小銭を投入せねばならず、千円ほど使ってしまったが、その価値は絶対にあった。それにどうせ、惜しんで持っていてもこれ以上によい使い道などない千円だ。悔いはなかった。友達の、青葉の元気な声が十五分聞ける。たった紙切れ一枚分のはした金でだ。彼女の被る迷惑のことを考えないでもよかったなら、僕は毎日電話を掛けただろう。それでも月に三万円しか掛からない。飲酒量を今の三割ほどに減らせば容易く用意できる額だ。

 

 電話ですっかり気分をよくした僕は、そのまま工廠に向かった。前回の戦闘で艤装が破損したので、明石さんから修理状況を聞いておきたかったのだ。僕の艤装は妖精によるワンオフ品であるだけあって、正式な整備には手間が掛かる。大まかなところは工廠の妖精が彼ら彼女らの謎技術でどうにかしてくれるが、細かいところは人間と艦娘の仕事だ。で、困ったことに、その細かいところを整備するのにはそれ以外の全部を片付けるよりも長い時間を掛けなければいけないのだった。これは明石さんの腕が悪いからではない。僕ら人類の技術が、妖精たちのレベルまで達していないというだけだ。全く、奴らは深海棲艦よりも気味が悪い。敵ならいいんだ、撃ったら片付く相手だからな。だが味方なのだ。それが実に怪しい。ま、怪しんだところで妖精たちに頼らねば人類の防衛は成らぬという状況では、その疑心を満足させてやることはできそうにない。

 

 工廠ではいつも通り、明石さんと夕張が忙しそうにしていた。僕は少しの間だけ、資材や機器の陰に隠れて二人の様子を見ていた。活き活きとして、楽しそうだ。彼女たちは深海棲艦を相手にして戦っているより、こうして工廠で機械や艤装を相手に彼女らの手練手管を振るっている方が好きなのだろう。好きなことをできるというのはいいものだ。夕張が彼女の担当の仕事を片付ける為に明石さんから離れたところを見計らって、工廠の大ボスに話しかけた。彼女は柔和な笑みで僕に挨拶をして、用件を言い出す前に艤装のところへと連れていってくれた。「もう修理はほとんど済んでいますよ」と彼女は言ったが、その表情は余り明るくないし、ほとんど、という表現を用いた。つまり修復が完了してはいないと言っているのだ。「何か問題ですか?」と訊ねる。「いえ、海にも出られるぐらいなんですが、その、GPSがですね」僕は納得した。

 

 GPS、即ち全地球測位システムは艦娘の艤装に必ず取り付けられている。理由は言うまでもない。それがあるとないとでは、艦娘の生存率にも大きな違いが生まれるだろう。深海棲艦は宇宙にいる相手には手出しできないので、衛星が落とされる心配もなかった。艦娘の技術が確立される前の米国ではそれを利用して、ここぞという時には軌道上からの運動エネルギー爆撃で深海棲艦を始末していたそうだ。彼女たちの肉体は圧力に比例して強靭になるが、それにも限界がある。その限界を超える圧力の前では、深海棲艦とて滅びる他にない。アメリカ人らしいやり方で、好感が持てた。前に青葉から聞いたところでは、月面にマスドライバーを設置し、地球の深海棲艦目掛けて月の岩を投げつける※59という計画もあったらしい。ある海軍中尉の名前を冠されたその計画は、しかし着手前に艦娘関連の技術が発展してしまった為に、お蔵入りしたのだとか。

 

 とまあ、それはいいとしてだ。僕らの艤装に取り付けられているGPS装置の問題は、壊れやすいという点に尽きる。ひどい時には自分の発砲の衝撃で壊れるのだ。どうして軍がそれを改善しないのか分からない。この前に行った飲み屋で知り合った技術屋は、そのことに話が及ぶと急に顔を真赤にして癇癪を起こした。触れてはならない闇を感じて、僕は技術畑の人々にはもう二度とその話をするまいと誓った。でも、壊れやすいのは本当に困る。しかも、修理には大抵の場合特殊な部品が必要で、これを取り寄せるには書類を二束は書かなくてはいけない。いや、今のは言いすぎだな。実際には四、五枚も書けばいい。それだけ書けば一種類の部品が手に入る。需品部を讃えよ、真に偉大な官僚主義組織では、手続きさえすれば何でも手に入るのだ──しかしそれはそれとして、修理に必要なのは何種類かな? なるほど、八種類……腱鞘炎になりたくないなら、パソコンで書類の処理をすることを覚えるがいい。

 

 全体的に大げさな表現を使ったが、GPS装置の持つ問題は「壊れやすく、部品の入手も含めて、修理には大変な手間がかかる」という点なのである。だから、僕らはこのろくでなしのちっちゃな機械をがらくたと言ってけなしたり、あるいはもっと気が利いた名前として、こっそり「神の救済計画(God's Plan of Salvation)」と呼んでいたほどだった。因みにどうしてこっそりじゃないといけないかというと、当然第一艦隊所属の信仰者である響の気持ちを考えたからだ。僕らはあくまでGPSが当てにならないことを批判したいのであって、彼女の信仰を侮辱するつもりではなかった。だから、彼女が僕らの冗談を聞いて気を悪くしないよう、隅っこでこそこそと言っていたという訳である。

 

 部品は一週間以内には届くそうだが、役立たずのGPSが艤装にくっついてないってだけで一週間も出撃しないでいるなんて、とても無理だ。僕は明石さんに、艤装は修理完了しているということにしてくれないか頼んでみることにした。彼女は一度だけ断ったが、その行為がポーズだけのものに見えたので押してみると、あっさりと承諾してくれた。これでよし、だ。時間を見ると、お昼に差し掛かろうとしていた。誰かと昼食を食べたいものだ。一人より二人、二人より三人での食事が僕は好きだった。しかし第一艦隊は出撃中、第二艦隊は問題外、第三艦隊は長らく留守、第四艦隊の知り合いの内、夕張と明石さんはまだ忙しそうとなると、不知火か。不知火、またの名を不知火先輩……いい思いつきだ。それに彼女とはこれまで一対一で話をしたことがなかった。響やその他の誰かを交えての付き合いだった。ここいらで、彼女との関係を一歩前進させたい。変な意味ではなく。

 

 明石さんに彼女の居場所と、今は暇かどうかを聞いてみる。実のところ、僕は彼女が第四艦隊で何をやっているのかよく知らなかった。だから、今日この時間帯にこの研究所に残っているのかも分からなかったのだ。真面目そうだから、非番だったとしてもトレーニングなどをしているかもしれない。だが明石さんは「今なら部屋でだらだらしているところだと思いますよ」と言った。僕は思わずあのきりりとした少女が下着姿で怠惰な過ごし方をしている様子を想像してしまった。己の思春期らしい妄想の逞しさには恥じ入るばかりだが、想像で誰かを傷つけることはない。表情や言葉に出したり、妄想以外のものを逞しくしてしまったりしなければ、自由に楽しめて然るべき行為だろう。

 

 不知火の部屋の位置は知っていたので、そこに向かう。青葉に電話を掛ける前、起きた時にきちんと身嗜みを整えていたので、女性の部屋を訪ねるのに相応しくないと言われるような身なりではない自信があった。服も清潔、体だって爪先からつむじまで綺麗なもんだ。特ダネを掴めそうな時の青葉ほどキラキラしていないにしても、まさか目の輝き不備ということもないだろう。

 

 部屋のドアをノックし、僕は想像したような油断しきっただらしない格好で彼女が現れてくれやしないかと思いながら、扉が開くのを待った。中々開かない。何度もノックし直すのは失礼なので、待ち続ける。すると、戸板の向こう側から「ああもう、何なんですか一体」という声が小さく聞こえ、小気味いい音と共にドアが開かれ、不知火先輩が現れた。寝ていたところを起こしてしまったのか、まぶたは眠そうに半ば閉じられ、あくびを噛み殺そうとして頬がぴくぴくしている。トレードマークだと僕が勝手に考えているポニーテールも雑に結われただけで、ぼさぼさヘアーの域を脱していない。意識さえはっきりしていないようで、目の前にいるのが僕だとも分かっていないみたいだった。

 

「不知火先輩、お昼ご飯食べましょう!」



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「長門」-1

私は憎み、かつ愛す。何故かとお前は問うだろう。
私にも分からない。ただそうなるのを感じ、私は苦しむのだ。

──カトゥルス


「不知火先輩、お昼ご飯食べましょう!」

 

 これまでの経験から、彼女にはちょっと馴れ馴れしいぐらい人懐っこい後輩っぽく振る舞うと効果抜群だと学んでいた僕は、できる限りの親しみやすさを発揮しようと頑張ってみた。意図したよりもずっと軽薄な調子になってしまった気もしたが、対人関係で大事なのは気後れや無用の遠慮をしないこと、それから小さな失敗は気にしないで突き進む豪胆さだ。ただし、気にしないで、とは言ったが、忘れてはいけないことは当然である。失敗は正されなければならないし、仮にも人間を名乗るつもりなら、そこからは大いに学ぶべきだろう。

 

 不知火先輩は僕の元気な声で僅かに目を覚ましたようで、両目を開いて僕を見た。それから自分の格好を確かめると「少し待ちなさい」と言って部屋に引っ込んだ。僕にはその指示に応答する暇も与えられなかったが、答えは決まっていた。女性に待たされることに文句を言うような奴は、経験か諦めのどちらかが足りないのだ。僕はその両方を沢山持っていたし、それに不知火は隼鷹と同じで、身の回りのことをてきぱきと進めることのできる女性だった。

 

 一時期は軍所属の女性ならみんなこうなのかと思っていたが、この種の女性の対極にあるのが伊勢で、彼女は僕のその誤解を訂正してくれた。以前の戦術的助言の礼として、彼女を甘味処に誘った時のことだ。伊勢は五分待ってくれるようにと彼女の部屋までやってきた僕や隼鷹に頼んだのだが、全ての準備を終わらせて出てきたのは予定の十二倍も時間を使った後だったのである。僕と隼鷹は部屋の前から離れる訳にも行かず、仕方ないからぐだぐだ喋って時間を潰さなければならなかった。もし、もう十分も伊勢が用意に時間を掛けていたら、隼鷹は懐のスキットルを取り出していただろう。僕だってそのご相伴に預かった筈だ。

 

 扉がもう一度開くと、そこにはいつもの落ち度皆無な不知火先輩がいた。完璧な比率で蝶結びにされた紐ネクタイ、半袖シャツに薄手のベスト、白い手袋、スパッツ。個人的に注目したいのは手袋とシャツの袖の間に見える、彼女の腕部である。ほどほどに筋肉のついたそこは、目で見るだけでその硬さと柔らかさ、相反する二つの要素を僕に感じ取らせしめる。不知火先輩は気づいていないようだが、彼女は優れた彫刻家が()の全霊を込めて作り上げたかのような腕を持っているのだった。

 

「では、食堂へ行きましょうか」

 

 並んで歩きながら、話をする。彼女は僕が一人で誘いに来たことに興味を持っているようだった。隠す必要もないことなので、素直に一対一で話をしてみたかったからだと答える。深読みしようと思えばできる返事だったな、と言ってから思ったが、不知火先輩は気にした様子はなかった。よかった、好意を持たれることは嬉しいものだが、その好意が余りにも大きいと、却って気持ち悪いと感じられることがある。人付き合いにおいて、極端はよくないのだ。僕は自身をあらゆる点において仏教徒ではないと認識しているが、仏教の中道を行くという姿勢には強い共感と賛意を覚える。まあ、日本人的なメンタリティが白黒どっちつかずの態度をよしとしているだけだ、という推察も、そこそこ確からしいものではあるが。

 

 食堂に行くと、つい最近見たことのある艦娘の姿があった。天龍隊の二番艦、浦風だ。彼女と一緒に二人、駆逐艦娘もいた。この研究所に連れて帰った二人ではなく、輸送艦隊と共に脱出した方である。第二艦隊が護送した二人は、天龍隊が戻って来る前にここを離れて単冠湾に帰っていたのだ。浦風は食堂に入ってきた僕に気づくと、席を立ってこちらにやって来た。手には僕の水筒が握られている。希釈修復材を入れていたものだ。

 

「無事だったんだな、よかった」

「ん……これ、ありがとうね。ようけ(沢山)使うて(使って)しもうたんじゃけど、えかった(よかった)かねえ?」

 

 そう言った彼女から渡された水筒は、空っぽになっていた。浦風は何処となく、申し訳なさそうな顔をしている。「いいさ。資材は補給できるが、命はそうは行かないんだからな」と僕が答えると、ほっとした様子で席に戻っていった。その歩く姿を後ろから眺める。足取りもしっかりしているし、一緒にいる二人の艦隊員も元気そうだ。食事をするスピードがそれを証明している。本当によかった、と思っていると、不知火先輩は僕が話している間ずっと後ろにいたのだが、僕の服を引っ張って注意を彼女に向けさせた。「おっと、すいません先輩」すかさず謝罪しておく。頭を下げるのは常に早い方がいい訳ではないが、今回はそうだ。不知火先輩は人がいいので、この程度のことならば一度謝ってしまえば、それ以上責めるのをやり過ぎのように感じてしまい、仕方ないですねなどと言いつつ許してくれるのである。

 

 食堂には人が大勢いて、席を探すのにも苦労する有り様だった。「困りましたね、先輩」「少し別の場所で時間を潰しますか」などと言いながらきょろきょろしていると、今度は定食が載ったトレイを持った天龍が、僕たちを見つけて声を掛けてきた。「今から食事か? 丁度ここが空くぜ、座れよ」くいっ、と顎で四人がけのテーブルの一つを示す。でも僕が見たところ、そこには軍属の研究所員たちが陣取っていた。

 

 と、天龍は彼らに近寄り、ドスの効いた声でその席を譲るように言った。その声ときたら、僕に向けて放たれたものではないと分かっていても、今すぐにその場から逃げ出したくなるほどだった。自制心が働かなかったなら、僕は不知火先輩の手を握ってしまっていただろう。深海棲艦と殺し合いをやっている艦娘である僕でさえそれだ。軍属程度が耐えられる筈もなかった。見る間に彼らは散り散りばらばらになっていった。楽しそうにけらけら笑いながら、天龍はどっかと腰を下ろした。「待ってるからよ、早く買って来な」僕は逃げ出したかったが、もしこの場から立ち去れば一生天龍の恨みを買うことになりそうだった。おまけで龍田による問答無用の断罪が付いてくるとなれば、従うしかない。

 

 券売機に並んで待つ間に、不知火先輩と天龍について話した。彼女は冷や汗らしきものを浮かべていた。

 

「あの天龍はあなたの知り合いですか?」

「訓練所の同期です。あんまり付き合いはなかったんですけど」

「それにしては世話を焼いてくれましたが……やり過ぎなほどに」

「確かに。推測ですけど、不知火先輩がいたからじゃないですかね。あいつ、訓練所では駆逐艦娘たちに慕われてて、よく面倒を見てましたから、先輩が食いっぱぐれるのを見てられなかったんですよ、きっと」

 

 天龍の威圧的な顔や態度にも関わらず、僕らの訓練隊の駆逐艦娘は多くが彼女に多かれ少なかれ世話をされていた。だがこれは天龍という艦娘の特性ではなく、彼女自身の魅力から起こったことだった。天龍は戦闘について、天性の才能というようなものを持っていたのだ。那智教官が彼女に「お前が軽巡でなく戦艦だったなら、面白いことになっただろうな」と言うのを聞いたことがある。才能が手伝って飲み込みが早かった天龍は、その技術を自分だけで独占したりしなかった。知りたがる誰にでも、根気よく教えた。例外は僕だけ。お互いに避けるようにしていたから、当然のことだった。今日だって不知火先輩がいなければ、こちらに声など掛けなかっただろう。先輩には推測だと言ったが、確信があった。天龍、彼女もまた、僕以外には優しい艦娘の一人なのだ。

 

 食券を買い、食事を受け取ってテーブルに戻る。僕は天龍の対角上にある席に座った。心理学的にも意味のある席の位置らしいが、今回は単に天龍の横にも前にも座る気になれなかっただけである。彼女も、顔を上げる度に僕の顔が目に入るのは嫌だろう。人々は気を遣い合わなければいけない。先輩は僕の隣に席を取った。

 

 僕らが席についた時、天龍はテレビを見ていた。戦況や深海棲艦の動向を、軍の行動に差し障りのない程度に説明している番組だ。それによると、現在は僅かに人類優位だが、深海棲艦の反撃の兆候があるとのことだった。何処まで信じられるかには疑問符をつけるべきだが、気構えはできる。朝突然叩き起こされて「敵襲だ! 敵が八分に海が二分!」というような状況になっても、気構えがあれば戦って死ぬ前に「ああ、そういや前にテレビで何か言ってたな、これのことか」と考えるほどの余裕が持てるだろう。

 

 テレビのモニターから目を戻し、護衛艦隊旗艦殿を見るや、僕はびくっとした。彼女が楽しそうに笑っていたからだ。それは丁度、僕が思春期の少年らしい妄想の世界にこもっている時に浮かべているもののようだった。隼鷹に「そういうのは一人の時だけにしような?」と諭されながら彼女によって盗撮された写真を見せられたことがあるから、自信を持って言える。僕は天龍がそんな顔をしているところを初めて見たので、思わず訊ねてしまった。

 

「どうした、何がそんなに楽しいんだ?」

 

 すると彼女は相当に上機嫌だったのか、僕の質問にも気さくに答えた。それでも、僕への否定的なコメントを忘れはしなかったが。

 

「マジだったら、いい戦いになりそうじゃねえか。それがだよ。お前にゃ分かんねえだろうけどな」

「実戦を経験してまだ戦争が嫌いにならない艦娘がいるなんて、思わなかったな」

「ちぇっ、てめえもそういう口かよ。ったく、オレの戦争好きでてめえに迷惑掛けでもしたか? あ? 嫌になるぜ、いっつもそうだ。色んな艦隊の連中と会って、話をする。特に、その艦隊で一番腕の立つ艦娘とな。ヒーローだ英雄だってもてはやされてるような奴もいたよ。でもみんな決まって、戦争が嫌いなんだ。頭のおかしい奴でも見るみたいにオレを見やがって。きっとな、ほら、日本人好みの同調圧力とか言う名前のアレさ。だからいつか、この天龍様も大活躍して、カメラの前で言ってやるんだ。戦争が大好きだ、オレが死ぬまで続いて欲しいってね」

「だが護衛艦隊じゃ……」

「もう黙って食えよ、な?」

 

 僕が彼女の態度に覚えたのは、そんなものを覚えてしまったことに対して罪悪感を抱かずにはいられないのだが、反感だった。戦争が楽しいだって? 訓練所にいる間、天龍は戦争を楽しみにしていた。それはいい。僕らはそれについて何も知らなかったんだ。未知のものに恐れを持つのも、期待するのも、人間の性だ。そのことを咎めはしない。しかし僕らはもう外側からこの戦争を見る立場ではない。その中にいるのだ。僕らはみんな、毎朝、ベッドで目を覚ます。その度にこう思う。今日の夜もここに戻って来られますように、明日の朝もここで目覚められますように! それは、僕らが生きていたいからだ。死にたくないからだ。死について怯えており、何かせずにはいられないからだ。

 

 だが天龍は戦争を楽しんでいる。それを責めたとしても、返って来る言葉がどんなものか、僕には想像できた。「楽しんじゃいけないのか?」彼女はそう言うだろう。そして、彼女が正しいのだ。誰も、誰一人としても、彼女が何をどう感じるかを左右することはできない。それと等しく、僕を含めてそんな彼女の姿を見た者が彼女に何を思うかについては、いかなる人物にも否定する権利はない。はっきり言おう、彼女が戦争を楽しんでいる様子を見せびらかす度に、僕は自分が臆病者の腰抜け野郎だと罵られている気持ちになる。彼女の戦争愛好に疑いを掛ける余地がないと分かっているからこそ、より強くそれに敵意を感じる。彼女にも怯えがある筈だと糾弾したくなる。彼女の弱みを暴き立て、お前も僕と同じなんだと、僕と同じで恐怖という底なしの沼に限りもなく沈み続けている、つまらない艦娘、つまらない人間の一人なのだと思い知らせてやりたくなる。

 

 こんな思いをするなら、僕は天龍に話しかけるべきではなかった。僕は怯懦(きょうだ)を他人にも押し付けようとする自分に失意を感じ、また天龍を苛立たせてしまった無闇な発言で場の空気を悪くしたことで、彼女と不知火先輩の二人に対して罪を犯したような気分になった。できることなら、喉に刃など突っ込んで二度と言葉を発することのできない体にでもしてやりたかった。もちろんここは艦娘の所属する研究所であり、近くには工廠もあるから、そんなことをしてもすぐに修復されて、叱責を受けるか精神分析に掛けられるかのどちらかだろう。

 

 不知火先輩と二人で、愉快とまでは行かずとも快適な昼食を取るつもりだったのに、まるで戦闘直後みたいな心地だった。打ちのめされ、傷つき、消耗していた。誰かがここに来て、僕を助けてくれたなら、僕はその人の前に跪いて求婚してもよかった。彼女もしくは彼が応じてくれなくとも、永遠の愛を誓うだろう。「昼食中か、六番艦」ああだが長門はやめてくれ長門はああ畜生さっきのは取り消しだ!

 

 先輩は記録的なスピードで食事を終わらせて席を立った──責められない。僕が長門に嫌われているのは有名だ。不知火先輩も当然知っているだろう。それに、僕にとってこの駆逐艦娘が先輩であるように、彼女にとってこのビッグセブンは先輩なのだ。それも大先輩だ。その大先輩が決めた。今日の昼食は彼女の艦隊の哀れな六番艦だと。僕が来る前は最後任だった艦娘が、どうやってそれに逆らえる? 無理に決まってる。

 

 六番艦。本来は嫌な言葉じゃない。それは、艦隊における指揮担当序列を示すものだ。旗艦は一番艦が担当する。旗艦轟沈、もしくは意識喪失や重傷で指揮が取れなくなった場合、二番艦がそれを引き継ぐ。二番艦が旗艦と同様の運命を辿ったら、三番艦。三番艦がやられれば四番艦。四番艦がくたばれば、五番艦……つまり理論的には、六番艦である僕が指揮を取ることはない。何しろ僕は、艦隊で一番ダメな子だからな。しかし長門が僕を六番艦と呼ぶ時には、常に今のニュアンスよりも深刻な敵愾心がその単語に付きまとった。更に付け加えるなら、“六番”というナンバーに僕が感じる非常に個人的な印象が、長門からそう呼ばれることを僕に嫌わせていた。

 

 長門は天龍の横に座ったが、この第二艦隊の誇り高き旗艦殿のお顔から、見て取れることが一つあった。それをするのに十分天龍と親しい間柄なら、彼女は天龍の膝に座っていただろうということだ。無論、僕から最大の距離を取る為にである。これは僕と彼女が無意識下で締結した平和の為の条約のようなものだ、と僕は考えている。要するに、常に可能な限り離れていれば、僕と彼女の間に厄介が起こる確率は最低限に保っていられるということだ。僕が水なら彼女はカリウム、僕が風呂なら彼女はドライヤー。近づけたいか? 本気で? 痛い目を見たくなければ、それはやめておいた方がいい。

 

「天龍、いいか」

「ああ。また後で」

 

 そう言って天龍は食べ終えられた食事のプレートと共に席を立った。最後の一言は僕でなく長門に向けられたものだった。知らぬ間に二人は仲良くなっていたようだ。任務の種類は違えども、旗艦という同じ務めを果たしているからこそ、理解し合えたのかもしれない。長門は戦争愛好者ではないようだが、賢明だ。僕みたく、天龍を怒らせるようなことは言わなかったのだろう。僕は沢山のことを、大勢から学ばなければならないが、長門の思慮深さはそのリストの中でも上の方に入れるべきものだと思う。不思議に思うほどだ、どうして彼女は僕にだけ、ああも無思慮になるのか? 何にでも原因はある。私見だが、理由なき行為、動機なき行為、偉そうな言葉を使うなら「無償の行為(Acte gratuit)※60はあり得る。でも、哲学用語の定義を僕が正しく理解できているかどうかは置いておくとして、原因はいつだって存在するのだ。

 

 長門は質素な食事を持っていた。出撃前に食べるような量だ。しかしそれが何故なのか、僕は訊ねない。僕と彼女は友達じゃないし、どうやら長門は僕に話があるようだ。その話を聞く前に、僕から何か言い出すのは愚策だろう。それは長門を挑発することになる。

 

「私たちの間には以前から何らかの問題があったように思っている」

 

 彼女は予め用意してあった原稿を読むように言った。実際に、頭の中に書き込んであったのだろう。それは日本語としていささか不自然な響きだった。僕が黙っていると、彼女は続きを話した。今度は比較的自然に聞こえる文章だが、彼女の口調も相まって、とても固く聞こえた。

 

「片をつけよう」

「何にだ? 問題だって? 君は自分が何を言っているか分かってるのか?」

 

 自分の所属する艦隊の旗艦に向かってこういう風に喋るのは、通常、他人に勧められるようなことではない。例えば僕が広報艦隊で榛名さんにこんな口を利けば、たちまち曙がやってきて、しこたま殴打して僕に身の程を思い知らせてくれるだろう。ただ、ここでのルールは広報部隊とは違ったのだ。ここのルールでは、最低限の人間としての礼儀、その一線を弁えていれば、彼女には僕を罰することができなかった。そして同じ艦隊に所属する者同士で多少砕けた話し方を用いるというのは、線のこっち側に分類される行為だった。

 

 それでも、望んでじゃないが、長門の機嫌を損ねることはできた。彼女は機械じゃない。ある言葉を言われたとしても、発話者が違えば彼女がどう感じるかも変わる。仕方のないことだ。僕だって、友達に笑いながら「お前は馬鹿な奴だなあ」と言われても気にしないが、嫌な奴に言われたら不愉快な気持ちになるだろう。長門は不快感を鋭い視線に乗せて僕に叩きつけてきた。が、そう堪えはしなかった。何でも慣れるものだ。特に長門の敵意はまっすぐだから、順応するのも楽だった。彼女は言った。

 

「天龍の艦隊は四名で単冠湾への帰路に就く。途中までの護衛が欲しいと、正式な要請を出してきた」

「知らなかったよ。けど考えてみれば、そりゃ護衛の一人や二人、欲しいだろうな」

「提督は第二艦隊から護衛を出させるつもりだ。私とお前が志願すれば、他の四人は休んでいられる」

「事情は分かった。だが君が行く必要はない」

「いや、私たちが行く必要がある。どうしても」

「僕がそれに値すると? ……やれやれ! どうしてもか」

「ああ、どうしてもだ」

 

 溜息を吐いた。彼女の気を変えることが不可能だと分かったからだった。「それじゃ」と僕は言った。

 

「行くしかないな」

 

 という訳で、この研究所に配属されて以来、最も起こりそうにないと思われていた事態が発生した。僕と長門とが、揃って同じ任務に志願したのである。提督は鼻を鳴らし、眉を上げ、「なるほど」と言い、薬を四錠も口に入れて噛み割った。その中の一錠に、細い赤線が描かれているのを僕は見逃さなかった。彼女が永遠の地獄に囚われないで済むことを、僕も祈っておこう。僕たちは能面みたいな顔を保ったまま、提督による幾つかの質問に答え、彼女をびっくりさせる為だけに二人で嘘を言いに来たのではないことを証明した。彼女は長門を、次いで僕をその一つっきりの目で睨んだ。僕は彼女の義眼だけを見ることで刺すような視線をやり過ごしたが、彼女の義眼の瞳孔部に三つ目のスマイリーが描いてあるのに気づいて、危うくにこりと笑うところだった。とんでもないところに罠を仕掛けて来やがる。

 

 頬をひくつかせはしたが、僕は苦難を乗り切った。執務室を出て、工廠に向かう。前を行く長門の尻と背中を眺めながら、人生の明るい側(bright side of life)を見ようと考えた。軍規によれば、特別の仕事には特別の報酬が与えられる。僕の命を削るのと引き換えにするには少なく思える給料にも、今月は色を付けて貰える筈だ。感謝状や勲章はその次にいい。家に送って、両親に「どうだい、君らの息子も立派になっただろう」と言ってやれる。勲章の種類によっては、提示することで公共交通機関の割引や無償化などのサービスが受けられることもあるのだ。常に佩用(はいよう)もしくは所持していなければならないのは面倒だが、その価値はある。

 

 工廠でいつもの艤装確認をする。武装の整備状態を確認中、視界の端にさっき見た少女の姿が映った。不知火先輩だ。明石さんと話をしている。長門から逃げた後で、同じ第四艦隊の明石さんのところへと逃げ込んだらしい。まだこちらに気づいていないが、僕は面白さを感じて微笑んだ。逃げた先にまた僕らがやって来てしまうとは、今日の不知火先輩はツイてない。

 

 チェックを終える。出撃に差し障りはない。僕らに先んじて工廠に来ていた天龍隊は、いつでも出られるようだ。長門が僕に護衛任務を持ちかけてきた時から話はついていたらしく、隻眼の少女は僕がいることにさしたる反応を見せなかった。そこに僕は長門の真剣さを感じた。彼女は僕との間に存在するわだかまりを、本当にどうにかしようとしている。だが、どうするつもりなんだ? 彼女自身、これが何によって引き起こされた悪感情なのか、理解できていなかった。提督にそう打ち明けていたじゃないか。それとも、僕より賢い彼女はとうとうそれが何だったのかという答えに到達したのか?

 

 その時、最悪の想像が頭を駆け巡った。戦場での死因で最も多いのは、誰でも想像がつくだろうが、戦死だ。でもその中には、怪しい状況での戦死もある。天龍隊の護衛中はいい。四人の目がある。彼女たちの目がなくなったら? 僕と長門の二人きりだ。それだけでも打ちひしがれたくなるぐらい楽しそうだが、長門が僕に砲を向けてきたら、勝ち目はゼロだ。護衛任務からの帰路で、突然有力な敵からの襲撃を受け、撃退には成功するも轟沈一。そう報告すれば、多くは追求されまい。何しろ第二艦隊旗艦だ。六番艦の僕、それも生前ならともかく死んでいる僕なんかのことをほじくり返して、有能かつ生きている長門まで前線から退かせるようなことを、提督が選ぶとは思えない。

 

 長門の誠実さを信じたかった。旗艦としてではなく、彼女個人としての自尊心と道徳心、それから良識を信じたかった。海図を持った天龍と話し合う長門を、僕は自分の艤装をいじりながら盗み見た。「ルートだけどよ、オレとしてはここをこう抜けたいんだ。早く戻らなきゃ提督がうるせえからなあ」「そこか。少し、危険だな」「でも今日はあんた(長門)がいる、そうだろ?」「……ああ。任せておけ」「期待してるぜ、大戦艦」僕のことは数に入れていないようだが、当てにされるというのは往々にして重荷になる。僕みたいに感じやすい少年にとっては往々どころかいつでもだ。だから、今の状況は喜んで受け入れるべきものだった。僕は僕の仕事をし、天龍と駆逐艦娘たちを守り、それが終わったら長門に殺されないよう気を張っていればいい。最後の一つが達成不可能に思えるが、今はそれについて考えまい。

 

「準備はできたか?」

 

 天龍が彼女の艦娘たちと、その護衛を務める僕らに言った。艤装よし、ナイフよし、希釈修復材よし、サバイバルキットよし。耳のピアスに触れる。これもよしだ。これなしに海に出る気にはなれない。言ってみれば、これが僕にとってのお守りだ。弾を防いでくれるとは思わないが、これがあれば健やかなる時も、病める時も、死する時さえも一人じゃないと信じられる。僕は天龍の問いに頷きを返した。海に出る用意はできて……いない! 僕は天龍に三分待ってくれるよう頼みながら工廠を飛び出し、酒保へと駆け込んだ。酒保店員のお姉さんは目をぱちくりさせていたが、大急ぎで繊細肌用の日焼け止めを出して貰い、それを購入する。お釣りを受け取るのと体を酒保の出口に向けるのと買ったばかりの日焼け止めを塗るのを同時にやりながら、工廠へと戻った。クリームを塗り塗りやってきた僕を見て、天龍は溜息を吐いただけだった。心なしか駆逐艦娘たちの目も冷たい気がするが、気のせいということにしておこう。

 

 水路を通り、海へ出る。先頭は天龍、殿(しんがり)は僕と長門の二人が務める。間の駆逐三隻は横一列、互いに話ができる程度の間を開けて並んだ。横の距離は密だが、縦の距離はそれなりに取ってある。まとめて攻撃を受けるようなことはないだろう。それに、天龍が言ったことも正しい。頼れる女、頼れる艦娘、戦艦長門がここにいる。僕はちらりと彼女を見た。彼女が僕をぎろりと睨み返してくれることを期待してだ。だが、いつもなら即座に反応が返ってくるというのに、それがなかった。僕は思わず「どうした、大丈夫なのか?」と声を掛けてしまった。それで、今度こそ「自分の心配だけしていろ」なんて言われるだろうと思った。でも彼女は普通の声で「あの場所は好かん」と言っただけだった。

 

 もっと質問をすればその海域を嫌う理由を聞けたかもしれないが、長門ほどの強靭な艦娘が嫌いだと言い切る場所だ。何か、そこにまつわる強烈な思い出でもあるのだろう。そしてそれがどういったものであるにせよ、当時の長門の立場に自分がなりたいような類の話ではないことは確かだった。僕は口を閉じ、それ以上何か言わないようにしておいた。長門が彼女の長い軍歴の中で通らなければならなかったつらい過去を、迂闊な言葉で思い出させたりしないように。誰かを傷つけるのは、深海棲艦との戦いの時まで待つべきだろう。

 

 水偵を飛ばして進路の警戒を続けつつ、目視でそれ以外の方角を索敵する。主に後方だ。隊列には意味があるのだ。左右は駆逐艦娘に任せておけばいい。と、水偵妖精からの打電で前方に小規模な深海棲艦の艦隊がいることが分かった。軽巡二隻に軽空母一隻の小艦隊で、こちらには気づいていないという。僕は水偵に距離を保って監視を続けるように言っておいて、天龍に無線を飛ばし、指示を仰いだ。今の僕と長門は天龍隊の護衛であって、彼女に隊を動かす権限がある。僕と長門が奇襲すれば倒せそうな敵であっても、勝手な真似はできない。天龍は数秒ほど考えた後で、交戦を避けることを決めた。自身の軍における役割を把握した、見事な判断だと思う。戦争好きで英雄志望の彼女なら、きっと一隻でも多くの敵を沈め、一発でも多くの弾を撃ちたいだろうに。敵を撃たずに英雄と呼ばれるまでになった艦娘など、皆無に等しい。

 

 針路を変えて、迂回路を行く。僕は前を進む天龍の背中を見ながら、さっき彼女に敵意を向けた自分を恥じ、彼女の態度に感じ入った。嗜好の違いはあるが、あいつは大丈夫だ。ちゃんと旗艦をやっている。親しい友達にはなれなくとも、信頼できる戦友にはなれるだろう。ただし、その信頼が一方的なものになりそうな点だけは泣きどころと言えた。

 

 監視を任せていた水偵を引き上げさせる。妖精という存在は、種族全体として見た時には信用できない。だが彼ら彼女らの普遍的特徴として、一つ気に入っている点がある。連中は、己の仕事をきちんとこなすという美徳を知っているのだ。戻ってきた水偵に僕は片手を挙げ、搭乗員へのねぎらいを示した。手早く収容し、待機していた次の水偵を放つ。警戒は怠ってはいけない。怠慢がどのようにして何人何十人何百人もの艦娘を殺してきたか、僕は訓練所で学ばされた。深海棲艦(人類の敵)は決して怠けないということもだ。奴らは掛け値なしに素晴らしい兵隊たちだ。無駄口を叩かない。上官に逆らわない。給料の引き上げも要求しないし、ランチとディナーで別メニューを出せとも言わない。油断もしない。裏切りもない。敢闘精神という言葉の意味に最も忠実な生命体であり、死を恐れない。軍が理想とする有能な艦娘そのものである。

 

 僕もそうなろうとは努力しているが、いかんせん努力や集中には体力や気力を消費する。訓練でそれらを鍛えることもできるが、毎秒毎分の消費量からすると上がり幅は小さい。僕は段々と自分が消耗していくのを感じ、それなのに天龍が「それじゃ、ここからはオレたちだけで行くよ」と言い出さないことに焦燥を覚えた。そうして夕陽が赤々と西の空に燃えるに当たり、とうとう僕は長門に尋ねることにした。

 

「何処まで護衛を続けるんだ? もうすぐ日が沈む。燃料はまだあるが、帰りに戦闘がないとは限らないぞ」

「燃料については心配は必要ない。この後、補給基地に立ち寄る。そこで燃料を補充、小休止を取り、夜の間に例の海域を抜ける。護衛はそこまでだ」

 

 夜の間に? それを聞いて僕の心には不安と興奮がないまぜになったものが生まれた。僕には訓練でのサングラスを使った擬似夜戦しか経験がない。実際の夜戦は初めてだ。絶対にはぐれないように注意して、気をつけていなければいけないと、冷静な僕が頭の何処かで自らを戒める。子供っぽい僕が、敵味方の砲火が闇を切り裂き、発砲炎が横顔を照らし、星空と月明かりの下で戦うことの美しさを歌う。天龍じゃあるまいし、と僕はその歌を一蹴する。だが、駆逐艦や巡洋艦にとって、夜戦が能力を発揮できる絶好の機会であることは正しかった。夜陰に乗じて肉薄し、不可避の一撃を放つ。暗がりの中で互いの目と目が合い、光を反射して輝く相手の瞳孔に恐怖を読み取ることのできる距離で撃ち合う。雷撃には最高の状況だ。闇が雷跡を見つけにくくしてくれるし、彼我の距離も縮められる。

 

 標準装備に暗視装置があればなあ、と胸の内でぼやく。そうすれば、肉眼で夜戦を行う深海棲艦に対して一定のアドバンテージを得られることは間違いない。暗視装置、それも辺縁視が制限され、遠近感を掴みにくくなる単眼式でなくて、両眼式のものだ。一部の艦隊には配備されていると言うが、昨今では基本的に軍はその手の装備を回さない。夜間用装備は探照灯程度だ。それは軍がいい加減なことをやっているのではなく、コストと生産の安定性のせいである。日本はそこに住まう人々なら誰でも知っている通り島国であり、資源に乏しい。高度な暗視装置は軍事技術の塊であり、その生産には希少な資源を要する。一セット作るのに使うのは僅かな資源だ。だがそれを百万セットにしたら? 軍の運営に支障が出る。軍の運営に支障が出れば、国家の防衛に穴が開く。

 

 それでも戦争初期はよかった。艦娘の絶対数が少なかったし、陸の連中が使っていたのを譲り受けて防水加工し、使用できたからだ。今や艦娘の数は増えに増え、軍は常に物資の運用に神経質なほど気を使っている。そんな具合では、高価かつ戦闘中に壊れたり艦娘と一緒に沈んでしまうかもしれない可能性のある、しかも安価な代替品による替えの効く装備など、配備される筈がなかった。そういう理由で、僕らは未だに二十世紀初頭風のやり方を用いて夜戦を行っている。探照灯、照明弾、夜偵。同じ都合で、電探やソナーも配備数は多くない。

 

「ところで、夜戦の可能性なんて聞いてなかったから、専用装備なんて持ってないんだけど」

「では、目をよく慣らしておくことだな」

 

 僕が言葉に責めるような含みを混ぜると、この話は終わりだ、とばかりに長門は別の方向を向いた。どうにかして無理にでもこっちを向かせてやろうかと思ったが、前を行く駆逐艦の一人がこちらを見ているのに気づいて思い直した。護衛担当艦が喧嘩しているのを見たら、彼女たちは不安になるだろう。長門と話をつけるのは後だ。今は、天龍隊の護衛を続けよう。先にもまして気を張り続ける。今はいいとして、夜間の索敵をどうするか……夜が来れば水偵の運用は難しくなるが、不可能ではない。妖精にも疲労という概念はあるだろうが、耐えて貰う他あるまい。後は、長門の言葉通りだ。目を慣らしておこう。補給基地での小休止がその為に相応しいタイミングだ。基地に酒保があってまだ開いていれば、足しになるものがあるかもしれない。必ず覗くようにしておこう。

 

 長門にはああ言ったが、この落ち度は僕のものだった。僕が油断していたせいだ。日をまたぐような出撃ではないと言われでもしない限り、夜までもつれ込む可能性を念頭に入れておくのが軍人というものだ。規則にもちゃんと、今回僕がやってしまったような勝手な早とちりをしないようにと戒める条文が書いてある。つまり、夜戦装備を持っていないのは僕が悪いのだった。補給基地所属の艦隊に装備の余裕があれば、借り受けることもできるかもしれない。その際には申し訳ないが、天龍あるいは長門、でなければ駆逐艦娘たちに頼んだ方がいいだろう。原因不明の嫌悪を受ける僕が頼んだところで、気に入らない奴に貸す装備はないと拒否される可能性がある。確率としては小さなものだが、無視はできない。

 

 幸いにも、補給基地まで接敵せずに着くことができた。到着までの間に僕は浦風と話し、夜戦用装備を借り受ける交渉を頼んだ。基地で三十分の休憩を取るという通達の後、僕は補給を後回しにして酒保へと急いだ。店員のご婦人はシャッターを下ろすところだったが、僕が身分を提示し、事情を説明すると快く最後の仕事をしてくれた。お陰で僕は強力な大型懐中電灯を手に入れることができた。二万円という値段は僕にとって決して安くはないが、命の為ならどれだけ払っても惜しくない。付属の肩掛け用ストラップを使って身に付けると、やや安心できた。電池も替えを含めて購入したので、今晩使う分には問題もないだろう。

 

 補給施設に戻り、燃料などの補給を受けていると、浦風がやって来た。僕が酒保に行っている間に燃料供給を済ませ、要請しに行っていてくれたようだ。彼女は僕を見て首を横に振った。ダメだったか。まあ、仕方ないだろう。こっちが厚かましいことを言ったのだ。断られたとしても、無礼を働かれたとか、ひどい態度を取られたとは思わなかった。僕は浦風に深々と頭を下げた。本来であれば直接僕がやるべきことを、彼女にやらせてしまったからだ。ここの連中は、僕ではなく浦風をふてぶてしい奴だと考えるかもしれない。仕方なかったとはいえ、そんな役目を押し付けてしまったことが申し訳なかった。

 

 小休止が終わり、基地を後にする。もう真っ暗だが、休みの間に目を慣らしておいたのでそこそこ視界は確保できていた。天龍と位置を交代し、長門と僕が先頭に立つ。長門を交えて水偵妖精と打ち合わせをし、帰還時には僕の懐中電灯で誘導することにした。敵に発見されるのを避ける為にも、長く点灯しておくことはできないので、瞬間的に二、三度点滅させるのが限界だが、それでも上空からこちらの位置を捉えるのには十分だろう。近くまで来てくれれば、回収は可能だ。

 

 二度ほど敵の艦隊を避け、偶然近くにいた友軍艦隊にその位置を教えた。じきに砲戦の音が遠くから聞こえてきたので、彼女たちは不運な深海棲艦たちに襲いかかったに違いなかった。その戦闘の音が聞こえなくなった頃、僕らは長門の嫌う(くだん)の海域に着いた。幾つかの無人と思しき島があるだけの、静かな場所だ。近づいてみると、かつては無人ではなかったようだと分かった。苔むしてはいるが、小さな建物が島に生い茂った木々の中に立っていたからだ。きっと、深海棲艦との戦争が始まる前にはそこにも人が住んでいたんだろう。

 

 島と島の間を抜けながら、歴史の流れに言いようのない切なさを感じていると、長門に肘で小突かれる。イラッと来て彼女を見るが、何も言えなかった。彼女の顔を目にした時、僕は途端に言葉を失ったのだ。僕が知っている長門は常に自信満々で、自分の想像を超えるものが現れることはないと信じきっていた。この天と地の間にはいわゆる哲学などが思いもしないようなものが存在するのだ※61、という古人の言葉を、彼女はその態度で以ってせせら笑っていた。しかし、今の長門は暗闇から何が現れるかを恐れている。いや、違うな──彼女は彼女が知っている何かをその中に見るのを恐れているのだ。恐らくは、以前ここに来た時に彼女が見た何かを恐れている。長門は己の恐怖に聞きつけられるのを避ける為にか、囁くような声で言った。

 

「注意していろ」

「分かった」

 

 長門に倣い、囁き返す。彼女は頷いて警戒に戻った。僕も全力を尽くして、索敵を続行する。水偵も飛ばしたかったが、そうすると誘導の為に懐中電灯を使わなくてはいけなくなる。長門はここを特に警戒すべき地点だと考えていて、この海域にいる間は誘導の照明はなしということになっていた。つまり、水偵もなしだ。頼りは長門や天龍の電探と、自分たちの目だけだった。深海棲艦たちのように無言で、夜の海を行く。けど、連中は本当に無言なのだろうか? 鬼級未満の人型深海棲艦さえ、知性や人格を持っているようだ。一緒にいれば、話ぐらいしてもいいだろう。それとも、普通の人間にはその声が聞こえないのか? だとしたら辻褄は合う。

 

 それでもどうして僕にだけは声が聴こえるのかが分からない。この前の夢だってそうだ、あれは深海棲艦の声だった。僕の部屋にいた筈もないのに、彼女の声が聞こえた。謎の声、聞こえない筈の言葉……訓練所の座学では、人間には感知できない波長の音などを使っていると推測されていると学んだが、それでは僕の部屋でのことが説明できない。テレパシー? まさか、そんなことは考えがたい。けれど、奴らに人間の常識を当てはめるのもおかしな話だった。

 

 ぼそぼそと横から何か聞こえて、思考を中断する。長門が一々口に出さないとものを考えられない奴だとは知らなかった。警戒を続ける為、彼女の方を向かずに名前を呼ぶ。「長門」「何だ」「何をぶつぶつ言ってる」「私は何も言ってない」「何だって? それじゃ今のは……」思わず振り向き、長門の方を見る。彼女は僕に背を向けている。その向こう、海面、彼女が見ていないところに目が行く。白い線がこちらへと伸びて来る。海上に敵艦の姿がないのに。僕は叫ぶ。

 

「雷跡発見! 潜水艦だ!」



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「長門」-2

「雷跡発見! 潜水艦だ!」

 

 長門は僕の言うことだから信用しないなどというような愚かな真似はしなかった。針路を変え、回避しながら潜水艦を探す。こちらには駆逐艦が三隻いるし、軽巡もいる。不意打ちが失敗に終わった以上、敵の潜水艦はもう逃げるか沈むかしかないだろう。

 

 対潜戦闘の経験も豊かな浦風が、敵の位置を特定した。やぶれかぶれの雷撃を食らわないよう、海面から目を離さず、回避機動を続ける。爆雷が投射され、海面下へと沈んでいく。数拍の間を置いて、爆発。黒い水柱が──横ざまに衝撃。吹き飛びそうになるが、勢いをステップで殺して受け流し、回避運動に復帰。体をチェック。腕はついてる。胴も無事、痛みだけで怪我はない。長門が僕を突き飛ばしたのだ。しかし、その行為を責める気にはなれなかった。僕らは砲撃されていたからだ。

 

 砲口炎を、僕らを挟むそれぞれの島影に見つける。そこに深海棲艦が姿を隠していたのだ。道理で電探に察知されない訳である。潜水艦はこちらの気を引く為の陽動だったのだろう。敵の数は不明だが、よく統制されていた。砲撃の精度も高い。逃げるにせよ反撃するにせよ、この挟撃から脱し、仕切り直さなければ、島々が墓標になる。僕は砲声に負けない大声を出す。

 

「ここから抜けないと、天龍!」

「分かってる! 長門、浦風たちと一緒に全速前進、後ろの抑えはオレたちが引き受ける!」

 

 どうやらそういうことらしい。敵の砲口炎目掛けて撃ち返しながら「駆逐連中が逃げる時間を稼ぐだけだよな?」と天龍に尋ねる。肯定が返って来た。それなら、と僕は懐中電灯を点灯し、水偵を出した。やれることは全部やってやる。電灯をつけた瞬間、砲撃がこちらに集中するようになった。きっとその中には、さっきまで長門たちを狙っていたものもあっただろう。

 

 至近弾を受けた。足に砲弾の破片が刺さり、激痛が走る。歯を食いしばって、姿勢を保つ。こければ死ぬ。余計な身じろぎをすれば死ぬし、体勢を崩せば死ぬ。くしゃみ一つで死ぬ世界だ、ここは。やるべきこと以外は、やるべきではない。二発目の至近弾。今度は額をざっくりと切られた。目に入りそうになった血を拳で拭う。まだか、まだ長門たちは……焦りを気にしないようにしながら防戦を続けていると、無電が入った。駆逐艦娘たちは敵の射程範囲から離脱したようだ。長門はこちらの支援に戻ってくる。

 

 僕の水偵の一機が爆弾を投下し、それが島の近くにいた深海棲艦に直撃した。弾薬に誘爆したのか、そいつは派手に炎を上げて爆発した。火のついた大きな破片が島の木々の中に飛び込み、じきに引火、言わば山火事を起こし始める。黄色い光が隠れていた深海棲艦たちの姿をさらけ出した。天龍と示し合わせ、一隻に狙いを絞って撃ち込む。陰に隠れているという優位性の為に、その敵は静止していた。静止は悪いことではない。狙いを定めやすくなるし、隠れている時には無闇に動いたりしないものだ。けれど、自分の位置を知られた時には、静止というのは非常に悪いことだった。因みに、罰則規定(よい本)によると、その罪の報いは死だけだ。※62

 

 水偵と僕ら艦娘が合わせて二隻を始末したことで、深海棲艦たちの砲撃に躊躇いが見られ始めた。いい兆候だ。長門の支援が加われば、ここから脱出できるだろう。奴らを始末するのは僕や天龍のやることじゃない。敵が退いてくれるなら、退かせておけばいい。行かせてくれるなら、喜んで行かせて貰おう。長門の支援砲撃が始まった。生き残った水偵を回収し、電灯を切る。もう、敵はほとんど撃って来ない。燃えている一端を持つ島から距離を取って、再び身を隠している。長門の言ったことは正しかった。ここは危険な場所だ。特に、夜には。

 

 長門と合流する。頬に小さな切り傷がある他には無傷だった。頷き合い、駆逐たちの待っている方に向かう。早く合流しよう。駆逐数隻で夜の海というのは、気の落ち着くものではない。僕としても、彼女らが心配だった。移動しつつ水筒を開き、怪我した部位に振りかける。足の傷は破片が刺さったままだったので、抜き取ってからだ。涙が出るほど痛かった。暗くてよかったと思う。長門や天龍に泣き顔を見られるなんて嫌なことだ。治療を終えて水筒を戻し、前を向く。すると、ぼんやりと行く手にシルエットが見えた。止まっており、人の姿に見えるようなところもある。が、駆逐艦ではなさそうだ。「長門、見えるかい」「ああ……こちらの艦娘とは思えない。私なら届きそうだが、砲撃するか?」長門は天龍にそう尋ね、彼女は撃つように言った。発射の瞬間に頭を殴りつけられたみたいなショックを周囲に与え、轟音と共に、大口径の砲弾が飛んで行く。

 

 静止目標に当てられないような艦娘を前線に送るほど、軍は馬鹿ではない。長門の砲弾は数発が外れたが、残りの数発は当たるであろう軌道を描いて落ちていった。そして何かに弾き返された。「何だと?」これは僕じゃなく、長門の言葉だ。彼女は自分の砲の威力を把握している。並大抵の相手には、艤装を盾にしたとしても弾き返すことなどできない。できるとしたら、長門並か、彼女よりも強い誰かのどちらかだろう。そんな相手は数少ないが、存在することは疑えない。何しろ、今僕の見ている前でそれが証明されたのだから。

 

 今度はあちらの砲声が鳴った。攻撃されていると分かっていて、動かない理由はない。僕らは一斉に散開した。けれども、敵が撃ったのは実弾ではなく照明弾だった。光に照らされて、こちらの位置が丸見えになる。でも、それは相手も同じことだ。僕は眩しい光に目を細めつつ、敵の姿を見て、ごくりと喉を鳴らした。長門の悲鳴のような声が聞こえた。もちろん、実際に彼女は悲鳴など上げはしなかったが、僕には悲痛に叫んでいるように聞こえたのだ。「空母棲鬼!」偽りの太陽※63の下、艤装の上に寝そべって、余裕の表情を浮かべた空母棲鬼の艦載機が、次々と発進していく。僕は、ぼけっとそれを見ていた訳ではなかった。対空砲火を展開し、幾らかを落とす。だが望んだほどは落とせなかった。それは空母棲鬼が、僕に向けて砲撃を始めたからだ。空母の癖に艤装に大きな砲を持っているのは、ズルいように思える。加賀だってあんな大砲は使わない。矢か副砲ぐらいのものだ。長門に無電を飛ばす。

 

「どうする?」

 

 落ち着いた声が出たことに自分でも驚いた。予想や希望というのはしばしば裏切られるものだ。僕らはよく「こうなるだろう」という推測をする。しかし、そこには常に間隙があって、物事は決してその通りには動かない。それこそ抜け穴と言うべきものが、人間の予測を嘲笑う現実をもたらすのだ。そのことを僕は知っていて、だから落ち着いていられたのかもしれなかった。恐慌状態に陥るよりは、いいことだ。

 

 長門は返事をしない。どう答えたらいいか迷っているのか? 天龍にも同じことを問う。どうすればいいんだ? 僕は指揮官じゃない。旗艦の立場には、過去と現在のどちらでも立ったことがなかった。こんな時どうすればいいのか、分からなかった。僕はがむしゃらに敵の戦闘機の機銃掃射を避け、撃墜し、空母棲鬼の砲撃を切り抜け続けていた。その行動には指針も何もなかった。生き延びようとしているだけだった。

 

 何度目かの指示の要請をしていると、無電に雑音が入った。耳が痛んで僕は舌打ちをし、聞こえて来た声によって顔をしかめた。「何度(ナンド)デモ、何度(ナンド)デモ、(シズ)ンデ()ケ……!」周波数を知られてしまったようだ。こういう時の為に、予備周波数の用意がある。だが僕はすぐには切り替えなかった。空母棲鬼が他に何か言うかもしれない。僕からの交信で、相手を怒らせたりすることもできるかもしれない。普通に戦っても勝てそうにないなら、普通でなくなることだ。

 

 一向に動こうとしない空母棲鬼からの攻撃を避けながら、砲撃を行う。彼女は僕の砲弾が当たる直前、無造作な動きで手を振るい、それを打ち払う。長門の砲弾弾きを見ていなかったら、度肝を抜かれていただろう。笑い声混じりの通信が入る。「()クト、(オモ)ッテイルノカ?」狙い、撃つ。弾かれる。よし、この距離なら外さないようだ。僕は大きく息を吸い込む。空母棲鬼はまだ笑っている。「無駄(ムダ)ナコトヲ……カワイイナ」「ああああああああ!」「ァッ!」叫びを彼女の耳に届けてやる。思った通りだ。彼女は反射的な行動として、思わず身を竦め、手で耳を抑えた。そこを撃つ。砲弾が狙ったところに飛んで行く。夜の闇を切り裂く一条の光が、空母棲鬼の本体に突き刺さる……そう思った。

 

 咄嗟に彼女は艤装を動かし、避けようとしたのだ。砲弾は彼女の体に当たらず、彼女の左の手元にあった航空甲板部分に直撃した。まあ、これで航空甲板の一つは使えなくなった。願ったよりは小さな戦果だけれども、空母棲鬼相手にやったのだ。大金星と言ってもいいだろう。だが、僕にできるのはここまでだ。ここからは、長門の力が不可欠だった。とにかく何でもいいから、長門を動かさなければならなかった。彼女は戦ってはいるが、それは航空機からの攻撃に反応してのことだ。それではダメなのだ。彼女のやるべきことは、空母棲鬼を始末することである。空は天龍と僕に任せて、だ。

 

 周波数を予備のものに変え、長門に呼び掛ける。返事は、やはりない。空からは爆弾が降ってくるし、気を抜くと魚雷がやって来る。戦闘機による機銃も嬉しくない。何より、空母棲鬼の砲撃は完全に僕だけを狙い始めた。声一つのせいで砲弾を身に受けたのが余程気に入らなかったようだ。逃げる僕の背中目掛けて、食らったら最後だと思うような砲弾を放ってくる。最早、僕のことを可愛いとは言ってくれないだろうか? 首だけ後ろに回して見ると、彼女の被弾した航空甲板は燃えていた。その火と照明弾の光に照らされて、空母棲鬼の顔が見えた。最初の余裕は消え失せて、怒りに顔を歪めている。端正な顔が醜い感情に歪んでいるのは、何処か奇妙なエロティシズムを僕に感じさせた。

 

 長門は返事ができないのか、それとも無視しているのか。もう我慢ならなかった。僕は彼女のところに向かおうとした。平手を一発食らわせてやれば、正気に戻るかもしれない。空母棲鬼は脅威だ。今の戦力で戦って勝つのは難しいだろう。でも、この場を切り抜けるのが不可能な相手じゃない。こんなところに空母棲鬼が出るなんて僕は知らなかったが、もし軍の方も知らないのなら、どうにかしてここから生きて帰り、報告しなければいけない。でなければ、また同じことが繰り返されてしまう。ここを夜に通ろうとして、襲われる艦娘たちが出てくる。そんなのは見過ごしておけなかった。

 

 と、深海棲艦の艦上爆撃機が投下した爆弾の一発が、長門の足元に落ちるのが見えた。あの大きな艤装を身につけた長門が、初年兵みたいに無様に海の上をバランスを崩して転がり、沈み始める。彼女ほど慣れた艦娘なら、通常は自分での海上への復帰が可能な筈だ。しかし、今の彼女はそうではないようだった。僕は泣き出したい気持ちになりながら長門のところに一直線に向かった。当然、それを撃つ側からすると、動きが読みやすくなる。それでも、長門をここでみすみす死なせられなかった。砲弾が二発、僕の手前と僕の奥へと落ちる。夾叉(きょうさ)って奴だ。それが意味するところはヤバいの一言に尽きる。砲弾が落ちたところに立つのは、大きな水柱と、それに比べれば少し小さな水柱。主砲と副砲での砲撃だ。生身に当たれば到底、生きてはいられない。

 

 かなり無理のある姿勢で腕を海の中に突っ込み、長門の手を取る。足を止め、引っ張る。彼女は重い。加賀の時と違い、勢いを利用したのでもない僕の力では、引き上げるのに時間がかかる。脱臼の恐れが脳裏を過ぎるが、僕の肩でなければどうなろうと知ったことではない。海の上に踏ん張って、引き続ける。長門の首から上が出た。青ざめた顔をしている。顔に濡れた長い髪の毛が貼りつき、目は閉じられている。見えているところに傷はない。「あんな爆弾の爆風程度で、死んだなどとは言わせないぞ!」目を覚ましてくれることを祈り、彼女を怒鳴りつける。砲弾がまた近くに落ちる。敵の航空機が近づいてくる。肩の砲塔を活用して、それを撃墜する。火を吹いて、近くに落ちた。どうにかほぼ全身を引き上げたが、目を覚まさない。彼女の艤装が邪魔で後ろから抱えられないので、前から抱きついて保持しているような状態だ。お陰で前方が見えない。こんな状態では戦いなどできない。なのに長門は目を覚まさない! どんなに呼んでもだ!

 

 冷静さを欠いていたことを認める。焦っていた。それから恐れていた。怒ってもいた。長門がちゃんと、彼女の全力を尽くしていないと感じていた。不自由な視界に映る天龍は、あちこちの傷から血を流しながら、それでも敵航空隊を翻弄している。彼女が航空隊の大部分を引きつけているお陰で、僕はまだ長門の横に沈まずに済んでいたのだと思う。戦争狂を自らあけすけにする態度に恥じない、比類なき能力だ。この僕だって頑張ってる。だが長門は? 僕は怒りに任せて、付近に漂っていた、さっき自分が撃墜した敵航空機を掴んだ。まだ赤々と燃える火を揺らめかせているような奴をだ。そして、それを長門のむき出しにされた腹に思いっきり押し付けてやった。

 

 戦場を貫く大絶叫は、ほんの一瞬、それを聞いた全てのものの動きを止めた。敵航空隊は攻撃をやめ、空母棲鬼は呆気に取られて砲撃を中止した。天龍も立ち止まり、こちらを見た。僕はと言えば、目を覚まし、混乱し、それから正気を取り戻し、彼女の冷えた柔らかな体に抱きついているクソ野郎を見つけた長門によって、思い切り睨まれているところだった。光の速さで僕は彼女から離れた。長門の艤装は作動し、彼女は海の上に立っている。もう大丈夫だ。彼女は口を開きかけたが、僕が抱きついていたことについて長門が何か言い始める前に、それに被せて僕は言った。

 

「空母棲鬼をどうにかするんだ! 一緒に! 今すぐ!」

 

 彼女は頷いた。同じ方角を向き、そちらへと全力で進む。砲撃が再開されるが、丁度いいタイミングで照明弾が着水して消えた。空母棲鬼は再度の照明弾射撃の為に、弾種切り替えをするだろう。束の間、彼女は撃てなくなる。ありがたい。長門の顔色は未だ戻らないが、開かれた目には活力が戻っている。彼女の冷静な声が、無線と肉声の両方で聞こえた。

 

「天龍、ここからは私が指揮を執る。いいな?」

 

 本来、指揮権の委譲は天龍が言い出すことであって、それを長門の立場から、提案でさえない宣言として行うのは不法行為と言ってもよかった。しかし、この場での最善はそれだったのだ。天龍への提案と了承などという、まどろっこしい手続きを踏んでいる暇はなかった。天龍もそれは分かっており、長門への指揮権の委譲を認めた。「感謝する。対空戦闘を継続せよ、空母棲鬼はこちらで片付ける」「おう、任せたぜ!」天龍の声は生き生きしている。本当に楽しいのだろう。

 

 さて、長門は戦闘に復帰した。空母棲鬼と接敵したという心理的ショックからも、一定の回復をしたようだ。長門ほどのベテラン艦娘がどうしてあそこまで強いショックを受けたのか分からなかったが、精神分析は後にしよう。大事なのは、長門が今、横にいて、共に敵と戦っているということだ。空母棲鬼にもう一太刀浴びせる用意は整った。次は、それをどうやって成し遂げるか考えよう。「策はある?」「破壊された飛行甲板を見ろ」言われた通りのことをする。甲板は燃え続けていた。もうもうと濃煙が立ち上っており、空母棲鬼は鬱陶しそうにそれを時折払っている。

 

「赤と黄色にまばゆく燃えて、彼女はまるで太陽みたいな女性だな。ええと、それから、煙も出てる。なるほど。どっちが陽動する?」

「私がやる。お前では数秒と持たんだろうからな。私の合図で始めろ」

「同感だ、了解。ところで聞きたいんだが、奴とは前にもここで戦ったのか? その時はどうなったんだ?」

「親友を失った。気は済んだか? 今だ行け!」

 

 長門から離れ、空母棲鬼の左手側、煙で彼女の視界が遮られている方に移動する。照明弾が打ち上げられ、海が照らされる。だがその前に、僕は空母棲鬼の視界が煙で潰れる角度へと自分の体を滑り込ませていた。彼女の注意は、今や長門にのみ向けられている。砲撃、防御、砲撃、防御、砲撃……長門と彼女は、まるで遊んでいるようだ。長門の砲弾を空母棲鬼が弾く。空母棲鬼の砲弾を長門が弾く。一度のミスで死ぬ遊びだ。あんな真似ができるのは、彼女たちだけだろう。どうやったら飛んでくる砲弾を手で弾き飛ばせるのか、科学で解明して欲しいものだ。もっとも、技術として会得可能だとしても、僕にそれを学ぶつもりはない。失敗して死ぬのが目に見えているからだ。

 

 じわじわと近づいてくる長門に、空母棲鬼は焦りと苛立ちを感じているみたいだった。初めの内は発砲の間隔を意図的に操作して、防御を失敗させようとしていたのに、今は装填が終了し次第発砲しているようだ。それでも長門の鍛え上げられた堅牢な防御は崩れない。砲撃以外で彼女を攻撃したくとも、航空隊は天龍によってがっちりと釘付けにされている。

 

 たった一隻の軽巡にありったけの航空戦力を投入させられ、挙句の果てにそれでもこう手こずることを、きっと空母棲鬼は(いぶか)しんでいるだろう。彼女の困惑を想像し、それを笑ってやる。あそこで頑張っている軽巡艦娘を誰だと思ってるんだ? 戦争狂にして戦闘の天才、護衛艦隊旗艦、天龍だ。好きこそものの上手なれ、という言葉を体現するかのように、彼女は戦うことについて知っている。どのタイミングで身を捻り、足を動かし、撃ち、防ぐべきか。彼女は全部、知っている。頭でも、体でも。そこらの軽巡なんかと同じように思って貰っては困るというものだ。

 

 身を低くし、雷撃準備に入る。早すぎては魚雷が拡散し、命中本数が減ってしまう。そうなると有効な打撃を与えられない。近すぎれば気づかれてしまうか、自分まで被害を受ける。絶妙な時を選ばなければならない。長門は僕がそれをやり遂げられるとは思っていないのか、視線が突き刺さるのを感じた。そんなことをすれば空母棲鬼が感づいてしまうかもしれないというのに。僕は長門を嫌いつつも、その能力については心の底から信頼している。長門も僕に対して、個人的な好悪の感情を抜きにして、公正に判断して欲しかった。そうすれば、妙な展開にはならなかったかもしれないのだ。

 

 思うに、空母棲鬼が長門の接近に焦り、杜撰(ずさん)な攻防を露呈する一方、長門は彼女が独力で空母棲鬼を始末できるかもしれないと感じ始めていたのではないだろうか。もし彼女が自らの力のみで空母棲鬼を撃破、最悪でも撃退できていれば、僕に一番の手柄を取られるという屈辱もなく、過去の雪辱もほぼ理想的な形で果たせたろう。それは現実で実際に起こったことではなく、あくまで()()()の話だったが、とにかく僕はそう考えている。

 

 空母棲鬼は焦って攻撃が単調になり、長門は勇み足を踏んで防御ではなく攻撃に彼女のリソースを割こうとした。そして、敵はそのチャンスを逃さなかった。僕は決定的な瞬間を見ることができなかったが、無線を聞くことはできた。空母棲鬼の「何度(ナンド)デモ()(カエ)ス、()ワラナイ(カギ)リ……」という偉ぶった言葉に被さった、長門の「被弾した!」という、驚いたような短い声につい振り向いてしまい、彼女の左腕が肩口で半ば取れかかっているのを認めた。そして、僕は彼女の名前を叫ばずにはいられなかった。その声が空母棲鬼に、彼女への攻撃が迫っていたことを教えてしまった。手で空を薙いで煙を払い、砲口をこちらに向ける。僕はそれを見ている。避けられそうにない。回避機動に入る前に撃たれる。避けられない。だから、外させるしかない。

 

 探照灯の役目さえ果たしてくれたあの電灯を、空母棲鬼の顔に目掛けて照射する。絶叫の時と同じように、予想外だったのだろう、彼女は身を捩ってしまった。砲弾が頭の近くを掠め、右耳がもぎ取られるのを感じる。きぃん、という音が頭の中に響き、それ以外の音が聞こえなくなる。僕は魚雷を放つ。砲を放つ。回避機動に入る。魚雷はそのどれもが空母棲鬼を捉えるが、彼女は目眩ましを受けながらも、砲弾を防ぎ続ける。艤装は堅固で、僕の雷撃では揺るがない。彼女の砲が僕を捉える。ああ、クソったれ、僕じゃダメなのか?

 

 僕の疑問の答えは「その通り」だった。僕じゃダメだ。分かっていたことだ。僕では勝てない──長門でなくては。彼女の砲弾が、二度目の侮辱によって完璧にキレた空母棲鬼の両足を吹き飛ばした。艤装から火が吹き出て、彼女の顔を一舐めした。火のついた燃料だったようで、すぐさま鎮火されたが、顔に付着した燃料はそのままだった。空母棲鬼は痛みに喚きながら、めくら撃ちを始める。僕はそんな弾に当たらないように、急速に彼女から離れた。とどめを刺すべきだったかもしれないが、それよりも長門の手当が先だ。あんな風に腕をやられては、自分で修復材を使うのは難しい。

 

 長門は空母棲鬼を追い払った最後の一撃を放った後、ぼたぼたと左腕の付け根から血を流しながら、立ちすくんでいた。ナイフを抜き、皮一枚のところで繋がっている腕の残骸を切り離す。それからただちに希釈修復材を使用し、出血を止める。ついでに僕の耳にも振りかけた。長門は立ってはいられるようだが、意識は混濁しており、目に生気がなく、体温が低い。中度の出血性ショックだ。この状態になっては、幾らビッグセブンでも戦えない。天龍に通信を繋ぐ。

 

「長門は戦闘続行不可能、空母棲鬼は撃退、指揮権は君に戻った!」

 

 次の指示を、と言おうとして、耳をつんざく金切り声に口を閉じる。

 

(ヤツ)ラヲ(シズ)メロ! (シズ)メロ! (シズ)メ!」

 

 両足もない身で元気なものだ。大量に出血しているだろうに、滑舌も悪くない。だが、彼女が命令を発しているのが気になった。この付近にいる深海棲艦というと……あの島影にいた奴らか。さっき来た方角を見ると、確かに敵の姿が見える。二隻か、三隻か。空には空母棲鬼の置き土産がまだいて、追手が掛かってる。素敵な状況だ、心が沈む。対照的に天龍は追い込まれれば追い込まれるほど気分がよくなるらしい。声からその様子が透けて見えた。

 

「しゃあねえなァ……うっし、ケツに帆掛けな。島に逃げ込むんだ。教官も言ってたろ、『海上戦だけが砲戦のやり方じゃない』ってよ」

「了解、先導してくれ。対空戦闘を支援する」

 

 つけたままだった電灯を消し、長門に肩を貸して曳航する。速度は落ちるが、彼女を置いていく訳には行かない。友達じゃないが、戦友だ。日本語だと「友」という漢字が使われているせいで意図がやや不明瞭な文章になってしまうな。つまりこういうことだ。僕らはДружба(友情)ではなくСлужба(義務)※64で結ばれた同胞なのである。Службаを「義務」と訳すのはいささか超訳気味だが、不可能ではない。僕の心の片隅に住んでいる響には許して貰うとしよう。心の中で謝ると、彼女は帽子をくいっと上げて、にこりと笑った。許されたようだ。

 

 肩部砲塔での対空射撃を行う。空母棲鬼との戦闘開始からずっと天龍に掛かりっきりの航空隊は、僕からの射撃に対して無防備もいいところだった。戦闘機動によって燃料を消費しすぎたのか、彼らの主が離れたからか、動きも悪い。とはいえ鴨撃ちとまでは言えず、彼らの攻撃は今なお脅威の一つだった。空母棲鬼の指示に従ってこちらを追撃しようとする深海棲艦たちから、今度は僕らが島を使って身を隠しながら進む。航空隊は付いてくるから姿をくらませることはできないが、逃げるところを撃たれる心配は少ない方がいい。

 

 天龍が上陸に都合のいい砂浜と、逃げこむのに使える森林を持つ島を見つけ、僕らはそこに突進した。敵の航空隊は既に壊滅状態になっており、やはり燃料切れを起こしたらしく、撃ってもいないのに落ちていく機体もあった。単に幸運だ、と言っては天龍に失礼だろう。彼女が敵の航空隊を引っ掻き回し、燃料を浪費させたからこそ、今この時のこの僥倖が訪れたのである。少なくない努力がしばしば無駄になるが、時には実を結ぶこともあるのだ。

 

 足の立つ適当な深さのところで脚部艤装を外し、小脇に抱えて歩く。長門の艤装までそれをやっている余裕はないので、彼女は引きずらせて貰う。後で掃除が大変だろうが、生き残れたなら艤装の整備ぐらい喜んでやってやる。長門の容態は悪化するばかりだ。意識を喪失しており、一刻も早く応急手当をしなければ僕の横で死んでいくことになりかねなかった。出血性ショックというのは少量の出血でも発生しうる上に、手当てせずに放っておくと出血の多寡に関わらずあっという間に進行する。兵士の永遠の敵だ。そんな奴に、僕の旗艦を渡す気はない。彼女は戦場で、華々しく、派手に最期を迎えるべきだ。何処とも知れないような島の中で血を失って死ぬなど、彼女には許されない。そういうのは僕みたいな奴の担当だろう。

 

 敵の航空隊は残ったほんの少しの燃料を、僕らへの絶望的な攻撃に使うことに決めたらしい。僕は天龍を先に林の中に行かせて、足を止め、電灯をつけて空を照らし、長門を支えたままで撃ちまくる。機銃掃射が数メートル向こうから土を舐め上げるように行われ、何発かを身に受ける。内蔵には損傷がないようなので、修復材を使う。残りは三分の一ほどだ。心もとないが、祈ろうが不安がろうが修復材の雨が降って来る訳ではない。

 

 天龍が森林に到着した。通信でそれを知らされた僕は対空砲火を中断し、長門を艤装ごと担いだ。負傷者を運ぶ時に使う、運搬者の両肩に対象の体重を掛けさせる担ぎ方を使えば、僕でもギリギリ長門を担げた。これがもし武蔵だったら、彼女には悪いが無理だったろう。死にかけの豚みたいなスピードでのろのろと走る。もうちょっと、もうちょっとで天龍のところに辿り着く。そう考えて僕が足腰に持てる全ての意志の力を集中した瞬間、敵航空機が落っことした爆弾が後ろで爆発した。

 

 直撃しなかったのはどうしてか、爆風で宙に浮かび上がりながら僕はとっくり考え込んだ。放物線の頂点に達したところで閃きがあり、林の中、硬い石か何かの上へとうつ伏せにどさりと落ちたところで結論を出した。きっと、僕が余りにものたのた走っていたから、未来位置の予測が上手く行かなかったんだろう。

 

 体中の痛みに耐えながら起き上がり、長門を見る。僕が下になるように落ちたので、彼女は痛みさえ感じなかった筈だ。怪我していたら治療しなければならない。水筒を取ろうとして、それが失われていることに気づく。見れば、月光を鈍く反射する僕の水筒が砂浜に落ちていた。爆弾のせいで腰から脱落したようだ。取りに戻る気にはなれなかった。もう十数秒もすれば追手の深海棲艦が僕らへの視界を確保するだろう。のんきに水筒を拾いに行っていたら、撃たれてしまう。自分がそれに当たらないと信じ込めるほど、僕は幸運な男ではなかった。

 

 長門を引きずり、島の奥へと逃げる。斜面になり、自分が森林というより山と呼ぶべきものの中に逃げ込んでいるのだということを悟る。まあ、高所を取るのは悪いことじゃないか。いい具合に、僕らが上がってきた砂浜の方を見下ろすことのできる地点に、木々が密集して茂っていた。その自然の天幕の下に長門を寝かせる。意識がないので、艤装を外させた上でうつ伏せにして、顔を横に向けておく。彼女の胃には吐くようなものは残ってないかもしれないが、もし固形物が残っていたら嘔吐した際に気道を詰まらせる恐れがある。

 

 それから僕は──ああ畜生、こんなこと考えるのも勇気が要るが──長門の服を脱がした。そうしなけりゃならなかった。体温を上げる為に、濡れた衣服がいつまでも彼女の体にくっついてちゃ都合が悪い。天龍に代わって欲しかったが、彼女は敵を監視していたんだ。奴らは僕らの隠れた島の前で、次の動きを考えるように待機しているらしかった。長門が女性だからここから先は僕にはできない、代わってくれ、なんて言い出せる状況じゃなかった。

 

 脱がせると言っても、やることは少ない。長門は、彼女が艦娘であるという大前提がなければ、半ば痴女めいた格好をしている。これは武蔵なんかも同じだが、どうして一部の艦娘たちは人間をかくも安心させてくれる衣服というものを軽んずるのだろうか? あれやこれやのどうでもいいことを頭に浮かべ、罪悪感と恐怖を抑制しつつ僕は僕の旗艦殿の薄布を剥ぎ取っていく。と、背中に何か見えた。汚れが付いているのかと最初思ったが、それは文字と数字の集まりであり、刺青か何かのようだった。何だろうとは思ったが、彼女の背中を直視し続けることは戦場に場違いな艶かしさを感じ続けることだ。目を逸らさざるを得なかった。

 

 そうやって彼女をすっかり脱がせた僕は、長門のものに比べればまだ乾いていた自分の上着を着せた。それを失った僕は肌寒いが、悪くても鼻水が出るくらいだ。長門の回復の為なら鼻水程度、甘んじて受け入れよう。次に、サバイバルブランケットを出し、長門を包む。断熱性に優れたこの布は、彼女を温めてくれるだろう。そこまでやってから、僕は天龍に尋ねた。

 

「次は?」

「ここで助けを待つんだよ。何だ、打って出るとでも思ったのか? ……GPSはダメだ、いつも通りぶっ壊れちまってる。でも駆逐共が近くの泊地なり基地なりに救援を求めに行くだろ。一日二日ここで頑張れば、助けが来るさ」

「君のところの二番艦は特に有能そうだしな。そうだ、天龍。君の怪我の治療をしなくちゃ」

「ちっ、染みるのは苦手なんだよ。頼むからちゃっちゃと済ませてくれ」

 

 彼女を座らせて、希釈修復材ではない、通常の医療品を用いた手当てを行う。長門の分を使おうかと思ったが、彼女が何処にそれを持っているのか分からなかったのだ。少なくとも、服には取り付けていなかった。通常の医薬品は傷口を瞬時に治してしまうようなものではないが、止血にはなる。天龍は体のあちこちに傷を負っていたが、どれ一つとして大きなものはなかった。そのことを言うと、彼女は誇らしげに豊かな胸を張り、獰猛な笑みを浮かべた。「あったりまえだろ! オレは世界水準超えの天龍様だぜ?」装備の水準について何か言う気にはなれないが、天龍を世界中の軽巡艦娘とその能力について比べた時、かなり高位に位置することは容易に信ずることができた。それだから、僕が彼女の傷を消毒し、止血剤を振り掛けて包帯や大型絆創膏で固定すると、歯の隙間から出てくるような苦痛の呻吟を漏らすのがおかしかった。

 

 手当てが終わると、彼女はぶすっとした顔で礼を言い、僕に少し休むよう命じた。その言葉を聞くや、体の疲れがどっと出てくる。願ってもない申し出だった。少しでも長門の体温を上げさせる為に、彼女の包まるブランケットに一緒に入る。ひしと身を寄せて、こちらの体温が長門に伝わることを祈った。そのまま寝ようと思ったが、目が冴えて眠れない。まあ、目を閉じているだけでも体力は回復できる。天龍に適当なところで交代するから声を掛けてくれ、と言って、僕は眠る努力を始めた。意味のない努力だった。長門と天龍の息遣い以外の全てが、僕には深海棲艦が姿を現す予兆に思えたのだ。風が吹き、草木がざわめき、夜鳥と虫が鳴く度に、僕はその音の出所へと神経を尖らせてしまうのだった。その為、うとうとするのが精一杯だった。



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「長門」-3

 体の揺れで、意識が覚醒する。天龍の真剣な顔が、すぐ近くにあった。彼女の顔の後ろに見える空は、遠くに昇りつつあるのだろう陽の光を受けて、郷愁を誘う赤に染まっていた。点々と残る雲の漂う部分だけが、夜の青を保っている。「あいつら、陸に上がって来やがった」と彼女は言った。それを聞いて、僕はまず長門の様子を調べた。呼吸、脈拍、どちらも安定している。体温はやや低いが、前よりは上がっていた。流石は艦娘、それも戦艦だ。生命力とでも言うべきものが、人間とは桁違いだ。もう暫く休めば、活動も再開できるだろう。

 

「何隻いる?」

「二隻。戦艦タ級と重巡ネ級だ」

「分が悪いな。撃ち逃げで何とかならないか」

「オレもそう思ったさ。でもな、自分の艤装チェックしたか?」

 

 そう言われて、僕は艤装を調べてみた。ひどい有様だった。最後の爆弾が効いたらしい。砲は右腕の連装砲一門を残して全滅していた。数本残っていた魚雷は、詳しく調べると信管や推進装置が壊れていた。これではヒット&アウェイなどできそうもない。

 

「悪いが、寝てる間にちっと見させて貰ったぜ」

 

 自分がそれに気付かなかったことに僕は驚いた。うとうとしているだけのつもりが、幾らかは眠れたようだ。天龍の話では、彼女の艤装は万全ではないにせよ問題なく動くらしい。長門のものはどうかと訊くと、こちらも(測位装置(GPS)を除いて)無事だった。ただ、長門は回復していても依然として目を覚まさないし、彼女の主砲の弾薬は残り少ない。空母棲鬼相手に湯水のごとく使ったせいだが、これは責められなかった。ああでもして敵の注意を逸らしていなければ、僕の接近はもっと早くに見破られていただろうからだ。

 

「それじゃ、どうする。水偵を飛ばして爆撃してみるか?」

「重巡がまだ生きてるってことを敵に教えるには、何とも気が利いたやり方じゃねえか、ええ? まあ聞け、お前は荷物を持って長門と別の島に移るんだ。あっちの方に行け、浜が近い……バレねえようにやれよ。その間、オレがあいつらを引っ張り回す」

「砲の威力なんかはこっちが上だ。逆の方がいい。君が長門を連れて行くんだ」

「ダメだ。陽動に火力なんて必要ないし、オレじゃ長門は運べないからな。これが最善手だよ。無線は常時繋げとけ。移動が終わったら信号二回だ」

「僕と長門は君らの護衛に来たんだぞ。僕らが君を守るんだ。逆じゃない」

「意地張ってねえで言う通りにしろ! 分かんねえのか? もうそんなこと言ってる場合じゃねえんだよ!」

 

 僕と天龍は睨み合った。僕は彼女を守りたかった。本当だ。彼女を一人で戦わせたくなどなかった。でも、天龍が言っていることは正しかった。これが最善だ。長門が死ねば、遅かれ早かれ僕らみんなが死ぬ。それを防ぐには、僕は天龍を見捨てるしかないし、天龍は彼女だけで深海棲艦の前に立ちはだからねばならない。長門を置き去りにして逃げ出す、という考えが頭を過ぎらなかったと言うと嘘になる。だが、僕はそのことに大きな誇りを感じるのだけれども、そんな考えを強く憎んでいた。天龍だって、そうだろう。

 

「……いいな? よし、すぐ取り掛かれ」

 

 彼女は僕の返事を待たずに、敵がいるのだろう方へと駆け出していった。止めることはできなかった。荷物をまとめ、長門に艤装を装着させ、その上からブランケットを使って彼女の体を覆った。ぼろぼろではあるが、彼女の上着や下着なども置いてはいけない。サバイバルキットから小さく折り畳まれた防水耐熱加工済の袋を取り出し、そこに全て放り込む。歩くのには邪魔な僕の脚部艤装もだ。長門を担ぎ上げ、袋を手にして、僕は歩き出した。走れなかったのは長門の重みのせいだけではなく、斜面を下りなければならなかったからでもあった。

 

 足が痛む。脚部艤装は靴みたいなものだ。つまり、それを着用する時には靴下の上から履く。脱ぐとどうなる? 素足とほぼ変わらない。それで整備もされていない山の斜面を歩いている。地に落ちた枯れ枝、ごつごつした石、普段なら靴が守ってくれるあらゆるものから、僕の足は攻撃を受けていた。肩に掛かっている余分な重量のせいで、余計に痛い気もする。だが歯を食いしばって進む。聞こえるからだ。天龍の砲声と、敵の砲声とが。彼女は戦っている。僕と長門を逃がす為に、たった一人で、戦艦や重巡とだ。彼女が血を流し、命を懸けているというのに、足を止めるなどということは考えられなかった。

 

 斜面が段々と緩やかになっていく。(ふもと)が近いようだ。砲撃音は途絶えていない。僕は長門を安全な場所に連れて行ったら、天龍を助けに戻ることを決めた。彼女は別の島に移れと言ったが、その後のことについては「移ったら信号を二回」としか指示しなかった。そこで待機とは言わなかったのだ。

 

 無心で進む内、遂に地面は水平と思えるようになった。がくがくと足が震えるが、歩くのはやめない。日光できらきらと光る砂浜が、僕の足を焼こうとも、進み続ける。波打ち際で僕は長門を一時下ろし、脚部艤装を装着した。それから長門を担ぎ直し、近くの島へと移動を始める。全速力では音や航跡が目立ちすぎるので、巡航以下の速度に抑えなければならなかった。目指すのは、この島々のところに来た時に見た、建物のある島だ。生き延びたいなら、使えるものが調達できる場所を拠点に選ぶべきだろう。その点、廃墟となった町や村というのは、最適な場所だった。深海棲艦たちはここを待ち伏せ地点にしているのかもしれないが、まさか廃墟に住んでいる訳でもあるまい。

 

 降り注ぐ陽に汗を流し、長門を守る為だとしても逃げ隠れするしかない自分に毒づいていると、後頭部で呻き声が聞こえた。長門が目を覚ましたのかもしれないが、声を出すのははばかられた。何をするにしても、安全地帯に移動してからだ。

 

「仕方ねえよなあ」

 

 無線から、天龍がぼそりと呟くのが聞こえた。敵の砲声も、重なって聞こえた。僕の心臓の鼓動が、ますます早くなる。やられたのか? 怪我をしたのか? 僕は彼女を助けられないのか? 今すぐ引き返して一緒に戦いたかった。そんな僕を笑うかのように、天龍のこもった笑い声がノイズを伴って耳に届いた。「こんな風に終わる、なんて、思ったこと……なかったぜ、そうだろ?」僕は声を聞かれるかもしれない危険を犯し、天龍の名を呼んだ。愚かな行為だったが、それをしないのが立派な艦娘だというのなら、僕はいつまで経ってもそんな風にはなれないだろうから、艦娘なんかやめてしまった方がいいと思う。答えはなかった。恐らくは、無線の送信スイッチを入れたままにしているのだろう。だから、こちらの声は聞こえないのだ。

 

 ごほごほと、天龍は水っぽい咳をした。何かを吐き出す音も聞こえたし、彼女の息は浅く、荒いものだった。肺をやられたのだ。それは今の状況から考えると、致命的な負傷だった。彼女は呟き続けている。「タ級、タ級がいねえ……死に損ないは、部下任せってか。いい度胸だぜ、クソがよ」僕にはそれを聞いていることしかできない。無線を切ろうかと思った。天龍は撃たれた。彼女は死ぬ。もう助からない。戦友がゆっくりと死んでいくのを、耳元で聞かされ続けるのは苦しかった。しかし、これは彼女の最後の言葉なのだ。彼女が、より長く続く筈だったその生涯において発する、最後の思いなのだ。誰かが聞いていてやらなければいけなかった。誰にも知られないままに死んでいくなんて、悲しすぎる。そんな死は彼女には相応しくない。

 

「あいつ、もう逃げられたかな。もう、いいよな。一番最後の、お楽しみだ」

 

 天龍の刀がちゃきりと音を鳴らすのが聞こえた。最早抑えられていない、子供のような笑い声も。彼女はやっと、苦しそうに叫んだ。「見てろよクソったれ! 天龍型一番艦、天龍、行くぜぇ!」雄叫びを上げ、ざくざくという足音を立てて、彼女は敵に向かっていったのだろう。無線は突然に途切れ、一つの事実だけが僕の精神を支配した。もう、僕と長門しか残っていない。死にかけている長門と、役立たずの僕しかいない。何が重巡だ、何が世界唯一の男性艦娘だ。僕は戦友を、同期を、守ることさえできなかった。一緒に死んでやることも許されなかった。生き延びてしまった。僕は僕が僕でなくてもっともっと強い誰かだったらと思った。涙が溢れ、視界がかすんだ。僕が日向だったら、妙高さんだったら、長門だったら、武蔵だったら、天龍を守れたかもしれない。彼女と共に戦えたかもしれない。龍田は姉妹艦を、親友を失わずに済んだかもしれない。あの浦風は旗艦を失わなくて済んだかもしれない。僕が、僕より強い彼女たちの内の誰かだったら。

 

 何度もまばたきをして、視界を確保する。嘆きは深く、僕の心は引き裂かれんばかりに痛んでいる。この苦痛を癒してくれるのは、仇の死だけだろう。僕は自分に尋ねた。理由は一人の女性だ。一人の艦娘だ。彼女は死に、僕が何をしようとも戻って来ることはないだろう。その彼女の為に、まだ生きている自分のこの柔らかな肉体を恐ろしい敵の前に晒して、戦う価値はあるのか? 僕は注意深く考えた。一時の感情に流されてはいけないと思った。そして結論を出した。天龍の死は奴らの血であがなわれるべきだ。この結論が正しかったかどうかなどということは、誰にも言えないだろう。僕自身も含めてだ。というよりも、これはそういう問題ではないのだ。僕がどう考えるか、というテーマと、その考えの正当性というテーマは、一切の関連性を持たない。

 

 目的地の島に上陸し、再び山へと上がる。山を下りたり、海上を航行している時には感じていた筈の長門の体重を、その時の僕は感じなかった。きっと、怒りが活力を与え、神経を麻痺させているのだろう。足を進め、木々の奥、海から見えない場所に立っていた朽ちかけの木造の小屋を見つける。一も二もなく僕はそこへと立ち入った。何もない小屋だ。劣化したガラス窓と触ったら崩れて落ちそうなカーテンがあるだけで、床などはところどころ腐っているという有り様だった。だが天井はあるし、風も防げる。海から直接見えないなら、火を使っても砲撃される恐れは少ないだろう。

 

 腐っていない部分を選んで、そこに長門を横たえさせる。もちろん、艤装を外してからだ。僕の艤装から壊れた砲塔をパージし、それを彼女の足の下に置くことによって、下肢を二十センチほど高くする。弾薬は抜いてあるので何かの拍子に爆発してしまうようなことはない。長門の呼吸など、バイタルを確認する。随分平常に近づいて来た。間もなく目を覚ますだろう。僕は彼女の服を近くに置いておき、小屋を出て、海から見られないように気を使いながら枯れ枝を集めた。

 

 火を起こすべきかどうか、まだ分からない。だが、用意をしておいて悪いことはない。火があれば多くのことができる。サバイバルキットの中の保存食を温めてから食べることも可能だ。体力回復には重宝するだろう。そんなことを考えてしまったせいで、ぐう、とお腹が鳴った。

 

 小屋に戻り、閉じていた扉を足で開けると、天地が反転した。背中から床に叩きつけられ、首に冷たい砲口が触れる。僕はなるべく落ち着いた声で「おはよう」と言おうと試みたが、様々な感情が入り混じってしまったように思う。僕を投げ飛ばした当の本人は、床に倒れている相手が深海棲艦ではないことに気づくと、残念そうに押さえつけていた右腕を離した。「ここは?」と立ったまま僕を見下ろして、彼女の服を着直した長門は言った。「天国に見えるかい?」と言い返してやるが、その程度では彼女の気持ちを傷つけられなかった。「状況はどうなってる」「君は片腕になった。天龍は」死んだ、と言おうとして、その言葉の持つ重みに僕は恐怖した。「やられたよ。敵はネ級とタ級。空母棲鬼は撃退した」長門は床に座り込み、吐き捨てるように言った。「なるほど、今度は私の番という訳か」彼女がこの海域で親友を失った時のことについて言及しているのだと、僕にも理解できた。長門はこちらを見て、力なく自嘲の笑みを形作った。

 

「こんな時に傍にいるのがお前とはな」

「同意しよう。沈みかけた君を引っ張り上げたり、気を失った君の濡れた服を脱がせてブランケットに包んで温めたり、天龍が命懸けで時間を稼いでいる間に君を安全な場所まで連れて行ったりしたけど、僕なんかいない方がきっとよかっただろうな。何しろ君の言うことなんだから間違いない。それで? 気分は?」

「ひどい」

「そりゃよかった。僕はこれから食事をして、夜まで休んで、それから天龍を迎えに行く。君は寝てればいいさ。一日二日もすれば、天龍の駆逐隊が迎えを寄越してくれるだろうよ」

 

 寝っ転がったまま、今はもういない戦友と話し合った希望を、長門にも伝える。駆逐隊が無事に味方の基地に到着していればいいが……長門が言うには、少し待っても戻って来なかったら先に行くようにと指示を出していたそうなので、多分大丈夫だろう。まさか怒り狂った空母棲鬼に偶然出くわしたということもあるまい。

 

 立ち上がって、長門が脱ぎ捨てた僕の服を着直し、部屋の片隅に行き、そこで腰を下ろしてウェストポーチから保存食を取り出す。投げ飛ばされた時に散らばった枯れ枝を集めるのは後にしよう。食べて、体力を保ち、行動に相応しい時を待つのだ。ブロック状のエネルギー食は僕の口をぱさぱさにしてくれたが、高カロリーは保証されている。食欲の湧く味ではないが、贅沢は言えなかった。喉に詰まらせないようにしながら、胃へと押し込んでいく。水はない。あれこれと用意しておいて、水がないとは。何という愚かしさ! 生きて帰れたら、僕の「安心」に二キロそこらの追加をしなければならないな。

 

 食べながら、半径三キロ以内にいる唯一の生きた艦娘であろう長門を見る。彼女は左腕を失ったこともあってだろうが、意気消沈している。そんな彼女を見ると、僕はむかむかしてくるのだった。天龍が命を懸けたのは何の為だったんだ? 僕が必死で努力したのは、こんな、ただの女みたいな奴を助ける為だったのか? 僕の言葉が彼女に響くことはないだろうが、それでも何か言わないではいられなかった。僕は彼女を力の限り、あたかも彼女が敵であるかのように睨みつけて、刺々しい声を投げつけた。

 

「僕の実技教官は右腕がなかったが、僕を百人合わせたよりも強くて、堂々としていたぞ! 君はなんだ、めそめそと情けない!」

「お前に何が──!」

 

 すると彼女は、僕がびっくりして身をすくませてしまうほどの荒い語気で食って掛かろうとして、そこで言葉を止めた。僕は怯んだ体勢のままで次の言葉を待った。彼女は「おいおい嘘だろう?」という顔で、僕に尋ねた。

 

「その教官というのは、那智じゃなかったか? 顔に火傷痕のある奴だ、そうだな?」

「え? ああ、そうだ。僕の実技教官だ。何故君がそれを? いや、まさか、君の」

 

 彼女は、ゆっくりと首を縦に振った。「そうだ。私の、親友だ。守りきれなかった」「彼女の隊は全滅したって聞いてた」「違う。私とあいつだけが生き残った。丁度、今回みたいな護衛任務で、私とあいつが志願して、ここを通った時に……そうか。だからお前は、私たちの研究所に来たのだな。本当に、あいつの代わりだったのか」僕は黙っていた。長門の言葉から推測すると、那智教官が提督に口利きをして、僕を広報部隊から引き抜かせたのか? なら、僕があの岩礁での交戦を経験しなかったとしても、ある日転属命令を受領して、ということになっていたのだろうか。

 

 あの日、第二艦隊が僕のいた広報艦隊と合同の仕事をすることになっていたのは、それに提督が付いてきていたのは、全部、僕を──そこで考えるのをやめる。ここでそれを考えたところで何にもならないし、大体、那智教官が僕の為に手を打ってくれたというだけの話じゃないか。実力を評価されたんじゃなかったのか? などと思って傷つくほど、僕は子供じゃなかった。大事なのは過程じゃない。その最終点だ。僕は実戦部隊に配備された。那智教官の、言わばコネでだが、それがどうした。とにかく僕はそこの一員だ。構成員として恥じない仕事をしている限り、誰にも文句は言わせない。

 

 僕は突然、長門のことがじわじわと愛しくなってきていることに気づいた。恋愛的な感情ではない。彼女が那智教官と親しかったという事実を知って、どうしてだろうか、心が穏やかな気持ちになったのだ。那智教官のことを思い出したからかもしれない。僕は優しい声を出すように心がけ、長門に休息を勧めた。「ねえ君、ちょっと休んでいなよ」彼女は気持ち悪いものを見る目でこちらを見てから、しかし僕の気持ち悪さと発言の正しさは別のことと判断して、頷いた。一々癇に障る奴だ。

 

 長門は壁に寄りかかって座り、言いにくそうに尋ねた。

 

「那智とは、親しかったのか?」

「実技訓練教官とかい? 当然だろ! 強盗と家主ぐらい親しい間柄だったさ……まあ、普通の関係だよ。彼女は僕を鍛え、僕はちょっぴり彼女を憎んだ。でも感謝してる。彼女はいい教官だ」

「そしていい艦娘だった」

 

 長門がまるで、かつてはそうだった、みたいな口調で言うので、「今でもな」と僕はすかさず訂正した。艦娘であることがどういうことか、僕は知っている。それは前線に立つかどうかが決めるのではない。性別や、所属する部隊や、普段やっている任務の性質が決めるのではない。実戦部隊でもろくでなしはろくでなしで、広報部隊でも艦娘は艦娘だ。脅威の前に立ちはだかる時、後ろに回した全てのものを守り抜くか、守り抜こうという試みの中で死んで行くことを謙虚に誇りとし、覚悟するという信念が、艦娘であるかどうかを左右するのだ。だから那智教官は今でも艦娘だし、天龍もまた、当然にそれだった。彼女にとっての艦娘の定義が何であったにしても、天龍は僕にとっての艦娘の定義を完璧に満たした女性だったのだ。

 

「長門と一緒にいた頃は、どんな感じだったんだ? 僕の知ってる那智教官は、常時不機嫌そうだったが」

「よく笑う奴だった。厳格な軍人みたいな顔をしている癖に、冗談と酒が大好きで、生真面目な他の艦隊員なんかをしょっちゅうからかっていた。加賀の矢があるだろう? 艦載機じゃなくて、普通の矢だ。あの馬鹿、あれの先に何だったか、とにかくとんでもないものを刺してな……それで激怒した加賀に尻を射られた上、悪戯の罰として入渠も禁じられて、一週間出撃できなかった。笑えるのはな、その間、寝る時は必ずうつ伏せだったんだ。尻が痛むから、って」

 

 想像できなかったが、想像しようとはしてみた。加賀が怒るところは何とかなったが、那智教官が加賀の矢に悪戯をして尻を射られるところは、どうやってみても無理だった。僕は一時、自分がどんな状況にいるかや、友達が辿った悲惨な運命のことを忘れて笑い、長門も笑った。僕ら二人がこんなに近くにいて、こんなに愉快な気持ちでいるなんてことがあり得るとは思いもしなかった。こんな日が来るとは。けれど得てして思いもしなかったことほど、何の因果か起こってしまうものなのだ。

 

 それから僕らは、協力して小屋の中で火を()いた。換気や、外から見えやしないかということに気をつけながら作った小さな火だったけれど、近くにいると暖まることができた。が、僕についてはかなりの時間、小屋の外にいなければいけなかった。見張り役を務めていたからである。長門は本調子ではなかったので、なるたけ早く万全な具合まで持っていく為に、見張りのようなキツい労働から解放してやったのだ。僕は指を噛んで寒さや眠気に耐えながら、見張りを行った。ただ海を眺めていたのではなく、敵が陸に上がってこの小屋に来た時の為に、罠を仕掛けたりなどもしていた。サバイバルキットの中のワイヤーなどが、ここで役立った。深海棲艦を殺せるほどの罠は無理だが、接近を知ることができるだけでも十分役に立つ。

 

 暗くなって来たので一度小屋に戻ると、長門は火の近くで何かを食べていた。「君の持ち物は希釈修復材程度かと」などと僕が言うと、彼女は「私とて備えはする」と言った。何処に隠していたのだろうか? 興味を覚えたが、教えてくれと言える仲ではない。僕は彼女の向かいに腰を下ろし、これから自分がどうするかを話すことにした。

 

「天龍を迎えに行ってくるつもりだ」

「友軍が来た時の方がいい」

 

 長門の助言は、常に彼女がそうあろうとしているように、正当かつ説得力があった。友軍は来るだろう。明日か、明後日か、それは分からない。だがその頃に天龍の体がどうなっているか、これは分かる。彼女は死んだ。彼女は世界にとって、今や新鮮な肉の塊だ。山と土の住民たちは、こぞって彼女にたかるだろう。そんなことを許してはおけない。僕は彼女を取り返す。彼女の葬式の時に、棺の覗き窓を開けられないような状態にしたくないのだ。動物に食い荒らされた愛娘を見て、親はどんな反応をする? 彼女の戦友や親友はどうだ? 激しく損傷した遺体でも復元してくれる技術者たちがいるのは知っているが、そもそも損傷させない方がいいに決まっている。

 

 僕がそういうことを言って反論しようとするのを、長門は右手を突き出して止めた。「だが、私もお前の立場なら、同じことをするだろうな。一人で大丈夫か?」この質問には、一見僕を気遣うようなニュアンスが見て取れる。だが実際は、単なる確認だ。もしここで僕が手伝ってくれと言ったら、彼女は手伝ってくれるだろう。大丈夫だと言えば、小屋で大人しくしているだろう。どちらがいいか? 僕は考えた末に、助力を頼んだ。彼女は頷いた。

 

 外に出ると、早々と真っ暗になっていた。なので天龍の最期の地となった島まで、攻撃を受けることなく僕らは移動できたが、個人的には残念な気もしていた。もし連中が仕掛けてきていたら、仇討ちできたかもしれないのに、と僕は思っていたのだ。その仇討ちというのが、天龍に再会することになる危険性をたっぷりと持っているということは、意図的に無視されていた。長門を担いで上がった、あの砂浜に立ち、進む。途中で足元に光るものがあり、拾って見てみると、僕の水筒だった。ありがたいことだ。僕はそれを定位置に戻し、戦闘の痕跡を探した。それはすぐに見つかった。

 

 声を出さず、足音もできるだけ出さないようにしながら、折れた木や着弾の痕を辿って歩く。途中、僕は根っこか何かに足を引っ掛けて転びそうになって、近くの木に手をついた。その手がべとりとしたものに触れた感触がしたので慌てて見てみると、誰かの、恐らくは天龍の血にまみれていた。負傷して、体を支える為にそこへ押し付けたのだろう。血は乾きかけ、固まりかけていた。次の痕跡を探そうとして、見当たらず、足を止める。それから僕は天龍になったつもりで、血塗れの木に背中を預けた。

 

 僕は撃たれ、出血し、疲労している。希望はなく、一人だ。下を見る。どちらから追われている? 砂浜のあった方からだ。僕の目的は逃げることか? 違う。敵を引き寄せることだ。なら、素直に逆方向に逃げる。砂浜から遠ざかるように歩きながら、地面を注視していると、天龍の血痕が残っていた。それを道案内にして進む。やがて、目的地に着いた。僕はハンドサインで長門を止め、恐る恐る、黒い人間大の物体に接近した。暗すぎて、もう離れたところからでは天龍かどうかさえも分からなかった。手で投光部を押さえながら、電灯をつける。それを近づけて、ようやく彼女が死の間際に何を成し遂げたかを知った。

 

 天龍は前のめりに倒れ、凄惨な笑顔のまま、かっと目を見開いて息絶えていた。その両手は刀の柄を固く握っており、その切っ先は彼女が押し倒したネ級の胸に突き刺さったままだった。傷から察するに、天龍は刃を上にして腹を刺した後、胸まで切り上げたようだ。隻眼の少女の左脇腹は砲の直撃を受けてか、いびつな円形にえぐり取られたかのようになっており、内臓の一部がネ級の傍らにこぼれていた。少し、糞便の臭いもしている。だがそんなことで気後れするようなら、そもそもここまで戻っては来なかった。

 

 ネ級の死亡を確認し、二人の体を引き離す。天龍の凝り固まった手から刀を外すのには苦労したが、どうにかやり遂げた。それを彼女の腰に提げられていた鞘へと戻し、体を抱え上げる。そうして間近で見てみると、天龍の笑みは死に至るほどの戦闘への歓喜と、「陸で死ぬとはなあ」という皮肉げな感情が混ざったもののように思えた。そしてまたしても、那智教官が正しかったことを知った。

 

 彼女は以前、頭の三割近くを吹き飛ばされながら、自分に致命傷を負わせた深海棲艦を道連れにして逝った艦娘について語り、僕らも訓練所を出るまでにそうなると言った。天龍は、まさにその通りのことをやったのだ。弾を受けたのは頭ではなく腹だったが、自分一人では殺されなかった。手を伸ばし、戦友への愛おしさから彼女の髪の毛を撫でる。「とうとう、英雄になったな」と僕は呟いた。それが僕にできた精一杯の、力ない慰めだった。

 

 小屋に戻り、床に寝かせる。目を閉じさせ、表情を整えてやる。彼女の戦争は終わった。きっとあの世で、悔しがっているだろう。そして落ち着いたら、その場で彼女の新しい戦争を始めるだろう。僕は天龍が天国と地獄のどちらに行ったのかと考えた。どちらでもいいが、僕が行くのは彼女が行かなかった側にして欲しいものだ。

 

 天龍の服から土や汚れを払い、彼女の顔を見る。僕が見つけた時、彼女がどんな表情だったかを思い出す。彼女がどんな艦娘だったかを、その記憶の一つ一つをなぞる。はっきり言って、僕の知っていることは少ない。利根や北上との思い出なら沢山ある。隼鷹との思い出や、第一艦隊の友人たちとの思い出、武蔵との不愉快な関係のことなら、多くを話すことができるだろう。一方で、僕と天龍とは、親しい関係ではなかった。だからこそ、可能な限り明確に覚えていなければならなかった。彼女の最期を知ることを望む全ての人々の為に、いい加減な記憶では話せなかった。

 

 およそ、彼女について僕が想起しうるあらゆる記憶を呼び覚ました後、僕は艤装の整備点検に取り掛かった。整備点検と呼ぶより、応急修理と言った方がいいかもしれない。僕は壊れた砲塔から使えるパーツを取り外し、組み合わせることで、左肩の砲塔を復活させることができた。これで右腕と左肩の二門が使えるようになり、戦意も大いに湧いた。他にも、魚雷を慎重に分解して砲塔と同じ要領でニコイチ修理し、天龍が残した魚雷と合わせて、雷撃二回分の魚雷を用意した。これらを何に使うかという質問に対して、僕は既に答えを持っていた。

 

 タ級を始末するなら、今夜の内だ。でなければ救助隊が来てしまう。僕の復讐心もしぼんでしまい、代わって戦闘への忌避心が台頭するだろう。近づけるだけ近づいて、倒す。僕は天龍の刀を借りることにした。ナイフよりも長さがあり、重さもある。それに天龍はタ級に一泡吹かせることができなかった。奴が彼女を侮って、ネ級に任せたからだ。その侮辱への返礼としても、刀を持っていこうという気にさせられた。使わなくとも、邪魔にはならない。

 

「空母棲鬼に襲われて、護衛対象が全滅した時」

 

 小屋を出ようとすると、長門が呟いた。振り返る。彼女は僕に背中を向けて、火に当たっている。表情は見えない。

 

「奴の手駒を全員沈め、追い払ってやったが、那智は顔と右腕を怪我していた。腕は特にひどくて、ずたずたになっていたのを覚えている。希釈修復材が切れていたから、通常の止血剤で血を止めた。助けはすぐに来ると思っていた。だが、来なかった。捜索隊は出ていたらしいが、別の場所を探していたんだ。その内に腕が壊死を始めた。私はあいつを押さえつけて、腕を……切断した。止血剤も最初の手当てでなくなっていたから、焼いて血止めをした。それから、あいつの艤装の燃料を私の艤装に移し替えて、島を出た」

 

 開きかけていた小屋の扉を閉め、長門の隣に腰を下ろした。彼女の顔を見るつもりはなかった。ただ二人で、火を見つめていた。僕は彼女に訊ねた。

 

「親友を一人で置き去りにしたのか?」

「壊死を始める前に、話して決めていたんだ。助けが来そうになかったら、そうしようと。私は必死で研究所まで戻り、救援の部隊と共に那智の元へ向かい、山の中で倒れているあいつを見つけて、連れ帰った。だが那智の腕は私が施した血止めのせいで元に戻らず、顔の傷も全快しなかった。そうして、あいつは艦隊から除籍された」

 

 長門がどうしていきなり彼女の過去を話し始めたのか、僕にはまだ分からなかった。もしかしたら、それは懺悔のつもりなのかもしれない。無論、僕にそれを聞いてやる義務はないし、僕は神父でも父なる神でもないから彼女に赦しを与えることもできない。だが、僕がそこにいて、彼女が過去を語って、それだけで長門の気が楽になるなら、僕は喜んでその場にいることを選ぼう。彼女が背負っている何か重いものを、下ろす一助になれるなら。彼女の次の言葉を待つ。長門は火の脇に転がっている一本の枯れ枝を、小さな炎の中に差し入れた。

 

「私はするべきことをした」

 

 言葉尻は震えていたが、その声には揺るぎない信念が宿っているのが分かった。もし那智教官を救う為に、彼女の両手両足を奪わなければならないとしたら、長門はそれをやっただろう。あるいはいっそ、彼女を楽にしてやっただろう。しかし、その言葉には信念だけではなく、悔悟の念も含まれていた。それが震えとなって現れていたのだ。「するべきことをした、しようとした、だが守れなかった。前回も、今回もだ」視界の端に映った長門の拳が、きつく握られるのが見えた。拳は込められた力によって微動している。

 

「お前は、私が撃たれた時の、あの空母棲鬼の言葉を聞いたか?」

「『変わらない限り、何度でも繰り返す』だったか。あっちも君を覚えていたようだ」

「深海棲艦の言葉など、真面目に受け止める方がどうかしているだろうが……気づいたんだ。奴の言葉にはな、一つの教訓がある。それも確かなものが。変わらなければ、繰り返す。繰り返していては、変われない。違う結果を求めるなら、違う行動を選ばなければならない。分かるか?」

「その言葉の意味は分かるよ。君が何を言いたいのかは分からないけど」

「するべきことをして、二度続けて失って、ようやく私は悟った。遅すぎたが、それでも自らを正すのに手遅れというものはないだろう。いいか、よく聞け」

 

 彼女はこちらを向いた。僕は数センチほど後ろに退き、長門の目を見た。そこには今でも、僕への悪感情が揺らめいている。誠実さ、苦悩、必死さ、自分の気持ちを理解して欲しがっている様子も見て取れた。

 

「私はお前が嫌いだ。理由は知らないが、お前を見ている時にはそのことさえどうでもよく感じる。だがな、お前は……私にとっての救いかもしれないんだ。

 

 私が変わることのできる、最後の機会かもしれないんだ。私の失敗をなかったことにすることはできないが、自分がそこから学んだということを、自分自身に納得させられるかもしれない。その鍵になるのは、お前なんだ。

 

 運命だ。お前が私と出会ったのも、私と那智を襲った空母棲鬼が数年ぶりに現れたのも、きっと運命なんだ。そうじゃないか? 那智がお前を鍛えた。お前はそれに見事に応えた。だから那智はお前を私の艦隊に送ろうとした。だから私は、あいつの席に収まろうとするお前への嫌悪を高ぶらせた。だからお前と私はここに来た。

 

 提督は第二艦隊から一人を選ぶつもりだったが、私がお前との問題を解決しようとしているのを理解して、許可を出してくれた。天龍はよく知らない相手を、それも戦艦や重巡を二人も指揮するのは嫌だと言ったが、一人は同期のお前だったから仕方なく受け入れた。だから空母棲鬼を撃退することもできた。だから、天龍を失いながらも、まだ私たちはここで生きている。分かるだろう? いつでもお前だ、お前の存在が鍵になっているんだ!」

 

 彼女は彼女自身も知らない内になのだろうが、僕に詰め寄り、僕の左肩を無事な右手で強く掴んでいた。僕は何と答えるべきか分からなかった。運命、そんなものを信じたくはない。長門が僕を憎むことが、結果的に彼女を過去という苦しみから救うことに繋がるという運命となれば、尚更だ。それはちょっと、ひどすぎる。なので、僕は彼女の考えを肯定する気にはなれなかった。かといって、否定する気にもなれなかった。だから結局、僕が彼女の長台詞に返したのはたったこれだけの言葉だった。

 

「それで、どうしたいんだ?」

「するべきでないことをする。これまでしようとしなかったことを、やってみる。誰であれ、何であれ、私から三人目を奪わせはしない。……戦艦長門は、今夜、お前と共にある。共に戦いへと赴き、お前を守ろう。理屈だけで考えれば行くべきでないにせよ、私はそうしよう。それが私の、私が変わる為の第一歩だ。違う結果を生み出す為の第一歩だ。信じろ、私はお前を必ず守る。今度こそ守り通す。一人にはしない。何があろうとも。さあ、私の手を取れ、共に征こう」

 

 彼女は腰を上げ、僕を見下ろし、手を差し出した。



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「長門」-4

「さあ、私の手を取れ、共に征こう」

 

 長門は腰を上げ、僕を見下ろし、手を差し出した。僕はその手に自分のそれを重ね、握った。ぐい、と引かれ、立ち上がる。「よし、火を持って付いて来い」と長門は僕に命じた。頷きを返し、僕はサバイバルキットに片付けておいた袋を取り出した。耐熱加工されているので、ススが付着する程度で済むだろう。後は袋を持っている手が熱いぐらいか。天龍の艤装や装備を取って小屋を出て、そのままずんずんと突き進んでいく長門の後に続く。奇妙な安心感があった。こうなった長門には、自分がロボットにでもなったつもりで従っていれば、万事が上手く運ぶだろうというような……彼女の精神的な安定についての懸念はあったが、今のところ問題化する兆候も見えない。任せておけばいいだろう。

 

 海からの視線を遮る木々から抜けて、かつて人々が小さな集落を作っていたのだろう場所に着く。家屋や商店だったらしい建物が、くっついて並んでいる。埃っぽく、不気味だが、田舎町の雰囲気を色濃く感じさせて、僕は自分の祖父母の家がある辺りを思い出した。もう長い間、帰っていない。直接手紙のやり取りはせず、両親経由でその様子が時折伝えられる程度だ。きっと心配させているのだろうな、などと場違いな思考を広げていると、長門が一つの建物を指し示した。その建物は、頭二つ分ほど他より背が高かった。ホテルとか旅館とか、その手の何かだったようだ。

 

「最上階か屋上の、海から見えやすいところで火を焚け。ある程度大きくなったらすぐに逃げろ。集落の入り口で落ち合おう。それと、そのサバイバルキットを貸せ」

 

 理由も聞かずに、僕はウェストポーチを渡した。中から着火用の燃料を半分だけ抜いておいたが、これは僕の仕事に必要なものだ。それを除けば、多分、長門は僕が使うよりも百倍有効に使ってくれるだろう。彼女は右腕に天龍の艤装を持っていたので、僕が後ろから長門の腰に腕を回して取り付けてやらなければならなかった。僕らは互いにむくれ顔をしながら、その作業を行った。僕は長門の腹の皮をポーチの留め具に挟んで痛がらせてやったし、彼女はさも「痛みによる反射的運動」でもあるかのふりをして僕の横っ面に肘打ちを食らわせた。僕は頭を、彼女は腹をさすりながらそこで別れ、それぞれの仕事を片付けに掛かった。

 

 入り口には鍵が掛かっていたが、僕は右足というマスターキーを持っていた。問題なく侵入し、階段を見つけた。火種を入れた袋を腰に結わえ、電灯だけを明かりとしながらコンクリの階段を駆け上がっていく。両手はフリーにしておきたいので、電灯はスリングで体にぶら下げた状態だ。埃と蜘蛛の巣だらけだが、気にしない。軍の外の世界じゃ、こう言う人がいる──愛は全てに勝利する(Omnia vincit Amor.)ヴェルギリウス※65が彼の書いた詩の中に文脈的関連を色濃く持って現れる、この三単語のフレーズに関する独立した解釈についてどうコメントするかはさておき、軍の中じゃ、これは誤りだ。ここでは命令が全てを打倒する。蜘蛛の巣、埃、不快害虫、深海棲艦、ムカつく同僚。

 

 二段飛ばしで上がっていると、突然足元が崩れた。空中に放り出されるあの不快感を覚え、僕は咄嗟に目の前の階段の残骸に腕を伸ばした。衝撃が腕に走るが、落ちるよりマシだ。下を見る。高さからすると落ちても死にはしないだろうが、足を挫くか折るかするかもしれない。腕に力を込めて体を持ち上げ、這い上がる。口に砂と埃が入った。吐き出して、上がり続ける。壁に書いてあった消えかけの階数表示によれば、もう少しだ。

 

 階段は最上階までのもので、屋上に続く道は見つけられなかった。だがまあいいだろう、ここは海の近い集落だ。屋上では風が強すぎて、火を焚いても消えてしまいかねない。僕は電灯を左手に構えて、長門の条件にぴたりと合う部屋がないかを探した。見つけ出すまでに僕の体中に汚れがへばりついたが、どうにか僕はやり遂げた。三方に窓があり、海を見ることができる。

 

 別の部屋にあったテーブルを持って来て、その上に火種を出す。着火用燃料を惜しみなく使って火を強め、テーブルと一緒に回収しておいた古新聞やその他の燃えそうなものをそこに突っ込む。火が大きくなったところで、部屋の片隅に置いてあった木製の椅子を蹴り壊し、燃料として足す。そしてとどめとばかりに、窓からカーテンを引き剥がしてそれも燃料にしてやった。薄布なので、じきに燃え始めるだろう。火を焚くどころか大火災にしてしまうかもしれないが、そうなったらそうなった時だ。

 

 満足して見ていると、窓の外で何か光った。海の方だ、何だろう……そう思っていると、地震のような物凄い揺れが僕を襲った。ああクソ、「何だろう」じゃないぞ、畜生! 時間を使いすぎた。タ級が明かりを見つけて、撃って来やがったんだ。僕は持っていたもの、椅子の残骸なんかを全て床に放り投げ、その場を逃げ出した。その直後、二回目の揺れが来た。一回目より小さいところを見ると、最初のは建物に当たったが、二発目は外したらしい。階段を三段飛ばしで下りる。すると、悪夢みたいな光景が広がっていた。

 

 でも道理と言えば道理だ。僕一人の体重に耐えられない箇所があるほど、老朽化していた階段だ。建物に砲弾が直撃したらどうなる? 全部が崩れ落ちずに、一部だけで済んだことを僕は幸運に思うべきなのだ。それが慰めにはならないことを別にしても、幸運だった。一発目で建物自体が崩壊する可能性だってあったのだし。

 

 電灯で階段の崩れた部分を照らす。僕の立っているところから、踊り場部分まですっかり壊れている。踊り場部分は無事で、そこからまた次の踊り場まで崩れている。いいだろう、僕とて一人の少年だった時代がある。ゲームは好きな方だ。自分がアクションゲームの主人公だと思ったことはないが、そうならなければいけないというのなら、そうなろう。数歩下がり、助走をつけて、飛び降りる。踊り場に飛びつけることは分かっている。心配なのは、僕がそのまま踊り場をぶち破って下に落ちやしないか、ということだ。

 

 それは杞憂ではなかったが、最悪の事態にはならなかった。僕が足場に着地すると同時に、足の下で何かが壊れ始める予兆のような音を立てた。僕はそれが何か確認しようとは思わなかった。即座に次の足場へと飛び移る。助走をせずに。していたら今頃真っ逆さまだったろうから、この判断は正しかったと思う。しかし、助走なしでの跳躍だった為に、足場へ飛び移るのに飛距離がやや足りなかったのも事実だ。さっき階段から落ちかけた時みたいに、腕だけで掴まる。だが、持ち上げるだけの力が出せなかった。誰だってそうなる、腕に先の尖った鉄筋か何かが刺されば。

 

 下を見る。似たような踊り場。階段は上にも下にも残っている。どうする? 僕は自分に訊ねた。有効な考えが出て来ない内に、三発目の着弾があった。それは僕がさっきまでいた階を吹き飛ばし、僕に何をするか決めさせた。とにかくここから逃げろ、だ。足が折れようと、ここから逃げなきゃ死ぬ。腕に刺さった鉄筋を抜き、掴まっていた足場から手を離す。浮遊感、ショックと痛みに備える。砂の詰まった袋が倒れる音がして、頭までぼんやりさせるような強い衝撃が僕の体を襲った。うつ伏せになって、尻を押さえる。そこから落ちた。とてもじゃないがこんなざま、長門には見せられないな。もし見られたら彼女は言うだろう、「教官が教官なら教え子も教え子か」と。那智教官も僕も誰かに尻を呪われているのかもしれない。

 

 さっきも経験した感触が体の下で起こった。ヤバい。崩れる。僕は尻の痛みを無視してその場から逃げた。大変愚かなことに、上にだ。咄嗟のことで気が回らなかった。気づいた時にはもう遅く、踊り場と下り階段は、すっかり崩れていた。こういう時にはどうするか、こういう時には……とりあえず動くことだ。僕は、階段なんか放っとけ! と自分に命じて、建物の内部に続くドアを開けた。大きな揺れ、天井からぱらぱらと塵が降ってくる。四発目が何処かに撃ち込まれたらしい。そろそろマジで崩れそうだ。

 

 片っ端から扉を開け、部屋を検分する。一部屋につき十秒も掛けずにだ。そうやってどうにか、僕の条件を満足させる部屋を見つけた。ベランダ付き、向かいに建物とその中に続く窓。僕は迷わなかった。五発目が撃ち込まれるのとほぼ同時に、僕はそのベランダから向かいの建物の窓へと飛びついた。窓を割って、その建物の中へと転がり込む。勢いのままに転がり、壁か家具かに背中を打ちつける。激痛が走った。息ができない。腹に大きなガラス片が突き刺さっていた。僕は消えそうになる意識の中でガラス片を思い切りよく抜いた。痛みで意識が鮮明になるのを利用して、希釈修復材を腹の傷に振りかける。鉄筋の刺さった腕の傷にもだ。水筒を拾っておいて、本当によかった。中身はほぼ空っぽになり、ほんのかすり傷を治すのにしか使えない程度になってしまったが、それと引き換えに僕の命を救ってくれたなら、何の文句があろう。

 

 呼吸が平常に戻るのを待ってから、僕は床に手をついてよろよろと立ち上がり、壁を支えにしながらその建物を出た。出た直後に、灯台の役目を果たしてくれたあの廃屋が崩れた。咄嗟にドアを閉めて屋内に戻っていなければ、飛んできた瓦礫に頭を砕かれていただろう。音が落ち着いてから、僕は集落の入り口を目指して移動を始めた。長門はそこで待っていた。僕のひどい有様を見て彼女が言ったのは「だから火をつけたら逃げろと言ったのだ」だった。僕は肩をすくめてそれに答えた。彼女は訊ねた。

 

「走れるか?」

「長くとなると難しいが、やってみよう」

 

 ゲームか映画のヒーローめいた脱出劇の後ではへとへとだったが、僕は己の体を走らせた。那智教官が候補生たちに課した地獄の基礎訓練のことを思えば、こんなものはピクニックだ。前を行く長門を見ていると、彼女がもう天龍の装備を持っていないことに気づいた。何かに使ったのだろう。答えはすぐにでも分かる筈だ。

 

 長門に付いて、山を上がる。僕は一生、登山を趣味にすることはないだろう。こんなことの何が楽しいのか分かりそうにない。疲れるし、死ぬこともしばしばだという。山が見たくなったら、僕は断然絵を見に行く。高いところから何か見たくなったら、都市部の高層ビルにでも出掛けよう。文明と文化は最高だ。

 

 適当なところで、長門は足を止めた。僕もそこで彼女に並び、集落部を見た。さっき僕が苦労して上がったのだろう建物の周囲に、火がついていた。僕を狙った弾が外れ、可燃物に引火でもしたのだろう。大きなかがり火になりそうだ。そう思っていると、長門が僕の艤装を触り始めた。「おい、何をしてる?」「お前の艤装から燃料を貰う。私のは空だ」「そうかい、次からはちゃんと声を掛けてくれよ」言った言ってないの軽い口論を交わしつつ、次の指示を待つ。長門は僕の燃料を自分の艤装に移しながら言った。

 

「タ級は確認に来る。死体を見つけられないかもしれなくても、念の為にな。お前はここから奴を撃て。当てられなくてもいい。反撃に注意して、山に引きずり込め」

「分かった。でも、どうやって見つけられる?」

「幾つか罠を仕掛けておいた。運がよければ、どれかに引っ掛かるだろう。そうすれば分かる筈だ。それと言っておくが、私の砲撃支援は当てにするな。もう弾は残っていない」

 

 了解、と返事をする。長門の気配が遠ざかっていく。一人にしないんじゃなかったのか? と意地の悪い質問をしてやろうかと考えたが、彼女によるその言葉の意味をわざと誤って解釈してまでからかおうとは思わなかった。真剣な言葉には、真剣な態度で応じてやるべきだ。茶化したり、からかいの対象にしていいようなものではない。僕はその信念を大事にしていた。気を静め、時を待つ。敵は必ずやって来る。長門の判断は、信じるに値するものだ。僕はそれに従って戦えばいい。

 

 右腕部の砲を撫でる。壊れてはいないが、新品のようにぴかぴかな状態とはとても言えない。中で彼ら彼女らの仕事をしている妖精たちも、顔を黒く汚している有り様だ。けれど僕はそいつらの顔に、昨日今日とここまで生き延び、戦い抜いてきた兵士の自信とでも言うべきものを感じていた。今のところ、妖精の仕事は再装填程度だ。砲塔を動かし、仰角を調整し、発砲するのは妖精の手を借りずにできる。だから彼ら彼女らの仕事は少ない。けれどこいつらも、命を懸けて戦っているのだ。僕が轟沈すれば、妖精たちも海へ沈む。存在そのものとしてはやっぱり胡散臭いが、ここ一日二日の出来事を共に生き抜いた後では、僕と一心同体めいたこの小さな連中を、戦友と認めないではいられなかった。

 

 発砲音が聞こえた。次いで、小さな爆発が集落部で起こった。海に近いところだ。その辺りから上がってきたところで、長門の罠に掛かったらしい。火の手が不自然な速度で上がり、海へ戻る道を閉ざす。上手いな、と僕は素直に感服した。きっと、天龍と自分の艤装から燃料や弾薬を出して、燃えやすいように撒いたのだろう。そうすれば長年放置されていた建物ばかりだ、すぐに燃え広がる。タ級は事態の把握をしようとする前に、炎から逃げる為に前に行かざるを得ず、前ではなくて後ろに行くべきだったと分かった時には、もう遅い。退路は深海棲艦とて焼き尽くす火に覆われている。しかも、この策の持っているよい点がもう一つあった。

 

 これなら敵がよく見えるってところだ。

 

 僕は腰を下ろし、足を組んで台にした。岩礁でやった時のことを思い出し、懐かしく感じる。あの時も、結構キツい状況だった。だが切り抜けた。今日もそうなるだろう。そうしてみせるのだ。僕と、長門の二人でだ。タ級は彼女を追いかけてくる炎の海から、急いで逃げようとこちらに近づいてくる。無警戒なものだ。慢心ではないが、迂闊だった。

 

 発砲する。タ級の近くに着弾した。彼女の顔がこちらを向く。何処から撃ったのか、特定しようとしているのだ。そんなことをしている場合じゃないぞ、と心で彼女にアドバイスしてやると、それが伝わったのか、タ級は山を凝視するのをやめて動き始めた。切り替えができるのはいいことだが、僕を無視させるつもりはない。撃ち続ける。残弾は多くないが、それはあくまで僕の持っている全砲門が使用可能な場合に考えた時だ。今は肩に一門、腕に一門しかない。この一戦ぐらいなら、余裕で保つ。

 

 一発が走るタ級の艤装に当たった。左半身側の砲塔部だ。火を吐き出し始めたそれを、彼女は潔く三門とも切り離した。どれに着弾したのか、とか、鎮火できないかを確認した素振りはなかった。置き去りにされた砲は、やがて爆発を起こした。彼女の判断は正しかったのだ。思い切りのよさ、鋭い直感、それらを火に巻かれ、狙い撃たれているこの状況下でも失わない冷徹さ。強敵だ。もし僕と長門の目論見から彼女が抜け出せば、相当マズいことになるだろう。だが、そうはさせない。

 

 タ級がこちらに近づく道から逸れようとする度に、砲撃で彼女の動きを操ってやる。要領は魚雷の前に誘導するのと変わらない。むしろ、魚雷が行き過ぎるまで、という時間制限がないので、こっちの方が格段に楽だ。隙があれば当ててやるのだが、そこは深海棲艦でも戦艦を務める身、中々そこまでの狙い目を見い出せない。それにもう彼女は僕の位置をおおよそ見抜いているようだ。残った砲門をこちらに向け、応射を始めた。辺りに弾が降り注ぐが「山に引きずり込め」と長門は命令した。それを果たしていない以上、この場を放棄して逃げ出す訳にはいかない。撃たれるのは覚悟の上だ。それは、軍に入った者なら誰でも、覚悟していなければいけないことなのだ。

 

 とはいえ撃たれるのは本当に怖い。僕はやや震えつつも、艦娘としての意地と、長門への男としての意地、この二つで持ち場を守り続けていた。それに、ここで逃げ出した僕に長門がどんなことを言うか、どんな顔をするか思い浮かべるだけで、もう一分、もう五分、ここでタ級を引きつける囮になろうという気になるのだ。ここで僕が頑張っている間に、長門は長門の仕事をしている。研究所に配属されてからこれまで何度も繰り返しそのことを確認してきたように、僕は彼女を信じていた。

 

 近くに砲弾が落ちた。小さな破片が背中に刺さる。僕は左手を伸ばし、身をよじってそれを掴んだ。じゅっ、と音がしたように思うほどの熱さだったが、指を離さずに引き抜いて、投げ捨てる。刺さった時の感覚からすると、放っておいてもいい傷だろう。そんなことが分かるようになってきた自分に呆れながら、僕はタ級にもう一度狙いを定めた。そこに、無電が入った。長門からだ。道を通ってあの小屋のある辺りまで退け、という命令だった。願ってもない申し出だ。僕は短く二度の信号音を送信して、ただちに走り出した。腰を下ろしていたことで、体力はやや回復していた。

 

 小屋の前まで来る。月が出ている。雲はない。ただの上弦の月だが、いい月だ。タ級が死ぬのを見るには、ぴったりの明かりになる。長門は小屋の陰に隠れていた。彼女は僕を見て頷き、僕も同じものを返した。ここで待ち伏せるのかと思ったが、もっと先に行くという。確かに、ここで待ち伏せというのはいかにもそれらしく、疑われそうなことであった。それにここで交戦したら、小屋に寝かせてある天龍の体……遺体が、損傷してしまうかもしれない。それはできれば避けたかった。

 

 肩を並べて走りながら、残弾を確認する。思ったよりタ級の誘導に使ってしまったが、彼女一人を相手にするのには足りる量だ。最悪、ナイフや刀もある。長門においては、殴り殺すことも(いと)うまい。戦闘の最中、弾が切れた程度で敵と戦う術を何もかも失ったと考えるような艦娘は、海に出るに値しないと思う。私見ではあるが、那智教官の下で訓練を受け、実戦をくぐり抜けた艦娘たちなら、誰でもこの意見に賛成するという自信がある。僕らには腕もあるし、足もあるし、その艦娘が用心深いなら刃も用意しているだろう。艤装でぶん殴るのもいい。艦娘は全身が武器なのである。小指の一本を取ってもそうだ。

 

 小屋から少し行ったところで止まり、長門と僕はそれぞれ道を挟んで隠れた。僕は太い木に身を隠したが、長門は艤装を外してそれと一緒に伏せた。そんな隠れ方で大丈夫だろうかと思ったが、茂みの中にいるので案外に分かりにくい。聴覚を研ぎ澄まし、足音なり砲声なりが聞こえるのをひたすら待つ。汗がたらりと落ちてきて、目に入った。それでもまばたきもせずに、指でそっと拭って待ち続ける。心拍数が増えるのが分かる。どくん、どくんと胸で音が鳴っている。うるさいが、止める訳にも行かない。

 

 そよそよと風が吹き、火照る頬を撫でる。タ級の姿を思い描く。彼女に真実の瞬間が訪れる時を思い描く。それはすぐだ。もうすぐ来る。タ級を片付け、救援を待ち、研究所に帰る。また病院行きだろうが、それが終わったら休暇を申請しよう。提督が僕のことを何と言って罵っても知ったことじゃない。暫く休養が必要だ。それに龍田に連絡もしなくちゃいけない。天龍の両親にも手紙を送るべきだと思う。青葉や利根、北上、隼鷹や響とも話したい。彼女たちの一人一人との付き合いを、これまで以上に大事にしたい。呉に遊びに来て欲しいって北上が前に言ってた。休暇の間に行くのもいいな。隼鷹や響の都合がつけば、三人で行くのもいい。そんなことは無理かもしれないが、想像を裁く奴らはいない。

 

 早く帰りたかった。なのにタ級は来ない。苛立ちを感じ始めて、僕は長門のいる方を見た。どうなってる? タ級は追跡を諦めたのか? いや、諦める深海棲艦など知らない。僕の知っている深海棲艦は、死ぬまで奴らの目的に向かって邁進する。同じ人間だったなら、ある種の尊敬を抱くこともできるような連中だ。空母棲鬼が戻って来て、新しい命令を出した? それもないだろう、もし彼女が戻ってきていれば、空には航空機がわんさかいる筈だ。となると、これは我慢比べなのか? 彼女は僕たちが「待ち伏せは失敗した」と思って姿を現し、警戒が解ける一瞬を待っているのか。それはありそうな話だった。敵は、僕らが逃げるだけではないことを知っている。彼女の仲間を殺し、上官を傷つけて激怒させたのは僕たちなのだから。

 

 また風が吹いた。優しい風だ。でも風向きが違って、背中側からだった。さっき涼めた場所とは違う体の部位が冷やされて心地よかったが、鼻につんと触る何かの臭いがあった。薄くて分かりづらい。僕は音を立てないようにしながら深呼吸を行った。何だろうか? 馴染みのある臭いの気がするが、この臭いは何なんだ?

 

 長門の呟き声が、やけに大きく聞こえた。

 

「……燃料?」

 

 背後でぱきりと音がした。同時に、僕が以前に仕掛けてそのままにしていた警報装置が作動した。長門が叫ぶ「後ろだ!」そんなことは分かってる。僕は振り向こうとする。時間の流れを遅く感じる。月の光の下、端正な顔や均整の取れた体をススだらけにしたタ級の目が、僕を見据えている。その砲は今にもこちらを向こうとしている。右腕を突き出し、発砲──衝撃──腕が吹き飛んだかのような痛み。だが、まだついている。やられたのは砲塔だ。僕はそれをパージする。頭に破片か何かが当たったらしい。意識が朦朧とする。気を抜くと意識が真っ暗闇に落ちて行きそうになる中、敵がどうなっているか見る。タ級の弾が僕の砲を破壊したように、僕の弾はタ級の砲を破壊していた。けれど一門だけだ。もう一門が残っていた。それを僕に撃とうとしていた。

 

 長門が茂みから飛び出して、殴りかかる。それを避けたせいで、タ級が僕に放とうとした砲弾は明後日の方向へと飛んでいった。長門は言ったことをやったのだ。僕を守ってくれた。相手が砲を持っているのに素手で戦いを挑まなければならない時、どんな気持ちになるか、僕は知っている。それでも長門は、タ級に向かっていった。彼女だけを戦わせておいていいのか? 違う、絶対に違う。僕も、戦わなくてはならない。意識が急速に復旧される。よし、と力を入れて立とうとするが、叶わない。心はともかく、体の方のダメージが大きいのだ。準備を整えるのにもう少し時間が必要だが、悠長に見てはいられない。長門は劣勢だった。片腕しかない上に、相手の艦種は同じ戦艦。不利すぎる。肩部砲塔で狙おうとするが、長門を誤射しかねない。仲間殺しだけは嫌だ。

 

 柄を握って、ナイフを鞘から抜く。タ級の顔を狙った長門のパンチを、敵は脇をくぐるようにして避け、振り返りながら肘打ちをする。それが長門の首に入り、彼女は膝を突く。大きな隙だ。タ級はその背中を撃ち抜こうと砲を構える。僕はナイフを放り上げ、刃の部分を持つ。それからタ級目掛けて投げつけた。

 

 投げナイフというのは、艦娘が実戦で使える技術ではない。それは訓練に訓練を重ねてようやく身につけられる上に、海では用いる機会のない技術であって、そんなことに時間を浪費するぐらいなら他のことを覚えた方がいい。僕はずっとそう考えていた。何も知らなかった癖に、知った風な思い込みを持っていた訳だ。那智教官がナイフでどう戦うかということを僕や他の候補生に教えようとした時、どうしてもっと真剣にならなかったのかと、今、後悔している。僕は投擲に失敗したのだ。那智教官は僕を叱るだろうが、言い訳は幾つかある。僕が投げたナイフは投擲用ではなかった。これが一つ。夜だったので距離感を掴みにくかった。これが二つ。そして三つ目だ。僕は悪運が強い。投げたナイフは刺さらなかった。刺さらなかった、が。

 

 それでも上手く行ったのだ。僕は四百グラムの金属の塊を、艦娘の力で思い切り投げた。そんなものがタ級の頭に当たった。さぞ強い衝撃になったことだろう。彼女は注意を逸らされ、長門を撃つ前に、何があったのか確認しようとしてしまった。そうして僕に顔を向けた。百戦錬磨の大戦艦が立ち直るには、その僅かな時間のロスだけで事足りたのだった。長門がタックルでタ級を押し倒す。砲が暴発し、空を撃つ。僕は木に体を押し付けながら、立ち上がる。タ級が長門を跳ね飛ばし、素早く起き上がって、身構えようとする。戦闘準備の整った僕が、天龍の刀を抜いて斬りかかる。

 

 敵を褒めるのは癪だが、タ級の判断は素晴らしかった。彼女はほんの一歩動いて、彼女の左肩に備えた装甲で受けたのだ。刀の扱いに慣れた天龍ならそのまま切り裂けたかもしれないが、素人が力で振り回しているだけの僕では無理だった。装甲に弾き返され、反動で仰け反ったところを、蹴り飛ばされる。深海棲艦に蹴られたのは初めてだったが、それはひどく痛いものだった。吹き飛ばされ、地面を転がる。一対一なら、勝負はついていた。僕は叫んだ。「長門!」僕のナイフを拾った長門が、タ級の背に跳び掛かり、突き倒し、それで刺した。一度ではない。二度、三度、四度と長門は彼女を滅多刺しにした。

 

 それでもタ級は抗った。体を捻っての肘で長門の横っ面を打って倒すと、ナイフが体に突き立ったままで、足元はおぼつかず、傷口から蛇口を捻ったように大量の血を流しながらだったが、立とうと試みた。それは英雄譚に出てきそうな、勇ましい姿だった。敗北の中の美を、タ級は体現していたのだ。そうしてとうとう彼女が二本の足で地に立った時、僕は彼女の前にいて、刀を振り上げていた。

 

 人型深海棲艦は、研究によって人間や艦娘と同じように、痛みを感じるということが分かっている。だがこのタ級は不要には苦しまなかっただろう。僕は思い切り刃を彼女の首に叩きつけて、それを斬り落としたのだから。

 

 手に生々しい感触が走り、首が地面に落ちる。それに一呼吸遅れて、タ級の体が地面に打ちつけられたが、大した音は立たなかった。僕は刀を片手に持ったまま、倒れた長門のところまで重たい体を引きずって行き、彼女の横に跪いた。刀を脇において、体を揺さぶり、目覚めを促す。呼吸をしていたので、死んではいないことは分かっていた。彼女は三度目に体を揺らした時に、目を覚ました。

 

「どうなった?」

「済んだ」

「そうか」

 

 長い呼吸、深い溜息、二人分の。僕は訊ねた。

 

「望む結果は得られたかい」

「分からない」

 

 彼女は即答した。「考えてみようとは思う」そうするがいいさ、と僕は言った。それから立って、刀を鞘に収め、タ級の体からナイフを引き抜いた。指で血を拭い取り、これも鞘に収める。横になったままの長門に手を貸し、二人で足をもつれさせながら、小屋に戻った。ドアを蹴り開け、中に入り、そこで並んで倒れ込む。疲れていた。ろくな食事も取らず、まともな武器と言えば僕の砲二門だけで、敵の戦艦を始末したのだ。でも、全てが終わった後では、心地よい疲れだった。陸で深海棲艦を倒すなんて、滅多にない経験をしてしまった気がする。横の長門は、安らかな寝息を立て始めた。僕ももう、限界だ。長門が真横にいるってのは落ち着かないが、寝かせて貰うとしよう。

 

 久方にも思える夢を見た。僕は溺れていた。子供の頃の夢だ。手足をばたつかせながらも、僕はうんざりした気持ちでいた。たった一度の出来事でその後の五年、十年苦しむことになるというのは、何か釈然としない。疲れて、手足が痺れ始め、少しずつ沈んでいく。息ができず、がんがんと頭が痛む。水の中にいるのに顔が熱い。水面が遠く見える。ぐわんぐわんと耳鳴りが始まる。僕と共に沈む陽の赤い輝きがまぶたに影を残す。僕はそっとそれに手を伸ばした。

 

 その時だ。その時、それまでには起こったことのないことが起こった。僕は誰かに押し上げられているのを感じた。沈むのではなく、引き上げられるのではなく、誰かが押し上げている。僕を水面へと、息のできる世界へと戻そうとしている。意識が白む中、この未知を恐れた僕は腰を捻り、首を回し、水底の方を見ようとする。深海棲艦か? そんな考えが浮かんだ。頭の中に、融和派の司祭殿の言葉が蘇る。「あの方々は(まこと)に我が(いわお)、我がやぐら、寄る辺なき者が寄って立つもの……海の水の中で私は洗礼され、言葉を聞くようになった……」言いようのない恐怖が胸を埋め尽くす。

 

 だが、違った。深海棲艦じゃなかった。それは、違ったんだ。僕は海の中で人が泣くこともできるとは知らなかった。ああ、そんなになってもまだ君たちは──伸ばしたままだった手に何かが絡みつく。首を水面に向ける。近づいていく。赤い光に近づいていく。誰かが左の耳元で囁く。「後、少しだから」水の中なのに、それはちゃんと聞こえた。海面が近づいてくる。僕は助かるんだ、と思う。そしてようやく僕の手が水の上と下を隔てる一枚の薄い膜に触れようとした時、右の耳元で天龍の声が叫んだ。

 

「起きろ!」

 

 凄まじい恐怖に襲われ、目を覚ます。目前、僕に覆いかぶさるようにしている、リ級の顔。視線が合う。彼女が動こうとする。けれど、僕の訓練された体は考えるまでもなく反応していた。彼女を突き飛ばし、たたらを踏んで後退したその土手っ腹に肩部砲塔からの射撃を撃ち込む。瞳孔と虹彩を識別できるほどの近距離だ。外す筈もなかった。

 

 肩の連装砲から放たれた二発は、そのリ級の上半身と下半身を泣き別れさせ、貫通して小屋の壁を破壊した。その段になって長門が飛び起き「これは一体どうしたことだ、何があったんだ」と僕に言ってくる。

 

 が、僕は彼女を放っておいて、ナイフを抜き、壊れた壁の下で痙攣しているリ級の上半身にしがみつくようにして、彼女に怒鳴った。「どうして撃たなかった? 僕を殺せた、長門のことも──何故だ? どうして?」リ級は口の端から血を流しながら、僕の頭を揺らす声を発そうとした。僕は深海棲艦の声を聞く時に感じる、頭がぐらぐらする感覚を覚えた。でも結局、彼女は何も言わなかった。すぐに生命の兆候はリ級から失せ、疑問を抱えた僕だけが残った。

 

「死んだ。ネ級とタ級だけじゃなかった……もう一人いたんだ」

 

 長門に聞かせる為、そんな言葉を口から出すのに、やけに苦労した。僕は立ち上がろうとして、その億劫さに諦めて、近くの壁に寄りかかって座った。握ったナイフを鞘に戻すのも面倒で、床に突き立てておいた。長門は立ったまま、僕を見ていた。「お前、大丈夫か?」僕の心配からではなくて、彼女自身の心配からだろう。頭の壊れたような奴と、同じ小屋にいるのは我慢ならないだろうからな。僕は手を振って答えた。「疲れたんだ。ただ、疲れてるだけさ」それから目を閉じた。眠るのは怖かったが、体がそれを望んでいた。

 

 翌朝、僕らは無線の音で起床した。懐かしく感じる声が、長門と僕を呼んでいた。不知火先輩と隼鷹だ。僕は自分で応答したかったが、その役目は上官に譲った。現在地、負傷の状況、生存者の報告。長門は淡々とそれをこなした。報告が終わると、長門は僕に訊ねた。「第二艦隊の残りと一緒に、じき来るそうだ。話したいか?」僕は首を振った。「いや、後でいい」長門は何か僕に言おうとして、口を開きかけ、やめた。それで余りにも何やら気まずそうな顔をしているので、ふと僕は助け舟を出してやろうかという気持ちになった。

 

「君の背中だけどさ」

 

 長門は返事をしなかったが、僕が言葉を発するのを止めもしなかった。

 

「タトゥーか何か入れてるのか? 手当ての為に脱がせた時に、ちらっと見えたんだが」

 

 彼女はすぐに、僕が何のことを言っているのか合点したようだった。軽く横に首を振り「いや、あれは焼き印だ。ほら」後ろを向き、服をはだけて、それが印字されているところを僕に見せる。そこには“2.S.T.R.F.”と記してあった。頭字語はそれだけを見て何のことか見抜けるものは少ないが、僕はぴんと来た。「 第二特殊(2nd Special)戦技研究(Tactical Research)艦隊(Fleet)?」「そうだ。お前と隼鷹以外は、みんなこれを持っている」「仲間外れか」「お前はな。隼鷹は、受け入れるなら、じきに手に入れるだろう」そして彼女は受け入れるだろう。彼女は艦娘で、何であっても前進し、掴み取る人物だからだ。僕は余計な興味を覚えて、訊ねてみた。

 

「他の連中はその焼き印、何処にやってるんだ?」

「不知火は太ももの付け根、響は尻の割れ目のすぐ上にしていたな。それから吹雪は左胸の下だ。後は自分で聞け」

 

 あー……僕は「他の連中」と言ったのであって、「駆逐艦娘たち」とは絶対に言わなかったんだが、まあいい。背伸びをしてリラックスし、頭の後ろで手を組んでゆったりとした気持ちを味わう。近くにはリ級の死体と、天龍が眠っているが、見ないようにしていればどうにかなる。天龍、彼女のことは思えば思うほど悲しくなり、龍田や浦風に対しては罪悪感を覚える。それでも天龍の仇を討てたことは嬉しかったし、彼女の献身を無駄にしなかったことや、彼女の体を野ざらしにはしなかった自分や長門が誇らしかった。

 

 第二艦隊の旗艦殿は、小屋の窓から空を見ながら呟いた。

 

「問題は解決できなかった」

 

 僕と彼女の間に寝っ転がっていると長門が主張していた“問題”とやらのことだろう。つまり長門はこう言いたいのだ。「色々あったが、やはりお前のことが心底嫌いだ」と。正直な話、今の僕はそんなものに対して、何の感慨も抱けなかった。医者がエンジニアや心理学者ではないように、僕は艦娘であってセラピストじゃない。ましてや最早学生でもないから、問題を解く気にはなれなかった。どうとでもなれ、と僕は念じた。長門は窓の外を見るのをやめ、僕を睨みつけた。と思ったら、その目は鋭さを失い、ただ視線を投げかけるだけのものになった。

 

「帰ったら、提督にお前を第二艦隊から追い出すように言う。理由は、そうだな、命令不服従辺りでいいだろう。あの人も、この期に及んでは受け入れる筈だ」

「構わないよ。命令不服従だったら、満更嘘って訳でもないし」

「書類上の処理は私と吹雪に任せておけ。誓って、不名誉な形にはしない。第四艦隊から正式に第一艦隊へ異動という形を取るつもりだ。表向きは栄転と言ってもいいだろう」

「正直に話すけど、研究所から叩き出されるか、後ろから撃たれるかと思ってた。それを思うとかなりマシだな」

「妙高が怖い」

 

 僕は吹き出した。長門は僕をじろりと見やったが、率直な意見すぎて笑わずにはいられなかったのだ。ああ、確かに彼女は怖い。優しいし、美人だし、気配り上手な人だが、厳しさも持っている。私情で部下をひどい目に遭わせなどしたら、それを知った妙高さんが長門に何をするか想像もできない。怖がるのも頷けるし、そのことについては僕も同感の身だ。馬鹿にしたりはしない。

 

 航空機の通り過ぎる音がした。隼鷹たちが来たのだ。上空で旋回している。僕と長門は揃って小屋を出て、手を振った。

 

 外に置いたままにしていた長門の艤装を回収した後、僕らは捜索隊が来る方向に歩き出した。僕は天龍を体の前に抱えていたが、その冷え切った体のずしりと来る重さは、肉体だけにではなく心にも作用した。僕は妖精たちが、天龍を元の少女あるいは女性の姿に戻せればいいがと願った。彼女の両親は天龍としての顔より、天龍になることを選んだ、彼と彼女の娘の顔を見たいと思うだろうからだ。

 

 三日と離れていなかったにも関わらず、不知火先輩と隼鷹の顔を見た時、僕は彼女たち二人が変わってしまったように見えた。何度かまばたきをし、そうではないことを確かめる。僕が変わった、というのでもないだろう。色々なことがあったから、そんな風に見えてしまっただけだ。僕は笑おうと試みたが、天龍の体を抱えているのに微笑むことが、どうしても不謹慎に思えて、顔を歪めることしかできなかった。不知火先輩は天龍を引き受けようとしたが、丁寧に断っておく。僕が運びたいんです、と言うと、彼女は理解してくれた。不知火先輩は僕と隼鷹の前に着任しているが、直前に着任した訳ではない。艦娘の死や、死んだ艦娘と親しかった他の艦娘の姿を見たこともきっとあるに違いない。最低限のことだけを言って、後はそっとしておいてくれた。隼鷹もだ。彼女の同期はみんな死ぬか退役するかして、いなくなってしまっている。だから、彼女はこんな時には前に進む為の切っ掛けが必要なのだと、分かっていた。そして今回の僕にとってその切っ掛けとは、天龍を僕の手で連れ帰ることだった。

 

 道中に交戦はなく、まっすぐ研究所に戻ることができた。研究所前には二台の救急車が停められており、僕と長門は負傷や欠損を入渠と高速修復材で対処した後、それに乗せられてすぐさま病院行きだった。怪我は治っているのに何故病院行きかというと、こういう理由だ。肉体の損傷は修復材で治せても、怪我した時に入った雑菌などから感染症を起こすことがある。特に、今度のように負傷した後ただちに帰投できず、敵対環境下でサバイバルをすることになった際には感染確率は跳ね上がるものだ。他にも衰弱や、軽度の脱水を治療しなければならなかった。ま、たった二日で治療は済んだ。僕の個室に誰も見舞いが来なかったが、看護婦さんから聞く限り、長門の方もそうだったらしい。きっと、すぐ戻って来るのだから行ったら却って邪魔になる、とでも提督が言ったのだろう。彼女は誰かの楽しみを奪うことに情熱を燃やすタイプだろうからな。

 

 退院日、手続きをして病院を出て研究所に戻り、報告に赴いた。昼過ぎのことだ。退院したのは僕一人だった。もちろん、長門が感染症でくたばったという訳じゃあない。単に腕を一本失った分、僕よりも念入りに検査などを行われており、僕よりも一日長く入院させられるだけだった。執務室に入ると、僕の青葉新聞コレクションを提督が読んでおり、その少し後ろにはいつものように吹雪秘書艦がいた。僕が口を開く前に、提督は言った。

 

「形見分けにこれを貰おうと思ってたのに、まさか生きて帰って来るとは」

「提督は誰かに会う度にそいつを傷つけなきゃ気が済まないんですか?」

「ちょっと出撃する度に入院しなきゃ気が済まない奴とどっちがマシかな?」

 

 心の中の曙が「このクソ提督」と吐き捨てた。実際にそれを口に出す勇気はないので、あくまで心の中の声である。吹雪秘書官はその心の声をも聞き取ったのか、ほんの半歩前に出た。

 

 提督は声のトーンを真面目なものに変えて言った。

 

「報告しろ。簡単なものでいい。既に長門からかなり詳細な報告を聞いている。命令不服従や、空母棲鬼のこともな。知ってるか? 複数の有力な鎮守府が捜索討伐隊を組んだ。まあ成果が上がるかは分からんが」

「それだけ聞いているなら、僕から言うことは僅かですね。奴らは、猫が鼠を扱うみたいに僕と長門、天龍を弄んだんです。でも、最後にヘマをやった」

「ヘマとは?」

「鼠を追い詰めたんですよ。……もう行ってもよろしいですか? まだ昼を食べてなくて」

「もう少し待て。お前の辞令を渡しておく」

 

 提督は机の中を漁って書類を出そうとし、吹雪秘書艦の助けを借りてそれを見つけ出した。まだサインをしていなかったらしく、秘書官の差し出したペンを使って、音だけで殴り書きと分かる書き方でサインを済ませると、青葉の新聞のファイルと合わせて僕にそれを突き出した。受け取り、提督の「またすぐ後で」という言葉に敬礼して、部屋を出る。

 

 扉を閉めてから、僕は受け取った書類を見てみた。懐かしの第一艦隊への切符だ。きちんと見ておかなければならなかった。そこにはこう書いてあった。

 

「第五艦隊創設に当たり旗艦の任を命ず」

 

 僕は踵を返して扉を開けることにした。「私の言った通りだろう?」とばかりに提督が笑った。



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「第五艦隊」-1

お前なしで、故国に起こりつつあるあらゆることを目の前にして、どうして絶望しないでいられよう?

──イワン・ツルゲーネフ※66


 執務室に再入室した時に僕を出迎えたのは提督の不愉快な笑みと、それを守る吹雪秘書艦だった。僕は入室の勢いを保ったまま執務机を飛び越えて提督の顔面に膝でも打ち込んでやりたかったが、どう頑張っても吹雪秘書艦の先制攻撃で失神する未来しか見えなかった。そこで僕は、紳士的に振る舞うことにした。そうしている限り、吹雪秘書艦は僕に敵対的接触を実行する口実を得られない。口実や理由がなければ、彼女のような実直な人物は、相手を制圧・鎮圧するという類の行動には出ないものだ。

 

 第五艦隊。悪くない響きだ。軍規では鎮守府、泊地、基地などに所属する提督一人に付き艦隊は四つまで、ということになっているが、そういう原則を無視した、我が二特技研の提督らしい艦隊名である。第四艦隊を第五艦隊に改名したのではないことを確認してから説明を求めると、吹雪秘書艦が提督に代わって解説してくれた。提督はお薬の時間でお忙しいとでも言うのか? 僕は突然降って湧いたような、この新設艦隊における旗艦任命という辞令を喜んで受け入れる気にはなれなかったが、秘書艦の真摯な態度に触れて、せめて説明して貰っている間は大人しく聞いていようと決めた。

 

 説明はこうだった。第五艦隊は特例によって創設を許可されており、実験的なSAR(捜索救難)※67部隊として設立される。その役目は伝統的なSAR任務、つまり何らかの事情で、自力帰投が不可能になってしまった艦娘たちの救助のみではない。行動範囲内で壊滅の危機に瀕している交戦中の艦隊への増援という任務も請け負うのだ。この性質上、空母を除いて低速艦……はっきり言ってしまえば戦艦の配備は困難になる。重巡で替えが効くし、空母のように不在のデメリットが大きすぎる訳でもない。しかも、戦艦を必要としている艦隊は沢山ある。

 

 そこで、重巡を中核とした艦隊を作らなければならなかった。オーケイ、ここまでは分かる。だがどうして僕が旗艦になる? もっと適任がいる筈だ。妙高さんは? 足柄や羽黒だっているじゃないか。三人が三人、第二艦隊所属だが、そこは第一艦隊や第三艦隊辺りから一人連れて来ればいいだろう。僕が旗艦というのはマズいのだ。何しろ僕はこの研究所所属の艦娘として、最後任である。軍への入隊も僕が一番遅い。それがいきなり旗艦だ。後から来て、理由もなしに昇進なんて、周りがどう思うか考えるだけで憂鬱になる。旗艦だぞ? 第一艦隊で言えば吹雪秘書艦、第二艦隊なら長門だ。そこに僕が並べると思うのか? 想像するのもおこがましいことだ。順番や能力で言えば、妙高さんが最適なのだ。彼女がダメだったとしても、とにかく僕だけは選んで欲しくなかった。

 

 しかし、命令は絶対だ。それに僕は艦娘であって、会社勤めの民間人たちとは違うのだ。従いたくないから、とか、嫌だから、というクソみたいな理由で逆らうことができる(無論その報いは受けるだろうが)人々と僕らを隔てるのは、そこなのである。僕らは常に前進し、勝利し、掴み取る──いいえ、僕はやりたくありませんなんて、絶対に言わないのだ。そんなことを言い出すことが許される軍が、どうやって戦争を遂行できるだろうか?

