図書庫の城邦と異哲の女史 (小沼高希)
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第1章
状況把握


目を開けて知らない天井を見た瞬間に、私の脳は急加速を始めた。動かそうとした身体に走る痛み。思わず声が出てしまう。博士課程までずっと難問に付き合わせてきた私の思考は、きちんと外部を認識し始めた。そして、大量のエラーを吐き出す。

 

ここはどこだ?今はいつだ?視界に入る光景を分析していく。畳換算で六畳程度の部屋。灰色の冷たそうな床。漆喰(しっくい)塗りらしい白い壁。ガラスのはまっていない小さな窓から差し込む日光。自分が寝ているのは膝程度の高さの寝台。壁にある燭台らしき場所の付近は煤でわずかに黒ずんでいる。木製に見える扉はあまり大きくはない。

 

動く右手を半ば無意識に乾いている喉に当てる。そこまで寒くはない。今は三月ではなかったか?ナースコールはない。点滴もない。ここは医療機関ではない。手当ては、と私はシーツとでも呼ぶべき自分の上にかかっていたものをめくる。服はいつもの普段着ではなく荒い織物で、腕に巻かれた包帯は金属製の針のようなもので留められていた。ああまったく、情報が多すぎる!

 

すっと、興奮が収まる。呼吸をゆっくりとしよう。まだ心臓は早く動いているが、思考は落ち着いてきた。そして、口角が上がっていく。面白い謎が与えられた時の高揚感。

 

全てを解決する素晴らしいアイデアは、ここが未来か過去か、あるいは異世界か何かだということ。しかしこれは万能すぎる。反証可能性がない議論は科学的ではない。もう少し仮説を考えよう。まずは傷の処置の分析だ。医師免許は持っていないが、医学史はかじったことがある。ハッカ臭と包帯に染みた油は消炎効果を期待したものだろうか。血が滲んでいないところを見ると、どこかから大きな出血をしているというわけではないらしい。血が止まった後に包帯が取り換えられたのかもしれないが。だとしたら手間がかかっている。包帯の素材ははっきりとはわからないが、漂白されておらず端がほつれているところを見るとある程度使い古された布だと考えられる。それでもきちんと洗って清潔にはしてあるのだろう。身体を動かして確認していくと何ヶ所か打撲があり、どこかの腱をやったかもしれないことが明らかになった。腕と脚を特定の角度に曲げようとすると痛みが走るが、逆に言えばうまい具合に落ち着いた場所を見つけられればそこまで問題はない。寝台に座るぐらいまではできそうだが、そこから立ち上がるのは難しい気がする。無理に動くこともないだろう。それに確認するだけで結構全身が辛い。

 

落ち着いて、自分の上にかけられていたものに目を向ける。茣蓙(ござ)によく似ているが、素材がイグサかどうかはわからない。マットレスに当たる部分も同じように細い草の茎と糸で編まれている。ここだけ見ればなんとなく日本の匂いを感じられるが、逆に言えばそれ以外のものから地理的な情報を得られる気配がしない。縫い目が不揃いなので、手作業で作られているらしいことが読み取れる。こんなところで考古学の知識を使いたくはなかった。

 

改めてどうしようもないことを確認したので、もう一度眠るとする。無駄に思い悩むことに意味はない。人生は結構いきあたりばったりでなんとかなる。大切なのは、後悔しない選択をするためにそこそこに元気でいること。

 


 

思い出せる一番最後の記憶は、階段で足を踏み外したこと。

 

その直前の記憶は、博士課程修了の知らせを受け取ったこと。

 

総合研究大学院大学文化科学研究科産業技術史研究専攻D3(博士課程3年生)だなんて長い肩書がなくなって、博士(文学)を持った無職になることが決定したところまでは覚えている。就活をさぼったのが悪い。大学だろうが他の研究機関だろうが、なんなら技術と知識だけなら普通に文系でも理系でも就職はできたのではないだろうか。論文執筆に熱中しすぎた。

 

昔からそういうところがある。なにかに集中すると周りが見えなくなるのだ。だからといって集中した分野で他の追随を許さない、なんてことはない。大抵は思考が脇道にそれて、雑多な情報を頭に入れて、そこから自分が脱線していたことに気がついて改めて元の問題に向かうことになる。その時に色々と読んだり調べていたりしていたことがたまに役に立つが、ほとんどの場合は違う。無駄な知識は人生の解像度を上げるかもしれないが、それは別に幸福には結びつかないことが多い。

 

今更後悔してもどうしようもないことをくよくよ悩むのはやめよう、と思っても嫌な感情は押し寄せてくる。

 


 

物音がして、私は目を開けた。扉が折りたたまれて、隙間からひょこりと少年が顔を出す。顔つきからすれば一五か一六だろうか。あどけなさと可愛さが感じられる風貌だが、視線はあくまで真剣なものだ。

 

「█████████ █████」

 

「は?」

 

聞いたことがない音の連なりだった。いや、言語なのはわかる。音節があったし、強弱があった。

 

「███ █████████ ██████」

 

少年が心配そうな顔を私に向ける。

 

「ええと、日本語は話せるかい?」

 

「███ ██ ████ ████」

 

私は苦笑いをした。言語パズルはあまり得意ではないのだが。



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疑問代名詞

部屋に入ってきた少年は木の盆にのせた椀とパンらしいものを持っていた。椀は素焼き(テラコッタ)で、酸化鉄の作る赤い色が見える。パンが黒いところを見ると、精白はされていないのだろうか。そもそもこれが小麦からできているかどうかもわからないのだけれども。

 

「██ ████ ██ ███████ ████ ███ ██████ ██ ████ ███*1

 

「私が何言ってるか、聞き取れない?」

 

私も少年も、同じような表情をしていたに違いない。

 

「███ ██ ██████ ███████████ ██████ ██ ███*2

 

少年が話す言語がおそらく変わった。アクセントなのか、母音や子音のあれこれなのかはわからないがなんとなく雰囲気が違う。少なくともコミュニケーションを取ろうとはしているし、複数の言語が存在することを知っている、と予想できる。

 

Can I talk with you if I use English?(私が英語を使ったら君と話せないかな)

 

「████ ████████ ██████ ██████████*3

 

Nun...(ええと……) ich kann nicht verstehen, was Sie sagen.(私には君が何を言っているかわからない)

 

今度の言語は単語一つ一つが長いし、少年も言いにくそうだった。あまり慣れていないのかな。私もドイツ語に詳しいわけではないからあまりいい発音をしていなかったとは思うけど。

 

悩ましげにこちらを見つめる少年と、難しい顔で少年を見つめる私。どうにかしてコミュニケーションを取ろうとアプローチをしてくれているのはわかる。私も知っている言語で話をしようとしたが駄目みたいだ。そもそも英語が通じない時点で私が知っている言語が分かる可能性は著しく低いのだが。さて、これで私の話せる言語のストックが切れた。いや、「Я не говорю по-русски.(私はロシア語を話さない)」とか、正直文法も怪しいが「Non possum loqui latine.(私はラテンを話せない)」とか、言うことはできるが言う意味がない。ちなみにこういう文章のストックなら結構ある。

 

「███ ████ ████████ ██ ████ █████████*4

 

少年はそう言って、私の前に盆を出した。

 


 

言語をゼロから学ぶためには、語彙を採集しなければならない。そのために最も一般的な方法は、「これは何ですか?」という疑問文を手に入れることだ。言語学的に言うのであれば、疑問代名詞を特定することが必要となる。

 

子供に囲まれた青年がいきなり帳面にめちゃくちゃな線を描くと、周りで見ていた子供たちが「hemata?(何だ?)」「hemata?」と口々に叫んだ。これは西暦1907年8月、日本領樺太南部の漁村において東京帝国大学の学生であった金田一京助が行った樺太アイヌ語の語彙収集の一幕である。

 

これによって樺太アイヌ語における名詞の採集が始まったというのは有名な話であるが、じつはこれには前提がいくつかある。金田一はその前に子供のスケッチをしており、それを見ていた子供が部位の名詞を口にしていたこと。樺太アイヌ語の語彙はなくとも、類縁のアイヌ語の知識と疑問文「hemanta?」を知っていたこと。そして数日の間謎のお兄さんとして近所をぶらついていたこと。

 

今の私には何もない。さて、どうしようかな。

 


 

私が悩んでいると、少年のほうが動いてくれた。パンを一口大に小さくちぎり、スープにつけて食べる。そうしてもうひとかけらパンをちぎって、それを私に差し出した。意味はわかる。食べ方を教えると言うよりも、毒味の意味合いがあるのかもしれない。確かに目の前の食べ物で私が重篤なアレルギーを起こす可能性はあるし、何らかの理由で私にだけ毒となる成分があるかもしれない。ただ、そんなことを気にしているストレスのほうが明らかに健康に悪いだろう。軽く煮られた根菜と葉菜が入っているスープにひたしてから、少し硬い手触りのパンを口に入れる。

 

スープのキノコか何かによると考えられる旨味成分も、パンの酵母と乳酸菌が混じったサワードゥのようなもので発酵させたことに由来すると思われる風味も独特のものだ。慣れればなかなかイケる味ではあるが。ただかつて食べ慣れていたものと比べるとアクが強いのは間違いない。

 

素焼きの椀から木の匙でスープの実を食べる。少年の視線は私の一挙一動を見逃すまいと観察しているようだ。まあ確かにどうやって食べるかは文化や風習によって左右される。私の食べ方からどこの出身かを探ろうとするのは悪くない方法だ。ただ、問題はそれが成功する可能性はあまり高くないように思われるということだが。

 

少し落ち着いて匙を置くと、少年がパンを指差した。指差す、という表現は不適切か。右手の人差し指と中指を伸ばし、それ以外を曲げる。ポーランド式の敬礼のときの手の形と言えばそういうマニアにはわかるだろう。それでパンを示すようにして、ゆっくりと少年は言葉を紡いだ。

 

「██ ██████ █████*5

 

言語コミュニケーションの構築において、名詞の提示は一番シンプルな方法だ。ただ問題は三つの単語のどれが「パン」を表しているかわからないこと。

 

「██ ██████ ███████*6

 

椀の中に置かれた匙を、同じように指して言う。違うのは一番最後の単語に当たる部分。

 

これは……パン、です

 

発音がどこまで正確かもわからない。アクセントも声調も、日本語になれた耳で聞き取って日本語に慣れた口で話したものだ。

 

「██、これはパンです」

 

嬉しそうな表情。よかった、笑顔、より厳密には顔の力を抜いて口角を持ち上げる表情を相手に見せることは決して悪い行為ではないらしい。そして、発言の前に言った言葉は肯定を意味する単語だろう。

 

これは匙です

 

「はい」

 

よし。次のステップ。

 

これは匙です

 

さっき言った言葉を、今度はパンを指しながら言う。少年も私がやりたかったことに気がついたようだ。

 

「いいえ」

 

これで否定を意味する単語も手に入った。私はスープを飲み干し、椀を二本の指で軽く叩く。

 

これは……

 

「これは椀です」

 

かくして、私は名詞を集める手段を手に入れた。

*1
旅の方ですか?僕の言葉、わかります?(東方通商語。以下特記なければ少年は東方通商語で話していると解されたし)

*2
汝、我が述べる言葉を解するか否か?(聖典語)

*3
私、わかるしない、あなた、口から出す(古帝国語)

*4
まあ、まずはご飯にしましょう

*5
これは、パンです

*6
これは、匙です



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名前

これは?

 

「これは盆です」

 

これは?

 

「これは包帯です」

 

これは?

 

私は指を扉の方に伸ばす。少年は一瞬だけ悩むそぶりを見せるが、すぐに答えをくれる。

 

「██████は扉です」

 

表現が変わった。パンと匙と椀に共通して、扉が仲間外れとなるもの。おそらくは話し手からの距離。日本語では「これ」「それ」「あれ」の三つ、英語では「this」「that」の二つの種類の組が指示語には存在する。学習の初期の段階でこういう言葉の使い間違えはよくあるものだが、少年はうまくそれを訂正してくれた。私に近い包帯が「これ」と呼べるということは、指示語の種類はそう多いわけではないと予想できる。

 

あれは?

 

「あれは█████████……いいえ、████です*1

 

二つの単語が出てきた。たぶん窓に関する単語がいくつかあって、そのうち簡単な方の語を教えてくれたのだろう。こういうところで彼は結構気配りをしてくれているように思える。

 

ともあれこうして手当たり次第の単語を聞いてから、少し頭の中で整理を行う。私の少ない知識と比べても、同系統の言語は存在しない。単語同士に特別なつながりはないように見える。少なくとも、見る限りでは少年の使っている言語はかなりしっかりしたもののようだ。人工言語であるとしたら作者は相当頑張っている。

 

「いいえ、これはkhet。はい、███はkhet*2

 

落ち着いたところで、少年が自分の顎を指して言う。少し慣れない発音だ。言語によってはxと書かれそうなものだが、khと転記するほうがなんとなくわかりやすい気がする。奥の方に舌を引っ込めて、空気を流す感覚。カタカナで一番近い表現は「ケト」だろうか。というより自分を指すときにはそういうやり方をするんだな。こういうジェスチャーは文化で異なるのできちんと覚えておこう。

 

っと、先程まで「これ」に相当していた場所が変わっている。となると今まで指していたものとは異なる特徴があるはずだ。私でも察しが付く。対象が人間であるということ。わざわざそうしてまで伝えたいものはあまりない。これは名前だ。

 

で、ここで大きな問題が起こる。私はなんと名乗るべきだろうか?

 


 

多くの文化において、名前には特別な意味がある。例えば日本も含まれる東アジアの文化圏では「(いみな)」として、それ以外の地域でも様々な方法で直接的な言及を避けることは見られる。もちろんそれでは面倒なので何らかのあだ名であったり通名を用意したりするのが普通である。また姓がなかったり、洗礼名というものがあったり、まあここらへんは大変なのだ。

 

こういう場面でちゃんと自分の名前を言わないと問題がある文化かもしれない。ただ、彼が名乗った音はそう長いものではなかった。人名の長さというのは結構様々だったよな、と私は記憶を探る。日本だと姓と名だけだが、イスラーム圏とかでは先祖の名前を付けることで出身を表すことがある。そういうものではなく、ただ一語で名前を表してよいという文化というわけだ。よかった。きちんと名前を全て言わないと失礼に当たるとかではただでさえ新しい単語でいっぱいの頭にこれ以上の負荷をかけることになる。

 

「████は?」

 

私の顎に向けて少年が二本の指を伸ばす。指差しは別にタブーではないようだ。そしてこれはたぶん「あなた」を意味する単語。さて、名前を聞かれているわけだ。

 

本来は女性名として適切なのかとかを考えねばならないのだろうが、まあ今の時点で詳しくやり取りができない以上決め打ちで行動するしかない。もし名字のない文化であった場合、あるいは名字を持っていることが特別な地位や血筋を意味してしまうようなことを考えると少年の名乗った「ケト」と同じぐらいの長さ、二音節程度の語がいいだろう。あからさまに下品なものであったりする語を引き当ててしまう可能性はあるが、まあ無視していい。こんなところにまで気を配っていては疲れてしまう。

 

私はキイ。あなたはケト

 

キイというのはある意味では本名の一部であり、昔からネットで偽名を必要とするときなどに使っていたのもあって案外馴染みがある。口にしても違和感がないのはいい。発音としても日本語にも英語にもある見られるものなのでまあそこまでおかしくはないだろう。

 

「あなたはキイ。僕はケト」

 

少年が同じように返す。うん。たぶんうまく行った。

 

私はキイ。あなたはケト

 

「はい」

 

ちゃんと私が言っても問題ない。これで呼びかけができるようになった。だからと言って特別何かが変わるわけではないだろうが、少なくとも恩人の名前はしっかりと覚えておきたいものだ。

*1
窓枠……、いいえ、窓です

*2
注: ここで少年が使っている東方通商語の一人称はおもに若い男性(もしくは育ちのいい男性)が使うものであり、女性が使う場合には違和感を持たれることがある。なので語り部である「私」が東方通商語で話す時の一人称は「僕」と訳すべきであるが、少年の発言との混乱を避けるために原則として地の文と同じ「私」を用いる。



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内包

「……███、キイ、█████ ████ ███████*1

 

名前の確認が終わると、ケトは盆を持って部屋を立ち去っていった。急いでいた雰囲気があったことを考えると、ケトの方に別の用事があるのかもしれない。

 

緊張を抜いて、寝台に倒れ込む。結構集中力を使った。今の所、全て直接音として覚えるようにしているが、脳内でカタカナに転記してしまう過程はどうしてもつきまとう。長期的にケトが話す言語を習得しなければならないのであれば早いところメタ言語、すなわちその言語について考えるための言語を日本語から変える必要がある。

 

本来言語学において、メタ言語はその説明しようとする言語からある程度独立した論理性を保つために用いられる。あるいは、学習者が知らない言語を学習者が理解できる方法で表すために。それは言語を観察し、分析するためには合理的な手法だ。ただ、私の場合は別に言語自体の構造に対する深い洞察を必要としているわけではない。日本人のほとんどは日本語の文法に対する知識がないが、十分流暢に日本語を話すことができる。私は大学で学んだ第二外国語としてのドイツ語の文法知識があるが、ドイツ語で世間話をすることはできないだろう。そういう会話をできるようになるために必要なのは言葉の海に飛び込むこと。溺れながらでもなんとか意思疎通を図る必要がある。

 


 

「███、 ███ キイ*2

 

ケトが籠を持って戻ってきた。植物性繊維を用いて編んだと思われる、世界の様々な地域で見られる一般的な作りのものだ。

 

「███ ██████ █████████ ██ █████ █████ █████ ██████*3

 

そう話しながら、籠に入っていた雑多な様々なものを取り出す。色とりどりのビーズで編まれたシート状の飾りだとか、緑や茶色の染め物と思われる布だとか、用途のわからない木でできたと思われる棒や丸い何かとか。

 


 

私の学び舎であった国立産業技術史博物館(さんはく)から歩いてそう遠くないところ、同じ公園内に国立民族学博物館(みんぱく)があった。いや、知名度的にはこの言い方は間違っている気がするな。ともかく私はその民博へ足繁く通っていた。なにせ同じ人間文化研究機構の施設ということで入館料は無料というのだから行かない理由はない。

 

そこの展示室に並んだ各地の民芸品やら日常品を見ながら知り合いと議論を重ねるときもあった。そうして資料を見ていると、面白い特徴がある。展示品には作られた場所に由来する素材の差や細かい制作方法の差異はあるが、それを超えたどこか共通した何かがあるように感じられるのだ。それがヒトという生物が作る以上存在する何らかの制約や傾向によるものなのか、あるいは様々な形で行われていた文化交流によるものかは、はっきりとはわからないが。

 

ケトが取り出してきたものも、そういう特徴が見られた。ガラス質のビーズで作られた模様がシンプルな幾何学的模様を作っている飾りは、本当にどこの文化圏にあってもおかしくないと感じさせる。

 

「これは████ █████、これは████ ███████、これは████ ███████*4

 

そう言って並べられた三つのものを私はじっと見る。全ての文章に同じ単語が入っていることを考えると何らかの共通点があるはずなのだが……と考えて、私はケトの指が飾りの特定の部分のみを指すように動いていることに気がつく。ちょうど茶色の場所をなぞるように。

 

これは茶色の寝台です

 

私は自分が座っている寝台の木の部分を触りながら言う。

 

「はい!」

 

共通の性質、すなわち内包を説明している……修飾語だ。名詞より抽象的な表現で、価値観の違いを表しやすい。例えば今手に入れた暫定的に「茶色」と理解している言葉も、それが意味する範囲が日本語の「茶色」と一致することはおそらくない。

 

「これは████ビーズ、████████ビーズ、█████ビーズ*5

 

ビーズを意味する単語はわかっているので、その前の部分についている単語が色を表しているのだろう。前位置修飾語(premodifier)と言うんだったかな、とおぼろげになっている古い言語学概論の授業の内容を引っ張り出す。

 

あれは……壁です

 

「あれは白い壁です」

 

修飾詞を入れるべきところを開けると、ケトは私のやりたいことを理解してくれたようだった。

*1
キイ……さん、少し待ってくださいね(ケトが言いよどんでいるのは敬称の選択に悩んでいるからである。ここで「さん」と訳された単語は男性・女性ともに使ってもおかしくはないものの、一般的に未婚女性に対して使われる。ケトはキイの年齢や配偶者の有無がわからなかったが、十分に婚姻していてもおかしくない年齢であることを考えていたため歯切れが悪い)

*2
ああ、キイさん

*3
続きをしましょう……と言っても、今僕が何を言っているかは伝わっていないんですよね

*4
これは茶色のビーズ、これは茶色の布、これは茶色の棒

*5
これは黄色のビーズ、これは青色のビーズ、これは藍色のビーズ



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語順

ケトは喉に手を当てて、咳払いをするように軽く息を吐く。

 

「『これは████*1』、『これは匙です』」

 

ケトの手の中にはさっきの食事で使ったのと同じような木の匙があった。そして声がいい。よく通る、落ち着いた口調だ。それに二つの文章を連続して、かつ明らかに語気や声色を変えて言っている。このレベルでの演じ分けは話芸をやっていないと難しいように思う。ケトがそういう訓練を特別に積んでいるのか、あるいはこういう演じ分けが日常的に求められる文化などがあるのかはわからないが。わざわざ文を分けて、発言者を違うものとして扱ったのは対話文を説明したいからだろう。仮説を立てたら、検証だ。ケトの手の方を指差して、私は口を開く。

 

これは何ですか?

 

一息おいて、少年は返事をした。

 

「これは匙です」

 

少年は笑顔になる。よし、つまりこれは正しい疑問文だろう。私が今までやってきたのはたぶん幼稚な聞き方だったのだろうなと考えると恥ずかしくなるが、言語学習においてこういうことが起こるのは仕方がないと割り切ってしまおう。

 

「『あれは何ですか?』『あれは壁です』」

 

「これ」と「あれ」を変えただけだ。問題ない。

 

「あれは何ですか?」

 

少年は寝台を指差して言う。ええと、さっき使った単語だよな。少し忘れかけている。

 

これは寝台です

 

「████ ███*2

 

意味はたぶん正解とかそういうところだろう。

 

「『████ これ ████████ 布*3』、『これは緑色の布です』」

 

そう言って、少年は私を不安そうに見る。あまりそういう視線を向けられると私の中の嗜虐心が引っかかれかねないのだが。もう少し自分の魅力を理解するべきだよな、と余計なことを考えながら私は分析を行う。わざわざ長い文章を言ったということは、それなりに重要なものなのだろう。アクセントが最後から二番目の単語に強めにかかっていたところを考えると、そこが意味として大切なのだろうか。先ほどの流れで言うと、おそらく正しい疑問文を私に教えようとしている。前にやった修飾詞を入れるべきところを開けるのではなく、きちんとした文章としての質問方法を。

 


 

「私」「食べる」「りんご」を意味する三つの単語を使って単純な文章を作ることを考えよう。ただし、りんごは私を食べないものとする。日本語であれば「私はりんごを食べる」となる。英語は「I eat an apple.」、ドイツ語なら「Ich esse einen Apfel.」だ。ここで英語やドイツ語において単数不定冠詞がついてりんごが一つであるという情報が付加されているのはあまり重要なことではない。

 

英語とドイツ語は「私」「食べる」「りんご」の順番で単語を並べている。高校で受験英文法を齧った人間向けに言うのであれば、英語は主語(Subject)-動詞(Verb)-目的語(Object)のSVO型の言語であると言える。なおドイツ語は本質的に日本語と同じ主語(Subject)-目的語(Object)-動詞(Verb)のSOV型で、V2語順なるルールを適応することで一見SVO型に見えるという説明を聞いたときに私は女子大生があまり外で言うべきではないタイプの悪態をついた。

 

こういう文章の並びを語順というのだが、この語順がいい加減な言語もある。例えばラテン語。もちろん一般的な語順というのはあるが、別にそれを無視して単語をごちゃごちゃに並べ替えても問題はない。無理矢理に日本語で例えるのであれば「私は食べる」「りんごを」と単語一つの中に品詞を意味する要素を組み込んでいるのだ。これを屈折語という。一方英語はこういう語順を無視できない程度に単語内の品詞を示す要素が古英語に比べて削られている。これがもっと進んで、単語だけでは品詞が完全にわからなくなった場合には孤立語と呼ばれる。日本語はひどく雑に言えばその「中間」にあたる膠着語で、単語の前後を変えることで意味を付加できる。

 

屈折語は単語一つの中に品詞の情報を持たせなくてはいけないので、活用表が複雑になる。例えば日本語では「食べる」は「食べ」「食べる」「食べれ」「食べろ」のような形になるが、ラテン語の動詞「edo(私は今食べる)」は「edis(あなたは今食べる)」、「editis(あなたたちは今食べる)」、「edetis(あなたたちは将来食べる)」、「edemini(あなたたちは将来食べさせられる)」と変化する。もちろんこれはほんの一部だ。英語のように三人称単数現在形のときだけsがつくなんて優しいものではない。ラテン語の活用表はまさに「表」と呼ぶのにふさわしい。

 

人間はどんな無茶苦茶な文法であっても生まれたときから接していれば学んでしまうことができる。ただ、新しく学ぶとなると話は別だ。活用表を暗記するよりも、語順に制約をかけて単語の並び順で品詞を意味したほうがコミュニケーションの面ではメリットが大きい。そしてここからがやっと本題だ。少年が話している言語は、おそらく孤立語に近い。非常に雑に言うのであれば、少年が使っている言語は複数の言語との接触を経験している可能性がある。ともかく単語を一度覚えてしまえば比較的容易に使い回すことができ、単語の並びさえ変えなければ簡単に新しい意味を持った文章が作れるのだ。

 


 

文法の流れがわかれば、後は例外を覚えていくだけだ。ドイツ語の件があるのであまり自分の判断力を信じることはできないが。

 

これはどのような匙ですか

 

「この匙は茶色で、████████*4

 

後半部分は新しい形容表現だろう。少年は私に色々教えたいようだ。さて、と私は悪い笑顔を浮かべる。

 

何が████████か?*5

 

文法からすればたぶんこの文章は成立するはず、と思って少年の顔を見ると一瞬驚いたような顔をした後、少し楽しそうに、悪い笑顔を浮かべた。

 

「あの寝台は木でできています。この███████ █████木でできています*6

 

匙と、寝台と、少年の手の中にある小さな用途不明の彫刻の共通点。色は濃い茶色から白に近いものまで様々だが、どれも木製だった。

*1
これは何ですか?

*2
そのとおりです

*3
これはどのような布ですか

*4
この匙は茶色で、木でできています

*5
何が木でできていますか?

*6
この像も木でできています



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動詞

すこしケトを驚かせることができたが、逆に言えば今の私にはこれが精一杯だ。いきなりすらすらと話し出すことができればいいのかもしれないが、現実はそうは行かない。

 

ケトは籠からまた新しいものを取り出す。オレンジ色の半透明な細長い物体と、小さな折りたたみ式のナイフ。

 

それは何ですか?*1

 

「これはナイフです」

 

そう言いながらケトは器用に右手だけで刃を持ち手から出したり入れたりする。刃渡りはケトの人差し指の長さほど。刃がすり減っていることと持ち手の木の部分が飴色になっていることから考えると、それなりに使い込まれているのだろう。オレンジ色の棒を削って、その欠片を私に渡してくる。少し硬いが、爪で傷はつく。モース硬度は2。

 

「これはkheeweです。kheeweは████████です*2

 

そう言ってケトはケーウェと呼んだオレンジ色のなにかを齧る。私もそれに合わせて齧る。潮の匂いと、熟成された旨味。噛めばじわりと味が滲み出てくる。塩辛いが、おいしい。私の知っているこれに一番近い食べ物は鮭とばである。確かに鮭は地球における北半球の海の色々なところに存在するし、塩漬けにして干すというシンプルな加工方法はどこで生まれてもおかしくない。

 

ケトに視線を戻すと、私が驚いたのを見てかどことなく楽しそうに口元を隠して笑っていた。なんだか恥ずかしい。

 

「僕はケーウェを███████。あなた█████ケーウェを███████*3

 

ちょっとしたパズルだ。ケーウェを説明するのに最も簡単な説明は「食べ物」だろう。「僕」と「あなた」という単語は自己紹介のときに出てきた。構造としてはSVO、となればこれは「食べる」という動詞だろう。

 

あなたは食べている

 

「はい」

 

目的語を省略しても、最低限の意味は通じるようだ。自分の予想があたっていたことに嬉しく思っていると、ケトは口を開けて私に中が見えるように見せた。ぬらりと唾液が光る口内。

 

「僕はケーウェを食べ █████*4

 

行動の完了を意味するのだとしたら、「食べ終わった」だろうか。「食べた」であればわざわざ口の中を見せる必要がない。いや、「食べた」でもそれを示すためには……と思考を頑張って回す。決してケトの粘膜をみて邪な気持ちが芽生えたわけではない。

 

またケトがひとかけらケーウェを切って、口に近づける。

 

「僕はケーウェを食べ █████*5

 

「食べようとしている」だろうか。となると、時制の説明だろう。ここまで理路整然と例を出せるとなると、ケトはかなりこの言語に精通している可能性がある。私がこういう説明を日本語でやろうとしてもここまで滑らかにはいかない。文法の研究は私の知っている歴史だとインドのパーニニが記した文法書が紀元前4世紀ごろにはできていたはずなので、私が今いるのが過去だという説を取ってもあまり矛盾はなさそうだ。いやそんな昔に20世紀になるまで再発見されなかった構造言語学の概念を生み出しているというのがおかしいといえばおかしいのかもしれないが。

 

「僕は███████ █████*6

 

ケトがそう言って立ち上がった。

 

「僕は███████。僕は███████ █████*7

 

そうして座る。なるほど。ざっくり未来・現在・過去の時制だと考えていいだろう。これで「食べる」と「立つ」は手に入った。まだ脚が痛いので難しいが、ちょっと試してみよう。

 

私は……

 

「あなたは██████*8

 

身体を倒して文章を言おうとすると、少年はちゃんと意図を掴んでくれた。これで「寝る」も手に入った。

 

私は寝ていた

 

「はい。そのとおりです」

 

褒めてもらえるのは嬉しいものだ。

 

「█████……『私は███████ ████』『あなたは寝ています』 █████ ██████ ██*9

 

ああうん。わざわざ一人二役をやってくれた理由はもう見当はつくよ。正しい質問の方法か。

 

あなたは何をしていますか?

 

ナイフで追加のケーウェを切ろうとするケトに私は言う。

 

「僕はナイフでケーウェを切っています」

 

要素が増えたが、知っている単語ばかりだ。これで動詞を手に入れる方法と、文法構造の詳しい情報を掴むことができた。

 

ナイフは切るものです*10

 

「……はい」

 

ケトはそれを聞いて微妙そうな難しい顔をした。文法的にはあまりいい表現ではなかったらしいが、間違っていると言えるほどではなかったのだろう。まあ、ここらへんは色々覚えていくしかない。

*1
注: もちろん東方通商語に「それ」を意味する単語はないが、意訳である。以降同様に適宜訳していく

*2
これはケーウェ(切り干し魚)です。ケーウェは食べる物です(「食べ物」ではなく「食べる物」と表現していることに注意)

*3
僕はケーウェを食べています。あなたもケーウェを食べています

*4
僕はケーウェを食べました

*5
僕はケーウェを食べます

*6
僕は立ちます

*7
僕は立っています。僕は立っていました

*8
あなたは寝ています

*9
ただ……『私は何をしていますか?』『あなたは寝ています』のほうが良いです

*10
キイのこの「切るもの」という言い方では「切るための道具」「道具によって切られるもの(今回であればケーウェ)」の両方を意味できてしまう。東方通商語では普通このような文章は「道具によって切られるもの」の方で捉えられることが一般的だが、別にナイフに対してこのように表現しても間違いというわけではない。事実、東方通商語における言葉遊びでこのようなダブル・ミーニングを利用することがある。



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閑処

私は今トイレにいる。少しの寒気を感じながら、やっと落ち着けたと息を吐いた。

 

ボディーランゲージは非常に効果的な意思疎通手段である。下腹部を押さえ、太ももをくっつけるようなポーズをとるだけで話が通じるのだ。そろそろ恥の基準が色々と突破しつつある。ケトに肩を持ってもらいながら歩いて廊下を抜け、外に出て少し進んだところ、屋外にある小さな小屋のようなものの中にトイレはあった。壁の素材は目覚めたときの部屋のものと同じだ。

 

「けどまぁ、なかなかおもしろい構造だ」

 

小さな声で呟く。和式のようにしゃがんで使うタイプの構造をしているが、木製の蓋を取ると床に空いている穴は二つある。前の方の穴はじょうごのようなものがついていて、液体が容器に貯まるようになっている。固体の方を落とすと思われる穴は底が見えない。なお重要な問題としてこのタイプのトイレは脚を曲げないと使うことが難しい。幸いにも立ったままでもある程度狙いを定めることはできたのでよしとしよう。あまり面白い話ではないが。

 

しかしこのトイレ自体は興味深い。穴のそばに置かれた素焼きの直方体の容器には灰らしきものが入っており、それをすくうためと思われる小さなスコップに似た物がある。たぶん大きい方をし終わった後に上から振りかけるのだろう。その隣には積み上げられた木の棒。これはたぶん使い捨てるトイレットペーパーのかわり。うん。どこの地域か全くわからない。

 

ただ、構造は相当考えられているように見える。尿を分けているのは衛生上の理由からか、あるいは肥料などに利用するためかはわからないがなにかメリットがあるのだろう。水洗式ではないのは付近の地下水汚染の防止や、あるいは水があまり潤沢に使えない環境なのかもしれない。そもそも水洗式は構造が複雑になりがちだ。

 

少し今の時点で手に入る情報を整理する。服は裾が膝の下あたりまで伸びるゆったりとしたもので、帯で締めることで身体に固定している。胴体部分とは別の布が縫い付けられてできた袖は肘まで伸びていて、動く右手を回しても邪魔にならない。ケトも同じような服を着ていたので、男女共用の普段着なのだろう。おそらく横が肩幅程度の長い布を織り、頭の部分に穴を開けて横を縫うことで作られている。縫い目は上手く見えないが、外側から観察できないということは縫い終わった後で裏返すのか。一応手作りはできなくはないが、それなりに手間がかかるものだ。というよりこういう布が普通に使われているということは織機がないのだろうな。

 

 

それと、私は下着をつけていない。まあ涼しいのでいいが。そもそも下着というか局部や胸を隠す一種の衣装は時代や地域によってあったりなかったりするし、そういうものなのだと割り切ろう。

 

「あなたは██████ ████████*1

 

ケトが扉を軽く叩きながら言う。ぼんやりと考え込んでいたせいで結構時間が経ってしまったようだ。音からするとノックと言うより手の甲の平らなところを当てているようだ。こういう細かい行動の違いも覚えていかないといけないのだろうか。

 

……はい

 

語気を強めにして返す。さっきの質問が安否確認であるとしても、はいといいえのどっちで答えればいいかわからない。「問題ありませんか?」と「何かありましたか?」は役割としては同じだが、聞いていることは真逆だ。あまり長居しても仕方がないので出る。

 

私が扉を開けると、手際よくケトが手を私の脇の下に入れて体重を支えてくれる。ありがたい。立つだけならなんとかなるが、歩くとなるとまだちょっと辛い。歩幅を揃えながら戻る最中、行きには余裕がなくて確認できなかった建物の構造を見る。廊下の幅は壁に寄っても腕をギリギリ振り回せない程度。すれ違うだけなら互いに避ければ問題はないぐらい。扉は見える範囲では左に一つ、右に三つ。右側、一番奥の部屋がさっきまで私が寝ていた場所だ。

 

 

ひとまず寝台の上に戻って脚を確認する。少し動いてみた感覚だが変に捻っているわけではなく、このままで問題なさそうだ。明日にもなれば痛みも引いて歩けるかもしれない。本来であればX線CTとかで現状を把握するべきなのだが電気すら存在しそうにないし、別に状況がわかったからと言って治療の選択肢が増えるわけでもない。現状ではケトがやってくれたのだと思われるように少しきつめに包帯を巻いて固定するのがいいだろう。

 

ケト

 

私は少年の名前を呼ぶ。

 

「████ ████████*2

 

たぶん確認の呼びかけだろう。使えたら便利そうなので覚えておきたい。こういう細かい言葉の記憶の積み重ねが円滑なコミュニケーションを生むのだ。

 

これは何ですか?

 

「それは脚です」

 

しばらくは単語の習得に付き合ってもらおう。ケトにはいっぱい聞きたいことがある。それができるようになるにはもう少しかかりそうだが。

*1
大丈夫ですか?(定型表現。直訳すれば「あなたは困っていませんか?」となる)

*2
何でしょうか?



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直角三角形

体内時計が不適切になってから久しいが、どうやら一種の時差ボケと相まって目覚めは悪くなかった。

 

「███████ █████、キイさん*1

 

私が寝台から起き上がると、木の板のようなものを持っていたケトが声をかけてくれる。ちょっと待て。

 

それは何ですか?

 

「これは……」

 

そう言いながら立ち上がり、私の手元に見えるようにケトが板を見せてくれる。大きさはA4ほど。木の枠に黒い粘り気のある脂状のもの、おそらくロウが伸ばされていて、ケトが持っている草の茎で作られたらしいペンで文字を書くのだろう。

 

『え、文字が書けるの?』

 

思わず私は日本語で口走ってしまう。しまった。原則ケトに日本語は聞かせたくなかったのだ。理由としては彼が好奇心旺盛だろうというのがある。そりゃまあ意思疎通に使える語彙は相互に増やすのが短期的にはいいのだろうけど、長期的にはあまりメリットがないのである種秘密にしていたのである。

 

「キイさん、何を言ったか教えてください」

 

ああほら。昨日一日かけて単語を詰め込みまくったので推察能力も高まり、この程度の文章なら聞き取れてしまうようになった。自分の理解力が恐ろしいが、これはケトのわかりやすい説明の影響のほうが大きいように思う。

 

「……これは蝋板ですよ」

 

私のヘレニズム仕込みのアルカイック・スマイルを見て、ケトは負けたようにそう言った。罪悪感が溜まる。

 

「これは███████ためのものです*2

 

そう言いながら今まで書かれていた文字を消し、新しく、消されたものよりも大きく、そしてゆっくりとペンで蝋に線を刻んでいく。

 

「『ケト』、『キイ』」

 

縦長の、直線によって形成された文字。ケトは三文字、キイは二文字。「kh-e-t」と「k-ii」だろうか。「ki-i」かもしれないが。

 

これ、取ってほしい

 

私はケトの持っている蝋板を指差して言う。

 

「はい!」

 

喜んで渡してくるあたり、きっと私が文字を書いてくれると思っているのだろう。違うんだ。許してくれ。

 

私が描くのは直角三角形。底辺が3、高さが4、斜辺が5。長さの比がわかりやすいように、垂直に短い線を引いて区切りにする。

 

「……キイさんは███████ ████か██████████████なんですか?*3

 

これだけでは足りない。私は直角三角形のそれぞれの辺を一辺とする正方形を描き、マス目に分割する。ケトがどれくらいの知識を持っているかが知りたいのだ。

 


 

文字を読み、書くという能力は決して習得が容易なものではない。21世紀初頭における日本の識字率は基本的に100%とみなしてよいと考えられているが、時代や地域によっては識字というのは高等能力であった。秘書を意味する英単語、secretaryはsecret(秘密)が語源であるように、書くということは、秘密を知るということなのだ。日本語でもそのままだったな。

 

ラテン語を学べなければ、あらゆる学問の入り口にすら立てない時代があった。言語が学問に、宗教に、そして身分に強い影響を与えていたのだ。そういう聖俗が切り離された世界では、「話し言葉」を「書く」ということは難しい。それにケトの話す言葉はこう言っては何だが俗っぽい。「高等な言語」特有の複雑な文法やら活用やらがないのだ。

 

もしケトが書く文字が話している言葉と関係がないのであれば、文字を言語学習の糸口にすることは難しい。しかしもしそうだとしても、ケトは高度な教育を受けているという証拠になる。ここで出会った唯一の人間がそれなりに将来を期待されているというのは少なくともマイナスではない。逆にケトが「文字を書けるだけ」の少年なのであれば、それはそれでまた別の可能性が拓ける。識字率が高ければ、本の需要があるのだ。情報密度の高い本を読むことができれば、世界を知る助けになる。

 

……嘘だ。こういうのは後付だ。ケトを驚かせたかったというのが正直なところだ。教えられてばかりが癪だった。かといって私個人の知識や経験の話をしたくなかった。これだけの建物を作れるなら、数学を理解できる文化かもしれないというのに賭けたのだ。

 

三平方の定理、あるいはピタゴラスの定理として知られるシンプルな法則がある。直角三角形の斜辺の長さを $c$ 、それ以外の辺の長さをそれぞれ $a$ と $b$ とおけば $a^2 + b^2 = c^2$ が成り立つというものだ。ちなみにこれがピタゴラスによって示されたということについて数学史家は否定的なのだが。

 

19世紀初頭、これまた後世の数学史家は否定しているのだが、数学者のフリードリヒ・ガウスが大地に直角三角形と各辺を一辺とする正方形を描き、宇宙から見ても地上に文明が存在するとわかるように示そうとしたという話がある。別にコミュニケーションに数学を使うというアイデア自体は特別なものではない。まさか私がそれを行うことになるとは思ってもみなかったが。

 


 

「……█████ ██████ ███ ████████ ████*4

 

蝋板を返すと、ケトは几帳面な字で私の図の隣に文字を書く。

 

「█████ ██████ █████████ ████ ███ ████……*5

 

そこまで言いながら書き、ケトは慌てて書いたものを消す。響きが独特だった。

 

なにが消すもの?

 

「……これは████████。████████ではない*6

 

そう言って、改めて言葉に合わせてケトは文字を書く。今度は多少わかる単語も混じっていたが、あまり聞き取れなかった。

*1
おはようございます、キイさん

*2
これは書くためのものです

*3
……キイさんは量地司や天察官なんですか?

*4
……基本的な図形算ですね

*5
汝の前に三角形を置こう。その角の一つは一周を四分割したものの一つであり……(聖典語)

*6
これは聖典語だった。東方通商語ではない



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抽象的思考

ケトが茎の筆を置く。丁寧な、高さと幅が揃った文字だ。筆記具の特徴上なのだろうか、ぱっと見た限り曲線は使われていない。さて、文字がわかれば少しずるいテクニックが使える。古典的な暗号解読にも使われた、頻度分析だ。

 

同じ文字がいくつかある。最も多いのはギリシア文字のΛ(大文字のラムダ)のような文字だ。出現率は一割ちょっと。ひらがなやカタカナのような子音と母音のペア、つまり音節を文字にするタイプだったら100弱の文字が必要だし、もし漢字のような意味を表す文字であればその総数は1000や2000ではおさまらない。こんなに同じ文字が見つかるということは、母音や子音といった音素一つと文字一つが対応しているのだろう。

 

「e*1

 

私が文字の一つを指差して言う。今まで学んだ単語にあった音の中で、たぶん一番多く出てきたのはeだ。次がa。違ったらそれまでだ。

 

「……はい」

 

少し訝しむように、ケトは答える。あれ、困ったな。

 

「僕は蝋板を█████……███、僕は█████を████ています*2

 

隙間に文字を書きながらケトが言う。ええと、「文字を書く」か。

 

「僕は文字を█████ます」

 

そう言って蝋を平らにする。これは「消す」かな。

 

「消しますね」

 

そう言ってケトは蝋板全体をぐるりと指で示した。

 

はい

 

ケトは筆を横にして、一気に図と文字を消していく。かなりいっぱいに書かれていたからな。その間、ケトが書いたものについて考える。

 


 

Στοιχεία(原論)』は学問都市であったアレクサンドリアのエウクレイデスによって紀元前3世紀頃に記されたと伝えられる数学書だ。まあ相変わらず後世の研究者はエウクレイデスの存在を疑ったりこれが共同ペンネームではないかとの仮説を立てているが。

 

その内容は多岐にわたるが、基本的には一歩一歩積み上げるような証明がメインになっている。5つのルールから複雑な幾何学が展開される様子は、まだ小学生だった私に強い印象を与えた。そうして私は日本語訳の『原論』を近くの大学図書館から取り寄せ、挫折した。

 

なにせ一々細かいし複雑なのだ。三平方の定理を求めるためにも補助線を何本か引き、同じ面積の三角形を作りながら求めていく。こんなことしなくても文字式を使えばいいのに、と中学生の頃には思っていた。しかし、高校生になって初めてこの操作の意味を理解した。数式を使えなかったから、こういう書き方をするしかなかったのだ。

 

数学史の中で、私は等号を始めとした数式という表記方法の発明というものを気に入っている。それは数学を実世界から切り離し、より抽象的な操作を可能としてくれた。例えば単純な2次方程式を考えよう。

 

「ある数を用意する。それを二乗したものと、それを3倍にしたものを足したものは10に等しい。その数はいくつか?」

 

長い。一方数学的記法ならこうだ。

 

$$x^2 + 3x = 10$$

 

そしてこの抽象的表記法のメリットは、「現実ではおかしいような答え」を出せるということだ。先ほどの問題の答えは $x = -5, 2$ であるが、長い間 $-5$ という非現実的な数字は答えとして扱われなかった。私の時代には中学生が何も考えず解答用紙に記入していたのに、である。

 

脱線が過ぎるな。結論を示そう。

 

ケトが数式らしいものを一切使わず、全てを文章として表していたということは、この時代か世界には、ある程度以上に抽象的な考え方というものが存在しない可能性が高い。

 

もちろん、数式がなくとも数学は行える。あのアイザック・ニュートンも天体の運動を幾何学的に導出したのだ。ちなみにそうやって求めた「惑星の軌道は楕円である」という結論は微分方程式と極座標系を使えば少し数学が得意な高校生が数時間で理解できる程度の内容である。たぶん紙一枚で説明しきれると思う。

 

抽象的な思考ができるということは、様々な分野の前提となる。19世紀中頃にジョージ・ブールがブール代数を作るまで、私たちは論理をきちんと抽象的に扱うことはできていなかった。人間関係における選択と利害について抽象化したゲーム理論をジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンが発表したのは1944年。どちらも小学生が理解できる程度の内容で、それを使えば古代の哲学者が喧々囂々と議論した問題のいくつかを比較的簡単に扱えるのにもかかわらず、それまで生まれていなかったのだ。どう考えてもこんな簡単な数学的なものよりも一年に数十秒しか狂わない精密時計を作るほうが難しいように思えるが、その精度を出せるクロノメーターができたのはブール代数が生まれる100年近くも前だ。おかしいだろ!

 

いや、落ち着こう。抽象的思考は近代以降の科学に、技術に、産業に大きな影響を与えていた。なにせ大学と大学院で9年もやってきた専門分野だ。ここらへんについては私の知識は世界でも指折りだという自負がある。そしてその知識に基づけば、抽象的な思考がない世界にはおそらく色々なものがない。統計学なしに疫学が成立するだろうか?経済学なしに政策決定ができるだろうか?

 

そこまで考えて、一つの疑問が頭に浮かぶ。

私の知る文化的な生活というものは、ここでは手に入れにくいものだったとしたら?

 

 

口角が上がっているぞ、私。

 

 

欲しいものは、手に入れるしかないだろう?

その方法は知っている。

*1
ここでのキイの発音は非円唇前舌半広母音、国際音声記号で[ɛ]であるが調音音声学の心得のない人には何を言っているかさっぱりだと思われるので日本語の「え」だと思ってもらって構わない。

*2
僕は蝋板を消しま……いえ、僕は文字を書いています



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厨房

「……何が███████ですか?*1

 

悪い笑みを浮かべていた私はケトに意識を引き戻された。少年の手の中の蝋板には30程度の文字が間隔を開けて書かれている。ラテン文字の26文字より多く、ロシアで使われているキリル文字の33文字よりは少ない。まあこんなものだろう。音素文字だという予想はあたったようだ。

 

「a、aa、o、e、ee、i……」

 

少年が一文字ずつ指して発音していく。母音を先に並べた後、子音を並べるようだ。長母音と短母音を文字上で区別するものの、同じような字形なのはありがたい。

 

kh-e-t、k-ii

 

最初にケトが書いた文字を参考に、一文字づつ指して単語を作る。反応からして問題はないようだ。

 

「あなたは文字を██████います」

 

「読む」か。もしかしたら一文字づつ読むのとまとめて読むのでは違う動詞を使うのかもしれないが今そんなことを気にするのはよくない。そう考えていると、ケトは一行の文章を書き始めた。

 

文字数は35ほど。間の空白は単語の区切りだろう。意味は全くわからない。ただ、これが一種の言葉遊びなのはわかる。たぶん全ての文字がこの文章の中に入っている。

 

「████ ███ ███ ██████ ████ ████████ ██████*2

 

書き終わると、ケトは私の方を向いた。

 

「あなたはこれが読█████か?*3

 

日本語で言ういろは歌、英語の「The quick brown fox……」と同じようなものだろう。パングラムだ。さすがに30文字ぴったりを作るのは難しいのか、あるいは簡単な単語だけで作ったから長くなったのかはわからないが。

 

「████、███、███、██████……」

 

一旦聞いたものをそのまま繰り返すだけとはいえ、それを文字と頭の中でペアにしていきながらだと難しいな。

 

「██████」

 

うまく言えていなかったようでケトに指摘されてしまう。もう一度最初から。

 

「████ ███、███……██████、████ ████████ ██████」

 

「はい」

 

よし。今度はさっきよりもすんなり通った。響きが独特で面白いな。意味はわからないけど。まあパングラムに深い意味をもたせることは難しいので仕方がない。

 


 

「何をしているんですか?」

 

傷めた方の足に少しづつ体重をかけていた私に、少し遅めの朝食を持ってきたケトが聞く。

 

えーと、私は足を……足の……を消す?ために……

 

ああまったく単語が足りない!リハビリテーションという概念を説明しようにもまず「痛い」という言葉も採集できていないのである。

 

「……ゆっくり行きましょう。焦ることはありません」

 

これは聞き取れる。

 

「██████を食べましょう。その後は文字の██████を*4

 

はい

 

素直にケトには従おう。脚を曲げられるようになり、ケトと同じ目線で座ってご飯を食べれるようになった。

 


 

日が暮れていく。昨日は途中で寝落ちてしまったが、今日はかなりしっかり学ぶことができた。

 

「今までは████るかった。今は█████い*5

 

そう窓の外を指差して言った後、ケトは立ち上がった。部屋の外に行くようだ。

 

何をするの?

 

「██████を持ってきます」

 

「██████って何?

 

「そこに置くものです」

 

そう言って壁の燭台らしきものを指差す。ランプか蝋燭か。

 

私も歩いていい?

 

私の言葉にケトは少し悩んだように見えたが、私の手を取って立ち上がらせる手伝いをしてくれた。今なら足を引きずりながらなら歩ける。

 

扉を抜けて、薄暗い廊下を進む。裸足に伝わる床の冷たさ。向かいの廊下の先にある大きな部屋を抜けて、少し進むと薄暗い中に様々なものがある部屋が見えた。腰より少し高い程度の台。吊り下げられたなにかの塊。壁にあるのは(かまど)だろうか。つまり、ここは厨房だ。ケトは迷いなく竈の前で跪くように座り込む。

 

「█████ ████████ ████████*6

 

何て言ったの?

 

「……言葉です」

 

あまり答えになっていない答えを言いながら、ケトは灰の中を棒で探って熾火を出した。なるほど、ここで火を管理していて夜になったらここから取ってくるのか。そうしてケトは小さな手のひらサイズの器を取り出す。中には液体が入っているようで、棒状のものが出ているのを見るとこれはランプだろう。

 


 

竈に小さな火がおこり、ランプにも明かりがつく。

 

「ご飯を作ります」

 

そう言ってケトはランプを置き、積み上げられた籠の中から丸っこい球根にも見えるものを取り出した。

 

見てもいい?

 

「はい」

 

器用にナイフで切り込みを入れた後、皮を剥いていく。ケトの手慣れた手付きを見ると、どうやら今まで食べていた食事はケトが作ってくれていたものだったらしい。いや、他に人を見ていないからそうではないかとは思っていたのだが。

 

「これは████████、あれは██████*7

 

そんな風に私に単語を説明しながら、ケトは鍋の上においた手の中でナイフを器用に振るって球根らしいものを一口大に分割していき、手を開く。すでにできていたスープに具が落ちていく。パンも薄く切って、竈の火の上に置いた金属製らしき板で焼く。トーストだと思えばいいのだろう。

 

「██████ ███████*8

 

作業に見とれていた私にケトはそう言って椀を差し出す。香ばしい匂いのする焼き目のついたパンが入ったスープが、今日の夜ご飯のようだ。

*1
何が面白いんですか?

*2
少年は今宵少女の家の窓辺に白い花を置く(ただ、別に意味はそこまで重要ではない)

*3
あなたはこれが読めますか?

*4
朝食を食べましょう。その後は文字の練習を

*5
今までは明るかった。今は暗い

*6
火を守る我々に祝福を(聖典語)

*7
これは珠葱、あれは鍋

*8
できましたよ



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星辰

揺れる火が作る影は心を落ち着かせてくれる。硬いパンをゆっくりとスープでふやかし、少しづつ食べていく。

 

これは良いものだね

 

「ありがとうございます」

 

定型文も学びつつある。もちろん私が勝手に紐付けている日本語と完全に一致しているかはわからないが、それでもケトの笑顔を見ると私も嬉しくなる。転移性恋愛という言葉が頭の中に浮かぶが私は表情を変えずにそういう思考を追い出す。いやもちろんこういうところでインフォーマントとの関係性に関する職業倫理的なものをきちんと考えておくことは自分の価値観をきちんと持つためには不可欠だろうけど、多少の緊急避難は容認されるべきだ。そもそもそういう概念を相手や相手の所属している社会が持っているかどうかもわからないのに。この話はやめよう。醜い自己正当化を考え続けるのは心に良くない。

 

「████……夜に空に光るものを見るのは好きですか?*1

 

うん

 

たぶん星のことだろう。そう言えば今まで見ていなかったな。

 

「食べ終わったら、一緒に見ましょう」

 

ケトはそう言って微笑んだ。

 


 

天の川を見たのは、下手すれば産まれて初めてかもしれない。もちろん存在は知っている。プラネタリウムでもよく見る。ただ、こんな淡い帯が天球を一周するように存在するのを実体験するのはやはり特別な気分だ。

 

「キイさんは星の名前を知っていますか?」

 

いいえ

 

「それでは教えます。まずあの明るいのが███████、その上の方に行くと……*2

 

固有名詞はわからないが、ケトが空の星々の名前にかなり詳しいのには驚いた。私は全ての一等星を言えるかどうか怪しいレベルなのに。

 


 

現代天文学において、星々は真空に近い宇宙空間に浮かぶ核融合を起こしたガスの塊として扱われる。それぞれの星は自由気ままに動くため、夜の星空は目に見えないほど小さいながらも変わっている。この運動を固有運動というが、肉眼で観測することは理論上不可能ではない。これは専門家用語でやれるものならやってみやがれの意味である。実際、十分な視力があれば数十年かけてわずかに動いた星のズレを観測できなくもない。

 

同じ速度で動いているのであれば、遠いより近いほうが見かけの運動は大きくなる。また、同じ明るさを持った星なら近いほうがより明るく見える。つまり、明るい星ほど基本的によく動く傾向がある。とはいえ21世紀の地球から見て最も固有運動が大きいバーナード星はもともとの星が暗いので肉眼では見えないのだが。

 

それでも運動はゆっくりとしたもので、数万年経っても星空が「歪む」程度だ。十万年経つと位置のズレが激しくなり、多くの星座は注意しないともとの形がわからなくなるだろう。百万年もすればもう復元は無理だ。

 

ケトの説明を聞きながら、私は夜空を見上げる。知っている星の並びがない。地軸の歳差運動で天球の北極星を担う恒星が移っていくとかそういうレベルではない。南半球の恒星でもない……たぶん。さて、これで色々と可能性が絞れるぞ。

 

青銅器は紀元前10000年には作り方が知られていなかった。それ以前ではない。そこから現代までの間であるとすると、この星空は説明がつかない。はるか先の未来か、他の惑星か、あるいは平行世界か何かか。バタフライ効果が天文学的スケールでどのように作用するかは専門外だが、多体問題に初期鋭敏性があることは有名なので一億年ほどあれば星空が全く違うことになるぐらいはあるかもしれない。ただまあ、ここが私に馴染みがある世界ではないのは間違いない。このレベルのセットを組むのは少し離れた恒星系に私を連れて行くよりは安くできるだろうが、それでも馬鹿げた額が必要になるだろう。ただヒトが存在するということは私とケトが遺伝的に繋がっていることを示唆するもので、共通祖先が……。

 

いやもういいや。面倒くさい。元の世界と今いる場所の関係性を厳密に知ることにあまりメリットはない。もしここが地球なら世界地図を描けるが、逆に言えばその程度だ。

 

ここは異世界。私は異世界転移をした。そういうことにしよう。そういうふうに、言葉を定義しよう。現代っ子なので、タイムスリップとかパラレルワールドとかよりも異世界という響きのほうが馴染みがあるのだ。それに「これが流行りの異世界モノかぁ!」と言える。この言葉を理解することができるのは今の所私以外いないように思われるが。それと異世界モノが流行っていたのは少し昔ではなかっただろうか。

 


 

「……大丈夫ですか?」

 

ケトが私の背中に軽く触れる。

 

……うん

 

久しぶりに涙を流した。これが悲しみから来るのか、好奇心から来るのかは正直自分でもわからない。ただ心配そうにのぞき込むケトを安心させないといけないな。

 

ねえ、ケトくん*3

 

「何でしょうか、キイさん」

 

私にもっと、ここのことを教えてほしい

 

「いいですよ。ただ……」

 

ただ?

 

「いつか、あなたのことを知りたいです」

 

「……うん」

 

最上のコミュニケーションではないだろうが、及第点ぐらいは出せるだろう。私は少しケトに寄って、彼の背中に手を当てた。

*1
星……夜に空に光るものを見るのは好きですか?

*2
それでは教えます。まずあの明るいのが白明星、その上の方に行くと……

*3
ここでキイが使っている敬称は同年代から年下まで性別問わず幅広く使えるものであるが、キイがケトに使うときは原則「くん」と訳出する



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第1章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。毎回脚注を全部読むような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


状況把握

腕に巻かれた包帯は金属製の針らしいもので留められている。

現代につながる安全ピンはウォルター・ハントの特許US6281A(1849年)に由来するが、それ以前にも似たような形のピンはフィブラとして衣服固定に使われてた。

 

反証可能性がない議論は科学的ではない。

カール・ポパーによる「科学」の定義から。また異世界だと言ってしまえば全ての謎に説明がつくが、その仮説はさらなる何かを説明する役には立たない。

 

無駄に思い悩むことに意味はない。

明日(あす)(こと)(おもひ)(わづらふ)なかれ

明日(あす)明日(あす)(こと)(おもひ)わづらへ

一日(いちにち)苦勞(くらう)一日(いちにち)にて(たれ)

──明治元訳新約聖書(明治37年)、馬太(マタイ)傳福音書第六章より

 

総合研究大学院大学文化科学研究科産業技術史研究専攻D3(博士課程3年生)

総合研究大学院大学は実在の大学院大学。文化科学研究科は総合研究大学院大学に実在する研究科。産業技術史研究専攻は総合研究大学院大学文化科学研究科には存在しない。

 

博士(文学)を持った無職

史学は文学に内包されるということで、一般的に史学の研究者に与えられる博士号は博士(文学)となる。

 

疑問代名詞

これは西暦1907年8月、日本領樺太南部の漁村において東京帝国大学の学生であった金田一京助が行った樺太アイヌ語の語彙収集の一幕である。

金田一京助の随筆「心の小径」で有名。多くの言語習得をメインテーマにした作品でこの方法で最初の名詞集めを行うほどの王道展開となっている。Seren Arbazardによる「紫苑の書」、Fafs F. Sashimiによる「異世界転生したけど日本語が通じなかった」も参照のこと。

 

ただかつて食べ慣れていたものと比べるとアクが強いのは間違いない。

多くの野生種は基本的に美味しくない。多くの栽培植物は品種改良の過程でより美味しいものが選ばれていったのだが、それほど目的を持った品種選抜を行うのは容易ではない。「アクが強い」程度で済んでいるのは、キイの味覚が鈍感だったのだろう。

 

ポーランド式の敬礼のときの手

この敬礼を使っている作品としてはカルロ・ゼンおよび品佳直による「売国機関」がある。

 

名前

私はキイ。あなたはケト

キイの一人称を「ボク」にすることも考えたが、読みにくくなるため諦めた。

 

内包

国立産業技術史博物館(さんはく)

国立産業技術史博物館(こくりつさんぎょうぎじゅつしはくぶつかん、National Museum of Industrial Technology)は、大阪府吹田市の万博記念公園にある国立の博物館であり、人間文化研究機構を構成する大学共同利用機関でもある。狭義の産業技術史だけではなく、社会、経済、文化、思想などに関する展示・研究も幅広く行っている。

──「国立産業技術史博物館 - Wikipedia」、あり得たかもしれない世界線より。

 

私たちの知る歴史ではバブル崩壊のあおりを受けて誘致活動が失敗、展示されるべく保存されていた資料の多くは廃棄された。

 

語順

「私」「食べる」「りんご」を意味する三つの単語を使って単純な文章を作ることを考えよう。

文法事項の網羅的把握のためにZaslonによって作成された「りんごを食べたい58文」も参考のこと。

 

ラテン語の活用表はまさに「表」と呼ぶのにふさわしい。

なおスワヒリ語に代表されるバントゥー諸語では名詞の「クラス」が十数あり、これによって形容詞や動詞が変化する。これをもってラテン語は容易だと言う人もいるが、賢明な読者はこのような風説に惑わされないでほしい。

 

動詞

いやそんな昔に20世紀になるまで再発見されなかった構造言語学の概念を生み出しているというのがおかしいといえばおかしいのかもしれないが。

歴史ではよくあること。

 

閑処

閑処

静かな場所、あるいはトイレの意味。

 

木製の蓋を取ると床に空いている穴は二つある。

このような分離型のトイレは屎尿分離式乾式トイレ(Urine-Diverting Dry Toilet)として知られ、発展途上国や災害時のトイレとして使われる。尿内の尿素が細菌によって分解されることでできるアンモニアの生成を抑えられるというメリットがある。

 

直角三角形

……これは蝋板ですよ

ローマ帝国ではtabulaと呼ばれ、これがタブレット端末の「タブレット」の語源となった。ラテン語のtabula rasa(均した蝋板)という言葉は「まっさらな状態」を意味し、人間は生得的なものではなく経験によって学ぶのだという経験論の比喩に用いられる。

 

私のヘレニズム仕込みのアルカイック・スマイル

ヘレニズムとは「ギリシア風の」という意味であり、古代ギリシア・アルカイック期の彫刻に見られる独特の表情はアレクサンドロス3世の東征によってインドに伝わり、ガンダーラ美術を産んだ。日本でも初期の仏像にはこの種の微笑みが見られる。全く関係ない話であるが、インドの初の核実験計画のコードネームは「Smiling Buddha」である。

 

直角三角形の斜辺の長さを $c$ 、それ以外の辺の長さをそれぞれ $a$ と $b$ とおけば $a^2 + b^2 = c^2$ が成り立つというものだ。

TeXという数式をきれいに出力できる機能を利用してここの部分は書かれている。みんなも使おう!参考までに、TeXを小説のデザインにまで使っている有名な作品として結城浩による「数学ガール」がある。

 

抽象的思考

まあ相変わらず後世の研究者はエウクレイデスの存在を疑ったりこれが共同ペンネームではないかとの仮説を立てているが。

フランスの数学者集団が使った「ニコラ・ブルバキ」というペンネームがあったりする。また、計算量などに使われる「ランダウの記号」を広めたエトムント・ランダウはイギリスの数学者であったジョン・エデンサー・リトルウッドの名前を彼との共同研究で知られるゴッドフレイ・ハロルド・ハーディのペンネームだと思っていたという逸話もある。

 

「現実ではおかしいような答え」

虚数を $i$ という記号で表したレオンハルト・オイラーでさえここらへんの扱いには苦労したという。やっぱり歴史おかしくないか?

 

どう考えてもこんな簡単な数学的なものよりも一年に数十秒しか狂わない精密時計を作るほうが難しいように思えるが、その精度を出せるクロノメーターができたのはブール代数が生まれる100年近くも前だ。おかしいだろ!

ここの「一年に数十秒しか狂わない精密時計」はジョン・ハリソンによって1759年に作られたクロノメーター「H4」のこと。ジョージ・ブールが「Mathematical Analysis of Logic(論理の数学的分析)」を著したのは1847年。日本語圏でしか見られない「時計の歴史を200年早めた」という評価で知られる時計職人のアブラアム=ルイ・ブレゲは1747年生まれなので間に合わない。

 

厨房

ケトは灰の中を棒で探って熾火を出した。

焚き火の中などで白い灰の中で燃える赤いあれ。この状態でもかなり長時間熱を出し続け、条件が揃えば発火もできるので焚き火の後はきちんと水をかけて消そう。

 

厨房

これは珠葱、あれは鍋

我々の知るタマネギ(Allium cepa)と同一種であるという保証は一切ないので「珠葱」と表記した。ちなみにこれはこれでエシャロットに似た別の植物を指すらしいので面倒だ。

 

星辰

いやもちろんこういうところでインフォーマントとの関係性に関する職業倫理的なものをきちんと考えておくことは自分の価値観をきちんと持つためには不可欠だろうけど

インフォーマントとは言語学や民俗学の文脈では調査協力者のこと。informantと英語で言った場合には諜報分野などでの内通者・情報提供者を指すことが一般的だ。学術の分野では調査協力者との関係をきちんと構築することが重要となるが、諜報分野では相対的に気にされない。

 

私は全ての一等星を言えるかどうか怪しいレベルなのに。

一等星の数については21個、22個、23個とする三つの意見がある。太陽(sol)を数えるか、連星系であるアルファ・ケンタウリを個別に数えるかで変わるのだ。また、一般的に呼ばれている名前と国際天文学連合(International Astronomical Union)恒星の固有名に関するワーキンググループ(Working Group on Star Names)がつけた名前とが違うこともある。覚える際には注意しよう。



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第2章
客人


月が欠け、また満ちた。ケトによれば周期は29日強だという。私の記憶では地球における満月から満月までの期間、すなわち朔望月は29.5日だったので微妙に短いのだろうか。きちんとした測定データが欲しい。

 

包帯も取れ、痣もなくなり、足も自由に動かせるようになった。思考も日本語と東方通商語*1の両方が入り混じり始めた。簡単な内容なら東方通商語だけで考えられる。

 

「キイちゃん、ご飯の時間だよ!*2

 

私より少し年上の女性の声。この衙堂*3の司女*4をしている方で、ハルツさんと言う。うう。まだ独特な名詞には慣れないな。彼女は私がここに収容された数日前から出かけており、帰ってきたときに見習い司士*5のケトがお姉さんを連れ込んでいたことを知りかなり騒いでいた。

 

「はあい、わかりました」

 

少しは馴染んできたアクセントで返す。そりゃあ毎日ずっと話したり書いたりしていれば慣れる。ハルツさんのおかげで俗語やら「一般的な」話し方を学習できたのも大きい。ケトとの学習は系統を重視しているので日常生活に役に立たない言葉の語彙は増えるが、例えば「どつく」に相当する単語を手に入れるのは難しい。一方ハルツさんとの交流では「どつく」と「しばく」の差を実演を交えて学習できる。

 

蝋板を置き、夕食に向かう。本来は日没前に取るべきで、あのケトと夜空を見た日のあれはケトが食事を作るのを忘れていたということらしい。これについてはあまり言わないでほしいと頼まれたので私は共犯者になっている。

 

「今日は何を?」

 

食卓の準備をしているとケトが聞いてくる。私はそれに答えて今日の献立を言うが、うまく日本語には訳せない。たぶんアブラナ科の植物のサラダと、硬めの根菜のスープと、いつものパン。だいたいここでの食事はスープとパンだ。たまに粥。粥を薄めて弱発酵させた清涼飲料水もある。アルコール入りだが、日本の法律では未成年と思われるケトも飲んでいるところを見るとアルコールの害よりも水由来の病原体などのほうがリスクが高いのだろう。かなりさっぱりした味なので私は気に入っている。

 

食事は茣蓙(ござ)の上に座り、ちゃぶ台のような大きくて低いテーブルの上で行う。まとめて一つの皿に載せられたパンと、一人ひとりに分けられたスープ。十分な量だ。

 

「「「……███████ ████████ ████ █████████*6」」」

 

私を含めた三人の祈りの声が部屋に響く。私は少しまだこの言語に慣れていない。東方通商語と類縁性があるようで無い。これについてケトはまだ学ぶ必要はないと言っているので、ひとまず目の前の生活にだけ集中するようにしている。

 

「それでケト、勘定は済んだのかい?」

 

「今年の収穫は良いようですよ。等級の高い麦が取れています」

 

結構聞き取れる。ここでの主要作物は麦だ。コムギなのかオオムギなのかはわからないが、イネ科と思われる脱粒性のない穀物だ。脱穀し、()*7で軽い藁屑などを飛ばし、軽く水につけた後で挽いて、その後果皮を取り除いて、更に粉にして、こねて、と手間がかかるがそれだけの価値はある。人の多い集落なら女衆がこの労働を行うらしいが、人里から微妙に離れているこの衙堂では基本的に使える人手を全て使う。すなわちハルツさんもケトも私もやるのだ。おかげでかなり疲れる。

 

「キイさんは収穫をどう思いますか?」

 

ケトが私に声をかける。横で見ていただけだが、ケトはこの手の仕事に慣れている。というより司女や司士というのはこの世界での公務員や役人のような立ち位置らしく、計算や代筆や証人や調停なんかを何でもかんでもやるらしい。その代わりに税として上の方に回収される収穫物の一部を給与としてもらえる形のようだ。となると完全に私の存在は負担でしかないか、というとそうでもない。ある程度の自給自足の体制があるので、ひとり増えるぐらいならどうにかなるのだ。それに旅人を泊めたりする施設としての役割もあるらしい。確かにまあ、よその人間を生活圏に積極的に入れたがらないのはわからなくはないが。

 

「ああ、専門外ではあるから何とも言えないんだけど、北の畑から取った麦のほうがよく熟しているのかな」

 

「水はけがいいですからね、本当は水路とかを作ったほうがいいのでしょうが」

 

「ケト、自分が手を出せないのに安易に言うもんじゃないよ」

 

「わかりました」

 

ハルツさんの口調や行動はケトに比べれば大雑把にも見えるが、それに見合わずかなり聡明な人物のように思う。学校の成績には現れにくいタイプの賢さだ。少なくとも私を客人として認めてくれている。

 

「キイちゃんもね、収穫であっても数字だけで見ちゃだめだよ。自分が作ったものをそういう扱いされるのはあまりいい思いされないから」

 

「勉強になります」

 

「あと大丈夫かい?悩みでもあるかい?ケトに聞かせられないようなものなら今じゃなくてもいいけど」

 

「問題ありません。お気遣いに感謝します」

 

「まあたそんな硬い言葉使っちゃって、驚いたんだよ最初のときに『ボク』だなんて使うから」

 

「その話はやめてください……」

 

私ではなくケトの方にダメージが入ったらしい。後で一人称を直そうと思って忘れていたそうだ。まあ、今でも少し気を抜くと「ボク」と言ってしまいそうになるのだが。

*1
東方通商語はケトが日常生活で使う言語。本来は固有名詞であるが、その語源となっている地域が「東方」であること、また西方通商語との対比もあってこういう訳を選択した。

*2
「ちゃん」は女性が同年代の相手を呼ぶ際に伝われる、多少砕けた表現

*3
地方の役所と会堂を兼ねたような建物、およびその統括組織、そこにある宗教的・官僚的なコミュニティなどを意味する。

*4
衙堂で働く女性のこと。

*5
衙堂で働く男性のこと。

*6
日々の糧に、あなた方の恵みを覚えます(聖典語)

*7
平べったい籠だと思ってくれればいい



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図示

衙堂の一室、隣に書庫がある文房とでも言うべき空間で、私は麻紙*1に記された今年の麦の収穫量を手元の蝋板にまとめていく。

 

「それで、何をしているんですか?」

 

ケトが私の手元をのぞき込む。揺れる火に照らされて、彫られた文字が踊るようにも見える。

 

「収穫物の整理」

 

「そんな変な数字の表記方法で?」

 

「かなり便利なはずなんだけどな……」

 

私が使っているのはなんてことはない、ただの(A)進位取り表記法だ。ケトは外見上私の知識にあるヒト属Homoと見分けがつかず、指が10本ある。そこから来たのかはわからないが、数え方は十進法だった。厳密には五-十-二十-四十-百-万進法と言うべきだろうが。繰り上がりが微妙に面倒くさいが、フランス語よりはマシだ。

 

「これで10を表す」

 

「この右側の文字は?」

 

「ボ……私が作った」

 

あぶないあぶない。まだ頭の中の辞書がアップデートできていない。そしてケトに軽く説明するとすぐに理解された。やめてほしい。

 

「すぐに読めませんが計算では便利そうですね……で、これは収穫量ごとの█████ ███████ですか」

 

「█████ ███████って?*2

 

知らない単語が出てきたらすぐに質問する癖がついてしまった。これもケトは少し悩むだけで説明できるのでなんというか辛くなってくる。少なくとも辞書編纂部が欲しがる人材なのは間違いない。

 

「……何かを規則を持って並べたもの、です」

 

「それはこういう上下左右に並べたもの?」

 

「そうですね。上下なら█████ ██████、左右なら███ ███████です」

 

ふんふん。行と列みたいな使い分けをしよう。そもそも私の表記方法は下手すればこの世界でまだ誰も使っていないものだ。抽象的思考の賜である。

 


 

統計という試み自体はかなり昔からあった。そもそも数学を発展させる原動力の一つとして測量と収穫量の計算があるほどだ。人口比や出生者数・死亡者数に目が向けられるのはもう少し先の近世あたりからとなる。ああくそ面倒なことにこういう事を考えるだけで「君は近世の始まりをいつ頃だと考えているのかね?」という面倒な宗教論争の火蓋が切られかねない。

 

私が作っているのはヒストグラムだ。それもかなりシンプルなもの。100件程度のデータをまとめて、いい感じに図にする。面白いことに山が二つできた。

 

「なんとなくやりたいことはわかりました」

 

「なんでわかるの?」

 

「これが収穫量で、この高さ一つ一つが畑の区分けを表しているんですよね」

 

「……うん」

 

良い知らせはケトの理解力が相当のものであること。悪い知らせは抽象的思考を持つ人物は私以外にもすぐに現れるだろうということ。いや後者も良い知らせか。科学者は知識の公開をモットーとするのだ。

 

「これ、収穫報告に使ってもいいですか?」

 

ケトは持っていた巻物を机の上に置きながら言う。媒体だ。年に一回ほど、乾燥した涼しい日に外に出して虫干しをするとともに過去の記録との突き合わせをしたりもするらしい。

 

「構わないよ。君が書くんだっけ?」

 

「ええ。昨年までは司女さんがやってくれたんですが今年は一人でやってみろと」

 

記録について、私はほとんど読めない。聖典語で書かれているからだ。文字体系も東方通商語のそれとは微妙に違う。ギリシャ文字とラテン文字の差、と言えばいいだろうか。同じ字形で別の読みをするのがあるのが腹立たしい。それでも数字の表し方だけは把握しておいた。

 

「ん、夜も遅いし私は寝る」

 

「これ、しばらく見てもいいですか?」

 

私が机の上に置いた蝋板を手に取ってケトが聞く。

 

「いいよ」

 

「ありがとうございます」

 

たぶん自分なりに解読するのだろう。勉強熱心で恐ろしいことだ。

 


 

「キイさん、いいですか?」

 

朝食が終わるとケトが悩ましげに私に声をかけてきた。

 

「どうした?」

 

「昨日の……表の絵ですけど」

 

まあ、グラフという表現はないからこう言うしか無いのか。

 

「あれね」

 

「どういうふうに書くか、悩んでいるんです」

 

「見せて」

 

文房の机の上には、いくつか試したらしきデザイン案が描かれた書き損じの麻紙があった。

 

「なかなか真っ直ぐに線を引けないというのはあるんですが、それとは別にこの描き方で問題ないでしょうか?」

 

図番号がない……ことはさして重要でもないか。

 

「それぞれの絵が何を表しているかを簡潔に絵の下に示したほうがいい。そうすれば例えば一年前の図と並べたときにわかるようにできる」

 

このレベルの文章になってくると少し怪しい文法表現になってくるな。

 

「あとは、横の例えば5、10、15……という場所を太い線にすれば数えやすい」

 

「それは大切ですか?」

 

「どうしてそう思う?」

 

「正しい数字は元の表を見れば求められますよね」

 

「ああ、うん。君がそう思うなら、私はそれでいいと思う。私が知っているのは数が万を越えるような時の話だから」

 

「……そこまでのものに関われるとなると、█████ ████████ ██████ ██とか████ ████████ ███ ████████?*3

 

ケトが何かを呟いて、私をじっと見る。

 

「キイさんは、どこから来たんですか?」

 

「……まだ、話さない」

 

何回かしたやりとりに、ケトがため息を吐いた。

 

「まだいいです。いつか話してもらいますからね」

 

その顔に、私はまた胸が痛む。

*1
「麻紙」というのはアサ科の植物から作られたというよりは、草本の植物繊維から作られた紙という意味での訳である。

*2
本来は「█████ ███████はどういう意味ですか」であるが、疑問詞が省略されて軽く外連声(単語がくっついて発音が変わること)が起こっている。日常会話ではこの言い方で問題がないし、そもそも「……はどういう意味ですか」という表現は堅苦しすぎるとされる。

*3
……そこまでのものに関われるとなると、兵役調査の鎮算官とか税の蔵計官?



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収穫祭

「……今から僕が言うことに、特別な意味はありません。司士としての仕事の手伝いの話です」

 

ケトが少し深刻そうに言う。

 

「わかった。何?」

 

「祭りに行きませんか?」

 


 

収穫祭は幅広い文化で見られる。今年の豊作を記念し、来年の豊作を祈念するという名目のどんちゃん騒ぎ。ただ、ここでの収穫祭は麦の収穫とその後の野菜や果実の収穫の間にある息抜きとしての側面が強いらしい。衙堂では手間をかけれることを前提に様々な作物を栽培しているが、逆に主要穀物である麦はあまり育てていない。なので収穫で忙しくなるのはもう少し先なのだ。こういう知識はケトにとって基本的なことらしい。それは衙堂の背景と関わってくる。

 

衙堂は聖庇(アジール)としての役割がある。これは亡命するために駆け込む大使館や、子供の鬼ごっこに見られる「安全地帯」のようなものに似た考え方で、なにか罪を犯した人間や困難から逃れるために駆け込んだ人を庇護する施設や場所を指す。日本だと駆け込み寺とかだろうか。私が比較的すんなり受け入れられたのにはそういう背景もあるらしい。

 

これを保証するのは衙堂の宗教性と中立性だ。まだ詳しいことはわからないが、ここは宗教施設だ。そして、私がここで観察してきた生活にはかなり宗教色が見られる。定期的な祈り、いくつかのタブー、そして聖典。この聖典は地域ごとに作られたものらしく、英雄叙事詩とか歴史書の側面がある。前に見せてもらったが読めない。かなり面倒なシステムにも思えるが、たぶんこれがここの人たちにとって自然なのだろう。

 

「いいよ。ケトくんは仕事で行くのかな」

 

「ええ。祭りを始める時の祈りとか収穫物の祝福とか……大変なんですよ」

 

「ハルツさんは?」

 

「今年からそういうのは僕に任せて酒を呑むそうです」

 

たぶん色々な仕事をやらせて経験を積ませたいのだろう。デビュー戦というのはいいものだ。後で思い出すと何もかもがひどくて自害したくなる。学部生時代にやった最初の学会発表が私にとってはそうだった。思い出さないようにしよう。

 

「そう。ところで質問いい?」

 

「構いませんよ」

 

「誰かを祭りに誘うことは、特別な意味があるの?」

 

少し悩ましげな表情をした後、ケトは恥ずかしそうに口を開く。

 

「特に異性を誘うときには、あります」

 

「なるほど。詳しく聞いても?」

 

「……僕に語らせるんですか?」

 

「……ごめん」

 

「構いませんけどね。ええと、祭りとは神々に収穫の感謝を捧げるということを口実に様々なことが行われます。日が沈んだ後に行われる火を囲んだ踊りとか」

 

「それに相手を誘うことに意味がある、と」

 

「はい。……興味のある人に声をかけるのが一般的です」

 

つまりはあれだ、学園祭のフォークダンス。私の通っていた工業高校ではそんな軟派なものはなかったが。数少ない女性を巡って殺し合いが起こることを避けるためのものでもあったのだろう。

 


 

衙堂から歩いて5000歩と少し。刈り入れられた畑が広がる集落が見えた。よそ行き用の鮮やかな衣装を着たケトからは確かに荘厳さのようなものを感じる。一方私は薄っぺらい足の裏の皮が結構辛くなってきたところだった。ここの文化では人々は基本的に裸足なのだ。長距離を歩く旅人が靴を履くことはあるらしいが、そうでない少し歩く程度であれば何も履かない。

 

祭りが行われるある程度開けた空間ではすでに準備が進められていた。行き交う人々の喧騒を聞くのは久しぶりだ。脂が焼ける匂い。そういえば長らく肉は食べていなかったな。見る限り豚のようだ。本当にそうかは知らない。私とケトに向かう視線は、どうしても部外者だということを感じさせる。

 

「そんじゃあ私は挨拶回り行ってくるから、ケトはちゃんと仕事するんだよ?」

 

そう言ってハルツさんは酒の入った(かめ)を持ってどこかに消えた。

 

「……ケト、久しぶり」

 

荷物を置いていたケトに話しかける少女がいた。歳は同じぐらいだろうか。

 

「うん。元気にしている?」

 

「█████████が██████、████████████出来事は*1

 

言葉がかなり速い。単語の間も分かりづらい。ケトがいつもどれだけ丁寧に話してくれているかわかるようなものだ。

 

「で、そちらの███████は?*2

 

「今衙堂で世話をしている、キイという方です」

 

そんな感じで私の紹介が行われる。基本的に私は無言で笑顔を浮かべるだけだ。話せるほどの余裕がない。

 


 

「彼女は?」

 

話し終わったケトに声をかける。

 

「昔からの知り合いです。今度結婚するようで」

 

「いいことだね」

 

「……キイさんは、そういう相手がいるんでしたっけ?」

 

さて、ここが問題だ。この世界における平均婚姻年齢と婚姻率に関するある程度以上信用できるデータが存在しない。

 

「いない、と思ってくれて構わないよ」

 

ただ離別であったり離婚であったりというものは存在するだろう。離婚が宗教的に禁止されていても、逃げ道はたいてい存在していたし。

 

「では、そう考えます」

 

ケトはそう呟いて、そろそろ始まる祭りのために服を整えた。

*1
東に住んでた細工師のおじちゃんが死んだぐらいかね、大きな出来事は

*2
で、そちらの婦人は?



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雑種

よく通る声で、炎の前に立つケトの言葉が響く。……全くわからない。周りの人の反応からするに、これはこういうものなのだろう。私だって葬式の時に読んだお経の意味がちゃんとわかっていたわけではないし、スワヒリ語の主の祈りの意味を意識して歌っているわけでもない。それでもなんとなく凄さが伝わればいいのだ。私のような宗教観がいい加減な世界の人間にとって、祭事とはそんなものである。

 

「それでは、続けて言ってください。█████ █████ ██████████*1

 

「「「█████ █████ ██████████」」」

 

少し油断していたら何やら全員が声を合わせてなにかを言った。キリスト教の祈りにおけるamen(然り)とかのようなものなのだろうか、と思ってケトを見る。

 

「███ ████████ ██████████ ██████*2

 

「「「███ ████████ ██████████ ██████」」」

 

ふむ。定型文のようだ。そうして、祭りが始まった。日は傾いていた。

 


 

人だかりから少し離れた場所で、焼かれた肉をかじる。硬い。昔どこかで食べたイノシシの味を思い出す。

 

品種改良の歴史は長い。地球における人類史では一万年以上前から始まっていると言える。ただ、それが何をしているのかに自覚的になったのはもっと後だろう。チャールズ・ダーウィンが「On the Origin of Species(種の起源)」を発表したのは1859年、グレゴール・ヨハン・メンデルの「Versuche über Pflanzen-Hybriden(植物雑種に関する実験)」が論文として投稿されたのが1866年。逆に言えば、それまでは品種改良はなんとなくで行われてきたのだ。動物における雑種はともかくとして、F1品種、雑種第一代が大規模に農業で使われるようになったのは確か20世紀初頭だったはずだ。そしてそれは百年ちょっとで様々な作物で活用されるようになっていた。私が食べていたような肉も、例えば豚肉ならまず間違いなく雑種だったはずだ。三元豚ということはF2になるのかな。

 

「そんなぼんやりと何を考えているんですか?」

 

ケトが私に声をかけてくる。

 

「ああ、少しおいしい食べ物についてね」

 

「……なるほど」

 

「ああ、別にここの食事が美味しくないわけではないよ」

 

「それは見ればわかります」

 

私の手元にある肋骨にケトが目を向けながら言う。うん。久しぶりのタンパク質をおいしく食べていたのだ。少し多かったかもしれない。

 

「……僕たちはあくまで部外者なので、程々にしてくださいね」

 

「そういう君も結構食べていない?」

 

「緊張したんですからいいじゃないですか」

 

そう言って笑って、私たちは座り込んだ。

 


 

「で、これは?」

 

私が蝋板にしていた落書きをケトは視線を向ける。

 

「んー、なんて言えばいいかな」

 

私は少し悩んで、説明に使う語彙を探し出す。

 

「親から子に、伝わるものについて」

 

「伝わる……」

 

私は目を上げて、人々を見る。ウェーブのかかった巻毛と直毛では、巻毛の方が多いだろうか。ケトは直毛だ。少し言葉を集めた後、私はケトに質問をする。

 

「質問だけど、直毛の両親から巻毛の子供が生まれることがあるかい?あるいは巻毛の両親から直毛の子供が生まれることはあるかい?」

 

「巻毛の親から直毛の子供が生まれるのは見たことがあります。さっき僕と話していた女の子を覚えていますか?」

 

「うん」

 

「あの子はそうだったはずです。ただ、その父の父と母の母は直毛でした」

 

「逆は?」

 

「……ぱっとは、思い出せませんね」

 

「直毛と巻毛が本当にそうかはわからないけど、私の知っている面白い話があってね」

 

蝋板にペンを走らせる。

 

「子供は両親から言葉を受ける。それは今回の例であればこうなるかな。『君は巻毛になれ』、あるいは『君は巻毛になるな』と」

 

「両方から巻毛になれと言われれば巻毛になり、両方からなるなと言われれば直毛になる……では、もし違うことを言われたら?」

 

「そのときには、『巻毛になれ』という命令のほうが顕れる。そして、『巻毛になるな』という命令は潜ってしまう」

 

ケトは私が書いた模式図を見て、しばらく黙っていた。

 

「……質問をします」

 

「どうぞ」

 

「もし違うことを言われた子供が親になったら、その更に子供にはどういう言葉が送られるんですか?」

 

「ここが大事なところ。その言葉のうち、どちらかが渡される」

 

「……ああ!」

 

ケトが少し大きな声を出した。

 

「つまりあの子の両親は、どちらも違うことを言われていた。そして潜った方の言葉を受け取った。それで、『君は巻毛になるな』と両方から言われたんだ。父親も母親も、『君は巻毛になれ』という命令を守っていたのに」

 

驚きたいのは私の方だ。メンデルの法則で示されたような遺伝子の粒子性をこんな簡単に理解できるものなのか?私の喩えはそこまで上手いとは思わないし、正直もっといい語彙はあったように思うのだが。

 

「……これは、僕たちだけの話ですか?」

 

考えているらしいケトが呟くように言う。

 

「と、いうと?」

 

「麦も、こういう草も、動物も、()えるものはある程度親に似ます。それは、言葉を受け取っているからですか?」

 

「うん。もちろん、本当の言葉ではないよ」

 

「……形が、ありますか?」

 

「うん」

 

「あー……そういうこと、ですか。ともかく、面白い考え方ですね」

 

「信じないのかい?」

 

「証拠がありません。実は僕が知らないだけで、本当は直毛の親から巻毛の子供が生まれる例もあるかもしれない。そうすればキイさんの話は間違っていることになる」

 

反証可能性だ。科学的理論は、何らかの実験結果によって否定できる必要がある。実際、メンデルの法則は多くの例外を持つ。ただ、メンデルの法則が素晴らしいのはその例外すらも取り込んで説明できる遺伝子モデルの母体となったことだ。

 

過去の研究を、新しいデータで否定すること、あるいは補強することは科学の本質だ。権威主義的過ぎては、先人の意見をそのまま鵜呑みにするしか無い。アリストテレスやヒポクラテスが科学史において大きく扱われていたのは、それ以降長い期間権威として祭り上げられてしまったからだ。もしその後も自然哲学への探求が進んでいれば、後世には彼らも一哲学者に過ぎないとして私が知っているよりも軽い扱いを受けていたかもしれない。

 

案外この世界には私の知っている科学を育める下地があるのかな、と思う私の顔をケトがのぞき込んでいた。

 

「気を悪くしたようなら、すみません」

 

「構わないよ。むしろ嬉しいぐらい。挑戦は大切だから」

 

「……よかった。ところで、キイさんは踊れますか?」

 

気がつくとかなり空は暗くなっていて、火が燃え上がっていた。歌いながら踊る人たちが見える。独特の節をつけて、楽器なしに歌う声が聞こえた。たまに知っている単語が交じる。

 

「あまり上手ではないんだ」

 

「もし僕が教えたら、踊ってくれますか?」

 

「……いいよ」

 

面倒なことを考えるのは少しやめよう。覚えていることを活用するのもいいけど、何かを学ぶことも同じぐらい大切だ。私はケトの手を取って、立ち上がった。

*1
神々よ、我らの収穫を汝に捧ぐ

*2
また次の年にも恵みをもたらし給え



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純潔

左足を前に、右足を少し引いて。手をリズムに合わせて揺らす。

 

「大丈夫ですか?」

 

「なんとか」

 

私とケトの影が揺れる。歌の内容はうまく聞き取れないが、単語から考えるにあまりお上品な意味ではないだろう。ここらへんの上限というのはかなり文化によって異なるはずだが、それをどこまで聞いていいのかも難しい。民俗学の知識をもっとしっかり持っておくべきだったな、と少し後悔する。

 

「後で意味を聞くのは、やめたほうがいいかな」

 

「……キイさんが、どこまでこういう█████ █████████な話に慣れているのかにもよりますが*1

 

知らない単語だ。たぶん、あまりいい意味の言葉ではないのだろう。

 

「踊りが終わったら、祭りの日だから話してくれないかな」

 

「まあ、この夜はそういうことが許される夜ですからね」

 

柳田國男によるハレとケの理論だ。ヨーロッパではエミール・デュルケームが聖俗二元論として分析していたんだったかな。こういう二分法は一般的なのだが、定義が曖昧なせいでちゃんと議論することは難しかったりする。

 

「……ケトくん」

 

「なんですか」

 

「君は言いたくなかったら、私の質問に答える必要はないんだよ」

 

「キイさんは、きちんと僕の話を聞いてくれるので質問には答えたいんです」

 

まあ生き延びるための情報収集の側面は強いからな。もちろん知的好奇心やらエキゾチシズムの側面も否定はしない。

 

ゆっくりとしたテンポで、二人の共通重心を中心として回る。私は周りの音を真似て、少し遅れて歌ってみる。笑うケト。

 

「……そんなに、私の発音は下手?」

 

「……率直に言えば、そうです」

 

「後ででいいから、全部きちんと教えてね」

 

「いいですよ」

 

視界の隅にお酒を飲みながらこちらを見ている司女のハルツさんが映った。私たちの夜は続いていく。

 


 

少し濃い目のアルコールを飲んだせいだろうか、お酒に強いというわけではない私の目覚めはあまりいいものではなかった。物置らしい場所で目が覚める。暗闇の中で、隣にケトが寝ているのが見えた。

 

上体を起こし、少し筋肉痛のある脚を押さえて、深く息を吐く。うん。調子に乗りすぎた。たしかこの祭りは二日か三日続くはずで、私たちは二日目の今日に衙堂に戻るということになっていたはずだ。

 

「……ん、キイ……さん」

 

「ああ、起こしちゃった?」

 

「ああ、その、いえ」

 

混乱したようにケトが言う。しばらくして、状況を飲み込んだようだ。

 

「……確認しますが、僕はキイさんに……その……ええと、なんて言おう」

 

「抱いたか、って話?」

 

「っ……」

 

ケトは少し緊張しているらしい。

 

「大丈夫。君は私に言葉の意味を教えてくれる最中に寝てしまっただけだよ」

 

「……本当ですね?」

 

うん。寄りかかってきたので膝枕をしたがこれについてはわざわざ言う必要があるかもわからないし、私もお酒が入っていて色々とまずかったので黙っていよう。

 

「本来、司士を目指すような人にとってそういう欲に溺れるのはよくないんですよ」

 

「それは、どうして?」

 

宗教と性や純潔についての関係は、本当に複雑だ。私のような非専門家が安易に語れば物陰から現れた専門家にどこかに連れて行かれて史料を前に延々と話を聞くことになるだろう。ただまあ、いくつか例を挙げるぐらいは許容されるだろう。ローマ神話の女神ウェスタに仕え純潔を守った巫女たちとキリストとしてのイエスの生涯をなぞることを目標にした修道士たちについてはぱっと思いつく。日本における仏教はここらへんがいい加減だった気がする。

 

「神への祈りを忘れるから、とされていますね」

 

「なるほど」

 

「詳しくは僕も知りませんが、少なくともそういうことになっているんです」

 

「……君は、そういう過去についてどう思う?」

 

「守ることで人々の関係がうまくいくなら、それは大切なものなのでしょう。丁寧な言葉づかいとか、人を殴らないとか、呪わないとか、そういうのと同じです」

 

「わかった。ありがとう」

 

「ところで、ハルツさんは?」

 

「どこかで寝てるはずだよ」

 

「探す?」

 

「もう少し寝ます。キイさんは?」

 

「私も寝るよ」

 

藁の上に私は寝転がる。冷たいとまでは言えない、涼しいぐらいの温度。

 

「……ところで、僕は歌の話をどこまでしましたっけ?」

 

「ああ美しい少女よ、僕の唇にってまでだったかな?」

 

「その次の██████を共にっていうのは、まあ今僕とキイさんがしているようなことです」

 

「同じ所で寝る?」

 

「はい。██████というのは寝台ってほどしっかりはしていませんけど、そうですね、藁の上に布を引いたような……」

 

こういう学習は、やはり楽しい。あまり特別な意味を見出さないようにしないといけないけれども。

*1
……キイさんが、どこまでこういう猥雑な話に慣れているのかにもよりますが



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人情

寝台に倒れ込んだ。脚が痛い。ハルツさんもケトも平気な顔をしているが、一月前まで歩けなかったしそれ以前も引きこもって本の虫になっていたような人間にとっては結構な距離であった。正直に言って、この世界の人間に体力で勝つことはできない。日頃から10km程度動き回ることが珍しくない人たちを相手にするのが悪い。

 

まあ、仕方がない。二人にはまだ怪我が治りきっていないかもしれないと言ってはあるので夕食まで少し休むことにする。と言っても体感で一時間ぐらいだと思う。この世界に時計はない。いや、ケトに聞いたところ都市の天文観測施設には水時計はあるらしい。都市の話は語彙不足でまだ聞けていないが、どうやらかなり大きい都市が近くにあるらしい。まあケトというかこの世界の基準での「近く」など何も信用できぬ。歩いて三日とかを普通に「近く」と言いかねない。

 

肉体的なものだけではなく、精神的な疲れもある。衙堂でお世話になっている女性ということで勝手に何かを察してくれた大人たちと違って、子供は無邪気に語りかけてくるのだ。それもわらわらと。まあ、東方通商語の練習にはなった。子供と話すのは脳を馬鹿みたいに使うので疲れる。楽しくないわけではないが。

 

「キイちゃん、いいかい?」

 

扉の向こうからハルツさんの声がした。

 

「はい、どうぞ」

 

「大丈夫かい?ここに来たときは結構な怪我してたっていうからさ」

 

「今は痛みもなくなりました。心配してくれてありがとうございます」

 

「……なら、いいさ。さて、あんたに聞かなくちゃいけないことがある」

 

どきりと心臓が跳ねるのがわかる。こういう人が、こんな言い方をするのはたいてい良くない時だ。

 

「あんたがどっから来たのかはあえて詮索しないさ。こんな手足の皮が柔らかい人間にとって、慣れない言葉での生活は大変だとは思うからね」

 

肉体労働をしなくていい階級と言うのは、多くの時代でほんの一握りだった。節くれだったわけでもなく、マメが少しできてしまうほどのこの手も、この世界では場合によっては貴族のような生活をしていたことを意味してしまう。

 

「ただ、誰もあんたを探しに来ないってところを見ると……まあ、辛いことがあったんだ、と考えるしかなくてね」

 

確かにここで生きるのは楽ではない。本に溺れてキーボードを叩いていた頃に比べれば身体への負荷は大きいと言えるだろう。寄生虫か何かの問題でお腹を壊していた時期には本当に死にたくもなったが、まあ今では一時の気の迷いだったと言えるのでいいとしよう。

 

「はい」

 

「ケトに言いたくないなら、私にでもいいさ。悩みがあるなら言っとくれよ」

 

「今は日々を生きるのでただただいっぱいで、まだ悩みを持てるほどではなく……」

 

「そんならいいけどさ。で、ケトとはやったのかい?」

 

一番基本的で単純な動詞の過去形。意味というか用例はケトがいくつも挙げれるほどだ。ただまあ、その動詞がある行為についての直接的な言及を避けるために用いられているのであろうことぐらいは推察できる。

 

「……私と彼は、そういう関係ではないですよ」

 

「本当かい?」

 

ハルツさんが近所の厄介なおばちゃんモードに入ったような気がしてならない。

 

「そもそも、ケトはそういうことをしてはいけないのでは?」

 

「バレなきゃいいのさ。街じゃ司士と司女の関係はそういうもんだってみんな知ってるよ」

 

悪く笑うハルツさん。聖職者とか公務員とかどう分類するべきかは知らないがここらへんは緩いのだろうか。

 

「……私は司女ではありません」

 

「なあに、私が任ずりゃあ司女見習いよ」

 

うーん。雑だけど人情に厚い方なのだろうか。ありがたくはあるが、どこまで受け入れるかも問題だ。戸籍制度のようなものはあるらしいが、そこに名前を乗せるのは衙堂の仕事で名簿の管理もここで行われている。つまりちょちょいっとすれば人を増やすことぐらいはできそうなのだ。

 

「良い言葉だとは思いますが、しばし考える時間を頂けないでしょうか」

 

「ん。まあそりゃそうよね。ごめんねキイちゃん、こんな話をいきなりして」

 

「……ええ。ところでこの機会に質問しますけど、ケトの見習い期間が終わったら彼はこの衙堂で働くんですか?」

 

「それがいいんだけどねえ、あの子は██████ ████ █████████████に行かせようと思ってて」

 

「██████ ████ █████████████って?」

 

「ああそうかい、こいつはどう説明すりゃいいかね……」

 

ケトと違ってハルツさんはこういうのにあまり慣れていない。というか、たぶんケトが異常なのだと思う。

 

「█████████████っていうのは家がずらーっとあって、岩でできた高い壁がどかどかどかーっと見渡すかぎりに……」

 

言葉を総合すると、城壁に囲まれた大きな街といったところだろう。

 

「██████っていうのは、ほらうちにある本入れとく部屋のでっかいやつよ」

 

図書館とでも訳せばいいだろうか。

 

「で、私はケトをそこに送って、勉強させて、できたらもっと上の方に行かせてやりたいのさ」

 

たぶん留学のようなものなのだろう。図書館の街と呼ばれているとなると、学問都市だろうか。継承問題に巻き込まけれなければいいが、とか焼かれなければいいが、といったどうでもいい心配をしてしまう。

 

「もしキイちゃんも司女になりたいなら、行く?」

 

「お金もかかるでしょうし、そんな……」

 

「あのねぇ、ケト見てて自信なくすのは仕方ないけどキイちゃんも相当なのよ?あの描き方をケトに教えてくれたんでしょ?それに聖典語だって勉強すればすぐ読めるわよ。あとお金については衙堂の方がどうにかしてくれるって」

 

「えっと、少し待ってくださいね」

 

たぶんヒストグラムのことだろう。私の知識は確かに偏ってはいるが、ある程度はこの世界でも使える。

 

いや、もっと正直に言ってしまおうか。

 

適切に使えば、ろくでもないことを引き起こせる知識が私の頭の中にはある。クーデターの手法や市民革命のメカニズムといった直接的なものばかりではない。例えばプロテスタントの拡大を引き起こした、知識を急速に広めるための活版印刷という技術について。厳密には反カトリック運動の一つであるルター派と総称される一派が活版印刷の影響もあって規模を拡大し、国家間の緊張も相まってカトリックと対抗できるだけの勢力に成長したと言うべきだろうが。ともかく権力を握るための重要手段である情報の統制を崩す方法について、私は知っている。もちろん普通の地球の現代人であれば活版印刷という単語は知っていてもその具体的方法までは知らないだろう。何の因果かこれでも工学を齧った技術史の専門家なので、活字合金から製紙までの基礎知識はある。それだけの知識のほんの一部を使えば、たぶん、司女としてこの衙堂で暮らしていくことはできるだろう。ただそれは、なんというか、違う気がする。

 

「喋りすぎちゃった?」

 

「……ケトにも、話していいですか?」

 

「当然。まあゆっくり考えなさいな。どうせ行くとしても冬だから」

 

そう言ってハルツさんは部屋を出ていった。取り残された私は、ひとまず脚をマッサージすることにした。



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誓約

夕食後、明かりを持ってケトは私の部屋に入ってきた。

 

「念のため確認しますが、キイさんの育ったところでは夜中に男性を自分の部屋に呼ぶことが特別な意味を持っていたりしませんよね?」

 

あー、うん。あると言えばあるし、ないと言えばない。難しいところだ。ケトが言いたいような、まあ相手を誘うような文化について私はとんと不得手だ。男子率の非常に高かった高校時代にはなんか崇められる存在だったし、女性が過半数だった大学生活では同級生との飲み会よりも学会後の懇親会のほうが出た回数が多い。大学院にいたのはヒトという枠で括ると問題があるような存在が多数派だったのでここでの議論には含めないほうがいいだろう。まあ異性を夜に部屋に誘うのは、確かにそういう意味だと捉えられてもおかしくはなかった。背景や前提の条件が面倒だったけれども。

 

「違うよ」

 

「……そうですよね。それで、お話というのは」

 

「色々あるんだけどね。まずはハルツさんから聞いたんだけど、街に行くんだって?」

 

「あの█████████……」

 

ケトが明らかに面倒そうな感じに肩をすぼめた。面白いジェスチャーだ。

 

「█████████って?」

 

「いや……まあ、ハルツさんには黙っていてくださいよ?未婚の年老いた女性に対して使われる言葉で、これをハルツさんの前で言ったら……どつかれます」

 

ふむ。スラングの一種か。こういう語彙は間違えて口に出さないようにしないといけない。

 

「それで……おおかた、キイさんも一緒に行かないかという話になったんでしょう?」

 

「よくわかるね」

 

「ハルツさん、ああ見えて街に知り合いが多いんですよ。あそこで学んでいた時のつながりらしいですが」

 

「ああ、私が聞きたいことの一つはその街について。大まかな人口とか、存在する施設とか……」

 

「少し古い内容ですが、ある旅人が書いた本だと確か人口が……三十万か四十万だったかな、壁の内だけで*1

 

「それは、大きいの?」

 

「世界最大の水の街だと言われています。並ぶのは、世界でも十あるかないかだと思いますよ」

 

湾岸都市か。ますますアレクサンドリアめいているな。それより人口四十万で世界最大級の都市ということは、そこから世界人口を割り出せないだろうか?とはいえ私の記憶は断片的だし、そもそも元データがあまり信用できなかったりするからな。それでも億のオーダーだろう。いやここは本題ではない。

 

「█████████████は周りから切り離された、支配する力を持った地域で……」

 

ハルツさんの説明が旅人目線であるとすれば、ケトの説明は辞書や百科事典に近い。頑張って聞き取った内容と私の知識を総合すると、古代中国の(ゆう)、古代ギリシアのポリス(πόλις)、ドイツの自由都市(Freistadt)に近いもののようだ。城邦(しろぐに)とでも訳してみようか。

 

「██████ ████ █████████████の██████は、学び、書き、読み、調べる人たちのための書庫を含む巨大な建物です。一度は行ってみたいところですね」

 

私の知るアレクサンドリア図書館めいて入港した船から本を回収して写しを作ってその写本の方を返すとかいう野蛮なところではないらしい。もう少し穏健だ。とはいえ本来の意味は文字通りに倉庫らしい。つまり……直訳に近い訳を当てるのであれば、「図書庫の城邦」といったあたりだろうか。都市の名前が図書庫とは、なんとも興味がある。っと、本題からズレてきているな。

 

「その図書庫の城邦に、行くの?」

 

「……学ぶかどうかはともかく、一年程度であれば行くのもありだと思います。衙堂の庇護の下で学ぶとなると、さすがに生涯を捧げることになりかねないので……」

 

「そういう人生は嫌?」

 

「僕は詩が好きなんです。ただ、詩を書いて生活できるほどの収入を得ることのできる人はほんの少しだけ。だからせめて、色々なものを見たいとは思うんです」

 

「……本題に入っていい?」

 

「……はい。やっと、話してくれるんですか?」

 

「そう。私がどこから来たのか、今から説明しようと思う」

 

「いいんですか?」

 

「かまわないよ。ただ、秘密を守るという約束をして欲しい」

 

「……質問をします」

 

「いいよ」

 

「もし聞いたら、貴族の戦いに巻き込まれるとかないですよね?」

 

「その程度で済めばいいね」

 

「その、程度?」

 

「うん。世界が二つに分かれて、滅ぼし合うような大戦になるかもしれない。一握りの商人が、それ以外を支配することになるかもしれない。代わりに、子供があまり死ななくなって、誰もが本を読めるようになる」

 

「面白そうですね」

 

「これを聞いて、それが感想?」

 

「そんな変わる時代を詠むことができるなんて、素晴らしいと思いませんか?それに誰もがそれを読めるのでしょう?」

 

ケトが少し恥ずかしさが混ざったような顔で笑う。

 

「わかりました。誓いをしましょう」

 

「どうやって?」

 

「これでも司士の見習いです。色々あるのですよ。少し待ってくださいね」

 


 

「本当は多くの証明者の前で行うのですが、ここでは二人だけということで」

 

そう言ってナイフを取り出したケトは、自分の左手の人差し指を軽く切る。肌に滲む、赤黒い血。

 

『我は汝の秘密を知り、其の秘密を守る』

 

聖典語だ。意味は分からないが、ゆっくりとした響きが部屋を満たす。揺れる影と相まって、頭がどこかぼおっとする。

 

『此の誓い破りし時の贖いは、我が生命を含む汝の求む汎ゆる物と、破滅の運命也』

 

幾何学模様が描かれた麻紙に、血が落ちて、ゆっくりと滲む。

 

『神々の名と……汝の信頼を以て、我は誓いに縛られん』

 

そう言って、ケトは私の顔の前に切られた指を出した。

 

「舐めてもらえますか?」

 

私は伸ばした舌を、掬うように動かした。口の中に広がる鉄の味。

 

「これで契約自体は終わりです。普通はこの紙を証明のために残すのですが……どうします?」

 

「念のため、燃やせる?」

 

「わかりました。もちろん、この紙がなくなっても血で繋がった縛りが解かれることはありません」

 

ケトはそう言って笑い、ランプで紙の端に火をつけた。ゆっくりと火は広がっていく。たぶん儀式として完成度が高いからだろうが、私のほうがケトに縛られたような気がしてならなかった。

*1
ここでケトが「本」と呼んでいる記録媒体は実際には巻物であるが、広義の「本」として訳出している。実際、一般的に巻物と呼ばれるものは「巻子本」と呼ばれる形態の書物である。



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告白

「それで、キイさんは何者ですか?西の国の貴族の娘とか、あるいは月や星から来た旅人ですか?」

 

「そういう例の参考になったような作品の話を聞きたくなるな……」

 

「失言でしたね」

 

ケトのジョークで内心それなりに笑いながら、私は思考を巡らせる。「異世界から来た」と言えばいいだけだ。異世界なんて語彙がどうにもないらしいことを除けばだが。

 

「……私は、ここの地の星空に慣れていないって言ったらどう思う?」

 

「南に行けば、ここでは見えない星が見えるようになるという話は読んだことがあります」

 

「ああ、違う。そもそも星々の並びも、たぶんその星自体も違うんだ」

 

「なら、こういうのはどうでしょう。星がどこにあるのかはわかりませんが、それらが非常に遠くにあるのは間違いない。けれども、星々の距離ほど遠くから見れば星の並びは変わるでしょう」

 

恒星天モデルは採用されていない、と。

 

「なるほど。ところで、星までの遠さってどれくらいだかわかる?」

 

「……知りません。確か、何人かの学者がそれを求めようとしていたと読みましたが。あなたは知っているのですか?」

 

「光が数年から数百年程度かけて進むだけの長さ、かな」

 

「それは読んだものですか?それとも、あなたが見出したのですか?」

 

「……読んだものだよ」

 

そう言うと、ケトはしばらく考え込んだ。

 


 

「あなたは、とても遠いところから来た。そこの学者の知識は、僕たちの地より優れている」

 

「単純にそうやって比べるべきではないよ。全てにおいて優れるなんてことも、全てにおいて劣るなんてことも、そうそうないから」

 

「……すぐさま否定しない時点で、そうとう知恵は離れている気がしますけれどもね」

 

確かにそうだ。私はこの世界で見た大抵のものの作り方がわかってしまう。

 

「あなたのいたところでは、どれくらいの人が文字を読めましたか?」

 

「君ぐらいの歳より上であれば、ほぼ全員」

 

「誰がそれだけの教える人を用意するのですか?」

 