 

 説明を受け、それを聞きながら自分の身に何が起こったのかということを咀嚼する時間を与えられたことで、僕は緩やかに現実を受け入れることができた。ただ、弱音を全く吐かなかった訳ではない。予防線を張るという意味でも、それを言わないでおく手はなかった。「僕はここに配属されて一年と経ってません。そんな奴の指揮で艦隊が戦えると?」すると初めて提督は自分で何か言う気になったらしかった。

 

「気にしなくていい、できるようになる。二番艦として優秀な者を用意しておく。これが資料だ」

 

 秘書艦経由で渡された書類を、ほとんど見もせずに突き返す。提督は面白そうに眉を上げた。

 

「見るまでもない、か? まあいいだろう。空母枠にはお友達の隼鷹を入れる。秘書艦、第一艦隊に隼鷹の代わりを探しておけ。それと、残りの枠は何だ?」

「軽巡二と駆逐艦一、もしくは重巡・軽巡・駆逐それぞれ一です、司令官」

「駆逐には不知火か、響か……ふむ、確か第一艦隊の時には響とよく組んでいたな? 響を回す。響の穴は不知火に埋めさせろ。後の枠、二人分は旗艦が好きに選べ。解散。ああ、言い忘れていたが荷物をまとめておくように」

 

 彼女の「解散」の言葉で即座に部屋を退出しようとしていた僕は、最後の付け加えられた指示によって止まった。「どうしてです?」と僕は質問し、提督は「そりゃ、お前が旗艦学校に行くからさ」と真顔で言った。

 

 旗艦学校。わざと似たような響きにしたのかは知らないが、こいつは言ってみれば士官学校みたいなものだ。艦娘が()()()旗艦になるに当たって、指揮を学び、指揮官としての心構えを学ぶ場所である。軍法では、艦隊の一番艦に就任する条件として、ここを卒業することが義務付けられていた。講師ほぼ全員が退役した艦娘であることを除けば士官学校と変わりはなく、三分の二に減った実技訓練と二倍半に増えた座学を除けば、艦娘訓練所とも大差ない場所だ。僕はそこで四ヶ月を過ごし、その後で二ヶ月の卒業試験を受けなければならなかった。率直に言って、人生でこれ以上に忙しい六ヶ月はなかったと思う。訓練所時代、僕らは毎日へとへとになって息をするのも億劫なほど疲れ切るまでしごかれたが、寝る時間は長めに取ってあった。座学にテストはなく、最低でも実技教官の許可さえ出れば僕らは訓練所を出ることができたのである。

 

 ところが旗艦学校は違う。複数の学科ごとにしばしばテストがあり、そのどれにも合格点を取らなければならなかった。本来なら、入学にもテストが課されていたのだ。僕はそのテストを受けなくて済んだのだが、それはこの旗艦学校に関する軍法を、長門と提督がよく知っていたからだった。それを参照するならば、野戦任官的に旗艦の任を務めたことのある艦娘は、入学試験を受けなくともよいという条文を見つけることができる筈である。長門は、天龍が死んで彼女が意識を失った後、僕が旗艦を一時的に務めたと証言したのだ。僕はどうやって彼女が意識を失っている間に起こったことを証言できたのか、さっぱり分からない。軍がどうしてまたそれを正当なものとして受け入れたのかもだ。けど、そうなった。

 

 そうなった以上だ、僕はやり遂げなくてはいけなかった。だってそうだろう? しくじったら放校、元の艦隊に戻ることになる。提督の目論見は潰れ、彼女は苛立ちを抑える為に薬を沢山飲むだろう。そのせいで仕事を増やされた吹雪秘書艦はお怒りになり、長門はでっち上げの証言までしたのを無駄にされてキレる。僕は死ぬ。多分ね。三日以内には。

 

 人間には限界があるが、軍はその限界というものを見極めることに長けていて、死ぬ気でやればクリアできるギリギリのラインを熟知していた。僕は僕自身を活用するだけでなく、軍がつけてくれた、訓練所を出た後の兵隊なら誰でもできることを代わりにやらせることのできる民間人の使用人を活用して、そのラインを見事に乗り越えた。この経験は僕の自尊心を大いに高め、使用人に指示を出すことによって、誰かに命令するということに慣れるという経験を積むこともできた。軍は大抵、何にでも二つ以上の目的を持たせたがるものだ。

 

 いいことばっかりだったって訳じゃない。単なる肉体的苦労を得ただけでなく、僕は半年間ほぼ全く自分の時間を持つことができなかった。学科の勉強をし、実技の自主訓練をし、戦術研究を重ね、発表用の原稿を推敲し、発声練習を行い、学科の勉強をし、ちょっと横になって、三度学科の勉強をし──そんな生活だ。お陰で軍法の最終試験は九十七パーセントの成績を取ったが、それが何だ? 戦術は八十五パーセントだった。僕は前線にいるより軍法専門の弁護士でも目指した方がいいのかもしれない。ああでも、実技はそこそこだった。誰がそんな噂を流したのか少し心当たりはあるが、僕は空母棲鬼とまともにやりあったことになっていたから、みんなそれなりに一目置いてくれたのだ。旗艦学校でも多くの艦娘が僕のことを避けたけれど、実技の際に僕を意図的に困らせて足を引っ張ってやろうとするような困った連中はいなかった。

 

 旗艦学校で学んでいる間に、印象深い出来事が幾つか起こったが、陸軍の奴らと話した時のことをよく覚えている。用事で学校外に出た時に、僕はちょっぴり開放感を味わいたくなって、寄り道をしていったのだ。喫茶店に入り、財布を引っ張りだして金を数え、何かを注文する……そんなことに喜びを覚えるなんて、産まれて初めてのことだった。いい気分だった僕は、二人の青年に相席を頼まれた時にも断らなかった。

 

 そいつらは幼年学校から上がったと思しき、陸軍士官学校の若き候補生たちで、明らかに僕のことを知らなかった。初めは面白く話を聞いていたが、士官として自分の下に配属される三十人ほどの部下たちを把握することがどれだけ難しいかを僕に向かって愚痴り出し、それに比べれば艦娘たちの旗艦は五人の面倒を見るだけでいいんだから気楽なもんだ、と言われては、僕も黙っている訳には行かなかった。喧嘩するとお互いよくない立場に置かれるので、あくまで議論の体裁を保ってはいたが、もしその縛りがなければ僕は、そいつらを床の上にでも寝かしつけてやっていただろう。

 

 四ヶ月の訓練の後、僕と他の旗艦候補生たちは色々な艦隊へと二ヶ月の期間限定で配属され、そこの元の旗艦を二番艦として、彼女の補佐を受けながら旗艦を体験する、というテストを受けた。これもまた大変で、詳しくは思い出したくもない。だが一つだけ言うならば、旗艦という地位は、そこにいる艦娘が周りにそう見せているほど、いいもんじゃないってことだ。給料はそんなに上がらない癖に、仕事量と責任は一気に増える。提督の指示通りに実験的艦隊で旗艦を一年務めるよりも、第二艦隊で六番艦を五年務める方が格段にマシだった。

 

 そういう事情があったので、半年後に第二特殊戦技研究所に戻ってきた時、僕は思わず涙を流しそうになってしまったほどだった。旗艦学校に行ってよかったこともある。学べたこともあったし、それに天龍の死や彼女の遺族、それに龍田たちの苦しみのことを考えなくて済んだ。しかし、僕は毎日心から心配していたのだ。僕の知らないところで隼鷹や響、伊勢や日向、吹雪秘書艦、加賀、川内、妙高さん、足柄、羽黒、不知火先輩、それから長門が戦死したらと思うと、気が気ではなかった。利根や北上との手紙のやり取りも忙しすぎて途絶えてしまい、二人は僕を薄情な奴だと思っているに違いなかったし、そう思われたまま彼女たちが戦死していたら、きっと僕の心は何処かおかしくなってしまっていただろう。

 

 けれど幸いにも、本当に幸いなことにだが、誰一人欠けることはなかった。そして今、僕は旗艦に支給される桜花を象った特別の記章※68を身につけ、少しの私物を詰めた鞄を持って、正午過ぎに研究所の入り口に立っていた。いつ帰るかは教えていなかったので、誰も出迎えには現れていない。提督は知っているので、彼女はバラさないでおいてくれたのだろう。そのことに面白みを感じながら、僕は執務室に向かった。ノックをすると、入れと言われる。提督を相手にする時の嫌な圧迫感も六ヶ月ぶりだ。ドアを開けると、先客がいた。彼女に向けて提督は純粋に楽しげに笑っており、僕は思わず漏らすところだった。世界の終わりの日が来て人類が滅ぶから、そんなに楽しそうなのだろうと思ったのだ。この推測は外れだった。

 

「戻ったか。丁度、お前の二番艦が着任したところだ」

 

 僕は僕の補佐を務める歴戦の艦娘に対して、深い感謝の念と心底からの後ろめたさを感じながら軽く頷き、その眼差しと同じぐらい冷ややかな右手※69と握手した。彼女と自分のことについて語り合う時間を持つのは素敵な考えだが、そういうのは提督のいない時にやろう。提督は僕の報告を興味なさそうに聞いてから、自室に戻って明日の午前十時からの艦隊勤務に備えるように命じた。六ヶ月の苦労を十四秒で片付けられた僕はむっとしたが、提督に怒ったら吹雪秘書艦が怖い。ほら、今だって提督の後ろに立っていて、その冷静な目を僕に向けている。僕がいきなりとち狂って提督に襲い掛かっても、返り討ちにしてやれるようにだ。

 

 二番艦と提督はまだ話があるようだったので、僕は先に退出した。提督のいる空間からは、早く出られれば出られるほどよい。部屋に着くまでに誰か、艦娘とすれ違うかと思ったが、そうならなかった。出撃中だったのだろうか。いつまでも引っ張っていてもつまらないし、夕食のタイミングでしれっと食堂に顔を出してみようかと考えながら、部屋のドアを開ける。その瞬間、ぱん、という音がして、視界がカラフルに埋まった。僕は呆然としながら鼻に引っかかった紙リボンをつまんで外した。「おっかえりぃーっ!」ああ、この声! この酒臭い息、紫の髪! 僕は酔っ払って抱きついてきた隼鷹を無碍に扱うようなクズではなかった。全力で受け止めて抱きしめる。半年も引き離されていた親友同士、当然の成り行きだった。二分か三分はそうしていたように感じるが、実際にはほんの十数秒だったかもしれない。

 

 ようやく離れて、まだぼうっとしながら部屋を見回す。鳴らし損ねたクラッカーをいじくっている響がいた。もう飲み始めていたが、隼鷹と響がいて酒があったなら仕方ないだろう。「これは?」と僕が訊ねると小さな飲み助は「パーティさ。友達が帰ってきて、他に何をやるんだい?」と答えた。隼鷹が後に続いて、けらけら笑いながら言う。「そうそう、あたしらだけじゃないんだぜ? ちょーっとタイミング悪かったけどなぁ」「他って、日向や伊勢とかか」「自分で確かめなよ、そら、聞こえるだろ?」すると廊下の方からどたどたと足音がして、涙が出るほど懐かしい声が聞こえてきた。「ああもー、利根っちがジュース買い足そうとか言うからー!」「飲んだのはお主であろう!」「北上? 利根?」二人の名前を呟いてから何で? と言いそうになって、口を閉じる。僕の方で覚えがあったからだ。

 

 あの女(提督)、マジでやりやがった。マジでやりやがった。本当にやるとは思わなかった。旗艦学校に行く前、彼女は僕に第五艦隊の残り二つの枠を埋めるように言った。そして旗艦学校に入ってから二週間ぐらい後に、その枠に誰を入れたいかと手紙を寄越して訊ねたのだ。第一艦隊もしくは第二艦隊、あるいは第三、第四艦隊から誰を引き抜くか、と質問しているのだと僕は解釈して、彼女に「そうじゃない」という意味のもう一通の手紙を送らせる為だけに、「同期の艦娘から、呉鎮守府の北上と宿毛湾の利根」と返事をした。それっきり提督は何も言って来なかったが、忙しかったので僕は忘れていた。まさか、他所の鎮守府などから引き抜くとは、引き抜けるとは思わなかった。大井と筑摩に何と言えば命が助かるだろう? 分からないが、それよりも今は再会を祝したかった。

 

 利根と北上は、優しかった。僕が手紙を返せなかったことや、その他もろもろの二人に対して行った誠実とは言いがたいことの全てを水に流して、友達として僕を抱きしめてくれた。その耳には前と変わらず、あのピアスが揺れている。僕の耳にもだ。旗艦学校でこんなものをつけていてよいのかどうか分からなかったが、行ってみると、あそこにはつまらない服飾規定はなかった。候補生が彼と彼女らの任務をちゃんと果たしていれば、許されたのである。僕らはそれに触れ合って、同じ訓練所、同じ訓練隊を出た者たちだけが互いに感じることのできる、暖かな同胞愛を分かち合った。

 

 提督には言ってやりたいことが幾らかある。友達のみんなをびっくりさせてやろうとする僕の魂胆を台無しにしてくれたことや、呉と宿毛湾に迷惑を掛けてしまったこと(これは僕が悪いのでただの八つ当たりだ)、いきなり第五艦隊の旗艦などに任じたことそのもの……だが、まあ、忘れよう。僕は旗艦学校を出られた。北上と利根が来てくれた。響と隼鷹も祝ってくれている。僕が旗艦役をしくじったって、優秀な二番艦がどうにかしてくれるだろう。さあ、祝い酒だ!

 

 飲みながら、北上に大井のこと、利根に筑摩のことを訊ねる。僕はこれらの古い友人たちに、よくよく謝っておいた。彼女たち二人が僕の艦隊員だったら、確かにこれほど心強いことはない。でもそれは僕の都合なのだ。彼女たちには彼女たちの生活があって、そこで築いた関係があって、友情や愛情があった筈だ。それを置き去りにさせた。僕の下らない悪戯心のせいだ。第五艦隊は艦娘によるSAR部隊運用のデータ収集を目的としているから、一年ほどで解散すると聞いているが、一年は長い。半年、旗艦学校とテストで研究所を離れていた僕でさえ、古巣を追い出された気分だった。その倍もとなると、僕がその立場に立ったらストレスで擦り切れてしまうだろう。

 

 利根の方、つまり筑摩はそんなに気にしていない様子だった。仲がよくないというのではなく、戻って来るならそれまで艦隊はお任せ下さい、というような雰囲気だったらしい。「初めて会った時からは考えられんほど、あやつも成長しておるよ」と利根は嬉しそうに語ってくれた。姉妹艦がいるというのは羨ましいものだ。その点、僕は知り合うことができなかったが、駆逐艦島風と僕とは一定の理解を持ち合えそうに思えることである。

 

 大井は……北上に手紙を託していた。僕にそれを渡しながら、顔を背けて半笑いで「別の話にしよ?」と北上が言ってくるということは、別れの時には並々ならぬ苦労があったようだ。手紙を開き、読んでみる。そこには思いの外に整った書体で、北上のことについて書いてあった。彼女の癖や、戦場でやりがちなミス、得意な役割、苦手な役割といった、指揮をする上で役立つ情報から、食堂でよく何を食べているかとか、どの仕草が最も可愛いかなどという益体もないが気持ちは分かる内容まで詰まったものだった。手紙の末には「ムカつきますが北上さんの意志を尊重します」という一文もあったので、北上が思っているより大井も大人になっていると見える。ただし、よくよく見ると「北上さんを轟沈させたらあなたの家族を狙いますからね」みたいなことを匂わせるところもあったので、やっぱり北上を呼んだのは安全上のリスクが大きすぎたかもしれない。

 

 僕は響と隼鷹を二人に改めて紹介し、それから響と隼鷹に二人を紹介し直した。そうしていると、日向や伊勢、それに不知火先輩がやって来た。僕の部屋では手狭に思えて来たが、この狭苦しさがいい気もする。妙高さんも、ほんのちらりとだけ顔を出してくれた。お酒を勧めたが、この後も仕事があるということで断られてしまった。第二艦隊は、第一艦隊に隼鷹の代わりとして新しく来た空母の練度上昇で忙しいらしい。そうか、半年の間に新任も入ったのか。これで僕も一番の下っ端卒業という訳だ。その辺の感謝を込めて、それと先輩風を大いに吹かせる為にも、その空母に後で挨拶しに行かなくてはならないな。その時には不知火先輩も同席して貰おう。その空母に、先輩の先輩らしさを見せつけてやるのだ。それを見たら、誰もが彼女を愛さずにはいられない筈だ。

 

 宴会は深夜まで続いた。明確な終わりというものはなかったので、翌朝まで続いたという解釈も不可能ではあるまい。というのがその晩、会は適当なところでお開きになったのではなく、僕や響、隼鷹、北上に利根、伊勢、日向、先輩と、その場にいた全員が酔い潰れて気絶してしまい、なし崩し的に幕を閉じたからであった。六ヶ月ぶりの飲酒は肝臓を驚かせてしまったと見える。利根はまた北上の上着の中に頭を突っ込んで寝てしまい、響は早々と床の上にごろりと横になって寝てしまった不知火先輩の背中に、がっしりと力強く抱きついていた。隼鷹は傍迷惑にもトイレで鍵を掛けたまま気絶しやがったが、これはもう毎度のことみたいなものだ。伊勢と日向は最大の勝ち組で、僕のベッドを二人で占領してぐっすりと気持ちよく眠っていた。奇妙なものである。部屋の主たる僕は固い床の上で目を覚ましたというのに。

 

 時間は午前六時だった。眠気はあるが、じきに消えるだろうことが分かるほどのものだ。旗艦学校での生活リズムのせいで、僕は以前よりずっと早起きの朝型になってしまったのである。だが今回ばかりは助かった。今日から第五艦隊としての活動が始まるのに、揃って初日から遅刻していてはお話にならない。伊勢と日向、不知火先輩は寝かせておくとしても、後の四人はどうしても起きて貰わなければならなかった。みんな女性ならではの用意などなどあるだろう。少なくとも、シャワーを浴びて歯を磨くくらいのことはする。僕でさえその辺はきちんとするんだから。

 

 トイレの鍵は前に外からも開けられるものに変更しておいたので、息を止め、目を閉じて突入し、便座に頭を突っ込んでいびきをかいている隼鷹を真っ先に引っ張り出す。彼女がトイレの中に垂れ流したものを流してやり、口元にこびりついたものをそれが何なのか考えたりせずに濡らしたティッシュなんかで拭き取ってやる。隼鷹にとっても僕にとっても嬉しいことに、今回彼女の服は汚れていなかった。これなら服を貸してやる必要もないだろう。昨日、チェイサーとして飲んでいたミネラルウォーターをテーブルから取って、顔に掛けてやる。それは、この飲んだくれを起こすのに最も効果的な方法だった。

 

 たちまちにして目を覚ました彼女は、ぺたりと貼り付いた髪の毛を手櫛で乱暴に後ろへと追いやると、酔いの冷めやらぬようにも見える楽しげな笑顔で「おはよう」と言った。「ああ、おはよう。十時出撃、九時半に工廠だ。それまでに身嗜みを整えておいた方がいいんじゃないか?」「そうするよ。あークソ、頭が……二日酔いに効く薬なかったっけ?」用意しておくから、と彼女に言って、僕は隼鷹をシャワー室へと送り出した。次は北上、利根、響だ。まず手間の掛からない響を起こす。頬を指でつっつくだけで目を覚ましてくれるのだ。ちゃんと寝られているのか、心配になるほどである。「朝?」「六時だ」「もう少し寝ていたかったけど、仕方ないね。また後で」ふわ、と可愛らしいあくびをしながら、響は部屋を出て行った。

 

 次は利根と北上、と思ったが、二人は僕が何かする前に起きた。周りの動きと気配を察知して、朝と感づいたのだ。それはいいんだが、利根は朝の挨拶を北上の服の中からするのはやめておいた方がいい。北上は「うあー、服伸びるじゃん」と、ひどく迷惑そうな顔をしていた。それでも無理に頭を押し出しはしないのは、優しさかはたまた服が破れそうだからか。ま、起きているなら問題はない。工廠や自分の部屋の場所が分かることを二人に確認してから、僕は着替えと歯ブラシその他を持って、シャワーを浴びに外へ出た。

 

 提督用のシャワー室は彼女が直前に使用したらしく、シャンプーの香りが漂っていた。鉢合わせなくてよかった。手早く髪と体を洗い、ついでに歯磨きも済ませて着替えをする。女性にとって身嗜みというのは大事だとされている。時間を費やすべきことだと。言わせて貰えば、それはご婦人だけの特権じゃない。男にとってだってそうなのだ。広報部隊の経験から、強く僕はそれを主張する。真の男は眉毛なんて手入れしない? 真の男はヘアトリートメントなんて使わない? そんなのは出来の悪いデマに過ぎない。真の男は、彼がそうしたいと思うことをやる。欲するならば彼は、無駄毛を処理し、香水をつけ、爪を磨き、「今日はどっちの服を着て行こうか?」と自分に問い、髪を脱色し、髪を染め、化粧をするのだ。いや、僕のことじゃない。僕はそこまでしない。する人()いるって話だ。

 

 僕が朝の身づくろいを終えて部屋に戻ると、二番艦を除いて、第五艦隊の面々は既に揃っていた。待たせてしまったが、まだ七時過ぎだ。隼鷹の為の薬を薬箱から取って渡してやりながら「朝食でも取りに行くかい?」とみんなに訊ねる。反対する者は一人もいなかった。未だに寝ている伊勢と日向の間に、不知火先輩をそっと寝かせておき、艦隊員たちと部屋を出る。だが彼女たちと共に食堂までは行かず、先に僕は執務室を訪ねた。吹雪秘書艦に、あんたのところの三人は、僕のベッドですやすややってるぜってことを教える為にだ。もちろんその言い方だと語弊がかなりあるから、その通り伝えるつもりはない。ノックして入ると、提督は頭を抱えていた。珍しい姿だ。しっしっ、と追いやるように手を振って、「今はよせ」という意志を伝えてくる。困って秘書艦に助けを求めると、彼女は僕を連れて執務室を出た。

 

「提督はどうなさったんです?」

 

 長門には砕けた口調でものが言えるが、吹雪秘書艦にそれをやる度胸はない。彼女は特大の溜息の後に「昨晩は随分と、お酒を召されたようです」と小声で言った。へえ、酒か。薬と一緒にはやらなかったのかな? やってたら今頃頭痛程度じゃ済まないか。僕は頷いて了解の意を示し、第一艦隊の三人は僕の部屋で休んでいることを伝えた。吹雪秘書艦はその名に恥じない冷たい声で、そのことを承知した旨を告げた。「手は出してない。出したかったけど」と伝えたかったが、それこそ変な誤解を招くだけだろう。言うにしてもせめて前半部だけにするべきか。

 

 秘書艦の前を辞した後、僕は工廠に向かった。明石さんの顔を一目ばかり見たかったのと、優秀な僕の二番艦を朝食に誘う為だ。僕には彼女がそこにいる確信があった。優れた艦娘は、出撃前に二つのことを欠かさない。適度な食事と、艤装の入念な準備だ。朝早く起きて、工廠にいることだろう。入り口から中を覗き込む。工廠は朝も夜もないかのように、誰もが忙しくしている。その騒がしさや(せわ)しさが、活気と感じられて僕は好きだった。それに男の子は全員ではないにしろその多くが、油と機械を愛するものである。あまつさえ油と機械と女の子が一緒になりでもしようものなら、男に対して抜群の威力を発揮する。

 

 思った通り、僕の二番艦は明石さんと話をしていた。艤装を前に、僕を背に、並んで立って話している。明石さんは嬉しそうな声色だ。その背中には「久々に全力を尽くすに値する人が来てくれた!」と書いてある。無論、彼女は僕の艤装や、僕以外の他の艦娘たちの艤装にだって全力を尽くしてくれる。だが自ら持てる限りの力を注ぎ込みたいと思って貰えるかどうかというのは、別なのだ。そんな明石さんの姿を見ると、僕が声を掛けることで邪魔をするのがいけないことのように思えて来た。でも提督は昨日僕が報告に行った時「丁度、お前の二番艦が着任したところだ」と言ったのだ。つまり、他の艦隊員たちはまだ顔合わせをしていないと考えるべきだろう。

 

 少し後ろに立って咳払いをすると、二人は振り向いた。明石さんの顔が一瞬曇ったのを僕は見逃さなかった。旗艦たる者、注意深くなくてはならない。申し訳なさを感じながら、僕は礼儀正しく朝食の誘いを掛けた。それから「第五艦隊では、第一艦隊で採用しているようなバディ制を導入するつもりだ。その組み合わせを決める為にも、是非『互いを知る』機会を作るべきだろう」と僕は笑いそうになりながら言った。この歴戦の二番艦に向かって、自分がこんな、何だか実際以上に偉そうなことを言っているのがおかしかったのだ。僕はまだ十八にもなっていない子供だぞ? 何言ってんだこいつと自分でも思ってしまう。



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「第五艦隊」-2

 明石さんはそんな僕の心の動きを読み取ったのか、少し笑って「何だか少し見ない間に、やけに立派な旗艦になりましたね」と言った。蜜月を邪魔した僕にちくりとやる気も入っていただろう。僕は気にしなかった。この程度の一刺しは、友人や知人同士の間では気軽な挨拶みたいなものだ。僕と二番艦は明石さんに挨拶をして、食堂へ向かった。

 

 利根、北上、隼鷹、響の四人は席を確保した後、食べずに待っていてくれたようだ。僕は旗艦らしくもったいぶった態度で最後に着席したが、朝食のプレートを自分で持ったままではどうも格好がつかなかった。思い上がったことを言うと、僕は旗艦学校で助けてくれたあの使用人をここに連れて帰って来たかったものだ。彼ら民間人は言い方はいささか悪いが豆みたいなもので、金さえ払えば手に入る。艦娘でなければならない仕事ならともかく、それ以外の雑事──ベッドメイキング、人探しから伝令までの各種の使いっ走り、制服を洗濯に持っていくことなどだ──には、彼らを使えばよい。

 

 もっとも軍全体でそんなことをしようものなら、我らが海軍は絶望的な資金不足に陥るだろうから、この考えは理想でしかなかった。やりたいなら、提督に具申して適当な民間人を軍属扱いで個人的に雇うことを許可して貰うしかないだろう。だがそうすると、僕の給料から少なくない額が提督への賄賂とその民間人への給与で消えることになってしまう。自分で何とかなる内は、僕の金は僕が使う為に持っていたかった。何しろ生命を対価に毎月貰っている金だ。つまらない仕事を代わりにやらせる為に他人に渡すのは、どうにも躊躇われたのである。

 

 健康な青少年には量が少ない朝食を食べ、艦隊員たちの意見を聞きながら、僕は組み合わせを決めた。その時最も参考にしたのは、言うまでもなく二番艦の意見だった。彼女は能力があり、事前の情報と短い期間の接触で、素晴らしい意見を提示してくれたのである。彼女の案では僕と隼鷹、利根と響、北上と彼女が組むのが最適だということだった。これは、確かにそれらしい組み合わせだった。旗艦である僕は安全と護衛の為に隼鷹の近くにいて、主に指揮と対空戦闘を行う。足が早く、雷撃能力に優れているが防御に難のある響と北上を、利根と二番艦でサポートする。僕は概ね文句なくこの案を受け入れた。が、一つだけ変えさせて貰った。利根と僕を交代させたのである。

 

 僕には一つの信念があった。旗艦学校で叩き込まれたものではなく、自分で持つようになったと信じているものだ。それは、旗艦は先頭に立たなければならない、というものである。旗艦の別名でもある一番艦という呼称は、便宜上のものであるだけではいけないのだ。指揮官は先頭にいて、その部下たちと肩を並べて敵と戦う。それでこそ正しい状況判断ができるし、信頼関係を構築し、保ち続けていくことができるのである。

 

 歴史上の軍隊について、僕は旗艦学校と訓練所の両方で学んだ。古い時代の指揮官たちの中には戦闘を指揮するに当たって、まるで戦争を指導するかのように、遠くかなたの後方から前線の兵士たちを指揮しようと試みたり、実際にそうした者があった。彼らのことを馬鹿にする気はない。歴史の登場人物を今の考えで裁くのは、ちょっとならず大変に不公平なやり方だ。けれども今の時代、艦娘として、旗艦として、そんなことをするような者はいるべきではない、と思う。

 

 僕らの士気の根源は複数ある。一つは、僕らが最後の一線だということだ。敵が僕らの守りを抜ければ、後に残っているのは日本本土、力なき人々たちだけなのである。僕らは最後の剣、最後の盾、最後の砦だという事実が、艦娘たちを奮い立たせ、戦争を遂行する士気を持たせる。そしてもう一つは、戦闘における士気を保たせるものだ。それは、共に出撃した艦隊員全員が勇敢に戦い、自分の役目を果たすことである。僕らは生き残る確率を少しでも上げたいからと言って、他の艦隊員たちの後ろに隠れるような真似はしない。普段の生活や仕事で楽をしようとはしても、戦闘となったら艦娘は逃げないのだ。

 

 それは撤退しないという意味ではない。彼と彼女らの義務から逃げないという意味だ。海に出れば、艦娘なら誰でもが戦い、役目を果たす。それを僕らは知っていて、信じている。だから僕は、艦娘たちは、戦えるのだ。そのことを僕が、指揮官であり旗艦である僕が体で示さないでいて、どうして他の艦娘たちやこれから艦娘になる人々が信じる気になれる?

 

 ああそれに、これは大事なことだが……僕が万が一やられたとしても、だ。その後を引き継ぐのは僕よりも桁違いに場数を踏んで来たベテランであり、あの提督がお墨付きを出したほどの二番艦なのである。本当に何故僕を旗艦に据えたのか、理解に苦しむ。どうせ先任艦娘たちのことを無視するなら、この二番艦を旗艦にすればよかった筈だ。そうなっていたら、僕は喜んでそれに従ったろう。そもそもそんなに先任後任のことにこだわりはない方で、高い能力があるなら文句なんて言わないタイプの性格なのだから。

 

 食事と組み合わせの決定を終えると、九時になっていた。九時半に工廠へ集合するよう命じて解散する。僕は自室に戻り、椅子に座って二十分ほど余分の睡眠を取った。寝られる時には寝ておくべきだ。そうすればその後、より長く起きていられる。古今東西、兵士は眠るということについて技術を持っているものだが、僕もその一人だった。九時二十五分に僕は目を覚まし、工廠へと向かった。既に全艦隊員が集合しており、明石さんが恒例の最後のチェックを行う為に彼女たちと共にいた。僕は艤装を身につけてから、彼女たちの前、少し離れたところに立った。任務の説明をしなければならなかったからだ。これが僕は苦手だった。人前に出るのが嫌いなんだ。が、そんな素振りを見せずにやり通すことを、旗艦学校で学んでいた。僕はなるべく、旗艦らしく余裕を持った感じに聞こえる声を作って言った。

 

「今回の任務は捜索救難や友軍の支援ではなく、通常の索敵殲滅任務となる。理由は想像がつくと思うが、我々が新設された艦隊であり、艦隊員同士の相互理解に欠けるからだ。訓練や演習、そして実戦を通し、適切な連携を行えるようになってから、本来の任務に就くことになるだろう。ありがたいことに、ここに新兵は一人もいない。従って君たちは全員、これから何をするべきか理解しているものと信じている。では、明石さんに五分間だ。※70 艤装の最終点検が終わったら水路に移動しろ」

 

 一人一人、明石さんによる点検を受けていく。最後に僕の番が来た時、僕は小声で彼女に訊ねた。「どうでした?」「何がですか?」「旗艦らしかったでしょうか」「少々……」彼女は困ったような笑顔で答えた。「やり過ぎかと。いつも通りでいいんですよ」僕は肩を落とした。失敗はいつでも嫌なものだ。明石さんはその後二言三言声を掛けて励ましてくれたが、初めてだから失敗して当たり前、なんて風には考えられなかった。憂鬱な気分を押し隠しながら、出撃用水路へと移動する。それから無線を規定の周波数に合わせて、僕は宣言した。

 

「第五艦隊、出撃する!」

 

 同じ旗艦の役目でも、この出撃宣言は大好きだ。言うことは決まっているし、気合も入るし、言葉の響きだってカッコいい。出撃一回に付き一度しか言えないのが実に残念だ。水路を移動している間に複縦陣を指示し、最前列に僕と響、中央に隼鷹と利根を配置する。指示に従って動くのを見て、僕は自分が、自分こそが彼女たち五人の命を預かっていることを意識した。果たして僕は天龍や長門、吹雪秘書艦のような立派な旗艦になれるだろうか。ただちにではなくとも、みんなと一緒に生き抜いていけば、いずれはそうなれるだろうか。僕は自分をそれだけの潜在能力のある艦娘であると思いたかった。もしそうでないのなら、とっとと戦死するか退役するかして別の誰かに旗艦を譲った方がいい。無能な指揮官に率いられる艦隊員たちは哀れとしか言いようがない。

 

 研究所前の海域を通り、深海棲艦の活動域と僕らの領域がかち合うところまで行く。半年前のあの時みたいに、鬼級でも出て来ない限りは大丈夫だろう。それにあの時は夜戦だった上に撤退も難しかったが、今は日が出ている。利根と僕とで水偵を出し、索敵しながら航行を続ける。僕のも彼女のもカタパルトは好調だ。今のところ、周囲に敵がいるという報告は来ない。僕は響にハンドサインを送り、肩の当たる近さまで距離を縮めた。「何だい?」抜かりなく警戒を続けつつ、響は僕に訊ねた。その質問への答えを僕は何個か思い浮かべたが、何よりも聞きたかったのは「不安はないか?」だった。でもそんなことを訊ねることこそ、響を恐れさせることになるだろう。自分の判断に自信すら持っていない指揮官は、艦娘だけでなく軍人全員にとっての悪夢だ。だから僕は、別のことを口にした。

 

「僕は半年も留守にしていた」

「そうだね、すっかり見違えた」

「言いたいことは分かるよ、響。今のところ、僕はマズいやり方で仕事をしてる……特にさっきはひどかった」

「仕方ないさ。君はまだ、旗艦としては未熟なんだから」

「うん、そうだ。それを言い訳にはできないけどな。なあ、帰ったら僕の為に時間を作って貰えないか?」

 

 響は首を回して僕を見た。一秒だけだ。その目はこちらの真意を図ろうとしていた。僕は彼女が誤った解釈に辿り着く前に、どうしてそんなことを彼女に頼んだのか説明した。半年の間に隊で何か起こっていないかや、例えば長門なんかがどうしているかを尋ねたかったのだ。この研究所にいなかった時間を取り戻すというんじゃないが、みんなが知っていることを僕が知らないというのは都合が悪い。響は短く考え込んで、僕の方を見ないまま「いいよ」と首を縦に振った。礼を言って、離れる。

 

 するとタイミングよく、利根の水偵が敵艦隊を発見した。重巡リ級エリートとネ級が一ずつ、空母ヲ級が二、駆逐ハ級が二。まともにやり合えば、制空権を奪われることは避けられない。可能な限り近づいて、こちらの先制攻撃で始めれば理想的に──「敵航空機接近中!」利根の緊迫した声が、その夢物語を打ち壊した。ヲ級がこちらの水偵を見つけ、航空機を放ったらしい。こうなっては、制空権を喪失した状況下での交戦さえ覚悟しなければならないだろう。

 

「対空戦闘用意。隼鷹を中心として輪形陣を組んでくれ。隼鷹、分は悪いが空を頼む。助力はする」

「あいよ、任せときなって!」

 

 陣の最前には僕が立ち、右方に響が立つ。後方に北上、左方に我が二番艦。中央の二隻は利根と隼鷹だ。敵のヲ級の艦載機が見え始めた。僕と二番艦が真っ先に対空射撃を始める。僕の精密射撃の原点は対空射撃だ。ことこれに掛けては、誰にも劣らぬとまでは言わないがそこそこの力と技があるという自負を持っている。艦娘の対空射撃が始まるのはもう少し後だと踏んでいたのだろう敵航空隊は、その油断と不運を血であがなうことになった。先導隊が次々と落とされたところに、隼鷹の艦載機が襲い掛かる。混乱に乗じて、乱戦へと持ち込むつもりのようだ。よし、今が好機だろう。僕は水偵を飛ばし、戦闘機同士の乱戦に巻き込まれないように低空を飛ばせて、敵艦隊の位置を確認させた。空母二隻と駆逐一隻を後に残し、残りは突っ込んでくるつもりのようだ。無線で指示を出す。

 

「北上、前へ! 進路に魚雷を撒いてやれ!」

「雷撃二十発、行くよー」

 

 悪い冗談みたいな数の酸素魚雷が放たれ、遠くからこちらへ攻め入ろうとしている深海棲艦たちに迫って行く。最前列を行くネ級は気づいて避けられたが、後の二隻は反応が遅れた。水偵妖精からの報告を受け、艦隊へ通達する。「リ級エリート中破、駆逐ハ級を撃沈、敵空母群に動きあり、撤退に移る模様。戦闘機も引き上げに掛かった」妙にあっさり退くな、と僕は思った。まだあちらの艦攻も艦爆も来ていない。僕は隼鷹に訊ねた。「空戦はどうだった?」「妖精が言うには、敵戦闘機の数が少なかったってよ。ま、対空砲火のせいじゃね?」ならいいが、ヲ級二隻が戦闘機を少なめに出したということも考えられる。こちらの航空戦力は軽空母一隻分だ。それで足りると思ったのだろう。しかし僕らの対空戦闘によって大損害を受け、しかも北上の雷撃でリ級エリートが中破、駆逐が一隻沈んだ。いい結果が出たとは言えまい。けれども、本気で撤退するほどか?

 

 僕は深海棲艦(奴ら)だ。そのつもりで考えてみる。制空権を確保すれば、圧倒的な数の艦攻艦爆で、艦娘たちを攻撃することができる。だがそうしようにも、連携して反撃されては空を奪えない。せめて軽空母の戦闘機だけでもどうにかできれば、何とかなるのに。状況はどうだ? 奴らはこちらの重巡に手傷を負わせ、駆逐を一隻やった。士気が高まっているだろう。ここで背中を見せれば、追って来る。先に到着するのは船じゃなくて飛行機だ。そこで残しておいたこちらの艦戦を放出し、速やかに制空権争いにケリをつける。後は多少の被害に目を閉じて、艦攻艦爆による波状攻撃で敵本隊に深手を負わせ、とどめはネ級とリ級エリートにやらせる。

 

 この考えが正しいかどうか、知る方法はない。だが確かめてみる絶対の必要もなかった。僕は追撃許可を求めてきた艦隊員たちに首を振って、答えた。

 

「深追いはしない。僕らもここから離脱しよう」

 

 本当は、追撃の判断は旗艦の行うことではない。それは提督に決断権があるとされている。だが通常、提督は彼もしくは彼女一人につき四つの艦隊を同時に運用しており、四の異なる戦場における四の異なる艦隊に所属する最大二十四人の状況を完全に把握し、撤退や追撃を決定することなど不可能だった。そこで、大抵の提督は一つだけ自分の指揮する艦隊を選び、残り三艦隊については旗艦に権限を委任している。これが、旗艦学校という厳しい訓練過程をやり抜いた艦娘にしか一番艦を任せない理由の一つだ。旗艦は、非常に狭い範囲の判断についてのみだが、提督に任じられる者と同等のレベルを求められるのである。

 

 僕らは敵の航空機を警戒して輪形陣を組んだまま、彼女たちの退いていく方向とは逆に移動した。隼鷹の艦戦が幾らか撃墜されたのと、北上の魚雷二十発を使用した以外には消耗なしで、リ級エリートを中破、駆逐ハ級を撃沈だ。勝ったと言ってもいいだろう。完全勝利じゃないが、戦術的勝利も評価としては悪くない。それに何よりいいのは、僕の艦隊員の誰にもかすり傷一つなく戦闘が終わったってことだ。次も、その次も、そのまた次もそうなるといい。

 

 暫く航行してから、ふと時間を確かめる。午前十一時四十分。出撃から二時間ほどか。まだまだ時間はある。水偵による索敵を再開する。無論、目での監視も忘れない。潜水艦の奇襲で死にたくないなら、しっかりと目を開き、海面に雷跡が見えないか注意して、まばたきの回数は控えめにしておいた方がいい。もし可能なら目を一つ二つ増やすべきだろう。ミュータントになるんじゃなくて、ソナーとか、対潜哨戒機のことだ。どちらも貴重な装備であり、軍全体に満足の行く数が出回っているとは言いづらい。ソナーは響が持っているが、しかしもう一つ二つは必要だ。できれば重巡用の大型ソナーが欲しい。いずれ、遠くない未来には提督と相談し、どうにかして手に入れなければいけない。今僕が使っている水偵も高性能機に更新したい。利根は宿毛湾で既に一度艤装の改造を済ませていたが、二度目の改造が用意されているとかで、それを行えば航空巡洋艦になれるそうだ。索敵・対潜能力の向上を見込めるだろう。隼鷹の航空隊に新型機を配備してやりたいという思いもある。

 

 旗艦学校で学ぶまで、僕は旗艦の仕事を戦闘における指揮だけだと勘違いしていた節がある。長門や吹雪秘書艦への評価を、改めて高めなければならない。彼女たちは艦隊員にできるだけのことをしようとしていた。提督と相談するだけでなく、補給科と()()()()したり、時には「ある場所(補給基地)」から「借用(強奪)」させたり……例えば足柄は徹甲弾を湯水のように使っているが、これは補給科の士官を賄賂で抱き込んで発注数を水増しさせ、浮いた分を回して貰っているからだ。ある時の日向など彼女の瑞雲が全滅し、予備が来るまで書類手続きのせいで一ヶ月掛かると言われ、すぐそこの基地に彼女の瑞雲があるというのに使えないという状況に追い込まれたが、秘書艦はそれを見事に解決した。一枚の偽造身分証と一台のトラック、それから変装でだ。警備兵たちは減給を食らったらしいが、晩酌の回数が減って寂しい思いをしても、死にはするまい。

 

 長門や吹雪秘書艦が取ったような手段を使うかどうかは別にしても、僕にも責任を持って艦隊員たちの面倒を見る義務がある。だがまずは提督に相談だ。彼女が用意できるなら、そうして貰うのが一番だろう。ちょっとしたリスクを冒すのは七番目ぐらいの手段だ。そこに到るまでの六つで解決できるなら、避けて損をすることはない。

 

 僕の無線の信号音が二度鳴った。一度返し、周波数を予備に切り替える。誰だか知らないが、他に聞かれずに話したいらしい。まあ、予備周波数はみんな知っている。聞こうと思えば盗み聞きは可能だが、開き直って垂れ流しにするよりは奥ゆかしさというものがあるではないか。僕は帰ったら明石さんに頼んで、艦隊員たちに余分の回線を一つずつ設けて貰うことを決めた。彼女たちが、機密を保って話をしたいと思うことがあった時に、他の艦隊員の善意に依存するようなやり方で密談したいとは思わない。「どうした?」と声を掛けると、北上の声が答えた。「いや、なんかさー。ちょっと話したかったんだよね。この前のパーティの時と今で全然感じ違うからさ、どう接したらいいか分かんなくって」胸にぐさりと刺さるが、努めて明るい声を出す。

 

「出撃前の大層な演説とか?」

「そうそう、それとか。あたしの前で話してんの誰だこれー! って、びっくりしちゃったよ」

「初めてだったからな、気を引き締めすぎたんだ」

「そっかそっか。そいじゃ、あたしたち、友達のままだ。……よね?」

「もちろん。そのこと、いつでも忘れないでいてくれよ」

「はーい。話したかったのはそんだけだよ、答えてくれてありがと。警戒に戻るね」

 

 周波数を元に戻す。後ろにいる北上の方を振り返って彼女の顔を見たかった。だが、そんなことをすれば話していたのは僕と彼女だとバラすようなものだ。僕は我慢しなければならなかった。やはり旗艦という仕事は割に合わない。友達に互いの間に存在している友情への不安を抱かせ、言いたいことも言えなくさせるだけの役職だ。こんな役目を僕に任せようとした理由を、その内提督の口から吐かせてやる。その為にも、吹雪秘書艦をどうにか遠ざけられないだろうか? さくらんぼかカスタネットかってぐらい、二人はいつも一緒にいる。

 

 水偵からの通信が入る。また敵を見つけたとのことだった。軽空母一、軽巡二、リ級エリート二隻、戦艦ル級エリート一。戦力としてはこちらと似通いつつも少し上か。北上の先制雷撃で混乱させ、隼鷹の航空隊は軽空母とル級エリートに集中攻撃。残りは前衛を務める僕の組と北上の組で対処すれば、然程のこともあるまい。僕は水偵妖精からの情報を熟練の雷巡に渡し、雷撃に取り掛からせた。

 

 さっきみたく敵に見つからないよう、僕と利根の水偵妖精に指示を出しておく。ああしろこうしろとは言わない。僕は飛行機乗りじゃないから、そんなことを言ったって連中の邪魔をしてしまうだけだろう。僕は小さな戦友の腕を信頼して、大雑把な指示を出すだけだ。それは提督が僕ら艦娘に接するのと同じようなやり方だった。例えば彼女が艦隊に、あの海域にいる戦艦ル級をざっと五人ほどひん剥いて連れて来いと命じるとする。提督はどうやってそれをやるかを指示しない。無責任なのではない。それは提督の命令として受け取られた時から、最早艦隊の任務であり、艦隊を預かる旗艦の仕事なのだ。

 

 これは数学のようにきっちりとした分業体制なのである。大本営は「いつ」と「何処(の提督)が」ということを決める。そして提督は「どの艦隊が」を決め、その艦隊の旗艦は「どうやって」を決定する。こうやって見ると、提督というのも中々、僕が昔思っていたほどいい職業じゃなさそうだ。中間管理職そのもののように思える。麾下(きか)の艦隊はちゃんとやってくれるだろうか、大本営は無茶な任務を押し付けて来ないだろうかなどと頭と心を痛める立ち位置だ。けれどそうすると、僕にはうちの提督がますます謎めいた人物に感じられるのだった。彼女は痛める心など持っていなさそうだし、二日酔い以外には頭痛を知らないと見て間違いないだろう。

 

 北上の雷撃が敵艦隊に近づいていく。と、軽巡二隻がそれに気づいた。軽空母とル級エリートを庇い、数本の魚雷を受けて撃沈される。リ級エリートたちはというと、素早い対応で回避しやがった。マズい状況だ。あっちはやり合う気満々でいる。北上の雷撃はもう使えない。隼鷹に航空戦の指示を出し、先に敵軽空母を片付けるよう指示した。ル級エリートの砲撃が始まる。「組ごとに散開!」無線で艦隊員たちにそう叫び、響と共にル級、リ級の側面への移動を開始する。どちらもエリートで、守りが固い。雷撃を当てて速攻で片付けなければ、こちらの被害が大きくなるだろう。

 

「北上、君はリ級二隻の牽制に専念しろ。隼鷹は利根の護衛の下、ル級の射程範囲外へ、距離を保て。移動が終わったら利根は北上に合流。残りは僕に続け!」

 

 バディ制は安定した状況では効果を発揮するが、それに固執すると戦力を適切に集中できなくなることがある、という欠点を持つ。吹雪秘書艦は決してそんな愚行を犯さなかったし、長門はそもそもバディ制を取り入れてすらいなかった。そんな彼女の第二艦隊での勤務で僕が知ったのは、こういうことだ──たまには、自分一人で戦わなければならない時もある。隼鷹は僕と違って賢い女性だったので、第二艦隊で戦わなくともそのことを知っていた。念の為に水偵を一機放ち、隼鷹の周囲を警戒させる。それは彼女を安心させることになるだろう。今のところ彼女の上空は制空権争いの舞台にはなっていないので、僕の水偵が落とされることもあるまい。

 

 僕の二番艦による熾烈な砲撃を、ル級エリートは艤装の盾で防ぐ。提督はヲ級の杖を持っているが、僕はあの盾が欲しい。無理ならせめて似たようなものの製作を明石さんに依頼するか……いや、何でも彼女に頼んでやらせるというのは、ひどい考えだ。彼女は僕の便利屋じゃないんだから、節度と敬意を持って接さなければいけない。

 

 弾かれて砲撃の効果は出ずとも、盾で防いでいる間はこちらへの反撃をして来ない。二番艦にル級を任せ、響と僕とで北上や利根と一緒にリ級を始末するか? あるいはリ級の前には僕だけが出て、その間に響を肉薄させて軽空母を撃沈する? さもなくば、三人がかりでル級をやるか。旗艦の仕事は選択の連続である。その上、正しい答えを選ぶ為の判断材料が常に与えられる訳ではないのだ。不確かな材料で、命を左右する選択を下す。迷う時間はない。

 

「響、軽空母のところまで行け。僕がカバーする」

Выполняю(やるさ).」

Хорошо(よし). 二番艦、ル級は任せた!」

 

 無線から信号音が響く。了解の意思表示だ。これでル級のことは暫く忘れていられる。利根から隼鷹を退避させ終わったという連絡が入った。間もなく戦線に復帰するだろう。北上の単装砲を意にも介さず、一隻は軽空母を守るようにこちらへ、もう一隻は隼鷹目指してひた走っている。後者は利根と北上に任せるとして、こちらに来る奴は僕のものだ。狙いをつけて、発砲する。彼女は軽やかなステップで未来位置の予測を外させ、回避した。着水時にバランスをちっとも崩さないのは、エリートと言われるだけのことはある。だがあんなのは、僕にだってできることだ。

 

 響をやる前にうざったい重巡を倒さなければいけないことに気づいて、そのリ級エリートは僕を()めつけた。両手の艤装を向けて、撃ってくる。僕は加賀を見て盗んだ機関の操作術を用い、短時間の加速と減速でそれを避ける。長い間使ってたら頭が揺れて酔いそうだが、弾を避けるにはいい。ステップだとどうしても着水時に動きが鈍る瞬間があるから、二対一だとそこを狙い撃たれることがある。その点、加減速ならずっと小さな隙で済む。

 

 再装填が済んだ。だが撃たない。こちらを睨みつけてくるリ級の目に、負けじと視線をぶつける。久々のチキンレース開催と行こう。僕は右腕の砲を構え、左手を添えて狙いをつける。だが姿勢を安定させようと腰を落とすと、無線が鳴った。舌打ちをして適当に発砲し、敵の回避に合わせて針路を変え、同航戦へと入った。反撃をやり過ごしながら、無線に答える。「こちら第二特殊戦技研究所所属、第五艦隊旗艦」

 

「私だ」

 

 提督だった。これで今日起こった彼女にまつわる珍しい出来事が二つに増えた。彼女が無線を寄越して来るとはな。だが、そんなことをしたということは、それだけ大事な話なのだろう。僕は無線機をいじり、艦隊員たち全員が彼女の声を聞けるようにしてやった。

 

「お前たちの近くで有力な敵と交戦中の艦隊が救援要請を発している」

「了解しました、提督。しかし」

 

 至近弾を受け、破片が腕を切り裂く。痛いが、浅い。希釈修復材を使うような傷じゃない。それに敵はもっと沢山の傷を作っている。いい気味だ、悔しいなら鎧でも着ろ。

 

「第五艦隊は現在交戦中です。撃退してから向かいますので、詳しい位置をお願いします。それと情報を得る為に、救援対象の艦隊の旗艦に通信を繋ぎたいのですが」

「いいだろう。よく聞くことだ」

 

 彼女は含みを持った言い方をして、僕にその艦隊の座標を教えた。砲戦しながらだったが、暗記は大の得意だ。頭の中に叩き込んである海図を参照する。対象の艦隊の現在地点は、ここから十五分ほど行ったところだった。十五分で目の前の奴らを沈め、十五分で駆けつける。計三十分。それでいいだろう。勝手にそんなことを決めながら、通信の周波数を合わせた。途端に僕の耳には許容できないほどの大きさで、向こうの砲声が響く。無線機が壊れかけているのか、声も割れ気味だ。僕はちゃんと聞き取る為に、音量を下げなければならなかった。

 

「……艦隊、四番艦瑞鶴! 旗艦以下三番艦まで轟沈、一刻も早い援軍を求む! 敵は戦艦ル級エリート二隻、雷巡チ級一隻、空母ヲ級一隻! 制空権を喪失、五番艦最上小破、六番艦熊野中破、助けて!」

 

 ああ、と声が出るのが分かった。自分が嫌になる。学生気分の六ヶ月で、まるで腑抜けちまったのか、僕は? 何処の所属か分からないが、この瑞鶴は三十分も持たないだろう。今すぐ行くか、見捨てるかだ。だが、僕らだって遊んでるんじゃない。敵はみすみす行かせてはくれやしない。追いすがってくるだろう敵を、誰かが止めていなくてはいけない。となると、動かせるのは二隻が限界だ。利根と北上……いや、北上は魚雷を撃ち尽くした。ダメだ。代わりに二番艦を行かせるか? けれど向こうの話では、あっちの敵はこっちよりも有力だ。そこに自分ではなく部下だけを行かせるなんて卑怯なことはしたくなかった。旗艦として正しい判断ではないことは分かっているが、艦娘として恥ずかしいと思うようなことはしたくなかった。

 



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「第五艦隊」-3

 僕と対峙していたリ級の艤装が、腕ごと吹き飛んだ。砲弾が飛んできた方を見ると、僕の二番艦がル級を沈め終わっていた。流石だ。響がリ級の脇を抜けるようにして軽空母の方へと駆けていく。僕は僕の艦隊員たちに通信を繋いだ。「利根、この場を頼む。北上と協同してリ級エリートに当たれ。響の方に行かせるな。響はそのまま軽空母を攻撃。中破に追い込め。隼鷹、響の直掩機を出せるか?」「沢山は無理だぜ」「それでいい。余裕が出たら艦攻艦爆で利根たちを支援してくれ。二番艦、僕と来い。救援に行くぞ」彼女らはそれぞれ了解の返事をして、行動に入った。救援対象のいる海域に向けて後進しつつ、せめてもの支援としてリ級たちに撃ち続ける。

 

 敵は片腕と無傷のリ級エリートが一人ずつ、響の接近を許した軽空母一隻。それぞれがバラバラに動いており、連携は取れていない。これなら僕と二番艦がいなくても対応できるだろう。敵に援軍でも来れば別だが、そうなれば利根は彼女の戦術的判断に従って新たな命令を下す筈だ。そのことを遮るものは一つとてない。何となれば、旗艦が彼もしくは彼女らの生存中に指揮権を委任した艦娘が下した決定の責任は、その委任者にあるからである。旗艦代行を選んだのは誰かということを考えれば、これは当然のことだと言えるだろう。旗艦代行が大きな失策を犯したとして、本来の旗艦が「自分の与り知らぬところで起こったことだ」などと主張するのは、子供の言い訳に過ぎない。利根はこういった事実をわきまえている。

 

 ここのことは彼女たちに任せるとして、考えるのは救援先のことだ。敵を殲滅して救助できれば、それが最高である。でもエリート戦艦二隻に空母だの雷巡だのが揃ってて、制空権がないとなると、殲滅勝利は夢のまた夢と言わざるを得ない。人類側勢力圏に逃げ込んで、敵が「これ以上追うと危険だ」と思って退いてくれるのを待つしかあるまい。つまるところ、撤退支援だ。あちらの現旗艦瑞鶴に航空戦力が残っていれば、その仕事もやりやすくなる。周波数を合わせ、連絡を取る。今度は最初から音量を下げておいた。お陰で瑞鶴が叫んでも、僕には普通に話しかけられたぐらいの声にしか聞こえなかった。

 

「こちら第二特殊戦技研究所所属、第五艦隊旗艦。救援要請を受信し、急行中だ。旗艦瑞鶴、そちらの状況は?」

「最悪よ」

「君に航空戦力は残っているか?」

「残ってるけど、発艦しようにも修理要員に飛行甲板と弓を直させなきゃいけなくって、私、とてもじゃないけどそんな余裕ないわ」

 

 瑞鶴と中破した熊野を敵射程外に下がらせ、妖精の修理要員に艤装を直させる。弓だけでも直せたなら、発艦だけはできる。それまでは小破の最上と僕ら二人で敵をさばき、修理が終わり次第航空戦力を投入。敵を撹乱(かくらん)し、その隙を突いて撤退。安直な絵だが、急ごしらえの作戦などこんなものだ。「二十分……いや、十五分でそちらに駆けつける」と僕が言うと、瑞鶴は「それまで何とかして保たせるわ、お願いだから急いでよね」と返事をした。案外にしっかりした態度だ。心の芯のところでまでは打ち負けていない。

 

 リ級エリートの姿が水平線の向こうに消え、連中への牽制砲撃が不可能になった地点で踵を返し、速度を全速に切り替える。僅かな数を残して、爆装した水偵を飛ばした。瑞鶴たちの正確な位置を確かめ、爆撃で支援する為だ。爆撃については何の足しにもならないかもしれないが、援軍が来ることを知った敵が、実際以上にこちらの戦力を大きく見積もってくれることを祈ってのことだった。期待してのこと、と言わなかったのは、そうならないことを半ば分かっていたからだ。水偵が多少飛んできた程度、僕が深海棲艦側だったら気にも留めまい。よしんば多数の増援が来ると予想しても、到着前に疲弊した瑞鶴たちを撃滅し、そそくさと逃げ出せばいいと考えるだろう。

 

 第五艦隊の砲声が小さくなり、聞こえなくなる。海の音だけが場に残る。それもやがては、瑞鶴たちの戦闘の音によってかき消されることになるだろう。僕は僕の前を行く二番艦の姿を見た。背中から左右に突き出た、船体を模したような形の艤装と、そこに載った計五門の砲。長靴(ちょうか)型の脚部艤装の上を見れば、日光を受けて白く輝く両太ももに、四連装酸素魚雷の発射管がある。いい装備、いい使い手だ。自分のプライドに遠慮せず言えば、どちらも旗艦の僕よりいい。主砲は僕の使っている二〇.三センチ砲のマイナーチェンジ版だし、僕が最近使っている魚雷は酸素魚雷じゃなくて通常のものだ。四連装ってところは共通しているが、威力や射距離、航跡の視認性は段違いである。そして最重要であるところの、それら装備を操る艦娘としての能力は……比べる気にもなれなかった。

 

 僕の自尊心はさておき、これから並んで地獄に突っ込むという時には心強い。僕は自分の性格をよく知っているが、その肝っ玉の小ささからはあり得ないぐらい、安心していた。しゃきっとした長門を相棒にしてあの島で戦った時でさえ、こんな安寧はなかった。まあ当然だろう。驚くことじゃない。

 

 時間を確かめる。もうすぐ、水平線に敵の姿が見える頃だ。先に接敵している水偵隊が送ってくる情報は正確であり、疑う理由はない。妖精たちによれば上空の戦闘機は少数であり、逃げに徹すれば撃墜を免れることも不可能ではないようだ。必要なら爆弾を捨て、身軽になってでも逃げ続けるように命じておく。どうせ当たらないか、当たっても大きな被害を与えられない程度の爆弾だ。無理に抱えたままでいて、そのせいで落とされるなんて馬鹿げている。今回の水偵の仕事は敵に圧力を掛けることであって、敵を始末することじゃない。

 

 艦娘や深海棲艦たちの姿に先立って、恐らくは瑞鶴たちの艤装からだろう、吐き出された黒煙が立ち上っているのが見えた。じっと目を凝らすと、敵航空隊と僕の水偵隊が宙を飛び交っているのも見て取れる。訓練や演習、実戦で鍛えられた水偵妖精たちは、本職でない空戦にも最善の努力を尽くしている。目を更に細め、敵を探す。緑の髪を振り乱し、手を振って仲間に指示をしている少女の姿、あれは瑞鶴だ。茶色い制服は熊野か。艤装から煙幕のように煙を出しながら、副砲を撃ち続けてル級エリートを牽制している。彼女を庇うように立ちまわっているのはえんじ色の制服を着た最上だ。頭を砲弾がかすったのか、彼女の短髪の一部がごっそりとなくなっており、あらわになった地肌からは血を流していた。

 

 瑞鶴と彼女の艦隊員に接近を通知する。新手の敵と勘違いされて砲撃されたくはない。乱戦状態では、ややもすると敵味方の区別が付かなくなる。同じ艦隊の所属艦娘が互いに撃ち合って轟沈したという事例もあるのだ。数としては多くないが、一例や二例しかないからと言って軽視するのは愚行である。「これより君らの救援に入る。旗艦資格はあるか? ないなら軍規に則り、僕が旗艦を務める」旗艦の資格を瑞鶴が持っているとは考えられなかった。四番艦が旗艦資格を取っているような艦隊など、聞いたことがない。六番艦から旗艦になった僕が言うことでもないが。

 

「何でもいいから、とっとと──ちょっと待って、二隻だけ? 他の艦娘は?」

「十五分ほどあっちの方さ」

 

 僕は自分が来た方向を親指で指差したが、瑞鶴には見える筈もなかったろう。「冗談じゃないわ!」と彼女は言った。もし間近にいたら、砲戦の最中(さなか)でも息を呑む音が聞こえたかもしれないと思えるほど、望みを裏切られた、という気持ちが言葉に現れていた。だが戦意喪失はせず、その怒りを敵にぶつけることにしたようだ。僕が旗艦ということでよいようだったので、指示を出す。

 

「瑞鶴、熊野と共に退避。弓を修理したらすぐに発艦してくれ。熊野は瑞鶴の護衛を担当、最上は残って僕らを手伝うんだ。以上、僕らが戦闘に加入したら命令を実行してくれ」

 

 それぞれに命令を復唱させてから、砲撃準備に入る。瑞鶴は気を利かせてか、退避する方向を僕らの針路と一致させた。自然、それを追う深海棲艦たちの背はこちらに晒されることになる。彼女の冷静な判断は、その実力を僕に証明していた。いいことだ。彼女の航空隊にも期待ができる。よい空母艦娘は、よい航空妖精を持っているものだからだ。再び空に上がって貰う為にも、失敗はできない。姿勢を安定させ、会心の一射を狙う。最初の一手が大事だ。有効打を与えられれば、大きなアドバンテージとなる。

 

 最上をチ級に当て、ル級二隻は僕たちが相手をする。ヲ級は瑞鶴に任せるとしよう。戦艦と殴り合いながら、対空戦闘を行う余裕はあるまい。ル級エリートは……端的に形容するなら、強敵だ。空母棲鬼もそうだったが、彼女の時は一対三だったから何とかなった。今度は一対一だ。僕一人の個人的な能力は特段優れている訳ではない。リ級なら相手にできる。そのエリートもだ。ノーマルのル級? ふうん、ちと苦労するだろうが、やってやれないことはないと思う。けれどそのエリートは、となると、言いたくないが荷が勝ちすぎる。僕は遠くに見える彼女たちの姿に、恨みを込めて視線を送った。それと砲弾もだ。

 

 二番艦とタイミングを合わせて撃ち始めると、さしものル級エリートたちも一時的な混乱に陥った。最上が僕らに合わせて果敢に攻撃を行った為に、前後どちらの攻撃に対処すればいいのか戸惑ってしまったのもあるだろう。最上の弾がチ級の腹を(えぐ)り、僕の砲弾の破片が一人のル級の左目を潰した。彼女は不運にも、振り返った時に破片を目に受けたのである。それで僕は快哉を叫びそうになったが、二番艦の砲弾が立て続けにもう一人のル級の盾に着弾し、爆発させて右腕ごと潰したのを見て、口を閉じた。彼女はそれぐらいやって当然みたいな顔をしていたから、僕がまぐれ当たりに喜ぶ姿を見せるのは恥ずかしかったのだ。旗艦は威厳を保たねばならない。最初っからそんなもの、持っていなかったとしても、まるでそれがあるかのように振る舞うのだ。それが伝統だ。

 

 手信号で狙う敵を指示する。僕は片腕のル級を担当することにした。優秀な二番艦には、より難易度の高い務めを果たして貰おう。自分が卑怯に思えたが、意地や羞恥で判断ミスをして勝てない、勝ちの目が見えない相手に挑むよりは、卑怯に徹して生き延びる方がよかった。

 

 この点について民間人たちはよく勘違いしているし、稀には艦娘にさえ分かっていない奴らもいるが、軍で何よりも重宝される艦娘は誇り高い愛国者などではない。誇り高くなくとも、祖国への愛に燃えていなくとも、しぶとく生き残って戦い続ける艦娘こそを、軍は愛するのだ。死んだ愛国者はただの死体でしかない。死体は深海棲艦を倒せない。倒すのは生きようとする意志を持った艦娘だ。そいつは己の仕事をわきまえている。自分に課された使命が、生きて戦い抜き、深海棲艦を始末し続けることであると正確に理解しており、愛する(うま)し国日本の為に死ぬことではないと知っている。そいつは、深海棲艦を一人でも多く殺すことについてを語る──そして深海棲艦と戦って死ぬことについてなど、冗談以外では口にはしない。それは真の艦娘がしないことの一つなのだ。

 

 最上は勢いづいて、チ級への攻撃を強める。僕は細身を左手の盾に隠したル級を撃ち続けた。接近して、盾の弱点とも言える砲塔部分に近距離からの射撃を叩き込んでやるしかないだろう。上手く行けばまた腕をもぐことができる。そうならなくとも、無手にまで追い込める。そうなれば後は距離を取って撃てばいいだけだ。頭に描いた未来予想図に、僕は内心ほくそ笑んだ。何だ、ル級エリートも大したことはないな。僕の相棒がお膳立てしてくれたのを(ほふ)っただけ、と言われればその通りだけれども、それでも僕より格上の深海棲艦を倒したとなれば、戦果として申し分ない。今月の給料には旗艦手当の他に殊勲(MVP)手当も付くかもしれない。

 

 盾に隠れている間は、ル級はまともに撃って来ない。正確に言うと、狙いを定めることができない。だから回避は容易だ。こちらは砲身に注意を払っておき、砲が自分を向きそうになったら少し移動して射線から外れてやるだけでいい。そりゃ、弾が近くを通ったら風圧は凄いが、風で死にはしない。姿勢を前傾させ、足を開いて腰を落とし、ル級エリートに晒す自分の面積を減らしながら突っ込んで行こうとすると、瑞鶴から無線が入った。

 

「敵の航空機に注意!」

 

 目を走らせ、ヲ級が次々と彼女の艦載機を放出しているのを確かめる。一つ罵声を飛ばしたが、無線に乗せるようなことはしなかった。ル級に突っ込むのをやめて、回避と射撃を続けながら考える。どうしてヲ級は戦力を温存していた? 答えは簡単に想像できた。ル級たちが瑞鶴を素早く中破に追い込んだから、か。僕は瑞鶴がヲ級の航空戦力を減らしたのだと思っていたが、発艦前に被害を受けたなら彼女の航空戦力が残っていることや、ヲ級が最低限の航空機を空に上げていただけだったのにも説明がつく。僕らが来るまでは、それで足りていたのだ。思い込みって奴だ。詳しく状況を説明せず、僕を誤解させる一因となった瑞鶴を責めるのはお門違いだろう。切羽詰まった時には、普段の能力の一割も発揮できなくなるものだ。そういう時には、落ち着いている側が配慮してやらなくてはいけない。それを僕は怠った。

 

 ただヲ級の方も失策をやっていた。僕の水偵が来た時に、上空の航空機を増やさなかったことだ。もしかしたら、そうすることで僕が前述の誤解をするように仕向けたかったのかもしれない。でもそのせいで、僕らの接近に気づけなかった。敵に誤った認識を持たせるという戦術的優位を手に入れようとして、本末転倒の結果を招いたのである。ヲ級の艦載機は僕への濃密な攻撃を行い始めた。恐らくは旗艦だとバレたのだ。投下される爆弾や魚雷を避けながらではル級と戦いづらいが、いつでも最高のシチュエーションで戦えるとは僕も思っていない。天気と同じで、たまには期待外れになるものだ。

 

 と、僕の獲物(片腕のル級)は反撃に転じた。爆撃で動きの鈍った僕に砲撃を開始したのだ。焦りながらも水平移動で避け、腕の砲を使って撃ち返す。彼女がそれを防ぎ、再装填の間に僕への対抗射撃を行おうとしたところを、肩の砲で撃つ。これはル級を少し怯ませたが、激しい回避運動の最中に発砲したこともあって精度に欠け、敵を大きく外れて水柱を作るだけに終わった。舌打ちをして、瑞鶴に通信を繋ぐ。無論、お話中だからといって敵は待ってくれない。不規則に動いて航空攻撃をやり過ごしながらの会話になる。自分がとても器用ではなくとも、不器用ではないことを僕は両親に感謝した。遺伝のお陰だろう。

 

「修理は?」

「甲板が終わったわ。今から弓に取り掛かるから」

「甲板? どうして弓を先に修理しなかったんだ」

 

 責める声色になったのはわざとじゃないが、そのことで後ろめたく思いもしなかった。弓を修理してしまえば、発艦だけはできる。着艦には甲板の修理を要するが、それは後でもいいことだ。今は空をどうにかして欲しかった。敵戦闘機が増えたせいで、僕の水上機が一機、また一機と落とされていっている。それを防げるのは瑞鶴の航空隊だけだったのだ。よもや彼女が僕の詰問に答えてくれようとは思ってもみなかったが、怒りを抑えた低い声で瑞鶴は僕に言った。「片道切符の発艦なんて、瑞鶴はしないんだから!」僕は無線の送信ボタンを押さずに、苛立ちを込めて「君の優しさが、僕の水偵を壊滅させるだろうよ」と呟いた。ル級の砲撃が海に落ちた音のせいで、それは僕自身の耳にも聞き取りづらかった。

 

 ル級エリートが距離を縮めて来ようとしていることに僕は気づいた。どういうつもりだろう? 戦艦の強みは分厚い装甲と強大な砲であり、一定の距離を開けて戦うのが正道であり、王道である。それをあえて守らないということには、それなりの意味があると推測してもいいだろう。射撃によって牽制しながら、詰められた分だけ彼我の距離を開けようとする。するとその時、最上の苦しそうな声が無線で聞こえた。「くっそぉ、被弾した! 直撃を……」言葉を聞かずに、彼女の方を見る。右の脇腹を押さえた彼女の足元を目掛けて進む、白い航跡が見えた。「最上! 魚雷に注意!」通信で叫ぶが、遅かった。

 

 僕も魚雷を放ち、ル級を遠ざけながら最上のところに向かう。行き掛けにチ級に砲弾の雨を降らせ、後退させる。最上は沈む直前だった。服を掴み、びり、と破れる感触を手に覚えながら水中から引き上げると、彼女の左足はすねの半ばから失われていた。彼女の右脇の下に頭を突っ込み、ぐったりとした最上を抱えて回避運動をしながら、希釈修復材をぶちまける。肉が盛り上がり、血は止まったが損失した脚部艤装は戻らない。僕は僕の口に入ってきた最上の血を吐き出しながら、脇の傷にも修復材を振り掛けた。彼女はずっと「ごめん、冗談じゃないよ、これじゃ戦えないじゃないか、ごめんなさい、ボクがもっとちゃんとやってたら」とうわ言のように謝り続けていた。熊野を呼び寄せ、彼女に任せる。

 

 厄介なことになった。僕の二番艦は指示を出すよりも先にチ級の面倒まで見始めていた。それでも戦えているのは凄いが、膠着状態だ。チ級を片付けようとすればル級エリートに遮られ、この戦艦を始末しようとするとチ級に邪魔されている。助けに行きたいが、その為には僕の担当している隻腕ル級エリートを倒さなければならない。懐に飛び込み、雷撃ないし接射、最悪の場合はナイフ……急ぐならそれしかないだろう。敵は距離を詰めようとしてくれている。それに乗れば、簡単に近づける。ル級は待ち構えているだろうが、その罠の上から食らいついてやるのだ。

 

 覚悟を決めろ、と心で囁く。興奮によって、意識が研ぎ澄まされていくのが分かる。今から、またしても旗艦としては失格なことをやるのだ。ナイフの重みを感じ、それを振るわずに済ませたいものだと念じる。そして回避運動をやめた。その場で立ち止まった。

 

 ル級は困惑しない。彼女もまた足を止め、盾を、その砲を僕に向けてくる。艦娘と人型深海棲艦の海戦において、滅多にない瞬間だ。二者が対峙し、動かずにいて、砲を向け合っている。それは西部劇の決闘のシーンを思い出させた。頭の隅に残しておいた冷静さで考える。ル級エリートは腕を一本やられており、そこから今も血を流し続けているだろう。時間を置けば彼女が不利になる。速攻を仕掛けたい筈だ。近づいて来ようとしたのもそれが原因だろう。波に揺られながら、まだ相手は撃ってこない。僕も撃たない。彼女の動きを見る。海上を航行していた時は気づかなかったものが見えてくる。彼女はふらふらしていた。血を大量に失って、意識が保てないのか。だから砲を向けても、撃ってこない。狙いをつけることができないから、おおまかな方向にしか撃てないと彼女自身も理解しているのだ。

 

 前進を始める。ジグザグに走り、僕の動きを察知した当てずっぽうの射撃を避ける。頭の上を一発が通りすぎて行き、皮膚一枚と一掴みの髪の毛を奪われた。血が飛び散り、目に入りそうになるのを拳で拭い去る。ル級が思い出したように動き始め、僕を迎え撃つ姿勢を整え、前へ出て来た。盾に身を隠し、体当たりをしようとしている。

 

 那智教官の教えを回想する。彼女は自分の豊富な経験がどれだけの価値を持っているか知っていて、それについて社会主義的な考えを持っていた。(知識)の再分配という訳だ。ル級が格闘戦においてどんな動きをするかも彼女は教えてくれていた。盾を構えたら、そのまま体当たりをするか、直前で盾を上げて(へり)で打つかだ。縁での打撃と体当たり、どちらが来るかを見抜くには足先や体の向きを見ればよい。どちらかの肩を突き出すようにして、腰を落としていれば体当たり。体や両足先が正面を向いていれば打撃だ。もちろん、あっちも馬鹿じゃない。体当たりから素早く打撃に移ることもあるし、それらの姿勢からの砲撃もあり得る。

 

 見極めは難しい。集中し、細部のかすかな動きも見落とさないようにしなければならない。だから僕はそうした。そのデメリットのことを考えもせずにそうした。で、当然の帰結として、不注意の報いを受けることになった。空にヲ級の航空隊がいて、連中は僕の注意が彼らから離れる時を待っているということを、僕は忘れるべきではなかったのだ。爆弾が僕の左肘を直撃した。視界が瞬間的に真っ白に染まり、(あご)を殴られたような衝撃が走る。脇を開いていたせいで、腕に当たったのだ。爆風その他が上に逃げたので、体は少し(かし)いだだけで済んだ。僕はル級からの砲撃を回避しながら、皮一枚で繋がった左腕の残骸を引きちぎり、希釈修復材を振り掛けた。頭ががんがん痛む。瑞鶴に修理の進捗状況を尋ねようとして、声が出ないことに気づいた。出たのは天龍が死ぬ前に出していたような、水っぽい音だけだ。思わず僕は自分の顔を触った。そしてそこにあるべきものがないことを認めた。

 

 下顎(したあご)が吹き飛ばされていた。気が遠のきそうになる。腕や指、足を飛ばされるのは想像していた。下顎はしていなかった。覚悟ができていなかった。体が反応してくれなければ、僕はそのまま口から血を流し続けていただろう。希釈修復材が傷に染みる一瞬の痛みの後に、肉が盛り上がる不愉快な感覚。歯までは戻らなかった。まあ、ドックできちんと治療すれば戻るだろう。しかし、これでは指示が出しにくいな。二番艦に指揮権を譲るべきだろうか。いや、彼女にこれ以上の重圧は掛けられない。無線が瑞鶴の声を放つ。

 

「弓の修復完了! 発艦始め!」

 

 空を見る。僕の水偵は二機が残るだけだったが、全滅は免れたようだ。瑞鶴の航空隊がヲ級の艦載機の一群へと飛んで行き、航空戦が開始される。もうちょっと早ければ僕の左肘と下顎も助かったんだが。具体的に言うと甲板を後に回してくれていれば。

 

 ル級に視線を戻す。牽制と幸運を期待してこちらに撃ち続けているが、接近戦で仕留めようという意志は変わっていないらしい。僕は右手でナイフを触った。握ったままでも砲が撃てるなら、鞘から先に出しておいて悪いことはない。だがナイフを抜くということは、攻撃手段を敵に教えるようなものでもある。どちらがいいか? 短く思考し、抜かないことにした。

 

 彼女の再装填の隙を突いて、一気に迫る。盾の隙間からちらりと見えるル級の目は、怯えていない。僕を殺してしまう気でいる。さあ、それができるかどうか、はっきりさせてやろうじゃないか。痛みと戦闘の興奮で、僕の頭は飽和状態になっていた。もう回避運動も取らず、一直線に進む。ル級の目が一際明るく輝いた気がした。後、五歩も進めば触れられるという時になって、彼女の体が正面を向く。

 

 訓練された肉体が反応し、腰をかがめて盾を避ける。頭上を鋼鉄の塊が──すれ違いざまに肩の砲を──胸に痛み──海面に背中から叩きつけられる。何が起こったのか分からなかった。僕は仰向けになって水の下にいた。胸が破裂したみたいに痛くて、腹に何か突き刺さっていた。事態を把握しようとした頭を殴られる。水の上からだ。息もできない。ル級に殴られたのだとは分かった。まだ水に沈んでいないのは、僕が腹に突き刺さったル級の足を掴んでいるからだ。顔を殴られる。目に当たり、ぶちゅり、と音を立てて潰れるのが分かった。盾を叩きつけているのか。

 

 ナイフに手を伸ばそうとする。水の流れに腕が押し戻される。息ができない。苦しい。喉元に手をやりたくなる。それでも全身に力を込めて、ナイフへと手をやる。やっと、指が届いた。つまみ、刃を抜き、ル級のすねに突き立てる。足首まで切り開いて一捻りすると、彼女がバランスを崩した。息がもう続かない。僕の腹を押さえている足をどけて、それを手がかりにしつつ自分の体を水の上に引き上げる。入れ替わりになるようにして、ル級が完全に平衡を失い、水の下へと沈んでいきそうになった。彼女は盾を捨て、僕の服を掴む。浮かんでいようとする努力を放棄し、僕を道連れに沈もうとしている。その手を払いのけ、彼女の首に右腕を絡め、背後に回って締め上げる。ル級はもがく。ばたばたと足を動かし、首を振って頭突きを試みようとし、左手を振り回して僕の(いまし)めから逃れようとする。

 

 だがそれも僕が踏ん張る為に機関を停止し、思い切り腕と足とに力を込めて、彼女の首の骨をへし折るまでだった。僕は立って、首が捻じ曲がってあらぬ方を向いたル級が沈んでいくのを見ながら、潰れた目とどう見ても陥没骨折している数カ所の傷を手当てしようとして、耳に隼鷹の声を聞いた気がした。彼女の姿を探して欠けた視界でぐるりと見回すと、水平線の向こうから僕の艦隊が駆けつけてくるのを見つけた。安堵の息を吐き、彼女たちにできるだけの指示を出そうとして無線に手をやったところで、突然後ろで爆発が起き、それで第五艦隊の初陣は僕の知る限り終わった。

 

*   *   *

 

 後で、放り込まれた個人用ドックで修復材に浸かりながら、何があったのかを把握する時間が取れたのは幸いだった。ドックに明石さんの好意で後から据え付けられた無線機を使って他の艦隊員たちと話しながら、僕は初陣に際して第五艦隊と僕に何が起こったのかを理解していった。瑞鶴たちとも話したかったが、それは叶わなかった。

 

 何だかそう言うと瑞鶴たちが助からなかったみたいに聞こえるが、彼女たちは無事だった。最上や熊野、瑞鶴は、初めは僕と二番艦のお陰で、その次には残りの第五艦隊所属艦娘たちのお陰で死を免れた。隼鷹の声を聞いたのは、気のせいではなかったのである。利根は彼女の指揮によって敵を撃退した後、大急ぎで僕らのところに向かった。そして彼女らの到着とほぼ同時に僕は二発目の爆弾を受けてみっともなく気絶し、無様にも北上に支えられての帰還と相成ったのだ。旗艦の面子は丸潰れだったが、もし後一分でも利根たちが遅かったらそもそも帰還できなかっただろうということを考えると、僕は面子などどうでもよく思えてしまう。

 

 ル級との接近戦で何をやられたのかは今もって明らかではないが、僕がこうだと考えていることがある。多分彼女は、僕を蹴ったのだ。膝か何かで蹴り飛ばしてから、足先で僕を水の下に押し込み、盾で殴りつけて殺そうとしたのだと思う。これは僕の二番艦が恐らくこれで正しいだろうと言ったことでもあったから、僕は疑わなかった。彼女の何を疑えるだろうか?

 

 彼女は瑞鶴の所属していた艦隊から感状と特別の報奨を貰った。僕には瑞鶴たちからのいたわりの言葉一つだったが、文句はなかった。ヲ級の艦載機の攻撃を回避しながら、チ級とル級エリートをまとめて相手をしていた彼女が、もう一人のル級エリートにボロボロにされた僕よりもないがしろにされていたら、僕はむしろそのことで大変に怒り狂っただろう。こちらのプライドを踏みにじる行為でもあるし、僕は僕の友人たちを筆頭とした、お気に入りの人々が不当に扱われることに耐えられないからだ。

 

 僕は彼女を二番艦につけてくれたことで、提督に深い感謝さえ覚えていた。彼女は、優秀な者を二番艦につけてやると言った。そして僕はと言えば、その二番艦の資料を一目見て突っ返した時から、提督が嘘を言わなかったことを理解していた。何しろ、艦娘になるずっと前から僕は彼女のことを知っていたからだ。それを知らないのは、僕の艦隊では響と隼鷹の二人だけだったろう。僕は二人に詳しい昔話をしたことはなかったし、僕の二番艦の方だってそんな暇はなかったように思える。でもとにかく、僕は軍に入った最初のその日から、彼女のことを知っていたのだ。

 

 彼女の名は、那智である。




魂が目覚め
すると君が再び現れた
まるで揺れ動く幻のように
まるで無垢な美の精霊のように

そして我が胸は歓喜の鼓動に震え
我が全てが再びよみがえった
信仰も、霊感も、生命も、涙も
そして愛もまた、よみがえったのだ

──アレクサンドル・プーシキン※71


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「第五艦隊」-4

 初陣を済ませ、第五艦隊の旗艦として本格的に働くようになってからは、時間が飛ぶように過ぎた。出撃し、報告書を書き、吹雪秘書艦に「司令官の手間を省きましょう」と突っ返され、書き直し、那智教官の意見を伺い、「旗艦学校で何を勉強していたんだ?」というお叱りの言葉をいただき、もう一回書き直し、どうにかそれで吹雪秘書艦のチェックを通して貰い、ついでに提督に頼んで僕の水偵を水観に更新したり、隼鷹の艦載機を用意する為に補給科の分からず屋を脅したりなだめすかしたり、利根の砲を改修する為に数々の書類を書き、北上の単装砲を連装砲に改めさせたりしていると、数ヶ月が数分のように感じられた。

 

 特に北上の説得には時間を使った。彼女は並々ならぬ情熱を単装砲に持っていたんだ──でも連装砲の方が戦闘では有用だ。連装砲への装備交換は彼女の命を守ることになるだけでなく、僕の命や、利根の命、那智教官の命を守ることにもなるのだと言い、呉の大井に電話させてようやく口説き落とせたほどだ。大井は初めこそ「でもそれが北上さんの望みなら」と説得に乗り気ではなかったが、「本当に愛しているなら、時には彼女にとって耳の痛いことも言ってやるべきだ」と意見するとあっさり手伝ってくれた。旗艦になって、指揮でなく口先や、その他の戦闘とは関係ないことだけが達者になっていっている気がする。

 

 そのことは補給科の士官と話した時にも実感できた。最初、僕は正規の手続きを踏んで彼に装備の必要性を説いた。隼鷹は軽空母であり、その性質上搭載可能な艦載機の数が正規空母に比べて少ないということ、だからこそ高性能機を搭載し、質で数の不足を補わなければならないこと、配備数が少ないだけ、補給線の負担にならないこと……思いついた理由や利点を片っ端から書類の形に整えて送付し、補給科士官がそれをもっともであるとして認めてくれるのを待った。結果は「却下」だ。

 

 もちろん僕には、青葉がかつて広報部隊に移った時のように書類を書きまくって士官殿をうんざりさせ、彼の判断を捻じ曲げさせるという、穏便な選択肢があった。しかし、僕もそこそこ長く戦争の中にいる。穏便さ? クソ食らえ、そいつは時間が掛かるのだ。戦争だぞ。明日、明後日、明々後日、もしかしたら今日の午後にでも、隼鷹の艦載機の性能不足が僕ら第五艦隊を全滅させる原因になるかもしれない。士官殿の言う通りに我慢して、一ヶ月も二ヶ月も待つつもりはなかった。

 

 そこで僕は士官殿がオフの時に飲みに誘った。これは接待(贈賄)という奴だな、と彼が思ったのは間違いない。いい服を着ていたし、バーに行く前に寄ったレストランでは、会計を僕にさせたからだ。自分の半分ぐらいしか生きてないような子供に食事の代金を払わせるというのは、どんな気分なんだろう? 僕だったら十歳にもならない少年と食事に行って、食後に彼が財布を取り出したら、すかさずその手を押し留めるだろう。だがまあ、とにかくその士官殿は僕と違う考えを持っていた。

 

 バーの隅っこ、ソファー席に腰を下ろして、僕は彼と話すことにした。上座へどうぞ、なんて言って彼を奥にやり、逃げ場を塞いでやった。それから話を始めた。ところで、贈賄をする上で気をつけておかなければいけないことが一つある。受け取った側が、貰うだけ貰っておいて約束を果たさない、などということがないようにしておかなければいけないのだ。広報部隊にいた時、出張所の衛兵がこれをよくやっていた。僕を目当てにやってきた()()()のカメラマンや記者たちが金を握らせてくると、彼らはそれを受け取った上で連中を門の外へと叩き出したものだ。

 

 哀れなジャーナリストたちのそういう姿を見ていたので、僕は席に座った時、そろそろ彼が僕の要求に応じる理由を作ってやるべきだと思った。そこで言った。僕の艦隊がどんな仕事をしているかということをだ。捜索救難(SAR)任務と、緊急時の援軍。後者については、即応部隊(QRF)※72とでも言うべきだろうか。あるいは戦闘捜索救難(CSAR)※73任務として一括りにしてしまってもいいだろう。「あんたが考えを変えないなら」と僕は士官殿に言った。「今度から任務の度に、本当なら助けられた筈の救援対象の艦娘が一人か二人轟沈するだろうね。それで、残った連中は誰かから聞くのさ。彼女らの仲間が死んだのは、あんたが高性能な艦載機を寄越してくれなかったせいだ、ってな」これは抜群に効いた。僕が彼の名前や幾つかの個人情報を、これまでに聞き出していたのも大きな武器になった。健全な家庭の持ち主なら誰でも、家族に危害を加えられるのは嫌がるものだ。

 

 自分が汚れてしまったようにも感じていたが、こんなのはみんなやってることだ、そう提督も言っていた。ただ彼女のような人間の言うことを何処まで受け入れたものか、僕はまだ迷っている。長門は不愉快な女性だったが、仕事をしている時は全幅の信頼を寄せるに値した。第二艦隊の多くの艦娘たちだって似たようなものだ。だが提督は? 僕は普段彼女がどんな仕事をしているのかも知らないのだ。お飾りめいたものとはいえ、旗艦という立場にもなったというのに。

 

 僕が知っているのは、彼女は薬物依存症患者で、性格が捻くれていて、生きるのを楽しんでいて、だから艦娘や職務上の必要から彼女と接触しなければならない職員たち相手に好きなだけ皮肉や嫌味を言える提督という職業を、心から愛しているということ程度だ。後は、彼女が片目片腕片足だってことも知っている。そんなのは提督という女性を論ずるに当たっては、本質に関わりもなければ本当に何ということもない、ちょっとした付け足しみたいに扱われるべきものだが。実際、彼女にとって手足など飾り程度の価値しかないらしい。はっきりそうと言った訳じゃないが、態度がそう示していた。それから長門に「ダイエットの必要がなくていい」と言っているのを耳にしたこともある。

 

 そう、長門と言えば、彼女と那智教官の再会はある意味で映画的な一シーンだった。食堂で第五艦隊が軽食を取っていた時のことだ。丁度、長門の第二艦隊もそのタイミングで食べに来た。彼女が那智教官を避けていたのか、単に運が悪かったのか、まだ二人は顔を合わせていなかった。そして席を探して食堂をざっと見回し、彼女を穴が開くほど見つめている一人の大ベテラン艦娘に気づいた。その時の長門の顔は、端的に言ってよい見世物だったと思う。まず「別の『那智』でも来たのか」という少し嫌そうな表情になり、それから教官が右腕の代わりにつけている義手に視線が行って目を見開き、更に顔の火傷痕を視認して……あんぐりと口を開けた。僕はそれを面白がっていたが、やがて長門の目が潤み始めるのを見てむしろバツが悪い気分になった。

 

 教官に「行ってあげたらいかがですか?」と声を掛けようかと思ったが、それよりも先に教官は僕を一瞥した。言葉は無粋が過ぎると感じて、僕は頷いた。彼女はトレーを持って席を立ち、長門のところへ行った。会話が漏れ聞こえてくるのを期待して、僕は耳を澄ました。果たして、望み通りになった。だが二人が言ったのはこれだけだった。「行くぞ、泣き虫」「そうだな、片腕」がっかりして、僕は目と肩を落として溜息を吐いた。そして首をもたげると、同じようにしている響と目が合った。僕らは互いを理解しあって、ニヤリと不敵な笑みを交わした。それを見て、那智教官は知っているが長門を深く知らない利根と北上、その逆に長門はそれなりに知っているが那智教官を余り知らない隼鷹はぽかんとしていた。

 

 二人はその晩、飲みに行ったようだ。ようだ、というのは、長門の姿を昼以降見ることがなかったからである。教官の方は食堂で見た。夜遅くにふと喉が渇き、食堂で水など飲もうかと思って出向いたところ、教官が一人でいるのを見つけたのだ。水の入ったコップをテーブルの上に置き、何をするでもなく入り口に背を向けて腰を下ろしていた。僕は声を掛けたかった。だがその背中が、触れることのできない個人的な感情を示しているのを見て、諦めた。あれは、当事者以外には誰にも手出しできない領域だ。どれだけ深く彼女のことを敬愛していたとしても、僕などが好奇心や好意などで首を突っ込むべきものではなかった。だから仕方なく、その夜は喉の渇きに苦しみながら寝なければならなかった。

 

 その夜からもうかなり経つが、彼女たちの間でどんな話し合いがあったのか、僕は聞こうとも思わないままでいる。何しろ、僕は旗艦として忙しく働いているのだし、世の中の全てが僕に知られるのを待っている訳じゃない。中には、僕という人物にだけは存在すら知られないでいたいと願っている何かもあるのだ。長門と那智教官は暫しの冷却期間を終えて、再び元の鞘に収まった。めでたし、めでたし。彼女たちの関係について僕が旗艦として知っておくべきことは、それだけだと思う。

 

 関係繋がりで述べると長門と僕の関係は相当複雑になっていたが、その解決方法はシンプルだった。僕と彼女は、かつて僕が広報部隊にいた時に由良がどうやって彼女の抱えている嫌悪感を解決したのかを参考にしたのである。僕らは互いを無視し合い、できるだけ彼我の物質的距離を遠ざけるように心がけた。僕がこのところもっぱら自室で旗艦の仕事に忙殺されているのもあって、この平和的手段は絶大な効果を上げた。これによって長門はムカつくクソ野郎を見なくて済み、僕は旗艦権限を最大限に濫用した結果生まれた“旗艦付秘書艦”制度により僕の書類仕事などを手伝ってくれる特定の第五艦隊員一名と共に、うんざりするほど大量の報告書や陳情書を仕上げることができたのだった。

 

 旗艦付秘書艦制度というのをざっくばらんに言うと、志願した第五艦隊所属艦娘を書類仕事に付き合わせるだけなのだが、これが中々に好評だった。もちろんそれは艦娘の中の黒一点たる僕と話したりじゃれあったりできるから、ではなく、僕が個人的に設定した特別手当、つまり報奨金があったからである。那智教官は書類仕事について「教官時代でもう飽きた」と言って手伝ってくれなかったが、残りの四人は七日ごとの交代制で秘書艦を務めてくれた。一人に付き二万円払ったので僕の懐具合はミネソタの冬※74並みになったが、任されたことを完遂できないという屈辱を免れることはできた。

 

 思い出すのは、響が初めて担当した時のことだ。直前まで秘書艦をやっていた隼鷹が二日に一度はへべれけ状態で手伝いにやって来るという割とマジで勘弁して欲しい具合だったというのもあり、同じ酒飲みでも真面目にやってくれる響は本人の美しさも相まってまさしく天使のようだった。一週間は飛び去って行き、僕は彼女に二万円を渡した。すると彼女は言った。「ねえ、友達から貰ったお金に、その友達と一緒に飲みに行く以外の使い方があるって言うのかい?」遠回しなお誘いに気づくことができて、実に幸いだった。

 

 僕と彼女はバーに行き、カウンターに並んで腰掛けた。二人して初めての店だったので、気取りたい年頃の僕は精一杯格好をつけて注文をした。「ラスティ・ネイル。リンスタイプで、ウィスキーはアイラモルトを。ドランブイとウィスキーの比率は一対三。氷はクラッシュアイスで」※75 バーテンダーの頬がちょっとひくついたが、彼はプロフェッショナルだった。頭で何を思っていたにしろ、微笑みを浮かべて「かしこまりました」と言い、わざわざ向き直って響の注文を聞いた。ぶすりとした表情で彼女は短く答えた。「ウォッカ」※76それで決まりだった。なにせ、このバーテンダーは人生経験を積んだ大人である。そんな彼ほどの人物が響の注文に対して「好みの銘柄は?」とか「氷はいかがですか?」とか「チェイサーに何か飲まれますか?」などという大変に愚かな発言をしないのは全く当然であった。

 

 出て来たものを何杯か飲む内に、やがて僕らは酔い始めた。カウンターでぺちゃくちゃやるのは趣味じゃないので、二人用のテーブル席に移った。そして声のボリュームに気をつけながら、友人同士の楽しい会話を交わした。響は言った。

 

「酒はね、普段君が感じているあらゆる抑圧から君を解放してくれるんだ。それで、それでだよ、君はその素晴らしい恩恵を、ただ口と喉を使って受け入れるだけで得られるのさ。そして上首尾にことが進めば、気を失うまで飲み続けられる……一人か、二人以上でね。さっきのは何だい、リンスタイプ? 比率? 君の飲み方は純粋じゃないね、口じゃなくて頭で飲んでるみたいだ」

 

 僕は彼女が注文した時に憮然としていたのが、自分のせいだったことを理解した。しかし僕は僕、彼女は彼女だ。響の考えは独特で素敵だが、そういった思想を同意なくして僕に飲み込ませることはできないし、無理に口へと突っ込んで来ようものなら僕はすっかり戻してしまうだろう。そこで僕は響がウォッカを口に含み、僕の飲酒に対するスタンスを責める言葉が止まるのを待って、話題を変えることにした。そしてその時は来たが、予想より早かった為に話題が思いつかなかった。しょうがなく、僕は気まずい思いをする覚悟をして言った。

 

「ところで響、君の臀部が見たいんだけど、いつなら空いてる?」

「私は君の親の顔が見たいよ。でも一応聞いてあげよう。どうして?」

「願ってもないけど、親に紹介するのはまだ早いんじゃないかな……いや、この間、長門の背中に焼印があるのを見たんだ。尋ねたら僕と隼鷹以外はみんな持ってるって言うじゃないか。で、君がお尻の割れ目の上に押したとその時に聞いたのさ」

「そういうことか」

 

 響は納得して頷いたが、その頷きが承諾の首肯ではないことを言い添えることを忘れなかった。友達同士でも秘密を持つことはある。まだ尻の割れ目付近を見るには、十分に親しくないのだろう。僕はそれを知ったからと言って傷つくような勘違い男ではなかった。親密度が足りないなら、上げればいいだけだ。互いに生きていれば、その為の時間を用意することもできる筈だ、と考えたのだった。手始めに僕は響との次の予定を何か入れてみようと決めた。それに打って付けの口実もあった。研究所の近くの外国製ワイン専門店で試飲会をやるのだ。海上輸送路が危険を伴い、一方空輸では少量しか運べないという事情もあって参加費が高いというのは欠点だが、出せない額ではない。

 

 飲んでる最中に言うのも何だけど、と切り出して、僕は彼女を誘った。響は可愛らしく小首をかしげると、隼鷹は誘わないのかと訊ねた。誘いたいところだが、このところの彼女は前にもまして飲酒量甚だしく、彼女を親友だと思っている僕さえ眉をひそめる域に達していた。試飲会の会場を居酒屋に変えたいのでもなければ、連れて行く理由はなかった。とはいえ、心配していなかった訳ではない。何かストレスや不満、酒を飲まずにはいられない理由があるのかもしれないが、いつも酔っ払っている癖に隼鷹はその辺りのプライベートを隠すのが上手いのである。どだい、男性の僕は女性にそういった細工で敵うはずもないのだ。

 

 僕の誘いは、落ち着いた「やめておくよ」という言葉で断られた。僕はショックを受けるよりも、意外さを感じた。断られるとは思っていなかった。響は遠慮の言葉に続けて言った。

 

「今日、飲みに誘った私が言うべきことではないかもしれないけれど、君は旗艦なんだ。だから、艦隊員と過剰に仲良くするべきではないんじゃないかな」

「指揮に影響を及ぼすと?」

「もし及ぼさないでいられるようなら、私は喜んでそんな冷血漢との縁を切るよ」

「考えたが、君が正しいように思えるな。でもだよ、それで行くとすると、君との友情を何か一緒にやることで確かめ直したくなったら……僕はどうすればいいんだ?」

「仕事でもしなよ。私と一緒でもいいし、別の人と一緒でもいいし、一人でやってもいい。とにかく私のことを忘れるぐらい、一心にやることだ。いや、いっそ仕事でなくてもいいな。君が自分の務めだと思うことを果たすんだ。その時私は私の務めを果たしているだろう。君の横か、何処か違う場所で、君のことを忘れるぐらい一心に。そしてその時こそ、私たちが互いを忘れて使命に打ち込んでいるその時こそ、実はめいめいがぴったりと身を寄せあっているんだよ。同じ方向を見てはいなくてもね。そうは思わないかい?」

 

 生憎だが、その時の僕にはそうは思えなかった。だから、肩をすくめてその言葉を聞き流した。店を出た後の僕にも分からなかったし、研究所の艦娘寮で響と別れた時の僕にも解せなかった。もっと言えば、今の僕だって変わりない。彼女の考え方は、僕にはどうにもスピリチュアルすぎるのだ。あるいは、この僕が主に仕えるタイプの人間だったら理解できたのかもしれない。あくまで何ら根拠のない憶測に過ぎないが、信仰というのは人の思想に大きく関わるものだ。その点を(こと)にする僕と響が、分かり合える筈もなかった。しかし、分からないところがあるからこそ本物の人付き合いというのは楽しいのだ。知っている通り、予想した通りの反応しかしない相手と付き合って何が楽しい? 未知こそ喜びだ。

 

 旗艦任務は大変だったが、それは僕が喜びだと認めるところの「未知」をたっぷり持っていた。苦労もしたが、それが報われると嬉しかった。命を救っているという実感もあった。瑞鶴たちの艦隊を助けた時に始まり、第五艦隊は数々の出撃で多くの危機に陥った艦娘たちを助けた。中には駆けつける前に救援対象が全滅してしまったこともあったし、怒りを禁じ得ないことだが、まだ戦闘可能な救援対象の艦娘が、彼女たちの提督の命令によって敵を僕らに全部押し付けて撤退していったこともあった。自分の艦娘さえ助かればそれでいい、と考える提督もいるのだ。

 

 そんな奴はすぐさま提督としての資格を剥奪してしまうべきだと僕は思う。ああ、そいつは勉強や運動はできるのだろう。提督になるほどだから、発想力やその他の能力もあるのだ、きっと。だが彼もしくは彼女には、戦闘に対する心構えが備わっていない。それは軍服を着ただけの民間人と、本物の提督を分けるものだ。後は、戦場ではなく執務室や作戦室から指揮を執っており、普段接する艦娘たち以外は全部データや情報としてしか見えない存在である、というのも前述の行為に至った理由の一つだろう。だからもし第五艦隊の艦娘全員の顔を見ながら「救助に来た部隊を囮にして離脱しろ」と自分の艦娘に言えるなら、この推定を取り下げてやってもいい。その場合は、極まったクズ野郎だという評価に改めてやるつもりだ。

 

 どうせなら海軍は、艦娘経験者からも提督を募るべきではないだろうか。戦線に戻れないほど負傷した艦娘などで、能力がある場合だけでもいい。そうすれば、戦闘の現実を知っている上司が増えることになる。それは、少なくとも現場にいる艦娘たちからすればよいことだった。認めたくないが、僕は運がよかったのだ。僕の提督は彼女の敵のことをきちんと了解しており、深海棲艦との戦闘に出るということがどれだけ大変かということを正確に認識していた。

 

 青葉の情報によれば、彼女は過去に海上警備担当の通常艦艇に乗り組んでいたらしい。そして不運にも彼女の乗っていた艦は、たった一匹の駆逐艦の接近に気がつかなかった。艦は命からがら逃げることだけはできたが、敵駆逐の砲撃が提督のいた付近に着弾。それで手足や目を失ったとか。そこから彼女お得意の不正な手段を駆使して提督になったのだとしたら、敵の脅威を理解しているのも頷ける話だった。

 

 まあ、信頼と安心の青葉情報でもちゃんと取材したものではないから、何処まで本当かは分からない。彼女にはまだ青葉でなく候補生だった頃に、那智教官の過去に関して誤った情報を僕や他の候補生に掴ませた前科もある。もちろん、この愛らしい快活な少女の優れた情報収集能力を疑うって訳じゃない。限界は誰にでもあるというだけの話だ。特に、入念に隠されているだろうものを探り出そうとする時にはそうだろう。僕はそれを残念に感じた。一人の人間として、提督の過去には興味があったからだ。どうやったらあんな性格の人間が出来上がるというのか、人類全体にとって反面教師として有益な情報になると確信していたのである。でも人類はその叡智を得ることはないだろう。青葉は僕のいる場所に来る理由がないし、呼ぶつもりもない。だから彼女と提督が接触することはない。

 

 と思っていたら来たのが今日起こった最もエキサイティングな出来事だった。提督自らが呼び寄せたのだ。どうして彼女のことを知っていたのか、僕は一瞬戸惑ったがすぐに察した。長門とあの島で二人きりになっていた僕を死んだものと決めつけて、青葉新聞コレクションを遺品整理の名目で勝手に僕の部屋から持ちだして読んだ時だ。多分、その頃から第五艦隊がそれなりに活動したら、青葉を呼んで取材させるつもりだったに違いない。軍、というか海軍の艦娘たちの間で、青葉の新聞は今や絶大な影響力を有するに至っている。彼女はそんなことをしないが、もし青葉が新聞に「最新のトレンドアイテムはバケツ! コミカルに被って他の子たちと一線を画しちゃおう」とか「敵は駆逐から狙うのがデキる戦艦スタイル」とか書いたら、世の提督たちは頭を抱えることになるだろう。男性も女性も、流行やトレンドというものには弱い。

 

 青葉と久々に言葉を交わし合ったのは、出撃のない日のお昼前、不本意にも呼び出された執務室でだった。またぞろ書類に不備でもあったか、そうでなくとも僕の心を傷つけ、へし折る格好の理由でも提督が見つけ出してしまったのだろうと考えて、うんざりしながらぎゅっと目をつむって扉を開けた僕は、明るい声で「どもー、お久しぶりですー!」と言われて面食らい、すぐさま目を開けた。薄紫の髪の毛を頭の後ろで軽くまとめた、セーラー服の少女が満面の笑みを浮かべてそこにいた。僕はちょっとの精神的空白の後に「青葉!」と言って彼女の手を握ろうとして、ここが執務室であることを寸前で思い出した。友人と久闊を叙するに際して、提督に見られたいとは思わない。

 

 ひとまず青葉へは挨拶だけで済ませておいて、執務机に頬杖を突いてニヤニヤしている提督の前に立ち、敬礼をして「命令に応じて出頭いたしました」と報告を行う。彼女は形式的に必要である返礼をおざなりに行うと、「楽にしろ」と言ってから話を始めた。

 

「第五艦隊の運用開始から半年が経ち、上は中間報告を欲しがっている。捜索救難専門の艦隊を作る意義があるのかどうか、それである程度見極めるつもりだろう」

「そうすると、また報告書を書かなくてはいけませんか」

「その程度で呼びつけるほど私は暇じゃない。スピーチは得意か? 得意になっておいた方がいいぞ……近々、お偉方の前で発表して貰うからな。秘書艦」

 

 視界の外から現れた吹雪秘書艦が僕の横に来て、手に持ったファイルをこちらに渡した。ずしりと来る重みに、僕は顔を歪めそうになった。「それが原稿だ。ああ、感謝していいぞ、発表は一ヶ月後まで引き伸ばしてやった。読めない漢字は事前に調べて、ルビを振っておけ」むっと来て、僕は言い返した。「中学校は卒業してます」「どうしてせめて高校まで卒業しておかなかったのか、理解に苦しむね。もし負傷で退役したら、軍人恩給で一生食い繋ぐ気か? いい人生設計だな、私も真似したいよ」言葉に詰まるが、ここでもう一言返せなかったら僕は僕と共に志願した利根をも侮辱させたままにしてしまう。それを許すには僕は、余りにも深い彼女との友情を持っていた。

 

「提督には学はともかく良心がないんですね」

 

 言葉が過ぎた。吹雪秘書艦の提督に対する忠誠心は、僕のこの暴言をそのままにしておくには強すぎた。それは丁度、僕が利根との友情によって破滅に到る最後の一言を口にしてしまったのに似ていた。彼女の右手が僕の喉に添えられるのが分かったが、僕はどうしてかそれを止めることができなかった。素早すぎたのか? いや、そうではない。それは容易に視認することができた動きだった。だが現実として僕が動くより先に、吹雪秘書艦は僕を跪かせ、こちらの喉を締めあげていたのである。タップしても許してくれないところを見ると、本気らしい。

 

 結局、提督が話の続きをしたいから解放してやるように秘書艦へと声を掛けるまで、僕は苦しい思いをした。ちらりと後ろの青葉を見ると、複雑そうな表情をしていた。止めに入ったものかどうか迷っていたようだ。彼女は正しい選択をしたと思う。あそこで止めに入ったら、吹雪秘書艦は更に左手を使っただけだったろう。青葉の目は僕に「大丈夫なんですかここの司令官は」と尋ねていたが、それについては答えを永遠に保留するつもりである。提督は先の僕の発言を気にしていない様子で言った。

 

「今回の発表が上手く行けば、私は昇進できるだろう。退役後の年金支給額も上がるし、給料も上がる。権力も今にもまして振るい放題だ。従って、失敗は許されん。そこで、現場の艦娘たちからの支援を取り付ける為に、広報部隊から素晴らしく有能な記者を派遣して貰った。彼女は第五艦隊の活動に暫く随行し、取材を行う。可能な限り、協力するように。何か言いたいことは?」

「そんなに上手く行くでしょうか? ええと、艦娘たちからの支援のことについて、ですが」

「掴む藁は一本でも多い方がいいからな。間違いなく、大きな賛同を得られるだろう。そうすれば、上も多少のことには目をつぶらざるを得なくなる。仮にお前が演壇で失敗しても──まあまず失敗するだろうが──ある程度はカバーできる筈だ」

 

 この嫌味には耐えられた。対象があくまで僕個人であって、僕の友人たちを巻き込むものではなかったからだ。僕は「拝命致しました」と言って敬礼し、その場を辞そうとした。それを呼び止めて提督が言った。「記者を部屋まで案内してやれ。隼鷹の部屋の向かいだ」断る理由と権限はない。その命令も受諾して、青葉を連れて執務室を出る。扉を閉めると、彼女はぷはあ、と大げさに息を吐いて僕を見た。

 

「何なんですか、あの司令官?」

「僕も同じ気持ちだが、その話は部屋でしよう」

 

 吹雪秘書艦の耳に入ったら大変だからな、と青葉に言って笑い、僕は彼女を部屋まで案内した。青葉が荷物を持っていなかったのが気になったが、そんなことよりもここまで来るには時間が掛かったろう。暫し自室となる場所でゆっくり休むべきだ。青葉はなまじ普段から元気なものだから、疲れている時までさも疲れていないかのように見えてしまう。彼女の溌剌とした笑顔が疲労などのせいで失われたり、陰ってしまうのは、僕だけでなく彼女を知る全ての人々にとっての悲劇的な損失だった。

 

 歩きながら、この度のことについて話し合う。

 

「断れる仕事じゃなかったんだろうけど、大丈夫かい? 僕らに随行するってのは大変だろう、戦闘もあるし」

「ふふふ、これでも青葉、戦闘経験は結構あるんですよ!」

 

 何処でそんな経験を? と思ったが、考えてみれば明白だった。彼女が広報部隊に入ったのは、僕と入れ違いだ。それまでは通常の艦隊に編入されていた。ということは、深海棲艦との戦闘を知らない訳がなかったのだ。何というか、僕は彼女がずっと記者だったというような勘違いをしていたことで、申し訳なさを感じた。

 

 その勘違いは僕に、自分は戦闘を経験しているという罪深い優越感を与えていたと分かったからだった。失われてやっとそれに気づいたが、気づかずにそのまま消えていって欲しかった。優越感というのは、十六歳、いや、ほんのちょっと前に十七歳になったばかりの少年としてはありがちな感情だったが、僕は自分がもっと大人だと思っていたかったのだ。その望みはたった今、自壊してしまったが。やれやれ、と胸中で自分の幼さを嘆き、罵った。それから自分の気を逸らす為に、さっき気になったことを訊ねた。

 

「荷物はどうしたんだ? 部屋の場所が分からないってことは、下ろして来たって訳でもないんだろ」

「いやあ、皆様のお陰で最近なんとこの青葉、人の上に立つ身分になりまして。まあ、人を使うのは苦手なので、扱いは部下よりも相棒って感じですけど……その子に先に持って行って貰ったんですよ。彼女は第二艦隊の長門さんが案内してくれました」

 

 それを聞いて僕は自分の幸運と青葉の判断に感謝した。吹雪秘書艦に締め上げられたあの時にもし長門からの追撃も入っていたなら、僕の首は胴体とおさらばして、今頃執務室の床の上にでも転がっていたことは想像に難くないからである。そうでなくとも単純にきまりが悪い。それに青葉は敏感だから、僕と長門の間に何かがあると感づいてしまうだろう。

 

 彼女みたいないい友達に、余計な心配を掛けたくはなかった。僕は僕の友達みんながそうであれと思っているのだが、彼ら彼女らにいつでも幸福でいて欲しいのだ。一風変わった友人のことで気を煩わせることなく、彼のことを思い出す時には常に喜ばしい思い出だけを心に浮かべて欲しいのだ。であるからには、不穏さなどその気配や臭いだけでも彼ら彼女らに感じさせることは許されなかった。

 

 それにしても、青葉に相棒か! これで彼女の激務も幾らかの緩和がなされるであろうことを考えて、僕は心底ほっとした。彼女の新聞が楽しめなくなることも辛いが、彼女の健康が損なわれることが一番辛い。那珂ちゃん関連の仕事もあるだろう。聞いてみると今でも誰かに引き継ぐことなく那珂ちゃん関係の仕事をやっているとのことで、僕にはどうやって青葉が彼女のやりたいこと全てを一つも手中からこぼすことなく健やかなる日々を送っているのか、想像もつかなかった。同じ環境に僕が置かれたら、三日と経たずにダウンしてしまうだろうに。

 

 那珂ちゃんの様子を訊ねると、青葉は嬉しそうに話してくれた。僕が同期だということも、その滑舌によい方向の作用を与えた。最近のライブのこと、二人が交わしたアイドルとしての方向性についての議論、那珂ちゃんの懸命さ……築き上げた立場に慢心することなく、新人のように貪欲な態度。真剣で、常に自分の限界を模索し、それを超えようとしている姿勢。青葉は彼女のことになると、新聞について話すよりも遥かに歯止めが利かなくなるようだった。だがそれはこっちだって同じだ。僕は那珂ちゃんの最古参ファンである。彼女がただの「那珂」でなくなることを選んだ日からの付き合いなのだ。彼女の話題となっては、冷静さを失うことを己に許さざるを得なかった。

 

 同期の英雄、那珂ちゃんのことで会話に花を咲かせながら歩き、隼鷹の向かいの部屋、青葉と彼女の相棒が使うという一室まで連れて行く。青葉の相方が待っていれば、部屋の鍵は開いているだろう。そして普通に考えて、彼女を置き去りにして何処かに行く理由はなかった。ドアノブを握り、捻る。よかった、鍵は開いている。ドアを開けて、青葉を行かせた。彼女は戸口で振り返った。もう少し話していたかったな、と思いながら「それじゃあ、何かあったら僕はそこの部屋にいるから呼んでくれ。もし僕がいなかったら、向かいの隼鷹もいい奴だ。僕の同期だと言えば、必ず力になってくれるよ。そうでなきゃ、新聞記者だって教えてあげれば一発さ」と告げる。

 

 すると青葉は困惑顔で言った。「あれ、上がっていかないんですか?」ふうん、そりゃ僕だって君がそう言ってくれるなら上がってまだまだ話もしたいんだが、疲れているだろう? 話ならこれから暫くいつでもできるじゃないか。僕の気持ちは差し置いて、今は休むべき時だよ、青葉。「それじゃ、上がらせて貰うか」「ええ、是非どうぞ! まずは青葉の相方を紹介しますね!」僕は内心の考えをぐいぐいと奥底へ押し込んで、青葉たちの部屋に入った。

 

 部屋にはやはり先客がいた。しかし予想外の先客だった。いや、予想外の数だった、と言うべきだろう。僕は青葉の発言から、彼女の相棒一人がいるものだと考えていた。それは大筋で間違っていなかったが、違うところもあった。一人ではなかったのだ。そこには青葉の相棒を案内した長門の姿もあり、二人は腰を下ろして話し合っていた。長門は僕には決して見せないような柔らかな微笑みを、その子に見せていた。僕は呆気に取られて彼女の名を呼びそうになり、最初の「な」で力を失って口を間抜けな半開きのままにした。長門はそこでようやく僕と青葉の姿に気づいた。表情が焦り、恥じらい、怒り、嫌悪、無、の順番で目まぐるしく変わっていく。最後に彼女は話し相手へと顔を向け、固い声で言った。

 

「ではな、楽しかった」

「また詳しいお話をお願いできますか?」

「もちろんだ、時間がある時ならいつでも答えよう」

 

 席を立ち、僕の脇を抜けざまに、青葉に気づかれないほど短く、彼女は僕を睨んだ。なので僕も睨み返した。怯えすくんでいるだけの男じゃないところを見せてやったのだ。青葉の前でそんな無様なところを見られたくない気持ちもあった。長門が僕の珍しい仕返しを感じ取ったかどうかは分からないが、僕は満足しながら意識を部屋の中に向けた。青葉が彼女の相棒の肩に手を置いてこちらへ体と注意を向けさせ、紹介してくれた。

 

「こちら、ここ暫く青葉のお手伝いをしてくれている、電ちゃんです」

「初めましてなのです」

 

 彼女はにこやかな表情でこちらに手を差し出した。



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「洋上」-1

門のいかに狭隘(きょうあい)なりとて
罰のいかに峻烈(しゅんれつ)なりとて
我こそは我がさだめの主
我こそは我が魂の導き手

──ウィリアム・アーネスト・ヘンリー※77


「初めましてなのです」

 

 彼女はにこやかな表情でこちらに手を差し出した。僕はその手を取って、しっかりと握った。ぴくりと反応するのが分かった。「やあ、会えて嬉しいよ」「こちらこそ、今回はよろしくお願い致します」手を離し、彼女の目をまっすぐに見る。そこに、見慣れた敵意を感じていた。気のせいかもしれない。駆逐艦娘「電」は、全国に大勢いる。この電が、あの融和派の電である確証はまだない。だけれども、どうしても僕には目の前の電があの彼女だとしか思えなかった。

 

 さっきまで長門が座っていた椅子に腰を据える。彼女の体温が残っていて、ほのかに温かかった。何やら変態めいた思考だな、と僕は自嘲した。青葉も椅子を持ってきて、それに腰掛けた。部屋に入った時と違い、手に鞄を持っている。その中を漁りながら、彼女は「あれえ?」と素っ頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。「電ちゃん、渡そうと思ってたアレ……」「アレでしたら、先に彼の部屋の郵便受けに投函しておいたのです」電は僕の方を見た。青葉は頷いて、安心したように胸を撫でた。

 

「それだったらいいんです。いやはや、何処かの誰かにバレたかと思ってひやりとしちゃいました」

 

 何を探していたのか聞こうか迷って、僕はそれをやめた。電は僕の部屋に何かを投函し、それは青葉が僕に渡す筈のものだったらしい。もう僕は確信を抱いていた。この電は、あの融和派の電だ。どうやって軍に潜り込んだのか分からない。誰かの手引きなしには不可能だろう。だがそれをやってのけた。そして、青葉の下に手際よく配置された。何の為に? 僕を巻き込む為に? 赤城は青葉に戦闘記録を探らせろと言った──そして僕はそれを拒んだ。だから、赤城たちは僕にやらせるのではなく、自分たちでやってしまうことにしたのだろうか。

 

 あるいは、青葉を人質にでもしたつもりかもしれない。望み通りに僕が動かなければ、青葉に何かする気だとか。考えれば考えるほど、その手の嫌な想像が僕の心を(むしば)み、後悔が胸を(さいな)んだ。青葉に警告するべきだったのだ。身の回りに怪しい動きはないか、最近変わったことはなかったか、あの武蔵との別れの直後にでも言うべきだった。どうしてそうしなかったのか、と僕は自責した。自分一人の問題だと思い込んでいた愚劣さが、我慢ならなかった。

 

 平静を装うことを試みるが、上手く行かない。仕方なく、僕は青葉に言った。「喉が渇かないか?」彼女はこれをお茶の催促だと勘違いして、申し訳無さそうな顔になった。僕は慌ててそれを否定した。「ごめんよ、そういうつもりじゃなかったんだ。僕の部屋にいいお茶があるから、それをご馳走したかったんだよ。自慢じゃないが、僕のお茶は中々のものだよ?」茶葉の格がね、という部分は黙っておいて、僕はそう言った。青葉は友人からのこういった申し出を断らないでくれた。

 

「電さん、お客さんに頼んで悪いんだが、手伝ってくれるかな?」

「もちろんなのです!」

「よかった。それじゃ、ちょっと待っててくれよ、青葉」

 

 こうして僕は首尾よく電を連れて自室に戻った。郵便受けを見ると、小包が入っていた。それをベッドの上に置き、お茶の準備を二人でする。湯のみを人数分用意し、安価だがおいしいお茶菓子を皿に盛り、湯を沸かす。沸騰を待っている間に、僕は「それで」と電をじろりと見やって言った。彼女は笑いもしなければ、こちらを睨みもしなかった。

 

「どういう理由でここに来た?」

「あなたがいつまでも動こうとしないので、赤城さんは業を煮やしていました。だからあなたからの依頼を装って、青葉さんに調べて貰ったのです」

 

 青葉の前で僕が余計なことを言わないでくれて助かった、という旨のことを彼女は付け加えて言った。僕は自分が、何故か赤城と電たち融和派の生存を当然のように受け止めていたことに気づいたが、無表情を保った。

 

「小包の中に戦闘記録をダウンロードしたメモリと、それを読む為の小型ノートパソコンがあるのです」

 

 その言葉には言外に「今度こそ逆らわず、こちらの言った通りに中身を見ろ」という命令めいたニュアンスが混じっていた。僕は頷いた。電はふん、と鼻を鳴らすと、湯沸し器を指差した。「お湯、沸いてないですか?」僕は湯沸し器からお湯を急須に注ぎ、適度に蒸らしてから湯のみにお茶を入れた。まさに馥郁(ふくいく)たる香りが鼻に届くが、僕の気分は香り程度でよくなるほどのものではなかった。お盆に湯のみを置き、茶菓子を盛った皿を電に持たせて、青葉のところへ戻る。

 

 座って、温かいお茶を飲んでも、僕の背中はいやに冷たい汗でじっとりとしていた。「おいしいですねぇ」と喜んでくれる青葉に笑いかけるが、それもぎこちなかった気がした。何種類かある茶菓子の中から煎餅を選んだ青葉は、両手でつまんで少女らしさをわざとらしくアピールしながら食べていたが、ふと僕に訊いた。「しかし、どうしてあんなものが必要だったんですか?」「うーん、考えがまとまったら一番に教えるよ、約束する」僕は嘘を言った。その罪で百万年は生きたまま地獄の炎で焼かれるだろう。それでも、青葉をこれ以上巻き込みたくなかった。彼女はいい子だ。僕の友達は、みんないい奴らばっかりだ。だから、余計なことからは離れていた方がいいのだ。

 

 青葉は執務室で再会した時のようなまばゆい笑顔を浮かべて「約束ですよ!」と言った。心がずきりと痛んだ。

 

 少しお喋りをして、食堂や工廠、甘味処の場所を説明してから、僕は青葉の部屋を出た。旗艦の書類仕事はその為の絶好の口実だった。今日は僕の秘書艦にも休みをやっているので、誰かが来る心配もなかった。僕はベッドに置いていた小包を手に取り、開封した。中に入っていたのは、電の言った通りのものと、小さなイヤホンだった。パソコンを起動し、USBメモリを差し込む。メモリの中のフォルダを開くと、目が回りそうになるほど沢山のファイルが現れた。

 

 設定を幾つか変更し、開かずともフォルダ上にプレビュー画面を表示できるようにしてやる。これで読むのに一々開く必要もない。戦闘記録に混じって、赤城からのメッセージもあった。音声ファイルだ。だからイヤホンを同封していたのだろう。僕はまずそれを再生した。何故なら、その音声のファイル名にそうするように指示が書いてあったからだ。

 

「これを聞いているということは、あの子は務めを果たせたようですね。本当は電話か何かで話したかったのですが、盗聴やこちらの居場所が露呈する恐れがありましたので、このような形を取らせて貰いました」

 

 赤城の落ち着いた声。あの数日間、融和派たちのグループに囚われていた日々の記憶が蘇り、体が緊張するのが分かった。

 

「戦闘記録から何を読み取ることができるか私から解説したいところですが、前にも言った通り、それはできません。しかし、ヒントを差し上げることはできます。訓練所の座学で鬼級以上の深海棲艦や、人型深海棲艦について何を学んだか、思い出して下さい。そうすれば、必ず気づくことができるでしょう。……私たちにはあなたが必要です。どうか、お願い……気づいて」

 

 たったそれだけのメッセージだったが、僕は彼女の声に正真正銘の懇願の色が聞き取れたことに困惑していた。彼女は本気で、僕に何かを知って欲しがっている。僕に何かを「させる」のではなく「知らせる」ことだけを欲している。

 

 馬鹿なことを、と僕は唇を噛む。彼女は融和派だ。電もそうだ。あいつらは僕を縛り首にしようとした連中だ。同じグループではなくとも、同類には違いないのだ。それを忘れてはいけない。よしんば彼女らが僕を脅したりすることなく、純粋に知って貰うことを望んでいたとして、その通りにして何の得がある? 僕がこの社会で生きるのを困難にするだけのことじゃないか。彼女らが僕に知らせようとしていることなど、どれ一つ取ってもきっと、知らない方がマシなことなのだ。そう思い込んでいた方がよかった。

 

 けれど、赤城は「業を煮やし」ているらしい。電の身を危険に晒すことを承知で青葉の下へ送り込み、しかも僕と接触までさせたところを見るに、相当な度合いだろう。これ以上、僕が彼女の望みを突っぱねていては、何が起こるか分からなかった。僕は自分の安寧と周囲の安寧を天秤に掛けた。そして、自分さえ黙っていれば丸く収まるということによって、自らの安息を切り捨てることにした。

 

 ファイルを選択し、目を通していく。戦闘記録の提出者は、指揮された艦隊の提督名義となっていた。彼我の戦力や戦闘の推移、結末がまとめられていて、真面目に読んだら全てに目を通すのに数ヶ月は掛かりそうだった。そこで僕は、戦力と決着の二つだけに着目することにした。それなら、一目で把握できるからだ。

 

 初期の戦闘に艦娘の姿はなく、記録部分には通常艦艇の名前が代わりにあった。そして決着は大抵がこちらの敗北だった。例えば深海棲艦との戦闘、日本の海軍(当時は海軍ではなかったが)が初めて連中と戦い、その記録を残すことのできた戦闘だ。それは、驚くことではないが、人類側の大敗で終わっていた。当時の敵の戦力は、現在駆逐や軽巡として分類されている深海棲艦が……合わせて数十隻ほどと見られている。僕はその表記を見て違和感を覚えた。

 

 大規模な戦闘においては、当然こちらの戦力も数を揃えて出す。あちらもそうする。何十人、何百人、何千人という艦娘が海を駆け、また何千もの深海棲艦と戦うのだ。その中には駆逐もある。軽巡もある。だが重巡も戦艦も空母もあるのだ。だというのに、この戦闘では駆逐と軽巡しか現れていない。

 

 その後の戦闘も、非人間型の深海棲艦ばかりが報告に上がっている。また戦争そのもの、戦闘の頻度も、現代に比べて余りに散発的なものだった。まるで自然災害か何かのようだ。僕は人型深海棲艦が現れる最初の記録を探し、見つけた。洋上を航行中の通常艦船で構成された艦隊の前に、駆逐や軽巡を連れて一隻だけで現れたらしい。後に重巡リ級と分類される個体だったようだ。

 

 それ以降、人型深海棲艦がちょくちょく報告書にも出て来るようになった。そして遂に僕は、僕が生まれるよりもずっと前に行われ、人類が戦術的敗北と戦略的勝利を得たあの海戦、複数の人型深海棲艦を撃破し死体を回収、当時既に現れていた「妖精」たちの協力で解析して、現在の艦娘のプロトタイプ、妖精たちが言うところの“船魂”を転写しない、「誰でもない」艦娘が産み出される切っ掛けとなった、あの海戦の報告書にたどり着いた。次へ、そのまた次へと読み進めていく。赤城の術中に陥れられているぞ、という警告は頭の片隅にあった──だがそんなものでは、好奇心を止められなかった。

 

 旧型の艦娘が投入されてから、人類は深海棲艦に勝利することが増えていた。しかし、それに従って人型深海棲艦の数が増加していたようだ。結局は、質の差で人類はじりじりと制海権を奪われ、記録されている戦闘海域も段々と本土へ近づいていた。ここからどのように巻き返して行くのだろうか? 不謹慎ながら、よくできた戦記を読んでいる時のような期待感さえ僕は覚えていた。だから、危うく見落とすところだった。本土近海での防衛戦において、鬼級深海棲艦が登場したのだ。記録されている外見の特徴から、それは泊地棲鬼であると断定できた。

 

 これは僕を大きく混乱させた。深海棲艦について、生物学的所見以外に訓練所や旗艦学校で教わったことは少ない。その一つは奴らが敵であること、そして敵は死ななければならないということだ。後は、鬼級・姫級などの指揮官的役割を果たす深海棲艦は、『人類の優勢によって』表に出て来ざるを得なくなった連中だということ程度だった。でも記録を見る限り、泊地棲鬼との初交戦時は人類の負けがほぼ確定していた状態だった。加えて、泊地棲鬼や他の鬼級・姫級などは、その後の交戦でもしばしば姿を見せた。

 

 僕は軍が勘違いしているか、あるいは僕らに勘違いさせようとしていたことを認めた。認めるしかなかった。明らかに、これらの深海棲艦は人類の優勢によって引きずり出されたのではない。まだ「人類にとどめを刺す為のダメ押しとして現れた」という考えの方が説得力がある。その場合でも、何故最初から出て来なかったのかという問いには有効な答えたり得ない。

 

 では何故、現れたのか? 赤城が僕に考えさせようとしているのはこれだ、という予感があった。どうして人型深海棲艦は、旧型艦娘配備のタイミングでその数を急激に増加させたのか? 鬼級深海棲艦が、奴らの優勢な時期に出現し始めたのは何故か? 軍はどうして事実を曲げて教えたのか?

 

 考えてみても、僕には納得の行く答えなど思い浮かびもしなかった。普段から、考えるという習慣を持っておくべきだったな、と僕は後悔した。しかし、言い訳をさせて貰うならだが、考えるというのは艦娘の仕事ではない。艦娘の仕事は、海に出て、戦うことだ。国を、そこで暮らす人々を守る為に戦うことなのだ。軍が秘匿する何かを暴くことでもなければ、深海棲艦の出自を云々することでもない。思いを巡らせれば巡らせるほど、僕は奴らに対してげんなりし、もう勘弁してくれ、という気分になるのだった。

 

 一体全体、深海棲艦とは何なのだ? 何処から来て、何を望んでいる? どうして僕らを放っておいてくれないんだ? 何だってこんな戦争を始めた? もしかしたら、答えはあるのかもしれない──初めて深海棲艦と出会ってしまったとされる、何処かの国の海軍だったか沿岸警備隊の艦に乗り組んでいた人々に聞けたなら。だが、それは不可能なことなのだ。深海棲艦たちは、その人々を一人として残さず、海へ沈めてしまったのだから。そうしてその時、僕ら人類と深海棲艦たちは、どちらかが滅ぶか、さもなければどちらもがこの世界で生きていけなくなるまで、互いに果てしなく殺し合うべきだということで合意したのである。それが、それだけが今日まで続く、この二者の公的な関係だった。

 

 部屋の扉がノックされた。僕はパソコンを閉じ、「今行く」と声を掛けた。扉の向こうには、隼鷹がいた。「昼飯にしようぜ」と彼女は言った。僕は救われた気がした。彼女の中に、僕が愛してやまないよき日々の気配を感じたからだ。そこには陰謀や秘密、謎の付け入る余地はなく、ただただ友人たちの和やかな時間があるだけだった。僕は微笑み、「行こうか」と答えた。時間は正午を一時間とちょっと過ぎた程度、昼食のラッシュが終わってテーブルも空いているだろう。青葉を誘い、隼鷹に紹介するべきだ、と思ったが、電が付いてくるであろうことを考えると足が遠のいた。それにどうせ、第五艦隊の全員に彼女のことを教えなければいけないのだ。二度手間をするよりも、一度でまとめて済ませたい。

 

 ところが、食堂に行くと第五艦隊が揃っていた。僕を待っていたのではなく、みんなオフにやることもないし、食堂で仲間同士、親交を深めていたらしい。那智教官がそんなことをしているのを見るのは初めてではないが、何度見ても見慣れないものだ。彼女の手によって艦娘に育て上げられた身として、色々と刻み込まれているのかもしれない。とはいえ北上や利根は僕と違って、すっかり彼女に親しんだ様子だった。もちろん二人は礼儀を知っているので、戦場における大先輩たる那智教官に対して一定の敬意を払ってはいるが、それでも彼女たちの互いに対する態度には、戦友としての気安さもまた表れていたのである。

 

 今日は出撃がないので、普通の量を食べることができる。僕はその小さな喜びを存分に味わうことにした。人生にはそれを生きる者によって長短の違いこそあれども、楽しむコツは共通している。重要なのは、小さなことを喜ぶ心だ。これに尽きる。小さなことを喜べない奴は、いざやこれぞというような、大きな喜びを前にした時に適切な反応ができない。彼もしくは彼女は、そこに到るまでに転がっていた無数の小さな幸福をことごとく無視していたばかりに、感受するということを一切学び得なかったからだ。何たる悲劇、何たる愚鈍さ、だが現実はそういうものだ。

 

 本日のランチセットを男の子らしく大盛りにして貰って、席につく。一方、僕と一緒に注文した隼鷹は見るからに少なめだ。それは果たして、伝統的な女性らしい慎み故のものか、ダイエットでもしているのか、でなきゃ昨日の夜に飲みすぎてまだ頭が痛いのか。彼女は僕のを指して「見るだけでお腹一杯になるよ」と笑った。

 

「青葉が来たそうだな」

 

 僕の隣にいた那智教官は、こちらを見てそう言った。流石、耳が早い。もう会ったのかと訊ねると「いや、まだだ。会ったのは貴様が最初だろうな」と彼女は答えた。それじゃ青葉の奴、教官がいるとは知らないのかな。彼女、きっと一目見たら肝潰して腰抜かすぜ、間違いなくな。本日のランチセットのメインを張るトンカツをナイフとフォークで切り、ソースを軽くつけたそれをかじりながら向かいの北上と利根に目をやると、彼女たちも同じようなことを考えている目でこちらを見ていた。僕は口の中に含んだものを飲み下してから、彼女たちに持ちかけた。

 

「甘味でも賭けるかい」

「いやー、賭けになんないでしょ」

「吾輩も同感じゃ。青葉は絞られとったからな。まあ誰が一番絞られとったかと言えばまた話は別じゃが、そやつはどうやら虐げられるのが好きじゃったらしいしの」

「まあ何て言うの? 十人十色、(たで)食う虫も好き好……痛たっ!」

 

 二人して僕を見ながら失礼なことを言ってくるので、足を伸ばしてすねを蹴っ飛ばしてやった。北上だけでは彼女に不公平なので、利根にもだ。「なんと! 虐げる方も行ける口か!」などと言う重巡には二発目をお見舞いしてやりたかったが、その前に那智教官が面白がっていると一目で分かる笑いを顔に貼り付けて、参入してきた。

 

「何だ貴様、まだ十七の癖に屈折しすぎじゃないか? よもや修復材をけしからん行為に使ってなどいないだろうな。いかんぞ、軍の資材を私的に使用するのは」

「やめて下さいよ、教官。僕は怪我するのもさせられるのも好きじゃないんですからね」

「そういえば格闘訓練の時に、私に真っ先に襲い掛かってきたのも貴様だったか」

「それは教官がやれって言ったんじゃあないですか」

「あの時に勢い余って腕を折ったのがお前を歪めてしまったのだとしたら、それは申し訳ないことをしてしまった。しかし、そんな奴がこの研究所の第五艦隊の旗艦にまでなるとはな」

 

 これだよ、全く。候補生時代のことを知られているというのは、どうにもやりづらい。けれど何となく、このやり込められる感じが嫌いではなかった。厳しかった那智教官の、それだけではない新しい一面を知ることもできたのだ。長門が言っていたような、罪のないからかい──言われた側も、笑いながら言い返せるような程度のものだ──を愛する一面は、那智教官のイメージを変えはしたが、崩しまではしなかった。それは彼女をより魅力的な人間、魅力的な艦娘にしただけだった。

 

 まあ、やられっぱなしでいるっていうのも芸がない。教官に、成長した教え子の姿を見せてやりたいという思いもある。そこで僕は反撃に打って出た。「ところで、那智教官は加賀に尻を射られたことがあるそうですね? どんな気分なんです、尻をやられるっていうのは?」彼女の顔が変わった。思い出したくない過去を不意に呼び覚まされてしまった女性の、苦々しげな表情だった。誰がそんなことを言った、と僕に訊いてから、彼女は答えを待たずに「長門だな、あのお喋りめ」と真実を見抜いてみせた。そのままだんまりを決め込もうとしていたので、すかさず「響、みんなに教えてやってくれよ」と話を振る。脇腹に鋭いパンチ。久々の那智教官からの鉄拳制裁は堪えるが……悪くない。

 

「いいよ、昔話は嫌いじゃない。あれはね」

「おいよせ響」

「どうしてさ。もしかして、教え子の前では格好いい『那智教官』のままでいたいのかな?」

「……私は長門に話がある。悪いが離席させて貰うとしよう」

 

 響のからかいに、苦虫を二、三匹はまとめて噛み潰したような顔で立ち上がり、那智教官は足早にその場を去っていこうとする。響のくすくす笑いを交えながら、僕らはその背中に、半年前までなら想像することさえ不可能だったヤジを投げかける。「逃げるのかい教官!」「大丈夫か教官! 吾輩のカタパルトに懸けてもう言わんと誓うぞ教官!」「だから戻って来てよ教官!」だが僕らの渾身の呼びかけも、遂には彼女の心の殻を突き通すこと(あた)わず、ただ虚しくなった。

 

 那智教官を知る仲間たちと僕は、みんなで笑い合った。彼女を馬鹿にしてではなく、純粋な子供らしい愉快さからだった。笑って、そうして落ち着くと、僕は一人だけこの輪の中に混じれない人物がいることを思い出した。隼鷹だ。彼女は僕の同期でもなければ、那智教官の知り合いでもない。彼女を置いてけぼりにして、自分たちだけで盛り上がってしまった。他のみんなもそれに気づいたのか、気まずい雰囲気になる。

 

 だが隼鷹は初めて出会った日からずっと、僕にとって最高の友人の一人だった。僕の心の中でその地位を勝ち取ることができる人物は、数多くはない。そこに到るには、様々な条件がある。それも自分勝手な条件だ。その中の一つに、度量の広さがあった。これは僕が未熟な子供で、しょっちゅう過ちを犯すことから、付け加えざるを得なかった条件の一つだった。度量の広さ、口で言うのは簡単だが備えることは難しい。でも隼鷹は、完璧にこれを満たしていた。

 

 彼女は酔っていない時、または()()()()酔っていない時にだけ見せてくれる、まるで春の陽の光のようにふわりとした微笑みで僕たちの心を和ませると、心に染み渡る穏やかな声で「なあ、あんたらが楽しい時は、あたしも楽しんでるんだ。だから、そんな顔しないでいいのさ」と言ってくれたのだった。それで、僕らはすっかり安心した。そういう関係だったなら、僕は彼女の手をぎゅっと握って、その手の甲といい手の平といい、あちこちに口づけしただろう。生憎と違ったが、人生、何でも思い通りに行く訳じゃない。

 

 と、聞いたことのある恐怖の叫び声が食堂の入り口を通して遠くから聞こえて来て、北上と利根と僕は口々にそれについて言った。

 

「やっぱり賭けになんなかったじゃん」

「青葉も凄い声を出すのう、ここまで届くとは吾輩もびっくりじゃ」

「要領よかったし、あんまり教官にしごかれなくて済んだ方なのになあ」

 

 その後、那智教官は新たな犠牲者を連れて戻って来た。電がいるかと思って警戒したが、彼女の姿はなかった。青葉によれば、疲れているから部屋で休むとのことだそうだ。彼女が何かするのではないかと僕は懸念したが、確かめに行く気にはなれなかった。行ったとしても、僕が電を見つけ出す前に彼女はその目的を達して部屋に戻り、素知らぬ顔をしているだろう。手遅れなら、気にしないでおこう。そう決めて、今を楽しむことにする。ちょっとした同窓会みたいなものだ。

 

 最初僕は、隼鷹が輪に混ざりやすいようにと彼女とのエピソードをあれこれ語ろうとした。しかし気づくと、彼女は僕を差し置いて人気者になっていた。明るいし、よく喋るし、性格もいいと来たら、そりゃそうなるのも当然なのだが、嬉しいような寂しいような、複雑な気持ちだった。けれど、そういった細かい予想外を込みにしたとしても、こうして友人たちと語り合うのが素晴らしい午後の過ごし方であることに疑いはなかった。

 

 まあ、まさかそのまま午後も午後、夕食後まで食堂でくだを巻くことになるとは思わなかったが。途中からは隼鷹と響、僕、それに那智教官がそれぞれの酒を持って来て、それに第一艦隊から日向や伊勢、不知火先輩が合流し、僕の旗艦就任祝い再び、という様相を呈した。そろそろいい加減にしなさい、と止めに来た妙高さんを那智教官が強引に引きずり込んだ時は、その場にいた誰もが拍手喝采したものだ。

 

 気づけば足柄と羽黒もいて、長門も教官の隣にちゃっかり陣取っていた。第一、第二、第五艦隊ほぼ総出とは豪華メンバーだな。酔っ払った頭の中で、那智教官に絡む長門へ向けた嫉妬心めいたものが鎌首をもたげるが、そんなものはアルコールで溺れさせてしまうとしよう。僕はグラスを持ち上げ、ぐびぐびと品のない音を立てて飲み下した。更に一杯、もう一杯、ついでに一杯。ああけど畜生、この嫉妬心とやら、泳ぎがひどく上手いな! 水泳選手かよ?

 

 ハイペースがたたって、僕は座っていたのに頭がふらふらしてくるのを感じた。やろうと思えば制御できるとは分かっていたが、その気にもなれなかった。床に倒れるなら倒れてしまえと投げやりになって、頭を支えていた力を抜くと、こてんと横に首が倒れ、何かに当たった。「んあ?」と近くで声がした。隼鷹の肩に頭をもたれかけさせてしまっているらしい。完璧に酔っ払っている時でなければ、僕は純情な少年らしく顔を赤らめて身を離していたのだろうが、今はちょいと状況が違った。気にせずに、そのまま彼女の肩に重みを掛ける。隼鷹は子供に話しかけるような優しい声で訊ねた。

 

「どしたのさ、酔うにはまだ早いぜ?」

「楽しすぎたのさ。こうしてても構わないか?」

「気にしやしないよ」

 

 気にしないどころか、彼女は僕が頭を載せている方の腕を動かして、僕の頭を抱きかかえるようにした。もう片手でグラスを取り、中に入っているものを飲みながら、僕の頭をぽんぽんと叩くように撫でてくる。あたかも子供をあやしているかのようだが、奇妙に心地よかった。僕は不意に脳裏を過ぎった疑問を口にした。「隼鷹、君はもしかして子持ちなのか?」「このまま首へし折ったろうかい」「悪かった。続けてくれ」謝って続けて貰いながら、気持ち良い気だるさに身を任せて、辺りを見やる。青葉が視界に入った。あははだのえへへだの笑いながら、しきりに横の利根の脇腹を指でつついていた。面倒な酔い方をする奴だが、可愛らしいものじゃないか。

 

「なあ」

 

 と僕は隼鷹に呼びかけた。囁くような相槌が返って来る。「随分賑やかになったよな」彼女はゆっくりと頷いた。広報部隊に入った時、心を開いて話し合えるのは僕にとって隼鷹だけだった。榛名さんは旗艦という立場にあって、遠く感じられていたからだ。だから飲みに行くのも、遊ぶのも、大体が僕と隼鷹の二人でだった。由良や曙、イムヤと折り合いが悪かったのは僕だけなので、きっと彼女たち三人と遊んだ日も隼鷹にはあっただろうが、しかし僕からしてみれば、何かする時はいつでも彼女とだったのである。それがこの研究所に着任して、第一艦隊で伊勢や日向、響と知り合い、第二艦隊では長門と妙高さんに学び、第四艦隊では不知火先輩と親しくなって、第五艦隊創設で利根と北上、那智教官が来て……おまけに今日は青葉までいる。いい夢でも見てるみたいだ。これがずっと続けばいい。

 

 顔を真赤(まっか)にした青葉が騒ぎ出し、みんなを座位と立位で二列に並ばせ始める。また何か思いついたらしい。彼女はデジタルカメラを片手に持って、もう片方の手を振り回しながら、のろのろと列を作る諸艦隊の艦娘たちに「さあ、さあ! ぴしっと決めて下さいよ、宣材用の写真なんですからね!」と声を掛けていた。酔っ払ってからそんなもの撮るなよ、と誰かが至極真っ当な意見を述べた。僕もそう思うが、青葉のことだ。考えがあるのだろう。緊張した姿を撮るよりも、酔っ払って緩んだ雰囲気で撮影する方がマシだ、とか。それが実際にそうなのかどうかは知らない。もしかしたら、本当に思いつきだけの行動という可能性もある。だとしても、記念写真と思えば何の不都合もなかった。職務上の価値については明日、酒が抜けてから考えられることだろう。

 

 僕は隼鷹の手を取り、僕の頭から外させてから、自分が立ち上がるのと同時に彼女の体を椅子から引き上げた。「行こう、隼鷹。青葉新聞にご協力だ」「いいねえ、あたしとあんた、元広報部隊として、写真への映り方ってもんを素人どもに見せてやろうぜ」青葉は撮るプロかもしれないが、僕らだって撮られるプロだったのだ。印象に残る写真への映り方については、一家言有するところがある。とはいえ、それは口で説明して分かるようなものでもない。日常的に撮影される者が、その体験から何となくふんわりと掴むようなものなのだ。

 

 隼鷹は自分の足で立てる様子だったので、僕は彼女の手を離した。女性の肉体は男性と比べて非常に華奢で精巧、繊細なものであり、その真逆を行く男性としていかなる失敗をも避けたいのであれば、礼儀をわきまえず不用意に触れればそこから腐って落ちる、などと大げさに考えてもよいほどだ。また昨今の女性というのは、大変に自立心の強いものである。これは深海棲艦との闘争において、集合としての女性たちが、その第一線に立っているという自覚を有しているからであろう。そのような人々に余計な手助けをしようとするのは、それこそ失礼に当たるのだ。

 

 だが、明らかに僕は何か見落としていたか、気づかない内に思いやりというものを失ってしまっていたらしい。隼鷹は「やれやれ」みたいな顔をすると、自分から僕の腕を掴んだ。僕はそのことからようやく察し、自分のミスをごまかす為に意地悪なことを言った。「歩くのがそんなに難しいのか?」「提督の真似をするのってどんな感じさ?」このやり取り、僕が愛してやまないものは沢山あるが、その一つだ。

 

 僕と隼鷹は笑い、次に僕はこれまで絶対にしなかったような奇行に出た。彼女の腕を掴み返し、引き寄せて抱き上げたのだ。バレエか何かかって具合で、僕は彼女の体をしっかりと抱きとめ、その場で一度くるりと回った。隼鷹の足が、テーブルの上に置いてあった水差しの一つを蹴っ飛ばした。水がぶち撒けられ、それを頭から被った日向を見て伊勢がげらげら笑っている。青葉は大喜びだ。世界唯一の男性艦娘が、彼の戦友と共に目一杯サービスしているのだからそれも致し方ない。

 

 青葉に背中を押され、僕は列を作って待っていた艦娘たちの真ん中へと追い込まれた。座位の前列、左に北上、左に利根、その膝の上に響、背後には那智教官……と彼女に抱きついてぴくりともしないでいる長門。何分後ろのことなので彼女が何処を見ているのかも分からないが、長門にとって那智教官がどれだけ大事な相手だったのか知れるというものだ。

 

 視線を走らせれば、日向や彼女の反撃を食らって同じ濡れ鼠になった伊勢、ネクタイを何処かにやってしまい、ベストを脱ぎ、シャツのボタンをそろそろ危険なところまで外した不知火先輩、飲んでいるだろうに微笑みと落ち着きを忘れていない妙高さんが見えた。それに、そうそう、忘れてはいけない。僕の膝の上でこちらの首に手を回し、彼女の背中から肩を掴んで支える僕の腕に体重を掛けて、(あで)やかに身を反らせてカメラを見ている隼鷹もいる。僕の戦友たち、みんなが揃っている。

 

「いいですかー、行きますよー?」

 

 酔っ払った記者はそう言うと、カメラを適当な台にセットした。それから身軽にテーブルを一つ二つ飛び越えて僕らのところまで来ると、カメラの方を振り返った。フラッシュがまばゆく僕らを照らし、撮影される。これで撮影は終わりだと思った人々は動き出そうとしたが、青葉はそれを許さなかった。「一枚で終わる訳がないでしょう!」とは彼女の言葉だが、広報部隊にいたことのある僕や隼鷹はそれを身を以て知っていた。そう、宣材写真の撮影は、長い時間が掛かるのだ。

 

 という訳で、その騒がしい夜はもう暫く続いたのだった。



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「洋上」-2

 翌朝、僕は自分の部屋のベッドで目を覚ました。ありがたいことに、隣に裸の女性がいたり、彼女が何者かに殺されていたりするようなことはなかった。頭は痛かったが、耐えられないほどではない。飲みすぎたけれども、その飲酒量は二日酔いを引き起こすレベルには達さなかったらしい。自分のコントロール力に満足しながら、僕は時間を確かめた。出撃まではまだ余裕がある。水でも飲み、胃腸の調子を整え、体を洗って気分をさっぱりさせるとしよう。これからの行動をそれと決めて、僕はまず食堂に行って水を飲むことにした。水差しは乾いてしまっていたからだ。

 

 部屋の外に出ようとすると、郵便受けに封筒が入っていた。僕はそれを取り、開いてみた。中には昨夜の写真が入っていた。隼鷹を膝の上に乗せ、はにかんだように笑っている自分の顔を見るのは、ひどく恥ずかしかった。でも、いい写真だ。大切にしないではいられない。封筒に戻して、テーブルの上に置き、写真立てを買おうと考えながら僕は部屋を出た。今日からは青葉を連れての勤務だ。気を引き締めて、でもやり過ぎないようにしながら頑張ろう。

 

 そう決意してからあっさりと三週間が経った。青葉に協力して宣伝の為に第五艦隊の非公式な隊章をデザインし、書類を書き、提督の用意した例の原稿を頭に叩き込み、何隻もの深海棲艦を沈め、腕や指を失い、生やし、幾つかの艦隊を救い、何人かの艦娘を救えず、感謝されたり、責められたりする三週間だった。取材や記事の執筆は、上手く行っているらしかった。全くそのようなつもりはなかったのだが、青葉が来た日の夜、場の流れだけを理由に突如行われることとなった宴会は、この若き敏腕記者にとって相当プラスに働いた出来事だったらしい。青葉はもっと手こずると思っていたようである。何しろ、彼女の新聞は人気があるが、それでも全員が彼女のファンだという訳ではない。また、他の誰かが取材され、それを記事にされているのを読むのは好きでも、自分が取材されたいとは余り思わない者もいる。しかし、それらの問題もあの宴会で多くの艦娘たちと仲良くなることで解決されたのだ。青葉はどうやらそれを僕が仕組んだことだと勘違いしているようだった。まあ、罪のない誤解なら解くまでもあるまい。

 

 非公式の隊章は最初、ちょっとだけ問題になった。これまで隊章を制定した艦隊がなかったのではないが、それは公式なものであって(というのはつまり、軍お抱えの、()()()()()と呼ばれる、艦娘として海に出たこともないし出られたとしてもそれを選ぶことは絶対にないお絵描き屋連中に、彼らの素敵なデザインを押し付けられるという意味である)、上層部からの許可を受けてのものだったからだ。僕らは海に出る時、支給された服を着用するのだが、何でもこれは軍の所有物として扱われるそうで、僕らはそれを借りているだけらしい。借り物だから、勝手な改造を施すのはけしからん、という訳である。もちろんのこと、提督は僕らが期待した通りのことをしてくれた。そういう連中にはっきりとした「くたばれ」の意思表示をして、ついでに黙らせてくれたのだ。お陰で、第五艦隊は前代未聞の非公式隊章を身につけることができるようになった。これは大湊警備府所属のある艦隊が、軍上層部の再三の制止を振りきって、ペンギンを非公式マスコット※78として選んで以来の快挙であり、かの愛しき日本国憲法第十三条の勝利の瞬間であった。

 

 ところで、非公式隊章の引き起こした問題は一つだけではなかった。僕は当初、ホースラディッシュ、即ち西洋わさびの花をモチーフに使うつもりだったのである。花言葉は「嬉し涙」で、捜索救難任務を遂行する艦隊としてはぴったりだと思ったのもあるし、白い花が可憐で素敵だと思ったのも理由の一つだが、一番は……それがホースラディッシュ(Хрень)※79だからだ。残念なことに、このおふざけは響が僕の試みを察知したことによって阻止されてしまった。どうやら響は、ロシア語で男性器を意味する卑語の語源を隊章に採用するというアイデアを気に入らなかったらしい。でも彼女は優しいので、他の艦娘たちにはバラさないでくれた。もしバレていたら、僕は艦隊員たちの手で海に沈められていただろう。

 

 結局、隊章の基本は黒塗りにした円形の台座に不特定の艦娘が立っている白のシルエットと、その背後を飛行機雲を引いて飛行する六機の航空機を描いたものになり、最終的にはそれに上下のスクロールを加えたものが採用された。上には長門の背中や響のお尻にある(と言われている)焼き印と同じ言葉、2.S.T.R.Fを記し、下のスクロールには5th Fleetと書いてある。評判はまあまあと言ったところで、僕も気に入っている。作って貰った隊章の予備を幾つか譲り受けて、私服に縫いつけたりもした。

 

 三週間と二日目に、今回の青葉新聞の原稿はとうとう完成した。提督と吹雪秘書艦はそれを読んで、訂正や直しの指示を一切せずに許可を出した。もちろんそれは異例なことだったが、青葉の記者としての能力が、偏屈女の提督と公正だが厳しい吹雪秘書艦の両方に認められたということでもあった。数日の間、僕らは反響をドキドキしながら待った。四週間目、かつてないとまでは言わないが、結構な大反響となったことが青葉から知らされた。広報艦隊を出て以来露出のなかった僕が、久々に広報に出たことも一因なのだと青葉は言ったが、僕はそれよりも青葉の力が全てを成し遂げたのだと思いたかった。

 

 提督は大喜び……する訳がなかった。していたとしても、彼女はきっと僕らにそんな姿を見せたくなかったのだ。代わりに、彼女は青葉にもう一号やってくれと頼んだ。無茶な頼みだ。僕は提督に強く抗議し、彼女の才能は僕らの為だけに無駄遣いさせていていいものではないと主張した。この時ばかりは、吹雪秘書艦の静かだが重々しい半歩とて、僕を黙らせることはできなかった。僕は吹雪秘書艦の、こちらの心臓を貫き通しそうな視線からも逃げなかった。僕を提督や秘書艦との対決から退かせたのは、誰あろう青葉その人だった。

 

 どうやら、知らなかったことだが、彼女は越えるべきハードルが高ければ高いほど興奮し始める性格らしい。また青葉は、次号も同じ取材対象で作成して同じだけの、あるいは前号を超える反響を生み出すことができれば、記者としての自分の力の客観的証明にもなると考えていた。本人がやる気なのに、やめさせることはできない。誰も、誰もだ、個人が本当にやりたいと思っていることを、止めることはできないのだ。そうだ、例えば、突然僕が月に行きたいと言い出す──それを止められるのは僕の諦めだけだ。それ以外の誰も、僕が月に行きたいという願望を持つことをやめさせられはしない。個人の行動はその個人の意志によって決定されるのであって、それ以外の何物によってでもない。従って、書類上の手続きを除いて面倒もなく、青葉の取材は延長されることになった。

 

 が、もう一号やってくれと言ったって、前号を作るには三週間掛かった。次号を作るにはもっと掛かるだろう。使えるネタもまた探しださなければいけない。ただ幸いにして、一つはすぐに決まった。第五艦隊の成果発表だ。そこで僕は上層部の連中の前に立つ。これを取材せずして何を取材する? 許可が下りるかが心配だが、その辺のことは提督に任せておけば万事やってくれるだろう。実に彼女の仕事は、もっぱらその手の工作だと言っていい。

 

 そういう感じにことが運んで、青葉と再会してから一ヶ月後、僕を筆頭とした第五艦隊と彼女は、機上の人となっていた。電は、広報部隊に戻って暫く青葉の代役を務めるとのことだった。彼女のことも気になったが、それよりも僕が先に気にするべきだと思ったのは、どうしてまた航空機なんかに乗らなければならないのか、ということだ。提督はそのような情報を匂わせもしていなかった。

 

 四人もいるパイロットの内、僕らの案内をしてくれた大人の男の風格漂う人が、僕の質問を受けて困ったように言った。「目的地は大陸だと聞いていなかったのか?」「大陸って、ユーラシア?」「南米だ」聞いていなかった。僕は機内電話を使って提督に連絡し、南米大陸行きというのは本当かと訊ねた。彼女は「本当だ。世界中のお偉方の前での発表はさぞ楽しいだろうな」と言った後で「ところで、南米行きだということが何か問題か?」と答えた。僕は黙って電話を切るしかなかった。

 

 南米なら、アメリカ経由で三十時間ほど掛けての移動になるのだろうか? この問いにも、気のいいパイロットは答えてくれた。「いや、直行だ」四人もパイロットがいるのは、二十時間ほどぶっ続けの飛行になる為らしい。南米大陸までは一万五千キロぐらいはあるから、そのような長時間飛行となるのもやむなしと言えよう。思えば僕らの乗り込んだ航空機には、増槽タンクが取り付けられていた。

 

 僕らは空を飛ぶ鉄の塊の中にいることを楽しんだ──最初の二時間ぐらいは。二時間も空の上にいると、猛烈に地上が恋しくなった。僕は文字通り地に足の着いた生活が好きなのだ。艤装を外しているということも気に入らなかった。だが、そうしないと二十時間立ちっぱなしになる。貨物室の壁面に備えられている簡易な折りたたみ式の長椅子は、艦娘数人分の艤装の重みに耐えられるようにはなっていないからだ。そもそも艤装は、当初持っていくことさえ許されなかった。余計な荷物は困るという訳だ。

 

 しかし、命あるものとしての義務から自らの安全を守る為だけでなく、旗艦としての義務から仲間たちの安全を守る為にも、それを持って行かないという選択はできなかった。僕はごねにごねて、とうとうパイロットたちの意見をねじ伏せた。ただ理解しておかなければいけないのは、彼らとて無理解などから艤装を置いて行くようにさせようとしたのではないということだろう。彼らには彼らの都合があって、懸念があって、その上で僕らに我慢を求めたのだ。彼らの望みが儚いもので、僕らにとって到底我慢などできなかったのは、遺憾なことだった。

 

 そういう経緯があったので、パイロットたち四人、つまり操縦室にいて働いている二人と、彼らの側で即応予備として控えている一人、そして僕らと同じ貨物室にいて休憩を取っている最後の一人は、僕に話しかけて来ないだろうと思っていた。飛行機に乗るだけでなく、飛行機を飛ばすということは常ならぬ興奮の源泉であると僕は信じている。それについて話を聞きたかったので、彼らと衝突を起こしてしまったことが悲しかった。けれど考えてみれば、二十時間も機内にいなければならないのは何も僕たち第五艦隊と青葉だけではない。パイロット諸君もそうなのだ。なので、休憩中の一人がこちらに話しかけて来るのも当然の帰結と言えばそれらしかった。

 

 残念なのは、その彼が僕にとってあんまり好ましい性格をしていなかったことである。年若い彼(と言っても僕より七つ以上は年上だった)は女性の話を好んだが、僕はその手の話を初対面の相手とするタイプじゃなかった。確かに女性は素晴らしい。もし全知全能の神様がいるとしたら、その神様は女性の姿をしているだろう。何故なら彼女は全知であるが故に、女性であるということがどのようによいかということをまで理解しているからだ。

 

 けどまあ、折角全能なんだし、ふと気分が向いた時には男の体になってみるのもいいかもしれないと彼女には言ってやりたい。少なくとも僕は、女性の素晴らしさを認めてはいるが、男であることも同時に愛している……いや、それはいいとしてだ。とにかく、僕は最近の流行りからは取り残されているのだろうが、奥ゆかしい方だった。当然、この若い操縦士のような開けっぴろげで臆面もない人間とは、気が合わなかった。結局僕らは、最後には口を利かない間柄になってしまった。僕が悪いんじゃないと思いたい。彼が愚かな質問をしたからだ。

 

 それはこういうものだった。

 

「何で“艦娘”なんだ?」

 

 ここ数ヶ月で一番下らない質問だった。僕が提督に訊ねたものを除けば、間違いなくランキングトップだろう。でも僕はサービスされたペットボトルのお茶を飲みながら、礼儀正しく彼に聞き返した。

 

「何でって?」

「ほら、だって、なあ。君は男じゃないか。それとも君は違うのか?」

 

 僕は既にちょっと怒っていた。友達に「女の子みたいだな」って言われるのは冗談で済む。互いの間に友情があることを知っているからだ。が、今日会ったばかりのそれほど親しくもない奴にこのような言葉を投げかけられるもっともな理由は、何処にも見つけられなかった。でも突然キレるのはよくない。それは社会的な信頼を損なう行為である。そこで僕は彼に、彼でも理解しやすい形で説明した。彼がそれで黙ってくれる筈がないと分かっていたら、そんなことはしなかったのだけれども。

 

「艦娘は存在として僕より先任だろ。だから“艦娘”って言葉を僕に合わせて変えるのは間違ってるんだよ、少なくとも軍の中ではね」

「でもやっぱり、政治的に正しくない言葉遣いだよ」

 

 ポリティカル・コレクトネスはクソかどうかなどという話を彼としたくはなかったので、僕は話題を変えることにした。ゆっくりと彼の目を見て、眉を上げ、溜息を吐いてから、僕は言った。 

 

「いいかい、まず一つ……“くたばれお節介野郎”、だ。ああ気にしないで、ただ君にそう言っておきたかっただけだから。何ならもう一回言っても構わないよ、どう? いい? それじゃ二つ目だ。僕は軍人で、政治家じゃない。広報部隊にいた時はともかく、今は違う。それから三つ。君のような気遣い上手のせいで用語が変わりでもしたら、何百万枚という書類が書き直しになる。その中には僕がやらなきゃいけないものがどう見積もっても一万二千五十八枚はあるんだ。だからね、君。僕のことを気遣うならどうか放っといてくれないかい。そうすれば、僕も一々腱鞘炎の心配なんかしなくて済むんだから。頼むよ、ね? お茶でも飲んでて。ほら」

 

 このような流れで、この操縦士と僕は、死ぬまで互いにこのムカつく相手と話さないでいることを決めたのだった。

 

 ところで飛行機に日常的に乗っている人間と、そうでない人間の違いが一つある。後者は飛行機酔いしやすいって点だ。そして機内にいる艦娘で飛行機に慣れているのは、青葉だけだった。彼女は日本やアジア各地などで活動しているので、航空機での移動も経験していたのだ。凄いな、と素直に思う。青葉がけろりとしている横で、第五艦隊は一人残らず体調を崩していた。

 

 那智教官は脂汗を額に浮かべたまま椅子に腰を下ろしてまんじりともせず、利根と北上は「利根っちの方は大丈夫?」「ダメじゃの。飴でも舐めて耐えるしかあるまい」「飴あるの? あたしにもちょうだい」とその場を乗り切る為に協力している。多分第五艦隊で一番上手にこの苦難を乗り越えたのは隼鷹で、彼女は椅子に座ってベルトで体を固定すると、持っていたスキットルの中身をぐいっとやって夢の世界へ逃げこみやがった。響と僕は寄り添って、この苦痛から解放される時が来るのを待ち続けるしかなかった。苛立ちをこらえて操縦士に酔い止めの薬がないか聞こうかと思ったが、彼は寝ていた。

 

「南米って何があるんだい」

 

 響は青い顔をしていたが、雑談で気を紛らわそうと僕にそう話しかけてきた。僕もいつも以上の青白い顔になっていただろうが、それに答えた。「リオのカーニバルとコルコバードの救世主像※80……麻薬カルテル……砂糖プランテーション?」最後のはどっちかというと中米な気もする。何にせよ、全体的に僕の無知さをさらけ出す回答だった。響は力なく笑って、司令官はコロンビアのカルテルと是非とも接触を持ちたがるだろう、と言った。僕も合わせて笑ってから、急に心配になって小声で訊ねた。

 

「提督はコカインもやるのか?」

 

 この質問に響は答えず、椅子から立ち上がると危なっかしい足取りで隼鷹のところまで行った。そして彼女が力強く握りしめていたスキットルを無理やり引き剥がして奪い取ると、こちらに戻って来て腰を下ろし、スキットルの中身を一気に飲み下した。ふうっ、と吐き出した彼女の息から、アルコールの匂いがつんと香った。「ああ、これなら寝られそうだ」感心したように響は呟き、帽子を目深に被り直した。それから僕へとスキットルを渡してくれた。中にはまだ残っている。断りを得ずに飲んだら、隼鷹は僕を許してくれるだろうか? そうであることを祈ろう。口の中にひりひりする液体を注ぎこみ、胃へと流し入れる。目を閉じると、眠気はすぐに襲ってきた。

 

 そして僕は海の中にいた。息ができなくて焦ったが、どうやら呼吸しなくても大丈夫なようだった。透き通った海、綺麗な海、かつてはダイビングやホエール・ウォッチングなんかが楽しめただろう海の中で、僕は戸惑っていた。これまでの夢では、いつでも何かが起こっていた。今回は違う。まるで僕が何かを起こす役割を任されたみたいだ。上を見ると、陽の光が海面で反射している様子が見えた。下を見れば、光が届かない闇と重圧の世界が見えた。海中なのに、地上にいる時みたいにはっきりと。下の方に何かいる気がして、僕はじっと見つめてみた。吸い込まれそうな暗さだ。いや、実際、吸い込まれていた。すると声がした。

 

「何やってる、上がってこい!」

 

 天龍の声だ。僕は上を見た。水面の向こう側に、彼女のものらしい姿が見えた。水上にいる彼女の声が、どうしていやに明確に聞こえるのか分からなかった。水の中をたゆたいながら、僕は天龍の輪郭を眺めた。水のゆらめきで歪んでいたが、腹に穴が開いたままだった。それだけじゃない。彼女が立っているところは、彼女の血で真っ赤に染まり始めている。それが何を意味するのか、僕は上がるべきなのか、迷ったが、天龍を放ってはおけなかった。夢の中でぐらい、彼女を助けたかった。「いいぞ、こっちだ!」天龍の声が喜びに染まる。彼女が僕に向けてそんな声を出すとは。彼女の体が傾き、僕を引っ張り上げる為の腕が水の中に突っ込まれて姿を見せる。その手を取る。力強く引っ張り上げられる僕の耳元で、誰かが悔しそうな唸り声を上げて言った。

 

馬鹿(バカ)メ……!」

 

 目を覚ますと、僕は座っていた椅子から落ちて響を押し倒す形になっていた。これはマズいな、と思うと同時に、僕の下になっていた響も意識を取り戻した。何か彼女は気の利いたセリフでも言おうとしたのだろうが、それよりも先に機体が大きく揺れて、僕らはバランスを崩し、互いの額を強くぶつけた。ごろりと横に転がって離れ、床に手を突いて立ち上がる。また揺れが来て、こけない為にはみっともなく中腰にならなければいけなかった。「どうなってる?」と響が右手で自分の額をさすりながら言った。左手には帽子を掴んでいる。ベルトで自分の体を固定していた那智教官が、僕らの眠っていた場所の向かいにある長椅子から答えてくれた。「嵐だ」調子は戻っているようで、その顔色はよくなっていた。

 

 窓の外を見る。暗い。外は嵐らしいが、それを考えに入れても暗すぎる。時間を確かめるとそれもその筈、もう夜だった。空腹感はあるが、食欲は余りない。この揺れが終わったら、軽食でも取るとしよう。そう考えながら椅子に戻ってベルトで体を縛り付けていると、ざざっ、と音が鳴って機内放送用のスピーカーから操縦士の声がした。僕を案内してくれた、落ち着きのある男性パイロットの声だった。彼は機体が嵐の中に突っ込んでいること、気流の悪影響を避ける為に高度を下げ、速度を下げることを僕らに伝えた。その言葉に前後して、機体の下降が始まる。自分の体が浮き上がるような奇妙な感触に、変な声が出た。隣の響が、小さく吹き出した。僕は彼女に強い視線で抗議したが、立場が逆だったら僕だって吹き出していただろう。

 

「下がりすぎじゃないか?」

 

 窓から外を見ながら、僕はそう叫んだ。激しい気流で貨物室にあるものはどれもこれもがたがたと揺れて音を立てていたから、大声でないと聞こえないのだった。今海上何メートルを飛んでいるのか知らないが、僕にとって高度というのは高ければ高いほどいい。深海棲艦の航空機は通常の現代的なジェット機などが飛行する高度へは近づいて来ないし、敵の対空砲火も届かないからである。

 

 海軍の次に空軍が現代日本で大事にされているのは、ここに理由がある。艦娘よりも素早く活動できる上、深海棲艦側の航空機が上がって来ない高度を飛び、敵を倒すことはできなくても発見・報告することができるジェット機などは、偵察や情報収集の面で非常に役立つのだ。パイロットが血迷って低速でまっすぐに接近したりしなければ、敵の攻撃を受けて撃墜されることもまずない。軍が必死になって研究しているという対深海棲艦用通常兵器の開発に成功した暁には、艦娘と並び立つ深海棲艦の敵になることができるだろう。

 

 それに引き換え陸の連中は何なんだろうな。あいつらが何かの役に立っているところを見たことがない。憲兵隊は所属こそ陸軍だが、海軍から出向している艦娘も多い。肉体面でも強化されている艦娘相手には、同じ艦娘をぶつけるしかないから仕方ないんだが、それなら海軍で憲兵隊も引き受けたらいいじゃないかと思う。陸軍に回す予算がもったいない。まあ、きっと僕が知らないか思いついていないだけで、何か理由があって陸軍も存在しているのだろうから、これ以上は胸の奥に押し込んでおくとしよう。

 

 僕の質問に誰も答えてくれなかったので、椅子の近くにあったインターホンを使って操縦席のパイロットたちへと呼び掛ける。「低空すぎるぞ」「航空力学の基礎として……」大変に興味のある話だったが、最後まで聞くことはできなかった。これまでにない、機体が何かにぶつかったかのような強い揺れが起きると同時に、インターホンがあった辺り──僕が手を伸ばせば届く範囲の内壁がすっかり失われてしまったからだ。ごっそりと壁がなくなったその穴からは、下からこちらへ向かって伸びてくる細くて明るい線が見えた。対空砲火の作り出す火線だ。下にいた深海棲艦に見つかって、撃たれたのだ。

 

 貨物室内の機内灯が赤に色を変える。響の焦燥に溢れた声が聞こえた。彼女は外に吸いだされそうになっていた。ベルトをしておらず、穴に近かったからだ。床の僅かな突起に指を掛けていたが、それも限界が近かった。僕は目一杯右腕を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。それと同時に、彼女の指は突起から外れた。外へ流れ出そうとする空気に引っ張られ、浮き上がった彼女の体に釣られて、僕の腕が壁へと叩きつけられる。響は今や、片手だけでその命運を保っている有様だった。「離すなよ!」と大声で響に言うが、聞こえていたかどうか怪しい。

 

 航空機はますます下降していた。操縦不可能状態に陥ったのか? だが錐揉(きりも)みにはなっていない。汗で滑りそうな響の手を、左手でも掴む。これで大丈夫だ。後は僕のところまで何とかして引き戻し、次の状況まで耐え抜けばいい。二度と放り出されたりしないように、響を膝の上で抱きしめているという役得も得られるだろう。余裕ができたこともあって、僕は機内をさっと見回した。那智教官、青葉、利根、北上、隼鷹、みんな大丈夫だ。利根や北上はこちらに向かって何か言っているが、風の音が凄くてとても聞こえない。

 

 響を助ける為に足腰に力を入れて踏ん張ろうとしたその時、二発目の対空砲火が当たった。僕は僕が命を握っている少女を離すまいと、身を縮めて目を閉じ、手に力を入れた。それはとんでもない大間違いだった。飛んできた破片か何かの前に、自分の頭を差し出す行為だったからだ。

 

 そして僕は、気を失った。

 

 頬を打たれて、目を覚ます。頭を上げると、那智教官の顔が目の前にあった。そのまま眺めていたかったが、彼女は二発目のビンタを叩き込もうとした。手を上げて止め、辺りを見る。幸い機内灯は生きており、僕はただちに現状を理解することができた。着水したのだ。ベルトを外して立ち上がり、大声で怒鳴る。「気絶した者を起こせ! 全員艤装を着用しろ!」それから艤装を置いていた区画に向かった。そうしている間にも、水がどんどん機内へと流れ込んでいる。機が沈むのに、十分と要さないだろう。僕が自分の艤装を装備していると、一緒に来た那智教官が短く罵った。彼女の艤装は、大半が何処かに行ってしまったようだ。特に脚部艤装が失われていたのが痛かった。

 

 装備を失ったのは彼女だけではなかった。何一つ欠けることなく残っていたのは僕だけで、北上は連装砲一門と魚雷二十発、利根は連装砲一門に少数の水上機しか武装がなかったし、隼鷹は那智教官と同様の脚部艤装喪失に加え、艦載機もほぼ壊滅という有様だった。教官に「救命艇(ゴムボート)と、積み込む荷物の準備を。僕は操縦室のパイロットたちを見てきます」と言って、操縦室へ向かう。

 

 操縦室へのドアは、既に水圧でびくともしない状態になっていた。しかし、ここにいるのはただの男じゃない。全力で体当たりし、蹴り飛ばすと、どうにかドアをぶち破ることができた。だが骨が折れるかと思ったので、推奨できることではない。中に入ると、悪臭が僕を襲った。僕は顔をしかめ、鼻を押さえ、ざっと見回し、()()の死亡を確認する。貨物室の方から教官の声がした。「救命艇は操縦室から操作して出す形式のようだ。そちらにボタンか何かないか?」彼女の落ち着いた声で、僕の頭も冷えた。制御盤にそれらしき記載のボタンがあったので、それを押す。すぐに教官が結果を教えてくれた。「救命艇が用意できた。物資を運搬中だ。早く戻ってこい、こいつは沈むぞ」「すぐ行く」この場を離れる前に、やらなければならないことがあった。役立ちそうなものを集めること、死亡者の認識票回収、そして生存者の救助だ。

 

 水の中から地図らしきものを取り、丸めて懐へ収める。二人分の死体の首元を探り、卑金属製の楕円形の板を引きちぎる。それを懐に突っ込むと、僕は操縦席でぐったりしているが死んではいない一人を担ぎ上げた。この時点で、もう僕の腰のところまで水が来ていた。脚部艤装を作動させていたら、天井に頭をぶつけていたかもしれない。亀よりも遅い歩みで輸送機から出る途中、僕にどうでもいい質問をした年若い操縦士の死体を見つけた。彼の認識票は既に回収されていたので、そのまま無視して進む。三つの空の棺が焼かれることになるだろう。悲しいことだ。

 

 敵の攻撃が直撃して作られた穴から外に出て、輸送機の外面を登る。外は嵐、雨と風に晒されながら滑る曲面を這い上がるのは大変な苦労だったが、どうにか失敗せずにやり遂げた。周囲を見て、救命艇の位置を知る。それから脚部艤装を作動させ、足から水へと飛び込んだ。少し沈み、浮き上がり、荒波の中に立つ。大型の救命艇には、第五艦隊が揃っていた。いや、揃ってはいないか。響がいない。彼女は外に放り出されてしまった。生きてはいまい。僕は胸の苦しみをこらえながら、怪我した操縦士を隼鷹と那智教官に渡し、青葉のことを訊ねた。彼女は僕が艤装を着用しようとしていた時、いなかったのだ。

 

 彼女たちの顔色が変わった。僕のもだ。僕はすぐに脚部以外の艤装を解除して利根に押し付け、救命艇に地図と思しき紙切れを放り出すと、北上に短く命令した。「付いて来い!」那智教官が止めようとするのを無視して、航空機の横穴まで戻る。そこで脚部艤装を解除して北上に渡し、ほとんど沈みかけている航空機の中に入り込もうとして、振り返り、わざとらしいセリフを吐いた。

 

「すぐ戻る」

 

 横穴も、最早水で覆い尽くされそうになっていた。そこをくぐる為に、僕は水の下へ潜らなければならなかった。機内灯が未だに点灯していてくれたので、真っ暗闇の中で青葉を探す必要がなかったことだけが幸運だった。水の中に浮いているあれこれのがらくたを押しのけ、まずは貨物室の上部に残った空気溜まりに顔を出す。運がよければ、青葉は浮かんでいる筈だ。そうでなければ……見つけ出すまでだ。

 

 彼女の名を呼びながら、僕は水面に目を走らせた。見つからない。鼓動が激しくなる。僕は今日だけで二人も失うのか? 僕の友達を、戦友を、もっと長く生きるべきだった人を、二人も失うというのか!

 

「二人は多すぎるだろ!」

 

 苛立ちを拳に込めて、水面に叩きつける。と、その衝撃で荷物の一つが、ぷかりぷかりと現状にそぐわないのどかさで移動した。その陰に、青葉の体が見えた。仰向けだ。だとしたら、呼吸は阻害されていなかった筈だ。急いで近寄り、彼女の頬を叩く。目を覚まさない。体を掴み、引っ張ると、生暖かいものが手にまとわりついた。彼女の血だった。背中に大きな傷を負っているようだ。軽く触れてみると、一刻も早く手当てしなければならない大きさだった。

 

 彼女の体に腕を回して連れて行こうとするが、青葉の足は何かに引っ掛かっていて動かなかった。潜って、目を凝らす。彼女の足には椅子のベルトが複雑に絡まっていた。これを(ほど)いていたら、僕と青葉は仲良く海底二万里だ。なので僕は私物のナイフを抜いて、鋸刃(セレーション)部分で強引にぶった切った。鞘に収めて、明石さんに感謝だ。青葉を捕まえたまま横穴を抜け、水面に出る。北上は待ってくれていた。彼女に身じろぎもしない青葉を押しつける。

 

「青葉を連れて先に戻れ、手当てを!」

 

 脚部艤装を受け取り、荒波に揉まれながら着用して、水上に戻る。服は水を吸ってずっしりと重く、体が冷えきって寒かったが、助けられる仲間を見捨てなかった誇らしさが体を温めてくれた。それだけに、響のことがどうしても辛かった。彼女の不在は、耐えられない痛みとして僕にのしかかっていた。救命艇に戻り、青葉と操縦士の様子を見る。教官と隼鷹が手分けして応急処置を施していた。通常の医薬品を使ってだ。聞けば、希釈修復材を持っていたのは僕と那智教官だけで、しかも教官のは着水の衝撃で艤装の大部分などと共に何処かに行ってしまったらしい。

 

 後悔が自分を襲った。気を抜いていた。きちんと言っておくべきだったのだ。操縦士たちを説得して艤装を積み込ませて「これで十分だろう」と思い込んだのは、僕の不手際だった。言い逃れしたいなら、那智教官だって何も言わなかったじゃないか、と言うことはできる。だがそれは何の役にも立たないし、僕に言い逃れをする権利はない。彼女は二番艦だが、この僕は旗艦なのだ。起こったことの責任は、僕のものだ。そうでなくてはいけない。

 

 青葉の治療をしていた隼鷹が、僕の修復材を求めて手を伸ばしてきた。僕はその手を押さえ、通常の医療品で済ませるように言った。希釈修復材は、欠損レベルの負傷に備えて取っておきたい。青葉の怪我は切り傷で、傷口は迅速な手当てを要する大きさだが、負傷度合いそのものは人間用の医薬品でどうにかなる程度だ。ここで僅かしかない希釈修復材は使えなかった。隼鷹は僕の決定を不服そうにしながらも、受け入れた。その彼女の腰に、スキットルがぶら下がっているのを見つける。「あんたらが寝てる時に回収させて貰ったんだ」と彼女は言った。

 

「それをくれ」

「勝手に取りなよ」

 

 了解は得られた。僕は隼鷹のスキットルを取り、その中身を海に捨てた。それから操縦士の手当てを終えた那智教官に命じて、大型救命艇に付属している天蓋を組み立てさせた。これは雨風や日光を防ぐだけでなく、受けた雨水をやはり付属のタンクの中に貯める仕組みを有している。怪我人を組み上がった天蓋の下に退避させ、どちらかがスキットルで天蓋から垂れ落ちる雨水を受けているように教官と隼鷹に指示して、僕は次の動きを考えた。

 

 撃墜した機を深海棲艦は確かめに来る。この嵐と波で速度は出せないだろうが、やがては来る筈だ。離脱しなければいけない。これが穏やかな空の瀬戸内海にでも落ちたというのだったら、救助が来るまでのんびりと待っていればよかったろう。目印代わりの航空機の近くにいれば、その内に捜索機が飛んできて発見してくれたに違いない。しかしここは何処とも知らぬ海の上、嵐と敵とに囲まれている。何をするにも、まず移動だ。

 

 教官たちが救命艇に積み込んだ荷物の中には、貨物を縛る為に使っていたのだろうロープの束があった。北上と利根に言って、適当な長さに切ったそれを救命艇の左右に結わえさせる。備品のオールで漕ぐのもいいが、艦娘がいるなら引っ張らせた方が早いだろう。早速移動を命じようとすると、教官が別の意見を具申してきた。

 

「現在地も分からずに無闇に動くのは危険だ。せめて大まかにでも知らなければ」

「でもどうやってそんなことが分かる? GPSはいつものように壊れてる……みんなのはどうだ?」

「ダメだった。救命艇にもなかった。積んでないのか、墜落の時に失われたのかは分からないが。操縦士から位置を聞き出せるかもしれない。攻撃を受けた時に、座標を確認していた筈だ。旗艦手ずから持って来てくれた地図もあるからな」

 

 これには一理あった。でも操縦士は負傷して、意識を失っていた。傷は青葉ほどひどくないが、彼が青葉よりもタフであるようには思えなかった。

 

「分かった、やってみてくれ。でもダメだったらすぐに移動しよう」

 

 教官が操縦士を起こそうと試みるのを放っておいて、僕は海上の監視に入った。荒れ狂う海の上にじっと立っているというのは、それだけで技術を必要とする。だが敵が来た時にこちらが先に見つけられれば、それだけで少し有利になる。けれどもそれだけでなく、何かやっていないと恐怖で何もできなくなりそうだったのだ。無線で助けを呼びたかった。届くかどうか分からないが、使える周波数全てに呼びかけて、近隣にいるかもしれない艦娘たちを呼び寄せたかった。その行為が呼び寄せるのは実際のところ、近隣の深海棲艦だけだという知識が頭になければ、僕はそうしていたに違いない。

 

 きっかり三分後、操縦士は悲鳴を上げて目を覚ました。見ると、那智教官は彼女のナイフを鞘にしまうところで、操縦士は指を押さえていた。僕の視線に対して、言い訳するように彼女は言った。「切り落とした訳じゃない」大方、爪の間に差し込みでもしたのだろう。想像するだけで震えが来る。教官は起こしたそのパイロットを、もう一度寝かせてやるような優しさを有していなかった。地図を突き付け、きつい口調で質問をした。味方の負傷者に対して人道的な取り扱い方じゃなかったかもしれないが、お陰で情報は得られた。

 

 ハンドサイン(手招き)で僕を呼び寄せ、地図を広げる。雨を防ぐ為に、覆いの下でだ。僕は中腰になって救命艇に手を突き、天蓋に顔を突っ込まなければならなかった。「操縦士を信じる限り、我々はここにいるようだ」と教官の指が示す一点を見る。ハワイ諸島から千キロちょっと南に行ったところだった。「どうする?」教官の言葉に、僕は黙って深く考える。日本から南米へ向かう途中に僕らは撃墜された。ここから最寄りの日本海軍は、ソロモン諸島のブイン基地かショートランド泊地の所属だ。敵も馬鹿じゃない。僕ら(生存者)がソロモン諸島を目指して進む可能性を忘れはしないだろう。となれば、待ち伏せ部隊を配置したり、ソロモン諸島へのルート上を重点的に哨戒すると見ていい。

 

 他の行き先はどうだ? ハワイ諸島は? ソロモン諸島までは四千、五千キロは距離があるが、ハワイはその四分の一か五分の一だ。理論的には、半日もあれば到着できる。問題は、米軍の艦娘と深海棲艦が、そこを取ったり取られたりしているという点だった。米軍が占領すると、数ヶ月後には深海棲艦の猛攻で奪い返される。けれど再びその数カ月後には海を埋め尽くす勢いの米軍艦娘がやって来て……これは信憑性のない噂だが、何でももうハワイ諸島には平地しか残ってないって話だ。山やら丘やらは全部砲撃で地ならしされてしまったのだという。もし噂が本当だとしたら、仮に戦争が終わってもハワイは二度と立ち直れないだろう。歴史も、文化も、永遠に失われてしまったという訳だ。それだけで戦争はクソだということがよく分かる。

 

 ともあれ、ハワイ諸島行きは賭けになる恐れがあった。誰も今そこを支配しているのがヤンキース(アメリカ軍)ディープワンズ(深海棲艦)のどちらなのか、知らなかったからだ。行ってみて見てみると敵だった、などというのは避けたかった。敵でなかったとしても、誤射されかねない。ただでさえヤンキーどもは誤射が多いと世界中で有名なのだ。深海棲艦の爪の垢でも煎じて飲めばいいと思う。

 

 もちろん、南米に自分たちで向かう、などという選択肢もなかった。近くのキリバスやマーシャル諸島という手もなかった。そこいらはとうに人間のいない場所になっていたからだ。結局、ソロモン諸島に行く道しかなかったのである。それに捜索隊が出るとしたら、そこからだろう。上手く行けば、捜索隊と合流できるかもしれない。僕は那智教官に言った。

 

「ソロモン諸島に向かおう」

「うむ、それしかあるまい」

 

 僕らは旗艦と二番艦、少尉と小隊付軍曹、夫と妻みたいなものだ。短い言葉で分かり合えた。どちらかと言えば僕が妻をやった方がいいだろうが、それは置いておこう。まずはここから移動、そして安全な場所で航路を決め、燃料がどれだけ必要かを導き出すのだ。那智教官や隼鷹は、脚部艤装こそなくとも燃料を持っている。それを牽引する艦娘に渡せば、かなりの距離を移動できる筈だ。これまでにない試みである為、確実なことは言えないが。

 

 指示を出そうとした時、緊迫した北上の声がした。「十時の方向に敵を発見、こっちに近づいて来てるよ!」僕は咄嗟に命令した。「利根と北上は救命艇に上がって伏せろ! 教官と隼鷹は天蓋を畳み、ボートの空気を一部抜け!」そうして、自分はまたも脚部艤装を外して救命艇に投げ込み、水に入った。結わえさせたロープを掴み、撃墜された航空機の残骸や浮かんでいる貨物箱、それらの破片などに紛れて、南へと進む。運のいいことに、波が味方してくれていた。僕は舵取りをして、近づいてくる破片等の中の尖ったものを気をつけて払ってやればよかった。

 

「敵の様子は?」

 

 一時間か二時間は経った気がしたが、戦闘中の時間の感覚は当てにならない。僕の質問に答えたのは利根だった。「どうやら、引き上げるつもりらしいの。お主もはよう上がってこんと、風邪を引くぞ」「そうしよう。手を貸してくれ」天蓋の中に手を突っ込むと、柔らかな感触があった。残念なことに誰かの胸じゃなかった。教官の手だ。海の戦士の手とは思えないほどに、女性らしい手だった。引き上げて貰って、僕は救命艇の縁に腰を下ろした。ボートに寝転がりたかったが、ずぶ濡れで入ると海水が艇内に入ってしまう。嵐のせいで艇内に溜まった水は真水だから飲むこともできるが、海水はそうは行かない。水は貴重なのだ。仕方なく、僕は汲み出しと貯水作業が終わるまで吹き付ける雨風に耐えなければならなかった。

 

 ようやく条件が整い、転げるようにして天蓋内に入った。体が冷え切っていて、歯の根が合わない有様だったが、指示を出さなければならない。しかしどうにも言葉がまともに出て来ない。必死の思いで僕は言った。「二番艦、任せる」「任された」教官は頼りになる女性だ。てきぱきと命令を下した。

 

「隼鷹、旗艦を暖めてやれ。青葉とパイロットの面倒も、当面はお前に任せる。北上、お前は監視員だ。三百六十度とは言わん、二百七十度を警戒しろ。ついでに抜いた空気を入れ直せ、ポンプがそこにある。利根、お前がこの船のエンジンだ。進行方向の縁に座って、脚部艤装を作動させろ。潜水艦じゃないが、静音航行を心がけるように。コンパスはあるか? よし、それを使え。私はオールを使って舵を取る。どちらにどれだけ曲がるかは、利根、お前が判断しろ。いいな? では掛かれ!」

 

 青葉と操縦士は困らなかった。横になっているだけでよかったからだ。北上は苦労するだろうが、不可能なことを命じられたのではなかった。利根だってそうだ。責任重大ではある、ではあるが、やるべきことを指示された。困ったのは隼鷹だった。何しろ彼女に下されたのは「暖めてやれ」だった。だが、どうやって? ゴムボートの上、天蓋の下で火を焚くか? ふうん、そしてその光を深海棲艦に見つけられてしまうんだな──そうでなければ一酸化炭素中毒でみんな死ぬかだ。で、あれば、自然と弾き出される答え、熱源の在り処は一つだった。

 

 恐らく、那智教官と北上、利根の三人は気を使ってくれもしたのだと思う。教官はわざわざ僕らに背を向けてオールを構えていたし、北上も後ろを向いて警戒し、決して振り返ろうとしなかったからだ。利根に至っては天蓋の外にいた。僕は彼女に、腰のサバイバルキットを入れたポーチからブランケットを差し出した。撥水加工などもしてあるので、彼女の体温低下を防げる筈だった。その後、僕と隼鷹は互いの体温を分かちあった。青葉は息をしていたが、眠っていた。操縦士も、現在地を聞き出した後には寝かせて貰えていた。見ていた者は誰もいなかった。よかったと思う。生きて帰れるか分からないが、帰れたら絶対にこれをネタにしてからかわれるだろうからだ。青葉などは記事にするかもしれない。

 

 僕は震えながら隼鷹に「悪いな、冷えるだろう」と言おうとしたが、実際に口から出たのは「わわわわわ」みたいな感じだった。彼女が僕を抱きしめる力が、ぎゅっと強まった。濡れた衣服は脱いで絞ってボートの片隅にやっていたので、彼女の生の肌が僕のそれに押し付けられることになった。男性的な、余りに男性的な生理現象が起きたらどうしようか、などというのんきなことを考える余裕があったのは、隼鷹の献身によって少しずつ体が暖まっていたからだろうか。うとうとしながら、復調を待つ。眠りに落ちると、隼鷹が頬をつねって起こしてくれた。睡眠は重要だが、体温の低下を招く。低体温症から回復するまでは、眠ることもできないのだ。

 

 気づくと嵐は止んでいた。風は多少吹いていたが、天蓋の中にいたので寒くはなかった。体温も通常程度に戻っているようだ。「隼鷹」今度は震えずに声も出た。「もう大丈夫だ。ありがとう」僕らは体を離し、服を着た。湿ってはいたが、体が冷え込むほどではない。教官が言った。「指揮権は貴様に戻った」僕はそれを認めた。

 

「早速で悪いが、糧食と水の量を確認しよう」

「分かった。北上、舵取りを頼む。利根、北上に舵を代わったぞ」

「うひー、忙しいねえ」

「ぬう、吾輩もちと疲れてきたぞ」

 

 これが終わったらボートの牽引は僕が交代するから、と利根に約束して、もうちょっと頑張って貰う。隼鷹はまだ僕に休んでいて欲しいようだったが、働ける者は働かなくてはいけない。僕は教官と二人で、彼女が積み込んだ物資を数えていった。お世辞にも多いとは言えなかった。これが僕と教官の二人旅なら、差し障りはなかったのだ。しかし今回、この大型救命艇には負傷者二人を含む七人が乗っていた。訓練所や旗艦学校で習ったことを思い出す。その途中で、思い当たることがあった。

 

「今何時だ? 墜落からどれくらい経った?」

「日本時間で午前三時二十八分。墜落からは二時間か三時間ほどだ。ほら」

 

 そう言って教官は手帳を差し出した。それは青葉のもので、濡れていなかった。ジッパー付きのポリ袋に、ペンと一緒に入っていたそうだ。隼鷹が青葉の手当てをする為、服を脱がせた時に見つけたのだった。それを那智教官は航海日誌をつけたり、墜落時刻やその手の種々のデータを書き記すのに使っていた。

 

「正確な現在地は出せないが、移動時間とその方角などを勘案すると、大体この辺りだ。今は空が曇っているが、晴れたら六分儀を使って、より細かい位置を割り出せるだろう」

「六分儀があるのか」

「私物だ。旗艦に対して無礼かもしれんが、貴様はまだまだ備えが足りていないな。帰って休んだら、しっかり教えてやる」

 

 参った、と僕は両手を上げた。思うに、教官殿にはいつまで経っても敵わないようだ。そのことは手帳に書いてある丁寧な文字を読むことでも分かった。水の量、救命艇に備わったソーラー式蒸留器の状態、脱塩キットの数、糧食の数、配給計画案……僕がやるべきことは全てそこで片付いていた。喉元まで「あなたに指揮権を委譲したいのですが」という言葉が出かかった。そんな無責任な真似、那智教官の前でだけはできない。何があろうと彼女の前でだけは、立派な艦娘らしい僕でいたかった。実際にそれができるかどうかはまた違う話である。

 

 配給計画案については話し合いが必要だった。僕の立てた移動計画と、那智教官の考えが異なっていたからである。教官は日中も移動を続け、可能な限り迅速に味方の領域へ向かおうとしていた。けれど僕は日中の移動を避け、海錨(シーアンカー)を投じて日没を待ち、夜陰に乗じて移動を繰り返す心づもりだった。



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「洋上」-3

 どちらにもメリットとデメリットがあった。教官の案は、敵に見つかる蓋然性(がいぜんせい)の高いものだが、その一方で敵が準備を整える前に味方のところへ戻れるかもしれなかった。第一、迅速だ。僕の案は、敵との接触は最低限に抑えられるだろうが、物資のやりくりに難があった。雨でも降ってくれなければ、食料はともかく水が尽きてしまうだろう。ソーラー式蒸留器の真水生産量は、最高の条件下でも一日五リットルだ。実際にはそれをずっと下回る。水がなくなれば、僕らは干上がってくたばってしまう。それを防ぐには、水の配給量を那智教官の案より減らさなければならない。それも、相当な割合をだ。

 

 教官は一人につき毎日二リットルの水を配給するべきだと考えていた。これは医学的に見ると最善の量だった。この量であれば、消化によって消費される水分のことを気にしたりせずに、どんな糧食も食べることができる。魚を釣ったり、鳥を捕まえて食べることだってできるだろう。ソロモン諸島まで五千キロと見て、利根と北上と僕の三人が二人牽引、一人休憩の交代制で向かえば、計算上はおよそ八十三時間で到着する。実際にはぶっ続けで活動はできないし、それよりも先に救援隊との連絡を取ることができるだろう。自分たちの力だけで基地まで帰還するというのは、最後の手段だ。けれど八十三時間、三日半と考えて七人に毎日二リットルの水を供出するのか? 約五十リットルを? それは蒸留器や脱塩キットをフル活用し、真水を海水でかさ増ししてやっと出せる量だ。何かをしくじった時に、取り返しがつかない。

 

 僕は教官と違う考えを持っていた。水は可能な限り節約するべきだ。糧食のケースの中には密封された砂糖の小袋もあった。様々な実験などから、五百ミリの水に砂糖を小さじ二杯入れたものを飲めば、じっとしている限りその一日は脱水を起こすことはないとされている。なら一リットルの水と必要分の砂糖を配給すれば、脱水を防ぎながら水も節約できるだろう。救援隊と連絡が取れたら、その時には水でパーティを開けばいい。しかし、それまではお預けだ。例え教官が僕にしなだれかかって、水をくれるなら何でもすると言って来たとしても、だ。まあ、そんなことは起こらないに違いないという確信があった。那智教官は僕を籠絡するよりも、僕を拘束する方が楽だと知っている。

 

 天蓋をまくり、外を見る。曇りだ。黒くて分厚い雲が、太陽光を完璧に遮ってくれている。お陰で月夜みたいな明るさだった。風でじきに吹き飛ばされてしまうだろうが、それまでは移動も安全に継続できる。時計を見る。僕は右手と左手に一つずつ腕時計をしているのだが(何しろどちらの腕もしょっちゅう消し飛ばされるのだ)両方とも動いていた。流石は軍用だ。午前三時半過ぎ、日本ならまだ夜も夜ってところか。ところがハワイの南千キロじゃ、事情が違う。ここじゃ日の出は午前一時から二時の内で、日の入りはその十二時間後だ。雲の僅かな切れ目から見える太陽の位置から考えると、日の出から二時間は経っているだろう。僕らの飛行機は日の出の直前頃に墜落したらしいな。

 

 那智教官との話し合いはその後も続いた──お互いに意見をぶつけ合い、僕と彼女がそれぞれ持つ計画が、その遂行の最中に遭遇すると予想できる状況にどう対応できるかで、案としての強度を計測しようとしたのである。どちらにも弱みがあり、どちらにも強みがあった。なので、とどのつまりは折衷案ということになった。水はある程度節約する、しかし移動は日中も行い、素早い敵勢力圏離脱を目指す。僕らが無線で助けを呼べないのは、ここが敵勢力圏の奥深くで、たとえ近隣の艦娘たちに声が届いたとしても、彼女たちがここまで来れない(そして付け加えるなら、僕らの無線を傍受した深海棲艦たちは鼻歌交じりでも来られる)からだ。せめて、人類と深海棲艦の勢力圏がぶつかる前線海域にまで逃げられれば、無線で助けを求めることができる。その距離なら、直接泊地や基地の連中とも話せるだろう。

 

 話は決まった。僕らはやるべきことに取り掛かった。時刻は午前四時半だった。一時間ほど話し込んでいたようだ。

 

「利根、天蓋に戻って休め。北上、僕と一緒に船を引っ張るぞ。さっきのロープを使うんだ」

「はいはーい」

「待ちに待った休憩か! ありがたいぞ、あ、天蓋の風除けを上げさせて貰ってもよいかの?」

 

 換気にもなるし、これから日が高くなるにつれて、天蓋内は蒸し焼きになる。利根の提案を却下する理由はなかった。利根からコンパスを受け取ってから水の上に立ち、ロープを掴んで機関を始動させる。徐々に加速していき、事前に教官と取り決めた三十五ノットまで達する。いつもなら風を切って進むのは気持ちがいいものなのだが、今日は例外だ。気が重かった。海に出てこんな気分になったのは初めてだと思うが、遭難するのだって初めてだ。

 

 それにしても捜索救難艦隊が空から落ちた挙句、海難とは! この皮肉に、思わずくすりと笑いが出た。この状況でそんな感情が生まれることに驚いたが、艦娘としてはむしろ当たり前のものだったのかもしれない。特に、僕は世界一タフな教官に鍛えられ、お墨付きを貰って訓練所を出た艦娘なのだ。気丈なユーモア精神が根付いていることにも頷ける。北上は怪訝そうな顔をしてこちらを見た。その表情がまた、おかしく見えた。すると、彼女も口角を上げて訊ねた。

 

「どしたのさ、にまにましちゃって。やらしいことでも想像してたの?」

「違うけど、そいつは生きる希望を保つ為の、掛け値なしにいいアイデアだな」

 

 この短いやり取りの間にも既に、僕の気分は少し上向いていた。艦隊員と軽口を叩き合うことは、旗艦としては褒められた行いではないかもしれない。それはその立場にある艦娘の威厳を損なうものだと言う人もいる。しかし、そういった権威者たちの言葉を軽んずる訳ではないのだが、それはそれとして彼女たちとの会話が精神を休め、心を和ませることについて極めて大きな役割を果たすことができるというのは、僕個人の経験からしても明らかな事実だった。加えて、僕はこの状況下では旗艦の威厳よりもまず心の健康を保つことの方が重要だと考えていた。

 

 無論、人間としては落ち込む方が当然だ。響は死んだだろう。友達を失くして一日と経っていないのに笑うとは何事だ、と言われれば、返す言葉もない。だが、そもそも戦場で人間らしくあるということは、遠回しな自殺の方法だ。だから僕には到底、そんな恐ろしい選択を下すことはできなかったのだ。

 

 水偵……いや、水観を二機飛ばし、進行方向を偵察させる。燃料は余分に食うが、前方に敵がいた場合には戦闘を避けなければならない。妖精たちにも、その旨は伝達してある。きっと、上手に立ち回ってくれるだろうと僕は信じていた。僕の約二年に渡る艦娘としての活動の中で、妖精たちは僕に対して彼ら彼女らの信頼性と献身を完全に証明していたのだ。そうなるとは考えたくないが、万が一水観が敵に発見された場合、僅かな例外的状況を除いて妖精たちは戻って来ないことになっている。僕たちの位置を敵に知らせない為だ。これよりも妖精たちの忠誠を確かに僕へと信じさせる事実があるだろうか? あいつらは、自分たちの使命を果たす準備ができているのだ。そんな連中と共に戦えることは、誇らしいことでもあった。

 

 水観から暗号化された無電が入った。僅かな駆逐艦で編成された敵の艦隊が、針路を横切るようにして進行中らしい。このまま進めば、ばったり出くわすことになるそうだ。僕はハンドサインで北上に指示をして、足を止めた。天蓋の中の教官たちに事情を伝え、水観妖精には監視を続けさせておく。もう大丈夫、となれば移動を再開すればいい。その間に、青葉の様子を見てみる。彼女はずっと意識を失ったままだ。呼吸はしているので生きてはいるのだが、意識を喪失していては水も飲ませられないし食事もさせられない。早く目を覚ましてくれることを祈るしかなかった。祈るだけでは十分でないことは分かっていたが、それだけが今この時の僕にできることの全てだったのだ。

 

 隼鷹が「青葉、さっき一瞬起きてたよ。水と糧食を一口ずつやったら、また寝ちゃったんだけどさ」と言ってくれたので、気が楽になった。青葉は、疲弊した体を休ませているだけなのだ。一度目を覚ましたのなら、そのまま死んでしまうようなことは起こるまい。隼鷹はわざわざ青葉のかじったブロック状の保存食を見せてくれた。僕は彼女の気遣いに苦笑いを浮かべ、彼女への友人としての愛情が前にもまして大きくなるのを感じた。いつか軍を抜ける日が来るとしても、この素晴らしい女性とは一生の付き合いを保っていたいものだ。まあ、今のところ望まない形で一生(死ぬまで)の付き合いになりかねない状況だったが、それはあえて無視しよう。

 

 水観からまた無電が来た。針路クリアの伝達だった。僕らはまた動き始めた。

 

 一時間ごとに二人の内の一人を入れ替えながら、僕と北上、利根は救命艇を引っ張り続けた。一時間交代というのは忙しないと北上たちは思ったかもしれないが、気を抜かずに警戒しながら救命艇を牽引するというのは、結構な重労働だ。また、僕が旗艦になるに当たって受けた教育によれば、こういった状況での見張りを内容に含むような労働は、連続二時間までにしておくことが重要だとされていた。人間の集中力というのは、連続で活用するとすぐに枯渇してしまう。鍛えられた艦娘だったとしても、精々二時間が限度なのだ。注意散漫な者を見張りに立てていたところで、何の利益もない。

 

 常に集中力を維持させていたこと、そして水観妖精たちの任務遂行に懸ける意志の力の甲斐あって、僕らは初日の日の入りまで、一度も接敵することなく進むことができた。日が水平線の向こうに沈んでいくのを見て、僕は美しいと思った。シチュエーションが違えば、最高の夜だったろう。考えてもみるがいい、と自分を説得するかのような言葉を胸で呟く。周りには美人だらけ、動ける男は僕一人。まるでハーレムの王様じゃないか。邪な考えを頭の中で弄んでから、ぽいと投げ捨てる。空腹で、妄想に浸る余裕もなかった。

 

 食料はあったが、それは全て遭難時に喫食することを目的に開発された高カロリー栄養食であり、つまるところ体を動かし続ける為の最低限の燃料みたいな具合で、腹の足しにもならなければ士気の足しにもならないものだったのだ。僕たちみんな、飢餓感を覚えていた。北上は無意識にか指の爪を噛んでは、ふと気づいてやめていた。飢えだけでなく、渇きも少なからずあった。砂糖水のお陰で脱水症は起こしていなかったが、水を入れた容器を見る度に、それを思い切り喉に流し込む自分を想像せずにはいられなかった。

 

 夜になってから、解決のしようがない問題が二つ発生した。水観が出せなくなったこと、そして大人らしく恥ずかしがらずに直接的な言葉を使おうか……排便の問題である。

 

 僕らは生き物だ。当然、食べれば食べただけ出すし、飲めば飲んだだけ出す。自然の摂理であり、これは僕でも那智教官でも逃れ得ない運命と言えよう。下は駆逐艦から、上は大戦艦殿まで、誰でもトイレに行く。行かないのは那珂ちゃんだけだ。けれど、この広い大海原の何処に鍵付き個室洋式トイレなどという気の利いた用意がある? 僕らは、この海そのものをトイレに使うしかなかった。誰か天蓋の風除けを目隠しにして用足しをすると、暫くみんなの口数が減った。でも、こういった不便さにはその内に慣れるだろう。そんなものは真の「問題」ではなかった。

 

 真の問題は、青葉と操縦士の排便だった。青葉はまだ意識を失ったままだったし、操縦士だってそうだった。彼女と彼が漏らしたものを後片付けするのは絶対に嫌だということで、僕と僕の艦隊員たちは共通の見解を持つことを確認した。でもどうやってその、排尿などをさせたものだろうか。僕は十二歳から十五歳の時に受けた学校教育に答えを求め、生物の時間に学んだ知識を総動員して、案を提出した。

 

「膀胱を刺激してみてはどうだろうか?」

 

 この案への反対は皆無であった。僕はしめしめと思った。だが「テストとしてまず青葉を……」と言ったところで那智教官が「重要な発言は航海日誌に記録しておく」と宣言したので、僕の少年らしい企みは完膚なきまでに破砕された。仕方なく、操縦士を担いで服や下着を脱がせ、救命艇の縁に腰を下ろさせる。そうして彼の毛深い下腹部を触りながら、人生には何があるのか分からないものだと考えていると、反対側から青葉を担当した隼鷹が質問を投げかけてきた。

 

「膀胱を刺激するって、どうやんのさ?」

「下腹部のマッサージだ」

「下腹部?」

 

 彼女のオウム返しな問いかけに、僕は投げやりな気持ちで言った。

 

「恥骨の辺りを押さえて緩やかに振動を与えてみろ」

 

 生物学的にその対象が人間であれば、女性の膀胱というのは大抵の場合、恥骨(あるいは恥骨結合と言うべきかもしれないが、僕は医者じゃない。艦娘だ)と子宮の二つに挟まれた場所にある。子宮の後ろには腸もあるが、まさか青葉の尻に手を突っ込んで直腸側からも押せなんて言えはしない。そんなことをしたら青葉はショックで死んでしまうだろう。あるいは後で話を聞いた時、死んだ方がマシだと思うだろう。僕は彼女の友人として、彼女にそんな思いをさせるようなあらゆるものから彼女を守りたいのだ。その逆ではない。

 

 僕の思いは伝わったようで、この発言は医学的に正当性のある真摯な言葉であると受け止められた。よかった。助かった後で、艦隊員たちに「そういえばあの時」みたいな話を陰でされたくはない。言うまでもなく、面と向かって言われるのも嫌だ。

 

 操縦士の大小の面倒を見た僕は、彼に下衣を履かせ、再び天蓋の中に戻してやった。彼を横にさせていると、隼鷹が体を捻って天蓋の風除けに首を突っ込み、こちらを見て言った。

 

「出たよ」

「よかったね」

 

 思わず素で返してしまったが、それ以外にどんな言うべきことがあっただろうか? 僕は青葉が目覚めても、この時のことは絶対に黙っていようと心に誓った。それこそ何があってもだ。彼女の名誉は守られなくてはいけない。僕と関わったばっかりに、彼女は融和派との繋がりを持ち、知らずに薄氷の上で踊ることになってしまったのだ。これ以上、僕のせいで何か青葉が不幸になりかねない事態を招きたくなかった。そんなことになれば、僕は青葉の友人なのだと自信を持っては言えなくなってしまう。青葉が彼女の優しさで僕を許したとしても、負い目が残る。

 

 その晩には不思議な出来事もあった。僕と北上が牽引作業をしていた時のことだ。雲が星を隠してしまって真っ暗闇の中、僕らは進んでいた。時折は雲の切れ間から星や月が顔を出して光を与えてくれるのだが、現れた時と同じぐらいすぐにまたベールの裏側に引っ込んでしまうので、てんで頼りにならなかった。僕と北上は、溜息を吐いて空を見上げた。同じタイミングでだった。僕はそれが彼女と僕の気持ちが一つになっていることを示すものであるように感じて、暖かな気持ちになり、前を向いた。その時だ。視界の端に、何か動くものがあった気がした。

 

 僕は首を回してそっちを見て、驚きに声も出せず、ただ口をぱくぱくさせた。すぐそこ、十数メートルかそこら向こうに、深海棲艦の一隊がいたのである。重巡に戦艦、正規空母を中核に構成された艦隊で、どう考えても今の僕らでは太刀打ちできない相手だった。彼女たちは揃ってさっきの僕らのようにぼんやりと空を見上げたまま、僕たちが来た方向へと進んでいた。そして、こちらに気づかないまま水平線と夜の闇の向こうへと消えていった。※81

 

 彼女たちが行ってしまってから、僕は北上を呼んだ。「んー?」と気のない声で返事をした彼女に、何と言えばいいか分からなかった。「おい、たった今僕らは命拾いしたんだぜ」とか、あるいは「今のを見なかったのか?」だろうか。どちらにせよ、北上は僕の言葉を信じないだろう。自分自身、半ば信じられないでいたのだ。それで最終的に、僕は言った。

 

「前を見ていよう」

「そだね」

 

 そういうことになった。

 

 交代の時期が来て、僕は利根と代わった。一時間のお休みだ。僕は救命艇の腰掛けに座って、目を閉じた。寝られるなら寝なければいけないのだが、寝られそうになかった。様々なことが胸に去来して、平静をかき乱すのだ。その筆頭が赤城たちの寄越したあのデータのことだった。人型深海棲艦が増えた理由、鬼級深海棲艦の現れた理由。こんな時に考えることではないが、想像せずにはいられなかった。人型深海棲艦は旧型艦娘配備の後に増加したのであって、新たに現れた訳ではない。僕に与えられたデータが十分かつ確からしいものである確証はないが、これだけを見て言うなら、艦娘の配備が人型の増加に関わっていることは容易に推測することができるだろう。では、何故増えた?

 

 最も単純な説明は、艦娘が沈むと深海棲艦になるというものだ。人型深海棲艦の増加と結びつけるところには独自性があるが、これは十割が僕のオリジナルのアイデアという訳ではない。安直な話ではあるのだが、こう考える人々は一定数いるのだ。深海棲艦を解析して艦娘が生まれたのだから、その逆が起こってもおかしくない、という論理だろう。それが正しいかどうかは分からない。けれど、僕もその考えには反対できない。科学的な裏付けはないにせよ、安直なりにもっともらしさがある。しかしそうすると、原初の一人は何処から来たのかという話になる。鶏が先か卵が先か……とは多少違うか。今回はどちらが先かははっきりしているのだから。

 

 他に説明はあるだろうか? さあ、どうだろう。あるのかもしれないが、思いつかなかった。仕方ないだろう。人型深海棲艦がどうして人と同じ形をしているのかという問いにさえ、人類は正しい答えを出せていないのだ。色々な人々が頭を捻って考えたが、どれも決め手に欠けていた程度である。ましてもっと根源的な問いに答えられる筈もなかった。中には収斂進化説という珍妙な意見もあったことを不意に思い出した。海で生きていくのに、陸棲生物の人間と同じ形を持つことが有利だった、だって? 幾ら何でも、それはないだろう。

 

 頭が回らないのに、僕は考えようとしていた。よくないことだ。漠然とした思考で気力と体力を浪費し、旗艦の務めを果たせなくする行為である。思考を振り払おうと努力する。その内に、一時間なんかすぐに経ってしまった。「交代だよー」という北上ののんびりとした声に、目を開ける。彼女のいつもと変わらない態度は、僕を安心させてくれる。しばし見上げていると、柔らかな微笑みをたたえた北上が言った。「大丈夫?」旗艦ともあろう者が弱音を吐く訳には行かない。僕は自然に頷いて、立ち上がった。

 

 海の上に立つ。民間人たちは艦娘について沢山の勘違いをしているが、その一つに『艦娘たちなら誰もが海を好いている』という誤った認識がある。実際には、誰でもが好いているのではない。僕だってその時々で、水の上に立って「ああ、やっぱり僕は艦娘なんだなあ」と思う時もあれば、土の上に立って「とは言っても生きるなら陸の上に限るな」と思うこともある。今日の僕は、どちらかと言えば後者側だった。最寄りの陸地から数千キロ離れているということが、僕をそういう気持ちにさせたのかもしれない。

 

 利根と協力して救命艇を引っ張る。ロープは体に食い込むので、たまに持ち直してやらなければならない。そうしていても、跡が残りそうで嫌だった。僕は自分の体に見とれるようなナルシストではないが、そういう傷や跡が自分の体に残るというのは気に入らない。広報部隊での経験が影響しているのだろうと推測する。まあ、これらの心配は杞憂だ。圧迫痕などは、僕が生きている限りドックに入れば治る類のものだからだ。ただし、首を絞めて殺した艦娘の体をドックに放り込んだらどうなるかについては、データがないので答えられない。

 

 時間というのは、座って目を閉じていると矢のように過ぎていくというのに、海を走っているとこちらの速度に反比例するかのような遅さになるものだ。そろそろ一時間だろう、と思って時計を見ても、十分しか経っていない。もう三十分は経ったか、と見直すと、十五分しか経っていない──集中力が失われてくると、そういうことがよく起こる。車の運転と女性への口づけを例に取って相対性理論の説明をしてもいいのだが、それより僕が興味深く思っていたのは、利根の口元の動き、そして彼女の小さな口の中にある何かだ。それは彼女の真っ白な歯だとか、ピンク色の柔らかな歯茎だとか、鮮やかな紅色の舌のことではない。彼女は何かを咀嚼していた。正確に言えば、し続けていた。僕は海の音に紛れて聞こえるか聞こえないか、という大きさの声で、憶測を口にした。

 

「それ、ガムか?」

「うむ、北上がくれたのだ。欲しいか?」

 

 イエス以外に答えはなかった。利根は悪戯が成功した子供のように笑うと言った。

 

「残念じゃなー、これが最後の一枚なのじゃ。欲しければ吾輩の口に指でも突っ込むことじゃの!」

 

 このように言われて、奮い立つどころか怖気づいて引っ込んでしまう人々もいる。そういう連中には言ってやりたい。人生を、もっと素直に楽しむことだ。僕は迷わなかった。一人の男性として、彼女のような軽率で愛嬌のある人物に対してどう振る舞うべきかを知っていた。すっと近寄り、さっと手を出し、ずぼっと指を突っ込んでやる。「むぐっ!」と声がして、指先にまず柔らかくてぬめぬめしたものが触れ、その次にやや固いものが触れた。それを指に引っ掛けて取り出そうとすると、利根は逃すまい、奪われまいと口を閉じようとした。けれど遅かった。彼女が噛んだのは僕の指ではなくガムだったのだ。僕はガムをつまみ、伸ばして、断裂したところでひょいと自分の口に放り込んだ。そのせいで本来の半分の大きさしかなかったが、全部取ってしまっては利根が可哀想だ。彼女は残り半分を口の中に戻し、自分の唾液で濡れた唇と口元を指で拭いながら、僕に恨みがましい小声で言った。

 

「この負けず嫌いめが」

「何を今更」

 

 ガムは味もなかったし小さかったが、集中を保つには事足りた。

 

 次に僕が牽引作業を担当したのは、闇が一番深くなる頃合だった。僕はまだガムを噛んでいて、隣にはまた利根がいたが、さっきみたいな会話はなかった。僕も彼女もぴりぴりしていたのだ。特に理由はなかったが、何かを感じ取っていたのだと思う。救命艇にいる残りの連中も口を閉じて、身じろぎと息の音だけを発していた。機関の低い唸り声と、救命艇が水の上を滑る時に立てる囁きに、僕らは耳を澄ませていた。

 

 こう静かになると、物思いに耽ってしまうのが僕の悪癖だ。訓練によってそれは抑制されていたが、それでも時々は顔を出すのだった。僕は響のことを思い、少しだけ泣いた。声など出さなかった。涙を数滴落としただけだ。彼女ともっと仲良くなる機会は永遠に失われてしまった。彼女は僕の知らない内に、知らないところで、誰にも見取られずに、天龍のような最後の言葉さえ残せずに死んだ。そんな風に彼女が死ぬとは思いもしなかった。運命が実在するとしたら、それは彼女を不当に扱っているに違いなかった。響は歴戦の勇士で、どんな時も冷静で、多弁ではないが常にユーモアを忘れず、博学であり、今までに僕が知り合った駆逐艦娘の中で最も大人らしい温かみと優しさを持った人だった。彼女に会いたかった。会って、いつものように「やあ」と声を掛け、話をしたかった。だが響は去った。もういない。銀髪と見紛うような薄い水色の髪の毛も、眠そうな目つきの裏に隠した鋭い観察眼も、不可解な信仰も、帽子を脱いだ時にふわりと辺りへ舞い散るあの香りも、今や記憶の中だけのものだ。

 

 僕の心の片隅に生きているあの天龍が「許せねえよな」と呟いた。「ああ」と僕は胸の中の彼女に呟き返した。天龍の時のように、今度もまた、復讐が必要だ。苦しみはそのままにされていてはいけない。死んだのは、僕なんかじゃない。あの響なのだ。彼女の死に何の価値も、何の報いもないという判決は一切認めない。それを下したのが神だろうと、どうしても無理だ。十分な報償なしには、受け入れられない。彼女が死ななければならないような理由もなしに死んでいった響の苦しみも、彼女を失った僕の苦しみも、いや、それだけでは足りない。これまでに傷つき、死んでいった艦娘たちの苦しみ全てが報われなければ、僕はたとえ戦争が今日終わったって、それを認めないだろう。そんな平和はこれっぽっちも欲しくない、と感情的に突っぱねるだろう。

 

 深海棲艦と、彼女らに与する融和派たちは残らず死ななければならない。僕は赤城と電が何を僕に考えさせようとしていたか、忘れることにした。そして、研究所に戻ったら提督に電について話し、手を尽くして青葉を守ってくれるように頼もうと決めた。何処の提督に無理でも、うちの提督なら、という思いがあった。武蔵と接触を取ろうとも考えた。ああ、彼女は嫌な女だ。提督と同じように。けれど有能だ。それもやはり、提督と同じように。電という手がかりを掴ませれば、きっと赤城にまで達してくれるだろう。そうすれば、余計な考えに惑わされたり、悩まされることもなくなる。僕は以前のように旗艦の仕事を務め、戦い、生きるか死ぬかするだろう。

 

 でもその中に、あの響はいないのだ。僕が決して失いたくなかった、かけがえのない友達はいないのだ。彼女は天龍のような、心の中でだけ会うことができる、空しい虚像でしかなくなってしまった。「これが君の信仰への報酬だというのなら」と僕は挑戦的な態度で言葉を思い浮かべた。「『彼を信頼するものは、失望させられることがない』※82なんてどうして言えるんだ?」すると想像上の響は被っていた帽子を優しく僕に投げつけて、気遣いと憤りを同時に表した。これには僕も感銘を受けざるを得なかった。彼女は言った。

 

「私たち──つまり信仰者の魂がひたむきに努力するのは、いや、あるいはもっと具体的な行為を挙げようか。神を信じ、神に仕えて祈るのはね、それは現世での対価を求めてのことではないんだよ」

「僕は敵に撃たれてる間中ずっと、神様を心から信じて祈ってるぜ、当たりませんようにって。そんで、そこそこ聞き届けて貰ってると思うな」

「かもね。でも神に仕えてはいないだろう? 率直に言って、君が仕えてるのは悪魔だよ。君は自分が助かりますようにと願う。あるいはもうちょっと謙虚に、自分と自分の仲間たちが助かりますように、なんて。そして、他の誰かが代わりに死ぬことには何の文句も差し挟まない」

 

「君みたいな人以外はみんなそうさ。だって、神に仕えるには神を信じなきゃダメだろう。どういう理屈で全知全能にして僕らの創造主たる神様が、被造物からの甲斐甲斐しいお世辞なんか欲しがるのか分かんないけど、とにかくそれが要るらしいじゃないか? でも悪魔に仕える時には、そいつは僕らの甘ったるい信仰心も、身勝手な承認も、ましてやあの胸のムカつく(きよ)らかさなんてものも必要としないんだからな。聖らかさだって! 僕は気に入らないよ。君らのよい本に書いてある通りのことが歴史的事実だったとしたって、一体、僕らやこの世界全てを生み出したことがそんなに偉いのかね。あいつがこの世界を作った時に僕が何処にもいなかったからって、文句を言っちゃならないだとか、どうあるべきかを押しつけるだなんて!」

 

「でも君、聖らかさへの反発は不和にも通じるだろう。聖らかさは、好き嫌いや、個人的信念で選ぶようなものじゃないよ。それは人間の義務なのさ」

「信仰は個人的信念ではないとでも言うつもりかい? それに……ごめんよ、やけに話が逸れた。さっきの続きを教えてくれ」

「いいとも。言うならばだね、私たちが持っているこの信仰心というのは、実際のところまさに愛なんだ。親を愛する子の、子を愛する親の間にあるものなんだ。分からず屋の君が誤解しないように二重の表現を使うなら、無償の愛だ。対価だって? 報酬だって? 報いだって? 私は、私たちのよき魂は、そんなものを求めたりはしないさ。その考えは魂の穢れになり、傷になるものなのだからね。ところで友達にこんなこと聞きたくないんだけど、悪魔崇拝者さん、君は愛に対価を要求するタイプの人間なのかな?」

 

 もちろん答えは決まっていた。「いや」と僕は響に言った。「そこについては僕も多分、君と同じさ。たとえ君を愛していたとしても、それを理由に君から何かを受け取ろうなんて絶対に思わなかったろう。それは僕が嫌いな態度だ。不誠実だ」「おや、私は自分が君から愛されていると思っていたよ」「君が神を愛するようにの話なら、そうだよ」響は微笑み、分かるだろう、と僕に囁きかけた。僕は頷き、友人への愛情を込めて微笑んだ。

 

 そして突然に、また当然に、僕はそういった彼女とのやり取り全てが単に己の妄想に過ぎなかったことを思い出した。響の姿は頭の中から掻き消えて、僕の無意味で気味の悪い微笑だけが残った。眠ったら、夢の中で彼女に会えるだろうか? 付き合いの薄かった天龍とさえ、そこでは会えた。なら、実戦部隊への配備以来の付き合いだった響に会えない道理はないだろう。彼女の顔が見たかった。他の響ではダメだ。彼女の、あの響の顔が見たかった。しかし航行しながら寝ることはできないし、止まっていたとしても敵への警戒をしながら眠れる奴はいない。僕は休憩が待ち遠しかった。

 

 今だけは響を忘れようと、救命艇にいる那智教官のことを考える。彼女の魅力はその強さだ。肉体や装備の話ではなく、その不足を補って余りある鍛えられた精神の話である。僕にもそれが備わっていて欲しかったが、精神は個人の経験・体験が作り上げるものであって、訓練で促成できる肉体や、材料さえあれば生産できる装備とは訳が違う。それだけに、その重要性は大きかった。

 

 精神、この何だかぼんやりしたものについて考える度に思い出すのは、訓練所にいた頃のことだ。その時、那智教官は入所以来何度目かの徒手格闘訓練を行っていた。僕ら候補生はまだ赤ちゃんみたいに何も知らず、格闘訓練なんて言っても腕を振り回しながら相手に突っ込んでいくのが関の山だった。しかも、こういった訓練が本当に役立つのか疑ってもいた。正規のカリキュラムには存在しない訓練だったからである。現在の僕から言わせて貰うと、この疑念そのものによって僕らが犯してしまったことが証明されている「愚かさ」という罪は、厳罰を科されるに値するものだ。那智教官は初めは口で説明し、適当なところで切り上げて実技に入った。この時は、僕ではない艦娘が那智教官に投げ飛ばされる役目を負った。

 

 綺麗に投げられたその艦娘候補生は埃を払いながら立ち上がると、どうしても我慢できない、という顔で言った。

 

「教官、これはとても面白い訓練です。本当にそう思います。今まで自分がこんなに乱暴者とは知らなかったぐらいです。しかし、何の役に立つのですか? こんなことを練習するぐらいなら、砲や魚雷の扱いを学んだ方がよいのでは?」

 

 教官がこういったまともな質問を「自分で考えろ」というような言葉で一蹴したことはない。それは保証できる。候補生の質問や疑問に答えるのは彼女の役目であり、その問いかけがどれだけ馬鹿げたものであったとしても、教官はとりあえず答えようと試みることまで放棄したりはしなかった。例外は一度だけだ。その質問はある候補生の「何故戦争は続いているのですか?」だったが、この問いに答えるのは那智教官の権限を遥かに越えていたのである。

 

 彼女は、格闘訓練に疑問を差し挟んだ候補生に「私にも信じられないことだが」と言った。「実際、戦場において艦娘は未だに多くの問題を抱えているのだ。弾切れ、不発、装填不良、部品の破損……お前はその度に、深海棲艦に待ったを掛けるつもりか?」教官のこの問いかけは純粋な疑問でしかなかったのだろうが、侮辱されたと感じたその候補生は顔を赤くした。すると教官は候補生をじっと見て、普段よりは優しい声で言った。

 

「今のは意地の悪い言い方だったな。慣れるがいい。さて、私がお前たちを投げ飛ばしたりお互いに殴り合わせるのには、概ね二つの目的がある。一つは、先に言ったような状況下において、ここで学んだ技を戦場で用いる為だ。使う頻度こそ僅かでも、知識や経験の有無は絶対的な生存率の差となって表れる。もう一つは──これが大事なんだが──お前たちに『命令に従って他者を傷つけること』を覚えさせる為だ。

 

 深海棲艦は生物であり、従って傷つけば血を流し、痛みに苦しむ。命を持っている。お前たちの大半は、命令に従ってそれを殺すのが仕事になる。問題は、だ。中にはそんなことを気にしない者もあるが、大勢の新兵が初めて遭遇した人型深海棲艦を撃つことに……傷つけることに躊躇を覚える。良心が邪魔をするんだ。経験を積めばその躊躇いもいずれは消えるが、さりとてその為に誰か人を撃たせてやることもできん。人型深海棲艦の捕虜を取ることもほぼ不可能だ。これについて、軍は射撃訓練で人型標的を使うことで解決したつもりになっている。だが私の目が黒い内は、私の訓練隊でそんないい加減な真似は許さん!

 

 いいか、こういう言葉がある。『武器は、それを振るう腕よりは重要でない。腕は、それを導く精神よりは重要でない』。※83 これを言った、というより書いた男がどういう考えでこんなことを述べたのかは知らんが、言っていることは正しい。今日の戦争では、武器がなくては盾にもならんという点を除けばな。また、持っていても扱いを知らなければ役に立たん。そして武器を持ち、扱いをわきまえていても、自覚して他者の命を奪うことのできる強靭な精神力がなくては戦えない。だからお前たちは、努力して、武器を振るう腕や、それにもまして腕を導くに足る精神を養わねばならんのだ。そこで痛くて血は出るが死にはしない格闘訓練を通して、良心を制御し、命令に従って敵を倒す練習をしているという訳だな。

 

 理屈はこんなところだが、どうだ、分かったか?」

 

 その場にいた候補生の誰も、首を縦と横のどちらにも振らなかった。教官の引用が一つの重要な形容詞を省略したものであることが、わざとなのかうろ覚えだったからなのか訊ねようとしたものもいなかった。分かっていたのは、どうやら格闘訓練はためになるらしい、ということだけだった。そして僕らの理解するべき点というのは、まさにその一つに尽きたのである。

 

 僕がそれを意識したのは、かなり後になってからだった。第四艦隊に配属され、第一艦隊に出向してから暫く経った時分だ。日向と伊勢に広報部隊時代の話をしていて、その一環として僕はあの岩礁や付近で起こった戦闘の一件を語って聞かせていた。話しながら僕は、あの日、人型深海棲艦と初めて交戦した自分が、人間の形をした敵に弾を撃ち込むことに何の躊躇もなかったと気づいた。僕は驚き、興奮し、教官への敬意に震えたものだ。彼女のやったことに、間違いは一切なかったのだと。

 

 今日もそうであって欲しいな、と僕は願った。今日も那智教官は間違いを犯さない人であってくれればいい。僕は彼女にすがりたい。響が信仰に救いを見つけ、神に祈ることに安寧を見出したように、僕は那智教官に祈りたい。だから彼女に強い艦娘であって欲しい。立場が変わってしまったとはいえ、弱くなって欲しくはない。情けない、勝手な言い分だった。そんなことは自分でも分かっていた。だから口には出さないでいる。きっと教官でさえ、この気持ちだけは露とも知るまい。

 

 ぼそぼそと声が聞こえた気がした。この声の聞こえ方には覚えがあった。長門の第二艦隊にいた時、こんな声の後に潜水艦からの雷撃と、待ち伏せ攻撃があったじゃあないか。僕は利根と救命艇の連中に届く大きさの声で「警戒!」と命令し、自分も砲撃の準備をした。そして僕の気のせいであることを祈った。今の僕らには対潜装備が一つもない。爆雷や聴音機は響が装備しているものだけしかなかったからだ。唯一の対潜要員であった彼女がいない以上、もし多数の潜水艦による持続的な攻撃を受ければ、僕らは一人残らずこの海に眠ることとなるだろう。一隻、いや二隻までならどうにかなる。魚雷が尽きるまで避け続ければ、あちらは何もできない。通信で仲間を呼び寄せる為に浮上すれば、こちらからの砲撃の的になるからだ。

 

 十秒が経った。十五秒。二十秒。三十秒。何も起こらない。一分、二分、三分。砲弾も魚雷も、潜水艦も現れない。僕は肩の力を抜き、手を振って利根に警戒を解除させた。救命艇の方を見ると、天蓋の隙間からかすかな光を反射して輝く鋭い目が、僕を見返していた。教官だ。僕は黒板の前に出て解いた問題の答えが間違っていた子供みたいな気分になったが、そんな時に日本人がよく浮かべるはにかみの笑顔は出て来なかった。前を向き直り、無表情のままでいた。

 

 気まずかったからではない。警戒命令を出したのは間違いではなかったと思っていたからだ。あの声は、以前に聞いたものとよく似ていた。何を言っているのかきちんと聞こえない辺りもそっくりだ。はっきり喋れ、と僕は深海棲艦たちに苛立ちをぶつけた。

 

 小さな声でぶつぶつ言う奴らほど、僕の気に障るものはない。民間人だろうと、艦娘だろうと、艦娘ではない軍人だろうと、誰だって言いたいことはちゃんと言うべきだ。そうでなければ黙っていればいい。人間がぶつぶつ言うのは、それが独り言などでないのなら、明確に口にすることがはばかられるようなことを言っているからだと僕は考えていた。怒られるから、とか、自分の立場が悪くなるから、とかの理由があり、でも言わずにはいられないのだ。馬鹿馬鹿しい。僕はそういった態度の負け犬どもに対して、この一言よりも相応しい文句を知らなかった。昔は“女々しい”と言ったらしいが、「女性らしさ」という観念についてのあらゆる論争に巻き込まれるのを避ける為に、この言葉を使うのは避けることにする。そもそも、ジェンダーに関する僕の意見にもそぐわない言葉だ。

 

 ところでそれはさておき、鬼級や姫級ではない人型深海棲艦同士でもコミュニケーションが行われていることは、ほぼ確実とされている。これは、僕らの見ることができる彼女たちが、まがりなりにも現代的な軍事部隊の形を成していることからも推察できる。現代の軍隊は、獣の群れのような、頭を潰せば修復不可能な混乱に陥ってしまう原始的な集まりではない。ある種の社会性を持ち、高度に統制され規律の存在する、打たれ強い集団だ。もちろんこれからも軍のあり方というのは発展していくだろうが、ここに至るまでにさえ人は血と闘争の長い歴史を歩んできた。深海棲艦がいつ生まれたにせよ、彼女たちは僕らが長く汚れた道を歩いた末に見つけ出したものに、同じく到達しているのだ。であるならば、僕らが備えている情報伝達能力を持っていないと筋が通らない。やり方が違うだけで、その力はあるのだ。

 

 けれど彼女らの情報伝達のやり方が何によってどのように行われているか、ということになると、またもと言うべきか、世界最高の権威でさえ今もって皆目不明であると告白するしかないそうだ。とりあえず、彼女らは退化した声帯と、人間と同様の聴覚を持っていることが分かっている。本に書いてあったことだから、実際は違うのかもしれないが、少なくとも一般に公開されている情報ではそういうことになっている。

 

 彼女らのコミュニケーション方法については様々な説があり、その中でもっともそれらしいと人々に考えられているのは不可聴域音波、要するに超音波または低周波説だが、中にはテレパシー能力でやりとりしているのだという珍説もあった。深海棲艦はみんなサイキックだという訳だ。収斂進化説と同じぐらい独創的で、面白い発想だと思う。激戦地になっている海域では、ボールのような形をした航空機を飛ばしてくる深海棲艦が確認されているが、テレパシー説の賛同者たちの論理で行けば、恐らくそれらもテレキネシスか何かで浮遊させているのだろう。子供向けの本にでも載せるべき、真剣に考える必要のない与太話だった。

 

 ただ、音波説を筆頭とする、テレパシー説以外の有望そうな考えにも穴はあるということは認めなければならないだろう。人型深海棲艦の死体を何度解剖してみても、効果器や受容器……つまり、発信機と検知器が見つからなかったのである。音波説の支持者たちは戦闘による破壊のせいだと主張しているが、何人分もの死体が全て的確にその部分だけ破壊されているなどということは、考えづらい。

 

 時計を見る。針の先には夜光塗料が塗ってあるが、それも蓄光できなければろくに光れない。お陰で今が何時なのか知るのには苦労したが、僕の交代の時間が来たのは何とか分かった。救命艇の連中に交代を伝えようとして振り返る。



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「洋上」-4

 風除けは下ろされており、そこから誰か出てくる気配はなかった。さっきの警戒命令を出した手前声を上げづらかった僕は、手を振って一旦停止を利根に伝達した。ボートに近づいて風除けをめくり、僕に背を向けて腰掛に座り、ゆらゆらと上半身を揺らしながら眠りこけていた北上の肩をつついて、起こそうとする。だが疲れているのか、中々起きようとしない。それは仕方ないことだが、起きて貰わなければ困る。甘やかしている余裕はないのだ。ここが研究所で、出撃がない日だったなら、僕は彼女を好きなだけ寝かせてやるだろう。一日中だって構わない。せめて一食ぐらいは食べて欲しいので、以前に日向が僕にやってくれたようなことをするかもしれないが、休日を休むことに使うのを咎めはしない。しかしここは残念ながら、研究所ではない。海なのだ。戦場なのだ。彼女を気持ちよく寝かせておいてやりたい気持ちがなかった訳ではないが、そうすることはできなかった。

 

 那智教官は後方の警戒をしていた。起きていることを示す為にか、僕の方をちらっと向いたが、そんなことをしなくても彼女が居眠りをするところなんて想像さえしていなかった。隼鷹は青葉と操縦士の近くで横になっている。彼女は教官と交代で警戒と休養を取っているのだ。

 

 北上は目を覚まさない。何だか気持ちよさそうな寝顔と寝息が小憎らしい。僕は馬鹿らしくなって、彼女の小さな鼻を軽くつまんで左右に揺さぶった。悪戯をしているところを見咎められた時のように北上の体がびくりと震えた。お、やっと起きたな、と思い、声を掛けようとする──だが北上が僕に寄越した裏拳の方が、僕の言葉よりも早かった。

 

 横っ面をもろに殴り飛ばされ、足場が悪かったこともあって僕は後ろに倒れこんだ。殴られてから倒れるまでの間に僕の頭に巡っていたのは、ぶん殴るほど怒らなくってもいいじゃないか、というひどくのんきな考えだった。北上が彼女の夢の中でどんな状況に晒されていたのか知りたくもないが、きっと僕がよく見るような気味の悪い夢だとか、あるいは眠っている自分の喉を掻き切りにやってくる深海棲艦たちの夢でも見ていたのだろう。夢から覚めた直後の、一瞬の意識の空白に、僕がやったことと彼女の夢がぴたりと一致したに違いない。

 

 軽巡らしいスピードで僕を殴り倒した北上は、訓練所で教わった通りのことを続けようとした。即ち、倒したら殺す、である。けれど僕だって那智教官に教育された身だ。北上が次にどんな手を使うかは、容易に推察できた。まだ僕がゴムボートの上にいる以上、発砲はできない。ナイフか素手で、ボートの外に叩き出すかここで殺してしまうかしなければいけない。僕が旗艦になって以来、第五艦隊の一員たるものは全員がナイフを身につけることを義務付けられていたが、北上はより原始的な本能に身を任せた。首を目掛けて伸ばしてくる腕を払い、体勢を崩した彼女の足を蹴って僕の体の上に転ばせる。身を起こそうとするのを邪魔しながら片腕を彼女の脇の下に突っ込み、もう片腕を背中に回して北上の利き腕である右腕ごと押さえつけた。

 

 彼女はまだ暴れようとしたが、やがてぴたりと動きを止めた。僕もそれに合わせて力を緩め、ようやく正気を取り戻した北上の目を覗き込む。彼女のつぶらな瞳はこう言っていた。「何処までが夢だったの?」はてさて、それは救命艇を引っ張りながら彼女自身に考えて貰おう。

 

 僕は彼女の謝罪を聞くのを後回しにして、さっさと移動を再開してくれるように頼んだ。どうせ、大したことじゃない。どんな理由であれ友達に殴られたのは久々だったが、一発の裏拳など、軍隊では寝覚めのコーヒーみたいなものだ。僕は北上の体温の残る腰掛に座り、どたばたしていた間にも警戒を続けていた那智教官の背中にじとっとした視線を送った。助けてくれてもよかったんじゃないですか、という意味合いを込めてだ。それは冗談であって、僕は本気で助けを求めてなどいなかった。那智教官が警戒を解いて止めに入っていたら、僕はむしろ彼女の親切のせいで教官を叱咤し、しかる後に罰さなければならなかっただろう。そんなのは胸が痛む。僕は教官が軍人として正しい行動を取ってくれたことに感謝した。

 

 苦しい状況にいる友軍や、同僚を助けないというのは、特に民間人などにはおかしく感じられるかもしれない。僕だって、十四歳の頃に今みたいなシーンを映画なんかで見たら、助けてやれよと思うだろう。実際、一般社会ではそれでもいいのだ。警戒を解いたところを目掛けて魚雷を放ってくる潜水艦や、見ていない時に限って姿を現してこちらに撃ち掛けてくる敵の水上艦は、一般社会のよき人々が接することのない連中だからな。だがここは戦場で、僕らは軍人だ。軍人は仲間を助けることを大事にするが、それよりも大事にするのは、命令を受けて実行するという原則だ。でなければ、目的がどんなに崇高であっても、それは持ち場を許可なく離脱したことになり、敵前逃亡と見なされることさえあるのだ。だから、那智教官は動かなかった。そしてその判断はいつものように正しかったのである。

 

 目を閉じて、眠りに入る。さっきと違って意識はすぐに深い底へと落ちていったが、響とは会えなかった。代わりに出てきたのは、天龍だった。今度の彼女は怪我をしていなかった。また君か、と僕は彼女に言った。そうさ、またオレさ。そう天龍は答えて笑った。

 

「こんなことを言うのは失礼だろうけど、響に会いたかったよ」

「オレだってお前なんかじゃなくて龍田と会いたかったさ。だがまあ、願っても叶わないことだってあるし……叶わない方がいいことだってあるんだ。我慢するしかない、だろう?」

 

 妙に聞き分けのいいことを言う天龍に、僕も笑ってしまった。彼女は僕の夢に出てくるようになって、随分と角が取れて丸くなった。まるで僕が彼女にそうあって欲しいと思っていたみたいだ。「龍田をここに呼べればよかったんだけど、どうも無理らしい。僕の夢なのにな」「自分の夢なら自分の思い通りになると考えてるのか? 分かってないなあ、夢は現実の一部なんだぜ。そうそうお前の好きには動いてくれないさ」綺麗に並んだ白い歯を剥き出しにして彼女は再び笑い、くくく、と声を漏らした。それは猫が喉を鳴らしているかのようだったが、猫は猫でも彼女は山猫に例えられるべきだろう。

 

 座ろうぜ、疲れるだろ。そんな天龍の誘いに頷くと、僕と彼女は研究所の食堂にいて、向かい合って座っていた。周りには昼食を取る所員たちがいて、騒がしかった。ざっと見渡す。テーブルの一つに、僕が接点を持ったことのない筈の艦娘たちがいた。金剛型とか、高雄型の艦娘たちだ。彼女らは一様に口元を引き結び、押し黙ってこちらをじっと見ていた。その視線に意識を絡め取られ、引きつけられて、僕も彼女たちの目を見返そうとする。だが天龍が僕の顎を掴むと、無理に彼女の方を向かせた。「人が喋ってる時は、そっちを見るってのが礼儀だぜ」それについては彼女の言う通りだった。見ると、彼女の手元には食事が並んでいた。こんがり焼かれたステーキ、付け合わせのポテトサラダ、焼きたての匂いだけでそのおいしさを確信できるパンに、赤ワイン……現実の研究所でそんなものが出たことはなかったが、そんなことが気にならないほど、おいしそうだった。僕はすんでのところでよだれが垂れるのをこらえると、少し分けてくれないかと頼もうとした。夢だとは分かっていたが、せめて夢でぐらい腹一杯になるまで飲み食いしたかった。

 

「ダメだ。これはオレの食いもんで、お前のじゃない」

「僕はまだ何も言ってないじゃないか」

「分けてくれって顔に書いてあったんだよ。全く、死人から食事を奪うなんていい根性してるぜ。オレもそれぐらい生き汚けりゃ、そっちにいたのかね」

 

 肩をすくめて、彼女の質問への応答とする。もしもの話は楽しいが、それだけのものでしかない。天龍もそれは分かっている筈だ。だからか、彼女は答えを言葉にしなかったことについて何も言わなかった。声の調子を真面目なものに変えて、彼女は言った。「お前のお友達のことは残念だったな」響のことを天龍は知っていたのだろうか? 研究所に立ち寄った際、会っていた可能性は十分にある。もし会っていたのだとしたら、二人はどんな話をしたのだろう。さっぱり思い描けなかった。僕は頷いて、本当に残念だ、彼女にもう会えないのが寂しくてたまらない、と呟いた。天龍は椅子の背もたれに寄りかかると上をぼんやりと見つめて、吐息を吐き出すように、ああ、そうだよなあ、と相槌を打った。

 

 話題を変えようと思った。夢の中でまで響を偲んで湿っぽい気分になりたくなかったのだ。しかし、僕と天龍は親しい友達ではなかった。候補生時代の天龍は僕を避けていて、僕の方でも彼女と特別仲良くなろうとはしていなかった。その上、前に研究所の食堂で話した時には怒らせまでしてしまった。そんな相手と何を話せばいいだろう。僕は基本に従うことにした。自分が喋るのではなく、相手が喋るよう仕向けるのだ。それには、相手の好きなトピックを話題に選んでやればよかった。そこで、一つ訊ねた。

 

「まだ戦争が好きかい」

「ああ。お前は……好きじゃなさそうだな」

「まあね。憎んでるよ。だって、響が死んだんだ。君には悪いけど」

「いいさ。オレはオレ、お前はお前の好みってもんがある。それは分かってるよ。だけどな、おい」

 

 天龍は食事の皿を脇に押しのけ、身を乗り出して僕の目を見た。彼女の瞳には怒りが燃え盛っていた。それは傷つけられるべきではない者が傷つけられたことへの怒りだった。傷つくべきではなかった者とは、響だけのことではない。天龍の友人たち、部下たち、顔も名前も知らない何処かの誰か。海軍本部や戦場に出ない人々にとっては書類上の存在でしかない艦娘たち、兵士たち、そして通達一枚で片付けられてしまうような彼女らと彼らの死。その出来事は多くの人々の人生を、彼ら彼女らの世界を見る影もなく変貌させてしまう。そんなものがありふれていていい筈がない。なのに、現実にはそれは何処にでも転がっている悲劇なのだ。天龍は戦争が好きだった。でも、彼女はあくまで自分のものとしての戦争を愛していた。誰かが傷つき、死ぬことまでを愛することは、決してなかったのだ。

 

「血迷ってもあいつらみたいにはなるなよ。辛くて悲しい戦争はやめよう、深海棲艦とお手手を取り合って世界をよくしようなんて連中みたいには。そうさ、あいつらが前に言ったように、お前は戦争を終わらせられるかもしれない──けど、それは奴らと深海棲艦どもを、皆殺しにするってやり方でだ。いきなりぶっ放してくるような奴らと、どうやったら相互理解なんてできるんだ? あり得ねえだろ。

 

 深海棲艦とオレたち……いいや、オレとお前は、どっちかが血反吐垂れ流してくたばるまで撃ち合うのがお似合いなんだ。融和派どもは腑抜けの腰抜けさ。臆病風吹かしてよ、逃げ出しちまったんだ。お前だけはそうなるなよ。そうならない限り、オレはお前の味方だ。いつもここにいる。いつでも手を貸してやる。気をしっかり持って、やり遂げるんだ。深海を奴らの墓場に変えてやれ。復讐でも、制裁でもいい。深海棲艦と融和派たちを始末しろ」

 

 目をぱちくりさせながら聞いていた僕は、天龍の訴えに戸惑いを感じていた。僕の知っている天龍らしくない、と思った。僕の味方? 彼女が? 急に僕へ親しみを表すのには、何の理由があるんだ? 夢だから、ではなく、僕の深層心理にどういった願望があってこのような天龍が現れたのかを知りたかった。納得できる理由があったとしても、これがただの夢だという厳然たる事実があったとしても、他人の人格を捻じ曲げる行為は許されるべきではない。僕は自分自身に嫌悪を抱いた。すると天龍は身を引いて深く椅子に座り直そうとしたので、僕はその機を逃さずに立った。こちらを見上げる天龍に、僕自身が作り出した都合のいい虚像に、別れの言葉を投げつけてやる。

 

「もういい、十分だ。君と響は死んだ。夢で話したところで、現実に戻れば二人ともいないんだ。全部、僕の頭の中での出来事だ。それもひどい再現性の。天龍、君は何だって僕にそう優しくする? 君とは戦友だったが、友達という言葉を使える関係じゃなかっただろう」

「やれやれ、これだ。何も分かっちゃいねえんだからな、お前は。いいか、好むと好まざるとに関わらず、今となってはオレもお前なんだよ。どうして自分自身を嫌える?」

「何だって? ちょっと待て、いきなりそれはないだろう。荒唐無稽にもほどが……」

 

 後ろから肩を掴まれる。僕はそれを振り払う。今は天龍と話しているのだ。それを邪魔されたくは──「こら、起きんか!」がん、と頭に衝撃が走り、僕は目を閉じて頭を押さえ、鈍い痛みに息を漏らした。今や僕の耳には人々の喧騒ではなく、海の音が聞こえていた。隼鷹の寝息も。目を開くと、利根のくりんとした目が僕を見つめていた。僕の頭が予想よりも固かったらしく、叩いた手もそこそこ痛かったようだ。手をぱたぱたと振っている。手間を掛けさせた上に痛い思いまでさせて、申し訳がない気持ちだった。深呼吸して、利根と場所を代わる。北上は欠伸をしながら待っていた。遅れたことを詫びながら、ロープを掴む。「ん、行こっか」と彼女は言った。「そうしよう」と応じる。

 

 上を見る。じきに風で飛ばされるだろうと予測していた雲は、まるで空にへばりついたみたいにずっとそこにある。敵の視界とこちらの視界、どちらも平等に封じてしまう暗闇は、今のところ僕たちの味方をしてくれているが、気を抜けば牙を剥いて飛び掛って来るだろう。前を向いて、牽引を開始する。

 

 那智教官は六分儀を持っていたが、この天候では使えまい。月や太陽が見えなければ、天測航法は不可能なのだ。もし実際の針路が計画と違っていたら……僕らは当てもなく最期の時まで海を彷徨い続けることになる。ぞっとする未来だった。いや、そんなことにはならないぞ、彷徨うのはユダヤ人かオランダ人※84だと相場が決まってる、と自分に向かって冗談を言ってみても、その不安は拭えなかった。北上は僕の言葉を耳聡く聞きつけて言った。

 

「いつまでに帰港できるかな」

 

 ここで無意味な勇ましさを演出して、「たとえ最後の審判の日まで掛かっても帰りついてみせてやる」などと言ってしまおうものなら、命運は尽きたも同然だ。そこで僕は趣向を変えて、あえてネガティブなユーモアを発することにした。「地獄が凍りつくまでには帰れるさ」この言葉はさっきの冗談とは違い、口にしていて僕の胸にすとんと落ちて入った。何と表現するべきか……つまり、受け入れられたということだ。不安を払拭するのではなく、自分のものとして認め、無用な動揺を生まないようにする。それはそういう効果を発揮した。憂いの類は綺麗に消えてくれた方がもちろん嬉しかったが、現実でいつも最良の結果を得ることはできない。

 

 ところで、僕は時間というものに対して常々文句を申し立ててきた。やれ進むのが遅いだの、早いだの、その場その場で違うことを平気で言ったりもした。挙句、そのことを反省するつもりもない。だからここで時間というもののいい点を一つだけでも挙げておくとしよう。それは止まらないのだ。

 

 僕と北上が牽引作業を続けている内に、朝が来た。海の波立ち、それと雲の状態が偶然にぴったりと合わさって、まるで燃えているかのような赤で天上と足下の両方が塗り潰されていた。見とれていたかったが、僕は自制心を最大限に動員して水観を発進させ、海上警戒に戻った。水平線上に目を凝らすと、水面が反射する朝焼けの光で眼球がずきずきと痛んだ。昨日の昼はそうでもなかったのだが、色が赤なのが悪影響を増しているのだろう。腰のサバイバル用品を入れたポーチに手をやって、中から小さなケースを取り出す。黒や緑や茶色のファンデーションが、この鏡付きケース(コンパクト)に収まっている。黒を選んでそれを目のすぐ下に塗ると、痛みはやや楽になった。指を海水で洗ってから北上にも差し出して、塗るように言う。彼女は僕の顔を見て「何その顔」みたいな表情を作ったが、やはり海面の反射には悩まされていたのか、喜んで近づいてきて受け取ろうとした。しかし、彼女は指を滑らせてしまった。

 

 アクロバティックな姿勢で、ではあったものの、自分がコンパクトを受け止められたことは僕をほっとさせた。僕が必要とする色のファンデーションは普通に売っている店がないので、少しお金を多めに出して取り寄せて貰わなければいけないのだ。お金だけではなく、荷が届くまでの時間もそれなりに掛かる。付け加えるなら、環境にもよくない。落とさなくてよかった。

 

 受け止めたコンパクトをもう一度北上に渡そうと彼女の顔を見て、僕はぎょっとした。北上は僕の方を見て、このつまらないミスに対しては大げさすぎるほどの青ざめた顔をしていた。互いに隔てなく朝焼けの赤光(しゃっこう)を浴びていてさえ、僕は彼女の顔を一様に染める暗澹(あんたん)たる色合いを見て取れたのだ。内心の恐慌じみた感情は押し隠し、なるべく優しく気遣うような声で「どうしたんだ?」と言ってやる。だが答えは概ね分かっていた。北上は僕を深海棲艦か何かと間違えて絞め殺そうとした。その失敗を引きずっていたのだろう。そしてもっと深く考えるならば、そんな失敗をするほど精神的に追い詰められていたのだと思う。

 

 心が疲れると、まずは感情の触れ幅が大きくなるものだ。正負の両方にである。その後、逆の事態が発生する。無気力、無感動になり、身を守る為に外界と自己の内面を切り離してしまう。その段階に至ってしまえば、引き戻すのには長い時間が掛かる。それは、兵士としての『限界』なのだ。無論、それを持っているということは恥ではない。僕や教官、長門、誰にでも限界はある。そうして、ある人は一年でそれを迎え、ある人はただちに頂点に達してしまう。

 

 北上はまだ最後の段階には到達していなかった。なら、まだ間に合うということだ。僕は即座に決断した。コンパクトを手に掴んだまま停止命令を出し、北上に近寄る。彼女は右の平手で己の顔を覆い、俯いて、こちらに何らかの言い訳をしようとしていた。そんなものを聞いても、彼女の心を休ませることはできない。抑圧された感情を吐き出すことで、疲れた心身をケアするという方法は存在するが、そうすることでかえって宿主を傷つけてしまう場合だってあるのだ。僕は言った。

 

「北上、救命艇に戻って利根たちと一緒に休め。僕がいいと言うまでだ」

 

 彼女がこの命令に従いたがらないだろうということは読めていた。北上は、仕事中だったとしてもサボれるようなものならサボるし、ふざける時はふざけるし、手抜きができるなら手を抜くタイプの人間だ。僕と話すようになった切っ掛けが何だったか、僕はまだ忘れていない。しかし、それはあくまでその手抜きによって誰かが傷ついたり、死んでしまったりするようなリスク、周りの誰かに笑い事では済まないような危険性を押し付けない時だけの話であって、そうではない時には彼女は決して中途半端な態度を取ったりしなかった。そういう性格だから、予定していなかった休憩時間を自分の為に作らせるというのは、易々とは受け入れられなかったのだ。そう信じている。

 

 知ったことではなかった。僕は自分がそう考えているかのような態度を装った。そうすれば、北上はずる休みをする気分でではなく、渋々ながら命令に従って、という気持ちで休むことができるからだ。でも実のところ彼女の気持ちは痛いほど分かっていたし、飄々とした性格の裏にそういった責任感の強さなんかを隠してるものだから、僕はこの北上という少女のことがたまらなく好きなのだ。だがしかし、待てよ……響が懸念していた艦隊員との仲がよすぎるという問題が姿を現したのだろうか? この北上が僕の苦手な、武蔵や長門だったなら別の決定を下しただろうか? そんな疑問が急に浮かんだが、ごく短時間考えて、そんなことはしないと判断した。僕は生き残る為にやらなければならないことをやり、やらせる。そいつが嫌な奴だから、などといった幼稚な理由で休息を与えないような、馬鹿な真似はしない。

 

 北上は救命艇に戻った。僕はロープを二人分体に巻きつけて、牽引を続けようとした。二人で引くよりも当然に速度は下がるし、負荷も掛かるが、動き続けておきたかった。ところが、さあ引っ張ろうとすると、後ろから「おい」と声が掛かった。那智教官の声だった。僕は振り向いた。「貴様も休んだ方がいい」と風除けを上げた天蓋の下に腰を下ろした彼女が言った。微笑がこぼれる。教官は怪訝な顔をしたが、僕は那智教官に「貴様」と呼ばれる度にむず痒く、面映い気持ちになるのだった。それは彼女の信頼と、僕と彼女の間に存在する絆の証であるかのように僕の耳に響いていたからだ。それが気のせいだとか勘違いだとは、小指の先ほども思っていなかった。

 

「そうしたいのは山々だが、移動を続けなければ」

「貴様一人で二人分も働くつもりか? ふむ、確かにできるだろう。暫くはな。でもその後は?」

「だが僕はまだ……分かった、そうだな。そうしよう。助言に感謝する、二番艦」

「どういたしましてだ、旗艦殿」

 

 反論しようとしたものの、僕は意見を変えて教官の忠告を受け入れた。海錨を投じて、救命艇に戻る。恥ずかしながら、僕にも疲れが溜まっていた。しかし北上ほどではないので、教官と共に警戒任務に携わることぐらいはできた。天蓋の支柱を調節し、天井を限界まで低めさせ、その下にうつ伏せに寝転がったまま海を見る。この前の嵐が嘘のように、穏やかな波だ。空の方は相も変わらず雲、雲、雲で、太陽は見えない。もしかして、深海棲艦には天候を操る能力でもあるのだろうか。だとしたら、妬ましくなる能力だ。僕にもそんな力があれば、風でも波でも起こして救命艇をすいすいと移動させてやるものを。

 

 結構な時間が経った。海はまだ赤かったが、救命艇の上で起きているのは僕と教官だけだった。まあ、救命艇だけでなくその周囲半径数百キロなどを含めるなら、水観妖精もその中に加えていいだろう。時折、互いに逆の方を伏せて海上を警戒している僕らを、強い風が撫でつけていった。僕の方から吹くこともあれば、教官の方から吹くこともあった。三度目に僕へ風が吹き付けた際、急に、今なら誰にも聞かれずに心の重石となっている種々の出来事を打ち明けることができるのではないかと気づいた。深海棲艦の声が聞こえるということ、何度も何度も深海棲艦の夢を見ること、融和派に拉致されたこと、その間のこと、今も電が青葉に張り付いていること、長門たちを筆頭とした多くの艦娘に嫌われること……僕は口を開きかけた。

 

 でも閉じた。言えなかったのだ。教官を信じていなかったのではない。僕がこの艦隊で誰よりも信用している女性は誰かと聞かれれば、僕は胸を張って自分を疑ったり考え込むことなく答えることができる。それは那智教官だ、僕の教官で、命の恩人で、二番艦で、誰より頼りになる人だ、と。だからこそ言い出す勇気が起こらず、むしろ僕の舌を石化せしめたのである。今でも僕は那智教官が僕を裏切るところなど、僕の秘密を誰かに漏らすところなんて想像できない。けれど僕はもう知ってしまっている。想像できないことでも起こりうるのだということをだ。響があんな形でいなくなってしまうなんて、僕だけじゃない、彼女自身だって思わなかったろう。

 

 那智教官は軍人だ。軍人としてどう振舞うべきか知っている人だ。融和派との繋がりを知った時、彼女がどちらに傾くか、分からなかった。知りたくもなかった。もし教官として、二番艦として僕を守ることを選んだとしたら、その選択は僕に彼女からの大きな友愛の情を感じさせ、感動させると同時に、本質的な立場として誤った決定を下したことで、僕を失望させもするだろう。かといって『本質的な立場』に従って提督に報告し、あの恐ろしい女性の手に僕を委ねたとしたなら、那智教官の正しさを尊敬しながらも、その人間性を非難するだろう。

 

 どちらにも進めない以上、荷物を抱えたまま立ち止まるしかなかったのだ。僕は何も言わず、四度目の風が吹くのを感じていた。

 

 進行方向の海上に黒い影が見えた気がした。救命艇備え付けのサバイバルキットの中から、可変倍率の双眼鏡を取る。レンズが太陽光を反射してこちらの位置を知らせてしまわないよう、天蓋の中からその影の揺らめいていた地点を観察した。雲の影が海に投影されて深海棲艦の影に見えたのだったならいいが、本物だったとしたら急いで移動を再開しなければならない。ゆっくりと迂回路を進んで、敵の視界と索敵範囲内から抜ける必要がある。

 

 影を見つけ、黒い染みのように見えるそれにピントを合わせる。そして僕は一言漏らした。「敵だ」何てことだ。水観は何をやってたんだ? 僕が後ろを見もせずに手を軽く振ると、那智教官はこちらに来た。双眼鏡を渡して見させると、彼女は舌打ちをして補足を付け加えた。「あれは装甲空母鬼だ。だが……単独か?」双眼鏡が戻ってくる。僕は敵の姿を見直す。歪んだシルエットから教官が装甲空母鬼だと見抜けたのは、ただただ経験の差であろう。僕にはどうしても、それが敵であるという点しか分からなかった。

 

 しかし、那智教官の口にした疑問には僕も辿り着いた。深海棲艦は単独行動を好まない。戦争初期はその傾向が行き過ぎなほどに発揮されたのか、大軍勢を成して活動し、その末端はまるで統御されることなく本能のままに破壊と殺戮に及んでいた。やがて軍勢は小さくなって行き、今では基本的に人類と同じ、六隻で一艦隊の原則を守っている。これは電が寄越した資料から僕が読み取ることのできた僅かな事実の一つで、僕の立場で知っていてよいことではないが、『単独行動を避ける』という習性は訓練所でも教えている。

 

 単独なら好都合だが、航空機で索敵をされてしまえば発見はほぼ避けられない。勝利条件は見つからないこと、敗北条件は救命艇の損失。状況をそのように整理して、僕は那智教官に寝ているものを起こすように言った。今度は北上も襲い掛かったりしなかった。利根と隼鷹もだ。双眼鏡から顔を外して北上の顔を見ると、その表情はかなりすっきりしたものになっていた。短いが余分に取ることのできた休息が、彼女の心に溜まったヘドロのようなストレスを、僅かなりとも洗い流してくれたようだ。

 

 次に考えなければいけなかったのは、海錨を回収せねばならないというのは当然として、移動手段は果たしてどうするべきか? という課題だった。

 

 立ち上がって牽引するのは愚の骨頂だ。そんなことをすれば、装甲空母鬼は先ほどの僕が彼女の影を見つけたように、僕らを見つけるだろう。そうしてそれが何なのか知る為に、航空機を飛ばす。彼女の航空機は、武装していないも同然の上、身動きが取れない数人の艦娘たちを見つける。彼女は思いがけなく親戚のおじさんからお小遣いを貰ったような気持ちになるだろう。装甲空母鬼にも親戚のおじさんがいるのかどうか知らないが、いたとしたらそうなる。で、その次は? 爆弾の投下だ。それ以外に何があろうか。那智教官も隼鷹も青葉も死ぬ。僕や北上や利根はちょっとだけ長生きするかもしれないが、そう間を置かずして教官たちの後を追うことになる。

 

 それよりもマシな案としては、最初に利根がやっていたように、救命艇の縁に腰掛ける、あるいはもういっそのこと見栄えは悪いがぐてっと体を後ろに倒して救命艇に仰向けに寝転んでしまい、足だけ、脚部艤装だけ外に出して稼動させるというものがあった。視覚的問題もこれなら小さくて済む。音の問題はあったが、環境音や装甲空母鬼自身の機関の作動音で、こちらの機関音は相殺できるだろう。六人全員分の音ならともかく、一人分だけなら大丈夫だと考えられた。

 

 この案の持つ唯一の不安要素は、燃料の消費であった。装甲空母鬼を避ける為には、結構な大回りをしなければいけない。そうすると、ソロモン諸島方面に向かう為の燃料が足りなくなるかもしれなかった。那智教官の計算では、かなりかつかつのところだったと記憶している。今を生き延びることができても、その後で詰むようなことになっては元も子もないではないか。となると、僕らが頼れるのは一つだけだった──己の肉体だ。

 

「教官と隼鷹は海錨を引き上げてから、オールで漕げ。利根、操舵を任せる。北上は後方警戒。僕は装甲空母鬼の監視を続ける。全員、動く時は音を立てず、ゆっくりと動くように。光を反射するようなものがないか、気をつけろ」

「了解」

 

 教官は他の艦隊員を代表してそう答え、海錨の引き上げ作業を済ませると、隼鷹と共に救命艇備え付けのオールを取って配置につき、利根に従って漕ぎ始めた。北上はぴくりとも動くことなく、敵の姿が海や空にないか、目を配り気をつけている。僕は敵との遭遇がこの時間帯であったことを巡り合わせに感謝した。朝焼けの赤が、救命艇の色を上から塗り潰して見えづらくしてくれているからだ。とは言えど、時間が過ぎて朝焼けも当初の目に突き刺さるような強さを失いつつあった。この赤が失われない内に、迂回を、せめてここからの離脱を済ませなければならなかった。

 

 双眼鏡のレンズ越しに見る装甲空母鬼は、光線の加減のお陰でようやく僕にもそれと分かる姿を見せていた。写真や映像で見たことのある、グラビアのように扇情的なポーズを取った姿勢も、あの何処かエロティックなところさえ感じさせるにやけ顔も、今は恐怖そのものでしかなかった。彼女の姿を見つめ続けている内に、僕はこの鬼級深海棲艦がまさに佇んでいるのであって──彼女の体勢は「立っている」という意味を含むこの言葉をそのまま当てはめることができるものではないが──航行していないという事実に気づいた。ますます以って、彼女がそこにいる理由が分からなくなる。何をしにここに来た? 何処から? どうしてそこで止まっている? 沸き起こる疑問を念じるも、誰かが答えてくれる理由もなかった。

 

 それに、やり過ごしてしまえば彼女など考える必要もなくなることだ。オールでの移動は亀の歩みと言ったところだが、動いていることは間違いない。僕らがいるのとは全く違う方を向いている装甲空母鬼の横顔を見ながら、僕は無事にここを抜けられるだろうと確信していた。

 

 と、オールの漕ぎ手の邪魔にならないようにと僕の近くに移動させられて横になっていた青葉が、人が眠りから覚めようとしている時にしばしば立てる、あの「ううん」というような艶やかな(うめ)き声を上げた。僕は双眼鏡を下げ、彼女の様子を見た。女の子らしい長いまつげが小刻みに震え、やがてゆっくりとまぶたが開かれる。「あれ……?」と出た声はか細いが、僕は念の為に指を口の前で立てて静かにするようにと注意をしておいた。青葉は状況を飲み込めず、きょろきょろと辺りを見渡し、何か言おうとしてこほこほと小さく咳き込んだ。水をやり、喉を潤させる。彼女は僕が差し出した水の容器を取ろうとしたが、その為に腕を上げるのも億劫そうだったので、僕が握らせてやらなければならなかった。それだけでなく、口元に運ぶところまで手助けをせざるを得なかったのだ。そしてその中身、今日の彼女に割り当てられた配給量の内、三分の一に当たるだけの水を一息に飲み干すまで、彼女はただの一言も発さなかった。

 

 飲み終わると、けふっ、と満足そうな息を吐き出して青葉は訊いてきた。その声には活力が戻っていたが、十全のようには聞こえなかった。

 

「どうなったんですか?」

「撃ち落されたんだよ。覚えてないか?」

「全然覚えてないです……えと、それじゃあ今は、漂流中ですか?」

「君がそう言いたいなら構わないが、正確にはソロモン諸島に向けて移動中だ。なあ青葉、君が目を覚ましてくれて本当に嬉しいよ。でも悪いな、近くに敵がいて、今は話していられないんだ。もうちょっと横になっていてくれ。君の疲れた体にはまだまだ休息が必要だ」

 

 青葉は「でも」と言ってから、その言葉を取り消した。彼女には現状を把握する為に、色々な質問をしたいという気持ちがあったのだ。だが、今はダメだという僕の言葉を受け入れて、諦めてくれた。申し訳ない気持ちと、ありがとうという感謝の気持ちが胸に起こった。それは青葉への感謝のみならず、彼女までを僕から奪わなかった運命だとか天だとか、あるいは僕が心からは信じていない天にまします我らの主への感謝だった。ただし言うまでもなく、後者の「感謝」には、少なくない憤りと恨みもまた込められていた。青葉は助かったのに響が助からなかった理由が何なのか、僕には到底分からなかったからである。委細構わず、二人ともが助かるべきだったのだ。主にはどうやらそれが理解できていないらしい。そうでなければ主は響が好きすぎて、恥も外聞も身も蓋もなく、(おの)が御許にお召しにならずにはいられなかったのだろう。

 

 友人はひとまず助かった。飛び上がって喜ぶには十分すぎる理由だったが、敵が近くにいるという状況はそれを許してくれない。内側から肌と肉とをかきむしるような恨みに胸を痛めつけられ、呪詛を吐きながら双眼鏡を覗く。すると、誰かが近くで「ひっ」と悲鳴を上げた。声を出すな、と注意しようとして、喉が引きつっていることに気付いた。どうしたことかと左手を喉にやる。そこはアレルギー反応を起こした患者のように痙攣しており、不規則かつ激しい呼吸が喉を通る音が、僕の短い悲鳴として表れていたのだった。

 

 装甲空母鬼が僕を見ていた。



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「洋上」-5

 装甲空母鬼が僕を見ていた。彼女と目が合っていた。

 

 深海棲艦の視力が、艦娘を筆頭とした人間のそれと比べて非常に優れているというデータはない。アフリカの辺境にしばしば見つけることのできる、未発展な部族社会で生きている人々は、必要によってその視力を著しく高めていると聞くが、深海棲艦に出身の差に基づく身体能力の違いがあるとは思えない。だけれども、彼女がこちらを見ているのは疑いようもない真実だと僕は考えていた。彼女は僕たちの方へと向き直り、浮かべた笑みを不気味なほど大きなものにした。その恐怖で以って僕はやっと、命令を出すことを思い出した。双眼鏡を顔から外すこともせずに僕は叫んだ。いや、外さなかったんじゃない。外せなかったんだ。磁石がもっと強い磁石に吸いつけられるみたいに、僕は装甲空母鬼から目を離せないでいた。

 

「奴はこっちに気付いたぞ、対空戦闘用意! 利根と北上は救命艇を牽引して直ちにこの場を──」

 

 予想外の接敵、予想外の露見と来れば、後は予想外の戦闘に突っ込んでいくしかないと思っていた。けれど僕は命令を最後まで言い終えることもできなかった。まさに予想外と呼ぶ他ない行動を、装甲空母鬼が取ったからだ。彼女はくるりとこちらに背を向けると、全速と分かるスピードで水平線の向こうに姿を消してしまった。僕と那智教官は、彼女の選んだ意外で、これまでのあらゆる時期において類を見ない逃走という行動に、呆けるしかできなかった。

 

 先に立ち直ったのは教官だ。彼女は僕の肩を軽く叩いて目を覚まさせた。僕は双眼鏡を下ろし、指示が半端だったせいで従っていいのか分からずに立ちすくんでいる利根と北上に、対空戦闘の用意を解除していいと声をかけた。「あれは何だったんだ?」僕は那智教官に囁いた。「分からん。だが、援軍を呼びに行ったとは考えづらい。あれはいつでも私たちを一方的に攻撃できた」「艦娘を見逃す深海棲艦の存在が報告されたことは?」「私の知る限り、ないな」つまり、皆目見当もつかないという訳だ。気に入らなかった。深海棲艦の気まぐれで命を助けられたと信じるほど、僕は幼稚な子供ではない。装甲空母鬼は艦娘を攻撃しなかった。何故か? それは大きな選択だ。僕たちを殺さなかった。やがて彼女の前に、あるいは彼女の同朋の前に現れるかもしれない敵を殺さなかった。それには理由が、僕らの方でも納得してしまうようなきちんとした理由が、絶対にある筈なのだ。

 

「みな貴様の命令を待っているぞ」

 

 教官の言葉で、思索から引き戻される。その言葉への答えは決まっていた。移動再開だ。あの装甲空母鬼が僕らを見逃した理由は分からない。もしかしたら、弾切れの上に航空機も尽きていたのかもしれない。他にも艤装が故障していて戦闘は不可能だったとか、もっともらしい想像をすることはできる。そしてきっとそれらは、多くの誤りを含んでいるだろう。だが一つ、これだけは正しいと分かっていることがある。僕らの位置は、深海棲艦に知られてしまったのだ。このままここにいれば、今度こそ真実の瞬間を迎えることになりかねなかった。死んでしまった響に会いたい気持ちはあるが、その為に僕まで死んでしまう気はない。どうせ会うなら、二日後に会えればいいと思う。道を歩いている時に、ふとすれ違って振り向くぐらいのさり気なさで再会したい。※85

 

 僕は北上と利根に移動開始を指令した。隼鷹と教官がオールを海から上げ、軽く海水を払ってから救命艇の中の定位置に戻すのを見計らってから、二人は機関を始動させた。いつでも発砲可能な状態にした砲を空に向け、油断なく水平線上を見張っていると、海を走っていた利根が僕に尋ねた。「針路はどうするのじゃ? このままでよいのか?」彼女が言いたいのはこういうことだった。敵が去っていった概ねの方向は分かっている。ならば、そちらから敵の捜索隊が近づいてくる可能性が高いのではないか。だから針路を一時的に変更し、追跡や捜索の目を避けて進むべきではないだろうか。僕は彼女の言葉に一定の正しさを認めたが、ここでも燃料の問題が決定を左右した。非凡な努力の結果、非情で恥知らずな旗艦は、彼の艦隊員に「同じ針路で素早く移動すれば、むしろ敵をはぐらかすことが可能だ」という大嘘を信じさせることに成功した。

 

 昼になるまで、みんな半端にしか眠らなかった。両目を閉じていても頭の半分は起きていて、救命艇が波に当たって少し大きな揺れを感じると敵襲だと勘違いして跳ね起きるのだった。このままでは体が味方の領域内に入るよりも先に、魂が神の国に入ってしまいそうだと思ったが、分かっていても防ぐ手立てはなかった。心を和ませてくれたのは青葉だけだった。彼女は教官にも届きそうな精神力に加えて、彼女を鍛えた女性の持っていない特質を有していたのだ。それは底抜けの明るさという資質であり、長期間戦争に従事した兵士には、草木にとっての日光のようにありがたいものだった。

 

 一方、普段の太陽役を任されている隼鷹はとなると、こちらは体調が悪そうだった。顔は青白く、脂汗を流している。どんな時でも彼女が好きなだけ心の中の泉から汲んでくることのできた寛容さや大らかさという人間性は、今や枯れ果てたかのようだった。しきりに吐き気を訴え、実際にえずくので、本人が喉の渇きを覚えても、水を飲ませることも食事をさせることもできない。それはこれまでに一度だって見たことのなかった、惨めな姿だった。北上の次は隼鷹か、と僕は冷たく考えている自分を発見し、衝撃を覚えた。一体何様のつもりだ? 自身の傲慢さへの怒りを膨れ上がらせてぶつけ、全力で己の醜さを攻撃する。彼女は、彼女たちは友人だ。戦友で、部下で、掛け替えのない女性たちだ。すぐ壊れる機械の部品なんかじゃない。そんなことをわざわざ考えなければいけないとは、僕も余裕がなくなっているらしい。

 

 げっそりとした表情で目を閉じて横になり、休んでいる僕の膝を枕代わりにして眉の一つも動かさない隼鷹の土気色の唇に、せめて口の渇きだけは感じずに済むよう、ぽつりぽつりと数滴の水を垂らしては舐めさせる。その舌の色さえくすんで見えた。休憩だったのに、時間が終わっても一切休めた気がしなかった。隼鷹に水を飲ませ続けていたからではなく、消耗した彼女の姿が、何故かあの小島で死んでいった天龍の最後の姿と被ったからだった。隼鷹の今の様子と、天龍の姿は全く違ったものだったというのに。僕にとって明確に死をイメージさせる、身近な存在の死を想起させるのが天龍の末路だからなのだろうか。死んだ艦娘はこれまでにも何人も見てきた。僕の目の前で沈んでいった艦娘もいた。あるいは“三番”のように、陸の上で死んでいった艦娘もいた。だけれども、個人的な関係のある誰かの死は、天龍のそれが初めてだったのだ。彼女の死が僕に与えた影響は、生前の彼女が僕に与えた影響を優に上回るほど大きなものだったのだろう。

 

 そうやって考えてみると、しゃんとしているのは利根と那智教官、それに青葉だけだった。それもじきに一人、また一人と限界を迎え始めるだろう。艤装を失っての漂流に近い環境下におけるサバイバルなど、きちんと学んだことはない。備えがなければ、防御は脆弱となる。肉体だけでなく、精神もそれは同じだ。それでも、踏ん張ろう。みんなを励まし、導くのだ。僕は旗艦なんだ。僕が倒れたら、僕の心が折れたら、艦隊員たちはどうなる? それに那智教官や他の艦隊員たちに、みっともないところを見せたいのか? 恥を知れ! これは歴史的にも僕個人にとっても使い古された激励だが、効き目は覿面(てきめん)だった。いつだって男の子は自尊心ばかり大きく育つものだ。

 

 その後、夕方までに利根が限界の前段階に入った。僕は彼女を休ませ、今度こそ一人で牽引作業をした。デメリットは承知の上だ。この時には那智教官も止めなかった。彼女も、自分自身と戦っているところだったからだ。僕は肩や腰にロープが食い込むのを感じる度に、響のことを思い、天龍のことを思った。どれだけ経っても過去とすることができず、毎日寝床で目を覚ます度に彼女たちを失い続けている人々のことを思った。彼女たちの痛みを考えることが、彼女たちの死を考えることが、僕に力を与えた。死にたくない。死なせたくない。誰も、誰もだ。死ぬのは敵だけでいい。深海棲艦や、奴らに手を貸すような連中だけでいい。

 

 夜、激しくはないが雨が降った。収まるまでに水の貯蓄を少々増やすことができた。なので僕は那智教官と話をして、水の臨時追加配給をすることにした。一人につきコップ半分程度の水だったが、降ったばかりの雨水はそれなりに冷たくておいしかった。雨と一緒に海が少し荒れたので海水混じりだったが、塩気がかえってありがたかった。ひんやりとした水分が活力を与えたのか、隼鷹などは更にコップ半分の水を飲み、しかも吐き出さなかった。この分なら食事も、と高カロリー食を差し出したが、隼鷹はこちらには手を出さなかった。

 

 天候のお陰か、敵の追手が現れることもなく、みんな口に出さずにほっとしていた。教官の六分儀にも出番はなかったが、いつか必ず空は晴れるさ、と僕は楽観的な態度を崩さなかった。意識してそう振舞うようにしていたのだ。何てことないよ、こんなのはレクリエーションみたいなもんだ、という顔をしておけば、配下の連中も不必要に悲観的にならなくて済む、と旗艦学校の訓練では教わった。僕なんかの態度がどれだけそういった精神的作用を艦隊員たちに対して起こしてくれるかは一向に不明だったけれど、少なくとも僕の気分は平気を演じている内に本当に平気になってしまった。僕は暗示や催眠の類にも掛かりやすそうだ。掛けられるようなシチュエーションに縁はないと思うが、注意しておかなければならないだろう。

 

 深夜には利根と北上の精神状態を更に回復させることを目的として、僕はまた二人を休ませて一人での牽引を引き受けた。那智教官は精神的均衡を取り戻して制御下に置いていたが、僕が彼女の意見を忘れたとは考えていなかったからだろう、再度忠告をしてくることはなかった。青葉が付き添ってくれて、彼女は集中を乱さない程度に話しかけて、夜を過ごすのを助けてもくれた。青葉はすっかりよくなったようだ。まあ、基地や泊地に戻ったら病院に入らなければならないだろうが……忙しい彼女には休暇になるだろう。僕以外の第五艦隊にも検査入院という名前の休暇を取らせるとしよう。そうして、僕は提督を説得して本物の休暇を取って、それから響の家族に会いに行こう。住所も提督から聞き出して行くのだ。彼女が苦しまずに死んだと、あれは一瞬のことだったと言おう。

 

 本当のところは知らないが、家族たちは僕の言うことを信じるしかない。少なくとも苦しまずに死んだと分かった方が、苦しみ抜いて死んでいったと聞かされるよりはマシな筈だ。僕のせいで死んだのだとも、僕がちゃんと正しい行動を取らなかったからだとも白状するべきだろうか。分からなかった。僕は自分が責められることで赦されようとしているのではないかと、己を疑っていた。自分の浅ましさについては誰よりも知っている。ありそうな考えだった。だが僕のせいだと言わないことで、責められずに終わらせようとしているのではないかと批判的に考えてみると、そちらもそちらでそれらしかった。

 

 それで、直接話すのはやめようと思った。手紙を書こう。手紙だったなら、僕はそれを何度も何度も書き直して推敲することができる。友達に──つまりは第五艦隊の仲間たちに──読ませて、文章が必要以上に叙情的な調子になっていないか(僕はこの致命的な過ちをしばしば犯す)確かめることもできる。愛すべき友人の最期を伝えるのに文学的趣向を凝らすような、無神経な真似をしないだけの常識が僕にもあった。僕はもう頭の中で手紙を書き始めていた。その中で僕はありとあらゆるものを責めていた。僕自身は言うに及ばず、飛行機のことも、パイロットたちのことも、新しい階級章を欲しがった提督のことも、お偉方がブラジルをサミットだか発表会だかの開催地に決めたことも、南米大陸が遠かったことも、地球が丸いことも、地球の表面積の七割が海であることも、深海棲艦のことも、乱気流のことも。僕は何もかもに地獄に落ちろの二言を叩きつけていた。彼女の死に関わった事柄・人物の両方全てが有罪だ。ただ響だけが無罪だった。彼女だけが無垢なままだった。必ず神の御許に至ったことだろう。あるいは単に海の底へ沈んだだけだったろう。どちらだったとしても、遺された人々にとっては変わらない。

 

 友人の話を聞きながら救命艇を引きずり、胸中で手紙を書き、夜の向こうを見る。時々、黒いベールの向こうに響の髪が輝くのを見た気になって、声を上げたくなるのだった。それは目の疲れと弱い心の生み出した幻に違いないのだが、ほんの一瞬、まばたき一度分にも満たない時間でも、響を見ることができたように感じられて、余り嫌な気持ちにはならなかった。彼女が正しく導いてくれるのだ、と僕は考えた。そうすると、もろもろの恐怖その他が一挙に片付いてしまった。

 

 心が落ち着くと、青葉の場違いな世間話に相槌を打つだけでなく、話に参加することもできるようになった。彼女は自分の誕生日が近いということを盛んに話題にした。広報部隊は通常、戦闘に参加することがなく、休みも規則的に取ることができる。だから彼女はパーティーを開く予定を何か月も前から立てていて、その為の貯金までしていた。いいな、と素直に僕は微笑ましい妬ましさを認めた。パーティーは最高だ。最後の開催から適度に間を置いてさえいれば、いつ開いてもいいもんだ。この教訓は僕の経験に基づくもので、それを思い出すことによって一瞬僕の意識は過去へ跳んだ。

 

 書類上で僕の艦隊(そう言えるのは恐ろしいと同時に嬉しいものだ)が所属している研究所の艦娘たちの中で、一番お祭り騒ぎが好きなのは隼鷹である。これは異論を差し挟む余地のないところであろう。何しろ、一人で宴会を開くことのできる唯一の艦娘なのだ。僕にはどうやって単独で「会」を開くことができるのか、聞き出そうとはしてみたものの、結局さっぱり分からなかった。どうやらそれは形而上学的な問題だったのだが、当の本人はそれを無意識下で理解しているらしく、その理解に従って振舞うことはできても解説はできないらしかった。響は記号論理学で隼鷹の無意識に挑んだが、遂に解き明かしたと自信満々で目の前に持って来られた数式みたいなものが僕にもたらしたのは、多大な混乱だけだった。

 

 こういうエピソードを持つ隼鷹と、ついでに響でさえ口を揃えて言うことがある。宴会につきものの騒ぎは別として、そういった集まりが誰よりも好きなのは日向だということだ。これはその言葉を聞いた当時の僕には、やや納得しかねる発言だった。日向? 冷静を絵に描いてペン入れして色塗ったみたいな彼女が? そんな風に反応したことを覚えている。それに対して「たまたま知らなかったのかい? それとも日向に興味がなかったから?」と隼鷹は僕の不注意さを意地悪な言い方でからかい、響は黙っていたが隼鷹の尻馬に乗って、僕を気兼ねなく非難するような目で見つめていた。そこで僕は俄然、彼女を誘わない訳には行かなくなったのだ。都合のいいことにその時僕らは夕方の食堂にいて、折しも日向のいる第一艦隊が戻ってきたところだった。そこで入り口に背を向ける席に座っていた僕は、身をよじって日向を見つけて、声を掛けた。

 

「なあ、さっき君のことを話してたんだけどさ」

「どうかしたのか」

「うん。今度、一緒に飲まないか」

「断る理由はないな」

「よし、決まりだな。日取りは……そうだな、明々後日は?」

「問題ない。酒の用意は頼む。後は私がやろう」

 

 後というのが何のことか分からなかったが、きっと食事やつまみ、場所の用意のことだろうと僕は合点した。隼鷹と響はにやにやしていた。というのは、二人は根っからの酒飲みで、敬虔な宗教家の響にせよことこの悪徳についてだけは「それはそれ、これはこれ」の立場を頑として守り抜いていたからである。それから僕は提督のところに行って、休日の申請を出そうと思った。だが提督は、いつも着ているジャケットを床にぽいと放り出し、だらしなく着崩したシャツの汚れた袖で充血した目を擦りながら「休みの申請ならもう受け取ってる」と言うのだった。僕は彼女が薬のやりすぎで未来を見たのだと考えたが、吹雪秘書艦が僕に見せた書類は提督の言葉が正しいことを証明していた。僕はその書類をじっくり調べた。筆跡が僕のものでないことや、提出者名に日向の名が書いてあることに気が向いたが、とりわけ気になったのはどういう訳でか明々後日だけでなくその翌日も休みにしてあるというところだった。

 

 通常、この研究所の艦娘が二連休を甘受できることはない。抜けた穴を埋めるのは第四艦隊の役目なのだが、僕らはいつでも人手不足だったからだ。提督は艦娘たちに対して、毎日忙しく働かせるぐらいが丁度いいと思っているらしかった。それなのに日向は休みを勝ち取った。響と隼鷹の休みまでは無理だったにせよ、僕の分まで、提督から。僕は日向に感心するよりも、提督がどうしてそれを許したのか聞きたくなった。そこで真っ向から訊いてみた。彼女は答えた。

 

「期待できないことには期待しないことにしているからだ」

 

 意味は分からなかったが、彼女はもう何も言うことはないという態度を取ったので、僕はそれ以上深く訊ねなかった。部屋に戻り、翌日を迎え、仕事をし、翌々日を迎え、仕事をし、くたくたになって眠った。その次の日、僕は午前六時に叩き起こされた。「敵襲か?」僕は寝ぼけ眼で僕を起こした誰かにそう言った。深海棲艦が日本本土を攻撃した例は少ないが、ない訳ではない。部屋の明かりはついていなくて、カーテンも閉め切っていたから、部屋は真っ暗だった。影の形しか分からないその誰かは、落ち着いた優しい声で言った。

 

「まあ、そんなものだな」

 

 そして僕はその後およそ四十八時間、あちこち場所を変え人を変え、騒がなければならなかった。日向の体力は実に恐るべきもので、二時間ほど食堂で研究所の職員たちを交えてわいわいやったかと思えば、第二艦隊の待機部屋に乱入してその場にいた加賀を言葉巧みに口説き落として一献、工廠に行って整備員と一献、甘味処の座敷席で店員を捕まえてまた一献、提督の執務室は素通りして駐車場で研究所員と一献、といった具合だった。挙句の果てに研究所内で行く場所がなくなると「では外に出るか」だ。正直な話、僕が何箇所巡って何人の見知らぬ人と酒を酌み交わしたのか記憶にない。しかもその間中日向は、ほんの数杯しか飲まずに素面のままでいたのだ。素で酔漢に調子を合わせられるのは、相当な宴会好きでなければできないことだ。

 

 意識が海上に戻ってくる。青葉は楽しげに計画を話している。僕は振り向かねば彼女の顔を見られず、敵の奇襲を受ける可能性のことを考えれば顔の向きを変えるのは難しいことだった。が、青葉の顔に浮かんでいるのがどんな表情なのか想像する方が、現実で見るよりも素敵なことなのだと僕は思った。ミロのヴィーナスが美しいのは、それが不完全で欠損しているからだ。その欠けた部分に、目のある人々ならば誰でも、自分自身の想像力で達しうる最大かつ変幻自在で無限大の美しさを見ることができる。青葉の顔がどのように輝いているのかというのも、それと同じだ。見てしまえば、それはそれで素晴らしいものであったとしても、何かしら足りない部分も目に入れてしまう。仮に無欠であったとしても、勝手に作り出してしまう。やれえくぼの形が気に入らないとか、唇の色がダメだとか、ポーズがなってないとか。これはけだし、人間の度し難い悪癖みたいなものだ。僕らはたとえアキレスを見たとしても、彼の踵のことばかり気にしてあげつらう。

 

 休憩を挟みながら三日目の朝を迎える頃には、青葉は眠ってしまっていた。あれだけずっと寝ていたのに、よく寝られるもんだと僕は妙な敬意を覚えた。僕に付き合って話をするのは、見た目よりもずっと体力を使う行為だったのだろう。せめて夢の中でぐらい、安楽にしていてくれればいい。僕がうんざりしている悪夢みたいなものが、彼女と縁遠い存在であってくれれば。

 

 航行を続けながら、口の中のガムを取り出して、水を飲む。噛みすぎで、そろそろ顎が痛くなってきた。それだけ長い時間が経ったということでもある。三日目か! 三か月も海の上にいたように思いさえすることだ。予定なら四日目の半ばにはソロモン諸島に到着することとなっている。それまでに味方艦隊に見つけて貰えたら最高だったのだが、運というのは当てにならない。到着したらどうするか? 僕はそれを考えた。まずは無線連絡だ。島に上陸して、なるべく海から離れた高い位置から連絡をする。どの島がいいか? 地図を見る限り、ガダルカナルが最適に思えた。ガダルカナル島の北にあるアイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)は以前の大規模作戦で激戦地となって以来、こちらの勢力圏となっている。有力な敵との遭遇もあるまい。しかも、ショートランド泊地から大体五百キロか五百五十キロだ。その距離なら、ギリギリではあるがヘリで往復できる。重量の問題から艤装は放棄していくことになるだろうが、命には代えられない。僕ら同様に生き残った、幸運な妖精たちだけ連れて帰るとしよう。

 

 利根と北上が太陽の光に照らされて目を覚ました。僕は青葉をきちんと寝かせてやるように二人に命じ、それを終えたら僕と交代するようにも言った。二人ははっきりとした「了解」の返事をした。僕はその力強い声を聞いて安心した。彼女たちは大丈夫だろう。ロープを彼女たちに渡し、救命艇に戻る。教官は親の仇でも見るかのように僕らが後にしてきた水平線を見つめ、その横で隼鷹はうつらうつらとしていた。「一時間休む」腰を下ろし、横になって目を閉じる。

 

 僕を揺り起こしたのは北上だった。「もう一時間経ったのか」と嘆息しながら目じりをこすっていると、北上は「いや、三時間ほどかなあ」とばつが悪そうな顔で言った。「何だって?」困惑して、僕は教官を見た。僕が寝ている間の指揮は二番艦である彼女の役目だ。きっと、ぶっ通しで働いていた旗艦を休ませる為に交代を引き延ばしたのだろう。親切なことだが、そういうことをするなら、話を通してこちらの納得ずくでやって欲しかった。こんな、騙し討ちみたいな真似じゃなくてだ。僕は固い声で彼女に言った。「僕がどれだけ休むかは、僕が決めることだ。こんなことは二度としないでくれ」教官は頷いた。ずきずきと心が痛んだ。考え直してみると、彼女の行為は僕の為ではないだろう。僕の正気を保つことが、巡り巡って結局は教官自身を含む生存者たち全員の利益になるからこそやったことだ。であるならば、僕を本人の了承なしに予定よりも長く休ませたのは、真っ当な判断だと言えた。指揮権を持っていないのに指示を出したのでもない。正当な、分別のある命令を下しただけだ。ただ、やり方がちょっとばかり汚かった。

 

 教官の指示が僕に与えた精神的動揺は否定しがたかったものの、休息の効果は僕にも明確に出ていた。僕と利根、北上は秩序立った交代制を取り戻し、移動を続けた。この日、敵とは二度出会ったがどちらも日中のことで、僕の水観が先に連中を見つけていた為に戦闘は一切起こらなかった。それがよく働いたのか悪く働いたのか、段々と僕たちは楽観的な考えを持つようになっていった。「もう三日目で、今日が終わって半日もすればソロモン諸島だ、無事に帰れるに違いない」という漠然とした根拠に基づく誤った確信とでも言うべきものが、蔓延していたのである。

 

 これは砂上の楼閣であったから、当然したたかに打撃され、塵と消えることになった。日の入り直前、最後の偵察に出した水観が無線連絡をしてきたのだ。それは要約すると「針路上に島を発見した」というものであった。それを聞いて利根と北上、それに青葉は大喜びだった。隼鷹は寝ており、僕と那智教官は自分たちがしくじったことを悟っていた。墜落から二日、四十八時間。三日目、日の出から日の入りまで、約十二時間。六十時間でソロモン諸島にたどり着いた筈がなかったのだ。これから僕らがその島に着くまでに必要とする時間を加えてみても、計算は合わなかった。だとすれば、僕らは誤った針路を取ってしまい──コンパスが壊れていたのか、脚部艤装の不具合か、今となっては理由は何でもいい──誤った島に到着してしまったのである。

 

 だが空から叩き落とされ、海を放浪し、敵から逃げ回ってどうにか生き延びてきた僕は、強靭な理性と諧謔を備えた嗜虐心で以って、自分にこう言ってやることができた。「でもよ、陸地は陸地だぜ」それで、とにかく近づいて上陸してみようということになった。もしかしたら、補給基地か何かがあって、友軍のいる島かもしれない。そうでなくても、陸の上なら深海棲艦との遭遇を恐れながら眠る必要はなくなる。かつて人間の居住地だった場所が見つけられれば、そこで休むだけ休んで、場所を確認して、次の計画を立てることもできる。距離によってはいっそ、この島から無線で救援を要請してもいいだろう。敵を引き寄せてしまったとしても、逃げ隠れする場所はたっぷりある。三十人も四十人も人型深海棲艦を連れてきて山狩りされたとしたら話は変わって来るが、たかが一艦隊の為に奴らがそんな行動に出たという逸話は聞いたことがない。天龍たちとの時だって、僕らを追い回したのはその場にいた深海棲艦たちだけだった。でも、もしあそこで何週間も過ごしていたら、敵は山狩りを敢行したのだろうか。素朴な疑問だったが、答えは知りたくなかった。

 

 僕らは葬列のように静かに進んだ。更に十二時間。落ちた日がまた昇るまで。冷静で深刻な気分になるにはぴったりの、長時間航行だった。水観が時速何百キロという高速で空を飛ぶことができた一方で、僕ら艦娘は精々が時速七十キロとか、六十キロといったところだったからだ。それでも生身で自動車並の速度を出しているのだし、上を見たらきりがない。どうしようもないことについては、あるがままを受け入れなければならないものだ。それに時間が掛かったのもかえってよかったと言えないこともない。何故なら、もし、ものの二時間や三時間で島の前まで来ていたものならば、僕らは暗中を手探りして上陸地点を探さなければならなかっただろうからだ。そうしたらきっと下らない事故が起きて負傷者を出すか、悪ければ行方不明者、死者を出していたと思う。

 

 僕は自分をどうにか制御しようとして、ある面ではそれに成功したが、別の面では失敗していた。生き残る希望は失っていなかったが、この失敗の責任を感じることから逃げられなかったのだ。時間感覚が狂い始めているのも感じていた。妙に一秒一秒が素早く過ぎ去っていく。一日目、僕はやけにそれがゆっくりだったように思っていた。今はどうだ? さっき陽が沈み、また上がって、もう一度沈み……目が回るほどのスピードだ。今日で何日目か、気を抜くと忘れそうになる。記憶を遡って指折り数えて、何とか思い出す。悪いことに、そんな自分に気づいても「それがどうしたんだ?」と笑っている僕さえ心の中にいる。よくない兆候だった。こういうサバイバル環境下で消耗した精神は、簡単には元に戻らない。ストレスに晒され続けている限り、少し回復しては前よりも悪化するということを繰り返す。さしずめ今は、悪化期にあるに相違なかった。

 

 明るくなる頃に島の形が見えてきた。四日目の朝だ。僕らは島を回り込むようにしながら近づいて行った。何処から島に上がるのかを決める為だ。水上航行可能な僕や利根らはよいとしても、救命艇の連中が安全に上陸できる地形は限られる。できれば砂浜か、小型舟艇用の船着き場を見つけたいところだった。そのどちらかなら、何の心配もなくゴムボートを持っていける。砂浜なら引っ張り上げて波にさらわれないようにしておき、落ち着くことのできる建物を見つけるまでのテント代わりにもできるだろう。船着き場ならそれは無理だが、ロープを使ってその場に固定しておくことは可能だ。

 

 巡っていく内に、うってつけの場所があるのを見つけた。島の北側に自然の悪戯によってできたとしか思えないU字型の湾があり、双眼鏡で見てみると岸壁には救命艇から上がるのに使えそうな階段も備えてあった。ロープを巻きつける為の係留柱もある。荒廃の具合から大昔に作られ、放棄されて久しい港であることは見て取れた。これはこの島に友軍がいないことの確からしさを証明していたが、建設的悲観主義の観点から僕はそれについて「知ってた」と言い放ってやることができた。湾へと導いてくれる海流に乗って、進んでいく。と、双眼鏡で強化された視覚に、何よりも見たくなかったものが捉えられた。深海棲艦だ。正確には、その死体だ。加えてより詳細に言うならば、その一部だ。港のあちこちに散らばっている。水の上に浮かんでいるものもある。手足や首、それだけではなく一体元々が何だったのか推測することさえ許さない肉塊……彼女らの体を構成していた筈の大きな部品は見当たらないが、艤装の重みで海に沈んでしまったのだろう。

 

 僕らはただちに警戒態勢に移行し、三百六十度に目を光らせながら進んだ。僕は油断なく視界内の動きに気を払いつつ、考えた。深海棲艦がそこで死んでいるということは、味方が近くにいるのか? そう信じたかったが、この考えには違和感があった。一つは、深海棲艦たちがおよそ抵抗らしい抵抗をした形跡がないことだ。だだっ広くて何もない海上以外で彼女たちが戦う時、周囲の環境が破壊されずに済むことは少ない。それは深海棲艦の激しい戦いぶりがもたらす副次災害のようなものである。それが存在しないということは、彼女たちは絶望的な抵抗をする為の時間さえ与えられなかったのだということを意味する。信じがたいが、そんなことがあり得るのだ。だがどうやってやり遂げた?

 

 救命艇を階段の横につけ、青葉、隼鷹、教官の順番で陸へと上がらせる。食料や容器に入れた飲み水、それから操縦士を連れてだ。それから北上と利根を先行させて、僕は近くの係留柱にロープを引っ掛けてから階段を上がった。数日ぶりの陸は何とも呆気なく思われたが、海上にいたのが長すぎたせいか、まっすぐ立っていても足元が揺れ動いている気はした。比較的元気な青葉に操縦士を担がせ、二列縦隊で移動を開始する。この港と同じく放棄された集落があるだろう。とりあえずはそこに行く。屋根を確保し、体力の回復に努める。全てはそれからだ。

 

 好んでそこを通った訳ではないが、僕らは深海棲艦たちのばらばらになった死体の真っ只中を歩いた。虫がたかっており、それはこれまでで最もリアルな戦争の一面だった。「見るなよ」と僕は艦隊員たちに命じたが、那智教官ただ一人を例外として、僕自身を含めてその命令を守った者は恐らくいなかったと思う。教官だけが平然としていた。彼女の目は、海で魚を見た時と同じ程度の感情に満ちていた……つまり何の感動もなかったってことだ。「わあ」と隼鷹は感激したみたいに言った。「死んじゃってるぜ、こいつら」みんなそのことに気づいてないのかよ、というニュアンスが彼女の言葉にはあった。「こんなに死んじゃってる深海棲艦見たの、あたし初めてかも。なあ、そうだろ?」彼女は僕に同意を求めたが、さにあらず、僕はあの岩礁で先んじて深海棲艦の死体を見ていた。でもここまで破損して、腐りかけているものを、となると、隼鷹と同じく初めてだった。

 

「見るなと言ったぞ」

「ああ、聞いてたよ。ちぇっ、でも分かるだろ? どうしたってこいつら目に入るんだ。目を閉じたって臭いもするしさぁ。すげえ死んでる──マジで死んでるんだぜ。参っちゃうね」

 

 僕は彼女の顔を見た。隼鷹はこちらを見てはいなかった。お菓子を前にした子供みたいに、辺りに散らばった腐肉の塊に夢中になっていた。その頬には興奮から来る赤みが差していた。一時期彼女を支配していた倦怠や悪心は追い払われてしまったようだ。その二つに囚われているぐらいなら、今の彼女の方がいいのかもしれない。しかしそれにしても、騒ぐのはやめさせなければならなかった。僕は教官を見やった。彼女は了解した。隼鷹に後ろから近づき、何か囁いた。隼鷹は小さな声で何事か言い返した。教官はそれにも反駁した。隼鷹は黙った。何を言い合っていたのかは知らないが、結果だけで僕は満足した。

 

 深海棲艦の屠殺現場を抜けてから数分歩いたところで、ふと隣にいた利根が僕に言った。「のう旗艦殿よ」僕への呼び掛けには親しみのこもった皮肉を感じた。僕は頷いて聞いていることを示した。「吾輩は一つ悟ったぞ」それから彼女は、自分が感じている愉快さを無理やりこらえているかのように、震える声で言った。「戦争はな、クソじゃ」僕は一言、「うん」と言った。彼女が汚い言葉をここまであからさまに放ったのは、初めてだったと思う。彼女の言葉の裏に、僕はかつて自分が抱いた感情の残骸を見た。『カッコいい制服、カッコいい鉄砲』。その幻は訓練所で粗方吹き飛ばされたが、それでも名残があったのだ。それは残りかすだったが、多寡が問題なのではない。有無が問題なのだ。残った最後のそのかすを、深海棲艦たちが払ってくれたように僕は感じていた。僕らは天龍のように戦争を楽しんでいなかったか? この戦争を、深海棲艦を倒す遊びみたいに思っていなかったか。ピンチに際して興奮したことは? 自分をゲームの主人公のようだと感じたことは? どれについても僕は心当たりがあった。

 

 そして現実は利根が言ったことが全てだった。この戦争は必要だと、今でも胸を張って言える。何故ならこれは、人類始まって以来初めての政治的理由を抜きにした闘争だからだ。人類という種の生存と存続だけを目的とした戦争だ。必要なのだ。これを拒否すれば、我々は滅んでしまうのだから。しかしそれはそれとして、戦争というものが本質的にクソ溜めであり、僕らがその中にどっぷりと浸かっていて、遅かれ早かれじきに神の国がケツや口へとぶち込まれるであろうということは、否定することのできない事実だった。

 

 気付くのが遅すぎた。もっと早かったら、何かまともな反応も取れただろう。提督や艦娘になること以外で艦娘に関わる人生を選ぶことも(できたとしてもしなかっただろうが)できた。整備員とか、支援団体職員とか、そういう人生だ。でも遅すぎた。僕にできる最大の反応はさっきみたいに、肩をすくめて「知ってた」とうそぶくことだけだった。耳に隼鷹の声がこびりついて離れなかった。彼女が言わなかったことさえ、僕の耳に聞こえ始めていた。「なあなあ、さっきの奴らさ、“死んでる”クラブがあったら名誉会長レベルの死にっぷりだったんじゃね? だってさ、あんなにばらっばらになってるんだぜ」その声には破壊の芸術への純真な称賛が込められていた。「すげえよ、ほんとさ。あたしどうやったらこんなのになれるのか分かんないよ」ああ、僕もだよ。お願いだから黙ってくれないか、隼鷹。「分かった分かった。悪かったって」ありがとう。

 

 名誉を防衛する為に言っておくと、深海棲艦の無残な死体は僕に艦娘となったことを後悔させまではしなかった。僕はまだ艦娘だ。敵を打ち倒し、身を守ることのできない誰かの守りとなる。平和に生きたいと望む人々が、そのように生きられるよう努める。そのことを誇りに思っている。戦い、傷つき、死ぬべき時には死ぬとしよう。生者の義務として全力でそれに抗う、抗うが、どうしてもという時にはこのたった一つの命を捧げよう。それは難しいことではない。何故なら、そういう時には僕がどう思っていようと強制的にそうさせられるものだからだ。勇気を振り絞って自ら死ななければならない、なんて状況は、まず起こらないだろう。

 



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「洋上」-6

 港から自動車道の痕跡をたどって歩いていく。道はやがて川沿いになった。見る限り清浄な水のようだが、飲むなら沸騰させてからの方がいいだろう。腹を下したくはない。そのまま進むと、道沿いに小さな倉庫があった。僕らはそこに押し入り、倉庫にぽいと投げ捨てられ、置き去りにされていた箒などを使って埃を払ってから、腰を下ろした。倉庫は空っぽで、隅から隅まで探しても見つけられたのはバケツが二つと例の古ぼけた箒だけだった。

 

「火を起こすとしよう」

 

 反対者はいなかった。いたとしても無視された。薄暗い倉庫内を照らす明かりの為にも、飲料水の確保その他の為にも、僕たちはそれを必要としていた。火の起こし方などはみな分かっていたので、そちらは青葉と北上と利根の三人に任せて、僕と教官は地図を囲んだ。隼鷹は操縦士の面倒を見させておいた。彼女は既に落ち着いていたが、火を任せたいとは思えなかったのだ。

 

「ここは何処だと思う? 僕はここまでの移動距離や湾の形から、この島じゃないかと思うんだが」

 

 地図の一点を指で示す。そこには米粒みたいに小さな字で「エスピリトゥサント島」と書かれている。かつて存在したバヌアツ共和国の領土で最大の大きさを誇る島だ。ガダルカナルまではおよそ千キロほど離れている。ならショートランドまでは千五百キロほどか。教官は僕の意見に同意してから「上陸するべきではなかったかもしれないな」と僕の他には聞こえない程度の声で漏らした。「何故だ?」「見てみるといい、隼鷹や北上、利根、青葉……みんな、陸に戻って気が抜けている。ガダルカナル島まで残り千キロでも、海に戻れという命令を喜んで聞くとは思えない」「クソったれ」ぼやいて天を仰ぐ。言われた通りだった。見れば、北上たちは「後はゆっくり救助を待つだけ」という顔をしていた。僕だって旗艦じゃなきゃ、彼女たちより少しだけ余計に事態を把握していなけりゃ、そんな顔をしていたのだろう。

 

 無線で救助を呼ぶか? でも深海棲艦はこの島にも来ていた。生き残りが傍受して、襲撃を掛けてくる可能性は否めない。そうでなくとも、近隣の深海棲艦を呼び寄せることになる確率はある。こちらの通信を傍受したら、奴らは待ち伏せを仕組むだろう。救助に来る艦隊も危険に晒される。ショートランドの提督にもそれぐらい想像できる。だから救援要請を握り潰される恐れまであった。

 

 やはり、ガダルカナルまで行かなければダメだ。ここで休息し、然る後にあの島に行くのだ。そこで無線を使い、ヘリを呼ぶ。僕は決定した。艦隊員が文句を言おうと知るか。僕の仕事は艦隊指揮であって、彼女たちのご機嫌伺いではない。もし北上や利根が僕に文句を言ってきたとしても、僕は片眉を上げてから、「黙って言う通りにしろ」と言えばいいのだ。それで憎まれたり嫌われたとしても、結局は僕の判断が彼女たちを救ったとなれば、落ち着いた頃に僕らはまた友人に戻れるだろう。艤装をつけて研究所の外、海の上にいる間は、僕の命令には絶対服従して貰う。それは軍のルールでもある。

 

 僕は教官に声を掛け、一緒に倉庫の外に出た。そして、彼女に自分の考えを話した。教官は黙って聞いてくれていた。僕が話し終えると、彼女は頷いて言った。

 

「分かった。すぐに私から伝えよう」

 

 那智教官の反応には、肯定的な意見も否定的な意見もなかった。僕は彼女にすがりついて、問い掛けたかった。教えて欲しかった。僕の判断は正しいでしょうか? 僕は彼女たちみんなの命を握ってるんです、あなたの命もそこに入ってるんです、間違えることは決してできないんです──だがそうはしなかった。できなかった。もう僕は彼女の庇護下にある候補生じゃあなかったからだ。その逆に、僕が彼女たちを庇護する立場にあるのだ。口が裂けても「僕は正しいか?」などと聞ける訳がなかった。僕は教官の顔をじろりと見て、ぶっきらぼうに「頼む」と言った。

 

 すると僕が予期し得なかったことが起こった。那智教官はじっとして立ったままでいる僕を置いて、先に倉庫内に戻ろうとして扉に手を触れ、それから開けるのをやめて僕の方を振り向いた。彼女の顔は懐かしい「那智教官」の顔だった。「第五艦隊二番艦の重巡那智」ではなく。あの訓練所で僕を鍛え上げ、今日まで生き残る最大の理由となってくれた、あの強く美しい女性の顔だった。那智教官は言った。

 

「念の為に言っておこうと思うんだが……貴様は、よくやっているよ」

 

 彼女が「那智教官」に戻ると同時に僕も半分だけ艦娘候補生に戻っていた。それで僕の心は「はい、教官」と言おうとしたのだけれども、旗艦の口が「早く行け」と突き放そうとした。だから教官が僕の答えを待たずにさっと身を翻して建物の中に戻ってくれて、本当に安心した。彼女に向かって何て言い草だ、と自分を責めずに済んだのだ。僕は倉庫の壁に身を預け、ずるずると座り込んだ。土の感触が服を通して肌に伝わり、ひんやりとしたが気にならなかった。目を閉じて空を仰いだが、まぶたを貫く明るさを厭って俯き直した。

 

 どれだけそうしていたか分からない。意識が飛んでいたから、眠っていたのだと思う。気づくと、隣に誰かがいた。僕はまだ目を閉じていたが、ほのかな汗の臭いと混じった個人特有の匂い、それから吐息の音から、その誰かとは隼鷹だと知れた。僕は目を閉じたまま言った。「どうしたんだ」漏れ聞こえてくる声で他のみんなは倉庫内にいると分かっていたし、寝起きで頭や体が怠さの影響下にあったから、それを悪用して先と違って僕は旗艦の仮面を被らずにいることができた。隼鷹は言った。

 

「悪いね、起こしちゃって」

「どうせいつまでも寝ている訳にはいかないさ。それで、質問にまだ答えてくれてないな。僕はどうしたんだ、って言ったんだぜ」

「答えたくないと思ってるとは考えないのかい」

「今更お互いに隠すようなことがあるのかね。僕も君も、一番みっともない姿を見せあった仲じゃないか」

 

 含み笑いをして、隼鷹は体を揺らした。

 

「それは否定できないねえ。例えばほら、初めて飲んだ時のこと……」

「覚えてる」

 

 僕は彼女が言い終わる前に答えた。「覚えてるとも。最悪の夜だった、主に君のせいだ。追い出されるまでは楽しかったけどね」「え? ありゃそっちが悪いんだぜ。お陰で二度とあの店には行けないと思ったよ」「でも後でまた行った」「そしたらあたしらを見た店員が──」「可哀想に、泣き出しちゃってな。キュートな女の子だった」くすくすと笑って、僕らは互いの肩を叩き合った。そして、店員に悪いことしたよな、悪いことしたよね、と同じことを言い合った。笑いが引き、目じりに浮かんだ涙の粒を指で拭ってから、僕は隼鷹が話してくれるのを待った。幸い、長く待たなくてもよかった。

 

「港で騒いでたの、さ」

 

 遠くで過去の隼鷹の声が聞こえた。わお、死んでるぜこいつら。すげえ。ばらっばらだ。吹っ飛んでるんだよ。いや吹っ飛ばされちゃったんだよって言うべきだね。ここでめちゃすごい爆発とか起こったんだぜ、きっと。

 

「あれ、あたしじゃなかったんだと思うんだよね。何て言ったらいいかな。あたしじゃなくって、誰かがあたしの中にいて、代わりにあれを見てくれた感じ。そいで、代わりにコメントして」

 

 彼女の言葉は末に近づくに従って、力を失っていった。最後の聞き取りうる音がかすれて消えると、僕は「ああ」と即座に相槌を打った。

 

「気にしないでいい。君は悪いことをした訳じゃない」

「うん。あたしは……違うんだよ、あれはあたしじゃなかったんだ」

「なあ、別のことを考えよう。そうだな、帰ったらワインでも飲みに行かないか?」

 

 この話題は隼鷹の注意を逸らす上で絶大な効果を発揮した。彼女はぼんやりしていた視線を急にしっかりとしたものにして、僕をすねたような恨めしげな目つきで、ひと睨みしたのだ。

 

「響の代わりにだろ」

「誘ったの知ってたのか?」

「断られたこともね」

「やれやれ、女の子に隠し事はできないな」

「違うね、あたしに隠し事ができないのさ」

 

 反論はできたが、僕はしなかった。その代わりに誤解を解くことにした。

 

「隼鷹、君を誰かの代わりになんかしやしないよ。僕はただ君と話したいだけだ。何を話すことになるか、今は分からないけど」

 

 彼女は次の言葉を発さなかったので、それから隼鷹が立ち上がって倉庫に戻っていくまでの数分間、僕らは黙っていた。黙祷のような静けさが互いの間にあった。その行為が誰に向けられたものであるにせよ、神聖にして侵すことのできない、張り詰めた時間だった。僕は背中にかゆみを感じたが、その掻痒(そうよう)感が耐えがたくなってもまだ動かなかった。やっと彼女が僕の前から姿を消して、動いても誰に咎められることがないと分かっても、何となく身じろぎするのが後ろめたいことのように思われた。しかし背中はやたらと蚊に刺されたみたいにかゆかったし、日は雲の薄膜越しにさえ僕の肌を焦がすので、僕は背に手をやってかきむしってから、残り少ない敏感肌用日焼け止めを節約しつつ体の露出部に塗りつけなければいけなかった。

 

 昼食を取り、日が落ちるのを待ってから出発した。昼食の後、教官と北上が倉庫から少し離れて山に入り、二人で協力して野生化した小さめの豚、かつては人に飼育されていたのであろう先祖を持つ獣を一頭仕留めたので、夕食は自分たちが遭難中であるということを忘れそうになるほど豪華なものになった。味付けこそ貧相なものだったが、肉は僅かな余りを残して食欲旺盛な艦娘たちに食べつくされてしまい、僕はその余りを切り刻んで豚の血を混ぜてこね回し、腸詰にしてバケツで煮てから、港に戻って取ってきた海水で塩味を更に足し、いい加減な保存食にしてみた。やりようが悪かったのか血生臭さがどうしても取れなかったが、食料を増やすのは大事なことだ。寄生虫を殺し切れていなかったとしても、明日や明後日に何か引き起こすことはないだろう。

 

 夜、久方ぶりに空が晴れて、丸い月が姿を見せた。もっと早く晴れてくれていれば、と思わずにはいられなくて、僕は天空に浮かぶ無慈悲な女王を睥睨(へいげい)した。その無礼さによって彼女から顰蹙(ひんしゅく)を買ったのか、女王は彼女の映す光を遮ってしまわないほどの、雲というよりはたなびく煙みたいな薄布で、その丸顔を覆った。僕らはぼんやりとした星月の明かりの下で、島を出た。島に近づく時は昼がいいが、出るのは夜に限る。近づく際に事故を起こすことはあっても、離脱の際に事故を起こすことは少ないからだ。ただ今日までの数日間、夜と言えば何の光もない暗闇を意味したので、それに慣れた第五艦隊の生き残りたちにとっては、月や星やらが出ていると明るすぎて落ち着かないほどだった。

 

 ガダルカナルまで、千キロ。時速六十キロで進めば、約十六時間で到着する。容易いことではない。そこそこ休みを取れたとはいえ、体調も最高の水準にあるとは言えない。燃料はかつかつで、足りるかどうか計算してみても不明だ。海流や風、それに運が味方してくれれば、ガダルカナルに行けるだろう。いやはや、運か! あらゆるものが自分次第なのだ、と常々己に言い聞かせている身として、最後にはそれに頼らなければならないというのが口惜しかった。

 

 運とは、全く! 神様の加護も幸運も僕にはなさそうだというのに。大体、前者については僕以外の人々についても疑わしい。響を見てみるがいい、彼女ほど敬虔な信者はいなかったが、神は加護なんて与えずに彼女をお召しになった。それとも、何だ。神を信じながらその愛の教えに背いて深海棲艦たちを殺し続けた響は、最初っから神を軽んじて、時々こっそり彼を侮辱までしていた僕よりも重い罪を負っていたのか? それならいっそ、響を永遠にでも生きるように呪ってやればよかったじゃないか。ついでに僕のこともそうしてくれればよかった。

 

 ところが主は彼女を罪から解放してやろうなどと、おせっかいで周りのことを考えない行いに出やがった。こんな馬鹿な話があるか? 響は神を愛していた。響は娘が父親を愛するように彼を愛しており、神もまた彼女を、父親が娘を愛するように愛してくれているのだと信じていた。多分彼女の信じた通りだったのだろう。だからこそ主は僕ではなく、那智教官でもなく、隼鷹や青葉や利根や北上ではないあの響を、ことに彼女を選んで海に叩きつけたのだ。これはとても道理に合わないことだ。目も合わさないような他人ではなく、父と娘の間柄になったからこそ、その娘を打って殺すとは。

 

 でも主が人を彼自身に似せて作り出したのだとすれば、道理に合わないからこそよく似ていると言えるのかもしれない。

 

 そんなことを考えるのは、こうやって冒涜的なことを思うことで、響の信じた彼が下りてきて、僕を苦しめてくれやしないかと願っていたからだ。僕も響と共に苦しみたかった。彼女が死を迎えるまでの短い時間に体験した苦痛は、僕が後六十年生きたってその半分も知ることのできないものだろう。彼女と苦しみたかった。彼女の経験を知りたかった。そのようなことは、響が生きている内に済ませておくべきだったのだ。僕は僕自身の臆病さや、「明日がある」型の根拠のない楽観論によってその機会を未来永劫失ってしまった。

 

 僕でなければ、助けられただろう。例えば僕の席に教官が座っていたら、響は彼女の腕の中にいたに違いないのだ。とにかく僕以外の誰かであれば、あのよき友人の命が浪費されるようなことはなかった。

 

 頭を振って、響に関わる思考を追い出す。今は自分を責めて悦に浸るよりも、やるべきことがある筈だ。僕が守れなかったものをこれ以上増やさないようにしなければいけない。何度もその言葉を思い浮かべて、決意する。響の次は僕だ。第五艦隊みんなが生き延びる為に必要な対価があるとしたら、それは僕が支払おう。たとえその対価というのが自分の命であったとしても──そんな自己陶酔に陥りそうになり、僕は拳を強く握って肌に爪を立てた。よしんばその通りになろうとも、自己犠牲などに酔ったまま死にたくはない。僕の膨れ上がった自尊心は、そのような逃げ道を許さないのだ。少年の心において大部分を占めるこの厄介な腫物は、あくまで立ち向かうことを要求する。その時が来れば、恐怖に糞尿を漏らし、がたがた震え、死にたくないと言いながら、それでも戦って死んでいくことを。

 

 夜が更けていき、やがて五度目の太陽の復活を僕らは見た。燃料はその不足が知られ始めた。脚部艤装は失っていたものの、艤装の全てを喪失した訳ではない者たちから、彼女らの燃料を貰っての行動も、最早限界が近かった。残念ながら、島に着く前に燃料は枯渇するだろう。そのことが影響してか、僕は考えを変え始めていた。島に着かずとも、どうしても切羽詰まったら、その時点で無線を使うのもいい。確実な死よりも僅かな可能性に賭ける方がいいというのは、誰もが賛成する論理だ。

 

「長くて三時間、短ければ二時間が限度だ」

 

 那智教官は疲れた顔を隠そうともせずに言った。何か気の利いた皮肉とか冗談を言いたかったが、思い浮かばなかったから「オールがあるさ」とだけ答えておいた。ガダルカナルまで残り四時間。悲観的に考えて二時間は機関を用いての移動が可能だとして、残り二時間分……つまり百キロそこらはオールや、天蓋を利用した帆走での移動となる。今日が終わる頃にはまた陸へ上がれることを祈り、僕は渾身の涜神として十字を切った。

 

 あるいはそれがよくなかったのかもしれない。冒涜から半時間と経たないで、主は侮辱への報復を実行した。水観が、僕らの進行方向に待ち伏せを発見したのだ。ヲ級、リ級エリート、ル級、三隻の駆逐イ級。この報告をしてきた水観は、とうとう戻らなかった。ヲ級の艦載機に発見されたからだ。以前の妖精たちとの取り決め通り、第五艦隊の位置を教えない為にその妖精は空で散ることを選んだ。けれども、その英雄的行為に関わらず、僕らは相変わらず危険に晒されていた。ヲ級が偵察機を出すに違いなかったからだ。それを防ぐには、方法は一つしかなかった。

 

 僕は救命艇を止めさせ、艦隊員たちを集めた。彼女たちの胸を打つような演説をしようと思えばできたろう。那智教官が涙を流すレベルは無理であるにせよ、じんと来るほどのものならできた筈だ。だが僕は彼女たちを無闇に感動させる為に集めたのではなかったので、端的に話すことにした。「ヲ級を含む敵が待ち伏せている。水観が発見され、撃墜された」反応はなかった。五人の艦娘たちは次の言葉を求めて僕を見ていた。「このまま放置すれば、敵は偵察機で以って我々の位置を突き止めるだろう。それは阻止されなければならない」隼鷹が小さく頷いた。「こちらから攻撃を仕掛け、混乱に乗じて離脱する」利根と北上の目に、ぎらぎらとした戦意の光が宿った。危なっかしい、破れかぶれの士気だった。「ただし」座っていた那智教官が、腰をふと少し上げた。

「攻撃に参加するのは一名だけだ。そしてその役目は、僕がやる」

 

 予想と違って、誰も「ちょっと待てよ!」とか「そんなのって!」みたいなことを言わなかった。随分とあっさり受け入れられたことに拍子抜けしながら、僕は「利根、僕に代わって艦隊の指揮を執れ。二番艦と協力して当初の目標を達成しろ。復唱」「吾輩が一番艦に代わって指揮を執り、二番艦と協力して、当初の目的を達成するのじゃ」というやり取りを済ませた。

 

 救命艇を離れる前に、燃料を継ぎ足して貰った。敵の懐に飛び込んで暴れ回るだけの燃料もなければ、何の為に僕を一人で行かせるのか分からなくなる。隼鷹が作業を手伝ってくれた。彼女は言った。「持っていけるだけ持ってきなよ。じゃなきゃ、戻ってくる時に困るだろ?」「そしたら泳いで帰るさ。なあ、隼鷹」多分、ごく自然な口調で話を切り出せたと思う。

 

「何さ」

「ワイン……」

「いいよ」

「やった」

 

 用意が済むと、僕は残りの艦隊員たちに何も言わずに救命艇を離れた。だって戻ってくるんだもんな、と胸の中で呟く。なのに別れの挨拶をするなんて、筋が通らないじゃないか。艇はオールを使って迂回しながら進むらしい。利根と教官なら、上手くやるだろう。僕はそう信じた。

 

 一人きりで進んでいると、上空で警戒に当たらせていた最後の水観数機が、こちらに向かっている敵の航空機を見つけ、その方位を知らせてきた。僕はそいつを見つけると、あえてこちらに気付かせてから、撃ち落としてやった。きっとあれを放ったヲ級は、偵察機を僕の方に向かわせるだろう。そして攻撃隊を送りつけてくるだろう。全速力で進み続ける。水平線の向こうに、人の頭が見えた。艦娘ではない。ル級の頭だ。盾を持っている。イ級の姿も近くにある。リ級エリートもいる。ヲ級も。全員いる。歓迎会だ。僕は水観を収容した。

 

 それから未来位置に向けて魚雷を放ち、回避機動に入る。こちらに気付いた敵艦が、砲撃を放とうとするのが見えたからだ。僕のいた辺りに幾つもの水柱が立ち、ヲ級の頭上が彼女の艦載機で薄暗くなる。当てることではなく、気を引くことだけを考えて撃ちながら、蛇行して攻撃を回避する。心の中の天龍が色めき立って歓声を上げる。「やってみろよ、ほら、当ててみろ! 楽しいなあ、戦争なんだぜ!」だが僕の頭はいつものように「当たりませんように」一色で埋まっていて、天龍について考えている余裕はなかった。

 

 幸運が一つ舞い降りた。僕を撃ちながら追っかけるのに夢中になったル級の足に、魚雷の一本が直撃したのだ。彼女の細くてしなやかな足は、子供がたわむれに虫の足を引っこ抜いた時みたいに、やすやすとちぎれて海面に落ちた。彼女の体そのものも、足の残骸が着水するよりも先に水面へと放り出された。僕は笑ったが、ヲ級の艦載機が襲い掛かってくるのを見てその表情は凍りついた。すんでのところで爆撃を避け、お返しに対空砲火を差し向ける。一機、二機は落ちたが、焼け石に水どころか、溶岩流に霧吹きだ。艦戦からの機銃掃射が僕の体を捉える。咄嗟に体を捻り、それだけでなく手や腕を盾にして重要な臓器などの急所はかわしたが、撃たれたところの痛みは耐えがたい。聞く者もいないことだし、みっともなく痛みに喚きながら急いで希釈修復材を掛けて、傷を治す。

 

 さて、逃げてばかりでは、連中を引き留めておくことはできない。僕は大きく円を描いて敵と相対すると、最大戦速で突っ込んだ。集中が、針の先に糸を通す時のような集中が、僕を死から免れさせ続けていた。それだけではない。耳元で天龍が囁く気がするのだ。「見てろよ、次はあそこに落ちるぜ……ほら、あっちから魚雷だ!」実際に天龍の声が聞こえたとは思えない。爆弾の破裂や至近弾で、僕の耳はがんがんと痛んでいたからだ。それでも彼女の囁きは、僕がそれを考えているかのように頭に浮かんだのだ。そして、その助言は常に正しかったのだった。

 

 お陰で、回避のついでに何発かの砲弾をイ級たちに命中させてやることができた。それで二隻を沈めたが、あっちだって黙って撃たれてくれはしなかった。僕は左の肘から先を撃たれて失くし、右のすねに至近弾の破片を受けた。希釈修復材が間に合わなかったら、転倒して海の藻屑と化していただろう。深海棲艦たちは、僕の突撃で完全に頭に血が上ったらしかった。彼女たちは猛烈な勢いで撃ち始めた。ヲ級の艦載機も次々と爆弾を投下し、魚雷を放ってきた。直撃を避けても、その副産物は避けられない。小さな欠片が飛んできて、僕の右目を潰した。艤装の機関部が猛烈な爆風で歪み、燃料が僅かに噴出した。それは僕の服に掛かり、砲撃の熱で簡単に燃え始めた。

 

 手当をしようにも、修復材は尽きかけていた。もう戦うのは諦めて、逃げるしかなかった。その時、驚くほど大きな音が無線機から発された。それは雑音だった。ノイズだ。似たようなものを、訓練所の座学で聞いたことがある。ジャミングの影響下にある通信はこういうノイズを出す、と学んだ時だ。いや、しかし、どうして今そんなものが? 味方がいるのか、敵がいるのか。とにかく誰かがいる。僕は一も二も考えもなく、無線機に呼び掛けた。

 

「周囲に誰かいるのか? 誰だ?」

 

 僕の声は届いたようで、返事が来た。遠くなった耳で聞き取るには苦労を要したが、特定の方位に進むよう促していた。どうとでもなれ、少なくとも艦娘か人間だ。深海棲艦が待ち受けているということはあるまい。僕は最後の力を振り絞るような気持ちで、無線の送信者の指示に応じた。撃たれながら、水上を走り続ける。血を失いすぎて、意識が飛び飛びになってきた。一発の弾など、僕の頭のあったところをびゅんと飛んで行ったものだ──丁度その時、僕は失神しかけて膝をがくんとやっていたから、そこに頭はなかったのだけれども。

 

 だがそんな悪運も長くは続かなかった。奴らはとうとう僕を捕まえた。回避運動に入ろうとしたタイミングで、意識が薄れてしまったせいで、間に合わなかったのである。僕は最悪の感触を味わった。脚部艤装に砲弾が直撃し、右の足首から先の感触がなくなった。撃たれた足を上げ、修復材の最後の一滴までを掛ける。そして、体勢を崩して海へ突っ込んだ。ぐきりと音がして、右の手首が折れたのが分かった。妖精たちを艤装内部から退去させ、パージして、必死の思いで立ち泳ぎをする。右足首から先と左肘から先を失い、右手首が折れ、上半身の広範囲に火傷を負い、生きているのが不思議なほどだった。でもじきに、深海棲艦が不思議でなくしてくれるだろう。リ級エリートは僕の前まで来ると、ようやく獲物を仕留めることのできた喜びに口元を歪めた。それから砲を僕に向けた。目を閉じる。

 

 一瞬の熱を感じて、僕の現実意識は散じた。

 

「けれど、まだ君は死んでいない」

 

 そして夢の中で目を覚ます。響が僕の前にいたが、僕と彼女がそこにいるというのに、風景は存在しなかった。彼女は僕に後ろを見せて跪き、祈りを捧げていた。その恰好を保ったまま、僕に話しかけているのだった。

 

「何だ、これは?」

「夢だよ。本当にただの夢。深海棲艦も海も天龍も謎の声もなしのね」

「これが終わったらどうなる?」

「目が覚める。他に何があるって言うんだい?」

 

 響は僕に背を向けたまま笑って答えた。そして立ち上がって振り向き、僕を見た。

 

「ほらね」

 

 まぶたを上げると、半分の夕空が見えた。背中の下がごつごつして痛かった。顔は全体的にひりひりしていたし、体中じっとりと湿っていた。僕は陸地にいた。すぐに起き上がる気力はなかったが、無線が鳴ったので返事をしなければならないと思った。妖精たちがひょこりと姿を現して、無線機の送信ボタンを押したりするのを手伝ってくれた。何と言えばいいのか分からなかったので、一番最初に思い浮かんだ言葉をそのまま口にした。

 

「こちら第五艦隊旗艦」

「目が覚めましたか。助けた甲斐があったというものです」

 

 やや雑音混じりだったが、赤城の声だった。僕は随分苦労して、落ち着いた声を出した。

 

「どうやって周波数を知った?」

「協力者は大勢います。しかも、何処にでもです。あなたのいる研究所、広報部隊、海軍本部、人間だけでなく深海棲艦だって。ご存知でしょう?」

「助けたとは?」

「方位を教えたでしょう。聞き取って貰えるか、それに従ってくれるかは賭けでしたけれどね。それに深海棲艦たちを航空攻撃で始末したのも我々ですし、何より沈みかけていたあなたをそこまで引っ張っていったのは、何も潮と波だけではありませんよ」

 

 ゆっくりと身を起こす。怒りを覚えるべきだと思った。僕は彼女たちに憎悪を抱いていたことを忘れていなかったからだ。彼女たちは、響の死について責任がある。しかし、それには疲れすぎていた。知るべきことだけを答えさせ、個人的な欲求は後回しにしようと思った。「ずっと付け回していたんだな」僕は半ば確認するようにそう言った。赤城はくすりともせずに「私自らではありませんし、墜落直後からという訳でもありませんが、概ねはそうです。護衛と露払いに随伴させた装甲空母鬼と会いませんでしたか? うっかり近づきすぎて姿を見られたと報告が上がって来ていましたが」と答えた。うっかり、か。彼女の姿を見た時、僕らがどれだけ怯えたか、本人に是非とも教えてやりたかった。

 

 僕はエスピリトゥサント島の港で不自然に死んでいた深海棲艦たちについても答えを得ることができた。それもやはり、装甲空母鬼の仕業だったらしい。僕らに先んじて島に航空機を送り、味方のものだと思って安心していた連中に爆撃を浴びせた。だから、抵抗の痕跡が残っていなかったのだ。「同族殺しをやるとは、親近感が沸くよ」と僕が言外に非難を込めると、赤城はすぐさま「それはよかったです。互いの似ているところを見つけるのは、誰かと仲良くなる為の秘訣ですよ」と返事をした。皮肉の交し合いをするのも億劫だったので、僕は口を閉じた。赤城がここぞとばかりに話を始める。

 

「お気づきかどうか知りませんが、私たちは多少の手管を弄してこの会話の盗聴を防いでいます。ですので、私以外の誰かに聞かれる心配はなさらないで結構。正直に答えて下さい」

 

 はいともいいえとも言わず、ビープ音を一回鳴らした。

 

「あなたはデータを受け取った」

「そうだ」

「何を読み取りました?」

 

 何も、と答えたかったが、青葉のことが気になった。少なくとも電や融和派から彼女を守ってやれるようになるまでは、赤城たちに面と向かって喧嘩を売るのは下策だろう。もちろん、歓心を買う必要もない。適度に答え、適度にはぐらかせばいい。

 

「鬼級や姫級の出現は艦娘配備後だが、軍が僕に教えたよりもずっと早かった。それと、深海棲艦の編成が六隻で一艦隊という今の形になり始めたのも、その頃からだな。後は……人型が占める割合が艦娘配備に伴って急増していたと思う」

「その全てについて、何故だと思いますか?」

「分からない。僕はそれについて考えるつもりがなかったし、今も考えたいとは思わない」

「ああ、あなたという人は!」

 

 突然、赤城は苦痛に満ちた怨嗟の声を上げた。僕は驚いて一瞬震えた。赤城はまるで、長年虐げられてきたがそれを鋼の自制心で以って耐えてきた女が、とうとう限界に達したかのような態度を取って、早口で言った。「どうしてそう頑迷なのですか、あなたは! 何処でそのような愚かしさを身につけたのです? それともあなたの小さな響の死がそんなに堪えているのですか? 考えなさい、どうしてもです、考えなさい! 考え、かつ想うのです! 分かりませんか? あなたに呼びかける彼女たちの声を聞き取ることができないのですか? だとしたらそれは、あなたが聞き取ろうとしないからなのですよ!」彼女の怒りの発作が収まるまでの間、僕にできたことは、身を小さくして耳を塞ぎ、息を潜めていることぐらいだった。赤城はたっぷり十分ほど、思いの丈をぶちまけていたと思う。それらの言葉には理解できるような部分もあれば、一向に意味の取れないところもあった。聞こえなかったのではなく、解釈を決めかねる言葉だったのだ。融和派というのは、多かれ少なかれ宗教家的な様子を呈するものらしい。僕を最初に引き込もうとしたあの男からしてそうだったではないか。

 

 赤城は落ち着くと、丁寧な口調でだが短く謝罪した。僕は何も言わなかった。彼女は勝手に彼女の感じている気まずさを振り払う為にか、励ますように「そうそう、あなたの艦隊員は、あなたが目を覚ます数時間前に救助されたそうです。じきに軍の迎えがあなたのところにも来るでしょう」と教えてくれた。

 

「分かった」

「それでは。次にお話する時には、もっと打ち解けた間柄になりたいものです」

 

 無理だろうな、と僕は思った。そして横になり、短い夢で響にまた会えるのを願って、一眠りすることにした。

 

*   *   *

 

 本土に戻った後、一日だけ病院にいて診断と治療を受け、報告書を作り、その翌日研究所に戻って提督に提出した。心から望んだ通り、彼女は僕を許さなかった。彼女は報告書を読み、裁かれるべき点を(僕が報告書の中で自ら示したものも、見落としていたものも含めて)一つ一つ述べて、そのどれか一つだけを取ってみても僕が気前よく不名誉除隊にされるか、さもなければ軍刑務所での長く辛い人生を進呈されることが相応しいと言った。同感だった。だというのに、彼女が僕に思い切り投げつけて寄越し、そのせいで僕の額に小さな切り傷をつけさせたのは、ちゃちな木箱に入った勲章だったのだ。それは軍法上の規定で「困難な状況下で類稀な勇気を発揮した者に贈られる」ことになっているものだった。これはどんな罰よりも効いた。提督は錠剤を二粒まとめて音を立てて噛み砕くと「精々そのおもちゃを見せびらかすがいい」と言って、吹雪秘書艦に命じて執務室から僕を追い出した。

 

 僕は誰にも見られないよう勲章を懐に入れて、自分の部屋へ向かった。絶望的な気分と、それでも自分は生きているし、残りの艦隊員や青葉、操縦士を助けられたという喜びが混じって、吐き気がした。響の部屋の前を通り、自分の部屋に入ると、僕はこの地獄のような気持ちが風化してしまう前に、僕が殺した女性の両親へと手紙を書くことにした。何度も何度も書き直し、彼女がどんな艦娘だったか、苦しい時にどれだけ僕にとって救いになってくれたか、みんなにとっての救いであったか、僕の感じていた全てを一文字一文字に込めて書いた。そうして書き上がった時には、日付が変わっていた。僕はおぼつかない足取りで部屋を出て、響の住所を知っていそうな艦娘を探した。すると、僕の直後に退院した那智教官と廊下で出会った。「遺品整理をする約束をしたんだ」と彼女は言った。「手伝わせて下さい」と僕は頼み、教官はそれを許してくれた。

 

 教官が用意していた合鍵を使って響の部屋に入ると、彼女の甘い匂いがした。彼女と話をしたり、飲んだりする為に何度かこの部屋に入ったことがあった。家具やテーブルの上に放り出された読みかけの本は、響が最後にそう置いたままにされていた。那智教官はそれらを目に焼きつけようとしているかのように見つめていたが、僕にはとてもそんなことはできなかった。部屋の片隅で、僕は泣いた。もう聖書を読んで、僕のからかいに答えてくれるあの友達がいないことに耐えるには、涙に頼るしかなかった。僕が泣き終わるまで、教官は何も聞こえないふりをして待ってくれていた。

 

 精神が平静を多少取り戻すと、僕は教官に謝って整理の手伝いを始めようとした。だが思わぬところから制止の声が掛かった。響の部屋の扉が開いていて、そこには提督と吹雪秘書艦が立っていた。「お前ら二人」と提督は言って、杖で僕らを指した。「今すぐ出て行け。この部屋は誰にも触らせない。このままにしておくんだ」那智教官は何か言い返そうとしたが、結局僕らはろくろく何も整理しない間に部屋を叩き出された。だが僕は提督と秘書艦の目を盗んで、響の予備の帽子を取ってきていた。彼女のことを忘れない為に、一つだけでいいから形見になるようなものが欲しかったのだ。教官の立場を考え、僕は彼女にそのことを言わなかった。代わりに、響の住所について訊ねた。教官は今一つ僕が何を言っているか分からない、という顔をした。

 

「住所?」

「はい。ここに来る前の、実家の住所です。僕、僕は……彼女の両親に手紙を書いて、響がどんな艦娘だったか伝える義務が──」

「響には」

 

 那智教官は硬い表情になり、無感情な声で僕の言葉を遮った。

 

「家族はいない」

 

 僕は部屋に戻って、もう一度涙を流した。



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「大規模作戦」-1

秋の日の ヴィオロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し

──ポール・ヴェルレーヌ※86 (訳:上田敏)


 望んだことではないけれど、物思いに耽ることのできる時間は湯水のように与えられた。艦隊の重要な構成員である利根が、墜落時に受けた小さな傷から菌が侵入した結果、十日ほどは病院から出られなくなった為に、第五艦隊は戦闘任務を停止されていたからである。しかし、やるべきことが全くなかった訳ではない。提督は新規人員を増やすに当たっては慎重になることにしているらしく、第一艦隊における隼鷹の代替になった新入りの空母がこの研究所で一人前にやっていけるようになるまでは、どの艦隊にも艦娘の補充をする気はないようだった。ただ幸いなことに、彼女は戦闘に従事する艦隊を、定員割れさせたままにはしなかった。潜水艦娘のみで構成された第三艦隊が特務から戻ってきていたので、第一艦隊所属の不知火先輩を第五艦隊に響の代わりとして転属させ、不知火先輩を引き抜かれた第一艦隊には第三艦隊の伊八をあてがったのである。不知火先輩との作戦行動に慣れる為の演習を繰り返してやらなければならなかったが、それでも艦隊旗艦としてはありがたいの一語に尽きた。定員割れした状態での出撃を平気に思えるほど、僕は強くないのだ。

 

 けれど第一・第三艦隊の方から見てみれば、これはとんでもない処置だったのではないかと思う。特に、吹雪秘書艦は絶対に気に入らなかっただろう。彼女が彼女の艦隊で作り上げた鋼の規律とチームワークを、僕のせいで崩されてしまったのだから。不知火先輩の代替人員として伊八を与えられた秘書艦は、今までの戦術を見直して潜水艦娘を交えての戦い方を模索しなければならなくなったのだ。また、第三艦隊の方でも決して嬉しくはなかったに違いない。艦隊から友人が去るというのは、たとえ同じ研究所の別の艦隊にいるだけだとしても、寂しいものである。その原因となった僕に向けて冷たい視線が投げかけられたとしても、甘んじて受け入れる他に望ましい態度はなかった。

 

 これは僕の考えすぎかもしれないが、提督は一種の懲罰、あるいは報復としてこれをやったのではないだろうか? 軍がプロパガンダに用いる為に、あの漂流の後で僕には勲章が授与された。青葉ではない広報部隊の記者たちから、回答して欲しいという質問状の束が送られてきたりもした。それから「私たちの為に海で戦う艦娘さんにお手紙を送りましょう」という類の子供たちからの手紙も届いた。一方で提督は増やせる筈だった階級章の線をふいにした。それを僕のせいだと彼女は言ったが、提督は口だけで満足するような人だとは思えなかった。彼女を指揮官として信用したいという気持ちと、提督の目に余るほどの結構な()()()を知っているという事実が、僕を板挟みにして苦しめていた。もし、提督の本当に狙ったものがこれだったとしたら、僕は彼女が人間の心理に深く通じていると認めざるを得ないだろう。

 

 僕は不知火先輩と話をし、利根を除いた艦隊員たちで訓練を行って、艦隊がある程度は艦隊らしく動けるようにした。先輩の努力もあって、そうなるまでにはほんの数日ほどしか時間が掛からなかったことに僕は安堵した。利根は隼鷹の護衛と砲撃支援を担当するので、彼女が復帰しても新たな環境に慣れ直す必要はあるまい。一つの体には多数の器官があってあらゆる器官が同じ働きはしない※87のと同じように、僕らもまた艦隊にあって一つの体であり、一人一人が互いに器官なのだ。働きを遮り合うようではやっていけない。

 

 響に比べると不知火先輩は雷撃の精度が低かったが、その分を敵に肉薄することで補っており、それだけにこと敵に近づくという機動にかけては響よりも優れていた。この研究所には響と不知火、そして吹雪秘書艦の三人しか駆逐艦娘がいなかったから、艦種全体としての駆逐艦娘たちに比較対象を設定して不知火先輩の能力を評価することはできない。だが、あの響よりも上手くやってのけることができる何かがある、というのは、それだけでとても凄いことだと僕は考える。活かせるだけ活かすべきだろう。隼鷹の護衛役を務めさせるのはその長所を潰すことにしかならない。誰と組ませるかが問題だったが、結局は教官と組ませることにした。そうすれば、先輩が窮地に陥ったとしても、申し分のないフォローができる。響の死が僕を極度に怖気づかせ、艦隊員たちの身の安全についてこれまで以上に考えさせるようにしていたことは認めなくてはならないだろうが、それで仲間を死なせなくて済むなら、臆病だと笑われようと何を恥じることがあるものか。

 

 北上と僕、利根と隼鷹、教官と不知火先輩。補充を受けた第五艦隊の組み分けはこういう形になった。大筋では変わらない。利根と隼鷹はそのままだ。違いはと言えば、教官と僕が相棒の艦種を入れ替えただけ。北上は不知火先輩ほど接近しての雷撃を行わないので、よもや僕の心臓を飛び出させたりすることもないだろう。それより僕が気をつけておくべきなのは、北上の尋常ならぬ本数の魚雷に巻き込まれないようにすることだ。味方の弾で死ぬほど馬鹿らしい死に方はない。艦娘の武器弾薬はこれ全て敵を散々やっつける為にあるのであって、仲間に向ける分の弾など一切存在しないのである。少なくとも、建前上ではそういうことになっている。実際もそうであって欲しい。

 

 戦争で人が死ぬのは珍しくないことだ。よくある悲劇と言う艦娘もいる。けれど、響はそんな陳腐な言葉で片付けることのできない人物だった。厳密な着任時期は知らないが、かなりの古株で、研究所にいる多くの人々が共通の友人とする艦娘であり、長門や妙高さん、吹雪秘書艦と物怖じすることなく会話できる稀有な存在でもあった。その彼女を僕が──いや、響が僕のせいで死んだと考える人が現れたとて、不思議には思わなかったし、また僕の方も、そういう人々に否定して回ったりはしなかった。第一、確かにその通りなのだから、何を言うこともできない。僕は艦娘に理由もなく嫌われることが多く、そのことには経験から耐性を獲得していたが、もっともな理由によって憎まれる時、ここまでつらいとは知りさえしなかった。

 

 やがて、自分は研究所にいると気が休まらなくなったことに気づいた。不知火先輩との適合訓練・演習をしている時には嫌なことを忘れられたが、さりとて一日中彼女とそうしていることもできなかった。先輩や他の艦隊員はやり通すだろうが、こちらの身が持たない。僕は自室で二杯ほど引っ掛けると、執務室に外出許可の申請をしに行った。提督は以前に見せたような激情を既に心の底へと押し込んでしまっていたが、それでも僕と直接話すのは気に入らないらしく、身振り一つで吹雪秘書艦が応対させられた。彼女は僕が作った申請書の不備を一箇所指摘し、その部分の訂正が終わると提督の執務机の上にある判子を取って書類に押した。そこには公文書らしい角ばった素っ気ない字体で『却下』と印されていた。まだ水気が残っていて、てらてらと光る赤インクが、何やら反対する気力を僕から奪い取った。

 

 執務室から自室へ戻る道すがら、僕はあの却下が吹雪秘書艦の独断だったのか、見落としただけで提督の指示があったのか、考えた。きっと後者だろう、と思う。吹雪秘書艦と僕とは親しい間柄ではない。会話をしたことも数えるほどしかない。それでも彼女が守ろうとしているのは艦隊と研究所内の秩序であって、彼女が本当に抱えているのかどうかも分からない、つまらない復讐心ではないと僕に思わせる、立派なところがあった。僕は候補生時代に那智教官を好きになったみたいに、彼女のことを好いていた。僕はきちんとした人でこちらにひどい悪意を向けてこないなら、誰でも好きになってしまうのだ。好意の大きさは教官へ今なお向けているものが勝るが、感情とは大小の問題ではない。

 

 提督め、と小さく呟いて、彼女に怒りを向けようと試してみた。でも、ダメだった。彼女以外の誰も僕を罰する権限がなかったからだ。他の誰か、吹雪秘書艦や長門、那智教官なんかがその権利を持っていたら、心ゆくまで提督のことを罵ったり、彼女のやり口は汚い、などと身の程知らずなことを言えただろう。けれども、彼女だけが僕のやってしまったことを裁く立場にある唯一の人物なのだ。畏れ多くもその彼女から賜った苦痛によって、提督を非難することはできない。それは見苦しい行いだ。僕は結局、その後日付が変わるまで、研究所を出ることも、出ようと思うこともなかった。都合よく、やることが見つかったのだ。訓練所を出てからというもの僕の左耳に輝き続けているピアスの片割れが、何処かへと消え去ってしまったのである。ブラジルへのフライトに出る前に、指差し点検までして普段の場所に置いたことを確かにしたというのに、だ。誰かが盗んだ? いや、そんなことは起こらないだろう。鍵は掛けたし、それに盗むならもっといいものがあった。部屋の戸棚に入れておいた現金は手付かずのままだったのだ。ピアス片方だけを盗む泥棒なんて、聞いたこともない。

 

 必死になって寝ずに探したが、朝になっても見つからなかった。僕は落ち込み、あんなに大切なものを失くしてしまった自分にすっかり嫌気が差した。どうとでもなってしまえという気分だった。隊内処分を食らおうが、軍刑務所での懲役を言い渡されようが、鞭打ちを食らおうが、ここで腐っていようが、どれも変わらないと思ったのである。それなら、一つ気晴らしでもしようじゃないか、と僕は心に呼びかけた。響と天龍が揃って「反対!」と叫んだが、精神など肉体の奴隷でしかない。そして響たち二人がどれだけ僕の心を支配していようと、僕は僕の肉体の揺らがぬ支配者だった。早速、隼鷹の部屋の戸を叩きに行く。時間は昼前だった。彼女が起きていなかったとしても驚かない。むしろ、寝ていてくれればいい。そうしたらこっそり忍び入って、びっくりさせてやろう。旗艦らしい振る舞いであるかどうかなど気にしない。

 

 それよりどうやって驚かそう? 必要に駆られて叩き起こすんじゃあないんだから、水差しの中身をぶちまけるのはやめた方がいい。濡れそぼった寝床の始末をしなければならないことで、隼鷹を不機嫌にさせたくはない。そっと寝床に入り込んでやろうか? いやいや、そんな変態じみたことは淑女に対する適当な扱いではないだろう。幾ら僕と彼女が気の合う友達だと言っても、一線というものが消え失せた訳ではないのだ。しどけない寝巻き姿の隼鷹に彼女のベッドで僕を発見させるというのは、行きすぎた行為と言える。部屋のドアを叩きながら、紙鉄砲でも作って耳元で炸裂させてやろうか、それとも、などと考えを巡らせていると、扉の向こうに気配がした。おや、残念。起きていたらしい。

 

 戸が開き終わる前に「おはよう隼鷹、話が」まで言った。そうして、部屋を間違えたかと思った。姿を見せたのは不知火先輩だったからだ。服そのものは常通りのものだったが、ところどころしわが寄っていたし、先輩の顔は眠たげで、目の下はこすったせいか赤くなっていた。とりあえず「おはようございます、先輩」「おはようございます」と挨拶を交わす。僕より背の低い彼女の頭越しに、明かりの落ちた部屋の中、ベッドで寝ている隼鷹の腰から下だけが見えた。「昨日は隼鷹と一緒にいたんですね」「ええ。中々……楽しい夜でしたよ。ところで、あの、先日から言おうと思っていたのですが」不知火先輩はそう前置きをして、旗艦なのだから自分への敬語はもう必要ないのではないか、という意味のことを言った。その意見も一理ある。素の口調が敬語なのでもなければ、旗艦が目上でその他の艦隊員は目下になるのだから、砕けた物言いを用いるのが自然だろう。だが、僕は彼女に敬語を使うのを楽しんでいた。彼女がいつまでも先輩扱いされることに慣れないでいる様子を見ると、心がうきうきして、心地よい落ち着きのなさを感じられるのだ。軍務に服している際、旗艦として彼女に接する時には敬語を使うことはない。あの教官にさえそうしているのだから、当然先輩についてもそうだ。でも今は任務中ではなく、従って僕と君の関係で話をしていい時だった。先輩に敬語で話すのをやめるなんて、とてもできない。こればかりは無理だ。先輩が「嫌だから」という理由で頼んでこない限り、僕は彼女に限りない親愛の情を持ったまま、敬語を使い続けるだろう。

 

 まあ、僕の思いの全てを彼女に伝える必要はない。端的に「今はオフですから」と言って、先輩が気に病むことはないと告げる。「それとも、僕はもう不知火先輩の後輩としては相応しくありませんか? だから敬語で話す資格がないとか?」「いえ、そんなことはありません。とにかく、あなたがそれでよいと言うのなら、不知火からはもう何も言わないでおきます」「はい、先輩」「隼鷹に用があったのでしょう? 不知火は席を外します、彼女によろしくと言っておいて下さい」そう言ってこちらの脇を抜けて行こうとする彼女を、僕は呼び止めずにはいられなかった。「いえ、先輩もいていただけませんか」「不知火もですか? はあ、構いませんが」二人で隼鷹の部屋に入り、主を起こす。僕と先輩の話し声でだろうか、半ば目覚めかけていたので特段苦労はしなかった。よかった、先輩の前で隼鷹に水をぶっ掛けるような野卑な真似はしたくない。彼女はむくりと起き上がると、寝起きの曖昧な笑みを浮かべて僕と先輩を交互に見比べた。頭がまだ覚醒しきってない彼女の微笑みは、カーテン越しの陽光だけで照らされたこの部屋をやにわに明るくした。彼女はその絵画的な美しさに心打たれて、羞恥すら覚えていた僕に向かって言った。

 

「朝一で友達の顔を二つも見られるなんて、やけに素敵な寝覚めじゃないか」

「おいおい、まだ酔ってんだな? 夢の中でも飲んでたんだろ」

 

 幼稚な僕には、過度に粗野な言葉で含羞を包み隠すことしかできなかった。もっと自分が成熟した大人なら、気の利いた言葉の一つ二つは囁けただろうにと悔やむ。その横で「もうお昼前です」と、時計を見た不知火先輩が補足を入れた。隼鷹は両頬を打ってぱしりという軽快な音を響かせると、その音と同じように軽やかな身のこなしでベッドから下り「とりあえず着替えるからさ、出ててくれよ」と僕に言った。いつもの僕だったら「どうしても?」と答えただろう。そしていつもの隼鷹がこう返すのだ。「どうしてもさ」けど、今日はそんな気分じゃなかった。まだ、ふざけるには憂鬱すぎた。僕はただ頷いて、部屋を出た。不知火先輩もついてきたので、少し嬉しかった。仕事の間は厳しい先輩であり、守るべき部下であり、指揮しなければならない艦娘だが、それ以外では彼女はよき友達の一人だ。僕らは部屋の扉の左右に立って壁に背を預けた。先輩が質問を口にした。

 

「不知火にも話があるようでしたが、先に伺ってもよろしいですか?」

「もちろんですよ。と言っても大したことじゃあないんですがね。単に、お昼を食べに行きませんかっていうお誘いです。ほら、以前は」

 

 天龍の闖入で台無しになってしまったからな。あれについては、僕にも天龍に言ってやりたかったことが一つ二つあった。彼女はいいさ、テーブルについていた研究員数人を脅して追っ払ったって、そこでずっと過ごすって身分じゃないんだからな。けど僕らはそうなんだ。だから、研究所の職員たちとはなるべく上手に付き合っていきたいし、そうしてきた。最近だってそうしようとしている。それなのにあの無思慮な振る舞いだ。しかも、後でどれだけ僕が気を揉んだかあいつは知りやしないし、知ったって気に掛けもしないんだ。何しろ天国だか地獄だかに行っちまって、とっくの昔に現世的なしがらみからおさらばしてると来てやがる。そういうのってズルくないか、ええ? どうなんだよ? 天龍?