「国が、法によって」

 

「いくつの国がありますか?」

 

「200ぐらい」

 

「その全てで、ほとんどの人が文字を読めるのですか?」

 

「いや、一部では学ぶところができていないから……半分か、もっと少ないかも」

 

正直数字をちゃんと覚えているわけではない。発展途上国での識字率は平均で50%を超えていたはずだが、国ごとの値はわからない。

 

「つまり、多くの人が文字を読めなければならない仕事を?」

 

「そうだね」

 

「……キイさんも、仕事を?」

 

ケトの言葉はたぶん専業主婦などをイメージしているのであろうが、モラトリアムを謳歌していると後ろ指をさされた経験のある私にはダメージが入る。

 

「……いや、私は学んで、調べていた」

 

「何を?」

 

「どのようなものを、どうやって作っていたかの過去」

 

「古い道具の作り方とか、ですか?」

 

「まあ、そうだね」

 

研究テーマが雑多に過ぎたし、卒業研究はかなり縦横無尽に議論を展開していたのであまりこれだと言うことができない。

 

「図書庫のような場所で?」

 

「そう」

 

大学史を説明するだけの語彙はまだない。本当に言葉が足りないことを痛感している。

 

「では、あなたの見てきたもっとも良い道具とは何ですか?」

 

「難しい質問だね……」

 

道具の定義から始めないといけない。情報技術の方面であればコンピュータとか。武器を入れていいなら核兵器が「良い」とされるかもしれない。抽象的なものであれば、科学という思考様式。

 

「もちろん、答えるのが難しいとわかっていて聞いています」

 

ただまあ、技術系の人間としてはこれを推すか。

 

「……私の好きに答えていいなら、それは金属を削るための特別で大きな道具だ」

 

「職人の使うもの、ですか」

 

「そうだね。塊をこうやってぐるぐると回して、刃物を当てて削っていく……」

 

私は蝋板に手早く構造図を書く。工業高校でさんざん触った普通旋盤だ。回転する主軸に工作物をチャックで固定し、ベッドの上を動く往復台に取り付けられた工具(バイト)で加工をする。細かい用語を試験に出す意味が正直分からなかったが、今思うと役に立つので微妙な気分だ。

 

「これを水車で動かすんですか?」

 

「いや、雷」

 

「は?」

 

奇妙そうな顔をするケト。うん。こういう顔を見ると少し悪い笑顔になってしまいそうだ。

 

「雷って……雨が強くなると光と音を出して落ちる、あの?」

 

「うん」

 

「……僕以外には軽率に言わないでくださいよ?神々の姿を用いてそんなことをするなんて、と言われかねません」

 

確かに宗教論争になりかねないな。こういうアドバイスは本当にありがたい。

 

「わかった」

 

「これ、作れますか?」

 

気軽に言ってくれるなぁ。

 

「非常に、難しい」

 

そう。難しいだけなのだ。なにせ数百年の挑戦の結果生まれた解の一つを知っているのでそれを模倣するだけでいい。

 

「何が必要です?」

 

「硬い金属。鉄と炭だけではなくて、特別な鉱石も必要。……いや、新しく必要なのはそれくらいか?」

 

別に最初から全部を金属で作る必要はない。まあもちろん頑丈な土台は欲しいが、花崗岩とかでもいい。鋳物用の銑鉄でもこの時代でもそう作るのは難しくないはずだ。それに高速度工具鋼(ハイス)やらタングステン・カーバイドを持ってこなくとも、最低限の加工なら炭素工具鋼だって構わない。ただやっぱり冶金技術は欲しい。鋼鉄の大量生産となるとパドル炉や転炉が必要だろうが、小規模ならるつぼ法でもいい。これならたぶんこの世界の技術でも数年あればできる。もしかしたらすでにあるかもしれない。

 

「ねえケトくん。金属を作ることで有名な地域ってある?」

 

「ええ。道具を買うなら████████ ████か███████████のものだっていう詩があります」

 

「……となると、これを作るだけでそういう地域を敵に回しかねないか」

 

新しい技術の導入と、それに伴う社会変化はカオスを生む。そして多くの人はカオスを嫌う。同業者組合というのを技術史で扱うときには進歩を阻害した組織だなんて雑な解説をされることがあるが、その日を生きる人たちにとって数十年後の技術革新よりも来月の売上のほうがよっぽど重要である。

 

「もしかして、キイさんの知識って危ない?」

 

「最初に言ったよね?」

 

「ええ、ただ、ここまでとは」

 

「……それに、これで武器を作れるよ」

 

「どんな?」

 

「指を動かすだけで、百歩先の相手を殺せるような」

 

硝酸、水銀、エチルアルコール。大量生産しないのであれば雷管に必要な雷酸第二水銀を作るために工業化学は必要ない。硝酸を作るのが少し面倒か。硝石と硫黄と、反応用容器のガラス。いやガラスは全工程で必須と言ってもいいレベルだったな。どうせ綿火薬を作るにもニトロ化のための混酸が必要だから硝酸は必要か。

 

「██████ ███████の弓のようなものでしょうか?」

 

「それ、どういうもの?」

 

「僕も見たことないので詳しくは知りませんが、こうやって足で踏んで引っ張って……」

 

ケトの説明からすると、クロスボウだろう。かなり昔からあったはずだが、手間がかかるので弓を代替することはできなかった。

 

「たぶんもう少し厄介なもの、かな」

 

機関銃は戦争を変えた。華麗な軍服も、歩兵による一斉突撃も、第一次世界大戦を通してすっかり消えてしまった。いや他にも重砲の導入だとか色々と要因はあるが、それでも加工精度の上昇と規格化によって生まれた兵器が戦争での死者数を一気に増やすようになったというのは間違いないだろう。

 

「……こういう問題は、きちんとわかる人と相談するべきです」

 

「わかる人、いると思う?」

 

「……いるとすれば、図書庫の城邦ぐらいですかね」

 

「よし、ケト。一緒に行かない?」

 

「いいですよ」

 

異様にあっさりと、ケトは私の案に乗った。

 

「いいの?」

 

「まだ東方通商語も話せない人が、聖典語でこのレベルの議論ができますか?」

 

「無理」

 

今のケトとの会話でも思考の一部分しか言葉にできていない。それを、更に別の言語で?学習に必要となるだろう時間は、決して短くない。

 

「なら、キイさんに必要な人の一人は、東方通商語と聖典語がわかって、あなたの秘密を守ることのできる人です」

 

「……君の人生を、これに費やすことになるかもしれないよ?」

 

「この部屋に来たときから、そのくらいは覚悟できてますよ」

 

「それじゃあまずやるべきことは……私の東方通商語の練習かな」

 

「聖典語の本を読めるようになって欲しいのですが、それはまだ遠そうですね」

 

ケトが少し悲しそうに言う。見ていろよ?これでも負けず嫌いなほうなんだ。



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学問

文字を書き、会話をし、収穫を行い、ケトの説明を聞き、ケトに色々なことを教える。そういう生活がしばらく続いている。

 

「大丈夫ですか?」

 

ケトから見ても私は根を詰めすぎているらしい。うん。まあこのくらいならなんとかなる。大学時代に無茶をした経験が生きたな。どこまで行けばぶっ壊れるかの見当がつくので、その直前で止めておく。

 

「ん。問題ないよ」

 

「それでは、昨日の続きから行きましょう」

 

そうやってケトは巻物を広げた。

 

「学問は13に分類されます。覚えていますか?」

 

「ええと、一つ目の組が文法学、修辞学、万神学。二つ目が算学、幾何学、天文学。三つ目が自然学、薬学、医学。最後が地理学、法律学、統治学、だっけ*1

 

「ひとつ忘れています」

 

「ああ、哲学」

 

「その通りです」

 

今ケトに教わっているのは学問の基本だ。つまり、この世界では世界をどのように分割しているか、ということ。日本の大学では自然科学、人文科学、社会科学といった分類が用いられてきた。中世のヨーロッパでは七柱の女神によって示される文法学・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽が。イスラームでは「固有の学問」と「外来の学問」が。インドでは五明が。私の知っている現代に息づいているものとなると、日本十進分類法の元のDewey Decimal Classification(デューイ十進分類法)が元にしたフランシス・ベーコンによる学問の分類とか。

 

「文法学で文章を作る規則を学び、修辞学で良い文章を学ぶ手法を知り、万神学で神をいかにして称えるかを解する」

 

聖典語の文章の該当する箇所を指で抑えながら、ケトは東方通商語でゆっくりと話してくれる。

 

「質問いい?」

 

「どうぞ」

 

「この文法学って、聖典語の?」

 

「ええ」

 

「たとえば東方通商語の文法についてって、学問として成立していないの?」

 

「するわけないでしょう?」

 

おっと、面白い違いを見つけた。

 

「なるほど。私の知っている言葉の規則についての学問では、ある特定の言語を対象としていなかった」

 

「……確かに、聖典語の特徴を表すためにほかの言語との比較はあるとは思いますが」

 

「そうじゃない」

 

たぶんだが、ケトの常識と私の常識が違うのだ。

 

「私は、私が日常的に話していた言葉で学んだんだ」

 

「……あなたが、聖典語みたいなものを話す土地で生まれたのではなく?」

 

「うん」

 

「無駄ではないですか?」

 

ケトが驚いたように聞いてきた。

 

「無駄って、どういうこと?」

 

「例えば新しい考え方を表す時に、いくつもの言葉で同じ意味を持つ単語を個別に作らなければなりません。何か知識を共有するときも、いちいち翻訳しなければ伝わらないでしょう」

 

「多くの人が使う言語で共有はなされていたよ。ただ、それとは別に私が日常的に話していた言語でも単語が作られて、それでも発表がなされていた」

 

「……待ってください。つまり、いつも話すような言葉で、学問をしていたのですか?」

 

「うん。そうしないと、わかりにくいよね?」

 

「そんな言葉で、学問に必要な……言葉の基準が、満たされるのですか?」

 

なるほど。ケトが言いたいことが飲み込めてきた。中世ヨーロッパにおけるラテン語の地位を、あるいはアフリカ植民地時代以降における宗主国語の役割を、聖典語が担っているのだ。勉強ができるということは大前提として聖典語ができるということ。

 

「満たした。それは決して簡単ではなかったけれども、それをしなければ全ての人が文字を読めるようにはならない」

 

「……なるほど」

 

解体新書、舎密開宗、西洋事情。日本語で学問ができるようになったのは、西洋の科学の言葉を日本語に対応させていったからだ。

 

「例えば聖典語の本を東方通商語にすることってできる?」

 

「それで、文字を教えるのですか?」

 

「例えばの話、ね」

 

少しケトは考え込む。

 

「無理では、ないです」

 

つまりは非常に難しいのだろう。これだけすらすらと説明できるケトが難しいと言うのだ。相当なものと考えていいだろう。

 

「少し、私が話をしていい?」

 

「どうぞ」

 

「話す言葉と、学ぶ言葉が同じだったら、余計な学習に時間を取られずに学問ができる。ある地域特有の問題について扱うこともやりやすくなる」

 

「……聖典語の特別性の否定は、あまりいいものだとは思われていません」

 

「ここでも壁があるか……」

 

私はため息を付いた。まったく、問題が多い。全てを壊すことは難しいだろう。変化することはあったとしても、文化や伝統を拭い去るのは大抵は流血が伴うほどに危険なことなのだ。

*1
あくまで近い分野の学問名を当てはめているだけであり、地球における分類とは異なる



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通貨

私がかつて過ごした世界ではほとんど経験がなかった技能について、問われる時が来てしまった。

 

「値銀片、銅葉二足らずの菜と、三余りの鶏を買う。幾ら?*1

 

ハルツさんの声。私は頭の中の電卓を叩く。

 

「銅葉四にて」

 

「まだ甘いね。ここは銅葉五で菜を多めにしてもらうのさ」

 

「わかるかぁ!」

 

私の叫び声に隣のケトが笑いをこらえて辛そうな顔をしている。ひどい特訓だ。

 

「いいかいキイちゃん、街の商人ってやつはがめついんだ。だから相場を知らないといけない」

 

ハルツさんの有り難い言葉が心に染みる。値引きなんてものを経験したことがない時代の若者にはかなり難しい特訓だ。一応は大阪にいたのだが基本こういうことはしなかったな。

 

「キイさん、計算なら得意なんですけどね」

 

「算術とこれはまったく違う技能ではなくて?」

 

そうやって言いながら、私は机の上に置かれた歪な銀と青銅の塊を見る。

 


 

かつて、この地には巨大な国家があったという。しかしそれは後継者たる兄弟たちによって分割され、侵略者によって奪われ、豪族によって乗っ取られたことで歴史から消え去った。しかしながら、その国家の威信は様々な形で残っている。例えば通貨。「銀片」というのは当時から用いられた高額貨幣であり、ざっくり一日半から二日ぶんの給与に相当する。その表面に刻まれた古帝国語と呼ばれる表意文字は銀の品質と重量を保証し、多くの人の手を経て表面の凹凸が均されながらも世界交易で通用する通貨となっている。とはいえこれで日常の買い物をするのは困難であるため、少額貨幣としての銅葉というものもある。イメージとしては遠足のおやつ代だ。

 

「では次。値銀片、銅葉二にて艶ある良い魚五匹。ならば銅葉一ならば?」

 

「三匹」

 

「二匹と骨。さすがに三匹は欲張りだよ」

 

「わからない……」

 

私は頭を抱える。

 

「安心してください、僕もわかりませんから」

 

「ケト、衙堂の蔵に尽きぬ銀片があるっていうなら私もこんなことはしないよ。ただ図書庫の城邦は商いの街だ」

 

「知ってますよ。公価店で買えばいいじゃないですか」

 

「公価店って?」

 

知らない単語が出てきたので私はケトとハルツさんの会話に口を挟む。

 

「市場とかで決められている、標準的なものの値段でものを売るお店です。会堂などはその値段でものを買う。代わりに、売る人はきちんとした質のものを入れないといけません」

 

「なるほど」

 

ケトの説明を聞いて、なかなか面白くて合理的なシステムだなと考える。

 

「もしこういうものがなければ、商人は客が何も知らないのをいいことに粗悪品を売りつけるでしょう。客はそれを嫌がって少ししか銅葉を払わない。どうせお金がもらえないなら、いい質のものを集めてくる商人はいなくなる」

 

「……それ、何かで読んだの?」

 

「ええ」

 

あれ、これと似たような議論をどこかで聞いたことがあるな。スウェーデン国立銀行が賞金を出すEkonomipris(経済学賞)で市場における情報の非対称性の研究者が受賞した年があったはずだ。専門外だからほとんど覚えていないが。

 


 

「確か……あった。これです」

 

ケトが出した巻物の表題は「商者警句集」とでも訳せばいいだろうか。少しづつ聖典語の単語もわかるようにはなったが、まだ読める域には達していない。

 

「原典は古帝国時代、鋳貨廨……貨幣を作っていた施設で受け継がれてきた言葉らしいです。それが長い時間をかけて書き加えられて、最終的にこういう風にまとめられた、とされています」

 

「読んでもらえる?」

 

ケトは頷いて、息を吐いた。

 

「我が弟子よ、師の過ちを学べ。真に良き商者となるを望むのであれば、己の身を滅ぼす欲とそうでない欲を理解せよ……」

 

内容としては商業に関する様々な言葉だ。安く買い、高く売れ。信頼は革袋に詰められた銀片に優る。自分の扱わぬ富を扱うことのできる同業者を友とせよ。なかなかに面白い。少しゲーム理論を混ぜれば、すぐにでも経済学の芽生えができそうだ。

 

「ねえケトくん。こういう本は、図書庫の城邦で学ばれるのかい?」

 

「はい。統治学に入るでしょうね」

 

私の知るヨーロッパ史では、経済学の発展は近世から始まる。もちろんそれ以前から議論自体は存在するが、実学として研究する体制が昔からあったわけではない。

 

「統治に、商業の知識が必要なの?」

 

「それはそうでしょう。国は耕人なしに成らずなんて言葉もありますが、貨幣なしに取引はできません。人が自分だけで生きることができない以上、統治とは取引を支配することです」

 

本当に時代背景がわかりにくいな。重商主義と重農主義の対立というと、18世紀ぐらいか?ああ知識が足りないのが辛い。インターネットがあればすぐに検索をしていただろうに。

 

「ここでは、お金が全てを解決してくれるかい?」

 

「まさか。ただ、お金でなければ解決できない問題は多いですし、お金があれば解決できる問題はもっと多いですよ」

 

ケトの言葉。権力と、経済力と、この世界ではどちらが力を持つのだろうか。その二つが同義語なのかもしれないが。

*1
「値銀片……」とは商取引の際の掛け声。古帝国語に由来し、自らが不正のない商いを行うという誓いの言葉であったが今ではその意味は形骸化している。



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計画

「変な持ち方しますね」

 

ケトがどうにかして荷物を背負おうとする私に言う。

 

「私からすれば、こんな不安定な装備を使うほうが変だと思うんだけどな……」

 

短い紐を肩にまわして、革でできた薄い直方体の袋に荷物を入れるタイプの鞄だ。それを今、どうにかして背負えないかとロープワークを試みている。

 

「行商人が大籠を持つように、鞄を使おうと?」

 

「そう。……駄目だな。機会があったら作らないと」

 

私の学生用背嚢(ランドセル)はあまり使われることがなかったが、やんちゃな初等教育時代六年間の酷使に耐えるように設計されていた。きちんと肩に重さを分散させることで、子供がいっぱいの荷物を学期末に運搬することを可能としているのだ。確か明宮嘉仁親王が使っていたという話があるから、デザインの権利は切れている。異世界でそんなものを適用できるのかという気もするが。

 

「そういう細工もできるんですか?」

 

「一応これでも……なんて言えばいいかな、特別最上等若匠頭、だったんだよ」

 

うん。非常に語弊がある。ジュニアマイスター顕彰制度で危険物取扱者甲種やら測量士補やら技術士補やらを取ってポイントを貯め、なんか表彰を受けたというだけだ。

 

「どのくらい凄いんですか?」

 

「年に百人程度が取る」

 

「……そこまででもないのでは?」

 

「結構難しかったので、そう言われると結構傷つく」

 

「……すみません」

 

いや高校の三年間で普通の高校生なら受験勉強に思いっきり費やすような時間と手間をかけたのだ。それで高校で高い評価を得て、ほぼ完璧な通知表とともに国立大学の文系学部に行ったのだから先生たちが正気を疑ったのは当然だと思う。ここまでやって追加の表彰状も盾もなかったのであの界隈もバケモノがいる。まあ、このあたりで自尊心をバキバキにされたのは良い経験だったと今になれば言えるが。

 


 

旅の準備はあまり手間ではない。なにせ運ぶものがそこまでないからだ。保存食と水、外套に帯に杖。私はもう裸足が駄目だと思ったので草鞋を編んだ。昔地元の博物館の体験で作って以来だが、適当に麦藁で編んでいくと三つ目ぐらいにはそれらしいものができた。丸二日こんなものと格闘していたことは秘密。ケトには「そんなすぐ壊れそうなもので大丈夫ですか?」と聞かれたが最初から使い捨ての予定なので特に問題はない。足袋がないので少しチクチクするが、まあ許容範囲だ。

 

そうそう、忘れてはいけないのが紹介状だ。聖典語で書かれた、ぱっと見は格式も何も感じさせない紙一枚。ただ、これがあれば途中の衙堂に泊まることも、図書庫の街で居候先を見つけるのも可能となる。信頼というのがモノを言う時代なのだ。業界が狭いとも言う。まあ、ここらへんの話はケトが専門なので任せてある。

 

「楽しみですね!」

 

一方のケトはなんというか、非常にワクワクしている。若い子供に街を見せるのは教育に良くないとのことで今まで行ったことはなかったらしいのだが、途中にある衙堂までの道はわかるのでその先もあまり問題ないとのこと。なんとも頼もしい。

 

「そこまで?」

 

「それはもう!ああ、古い詩人の作品が読める!取り寄せることもできない珍しい本も、写本だっていっぱい……」

 

こういうケトを見ると、なんとなく私も悪い気はしない。まあ、旅の計画がケトの脚で三日だということにさえ目をつぶればだが。

 


 

「まだ、起きているんですか?」

 

部屋でつけていた灯りに惹かれたのだろうか、ケトが部屋に入ってきた。

 

「ん。少し考え事をね。そういうケトくんは?」

 

私は蝋板から目を上げる。

 

「明日が楽しみで、眠れなくて……。不思議な文字ですね。古帝国語にも似ているような」

 

「いくつかの種類の文字を混ぜて使っているからね」

 

具体的には漢字とカタカナである。やばいな、変換機能に任せっきりだったので結構怪しい。

 

「キイさんがこういう文字を書いたのを見るの、初めてです」

 

「それはまあ、これは誰にも見せるつもりがなかったからね」

 

「どうして、ですか?」

 

「秘密の計画だから」

 

「僕なら、見ていいんですか?」

 

「秘密にかかわる案件だからね。どうせいつか説明するし」

 

「今では、なく?」

 

「言葉が足りなすぎる。君が全く知らない考え方や、仕組みについてだから」

 

「……隣で見ていて、いいですか?」

 

「いいよ。面白くないとは思うけど」

 

私は意識を蝋板に戻す。まず問題の一つは筆記用具だ。蝋板は長期の記録に適さず、麻紙は高い。伝統を無視して冊子状のメモを作るのもありかもしれないが、そのためには安価な紙が欲しくなる。繊維をほぐすのや漂白にかなり手間がかかるという話を聞くと、やはりここは危ない手を使うのが良さそうだ。具体的には水酸化ナトリウムと塩素。水酸化ナトリウム自体は単純な反応で作れる。ナトリウムの多い地域で育った植物や海藻灰から得られる炭酸ナトリウムか地質学的幸運に恵まれればナトロンと呼ばれる鉱物、それによく焼いた石灰岩があればいい。これらを水に溶かすと、複分解反応が進む。

 

$$\require{mhchem}\ce{Na2CO3 + Ca(OH)2 -> 2 NaOH + CaCO3 v}$$

 

この過程でできる炭酸カルシウムは水に溶けないので、水酸化ナトリウムだけが残るという算段だ。ここまで書いて隣にケトがいた事に気がついた。うん。わかるとは思わない。これを説明するためには原子論の概念が必要だ。いや、と私は思考を研究時代のモードに切り替える。本当か?錬金術のレベルでの説明ができそうな気もするな。ただ理論的裏付けをするには足りなさそうだ。

 

これに比べ、漂白のための塩素を作るのは多少厄介だ。塩酸と何かを反応させてもいいが、塩酸を作るには硫酸が必要だ。もう少し簡単な方法はやはり電気分解だろう。アスベストで区切った食塩水に電気を流して、うまい具合に電極から出る気体を集めるだけだ。これで肺がんのリスクと引き換えに水酸化ナトリウムを作ることもできる。ちなみに別の方法としては水銀を電極に使ってナトリウムアマルガムを作るというものがあるが、どっちもどっちの危なさである。きちんとやればアスベストのリスクは抑えられるし、有機水銀はできないはずとはいえ、あまり気分のいい方法ではない。いや、隔壁で素焼き板を使うダニエル電池なんてものがあったな。ここらへんは要確認。

 

で、この電気分解をやるには当然電気が必要だ。亜鉛と銅のボルタ電池なんて使ってはいられない。となると発電機が必要だ。着磁ぐらいならボルタ電池でも行けるだろう。ああそれでも鉄の炭素割合やら、場合によっては鉱石の産地の実験を重ねる必要はあるか。で、あとはダイナモを作れば電気分解ができて必要な化学物質が手に入る。ここまでで蝋板を使い切ってしまった。

 

いや、全然私の知識はこんなものではないぞ。炭酸ナトリウムがあればソーダ石灰ガラスが作れる。これを棒状にして、ダイを通して引き抜いて溝を付けて、先端をバーナーで炙りながらいい感じにすればガラスペンができる。バーナーは木ガスか水素で温度が足りるだろうか。安い紙ができれば活版印刷も容易だ。電気があるなら通信にも工業にも照明にも使える。余白が足りない。

 

で、これをやると思いっきり既得権益に喧嘩を売ることになる。そして死ぬ。産業史は挑戦者の屍の山の歴史でもあるのだ。ただ、うまく既存のシステムと協力できれば過度な混乱なしに技術導入は可能……だと思う。結局は、世界を知らなければ技術の話をできないのだ。

 

私は小さく笑う。

 

「なにが面白いのか、話せますか?」

 

「いやね、昔逃げていた相手が目の前に現れたから」

 

きょとんとケトは不思議そうな顔をした。うん。そうだろうな。科学技術史で単純に科学的な、あるいは技術的側面だけをやりたくて社会問題やら哲学やらとぶつかって定期的に逃げていた時代を思い出す。今度は、たぶんそうはいかない。けどまあ、あのときとは違って私には頼れる相手が隣にいる。



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第2章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。キイの早口の脳内思考をちゃんと読んでいるような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


客人

この衙堂の司女をしている方で、ハルツさんと言う。

「衙」は役所の意。

 

粥を薄めて弱発酵させた清涼飲料水もある。

今日の東欧で飲まれる「クワス」に近い、のかもしれない。

 

コムギなのかオオムギなのかはわからないが、イネ科と思われる脱粒性のない穀物だ。

本来植物の種は落ちなければ繁殖ができないのだが、種を食べる場合落ちてしまえば回収が難しい。そこで種を落とす性質(脱粒性)に関係する遺伝子が異常を起こせば収穫が容易となる。逆にそうでない株は収穫量が減るので、収穫したものを蒔いていれば脱粒性を持たないものだけが選ばれていくことになる。

 

Hillman, Gordon C.; Davies, M. Stuart. Measured domestication rates in wild wheats and barley under primitive cultivation, and their archaeological implications. Journal of World Prehistory. 1990, vol. 4, no. 2, p. 157–222. (原始耕作下の野生コムギとオオムギの栽培化率の測定とその考古学的意義)によれば適切な選択を行うことで非脱粒性をおそらく数十年で持たせることができるとしている。

 

脱穀し、()で軽い藁屑などを飛ばし、軽く水につけた後で挽いて、その後果皮を取り除いて、更に粉にして、こねて、と手間がかかるがそれだけの価値はある。

()については1848年ごろに描かれたジャン=フランソワ・ミレーの「Un Vanneur(箕をふるう人)」と題された三枚の絵を見てもらうのが一番いいと思う。ロンドンのThe National Gallery(ナショナル・ギャラリー)におけるNG6447、パリのMusée du Louvre(ルーヴル美術館)におけるRF 1440、同じくパリのMusée d'Orsay(オルセー美術館)におけるRF 1874として所蔵されている。

 

図示

私が使っているのはなんてことはない、ただの(A)進位取り表記法だ。

$N$ 進数とは $N$ 個の数字を使い、$N^m$ ($m$ は整数)で位を上げて行くもの。コンピュータ分野ではオフ($0$)とオン($1$)の2つの「数字」を使う2進数が、あるいは2進数を4桁ずつまとめて $0, 1, 2, \ldots , 9, A, B, C, D, E, F$ の16種類の「数字」を使う16進法が用いられる。ここでもし2進数の世界の人が自分の使っている表記体系を説明しようとすると「10進数」となり、16進数の世界の人間も同じように「10進数」を用いているとしか説明できない問題が存在する。これを回避するために漢数字を用いることや、より $N$ の大きい表記法における表現を使うことがある。

 

人口比や出生者数・死亡者数に目が向けられるのはもう少し先の近世あたりからとなる。ああくそ面倒なことにこういう事を考えるだけで「君は近世の始まりをいつ頃だと考えているのかね?」という面倒な宗教論争の火蓋が切られかねない。

出生・婚姻・死亡に関する研究としてはジョン・グラントが1662年に発表した「Natural and political observations in a following index, and made upon the bills of mortality (死亡表に関する自然的および政治的諸観察)」が最初期のものとして知られている。ヨーロッパにおいて中世が終わり、近世が始まる過渡期の出来事としてはルネサンスや宗教改革が挙げられるが、これらは全ヨーロッパで瞬時に起きたものではないため明確な基準とすることは難しい。一般的には1453年のオスマン帝国の攻撃による東ローマ帝国首都コンスタンティノポリスの陥落を境とする意見が有力である。

 

収穫祭

そして、私がここで観察してきた生活にはかなり宗教色が見られる。

異文化側と接触した際の記録では、敬虔さが強調されることがある。しかしながら、多くの文化では宗教は日常生活に深く溶け込んでいてなかなか自覚する機会がなく他の文化における宗教的価値観の内在を強く認識するのでは、という話がある。

 

ここの文化では人々は基本的に裸足なのだ。

古代中国の人々や古代ローマの市民は靴を履いていたが、古代ギリシャや古代インドでは裸足であった。そして多数派、あるいは地位や資産がある階層が靴を履く文化では裸足は排斥される対象となったり、敬意を示す表現と関わったり、侮蔑を意味することがある。

 

「いない、と思ってくれて構わないよ」

聖庇(アジール)はしばしば社会的立場が弱い人々、例えば未亡人や離縁を行いたい女性の庇護を行っていた。

 

 

雑種

私だって葬式の時に読んだお経の意味がちゃんとわかっていたわけではないし、スワヒリ語の主の祈りの意味を意識して歌っているわけでもない。

「スワヒリ語の主の祈り」とはクリストファー・ティンによる楽曲「Baba yetu」のこと。「あと1ターンだけ……(just... one more... turn...)」とプレイし続けていると日が明けていることで有名なSid Meier's Civilizationシリーズの第四作目、「Sid Meier's Civilization IV」のオープニング曲であり、ゲーム音楽としては初のグラミー賞受賞楽曲。

 

「そのときには、『巻毛になれ』という命令のほうが顕れる。そして、『巻毛になるな』という命令は潜ってしまう」

2017年に日本遺伝学会は「遺伝学用語改訂について」内でdominantとrecessoveの訳語として使われていた優性、劣性という単語をより中立的な顕性、潜性という訳に改定する提案を行った。これを受けて日本医学会は「遺伝用語に関するワーキンググループ」を設置して協議を行い、「顕性遺伝」「潜性遺伝」を推奨用語とする答申書を作成した。また、2021年度からは中学理科の教科書での用語表記も変更されることになった。

 

「あー……そういうこと、ですか。ともかく、面白い考え方ですね」

「生物は生まれてくる前にすでに構造ができていて、入れ子のようになっている」とする前成説は18世紀まで主流であった学説だった。そうでなくとも、生命の発生過程と遺伝と生殖の深い結びつきについてはかなり古い時代から知られていたと考えていいだろう。

 

純潔

宗教と性や純潔についての関係は、本当に複雑だ。

性についての話は人間が猥雑な話を好む社会的動物である以上盛られがちであるということを加味しても、純潔と同じぐらい例がある。

 

人情

歩いて三日とかを普通に「近く」と言いかねない。

嫌な予感というのは当たるものである。

 

誓約

それより人口四十万で世界最大級の都市ということは、そこから世界人口を割り出せないだろうか?

ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリは1661年に世界人口を10億人と推計したが、今日の研究ではもう少し少なかったのではないかとされている。このあたりについてのわかりやすくまとまった日本語文献としては 林玲子. 世界歴史人口推計の評価と都市人口を用いた推計方法に関する研究. 政策研究大学院大学, 2007, 博士論文. がある。

 

城邦(しろぐに)とでも訳してみようか。

城邦(chéng bāng)は中国語で都市国家を意味する。

 

「舐めてもらえますか?」

血を舐めるという行為は感染症の問題を生む場合がある。特に体液と粘膜の接触によって感染するタイプの病原体(特性上性感染症と呼ばれることが多い)であれば、血を舐めることで十分感染を引き起こせるだろう。

 

告白

告白

こく-はく (名詞) アバキ、ツグル(コト)。告ゲ訴フル(コト)

──大槻文彦編「日本辭書 言海」より

 

「……私の好きに答えていいなら、それは金属を削るための特別で大きな道具だ」

技術史の観点で言うならば、様々な金属部品を高精度で加工可能なように設計された旋盤のような工作機械によって精密な機械部品を作ることができるようになったと言える。

 

「この部屋に来たときから、そのくらいは覚悟できてますよ」

キイはケトのこの言葉の意味を理解していない気がするのは気のせいだろうか。

 

学問

解体新書、舎密開宗、西洋事情。

「解体新書」は1774年に発行された解剖学書。前野良沢や杉田玄白を始めとする医師らがオランダ語の「Ontleedkundige Tafelen(解剖図録)」(オリジナルはヨハン・アダム・クルムスによるドイツ語の「Anatomische Tabellen」)を中心にヨーロッパの解剖図を訳したものであり、その過程で多くの解剖学用語が作られた。

 

「舎密開宗」は宇田川榕菴によって記され、1837年から1847年にかけて発行された化学書。舎密はオランダ語chemieの音訳。ウィリアム・ヘンリーによる「An Epitome of Experimental Chemistry(実験化学概論)」あるいは「Elements of Experimental Chemistry(実験化学の基礎)」のドイツ語訳のオランダ語訳を底本としながら、様々な資料と実験に基づいて纏められた。今日の漢字で書かれる化学用語の多くが本書で使われた訳語である。

 

「西洋事情」は福沢諭吉による西洋世界の啓蒙書。視察で得た知見と様々な資料によって様々な分野について触れることを通してあたらしい西洋観を提示し、その後の日本という国家自体の方針にも影響を与えた。西洋思想についての翻訳語は今日でも使われている。

 

通貨

その表面に刻まれた古帝国語と呼ばれる表意文字は銀の品質と重量を保証し、多くの人の手を経て表面の凹凸が均されながらも世界交易で通用する通貨となっている。

古代ギリシアのドラクマ硬貨、古代ローマのデナリウス銀貨、ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨、宋の銅銭など共通貨幣は世界史においてしばしば登場する。

 

通貨

スウェーデン国立銀行が賞金を出すEkonomipris(経済学賞)で市場における情報の非対称性の研究者が受賞した年があったはずだ。

2001年、非対称情報下の市場の分析に対してジョージ・アカロフ、マイケル・スペンス、ジョセフ・スティグリッツの3名がEkonomipris(経済学賞)を受賞した。この賞はアルフレッド・ノーベルの遺言で規定されたものではないため厳密にはノーベル賞ではない。

 

なお、この前にケトが語っていた内容は George A. Akerlof. The Market for "Lemons": Quality Uncertainty and the Market Mechanism. The Quarterly Journal of Economics. 1970, vol. 84, no. 3. p. 39-78. (「レモン」市場 : 質の不確かさと市場メカニズム)の論旨とよく似ている。

 

原典は古帝国時代、鋳貨廨……貨幣を作っていた施設で受け継がれてきた言葉らしいです。

「廨」は役所の意。

 

計画

確か明宮嘉仁親王が使っていたという話があるから、デザインの権利は切れている。

明宮嘉仁親王は後の大正天皇。

 

「一応これでも……なんて言えばいいかな、特別最上等若匠頭、だったんだよ」

 

うん。非常に語弊がある。ジュニアマイスター顕彰制度で危険物取扱者甲種やら測量士補やら技術士補やらを取ってポイントを貯め、なんか表彰を受けたというだけだ。

ジュニアマイスター顕彰制度は全国工業高等学校長協会が主催するもので、資格取得や検定によって得られるポイントに応じて表彰されるという制度である。キイは個人特別顕彰を受けたと考えられるが、これを受賞できるのが年に百人程度というだけでありジュニアマイスター顕彰制度全体では近年では一万人を越える工業高校生が顕彰を受けている。工業科の生徒は一学年あたり十万人弱なので、案外表彰されるだけなら狙えなくはない。個人特別顕彰は難関資格・検定を複数突破し、かつ校長の推薦が必要であるのでハードルは高いが、こういう活動に力を入れている学校であればサポートがつく場合もある。「追加の表彰状も盾もなかった」ということは経済産業大臣賞や全国工業高等学校長協会理事長賞は手にできなかったのであろう。

 

参考までに危険物取扱者甲種は高校生であれば乙種危険物取扱者免状を規定の4種類以上持っていなければ受験資格が手に入らず、技術士補の試験問題は選択式とはいえ学部卒業レベルである。それに比べれば測量士補は合格率も30%を越えるなどそこまで難しくないように見えるが錯覚である。もちろんこれ以外にもこまごまとキイは資格を持っていたのだろう。

 

$$\require{mhchem}\ce{Na2CO3 + Ca(OH)2 -> 2 NaOH + CaCO3 v}$$

TeXの拡張機能で化学反応式の組版に特化したmhchemというものを使っている。今後こういう反応式が出てくることがあるだろうが、別に読み飛ばしてもそこまで問題はないと思う。



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第3章
規矩


「っぷはぁ!」

 

革袋から独特の香りのついた薄い酒を飲む。防水用の樹脂の匂いと合うように作られる、旅用の飲み物だとか。結構クセが強いが、乾いた喉にはよく染みる。骨でできているらしい口の部分には木栓がはまるような構造だ。なかなか良くできている。

 

「脚のほうは問題ありませんか?」

 

元気そうなケトが聞いてくる。羨ましい。その体力が少し欲しい。

 

「まあね。それで、到着まであとどれくらいかわかる?」

 

「歩いてきた時間を考えると、日没前には余裕をもって旅宿にする衙堂に着くはずです」

 

太陽の高さを見る。なんとなく覚えていた方角はもう怪しくなっていた。まず海岸線まで西に行って、そこから南西の方に向かうらしいが具体的な位置についてはケトもわかっていないようだった。

 

「地図が欲しいなぁ」

 

そんなことを言いながら立ち上がる。

 

「地図ですか?面白そうな話ですね」

 

「そう?確かに軍隊とかには役に立つけど、道路に沿って歩く旅人や商人にはそこまで有用ではないと思うな」

 

正確な地図がなくとも、世界交易は可能だった。道路や海岸線の正確な記述がなくとも移動はできるのだ。地下鉄の路線図のように、必要な情報は点と点がどう繋がっているかということなのだから。数学だと位相幾何学(トポロジー)の領分となるが、なんとなくふわっとしたイメージと比較して数学的な理論はなにもわからない。科学史の中でも近現代数学史をちゃんとできる人間を私は崇敬している。表面的に触ってなんか適当な哲学用語を散りばめている人間は嫌いだ。Bricolage(器用仕事)だという弁解はきちんとクロード・レヴィ=ストロースを読んでかつ引っ張ってきた用語の意味を踏まえた上でしてほしい。

 

「キイさんは、地図について知っていますか?」

 

「そりゃまあ、一応……いや、難しいな」

 

過去問を解いて参考書を読んで部活で測量をやっている同級生に実技の説明を受けて一応測量士補の資格を持っている。ただ、あくまで私の知識はトータルステーションの存在を前提としている。光波測距儀は無理でも経緯儀はなんとかなるか?いやそれでも光学望遠鏡と精密な機構が必要になるな。それでも大日本沿海輿地全図で使われたレベルの測定装置なら……と思考を巡らせる。

 

「畑を作るのにも、街を作るのにも、量地司は欠かせません」

 

「なんだっけそれ」

 

「距離を測って、角度を読んで、土地の区分を行う人です」

 

「ああ、なるほど。そうだよな、当然いるよな……」

 

測量自体はかなり昔からあった。巨大な墳墓の建設はしっかりとした基準なしには行えないから当然と言えばそうなのだが。

 

「ねえケトくん、二種類の刻みを入れた棒で長さを測る方法って知ってる?」

 

「……キイさんがそんなことをする人だとは思いませんでしたよ」

 

えっなにその言い方。

 

「待って。誤解がある」

 

「目盛りの違う規矩を用いるんですよね」

 

「うん。あってるよ。少しだけ目盛りの間隔が違うの」

 

「それは、いけないことです」

 

「えっ」

 

「正しい秤と、正しい升と、正しい規矩を用いるのが正義というものです」

 

「あっわかった。私が距離をごまかして不正をするって言ったように捉えたんだ」

 

「……この言い方で、違うことってあるんですか?」

 

「うん」

 

首をひねるケト。ふふふ。

 

「どういうことですか?」

 

「目盛りより細かい長さを測る技みたいなものだよ」

 

ペトルス・ノニウスによって作られ、ピエール・ベルニエによって改良された副尺という発想だ。この二人の名前はノギスとバーニヤとして残っている。ああしかしケトとの会話ではこういう単語を使えないのが厄介だな。

 

「まず、私たちの目は二つの線が真っ直ぐになっているか、それともズレているかをかなり正確に見分けられるんだ」

 

「……それで?」

 

まだ疑いは晴れていないらしい。まあいい。

 

「長さが100の棒に、10刻みで線を入れると目盛りの間隔が10ある棒ができるよね」

 

「ええ」

 

ケトにこういう話をする時、基本的に単位をつけないということになっている。かなり抽象的な思考を要求するから難しいと思いきや、最初のうちは実際の長さに換算して、そして今では感覚で都合の良い単位を選んでいるらしい。おや、となると誤った規矩を使っているのはケトの方では?

 

「で、それをもとにして長さ90の棒も作れる」

 

「……ええ」

 

「これを幾何的に10分割すれば、ひと目盛りの長さは9」

 

「……大丈夫です」

 

「これを組み合わせれば、1刻みで長さを測れる」

 

「……たとえば、68は……50と18の和である、というように?」

 

「そう。まあこれは実物を見たほうがいいかな」

 

さすがに口だけで説明できるほど自信はない。

 

「それを使えば、測量をより正確にできるんですか?」

 

「そう」

 

確かにそういう話をしていたんだったな。ケトにあんな目を向けられたショックで忘れていた。

 

「聞いたことがないですが、使えそうな考えですね」

 

「本当?どこからか何か言われたりしない?」

 

「……そう考えると、量地司の組合にここは聞いたほうがいいですね」

 

「図書庫の城邦に、そういう場所ある?」

 

「ええ、専門家を育成する施設があります」

 

「なるほど」

 

やはり、私のやりたいことをやるには図書庫の城邦はかなり適しているようだ。問題は面倒な政治が避けられそうにないことだが。



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海辺

坂の頂上を超えると、硫黄化合物のかすかな匂いのする風が吹いてきた。海洋プランクトンによる分解などによって放出されるこの香りは、一般的に潮の匂いと呼ばれている。

 

「海ですよ!」

 

「……そうだね」

 

ケトは少しはしゃいでいた。まあ、確かにここまで歩いて見る水平線は格別だ。なんだかんだ上下移動があったので疲れもかなり溜まっている。これで日が出ていて暖かければ言うことなしなのだが、今は収穫期が終わって温度が下がってきたところだし今日は曇りで少し寒いぐらいだ。歩いているとはいえ、外套がないと熱がかなり持っていかれてしまいそうな気がする。

 

「ここからあと、どれくらい?」

 

「すぐですよ」

 

まあ、その言葉を信じるとしよう。

 


 

遠くに見える海岸から煙が登っているのが見えた。

 

「あれは何をしているのかね」

 

「この時期だと、藻焼ですかね?ええと、海の中に生える植物、海藻を焼くんです」

 

「何に使うために?ビーズとか?」

 

「いえ、肥料ですが。しかしキイさん、ビーズの作り方を知っているんですか?」

 

「まあ、常識とまでは言わないけど……」

 

「うん。そのことは僕以外には言わないでくださいね」

 

「秘密を知っている人間は島に閉じ込めるとか、そういうことがあるの?」

 

ヴェネツィア共和国が首都のあるヴェネツィア島に近いムラーノ島にガラス職人を集中させ、事実上幽閉したという話がある。こうして作られたヴェネツィアングラスはしばらくヨーロッパで人気を博したものの、脱走したガラス職人が技術を他国に伝えたり大陸軍(Grande Armée)が共和国を解体したりしてなんやかんや……。やばいなあまり興味がなかったから記憶が曖昧だ。

 

「何でそんな怖いことを……。そこまでではありませんが、あれはいくつかの街での特産物です。その製法は秘密になっていると読んだことがあるので」

 

「なるほど。……例えばさ、私は空気から肥料を作る方法を知っている」

 

「……どうするんですか?」

 

「何種類か方法はあるよ。例えば雷でできた風を水に溶かすとか、雷を使う炉である種の石と炭を加熱して空気と混ぜるとか、水を雷で分解した後空気と高温で反応させるとか」

 

「ろくでもない方法ばっかりですね。……そして、そういう方法ができてしまえば藻焼はされなくなってしまう、と」

 

「そう。私の知識は、それだけの力があるんだよ」

 

「質問をしてもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

「そんな方法が、なぜ作られたのですか?特別に収穫が増える肥料だったのですか?それとも他の肥料よりも安かったのですか?」

 

「……私がいた場所では、これがなければ世界の人の腹を満たすことができなかったんだよ」

 

「そんなに、人が」

 

「そうだね。他にも良い植物を選んだりして、世界の上から飢えというものを少しずつ消していっていた」

 

確かに全ての飢餓者をなくせたとは言えない。色々な問題があったことも認めよう。ただそれでも緑の革命は人類史に残る事業であったし、それが救った人数はそれによって被害を被った人数より多いと言えるだろう。人は空腹では幸福になれない。

 

「けれども、完全に無くすことはできなかったんですね」

 

「……そうだよ。私たちの問題の一つは世界を知らなかったことだ。海の向こうに種と肥料を送れば、あとは勝手に収穫ができると考えていたんだ」

 

発展途上国についてのレポートを思い出す。現地の文化の多くがなくなったせいで社会的共同体が喪失した例。短期的な収穫量のために様々なものを犠牲とした例。あるいは、一度の成功で自信をつけてしまった独裁者が暴走した例も。

 

「賢者であっても全てを予め知ることはできません。仕方のないことだとは思いますが、キイさんはそれを繰り返したくないんでしょう?」

 

「……君は、なんというか視点が高いね」

 

「そうですか?背はキイさんに比べれば低いですよ」

 

ああ、そうだ。私はこの世界では長身な方に入ってしまう。理由は簡単だ。栄養失調。タンパク質の不足。あの食事では、ヒトという種が持つ潜在能力を最大限に発揮することはできない。

 

「視点ではなくて、考え方って言えばいいかな」

 

「より多くのものを見ている、というのも違いますよ。先人が纏めたものを読んだだけです」

 

「何かを読んで理解できるのも、重要な才能だよ」

 

私はそこには恵まれていた。そうでなければ中学校の三年間で数百冊の本を読み切ることはできなかっただろう。まあその時には実際に「理解」できるようになっていたわけではないが。

 

「そうですかね。キイさんに言われると嬉しいですが」

 

かなり自然なので意識しないようにはしていたが、おそらくケトには相当学術分野での才能がある。もとの世界できちんと教育を受けていれば私よりいい大学に行っていたかもしれない。もちろん私は受験戦争の前線にいたわけではないし、人間の価値は偏差値ではないということは前提としておいて、としてもだ。

 

「あ、見てください。切り干し魚(ケーウェ)ですよ」

 

視線を向けると集落らしいところの近くにある干し台とでも呼ぶべきものの上に昔食べたあの鮭とばめいた橙色の棒が並んでいた。

 

「ここで作られているの?」

 

「はい。ここの名産で、色々な場所に運ばれて売られています。海藻の灰と同じように、ここの集落がお金を手に入れる方法の一つです」

 

人影が遠くに見えた。嫌でも自分がやろうとしていることに自覚的になる。たとえ満腹でも、人は不幸になりうる。

 

「目的地の衙堂が見えましたよ」

 

疲れからか思考が負の方向に走っていた私にケトが言う。その外見は他の建物とあまり見分けがつかなかった。



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合掌

ケトはここの衙堂の司士らしい初老の男性と話している。白髪混じりとはいえ、私の知っているライフサイクルとこの世界のそれが一致していることはないだろうことを踏まえると年齢について意味のあるコメントをすることは難しい。そういえばケトに前に何歳かを聞いたが、いくつだったか忘れていたようだ。そもそも日常的に意識しないならば忘れてしまっても仕方がないのかもしれない。

 

「ハルツ嬢はつつがないかね?*1

 

「ええ。そちらの方は?」

 

「昔ほど身体は動かんが、まだ自分の分の糧を得るぐらいはできるよ」

 

会話のリスニング能力がついてきたとはいえ、神経を集中させてやっと追いつける。何か作業をしながら聞き取るとなるとまだ無理そうだ。

 

「紹介が遅れました。こちらはキイ嬢。我々の衙堂で身を預かっております」

 

ケトの言葉は丁寧だ。そして私は黙って立っている。礼儀作法が怪しいので何かミスをするよりは静かに立っている方がいいとの判断だ。

 

「それで、漁業量の方は」

 

「新しい聖典について、編纂作業がな。つまりは書記のできる若者を」

 

「城邦の方からの注文でしょう?事情をきちんとわかってもらわないと」

 

おっと、気を抜いてしまうと一気に聞き取れなくなるな。事務系の話に関する情報交換なのだろうが、そもそも基本単語も怪しいので辛い。ちょくちょく聖典語の単語も混じっている。というより衙堂で使う言葉には聖典語からの借用も多い。活用が東方通商語っぽくなっているので聖典語で考えていると引っかかることがある。

 

「それでは、今宵は旅人のために少しいいものを作るかね」

 

「いきなり訪ねた上、このようなもてなしを頂いて感謝します」

 

「構わんよ。若人の学びを見送るのも老人の務めさ」

 

それを聞いて、ケトは胸の前で少し独特な形で指を絡ませて手を合わせた。

 


 

「で、あれは何?」

 

いくつかの寝台が置かれた客間で、私は荷物を整理しながらケトに聞く。

 

「どれですか?」

 

「ほら、さっきやってたこういうの」

 

言葉で説明するのは難しいので、私はケトが作っていた手の形を真似る。

 

「ああ、それは……なんて言うんでしょうね?」

 

「名前がない?」

 

「知りませんね……。あと、そこの指の重ね方が違います」

 

「どこ?」

 

ケトも自分の前で手を合わせたので、頑張って比較する。あ、左手の人差し指と右手の中指の順番が逆か。細かいように思えるが、慣れていればすっとできるのだろう。

 

「そうです。ええと、これは……相手に感謝をしたいけれども、口にだすほどではない時に使う動きです」

 

ハンドサインやジェスチャーの類だろう。なるほど、こういうのを身につけるのもこの世界でどうにかやっていくには重要そうだ。

 

「それで、脚は大丈夫ですか?」

 

「何度も聞いてくるけど、問題ないよ」

 

「この前まで立てないほどの怪我をしていたんですからね?注意してくださいよ」

 

「……まあ、身体は大切にしないとね」

 

睡眠時間と休息は重要だ。それを疎かにして何もかもが崩れ去っていった人を私は見てきた。私もそうなりかけていた。

 


 

「……初めて食べる味ですが、これは素晴らしいですね」

 

木の椀に入った、荒く挽いた麦粥に近いもの。魚の旨味が強い。具に使われている海藻のコリコリとした食感もいい。

 

「よく干した魚を戻した液と、新鮮な魚の骨を使っている。古いものと新しいものが合わされば、かくも素晴らしき味わいが出るということだ」

 

そう老司士は言う。柔らかくなった切り干し魚を噛むと、口の中に熱い汁があふれる。塩味が濃い目だが、歩いて疲れた身体にはいいのだろう。

 

空腹なのもあって、匙が進む。気がつくと椀は空になっていた。ケトの視線がこちらに向く。

 

「腹は満ちたかね?」

 

「ええ。良いものでした……」

 

私は手を合わせる。さっき覚えた方法だ。老司士が微笑んだところを見ると、正しい使い方ができたのだろう。

 

「それで、城邦までだったな。海沿いにずっと南に行く道がある。そこを行けばいい。そうだ、その紹介状だけでは不安だろう」

 

老司士は墨の入った小さな瓶を取り出して、二行ほど書き足した。

 

「この名前を出せば、城邦の大衙堂にいる友人であれば悪いようにはしないだろう」

 

「ありがとうございます」

 

ケトが紙を受け取る。こういう信用というものがなければ、この世界での活動は難しいらしい。そう考えると私は本当に幸運だったのだろう。

*1
「嬢」は司女などの働く女性、特に頭脳労働者に対して使われる敬称。男性に対して使う「君」(キイがケトに対して使う「くん」とは異なることに注意せよ)に対応する。相手が未婚かどうかには関係なく用いられるが、借用元の言語では独身であるという意味合いが強かった



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雨止

「……キイさん、気がつきますか?」

 

「風が冷たくなったね」

 

外套越しに、背筋がぞくっとするような寒気が襲う。空を見上げると先程に比べて暗くなっていた。

 

「どうしますか?」

 

「私はここに慣れてないからわからないけど、どこか雨を避けれそうな場所は?」

 

「ええと、ここから戻るかそれとも先に進むか……」

 

「戻るほうがいいかな。先に進んで何もないよりはいい」

 

「そうですね。……到着が明日の昼過ぎになりそうですが」

 

「なら、ゆっくり行こう」

 

「ええ」

 

私たちは来た道を足早に引き返し始める。

 

「建物があったのは覚えていますか?」

 

「さっきあったね」

 

ゆっくりと会話するよりも、酸素を歩くことに使いたい。杖を持つ手に力が入る。

 

「あそこで雨をしのぎましょう」

 

「場合によっては夜越しか」

 

ぽつりぽつりと交わされる会話。

 

「すみません、あの時に留まっていれば」

 

「雨の前にたどり着ければ問題ない」

 

湿度は高まってきている。いつ雨粒を感じてもおかしくはない。

 


 

雨が本格的に強くなったのと、私たちがカビの匂いがする廃屋に駆け込んだのはほぼ同時だった。

 

「……危なかった、ですね」

 

息を切らせながらケトは言う。私はまともに話せない状態で床に座り込んで荒い呼吸をしていた。

 

「……これは、しばらく動けないね」

 

目が室内の暗さに慣れるころには、私の呼吸も落ち着いていた。

 

「ええと、こういう時はまず、火ですかね」

 

ケトが少し焦っている。

 

「起こせる?」

 

「……難しいと思います。この暗さと湿気では」

 

着火の方法はいくつかあるが、多くの場合道具が必要だ。火口になりそうなものがあっても摩擦熱で発火点に到達するのは決して簡単ではないし、火打ち石は安価ではない。ケトが今回の旅で持っていかなかったのはまあ仕方ないと言えるだろう。

 

「なら、まずは目が見えるうちに何かを食べよう」

 

「そうですね」

 

思考を回すことができているようでなによりだ。

 

喉を潤し、硬いパンをゆっくりと齧る。

 

「ケト、こっちに来て」

 

「どうしてですか?」

 

「暗いと見えなくなるから」

 

「わかりました」

 

壁にもたれかかっていた私の隣に、ケトが座った。やはり冷えるな、と思いながら外套の中で身体を丸めた。

 

「……キイさんは、旅をしたことがありますか?」

 

ケトの声。周りはもうものの輪郭が怪しいぐらいに暗い。

 

「私のいたところと、ここでは、旅の意味が違うよ」

 

「どういうことです?」

 

「車に乗って、昨日私たちが歩いたような距離の10倍は日の出ているうちに進めた」

 

「動物に引っ張らせたんですか?」

 

「いいや」

 

「では、どうやって?」

 

「説明が難しいな……」

 

「ゆっくりでも、いいですよ。寝語になってしまうかもしれませんが」

 

ああ、このくらい複合語ならなんとなく意味がわかるな。親が子に話すようなものか、男女が話すようなものかはわからないが。

 


 

収蔵品のエンジンの修理をやった記憶を頭の中で再現する。長期間いい加減な環境で放置されていて、シリンダーまで錆びたものだったので本当に苦労した。一部パーツを作り直して動態復元までもって行けたのは本当に奇跡に近い。おかげで論文が一本書けたのでよかったが、あれは一介の学生がやる範囲だったかは怪しいところだ。まあ実際は技師さんの力をかなり借りたし、博物館の名前を使って様々な資料を取り寄せたりしたので私の成果と胸を張って言えるわけではないが。

 

で、その知識を踏まえてもなお、エンジンについて説明するのは難しい。ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアールからフェリクス・ヴァンケルまでざっくりとした流れは抑えてあるが、その歴史に伴う技術についてはほとんど無知だ。一応私の知識を組み合わせて、ある程度の精度を持った加工機械があれば、初歩的なエンジンを十年がかりで作ることはできるだろう。その時間をかけるには、エンジンというのはどうしても魅力に欠ける。鉛バッテリー交換式の電気自動車でも悪くない性能は出せるし、その開発に注力していれば効率化は目指せたように思う。

 

「キイさん?」

 

「……あ、え、ああ、ごめん。少し考えていて」

 

思考が少し深いところまで潜っていた。まったく、本題を忘れそうになる。なんだっけ。

 

「そんなに、わかりにくいですか?それとも……」

 

「知らないのは、間違いないよ」

 

「……そうですか」

 

「ただまあ、そういう動くものを作りたくはあるね」

 

船の動力源としてのエンジンとしてなら、開発する価値はあるかもしれない。かつての世界に慣れすぎて忘れていたが、別に同じような黒い車を大量生産する必要はないのだった。というより港湾都市であればこの分野に興味を持たれる可能性はあるな。

 

「██████よりも疾く地を進む……*1

 

ケトは眠そうに、あまりはっきりしない声で呟いて私の方に少し身体を寄せ、静かになってしまった。私も開けていたか閉じていたかわからないような瞼から力を抜いて、ゆっくりと、とりとめのない思考に溺れていった。

*1
馬よりも疾く地を進む……(ここでケトが「馬」と呼んでいる生物について詳細を述べることはここでは避けるが、ウマ科ウマ属のEquus caballusではないことは事前に断っておく)



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遠望

目覚めは、想定していたよりも悪くなかった。道路にぬかるみもなく、雨上がりの少し湿った空気も朝焼けの下では悪いものではない。

 

「おはよう、眠れた?」

 

少し寝ぼけているケトを見ながら、私は軽く身体を動かす。ラジオ体操めいたなにかだ。少しボキボキと背骨がなるあたり、あまりいい寝相ではなかったらしい。

 

「……ええ、いい朝ですね」

 

ケトも調子を取り戻したようだ。今のところ脚の軽い疲労と痛み以外は問題なし。

 

「すこし食べてから、動きますか」

 

ケトはそう言いながら固く焼き硬めた旅用のビスケットを私に差し出す。本当にかなり固く、ナイフで削る必要があるぐらいであるが案外風味はいい。よく挽いた中等から上等の麦粉を使い、低温でじっくり焼いたものだ。問題は口の水分が吸われて喉が渇くこと。角砂糖でもあればいいのだが、この世界では贅沢品だ。蜂蜜はあるらしいが、輸入が必要な高級品らしい。あとは干し果物、それに発芽した麦から手間を掛けて作る麦蜜ぐらいしか甘味はないようだ。ちなみに麦蜜はこのビスケットにも入ってはいる。酢酸鉛(II)は少なくともケトの知識にはなかった。なお私はこれを舐めたことはない。小学校時代に計画を立てようとしたら親に「自殺未遂は健康保険の適応外」だと言われたので仕方がない。さすがに工業グレードのキレート剤を何の保護もなく体内に入れるのはそれはそれで危ないのでやめた。

 

「だね」

 

私は受け取ったビスケットの端を噛み砕いた。

 


 

「あれでしょうか?」

 

「みたいだね」

 

海の先、出っ張ったような形でそれはあった。周囲には何隻かの三角帆を持った船が見えた。城壁に囲まれていると言えばそう思えるぐらいにはぼんやりとしているが、大きな都市なのは間違いない。距離はどれくらいだろうか。手を伸ばして飛び出した城壁が何ミリラジアンぐらいあるか測ろうとしたがそもそも基準がないのでわかるわけがなかった。

 

「これなら、門が閉まる前には間に合うでしょう」

 

「門限は日没と同時だっけ?」

 

「そうですね。まあ、実際はあまりギリギリだと嫌がられるので早く行く方がいいのですが」

 

うっ。締め切りギリギリ人間だった私は胸を抑える。

 

「ただ、やはり街に近づくと道路もいいものになりますね」

 

「本当だ」

 

今まで通ってきたものも最低限道だとはわかったが、ここからは大きな石で舗装がされていた。

 

「道路って、誰が管理しているの?」

 

「一般的にはその近くの集落か衙堂ですね。商人の荷車が通れないと困りますから」

 

「なるほど」

 

「とはいえ直すのも楽ではありませんから、衙堂経由で職人を呼ぶとか……」

 

ケトの話を聞きながら、私は一抹の不安を覚える。彼の知識はあくまで本で読んだものか、ハルツさんの話に基づくものだ。そういう少ない情報でうまくやるというのは本当に難しい。上京者が感じる文化の違いは面倒なものだ。大学時代の知人にそういう例があったので覚えている。結果としてその人は人間関係を嫌い研究に打ち込みどこかに就職したはずだ。めでたい。辞めていなければいいが。

 


 

「この城邦での一番大きな衙堂はどこにありますか?」

 

「ああ、それならまずここの通りを進むだろ」

 

衛兵がケトに答えている横で、私は城壁を見る。高さは私の背丈の5倍、厚みはその半分。案外分厚いものだ。これを壊すとなるとある程度の爆薬が欲しくなる。ただ城壁の上に通路があるのでここから攻撃を受けることにはなるだろうな、と明らかに思考が侵略側の状態だ。

 

「まだ日には余裕がありますね」

 

ケトがワクワクしているのが手にとるようにわかる。

 

「……まずは衙堂に行くよ」

 

「えー」

 

「明らかに旅人で、まわりをきょろきょろ見ている人間は後ろ盾がありません、危害を加えても問題ありませんと言っているようなものだよ」

 

この世界の治安は、正直に言って想定よりもかなりいい。少なくとも女性と少年が二人で歩いて襲われる心配をしながらビクビクしなくて良い程度には。ただ、街では根本的に人が多い。例え悪意を持っている人間が千人に一人でも、ケトが前に言っていた数字が正しければ数百人いることになる。実際はもう少し多いだろう。

 

「はい……」

 

「それに、ここを見る時間はゆっくりあるから」

 

「キイさんは、こういう街に慣れているんですか?」

 

「人が幾千万もいる、端から端まで歩いて半月はかかるような大きな街を知っているよ」

 

「それは街なのですか?そして本当ですか?」

 

「嘘ではない」

 

東海道巨帯都市(メガロポリス)の人口は日本の半分だったかな。まあ、あれを全部街と言うのは語弊があるが。

 

「で、衙堂の場所は?」

 

私が聞くと、ケトは目の前の人混みの道を指差した。うん。色々なものが売っていそうで心に悪いな。

 

「ケトくん。私が君の手を握ってもいいかい?」

 

「……ええ、構いませんが」

 

ケトの手首をつかみ、私は早足で進む。

 

「誘惑に負ける前に突っ切るよ!」

 

「わかりました」

 

ケトが私と速度を合わせて進んでくれる。指からはかなり速い脈拍が感じられた。



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櫛比

騒がしい中を、できるだけ周囲に意識を向けないようにして進む。耳に入る言葉の響きは東方通商語のものだが、それ以上はわからない。ああ、本当にきちんとわかっていなくてよかった。こういう場所にいると時間が溶けてしまう。

 

「キイさん!」

 

ケトが私の腕を叩くように触れて、よく通る声で言う。

 

「なに?」

 

「そろそろ左です!大通りなので」

 

「わかった」

 

この雑踏なら掏摸(スリ)も出るだろう。素人が長居するのは危険だ。

 

鼻孔をくすぐるのはメイラード反応でできた化合物。聞こえるのは交渉の声。それらがふっと薄くなって、涼しい風を感じた。

 

「……抜けましたね」

 

「うん」

 

人が一気に少なくなった。たぶん商業区域というのがあって、屋台で様々なものを売ることができるのだろう。

 

「ここで何かを売るのって、特別な許可がいるの?」

 

「いいえ、この街ではそういうものは減らされています」

 

おや、比較的自由市場に近いのだろうか。

 

「詳しく聞ける?」

 

「僕が話すより、あとで専門の文書を読んだほうがいいですよ」

 

「どうせ聖典語でしょ?」

 

「いえ、たぶん市場に関することなので東方通商語のものもあるはずです」

 

うわぁ、面倒だ。

 

「……で、この近くのはずです」

 

先ほどの屋台道とは違って、静かだった。建築デザインもあるのだろうか、比較的統一されている。道の綺麗さもあるのかもしれない。石造りの道に、三階建て程度の間口があまり広くない建物が隙間なく並ぶ。たぶん奥行きがあることで延床面積をとっているのだろう。ここらへんはヨーロッパの都市に似ているな。都市人口が増加すると、都市の面積を広げるか人口密度を上げる必要が出てくる。前者は城壁の拡張が面倒なので、建物を上に増築することで収容人数を増やすのだという話を昔どこかで見た。

 

そんなことを考えていると、道路の左側の壁から扉がなくなっていた。とすると、ある程度大きな建物か。

 

「たぶんあれですね」

 

ケトが指さした先に門があった。幾何学的な装飾が施されている。垂直に刻まれた溝はどこまで実用的なものかは分からないが、雨の痕がないところから見て清掃が定期的にされているのかもしれない。

 


 

「この衙に用があるのか?*1

 

筋肉がよくついた見張りらしき男性の一人が私たちに声をかける。あくまでも丁寧な口調だ。

 

「はい。これを」

 

ケトは懐から紹介状を取り出した。

 

「『第四区第八小衙堂長たる司女のハルツの名によって紹介を受けました』*2

 

聖典語だ。このくらいの定型文なら聞き取れる。紙を開いて、きちんと確認しているところを見るときちんと文字が読めるのか。

 

「承った」

 

彼は紹介状を丁寧にたたみ、ケトに返す。

 

「担当のものを呼ぶ。しばし待たれよ」

 

そう言って見張りは門の先の建物に入っていった。

 

「おもったより、すんなり行ったね」

 

私は呟くように言う。

 

「……この先は、どうにかなるとハルツさんは言っていましたが」

 

「あの人の言葉、そこまで信じられる?」

 

「難しいところですね……」

 

いい人なのは、間違いないのだけれどもな。

 


 

「初めましてケト君にキイ嬢。この衙堂で様々なことを、例えば君たちのような学徒の世話をすることを生業としている。よろしく頼む」

 

通された部屋で出迎えてくれたのは、痩せた中年に見える男性だった。

 

「さて、君たちはどれほど説明をハルツから受けた?」

 

机の向こうから飛んでくる鋭い視線から研究者にたまにいるタイプだな、と私は考える。職務に対しては有能。それ以外に対してはまだノーコメント。

 

「彼女を知っているのですか?」

 

少し驚くようなケトの声。

 

「昔勉強を教えていた。……教える側としては、扱いに困るやつだったがな」

 

世間はなかなかに狭いものだ。かつての学会を思い出す。変な分野に顔を出しても、大抵誰かが知り合いの知り合いだったりするのだ。こうして界隈で私の悪名が轟いていくのである。

 

「僕はある程度の話を聞きましたが、あくまであなたの事を知らない程度にしか聞いていません」

 

「なるほどな。そちらのキイ嬢はいかがかね?」

 

軽く息を吐く。柄にもなく緊張しているようだ。

 

「この地は異境なれば、決して慣れているわけではありません。そのため、何か見落としがあるかもしれませんので説明を頂ければ、と思っています」

 

「……そうか。ケト君、君のことはハルツから伝わっている。優秀だそうだな」

 

「ただ古典を学んだだけに過ぎません」

 

「それから新しいものを生み出せるのは力だよ。先に出した収穫報告、良かったと聞くぞ」

 

げ、あれそんな噂になるぐらいまで広まっていたのか?

 

「評価誠に感謝いたします。しかしながら僕が成したのはあくまで筆を動かしたことであり、このキイ嬢から学んだものです」

 

「ほう。……さて、キイ嬢。不躾な質問になるが、君は来歴を語れないそうだな」

 

「……ええ」

 

例え本当のことを言ったところで、信じる人がどれだけいるだろうか。異世界転生者の存在と、狂人が吐く嘘の可能性であれば明らかに後者のほうがありえそうだ。

 

「ならば、それなりの力を示してもらおうか。東方通商語には不慣れと見えるが、聖典語は?」

 

「『未だ学びて僅かな刻しか経たぬ故、活用の一つも覚束無いほどで』」

 

男性は少し耐えた後、いきなり咳き込むように笑った。なんだい、聖典語でこういうことを言うのがそんなに面白いか?*3

 

「悪くない。何を得意とする?」

 

「算学や薬学であれば、ここでの流儀とは異なりますが一通りは」

 

「それはいい。外来の知恵を取り入れるのがこの城邦の、そして自らを褒めるようになるが衙堂の良いところであると思っている」

 

男は改めて、私たちを見た。

 

「図書庫の城邦へようこそ。君たちについては、衙堂の名によって保護を与えよう」

*1
「衙」は「衙堂」に比べて建物を指すという側面が強い単語の訳として用いた。

*2
以降、特記なき限り二重鍵括弧でくくられた部分は聖典語の単語あるいは文章を意味するとする。東方通商語への借用程度であればこのような表記はしない。

*3
なお、ここでのキイの発音はかなり流暢であった。



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学徒

図書庫の城邦には、海を超え山を超え数万とも言われる学徒が集まる。私の知識に照らし合わせるなら、かなり大きな学術都市だ。そしてその学徒から授業料を取ることで生計を立てる数千の講師がおり、その上には図書庫から直接給与を得ることのできる講官が数百人いる。少ないポスト、博士研究員、任期付雇用。おかしいな嫌な記憶が蘇る。

 

「学舎と学徒寓が並ぶのが南側。港が並ぶのが北西で、東にあるのが工匠区だ。ここまでは良いかね?」

 

説明をしている男性が話を止めて私たちを確認するように見た。

 

「……ええ」

 

私は頭の中で急いで地図を練り上げる。ケトは素直にうなずいているところを見ると、たぶんこのレベルの話は聞いていたのだろう。

 

「城壁の中であれば、衙堂が君たちの身柄を保証する。当然明らかな罪を犯したものを庇うことはできないが」

 

「外に出たら、どうなるでしょう?」

 

ケトが質問を投げる。

 

「……多くの学生は誘惑に耐えられない。夜の愉しみに溺れ、身を壊し、学徒としての本分を忘れる。意味はわかるかね?」

 

私は頷く。ああ、大学でよく見たやつだ。飲み会、パチンコ、麻雀、競馬、そして異性。うん。どれもやったことがないな。健全すぎる大学生活を送ってきたせいで存在は知っていてもその恐ろしさはよくわからない。大学院時代に席を並べて学んでいたバケモノの中にはこういうものに触って平気だったやつもいるが、私はたぶんハマれば抜け出せなかっただろう。ただ、これらより研究のほうがよほど人生を壊す気がする。

 

「用心します」

 

良い返事をするケト。

 

「よろしい。さて、いくらかの学徒は講師への支払いと学徒寓で暮らすために働くことになる。衙堂の蔵に尽きぬ銀片なし、ということで衙堂も君たちがここで過ごすために必要な全ての資金を出すことはできない」

 

前にも聞いた言い回しだ。たぶん定型句なのだろう。

 

「故に、君たちは働く必要がある。商会や工匠区で働くか、あるいはこの衙堂の司士や司女としての身分を得るか、あるいは講師となるかだ」

 

「講師になれるのですか?」

 

「もちろんだ。この城邦では、届け出を行う限り何人であっても講師となることができる。事実、僕もかつて講師としてハルツに文法学と地理学を教えていた」

 

私がした質問への解答から考えると、この城邦はかなり色々自由なようだ。となると講師から学ぶ場合ハズレを引かないように注意しなくてはいけないということになる。

 

「授業料はどれくらいなのでしょか?」

 

ケトの問いかけに、男性は少し悩む。

 

「そうだな、特に良いとされる講師で月に銀片八つか五つ、中には銅葉一つで半日教えるというものもいる。……が、これらは特別だ。実際は銀片二つか三つといったところだろう」

 

結構高いな。かつての世界の大学の学費程度か。

 

「働くならおすすめは衙堂だ。なにせ人手が足りない。新しい聖典を編もうとしているらしいが、収穫の集計も済んでいないのに馬鹿なことを」

 

おっと、毒のある言葉。末端管理職の悲哀を感じさせる。

 

「学徒の世話役と聞きましたが」

 

そう聞くケト。

 

「ああ、それもしている」

 

「……なるほど。務め人の辛いところでありますか」

 

察することのできた私は哀しい男とともに溜息を吐く。

 

「故に人手が欲しいのだよ。なあに、慣れてしまえばそう難しくはない。あの収穫報告を作れたのであれば、すぐにでも働ける」

 

「では」

 

「今しばし、考える時間を頂けないでしょうか」

 

ケトを手で制して、私は言う。

 

「構わない。むしろ、旅の後にいきなりこのような選択をすることのほうが酷なことだ。脚を拭い、今日は休むといい。衙堂の宿舎と食堂を使えるよう手配しよう」

 

大学で文系に進んだ理由は学会の後の懇親会でご飯をご馳走になったからだった。さて、私は一宿一飯の恩を忘れることができるだろうか。

 


 

四つの寝台がある部屋で、泊まるのは二人。夕食時まではまだ少し時間がある。

 

「これでいい?」

 

ケトの脚を濡らしたぼろ布で拭きながら言う。結構土や埃で汚れていた。皮が分厚いな。

 

「……すみません、拭かせてしまって」

 

「いいのいいの」

 

「それで、どこで働きますか?」

 

「ケトくんは、どうしたい?」

 

「僕は衙堂が良いと思います」

 

「私もしばらくはそうした方がいいと思うな」

 

「なぜです?」

 

「衙堂であれば、すでに私たちには実績がある。それ以外ではまず自分の実力を示すところから始めなければいけない」

 

「もし他で働くとしても、衙堂で働いていたということは使える……と」

 

「その通り」

 

指の間も綺麗にしながら私は言う。

 

「僕には会いたい講官がいます。授業を受けられるかどうかはわかりませんが……」

 

「いいことだね」

 

私は大学に入ってからアカデミアのシステムを把握した。母がその界隈の人であったが、そういえばあまりそういうことは教えてもらわなかったな。

 

「キイさんは、やりたいことがありますか?」

 

「市場を見て、ここに無いものとあるものを知りたい。動けるのはそれから」

 

「……やはり、社会を変えるものを作りたいのですか?」

 

「それがないと面倒だからね」

 

まあ、手早いところであれば衙堂の業務でも使えるところから改良を進めていける。上司はあの男性になるのだろうか。そういえば名前を聞いていなかったな。

 

「わかりました。それを手伝えるよう、できるだけ学びます」

 

「あまり気負わなくていいよ。必要なら私だって学ぶ」

 

「聖典語から?」

 

「そうだね。……やっぱり、わかるのは羨ましいな」

 

「経験です。キイさんの脚も、綺麗にしますよ」

 

私の手から布を奪うように取って、ケトは言った。



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研修

その部屋は、大学や企業の事務室と同じような空気が漂っていた。もちろん全員が椅子ではなく床に座って作業をしているし、インクの独特の匂いがするという違いはある。ただ、淀んだ重い気配は馴染みのあるものだった。

 

「おはよう」

 

これから上司となる人物の後ろにちょこちょこと付いて、私とケトは部屋に入った。

 

「ああ、おはようございます」

 

「その後ろの人達は?」

 

「後で書類を確認してください」

 

部屋の中にいた十何名かからの視線と声が私たちに刺さる。

 

「まあ、落ち着け。この二人はキイ嬢とケト君。これからここでしばらくは働いてもらうことになる」

 

それを聞いて、作業をしていた人たちの目の色が変わった。

 

『███ ███████ ██████ █████████ ███████████ ██████ █████*1

 

『██████ █████ ████████ ███ ████████ ███████ ████████*2

 

虚ろな目で聖典語の何かを口々に言う職員。正直に言って。怖い。

 

「……喜んでもらえたようで何よりだ。では、後は任せた」

 

「どちらへ?」

 

「商会からの陳情対応」

 

事務仕事をしていた人の一人からの質問に、上司は手早く答える。

 

「……お疲れ様です」

 

この管理職、多忙で有能なのだろうなと感じながら私はその背中を見送った。

 


 

「煩務官に捕まるとは、君たちも不幸なことで」

 

先ほど謎の聖典語を唱えていた比較的若い女性が立って、私たちを空いている机に座るよう招いた。私よりも年下なんじゃないか?

 

「煩務官?査察官ではなく?*3

 

不思議そうにケトは聞く。

 

「煩務官で間違いない。まずはどうしてここに?」

 

私とケトは目を合わせて、一瞬だけイニシアチブを争う。とはいえ私に会話力はないのでケトに任せるしかないが。もう少し頑張って自分から発言しないと成長しないのはわかっているのだけれどもね。

 

「というわけで、今日は朝食を食べてすぐここに来たわけです」

 

「なるほど。まああの人も忙しいからな……」

 

目の下の隈を見ると、彼女もかなり働いているのだろう。

 

「ひとまず私たちの仕事の分には参加しなくていい。こう言っては気を悪くするだろうが、慣れていない人には書かせられない」

 

「収穫報告とはまた違うのですか?」

 

「読んでみればわかるよ」

 

そう言って取り出された巻物は、前にケトが読んでいたものと違ってかなり丁寧に作られていた。染められた紐と厚手の表紙から格調の高さが感じられる。

 

「……これは」

 

私でも内容を理解できた。各地の収穫量がずらりと並んでいるだけだからだ。

 

「あの様子だとまあ、最初の数日はともかく慣れてもらうしかないかな。算術は?」

 

「異境流であれば」

 

私は言う。

 

「そう。なら、少し待って」

 

彼女は蝋板を一枚私に渡した。

 

「三十九万二千四百六十七に千四百七十六は幾つ入っている?」

 

「ええと」

 

数字を書いて、筆算をしていく。収穫報告の時に色々やったので手がある程度は勝手に動いてくれて楽だ。

 

「二百六十六に足らず、でいいでしょうか?」

 

「いいね」

 

高校時代の面倒な手計算が役にたつのは複雑な気分だ。

 

「それじゃあ、これを二人でやってほしい」

 

彼女はいくつかの巻物を出した。

 

「あの図をこれから作れるかな。それができたら、描き方をまとめて」

 

私とケトが頷く。マニュアル作りか、楽しそうだ。

 


 

数百件のデータを整理するのも、慣れてしまえば案外早く終わった。

 

「確かに見やすいね。これなら頭領に出すのはこちらの方がいいな」

 

「頭領って?」

 

「この城邦の一番上の人」

 

なるほど、国家指導者か。待ってこれそんな重要な書類なの?

 

「キイさん、収穫報告は国家の重要事項ですよ」

 

ケトが耳打ちしてくれる。いや、わかるけれども。

 

「えーとケト君だっけ?睦まじいのは結構だが、仕事の場では嬢や君で呼ぶべきだ」

 

「……すみません」

 

しゅんとなるケト。

 

「寝台の上ではちゃんと呼んであげるといい」

 

「断っておきますが、そういう相手ではないです」

 

「ふうん、ならすまない」

 

私がいたころならセクハラ発言として問題になっていただろうが、まあこの世界の価値観について今はとやかく言うべきではない。むしろ素直に引くというところは評価するべきだろう。

 

「他にもこうやった描き方はあるか?」

 

彼女は私を見て聞く。

 

「そうですね、何を表したいかにもよります。量の大小であったり、時間に伴う変化であったり、全体に対する割合であったり」

 

「例えば、どの地域の収穫量が多いかを示すことは?」

 

「地図に重ねて……ああ、いい地図か」

 

「いい地図?」

 

「キイさ……キイ嬢は量地の分野の知識もあって」

 

「ああ、つまりは煩務官と同類か」

 

あの上司と同じ扱いを受けるのはどうにも変な気分だ。

 

「ともかく、二人には報告の下書きを作って欲しい。過去の報告は後で持ってくるから、参考にするといい」

 

さて、書類作りは昔からあまり好きではなかったがどうなることやら。

*1
おお神々よ、汝の崇高なる意志を我らは称えん(比較的一般的な祈りの詩句の冒頭に使われる表現)

*2
乾きに雨を、飢えに麦を与えてくださった!(「乾き」と「飢え」、「雨」と「麦」が韻を踏んでいる)

*3
査察官は古帝国における官職の一つで、各地の郡(行政管区)に首都から出向し情報を集めるという名目でしばしば左遷に使われていた。煩務官という役職はない。なお、聖典語では「煩務」と「査察」は似たような発音である。



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価値

この世界での授業は太陰暦ベースで、だいたい一月で講義が一つ行われる。太陽暦と組み合わせると都合が悪いのではないかとも思うが、案外これでうまくいくらしい。まあかつていた世界も7日周期のよくわからない時間区切りシステムを使っていたからな。フランス革命暦とかいう浪漫全振りで実用性が怪しい代物でなくてよかった。

 

「面白そうな講義、知りませんか?」

 

「私が知っていると思う?」

 

私たちがこう話しているのはこぢんまりとした部屋。二つの寝台と、二つの書き物机。あとはクローゼットというか衣装置き。ちなみに服は今着ているものと替えの肌着と外套しかない。この世界での服は本当に、高級品なのだ。となるとそんなものを貰っていた衙堂生活が恐ろしくなる。善きサマリア人でもそこまではしてくれなかったぞ?

 

「キイさんも、こういうところで学んだんですか?」

 

「まあ、もう少し色々便利だったけどね」

 

よく落ちる履修登録システムも、検索機能が怪しいシラバスも、今の世界に比べればなんと便利なことか。これをアナログでやってもいいが兎にも角にも紙が高すぎる。

 

「作ったりしますか?」

 

「何を」

 

「その……便利に学ぶための、色々なものを」

 

「私は今のところ講師をやる予定はないよ」

 

街全体に学舎があり、それを講師が借りて授業をするらしい。もちろんそれで食べていくには足りないので更に住み込みで稼ぐことが一般的である。学徒が講師を兼ねることも一般的であるので、本当に講義の質は様々だと衙堂の人たちから聞いた。なんでこういう変なところに嫌な記憶が蘇ってしまうのだろう。文系の大学に行こうとした私を「あなたは凝り性だから、成功か破滅かがはっきりするまで止まりそうにない。そして十中八九破滅するから辞めておきなさい」といった母は正しかった。ただ、当時の私はいやこの親でも成功できるんだから楽勝だろと片に反抗期ぶっていた。

 

「それに、教えるのは楽ではないから」

 

「……やはり、そういう経験が?」

 

「少しだけ、ね」

 

一応知識はある。不登校な小学生だった頃に「学校で学ばないなら自分で学べ」と言われて小学校学習指導要領を読んでいたやばいガキだったので、まあ色々と。いや待て。

 

「ねえケトくん、質問」

 

「どうぞ」

 

「教え方って、どうやって学ぶの?」

 

「それはまあ、誰かが教えているのを見て学びながらですよ」

 

「それについての本とかは、ない?」

 

「……聞いたこと、ありませんね」

 

げえ。ヨハン=アモス・コメニウスから始める必要があるかもしれない。

 

「……書くか?」

 

「本を書いても、一度に一人しか読めませんよ。それなら講義したほうが多くの人に伝えられます」

 

「……図書庫があるのに、知識の蓄積はそこまで重要視されていない?」

 

「ええと、本は死人の言葉を伝えるが、なぜ生きる講師から学ばないのか?という詩が」

 

「あー……」

 

確かにそれならまあ、本を新しく書くメリットはそこまで大きくはないのか。というか全部写本ならコストがアホみたいにかかる。

 


 

物の値段を決める方法にはいくつかある。一つ目はそれを作るためにどれだけの労働が必要とされたか。もう一つは、その物に消費者がどれだけの価値を見出すか。経済学用語を使えば労働価値と効用価値ということだ。

 

衣食住のような基本的なものの場合、効用価値は高くなる。ただそれ以上に、たぶんこの世界では労働価値の影響が支配的だ。効用価値を特に考えなくてはいけないのは物がある程度余っていている時。

 

で、何かを作るのには非常に手間がかかる。紙を一枚作るのに、布を一枚織るのに、本を一冊作るのに、かつていた世界はほとんど労力をかけていなかった。その背景にあるのは大量生産と、それを支える技術と、それを回せる経済と投資と……。つまりは政治である。どうしようもない。

 

ただ、これらは相互に関係性を持っている。良い技術が投資と市場を生むならば、私の知識を元手に世界を回すことはできるかもしれない。問題はそれを支える理論と人材が薄いこと。私の知る歴史では数百年かけた蓄積があって可能となったのだ。それにラッダイト運動のような反発も当然考えられる。

 

「一年ぐらいかけて、用意したいものがある」

 

私は軽く目を閉じて、呟くように言う。

 

「何ですか?」

 

「搾油機、文字の形、良い配合の(インク) 、滲まない紙、腕のいい金属細工の職人、あとは……それを守ることのできる、権力」

 

「まず物についてですが、銀片が二百もあれば足りますかね」

 

「だよなぁ……」

 

今の私たちには出せない額である。必要なのはパトロンか。どこにいるんだ。

 

「何を作るんですか?」

 

「本をたくさん」

 

「……具体的に何をするのかはわかりませんが、相当の権力が必要ですよ」

 

「どこに?」

 

「本をそんな簡単に作れるのなら、多くの書字生が職を失います。図書庫はそういう経験を持ったかつて学徒であった人たちに支えられています。ここまではいいですか?」

 

「……つまり、図書庫が敵となる?」

 

「それだけではないでしょう。図書庫と繋がりの深い衙堂も、場合によってはこの城邦そのものが敵に回ります」

 

「うわぁ」

 

さすがケトだ。これだけの情報からここまで読むのはこの世界を何も知らない私にはできない。

 

「どうすればいいと思う?」

 

「書字生を味方にすること。そのためには学徒と同じ目線で学ぶのが良いかと」

 

「誰かが学んでいるのを見て、学ぶ、か」

 

まあ、勉強は昔から好きだった。どこまでこの世界の教育が進んでいるかはわからないが、教え方から学べるものも多いだろう。

 

「で、何をどこで誰から学びます?」

 

「何も知らない」

 

「……衙堂の人たちに聞いてみますか。参考になるといいのですが」

 

本当は現役の学徒に聞くのがいいのだろうが、その方面の知り合いがまだいない。辛いところだ。



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事務

前借りした給与で買った屋台の炊き込みご飯を道路脇に座って食べながら、私はぼんやりと宙を見る。

 

「大丈夫ですか?」

 

「久しぶりに頭を使ったからね……」

 

紹介された講義は人気らしく、立ち見の学徒もいるほどだった。やったのは聖典語の単語と文法。ケトが欠伸をしていたところを見ると彼にとっては特に難しいものでもなんでもないらしい。大抵の講義は一回目の授業が終わった後に授業料を支払い、それと引き換えに履修者であることを示す木の札をもらう。もしその講義に受ける価値があると思えなければ早々に退出する、ということなのでつかみは重要そうだ。

 

「聖典語で聖典語を教えるの、本当にどうして……」

 

「そういうものでしょう?」

 

「私の知っているところではそういうものではないの」

 

それにしてもこれはなかなか美味しい。魚ベースの出汁であまり粘ついていない米を蒸して香草をどかっと入れたものだ。炊き込みご飯というと語弊があるならピラフと表現したほうがいいだろう。おこげがいい。匙の洗いが雑なのは気にしないでおこう。とはいえ衛生方面も手をつけるべきかな。センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプの二の舞は嫌なので顕微鏡と純粋培養の技術は欲しい。つまりはガラスだ。

 

「……食べる?」

 

隣りに座ってじっと私の方を見るケトに、いい具合に焦げた部分を切り分けながら言う。

 

「いいんですか?」

 

「食べたそうにしてたから」

 

「いや……まあ、いただきます」

 

そう言って一口食べるケト。

 

「なにかあった?」

 

「いえ、美味しそうに食べるキイさんは綺麗だなと」

 

「ふうん」

 

おや、私でも容姿を褒められるのは案外嬉しいものなのか。少し自分の感情を意外に思う。そもそも他人から外見を評価されることが長らくなかったからな。

 


 

講義の形態は様々だ。毎日午前中あるいは午後やるもの、隔日で行うもの、あるいは何日かやって何日か休むもの。タイミングが合えばひと月にいくつもの講義を履修できる。で、空いた時間は私たちの場合衙堂での仕事だ。

 

「これは?」

 

同僚の女性が私の手元の蝋板を見て聞いてくる。

 

「頼まれていた収穫量についての絵です」

 

少し思考を開放しよう。インフォグラフィックをどう表現するかはなかなかに難しい。テスターとしてケトを使っていたが理解能力がどんどん上がっているので参考にならなくなった。この世界の、特にグラフの知識がない人が見てぱっと情報を把握できるかどうかが知りたいのに。いや、これはケトの成長を喜ぶべきだな。それにしても比較対象がないから何とも言えないが彼はそうとう賢いのではないだろうか?私が同じぐらいの年代の頃に官僚的事務ができたかは怪しい。

 

「……ああ、地図になってるのね」

 

「はい。方角は大まかに合わせただけですが、それぞれの四角形の面積は各区における農地面積を表しています」

 

「面白いね。……第八区の収穫量が悪い?」

 

「はい。面積が大きいのでわかりにくいですが、他の地域と比べてもあまり良い収穫だとは」

 

「おかしいな。第八区は豊かな土地だと聞いていたのだけれども」

 

「キイ嬢、持ってきましたよ」

 

「ありがとう、ケト君」

 

ケトがいくつかの巻物を私の作業している机の上においた。

 

「それらの本は?」

 

「過去の収穫報告です」

 

女性の質問にケトが答える横で、私は巻物を開いた。こういうデータがきちんと蓄積されているのはありがたい。余裕があれば長期統計とかを作って経済計画に使えるかもしれないが、正直今年の報告を作るだけで手一杯だ。ちなみに城邦の代表者であり図書庫の名誉ある守護者である頭領に対して報告を行うのは我らが上司にしてブラック労働の体現者である煩務官であるという。今作っているのはその補助資料というわけだ。

 

「今年だけが悪いのか、それとも収穫量だけで見られてきたのか、あるいは他の理由があるのかを確認しなくては」

 

「お願いするね。しばらくしたら、話を聞かせて?」

 

「わかりました」

 

私は首を鳴らす。さて、謎解きの始まりだ。

 


 

結果は非常に単純なものだった。収穫統計において全ての収穫物は容量、具体的にはある特定の規格の籠いくつぶんかで計算されているが、第八区では主要生産物がその気候条件ゆえに栽培可能なある種の産油植物であるということを見逃していたのだ。ケトが言うには背がそこまで高くない木で、実と種に油が多く含まれているらしい。燃料や調理に用いられる程度には一般的だとか。

 

「で、麦に比べてその油果は面積あたりの収穫量が少ない……」

 

蝋板にケトがまとめた説明を聞いて、女性は考え込むように呟く。

 

「かわりに値段は高いので、豊かというわけです」

 

「よし、わかった」

 

で、こんな作業をしているだけで一日が終わるのである。今日の報告を後で煩務官が確認できるように伝言板がわりの蝋板に残して、私は背中を伸ばす。そろそろ終業かな。

 

「今日は聖なる日だ!酒を飲みに行かないか?」

 

男性の声と、それに続く歓声。おお、この世界でも飲み会というのがあるのか。それはそうか。

 

「君たちも来るか?」

 

声の主がこちらの方を見る。ケトと私は顔を見合わせて、参加意志を示すべく立ち上がった。



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酒宴

酔っているから笑っていられるが、素面であればたぶん苦笑いを浮かべるしかできなかったであろう。

 

飛び交う聖典語。適宜ケトが挟んでくれる翻訳。比較的落ち着いた酒場だ。いくつかの卓で、軽食をつまみながら酒を飲む。

 

「さっきの███████ ████は海を超えた北の方で取れる良質な白い石のことです」

 

「なるほどねぇ」

 

私の経験から探ると、今酒宴の中で行われていることにもっとも近い表現はラップバトルである。いや、本当にその通りなんだって。歌合と言ってもいいがそこまで雅な感じはない。

 

「……聞こえてます?」

 

「ん」

 

酒はいいものだ。ケトはあまり飲んでいないが、それでも少し顔が赤くなっている。かわいいなぁ。

 

「調子に乗って炎酒なんて飲むから……」

 

「まだ、少し気分が高調しているだけだよ」

 

「……はいはい」

 

いや、嬉しいニュースがあったのだ、飲むぐらいいいだろう。おお、この世界の薬学の発展万歳。蒸留酒があるということは、蒸留器が存在するということだ。かつての世界では伝説的錬金術師ジャービル・ブン・ハイヤーンが発明したことになっている、基本的な科学機器だ。十分濃度が高いエタノールが作れる。これは消毒剤として汎用性が高い。脱水でできるジエチルエーテルはちょっと引火性の高い麻酔になる。水での抽出が難しい油性の化学物質であっても抽出ができる。燃料にもなる。いや、燃料にするのは食料用の穀物と競合するから安易にやるべきじゃないけど。

 

ただ、残念なのはこの容器だ。いや、これ自体も技術力を示すものでもあるのだけれどもね?クリーム色で、叩くと比較的高い音がする。磁器だ。焼く為にはある程度の高温を必要とするため、いくつかの工業化学に必要な高温反応の下地はあると考えられる。ただまあ、個人的には酒はガラスの容器で飲みたい。ランプの灯りでは器はあまり透けず、なんというか目で楽しむのは難しい。

 

「そこの新人、参加しないか?」

 

声が聞こえる。どうやら先ほどの戦いは終わったようだ。

 

「申し訳ない、聖典語はまだ使えなくて!」

 

「わかってるさ、そこの少年のほう」

 

「……いいんですか?」

 

すっと、空気が変わった。ケトは机に深盃を置いて、立ち上がった。

 


 

意味はほとんどわからないので、単純に音の響きを楽しむことにする。基本的に韻を踏みながら、何節かを交互に言い合っているようだ。速度は基本ゆっくりだが、速くなることもある。ケトの声はなかなかにいい。先ほど勝っていた男性が少し不利のようだ。これは歓声からの判断である。かなり盛り上がっているので、少しだけ得意な気分になる。いやいいだろうこのくらい。それにしても何を言っているのだろうな。単語レベルでも聞き取れるといいのだが、いつもケトが読み上げるときとかなりリズムが違うのでわからない。

 

そんな事を考えると、ケトは取り巻く人達を丁重に断りながらこちらに戻ってきた。

 

「おかえり」

 

「……やらかしました」

 

落ち込むケト。おや、結構深刻なようだ。アルコールの入った脳を少し落ち着かせる。ゆっくり呼吸。

 

「かなり良かったように見えたけど」

 

「これでも詩人になりたい人なので、言葉は得意なんですよ」

 

そういえば、そうだったな。私の面倒事につきあわせてしまうつもりでいたが、別にそうする義務はない。自由に生きるのは難しい世界だとしても、それを目指してはいけない理由はないのだから。あ、駄目だなこの思考。ボロを出さないようにあまり何かを言わないようにしないと。

 

「……ただ、調子に乗ってしまいました」

 

「何を話したの?」

 

「……キイさんに、血を舐めさせたこと」

 

「へえ」

 

そういえばあれは古帝国流の誓約だったのだな。事務仕事の流儀とかは古帝国の流れをくんでいるらしい。古典が教養となっているのだ。

 

「……それって、みんな意味を知ってるの?」

 

「……知ってる人は、知ってますよ」

 

「そっか」

 

危ない危ない。これで「どういう意味なの?」と普段なら聞いてしまっていた。

 

「申し訳ない、彼は少し酒を入れすぎてしまったようで」

 

ケトの肩の下に腕を入れて、私は立ち上がる。

 

「ああ、すまないね。つい上手いやつがいたから盛り上がってしまった。詫びになるかはわからないが、今日の酒代はこちらが払うよ」

 

今回の酒宴を主催した幹事に当たるだろう人が、私たちのところに来て少し申し訳無さそうに言う。

 

「いえいえ、私たちも多く飲みましたし、働いてきちんと貰っていますから」

 

こんな言い合いをしていると、ケトが小声で引くように言ってくれた。なるほど、このくらいのタイミングか。固辞しすぎるのもあれだし、これくらいなら双方の面子も立つのだろう。

 


 

寝台にケトを横にした。私も結構酔いと眠気でふらついている。

 

「……血を舐めるというのは、古帝国の物語に由来します」

 

離れようとする私の裾をつかんで、ケトは言う。

 

「そうなんだ」

 

「いくつかの場面で出てくるのですが、そのうちの一つ、帝国を奪い我が物にしようとする卿……上位の事務職たちによってなされたものが有名です」

 

「とすると、私たちは城邦を奪おうとしていると言ってしまったの?」

 

「……いえ、たぶんこの話より、別の話のほうをみんな思い浮かべたかと」

 

「どんな?」

 

こう言ってから、私は後悔をする。

 

「互いに秘密を守ると誓った男女の……聞きたいですか?」

 

「……今日は、いいや。後で聞かせて」

 

これ以上話すと、深刻なまでにケトを傷つけることになりかねない。

 

「おやすみ」

 

私はケトの頭を撫でる。これは許容されるスキンシップだったはず。

 

「……おやすみなさい」

 

少し寂しそうにケトは言って、目を閉じた。



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第3章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。キイが並べる人名をちゃんと調べているような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


規矩

規矩

本来はコンパスとものさしのこと。そこから転じて「規則」の意味も持つ。

 

数学だと位相幾何学(トポロジー)の領分となるが、なんとなくふわっとしたイメージと比較して数学的な理論はなにもわからない。

位相幾何学(トポロジー)はしばしば「コーヒーカップとドーナツを同じものとして扱う分野」であると説明されるが、実際の数学記号と用語が出てくると一気に訳がわからなくなる。ただの数学ですからね。当然である。

 

Bricolage(器用仕事)だという弁解はきちんとクロード・レヴィ=ストロースを読んでかつ引っ張ってきた用語の意味を踏まえた上でしてほしい。

Bricolageはクロード・レヴィ=ストロースが著書「野生の思考」で使ったフランス語で、本来は日曜大工のようにその場であるものを組み合わせて何かをでっちあげること。こういった手法は神話の構造にも見られ、人間の本質的な思考なのだとクロード・レヴィ=ストロースは主張した。これを口実に「野生の思考」内でも異分野の用語を「Bricolage(器用仕事)」的に使っているので、ここを批判されることも少なくない。こういった思想系の分野で「実はまともに異分野の概念や用語を理解していないのでは?」という話はアラン・デイヴィッド・ソーカルとジャン・ブリクモンの「「知」の欺瞞(Impostures Intellectuelles)」で触れられている。

 

ただ、あくまで私の知識はトータルステーションの存在を前提としている。

道路の上で作業着を着た人が三脚の上に謎のマシンを乗せていて、そこから少し離れたところにいる棒を持った人を見たことがある人もいるのではないだろうか。あの謎のマシンがトータルステーションである。レーザーで距離を測り、特殊な分度器付望遠鏡で角度を調べる。

 

「正しい秤と、正しい升と、正しい規矩を用いるのが正義というものです」

量を少なく見せようと、あるいは多く見せようとして不正を行うことは歴史上広く見られる。社会的公正の観点からはこのような行為は許容されないため、権力者や統治システムはしばしは厳罰をもってこれを裁いた。

 

それでも大日本沿海輿地全図で使われたレベルの測定装置なら……と思考を巡らせる。

大日本沿海輿地全図は伊能忠敬が中心となって行われた測量で作られたもので、この作成の裏には政治的・学術的思惑が入り組んでいる。あからさまな軍事機密だったので、これが国外に持ち出されようとした時には大変なことになった。「シーボルト事件」も参照。

 

この二人の名前はノギスとバーニヤとして残っている。

ノギスは部品のそこそこ精密(0.1mm単位)な測定によく用いられる工業用測定工具。これについている副尺はバーニヤと呼ばれる。ここから転じて何かの補助をするものもバーニヤと言われることがある。例えばロケットの姿勢制御補助に使われる小さなエンジンは「バーニアエンジン」である。

 

海辺

やばいなあまり興味がなかったから記憶が曖昧だ。

登場人物の知識は作者が調べられる情報の範囲を越えることができない。専門書にも書かれていないとお手上げである。

 

例えば雷でできた風を水に溶かすとか、雷を使う炉である種の石と炭を加熱して空気と混ぜるとか、水を雷で分解した後空気と高温で反応させるとか

発見者名で呼ぶのであれば、それぞれビルケラント=アイデ法、フランク=カロ法、ハーバー=ボッシュ法。どれもコンビで名前がついているのは何か理由があるのかもしれない。

 

発展途上国についてのレポートを思い出す。

アジア経済研究所の出版している研究双書シリーズなどが役に立つことがある。ちなみにここ、アジアと名前はついているが調査や情報収集は世界全体を対象としており、ジャパニーズ・サラリマンの支援を陰ながら行う情報機関である。

 

理由は簡単だ。栄養失調。タンパク質の不足。

身長に関する長期的統計が示すところによると、19世紀以降ヒトの平均身長は多くの地域で伸びている。厳密にはこの原因については様々な説があるので、キイの栄養失調が原因であるという意見はあくまで有力な一説として捉えてほしい。ただ栄養失調が低身長を引き起こすことは間違いない。

 

合掌

そもそも日常的に意識しないならば忘れてしまっても仕方がないのかもしれない。

こんなことを言っているキイでさえ結構怪しい。アラサーかそろそろアラサーなのは間違いないが。

 

ハンドサインやジェスチャーの類だろう。

古代ローマでは演説手法の一つとしてのハンドジェスチャーがChironomiaとして発達していた。

 

雨止

あれは一介の学生がやる範囲だったかは怪しいところだ。

あまりこの話をすると色々と危ない。

 

ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアールからフェリクス・ヴァンケルまでざっくりとした流れは抑えてあるが、その歴史に伴う技術についてはほとんど無知だ。

ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアールは蒸気機関をガソリンで動くよう改良し、最初のガソリンエンジンを作った。フェリクス・ヴァンケルはロータリーエンジンを発明したが、類似の機構はそれ以前から考案はされていた。この分野は単純な知識だけではなく膨大なノウハウが必要であるため、安易な気持ちで手を出すと本になっていない分野が多すぎて大変なことになる。

 

遠望

あとは干し果物、それに発芽した麦から手間を掛けて作る麦蜜ぐらいしか甘味はないようだ。

麦蜜は我々の知る水飴に相当すると考えられる。発芽中の種子の中では様々な生命化学反応が起こり、その中でデンプンを糖へ分解する酵素が働く。これを利用して穀物のデンプンを麦芽糖(マルトース)にまで分解して作るのが水飴である。なお東洋では古くから知られていたが、西洋の古代から中世においては見られない。ビールの醸造のために麦芽を作るので、条件は整っているはずなのだが。

 

酢酸鉛(II)は少なくともケトの知識にはなかった。

古代ローマでは鍋で葡萄酒を煮詰めて作られる甘味料が用いられていた。濃度によって呼び方が異なり、プリニウスの言によれば最も濃いものはsapaと呼ばれていたらしい(実はここらへんは資料によって呼び方が違う)。この際使われた鍋はしばしば鉛でできており、この時に甘味のある酢酸鉛(II)ができる。当然有毒である。これのせいでローマ人は鉛中毒だったという話もあるがここらへんの情報は結構曖昧であるので与太話程度にしよう。酢酸鉛(II)の味について信頼できる資料を見つけることができなかったので、経験者もしくはそれについて書かれたものを知っている方がいればご連絡ください。

 

さすがに工業グレードのキレート剤を何の保護もなく体内に入れるのはそれはそれで危ないのでやめた。

鉛中毒の治療薬としてエデト酸カルシウムナトリウム水和物が用いられるが、この物質はエチレンジアミン四酢酸(EDTA)とも呼ばれる工業分野で一般的なキレート剤である。化学的にこの二つは同一であるが、工業用に使われる化学物質は不純物に毒性があっても食品に比べて気にされないためあまり積極的に摂取すべきではない。

 

櫛比

櫛比

隙間なく並ぶこと。

 

鼻孔をくすぐるのはメイラード反応でできた化合物。

メイラード反応は焦げなどで糖とアミノ酸が結合し茶色く変化するもの。化学的に記述しようとすると難解になる。「香ばしい」と表現される匂いを持つ様々な化学物質が生まれるので、この反応を制御することが食品分野では重要となる。

 

うわぁ、面倒だ。

別の言語で同じような意味を持つ単語が完全に同じ概念を表しているとは限らないし、誤解が生じる可能性も多い。翻訳をやったことのある人なら理解できるところだろう。

 

都市人口が増加すると、都市の面積を広げるか人口密度を上げる必要が出てくる。前者は城壁の拡張が面倒なので、建物を上に増築することで収容人数を増やすのだという話を昔どこかで見た。

ここらへんはレオナルド・ベネーヴォロの「図説都市の世界史」シリーズやハビエル・エルナンデスとピラール・コメスの「図説都市の歴史」シリーズがわかりやすい。

 

君たちについては、衙堂の名によって保護を与えよう

つまりは、何か問題が起こった時に面倒ごとを引き受ける代わりに派手なことをせず今後も衙堂をよろしくという意味である。ケツ持ちとも言う。

 

学徒

少ないポスト、博士研究員、任期付雇用。おかしいな嫌な記憶が蘇る。

あぶない。

 

研修

「三十九万二千四百六十七に千四百七十六は幾つ入っている?」

割り算というのはきちんと訓練を積んでいないとなかなか難しいものである。

 

価値

フランス革命暦とかいう浪漫全振りで実用性が怪しい代物でなくてよかった。

1年が12月、1月が3什旬(décade)、1什旬が10日、年に5日か6日の年末休みがあるというシステム。1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒なので我々の知る一秒よりも少し短い。全部の日に名前がついているあたりがかっこいい。とはいえキリスト教の安息日がわかりにくくて不評だったとかもあって13年ちょっとで廃止された。「熱月(Thermidor)の反動」とかの歴史用語にも影響がある。

 

善きサマリア人でもそこまではしてくれなかったぞ?