 

 心の中で響と一緒に暮らしている彼女に尋ねてみるが、好戦的で確固たる自分の信念を持っている彼女は、無言で中指を立てただけだった。僕は自分でも理由が分からないが負けた気になったので、死人の過去の過ちについて考えることをやめた。不知火先輩は、顔の筋肉を意識的に操作するのが苦手なのだが、それでも精一杯悲しそうな、同情的な表情を作ってくれた。そういった彼女の深い優しさに触れる度に、僕はこの女性を崇めたくなるのだった。

 

「前にも言いましたが、彼女のことは残念でした」

「僕にはあいつの考えは分かりませんが、きっと本望だったでしょう。覚えていませんか? 『死ぬまで戦争が続いて欲しい』って言ってたこと」

 

 胸の中の天龍は己の失言をなかったことにしようとした。「クソっ、『オレが死んでも続いて欲しい』って言うべきだったな!」もう遅い。不知火先輩は僕の言葉に頷いたが、天龍についてのそれ以上の言及はなかった。親しい友人だったのでもないし、それが普通だろう。僕だって日向や伊勢の二人と天龍を並べられて、どちらにより友情を感じるかと言われれば航空戦艦の二人を選ぶ。でも、僕はその時、一人の軽巡艦娘のことを考えていた。天龍型一番艦天龍のことを。それから、彼女が残していったものたちのことも。

 

 彼女が死んだ後、僕にできたことは少なかった。逝った先で困らないように刀を天龍に返し、葬儀などのことは軍に任せ、三通の手紙を書いた。あの日天龍に何があったのかを、偽りなく書いたものだ。一通は龍田へ、一通は浦風たちへ、最後の一通は天龍の家族へだ。家族の住所は軍に問い合わせ、個人情報保護とかで教えて貰えなかったが、代わりに遺族への手紙を送る業務を行っている部局があることを教えてくれた。やがて返事が来た。龍田からは引き裂いた僕の手紙の残骸が封筒で。浦風たちからは涙の染みがついた数行の、当たり障りのない言葉だけ。彼女たちを傷つけたかもしれない。余計なことをしたと責められても、言い訳などできない。それでも僕は満足していた。何にせよ、彼女たちは天龍がどう生きて、どう死んだか、最初から最後まで一通り知ることができたのだ。

 

 けれど遺族からは、何もなかった。今でもどうしてか、時々考え込んでしまう。彼我のどちらかの手紙が、検閲に引っかかりでもしたのだろうか? 僕は返信が来ないことに苛立って何通か書き送った。やっぱり結果は同じだった。部局の窓口業務担当の子に食事と高い飲み物をおごって、届いたかどうかを調べて貰ったりもした。届いていた。それなのにあいつらは何も書いてこなかった。一言でいい、僕の手紙が気に入らなかったなら、ただ一言「やめろ」と書いて送ってくれればそれでよかったのだ。

 

 とどのつまり、あいつら民間人は兵隊や艦娘のことなんて、それが自分の娘であってさえ、遠い世界の事象でしかないんだろうと僕は頭ごなしに結論した。天龍が死ぬ。軍の担当官が来る。黄色い手紙。『海軍長官はお悔やみの言葉を……』。遺族年金の通知。担当官は去る。母親は居間で泣く。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()。父親は妻の肩を抱き、水を飲ませ、ベッドに連れて行って寝かせる。それからこう言って励ます。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 無論、これは僕の妄想でしかない。苛立ちを正当化する為の、卑怯な想像、決めつけだ。天龍はちょっとならず変わった奴だったが、彼女の両親がこんな人でなしだと思いたくはない。きっといい人たちなのだと、日曜には夫婦二人で腕を組んで散歩をしたり、道端に落ちているゴミを見つけたら他人の目がなくとも拾ってゴミ箱に捨てるような、そんな類の人々なんだろうと思っていたい。でも、それじゃあ、どうして何の返事もしてこないって言うんだ? 納得できる説明をして欲しかった。

 

 部屋のドアが開き、隼鷹が顔を見せる。普段の服と髪型。頭に血が巡ってきたのか、頬には健康的な赤らみが差している。「突っ立ってないでさ、入りなよ。お茶とか飲むでしょ?」「喜んでいただくよ」「不知火も同じくです」招かれるままに中に入り、テーブルにつく。お茶はすぐに出てきた。僕らは三人して湯のみから暖かい緑茶をすすり、ほう、と溜息を吐き出して肩の力を抜いた。そこで僕は口を開いた。隼鷹に話させると、彼女の話術が巧みすぎて、こっちの誘いを掛ける機会を逸してしまう恐れがあるからだ。

 

「お腹は?」

「ぺこぺこ」

「食いに行こうぜ」

 

 彼女は考える素振りを見せた。断る理由があるのかと心配になったが、じきに僕は彼女が断ろうかどうかで悩んでいるのではなく、何を食べようか悩んでいるのだと感づいた。答えが出たらしく、彼女は唇を指でなぞりながら言った。

 

「ステーキサンド、いいよねえ」

「あそこか。起きたばかりなのに元気だな。先輩はどうです?」

「問題ありません。不知火は寝起きからしっかり食べられるタイプです。ステーキという言葉にも惹かれます」

「だってさ。どうせ外出許可取って歯ァ磨いてシャワー浴びて、って感じで色々やってたら昼過ぎぐらいになってるだろうし、大丈夫じゃね? あたしが心配なのは、あの店のお昼の営業時間だね」

「そっちは気にしないでいいよ。あそこランチタイム終わるの遅めだから。よし、それじゃあみんな、準備を済ませたら僕の部屋に来てくれ」

 

 了解の声を合図に、僕ら三人はそれぞれのやるべきことに取り掛かった。探し物をしたせいで汗をかいていたから、まずシャワーを浴びることとする。着替えを持って浴室に向かう中途の廊下で、伊勢が向こうから来るのを見つけた。互いに会釈してそのまますれ違って行けばいいものを、どうしてか僕たちは立ち止まってしまった。気まずさを隠しながら、挨拶をする。「やあ、伊勢」「こんにちは。服なんか持ってどうしたの?」「シャワーだよ。昨夜も今朝も、ちょっと入りそびれてね。それでこんな時間だ」「そうだったんだ」会話が途切れる。僕と彼女は、響なしで帰ってきて以来、ずっとこんな感じだった。「それじゃ、私はこっちだから」「あ、うん。僕はあっちだ。それじゃあ」不自然な会話の終わらせ方だったが、解放には違いない。彼女も、内心でほっとしていることだろう。そんな気分にさせてしまったことを、僕は申し訳なく思った。

 

 提督用のシャワールームで温水を浴びながら、頭や体を洗う。置いてあるシャンプーやボディソープは軍が民間から安く買っているもので、後者はともかく前者は粗悪なものだった。髪がぎしぎしになるので、広報部隊時代には絶対に使えなかったほどだ。だが今は人前に出ることも減ったので、キューティクルなどどうなろうと平気なものである。提督はあれでも女性らしさを持ち合わせているのか自前の品を持ち込むので、これを使うのは僕一人だった。他の艦娘たちはどうなのだろう。彼女たちも自前で用意しているのだろうか。僕にはそのように思われた。何しろあの提督でさえ、キューティクルが開かないように気を付けているのだ。まして彼女より遥かに年若い者もいる艦娘たちなら、無造作に扱うことはあるまい。

 

 ふと昔嗅ぎ慣れた匂いが辺りにうっすらと漂っていることを僕は発見した。提督のシャンプーのものだ。気付いた次の瞬間にはそれは僕が使っている粗悪な洗髪剤の科学的な香りに消されてしまっていたが、確かに香った。僕はその匂いを思い出して楽しんだ。提督は嫌な上司だが、センスは悪くない。彼女が使っているシャンプーは僕が広報部隊時代に使っていたのと同じメーカーの女性向け商品だったのだ。このことを知ったのは研究所に来て数か月した頃で、響いわく吹雪秘書艦と提督の並々ならぬ間柄や長門と秘書艦の複雑な関係も関わっているらしいのだが、面倒なので聞かないでおくことにした僕は、その辺のことを詳しく知らない。たまに秘書艦と提督が同じ香りを漂わせているとか秘書艦じゃなくて長門のこともあるとか別に全然知りたくない。

 

 烏の行水を終えて脱衣所に戻り、体を拭いて髪の水気を切り、服を着替える。やっとさっぱりした。ついでに持ってきていた歯ブラシで口の掃除も済ませてしまい、気分よく部屋に戻ると、もう不知火先輩が待っていた。恰好はいつもと変わらないが、何処となく楽しそうな輝きを目に宿している。僕たちは雑談しながら隼鷹を待つことにした。「そういえば」と先輩が口火を切った。「あなたの同期の青葉を見ませんが、彼女はどうしているのですか」

 

「あいつならもう病院から直接広報部隊に戻りましたよ。怪我は大きかったですけど、感染症がありませんでしたからね。今はあの漂流を記事にしようとしてるみたいです」

「記事に、ですか。嫌なのでは?」

「まあ、あんまり嬉しくはないですけど、青葉がやりたくてやってることでもないみたいですから。広報部隊の仕事なんですよ。あいつの個人新聞じゃなくて」

「そうでしたか、それなら仕方ありませんね」

 

 そう、仕方ないことだ。数日間の敵地における海上放浪と生還は、実にヒロイックな出来事だった。軍がそれを利用するのを止める方法はない。せめてもの慰めは、そこにいた一人である青葉が音頭を取って記事を作っているという点だった。彼女なら脚色しすぎるということはないだろう。仕事量については心配だったが、広報部隊は青葉ほど有能な記者を過労で倒れさせるような間抜け揃いでもあるまい。電──あの小さな融和派の相棒もいることだし。僕はまだ彼女や赤城のことを提督に密告できていなかった。それは僕が彼女たちに同情的な心情を抱くようになったからではない。僕はあくまで自分の保身の為に言わなかったのだ。今の提督は僕について公平に判断できるとは思えない。そんな時に融和派との繋がりを教えて、彼女が僕のことを軍政上での障害になると判断したらどうなる? 彼女の頭が冷えるまでは時間が掛かるだろうが、急いて自ら地獄に落ちるよりは、口を閉じて耐えている方がマシだ。ああ、だが、それにしても、早く言って楽になりたかった。

 

 踊るような足音を立てて、僕の部屋の前に隼鷹が来た。足音だけで彼女が来たと僕が察したのを見て、不知火先輩は興味深そうに眉を動かした。「何か?」「あなたは友人の足音を聞き分けられるのですか?」「艦隊員と提督ぐらいですよ」と答えながら扉を開けて、相棒を迎え入れる。許可のスタンプが押された外出許可証を持っていて、準備は万端のようだった。不知火先輩も隼鷹に倣って認可された許可証を示した。僕は頷いて言った。「行こう」

 

 が、僕も健忘症ではない。自分に外出許可が下りていないことなど分かっている。このまま外に出ようとすれば、研究所正門の検問所で厄介なことになるだろう。いつもなら哨兵を買収するのだが、間の悪いことに今日のこの時間帯の当番はごうつくばりの欲深で、融通が効かないことでも知られる男だった。彼を買収しようとしたら、賄賂に出す分だけで僕の財布はすっからかんになってしまう。友達に食事を恵まれる為に外に行くつもりはなかった。そこで僕は二人を先に行かせて、自分は忘れ物を取ってくるなどと口実をつけて工廠裏の資材搬送トラック用出入口の方に向かい、そこの顔見知りの衛兵に金を握らせた。帰りには行きと同じだけ別の兵に渡さなければならないが、正門を通って出るよりは安く済む。

 

 提督と吹雪秘書艦を出し抜いたとまでは言わないが、あの二人に逆らったことは僕を愉快にさせた。自分が物事をコントロールしている気がした。僕は上機嫌で隼鷹と不知火先輩に追いついた。並んで歩きながら、これから僕らが食べることになるだろうステーキサンドがどれだけおいしいものか、隼鷹と二人で先輩に説明する。最初こそ理性的だった目は、みるみる内に先輩の心の奥深くに眠っていた獣性によって暗い輝きを持つようになり、彼女の白くて細い喉は生唾を嚥下する為に何度も大きく動いた。その様子は美しかった。僕は自分が彫刻家でないことを残念に思った。もしその才能があったなら、この瞬間を切り抜いたような傑作を必ずやものにできただろう。男たちを狂わせ、理解のない女たちを単に気味悪がらせることになっただろう。

 

 店に着くとすぐに「しまったな」という言葉が漏れた。予約しておくべきだったかもしれない。見た限りほぼ全ての席が埋まっていて、座れるかどうか分からなかった。不知火先輩は普段人の多いところには行かないのか、目をぱちくりさせていて愛らしかった。彼女の顔が曇ってしまってもその可愛らしさは変わらないだろうが、できることなら彼女をがっかりさせたくない。僕と隼鷹は入口に立ったまま、目を皿にして席を探した。そうしていても店員が案内に来ないほど忙しいらしい。これからは必ず予約をしようと心のメモ帳に書き込んでいると、「あった!」と隼鷹の元気な声が空気を切り裂いて、僕の耳を打った。ぴしっと指差された先を見れば、今しも四人席が一つ空くところだった。片づけはセルフサービスなので、テーブルを拭いさえすれば食事の準備が整う状態だ。

 

 自分たちが不知火先輩を失望させなかったことにほっとしながらその席に向かっていると、横を民間人の若い女が二人通ろうとした。なので女性への心遣いから、人で混雑しているテラスを彼女らが通りやすいよう、歩きながら身を小さくした。そんなことをしなければ、いっそ足でも引っ掛けて転ばせてやればよかった。僕はその二人が何かの用事を済ませて席に戻るところだと勘違いしていたのだ。彼女らはそうではなかった。僕らより後に来た客だった。そいつらは僕たちの使う筈だったテーブルを横から現れて奪い取ると、声を上げて連れの男を呼び寄せた。「あぁ」と不知火先輩が悲しそうな声を上げた時、最早連中に対して何も言わずに引っ込むという選択肢は僕になかった。

 

 男が二人の女と合流するのを待ってから僕は隼鷹たちを置いてずんずんと突き進んで行き、「おい、あんたら」と声を掛けた。女たちは罪悪感の欠片でもあるのか敏感にこちらを向いて、敵意をむき出しにした目で僕を睨んだ。男の方は──マズいことに、女受けのいい白い制服を着込んだ三十代ほどの空軍士官だった──対照的に、のんびりとした態度で首を回しもせずに視線だけ僕にやった。「何か御用ですか?」笑えることに、どうやらこいつは僕を民間人だと思っているらしい。世界唯一の男性艦娘と言っても、出現から二年ほども経ってメディア露出もなくなればこんなものか。それに海軍の人間じゃなくてお高く留まった空軍の奴らだから、自分以外の男のことなんて目に入らないんだろう。

 

「後からやって来て割り込みかよ? それも女を使ってとは、手が込んでるじゃないか」

 

 士官は僕に何か言おうとして、後ろの隼鷹と不知火に気付いた。流石に艦娘の顔ぐらいは知っていたのだろう。僕を軍の人間なのだと把握してか、彼は軍人がその階級を上げるに従って獲得するあの傲慢さを、遠慮なく顔に浮かべながら答えた。

 

「水兵さん、海軍では士官を相手にそういう話し方をするのかね?」

 

 本当ならもう一言二言手厳しい言葉を口にする筈だったのだが、突然僕の体は宙に浮いて移動し、椅子へと尻から叩きつけられた。きょとんとしながら見ると同じ海軍の男が三人いて、一人は空軍士官にあれこれ言って場を収めようとしており、それに成功しつつあった。一方で残りの二人は椅子に座った僕をしっかりと押さえていたが、敵意を込めたやり方ではなかった。彼らは言った。「士官と喧嘩する奴があるか!」「つまらんことで処分を食らい込みたいのか? 席なら俺たちが譲ってやるから大人しくしてろ、艦娘」僕は彼らに従った。身内の言うことだったし、僕を艦娘だとちゃんと知っていてくれて何だかちょっぴり嬉しかったからだ。彼らは隼鷹と先輩を呼び寄せ、テーブルを綺麗に片づけてから去って行った。大人らしく、去り際に僕へ釘を刺すことを忘れなかった。悲しいかな、大きな効果はなかったが。

 

 空軍士官が視界に入らないように座り、まず友人たちに謝る。どんなに間抜けな楽天家でも、僕が彼女たちを放置して空軍のいけ好かない男と事を構えようとしていた時、二人がわくわくしていたとは考えられないだろう。事実、隼鷹の顔にはこちらの心境を慮るような色が見て取れるし、不知火先輩はより直接的に「もっと落ち着きを持って下さい」と言って彼女の不出来な後輩をたしなめた。愛想を尽かしてその場を立ち去ってしまわないでいてくれただけでも、ありがたいことだ。二人には頭を下げる他ない。

 

 このままではぎこちない雰囲気になりそうだったが、注文を取りにウェイターが来ると、自然な流れでそれを払拭することができた。僕らは揃ってステーキサンドを注文し、隼鷹は赤ワインを、僕は白ワインを、先輩はアイスティーを頼んだ。サンドイッチと違って飲み物は注ぐだけでいいから持って来られるのも早かった。それぞれの前に置かれたグラスを手に取る。響がここにいたら「何に乾杯する?」と聞いたものだろう。そして誰かが答える。たとえば隼鷹。「次の一杯に!」たとえば不知火先輩。「あなたたちの健康に!」たとえば長門。「我々の艦隊に!」たとえば那智教官。「絶対にやらんぞ、私はこういうのが苦手なんだ」

 

 だが今日、響はいない。それで、僕はグラスをゆっくりと額の高さまで持ち上げると、心からの思いを込めて言った。「響に」二人も同じ言葉を唱和して、一口ばかり飲み下す。しんみりした空気が僕らの間にあったが、亡き友人について語り合う内に、それはむしろ陽気なものへと転じていった。彼女が言ったこと、やったこと、一つ一つを僕らは分け合い、教えあった。先輩は僕や隼鷹よりも付き合いが長い分、彼女のエピソードを沢山持っていた。思いがけなく野営することになった時にソナーと爆雷で魚を取ろうとしたら敵の潜水艦が引っかかった話。かつて、スピリチュアルなものに傾倒していた頃の加賀に、教官と二人掛かりで丸っきりでたらめな占いをして遊んだ話。閲兵式に数合わせで参加することになって、緊張からその前日に痛飲し、二日酔いのままよれよれの格好で出席したら「歴戦の風采」ということでカメラマンたちの格好の被写体になってしまった話。どれも彼女を知る者を笑わせる力のある物語だった。

 

 思い出話が一段落したところで、タイミングよく食べ物がやってきた。ウェイターに礼を言いながら受け取って周囲を見れば、まだまだ忙しそうではあるがピークは過ぎたようだ。さあ、待たされた分味わって食べよう。けどその前に、不知火先輩の表情をちらりと見る。先輩は既に咀嚼を始めていた。口は規則正しく動き、頬は肉や野菜や彼女の唾液が一緒になったもので見苦しくない程度に膨れている。彼女はごくんと喉を鳴らして飲み込み、その音に顔を赤らめながら、唇についたソースを舐め取る。それから僕の目に気づく。「どうかしましたか?」「いえ、ただ、おいしいかなと思って」「ご心配なさらず。どうしてもっと早くここに誘ってくれなかったのか、あなたを責めたいぐらいです」よかった。僕もサンドイッチに噛みつく。武蔵と来た時や、その後に隼鷹と二人で来た時と変わらない味だ。このソースがいいんだよな、と隼鷹が言った。僕はソースや野菜は脇役でしかない、主役たる肉の焼き加減が絶妙なんだと反論した。不知火先輩はウェイトレスを呼び止めて追加注文をした。彼女の注文に加えて、隼鷹がボトルを一本頼んだ。「おい、考えろよ」と僕は呆れて言った。すると僕の相棒は、しょうがないなあ、みたいな顔をして言った。

 

「分かった分かった、店員さーん、ボトルもう一本!」

 

 お陰で食事が終わる頃には顔を赤くした馬鹿が二人できあがっていた。どうも夜飲む時と昼飲む時で酒の強さが変わる気がする、と僕は半分夢の中にいるような頭で考えた。それに比べると紫髪の軽空母は昼夜変わりなく強いので羨ましい。「そろそろ出ましょうか」と不知火先輩が紙ナプキンで口を拭きながら言った。賛成だ。ここにこれ以上いたら隼鷹に酔い潰されてしまう。彼女はグラスに残った最後の一杯を、まるでそれが世界最後のワインであるかのように大事に大事に一口ずつ飲んでいた。会計をする為に、店員を探す。と、あの空軍士官たちが目に入った。途端に僕は嫌なものを感じた。

 

 空軍の人間の全員がパイロットなのではないことは知っている。整備士もいるだろう。基地勤務の警備兵もいるだろう。僕が知らない、重要な任務を任されているものも大勢いようと思う。通信、広報、募兵、もうこれ以上は出てこないが仕事は沢山あるのだから。しかし、あの士官はパイロットだ。制服の左胸につけられた金色の航空徽章(きしょう)がそれを証明している。よくないな、と頭に残った最後の冷静な部分がコメントする。理性が緩んでいる。殴りに行きそうだ。まずパイロットというのが悪い。どう頑張っても僕は、彼らにも響の死の責任があるという考えを捨てられていなかったからだ。もちろん、目の前の彼はあの日輸送機を飛ばした操縦士の一人ではないし、そのことについて責めを負う立場にはない。分かっている。でもそれがどうした? あいつは嫌な奴で、加えて空を飛ぶ連中だ。それだけでパンチ一発分の罪がある。

 

 近くにいたウェイターを捕まえて、僕らは食事の代金を支払った。正直な意見としては全額出したかったのだが、それをすると先任である不知火先輩の顔を潰すことになる。かと言って先輩に全額払わせることもしたくない。割り勘ではボトルを入れた分先輩が余計に出すことになってしまう。なので、自分の飲み食いした分だけ出すということで話はまとまった。支払いを済ませて、席を立つ。次はメニューに載っていたあの料理も頼んでみよう、あの飲み物にも挑戦してみようと話しながら店を出る。足元はそこそこしっかりしている。後できっと僕はこう考えるだろう。「やれやれ、あの時もっともっと飲んでればあんな馬鹿なことをしないで済んだろうに」と。そうだ。馬鹿なことだ。八つ当たりでしかない。一時的にすっきりするかもしれないが、落ち着けば罪悪感は増える一方だろう。分かっていた。理屈ではそれが正しいのだ。だがどうしても止められなかった。

 

 また忘れ物をしたと言って、二人を先に行かせる。隼鷹は酔っていて気に留めもしていないが、先輩はさすがに鋭い。戦艦並みと言われるあの迫力の宿った双眸で僕を見ながら「またですか?」と訊ねてくる。僕はばつの悪そうな笑みを見せるだけで、その問いに答えずに席へと向かっていく。一歩歩く度に、頭の中で響が言う。「何をやってるのかな、君は」分からない。「やめた方がいいんじゃないか」僕もそう思う。「じゃあどうしてそうしないんだ?」そうしたくないからだ。「そう、好きにしなよ」そうしよう。士官が僕を見つけた。僕の歩く速度と恐らくは表情から、ただならぬと察知したらしい。座っていた席から立ち上がって女たちを庇うように一歩前へ出た。僕は彼が連れを盾にするようなクズではなかったことに落胆した。そうだったら、より深く嫌えたのに。まあいい。今でも殴りつけるには十分なほど嫌いだ。拳を握る。腕を振り被り、腰を捻る。溜め込んだ力を込めて、栄養失調の蚊でも叩き殺せるような全力の一撃を放ち──脇から出てきた手に受け止められる。僕は驚きもしない。事態を掌握できていない。一体誰だ? 手がぬっと突き出ている方に顔をやる。何かが猛烈な勢いで迫ってくる。硬いものが顔に当たる。世界が揺れる。力が抜ける。倒れる。

 

 いいカウンターだった。痛みより失神前の気持ちよさが先立つほどだ。僕は目を閉じた。誰かが言った。「どうしてここに来た?」答えようと思ってはいなかったが、奇妙なことに言葉が口からついて出た。

 

「ステーキサンドと、ワインがうまいからさ」

 

 誰かは笑った。体を掴まれて、何かの上か中に乗せられた。振動で車だと分かった。そのまま気を失ってしまってもよかったが、言葉を口にしたせいで意識はむしろ覚醒の方向へと進んでいた。仕方なく目を開く。見たことのある内装の車だ。具体的に言うと護送された時に見た。というか護送車だ、これは。憲兵がそんなにすぐやってくる筈がないので、きっと誰かに殴り倒された後、ごく短時間眠ってしまっていたのだろう。頭に手をやって、がんがんと痛む辺りを撫でる。酒のせいじゃない。誰かが強打を食らわせてくれたからだ。土がついていたので払い落としていると、車が止まった。後部のドアが開き、憲兵と憲兵隊付の艦娘が姿を見せる。憲兵が言った。

 

「出ろ」

 

 逆らう理由はない。頭はもう完璧に冷えている。僕はのろのろと出て、そこが何処だか知り、口の中でもごもごと毒づいた。そうしないと聞きつけられてしまうかもしれなかったからだ。憲兵にじゃない、憲兵隊の艦娘にでもない。この見慣れた研究所の駐車場で、右手に持った杖に体重を掛けながら片目で僕を見やる提督と、その一歩後ろにいる吹雪秘書艦にだ。提督は前に第一艦隊が飲み屋の喧嘩で勝つかどうかの賭けをやった時みたいに、薄い封筒を憲兵と艦娘に渡した。彼らが車に戻らない内に、彼女は怒気のこもった言葉を僕に向けてきた。

 

「分別のないことをしたな。重営倉だ。期限は利根が戻るまでとする。秘書艦、連行しろ」

 

 慣例的に、重営倉処分は三日ほどとされている。厳密に罰を執行するならばの話だが、期間中は食事が極めて制限される為に、長期間だと栄養失調を起こしかねないからだ。利根が戻るまでとなると、慣例を超えることになるだろう。が、僕は反抗しなかった。どうでもよかった。護送車が行ってしまった後、吹雪秘書艦の前に立って何歩か歩くと、彼女が足を止めた。秘書艦は振り返って、執務室にでも戻ろうとしていたのだろう提督を呼び止めた。

 

「司令官」

「何だ」

「営倉処分中の……」

「うん? ……ああ、任せる。暇人に仕事を与えてやれ」

「了解しました」

 

 秘書艦はそれっきり何も言わず、無言で僕を衛兵詰所奥の営倉に連れて行き、入れ、重い鉄扉に鍵を掛けた。ひんやりしたそれにもたれ、腰を下ろす。時代がかった格子窓から空が見えた。そのままぼーっとしていると、声が掛かった。頭上を見る。鉄扉の覗き窓が開き、そこから知り合いの衛兵が何とも言えない顔でこちらを見下ろしていた。「巡察が来てるぞ」と彼は言った。巡察? うろ覚えの軍法によれば、一日に二度から三度、誰かが営倉処分を受けている者の様子を確認することを義務付けられている。でもそんなのはここの衛兵にやらせればいいことだろう。事実、今まではそうしてきた筈だ。しかし衛兵の口ぶりでは、まるで別の誰かがわざわざここを訪れているみたいじゃないか。そんな奴がいるのかと思っていたら、衛兵が覗き窓の前から退いた。代わりに、見たくなかった人の顔が見えた。彼女は色々と言おうとしたのだろう、口を開いては閉じ、開いては閉じ、結局言いたいことをシンプルにまとめた。

 

「貴様は馬鹿か?」

「はあ、どうもそのようで、教官。どうしてここに?」

「馬鹿と言われて認めるな、馬鹿。……吹雪秘書艦の指示でな。今の第五艦隊を任務には出せないが、遊ばせておくほど余裕もない。そこで()()()()この雑用を任されたという訳だ」

 

 他に聞きたいことはあるか? とばかりに教官は言葉を切る。僕はどうしてここにぶち込まれるようなことをやったのか尋ねないのか聞いた。すると彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「初めて部下を失ったんだ。何かしらやらかすと思っていた。たとえば、無許可外出とかな。だが、まさか酔って士官に殴りかかるとは思わなかった……さて、私はもう行く。次の巡察まで、これでも読んで大人しくしていろ」

 

 食事提供用の小窓が開いて、本が二冊差し入れられた。衛兵は見て見ぬふりをしてくれているようで、止めようとする動きはない。ありがたいことだった。営倉でできる暇潰しなど、たかが知れている。筋トレしたりしてもいいんだが、それは重営倉生活ではただでさえ不足しがちな栄養素を浪費してまですることでもないだろう。僕は受け取って、短く教官にお礼を言った。彼女は答えずに立ち去った。それを見送った衛兵が戻ってきて「いい人じゃないか」と言った。教官から少し元気を貰えた僕は「手を出したら許さないからな」と冗談で返した。僕と彼は笑い、彼は詰所の方へ戻っていった。

 

 本の表紙を見る。僕の本じゃない。教官の私物だろう。紙の香りに混じって、彼女の匂いがする気もした。融和派に捕まってこんな小部屋に入れられた時のことを思い出す。あの時も教官が力を与えてくれた。ビゼー※88風に『お前が投げたこの花を』※89というようなことを考えた覚えもある。あの日じゃなくて、今日その言葉を引用するべきだったな、と僕はかつての自分の迂闊さに不満を持った。しかし過去の自分が未来を予測できなかったことを責めるというのは、いささかならずナンセンスだ。無意味な追求をやめて、僕は何か教官の為にも気の利いた言葉を頭の中から捜してこようとした。けれど彼女に比べてこの僕は愚かで、できることと言えば溜息を吐くことだけだった。腿の上に本を置き、表紙を指で撫でる。眠かった。昨夜、ピアス探しでろくろく眠っていなかったからだろう。目を閉じ、夢の世界に逃げる。

 

 人の気配を感じて目を覚ますと、格子窓の外は暗くなっていた。頭上の覗き窓は開いており、そこから北上の目が見えた。彼女は笑って「給食兼巡察だよー」と言いながら、重営倉処分中の艦娘に供するには明らかに不自然な、立派な食事の載ったプレートを小窓から差し出した。この辺で僕はそろそろ理解し始めていた。提督が長期の重営倉処分にすると吹雪秘書艦に言ったのは、そう記録に残す為なのだ。秘書艦はきちんとそれを了解していて、だから第五艦隊に巡察を任せた。彼女たちが大なり小なり私心を優先すると期待、または理解して。そして秘書艦の当ては外れなかったのだ。何しろ、あの教官でさえ本の差し入れをしたのだから。それはグレーゾーンに入る行為だった。彼女の軍人としての良心と、人としての情がぶつかって出した妥協案なのだろう。

 

 プレートを礼と共に受け取り、覗き窓の前に立っている北上が見えるように部屋の中央に座り直しながら、彼女に言う。「不知火先輩と隼鷹はどうしてる?」「えー? 直接聞きなよ」彼女がそう言うや否や、食事用小窓の両脇からにゅっと二つの顔が現れる。

 

「不知火の忠告は無駄だったようで、とても残念です」

「艦隊初営倉が旗艦って海軍初なんじゃね?」

 

 とまあ、そういう具合だったので、重営倉処分最初の夜は思っていたよりずっと楽しいものになったのだった。



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「大規模作戦」-2

 それからも艦隊員たちは朝昼晩を問わず、ちょくちょく巡察だと言っては僕の営倉を訪れ、その度に何か暇潰しになるような本を置いていってくれたり、飴なんかを持ってきてくれたりした。特にありがたかったのは僕の部屋から携帯音楽プレイヤーと充電器、そして那珂ちゃんのCDを数枚取ってきてくれたことだ。融和派の連中から渡されたノートPCなんかが隠してある僕の部屋に、自分の監視なしで誰かを入れるというのは考えの足りない行いだったかもしれないが、まさか僕がいない間に隼鷹や北上、不知火先輩や教官が家捜しをするとも思えない。

 

 彼女たちのお陰で、僕は衛兵たちがいない間も誰かの声に耳を傾けることができたし、衛兵がいる時には彼らと一緒に那珂ちゃんの歌に聞き入って、ファン同士の語らいを楽しむことだってできた。彼らは僕があの那珂ちゃんの同期だと知ると露骨に羨ましがり、秘密のエピソードなどがないか聞きたがったものだ。さて、僕が彼女とそこまで親しい付き合いではなかった為、期待に十分応えられたとは思わないが、それでも彼らはファンのほとんどが知らない那珂ちゃんについて知ることができ、それについて僕に深い感謝をしてくれた。これなら、よしんば提督が巡察を以降は衛兵たちにやらせるようにと指示したとしても、彼らは僕に便宜を図ってくれるだろう。

 

 那珂ちゃんの歌はよいものだ。僕には音楽的素養というものがいかんせん欠けているが、それだからこそ、美しいものを素直に受け止めることができる。それがそれ自体確かに素晴らしいものであるというのに、ああだこうだと音楽理論を弄繰り回したり、歌の一つ一つに中身があるとかないとかで大騒ぎするようなこともない。世の中の人がみんな僕みたいだったらつまらなくなるだろうが、音楽的な人々の間で、そうではない人間として生きることは楽しいことだった。だって僕は、彼らがかかずらわされる諸問題から解放されているのだ。思春期らしい自己特別視に身を任せて、才能の欠落によって僕は彼らに勝利するのだと恥ずかしげもなく言ってもいい気さえする。だがそんなことをすれば、どんなに遅くとも来年には思い出す度に過去に戻って自分を殺したくなること請け合いだ。

 

 退屈ではあるがそれ以上の苦痛や命の危険のない重営倉処分を受けてから数日目の朝、僕は鉄扉を蹴り飛ばす耳障りな音で目を覚ました。営倉にはごわごわした毛布と、大きな雑巾みたいな、敷布団と呼ぶより敷布と言った方が適切であろう布切れしかなかったから、僕の眠りは浅く、すぐさま飛び起きた。こんなことをする奴は一人しかいない。目やにを指でこすって落とし、節々が痛む体で立ち上がる。覗き窓が開き、片目の女が顔を見せる。響を失ったあの漂流から戻って以来、提督が持て余していた悪感情は、何処かに流されでもしたかのようだった。きっと、彼女の中で整理がついたのだろう。提督は僕のことをまじまじと見ると言った。

 

「よくもまあぬけぬけと、営倉になど入っていられたものだ。※90 さあ、とっとと出ろ。まずは風呂にでも入れ。臭いで深海棲艦と戦うつもりか?」

 

 そして錠を外し、扉を開けた。戸に隠れて見えていなかった吹雪秘書艦がこちらを見て、それから視線を外した。そんなに臭いのか? そればかりは、自分では気づけないものだ。しかし風呂というのはありがたい。

 

 提督は大げさに鼻をつまんだまま、「書類の手続きはこちらで済ませておく。終わったら執務室に来い。早く行け」と言った。敬礼して、着替えを取りに自室へ、次いで提督用のシャワールームへと向かう。幸運にも、その途中には誰とも会わなかった。臭いで嫌な思いをさせたくなかったからよかった。シャワー室に入ると、バスタブには既に適温の湯が張られていた。提督は自分のプライベート空間に誰でも好き勝手に入れるタイプの人間ではない。となると、湯を張ったのは吹雪秘書艦だろう。このシャワー室に入るのを見たことがあるのは、提督を除けば長門と秘書艦だけだ。長門の可能性もないではないが、彼女が風呂掃除をしているところを想像できなかった。僕は吹雪秘書艦への感謝の言葉を胸に掛け湯をして、体を洗って、湯船に浸かった。ひたすらに気持ちよく、暖かく、髪を洗う為に浴槽から上がらねばならないのが惜しいほどだった。

 

 例の髪がきしむシャンプーで頭を洗うことにする。適量を手に取って、シャワーで濡らした頭に塗布し、泡立てようと試みる。が、健康な少年の新陳代謝は凄まじいものがあったらしく、皮脂や汚れや汗に邪魔されて泡立たない。とりあえず流して、二度目の塗布。泡立たない。流す。気を取り直して三度目。ようやく泡立った。僕は安心し、細心の注意を払いながら洗髪を済ませた。ついでにもう一度体も洗って、湯船に戻る。体を伸ばすと、ぽきぽきとあちこちで小気味いい破裂音がした。いつまでもここにいたくなるが、そうは行くまい。提督がやることには意味がある。彼女は無意味なことはしない。しないと思う。『意味がある』をどう定義するか次第で先の評価の真偽が変わることは認めなければならないだろう。とにかく、彼女は僕をあそこから出した。それは世界唯一の男性艦娘から出汁を取る為ではあるまい。

 

 浴室から出て脱衣所備え付けのバスタオルで水を拭い取り、着替える。さっぱりした体、さっぱりした服。気分も爽快だ。シャワー室を後にして、提督の指示通りに執務室へ急ぐ。どういう用事があって、僕を出したのだろう。利根が戻るには、確かまだ一日はある筈だ。提督が自分で言ったことを反故にしたとしても僕は驚かないが、理由が分からないというのは気持ちが悪い。執務室に着けば分かるだろうけれど、できることなら覚悟しておきたいのだ。利根なしで第五艦隊を動かすのか? どんな任務で? 救援に行かなければならない艦隊がいるとかだろうか。そうかもしれない。そしてその艦隊というのが、きっと恩を売っておきたい何処か別の基地や鎮守府に所属している提督の配下なのだ。いかにもありそうな話だった。提督の権勢欲には脱帽するしかない。東に有力者あれば行って貸しを作り、西に深海棲艦あれば艦隊を送って手柄とする。知る限り汚い手段で政敵を失脚させるようなことはしていないようだが、僕はその辺のアンテナが鈍いから、実際のところどうだかなんて分かったものじゃない。

 

 執務室の扉の前に着いて、僕は一度だけ深呼吸をした。落ち着きが肝要だ。ノックして、到着を告げる。入れと言われたので、「失礼します」と断りながら入室した。その時僕は目を伏せながら入った。これは癖だ。執務机の配置上、そうしないと入室者は提督とばっちり目を合わせてしまうことになるのである。彼女は目を合わせただけで罰を与えるような愚劣な真似はしないが、だからと言って見つめ合いたい女性かと問われれば掛け値なし、混じり気なしにノーと答えたい相手だった。

 

 視線を何処に向けるかに気を付けながら顔を上げる。と、まだ病院にいる筈の友人がそこにいた。

 

「利根! 退院が早まったのか?」

「ベッドの上より、お主らの横におりとうての。この年で医者に駄々こねてやったわ」

 

 早く会えたのは嬉しいし、彼女の口ぶりでは自分の意志でここにいるようだが、何か早めなければならない事情があったのだとしたら素直に喜べることでもない。本調子でもないのに戦わせられるなんて、ひどい話だ。それを確かめる為に僕は提督を見た。嫌々ながら視線も合わせた。彼女は気に入らないことがあった時にいつもそうするように鼻を鳴らして(まあこの人は気に入ったことがあったらあったで鼻を鳴らすのだが)、書類を一枚僕に見せた。医者の診断書だ。医者らしい汚い字で、「予後は快調。軽易な軍務ならば支障なし」と書いてある。判子も押してあり、正式な書類だ。僕は書類を提督に返して、所感を述べた。

 

「提督、自分には深海棲艦との戦闘が軽易な軍務とは思えません」

「ところが私はそう思ってるんだ。ここにいる利根もな。実際、こいつの体は回復してるよ。この但し書きは万が一にでも利根に何か起こった時、医者たちが責任から逃れられるように書いただけのものさ」

「本気か、利根? 君を助ける余裕がいつもあるとは限らないんだぞ、そのことは分かってるんだろうな?」

「当然じゃ、必要以上に気に掛ける必要はないぞ。吾輩も自分の面倒ぐらい自分で見られる年じゃからの」

 

 彼女は自信を見せつけるように胸を張ったが、それで最も見せつけられたのは彼女の精神的な一面ではなく物質的な一面だった。僕は内心で拍手をしながら純真さを偽装して、戦友たちと一緒にいる為に病院から帰ってきた仲間に向かって、にっこりと微笑んだ。それから提督に向き直り、尋ねる。

 

「利根の復帰を伝える為に僕の処分を終わらせたのですか?」

「お前はこの数年私の何を見てきたんだ?」

 

 確かに今の質問はそう言われても仕方ないものだったな。何と言うべきか考えあぐねていると、さっき自分が通ってきたドアがノックされた。

 

「入れ」

 

 この提督の無感情な許可によって、大勢の艦娘が入室した。吹雪秘書艦を含む第一艦隊、長門以下第二艦隊、第三艦隊の残り、利根と僕以外の第五艦隊……いないのは第四艦隊だけだ。執務室は狭い部屋ではないが、二十人近くが至極快適に過ごせるほど広くもない。僕は人数から来る圧迫感に顔をしかめた。吹雪秘書艦がその場に後から来た艦娘たちを代表して前に出て、報告をした。

 

「秘書艦吹雪より報告します。司令官の命令により、第一艦隊、第二艦隊、第三艦隊、第五艦隊、出頭いたしました」

 

 それぞれの艦隊は一列縦隊を作って提督の前に並んだ。言うまでもなく、その頃には僕と利根もその列の中に入っていた。直立不動を保っていたが、提督が「休め」と言ってくれたので体を少し楽にすることができた。彼女はこれまでにない真面目な顔で執務机を立つと、その周りを回って僕らの前に来て、尻を机の上に乗せた。みんなが呼びつけられたのが利根の帰還を知らせてやる為ではないとすると、これから何が告知されるのか? 緊張しながら待つ。提督は普段のように懐からピルケースを取り出すと、その中に入った錠剤を口に投げ込んだ。それから言った。

 

「大規模作戦が始まる」

 

 その言葉が臓腑に染み渡るまでには数秒掛かった。大規模作戦。軍隊らしい率直で飾らない言葉だが、この場にいる誰もが、それを重大に受け止めないではいられない身だった。実戦部隊の艦娘なら一人残らずそうだろう。普段、我々は自軍の勢力圏内で制海権の確保と維持に全力を注ぎ込む。力を蓄え、乾坤一擲の日を待つ。そして時が来ると僕らは敵の勢力圏に打って出て、泊地や艦隊を攻撃し、制海権を奪取する。それが大規模作戦だ。これが成功する度に、僕らは戦争の勝利に、終戦の日に一歩近づくのだ。艦娘である以上、参加は義務であり──それ以上に名誉だった。生憎と名誉などというものに心を震わせるほど若くはなくなってしまっていたが、これが広報部隊からここに転属した直後の僕だったなら、感動に涙の一粒や二粒は落としただろう。

 

 しかし、大規模作戦が始まるとしてもここまで大仰に伝達する必要があったのか? 長門を見れば、彼女も解せないという顔をしている。吹雪秘書艦の表情を読もうとするのは無駄なのでしなかった。提督は何か言おうとして口を閉じ、命令を下した。「作戦海域に近い基地に移動する。準備を整えて、一時間後に駐車場に集合せよ。解散」敬礼と「了解」の唱和で答える。そこからの動きは目まぐるしかった。何せ一時間だ。第五艦隊は全員艤装のチェックと慣らしにたっぷり三十分使い、残りの三十分で他の艦隊の艦娘たちがやったようなこと全てに取り組まなければならなかった。着水の際などに失ってしまった艤装を新たに受領した者が多かったからだ。

 

 チェック等が終わった直後に、余分の荷物がある程度認められるという通達があった。一人当たり二キロまでという厳密な制限があったが、僕らはこれ幸いと時間を潰せる小道具を私用品の鞄などに詰め込んだ。不知火先輩は本を数冊と、自分だけでなく他人のことを考えて、みんなで遊べるようなカードの類や小さく折り畳めるボードゲームをぎゅうぎゅうになるまで入れた。隼鷹はボトル二本であっさり彼女の枠を使い果たした。那智教官は彼女が必要になるかもしれないと思った私物の装備を箱詰めしていたが、それはどう見ても二キロどころでは収まらなかった。そこで、不知火先輩の遊戯類があれば楽しみに困ることはないだろうと考えた僕は、自分の割り当てである二キロを丸々那智教官に譲った。彼女の装具が僕らを救うかもしれないのだ。旗艦として、個人の楽しみよりも全体の生存を気に掛けなければならないのは当然だった。

 

 教官の横では、利根と北上が少しずつちょろまかして溜め込んでいた希釈修復材を、予備の水筒やペットボトルに入れて運ぼうとしていた。素直に感心する。移動した先で希釈修復材を調達できるとは限らないことを、僕は失念していた。

 

 そうこうしていると、提督の指定した時間まで残り十分になった。荷物を持って駐車場に急ぐ。途中で秘書艦を除く第一艦隊や第二艦隊などの面々とも合流して大所帯になったが、研究所の職員たちは事情を知っているのだろう、邪魔にならないように廊下の端に身を寄せてくれたので、通り抜けるに当たってアクシデントは起こらなかった。駐車場に到着してみると、そこには兵員輸送用の大型トラックと四十フィート型コンテナを積んだトレーラーが一台停まっており、その陰には既に提督と彼女の右腕の姿があった。

 

 また加えて言うなら、明石さんもいた。彼女は工廠の整備員らを指揮して、コンテナへ僕たちの艤装を積み込ませていた。最後の一つ──それは一番大きな艤装だったから、きっと長門のものだと僕は推察した──を積み込むと、明石さんは小走りに提督のところへやって来て、報告を済ませた。提督は一度だけの頷きで返事をすると僕らを見て、トラックへの乗車を命じた。

 

 第一艦隊の二番艦から順番に、トラック後部の荷台へと上がっていく。両脇には腰掛けが設置されていたが、第一艦隊の五人(伊勢、日向、第四艦隊から臨時に出向している夕張、第三艦隊からの伊八、新顔の空母)と第二艦隊の六人(長門、妙高さん、川内、加賀、足柄、羽黒)、それから第三艦隊の潜水艦二人(伊五八と伊一九)が座ると、どう詰めても残り五人しか座れそうになかった。それならばと助手席を見てみるも、そこにはこのトラックを僕らに貸し出している輸送隊の人員が陣取っていた。困ったな、などと悠長に悩んでいる時間はない。提督は第五艦隊がのろのろしていることを喜びはしないだろう。そこで僕は言った。

 

「不知火先輩、ここはどうか一つ」

 

 きっと彼女の面目を傷つけてしまったと思う。何故なら彼女は立派な大人であり、決して子供扱いされるべき人間ではなかったからだ。先輩はひどく揺れるこのトラックに乗っている間中、辱めに顔を赤くしていた──と言いたいが、実際は逆だった。彼女は唇を引き結んだ真っ白な顔で、ちょこんと那智教官の膝の上に腰掛けていた。僕にはその無感情さが怖かった。なるたけ早く詫びの一つや二つは入れて、菓子だの何だの渡して許しを乞うべきだろう。それで許して貰えるかどうかは不知火先輩のみぞ知ることだが、大事なのは自分の気持ちを伝えることだ。

 

 トラックが動き出す。僕は揺られながら、今からのことを考える。これまで、大規模作戦が呆気なく終わったことなどなかった。たとえば制海権奪取に大きなリソースを割くということは、深海棲艦にとっても攻撃のチャンスとなり得る。事実、以前の大規模作戦においては深海棲艦の囮部隊に引っかかって、敵の本隊が手薄な本土近辺まで接近してきたことがあった。その時のことは、呉鎮に留守番していて迎撃に駆り出された北上が何度も語ってくれている。そこまでの危機に陥らずとも、激戦は間違いない。誰かが戦死する可能性だって、今までの戦闘などよりも大きなものになるだろう。それを思うと、僕は胸に重いものを感じてしまうのだった。

 

 隼鷹を見る。隣に座った妙高さんと話しながら、けらけらと笑っている。次に死ぬのは彼女かもしれない。北上を、利根を見る。彼女たちだったら? あるいは那智教官だったら? 早いところ戦争が終わってしまえばいいのにな、と心の奥で叶いそうもない願いを口にする。そうすれば、友人の死を恐れる必要なんてなくなる。隼鷹や教官たちが死ぬところを目の前で見てしまったら、きっと僕は耐えられないだろう。横目に隼鷹の笑顔を楽しむ。その輝きの前では、どんな宝石もさながらくすんだ炭のようである。彼女の美しさがもたらす華やぎは、人を安らかにしてくれる。彼女以外の誰が、こんな純粋な特別さを持っているだろう。

 

 不意に隼鷹は僕の視線に気づいて、こちらを見た。「どうしたよ?」僕は言葉に困った。彼女の何もかもがどれだけ美しいかを説明してもいいのだが、よりによって大規模作戦前に女性を、しかも同じ艦隊に所属している艦娘を口説く気はない。口説き落とせる気もしないし、まかり間違って落としてしまってもやっぱり困る。さりとて嘘も出てこない。だから僕は、隼鷹に嘘を言わず、かつ口説いていると思われないで済むような言葉を考えなければならなかった。だが僕は生来口下手だ。なので思いつく筈もなく、仕方なしに肩をすくめ、意味のない恥じらいの笑みを浮かべた。

 

 僕の親友は追及したかったようだが、そうはさせない。目を閉じて、心地よい振動に身を委ねる。暫くは僕の脇腹を肘でつついてきたり、肩に体重を掛けてきたりとちょっかいを出してきたが、やがて何も感じなくなる。代わりに久々の悪夢が待っていた。

 

 息をする必要のない水の中、海面と深海の間に僕はいる。また天龍が上にいた。僕に上がれと呼び掛けている。下を見る。日光の届かない暗闇がそこにある。あの中に落ちていったらどうなるのだろう? 興味を惹かれて、重力に身を任せてみる。天龍の声に焦りが混じったが、気にしない。体温が水の冷たさに同化していく。「帰れ!」天龍でない誰かが僕に言う。頭が揺れる。「私たちは理解したい」と赤城の声がする。何処かで電が「助けたいのです」と呟く。底へ、水底へ。永遠とも思える落下の終わりに、とうとう泥の上に僕の体は落ち着いた。土砂が舞い上がるのを触覚で感じた。何も見えない。でも、そこには僕と、僕以外の誰かがいた。それは分かっていた。そいつが呻くように囁いた。

 

「そうか……そういうこと、だったのか……」

 

 どういうことだ? 問い返したかったが、その時大きな揺れがあって、僕の頭が乗っていた隼鷹の肩からずり落ちた。「おはようさん、丁度ぴったり着いたとこだぜ」と頭の上から親友が言う。じゃあ今の揺れは、トラックがブレーキを踏んだ弾みか。頭を振って己の目を覚まさせ、トラックの後ろから吹雪秘書艦と共に普通のセダンでついてきていた提督の命令に従い、降車する。位置的に僕が最初に下りることになったので、第五艦隊の面々には手を差し出して降車を手伝った。けれど第一、第二、第三艦隊の艦娘たちには、この手を大人しくさせておいた方がいいだろう。入渠などで治せるとはいえ、骨折は痛いものだ。最後に不知火先輩の柔らかくて小さな手の感触を楽しむと、僕は身を引いた。

 

 それから、ぐるりと付近を見渡してみる。動悸が激しくなるが、精神力で押さえつけた。ここは駐機場だ。また飛行機に乗らなければならないのか。この前乗った機が落ちたばかりなのに。僕らが乗ると思しき輸送機に、艤装などを詰め込んだあのコンテナが運ばれてゆく。それを見ながら、僕はどうしたらこの場を切り抜けられるか考えようとした。軍の無神経さには慣れているつもりだったが、今回のそれには渋面を作るだけで済ませられないところがある。提督が僕らよりも先に機内に乗り込まなければ、抗命していたかもしれなかった。だが彼女は「搭乗しろ」との簡潔な命令を出すや、片足にしては見事な身のこなしで秘書艦と貨物室の奥へ消えてしまったので、僕には「軍も提督もクソ食らえ」という気持ちでその後を追うしかなかったのである。ああ、もちろん駐機場に大の字に寝転んで地団駄を踏むというのも手の一つだったが、躊躇うことなく飛行機へ向かう友達を見てしまっては……自分の惨めさで彼女たちの勇敢さを汚せなかった。

 

 コンテナのせいで貨物室(キャビン)は手狭になっていたが、ぎゅうぎゅうというほどではなかった。これについては指示を受けた訳ではなかったが、自発的な判断で艦隊ごとに貨物室側面のシートに座った。大丈夫だ、と信じたい。この短期間で二度も搭乗した航空機が墜落するなんて、深海から上がってきた大亀の首がたまたま流木の()()にすっぽりとはまってしまう※91のと同じぐらい稀にしかないことだ。でもそんなことを言ったって、僕にはその「稀にしかないこと」を無視できなかった。何しろこの僕は「絶対にあり得ないこと、もしくはもの」という意味の慣用句として使うことのできる第三の存在、男性艦娘の実物なのだ。発生の確率がゼロだと思われていたことでさえも現実に起こるというのなら、発生確率がゼロより大きいことが疑いなど到底できない事実の積み重ねによって証明されていることもまた、当然に現実化することがあると見なしてよいだろう。少なくとも数学的にはその筈だ。そこが厄介なのだ。

 

 僕は悶々とし続け、自分を納得させられるような説得力ある慰めを捻り出そうとすることに没頭する余り、飛行機が飛び上がる時には心底驚いて、シートに設けられた簡易な肘掛と間違えて隣席の那智教官の右腕、つまり義手の方を掴んでしまったほどだった。彼女は左手だけで器用にペーパーバックを読んでいたが、僕の様子を一目見て察するとそれ以上の反応は特にせず、紙面に目を戻した。なので、僕は彼女に甘えて飛行機が一定の高度に達するまで掴ませて貰っていた。どうにも教官には候補生時代から長きに渡って迷惑をかけ続けている気がする。その上塗りは望むところではない。上昇が止まったところで手を離し、風景でも見て心を安らげようとして、背後の窓から外を眺めようとする。が、しっかりとしたシャッターが下げられており、ロックまで掛かっていた。大規模作戦だから、機密保持の為に露出を減らしたいのだろう。この戦争は深海棲艦だけが敵じゃない。融和派という奇妙な連中もいるのだ。あいつらは油断も信用もできない。まずもって理屈の通らない相手だ。深海棲艦の味方をするなんて、正気とは思えない。深海棲艦が捕虜を取るとは聞いたことがないが、もしかしたら洗脳でもされたのかもしれない。だとしたら哀れな連中だが、絶対確実に解放してやる手段がない以上は、敵と見なして処理する他にはないだろう。

 

 言うのは簡単だ。実際にそれができるだろうか? ある特定の状況下では、決断を下さないことこそが最悪の決定となり得る。だができるのか? 深海棲艦は同じ人間でもなければ、艦娘でもない。似てはいるが、別種のものだ。僕は奴らを殺す為の訓練を受けたし、それを日々実践している。突然ヲ級が現れて、実に礼儀に適った挨拶をしてきたとしよう。帽子を脱いで頭を下げて、何とまあ、優雅かつ美々しい様子だ。僕は拍手する。それから二〇.三センチ砲を撃ち込む。それでおしまいだ。後には何の感慨も残らない。精々が誰か友達に「今日こんなことがあってさ」という程度だろう。

 

 しかし融和派は、人間だ。または艦娘だ。赤城によれば人型深海棲艦の構成員もいるとのことだし、それについては彼女の言葉も嘘ではなかったようだが、日本にいる融和派の多くは人か艦娘のどちらかである。撃てるのか? 自問してみても、答えは出ない。決めなくてはならない時には決められると思いたい。そいつを撃つか、撃たないのか。友達を助ける為なら、迷わずに撃てる。長門を助ける為なら? 考えるまでもない。撃てる。撃ってからその決定を下したことを誇りに思うだろう。提督を救う為だったら? いやいや、これを考える必要はない、吹雪秘書艦が彼女の横にいない訳がない。

 

 秘書艦と妙高さん、そのどちらかがいるだけでどんな問題も解決されそうな気がするのは、不思議なおかしみがあった。くすりと笑うと同時に、腹が鳴る。おやおや、心は不安に怯えているというのに、体は何処までも彼の職務に忠実な奴だ。苦笑いの一つもしたくなるが、それは後にして教官に訊ねてみる。「教官、機内食はいつ出るのでしょうか?」そうすると彼女は本から目を上げて(遅まきながら、その時とうとう僕は彼女が読書用に眼鏡を掛けていることに気づいた)、にやりと笑った。

 

「私は手荷物の余剰割り当て分に乾パンと缶詰を入れてきた。分けてやろうか? 貴様には幾らか受け取る権利がある、遠慮しなくていいぞ」

 

 寛大な申し出だ。ただ、多少の用意なら僕もしていた。漂流時に食べていたスティックタイプの救難糧食を返納せずに、適当に荒波とかで失ったことにして、そっくり自分のものにしていたのだ。あれは口の中がぱさぱさになるという欠点こそあるが、糖分たっぷりで甘いし、ビニールの小袋に分けてあるから持ち運びやすい。特に甘いという点に僕は惹かれていた。甘味、それは兵隊にとって重要な要素なのである。食事しか楽しみがない時に、ほんのちょっとの砂糖があればどれだけ心のゆとりが生まれることか。

 

「はあ、それはありがたくいただきます。しかし自分たちはともかく、提督にはちゃんとした食事が必要でしょう」

 

 空腹や栄養不足でちゃんと仕事ができない、などという事態は困る。僕が第五艦隊の艦娘五人の命を預かるように、彼女は彼女の指揮下にある艦隊全ての艦娘の命に責任があるのだ。

 

「心配はいらんさ。提督が自分自身のことをないがしろにするタイプに見えるか?」

「その全く逆に見えますね」

「だろう?」

 

 至極もっともな意見だった。第五艦隊旗艦としての経験から述べると、物資調達は簡単な仕事ではない。が、提督が僕らを飢えさせたことはなかった。湯水のごとくとは行かないまでも、燃料も弾薬も食料も娯楽にさえも、不足を感じたことは一度たりとてない。だが提督がそれらを僕らの為にやったのか、となると、これには超特大の疑問符が差し挟まる。提督はそのような模範的人格ではないからだ。彼女はあくまで自分の為にしか働かない。配下の艦娘に多くの物資を与えるのは、それが結局は彼女自身の為になるからなのだ。まあ、僕も三つの子供じゃない。大事なのは動機ではないのだということを知っている。本当に重要なのは、行為そのものなのだ。

 

 そういった、論争を招きかねない意見を差し置いたとしても、提督は彼女の艦娘に手柄を立てさせ、それを基盤にして階級章に星だの線だの付け加えたくて、僕ら艦娘は日々を生き残る為の物資が欲しいだけである。どちらも損をしない取引だ。なら、何の問題がある?

 

 果たして、教官との会話が終わってから暫くすると、まず貨物室の奥の方に座った第一艦隊や第二艦隊の艦娘たちが食事の匂いを嗅ぎつけた。やがて白い箱が回されてくる。その箱の側面には空軍のマークと共に「航空糧食」という味気ないスタンプが押してあった。

 

 受け取って早速開けてみると、ハンバーガーのようなバンズを使ったサンドイッチが三つとクリーム付きのチョコレートビスケット一箱、ポテトチップス一袋にフルーツカクテルが入ったプラ容器、おまけにサイダー一缶とペットボトルのミネラルウォーターまで入っていた。空軍め、いつもこんなあれこれ揃ったいいもの食べてるのか? 仕事中に? 羨ましすぎる。

 

 箱の外側にテープで留めてあるアクセサリーキットを外し、使い捨て濡れティッシュで手を拭いてから食事を始める。サンドイッチはツナサラダ、ローストビーフ、ピーナッツバターの三種類だった。ますます空軍へのやり場のない嫉妬が沸き起こる。何だあいつら、同じ軍とは思えないぞ。海軍の艦娘は任務中、食事をこんなに詰め込めない。いつ撃たれるか分からないからだ。満腹の時に腹を撃たれて胃が破けでもしたら、希釈修復材を使って止血して、後はただただ感染症や炎症を起こしませんようにとお祈りするしかなくなる。ところが空軍はこれだ。国内や軍内部の治安維持しかやることのない陸軍も大概だけれども、任務中に豪勢な食事を取らないだけ、連中は大目に見てやろう。

 

 食べてみると、サンドイッチはそこそこよかった。例の店のステーキサンドと比べると二段三段と劣りはするものの、悪くない味だ。量にも文句はない。フルーツカクテルも甘酸っぱくておいしかった。ぺろりと自分の分を食べ終えてしまい、手持無沙汰になる。クッキーやポテトチップスに手を出してもいいが、お菓子の類は燗酒と同じで、ちびりちびりとやるのがいいのだ。あればあるだけその時に食べきってしまうのでは、犬と変わらない。

 

 僕は無聊(ぶりょう)を払ってくれる何かを探して、きょろきょろと左右を見やった。隣の教官が白い箱をかばうように身じろぎする。どうも僕の食べっぷりがひどかったもので、うかうかしていると大事に残しているビーフサンドにまで手を伸ばしてくるのではないか、と思われているらしい。極めて心外だ。那智教官から食事を奪ったり盗んだりするぐらいなら、僕はいっそ自分の腕を切り落としてから靴と一緒に煮て食べてしまう※92つもりなのに。

 

 目を閉じて寝られないか試してみるが、ダメだ。食べたばかりで寝るのは難しい。諦めて目を開け、どうしたものかと首を捻ると、視界の端で何か動いた。カーゴドア側、コンテナの扉の方だ。第一・第二艦隊や第三艦隊は気付いていない。僕以外の第五艦隊員も。交代の操縦士だろうか? でもそれならどうしてコンテナに用事があるんだ? こういう疑問は、確認しておくに限る。僕は席を立ち、動いた何かの正体を確かめに行った。コンテナの扉は閉められていたが、丁度、よく大きな門に小さな勝手口がつけられているような具合でドアがあり、そちらには鍵が掛かっていなかった。僕はそれを開け、目を見開いた。

 

 中には何もなかった。そんな筈はない、明石さんが積み込むのを僕は見たのだ。でも現にこうして何もないのでは、過去の記憶を言い立てたところで無駄でしかなかった。コンテナの奥には電球が釣り下がっており、光っていた。恐らくは扉を開けると光が灯るのだろう。詰め込んだ貨物がよく見えるようにという訳だ。空の荷箱を積んで飛んでいる理由を知りたくて、更なる調査の為にコンテナの奥へと歩を進める。埃一つ落ちていない。何の手がかりもない。ダメだ、僕では何も見つけられそうにないな。戻って提督に指示を仰ごう。

 

 くるりと振り返る。二歩前に進み、それきり動けなくなる。ドアが閉まっていた。普通なら音がする筈だ。でもしなかった。聞こえないほど集中していたのでもないのに。動揺し、恐怖に陥りそうになるのを、己を叱咤して阻止する。まずはコンテナの壁でも叩いて、中に僕がいることを知って貰おう。この中がどうなっているかを見せたら、話も早いだろう。

 

 しかし、こちらの意志を挫こうとするかのように、コンテナ内の電球がじじじ、と音を立てて消えた。完全な暗闇だ。僕は鼻で笑った。暗所への恐怖は子供時代に克服していたのだ。また音を立てて、電球の光が戻る。今度は度肝を抜かれた。光が灯ったからじゃない。そこに、僕のすぐ横に現れたからだ、いる筈のない相手が──港湾棲姫が。頭の中を様々なことがよぎる。何処から入ってきた? 何故ここにいる? こっちの武器はナイフだけ、あっちも艤装はないが爪がある。またか。コンテナの外に聞こえるよう、大声で叫ぼうとするが、何故か声が出ない。ナイフを抜き、バックステップで距離を取る。港湾棲姫は僕を見る。諦めの混じった目で。「何も」と彼女は言う。その言葉には、以前みたく奇妙な歪みがない。

 

「何も分かっていない。未だに、何も。何度も呼び掛けているのに!」

 

 言葉の意味は頭に入ってこない。一息に踏み込まれて、あの爪で胸を貫かれるところが見えるようだった。

 

 後ろでがこん、と音がして、ドアが開く。素早く目を走らせる。加賀がいた。頭から血を流し、片足を失いながらもドアを開けて、こちらに腕を伸ばしていた。「こっちへ来なさい! 早く!」外がどうなってるのか知らないが、願ってもない。一目散に逃げだそうと踵を返す。が、港湾棲姫の動きは僕よりも速かった。足を切り裂かれ、膝を突く。ナイフを振り回して彼女の腕を切りつけるが、その程度では姫級深海棲艦は止まらない。何の技巧もなく腕を振るうだけで、僕を床に打ち倒す。そうしておいて、彼女は言う。

 

「行ってはいけない!」

 

 加賀が叫ぶ。

 

「何をしているの、急いで!」

 

 その顔色が段々と死人のような青へ、深海棲艦のあの肌色に変わっていく。何もせず、息を呑んでそれを見守る。数秒もすれば、そこにいたのは加賀ではなく空母棲鬼だった。悔しそうに顔を歪めて「沈め!」と彼女が喚くや、僕は那智教官の隣のシートに座っていた。何が起こったのか分からなかった。周りを見て、一体何処からが夢だったのか知ろうとした。教官は本を読み終わったらしく、ぽん、と音を立ててそれを閉じると言った。

 

「貴様の寝つきのよさには驚かされる」

 

 無意味に頷いて、額の汗を拭う。いつから寝ていたのだろう。時計を見る。昼の終わり頃、夕方を迎える時間だ。ミネラルウォーターの残りを飲んで、眠気で濁った思考をクリアにする。教官はその様子を眺めていたが、僕が見つめ返すとちょっと口ごもってから、事実を述べた。

 

「うなされていたぞ」

「飛行機のせいです」

「しかし……」

「大丈夫です」

 

 教官の目を見ながら嘘を言う。親にどんな言い訳をしたものだろうか、戦争から帰ってきた息子が大嘘つきになってしまったと二人が知ってしまった時には? 教官は僕の目が逸らされないのを認めると、口だけ動かして「強情な奴め」と言い捨てて、不機嫌そうな顔で前を向いてしまった。当分はそのままだろう。打てる手はない。僕は今の席を離れ、不知火先輩たちの近くに行くことにした。先輩はチョコクッキーを見苦しくない程度に頬張っていたが、僕が来るのを見て慌てて飲み込もうとしたせいで喉に詰まらせそうになり、傍にいた利根が急いで水を渡していなかったら窒息するところだった。これは僕のせいか? いや、流石に違うよな? 自己弁護しつつ、貢物をそっと差し出す。品目はポテトチップスである。甘いものの後には塩気が恋しくなるものだ。

 

「いえ、不知火にも自分のがありますから」

 

 予想外にも断られてしまった。仕方なくその場に座り込み、自分で開けてぱりぱり音を立てつつ食べる。結構濃い目の味付けだ。背もたれ代わりのコンテナが、悪夢で汗をかいた体にひんやり冷たくって気持ちよかった。ぴとりと体をくっつけてその冷たさを楽しんでいると、僕の姿を面白がった北上がからかいに真似を始める。けれど彼女も思いのほかの好ましい冷ややかさに「お? おおぅ、これは……いいねえ」と言ったきり、動かなくなってしまう。ただその状態でもポテトチップスを口元に近づけるとぱくりと食らいついてくるし、顔の近くでゆらゆらさせると鼻先をひくひく動かすのが愛らしくて、僕は暫く北上にポテトを食べさせることを楽しんだ。

 

 先輩はそれを苦笑しながら見ていたが、ふと何かに気付いて彼女のポテトチップスの袋を取り出した。それを見て僕も彼女が何を感づいたのか理解した。

 

「あれ、先輩と僕の、銘柄違いますね」

「不知火のは薄塩味ですか。基本にして王道、いいですね」

「味比べしてみます?」

「ありがたくいただきます」

 

 袋から不知火先輩の小さな口に最適なサイズのものを一枚つまみ取り、彼女へ差し出す。元より、これは彼女に捧げるつもりだったものだ。惜しいと思うことはない。先輩は既にトラックでの不面目を過去のこととして処理しているようだが、その大人らしい割り切りに甘えていてはいけないと思うのだ。そういう気持ちを込めて「はい、どうぞ」と僕が言うと、先輩は手で取らずに口で取った。僕は呆気に取られていた。ぱりぽりとくぐもった音が先輩の口の中から響き、彼女の「ん、ちょっと濃い味付けですがおいしいです」との評価がそれに続いた。それから僕の視線に込められたものを悟って、言い訳するように「指が汚れるのが嫌だったので」と言った。利根の方を向き、女性の意見を求める。

 

「これはわざとかな? 十七歳の純朴な男の子をからかう魔性の先輩、みたいな?」

「やっておるのが不知火でなければ、吾輩もそう判断するところなのじゃが」

「つまり天然でこれと。凄いな」

「うむ。全く凄いことじゃ」

 

 感心して頷き合っていると、飛行機が降下するのを感じた。ようやく目的地かと思ったが、座席が提督に近い第一艦隊からの情報で燃料補給の為の着陸らしいと分かってがっかりする。航空機なんて、どれも鉄の棺桶みたいなものだ。好き好んでこんなものに乗る奴らの気が知れない。休憩がてら外に出てもいいかと提督に質問を回してみたが、帰ってきたのは一つの意味以外に解釈しようのない、否定を意味する単語だけだった。まあいい、先輩や北上たちとカードでもして時間を待とう。

 

 結局、目的地である航空基地に到着したのは最初の着陸から更に四時間半ほど経ってからだった。外に出るともう暗くなっており、一日の三分の一近くを飛行機の中で過ごしたのかと思うと、貴重な人生を無駄にしたように感じられることだ。座っていただけとはいえみんな疲れ切っていたので、案内役として付けられた空軍の下士官の後を無言でとぼとぼ付いて行った。宿舎は夜中でも一目で仮のものと分かるいい加減なかまぼこ型兵舎で、それらが立ち並んだ前で解散となった。

 

 それぞれに割り当てられたみすぼらしい屋根の下へと入る。第五艦隊の宿舎の中には六人分のベッドと、私物入れが置いてあった。「訓練所を思い出すねえ」と北上が笑いながら、僕や利根の思ったことを代弁してくれた。三人で教官を見る。彼女は居心地悪そうに身をよじってから、彼女のベッドに腰を下ろした。荷物を置いて、那智教官にしごき倒された三人で彼女を囲み、前々からしてみたかった意地の悪い質問を投げかけてみる。

 

「僕らの中で一番できが悪かったのは誰でしたかね、教官?」

 

 答えは想像できる。利根はそつなくこなしていたから、この三人の中で最も被害が少なかった。つまりできがよかった訳だ。北上は耐久行軍訓練の時に毛布で目方をごまかしたのがバレて、顔が倍にも腫れ上がるほど殴られたが、それ以降はそこまでの罰を受けるような失敗はしなかった。何か不正をやるにしても、もっと上手にやったのだ。那智教官が気付いていなかったとは思えないが、証拠もなしに殴ることはできなかったのだろう。じゃあ、僕は? 大本命だ。殴られることこそ少なかったものの何度かほとんど殺されかけたし、訓練終了前休暇の取り消しを食らいまでしたのだから。案の定、教官はまっすぐ僕を見た。そして体の力を抜き、肩をすくめて皮肉げに言った。

 

「それが今や、艦隊旗艦とはな」

「これからもよろしくお願いしますよ、教官」

「ああ。教え子と共に海を駆けるのも悪くないものだ」

 

 それは訓練教官と教え子の間では、半ば愛の告白のようなものだった。

 

*   *   *

 

 翌朝、僕と利根はぴったり朝七時半に目を覚ました。那智教官はそれに半時間先んじて起きており、一方で不知火先輩は五分遅れ、北上は十五分遅く、隼鷹など三十分も遅れた。先輩は枕が変わったら寝るのに苦労するタイプらしく、北上は生来の寝汚さ、隼鷹は昨夜の深酒のせいだろう。みんなが目覚めた後、艦隊員たちの着替えの為に、僕は寝間着の上から上着を羽織って外に出た。八時ともなれば朝の冷たさが暖かさに取って代わられる時間帯だが、まだその涼しさとも言うべきものは残っており、風が吹くと思わずぶるりと身震いがした。僕の艦隊にのろまはいないから、五分で最低限の身づくろいを済ませられるだろうし、十五分もあればそこそこの身だしなみを整えられるだろう。その程度の室外待機で風邪を引くほど、僕も軟弱じゃない。

 

 朝八時の空を眺めて楽しんでいると「あれ?」と困惑した声がした。誰かが何かに困っているのだろうか? だとしたら、手助けせずにはいられない。視線を地上に戻して、声の聞こえてきた方向にやる。そこには前に見たことのある顔がいて、僕を見ていた。少女らしい赤のスカート、白い道着の上の胸当てにはスの一字、活発さを感じさせるツインテール、瑞鶴だ。でも僕が助けたあの瑞鶴かどうかは分からない。あれ? という言葉の次が「ここは艦娘用の宿舎よ?」だったらこちらを知らないということだから、あの瑞鶴ではない。「何であんたがここにいるのよ?」とかだったら、僕をある程度個人的に知っているということだから、あの瑞鶴だ。

 

「どうかしたかい」

 

 知り合いであろうとなかろうと、会話では適切な距離感を保つことが肝要だ。僕はなるべく気のいい男を装って、そう問いかけた。中身は割かし腐っているが、中がそうだからって対外的な態度まで腐り落ちてなきゃいけないって法もないだろう。

 

「こんなところで会うとは思っていなかったから驚いただけよ。久しぶりね」

 

 あの瑞鶴か。なら嫌われてはいまい。特別好かれているとも思えないが、安心して話をすることができる。長門や吹雪秘書艦と話をする時に僕が感じるような、不穏な気配もない。爆撃にだけは注意しなければならないだろうが、今の瑞鶴は弓を持ってもいない。パンチとキックには十分注意を必要とするが、訓練所で那智教官から格闘訓練を受け、今でも時折彼女から手ほどきを受けている僕なら、不意打ちさえ避ければ余裕を持った対応も不可能ではない。

 

「一か月ほどぶりだったかな?」

「もっとでしょ」

「そうだったね。最近忙しくてどれだけ時間が経ったのか忘れてしまっていたよ。最上と熊野は元気かい?」

「ええ。最近、最上は艤装の改造を受けて航空巡洋艦になったわ。熊野ももうすぐじゃないかしら」

「へえ、おめでとう! 僕がそう言ってたって彼女にも伝えてくれないか、頼んだよ……それで、他の艦隊員たちはどうだい? そうだ、旗艦は誰がやってるんだ?」

 

 何の気なしの質問だったが、それなの、聞いてよ! と瑞鶴は食いついてきた。話では彼女の姉妹艦であり、実戦経験も数多く積んできた正規空母翔鶴が、旗艦として転属してきたらしい。僕には姉妹艦がいないのでその嬉しさを共有できないことが残念だったが、翔鶴姉が翔鶴姉がと姉のことを事細かに語って聞かせて来ようとする瑞鶴の姿は、見ていてとても好ましかった。ひとしきり語り終わる頃には、瑞鶴は運動をした後のように息を切らせていた。それでも彼女は満足そうである。大きく息を吸うと幾らか落ち着いて、自分の度を越した興奮を手短に謝ってから、その他の二人の補充について話をしてくれた。訓練所上がりの駆逐艦と戦艦が一人ずつ配属されたとのことで、その二人の練度さえ上がれば、瑞鶴の所属艦隊は強大なものとなるだろう。正規空母二隻に戦艦、熟練の航空巡洋艦と重巡、駆逐艦。艦種も偏りがないし、演習で相手にしたくはない編成だ。

 

「それで……あんたの艦隊も大規模作戦に参加するのよね」

「うん、そうらしい。今の口ぶりだと君たちもか」

「ええ。詳しい話は今日の昼って聞いてるわ。あんたのところもそうなの?」

「いいや、僕らの方はその辺さっぱりだ。ま、知らなきゃならない時には教えてくれるだろ」

「のんきねえ。ホントに旗艦なの? 普通、旗艦って翔鶴姉みたいにしっかりしてなきゃ務まらないと思うんだけど」

「色んな艦隊があるんだ、瑞鶴。そいで、色んな旗艦がいるのさ。正直、僕も二番艦に旗艦を譲って六番艦辺りに収まっていたいんだけどな」

 

 そう言って笑ったところで、宿舎の中から僕に声が掛かった。もう入ってもいいらしい。「ああ、行くよ」と返事をして瑞鶴に別れの挨拶をしようとするが、そこで彼女にもお呼びが掛かった。少し遠くにあるかまぼこ型兵舎の一つから出てきた翔鶴だ。彼女の横には駆逐艦叢雲と、高速戦艦金剛がいた。叢雲はともかく、高速戦艦か。ますます演習で相手にしたくなくなった。翔鶴は二人をそこに残して女性らしい落ち着いた足取りで僕たちのところまで来ると、瑞鶴に「こちらは?」と尋ねた。瑞鶴が「ほら、前に話した……」と言うとそれで通じたようだった。付き合い自体は長くないものの、それで分かり合える仲なのか。姉妹艦間の絆というのは凄いものだ。思えば天龍と龍田もそうだった。

 

「そうでしたか。私の二番艦がお世話になりました、お礼申し上げます」

 

 ただの任務だよ、気にしないでいい、と言いそうになって、止める。瑞鶴はもう知り合いだ。熊野や最上も。金剛と叢雲は後任だから、気の赴くままに先輩風を吹かしたっていい。けれど翔鶴とは初対面で、彼女は僕より先任かもしれないのだ。どちらの立場が上か分かるまでは、互いに礼儀正しくするのが筋だろう。背筋を伸ばして返答する。

 

「いえ、それが自分の艦隊の任務ですので」

「何、いきなりかしこまっちゃって。まあ翔鶴姉美人だしね、緊張するのも仕方ないか」

「瑞鶴」

 

 優しい声に迫力を込めるというのは難しい技術だ。僕はまだ習得していないし、これから先自分がそれを身につけるところを想像したこともない。だがこの翔鶴は自分のものにしているようだった。間違いなく僕より先任だろう。よかった、正しい選択をしたようだ。迫力に当てられて緊張した面持ちになった瑞鶴に、彼女の姉妹艦は宣告した。

 

「行くわよ」

 

 去り際に軽く頭を下げられたので、僕も応じておく。立派な所作ではあったが、感情は匂いのように現れるものだ。身のこなしで隠すのは無理がある。お陰様で、嫌われているな、と分かった。見る限り、金剛たちにもだ。誰かに新しく嫌われるのが久々のことだったので、僕は何となくもやもやしたものを感じた。瑞鶴を引っ掛けようとしている軽薄な男にでも見えたのか、それとも理由のない生理的嫌悪か。どっちでもいい。瑞鶴が僕と付き合いのあることで責められたり、不快な思いをしないことだけを僕は願った。

 

 宿舎に戻り、艦隊員たちに瑞鶴と会った話をする。隼鷹は空母ということもあって瑞鶴と仲良くなっていたので、「後でちょっくら挨拶でもしてくるかねえ」と言っていた。人の感情の機微に敏い隼鷹なら、問題もないだろう。翔鶴に睨まれることもあるまい。僕は手早く服を着替えると、時間を確かめた。八時半。昨日、解散前に聞いたところでは朝食は九時からだ。基地の食堂を使えるとのことだった。三十分で何ができるだろう? カード、ボードゲーム、簡単な訓練。友達とお喋りするのも悪くない。利根は不知火先輩とチェスに興じており、教官は本を読んでいるから、話をするなら北上か隼鷹、またはその両方だ。でも隼鷹はうつらうつらと二度寝に入ろうとしていたので、北上と話すことにする。彼女は宿舎の壁に油性のマジックペンで丸い的を描き、それに向かってナイフを投げていた。空軍の連中が気付くのはここを出た後だろうから、僕は止めなかった。

 

 僕が北上の様子を眺め始めてから三投目に、彼女はナイフを当て損なった。僕は北上が床に落ちたナイフを取りに行くよりも先に、自分のナイフを的に投げつけた。敵に追われて長門と過ごしたあの日以降、投げナイフの訓練をした僕の投擲成功率は九割を超えている。今度も僕が願った通りに刺さってくれた。刺さり方には癖があるが、これは芸術点を競うようなゲームの類じゃない。狙ったところに十分刺されば、それでいいのだ。

 

 海戦では頼りになるベテラン艦娘、全世界の大井の愛をほぼ独り占めする雷巡は僕の危険な行為を責めるような目で見たが、この程度の危険で本当にびくつく艦娘はいない。みんな大なり小なり、危険というものに対する感覚が狂っているのだ。狂っていると言うと語弊があるな。鈍っていると言い換えた方がよいかもしれない。だってそうだろう、頭の数センチ向こうを拳ほどもある金属の塊が飛び交い、足元では一発で運命を決してしまうような爆発物が行き交う世界だ。感覚を麻痺させなくては、それこそ頭がおかしくなってしまう。

 

 北上は歴戦の兵士らしく、にやっと笑った。それは「あんまりびっくりさせるからさ、もうちょっとで漏らすとこだったじゃないの」というニュアンスの笑みだ。「いや、マジで漏らしたりはしてないよ、当たり前じゃん。ただ『もうちょっと』だったってだけだってば」。だから笑いになるし、だから自分のタフさを、タフな艦娘らしく言葉に出さずに強調できる。「やれやれ、超冷静なあたしじゃなかったら、今頃辺り半キロ汚染地帯だよ?」と。

 

「上手いじゃん」

「練習だよ、北上。練習が全てだ」

「まあねえ、そうだろうねぇ。前に隼鷹が『あたしの部屋側の壁でナイフ投げる練習すんじゃねえよ!』って言ってたけどねー」

 

 この会話の最中に、北上はナイフを拾って元の位置に戻り、再度投擲をしていた。それは僕のナイフが刺さったすぐ横に、綺麗に刺さった。僕のが斜めに刺さっているのに比べて、北上のはまっすぐだ。彼女の投擲フォームが、自己流に歪んでしまった僕のものよりも正確で、洗練されているということの証拠だった。

 

「マジで?」

「聞きゃいいでしょ、そこにいるんだし」

「気まずい。それに眠たそうだから邪魔したくない。あと北上が友達に嘘をつくとは思わない」

「いやまあ、そっちがそれでいいならあたしはいいんだけどさぁ、やめたげなよ?」

 

 そうしてナイフを投げつつ話をしていると、昼食の時間になった。まだ夢うつつだった隼鷹を起こし、食堂へ向かう。場所が分からなかったので、空軍の兵士をそこらで捕まえて聞き出さなければならなかったが、その価値はあった。研究所の食堂も悪くなかったが、こっちも中々だ。もしかしたら、大規模作戦に参加する艦娘がここに滞在するということもあって、質のいい材料や腕のいい調理人を呼び寄せているのかもしれない。

 

 出撃の時間が分からない以上、量は控えめにしなければならなかったが、それでも常より多く食べた。宿舎に戻り、何もしないでいるという至福を味わう。どうせ、やがては提督から作戦説明があって、危険な任務に向かわねばならないのだ。なら、今は自分のやりたいことをやるべきだろう。僕の場合は、それはまさにだらけることだったのである。

 

 那智教官も同じように考えているのか、僕が腑抜けたようにぐだぐだしているのを咎めはしなかった。でも彼女はそのようなみっともないことはせず、彼女が必要だと信じていることを行っていた。どちらが正しいか? 普通の人にそう尋ねれば、百人に九十八人は教官の方を正しいと判断するだろう。ところがどっこい、そうじゃなかった。昼が過ぎても、僕らは一向に提督からのお知らせなんか受け取らなかったのである。隼鷹は昼過ぎに眠気もすっかり覚めたか瑞鶴たちのところに行って、彼女らに与えられた任務について多少のところを聞いていた。大規模作戦ではいつもそうなのか、細部は機密だとして艦隊外の誰にも明かしてはならないことになっており、何をするのか詳しくは分からなかったが、大体のところ本命の作戦を支援する役割だそうだ。僕は艦隊員たちに意見を求めてみた。

 

「僕らもそういう支援任務を与えられるのかね、どう思う?」

「分からん。だが私は提督を知っている。あの人は他人の作戦のお膳立てなど、死んでもやらんぞ」

 

 教官の言葉は正鵠(せいこく)を得ていた。提督は他人を踏み台にする女だ。その逆じゃない。もし、彼女を踏み台にしようとするような不届きにして分不相応、もの知らずの愚か者が現れたら、提督は大喜びでそいつを引きずり倒し、その体の上でスパイクシューズを履いてタップダンスでも踊るだろう。おっと、片足の女性に今のは不適切なたとえだったかな? 北上と利根も、教官の意見に賛成した。隼鷹は「どうでもいい」の態度だ。彼女は提案した。

 

「それが分かったとしてさ、何の意味もないんじゃね? 待ってりゃ分かることだし、考えるならもっと楽しいこと考えて、ごろごろしてようぜ」

 

 誰もこれに筋の通った反論ができなかったので、僕らは隼鷹をこの議論の勝者に据えて、ごろごろすることにした。

 

 夕方になってから、ようやく提督は吹雪秘書艦を送って、僕らを航空基地の片隅に作られた臨時工廠に呼び出した。僕ら、つまり第五艦隊だけだ。秘書艦を除けば第一艦隊も、第二艦隊も第三艦隊もいなかった。なのに明石さんが何故か提督の後ろにいた。僕はマズいぞと思った。理由はないが、こんな風に特別なことが起きた時には、ろくでもない結末が待っているものだ。僕はそれを短い軍隊生活で嫌というほど思い知らされていた。到着の報告を秘書艦から受けると、提督は短く指示を出した。

 

「北上、不知火、装備の換装を命じる。明石に従え。旗艦と二番艦はこちらへ来い。後の二人は待機。秘書艦、待機班を見張っておけ。退屈の余り何をするか分からんからな」

「はい、司令官」

 

 提督の嫌味を隼鷹と利根はいつものこと、という様子で流した。実際その通りだし、この程度なら挨拶代わりでしかない。僕はすぐかっかする性格だが、その僕でも今のは耐えられただろう。杖を突き、足を引きずりながら進む提督に付いていくと、一時的に第一艦隊に編入されている夕張が待っていた。明石さんと同じで、工廠での役目がある為に第一艦隊としてではなく夕張個人として呼び出されたのだろう。提督は彼女から何か受け取ると、それを僕に渡した。

 

「それを右腕に巻け」

 

 見てみると、それは小型の情報端末だった。陸軍で指揮官が使っているような奴だ。タッチパネルに表示される情報で部下の位置を特定したり、爆撃を要求したりする際にその詳細な位置を指定する為に用いられている。戦争映画で見たことがある。今度は陸軍にでも転属させられるのかと思っていると、提督が煩わしそうに言った。

 

「何も聞くな。後で説明する。電源の入れ方は分かるな? 入れるんだ……よし。夕張、テストしてみろ」

「カウントダウン開始。三、二、一」

 

 ゼロとは彼女は言わなかった。電源を入れた後も何も表示されていなかった液晶が真っ白になった。壊しでもしたかと不安になるが、それなら提督が何か言ってくるだろう。彼女は沈黙を守っていた。夕張もだ。液晶の白が消えると、提督は夕張に拳より一回り大きいぐらいの機械を二つ持って来させ、それを一つずつ僕と教官に渡した。機械にはフックが付いており、下衣のベルトに引っ掛けて保持することができるようになっていた。

 

「失くすな。落とすな。分かったか? 戻るぞ」

 

 釈然としないままに、隼鷹たちのところへ戻る。不知火先輩らも、数分して戻ってきた。二人とも、装備が一部変わっている。あれは……機械類には自信がないが、水中探信儀ではないだろうか? 潜水艦の出没する海域に行くのかと思うと、気が沈んだ。海の上にいる敵なら、強大であろうともやりようがある。空の上でもだ。けれど海の下の奴らには、僕らは手も足も出ないのだ。

 

 提督はどうせ分かりもしない癖に先輩と北上の装備を自分でも確認すると、一つ頷いて移動命令を発した。艤装を装備してから、ヘリの発着場へ行けというものだった。今更彼女の命令が突飛であることに驚くものはいない。僕らは粛々と艤装の着用を済ませ、脚部艤装を手に持って発着場へと進み、大型ヘリに乗った。僕は精一杯嫌な顔をして提督に見せた。無視された。空も提督も大嫌いだ。

 

 キャビンは艤装をつけた艦娘が六人乗っても満足できる広さだった。ヘリが空に飛び上がると、提督はみんなを床に座るなり椅子に座るなりさせてから、彼女の指示一つで死にもする艦娘たちの前に立った。その傍らには、いつものように吹雪秘書艦がいたのは言うまでもないことだ。

 

「今からお前たちの任務を説明するが……その前に伝えておかなければならないことがある」

 

 場の空気がさっと変わる。ここからはおふざけなしだ。僕らは固唾を呑んで、提督の次の言葉を待つ。彼女は重々しい静けさが十分に部下らの間に行き渡るのを待ってから、口を開いた。

 

「軍は数ヶ月前に、対深海棲艦用通常兵器の開発に成功した」



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「大規模作戦」-3

 僕は隣の那智教官を見つめ、彼女は僕を見つめ、僕たちは笑った。僕は飛び上がって叫んだ。

 

Ураа(万歳)!」

 

 不十分にでもロシア語を解する人物がここにいなかったのは残念なことだ。北上は半ば泣きそうな顔になると、利根と隼鷹に抱きついて固く抱きしめ合った。僕はそれを見て那智教官に飛びつこうとしたが彼女がさっと身をかわしたので、代わりにキャビンの内壁と抱き合うことになったが、その衝撃や痛みさえ何かとても喜ばしいものに思えていた。提督は──彼女という人間にしては珍しいことに──この馬鹿騒ぎが自然に収まるまで待ち、吹雪秘書艦をけしかけようとはしなかった。その内に喧騒が賑やかなホームパーティーぐらいのものになると、彼女は杖で床をがんがん叩いて注目を提督その人に戻させた。

 

「この新型通常兵器に用いられている革新的技術については機密指定されていて説明できないし、機密でなかったとしてもお前たちには理解できんだろう。お前たちが知っておくべきことは、それがとうとう現実のものになったのだということだけだ。またそれこそ、お前たちが今回、こうして私と()()()()()()をしている理由でもある」

 

 彼女が強調した部分で僕は再び笑ったが、提督がこちらに視線を向けたので口を閉じた。彼女の視界に入っている間は、あらゆる感情表現を無にするのが一番だ。加賀などはそれをわきまえすぎたばかりに、あんな鉄仮面みたいになってしまったのではないだろうか。「いいか」と提督は前置きをして、第五艦隊の艦娘たちを片目でまとめて睨みつけた。

 

「どういう訳か、お前たちが運用試験担当の艦隊として選抜された。この付近に私の第三艦隊が特務で捜索し、発見した敵の潜水艦基地がある。その基地を新型兵器……ミサイルで攻撃する。第五艦隊はミサイルを誘導し、攻撃の成果を報告せよ。誘導に際しては通常、レーザーを使用するが、目標が海中に存在するということを考慮して、旗艦と二番艦にビーコンを渡してある。どちらかを使え。起動方法は簡単、側面のスイッチを一度押すだけだ。ビーコンからの信号を受信次第、先ほど後にした航空基地から空中発射型巡航ミサイルを搭載した攻撃機が発進、適切なタイミングで発射する。海中での爆発になることから安全性は高いと思われるが、くれぐれも注意するように。ただでさえ軍は遺族年金の支払いに苦労しているんだからな。ここまでで質問は?」

「敵潜水艦基地の場所が分かっているのなら、ミサイルの管制装置に座標を入力してやればそれで済むのでは?」

 

 教官がもっともな質問をした。提督もこれについては分かっていたのだろうが、顔をしかめて答えた。

 

「残念ながら、第三艦隊はそれをするのに足りるほどの正確な座標を入手することができなかった。だが心配する必要はない。旗艦の情報端末やお前たちのGPSに潜水艦基地が存在すると予想される範囲を示すデータを送信してある。それに従って不知火、北上両名のアクティブソナーで潜水艦基地を再捜索せよ。ソナーで得られた情報は旗艦の情報端末に視覚表示される」

 

 結構な無茶を言ってくれる。自ら音波を発するアクティブソナーのいいところは、比較的遠距離まで探査できることと、相手が動いていなくとも見つけ出すことができる点だ。その反面、音を出す訳だから、パッシブソナーで聞き耳を立てている相手(たとえば敵の潜水艦)にとってはいい的になる。それを敵潜水艦基地の裏庭みたいなところでやるのか? 提督は回りくどい「死ね」の言い方を何個も腹の中に隠しているようだが、これはその中でも悪質さで言えばランキングトップを飾ることのできるものだろう。僕は手を上げて発言の許可を求めた。提督が頷いたので、質問をぶつける。

 

「付近での敵の潜水艦の活動は?」

「大規模作戦が発令され、一部では既に攻撃が始まっている。そちらへの援軍として、昨日の内に大半が移動したものと見られる」

「では、水上艦の活動は?」

「衛星による最後の確認時には、有力な敵なしということだった。ただ、それは昨日の話だ。それに、現在当該海域周囲は曇天との報告が来ている、敵が雲の下で隠れている可能性を否定はできん」

「これから具体的にどうするのですか?」

「目標海域に近い小島に降りる。そこで夜明け前まで待ち、それからヘリで行けるギリギリのところまで連れて行ってやる。後はお前たちの仕事だ。それと、撤退に際しては回収用のヘリを待機させておく」

 

 聞きたいことはそれで全部だった。僕は質問は終わりだ、という意味の頷きを示して、一歩退いた。他の誰かが、僕の忘れていた聞くべきことを聞きたがるかもしれないからだ。でも誰もそれ以上のことを聞きたがらなかった。提督も言ってしまわなければならないことを全て言い終えたからか、それ以上の追加情報はなかった。貨物室の床に座り、思考の海に潜っていた隼鷹の肩を後ろから叩く。それだけで、彼女は振り返って晴れやかな笑みを見せてくれた。きっと彼女の頭の中では今、バラ色の未来が始まっているに違いなかった。彼女は言った。

 

「こりゃ、もしかしたらあたしら生きて退役できるんじゃね?」

「艦娘じゃない普通の人間でも深海棲艦と戦えるようになったら、こっちの戦力は一気に膨れ上がる訳だしな。なあ隼鷹、想像してみたことあるかい? 自分が礼装なんか着込んで、街で凱旋パレードするとこなんて」

「よしなよ、何だか口に出したら夢みたいに覚めちまいそうだろ。あたしから言っといてアレだけどさ」

「じゃあそれについては黙るとしてもだぜ、少なくとも世の中の安定には一役買うと思うんだよ、普通の人でも深海棲艦と戦えるってことはさ、つまり」

 

 隼鷹もぴんと来たようだった。現在、世界の海を守っているのは少数の国家だ。その中でも大きな役割を果たしているのは、やはりアメリカと日本を筆頭に、ドイツ、ロシア、イギリス、イタリア、フランス、オーストラリアと言ったような大昔の列強諸国やそれに連なる国々であった。もし深海棲艦を、ひいてはそこから生まれた艦娘を殺すことのできる通常戦力が存在しないままに戦争が終わっていたら、どうなっていただろう? 戦争が終わってすぐはいい。復興で忙しくて、新しい戦争を始める元気は誰にもないだろうからだ。しかし時間が経てば、人は必ず忘れるものだ。艦娘たちは脚部艤装を脱がされ、代わりにブーツを履いて陸で戦うことを強要されたかもしれない。拳銃やライフルの弾が問題にならず、力が強く、装備さえあれば水上航行でき、燃料や弾薬、食料さえ与えておけばよい艦娘は、人類始まって以来最も完成された歩兵になり得るのだ。妖精たちが人間同士の争いに手を貸すかどうかは分からないが、連中が手を貸さないと信じる理由はない。

 

 けれど通常兵器で殺せる相手に成り下がってしまえば、艦娘はただの力が強くて水上スキーができる人間でしかない。余分の燃料や費用を投じてまで運用する価値もあるまい。お陰で僕らは自分の望まない戦争に行かなくても済むだろう。差し当たっての懸念は日本が研究開発の成果を他国と共有するかどうかだが、これはもう政治の世界の問題であって、一介の兵士でしかない僕が関わっていけるようなことではない。響に頼んで神にでも祈って貰えばいいと思う。気が向けば何かあっと驚くような奇跡を起こしてくれるさ。

 

 僕らは日が沈み切る頃に、島へと着陸した。海から見えないように、林を丸く切り開いてランディングゾーンを作ってあった。が、夜間も行動可能な種類の敵航空機が飛んできたら一目でバレてしまうということで、着陸してから一時間掛けて偽装を施さなければならなかった。面白いことに、これに那智教官の持ってきた道具が役立った。彼女は現代の艦娘がめっきり見なくなった文明の利器、暗視装置を持っていたのだ。単眼式と両眼式が一つずつだったが、二つあるだけで作業の効率性はぐんと上がった。僕は意地悪な感謝の示し方として「ようやく教官の用意が報われましたね」と言った。以前の漂流の際に、天候不順のせいで教官の持っていた六分儀が全くの役立たずだったことを指した訳である。彼女は無言で僕の頭をぱしんと叩くと、くすくすと楽しそうに笑って言った。

 

「この艦隊はいいな。貴様が旗艦だから、遠慮なく叩ける」

「海の上じゃ、勘弁して下さいよ」

「当然だ。戦闘任務中とそれ以外での切り替えぐらいつけられる。さあ、続きをやるぞ」

「はい、教官」

 

 こうして作業を済ませて、ようやく僕らは休めることになった。艤装を外に隠して、ヘリのキャビンの中にスリーピングマットを敷いて、薄手の布団やブランケットで寝る、という夏場のキャンプみたいな有様だったが、暑い寒いで寝られないような奴はいない。外気取り入れの為にカーゴドアを開けたままにしておいたので、息苦しさとも無縁だった。僕が寝られなかったのは、ひとえに緊張のせいだ。寝る前まではよかった。マットの上に横たわって、自分の防災ブランケットに包まり、目を閉じるまでは全然何の心配もなかったんだ。ところが、目を閉じた途端、いっぺんに何もかもが襲ってきた。緊張、興奮、恐怖、希望、そういったものの全てが……挙句の果てに、僕は僕らが、僕たち第五艦隊の任務が人類の歴史の一部となるであろうことを発見してしまったのだ。赤子みたいに寝られる訳がなかった。

 

 時計を見る。日の出まではまだまだ時間がある。外をぶらついてきても大丈夫だろう。真夜中に島の中で動く一人の少年を目で捉えられるほど、敵の目がいいということもないだろうし。それに幸運にも、僕はカーゴドアに近いところに寝ていた。ここまで揃っていて、横になってはいられなかった。誰も起こさないようにしながら、僕は貨物室を抜け出た。さく、さく、と草を踏みしめる音を立てつつ、林の中を歩く。小さな島だと提督が言ったこともあって、すぐに海岸近く、砂浜前まで出た。これでは努力したとしても、迷子にはなれそうもない。腰を下ろして、天を見上げる。空は七分ほど曇っていたが、僕には残りの三分だけで足りた。小さな、しかし恐らくは誰かによって既に発見され名づけられているであろう星々が、呼吸するように光を大きくしたり小さくしたりしているのを見るだけで、心は洗われるようだった。悩みが解決したり、吹っ切れたりはしなかったが、ただ落ち着けたのだ。

 

 深呼吸して、海と大地の(かぐわ)しさを楽しむ。じっとそこに座って何をするでもなく、風の吹く音、波の打ち寄せる音に耳を傾ける。同じ短い時間を繰り返しているかのような錯覚に陥り、時間の感覚を失う。起きていても寝ているような気分だ。だから、風に乗って金属のきしむ音が聞こえた時、僕は本当にびっくりした。きしみとは! 調和の取れた音と音の中に割り込んでくる無粋な不協和音だ。僕はその音を立てたのが誰かを知る為に、身を捻ってそちらを見た。暗さのせいで最初それが誰だか分からなかったが、砂の上を滑るような足音と馥郁(ふくいく)たる彼女固有の香りで、じきに僕の二番艦だと分かった。

 

「眠れないのか?」

「ええ」

 

 僕は何も考えずにそう答えたが、すぐに素っ気なさすぎたかと考え直し、教官を散歩に誘った。彼女は「余り褒められたことではないが、しかし……」と躊躇うようなポーズを見せると、昔の彼女がどんな性格だったか響や長門が教えてくれたことを思い出させる、不敵な笑みを浮かべてその後を続けた。「悪くない」

 

 候補生時代の僕が今の様子を見たら、驚きの余りその場で卒倒してそのままあの世行きだろう。那智教官と二人で夜の海岸を歩いているなんて、この目で見ても信じないに違いない。これで月でも出ていればロマンチックなことこの上ないのだが、生憎と月は曇った七分の側だった。僕たちは無言で歩き続けた。話題がなかったからじゃない。話せることは沢山あった。作戦のこと、新兵器のこと、少なくとも一年か二年は先だろうが戦争に勝てるかもしれないこと、僕らが実戦での評価任務を実行している間に第一艦隊と第二艦隊は何をするのだろうかという疑問。ぱっと出てくることだけでもこれだけある。でもそれらは、話したいことでもなければ、話さなければいけないことでもなかった。

 

 だから、僕らは黙っていた。時として沈黙は百の言葉よりも雄弁なものである。僕は口を閉じ、意識を集中させるだけで教官の気持ちの揺らめくような動きを何となく察することができたし、彼女の方は片手間にだって僕の感情を把握できていたろう。それは候補生たちに対して訓練教官が持つ、七つの超能力の一つなのだ。

 

 そうして、同時に足を止める。僕は教官がそうするだろうと感じ取ったからだが、彼女が足を止めた理由は分からなかった。傍らの彼女を見ると、波打ち際の方に目をやっている。僕もそちらを見るが、僕の目では興味を惹かれるような何物も見つけられなかった。こちらの困惑を感じたのか、教官は視線を僕に向けて言った。

 

「来い」

 

 那智教官が僕にそう求める時、逆らう理由など皆無である。僕は文句も疑問もなしに、砂浜へと歩き出した教官の後を追った。そして()()の間近まで来てようやく、那智教官が何を見つけたのか知った。臭いに顔をしかめるが、鼻をつまみまではしなかった。精神力で耐えたのだ。臭いの発生源は、そうするに値するものだった。

 

 死んだ艦娘が、潮流でここに流れ着いたらしい。下半身と機関部は失われており、腕と思しき部分の砲一門が彼女の持っている艤装の全てだった。その腕も上半身も顔も腐敗して原型を留めておらず、その濃厚な死の気配を抜きにしても、昼間に見ていれば気分を悪くしたことは間違いなかった。一方で、気まぐれな波が悪魔的な芸術家気質を発揮したかのように、その艦娘は今も生きているかのごとく、腐った腕を水平線に目掛けて伸ばし、敵に向かって今しも砲を放とうとしているかのようだった。僕は目を逸らした。言わずもがなだ。明日に戦闘を控えている艦娘が、どうして好き好んでこんなものを見なくちゃいけないって言うんだ? 僕は服のポケットからハンカチを取り出して鼻に当てた。この臭いには我慢できなかった。それは特有のものだ。腐乱した死体の臭いとしか言えない。平和な社会で暮らしている民間人たちには一生縁のないものだろう。

 

「行きましょう、教官。何だったら明日、任務を済ませたら戻ってきて回収すればいいでしょう。手伝いますよ、化学防護服を陸軍から借りてきます。ねえ、僕は自分の未来の姿でも見てるみたいで、どうも胸がむかつくんです」

 

 すると那智教官は僕にわざわざ体まで向けて、まっすぐに目を見た。僕は面食らった。その態度がいつになく真面目なものだったからだ。でも、面食らいはしたものの、彼女が口を開く前に僕は聞く準備を終えていた。

 

「これは全然、貴様の未来ではないよ。もちろん、私のものでもない。これは──全く別のものだ。象徴なのだ。分かるか? 見るがいい、この腐った腕を、このさびついた砲を。死してもなお、彼女は己の前に立とうとする敵を撃つ意志がある。大事なのは、彼女が死んでいるということなのだ。

 

 この一点については、懐疑の出番も何もない。彼女は死んでいる。ああ、だがそれでもまだ、抗おうとしているのだ。彼女はこの海で死にたくないと叫びながら死んでいったあらゆる艦娘の、そしてこれから死んでいくあらゆる艦娘の象徴だ。いや、艦娘だけではないな。死に対して、文字通り命を投げ打って死に物狂いで抗った、あらゆる人々の象徴だ。勇気の、勝利の、不屈の信念の象徴なのだ。恐怖の中の勇気、敗北の中の勝利、容認の中の抵抗。

 

 彼女はお前と長門を救う為に死んでいった天龍だ。敵に我々の位置を教えない為に、空に散ることを選んだあの水観の妖精も彼女だ。この戦争が始まったばかりの頃に、一分一秒を稼ぐ為に海に出て行った水兵たちは彼女なんだ。死にはしたが、その意志を、魂を今ここにいる私たちが受け継いでいる、その名を謳われることのない英雄たちは、誰でも彼女なんだ。※93 ……分かるな?」

 

 僕は答えなかった。僕にとってその死体は艦娘の末路でしかなかった。お前も、お前の戦友たちも、何か一つ間違えるだけでこうなるんだぞ、という運命の残酷な通達だ。教官はふう、と息を吐いて「その内、不意に腑に落ちる時が来るさ」と僕を励ますように言って、踵を返した。そのまま砂を踏みしめて戻っていこうとするので、僕は横に並んであの死んだ艦娘をどうするのかと訊ねる。教官は怪訝な顔をした。

 

「場所は分かってるんだ、私から後でそれとなく提督に伝えておけばよかろう。間違っても貴様から言うんじゃないぞ。どういう理由かは知らんが、提督は貴様が大のお気に入りのようだからな」

「お気に入りですって? 僕には到底そう思えませんが。お気に入りならもっと大事にするもんでしょう。僕の知り合いの女の子は四つの時にお父さんから貰った人形を、十五になってもそりゃあ大切にしてましたよ」

「そうだな、人形扱いだったらよかったのに。サンドバッグとは貴様も運がない」

 

 僕と教官は笑った。死体のことを思考から取り除いてみれば、実にすがすがしい気分だった。僕らは歩いてヘリに戻り、夜明け前まで夢も見ないで眠った。

 

 肩を蹴られて目を覚ます。隼鷹が立っていた。時間が来たようだ。彼女に早起きで負けるとは思わなかった。親切にも差し出してくれた手を取って立ち上がり、朝の挨拶をする。寝ぼけ眼をこすりつつ外に出てみると、教官はいつものように僕より先にそこにいた。後は利根と北上、不知火先輩だ。吹雪秘書艦と提督は放っておいていいだろう。だって吹雪秘書艦が寝過ごすなんて、あり得ないからな。僕は彼女と加賀のどちらがより冷たい表情を浮かべられるのか、比べてみたい気がした。秘書艦の方が名前の分だけ有利っぽい気もする。

 

 教官が彼女の艤装の点検を終え、利根たちを起こしにヘリのキャビンに戻っていくと、隼鷹はさささっと素早く僕に身を寄せてきた。

 

「なあなあ、自分の訓練教官と深夜のお散歩、どうだったよー、ええ?」

「おい、起きてたのか?」

「いんや、靴に付いた砂を見て分かったのさ。流石に那智の方は払い落としてたけど、暗かったからかそれも完璧じゃあなかったしね」

「名探偵隼鷹か。アヘンの代わりにアブサンでもやるんだな」

アブサンかあ。そんなら黒タバコも用意しないと※94片手落ちじゃないかい?」

 

 タバコだの葉巻だのに造詣が深くない僕は、とりあえず賛意を示しておいた。大体、黒タバコというものが何なのかさえ分からない。白タバコというものもあるのだろうか。僕の父はヘビースモーカーではない愛煙家だったが、彼の口にあるのはいつも白い紙巻タバコだったと思う。それが白タバコなのか? 後で調べよう、と僕は決めた。見栄を張るのはよくないし、愚かなことだ。でもそれよりもっと大きな過ちがある。それは、自分がそれを知らないということを改めて認識しておきながら、知ろうともしないことだ。生きている限り人は学び続けるべきだという考えは、僕が幼い頃から固く持ち続けている信念の一つでもあった。もし僕がベッドの上で死ねたなら、その時僕の横には読みかけの本が置いてあることだろう。それまでに失明してなければ。多分。

 

 取り留めのない話をしていると、利根たちも起きてきた。北上が大欠伸をしながら朝の挨拶をすると同時に水筒を一つ投げ渡してくる。器用な奴だ、と感心しながらそれを受け取った。利根が北上に代わって説明してくれた。

 

「吾輩らの持ってきた修復材じゃ。余分があって困ることはなかろう? ほら、隼鷹も受け取るがよい」

「ありがたいなあ。あたしの艤装ってば、敵の弾すぽすぽ抜けちゃうから盾になんないんだよねえ」

「僕のも決して盾にできるようなサイズや装甲厚、形じゃないからなあ。伊勢と日向の後部甲板が欲しいよ。二人とも盾じゃないって言ってるけど、どう見たってありゃ盾じゃないか」

 

 以前の演習で、日向に後部甲板で殴られるかと思った記憶が蘇る。今彼女と一対一で戦ったら、あの時よりはいい戦いができる自信があった。だが第一艦隊で過ごした短い期間で見たものから考えて、あの演習での日向が本気だったとは思えないので、また同じぐらいぼこぼこにされてへこまされるだけに終わるかもしれない。それもそれでいいだろう。僕は油断してるとすぐ天狗になってしまう悪癖がある。何処へ行くにも十五分先に鼻っ柱がご到着だ。定期的に自分でへし折ってやらないと、僕の健康にもよくない。

 

 提督と吹雪秘書艦がヘリから出てきた。指示を受けてヘリのカモフラージュ(擬装)を解除し、艤装装着の上で貨物室へ移動する。秘書艦もこの作戦についてきてくれたらいいのに、と僕は考えた。旗艦の座を譲ったっていい。そういう気持ちを持って提督の横にぴったりとくっついた秘書艦を見てみるが、彼女はこちらを一顧だにしない。実は秘書艦と提督は似たもの同士なのかもな、というような想像が胸に沸き起こった。これはいずれ教官に聞いてみたいところだ。

 

 ヘリが飛び立つ。すぐに出られるよう、誰も座らなかった。立って、姿勢保持用の吊革のようなものを掴んでいた。まともな片手が杖で塞がっているせいで吊革を持つことのできない提督は、吹雪秘書艦に支えられて立っている。頭の中で、今日自分がやらなければならないことを繰り返し確認する。不知火と北上のソナーで潜水艦基地を発見。ビーコンを起動してマーキング。ヘリでの回収要請。爆発の影響半径から離脱。着弾後、威力評価。回収地点への移動。撤退。一つ一つには、難しい点はない。危惧することと言えば最初のソナーによる探査の段階ぐらいだ。潜水艦基地に敵がまだ残っていたら、僕らは……どう表現していいか分からないが、困るだろう。

 

 と、ヘリが急に横へ動いた。吊革を持っていなかったら、壁に叩きつけられていたところだ。何だ何だと喚いていると、操縦席からの声がキャビンのスピーカーから聞こえてきた。

 

「敵がいるぞ!」

 

 貨物室の小さな窓に飛びついて、昇って来つつある太陽の光を頼りにして海の上に人影を探す。いた。六隻の深海棲艦の艦隊が、猛烈に砲火を浴びせ掛けて来ている。同じく窓から敵を見ていた那智教官の呟き声が聞こえた。「リ級二、ネ級一、タ級一、軽巡ホ級二」空母も軽空母もいないのは僥倖だが、現況がよいものである訳ではない。機銃はともかく主砲や副砲が当たっていないのは、ひとえに連中がヘリを撃つことに慣れていないからだろう。航空機よりも三次元的な動きをするヘリに砲を当てるのは、容易なことではない。とはいえ、いつかはまぐれにでも当たることになる。そうなれば、一発で終わりだ。提督が溜息を吐くのが聞こえた。

 

「やはり衛星など当てにならんか……おい、ここじゃまだ遠すぎる、もっと先で下ろせ!」

 

 彼女は操縦士を怒鳴りつけたが、あっちだって負けちゃいない。自分の命が掛かっているのだ。

 

「これ以上は無理です、提督! あなたの艦娘にはここで降りていただきます!」

「ちっ、仕方ない。第五艦隊、戦闘用意! 三秒で降りろ! 吹雪、お前も艤装を装備して援護してやれ!」

 

 三秒なんてそんなご無体な、という文句は腹に押し込めて、僕はカーゴドアが開いていくのを見守った。風が吹き込んで来て、目を閉じそうになる。操縦士がスピーカーで叫ぶ声と、提督の命令が半ば重なる。

 

「降下中!」

「行け行け行け!」

 

 僕は旗艦なので、真っ先に飛び出なければいけなかった。しかも提督は気が逸ったのか、ヘリが十分に高度を下げる前に命令を下した。その上、僕の訓練された体は命令に自動的に反応してしまった。結果としてどうなったかというと、僕はほぼヘリから飛び降りる格好になったのである。敵が驚いたことは請け合いだ。珍しいタイプの標的を目にして撃ちまくっていたら、そこから艦娘が身を投げるようにして現れたのだから。それも次々六人も。幸いなことに僕も残りの艦隊員も上手い具合に着水に成功し、ただちに回避機動に入りながらの砲戦を展開することができた。ヘリは機敏に尻を向け、逃げていく。その後部で爆発が起こった──いや、吹雪秘書艦が撃っているのだ。その砲弾は次々と敵に吸い込まれていき、瞬く間にホ級の全てとリ級一隻が沈められた。あれが第一艦隊旗艦にして、提督の秘書艦の座を許された艦娘の力という訳だ。

 

 ヘリは時速数百キロのスピードで去っていってしまったが、残った敵は三隻だけだった。重巡二隻と戦艦一。この数なら吹雪秘書艦の援護なしでも相手にできる。撤退の気配はなく、接近して乱戦に持ち込もうというつもりらしい。隼鷹と利根に互いの間隔を開けて後退しながら重巡を攻撃するよう命じ、北上には魚雷温存と追従を命じる。不知火先輩と教官には、ああしろこうしろと言う必要はないだろう。傍受の危険が低い短距離無線通信で可能な限りの行動報告を命じて(二人が次に何をするのか分からないと連携のしようもないからだ)、後は彼女たちの判断に任せることにした。

 

 隼鷹の航空機がエンジン音を響かせて空を飛んでいく。僕も敵に向かって左から回り込むように近づきながら、水観を数機飛ばして周囲の警戒に当てる。隼鷹の航空隊には眼下の敵に集中していて貰いたい。利根も同じ考えで、彼女の水上機も警戒の手伝いをしてくれた。空の目が沢山あっても困ることはない。敵の勢力圏とされる海域の中では特にそうだ。隼鷹航空隊の援護の下、不知火先輩と教官が、横列を作った三隻の深海棲艦に小刻みな回避運動を挟みつつ突っ込んでいく。見事なものだ。見とれていたくなるが、僕も仕事をしなければならない。

 

「北上、あいつらの動きを封じるんだ」

「はいはい、あたし左撃つからそっち右よろしくー」

 

 彼女は連装砲を構え、無造作に発砲する。放たれた砲弾は敵の横列左端に立ったリ級の、更に左に落ちる。僕の放った弾は、右端に立ったネ級の更に右へ。横列の間隔が狭まるのが分かった。不知火先輩と教官が二手に分かれ、横列を崩して一塊になった敵に十字砲火を浴びせる。ネ級とル級は減速すると僕と北上の牽制を潜って散開してそれを避けたが、リ級は片手の艤装で那智教官の砲弾を防ぎつつ、不知火先輩に襲い掛かろうとした。その背中に、隼鷹の艦爆が爆弾を直撃させる。体が半分になったリ級は水に沈んでいった。

 

 残りはネ級とル級だ。ル級は回避運動を繰り返し、艤装を掲げて盾役を務めつつ、隙あらば隼鷹への遠距離砲撃を仕掛けてくる。僕は親友にして第五艦隊唯一の空母を失う訳には行かなかったので、回避運動を行い続けるように指示した。隼鷹は足が遅い方だが、突っ立っているより被弾率が少ないのは確かだ。利根が前に出てル級に対抗砲撃を加えるが、やはり重巡と戦艦では砲のサイズや威力、射距離が違う。命中弾や有効な至近弾は期待できない。

 

 ネ級は盾の陰に隠れて、後ろへ回り込もうとする教官と不知火に発砲している。腐っても深海棲艦、殺しの為だけに生まれてきた連中だ。その砲撃の精度は高い。不知火先輩は平気でひょいひょいとかわしているが、それは彼女が磨き上げてきた回避の技術が特別に優れているからだ。僕が彼女だったら、ああはいかないだろう。北上と二人でネ級とル級に発砲を続けるが、敵戦艦の盾は固い。僕の艦隊にも高速戦艦がいてくれればよかったのに、と思わずにはいられなかった。金剛型が一般に装備している砲は長門や武蔵の砲ほどの威力こそないが、重巡の二〇.三センチ砲よりは強力だ。数発撃ち込めば、ル級の盾を破壊することもできる筈である。

 

 ル級の砲がこちらに向いた。北上との共同射撃が、余程彼女の癇に障ったらしい。「散開!」と叫んで機関の出力を上げ、横滑りに移動する。過去位置の近辺に着弾したが、受けたのは水飛沫だけで済んだ。ル級はどちらを狙う? 僕か? 北上か? 迷ったのかル級の砲は揺らぐ。が、すぐに僕を向いた。肌が粟立(あわだ)つが、気は楽になる。僕は彼女の砲撃のタイミングを、隼鷹への砲撃を見ることで悟っていた。ル級がそのことに気付くまでは、回避は難しくない。狙いはいいのだが、いつ撃たれるか分かっていれば何を恐れることがあろう。調子を合わせて水平移動。それだけだ。

 

 そしてネ級は、ル級が頭を冷やし終わるまでの長きに渡って、隼鷹の航空隊と不知火先輩と那智教官という第五艦隊の三つの矛を同時にさばけるほど、傑物ではなかった。先輩が放った雷撃がネ級の足を吹き飛ばし、ル級の体を爆風と破片で傷つける。バランスを崩し、回避運動を止めてしまったル級にすかさず教官が発砲した。戦艦は最後の意地でそれを盾に受けて防ぐ。それから、がら空きになった頭を爆撃で吹き飛ばされた。

 

「集まれ」

 

 号令を掛け、水観を回収しつつ、吹雪秘書艦が三隻始末してくれたお陰で戦闘が短く済んだことをありがたく思った。本来の降下地点の手前でもうこれだ。ここからは多数の敵を相手にすることとなるだろう。秘書艦のように弾薬を節約し、狙いすました一撃で敵を倒すようにしなければいけない。号令に応じて集まった教官と先輩を前に、次いで隼鷹と利根を間に、最後に僕と北上を後ろに回して複縦陣を組み、潜水艦基地の推定位置範囲を目指して移動を始める。

 

 これは長門の、そして彼女の第二艦隊でそれなりの時間を過ごした僕にとってもお気に入りの隊列だった。戦闘になってしまうと第二艦隊に隊列などというものはなく、またコンビネーションだとか協同という言葉もなかったが、戦闘前の段階、つまり索敵においては多少の協力もあった。複縦陣はその目的に実に適う隊列だったのである。もちろん航空機が敵を発見することの方が、僕らの肉眼で敵を発見することよりもしばしばだったが……潜水艦は航空機での発見が難しいし、日中ならともかく夜間では航空機を飛ばせないことの方が多い。悪天候などが重なればなおさらそうだ。だから僕らは油断せず陣形を組んで索敵をしたものだった。

 

 情報端末を見て、目標海域までの距離を調べる。雑な計算だが、基地の推定範囲内に入るまでは四時間ほど掛かりそうだ。道中の敵とは交戦を避けて進むべきか、倒せるだけ倒して進むべきか? 本能は前者を選びたがったが、理性で捻じ伏せてやった。戦うべき時と戦うべきではない時というものがある。今日は戦うべき時だ。ミサイル攻撃が終わった後も、撤退という大仕事が待っているのだから。逃げる背中を撃たれたくないなら、先に一掃しておかなくてはならないのは当然だろう。

 

 艦隊員たちにその旨を通達する。那智教官からの対案の提言はなかったので、彼女も同じことを考えていてくれたのだと分かった。そうでなければ彼女は言っただろう。何か思うところことがある時、彼女は誰に対しても直言を避けないからだ。きっと長い軍歴の中で、彼女は僕などよりもっと気後れする相手に「お前の考えよりこっちの方がいいんじゃないか?」と言っていると受け取られかねないことを口にしてきたのだと思う。だから僕みたいな、やっとこさ新米を抜け出た程度の小物に遠慮などしないのだ。ありがたい話だった。

 

 移動を始めてから三十分としない内に、とうとう太陽が水平線から抜け出てその全身を露わにした。朝の光は目に眩しくて困るほどだ。こういう時にはサングラスを掛けてもいいのだが、視界が暗くなることで何か見落とすことが恐ろしかったので、僕は眩しさに目を慣らす方を選んでいた。ふと思い出して、腰のポーチから日焼け止めを取り出す。隣の北上が「こんな時にまでお肌のケア?」と笑ったので、軽く睨んでから笑い返してやった。ひどい日焼けがどれだけつらいものか、艦娘である以前に少女である彼女が、知らない訳がない。塗っておいたので、これで今晩ベッドの中でもだえ苦しむこともなかろう。

 

 太陽の様子を見た利根が、そろそろ水上機による周囲の警戒を始めてもいい頃ではないかと提案した。それを退ける合理的な理由はない。僕と利根は数機を空に送り、敵がいないかを調べさせた。するとその中の一機が、かなり遠くに何か動くようなものを見た気がすると言い出した。味方とは思えないが、それでも念の為に無線をヘリで帰投中の提督に繋ぎ、呼び出してみる。彼女はそこにいるのは絶対に友軍ではないと請け負った。それなら確認と攻撃以外に選択肢はない。敵からの先制攻撃を受けないとは言い切れないので、僕らは複縦陣の間隔をより大きなものにした。互いのサポートはしづらくなるが、集中砲撃や爆撃でまとめてやられるよりはいい。

 

 敵影を見たという水観を燃料補給の為に一度呼び戻してから、再度その方角へと向かわせる。僕は続報を待つ間に、隼鷹に指示して艦戦を準備させておく。第五艦隊を立ち上げた際の装備更新で彼女の艦戦は零戦から紫電改二になっている。第五艦隊の運用理念から制空権確保を優先する決定を下していた為、艦爆や艦攻と比べて搭載数も多い。そのお陰で空戦域への完全な展開にはやや時間が掛かるが、だからこそ数的不利があろうとも、性能と操縦する妖精たちの技量で対抗できるだろうというものだ。本当なら量に対して質で対抗などしたくはない。戦争というのは参加する軍の数と質で決まるが、大概の戦争ではとりわけ数がものを言う。一騎当千の兵士がいたとしても、一万の雑兵に囲まれてはどうしようもあるまい。そして千人力の一人を育て上げるには馬鹿みたいに時間と金が掛かるだけでなく個人の才覚も必要なのに、一万の雑魚を揃えるにはそこそこの金と時間だけで済むのだ。

 

「展開準備完了、いつでも行けるぜぇ」

 

 隼鷹のリラックスした声が、無線独特のノイズと共に僕の耳に届く。よし、空のことはこれでいい。敵艦隊がヲ級六隻で構成されているのでもない限り制空権は確保できるだろうし、仮に隼鷹の艦戦だけでは手が足りなくなったとしたって、対空砲撃は得意技だ。しかも僕に対空射撃を教えてくれた那智教官までいる。僕たちに艦載機を送った空母連中は、必ず後悔することになるだろう。

 

 水観妖精たちからの通信が入る。敵影らしきものを目撃した地点の付近に来たが、姿はないとのことだった。見間違えか? そうとは思わない。今飛んでいるのは、僕の妖精たちだ。一緒に今日まで戦ってきた。その能力は把握している。断じて見間違いを犯すような間抜けではない。とすれば見つけられなかったのは妖精たちのせいではなく、僕の失敗のせいだ。燃料補給で時間をロスさせるべきではなかったのだ。そこまで消費していたのでもなし、飛ばし続ければよかった。もし敵の航空機に追われた時にタンクの残量を気にしているようでは撃墜されてしまう、と考えてのことだったが、もっと水観妖精たちを信じるべきだった。

 

 だが過ぎたことは過ぎたこと。気にしていても仕方ない。少なくとも一つ有益な事実が判明した。敵がいる。奴らはきっと待ち構えている。恐らくは戦闘音を聞きつけたが、救援に駆けつけるには遅いと判断したのだろう。僕らが仕留めた三隻が、人類の知らない深海棲艦独自の通信方法で「一度退いて他の味方と合流するべきだ」と進言した可能性だってある。あるいは途中まで来たものの、音が途切れたことと通信に応じないことで全滅を悟って後退したとか。何でもいい、奴らは僕らの進行方向にいる。情報端末をもう一度見て、経路上に待ち伏せに使える場所がないか探してみる。島、岩礁、何だっていい。身を隠して待てる場所はないか? 僕は警戒を艦隊員や上空の妖精たちに任せて、端末を穴が開くほど見つめた。見つからなかった。一番近い島でも数百キロ以上離れている。なら、不意打ちは避けられるだろう。己の判断を信じて、前進を続ける。

 

 更に時間が経過する。そろそろ、潜水艦基地の存在が予想される範囲に入る。敵影はないが、油断はしない。僕は不知火先輩と北上の二人に呼びかけて、二人が装備しているアクティブソナーの性能について訊ねた。僕は重巡ということもあって、水中聴音機の使い方ならともかく探信儀のことについてはさっぱりだったのだ。ソナーの使用によって敵を呼び寄せる可能性があるからには、音波を発する回数はできるだけ少なくしたい。その為には一度にどれだけの範囲を探査できるのか、知らなくてはならなかった。ところが北上はこれまでに使ったことがなかったらしい。全ては先輩に託され、彼女は見事に応えてくれた。僕が研究所に着任する少し前のことだが、敵の潜水艦狩りに駆り出されていた時期があったらしく、水中探信儀の扱いには慣れているのだそうだ。潜水艦と戦わなければならなくなった時には、隼鷹と先輩の二人が戦闘の要となるだろう。二人を全力で守らなければなるまい。

 



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「大規模作戦」-4

 潜水艦と戦わなければならなくなった時には、隼鷹と先輩の二人が戦闘の要となるだろう。二人を全力で守らなければなるまい。

 

 そう気を張っていたのだが……最初の接敵以来一度も交戦しないまま、艦隊は予想範囲に入った。僕は二人分の探査領域が最大限になるように、隊列を組み直した。間延びした横列を組んだ上で中央の隼鷹と利根をやや後退させたような変則的なものになったが、必要は行為を正当化してくれるものだ。二人ずつのバディ制までは崩していないから、先輩と北上が探査に集中していても教官と僕とで足元を守れるし、敵が来れば上空の水観が教えてくれるだろう。機を見計らって、艦隊に手で停止信号を送る。隣の北上がわくわくした顔で僕に言う。

 

「お、やっちゃう? やっちゃう?」

「あーもうやっちゃいましょー」

「うわ何それ、似てなさすぎて引くわ……大井っちいたら今頃ここ血の海だよ?」

 

 傷ついたので白けた顔の北上を無視して不知火先輩に無線で連絡する。今日はもうふざけないことにしよう。

 

「五つ数える。そのタイミングで発信を頼む」

「了解」

 

 この短いやり取りを終えてから北上を見ると、彼女は最早先ほどの軽口を叩いていた艦娘と同じ相手だとは思えないほど、真剣な顔になっていた。僕は胸を締めつけられたかのような痛みを感じたが、それはただ痛いだけではなく、何か心地よいものでもあった。それは、美しいものを前にした人間が感じる痛みだった。不自然に見えないよう気を払いながら彼女から目を逸らし、カウントダウンを始める。一々数を数えるなんてまどろっこしいと思う者もいるだろうが、好き勝手ばらばらにやらせるより同時に音波を発信した方が、より探査距離が伸びるかもしれないと僕は考えていた。つまり、波の重ね合わせの原理である。これにはデメリットもあった。不知火の発する音波と北上の発する音波が重なって強め合う部分だけでなく、弱め合ってしまう部分も出てくるのだ。

 

 しかし、今回はそのデメリットは大きな問題にはならないと僕は判断した。潜水艦基地がどれだけの大きさであるにせよ、弱め合った部分に丸ごと収まってしまうほどではないだろう。部分的にでも基地らしきものを捉えてしまえば、接近して再探査すればいいだけだ。それよりも僕が危惧していたことは、この知識が提督を目指していた頃に行った半端な勉強によって得られた不完全な理解に基づいているという点だった。思った通りに行かなかったら、言い訳の一つでもしなければならないだろうか? 失敗は恥だ──噂では、聞く耳を持つ人に対してあらゆる失敗は「これも経験さ」と語りかけるそうだが、だからといって恥でなくなる訳ではない。それに、過ちが常に取り返しのつくものとも限らないのである。「えっ」とか「あれ?」とか「うわっ」が最期の言葉になった人間が(艦娘以外を含む)、人類の歴史の中にどれだけ沢山いたものか、想像もできないほどだ。

 

 潜水艦映画でお馴染みのあの音が鳴り、少し間を置いて僕の情報端末に白黒の映像が表示される。音の跳ね返りをコンピューター処理して映像化したものだ。僕はそれに目を走らせる。建造物と認められるものはない。敵の潜水艦も見えない。「どう?」と北上の目が訊ねてくるが、色よい返事をしてやることはできなかった。無線で先輩たちと後方の隼鷹らに「反応なし、警戒しつつ前進」と呼びかけて、移動を再開する。無駄打ちを防ぐ為、現在地から探査直径分は動くつもりだった。だがそれよりも先に対処しなければならない問題があるようだった。水観妖精たちが、こちらに接近してくる敵航空隊を発見したのだ。そのおおよその数を聞く限り、このありがたくないプレゼントの送り主は正規空母二隻と推定できた。気軽にあしらえる相手ではないが、一目散に逃げ出さなければ命がない、というほどでもない。

 

「隼鷹、出番だ」

「あいよ。紫電改二、行っちゃってー!」

 

 僕は水観を収容し、艦隊員たちに輪形陣を取るよう命じた。指示するまでもなく、隼鷹と利根が中央に滑り込む。不知火先輩と北上はその左と後ろを守り、右と前は僕と那智教官だ。砲を構え、他の艦隊員たちにも対空戦闘の用意をさせる。敵の姿が僕にも捉えられるぐらい近づいてきた。接近してくる連中に何もできないのは耐えがたい苦痛だ。撃ちたくなるが、まだ届かないと分かっている。無駄弾は厳禁だぞ、と自分に言い聞かせる。

 

 三式弾があればな、と思った。第五艦隊発足時に用意しようとあちこち駆けずり回ったのだが、何処でも入り用な装備の上に戦艦に装備させた方がもっと効果が上がるものだからという理由で、重巡戦隊には回してくれなかったのだ。僕は男だから同性の補給担当士官を相手に色仕掛けをすることもできなかったし(いやもしかしたらできたかもしれないが、僕は()()()()()なやり方で目的を達したかったのだ)、これでもし隼鷹に紫電改二を回すことさえできていなかったら、僕らは今日に至るまでの何処かで敵機から手ひどい打撃を受けていたことだろう。那智教官や僕は対空射撃が得意だから生き残る確率が比較的高いが、二人残ったところで後の四人が轟沈してしまったら何にもならない。これは『最後に生き残るのは誰だ』ゲームではないのだ。

 

 敵航空隊が射程内に入った。上空で編隊を構築している紫電改二に先んじて、僕と教官で対空射撃を始める。利根も僅かに遅れてそれに参加した。隼鷹から聞いた話だが、航空戦ではフォーメーションを崩さないことが非常に重要らしい。どんな戦闘でも大概はそうだと思うのだけれども、なんて茶化した僕に向かって、空では特にそうなのだ、と彼女は言った。連携を崩された航空機は、いとも容易く食われてしまうものなのだと。だとすれば、今僕と教官がやっていることは、敵にとってまさに死ぬほどひどい嫌がらせに違いなかった。熟練の妖精たちによって時限信管をセットされ、弛まず磨き上げられた技によって放たれた砲弾が、いじらしくも懸命に編隊を保とうとする敵機群のど真ん中で炸裂するのだ。ぽん、と破裂音がした時にはもう遅い。砲弾の破片を受けて煙をたなびかせながら落ちていく機もあれば、爆風をまともに食らって機体の制御を失って落ちていく機もある。

 

 それでも深海棲艦の航空隊は意地を見せた。こちらの対空射撃を脅威と認めると、さっと数機ごとに散らばったのである。反応が早かったので、数はまだ隼鷹の紫電改二を全部合わせたよりも多い。乱戦に持ち込み、迂闊に空を撃てないようにするつもりなのだ。敵味方入り混じる空へ砲を放つのは、友軍誤射を経験する最も簡単な方法だろう。一度空中で乱戦が始まったら、主砲を用いた対空射撃は戦闘空域からはみ出た不注意な敵機に向けるぐらいしか出番がなくなる。その時には艦爆と艦攻にだけ気をつけて、回避と指揮に集中しよう。

 

 隼鷹が無線で指示を仰いでくる。

 

「あたしの艦戦、そろそろ前に出すかい?」

「ああ、よろしく」

 

 いずれ艦隊の真上で航空戦を始められるよりかは、こっちの対空砲撃を早めに切り上げて艦隊前方で空戦を始めさせた方が安心できる。対空砲撃で削れるだけ削りきってから無傷の友軍航空戦力で敵を相手取る、というのが理想なのは認めるが、残念ながら対空砲火に統制された敵を足止めしたり追い払う効果がそう見込めないのでは仕方ない。僕らが撃っている間にも、奴らは近づいてくるのだ。止められるのは、同じ航空機だけなのである。プロペラ音も高らかに敵へとまっすぐ突き進んでいく紫電改二の編隊に、僕は「頼んだぞ」という気持ちを込めて軽く手を振った。

 

 緊張に息が浅くなっていたので、深く呼吸する。落ち着いていよう。敵艦の姿はない。紫電改二が敵の航空隊を撃退するまで、敵の艦爆・艦攻に気を払っていればいいだけだ。僕は無線の周波数を隼鷹の航空隊が使っているものに合わせて、空の戦況を把握しようとした。どうやらあちらは数の力で拮抗しているようで、隼鷹隊の方にも深海棲艦たちの方にもこれという決め手がないようだ。このまま引っ張り続けることになったとしても、先に長く移動しなければならなかっただけ深海棲艦たちが燃料の点で不利だろう。負けないなら何でもいい。機銃の発射音や、口は悪いが腕は一級の戦闘機乗りたちが盛んに発する種々の罵声や笑い声に混じって行われる、荒っぽいけれど真面目な報告に耳を傾ける。艦爆・艦攻は比較的少数……艦戦が大半だ、と妖精たちは口々に言っていた。

 

 隼鷹と同じような配分で航空隊を編成しているのか? まず思いついたのはそれだった。しかし、それは筋が通らない。最初に僕は、数からして正規空母二隻と判定した。二隻もいれば、十分に制空権争いと対艦攻撃を両立することができる筈だ。僕が隼鷹に艦戦を多く積ませたのは、この艦隊に彼女しか空母系の艦娘がいないからであって、もし第五艦隊にもう一人空母がいたならそうはしなかっただろう。となると、可能性はもう一つの方に絞られる。離れたところで艦戦同士を戦わせておいて、艦爆・艦攻は大きく回り込んで艦娘を直接攻撃。僕らは紫電改二で敵航空隊を釘付けにしたつもりでいたが──その実、逆に敵の航空隊によって釘付けにされていたのだと知ることになる、という段取りだ。

 

 教官に自分の考えたことを伝える。彼女は短い思考の後に、二つの案を提示した。一つは、このままその艦爆・艦攻隊を迎え撃つというものだ。僕と教官を最大の火力源とし、水観なども総動員して防御することになる。不可能ではないが、危険は大きい。守らなければならないものが多すぎるのだ。不知火先輩と北上はもとより、唯一の空母である隼鷹も重要な護衛対象である。空を奪われれば、なぶり殺しになるのは目に見えている。僕は教官の説明を聞きながら、心の中で順位をつけた。隼鷹の優先度を最高に決め、二位を不知火先輩に、三位を北上にした。自分が最低なのは分かっている。後でたっぷりと自己嫌悪に苛まれる時間が持てることだろう。心の中の響は「誰も君を責めやしないさ」と言ったが、僕はそれを無視した。そうすることで、妄想の響にそう言わせた自分の浅ましさをも無視することができた。

 

 那智教官が僕に示してくれたもう一つの案は、敵の別働隊が発見され次第、そいつらに全力で対空砲火を浴びせながら制空権争いをしているど真ん中に移動するというものだった。言い方は悪いが、隼鷹の航空隊に半ば全てを押しつける形になる。敵が艦戦を切り離させたのは、相手にしたくないからだ。なら、させてやろうじゃないかというのがこの案の根本に存在する理念で、理屈は通っていると言えば通っているのだが、紫電改二は無敵の戦闘機ではない。大きな被害を出すことになるだろう。そうなれば、次に航空戦を行った際、制空権を取れないかもしれない。それは避けたかった。僕は覚悟を決めて、艦隊員全員に聞こえるように無線通信を行った。

 

「艦爆・艦攻で構成された敵の別働隊が来る可能性がある。利根、隼鷹の護衛をしっかり頼む。最悪の場合、身を挺してでも守るんだ。隼鷹は利根がそうしなくても済むよう、回避に集中してくれ。脅すつもりはないが、敵は君に集中するだろう」

「はっはっは、その命令、しかと承ったぞ。なあに、吾輩に任せておくがよい!」

「りょーかい、回避は速度が全てって訳じゃねえってとこ、見せてやんよ」

 

 利根が僕の命令の意味を理解していない筈はなかった。僕は彼女に、最もつらい時間を共に支えあって一緒に艦娘になった友達に、「それが必要なら死ね」と言ったのだ。なのに利根は笑った。それが彼女の旗艦の命令なら、僕の判断だというのなら、必ずやり遂げようという意志を込めて、彼女は笑ったのだ。何度目か分からない胸の痛みが僕を襲った。内側から何かに食い破られそうな痛みが、僕の罪悪感を証明していた。これが失われなければよいと思う。一生ついて回る罪の意識になってくれればいい。それが旗艦の引き受けるべき責任というものだ。精神的には快い痛みに耐えながら、次の指示を飛ばす。

 

「北上、不知火の両名も、対空戦闘より回避に専念しろ。君らのソナーが今回の任務達成には大切だ」

「不知火、拝命しました。あなたの期待に応えてみせます」

「うえぇ、避けるの苦手なんだよねぇ。やっぱあれかな、魚雷が重いんかねぇ。ま、やるだけやってみますかー」

 

 こちらの背筋までぴしりと伸びそうなほど軍人らしい先輩の声と、気の抜けそうなほどだらけた北上の声。対照的な返事だが、僕は北上がどんな点についても全力を尽くしてくれることを疑わなかった。軽口は彼女なりの精神統一法なのだ。これがある限り、真面目の一言が服を着て歩いているかのような長門の第二艦隊には入れられないなと考えて、少し口の端が緩んだ。北上の軽口のいいところは、それを聞いた僕ら他の艦娘にまで余裕を与えてくれるところだ。普段と変わらない様子の彼女を見ることで、自分も普段を取り戻せるのだと思う。最後に僕は教官への指示を出した。

 

「好きにやってくれ、教官。それが一番だろう」

「ふっ、それではこの那智の戦、見ていて貰おうか」

 

 首を縦に軽く振り、水観を出す。予想が外れてくれればいい。そうしたら僕は心配しすぎの旗艦だということでからかわれるだけで済む。が、僕には根拠のない確信があった。物事は、そう上手い具合に進まないものだ。警戒を始めて十分と経たない内に、水観妖精がこちらに連絡を寄越してきた。昨夜以来空に(そして僕らの頭上に)広がっている雲の上を調べたいから、高度を上げていいかという打診だった。ただでさえ動きが鈍く機動力や戦闘力に欠ける水上機で、高いところを飛ぶのは感心できない。下手に目立ったら、戦闘空域から抜け出た敵艦戦に目をつけられる恐れもある。だから僕は避けたかったのだが、妖精たちはどうしてもと言って聞かなかった。仕方ない、短時間だけだからな、と言い含めて、上昇させる。

 

 途端、彼らは真っ逆さまに落ちてきた。後ろに艦爆艦攻それに多少の艦戦を引き連れ、必死の機動で攻撃を避けながら。僕は咄嗟に叫んだ。

 

「対空戦闘! 撃て!」

 

 回避運動を行いながらの砲撃を開始する。主目標は水観に食らいついている艦戦隊だ。いい餌だと思って、我先にと食らいつこうとしている。まだあちらに動かせる艦戦がいたとは思わなかった。クソっ、僕の見立て違いだ。敵艦隊には軽空母が追加でいたとか? まさか正規空母三隻なんてことはないだろう。追加の軽空母ってのもおかしいと思うぐらいだ。六隻中三隻が空母系なんて偏った編成、これまでに見たこともない。ちくしょう、水観じゃ艦戦と正面から戦うのは無理だ。妖精たちに逃げ回るよう命じる。それから教官に重点目標を艦爆・艦攻とする、と伝えようとしたところで、僕の右手側数メートルのところに爆弾が落ちた。爆風と波で足元がぐらつき、捻じ曲がった破片が脇に食い込み、体から血が流れ出すあの嫌な感触に背筋がぞわりとする。毒づいて、お返しの砲撃。当たり所がよかった。まとめて二機の艦爆が落ちた。くたばれヒコーキ野郎ども(Хуй в рот, говнолёты)※95※96※97、よくも僕の脇腹に穴なんか!