(ある)サマリアの(ひと)(たび)して(ここ)(きた)(これ)()(あはれ)

(ちか)よりて(あぶら)(さけ)(その)(きず)(さし)これを(つつみ)(おのれ)驢馬(ろば)にのせ旅邸(はたごや)(つれ)(ゆき)介抱(かいはう)せり

次日(つぎのひ)いづるとき(ぎん)()(まい)(いだ)館主(あるじ)(あたへ)(この)(ひと)介抱(かいはう)せよ(つひえ)もし(まさら)(われ)かへりの(とき)なんぢらに(つくの)ふべしと(いへ)

(され)(この)(さん)(にん)のうち(たれ)強盜(ぬすびと)(あひ)(もの)(となり)なると(なんぢ)(おも)ふや

──明治元訳新約聖書 (明治37年)、路加(ルカ)傳福音書第二十章より

 

この物語を説明するにはちょっとした前提知識が必要である。ナザレのイエス(新興宗教の教祖だと思ってくれればいい)に対して律法学者(宗教法律家だと思ってくれればいい)が「永遠の命を手に入れるにはどないすればええねん」と尋ねる。イエスが「聖典にはなんて書いてあるんや」と返すと、律法学者は「ええと、『全力で神を愛せ』と『自分のように隣人を愛せ』とあるな」と答えた。イエスが「ならそうすればええやん」と言うと、「なら隣人ってどいつのことや」という問いがやってくる。そこで後世で「善きサマリア人のたとえ」と呼ばれる話が始まるのだ。

 

「ええか?ある旅人が強盗に出会って、身ぐるみ剥がされて半殺しにされたんや。で、その時にや。祭司のおっさんがそばを通りかかったんやけど、すーっと避けて向こう行ってもうたんや。神殿であの偉そうにしてる祭司がやぞ?で、その次にレビ人のおっさんが来たんや。ほら、税も払わなくていい、神殿で働いているあのレビ人や。そいつもすーっと道のあっちがわ通って避けていったんや。で、最後に来たんがサマリア人のおっさんや。あ、嫌な顔したな?せや、あんたらみたいな律法学者が嫌っとる、あの混血のサマリア人や。そのおっさんはぶっ倒れとった旅人を気の毒に思ってな、包帯巻いて手当してやって、自分のロバに乗せたげてな、自分は歩いて宿屋まで連れてってあげたんや。で、宿屋の主人に万札二枚渡して(もちろん比喩表現であり、原文では日雇い労働者の日当程度のデナリ銀貨二枚)、『こいつの面倒見てやってくれや、金が足りんかったら帰りに払うさかい』と言ったんや」

 

ここまで話しき切ったイエスは一息ついて、「で、律法学者さん。一体誰がこの襲われた人の隣人や?」と問う。律法学者は「……その、旅人を助けてやった人やな」としか言えなかった。そこでイエスが「なら、あんたも行ってそういうことをするんやな」と締めるのがこの例え話。誰が相手でも親切にしようということなのか、高慢な律法学者を言い負かす話なのかの論争なんかがあったりする。後者の解釈はプロテスタントで見られることから、権威主義的であったカトリックと律法学者が重ねられている可能性がある。

 

で、話をキイに戻そう。これだけ世話してくれたサマリア人であっても、負担は何日分かの日当相当である。服代と食事代とその他諸々を足すと、ケトが衙堂から得たものは相当なものになる。図書庫の城邦で様々なものの値段を確認した結果、ようやくこういう事が考えられるようになったのだろう。

 

なお、会話が関西弁になっているのはナニワ太郎および大阪弁訳聖書推進委員会の「コテコテ大阪弁訳「聖書」」や架神恭介の「仁義なきキリスト教史」の影響が強い。もし誤りがあればご連絡ください。

 

ヨハン=アモス・コメニウスから始める必要があるかもしれない。

ヨハン=アモス・コメニウスの「Orbis Pictus(世界図絵)」は世界最初の絵入り語学書であると言われており、また「Didactica magna(大教授学)」では万人への教育の重要性が説かれている。キリスト教色がかなり強いが、当時の常識からすれば当然である。ただ、彼の思想が浸透するには長い時間がかかった。

 

それにラッダイト運動のような反発も当然考えられる。

ラッダイト運動はネッド=ラッドによって率いられたと言われる産業革命期イギリスにおける機械破壊運動。機械によって職を失うことを恐れた職人や労働者たちの運動であったが、弾圧と見せしめの側面が強い裁判などによって終了した。

 

事務

前借りした給与で買った屋台の炊き込みご飯を道路脇に座って食べながら、私はぼんやりと宙を見る。

出汁に浸した米に具を入れて加熱する料理は米のある地域なら大体見られる。ビリヤニとかリゾットとかもそう。

 

センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプの二の舞は嫌なので顕微鏡と純粋培養の技術は欲しい。

センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプはドイツ系のハンガリー人医師。次亜塩素酸カルシウムによる手の消毒が産褥熱を減らすために有用であるとのデータを示したが、当時の医学的知識との食い違いやら国内の革命やらであまり受け入れられなかった。彼は精神病院に送られ、その後死亡したが死因は精神病院で受けた「処置」のせいであると考えられる。この時代の精神病院はそういう場所だったのだ。あとハンガリー語名とドイツ語名があり、それぞれで読み方の表記ゆれが大きいのでどう書くかなんやかんや調べた結果ハンガリー語ベースのWikipediaで使われている表記に落ち着いた。

 

「今日は聖なる日だ!酒を飲みに行かないか?」

TGIF(Thank God It's Friday)という言い回しがある。ただ、Fridayの語源は北欧神話の女神フリッグなのでGodではなくGoddesなのではなかろうか。ともかく酒を飲むための理由は無限に作れる。

 

酒宴

「調子に乗って炎酒なんて飲むから……」

蒸留酒を意味する「火酒」という言葉がある。

 

かつての世界では伝説的錬金術師ジャービル・ブン・ハイヤーンが発明したことになっている、基本的な科学機器だ。

本当に伝説的錬金術師で、アラビア錬金術の発明は全部彼がやったぐらいのノリで話が盛られている。

 

私はケトの頭を撫でる。これは許容されるスキンシップだったはず。

東南アジア周辺の文化では頭を撫でることがタブーとなっていた。今日では変化しているらしいが、それでもしないに越したことはない。



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第4章
書体


「つまり、その凹凸を持った小さな金属の塊で紙に(インク)を移すわけ」

 

馴染んできた部屋で、私はケトに説明をする。根本的に語彙が足りないので、かなりの時間が概念の共有に取られてしまっているが仕方がない。

 

「ありますよ、そういうもの」

 

「え」

 

私が印刷の基礎を説明すると、ケトは何気なくそう言った。

 

「十や二十を超える本を写す時に、全部一つ一つやってはいません。木を文字の形に削って、それをさっき言われたように使います」

 

「でも、本は高価だよね」

 

「手で写さなくとも、かなりの手間がかかるのは変わりませんからね」

 

「そこでだよ、毎回毎回新しく作るのではなく、すでにあるものを組み合わせてやれば」

 

「発行された年を示すのにそういうことがされたり、あとは誤字を直すのにも」

 

「うーん」

 

説明がうまくいかない。それとも具体的なメリットを提示できていないのだろうか。

 

「ただ、金属で作るのは面白いですね。作れるなら、ですが」

 

「作れるはずだよ」

 

電胎母型法とまでは言わない。ヨハネス・グーテンベルクの時代の方法で構わない。

 

「……それを作るとしたら、収量報告に間に合いますか?」

 

「どういうこと?」

 

「作られた報告は写されて各地の衙堂に納められます。なら、ここをその方法で作ればいいのではないですか?」

 

「……ねえ、ケトくん」

 

「なんですか?」

 

「どうして私はさ、作品の出版についてだけ考えていたんだろうね?」

 

「キイさんがいたところでは、そういう本が多かったのでしょう。仕方がないことです」

 

「そうか、先に衙堂を巻き込んでしまえば……」

 

「でしたら、キイさんに会って欲しい人がいます」

 

「私に?」

 

「ええ」

 

ケトはそう言って、いたずらっぽく微笑んだ。

 


 

「どうして言わなかったの?」

 

「説明するのが大変だからです。……それと、キイさんが文字の形が欲しいと言ったので、それを用意できるならしたいと思って」

 

「わかった。ありがとう」

 

そんな話をしながら、私はケトの後ろを歩いて衙堂の奥の方に進む。最近は別行動も少なくなかったので、こういうふうにケトに何かを案内されるのは新鮮だ。

 

「入ります」

 

「どうぞ」

 

落ち着いた、威厳のある声が聞こえた。

 

インクの匂いがする部屋の中に巻物に囲まれて座っていたのは、白髪の女性だった。髪を茶色に染められた紐で一つに結び、長らくペンを握ってきたことでできたのだろう指をしている。

 

「ああ、ケト君か。そちらの方は?」

 

「以前話していた僕の師、キイ嬢です」

 

「師なんだ」

 

思わず言ってしまう。振り返るケトの少し怯えるような表情。

 

「それで、また話を聞きに来たのかい?」

 

「いえ、キイ嬢に文字を見てもらおうかと」

 

「……文字?」

 

「まあ、見てください」

 

ケトに促されて確認すると、確かに見やすい字であった。達筆というよりも、一つ一つがしっかりとしている。

 

「この方はこの衙堂の書字長です。衙堂の重要な書類の多くは彼女が書いたものが正本となります」

 

「文字を書く以外特にできることもない、ただの老嫗だよ」

 

「……書字長殿、もしこの字で全ての書類を作ることができれば、どう思いますか?」

 

「どう、と言われてもね。もし書字生が私みたいに書けたらとは思うけど」

 

「木版を改良し、文字一つ一つを組み合わせるようにします」

 

「手間がかかりすぎるだろう」

 

「版を金属で作ります」

 

「硬いものを、どう削る?」

 

「削りません。鋳るのです」

 

「ふうむ」

 

書字長は息を吐いた。

 

「つまりはケト君、こういうことか。この司女の企みに、私を乗せようというのだね?」

 

「決してそういうことでは」

 

慌てるケト。落ち着け。これはこういうからかいが好きな老人のムーヴだ。

 

「だとしたら、文字を相当気合入れて作らないといけないねぇ」

 

ニヤリと書字長は笑う。何本か歯が抜けていた。

 


 

「段階が必要だね」

 

私のざっくりとした説明を聞き、書字長は言った。

 

「まずは金属の文字版を作ること。そして、それが木版よりも実用的であることを示すこと」

 

手元で書かれるのは数十個の同じ字。

 

「ええ。いくつか超えるべき困難はありますが」

 

「例えば?」

 

墨液(インク)です。今書くために使われているものでは、金属の版では使えない」

 

「どう解決する?」

 

私は答えを知っている。本来は短くない試行錯誤の結果得られたものだ。

 

「油を使います」

 

何種類かの油を混ぜ、できるだけ最適な性質を示すものを作る。ここらへんの実験計画テクニックは一般教養だ。

 

「なるほど、金物の油はなかなか取れぬからな」

 

素早く書字長は具体例を出してくる。頭の回転が速い。文字を書く以外できることがないというのは嘘とまでは言わないが、意味が広いのだろう。

 

「それでもまずは、具体的なものを見てみたい」

 

「と、言いますと?」

 

書いた文字のうち、一つを書字長は選んだ。私には違いがわからないが、ケトにはわかるらしい。

 

「この字の文字版を作る事ができたら、私の力を貸そう」

 

私の小指の先程の大きさの文字。30文字の中で一番複雑な形状をしているものだった。



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総記

ここは図書庫の城邦と呼ばれているが、その図書庫には誰でも入れるというわけではない。いや、この言い方は不正確だな。

 

城邦内には様々な記録保管・情報集積施設が存在する。衙堂の中にある図書庫は各種の統計や記録がまとまったもの。北の方の商館には博物館にも似た収蔵施設があり、学舎の多い地域には教科書を有償で貸したり資料を見せたりする施設がある。ただ、最大にして最も専門性の高い「図書庫」とだけ呼ばれる施設は入ることすら難しい。利用できるのはそこで雇われている講官と、特別の紹介状を持った人物のみ。かつての世界では一般的だった地方自治体によって運営される公共図書館に慣れている身ではなんとも面倒だなぁと思うが、私の知る歴史上の図書館もだいたいそんな感じだったので仕方がない。とっととここらへんをどうにかしたいがたぶん既得権益とどこかで思い切りぶつかる。ちくしょう金がほしい。金さえあればここではかなり色々できそうなのだが。

 

「……聞いていますか?」

 

「あ、うん。聞いていなかった。ごめん」

 

「まあ、確かに疲れますものね」

 

私とケトは衙堂の書庫で「雑物総記」というタイトルの大作を端から読むことにしている。これはプリニウスの博物誌やディドロのEncyclopédie(百科全書)、ウィキメディア財団のWikipediaに匹敵するようなこの世界の、この時代における名著であるらしい。木版で大量複製して元が取れるという程度には刷られている。

 

「しかし、キイさんは読むの速いですね」

 

「君が言うな」

 

書く文字も見る文字も聖典語で、一時期は口から出る言葉が東方通商語と聖典語でぐちゃぐちゃになり、夢で聖典語にうなされたぐらいだ。なお「雑物総記」曰くこれは精神疾病の一種として分類するべきものらしく、勉学と鍛錬に励むことによってのみ治るらしい。どうでもいい。

 

「だって、キイさんにとって聖典語の文字を読むのは僕が古帝国語の文字を読むようなものでしょう?」

 

「読めるの?」

 

「少しづつですが……」

 

古帝国語の文字は漢字に近い。ただ、一つの文字が意味と品詞とを意味する記号を内包しており、読み方と書き方の分離が強いのだとか。聖典語すら怪しいレベルの私にそういう話をされても困る。

 

「勉強熱心だね」

 

「キイさんについていかなくてはいけないので」

 

「私、そんな頑張っているっけ?」

 

ケトは溜息を吐いた。もう少し私は自分の能力に自覚的になるべきかもしれない。

 


 

決して難しくはない言葉で、その分野の専門家の知見をベースに、初学者レベルに向けての説明がされているというのは本当にありがたい。「雑物総記」は数十年前に当時の図書庫長が主導した大事業であり、ほぼ全ての講官が記事を書かされたという。

 

おかげでこの世界の知識水準については、なんとなくであるが理解した。数式は存在しない。負の数はあまり議論されていない。虚数は出てきていない。非ユークリッド幾何学はない。地動説モデルはあるものの、誤差をどうするかで議論は続いている。自然についての観察はあるものの、実験という概念はない。遺伝の法則も見つかっていはいない。薬学については神学的な説明をする派閥とより機械論的な説明をする派閥とで揉めている。医学では稀に解剖がされ、二重盲検などというものは当然ない。なるほど、私の知識はかなり活かせそうだ。一回だけなら。二回目以降があるかどうかは私の首が身体と離れ離れになったり、路地裏で刺されたり、あるいはどこぞの地下に幽閉されたりするかによる。

 

「ただまあ、たぶんできるな」

 

「何をですか?」

 

「図書庫の講官たちと、話をすること」

 

「……何を示すのですか?」

 

「色々あるよ。雷を作る術とか、都合のいい計算の世界とか、世界が何からできているかを探る方法とか」

 

「まずは僕に説明をしてくださいね?」

 

「基本はそうするよ。私だってひどい目には会いたくない」

 

そう言って私は「雑物総記」に視線を戻す。ひと月以上かけてまだ三分の一程度しか読み進んでいないが、いくつかの計画に必要な資源や技術については押さえられた。プランの変更も多かったけれども。

 

特徴的な性質のある鉱物は、読んだだけでも見分けがついた。柔らかく、火に強い石墨(グラファイト)。酢と反応させると泡を出す石灰岩。燃えぬ繊維を紡ぐための石綿(アスベスト)。他にも金の精錬の話では白金(プラチニウム)を示唆する表現があり、何種類かの「鍛冶屋を騙す」鉱物についても触れられている。この世界の人達の観察眼、特に自然に対してのそれは素晴らしいものであり、火成岩と堆積岩の区別をつけて化石を古代の生物の遺骸であるとまで理解している。地球の科学史だと18世紀とか19世紀とかの水準に達している分野もある。ここらへんは元の世界でのキリスト教の悪影響があったのかもしれない。

 

「で、どうして今日はいつもと読む順番を変えて金属細工の話を……って聞く必要はないですね」

 

「まあ、何度も言ってるからね」

 

私は懐に入れてある袋から木製のブロックを取り出す。断面が正方形の、指ぐらいの太さのその底面には私が丁寧に彫った文字の出っ張りがあった。



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鋳造

若い男たちの手によって、るつぼから溶けた金属が型に流し込まれる。色からすると1000 ℃といったところだろう。鋳造は今まで数えるほどしかやったことがないので、こうやって見るのはかなり新鮮だ。

 

「で、どんなものを鋳ればいいんだ?」

 

そう聞いてくるのは髭を伸ばした筋肉質の男性。衙堂とも繋がりのあるこの工房の職人だ。

 

「こういうものを」

 

私が木製の活字を取り出す。衙堂から借りた道具はしっかり手入れされていて使いやすかった。もちろん油を塗って戻しておきましたとも。

 

「ふむ。印の類か?」

 

彼は手の中で四角柱を転がす。4段階の徒弟制度が構築されていて、彼は上から二番目。係長とか班長とかだろうか?私の知っている工場の知識が乏しいので適当な訳語を当てることができない。まあいいや、工師とでもしてしまおう。その上が大工師、その下が工員、一番下っ端が工生。学徒はしばしば工生として雑事全般をやる。腕が認められるか、あるいは本格的に仕事をするとなると工員となり、そこから部下を率いることのできる工師として認められれば一端の職人だ。工房を取りまとめるような大工師となると腕だけではなく政治的な色々やら業界団体とのあれこれをする必要があるらしい。まあこれはどこの世界でもそうか。叩き上げからそういう世界に放り込まれていた父を思い出す。

 

「ええ。これを大量に作りたい」

 

日本語や漢字のような文字数が多い文字体系の場合にはたとえ鋳造で作っても大量生産できるというメリットが無いのでいっそのこと木で全部作ってしまった方がいい。文字数が多いということは一つの活字あたりの消耗も少ないので、木でも問題ないのだ。もう少し強度が欲しければ陶器でもいいが、聖典語の表記体系なら金属活字がいいだろう。

 

「具体的に、どれほど」

 

「一つにつき、百。多ければ二百」

 

これについては仮デザインとして印刷したい本の大きさと文字の統計を軽く取って出した数字だ。

 

「種類は?」

 

「30と少し」

 

「合わせて三、四千か?大仕事だな」

 

おや、なかなか計算が速い。

 

「幾らほどになるでしょう?」

 

「すぐには答えられんぞ、そもそも何で鋳るかにもよる」

 

「できれば固まった時の歪みが小さいものがいいのですが」

 

基本的に、物質は液体から固体に凝固する際に体積が小さくなる。これについては熱とは分子あるいは原子の運動だと考えると捉えやすい。運動が激しい、すなわち温度が高いときほど原則体積は大きくなるのだ。とはいえ例外がある。私たちの身の回りにある最も基本的な物質の一つ、水は氷になる時に膨張する。なので冷凍庫でペットボトルの飲み物を凍らせる時はある程度飲んでからの方がいい。冷凍庫か。欲しいな。冷媒の選択が問題だな。いや本題に戻れ。

 

「そういう金属は難しいぞ」

 

「鉛と錫を混ぜればどうでしょう」

 

「むしろ██████ ████の鉛の方が良いかもしれないな」

 

「どういうことです?」

 

「██████ ████の地で掘れる鉛鉱石で作る鋳物は引けが少ないという話がある。まだ扱ったことはないがな」

 

ほう。たぶん鉛と他の金属、運が良ければアンチモンを含むのだろう。名前を覚えておこう。金属の分析手法も確立しなくちゃな。できれば速いうちにモーズリーの法則に基づいた蛍光X線分析装置が欲しいが、そんなホイホイ作れるものではない。原子量なら単体と酸化物の質量比から酸化数を加味すれば導出できそうだが、そのための精密な測定のための準備が……やりたいことが多すぎる。そのためにも、早く科学的手法を導入したい。つまりは知識の共有と拡散の高速化が必要で、この活版印刷を活用できればそれがうまくいく可能性がある。

 

「私は素人なので、その分野はお任せします」

 

もちろん工業高校にいたのだ、金属材料加工の基本の一つである鋳造についてある程度の知識はあるがノウハウの欠如が酷い。外野として理論に基づいて口出しできるほどのものではないので、かなりを職人の腕に頼らなければならない。とっとと技術の属人化を終わらせたいが、これは明らかに反既存秩序的行動である。

 

「それだけ作るなら、一つにつき銅葉一か二というところだな」

 

少額通貨の銅葉と高額通貨の銀片の交換レートは整数ではないが、ざっくり銅葉五十弱が銀片一に相当する。つまりは文字一種類で銀片三。それに30を掛けて、すこしおまけをしてあげればいい。

 

「銀片百枚程度、ですか」

 

年収とまではいかないが、間違いなく大金だ。ただこんなものを何もない状態から頼んでこれなら安い安い。

 

「無論、より高くなることもあるかもしれないぞ」

 

「当然です。ただ、こちらも安いに越したことはない」

 

「だろうな」

 

笑う私たちに、働く工生たちが怪訝そうに視線を向けた。

 

「なぁに見てる!っと、なかなか悪くない仕事じゃないか」

 

割られた石膏型から取り出されたのは、表面に細かい模様が入った真鍮の部品だった。ちなみにさっき鋳造していたものとは別だ。

 

「これだけの精密さが出るなら頼めそうですね」

 

「……これを元に作ればいいのか?」

 

工師は改めて木の活字を見て言う。

 

「ええ。まずは一つで構いません」

 

「なら、半月後に来い。支払いはその時でいい」

 

「幾らほど?」

 

「銀片一でどうだ」

 

「それでいいなら、今すぐにでも払いましょう」

 

私は硬貨を取り出そうとする。

 

「まあ今は止めてくれ。大工師に黙って金を受け取ったともなれば面倒だからな」

 

なるほど。そういうシステムもあるのか。まだ知らないことは多いな。



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硝化

私が扉を叩くと、どたばたという音の後に赤みのかかった髪をベリーショートと言っていいほどに刈った中性的な人物が扉から顔を出した。事前に女性だと知らなければ男性だと思っていたかもしれない。この世界の女性の髪が長い傾向にあることを考えると、かなりの違和感がある。

 

「キイ嬢?それで後ろはケト君?」

 

「ええ、トゥーヴェ師*1でお間違い無いですか?」

 

「トゥー嬢でいいよ*2

 

私が返事をすると、女性は大きく扉を開けた。

 

「ようこそ。薬学を学びに来る人は久しぶりだな」

 

「そうなのですか?」

 

意外そうに言うケト。

 

「ああ、こんな変物の教えを受けたところで人を治す術も、役立つ何かを作れるわけでもない。それより、あんなに褒められたのは初めてだよ」

 

私が書いた手紙のことだろう。関連文献を引っ掻き回した結果、この図書庫の城邦で一番私の知る化学に近いことをやっている人物だったのでそこに触れたのだが、うまく行ったようだ。ケトにも確認してもらって失礼のないようにしたのでたぶん大丈夫。

 

「あれだけの作業を行うのは、それだけで偉業に値しますよ」

 

彼女の専門は定性分析だ。様々な種類の物質と、酸と、塩基を反応させて沈殿や呈色を見るもの。先日アンチモンを含む可能性のある鉛鉱石の話から気になって薬学関連の本を調べていたら彼女の名前が出てきたので、急いで連絡を取ったのである。直接出向こうとしたらケトに止められてかなりしっかり怒られた。はい。反省しています。先日工房に活字の鋳造を頼んだときも黙って行ったのでそれについても少し言われた。心配性すぎないかと一瞬思ってしまったが、まあ用心するに越したことはない。

 

「私から言わせれば、市井の薬学師たちがなぜあんなにも行き当たりばったりで動いているのかが謎だがね」

 

そういう会話をしながら、トゥー嬢は私とケトを二階の応接間のようなところに案内した。かなりの巻物が置かれていて、なんというか大学の教授のデスクを思い出す。

 

「……片付けるべきだったか」

 

「いえ、お構いなく」

 

ケトの方を見ると話に入れなくて少し不満そうだ。すまない。ただこれは専門的に過ぎるのだ。

 

「ここには来て短いと聞いたが、薬学をどこかで学んだのか?」

 

彼女が話を切り出す。

 

「ええ。あまり詳しくは話せませんが」

 

基本的な知識は高校化学レベルだ。ただ化学史をやる過程で色々小ネタは学んだしガラス器具の制作の修行も研究で必要だったのでやった。なのでまあ、基礎ぐらいはできているはずだ。

 

「まあ、そうか。……研究設備を見るか?どうせ隠すほどのことはやっていない」

 

だから凄いんだよ、と私は心のなかで呟く。やっている内容はケトでも理解できるほどだ。しかしその膨大な組み合わせの反応をきちんと纏めて本にするというのは、容易ではない。歴史でもしばしばそういう人物が現れる。情熱をデータ測定に注ぎ、その次の世代の新理論の礎を築くような人たちが。私の専門分野の一つだ。科学技術史は決して巨人の歴史ではない。数多の名もなき屍のほうが巨人よりも影響が大きいのだ。ちなみにこれはあくまで私の信条であり、これと矛盾した研究もきちんと発表している。なんというか尊厳が危ないが、これを否定して自分の思想に合うようなデータしか集めないのはもっと研究者としての矜持に関わる。

 

「いいのですか?」

 

「視線がここに来るまでにかなり彷徨っていたぞ」

 

そうやってトゥー嬢は笑う。かっこいいな。

 

「……そこの少年よりも、あなたのほうが子供らしい目をしているな」

 

「好奇心は大切ですよ」

 

そう言って、私は棚に並んでいた瓶のラベルを思い出す。混酸を作ることのできる条件は整っている、か。

 

「少し試してもらいたいことがあるのですが」

 

私の言葉に、薬学師は少し興味深そうな顔をした。

 


 

ガラス器具の量はあまり多くない。作るのが難しいのだろう。小型の炉と、ふいごと、蒸留装置。

 

「結局、何ができるんだ?」

 

立って作業ができるような高さの木の板の上に道具が並べられる。

 

「子供の遊びに使うようなものですよ。燃えやすい布です」

 

「そんな危ないものを使ってか」

 

そう言いながらも彼女はてきぱきと準備をしてくれる。今回加工されるのは小さな薄い麻布。

 

「分量は?」

 

「蒸留した濃い硫酸が3に、蒸留した濃い硝酸が1」

 

ここらへんの薬品名は少し専門文書を見ればわかる。

 

「正確である必要は?」

 

「たぶんありません」

 

シャーレのような薄いガラス皿に、器用に液体が混ぜ込まれた。丁寧な作業だが、現代のドラフトチャンバーを知っている身からすると恐ろしい。

 

「さて、普通であれば硫酸によって炭となるところだが」

 

うん。硫酸の脱水作用は有名だ。だが、今回はあくまで硫酸は脇役。

 

「……何か変わったか?何かが起こってはいるようだが」

 

「作用に時間がかかるはずです。しばらく置き、その後水で洗い、乾燥させてから火をつければよく燃えるはずです」

 

「まあ、後で試してみよう」

 

容器に同じくガラスでできた蓋をし、トゥー嬢は私たちの方を向いた。

 

「ともかく、私の知識を教えればいいのだな。基本的な道具の使い方と、薬品の扱い方と、あとは……、まあ追々やればいいか。」

 

「授業料は幾らほどになりますか?」

 

今まで静かだったケトが言う。

 

「正直金に困ってはいないからな……」

 

わぁ。まあ科学というものはなんだかんだ言ってある程度の期間は趣味人によって発展したところがあるからな。

 

「なら見習いが終わった後もしばらく作業の手伝いをしてくれ。それが教える条件だ」

 

「私はそれで構いません。ケト君は?」

 

「キイ嬢が良いのなら、僕も」

 

「よっし。では君たちの師となった私から、最初の言いつけを」

 

彼女は首の後ろを掻きながら、気まずそうに口を開く。

 

「片付けを手伝ってくれないかな」

*1
古帝国語の「知る人」に由来する敬称。かなり堅苦しいが正式な言い方。

*2
図書庫の城邦を中心とする一帯で用いられる東方通商語と聖典語の基本語彙には有声両唇摩擦音[β]がないので発音が難しい。このように人名を省略することはかなり一般的なものである。



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油墨

布にゆっくりと、先に火の付いた細い棒が近づけられていく。次の瞬間、手のひらぐらいの大きさの火が上がった。

 

「おお!」

 

薬学師のトゥー嬢が声を上げる。思ったよりうまく行ったな。ほとんど燃え残しもなく、火は紙を舐めるように広がって消えた。

 

「なかなか面白いものだ」

 

そう言う彼女に私は黙って微笑む。作られたのはニトロセルロース。地球での化学史には、この物質の発見についてのちょっとした逸話がある。クリスチアン・フリードリヒ・シェーンバインが実験の最中にこぼした酸を妻のエプロンで拭き、こっそり乾かしていたらいきなり燃えたのである。そう、きっと今目の前で起きたものと同じように。

 

「こんな危ないものを作らせたんですか?」

 

後ろから聞こえるケトの低い声。

 

「作業に慣れている彼女ならできると思ったんだよ」

 

「……で、これは何に使えるのかね?」

 

私たちの会話を半ば無視して、トゥー嬢は質問をした。

 

「……火口とか、ですかね」

 

ここまでうまくいくとは思っていなかった。蒸留がしっかり行われていて、反応がきちんと起こったのだろう。で、このニトロセルロースの応用例は色々ある。有機溶媒に溶かしてフィルムにしてもいい。適切な可塑剤と合わせて最初期のプラスチック、セルロイドを作ってもいい。……あとは、ニトロトルエンなどと組み合わせれば無煙火薬になる。

 

「なるほど、ただこれほど燃えるなら保存も容易ではないな……」

 

先を読んでいるな。まあ実際これを使って作った再生繊維の服がよく燃えて大変なことになったので応用は難しい。それでもこれが作られた当時は代替素材がないか、あるいはこのニトロセルロース自体が代替素材として使われたので定期的に色々なものが燃えたと聞く。

 

「少しこれについて調べてみることにしよう」

 

「いいですね」

 

「ところで君たちは、何がしたいんだ?キイ嬢は知識はあるようだし、しばらくは監督下でとの条件はつくが機材は使っていいぞ」

 

薬学師の申し出は有り難いものだ。まあ私の目的はかなりしょぼいが。

 

「私は墨を作りたいのです」

 

「どのような?」

 

「油を主体とします。金属とよく馴染むようなものが欲しくて」

 

「染料は薬学の真髄だ。ここよりもっといい場所もあるのでは?」

 

「問題は油の配合ですよ。ここで手に入るものではどう組み合わせれば一番いいか、はっきりしないので。あなたはそういう作業に長けている」

 

「なるほど。まあ好きにするといい」

 

面白い性格の女性なのだが、まあ尖っている分人間関係は難しそうだ。

 


 

頼んだ活字は一つのはずだったのだが、失敗品ということで十本ほど試作品をもらえた。ありがたい。

 

「さて、と」

 

各種の油や蝋、樹脂をなんか気分で合わせて煤と混ぜる。配合のメモは取ってあるが、基礎となる組み合わせの決定は基本的に行き当たりばったりだ。作ったインクを活字につけて紙に押し、にじみやかすれ、乾燥までの時間を確認したら蒸留アルコールを染み込ませたボロ布でインクを拭き取る。

 

「ぐわわ……」

 

後ろではケトがひっくり返っていた。薬学の専門的用語や知識を詰め込まれたのだから仕方がない。

 

「ねえ、ケトくんは詩人になりたいって言ってたよね」

 

「……ええ」

 

「詩人に薬学の知識って要るの?」

 

「あって困るものではないでしょう。というより哲人たるにはやはり四領域の教養が……」

 

前ケトと読んだ内容を思い出す。この世界の学問体系はざっくり四分野に分けられ、万神学、天文学、医学、統治学がそれぞれの頂点となっている。ケトが目指す詩は万神学ルートだ。この世界の文学というか韻文芸術は基本的に神々について語るために発展したらしい。ここらへんはまだ聖典語に慣れていないので誤読があるかもしれない。

 

「キイさんはやはり、昔から学んでいたから簡単ですか?」

 

「まさか」

 

全く違う概念と用語を語源にも触れながらやっているのだ。そしてしばしば知っている概念に似ているようで違うものが出てくる。たとえば「基質」とでも訳すべき概念は酸や塩基などを広範に含んだもので、物質を分類する際に何種類の「基質」を仮定するかの議論があったりする。ただまあ電気分解がないので根本的に元のデータが足りていない印象は受ける。今度工房にいい感じのサイズの銅と亜鉛の板を発注してもいいかもしれない。

 

「……お、悪くない感じ」

 

最初からアプローチの方向を知っていたので、百回程度の挑戦で有望そうな組み合わせを見つけることができた。あとは他の原料を少しずつ混ぜたらどうなるか、単純な組成にできないか、インクの保存が効くかどうかなどを確認していけばいい。

 

「金属文字版はお金の問題があって、インクは作れて、あとは何が必要ですか?」

 

「圧力を加える機構。これは搾油機を改良すれば使える。紙はいまのものでもいいかな」

 

今更になって気がついたが、この紙はインクがにじみにくいのだ。一種の樹脂を使っているらしいが、詳細は不明だ。油性インクにも対応していて助かった。製紙からやるとなるとさすがにきつい。

 

「それだけ?」

 

「最初はね。ただ、もっと多くの本を印刷するとなると重要な問題がある」

 

「何ですか?」

 

「文字の大きさを決める必要があるよね」

 

「ええ」

 

「正確に並べるためには、文字の大きさがある決まった長さよりも大きくて、あるまた別の決まった長さよりも短い必要がある」

 

「……ちょっと待ってくださいね。ある範囲の中に、文字の大きさが入っていればいいということですか?」

 

「うん」

 

規格化という考え方だ。フランスにおいて砲に関連する規格化が行われたのがアメリカ独立戦争の頃だから18世紀末。19世紀には銃などに使う互換性部品の寸法確認で限界ゲージが使用されるようになり、20世紀には大規模な標準化に基づいた大量生産が始まった。私の知る歴史では、規格化は火薬とともにあった。火薬の燃焼で発生したガスを効率的に弾に伝えるためには隙間は少ない方がいいため、砲身や銃身とのサイズの一致が重要になる。ここで培われた技術は蒸気機関へ、そしてエンジン開発に繋がっていった。

 

ただ、私はそれとは別のルートを取る。

 

「……どの尺で作るかが問題になりますね」

 

「そう。そしてきっと、多くの人が私たちを真似て印刷をする」

 

「場合によっては、図書庫の城邦の尺が一帯の標準となるかもしれない、と」

 

「そう。だから最初の方は大切なんだよ」

 

私はそう言いながら、活字を綺麗に拭いた。



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晩餐

「キイ嬢、明日の夜に予定はあるかね?」

 

「私ですか?」

 

計算を蝋板に書き付けていると、上司である煩務官が私に声をかけてきた。先日完成した収穫報告を部署として提出したので、今の私とケトは実は宙ぶらりんの立場にいる。過去の収穫量の統計分析をやろうとしたら同僚からマニュアルを作る方に注力してくれと言われたので簡単な手引を作っているが、これは別にメインの業務ではない。

 

「ああ。もし用事があるなら仕方がないが、古くからの友人が晩餐を開くそうで、それに君を誘おうと思っている」

 

「なぜ私を?」

 

「今回の報告について、色々と話を聞きたいそうだ」

 

おーっと、これはあれだな?晩餐といっても赤坂の料亭に近いあれだな?

 

「なるほど、ならば断る理由もありません。しかし私はそのような場に慣れていないため、ケト君を同伴者とすることはできますか?」

 

まあ学会後の懇親会とは違うだろう。かつていた業界が一部の政治家に少し色々されたのでそっちの方面の政権やら党やらへの印象は良くないのだが、別に政治という行為に対して特別な感情を持っているわけではない。巻き込まれたくはないが。ただ、今後何かをやるのであればそういう場にも出なければならないだろう。となると、この晩餐は面を通すという側面もあるのだろうか?

 

「……構わない」

 

「わかりました」

 

「それと、書字長から話を聞いた。面白そうなことをしているな」

 

「前に紹介していただいた職人はとても良い腕をしていました」

 

改めて衙堂の家具や調度品を見るときちんとした作りだった。この世界の工作水準は、少なくとも手作業においてはなかなかいい。

 

「それについての話も明日できれば、と思っている」

 

「わかりました」

 

「それでは、失礼」

 

「どこへ?」

 

「発表の準備だ。さすがに練習もなしに頭領の前で舌は回らん」

 

そう言って、上司は足早に去っていった。

 


 

「暗殺ですね」

 

夕食後、部屋に帰るとケトは小さな声で私にそう言った。

 

「古来より、晩餐は裏切り者の暗躍する場でありました」

 

「その言い方だと私たちが殺すみたいじゃない?」

 

「確かにそうか……」

 

そもそも最初から冗談なのであまり深く捉えてはいけない。時々ケトはこういう危ないジョークを言うのだ。

 

「それと、かなり冷たいです」

 

寝台にいるケトが入っている布団のようなふかふかした防寒具に足を突っ込んでいるので、まあ、そうだろう。

 

「いや冷えるんだよ今日は」

 

ちなみにこの大きな寝袋に近い防寒具は給与で買ったものだ。正直安くはないが、凍えて眠るよりはいい。

 

「これからもう少し寒くなりますよ」

 

「嫌だなぁ……」

 

隙間風がないとはいえ、部屋全体の空気は冷たい。暖房代わりにそろそろ火を起こしたい時期だ。ああ、給与が飛んでいく。

 

「冬とはそういうものです」

 

「冷たくて白い雨って降るの?」

 

「雪ですか?ここらへんではあまり降りませんね。北の方では積もると聞きましたが」

 

まったく、こういうところの語彙も足りない。私は溜息を吐いてケトに近づき、防寒具の中に入る。

 

「……キイさんの身体は、あったかいんですけどね」

 

「そう?末端が冷たいのかな」

 

「そうですよ」

 

私がそう言うと、ケトの手が私の指に触れた。

 

「ほら、やっぱり」

 

少し勝ち誇るようにケトは言う。

 

「ところで、明日は何をすればいいのかな」

 

「飾れるほどの服はないでしょう?いつものようにすればいいのではないでしょうか」

 

そういえばこの世界の装身具について意識したことはあまりなかったな。長い髪を結ぶ時の紐とか、防寒用に肩に巻くスカーフのような布とか、帯とかはよく見る。ただそれ以外はあまり見ないな。市場に行けばそういうものが色々あるのかもしれないが、できるだけつけたくない。面倒なので。まあ、ドレスコードはなんだったら新参者ということで誤魔化そう。

 

「まあ、そうか」

 

「あとはまあ、敬意を払えばいいと思いますよ」

 

「そういうものには詳しいの?」

 

「礼儀作法はハルツさんに叩き込まれたので……」

 

そうか、そう考えるとケトはかなりしっかりと教育を受けているのだった。これってもしかして本来なら慎ましく暮らせたはずなのに怪しいお姉さんに人生を狂わされているのではないだろうか?どう考えても私が犯人である。

 


 

「おお友よ、変わりないか?」

 

奥から出てきたのは、大きな声で言う、声と同じように大柄で筋肉質な男性。煩務官が吹っ飛ばないか心配になるぐらいに肩をバンバンと叩かれている。

 

「お前も相変わらずだな。紹介しよう。こちらの方が将軍補だ」

 

煩務官がいつもの変わらない冷たい調子で言うが、たぶん結構仲いいなこの二人。というか、将軍補ともなれば軍事階級でかなり上位だ。なんでそんな大物の晩餐に出ることになったんだよ。

 

「衙堂で見習いとしてではありますが仕事をしております、ケトと申します。こちらはキイ嬢。僕の師です」

 

うん。そういうことでいいや。私も頭を垂れる。ここらへんはさっき確認しておいたので問題はない、はず。

 

「素晴らしい!城邦を支える賢人を招くことができるとは光栄だ」

 

そう言って彼は私たちを館に招いてくれる。私たちの宿舎とは違う、広々とした空間だ。絨毯が引かれ、明かりが焚かれ、地位と富を感じさせる。ただ成金的というよりは全体的に調和したなんとなくの上品さがある。

 

客間らしき空間には、すでに何人もの人がいた。編まれた籠のようなものは肘置きだろうか。床に座ったり、半ば寝そべったような状態になって歓談が行われている。古代ローマの饗宴を思い起こさせる光景だな。

 


 

二股に分かれた金属製のフォークのような食器で、球状のキッシュにも似た料理を食べる。たぶんたこ焼き器みたいなもので卵をベースとした生地を焼いているのだろう。弾力があるのは脂身だろうか。おいしい。

 

いや、思考から逃げるな。今ここにいる人間は、ケトが名前を知っているような大物が多い。というより煩務官も立場的には政治に強く関わる官僚のようだし。

 

「あの人の本は読んだことがあります。『商者警句集』を下敷きにして論じていたのですが、面白い切り口でした」

 

私に耳打ちするケト。ふうん。やべえやつばっかかよ。経済学者とでも言えばいいかな。

 

「それで、例の計画とやらはいつ話してくれるんだ?」

 

館の主である将軍補が煩務官に声をかける。

 

「正客が来てからだ」

 

そう呟くと同時に、部屋が少しざわついた。

 

「お待ちしておりました」

 

将軍補がそうやって礼を示すのは、彼よりも一回り若い男性。年齢に見合わない威厳があり、金の腕輪が派手にならない程度にはめられている。

 

「……あの腕輪は」

 

ケトが私に近づいて呟く。

 

「別に構うなと言っているだろう。宴の場でまで城邦を背負いたくはない」

 

「この城邦を率いる人である証です」

 

ああ、なるほど。これは相当のVIPだ。おい煩務官、こういうのはきちんと先に話をしてくれ。

 

「それで、あなたがたが新顔かな」

 

彼の強い眼光が私とケトの方を向いた。私はただ、頷くことしかできなかった。



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選択

「……ケト君」

 

「なんでしょう」

 

「私が暴走すると思ったら、止めてね」

 

「……わかりました」

 

ま、彼ならどうにかしてくれるでしょ。私は煩務官と将軍補と会話をする頭領に目を向ける。

 

精悍な男性だ。よく切れる声と、自信のある眉。骨相学の本は昔読んだけど忘れてしまったな。ただまあ、いい男だ。たしかこの城邦は世襲制なので教育の賜物だろうか?

 

「さて、改めて皆様に紹介してくれないか?」

 

将軍補が私たちの方に手を伸ばし、煩務官を見る。

 

「衙堂で働いているキイ嬢だ。中には今年の分の報告の図画を見た人もいるのではないか?」

 

頷く頭領。お、いい深盃を持ってるな。硝子(ガラス)製か。高級品ということだろう。というか全員分がそうか。本当に金がかかっている。とはいえ見栄は重要だ。相手にそれだけの価値があることを暗に示す良い手段なのだから。同時に自分の力を表すこともできる。いや違うな、思考を戻そう。

 

「それでだ、キイ嬢。君の作ろうとしているものについて、説明してもらえないか?」

 

ケトに後ろからつつかれてやっと我に返れた。ま、こんな発表直前でも集中できるぐらいであれば気負うよりマシだろう。

 

「あまり慣れない語りであるために、うまく説明できないことには御了簡を。正直弟子に話させたいところでもありますが、紹介を受けた以上私の口から言わせていただきましょう」

 

お、思ったよりウケがいい。うんうん。反応があるのは話していて楽しいね。ケトへの説明もリアクションが色々見られて楽しいけど。

 

「本を作ることは決して容易ではありません。写字を行おうとすれば文字の間違いが生まれるし、木を彫るには職人の腕と時間がかかる。私がやろうとしている方法では、木版で作るように校正が容易であり、写字よりも作業者の腕を問わない方法です」

 

興味深そうに人々が私に視線を向ける。

 

「これを使います」

 

何人かに金属活字を回していく。実物の例示は効果的な演出方法だ。なにせ少し前まで博物館で色々やっていた人間だからな。学芸員の資格は忙しくて取れなかったが、博物館学の教科書は一通り読んであるし、国立産業技術史博物館は国立大学法人法で設置されるので博物館法で言う博物館ではなく学芸員はいない。いやどうでもいいや。

 

「鉛で作った文字版です。これを並べ、(ページ)まるごとの版を作り、油を主体とした(インク)を付け、搾油機で圧力をかけて紙に刷ります。これであれば、今まで十人の書字生で行っていただけの作業を、一人か二人で行うことができます」

 

何人かの目の色が変わる。

 

「今の時点で、何か質問は?」

 

「この文字版を作るのは、容易ではないだろう?初期投資はどれぐらいになりそうだ」

 

ここで素早く手を上げてくれるのは本当に嬉しい。

 

「質問に感謝いたします。概算でありますが、銀片二百ほど。ただこの文字版は使い回せますし、必要であれば同じ型から同じ形のものを作ることができます。二台目以降はもう少し安くなるでしょう」

 

「文字の大きさは変えられるかね?」

 

「可能です。ですが、あまり種類を増やしすぎないほうがいいでしょう」

 

そんな説明をしながら、私は頭領の方に目を向ける。

 

「……この方法に、何かわかっている問題はあるかね?」

 

そう語るのは頭領。ふふ。さすがだ。この城邦を率いているだけある。こういう話を聞かされて溺れずにデメリットを聞けるのは発表者側としてはあまり嬉しくないが。ただまあ、このくらいの質問は学会ではジャブにもならんよ。

 

「例えばこの版は鉛ですので、ぶつけて粉が舞えば毒となります。作業場を掃除し、仕事終わりには口を濯ぎ水を浴びる必要があるでしょう。ただ、そういうことではなく……」

 

私はここで一度言葉を切って、息を吸う。

 

「例えば書字生の職が失われることが考えられます。また、容易に同じ本を作れるということはある著作を正当でないものが作れるということを意味します。それをどう扱うかという法が必要になるやもしれません。……そして、どのような考えであっても今までより早く広まることになるでしょう」

 

何人かは飲み込めたようだが、そうでない人もいる。補足説明をしようか。

 

「つまりは醜聞も、誰かに対する否定も、あるいは商業や政治上の秘密も。銀片数百は安いとは言えませんが、学徒が何人かいればそのような活動をすることも不可能ではないでしょう」

 

「つまりは、この図書庫の城邦にとっては████████の剣となるわけか」

 

頭領が言う。知らない言葉だが、故事成語だろうか。ケトに視線を向けると、すぐ顔を私の耳元に近づけてくれた。

 

「古帝国の伝承で、皇帝が裏切り者を処刑する時に使われた剣が反逆者によって振るわれ、皇帝が殺されたという話です」

 

「わかった」

 

諸刃の剣、といったところか。

 

「その通りです。ただ、この図書庫の城邦であれば有用性は高いでしょう。多くの本が作られれば、知識が生き残る可能性が高まります。全ての衙堂に聖典語の教本があれば、学びに来る前に知識を受け入れる土を耕すことができます。講師が事前に講義の流れを刷っておけば、学徒は容易にその話を理解し、また振り返ることができるでしょう」

 

「だが、一度本となってしまったことを消し去ることはできない、と」

 

本質を見抜くのが速いな。私にはここまでの速度は出せない。

 

「あなたがたが悪いと判断した本を焼けば一時は消えるかもしれませんが、一冊でも残していればそれが種となるでしょう。逆に言えば、地の上に一冊でも本が残っていれば叡智は受け継がれます」

 

「……完成までにかかる期間と、費用は?」

 

「期間は鍛冶がどれだけかかるかによりますが、おそらく数月。費用は残り銀片二百か三百と言ったところでしょうか」

 

「よし。春分までに完成させよ。衙堂と図書庫に費用は出させる」

 

自分の懐から出すわけではないのか。いや、確かにそういう機関の予算の方が信頼はできるけど。

 

「……衙堂としては、異論ありません」

 

そうは言っているが、煩務官の目はあまり明るくない。たぶんこの後の仕事が増えたと思っているのだろう。

 

「図書庫の方はもう少し確認したいことがあるのだが、よろしいか?」

 

手を挙げて言うのは白髪の老人。最高齢かな。基本的にここの面子は若い。いや人口分布とかを知らないのに安易にこう言うのはよくないか。

 

「構いませんよ。この後でも、後日でも」

 

「それでは、宴の続きをしようか。図書庫の城邦の発展に」

 

ケトが私に深盃を取ってくれる。アルコールと果物の甘い匂いがする赤い液体が蝋燭の火を反射して揺れる。

 

「「「乾杯!*1」」」

 

「……乾杯」

 

タイミングを逃し、私は小さく呟くように言った。

*1
聖典語において『いざ恵みを!』の意。図書庫の城邦を含む一帯では乾杯の音頭に用いられる。一般的に晩餐ではある程度盛り上がったところで強い酒を飲み始め、その切り替えのタイミングで乾杯をする。また、古来より酒は自然がもたらした収穫から作られる「恵み」の象徴であった。



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目的

宴会は一人、また一人と去っていき、部屋には七人が残った。私とケトを除けば五人。全員男性だ。

 

一人は白髪の講官。図書庫に務め、研究と教育に携わる専門家。四分野を修め、ケトもその名前を知るほどの人物。

 

一人は髪を後ろにまとめた商人。経済学者だと思っていたが、もっと実務寄りのようだ。あまり話せていないが。

 

一人は衙堂の司士。いつものような冷たい目で、この面子を見ている。一番馴染みのある人物だが、助けてくれる気配はない。

 

一人は将軍補。叩き上げの武官としてかなりの要職についているらしいことしかわかっていない。

 

そして、最後の一人が頭領。法律上は、この城邦の最高意思決定者である。

 

「……キイ嬢」

 

煩務官が口を開く。

 

「我々は城邦と民のために仕事をしている」

 

「……ええ」

 

「故に、一定以上の危険を取り除く必要がある。不確定要素が多いときには、特にだ」

 

「正しい判断ですね」

 

全員がリラックスした体勢を取っているにもかかわらず、部屋の空気は重い。今まで感じたことがないタイプの圧迫感だ。

 

「ここにいるのは旧友であり、師であり、同志だ。それ故に、質問をしたい」

 

何が来るのかな。私に答えられる内容だといいけど。

 

「君は何を目的にしている?我々と志を共にできるか?」

 


 

思い返してみれば、人生に目的を見出したことがあまりなかった。人並み以上には心理学も宗教も知識はあるが、正直なところあまりピンと来なかった。何かを学ぶのは楽しかったし、誰も知らないことを発見した時には心が踊った。ただまあ、その程度なのだ。歴史上で見る、いわゆる偉人と呼ばれる人々は、たとえそれが物語(narrative)であることを加味しても私とは違うように思えた。

 

早めに私の罹った中二病は、比較的すぐ同世代のバケモノに打ち砕かれた。それに悔しさはあまり感じられず、中には笑顔で握手を求めて友人となった人もいた。けどまあ変な知識欲は消え失せず、手当たり次第に突っ込んだ知識をベースに私は科学技術史の方面に足を進めた。そうして気がついた時、私は一人だった。

 

博士号を取るような、あるいはそれ以降のキャリアを歩む研究者が挑んでいるものは決して「先端」と呼べるようなものではない。特に人文科学の領域では。それは山を登るのではなく、広い荒野を切り拓くようなものである。目の前に見通しはなく、終わりもない。人類史で今まで自分と同じ地平に立ってこの領域を見たものはなく、おそらく今後も現れないだろうとわかってしまっても、私は「そんなもんでしょ」以上の感情を抱けなかった。それに燃え上がる人もいた。あるいは孤独に耐えかねたものもいた。私はそうではなかった。ただ感覚が麻痺していただけかもしれないが。

 

「私の求めるものは、そう多くはありません」

 

強いて言うなら研究者や技術者としての倫理だろうか?ただ、これもあまり複雑なものではない。それに義務でもない。科学者が負うべきだと私が考える多くの責任について、私を含めたほとんどの科学者は無視している。人間にとって、あらゆる行動が他者への危害となりうるという思想は面倒なのだ。主要な経済指数と疾病発生率の因果関係を結んでしまえば、ある政治家を殺人者であると言うことができるだろう。ある歴史的見解が個人にストレスを与え、寿命を縮めることは十分に考えられる。ましてやもっと直接的な技術を扱う人間であれば、製品によって生まれた死の責任の一端を担う必要があるというのは純粋に論理的な結論として出てくる。私は感情的なので「知るか」と技術者倫理の本を読んで一人呟いていたが。

 

「衣食住、頼れる専門家、あとは知的好奇心を満たせる環境があれば、私は成すべきことを成すでしょう」

 

ああ、敬虔さも道徳性も欠けている。私の知る時代の日本人程度には不正は嫌いだし、道徳の教科書を配られたその日に読み切る程度には興味もあるのだが。

 

「逆に、あなたがたは何を私に望みますか?提供できるものがあれば出しますが」

 

「どこからそれを持ってくるかの答えは、知り得ないものだろうな」

 

講官が低い声で言う。

 

「君が示した知識は、いずれの書にも見いだせないものだ。それが不学のためと言うなら、賢者はこの地に存在しない」

 

うん。まあ異世界の研究者が転移してなにかしようとしていますって言っても誰も信じないわな。それにあまり言っても意味がないし。さすがに秘密を抱えきるのは辛いからケトには打ち明けたけど。

 

「こちらとしては、それが利となるのであれば商うのみです」

 

そう腕を組んで言う商人に、私は視線を向ける。

 

「本当に、売れますか?」

 

「……なに?」

 

「億の民を死に至らしめる病を、街を焼き滅ぼす力を、あるいは国を崩壊させる怨嗟を、あなたがたは御する事ができますか?」

 

「……それだけの力があるなら、今ここで斬ることも考えねばならないな」

 

将軍補の言葉に、私は頷く。

 

「ええ。ただ、あなたがたは千年もすればその域に手が届くでしょう。人々の欲望は止まりません」

 

「君が動けば、それがどれほどになるかね?」

 

「ま、百年といったところですかね」

 

微生物学が始まったのは19世紀。マンハッタン計画は20世紀。SNSが本格的に社会に影響を与えるようになったのは21世紀以降。どれもきっかけになる技術は、十分な支援があれば三十年もあれば到達できる範囲にある。

 

「国家の計画を立てるのであれば、今後千年をかけてそれに耐えられるものを作り上げるか、あるいは今ここで千年分の知識を聞いて、必要なものを選ぶか、か」

 

頭領の言葉は、かなり正しい。私の知る歴史ではそれをできたことはほとんどなかったが。

 

「選ぶのも容易ではありませんよ。鉄を打つ技が鋤を作るにも剣を作るにも働くように、私の知識の活用は流血を伴うでしょう」

 

「で、活用せねば千年の争いを伴う」

 

将軍補は口を挟む。ああ、この人はたぶん戦争を知っているんだな。私は知識と数字でしか知らない。

 

「専門家として、私はこの国が、この地が私の知識をうまく使える可能性があると言えます。ただ同時に、それは非常に至難であるとも言えます」

 

「君の考える、我々の選択肢は?」

 

煩務官の言葉に、私は少し考える。

 

「ここで私を殺すなり、口を封じるなりする。この場合、地の上には何も影響は出ないでしょう。あるいは私にいくらかの協力を行い、有用そうなものを活用することもできる。あと、勧められはしませんが私により多くの、大きな力を与えることもできます」

 

「川は流れねば濁るが、大きすぎる流れは泥を巻き上げる。言葉通りだな」

 

そう呟くのは商人。

 

「いい言葉ですね。それで、私をどうしますか?個人的には殺されても仕方がないとは思いますが、ケト君には危害を加えないでいただけると助かります」

 

「いえ僕は別に……」

 

おっと、思ったよりケトは私を信頼してしまっているな?大丈夫かな。

 

「逆に言えば、金と協力する人が欠けていれば何もできない一人の人間ということだろう?」

 

頭領が笑い顔を作る。

 

「その通りです。色々やりたいのでお金をください」

 

「いいだろう。で、こちらとしては彼女を城邦の名の下で招きたいのだが」

 

「衙堂にとって欠かせぬ人間だぞ?」

 

「図書庫で働くこともできるが」

 

「給金であれば商会を通せば一番多く出せます」

 

おおっと、かなりスカウトを強く受けている。就職しなかった分の運が回ってきているのかな。ちなみに将軍補は黙っている。まあ今までの話だとあまり軍事系には進みそうにないと思われても仕方がないか。当然その辺の知識もいっぱいあるが、しばらくは黙っておこう。

 

「まずは文字版を完成させるべきでは?議論はそれ以降でもできるでしょう」

 

ケトが私の前に立って言う。まあ確かにそうだ。全員が笑い声を上げたが、目の笑っている人間は見た範囲ではいなかった。



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巡歴

「ああ、あの会か。それは大変だったな」

 

トゥー嬢は私にお茶を出しながら言った。

 

「知っているんですか?」

 

「私も呼ばれた事がある。まあ、あまりあの言葉を真に受けるな」

 

「へえ、それは薬学師としてですか?」

 

木の皮らしいものを煮出した液体はなかなかいい風味だ。ほんのりと甘く、酸味がある。知らない味だ。磁器のコップが実験に使われているものと同じ形をしているのには気がつかなかったふりをしておこう。

 

「いや……、まあ話してもいいか。ケト君。私の父の名前を知っているかい?」

 

「……ええ」

 

隣に座っていたケトが言う。おや。ケトが語るところによると一種の政治活動家だったらしい。地主としてある程度の財を蓄えた上で、図書庫の城邦の上層に色々やったそうだ。

 

「それで十年ほど前、最終的に彼の死によって争いは終わったとされています」

 

「ああ、大体その通りだ。そして、その一人娘の話は?」

 

「……知りません」

 

「父の葬儀の後、晩餐に呼ばれた。そこで問われたわけだ。我々に味方するか、さもなくば何もせず静かに暮らすか、と」

 

「それで?」

 

「遺産を引き継いで、篭って薬学に没頭すると言ったよ。それ以降は会っていない。もちろん作業に必要なものを売る商者は奴らの手の者だし、警戒はされているだろうけどね」

 

「……はぁ」

 

溜息を一つ。なるほど。ただまあ言質は取ったので活用させてもらおう。社交辞令は言ったもの負けなのだ。「発表しなよ」と懇親会で言われたので次の年度にスライドを作って全国大会に乗り込んだのは懐かしい思い出だ。

 

「まあ、辛くなれば話は聞く。何ならここで働いてもいい。研究ではなく商いをすればまあ、二人か三人であれば養えるだけの事はできるだろう」

 

「なんだかんだであなたも私を狙っていません?」

 

あっ邪悪な微笑み。そりゃまああの面子と渡り合った過去があるのだ。それも若い頃に。

 

「優秀な同僚はなかなか手にはいらないからな」

 

まあ、選択肢が多いのはいいことだ。どれかを断るのもいいけど、できたら全てを選びたいね。

 


 

「どうだったかね、宴は」

 

書字長の老婆が私に聞く。

 

「とても、楽しかったですよ。ありがとうございます」

 

皮肉が混じっていることは伝わっただろうが、書字長は楽しそうに笑うだけだ。うーん勝てる気がしない。

 

「それで、頼まれたもんはできとるよ」

 

ケトが書字長から受け取った紙には30の文字が薄い罫線の上に描かれていた。

 

「版を並べて刷るんだろう?それに合わせて作ったつもりだが、どうかね」

 

「実際にやってみないとわかりませんが、良いと思います」

 

高さが揃えられた、読みやすい文字だ。あまり複雑な部分はなく、加工も比較的容易だろう。それでいてこの格調を出すとは。いやこの世界のカリグラフィーについて特別な知識があるわけではないが。

 

「弟子の何人かに話をしたら、興味深いと言ってくれたよ。何かあったら頼るといい」

 

そう言って書字長は何人かの名前を教えてくれる。よし。かなり助かるな。

 

「……ところで、あなたが刷りたい本などはありますか?」

 

「文字を書く手引」

 

きっぱりと答えられてしまった。それを活版印刷で刷るのは何か本末転倒な気もするが。

 


 

工房の大工師、衙堂の煩務官、図書庫の講官が机を囲んでなにやら議論をしている。聞き漏れるところによると価格やら納期の調整らしい。大変なことで。支払いまで任せているので私は純粋に技術的側面に気を配ろう。

 

「それで、どうです?」

 

私は工師に聞く。

 

「型を毎度壊さねばならないのがな面倒でな」

 

「粘土型でしたっけ、今の方法は」

 

「ああ。ただ、失敗も多い。削って修正してしまえばいいが、手間がかかる」

 

私は息を吐く。

 

「金属の型を使いませんか?」

 

「青銅でなら作れるだろうな。だが内を磨き、取り外せるようにするとなるとかなり複雑にならないか?それと文字の数だけ型を用意しなくてはならない」

 

「こう考えましょう。文字の部分と本体の部分を分けてしまえばいい」

 

私がそう言うと、工師はしばらく黙った。

 

「この版は、今後も注文されるだろうか?」

 

「今の大きさからは変えるかもしれません」

 

「であれば、最初の数千字は今の方法で作ってしまってもいいのではないか?」

 

そう言われてみればそうだな。別に今の時点で大量生産にこだわる必要もないんだった。

 

「わかりました。その場合、手間賃がどれくらいになるでしょうか?」

 

「方法を改善すれば、多少は減らせるだろう。いま向こうで交渉が続いているが、たぶん大工師の言う値から少し下がる程度で済む」

 

「……次の注文ができるよう、全力を尽くします」

 

こういうところできちんと信用を積まなければならない。まあここで失敗すれば私には後がないのだが。

 

「わかった。それと金属の型についてだが、文字の型を作るとなると相当精密に作らねばならないのではないか?」

 

「木であれば削れましたが、あれを金属でとは考えたくないですね」

 

「何かいい方法はないかね」

 

「……こちらで少し、試してみましょう」

 

電気を使う方法だ。ヨハネス・グーテンベルク流であれば鋼鉄の父型で銅の母型を作るのだが、電胎母型法ではメッキを使う。ただ問題は発電方法か。電池を二つ使えば行けるか?ここらへんは実験しかない。

 

「そうか。春分までに、だったな」

 

「ええ。あと四月ほどですね」

 

「それまでに、最低限は形にしなければならない、と」

 

私は頷く。かなりハードなスケジュールになりそうだ。



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試行錯誤

衙堂の使っていない空間に色々なものを運び込む。中古で手に入れた螺子(ねじ)式の圧搾機。あまり質の良くない紙。実験を繰り返したインク。大量の活字。金属製の枠。古い布で動物の毛をくるんで作った短穂(たんぽ)。よし、準備は整った。

 

「かなり余裕を持ってできましたね」

 

「まさか」

 

私はここからの苦労を知っている。多くの本ではただ「試行錯誤を繰り返した」と表現されるような、細かなノウハウを積み上げる工程があるのだ。

 

「ま、とりあえずやってみますか」

 

枠に活字を並べ、印刷できる状態にする。内容は聖典語によるこの活版印刷についての簡潔な説明だ。文面はケトが一週間ぐらいかけて作ってくれた。これがミームの自己複製機構である。短穂(たんぽ)でインクを版に乗せ、紙をセット。

 

「いくよ。引いて!」

 

私がそう言うと、ケトが圧搾機のハンドルを回す。この回転運動はネジによって直線運動へと変えられ、紙を版に押し付ける。

 

「放して」

 

ケトの掛け声は間が抜けているように聞こえる。まあ、これは純粋に文化圏の違いだ。

 

「……どうですか?」

 

不安そうに見る隣のケト。私はゆっくりと紙を引き抜く。

 

「一部にしか(インク)がついていない。……間に紙を入れるか」

 

たぶん圧搾機が押す面と版の表面の平面がうまく合わなかったのだろう。これを解決するためにはある程度のクッションを入れればいい。たぶん。

 


 

10枚ぐらいの紙を同時に入れて実験。裏の紙に滲んでしまう。インクの油の量を調整。

 


 

一部にまだかすれが出る。紙が硬いのだろうか?少し湿らせてみよう。濡らした紙を何枚かの紙で挟んでおけば、水がゆっくりと浸透していく。この工程自体に圧搾機を使っているのでしばらく休憩だ。

 


 

多少はうまく行ったが、インクが柔らかすぎるのか文字が潰れている。配合のバランスを調整。

 


 

かなりうまく行ったように見えるが、どうだろうか。

 

「駄目です」

 

「はい」

 

「文字版ごとにたぶん高さが違うので、文字の濃さが変わっているのではないでしょうか?」

 

「確かに」

 

「それと、(インク)を塗る時に使っているこれの布目が出ています」

 

「それなぁ……。革を使えばもう少しうまくいくかもしれないけど、代案がある」

 

「何ですか?」

 

「膠で専用の道具を作る」

 

「……ああ、動物の骨を煮て作る接着剤の、あの膠ですか?」

 

「そう。それでこういう円柱状のものを作って……」

 

ローラーだ。昔謄写版について読んだときにゴム製だけではなく膠製のローラーもあり、一部に人気があったと読んだのを思い出した。

 

「薬学の領分ですね」

 

「なら、あの人のとこへ行くか」

 

私は背筋を伸ばす。作業に熱中すると、時間が経つのは速いのだ。

 


 

「……よし!」

 

うまく溶かして流し込んだゼラチンが固まってくれる。これを作るだけでも結構大変だった。純度を上げるために酸や塩基で処理する手法が確立されていて本当に良かった。

 

「できたようで何よりだ」

 

ぶっきらぼうな言い方だが、この薬学師がなんだかんだで支えてくれなかったら折れていたかもしれないと考えると感謝してもしきれない。

 

「それで、文字版の高さの方は?」

 

「あれの原因は文字版の高さではないという結論になったよ。高さはどれも決まった範囲にあった」

 

そう聞いてくるケトに私は笑って答える。

 

「ではなぜ?」

 

「見逃していたのは、文字版を入れていた枠自体の問題だ。下に紙を入れて高さを調節し、うまくできないかやってみるよ」

 


 

圧搾機自体を斜めにする。これで紙の出し入れが容易になった。ただインクをつけるコツが変化する。できるだけ簡単に、できるだけ繰り返しても変化しないように。

 


 

「それは何を?」

 

印刷に失敗した紙の余白を使って計算を続ける私に、ケトが心配そうに声をかけた。かれこれ一ヶ月作業をしているが、まだ満足する出来のものは完成していない。

 

「変える条件を一覧にして、どれとどれが相互作用するかを考えて、組み合わせを試す」

 

「膨大なものになりますよ?」

 

「それを減らす、計算的な技があるんだよ」

 

実験計画法は最初農業分野で発展した。複数の因子に影響を受ける現象の分析に力を発揮するこの手法は、ちょっとした数学的アイデアで生み出せる。さらなる発展には統計学の基礎知識が必要で、そのためには微積分ができなくてはならない。やばいな。ちょっと怪しいぞ?