 

 かっと頭に血が上るが、それと同じぐらい早く沈静する。いや、させた。旗艦の仕事にキレて撃ちまくることは含まれていないからだ。教官に伝えようとしていたことを伝え、艦隊員たちに「足を止めるな」「撃ち続けろ」の二つを命じ続ける。おかしなもので戦闘中でも、砲弾や爆弾、魚雷に当たればマズいことになると分かっていても、不意に立ち止まってしまう艦娘は多い。新米艦娘でも熟練艦娘でもこれは変わらない。集中力が切れてしまった時、気が抜けてしまった時、彼女らは足を止めてしまう。そしてしばしば、そこを撃たれる。で、死ぬ。訓練所で習ったことの一つだ。那智教官は言った。「弾に当たりたくない? なら動け。燃料は奴ら(深海棲艦)住まい()を汚染してやる為に積んであるんじゃない。艤装を動かし、戦場を駆け、生きて帰る為にあるんだ」全くその通りだ。

 

 戦闘を続けながら考える。やはりどう考えても敵機の数が多すぎる。敵の編成は相当偏っていると見ていいだろう。今度こそ見立て間違いということはない筈だ。であるならば、ここを凌げば残った護衛の三隻を料理するだけで足りる。戦艦か重巡か知らないが、六対三なら多少の負傷があっても押し切れるだろう。とにかく今だ。今を切り抜けなければ。

 

 こちらに向かってくる雷跡が見えた。今から針路を変えていては間に合わない。咄嗟に片足を上げる。魚雷はしゅーっ、という気体の放出音を立てながら足元を通り過ぎていく。安心して足を戻した。だが早すぎた。海面に戻した方の脚部艤装の立てた波が、信管を作動させたらしい。その魚雷は僕の後ろで爆発した。水柱が上がり、それに弾き飛ばされる。体が浮き上がるほどの衝撃だったが、すんでのところで右足を前に出して着水できた。左のすねがひりひり痛む。破片でざっくり切られていた。

 

 舌打ちして、希釈修復材を振り掛ける。破片などによる刺し傷、特にその破片等が刺さったままの傷は戦闘中に放置してもいいが、切り傷はよくない。それは出血面積の違いに起因する。指ぐらいの太さの破片が一センチ刺さった傷より、腕ぐらいの長さで深さ数ミリの切り傷の方が危険なのだ。多量の出血は意識レベルの低下、ひいては判断力の低下に繋がり、それが意味するところは戦死、轟沈、好きなように言えばいいがともかくそういう結末である。より長く生きていたいなら、治すべき傷にも順位をつけなければならない。

 

「隼鷹、航空隊の様子はどうなってる?」

 

 離れた位置にいる彼女に無線で呼びかけるも、回避に必死なのか返事がこない。自分で確かめた方が早そうだ。彼女の航空隊の無線を傍受してみる……聞く限り、天秤はこちらに傾いているようだ。だがまだこちらに救援を出せるほどの余裕はなさそうだった。二兎を追わせるつもりはない。隼鷹の航空妖精たちが今の仕事を済ませるまでは、新しいタスクはなしだ。

 

 視界の端で、北上が投下された爆弾の水柱に包まれるのが見えた。「被害報告!」安否確認も兼ねてそう言いつけると、彼女は煙を吸って咳き込みながら「女のプライド大破!」と冗談で返し、僕に向かって親指を立てて見せた。髪の毛がべたりと肌に貼りついている様子を除けば何処にも変わりないところを見ると、とりあえず彼女を即座の戦闘不能に追い込むような破片は当たらなかったのだろう。幸運な──いや、しぶとい、よい艦娘だ。

 

 投下された爆弾を急制動からのステップで回避する。爆風の熱が僕の肌を一瞬焼くが、遅れて飛び散った海水ですぐに冷やされた。敵の数は減ってきている。僕や教官が落としまくったのもあるが、爆弾や魚雷を投下しきって母艦に戻る機も少なくないのだ。どうする? 追うべきだろうか? そう自問する。母艦は三隻と見込まれる。なら空母ではない敵艦も三隻。隼鷹と利根をここに残して四人で追っても戦術的優位はある。空母を素早く攻撃し、甲板を破壊して発艦不可能に追い込み、残りの三隻を始末。どうだ? 僕は自分の中にいる天龍にこのプランを聞かせてみた。彼女は言った。「調子乗ってんのか?」的確な意見だ。空母は全力で回避しようとするだろうし、空母ではない敵艦は同様に全力で僕らを妨害しに掛かるだろう。その影響下で艦載機への補給を済ませる前に敵空母に打撃を与えるという計画は、寝物語か夢物語でしかなかった。吹雪秘書艦のいる第一艦隊か規格外だらけの第二艦隊ならあるいはやりかねないが、第五艦隊には無理だ。悔しさを覚えるが、感情に惑わされてはいけない。現実を見るべきだ。特にそいつが、目の前に転がっている時には。

 

 あくまで攻撃能力を保っている機のみを狙い、撃ち落としていく。その合間合間に艦戦を叩く。那智教官が艦攻艦爆に注力しているので、空の水観たちにとって守りの要は僕なのだ。戦友の期待や頼みを裏切ることはできなかった。苛立った艦戦の一機が、僕を目掛けて突撃してくる。機銃掃射をするつもりなのだ。頭と主要臓器を砲でかばい、やり過ごす。足や腰に何発か貰ったが、そんなものは修復材をちょいと掛けてやれば治る傷だ。

 

 そうして艦隊の直接攻撃に加わっていた艦戦隊の最後の一機を叩き落すと、水観たちの逆襲が始まった。那智教官や僕、そして他の艦隊員たちの援護砲火で消耗しきった生き残りの敵攻撃隊が、一機、また一機と落ちていく。いい光景だった。それに慢心せず回避運動をしながら眺めていると、隼鷹から連絡が入る。

 

「ごめんよ、さっきはどうしても呼びかけに応じられなくて」

「気にするな、無理して被弾してたらそっちの方が困ってた。紫電改二部隊はどうだ」

「うん、そっちもほぼ撃墜したってさ。終わったら帰還させるよ、それでいいだろ?」

「もちろんだ」

 

 艦隊の全員向けに回線を切り替える。水観の邪魔をしないように対空砲火は止んでおり、数機の紫電改二が手伝うように水観と敵攻撃隊の間を縫って戦っているのが見えた。ひらりひらりと身軽に動き、短い連射で敵を落としていく。空の覇者はやはり戦闘機だな。おかしな納得を感じながら、僕は艦隊員に伝達した。

 

「全員よく聞け。空が片付いたらすぐに移動と索敵を始めて、航空戦力の大半を失った敵艦隊を叩く。それが終わったらゆっくり宝探しだ。敵の艦隊の半分は空母と見られるので、戦力はこちらが大きく勝っていると考えられる。しかし、油断はしないように。ああ、それと各員、被害報告。二番艦より、始め」

「二番艦那智、損傷なし」

「三番艦利根、至近距離に落ちた爆弾の破片を受けてカタパルト不調じゃ。怪我はないがの」

「四番艦隼鷹、損傷なし! 服がちょっとばかり破けちまったけど、涼しくていいぐらいさ」

「五番艦北上、んー、まあ……そうね、小破ってとこかねえ。それよりさあ、機関が微妙にぷすぷす言ってる気がするんだけど、退避していい? ダメ?」

「六番艦不知火、右手をやられましたが被害程度は小破、戦闘続行に支障はありません」

 

 一人ぐらいは中破相当の負傷者が出ると思っていたが、小破以下で済んだとは僥倖である。念の為に詳しく聞いてみると不知火先輩は右手首から先を失ったらしいが、迅速な止血のお陰で出血量も最低限に抑えられたようだ。彼女の使っている艤装は両手をフリーにすることのできるものなので、手や腕をやられても戦闘能力に影響が少ないのもありがたい。これがたとえば北上だったら、彼女の砲撃能力は失われていただろう。北上の最大の強みはその雷撃能力にあるから、砲戦能力の損失は通常そこまでの問題にはならないが、現況では選択肢は一つでも多い方がよい。

 

 空の敵が一掃されるまで、次の手を思案する。敵機は母艦へと戻っていったが、その方角を信じて進んでよいものだろうか。母艦とは別方向に進み、こちらの目を振り切ってから転進して帰投しているかもしれない。でも激しい対空砲火をかわす為に戦闘機動を重ねて燃料を消耗したら、そんな余裕のある飛行はできないのでは? 答えは出ない。どちらを選んでも間違いな気がする。こういう時は考えや視点をがらりと変えてみるのがいい。やってみよう。

 

 僕は深海棲艦(奴ら)だ。六隻の艦娘がいる。軽空母一隻、重巡三隻、雷巡一隻、駆逐艦一隻。僕は「軽空母一隻」であることから高性能な艦載機を有しているのではないかと推測する。対してこちら(深海棲艦)側の持っている艦載機は平均的な性能だ。数は多いが、あちらの練度と機種次第では押し負けることさえあり得る。なら空での勝利は望むまい。帰る先の空母を沈めれば、航空機など放っておいても落ちるもの。都合のいいことに、敵のホームは装甲の薄い軽空母だ。僕らの艦戦と一部の艦攻・艦爆は時間稼ぎと陽動に徹させ、残りの艦攻と艦爆はそちらに気を取られている艦娘たちの側面に回り込み、集中攻撃を加える。雲の上を行くことで燃料消費を犠牲に隠密性を高め、奇襲の効果も見込める。

 

 しかしこの目論見は失敗した。攻撃開始直前に上がってきた水上機に発見され、その連絡を受けた重巡二隻は高精度な対空砲火で我々の艦載機の足並みを乱し、側面攻撃にも的確に対応。そのせいで攻撃はてんでばらばらに行われ、統制の取れていなかったほとんどの単発的な爆撃や雷撃は回避された。また軽空母の持っていた艦戦の性能は高く、その数も思った通りに多かった。送り出した機は多少帰ってきたが、大半は落とされてしまった。これはよくない。軽空母を確実に沈める為の全力攻撃を行ったせいで、今やこちらの打撃力の中核を担っていた艦載機たちは壊滅状態だ。総数で言えばまだあの軽空母に勝っているか、悪くとも同数程度と言ったところだろうが、それでは勝てないということはさっき証明されてしまった。

 

 かくなる上は撤退するか……しかしながら、敵は現在各地で大規模な攻勢に出ている。この艦隊がその作戦の一環で我々の潜水艦基地を目標としてここにいることは明白だ。今退けば、潜水艦の為の有力な活動拠点を喪失することは間違いない。しかも、普段は拠点を守っている潜水艦隊が出払っている! 艦娘たちにそうと知られれば、あっという間に叩き潰されてしまうだろう。ならどうする?

 

 空にいた最後の敵艦戦が撃墜された。着水音とその後に続く小さな爆発で思考が打ち切られる。全く、自分の集中力のなさと言ったらない。先ほどまでの、周りのことが目に入らないぐらい深い思索には戻れなかったが、あそこまで考えがまとまっていたらその続きは働きの胡乱(うろん)な僕の頭でも捻り出せた。奴らは待ち構えない。打って出てくる。そしてまた同じことをやってくるだろう。軽空母(隼鷹)を始末することは難しいと彼女たちは知った。空母一隻分の航空戦力を除けば、まともに戦えるのは護衛艦隊三隻。空のと足しても四対六だ。その僅かな力を分散させることはするまい。だから再び、一点に注ぎ込む。

 

 次の狙いはきっと、不知火先輩か北上だ。その両方という確率もゼロではない。深海棲艦は、臨機応変に重点目標を切り替えてくる柔軟さを持っている。二人は水中探信儀を搭載可能な駆逐・雷巡であるから、潜水艦にとってはこれよりの脅威はないだけでなく、僕らとしても彼女たち二人なしに潜水艦と戦おうという気にはならない(深海棲艦たちは僕らが何の為にここにいるのか、正確には知らないのだ)。先輩と北上、その片方または両方を中破なり大破なり、轟沈なりに追い込めば、たとえ敵を全滅させたとしても僕らは撤退せざるを得なくなる。深海棲艦たちはそう考えるだろう。よし、決めた。

 

「隊列変更、複縦陣。全速前進、敵を探し出して沈めるぞ」

 

 北上と僕を先頭にして、艦載機が去っていった方へ進む。深海棲艦の連中は、自分たちの艦載機と情報を共有している。学術的に確かめた訳じゃない、軍が長年の戦争から導き出した経験則だ。なので、奴らはこちらの位置を知っている。今更小細工もあるまい。第一、何ができる? そうだ、奴らは愚直に敵を目指そうとするだろう。その時、敵の針路をどう予想するか? 大別すれば「自分たちの艦載機の後を追ってくる」か、「それ以外の道を選ぶ」かのどちらかだ。後者の場合、可能性は無限大に広がってしまう。それ故に、深海棲艦たちは僕らが敵航空機を追跡したと仮定して行動するよりない。深海棲艦の航空機が転進によって母艦の居場所を誤魔化していたとしても、あっちの方からその針路上に来てくれる訳だ。

 

 移動しながら激烈な空戦を生き残った水観妖精たちを収容し、行動可能な機の数を訊ねる。偵察と警戒をさせたかったのだが、妖精たちは心底悔しそうに、自分たちの機体は既に満身創痍であり、最も損傷の少ない機でさえもカタパルトから射出された勢いで空中分解しかねない状態だと報告してきた。何機かをバラして組み合わせて飛べる一機を得られないかと打診するも、時間的な原因で接敵までにそんなことをやり遂げることが期待できず、仮に時間があったとしても安定した場所がないと返される。欲しかった答えではなかったが、予期していた答えだったのでショックはなかった。陸地ならともかく、海の上だ。足場と来たら僕の体の上ぐらいのもので、そこで分解と組み立てをさせるのは不可能と言われても仕方なかった。

 

 では利根の水上機隊はどうだろう? そちらにも訊ねてみる。もちろん、共通の旧友(利根)を通してだ。僕は第五艦隊の旗艦だが、利根の水上機隊はあくまで利根の所属であって、彼女の頭越しに命令するのは可能だが不躾な行いである。戦闘中にやむを得ない事情があってならまだしも、警戒航行中ならまず利根に話を通すのが筋と言えた。こういった旗艦としての立ち振る舞いを僕に教えたのは、不愉快だが長門である。吹雪秘書艦は何かあれば大体何であっても自分で片付けてしまえる人だったので、参考にならなかったのだ。

 

 一方、長門はビッグセブンでさえとうとう拭い去ることができなかったと自ら認めるしかなかった、あの僕へのビッグ悪感情──自分で考えていて吹き出しそうになった──さえ抜きにすれば、よい旗艦だった。彼女は僕が第二艦隊にいた頃、僕の水偵を好きにする権利があったが、自分で水偵に命令することはなく必ず僕に命令した。「六番艦、水偵をあの方向へ行かせろ」「六番艦、水偵を後退させろ」。僕に命令するのを楽しんでいただけという解釈もあるし、戦闘時にはしばしば指揮官としてよりも一人の艦娘として戦ってしまう悪癖があったが……艦娘としての師を那智教官とすると、大変不本意ながら旗艦としての師は、長門かもしれない。だからって彼女と仲良くなろうとは思わないが。

 

 利根は彼女の妖精たちとやや長めに話していた。それから通信で言った。

 

「出せんことはないが、今カタパルトを修理できぬか調べさせておる。せめて、それが済んでからにしたいのじゃが」

「どれくらい掛かる?」

「面目ないが、吾輩らでは皆目分からんとしか言えぬな。風邪っ引きぐらいの故障なら見当をつけられもしようが、爆弾の破片を食らっての不調となると、直せるかどうかもさっぱりじゃ。全く、妖精たちに応急修理の講習でも受けさせておくべきじゃった」

 

 困ったな。飛べる機体を僕に寄越せ、パイロットはこっちで出す、と言ってもいいが、それをすると利根の妖精たちに「くたばれ」を叩きつけられるだろう。しかしパイロットもくれ、と言うと、今度は僕の妖精たちが黙ってはいまい。妖精たちは謎の存在だが、誇り高いことは知っている。特に航空機に乗る妖精たちの自尊心は一種の病気に近い。なるべくなら傷つけることは避けたかった。僕は苦し紛れに「十五分待つ。その間に見当をつけてくれ。でなければ苦渋の決断を下すことになる」と言うしかなかった。それで利根と彼女の妖精たちには全部通じたらしかった。

 

 利根たちが一生懸命になってカタパルトを調査・修復しようとしている間に、僕は北上並びに不知火先輩を交えて、教官と次の戦闘について無線で話をすることにした。いつもなら那智教官と二人だけで話すのだが、次に敵と戦う時、優先目標とされるであろう二人はそのことを知っておく義務がある。僕は自分の考えを三人に話してから、それで、と本題に入る前の取っ掛かりを置いた。

 

「もし深海棲艦たちがそれをするのに十分冷酷なら──つまりほとんど確実にって意味だが、あいつらは用なしの空母二隻を盾役にして突撃してくると思う。ことによっては、発艦を済ませてから三隻とも盾にするって展開もあるだろうな。その盾を引っぺがすのに、北上、君の酸素魚雷を使う。出し惜しみなしでやってくれ。タイミングは君に一任する。盾さえ剥がせば後は三隻だ。航空支援は暫く当てにできないが、五対三なら負けはない。それから、不知火は利根に代わって隼鷹の護衛を命じる。教官と利根は雷撃で敵の隊列をばらばらにしてやれ。足並みが乱れたところを、僕と北上が仕留める」

「一つだけ提案が」

 

 那智教官がそう言った。僕はじれったくなって乱暴に「話せ」と言いそうになったが、どうにか抑えた。代わりに「言ってくれ」と応じる。これなら旗艦の発言としてもみっともなくは聞こえない。

 

「北上は最初の雷撃後、不知火と交代すべきでは? そうすれば不知火の魚雷も活用することができる。今の案では、攻撃力を無駄にすることになりかねない」

 

 要するに、こういう順番でことを進めようと彼女は言っているのだ。北上が雷撃する。後退して隼鷹の護衛につく。利根は不知火先輩の代わりに教官と組む。先輩は北上の抜けた穴に入って僕と組む。悪くない、どころかどうしてそうしなかったのは分からないほど当たり前にそうするべき提案だった。僕が先輩を下がらせようとしたのは、そうしている限り敵の狙いが近くにいる一人、さっきまでの案では北上に集中すると思ったからだ。標的が二人では難しいが、一人なら守りきることも不可能ではない。でもそれなら、駆逐艦より小回りが利かず最大の武器を撃ち尽くしてしまった後の北上より、不知火先輩を前に出した方が戦闘能力の点で見ても回避能力の点から見ても、全体としてよりよく戦えるだろう。まるで役立たずの無能旗艦め、爆風で頭揺らされてボケでも来やがったな。

 

 僕は威厳を崩さないよう、熟慮した結果決めた風を装って言った。

 

「そうしよう。聞いたな? 北上は最初の雷撃後、利根と交代。利根は教官と、不知火は僕と組む形にする。北上、君には以上だ。利根と隼鷹に段取りを伝えておけ」

「四十発一斉射? うひー、いいねぇ、しびれるねぇ。まあ何? どーんと任せちゃってよね! あ、伝達? 了解了解」

 

 何やら黙ってると思ったら、酸素魚雷四十発の同時発射に感動していたらしい。雷巡ならそうなるものなのか? 大井に手紙でも出して聞いてみたかった。ただ、北上の話では彼女も大概らしいから参考にするには向かないかもしれない。二度目の改造を終えた木曽も雷巡になると言うが、残念なことに僕には木曽の知り合いがいない。いたとしても仲良くなれるか分からない。というか今はそんなことどうでもいい。

 

 北上が周波数を切り替え、作戦についての話も終わった。このまま次の局面まで黙っていてもいいが、僕は少しだけ不知火先輩と話すことにした。理由は特にないが、彼女と話しておきたかった。被害担当艦にさせるつもりはないが、そうなってしまうことはあり得るのだ。僕がかばう訳には行かない。僕は旗艦だからだ。僕は、たとえ目の前で親しい友人が死に直面していても、彼女と質量的な死の狭間に割って入って守ることを許されない身なのである。不知火先輩にはそのことを理解させておかなくてはいけなかった。彼女はそんなこと、すっかり承知しているだろうと思う。彼女は先輩なのだから。僕が言わなくったって、了解していて然るべきなのだ。分かっていることをくどくど言われるのは嫌なもので、先輩だってそう感じることに違いはないと確信している。

 

 が、それは彼女の都合であって、僕のものではない。随分と前に明石さんに頼んで設定して貰った、個人用の“秘匿回線”を先輩と繋ぐ。名に反して実際には特別に機密性があるものではないが、格好の良さが何もかもに優先する事柄というものも存在する。

 

「先輩」

「ん、ああ、もう一つの回線ですか。何です?」

「どうか、引き際を間違えないで下さい」

「……大丈夫、不知火は沈まないわ」

 

 普段の口調から敬語が抜けた自然な言葉で返されると、次の言葉を用意していた筈だったのに、出てこなくなってしまう。心配がなくなったのではなかった。響と同じ駆逐艦娘だからか、僕はどうしても彼女が死ぬところを想像してしまう。それも今度は響のように見えないところでではなく、目の前で沈んでいくところを。そんなことにはなって欲しくないのに、だからこそなのか、その幻影が振り払えないのだ。

 

 無理にでも話題を振ろうとすると、利根からの通信が入った。答える前に時計を見てみる。十五分経っていた。

 

「どうだ?」

「時間を貰っておいてこんなことを報告するのは気が重いが……ダメじゃの。直せそうにもない」

「仕方ないな。機体を二機、それとパイロットを一組貸してくれ。一機は君、一機は僕の妖精を乗せるとしよう。折衷案だ」

「うむ。吾輩の妖精たちを説得する。少し待て」

 

 了解、と返事をしようとしたが、その言葉の頭も言い終わらない内に那智教官の声が被さった。

 

「待つ時間はない。一時の方向に敵だ」

 

 教官の示した方角に向けた目を細める。水平線の下から、せり上がるようにして六つの影が並んでいた。予想通り、僕らを目指してやって来たのだ。それにしても、あの並びは──単横陣か? だが、一般的な単横陣に比べて間隔がひどく狭い。隊列の構成員同士、手を伸ばせば触れられそうな距離だ。あれではいい的になってしまう。隼鷹に航空隊の準備をさせ、ばらける前の奴らを狙わせるか……やめよう、理由がある筈だ。深海棲艦は愚かではない。彼女たちは戦争屋だ。無意味なことはしない。無意味に思えたとしたら、それは僕が間抜けすぎて、彼女たちの狙いを理解できていないだけだ。

 

 隼鷹に現地点での待機と、戦闘開始を起点としての航空支援を命じる。北上との迅速な交代の為に不知火先輩を連れて行かなければならないので、暫くは彼女を一人にするような形になるが、致し方ない。空母は後方にいるべきだ。隼鷹は不満そうだったけれど、足を止めた。続いて、北上に無線を繋ぐ。

 

「やる時はカウントダウンか何か頼むよ」

「スーパー北上さまにお任せあれ。今日の分の殊勲手当てはあたしが貰いで間違いなしじゃない? ボーナスで何買おっかなーっと」

 

 いやはや頼もしい。微笑みながら、敵との距離を目測で調べる。そろそろ僕と教官の最大射程内に入るが、当てられはしないだろう。理由は二つだ。一つ、着弾までに時間が掛かるから、発砲を確認してからでも回避されてしまう。他のことに意識が行っている不注意な標的でもなければ、間違いなく外れる。もう一つ、最大射程は「発射した弾が届く距離」であって、「狙って当てられる距離」ではない。牽制にはなるし、あちらの練度が低ければ隊列を乱せもするだろうが、対峙している相手は素人揃いとも思えない。本気で当てるつもりがないことぐらい、分かるだろう。それなら撃ったって、無駄弾にしかならない。

 

 口の中に、苦い液体が溜まる。嘔吐しそうな時にあふれてくる、あの液だ。僕はそれを吐き捨てた。恐怖は兵士の最大の敵だが、戦闘に入ってしまえば脳内の化学物質と経験がどうにかしてくれる。「もう少し近づいたらやるよ」と北上が艦隊員たちに通知した。僕の方は有効射程内への捕捉こそまだだが、連装砲を構え、左右への細かい回避運動を始める準備をする。敵の姿が見え始めてきた。事前の推測通りだ。ヲ級一、ヲ級エリート一、軽空母ヌ級一、後は──よく見えないが、重巡リ級だと思う。彼女は全く、僕の永遠のライバルだな。

 

 重巡たちの姿が見えにくいことからして、どうやら単横陣じゃないみたいだ。はっきりとは分からないが、楔形に並んでいるのではないだろうか。そんな隊列を組んだ深海棲艦を見るのは初めてだ。北上の真剣な声が無線に流れる。

 

「カウントダウン、始めるよ。四」

 

 考えろ。何かある。深海棲艦は無意味なことをしない。そうだ。空母たちを盾にするには複縦陣か複横陣が効率的だろう。なのにそうしていない。あまつさえ、密接している。楔形陣形、密接、何が理由だ? 撃ってみるか? まだ当てられる距離じゃないが、もしかしたらということもある……ダメだ。やめよう。弾薬を節約するんだ。

 

「三」

 

 博打を打つより、効果を推測するべきだ。楔形陣形、密接、その結果としてどんな影響を僕らは受ける? 違和感、疑問、謎、いや、そういうものじゃない。もっと実際的な現象だ。たとえば、空母以外の残り三隻が見えづらい。

 

「二」

 

 だがそれなら複縦陣、複横陣の方がより完璧に隠せる。だから残り三隻を隠すことが目的じゃない。半端に隠れているのは、あくまで主に対する従の結果だ。でもそれ以外に何がある? 新しい海上戦術の試験をするなら、別の日を選ぶだろう。今日はない。

 

「一」

 

 隠すことが目的だ。でもあの三隻を僕らの目から隠すことが目的じゃない。別のものを隠す? 僕らの目から──ああ、クソっ、そういうことか! ()()()()()()()

 

「ゼロ!」

 

 北上が最後のカウントを終えて、四十発の魚雷を放つ。それを合図としたかのように、楔形陣形の間隔が広まる。その合間から更なる敵が姿を現す。リ級、ネ級、更に一隻のヌ級、駆逐イ級エリート、そして──ル級、フラッグシップ。手強いエリートの、そのまた一ランク上の存在。艦隊全員、驚かずにはいられなかったろう。僕は叫んだ。「全艦回避運動! ル級が撃ってくるぞ!」言うまでもなかった。みんな、独自の判断で動き始めていた。僕もだ。ル級フラッグシップの砲撃が降り注ぐ。聞いたことがある。熟練の艦娘や、深海棲艦の古強者の射撃は素早すぎて、連射しているように感じられることがあると。きっとそれだ。

 

「何あれ多すぎでしょ!」

 

 無線で北上が喚く。教官がその声に負けない大声で言う。「北上、下がれ! 不知火は前へ! 利根!」「今行きます!」「分かっておる!」僕の近くに一発落ちる。その威力は、こちらの二〇.三センチ砲の比ではないが、本当に恐ろしいのは威力ではない。ル級の射撃は素早いだけではなかった。正確なのだ。電探を使って精度を上げているに違いない。早く下げないと北上がマズい。なのに彼女は恐慌状態にあり、回避に手一杯で、後退にまで頭が回っていない。このままでは距離を詰められて、その内に当てられてしまう。そうなれば残るのは北上の残骸だ。

 

 彼女の酸素魚雷の発射タイミングから、着弾までの時間を算出する。着弾までは……一分と十数秒と言ったところか。ル級フラッグシップと言えど、酸素魚雷の直撃や僚艦の轟沈を無視して撃ち続けはするまい。だが北上は避け続けられるか? ちくしょう、ちくしょう、僕がかばいに行けたなら、僕がもっと強かったら!

 

「利根、北上を引き戻せ! 教官、僕と組め、前に出るぞ。不知火は隼鷹のところまで後退、北上と合流したらこちらに戻れ、行け!」

 

 回避運動をしつつ、前進する。ル級がこちらを見た気がする。気がするじゃない、見たのだ。僕への砲撃が激しくなったから分かる。漏らしそうになる。漏らしたって恥じるもんか、もしあのル級と戦って生き残れたんなら、失禁なんか勲章みたいなもんだ。歯を食いしばり、重巡たちの砲撃も加わり始めた鉄の雨の中を駆ける。砲を狙い撃つ余裕なんかない。足を別にしたら、今の状況で動かせるのは口だけだ。命令を聞いた教官が、僕の後に続きつつも反論しようとした。

 

「しかし、作戦が……」

「敵が連合艦隊なんて前提はなかっただろう、あんな作戦なんか放っとけ! 僕は敵の右、教官は左、魚雷で叩けるだけ叩く!」

「分かった、弾に当たるなよ、一番艦」

 

 ああ、そのつもりだ。

 

 隼鷹の紫電改二が後方から追いかけてきた。それに反応してか、敵の艦載機も放出される。あっちの奴らは艦載機の発艦が早く済むのが羨ましいと、第二艦隊にいた頃に加賀がぼやいていたのを思い出す。砲撃の濃度が、一瞬だけ薄まった。奴らは陣形を変えようと動いている。自分たちの火力の幾らかを対空砲火に振り分けるつもりなのだ。でも回り込もうとする僕と教官を危険視したのか、すぐ元に戻った。ところがそれが彼女たちの運命を分けるポイントの一つになった。北上の放った酸素魚雷が楔形陣形を保っていた連中に、次々と命中したのだ。ヲ級たちだけではなく二隻の重巡リ級も轟沈したということを、隼鷹航空隊の妖精たちが僕に報告してきた。

 

 狙っていたよりも大きな戦果だが、ざまあ見ろと叫ぶことはできない。まだ敵は多い。四十発の魚雷で五隻やった。でも六隻残ってる。リ級が二、ネ級とヌ級とイ級エリート、ル級フラッグシップ。艦隊が万全の時でなければ戦いたくない戦力だ。けどやるしかない。逃げることはできないだろう。その背中を撃たれるだけだ。利根の声が、砲の着弾音にところどころかき消されながら耳に届く。

 

「北上が負傷した! 北上が大破! 後退中!」

 

 前の二つは理解できた。最後の一つがどういう意味か分からなかった。北上が後退中なのか、利根と北上が後退中なのか、それともまさか、利根だけが後退中なのか? 正確なところを知ろうと問い返すも、返事が来ない。首を巡らせて様子を見たいが、そんなことをすれば動きが鈍る。まだ僕が敵弾の直撃を受けていないのは、運がいいからだけではない。超幸運プラス、高速で動き続けているからなのだ。なのに今スピードを遅めるのはあり得ない。それは自殺行為だ。火薬庫でマッチを擦るとか、独学で飛行機を飛ばすとか、豚の仮装をして屠殺場に紛れ込むとか、瞬間接着剤を昼食代わりに摂取するのと同じことである。※98

 

 目だけ動かして敵艦隊の様子を伺う。北上の酸素魚雷で敵はごく小さな動揺状態に陥っているようだ。砲撃にも精彩を欠いている。無理もない。一挙に半分近く艦隊員を沈められたら、誰だってそうなる。むしろ、その動揺が小さなものでしかなく、士気の崩壊に繋がるほどの大規模なものにならない理由が解せない。きっとフラッグシップのせいだと思う。

 

 あのル級を沈められれば、残りは烏合の衆になる。魅力的な案だ。考えるにつけて心が躍る。僕らしくないことだ。心の中の天龍が「やろうぜ!」と暴れているのだ。彼女の戦争好きには困ったものである。天龍がこんなに興奮しているということは、できないことではないのだろう。何だかんだ言って彼女は冷静に物事を判断できるタイプだ。勝ち目もないのにリスクを犯したり、危険の為の危険を求めるような、命の何たるかを知らない子供ではない。

 

 やるか? 自分自身に尋ねてみる。僕は言う。やめとこう。それで決まりだった。相打ちにはできるかもしれない。艦隊員の命を対価として差し出せば確実にやれる。特に教官の命でなら、敵艦隊全部が買えてしまうだろう。だがそんなことはできない。それしかないのならそうしよう、一生の傷となるだろうが、それでもやろう。ああ、それしかないならだ。今は違う。天龍は気に入らないだろうが、まずはル級の取り巻きをやる。それから本命だ。時間を掛けてもいい。負傷も避けられまいが、我慢しよう。

 

 両足に一つずつ装着した四連装の魚雷発射管、その片方から四本の魚雷が海に放り出され、水を跳ね上げる。僕は白い雷跡を見守りながら、敵艦隊から離れ始めた。雷撃が成功してくれればいいが、雷跡が目立つ僕の通常の魚雷では難しいだろう。期待はしない。僕が期待するのは、那智教官の酸素魚雷の方だ。今回の戦闘では魚雷に頼りすぎだろうか? だけれども、艦娘として自軍に質や量で勝る敵と戦わなければならない時、その敵を砲戦で始末しようとするのは率直に言って無謀である。何と言っても、こっちが一発撃つ間にあっちは三発も四発も撃てるのだ。分が悪い。けれど、魚雷はそんな苦境を一発で引っくり返す潜在能力を秘めている。旧海軍に重雷装巡洋艦などという発想が生まれたのも、むべなるかなというものである。

 

 教官でも僕のものでもない砲弾が、隊列を単横陣に整え直そうとしている敵艦隊の周囲に落ちた。利根の砲撃だ。後退中と言ったのは北上についてだったのだろう。これで利根が戦闘加入、不知火先輩もじきに来る。四対六、まだまだ不利には変わりない。空がこちらのものになれば隼鷹の航空支援に頼れるのだが、妖精たちが言うにはややこちらに不利だとか。望みは薄い。

 

 敵の隊列が組み直された。ル級フラッグシップが砲撃をやめ、ざっと戦場を見回したのが見えた。ふと彼女の顔がこちらを向いて止まる。目と目が合う。猛烈に嫌な予感がする。ル級の指示の下、奴らは針路をこちらに向け、砲は僕に狙いをつけ始める。

 

 問題だ。もし僕の艦隊が隊列を組んでいる時に、三方から一隻ずつに攻撃されたらどうする? 答えは至ってシンプル、六隻がかりで一隻ずつ潰す。わざわざ隊を分けて戦力を分散させる理由はない。僕は自分の状況をチェックする。雷撃は済ませた。砲戦で戦う気はない。よし。次は? 逃げる? 問題外。追われて叩かれておしまいだ。距離を保って戦う? まあ一隻ぐらいは道連れにできるかもしれない。それと艦隊員たちが沈むのを見なくて済む。却下。

 

 この二つが否定されたのなら、残った選択肢は一つだけだった。艦隊員たち全員に通信で指示をする。映画っぽく。わざとらしく。不敵な態度で。そうしないと逃げ出したくなるから。

 

「援護しろ」



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「大規模作戦」-5

「援護しろ」

 

 踵を返し、敵艦隊へ進み始める。単横陣に展開していた敵が、輪形陣に変えた。中央でヌ級とル級を守っている。隼鷹の航空隊を抑える為の要だから、決死の突撃で沈められたら困るという訳だ。馬鹿どもめ、脅威度の格付けを誤りやがった。僕よりもっと恐れるべき相手がいるというのに。ほくそ笑み、当たる望みのない魚雷を適当にばらまく。彼女たちの目は雷跡に注がれる。不注意だ。その報いを受けて貰うとしよう。

 

 敵の砲弾の一発が、まともに左の脇腹に当たった。肉が抉れて、紙にパンチ穴を開けるのに失敗したみたいになる。ル級の弾じゃないだろう。もしも奴のだったら僕の体は真っ二つになっていた筈だ。輪形陣の先頭に立っているネ級の砲撃だと思う。(せき)は出るが、血は吐かない。つまり、肺には影響が出ていない。行ける。希釈修復材の水筒のふたを開き、傷口に中身を注ぐ。視界が激痛で明滅する。だがこの痛みにも慣れた。叫びだしたくなるほど痛いが。不自然な速度で盛り上がっていく肉にも慣れた。気持ち悪さは変わらないが。血を急に失ったせいで感じる脱力感にさえも慣れた。嘘だ、こっちにはまだ慣れない。でも戦える。

 

 連中の表情が見える距離まで近づいた。胸が恐怖に高鳴る。止血していなかったら出血がひどくなっていたところだ。ふと天龍が現れて言う。「にっこりしろよ、オレたちがあいつらを殺す番だぜ」僕は精一杯笑う。天龍もからからと笑う。「そうそう、それでいい。ほら着弾、左だ」確かめもせずに右へ舵を切る。ル級の砲弾がすぐ左に特大の水柱を作って、僕の足元をすくおうとする。当たらなくても、破片が飛んでこなくても、戦艦の砲撃は恐ろしいものだ。天龍だってそのことは認めずにはいられない、そうだろう?

 

「おいおい、あんなもの怖がってんのかよ? それより、お前を撃ったネ級にお返ししてやろうじゃねえか。三つ数えるぜ。一で腕を上げて、二で狙って、三で撃つんだ。一、二、三!」

 

 言われた通りにやってみる。先頭のネ級は僕が狙いをつけた段階で回避を試みたが、逃げようとした先に僕の魚雷の雷跡を見つけてほんの少し躊躇った。彼女とその一本の魚雷の距離からして、その必要はなかっただろう。僕の砲撃を避ける為に動いた程度では、信管は作動しなかった筈だ。でも、多分そのネ級は思ってしまったのだ。「もしかしたら」と。それが彼女を鈍らせた。それが僕に好機を与えた。偶然ではなく、必然として。射撃訓練の的みたいに、彼女の胸に風穴が開いた。驚きはない。冷静だ。ネ級の体が海面に叩きつけられ、飛沫を上げる。

 

 その向こうのル級からの砲撃を避けながらネ級の最後を見て、空元気の作り笑いが本物に変わった。敵に撃たれてもまだ生きていることほど痛快なことはないらしいが、僕に言わせるとそんなのはたわごとだ。最高に痛快なのは、反撃でその敵を撃ち殺してやることなのだ。天龍も戦っている時、こういう気持ちだったのだろうか? まだ僕は戦争好きという彼女の性分を理解できないでいるが、何となく分かり始めていた。そのことには僕の中の天龍も感づいているらしく、彼女はずっと仲間外れだった子供がようやく遊び相手を見つけたような、満面の笑みを浮かべていた。その純真さは、彼女が命を奪うことを楽しんでいるという事実からすると、倫理的にあり得るべきではないほどのものだった。

 

 敵艦隊はやっと本格的に士気を揺るがせ始めた。ル級が僕への砲撃に掛かりっきりになって、指示を出せていないのだろう。リ級の二人とイ級エリートはそれぞれ思い思いに砲撃しており、その対象は主に僕の援護の為に接近しようとしている利根や教官で、たまに僕を撃ってみたりとだらしなく、火力を集中させられていなかった。「もう一隻狙えるかな?」天龍に訊ねる。「やれるさ」と彼女は応じる。その言葉には互いへの信頼がこもっている。僕は茶化す。「頼りになるね」天龍はとっておきのしたり顔で言った。

 

「ふふ、当然だろ。オレを誰だと思ってるんだ? 世界水準超えの天龍様だぜ!」

 

 違いない。彼女にもう一言と思っていると、耳をつんざく那智教官の怒鳴り声がした。これにはさしもの天龍も震え上がった。彼女とて教官には絞られた口だ。僕や他の連中と同じく。

 

「一人で何をやっている、貴様は旗艦だろう!」

 

 こうしなきゃヤバかったんだよ、分かんないのか? と口から出そうになった。

 

「そちらに行く」

 

 ネ級の轟沈やル級フラッグシップによる指揮が半端なものになったせいで敵の戦闘能力が全体的に落ちている今なら、合流も難しいができるだろう。利根と教官は魚雷で敵の動きを牽制しつつ、砲撃でリ級たちの目と砲を引きつけて僕を支援し続けてくれている。ル級の砲撃には戦闘開始直後のような精彩もない。これなら勝てる、と僕は考え始めていた。そこに通信が入った。「こちら不知火、先ほど紫電改二の防空網を突破した少数の敵航空隊から攻撃を受け、撃破には成功したものの」心臓をわしづかみにされた気分になる。「ソナーが故障。また、護衛対象(隼鷹)も中破させてしまいました。すみません」声は静かな響きを持っているが、そこにこもった口惜しさは感じられた。通信を一瞬切って罵倒語を叫んでから、「北上は?」と訊ねる。まだ合流できていないのか? それともまさか、突破してきた敵にやられたのか。すると彼女はこう答えた。

 

「生きてはいます」

「どういうことだ」

「合流直前、今言った敵航空隊の攻撃で片足を失ったのです。轟沈寸前で救助、止血処置を済ませた今は隼鷹が支えていますが、意識レベルは低く、自力航行は不可能です。不知火への指示に変更はありますか?」

 

 何もかも海面に叩きつけてここからおさらばしたくなった。こっちの状況がよくなったと思ったらこれだ。どうする? 不知火先輩は自分の負傷程度について何も言わなかったが、大方彼女も中破以上の傷を負っているだろう。中破が二人、轟沈寸前の大破が一人。かてて加えて、その中にソナー持ちの二人が入っているのだ。どうしたらいいか分からなくて歯噛みしていると、教官と利根の援護砲撃が、リ級とイ級エリートに直撃した。沈みゆくその二隻を見やる。残りはル級とリ級、ヌ級の三隻。ようやく数で対等になった訳だ。でも、もう遅い。奴らは目的を果たした。ソナー持ちを片付けてしまったんだからな。任務は失敗か? そうかもしれない。代替案は今のところ考え付かない。じゃあここで諦めてみんなで沈むべきか? 断じて否だ。

 

 通信回線を吹雪秘書艦に繋ぎ、提督を呼び出す。すぐ傍にいたとしか思えない速さで、提督と繋がった。僕は彼女が何か言い出す前に用件を言ってしまうことにした。

 

「回収を要請します。対象は隼鷹、北上、不知火……それから利根の四名」

「すぐヘリを送る。状況は?」

「交戦中。最悪です。何よりソナー持ちがもういない。何か次の手を考えて下さい、あなたは提督なんだ」

「分かった」

 

 八つ当たり気味の要求にも、彼女は短く答えてくれた。僕は毒気を抜かれた気持ちになったが、気を取り直して指示を出した。

 

「利根、隼鷹たちのところまで下がり、彼女たちを指揮、護衛して提督の指示する回収地点に向かえ。ソナー持ちの二人が深手を負った以上、任務は失敗と見なして最優先目標を生還に切り替える」

「吾輩が指揮を? ……むう、仕方ない、かの。しかし、お主らはどうするのじゃ?」

「さっき、提督と話した。次の手を考えると言っている。それを信じてここに残る。行け」

 

 ル級たちは合流しようとする僕と教官を邪魔せず、自分の艦隊の統制を取り戻そうとしていた。お陰で僕と教官は容易くル級の主砲の射程外に脱し、肩を並べることができた。空の紫電改二が隼鷹の方へ戻っていく。ヌ級の半壊した航空隊もその後を追わず、母艦へ針路を取った。数分間、僕たちと深海棲艦たちは立ったままにらみ合った。どちらにとっても交戦距離の外にいたし、無意味に攻めかける気にもなれなかったからだ。提督がソナーの代替手段を思いつかなかったら、このまま撤退するつもりだった。情けない話だが、僕としてはそうなってくれた方がありがたかった。今日はもう十分すぎるほど戦ったと思う。任務が達成できなかったのは残念だが、誰も死なせずに帰れたなら旗艦の最低限の務めは果たしたと言っていいだろう。

 

 が、提督は嫌な奴で、その上有能な人だった。無線機が一度雑音を発して、それから彼女の声を伝えてきた。僕は回線を那智教官にも繋いで、彼女が会話を聞けるようにした。説明しなおすのは面倒だ。

 

「今、基地の連中を説得した。骨が折れたよ、海域の深海棲艦を粗方始末したと信じさせるのにはな。まあいい、対潜哨戒機を送らせる。空中投下型ソナー(ソノブイ)で探させろ。到着まで三十分。障害は?」

「敵が三隻」

「排除しろ。それと、そこからそう遠くない地点に第二艦隊がいるから、連中も向かわせる。以上」

 

 第二艦隊? そりゃどうも、心が温かくなる気配りだ。僕はしゃがみこみ、頭を抱えた。少し離れたところにいた那智教官が、僕の隣まで来た。僕は彼女を見上げた。ほっとする。教官だ。

 

「貴様、大丈夫か?」

「大丈夫って言葉の意味が『死ぬほど疲れて家に帰りたがっている』っていう意味ならイエス、『戦意に満ち満ちて国家と社会の為に命を捧げる覚悟でいる』という意味ならノーですね、教官」

 

 旗艦としてではなく、彼女の教え子として答える。旗艦として教官と話すと、やけに疲れるのだ。そもそも、僕の立場が彼女よりも高いというのがおかしいのである。那智教官はくすりともせずに右手を差し出した。何故か温かみを感じるその義手を掴み、立ち上がる。彼女は微笑んだ。「そうか、なら結構。まだまだ一緒に暴れられるな」その表情が、戦争の最中にはそぐわない筈の微笑が、僕を惹きつける。あっという間に僕は、この人の隣で戦えるならもうどうなってもいいや、という気持ちになっていた。疲れからくる自暴自棄が含まれていなかったとは言えないが、とにかくそれのお陰で敵に挑む気力が沸いてきたのだ。不満はない。

 

 僕らが再び動き始めたことで、ル級とリ級、それからヌ級の方も行動を再開した。軽空母を殿(しんがり)に、単縦陣を作ってこちらに向かってくる。提督と話したのが三分前。二十七分で三隻を始末し、潜水艦基地を見つけ、ビーコンを……あれ? 僕は自分の体のあちこちを探ってみた。けれど見つかったのは、ベルトに引っかかったフックだけだった。戦闘中に流れ弾でも受けたのだろう。肩と肩が触れ合いそうなほど近くにいる那智教官に訊いてみる。「ビーコンあります?」「ああ。何だ貴様、壊したのか?」「壊されたんです」自尊心の為に、そう訂正しておいた。よかった、ソナーの代わりはあってもビーコンの代わりはない。哨戒機からの情報で座標を特定、入力して攻撃、というのも可能だろうが、決めた手順は変えたくないものだ。急な変更は、ミスの原因となる。そして、犯してもいいミスなんてものはないのだ。

 

「残弾は?」

「砲弾の方は一戦分なら余裕です。魚雷は切れました」

「魚雷ならまだ四本余っているな。半分やる、使え」

 

 ありがたい申し出だ。教官は慎重に魚雷を発射管から外すと、僕に渡した。受け取って同程度の慎重さでそっと発射管へ差し込み、後は妖精たちに任せる。余程な真似をしなければ受け渡しや装填程度で爆発したりするようなものではないと分かってはいるのだが、それでもやはり爆発物を手の中に収めている時ぐらいは、臆病になっても責められるいわれはあるまい。酸素魚雷を使うのは初めてだったが、通常の魚雷と違うのは雷跡が目立たないことと、射程が非常に長いことだ。特別気をつけなければいけないことはなかったと思う。信管の敏感性がどれほどのものに調整されているか分からないのはやや不安だが、那智教官か明石さんが調節したのなら、過敏ということはないだろう。

 

 受け渡しを終えて、距離を取る。ル級たちの砲撃を受けて二人揃って海の底、なんてのは嫌なことだ。無線で教官が言う。「さて、どう戦う?」簡単な質問だ。「僕が前、教官が後ろで。いいですよね?」「任せろ」やや速度を落とし、教官は僕の後ろについた。反対に僕は機関を酷使して、最大速力を出す。有効射程内に入るや、単縦陣の先頭に立つル級の砲が火を噴いた。こちらの砲が届かないから回避運動を織り交ぜずに直進していられることもあって、少し精度が戻っているが、それでも回避に困ることはない。ヌ級が艦載機を発艦させるのが見えた。リ級はまだ砲撃を控えている。戦艦の長射程が羨ましいよな、と僕は彼女に語りかけたくなった。

 

 だが、後ろで砲声がした。那智教官らしくない、まだ射程範囲外の筈だ、先走るなんて、と軽い狼狽を覚えるが、そんな僕を笑い飛ばすかのようにその砲弾はヌ級を撃ち抜いた。僕は呆気に取られた。敵だって平気ではいられなかったろう。我ながら感心した、という風な溜息を吐いて、教官は言った。

 

「やればできるものだな」

 

 ……ともかく、艦載機の心配はなくなった。数も対等になった。リ級が慌てて回避運動を始めるのを見て、思う。ル級より先にまずはあいつだ。ル級フラッグシップは、一対一で勝てる相手じゃない。教官と二対一で掛からないと。その為にリ級を先にやる。筋の通った美しい論理。心の中に呼びかける。「天龍、手伝えよ」「ヤバくなったらな」気分屋の天龍らしい受け答えだ。僕の天龍エミュレーターも世界水準軽く超えてるな。

 

 那智教官はル級を狙い始めた。ル級は盾で防ぎつつ、エリートまでとは違うところを見せた。機動を怠ることなく、盾の隙間という限定された視界だけで教官の位置を捕捉し、対抗砲撃を行ったのだ。人間が勝手に名づけた区分ではあるが、それにしてもフラッグシップと呼ばれて恐れられるに値する能力だった。それを一人で抑えている教官も流石である。彼女が頑張っているのに、僕が足を引っ張ってはいけない。リ級を見据え、狙いをつける。両肩と右腕の、全砲門から一挙に発砲する。

 

 意気込みがプラスの方向に働いたのか、単にばら撒いた中からまぐれ当たりを引いたのか、最初から一発だけ命中したが、当たり所がよくなかった。狙いは腹辺りで合わせてあったのだけれども、リ級はそこを左腕の艤装でかばったのだ。それでも左腕を破壊できていれば受け入れられたけれど、角度が悪かったのだろう。弾かれてしまった。再装填を急ぐ。リ級の砲口が光る、風が頭の右を駆け抜けていく。金属片が右側頭部に何個も突き刺さり、髪の毛先がちぎれ飛ぶ。右肩の砲をやられた。その中にいた妖精たちは、妖精にも人間と同じ形の命というものがあったとして、何も気付かない間に死んだだろう。ばらばらになってまだ生きているよりはマシだ。

 

 敵の足を狙って撃つ。今度は左肩の砲だけを使う。重巡の砲ではル級の射撃ほど航行に影響を与えられないが、与える精神的な影響では引けを取らない。リ級は蛇行で回避を続けようとするが、その頭を押さえつけるように、執拗に取り舵と面舵の切り返しに合わせて撃ち続ける。リ級の反撃だってあるし、彼女は無能じゃない。一度に二発ずつだが温存していたらしい魚雷を撃ってくるし、先の側頭部のものを含め、幾つもの弾の破片が僕に刺さったままになっている。左の脇腹などには捻じ曲がった金属片が、刺さるのではなく()()()()()さえいる。でも、それでは僕を止められない。僕を止められるのは直撃弾だけだ。

 

 リ級の動きは鈍り始めた。出血に加え、連続する至近弾によって煽られた、被弾への恐怖が彼女を縛っているのだ。その恐怖が最高潮に達した瞬間が、彼女の最期になる。何故ならその一瞬こそ、僕の弾が命中する時だからだ。これまで僕は何隻もの人型深海棲艦をこの汚い手で仕留めてきた。長門なら、武蔵なら、天龍なら、那智教官なら、こんな手は使わないだろう。彼女たちは僕より強いからだ。普通に当てて倒せばいいじゃないか、と彼女らは言うに違いない。ああ、僕にも同じことができたなら……しかし、ないものねだりをしても敵は沈まない。僕は初めて戦闘を経験したあの岩礁でそれを学んだ。自分に配られたカードしか切ることはできないのだ。そして僕の手札で作れる手と言ったら、こういう姑息なやり方程度のものだったという訳だ。

 

 ところが、初めてのことが起こった。リ級が恐怖を振り切ったのだ。彼女は勇気を振り絞り、まっすぐに僕へ駆けてきた。最低限の動きでこちらの砲撃をかわし、近距離戦で刺し違えようという魂胆が透けて見えていた。僕はこのリ級が軽蔑するべきではない兵士であることを悟った。ル級フラッグシップと那智教官は拮抗しているが、艦種の差から言ってもル級が有利だ。僕がここで死ねば、リ級も共に死のうとも、ル級有利でことを運べる。この重巡リ級はそれに思い至って、死ぬことに決めたのだ。

 

 こうなると厄介だった。艦娘でも深海棲艦でも、死ぬ気になった者を実際に殺すのは困難だ。文字通り死力を尽くして食らいついてくる。僕はさっきまでのリ級のような蛇行と後進を組み合わせながら砲撃を行ったが、一発だって当たりはしない。奇妙なことに、撃った僕だって命中に期待なんかしていなかった。こうなった生き物は、弾なんかじゃどうにもならない。僕は左手を腰にやった。そこには古い友達の一人がぶら下がっている。明石さんが倉庫から出してきてくれたあのナイフが。

 

 無駄と分かっていながらも、撃ち続ける。リ級もだ。両腕の艤装を盾にし、かすかな左右への移動で避けながら、隙を見て撃ってくる。その中の一発が僕に当たった。致命傷ではないが左肩の肉がえぐられて、血が噴出する。肩部砲塔に影響はないが、太い血管が破れたようだ。右手で脇に吊るした水筒を掴み、残り僅かな修復材を全部そこに流し込む。空っぽになった水筒を放り捨てながら、利根と北上に感謝した。彼女たちのお陰で、まだ手付かずの修復材の水筒が一本残っている。

 

 リ級の目が見える距離になった。白目と黒目の判別はまだつかないが、ものの一分も経たずにそうなるだろう。右手にナイフを握る。肩の負傷で動かしづらい左腕は最早武器としては使えないが、盾役や棍棒代わりになら不足はない。機関を前進に切り替え、海を駆ける。風が体を冷やそうとするが、焚き火が息を吹きかけられたように、僕の体はむしろ熱くなる気がした。みるみる内に距離が縮まっていく。なのに弾は一発も当たらない。機動と射撃精度、両立はできないのだ。リ級も、僕も。砲を撃つ度に視界が揺れる。足がぐらつく。波の影響もある。血も流しすぎた。集中しようにも痛みが止まらない。そんな状態で狙って当てられる訳がない。だから狙わなくてもいい接近戦に戦いの時代を戻すのだ。接射、殴打、刺突、斬撃。この類なら外しはしない。

 

 リ級の目を見続ける。白目と黒目、まだ見分けはつかない。右舷後方に水柱、気にしない。僕の視線は向かい合ったリ級の目だけに向けられている。白目と黒目。青い燐光を放つ強膜、星のない夜空のような虹彩と瞳孔。可愛い女の子に見とれているみたいに、じっと見つめる。白目と黒目。白目と、黒目。白目。黒目。

 

 見分けた。

 

 腰を落とし、機関に全速前進を指示する。リ級は速度の変化に気を取られる。僕らの間の距離は数秒分しかない。リ級は右腕を引き、バランスを取るように左腕を伸ばして前に突き出す。僕は左腕を持ち上げて顔の前で肘を立て、ナイフを持った右手はだらんと下に垂らす。腰を更に落とし、機関を停止。慣性移動開始。一呼吸の間を置いて、互いの射程内に入る。足先の動きで僅かに左に逸れる。頭上をリ級のパンチが通り過ぎていく。脇を斬りつけながらすれ違う。海面を蹴って強引にそこで止まり、ガードを下ろしながら振り返る勢いを乗せて、首を狙った刃を振るう。がん、と右腕に痛み。リ級も無理やり足を止めて踵を返し、右手の艤装で僕の腕を止めていた。となると左腕の砲が僕を狙うだろう。体をよじり、下ろした左手でリ級の左腕を押しのける。発砲。まばたき一度の遅れで僕は死んでいた。

 

 左足を踏み出してリ級の懐に入り、左肘で彼女の顔を打つ。左手が万全ならここから首を絞めるところだが、今日はそれが使えない。ひるんだリ級の胸を袈裟懸けに斬る。浅い。深海棲艦を殺すには足りない。早まった。だが撃たれても回避はできる。この距離、射線の予測は考えるまでもない。しかしリ級は右腕を下に向け、僕ではなく僕と彼女の間にある海面を撃った。水柱が立ち、視界が泡を含んだ水の白に埋め尽くされる。

 

 考えてやったことじゃない。左腕が勝手に動いて、自分を守っていた。その次に、痛い、と思った。そうしている間にも僕の体は自動的に動く。飛び込んできたリ級の右腕の艤装を受け止めたせいで、左腕は肘の上からへし折れて黄色い脂肪にまみれた骨が皮膚の下から覗いている。それを無視して、右手を突き出す。刃がリ級の柔らかな腹に沈み込む。ここまでしっかりと迎撃されるとは思っていなかったのか、リ級の顔が歪むのが分かった。ああ、迎撃できるとも。大昔僕も使ったことがある手だ。水柱で視界を塞ぎ、飛び掛かって仕留める。そうだ、使ったことがあるから、対処できた。

 

 少しだけ体を離し、刃を引き抜く。せめて道連れにとリ級は左腕をこちらに向けようとした。あちらにはまだ弾が装填されているままだ。撃たれたら死ぬ。機関を再始動、稼げる速力はたかが知れているが、それで足りる。踏み込んで、二度目の刺突。今度は胸に。僕と彼女は密着している。リ級の艤装では、密着した相手に砲撃はできない。魚雷はもう尽きている。

 

 僕はリ級の鼓動を感じた。心臓には刺さらなかったらしい。彼女の体温と僕の体温が混じりあうのを感じた。生きている、と思った。胸から刃を引き抜いて、改めてあごの下から脳蓋へ突き刺す。抜く。リ級は倒れる。沈んでいく。僕は腰の鞘にナイフを戻す。それから捻じ曲がった左腕を力技で元通りに曲げ直し、予備水筒から修復材を掛けた。

 

 数秒、僕はぼうっとしていた。爆発音で我に返り、取り返しのつかない数秒を失ったかもしれない恐れに震える。まだ教官とル級が戦っているのだ。助けなければ! 爆発の方に首を巡らせるのも遅く感じられ、もどかしかった。しかし、結局また僕はぼうっとすることになった。

 

 ル級は影も形もなくなっていた。恐らくは教官が持っていた二発の酸素魚雷が、ル級を捉えたのだろう。教官は一人っきりであのル級を、ル級フラッグシップを片付けてしまったのだ。僕がただのリ級に手間取って大怪我なんかしている間に。なんて無様な。恥と疲れと情けなさに佇んでいると、無線が教官の言葉を伝えてくれた。

 

「終わったな。……今夜ばかりは飲ませて貰うぞ、一番艦」

「僕のおごりだ、二番艦」

 

 やれやれ。終わった。僕は時計を見た。到着までまだ八分もある。

 

*   *   *

 

 教官を単独で提督の寄越した回収ヘリとの合流に向かわせるには、僕がこれまでの人生で培ったあらゆる手練手管を必要とした。彼女はぼろぼろの旗艦を敵対海域に残していける訳がないだろうと、まあ百人が聞けば百人が肩を持つだろう意見を述べた。でも僕は一人になりたかった。僕らは海域到着直後に敵の艦隊を一つ潰し、次に敵の連合艦隊を撃破した。敵がまだいるなら、その戦闘音でこちらに駆けつけていた筈だ。敵は人類の大規模作戦への対抗で、これ以上の兵力を割けなかったのだろう。いや、深海棲艦側が不足だったかのような言い方は正しくないか。艦隊を三つも送り込んだのだ。それがまさか、一艦隊に全滅させられるとは思わなかっただろう。もちろん三隻は吹雪秘書艦の戦果だが、残りは第五艦隊のものだ。

 

 苦労はしたが、最後には那智教官も僕を一人にしてくれた。僕はヘリに連絡し、丁度今しがた隼鷹たちを回収したところで、全員無事だという嬉しい知らせをも受け取ることができた。ついでにもうちょっとだけご足労願ったって天罰なんか下らないだろう。那智教官の回収も頼む。無線の向こうにいる艦隊員たちを心配させたくないので、彼女は大丈夫だと言い添えておいた。姿を見てもそれは分かる。擦り傷や小さな怪我はしているし、右腕の義手が手首からぽっきり折れてなくなっており、砲塔と来たら一つを除いて全部破壊されてしまっているが、それでも元気に生きている。

 

 僕にビーコンを渡した後、那智教官が去っていくのを見送って数分としない内に、哨戒機が来た。僕はその機体のパイロットと話して仰天した──たった一声聞いただけで分かったが、そいつは僕が殴ろうとしたあの空軍士官殿だったのだ。世界は狭いものだ。僕は彼に謝る気はなかったし(子供っぽいとは自分でも思う)、彼もことさらあの店で起こったことについて話題にしようとしなかった。仕事中は、仕事に徹するべきなのだ。彼は鼻持ちならない悪趣味な女ったらしのろくでなしだが、その意見については僕と同じものを持っていたのである。

 

 いたるところにばら撒いたソノブイと情報端末をリンクさせると、哨戒機はさっさと行ってしまった。近くにいてくれてもいいだろうと思うが、空軍の連中は整備士以外全員きざったらしい優男か、そうでなければオカマ野郎の集まりだというのが海軍の公式な見解である。敵対海域で長居する度胸がないのだろう。僕の理性的な部分は「男色については海軍の方が長い伝統ありそうな気がするけど」と言っているが、僕は長いものに巻かれるたちなので言葉には出さない。

 

 右腕の端末を見る。液晶にはひびが入り、リ級や僕の血で汚れているが、あれだけの激戦で壊れていないことを見るとやっぱり陸軍の備品なんじゃないだろうか。あいつらは新装備調達時のテストで装備を何百回何千回と高いところから落とす悪癖がある。もし軍にいて、「これを破壊するには一体どんな離れ業をやってのければいいのだろう?」と思うようなものがあれば、疑う必要はない、それは百パーセント陸軍由来の品だ。例外はない。

 

 ひび入り液晶でモノクロ映像を見るのには苦労したが、その甲斐あって基地らしきものを見つけることができた。ソナーが言うには動体反応は存在せずとのことなので、潜水艦の心配もいらないだろう。僕はゆっくりと基地の真上に移動し、教官から受け取ったビーコンを手に取って眺めた。さあ、いよいよだ。これまで、人類は苦しめられ続けてきた。終わりのない戦争で疲弊してきた。今日からは違う。終わりがある。それは僕の手の中にあると言っても過言ではないのだ。今日まで、戦争の終わりを見たのは死者だけだった。明日もそうだろう。だがいつか、夢や願望ではない、現実にいずれ到来する意味でのいつか、生きて戦争の終わりを見る人々が現れるのだ。さあ、ボタンを──!

 

 振動。何だ、と思う間もなく下から跳ね飛ばされて、バランスも取れず背中から海面に落ちる。体が動かない。沈んでいく。足を見る。もげてはいないが、脚部艤装が完全に破壊されていた。僕は直感した。潜水艦だ。動かず、じっと息を潜めていたのだ。アクティブソナーは感知できないのか? それとも視覚表示でしか見ることのできなかったせいか? 僕がアクティブソナーに習熟していなかったからか? 気付くべきだった、連合艦隊が十一隻だと思うべきじゃなかった。違ったんだ、()()()()()()()十一隻だったんだ。最後の一隻がここにいた。那智教官を行かせて、絶好の奇襲のチャンスを僕は与えてしまったのだ。

 

 着水の衝撃で失われていた体の制御が戻った。腰を捻り、潜水艦の姿を探す。見つかる訳がないと思ったが、奴は、潜水カ級は自分から来た。止めを刺しにか、死ぬところを見たかったのか、それは知らない。奴は僕を掴んだ。だから思い知らせてやった。ナイフを引き抜き、頭に突き立ててやったのだ。まさか、彼女は自分がそんな死に方をするとは思わなかっただろう。僕がここで死ぬとは思わなかったように。

 

 息が続かない。僕は首を回して、不十分な明かりの下でビーコンを探す。あれを起動しなければ。今日やったことの全てが無駄になる。見つけなければ……あった! でも、マズい、僕よりも下にある。僕はそれに手を伸ばす。届かない。必死で体を動かし、それを掴む。無我夢中でボタンを押す。意識が薄らぐ。水の中でも無線機は動いている。提督か誰かの声がするが、何を言っているかは分からない。何でもいい。もうダメだろう。だが──覚悟しろよ。

 

 十分後にはクソったれパーティーだ。

 

 僕は目を閉じた。

 

 その瞬間、空が暗くなったのが分かった。反射的に目を開くが、何も見えない。陽は消え、ただ沈み続ける感触だけが僕に残った。いや、それも消えた。僕は暗闇の中にいた。足は地面についていた。水の中にいる時の、あの体が浮かび上がる感じもなかった。しかし恐れることはなかった。僕はくたばる。それ以上に恐ろしいことが起こるとでも? 深海棲艦がここに現れたとしたって、僕に対してできることなど一つもない。あっさり殺してしまう? いいとも、やってくれ。苦しめてから殺す? どうせ窒息死の予定だったんだ。ちょっとそれが変わるだけのことだ。僕は笑った。何も怖くなかった。諦めがついていた。

 

 何度も死について考えたことがある。兵士や艦娘で、死ぬことを考えないでいられる者はいない。過度な一般化だとそしられる物言いだろうが、それでも僕はそう言わせて貰う。いないのだ。僕がもっぱら考えたのは、死んだ後どうなるかということについてだった。響とよく話したのは、そういう理由もある。死後どうなるかを彼女なりに知っている響と話すと、何となく僕もそれをぼんやり信じることができたのだ。一日どころか二時間もすれば薄らぐような信仰心だったが、それは確かに信心だった。

 

 僕は歩き出した。立っていても何も始まらないだろう。ふと、「これが死ぬ前に見る走馬灯だというなら、僕の人生は随分と見所に欠けているようだ」と思った。死に瀕しても衰えないユーモア。尽きぬもの、それは海の水か僕の諧謔か。僕は一人でくすくすと笑った。爽やかな気分だった。任務は果たした。ミサイルは発射されるであろう。僕の名前が人類史に刻まれるということについては、何の価値も感じなかった。ただ僕のやったことが、一人か、二人か、それとももっと多くの人の命を救ったのだという確信があった。一人を救うのと世界を救うのとは、大体同程度の価値がある。※99 その一人が結婚し、子を()し、増えていくからだ。僕は無限大の命を救ったのだ。力なき人々の盾となって、矛となって戦った。僕は艦娘だ。ただ給料を貰って敵を殺すだけが艦娘じゃないんだ。僕のやったことで、何処かの誰かが生き延びる。こんなに愉快なことがあるか?

 

 立ち止まり、腰のポーチを探る。そこに発炎筒があることを思い出したのだ。水中でも使える一品である。僕は手探りでそれを取り出し、厳かに呟いた。

 

「光あれ」※100

 

 すると光があった。僕は驚いて後ずさった。もう一歩二歩進んだところに、人型深海棲艦が立っていたからだ。白い肌、額の角、大きな鉤爪。港湾棲姫。彼女は目を閉じていた。艤装もなく。僕は馬鹿みたいにそこに立っていた。何故彼女がここにいるのか分からなかった。そもそもここが何処なのか、何なのかさえ僕は知らないのだ。愉快な気持ちは消え、むしろ苛立ちが僕を支配した。死ぬ前に見るなら第五艦隊の親友たちの姿を見たい。夢でもいい、彼女たちが無事に基地に帰るところを見たいのだ。こんな、深海棲艦なんかじゃなく。

 

 僕は彼女を置いて前に進もうとした。その途端、彼女は目を開いた。赤く輝く目に、僕の視線は引き寄せられた。動けなかった。彼女は鉤爪を僕に伸ばしてきた。過去の光景がフラッシュバックする。武蔵に陥れられ、融和派のアジトに連れて行かれた。赤城に助けられたと思ったのも束の間、別の融和派グループに捕まえられた。そこで出会った。港湾棲姫に。別の個体だろうが、彼女も同じことを僕にしてきた。あの大きな鉤爪の手を僕に向けようとしたのだ。殺すつもりだと僕は思った。あの時はそれを恐れた。今日は、受け入れることにした。

 

 二つの鉤爪が僕の頭を挟む。潰すなり、引きちぎるなり、好きにすればいい。僕は港湾棲姫の目を見つめ返す。死神の目を睨み返せる人間はそう多くないが、最期を目前にした僕はどうやらその数少ない人間の一人になれるらしかった。港湾棲姫の赤い目が、僕の持っている小さな照明の光を受けて、きらりと輝いた。

 

 そして僕は抱きしめられていた。僕の目と彼女の目は触れ合わんばかりの近さになっていた。僕はまばたきをした。

 

 誰かに引き上げられるように、僕は上へ上へと上がっていく。世界が再び変わる。海の底から、海の上へ。光が、太陽が復活した。僕は息をしていないことに気付いた。どうでもよかった。僕はまだ港湾棲姫と抱き合い、見つめ合っていた。僕は彼女の目の中に全てを見た。全てを、彼女の全てを見た。彼女が、『彼女たち』が何を望んでいるのかを知った。口から出た言葉で説明されたのではない。僕は、そうだ、彼女の心に触れたのだ。人類が決して知り得なかった、知ろうとしてもその為の方法さえ分からなかったことを、謎の答えを、そこで得たのだ。けれどもそれは、余りにも僕がそうだと、そうあれと願っていたものとかけ離れていた。

 

 深海棲艦たちの心の繋がりを僕は知った。それを手に取って、一つ一つの心が糸で繋がっているのを確かめることさえできた。ある糸は今にも途切れそうなほど弱く、ある糸は僕の手首ほどの太さもあって、綱とも呼べる強度を誇っていた。彼女たちはその糸を通じて、離れていても互いの想いを交わし合っていた。突然、僕は誰かに背中を撫でられたように感じた。くすぐられたのではなく、労わりとして。母親が子に「よく頑張ったね」と言いながら愛を込めて撫ぜるような優しさで。僕は自分の心にも糸が繋がっているのを感じた。港湾棲姫の心と僕の心は繋がっているのだ。彼女は僕の手を引いて彼女の心を見せてくれた。僕は彼女になった。彼女の目で見たあらゆるものを彼女として見た。

 

 深海棲艦たちが何なのか、一体最初の一人、あるいは最初の一匹が何から生まれたのか、彼女たち自身も知らなかった。港湾棲姫たち、言葉を操ることのできる特別な深海棲艦たちや、喋ることはできずとも心に想いを伝えることはできる人型深海棲艦たちは、かつて自分たちが海の上に、陸の上にいたことを知っていたが、どうしてそのことを知っているのかは知らなかった。彼女たちは帰ろうとした。でも帰れなかった。人との争いが彼女たちを海へ、海の底へ押し留めた。僕はそこでどうしても我慢できなくなった。訊ねたいことがあったのだ。彼女はその想いを汲み取った。僕も彼女が問いたいことがあると感じた。僕らは互いに尋ねあった。

 

「どうしてこんな戦争を始めたのか?」※101

 

 そうして、僕らは互いに答えた。

 

「我々が?」

 

 深海棲艦たちによる人間の最初の被害者と認められた人々や、人間による深海棲艦の最初の被害者と考えられている者たち、どちらがより先なのか、僕も港湾棲姫も分からなかった。僕は先に手を出してきたのは深海棲艦だと思っていたし、あっちの方ではこっちが先に始めたと思っていた。彼ら彼女らの屍は海に消え、呼び出して話を聞く望みはない。真実は永遠に消え去ってしまったのだ。

 

 僕の心に、何処か心が求める場所へと帰りたかった深海棲艦たちの、限りない絶望が流れ込んできた。望みを果たそうとする度に邪魔をされる怒りが流れ込んできた。理解し合えない悲痛が伝わってきた。分かり合いたい、理解したい、平和を築きたい、人類を、そして自分たち自身を無意味な争いから救いたい。彼女たちの幾らかは決意した。そうしてみせると。人と融和する道を探し出すと。彼女たちの幾らかは決断した。最早救いはないと。人は滅ぼされるべきだと。

 

 融和派たちは動き始めた。だが人はその手を振り払い、愛を伝える為の抱擁に怯え、その胸に刃を突き立て、人を滅ぼすと決めた者たちとの終わりなき戦いに身を投じた。何年も経った。何年も、何年も。融和派たちは諦めなかった。決して諦めなかった。いつか必ず。今日ではなくとも、いつか、いつか。分かり合える日が来る。自分たちと人類が、共に生きていく道はある。そう信じて、彼女たちはその道を照らし出す明かりを探し続けた。探して、探して、探し続けて、ようやく一人の人間を見つけた。

 

 それが僕だ。深海棲艦と心が繋がっている人間。主戦派の深海棲艦たちが作り出すあの司祭殿のような狂信者たちではなく、よき隣人として心と心を結ばれた存在。でも、でも……どうして僕が? 僕は単なる男だ。少年と言ってもいい。特別な生まれでもない。理由がある筈だ。僕と彼女たちの心が繋がった理由とは何なのだ? つまらない偶然? それとも必然? 『それが僕だ』。そうか、分かった。だが理由は存在しなければならない。納得させて欲しかった。僕は港湾棲姫の困惑に触れた。彼女にも理由が分からないのだ。僕は落胆した。

 

 ところが、いきなり僕と港湾棲姫は周りを大勢の艦娘たちに取り囲まれていることに気付いた。僕は驚いたし、港湾棲姫の方もそうだった。彼女の強い当惑が伝わり、彼女の腕の締め付けが一層きつくなった。艦娘たちはしかし、何もしなかった。取り巻く彼女たちの中から、一人の艦娘が進み出て海面を指差した。そこで誰かが、違う、僕が溺れていた。

 

 子供の頃の僕。水の中に沈もうとしている。そこに何かが現れる。艦娘でもない。人間でもない。深海棲艦が。彼女は主戦派の一人だ。彼女は想いを伝える力を利用して、人間を自分たちの崇拝者に変えてしまう。たとえそうしようとしなくとも、そうなってしまう。人間の精神にとって、深海棲艦たちの意志伝達手段は激しすぎるものなのだ。過負荷を起こし、大なり小なり、狂ってしまう。司祭殿にせよ赤城にせよ、何処か宗教臭かったのはそのせいなのかもしれない。

 

 その主戦派の深海棲艦は、僕を狂わせようとした。だがそこで誤算が生じた。誰にも想像できなかった、港湾棲姫たちにも、もちろん僕にも予想できなかったことが起こった。艦娘は深海棲艦から作られた。深海棲艦ほどの「想いを伝える力」はなかったが、彼女たちも単なる人間とは「想い」の強さが違ったのだ。そして、強い想念は死によってすら消すことができなかった。その強い想念が、想念の集まりが、同じ死という運命を前にした幼年期の僕に流れ込んだ。それで、あの主戦派深海棲艦は僕を洗脳しきれなかった。何故なら、僕はあの時、死にたくないと願ったからだ。強く願ったのだ。生きたいと願った。だから彼女たちは、海の上で「死にたくない」と叫んで死んでいった沢山の、無数の艦娘たちの想いは、僕に宿った。僕が艦娘になれたのも何となく理解できる。艦娘の想い、彼女たちそのものが僕の中にいるのだ。艦娘として艤装を動かせない筈もない。だが、それだけではないな。理由はもう一つあるのだと思う。

 

 僕は港湾棲姫に抱きしめられたまま、辺りを見回して、見渡せるだけ見渡した。そこには戦友を守る為に我が身を盾にして死んでいった榛名がいた。非力な身でも臆せず敵に挑み、散っていった五十鈴がいた。体をイ級にむさぼられもがき苦しんだ末に死んだ菊月がいた。撤退する友軍を逃がす為に単身で囮となり、無数の敵機に打ち砕かれた夕立がいた。姉を沈めたレ級に復讐を果たし、共に沈んでいった陸奥がいた。そこには沢山の艦娘たちがいた。僕の知っている艦娘も、見たこともない艦娘もいた。そしてその誰もが僕だったのだ。

 

 戦友の代わりに砲や魚雷を一身に受けて肉片だけになったのは僕だった。絶対に敵わないと分かっていても退かず、最後の一瞬まで戦ったのは僕だった。イ級に臓腑を食い荒らされたのは僕だった。空を埋め尽くす敵機を迎え撃ったのは僕だった。レ級の最後の息遣いを感じながら冷ややかな水に身を委ねたのは僕だった。

 

 僕は、彼女たちは死の間際に思った──もっと強ければ。自分が自分でなくなってもいい、強ければ。死なずに済んだろう。守れただろう。倒せただろう。強ければ。かくもか弱き、女の身で、なかったならば。榛名が、私が、夕立が、僕だったなら──彼女らの想いと、僕の想い。二つが重なり、彼女たちのもっと強ければ、そういっそ男であればという願いが切っ掛けになって、彼女たちの想いは僕に宿った。

 

 これで僕は納得した。ついでに、多くの艦娘たちに嫌われたことにも合点がいった。僕はかつて死んでいった全ての艦娘たち、すなわち艦娘にとっての死そのものなのだ。とりわけ、かつての大戦で沈んだ船をルーツに持つ艦娘にとっては、おぞましいものに見えただろう。死を知っているが為に。長門が僕を嫌ったのも、今なら許せる。あんな沈み方をしたのだ。憎まれても仕方ない。

 

 今、僕は港湾棲姫の抱擁から放たれ、扉の前にいた。人間と、平和を求める深海棲艦が分かり合う未来への扉。僕は隣に立った港湾棲姫の右手をしっかりと握る。鉤爪は冷たくとも、その心は暖かだと分かっているからだ。僕と彼女は、扉に手を当てる。死んでいった艦娘たちは、口々に応援の言葉を投げかける。もう誰も戦争で死ななくてもいい世界を望む彼女たちの声を背に受けて、僕と新しい友人は奮い立つ。重い扉を、二人で開くのだ。遠い海にいる融和派深海棲艦たち、新しい仲間たちが喜ぶ気持ちが、港湾棲姫を通して伝わってくる。永遠にも思われた時間が報われる瞬間がとうとう訪れたのだ。彼女たちは歓喜する。その喜びの嬌声が、扉の向こう、開いた隙間から聞こえてくる。

 

 けれどその時、たった一人、叫びながら僕に突進してくる艦娘があった。あの天龍だった。彼女は僕にたどり着く前に他の艦娘たちに取り押さえられ、怒りに雄叫びを上げて僕を呪った。「腑抜けちまったのか」と彼女は喚いた。「お前の為にオレは死んだんだぞ」と。その声は裏切りへの非難と絶望にまみれていた。僕は歯を食いしばり、その声を無視して、体当たりするように全身の力を込めて扉を押し開けた。

 

 目を開ける。途端、咳き込む。僕は水を吐き出しながら思った。「空気がある」。ここは水上なのだ。それから誰かに抱きかかえられていることに気付いた。

 

「目が覚めましたか」

「赤城か」

「はい」

 

 彼女は僕のせいで服をじっとりと濡らしていたが、気にした様子もなかった。「どうやって助けた?」「どうしてここにいる、とは聞かないのですね?」「順番さ」彼女は微笑んで答えた。

 

「深海棲艦の潜水艦を一人連れてきました。彼女の航行速度に合わせて来た為遅くなりましたが……まあ、手遅れにはなりませんでしたね」

 

 頷く。それから僕は自分が右手にずっと強く握り締めていたものを見た。それは那智教官から貰ったビーコンで、既に停止していた。無線機はまだ作動しており、「信号が途絶えた。誘導できない。作戦中止、作戦中止、帰投せよ」という、誰か知らない男の怒りに満ちた声を吐き出していた。僕は赤城に抱えられたまま、呟いた。

 

「全部、知ったよ」

「把握しています。あなたが我々を受け入れた、と」

「だが……どうするんだ? 人類は切り札を手に入れた。対深海棲艦用通常兵器。勝てる戦いになったんだ、この戦争は。軍のお偉いさんはやめようなんて思わないだろう」

「何とかします。あなたにはその手伝いをして欲しいのですが、断らないでしょうね?」

 

 肩をすくめる。ここで嫌だと言ったら脚部艤装なし、それ以外の艤装着用という状態で海に投げ出されるかもしれないのに、どうしてノーと言える? 僕は何も言わないが、赤城は正しく解釈したようだった。

 

「さて、僕はこれからどうなるんだ? 抱えられたまま海を行くのも悪くないな。楽だ」

「あなたはそれでいいでしょうが、私の腕が持ちません。大丈夫です、じきに迎えが来ます……ほら、来た」

 

 僕は赤城があごで示した方を見た。那智教官だ。ビーコンの反応がロストしたことで、大急ぎで戻って来たのだろう。教官は、この融和派グループの首魁と知り合いであるようには見えなかった。一門残った砲を赤城に向け、警戒も明らかに近づいて来ているのだ。気の置けない友達同士ということはないだろう。那智教官は数メートル離れたところで止まると、赤城への照準を外さないまま、彼女に所属を尋ねた。赤城は答えなかった。彼女は僕だけに聞こえる大きさで囁いた。

 

「……あなたは全てを見た。全てを理解した。私とあなたでなら、戦争を終わらせられる」

 

 無視という敵対的な行為に対して、教官は苛立ちをあらわにした。気にする素振りも見せず、赤城は囁き続ける。

 

「今すぐ私の旗艦から離れろ」

「嘘偽りなく、平和な海が戻る。死んでいったあらゆる人々の命が報われる日が来る」

 

 威嚇発砲。水柱が立ち、飛沫が赤城の顔に散るが、彼女はまばたき一つしない。

 

「聞こえないのか、離れろ!」

「私と、あなたがいれば、夢ではないのです。私と、あなたがいれば!」

 

 二発目の威嚇。空に哨戒機のエンジン音。提督にどやされでもしたのだろう、安否確認に戻ってきたと見える。赤城が引きつった笑いを浮かべ、ようやく那智教官に答えた。

 

「今私がこの人を離せば、艤装の重みで沈みますが、それでもよいのですか?」

「そうだな、艤装を解除しろ」

 

 これは僕に向けての言葉だった。でも僕は従わなかった。

 

「どうした? 艤装を解除して、そいつから離れるんだ」

 

 従わなかった。赤城が言った。

 

「どうするべきか、分かっていますね?」

「ああ、ちくしょう……」

「おい何を言って──何故だ?」

 

 僕は撃った。




その輝くラッパは轟くだろう
「平和あれ、この地上に平和あれ!」と

──コンラート・フェルディナント・マイヤー※102


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「融和」-1

狭き門より入れ、(ほろび)にいたる門は大きく、その路は(ひろ)く、之より入る者おほし。
──マタイによる福音書 第七章十三節



我またヱホバの(こえ)をきく 曰く われ誰をつかはさん 誰かわれらのために往べきかと そのとき我いひけるは われ此にあり 我をつかはしたまヘ
──イザヤ書 第六章八節



かつて、森の中で道が二つに分かれていた。
そして、私は行く者の少ない道を選んだ。
それが、全てを変えてしまった。
──ロバート・フロスト※103



 人生は選択の連続だ。「選択が人生を作る」と言い表してもいい。歩き始める時にどの足から前に出すかさえ、一つの決断だ。そう言ったところで、聞かされた方はこじつけのように感じるかもしれない。が、それはまさに決定なのである。選択せずにいるということはできない──どれだけ頑張ったとしても、「何もしないでいる」という選択を行うことができるだけだ。それを、要するに無為をくさす訳じゃない。下手に手出しするより、黙って眺めていた方がよっぽど上手くいくことなんて、世の中にごまんと転がっている。何にでも口出しするような奴は、何処に行ったって煙たがられることになるだろう。何もしないでいることだって立派な判断だ。

 

 そして往々にして、道は二つか三つに絞られる。それ以上の選択肢があることも珍しくはない、時には数学的な意味で文字通りに無限な選択肢を持つこともあり得る。だが選ぶ立場の人間が問題にするのは、概ねその中の二つ三つばかりなのだ。

 

 それは大体こういうものだ。つまり、闘争か逃走か、外に出るか家に引きこもるか、嘘か真か、航空戦隊か水雷戦隊か、砲か魚雷か、海軍か陸軍か、海軍か空軍か、都会か田舎か、タバコか大麻か、殺すか殺されるか、胸か尻か、巨乳かそれ以外か、長身か短躯か、肥満か痩身か、同じベッドに入るなら男か女か、大人か子供か、塩かたれか、長髪か短髪か、友達か恋人か、お茶かジュースか、詩か歌か、指輪かイヤリングか、殴るか蹴るか、カラー映画か白黒映画か、今か昔か、資本主義か共産主義か、隼鷹か那智教官か、不知火先輩か響か、蜂蜜かメープルシロップか、命か名誉か、賞賛か誹謗か、正義か道徳か、感情か理性か、酒を飲むか飲まないか、飲むなら何を飲むのか(ビールか発泡酒か、ウィスキーかウォッカか、ワインか日本酒か、ショートカクテルかロングカクテルか)、生きるか死ぬか。

 

 迷う必要は余りない。大概、問うた時にはもう自分にとっての答えが出ている。僕を例にとって答えればこうだ。闘争、外に出る、真、水雷戦隊、砲、海軍、海軍、都会、両方ダメ、殺す、胸、巨乳、長身、中間、絶対に女、個人的道徳と社会的道徳のどちらの観点に立っても大人、塩、どっちもよい、恋人、最近はお茶、歌、イヤリング、殴る、カラー映画、今、資本主義、那智教官(とはいえ隼鷹なしではやっていけないだろう)、大いに苦悶するがどうしてもどちらか片一方選ぶとしたら響、蜂蜜、命、賞賛、正義、理性、バッカスのごとく飲む、何でも飲む、生きる。※104

 

 重要なのは、何であれ選ぶことが自分の未来を狭めているということを認識して、理解しなければならないという点だ。決定は、いい加減に行っていいものではない。そこを理解し、受容できていなければ、時に正しい選択ではなく、自分の欲求にのみ基づいた誤った決断を下してしまう恐れがある。僕は融和派深海棲艦たちを受け入れることを選んだ。もし受け入れていなければ、どうなっていただろう? 赤城が助けてくれず、そのまま溺れ死んでいた、というのもありそうだ。あるいは、それでも説得しようとして僕を助けた赤城が、那智教官に頭を吹き飛ばされていたかもしれない。艦娘になっていなければ? 子供時代、海に近づかなければ? どうなっていた? 今とは全く違う現在があったに違いない。しかも、それはもしかしたら、僕が現実で享受している今より優れたものかもしれなかったのだ。

 

 それを認めた上で、自らに問いかける。僕のやったことは、正しかったか? 僕は答える。「あれが最善だった」と。

 

*   *   *

 

「──何故だ?」

 

 僕が教官に砲を向けたのを見て、彼女は驚くよりも純粋な疑問としてそう一言漏らした。僕は答えずに撃った。

 

 でも、彼女を殺すつもりはなかった。当たり前だ。那智教官を殺すぐらいなら、僕は自分の頭を撃ち抜く。その方が百倍マシだ。那智教官は砲撃に対して完全な反応が取れないほど動揺していてさえ、反射的に体を捻って避けようとした。それで僕の撃った弾を避けきっていたらマズいどころではなかったが、幸いにも彼女が避けようとしたことによって、ベストな結果がもたらされた。彼女のたった一門残った砲の、砲身を破壊することができたのだ。砲塔を破壊するのと得られる効果は変わらないが、弾薬の誘爆もなければ、砲塔に配置されていたであろう妖精を木っ端微塵にせずにも済んだ。これで彼女は非武装だ。赤城を射殺することはできない。

 

 僕はどうしても、彼女を逃がさなければならなかった。彼女は融和派グループの指導者だ。捕まれば処刑される。慈悲や恩赦は期待できない。それは困るのだ。僕は彼女以外に融和派の深海棲艦とコンタクトを取れる人物を知らない。まかり間違って主戦派深海棲艦と出会ったら、命が幾つあっても足りない。

 

 艤装を全解除する。赤城は僕を海に放り出して、逃げに入った。那智教官は赤城を追おうとしたが、海面下から姿を見せた彼女の連れにして僕の救い主、潜水ヨ級を見てそれをやめた。幾ら教官が強くても、無手で潜水艦と戦うことはできないからだ。教官は去っていく赤城たちを悔しげに見送った後で、僕を向いて言った。

 

「貴様、自分が何をしたか分かっているのか?」

 

 体から力を抜き、水に浮かぶ。空中の哨戒機に乗っている連中は腰抜けだから、深海棲艦が支配する海域の奥深くまで追うことはないだろう。だが僕が那智教官を撃ち、赤城を逃がしたことを彼らは上に伝える。僕は捕まる。でも殺すには惜しい筈だ。そうであってくれ。即時処刑さえ免れれば、赤城たちが助けに来てくれるだろう。それか、自分で何とかする。たとえば神に祈るとか悪魔を呼び出すとか、そういうやり方で。

 

 教官は僕を水の中から引きずり出すと、肩に担ぎ上げた。それから回収地点にたどり着くまで、僕らは一言も口を利かなかった。二人ともが完全に無言だったのではない。教官は第二艦隊に「もう助けは必要ない」と伝えなければならなかったからだ。ただ、それはもちろん、僕へ向けた言葉じゃあなかった。

 

 回収用のヘリには艦隊員たちが揃っていたが事情を知らないようで、僕の怪我を心配こそすれど、この後に何が起こるかについては触れもしなかった。僕は曖昧に友人たちの言葉に答え、しっかりと彼女たちの姿を目に焼きつけた。二度と会えなくなるかもしれないという事実を、認めずにはいられなかったのだ。お咎めなしで済むなんてことはあり得ない。提督がどれだけ政治力に長けていても、こればかりは無理な相談だ。彼女にできることと言ったら、僕を処刑する時に楽に死ねるようにさせること程度だろう。それはそれでありがたい話だが。

 

 基地に戻ると、報告の前に兵舎に寄って服を着替えて来るようにと提督から言われた。提督を待たせるのはよくない、という共通の認識から、第五艦隊の旗艦は五人の艦隊員たちに先んじて着替えてよいことになった。そこで僕は左耳にいつもつけていたピアスを外し、綺麗に拭い、それをどうするか数秒迷ってから、那智教官の荷物の中に放り込んだ。余計なことをしただろうか? けれど、彼女に渡すのが一番よいように思えたのだ。僕は手早く着替えると、提督が僕を呼びつけた基地司令室に向かった。

 

 そして僕は戦闘中行方不明(MIA)になった。

 

 不思議な話だ。第五艦隊の面々は全員、僕がヘリに乗り込んだところを見ている。操縦士も。ヘリの着陸誘導をしてくれた誘導員も。僕が気付かなかった人々を加えたら、僕を見た人の数はもっともっと多くなる。ところが僕は「戦闘中行方不明」なのだ。表向きの書類上では、こういうことになっているのだろうと思う。「世界唯一の男性艦娘にして第二特殊戦技研究所所属第五艦隊旗艦;大規模作戦における任務の最中、多数の有力な敵と交戦、状況から戦死はほぼ確実と見られるが、遺体は見つかっていない」何とも素っ気ない態度だ。

 

 もちろん、僕は空軍基地で戦闘中行方不明になれるほど器用な男ではない。待ち構えていた憲兵にあっさりと捕まえられてしまっただけだ。MIA扱いになったと知ったのは、その翌日から早速始まった取り調べにおいてだった。両親はどんなに嘆き悲しんでいるだろう! 一人息子が海に消えて戻らないと知らされて、腹を抱えて大笑いした筈がないのだ。少なくともその点については、僕はとんでもない親不孝者だった──取り調べ担当の憲兵が言った通りに。

 

 しかし、僕の親不孝は笑えないにしても、この取り調べというのはお笑い(ぐさ)だった。実際、僕は何も調べられなかったのだ。それは調査と呼ぶより、むしろ「確認」と呼ぶべきものだった。僕に対する彼ら(憲兵隊)の取り調べはこんな感じだったのである。「恥知らずの裏切り者!」「いや、僕は……」「黙れ!」「痛いな、殴るなよ!」「お前がかばったのは融和派グループのリーダーだ。お前はグループの一員だな? いつからだ?」「昨日から」「ふざけるな!」これが取り調べと言えるだろうか?

 

 僕は数日に渡ったこの謎めいたやり取りとしつこい殴打を通じて、一つのことを学んだ。憲兵大尉殿は真実など求めておられないのだ。彼が求めているのは僕の協力だけ。だから僕は、もし彼に「お前は首都で爆弾テロを目論んでいたのではないか?」と聞かれたら、頷けばいい。そうしたら殴られないで済む。憲兵隊付艦娘に痛めつけられたり、指を折られたりすることもない。椅子から突き落とされてサッカーボールみたいに蹴られる心配もしなくていい。「今の政府や軍のやり方に不満があるだろう?」その通り。「誘拐・拷問に関わったことは?」誘拐と拷問? それは僕にとって週末のちょっとした息抜きみたいなものだ。「多額の報酬を受けることを見返りとして、融和派たちに軍の情報を流したろう?」これは驚いた、よく知ってるな。僕自身すら知らなかったのに!

 

 という訳で、取り調べ開始から数日後、僕の罪状はとんでもないことになっていた。それによると、僕は訓練所時代から活動していた筋金入りの融和派で、有力なグループの副リーダーを務めていて、ここ数年の国家首脳や軍の重要人物の暗殺並びにその計画全部に直接・間接とを問わず関係しており、それだけでなく口に出すのも恐れ多い方々への襲撃をも企んでいて、更に他国のスパイであり、民間人たちの恐怖をあおる為に残虐なテロを起こすことを楽しむ異常者で、反省しておらず、同性愛者で(仮にそうだったとして、それが罪だとでも?)、差別主義者で、小中学校ではいじめられており、親からは愛されていなくて、今までに恋人ができたことがなく(これは事実)、友達もなく、そういった経験によってかくも性酷薄にして憎まれるべき人物に成り下がったそうだ。

 

 取り調べ最終日、この立派な経歴を聞かされた僕は「これは流石に死刑かな」と思ったが、軍は僕が思っていたより僕に価値を感じていたらしい。僕は教化収容所に送られた。ここは殺すには惜しい融和派の為の刑務所で、そういった人々は軍にとって利用価値がある内はここで生きていることを許されるのだった。言うまでもなく、軍が無価値な融和派を生かしておくことはない。なので、収容所には死刑を執行する為の施設も併設されていた。収容所に入る時、所長は僕と数人の新入りを手ずからそこに案内してくれたのだ。彼は言った。

 

「絞首刑の落下距離は絶妙な高さに調整してある」

 

 僕は聞き流していたが、後で古参の囚人からあれは「長く苦しむように、落下の衝撃で囚人の頸椎が折れない高さに設定してある」という意味だと教えて貰った。首が折れないから、意識を失うまでに最善で一分半ほど、悪ければ二分三分、最悪の場合それ以上掛かるのだそうだ。その間の苦痛は計り知れないものであろう。見たことがある訳ではないが、不適切なやり方で首吊りをして死ぬと、失禁する以外にも肌が鬱血して紫色になり、目や舌は飛び出して凄惨な形相になるという。全く人間というのは、何か誰かを傷つけることとなると喜々として取り掛かるのだから手に負えない。

 

 最初の二ヶ月は戦々恐々として過ごした。それでも僕には希望があったから耐えられた。そうではなかった同期の一人は、ある夜シャワー室からタオルを盗んできて、それを引き裂いて作った紐と監房のドアノブを利用して首を吊った。僕と数人はその後始末をさせられた。彼と親しかった別の同期によると、彼は外では医者をやっていたそうだ。だからこそコツを心得ていたようで、彼の死に顔は安らかだった。上手に首を絞めたので、即座に失神することができたのだろう。

 

 二ヶ月が経つと慣れた。仕事で忙しかったから、自分のことを考える余裕がなかったせいもある。収容所では刑務所と同じく労働が義務付けられており、その日によって様々な仕事を割り当てられたが、これを怠ったりすると昼食抜きや夕食抜きにされるのだった。収容所の食堂の柱という柱には、誰かによってTANSTAAFL(無料の食事などというものはない)※105という至言が刻まれていたものだ。

 

 僕にとって、収容所での楽しみは主に三つあった。一つは食事。収容所の外ではこんなものは絶対に食べないだろうというようなひどいものだったが、働いて空腹でへとへとになった時になら何を食べてもおいしいものだ。僕は理由があって食べなかったが、毎夕食にはデザートとして市販の袋入り一口サイズのチョコパイが一個ついてくるという嬉しさもあった。

 

 もう一つは読書。収容所には囚人の不満を発散させる為に図書館が併設されており、各囚人は一冊だけ借りて自分の監房に持ち帰ることが許されていた。本でならどうやっても自殺されることはないし、読んでいる間は静かにしてくれるんだから、収容所の方から考えれば言うことなしだったのだ。図書館は無益なつまらない本で埋め尽くされていたが、僕も何度も利用した。

 

 最後の一つは少しだけ危険だった。音楽だ。本と違って、こっちは認められていなかった。だが二ヶ月もあれば、僕だって収容所での振る舞い方や探し物の仕方、命が惜しければ関わるべきではない囚人は誰かなど、常識程度のことなら身についていたのだ。これは僕がチョコパイを食べなかったことにも関わりがある。この安っぽいパイは、この収容所の囚人の間では通貨の役目を果たしていたのだ。なので僕は食事についてくるチョコパイを貯めてから、囚人たちに調達屋として知られている収監者の一人に、ポータブルCDプレイヤーとイヤホン、それに那珂ちゃんのCDを頼んだ。残念なことに二ヶ月分のパイを全部差し出しても代金が足りなかったが、この囚人はたまに那珂ちゃんの歌を自分にも聞かせてくれることを条件にして、二ヶ月分のパイで引き受けてくれた。

 

 調達屋は仕事をきっちりやり遂げた。充電の為に、小型発電機を自作して電気を売っていた別の大物囚人に支払わなければならなかったので、CDプレイヤーなどを手に入れても引き続きパイは食べられなかったが、那珂ちゃんの素晴らしい歌声と腹の足しにもならないチープなパイ、どっちがいいか聞かれて迷う奴はいるまい。ああ、確かにパイは甘いものだ。甘味は心を和ませもする。でもその場限りのものだ。那珂ちゃんの歌は違う。監房臨検で僕の偽装を見破れたなら、CDやプレイヤーを取り上げることはできる。けれど僕の心に染みついた彼女の歌声を取り上げることは誰にもできない。彼女の歌は永遠なのだ。

 

 環境を整え、慣れてしまうと、時間はすぐに経った。二ヶ月、半年、九ヶ月、十一ヶ月。約一年だ。その間に、僕は十八歳の誕生日を獄中で迎えるという類稀なる経験をした。誕生日を教え合うほどに親しくなっていた何人かの受刑者は、仲間内で一番年下の僕にパイでバースデーケーキを作り、蝋燭を差してプレゼントしてくれた。人生で最もちんけなケーキだったが、あれほど温かみのある贈り物を受け取ることが、一生の内にどれだけあることだろう。

 

 一年。長い時間だ。僕は外の様子が知りたかったが、新聞や雑誌などは読むことを禁じられており、図書館にも置いてなかった。新入りから話を聞いたり、情報通の囚人に何かくれてやって、彼が聞いた嘘か本当かも分からないような情報を受け取るしかなかったのだ。色々な話を聞いたが、絶対の事実と自信を持って言えることはただ一つ。まだ戦争は続いている。有効な通常兵器が投入され始めたことによって人類は制海権を取り戻しつつあるが、深海棲艦は粘り強く抵抗しているそうだ。僕は彼女たちと矛を交えた身として、このニュースを驚きもなく受け止めた。連中は強い。連中は諦めない。最後の最後まで戦うだろう。融和派の深海棲艦たちだって、いよいよもう手がないとなれば、黙って殺されはするまい。

 

 早くここを出たかった。第五艦隊はあの後どうなったんだ? みんな生きているのか? 赤城たちはいつ助けを送ってくれるのだろう? 僕が一人でここを出ていくことはできない。看守には人間だけでなく、艤装を着用した艦娘もいるのだ。強行突破など不可能である。艦娘たちは例によって僕を嫌っているから、撃つ時はとことん撃つに違いない。肉片も残るかどうか。出るには出られるだろうが、死体袋や棺に入ってでは意味がない。僕は焦りながらも、毎日自分に言い聞かせた。多分明日さ、そうじゃなきゃ明後日だ。それも違えば、明々後日……もう一年も経ったことは、なるべく考えないようにしながら。それで希望を保つことができた。今朝までは。

 

 今朝、僕は朝の点呼の後で呼び出され、収容所長からじきじきに告知を受けた。お役所的な長々としたお話だったが、要約すれば一文になるような中身のないものだった。

 

「明朝、死刑を執行する」

 

 へなへなと腰が抜けてその場に崩れ落ちる。守衛が僕を蹴り飛ばしたが、何の効果もなかった。そこからどうやって戻ったか覚えていない。今日の労役は免除され、昼夕食は抜きになった。死刑執行後の後片付けを楽にする為の処置だ。囚人たちと話をしたかったが、彼らは僕を遠巻きにした。気持ちは分かったので、責められなかった。これから僕は死ぬというのに、親交を深めても後がつらくなるだけだ。僕は監房に引きこもり、那珂ちゃんの歌を聴いて時を待つことにした。できるだけ、自分に信じ込ませようとした。赤城たちは最後の瞬間に来るのだと。

 

 どうしてこのタイミングで死刑を行うことになったのか、僕には分からなかった。今までに僕の手に入れることができた僅かな情報は、かねてから海軍が僕を生かして研究対象にしようとしていたこと──そして陸軍が僕の処刑を主張していたことを示していた。今度のことについては、陸軍が勝ったのだろう。男性艦娘などなくとも、戦争はじきに人類の勝利で終わる。僕が死んでしまっても、痛みは小さい。きっとそういう理屈だ。世界で唯一男性艦娘を実用化できたなら、それは軍事的に大きな意味を持つと思うが、上層部の意見は僕のと違うらしい。

 

 つらかったが、自殺を選ぶつもりはなかった。最後の最後まで信じてあがくのだ。赤城は僕を裏切れない。ここで僕を死なせはするまい。目を閉じると、絞首刑の直前に僕を救い出してくれたかつての赤城の姿が目に浮かんだ。思えば、最初に僕を吊るそうとした融和派、あれは主戦派深海棲艦が関わっているグループだったのではないだろうか。あの時ほどに派手な登場はしなくていいから、早く助けてくれればいいと思う。

 

 と、監房の扉が叩かれた。正確な時間は知らないが、恐らく今は自由時間中なのだろう。ベッドに腰かけていた僕はのろのろと立ち上がり、扉を開けた。そこには友人の一人が一冊の本を手に待っていた。彼は真摯な目で僕を見て言った。「救いはこの中にある、読みなさい」※106 そうして本を僕に押しつけるや、さっさと行ってしまった。後には僕と、彼の本が残された。僕はそれを見た。かつて響が読んでいたような、聖書だった。僕はそれを床に投げつけて踏みつけにしてやりたいと思った。八つ当たりにだ。でも響のことを思うと、どうしてもそんなことはできなかった。そんな様子を彼女が見たら、深く傷つくと僕は知っていたからだ。響を悲しませたくはなかった。彼女がその姿を見ることが起こり得ないにしても。

 

 聖書を持ったまま、ベッドに腰を下ろす。適当に開くと、僕でも知っている有名な箇所が選ばれた。貸してくれた友人が好んでそこを読んでいたのか、たまたまか、どちらにせよ僕はそこを読んだ。「主は私の羊飼い。私には何も欠けるものがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。主は御名に相応しく、私を正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」※107

 

 僕はやっぱり、主を信じようという気にはなれない。誰かに飼ってなど欲しくないし、鞭打たれるのもごめんだ。死の陰の谷を行く時に僕が災いを恐れないとしたら、それは主のお陰ではなくて、僕自身がその死の陰の谷で一番ヤバい災いそのものだからであって欲しいのだ。※108 けれど、僕は確かにこの言葉の中に響を感じた。彼女が今、「死の陰の谷」を歩む全ての人々の為に祈ってくれていると感じ取れた。天国とこの汚濁にまみれた現世は遠く離れているが、彼女は今、僕の傍にいようとしてくれているのだ。後は僕が歩み寄れば、僕は彼女と肩を寄せあうことさえできるのだ。

 

 だって、彼女は言ったじゃないか。「君が自分の務めだと思うことを果たすんだ。その時私は私の務めを果たしているだろう。君の横か、何処か違う場所で、君のことを忘れるぐらい一心に。そしてその時こそ、私たちが互いを忘れて使命に打ち込んでいるその時こそ、実はめいめいがぴったりと身を寄せあっているんだよ」と。彼女が祈りをおろそかにする筈がない。なら、僕が僕のやるべきことをすれば、僕と彼女は近づける。聖書を貸してくれた友人は正しかった。「救いはこの中に」まさしく。

 

 けれども、やるべきこととは何なのだ? 死ぬ覚悟を決めることか? それとも何とかして生き延びる手段を探すことか? あるいは、赤城を信じて何もせずに待つことか? 分からない。聖書のページをめくる。すると、ぽろりと何かが落ちて床に当たり、金属音を立てた。それを拾って見てみる。十センチぐらいの細長く、平べったい棒だ。先は鋭く尖っており、有用そうな鋸刃がつけられている。

 

 体から力が抜けた。でも今度は恐怖やショックからではなく、見捨てられていなかったという安堵からだった。赤城は彼女の務めを果たしてくれたのだ。後は、僕がこれをどうやって隠し、どうやって用いるかということだった。伝聞ではあるが、死刑執行に至るまでの流れは分かっている。まず、今着ている囚人服──長袖、映画的な蛍光オレンジ──はそのままに、手を体の前にして手錠をかけ、刑場まで連行する。首に縄を掛ける。執行する。囚人が死ぬ様子は、刑務官たちの精神衛生の為に見えないよう取り計らわれており、二、三十分ほど後に医師が刑務官を伴って死亡を確認しに下へ降りる。死亡を確認された囚人はその場で死体袋に入れられ、外への直通路を通って、収容所から少し離れたところにある火葬場へ運ばれる。

 

 この収容所の外がどうなっているのか分からないのが不安要素だった。仮に放棄された石油リグや海上基地を改造して作られていたりしたら、逃げようったって逃げられない。海に飛び込んで潮の流れに身を任せるというのも自然主義的で、自殺のやり方としては悪くないアイデアだ。が、それなら看守たちに撃ち殺して貰った方が早いし、もし撃たれる回数が一度で済めばの話だが、見栄えも水死に比べてぐっとよくなる。

 

 まあいい。この収容所で確実に死ぬか、生きる希望を求めて外に出るかなら、答えは決まっている。それよりも大事なことを考えよう。どうやってこの刃物を隠して持ち込む? 意識を失うまでの九十秒で縄を切り、逃げる。不可能ではない。これを隠していられれば。何処に隠す? 口に入れるには大きすぎる。尻の穴? 冗談じゃない、鋸刃がついてるんだぞ。服に縫い込む? おい、そりゃいいアイデアだな! よし、ちょっとコンビニにでも行ってソーイングセットを買ってきてくれよ。ついでにビールと雑誌も頼むぜ。

 

 ダメだ。僕は新しい考えが降ってくることを期待して、聖書をまたぱらぱらとめくった。すると、本の一部が切り抜かれ、そのくぼみに小瓶が仕込んであるのを見つけた。うーん、新しい考えではないが、似たようなものだ。ラベルが貼られていなかったので、僕はその瓶のふたを開けて、匂いを嗅ぎ、指先にしずくを垂らしてそれを舐めてみた。舌に覚えのある味だ。修復材? 確認の為に、さっきの刃物を使って指に小さな傷をつけ、そこに一滴振りかける。治癒される。

 

 で、これをどうしろと? 僕は先ほどまでの赤城への親しみや感謝の気持ちは何処へやら、彼女を問い詰めたい気分になった。修復材をここに入れたのは、親切さからじゃないだろう。粗製ナイフとこれを使えということだ。つまりどういうことか? 赤城は隠し場所として、僕自身の肉体を用いるようにと言っているのだ。あのナイフを腕に挿入し、修復材で傷を隠して、必要になったら圧迫して皮膚を破らせ取り出して……考えるだけで頭がくらくらする。

 

 だが他にいい手もなかった。今やるべきだろうか、それとも明朝、連行の直前? できるだけ後回しにしたいが、正確な連行のタイミングは分からない。仕込みの最中に奴らが来たらおしまいだ。今しかない。僕はベッドのシーツをはがし、それを思いっきり噛んだ。それから左の袖をまくり、右手に粗製ナイフを掴み、震える手で切っ先を自分の左腕の半ばぐらいに突き刺した。悲鳴が漏れそうになるが、シーツを噛んでいるお陰ですすり泣き程度の声量に抑えられた。切っ先が肉を割り、鋸刃が軽く引き裂きながら腕に潜っていく。早くしないと血を失いすぎるが、急いで手元が狂ったら動脈を破ってしまう。痛みと恐怖に震えながら僕は挿入を終え、ただちに修復材を振りかけた。傷口は塞がったが、腕の異物感は取れない。それどころか、動かすと痛む。

 

 腕を見る。皮下出血でくっきりと浮き上がっているが、どうせ袖で隠れる。今日はもう寝よう。痛みから逃れるには眠るのが一番だ。どうにか片手でシーツを戻し、聖書のページを破って床の血を拭い取って、ベッドの下に投げ込んだ。もっときちんと処理できたらいいのだが、最低限僕がことを起こすまでバレないでいてくれればそれでいい。ベッドに横になって、目を閉じる。じんじんと痛む腕から意識を切り離し、眠りの海へ沈んでいく。

 

 けれど痛みがどうしても僕を完全な眠りの中に休ませてくれなかった。半分眠っていて、半分起きているような状態だった。それでもなお眠ろうと努力していたが、不意に誰かの気配を感じて僕はうっすら目を開いた。僕の寝ているベッドに、響が腰かけていた。「やあ」と言おうとしたが、言葉は出なかった。でも僕の思いは彼女に伝わったと分かった。彼女が僕を見て、天使の微笑みを浮かべてくれたからだ。

 

 腕から痛みが引いていくのが感じられた。なくなりまではしなかったが、随分と楽になった。感謝を伝えたくて、響に向かって右手を伸ばす。彼女はそれを片手で取って僕に近づくと、もう片方の手で僕のまぶたを下ろさせた。そのせいで、もっと彼女の姿を見ていたかったのに、僕は今度こそ眠ってしまったのだった。

 

 監房の扉が無遠慮に叩かれる。いっぺんに眠りから叩き起こされて、僕はベッドから飛び出た。それと同時にドアが開けられ、外に控えていた四人の刑務官の内、二人が中に入ってきた。僕は素直に両腕を前に出し、手錠を掛けさせた。一年間を共に過ごした融和派たちの監房の前を歩いていく。どの監房の扉の覗き窓からも、見知った顔がこちらを見ていた。その眼には同情と安堵が表れている。あいつ可哀想にな、でも自分じゃなくてよかった。

 

 この収容所には大勢がいて、中には誤ってここに入れられたとしか思えない奴らもいたが、大半は間違いなく融和派だった。赤城のグループと近い団体出身の者もいれば、赤城たちとははっきりした敵対関係にあるグループの構成員もいた。後者の連中は、多分主戦派深海棲艦たちが作らせたグループなのだろう。しかし、この収容所にいる間は僕らは対等だった。互いに敬意を払い、繊細な問題には触れないという簡単なルールを守っている間は、僕らはただの隣人同士でいられたのである。彼らに対しても、多少の親しみは感じていた。僕は笑いかけてやりたかったが、刑務官に見られていては叶わなかった。

 

 刑場へ向かうにつれて、鼓動が早まる。命の懸かったぶっつけ本番だ。けれど、艦娘として戦っていた時は毎回がそれだった。そして僕はその中を生き延びてきた。今日でそれが終わるとは思えない。生きるのだ。生き延びて、僕がやらなければいけないことをやるのだ。正直、やりたいことではない。深海棲艦たちと意志を疎通できる能力も、艦娘として戦える力も、何もかも僕が欲したものではなかった。でも、決して望まなかったにしたって、それはやっぱり僕のものなのだ。しかも返上も移譲もできない。全く、強引で人の気持ちを無視したやり方だ。それでも僕にはその権力に、行使可能な権利に対して義務がある。義務は果たされなければならない。望むと望まずとに関わりなく。

 

 刑場、刑室の所定の位置に立たされて、首に縄を掛けられる。深呼吸を始める。耳鳴りが始まった。横で刑務官が何か言っているが聞き取れない。部屋の上にかけてある時計の分針が、一周を終えた。

 

 瞬間、僕は落下していた。あっと言う間どころか、そんな間もなく衝撃が首の辺りに走る。頭の上でがちゃりと音がして、落とし戸が縄を挟みながら閉じられた。息苦しさにパニックを起こしそうだ。左腕の袖をまくり、ナイフを仕込んだ辺りを右手でぐい、と押し出すように圧迫する。痛みで悲鳴を上げなかったのは、首が絞まっていたからだ。皮膚を引き裂いて粗製ナイフの先が出る。それを掴んで引きずり出す。血に濡れたそれをしっかり握り、頭の上の縄に鋸刃を叩きつけ、前後に動かす。

 

 心臓が爆発しそうだ。頭が痛い。縄の半分まで切れた。視界が暗くなってくる。手に力が入らない。僕は左腕の傷口を手錠の鎖に押しつけて、自分自身を痛めつける。頭の中で痛みのスパークが起こり、再び手に力が戻った。渾身の力を込めて、引き切る。

 

 縄が切れた。僕はどさりと床に落ちてごろりと転げたが、激痛が脇腹に走った。見ると、縄を切った時に落としてしまったナイフが脇に刺さっていた。引き抜いて捨ててしまいたい、だがそれをすれば出血がひどくなる。今でも左腕からは血が流れているのに、これ以上血を失いたくない。呼吸を整え、苦痛に抗う。床に手と膝を突いて立ち上がろうとするが、力が抜けて倒れそうになった。そこを脇から誰かに支えられた。僕は恐怖に駆られてその誰かを見たが、その次に僕を襲ったのは驚きだった。

 

「響?」

「不知火に見えるかい? さあ、行こう。脱出だ」

 

 艦娘らしい力、彼女の体躯からすると考えられないほど強い力に引き上げられて、僕は立ち上がった。壁にもたれかかり、意識は朦朧、足元は生まれたての鹿みたいにふらついているが、歩ける。「こっちだ」と響は扉の一つを指し示し、その先へ行ってしまった。誰かいないか確かめに行ってくれたのだろう。追いかけなくてはいけない。響だ。助けに来てくれたのだ。脇に刺さったナイフを今より押し込んでしまわないように、刺さっていない側の肩で壁を押しながら進む。倒れそうになってもその度に響が「ほら、もう少しだ」などと声を掛けてくれるので、苦痛はあってもつらくはなかった。

 

「君が……生きていたなんてな」

「復活さ、灰の中からね」

 

 僕は笑ったが、そうすると横腹がひどく痛んだ。昨日にせよ今にせよ、これほどの激痛は一年ぶりだからか、その痛みはかつて僕が耐えていたものよりも小さい筈だというのに、耐えられそうになかった。半ば泣きそうになりながら足を進める。涙で目がかすみ、一歩二歩進むだけで息が切れる有様だ。この一年間、暇と隙とを見つけては鍛錬を行い、身体能力の維持に努めてきたというのに、たった一本の細いナイフが腹に刺さっただけでこれか。

 

 血の痕を残しながら響を追って進むと、狭い車庫に出た。車一台で満車になる、家庭用と見まごう大きさだ。誇張ではなく、実際に一台の小型トラックでぎゅうぎゅうになっている。だがそんなことはどうでもいい。外が近いのだ。その喜びに身を任せて飛び出ていこうとする僕を、響はそっと、しかし力強く押しとどめた。「静かに。耳を澄ませるんだ」現況を鑑みると、彼女に抗うのは愚かなことだ。僕は傷の痛みから逃避するように、音へと耳を傾けた。そうすると、男の声が二つ聞こえてきた。もっと言えばエンジン音も聞こえてきた。恐怖や興奮で、トラックのエンジン音さえ聞こえなくなっていたらしい。

 

 僕らはトラックの真後ろに出たので、サイドミラーで姿を見られる心配はなかった。息を潜めている限り、声を聞きつけられることもあるまい。さて、ここからどうするんだ? 響に視線を送る。だが彼女は辺りを調べていて、僕の視線に気づいていないようだった。無論、そのことで気を悪くしたりなどしない。彼女は彼女のベストを尽くそうとしてくれているのだ。僕は僕の役目を果たす。気をしっかり持って、僕が必要だと響が言ってくれた時に手を貸そう。

 

 やがて響は残念そうにかぶりを振って、決心した顔で言った。

 

「とても痛いことを頼むことになる。いいかい?」

「何でも、響。今日は僕が君の指揮下だ」

「脇腹のナイフを抜いて、トラックの後部タイヤをパンクさせるんだ。チェックしに一人下りてきたら私が気絶させる。残りの一人の面倒も見る。できるかい?」

 

 それは……予想してなかったな。でも、響が言うんだ。必要なのだろう。黙って頷くと、彼女は僕にダクトテープを渡してくれた。車庫に置いてあったもののようだ。「これは?」「穴は塞がないとね。そうだろう?」納得だ。トラックの下に潜り込む響を見ながら、大きく息を吸って、歯を食いしばり、刺さったナイフの柄をつまみ、一挙に引き抜く。はっ、はっ、と浅く息をしつつ、上着をまくり上げてダクトテープをぐるぐると地肌に貼りつけ、傷を塞ぐ。

 

 血に汚れた指で涙を拭い、赤く染まったナイフを掴む。「響」「準備はできてるよ」では始めよう。ナイフをタイヤに突き刺し、引き抜く。聴覚に意識を集中させると、運転席と助手席の二人が困惑する声が聞こえる。その内に罵り声が一つして、助手席のドアが開いた。彼は盛んに悪態を吐きながら、大股で後部タイヤへと近づいていく。響は彼を行かせておいて車体の下から転がり出ると、整備用のレンチで彼の膝の裏を殴りつけ、体勢を崩したところで首を締め上げた。上手く極まったようで、彼はあっさりと気絶した。

 

 もう一人の男が声を掛けてきた。当然、誰も答えない。不審に思った彼も近づいてくる。そして同じ手で気絶させられる。響は戻ってくると、うずくまっている僕に手を貸して立ち上がらせ、彼女のお荷物な相棒を手を引いて車庫のシャッターまで連れて行き、ボタンを押して外界への最後の障壁を取り払った。

 

 朝が終わる寸前のひんやりとした風が吹いて、喉の奥から「ああ」と呻きとも溜息とも取れない声が漏れた。先に進む響を追う。舗装された道を外れ、その道を挟む林や森の中に足を進める。海上基地ということはなさそうだ。

 

 風のせいか、体が冷えてきた。彼女の声が遠くに聞こえる。手が震える。自分では分からないが、多分足もだろう。結局、木々の間に分け入って暫くしたところで、僕は地面に倒れ込む。土の湿り気、土の匂い。響が戻ってくる。彼女は僕を引っ張り、太い木に僕をもたれかけさせてくれる。意識が遠のく。彼女は僕の手を握る。けれど響に握られた筈の僕の手は、何も感じない。彼女の体温も、力も。彼女は顔を寄せて、耳元で囁く。「大丈夫、今に助けを呼んでくるから……大丈夫……」僕は安心して意識を手放す。響が大丈夫だと言うなら、大丈夫だろう。

 

*   *   *

 

 その後最初に感じたのは揺れだった。失神してからそう経っていない頃ではないだろうか。誰か分からない女性が僕に「よく頑張ったな。もう安心だ。私が守ってやる」と呼びかけ、少々乱暴に頭を撫でるのを感じた覚えがある。ただ、その時にはすぐまた僕は気を失ってしまったので、何がどうなっているのか把握する余裕がなかった。実のところ目を開けることも、声の主が誰なのか判断することさえもできなかったのだ。僕ができたのは、その声を受け入れることだけだった。

 

 次に感じたのは猛烈な空腹と渇きだった。耐えられなくて目を開くと、僕は自分がベッドの上にいることを発見した。点滴を打たれていたが、空になった輸血パックが部屋の隅に置かれたゴミ箱へ無造作に放り込まれているのを見て、僕はここが病院ではないようだということを察した。起き上がり、周りを見る。ドアが一つ。窓なし。壁紙は花柄。趣味が悪い。家具もほとんどないし、壁紙を除けば人間味のない部屋だ。少し埃っぽいから、使われていなかった部屋なのかもしれない。

 

 数少ない家具の一つであるベッドサイドの棚の上に、水差しとコップが置いてあった。空腹はともかく、渇きはこれで抑えられる。コップに水を注ぎ、二杯、三杯と飲む。持って来られてから時間が経っているのかぬるくなっていたが、水分に違いはない。僕はやっと人心地つけて、体から力を抜いた。リラックスして、考えを巡らせる。誰か呼ぶべきだろうか。そうだ、響は何処だ? 響の居場所どころか、ここが何処だかも分からない。が、僕をここに連れてきたのが誰であるにせよ、そいつは脱走犯を単に殺してしまうつもりではないだろう。だって、放っておいても死んだ身だ。わざわざ正式に死刑にする為に命を助けるなんて、お役所仕事にしても狂気的すぎる。

 

 四杯目を飲みながら考えていると、足音が聞こえてきた。その間隔から、足音の主は身長が高く、足が長いことが推測できた。響ではないようだ。この部屋を通り過ぎるか、それとも中に入って来て僕に何がどうなっているのか教えてくれるのだろうか。不安と疑念で鼓動が早まる。僕の心臓は臆病なのだ。響が恋しかった。彼女が生きていたとは思わなかった。このベッドから降りられるようになったら、すぐにでも彼女を探そう。それから話をしたい。僕が彼女のいない第五艦隊で、どれだけ頑張ったかということをだ。

 

 そう、第五艦隊。思い出してみれば、あの艦隊は運用開始から一年程度で解散ということになっていた。なら、利根や北上は原隊に戻り、隼鷹や那智教官、不知火先輩は第一艦隊や第二艦隊、第四艦隊に編入されたのだろう。最後の作戦でも北上を轟沈させずに乗り切ったので、少なくとも、大井に僕の家族を付け狙われることはなさそうだ。心配なのは隼鷹と教官だった。利根や北上はいい。あいつらは何かとわきまえている。自分の力でどうにもならないこともあると理解している。北上には大井が、利根には筑摩がいる。彼女たちは愛する人の傷ついた心を癒してくれる筈だ。

 

 だが隼鷹は──僕は隼鷹と二人で広報部隊から転属したが、その時に彼女から聞かされた話を心によみがえらせた。彼女の同期たち、友人たちが知らないところで死んでいくことに耐えられなくなったという話を。僕は彼女をその悲しみから守りたかった。それもあって転属の時、彼女を勧誘したのだ。なのに、僕はまた隼鷹の知らないところで死ぬ友人の役回りになってしまった。彼女に二度とそんな思いをさせない為に、あの日勇気を出して誘ったというのに。

 

 そして那智教官。僕が誰より崇拝し、敬愛し、慕っている人。彼女は僕に心を許してくれていた。僕と彼女は旗艦と二番艦として、色々なことをやった。敵を倒し、窮地を切り抜け、飲んで騒ぎ、戦争の日々を生き抜いた。そんな彼女を僕は撃ったのだ。殺すつもりではなくても、僕が彼女を撃ったのだ。彼女の目に、僕は裏切り者として映っただろう。那智教官に「裏切り者」と罵られる自分を想像してみる。耐えられなかった。涙が溢れてくる。僕は手で顔を覆い、静かに涙を流した。

 

 と、ドアがきしむ音を立てて開いた。僕は涙を拳で拭い、目の下をひりひりさせながら入室者が誰なのかを見た。そうして、呻き声を上げた。

 

「君か」

「ああ、私さ」

 

 武蔵はにやりと笑って手を振った。以前のように、薬指を軽く折った平手を。



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「融和」-2

 僕が身を起こすと、武蔵は近づいてきてベッドの端、僕の右手側に腰を下ろした。そして布団の外に出していた僕の手に、彼女のそれをそっと重ねた。僕はできるだけ人と仲良くしようとするタイプの人間だから、その手を払いのけるようなことはしなかった。これから彼女に聞きたいことが山とあるのだ。僕の手に触れる程度で機嫌がよくなるようなら、安いものだ。心の中で六十秒数えてから、僕の手を撫で回すのをやめない武蔵に言う。「そうだな、人生は長い。好きなだけ時間を無駄に使えばいいさ」「お前の故郷では『久しぶりだな、会えて嬉しいよ』をそういう風に言うのか?」「まあそうだ」「ふうん、変わった習慣だな」そう呟いて笑い、やっと彼女は手を離した。それからにやついた顔で僕に言った。

 

「世界唯一の男性艦娘、第五艦隊旗艦、漂流からの生還者、そして絞首台に二度上がった男か。刺激的な人生を歩んでいるようで、結構なことだ。私は残念なことにそういった経験がないんだが……きっと二つ名を増やすのはさぞ楽しいんだろうな」

「そうだよ、死にかける度に生きる喜びを再確認することができるのさ。ところで、僕と楽しくお喋りしたくてあの収容所から助けたのか?」

「そういうつもりじゃなかったが、うーん、考えてみるとそれもいいな。そうするかい?」

「答える必要が?」

「ないだろうな……ふふ、元気なようで本当に安心したよ。腹は減ってないか? 私は小腹が減った。何か持ってこよう。少し待っていてくれ、久々に一緒しようぜ」

 

 呼び止める間もなく、身を翻して部屋を出て行く。再び一人になった僕は、これからどうするかを考えた。響のことも聞きたいが、まず現況の把握が最優先だ。ここは何処か? どうして融和派狩り専門の部隊の一員である武蔵が僕を助けたのか? この一年で戦況はどうなったのか? 知らなければならないことが沢山ある。くそっ、一年の休暇は長すぎたな。もっと早く出られていればと思うが、過去は変えられない。せめて今日から、一日たりとも無駄にしないようにしよう。

 

 とはいえ、僕はただの十八歳の青年だ。収監時にいわゆる「解体処分」を受けなかったので、まだ艦娘ではあるが、最後の出撃で艤装も失ってしまっている。そんな僕に何ができる? そう感じてしまって、憂鬱な気持ちになる。僕は英雄じゃない。これまでの戦績や行跡も、僕が小説やコミックに出てくるヒーローから遠く離れたところにいることを示している。あくまで僕は一兵士、一艦娘なのだ。そりゃ、融和派の艦娘や深海棲艦たちにとっては特別な存在かもしれないが、だからって戦争を止められるような力はない。

 

 教官に相談したかった。北上や利根と、砕けて打ち解けたやりとりをしたかった。隼鷹や響と飲みながら話し合いたかったし、不知火先輩に甘えたかった。だが彼女たちはもう僕の周りにいない。いるのは武蔵だけ。彼女は嘘を言わないが、信頼に値するかと言われると否定で返すしかない。つまり、今日、僕は一人だ。そのことを認識して、不安に襲われる。奇妙で、自分でもほとんど信じがたいことだった。

 

 あの収容所にいた頃、僕は孤独感を覚えたことなどなかった。それは、他の囚人たちがいた為ではない。するべきことをはっきりと理解していたからだ。やがて来るその日まで耐え抜き、生きてあそこから逃れること。それが僕の任務だった。僕はそれを果たそうと努力し、報われて、どうやら助かったらしい。けれど脱出を成功させ、追われる身ではあるだろうがとにもかくにも自由になってみると、僕の中には、そこから先何をするべきかとか何をしなくてはならないかという考えが存在しなかったのである。何とも間抜けなことに。そのせいで、これまで無視できていたものに捕まった訳だ。

 

 自分の弱さには嫌になる。肉体的な弱さもだが、特に精神的な弱さにはほとほとうんざりだ。何らかの手段で鍛えられたらと思わずにはいられない。悩んでいる暇はないのだ。戦争がまだ終わっていないと仮定しよう。それは放っておいても終わるだろう。あらゆる深海棲艦の撃滅という形で。ここで自分自身に対してはっきりさせておかなければならないのは、僕は融和派深海棲艦たちを救いたいと思っている訳ではないということだ。

 

 ああ、確かに彼女たちは人間を理解しようと努力していた。自衛以外で人類を攻撃したこともなかっただろう。これは好意的な想像だが、実際にそうだったとしたら実に結構なことだ。しかし彼女たちは深海棲艦なのだ。僕はまだ、そのことを切り離して考えることができない。彼女たちの同類が、僕の友人たちを殺したり、傷つけたりした。僕自身だって何度も死にそうになった。複雑な感情を持たずにはいられない。

 

 それでも、僕は深海棲艦の壊滅による終戦を阻止したいと思っている。もう一度明らかにしておくが、あくまで自分や自分たちの為にだ。深海棲艦たちを滅ぼせるようになったとしても、その為の戦いの最中に死ぬ艦娘たちの数をゼロにはできない。多くの艦娘たちが、僕の同胞たちが死ぬだろう。その中には僕の友人も含まれてしまうかもしれない。そうなる確率は小さいものではない。だがもし、もしも、深海棲艦全てを滅ぼすのではなく、人類と最後まで殺し合うつもりでいる主戦派の者だけを滅ぼすとしたら? 艦娘たちの死亡率は減りこそすれども、増えることはあるまい。戦争そのものの終わりもきっと早まる。

 

 無論、自分を騙すことはできない。このプランには無視できない欠点もある。深海棲艦を皆殺しにすれば、世界は元通り人類のものになる。深海棲艦との戦争が始まるまで、歴史的に見てもその通りであったように。僕らは時々愚かなこと(何処かに核を落とすとか、海を汚染するとか)をしながら、昔から営んできたような生活を続けていくだろう。でも深海棲艦を、彼女らの社会を滅ぼさずに残せば、世界は変わる。最早、人類という種は地球を手に入れた独裁者ではなくなる。人類は初めて、深海棲艦という自分たちと似ているが全く違う存在と、上手くやっていくということを学んでいかなければならなくなるのだ。

 

 それがどれだけの混乱と苦難をもたらすか、僕には到底想像できない。僕と赤城たちが選んだ道は、軍が現在目指している「深海棲艦を全滅させる未来」より更に悪い、「人類と深海棲艦をまとめて破滅させる未来」に繋がっているのかもしれない。それについて恥を忍んで言おう。深海棲艦との講和が成立したとして、その後世の中がどう転がっていくか、僕には皆目分からない。だが僕は艦娘だ。ただの、守られるだけの人間ではない。自分で決断してただの人間であることをやめた、艦娘なのだ。たとえ解体処分を受けて体はただの人間に戻っても、心までは変えられない。もし世界がどうしようもなく間違った方向に進んでしまったなら、僕は全力を尽くして自分の属する社会と世界を守ろうとするだろう。そのことにどれだけの意味があるのかは考えないようにしながら。

 

 胃がきりきりと痛んで、僕は我に返り、それから自分がひどく空腹であることを渋々認めた。空きっ腹だと何を考えてもネガティブになるからいけない。そうだ、深海棲艦との講和が成立した後の世の中が、人類だけで世界を回していた頃よりも百倍よくなる可能性だってあるのだ。どのようにしてそれが起こるのか分からないが、そんなことは大した問題ではない。これからについて具体的な計画がないなら、せめて漠然とした希望だけでも持っておこう。人間には、いつでもそれが必要だ。

 

 そう考えたところでドアが開いて、深めの器が二つ乗ったプレートを持った武蔵が現れた。「ふっ、随分待たせたようだな。さあ、食事にしよう」中身は見えないが、湯気が立っている。器の陰に隠れて、柔らかそうなロールパンもあった。ということは器の中身はスープか。流石に粥とパンという組み合わせはないだろう。彼女はプレートを片手に持ち、もう片方の手に折りたたみ式のパイプ椅子を引きずっていた。武蔵はプレートをこちらに渡してから椅子を開き、腰掛けた。二つの器にはコーンスープが入っていた。どうやら、武蔵はまたしても僕と同じ食事を分かち合いたいらしかった。大怪我をしたり、消化のいいものを食べて体を休めさせなければいけない訳でもないのに。

 

 僕たちは僕の足をテーブル代わりにしてプレートを置き、いただきますの一言もなしに食べ始めた。スープとパンよりもしっかりしたものが食べたい気持ちはあったが、寝起きにそんな食事をするのは、かえって体に毒だろう。スープをすくって口に含むと、上品な甘みが口の中一杯に広がる。そういう味は、収容所では得られないものだった。

 

「おいしいな」

 

 素直な気持ちとしてそう言うと、武蔵は嬉しそうに笑った。「そうだろう、そうだろう。二杯目が欲しかったら言うんだぞ」分かった、と生返事を返して二口目を飲み込み、合間にパンを小さくちぎって口に放り込む。そこではたと思い当たって、恐る恐る僕は尋ねてみた。「これは君が作ったのか?」「うん? ああ、スープは私が作った。パンまでは手が回らんよ」大和型戦艦二番艦、武蔵。褐色長身白金髪の女丈夫。しかもこの武蔵は後ろ暗いところに所属している身だ。そんな彼女がエプロンをつけてキッチンに立って、スープ鍋をお玉でかき回す? 挙句、自分の料理を褒められて相好を崩すだって? 誰がそんなことを想像できるだろう。でも彼女が言うには、どうもそうらしいのだ。そして僕は彼女が嘘を言ったことがないと知っていた。

 

 彼女の意外な一面に触れた気がして、僕は毒気を抜かれた。そのせいか皮肉を言おうとしても、一言も出てこない。仕方なく、僕はもう一度「おいしい」と呟いた。僕らが食事中に交わした言葉はそれで全部だった。

 

 食べ終わると、武蔵はてきぱきと食器を片付けてしまった。何か手伝おうとする素振りを見せる時間もなかった。終わってから戻ってきた彼女に「今の仕事より、看護婦の方が向いてるんじゃないか」と食後の安堵と幸福感に浸りながら僕が言うと、武蔵は肩をすくめて「誰にでも同じように親切にできるならな」と答えた。確かに、それは重要な資質だと思う。えこひいきをする看護婦なんて、嫌なものだ。言うまでもなく彼女たちは人間だから、多少サービスに差があったとしても僕には咎められないが。

 

 こまごまとした家事がすっかり終わってしまって、僕らの間には真面目な空気が満たされた。武蔵はパイプ椅子に座って落ち着いた溜息を一つ吐き出すと、「何から聞きたい?」と言った。僕はすかさず「戦争はどうなってる?」と訊いた。彼女が冗談か当てこすりを言おうとしたのが表情の動きで分かったので、先手を打って「皮肉は後にしてくれ」と付け加える。それが気に入らなかったのか、武蔵は憮然とした顔で「続いている。人類がやや優勢だ」と短く答えた。つまり、戦況はそう大きく動いていないようだ。しかし何故? 疑問符が頭の上にでも見えたのか、武蔵は僕が追加の質問をする前に口を開いた。

 

「お前の艦隊がテストしようとした対深海棲艦用の通常兵器な……効果はあるんだが、何分費用がかさむ。しかも兵器かつ機密の塊だから、おいそれと他国に生産拠点を作る訳にもいかん。加えて一部の提督が導入に反対した。戦況に動きが小さいのは主にそのせいだな。もっとも、一番大きな障害だった政治的な問題(提督たちの反対)は既に片付いたから、近く大反攻が始まるだろうよ」

「提督の反対、か。費用のことはともかく、上層部は現場の足を引っ張らなきゃならないって決まりでもあるのか?」

「そう言うな。あくまで一握りだったし、新しい風を取り入れる時には抵抗があるものさ。反対した提督の全員が、既得権益の損失を恐れた訳ではないよ」

 

 これには僕も賛成した。ある程度以上に大きくなった組織の中で、百パーセントの人間に受け入れられるものを示すことは不可能である。計画にせよ何にせよ、誰かが文句をつけてくるのが普通だし、またそうでなくてはならないのだ。もしそうでなければ……批判的思考を一切持たない組織であるのならば、そこは腐敗しているか骨抜きにされているかのどちらかであって、そんなところからは即刻逃げ出した方がいい。

 

「僕の艦隊はどうなった? 艦隊員たちは?」

「第五艦隊か。お前が捕まった後、色々と揉めに揉めたようだぞ。艦隊員たちも投獄するべきだとか、懲罰艦隊に配置換えしろとか。だが心配はしなくていい、形式的な理由で一度解散したが、またすぐに今度は正式な戦闘捜索救難並びに即応支援艦隊として発足した。旧艦隊から人員変更もなく、旗艦は那智が務めている。お前が抜けた穴は宿毛湾から筑摩を呼び寄せて埋めたそうだ」

 

 うちの提督は他所の艦娘を引き抜くのが得意なのか? 僕は宿毛湾の提督に申し訳ない気持ちになったが、利根のことを考えると筑摩が来てくれてよかったとも思った。北上は大丈夫だろうか。隼鷹は、不知火先輩は、那智教官は? 知りたかったが、武蔵もそこまでは把握していなかった。代わりに新生第五艦隊の戦績を教えてくれた。那智教官は見事に彼女の艦隊員たちを率いているようで、僕が指揮していた頃よりも華々しい活躍を繰り返していた。一回の出撃で三つの艦隊を助けたこともあったという。多分、練度も一年前と比べて大違いになっているのだろうな、と僕は誇らしいような寂しいような気分になった。

 

 まあ……どうせ僕は戻れない。武蔵は僕が軍で書類上どういう扱いになっているかも教えてくれたのだ。驚きはなかったが、やっぱり戦闘中行方不明の死亡扱い、除籍待ちの状態になっていた。家族には遺族年金が満額払われているそうなので、僕が融和派だとは表沙汰にしなかったのだろう。できる訳がないか。世界唯一の男性艦娘が融和派だということになったら、海軍の面子は丸潰れもいいところだ。「これから僕はどうなる?」主な心配ごとの内の二つを聞いてしまったので、幾分か肩の力を抜くことができたが、僕はもちろん武蔵の次の答えを予想しておくべきだったのだ。最後に会った時、別れ際に武蔵はいつか僕が彼女を必要とする時が来たら迎えに行くと言った。

 

「どうなるかって? それはお前自身が決めることだ。それとも私に決めて欲しいのかい? 違うだろう? だが、私のオファーとしてはこうだ──私の班に来い。私の隣にいろ。戦争はじきに終わる。多少の不便はあるだろうが、私ならお前を狙うどんな敵からも守ってやれる」

「僕は根っからの融和派じゃあないが、軍はそう思ってる。その僕が融和派狩りの一隊に加わる? 無理だよ。個人的にも気が進まないしな」

「転向したってことにすればいい。どうせ、お前を死刑にしたがってたのは陸軍だ。海軍はお前を手元に置いて監視していられるなら、喜んで匿ってくれるさ。それに転向者ってのも実際、少なくないんだ……たまにはちょっとした研究やテストへの参加を要求されるだろうが、ひどい怪我をしたり、死んだりするかもしれないようなことには絶対にさせないと誓おう。どうだ、私を信じられないか? ん?」

「よく分かってるじゃないか。僕はまだ、君のせいで吊るされそうになったことを忘れた訳じゃないんだぜ」

「そんなこともあったなあ。懐かしいよ。そうだ、こうしよう。今度のことが一段落したら、またあの喫茶店に行ってお前の好きな、あの気分が悪くなる甘ったるい、何だったっけな?」

「クリームソーダ」

 

 淀みなく答える。収容所に入れられていた一年を抜きにしても、あの店には長い間行っていない。それも武蔵のせいだ。彼女と出会ってしまったあの場所が、僕にはどうしても縁起の悪いところに思えたのである。クリームソーダは惜しかったが、別にあそこじゃなくても食べられる店はある。僕は手を変え品を変え外出許可を申請して外を歩き回っては、短い間に数か所のお気に入りの店を見つけていた。中には隼鷹にしか教えていないような、隠れ家的スポットもある。

 

「そう、クリームソーダだったな。私にはあれの何がいいのか全く分からんが、お前は好きだっただろう、食べるがいいさ。それが終わったらステーキサンドだな。お前があそこで空軍士官に殴りかかってからもう一年経ってるんだ、出禁になってたとしたっていい加減解除されてるだろう」

「おい、あそこでの喧嘩のことを知ってたのか」

アフターケア(監視)も仕事の内でね。海上や国外では無理だったが、基本的に国内で陸上にいた間は、ずっと見られていたと思ってくれて構わんよ」

 

 嫌になって、僕はベッドに背中から倒れ込んだ。そのまま武蔵をじろりと睨むが、それで彼女の心にさざなみの一つでも立てられたとは思えなかった。何につけても意趣返ししてやれないことを、苦々しく感じる。見られていたのか。何処まで見られていた? 武蔵と別れてから、見られてはマズいことやものが沢山あった。たとえば、電から受け取ったデータ……そうだ、あれはどうなったのだろう。憲兵隊にはあのデータについて何も言われなかった。一年も経ってからそのことに気付く自分の間抜けぶりにはもう呆れる余地もないが、憲兵たちなら喜んで僕が持っているべきでないものを持っていることを責め立てただろうに、どうしてそうしなかったのか? それについて訊ねようとして、僕の視線と注意は武蔵の顔に、その右耳に注がれた。そこには何処かで見たことのある形のアクセサリーが輝いていた。

 

「そのピアスは?」

「散歩してたら拾ったんだ。嘘じゃないぜ」

「信じるよ。ところで、ひょっとしてだけど、僕の部屋は君のお気に入りの散歩コース上にあったんじゃないか?」

 

 武蔵は笑って答えようとしないだけでなく、以前に紛失した、僕のものだと思われるピアスを外して返そうとすることもなかった。僕が彼女の態度でどうしても理解できないのは、その時々によって彼女が僕に好かれようとしたり嫌われようとしたりするところだ。親切さを見せたかと思えば、厚かましさや無礼さが目に余るような振る舞いを取ることもある。彼女が僕に執着する理由も分からない。深海棲艦たちと最後に戦ったあの海で、僕は自分にまつわる何個かの真実を知ることができた。それらは僕が知りたいと願っていたものと、そうでないものの二つに分けることができたが、前者の一つにどうして僕が初対面の多くの艦娘たちに嫌われるか、という理由として、申し分ないものもあった。証明はできないが、九割九分正答であろうと思う。ところが例外が数人いる。明石さん、吹雪秘書艦、不知火先輩、そして武蔵の四人だ。

 

 武蔵以外は想像できる。明石さんは長門と同じ成熟した大人であり、かつ艦としては戦艦長門ほどひどい最期を迎えなかった。なので、僕に対しても上辺を取り繕う余裕があった訳だ。そう考えると微妙にショックだが、明石さんから冷たくされなくて済んでよかったと考えるべきか。吹雪秘書艦は、そもそも彼女が死について嫌悪するとか怯えるところが想像できなかった。推測ではあるが、僕なんかよりも遥かに胸のむかつくものを見てきたんだと思う。彼女の人生の悲惨な一面には同情せずにいられないが、そのお陰で僕は秘書艦に特別憎まれるようなことがなかったのなら、秘書艦をそんな人物に仕立て上げたのであろう提督には、感謝するべきかもしれない。そして不知火先輩は……きっと僕が後輩だったからじゃないだろうか。僕が彼女を「先輩」と呼んだ瞬間に、彼女の中で後のことは全部どうでもよくなったのだ。そういうことにしておこう。そうしたら、僕の気分を少し和やかにすることができるからだ。

 

 だが、それにしても、武蔵は何なのだ? あの大戦で戦艦武蔵は沈んだ。その散り様がどうだったかとか、今僕の前にいる武蔵にとってどう感じられるかは脇に置いておくとして、戦艦武蔵は沈んだのだ。死を知り、それでも僕を忌避しないどころか、積極的に親しくしようとすることさえあり、あまつさえ僕を収容所から助けた。彼女の排撃班の仕事は融和派の抹殺であって、保護ではない。僕は排撃班の奇襲を受けた赤城たちのアジトで何が起こったかを垣間見た。あそこでなされたことを、正確に定義することは難しいだろう。けれど、あそこでなされなかったことについてはその逆だ。僕は百パーセントの自信を持って、それは楽しいホームパーティーではなかったと言える。

 

 僕がそれ以上考える前に、武蔵は彼女のオファーについての話に戻ろうとした。

 

「それで私の申し出についてだが、受けるだろうな? 融和派でないなら、私の班に来ることに異存もあるまい」

「時間をくれ」

「もう十分やったさ。こんな言い方はしたくないが、私はただお前に来て欲しいのであって、自分から来て欲しいとまでは望んでいない。選択の余地なんて与える筈がないだろう」

 

 嘘つきは嫌いだが、誠実すぎるのも困ったものだ。嗜虐的な笑みを顔に貼り付けたまま、武蔵は身を乗り出してきて、僕の手首を掴んだ。緊張から鼓動が早まる。答えなければへし折るぞ、というように武蔵は力を強め始めた。どうする? 手詰まりだ。僕は融和派ではないが、融和派狩りをしたいとも思わない。だがここで彼女の誘いを拒否したら、折られるのは手でなくて首かもしれない。彼女は予測不可能だ。思い通りにならなければ、僕を始末した後で死体を蹴って憂さ晴らしでも始めかねない。

 

 考える。何よりも優先するべきは、この場を切り抜けることだ。今だけは武蔵に迎合しておいて、機会を見つけて──見つけて──どうするというのだ? 突然、僕は深い無力感に襲われた。ここで従容と武蔵に従おうと、頑として勇敢に抗おうとも、そのことにどれだけの差がある? 荷が重すぎた。僕は十八歳だ。十五で海軍に入り、生き延びる方法を教わり、戦火を潜り抜けてきた。だから深海棲艦との戦い方なら分かる。けれどそれ以外のことについては、全く子供だった。だというのに、僕を取り巻く状況はいつでも僕に不慣れな、大きすぎる決断を強いてくる。一つや二つならやせ我慢もできようが、こうも続くと気が滅入る。

 

 僕は、武蔵に掴まれていない方の手を伸ばして、彼女の手に重ねた。それが意思表示の代わりになった。クリスマスの朝に枕元でプレゼントを見つけた子供のように、武蔵の顔がぱあっと明るくなった。「そうか、来てくれるか……ありがたい!」彼女は掴んでいた僕の手を引っ張って無理やり身を起こさせると、自分勝手な喜びのままに強く僕を抱きしめた。骨が折れるのではないかと気が気でなくなる力の入れ方に、僕は彼女がどれだけこの申し出を真剣に捉えていたかということの一端を見たように思えた。

 

 そうすると、僕に抱きついてくる彼女のことが、違った風に見え始めた。単なる喜びからではなく、まるで救いを求めて何かにすがるかのように、あるいは夢見の悪かった子供が父母にしがみついて、安心の暖かみによって悪夢の記憶を遠ざけようとしているように見えたのだ。武蔵はしきりに僕の耳元で「これで大丈夫だ」「どんなものからでも、私が守ってやるからな」と呟いたが、それも僕に聞かせるというよりは自分に確認している風に聞こえた。

 

 自分にしてはいっそ不自然だと断言してもいいほどの自然さで、僕は彼女の髪を撫でつけた。増していく彼女の膂力が僕の背骨を砕いてしまう前に落ち着いて欲しかったし、このような肉体的接触に対して何もせずに身をこわばらせたままでいるのは、幾分か無作法な行いではないかという恐れもあった。彼女の子供じみた態度が、僕の心理的な余裕を多少呼び戻してくれたのも理由の一つである。その余裕を以ってしても何が彼女をここまでさせるのか、僕に確信を与えてくれはしなかったが、とにもかくにも冷静になることはできた。

 

 とうとう武蔵が身を離す。僕は彼女の眼鏡が熱心な抱擁のせいでズレてしまっているのを見つけ、指で元の位置に戻してやった。レンズは入っていなかったので、装備品の電探ではなく伊達眼鏡のようだ。彼女は恥じらいを隠す為にか、いつも浮かべている亀裂のような笑みをより一層大きくし、嘲笑的なニュアンスを色濃く匂わせながら訊いた。「急に優しくなったな、抱きしめられただけで情が湧いたか?」だが僕が「挑発は僕の手の届かないところでやってくれ。ベッドの上にいても君の頬を張ってやることぐらいはできるんだ」と返すと、その気配は消えて一方的な親愛の情の重苦しい雰囲気だけが発されるようになった。こいつに潰されてしまわない為にも、彼女と口先でじゃれ合うのはここまでにしよう、と僕は決めた。

 

「なあ、散歩道で他にも何か拾ったかい?」

 

 憲兵隊が電から受け取ったデータについて何も言わなかったのは、武蔵が処理してしまったからではないかという仮説を立てて、回りくどい言い方で尋ねてみる。武蔵は露骨な話題転換に不満げだったが、彼女の動物めいた理解できない感情の機微には、十二分に付き合ってやったと思う。彼女自身もそのことは分かっているのか、こと思い上がりや傲慢さという人間が生まれつき持っている病気の重篤さにおいて、これまで提督を除けば何物にも追随を許さなかったこの僕を上回る、極端な強引さを持ちながらも、それを使って再度話題を転換させようとはしなかった。

 

 彼女はただちに数点のこまごましたどうでもいいものを挙げた。何処かにやってしまったと思っていた本とか、飲み残した蒸留酒の小瓶とかだ。それ以外にはとなると、彼女の言葉は勢いを失った。言いたくないのではなく、思い出せないのだった。「何しろ、お前が捕まった時に部屋ごと回収したからなあ」と彼女は婉曲法をぽいと捨て、あっけらかんとした表情で言った。

 

「部屋ごと?」

「訂正する。遺書に書いてあったものについては、きちんと文面通りに分配した。家具も残してある。残りは段ボールに詰めて私の部屋だ。三箱ぐらいだったかな」

「でもそのピアスは」

「前に遺書を預かった時に書き換えておいた。書き直されていなかったから、これを私に遺すのはお前の意志だと思っていたが……おい、まさか本当に気付いていなかったのか?」

 

 心底驚いた、とでも言いたげに目を丸くして武蔵は聞いてきた。僕は元来舌の回らない方だ。言葉に詰まって、出てきたのは「最低だな」という、使い古されたつまらない悪口だけだった。武蔵がそれを贈り物のように気持ちよく受け取っていることは明らかで、僕の言葉は彼女を傷つけたり反省させたりするどころか、かえって彼女の機嫌をよくさせてしまっていた。何も思ったように行かないのは歯がゆいものだ。苛立たしいじゃれ合いをやめようとしたのに、結局踊らされている。僕は断固とした口調で、彼女に命令するかのように尊大な態度で言った。

 

「持ってきてくれ」

「ふむ、どうやら私はお前の頼みを断れないようだ」

 

 何が楽しいのかにやにやと笑いながら、武蔵は部屋を出ていこうとする。扉を開け、部屋の外に一歩出て振り返って戸を閉めようとしたところで、僕の頭に天啓のごとく一つのアイデアが下ってきた。扉は閉じかけていたが、武蔵が行ってしまう前にこれを口にしなければならないという義務感に駆られて、僕は急いで言った。

 

「もっとマシな壁紙はなかったのか?」

 

 段ボール三箱を持ってきた武蔵は彼女と再会してから最も不愉快そうな顔をしていた。僕は満足した。箱を一つ受け取り、ふたを閉じているテープを剥いで、中身を掴みだす。最初に取り出したのは、響の帽子だった。僕の胸が痛んだ。そうだ、僕は響のことを尋ねなければならなかった。どうしてそのことを後回しにしていたんだろう? 僕は心の中の響に詫びた。響、君とまた会って話をしたいという思いや、君への友情を疎かにした訳じゃないんだ。あんまり沢山のことが一斉にわっと僕に降りかかってきたものだから、その雨に目を遮られて、君のことを見失ってしまっていただけなんだ。

 

「武蔵、響はどうしたんだ? 君と一緒にいるんじゃないのか?」

「何だって?」

「響だよ。君より先に僕を助けに来てくれた、最高の友達の一人さ。絞首刑から抜け出して、林の中まで一緒だったんだ」

「そうか? ところで私の嫉妬をあおるのはいいが、その責任は取れるんだろうな」

「話をそらさないでくれ。僕にとって大事なことなんだ」

 

 武蔵は不真面目な表情を崩さなかったが、僕の最後の一言が功を奏したのか、その目には真剣に受け止めようとする色が見えるようになっていた。「分かった、話すがいいさ。聞いてやるよ」馴れ馴れしい物言いにかちんと来ながらも、僕は収容所での最後の数日間のことを話し始めた。武蔵は途中で何度か口を挟みたそうな顔をし、その度に、己の口を閉じさせたままでいる為の懸命な努力を尽くしていた。彼女の真一文字に引き結んだ唇の端がぴくぴくと痙攣しているのを見るにつけ、彼女が「聞いてやるよ」という自分の言葉を全身全霊で守ろうとしているのが僕にも分かった。僕は武蔵のことが好きになれないが、彼女のこういった自らの言葉に愚直なまでに責任を持つ、という姿勢について誰かが疑ったりけなしたりしたら、第一の擁護者として立つだろう。

 

 林の中で気を失ったところまで話し終わり、反応を伺う。「それで全部か?」と武蔵は言い、僕は頷いた。すると彼女は深く溜息を吐いて、口にするのもつらいことだが、と前置きをした。

 

「どう考えても現実とは思えん。響の戦闘中行方不明はお前のと違って本物だ。ただのイマジナリー、幻覚を伴ったサードマン現象、それとも受け入れやすいように、守護天使が降臨したとでも言った方がいいか?」

「だが……そうだ、幻覚は人を気絶させたりできないぞ!」

 

 勝ち誇って僕は武蔵に言ったが、彼女は全然こたえたようには見えなかった。確固たる自信を持った現実主義者の顔をしている。僕はその頬をつまんで捻ってやりたかったが、そうするよりも先に武蔵は頷いて、意外な提案をした。僕の話を再度聞きたがったのだ。同じ話を繰り返させることには意味がある。まず、聞く方が最初に気付かなかったり聞き逃した細部にまで目を向けることができる。それと、話す方が真実を話しているのか作り話をしているのか判別することもできる。真実なら、描写や内容が変わったりぶれたりすることはない。しかし作り話を何度も話していると、話し手も知らぬ内に描写が過剰になったり、内容が大小に変わってしまうことがある。

 

 疑われているのは気に入らないが、響の登場が突然すぎて現実感がなかったということについては否定できない。都合がよすぎる。それは認めよう。だから武蔵は何処までも公正に、疑問の芽を潰そうと試み続けているのだ。僕の言うことだからと盲信したりせず、いやまあそもそも盲信するような性格じゃないんだろうが、事実を求めている。人間としては好ましい態度だ。

 

「ああ。僕と響は狭い車庫にたどり着いた。僕は脇腹に刺さったナイフを引き抜いて、ダクトテープで止血した。それから響が車庫の面積をギリギリまで使って収容されていたトラックの下に潜り込んだ。僕は彼女が潜り込んだのに合わせて抜いたナイフをタイヤに突き刺し、そこで力が抜けてうずくまった。響はタイヤを見に下りてきた男たちを順番に気絶させてから、僕を引っ張り起こして、外に連れ出してくれた」

「うずくまっていたと言ったな。どんな風に?」

 

 僕は思い出して真似をしようとしたが、腕に繋がった点滴の管が邪魔だった。点滴袋は空になっていたので武蔵が針を外してくれて、それで僕はベッドの上でうずくまってみた。両膝を地につけ、腹を抱え込むようにして前のめりに倒れた恰好だ。再現してみた初めは「これでは響の姿が見える筈がない」と思って震えたが、体を少し傾ければ周りの様子も多少は見えることに思い至って安心した。やっぱりあれは、響だったのだ。

 

 どうして生きているのか、どうして僕があそこにいると分かっていたのか、武蔵と関係ないなら彼女が連れてくると言っていた助けとは何だったのか、聞きたいことはあるが、とにかくあれは響だった。それだけで僕の心は救われたようだった。うずくまったまま、「幻覚だったと断言することはできないようだ」という具合の返事が来るとばかり思いながら、「どうだ?」と僕は武蔵に尋ねた。彼女は言った。

 

「お前の友達が生きていると言ってやれないことは、とても残念だ。落ち着いて聞け、その姿勢でも周囲を見ることは不可能ではない。だが目の前にタイヤがあったなら、どうやってその向こうを見通せる? 何故そのタイヤの向こうで起こったことを、さも見たかのように知っているんだ? 音だけで把握したにしては、情報量が多すぎる」

「どうやってって、それは、けど武蔵、僕は間違いなく、響を」

「失血、酸欠、極限状況。幻覚を見るにはおあつらえ向きのシチュエーションだ。いいか、トラックの下に潜り込んだのはお前だ。男たちを絞め落としたのもお前だし、林までの道でずっとお前は一人だった。響なんかいなかった」

「でも僕は確かに、響が生きているのを感じたんだ。いたんだよ、あそこに、彼女は」

 

 響の手に体温を感じなかったことを思い出す。それでも彼女は生きていると感じる。その時僕は気付いた。もしかしたら、万に一つの確率だが、もしかしたら。深海棲艦たちと分かり合ったあの時、僕は深海棲艦の目で世界を見た。心と心の繋がりを見ることのできる目で、僕は自分の心が他者と繋がっているのを見たのだ。あの心が、あの糸が、響が何らかの理由で生きていて、彼女の心に繋がっているのだとしたら? あそこで僕が見たものは幻覚だったとしてもそこに彼女の生命を感じられたのは、艦娘でありながら、彼女たちの見方で世界を捉えることができたという意味で、深海棲艦にも近しい存在である僕が、響と僕の心の繋がりがまだ残存していることを、ひいては彼女が生きていることを感じ取れたからではないのか?

 

 それは仮説でしかない、響が現実に生きているという証明にはならない、と僕の理性が言う。感情は反駁して曰く「響が生きていると思わないなんて、お前には良心がない!」。その総合である僕は考える。収容所からの脱出に際して現れたあの響については、現実じゃなかったらしい。思ったよりも冷静にそのことを受け止められたのは、武蔵がひたすら沈着な態度で響の不在を論じてくれたからだろう。が、彼女が響を死んだものとして扱っていることについては、僕は異論を持っていた。響は生きていると信じていたのだ。かつて響は「ある種の事柄では、信じるのに証拠なんか要らないんだ」と言った。僕のこれだってそうだ。物的証拠なんかいらない。響は生きている。僕は彼女の命を感じたのだから、そうに違いないのだ。

 

 武蔵が何を言おうが、僕の確信を揺らがせることはできなかった。彼女は諦めるしかなかった。彼女は言った。

 

「この話は終わりにしよう」

 

 そうしない理由はなかった。彼女は言葉を続けた。

 

「点滴も食事も終わったんだ。ベッドから起きる気はないか?」

「このトイレみたいな壁紙から逃げられるなら何だってするよ」

 

 言いながらベッドを降りて、体がちゃんと動くのを確かめる。ついでに自分が覚えのない服を着ていることを発見した。武蔵が囚人服を脱がせた後に着せたのだろうが、恥じらいを感じることはなかった。「どれだけ眠ってたんだ? 時間を知りたいんだが」「ん、まあ、二日は経っていないよ。時間はリビングに時計がある」両手首を見せて、武蔵は自分が腕時計をしていないことを示した。「仕事中によく壊すんで、支給して貰えなくなったのさ」「僕も腕ごと失くしたことが何回かある」奇妙な連帯感を共有しながら、僕らは僕の私物を入れたダンボール箱を持って、リビングに向かった。

 

 カーペットの上にソファー、テーブル、テレビ台と大きめの薄型テレビ。壁にエアコンと、午前一時を示す時計。リビングにあるものはそれだけだった。箱を横に下ろすや、どすんとソファーに座り込み、僕を引っ張って横に座らせて逃げられないよう肩を抱きながら、武蔵は「ここはセーフハウスだからな、殺風景なのは私のせいじゃないぞ」と言い訳をした。僕は「ああ、けど今僕が感じている窮屈さは君のせいだぞ、手を離せよ」と答えてから、私物の選定に取り掛かった。そう時間は掛からなかった。二十分か三十分ほどだ。それだって詰め込まれたあれこれの、電から渡された端末などを含む物品を一つ一つ取り出すのに手間取っただけで、これだけはというものを選ぶのには数分しか掛からなかった。響の帽子と、軍に入ってからこれまでに撮った写真が収められたアルバム、それから青葉新聞のコレクションだ。どうやら、僕が大規模作戦後に戦闘中行方不明になってすぐに部屋ごと回収したという武蔵の言葉は、文字通りのことらしかった。そうでなければ、提督は青葉新聞コレクションを私物化していたに違いない。

 

 箱の中に入っていた僕の私物の鞄にその三つを詰めておく。後のものはここに残して行ってもそう惜しくない。換えの効くものばかりだ。第五艦隊が全員揃っている時に最後に撮った写真も、写真立てからアルバムへと移しておいた。武蔵は選定の間ずっと僕にちょっかいを出してきてうるさかったが、そのアルバムを渡すと楽しげに見始めたので、僕はもっと早くそうしておけばよかったなと思った。

 

 アルバムを閉じるぱたん、という音が次に響くまで、僕は武蔵の腕から伝わってくる彼女の体温を感じながら、ソファーに座ってテレビでニュースを見ていた。戦争が始まって以来、二十四時間いつでも市民が情報(もちろんそれには「制限された」という枕詞が付くのだが)を手に入れられるように、どんな時間帯でも必ず何処かの局でニュース番組を放映するようになっている。それを見る限り、武蔵が言った通りに一年前と今日とで大きな違いはなかった。「戦況は人類有利、だが油断するな」と番組は市民たちに伝えている。海軍の情報を流す番組もあったが、深海棲艦用の通常兵器については触れられていなかった。まだ機密指定されているのだろう。

 

「この後はどうするんだ、武蔵?」

「待つ」

「何を?」

「時が来るのをだよ! ピザの配達を待ってるとでも思ったのかい?」

 

 武蔵は自身の口にした面白くもない冗談で笑った。僕は怒って彼女の首を絞めたりしなかった。こいつはそういう奴だと自分に言い聞かせるのに忙しかったのだ。僕の忍耐が限界に近づいていることを察したのか、彼女は一通り笑いの波が過ぎ去ると、打って変わって憂鬱そうに答えてくれた。

 

「五分後、一時半になったら私の車で移動する。班員との合流地点へな。そこでお前を紹介する。心配するな、悪い奴らじゃない。でもみんな死ぬほどお前のことを嫌ってるから、背中は見せないようにすることだ」

「嫌われるのには慣れてるよ」

「ああ、だが好かれるのには慣れてないみたいだな。初々しくていいぞ、いつまでもそのままでいてくれ」

 

 僕は彼女を無視して、外に出る準備を始めた。靴のことを訊ねると、用意してあるとのことだった。スニーカーは好みじゃないんだが、これから運動するかもしれないことを考えると悪くない選択肢だ。革靴よりはいいだろう。訓練生時代に履いたブーツなんかでもいい。行軍訓練は大変だった。サイズが大きすぎて、隙間から小石が中に入り込んでは足の裏を痛めつけるのだ。教官は「軍にサイズは二種類ある。大きすぎるか、小さすぎるかだ。自分で何とかしろ」と言って相手にしてくれなかったので、結局その時は靴下を何重にも履いてサイズ調整するという荒技で乗り切った。血の巡りを悪くしてしまって暫くの間は冷え性気味になったが、一歩進む度に尖った石ころを踏みつけるより、冷え性の方がいい。

 

 あっという間に五分が過ぎた。武蔵は懐から車のキーを取り出し、「さ、ドライブしようぜ」と言った。表現はともかく、移動しなければならないというならそうしよう。色々とあって荒んでいた心も、多少はマシになってきた。排撃班に入ることは避けられなくても、そこから抜け出す手がある筈だ。どうにかして赤城と接触し、僕のしなければならないことを果たすのだ。ちくしょう、しなければならないことであって、したいことじゃないぞ、絶対に、したいことなんかじゃない。正直、流されるままに生きてる方が楽だ。でも、僕はよりよく生きたいんだ。使命から、そして社会に対する義務から逃げたことを、那智教官に胸を張って言えるか? 隼鷹や北上や利根や響や不知火先輩に言えるのか? 水が低いところに流れるような決定は、愚かさそのものだ。

 

 那智教官は「問題なのはお前が、何の為に、何と戦うかということだ」と、「決して忘れるな。腐るな。お前の戦いを遂行しろ」と言った。何の為に、何と戦うのか、僕はその答えを覚えている。前に出した答えとは少し違ったものになってしまったけれど、出した答えを訂正するなと言われた記憶はないのでいいだろう。そして教官は言ったのだ、「腐るな」と。「お前の戦いを遂行しろ」と。彼女がそう言うなら、僕は僕の戦いから逃げる訳には行かない。したくなくったって、しなきゃならないなら、するんだ。嫌だけど。本当に嫌だけれども。不平不満を言いながらでもいいから、やるのだ。

 

 武蔵の指示に従って部屋の電気をつけたままにして、玄関口へと向かう。二人で靴を履いていると、思い出したように武蔵が言った。

 

「そうだ、お前の番号を決めなければな。うーん、何番がいいかな……私はこれが苦手でなあ、いつも悩むんだ。大抵は人員補充だから、死んだ奴の番号を引き継がせるんだが、今回はそうもいかないし」

「番号って、君の『六番』みたいなあれか」

「覚えていたとは思わなかったが、そうだ。ちなみに何で六番か知りたいか?」

武蔵(むさし)だから以外の理由なら」

「ようし、お前の番号は一八七八二番にしよう」

 

 僕はその番号にすることによって発生する不都合を瞬時に七つ思いついたが、最初の一つだって武蔵に言ってやることはできなかった。いきなり彼女が僕を突き飛ばしたからだ。遠慮なしに本気だったらしく、僕の体はボールみたいに玄関前廊下に向かって飛び、フローリングの床に背中から落ちて一度バウンドし、とどめに壁に突っ込んだ。だが僕はそんな硬着陸の後でも、彼女に向かって「そんなに腹が立ったのか?」と訊く気にはならなかった、というか彼女が立腹して僕を突き飛ばしたのではないと分かっていたのだ。耳がきんきんと痛んでいて、重そうなドアが蝶番のところから外れて床に倒れており、武蔵がその下敷きになっていて、戸口に二人の帯刀した女──寸分違わず同じ顔の、白と黒で色違いだが同じ詰襟の服を着た、病的に肌が白い──が立っているのを見ては、僕は渋々武蔵が僕を助けたということと、もう一つのことについて認めなくてはいけなかったのである。つまり「何だか知らないが、面倒ごとだぞ、これは」と。

 

 ドアの下敷きになった武蔵は動かない。二人のあきつ丸の、黒い服を着ている方が無造作に戸を、その下の武蔵を踏みつけにしながらこちらに近づいて来ようとする。逃げようとしたところで、やっと武蔵が動いた。彼女はあきつ丸の一人が戸の上を歩くのを待っていたに違いなかった。鍛え上げられた彼女の力が、重い扉を持ち上げ、その上のあきつ丸の足をすくった。武蔵は地に倒れた黒服のあきつ丸に飛びつき、取っ組み合いを始める。奇襲に成功したこともあって武蔵は初め優勢だったが、二人を放置して僕を狙って動き始めた白服のあきつ丸をも抑えようとして失敗し、黒あきつに首を締め上げられる形になった。それでも、凍りついたように動かないでいた僕に彼女はかすれ声で叫んだ。

 

「逃げろ、陸軍の排撃班だ!」

 

 そんなものがあるとは聞いていなかったが、想像してみればあって当然だった。僕は弾かれたように走り出した。居間に飛び込み、壁の時計を外して、追ってきた白あきつに向けてフリスビーのように投げつけるが、避けられる。まあ当たるとは思っていない。一秒ほど時間は稼げたからいい。手当たり次第に投げつけながら、僕は間取りすら分からない武蔵のセーフハウス内を逃げる。白服のあきつ丸は無理に追いつこうとせず、僕が袋小路に自ら入り込むのを待つつもりらしい。

 

 陸軍で建造された数少ない艦娘である彼女は、純粋な身体能力こそ海軍の戦艦艦娘などに劣るものの、格闘訓練などは受けていると見ていいだろう。刀を帯びているから、その扱いにもある程度は習熟している筈だ。まともにやりあったらばっさり斬られて終わる。逃げるのも無理だろう。生き残るつもりなら、久々にまともじゃないやり方を取るしかない。考えは一つあった。一つだけでは頼りないが、これに賭けるしかない。

 

 トイレらしき場所があった。それが僕の「考え」だった。僕はそこに一目散に駆け込み、ドアを閉めた。あきつ丸が笑ったかどうかは分からないが、多分馬鹿にはしただろう。だが、さっきのあれを経験した後でまだドアが盾になるとは僕も考えていない。足音と、武蔵たちが辺りのものを壊しながら戦う音を聞きつつ、タオル掛けの金具を掴み、思いっきり力を入れて引き剥がす。軍刀の鞘を払う音がするや、脇腹に熱が走った。身をよじると、トイレのドアを深く貫いた刃が、僕の脇をかすめていた。刃を寝かせて突いたのだ。肋骨に引っ掛かることなく、臓器を壊す為に。当たっていたら危なかったが、直撃ではない。痛いが、耐えられる。

 

 棍棒代わりの金属製タオル掛けを振り下ろし、刀の腹を打つ。妖精が鍛えた刀なら弾き返したかもしれないが、このあきつ丸の刀はそうではなかった。耳障りな音を立てて、刀身が根元にかなり近いところから折れる。ドアの向こうで息を呑む気配がした。今こそ仕返しの時だ。ドアを蹴り破り、馬乗りになってあごや側頭部を金属棒で強かに打つ。筋力は鍛えられるが、脳を鍛えることはできない。白服のあきつ丸はぐったりとなった。武蔵ならそこから更に彼女の首を絞めるとか、喉に口を一つ増やしてやるとかしたのかもしれない。けれど僕にはできなかった。気を失ったあきつ丸の顔を見ながら、深海棲艦を殺すことはできるのに、どうしてだろうと自分でも思った。それから、考え直した。理屈じゃないんだ。

 

 玄関の方から物音がした。格闘の音は消えていた。黒服のあきつ丸かと思って僕は金棒を手にして顔を上げた。だが、姿を現したのは見慣れた褐色の大戦艦だった。彼女は肩で息をしながら言った。

 

「どうもお前は誤解していたらしいな? 私の『逃げろ』は『女にまたがって顔を殴れ』という意味じゃないぞ。そのまま『逃げろ』という意味だ」

「今から逃げるところだったんだ。そっちのあきつ丸は?」

「心配するな、あいつなら審判の日まで寝てるよ。さあ行こう、どうしても女にまたがりたいなら玄関の黒服を持ってけ」

「最低だな!」

「それと、語彙を増やせ」



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「融和」-3

 鞄を持って部屋の外に出ると、夜の冷たい風が強く吹き付けてきた。僕は目を細めてやり過ごしながら、こんなに強い風が吹いてくる理由を突き止めた。高いところにいるからだ。と言っても、何も電波塔の上にいる訳ではない。中小企業なんかが入っていそうな、いたって普通の五階建てビルの四階辺りだ。きっと海軍とは何の関係もない企業の所有になっているんだろう。そしてもし誰かが詳しく調べたなら、その誰かはこのビルの持ち主となっている企業が現実に存在しないことを知るのだ。先を行く武蔵の背を追い、階段で下りていく。エレベーターはないのかと言いたいが、あったって使わなかったんじゃないかと僕は推測した。僕らは二人のあきつ丸に襲撃されたが、それで全部だとは思っていない。エレベーター前で待ち伏せられるより、階段前で待ち伏せられた方がまだいい。少なくとも、箱の中より逃げ道が探しやすい。

 

 しかし僕の危惧を笑い飛ばすかのように、階段下にもビルの一階部分の半分を費やして設けられたガレージの中にも、陸軍排撃班の連中はいなかった。少し油臭いガレージに置かれた赤い二座式(ツーシーター)クーペのエンジンを掛けるや否や、車が爆発するということもなかった。武蔵に言われた通りに壁のスイッチを操作してガレージのシャッターを上げ、左の助手席に乗り込みながら訊ねる。「陸軍の排撃班は人手不足なのか?」「海軍ほど艦娘の数を揃えられないからな」なるほど、言われてみればその通りである。艦娘の所属は基本的にその艦娘のオリジナル……大戦時の艦の所属を踏襲する。僕はどの艦にも当てはまらない(ルーツを知った今ではむしろ「どの艦でもある」と言うべきなのかもしれない)例外だったが、陸軍だって急にイレギュラーなんか押しつけられても困る、ということで揉めなかったようだ。

 

 そして陸軍所属の艦娘は、僕の知識では今のところ揚陸艦「あきつ丸」「神州丸」と「熊野丸(くまのまる)」、潜航艇「まるゆ」、特設護衛空母「山汐丸(やましおまる)」のたった五種であった。収容所に入っていた一年で新しい艦娘が誕生している可能性もあるが、それを言い出したらきりがないので無視しておこう。海軍では混乱を避ける為に通常行われない同種艦娘の単一艦隊内における複数運用にも、これで説明がつく。

 

 ガレージ内の道具や機械なんかにぶつけないように、武蔵は慎重に車を外へ出した。僕は自分のシートベルトを締めてから、面倒臭がって着用しようとしない武蔵の方に手を伸ばして、彼女のベルトも締めてやることにした。彼女は車を動かさずに、僕がそれを済ませるのを待ちながら言った。「だが陸軍も馬鹿にはできないものだ。数が少ない分、徹底的に鍛え上げるからな。そのしぶとさは私たち海軍も見習うべきだろう」かちり、と気持ちよい音を立てて、ベルトの先の金具が留め金に引っ掛かる。僕は質問してみる。「こっちだって諦めの悪さなら自信がある。奴ら、どれくらいしぶといんだ?」「そうだな、たとえば──」

 

 その時、僕の耳にほんの小さな破砕音が届いた。ガラスの割れる音だ。エンジンの乱暴な唸り声にほとんど殺されながらも、上で響いたそれは何かが起こったことを僕に伝えていた。無論、武蔵にも。彼女は思いっきりアクセルを踏み込んだ。と同時に、大きな揺れが僕を襲った。いや違う、車全体を襲ったのだ。新手かさっきの奴らかが、上から飛び降りてきやがった!

 

 車を発進させて道に出した武蔵は、右に左にハンドルを切ってシャーシにしがみついている追っ手を振り落とそうとする。けれど陸軍でも艦娘は艦娘だ。その力はただの人間のものではない。僕はドライバーの荒っぽい蛇行運転に振り回されながら、窓を開けてサイドミラーの角度を変え、屋根の上を見た。あきつ丸だ。顔に殴打痕がある。じゃあ僕が殴った奴か。左手はシャーシを掴んだままにして、彼女は右手で腰の刀を抜いた。黒服のあきつ丸のものだな、と僕は直感した。武蔵は刀を抜く余裕を与えなかったのだろう。順手から逆手に持ち替える。このままでは武蔵が串刺しだ。

 

 幸い、今度も僕には打つことのできる手があった。さっき着用したばかりのシートベルトを外し、サイドミラーを掴み、もぎ取って窓から身を乗り出す。こちらに構わずあきつ丸がルーフパネルへ刀を突き立てようとした刹那、僕はそれを彼女の顔面に向けて投げつけた。ナイフとは違うが、刃から当たるように気を使わなくていい分、ナイフ投げよりも単なる投擲の方がずっと楽だ。武蔵による蛇行という悪条件下ではあったが、僕は的を外さなかった。手元が狂ったあきつ丸の刀は、僕と武蔵の間に振り下ろされた。すかさず武蔵が戦艦のパンチで刀の横腹を打ち、僕が道具を使って全力で成し遂げたことを運転の片手間に素手でやってのける。しかも、彼女はそれだけに留まらなかった。折れた刀身を左手で掴むと、天井目掛けて突き出したのだ。金属と金属がこすれるあの嫌な音、短い呻き声。刺さったらしい。武蔵の左手もざっくり切れてしまっているが、彼女の傷への反応は一度の舌打ちだけだった。

 

 負傷への無関心は彼女のタフさを強調するにはぴったりの態度だが、止血した方がいいのは誰でも分かることだ。僕はあきつ丸の刀の小さな破片を足元から拾い上げ、それを鋏代わりに服の裾を切った。左手を出させて、布を巻こうとする。だが頭上から力強い二本の腕が突然ルーフパネルを突き破り引き剥がしながら現れ、シートベルトをしていなかった僕の襟首を取り、車外へと力づくで引きずり出そうとし始めた。その腕を掴み、足を椅子に引っ掛けて抵抗するが、とても敵わない。武蔵は僕を助けようとしたが、怪我をした左手ではどうにもできなかった。それならと蛇行をより激しくしてみたり、急減速を掛けてもみるが、効果はない。ルーフパネルとあきつ丸の体に突き刺さった刀が、彼女の体を車に留めているのだ。

 

 あきつ丸の白い顔と制服は、今や彼女の血によって赤黒く汚れていた。致命傷でなくとも重傷には違いないだろうに歯を食いしばって耐えていて、僕を捕らえた腕の力を弱めることはない。ほんの少しだけ、このまま飛び出して体当たりし、地面にあきつ丸を叩きつけてやろうかという思いが脳裏をよぎった。艦娘ならそれでも死にはするまい。打ち所が悪すぎれば話は別だけれども、そんな間抜けにも思えない……しかし、結局僕はそうしなかった。武蔵のセーフハウスでも似たことがあったが、今度は何故自分にそれができないのかという理由がすっと理解できた。あきつ丸は艦娘だ。友達じゃないが、僕の同胞なのだ。殴ったり怪我させることまではできても、殺してしまうかもしれない行動には出られなかった。彼女の方はそういった内心のしがらみなど一切ないらしく、僕をぐいぐいと引いて車から放り捨てようとしているのが皮肉に感じられた。

 

 椅子に引っ掛けた足先がつるりと抜けて、一気に体を車外へと持ち出されそうになる。無駄と思いつつもじたばたともがいていると、膝がルーフパネルとあきつ丸を貫いていた刀身の付け根に当たった。流石のあきつ丸も腹の中を刃でかき回されては耐えられなかったらしく、力が緩む。僕はその隙を突いて拘束を振り払ったが、あきつ丸の力に逆らう為に車の進行方向とは逆を向いていたせいで、ダッシュパネル下の空間に頭から落ちた。痛い。刀の破片で頭を切ったかもしれない。だが重傷ではない。足を伸ばして刀身の付け根を蹴り込む。あきつ丸は苦悶の声を上げると、刀身を掴んでルーフパネルから引き抜き、次いで自分の腹からも抜き取って投げ捨てた。武蔵がそれを彼女の側のサイドミラーで視認し、急制動を掛けるよりも先にあきつ丸はルーフパネルの引き剥がした部分から車内に飛び込んできた。

 

「ハンドルを! 直進させろ!」

 

 武蔵が余裕のない切迫した声で叫ぶ。僕は精一杯腕を伸ばしてハンドルを掴み、武蔵の言葉通りまっすぐ前に進むように保った。僕の姿勢でできることはそれだけだった。前が見えないのでは、右に左に切ることもできない。やりすぎて何処かの建物に突っ込んだら、僕は間違いなく首の骨を折って死ぬか、もっと残酷な運命を迎えることになる。狭い車内で赤黒く染まったあきつ丸と武蔵が乱闘を始めた。武蔵はシートベルトをもうしていなかったが、これは責められない。ドライブ中に車内への襲撃を受けたせいで外さざるを得なかったと主張すれば、緊急回避が認められるだろう。片手の使えない武蔵を支援したかったが、ハンドルに全集中を注いでいないと直進を保てそうになかった。蹴りの一発でも放とうものなら、そのせいで体勢を今以上に崩してハンドルを手放してしまうかもしれない。当然の帰結として、この車は僕の棺になる。凄いぞ、数百万の棺桶だ。三人でシェアしなくてはいけないのが玉に(きず)だな。

 

 蹴りは反動が大きすぎて危険だ。手はどうだ? ハンドルを握っている左手はそのままにしておくとして、あきつ丸の脇腹にでも右の拳を打ち込めないか? 無理だ。もう少しというところで届かない。僕にできるのは精々があきつ丸の足を叩くことぐらいで、それでは彼女をこちらに振り向かせることはできそうにない。どうしたらいい? あきつ丸は腹に穴が開いているというのに、武蔵を追い込み始めた。彼女を押し倒して上を取り、シートベルトを使って首を絞めている。武蔵は右手の指をベルトと首の間に潜り込ませて延命を図り、左手であきつ丸の体を押しやろうとしているが、形勢は不利だ。何か、何かを見つけなければいけない。

 

 右手を頭上にやり、グローブボックスを開いて、そのまま力任せにプラスチックの箱の前面をばきりとちぎり取る。中身が何個か落ちてきた。その中には緊急脱出用のハンマーもあった。マルチツール型だったならナイフも含まれていたのだが、生憎とこれはハンマーとシートベルトカッターという最低限の機能しか持たないものだった。それであきつ丸の脇腹を殴りつける。けれども、僕の予想と違って、彼女は痛みに声を上げることもなくこちらを見るでもなく、軽く腰を捻るだけだった。これでは足りないのだ。ハンマーを手放し、グローブボックス内を探る。武蔵の抵抗が弱まり始めている。焦燥が僕を支配しようとする。

 

 指が何かの箱に当たった。僕はそれを掴んで放り出した。小型の工具入れだ。ふたが開いて、マイナスドライバーが見えた。一も二もなくそれを取り、目を閉じて大声を出しながら突きを繰り出す。あっ、と驚いたような声をあきつ丸は出して、片手を脇腹にやった。たちまち武蔵は首からベルトを外し、右手であきつ丸のあごに一発入れ、腰の浮いたあきつ丸の体の下から自分の足を引き抜くや「定員オーバーだ」※109と言って蹴り飛ばした。その蹴りの威力ときたら、あきつ丸を助手席側のドアごと車外に追い出してしまったほどだった。

 

 そこから数十メートル行ったところで車が停まる。当たり前だが、武蔵が格闘の間アクセルを踏んでいなかったので、車は減速し続けていたのだ。彼女は悪態を一つ口にしてアクセルを踏もうとしたが、その前に僕は椅子に座り直させてくれと頼んだ。彼女は却下しなかった。一度車外に転がり落ちてから立ち上がり、体中の埃や金属片なんかを払い落とす。と、武蔵が「戻れ!」と叫んだ。嫌な予感がして後ろを向くと、あきつ丸が立ち上がっていた。慌てて助手席に戻り、アシストグリップで体を安定させながら外に身を乗り出して後方を見る。追いつける筈もないのに、あきつ丸はこちらに向かって走ってきていた。何度かハンドルを切って狭い道を抜け、完璧に撒いたようだと判断した後で、武蔵は言った。

 

「チームワークの勝利だな」

「チームワークって言えるほどのものじゃなかっただろ。左手を出せよ、包帯じゃないが、布でも巻いてやるから」

 

 さっき作った包帯代わりの布をフロアから拾い、(はた)いてから武蔵の左手に当ててやる。僕がこういう応急処置に慣れていないせいで乱暴な扱いになったのだろう、彼女は痛みに歯の隙間から漏れるような息を出したが、文句は言わなかった。布はすぐに湿り気を帯びた。早いところ、きちんとした手当てが必要だ。僕の心配を他所に、武蔵は楽しそうだった。「だが実際、かなりいい連携だったじゃないか? 私たちはいい相棒同士になれるような気がするよ。シルバー船長とジム少年※110アテナとオデュッセウス※111みたいにな」僕は頷いて返答した。

 

「そうとも、きっと僕ら二人は名コンビになれるだろうよ。ロランとオリヴィエ※112ローゼンクランツとギルデンスターン※113ヒースクリフとキャシー※114ブッチとサンダンス※115ボニーとクライド※116……ああ、義経と弁慶もだ。危うく忘れるところだった」

「その人選はわざとか?」

「うん」

 

 彼女は笑って、僕の頭を軽く叩いた。僕も微笑み返し、左手側に目をやった。夜明け前だからか、車や人通りはない。よかった。こんなぼろ車で走っているところは目立つ。そして僕と武蔵が今最も求めていないものの一つは、余人の注目だった。警察のサイレンも聞こえてこないから、追ってきたあきつ丸との死闘も見られていなかったのだろう。幸運その二だ。しかしいつまでも運なんかに頼ってはいられない。僕はグローブボックスを蹴って戻し、これから自分がどうなるか、どのように振舞うかについて考え始めた。排撃班に入れられるということは、ある意味では融和派との繋がりができるということだ。接触しようと思えば赤城たちに接触できるのではないか?

 

 いや、そんなのは誰だって思いつくことだ。ということは、排撃班は軍にとって融和派狩りにおける一番の道具であると同時に、最大の内患候補であると見なされていることが想像できる。その上、僕は融和派からの転向者ということになっていると来れば、監視の三つや四つは覚悟せねばなるまい。特別頭がいい訳でもなく、幸運の女神から愛されているとも思えない僕が、どうやってそういったものを切り抜けられる?

 

 武蔵に全てを話すという選択肢もあった。彼女はどうしてだか知らないが、僕に執着している。それも好意的な形でだ。それに、僕には彼女が僕の言葉を信じてくれそうだという根拠のあやふやな考えもあった。もう少し冷静さを失っていれば、それが吊橋効果とストックホルム症候群の合いの子みたいなものだという点に気付かず、僕があの大規模作戦で知ったことや観たことを打ち明けていただろう。そうしたらどうなっていたか……想像できないが、僕がこれまでに下してきた決断や決定が、翻って見て大抵の場合どれだけ間違いだらけのでたらめなものであったか、という悲痛な事実を鑑みると、きっと今度こそ致命的な事態を引き起こしていたのではないだろうかと思う。

 

 吹きすさぶ風に、潮の匂いが混じり始めた。懐かしい匂いだ。僕の実家は海から離れたところにあるが、今やすっかり艦娘となった僕にとって、海の匂いは家のそれと比しても同程度嗅ぎ慣れたものだった。ただ、幸せな少年時代を家庭で過ごすことのできた誰しもが実家の匂いを思い出す時に感じるであろうあの心の安らぎや、口の中によみがえる家庭料理の味、家族たちとの口さがないお喋りの思い出といった心温まるものは、海の匂いを嗅いでも想起されなかった。僕にとってそこはこの戦争と切っても切れない場所であり、従ってどれだけ努力してもそこから得られるのは興奮や恐怖の残滓が大半で、それらに混じってかつて肩を並べて戦った戦友たちとの日々の記憶がぽつりぽつりと思い出される程度だった。とはいえ、懐かしいものは懐かしい。体の力を抜いてシートにもたれ、武蔵に問う。

 

「港へ行くのか」

「埠頭の倉庫だ。薄暗くて湿っぽくて人もそんなに近づかない。ついでに海もすぐ傍だ。完璧だろう? だから排撃班も融和派も伝統的にアジトやセーフハウスとして利用してきた。利用しすぎてバレやすくなってからは集合地点や再補給用拠点としてしか使ってないがね」

「再補給用拠点?」

 

 武蔵は僕の質問で気分を害した様子もなく、むしろ自分の仕事に興味を持たれていることに喜んでいるようだった。

 

「排撃班にも本拠や支部はあるが、時には長期間、それらからの支援を受けずに単独で活動しなければならないこともあるんだ」

 

 僕はフィクションさながらだな、と呟いた。彼女は同意して、お陰でスパイ映画は見られなくなった、と冗談を言った。愛想笑いをしていると、聞き忘れていた質問を思い出す。質疑応答に相応しい状況ではないが、これだけは聞いておかねばならなかった。一体どうして忘れていたのだろうか、武蔵がどうして僕を助けに来たのかなんて重要な質問を? 僕がそれについていささか唐突に訊ねると、彼女は居心地悪そうに体を揺すって、答えたくないという気持ちを表現した。僕は前を向いて、彼女の動きが目に入っていないかのように振舞った。「これは大事なことだ。とても大事なことだよ、武蔵」僕はそう言ったが、彼女はその考えには賛成できないようだった。

 

「どうしてだ? 素直に見ればいいじゃあないか。お前は助かった。()()助けたからだ。()()危険を冒してお前の居所を突き止め、()()警備をかいくぐってあの収容所まで行き、()()死に掛けていたお前に治療を施し、安全な隠れ家まで連れて行ってやった。この私が、誰でもないお前の為にな。そう思っていた方が私たち、仲良くできるだろう。何故そうしない?」

「君のことが信用できないからだ」

 

 武蔵はハンドル操作を誤りそうになって、ブレーキを踏んで速度を落としながら彼女の問題に対処しなければならなかった。それが終わると、彼女は僕をちらりと見て何か言おうとして左手を持ち上げ、言葉が出てこずに口を閉じ、上げた左手の甲でハンドルの縁を叩いた。彼女の苛立ちを感じ取った僕の体は短く震えるが、車が揺れていたせいで気付かれずには済んだ。「命がけでお前を助け出した。それでもか」「僕は艦娘だ。僕の仕事は命に代えても日本を守ることだ。だからって銀行が無担保で融資してくれるとは思わないね。……君は僕が必要だと前に言ったな」「ああ。あの気持ちは変わっていないよ。もう一回同じことを言ってもいい」「何故?」「よく釣れる疑似餌が惜しくてな」今度は僕がダッシュボードを叩いたが、武蔵はそれで肩を震わせたりしなかった。

 

「あの時、君は『班ではなく私に必要だ』と言ったんだぜ、武蔵。疑似餌が欲しかっただけならそうは言わなかっただろう」

「そんな細かいことまでよく覚えてるなあ。分かった分かった、誤魔化すのはやめてはっきり言おう。お前を助けに行った理由はある。だが言いたくない。待て、意地悪でじゃないぞ、私にも──くそっ、これも本当なら言いたくないのに──言葉にできないんだ。理解してはいるんだがな」

 

 言葉にできない? 僕は武蔵の言ったことをそのまま鸚鵡(おうむ)返しに呟いた。彼女は開き直ったように笑って、僕の反応を嘲笑しようとした。

 

「そうさ。私が持っているこの理由というものは、複雑なんだ。沢山の事実が絡み合っているっていう意味での『複雑』じゃないぜ。そうじゃなくて、むしろ溶け合っているというか、その、何だ。私の言っている、言おうとしていることが分かるか?」

「分からんね」

「私もだ。でも、私の頭の中はそんな感じなんだ。なあ、経験からアドバイスしてやるよ。考えても無駄だ。私はそうしたいからそうしたのさ。それで万事、丸く収まるじゃないか。それに、信用できなくても私と来る以外の手はないんだ。こっちは分かると思うが」

 

 僕は首を縦に振った。すると武蔵は冷笑的な態度から一転して、僕を慰めるような声音で言った。

 

「今はまだ分からないが、考えがまとまったら話すと約束するよ。それまでは、私は今まで通りのやり方でお前の信頼を得られるように努力しよう。お前の命を狙うあらゆる敵から守り続けよう。知っているだろう、私はお前に嘘を言わないと」

「ああ、そして本当のことを黙ってることがよくある。自分から言い出さないことも沢山あるだろ。たとえば、どうやって僕を見つけたのかもまだ言ってないな。『私が独力で見つけたと思ってくれ』とは言ったけど。自分で見つけ出したのか?」

 

 彼女は僕の感じている不愉快さを言葉の中から嗅ぎ取ってか、鼻で笑った。彼女について嫌いな点は山ほどあるが、好意的に見られる点も挙げられない訳ではない。その中の一つが、感情表現を率直に行うというところだ。愛想笑いなし、お世辞なし、遠慮なし。彼女は言いたいことを言う。やりたいことをやる。僕にはそんなことができないから、時々それがまぶしく輝いて見えることさえある。

 

「そうだよ、何を隠そう私は魔女でね、魔法のステッキを一振りで、軍機もすっかり丸裸だ」

「そりゃいいや、早くかぼちゃの馬車でも出してくれよ。一度御者をやってみたかったんだ」

「構わんが、お姫様がいないんじゃ締まらないだろう?」

「だから君が魔女とお姫様兼任だ」

 

 何てことだ、と僕は自分に言った。まるで友達同士のやり取りだ。武蔵と友達になるなんて、ぞっとしない考えだった。どうひいき目に見ても、彼女は狡猾で邪悪な存在だ。その手は人間と艦娘の血に汚れている。必要ならその手を握ることはできる。指に口づけだってしよう。だが心に受け入れることは無理だ。そこに触れさせたくはない。好きになることはできそうもない。が、一方で彼女とのこういった軽口のやり取りが、収容所での深刻な一年の後では、僕に非常な喜びを与えるのも認めざるを得ないことであった。

 

「ふっ、この短期間に私へのおべっかが随分と上手くなったな。個人的な評価だが、今のはかなりよかったぞ」

「毎秒毎分が学習だよ、武蔵……で、実のところどうなんだ?」

「匿名の情報提供者だ。怪しかったから色々と探っていたら遅くなってしまった。悪かったな」

 

 匿名? 僕には赤城以外にそんなことをする者がいるだろうかと思った。

 

「いいさ。結局、まだ生きてる」

「そうだな」

 

 無言が場を支配しようとした。互いの間に漂うそれを楽しめるほどには、僕は武蔵を好いていなかった。そこで手を伸ばして、カーステレオに触ってみた。あきつ丸との格闘で何処かが壊れてしまって動かないかもしれないと期待はしていなかったが、流石は日本製、動いてくれた。液晶にはCDが一枚入っていることを示す英文が映し出されている。武蔵の趣味の音楽CDか。興味がないと言ったら嘘になるな。音量を最低に落としてから再生を始め、段々とボリュームを上げていく。すると、知っている声が流れ出してきた。

 

「那珂ちゃんか」

「うむ」

 

 僕らは一言ずつ発して、歌を邪魔しないよう、余計なことは付け加えなかった。僕は武蔵と初めて会った時にも、彼女がポータブルテレビで那珂ちゃんの映像を見ていたということを思い返した。収容所で満足には聴けなかった分、拝聴させていただくとしよう。CDには僕が拘束されている間に出た新曲なども含まれていて、盆と正月とクリスマスと感謝祭とハヌカーとクワンザが一緒に来たみたいな気分だった。上機嫌に任せて付け加えてしまったが、僕はユダヤ人でも黒人でもないから、最後の二つは除くべきかもしれない。クリスマスと感謝祭は社会行事みたいなものだから許して貰えるだろう。

 

 曲と曲の切れ目で、武蔵が言った。「近々、また新曲が出るらしい」嬉しい知らせだ。那珂ちゃんの声によって肉付けされた軽やかなメロディに耳を愛撫されながら、僕らは武蔵の言ったところの埠頭の倉庫へ向かった。何曲目かが終わった頃に潮の匂いが強くなり、武蔵は僕をちらりと見た。僕は名残惜しかったがステレオに手を伸ばし、世界は今こうして目に見えているよりもずっと素晴らしいものなのだと僕に信じさせてくれる、万人のアイドルの歌声を中断させた。

 

 あれだ、と武蔵が倉庫の一つを指差したが、同じような倉庫が並んでいたせいで、僕には車がそのまま倉庫に入って行くまで、どれがどれだか分からなかった。貨物搬入用口のシャッターは到着時もう上げられており、車を降りることなく中に入ることができた。だだっ広い倉庫の中央まで車を進め、武蔵はクラクションを二度鳴らした。反応を待つ間に、きょろきょろと倉庫内を見回す。明かりが灯されていなかったので見えにくかったが、数個の小型コンテナが壁や隅に寄せて置いてある以外には何もないように思われた。

 

 少し間を置いて、武蔵はクラクションをまた鳴らした。今度は長く、一回。やっぱりスパイ映画か何かみたいだな、と言おうとして武蔵を見て、その横顔に不審と警戒の様子を発見する。僕は頭の中で緊急事態を宣言し、次に何が起こってもいいように覚悟を決めた。息を殺し、暗がりを見通そうと頑張ってみる。武蔵は車のライトを消し、左手を伸ばして僕の右腕と絡ませて、彼女の方に引き寄せた。僕は囁いた。「どうした?」武蔵は歯をむき出しにして笑っているような顔のまま、悔しそうな声を出してみせた。「囲まれた」

 

 どういうことか詳しく聞こうとした瞬間、ぱっと倉庫の照明が灯り、その明るさに耐えられなくて僕は左手で光を遮った。武蔵は僕よりもまぶしく感じているだろうに、直視している。目を大事にした方がいいぞ、と場違いな思考を浮かべた。徐々に慣れてきたので、恐る恐る手を下ろす。そして、武蔵の言葉を理解した。

 

 何処から現れたのか黒服のあきつ丸(武蔵がきちんと無力化しなかった筈がないので、別個体だろう)が、一目で排撃班の人員だと分かる、覆面を被って黒い戦闘服に身を包み、銃を持った連中と並んで立っていた。体格から、人間の男だと僕は判断した。単なる人間が、銃で艦娘を抑えるつもりか? 僕は奴らの浅慮を侮蔑しそうになって、考え直した。陸軍を馬鹿にするのも大概にしよう。 武蔵に訊く。「おい、深海棲艦用の()()はまだ本格配備されてないって言ったよな」「ああ」「じゃあ、兵器じゃない銃弾や砲弾なんかは──」「お前が考えている通りだ。さっきの二人は市街地だったから刀を使ったんだろう」僕はダッシュボードを殴った。人類の叡智ってものは最高だな、一年でそこまで進んだって訳か! きっとコストの違いがあって、そのせいで先に研究されていた通常兵器(ミサイル)よりも銃砲の弾薬の方が早く普及したのだろう。それ以外の理由は思いつかない。

 

 車内に乗り込んできたあきつ丸との格闘の最中にバックミラーは取れてしまっていたが、紛失まではされていなかったので、僕はそれを拾って背後を確かめることができた。そこにも陸軍排撃班と見られる人員が銃をこっちに向けて待機していた。僕たちが現況を把握するのを待っていたのか、姿を現してから暫くしてやっと、黒服のあきつ丸は次の動きに出た。こちらに呼び掛けたのだ。

 

「警告する。ただちに降車し、投降せよ。貴官らの行動は軍と国家に対する反逆である。ここに配置されていた人員は、既に制圧された。これ以上の抵抗は無意味である」

 

 精一杯の虚勢を張って、僕は肩をすくめてやった。陸軍排撃班の班長殿には見えてはいなかっただろう。もしも見えていたら、彼女はそのボディランゲージを抵抗と受け取って発砲許可を出したに違いないからだ。あきつ丸は「諦めろ、抵抗は無意味だ」と言っただけで、助命については一言も口にしていない。海軍でも陸軍でも排撃班にいる奴らは、もしかしたらある面においては非常に義理堅い人々なのだろうか? だから命の保障など口にしない、とか。

 

「さあ、六番。お次はどうするんだ?」

「私の合図でダッシュボード下に隠れろ、一八七八二番。エンジンが弾を防いでくれる」

 

 あきつ丸がよく通る美声で、発砲開始までのカウントダウンを始めた。

 

「強行突破かい。君にしては芸がないな」

「それだけ必死なのさ。隠れろ!」

 

 武蔵の言葉に従って、体をダッシュボード下に滑り込ませる。必然的に視界は封じられ、周りで何が起こっているか見るのは難しくなる。唯一外を見ることのできる方向は車の進行方向に対して左手側だ。僕のいる助手席側のドアはなくなってしまっていたから、そこから外を見ることができた。けれども、武蔵が何をやったか正確に把握するにはその限定された視野では不足すぎた。なので、僕は自分の想像力を使って武蔵がやったことを補足しようと試みることにした。まず彼女は、強行突破という計画の第一歩としてアクセルを踏み込んだのだと思う。あきつ丸たちは待ってましたとばかりに撃ち始めた。でもフロントガラスはかなりの性能を誇る防弾仕様で、排撃班の奴らが使っている銃でも弾が抜けなかった。

 

 武蔵は跳ね飛ばされまいとする陸軍の連中を尻目に、倉庫の壁に突っ込んだ。何故バックするなり回頭するなりしなかったのかと批判的に考えてから、分かりやすい逃げ道には罠を仕掛けるものだろうと思い直した。壁を二、三枚破ってからドライバーはハンドルを切り、道に飛び出した。座席とダッシュボードの間の空間で頭を抱えて縮こまっていた僕は彼女の名前を呼んだが、返事はなかった。顔を上げると目前の助手席のシートの上に武蔵の壊れた髪留めが転がっており、彼女を見やれば頭からだくだくと血を流していた。きっと、助手席側から飛んできた弾が当たったのだ。それも、一発や二発ではないようだった。真っ先に頭の傷が目についたが、よく確かめてみれば肩や脇にも銃創が見えた。僕はまた彼女の名前を呼んだが、その声は不安と恐れで震えていた。すると彼女は口の中に溜まった血を吐き出して、蜘蛛の巣状にひびの入ったフロントガラスを汚し、赤く染まった唇と歯で亀裂のような笑みを浮かべた。彼女は言った。

 

「まだだ。まだこの程度では、この武蔵、沈まんよ」

 

 僕らのものではないエンジン音がする。陸軍排撃班も車で追って来ているようだ。僕にできることはなかった。彼女の言葉を信じて、ありったけのものに祈った。響が現れて導いてくれればいいのにとも思った。が、彼女が現れたところで僕はそれを現実のものとは認めなかっただろう。収容所からの脱出の時に幻覚の響を生み出してしまった前科があっては、本物の響が現れたって勘違いして退けようとしそうなものだ。

 

 耐え難いストレスの下で、僕の意識は僕自身を離れた。僕は自分を少し高いところから見下ろすような感覚に囚われた。魂だけでそこにいるがごとき、ふわふわとしてはっきりしない意識で、僕は自分と武蔵の逃走劇を眺めていた。それが現実に引き戻されたのは、とうとう限界を迎えたらしい武蔵がハンドルの上に突っ伏すと、ある建物の壁に激突して、車体の前半分を屋内に突っ込んで止まったからだった。呼びかけても彼女は答えない。「中に入れ!」と男が外で叫んでいる。ここから逃げる方法など僕にはない。だからって、このまま車の中で待つつもりはなかった。

 

 ドアのない助手席から転がるようにして降りると、運転席のドアを開けに掛かる。鍵が掛かっていたが、度重なる被弾に割れかけていた防弾ガラスの窓を殴って割り、ロックを解除してやった。降りる前に解除しておけばよかった。武蔵の体を掴み、外へ引きずり出す。重い。意識のない人間の重さが腕にのしかかる。落としてはいけない、と踏ん張ろうとするが、無理だ、落と──さなかった。横からにゅっと伸びてきた小さな手が、武蔵の重みの半分を引き受けてくれたのだ。お陰で武蔵を支え直してやる余裕ができた。だが僕はその手の持ち主を見て、混乱してしまった。電だ。でも、どの?

 

「電? あの電か?」

「はい。追手は仲間たちが足止めしているので、電に付いてくるのです」

 

 どうして君が、という質問が喉までせり上がってきた。しかし、ここでするべきは質問ではない。逃走だ。この電が僕の知っているあの彼女なら、赤城とも合流できる。武蔵のことだけが心配だった。彼女は排撃班、僕を助けに来た時には赤城のグループの構成員を大勢殺している筈だ。彼女のことは好きじゃあないが、僕の命を何度か救った人物を死神の手に委ねるほど、僕は薄情でいられなかった。そんなことをすれば夜毎に悪夢を見そうなものだ。僕は気が弱いのだ。「武蔵も助けてやってくれ」でないと僕は何処にも行かないからな、と続けるつもりだったが、電は前半分だけ聞いて「赤城さんからも同じ指示を受けているのです、いいから早く!」と言った。その語気に僕は打ち勝てなかった。

 

 姿勢の安定こそしているものの、武蔵の重みで僕の足はぐらつきそうだった。あんまりふらふらするので、僕は自分がそんなに非力だったかと不思議に思って足を見た。穴が開いていた。撃たれていたのだ。道理で、と僕は独りごちた。建物の中を行き、電と共にエレベーターに乗る。Gの掛かり方で、下へ向かっていると分かった。地下道? まさか下水道か何かか? 不衛生だ、怪我人が使う道じゃあない。感染症を起こしたらどうするんだ? 電に聞きたかったが、唇が震えて無理だった。いや、唇だけではなく手や体のあちこちが痙攣していた。これには覚えがある。出血性ショックだ。気が遠のく。ダメだ。気絶はマズい。電が何か言っている。聞こえない。武蔵が重い。

 

 僕はどたり、と倒れこんだ。床で歯を打ったせいでひどく痛かったが、それもやがて意識が白んでゆくにつれて消えた。

 

 ところで、気絶したことがある人間とその経験が一度もない人間のどちらが多いかと言えば、データを集計して分析した訳ではないが、後者が圧倒的大多数ではないかと思う。気絶するような病気や怪我は日常生活では稀なものであって、かく言う僕だって十五の時に軍に入るまでは、気絶した経験はほとんどなかった。海で溺れた時ぐらいだ。ところがその僕が、どうだろう、たった三年で何度気絶した? 何度気を失って、何処だか分からない場所で目を覚ました? ここ数日だけに絞っても二度だ。僕の脳がダメージを受けていないとは思えない。控えめに見ても深刻な脳損傷の軽めな症状が出るぐらいはありそうだ。やれやれ、もし万に一つでもそうなったら、僕は誰を訴えればいいんだろう?

 

 さて、病室のような匂いのする部屋で目を覚ました僕は、まだまだ天国で響と再会する日は遠いらしいと結論した。左右を見ると、左には壁、右にはもう一つのベッドがあり、その上には武蔵らしき褐色の肌を持った女性がいた。()()()としたのは、僕にはそれが武蔵かどうか分からなかったからだ。違う、相貌失認じゃない。僕の側頭連合野は生き延びていると思う。そうじゃなくて、その女性の顔には白い布が被せられていたのだ。白布の意味は明白だった。僕は体のあちらこちらから湧き上がってくる痛みや、心因性の悪心に耐えながら、布に手を伸ばした。指で端をつまみ、顔の上から奪い取る。

 

 ああ、と溜息が漏れた。こんなに衝撃を受けるとは思わなかった。そこには武蔵がいた。穏やかに眠っているようだった。納得行かなかった。武蔵は謎だ。あいつは、前だけでなく今度もいきなり現れて僕に関わって、めちゃくちゃやって、挙句の果てに勝手にくたばって去って行った。いつか彼女が僕にかかずらう理由が分かる時が来ると思っていた僕は、置き去りだ。

 

 布を床に投げ捨てて、ベッドに横たわった。武蔵が最後に僕を連れて行ったあの場所にどうして電がいたのか、そもそもどうして武蔵は僕をあそこに連れて行ったのか考えて、気を紛らわせようとする。でも休んだせいなのか、すぐに答えらしきものにたどり着いてしまった。多分武蔵は匿名の情報提供者に赤城の気配を感じたのだ。僕と同じように。そして詳しく調べて、匿名の情報提供者(赤城の融和派グループ)があの場所を拠点として使っていることを知った。それから僕を助けに来た。余計な遅れのせいで死にかけたが、どうにか僕は命を取り留めた。しかし海軍排撃班との合流地点である倉庫で陸軍の待ち伏せを受けた。部下は制圧されて、海軍の支援もない。独力では僕を守れない。ならどうする? 意地を張って二人で死ぬか、それとも一人で済ませるか。武蔵は今度も、約束を守ることを選んだ。

 

 悪態を吐く気力もなかったが、布を戻してやらなければいけない気がした。床に投げ捨てたようなものを顔にまた被せるのもどうなのかと思ったけれど、武蔵は気にしないだろう。ベッドから下りる。武蔵のセーフハウスで行われたような点滴はされていなかったので、チューブが邪魔になることもなかった。布を拾う為にかがむと、鈍痛が体を苛む。外傷は治療された後らしいが、本調子に戻すにはきちんと入渠しなくてはいけないな。まあ、できるものなら、だが……ここが融和派の拠点なら、ドックぐらい期待したっていいだろう。

 

 布を拾って、被せる前に武蔵の顔を見る。長いまつげ、閉じ切らずに薄く開かれた目、血色を保った頬、そこから彼女の魂が抜けていったことを示すように半開きになった唇は、生命の名残として湿り気を残しているが、それもいずれは乾くだろう。彼女の頬を指の先で一撫でして、布を被せようとする。でもその前に後ろで蝶番がきしむ音がしたので、振り返らなければいけなかった。「おや、起きていたんだね。でもベッドから出てはダメだよ、さ、戻るんだ」深い息を吐き、僕は指でこめかみを押さえる。自分の弱さに向き合うというのは、つらく苦しいものだ。

 

 幻覚の響は僕の服の裾を掴んで、ベッドに腰かけさせた。僕はそれが無駄なことだと分かっていながらも、彼女に話しかけた。

 

「ねえ、響。君がいなくなった後、色々とあったんだよ、ああ、色んなことがあったんだ」

「そうなのかい? どんなことがあったのか、私も聞きたいな。けど、今はダメだ。分かっているだろう」

「うん。だけどね、今しかないんだ」

「そんなことはないさ。ゆっくり休んで、ドックが空いたら入渠して、元気になったらみんな話してくれればいい。私はここにいる」

 

 促されるままに、ベッドで横になる。響の瞳は優しく輝いている。無帽の彼女の髪は、頭が小さく動く度に二度と嗅ぐことのないと思われたあの芳しい香りを振りまく。踵を返していこうとする彼女の手首を掴み、ぐっと引き寄せる。そしてその頬に軽く口づけた。どうして口にしなかったのか、あるいはもっと軽く手にしなかったのか分からない。分からないが、その次に起こったことを考えると少なくとも口にしなかったのは正しかったのだろう。

 

 響は呆気に取られた顔をした後で、合点が行ったという風に微笑みを浮かべて、僕の鼻にがぶりと噛みついたのだ。その可愛い小さな歯が皮膚に食い込む痛みと感動に、僕は悲鳴を上げそうになった。

 

 たっぷり数秒は噛みしめられていたと思う。彼女は口を離して唇を指で拭うと、自分の額と僕の額をこつんと打ち合わせた。僕はどうにか、感想を言葉にした。

 

「最高だ」

「おかわりは?」

「いいね」

 

 すると横で「おい、いい加減にしろ」と怒ったような武蔵の声がした。なるほど、死んだふりか。騙された。

 

*   *   *

 

 武蔵は自分の悪戯が不発に終わらされただけでなく、僕と響が濃厚な口づけを交わしている(という風に彼女からは見えたらしい。面白かったので、僕たちは訂正しなかった)ところを見せられて、いたくご立腹の様子だった。しかし僕には彼女の不機嫌よりも響の実在の方が重要だった。生きていた。死んでなかった。武蔵だって、そのことは認めた。鏡を持ち出して僕の鼻についた噛み痕を確かめもした。響は生きていた。生きていた!

 

 こういうことだ。第五艦隊が乗っていた飛行機は乱気流を避ける為に高度と速度を落としていた。だから深海棲艦の対空砲撃なんかに当たってしまった訳だが、それは無視する。大事なのは、深海棲艦の対空砲火に当たってしまうぐらい低く、遅く飛んでいた飛行機に僕らは乗っていたということと──響が落ちたのは被弾から暫く後だったということなのだ。その時点で飛行機はほとんど海面に接触しかけており、落下は響を着水の衝撃で殺してしまわなかったのである。

 

 とはいえ無傷とも言えず、航空機の中から吸い出された雑多なものの中に混じっていた木製のクレートを浮き代わりにすることはできたものの、艤装も何もなしの上に荒波に揉まれては海面下に押し込まれないように抗うことしかできず、死は間近に迫っていた。そこを助けたのが、第五艦隊を捜索・追跡していた赤城たちだった。ただ助けられはしたものの、赤城たちの素性が素性なもので帰して貰うこともできず、仕方なくグループに身を寄せていたらしい。

 

 僕は赤城が、あの漂流の終わり際に僕と話した時、「あなたの小さな響の死」というフレーズを使ったのを今更に思い出していた。どうして彼女は第五艦隊にとっての響の死を知っていたのだ? ボートの中で寝ている負傷者たちに混じっている可能性だってあったのに、赤城は僕らにとって響が死んだ人物であることを確信していた。今なら分かる。彼女は響が何処にいるか知っていたのだ。僕は響の話が終わった後で、また何度も彼女を抱きしめ、その額といい頬といい手といい指といい片っ端から口づけした──せずにはいられなかった。響、僕の友達、僕の艦隊員、僕の天使。心の中にだけ生きていた時でさえ、彼女は僕の心を支える最も強く太い柱の一つだった。その彼女が、今や現実に生きているのだ。よみがえったのだ。嬉しかった。

 

 でも数分すると、僕は自分の喜びが響を失っていた間抱え続けていた悲しみに比べて、比較するのも馬鹿らしいほどに小さなものであることに気付いて、またショックを受けることになった。彼女の復活は何よりも大きな喜びでなければならないのに、僕の心は僕の思い通りになってくれないのだ。彼女に対して申し訳ない気持ちにさえなった。それは間違いなく響に対して僕が犯した罪だった。彼女を殺しかけただけでなく、彼女が僕から受け取るべきものを渡すことができないという罪だ。だがその罪科を告白すると、響は途端にじとりとした目つきになって言った。

 

「全く、死んだと思っていた親友に久々に会えたっていうのに、そんな下らないことで悩んでるのかい? いたって当たり前のことだよ、それは。君は幸福でいるのが当然の状態なんだ。それがうっかり不幸になったが為に、失われてしまった幸福のことを思い悩み、ずっと余計に不幸を感ずるのさ。だから幸福に戻った時、君が不幸を“失った”と感じる気質なのでもなければ、それまでに感じてきた不幸に比べて幸福がひどく小さく思われるのは、全然普通のことなんだよ」

 

 僕は実に久しぶりに、心からリラックスして微笑むことができた。武蔵はやっぱり、それも気に入らないようだった。彼女は僕に言った。

 

「お前、さっきは私が死んだと思ってめっきり元気をなくしていたんだ、私にもその響にしたぐらいのことはしてくれるんだろうな? え?」

「君は随分あっさり生き返ったし、収容所を出てから今まで一緒にいたじゃないか。僕の命だって君の手中に握らせてやった。だが、この響はすっかり死んだものと思っていたのが生き返り、ずっといなくなったと思っていたものが見つかったんだ。差がつくのは当然だろう」

 

 ベッドから手を伸ばして、僕らは互いの手を叩いて攻撃しあった。響が今度こそ本当に呆れて、僕らのベッドを引き離すまでだ。それでも僕らはにらみ合うことや、皮肉と当てこすりと刺々しいユーモアの投げつけあいをやめなかった。響に会ったことで疲れも痛みも何処へやら、消えてしまった僕にはいつまでも続けられそうだった口喧嘩がとうとう終わることになったのは、響が赤城を連れてきたからでしかない。実のところ、彼女が入って来ても十秒ぐらい気づかないでいた。僕と武蔵がたまたま息を整える為に置いた間が重ならなかったら、十秒どころか十分だって気付かないでいただろう。

 

 赤城は武蔵を見ないようにしながら、僕の体調を尋ねた。僕は「悪くない、入渠させてくれればもっとよくなると思うけど」と答えた。赤城がドックは十五分以内に空くということを伝えた後、次の質問をしようとしたところで、武蔵が「答え合わせ」をしたがった。彼女は僕の居場所を伝えたことだけでなく、融和派拠点の露見や陸軍への密告までが赤城の計画の内だと考えていたのだ。収容所から助け出させ、海軍排撃班と陸軍排撃班を潰し合わせた上で、僕を手に入れる。一石二鳥だ。綱渡りみたいなやり方だし実際死にかけたが、成功もした。そこまでして手に入れるほど僕は重要なのか、それなのにそんな綱渡りをさせたのか、大体赤城の目的に僕がどう役立つのか僕自身としても知らないし分からないけれど、武蔵はこの考えを疑っていないようだった。赤城は甘い勝利と心地よい嘲りを味わうように、弾みを隠し切れていない声で言った。

 

「あなたが彼に偏執的に執着していることは知っていましたので。転がされてくれて、どうもありがとうございました。あなた方が殺した私の同胞たちも、さぞかし喜んでいることでしょう」

 

 年来の宿敵同士は、視線と視線を絡めあった。横から見ているだけで震えが来そうな迫力だった。僕は恐怖とプレッシャーで失禁してしまう前に二人を引き離すことにした。「赤城」と声を掛けると、彼女は視線を動かさないまま「何でしょう」と答えた。「ドックに案内してくれ。話したいこともある」「ダメだ、私といろ。一人では何をされるか分からんぞ、私もお前も」武蔵が横槍を入れてくる。僕は響が止めようとするのを大丈夫だからと抑えてベッドを下り、緊張を崩さない武蔵の肩をぽんと叩いた。「落ち着けよ、次は僕の番だ。赤城?」「はい」「彼女を傷つけないでくれ。友達じゃあないが、それでも命の恩人だ」赤城は頷いた。よし、交渉成功だ。僕は響に武蔵を見ていてくれるように頼み、この部屋を出ることにした。

 

 部屋のドアを閉める前に隙間から見えた武蔵の顔が最大級にニヤついていたのが、何とはなしに怖かった。



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「融和」-4

 赤城に案内されながら、僕は廊下を歩き始めた。先導する彼女の髪の毛を見る。髪の毛を馬鹿にしてはいけない。大事なものだ。自尊心とかそういう面でだけでなく、人間の体調や状態を推し量る上でも役立つのだ。たとえばもしその人の髪が油まみれだったら、そいつは調理中に植物油を引っかぶりでもしたか、さもなければ風呂に入っていないということだ。状況次第で解釈は何通りかあるが、風呂に入る余裕もないほど忙しいか、単に身嗜みに気を払わない不潔な奴、という可能性などが考えられる。赤城の髪は艶々としていて、廊下の蛍光灯から発せられる輝きを受け、天使の輪と俗称されるものを生み出していた。これは髪の毛の一番外側にある薄い細胞膜、いわゆるキューティクルの表面で光が反射されることによって発生するものであって、手入れなしに保てるものではない。

 

 僕は彼女が気だるげに髪の手入れを行いながら部下たちに指示を出すところを想像した。「ああ、あの男性艦娘ですね。収容所でしたか。送迎は武蔵にやらせればいいでしょう。ついでに陸軍に密告して排撃班同士で戦わせて──あら、自分で言うのもなんですけれど、いいアイデアですね!」赤城と話した時間は短いので、とても精度の悪いエミュレーションしかできなかった。しかし、それが気にならないほど僕は赤城に対して不満を感じていた。彼女のプランは綱渡りだった。僕が死んでいてもおかしくなかった。多少の危険はいい。リスクゼロのプランなんて存在しないか、よくできたフェイク、または何らかの誤った要素を持つ机上の空論だ。そんな計画と膝を折って神に祈るのと、どちらがより現実的かと聞かれれば、僕は後者だと答えるだろう。少なくとも、神の不在は証明されていないからだ。

 

 適当なところで、僕は赤城を呼び止めた。そこまで他人に会わなかったので、盗み聞きされたら、なんて心配も要らないだろう。それに秘密にしておかなければならない話をするつもりもない。ただ僕は、説明して欲しいだけだ。不必要に手の込んだ計画は、立案者の傲慢な有能感を満足させるものでしかない。案は必要なだけ十分に複雑であるべきであって、限度を超えると成功そのものを危うくする。余計な部分は切り落とすべきなのだ。赤城がそのことを分かっていないとは思いたくなかった。武蔵に僕を救出させたことには理由があったのだろう。それを知りたかった。だから問うた。赤城は周囲に目をやってから、壁に寄りかかって億劫そうに答えた。

 

「あなたが“戦闘中行方不明”になってからの一年、あの武蔵がどんな荒れようだったかご存知ないのでしょうね。陸軍排撃班に比べて、彼女の班がどれだけ私たちの活動の障害となったことか。腹芸は得意ではないので、正直にお話しましょう。あなたが死んだとしても、私たちの戦いは続けられます。終戦は遠のき、敗色は濃厚になりますが、それでも続けられる。しかし、後であなたの命を危険に晒すことになってでも、あの武蔵を大人しくさせ、彼女の排撃班をあなたの確保やその為の情報収集という任務に注力させていられなければ、私たちは確実に全滅していたでしょう。優先度の問題ですよ。付け加えるなら、意趣返しと言ってもいいですね。その側面を持っていることについては否定しません。けれど、復讐心で判断を誤るほど幼くもありません」

 

 一心不乱に仕事へと打ち込む武蔵を想像して、僕は顔をしかめた。あの武蔵よりも恐ろしいものは何か? それは“荒れ狂った武蔵”だ。更にその上位には“荒れ狂った艤装装着済み武蔵”が来る。

 

「僕とあんたが最初に会った時の再現という訳か。配役は逆にして」

「その通り。まあ、武蔵と違って私は捕まりませんでしたけれど」

「あいつは死ぬところだった」

「あら残念。死ねばよかったのに」

 

 命を無下に扱う彼女の態度といい、気持ちよく聞ける話ではなかったが、納得はできた。自分が最高の優先度であるという前提が間違っていたのなら、それに基づいた赤城の計画への批判は筋違いだ。それにしても、武蔵との関わりが短いながらも濃密なものであったせいでそちらにばかり目が行っていて気付いていなかったが、赤城も決して皮肉抜きでよい性格をしていると言うことのできる人格ではないようだ。融和派グループの首魁ともなれば、そんな性格になってしまうのも仕方のないことなのかもしれない。僕なんか、第五艦隊の旗艦になって五人の命を預かるだけで頭と心がどうにかなってしまいそうだった。赤城のグループが何人か知らないが、五人ということはないだろう。五十人、五百人、五千人、五万人? 見当もつかない。分かるのは、捻じ曲がってもおかしくはない数だということだけだ。

 

「じゃあ、次の質問だ。どうして響のことを教えてくれなかった」

「あなたが自発的に私に手を貸さない時には、人質として使うつもりでした。その為には黙っていた方が効果的でしょう? 駆逐艦一人ならグループに引き込めなくても惜しくありませんでしたから。ただ、今の彼女は……」

 

 赤城は口ごもった。僕が身振りで続きを促すと、彼女は肩を落として溜息を返してきたので、少し目を見張った。僕が断片的に知っている赤城は、こういう人間的な弱みを見せる人物ではなかったからだ。ところがこの彼女は、響の処遇に困っている、という風な態度を取っている。だがやがて彼女は助けを受けることなく自分の力で気を取り直すと、無表情を取り繕って続きを口にした。

 

「あの響は今や、グループの中で確固たる立場を築いています。厳しいストレス環境下に置かれている構成員たちのカウンセラーとして、あなたと関係なく」

 

 僕は吹き出した。赤城は黙らせようとするようににらんで来たが、効き目は一向になかった。そうか、響はそんなことをやっていたのか。僕は彼女が人々の苦しみに共感し、安寧に導こうとする様子を想像できた。彼女なりの処世術だったのかもしれないが、そういうことを抜きにして考えても似合っていた。

 

「自分以外に影響力のある人物など私のグループにはいて欲しくなかったのですが、気付いた時には手遅れでした。取り込むつもりが、こんなことになるとは」

「流石は響だ。彼女は有能なカウンセラーだろうね?」

「グループ全体について言えば、その精神衛生環境は著しい改善があった、とだけ申し上げておきます」

 

 赤城の表情からすると、彼女個人にはなかったらしい。あるいは、あったけれども隠しているか、だ。僕は気が済むまで笑い、目じりの涙の粒を拭ってから、次の話に入ることにした。「僕と君とで戦争を終わらせられるそうじゃないか」赤城は頷いた。それまで彼女の顔にあった感情的な色は潮のように引いてゆき、残ったのはグループのリーダーとしての冷徹な態度だけだった。「お聞かせ願いたいんだがね、僕が何の役に立つんだ? たった一人の男に、何ができる?」まさか、戦力として期待されている訳でもあるまい。確かに僕は今日まで生き延びてきたが、それは僕が強かったからじゃない。そもそも今の僕には艤装がない。赤城はそのことを理解しているだろう。興味深い気持ちで、彼女の言葉を待つ。彼女は落ち着き払った声で始めた。

 

「あなたが現れるよりもずっと前から、私はグループを率いて活動してきました。けれど、一度だって戦争を止められると思ったことはなかった。知っての通り、深海棲艦の大半は、既存の人類のほぼ全員と相互にコミュニケーションを取ることが物理的に不可能です。それは彼女たちが我々のように話せないからだけでなく、戦争という状況にも理由がありますが……あなたならどうです? 何を考えているかも分からない相手と、講和を結ぼうと思いますか?」

「多分、思わないだろうな」

「いいえ、()()()()()思わないでしょう。だから、私たちは常に少数派だった。話すことができる鬼級・姫級深海棲艦の幾人かとは協力態勢を整えることができましたし、彼女たちに説得され、私たちに加わった発話不可能な深海棲艦たちも僅かながらいます。しかし、それでも少なすぎた。そこであなたの出番という訳です。ご心配なく、下準備は整えておきました」

 

 僕は段々と自分が何に使われるのか分かってきた気がして、面白く思った。結局、とどのつまり、最終的に、僕は自分が軍で手に入れた最初の立ち位置に戻ってきたのだ。二年ちょっと掛けて、随分と遠回りをして、広報へと。僕は深海棲艦とコミュニケーション可能な人間の実例だ。僕を使って、主戦派深海棲艦への切り崩し工作を図るつもりなのだろう。僕が自分の予想を赤城に短く伝えると、彼女は頷いた。当たっていたようだ。ふうん、まあいい。それが上手く行ったとする。主戦派を弱体化させ、逆にこちらの勢力は強化された。それで、そこからどうする? そこが重要だ。赤城はその部分をまだ話していない。融和派の勢力が大きくなったからって、日本政府と国軍はあちらから和平交渉などして来ないだろう。窓口があるとも思えない。

 

 そう、深海棲艦融和派という存在の不毛さの半分以上はそこにあると言えるだろう。彼ら彼女らがどれだけ本気で深海棲艦との未来を望んでいても、国民の代表たる政府と政府の決定に基づいて武力を行使する軍は、融和派と交渉などしないのだ。彼らにとって融和派はテロリストであり、理解不可能な人類の裏切り者たちであり、その主張に落ち着いて耳を傾ける相手ではないのである。となれば、道は二つだ。首根っこを掴んで強引にでもこちらの言うことを聞かせるか、誤解を解こうと試みるか。赤城はどちらを取るのだろう? 僕は期待しながら彼女の答えを待った。だが彼女は答えず、代わりに壁から身を離して歩き始めた。答えを督促しようとする僕に、彼女は振り返らないままに言った。

 

「二度手間を掛けさせるつもりですか?」

 

 そのつもりはないが、そうさせる程度の権利ぐらいは望んでいいんじゃないか、と思う。だが、赤城と口論するつもりはなかった。僕は融和派のリーダーじゃない。彼女がそうなのだ。なら、彼女が時期を見計らうまでは黙っていよう。心配することはない筈だ。赤城だって、何もかも黙っているつもりはあるまい。彼女を友人として信用する気にはならないが、グループの指導者としてなら信じてもいいのではないかと僕は考えていた。彼女は私欲で動いていない──とは断言できないか。グループの利益は彼女自身の利益にもなる訳だからな。でも何にせよ、僕と赤城の目指すところが同じである以上は、一向に目的の掴めない武蔵よりは信頼できる。

 

 僕は黙って赤城の後に続き、入渠を済ませた。その後で融和派の拠点に運ばれて以来着せられていた病人服から着替えることもできた。持ってきてくれたのは電で、僕は彼女が生きていたことに少しほっとした。僕がエレベーターで意識を失った後、仲間の手を借りながらどうにか離脱を果たしたらしい。電が心から望んで僕と話したがるということは決してなかったが、それでも彼女がその場を去ってしまう前に二つ聞くことができた。僕の持っていた鞄は何処なのかということと、青葉が元気にしているかということだ。前者は部屋に運ばせると約束して貰えたが、後者については「青葉さんは元気なのです」という短い情報しか得られなかった。まあ、それで不足ということはない。元気ならいいじゃないか。それより、電はまだ青葉と働いているのだろうか。聞きたかったが、電はもう行ってしまった後だった。いずれ、知ることもできるだろう。

 

 ドックからの帰り道に案内はいなかったが、迷子になるほど入り組んだ場所でもなかったので僕は気にしなかった。廊下を歩きながら、壁を見る。窓が一つもない。融和派お得意の地下基地かな、と僕は推測した。思い出してみれば、僕が赤城と初めて会ったのも融和派の地下拠点でだった。あの時から長い時間が経ったものだ。ふと港湾棲姫のことを思い出す。あの監獄の中で、僕に鉤爪を向けようとした彼女のことを。そして排撃班の一人と格闘している最中に、僕に後ろから刺された彼女のことを。彼女は僕を殺そうとしたのではなかったのだ。

 

 あの時の僕は無我夢中だった。そう言えば聞こえはいいが、実際は冷静さを失っていただけだ。今になって考えてみれば、そんな相手を、たとえ不意を打たれたのだとしても姫級深海棲艦が殺せない筈がなかった。入渠を済ませたばかりだったというのに、気分が悪くなる。

 

 正当化することはできる。当時の僕に、目の前で生きている深海棲艦を殺さずにいる理由はなかった。衝動的な行為だ。記憶も不明瞭。何とでも言える。でも僕は彼女を殺したのだ。仮に死してなお彼女の想いや魂が残っていようとも、僕を真実に導こうとしたその手を僕は払いのけ、お返しに胸を刺し貫いたのだ。そして彼女はそれを受け入れた。反撃して殺してしまうこともできたのに、そうしなかった。僕は不安になった。赤城の目論見が、一度の不可避だった過ちで水泡に帰するということはないだろうか? 僕のやったことの全てが無駄になってしまいはしないだろうか。それこそ考えても無駄なことだとは分かっているのだが、自分ではどうしてもやめられなかった。

 

 なので、部屋に戻った時に響が話しかけてきてくれて、僕としてはとても嬉しかった。その内容が「じゃあ武蔵さんをドックに案内してくるよ」でなければもっと嬉しかったのだが、僕の個人的な問題の為に武蔵を入渠させないでいることもできない。僕は頷き、彼女たちを見送った。ベッドに戻って、大人しくしておく。入渠を終わらせて体は元通りになったが、ドックは損傷を治せるだけだ。疲労、特に精神的疲労までを完全に治療できる万能施設ではない。短時間で様々なことがあったので、ゆっくり横になって物事を整理する時間も必要だろう。目を閉じ、物思いに耽る。首尾よく戦争を終わらせられたら、僕はどんな扱いになるのだろう。英雄として祭り上げられたりしないだろうな? そんなのは勘弁願いたい。名誉欲はもううんざりするほど満たして貰った。誰か別の人にライトを当ててやって欲しい。個人的な要望としては、軍への復帰は当然として、後は適当なタイミングで除隊させてくれればなあ、と考えている。そこから先はどうとでもなるだろう。学校に行くもよし、本でも書いて一攫千金を狙うもよし、何でもありだ。そういう世界が来るのだ。赤城の計画が上首尾に運びさえすれば。

 

 ドアが開いた。目を開けて、入り口を見る。いつもの弓道着に身を包んだ赤城が、僕の鞄を持っていた。電は自分のグループの指導者に雑用をやらせたのかと思って驚いたが、きっと赤城の方から言い出したのだろう。もののついでという奴だ。ここに自分以外の誰かを近づけたくないのかもしれない。今は大人しくしているが宿敵である武蔵もいることだし、神経を尖らせているのだろう……うん? なら響一人に武蔵を任せて大丈夫だったのか? 響は精強な駆逐艦娘だが、武蔵を抑えられるほどではない。それは無茶な要求というものだ。吹雪秘書艦ならあるいはと思うが、響には荷が勝ちすぎるだろう。これは彼女の旗艦として軍務に服した僕の、私情を差し挟まない判断である。

 

 心配になってきた。僕に鞄を渡してきた赤城は、こちらの様子を見て誤解したようだった。「緊張しているのですか? それとも今になって怖くなりましたか」そのどちらでもないが、僕は答えなかった。代わりに「やるべきことはやるさ」と言った。彼女を満足させておくには、それで足りるだろう。それに、この言葉は嘘ではない。戦争を終わらせ、失われるべきでない命が失われずに済むようにする為に、行うべきは行おう。赤城は自分の猜疑心の強さを僕に教えたかったのか、疑うような視線を投げかけてきたが、それだけで動揺するほど僕は子供じゃなかった。年齢的にはまだまだ子供で通用すると思うのだが、子供が子供のままでいられない世の中とは悲しいものだ。

 

 鞄を開き、中を見る。僕と違って運のいいことに、被弾ゼロだった。持ち出してきた三つのもの、アルバム、青葉新聞、響の帽子も無傷のままだ。よかった、特に響の帽子が傷んでいないのが幸いだった。これは僕に属するものではない。響の持ち物だ。それに、さっき会った時には彼女は帽子を被っていなかった。返されるべきだろう。無帽にも無帽なりの可愛らしさがあるし、あれでシャイなところもある響は帽子で表情を隠そうとすることもしばしばなので、彼女の素の感情を楽しみたいなら返さないでいるという選択肢もあるのだけれども、やはり僕には帽子を被った彼女が一番しっくりくるのだ。

 

 僕の親友、僕の戦友、小さなアプロディテ、かの美しきアナベル・リー※117……うーん、最後のは撤回しよう。アナベル・リーはマズい。お空の天使に妬まれたくはないし、天使どころかたとえ神がライバルであろうとも、彼女の友人の座を譲るつもりはないからだ。これは恋心ではない。これは友情だ。家族愛であり、同胞愛だ。でもこれらの純粋な感情に混じって、思い上がった独占欲も存在することを、認めないではいられない。彼女の微笑みのきらめきは、星の輝きにも勝っている。彼女の美しい顔の華やぎは、僕を奮い立たせてくれる。彼女と共に迎える未来に待ち受ける喜びは、最早人間の得る喜びを越えたところにある!※118

 

 そういう風に響のことを考えると、気分がよくなった。赤城は僕の顔色が悪くなったと思ったらすぐまた回復したのを見て、困惑を隠せていなかったが、気にしないことに決めたらしい。ふう、と息を吐いて肩をすくめ、武蔵と響が戻ってくるまでここで待たせて貰う、と宣言した。ここは彼女の拠点だし、一々そんな断りを入れる必要などないと思うが、赤城がこれまで僕に示してきた彼女の武蔵とは対照的な慇懃無礼さから考えると、そうするのがごく自然な態度であるように思われた。僕は青葉新聞コレクションやアルバムを眺めて時間を潰し、響と武蔵が戻ってくるのを待った。その間、赤城はずっと部屋の壁にもたれかかって、腕組みをしながら何事か思案しているようだった。今ほど武蔵の帰りを希望して待ったことはなかったと言ってもいいだろう。本人には絶対に言ってやらないが。

 

 響たちが戻るには半時間ほど掛かった。部屋の外から二人の足音が近づいてきたので、僕は青葉の新聞記事の分析を中断し、唇を歪めて薄笑いの形を作った。それはそうしようとしてできた表情ではなく、陰鬱な沈黙の時間を耐え抜く為に被った無表情の仮面が、その役目を終えてもまだ顔から剥がれ落ちようとしてくれなかったせいで生まれたものだった。詩的な表現を避けて表すなら、単一の状態で固まっていた表情筋の緊張が、咄嗟に影響したせいだ。先頭に立って入ってきた武蔵がそれを見て、わざとらしくぎょっとした顔をした。彼女もまた服を着替えており、身体的特徴を見せびらかすように誇らしげに両腕を前で組んでいた。相手がこの武蔵でさえなければ、僕が女性のそういった振る舞いを拒否感で以って迎えることは決してなかっただろう。

 

「分かった、少し黙っててくれ」

 

 早速僕の表情について嫌味の一つでも言おうとした武蔵の機先を制してやった。彼女は眉をひそめ、舌打ちをして僕の不調法を罵ると、ベッドの上で伸ばした僕の足にどすんと腰を下ろした。気にせずに響を呼び、武蔵の陰からすいと現れた彼女の頭に、帽子を被せてやる。彼女は初め、頭に何を乗せられたのか分からない様子の思案顔で自分の頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でていたが、すぐにそれが自分の帽子だということに気付いて、美術品めいた透明な美しさを損なわないまま、相好を崩した。彼女は悪戯っぽく責めるように言った。「こんなものを、君、何処から持ってきたんだい?」「提督は君の部屋を片付けるなって言ったんだけど、形見分けのつもりでね。気を悪くしたなら……」「いいや、気にすることはないさ。ありがとう、嬉しいよ」響は帽子を被り直し、純粋な喜びの色で瞳を輝かせた。赤城が小さな咳払いをしなければ、僕は永遠にその瞳の輝きに囚われていたのではないかと思う。

 

 ほんの軽い咳払いではあったが、一気に僕の体は緊張した。融和派のリーダーたる赤城が、武蔵の戻りを待っていたのだ。この場に僕と彼女が揃うのを、じっと待っていたのだ。何かがある。そしてその何かとは、これからどのようにして赤城が僕という変わった特技を持っているだけのただの艦娘を用いて、彼女の有する最高の目的を達成しようとするのか、という話題以外にはあり得なかった。武蔵と響もそれを予感しているのか、赤城の方を向いて口を閉じ、耳を傾ける姿勢に入っている。そして赤城は言った。

 

「そろそろ夕食の時間ですが、何か要望はありますか?」

 

 僕は武蔵を見た。武蔵は僕を見た。それから僕らは赤城に視線を戻して彼女が「冗談です」と言うのを数秒ほど待ち、本気らしいと感づくまでに更に数秒を無駄にした。そうしてやっと僕らは頭を働かせ、ほぼ同時に答えた。

 

「武蔵にフライドチキンとワッフル、飲み物はコーラで、デザート代わりにキャンディバーを出してやってくれ」※119

「こいつにはフライドステーキとコーンブレッドを。飲み物はスイートティーだ」※120

「おい、僕がカウボーイか何かに見えるのか?」

「どうやらお前の目には私が黒人みたいに映るようじゃないか」

 

 赤城はやれやれ、というように大きく嘆息して言った。

 

「仲がよろしいのですね」

「羨ましいだろう、私とこいつはもうすっかり親友さ。なあ?」

「そうとも。君の葬式の香典なら幾ら包んでも惜しくないぜ、武蔵」

「ほらな、聞いたろ? 感動するね」

 

 足がしびれてきたので軽く動かすと、武蔵は少しだけ腰を上げた。彼女の尻の下から足先を引き抜き、赤城の質問に真面目に答える。「食事なんか何でも構いやしないよ。それより、早いところこれから何をするのか知りたいね」武蔵もこれに賛成し、付け加えて赤城がどうして自分を殺さないでいるのか、僕が助命嘆願をする前に殺してしまうチャンスがあったのに、何故わざとそれを見逃したのかを知りたがった。武蔵は「殺すよりもひどいことをしたかったのか? 得意だものなあ?」と軽薄な口調で言った。僕は彼女を抑えようと思った。さっき話した時の赤城の言葉と様子が頭をよぎったからだ。でも、どうやったら武蔵を黙らせられるのか僕には分からなかった。「黙ってろ」じゃ多分効かないだろう。口を手で押さえる? いい考えだ。そうすりゃ、右手首から先を食いちぎられる前に、武蔵の唇の感触を知ることができるだろうよ。

 

 赤城は武蔵の安い挑発に付き合うことにしたようだった。しかし頭に血が上ったようには見えない。まだ余裕があるようだ。彼女は上辺だけの笑いを作ると、「ええ、それはもう。あなたの部下で練習する機会に何度も恵まれましたので」と言ってのけた。骨肉の争いを続けていた二者の間に、どのような暴力の嵐が吹き荒れていたのかは想像したくないほどだ。赤城は彼女自身が言ったように、グループとしての活動が危ぶまれるほどの被害を受けてきたのだろうし、武蔵の排撃班だっていつも無傷で勝っていたのではないだろう。イデオロギー闘争においては暴力の歯止めが利かなくなることが多い。赤城にせよ武蔵にせよ苦痛だけを目的とした拷問を行った経験がありそうだが、あったとしても驚くようなことではないだろう。僕個人の信念とは相容れないが、今目の前で行われている訳でもない。

 

 問題は、赤城と武蔵の二人がほどほどでやめるということを知っているかどうか、僕には分からないというところだ。この部屋で二人が殺し合いを始めるなんてことにはならないと思いたいが、彼女たちは気心の知れた友達同士ではない。今は両者共に我慢できる範囲の当てこすりのやり取りで済んでいるが、適度に誰かがクッションとならなければ、いつか一線を越えるかもしれない。その時、僕はそこにいたくない。僕はベッドから降りて、武蔵と赤城の視線を遮るように割って入った。近くに響がいなければ、怖くて震えていただろう。でも彼女がいたので、僕は見栄と意地とで割り込むことができた。どんな男にだって、この手の虚栄心は多かれ少なかれあるものだ。赤城と武蔵の二人の視線を一度に受けて内心で泣きそうになりながら、やや高圧的な態度を装ってまず正規空母の方に言った。

 

「売られた喧嘩は全部買う誓いでも立ててるのか? もう少し落ち着きを持ってくれよ」

 

 効いてなさそうだ。ま、いい。落ち着けとは言ったが彼女にせよ武蔵にせよ本気で口論していたのではないことは明らかだし、とにかく僕は自分に注意を向けてでも、この二人という劇物がよくない化学反応を起こしてとんでもない事態を招くのを、防ぎたいだけなのだ。赤城への効力の薄い注意の後で、武蔵が「ほらみろこいつは私の味方だ」などと調子に乗る前に、すぐさま返す刃でぴしゃりと言ってやる。

 

「君は僕を守ってくれるらしいじゃないか。嬉しいね、ぜひとも守ってくれ、君自身からな。このままじゃ僕は胃潰瘍でも発症しそうだ」

 

 こっちは僅かながら効いたようだった。自分の口にしたことだけは嘘偽りなく律儀に守る武蔵らしく、己の行いが僕の身に与える影響が、必ずしもよいものではないことをきちんと認めたのだろう。鼻を鳴らして不機嫌そうな態度を取りはしたものの、予期していた類の反論や言い訳は出てこなかった。赤城は「お上手ですね」と言ったが、その後に本来なら続いていたのであろう武蔵への嘲りの言葉はなかった。代わりに彼女は夕食について話した。

 

「食事は適当に用意させましょう。私が持ってきます。なお、お二人とも体の方はよろしいようですので、食事後にバスルーム付きの部屋に移っていただきます。移動したら、以降は私か響、電が迎えに来た時を除いて、可能な限り外出を控えて下さい。理由は言わずともお分かりかと思いますが」

 

 僕は頷いた。当然の処置だと思う。武蔵はグループの連中に暖かく迎えて貰えないだろう。僕だってどうだか分からない。最初から抜群の信用を得ることは期待しない方がいいだろう。

 

「それと、私もここで食事を取ります。構いませんね?」

 

 二度目の首肯。赤城は頷き返すと部屋を出て行った。響が僕の手際をからかうように、短く口笛を吹き鳴らした。僕は近づいていって彼女の帽子をぐいっと引き下ろし、視界を塞いでやった。「突然どうしたんだい」「何か手伝ってくれてもよかったんじゃないかと思って、八つ当たりさ」「そうだね、今考えてみると私でも何か手伝えたかもしれない。君の手を握って応援してあげるとかね」「そりゃ心強い」冗談でなく本当に。今からでも遅くないぐらいだ。僕は手を差し出した。響はそこに彼女の平手を打ちつけた。ぱん、と気味のいい音が響いた。期待したものじゃなかったが、これはこれで悪くない。

 

 武蔵が僕のベッドにどっかと腰を下ろして動こうとしないので、僕は彼女のベッドに座った。ついでに響が所在なさげに立っていたのを見て、横に座らせる。友達に椅子を勧めないのは無作法なことだと思ってのことだったが、そのせいで褐色の大戦艦の機嫌はどんどん悪くなっていくようだった。彼女にとっては響も一人の融和派でしかないのだから、当然のことか。何と切り出せばいいか分からなかったから、僕は単に武蔵へと呼びかけた。「何か楽しいことでもあったのか、武蔵?」「実は今、頭の中で赤城を始末する手順を考えてるところでね。丁度、七十四手目を思いついたところさ。聞きたいかい?」気弱で影響を受けやすい僕としては全力で耳を塞ぎたい話題だ。一つ聞くだけで三日はうなされる自信がある。全部聞こうものなら正気を失ってしまうだろう。

 

「それは生産的な時間の使い方だな。僕と話す時間はなさそうだ」

「そんなことはない。二人きりで話す時間なら、いつでも作れるさ」

 

 響をじろじろと見ながら、武蔵はそう言った。「なら私は」席を外していよう、と言いたかったのだろう響の言葉を遮って、「いや」とはっきり告げる。ベッドに腰掛けた彼女の小さな肩をそっと優しく押さえて、「ここにいてくれ」と頼んだ。この態度が武蔵の自分勝手な心をささくれ立たせることは分かっていたが、これにはちゃんと理由があった。一つは個人的な心情に基づくものだ。武蔵が何を思っていようとも、彼女が僕の友達をここから追い出すのを黙認するつもりはない。もう一つは、武蔵と僕の二人だけでいる時間は余り作るべきではないと考えたからだった。常に誰か、赤城なり響なり電なり、融和派のメンバーを交えておくべきだ。それが無理なら僕と武蔵は別れていた方がいい。お互いの安全の為にも、僕らが監視下で大人しくしているということをアピールし続けなくてはならない。

 

 さもないと、用が終わったら不穏分子として始末される恐れだってある。そうならないと誰に保証できる? あの正規空母は「自分以外に影響力のある人物はグループにいて欲しくない」とまで言ったというのに。赤城が信用できるのは、僕が有用な間だけ。武蔵が信頼できるのは、僕らが危機に瀕している間だけ。いつでも信じられるのは、響たった一人だけ。誰にだって分かることだ。身の振り方については慎重になりすぎるということはないだろう。僕はもう老後の予定を立ててしまっているのだ。それをつまらない失敗で覆されたくはない。 

 

 武蔵は長い足を組むと、ふうむ、と吐息のような、また溜息のようにも聞こえる声を出した。「何か言いたいことがあるんだな?」その顔から不機嫌さなどを見つけることはできなくなっている。気持ちの切り替えは終わったらしい。この状態の武蔵なら、油断はできないにせよ安心して話すことができる。僕は彼女の言葉を肯定して、話を始めることにした。赤城が僕をどう使うつもりかということについてだ。そしてそれを話す以上、僕は大規模作戦において見た、知ったものの全てを武蔵に伝えなければならなかった。彼女は否定も肯定もせず、僕の言葉を聞いていた。響もだ。彼女は赤城から多少聞いていたのかもしれない。

 

 だがそれより驚いたのは、武蔵が余りにもあっさり僕の話を信じたことだった。彼女は平然と「その話の通りなら、赤城たちがお前にあれだけこだわった理由も納得できる」と言ったのだ。もっと疑われたり、笑い飛ばされたり、僕の精神に対する意地の悪い言葉を投げかけられたりすることを想像していた僕は拍子抜けして、どうしてそんなにすんなり信じることができるのか尋ねた。彼女はにやっと笑って「お前の言葉だからさ」と答えたが、僕は武蔵が何か隠しているように感じた。皮肉によって彼女の本心を暴いてみようとしたけれど、武蔵はまともに反応を返さなかったので、諦めた。

 

 それにしても、部屋の外に出られないとなると時間を潰す手段を考えなくてはなるまい。響と話しているという手も魅力的だが、今の彼女には彼女にしかできない仕事がある。その邪魔をする訳にはいかない。体が鈍らないようにトレーニングは欠かさず行うとしても、それを日がな一日ずっと続けるのはつらい。肉体的にだけでなく、精神的にもだ。一日だけならまだやってもいいかもしれないが、二日三日、毎日やるのは絶対に嫌だ。

 

 願わくば、話し相手が欲しいところである。でも武蔵と相部屋にしてくれと頼むつもりにもなれなかった。今は何か考えたいことでもあるのか大人しくしているが、それに一段落つけば延々と僕の繊細な心をなぶり始めるだろう。そんな状況に陥った僕がどうするのか、具体的に言うならトイレのタオルとドアノブを使って首を吊るのが先か、自分で自分の首をねじ切って自殺するのが先かなんてこと、僕は知りたく……あ、うん、僕はもう答えを知っていた。この二者択一なら後者を選ぶ。首吊りは体験済みだ。どんな気分になるか、よく理解している。遠慮する。

 

 実行の予定はないが、ただの学術的興味から最も苦痛の少ない自殺の方法を考えていると、響が僕の顔を見て「そのしかめ面で何を考えてるのかな?」と聞いてきた。まさかそのまま答える訳にも行かず、居室を移した後での時間潰しについて悩んでいたと打ち明ける。すると彼女は軽く自分の胸を叩いて「君たちでも退屈せずに読めるようなものを選んで、私の本を貸してあげよう。お茶が飲めるように電気ケトルや茶葉、ティーセットなんかもね」と請け合ってくれた。それから響は悪戯っぽく片目をつぶり、「命の水も必要だ。前に言ったКазначейская(カズナチェイスカヤ)というウォッカを覚えているかい?」と囁いた。僕はその質問で、つくづく嬉しくなってしまった。

 

「初めて会った日のことだ、忘れるもんか。君はいずれご馳走しようって言ってくれたね」

「うん、それなんだけど、今夜にしようか。もちろんそれ以外のボトルも何本かあるから持っていくよ。異論は?」

 

 強いて言えば、今夜じゃなくて今がいいなってぐらいだ。でも、せっかちなのはよくない。何事にも時期がある。夕食を終えて、部屋に移ったら響を待つ。彼女は本とボトルを持ってくる。僕らは再会の祝杯を上げ、酔っ払う。そうしてもっと飲む。一周してしらふに戻るまで飲む。完璧な夜の過ごし方だ。僕は大きく頷いた。楽しみだ。自ずから笑みがこぼれる。僕はそれを抑えないし、抑えたいとも思わない。ごく当然の成り行きだ。と、武蔵の視線がこちらに注がれた。「どうした?」僕自身の機嫌のよさが、口を滑らさせた。しまったな、と頭に言葉が浮かんだが、実際のところそこまでの失敗とは感じなかった。武蔵は答えた。

 

「妙なんだ」

「何がさ」

「私や私の部下たち、そして恐らくは海軍の誰にも悟らせずに、どうやって赤城は陸軍と接触できた? いや、違うな。そもそも接触したのが赤城たちなのかどうかから疑うべきか。この一年で軍内部の掃除は済ませたと思っていたが……」

「今日ぐらい仕事のことを忘れたって誰も文句は言わないだろうに、まだそんなことで悩んでるのか?」

「お前がその響とばかり遊んでいて構ってくれないからな。拗ねてるんだ。察しろ」

 

 もし武蔵の内心を完全に察することができたら、僕は読心術をものにしたと公言しても許されるだろう。何か言ってやろうとすると、ドアが開いた。赤城だ。彼女はカートを押しながら入ってきた。その上には鍋と炊飯器、水の入ったピッチャーと、グラスや深皿、スプーンが人数分乗っていた。匂いを嗅ぐまでもなく食事の内容は分かった。カレーだ。子供っぽいかもしれないが、僕は喜びを覚えた。伝統的に、海軍にいる人間や艦娘なら誰もがカレーに対して、一定の立場を表明するようになるものである。以前にも増して好きになるか、打って変わって嫌いになるか。僕と響は幸いにも前者だった。ただ鍋の中を見るとシーフードカレーだったので喜びのランクは一つ下がった。この少年は十八歳、まだまだお肉が恋しいのだ。

 

 赤城を手伝おうとする響に座っていてくれと頼んで、彼女の代わりにカレーを深皿によそっていく。必要ないとは分かっているが、赤城の手元などに注意を払うことを忘れない。僕の為ではない。武蔵の為だ。彼女は職業病として偏執的なところがあるから、警戒せずにはいられまい。しかし、赤城の手伝いをするなど彼女にはとても考えられないことだろう。僕がやるしかない。配膳前に皿に盛られたカレーへスプーンを突っ込んで、一口分すくう。それを赤城に突き出した。彼女は怪訝そうな顔をしたが、すぐに理由を解してそれを受け取り、食べた。飲み込むのを待ってからスプーンを返して貰い、カレー皿に差し戻して、それを僕のベッドに陣取ったままの武蔵に渡す。僕に思いつく毒物混入予防策はこれぐらいだ。武蔵はそれでも躊躇っていたが、結局は食べた。

 

 響が赤城に場所を譲って、武蔵の隣に移動する。何だか奇妙な並びになったな、と僕は思った。人質交換みたいだ。しかも四人ともベッドに腰掛けて、無言でカレーをつついている。何処か超現実的にも感じられる。現実感のなさがひどいという意味で。僕にこれがリアルだと教えてくれるのは、武蔵と赤城が一定の距離内にいる時に限って僕を襲ってくる、胸の痛みだけだ。お陰で食事だというのにリラックスも何もない。こんなに気の休まらない食事をしていると、天龍、長門、僕、不知火先輩の四人で食事をした時のことを思い出してしまう。でも今日の方が神経には来る。少なくとも天龍たちと食べた時には、次にまばたきをした瞬間誰かが誰かに襲い掛かるのではないかと心配する必要はなかった。

 

「貝はアサリか」

 

 スプーンで貝をすくった武蔵が、馬鹿にするようにぼそりと言った。やめて欲しい。それに赤城が反応する。本当にやめて欲しい。

 

「何か?」

「私ならムール貝にする。野菜を増やし、ライスも白米よりサフランライスにして、ルーにはナッツペーストを入れ、地中海風に仕立てた方がうまい。オリーブオイルを使うことを忘れるな」

 

 こいつ戦時下にいいもの食べてるなあ、と僕は現実逃避することにした。赤城が「炊事班に伝えておきましょう」と流してくれたのがありがたかった。こんなことで対立されたら皮肉も出ない。僕は味のしないカレーを食べ終えた後、赤城の先導の下に部屋を移った。武蔵と二人部屋だった。ベッド二つ、テーブル、椅子四脚。収容所暮らしの長かった僕には贅沢にさえ思える部屋だ。同居人さえいなければ。僕は胃が痛くなるのを感じて、二つ並んだベッドの一つに座って頭を抱えた。赤城が立ったまま話し始めた。「数日中にこちらの準備が整います。今はのんびりなさっていて結構。ただし、お二人とも、いつでも動けるようにしておいて下さい」僕も武蔵も返事をしなかったが、彼女は気にする様子もなく「では響、後を任せます」と言って部屋を出て行った。くそっ、結局こっちの勢力を強めた後で何をするかについての話はなかったな。荷物を取りに行こうとしていた響を呼び止めて聞いてみる。

 

「響、僕を使った後で赤城が一体何をするつもりなのか、知らないか?」

「すまないね、私はその辺りのことには関わってないんだ」

「ああ、でもグループのカウンセラーをやってるんだろ? 何か聞いてないのか?」

「いや、聞いていないよ。仮に聞いていたとしても、教えなかっただろう」

 

 響は腕を組み、守られるべきプライバシーを冒そうとした僕をたしなめるような目で見てくる。ばつが悪くなって僕は下を向き、「悪かった」と謝った。小さな友人は彼女が生来持っている鷹揚さと寛容さによって「いいさ、今の君の立場では仕方がないよ」と、得がたい許しを与えてくれた。彼女が去るのを待って、武蔵に話しかける。僕の口舌は彼女のことを褒めるどんな言葉も吐き出すことを拒むが、それでも武蔵は融和派の専門家だ。融和派駆除の専門家と言った方が彼女としては好ましいだろうけれど、何にしたって赤城たちのことを僕より知っているのは確かなのだ。僕よりも答えの近くにいて、しかもこちらの問い掛けに応じてくれる赤城のグループのメンバーではない相手が半径数百メートル内にいるとすれば、それは武蔵以外にあり得なかった。

 

「君はどう思う」

 

 勧める前に、彼女は僕の隣に座った。僕は咎めなかった。最低限の距離は開けてくれていたし、無闇にべたべたしてくることもなかったからだ。彼女は形のいいあごを人差し指の腹で撫でながら俯いて考え込む格好をして、ゆっくりと答えた。

 

「赤城の目的は講和だ。深海棲艦を戦争に勝たせることじゃない。そこは疑わなくていいだろう。この期に及んで生き残った時点で深海棲艦の勝ちみたいなものだが、私個人の意見は捨て置くとしようか。だとすると、必要なのは次の三つだ。勢力、窓口、切っ掛け。この内、勢力はお前が与えてくれる。窓口は切っ掛けさえあれば作れる。だがその切っ掛けが難しい。今から何らかの草の根活動をしていくのは無理だ。排撃班がいるし、時間もない。だから恐らく、赤城の計画はただ一度きりの……機会を見計らい、持てる全てを投げ打っての大博打になるだろうな。私に分かるのはそこまでさ。この程度、全く何も分かっていないようなものだが、助けになったかい?」

「たった二文字の単語を発音するだけのことにどうしてこんなにも抵抗があるのか分からないけど、うん」

 

 武蔵がふざけもせず、嫌味も言わなかったので、僕は彼女の言葉をきちんと信じることができた。よし、赤城が大博打的な計画を持っていると仮定しよう。彼女の計画にはいつもそんな要素が混じっている気がするが、どんな方法でだろうと不運を排除することだけはできない以上、いかなる計画も運頼みの部分があると言えるから、多少の不確定要素の存在には目をつぶらざるを得まい。赤城には何がある? 世界唯一の男性艦娘、手足となって戦ってくれる融和派艦娘たち、自分自身、融和派深海棲艦。ダメだ、この方向からのアプローチでは推測できそうにない。

 

 思考転換しよう。()()()()()ではなく()()()()()()を考えるのだ。誘拐、テロ、ビラ撒き──融和派がよくやると考えられているのはこの辺だが、これが何かの足しになるとは思えない。ああ、それとテレビやラジオの海賊放送もあるな。今は懐かしい研究所の食堂で、深海棲艦との共存や相互理解は可能だと説く赤城の姿がテレビに映っているのを見た覚えがある。あの時はろくに気にも留めなかったが、それは仕方ないだろう。深海棲艦と僕らの仲睦まじい映像を流して世間にアピールする? 愚かな考えだ。作り物だと断じられるのが関の山だろう。僕についてだってそっくりさんとか特殊メイクとか、何とでも言い訳はできる。僕だってそうだが、人間の心は弱い。僕らはしばしば、誤った常識を正して苦しむよりも、非常識な真実を弾劾して安穏と生きる道を選んでしまう。正しいことをさせるには、何も全員とは言わない、大衆の大多数が一目で「認めるしかない」と思うような何かが必要なのだ。もし納得させることさえできたなら、彼らはどのようなこともやるだろう。僕が論を立てるまでもなく、歴史がそれを証明しているではないか?

 

 ドアの外から足音。響が戻ってきた。思考を中断し、今ばかりは再会の祝杯に意識を傾けようと決める。ドアを開け、数本のボトルやつまみが入った手提げ袋とグラス類を受け取った。テーブルの上に三人分の用意を並べ、武蔵を呼ぶ。彼女は誘われるだなんて思っても見なかった、というような顔をしたが、真っ先にグラスが二つ並んでいる方の席を取った。これで僕が響と隣同士になる目は潰された訳だ。僕は渋面を作ったが、もちろんそんなことで何かが変わる筈もなかった。武蔵と向かい合うようにして座り、まさに直前まで冷凍庫に入れられていたと分かる強い冷気を放つКазначейская(カズナチェイスカヤ)の瓶のふたを開けて、まず響の、次いで自分のショットグラスに注いだ。武蔵のは最後にしてやったが、これが自分のできる最大の仕返しと思うと情けなくて涙が出そうになる。

 

 よき伝統の通り、響は難しい質問を発した。「何に乾杯する?」素早く武蔵が答えた。「再会に」文句はない。響や赤城との再会、そして武蔵との再会。僕にはここ暫くで沢山の再会があった。「再会に」僕と響は唱和し、グラスをあおった。喉を氷のような液体が通り過ぎていく。食道を焼かれる感触に、思わずむせてしまった。涙を拭って、後味を楽しむ。すっきりとした、古きよきクリスタルな味わいだ。甘みは僕の好みよりも控えめだが、量を飲むならこっちの方がいい。響が右手の指でこめかみを押さえながら、左手の人差し指でテーブルをとんとんと叩き、それからその指を立ててくるくると回した。武蔵が咳き込みながら言った。

 

「今のロシア語を通訳してくれないか?」※121

「みんなにもう一杯注いでくれってさ。僕がやるよ」

 

 さっきと同じように、ウォッカを注いでいく。響は最初の一杯の強いショックから回復して、小さなナイフでつまみとして持ち込んだ黒パンの塊を切り落としていたので、今度は彼女のグラスへと最後に注いだ。「僕にもくれ」と言って三枚ほど貰う。武蔵が笑って訊ねる。「さて、次は何に乾杯するんだ?」彼女の目はこちらを向いていたが、視線を合わせないようにしていると、響が苦笑しながら「では」と言った。時間稼ぎをしてくれるようだ。ありがたい、と思ったのも束の間、彼女は僕をじっと見ながら宣言した。「艦娘の中の黒一点、深海棲艦の救い主にして私の旗艦、そして海軍排撃班の友に乾杯しよう。どうだい、武蔵?」響が武蔵をさん付けで呼んでいないことに気付く。「ふふ、それはいいアイデアだな……ようし、さあ乾杯だ。お前に!」「君に!」「乾杯!」

 

 翌朝、僕は寒さによるくしゃみで目を覚ました。僕への乾杯以降記憶がなく、バスルームの浴槽内にいて、上半身が裸だったので心底震え上がったが──上着は浴室のタオル掛けに汚れのないままで掛かっていたので、安心して二度寝した。



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「Home is the sailor」-1

Home is the sailor, home from sea:
船乗りは海から家へ帰ってきた

Her far-borne canvas furled
遥かに旅した帆布をたたんで

The ship pours shining on the quay
船はこの世の宝物を

The plunder of the world.
波止場に燦然と輝かす


Home is the hunter from the hill:
狩人は山から家へ帰ってきた

Fast in the boundless snare
無数の罠にしっかりと

All flesh lies taken at his will
望みのままに あらゆる獣

And every fowl of air.
あらゆる鳥を捕まえて


'Tis evening on the moorland free,
果てなき荒野に日は暮れて

The starlit wave is still:
星の照る波は穏やかだ

Home is the sailor from the sea,
船乗りは海から家へ帰ってきた

The hunter from the hill.
狩人は山から家へ帰ってきた


──アルフレッド・エドワード・ハウスマン※122



 赤城は彼女自身が言った通り、それから数日後に僕らへ声を掛けてきた。最初の一日二日で響の本を粗方読破してしまい、この小さな目ざとい親友が何処かから手に入れてきたチェス一式でどうにか退屈を凌いでいた僕は、未知を恐れるよりもむしろ死に至りかねないと思わせるほどの退屈から逃れられる喜びを強く感じた。赤城が僕と武蔵の部屋を訪れたのは、夜のことだった。響は毎日、彼女の仕事が終わると僕を訪ねて来てくれていたので、その時部屋には僕と武蔵、響の三人がいた。女性二人は卓上のチェス盤を差し挟んで座って向かい合い、僕はその脇にいて盤上を眺めていた。驚いたことに、響と武蔵は初日の出来事を通じてそれなりに打ち解けていたのである。そして僕は、あんまりこのボードゲームが弱いものだから、二人の試合を見てお勉強中、という訳だった。

 

 ここで重要な問いだ。どちらを応援するか? けれどその答えは決まっている。付き合いの長さで比べても、個人的な好意の大小で比べたとしても、響しかいない。なので僕は少々露骨すぎるほど響に味方した。そうは言っても知恵を貸す方向での加勢はできなかったので、ただ応援しただけだったが、それだけでも武蔵と響の試合を白熱させることはできたようだった。形だけのノックの後で、応答を待たずに入ってきた赤城が何か言う前に武蔵は平手を突き出して彼女の言葉を封じた。それから素早く自軍の駒の一つをつまんで動かした。響はそれを見て声を出さずに口を動かしていたが、やがて軽く両手を挙げて降参の意を示した。「今回はこちらの負けのようだね」と響が言葉を付け加えると、武蔵は歯を見せて笑い「私はいつも勝つのさ」と傲岸不遜に言い放った。僕は自分が負けた時よりもずっと悔しく感じていることに気付いたが、そのことに特別驚きはしなかった。

 

「もうよろしいですか?」

 

 痺れを切らしたような声で赤城が訊ねてくる。僕は頷き、響は挙げていた両手を下ろした。武蔵は椅子に深く座り直して、頬杖を突いて「好きにしろ」という態度を取っている。赤城は一つ頷くと喋り始めた。

 

「明日の昼には用意が整います。そのつもりで準備しておくように」

「準備って、どんな準備さ」

 

 具体的に何をするのかも分からないのに、何に備えることができるというのだ、という意味合いを込めて、赤城に尋ねる。彼女は僕の言葉にやや気分を害したらしく、鬱陶しそうな顔をして「そうですね、遺書でも書くというのはいかがですか」と答えた。随分と投げやりな上に敵対的な態度だが、彼女の目元がこすったように赤らんでいるのを見て僕は納得した。ここ暫く寝ていないようだ。よいことではない。トップが寝不足になるのは、グループの構造に何らかの問題がある証拠だ。断じて、勤勉さの証などではない。

 

 赤城も自分が今どんな状態にあるのかは分かっているようで、僕が何か言う前に「失礼」と短く謝ってから「とりあえず、今晩はアルコールを控えて下さい。それから、それがもしあなたの助けになりそうなら、遺書を作っておいた方がよいでしょう」と言った。今度は敵意からではなく、本当に純粋な意見として言われたことだったので、僕は不快には思わなかった。武蔵が、普段から悪い目つきを更に悪くして赤城に問うた。

 

「何をするつもりか知らんが、そんなに危険なのか?」

「ええ、それについては保証書付ですよ。さて、明日のことについて、そろそろお伝えしておいた方がよさそうですね。もう彼自身からお聞きになったと思いますが、彼はほぼあらゆる深海棲艦と正常に意思疎通することが可能な、唯一の艦娘です」

 

 一斉に三人から視線を向けられて、僕は面食らった。注目を浴びるのは好きじゃない。広報部隊にいた時には仕事だからって割り切って頑張ってたが、今はプライベートだ。でも居心地の悪さを我慢するだけの理由がここにはあった。赤城は話を続けた。どうも彼女は僕にもう一度、大規模作戦の折にやったことを繰り返して欲しいらしい。つまり深海棲艦と、連中のやり方で意思疎通をして説得して欲しい、という訳だ。けれど困ったことに、僕にはそれができる自信がなかった。何しろ、自分で意識してその能力を行使した訳ではない。こっちからしてみれば、何だか知らない間に発動したようなものだ。再現性があるかどうかと聞かれたら、消極的な態度を取らざるを得ない。

 

 もちろん赤城は僕のそういった態度をも予想していた。というか、だからこそのこの数日だったらしい。融和派深海棲艦(ややこしいな。赤城は『深海棲艦融和派』で、彼女のグループに属する深海棲艦たちは『融和派深海棲艦』だ)を秘密裏に呼び寄せて、彼女らの力でどうにかするそうだ。僕は電話を連想した。掛け手()から交換手(融和派)を介して受け手(主戦派)に繋ぐ訳か。何となく納得はできた。が、そんなことよりも問い(ただ)したいところがあった。僕が説得? 僕が交渉をするのか? 笑えない冗談はほどほどにして欲しい。愛想笑いも疲れるんだ。僕は艦娘であって、外交官じゃない。戦えと言われれば戦おう、そして勝つか、さもなくば戦いの中で死んでいこう。だが、交渉? そんなのは習ったこともないし、話術に特別な自信がある身でもない。まさか、深海棲艦は下手くそなユーモアが大好物、ということもないだろう。

 

「ちょっと待ってくれ、赤城。舌先三寸でどうにかしろって言われたって、僕には無理だ。相手を怒らせるだけでいいならともかく、説得なんて」

「交渉だなんて難しく考えるからそうなるんですよ。女の子たちを口説くんだと思ってごらんなさい」

「アドバイスどうも、気が楽になってきた気がするよ。世界の敵で、重武装した、口の利けない女の子たち──口説くのに失敗する要素なんて一つもないな。正気か?」

「ご心配なく、あなたに補佐を付けようと思う程度には正気です……幾ら私でも、何も知らない子供を戦場に放り込むような真似はしません。何か他に言いたいことは?」

「君はひどい奴だ」

「何を今更」

 

 それにだけは同感だった。軍を抜けてからというものの、僕の周りにはろくでもない連中ばかりだ。武蔵にせよ赤城にせよ、自分の目的の為に僕を利用しているだけで、そこには相手に対する敬意というものが欠けている。これでもし響がいなかったら、僕は心を病んでしまっていただろう。赤城は誰からもそれ以上の言葉が出ないことを確かめると、さっさと部屋を出て行ってしまった。僕はベッドに寝転がって、大きな溜息を吐いた。やたらと落ち込んだり、気を揉んだりするのはやめよう。それは僕の状況や気持ちを好転させない。ぐだぐだと思考を低回させ、答えの出ない問いに悩み続け、時間を無駄にするのも嫌いではないが、今日やることではない。

 

 補佐を付ける、と赤城は言った。まず出てくる疑問は二つだ。誰を? どうやって? 赤城やその他の融和派艦娘が、ということはないだろうから、明日来るというその深海棲艦、あるいはその深海棲艦()()の内の一人が手伝ってくれるのだろう。そうすると、僕の自尊心に気を使いでもしたのか赤城は「補佐」という言葉を使ったが、恐らく僕のやることはほとんどないのではないだろうか。ぐっと気分がよくなった。まだ確定情報ではないが、望みは大きそうだ。赤城も僕の懸念をはっきり否定してくれればいいものを、きっと状況次第で僕の役割をどうとでも変更できるように言わなかったに違いない。それに文句はつけられないので、僕としては自分が望み通りのお飾りになれるよう祈るだけだった。

 

「いよいよだね」

 

 響がチェスを片付けながら僕に言った。そろそろ自室に戻るつもりのようだ。寂しくなるが、また明日も会えると思えばそれは耐えられる。「早く何もかも終わらせたいよ」と僕は彼女に答えた。何もかも終わらせて、軍に戻り、除隊して、明日の夜もまたベッドに戻れるかどうか考えなくていい生活を思い出したい。僕はそれをすっかり忘れてしまっていた。たった三年前だ。僕の人生の六分の一の時間だ。それだけで僕の頭から、かつて僕が考えていたことの大半を占めていた様々な下らない思考が一掃されてしまった。将来の仕事のこと、クラスメイトたちとのこと、明日の授業の時間割、苦手な科目と先生、女の子たちのこと(いや、これだけは訂正しておくか。女の子たちについて考えるのは率直に言って人生を懸けるに値する素晴らしい試みである)……ほとんど全部だ。

 

「終わるかな」

 

 響は不安げに呟いた。彼女をそんな気持ちのままにしておく訳にはいかない。「何が?」と訊ね返すと、彼女は正確に自分の感情を言い表すことのできる表現を探すように口ごもり、やがて諦めた風な口ぶりで「戦争がさ」と言った。難しい質問だ。戦争が現代的なものになる前から、それがいつ終わるのか、より誤解を招かない言い方を使うとすれば「いつ終わったことになるのか」は多数の戦争経験者が抱く疑問だった。戦争はいつ終わるのか──争い合う勢力同士が、交戦状態の解除に同意した時? その戦争を経験した人々が最後の一人まで死んだ時? 一度その沼に足を踏み入れた者は、死によってでしかまとわりつくその汚泥を清められないのか? そうなのかもしれない。

 

 戦争は人間を変えてしまうという。自分も変わってしまったか、と自問する必要はない。僕は変わった。入隊前の僕と今の僕は、まるで別人だ。十五の坊やは制服と艤装を手に入れて、大喜びで世界の旅へと出かけた。徹底的なスキンケアで日焼けはしなかったものの、訓練や艦娘になったことで体つきもある程度がっしりとしたものになり、目つきだって物騒になった。昔の、広報部隊にいた頃の写真と比べてみてもいい。一目で分かる。あの頃の僕はまだまだ民間人みたいなものだったからな。それは広報部隊だからって訳じゃなくて、経験が浅くて今よりも子供だったってだけのことだが。

 

 僕は想像する。望んだ形で戦争が終わり、平和が戻り、自分が除隊する日のことを。私物は箱詰めして宅配業者に運ばせておき、最低限の手荷物だけ持って懐かしの我が家に帰る。とぼとぼと道を歩き、かつて学校に通っていた頃、何度も繰り返し使った近道を辿って家に戻っていく。僕は我が家に着く。扉の鍵は開いている。ドアノブを掴み、ゆっくりと引き開ける。その音を聞きつけた、今日が僕の退役日だと知って集まっていた親戚たちの一人が出てきて、僕を見る。そして言う「あら、どちらさまですか?」周りの誰にも僕のことが分からない。そこに母がやって来て、僕を一目見るや叫ぶ。「ああ、お前、私の息子! よく帰ってきたね!」※123うーん、涙が出そうだ。僕は昔からこういうのに弱い。

 

 ふと見ると、武蔵が読み終わった響の本を再読していた。

 

「なあ、武蔵。君は戦争が終わったらどうするんだ?」

「え、私か?」

 

 そんな話が自分に向けられるとは露ほども思っていなかったのか、驚きの色が隠し切れずに薄く残っている表情のまま、武蔵がこちらを向いた。彼女らしくないミスだ。あえてやったのかもしれない。僕は気付かなかったように装い、微笑んで頷いた。「君みたいな人間が平和な世間で何をするのか、聞いてみたいんだ」武蔵は前に向き直って、つまらなさそうな顔で答えた。

 

「ここに来る前とそう大して変わるまいさ。軍か警察で相も変わらず融和派を追っかけてるのが目に浮かぶ」

「だが融和派は……ああ、危ない方のな」

 

 納得した。融和派というのは赤城たちみたいなタイプの連中だけではない。世間が「融和派」という言葉に抱くイメージを醸成した、テロリストとしか言いようのない奴らもいる。そういうグループが終戦後に解散することはないだろう。「融和派であった」ということで裁かれることはないにしても、人を誘拐して身代金を要求したり、爆弾を仕掛けたりしたことまでは無罪にならないからだ。

 

 長い戦後になることだろう。それでも、戦中よりはマシだ。戦争が終われば、艦娘の家族は戦死の通知に怯えながら暮らさずともよくなる。艦娘たちは絶え間ない死との闘争を終えることができる。家に帰れる。「響はどうする?」片付けも終わり、自室に戻ろうとして立ち上がった響に、今晩最後の話題を振った。彼女は答えるのに、考える時間を必要としなかった。「大学に行くつもりだよ。まあ、一年か二年は勉強しなくちゃいけないだろうけどね」「僕はその前に高校だ。男でよかったよ。卒業する頃には二十歳を過ぎてる、セーラー服はキツいだろ?」無理のある姿をした自分たちを想像して、僕らは笑った。

 

 響が出て行くと、武蔵は僕が仰向けに寝転がっているベッドに腰掛けた。丁度、僕の腹の横に尻が来ている。僕は彼女を払いのけようとはしなかった。前にもう試して、無駄だと分かっていたからだ。力でも技でも敵わないなら、諦める他にない。もちろん、受け入れた訳ではなかった。人間には誰しも「特別親しい誰かを除いて、他人にこれ以上近寄られたくはない」と思う距離がある。僕にだってそうだ。武蔵はそれを無視している。いや、あるいは、彼女はそんなものがあるということさえ知らないのかもしれない。どんなに早くても艦娘になれるのは十五歳からなのだから、それまでの人生で学んでいて当たり前のことだとは思うのだが、何にでも例外はあるだろう。

 

「あっさりやめてしまうつもりらしい。軍や艦娘に未練はないようだな?」

 

 彼女は僕の方へ傾けた体を、ベッドに突いた片手で支えながら質問した。僕が答えないでいると、顔を近づけて目の奥を覗き込もうとしてきたので、それは彼女の額を指で押しやって防いだ。僕は小さな気恥ずかしさを感じながら、軍での時間が決して悪いだけのものではなかったことを告白した。

 

「みんなと働くのは楽しかったよ。出撃の度に僕か誰かが死ぬかもって思って神経をすり減らしてたけど、それはそれとしてね。けど、必要とされてもいないのに軍や艦娘にしがみついているつもりはないさ」

「じゃあ、私にしがみつく気はないか? 忘れているなら思い出して欲しいんだが、私はお前を必要としているんだ。しかも赤城と違って『まだ』じゃないぞ。『いつでも』だ」

「ああ、そして君にはその理由が分からないんだろう。君に分からなきゃ、僕にも分かる訳がない。分からなけりゃ、そいつは()()のと同じだ。理由もなしに自分の人生を左右しようとは思わない」

「私の“理由”の有無にお前の人生を左右させるつもりなら、私がお前を好いていて、愛していて、病める時も健やかなる時も傍にいて欲しいから、と言ったら満足するのかい」

「そうしたいのか?」

 

 武蔵は笑って答えなかったが、彼女が僕を男性として好いている筈がないということは分かっていた。それこそ理由がない。そもそも、今日にいたるまで多くの人格的欠陥を露わにしてきた武蔵が、そういう真っ当な感情を持っているのかも怪しいものだ。どうひいき目に見たとしても彼女にとっての最大の愛情なるものは、幼児期の子供がお気に入りの人形やおもちゃに向けるような、激しい嵐にも似た一過性のものであって、幾分か成長して思春期に入った子供たちの燃え盛る炎のような愛や、成熟した大人の優しさに溢れた、温かな愛とは違うだろう。武蔵の愛着は僕をばらばらに引き裂いて、殺してしまうだけのものでしかない。事実、僕が収容所に入れられていた一年の間に武蔵が荒れたせいで、赤城は僕を彼女の手に渡さなければならなくなり、お陰で僕は陸軍排撃班に殺されかけたのだ。

 

 僕がどうやっても彼女になびかないのを見て、武蔵は面白くなさそうに鼻を鳴らした。が、たちまちにやにや笑いを取り戻して、僕に囁いた。「それじゃ、私も高校に通うか」「おい、冗談だろ」「冗談なもんか、大真面目さ」僕は、武蔵の今の姿と艦娘になる前の彼女の姿とには大きな隔たりがあるだろうという事実を無視して、目の前にいるままの彼女が高校生らしい服を着ている様子を想像してしまった。かなり……無理があった。僕は言葉と言葉の間に笑いの発作を挟みながら尋ねた。

 

「じゃあ、君、セーラー服みたいなのを着るのかい、そいで、プリーツスカートとか履いちゃって」

「ああ、そうだ。何だ、そんなにおかしいか?」

「武蔵、これは僕の善意からの言葉だと思ってくれよ──君は今のその恰好をしてる時が、一番(さま)になってるぜ。その……(ここで僕は彼女が身にまとっているものを服と呼んでいいものか躊躇した)……服で通えばいいさ」

「そりゃいい。登校初日から学生指導室行き間違いなしだ。最高の高校デビューになるな」

 

 違いない。でも、相手は武蔵だ。指導員の先生方も可哀想に。一体誰に武蔵を指導できるって言うんだ? 元艦娘でさえない連中が何を言おうとも、彼女の耳には届くまい。だって、現役艦娘に言われてさえ馬耳東風の(てい)なのだから。彼女は揺るぎない自己を持っている。そこについては僕も認め、受け入れ、称賛せずにはいられない。武蔵ほど我の強い生き方をするのは、容易いことではないのだ。僕などには、模倣してみようかという気持ちすら湧いてこないほどである。それだけに、ただただ彼女の人間性だけが、ひどく残念に思われた。

 

 ぼんやりと「武蔵は到底、戦後を生きていけないかもしれない」と考える。彼女が何歳か知らないが、戦前生まれではないことだけは確信を持って断言できる。これは彼女が同じ人間であるという前提に基づく為、その前提が最早有効ではない場合には意味のない確信ではあるけれども、今のところ武蔵が人類とは異なる種族であると判断するどのような材料もないので、十分に確からしいと宣言してもよいだろう。彼女は戦中に生まれ、戦中に育ち、軍に入って、戦争という血反吐で作られた底なし沼に、つむじまですっかり潜ってしまった。武蔵に比べれば、僕などはその沼の(へり)で足を投げ出し、ちゃぷちゃぷと飛沫やさざなみを立てて遊んでいた程度の存在でしかない。

 

 だが一方で彼女は、その中で生きてきたのだ。それがどんな意味なのかを考えても、辞書がその収録している語に与えるような、ぴたりと合致した定義は思いつかなかった。僕に分かっていたのは、彼女は僕の知らないこと、知らないでもいいことを知り、見なくてもいいものを見て、僕が幸運にも経験せずに済んだ運命を耐え忍んできたのだということだけだった。そしてそんなことは、今になって気付いたことではなかった。

 

 僕は彼女の目を見た。そこには僕がずっと嫌ってきた輝きが、まだへばりついていた。それが何故僕にここまでの嫌悪をもたらしてきたのか、理解できなかった。武蔵は悪人だ、それは認める。性格も悪い、間違いなくそうだ。僕を殺しかけた、それも二回も。もし天国と地獄が実在すれば、彼女は地獄に落ちるだろう。これらに疑いを差し挟む余地はない。でも僕は「だから彼女を嫌ったのか」と自分に尋ねられると、首を捻ってしまうのだった。死にかけたことについては怒っているし、彼女の人を嘲る悪癖は気に入らないが、深く嫌うほどではないように思うのだ。ところが僕は現実に彼女のことを好きになれなかった。僕は彼女の目の中に、常に、絶え間なく、何かを求める光を見出してしまう。それがこれまで僕の気に食わなかったのである。

 

 が、たまに彼女の目からふい、とそんな(ともしび)が消えることもあって、そういう時の武蔵なら僕はそこまで嫌に思わなかった。それどころか、その(あか)りのない武蔵を見た回数が増えるにつれて、とうとう僕は彼女のことをじわじわと尊敬し始めたのである。ここでの尊敬とは、一般に使われる意味での尊敬とはまた少し違う。好意とも一緒にして欲しくはないし、まして信頼などでもない。だが信用には近いところがある。あいつはどうも相当しっかりした奴だぞ、と思うようになったのだ。僕の道理で動いてくれはするまいが、彼女の道理に沿って考える限り、彼女はそれを裏切らない。それこそ、僕が先に褒め称えた彼女の揺るぎない自己の発露ではないだろうか。僕は彼女のそんな精神性を羨んで、それに惹かれているのかもしれない。

 

 僕は寝転がったまま、彼女の二の腕を軽く叩いて言った。

 

「武蔵、君がもし本当に望むなら」

 

 彼女の口が動こうとするのを、指一本立てて押し留める。

 

「高校の受験勉強、手伝ってやってもいいぞ」

「お前、頭かち割ってやろうか?」

 

*   *   *

 

 艦娘だって人間だ。病気をすることもあるし、時にはそれが体ではなく心の病だということだってある。広報部隊にいた頃に、睡眠導入剤が手放せないという艦娘と会ったこともあるし、その逆に薬を飲んでいないと眠ってしまう、という厄介な症状を持っている艦娘と会ったこともある。だが僕は、基本的には健康そのものだ。身体的にも、精神的にも。そりゃ、寝つきの悪い時がない訳じゃない。ひどい夢を見て飛び起きた経験だって持ってる。けどそんなのは、誰にでもあることだ。それこそ兵士や艦娘でない、会社勤めの大人たちにだって起こり得る程度のことなのだ。原因だって大抵は思い当たる。極度の疲労か、過度の心的重圧。大別すれば大体そのどちらかだ。中には「寒いからって毛布を重ねすぎた」とか、そういう笑えるものもある。

 

 そういうきちんとした意見を持っていたお陰で、僕は武蔵に頭をかち割られかけたその晩、豆電球一つ分の光の下で、自分が眠れないでいることに気付いても慌てはしなかった。「いよいよだね」と響は言った。そうなのだ。いよいよだ。明日、すぐに戦争が終わるとは言わない。けれど明日は、その為の更なる一歩を踏み出す日である。僕は今自分のいるここが何処だか知らない。太平洋の孤島か、日本列島の中の何処かか、はたまた大陸か。気にもならない。何処でもいいのだ。僕が知っているのは、そして気になっているのは、まさに明日、極東の島国で生まれ育った一人の少年が、世界中の沿岸国家と深海棲艦との戦いを終わらせる上で、計り知れないほど大きな役割を担うということだ。人類史上、かくも多数の人々が、かくも少数の人間によって恩恵をもたらされたことがあっただろうか。※124

 

 そう考えると──考えるべきではなかったのだが──心臓がきゅっと音を立てて引きつった気がした。ベッドの中で布団を頭から被り、目を閉じていると、自分の胸の中で激しく脈打つものがあるのが感じられた。ここに響や隼鷹、那智教官がいたら、慰めて貰ったり、励まして貰ったりすることができたろう。生憎と、今日彼女たちはここにいない。いるのは褐色の悪魔だけだ。耳を澄ませると僕の鼓動音に紛れて聞こえてくる規則正しい寝息は、彼女がリラックスした状態にあることを示している。羨ましいものだ、僕だってできることなら彼女みたいに「明日何が起ころうと知ったことか」という態度を取りたかった。つついて起こしてやろうか、と悪巧みをして僕は微笑んだが、命惜しさに実行はしなかった。

 

 アルコールのことを考える。部屋には響の持参品が置きっぱなしだ。グラスはないが、グラスがないと飲めないなどと言うほど僕はお上品ではない。が、赤城はアルコールは避けるように言っていた……くそっ、僕には一杯の酒と平和な世界を引き換えにすることができないらしい。酒を飲んで寝るのはなしだ。睡眠薬代わりの寝酒は健康に悪いとも聞いている。うん、飲まなくて正解なのだ。一人酒なんてのも寂しいしな。それにきっと響の残していったボトルの中身はとても酸っぱくなっているだろう。※125

 

 思考のせいで余計に眠気が遠ざかってしまったことを自覚して、長く息を吐く。このままここにいても、眠れそうにはない。被った布団を剥がし、上半身を起こして、何か手はないか探してみる。響は温かいお茶を飲めるようにポットや電気ケトルなんかを置いていってくれた。マグカップもある。お茶を淹れて飲むか? いや、カフェインが安眠に役立つという話は聞いたことがない。ただのお湯を冷ましながら飲んだ方がまだ足しになるだろう。いっそ夜通し起きていようかと血迷いそうになったが、明日の昼、僕が徹夜のせいでふらふらしながら赤城の前に姿を現したら、彼女はきっと大喜びはしてくれまいと思うと、多分やめておいた方が賢明だ。

 

 となると、後は寝られない原因であるところの精神的重圧に打ち勝てるほどの、しかし不眠や悪夢の原因にならない段階の肉体的疲労を、作為的に己へと与えるという方法だけが頼みの綱だった。でも部屋の中での運動は避けたいところだ。腕立て腹筋も無音では行えない。そして僕には武蔵を起こすかもしれないという危険を冒す度胸がなかった。以上を勘案して、僕は散歩をすることにした。外出を控えるようにと言った手前赤城は気に入らないだろうが、彼女だって僕が明日、目の下にひどい()()を作っているのを見つけるよりかは、深夜徘徊している僕を見つける方がいいと思う筈だ。それに部屋の時計が教えてくれる時間は、これならもう赤城が寝ていてもおかしくない、と僕に思わせてくれた。まあ、彼女が寝ていたって歩哨や警邏程度はいるだろうが、たとえ見つかったっていきなり撃ち殺されることはないだろう。

 

 慎重に布団を抜け出し、ベッドから降りる。部屋のドアへと近づく前に再び武蔵の様子を伺うと、彼女は寝返りを打ったせいで素肌の肩が毛布の庇護下から出てしまっていた。外気に触れて冷えるのか、手を当てている。僕は自分の毛布を掴むと、武蔵の体にそっと掛けてやった。彼女の毛布を掛け直してやってもよかったのだが、それをすると起こしてしまいそうだったのだ。武蔵はもぞりと一度動いたが、目を覚ます様子はなかった。排撃班の班長も気を抜いたらこんなものか、と小さな勝利さえ感じながら、僕は寝巻きのまま部屋を出た。

 

 廊下はドックに行く為に通った時と比べると暗かった。時間帯によって、明るさを落としているようだ。そうすることで、ずっと拠点にこもっていても時間感覚なんかが失われないようにしているのかもしれない。艦娘ではない本物の潜水艦でも、似たような配慮をすると聞いたことがある。足元が見えなくなるような暗さではなかったので、僕はのんびりした気分で散歩を始めた。変わり映えしない廊下を、こつりこつりと微小な音を立てて歩く。階段を上がったり、下りたりする。時々、巡回中の警邏の足音が聞こえてきたら、やり過ごす為に隠れ場所を見つける。繰り返す内にそういうことが楽しくなってきて、また見つからなかったことで気が大きくなって、僕は段々大胆になり始め、とうとう馬鹿なことをしでかした。わざと物音を立ててみたのである。

 

 すると何処に潜んでいたものやら、あちこちから警備が駆けつける音が聞こえてきて、予想外の大反響に僕は慌てて逃げ出さなければならなかった。何処をどう走って見つからずに自室近くの廊下まで戻って来られたのか、思い出そうにも思い出せない。僕は荒い息を整える為に、廊下の壁に体を預けてしゃがみこみ、膝を抱えて俯いた。肝を冷やしたが、お陰で疲れは溜まったようだ。これなら、寝ることも不可能ではないだろう。やれやれ、明日の夜はこんなことしなくても普通に眠れるといいのだが! 息を整え終わり、立ち上がろうとする。だがその前にぞくりと怖気が体に走った。頭を持ち上げると、そこには疲れた顔の赤城が立っていた。右手には通信機を持っている。そして彼女は左手で顔を覆った。

 

「はあ、やはりあなたでしたか……部屋から出ないようにお願いしたつもりでしたが。私の頼みは聞く気にもなれませんか?」

 

 僕が答えられないでいると、彼女はどうでもよさそうに「まあ、いいでしょう」と呟いて、通信機の向こうにいるのだろう哨兵たちに「解決しました。配置に戻りなさい」とだけ言った。僕は彼女がそうしている間に立ち上がっていたが、そのまま駆け出して部屋に立てこもりたかった。そうしなかったのは、赤城の目が油断なくこちらに注がれていたからだ。これでは最初の一歩か二歩を行ったところで襟首を掴まれ、引き倒されて終わりだ。あっちが僕を殺そうとしているのでもない限り、無駄な抵抗はしないこと。これは僕が今までの人生経験から作り出した、物事を丸く収める為のシンプルなルールの一つだった。

 

「こちらに」

 

 言われるがままに、赤城に付いていく。武蔵のいる部屋から遠ざかっていくことを不思議に思ったが、僕はその疑問に「知るか、どうとでもなれ」と答えてやった。僕らはそれなりに長い間廊下を無言で歩いていたが、やがてある部屋の前で赤城は足を止め、懐から鍵を取り出し、開錠してドアを開けると、一歩脇へと退いて「中へどうぞ」と言った。その言葉に従うのは虎の巣穴に身を投げ込むようなものだと思ったけれども、巣穴の主が脇にいてはその場を辞することもできなかった。部屋に入ると、二つ並んだ執務机が目についた。ここは赤城の仕事部屋らしい。どちらの机にもファイルや何かの資料と思しき本が積んであり、更にその二つの机の片方では、今も誰かがその山と積まれたものを相手に奮闘しているようだった。それは紙をめくるぺらぺらという音や、ペンを走らせる音が僕に教えてくれたことだったが、ドアの音に一呼吸遅れてそれも止まった。続いて電の声がした。

 

「それで、何だったのですか?」

「彼でした」

 

 僕の後に入ってきた赤城が簡単に答えた。電は溜息を一つ吐いて言った。「だから外から鍵の掛けられる部屋にするべきだと言ったのです」「あら、これから協力して貰おうという相手を監禁しろと?」「おかしいですか?」今しかないぞ、と思って僕は割り込んだ。「いいや? 面白い意見だ」これには電も動転したらしい。どうして、と言おうとして舌を噛んだ。僕は他人の気持ちを察するのが下手な男だが、舌を噛んだ時の痛みに共感することぐらいはできる。痛いし情けないしで最悪だよな。分かるよ。でもそこで大げさに同情をあらわにすると挑発的になるので、お大事に、とコメントするだけに留めておこう。相手の気持ちが分からない分、敬意を払うことを忘れてはならない。

 

 幾ら僕のことを嫌っていると言っても、その鼻先で「監禁してしまえばよかったのに」と言っておいて平気ではいられなかったらしく、電は気まずそうな沈黙の中に閉じこもってしまった。彼女は武蔵や長門を見習ったらいいのでは……いや、やっぱりやめてくれ。その素直さは、失われるのを見過ごすには余りにも惜しい。僕が電の本質的な直情性というか精神的な歪みのなさを称えていると、赤城は咳払いをして電に仕事をやめて休むように言いつけた。彼女は遠慮も逆らいもしなかった。恐らく、この場から別の場所へ行ける赤城からの命令ならどんなものでも喜んで受け取っただろう。

 

 電が行ってしまうと、赤城は手で執務室の片隅にあるソファーとテーブルを示した。奥に一人掛け、間に四角くて背の低いテーブルを挟み、手前に三人掛けだ。ここで何らかの応接でも行うことがあるのだろうか。作戦会議をするとか? 僕は想像を膨らませながら、手前のソファーに腰を下ろした。一方で、融和派のリーダーはその立場らしからぬ行いに出た。お茶を淹れ始めたのである。香りでハーブティー、つまりカフェインレスだと分かったので、僕は安心した。何のハーブを使っているのだろう。息を吸い込んで、確かめてみる。この僅かな枯れ草の匂いは……「アマチャヅルか。いいね」「驚きました。よくご存知で」「広報部隊にいた時に飲んでたんだ。当時の旗艦から教わってね」岩礁での戦闘以前でも、僕のような厄介者にさえ優しくしてくれた榛名さんを思い出して、顔がほころぶ。

 

 アマチャヅルのハーブティーは鎮静作用があり、不眠を筆頭としたストレス性症状に効く他、不安なども抑えてくれるという。赤城がこれを選んだのは偶然ではないだろう。また、僕に振舞ってやろうという予定があったのでもないのにそれが用意できるということは、彼女が普段からこれを飲んでいるということなのだろう。どうしてどうして、人間的じゃないか。僕は長門や武蔵、赤城のような連中のことをしばしば、僕の知っている人間とは全く違う何か別の生き物ででもあるかのように思ってしまう悪癖があるから、こういう「彼女たちは僕と同じ人間なのだ」ということを思い出させてくれる出来事はありがたかった。これで今後、赤城が僕に凄んできたとしても、僕は恐怖の余りに失禁しながら「でもこいつアマチャヅルのハーブティー飲んでるんだよな」と考えて、彼女をこっそり矮小化してやることができる。

 

 淹れられたお茶のカップを受け取って、一口すする。アマチャヅルにしては少し甘みが強い。苦さを消す為に、砂糖を一つまみ入れてあるのかもしれない。同じものを持った赤城が横を通って、一人用ソファーに座った。何となく座り直して、赤城の言葉を待っていると、彼女は僕をちらりと見て「怖いですか」と訊ねてきた。頷く。怖くない訳がない。かつて、第四艦隊や第二艦隊にいた頃、僕は僕の命にだけ責任があった。第五艦隊の旗艦になると、責任を持つ命の数が六倍に膨れ上がった。それでも僕は優秀な二番艦や気心の知れた友人たちに支えられて、どうにかやってきた。で、今はどうだ? 明日、僕が左右する命は何個になる? 誰にそれが計算できる? 第五艦隊の十倍や百倍では済まないかもしれない。千倍万倍でも追いつかないかもしれない。

 

 明日僕が一つでもしくじって台無しにしてしまったら、それが意味するのは、何千何万の第五艦隊が壊滅するということなのだ。誰かにとっての那智教官が死に、誰かにとっての響が死に、誰かにとっての隼鷹が死ぬということなのだ。もっと恐ろしい考えもある。死ぬということは自動詞的な事象だ。それは目的語を取らず、主体それそのもののみで十分に発生し、作用する。が、「『誰か』のせいで死ぬ」場合、それは「『誰か』に殺される」と言い換えることも可能である。従って、もし僕が明日失敗したら、僕が何百万の教官と響と隼鷹を殺したことになるのだ。自分で考えていてもいささか妄想症じみているとは思うが、そこには単に笑い飛ばしてしまうことのできない重みがあった。

 

「怖い」

 

 僕がその言葉を口に出すことを、僕の子供らしいプライドは止められなかった。今こそその本領を発揮して止めて欲しかったのだが、この恐怖心に打ち勝てる自尊心の持ち主になるというのもそれはそれで嫌なことである。

 

「逃げ出せるものなら逃げ出したいさ」

 

 彼女も性格がいいと言える人物ではないにせよ、武蔵と違って嫌味や当てこすりを好んで言ってくることのない赤城に対しては、素直に弱音を吐くことができた。お茶をもう一口すする。大分、飲みやすい温度になっていたので、口をつけてカップの三分の二を流し込んだ。その様子を見ながら、赤城は「しかし、あなたは逃げ出さない」と答えを知っているように言った。僕は頷いた。逃げない。僕は艦娘だ。逃げ出したりしない。艦娘は逃げないのだ。僕らは迫り来る脅威から無力な人々を守る最後の砦、最後の盾、最後の一線。もし敵がこの身の守りを抜けたなら、その向かう先は罪のない人々である。退くことはできない。僕らは前進する。戦って勝利し、どんなものでも掴み取る。

 

 僕は、艦娘の自分が好きだ。恥ずかしがりもせず、臆面もなくそう言う自分が好きだ。己がどうあるべきかを何の迷いもなく信じている自分たちが好きだ。艦娘でないものにはなりたくない。この戦争を生き延び、退役の日が来て、妖精たちの処置を受けて民間人に戻ったとしても、心さえ変わらなければ艦娘のままでいられる。けれど体が今のままでも、一度心が変わってしまえば、その男はもう艦娘じゃない。

 

 それに、と僕はちょっと冷静になって考えた。少なくとも挑戦すれば、可能性はある。逃げたら成功率はゼロだ。分の悪い賭けだし、何か仕組まれているのかもしれないが、それでも舞台に上がらずに演じることはできない。怯えと恐怖で吐き気を催したとしても、やり遂げればこっちの勝ちだ。公共の利益を考慮する時、僕個人の感情など、一考にも値しない。もちろん、僕は「どうして僕が?」「誰か他の奴ではダメなのか?」「僕が責任を取らなければならないのか?」とみっともなく震えるだろうが……それはそれとして、正しい選択が下されなければならないのだ。

 

 お茶の効果なのか、明日への恐怖は薄れ始め、僕は東洋的な心境に至っていた。「しょうがない」という諦念だ。世界には人間ごときには抗えない何らかの不可避かつ不可視の力が存在しており、人にはそれを受け入れるしかない時があるものだ、という、運命論的な境地だ。僕の普段の理性に対する傾倒からすると、これは驚くべき自暴自棄だった。だがまあ、何でもいい。やるべきことをさせてくれるなら、どんな思想にだって染まってやる。決意して、カップの残りを飲み干した。

 

「お代わりは?」

「いや、いい。ありがとう。そろそろ部屋に戻って寝るよ。時間さえあればもっと話してもよかったんだが、分かるだろ、明日の昼には……あれ?」

 

 断りと礼とを言いながら、カップをテーブルに戻し、立ち上がって辞去しようとして、体の異変に気付く。手足が重い。頭がふらふらする。何だこれは、と言おうとしても舌が回らない。やっとの思いで赤城に目をやるが、彼女はそ知らぬ顔でお茶を飲んでいる。それで分かった。飲み物に何か混ぜられたんだ。甘みが強かったのはそのせいか? 足から力が抜けて、ソファーに座り込む。だが平衡を保てず、すぐに寝転がる形になった。「赤城」彼女の名を呼ぶ。囁き声が精一杯だった。赤城はこちらに目をやった。

 

「この、野郎……!」

 

 彼女はくすくすと楽しげに笑った。

 

*   *   *

 

 研究所の食堂は今度も誰ともつかない人々で盛況だった。

 

 天龍は本日のランチセットが載ったプレートを二つ持ってくると、僕の前の席に腰を下ろした。彼女は言った。「久しぶりだな。ほらよ、お前の分だ」受け取って、卓上に置き、天龍とそれとをまじまじと眺める。せっかちなところのある天龍らしく、僕がプレートを薄いテーブルの上に置いた時には既に、メインの和風おろしハンバーグを箸で一切れ切り取って食べていた。彼女は口の中のものをしっかりと咀嚼し、喉を鳴らして飲み込んでから、「んー、あっさり目ってのも割といいもんだな」とこれまで彼女が持っていたハンバーグに対する意見を少し訂正した。その時にも僕はまだ眺めていた。ようやく天龍はこちらの様子に気付いた。「おい、冷めちまうだろ。折角持ってきてやったんだから温かい内に食べるのが礼儀だぜ」彼女は経験の浅い駆逐艦たちをたしなめる際に彼女が使うような、落ち着いた響きの声でそう言った。僕は質問しようとした。

 

「天龍、君は……」

「死んだ。お前の中にいる。これは夢みたいなもんだが、夢じゃない。お前のやろうとしてることに生き返りそうなぐらい反対だ。何だよ、これでもまだ言いたいことがあんのか?」

 

 聞きたいことを先回りして全部答えられてしまった。が、これで引っ込むのもちんけなプライドが許さない。さっき、恐怖を口にすることを止められなかった自尊心ではあるが、存在しない訳ではないのだ。何か言ってやらないことには気が済まない。身振りで彼女の箸使いと食事作法の細やかな流麗さを示して「随分とお行儀がいいんだな」と言ってやる。すると彼女自身も総体としての天龍……天龍という艦娘のイメージにそぐわないのでは、と思っていたところでもあったのか、しかめっ面になった。僕の意地が彼女を不機嫌にさせたのだ。先に謝るべきなのがどちらか、僕は知っていた。

 

「ごめん、ここ暫く性格の悪い奴と一緒にいるもんだから。こっちにまで感染しちゃったみたいだ」

「どうでもいいけどよ、冷めるぜ」

 

 言われて、僕もランチセットに取り掛かる。天龍を見習って一口大に切ったハンバーグにおろしを乗せ、口の中に運んだ。「うまいな」「だろ」この短いやり取りの後、暫く僕たちは無言で食事を続けた。プレートの上に載っているのが水の入ったコップと空の食器だけになると、天龍は満足そうに背伸びをした。そろそろ、話をするタイミングだろう。水を口に含んで舌と唇を湿らせると、僕は切り出した。

 

「今度はどういうつもりで現れたんだ?」

「さっき言ったろ、もう忘れたのかよ。お前のやろうとしてることをやめさせたいんだよ、オレはな。他の奴らはそうじゃないみたいだが、あいつらは腑抜け、座って黙って見てるだけで、オレの邪魔なんてできやしねえ連中さ」

 

 彼女は背もたれに寄りかかって、腕を振って辺りを示した。僕は目だけ動かして見た。いる。あちこちにいる。大規模作戦の時に見た、あの艦娘たちだ。魂だけになってなお、かつて存在した苦しみのない海を取り戻す為の戦いに己を捧げようとしている、死んだ英雄たち。中には天龍をきつい視線でにらみつけている者も多いが、射殺さんばかりの目で見られている当人は歯牙にもかけない様子である。

 

「前にも言ったと思うけどな、オレは戦争が大好きだ。単に危ないのが好きなんじゃないぜ。それならもっと危ない仕事だって世の中にはあっただろうからな。

 

 オレはあの一か八かの瞬間が好きなんだ。撃ち合ってる時、奇襲された時、鎮守府や泊地の食堂でニュース見てる時、ベッドで寝転がってる時、どんな時でもいい。頭の横を砲弾が掠めて飛んでいくような、足元を鼻息荒く魚雷が過ぎ去っていくような、すぐ近くで爆発した爆弾の破片が奇跡的にどれも外れるような、一日後や一秒後に自分や自分の友達が生きているか確信が持てなくなるような、今の自分が死に際のオレが見ている夢なんじゃないかと疑ってしまうような、そういう一刹那が好きなんだ。

 

 そういう一瞬一瞬に、オレの命や、幸福や、不幸や、情熱や……自分の一切合財をすっかり搾り取られていたかったんだ。何故って、それは分かってる筈さ。その時だけ、オレたちはそんな時だけ──オレもお前も、周りでこっち見てるあいつらだってそうだし、もっと言えば艦娘じゃない連中、民間人でさえそうなんだよ──ちゃんと目を覚ましていられるんだ。神経が研ぎ澄まされ、生の一秒一秒をはっきりと捉えられる。命の意味が分かる。言葉や思考じゃない。それこそ魂に刻まれる。

 

 それはただ漫然と生きているだけじゃ絶対に手に入らない体験なんだ。戦争の中にいないと分からない。だからオレは戦争が大好きだし、終わって欲しくないと思う」

 

 僕は彼女の言葉を理解しようと努めた。不可能だとは分かっていたが、それが義務だと思ったからだ。たとえそのこと自体を楽しんでいたとしても、彼女は長門と僕の為に死んだのだ。彼女の愛する戦争という舞台で踊ることを、途中でやめさせてしまった。もしあの時、彼女を助けるのが間に合っていたらどうなっていただろう? 長門が負傷していなかったら、奇襲がなかったら、別のルートを通っていたら……仮定の話は無限に広がる、意味のない不毛な思考だ。だが「それでも」と思わずにはいられなかった。

 

「じゃあ、君はこう言いたいのかい? 平和はいらない、戦争を長引かせろ、それが自分の参加できない戦争であっても、そのことで守るべき人々や僕らのよき友人たちの中に、数え切れない余分な死人が出ようとも、と?」

 

 天龍が拳でテーブルを叩いたので僕はびくりとしたが、彼女の顔を見てその恐れは驚きに、そして疑問に変わった。彼女は自分の中にある何かを僕に伝えようとして、もどかしそうに喉をかきむしり、やっとのことでそのつらそうな声を張り上げた。

 

「違う! オレだって艦娘だ! 戦いの為だけに、好き嫌いの為だけに戦争を続けろと言ってる訳じゃない! 考えてみろ、これは完成された、やろうと思えば永遠にだって続けられる平和なんだ! ……この中にいるから、オレもお前も命がどんなものか理解していられるんだ。

 

 戦死者(犠牲)は出続けるだろうが、この戦争が終わらない限り、その理解も続くんだよ。歴史を勉強していないのか? この戦争が起こるまでは、いつでも戦争の原因になったのは命が、生きているってことがどんなものかってことを知らない連中とか、それに関する誤った解釈の持ち主だった。後者は防げない。だが前者だけでも世の中から消し去っていられたら、どれだけの命が救えるか。

 

 分かるか? 今、オレたちは完璧な調和の中にいるんだよ。お前がやろうとしていることは、それを壊すことでしかない」

 

 僕たちは互いの視線を絡ませあった。天龍の目は何処までも真っ直ぐで、見つめ返すのがつらくなるほどだった。でも、僕は力を振り絞って、彼女から目を逸らさなかった。天龍が言っていることには頷ける部分もある。この戦争は、人類が長年抱えていた同族間での組織的殺し合いという病気を、地球上からほとんど駆逐してしまった。そんなことをやっている場合ではなかったからだ。人々は昨日まで憎しみ合っていた隣人と、手と手を取り合って生きていくことを学ばなければならなかった。お陰で今、世界の大半は平和を謳歌している。日本のような島国や海と面した国でなければ、わざわざ義勇軍に身を投じでもしない限り戦争を肌身に感じるのは精々物資の貧弱さに触れた時ぐらいで、それだって種類が少ないということはあっても量が足りないということはないのだから、至って平和なものなのだ。

 

 だがこの戦争が終わったらどうなる? 十年後はいい。二十年後、よかろう。三十年後、四十年後、五十年後──僕が生きている間ぐらいは人類がとうとう到達した極致、相互信頼を前提とした理想社会を保てるだろう。一世紀も経てば、人類は忘れてしまうに違いない。何故なら、全世界極限状況下において人々が育んできた絶対の信頼は、あの雰囲気、あの環境なしに言葉だけで教えられるようなものではないからだ。そうなればまた人類は身内同士で殺し合うようになるだろう。僕が守ろうとした人々の子孫は、敵味方に分かれて撃ち合うようになるだろう。もしかしたら、僕の子孫たちと僕の友人の子孫たちが、戦場で互いの血を混ぜ合わせるようになるかもしれない。

 

 誤った二分法に陥っている、と言われればそれまでだが、道は限られているように思われた。融和派たちが望んでいるようにこの戦争を終わらせるか、天龍の言う通り続く限り続けさせるかだ。でも、どちらが正しいんだ? 僕が俯いたことで迷いを感じ取ったのか、天龍は静かに言った。

 

「お前にとってはどっちも同じぐらい正しく思えるんだろ? なら、比べるだけ無駄だよ。お前がどうしたいかで選んだらいいんだ。望まない選択だけはするなよ」

 

 なら、答えは決まっていた。僕は利己的な男だ。何処までも利己的な奴だ。自分と、自分の周りのことを考えるだけで限界なのだ。それ以上のことを考えようとすると、途端に怖くなってしまう。僕は友人たちを、まだ生きている人々を守りたい。その後のことはその後のことだ。今、僕らの目の前にあるものから守りたいのだ。この戦争から。なら、止めないでいる訳には行かなかった。隻眼の軽巡は言った。

 

「オレのとは違う答えを選んだみたいだな」

 

 彼女が身じろぎすると、腰の刀がかちゃりと音を立てた。天龍は目を落とし、また目を上げて好戦的な笑みを浮かべた。僕は思わず、かつて自分のナイフをぶら下げていた場所に右手をやった。指がある筈のない柄に触れた。僕はナイフを持っていた。天龍は笑った。

 

「フフフ、怖いか?」

 

 そして僕らは同時に動き出した。天龍は座ったまま刀に手を伸ばし、テーブルごと抜き打ちに斬りつけようとした。僕はテーブルの(へり)を蹴飛ばした。蹴るのがもう少し遅かったら、僕はすぱりと一刀両断にされていただろう。この夢とも現実とも知れぬ場所で死んだらどうなるのか分からないが、大抵の場合、何処にいても死ぬのはヤバいものだ。死ぬ夢を見た結果として心臓発作を起こすことだってあり得る。

 

 テーブルに押さえつけられて、天龍の抜刀は遅れた。僕はその間にテーブルを飛び越えて掴み掛かっていた。天龍の座っている椅子ごと倒れ、彼女の胸倉を掴んだまま、勢いのままに床を転がる。がん、と頭をぶつけて視界がぶれる。しかもマズいことに、僕が下になった。天龍の手が首に掛かる。周りにいる艦娘たちは止めようとする気配もない。何故だ? 天龍の手を首から引き剥がそうとするが、彼女が締めつける力ときたら、まるで万力のようだ。天龍は軽巡であって、僕より力は弱い筈なのに。頭を打ったのが影響しているのかもしれない。

 

 絞首の苦しさに思わず、押し殺された悲鳴が出る。天龍は全力で僕を絞め殺そうとしている。彼女の脇腹を殴っても、首を絞める力は緩まない。収容所で吊るされた時のように、視界が暗くなり始めた。僕は……僕は意識して行動しなかった。体が動いたのだ。

 

「ぐっ!」

 

 僕の上で天龍が呻いた。あれほど強く締めつけられていた喉が解放され、むせそうになりつつも僕は左手で天龍を突き飛ばした。右手に握ったナイフの柄から、刃が彼女の脇からずるりと引き抜かれる感触が伝わった。彼女は僕から二歩離れたところに倒れたが、生きており、一突きされた程度でやめるつもりはないらしかった。鞘に納めたままの刀を杖として立ち上がろうとしている。僕も立たねばならないが、今は酸素が必要だった。やっと動けるぐらいに回復した時には、天龍はもうほとんど立ち上がった後だった。刀を抜こうとするところに掴みかかる。立つので精一杯だったのか、さしたる抵抗もなく、刀をもぎ取ることができた。それを脇に放り捨てて、彼女の胸にナイフの刃を向ける。「終わりだ。大人しくしててくれ」と肩で息をしながら僕は言った。天龍は笑って首を横に振り、言った。

 

「いや」

 

 そして彼女は僕を強く、固く抱きしめた。その行為は、当然の帰結として、彼女の胸に僕のナイフの刃を沈み込ませた。恐怖に僕は叫んだ。「天龍、君は何を!」「()()()終わりだ。まあ、周りを見ろって」彼女の言葉に、この避けることができた筈の悲劇を止めようともしなかった、あの薄情な艦娘たちの姿を探す。けれど彼女たちはそこにいなかった。そこにいたのは、僕の知る限りの深海棲艦たちだった。僕と天龍は、深海棲艦たちに囲まれていた。彼女たちは僕らの一挙手一投足を見守っていた。赤城め! 僕は叫びだしたくなった。こんなに激しい怒りを覚えたことはなかった。あの女は、僕を薬か何かで眠らせておいて、その間に勝手にことを進めたのだ。天龍は僕の耳元で囁いた。その声は、胸を刺し貫かれたにしては奇妙なほど、普段と変わりなかった。

 

「オレはお前を止めたかった。腑抜けどもは深海棲艦たちを仲間にしたかった。だから、オレたちは取引をしたんだ。オレのお前を止めようとする試みの全てを邪魔しないことと引き換えに、もしお前が意志を変えなかったら、こうするっていう取引をな」

「どうして彼女たちはそんなことを」

「想像力を使えって。お前らの目論見通りになったら深海棲艦たちはどうなる? 昨日までの友軍同士で殺し合うことになるんだぜ。その覚悟を決めさせるには、こっちだって本気だってことを、同族殺しの覚悟ぐらいあるってとこを見せなくちゃならなかったんだよ。それ以外の話し合いは、そっち(融和派)の仕事さ」

 

 天龍の足から力が抜けていく。僕は彼女を床に落とさないように、体を支え、座らせた。僕を抱きしめる彼女の腕の力も、徐々に衰え始めている。天龍の声は、彼女が二度目の死を間近に迎えていることを示していた。彼女はぜえぜえと息をして、短く区切らなければ話せなくなっていた。

 

「これから、先、何があってもさ……そう自分を、責めんなよ。お前一人の、責任じゃないんだ、からな……」

 

 とうとう、天龍の腕は僕の背中を撫でながら落ちた。荒い息遣いだった彼女は、一際深く息を吸い、喉を鳴らして笑った。

 

「こんな風に終わる、なんて、思ったこと……なかったぜ、そうだろ?」

 

 僕は答えられなかった。

 

*   *   *

 

 目を開けると、ベッド脇の椅子から身を乗り出してこちらを覗き込んでいる赤城と目が合った。僕は彼女を殴りつけようとしたが、手が寝台側面のフェンスに縛り付けられていて、動けなかった。

 

「まあまあ、そう怒らないで下さい。黙って薬を入れたのは謝ります。でも、びくびくしながらその時を待つより気楽だったでしょう? 説得は『成功した』そうですよ、離島棲鬼が──彼女があなたの“補佐役”だったんですが──そう言っていましたから。よかったですね」

「拘束を解いて、響を呼んでくれ」

 

 赤城は僕の反応を特に疑問に思った様子もなかった。寝起きで、自分がどれだけのことをやったかについて、まだ理解が及んでいないのだとでも考えているのだろう。

 

「申し訳ありませんが、彼女は多忙なんです。私で我慢していただけませんか?」

「じゃあ武蔵を。それと、戻って来ないでくれ。当分君の顔は見たくない」

 

 彼女は憮然とした表情で部屋を出て行き、僕が頼んだ通りのことをしてくれた。武蔵はすぐに来て、類稀なる彼女の洞察力で、僕が何をして欲しいかを察してくれた。横にいてくれたのだ。黙って、とは行かなかったが、それはまあいい。彼女のお陰で僕は孤独と喪失の内、前者だけは免れることができた。でも後者は──喪失は、いつまでも僕の中にあるだろう。



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「Home is the sailor」-2

 ()()が成功してから二日目に赤城に会った時には、手近なところにあった水差しを投げつけようとして響に止められた。三日目には彼女を無視した。幼児のようなみっともない真似だったが、僕が感じたものを発散する方法はそれぐらいしかなかったのだ。そうしながら何日か経つと、当初のような赤城への怒りは収まってきた。彼女が僕の頭の中で何が起こっているのか、何が起こりうるのか、何が実際に起こったのかを知っていたとは思えなかったからだ。

 

 僕のせいで天龍は二度も死ぬことになったが、赤城がそうなると分かっていて僕を眠らせ、そのまま「説得」とやら(僕は結局、離島棲鬼(自分の補佐)の影さえ見なかった)に駆り出したのではないのだろう。彼女は僕が休めるように眠らせ、直前の意思確認なしに深海棲艦たちと魂だか何だかを繋げさせただけだ。離島棲鬼は断りもなく僕の心を無数の深海棲艦たちに大公開しただけだ。その無数の深海棲艦たちはすんなり僕らを信じられなかっただけだ。それだけ。それで、天龍はほとんど自殺のようにして死ななければならなかった。いや、殺されたと言ってもいいな。手を下したのは僕だが、企んだのは沈んでいった艦娘たちであり、彼女たちにそんなことをさせたのはあの説得された深海棲艦たちだ。

 

 僕は、深い失望を感じていた。守りたかったのだ。友達、知り合いを、死ぬべきではない人々を守りたかった。天龍だって肉体は滅んだが、どのようにしてか()()()にいた。守るべき人だった。だが彼女は今度こそ死んだのだろう。守るべき相手だったのに。たとえ彼女が戦争の終わりを望んでいなかったとしても、だからと言って殺さなければならない相手では絶対になかったのに。僕と、あの誰かも分からない艦娘たちは同じ思いを抱いていて欲しかった。残念ながら、それは否定された。

 

 分かっている。現実的に考えれば、あそこで天龍を生かしておくことはできなかった。彼女がもし取引を破っていれば、僕じゃなくてあの艦娘たちが天龍をばらばらにしていたかもしれない。恐らく、彼女たちはやるだろう。それが必要だったならば。最初からそうしなかったのは、死んでしまった彼女たちではなく、現実に存在し、融和派に加わろうかと迷っていたのだろう深海棲艦たちと同じ、命ある生きた人間に手を汚させてこそ、こちらの本気を最大限に強調することが可能になるからだ。

 

 怒りは消えたが、破滅的な気分だった。何度か、僕は自分が他人に、特に艦娘に対して求めすぎているのかもしれないと考えた。自分の理想を他人に押しつけていて、そのせいでそこから外れたところにいる赤城や武蔵の人間性、人を騙したり、本当のことを言わなかったり、相手の意志を尊重しなかったり、それら全てがよくないことだと知っていても悪びれなかったり、そういう傾向に過剰な不快感を抱いてしまうのでは、と。でもその度に、いや、彼女たちの性根は捻じ曲がっていて、これはたとえ僕が迷惑なタイプの理想の追求者であったとしても変わることはない、と考え直した。

 

 三年間。たったの三年間だ。入隊してから今日まで、十年二十年の長い年月が経った訳ではない。だというのに、入隊までの十五年で出会った嫌な奴の全員を合わせたよりも、この三年で知り合ってしまった数人の嫌な奴の方がなおひどい。長門、提督、武蔵、赤城……特に後ろ二人だ。長門は自分なりにどうにかしようと頑張っていることを知っているからいい。提督は、余程のことをしない限りそもそも滅多に会わずに済むので我慢する。だが残りの二人は、やれやれ、会いたくもないのに現れて、人の人生をめちゃくちゃにかき回してくれて、お陰様で今のこの(ざま)だ。

 

 響だけがここでの生活の癒しだった。彼女はカウンセラーだけあって人に思いの丈をぶちまけさせるのが上手なもので、もし彼女がいなければ僕は赤城への悪感情をいつまでも心の奥底でくすぶらせていただろう。それは個人にとって不健康なことだし、グループにとってもよいことではない。僕は融和派にとって、今のところまだ、必要とされているようだ。そんな人物がグループの指導者と不和を起こしたら、赤城の指導力を疑うメンバーが出てくる恐れがある。よりによって、人類と深海棲艦が講和に至る為の最後の一手を打とうとしている、この時期にだ。それは避けなければならない。天龍の二度目の死を無駄にするなどという恥辱は、耐えがたいことだった。

 

 天龍、一体、彼女はどうなったのだろう? 陳腐な言葉を使うことをあえてするとして、彼女と会ったあの場所が僕の精神世界だと仮定しよう。天龍は現実で死に、そこに移った。そして再びそこで死んだ。それが天龍の消失を意味するのか、それともまたあの世界に行くことがあれば、けろりとした顔の彼女に会えるのだろうか? 答えが知りたかったが、僕はその答えを知っているのが誰か知らなかっただけでなく、どうやったら自分でその答えを導き出す、あるいは突き止めることができるのかさえ知らなかった。拠点に居住しているという深海棲艦たちには会わせて貰えず、もっぱら僕が顔を見ることができたのは武蔵、響、そして赤城の三人だけだった。特に赤城は「説得」後、しばしば僕を彼女の部屋に呼びつけて話をしたがった。

 

 彼女は僕がこの油断ならない女に拭い難い不信感を抱き始めていることを悟ったのだろう。または、響からそれとなく、話すように促されたのかもしれない。流石に響が彼女の職務中に聞いた情報を、丸ごと赤城に語って聞かせたのだとは思えなかった。だって、あの小さな天使は、親友の僕の質問からさえ彼女のクライアントを守ったのだ。立派な態度だ。尊敬する。そんな彼女が、赤城相手だろうと職務上知り得た秘密を漏らすとは考えづらい。

 

 赤城が僕をどうしたいのか分からなかったこともあり、僕は彼女と二人になることは避けた。今度盛られる薬も睡眠薬だとは限らないのだ。二度と覚めない眠りに就かされることはないだろうとしても、もっとろくでもない薬を飲まされるかもしれないという疑いを払拭できない以上、信用できる誰か、つまり響か武蔵を伴ってでなければ絶対に赤城の執務室になど行かなかった。幸い、赤城も僕が誰か連れていくことにまで口出ししようとはしてこなかった。彼女は僕を再々呼びつけることについて、電が任務で拠点を離れたので、気楽に話せる相手が欲しくて、と言ったが、僕は信じなかった。それなら武蔵が君にとって一番気楽に話せるんじゃないか、と僕が言うと、赤城は彫像のように表情を動かさないまま、「私の部屋は尋問室ではありません」と答えた。

 

 天龍との別れからきっかり一週間経った日の晩、僕は響から赤城が呼んでいる旨を告げられた。しかし、今度は話し相手を求めての呼び出しではないようだった。武蔵を連れてくるようにとのお達しだったからだ。赤城にとって武蔵は、僕が連れていくのは我慢するにしても、自分から呼びつけて話をしたいと思うような人物ではないだろう。その話というのが、一般に尋問とか拷問とか呼ばれる類のものでもない限りは。まあ、赤城がどういう目的を持っているにせよ、雑談や何の意味があるのかも分からないやり取りの為でないなら、何でもよかった。僕は響に自分たちが行くべき場所を確認した。

 

「部屋かい?」

「いや、工廠だよ。案内しよう」

 

 僕と武蔵は響の後を歩いて工廠に向かった。廊下を歩いて角を曲がり、階段を上がって更に歩くと、音が聞こえ始めた。懐かしい工廠の音だ。人がいるのだろう。久々に赤城と武蔵、響以外の顔を見ることになりそうだ。得も言われぬ緊張がふと僕の体を縛りつけようとしたが、改めて響がいることを確かめると、それもすっと消えた。防音の分厚いドアの取っ手に細い指を掛けた響がこちらを振り返って、上品に笑った。「ここが工廠だ。さあ、どうぞ」戸を引き開けて、僕と武蔵に道を譲る。扉によって抑えられていた音の奔流が耳朶を打ち、僕はまるでまばゆいものを見た時のように目を細め、次いで耳を押さえた。いつまでも音漏れさせているとよくないので、さっさと中に入って何歩か進む。後ろでドアが閉まったが、その音は工廠で動作している機械や整備士たちの行き交う音にかき消されて、聞こえなかった。空気の流れで分かったのだ。

 

 艦娘たちの姿もあった──あっちでは阿賀野型の四人が手に手に魚雷を持って何か話している。別の方では、夕張が高雄型の二人に彼女たちの艤装について何事か実に熱の入った演説をぶっている。どうやら二人の艤装を改良したらしく、どのように強化されたかについて解説しているらしい。また違うところでは、金剛型の比叡と霧島が僚艦と思しき重巡や軽巡艦娘たちに艤装の応急修理のやり方を指導しており、僕も是非ともその講習を受けてみたいと思った。

 

 だがもっと大事なことがあった。そこにいたのは艦娘だけではなかったのだ。阿賀野型四人の傍らで彼女たちの話を聞いてしきりに頷いているのは重巡リ級だ。発話はできなくても聞き取りと単純な意思表示はできるみたいだった。夕張の横には港湾棲姫……じゃない、港湾水鬼(水鬼なんて初めて見た。これが戦場だったら泣きを入れてるところだ)がいて、しばしば脱線する夕張を引き戻す役目を負っているようだ。そうして、金剛型たちの講習を受けている者の中には、北方棲姫が混じっていた。小柄な体を艦娘たちの間に突っ込んで、熱心に話を聞いている風に見える。

 

 これについては、素直に認めるしかないだろう。感動的な光景だった。決して、決して同じ空の下で生きていくことはできないと思われていた二つの種族が、こうして同じ場所にいて、通じ合っている、通じ合おうとしている。僕のいた場所では、殺し合うだけが人類と深海棲艦の関係だった。撃ち合い、憎み、殺したり殺されたりするだけが僕らと彼女らの間で起こる全てのことだった。それがここでは違う。そしてここから変わっていく。明日がらりと変わるという訳には行かないだろう。深海棲艦を許せないと思う者もいるだろう。深海棲艦の方だって、同族を愛するように人類を愛することはできないという者がいるだろう。だが、それでも、少しずつでも、変わっていくのだ。人類と深海棲艦は互いの手を取り合う未来を築いていけるのだ。それは幻ではない。誰にも否定はできない。何故なら、この僕の目の前に、その証明があるのだから。