 

「それで、減らして何回程度ですか?」

 

「1512かな。たぶん」

 

直交表を作るのが怪しかったので重複上等でプランを組んだ。私の完璧な計算によれば半月で終わる。春分まではあと一月なので、余裕だな。

 


 

「計算結果、ここに置いておきますね」

 

「……ありがと」

 

私は目を覚まして、床から立ち上がる。厚手の生地で作った作業服でもたまに飛ぶインクは完全には防げない。私の分の計算は終わっている。あとはバイトで雇っている学徒に計算させた数値を代入して、最適な因子の組み合わせを出せばいい。

 

「樹脂2、種油8。湿り気は紙がたるむ程度……」

 

実験の過程でできるだけ定量化を心がけた。計量用の秤も作った。山ほどの条件から、適切な配分を見つけ出す。職人のカンなんかに頼らないようにしないといけない。

 

「……これで、どう?」

 

刷り上がったものをケトに見せる。

 

「今までのと、何が違うんです?」

 

「ならいい。これで終わりだ」

 

そう。ケトの目でも違いがわからないということは、いくつかの条件が変わっても同じ結果を得ることができたということだ。

 

「さて、一旦全部解体して、組み立て直して、あとはケトくん、君だけでやってもらうよ」

 

「わかりました。やっとですね」

 

まあ今までの私の作業を結構しっかり見ていたケトならある程度はできてしまうだろうが、重要な部分については触らせなかったのでいいテストになるだろう。言葉としては伝えてあるけれども、それでどこまでうまくいくか。

 

「そう。これできみが私と同じように刷れるなら、ひとまずこれは完成したと言っていいと思うよ」

 

「誰でも使える、ということですか」

 

「そう。それが一番重要だから」

 

私は自分の黒ずんだ手を見て、呟くように言った。春分は五日後だった。



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発展

書くよりも正確に

 

彫るよりも速く

 

見易き文字にて

 

書き手を選ばず

 

字を記すこと、可能なれや?

 


 

手のひらサイズの紙に刷られた聖典語の五行詩。この印刷に、私は手を貸していない。インクの配合から印刷まで、ケトが全て一人でやったものだ。まあ丸一日苦労してからのものだったしマニュアルに改善の余地は多分にある。数百年後にオークションで高値が付きそうだな、と余計なことを考える。

 

「できたぁ……」

 

「お疲れ様。なんとか間に合ったね」

 

「ただ、これ刷る時の微調整が大変ですね」

 

「まあ元の文字版の組み合わせとかも変えていかなくちゃな……」

 

文字一つ一つは良くても、並べた全体のバランスというものがある。それについてはどうやらある程度決まったルールがあるらしい。ここらへんは修辞学と統治学の両方の知識が必要なようで、つまりは面倒だ。ただある程度フォーマットが決まっているのでそれ専用に枠を作ればいいかもしれない。

 

「あとはこれを煩務官に出せばいいんですよね……」

 

「私がやるよ」

 

「いえ、キイさんにやらせると怖いので一緒に行きましょう」

 

「そうかな?」

 

「そうです」

 

ケトが少し語気を強める。

 

「作業に集中して食事を摂らなかったのは誰でしたっけ?(インク)の材料を買うのに相手の言値で払おうとしたのは誰でしたっけ?膠をこぼして危うく大火傷を負うところだったのは誰でしたっけ?」

 

「そんな危ないことをするやつがいるのか、世界にはまだまだ知らないことがあるな」

 

「これは少し真面目に聞いてください」

 

「はい」

 

私とケトは床に座る。

 

「完成までは何も言わないようにしていましたが、完成したので言います。キイさんは凄い人です。こんなものを作って、その使い方まで説明しようとするのは僕にはできません」

 

「たぶんできるんじゃないかな……」

 

私のこれは結構が経験によるものなのでケトでも慣れればできるはずだ。その下地になる能力は私以上にある気がするし。

 

「今はできません」

 

「はい」

 

「……すごい心配したんですからね?」

 

「それについては申し訳ないけど、たぶん変えられない……」

 

他者に心理的負担をかけて作業をすることは本来なら避けるべきだが、今回の場合頼れる人間が他にいないのだ。単純な計算ならともかく、あいまいな知識ベースで実験プランをでっちあげるのはこの世界で私以外にできる人はいないはずだ。

 

「わかりました。なら、しばらくは休みましょう」

 

「この完成報告は?」

 

「たぶん煩務官に出したらあとは色々やってくれます」

 

「確かに」

 

作業中もたまに覗きに来ていたので、まあ進捗共有はできていたはずだ。こういうときに後を任せられる上司がいると助かる。

 


 

上の方が下した最終的な結論は、「実用に難あり、しかし改良の余地大なり」とのことである。そして図書庫がかなり興味を持ってくれた。銀千枚でまるごと買い取るという話もあったが、これは一旦保留にしてもらった。アフターサービスが保証できないというのと、まだ試作品だということで勘弁してもらったところがある。

 

「誤字の修正が楽なのが気に入られたらしいですよ」

 

暖かくなってきた宿舎の部屋でケトが嬉しそうに話す。

 

「そいつはよかった」

 

私は手元の紙を見ながら言う。予算がついたので結構気軽に紙にメモができるようになった。蝋板は消さないと続きが書けないので、保存用には紙がやはりいい。

 

「それは?」

 

「いや、この後何をするかと色々書き出してて。一つは金属文字版印刷の改良。文字版をもっと効率的に作る方法があるけど、それには雷の力を操らなくちゃいけない」

 

「万神学で議論になりそうな内容ですね……」

 

「もう一つは教本を作る。東方通商語による東方通商語の」

 

「どの東方通商語を使うんです?」

 

「どのって……ああそうだよね、地域によって変わるか」

 

「ひとまずは図書庫の城邦で話されているものでいいかと」

 

「よし。あとは教本でも算学の応用と薬学とあとは実践的哲学の話と……」

 

ここらへんの言葉もないのでどうにかしないとな。「実験」という用語を会話で使えないし、「科学」という概念がないのも面倒だ。まあこれについてはケトと一緒にやろう。そうでないとたぶんできない。

 

「それは講義のほうがいいのではないでしょうか?」

 

「まあ、そうかも。そうかあとは加工のためのあれこれもか……」

 

「急がないでくださいね」

 

「どうして?」

 

やりたい事というかやれる事が多すぎて、たぶん死ぬまでには終わらない。教育体制を整え、分業を駆使し、それでなんとかいくつかの技術が数年か十数年のスパンで実現可能だろうな、と私は読んでいるがここらへんは実際にやってみないと何とも言えない。

 

「必要がないからです」

 

「……そう?」

 

「はい。無茶をして、それで倒れてしまったら意味がないですから」

 

「相当心配かけてるね……」

 

「ええ。本当だったらずっと部屋に閉じ込めたいぐらいです」

 

思ったより感情が重いなと思ったが完全に私のせいだ。

 

「ただまあ、金属文字版印刷ができたならもう少し危ないものを出してもいいかな」

 

私は紙のうちの一つを見て言う。設計図というほどでもない、落書きだ。

 

「……一体何です?」

 

「少し手軽に刷れる方法」

 

技術的ハードルが比較的多い気がしたので昔からある活版印刷を選んだが、案外うまく行ったならこっちも試してみてもいいだろう。

 

「そんなものがあるならなぜそっちを先に出さなかったんです」

 

「本当に危ないものだからだよ」

 

謄写版はかつては一般的な事務機器として幅広く使用されていた。それこそ官公庁からテロリストまで。ヤスリの上に載せた蝋紙を鉄筆でガリガリとやって版を作るのでガリ版印刷とも言う。スクリーン用の絹がどうにも見当たらなかったが、ニトロセルロース繊維で作れる可能性がある。まあそもそもちゃんと使ったことがないので手探りになるが。

 

「……前に話してくれた、他のものよりも?」

 

「うん。技よりも、考えの方が人を強く動かすから」

 

「そうかもしれませんね」

 

ま、何かあったら今回のように上の方が動いてくれるらしいことがわかったのでそこまで深刻に考えるのはやめよう。思い悩み過ぎは身体に毒だ。



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第4章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。解説のない部分は今後触るんだろうなとワクワクしている読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


書体

「ありますよ、そういうもの」

15世紀にヨーロッパで活版印刷が生まれるよりも先に東洋で活版印刷が用いられている。ただ漢字文化圏では文字数が非常に多いこと、漢字が支配階級の文化と結びつきが強かったのでそれ以外の文字の使用が主流とならなかったことなどが理由となって普及しなかった。

 

何本か歯が抜けていた。

昔から人間は虫歯に苦しめられてきた。解決策の一つとしての抜歯は、かなり広い文化に見られる。もちろん強い痛みを伴うし、合併症も少なくない。

 

総記

二回目以降があるかどうかは私の首が身体と離れ離れになったり、路地裏で刺されたり、あるいはどこぞの地下に幽閉されたりするかによる。

技術的革新を成し遂げた偉人を分析すると、その知識や発想というよりも政治力が強いことがある。

 

ここらへんは元の世界でのキリスト教の悪影響があったのかもしれない。

事実、地球の歴史と聖書の記述が切り離して語られるようになったのは18世紀になってからだった。

 

鋳造

色からすると1000℃といったところだろう。

熱を持った物体は常温付近では赤外線の、それより温度が高ければ可視光範囲の電磁波(光)を放出する。この電磁波の波長分布から温度を測定することで今一番身近なものが非接触式の体温計であろう。ちなみに1000℃程度の物体は少し黄色い感じがするオレンジ色の光を放つ。

 

4段階の徒弟制度が構築されていて、彼は上から二番目。

ヨーロッパの都市におけるギルドでは親方-職人-徒弟の階層構造があった。とはいえあくまで一般例である。

 

とはいえ例外がある。私たちの身の回りにある最も基本的な物質の一つ、水は氷になる時に膨張する。

水は特徴的な物性を多く持つ。これは一般的に水素結合が挙動に大きな影響を与えるからであり、それに伴う様々な現象が生命や地球環境にも表れている。

 

たぶん鉛と他の金属、運が良ければアンチモンを含むのだろう。

アンチモンを含んだ合金は凝固時の収縮が小さくなる。硬さとのバランスを取るために鉛、錫、アンチモンを組み合わせた合金は活字合金として我々の世界でも使われていた。

 

とっとと技術の属人化を終わらせたいが、これは明らかに反既存秩序的行動である。

この思想が出てくるのは工場制手工業(マニュファクチュア)以降であり、発展していくのはフレデリック・ウィンズロー・テイラーによる「科学的管理法(Scientific management)」からである。労働者を交換可能なものとして捉えようとするこの思想は、チャーリー・チャップリンの映画「Modern Times」で風刺されたような社会を生むことになる。

 

硝化

科学技術史は決して巨人の歴史ではない。数多の名もなき屍のほうが巨人よりも影響が大きいのだ。

過去の研究を踏まえて、それを超えていくという意味で使われる「巨人の肩の上(sholders of Giants)」という言い回しは12世紀には見られ、アイザック・ニュートンが手紙で使ったことでも知られる。なお、キイのような見解はCole, Jonathan R.; Cole, Stephen. The Ortega Hypothesis. Science. 1972, vol. 178, Issue 4059, p. 368-375.(オルテガ仮説)においてホセ・オルテガ・イ・ガセットの著作「La rebelión de las masas(大衆の反逆)」を踏まえて「オルテガ仮説」と呼ばれ、一部の研究者による重要な仕事が科学を発展させるのだという「ニュートン仮説」と対立している。

 

丁寧な作業だが、現代のドラフトチャンバーを知っている身からすると恐ろしい。

ドラフトチャンバーはドラフト、ヒュームフード、ドラチャンなどと様々に呼ばれる化学実験用の設備。空気を内部に吸い込むことによって危険なガスが発生するような実験でも比較的安全に行うことができるが、正直作業はしにくい。生物学の分野ではクリーンベンチという似たような機材が無菌状態を保つために使われるが、これは空気を外側に流れるようにすることで外部から余計なものが入らないようにしている。

 

わぁ。まあ科学というものはなんだかんだ言ってある程度の期間は趣味人によって発展したところがあるからな。

だからこそ科学は貴族や聖職者、上流階級の道楽であった時代もあったし、そのような「趣味」に対してがめつい人間は嫌われた。ましてや報酬を大声で求める人間は排除されることもあった。

 

油墨

クリスチアン・フリードリヒ・シェーンバインが実験の最中にこぼした酸を妻のエプロンで拭き、こっそり乾かしていたらいきなり燃えたのである。

1845年、妻の留守中に自宅で行っていた実験の最中のことである。なお妻からは家での実験は禁止されていたようだが、この後どのような騒動になったのかの記録は見当たらない。

 

まあ実際これを使って作った再生繊維の服がよく燃えて大変なことになったので応用は難しい。それでもこれが作られた当時は代替素材がないか、あるいはこのニトロセルロース自体が代替素材として使われたので定期的に色々なものが燃えたと聞く。

ニトロセルロース繊維やセルロイドはその便利さと安価さ(絹や象牙に比べれば安い)によって様々な製品に使われ、よく燃えた。しかしその後の有機合成化学の発展によって今日ではほとんど見かける機会はない。

 

今更になって気がついたが、この紙はインクがにじみにくいのだ。

製紙は沼です。事実ヨーロッパで使われていた紙はインクが滲まないようサイズ剤を添加するというアラビア圏での知識を取り入れたものだった。

 

「場合によっては、図書庫の城邦の尺が一帯の標準となるかもしれない、と」

単位を統一することは国家の威信を示すものであり、我々の知る世界でもフランス革命後の新単位系確立は大事業であった。ちなみにアメリカにおける単位系は全てメートル法と誤差なく換算可能であることはあまり知られていない。まあ換算係数が汚い数字なのだが。

 

晩餐

かつていた業界が一部の政治家に少し色々されたのでそっちの方面の政権やら党やらへの印象は良くないのだが、別に政治という行為に対して特別な感情を持っているわけではない。

民営化運動と社会教育施設への出資削減、独立行政法人化などなどのこと。まあ万人に受け入れられる政治的選択というものはないのだから仕方のない面はある。カネがないのが悪いと言ってそれで投げる人もいるがこれはこれで何の解決にもならない無意味な意見である。ここらへんはまともに議論しようとすると絶望するのでしたくない。

 

寝台にいるケトが入っている布団のようなふかふかした防寒具に足を突っ込んでいるので、まあ、そうだろう。

掻巻と寝袋をあわせたようなもの。さらりと寝台を共にしていることに気がついた読者はいただろうか。

 

どう考えても私が犯人である。

運命の女(Femme fatale)」というモチーフがある。これは恋を寄せた男性を破滅させるような魅力的な女性を指すが、私の知る限り文化英雄としての側面を持つ運命の女(Femme fatale)を描いた作品は存在しない。なんでやかっこいい博識お姉さんにみんな人生めちゃくちゃにされたいやろ!

 

たぶんたこ焼き器みたいなもので卵をベースとした生地を焼いているのだろう。

大英博物館(British Museum)所蔵、所蔵番号(Registration number)1856,1226.699はイタリア共和国カンパニア州ナポリ県トッレ・アンヌンツィアータで発見された青銅製の焼き型(baking-pan)である。ヴェスヴィオ山の噴火によって埋もれた街から発掘されたものであるが、かなりたこ焼き機である。

 

選択

骨相学の本は昔読んだけど忘れてしまったな。

骨相学は頭蓋骨の形状から性格などを読み取ろうとした学問であるが、19世紀前半のブームが過ぎ去った後は一気に人気がなくなった。しかしながら後の科学や文化に与えた影響は小さくない。

 

学芸員の資格は忙しくて取れなかったが、博物館学の教科書は一通り読んであるし、国立産業技術史博物館は国立大学法人法で設置されるので博物館法で言う博物館ではなく学芸員はいない。

例えばモデルの一つである国立民族学博物館にいるのは「教員」「専門職員」「事務職員」である。ここを踏み込むと誰もよく理由をわかっていない面倒なセクショナリズムが始まるのでやめよう。

 

目的

全員男性だ。

察してください。(具体的に言うと現実の問題と色々ぶつかるので)

 

たとえそれが物語(narrative)であることを加味しても私とは違うように思えた。

現象の背後にある根本的な「構造」を解明しようとする構造主義の発展を受けて生まれた物語(narrative)という概念は歴史学にも導入され、ヘイドン・ホワイトは歴史というものは体制擁護の側面を持つ物語(narrative)であるという考え方を唱えた。ここらへんは歴史哲学の範囲なので色々と面倒。詳しくやりたい人はエドワード・ハレット・カーの「歴史とは何か(What is History?)」を読めば入門にはいいと思うが、これを最初から読むのはただの自殺行為なのでもう少し段階を踏もう。

 

私の知る歴史ではそれをできたことはほとんどなかったが。

理由の一つとして、実際に技術を発展させてしまったほうがあらゆる面でのイニシアチブを取れるという点が挙げられる。技術を選択し、混乱を抑えたとしても海の向こうの国がより強い兵器で攻めてくれば何もかも台無しなのである。

 

「川は流れねば濁るが、大きすぎる流れは泥を巻き上げる。言葉通りだな」

これについてはあまり出典らしい出典はない。オリジナル。

 

巡歴

磁器のコップが実験に使われているものと同じ形をしているのは気がつかなかったふりをしておこう。

コーヒーを化学実験用のビーカーを使って淹れるデメリットの一つは持ち手がないことである。

 

「発表しなよ」と懇親会で言われたので次の年度にスライドを作って全国大会に乗り込んだのは懐かしい思い出だ。

この物語はフィクションであり、実際の大学生、学会、研究者などとはあまり関係ないです。

 

ヨハネス・グーテンベルク流であれば鋼鉄の父型で銅の母型を作るのだが、電胎母型法ではメッキを使う。

「ヨハネス・グーテンベルク流」について詳しく知りたい場合は フレット・スメイヤーズ. カウンターパンチ : 16世紀の活字製作と現代の書体デザイン. 山本太郎 監修, 大曲都市 訳. 武蔵野美術大学出版局, 2014. がたぶん日本語文献で一番詳しい。

 

試行錯誤

古い布で動物の毛をくるんで作った短穂(たんぽ)

短穂(たんぽ)は版画などでつかうインクをぽんぽんするやつ。

 

紙が硬いのだろうか?少し湿らせてみよう。

実際にこういうことがヨハネス・グーテンベルクの時代にもあったらしい。

 

さらなる発展には統計学の基礎知識が必要で、そのためには微積分ができなくてはならない。

中心極限定理の証明は20世紀に入ってからであるし、ここらへんは一般教養レベルの数学を(たぶん)超えている。

 

発展

「本当に危ないものだからだよ」

言語の統一はナショナリズムの第一歩とまでは言わないが、「国民」を形成するために重要な要素であることには間違いない。



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第1章~第4章 まとめ
登場人物紹介(第1章~第4章)


作者が多くのキャラを扱いきれないのもあって登場人物は少なめにしたいのですが、社会やら政治を描く以上色々と……。そういうわけでメタ的な情報を含む登場人物の一覧です。ネタバレはあまり含まれていない気はします。



 

キイ(司女見習いのキイ、大衙堂のキイ)

 

主人公。女性。異世界転移者。転移時では27歳。

 

異世界技術チートのためだけに作られた経歴を持つようなチート人材。小学校の頃は不登校だったがなんやかんやで工業高校に入り、推薦でとある国立大学の文系学部に行き科学技術史を学び、総合研究大学院大学文化科学研究科産業技術史研究専攻で色々やりながら博士課程を終えたところで異世界に来た。

 

幅広い分野の知識と器用さ、学習速度などに主人公ボーナス。そうでもしないと物語が進まないので仕方がない。現実でも結構このレベルがいるので世界は怖い。

 

運命の女(Femme fatale)」「文化英雄」「トリックスター」みたいな側面を持った、かなり神話的な存在として書いている。神話は神話でも宇宙的恐怖(Cosmic horror)に近いかもしれないが。後世の創作者によって変なふうに弄られそう。

 


 

ケト(司士見習いのケト、大衙堂のケト、キイの弟子ケト)

 

キイの相方。物語開始時点では15から17歳。舞台となっている時代・地域には成人年齢という概念が欠けていることに注意。たぶんスペクトラム的に能力に合わせて権利が認められるという形。

 

若くして聖典語を使いこなし、詩才は一流と言ってもいい。それなのに悪いお姉さんに引っかかってしまったがために人生を狂わされてしまった。キイの秘密を受け入れている今のところ唯一の人物であり、絶対の信頼を置かれている。

 

もしケトになにかあったら、おそらくキイは世界の敵になると思う。逆もたぶんそう。

 


 

ハルツ(司女のハルツ、第四区第八小衙堂長)

 

第四区第八小衙堂をケトと二人で回していた女性。年齢は35ぐらいかな。もともと図書庫の城邦の学徒として学んでおり、その時の講師の一人が煩務官だった。煩務官が敬称をつけず呼び捨てにするぐらいの関係。

 

昔ちょっと図書庫の城邦で暴れていたので田舎に飛ばされたという側面がある。そんなやつが手塩にかけた弟子とよくわからないバケモノを送り込んできたので関係者は嫌な予感がしているとかしていないとか。

 


 

老司士

 

大衙堂で働いた後に地方の衙堂に天下りした老人。言い方が悪い。集落の中にあるタイプの衙堂なので、たぶん地域社会との交わりも多いのだろう。いいおじいさんである。

 


 

煩務官(歩く大衙堂)

 

図書庫の城邦にある大衙堂でなんか色々やっている人。40歳かもう少し上。知っている人はマイクロフト・ホームズに近いと思ってくれればいい。こういう人材が自分と同じぐらいの働きを他人に求め始めると一気にブラックになるので危ない。

 

頭領に直接報告させられるぐらいの階級はある。もちろん煩務官より上が無能だというわけではなく、貿易取引に関する面倒な交渉やら他の衙堂との折衝などの仕事で忙しいので内部について一番詳しい人間を送っているだけである。

 


 

煩務官の部下達

 

ピラミッド的な官僚システムと並行して煩務官が自らの職権で横断的な業務チームを編成している。数百人もの司士・司女の性格と能力をざっくりとではあるが把握し、かつ戦略策定・報酬決定・外部渉外・人材育成などの幅広い業務の知識と実務能力がある煩務官にしかできないシステムなので、キイはとっとと誰でもできる人事業務に落とし込みたいと思っている。モデルは20世紀以降に生まれた「マトリックス組織」という形態。

 

能力は「煩務官の無茶振りを日が暮れる前(定時)で終わらせることができる」程度。煩務官のマネジメント能力も無視できないが、司士・司女一人ひとりの能力も大きい。なおこの面子に「面白いやつだな」と思われる程度にケトはよくできる。キイについては事務能力的にあまり期待されていないが、これは正しい。そっち方面の専門家ではないのでね。

 

男女比は1:1ぐらいだが、これは衙堂が女子教育に力を入れているからである。ここは聖庇(アジール)としての衙堂の側面にかかわるため、我々の持つような価値観で測るべきではない。言うなれば、「不幸なる女性の救済」という側面としての教育と雇用である。これに反発したとある女性がかつて図書庫の城邦で暴れたのだが、それについて関係者は口を閉ざしている。

 


 

書字長

 

昔から大衙堂にいるおばあちゃん。煩務官を可愛がれる数少ない人。75歳とかかもしれない。字が無茶苦茶に上手い。図書庫の城邦で十指に入るとされる。職業としてのモデルは内閣府大臣官房人事課辞令係や宮内庁文書専門員。

 

書いているモノがモノなので、大衙堂の機密をだいたい知っている。

 


 

工房の工師

 

男性。年齢は40弱。鋳金、鍛金、鍍金、彫金において一定の腕前を認められないとこの工房では工師になれないので、実力はしっかりある。学徒として学ぼうとこの城邦に来たが金属工芸が楽しくなってしまい就職した。結構こういう例があり、図書庫の城邦においては教養ある職人も多い。学びたい時にいつでも学び直せるシステムも影響しているのだろう。

 


 

トゥーヴェ(薬学師のトゥー、██████ ████の娘)

 

父親の遺産を使って薬学の研究をしている女性。なんだかんだいってキイの同類である。書いた本は一部の薬学師にとって重要なハンドブックのように扱われている。目つきがあまり良くない。

 


 

将軍補

 

図書庫の城邦の軍事については今後話す機会があるだろうから置いておくとして、なんだかんだで軍の上層部の人間である。煩務官と席を並べて学んだ仲である。

 


 

頭領(城邦の代表者、図書庫の名誉ある守護者)

 

世襲制である、図書庫の城邦における最高意思決定者。実態は折衝とかを通してこの図書庫の城邦というシステムを上手く回すためのもの。ちなみに能力は低くはない。それでも自分が動かなければならない事態が起こるよりは神輿として担がれたままでいることを望んでいる。

 


 

晩餐の面々

 

今日であれば「名望家政党」と呼ばれるであろうものの萌芽。有力者の派閥というには結束が強い。図書庫の城邦における政治制度はまた別の機会に。




活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=279517&uid=373609


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選択肢

EU4の選択肢っていいですよね。つまりはそういうあれです。図書庫の城邦側の視点整理も兼ねています。

選択肢にカーソルを載せたりタップしたりすると情報を見ることができます。


 

奇妙な女性

 

図書庫の城邦にある大衙堂へ、学びを求めて二人の来訪者が現れた。少年の方はともかく、女性の方はどうにも奇妙であった。言葉に異国めいた訛があるものの、文書作成において効率的な表現方法を編み出しているという。今までの文字の羅列よりは見やすいと一部の司士や司女からの評価もある。しかしながら、このようなものを取り込むことは今までのやり方を変える必要を招くかもしれない。

 

 

 

不可解な行動

 

司女見習いとして働いている女性が、どうにも奇妙な行動をしている。工房に奇妙な鋳造品を発注し、かつて我々の敵であった男性の娘のもとに通っている。信頼できる書字長が言うには新しい方法で本をつくろうとしているらしいが、それは恐ろしいことなのではないだろうか?

 

また、彼女には異国との内通者であるとの疑惑がかかっている。そのような危険人物をこれ以上自由にさせておくことは危険を伴うことを忘れてはならない。

 

 

 

晩餐での演説

 

その計画は事前に書字長から聞いているとおりであった。金属で文字ごとの版を作り、それを用いて本を刷ろうというものである。しかし、それは同時に社会的混乱をもたらしかねないと彼女は言った。これを完成させるためには時間と資金が必要であると言うが、実現するかは未知である。

 

 

 

正体不明

 

彼女はどこから来たかもわからない。真に我々の味方となるかもわからない。しかしながら彼女の求めるものは十分提供可能なものであり、その叡智は想像を超えるものかもしれない。

 

 

 

印刷装置の完成

 

金属文字版によって、紙に読みやすい文字が刷られた。彼女の努力によって、誰であっても比較的容易にこの機構を扱えるようになっている。これは大規模な本の流通を可能にするのだろうか?

 

彼らは自分なりの方法で日々の糧を手にするだろう。たとえ紹介状があったとしても、彼らに全てを提供する必要はない。

 

この判断は直ちに影響を与えない。

収穫物の統計をまとめる人手が足りていない。あの収穫報告を作った腕であれば問題なく仕事はできるだろう。

 

イベント「新人の紹介」が発生。

この図書庫の城邦では学徒の労働力は強く求められている。彼らの能力は衙堂でなくとも活かすことができるだろう。

 

この判断は直ちに影響を与えない。

適切な「手法」を用いれば、真実を語らせることはできるだろう。しかし、場合によっては彼女を味方につけることは諦めねばならなくなる。

 

イベント「拘束計画」が発生。

なにか大きな事をするのであれば、無関係ではいられない。それよりも先手を打って、我々の側に取り込むことを試みるべきだ。

 

イベント「晩餐への招待」が発生。

彼女が何を試そうとも、恐らくは上手くいかないだろう。下手に手を出さないほうが賢明というものだ。

 

この判断は直ちに影響を与えない。

発想自体はそう難しいものではない。彼女がやらなくとも、他の誰かがやるだろう。ならば多少の銀片は初期投資としては悪くない。

 

この判断は直ちに影響を与えない。

それらしい事を並べて銀片を手に入れようとする人間は絶えることがない。彼女がそのような人間でないとなぜ言えるだろうか?

 

この判断は直ちに影響を与えない。

少し本が楽に作れることと引き換えに、書字生の職が大きく失われることはあってはならない。人が技術のためにあるのではない。技術が人のためにあるのだ。

 

イベント「夜道では警戒を怠るなかれ」が発生。

たとえ彼女が我々の敵に回るつもりであれば、最初からそうしているだろう。それよりもその知識を活かしてもらおうではないか。

 

イベント「彼女は誰のものに」が発生。

彼女の知識についてはわからないことが多い。そして賢人であっても良い職人であるとは限らないのだ。今はまだ彼女の能力を見定める時だ。

 

この判断は直ちに影響を与えない。

誘惑に乗ってはならない。その先に待つのは破滅だけである。幸いにも、今ここにいるのは口の固いものだけだ。

 

中確率でイベント「行方不明」が発生。

低確率でケトが生存する。イベント「世界の敵」が発生。

低確率でキイが生存する。イベント「世界の敵」が発生。

ある程度の銀片があれば、彼女の努力に報いるのには十分だ。一度手に入れてしまえば、複製は難しくないだろう。

 

イベント「複製品」が発生。

この機構は本を刷るために設計されたが、他にも使えるのではないだろうか?衙堂や図書庫における活用についても考える必要があるが、そのためにはまずはこの機構の限界を見極める必要がある。

 

この判断は直ちに影響を与えない。

実際に完成して、はっきりとわかった。この技術は恐ろしいものだ。情報と知識はきちんと統制されてこそ意味があるのだ。

 

イベント「手遅れ」が発生。



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第5章
誤認


活版印刷機はひとまず衙堂で実験的に使用することになった。印刷デザインの改善、活字サイズの調整、その他諸々の問題点はあるがこれについては煩務官が伝手を使っていくつかの場所から集めてきた人員にやらせているので私とケトはのんびりと休暇を取っていた。臨時収入でちょっとした買い物もして、しばらくは市場でも見て回るかなと思った頃の出来事である。武装した、つまりこの図書庫の城邦では珍しい剣を持った二人が私とケトが惰眠を貪っている時に現れた。

 

「大衙堂に務めるキイ嬢で間違いないか?」

 

「はい」

 

眠い目をこすりながら言う。最近は少し暖かくなってきたので寝台から出るのはそう辛いことではなくなったが。

 

「……巡警の方が、何か御用ですか?」

 

私の前に出るケト。彼らの派手な赤い外套は一種の特権を持った暴力組織であることを表している。まあ警察みたいなものだ。ここでは軍隊と警察のはっきりとした区別がないし、常備軍もないのでここらへんを私の知っている単語で置き換えようとするのが無理があるという話ではあるが。

 

「君は?」

 

「彼女の弟子の、ケトと言います」

 

「そうか」

 

巡警の二人が私の方に視線を向ける。

 

「あなたに犯罪の疑いがかかっている」

 

「……何についてです?」

 

「貨幣偽造罪だ」

 

「はぁ?」

 

思わず変な声が出てしまった。

 

「……失礼。いや、私には心当たりが無いのだが、一体どうして?」

 

そりゃまあ偽造ぐらいはできるとも。圧印加工(コイニング)ではなく鋳造品だから、そこまで難しくはない。ただ銀や銅の価値を考えて、必要な設備やらを用意したら相当作らないと赤字だ。

 

「銅の鋳造を依頼したな?」

 

「あー……」

 

なるほど。そこで引っかかるのか。活字を作ってもらった工師に同じサイズの銅と鉄の円盤を注文したのだ。亜鉛がなかったので鉄を使うのは仕方がない。

 


 

私が解放されたのは夕方であった。おかげで一日を無駄にしてしまったが、いろいろと面白いものが見れたのでまあ良しとしよう。具体的には巡警における階級システムであるとか法体系であるとか収賄への忌避感であるとか。真面目なのはいいことだ。つまりは賄賂を受け取らなくて済むだけの給与を受け取っているということでもあるし、そういう倫理が構築されているということでもある。ちなみにケトが言うには「貧乏人の訴えを聞かずにいたら捜査関係者を殺した」という古帝国時代の話があるのだという。オチは「そのような強い意志ある人間がくすぶってはいけない」と取り立てられたというものであるが、なんというか、うん。

 

「……疑いは晴れてよかったですね」

 

「まあね」

 

結局鋳造品を円盤状ではなく四角形にすることで問題がなくなった。これでいいのか。いいらしい。

 

「で、何を作るんですか?」

 

「あー……」

 

ケトの言葉がちょっとキツい。

 

「説明は実物を見せながらにしたかったんだけどね、仕方ないか」

 

「まあ見当はついてますけど」

 

「おや」

 

「雷を作るんでしょう?」

 

「なぜわかった?」

 

「僕にはまったく使い道がわからないものだからです。それでいてキイさんが重要だと考えるとなると、それくらいしか思いつきません」

 

正しい推理だ。確かにこの世界では電気についての知識が乏しい。私が調べた限りでは静電気に関する記述さえ見つからなかった。一般的すぎてわざわざ語るまでもない、ということだろうか。

 


 

銅の板、塩水を染み込ませた紙、鉄の板、銅の板、塩水を染み込ませた紙、鉄の板、以下略。そうして積み上げた塔のようなものの一番上の鉄の板と、一番下の銅の板から飾り用に作られている銅線を伸ばす。エナメル絶縁がしたいが、配合の知識は一切ないので被覆はない。電磁気学の黎明期には紙や絹糸を巻いていたというが、正直面倒なので作業はショートに注意しながらにしよう。

 

「で、今度は一体何をしているのだね」

 

「ちょっとしたことですよ」

 

私の言葉に薬学師のトゥー嬢は溜息を吐く。ちなみに私が活版印刷機を作っている間にコロジオン膜の製造技術が確立されてしまっていた。いや実際必要なものはそう難しくないのだ。適度に硝化されたセルロースを、エタノールとジエチルエーテルの混合液に溶かせばコロジオンができる。これをなにかに塗れば揮発性のエタノールとジエチルエーテルが飛んで、ニトロセルロースだけの膜ができると言うわけだ。という話をしたら実際にやって、適切な配合やらまで完成させていた。怖い。私のように器用な方法でやったのではなく、作業の繰り返しで適切な方法を特定していったという。うーん、早めに実験計画法も実用化してこの努力をもっと効率的にしたいな。

 

「仮に硝膠と呼んでいるが、あれは面白いな。切傷を塞ぐのにいい」

 

「あれ、その話しましたっけ」

 

「というと、実際にそういう使い方があるのか」

 

水絆創膏というやつである。

 

「薬草酒を混ぜたりしたらより効果的にならないか?」

 

「正直そこは詳しく知らないので……」

 

「ふうん、そうか」

 

そう言うと、改めて彼女は机の上の謎の塔に視線を向けた。

 

「あとは……誰か勇気のある人、いる?」

 

私はトゥー嬢とケトを見る。

 

「やります」

 

元気よく言うケト。

 

「死にはしないけど、結構嫌な感じがするよ?」

 

「死なないなら、まあ」

 

トゥー嬢が心配そうにケトを見た。

 

「それじゃあ、舌を出して」

 

銅線の端は叩いて潰してある。えーと、鉄の標準電極電位が-0.45ボルト、銅が0.35ボルトぐらいだったかな。図として覚えているので少し怪しい。一つの鉄-紙-銅のペアが生むのが0.8ボルト……じゃない、銅は反応しないから0.45ボルト、20個組み合わせたこれでは9ボルト程度。まあ006P(9V角型乾電池)と同じぐらいといったところか。

 

ケトは口を開け、舌を出す。

 

「健康そうだな」

 

そう言うのはトゥー嬢。

 

「読めるんですか?」

 

「医学は少しだけだが学んだからな」

 

私は全然わからない。さて、出された舌に2本の銅線を近づける。これらはくっつけないように、指一本分ぐらい離して。

 

「うぇっ」

 

銅線が両方とも舌に当たった瞬間にケトは身体を引いて変な顔をした。

 

「なんですか、これ」

 

まだ舌に変な感覚が残っているらしい。

 

「一種の力だよ」

 

この世界の言葉では、まだこの現象を表す言葉はないのだから説明はできない。あとでケトにつけてもらおう。



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焼土質

紀元前1000年頃のアナトリア半島であれば、電池を作れるだけの技術が揃っていただろう。電極に使う鉄と銅、そして電解液として酢でも塩水でもいいが、ともかくそういうもの。事実、与太話の域を出るものではないがバグダード近郊から発掘された壺が紀元前に作られ、電池としての機能を持っていたのではないかという仮説を立てた人もいる。その後の研究でそもそも作られた時期がおかしいんじゃないかとか構造的にすぐ使えなくなるだろうとか用途がはっきりしていませんよねとかただの保存用容器なのではとボコボコにされてしまったが。

 

で、そこから電池ができるまで3000年。アレッサンドロ・ヴォルタが1800年頃に亜鉛板と銀板と塩水を浸した布を()み重ねて作ったものが、一応最初の電池とされている。正直言って、時間がかかりすぎている。ああはい、わかってますよ。摩擦電気研究の発展とか焦電効果の発見について言いたいのでしょう。一応は専門ですから、知っていますとも。アレッサンドロ・ヴォルタ以降の電気学の発展は、それ以前の静電気に関する知識の積み重ねがあったことは否定しませんよ。けれども、別に電池が生み出す動電気のほうを先に発見することはできなかったという理由はない。

 

「……キイさん?」

 

「ああ、はい」

 

眼の前の哀れな少年に意識を戻す。舌のしびれは取れたようだ。

 

「で、何に使うんだ?」

 

「そうですね、例えば水を二つの基質に分解できます」

 

トゥー嬢の言葉に、私は軽く答える。

 

「……待て」

 

「はい」

 

あっやっべ。やらかした。水素と酸素から水を作るような実験には放電が、つまりは静電気の制御が必要だ。アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエが水は単体ではないと言ったのは18世紀後半。電池はなくとも科学者は静電気の扱いについてかなりの知識を持っていた時代だ。

 

「水は、基質ではない?」

 

「……はい」

 

この世界の薬学における基質は、元素の一歩手前ぐらいの概念だ。複数の物質に見られる共通の特徴をそれの物質が含む共通の「基質」に由来させる考え方。

 

「ああ、なるほど。そういうことなら、面白い解釈ができそうだな」

 

そう言う彼女に、私とケトは首を捻った。

 


 

「酸を金属質のものと反応させると泡が発生するが、焼土質のものと反応させても泡は発生せずに溶ける。ただ、両方とも新しい物質ができるという点では似ている」

 

トゥー嬢は資料を前にして言う。焼土質というのは加熱した石灰石や苦土石から得られる物質のことだ。私の知識で言うなら$\require{mhchem}\overset{酸化カルシウム}{\ce{CaO}}$や$\overset{酸化マグネシウム}{\ce{MgO}}$と呼ぶべきもの、つまりはアルカリ土類金属の酸化物。金属質というのは普通に単体の金属でいい。

 

「薬学師が直面する問題の一つは、この泡だ。この基質は金属質のものにすでに含まれていたのか?それとも酸に含まれていたのか?」

 

「酸に含まれていたら、焼土質との反応でも出るはずですよね」

 

そう言うケトに、トゥー嬢は頷く。

 

「ああ、事実加熱する前の石灰石や苦土石との反応では泡が出る」

 

あっそれ別の種類の気体なんですよ。金属と酸の反応で生まれるのは水素で、石灰石や苦土石のような炭酸塩と酸の反応で生まれるのは二酸化炭素。まあまだ黙っておこう。

 

「ただ煆焼、つまり加熱することによって泡の基質が抜けたと考えると、それより高温にさらされているはずの金属質に泡の基質が残っていることと説明がつかない」

 

そう。この問題はその考え方では解けない。

 

「水が二つの基質に分かれると言ったな?」

 

トゥー嬢は私の方へ視線を向ける。

 

「ええ」

 

「それを第一基質と第二基質と置こう。第一基質は泡として出るもので、第二基質は焼土質に含まれる基質だとしたら?」

 

「……まだ、わからないです」

 

ケトの言葉に彼女は少し焦るように手を動かす。いいなぁ。発想が言語化される過程は見ていていい。

 

「本来酸との反応では、常に第一基質が発生するはずなら?ただ、ここで金属質には含まれず、焼土質に含まれる第二基質が同時に存在すれば?」

 

「……基質同士が反応して、水ができる」

 

「そうやってできた水は、酸に含まれているものと区別がつかない。だから泡が発生しないように見える」

 

「となると、第二基質というのは煆灰質ですか!」

 

煆灰質というのは金属を焼いた際にできる金属灰や、多くの鉱石に含まれるような基質のことだ。私の知ってる言葉なら、それは酸素と言う。

 

「そう、となれば今まで単一基質と言われていた焼土質は、本質的には金属質と煆灰質の結合物とならないか?」

 

「おおお!」

 

興奮するケトとトゥー嬢。私?正直なところ、怖い。仮説の積み上げは危ういが、私の知識にある最初期の化学と同じ結論が導かれている。どうしてこうなっているんだ?アルカリ土類金属の単体分離は電気分解で行われたんだぞ?

 

「……キイ嬢、私の意見は正しいか?」

 

「私が答えてしまっては、意味がないのでは?」

 

彼女の質問に、私はあくまで冷静に答える。自分の声が震えている気もするが。

 

「……確かにそうだ。証明にはならない。だが、その反応からすると間違ってはいなさそうだな」

 

トゥー嬢は楽しそうに、呟くように言った。



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天才

舌に電流が走る。また失敗のようだ。

 

「……そんなに痺れていると、心配になります」

 

トゥー嬢がやっている電気分解の実験を手伝っているケトが、私を心配そうに見る。

 

「これさえ成功すれば痛みを伴わないですむから……」

 

今やっているのは銅線の絶縁だ。糸や紙でちまちま巻くのではなく、乾性油で表面をコーティングすればいいという発想。しかし問題がいくつかある。手に入る油や樹脂のなかでどれが適切かがわからないのだ。活版印刷機を弄っているチームが買った様々な材料を少し分けてもらい、それらしい配合で浸して炙ってちゃんと覆われているかどうかを試している。ちなみに覆われていないと回路がショートして私の口に入ってる銅線に電流が流れるというわけだ。

 

よく絶縁してくれるものは銅線を曲げると塗装がはげ、ある程度柔軟性があるものは強度が微妙だったりする。基本となる組み合わせすら試行錯誤だ。インクの場合はある程度答えを知っていたからよかったものの、今回は完全に未知だ。油分の多い木材から蒸留で得られた溶媒であったり、海を超えてやってくる珍しい種の油なんかを試して、なんとなくコツが掴めてきた。活版印刷機のインクの経験がかなり生きている。

 

「痺因の経路を途切れさせる必要がどこにあるんですか?」

 

「細工をしたいんだよ」

 

そうそう。ケトとトゥー嬢の議論によってひとまずこの現象は痺因と呼ばれることになった。*1直訳するなら「痺れの原因」である。そのまんまだ。まあ琥珀(ήλεκτρον)に由来していたかつての世界の電気(Electricity)に比べればわかりやすい。

 

こういう用語は科学の結果を知っている上で作らないと大抵ろくなことにならない。おおベンジャミン・フランクリン、世の電磁気学を学ぶ生徒からの呪いの声が聞こえないのですか。もちろん死んでいるので聞こえない。クルックス管によって電子の電荷がベンジャミン・フランクリンによって「負」と定められた側だったことが発見された頃にはとっくに彼は墓の下だった。逃げやがって。

 

とはいえ理論としての電磁気学をやるためにはどちらかを正と置かないといけない。まあ先に真空ポンプでも作ってしまう方がいいかもな。数学があまりできなかったマイケル・ファラデーでも実験はできた。真空ポンプに必要なものは水銀とガラス。あー、ガラスを低コストで多めに作らないとな。となると市場調査が必要だ。なんであんな高価なんだ?生産が独占されているからだろうか。

 

「……まあ、いいです」

 

「ところで、少し本格的に話したいことがあるんだけど」

 

「僕と、ですか?」

 

「んー、トゥー嬢も交えたほうがいいかな」

 

「まずは僕にだけ聞かせてください」

 

「それもそうか」

 

ケトが少し不満そうだが、まあ私が暴走するのはあまりいいことではないからな。反省しよう。

 


 

「それで、だ」

 

私はおつまみの揚げた木の実を食べながら言う。明らかに高カロリーで塩辛いが、これがいいのだ。ちなみにかなり値段は高い。

 

「私の存在を、どこまで秘密にするべきだと思う?」

 

「その必要があるんですか?」

 

「……天才によって、研究が進んだということにはしたくない」

 

これは完全に私の思想に由来するものだ。別に私がここから見て異世界の知識で好き放題やっても誰も咎める人はいない。全ての発明に権利を宣言し、全ての理論に先行であることを主張し、全ての完成品からマージンを得ることはできる。そういうことをやるとどうなるのかは、まあ記憶の中の歴史が説明してくれる。

 

トーマス・アルバ・エジソン。言わずと知れた発明王にして訴訟王。メディア戦略にも注力し、「メンロパークの魔術師」というイメージを確立した。あまり子供向けの伝記には書かれないが、性格はひどい。まあそのがめつさみたいなものが多くの発明品を産んだことは否定しないが。

 

あるいは17世紀の科学者、いや当時の呼び方では「自然哲学者」による争い。アイザック・ニュートンがロバート・フックやゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツといざこざを起こしていたのはよく知られている。もちろん適度な対立は批判的に議論を行うためには必要ではあるのだが、人格攻撃と理論への評価をちゃんと切り分けるのは訓練を積んでもなかなか難しいのだぞ?

 

そういう人物は、少なくない才能を生贄とする。それは私の目指すものではない。

 

「多くの兵士は英雄に憧れるものですよ」

 

「誰もが英雄になれるわけではないし、自分を英雄だと思っている人間ほど厄介なものもない」

 

「まあ、それはそうかもしれません」

 

「それと、後世の人に変な疑いをかけられたくない」

 

「死んでしまえば栄誉も侮蔑もないでしょう」

 

「私は歴史家だって言ったよね」

 

「ええ」

 

「数百年前の人物が、たった一人で、あらゆる分野に関わって、それでいて飛躍的な理論や技術の進歩をもたらしたとなにかに書かれていたとしたら?」

 

「作者の正気を疑いますね」

 

「そう」

 

まあ古代や中世の人物は結構話が盛られている。……いや、数学分野ではレオンハルト・オイラーとかカール・フリードリヒ・ガウスとかいうよくわからないのがいたな。ただそれでもたかだか数学と物理学だ。私が手を出せるのはもっと広い。

 

「……つまり、歴史から自分の名前を削りたいのですか?」

 

「私自身で何かを作ったり生み出したりするよりも、あくまで手助けという形にしたい」

 

「だからあんなにあっさりと文字版から離れたんですね」

 

「そう。きっと後世には私より煩務官の名前が残るよ」

 

そう考えると発明を煩務官のネットワークとかに帰させるのはありだな。ここらへんは政治との兼ね合いもあるので今度相談しないと。

 

「とすると、痺因を見つけたのもトゥー嬢ということにするんですか?」

 

「できればね。ただこれをやろうとすると彼女が忙しくなりすぎかねない……」

 

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエによる質量保存の法則が1774年。ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフによる周期表の発表が1869年。この100年近くを数年か十数年でやろうというのだ。あれ、案外期間が短いな。ビタミンB12の全合成が1973年だと考えると本当にあの世界の発展速度が恐ろしい。まあ重要な飛躍要素である電気を作れたし、ルートはわかっているので比較的どうにかなるだろう。

 

「図書庫の人々が見つけ出したことにするのは?」

 

「あまり一箇所に集中するのもね。だから本が作りたかった」

 

「そういうことですか、納得しました」

 

「で、どうすればいいと思う?」

 

「いえ、だれも一人でこんな事するとは信じないので別に特になにかする必要もないのでは?」

 

「……そうかも」

 

この世界の科学史で、私はどういうふうに扱われるのだろう。それを知ることのできない理不尽さに少し苛立って、奥歯で木の実を噛み砕いた。

*1
読者の便宜を図るため、以降「電気」という単語を直接使うこともあるが聖典語あるいは東方通商語でこのような表現がされている場合は「痺因」という単語を置き換えているものだと解されたし



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電磁誘導

適切な絶縁皮膜の製法を手にした。ジエチルエーテルを溶媒として混ぜてあげるとなぜかうまくいったのだ。理由は知らない。そもそもこんなことはかつての世界の本にも載っていなかった。成長がある。

 

そういうわけで次のステップのために、私はいつもの工房に訪れていた。

 

「……また変なものを注文するな」

 

馴染みになってしまった工師は私が紙に描いたスケッチを睨む。

 

「ええまあ、できますか?」

 

私がそう言うと彼は眉をぴくりと動かした。おっと、あまりよろしくないことをしてしまった。職人の自尊心に訴えるのはマネジメントの一手法だが、乱用すると信用がなくなる。

 

「問題ない。それと、銅線についてそれなりの長さを作っているがいいのか?」

 

「まあ、色々使うので」

 

「ならいいが。使う材料の量自体はそこまででもないが、手間がかかるからな」

 

小さな穴の空いた鉄の塊(ダイス)に穴より少し太い銅線を入れ、強く引けば細くなる。これを繰り返して目的の細さの銅線を作っているのだ。ちなみに最初のある程度太いものは溝に融けた銅を流し込んで作る。それだと断面の形状が安定しないので被膜がうまくいかなかった。こういうどうでもいいように思えるところにコツがあるのだ。

 


 

部屋の中に、金属を小刻みに叩く音が響く。

 

「すごいでしょ!」

 

このうるささにもう慣れたらしきケトとトゥー嬢に、私は苦心して作った装置を見せた。

 

「そう……ですか?」

 

呟くのはケト。

 

「何が凄いのか、全くわからない」

 

言い切るのはトゥー嬢。

 

私は息を吐いて目を閉じ、ふてくされて後ろに身体を倒した。

 


 

電磁気学をやっている人間で、マクスウェルの電磁方程式を知らないやつはいないだろう。1865年にジェームズ・クラーク・マクスウェルが教科書に乗せた式がいろいろな形で改良されて使われているものだ。ここらへんの歴史をやろうとすると四元数というイカした概念に触れる必要があって厄介である。これは虚数の$i$に満足できなくなったウィリアム・ローワン・ハミルトンがおまけで$j$と$k$も足して作ったもの。数学史的にはこのあたりから数学の抽象的操作としての側面が強くなっていく。

 

電磁方程式は四つの偏微分方程式で表せる。具体的にはこう。

 

$$\mathrm{div}\mathbf{D} = \rho$$

$$\mathrm{div}\mathbf{B} = 0$$

$$\mathrm{rot}\mathbf{E} = - \frac{\partial \mathbf{B}}{\partial t}$$

$$\mathrm{rot}\mathbf{H} = i + \frac{\partial \mathbf{D}}{\partial t} $$

 

まあ、これは実際に起こる物理現象を数学語ベクトル微分方言で書き表したものだ。日本語訳すると上から「電荷は電界を生む」「磁気単極子は存在せず、磁力線は閉じる」「磁界の変化は電界を生む」「電流と変位電流は磁界を生む」といったところだ。あまりわかりやすくなってないな。まあ具体的な用語の意味を説明すると怪しいので適当にごまかしておこう。

 

で、今回使っているのは4番目、「電流と変位電流は磁界を生む」というもの。いわゆるアンペールの法則の拡張。簡単に言えば、電磁石だ。電流を流した電線のまわりには磁界ができる。いい感じに電線の形を弄ってやれば、強い磁界を作り出せる。これは別に数学的知識がなくても試行錯誤で見つけることは可能だ。ではなぜマクスウェルの電磁方程式を出したかって?かっこいいから。小学5年生で私はこれを暗記した。人間若いときにはいろいろやらかすのだ。

 


 

作った装置の構造は簡単だ。鉄心に巻いた絶縁皮膜つき銅線で、回路に組み込まれた鉄製の金具を引き寄せる。金具は引き寄せられると回路が切れるような仕組みがある。そうすると電磁石に引かれなくなった金具は元の場所に戻り、回路がまたつながる。あとはぴこぴこ動くことになる金具の動く先にいい感じに音が鳴るなにかを置けば断続的に音が鳴る。これが電鈴(ベル)である。そしてこれを組み込んで検電テスターができるわけだ。さよなら舌の痛み。ようこそ科学。

 

「つまりは、痺因を運動に変換できるのか」

 

「まあ、そういうこと」

 

トゥー嬢の言葉に私は頷き、少し気になったことを聞く。

 

「逆に、運動を痺因に変換できる可能性があると思わないかい?」

 

少し悩むような表情をするトゥー嬢。

 

「……いや、そういう発想はさすがに出てこなかったな」

 

「はい」

 

まあうん、そうだよな。ハンス・クリスティアン・エルステッドが銅線の近くに置いた磁針が触れたのを発見してから電磁誘導が発見されるには10年かかった。案外こういう発想は後から見ればそれらしいが当時を生きていた人たちには難しいのだ。後知恵バイアスの一種である。

 

「……待って下さい。運動を痺因に変換できるなら、あれは消耗品ではなくなるんですか?」

 

ケトが口を開いて、金属と塩水で湿らせた紙の(pile)を指差す。あれは一次電池なので鉄がどんどん解けていくのだ。あと電池内で発生した水素のせいで起電力が下がったりする。

 

「それなら助かるな。基質の分解には今のところ手間がかなりかかる。というより、そのためにこれを?」

 

「いいや?」

 

質問をしたトゥー嬢に私は返す。

 

「文字版を作りたいから安定した痺因を作りたい」

 

「ちゃんと説明しましょうね」

 

ケトに怒られてしまった。

 

「だって説明に使える言葉も少ないし実物を見せたほうがいいだろうし……」

 

「……では、まず安全な範囲で見せてください」

 

「わかった」

 

私はそう言ったが、次の作業では思いっきり火花が飛ぶことを忘れていた。



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着磁

さて、現状をおさらいしよう。

 

今のところの最終目標は電胎母型の作成である。必要なのは蝋、黒鉛、硫酸銅、鉄、安定した直流電源。蝋と黒鉛については輸入待ち。鉄はある。硫酸銅は鉱物としてはないらしいので作るしか無い。そのためには硫酸をもう少し多く作りたい。今の製造方法は硫化物と硝石をガラス容器内で加熱し、硫化物から発生した二酸化硫黄を硝石から発生した二酸化窒素で酸化して三酸化硫黄を作って水に溶かすものだ。これは硝石が高価であることを考えるとあまり使いたくない。

 

では硝石を使わない方法があるのかと言えば、まあある。例えば白金とか五酸化バナジウムの触媒を使って二酸化硫黄を酸素と反応させる方法。しかしこれは駄目だ。なぜなら触媒が手元にないからである。「溶けぬ銀」という金属のサンプルを取り寄せようとしたら目の飛び出すような価格を提示されたので保留。では別の方法、$\require{mhchem}\overset{塩化スルフリル}{\ce{SO2Cl2}}$の加水分解反応ではどうだろう。これは二酸化硫黄と塩素の反応で得られる。二酸化硫黄は硫化物を焼けばいい。塩素は食塩水の電気分解で手に入る。中間素材が多いが、まだ序の口だ。プラスチックの合成なんかはこんなものではないぞ。とっとと誰かに投げられる体制を作りたい。

 

で、問題は電気分解だ。電池として堆を使うのは問題がある。基本的にこのエネルギーは鉄が塩化鉄になる時のエネルギーが放出されているのだ。こういう消耗のない方法で電気を作りたい。そういうわけで直流発電機を作ることが当面の課題だ。

 


 

繋げられた数百の堆。繋がっているのは厚めの紙で作った銅線でぐるぐる巻きの筒。回路に金属の棒を上から落とすことでスイッチ代わりにしている。過電流防止に細い鉛合金の線で作ったヒューズも繋いである。

 

「いくよ」

 

頷くケトとトゥー嬢。私は息を吸って、金属の棒を離す。棒が離れた銅線を繋ぎ、火花が飛び散って音が鳴る。

 

「……終わった?」

 

「たぶん」

 

ケトの言葉に私は返し、ヒューズを確認する。しっかりと焼き切れてくれていた。

 

「変な匂いがしないか?」

 

トゥー嬢が呟く。

 

「銅線のまわりの塗料か、あるいは紙の芯が焼けたのでしょう」

 

念のため水の入った瓶を用意しておいたが、その必要はなかったようだ。

 

「……さて、これでこの棒が磁石になったはず」

 

筒を傾けて、中に入れていた鉄の棒を取り出す。いくつかの地域の鉄を試したが、たぶんこれが一番硬磁性だ。紙で包み、砂鉄に近づけてみる。

 

「痺因で作った磁石のほうが強くありませんでしたか?」

 

ケトが言う。いやそれでも結構な量の砂鉄が吸い寄せられているやろがい。

 

「まあそれは仕方ないよ。痺因なしでできるって方が重要」

 

「普通に言っているが、今までの方位確認用の磁石よりも圧倒的に強いよな?」

 

トゥー嬢のツッコミ。まるで彼女一人が真人間のようだった。

 


 

じつはこうやって作った磁石であるが、発電機に必要なわけではない。確かにある種の発電機は磁石を使う。学校の実験で扱うようなやつは大抵そうだ。だが、一般的に永久磁石は電磁石によって磁力が着けられる。これを着磁という。つまりは電磁石より強い永久磁石はできないのだ。なら電磁石を組み込んだ発電機を作ってしまえばいいのでは?という考え方もあり、これを自励式という。

 

まあ自励式の構造は面倒だしコイルを巻くのが発狂しそうになるので永久磁石を作ろう!ということになった。もちろんケトには止められた。しかしトゥー嬢が乗り気で堆に使う金属板を大量注文してしまったのでやってみることになった。なおここで作った堆は後でトゥー嬢ルートで知り合いの薬学師に配るようだ。私としてはこういうことをされると発見者がわからなくなって後世の研究者が悶えるので大賛成である。

 

「で、どうやって磁石から痺因を作り出すんですか?」

 

発電機用のコイルを巻いている私にケトが聞いた。

 

「ちょっと待ってね」

 

電鈴(ベル)に使った電磁石を流用して作った電流計をまず用意。電流が強ければ電磁石が作る磁界も強くなるので、いい感じにてこで吊り下げてある鉄の棒が引っ張られるのだ。

 

「もし痺因が銅線中にあれば、この鉄の棒が動くのはいい?」

 

「はい」

 

ここで取り出すのは着磁に使った太めのコイルと棒磁石。コイルと電流計を繋いだところで、まだ何も起こらない。

 

「ここで磁石を動かすと……」

 

コイルの芯に当たる部分に磁石を入れると、電流計がピクリと動いた。

 

「……おお」

 

ケトが驚いた声をこぼす。

 

「逆に磁石の方を固定して、これを動かしてもいい」

 

コイルの側を動かしても、同様に電流が流れる。

 

「やっていいですか?」

 

「どうぞ」

 

ケトは興味深そうに磁石とコイルに触れる。まあ楽しいわな。

 

「これを使えば、基質の分解に使えるような痺因を作り出せるんですよね」

 

「あー……」

 

これには説明していない問題がある。トゥー嬢は気がついているらしいが、電流には向きというものが存在するのだ。なお、この電流計ではその向きを測定できない。測定するためには固定した電磁石で鉄の棒を引っ張るよりも、固定した永久磁石で電磁石を動かした方がいい。電流の向きによって電磁石が作る磁界の向きが変わるからだ。ともかく、この方法だと磁石を入れた時と出したときで流れる電流の向きが変わる。電気分解では一定方向の電流が必要なので、このままでは使えない。

 

「まあ、だいたいはそう」

 

少しごまかしたが、ケトの疑惑のこもった目はこちらを向いていた。



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発電機

鍍金(メッキ)という技術がある。素材の表面に金属の膜を形成するものだ。今ここでできそうな方法は3つ。一つ目は水銀アマルガムを使うもの。水銀と別の種類の金属の混合物を塗った素材を加熱すると、水銀だけが揮発して表面に金属の膜が残る。デメリットは水銀蒸気が発生するので中毒待ったなしであるということ。二つ目は銀鏡反応。表面に化学反応で銀の膜を作るものだ。こちらの問題は必要な化学物質を作るのが面倒であること。アンモニアとホルムアルデヒドはさすがにぱっとは用意できない。

 

そして三つ目が、電気を使うこと。電気は本当に強い。化学反応を逆向きに起こせる、と言えばいいだろうか。酸に溶けた金属を元に戻すなんてことができる。ただこれは別に電池や発電機がなくてもできる。いや、厳密には電池を使ってはいるのか。電池そのものが鍍金(メッキ)装置になるのだ。

 

ただまあ、この反応は遅い。欲しい膜厚はミクロンではなくミリの(オーダー)。そのためにはでかい電流が欲しい。電圧はそこまでいらない。で、さらにこの電流は一方向である必要がある。必要な方向と逆向きに電気が流れれば「高速に金属を溶け出させる」方向に反応が進行してしまうからだ。これでは意味がない。

 

「いっぱい作っていますね」

 

「やる?」

 

「かなり細かい作業みたいですし、やめておきます」

 

「うぅ……」

 

丁寧に、丁寧に、編むように銅線を巻いていく。芯を作っている紙を挟んだ薄い鉄製の板は堆に使っている鉄板のおまけで作っていただいたものだ。紙を挟んでいるのは渦電流損の防止の為、だったはず。記憶が怪しいのでお守りに近い。

 

「それにしても、どうしてこれで痺因が生まれるんですかね」

 

「ちょっと説明が難しい」

 

電池では化学反応のおまけとして発生した電子が回路に流れるが、発電機では磁界内の荷電粒子がローレンツ力によって「引っ張られる」ことによって電流を生む。これはさすがに説明できない。ケトが理解できないだろうというのではなく、それを証明する方法がないからだ。

 


 

正電荷と負電荷……と言うとどうやって「正」を定義したのか突っ込まれそうなので硝子性電荷と樹脂性電荷と呼ぼう。これはシャルル・フランソワ・デュ・フェの命名から引っ張ってきたものだ。さて、電流は樹脂性電荷を持つ電子の運動によって作られる。ここで磁石の近くでいい感じにコイルをぐるぐるさせるかコイルの近くでいい感じに磁石をぐるぐるさせると電子は磁界に「引っ張られる」ように電線内をあっちこっちに移動する。例えばしばらく一方向に行き、しばらくしたら引き返すみたいに。こういうことを秒間50か60回やっているのが商用電源。それであれば比較的簡単に作れる。

 

これを直流に直す解決策の一つは、電子が片方に引っ張られた瞬間に回路を繋ぎ変え、本来なら逆向きに引き戻すように働く力を同じ向きのままになるようにするというものである。これが一般的な直流発電機の原理だ。回転に合わせて接続を切り替えるのは整流子と呼ばれるパーツで、回転部分の露出した銅線などと物理的に接触することで動く。当然整流子は削れるが、仕方がない。

 

そういうわけで完成したのがこちらになります。今回採用したのは回転するコイルを磁界の中に入れるもの。コイルの巻き方は軸と垂直な方向をぐるぐるするように、と言えばいいだろうか。端の方は配線が複雑で紡錘形になったが、まあたぶんいける。何回か確認したがこれでいいはず。昔発電機を触ったのでその知識が役に立った。本当にこういう事が多いな。

 

木製の枠に入れて、軽く回してみる。重いがあまり抵抗はない。

 

「基質の分解に使っている装置、今使える?」

 

「いいぞ」

 

トゥー嬢の答えを聞いて、私は試作品の発電機を持っていく。

 

「どこから痺因を流しています?」

 

「ここと……ここだ」

 

水の電気分解に使っているのは活性炭電極だ。もっと簡単に言ってしまえばいい感じの温度で蒸し焼きにした木材である。これを水の中に入れて電気を流せば電子が流れ込む側からは水素が、電子が出て行く側からは酸素が発生する。圧力と温度が一定なら気体の体積は分子量に依存するので、出てくる酸素の体積は水素の半分となる。まあここらへんはしっかりとした測定とちゃんとしたガラス機器が欲しいところだ。

 

まあともかく、接続。ハンドルをぐるぐる回す。

 

「……おお、泡がちゃんとできているな」

 

「よかった……」

 

確か水の電気分解に必要なのは理論上は1.2ボルトほど。ただしそれ以上あるに越したことはない。ある程度過剰に電圧がないと反応が全くと言っていいほど進行しないのだ。なので比較的大きな電流を生むことができるが電圧に不安のある単極発電機は使わなかったのである。ちなみにこの逆、大きな電圧は生み出せるが電流はからっきしというものとして静電発電機があるが、これはしばらく使うことはないだろう。真空ポンプができたらX線発生のために使う。

 

「ところで、これは回していないと動かないんだよな?」

 

「そうですね」

 

「……疲れないか?」

 

「疲れますね」

 

私の腕力で回して0.1馬力程度の発電能力だとすると70ワット程度だ。あまり強くはない。大型の発電機と強力な動力源があればともかく、だ。

 

「より強くするには?」

 

「色々と足りないものが多いですね」

 

「……まあ、ともかく回り続ければいいんだな?」

 

トゥー嬢は少し考えて、呟くように言った。



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回転

「ここは私の父が作らせたものでね」

 

そう言いながら、薬学師のトゥー嬢は水車を見上げた。私の背丈の6倍と言ったところか。城壁よりも高い、回転する木の機構。水車だ。効率の良いとはいえない下掛水車だが、そもそもの目的が揚水なので仕方がないだろう。

 

「良くできていますね」

 

これは彼女の「所有物」らしい。父親から受け継いだ遺産の一つだとか。図書庫の城邦はこのインフラ設備に対してそこそこの金額、具体的には彼女が化学薬品や機材をあまり躊躇なく買えるほどの銀片を利用料として払っている。なるほど、豊かなわけだ。

 

「私にはそこまでわからんがな」

 

呟くトゥー嬢。パーツの規格化が行われていて、どこかが壊れても交換が容易なようになっている。とはいえこれは職人の工夫と言える範囲だろう。水車についたカップが上の方に水を持ち上げて水路に流すようになっている、というわけか。

 

「確かに、これならあなたの父が恐れられたのもわかります」

 

この図書庫の城邦は、私の知っているいくつかの古代都市と同程度に清潔だった。上水道と下水道があり、直接飲むことはあまり推奨されていないが水には困らない。工匠区でも水が必要とされる製紙や染色を確かに見ていた。さすがに気がつくべきだったな。自分の観察力が愚かしい。

 

「これから回転を得られないか?」

 

少し得意げにトゥー嬢は言う。

 

「できるでしょうね、ただこの方式の水車よりも上から水を流すほうが効率がいいのは知っていますか?」

 

「それはそうだろうな。実際、そういう場所に工房を持っている工匠もいる」

 

「痺因は金属の線を伝わって遠くまで運ぶことができるんですよ」

 

「つまり、あの仕組を遠くの急な滝で動かし、ここまで運べばいいと?」

 

反応が早い。こういう人と話していると楽だが、あまり慣れ過ぎるのも良くないな。

 

「壮大な計画になりますがね」

 

「ふむ……」

 

彼女は考え込み始めてしまった。っと、今のうちにケトに聞いておきたいことがあったのだ。

 

「ところでケトくん」

 

「なんでしょう」

 

「私の作った痺因を作るやつ、なんて呼ぶべきだと思う?」

 

「普通に『痺れさせるもの』とかではだめですか?」

 

「もう少しいい感じのが欲しい。できれば、そういうものの総称も」

 

「そういうって……どのくらいものを含めばいいですか?」

 

「できれば搾油機を作り直したあれのようなものも含めたい」

 

「……となると、この水車*1もですか?」

 

そう言ってケトは改めて水車を見上げる。うーん、私の知る「機械」とか「装置」とかいった概念に入るかどうか少し微妙だな。

 

「そこは入れても入れなくてもいいかな。ただ入れるとしたら『人が本来できることを、様々な力や工夫によって行うもの』とか?」

 

「仕組、というのも少し微妙か……機構?うーん……」

 

かわいいうめき声をケトは上げてしまった。まあこれは私にはできないので。

 


 

実際に発電機を設置するのには一週間ほどかかった。正直言って、非常に速い。ここの整備を担当している工師が全部やってくれたと言えば聞こえは良いが、滅多に顔を出さないオーナーから変な注文をされる担当者もそれはそれで大変だろうなと私は変に同情してしまう。

 

結果として水車の軸の回転運動を皮製のベルトで発電機の方に伝えて回すという形になった。硬木による軸受がつくというかなりしっかりしたものである。まあ高さがうまく合わなかったので発電機の下には台を置いてどうにかしているのだが。マニュアル車のクラッチのように必要であれば発電機と台を動かすことで回転から切り離せるようにもなっている。この中心軸合わせがかなり面倒そうだが、まあ多少は継手が誤魔化してくれるだろう。

 

「で、これで作れるのか?」

 

「たぶん」

 

銅線を換気の良いところまで伸ばして、装置を組み立てる。まず食塩水を電気分解し、水上置換法で塩素を回収する。そこから鉛で内張りした箱の中で鉱物を加熱する。これはたぶん黄鉄鉱、主成分は$\require{mhchem}\overset{二硫化鉄}{\ce{FeS2}}$。それで出た二酸化硫黄と活性炭触媒で反応させることで塩化スルフリルの完成だ。化学反応式はこう。

 

$$\ce{2NaCl + 2H2O -> Cl2 + H2 + 2NaOH}$$

$$\ce{2FeS2 + 7O2 -> 4SO2 + 2Fe2O3}$$

$$\ce{SO2 + Cl2 -> SO2Cl2}$$

 

よし。で、あとはこれをまとめればいい。

 

$$\ce{8NaCl + 8H2O + 2FeS2 + 7O2 -> 4SO2Cl2 + 4H2 + 8NaOH + 2Fe2O3}$$

 

となるはず。幸いにも面倒な反応量の計算をそこまで必要としないのが救いだ。副産物は水素、水酸化ナトリウム、酸化鉄(III)。まあ水素はなんなら燃やしてしまえばいいし、水酸化ナトリウムは強塩基として実験に使える。製紙に試すのもいいかも。酸化鉄(III)は、あれだ、錆。染料や研磨剤に使われはするが、わざわざ作るほどのものでもない。こんなもんかな。

 

もちろん得られた塩素を濃硫酸を通して脱水したりだとか不純物を取り除くために蒸留したりだとか色々と手間はかかる。それでも一日トゥー嬢と一緒に取り組んだ結果、すこし黄色みがかった液体を手に入れることができた。

 

なおその頃のケトは字引を漁っていい感じの言葉を選んでくれていた。私たちの会話を聞くと脳が焼けるらしい。

*1
東方通商語の表現を語源に沿って訳するなら「(みな)回し」といったあたり。



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科学技術

比較的多くの量の硫酸を手に入れる手筈が整ったので、着々と作業を進めていく。といってもまだ注文の品が届かないので基礎実験だ。まだ海を超えてネット注文が届いていた世界の記憶が残っているので結構辛い。早く無線通信が欲しい。海底ケーブルでもいいが。どっちにしろ電気は必要なので作業を進めよう。

 

「で、今度は何を?電気分解にも似ていますが」

 

新しく作った単語をケトは口にする。そうそう、彼の頑張りによって暫定的ではあるが学術用語ができつつあるのだ。電気、磁界、電界、導体、コイル、電気分解、電流、その他諸々。かつての世界の知識をベースに混乱しそうなものを気がつく限りで調整し、他の分野と意味が被りそうなものはできるだけ電磁気学の用語であるとわかるようにし、そして可能な範囲で単語同士に共通性を持たせるなど私も色々とやった。それでもどう考えてもケトの功績が一番大きい。報酬を出そうとしたら断られたけど。

 

「鍍金術はわかる?」

 

「金属細工の四術ですよね。確か鋳金、鍛金、鍍金、彫金でしたっけ」

 

「よく覚えてるね……」

 

前に読んだ「雑物総記」に載っていた内容だ。確かにケトと一緒に読んだが、こんなところまで覚えているものだろうか。

 

「それをやってみようかと」

 

「へえ」

 

そういう話をしながら毒々しい青色をした飽和硫酸銅水溶液中に鉄の板を入れる。やるのは鉄に対する銅鍍金(メッキ)だ。

 

「漬けるだけでいいんですか?」

 

「まずは、ね」

 

そういうわけでしばらく待機。暇なので勉強するケトを見る。

 

「今は何をしているの?」

 

「詩術の練習です」

 

「詩学ではなく?*1

 

「これは学にはならないでしょう」

 

「おおっと」

 

これでも一応博士(文学)なのだ。ここらへんを否定されると反論したくなってしまう。定量的に扱うことが難しくとも反証可能性のある論理構築はできるし、統計的な分析を使えば色々と見えてくるものもあるのだ。

 

「例えば、詩においてどういう並びの韻がいいかって議論はされない?」

 

「されますが、学としての修辞学よりも広い範囲を詩術は扱うので」

 

「うーん、では学と術の違いはどうなってる?」

 

「十三学が学問で、それ以外が術」

 

「なるほど完璧な定義だ」

 

こういう既存のものを持ち出されると弱い。

 


 

この図書庫の城邦では、基本的に十三学が教えられている。ただそれとは独立して「術」を教える講師もいる。また、講官の一部も「術」を身に着けている。例えば天文学でも観測分野は天文術として扱われ、測量術などの形で他分野ともつながりがある。他に算学も商業的な算術と違って抽象的な学問として頑張ろうとしているが色々と限界がある。

 

ここらへんはかなり歴史と結びついているようで、結構固定化している。これは仕方のないところで、例えば歴史上ヨーロッパにおける大学(University)で工学を教えることは原則としてなかった。有名な技術教育機関としてはフランスにおける技術者養成のためのGrandes Écoles(グランゼコール)があるが、その中の代表的なものであるÉcole polytechnique(理工科学校)は科学者による軍事技術者育成のために作られたものだ。

 

日本ではここらへんの学問の認識が曖昧だが、それは明治維新以降あまりそういうものに頓着せず富国強兵のためならかなり見境なく取り入れ、背景に注意されていなかったからというのがある。こういうところから日本の学術体制は純粋科学をやるには向いていないだの言う人もいたが逆に理論的分野のほうが設備不要でハードル低かったからその分野のほうが早いうちから専門家が出ている気がする。ヘンリー・ダイアーの影響もあるだろうし、まあここらへんはちゃんと資料を持ってこないと話したくないな。

 

「とはいえ十三学でも術としての側面が強いものはあるよね」

 

「算学はそうですね」

 

「商業のための、という側面があるから?」

 

「ええ。なのでもし改めて学問とは何かを問い直すとしたら、難しいことになると思いますよ」

 

「そうか……」

 

ここらへんは私の知っている大学制度とこの図書庫の城邦という学問都市では多くのことが違うのであまり安易に何かを言うことはできそうにない。中世の大学都市とかの方が近いのかもしれないが、残念ながら専門外!

 

「そういえば、キイさんは元いた場所で学問をやっていたんですか?術をやっていたんですか?両方?」

 

「まあ、その分類なら両方かな。昔のこと、歴史……だっけ、についてやるのは地理学?」

 

「そうです」

 

「これも私にとっては結構奇妙なんだよね……。かつていた場所では文法学とか修辞学に分類としては近かった」

 

「どうして?」

 

「うーん……」

 

一応博士(文学)のくせにここらへんの知識はいい加減だ。学び直したいが、帰れる予定は今のところない。

 

「よくわからないや」

 

「……少し、意外です」

 

「どうして?」

 

「キイさんは、いろいろなことを知っていたので……、いえ、これは良くない言い方でしたね」

 

「そう?知らないことだってあるよ」

 

「ええ、だからです。別にキイさんが全てを知っているわけでは、ないんですよね」

 

「ま、そうだね」

 

私は呟きながら鉄の板を引き上げる。表面には赤色の銅が析出していた。

*1
一種の接頭辞で「学」と「術」を分けている



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取引

衙堂宛に届いた手紙は、注文した品の到着を示していた。トゥー嬢から紹介された一種の何でも屋、もう少ししっかり言えば薬学材料を中心として取り扱っている小さな商会である。この世界の商会のシステムは正直なところかなり面白い。船の民についての話は結構琴線に触れたが、これはまた後でいいか。

 

「確かめてくれ」

 

港のある北西側の地区にある建物の一つで、商者の男性と共に私とケトは品物の品質を見る。蝋樹と呼ばれる一種の木の葉から取れるもので、上等の蝋板に添加物として使われる。蝋には他にも草や種から取れるものがあり、良い職工は自分の独自の組み合わせで木の艶出しなどにつかっているらしい。そういえば蜜蜂はこの世界ではまだ見かけていないな。生物相が色々と違う可能性がある。ただまあ、何でヒトHomo sapiensが存在するのかはちゃんと結論が出せていない。正直ここらへんは答えが出そうにない予感がしているので触れないでおこう。

 

「……求めていたものです。そしてそちらが黒鉛*1ですか?」

 

「ああ」

 

爪で削れるほどの柔らかさ。指で潰すと黒い粉がつき、つるつると滑る。よし。

 

「……商品は確認しました。支払いはここで?」

 

「ええ」

 

紙が一枚出される。契約書だ。これに取引者と証人の名前を書けば契約が成立するというわけだ。本来は証人は衙堂関係者が第三者として行うのだが、今回は私自身が衙堂関係者だということで頭領府から来た人間が立ってくれる。というかこの世界の国政もわかりにくい。政策決定機関としての頭領府、行政組織としての衙堂、意見収集機構としての長卓会議、暴力組織としての巡警、その他諸々。で、これらはあくまで協力しているだけであって完全に頭領府の統制下にあるというわけではないらしい。私の中にある軍事畑の部分が早くクーデターを起こして権力を集約し総力戦に備えよと言っているがこれは完全に邪念である。そもそも今の状態は互いに出し抜きあおうとする取引やらなんやらが奇妙なバランスで絡み合って適度な関係性を保っているのだ。悪く言えば癒着であるが、安定のために必要な信頼の醸成が行われているとも言える。

 

「大衙堂の保証の下、司女見習いのキイ、以上相違ないことをここに認める……っと」

 

ここでの識字率は決して低くはないし、多くの人が自分の名前を書いて簡単な文章を読むことができる。書けるのは成人の三割だろうか。正直なところ結構いい加減な推定だ。必要となって字習いのために学舎に通う成人もいるが、余裕があればできるだけ若いうちに身に着けさせておいたほうがいい技能ではあるらしい。ここらへんも聖典語教育に批判的な意見とかもあるので難しいが。ただこれは反教養主義的文脈なのであまり私の好む論調ではない。

 

それでも文字を書けない人はいるので、場合によっては花押のような自分特有のシンボルを使うこともあるとか。色々と面白いものがあるが、本題に戻ろう。

 

「……確認しました。これにて取引は成立です」

 

証人が私たちのサインに重なるように色付きのインクでサインをした上で、別の紙を契約書に乗せる。インクは多少乾きにくいようになっているので、こうすると一種の同一性証明になるということらしい。

 


 

蝋の調合は今までの作業に比べれば非常に簡単だった。樹脂を少し混ぜた蝋によくすりつぶした黒鉛粉末を混ぜればいい。これで常温ではそれなりに固く、湯煎すれば溶けるぐらいのいい塩梅になった。そういうわけでできた蝋は一旦木型に詰め、私たちは大衙堂の一室に入る。印刷機をよりよく扱うべく試行錯誤を重ねている人たちの横で、私は荷物を置いた。

 

「ああ、キイ嬢とケト君。久しぶりだね」

 

顔見知りとなっている彼は煩務官に仕事を投げられた哀れな司士である。書字生やら工師一歩手前の木細工の工員やら工房に所属していない金属細工職やらを集めていろいろとやっているわけだ。私が活字を作るまではデザインを詰めてもらっている。本当に遅れてすまない。ただまあ、材料が到着してすぐ作業が始められる程度には色々と揃っていた。

 

「どうも、お疲れ様です」

 

そう言いながら私は試し刷りを見る。色インクやら文字のサイズの調整やら組版やらがかなり細かくできているようだ。フォーマットがある程度固まっているらしい。

 

「で、これが木版だ」

 

改良を重ねられ、修正が加えられた書体だ。私には何が違うのか正直わからないが。

 

「ありがとうございます。少し火を借りますね」

 

大鍋に水を入れ、湯煎した小鍋に枠から取り出した黒い蝋を割り入れる。これで溶けたものをいい感じに型に流し込み、冷めるのを待つ。このタイミングは事前に確認済みだ。

 

印刷に使われている圧搾機は改造を加えられていた。うまい具合に圧力が分散するようになっていて、今回の目的にはちょうどいい。蝋が適当な硬さになったところで木版を乗せ、圧力をかける。……ちょっと強すぎたかな?まあ、弱いよりかはいいだろう。

 

慎重に、垂直に木版を外す。ちょうど欲しかったような、読める方向になっている文字の窪みが蝋にできていた。

*1
直訳するなら「滑炭」となる



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有閑

ついにここまで来た。大きな磁器に硫酸銅飽和水溶液と木の枠に入れたままの蝋版を入れ、空いたスペースに素焼きの筒を入れる。その中には希硫酸と鉄の棒。そして鉄の棒と蝋板を銅線で結ぶ。基本構造はジョン・フレデリック・ダニエルが1836年に作った電池と同じだ。これ自体が硫酸銅から銅が析出するために必要な電流を生む。ただこれだけでは時間がかかるので、発電機にもつなぐ。向きを間違えるととても悲惨なことになるので注意しよう。

 

「……これだけですか?」

 

「これだけ」

 

ケトはしげしげと完成した装置を見つめる。

 

「染色槽にも似ていますが……こんな簡単に銅型が作れるんですか?」

 

「たぶん」

 

基礎実験ではそれなりにうまく行っていたので、今度もうまくいくと信じるしか無い。これについては試行錯誤は嫌だ。

 


 

銅の原子量は64ぐらい、密度は9 g/cm3ぐらい。ファラデー定数がだいたい105 C/molだったかな。簡単な計算をしよう。200平方センチメートルの範囲に5ミリメートルの銅が析出するならその体積は100立方センチメートル、質量は900グラム、分子量は14モル。ということは必要なのは1.4×106クーロンか。ここまで計算して電流がわからないことに気がついたのでやめた。一応1アンペアの電流が流れていれば二週間ちょっとでできるはずだが、この計算は信用できない。ただまあ、百倍にはならないし百分の一にもならないだろうといったところ。ともかくのんびり行くしかない。

 

この計算結果は残せないな、と私は入念に蝋板を均す。前提となる実験もなしに知っていていい定数ではない。まあこの世界にはマイケル・ファラデーはおろかシャルル=オーギュスタン・ド・クーロンもアンドレ=マリ・アンペールもいないのでこの数字自体が特別な意味を持つことはないのだが。逆に微細構造定数みたいな無次元量の定数を書き残していたりしたら後世の研究者は偶然の一致という少し苦しめの解釈に縋り付くしか無い。たぶんいきなり未来知識を持った人間が現れたという学説を学会で発表してもだれも見に来てくれないだろう。追放されることは会費の支払いを忘れなければあまりない。あ、口座からの自動引き落としじゃなくて振り込むタイプだから私は自動的に学会を追放されるのか。まあよし。実際様々な分野の学会に出たり入ったりしていたので整理できていなかったのだ。全部忘れられるこの世界に少し安心する。

 

「暇になりましたか?」

 

昼間から寝台でだらけていた私に、学舎から帰ってきたケトが言う。

 

「まあね」

 

「……印刷機ができたら、しばらく休むって言ってましたよね」

 

「いやあ電池ができちゃったから……」

 

ケトの目が怒っている。

 

「僕の授業はあと数日で終わります。あの銅型ができるまで、遊びますよ」

 

「……どこで?」

 

いや見るべきものはいっぱいあるが、ありすぎるほどあるが。

 

「どこにしますか?」

 

「決めてないの?」

 

ケトは目をそらし、寝台の上にいる私の隣に座る。

 

「僕としては、キイさんと何かを見れるなら結構どこでもいいですよ」

 

「図書庫とか?」

 

「あそこ、入れるんでしたっけ」

 

「……前にあの晩餐にいた講官に頼むとか?」

 

顔がおぼろげになってきてる白髪の男性を思い出す。

 

「それ、キイさんは休めませんよね?」

 

「うーん、確かに……」

 

そう言いながら私は恐ろしいことに気がつく。勉強も研究もせずに長期間だらだらとした記憶が無いのだ。高校生の頃から毎日何らかの本を読んでいたし、大学生の夏休みは図書館に入り浸ってオンライン公開されていない論文誌に片っ端から目を通していたし、大学院以降は意識がないか、あるいは何かについて考えているかだった。……おかげで妙にむずむずするはずだ。

 

「ねえケトくん、質問」

 

「なんでしょう」

 

「男性が女性に遊びを誘うのって、特別な意味を持つことがある?」

 

「っ、んー……、あると言えばありますし、そういう意味を持たない関係だということも考えられます」

 

「なるほど。ちなみに、特別な意味を持つ場合にはどういう場所に行くのがいいのかな」

 

「……どこなんでしょうね」

 

「知らないの?」

 

「経験がありませんし、読んだことのある本は信用できないので」

 

「例えば?」

 

「海の底に行けますか?」

 

「あー、そうか、聖典にあるような代物……」

 

この世界の聖典は多神教における神話という側面も持つ。まあギリシア神話とかローマ神話とかケルト神話とかスカンディナビア神話とか日本神話とかみたいなやつ。スケールも山を作ったとかいうレベルからそこらへんにありそうな痴話喧嘩まで様々で、当然のことながら恋愛的要素は多い。そして結構不条理で幻想的だ。

 

「ええ、なのでどうしようもない、と」

 

「市場でも見て回る?」

 

「次の発想につながるものを見つけたら買い付けてしまいません?」

 

「買い付けないと思う?」

 

「思わないのでこう言っています」

 

「ちゃんと君は私のことを理解しているなぁ」

 

「というより何を見せても考えることを止められないのでは……?」

 

「……君は頭の中で詩を撚るのを止められる?*1

 

「無理です。ごめんなさい。ならキイさんは止められませんね……」

 

「やはりか……」

 

私とケトはなんとなく同じ側の人間である。思考が止まらず、あっちこっちに彷徨うような。それでもまあ、しばらく目的もなしに城邦を見て回るのは悪くないだろう。

*1
「詩を撚る」とは古帝国語由来の表現。小さな繊維が寄り集まって糸になる様子を言葉が連なって詩となる様と掛けている



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手紙

「そういえばハルツさん、元気にしているかな」

 

暇なのでここに来てからのことを頭の中で整理していて私は呟く。

 

「たぶん大丈夫だとは思いますが」

 

そう言うのはケト。最終課題である詩を仕上げているらしい。

 

「連絡でもしたほうがいいかな」

 

「それはいい考えだと思います」

 

ケトの言葉に私は寝台から立ち上がり、ケトの向かい側に座る。

 

「手紙の書き方、どうすればいいの?」

 

「……そういえば、キイさんはそういう知識はないんですよね」

 

「まあね、規則はある?」

 

ケトは少し考え込む。

 

「衙堂が他の衙堂に送るようなものであれば、大まかな流れはあります。ただ、あくまで個人と個人のやり取りであれば細かいことは気にしない方がいいかと」

 

「なるほど」

 

公と私の区別、みたいな概念だろうか。私の中の歴史知識が妙な違和感を見つける。個人の尊重とかはかなり後の世に生まれた概念ではなかったっけ?いやいや、そういう雑なものを一概に括るのは良くない、具体例を挙げろと脳の別の部分が言う。

 

例えば近代における条約は個人の名のもとで行われた。法人格の形成の起源は確か古代ローマ。教会はその構成員とは別の一種の存在として契約を行うことができた。絶対主義時代の王は、あらゆる時において王であった。

 

ではこの図書庫の城邦においてはどうだろう。衙堂が行う契約をいくつか見たが、全て人の名前があった。ただ、そこには衙堂の誰々というふうに書かれていたことを考えるとどう解釈すべきかは微妙なところだ。法人の代表者としての人名なのか、あるいは契約を行うことができる存在である自然人なのか。ここらへんは統治学の分野だが、その入門を読んでもよくわからなかった。語義もわからず専門書を頭から読むものじゃないな。

 

ただ、いくつかの契約には面白い条項がある。引き継ぎの義務だ。工房の大工師が長期間の契約を行う時は、次の大工師にその契約を引き継がせる義務がある。活版印刷の研究に行われた私への融資は個人から個人であったが、「この責務は後継者に引き継がれる」という聖典語の一文があった。これは商慣習でもしばしば用いられるらしい。ここらへんはもし法制史とか商業史をやっている人がいたら興味をもつだろうがあいにく私はそっちの方面は素人だ。学会で質問ぐらいはできるが。

 

「まあ、つまり大衙堂のキイの名前ではなくて図書庫の城邦に住む一人の女性キイって形で出せばいい、と」

 

「ええ。まあもちろんそういうやり取りでも守った方がいい作法はありますから、一緒に書きますか」

 

「……それ、終わらせなくていいの?」

 

私はケトの手元の蝋板を見る。

 

「いい言葉がやってくるまでは何をしていても変わりません」

 

「なるほど」

 

レポートを書いていた時の私みたいだな。おかげでギリギリの提出だったのもしばしばあったが。

 


 

書きたいことは色々とあるが、まあまずは季節の挨拶から。私が書きたい内容を言っていくと、ケトは適宜東方通商語の適切な表現を出してくれる。中には私がまだ聞き慣れないものもあった。本当にこういう引き出しはどこから来るんだ。インプット量か?まあ実際私もケトぐらいの年齢の頃には日本語で似たようなことはやれなくはなかったか。

 

「……ハルツさんのこと、どう呼べばいいかな」

 

「ハルツ嬢……ということではないですよね」

 

「うん。借りを感じるべき人……?」

 

あまりいい語彙がない。

 

「恩人とか?」

 

「たぶんそういうの。あってる?」

 

「あまり使わない表現だと思います。親愛なる友とか、助けとなってくれた人とかいう表現のほうがいいと思います」

 

「友、って使っていいの?」

 

「いいと思いますよ」

 

私が紐づけているイメージと東方通商語における「友」に相当するであろう単語のニュアンスの違いだろうか。

 

「春が来て、暖かくなってきました、とか?」

 

「雪の痺れが溶けて、という表現があります」

 

「綺麗だね」

 

軽く韻を踏んでいる。ケトの脳の中には相当こういう組み合わせのストックがあるのだろう。かつての私が何も考えずとも指を動かせば学術っぽい文章をでっちあげられたように。

 


 

煩務官のこと、印刷機のこと、図書庫の城邦で出会った様々な人のこと。どこまで詳しく書くかも難しいので、そこらへんはケトに聞きながら。

 

「……ところで、これは誰の名前で出すんですか?」

 

「私……かな?でも半分ぐらいは君に書いてもらっているし……」

 

実際に紙に書くならケトの方が慣れているが、そのケトからは私が書くように言われた。そういうものか。

 

「なら、最後に僕の名前も書きましょう。それならいいですか?」

 

「そうだね」

 

「で、これはあの衙堂に寄るような人に渡せばいいんだよね」

 

「はい。商者でもいいですし、第四区の担当者は誰だったかな……」

 

私は少ない記憶から通信に関するものを洗い出す。そうか、電気ができているから電信も不可能ではないのか。実験室レベルで必要なものは大体揃っているが、実用化にはまだ遠そうだ。確かここらへんの歴史は権利関係がややこしくて大体の年数と最低限の人名しか覚えていないんだよな。ただまあモールス信号もといトン・ツー式は人材の育成が面倒そうだな、と私は唸る。周波数分割多重化でバイナリ化した文字を並列送信してもいいがこれには規格化とそこそこの精度での測定が必要だ。できたら増幅用の真空管なんかも欲しいがそこまで行ければもう無線通信をやりたい。あーもうやりたい事が多いが、今は休息時期だ。

 

「……文面はこんなものでいいですか?」

 

蝋板をきっちりと埋める文字をざっくり読んで私は頷く。

 

「では、書くか」

 

紙を一枚取って、丁寧に字を書く。改めて自分の手を見ると、かつてはなかったペンだこができていた。



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第5章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。見知らぬ単語を検索して作者が使っているであろう文献を見るような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


誤認

彼らの派手な赤い外衣は一種の特権を持った暴力組織であることを表している。

カール・エーミル・マクスィミーリアン・ヴェーバーは国家の本質を暴力の独占に求めている。囲んで棒で叩くのは実際強いのだ。

 

「貨幣偽造罪だ」

金本位制の場合自由鋳造が認められているが、これはどこのご家庭にもあるような溶解炉を使って溶かしていいという意味ではなく、銀行が地金を金貨と交換することを保証するという意味である。

 

亜鉛がなかったので鉄を使うのは仕方がない。

真鍮の原料としての亜鉛はユーラシア一帯で古くから知られていたが、単体の精錬が行われた例はあまり多くない。

 

オチは「そのような強い意志ある人間がくすぶってはいけない」と取り立てられたというものであるが、なんというか、うん。

いつ言及できるかわからないので今言ってしまうが、古帝国は遊牧民によって築かれた。なので頭が結構ヒャッハーしている。

 

「仮に硝膠と呼んでいるが、あれは面白いな。切傷を塞ぐのにいい」

事実ドラッグストアで売っているような水絆創膏や液体絆創膏と呼ばれているものの箱の裏に書かれている「ピロキシリン」はコロジオン(硝化綿)である。

 

まあ006P(9V角型乾電池)と同じぐらいといったところか。

最近あまり見なくなった気がする。あれは中に起電力1.5 Vの電池が6本入っている。分解すると色々保証がなくなるので自己責任で。

 

「健康そうだな」

東洋医学において舌診は基本的な診断方法である四診の一つ、望診に含まれる。

 

焼土質

事実、与太話の域を出るものではないがバグダード近郊から発掘された壺が紀元前に作られ、電池としての機能を持っていたのではないかという仮説を立てた人もいる。

いわゆるバグダッド電池。

 

摩擦電気研究の発展とか焦電効果の発見について言いたいのでしょう。

アレッサンドロ・ヴォルタが電堆を作る前までに摩擦電気、焦電効果、大気電界、生体電気が発見されている。むしろここまでやって電堆がなぜできなかったのだ?

 

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエが水は単体ではないと言ったのは18世紀後半。

ジョゼフ・プリーストリーやヘンリー・キャヴェンディッシュの研究もあるが、フロギストン説に依っているのでここではアントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエの名前を挙げている。キイのここらへんの記憶が曖昧とかではないはず。

 

アルカリ土類金属の単体分離は電気分解で行われたんだぞ?

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエは「Traité élémentaire de chimie(化学概論)」では33のSubstances simples(単一物質)を挙げているが、そこにはChaux(酸化カルシウム)Magnéfie(酸化マグネシウム)が見られる。カルシウムやマグネシウムが単体として抽出され、金属とみなされるようになったのはハンフリー・デービーの功績である。

 

天才

「……そんなに痺れていると、心配になります」

最初期の電流計として用いられていたのは生体である。そもそも電池の起源が皮を剥いたカエルの足に二種類の金属棒を接触させたら動いたというルイージ・ガルヴァーニの発見なので。ただ、それ以前にも二種類の金属を接触させた状態で同時になめると変なしびれが出ることが知られていた。

 

おおベンジャミン・フランクリン、世の電磁気学を学ぶ生徒からの呪いの声が聞こえないのですか。

核物理学者以外は基本的に彼を恨んでいる。核物理学では電子よりも陽子を扱うので別に今の電荷の定義でも問題ないのだ。

 

あるいは17世紀の科学者──いや当時は「自然哲学者」か──による争い。

「Scientist」という言葉はウィリアム・ヒューウェルによる。彼はマイケル・ファラデーと同時代の人物であり、様々な科学用語を生み出した。

 

もちろん適度な対立は批判的に議論を行うためには必要ではあるのだが、人格攻撃と理論への評価をちゃんと切り分けるのは訓練を積んでもなかなか難しいのだぞ?

聞いてますか教授。

 

……いや、数学分野ではレオンハルト・オイラーとかカール・フリードリヒ・ガウスとかいうよくわからないのがいたな。

数学史をやっていると「もう全部こいつらでいいんじゃないかな」となる。本当に。

 

電磁誘導

ジエチルエーテルを溶媒として混ぜてあげるとなぜかうまくいったのだ。

これはフィクション。本当にそうなるかは知らない。

 

これは虚数の$i$に満足できなくなったウィリアム・ローワン・ハミルトンがおまけで$j$と$k$も足して作ったもの。

ISO 80000-2に基づけば本来虚数単位や自然対数の底は立体(ローマン体)で書くべきだが、結構いい加減。工学部ではだれもそんなどうでもいいことを気にしない。あとTeX記法でいちいち指定するのが面倒なのもある。

 

かっこいいから。小学5年生で私はこれを暗記した。人間若いときにはいろいろやらかすのだ。

中二病の早期発症とも言う。

 

後知恵バイアスの一種である。

わかっていてもキレたくなる時はあるのだ。誰かがそういう状態になっていた時は反論するのではなく、そばで感情を受け止めてあげよう。

 

着磁

では別の方法、$\require{mhchem}\overset{塩化スルフリル}{\ce{SO2Cl2}}$の加水分解反応ではどうだろう。

これはルイス・ダートネルによる「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」で触れられていた方法。なおキイがこの本を読んでいたかはわからない。塩化スルフリル自体は塩素化などに使われる。

 

棒が離れた銅線を繋ぎ、火花が飛び散って音が鳴る。

稲垣理一郎およびBoichiによる「Dr.STONE」では落雷を用いて磁化を行っていたが、あれは演出的に強すぎる気がする。ずるい。作中でも紹介されていた落雷実験を行ったPeter J. Wasilewskiは岩石磁気学者で、写真家でもある。

 

私としてはこういうことをされると発見者がわからなくなって後世の研究者が悶えるので大賛成である。

こういう分野に取り組むための手法の一つとしてオーラルヒストリーが挙げられるが、大抵研究が始まるのは関係者があらかた死んでからである。

 

発電機

これはシャルル・フランソワ・デュ・フェの命名から引っ張ってきたものだ。

シャルル・フランソワ・デュ・フェは摩擦電気の研究から「vitreuse(硝子性)」と「résineuse(樹脂性)」の二種類の電気があるとした。

 

本当にこういう事が多いな。

ご都合主義の側面は否定しない。

 

ただしそれ以上あるに越したことはない。

ここらへんをちゃんと話すとボルツマン因子に触れなければならないので省略。

 

なので比較的大きな電流を生むことができるが電圧に不安のある単極発電機は使わなかったのである。

磁界と垂直方向に置いた円盤を回転させることで内側と外側に電位差を作るもの。

 

回転

効率の良いとはいえない下掛水車だが、そもそもの目的が揚水なので仕方がないだろう。

下掛水車とは水車の下部分だけが水に浸かっているようなやつ。運動エネルギーだけしか利用できないので、落差による位置エネルギーも取り出せる上掛水車や胸掛水車に比べれば効率は低い。

 

そこから鉛で内張りした箱の中で鉱物──たぶん黄鉄鉱、主成分は$\require{mhchem}\overset{二硫化鉄}{\ce{FeS2}}$──を加熱することで出た二酸化硫黄と活性炭触媒で反応させることで塩化スルフリルの完成だ。

鉛で内張りするのは硫酸と反応しないようにするため。ガラスでもいいが、大型化するのが難しい。

 

科学技術

ヘンリー・ダイアーの影響もあるだろうし、まあここらへんはちゃんと資料を持ってこないと話したくないな。

ヘンリー・ダイアーはいわゆるお雇い外国人。彼の師であったウィリアム・ランキン(絶対温度を0とし、1度の幅を華氏(ファーレンハイト度)と同じにしたランキン度の提案者)が大学における工学部設置を強く主張していた影響を受け、工部大学校のカリキュラムなどを作成した。これ自体が後の東京大学工科大学を経由して東京大学工学部に繋がる流れを作ったし、ここで育った多くの技術者が各地の大学の工学部で教鞭を執ったのでその後の日本の工学教育のあり方に強い影響を与えた。

 

中世の大学都市とかの方が近いのかもしれないが、残念ながら専門外!

知らない分野の本を読むのも楽じゃないのですよ(貸出期限を延長しながら)。

 

取引

蝋樹と呼ばれる一種の木の葉から取れるもので、上等の蝋板に添加物として使われる。

南米原産のヤシの葉から取れるカルナウバ蝋というものが実在する。

 

指で潰すと黒い粉がつき、つるつると滑る。

黒鉛は固体潤滑剤として使われることがある。層が積み重なったような炭素原子の結合構造がずれることで滑りやすくなるのだ。

 

有閑

一応1アンペアの電流が流れていれば二週間ちょっとでできるはずだが、この計算は信用できない。

本当にだいたいそれぐらいである。ここらへんの描写は「蝋型電胎法による母型製作と活字鋳造」をかなり参考にしている。

 

マイケル・ファラデーはおろかシャルル=オーギュスタン・ド・クーロンもアンドレ=マリ・アンペールもいないのでこの数字自体が特別な意味を持つことはないのだが。

シャルル=オーギュスタン・ド・クーロンとアンドレ=マリ・アンペールはSI単位系における電荷の単位クーロンと電流の単位アンペアの由来。どちらも電磁気学における偉人である。

 

「男性が女性に遊びを誘うのって、特別な意味を持つことがある?」

ケトからすれば少し前のことを思い出させる言葉かもしれないが、キイは素でこれを言っている。

 

思考が止まらず、あっちこっちに彷徨うような。

キイが地の文で暴走しているのはこれの演出のためです。作者のコントロール能力不足ではないと思いたい。

 

有閑

確かここらへんの歴史は権利関係がややこしくて大体の年数と最低限の人名しか覚えていないんだよな。

サミュエル・フィンリー・ブリース・モールスが電信の歴史に名前を残しているのは訴訟を繰り返して権利を認めさせたからという側面がある。なお実務担当のアルフレッド・ヴェイルの名前はあまり出てこない。



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第6章
大道芸


少し面倒な話をしよう。具体的には差別について。

 

差別の定義についてはそれ自体で講義になるレベルなので、辞書的なものに留めよう。特定の個人的あるいは集団的特徴により、他者からの干渉を通して社会的環境的に容認されている不利益、とかでいいだろうか。まあ、これだと成人年齢前の責任能力であったりも含まれるが、あくまで相対的な価値観で分析を行いたい。そういったものは、全て差別と呼ぶことにしよう。

 

性別による差別は存在するか?する。法的な権利の多くは成人男性を対象としたものであり、女性がその権利を受けるためには面倒な手続きが必要となる。それでもこの世界において女性は家庭に閉じ込められている存在ではないし、社会への影響力は無視できない程度には大きい。割合としては少ないながらも、上流階級と言うべき階層で活躍する人もいる。そもそも本質的に能力主義の側面が強いので女性であるということは能力があることにそこまで優先はされない。いやここらへんは難しいな。そもそもこういう議論をしようにも面倒な問題がつきまとうので程々にしよう。私の価値観を理解できる人がこの世界にいないとしても、かつて交わした議論の過程で植え付けられた独特の忌避感と価値観は私にまだ影響を与えている。

 

障害に対する差別は存在するか?する。そもそも障害の定義が問題となるが、まあ生活において不都合が生じており社会的援助が十分でない時点でそれは定義上差別に突っ込むべきだろう。社会的地位は決して高いとは言えないし、変な視線を持つ人は多い。宗教的解釈では一種の罰、あるいは試練として捉えられているようだ。ただどうやら独自の、ある程度閉鎖的なコミュニティを形成しているらしい。

 

人種に対する差別は存在するか?する。目の色、髪の色、肌の色に対しての偏見はある。ただそれは血液型性格診断よりかは強い程度のものであって、そのようなものの存在を否定する人もいる。「同じ目の色、同じ髪の色、同じ肌の色の同胞」という言葉が存在はするが、これは血縁より一回り大きい程度の身内意識の表現だ。そもそもかつていた世界の人種差別が近世から近代のヨーロッパで「創られた」概念である「人種」に由来しているのはあるか。

 

職業に対する差別は存在するか?する。城邦の壁の外側には「ふさわしくない」仕事に就くものが暮らす一帯がある。ただそこで働く人達がいなければ壁の中の生活は上手くいかないので、統治の際に目を背けることはできない。こういうところで複雑な間接民主制が組み込まれたシステムがほどよく各種の利害を調整している側面がある。

 

結論から言おう。この世界と、私がかつていた世界の価値観は色々と違うが、無理やり比較するのであれば、別にこの世界の人々による差別が酷いようには感じられない。経済的に恵まれた環境にいる部外者の視点で語るべきではないと言われればそれまでだが。少なくとも、かつていた世界の、一番ひどい時代の人種差別より非合理的な差別はこの世界では見受けられなかった。蔑視され、卑賎と言われる人々はいる。それは否定しない。ただ、それを以てこの世界を「遅れている」などと論じる事はできない。

 

で、ここまで前置きをした理由は今目の前で行われている大道芸だ。見世物小屋における奇形の興行やら人間動物園に比べれば上品であるが、かつての世界であればなにかの団体がやってきそうな程度のもの。ただ、彼ら彼女らの繰り広げる技能は舌を巻くべきものだ。奇術、曲芸、人形劇、声楽、劇、あるいは詩。人混みの中で行われるパフォーマンスはかつていた世界の知識であってもトリックを見抜けないほど洗練されている。まあ、私はこういうものを素直に楽しまないのは無粋だと思っているのでケトと一緒に見て回っているのだが。

 

「凄いですね」

 

はぐれないよう手を繋いだケトの声がざわめきの中から聞こえる。

 

「そうだね」

 

子供を城邦に行かせるべきではないという思想もわかるな、と私は芸に目を移す。指の動きに合わせて流木を細い糸で踊らせるように動かす糸操人。面白い。非生物が有機的に動くのはかなり見ていて奇妙な感じがする。今やっているのはどうやらある程度有名な伝承に登場する詩の争いを模した劇らしい。ケト曰く詩自体の出来がイマイチとのことであるが私としてはこの発想が面白かったので銅葉を籠に一枚入れた。

 

巨大な女性に放り投げられ、くるりと着地する小さい男性。短刀一本で柔らかそうな木を削って作っているのは似顔絵もとい似顔像のようなものだろうか?荒削りではあるが確かに依頼者の顔の特徴を掴んでいる。裾のひらひらした派手な紅色のロングスカートで踊る男性。いや別にスカートが女性の服になったのはローマ文化の影響だからそうでない地域や時代では構造が単純なスカートは一般的だったはず。スコットランドで見られる格子柄のフェーリアとかもあるし。それにしても脚の動きに合わせて波が走るように裾が揺れるのはいいな。飾りの金属線が日光を反射してきらめいている。

 

「……こういうことをしていると、目的の場所に着く前に日が暮れない?」

 

「かもしれませんね」

 

ケトの言葉に私たちは少しだけ足取りを早めて、道路の中央に向かう。両側で芸が行われているので、そこの部分の人の流れが遅いのだ。右側通行なのはなにか理由があるのか、それとも偶然か。そんな事を考えながら私たちは目指す商館の一つに向けて進んでいく。



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奇物

商会の建物が立ち並ぶ港に近い区域の一つ、白い石で作られた建物の中にそれはある。

 

「ようこそ、とくとご覧あれ。そして驚きを!」

 

そう言うのはここの案内人。ここは直訳するのであれば「奇物の図書庫」。私の知っている驚異の部屋(Wunderkammer)と基本的な方針は似ているが、こちらのほうはむしろ博覧会とか物産会とかの方が近いか?