 

「いい眺めでしょう? これが、私たちの目指すものです」

 

 振り返るといつの間にか、赤城が後ろに立っていた。忍び寄られるのは好きじゃない。僕は顔をしかめたが、彼女の言葉自体には賛同して頷いた。武蔵は赤城の動きに気付いていたようで、見れば僕と赤城の間に挟まる位置に、僕を守ろうとするかのように陣取っていた。礼を言うのは自意識過剰のようで恥ずかしかったので、目配せだけしておく。武蔵にはそれで十分だったようで、彼女は唇の端を小さく動かして反応した。「こちらへ」と言って赤城が歩き出したので、今度は彼女についていく。融和派のリーダー、元排撃班の班長、世界唯一の男性艦娘、人気カウンセラーの四人が一緒にいるというのは目立つものらしく、たちまち周囲から遠慮のない視線が注がれた。視界の端ではこそこそと内緒話をしている様子も見える。工廠の機械音でそれらが耳に届かないのが残念だった。自分の評判は気になるものだ。

 

 赤城は僕たちを工廠の一際奥まったところにある小さな倉庫まで連れて行った。そこには明石──無論、研究所の明石さんとは別の──がいて、僕を見て顔を引きつらせながら最低限の礼儀として会釈をした。それから僕を見ないようにしつつ、赤城に「整備点検、全て完了しました」と連絡した。融和派の指導者としての余裕を持った態度で赤城はその報告を受け、明石にこの場を辞することを許した。彼女はきっと、ほっとしたことだろう。明石が出て行くと、武蔵は痺れを切らして苛立ち混じりの声を上げた。

 

「それで、何の用なんだ?」

「艤装が届いています。あなたたち二人の」

「艤装が?」

 

 余程驚いたのか、褐色の大戦艦は鸚鵡返しにそう訊いた。赤城は頷くことさえしなかったが、そもそもその必要もなかった。彼女は倉庫の壁際に置いてある、不織布の掛けられた大きな二つの荷物を示した。僕が赤城に目をやると彼女は素っ気なく「どうぞ」と許可を出したので、その布を取り除くと、もう二度と見られないだろうと思っていたものが視界の中に飛び込んできた。僕の艤装、僕の装備だ。長らく使っていたものは海に沈んだが、提督は予備を用意することを忘れるような人ではなかった。その予備の一つなのだろう。大方、廃棄される時に掠め取られたのだろうか? 砲や魚雷も揃っている。挙句の果てに、砲塔から姿を現した妖精たちはあの顔馴染みの戦友たちだった。これには僕も仰天し、赤城の融和派グループが海軍内に一体どれほど浸透しているのかと震えずにはいられなかった。

 

 武蔵も彼女の巨大な艤装と、それに取り付けられた四六センチの巨砲を見下ろしていたが、やがて赤城に向き直った。「同じ戦場に出たら、誤射されないように気をつけることだ」「ご心配なく。その前にあなたを亡き者にします。たかが一隻で何様のつもりですか」このままだと僕の胃が痛み始めるだろうことが予測されたので、今度は僕が武蔵と赤城の間に割って入らなければならなかった。響は武蔵の艤装の、というか武蔵の四六センチ砲に興味を惹かれたらしく、二人がほぼ交戦状態にあることに気付いていないようだったから、僕がやるしかなかったのだ。でも思うのは、響は赤城たちを止めるのにそろそろうんざりし始めていたのではないのか、ということだった。一度試しにとことんやらせてみたらどうなるだろう、というのは、僕も響も同じく有するところの疑問だ。またこれは、好奇心で辺りを焦土にする訳には行かないので、疑問のままにしておこうと二人で約束したものでもある。

 

「それで、赤城。僕らをここに呼んだのはこいつのお披露目がしたかっただけなのか? それならもう終わったように思えるがね」

「もう少しの辛抱です。まずは、改めて感謝を。こちらへの合流まで暫く時間を要するとはいえ、離島棲鬼とあなたのお陰で戦力は整いました。離反した深海棲艦たちによれば、主戦派は大規模攻勢の用意を進めていたようです。私たちが戦力を削いだことで、攻勢は延期されるでしょう」

「稼いだ時間はどれくらいなんだ?」

「精々、一ヶ月ほどかと。これも深海棲艦たちの見立てですから、信頼してよいでしょう」

 

 どうやって算出したのか知りたかったが、今は知的好奇心を働かせる時ではない。その一ヶ月で何ができるだろう? とにもかくにも訓練が必要だ。何しろ僕が艤装を最後に装着したのは一年も前なのだ。それと、できれば深海棲艦たちと艦隊を組んで行動する練習もしておきたい。ぶっつけ本番でもやれと言われればやるしかないが、可能なら予行を行い、問題点や改善するべき点、その方法などを洗い出しておくべきだ。武蔵が僕を手助けしてくれるというのなら、彼女との協同も訓練しておかねばならない。彼女は大和型二番艦、一番艦大和を除くならば、まさに比類なき大戦艦である。艦としてのスペックだけを比べれば、長門でさえも一歩退かざるを得まい。だからこそなのだが、組んだ時の勝手が分からない。それでは困る。

 

 だが僕がぶつぶつ言いながら頭の中で訓練計画を立てていると、赤城は全然申し訳なくなど思っていなさそうな顔で「申し訳ありませんが、この拠点から出ることはしないで下さい」と言った。機密保持の為だそうだ。僕は武蔵よりも遥かに人目を引く無二の存在だから、衆目に晒すのはそれが必要な時だけにしたいらしい。残念だが、筋は通っている。となると、可能なのは艤装を装着する感覚の慣れを取り戻すことぐらいか。最低限、それだけでもしておかないと怖くて戦場になんか出られない。赤城も、それまで却下するような考えなしではなかった。しかし艤装をいじる為だけに工廠に一々来て欲しくもないらしく、彼女は部屋に艤装を持ち帰ることを許可してくれた。弾薬と燃料は入っていないので、武蔵が暴れ出しても鎮圧できると考えているようだった。これには疑問符をつけたい。

 

 武蔵は危険な女だ。那智教官が訓練所で作り出そうとした、理想の艦娘の姿そのままとは言わないが、それに近いところがある。生きている限り、彼女は彼女の敵にとって最大の恐怖になるのだ。もし、僕が武蔵と敵対するようになって、天の導きで彼女の両手両足をへし折れたとしよう。両目を潰し、耳を塞いでやったとしよう。それでも生きている限り、武蔵は僕を何がしかの方法で殺しに掛かってくる筈だし、多分彼女は僕を仕留めるのに成功するだろう。この武蔵は、そういう艦娘だ。

 

 僕と響、それに武蔵は協力して艤装を部屋へと持ち帰った。行き以上に目立っていたことは間違いないだろう。誰だって、四六センチ砲には視線を奪われてしまうものだ。そして部屋の扉を閉めるや否や、僕は早速脚部以外の艤装を装着した。砲を動かし、体に掛かる艤装の重みを感じ、歩き回ってその重みへの慣れを取り戻そうと努める。響は「大はしゃぎだね」と僕の様子を評した。その言葉には僕へのからかいが含まれていたが、武蔵の心に刺さるような、相手を傷つけようとするところのあるからかいとは違って、響の言葉は豊かな愛情に包まれていたので、僕は彼女に向かって微笑みを返すことができた。途中からは武蔵も艤装を身につけ、外見からだけでも伝わってくるその偉大さに響と僕とは感心するばかりだった。そんな風に体と感情のどちらも酷使されたので、その日は久々にあっさりと眠りに就くことができたように思う。

 

 けれど、目覚めは最悪だった。朝方、ノックもなしにドアが開かれ、赤城が息せき切って駆け込んできたのだ。彼女が何か言い出す前に、僕も武蔵も目を覚ましてベッドの外へ飛び出ていた。赤城が息を整える僅かな間に、僕たちは服を着替え、艤装を装着し終えた。準備万端、という様子の僕らを前にしてやっと、融和派のリーダーは、今までに僕が聞いた中で最もひどい前言撤回を行った。

 

「攻勢が始まりました」

 

*   *   *

 

 どうも、僕たちは相手の数を計り違えていたらしい。一大攻勢に出るつもりでいた深海棲艦たちは、これまでにない戦力を整えていたようだ。それこそ、僕らの工作で多くの深海棲艦たちを離反させてもまだ、攻撃を行おうと思うぐらいには。もしかして、離反させたこともこの早まった行動の原因なのだろうか、と僕は考えた。現在の日本海軍は、対深海棲艦戦力として艦娘だけでなく、通常船舶をも運用可能である。それはつまり、単純な彼我の戦力比は人類側に大きく水をあけられている、ということだ。それにも関わらず、主戦派たちは戦力の充実を待たずして攻撃を始めた。彼女らは「離反されたことによって情報は漏洩する」「戦力を補充している暇はもうない」「ならば相手が用意を整える前に一気に叩くしかない」と考えたのかもしれない。

 

 赤城は僕と武蔵を彼女の執務室に集めると、部屋の中をぐるぐると歩き回り始めた。その表情は硬く、深く考えるまでもなく彼女の内心を察することができた。苛立っているのだ。しかしそれはこっちだって同じことだった。攻勢が始まった。なるほど、予想外だった。それで? 僕らは何をするのだ? 人知れず人類の手助けをして回るのか、傍観するのか、何かもっと違うことをやるのか。少なくとも、部屋の中で同じ場所を行きつ戻りつするよりは建設的なことをしていたかった。僕は我慢していられなくなって声を上げた。「なあ、赤城」「待ちなさい」ぴしゃりとはねつけられて、僕は開きかけた口を閉じた。赤城は待っているのだ。何を待っているのかは知らないが、恐らくそれは神の奇跡で攻勢が明後日の方角に行われるとか、突然霧や霞のように主戦派たちが消えてしまうことではないだろう。

 

 艤装を適当な場所に下ろし、壁際に立って赤城の望んでいるものが来るのを心待ちにしていると、脇腹に刺激を感じた。僕と同じく艤装を下ろした武蔵がつついていたのだ。言いたいことがあれば普通に言えばいいものを。攻勢が始まったと言われて吹き飛んでいた眠気が戻り始めていた頃だったので、僕は武蔵の指一本に非常な憎悪を抱いた。もうちょっと実際に即した言い方をするなら、大変むかついたのである。払いのけることは簡単だが、そうすると武蔵はもっと直接的かつ肉体的接触がより多い方法でちょっかいを掛けてくるだろうから、耐えるしかないというのも苛立ちを誘った。脇をつつかれながら、僕は人間の感情の強弱が数値化できればいいのにと思った。そうしたら、今の赤城と僕のどちらがより神経を尖らせているのか知ることができるだろう。

 

 とうとう武蔵の手が僕の脇腹を掴んだ。忍耐の限界だ。「僕に触るのをやめろ」自分でも驚くほど()()のある声が出たが、やっぱり武蔵には通用しなかった。彼女は僕が嫌がることをしている時が、自分の哀れな人生で唯一自由に味わうことのできる最高に幸せな時間だと信じ切っているらしく、何であれ僕が武蔵の行いに対してやめて欲しいと主張すれば主張するほど、興奮するという悪癖があるようだった。彼女はにやにやしながら言った。「悪かったよ、お詫びに私を触っていい。自分で言うのもなんだが、かなりのもち肌だぞ」悪かったと口では言ったものの、その間も彼女の手は盛んに僕を不愉快にする様々な接触を企てていた。

 

「もち肌? そりゃいい、すぐに杵を持って来よう。それから僕の気が済むまで触らせて貰うよ」

「おいおい、優しく触れてくれないと膨れるぜ」

 

 武蔵は頬をぷくりと膨らませて、許しがたいほどあざとい仕草をして見せた。このような彼女の冒涜的な態度は、正常な道徳心と正義感、そして人類が築き上げてきた世界秩序に対する崇敬の念の持ち主であれば、決して見過ごすことのできるようなものではなかった。指でぴしりと弾いて、空気を抜いてやる。それでも武蔵は嬉しそうに笑うので、僕は本当に嫌になって、げっそりとした。彼女を大人しくさせておける人がいたとしたら、僕はその人物に永遠の忠誠を誓ったって……いや、前に似たようなことを考えたら長門が出てきて後悔したな。このタイプの表現は封印しよう。とにかく武蔵をもう少しでも真っ当な人間にできるなら、その為に僕はできるだけのことはするつもりだ。

 

 足音が聞こえてきた。未だに僕をつつくのをやめない武蔵の手を掴んで止めさせ、僕はその音に耳を澄ませた。音の間隔やその他の要素から推測して、響のようだ。急ぎ足で、時々ステップを踏むような足取りになっているところは、本当なら走りたいものをどうにかこらえているように聞こえる。彼女は執務室のドアの前で立ち止まった。深呼吸をして心を落ち着かせようとしているのだろう。赤城は響が来たことに気付いていなかったが、扉が開くと流石にそちらへ目をやった。その時の赤城の顔を見れば、彼女が待っていたのがこの有能なカウンセラーであることは余りにも容易に直観できた。

 

「報告が上がってきたよ」

 

 息は平生(へいぜい)と変わらなかったが、顔の火照りまでは隠せない。走らなかったのは執務室の付近だけだったようで、響の頬は(べに)でも塗ったかのように赤らんでおり、明らかに運動の結果と思われる乱れた髪と目の下に浮いた玉の汗の二粒三粒の輝きが僕の目を奪った。今が緊急事態でなければ、手櫛で響の髪を(けず)り、頬の汗を袖で優しく拭い、扇いで熱を冷ましてやっただろう。自立した立派な女性である響はきっとそんな人形めいた扱いを好まないだろうから、それは想像の中でだけ可能なことなのだろうが、それでもだ。

 

 響は手に報告書と思しきものを掴んでいた。握りしめていたせいでくしゃりと歪んでしまっていたが、赤城はそれを気にした様子もなく紙面に鼻をくっつけそうなほど近づけて読み始めた。彼女が動きを止めてしまったので、答えを求めて響を見ると、彼女は僕と武蔵の手を見ていた。「とうとう手を出したのかい」と言わんばかりのその視線に戸惑うが、理由はすぐに分かった。僕は武蔵の手をずっと握ったままだったのだ。手を離すと、武蔵はくつくつと笑って握られていた自分の手を、もう片方の手で撫でさすった。

 

「響、何があったんだ?」

「攻勢の話は聞いたろう? それで、敵の進撃ルートを調べさせていたのさ。ああ、私がじゃないよ。私はただの伝令みたいなものだ」

「マズいのか」

「報告書をちゃんと読んだ訳じゃないから断言はできないけど、かなり危険そうだ。世界各国に向けて、相当な規模の攻撃が向けられている。日本に向けても複数のルートから侵攻中らしい」

「複数のルートだって?」

 

 それは僕の知っている深海棲艦のやり方とは違っていた。彼女たちは勢力を多数に分けることは余りしない。囮で主力を引き離しておいて、本隊を手薄の本国に突っ込ませようとすることはあったし、少数の小型艦などを先行させてこちらの戦力を測る道具にする程度のことはしょっちゅうだが、こうはっきりと艦隊を分けて別の海路を行かせる、ということはなかった筈だ。どういうつもりだろう? 戦力の逐次投入、とはちょっと違うな。戦力の分散と呼ぶべきだろう。それは一概に悪手とは言えない。全体的に圧力を掛けて相手の処理能力を飽和状態にしてから本命を叩くのは、力技の王道みたいなものである。飽和繋がりで言えば、かつて人間同士の最終戦争が恐れられていた時代には、飽和核攻撃などという狂人のたわごとかと言いたくなる選択肢さえ大国の軍は有していたのだ。通常兵器しか使っていないだけ、深海棲艦たちは良心的なものだ。まあ、あんなものを使えば海が汚染されて自分たちも被害を受けるのだろうから、当然と言えば当然なのかもしれないが。

 

 響によれば各地の鎮守府や泊地、基地から迎撃の艦隊は出ているようだったが、海軍本部は急遽指令を下したのか、少なくとも赤城の部下が調べ上げた情報を信頼する限りでは、彼らの送り出した艦隊の数は質・量共に本来出すべき水準に達しているとは思えなかった。このまま放置していれば、明日の夜には悲劇的な報告が日本国内を駆け巡り、全国の艦隊が本気の連合艦隊を組んで、水際でこの攻勢を迎撃することになるだろう。僕は艤装を装着してこの場を飛び出し、海に出たい気持ちに駆られた。同胞たちをむざむざ死なせたくなかった。言うまでもなく、そんなことをすれば無駄死にする人間が一人増えるだけに終わっただろう。いかに間抜けな僕にだって、それぐらいは分かっていた。

 

 赤城が復帰した。何か気味悪く呟いてはいるが、銅像みたいに動きを止めていた状態から多少は人間的になったと言ってあげたい。「十二隻……編成はどうするの? 電に連絡して、艤装の改装は済んでるわね……行けるかしら、いえ、私たちも今しか……そうね、今しかないわ」呟くなら聞こえないように呟いて欲しいものだ。こういう時、呟きの内容まで聞こえていると、聞こえているこっちはひどくいたたまれない。僕と響と武蔵は互いの顔を見合い、競って気まずそうな顔を作って赤城が正気に戻るのを待った。幸運にも、十秒ほどでそうなった。それから彼女は響に命令を与えた。

 

「響、電に連絡を。彼女たちの状態について尋ねて下さい。判明次第、報告を。私たちは工廠の小倉庫にいます」

Поняла(了解). ただちに取り掛かるよ」

 

 僕と武蔵は艤装を持って、全員で執務室を出た。響は別の方向へ行ってしまい、僕らは前日に使った道を辿って工廠へ向かった。その途中、速足で歩く一人の駆逐艦娘に出会った。陽炎だ。赤城は彼女を呼び止めると、懐から紙とペンとを取り出して、そこに何か書きつけて陽炎に渡した。彼女はびしりと決まった海軍式の敬礼をしてから、全速力で駆け出して行った。重要な命令だったのだろう。それについて尋ねて時間を無駄にすることなく、僕らは工廠へと急いだ。

 

 工廠は戦場のごとき騒ぎとなっていた。拠点にいた多くの艦娘や融和派深海棲艦たちが、最後の戦いに赴く時がきたとばかりにこの場所へ集まっていたのである。そこに赤城が僕や武蔵を伴って現れたものだから、余計彼女たちの炎に油を注ぐことになってしまった。だが赤城は僕や彼女たちが期待したような、いざ聖戦へといった勇ましい言葉の代わりに、部下たちに待機を命じたのだった。理解はできる。勢いだけで飛び出ても仕方ない。が、空回りした士気は不満を生む。僕は自分の背中に突き刺さる理不尽な視線を感じながら、昨日艤装を受け取ったあの倉庫へと入った。今日もそこには明石がいた。

 

「明石、二人の艤装を処理して下さい。音響機器は?」

「上手く行きました。テストは最低限しかしていませんが、十分実用に耐えると思います。……あの、使うんですか?」

「ええ。その機会があれば、ですが」

 

 僕は素直に明石の手押し車に艤装を乗せた。武蔵はやや抵抗があったようだが、最後には手放した。明石が出ていくのと入れ替わりに、響がまた駆け込んでくる。今度は息を整えもしなかったせいで、響は四つのセンテンスを発言するのに、毎度短い呼吸を差し挟まなければいけなかった。

 

「彼女たちは他より先に迎撃に出た、数は四個艦隊、およそ五時間ほど早く接敵の予定、電たちは所定通り!」

「分かりました。電に作戦開始の連絡を。私たちは準備を終え次第、すぐに出発します。あなたも急ぎなさい」

Есть(了解)!」

 

 伝令は忙しいものだ。響は深呼吸もできないままに、再び駆けて行った。そろそろ、説明が欲しいところだ。僕と武蔵は赤城に視線で圧力を掛けた。彼女はこちらをちらりと見て目を逸らしたが、結局は僕らの方を向いた。僕は言った。

 

「何か君から話があるんじゃないかと、僕は想像してるんだが?」

「計画を前倒しにして実行します。融和派深海棲艦と、人類を講和させる糸口を……今日、作るのです」

 

 軍を手助けすることによって、点数を稼ごうと言うのか? けれどそれは甘い考えのように思われた。彼らは話など聞きはしないだろう。僕らが手助けをしたとして、自分たちが窮地を脱したら平気でこちらを攻撃してくる筈である。軍とは根っからそういう組織なのだから、卑怯だとか何らかの道にもとるだとか言う方が間違っているのだ。まあ、赤城の話には続きが期待できたので、僕は拙速な批判を控えておいた。それは正しい判断だった。

 

「救援対象の艦隊群には、計画の成否に関わる三つの特徴があります。一つは、対深海棲艦用の武装を積載したフリゲート艦が二隻、配備されていること。もう一つは、あなたの友人である広報部隊の青葉が、彼女のスタッフと共に同行していること。そして最後に、彼女たちの所属は」

「私が当ててみせよう。第二特殊戦技研究所、だろう?」

 

 武蔵の割り込みに赤城は眉をひそめつつも頷いたが、そんなことはどうでもよかった。二特技研? 僕の古巣だ、僕の原隊(ホーム)だ! いや、しかし、どうして武蔵は当てられた? どうして赤城はそのことを“計画の成否に関わる特徴”だなんて……まさか。僕は天を仰いで、思いの全てを短い言葉に込めた。

 

「あのクソ提督……!」

「全くだ」

 

 排撃班班長としてのプライドが傷つけられたのか、武蔵は腕組みをして溜息を吐いた。僕は彼女ほど冷静ではいられなかった。提督は融和派だったんだ。だから武蔵と会った後に憲兵から呼び出された時、僕を逃がそうとした。逃げていればその先で救い主のように赤城が現れていたのだろう。だが逃げなかったから、彼女たちに情報を回して確保させようとした。間の悪いイレギュラーで別のグループに掠め取られることになりはしたが、結局は取り返した。赤城が僕の艤装を用意できたのだって、提督がこっちに付いていたって言うのなら、何の驚きもない。

 

 武蔵は「私や私の部下たち、そして恐らくは海軍の誰にも悟らせずに、どうやって赤城は陸軍と接触できた?」と前に首を捻っていたが、きっとそれも提督の手回しに違いない。赤城たちにばかり目を向けていた武蔵は、まんまと一杯食わされた形になる訳だ。響の部屋を片付けさせなかったのだって、響が生きていると知っていたからなのではないだろうか? 以前に赤城が暗号化された僕たちの無線に入り込めたのも含めて、提督のせいだとしたら何もかも説明がつく。それなら何で彼女は僕に勲章を投げつけたのかって話になるが、それはどうせ「一度でいいから勲章を投げてみたかったんだ」とかそういう類の理由だろう。

 

 それだけじゃない、僕を最初に引き抜いたのだって那智教官のコネよりもむしろ、融和派関連の理由からかもしれない。彼女が僕と会ったのは、僕が初めて深海棲艦の声を聞いた後だ。あの時に接触した深海棲艦が長門に殺される前に別の主戦派に回し、そしてその情報を融和派のスパイが得て、赤城たち経由で提督に伝わり──ダメだ、今は考えないようにしよう。論理が飛躍気味だ。これでは提督がやっていないことまで彼女のせいにしてしまいそうだ。それはしたくない。

 

 ふと疑問が一つ浮かんだ。提督が赤城たちの仲間だったというなら、どうして対深海棲艦用ミサイルの性能試験を、あんな危険な任務を僕の艦隊に任せたのだろう? もっと練度の高い、第二艦隊や第一艦隊でもよかった筈だ。大本営から特に第五艦隊と指示されたということもないだろう。それは伝統的なやり方ではなく、高級軍人たちは伝統を墨守することにおいて他の追随を許さない人々なのだから、実に奇妙なことだった。知っているかと思って赤城に尋ねると、彼女は微笑んで答えた。

 

「彼女はあなたが何にも気付かないことに痺れを切らしていました。そこに深海棲艦を撃破可能な通常兵器の開発に成功したという知らせが入ったのですよ? 彼女になったつもりで考えてごらんなさい」

「ああ、分かりたくないが分かった気がするよ。なあ、君があの時僕のところに来たのは、提督が位置を伝えたからか?」

 

 赤城は頷いた。僕は提督のクズ度合いを上方修正した。もしあの日、万事上手く行っていたら、ミサイル攻撃は恐らく赤城が提督に「あなたの言っていた座標に彼がいないのですが」などと連絡してくるまで差し止められていただろう。彼女は赤城を消し、融和派との繋がりを消し去るつもりだったのだ。けれど誘導に失敗したことでミサイル攻撃そのものが不可能になってしまい、また僕がようやく深海棲艦たちと意思疎通することに成功したから、そ知らぬ顔で赤城への協力を続けているのだ。とんでもない厚顔無恥なクソ提督だった。

 

 呆れ、脱力感を味わいながら武蔵に尋ねる。「どうやって分かったんだ?」「お前の艤装。赤城が私たちを追い立てるのに陸軍を使えたこと。ふん、ここに来る前から疑わしい点はあったんだ。研究所への艦娘着任の少なさとかな。というか、分からなかったのか?」僕は、提督が彼女の艦隊に迎える艦娘に対して慎重だったことを思い出した。僕が特に指定した北上や利根などはあっさりと入れたが、そういったある種の身元の保証がない相手については、提督は着任させるぐらいなら艦隊が欠員を抱えたまま出撃した方がマシだと考えているかのように徹底した考査を行ってから(大抵は)着任を見送っていた。

 

 クソったれめ。どうやら僕は、手の平の上でいいように転がされていたらしい。気に入らない、気に入らないが、畜生、それは後回しだ。赤城に、僕の古巣が彼女の計画にどう関わってくるのかを尋ねる。これは赤城たちに合流して以来、僕がずっと聞きたかったことでもあった。赤城はこれまで適当にはぐらかしたり、答えることを拒んだりだったが、ことここに及んではそうはさせない。話して貰おう。



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「Home is the sailor」-3

 クソったれめ。どうやら僕は、手の平の上でいいように転がされていたらしい。気に入らない、気に入らないが、畜生、それは後回しだ。赤城に、僕の古巣が彼女の計画にどう関わってくるのかを尋ねる。これは赤城たちに合流して以来、僕がずっと聞きたかったことでもあった。赤城はこれまで適当にはぐらかしたり、答えることを拒んだりだったが、ことここに及んではそうはさせない。話して貰おう。

 

「広報員として同行している青葉は通常の艤装を身に着けている他、映像機材を所持しています。日本国民はどう思うでしょう、深海棲艦と艦娘が手を組んで、日本の防衛を行っている様子を見たら?」

「『わあ、よくできた映画だな』」

 

 僕の言葉に赤城は笑って頷いた。「最初はそうでしょう。ですがすぐに、何かおかしいぞ、と思い始める筈です。戦闘中行方不明になった、世界唯一の男性艦娘が画面に映ればね」赤城によれば、僕の行方不明は大きくではないが、一応報道されたそうだ。それに僕がいなかったとしても、本物の映像と映画は違う。敵味方の手足がちぎれ飛び、血を流し、死に、殺すその光景は、作り物では生み出すことのできない迫力を持っているものだ。目がある人間なら、誰でも見分けることができるだろう。

 

 青葉の映像を提督のいるフリゲート艦に送り、フリゲートから電波局へ繋いだ独自のネットワークを通じて映像データを送信、海賊電波に乗せて全国へ放映し、国民を動かす──赤城の計画とはそういったものだった。海賊放送か。できる訳がない、とは言えなかった。現に赤城は、かつて電波ジャックを行っている。前にできたことが今度もできたって、おかしいとは思わない。ここ最近姿を消している電は、そっちの任務に掛かりきりになっているのだ、と赤城は教えてくれた。僕はこれまでに電の迂闊な失敗を何度か見ていたので、やや不安になったが、彼女は赤城の右腕のような存在だ。有能は有能なのだと思う。

 

 国民に訴える、か。筋は通っている。日本は民主主義の国だ。思想の自由が少々制限されているのは認めるが、それでも選挙でどの党に投票するか、誰に一票を入れるのかは完全に自由である。この成熟した国民国家では、選挙を行わないなんてことは絶対に起こらない。選挙に行かない連中は大勢いるが、選挙そのものは必ず行われる。戦争の最中だから政治的ごたごたで軍を邪魔するべきではない、なんて馬鹿げた考えは、大昔に違憲であるとされて以来、見識ある大人が酒の席の冗談などでしか口にしないものだ。軍を直接動かすことはできずとも、軍の統帥権を持つ政府を直接動かすことはできずとも、彼らの権力を生み出す、最小単位にして最大の権威行使である『投票』を行う国民を動かせたなら……窓口を作らせることは可能だろう。

 

 そして、戦争は国民に様々な犠牲を強いるものだ。彼ら彼女らの娘息子を失うような、人的犠牲だけではない。経済面での犠牲もある。今はすっかりそれが普通になってしまってはいるが、確かに犠牲にされているのだ。だとすれば、だ。海が平和になればどれだけの経済効果が生まれる? ほんの数秒の思考で、限りない可能性が思い浮かべられた。人の行き来も、物資の行き来も遥かに容易になる。戦争前の資料でしか見られないような世界が訪れる。他の国の人々については知らないが、日本人はそれがどんなに住みよい世界か、正しく想像できる程度には賢い筈だと信じたい。友人を、恋人を、娘を、息子を失う恐れのない日々は、それだけで価値があるものだと感じる人々であると信じたい。そういった日々こそが、あるべき平和なのだ。いや、いっそのこと平和など求めていなくてもいい。平和になることで生まれる金を求めてのことでいい。ただ人々が、戦争の終わりを望んでくれれば、僕はそれだけで一向に構わないのだ。

 

 だが一つ問題が……いや、これは個人的なものだ。今は忘れよう。それよりも赤城のご立派な()()について、誰かの考えを聞いてみたい。

 

「武蔵、どう思う?」

 

 本当に認めたくないが、僕は彼女の意見を貴重なものとして認識していた。彼女は嘘を言わないし、僕が聞きたい言葉だけを選んで喋るような裏切りもしない。もし僕がきちんと彼女の言葉を吟味し、真摯に向き合うならば、武蔵ほど誠実な言葉の持ち主はいないと言ってもよい。人格は捻じ曲がっているし、性酷薄、ユーモアはブラック、人を小馬鹿にして陥れたりすることを楽しむ趣味の持ち主でもあるけれども、まあ誰にだって欠点はある。彼女は肩をすくめて答えた。

 

「驚きの作戦ではない。失敗の可能性も大きい。私の排撃班では滅多にお目に掛かれないほどの、不完全なプランだ。でもやるしかないし……今より決行に適した時はないだろうな」

「ご理解いただけて幸いです。ああ、艤装の処理が済んだようですね」

 

 明石が手押し車を押しながら戻って来た。無造作に乗せられた艤装を取り、装着する。何か変わったようには思えないが、一体どんな処理をしたんだろう? 不思議に思いながら武蔵の方を見ると、その答えが分かった。彼女の艤装は大和型や長門型などの大戦艦に特徴的な形をしている。体を左右から覆うように船体を模して赤と軍艦色の二色に塗装された形の装甲が伸びていて、それらに多数の砲が接続されているのだ。だが武蔵の艤装の装甲部には今やエンブレムのペイントが施されていた。それは僕にとって馴染みのあるものだった。第五艦隊の非公式な隊章だ。青葉の優れた広報手腕であちこちに喧伝されたので、僕はそれを知っている者を融和派の収容所でさえ見つけることができたほどだった。

 

 何処となく、武蔵は嬉しそうに見えた。僕はそのことに触れないでおいた。無闇につついたりしない方がいいものもある。赤城は僕らが艤装をチェックしている間に自分も艤装を着用し、明石に頷きかけた。融和派工廠のボスは、技術屋らしい崩れ切った海軍式敬礼と小さな笑顔でそれに答えた。「こちらへ」と言われて倉庫を出る。工廠にいた艦娘や深海棲艦たちの注目がまた集まったが、二度目は覚悟ができていたので問題はなかった。出撃用水路に向かうのかと思いきや、工廠を出て、大型エレベーターに乗り込む。結構な設備だ。世界のつまはじき者たちがどうやってこんなに洗練された基地を手に入れられたのかというのは、興味深い疑問だった。いずれ知ることもできるだろう、今日を生き延びて成功すれば、いずれは。

 

 上へと緩やかに進んでいく。赤城は僕の視線に答えて、この後の動きを説明してくれた。

 

「主戦派深海棲艦の動きをキャッチするのが遅れた為、海上を移動して合流することは不可能です。本当なら大規模な艦隊を率いてそうするつもりだったのですが、この状況で足の遅い艦に速度を合わせていたら、敵が日本本国に到達してしまうでしょう。ヘリを使うしかありません。懐かしいでしょう?」

 

 大規模作戦の時のことを思い出した僕の渋面を見て、赤城は口元を隠しながら笑った。説明の続きを聞く。この拠点には二機のヘリが配備されており、一機で一個艦隊を運べるようだ。あのクソ提督を助けに、二個艦隊で馳せ参じる訳か。期待していたよりも少数ではあるが、仕方あるまい。それより赤城から当然だが深海棲艦たちがこの艦隊群の大半を占めると聞かされて、考え込んでしまう。僕は彼女たちと協同して戦う訓練をついぞすることができなかったので、やや不安に思えたのだ。咄嗟に敵と見分けがつかなくって、誤射してしまうかもしれない。入隊以来、僕は彼女たちを全員敵だと考えながら生きてきたのだ。体に染みついた習性を正すのは簡単なことではない。

 

 エレベーターが止まり、ホールの扉を開けるとすぐに外界だった。振り返るとコンクリートの小屋めいた建物が丁寧に擬装されており、赤城たちが位置を知られないように細心の注意を払っていることを示していた。空を見上げる。朝焼けはとうに終わったが、午前早め特有のあの透明感のある青色が目に痛いほどだった。五、六時間もすれば昼になる。テレビを見ている人数にも期待できるだろう。視線を地上に戻し、足早に先へと進む赤城を追いかけて、ヘリポートへ向かう。そちらも擬装されていたようだったが、僕たちが到着した時には既に数人の融和派の人間たちによって外されていた。二機のヘリの前ではさっき会った陽炎と響が話をしており、その傍らには緊張した面持ちの深海棲艦たちが揃っている。深海棲艦の中には表情の読めない者もいるが、気楽な具合ではないだろう。

 

 赤城が陽炎たちの方へ行ってしまったので、僕と武蔵は立ち止まって、これから協力して戦うことになる深海棲艦たちを観察した。鬼級、姫級も一人ずついる。装甲空母鬼と戦艦棲姫だ。誤射の恐れはあったが、心強い友軍だった。僕は装甲空母鬼と戦ったことも戦艦棲姫と戦ったこともないが、その強さは知っている。訓練所や旗艦学校で映像を見せられたこともあったし、経験豊富な艦娘たちから話を聞いたこともあったからだ。装甲空母鬼は響の落ちた海で僕らを監視していた彼女だったようで、僕と目が合うと微笑んで手を振った。僕も軽く振り返した。

 

 そうそう、装甲空母鬼を見ていて面白かったところが一つある。彼女は艤装を身につけたままだったので、彼女の周りに控えているリ級エリートやヲ級エリート、タ級ネ級などに頼らねば陸上では移動できなかったのだ。これは、チ級についても同じだった。装甲空母鬼を含む鬼級・姫級深海棲艦の艤装によく付属している剛腕を使えば自力移動もできそうなものだが、何か不都合でもあるのか彼女はそれを使おうとしなかった。彼女が運ばれる様子は中々ユニークな光景だったので、生涯忘れることはないだろう。

 

 他にも驚きはあった。僕と武蔵のいた方からは戦艦棲姫の陰に隠れて見えづらかったが、レ級がいたのである。戦艦レ級だ。()()、と指示語をつけて呼んでもいいだろう。雷巡と戦艦と空母の三役を一人でこなし、鬼級や姫級並の能力を誇る深海棲艦。目撃例こそ少ないものの、ここぞという時には必ず姿を現す彼女に、人類がどれだけ辛酸を舐めさせられてきたか分からない。味方だと分かっていても、肌が粟立つようだった。横にいた武蔵は僕の様子に気付いてか、艤装の装甲部を動かして邪魔にならないようにすると、腕を僕の首に回してやや無理やりに抱き寄せた。「大丈夫だよ」と僕は言った。「分かってるさ」と彼女は答えた。

 

 赤城がこちらに手招きした。彼女は僕らが応じて近づくと深海棲艦たちに号令を掛けて、ヘリに乗り込ませ始めた。戦艦棲姫や装甲空母鬼の艤装は大きすぎるし、どうするのだろうと思っていたが、ソリ型降着脚(スキッド)に掴まらせるらしい。数時間も掴まっていられるのか? という質問はしなかった。赤城がさせるということは、できるのだろうからだ。深海棲艦の艤装は艦娘のものと比べて生体部分が多く、その分謎も多い。どうせ分からないことなのだから、深く考えない方が精神の健康の為にもなる。気にするまい。赤城は僕の逸れてしまった注意を自分に引き戻すと、動き始めたヘリのローター音に負けない声で叫んだ。

 

「あなたたちには私の指揮下に入っていただきます。よろしいですね」

「僕は了解だ。武蔵?」

「嫌だね」

「あなたについてはそれで結構。ではあのヘリに」

 

 指差された機体のキャビンには、響の他にレ級が尻尾を器用に座席へ投げ出して座っていた。機体の横では戦艦棲姫が艤装の生体腕をウォーミングアップのように動かしながら待っている。身を低くしながら僕たちもそこに乗り込み、艤装が邪魔でシートに座れない武蔵を除いて着座する。彼女は広いとは言えないキャビンの半分ほどを一人で占有しながら、満足そうに床へ直接腰を下ろし、足を機外に投げ出してスキッドの上に乗せた。彼女のすぐ傍に席を取った僕が「戦艦棲姫の腕に握られて足をへし折られるなよ」と警告すると、武蔵は首を回してこちらを見て、ぱちりとウインクを送ってきた。背中を蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、艤装が邪魔で無理だった。

 

 視線を武蔵から自分の目の前に戻す。と、レ級と視線がばっちり絡み合った。体の中で心臓が跳ね、指が動きかけたが、すぐに「いや、こいつは味方じゃないか」と脳が訂正してくれた。レ級は僕が慌てて目を白黒させるその様子がいたくお気に召したようで、ネックウォーマーのようなもので隠していた口元をさらけ出した。頭が二つに分かれてしまいそうなほどの大きな笑いと、不気味なほど白く、鋭利そうな歯がきらりと輝く。僕は日本人らしく愛想笑いをしておいたが、それで彼女の紫の瞳が細くなったことを考えると、間違った選択肢を選んだ訳ではなさそうだった。

 

 僕は彼女、レ級が身に着けているパーカーのようなものに目を向けた。僕や武蔵の艤装にペイントされたあの隊章がそこにもあった。大きなワッペンを縫い付けられているようだ。もう一台のヘリの方を見てみれば、今にも空へ舞い上がろうとするヘリの動きに興味津々のヲ級エリートや、彼女とは反対に怯えるかのように椅子や姿勢保持用の吊革を握りしめて固まっているネ級やタ級たちの姿があり、彼女たちもまた服や艤装の何処かしらに第五艦隊の隊章を付けていた。それで、赤城が何の為にこれを用意したのか分かった。僕のご機嫌取りの為じゃなくて、敵味方の区別がつくようにする為だ。

 

 遂にヘリが空中へと飛び上がる。下を見ると、戦艦棲姫が艤装の腕を伸ばしてスキッドに飛びつく瞬間だった。一瞬、機体が大きく揺れる。座席にいた響や赤城、僕やレ級はよかったが、武蔵が姿勢を崩しそうになった。艤装を掴み、落ちないように支えてやる。多分僕が手助けしてもしなくても違いはなかったろうが、何についても高をくくるのは厳禁だ。武蔵は座り直すと、僕の足をとんとんと軽く叩いた。

 

 貨物をぶら下げたヘリはある程度の高さまで上昇すると、移動を始めた。好奇心から顔を外に突き出して下を見てみると、小さな島が見えた。赤城の融和派の拠点は世界にどれだけあるのだろうと思いを巡らせる。前に連れ込まれた拠点は日本国内の山の中だったが、今度はどうやら国外の島と来た。それだけで何やら凄そうな気もするが、他の融和派グループがどんなものか僕は詳しく知らなかったので、きっと赤城のグループは融和派の中でも有力なのだろうな、とぼんやりした予測をする程度が限界だった。遠くの景色を眺めていると、ふと武蔵が僕の足を小突いた。

 

「どうしたんだ?」

「お前にずっと渡しそびれていたものがあってな。ほら、これだ」

 

 彼女は懐から細長いものを取り出して、こちらに手渡した。僕は受け取りはしたが、言い表すのも難しい気持ちになった。“三番”のナイフだ。セーフハウスを出る時に、武蔵が僕の荷物の中から抜き取ったのだろう。「たとえお前が忘れたがっていたとしても、そいつは私とお前の想い出だ。まさか、いらないなんて言わないだろう?」猛禽類を思わせる笑みを僕に向けて、武蔵は言った。これが想い出の品かどうか、そしてそうだったとしても武蔵との想い出の品かどうかについては議論するべきだと思うが、こんな風に笑っている相手に拒否を突きつけることは非常に困難である。僕は口の中でもごもごと礼とも相槌ともつかない言葉を発して、そのナイフを腰のベルトに挟んだ。まあ、持っていて損をすることもあるまい。どうせ僕には最後の出撃で失ったナイフの代わりが必要だったのだ。

 

 水平線の向こうを眺めて、時間を潰す。時間を潰すと言っても意味もなく眺めているのではなく、索敵を兼ねている。今、僕らが戦おうとしている連中だけが深海棲艦の全軍じゃない。ほうぼうで大規模攻勢に出ているからって、それに参加しない敵艦隊がいないという証拠にはならないのだ。このヘリが撃墜されるようなことはあってはならない。ただでさえ僕が乗った航空機は一度落とされている。前回と今回とで固定翼と回転翼の違いはあるが、だからって安心はできない。前に比べてスピードで負けている今の方が、奇襲には弱い。何も考えずに速度だけを重視して直線移動している時に狙い撃たれたら、一発で終わりだ。それをさせない為にも、警戒を怠るようなことはできなかった。響と協力してヘリの周囲、全方位を見張っていると、赤城が僕に話し掛けてきた。

 

「途中でヘリを降りて、海上を移動します。陣形は単縦陣で、先頭はあなたが務めて下さい。その方が、映りもいいでしょうから」

「了解……計画を聞いた時から思ってたけど、戦争と一緒に僕の人生も終わらせるつもりらしいな」

 

 個人的な問題とは、それだった。この作戦が実行された暁には、戦争が終わるにせよ続くにせよ、僕の人生はまともな人間の歩む道から外れてしまうだろう。命を失う危険も顧みずに艦娘に志願なんかしてしまった時点でまともな人間ではない、という意見もあるだろうが、それは僕の意見ではない。もし戦争が終わらなければ、僕は世界中のお尋ね者だ。赤城や他の融和派たちと一緒に、明日をも知れぬ日々を送ることになる。軍で艦娘やってた時とどう違うのか説明するのは難しいが、少なくとも太陽の下を顔を上げて歩ける立場ではなくなる。もし戦争が終われば、僕は立役者の一人だと世間に思われるだろう。人々は僕のことをこう呼ぶのだ、世界唯一の男性艦娘、そして人類と深海棲艦の架け橋が一。ああ、僕にだって名誉欲とか、自己顕示欲みたいなものはある。女の子たちにちやほやされたら鼻の下を伸ばすだろう。立派な人たちに褒められたら我知らず肩身を広くすることだろう。でも、限度ってものがあるじゃないか? 仮に僕が承認欲求の塊みたいな男だったとしても、これはやりすぎだ、と思う確信がある。

 

 融和派のリーダーは、彼女らしい態度を取った。否定しなかったのだ。それどころか「祖国の為に人生を捧げられて幸運ですね」と言った。声にこもった感情的な響きから、赤城がそんな謙虚なことを針の先ほども信じていないということは明らかだった。僕はと言えば、国や世界なんて範囲はやっぱり大きすぎて、実感も共感もできなかったから、到底そんなはっきりとしないものに自分の一度っきりの人生を捧げたいとは考えられなかった。でも、僕の人生がどうなるとしても、それで僕が守りたいと思った全ての人が平和という計り知れない恩恵をこうむることができるというのなら、仕方ないんじゃないかなという気はした。戦争が終わった後で具体的に自分がどんなことになるか、さっぱり分からなかったし考えもつかなかったのが幸いだった。正確に予測できていたら、己の身が惜しくなってこの場から逃げていたかもしれないからだ。

 

 そうならないとは絶対に思えなかった。軍での生活、深海棲艦たちとの戦い、収容所からの脱獄、追手との死闘、そういうものの中を生き延びて来たのは認めるが、それでも僕の本質は英雄なんかじゃない。また、これを認めるのはそれが心中でのみのことでも妙に苦痛なのだが、多分軍人でもない。だって僕がそのどちらかだったら、大規模作戦の時に赤城に手を貸しはしなかっただろう。軍人の仕事は敵と戦って勝つことであって、戦争を始めたり終わらせることではない。軍人であり続けたかったなら、あの時撃つべきは赤城だったのだ。まして英雄については、もう何をかいわんやである。自分がそんな器だと思う年頃はとっくに過ぎ去った。疑わずに真であると言えるのは、僕は艦娘だということ。そして二十歳にもならない子供だということだ。

 

 そう考えてみると、自分についての疑問がふと現れた。僕は本当に『守られるべき人々を守りたくて』今こうしているのか? 大規模作戦のあの時、あの海で那智教官を止めて赤城を守ったのは、まさに今こうしてここにいるのは、そんな耳に聞こえのいい理由でなのだろうか。心の中に天龍と響を探すが、どちらも現れてはくれなかった。現実の響は近くに、手を伸ばせば彼女の肌に触れることができるほどの距離にいたが、話すことはできなかった。作戦の直前なのだ。僕の心が揺らいでいる、と思われたら、それが真実だろうと虚偽だろうと、物事をよい方向に運んではくれまい。一人で考えて答えを出すか、それを放棄して「知ったことか」と吐き捨てるかのどちらかだ。僕は後者を選んだ。どうせ出した答えで何をするにしても手遅れなんだ。なら、戦後にでもゆっくり考えよう。そうだ、答えを出さなくてもいい疑問なんてものも、たまにはあるのだ。今日のこれがそれだ。

 

 響とレ級が監視を交代した。僕は小さな親友と少し話をしたくなって、赤城に代わって貰うことにした。暇だったのか、彼女は断らなかった。この申し出を拒否することで、気難しい少年がへそを曲げるのを恐れたのかもしれない。席を取り替えて、響の向かいに腰を下ろす。結果として赤城と武蔵が危険なほど近くにいる状態になってしまったが、二人の間に会話が生まれない内は安全だろう。願わくば、このまま海に降り立つまで二人が沈黙を分かち合っていますように。信じてもいない神に祈り、心の中で十字を切りながら、響の顔を観賞する。

 

 体つきは子供のようだし、首から上だってそうなのに、何処か大人びたものを感じさせる、美しい顔だ。ガラス球のような透き通った輝きを持つ大きな瞳。ぱちぱちとまぶたをしばたかせる度に、長いまつ毛が視線を惹きつける。その双眸の下、頬の自然な赤らみは、彼女の髪色や涼やかな目つきが人に感じさせる冷涼さとは対照的で、外見からそう思われるほど彼女が冷たい人間ではないことを証明し、そのことを主張しているみたいだ。できることならその頬を自分の手で包んで撫でたかったが、そうしないからこそ余計に美しく見えるのだということを僕は知っていた。手の届く内にあるものだけが、美しさの全てではないのだ。触れられぬと分かってなお触れたいと思うようなものこそが、最も尊いのだと思う。

 

 そんなことを考えながら響を見ていると、僕の失礼さに耐えられなくなったのか、響は彼女の視線を僕のものに絡めて「流石にそうじっと見つめられると、恥ずかしいな」と言った。はにかみの微笑みがまた、美しかった。僕は言葉を捜したが、見つからなかった。彼女と話をしたかったのだけれども、つまらない話題を出すのは許しがたい過ちに思えてならなかった。僕は肩をすくめ、微笑み返し、響の美しさを認め、胸の中で「僕が何をするにしても、彼女の為になるようなことをしたいものだ」と思って頷いた。

 

 暫く──数時間──ヘリのローター音だけが僕の耳にする唯一の音だった。赤城と交代しながら海上警戒を行い、奇襲を受けることなく僕らは海上に立った。ヘリがまた空に上がり、拠点の方角へ戻っていくのを見て、一抹の心細さと共に、もう後戻りはできないな、と呟く。武蔵や赤城、レ級たちに聞かれないように呟いたつもりだったのだが、親友の耳はその他大勢の耳よりも遥かに(さと)いものである。僕の後ろにいた響は横に来ると、こちらをまっすぐ見て言った。

 

Не знаю, что мы победим(この賭けに勝てるかどうか) ли в этой игре(分からない). Возможно, после битвы(もしかしたら、戦闘の後では), я не смогу тебе сказать(伝えられないかもしれない)... так что(だから), хочу, чтоб ты одну вещь помнил(君には一つ覚えておいて欲しいんだ).」

Слушаю(聞いてるよ).」

Что бы ни случилось(何があろうと) - я с тобой(私が付いているよ)……生きていようと、死んでいようとね。さ、ほら、手を出して。握手しよう」

 

 差し出された、白く温かで柔らかくて可愛らしいが歴戦の右手を、僕はしっかりと握った。その手の温度を通じて、僕は彼女から勇気を貰った気がした。響はにこりと笑うと、一歩下がって元の位置に戻った。彼女との短いやり取りが終わると、もう僕の中から不安は消えていた。ありがたい手助けだった。戦争とは数と力と勇気で勝つものだ──とりわけ重要なのは数だが、だからって勇気をおろそかにしていい訳じゃない。百人でも千人でも臆病者がまともに戦うことはない。

 

 事前の指示通り、単縦陣の先頭に立って進む。後ろに響、赤城、レ級、戦艦棲姫、武蔵と続いている。武蔵が最後尾なのは珍しく彼女と赤城の意見が一致した結果だった。赤城は僕という存在のインパクトを武蔵の姿に減じられたくなかった。疑り深い褐色の大戦艦は、自分の背中を深海棲艦や融和派なんかに見せたくなかった。いつもこれぐらい、すんなりと二人が上手く折り合いをつけて生きていければいいのにと思う。

 

 警戒は赤城と、百メートルほど右方で僕らと同じく単縦陣を作って併走している装甲空母鬼たちの艦載機に任せて、ひたすら進み続ける。低速の者に速度を合わせなければならず、全速を出せないのがもどかしかったが、一人二人で駆けつけたところで仕方ない。中世の戦いならまだしも、現代戦はチームプレイの極みだ。複数の敵を相手に個人の力で張り合おうとするなんて、考えるだけでも馬鹿らしい。はやる心を適度に抑え、変わり映えしない海を行く。潮風が当たり、一年ぶりに海を走っていることを僕に思い起こさせる。また戻ってきたんだな、と僕は一人ごちた。水を切って進む音が遮ってくれたのか、今度は響にも聞かれずに済んだ。海に、あらゆる艦娘にとって特別なこの場所に帰ってこれるとは、思ってもいなかった。

 

 移動しながら、砲を動かし、魚雷をチェックし、水観妖精たちの様子を見る。僕の艤装にいる妖精たちとの付き合いも長い。中には第五艦隊発足以来の新参もいるが、訓練生時代からの者も少なくないのだ。そいつらとは、深海棲艦との全ての戦いを一緒に戦ってきた。そして今日、深海棲艦との戦争を終わらせる為の戦いにもこうして共に参加している。感慨深いことだ。胸が熱くなる。だが、武蔵は感傷だと言って嘲笑うかもしれない。僕は首を回して、後ろを見た。武蔵はのんきに、懐から取り出したポータブルテレビを見ながら移動していた。その不真面目さに呆れながら、同時にその豪胆さに頼もしささえ覚えてしまう。波の音に負けないようにしようとしたのか、彼女が音量を上げると、砲声を挟みながら耳に懐かしい声が響いてきた。

 

「えっ、放映されてる、って、あのあのっ、これ、生放送するなんて聞いてな──ああもう、分かりましたから! 青葉、戦闘と取材の両立は久々ですけど、行きます!」

 

 どうやら、青葉は何も知らないままに協力させられてしまっているらしい。生放送になるとは聞いていなかった様子からも分かる。電は上手くやったらしいな。テレビの音は赤城が下げさせてしまったので聞こえなくなってしまったが、代わりに遠くで砲声が轟き始めた。赤城の反応を見るに、僕らは到着間近のようだ。彼女からの指示を受けて、装甲空母鬼の艦隊が、僕の後に続くようにこっちの隊列へ合流する。互いにぶつかったり艤装の操作の邪魔にならない距離を掴んで保とうとしていると、武蔵が無線連絡を寄越した。

 

「どうした?」

「無線の周波数を私が今から言う通りに合わせてみろ」

 

 いきなりだったが、僕は従った。どうせ、僕の艤装には改造が施されており、二つの異なる周波数による無線通信を一度に行うことができるようになっている。つまり、無線Aで艦隊員からの報告を聞きながら、無線Bで鎮守府や基地に連絡したりできる訳だ。一々周波数切り替えをする手間を省ける、よい改造だったと思う。予備回線を武蔵の言った周波数、緊急支援要請用のものに合わせる。すると音声が聞こえてきた。青葉の戦闘を実況する声だ。本人も戦っているからか、時々発砲音が声をかき消してしまうけれど、それでも青葉の声だった。彼女は実況しながら、近隣の艦隊へ救援を呼びかけていた。戦闘、取材、支援要請か。彼女のマルチタスク能力については、誰にもけちのつけようがなさそうだ。

 

「こちら第二特殊戦技研究所付広報員の青葉です! 現在私たちの連合艦隊は多数の有力な敵と交戦中、この呼びかけを聞いていて、今からお伝えする座標に向かうことが可能な艦隊は、ただちに援軍をお願いします!」

 

 割り込んで「今から行くぞ、踏ん張れよ」と伝えたくなったが、赤城に止められるまでもなく僕はそうしなかった。青葉に後で罵られたっていい。第五艦隊の仲間たちから軽蔑されても耐えよう。今は、伝えるには早すぎる。この放送が日本全国に流れているとしたら、国民は固唾を呑んで見守っている筈だ。まだ映画だと勘違いしている者もいるかもしれないが、じきに気付くだろう。彼ら彼女らは艦娘による連合艦隊が余裕のない声で援軍要請を出しているのを見る。聞く。負け戦を目にする。そこに助けが現れる。分かりやすい構図だ。影響されやすい人々には深海棲艦たちが救い主みたいに見えるだろう。できるだけ沢山の人が、そうなってくれることを願うばかりだ。まずは「深海棲艦は相互理解することのできない敵である」という固定観念を破壊しなくてはならない。全てはそこから始まるのだ。

 

 戦闘の音が大きくなり始めた。大きく広がった白煙が見える。それは艦娘の機関から吐き出された類のものには見えなかった。同行しているフリゲート艦とやらが、煙幕を張ったのだろう。敵は何処だ? 探すが、まだ遠すぎるのか、見つけられない。煙の向こう側という可能性もある。青葉の救援要請が流れてくる回線を、以前第五艦隊が使っていた周波数に切り替える。まだ彼女たちが同じ周波数を使っていてくれたらいいが──「こちら那智、何処の馬鹿者だ味方の真っ只中で煙幕を張ったのは! 第五艦隊、すぐに後退しろ! 敵が突っ込んで来るぞ!」「って言ったって、これじゃどっちに行けばいいのか分かんないってば!」「何なのじゃあの深海棲艦は、見たこともないぞ、新種か? 攻撃が当たらん!」「姉さん、三時から雷撃です!」「ちっくしょう、煙のせいであたしの艦載機が着艦できねえ!」「……不知火を怒らせたわね!」──繋がった! 僕の艦隊員たちはみんな、無事のようだ。しかし新種の深海棲艦というのは聞き捨てならない話だった。と、突然無線機から知らない声が聞こえてきた。

 

「接近中の艦隊に告ぐ。艦隊構成並びに所属を明らかにせよ。また、我々は諸君らの隊列の中に、深海棲艦の反応を捉えている。説明を求める」

 

 フリゲートからの呼びかけだな、と僕は推察した。クソっ、見つかったか。艦載レーダーのせいだろう。赤城は舌打ちをして、範囲内に艦隊を入れてしまった自身の失敗を罵った。遠くにいる人間サイズの物体を捉えられる辺り、性能はかなりいいらしい。または艤装の反応なんかを読み取っているのかもしれない。どうやってかは知らないが、頭のいい連中が何か手立てを考え出しでもしたんだろう。艦娘たちが通常用いる周波数とは違う帯域を使っている僕らに呼びかけられたのは……全帯域への呼びかけか? 力技だな。青葉の回線に繋ぎ直すと、案の定混乱に陥っていた。深海棲艦の新手だと思ったらしく、絶望的な声を上げている。彼女を励ましてやらねばなるまい。僕は赤城を見た。彼女は頷いた。予定よりも格好のつかない形になってしまったが、今がその時であるようだ。僕も全帯域への呼びかけを開始する。

 

「こちら第五艦隊()旗艦。救援要請を受け、急行中。やあみんな、元気だったかい?」

 

 一瞬の沈黙。それから、沢山の声が無線機から流れ出した。

 

「ちょ、おい、この声!」

「黙るのじゃ隼鷹、聞こえん!」

 

 それは第一艦隊の伊勢であったり、第二艦隊の加賀であったり、第五艦隊の艦隊員たちだったり、青葉だったりしたが、那智教官を除く誰もが一様に困惑を声ににじませていた。それらの声の奔流の合間を縫って、最初に呼びかけてきた奴がまた取りつくしまもない答えを返してきた。

 

「こちらの要請に応じよ。艦隊構成、深海棲艦の反応について説明を求める」

「そいつらは僕の僚艦だ。撃つなよ。編成は僕を筆頭に赤城、響、武蔵、戦艦棲姫、レ級、装甲空母鬼、リ級エリート、ヲ級エリート、タ級、ネ級、チ級の十二人。全員、識別用に第五艦隊の隊章を身につけている」

 

 相手は声を失った。責められない。返事を待っていると、話し相手が変わった。提督だった。吹雪秘書艦が死ぬほど心配しそうなことに、フリゲートの一隻に乗っているらしい。言いたいことをぐっとこらえて、指示を乞う。僕は公的には戦闘中行方不明(MIA)だ。戦死でもなければ、逮捕収監されたのでもなく、行方不明なのだ。だから、僕の所属はまだ今のところ変わっていない、と思う。MIAになった人間の軍籍が抹消されるのは、一年よりは長い時間が経った後の筈だ。正直、よく覚えていない。提督は言った。

 

「積もる話は後で聞こう。現況を説明する。敵方は本隊の攻撃に先立って、PT小鬼群……最近確認されていた新種だが、それによる浸透攻撃を仕掛けてきた。小さすぎて我々のレーダーに引っ掛からなかったらしくてな、気付いた時にはすぐ近くだった。それでもまだ対処法はあったんだが、こっちのフリゲートの一隻が煙幕を展開した。敵本隊から混乱状態にある自軍を撃たれないようにしたかったそうだ。だが何を間違ったか、自軍の中央でそれをやった」

「旗色はよくなさそうですね」

「分かっているなら早く来い。……もう少しで敵の本隊が私たちのいる煙の中に突入してくる。そうなればフリゲートは邪魔なだけだ。二隻ともここから急いで離脱させる。煙はその内に晴れるだろう。健闘を祈る」

 

 それだけ言って、提督は一方的に回線を切断した。赤城がぼそりと漏らした。

 

「これが終わったら、私とあなたで一緒にあの提督を暗殺しに行きませんか?」

 

 僕は賛成した。

 

 その後、僕たちはもうもうたる煙の中に突っ込んだのだが、それと敵の本隊が煙幕に突入したのと、フリゲート艦が僕たちの僅かに十数メートルほど横を通って逃げていったのと、この三つがどの順番で起きたか、僕は一生知ることがないだろう。この戦闘を生き抜いて青葉に話を聞けたなら、分かるかもしれない。彼女は提督が乗っている艦に回収されて、今は一キロほど離れたフリゲートの甲板に立ち、超望遠のカメラを向けているようだからだ。きっと僕よりはこの時の状況を俯瞰して見ることができたに違いない。ともあれ、僕たちは煙の中へと入っていった。

 

 そして、これまでにないものを見た。

 

 艦娘と深海棲艦の戦闘は、前時代的だとよく言われる。武器にしたってそうだ。砲、魚雷、航空機。これでは第二次大戦的だと言われても反論できない。現代的なミサイル攻撃(僕は提督にこれを打診した。彼女の答えは「配備されていない」だった。なるほど)が実用されるようになったのもここ一年での話なのだ。前時代的、大いにその通りであると思う。ただ、遡っても二十世紀の半ばより少し前までだ。つまり我が国としては一九四一年から四五年までである。ところが、煙の中で行われていたのは、二十世紀と呼ぶよりはむしろ十四世紀から十五世紀辺りの、中世的な戦いだった。それに巻き込まれた僕らは、あっという間に統制を失った。赤城とはぐれ、響とはぐれ、武蔵とはぐれ……幸い、隊列が崩壊したのは僕らだけではなく、敵の方もだったようだ。

 

 深い霧のようなベールの向こうで、うっすらと那智教官が見えた。彼女に食いつこうと小鬼の一匹が飛び掛かる。教官はそれをひょいとかわしざま、脳天にナイフを突き立てる。その隣では僕がいなくなってから着任したのだろう、会ったことのない高雄が、リ級の殴打を受け流して懐にもぐり込み、海面に投げ飛ばした。そうして撃った弾を避けられる心配がなくなったところで、体勢を立て直して水上に戻ろうとするリ級に二発の砲弾を撃ち込む。どうやら艦娘と深海棲艦が煙の中で入り混じった結果、どちらも迂闊には発砲できなくなってしまったようだ。そう理解して、僕は右手でナイフを抜いた。途端、目の前にタ級が現れた。突然の接敵には驚いたが、何も不意を打たれたのは僕だけではなく、加えて立ち直ったのはこっちが先だった。距離を詰める半秒の間に艤装を見る──ペイントはない──喉にナイフを押し当て、左手で彼女の髪を掴み、押しつけるようにして首をかき切る。接近戦は大物殺しのいい機会だが、視界不良の状況下ではこっちが殺される可能性も大きい。神風でも吹いてくれ、と僕は願った。

 

 横を、体がめちゃくちゃに捻じ曲がった小鬼が二匹まとめて飛んでいき、水中に沈んでいく。後ろからだ。誰だと思って振り返ると、腰の砲塔をパージした武蔵がそれを棍棒代わりに振り回して、巨体と褐色肌のせいで目立つ彼女へと殺到する小鬼群を蹴散らしていた。上空ではひっきりなしにプロペラ音が行ったり来たりしている。赤城や隼鷹が艦載機を利用して煙を少しでも散らそうとしているのだ。その隙を突いて襲ってくる敵艦載機に対しては装甲空母鬼とヲ級エリートが対抗しているようで、時々撃破された深海棲艦の航空機が近くに落ちて、危ないことこの上なかった。

 

 ローター音が聞こえた。ヘリだ。それが提督たちのいるフリゲート艦の方向から聞こえてきたので、彼女が煙を晴らす為に手を打ったのだと分かった。ヘリのローターの生み出す風圧は、艦娘たちの艦載機のプロペラが生み出すそれよりも遥かに大きい。これなら、一定の効果を見込むことができるだろう。白煙から飛び出してきたネ級の蹴りを、咄嗟に前進して体当たりすることで防ぐ。バランスを崩した彼女の胸に刃を二度刺して、思い切り突き飛ばす。そうしたお陰で、彼女が死に際に僕を道連れにしようとして行った発砲を回避することができた。いいぞ、この調子だ。僕の中の天龍も響も褒めてはくれないので、自分で自分を褒める。

 

 また後ろで音がした。でもこれは武蔵が棍棒で小鬼を殴る音じゃない。海上を走って誰かが近づいてくる音だ。ベストなタイミングで迎撃しようと振り返ると、こちらに猛然と近づいてくる紫色の髪が視界に入った。慌てて構えたナイフを下ろして、抱きついてきた友人を受け止める。立ったままでは勢いを殺しきれず、僕はその場でぐるりと一回転した。「隼鷹!」「この野郎、よく……!」そこから先はお互い言葉にならなかったが、再会を喜んでいることは分かりきっていた。僕らはほんの二秒だけ、今の状況も忘れて抱きしめ合った。身を離した彼女の目は潤んでいたが、笑顔は僕が最後に見た彼女のそれと全く変わっていなかった。隼鷹は言った。「なあ、一体何があったのさ?」「長い話になるんだ、だから……」僕の目が、右腕の大盾を振りかぶった体勢で隼鷹の背後から迫るチ級を捉えた。盾にペイントはない。そして隼鷹の目も、僕の後ろに向けられていた。僕らは呼吸を合わせて動き出した。

 

 互いの左手を握り合い、回転するように位置を入れ替える。チ級の盾の先が、急なこちらの動きに動揺したように揺らいだ。位置取りを終えて、隼鷹の手を離す。シールドバッシュを繰り出される前に、姿勢を落とした。水を蹴って強引に左前方へ進む。そうして放たれた盾による打撃を避けながら、伸びきったチ級の右腕を左手で掴む。深海棲艦は艤装がごてごてとしていることもあって大抵は重いが、十分に加速が乗っており、てこの原理を正しく用いたなら、持ち上げることは然程の力学的困難ではない。彼女の右腕の関節を壊しながら、強引に投げ飛ばす。水面に叩きつけられて動きが固まったところを逃さず、首と胸を刺す。隼鷹の方はと見れば、火の玉になったリ級が自ら海の中へ身を投げるところだった。隼鷹が操ることのできるあの炎で、燃料に引火でもさせられたようだ。

 

 動きが悪いな、と敵深海棲艦たちを分析する。お世辞じゃないが、かつては僕と深海棲艦が万全の状態で格闘戦を行ったら、たとえ僕が勝っても無傷でとは行かないことの方が多かった。よくて一発殴られたり、腕を折られたり、斬りつけられたり刺されたりしていた。そんな僕が、今日は随分といいスコアを出している。いきなり僕が強くなったのでもない限り、これには理由があると見ていい。発想力の貧困な僕だが、仮説はあった。長距離移動で疲弊しているのかもしれない。なら、質の点で勝ることは不可能ではない。楽観的なものの見方にも思えるが、ひどい状況では多少楽観を持っていなければ精神的にやっていられなくなってしまうものだ。これぐらい、許されるべきだろう。肩で息をしている親友に近づいて、訊ねかける。

 

「隼鷹、敵は何隻ほどいるのか知ってるか?」

「フリゲートから、約六十から七十って聞いてるぜ。あの小鬼ども抜きでね」

「何だそれ」

 

 敵の大規模攻勢に直面した経験のない僕には、想像もつかない数だった。生き残ることだけを考えたら、これはいっそ煙幕が晴れない方がいいのかもしれない。小鬼たちのことを考えから抜いて、少ない方で戦力比を組んでも、二特技研の四個艦隊(第一艦隊・第二艦隊・僕が捕まった後に新規配属の艦娘で再編成されたという第四艦隊・第五艦隊)二十四人に僕らの十二人で、三十六対六十だ。さっきまでの確認戦果をそこから引いて、三十六対五十六にしてもいい。不利だ。撤退して態勢を整えてから出直そうと具申したくなるほど不利だ。二十人の差は大きすぎる。一体どうしたらいい? 隼鷹と組んで索敵をしながら考えていると、提督の寄越したヘリからだろう、強い風が目に向かって吹きつけてきたので、僕は隙を突かれないよう祈りながらまぶたを下ろして風が収まるのを待った。ヘリが行ってしまい、風がやむのを待って目を開ける。そうすると、視界が開けていた。

 

 隼鷹と二人で驚く暇もなく、リ級が右から殴りかかってくる。反撃するには気付くのが遅すぎた。受け流して距離を取り、ついでに周囲の様子を見る時間も稼ぐ。ありていに言って、奇妙な光景だった。艦娘と深海棲艦が、全く入り乱れた状態で互いを殴り合っているのだ。もちろん少なくとも第五艦隊の面々はナイフを持っているし、武蔵のような大型艦は自分の砲を艤装から外して棍棒として使っているだろうが、そうではない連中は流れ弾での友軍誤射を避ける為に、また単純に射撃の余裕がない為に、徒手空拳で敵と戦っている。

 

 煙が晴れたことで、敵味方が統率を取り戻し始めたのが分かった。上空での航空戦の激化は、発砲音の数の増大という形で現れている。今僕と対面しているリ級も、ちらちらと自分の指揮官がいるのだろう方向を気にしていた。そうか、そっちに頭がある訳だな? 僕はこのリ級を始末したら、赤城たちに無線連絡を取ろうと考えた。数で敵に劣る場合の最もシンプルな解決方法は、頭、つまり指揮官を潰し続けることだ。だから近現代の軍隊では、一つ頭が潰された程度で部隊が揺るがないよう、序列を作って部隊の構成員が順番に指揮官役を務められるようにしている。でも、それにも限界はある。潰し続ければ敵は混乱する。そして足並みを乱した集団は、規律を保った集団の敵ではない。

 

「隼鷹、後ろを頼んだ」

「ふふん、任せときなって」

 

 背中合わせになって、互いの死角を塞ぐ。ぴたりとくっついた背中に、薄情にも忘れかけていた親友の温かみを感じて、僕は懐かしさを覚えた。だが今はノスタルジーに浸る時ではない。その魅惑的な熱を振り切って、目前のリ級へと襲い掛かる。彼女は僕の攻撃に反応して右腕の艤装を盾にしようとして、何かに驚いたようにびくりとした。いや、実際に驚いたのだろう。彼女は攻撃が僕の手によって前から来ると考えており、第三者によって後ろから来るとは思っていなかったのだ。背中から胸へと、刃が何度も抜かれては刺し込まれる。リ級はその場にくずおれるよりも先に死んでいたろう。倒れる彼女の背中から、ナイフを持った不知火先輩が水面に飛び降りた。右目の上を切られたのか、細い傷口から血が流れて顔を赤く染めている上、左腕が無残に噛み千切られている。腕の方は希釈修復材での止血が済んでいたが、頭の傷はそのままにされていた。

 

「先輩!」

 

 僕は近寄って、袖を彼女の額の傷口に当て、血を吸わせた。大した意味はないが、せずにはいられなかったのだ。でも彼女は僕の腕を退けると「後で、たっぷりお話できるでしょうね?」と心底冷え冷えとする声で言っただけだった。僕は思わず背筋を伸ばして頷いた。不知火先輩が「よろしい」と言ってくれたので、体の硬直が解ける。名残惜しいが、ここに留まってはいられない。隼鷹と不知火先輩を連れて頭を潰しに出かけるのもいいが、危険が大きすぎる。連れて行くなら、後腐れのない連中にしたい。それに二人じゃ数も足りない。よし、やることを整理しよう。赤城に連絡して敵の指揮官を探す。第五艦隊を集結させ、統制を持って敵と戦えるようにする。優先はこの二つだ。

 

「先輩、隼鷹を頼みます。僕は他の艦隊員を集めます」

「いいでしょう。では、また後で」

「また後で!」

 

 一時の別れを告げて、敵味方が交じり合う中を駆け抜ける。第五艦隊のペイントが施されたパーカーの裾を翻しながら、融和派のレ級が敵のレ級と壮絶な一騎打ちをしているのが見えた。敵もまさか、人類側が同じレ級をぶつけてくるとは思わなかっただろう。その向こうでは妙高さんがチ級の盾を奪い取って得物代わりに振り回していた。しかも、単独で戦うだけではない。彼女の指揮の下で、押し寄せる小鬼群や数隻の人型深海棲艦を相手にしているのは、足柄・川内・羽黒だ。妙高さんの短いが的確な指示の下で隊伍を成して戦い、獅子奮迅の活躍を見せている。彼女らの横ではこちらのリ級エリートやタ級が戦っており、ナイフを持っていなかった艦娘たちは防御を、融和派深海棲艦たちが攻撃を担当して見事なチームワークを成し遂げていた。

 

 赤城に無線を繋ぎ、敵の指揮官のいるであろう方角を伝える。その最中に、僕は伊勢と日向、北上と利根を見つけた。僕は彼女たちに対する長い無沙汰の詫びを視線を交わすだけで終わらせて、彼女たちに隼鷹らの位置を教えた。伊勢と日向は第一艦隊だが、現在第一艦隊の所在が分からない以上、次善の行動を選ぶしかなかった。伊勢たちを送り出すと、やっと赤城が返事を寄越した。近くにいるからそっちが来い、という内容だった。むかつかないではないが、赤城が旗艦だというのは合意した通りだ。命令には従わなくてはならない。方角を聞いてそちらへ進んでいると、加賀と摩耶に出くわした。摩耶は既に大破状態にあり、止血はされているものの脇腹を抉り取られたように失っている。立っていられるのが不思議なほどだった。加賀は彼女を庇って一人で奮戦しており、今もネ級とリ級を相手に弓を振り回して戦っている。そんな中で、加賀は僕を見た。その目がどんな感情を映していようと、手助けしないという選択はあり得なかった。

 

 武蔵に倣って僕も腕の砲塔を一つパージし、砲身を握って左手に持つ。重心のバランスは最悪だが、どうせ細かい動きなんか必要ない。敵の攻撃を防ぎ、殴りつけられればそれで足りるのだ。摩耶を守るように加賀の隣へ並び立ち、前にいるネ級をにらみつける。彼女には僕が興奮しているように見えただろうが、頭は冷静だ。ネ級と戦う時には、腹部に繋がっている尻尾のような形の艤装に注意しなければいけない。あれによる全力の一薙ぎをまともに食らえば、僕の体なんか簡単に弾き飛ばされてしまう。近づいて砲ごと無力化するのが一番いいのだが、あっちだってそのことは分かっている。気軽に距離を詰めさせてはくれないだろう。

 

 なら、僕お得意の姑息な手だ。ナイフを構える為に体を動かして、その間にこっそりと艤装の砲で海面を狙う。加賀と見知らぬ摩耶を助ける為とはいえ、僕も急ぐ身だ。こちらから仕掛けよう。突撃を掛けると見せかけて、それに反応したネ級の足元を撃つ。水柱の壁が作られる。僕はそこに左手の砲塔を投げる。ネ級は水柱の壁ごと、それを横薙ぎにする。手応えを感じたろう。壁の向こうに健在の僕を見た彼女はどう思っただろうか? 思い切りよく振り切った以上、刃を返すにも一手間余分に奪われる。慣性を殺す為の一秒で、僕はそのネ級の首筋に刃を立てることができた。

 

 加賀の手助けをしようと彼女の方を見る。でも、摩耶が限界を迎えて倒れそうになったので、僕はそっちを優先した。肩を貸して、立たせたままにする。しかし意識レベルは低く、気絶寸前だ。敵もそれが分かっているから、ぼうっと立っていても襲われないのだろう。言い方は悪いが、手間の掛かる負傷者は敵にとって友軍にも等しいものだ。その負傷者の友人たちは彼女もしくは彼を助けに行き、格好の標的となるからだ。加賀もまた、そうなったのだと思う。しかし敵には運の悪いことに、その加賀はただの加賀ではなく、二特技研が誇る第二艦隊の加賀だったのだ。そうでなければ、とっくに加賀も摩耶も沈んでいた筈だ。

 

 加賀に代わる新たな的として僕を見つけた小鬼たちが近寄ってくる。僕はナイフを鞘に戻し、肩の砲塔を一つ外して右手に掴んだ。小鬼はナイフで一匹一匹始末するより、こういった鈍器でまとめて殴った方が早いと思ったのだ。戦艦である武蔵ほどの膂力(りょりょく)はないが、その分は遠心力が補ってくれる。小鬼たちも雷撃を外して味方を巻き込むことを恐れているのか、足や腕に食らいつこうとしてくるばかりで、これなら集中が途切れない限り守ることも難しくない。噛みつこうとして飛び上がったところを砲塔で殴り、追い払い続ける。僕が戦艦ならな、と思わないではいられなかった。重巡の力では、殴り殺すことまではできないようだ。

 

 が、そんな小鬼たちも弓で射られてはひとたまりもなかった。僕が目をぱちぱちしている間に、数本の矢が吸い込まれるように小鬼たちの胴や頭を貫き、連中を海の底へと送ってくれた。加賀のように弓を操る艦娘など他に見たことがないが、それでも言わせて貰えるならば、彼女は海軍一の弓取りだ。リ級の血と何かよく分からないもののまとわりついた鉄弓を下ろすと、加賀は僕から摩耶を受け取った。彼女には妙高さんたちの位置を教えておく。数が多ければ摩耶を守る上で負担が減るだろう。打算的な考えを述べるとすれば、タ級たちが摩耶を守るシーンを青葉が撮ってくれればいいと思う。

 

 赤城からまだ到着しないのか、とお叱りの言葉が飛んできた。加賀と摩耶を援護していた旨を伝えて、すぐに行くと答えておく。赤城は僕が油を売っているとでも思っているのか? 彼女の上から目線というか傲慢な物言いは、長年彼女が最高指導者を務めるグループの中にいて、その外に出なかったことから来るものだろう。後は本人の性格の影響もあるかもしれない。ふと思う、どっちが先だろうか? 環境のせいで捻くれたのか、捻くれていたから融和派なんかになったのか。聞いてみようとは思わない。赤城は後ろ暗いことをするのに躊躇いもない類の人間であることは、大方想像がつく。後々復讐もしくは粛清などの対象にされたくはない。

 

 興味深いことに、赤城のところには武蔵と響だけでなく、さっき妙高さんたちと共闘していた二人を除く装甲空母鬼の艦隊と長門、那智教官の二人が揃っていた。装甲空母鬼は指揮下の艦隊員をリ級エリートとタ級以外、はぐれさせずに煙の中へと連れ込んだらしい。その後、他の艦娘たちを拾って艦隊に加えながら敵の中を移動してきたようだ。そのことを示すように、装甲空母鬼を筆頭とした融和派深海棲艦たちは艤装や体に大小の傷を負っていた。それでも、僕は彼女たちの瞳に、傷の多さや大きさと比例するぐらいの激しい戦意が宿っているのを見て取れた。

 

 こちらに倍するほどの敵が、僕たちを囲むように動き出す。この野暮な深海棲艦たちは、那智教官や長門と話をする時間を与えてはくれないみたいだった。赤城にここからどうするか聞く。僕らの現在地から敵指揮官がいる方角へ向かうとなると、敵軍の群れを突っ切っていく形になる。迂回しようとすると砲撃の的になるからだ。早くしないと、敵が包囲網を完成させてしまう。そうなれば無駄な労力を使わなくてはならなくなる。それは嫌だから、僕は焦って彼女を急かした。「どうするんだ、赤城?」すると彼女は呟くように言った。

 

「来ます」

 

 何が、とは言うまでもなかった。僕らを囲もうとしていた深海棲艦たちが、一斉にある方向を向いたからだ。僕も釣られてそちらを見ると、タ級が空を飛ぶのが見えた。彼女は重力に逆らって暫く空中にいたが、やがては水面へ激突し、大きな水柱を立てた。続いて空に上がったあのシルエットは、軽空母のヌ級だ。小鬼たちも放り投げられている。あんなことができるのは、僕らの仲間には戦艦棲姫しかいない。呆気に取られていると、赤城が叫んだ。「今です!」反射的に機関をフル回転させ、全速前進を始める。空を飛ぶ友軍に目を奪われていた深海棲艦たちの脇を抜けるのは、赤子の手を捻るよりも簡単だった。それでも追いすがろうとする反応が早い数隻の敵を足止めする為に、追従していた装甲空母鬼の艦隊が速度を落として隊列を離れ、抑えに掛かる。

 

 彼女たちを後に残していくのは心苦しかったが、追いつかれて足を引っ張られ、その間に包囲されて削り殺されるよりは、この方がいい。しかし、見捨てたままにしておきはしない。僕は分散している第五艦隊と第一艦隊、第二艦隊に呼びかけて、敵の指揮系統を潰そうとしていることや、その為に危険な足止めを買って出た装甲空母鬼たちがいることを伝え、可能なら彼女たちを助けてくれと頼んだ。戦闘の狂騒の中で返事をする余裕がなかったのか、応答はなかったが、僕は言葉が届いたものと信じた。戦艦棲姫と、彼女の従者のようにその後をついてやってきたレ級(激闘を制した後だろうに、元気そのものだった)と合流すると、進撃はかなり楽になった。戦艦棲姫の前に立ち塞がろうとする敵は、誰も彼も艤装から生えた生体腕の一撃を受けて跳ね飛ばされ、そうでなければレ級や武蔵、長門、那智教官からの攻撃を受けて沈むので、僕は攻撃に関しては一切働かずに済んだほどだった。

 

 代わりに、僕は水上機を飛ばした。赤城とレ級の艦載機は制空権争いで忙しく、教官の水上機は戦闘の初期に壊滅的な被害を受けていたからだ。その一方で僕の水観たちはまだ生き残っていた。上空から鬼級・姫級深海棲艦を探すよう命じて、二機をカタパルトで送り出す。これだけ多くの深海棲艦が集まっているということは、必ず鬼級か姫級がいると考えていい。それも一隻や二隻じゃなく、四、五隻はいるかもしれない。果たして、僕のその予想は当たった。また、僕らが頭狙いでいるということを、敵の方も悟ったらしい。水観妖精からの報告で、種別不明の鬼級深海棲艦が一隻、少数の護衛と共に乱戦区域から脱出しようとしていると伝えられた。それによって最悪の場合でも、乱戦の外から指揮を取ることができるという訳だ。そうはさせない。フリゲートからの砲撃は、敵と艦の間に乱戦域を挟むように敵が移動していた為、不可能だった。それなら爆撃で足止めを、と無線通信をしようとしたところで、交信していた機との連絡がぶつりと切れる。その僚機に繋ぐが、そちらもその直後に、奇妙なほど大きい爆発音を残して交信不能になった。

 

 つまり、大空戦の最中に、目立たないように飛行していた水上機を狙って落とすような奴がいる訳だ。しかも、二機目のあの爆発音は漏れた燃料に引火して爆発したとするには大きすぎた。となると、対空射撃か。一機目は静かにやられたので、通常の航空機に撃墜されたと考えられる。これらを総合すると、一機目が敵の航空機にやられたすぐ後に、二機目が対空射撃の直撃を受けて撃破された、となる。別々の敵によって引き起こされた? いや、それでは運が悪すぎて不自然だ。じゃあ、一隻の深海棲艦が両方をやったなら? 強力な砲撃、精強な艦載機、それらを操る手腕。僕は答えにたどり着きそうだったが、それよりも早く、その答えの方が自ら姿を現した。

 

「散開、散開だ!」

 

 長門の声に従い、すぐさま舵を切る。真横を砲弾が飛んでいき、行われる筈のない砲撃に反応できなかった敵深海棲艦の一人に直撃した。味方を巻き込むことを厭わない冷酷さに、僕は不快感を覚えた。けれどその場で最も強い敵愾心を抱いていたのは、間違いなく長門と那智教官であったと僕は断言する。何故なら、僕らに向けて砲撃したのは、教官のような顔の火傷痕と、いびつに修復された両足を持った空母棲鬼だったからだ。教官は長門から話を聞いていたのか、この特徴が何を意味するか理解していたらしかった。長門は彼女の横にいた教官と目配せし合うと、言った。

 

「こいつは私と那智で始末する。他の連中の足止めもしておこう。お前たちは次に行け。できるだけ急いで敵の頭を潰せ。時間を掛ければ、こちらが持たん」

 

 声の響きで、これは止められないと理解する。覚悟を決めた声だ。長門は、道連れにしてでも空母棲鬼を殺すだろう。そうせずにはいられないのだろう。那智教官は、そんな風に思いつめた親友を置いていける人ではない。それに彼女にも、空母棲鬼に対して個人的な借りがある。右腕と、顔の半分の火傷の借りだ。それを返す絶好の機会が訪れた今、教官を引き止められるものなど存在しなかった。敵が二人を取り囲み、空母棲鬼が恨み骨髄という目で彼女たちをにらみ、こちらには針の先ほどの気も向けない中、僕らは更に前進する。だが僕はこらえようもなくなって、首だけ回して後ろを向くと、無線も通さずに大声で叫んだ。「あいつをやっつけて下さい、教官!」聞こえる筈もないと思った。距離は離れ、ばらばらになってしまった自分の艦隊に合流しようとしている艦娘たちと、ろくに命令も受けずに目に入った敵を襲うばかりの深海棲艦たちが戦う音で、声なんか消されてしまうに決まっているからだ。だけれども、僕は見た。教官は僕に向かって示すように、右手の拳を高く上げたのだ。その後の二人の姿は、敵に隠されて見えなかった。

 

 引き続き戦艦棲姫を先頭に、敵中を進撃する。僕は更に二機の水観を飛ばして、鬼級・姫級を探させた。熟練した搭乗員の目から逃れられる者は少ない。成果はすぐに上がったが、予想を超える大物だった。戦艦水鬼、よりによって姫級を超える実力を持つと言われる水鬼だ。僕の人生で水鬼を見るのはこれで二回目だが、自信を持って言える。生きて二回も水鬼を見るということは、中々あることではない。この情報と水鬼の座標──彼女は僕らの左方向に行ったところで指揮を執っているようだった──を赤城に知らせると、彼女は戦艦棲姫とレ級に対処を命じた。僕は反対した。戦艦棲姫の突破力は惜しい。けれども赤城は僕たちが敵軍の中央からもうかなり抜け出したところにいることを指摘し、僕が言うところの突破力は最早必要ないとして意見を退けた。実に心強い友軍だったのに、別れなければならないのが残念だ。長門が言ったように、こちらの戦力的限界が訪れるまでの時間に追われていなければ、六人で水鬼と戦うこともできようというのに。

 

 去りざまに、僕はレ級に向かって開いた手を上げた。彼女は猛獣を思わせる獰猛な笑みを更に深めて、ばしんと僕の手と自分の手を打ち合わせると、崩れた敬礼をして、戦艦棲姫と並んで敵中を暴れながら進んでいった。その勢いたるや破竹の二字に相応しく、僕は水鬼の死を確信した。

 

 急造艦隊の構成員が減っても、前進は止まらない。戦艦棲姫という盾役がいなくなったのを好機と見たか、攻撃が増える。残っているのは僕と赤城、響、武蔵の四人だけだ。それでも切り抜けられているのは、空戦がこちらの有利に傾き始めたからだった。艦載機の一部をこちらの支援に割けるようになった隼鷹と加賀の航空機が、僕たちの方に飛んでくるようになったのである。戦闘機乗りの妖精たちは、僕が望んだように敵と見ればのべつまくなしに撃ちまくる、ということはしなかったものの、その分よく狙って最小限の弾薬消費で最大の効果を生むように努力していた。本当に、一年も離れていた間に隼鷹はどれだけの戦闘をくぐり抜け、どれだけの修練を積んだのだろう。僕などが並び立てるものだろうか。今日が終わった後、古巣に戻れればいいが。第五艦隊に帰ることができればいいが。旗艦としてでなくても構わない。僕は僕の艦隊に帰りたい。第四艦隊にまた戻されるのだけは勘弁願いたい。それが僕の願いだ。

 

 後ろから追いかけてきたと思しき敵方のヲ級が、杖で最後尾を行く赤城を打とうとした。彼女はすんでのところで反応し、弓で受けた。ばきりと音を立てて、赤城の弓が半ばから折れる。ヲ級はしめたと思ってか追撃を行おうとしたが、その為に近づきすぎた。赤城は弓の弦をヲ級の首に引っ掛けて、締め上げた。喉に食い込んで血をにじませるほどの力で締めつけられたヲ級は、ものの数秒で意識を失った。赤城は役立たずになった弓を捨て、ヲ級の首を絞める時に自分の手にも食い込んだ弦によってできた切り傷を、自身の弓道着で拭った。そうしてこともなげな様子で、僕に尋ねる。「次は見つかりましたか?」ああ、と答えを返す。こちらに近づいている。駆逐棲姫だ。彼女から少し離れたところには軽巡棲姫もいて、僕らを待ち構えるように佇んでいる。彼女を抜ければ、そこから乱戦域を抜け出した最後の指揮官クラスまでは障害も妨害もない。数人の護衛艦隊だけだ。

 

 やっとあちらの考えが分かった。僕はともかくとして、長門や那智教官、レ級に戦艦棲姫は深海棲艦たちにとって打倒することの容易でない敵なのだ。それが固まっていた。連中は手出ししようにもできなかった。ところが、鬼級・姫級を狙って動き出すと、二人、また二人と艦隊から抜けていった。まとまっている敵を一度に始末するより、二人ずつ複数回に分けて始末した方が簡単なのは道理だ。だから、敵は自分たちの指揮系統を危険に晒すというデメリットを受け入れ、それに対処しつつ、適当な間隔で指揮官級の深海棲艦をぶつけてきた訳だ。悪くない手だが、奴らはやっぱり、見誤ったままだった。もう一度言ってもいいが、()()()()()()()()()、さっき集まっていた七人はどの一人を見ても、そうそう敵の思い通りに動いてくれるような連中ではない。

 

 次に接敵するのは駆逐棲姫だと伝えると、赤城は一つ息を吐いて「では、次は私の番ですね」と言った。僕は一驚を喫したと認めなくてはいけないだろう。赤城はそういうことをするイメージの持ち主ではなかった。周りの人間や艦娘、使えるものの全てをみんな自分の為に使い潰すタイプの、どっちかと言えば僕の提督みたいなタイプだと思っていた。そのことを表情その他の反応で察したのか、赤城は楽しそうに笑って言った。

 

「私だって、命の張り時ぐらいわきまえているつもりですよ。駆逐棲姫は私が片付けます。とはいえ一人だと少々つらいですね。響、付き合って貰えますか?」

Почему нет?(嫌がるとでも?) 付き合うよ。……武蔵、彼を守ってくれるかい?」

「どんな敵からでも、な。この武蔵、嘘は言わんさ」

Отлично(素晴らしいね).」

 

 僕と武蔵は直進する響と赤城から離れて、やや迂回するようにしながら軽巡棲姫の場所へ向かった。二人になったからか、攻撃の苛烈さと言ったらない。味方を巻き込むことを恐れずに撃つ者も出てきた。一発の砲弾が僕の耳を千切り取っていった。腕や足、頭じゃなくてよかった、としか思わないことに、三年前の自分なら驚いていただろう。武蔵は僕が血を流しながら笑うのを見ると、響との約束を守る為に僕の手を掴み、彼女の艤装で挟み込むようにして守った。これで左右から飛んでくる大半の砲弾は防げるという仕掛けだ。戦艦武蔵の艤装の頑丈さは伊達ではなく、砲弾が当たってもがんがんと装甲板を石で叩くかのような衝撃と音が伝わってくるばかりだった。守られているだけでやることもなかった僕は、無線の周波数を青葉が実況と救援要請に使っていた緊急用周波数に合わせた。迷惑なことに青葉は送信ボタンを押しっぱなしの状態にしていたらしく、それはノンストップで彼女の実況を伝えていた。悲鳴じみた大声で、声は最早かすれかかっている。

 

「あちらで戦艦棲姫とレ級が戦艦水鬼他と戦闘中です! そこに第二艦隊の川内さんと第四艦隊の霧島さんが救援に来た模様で──青葉夢でも見てるんですか? 信じられません、あれ、深海棲艦と艦娘が一緒に戦ってるんですよ! あっ、あちらでは第五艦隊が装甲空母鬼と防衛戦闘中です! 凄い、何なんですか? 何が起こってるんですかぁ、これぇ!」

 

 赤城の計画は上手く行っているようだ。後はこれが日本できちんと放送されていることを祈るばかりである。そして、これまでのようにこの戦闘も生き延びられることもだ。が、せめてそれだけは邪魔しようとするかのように、敵の一群が立ちはだかった。その数は十ほどで、後は小鬼が数匹と言ったところだ。しかもご丁寧に、その壁の更に後ろには軽巡棲姫が控えている。僕は一回だけ毒づいた。軽巡棲姫を無視したって、二人で相手取るには多すぎる。でも、武蔵がいた。僕は彼女の強さを信じていた。彼女がここを切り抜けられるということを信じていた。

 

「どうする?」

 

 僕は全く心配せずに、気軽に尋ねた。彼女は笑って答えた。「突っ込むのさ」嘘だろ、と言いたかったが、彼女が間髪入れずにその通りにしたせいで言えなかった。僕を守りながら接近する武蔵に向けて、さっきまでの倍にも激化したような猛烈な砲撃が加えられ、艤装を伝わって僕に与えられた振動が、少年のやわな脳を攪拌(かくはん)しようとする。僕は流石にびっくりして、彼女の名を強く呼んだ。「何やってるんだ!」「何って、お前を守ろうとしてるんじゃないか。おい、前方に味方はいるか?」水観に確かめる。皆無ではないらしいが、射角に気をつければ発砲は可能だそうだ。妖精が教えてくれた安全な射角の範囲を武蔵に伝えると、彼女はからからと、彼女らしくない、気持ちよいぐらいの笑い声を上げた。

 

「ではこの四六センチ砲、撃たせて貰うとしよう!」

 

 待てという間もなく彼女は発砲した。僕は何から身を守るつもりなのか自分でも分からない内に、目をぎゅっと閉じて首を縮こまらせた。爆音、衝撃、何なのか知りたくもない何かが飛び散って海にばしゃばしゃと落ちる音。見れば、道を封じていた敵のほとんどが吹き飛ばされ、生き残っている者もあるは手足を失って海面でもがき、あるいは脳震盪でも起こしたか呆けたように立っているばかりだった。武蔵は足を止めた。僕らは同じものを見ていた。追手、つまり僕らから逃げようとしている敵指揮官とその護衛隊だ。青葉の声が無線から聞こえてくる。「空母棲鬼が……いえ、敵の空母棲鬼を撃沈した模様! ああもう、ここで見てただけだなんて青葉、一生の不覚です! あの、青葉も今からでもあっちに──ダメ? そんなぁ!」そうか、教官たちはやり遂げたのだな。僕はにやりと会心の笑みを浮かべて、頭上の武蔵を見上げた。これで礼の一つもしなければ、人の道にもとるだろう。僕は素直に言った。

 

「ここまで来れたのも、君のお陰だ」

「そうだな、否定はしないさ。だが、ここからはお前の仕事だ。私のではない」

 

 突き放された気分になって、思わず僕は武蔵の腕を掴んだ。

 

「付いて来てくれないのか? どうして?」

「あれを見ろ」

 

 僕は、武蔵の艤装という盾の隙間から、彼女が示した方向を見た。仲間の死体を浮き代わりにして、水の中に身を潜めている軽巡棲姫がそこにいた。目が合った。彼女は不意打ちを諦めたように、水中から体を引き上げて、姿を見せた。傷一つない。僕らの後ろにいる敵は、友軍が必死で引き止めている。前には軽巡棲姫一人。武蔵なら抑えられる相手だ。その向こうには僅かな護衛艦隊と、水観の情報によれば南方棲戦鬼。この海で死ぬ為にわざわざ南から出張ってきたらしい。武蔵は油断なく砲を軽巡棲姫に向けながら、僕を諭すように言った。

 

「私は戦艦だからな。足が遅い。付いていこうとしたって、邪魔になるだけだ。心配するな、軽巡棲姫には手出しさせない。振り向かずに、全力で進め。なあに、お前なら追いつけるさ……私に最高の射撃を見せてくれ。いいな?」

 

 もう一度、僕は武蔵を見上げた。耳に輝く僕のピアスを見た。僕は彼女の名を呼んで、言った。

 

「そのピアスだが、君にやってよかったよ。似合ってるぜ」

 

 武蔵はきょとんとした顔をしたが、やがて彼女の唇は独特の、亀裂のような、初めて会った時からずっと僕が嫌いで、結局今に至るまで好きになれなかったあの笑みを形作った。

 

「ふっ、私は大和型、その改良二番艦だからな。当然だ。……次の砲撃に合わせて行け。カウントするぞ、三、二、一、今だ!」

 

 号令と共に僕は駆け出す。砲撃が僕の横を通って、軽巡棲姫の過去位置を粉々にする。彼女は造作もないことであるかのように回避する。だが僕を捉えられるほど、余裕はない。彼女の防御を僕は抜ける。僕一人。他には誰もいない。軽巡棲姫は思っているだろう。“たかが重巡一人”と。そうだ。僕は重巡だ。一人の重巡艦娘でしかない。武蔵ほどの巨砲もない。長門のような技もない。那智教官のような経験もない。妙高さんの才能と比べたら、僕の才能なんてあってなきが如しだ。目つきだって不知火先輩に負ける。そんな僕でも、一つだけ、たった一つだけ、得意なことがある。訓練所で、那智教官から教わった技術だ。他の艦娘たちとはほんの少し違うだけ、でもそのほんの少しが全てを変える。

 

 全力で駆ける。まだ近づき足りない。体中にアドレナリンが駆け巡るのが分かる。自分の速度がやけにゆっくりに思える。なのに耳に聞こえてくる言葉は普通の速度だ。青葉が戦況の推移を叫んでいる。「戦艦水鬼撃沈! 凄い、敵が動揺してるのがここからでも分かります!」武蔵が無線越しに僕へ囁いてくる。「ああ……今になって、やっと分かった」僕はその声を聞くと心の何処かで安心してしまう。「駆逐棲姫中破、戦闘を継続中!」「私はずっとこれを、この時が来るのを……この為に、お前を必要としていたのだな」敵の護衛艦隊が僕に気付く。始末しようと、その大半が踵を返してこちらに向かってくる。まだ近づき足りない。巨砲の発射音。「こちら青葉! 戦況好転により、フリゲートが戦闘に再加入します! 皆さん、持ちこたえて下さいね!」「感謝するぞ、私のお前、相棒よ!」四六センチの砲弾が海を割る。狙うことのできるギリギリの距離で撃ち放たれたそれは、護衛艦隊の足並みを乱すどころか、彼女たちの手足をばらばらにする。丁度、さっきのように。

 

 僕は彼女たちの残骸の中を駆ける。もう少しだ。もう少し。後百メートル。五十メートル。十メートル……射程範囲に入った。僕は機関を全速にしたまま、腕の砲を構える。集中する。戦闘の喧騒が消える。未だに続く制空権争いの音も聞こえない。息を吸い、吐く。耳に心地よい、武蔵の声が響き渡る。「さあ行けぇ! 今日は終戦記念日だ!」

 

 そして僕は撃った。

 

 光の玉のような砲弾が空に上がっていく。僕は息をしないでそれを見送る。それは頂点に達し、落ちていく。護衛艦隊の残党が僕の撃った弾に気付く。彼女はそれを受け止めようと、盾になろうと手を伸ばす。その指先を掠めて、弾は標的を貫いた。遥か遠くで、頭を撃ち抜かれた南方棲戦鬼が倒れるのが見えた。ふう、と息を吐く。音が戻ってくる。青葉の黄色い悲鳴が聞こえてくる。僕が、残った最後の指揮官級深海棲艦を仕留めたところを、ばっちりカメラに映していたようだった。どうでもよかった。今のたった一度の狙撃で、僕の気力は疲弊していた。最低限作戦行動可能な状態に戻るには、短くとも二十秒の休憩を挟まなければならない。僕は蹲踞(そんきょ)の姿勢を取り、自分がやり遂げたことを噛み締めた。それから赤城に報告しようとすると、あっちの方から話し掛けてきた。お褒めの言葉ではなく、大変僕の身の為になる助言だった。

 

「今のあなたは、いい的ですよ」

 

 なので、僕はへとへとの体に鞭を打って、友軍が今も戦闘を継続中の乱戦域へと戻って行かなくてはいけなかった。

 

*   *   *

 

 その後のこの海域での交戦は、消化試合と言ってもよかった。指揮系統を上から片っ端に破壊されて、おまけにミサイル以外の対深海棲艦用兵装を積載したフリゲートが二隻突っ込んできたのだ。これは、敵に動揺が広がっていたこと、それとこちらの艦隊がある程度の集結に成功し、敵味方が入り乱れていた当初の状態から改善されたからできたことだった。提督は青葉のカメラに映るよう甲板に立ち、無線や小型端末で戦闘指揮所(CIC)からの情報を受け取りながら指揮を執った。日本でテレビを見ている最中ずっと寝ぼけていた奴らぐらいには、英雄に見えたかもしれない。フリゲートは装備された機関砲で手近な敵を挽肉の塊に変え、撤退する敵艦隊には執拗なまでの単装砲による砲撃を加えた。

 

 艦娘のことを深海棲艦から人々を守る唯一の盾にして唯一の矛だと思っていた僕としては、これを認めるのは辛い。が、正直なところ、僕ら艦娘が倒した深海棲艦より、フリゲートが最後の奇襲で倒した深海棲艦の方が多かった。提督が絶妙なタイミングで艦を突っ込ませてくれたからだ。あれがなかったら、僕だって生きていられなかったかもしれない。二特技研の戦死者は第四艦隊から二名、交戦当初に少し姿を見たあの高雄と、一度も姿を見なかった長良だけで済んだそうだ。二人の死を「だけで」などと考えてしまったことには自己嫌悪するが、それでも信じられないほど少ない犠牲で済んだのは確かだった。

 

 そう、信じられないと言えば提督による戦闘終了宣言の後のことだ。第四艦隊の生き残りと、筑摩……つまり僕を知らない艦娘たちは、提督の乗るフリゲートの前に集まった僕と赤城、それからレ級に戦艦棲姫と装甲空母鬼に砲を向けてきた。信用できない、というのが彼女たちの言い分だった。戦艦水鬼との交戦で、レ級たちと共闘していた霧島だけはその意見に消極的だったが、他の艦隊員たちの意見が一つにまとまっているのに言い出せるほど、彼女は豪胆ではないようだった。レ級は身構え、装甲空母鬼は笑みを絶やさず、赤城は憮然としていて、僕は響が天から光臨して「武器よさらば」※126という展開になってくれないものかと祈っていた。あの青葉さえ実況をやめて僕らの様子を撮っていた。そこに、突然軽やかなメロディーが流れ始めた。携帯電話の着メロとかではない。僕は携帯電話を持っていないし、その場にいた艦娘たちもそうだったろう。機密漏洩を防ぐ為に、私用携帯電話の所持は基本的に禁じられているからだ。

 

 僕と第四艦隊と筑摩は、揃って間抜け面を晒した。いや、訂正しておこう。筑摩は……鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていた。これぐらいの表現なら利根も許してくれるだろう。彼女は妹思いだから、間抜け面なんて言葉を使われたら怒るに決まっている。僕は旧友を怒らせることに喜びを見出すほど、人生に()んでいない。とにかく、僕らは何が起こったのか把握するのに数秒を要した。把握してみても、よく分からなかった。戦艦棲姫の艤装に取り付けられていた、交戦の結果としてぼろぼろになっていた音響機器から、高音質ではないにせよ聞き取るのに苦労するほどの低音質でもない、那珂ちゃんの歌が流れてきたからだ。ひどく……超現実的な時間だった。言いようのない空気が流れた。僕らはみんな毒気を抜かれた。第四艦隊でさえ、戸惑って武器を下ろした。

 

 こういうことだ。赤城は心理作戦のプロではないが、国民に心理的ショックを与えるにはどうしたらいいか彼女なりに頑張って考えた。きっとその時に何か、ハーブティーを飲みすぎたとか、特定の成分を摂取しすぎたのだろう。天啓でもいい。「音楽だ」と彼女は思った。それも世に広く知られる艦娘アイドル那珂ちゃんの歌だ。一体、何処の馬鹿野郎が「深海棲艦が那珂ちゃんの名曲流しながら現れて艦娘と共闘する」なんてこと考える? 人々はさっきの僕らみたいになる。ぽかんとする。目が点になる。呆気に取られる。(ほう)ける。頭が留守になる。絶句する。放心状態になる。ここに類語辞典があればまだ付け加えられるが、とにもかくにもそうなる。その精神的空白の一瞬が、人々が己の固定観念を打ち砕く上での助けになる、と赤城は考えたのだ。

 

 僕にはどうしてもそうは思えなかったが、これについても認める以外に道はない。歌の効果で第四艦隊は砲を下ろし、緊張状態は解除された。最悪の場合、彼女たちとその場で殺し合うことになり、講和など夢のまた夢になっていた可能性もあるのだ。それが那珂ちゃんの歌によって消し去られた。これがどういうことか分からない人がいたとしたら、この説明を与えるとしよう。那珂ちゃんの、歌が、世界を、救った。※127 響でも僕でも青葉でもない、提督でも赤城でも武蔵でもない、この場所に姿を見せさえしていないあの那珂ちゃんが、最後に世界を救ったのである。違法ダウンロードされたMP3音源の歌声で。赤城は最低だ。

 

 ぱっとしない歩み寄りが終わると、提督は僕らを艦上に迎え入れ、戦闘中行方不明という絶望的な状況から、かくも大きな土産を携えて生還したことを褒め称えた。彼女は赤城や戦艦棲姫、レ級とも握手し、戦艦棲姫と二、三の社交的な会話さえ交わしたのだ。それは日本全国のテレビに深海棲艦の言葉がオンエアされた、歴史的に非常に意義のある瞬間だった。青葉は大興奮だったが、静かに顔を紅潮させるだけで余計な音声を入れないようにしている辺り、プロだなと僕は思った。それから提督はこの後のことについて、カメラの前で見せ付けるように話を始めた。この後のこととは、大攻勢に対して迎撃に出た他の艦隊の救援を手伝ってくれないか、という内容の話だ。

 

 後になって海軍本部がどれだけ否定しようとも、この時点でテレビを見ていた人の目には、それが海軍としての公的な要請であるように映った筈だ。そうして戦艦棲姫たちに救援を快諾されて再度の握手を求める提督の姿は、軍が深海棲艦を交渉可能な相手と認めた証と言ってもよかった。提督は時々、僕なんかよりもずっと姑息な手を使う。彼女が融和派だと知っている僕には、とてつもなく趣味の悪い茶番に思えた。それに、手助けしようにも何処にそんな元気のある者がいる? 第一艦隊、第二艦隊、第四艦隊、第五艦隊、僕ら、みんな疲れきって、入渠を必要としているのに、誰が助けられると?

 

 答えは簡単、僕ら以外の融和派の拠点にいた深海棲艦たちだ。赤城の最初の計画ではもっと多くの融和派艦娘・深海棲艦を連れて行くつもりだったそうで、戦闘終了後暫くして到着した彼女たちの艤装や服には、どれにも丁寧な第五艦隊の隊章が描いてあり、その数は彼女たちを率いていたある艦娘いわく、「拠点が八割方空っぽになった」ほどのものだった。それを聞いて呆然としていた青葉の顔が脳裏から離れない、と言ったところで、彼女に対して失礼にはならないだろう。僕らは融和派たちをフリゲートに詰め込んで、全速力で友軍の救援に向かった。そしてその日、深海棲艦と人類は、長い長い歴史の旅の果てに、初めて──ただ一つの同じ目的の為に、肩を並べて戦ったのだった。

 

 だがその中には、あの褐色の疫病神はいなかった。



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「歴史的補遺」

通りで兵士の行進する音がする
僕らはそれを見に出て行く
一人の兵士が振り返る
振り返って僕を見る

友よ、この大空は広すぎるから
僕らは以前に会ったことなどなかったろう
世界の端と端とはあんまりに離れているから
これからまた会うということもないだろう

僕と君の胸の内を
止まって語らうことはできないが
死んでいようと生きていようと、酔っていてもしらふでも
兵士よ、君の幸福を祈っている!

──アルフレッド・エドワード・ハウスマン


「この海域は確保しました、中佐。輸送艦隊は安全に通行できます」

 

 無線機の向こうにいる司令官にそう告げる。だが帰ってきた彼の声は無慈悲なものだった。

 

「輸送艦隊は来ない」

 

 失った右手で頭をかきむしろうとして、それができないことに思い至り、溜息を吐くと同時に口の中の血を吐き捨てる。「艦隊は海域を確保しました。輸送艦隊は通行できます」頭の傷から流れ出てきた血が、目に入りそうになる。頭を振って散らすが、その拍子にバランスを崩して倒れてしまいそうで怖い。「もう一度言うぞ、輸送艦隊は来ない。彼らは想定外の事故で引き返した」返事をせずに無線機を切り、肩を落とし、俯いて呟く。「現役最後の任務だぞ。それで、これか?」首をもたげて、水平線を眺める。その向こうに誰かが現れてくれたらといつも願っている。不思議なことだ。嫌っていた相手でも、いなくなると寂しい。思えば彼女は、ある面でまっすぐな女だった。

 

 隣に来た僚艦が、こちらを見て心配そうに優しい気遣いの言葉を掛けてくれる。僕は相槌を返し、訊ね返す。

 

「ああ。君こそ、大丈夫なのか?」

「不死鳥だからね」

 

 僕は「そうだな、響」と認めて、また水平線を眺める。太陽と線との距離を見るに、研究所に帰る頃には夜だろう。夕食を食べ、隼鷹辺りと一杯引っ掛けて、朝を迎える。海軍で過ごす残り僅かな日々の、貴重な朝を。響が静かに言う。「また探しているんだね」「ああ」と僕は答える。「探さなくても、必要になればあっちから現れるんだろうけどな」「まだ生きていると?」「あれが死んだと思うのか?」響は答えないが、言いたいことぐらい分かる。僕たちは友達なのだ。

 

 武蔵は──人類と深海棲艦が一定の友好関係を結ぶ切っ掛けとなった一年前のあの日、姿を消した。誰も彼女を見なかった。沈んだところを見た者もいなかったし、一人で何処かへ去っていく姿を見た者もいなかった。霧のように忽然と消えてしまったのだ。赤城は、死んだのだろうと言った。「彼女とて生きた艦娘、人間ですから。撃たれれば死にます。軽巡棲姫と相打ちにでもなったのでしょう」と彼女は、それを自分でも信じているような口ぶりで言った。けれど僕は信じなかった。だってあの武蔵なのだ。彼女は殺すことを嫌わなかったが、殺されることまで嫌わなかったとは思えない。そして誰であろうと、彼女が本気で嫌がっていることを強要することのできる存在などあり得ないのだ。だからか、僕はあの戦い以来海に出ると、彼女の姿を何処かに探している自分を見つけてしまうのだった。未練のようなものなのだろうか。人の人生を散々振り回しておいて、勝手に何処かへ行ってしまった彼女に対する。

 

 考えてみると、そうなのかもしれない。たった一年で世の中はあっという間に変わってしまった。赤城の目論見通りの世論を国民が作り、政府を動かし、軍を動かした。お陰様で、戦争は終わりへと進んでいる。提督は昇進して吹雪秘書艦と共に研究所を去り、今は僕が嫌悪感を催すようなあらゆる薄汚い政治ゲームに夢中とのことだ。僕にはどう頑張ってみても彼女がそのゲームに負ける姿が見えてこないので、退役したらさぞかし高額の年金を貰うことだろう。後任は提督子飼いの中佐殿が務めているが、彼を提督と呼ぶ気にならないので、僕はもっぱら中佐と呼ぶか、司令官と呼んでいる。これも奇妙なことだ。あれだけ手の平の上で弄ばれ、ひどい目に遭わされて、なのにそんな風に義理立てしているみたいな態度を取るというのは。でも時間が経つと、本当に色々なことが変わっていくものだ。

 

 たとえば、赤城は非合法な融和派グループのリーダーから、深海棲艦の意志の代弁者となった。要するにスポークスウーマンだ。僕を使って自分の影響下に収めた深海棲艦たちと人類を結ぶ窓口を一手に引き受けているというのだから、日夜忙殺されているに違いない。だが、それこそ彼女が望んだことだったのだから、それもまた本望なのではないだろうか。赤城が目下対処しようとしている最も大きな問題は、土地についてだ。深海棲艦を何処に住まわせるか、深海棲艦の国を作るのか、既存の社会の構成員として受け入れるのか、その両方を並行して行うのか、全く新しい道を探すか……解決には十年単位で掛かりそうなものである。電はまだ彼女の右腕としてあちこち飛び回っているらしいけれど、過労死にだけは気をつけて欲しいものだ。

 

 那珂ちゃんはとうとう世界的アイドルになった。人類と深海棲艦が極東で手を組んだというニュースは全人類を驚かせたものだが、その時にあの歌の一件も漏れなく報じられたからだ。彼女は栄えあるこの世の救い主として祭り上げられたが、広報部隊に彼女ありと謳われるようになった青葉によれば、実力で勝ち取ったものではない為、非常に不満を感じているのだという。ただ機会は機会であって、世界の疲れた人々に歌で活力を与えるチャンスと見て、精力的に活動をしているそうだ。サイン済みのブロマイドが入った直筆の手紙も届いた。僕を……興奮して躍り上がりそうになることだが、僕をアイドルとして成功することができた理由の一つだと言ってくれていた。僕がいたからこそ、何くそ負けるかという気持ちでひたむきに頑張れたのだ、と彼女は書いていた。僕は逆立ちしたって彼女に太刀打ちできる存在などではないのだが、那珂ちゃんが以前に送ってくれた手紙にあった通り、僕をライバルだと考えていてくれたなら、ファンとしてこれよりも喜ばしいことはない。

 

 手紙やブロマイドの入っていた封筒には、ライブへの無条件入場許可証なるものも同封されていたが、これは那珂ちゃんの古参ファンの一人として、僕の私物入れに封印させて貰った。世界に彼女のファンは沢山いる。僕はそういう人々と正々堂々、チケットを巡って争い、勝利して、ライブを見たいのだ。たまたま僕が那珂ちゃんと関わりがあったからって、それを使って苦労もなしに彼女のライブを見るというのは、いささか行うにたえない悪事であるように思われた。とはいえ言うまでもなく、那珂ちゃんの厚意自体には感動したものだ。いつか考えが変わったら、使うかもしれない。

 

 融和派深海棲艦と融和派艦娘が同盟者として加わったことで、日本海軍は最初こそ少々の混乱を避けられなかったが、それが終わると圧倒的な勢力を獲得した。誰にも疑問符をつけさせない、世界一の海軍力だ。法律も変わり、融和派であるというだけでは処罰されなくなった。また、軍縮も始まった。折角大勢力になったのに、と僕は思ったが、人々は戦後を見据え始めたのだ。それは素直に嬉しかった。戦後が来るのだ。きっと誰も、自分が生きている間に見られるとは思っていなかったものが、それが来る。国民の消費は増加し、経済は活発化した。雇用状況は良好だ。復員省の発表によれば、退役艦娘や退役一般軍人たちの働き口は足りないどころか、より取り見取りの引く手数多だという。他にも、企業は政府と軍に生産体制を戦時から平時へ変えるように働きかけているとか、内陸国から沿岸国家へ支援金が出されるなんてことをニュースでやっていた。後は、ベビーブームが近々訪れる見通しだそうだ。結構なことだ。僕もそのブームに乗りたかった。

 

 ニュースでやっていたのは国内のことだけではない。世界各国で深海棲艦と人類の融和が始まっていた。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ロシア、中国、韓国、インド、オーストラリア……今挙げられなかった国々でもゆっくりと、だが着実に、人類と深海棲艦は共に生きるということを学び、互いの関係をよりよいものへと変えていった。これは多くのことに当てはまることだが、ゆっくりやるのが、とどのつまりは最速の方法なのだ。

 

 そしてもちろん、変わったのは僕もだった。入隊当初は世界唯一の男性艦娘。後には人類の裏切り者にして脱走者。でも結局は僕が犯罪者だという記録は抹消され、晴れて無罪放免になり、称号も「人類と深海棲艦の融和に尽力した世界唯一の男性艦娘」になった。僕が実際にやったことと比べると、ややスケールダウンされた表現だ。

 

 これは提督と赤城が共謀して(というのは言いすぎだが、僕は彼女たちに対して公平でいるつもりはない。何があろうとだ)僕のやったことの幾らかを自分たちの手柄にしてしまったからだった。赤城は立場を強化できてハッピー、提督は昇進の陳情時に具申する功績が増えてハッピーという訳だ。その上、たとえ僕が何か言おうとも、今の彼女たちには僕を黙らせるだけの政治的な力があった。手に負えないろくでなしどもだ。僕は時々、武蔵の排撃班に加わって赤城と提督を始末していたら世の中の為になったんじゃないかな、と考えることさえある。でも、業績を横取りされたお陰でそんなに世間の注目が集まらなかったのだとすれば、感謝するべきなのだろうか。いや、それは胸がむかついてくる考えだ。本気にするに値しないだろう。

 

 政府と軍は深海棲艦たちの協力を得て、彼女らとのもっとはっきりした意思疎通方法を開発した。妖精たちの謎技術がここでも役に立ったらしいが、これで僕は完全に何の特別さもない、単に男だというだけの艦娘になってしまった。やはり世間が僕に関心を失ったのは、提督たちが業績を奪ったからのみではないのだろう。ま、いい。軍の研究員たちに体を刻まれたりする恐れもなくなったし。それに理性的に考えれば、注目を浴びたくないと考えるタイプの人間は、注目を浴びるべきではないのだ。提督や赤城のようにそうやって世間に認められたりして、何か成し遂げたい人物が脚光を浴びるべきなのである。だからって彼女たちがやったあれこれを許した訳ではない。今無防備な状態で二人が目の前に現れたら、僕はパンチをすると思う。腰の入った、強烈な奴をだ。それからマウントだ。現れた吹雪秘書艦と電に殺されるまでだ。

 

 融和の幕開けとなったあの日から約一年の間、僕は軍に残らなければならなかった。軍は、退役させて下さいと言って書類を出したら明日から来なくていい、という組織ではない。でも、きちんと書式を守った書類を、必要なだけ必要な場所に提出したら、必ず返事をしてくれる組織だ。可不可は別として。彼らは僕に一年待てと言った。僕はその言葉を信じ、彼らは前言を撤回しなかった。僕は明後日には退役だ。というか、第五艦隊全体がそうだ。軍縮が始まった時、僕らは一緒に退役の嘆願書を出したのである。そして今日は、輸送艦隊の通る海域を警戒、敵がいれば掃討して安全を確保するという、現役最後の任務に相応しい簡単なものだった。が、予想外の強力な敵部隊に鉢合わせた。それでも僕らは壊滅的なダメージを受けながら、一人の轟沈も出さずに乗り切った。ところがこれだ。輸送艦隊は来ない。何ともしまらない、第五艦隊最後の任務だった。即応部隊として活躍していた頃が懐かしい。最近では、全くその手の任務はなくなった。人類がそれだけ優勢だということだ。今日のは例外に過ぎない。

 

 水平線を見つめ続ける僕と、その横に立ち続ける響の許へ、隼鷹が近づいてきた。彼女は擦り傷と小さな切り傷だらけで、しかも海水でずぶ濡れだったが、明るい笑顔を見せて言った。

 

「何してんだよ、行こうぜ」

 

 その手は、僕と響を待っている利根、北上、そして那智教官を示している。不知火先輩は吹雪秘書艦の抜けた第一艦隊に異動となり、筑摩は僕が旗艦に返り咲くのと時を同じくして、宿毛湾の原隊に復帰した。利根と涙の別れをした時には、僕まで貰い泣きしてしまったのを覚えている。僕は艦隊員たちに微笑み掛けてから「待たせたな」と謝った。帰途に就きながら、自分の耳を触る。そこには第五艦隊に戻ってきた時に那智教官が返してくれた、僕のピアスがある。昔はそれを触る度に、離れ離れになってしまった利根と北上を思い出したものだ。今ではそこにもう一人の女が加わったが、彼女のことを思う時には、北上たちのことを思い出す時ほど心安らかにはならなかった。だがあの短い時間に彼女と交わした濃厚なやり取りを思うにつけ、僕の唇はあの亀裂のような笑みを模倣してしまうのだった。

 

 研究所に戻ると、思った通りに夜だった。僕は夕食をたらふく食べ、北上と利根には大酒飲みには付き合ってられないと逃げられたので、隼鷹と那智教官と響を誘って四人で飲んで、ほどほどのところで切り上げて寝た。北上たちに大酒飲みだと言われたのが胸に響いたからではなく、翌日は昼前から僕の叙勲式だったからだ。最近になって唐突にねじ込まれたので、僕はこれを提督と赤城による「色々と黙っているように」というメッセージであると解釈した。彼女たちを刺激するようなことをするつもりはなかったが、くれるというのだから貰っておこう。武蔵のセーフハウスに置きっぱなしだった、響が飛行機から転落した時に貰ったあの勲章も手元に戻ってきていたが、勲章は一個より二個あった方がいいものである。提督みたいなことを言っているなとは思うが、退役後の恩給も増えるし、壁に掛ける飾りにも最適だ。

 

 朝早くに迎えの車が来た。なんと陸軍からだった。僕と僕が無理を言って上に随行を認可させた隼鷹は、海軍が陸軍の手を借りることがあるものなのか、陸軍が海軍の足なんかを務めるなんてことがあるものなのかと思いながら、何も考えずに車に乗った。車が動き始めると同時に、僕の目はバックミラーに釘付けになった。僕も大概、肌の色が白い方だが、それに勝る色白の艦娘二人が運転席と助手席に座っていたからだ。それはあきつ丸だった。白い服を着たあきつ丸と、黒い服を着たあきつ丸だ。見覚えがある気がした。僕は言葉を失い、隼鷹の手をぎゅっと握って海軍本部までがたがた震えていた。

 

 海軍本部に到着して僕と隼鷹が車から降りると、あきつ丸たちも車から降りた。びくりとする僕を見ても、彼女たちはくすりともしなかった。代わりにびしりと決まった陸軍式の敬礼をしてからにやりと笑って、懐から布に包まれた何かを取り出して僕に渡し、車に戻って行ってしまった。「何さ、それ?」と隼鷹が言う。僕はその包みを開く。中には折れた刀を材料に使って作ったのだろう無骨な短刀が、鞘に入って収められていた。武蔵といい、彼女たちといい、排撃班は気に入った人物に刃物を贈る伝統でもあるのか? でも僕はちょっとだけほっとして笑い、隼鷹に「いや、何でもないよ」と答えた。彼女はそれ以上、何も聞かないでいてくれた。真に得がたい、本当の友人だ。

 

 叙勲式は大したことなく終わり、帰りの車は海軍が出してくれた。荷物の整理も済ませていたし、帰っても何もやることはなかったが、友人たちと話す時間があるというのは最高だ。話せなくったっていい。近くにいて、息遣いを感じるだけで安心する。そうだ、僕は戦争がほとんど終わったというのに、小さな恐怖を感じていた。十五歳で軍に入った。僕は今十九歳だ。希望する退役艦娘は特設の高校に通うことができるが、そんなことは今はいい。僕は軍の中で四年過ごした。四年、僕の知らない時間が軍の外で過ぎていった。今、僕は世間知らずだ。特設の高校に通っている間に、社会に慣れなくてはいけない。それが怖い。できるかどうか、自信がないのだ。

 

 響は大学に行くという。利根は特設高校に行くか、一般の高校に行くか迷っている。北上は大井と一緒に呉の特設高校へ行くらしい。教官は秘密だと言って、教えてくれなかった。隼鷹は知り合いから声が掛かっているそうで、軍をやめたら早速社会人として働くとか。僕は彼女が何歳なのか聞きたかったが、どうにか我慢できた。

 

 第五艦隊はばらばらになる。僕は一人になる。そうなってしまえば教官とも隼鷹とも響とも利根や北上とも、もう年に何回会うことがあるだろうか、想像もできない。親と別れて暮らすようになった時さえ、こんなに寂しくは思わなかった。彼女たちは僕の、経験で結ばれた姉妹なのだ。同胞愛と凄惨な経験によって絆を培った、親兄弟よりも深く結ばれた家族なのだ。両親が聞いたら怒るかもしれないが、僕はそう思う。引き止めたいと思う。一緒に高校に行こう、大学に行こう、就職先も一緒にしよう、と言いたくなる。けれど、僕はそうしない。僕は彼女たちの兄弟であり、友人だ。成功と健康を祈って送り出すのが僕の務めであって、自分の寂しさを理由に縛りつけるのは彼女たちが僕に惜しみなく向けてくれた友愛の情に対する裏切りだ。絶対にしたくないと僕が願う大逆だ。

 

 頭ではそう分かっているが、憂鬱な気分だった。僕は隼鷹を部屋に誘った。昼間っから飲もうぜ、という身もふたもない誘い文句で、断られても仕方ないものだったが、隼鷹はそうしなかった。多分、次に何が起こるか知っていたのだ。僕は施錠した自分の部屋に入ろうとして、うっかり開錠前にドアノブを捻った。そうすると、ドアノブは鍵が掛かっていない状態だということを僕に伝えてくれた。きちんと鍵をしたつもりだったのだが、朝が早かったから寝ぼけでもしていたのかな、と思いながらドアを開け、中に入る──途端に何本もの手が伸びてきて、僕を部屋の真ん中に押し倒した。僕は反射的に暴れ、僕を押さえつけようとする誰かの顔を殴りつけようとした。でもできなかった。それが誰だか分かってしまったからだ。那智教官、響、不知火先輩、利根、北上。第五艦隊のみんなだ。僕は笑った。陽気な悪戯だが、那智教官まで加わるとは思わなかった。

 

 が、笑いは固まった。那智教官と響が取り出したものがその理由だった。彼女たちはそれぞれ手にガストーチと、反転した“2.S.T.R.F.”と読める字の掘り込んである板をくっつけた二つの棒を持っていたからだ。それは、二特技研の艦娘であると認められた証だ。長門と二人で死地を乗り切ったあの時に、僕と隼鷹以外はみんな持っていると言われたものだ。隼鷹もまた僕の横に押さえつけられて寝転がる。「何処に押そうか?」響が教官に言う。教官が答える。「鎖骨の下にしよう。服を剥げ」遠慮のない手が、僕と隼鷹の服をはだけさせる。僕はこれから来る痛みと喜びに耐える為に、隼鷹へ手を伸ばす。彼女はその手をしっかりと握った。僕は彼女に微笑み掛けた。その瞬間、二つの痛みが僕を襲った。一つは鎖骨の下で肌が焼かれる痛み。もう一つは、隼鷹が握り締める僕の手に与えられる痛みだ。けど、僕だって隼鷹の手を痛めつけていたのだろうから、彼女に文句を言うことはできない。

 

 肉の焼ける臭いが立ち込める。押しつけられた板が外される。友人たちが僕と隼鷹に殺到する。那智教官は熱烈な抱擁を僕に与えてくれた。彼女は「これでずっと一緒だ」と囁き、親愛の情を込めて額に唇を押しつけてくれた。これに耐えられる男はいない。僕は自尊心など忘れて泣き出してしまったが、幸せな気持ちだった。利根と北上は彼女たちが押した場所を教えてくれた。利根は手首、北上は何ともはや、舌の上だった。べろりと舌を突き出した北上の姿は扇情的だったが、味覚に影響はないのかと思って訊ねると、特に問題はないらしい。そういうものなのか、と僕は変に納得した。響はいつものように、落ち着いた態度で僕と隼鷹を祝福してから、僕らがまだ手を繋いだままでいることをからかうように指摘した。僕らは笑って、手を離した。寂しさは嘘のように消えていた。

 

 その夜、僕らは現役艦娘人生最後の大宴会を開いた。まだ退役しない、または職業軍人の道を選ぶ第一・第二艦隊の艦娘たちや、夕張や明石さん、それに第四艦隊のひよっこたちも交えて行われたそれは、これまでで最も賑やかで楽しいものになった。伊勢は最後まで先輩らしい態度を貫き、僕や隼鷹の未来における成功を祈っていると言ってくれた。日向は大宴会の料理の大半を作ってくれた。伊勢と二人で退役したら、そういう道に進むそうだ。日向が料理、伊勢が接客だと言っていた。きっと人気の店になるだろう。長門は那智教官から離れなかった。ひどく酔っ払って教官を捕まえると、膝の上に座らせていつまでも抱きしめたままでいた。妙高さんは近々退役するつもりだそうで、手紙を送ってくれと言って実家の住所を教えてくれた。彼女には細々としたことから戦闘までお世話になったから、僕は死ぬまで折を見ては彼女に葉書や手紙を送り続けるだろう。不知火先輩は今晩に限って泣き上戸になった。先輩はこの評価を気に入らないだろうが、可愛らしかった。彼女の涙を拭った僕の袖を、切り取って保存するべきかと思ったほどだ。

 

 全てが素晴らしい夜だった。第五艦隊だけではない、僕らは、この研究所の艦娘たちは、みなが一つの家族だった。不和はあれども、絆もまたあったのだ。

 

 最後の一献が飲みつくされ、最後の一皿が片付けられた後、僕はふらふらになっていた。付き添ってくれたのは響だった。彼女も顔が赤かったが、僕よりは余裕が残っているようだった。響は部屋まで僕を導いてくれた。僕は礼を言って、部屋の水差しからコップに水を注ぎ、差し出した。響は言った。「何に乾杯する?」「武蔵に。あの性格破綻者の大戦艦に」僕の答えを聞いた響は、笑ってその後を続けた。

 

「いないと寂しい、私たちの友人に!」

 

 喉を水が通っていく。ぬるいが、飲酒の後には水分を取らなくてはならない。ベッドに腰を下ろす。終わった。明日、僕は海軍を去る。海軍での日々は終わる。退役する艦娘が多い為、艦娘の体から元の人間の肉体に戻るのは一ヶ月待ちだが、僕たちはみんな、短くない時間を過ごしたこの場所を離れるのだ。自覚はなくとも、その為にこそ、僕を含む艦娘たちは戦ってきたのではないか? だとすればこの胸の痛みは、理屈に合わないものだった。ただ僕は、自分の人生における、何か大切な時期が終わった気がしていた。こんな体験は、もう残りの一生、起こり得ないだろう。それがこの胸の痛みの正体なのだ。この推測が正しいかどうかは分からなかったが、僕は自分をそう納得させた。

 

 そのことに罪悪感や、もやもやとしたものを覚えることはなかった。分からないことなんて、沢山ある。たとえば、どうして教官は僕と同じように妖精なしで艤装を動かせたのか? 彼女は融和派との関わりなんかなかった。深海棲艦とも通常の艦娘として以上の付き合いはなかった筈だ。でもできた。僕はある時、勇気を出して教官に聞いてみたが、彼女も分からないようだった。ある時期を境にできるようになったらしいが、その明確な起こりがいつなのかは思い当たらない、と彼女は言った。嘘ではないだろう。まあ、答えを知りたいとは思わない。僕は艦娘であって、真実の探求者ではない。ちゃんとした理由はあるのだろうが、それが僕に関係してこないなら気にはしない。どだい、世界の全てを知ることなど叶わないのだ。想像してみるしかない事柄だって、ある。

 

 響と僕は二、三のどうでもいい言葉を交わし、響は「寝るよ」と言って戸口へ向かった。僕は彼女の背中を見送ろうとしたが、不意に響は退室しようと開けたドアを閉めて、悪戯っぽく言った。

 

「私の焼印、まだ見たいかい?」

 

 翌日、僕たち第五艦隊は軍の寄越してくれたバスで研究所を去った。乗客は僕らだけで、運転手は人間だった。あきつ丸じゃなくてよかった。中佐によると、まとめた荷物は後日、家の方に送ってくれるそうだ。家族のいない響はどうするのか、そもそも家があるのかと心配していたが、軍が、というより提督が用意してくれたと響本人から聞いた。彼女が融和派と一緒にいたということで軍からちょっかいを出されないように庇ってくれた、という話も耳にしたことがあるし、あの人も身内には甘いのかもしれない。僕が身内だと認めて貰えなかっただけで。どちらにせよ、家なき子になることがないなら僕はそれでいい。

 

 僕たちは別れを惜しみ、話をし合った。隼鷹と僕は広報部隊時代の話をして、大いに盛り上がった。那智教官は今だからできる第二艦隊の暴露話をしたが、自分の関わる話はどれだけせっついてもしてくれなかった。何をしたんだろう、怖いと思う。利根と北上は僕がいない間のことで、まだ話していなかったとっておきのネタを披露してくれた。楽しかったが、僕もそこにいたかったなあ、と感じずにはいられなかった。響は融和派の話を少しした。僕も彼女も赤城たちから口止めされている部分が多かったし、この一年で話せるだけのことはほぼ話しきっていたが、それでも響の語りにはみんなの興味を惹く力があった。

 

 最初にバスを降りたのは利根と北上だった。「あ、吾輩はここまでじゃの。北上、お主もじゃろ?」「ほんとだー、いやあ、早いねえ……んじゃま、元気でね、みんなさ」思えばこの二人は第五艦隊に入ってからというもの、僕を差し置いていつも二人セットで動いていたように思う。だからって、僕と彼女たちが友達じゃなくなった訳じゃなかった。僕は北上に手を差し出した。彼女はにへらと笑い、訓練所で別れた時のような握手をした。次いで、利根にも。彼女は力強く僕の手を握った。彼女は言った。「ただの同級生同士だった吾輩らが、こんな風に関わるとはの?」「奇縁って奴さ、利根。元気で」「うむ、元気で」バスを降りていくのを見送り、外に出た二人に窓から手を振って、段々と遠ざかっていく姿を目に焼き付ける。

 

 次に、隼鷹と響が降りた。二人とも同じところで降りるとは思っていなかったらしく、嬉しい驚きに頬を緩めていた。僕は順番に二人を抱きしめ、近い内に連絡を取り合って、会える者たちだけででも集まろうと持ちかけた。二人は言うまでもなく、それに賛成した。バスを降りた彼女たちの姿が路地の向こう側に消えた後、僕は自分が思ったより悲しみを覚えていないということを発見した。正確には、それが生まれそうになる度に、鎖骨の下でうずくものが、彼女たちがそこにいるということを教えてくれるのだ。だから、寂しくならなかった。離れていても、僕たちの関係がなくなってしまうことはない。

 

 最後に、僕と那智教官だった。これは前に彼女と話した時にお互い知っていたので、隼鷹と響のようにサプライズとはならなかった。それに、降りるところは同じだったが目指す方向は逆だったのだ。バスを降り、那智教官に深々と礼をしてから、また泣き出してしまう前にその場を去ろうとすると、教官は僕を呼び止めた。

 

「貴様は、これからどうするつもりだ?」

 

 何も考えずに答える。

 

「両親が旅行に行こうって、この前の手紙で誘ってくれました。父の故郷に行こうかって話ですよ、随分切符代も安くなりましたからね」

「ほう、いいじゃないか。何処なんだ?」

「ああ、西海岸です。具体的な場所は知りませんが。ちょっと凄いでしょう?」

「西海岸?」※128

 

 僕が自分の愚かさではなく、ただの言葉で教官を驚かせた数少ない実例の一つが、これだった。彼女は僕を下から上まで眺めてから、「そう言われれば、それらしいな」と言った。そうして僕が相槌を打つ前に、教官は少し笑って「では、またいずれ」と言い残し、さっさと行ってしまった。その後姿に、僕はもう一度頭を下げる。彼女が、艦娘としての僕の全てを作り上げた。南方棲戦鬼を仕留めた最後の一撃も、そこに至るまでの全ての戦いを生きて終えられたのも、彼女がいたからこそなのだ。涙が目に溜まる。頭を上げる。教官はもういなかった。くるりと向きを変えて、歩き始める。僕は詩を思い出していた。船人は帰りぬ、海より帰りぬ(Home is the sailor, home from the sea.)。戦争は終わった。さあ、家に帰ろう。特設でもそうじゃなくてもいい、学校に行こう。日々を送ろう。武器を下ろして、代わりの何かを持って。

 

 ああ、これからどんな人生になっていくのだろう? 僕は期待を胸に、あらゆる未来とあらゆる幸福を思い描いた。それは確かに、僕がこれから歩いていく先にあるものなのだ──何たって、僕はまだ二十歳にもなっていなかったんだからな。※129

 



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注釈集など
注釈集


 「歴史的補遺」までの注釈を書き足しました。見落とした部分があれば今後も追加の予定です。

(2015.12.28)


 申し訳ありません、活動報告で予め申し上げておりました通り、今週の更新はできませんでした。お詫びと言ってはなんですが、完結後に載せるつもりだった注釈集(「融和」編まで)などをアップしておきます。
 なにとぞご容赦くださいませ。

(2015.12.12)


注:注釈集の性質上、当然ながら(現段階での最新話までの)ネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Гарри(ガリー)

 英語で言うところのHarryに相当する。PNを何にしようか迷っている時に丁度、「Король и Шут(カローリ・イ・シュート)」(「王と道化」の意)というロシアンロックバンドの『Месть Гарри(ミェースチ・ガリー)』(「ガリーの復讐」)という歌が流れたのでこれに決まった。なおこの歌の最後にはボーカルが搾り出すような声で「Гарри - сволочь(スヴォーラチ)...」(「ガリー、このクソ野郎……」)と言う。作者にぴったり。

 

・Home is the sailor, home from the sea.

 ロバート・ルイス・スティーブンソンによる詩『レクイエム』より。以下原文と私訳

 

UNDER the wide and starry sky

 Dig the grave and let me lie:

Glad did I live and gladly die,

 And I laid me down with a will.

遥かに広がる星空の下

 墓穴(はかあな)を掘って、私を寝かせてくれ

楽しく生きて、楽しく死にゆく

  ここに横たわるのも望んでこそ

 

This be the verse you 'grave for me:

 Here he lies where he long'd to be;

Home is the sailor, home from the sea,

 And the hunter home from the hill.

私の墓にはこう刻んで欲しい

 “この者、願い通りにここに眠る

船乗りは帰ってきた 海を越えて帰ってきた

 そして狩人は丘を越えて帰ってきた”

 

▼   ▼   ▼

 

 

*「艦娘訓練所」編

 

※1 ロバート・ルイス・スティーブンソン

 1850-1894。スコットランド、エディンバラ出身の小説家。『宝島』(1883)『ジキル博士とハイド氏』(1886)で非常に有名。

 

※2 矢野徹

 1923-2004。SF作家、翻訳家。太平洋戦争時には学徒動員により騎兵連隊に所属。階級は軍曹。ハインラインの『宇宙の戦士』(1959)『月は無慈悲な夜の女王』(1966)やフランク・ハーバートによる『デューン』シリーズ(1965-)などの翻訳で知られる。また、上述のスティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』も訳している。

 

※3 「普遍的真実は存在するだろうか?」

 ゲーム『ウィッチャー3』より。面白かったから2買ったら割とつらかった。

 

※4 「今のは敵の巡洋艦がよく使う砲だ。発砲音をしっかりと覚えておけ」

 映画『ハートブレイク・リッジ』(1986)より。もう三十年前か……。

 

※5 『何かが私には有益だが家族には有害であることが分かれば(中略)私はそれを罪悪だと考える』

 フランスの哲学者シャルル・ド・モンテスキューの『随想録』より。断片741番。

 

▼   ▼   ▼

 

 

*「広報部隊」編

 

※6 アルセーニイ・タルコフスキー

 1907-1989。ウクライナの著名な詩人。映画『僕の村は戦場だった』(1962)『惑星ソラリス』(1972)『ストーカー』(1979)で知られるアンドレイ・タルコフスキーの父。なおアルセーニイはアンドレイの幼少期に妻と子を捨てて別の家庭を作ったのだが、アンドレイの映画にはその父の詩がしょっちゅう出てくるらしい(筆者は『ストーカー』しか観てない)。やや切ない。

 

※7 来月も聞くだろうね。再来月も

 ハインラインの『太陽系帝国の危機』(1956)あるいは『ダブル・スター』(邦題が改訳されたもので、中身は同一。原題は“Double Star”)より。

 

※8 五十路を迎えた光の君

 女性初のアカデミー・フランセーズ会員としても有名なフランスの小説家、マルグリット・ユルスナール(1903-1987)の『東方綺譚』に収録されている短編『源氏の君の最後の恋(Le dernier amour du prince Genghi)』より。

 

※9 ポール・ファッセル

 1924-2012。歴史家、社会評論家。ポール・フセルとも。ハーバード出身。第二次大戦でヨーロッパ戦線に従軍。著書に『誰にも書けなかった戦争の現実』(1989)など。

 

※10 前線における兵士の精神状態を次の三段階に分類した。

 ポール・ファッセルの『誰にも書けなかった戦争の現実』より。

 

 

▼   ▼   ▼

 

 

*「第二特殊戦技研究所」編

 

※11 茫漠たる灰の海が広がり 彼方に波が暴れる

 この民謡のタイトルはРаскинулось море широко(茫漠たる灰の海が広がり)。個人的にはレオニート・ウチョーソフによって歌われたバージョンが最高。Youtubeで“Леонид Утёсов Раскинулось море широко”で検索したら出てくる。

 

※12 「うまいワインだ!」

 ボニー・Mによる名曲『怪僧ラスプーチン』より。歌の最後の方に毒入りワイン(史実では菓子)を渡されたラスプーチンが飲み干したが平気だった、という歌詞がある。ちなみに作中の逸話が元ネタの歌の通りに進むとすると長門はこの後、死ぬまで撃たれる。史実通りならそれプラス簀巻(すま)きにされて川に放り込まれる。そして溺死する。

 

※13 Старая Москва

 「スターラヤ・マスクヴァ」は、ウォッカの銘柄の一つ。モスクワ・クリスタル蒸留所。あっさりとした味わい。日本ではほとんど手に入らないと思われる。

 

※14 Столичная

 「スタリーチナヤ」は、ウォッカの銘柄の一つ。こちらは日本でも容易に手に入れられる。甘みが強く、いわゆるプレミアム・ウォッカ(より高価で、洗練された味のウォッカ)に分類されるものと比べるとアルコール臭がやや目立つ。上記のクリスタル蒸留所も製造に関わっているが、大本はSPI。その説明は次の項に譲る。

 

※15 SPI

 Союзплодимпорт(サユースプロートイーンパルト)の略称СПИをラテン字転写したもの。会社名なので日本語に訳さずそのまま呼ぶのが正しいと見られる。一応追記しておくと、Союз=Union、плод=Fruit、импорт=importに当たる。飲み物だけじゃなくてニシンの缶詰とか売ってるらしい。

 

※16 Казначейская

 「カズナチェイスカヤ」は、SPIの製造・販売するウォッカの一つ。ロシアでもちょっと見つけにくい。バルト三国方面に行けば見つけやすいとの情報。日本で手に入れられる店があったら誰か教えて下さい。昔あるロシア人にグラス半分だけ飲ませて貰ったことがあるんだけどそれ以来国内では何処を探しても見つけられないんです。

 

※17 キャラメルみたいに甘いリキュール

 「バタースコッチキャラメル」というリキュールが実在。デ・カイパー社などから発売されている。ホットミルクに混ぜて飲むとおいしい。

 

※18 僕の矮小な考えなど何らのオーソリティーにも値しない。(中略)滝にでも投げ込んでしまえ

 1903年に華厳滝から身を投げて自殺した学生、藤村操の遺書「巌頭之感」より。以下は部分的抜粋。「ホレーショの哲學(つい)に何等のオーソリチィーを(あたい)するものぞ」。なおこれは「長門」編の注釈でも触れているシェイクスピアの『ハムレット』のセリフを下敷きにしたものだが、藤村は該当セリフを誤訳したことでも有名である。

 

※19 十九世紀に医者が消毒することを覚える

 「消毒」という考えはセンメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ(1818-1865)によって最初に提唱された。彼は排斥された挙句、集団(他の医者たち)からの殴打を受けて死亡した。当時「清潔さ」を重要視した人物には他にフローレンス・ナイチンゲールなどがいる。

 

※20 信じる者は救われる

 この言葉にぴったり合う聖書の一節は存在しないと思われる。最も近いものでマルコ福音書第十六章十六節「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(口語訳)。幾つかの賛美歌にはぴったり同じフレーズが使われている。

 

※21 フランス人の神と信仰に対する理性的・数学的な判断

 「パスカルの賭け」のこと。神を科学における条件として矮小化したデカルトと違い、パスカルは理性と信仰を両立させた哲学者であった。

 

※22 Вызов принят

 「いいだろう」とルビを振っているが、“Challenge Accepted(その挑戦、受けた).”の方が(同じ表現を使っているということもあって、ニュアンス的にも)より正確な訳となる。

 

※23 頬をぺちぺちしてやってもいいが、榛名さんによれば美容によくないらしい。

 化粧水を肌になじませる時に行うパッティングでさえ、肌を傷つける原因となることがある。正確な理解が必要である。

 

※24 ダリ

 サルヴァドール・ダリ(1904-1989)。スペインの画家。シュールレアリスムの大家。その中で描かれた印象的なモチーフにちなんで「柔らかい時計」とも呼ばれる絵画『記憶の固執』で有名。

 

※25 あれができるのは何もお前だけじゃないんだぞ

 長門編・第五艦隊編への布石。

 

※26 赤線地帯

 1958年に売春防止法が成立するまで日本に存在した、公認で売春が行われていた地域のこと。

 

※27 若きウェルテル

 ゲーテの名作『若きウェルテルの悩み』(1774)より。主人公ウェルテルは人妻への失恋を原因として拳銃自殺をする。なお発表後、ウェルテルを真似て自殺する者が多数現れたという。

 

※28 古代ローマでは、市民権は軍務に就けるものしか得ることができなかった。

 少なくとも、紀元前一世紀にガイウス・マリウスの軍制改革によって市民権の取得条件から兵役義務が免除される前の共和政ローマではそうだった。

 

 

▼   ▼   ▼

 

 

*「“六番”」編

 

※29 ウィリアム・ブレイク

 1757-1827。イギリスの詩人、画家。「古代あの足が(And did those feet in ancient time,)」で有名な預言詩『ミルトン』で知られる。アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』(1956)のタイトルはブレイクの詩に由来する。なお、ここで引用されている詩は『狂気の歌』である。

 

※30 賭け

 事前に日向が歓迎会の為に提督に人数分の外出許可を申請する→その際の会話で提督が会場(店)を聞き出す(有事の際に連絡先が分からないと困るとか理由をつけて)→前もって関係各所(店・憲兵隊・賭けに乗りそうな連中)に連絡→喧嘩発生(本編で描かれているのはここと提督大勝利部分だけ)→憲兵隊、第一艦隊の護送中に提督へ連絡→憲兵隊への賄賂支払い(賭けに乗った連中から奪った参加費から捻出)→提督大勝利

 

 裏でこんな具合になっていました。

 

※31 短髪でボーイッシュな雰囲気のウェイトレス

 書き始めた時はこのウェイトレスは武蔵の仲間である最上の変装、という設定だった。

 

※32 「そうとも、これが私の悪徳さ。(中略)どんなに気分のいいものか!」

 エドモン・ロスタンの名作戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』(1897)より。映画版もある。1990年版がお勧め。

 

※33 「一九六九年以来、そんなスピリットは用意しておりません」

 イーグルスによる名曲『ホテル・カリフォルニア』(1977)より。

 

※34 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

 太宰治の名言とされる。

 

※35 憂鬱質

 ヒポクラテスの四体液説(人間の体内を流れる四つの体液のバランスによって病気が引き起こされる、という説)における四気質類型の一つ。黒胆汁が過剰な人間に発露すると考えられていた気質ないし体質を「黒胆汁質」と呼び、「憂鬱質」はその異名である。なお憂鬱質の人間において発露するとされる気質・体質は「非社交的で孤独、血色が悪く、心配性で陰気、独断的、他者を利用する、根に持つ、細かい、慎重、神経質、打算的、欲深い」などであり、ろくなものがない。

 

※36 「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」

 現在の浄土真宗本願寺派の礎を築き上げた、本願寺中興の祖、蓮如の書いた手紙(御文、御文章と呼ばれる)の五帖目第十六通「白骨」の章より。人の命の儚さを表した言葉。

 

※37 “Пофигу”を……スラヴ人に言わせれば、金も女も名誉も(中略)ただし酒は別だとか。

 元ネタはあの速水螺旋人も復習に使っているという(ソース:本人のTwitter;2013年2月17日0:35)論文『越境する悪態―ロシア語の被検閲言語、マットの修辞的空間の人類学的考察―』に書かれていたアネクドート。実は酒と女が逆。自分のマット(ロシア語スラング)知識はこの論文+論文の作者からの直接講義で培われた。ありがとう先生。

 

※38 吊るされた男

 タロットの大アルカナに属する一枚。意味は正位置で「忍耐・奉仕・試練」など。一方、逆位置では「徒労・逃避・犠牲」などになる。

 

※39 あの方々は真に我が巌、我がやぐら

 詩篇第十八篇二節「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」(口語訳)より。

 

※40 「あなたは嘘をついておいでだ!」

 アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』より。

 

※41 「車とはタイヤのことなのか? エンジンのことなのか? シートのことなのか? ホイールのことなのか?」

 いわゆる仏教説話の一つである「ミリンダ王の問い」より。もちろん、エンジンやシートといった言葉がそのまま出てきたりはしないが。

 

※42 イェイツ

 ウィリアム・バトラー・イェイツのこと。1865-1939。アイルランドの詩人。秘密結社「黄金の夜明け団(ゴールデンドーン)」のメンバー。

 

※43 誇りある男は/死に直面すれども/それを恐れじ/死とは人の作りしものと/知ればこそなり

 イェイツの詩『Death』より。これは後半で、前半がある。後半の原文は以下の通り。

 

A great man in his pride

Confronting murderous men

Casts derision upon

Supersession of breath;

He knows death to the bone

Man has created death.

 

※44 「我々は生きているんじゃない。生き抜いているんだ。どうだ、そう言ってみると何となく励ましになるだろう?」

 いつのものだか忘れたが筆者がニューヨーク・タイムズだか何処だかの外字新聞で読んだロシアのゴルロヴォ村に関する記事で、村民が語った言葉……をうろ覚えで訳したもの。村民の発言(を英語訳したもの)は以下の通り。

 “We don't live, because you can't call it a life. We survive. But that is so much better than dying and something to be cheerful about.”

 (2002年3月12日発行のJapan Times掲載、Andrei Shukshinによる記事でした。:05032016発見)

 

※45 絶望の内に僕は死ぬ、僕は死ぬ、今ほど命を恋しく思うことはなかった!

 ジャコモ・プッチーニの歌劇『トスカ』において歌われるアリア「星は光りぬ(E lucevan le stelle)」より。

 

※46 I Can't Believe It's Not Butter!

 「これがバターじゃないなんて信じられない!」はアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアに存在したJ.H.フィルバート社が1979年に発売したバターの代用品。現在はJ.H.フィルバート社を買収したイギリスのユニリーバ社が販売している。ディロン・フランシスという歌手によるこの製品を元ネタにした同名の歌もある。

 

※47 “誰でもない”

 ホメロス『オデュッセイア』の第九歌より。主人公オデュッセウスは、彼が目を潰してやった人食い巨人に「私の名は“誰でもない”だ」と名乗る。この後、巨人は仲間である他の巨人たちに「誰に傷つけられたのだ」と聞かれるが、「“誰でもない”!」と答えたせいでオデュッセウスは(巨人たちには)復讐されずに済む。

 

※48 今の僕はクソみたいに怒り狂ってるぞ

 映画『ネットワーク』(1976)より。“I'M AS MAD AS HELL, AND I'M NOT GOING TO TAKE THIS ANYMORE!”

 

※49 消化器についての研究をする為に木の筒の中に肉を入れて飲み込んだイタリア人

 ラザロ・スパランツァーニ(1729-1799)。生物の自然発生説否定にも貢献した。

 

※50 自分で自分の腕の静脈から心臓にカテーテルを挿入したドイツ人

 ヴェルナー・フォルスマン(1904-1979)のこと。危険な実験をしたからという理由で病院を解雇されたが、お陰でノーベル賞を貰った。解雇した病院は現在彼の名を冠しているという。

 

※51 「たまに、数秒間ほど永遠の地獄を見るんだ」

 ヴィクトル・ペレーヴィン『ジェネレーション<P>』より。最近翻訳本が出たが3500円と高かった。でも訳者の人と知り合いなので買った。読んだ。帯に「現代ロシアで最も支持される作家ペレーヴィン」と書いてあるが絶対に信じない。唯一好きなページは134ページ。もし万が一店頭でこの本を見ることがあったらそこだけ立ち読みしたらいいと思う。このセリフの元ネタは86ページ辺り。

 

 

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*「第二艦隊」&「長門」編

 

※52 カトゥルス

 ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス。紀元前84年頃-紀元前54年頃。古代ローマの詩人。恋愛詩の分野において著名。ちなみに「第二艦隊」編冒頭では『歌集』第5番からの引用で、後の「長門」編冒頭では第85番から引用されている。

 

※53 浦風

 どうしても出したかったのでちらっと出した。満足している。ただ調子に乗って広島弁(安芸弁)を濃くしすぎたかもしれない。

 

※54 ТЫ

 ロシア語では「ты(ティ)(『君』)」と「вы(ヴィ)(『あなた』)」は意味的にも文法的にも厳密に区別されている。また、親しくない相手に「君」と呼びかけることは、当然ながら失礼に当たる。なお、выは『あなたがた』『君たち』の意味も持ちうる。この点においては英語のYouと似ていると言えよう。

 

※55 そして向かい合い、グラスを持った腕を組み合わせ、そのまま飲み干した。

 ロシア語で“Брудершафт(ブルーデルシャフト)”と呼ばれる儀式。この儀式を遂行することで、二人の人物がより親しい段階に移行する(Вы(ヴィ)関係からТы(ティ)関係へ移行し、互いに「(Ты)」と呼び合えるようになる)。

 その名が示す通りドイツの文化がロシアに流入したもの。飲み干した後には互いにキスをする。その際、キスをする場所は唇が正式であるが、頬でも構わない。なお現代では別段、Ты関係に移行する上でこの儀式は必要ではない。

 

※56 キスには鼻が邪魔になる

 ヘミングウェイの有名な小説『誰がために鐘は鳴る』より。“Where do the noses go? I always wondered where the noses would go.”“Look, turn thy head.”「(キスの時)鼻はどうなるの? 邪魔になるんじゃないかってあたしいっつも思ってたのよ」「ねえ、顔を傾けてごらんよ」

 

※57 僕はこの式の存在、艦娘にとっての死そのものを(中略)焼き捨てたい衝動に駆られた

 備考→主人公に対する一部の艦娘たちの態度

 

※58 この戦争の終わりを見た艦娘は死んだ者たちだけだった。

 ジョージ・サンタヤナ(哲学者;1863ー1952)の『Soliloquies in England and Later Soliloquies.』より。「死者だけが戦争の終わりを見た」(原文は“ Only the dead have seen the end of war”)プラトンの言葉として誤って紹介されることが多い。筆者もごく最近まで勘違いしていた。誰が悪いって多分リドリー・スコットとマッカーサー。

 

※59 月面にマスドライバーを設置し(中略)月の岩を投げつける

 ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』より。なお、ハインラインは1934年に結核を患って除隊するが、それまでに海軍中尉になった。一方兄弟はミズーリ州軍少将まで昇った。

 

※60無償の行為

 利害に関係なく、動機もなく行われる行為。善悪も関係ない。二十世紀におけるフランスの大作家の一人アンドレ・ジッドが彼の作品の一つで主題として取り上げている。

 

※61 この天と地の間にはいわゆる哲学などが思いもしないようなものが存在するのだ

 シェイクスピアの『ハムレット』より。原文は“There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy.”

 

※62 罰則規定によると、その罪の報いは死だけだ

 ローマ人への手紙第六章二十三節「罪の支払う報酬は死である。」(口語訳) ちなみに、英語で定冠詞付きの“よい本(The Good Book)”はしばしば聖書のことを指す。

 

※63 偽りの太陽

 ロシア映画『太陽に灼かれて』(1994)の主題歌として有名な曲“Утомлённое солнце(疲れた太陽)”の冒頭一節より。

 

※64 ДружбаではなくСлужба

 カタカナで発音を書くと、「友情(Дружба)」は「ドゥルージバ」、「義務(Служба)」は「スルージバ」となって韻を踏む。

 

※65 ヴェルギリウス

 プブリウス・ヴェルギリウス・マロのこと。紀元前70年-紀元前19年。『農耕詩』『アエネーイス』で著名。『神曲』の作者であるダンテ(十三世紀の人物)にも大きな影響を与えた。

 

 

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*「第五艦隊」編

 

※66 イワン・ツルゲーネフ

 1818-1883。オリョールの貴族の次男。詩人、小説家。十九世紀ロシア文学における三大巨頭が一(他二人はドストエフスキーとトルストイ。プーシキンは別格)だが、日本ではやや影が薄い。『初恋』が有名。「第五艦隊」編冒頭で引用されているのは彼の散文詩『ロシア語』である。

 

※67 SAR

 Search And Rescue(捜索救難)の頭字語。読んで字のごとく。

 

※68 旗艦に支給される桜花を象った特別の記章

 原作ゲームで編成画面を開いた時に、旗艦だけ「1」の数字のバックに桜花のマークが付いていることに注目した。

 

※69 その眼差しと同じぐらい冷ややかな右手

 その右手の持ち主が誰かということをその「冷ややか」さが暗示している。

 

※70明石さんに五分間だ

 ロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』。主人公ジョニーの小隊軍曹であるジェラル軍曹のセリフ「従軍牧師に五分間だ」から。

 

※71 アレクサンドル・プーシキン

 アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン。1799-1837。詩人、小説家。文学のみならず、ロシア語そのものに大きな影響を与えた。代表作は多すぎるので『青銅の騎士』と『エヴゲーニイ・オネーギン』としておく。ここで引用されているのは『***へ宛てて』(原題は『К ***』)。『アンナ・ケルンへ』の名でも知られる。

 

※72 QRF

 Quick Reaction Force(即応部隊)。

 

※73 CSAR

 Combat Search And Rescue(戦闘捜索救難)の頭字語。敵性地域に取り残された自軍や友軍将兵を救助すること。

 

※74 ミネソタの冬

 ミネソタは、アメリカ合衆国中西部の北に位置し、カナダと接している州の一つ。いわゆる大陸性気候に属しており、冬寒く夏暑い。過去最低気温は96年の-51℃。最高気温は36年の46℃であった。厳冬から「アメリカの冷蔵庫」と呼ばれている。なおアラスカ州は「アメリカの冷凍庫」扱いの模様。

 

※75 「ラスティ・ネイル。リンスタイプで、ウィスキーはアイラモルトを。ドランブイとウィスキーの比率は一対三。氷はクラッシュアイスで」

 ラスティ・ネイルはドランブイによる甘みが特徴的なカクテルの一つ。ここでの「僕」は大人の男気取りで、リンスタイプ……つまり「グラスにドランブイを入れてステアしてから捨て、そこにウィスキーを注ぐ」という、甘さが非常に控えめになる作り方を指定している。(そして慣れていないのでその後うっかり比率まで指示している)そこまでならまだちょっとした背伸びで済むのだが、最後に氷を溶けやすいクラッシュアイスと指定して、ウィスキーがより早く薄まって飲みやすくなるようにしている辺り、どうにも格好をつけきれていない。

 

※76 「ウォッカ」

 「僕」など比べ物にならないほどの、毅然とした、いとも敬愛すべき親愛なる真のロシア的精神の持ち主によるその魂の音声的発露。

 

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*「洋上」編

 

※77 ウィリアム・アーネスト・ヘンリー

 1849-1903。イギリスの詩人、評論家。イングランド、グロスター出身。若い頃に結核によって足の切除を余儀なくされた。なお「洋上」編の冒頭で引用されているのは、彼の最も有名な作品と言えるであろう『インヴィクタス』である。また彼は本作タイトルの元ネタの作者であるロバート・ルイス・スティーブンソンの友人であり、『宝島』の著名なキャラクター、ジョン・シルバーのモデルでもある。

 

※78 ペンギンを非公式マスコット

 艦これユーザーの多くは猫とペンギンに特定の感情を抱く傾向があるという。

 

※79 Хрень

 ロシア語スラング「マット」で、男性器の意を持つ単語。ただし、その意味で最もポピュラーなのはХуй(フイ)であって、Хрень(フリェーニ)ではない、と思う。

 

※80 コルコバードの救世主像

 コルコバードのキリスト像は、ブラジル独立百周年を記念して、1922年から1931年にかけて建設された巨大な像である。リオデジャネイロに存在する。石鹸石でできているので当然白っぽいのだが、2009年にはイルミネーションでカラー化された。ターンごとの文化力+5。新たな社会制度採用に必要な文化力-10%。

 

※81 こちらに気づかないまま水平線と夜の闇の向こうへと消えていった。

 映画『史上最大の作戦』より。米軍落下傘兵の一隊とドイツ軍守備兵の一隊が、両者ともに上空の航空機に気を取られて、互いに気付かず真横を通り抜けていくシーンがある。

 

※82 『彼を信頼するものは、失望させられることがない』

 ローマ人への手紙第十章十一節。“聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。”(口語訳)

 

※83 『武器は、それを振るう腕よりは重要でない。腕は、それを導く精神よりは重要でない』

 アンドレ・ジッド『テゼ』より。正確には「武器は、それを持つ腕よりは重要ではない。そして腕は、それを導く理知的な意志よりも重要ではない」。

 

※84 彷徨うのはユダヤ人かオランダ人

 ユダヤ人→刑場へ引かれてゆくキリストを嘲った罰で最後の審判の日まで放浪を続ける運命を背負わされたユダヤ人の伝説より。

 オランダ人→ままならぬ風を受けて神を呪った結果神罰を受けたオランダ人船長の伝説より。フライング・ダッチマン。

 

※85 道を歩いている時に、ふとすれ違って振り向くぐらいのさり気なさで再会したい。

 聖伝(キリスト教における伝説;史実性は薄い)によれば、第一の使徒聖ペテロは迫害から逃れてネロ帝統治下のローマを去る途上、キリストとすれ違ったという。そこでペテロが“Domine, quo vadis(主よ、何処へ行かれるのですか?)?”と尋ねると、ローマの信徒たちを見捨てたお前の代わりに、十字架に掛けられに行くのだ、とキリストは答えた。その言葉で自らの使命を悟ったペテロは引き返し、逆さ(はりつけ)になって殉教したとされる。

 

 

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*「大規模作戦」編

 

※86 ポール・ヴェルレーヌ

 1844-1896。ポール・マリー・ヴェルレーヌ。フランスの詩人。いわゆる「象徴派」の一人。「大規模作戦」編冒頭で引用されている、この『秋の歌』で特に有名。三十三歳で教職に就いている時に教え子の美少年に惚れて学校を首になったり、その美少年と二人でイギリスに渡ったり、少年の夭折後は彼の故郷を放浪するなど、実に詩人らしいアレな人生を送った。

 

※87 一つの体には多数の器官があってあらゆる器官が同じ働きはしない

 ローマ人への手紙第十二章四節より。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、」(新改訳)

 

※88 ビゼー

 ジョルジュ・ビゼー。1838-1875。フランスの作曲家。代表作はオペラ『カルメン』。ただし『カルメン』はプロスペル・メリメ(1803-1870)による原作を基にしたものである。

 

※89 『お前が投げたこの花を』

 オペラ『カルメン』の第二幕で歌われるアリア「花の歌」の別称。歌の冒頭の歌詞からこう呼ばれる。ここでの“僕”は『カルメン』主人公のホセ気分で「お前が投げたこの花を 俺は牢の中でも手放さなかった しぼんで干からびてしまっても その甘い匂いは変わらなかった」などと考えていたものと思われる。

 

※90よくもまあぬけぬけと、営倉になど入っていられたものだ。

 スターリンが独ソ戦開始時に、かつて粛清した部下を収容所から解放して「よく刑務所なんかに入っている暇があったものだ」と言った、というエピソードがまことしやかに語られているが、英露での出典は見つけられなかった。

 

※91 深海から上がってきた大亀の首がたまたま流木のうろにすっぽりとはまってしまう

 盲亀浮木。『雑阿含経』 『涅槃経』などにある仏教説話より。滅多にないことのたとえ。「優曇華の花」と続ける場合もある。

 

※92 靴と一緒に煮て食べてしまう

 チャップリンの『黄金狂時代』より。空腹の余り革靴を煮て食べるシーンがある。

 

※93 その名を謳われることのない英雄たちは、誰でも彼女なんだ。

 ハインライン『異星の客』より。

 

※94 アブサンかあ。そんなら黒タバコも用意しないと

 特に「ゴロワーズ」としたい。

 

※95 ヒコーキ野郎

 『素晴らしきヒコーキ野郎』(1965)、『華麗なるヒコーキ野郎』(1975)より。

 

※96 Хуй в рот

 Хуй в ротは英語で言うところの“Suck my dick”ぐらいの意味で、ロシア語スラングにおける一つの決まり文句である。

 

※97 говнолёты

 говно(「クソ」)とсамолёты(「飛行機」の複数形)の合成語。もちろん正式な単語ではないが、ロシア人による使用例も一応ある。

 

※98 それは自殺行為だ...独学で飛行機を飛ばすとか...瞬間接着剤を昼食代わりに摂取する...

 2012年11月頃にオーストラリアのメトロ・トレインズ・メルボルンという鉄道会社によって公開された公共広告キャンペーン・ムービーで歌われた“Dumb ways to die”「おバカな死に方」という曲より。歌手はTangerine Kittyであり、SoundCloudにて無料で聴くことができる。

 

※99 一人を救うのと世界を救うのとは、大体同程度の価値がある。

 コーラン第五章三十二節「人の生命を救う者は、全人類の生命を救ったのと同じである」より。なおこの一節は、この作品そのものの元ネタの一つとも言えるハインライン『宇宙の戦士』にも引用されている。

 

※100 「光あれ」すると光があった。

 創世記第一章三節『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 』より。

 

※101 「どうしてこんな戦争を始めたのか?」(略)「我々が?」

 ジョー・ホールドマン『終わりなき戦い』(1974)より。ハインラインの『宇宙の戦士』(1959)と並ぶ戦争SF作品だが、ベトナム戦争に従軍したホールドマンと大戦期の人間であるハインラインでは描き出される戦争の雰囲気が違っていて、非常に興味深く読み比べることができる。少々具体的に述べると、ホールドマンの方が戦争の悲惨さや兵士の悲哀、反暴力などの点を深く描き出しているのに比べ、ハインラインの描く戦争は人の死はあっても非常に明るく、また作中では暴力の行使を異常な行為であると認めつつ、軍隊や戦争そのものについても理論立てて肯定しており、ややもするとプロパガンダ映画的とさえ言える。これはハインライン批判に取れるかもしれないが、筆者は(どちらも好きだが、敢えて選ぶとすれば)ハインラインの方が好き。なお、これらの二作品について文教大学大学院言語文化研究科付属言語文化研究所の白鳥克弥という人物が2009年に『戦争SFの成立と背景』というタイトルで興味深い考察を行っている。ネットで読めるので、参考までに紹介しておく。

 

※102 コンラート・フェルディナント・マイヤー

 1825-1898。スイスの作家、詩人。十九世紀ドイツ語圏でも指折りの作家。なお、引用された彼の詩は彼自身の作品としてよりもむしろ、アルノルト・シェーンベルクによる楽曲『地上の平和』の詩として知られている(ように思われる)。

 

 

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*「融和」編

 

※103 ロバート・フロスト

 ロバート・リー・フロスト。1874-1963。特にアメリカで非常に人気のある詩人の一人。ピューリッツァー賞を四度受賞した。ここで引用した詩は彼の詩でも随一の知名度を誇る『選ばれざる道』だが、個人的には『雪の降る夕方森に寄って』の方が好み。

 

※104 それは大体こういうものだ。~生きる。

 イーゴリ・ヤルケーヴィチ『Ум. Секс. Литература』(知とセックスと文学)より。ペレーヴィンよりこっちの訳本出て欲しい。

 

※105 TANSTAAFL

 ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』より。タンスターフル。"There Ain't No Such Thing As A Free Lunch"。直訳すると「無料の昼食などというものはない」だが、意味は「ただより高いものはない」。

 

※106 救いはこの中にある

映画『ショーシャンクの空に』より。

 

※107 主は私の羊飼い

 詩篇第二十三篇より。

 

※108 死の陰の谷を行く時~欲しいのだ。

 ベトナム戦争時代に流行った聖書の一節の改変ネタ「たとえ死の陰の谷を歩むとも悪を恐れず、何故ならこの俺が谷で一番悪党だからだ」より。英語では“Though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil for I am the evilest son of a bitch in the valley.”

 

※109 「定員オーバーだ」

 最初ここは映画『エアフォース・ワン』風に「私の車から下りろ!」もしくは「私の車から出て行け!」にしようと思っていた。

 

※110 シルバー船長とジム少年

 スティーブンソン『宝島』の登場人物。敵同士の関係だが、状況によっては協力し合うこともあり、奇妙な友情で結ばれている。

 

※111 アテナとオデュッセウス

 ホメロス『オデュッセイア』で、女神アテナはお気に入りの英雄オデュッセウスをしばしば助ける。

 

※112 ロランとオリヴィエ

 フランスの武勲詩(叙事詩)『ロランの歌』などの登場人物。実在。二人は親友同士で、猛将ロランに知将のオリヴィエといった具合だが、実はオリヴィエの方が活躍していることもある。最期は数で勝る敵軍相手に援軍を要請することを面子が立たないからといって拒否したロランのせいで二人とも死んだ。

 

※113 ローゼンクランツとギルデンスターン

 シェイクスピア『ハムレット』やそれを基にしたトム・ストッパードの戯曲『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』の登場人物。死ぬ。

 

※114 ヒースクリフとキャシー

 エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(1847)の登場人物。死ぬ。キャシーに至っては亡霊(の幻覚)として現れる。

 

※115 ブッチとサンダンス

 実在の犯罪グループ、ワイルドバンチ強盗団のメンバー。『明日に向かって撃て!』などの映画で有名。最期ははっきりとしないが、銃撃戦の末に殺害されたとされている。

 

※116 ボニーとクライド

 ボニー・パーカーとクライド・バロウは1930年代前半に強盗や殺人を繰り返した実在の犯罪者カップル。最期は短機関銃によって蜂の巣にされて死んだ。

 

※117 アナベル・リー

 アメリカの小説家、詩人であるエドガー・アラン・ポー(1809-1849)最後の詩。ポーの死後二日目に新聞に掲載された。詩の中でアナベル・リーは死ぬ。

 

※118 彼女の微笑みのきらめきは

 ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『イル・トロヴァトーレ』(1853)、主人公マンリーコの恋敵、ルーナ伯爵がヒロインを想って歌ったアリア「君が微笑み」より。個人的に、1975年のジョルジョ・ザンカナーロがルーナ伯爵を演じているものが好き。

 

※119 「武蔵にフライドチキンとワッフル、飲み物はコーラで、デザート代わりにキャンディバーを出してやってくれ」

 ステレオタイプなアフリカ系アメリカ人の好物。

 

※120 「こいつにはフライドステーキとコーンブレッドを。飲み物はスイートティーだ」

 ステレオタイプなアメリカ南部人の食事。もう少し言っておくと、「僕」が武蔵を黒人扱いしたので、武蔵は「僕」を(差別的風土が残る)南部人扱いした。

 

※121 「今のロシア語を通訳してくれないか?」

 国連総会に出席したフルシチョフが、ソ連に都合の悪い演説を靴で机を叩いて遮ろうとした際に、その演説者がこう言った、という話があるが、出典は見つけられなかったのでアネクドートの一つかもしれない。ただしフルシチョフが机を叩いて演説の妨害をしたのは事実である。Youtubeで“Kruschev Gets Angry”と検索するとその際の様子が見られる。

 *英語版Wikipediaにこの件を解説した「Shoe-banging incident」という名前のページがあった。そこでは、この発言は1960年にニューヨーク市で開催された第902回国連総会で行われたもので、演説者(ロレンソ・スムロン;フィリピンの政治家)ではなく、イギリス首相ハロルド・マクミラン(当時)によると書かれている。(2020/06/27追記)

 

 

▼   ▼   ▼

 

 

*「Home is the sailor」&「歴史的補遺」

 

※122 アルフレッド・エドワード・ハウスマン

 1859-1936。十九世紀イギリスの詩人、評論家。オックスフォード大出身。ギリシア抒情詩に通じる。個人的な印象だが、他の詩人と比べて理解が平易な詩を書くことが多い気がするので、英語学習にも向いているのではないだろうか。特に田舎に住む一人の青年が折々の感慨を歌うという体裁を取った『シュロップシャーの若者』(原題“A Shropshire Lad”)(1896)などは、強くそのように思われる。筆者お気に入りの詩人の一人でもあり、意識的に多用を避けなければならなかったが、結局二回使った。なお『シュロップシャーの若者』はアーサー・サマヴェルによって歌曲化されており、『歴史的補遺』の冒頭で使われている『通りで兵士の行進する音がする』(原題“The street sounds to the soldiers' tread”)もその中に含まれている。劇的で情感たっぷりの歌曲版はエピローグにぴったりなものとなっているので、ぜひ一聴してほしい。「Bryn Terfel: The complete "A Shropshire Lad" (Somervell)」で検索を掛けるとYoutubeの動画が出てくる。08:11からの曲が『通りで兵士の行進する音がする』である。付け加えるのを忘れていたが「Home is the sailor」編冒頭で引用されているのはハウスマンの詩『R.L.S』であり、これは「Robert Louis Stevenson」を意味する。

 

※123 「ああ、お前、私の息子! よく帰ってきたね!」

 ドイツ民謡「ハンス坊や」より。この歌は映画『戦争のはらわた』で用いられたことでも有名。

 

※124 人類史上、かくも多数の人々が

 チャーチルが第二次大戦のバトル・オブ・ブリテンを振り返って述べたとされる言葉「かくも多数の人々が、かくも少数の人々によって、これほど多くの恩恵を()けたことはかつてなかった」より。原文は“Never was so much owed by so many to so few.”である。

 

※125 それにきっと響の残していったボトルの中身はとても酸っぱくなっているだろう。

 イソップ寓話の一つ、『すっぱい葡萄(ぶどう)』より。

 

※126 「武器よさらば」

 アーネスト・ヘミングウェイの長編小説『武器よさらば』(1929)より。

 

※127 那珂ちゃん

 人類の決戦存在。

 

※128 「西海岸?」

 ハインライン『宇宙の戦士』の終盤で、主人公「ジョニー・リコ」が家ではタガログ語(フィリピンの言語の一つ)を話す(≒有色人種である)と読者に知れるシーンがある。これはそれまで主人公を(無意識的に、固定観念によって)英語を母語とする白人だと思い込んでいた当時のアメリカの読者に対して、驚きを与えるものだった。

 

※129 何たって、僕はまだ二十歳にもなっていなかったんだからな。

 ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』末尾より。

 

 



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没テキストなど

ここまでの没テキスト+武蔵のキャラを掴む為の練習テキスト


 負けたのは悔しかったが、僕よりも遥かに沢山の実戦経験を積んだ相手に負けたのだから、諦めもつけられた。僕は少量の修復剤(薄めていない方)で右腕を直した後で、改めて響や妙高、それに伊勢とも戦った。結果は芳しくなかった。響にはどうにか艦種の違いから来る性能差で勝ったが、そんな勝利は敗北に等しい。妙高、いや妙高さん相手の戦いなど、戦いと呼ぶのもおこがましかった。あれは僕を的にした射的か何かと言うべきだ。伊勢も変な縛りを自分に課していなければ日向と同じように強く、お陰で瑞雲から逃げるのは上手になった気がする。そこへ行くと隼鷹は飲み込みが早く、僕と同じぐらい負けたが、その勝負は立派なものだった。もし装備している航空機がもっと高性能だったら、一度か二度の勝利を得られていたかもしれない。そう思うと、少し溜飲が下がるのだった。

 

 一対一が一通り終わった後は、二対二での勝負だった。最初の一度は僕と隼鷹が組み、妙高さん一人と戦った(そして彼女は僕らを一捻りにした)が、それ以降は僕と隼鷹が戦うような組み分けをされた。それは面白い経験だった……そうだとも、尻を何機もの航空機に追い回されて撃たれまくるのは、面白い経験だったぞ、隼鷹。必ずいつか、仕返しをしてやる……絶対に許さないと僕は心に誓ったが、どうやって仕返しをするのかはさっぱり思いつかなかった。夕方、歓迎会という名目の演習を装った、第一艦隊編入に際しての能力試験がようやく終わると、食堂の片隅で今度こそ本物の歓迎会が始まった。僕は食事をするのが精一杯で、酒を飲む気力もなかった。それに昨日、榛名さんや曙との集まりでしこたま飲んだばっかりだ。艦娘の体であるとはいえ、時には肝臓を休ませてやらなくてはならない。隼鷹は一緒に飲めないことを残念がったが、だからと言って強要してくるような狭量な人格の持ち主ではなかった。僕は代わりに新しい飲み友達になれそうな響を紹介し、彼女たちはどちらがより真の酒飲みであるかを競い始めた。

 

 そこへ既にできあがった日向と伊勢が乱入する。「航空戦艦、いい響きだろう? そうだ、あれはいつだったか、この瑞雲でだな……」「どんどん持って来なさいな!」僕は巻き込まれるのを避けて、席を離した。そこには妙高さんと吹雪秘書艦がいて、静かに話をしていたのだ。僕が近づくと秘書艦はねぎらいの言葉を寄越して席を立ち、隼鷹持参の日本酒をらっぱ飲みし始めた伊勢を止めに行った。しかし遅かった。秘書艦が声を掛ける前に、伊勢は隼鷹のドロップキックを受けて床に倒れた。「このやろー! あたしの酒をなー! そんなふーになーっ!」響との飲み比べの際にペースが速かったせいか、もう言葉遣いが怪しい。僕と妙高さんは苦笑しながら彼女たちを見ていた。いい夜だった。賑やかで、何を隠すようなこともなく、ちょっぴりの理性を残して全部解放する感じが本当に気持ちよかった。酒の助けを借りなくても、酔うことができた。まあつまり場酔いみたいなもんだが、心地よさは変わりない。

 

 そうして僕がにこにこしていると、響がやってきた。顔を真っ赤にしている。妙高がこんなに酔っ払った彼女を見るのは初めてだ、と呆れていた。隼鷹が撃沈しているのを見ると、勝利の栄光はこの小さな駆逐艦の手に渡ったらしい。僕が思うに、隼鷹はあのドロップキックに端を発する酔っ払いの絡み合いで変に体を動かしたせいで、早く限界を迎えてしまったのだろう。

 

*   *   *

 

 これは戦場の花形が歩兵でなくなり、艦娘に取って代わられた現代でも変わらない真理だ。彼女たちは訓練の中で心を押し潰される。それまで持っていた資質全部を否定され、職人技で以って軍の望むような人格へと作り変えていく。その作業の最中にやることのリストを印刷したら、この国は深刻な紙不足に陥るだろう。でも軍が特にこれを達成せよ、と教官たちに命じていたのは、一つのことだけだった。それは艦娘たちをこれまでの連中と同じぐらい立派な兵士にしろ、という要求だった。そこで、教官たちはその通りのことをした。教官たちは、艦娘候補生たちに抗うことを教えた。運命に毒を浴びせ、自分を取り巻いておきながら自分の思い通りには決して動いてくれない全てのものに、軽蔑と敵意で以って答える方法を教え込んだ。候補生たちは、艦娘は、タフになった──そして自分で自分のことをそうなのだと気づいた時、彼女たちは必ず言ったものだ。「知るかそんなこと」と。何故なら、それが彼女たちの教わってきた、彼女たちの取るべき態度だったからだ。

 

*   *   *

 

「ええ。そして、その前提は正しいのです。ただこれについては、私の口からは詳しく言えません。あなたは私が言ったからこそ、真実を認めないでしょうから。とはいえ、私たちにはあなたにどうにか自分で答えを見つけ出して貰い、その上でそれを信じていただく必要があります。その為に僅かな手伝いしかできないのは、とても心苦しく思っていますよ」

Умом глубоководной(頭で深海棲艦は) кораблишкой не понять(分からない), 信じることができるだけ、という訳か」

「前半は何を言っているか分かりませんでしたが、後半はその通りですね。ご心配なさらないで下さい。手は幾つかあります」

「待てよ、試してみようじゃないか。命のあり方? まさに僕好みの話題だよ(嘘だ)、話してみてくれ。深海棲艦の連中は何を食べるんだ? 魚か? 魚は僕も好き(こっちは本当)だから、もしそうなら仲良くなれるかもしれないな」

「構いませんよ。彼女たちは指向性を持った魂が……」

「君が正しかったみたいだ」

「でしょう?」

 

 彼女の澄ました顔が袋の裏側に浮かぶかのような一言だった。魂! この時代に魂とは! 十八世紀なら考えるに値するテーマだったろう。だが今世紀では、魂などというものは宗教家や哲学家の扱う、実存だの一イコール三だのというような何だかよく分からないものでごった返している分野に収まるべき概念であって、現実主義者たちが取り上げるものではなかった。例外と言えば、妖精たちによる艤装への「船魂」とやらの転写ぐらいだ。それだって、人類は納得の行くような科学的説明を見つけていないだけで、きっとそれはあるのだと僕は信じている。

 

 僕は袋の内側から、赤城の顔を見ようと試みた。その瞳の中に狂気の欠片でも見つけられたらと思ったのだ。だが、袋は僕の視界をすっかり覆ってしまって、前を見えなくしてしまっていた。「そろそろ袋を外しちゃダメかな?」「もう暫く待って下さい。じきに彼女が……」と、前に聞いたことのある音がした。「銃声?」赤城がぽつりと漏らす。ドアが激しく音を立てて開かれる。赤城が振り返るのが見えたので、僕は袋を外した。この状況で彼女のご機嫌伺いなんかやってられない。すると、赤城よりももう少しよく知っている顔が見えた。

 

「電」

「……お久しぶりなのです」

 

 僕は、あの喫茶店で話を聞いた電だという確信があった訳ではなかった。単にぽろりと、彼女の名前を口に出してしまっただけだ。しかし、それに反応した彼女は、自ら打ち明けてくれたのだった。初歩的なミスだ。僕は彼女のことを意識の中から除外し、銃声のことを考えた。襲撃された融和派グループが仕返しに来たのだろうか? 発砲音はさっきの一度だけでは終わらず、今や明らかに撃ち合いと分かるものになっている。「彼女は?」「撃たれたのです、出血がひどいので止血してからこっちに」「相手は」「排撃班です」「最悪ね」僕には分からない会話を続けている彼女たちに割り込むには、勇気が要った。

 

「何があったんだ?」

「軍の融和派狩り専門の特殊部隊です。何処かで捕捉されていたのでしょう」

 

 目の前に狩りの獲物の方々がおられなければ、僕はダンスだって踊っただろう。僕も機械じゃないので、小さな友人だと思っていた電のことについては少しだけ胸が痛んだが、それでも彼女らと一緒にいるよりは、同じ軍所属の奴らといる方がよかった。憲兵本部への呼び出しのことを忘れてはいなかったが、僕の体に残っている暴行の痕や、胃の内容物を検査すれば、僕が融和派に仲間として扱われてはいなかったことぐらい分かる筈だ。笑顔を浮かべてしまわないように努力するのが辛すぎて、僕は再び袋を被った。赤城はそんな僕を見て「あなたはここにいて下さい。その方が安全です」と言い残し、電と出て行った。喜んでその言葉に従おう。小部屋の奥に行き、へたり込んで壁に背中を預ける。ここを出て行く時は担架に乗って出て行ってやるぞ、と心に決めた。自分で歩くなんて真っ平だ。融和派に捕らえられていた軍人に対して、その程度の配慮が認められるのは自然な成り行きというものであろう。

 

*   *   *

 

今日の出撃における最初の交戦でだって、加賀による航空攻撃で沈んだ艦を除くなら、一番最初に敵を沈めたのは僕の砲弾だったのだ。

 

*   *   *

 

「私は那智のことも、あの天龍のことも、糧にしたいんだ。思い出す度に苦しむような記憶にしたくない。彼女たちの苦しみや死を受け止めて、自分の一部にして、役立てたい。」

 

*   *   *

 

突然僕の肩部砲塔が暴発して偶然に砲口が向いていた僕の頭を吹き飛ばすとか、ナイフを投げて遊んでいたら跳ね返ってきたナイフが心臓に刺さるとか、そんな言い訳でもするがいい。

 

*   *   *

 

吹雪秘書艦の分析によれば、艦隊を構成するのは重巡二、軽巡二、軽空母一に駆逐一が適切だそうだった。そして僕は栄えある二つの席の内、一つを貰い、しかも旗艦というおまけまで付いてきた。

 

*   *   *

 

 昂った感情はよくも作用するし、悪くも作用する。今回は後者だった。僕と戦っているル級エリートが盾を構えてこちらに突撃して来るのに、反応するのが遅れた。慌てて魚雷を四発放ち、全砲門から射撃を行う。

 

*   *   *

 

吹雪秘書艦も僕を避けているように思うが、彼女は提督に忠誠を誓っている。勝手な見立てだが、恐らくは海軍ではなく提督個人に、だ。それは、僕をどうにかするとか、そうではなくとも嫌悪の情を向けることが提督にとって望ましくない、あるいは提督の不利益になってしまう内は、信用できるということを意味していた。

 

*   *   *

 

 戦争の中で、僕は様々なものを見てきたと自信を持って言える。色々な人々と会い、色々な出来事を体験して、今まで生きてきた。新しい出来事は、常に喜びだとは言えなかったにせよ、その多くが喜びに満ちていた。

 

*   *   *

 

 けれど、一日につき十四リットルの水を何処から調達するのだ? 飲用に適する水を増やすことはできる。真水と海水を、二対一の比率で混ぜるのだ。その比率までなら、飲んでも大きな問題はないし、体に必要な塩分を取ることもできる。しかしそれにだって限界はある。単純に計算しても八十三時間、三日半と見て約五十リットルの水を配給することになるのだ。それは脱塩キットを全部使った上で、嵐で溜まった雨水と、教官たちが沈む航空機から持ち出した緊急用物資などを合わせ、海水も足して、ギリギリ出せるか出せないかの量だった。雨が降ればよい。味方の救援と接触できればよい。しかし降らなかったら? 彼女たちが来なかったら?

 

 二リットルは多すぎる。日中の移動は避けたい。那智教官の案は悪いものではなかったが、僕は結局、自分の考えを通した。一日一リットル、日の入りから日の出までの十二時間移動、その後の十二時間はシーアンカーなどを使って待機。

 

*   *   *

 

「お前、次に私が何をするか当ててみろ」

「は?」

 

 言うが早いか、那智教官はその候補生をもう一回投げ飛ばしていた。まともに受身も取れなかったほどの早業だった。もし教官が勢いのままに地面に叩きつけていたら、その候補生は二、三本の骨を折られていたに違いない。教官は候補生を立たせると訊ねた。「私の動きが見えたか? どんな風に動いたか、説明できるか?」候補生は、いいえと答えた。「それはな、お前が砲と魚雷の撃ち方しか知らないからだ。」

 

*   *   *

 

「信じられないだろうが、弾が切れても撃つことのできる砲や魚雷というものは、存在しないのだ。そして、弾がなくなったからと言って撤退することが許されない状況も存在するのだ。お前は明らかに、そのことを知らんようだが。」

 

*   *   *

 

「恥ずかしがらなくともよろしい。確かにどうしようもない質問ではあったが、少なくともお前は質問をしたのだ。さて、何の役に立つかと言ったな。砲が壊れた時、弾切れになった時、接近しすぎて砲撃よりも打撃が早い時、格闘を使うのはこのような状況下においてだろう。あるいはお前が憲兵隊に出向したなら、暴れる艦娘を取り押さえる為に使うこともあるかもしれない。だが、徒手格闘を私が教えるのは、そういった実際的用途の為だけではないのだ。お前は、ここに入るより前、人を楽しんで殴ったことがあるか? 面白半分に刃物で刺したことは? 血を流して死ぬところを見たくて誰かを撃ったことはないか? それか、動物を傷つけたりして遊んだことでもいいぞ」

「まさか、そんなことはしません!」

「だろうな。安心しろ、そんな奴がいたら絶対にこの訓練所から追い出してやる。この訓練所にいるほとんど全員がお前と同じ、綿密に仕込まれた良心を持った、社会の良き一員だ。それが意味するのはつまり、お前たちは命を傷つけるということを知らないということだ」

 

*   *   *

 

「君は説教なんか聴いたこともないだろう」

「響、そりゃ偏見というものさ……この前、テレビでやっているのをだけど、聴かせて貰ったよ。恥ずかしながら告白すると、ひどく胸に響いたね」

「へえ! 何だか嬉しいな、誰の説教だい?」

「名前は見なかったし、聞かなかったよ。黒人の男さ。音を聞いたらしい。リンリン言うような不気味な音だったとか」

「ふうん」

「彼によると彷徨える魂の声なんだそうだ。そうなってから神を求めても今更遅いと言っていた。そいで……」

「みんなで踊った?」

「ピアノに合わせてな。なんだ、響も見てたのか?」

「あのね、君。それは映画だよ」

「なるほど、道理でみんな歌と踊りが上手い訳だ」

 

*   *   *

 

 家族のことを考える。このところ、両親にまともな手紙を書いていない。二人からの手紙や、心ばかりの贈り物は届いているが、返事に書いたことと言えば僕が元気で五体満足かつ精神的にも健康だということと、次は桃の缶詰の代わりにみかんの缶詰にしてくれという、考えてみれば失礼な要求の類ぐらいだ。どうしてちゃんとしたことを書かなかったのだ、と僕は悔やんだ。二人には僕からの一通一通が僕の最後の言葉かもしれないという恐れもあっただろうに、そのことについて何とも思っていなかった。手遅れだ。

 

*   *   *

 

 そこへ行くと、那智教官はやはり凄い。彼女の時計は文字盤に指で触れることで、時間を読めるのだ。

 

*   *   *

 

「不知火先輩、もう一つの回線で話をしてます。あの、お願いがあるんですが」

「もう一つの……ああ、こっち(・・・)ですか。どうしました? 後輩の頼みを聞くのは先輩の甲斐性です。無理なものでなければ何でもどうぞ」

「さっきも話しましたが、次の戦闘では先輩に集中砲火が行くと思います。幾ら先輩でも、そう遠くない距離から三隻に、いいえ、三隻だけじゃなく、空からだって攻撃が来ると思います。それらを全部避けるのは無理でしょう」

 

*   *   *

 

ぼく「これを信じてもいいのか、響? 君が僕の横にいる! これは夢なんじゃないのか、幻や超自然の力じゃないのか? この喜びに僕の心臓は耐えられそうもない! 響、君は天国から降りてきてくれたのか、それとも僕が天国にいて君と会っているのかい?」

武蔵「海の底から戻ってきたという訳か」

 響「私は天国にも海の底にも行ってはいないよ、武蔵」

武蔵「忌々しいことに地獄はお前を見逃したか、響。永遠の黄泉の国から私の心を挫く為に、地獄は自分の獲物さえ逃したというのか」

 響「あの深海棲艦たちは確かに私に死の一撃を撃ち込んださ」

武蔵「仕損じたとは残念なことだ」

 響「運命と主は私の味方だ」

ぼく「ああ、僕は天国にいるのか?」

武蔵「だがもしより長く生きていたいなら……手を引くことだ!」

 

*   *   *

 

 夕食はシーフードカレーだった。武蔵が赤城の持ってきたパイプ椅子にちょこんと座っている様子は面白かったが、それを除けば僕らが囲んだ食卓はお世辞にも和やかなものにはならなかった。椅子と一緒に持ち込まれた折り畳みテーブルを片付けて部屋の隅に置き、水を飲みながら体を休めさせる。

 

*   *   *

 

赤城は武蔵を傷つけないでくれという僕の頼みに頷いたが、必要とあらば約束を反故にすることを躊躇するまい。

 

*   *   *

 

 翌朝、僕は寒さによるくしゃみで目を覚ました。バスルームの浴槽内にいて、上半身が裸だったので心底震え上がったが──浴室のタオル掛けに汚れのないままで掛かっていたので、安心することができた。服を取り、浴槽内で丸まったまま服を着る。辛かったが、そのまま倦怠感に負けずに起き上がった。

 

 と、武蔵がトイレに顔を突っ込んで倒れていた。僕はそっとレバーを引いて水を流した。

 

*   *   *

 

赤城「ご心配なく、あなたに補佐を付けようと思う程度には正気です……幾ら私でも、何も知らない子供を戦場に放り込むような真似はしません。何か他に言いたいことは?」

ぼく「君はひどい奴だ」

赤城「言い直します。何か他に訊きたいことはありますか?」

ぼく「どうやったらそんなにひどい人間になれるんだ?」

赤城「なさそうですね。では、失礼します」

 

*   *   *

 

武蔵反応

 

(ハイファイブする)

「おい、今のはビンタのし損ないか?」

「今のは頭を狙って外したのか? それとも狙い通りでそれなのか?」

 

ぼく「ああ、疲れた」

武蔵「分かるよ、私も若くないらしくてな。一日にあんまり沢山働くと翌日響くんだ。だから融和派を殺すのは『二十四時間ごとに三十人まで』と決めたよ。さて、今日のスコアはどうだった?」

ぼく「ゼロだ。当たり前だろ」

武蔵「おい、お前の艦娘としての才能の話は後にしろ」

 

(ベッドから落ちる)

武蔵「素晴らしい落下だった。並の映画監督ならスローモーションにしたり、カメラの位置を変えて何カットにも分割しただろうが、お前はもちろんそうしなかったな」

武蔵「素晴らしい落下だ。(これほど見事に落ちた後では、)さぞかし自分が誇らしいだろうな」

 

(何かに失敗する)

「気を落とすな。少なくとも私を愉快にさせることには成功した」

「学術的な興味から頼むんだが、今まで何に成功できたか教えてくれないか」

「失敗したのか? 凄いな、挑戦したようにすら見えなかったのに」

「私はてっきりお前が(目的の行為)するだけだと思って特に期待していなかったんだが、忘れていたよ。お前は常に私の予想の上を行ってくれる男だったな」

「そうだ、失敗することに挑戦してみたらどうだい?」

「お見事。失敗することには成功したな」

「私がお前の無様な姿を見ることで喜ぶような性格だと分かってやっているなら、今すぐやめることだ。養殖ものは嫌いでね」

「私には経験がないから分からないんだが、失敗し続けることはそんなに楽しいのか?」

「すごいぞ、今のはまるで成功したみたいに見えた」

「私の性格とお前の諦め、どちらがより悪いかの勝負だな? 受けて立とう」

「失敗することは簡単だ。成功することは難しい。そして挑戦し続けること、これこそが最も難しい。そこで提案なんだが、難易度を一つ下げたらどうだ?」

「何故だ?」

「ははは、面白い。次はちゃんとやれ」

「お前の人生みたいな結末だったな」

「心配しないでいい、退屈していないよ。自殺衝動と戦ってる」

「しまった、ポップコーンを忘れた」

「失敗は成功の母と言うが、お前の成功の父は何度再婚したんだ?」

「もしかしたら理解していないのかもしれないから教えておこう。お前は、今、失敗した」

「そうだな、いつか、お前がしくじったせいで友達が目の前で死ぬかもしれないが、成否は問題じゃない、挑戦することに意義があるんだ。どんどん失敗しろ。友達ぐらい何だって言うんだ?」

「なあ、もし私がやめろと言ったらやめてくれるか?」

「確かにこれを失敗するのは難しいが、難しいからってやったら褒められると思ったら大間違いだぜ」

「ありがとう、私に融和派を殺す以外にも『他人が失敗する姿を見る』という人生の楽しみがあることを教えてくれて。そろそろ成功してくれて構わないぞ」

「神に祈るのはもう試したか?」

「今のがもし『自分がどれだけ必死か』を私に伝える試みなら、お前は満点で合格だったろう」

「もしお前の肩に世界が懸かっている、という状況になったら──そうはなっていないが──私としてはとっとと終わらせてしまってくれ、としか言いようがないな。まあでも、そういう状況じゃないから安心して眺めていられるよ」

「人に惨めな自分の姿を見られて興奮するタイプなのか? 私と相性ぴったりだな」

「私にいい考えがある。挑戦しなければ、少なくとも失敗はしなくて済むんじゃないか?」

「やればできる、と言った奴がいる。どうやら、そいつには考えを変えるべき時が来たようだな」

「残念なニュースだ。私の調べでは、未だかつて失敗し続けることで成功した人間はいないらしい」

「今私が自殺したら、それはお前の計画殺人と見なされるだろう」

「もう沢山だ」

 

*   *   *

 

 赤城は頷いた。どうやら提督のクズ度合いを更新しなくてはならない時が来たようだ。彼女は多分、赤城を始末するつもりだったのだ。それだけではなく、今となっては分からないことだが、始末リストには僕の名前だって入っていたかもしれない。あの時、第二艦隊が数時間の距離にいると提督は言っていた。「数時間」だ。便利な言葉だと思う。二時間でも三時間でも四時間でも、ちょいと苦しいが一時間だって「数時間」に含めようと思えば含めることができる。提督は赤城を呼び寄せておいて、長門たちに後を追わせ、始末をつけさせるつもりだったのだ。

 

*   *   *

 

 それと時を同じくして、白煙の中から二隻の船と、大勢の艦娘が飛び出してきた。長門がいる、伊勢や日向がいる、那智教官がいる、隼鷹が、利根や北上がいる。彼女たちは煙の向こうにいる敵に撃ち続けていて、まだ僕らに気付いていない。船の方も似たようなものだ。赤城が言った。「もっと近づきたいところですが、フリゲートから砲撃を受けたくありません。どうやら、名乗りを上げる時が来たようですね」僕は頷いて、無線機を操作した。大きく息をして、それから全帯域に呼びかける。

 

「救援要請を受け、到着した。諸君らの後方にいる。聞こえているか?」

 

 一瞬、艦隊の無線が止まった。嘘ではなく、戦闘は続いていたが、誰も何も喋らなかった。

 

*   *   *

 

 赤城の計画は上手く行っているようだ。後はこれが日本できちんと放送されていることを祈るばかりである。そして、これまでのようにこの戦闘も生き延びられることもだ。

 

 が、それを許さないとばかりに、僕らを追跡していた最後の敵集団が、針路を塞いだ。砲を照準している。これはマズいか、と思っていたところに、空中の水観から通信が入る。朗報だった。僕らの周りにいるのは敵ばかりで、少なくとも前方に向けて撃つ限りは誤射の恐れがないとのことだった。すかさず武蔵に伝える。彼女は嬉しそうに「ではこの四六センチ砲、存分に撃たせて貰おうか!」と言うや否や、邪魔な敵に向かって発砲した。その砲声と衝撃、威力は僕がこれまでに見たどんな砲撃よりも圧倒的だった。青葉の方でも発砲が観測できたのか「いっ、今の何ですか!」と慌てた様子だ。見ると、前を塞いでいた敵の痕跡も残っていなかった。

 

 これは凄い。これなら、軽巡棲姫だろうと戦艦水鬼だろうと相手にして戦える。前も開いたことだし、急いで前進だ。僕は了解も取らずに武蔵の艤装の庇護下から抜け出そうとした。

 

*   *   *

 

Shake hands, we shall never be friends, all's over; 

握手しよう、もう友人ではいられない、全て終わりだ

I only vex you the more I try.

私の試みは君を苛立たせるだけだった

All's wrong that ever I've done or said,

私の言動のどれを取っても過ちだらけだった

And nought to help it in this dull head:

どうしようもなかったのだ、この鈍い頭では

Shake hands, here's luck, good-bye.

握手をしよう、幸運を、さらばだ

But if you come to a road where danger

だがもし君が危難の道をゆくのなら

Or guilt or anguish or shame's to share,

罪を、苦痛を、恥を分かつ道をゆくのなら

Be good to the lad that loves you true

心から君を愛した者のことを想え

And the soul that was born to die for you,

君の為に死ぬことをいとわない魂のことを想え

And whistle and I'll be there.

そして口笛を吹くがいい 私はそこにいる

 

──アルフレッド・エドワード・ハウスマン

(「Home is the sailor」-3後書き部分挿入予定だった;ハウスマン使いすぎ問題+蛇足感により没;私訳)



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アイデアノート

 こちらは筆者がこのSSを書くに当たって、展開やネタ、使ったり使わなかったり変更したりしなかったりした設定や知識、セリフを書き込んでいたテキストファイルの中身をコピペしたものです。自分以外の誰かが読むことを前提にしていないので、大変読みづらいものになっていますが、何となく眺めて「こんな風にしてこのSSが形作られていったのかな」みたいに思っていただければ幸いです。

 また、上述の性質上ネタバレのオンパレードです。加えて、本編で明かしていない部分について言及している箇所も恐らくあります。が、あくまでそれは筆者の個人的解釈として受け取って貰えればな、と思います。

 個人的に他のSSの作者さんたちがどんな風に作品の基本骨子とかを組み立てているのか興味があるので、こういうのを晒す人が増えたらいいなあ。

(2015.12.27)


・使わなかった設定とか変更された初期案もめっちゃある

 

 

・設定大盛りで!

 

謎の敵、深海棲艦(終盤まで謎にしておきたい、終盤でも「多分こうなんだろうけど実際のところよく分かんない」ぐらいの存在にしておきたい)

 

人類の人口がものすごい数になった未来

突如現れる深海棲艦、ミサイルが通じず、通常の砲弾で何とかダメージ通る程度、海が封じられ、人口激減するもやがて適当な数に落ち着く

どうにか人型深海棲艦を一隻撃破(謎の存在(こっちは最後まで謎にしておきたい)「妖精」の手助けもあり)して残骸を解析

艦娘(プロトタイプ。深海棲艦と同じくミサイル攻撃無効化、深海棲艦・艦娘以外からの砲撃弱体化などの能力を持つ)誕生

適性持ちの女性から艦娘を生み出せることが判明

十五歳以上の全世界の全国民に検査義務付け、徴兵はなし、志願制

しかし「誰でもない」艦娘になることに対して十分な適性を持つ者は少なく、改善を求められる

妖精の手で大昔の軍艦の「魂(と妖精が称する何か)」を艤装に転写する方法が確立され、適性持ちの女性の数が劇的に増加

それでも分が悪いながら、艦娘の質によって一進一退の攻防戦を繰り広げ続けている

因みに敵の基地みたいなやつは深海にあり、移動する。ミサイル攻撃しても深海棲艦と同様に効かない(かなり後(本編ラスト付近)に艦娘や深海棲艦を研究した成果として、深海棲艦すら撃破可能な通常兵器も作られる)

棲息地を破壊したい場合、制海権を獲得してからの特殊爆雷等大量投射によって攻撃しなければならない

 

↑ここまで過去の話

 

↓順番とか無視した設定(初期・実際に使った設定と異なる場合も多々ある)

 

・一部の人類は、深海棲艦とはコミュニケーションが取れるとして、和平の道を探そうとしている。多くの国家で、融和派は犯罪として取り締まられている。海神として崇める宗教もあるが、こちらも同様である。

 

・「僕」は幼少期に、遊びに行った海(瀬戸内海?)で沖に流されて溺れた経験がある。水の中から引き上げて助けてくれたのは警備航海中の艦娘だった。それ以来水が苦手。

・実は艦娘ではなく穏健派(または過激派)深海棲艦で、人間社会の中である種の『スリーパー』として運用しようとした。誤算だったのは艦娘適性があったこと。

・後の融和派編で「中核人物はみな子供の頃に海で溺れた経験があるようだ」と知り、どきりとしてそれ以降悩むようになる

・しかし那智教官の「艦娘であるということは性別の問題ではない。問題なのはお前が、何の為に、何と戦うかということだ。それを忘れない限り、お前は艦娘だ」を思い出す

 

・艦娘に憧れるようになり、海軍軍人(あるいは「提督」)を目指すように。また、もっと自分が頑強なら、スポーツとかできたら、という思いから、溺れて以来鍛錬をするようになる。でも水泳はしない。

 

・十五歳の時、「僕」は男として唯一適性持ちとして診断される。適性検査時の反応は「誰でもない」艦娘を含むあらゆる現存する艦娘と異なっていた。軍からの打診や、提督になるという狭き門を目指すことに苦しんでいたこともあり、「艦息(冗談)」に。

 親は反対したが、軍への志願は義務に縛られていた子供が初めて手にする、自由に行使することのできる権利だとして交渉役の軍人に説得され、反対を押し切られる。

 

・裏設定:

 艦息としての「僕」は、深海棲艦と戦い、海で沈んでいった艦娘たちの、「沈みたくない(死にたくない)」「もっと強ければ」という想いが生み出した存在。

 「沈みたくない」が溺れかけた幼い「僕」に共感し、「強ければ」が男だった「僕」を選んだ。

 

・艦娘が「船魂」を転写される為に「艦娘」としての戦い方を一から身につけなければならない一方、「僕」の艤装にはあらゆる沈んでいった「艦娘」の想い(的な何か)が転写されている為、「艦娘」としての戦い方がそれなりに身についている。

 何となく体が覚えている感じ。無意識下での経験補正が入るみたいな。

 

・その想いが原因で、深海棲艦は「僕」を人間とも艦娘とも認識できない。むしろ自分たち側に近いと思ってしまう(相手が「僕」を知らない場合、大抵は奇襲できる)

 また、同じ理由でモデルとなった艦が沈んだ艦娘は初対面時、「僕」に対して無条件の嫌悪を感じる。簡単ではないがその後の行動などで着実に改善できるし、そうでなくとも艦娘側に十分な自制心があれば隠せるレベル。長門と絡ませたい……個人的な欲求。

 沈みはしなかったものの無事とも言えなかった艦娘(大破着底など)は「僕」に対してもやもやしたものを感じる程度。その後の行動で容易に改善可能。

 沈まなかった艦は基本的に何ともないが、鋭い艦娘は何となーく違和感を覚える程度。これなら隼鷹さんがメインに据えられる。あの人、沈んでないしな!

 

・装備は重巡洋艦程度?

 

・「僕」は戦闘で接触を重ねる内に、深海棲艦の考えが段々読めるようになる。ただしぼんやりと分かるとかその程度。夢に深海棲艦が出てくることも。深海棲艦→「僕」への何らかの訴えかけ。ただし「僕」は大抵悪夢として処理し、意味は通じていない。

 幻覚や深海棲艦が自分を捕まえようとするような、謎のイメージも見るようになる。「僕」は精神攻撃かと疑う。

 

・ラストは対深海棲艦ミサイルを集結している深海棲艦群(人類が気づいたことを知らない)に撃ち込む為、「僕」を含む艦隊が編成され、攻撃に掛かる。轟沈や脱落(撤退)者を出しつつ、「僕」は誘導装置を持って敵大規模基地のところに辿り着く。

 移動する敵大規模基地に照射し続ける。幻覚を見せられても振り払って照射し続ける。着弾の瞬間「友好」や「生」のイメージが「僕」の頭の中に流れ込む。自分が滅ぼした多くの深海棲艦たちは「和平派」だったのだということを悟る。

 ここまで和平派との接触を阻もうとして「僕」たちと戦ってきた深海棲艦(徹底抗戦派)が現れ、「お前はやっぱり、私たちの側だった」と言って去っていく。「殺さないのか?」「人間じゃあるまいし、仲間を殺す訳がないだろう?」

 「僕」は呆然となる。「僕」を救助にやってきた仲間たち(別方面での陽動などの作戦に従事していた)からの無線が聞こえてくる。「僕」は立ち尽くしたまま、暁の水平線に目を向ける。

 

・艤装装着訓練の内に、段々と容姿、性格や口調が「艦娘」側に引き寄せられて変わっていく。一人称『あたし』だった娘が「時雨」に引き寄せられた結果『僕』になったりする。

 

・艦娘訓練所編→実戦配備編→通常作戦編×幾つか&第五艦隊編(旗艦編)&大規模作戦編(←これらの順番は実際には入り混じることになる)→対深海棲艦ミサイル攻撃編(ラスト)

 また、これらの合間合間に日常編を挿入する。

 

・ここまでで思わせぶりなセリフやらシチュエーションやらにはそれなりの落としどころや伏線を用意しておく。今はまだ思い浮かばないけど(無責任)

 

・重巡なら艦息としての名前は「剱」か「旭」か? 「他には『鷲羽』とかあるが……」「何それカニみたいな髪型になりそう」「『恐』とかは?」「なんでそれでいいと思ったの?」

 →名前付けないでいこう。大体、自分の書いてる二次創作で名前つきのオリキャラ出すの個人的に苦手なんだよな、異物感半端ない。

 

・ラスト立ち尽くしたままエンドの方がいいだろうか? それとも仲間と合流して撤退途中にモノローグを入れるか?

 「結局、戦争はそれからすぐに終わった。数え切れないほど多くの平和主義者たちを殺したあの日、僕らは何も知らなかっただけなのだ。人類のように、彼女たちの中にも異分子がいたことも知らなかった。あの幻覚が何だったかも知らなかった。軍部は本当に彼女たちについて知らなかったのだろうか。僕のやったことも、僕がやらなかったことも、どちらにしても大差のないことだったのだろうか。それすらも分からなかった。分かっているのは一つだけ。あそこで僕は……僕らは、確かに勝利したのだ。」

 

・那智教官再登場時は第五艦隊編。「海軍でも最高級の艦娘をつけてやる。彼女を頼るといい」

 

 

本編進行ネタ、使わないのが大半だったな

 

・(ジャミング装置を積み込んだ?)通常艦に艦娘を詰め込んで出撃、露払い&直衛の部隊が苦労して適当なところまで運ぶ→わさわさー

・弾道ミサイルの要領で一度大気圏を突破してから再突入して海面に着水、展開する(コヨーテの十二姉妹SSで使ってた突撃艇的な用法)

・高高度航空機? ↑と統合してもいいかもな あとHALO降下もありかもしれない

・潜水艦による肉弾戦

・航空機によるガス攻撃

・遭難者(あるいは撤退する友軍)の救援(ここで長門を使う?)

・単艦偵察(「僕」オンリー。上層部によるゴリ押しで通された。「僕」が嫌いな長門の救援が光る←「僕」一人称縛りでは難しいな)

・演習編(旧交を温める。最後は一緒に深海棲艦撃破)

・深海棲艦融和派編(艦娘によって組織された融和派専門の鎮圧部隊も出てくる。艦娘の融和派も。「駆逐艦が誘拐された」「駆逐艦一隻の為にことを荒立たせることはできない」「ではどうする!」「ふむ……民間人も巻き込まれたことにしよう」←もっと上手い方法があるだろ)

 

・「海なんてなくてもそれなりに生きていけるんですから戦争なんてしなきゃいいのに」「それで陸上棲艦みたいなのが出てきたら? 地面でも掘るか? ああ、空に逃げるのもいいだろうな。雲海棲艦とか出てこないことを祈ってろ」

 

・訓練所→広報部隊配属(夢を見るように)→第二特殊戦技研究室(略称は“二特技研”もしくは“二特”。突拍子もない作戦担当の艦娘実験部隊)に引き抜き(離脱しようとする敵航空機に対する長距離精密射撃→コツを聞いて「それ面白いねー、採用ー」)

 

・通常作戦→通常作戦→大規模作戦→第五艦隊編(旗艦編・旗艦再教育編;那智が旗艦教育を施した後に二番艦として再参戦? 庇ってくれた時に義手の右腕が壊れて「またか!」は入れたい)→通常作戦→対深海棲艦ミサイル攻撃編

 

・二特技研に配属されている艦娘とその特殊戦技(持っている場合)、それと何か適当に設定

・特殊技能の種類は二つある。一つは単純に血反吐を吐くような訓練の結果身につけたもの。素の艦娘の身で磨き上げた戦技。もう一つは[編集済]

 

女性提督:基本的にはストレートとして生きてきたが部下たちのアタックを受けている。主人公は男だが年若いのでちょっとがっかり。でもそれなりに気が合うので友達みたいな感覚で付き合いをしている。

(初期設定から提督かなり変わったな)(提督好き設定とか全然影も形も見えねえ)

第二艦隊(六人)

長門:砲弾弾き(砲弾を手で弾いて防ぐ)   :主人公嫌い(はっきりと嫌い)、第二艦隊旗艦、提督が好き、磨き上げた方

加賀:近接弓術   :主人公苦手、提督が好き、磨き上げた方

川内:短時間潜水   :主人公苦手、提督が好き、磨き上げた方

妙高:何もない   :那智教官の同期で同隊配属、那智の脱退により第一艦隊と掛け持ち、大戦を生き残った、主人公着任後は第二艦隊に固定、提督が好き

足柄:高速再装填   :那智教官の同期で同隊配属、主人公苦手、提督が好き

羽黒:魚雷操作(左右に操作可能)   :那智教官の同期で同隊配属、主人公苦手、提督が好き

   那智 :精密砲撃   :主人公の訓練教官、提督が好き?

 

第一艦隊(五-六人)(カモフラージュ用)

吹雪:何もない   :初期艦、練度は特に高い、何の特技もないけど勝つタイプ、主人公苦手、第一艦隊旗艦、提督が好き

隼鷹:何もない   :大戦を生き残った、みんな大好き、「僕」と同じく元広報部隊?

伊勢:何もない   :航空戦艦化、大戦を生き残った、日向にちょっかいを出すのが好き、日向も好き

日向:何もない   :航空戦艦化、大戦を生き残った、例によってコテコテの瑞雲マニアと思いきや瑞雲マニアの自分を演じるのが好きなだけ(瑞雲も嫌いじゃない)、伊勢が好き、兵士としての限界が近い

 響:何もない   :大戦を生き残った、まだヴェールヌイにはなってない、個人的にロシア語をちょっと勉強してる、酒好きで隼鷹と気が合う、男女の情は今のところ分からない

妙高:何もない   :那智教官の同期で同隊配属、那智の脱退により第一艦隊と掛け持ち、大戦を生き残った、主人公着任後は第二艦隊に固定?、提督が好き

 

第三艦隊(補給線維持用)

伊五八

伊八

 

第四艦隊(その他の目的による技研配備艦娘、もしくは交代要員)

夕張

明石

不知火

 

第五艦隊(名簿上だけ第四艦隊の人員を第三艦隊に編入し、空いたところでこっそり編成?)

「僕」:

 響 :

 那智:

 隼鷹:

 北上:助っ人で正規人員ではない? 引き抜き?

 利根:助っ人で正規人員ではない? 引き抜き?

 

 

後期艦隊編成

・第一艦隊

吹雪 夕張 伊勢 不知火 58 8

・第二艦隊

長門 加賀 川内 足柄 羽黒

・第五艦隊

僕 隼鷹 那智 響 妙高 日向 (最終戦;二人抜けたところで助っ人で途中に北上と利根が参戦?)

 

 

 

 

 

 

その他(これまでに登場した艦娘・登場人物。説明の最初は初出部。使わなかった設定やキャラもちょっと混じってるけど気にしない;いずれ更新しとかなきゃ2015/11/02)

・北上さま :訓練所編。割と自業自得で鬼教官に鬼パンチ鬼乱打貰ったところを主人公が軽く手当てして以来の仲。呉鎮守府勤務。大井と出会い、公私ともにコンビを組んでいる。友情を培った「僕」や利根との手紙のやりとりはずっと続いている。

・利根   :訓練所編。元クラスメイト。普通に仲良くなった。宿毛湾泊地勤務。泊地の駆逐や軽巡など、懐いてくる子たちの面倒を見まくっている。最近やっと筑摩がきた。友情を培った「僕」や北上との手紙のやりとりはずっと続いている。

・那珂ちゃん:訓練所編。昔は艦隊のアイドルじゃなかった。今はアイドルになろうと頑張っている→なった。大人気。トラック泊地勤務→広報部隊へ。アイドルとして、そして艦娘としてとても誠実な子。「僕」への好感度は低&ライバル視している。

・那智教官 :訓練所編。鬼教官。右腕がない。顔の左側に怪我。腕の欠損は敵の攻撃を右腕で庇った為。元二特技研第二艦隊。途中(第五艦隊編)で戦線復帰する。1話、訓練教官とのフラグ立ちすぎじゃなかった?

・天龍ちゃん:訓練所編。戦線復帰を拒否されて怒り狂った那智教官に八つ当たりパンチを食らった。フフフ、怖い。龍田と一緒に単冠湾泊地へ。

・龍田さん :訓練所編。鬼パンチ食らった天龍ちゃんをすかさず助けた。そして那智教官はブラックリストに入れられたが特に何もできなかった。天龍ちゃんと共に単冠湾泊地へ。天龍に好意をかわされ気味。

・青葉   :訓練所編。那智教官の裏事情を知っていた。何故知っていたかって? 青葉だからさ。リンガ泊地まで飛ばされたものの、主人公と入れ替わりに広報部隊へ。広報艦隊としてだけでなく、記者としても働いている。那珂ちゃんの恩人。

・元提督  :訓練所編。座学教官。現在の階級は少佐だが、それは前線から退いて訓練教官の職に就く為、自ら降格を願い出たから。座学教官の座を退くことを決めた瞬間、中将ぐらいまでもう一回ぶっ飛ぶ。思想的にちょっと偏りがあった。

・大井   :広報部隊編。呉鎮守府所属。案の定北上と仲良くなった。「僕」の話を北上から聞いて牽制の手紙を出すほど警戒していたが、シャイな北上の大井への本心を教えて貰ったことで純粋な感謝に変わった。でもまだちょっと警戒している。

・曙   :広報部隊編。本部付広報艦隊所属駆逐艦。主人公嫌い……だったが、連戦の一件で少なくともニュートラルに戻った。とはいえ相当今更なこともあり、引け目を感じている。

・イムヤ  :広報部隊編。本部付広報艦隊所属潜水艦。主人公嫌い。相互不干渉を貫いている。積極的に嫌がらせとかしてこないだけ「僕」としては色々やりやすくてありがたられていた。

・由良   :広報部隊編。本部付広報艦隊所属軽巡洋艦。主人公苦手。上手に接触を減らし、互いに傷ついたりイライラしたりしないようにしている、とっても優しい子。

・榛名   :広報部隊編。本部付広報艦隊所属高速戦艦。主人公を持て余し気味(主人公の素質による悪感情は少ないが、彼が引き起こす問題のせいで少し八つ当たり的マイナス感情を持っている)。曙の問題が解消されたこともあって評価上方修正。

・隼鷹   :広報部隊編。本部付広報艦隊所属軽空母。生き残ったこともあり、主人公に対してニュートラルだった。その後、酒を通じて主人公とすっかり仲良くなった。広報部隊所属に不満を感じている。広報部隊編ヒロイン&相棒枠だが影薄い?

・飛鷹   :広報部隊編。単冠湾勤務。天龍・龍田の先輩に当たる。広報部隊の隼鷹とは訓練所時代からの友達。単冠湾の隼鷹とも仲がよい様子。その後の戦闘で負傷し、退役した。

・隼鷹2  :広報部隊編。単冠湾勤務。着任は飛鷹と同じタイミングだった。本部広報部隊の隼鷹に手紙を送り、飛鷹の負傷と退役を伝える。

・長門   :広報部隊編。“サーカス”艦隊。規格外。砲弾弾き。那智教官の親友。なので那智の席を奪おうとした主人公が相乗効果で大嫌い。提督にちょっと逆らったほど。でもそれを気にして悩む。旗艦として十分に経験のある、有能な艦娘。

・加賀   :広報部隊編。“サーカス”艦隊。規格外。弓使い。一睨みで「僕」を震え上がらせる。矢筒は航空機用と通常の矢用。通常の矢で深海棲艦を仕留めたこと数知れず。手矢とか手矢での刺突で接近戦までこなすらしい。

・足柄   :広報部隊編。“サーカス”艦隊。規格外。ハッピートリガー。

・提督   :初出は広報部隊編。まともに姿を現すのは二特技研編。女、片目・片腕・片足、杖持ち、なんか薬やってるっぽい、性格悪い。武蔵並の属性詰め込みキャラ。初期案からガラっと性格が変わった。最初はお姉さんって感じの予定だった。

・妙高   :二特技研編。第一艦隊と“サーカス”艦隊の掛け持ち。第二艦隊の規格外とやり合える吹雪以外の数少ないノーマル艦娘。

・吹雪   :二特技研編。第一艦隊。秘書艦。控えめ。公正。強い。好感度は低いが秘書艦で旗艦なので私情を挟まないことを徹底している。死すらも真っ向からねめつけて跳ね除ける鋼の自制心。

・ 響   :二特技研編。第一艦隊。隼鷹に負けず劣らずの酒好き。ただ隼鷹と違って、一人で飲むのも好き。宗教家。ロシア語。「僕」と絡ませると延々ロシア語やロシアについての話になるのであんまり出演させられない。

・川内   :二特技研編。“サーカス”艦隊。規格外。

・羽黒   :二特技研編。“サーカス”艦隊。規格外。

・伊勢   :二特技研編。第一艦隊。挑発的な、遊ぶような機動をカモフラージュにしつつ、基本的には真っ当な戦い方をするが、それだけに一度種が割れると(ある種読みやすく)付け込まれやすい。

・日向   :二特技研編。第一艦隊。後部甲板は盾じゃないと言いつつシールドバッシュも辞さない。刀より先にパンチが出るタイプ。

・明石   :二特技研編。工廠のボス1。昔、何本か作ったナイフの残りを持ってきてくれた。初期好感度的には「低」と「並」の狭間ぐらいだが夕張があんまりなので申し訳なさから「並」程度に。誰にでも優しいので勘違いされやすい。

・夕張   :二特技研編。工廠のボス2。精神的な未熟さから「僕」への嫌悪を隠し切れなくて明石に気を使わせてしまったことを悔やんでいる。「僕」のことは相変わらず嫌い。

・不知火  :二特技研編。落ち度はない。隼鷹と「僕」が来るまで一番の新入りだった。初期好感度的には「低」だが「僕」の後輩補正で「中」~「高」ぐらいにはになっている。ちょろぬい。それはさておき、実力は確かなもの。

・龍驤   :二特技研編。腹椀でケツ錠。ごめんとしか言いようがない。

・加賀2  :二特技研編。最近、五航戦と仲良くなった。

・五航戦  :二特技研編。いしのしたにいる。

・正規空母 :二特技研編。運用する艦載機数が半端ではない補給線の破壊者。一体どんな赤城型なんだ……!

・武蔵   :融和派編。対融和派鎮圧艦娘部隊“排撃班”所属。符丁は“六番”。「僕」を餌に融和派を釣る為に接近してくる。人や艦娘を撃つ仕事に疲れ、死に場所を求めており、艦娘としての「死」そのものである主人公に少し気を惹かれる。

・最上   :融和派編に出てくる予定だった。排撃班に先立って融和派の調査その他に当たる下部組織(部隊)“評価班”所属。みんなからはもがみんって呼ばれてます。出てきそうにない。出て来なかった。

・電   :融和派編。パフェに手をつけなかったのは「僕」が嫌いだから。融和派。

・赤城   :融和派編。融和派。スピリチュアルなことを信じている。まあ妖精とかいるしな。手や腕の怪我で弓が使えない? 「ゆがけ」改造の革製鋲付ガントレットで肉弾戦とかするとカッコいい。「頭の中の声」を深海棲艦の声と信じている。

 

 

・広報部隊の艦隊

・重巡洋艦:「僕」

・軽空母 :隼鷹(二特技研へ「僕」と共に転属させたいところ)

・高速戦艦:榛名

・軽巡洋艦:由良

・ 駆逐艦:曙

・ 潜水艦:伊168“イムヤ”

 

・「僕」のルーツ(沈んだ艦娘の魂とか思念)に説得力を持たせるのにはどうしたらいいんだ……→誰でもない艦娘から深海棲艦鬼級や姫級が生まれた辺りでどうにかいけるか?

 

・北上ラストチャプターで大量の非人型深海棲艦を道連れに自爆? 群がって食い荒らす深海棲艦の中から魚雷を片手に掴んで掲げて「しゅわーっち!」→その展開 大井が しぬ

 

・なんで携帯持ってないの? →あんなん持たせたら問題になるって現代でも分かってるじゃん! →イムヤがスマホ持ってなかった? →スマホか何か

 

・タイトル決定!「Home is the sailor, home from the sea.」

 

・2話のイメージ詩はアルセーニイ・タルコフスキーのИ это снилось мне, и это снится мне...から第二連

 

・主人公は肌が弱い→弱くなった→深海棲艦寄りだから

・ル級の言葉が分かった理由→深海棲艦寄りだから(通常は聞こえない)

 

・日向「なあ伊勢、一体ここでは、どうやったら死ねるんだ?」

 

・前任の2人は「深海棲艦の声」が聞こえると言い出してから暫くして突然沈んだ(自殺した?)

・一特技研は通常戦力での対深海棲艦戦術を研究している

・二特技研の提督は軍服嫌い(大事な時には長門や吹雪に強引に着せられる)、クソみたいな性格

・片腕、片足、片目(日替わり義眼)の女、長門がヲ級から分捕ってきた杖を使う

 

・長門型の説明;どの鎮守府も一人は擁している、二人以上いることも;融和派に毒を盛られたことがある、毒を盛られたワインを一気にぐいっと飲んだ長門はさっと顔色を変えて叫んだ「うまいワインだ!」

 

・提督「これを片付けておいてくれたまえ、ナイチンゲール君」長門「長門だ」提督「悪かった、ナンプラー君」

 

・通常航空戦力⇒基本的にジリ貧、あっちの攻撃はほとんど当たらないが、命中すると致命的;こっちの攻撃は当たるが、ほぼ無効化される;しかも空母沈められたらヤバい

⇒基地からの出撃がメインなので防衛戦闘と近海警備に使われる

 

ラスト、上手く繋げる為に色々考えてみるべき。

 

・武蔵;対融和派排撃班の班長。符丁は“六番”。「僕」を餌に融和派を吊り上げる為に、偶然を装って接近してくる。人や艦娘ばかりを撃つ仕事に疲れ、死に場所を求めており、艦娘としての「死」そのものである主人公に少し気を惹かれる。

   ;「利用して悪かったな……だが私たちは友達だ、そうだろう?」手を差し伸べるが「僕」は払いのけないまでも拒否する。「そう拗ねるなよ、男がすたるぞ」

 

・最上:対融和派評価班の班員。排撃班のサポートを務める評価班の一員。「僕」を付け回し、武蔵が見つけられるように報告している。符丁は“三号”。「~号」が評価班、「~番」が排撃班。

 

排撃班は重巡~戦艦のみ。艤装は余り用いず、軍刀や銃、体術を用いる。艤装を着用した艦娘と艤装なしで戦う訓練も受けている。磨き上げた方の特技持ちも割といる。

 

那智教官「お前は兵士だ。それも、人類始まって以来初めての、人の天敵を討つ兵士なのだ。良心を持つ贅沢は許されていない。疑う必要はない。立ち塞がる者の屍を築け」

 

・「ナニモカワラナイ……」みたいなセリフあったよね「ナニモワカッテイナイ」とか

→武蔵は核心に近いところにいる。ラストの方で「僕」に「私たちでは何も変えられん。私たちは艦娘、あの戦争を戦った艦だ。もう何もかもが定まってしまっている。私たちはずっと同じ舞台で同じ劇を演じ続けているだけなんだ。筋書きに逆らえない。だがお前は闖入者だ。お前は何でもできる。行け、運命を変えろ、この戦いを終わらせろ、きっと私に、その先を見せてくれ!」ちょっとクサい気が。

 

・「深海棲艦から艦娘が生まれたんだろう? どうして艦娘が深海棲艦になる?」「卵が先か鶏が先か型の話なら別の奴とやってくれ。お前はナイフで刺された時、そのナイフの種類だのハンドルの材質だの気にするか? それより先にやることがあるだろう?」or「知らんよ、先祖返りしたんじゃないのか」

 

 選んだのは彼女たちだった。何隻もの駆逐イ級に貪られた榛名であり、妹を守る為にル級の砲撃の前に立ちはだかった天龍であり、レ級と刺し違えた長門であり、この海で「死にたくない」と叫びながら沈んでいった全ての艦娘たちだった。それは僕でもあったのだ。駆逐イ級に臓腑を食い荒らされたのは僕だった。軽巡の体にはとても受け止められない暴力によって、粉々に砕け散ったのは僕だった。レ級の最後の息遣いを感じながら水の中に沈んでいったのは僕だった。彼女たちは死の間際に思った──もっと強ければ。自分が自分でなくなってもいい、強ければ。死なずに済んだろう。守れただろう。倒せただろう。強ければ。かくもか弱き、女の身で、なかったならば。榛名が、俺が、私が、僕だったなら。

 

→誰でもない艦娘たちの想念が鬼級や姫級などの深海棲艦を生み出した→船魂を転写された艦娘たちの想念は何を生み出した?(主人公は水鬼級やレ級じゃないかと誤った推測をする)

 

 

「愉快なものだろう? 私たちの日常さ。何度も何度も同じことを繰り返すのさ。気が狂ったって止められやしない。息をするのをやめろというようなものだ」

 

 「カエレ」……! 帰れ! その声──その意味──僕は深く沈む──彼女たちがいる、喜びをその顔に浮かべて──僕は帰る──彼女たちのところを目指して──僕たちは初めて抱き合う──妹たち、姉たち……救済、融和、平和、開かれた魂……終わりのない未来……一点の陰りもない世界……今日の続いた明日……

 彼女たちを炎が焼き尽くす。僕の手の中で彼女たちは溶けていく。握り締めた手が、どろりとしたヘドロのような手が、僕の指の隙間から抜けて落ちていく。天国への扉があった。さっき、僕はそこにいたのだ。その戸口に立ち、手を掛けていた。僕が焼き払った姉妹たちが、僕らと共に暮らそうとした楽園の扉。今や僕の手の中からその鍵は失せてしまった。僕は立つ。僕は膝を突く。誰かの呻き声が僕の喉を通っていく。僕は肌をかきむしる。艤装の残骸を引き剥がす。足元の土を叩く。その音は打ち寄せる波にかき消される。もう何も聞こえない。彼女たちの喜びの声も、彼女たちが伝えようとした全て、もう聞こえない。あの場所はもうない。

 僕は帰る場所を失ったのだ。

 

・「融和派」艦娘

;駆逐艦「電」

;航空母艦「赤城」

 

 

空母棲鬼「ナンドデモ…クリカエス…カワラナイ…カギリ…」

 

 

彼女は再来週の天気を聞かれた一般人のように答えた。「知らないよ」

 

 

・スリーパーや融和派の多くは溺れた経験がある

 

 

平静の中で死ぬことはできる、激情の中で死ぬこともできる、だがどんなものでも、何かを持って死んで行くことはできない

 

仲間たちを失いながら目標を達成しようとする、だがそれが和平派であり、交戦していたのは接触を阻もうとしていた抗戦派だったことを理解する

 

・「あんたは傲慢だ、謙虚さを学べ」「いい言葉だな、電話して留守電に入れといてくれ」

 

・武蔵の融和派編→第二艦隊編→第五艦隊編→深海棲艦編→

 

・「何故そんなに人のことに口を突っ込んでくる?」「お前が怒るのを見るのが楽しいからだよ」「本気か?」「まさか! ああ、だが! しかし、待てよ、気のせいかも……もしかしたら……」

 

 

抗戦派→「僕」をスリーパー(深海棲艦の意志を理解し、それに従うもの)の一人にしようとする→艦娘の思いが流れ込む→艦娘でもあり、深海棲艦でもあり、人間でもあることに→融和派、パイプを発見と確信、接触を持とうとする→

 

・武蔵「ああ……それでやっと合点がいったよ。何故お前が嫌われるか。それに、どうして私がお前を気に入ったかも」

 僕「へえ、『僕がクソ野郎だから』以外に理由があったのか?」

 武蔵「ま、言ってみればだ。ほとんど全ての艦娘にとっての悪夢なんだよ、お前は。『武蔵』にとっても、本当はそうだろう。ただ私にとってはそうじゃなかった」

 僕「人の真剣な質問を抽象的な表現ではぐらかすのは、僕が嫌いだからだと思ってたよ」

 武蔵「それじゃ、お前が人の真剣な話を茶化すのは私が嫌いだからかい?」

 僕「まさか! 気に入ってるよ……魚にとっての釣り人ぐらい身近に思ってる」

 武蔵「全く面白い表現だな。なあ、排撃班に来ないか? 丁度一人欠員も出たところだ。何なら評価班でもいい」

 僕「うちの提督が怒る。彼女が怒ると、悲劇が起こる」

 武蔵「ままならんものだ。私と一緒に働く気になったら、何か馬鹿なことをやって軍法会議にでも掛けて貰え。迎えに行くよ、絞首台の下で会おう」←対深海棲艦ミサイル作戦放棄時に迎えに来る?(「何もあそこまで馬鹿やらなくてもよかったんだぞ?」)

 

・二特技研編、出撃から戻ってくると吹雪に「弾薬や燃料等の物資消耗量、戦果をまとめて報告をしておいて下さい」と言われる。僕は伊勢に尋ねる「そういうのって秘書艦の仕事じゃないのかな?」

 「いつもは秘書艦がやってるんだけどね。でも、これだけは言っておくけどさ、あの子は仕事を人に押し付けたりしないよ。それだけは信じて欲しいなあ」「そっか、それならいいんだ。変に疑って悪かったよ」

 報告書を作って持っていくと、長門と提督の話が聞こえる。長門は「私を第二艦隊の旗艦から外せ」と持ちかける。提督は「人事権は私のものだ」と突っぱねる。

 「どうした? このところのお前はやけに不安定だな。あいつが抜けた時みたいじゃないか……落ち着け、これやるか?」

 「結構だ! ……提督、立場ある人間がそんなものを使うべきではない」「完全に合法だぞ。処方箋だってある。持つべきものは高学歴の友達だ」「友達? 提督に友達がいるとは思わなかった」「今のは効いたよ。さて、落ち着いたな?」「ああ。すまん」

 「これも仕事さ。じゃ、話せ。一体どうしたんだ? 最初にあの男のことを知った時は、別段変わった様子ではなかった。後に続く男の艦娘が現れれば、戦力の増加に繋がると喜んでさえいた。広報部隊の映像でも、それなりに動きを評価していたな」「うむ」

 「だが会った瞬間、お前はあいつに悪意をぶつけた。確か、無様だと罵ったんだったか。奴はもうちょっとで死ぬところだったにせよ、訓練所を出て以来数ヶ月広報しかやっていなかったような艦娘としては、破格の戦果だったにも関わらず、だ。合ってるな?」

 「ああ」「何故だ?」「分からん。奴を見ると吐き気がする。背中を見せていると怖気が走る。苛立ちや怒りが抑えられなくなる。私はどうしてしまったのかと、何度も考える。こんなざまでは早晩沈むかもしれないと思うと、夜も眠れない。悪夢を見て、自分が海の上にいるのか、部屋にいるのか、それとも海の下なのか、分からなくなって飛び起きる。提督、教えてくれ。私には限界が来たのか? 後方で休むべきではないのか?」

 「」

 

・提督「平和な戦前に生きたかった」長門「戦前? あの頃はそこまで平和とは……」提督「そっちじゃない、この戦争の前だよ」

 ↑艦娘が大なり小なり「艦時代の過去」に影響されることを示唆(こんなの一回ぐらいで分かるかよって思うけど)

 

 

・時系列

 

子供の頃に溺れる(深海棲艦が接触、艦娘の想念残滓流入)

15歳で適性発覚

3ヶ月の訓練

数ヶ月(5ヶ月程度とする)の広報部隊勤務

隼鷹と共に二特技研へ転属

4ヶ月の勤務継続

誕生日付近で融和派との接触、武蔵編

第二艦隊編やる

第五艦隊編やる

深海棲艦編で「僕」は理解し、ミサイル発射を阻止する。他の艦隊は発射し、棲地を撃破(抗戦派のものも含む)

→長期拘留(一年とか?)、軍法会議で絞首刑に決定→武蔵再び編→融和派深海棲艦と手を組んで徹底抗戦派深海棲艦のところへ殴り込み(軍が艦娘並びに新開発の対深海棲艦用通常兵器を使って大攻勢に、抗戦派はその対応に追われているところを狙う?)

(それとも迂回して背後から人類を攻撃しようとした深海棲艦を襲撃?)

→広報部隊の青葉と那珂ちゃんが深海棲艦が艦娘を守る姿を中継、実況してくれる→まとめて鎮圧しようとする排撃班(海戦不得意)を第二艦隊(あるいは長門単艦)が足止め?→那珂ちゃんに引き継いだ青葉が排撃班を中継した為、露出を恐れて一時撤退

→色々あって武蔵は[編集済]、融和派深海棲艦と連合を組んだ艦娘&人類軍は抗戦派を壊滅させる。その後、鬼級以上の深海棲艦たちと多数の国家が話し合いで解決し(政治に興味がない「僕」は詳細知らず)、終戦。「僕」は艤装が使えなくなり、軍を退役する?

→あれこれ片付けてたらまた一年経って、十八の誕生日に退役?

 

ちょっともう色々ごちゃごちゃになってきた。獄中で十八歳になる感じでいいや

 

 

青葉が記者として活躍していることなどをちゃんと時々書いておくこと

 

曙や榛名も出したい

 

第二艦隊編について;那智教官の下で訓練されたことを伝えて、長門以外の大半から認められる?→いや、やめよう。長門とのサバイバル中に発覚という形にする。

交戦中に有力な敵の援軍、長門が負傷、「僕」が支えて逃げるも散り散りに(長門は指示をしていたが、「僕」がパニック状態だったせい)。

島で救助が来るのを待つ。その間に、長門、腕を切り落とさなければならなくなる(薄めた修復液を使用、ナイフの鋸刃も)。那智のようになることを恐れる長門は「僕」に文句を言ったりもする?

深海棲艦が止めを刺しにやってくるが、二人で協力して始末する(この過程で関係が最低限修復される)→深海棲艦の艤装を流用して自分たちの艤装を修復する→脱出に成功?

(「こんなことができるなんてな」「深海棲艦を分析して艦娘が作られたんだ、不思議ってほどじゃない」)

 

 

第五艦隊編:旗艦訓練? と実戦? それとも突然旗艦として実際の任務に放り込まれる?

 

武蔵:衛星放送を見られる小型防水テレビを愛用。青葉と那珂ちゃんの中継なんかも確認できる。

 

 

最後の一文「さあ、これから何をして生きていこうか? 僕は期待を胸にあらゆる未来を思い描いた──何しろ僕はまだ、十八歳になったばかりだったのだ。」

→十七歳でもいい。年齢の部分は事実に即して変更すること。エピローグで一気にまた一年経たせるって手ももちろんあるだろう。

 

天龍龍田を何処かで使いたいところ! 第五艦隊編でもいいけど……

 

「何の為に、誰と戦うかが艦娘であるかどうかを決める」→「人を守る為に、それを傷つけようとするあらゆるものを敵に回して戦おう。時には人自身からでも。僕はそう決意したのだ。だから、僕は艦娘だ。誰にも文句を言わせはしない。僕は人の盾、人を傷つけるものの天敵、最も新しい守り神になろう」ちょっと痛いな。

 

武蔵「友達は何人いる? どの艦娘だ? ……ほう、なるほどな。……まだ分からないのか? 私の質問自体がヒントになっているというのに。お前、学校で何を習ってきたんだ? どうして何か別に役立つことを学ぶか、あるいは単純にもっとよく勉強しておかなかった?」

武蔵「死を直視できるようになるものもいる、ということだ。それを求めまではしなくてもな」

 

僕 「相席大丈夫ですか?」

武蔵「いいとも。だがもしこの線を越えたら、その鼻へし折って顔面整地してやるからそう思え」

僕 「人に対して無礼に振舞うのは超弩級戦艦の間で流行ってるのか?」(超弩級戦艦でも、伊勢と日向は別だが。)

武蔵「ほう、性格の悪い奴もいたものだな。誰にやられた?」

僕 「長門に」

武蔵「何、長門型にだと? よし、それなら話は違う。私はあいつらが嫌いなんだ、友達になろう」

僕 「最低の誘い方だな!」

武蔵「何だ、別にお前にも長門を嫌えと言っている訳ではないぞ。あいつに嫌な思いをさせているお前のことが気に入ったんだ。いいから座れよ、何かおごろう……ああそうそう、言うまでもないだろうが、武蔵だ。知り合えて嬉しい、世界唯一の男性艦娘よ」

 

 

 

 

「軍は着任順を大事にするのさ」「つまり?」「僕が軍に入るより先に艦娘という言葉があった。だから、僕が艦娘の方に合わせなきゃならない。逆じゃないんだ」

「ふーん、随分と主張しない男だな」「何を主張するか、慎重に選んでるんだよ。何でも馬鹿みたいに口開けて欲しがっていいのは、鳥の雛ぐらいのもんだ」

 

 

長門→僕 :嫌い(艦娘からの悪意を代表するキャラ)

僕←→艦娘:微妙

僕 →武蔵:苦手(「僕」にとっての『例外』を務める)

 

 

 

 

深海棲艦

融和派:帰りたい

抗戦派:人類を滅ぼしたい

 

「鬼級とか姫級のルーツは分かったよ。じゃ、イ級なんかは何なんだ?」

「は? 学者先生か何かかよお前。何でも知らなきゃ気が済まないのか? 誰かが答えを持ってると思ってるだけか?」

 

 

 

二特技研;帰ってきた後、長門と提督のシーン。憂鬱を晴らす為に隼鷹と飲みに出かけようと誘うと、第一艦隊(除吹雪)と飲みに行くことに。陸の兵隊や空軍の兵士たちもいて、乱闘になる。罰として伊勢と日向は一日営倉行き、隼鷹は夜間当直、響は不知火と遠征任務、「僕」は「私の風呂の掃除でもしてろ」。殴り合いになって暫くすると、憲兵がやってくる。陸海空軍の誰も「誰が最初に始めた?」の問いに答えない。

 

「いいだろう、やってやろうじゃないか。海軍式のルールで行くぞ、死んだら負けだ!」こいつ大統領かな?

 

 

那珂ちゃんは誰からも那珂ちゃんって呼ばれてそう

赤城「那珂ちゃんいいですよね」武蔵「ああ、私も那珂ちゃんのCDは欠かさず買っている」

長門「那珂ちゃんのライブ次は近くでやるらしいな」加賀「生那珂ちゃんですか。流石に気分が高揚します」

 

 

深海棲艦編2で人類vs抗戦派が戦っているところに横殴りする時の案

・スピーカーで那珂ちゃんソング流す

・第二艦隊編もしくは第五艦隊編で青葉が密着取材した時のエンブレムを艤装その他につける

 

 

 

 

第五艦隊⇒独立遊撃支援艦隊、敵の多いところに行って友軍を支援する? 

 

 

・第一艦隊

吹雪 伊勢 日向 夕張 8 新規空母

・第二艦隊

長門 妙高 川内 加賀 足柄 羽黒

・第三艦隊

58 19

・第四艦隊

明石 (夕張) (不知火)

・第五艦隊

僕 那智 利根 北上 隼鷹 不知火

 

・MIA

 

 

武蔵「他に要るものは? お前の同期は新作CDを出したそうだぞ?」僕「じゃあそれ」武蔵「……本気か?」僕「ああ。買って来てくれ。保存用と布教用と実用に三枚な」武蔵「……このことは忘れんからな」

→これは一年間拘留された時の提督と「僕」の会話にしたらいいかも。CDプレイヤーも持ってきてくれてずっとそれを聞いて心の支えにする「僕」とか。

 

書いておくべきこと

・那珂ちゃんがアイドルとして活躍していること→青葉が取材担当艦娘として取材、それをネットにアップしたりした結果大ヒット

・青葉が取材担当艦娘としてあちこち飛び回ったりしてること

・赤城たちによるテレビの電波ジャックシーンを入れる(青葉が後に中継する時に赤城たちの協力を得る)

 

 

 

 提督は「海軍で随一の艦娘をつけてやる」と言ったが、僕はそれを決して疑ったりしなかった。何故なら、僕は艦娘になる前から彼女のことをよく知っていたからだ。そして彼女は、間違いなく提督の言った通りの艦娘だった。

 その艦娘の名前は、那智である。

 

 

 

「いいや、まだ朝だぞ」

 

 

融和派編の後に休暇編やる? 呉行って北上に会ったり宿毛湾で利根に会ったり、家族と過ごしたり後方の温度差でもんにょりしたり。短めでさ。

最後は「もう行くのかい?」「予定が早まっちゃったんだ。ごめんよ。行かなくちゃいけないんだ」みたいに。

電車で「海軍さん、何処に行くんだい?」「家に帰るのさ」とか?

 

いらんかな。いらんわ。うn。

 

家→艦娘寮=軍

故郷→家族の待つ家

 

 

 

エピローグを深海棲艦編2とは別にする? その場合、引用する詩は「通りで兵士の行進する音がする」で!

ハウスマンの引用多すぎるかな

でも好きだから仕方ない

RLSとも繋がりあるからぴったりだったし……

 

僕の後で、深海棲艦が彼女たちのスポークスマンとして選んだのは、提督だった。その傍らには吹雪秘書艦と──赤城、そして電がいた。武蔵がいたら、苦い顔をしただろう。

 

 

終戦後

「これからどうする?」

「とりあえず、家族と過ごします。旅行でもして。親の故郷とか」

「何処なんだ?」

「西海岸です」

 

*   *   *

 

第二艦隊編

 

青葉による広報取材→「なんでまたうちが?」「広報部隊に実戦やらせる訳にはいかんでしょうが(的なこと)」→航空機からのグライダー的な何かによる強襲?→「危険手当は?」「死んだらつけてやるよ」

→単冠湾からの天龍遠征隊(隼鷹のこともあって? しばしば来るようになっていた)を救助?→天龍のイライラ溜まる→二週間後に爆発「ヒーローさんはいいよなァ!」みたいな→そのちょっと後に「話をつけよう」と長門と二人で出ようとする?

→とはいえ私情で出るのは難しいから、遠征隊の途中までの護衛を引き受けることに→襲撃、天龍と二人は駆逐たちを逃がす(二特戦の研究所へ撤退させる)→途中まで三人でサバイバル→追跡してきた敵から長門や「僕」をかばう

→「なんであんなことを?」「なりたかった……」にやっと笑って言う。「ヒーローにさ」「死んだ」

 

 

 

長門をムカつくだけの馬鹿にしないこと←これが一番大事

第二艦隊旗艦としての冷静さ、経験に基づく思いつきなど、主人公よりもその手の能力を高めに描くこと

→今のところそれができているとは言いがたいな。ここから何とか挽回させよう→ダメだった気がする……

 

 

***

 

武蔵「ゴロワーズという煙草を知ってるかい」

僕「シネマの中でジャン・ギャバンが吸ってるらしいな」

武蔵「私のイメージでは某インターポールの警部だが、まあそれはいい。あれは臭いがきつくてな……二人してそれを吸うんだ。嫌で仕方なかったよ」

 

武蔵「昔は私が三番だった。陸奥が六番で、長門が七番。二人がくたばって私が六番になった」

 

 

 

融和派編エンドぐらいの辺りで自分を助けてくれた艦娘の顔を確かめようと、当時の記録にアクセスする

見つからなかったこと+それが融和派の提示してきたデータと変わらなかったように思えたこと→赤城たちの言っていたことが気になり始める

 

 

第二艦隊編の敵の一人は赤城派深海棲艦 「何故撃たなかったと思う?」or「もう少し……後もう少しだったのに……!」

(実際はカタカナで表記? 通常表記にして深海棲艦へ近づいていることを示す?)

 

「ああ、そうだ、言い忘れるところだった。もうすぐ誕生日だろう? おめでとう」

 

「どうしてすぐに助けに来なかった?」「あいつらは小物だったし、赤城のグループが奪取に動いてるって情報を掴んだからだ。奴ならお前が処刑される前に連れて逃げると思っていた。当たりだったろう?」

 

第二艦隊編で天龍が来る理由→深海棲艦の海中泊地探索の為に潜水艦が駆り出されているので、護衛役が海上艦に変わった

 

 

青葉に連絡を取る為に提督の執務室の電話を使う。その為に忍び込む「僕」。用が終わると同時に、戻ってくる足音を聞きつけ、急いで窓から逃げる。

 

*   *   *

普段の第二艦隊

・長門

・加賀

 ・妙高

・足柄

・羽黒

・川内

 

訓練所→広報→技研→六番→第二艦隊→長門→第五艦隊→洋上→棲地攻撃→もう一度蘇る静かな海の上で

 

「蘇る蒼海」大藪春彦かお前は。

 

「静かな海をもう一度」

 

「Home is the sailor, home from the sea.」

Sailorを「僕」だけでなく、他の艦娘たちや、融和派深海棲艦たちと解釈することも?

そのことを示す為に「Home are the sailors, home from the sea.」にするのもアリかもしれない。うーn。迷う。

タイトル全部使わないで「Home from the sea」でもいいかもしれない。

 

 

青葉に連絡したことに提督は気づいている。電話内容(青葉に来てくれるよう頼み、きなくさげだったり信憑性微妙とかで拒否される)も把握している。

青葉新聞を購読しており、匿名の情報提供者として二特技研が戦闘実験を行う旨を青葉に伝える。理由は「僕」が真実に辿り着く手助けの為。

「僕」が戻ってきた後、報告の際に提督が青葉新聞を読んでいる(伏線その2)。

 

 

提督も融和派、「僕」の動きが掴めていたのは彼女が情報を流していたから

赤城や電に流していたが、彼女たちの中にも別グループのスパイがいた? →赤城派に先んじて「僕」を別グループ(継戦派深海棲艦所属グループ)が奪取

 

 

艦娘戦場投入用グライダー運用について、提督は「僕」に『徹底批判しろ』と言う? →そもそも使わなかった

「内容を操作するつもりですか?」

「あれが使えると知れれば、軍は無茶な作戦も実行に移すかもしれない。そうはさせん」

「軍だって馬鹿じゃないでしょう」

「全体として馬鹿じゃなくても、一部の人間が馬鹿ならそれで私やお前たちを殺すには足りる。私の言う通りにするんだ、いいな?」

 

*   *   *

 

武蔵「絞首刑から二度も生還した男……世界唯一の男性艦娘……人類の裏切り者……お前も沢山の肩書を手に入れたものだな、尊敬するぞ」

 

 

・武蔵の説得をどうするか? そもそも必要なのか?

 

「何故だ? お前は軍人で、艦娘だ。何も考えず、戦っていればよかっただろう。そうすれば、こんなことにもならなかった」

「うん、そうだ。でもね、ダメだったんだよ。僕にはどうしてもできなかった。臆病だから、本当のことを知ってしまっては、どうしてもできなかったんだ。

 僕が世界を守ろう、なんて思っちゃいないさ。平和が訪れればいいなとは思ってるけど、それを自分でもたらそうなんて考えたこともないよ。

 正直なところ、あんなことをしたのを毎日のように後悔してる。どうして深海棲艦なんか皆殺しにしてしまわなかったのかって、ね。

 自分の手を汚すのが嫌なら、誰かにやらせりゃよかったじゃないか、って。でも、ダメだったんだ。したくなかったし、させたくなかった。

 その上、こんなになってしまってもまだ、生きていたいと思ってる。僕はただそれだけなんだよ。高尚な考えなんてないのさ」ちょっと改訂必要だな

 

 

 

 

武蔵は僕の遺書を書き換えて(付け加えて)いる。内容はあの耳飾りを自分へというもの。

 

 

 

第五艦隊→第二艦隊が評価運用させられた強襲艇の試験運用艦隊

 

 

深海棲艦収斂進化説;人型や人間の一部に近い形を持っているのは収斂進化の結果、という説。ほぼ否定されている。

 

提督は船魂を信じている

 

《ロシア人》

О семье. Во Франции, например, ≪русская семья≫ ? семья, в которой больше трех детей.?

В Польше семью называют русской, если муж сильно пьет, а жена все это терпит и не решается на развод.?

Но самый интересный вариант в Австралии. Тут семья считается русской, если муж имеет постоянную любовницу и не скрывает это. Говорят, что в этом ≪виноват≫ Лев Толстой - многие австралийцы читали ≪Анну Каренину≫. А там ведь тоже был любовный треугольник...

О невестах. В Германии ≪русская невеста≫ - это девушка из хорошей, но небогатой семьи. В Испании так называют женщину, которая уже была замужем, но ушла от мужа и решила создать новую семью. А в Швеции и Дании ≪русской≫ называют невесту, которая выходит замуж исключительно ради денег, обычно за богатого мужчину старше себя. Самый веселый вариант - в США. Здесь ≪русской≫ считается невеста, с которой жених познакомился по Интернету. Даже если девушка на самом деле из Норвегии, Португалии, Финляндии…

О бизнесе. В США русский бизнес - так говорят про бизнесменов, которые обманывают государство. Например, не платят вовремя налоги. Как правило, это сразу связывают с русской мафией.?

Но самое крутое толкование в Болгарии. Там ≪русской≫ называют любую сферу бизнеса - магазины, мастерские, банки, - если только они работают с большим перерывом на обед (больше, чем час).

О вечеринках. В экономной Финляндии вечер в ресторане называется ≪русским≫, когда счет оказывается больше 200 евро на человека. Самое смешное, что в Японии часто называют ≪русским≫ вечер с караоке.?

О моде. В Италии ≪русскими модницами≫ называют женщин, которые одеваются ярко, безвкусно и сексуально.

О еде. ≪Русский салат≫ - в Объединенных Арабских Эмиратах так называют салат, в котором много майонеза и картошки. ≪Русский чай≫. Так говорят в Англии про чай с лимоном.

 

《旅行者の方々への助言》

Некоторые советы иностранцам-туристам при посещении РОССИИ?

На улицах не принято улыбаться незнакомым людям. Если улыбнуться русскому, он может подумать: у меня одежда грязная?

У русских два лица: один он - на улице, и совсем другой - дома. До середины ХХ века Россию населяли в основном крестьяне. И это ощущается до сих пор: они невероятно лояльны и бесконечно великодушны к тем, кого знают, и крайне недоверчивы и враждебны к незнакомцам.

Транспорт в России. Автомобили не тормозят перед пешеходами, а некоторые водители даже увеличивают скорость. Конечно, намерения убить у них нет - они просто хотят увидеть страх в ваших глазах.

Опасность в России. Если вы идете по улице, постарайтесь выглядеть русским: для этого несите в руке пластиковый пакет.

Если пить на 30-40-градусном морозе горячий чай или кофе, зубы со временем начинают чернеть, что хорошо видно у многих жителей якутских городов (это где-то в Сибири).

Женщинам-путешественницам стоит знать, что большинство русских мужчин агрессивны, не знакомы с правилами этикета и могут рассматривать женщин в качестве сексуальных объектов.

Входя в метро, держите руку перед лицом - чтобы вам не выбили зуб дверью.

Местная вода из-под крана - одна из самых страшных проблем для иностранцев. Некоторые используют воду из бутылок, даже когда купают детей.

Зелень в русской кухне почти не представлена. Но уж если ее используют, то на всех блюдах, как правило, появляется зеленое одеяло из укропа/петрушки. Так что лучше сказать повару заранее: всё без укропа.

Многих иностранцев удивляет, что на самом деле самый популярный алкогольный напиток здесь - пиво.

Из всей одежды самое серьезное отношение у русских - к ботинкам. Если вы хотите, чтобы люди думали о вас как о человеке культурном и стильном ? чистите обувь до блеска.

Столица России. В Москве практически невозможно разбить палатку.

У типичной москвички такое высокомерное выражение на лице, что кажется, что она ненавидит Москву. Несмотря на то, что она прожила здесь всю жизнь, она показывает: на самом деле я принадлежу Парижу.

В московских квартирах гостиная каждый вечер превращается в столовую, а с наступлением ночи - в спальню. Именно поэтому в парках на скамейках - столько целующихся молодых парочек.

Клубы в России. Как пройти фейс-контроль. Принарядитесь: женщины должны выглядеть как куклы Барби, мужчины - одеться в черное. Подъезжайте к клубу на автомобиле: чем он больше - тем лучше.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「器用な奴だ」

「人間は何でもできるべきだ。鋳掛屋、仕立屋、兵隊……」(最後の一つは言わないでおこう、変な疑いを掛けられたくないからな)「専門分化は昆虫の為のものさ」

「含蓄のある発言だな。お前の言葉じゃなさそうだ」

「ご明察。ある海軍中尉と、秘密情報部員から教わったんだ」

 

 

「電波ジャックを頼みたいんだ。前にもやってたろう」

「難しいですね。あの時には協力者がいたからできたんです」

「青葉が協力してくれる。してくれなきゃ、どうにかして、させる。電はまだ彼女のところに?」

「ええ」

 

 

長門たち第二特殊戦技研究所付艦隊員たちは全員、2nd Special Tactical Research Fleet = 2.S.T.R.F.の焼印を押している。明石と夕張が鋼材の余りをくすねてでっち上げたものをバーナーで炙ってから押しつけて使う。

特にサーカス艦隊である第二艦隊はテレビに映ることもあるので、伝統的に人目につかない場所に押しているが、別にそうしなければならない訳ではない。

焼印を押してから暫くはその部分に修復剤が掛からないように注意しなくてはならない。不知火はうっかり掛けてしまって二度押す破目になった。落ち度!

ある程度治ったら、修復剤を掛けても大丈夫。欠損した場合も焼印を押された状態で修復される。

「僕」は長門とのサバイバル中に長門の背中にその焼印を見つける。手当ての最中。

エピローグとかで別れを惜しむ「僕」を、みんなで押さえつけて(ただしみんなとはその時の集まりの参加者たちのこと)焼印を押す。隼鷹も自ら望んで押して貰う。→痛みに耐える為に手を握り合い、見つめ合って笑う

仲間たちに抱きしめられたり背中を叩かれたりしながら耳元で那智の「これでずっと一緒だ」系のセリフ。→「今までの人生で最高の一日だった。」→退役日へ。

 

焼印場所;設定だけ

 

提督:「またぐらだ」「うわあ。変な病気になりますよ」「そしたら薬を飲むさ」

 

第一艦隊

 

吹雪:左胸の下

日向:右肩(背中側)

伊勢:左肩(背中側)

響 :尻の割れ目のすぐ上

隼鷹:(未決定)

 

*   *   *

 

第二艦隊「サーカス艦隊」

 

長門:背中、うなじの下辺り

妙高:右の脇腹

加賀:腰(背中側)

足柄:腰(背中側)

羽黒:手の甲

川内:肩(肩章みたいに)

 

*   *   *

 

第三艦隊

 

 五八:左の脇腹

 一九:左の脇腹

  八:左の脇腹

四〇一:左の脇腹

 

*   *   *

 

第四艦隊

 

明石 :へその下

夕張 :へその下

不知火:太もも

 

*   *   *

 

“第五艦隊”

 

僕 :右の鎖骨下

那智:右腕

利根:手首

北上:舌の上

隼鷹:左の鎖骨下

響 :尻の割れ目のすぐ上

不知火:太もも

(青葉):なし

 

 

 

 

 

第二艦隊編→青葉に連絡、断られる→長門とケリをつけに行く(天龍艦隊護衛)→帰還、入院、退院、報告→提督(僕の青葉新聞読んでる「死んだとばかり思ってたんでね」)「お前はちょっと働く度に入院しないと気が済まんようだな」僕「提督は人に会う度に毒を吐かないと死ぬんですか」提督「いいや、私は一日誰とも会わなくてもこんな調子だよ」→提督「ああそうそう、ところで……お前に一つ艦隊を任せることになった」僕「ご冗談でしょう?」

 

第五艦隊編→断った筈の青葉がやってくる(SARFについての取材)→色々やって、チャプター終了直前。外出許可を取った休みに一人で出かける。帰りにバスに乗る。少し遅いからか乗客は僕一人。うとうとしていると横に誰かが座る気配。

どすん、というようなものではなく、軽い荷物を置いたような感じ。何だろうと思って目を開けると電。青葉からの情報を渡しに来た。

「どんな関係なんだ? 青葉も君らの一員なのか?」「青葉さんは情報源の一つなのです」「つまり一員じゃないんだな」

 

 

 

 

那智→長門と二人で護衛任務をやった時(僕と長門が後にやるような形の護衛)、軽巡棲姫だか鬼だかの一隊に攻撃を受ける。護衛対象を逃し、二人は敵を引きつけ、撃破していくも那智が負傷。後に僕と長門が辿りつくあの諸島地帯へ。

二人とも希釈修復剤を使い果たしており、那智は航行可能な状態ではなかった為、長門が単独で脱出、救援を引き連れて戻ってくるも、那智は隻腕に。長門はその選択そのものは正しかったと信じているが、自分の力不足を悔やんでいる。

 

 

 

「僕らはただの艦娘だ。人間と変わらない。君は全然、勘違いしているよ」

「そうだな。だが私はただの艦娘であることを、随分と前にやめたぞ。そこがお前とは違うところだ。お前には、分からないだろうがな」

 

「僕はただの艦娘だ。君もただの艦娘だ。できることなどない。君は全然、勘違いしているよ」

「確かに、あなたはただの艦娘です。まだ、ね。でも、私はただの艦娘ではありませんよ。もうとっくに、そんなのはやめてしまいましたから」

 

 

 

 

「何がそんなに楽しいんだ?」

「マジだったらいい戦いになりそうじゃねえか、それがだよ。お前にゃ分かんねえだろうけどな」

「実戦を経験して、まだ戦争が好きでいられるような奴がいるなんて、思わなかったな」

「てめえもそういう口かよ。ったく、オレの戦争好きでてめえに迷惑掛けでもしたか? あ? 嫌になるぜ、いっつもそうだ。色んな艦隊の連中と会って、話をする。特に、その艦隊で一番腕の立つ艦娘とな。ヒーローだ英雄だってもてはやされてるような奴もいたよ。でもみんな決まって、戦争が嫌いなんだ。頭のおかしい奴でも見るみたいにオレを見やがって。きっとな、アレなんだよ。ほら、同調圧力とか言う名前のアレさ。だからいつか、この天龍様も大活躍して、カメラの前で言ってやるんだ。戦争が大好きだ、オレが死ぬまで続いて欲しいってね」

「それは……」

「もう黙って食えよ、な?」

 

 

 

 

「一体、深海棲艦とは何なんだ? 何故人間を襲う? どうしてそっとしておいてくれないんだ?」

 

最初に深海棲艦の被害に遭ったとされる→ロシアの軍艦か何か?

→後のチャプター

 

 

 

 

 

 

タ級を始末した後。救援を待ちながら長門と話をする。2.S.T.R.F.の焼き印について。

「お前にはもったいない」

(地の文)

「ああそうだ、言っておくことがあったんだ、長門」

「うん?」

「僕も君が大っ嫌いだ、分かってるよな?」

「ふっ、分かっているとも、六番艦」

(地の文)

「帰ったら、提督にお前を命令不服従で第二艦隊から追い出すように言う」

「ああ」

「書類上の処理は私と吹雪に任せておけ。不名誉な形にはしない。第四艦隊から出向するという形を取らずに、正式に第一艦隊へ所属することになるだけだろう」

「正直、研究所から叩き出されるか、後ろから撃たれるかと思ってたよ」

「そんな真似をしたら妙高に殺される」

 

 

 

赤城との再会シーン、赤城はスパイ(融和派編で「僕」の情報を他のグループに流した)を始末している最中。

ついでに「僕」を勧誘していた司祭殿も始末している?

処刑方法は弓懸パンチ。「他にもっと洗練されてたり気の利いたやり方があることは認めますが、何しろこれは準備もいらないし安上がりでしてね」

 

 

 

今のルート(深海棲艦との停戦ルート)→主人公は一艦娘として退役

旧ルート(深海棲艦撃滅ルート)→主人公は英雄として退役

 

 

mmmph

bueno...

 

 

隼鷹「うわっ、こいつぁひどいな。一体何がどうなったんだ?」

僕「あいつら、猫が鼠を追い回すみたいに僕らを弄びやがったんだ。でも、途中でしくじった」

隼鷹「?」

僕「鼠を追い詰めたのさ」

 

 

 

青葉が来た時、最初に端末と情報入りメモリを渡す。赤城の手引で、頼んだことになっていた。「僕」は変に疑われないよう、それを受け取る。中には端末、メモリ、飛ばし携帯。

電源を入れると、赤城から電話が掛かってくる。(赤城の命令を受け、頼んだことに仕立てたのは同行の電? 「初めましてなのです」)「あなたが動こうとしないので、こちらから手を打たせて貰いました。ああ、電話はいいですね。あなたと話していても苛立たずに済みます」

赤城から解説を受けながら、艦娘と人型深海棲艦について話をする。「ああ、確かに艦娘実戦投入から人型深海棲艦の数が増えてる。でも人型深海棲艦の研究から艦娘ができたんだろ? 先にいたのは深海棲艦の方じゃないか」「最初は人型深海棲艦などいなかったのです。それらを世界中で通常船舶の艦隊が攻撃し、敗北し、大勢の人間が死に、数多くの船が沈んだ。人型深海棲艦が現れたのはそれ以降です。分かりますか? あれらは、元を辿れば私たちの船なのです。その変わり果てた姿とでも言うべきでしょうか。私は、沈んでいった船や乗組員たちの無念の思いの結集と信じています。それを妖精と共に研究し、人のまま、人間でなくなった者──艦娘ができた。私たち艦娘と深海棲艦は兄弟なのだと、そうは思いませんか?」「でも大勢の人間が死んで、やっと人型深海棲艦がぽつぽつ姿を現す程度なら、今みたいに増えるのはおかしいだろ」「妖精たちが艤装に何を転写するか、覚えていらっしゃいますか?」「船魂? 馬鹿な! ただでさえオカルトめいた話だが、大概にしろ!」「では、先祖返りと考えるのは? 艦娘たちは深海棲艦から産まれ、故に深海棲艦になる。どうです?」「受け入れがたい」「でしょうね。正直に話しましょう。私たちにも分かっていないことの方が多いのです。ただ分かっているのは、あなたがいれば、この戦争を終わらせることができるということ。少なくとも、それを試みることはできます」「また組織への勧誘か?」「融和派深海棲艦は鬼級、姫級などの話せる深海棲艦がほとんどで、話せない者たちの大半は、コミュニケーションが不可能だということを理由に抗戦派に属しています。あなたにはできる。そうでしょう? あなたが証明になるんです。あなたは私たち人類と、深海棲艦を繋ぐ架け橋になれる」

 

↑ちゃんと眠くない時に読み直して色々考えておけ

 

「オカルト、ですか。一体、どれだけの『オカルト』が後に『科学的事実』になったと? そしてどれだけの『科学的事実』が、その後の研究で否定されて来たと思っているのです? 科学的に聞こえないということは、それが科学ではないという意味ではありません」

「私たちは事実から推測を重ね、筋が通るように解釈しているのです。大事なのは正しいかどうかではなく、それで上手く行くかどうか。正当性の立証は後でもいいでしょう? 問題を解決した後なら、たっぷり時間が取れるのですから」

 

 

海の底の艦娘たち、水の上の深海棲艦たち

 

 

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「これは?」

「ナイフだ。いや待て、落ち着けよ。大したものじゃない、そうだろ? 僕の父の実家では、外に出る時にちょっとしたナイフを持つのは、丁度靴を履くのと同じようなもんだぜ」

 

「君は風車に向かって突撃する騎士気取りの大間抜けだ」

「なあに、複雑骨折ならすぐ治る」

 

 

 

訓練所で三ヶ月→半年に達さない程度の広報部隊勤務(五ヶ月)→第二特殊戦技研究所「二特技研」で四ヶ月(六番)、16歳に→「二特技研」でまた少し(第二艦隊&長門)

→第五艦隊編、旗艦学校で半年→「海難」編で数ヶ月+一ヶ月+数週間?→大規模作戦編→軍による拘束(一年とかでもいいかも、濁して「獄中で十八歳になった」がいいか?)→最終話→エピローグ(退役)

 

3,5,4,-,6,6,-,1,-,12

 

 

提督「お前、深海棲艦の声が聞けるんじゃないのか?」

僕 「え? まさか」

提督「そうか? 長門がそんな感じのことを以前報告して来ていたからな。あの時は握り潰しておいたが、今思えばその時に行動するべきだったのかもしれないな」

 

 

7-2で有力な敵と交戦しているところに急遽援軍で行けと言われる

→ボロボロになりながらも那智教官と「僕」、それに要請者の艦隊、片付けて駆けつけた艦隊のみんなと撃退して勝利。那智教官と明かす。

 

7-3~4もしくは~5では青葉の取材&SAR艦隊運用の報告会で航空機で移動中に悪天候に遭遇、高度を下げなければならなくなり、敵の対空砲火を受ける。

まぐれ当たりで機は速度を落とし、やがて墜落。どうにか第五艦隊や青葉は無傷で済むが、第五艦隊+青葉で、最も近い人類勢力圏まで敵勢力圏を突破することに。

燃料、弾薬の補給もなく、航空機に乗り合わせていた軍属民間人を救命艇に乗せての行動。途中で「楽にしてやろう」とか「殺して捨てよう」みたいな案も出るが、

結局誰も手を出そうとはせず、最後まで守り通す? 「みんな分かっていたのだ。何が僕らを艦娘たらせているのかということを。だからそんな大それたこと、できる筈もなかった。」

ちょいキツいか?

 

 

「あいつは放たれた砲弾みたいにまっすぐな奴で……」「待てよ、砲弾は放物線を描くんだぜ」

「ああ知ってるよ、これはイメージの問題だ」「けど事実に即してない」

「じゃあこう言い直そう。あいつは砲身みたいにまっすぐな奴で……」「時々歪む?」

 

 

 

那智教官バレする回はそれだけで独立させよう。7-1, 7-2だ。

その後、青葉の取材などなどの回をぶっこむ。

それから大規模作戦編。よしよし、これでいいな。

 

 

 

賭けをして怒られる。勝ち逃げしようとしていたから。「全員に食事と飲み物を奢ります」「今回はそれでいいだろう」

 

 

航空機が攻撃を受けた時に響が投げ出されそうになる→「僕」が掴むが、結局響は投げ出される→最後に基地に戻って来ると、「僕」たちより先に帰って来ている響。

不死鳥の二つ名を持ってるし響にぴったりじゃない?

 

 

 

徹底抗戦派深海棲艦による「洗脳」を受けそうになる→沈んだ艦娘の思いがそれを妨害、半端に洗脳(深海棲艦との精神的リンク)、艦娘適性入手

→艦娘になったことで深海棲艦との精神的リンク強化、肉体が精神に引きずられて中途半端に深海棲艦化(肌が弱くなるなど)

→抗戦派は後に空母棲鬼を抹殺の為に送り込むことに→長門編の最後のリ級が抗戦派深海棲艦とのリンクを切断、融和派とのリンクだけ残す

(まだ一考の余地有り)

 

 

夢の雰囲気が変わる。真っ二つにして殺したあのリ級、悲しげな艦娘たち、艦娘たちから離れたところで怒りの表情を浮かべ、唯一主人公に話しかけてくる天龍

「深海棲艦を倒せ。オレが何の為に死んでいったのか、思い出しながら殺せ。北上の為に、利根の為に、那智教官の為に、お前のせいでオレを失った龍田や浦風たちの為に、戦うんだ。あいつらは(悲しげな艦娘たち)みんな腑抜けちまった。だから、気をしっかり持って、やり遂げるんだ。いいな? 戦争を続けろ、奴らの世界を滅ぼすまで!」

 

 

誰かを傷つける際ほど、生き物の持つ知性が輝く時はない。

 

 

あいつはダメだ。吹雪の中で雪も探せないような奴だからな。

 

 

「何で“艦娘”なんだ?」

「何でって?」

「ほら、だって、なあ。君は男じゃないか」

「艦娘は存在として僕より先任だろ。だから“艦娘”って言葉を僕に合わせるんじゃなくて、僕がその言葉に合わせるんだ」

「でもやっぱり、政治的に正しくない言葉遣いだよ」

「いいかい、まず一つ……“くたばれお節介野郎”、だ。ああ気にしないで、ただ君にそう言っておきたかっただけだから。何ならもう一回言っても構わないよ、どう? いい? それじゃ二つ目だ。僕は軍人で、政治家じゃない。広報部隊にいた時はともかく、今は違う。それから三つ。君のような気遣い上手のせいで用語が変わりでもしたら、何百万枚という書類が書き直しになる。その中には僕がやらなきゃいけないものがどう見積もっても一万二千五十八枚はあるんだ。だからね、君。僕のことを気遣うならどうか放っといてくれないかい。そうすれば、僕も一々腱鞘炎の心配なんかしなくて済むんだから。頼むよ、ね? お茶でも飲んでて。ほら」

 

 

 

 戦争が終わった後、自分がどうなるかや、艦娘みんながどうなるかをよく考えたものだ。幸運にも、心配していたことは杞憂に終わった。荒廃した国土と世界、最盛期からすると見る陰もなく減ってしまった人類の頭数。再びそこから立ち上がる為に、するべき仕事など幾らでもあったからだ。かくて艦娘は砲と魚雷と艦載機を下ろし、戦場を変えて人類復興という新しい戦いに身を投じたのだった。これをどう評価するべきか、立場によって違いはあると思う。戦争で命を懸けて戦ったのに、戦後まで必死に働かないといけないなんてひどい、と思う者もいる筈だ。

 僕もその気持ちは分かる。だがそれにしても、僕らは生き延びたのだ。戦争を終わらせ、あらゆる早すぎた死から戦友たちを救い、身を守る力のない人々を守り抜いた。役目を果たし、艦娘としての使命を全うした。従ってとどのつまり、この二言に尽きる。即ち──。

 めでたし、めでたし!

 

 

終戦、復員省、深海棲艦との戦争に直接参加しなかった国々からの支援金継続、行使可能な抑止力としての艦娘、保有による旧列強の大国化、志願した艦娘の職業軍人化(キャリア任用)も少なくなく

→ちょっと情報量多すぎかも。続編書くつもりもないし、減らすべきか

 

 

 彼は心底信じられない、という表情で「志願したんだって? 軍に?」と言った。僕が進んで一個しかない命を危険に晒すことを選び、それを続けている理由が、彼には理解できなかったのだ。僕は驚かなかった。誰にも理解できないと分かっていたからだ。僕の気持ちが分かるのは、本物の艦娘たちだけだ。よく言うだろう、同じ立場になってみなければ分からないことがある、と。それこそこれだった。彼の為に言い添えておくなら、初めは今と違ったことを僕は認める。何も考えていなかった。ただ、与えられた権利を行使してみただけだった。今は違う。戦いに身を投じる理由を僕は知っている。どうして砲弾や爆弾が降り注ぎ、足元を魚雷がかすめていくような場所にいなければならないのか、僕は知っている。

 戦うことは、楽しいものではない。嬉しいものでもない。僕はいつも怖い思いをしている。僕の明日が永遠に明日のままになってしまうことを恐れている。しかし、しかしだ。これは誰かがやらなければならないことなのだ。この世に生きるみんなが、こうして話している彼のように「戦争なんてごめんだね」という態度を取っていたら、今頃深海棲艦は海から上がって陸で戦っていただろう。世界全ての生き残りの為に、誰かがやらなければならなかった。

 そして僕は、それを人任せにしておきたくなくなったのだ。嫌だった。嫌だったけれど、手を貸したくなった。これは愛国心なんかじゃない。日本が滅んだとしても、僕は僕自身や親しい人々が生きていれば、そんなに嘆いたりはしないだろう。僕はただ、深海棲艦と戦う艦娘たちの血であがなわれた無料(・・)の平和の上にあぐらをかくのが、どうしても許せなかったのだ。

 

 

 

主戦派深海棲艦→四国を泊地化する作戦。住民を盾に攻撃を防ぐつもり

→このアイデアちょっと面白かったな、突拍子もないって意味で

 

 

マタイによる福音書 第7章第13節:『狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。』

イザヤ書 第6章第8節:『我またヱホバの聲をきく 曰く われ誰をつかはさん 誰かわれらのために往べきかと そのとき我いひけるは われ此にあり 我をつかはしたまヘ』

 

 

武蔵、最初は「僕」を排撃班に迎え入れようとするも、当初の目論見が外れて「僕」は排除対象として殺されそうになる

→武蔵と二人で脱走、途中で赤城が回収に来る→山へ→下り道で思い切り木にぶつけて助手席の武蔵を激突、気絶させる(エアバッグ無効化済)

→武蔵だけ拘束して港へ→小型ボートで移動(護衛は融和派艦娘たち)→赤城の融和派グループが使うアジトの一つへ

 

 

 

妖精たちは結局何なのか分からなかったが、僕の知ったことじゃなかった。偉い学者とかがそういうのは解明してくれることだろう。僕は艦娘だ。学者じゃないんだ。

→妖精たちには最後まで深海棲艦以上の謎でいてもらう、謎であることにすら触れられない程度の存在

 

 

 

深海棲艦との意思疎通を可能にするには不愉快な施術を耐えなければならなかったが、概ねほとんどがそれを受け入れた。受け入れなかった者たちは、彼女らだけで艦隊を編成した。腰抜けども、と彼女たちを罵るのは容易いが、僕にその気はない。この間まで殺しあっていた相手なのだ。彼女らとしては、意思疎通などできないままでいて欲しかっただろう。物言わぬ敵のままでいて欲しかっただろう。僕には、彼女たちを責めることはできない。また、誰にもそんなことをさせるつもりはない。手術を受け入れなかった艦娘たちを謗る人々がいるとしたら、そいつらは覚悟するべきだ。何故なら、彼らは一人の男を敵に回しているからだ。

 

 

 

 

融和派深海棲艦の深海泊地は敵勢力圏の奥深く

 

 

 

倒した敵に水の下へ道連れ→気絶→深海棲艦の出自のイメージを見る→深海棲艦の想い&沈んでいった艦娘たちの想いに触れる→

「僕」は真実を知る→目を覚ます→迷う→決める→作動させたビーコンを破壊する→敵を切り抜けてきた那智教官に見られる→深海棲艦登場→咄嗟に交戦しようとするのを止める→

「貴様、分かっているのだろうな」とか「何故だ」とか? 「何故だ」はいらないかもしれない。「分かっているのだろうな」「……手間を掛けます、那智教官」「……この、馬鹿が」

 

ビーコンは「止まっていた」という形にするべきか

主人公が止めたのか、助け出した赤城が止めたのか複数の解釈の余地があるように

 

 

別のCSAR艦隊が敵陣深くまで強引に突っ込んでくる→立ちはだかる有力な敵→唯一全ての艤装を所持している「僕」が囮になることに

→引っ張り回し、迂回を助ける→追い詰められるも、融和派深海棲艦の手助け(赤城も来る?)→敵を撃退・撃滅のどちらかして無事帰還

 

僕→完全武装

響→投げ出される

青葉→背中に重傷、僅かしかない希釈修復剤を使うことを避けて、通常の医薬品で治療→重体化するも何とか助かる(なお、「僕」は囮に出る前に希釈修復剤を使用、傷口を塞ぐ)

那智教官→連装砲二門、魚雷なし、脚部艤装なし

隼鷹→僅かな艦載機、脚部艤装なし

北上→連装砲一門、二十発の魚雷

利根→連装砲一門、魚雷なし、水上機

パイロット→背中に重傷、通常の医薬品で治療

 

 

 

神は慈悲深くなどないが、しぶとい生き物には時々救いの手を差し伸べてくれる。

 

試行錯誤の末に――というより、錯誤の末に――学んだ。

 

 

「天龍型軽巡洋艦一番艦、天龍!」

「彼女に代わって答えます!」

栄光のスペース・アカデミー感

 

 

確かにこれはAじゃないが、僕だってBじゃない。

 

 

一度失敗した奴は人生を棒に振れというのか?

 

 

青葉 :負傷

操縦士:負傷

隼鷹 :手当

那智 :舵取

北上 :監視

利根 :牽引

「僕」:低温

 

牽引可能;北上、利根、僕

監視可能;隼鷹、那智、北上、利根、僕

舵取可能;隼鷹、那智、北上、利根、僕

 

 

 

最高:一日2リットル

最低:一日500ミリリットル

 

7人→最低3500ミリリットル、最高14リットル

 

 

脱塩キット;1ケース7個→1個につき500ミリリットル;古いもののスペックなので新しいやつならもっと性能上がってていいと思う

 

 

深海棲艦編ラスボスは那智教官(予備誘導装置所持→最後は那智教官と誘導装置のどちらを狙うかというシーンで教官は「自分を狙ってくる」と判断する

→だが主人公は「教官を殺すなんてできない」と予備装置を持っていた右腕?を吹っ飛ばす→カウンターでやられる「僕」)

 

 

響の部屋の遺品整理をしようと主人公たちが出向くと、提督がいる。「あいつの部屋はそのままにしておく。何一つ例外なしにだ」後で那智と話す。「けど、響の家族が……」「響には」那智が言う。「家族はいない」

 →部屋の片づけをさせない→提督は響の生存を知っていたから、という伏線(やや弱い)

 

 

 

 

 

 

 

 

提督「敵を誘き寄せる。餌は既に撒いた」

ぼく「餌?」

提督「泳がせている融和派のスパイにな。深海棲艦のオリジナルを軍が発見したと伝えた。奴らも自分の起源を理解していないのさ。軍機だから漏らすなよ」

;この提督何処の従姉妹殿なんですかねえ ところで、こうしていると俺は故人の写真みたいだな。以上だ。

 

 

 

大規模作戦編のタイトル「Sailor, your home is the sea.」は?

でもこの後にHome is the sailorとか言い出したらちょっとあれか。じゃあ大規模作戦編を「Home is the sailor」にして、最終章を「Home from the sea」にするか?

 

後書き部分に1行ずつ下の詩を入れていくのもいいかもしれないが出典を確認しておくこと。→ナーサリーライムでした

A sailor went to the sea. 船乗りが海へ行ったとさ

To see what he could see. 何を見れるか期待して

But all that he could see, ところがそいつが見れたのは

Was the bottom of the deep blue sea. 深くて青い海の底

この歌オチで一体何があったんです?

 

 

天龍「お前分かってないな。夢は現実の一部なんだ」

 

 

 

海中泊地は唐突すぎるか? 潜水艦基地? おおよその位置は確認済み→しかし流石に目標としてインプットできるほどの正確性ではない→目標指示装置(ビーコン)による誘導→地上発射型巡航ミサイル?

潜水艦基地の詳細な位置→不知火と北上にソナー(明石による改造、旗艦にはソナーの探知画像を送信するPDA)→北上と不知火、共に作戦行動中に重傷(割と早い時点で?)→隼鷹と利根、那智(予備ビーコン装備)をつけて帰還させ、単独行動

→海軍の哨戒機のソノブイで位置を確認→ビーコン投下

 

「最初から哨戒機出してたらよかったじゃん」→周辺の敵海上戦力を撃破したからできたこと、そうでなければソノブイや哨戒機が破壊される? ソノブイの降下はパラシュートだしいい的?

 

ミサイルは空中発射型にする? こちらはかなりの高度から発射できるから敵の攻撃に気を使わなくてもよい。しかも到着までの時間がぐっと短縮できる。

 

提督「敵の基地の真上に投下せよ。直撃以外では十分に効果が発揮できない可能性がある」僕「敵がいるんだぞ敵が、しかもこっちは一人だ」提督「突破しろ」→強引に突破し、真上に投下するも敵の攻撃も命中、バランス崩し転倒、意識を失う→全てを知る→

→沈み行く中で目を覚ます→自分の更に下にビーコンがあるのを見つける→そこまで行ったら戻れないかもしれない、息が続かないかも→行く→ビーコン破壊→意識再喪失→海上で目覚める→赤城と接触。ウェーク島は融和派の最前線拠点→那智教官戻ってくる

→VS那智教官(予備ビーコン破壊の為。最初の一撃でビーコンは破壊できず、格闘一合で破壊、代わりに被制圧?)→赤城離脱(深海棲艦の方は「僕」が赤城に助けられた時に離脱している)

→「僕」制圧される。那智「作戦は失敗だ。これより回収地点に移動する」→哨戒機に見られていたこともあり隠蔽はできず。

 

新型兵器の運用試験は別の場所でもう一箇所(提督にも知らされず)やっていた。そちらは陸上目標であったこともあり、成功した。「僕」は『全てを知る』の部分でそれを感じ取る。お互いを理解しあう可能性を消し去る訳にはいかない?

被害を受けた融和派+日本海軍≒日本付近継戦派深海棲艦の総力

 

日本周辺の融和派深海棲艦との休戦と理解→赤城グループの融和派深海棲艦たちを使者として、ヨーロッパ戦線などでも段々と融和派深海棲艦との休戦&共同戦線が→平和!!1!1!

 

 

 

 

唐突な今日の夕食メモ

食前酒(4年もの花梨酒)→胡桃豆腐→フォアグラ卵蒸し→天神マグロと天然ヒラメ(と紅芯大根の飾り切りや細切り南京;おろし酢橘酢or土佐醤油、おろし酢橘酢めっちゃよかった)+イクラ(天然)の醤油漬→一口穴子飯→焼魚(鰆の杉板焼き)→何か色々(茶蕎麦をまぶして栗に見立てた団子、茸とほうれん草の和え物、猪肉、柿の白和えなど)+うずらの卵、サツマイモの甘露煮、カステラたまご、しいたけの揚げ物→箸休めに伊勢エビのすり流し(濃厚)→温菜(カブ、茸、水菜、がんもどきまたは飛竜頭)→貝柱の葡萄酢(酢の物)→鮭の菊花茶漬け(+香の物)→吉野の柿を使った柿アイス(バニラソースとラム酒を掛け食べる)→ぜんざい(器は小さいが甘くて濃いので十二分)+抹茶→金平糖(風味付きのやつ。個人的に風味付きは好みじゃない)&普通のお茶

燗酒2合

おいしかった

 

 

ローマ人への手紙

第6章7節~

 

7.死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

8.もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

9.キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

10.なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

11.このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだものであり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

12.ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

13.また、あなたがたの手足を不義の器として罪に捧げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなたがた自身とその手足を義の器として神に捧げなさい。

 

第8章35節

 

35.私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

 

同38,9節

 

38.私はこう確信しています。死も、命も、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

39.高さも、深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 

12章4節~

 

4.一つの体には多くの器官があって全ての器官が同じ働きはしないのと同じように、

5.大勢いる私たちも、キリストにあって一つの体であり、一人一人互いに器官なのです、

6.私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

7.奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

8.勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

9.愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 

 

 

 

三時間ほど眠ることができた。それまでの僕の労働量からすると十分な休息ではなかっただろうが、艦娘が十分に休めるのは死んだ後だけだ。

 

世界が静寂に包まれたからといって、戦争が終わったのだと考えるのは早計である。

 

ミサイルよりも砲弾・銃弾の方が安価かつ数も揃えられる→最後の最後まで大戦的な戦闘に

 

ル級などを前面に押し出して肉薄、潜水艦による攻撃、完全な乱戦化→発砲不可、肉弾戦へ→最後の敵にとどめを刺しに行く時、「僕」(イレギュラー)、赤城(融和派)、武蔵(反融和派、艦娘)、鬼・姫・水鬼級とレ級辺り?(深海棲艦)が協力する

 

 

 

 赤城;大規模作戦編で同志の深海棲艦に艤装を預け、「僕」を水の中から助け出す。赤城は艤装装備して「僕」を気絶から復帰させようとする、深海棲艦は先に離脱。教官到着。片手(生身の腕)に予備のビーコンが握られている。作動中。着弾まで時間がない。「そいつから離れろ」「……あなたは全てを見た。全てを理解した筈です。私とあなたでなら、戦争を終わらせられる」「聞こえないのか、私の旗艦から離れろ!」「嘘偽りなく、平和な海が戻る。死んでいったあらゆる人々の命が報われる日が来る。私と、あなたがいれば!」「次は当てるぞ!」赤城、「僕」を激情のこもった視線で見つめながら離れる。「僕」は考える。結論を出す。教官は赤城に脚部以外の艤装を解除するように要求。赤城は無視して真っ向から見つめ返す。教官が赤城を射殺しようとする直前、「僕」の発砲で右腕(義手)と艤装(砲)の一部(生き残っていた最後の砲)を破壊される。赤城は混乱に乗じて逃げる。教官が追撃しようとするのを遮る「僕」。那智教官との一騎打ち開始。「僕」は「一合で終わりだろう」と考え、その中でビーコンを破壊することだけを目的として戦う。いいところまで行くが、もう一歩届かずビーコン破壊ならずかと思われたその時、赤城の艦載機が襲来して那智教官ごとビーコンを蜂の巣にして破壊していく。僕は急いで那智教官の負傷を希釈修復材で治療し、運ぶ。長門たちが合流を呼び掛けている。「僕」は何もかも覚悟の上でそちらに向かう。大規模作戦編終わり。次回「Home is the sailor, home from the sea.」

→弾道ミサイルの速度などから到達までの時間その他を勘案して戦闘海域を選ぶこと

 

 

 

「君は神を信じているのか?」

「何とまあ頭の悪い質問だ。友達じゃなかったらその頭を切り開いて脳みそを見てやるところだ、その小ささを嘲り笑う為だけにだぜ! いいかい、いいかい、そうであったなら今私はここにいないだろうよ。もちろん、流行り病のように信じてみたりはしたさ──装身具みたいに十字架を首からぶら下げて、時々それを取り出して握り締めながら、ぶつぶつとありがたいらしい文句を唱えてみたりなどね! けれど、おお、神とやらはそのような私の声には答えなかったのだ。私の目のうろこを剥がしてはくれなかったのだよ。信仰が純粋でないからか、それとも量的に不足しているからか、いやいやそれとも神が聾唖の盲だからか、とにかく私は救われる価値などないらしい。それならばだよ、私は私を自分のやり方で救うしかなかったのだ。そしてそれこそがお前なのだ。分かってくれるかい、分かってくれるだろう、いや、分かれ! 私ははっきりとそう言わずにはいられない、だって君に理解して貰わなければ、私は単なる一人の躁狂患者にしか過ぎないからだ。そんな風に他人から思われるのは我慢できないことだよ、とてもじゃないがね」

 

 

イザヤ43:19  見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

 

 

バヌアツからガダルカナルへの移動中に敵艦隊。ヲ級が一隻いる。「僕」は囮になることを決める。響の言ったことが正しかったと悟る。

せめてガダルカナルの南にある島にたどり着いてそこから無線連絡するように命じて離脱、交戦開始。逃げ回る。一隻沈めるも、攻撃は激しいもの。

絶体絶命と思うも、雑音だらけの通信で赤城が誘導。言葉に従って赤城の艦載機と合流、九死に一生を得る。

 

 

 

「あんたの為に指先一つだって動かすつもりはないね。いいか、僕の友達が死んだのはお前らのせいだ。第五艦隊から犠牲が出たのはお前たちのせいなんだ」

「そうお考えになられるのは結構。しかし、あなたはあなたの艦隊員に喪失を二度も経験させるつもりですか? 最初は響、次はあなた……」

「何だと?」

「死ぬと分かっていて送り出した。そうでしょう? あなたのお友達はそれを平気に思うような方々なのですか?」

「私の為には指先一つだって動かして貰う必要もありません。あなたの友人の為に、彼女たちが感じることになるであろう彼女たちの苦しみや悲しみを取り去る為に動かすのです」

 

 

提督は新規人員を増やすに当たっては慎重になることにしている→融和派であることに感づいた連中がスパイを送り込んで来るかもしれないから

 

・Home is the sailorと関係ないネタ;「扶桑・ド・サセボ(この部分は所属鎮守府・泊地・基地などで変える)」;まず間違いなく書かない。

・扶桑:美しさ、強さ、航空甲板の三つ揃った航空戦艦の英雄(ただし制服の艦橋髪飾りがコンプレックス。そのことに触れられると怒る)。山城大好き(女性として)。第一艦隊旗艦。

時雨の轟沈後、想いを伏して数年後の終戦まで戦い抜く。終戦後は山城と二人暮らしをしつつ軍にも在籍して後進を育てたりしていたが、その強さが上層部に睨まれる原因となり、事故に見せかけて暗殺される。

・山城:美しさ以下略。第二艦隊旗艦。時雨に一目ぼれする。扶桑姉様大好き(姉として)。不幸。扶桑姉様に「時雨への一目ぼれ」を相談し、彼女を守るように頼む。

基本的に全ての原因。終戦後、軍をやめて扶桑と共に質素な生活を営み、時々夕立や数年の時を経て改心した提督(許した)と会うのを唯一の楽しみとしていた。

・時雨:第一艦隊に転入してきた艦娘。山城に一目ぼれするが口説けないので扶桑に相談する。扶桑の手助けで山城と結ばれたものの、提督の奸計により轟沈。

直前に軍規違反して支援にきた山城と話をして、彼女が愛しているのは扶桑なのだと考える。

結局山城の助けの甲斐なくその戦いで戦死するが、死ぬ寸前、扶桑から山城が愛していたのはやはり時雨だったと聞いて微笑みながら死んでいく。

・夕立:第一艦隊の艦娘にして扶桑の右腕にして親友の一人。扶桑が「事故」に遭うところに出くわして、急いで医者を呼び、山城の家に伝えに行く。

・提督:山城ラブ提督。狂おしいほどラブすぎて第一艦隊を激戦海域に送って時雨を轟沈させようとする。軍規違反した山城を追い、艦隊を率いて戦い、敵を散々に叩く(第一艦隊には山城と一緒に助けに来たと勘違いされる)。

時雨撃沈後の山城の長きに渡る悲痛を見て過ちを悟り、改心。終戦して山城が退役した後も、しばしば様子を見に訪れている。

 

 ・「貴官の髪飾りは……」「ええ、それがどうかしたかしら?」「……高いな!」「それだけ?」「ああ、それだけだ」「だらしない!」(この後、扶桑による自虐的艦橋ネタ二十連発)「小指の先ほども文才があれば、これぐらいはすらすら出るものですよ」

 ・「まさか、恋してるっぽい?」「そう、恋をしている……恋をしているわ! ああ、でも! 愛を告白しようにも……どの戸をくぐるにも引っかかる、この忌まわしい髪飾りがあるのでは!」

 ・「来たわね、大理石の靴をはかせに……」「姉様!」「あなたたちは私から全てを奪おうという! 月桂樹の冠も、薔薇の蕾も──でも、それでも、この私が海の底に帰っていく時には、そうよ、それも今日、今こそ、帰ってゆくその時には、青空の門を掃き清めて、こう挨拶をして、たったこれだけは持っていくのよ! それは、私の……」「それは、私の?」山城の腕の中に倒れこむ扶桑。美しく微笑んで「心意気(髪飾り)よ!」end 名作すぎる……

 

 

 

Into my heart an air that kills

From yon far country blows:

What are those blue remembered hills,

What spires, what farms are those?

 

That is the land of lost content,

I see it shining plain,

The happy highways where I went かつて歩いた幸せの道

And cannot come again. そして二度とは戻れない。

 

 

移動中の航空機→段々と強くなるあちらからの働きかけ、幻覚も

 

 

窒息状態の場合、60秒から90秒程度で意識消失

 

 

ぼく「武蔵にフライドチキンとワッフル、飲み物はコーラで、デザート代わりにキャンディバーを出してやってくれ」

武蔵「こいつにはフライドステーキとコーンブレッドを。飲み物はスイートティーだ」

ぼく「おい、僕は生まれも育ちも日本だぜ。南部人じゃない」

武蔵「そうか? 私だって黄色人種だ。黒人じゃない」

赤城「仲がよろしいのですね」

武蔵「まあな、付き合いは短いが親友さ」

ぼく「そうとも。君の葬式の香典なら幾ら包んでも惜しくないぜ、武蔵」

武蔵「ほらな、聞いたか? 感動するね」

 

 

武蔵「私のはもち(・・)肌だぞ。触ってみるかい?」

ぼく「ちょっと待っててくれ、杵を持ってくるから」

武蔵「おいおい、優しくしてくれないと膨れるぜ」

わざとらしく(反感を覚えるほどあざとく?)ぷくり、と頬に空気を送り込む武蔵、つついて空気を抜く僕

ぼく「確かに君と餅とはよく似てるよ。膨れ上がってても中身がない」

武蔵「何だ、私の胸の話か? そんな安い挑発では触らせてやらんぞ、もっと頑張れ」

ぼく「醤油塗って焼いたみたいな肌しやがって」

武蔵「それならさしずめお前のは、放置しすぎてカビさせた、か?」

赤城「あの、もういい加減にしていただけます?」

 

紅は園生に植えても隠れなし

 

魚のスープ(Уха)か何か用意しようか。まさか、君もお茶ばかりで生きている訳でもあるまい」

「いただきたいね。その後でお茶にしようじゃないか。僕はすっかりお腹が空いてしまっているんだ」

「カズナチェイスカヤはどうだい? ここにあるんだよ。覚えてるかな、いつかご馳走しようと言ったじゃないか」

「そんなことをよく覚えていたもんだなあ。是非ご馳走になるよ、こんなのは久方ぶりだからね」

 

 

 

唇の湿り気を飲み込む

 

死後も残る想いを深海棲艦たちに読み取らせれば……

 

赤城→「僕」が死んだらどうするつもりだったんだ?→死んでくれたらもっと早く話が片付くんですが;ちょっと喧嘩腰すぎる……

 

 

戦艦に分類される艦娘の中には、艦隊の頭脳もいれば軽空母並の艦載機を保有する者もいる。残りは全員殴り合い担当だ。;お前ら全員ミノタウロスかなんかか

 

 

主よ、我に速さと正確さを与えたまえ。我が狙いを確かならしめ、我が手を我を滅ぼさんと目論むものどものそれよりも速めたまえ。

我が敵や我を傷つけんとするものどもとの戦いにおいて、我に勝利を与えたまえ。我が末期の言葉を決して「砲あらば」にしたまうな。

そしてまた、主よ、今日この日がまことに主の御家に我を召したまうその日なれば、願わくば我を相応しき戦いの内にて死なせたまえ。

 

 

 

フォークランド紛争じゃアルゼンチン軍がM2にスコープ付けて上陸してくるイギリス軍狙撃してたが

さすがブローニングの機関銃だぜ手足に頭がどんどん吹き飛ぶ!ってなって地獄絵図と化してたんだぞ

因みにこの時のイギリス軍の戦訓で手足が取れた人間に輸血すると死ぬというのが分かった

あんまりにも負傷者多くて輸血パック足りなくなってすまねえ…!って止血して見殺しにしてた兵士は死なないんで

詳しく調べたら冷たい血液輸血すると血圧上がって血が余計に吹き出してスッカラカンになる仕組みになってた

だから現場で処置なんかせずに温めた生理食塩水輸液してさっさと後送するっていう戦場医療の常識が確立した

こんなことが80年代になってやっと分かるとか恐ろしいよね

 

Lemme tell you one thing, just in case. YOU. ARE. FAILED. ;YOU. ARE. FAILED感が出ない……

 

金剛との英会話シーン(英語あんまり自信ない)

金剛“So, you're flagship, commanding fifth fleet of second special tactical reserch centre, right?”

ぼく“Ey, wen did ye join the naivy? Ayn't ye taugh' by ya reins and frog?”

金剛“Ah...sorry?”

ぼく“Can't believe ye was trained. No ‘sir’, no manners. So appy ye're no' in me flee', figh'ing wiv ye peraps cause a li'le bi' of ma'er I fink.”

金剛“Bloody hell! ひどいモックニー(偽コックニー訛り)もあったもんデスネー? 鳥肌立ちマース!”

ぼく“英語教師が悪かったんだ、僕のせいじゃない。最近は意識したらロシア語訛りっぽいのも喋れるようになったぞ”

金剛“Russian accent? そりゃ結構デスガー、混ぜるならヤンキー英語と混ぜて下さいネー”

ぼく“Hav yu doing, my camarraat? ...Oi blyadi, zis sacks. Speek like amerricanets in rrusian aksents too fucking harrt. どうだ?”

金剛“Ha ha, bloody ha.”

↑ばっさりカット!

 

「人間の意識が電気信号なら、きっと海を伝わって何処までも帰ってゆけるのさ」

「素敵な哲学だ」

 

深海棲艦と和睦する→諸国は「人間同士で争ってたら寝首掻かれるかも」という危惧から迂闊な行動に出られない→平和キタコレ!(漣感)

 

 いつだったか響と話をしたことがある。深海棲艦と人類が、今みたいに殺し合う間柄じゃなくて互いに互いを隣人として愛し合う間柄として存在するには、どういう出会いが必要だったのかと。ところが案外にあっさりと話は明後日の方向へ行ってしまった。それもこれも、僕が深海棲艦が宇宙にいるところを観測されてくれればよかったのだと言ったせいだ。「海じゃ近すぎるね」僕の言ったことをよく分かっていない様子の響に理解して貰う為に、僕はちょっと考えてから自分の思っていることを説明しようとした。「そうとも、僕ら人間は近くにいる見知らぬ連中のことを愛するようにはできていないんだよ。特に顔が見えているような奴はダメさ。遠くにいてくれなきゃどうにも我慢ならないんだ」響はショックを受けた、という顔を作った。

「それじゃ、君、私のことを愛してくれないのかい?」

「全く、君や隼鷹のようないい奴のことを愛さないなんてことがあり得るかね? 大体、君は僕のことを、僕は君のことをよく知っているだろう。言葉にしなきゃ信じられないかい? 愛してるよ、響! ああ、もちろん友人としてね。さて、いいかい、混ぜっ返すのは結構だがちゃんと聞いてくれよ。まず一番最初に、僕らがきちんと愛することができるのは苦しんでいる者だけなんだ。あらゆる幸せを享受している奴のことを、誰が好きになれるもんか。そんな自分本位なろくでなしより、今苦しんでいる誰かの方をこそ愛しく思うのが、健康な人間というものだよ。だが、ここが大事なんだ、だけどだよ、第二に、僕らは同時に、その誰かさんにはどうも顔を出して貰っちゃ困るというんだよ。それもただ単に、そいつが男だからとか、はたまた女だからとか、頭がぼさぼさだとか、足が臭いだとか、そういう理由でなんだ。苦しむというのを何か高尚でよいものだとでも思ってしまう悪癖というのが、人間にはどうやらあるらしいんだな! それで、その訳の分からぬ高尚さのせいで、人間から切っても切れない髪の毛だの体臭だののことは忘れられてしまう。理想化されるんだよ。だから現実のそいつが鼻先に現れようもんなら、すっかり僕らは幻滅してしまう。勝手なことだよ、本当に勝手なことだ。でもそれが人間の愛なんだ。主のように愛するのは到底無理なのさ」

 

「今日は勝利記念日と称されることになろう日だ。今日を生き抜いて国に帰る者は、毎年この日が来た時には、自然と背筋が伸び、肩身を広く感じるようになるだろう。今日を生き抜いて年を経た者は、毎年君らの家でこの日の夕食に同席する名誉を賜った者どもに、今日は勝利記念日だと言って袖なり裾なりをまくり上げ、この腕がこの足があの日の勝利を掴んだものよと大いに自慢するだろう。人間はよく忘れる。軍人も民間人も、僕たち自身さえ何もかもを忘れるだろうが、今日この日に僕らが何をしたかだけは、人々も思い出す度に新たな尾ひれの一つ二つをつけるだろう。その時、彼らは名をも思い出すのだ。二特技研の第五艦隊を、旗艦のこの僕を筆頭に、二番艦那智、三番艦利根、四番艦隼鷹、五番艦北上、六番艦不知火を。彼らはなみなみと酒を注いだ杯を片手に、記憶を新たにするだろう。この戦争を生き残った全ての人が、この戦争を体験しなかった彼らの息子に、娘に、孫たちに僕らのことを伝えていくから、今日からこの世の終わるまで、この日さえ来れば僕らのことは思い出されることになる。艦隊員たちよ、血ではなく戦場で培われた絆によって結ばれた姉妹たちよ、今日僕と共にここにいて、逃げることも臆することもなく戦って生き残るつもりでいる艦娘たちよ。自分を幸運に思うがいい──日本で今頃高いびきの連中は、一艦娘から元帥閣下まで、後日僕らにこの日の話を聞いたなら、きっと今日ここにいなかったことを悔しがり、自分では何もしなかったことを恥じ入るだろう!」

「十七世紀風の演説か。一周回って新しく聞こえるぞ」or「貴様はとんでもない剽窃屋だ」

「では諸君、今一度突破口へ……」

「もう隠す気もないらしいな」

 

「日本国海軍第二特殊戦技研究所所属第五艦隊万歳!」 あの自爆シーンよかったよね、好きよ

 

「ああ、きっと僕ら二人は名コンビになれるよ。義経と弁慶、ブッチとサンダンス、ヒースクリフとキャシー、テルマとルイーズ、ええとそれから……ローゼンクランツとギルデンスターン?」

「わざとか?」

「うん」

 

収監時に「解体」されなかった→陸軍は処罰要求、海軍は研究の為に艦娘状態の維持・生存を要求→最終的には陸軍の要求が通るも脱走される

 

収監された後に知り合う融和派の政治犯、調達屋→対価は毎夕食につくチョコパイ(民生品、袋入り、一つ)(「軍は何でそんなもの?」「同感だ。俺ならキャラメルにするね。陸軍用の官給品を使い回せるし」)

 

陸軍の排撃班と交戦→武蔵、「僕」を助ける為に襲撃予定だった赤城の融和派グループのアジトへ→

 

 

「なあ、どうやって僕を見つけたんだ? 独力か?」

(鼻を鳴らして)「そうだよ、何を隠そう私は魔女でね、ステッキを一振りで軍機もすっかり丸裸なんだ」

「そりゃいいや、早くかぼちゃの馬車でも出してくれよ。一度御者をやってみたかったんだ」

「構わんが、お姫様がいないんじゃ締まらないだろう?」

「だから君が魔女とお姫様兼任だ」

「ふっ、この短期間に私へのおべっかが随分と上手くなったな。個人的な評価だが、今のはかなりよかったぞ」

「毎秒毎分が学習だよ、武蔵……で、実のところどうなんだ?」

「匿名の情報提供者だ。怪しかったから信頼性や罠を探ってたら遅くなってしまった。悪かったな」

「いいさ、まだ生きてる」

「そうだな」

 

 

「黙ってろ」

「暇なんだ」

「じゃあ数を数えててくれ」

「幾つまで?」

「無限までだ」

→「随分待たせてくれたな。二回も数えてしまったじゃないか」

 

 

 響「子守唄でも歌ってあげようか」

ぼく「リクエストしていいなら、“Спи, моя радость(眠れや、私の可愛いお前)”でお願いするよ。でも彼女(武蔵)には“Спи, моя гадость(眠れやクソッたれ)”がお似合いだな」

武蔵「何だか知らんが、私の分からん言葉で話すのをやめろ。妬ける」

 

 

22.R.L.S メモ;ロバート・ルイス・スティーブンソン(最初に矢野徹抄訳で引用したRequiemの作者)

訳:Гарри

Home is the sailor, home from sea:

Her far-borne canvas furled

The ship pours shining on the quay

The plunder of the world.

船乗りは海から家へ帰ってきた

 遥かに旅した帆布をたたんで

船はこの世の宝物(ほうもつ)

 波止場に燦然と輝かす

Home is the hunter from the hill:

Fast in the boundless snare

All flesh lies taken at his will

And every fowl of air.

狩人は山から家へ帰ってきた

 無数の罠にしっかりと

望みのままに あらゆる獣

 あらゆる鳥を捕まえて

 

'Tis evening on the moorland free,

The starlit wave is still:

Home is the sailor from the sea,

The hunter from the hill.

果てなき荒野は日も暮れて

 星の照る波は穏やかだ

船乗りは海から家へ帰ってきた

 狩人は山から家へ帰ってきた

 

 

「まだ何か気に入らないことがあるのか?」

「気に入らないことだらけだ。私たちは奴らを監視していた。奴らがどんな動きをするか見張っていた。肉眼でも、電子的にもな。陸軍との通信があれば、察知できていた筈なんだ。ところがそうならなかった。どうもおかしい、気に入らんよ」

 

 

 

 

 

この世には二種類の人間がいる。毎朝起きる時に「何とまあ、いい朝だ」と思う人間と、毎朝起きる時に「何とまあ、朝だ!」と思う人間だ。

 

 

 分からないこともある。たとえば、どうして那智教官は妖精なしで艤装を動かせたのか? 彼女は融和派との関わりなんかなかった。深海棲艦とも通常の艦娘として以上の付き合いはなかった筈だ。でもできた。僕は理由を聞いてみたが、彼女自身も分からないらしかった。教官は、気付いたらできるようになっていた、としか答えなかった。まあ、どうでもいい。僕は艦娘であって、真実の探求者ではない。多分、ちゃんとした理由はあるのだろうが、それが僕に関係ないなら知ろうとは思わなかった。

 

 

 

「~結局、大した奴だと思うようになったのさ。~」

「おや、それじゃあ」

「それはお断りだ」

「何だ、期待させておいて。一度は私と一緒に来ると言ったものを」

「言っちゃいないぞ、行かないと言わなかっただけだ」

「少し性格が歪んだか?」

「君から学んだのさ」

「ふふっ、そうらしい。お前の中に私が生きているのだな」

「ああ」

「ありがとう」

「いいさ。僕と君の間柄だ」

「友達?」

「腐れ縁」

「悪くない」

 

 

 

赤城による薬物投与→天龍との会話→天龍去る→覗いていた連中は融和派に合流することを承諾する

 

 

「そう冷たくするなよ。お前に嫌われたら、私の友達は死神だけになってしまうじゃないか」「僕も死神みたいなもんだろう」

 

 

僕の袖を濡らしたのは、何も海の潮水だけではない。

 

 

「Home is the sailor, home from the sea.」-1→~戦力が整うまで

-2→艤装入手、待機(電はこの間に移動)、苛立ち、主戦派の攻勢開始、予定繰上げ計画実行、ヘリで急ぐので二個艦隊しか連れて行けない(第一:赤城・僕・武蔵・響・レ級・戦艦棲姫)(第二:装甲空母鬼・リ級エリート・ヲ級エリート・タ級・ネ級・チ級)

残りは遅れて到着&ヘリでのピストン輸送、「長門&那智教官vs空母棲鬼」を忘れずに! 電は中継点確保で海賊放送維持、武蔵のポータブルTVも覚えておくこと

 

 

第一:赤城・僕・武蔵・響・戦艦レ級・装甲空母鬼→融和派・かすがい・排撃班・天使・通常の深海棲艦・鬼級深海棲艦

 

提督たち:二隻のフリゲート、第一艦隊・第二艦隊・第五艦隊・第三艦隊(新編成;練度低)

 

敵:PT小鬼群と艦載機で肉薄、雷撃、混乱→本隊は砲撃しながら接近しようとする→フリゲート(提督が乗艦していない)が敵の砲撃から身を守ろうとして発煙弾で煙幕を張る(この辺で「僕」らが戦域に到着する)→敵本隊の接近を許す→乱戦へ

 

入れたいシーン:深海棲艦との相互支援、戦闘の趨勢が決しかけた頃? 少数の護衛を伴って離脱しようとする敵指揮官を発見→「レ級と戦艦棲姫」→「赤城と響(武蔵が務めようとするが響に「僕」を頼まれる)」→「武蔵」の順番で「僕」を守って送り出す

 

敵指揮官級→数は6、最初の時点で1撃破(誰による?)、残り5 戦艦水鬼→レ級&戦艦棲姫 空母棲鬼→長門&那智教官 駆逐棲姫→赤城&響 軽巡棲姫→僕&武蔵 南方棲戦鬼→僕

 

 

武蔵;艤装で防御、味方を巻き込まないように射線確保→発砲で道を一気に開く→逸って飛び出そうとした「僕」を後ろから抱きしめるようにして盾に→衝撃→「悪いが、後は一人で行け。私はここまでだ」「やられたのか?」「馬鹿。あのな、私は戦艦だ。足が遅いんだよ。振り向かずに全速で走れ。なあに、お前なら追いつけるさ。そうしたら、私に最高の射撃を見せてくれよ。また……後で会おう」守られたまま、「僕」は武蔵の顔を見上げる。武蔵は見つめ返す。「武蔵」「何だ?」「君にそのピアスをやってよかった。よく似合ってる」「ふっ、私は大和型、その改良二番艦だからな。当然だ」→青葉が「僕」の様子を実況する音声+捨てがまりかまそうとしてきた敵護衛隊に対する武蔵の支援砲撃中の独り言みたいな語りかけ(「ああ……今になって、やっと分かった」「私はずっとこれを、この時が来るのを……この為に、お前を必要としていたのだな!」「感謝するぞ、私のお前! 私の友よ!」「さあ行けぇ! 今日は終戦記念日だ!」)を聞きながら追いかけ、狙いをつけ(memo:那智教官)、一発で撃ち抜く。

 

 

 その日、深海棲艦と人類は、長い長い歴史の旅の果てに、初めて──ただ一つの同じ目的の為に、肩を並べて戦った。

 

Geworfenheit;被投性

Geworfener Entwerf(?);被投的

 

 

「すべて重荷を負い、苦労している者はわたしのもとに来なさい」

- 聖書:マタイによる福音書11:28

 

 

 へとへとになって港にたどり着いて、僕はまず武蔵を探した。彼女は目立つから、多分すぐ見つかるだろうと踏んでいた。おかしな話だ、第五艦隊の親友たちや、響だっていたのに、あの鼻持ちならない嫌味な疫病神を最初に探すなんて。きっと、武蔵はそのことを知れば絶対にからかいの言葉を投げてくるだろう。知られないようにしないとな。ああ、でも、こんな大戦闘の後では、武蔵の無遠慮で心を貫く言葉の数々だって寂しく想う対象になりそうだった。僕は渋々認めた──彼女に会いたかった。会って「よう武蔵、どうだったよ?」って言って、「もうちょっとで死ぬとこだったぜ」とか、「見たかい、最後のあの一発を?」とか、そういう話をしたくてたまらなかった。

 でも見つからなかった。

 

 

 僕は毎晩のように彼女のことを考える。もしかしたら、響や隼鷹、那智教官を思い出すよりも頻繁に彼女を想っているかもしれない。僕は彼女が今何をしているのだろうかと想像する。生きているのだろうか、死んでいるのだろうか。やがてまた会いに来るのだろうか。その時はどんな風に現れるつもりなのだろうか。窓を叩きながら皮肉げに間延びした声で「ヒースクリフ、キャシーだ。入れてくれ、寒い」と呼びかけてくる様子を思い浮かべると、僕はいつでも唇を笑いの形に歪めてしまうのだった。

 

 

 響「ごめんよ、私のせいだ」

 僕「響、君は天使だ!」

 響「何だいいきなり。流石に恥ずかしいな」

 僕「天使に罪があるなんてことがあるかい?」

武蔵「堕天使とか」

 僕「堕天使は天使ではないと定義しよう。だから響、君は無罪だ。悪いのは全部武蔵」

武蔵「おい」

 僕「……それか赤城だ」

 

 

「撃つな! あれは──私たちの旗艦だ!」

 

есть одна вещь, которую я хочу сообщить тебе.「一つ君に言っておきたいことがある」

есть одна вещь, которую тебе нужно запомнить.「一つ君が覚えておくべきことがある」

хочу, чтоб ты одну вещь помнил, мой друг.「君に一つ覚えていて欲しい、友よ」

тебе я сообщу одну вещь. 「君に一つ言っておく」キリスト感

 

 

潜水艦たちはどうなったんです? →今日もせっせとオリョクルしてるよ<嘘>

 

 

提督「報復なら済んでいるだろう。ほら、お前をあの海で那智の手に渡した」

ぼく「それがどう報復になるんです?」

提督「連れて逃げてくれればよかったのさ。そうすれば私の手で哨戒機のパイロットぐらい黙らせられた。お前のことも、ただのMIAで処理できたろう。だが帰って来られては、憲兵に渡さざるを得なかった。お陰で私まで融和派扱いで、降格処分を食らった。赤城の復讐はそれで果たされてるよ。ああ、監視もつけられたな。誤魔化してやったがね。ところで、階級が一つ違うと年金の支給額がどれだけ上下するか、教えてやろうか? 中々驚く違いだぞ」

ぼく「でも、あなたは融和派だったじゃありませんか」

提督「違うね、私は協力しただけだ。私の人生を戦争に捧げるつもりはなかったし、計画通りに進めば、軍内部で私の立場は一種の不可侵なものとなる。人類を裏切るには十分な理由だった。それで、どうだ? 今や私は救国の英雄だ。部下の働きは上司のものだからな。お前が何を言っても、それは変わらんよ。……写真にサインしてやろうか? オークションで流すと高値がつくぞ。私の取り分は二割でいい」

 

*   *   *

 

こっそり追加、HitS終了から四年後の登場人物たちの筆者的妄想

(非決定版;後の作品で全然違うことになる可能性アリ、一部キャラの年齢とか玄人志向すぎるかもしれない)

 

“僕”

高校三年生(四年目)

23歳

那智教官が就職した特設高校で三年間を過ごした後、響と同じ大学に進学……する筈だったが、訳あって留年した。教官にはとても怒られた。

なお進学先としては、教官の背中を追いかけて教育学部を志望している。赤城と提督の両方から煙たがられている。

 

隼鷹

会社員

??歳

戦争中に退役した同期の飛鷹と同棲しているが、職場は別。

仕事のストレス発散がてら、定期的に昔の戦友たちと連絡を取っているらしい。

 

大学生

31歳

一年間受験勉強していたので三年生。副業や趣味でロシア語翻訳などをしている。法学部。

 

不知火

大学生

24歳

特設高校への編入願いを出し忘れていた落ち度のせいで一般高校に入った。

が、年齢差を必要以上に気にしないよき友人たちに恵まれて好成績で無事卒業、大学に進学。

医学部。

 

北上

大学生

23歳

呉時代の親友である大井と共に、同じ高校、同じ大学に進学。文学部。

大井がサッポーの詩をやたら勧めてくるのが最近の悩み。

 

利根

大学生

23歳

地元大学に進学(響・“僕”らとは別)。外国語学部(英語科)。

困っている様子の外国人を見かけるとすぐに話しかけにいくが独語や露語で返されて涙目になったことも。

なお彼女の携帯は筑摩の携帯に短縮で掛けられるようになっており、何かあると彼女が飛んでくることが知られている。

 

教官

特設高校教諭

36歳

志願前に取得していた教員免許を利用して就職。仕事の傍ら、講演なども行っている。

特設高校教職員特例で艦娘のまま(艤装は軍預かり)。

 

提督

軍警察

??歳

艦娘・深海棲艦が関わった犯罪を捜査する為に戦後すぐ設立された組織、軍警察の実質的な最高権力者。

海軍籍も健在。権力の基盤を増強する為に艦娘戦力の拡大を訴えている。体中にガタが来ているが人生楽しい。

 

吹雪

軍警察特別捜査官

29歳

提督の秘書艦としてあらゆる任務をこなしている。

最近「何だろう……あの男を生かしておく理由って……?」と思って“僕”暗殺を三回試みたが、二回は赤城に邪魔され一回は何故かうまく行かなかった。

 

日向

料理店厨房担当

26歳

地域密着型運営の料理店を営む、地元の女性に人気。あんまり厨房から出てこないのでレア度高い。店のブログ文章担当。

 

伊勢

料理店接客担当

26歳

地域密着型運営の料理店を営む、地元のおじさんたちに人気。絶妙な距離感で男性の心を掴む。店のブログ写真担当。

 

長門

海軍艦娘教官

28歳

教官として働く傍ら、己の技術を誰かに伝えたいという思いから砲弾弾きの技を体系化する試みに注力している。が、成果は今ひとつ。

 

加賀

小説家

29歳

退役後は主にネットで短編作品を発表しつつ、膨大な貯蓄をちびちび使って気ままに過ごしている。

 

妙高

専業主婦

29歳

退役後すぐに働き始めた職場で恋愛。適当なタイミングで寿退社した。今は幸せで胸いっぱい。

 

青葉

軍広報部記者

23歳

那珂ちゃんのマネージャー業は部下の一人に任せた。自分は「日本海軍の行くところ何処にでも」をモットーにあちこち飛び回っている。

 

赤城

融和派艦娘代表

29歳

深海棲艦のスポークスウーマン。艦娘削減などによるクソ提督失脚計画を日夜目論んでいるが、別に人類-深海棲艦間のパワーバランスを崩すつもりはない。

最近風邪でびっくりするほど何もできずにダウンして歳を痛感した。

 

融和派艦娘代表補

25歳

赤城の補佐を続けている。うっかりミスは減ったと自分では考えている。

“僕”暗殺計画を二回実行に移したが一回は提督に邪魔され一回は何故か失敗した。

 

龍田

██████

23歳

終戦から間もなくして単冠湾泊地を脱走、北方領土にて█████

単冠湾泊地からの███を数度に渡って█████

最終的に強引ながら█████を投入 これを███した(“We, the Divided”)

█████吹雪█████████軍警█████

████艦娘不要論████融和派███████翔鶴████████

███████████蜂起██████(ずいずい(仮);『死した鶴』)

 

榛名

海軍;海上警備部隊

26歳

広報艦隊から警備部隊に転属、主戦派深海棲艦の残党掃討に勤しみ、海上の平和を守り続けている。

お給料は減ったけど榛名は大丈夫です!

 

海軍;海上警備部隊

24歳

榛名と同じく警備部隊に転属。当初は違う艦隊に配属されたものの、後に榛名と同じ艦隊に再配置される。以来、二番艦として彼女を支え続けている。

 

那珂

スーパーアイドル

17歳と72か月

世界に愛と平和を届け続けている。全ての那珂の夢。ライブの時には招待席をいつもちらりと確かめる。

 

明石

軍研究員

27歳

軍で深海棲艦や艦娘の研究を続けている。最近、共同で研究していたグループの研究データが全ロストして真っ白になった。

 

夕張

軍研究員

25歳

軍で対深海棲艦&艦娘兵装の研究を続けている。

 

武蔵

行方不明、死亡?

25歳

遺体は確認されていない。

 

*   *   *

その他の妄想置き場  上に行くほど時系列的に後になるがいい加減なのであんまり信用しないでよい

 

ずいずい(仮)⇒死した鶴(仮)(戦後:翔鶴を殺された瑞鶴が軍を脱走して復讐にひた走る:HitSの4年後)

 

わが名はヴェールヌイ-И зови меня Верный-(戦後:謎めいた経歴のヴェールヌイに、海軍からの秘密指令が下る:We, the Divided直後)

 

We, the Divided(戦後:病んだ龍田さんの泊地脱走の顛末を描く:HitSの2年後)

 

Great Journey(仮):終戦直後、最前線基地所属の艦隊が、揃って提出した除隊届を突き返されたことなどが原因で脱走。燃料が切れそうになると各地の補給基地に忍び込んでは不法に補給しつつ本土への長旅を開始。一足遅れて放たれる捜索艦隊。捜索隊の士気は低いものの、旗艦の有能さで足跡を辿っていく。一方、脱走艦隊は逃避行の最中に深海棲艦の残党が物資集積所を拠点にして最後の大規模攻勢を仕掛けようとしているのを発見。終戦で気の緩んでいる現状、攻撃が始まれば必ず大被害が出ることになると確信。物資破壊による攻勢の頓挫を狙い、脱走艦娘たちは生還の望みの薄い戦いへと抜錨していく……。:“The great journey ends here...”は何処かで入れたい。

 

HitS(世界唯一の艦息“僕”の視点から、入隊~終戦までを描く。描いた。)

 

一年間の休暇:戦闘中に気絶した天龍は島に漂着した。孤独なサバイバルと思いきやある日同じく気を失った深海棲艦が……:HitS終了1年前~終了頃

 

酔って候(仮):終戦直前。ガングート、那智、隼鷹、ポーラ、千歳、響で構成された艦隊が、深海棲艦たちの領域内で座礁した海軍の秘密輸送船の噂を聞き……

 

タイトル未定(仮):艦娘適性はあったが志願せず老年を迎えた女性や、一度艦娘になったが様々な理由で除隊した女性たちが最後のご奉公的に艦娘になり、当初はプロパガンダ部隊として扱われるものの、新規艦娘組と復帰組の間の対立などを乗り越え、やがて死の危険を省みずに目標へ突き進む精鋭艦隊として成長してゆく……

_人人人人人人_

> 老人と海 <

 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄

 

 

栄光の艦娘空挺隊(仮):那智教官「まさか本当にやってるとは思わなかった」 戦争後期に設立された栄光の艦娘空挺隊の軌跡を、ノンフィクション風に追うか、普通に空挺艦娘の視点から描くか。『わが名はヴェールヌイ』よりヴェールヌイ、HitSより“六番”になる前の武蔵が出演予定。他には『私たちの話』から時雨を出したい。:HitS以前

 

Under the water(仮):敵勢力下海域での単独作戦中、敵の攻撃を受けて艤装が歪曲・故障、着底して浮上不可能になった潜水艦娘。繋がらない通信機、減っていく酸素残量、二酸化炭素除去フィルターの飽和、暗闇への恐怖、空腹、頭上には敵──。

 

艦娘未満(仮):負傷して除隊させられたけど脳を損傷してて、まだ自分が艦娘だと思い込んでる元天龍ちゃんが、日常生活に不都合がある為に家族からも面倒見れないと拒まれてやってきた親戚の家で、引っ込み思案の小さな女の子と出会ったことが切っ掛けで、昨日まで256色だった二人の世界がフルカラーに変わっていく話。女の子が艦娘になりたいと言うとガチギレする元天龍ちゃん、主人公の女の子と一緒に買い物行った時に喧嘩してしまい、強引に(普段主人公がやっている)会計を押し付けられたものの、紙幣と硬貨をどう組み合わせたら支払えるか分からなくて店員に怪訝な顔をされ絶望する元天龍ちゃんなどが見所。お前は天龍型に恨みでもあるのか。

 

氷上の彷徨(仮):南極海における作戦行動中、有力な深海棲艦から攻撃を受けた艦隊は撤退を決断。追跡から逃れる為、南極上陸と約百五十キロの横断を試みる。氷上の地獄に足を踏み入れた艦娘たちと、それを追う執拗な深海棲艦の凄惨な戦い! みたいなのを妄想したけどハッピーエンドに終わりそうにないのでパス。誰か書いて。

 

 



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