 

壁に並べられるのは剥製、骨格標本、スケッチ、なにかの機械らしきもの、装飾品、磨かれた鉱物などなど。ガラスがないから基本的には壁にかけたり床に置いたり天井から吊るしたりだ。手を触れてはいけない。

 

「すごいですね……」

 

「うん」

 

目を輝かせるケトと違って、私の視線はどうにも冷めたものになってしまう。直射日光ではなく間接照明なのは経験的に紫外線による劣化を知っているからだろうか。それでもいくつかの展示品は色あせている。本来ここは商会が取り扱っている品物の展示室という側面があったが、それが一般公開もされているということらしい。

 

「これが南方、████████からやってきた大魚の骨だ、肉はここに来るまでに食われてしまった」

 

笑い声が上がる。結構人気のようで、入館料もそれなりにする。基本的に案内人についていって展示物の話を聞くコースだ。ちなみにいま話されているのは大型の硬骨魚類の骨格。背骨がごつい。

 


 

古帝国はおよそ三百年前にこの地域一帯を支配した。スケールはわからないが私の雑な推定では下手すれば大陸の端から端まで。その過程で統一された通貨と整備された道路網によって大規模な交易が発生したのである。

 

輸送費は決して安いものではなかったが、需要はそれでも大きかった。東の端ではそこら辺に生えているような草が西の端では霊薬として珍重され、北で作られたちょっとした雑貨が南では呪具として使われる。

 

そして上流階級による奇品収集のブームが起こった。それは権力の象徴として、あるいは自らの持つ交易ルートの誇示として。しかし古帝国のゆるやかな崩壊によって維持されなくなった道路網ともにその潮流は終わる、はずであった。

 

転機は船の改良にあったという。帆の形を変えることによってより確実な舵取りが可能となり、海運業が発達したのだ。ここで皮肉なのは船を操っていたのは古帝国に迫害され、海に追いやられた民であったということだが。

 

かくして港を備えた城邦は大いに発展し、各所が手放した奇品を、図書を、専門家を買い漁るようになった。城壁が築かれ、港が拡張され、拡大に拡大が繰り返される。かくして図書庫の名を冠するようになったというわけだ。という話をケトに確認したらあっていた。基礎教養レベルらしい。

 

そんな事を考えていると、ケトは私の袖を軽く引いた。

 

「説明を聞かないんですか」

 

耳を寄せると小さな声でそう呟いてくる。

 

「ここで話されている内容はあまり信頼が置けないよ」

 

「そういうのを楽しむんですよ」

 

言われてやっと思い出した。今は休暇中なのだ。いやでも私の中の余計な部分は動線を意識した展示替えをするんだと言ってきている。落ち着け。確かに私は博物館と一体化した施設で学んでいたが、専門職員ではなかっただろ。真似事はしていたけれども。

 

「……そうだね」

 

「まあ、キイさんがこういうものを素直に飲み込んでしまう人ではなくて安心はしましたが」

 

「君だってわかってるよね?」

 

まあ剥製に縫い目が見えたり自然界ではあまり見られないような色だったりがあるので、まあ。

 


 

部屋ごとにテーマがあるようだ。今の部屋は人の手による技。私の視線は壁にあるとある装置に引き寄せられた。

 

「ケトくん、あれなにかわかる?」

 

「さぁ……」

 

「そう」

 

案内人に直接聞くのは後でいいか。少し近づいて観察をする。横の部分から中の機構が見えるが、溝が側面に刻まれた円盤のようなものが見える。歯車とも言う。……そういえば水車を見たときに軸の向きを変えるための一種の歯車機構らしきものはあったな。臼で粉を挽く時には軸は垂直方向のほうがいいのだ。

 

「これは今は動かないが、かつては鳥の声を出したという」

 

機械を指さして案内人がそんな話をする。一種の楽器か?オルゴールのようなものなのだろうか。

 

「ただ、今日ではその作り方も失われて久しい」

 

うーん残念だ。ここまで細かい機械工作ができるなら時間計測用の時計を作りたいところだった。秒スケールの安定した測定ができれば基本的な理科実験ができるし、あるいは作業時間を測定して科学的管理法を利用できるかもしれないのに。

 

「興味があるんですか?」

 

「ちょっと、ね」

 

ただまあ、原理が存在しているだけいいとも思える。そんなことを考えているうちに話は進んでいた。飾りとか木彫りの細工とかは正直そこまで興味はないが逸話はそれなりに面白い。ただ時代も由来もいいかげんなのだろうな、と私は案内人の話し方から察する。

 

ただ、こういうふうに何かを収集しようとする文化があるのはいいことだな、と私は嬉しくなった。後世の研究者としてこういうコレクションの存在に助けられたことが何度もあったので、数奇者がいるというのは世界を豊かにするために必要なのだと思っている。



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外食

「キイさん、この後どこか食べに行きませんか?」

 

通りを歩いていると、ケトが聞いてくる。確かに日がそろそろ暮れるし、お腹も空いてきた。

 

「いいね、何を食べる?」

 

この図書庫の城邦では外食は珍しくない。というより、多くの学徒寓、まあ寮のような場所にはキッチンがついていないか、あるいは共同のものがある程度だ。学徒の多くが朝食と夕食を買って済ませるので、その市場は結構あるのだ。なお昼は大抵軽く何かをつまむ程度だ。これは一日三食に慣れていた私には結構きついので昼食を摂るようにしている。ケトからは食べ過ぎじゃないかと言われるが脳を酷使するのでその分のエネルギーを摂取しなければ。

 

「魚はどうでしょう?」

 

「美味しい場所、知ってる?」

 

「前に司士の人に教えてもらった場所があって」

 

「それはいいね」

 

そういうわけで私はケトについていきながら街を見る。基本的には広義のコンクリートでできているらしい。石材を石灰や火山灰の一種と混ぜたもの。ローマン・コンクリートに近い。そりゃまあこれだけの街を木材で作ったら火災が怖いからな。事実何度か燃えているらしい。図書庫の周辺にはある程度の空間を作ったり石造りで防火対策をしていると言うがそれでも分館が焼けたという話が歴史書を読むとたまに出てくる。

 

「それにしても、夜もここは明るいね」

 

薄い紙で散乱したランプの光はどことなく提灯や行灯を思い起こさせる。うーん、たまに郷愁に襲われるな。軽く首を振る。

 

「だからといって安心しないでくださいね?」

 

「わかっているって」

 

ここなら人通りは多いが、少し路地を行けばすぐに暗くなって場所によっては星明かりも届かなくなる。そんな場所ではたまに死体が転がっているようで。特に一部の区域では巡警と犯罪者集団が抗争を起こしているらしい。あくまで噂だが。

 


 

魚の生食のためにはいくつかの条件が必要だ。例えば衛生管理。あるいは冷凍技術。

 

「キイさんはこういうもの、大丈夫ですか?」

 

「まあね」

 

生魚の香草塩漬けとでも呼ぶべきもの。締まった身に軽く苦味のある何かの草と柑橘系の酸味がなかなかいい。マリネに近い味わいだろうか。

 

「……ケトくんは、あまり得意ではない?」

 

「……そうですね」

 

「なるほど」

 

まあ私だって好き嫌いがないわけではないからな。生魚はいろいろと忌避感もあるかもしれない。食中毒のリスクは加味した上でこういう珍しいものに触れるのも文化交流の楽しさではあるのだが。

 

「それより僕はこれのほうが好きです」

 

「美味しいよね」

 

おせち料理の田作にも似た、乾燥させた小魚の煎りもの。甘みは少ないが、これはこれで良い味付けだ。砂糖が取れるような植物があれば色々と変わるのだろうか、と私は喉に刺さらないようにまるごとの魚をきちんと噛む。

 

「これで最後?」

 

少し聞き慣れた東方通商語とは違うアクセントで店主が私たちの前に深い皿を出しながら聞く。

 

「ええ。ありがとうございます」

 

ケトが返す。皿というより土鍋と言ったほうが近いかもしれない。入っているのは魚のアラで作った一種の雑炊だ。私がかつて食べていたよりも米の形が残っているので、リゾットとかのほうが近いだろうか?かなり色々な具が入っている。

 

『あぢっ』

 

「……久しぶりに、聞きましたね」

 

「何を?」

 

火傷してしまった舌を冷ましながらケトに聞く。

 

「……キイさんの故郷の、言葉ですよ」

 

「ああ、確かに」

 

反射的に出す言葉はなかなか変化しないものだ。あらためて息を吹きかけ、冷ましてから食べる。丁寧なアク取りがされているのだろうか、野菜が煮込まれていてもあまり渋みなどはない。

 

「ケトくんはさ、私の過去を知りたがるよね」

 

「……気になるので」

 

「別に気を悪くしているわけではないけどさ、そういえば私は君のことを知らないなって」

 

「面白い話ではないですよ」

 

そう言いながらケトも少し硬い米を食べる。

 

「……話したくない?」

 

「……あなたが僕がどういう生まれかで扱いを変えるとは思いませんが、それでもあまり話したくないものです」

 

「ああ、なるほど。私が興味本位で聞いてはいけないね」

 

迫害された集団、嫌われる職業、あるいは親の色々なこと。かつての世界にも、私が生きていた百年前までそれは社会の表面にあった。私が生まれた頃には裏側に回っていたが、それでも、嫌な思いをした人は多い。嫌な思いなんていうのは控えめな表現だが。

 

「そこまで深刻ではないですよ、他の人に聞かれたくはないですが」

 

「必要なら私の血でも舐める?」

 

「誓わなくてもいいです。……言ってしまえば、僕は親の顔を覚えていないんですよ」

 

一種の比喩的言い回しだろう。捨て子を意味していると見ていいと思う。

 

「ハルツさんのところには、いつから?」

 

「まだ立てない頃でしょう。詳しくは話してくれませんでしたから」

 

「物語であれば、君の親が特別だったりとかするんだろうけど……そういうのは、ないか」

 

「ないでしょうね」

 

ケトは少し笑いながら言う。

 

「ただまあ、僕にとって親に当たる人がいるならハルツさんです。色々と言いたいことはありますが」

 

「……そう」

 

「キイさんは、そういう親の話がありますか?」

 

「……あるよ」

 

研究職から測定機器メーカーの重役にまで上り詰めた父。母はまだ准教授だったか、いや教授になれたのかな。連絡を取っていなかったからわからないが、ま二人ともきっとなんとかうまくやっているだろう。私は実際のところ経済的にも教育的にも恵まれていた。文系の博士課程に行くと言っても呆れるだけでいろいろと費用を出してくれたし、色々とアドバイスもくれた。最近はあまり話さなかったし、相容れないところもあったがまあ大切な家族ではある。

 

「君と比べると、私は幸せだったからさ、率直に言ってしまえば、これを口にして君を傷つけないかが心配」

 

「キイさんの、そういうところがいいんですけどね。なら、また今度の機会に」

 

そう言ってケトは皿の中を見る。

 

「最後、食べます?」

 

「君が取っていいよ」

 

「それでは」

 

まあ、今のケトが楽しそうなら決してそれは悪いことではないと思うが。



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剥離

見慣れてしまった天井に痛む頭。腕にかかる重さ。顔を横に倒すと私の手首を枕にしているケトの寝顔。警戒心というものがないのだろうか。まあこれは私にブーメランとして返ってくるので黙っておこう。

 

差してくる日の場所から考えて南中過ぎ。精密な時計がないので厳密な時間はわからない。ああどうにかしてそういうものも作らないとな、と頭の中で雁木(ガンギ)車の構造を思い浮かべて首を振る。……もう限界だ。活字中毒の禁断症状が起きている。聖典語を読めるようになってインプット手段が増えてしまったのが原因だ。まだ書くのは難しいが、文法的には問題ないレベルで理解できる。単語はよくわからないものも多いのでケトに手伝ってもらうことも多いが。いやなんで万神学から医学までの用語をちゃんと知っているんだよ。字引を見ればわかると言っても普通の人間はそんな事はできない。

 

最近はずっと頭の中で何かを考えているかケトに話しているかだ。使いたい語彙がケトによって少しづつできてきたので科学的思考であったり仮説と実験の概念であったりを説明しつつあるが、まだ彼には飲み込めていないようだ。

 

ともかく酒に溺れている気がしなくもないので、ひとまずは断酒だ。きっとまだ中毒にはなっていないはず。

 

「……ん、愛おしい人……*1

 

「寝言?」

 

「……昼ですね」

 

ケトが目を覚まし、意識レベルを下げていく。

 

「……キイさんが悪いんですよ?」

 

「えっ?」

 

起きてそうそう何か怒られている。まあ十中八九私が悪いのでなにか聞こう。

 

「僕を抱きしめたまま寝てしまって、抜け出せなかったんですよ」

 

「ああ、だから同じ寝台に」

 

「そういうことです」

 

ふむ。これは私に責任があるな。

 

「嫌だった?」

 

「本当に嫌ならキイさんを起こしてますよ。まあそこまで気にしなくていいです」

 

「ごめんね……」

 

最近ケトに借りが多い気がする。返済できる見通しはない。

 


 

「それで、休みに飽きたから私のところに来たと」

 

「はい……」

 

水車小屋で薬学師のトゥー嬢にも詰められている。

 

「君とケト君であれば、別に一日中でも寝台の上にいればいいじゃないか」

 

「そういう関係ではないと何回か言いませんでしたっけ?」

 

「私の方は別に隠さなくとも気にしないが」

 

「本当に、なにもしていないんですよ」

 

なんというか、司士と司女はそういう関係というのはかなり一般常識らしい。

 

「……そうか。ところで、その彼は?」

 

「真面目に読書ですよ」

 

私も本を読みたいがそろそろいい時期なので作っている銅型の状況を確認しに来たのだ。

 

「それを剥がすのか?」

 

「ええ。手で触れると脂がつくので注意しないと」

 

界面活性剤、もとい石鹸で手を洗いながら言う。水酸化ナトリウムと動物脂を反応させて作っているものだ。なおまだ実用には微妙。結構中和のバランスが難しいので手が荒れることも珍しくない。早く公衆衛生に使えるレベルで生産したい。

 

「そうやって積もっていくのか」

 

トゥー嬢の言うように、青い液体から引き出した蝋の表面には光る銅が析出していた。ここから蝋を剥がせば銅凸型ができる。これに改めて銅を析出させれば銅凹型ができるわけだ。で、私はこの説明を自慢気にしたときには根本的な問題に気がついていなかった。

 

「……これから、もう一度銅を積もらせるのだろ?」

 

「ええ」

 

「もとの型と、新しく積もった銅が外れなくならないか?」

 

思考を止めて、まずは丁寧に蝋を剥がし終える。その後改めて、私はなんともいえない狼狽混じりの表情をした。

 


 

当然のことながら、鍍金(メッキ)では形成された表面層と母材、つまりはもとの素材の結合が強いことが望ましい。さもなくば鍍金(メッキ)の目的である表面保護であるとか防食性付与であるとかキラキラにするといったことが達成できなくなるからだ。ただ相性というものがあり、特定の条件では形成されたものが剥離しやすくなる。電胎法自体はダニエル電池で析出した銅が相対的に剥がれやすかったことを利用した方法だが、さすがに銅電極に銅が析出した場合は取れにくいはずだ。それは困る。

 

で、私はこの解決策を知らない。いやだって過去に読んだ文献になかったもの。ただまあ、何かを使ったのだとしたら候補は限られる。つまりは表面を銅と「相性の悪い」ものにすればいいのだ。かつ、それは電気を通す必要がある。一般的な剥離膜形成では黒鉛粉末だろうか。トタンを作るように低融点金属を表面に流すこともできるか。あるいは追加で別金属を表面につけるか?その場合、銅よりもイオン化傾向の低い金属が必要なので水銀、銀、金あたりか。銀アマルガムを使うと銅がどれだけ削れるかがわからないし、アンモニアはまだぱっとは作れそうにない。あとは青酸を使う方法もあったか?これはちょっと今の状態の実験環境ではやりたくない。言われているほど毒性は強くないが、それでも危ないものは危ないのだ。

 

というわけで実験。黒鉛粉末をつけたもの、融けた鉛に浸けて引き上げたものを用意し、これを元に再度銅の析出を試みる。

 

「……それにしても、答えを知っているのに途中がわからないような作業をしているな」

 

「目標があって、それに対して可能性のある方法を試しているだけですよ」

 

「わかっている。そういうことにしたいのだろう?」

 

「わかっているなら、その通りです」

 

私とトゥー嬢は目を合わせて、互いに悪い笑みを浮かべる。

 

「それにしても何で君は名誉を求めないんだ?」

 

「面倒だからです。できるだけ多くの人がこういったものを生み出したことにしたほうが、私ではなくて専門家に尊敬が集まるではないですか」

 

「なら強くは言わないが。今書いている本については話したか?」

 

「聞いていませんね」

 

「まだ表題は正式には決めていないが、『基質の分離と分析』あたりにしようと思っている」

 

「もし出すなら、もう少し後の方がいいですよ」

 

「なぜだ?」

 

「衙堂を中心に特別な本の作成方法が研究されています。あと半年もすれば実用に持っていけるでしょう」

 

「ああ、今作っているのはそのための版だったか」

 

私は頷く。トゥー嬢にはあまり活版印刷の話をしていないが、なんとなく原理は理解しているようだ。まあアイデアはそこまで難しくないからな。

 

「それができてからのほうが、色々と便利かと」

 

「なら、それまでは丁寧に間違いを探していくか」

 

「手伝いますよ」

 

私にはちょっとした野望がある。トゥー嬢の書く本を化学史の序章に出すというちょっとした計画だ。まあ私がそこまで手を貸さなくとも彼女なら普通にできた気もするが。

*1
東方通商語における言い回しで、子供から恋人まで幅広い範囲の親密な相手に対しての丁寧な呼びかけとして用いられる



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燃焼

版として使えるだけの銅を析出させるのには時間がかかる。そういうわけで改めて今後の計画を考える。

 

「ケトくん?」

 

トゥー嬢の実験室の隣、今は私とケトがだべる空間になりつつある場所で私は向かいのケトに声をかける。

 

「聞いていますよ」

 

借りてきたらしい巻物を閉じながらケトは返す。

 

「今から少し複雑なことを話すから、単語とかは全部補完して聞いてくれる?」

 

「わかりました。時間かかりますか?」

 

「どうだろ」

 

基本的な科学哲学に関することだ。まあ私は科学哲学が科学に役立つはずだと、少なくとも鳥類学ですら鳥類保護には必要なのだと思っているので、ある程度はここらへんに触れないと最初の科学を始められない。

 

「まず新しい言葉を作って欲しい」

 

「どういう意味を持たせます?」

 

「そうだね。ある事について、こうではないかと考えて、それを本当かどうか試すために条件を揃えて行動を起こす、みたいなこと」

 

「試験とか、ですか?*1

 

「もう少し、専門用語としての特徴が欲しい」

 

「うーん、難しいですね」

 

「自然に対する問い詰め、とかでもいいよ」

 

「そこまで強い言葉でいいんですか?」

 

「うん」

 

キャロリン・マーチャント曰く、「自然を実験という拷問にかける」と言い回しをフランシス・ベーコンは使っておらず、確認できるのはロバート・ボイルからだったかな。まあここらへんの理論は正直言ってあまり好きな論調ではないのだが、それはともかくある程度科学者はこのことに自覚的ではあるべきだ。

 

「では仮に詰験とでもしますか*2

 

「ではそれで。詰験は真実を探る方法の一つになる。例えば、木は燃やす前と後でどちらが軽くなる?」

 

「後ですよね、煙を出して灰を残すので」

 

「そう。では金属を焼いたら?」

 

「金属は焼けませんよ、()すのでは?*3

 

「わかった。では熱を加えると重くなる?軽くなる?」

 

「重くなるはずですよね、煆灰質と結合するので」

 

「あー……」

 

本来であればここでフロギストンとかの話に持って行きたかったのだが、根本的にこの二つが違う反応とされているのであれば難しい。

 

「なら、この二種類が同じ原理に基づいているとすれば?」

 

「つまり、燃えるときにも煆灰質との結合が発生している?」

 

「うん。私が今言ったことを否定するにも、肯定するにも、詰験が必要になる」

 

「思考を連鎖させることで、場合によっては答えが出ませんか?」

 

演繹法か。確かにそれでできることもある。

 

「ただ、そうやって得る思考の根源は観察や、私たちが詰験と呼ぼうとしているものになるのでは?」

 

「わかりました」

 

「面白そうな話が聞こえるな」

 

「ああ、トゥー嬢。いいところに」

 

私は今までの話を手短にまとめる。

 

「……問題は煆灰質の起源か」

 

「あなたはどこに求めます?」

 

「それはまあ、空気だろうな」

 

「燃えること……ではなかった、何かを()すことは空気内の煆灰質が金属と結合することで起こる、ということでいいですか?」

 

「ああ」

 

よし。私の知っている17世紀の概念よりは酸素との結合によって理解している化学に近い。

 

「では、燃えることも同じような反応として解釈すれば?」

 

「……私が読んだことのあるものでは炭質の揮発であるとされているな」

 

「あなたはそれを前提に何かをしたことがありますか?」

 

「ふいごで風を吹き込めば火はよく燃えるだろう。これは空気となった炭質を薄めるためだ」

 

ケトの方を見る。なんとかついてきていけているようだ。

 

「ケトく……いや、ケト君。他に説明がつく方法はあるかい?」

 

「炭質が煆灰質と結合したものが空気となって消えている、とかでしょうか」

 

正解なのだが、それを言ってしまっては意味がない。

 

「では、この二つをどうやって区別しますか?」

 

私はトゥー嬢に視線を向ける。

 

「煆灰質と結合した金属を金属に戻す方法を燃えたものから出た空気に対して行う事はできないか?」

 

「そもそも戻す方法というのは?」

 

「炭と混ぜて再度加熱する……なるほど、これでは駄目だな。つまり金属より炭に煆灰質が強く引き付けられているというわけだろう」

 

私は頷く。

 

「つまり、炭よりもより強く煆灰質を引き寄せるものがあればいいのだが……」

 

トゥー嬢は少し黙ってしまった。

 

「……キイ嬢、ずるいことをしていいか?」

 

「どうぞ」

 

「焼土質のものから、煆灰質を取り除けるか?」

 

「できるよ」

 

トゥー嬢がそれを邪法だとわかっているならいい。私の化学知識を使おう。塩素が溶けた水には塩酸が含まれる。塩素については塩水の電気分解で得ているのでそちらを参照。これと水酸化マグネシウム、つまりは焼いてから水と混ぜた苦土石を用意する。反応でできるのは$\require{mhchem}\overset{塩化マグネシウム}{\ce{MgCl2}}$。これを融かした状態で電気分解すればマグネシウムの単体ができる。電極には炭素を使うのだ。別に石灰石を使って塩化カルシウム経由でカルシウムの単体を得てもいいけど。

 

「……水でなくても電気分解できるのか」

 

「ええ。溶けた塩質……とでも言えばいいのでしょうか?」

 

「わかるぞ。それは電気を通す、と」

 

「はい」

 

単体のマグネシウムの発見者はたしかハンフリー・デービーだったかな。たぶん19世紀初頭。実はボルタが電堆を作ってからそんなに時間が経っていないので、まあ技術的ハードルは高くはないだろう。きっと。

*1
語義: 1. ためすこと。 2. (名詞形で)相手がそれを理解しているかどうか調査するための手続きのこと。

*2
一種の混成語。聖典語の響きを直訳することは難しい。

*3
鉱石や金属などの無機物の加熱に用いられる薬学・冶金術用語。



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割鋳型

銅型はまだ十分な厚みに達していないので硫酸銅を追加で電解液に入れておく。これなら普通に鋼で活字父型(Patrix)を作ったほうが良かったかもしれない。実際細工技術からすれば可能な範囲のような、とまで考えて私は悩む。コンコルド効果だ。私は今まで電胎母型法に結構な労力を費やしてきた。それが完全に無駄になるわけではないが、まあなんというか癪である。

 

……もう少しだけ待とう。実際にできたものを見せたほうが加工の方法がつかみやすいと思うし。そういうことにしよう。

 

「はいこんにちはっと」

 

そんな事を考えながら大衙堂の作業場に顔を出す。

 

「どーもキイ嬢、休暇は楽しめた?」

 

ゆるい口調で話しかけてくるのは金属細工職の青年。工師レベルの腕があるが従事するに相応しい親方を探して遍歴しているようで、今は煩務官に捕まってここで仕事をしている。

 

「まあね、で割鋳型がこれ?」

 

「そ。真鍮で作って磨いてあるわけさ」

 

構造を言葉で説明するのはかなり難しい。私だって朧げな記憶しかなかったのに完成させてくれた彼には頭が上がらない。

 

「ここが横に滑るように動いて、文字の横幅を決定する……さすがだ」

 

木の持ち手をスライドさせるとパズルのように組み合わさった真鍮の塊がずれ、中央に直方体の空間が生まれる。ここに上の方についている注ぎ口から合金を流し込んで固めるのだ。

 

「こいつで版の相方に当たる部分さえ取り替えりゃ同じ形の文字版が得られるってことだろ?」

 

「よくおわかりで」

 

流し込まれた頭のバリの部分を取り外せば、ほんの少しだけ基準の大きさより大きい活字ができる。あとは少しだけ削って、高さを調整すればいい。それ用のゲージもできている。うーん私が何もしていないのに何かができていくのは少しもどかしいな。

 

「それにしてもよくこんなん思いつくなぁ」

 

「実際に形にしたのは君だ。君が誇るべき成果だよ」

 

照れるように笑う青年。実際、私の能力ではここらへんは難しかったと思う。金属加工の知識や経験があるとは言え鋳物はほとんど触っていない。

 

「そう言われるのは嬉しいんですがね、まあ褒め言葉を受け取っておきます。実際に鋳るところを見ますかい?」

 

「是非とも」

 

「それでは」

 

彼はそう言うと、固まった合金の入った鍋が乗った小さな炉に木を入れた。

 


 

柄杓で鍋の表面を撫でると、酸化皮膜が除けられる。ひとすくい取って、粘土で作った母型をセットしておいた割鋳型に溶けた合金が流し込まれる。掬われた液体金属の量はほぼ活字ちょうど。何回も試してコツを掴んでいるのだろう。いい職人だ。

 

「よっと、これで一つ」

 

型が分解され、活字がぽろりと落ちる。

 

「で、これで作ったものの問題点は?」

 

「粘土で作った文字型が脆いってことだな。五回も使えば欠けが出る」

 

「やはり金属製がいいか」

 

「ただなぁ、削るなら彫りの深さを一定にしないと平らにならねぇだろ?」

 

「そこなんだよね、問題は」

 

硬貨を作る際に鋳造だけではなく一種のプレスが行われているのではないかと私は読んでいるが、その技術はあまり一般的ではないらしい。その上ここらへんをやろうとするとまた巡警のお世話になる可能性がある。

 

「……ところで、君を腕のいい職人と見込んで質問がある」

 

「何だい?」

 

「この機構を、金属文字版を含めてまるまるもう一つ作るのにどれだけかかる?」

 

「この割鋳型を持ち出せるんならそう難しい話じゃねえが、そうじゃないと少し手間だな。まあ仲間集めて5人ほど、それで三月あればいける」

 

私はこれを完成させるのに半年かかったんだがな。まあ、一度完成しているものをコピーするのはそう難しくない。事実私だってコピーしたのだから。

 

「なるほど」

 

「……どうした?」

 

「ああいや、これが大量にあれば書字生が困るなぁと思っただけさ」

 

「書字生だってやることがなくなるわけじゃないだろ」

 

「確かにね」

 

ただ、本を作る技術を持った人間が暇を持て余していれば大抵はろくでもないことが起こる。海賊版の出版とか。これについてはどうにかして動きたいところだが、さてまあ誰に聞くべきか。

 


 

「……いえ、いますよね?僕たちの事を知っていて、この城邦においても有力者で、法の分野にもたぶん知り合いがいるような人が」

 

「ああ、確かに」

 

我らが上司、煩務官。大丈夫かなこの案件は過労しかねないぞ?

 

「手紙の形がいいでしょう。提案であれば、まあ目を通して実行するかしないか判断できますし」

 

「ケトくん、書いてもらえる?」

 

「文面はキイさんが考えてくださいよ?」

 

「わかってるって」

 

そう言って私は息を吐き、寝台に座って蝋板を取る。紙を使ってもいいが、アイデアを書き出すなら蝋板も悪くはないのだ。

 

「……本の内容が誰のものか、という問題が一つ」

 

「書いた本人ですよね?」

 

「それなら、例えば引用はどうする?」

 

「あれは借りるという行為に……ああ、下手に所有を考えると盗むことになりますね」

 

「そう。かといってそこらへんをしっかり決めておかないと本を勝手に印刷されることになる」

 

「確かに……」

 

「ただこれについてはあんまりいい解決策が思いつかないんだよなぁ」

 

本の出版を公権力が統制しようということを、一般的には検閲という。これ自体は大抵の国に存在するし、その程度も様々だが検閲に反対するという思想は自由権の考えに由来するものだったはず。となると、この世界でそれを主張する根拠は薄い。個人的には猥雑なものが文化や技術を支えていた側面があると思っているのであまり規制したくはないのだが。

 

「そういうこともちゃんと書いたほうがいいですよね」

 

「まあね」

 

私はメモを見渡して、改めて文章の構成を考えた。



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製本

ついに銅型が完成した。まあおもったより剥がすのが難しかったが、完成したからいいとしよう。裏に溶けた錫を流し込んで補強して、文字ごとに分割して、いい感じの木型に固定して、割鋳型にセットできるようにする。黒鉛の方と鉛の方とで両方とも銅型ができたので比較的マシなほうを纏めてセットにしてある。

 

「銅型は何回ぐらい使えそうですか?」

 

活字を型から手際よく取り出している金属細工職の青年に私は声をかける。この後は高さを調整した後に文字ごとに木の箱に入れて、実際に作れるようにするわけだ。今のところ作った銅型は問題なく使えている。一発で成功してよかった。時間がかなりかかるので試行錯誤がやりにくいのだ。

 

「さあな、だが印刷機何台か分にはなるだろ」

 

そうそう。印刷機というのもケトの命名だ。案外使われているようで何より。

 

「なら印刷規模の拡大もできますね」

 

「今でも普通に事務書類の印刷なんかにちょくちょく使われているらしいが、本はまだ作られてないはずだぞ」

 

本と言っているが実際は巻物である。もちろん冊子状のものも無い訳ではないが、ちゃんとした公文書であったり記録であったり発表であったりというものは巻物だ。

 

「最初の本は何になるんですかね」

 

「さあな、ただ気合い入れて作らねぇと」

 

こんな会話をしている間にも五、六個の活字ができていた。

 


 

活字の大量生産の目処が立ったので、プロジェクトが本格的に動き始めた。書字生として雇われた若者たちが四苦八苦しながら枠に活字を収めていく。

 

「あの子、なかなか手際が良いと思わない?」

 

私はケトに声をかける。ケトと同年代だろうか?ちょっと若いかもしれない。

 

「確かにそうですね」

 

並んだ箱から右手の細い指が器用に活字をつまみ、手の中で単語ができていく。左手で空白に相当する何も彫られていない活字が挿入されて整えられる間に右手が次の単語を拾う、というわけだ。何なのだろうな、と私は彼女の動きを観察する。無駄がたぶん少ないのだろう。実際ここらへんをちゃんとやろうとするとビデオカメラとか、そうでなければ観察眼のある人間と時間測定者のコンビが必要になる。そういえば気になって調べたが、かつての世界の秒、あるいは人間の心拍のスケールの時間の単位が天文学の分野はともかく市井にはないんだよな。ある程度精密な時間測定をやるとなると必須なのでどうにかしたい。ただこれを単位系に組み込むとなると全体のバランスをとるのが大変だ。やりたいことリストがどんどん伸びていく。

 

「ああ、あの子?期待されてる新人さんだよ」

 

「あっどうも」

 

何回か見た顔、確か組版をやっている人が教えてくれる。

 

「そういえば鉛の粉が舞うので注意すべきことの内容ってもう回っていますか?」

 

「ああ、それなら読んだね。ああいう形で掃除やら清潔が求められるのは意外だったが」

 

書いた内容はそう難しいものではない。指を舐めるな、作業用の服を着ろ、定期的に掃除を行え、帰るときには手洗いとうがいをしろ。脂汚れを取る用の石鹸も置いてあるし、洗うときの水が冷たくないようにぬるま湯にもしてある。ここらへんを中心に本当なら管理学を構築したいところだが、まだそれができる下地がない。もっと労働集約的な活動をしないと。

 

「書字生たちからの反応はどうです?」

 

「まあとやかく言われるのは慣れちゃいるけど嫌らしいな、まだ理由があるだけマシらしいが」

 

なるほど。まあこういうのは結構文化的背景にもよるので難しい。海外への技術移転の話を聞くと大変なのはよく分かる。事実国立産業技術史博物館にもJICA(国際協力機構)からちょくちょく問い合わせが来ていたし、色々と対応もしたのでわかる。うーん私よりもあそこらへんで働いている人のほうがここらへんは強いからな。実際現場に突っ込んでいってスパナ片手にジェスチャーで意思疎通を成功させてしまうなんてことは私にはできない。

 


 

製本の過程で色々聞かれた際に、私は奥付をつけるようにデザインを工夫してくれと頼んだ。揺籃期本(インキュナブラ)の研究をやっていた人が印刷場所と印刷年がわかればどれだけ楽かと愚痴っていたのが印象的だったので。まあこういうのをしっかりやっておけば蔵書管理とかも楽になるしね。

 

シンプルであるが、綺麗な縁取りで書誌情報が囲まれている部分の印刷された紙が最後に貼り合わされる。

 

「……完成、ですか?」

 

「まだ乾燥させる必要はあるけどね」

 

手についていた糊をボロ布で拭きながら作業をしていた女性が言う。最上等とまでは言わないが、かなり格式のある装丁だ。ここらへんは色々見て何となく分かるようになってきた。印刷された長い紙を、土台となる別の厚手の紙に貼っていくわけだ。ここで文字と紙の長手方向が同じ向きのものを横本、直交するものを縦本という。読む時に左右に広げるか、上下に広げるかの違いと言ってもいい。

 

印刷されたものは聖典語の例文書だ。非常に一般的なもので、ケトなんかは全部暗記しているほど。内容は簡単だが、色々な文法要素であったり修辞だったりを盛り込んでいてなかなか奥が深いらしい。今までも木版で刷られて多くの学生が使っていたので、最初の製本にも相応しいということのようだ。この世界での42行聖書に相当するのかな。いや、それ以前にも印刷された本があったっけ。正直あまり覚えていない。やはり記憶には限界があるな。だから本が必要なのだ。



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法典

聖典語を文字通り訳せば法務審議会とでもなるだろうか。そこからの結構しっかりした招待状が届いた。日付は五日後。

 

「いい紙ですね」

 

「確かに」

 

手触りが違う。印刷用には相対的に安い紙を使うことを前提としていたが、その過程で色々触ったので紙質については何となくだが理解がある。まあケトの方が文書を書いているから慣れているのだが。

 

「で、一人で行くんですか?」

 

「まさか」

 

煩務官からこの事実上の召喚状を手渡された時に同伴者を連れて行っていいことは確認済みだ。というかまだ聖典語を話すことは難しい。読むならかなり慣れてきたんだがな。

 

「……事前に法は読んでおきましょうね」

 

「どこで読める?」

 

「統治学を学ぶ学徒が多い区域の図書庫で見ました」

 

「なるほど。で、明日暇?」

 

「ええ」

 

「それじゃあ、明日から目を通すか」

 

私はそう言って、背筋を伸ばした。

 


 

私が印刷機と格闘していた間に、ケトはかなりの量の授業を受けていた。そのうちの一つが統治学と修辞学にまたがった法規術である。やはり学と術の分け方が難しいな。

 

「まず基本になるのは古帝国法です。これは古帝国時代に統一されたもので、基本的にこの法と照らし合わせて判決は行われます」

 

私は頷く。とはいえこの古帝国法の内容は比較的単純だ。十戒よりは複雑ではあるが、日本の六法を合わせたものよりはシンプルなもの。ただ、かなり裁量が働くようになっている気がする。刑罰の上限と下限は統一されていたが、実際の裁判は地方ごとで行われたのでその地域の慣習法と整合性を取るためにその言葉の定義自体が曖昧となるようにしたという背景があるらしい。それと古帝国法には商取引の活性化のために明文化が必要となったので各地の法を集め、纏めたという側面もある。ここの歴史で衙堂の母体が出てくるのだが、本題ではない。

 

「それで、実際に図書庫の城邦では犯罪法と契約法と衙堂法と、その他多数の法が決められています。ただ、法に書かれていないことは最終的には頭領の名において裁かれます」

 

「実際のところ、判決に頭領の個人的判断はどこまで入り込める?」

 

「まず余地はないですね。そういう案件であると判会が認めれば法務審議会の意見が聞かれ、場合によっては図書庫の講官が呼ばれるなどして新しい法が作られ、頭領がそれを認めるという形なので」

 

「かなりよくできてるな……」

 

基本的な内容を定めた法をベースに判例を参照し、必要に応じて事後立法を行って法文を改良していくというわけだ。日本生まれの私にはこの法の不遡及に反するようなシステムに引っかかりがあるが、英米法の考え方だと結構軽率に事後立法ができるんじゃなかったかな。法制史は面白いテーマなのだがラテン語も漢文もできないので私には手も足も出なかった。

 

「問題になるのは所有に関するこの部分ですかね」

 

ケトが巻物を開き、条文を出す。

 

「ええと、東方通商語で読みます?」

 

「その必要はないけど、この単語は?」

 

「法特有の言い回しで、ええと……」

 

ケトの説明を聞きながら文を目で追う。他人の所有物の窃盗に関する部分だ。基本的には弁償と賠償、取り返しがつかないものの場合はいくつかに場合分けして対応する、という感じ。

 

「これは?」

 

「働く人のことですね」

 

「……私の読みが誤っていなければ、所有されている労働者って書いてあるよね?」

 

「ええ」

 

つまりは奴隷だ。とはいえここで奴隷制らしいものは見えていないのだが。いや奴隷という言葉は曖昧すぎるのでやめたほうがいいかもしれないな。

 

「古帝国時代の名残ですね。実際は雇用者に対する賠償として解釈されるので、これとは別に例えば人を傷つけたことに対する罰があります」

 

「なるほど」

 

犯罪ごとに罰が加算されていくシステムか。こういう事をやると数百年の労働刑となることもありそうだが、ケトが言うにはなんかいい感じのシステムで回避されるらしい。実際のところはかなり複雑なので説明はされなかった。

 

「それで問題はこの所有についてですが、例えばある朗読詩人が喧嘩によって声が奪われた時、声を所有物として扱った例があったと聞きました」

 

「単純に暴行に対する罰だけでは駄目だったのかな」

 

「それだけでは足りない、と判断されたのでしょう。仕事に不可欠なものでしたから」

 

「ここらへんはやはり専門家に聞くのが良さそうだな……」

 

私は曲がっていた背中を伸ばして言う。

 

「参考になりそうなものを少し探すので、キイさんはこれを戻してもらえます?」

 

「わかった」

 

巻物は表紙の色で大まかに内容が分類され、さらに詳しい内容がここでは軸に結わえられた紐についた木の板に刻まれている。内容ごとに棚に入れ、必要に応じて取り出すという形らしい。ただこれは今後冊子状の本が出てくると色々変わりそうだ。図書館情報学は中学校時代に読んだきりで特に触っていないので、参考になる話ができるかは怪しい。とはいえ情報整理ができないと処理能力に限界があるからな、と私はあまり触ったことのないカード目録がどういうシステムだったかを思い出そうとした。



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差止

出版を差し止める法的命令によって、衙堂の一区画の入り口には頭領府から来た衛兵が立つことになった。もちろんある意味でこれは茶番である。なぜならまだ製本には時間がかかるので、差し止められたところで全く問題がないからだ。最初に一冊だけ出版しようと手続きを進めたところ取引法においてまだ定義が曖昧な分野、具体的には法解釈が成立するまで「文字版で印刷された本」と「木版で印刷された本」は別物として扱われることに引っかかった、という建前だ。実際のところは我らが上司である煩務官が裏で色々と話を通していたものである。

 

そういうわけでここは頭領府、すなわち図書庫の城邦における政策決定機関および立法機関および司法機関の詰まった建物の一室である。三権分立などというものはないが、それでも互いの独立性をある程度担保するシステムは成立しているらしい。古帝国時代からの知恵だそうだ。ただこの分野の知識は私が学ぶには分量が多すぎるので誰か新書で出してほしい。そうそう、新書というのは良いシステムだった。専門家が一般の人向けに書いた本がちょっと奮発した昼食程度のお値段で読めるのだ。もしこの世界でレーベルを管理できるとしたら新書枠に相当するものを立ち上げたいな。

 

「それではキイ嬢、言葉に詰まったら言ってください。休憩を取る時間はあります」

 

まあそういうわけで私とケトの誰何が終わった。一種の証人尋問であるが、まあそこまで堅苦しくはない。相手は皆プロで、互いに尊敬を払うということを理解している。ああまったく、本当に素晴らしい。これだけの丁寧さを持っている人間がかつての世界にどれだけいたか。実際のところ、出世システムにおいて過度に相手を批判するとよろしくないようになっているらしい。素晴らしい。この点においてはあの世界は駄目だった。

 

「ええ」

 

丁寧な対応に私は微笑む。

 

「では改めてではありますが、論述趣旨をお願いします」

 

「何を話したいか纏めてください、ということです」

 

何人かの法規官に挟まれた、一番偉いらしい女性の法規官の言葉をケトが補足してくれる。まあこのくらいなら聞き取れるが、バックアップはありがたい。そういえば女性を見るのは珍しいな。胡座を組み直す。*1

 

「書物を容易に作ることができる場合、他者の書いたものを盗むことができるようになります。これはいくつかの問題を生みます」

 

ここらへんは手紙を書く時に色々と練った部分なので比較的簡単に話すことができる。

 

「一つ、それは本当の作者が受けるべき称賛と報酬を奪うものです。二つ、それは本当の作者が背負うべき責任を曖昧にさせるものです。三つ、それは書の網羅的保存を妨げます」

 

「一番目と二番目は後で聞こう。まずは三番目について詳しく」

 

「この城邦の図書庫は、決して少なくない資金を投じて書を集めています。これは多くの知識を集めることが重要だとみなしているからですね。文字版で本を作るためにかかる時間は、製本の手間を省略すれば本当に短いものとなります。刷られた紙を糸でまとまるだけであれば、半月もあれば積み上がった冊子が作られるでしょう」

 

ここらへんのデータは実測値だ。

 

「これは例えば金のために本を作ろうとする人にとって有利に働きます。粗雑な本が乱造されれば、図書庫がそれを収集する手間が大きく増加するでしょう」

 

「……あまり本質的なことのようにこちら側は考えていないが、貴方の発言は記録しよう」

 

「ありがとうございます」

 

うん。こういうレスポンスがあるのも実にいい。

 

「それで、次は責任についてだ。どのような責任が考えられる?」

 

「学者や術者として、誤りを述べてしまうのは避けがたいものです。しかしその誤りがなぜ起こったのか、どのようにすればその誤りを正せるのかを知るためには誰がその言葉を作ったのかを正確に知る必要があります。作りやすい本において、その作者について触れられず飛語的な内容だけが広まることは学や術の発展や学習において大きな悪影響を与えるでしょう」

 

「では最後に、最初のものを。本の著者が得るべき利益とは何か?」

 

「例えば本の売上の一部があるでしょう。あるいは書いた内容の発案者、少なくとも執筆者であるという市井からの評価についても考えられます」

 

「よろしい。今の時点で質問があるものは?」

 

法規官たちが手を挙げる。さて、ここからは完全にアドリブだ。頼んだよケト。

 

「書物統制が重要になるのではないでしょうか?あるいは印刷機を全て管理するほうが適切かと」

 

「最初の単語がわからない」

 

私はケトにだけ聞こえるぐらいの大きさの声でつぶやくように言う。

 

「本を作ることを例えば頭領府が仕切るべきだと言う話です」

 

「なるほど」

 

息を吸って、頭の中で浮かんできた単語を知っている文章と繋げていく。

 

「印刷機と我々が呼んでいるあの機構の複製は大変ですが、不可能ではありません。その有用性を考えると安易な規制は混乱を招くでしょうし、隠れて刷られる本を探すには巡警がいくらいても足りることはないでしょう」

 

大切なのは法のプロたちがいいアイデアを出すために必要な情報を提供することだ。まあ、異世界からの来訪者がいなくても私の知っている歴史上では数百年かけていろいろと制度が整えられたのだ。ここの人たちがそれに劣るとは思わない。きっといい方法が出てくるだろう。

*1
キイは慣れているのであえて意識していないが、この地域の文化圏では椅子はあまり使われず床に直接座る。



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進展

何回かの召喚を受け、法律用語にも慣れ、そして意見を交わして草案が完成した。有識者に回された後、法律として認められるそうだ。

 

「それにしても、面白い解決をしましたね」

 

トゥー嬢の実験所兼自宅の二階で法案を読む私にケトが言う。

 

「上手く行くかは全くわからないけど、素晴らしいと言ってもいい発想だよ。……ここだけのところ、私がかつていた場所にあったものよりもいい」

 

私はつぶやくように返す。後半部分は声を小さくして下にいるトゥー嬢に聞こえないようにしながらだけど。

 

いや、実際感心するしかない。まず図書庫、ああここでは一般名詞ではなく大図書庫*1の方、が出版されようとしている本を全て買う。ただし、印刷者への支払いは後払いとして売れた分だけだ。それで納入された時に一種の検印を押して全て図書庫の所蔵物としてから図書庫が売るわけだ。検印を押すためには書籍価格に応じた費用が必要で、この一部が著者へ支払われる。もし順調に売れていれば利用料と印刷者への支払いが相殺される。ここらへんはトゥー嬢が権利を持っている水車に対して図書庫の城邦が利用料を払っているような形に近いらしい。

 

本の販売は独占業務となり、検印の押されていない本を売ることは重罪となる。また届け出た本の内容が他の本と同じ場合、先行する本の作者の許可がなければ発行が差し止められる。あとは大図書庫が代償金を払って複製を作ることができるとか、死後の権利管理とか、公開出版物のパブリック・ドメイン制度だとか、著作権の放棄とかを色々盛り込んである。まあもちろん現状骨子なので実際に使われながらでないと問題は見つかっていかないだろう。

 

「で、これが命令書と……」

 

著作権法に当たる法律が成立することをトリガーとした頭領名義の司令で、大図書庫に専門の部署を設けることを指示している。まあ煩務官の知り合いが人選を進めていて、私たちの衙堂からも出向のような形で人が出るらしい。たぶん上手くいくだろう。印刷の過程で結構腕のいい人たちを育成できたらしいし、あと数年もあれば活版印刷は軌道に乗るはずだ。

 

「仕事が速いですよね」

 

ケトが言う。

 

「それだけ印刷機という発想を重要視してくれているんだと思うよ」

 

図書庫の収入の一つとして写本の作成とその販売による利益がある。今まで所蔵されていたものについては許可を取るべき相手に連絡が取れない時は掲示によって連絡に代え、プール金にして色々なことに使えるようにするということだ。かなり図書庫内の部署がやるべき仕事が多いが、まあきっと印刷に詳しくてしっかりと判断ができ豊富な知識を持ったいい人を担当者として選んでくれるだろう。これでひとまずこの件はおしまい。

 

「で、今度はこっちと」

 

私は紙の束を取る。トゥー嬢が書いた原稿だ。彼女が言うには今の時点で完璧にする必要はないという。そもそも電気などというものの特性もよくわかっていないのだ。

 

「焼き菓子でも食べるかい?」

 

文章に目を通していると一階にいたトゥー嬢が塩味の強いクラッカーのような菓子を持ってきてくれた。これは実験のおまけで作られるもので、トゥー嬢のお気に入りだ。

 

「いただきます」

 

ケトはそう言って器から細長い棒状のものをつまむ。私も食べよう。結構おいしいのだ。

 

「それで知人に回した痺堆(電池)だが、なかなか色々と興味を持った人が多いようだ」

 

「それはいい」

 

私はにやりとする。それはまあ、ある意味では当然だ。

 

「中には工作のための鍍金(メッキ)として使おうとしている人もいるそうだし、塩水で作られた強い苛性物質を製紙に使えないか試しているという話も」

 

「ああ、確かに今後紙の需要が一気に増えるからそれは有用そう」

 

ここらへんは直接やるよりも間接的なアドバイスに留めたほうがいいかもしれない。早めに発電機も公開して水酸化ナトリウムを一般利用できるほどにしたいな。ああでも保存を考えると中性紙である必要はあるか。紙の劣化試験とかもしないとな。そういうものは今後新しくできる図書庫内の部署に投げてもいいだろう。別に全部自分で背負う必要はないのだ。

 

「いいことを聞いた。投資でもしようかね」

 

そういえばこの世界の経済とかの知識はあまりないな。ここらへんも今後は重要になってくるのだろう。やることのステージが一段上がった気がする。

 

「ほどほどにしましょうね。恨みを買いたくはない」

 

「まあここに暮らすだけでそれなりに色々向けられてきたからね、慣れたものだよ、危ない事をするつもりはないが」

 

「トゥー嬢はキイさんと同じで一度動き出したら止まりませんからね」

 

トゥー嬢と私は顔を見合わせる。まあ、彼女と同じぐらいだと褒められているのだと考えよう。少なくとも私と違って、トゥー嬢は正真正銘の天才なのだから。

*1
キイが思考に使っている東方通商語では定冠詞のようなもので一種の強調表現をすることで「図書庫」を固有名詞として扱っているのだが、日本語には相当する表現がないために特に強調したい場合は「大図書庫」と訳すことにする。



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人選

衙堂で人口統計のグラフを描いていると、煩務官が私の正面に座っていた。

 

「……どうも」

 

頭を下げると、彼は折りたたまれた一枚の紙をこちらに渡した。

 

「キイ嬢、よろしく頼んだよ。詳しい話はまた後日」

 

そして足早に去っていった。なるほど、私にこれを渡すためだけにわざわざ顔を出してくれたのか。そして私は上等な紙を開いて、少し目を通して、閉じた。

 


 

何が起こったのかを私が受け入れるまでにそれなりの時間がかかった。私の手にあるのは一種の出向命令書。聖典語で書かれた正式なものだ。改めて単語を追っていく。大衙堂長の名において以下の人物を次の機関の代表者とするよう推挙する。またそれと同時に彼女を衙堂の司女として認める。ああ、印刷物管理局とはまたまたど直球なネーミングだ。嫌いじゃない。横文字を使って下手に長ったらしいカタカナ部局を作るよりとてもいい。

 

さてと、一体誰が印刷物管理局の代表者になるのかな。ふむ、キイ。いい名前だ。奇異とかkeyとかと通じるところがある。新しい奇異の詰まった箱の(key)としての役割が期待できそうだ。

 

「ケトくん、少しこちらへ」

 

作業中だったケトを敬称も気にせず廊下へと連れ出す。

 

「なんですか……その、そういう呼び方はここでは*1

 

「読んで」

 

「……わかりましたよ」

 

私の狼狽ぶりを見て逆に冷静になったのか、ケトは落ち着いた手付きで紙を開いて、そして落とした。

 

「……おめでとうございます」

 

拾いながらケトは言う。

 

「今すぐ城邦の支配圏を脱出するかハルツさんのところに帰る準備を」

 

非常用に考えていたプランが頭の中で形になっていく。必要であれば日中は隠れて夜のうちに城壁を超えるべきだが警備状態もよくわかっていない。ともかくケトは連れて行かないと。それにいつ警備が厳重になるかわかったものじゃない、急いで動く必要もある。そうやって暴走している私の両肩にケトの両手が乗った。しっかりとした視線が私の目を見る。

 

「……落ち着きました?」

 

「はい」

 

結論。どれも無謀だ。一応はこの世界をぐちゃぐちゃにできるプランがなくはないが別に実行する必要もない。

 

「逆に考えましょう。あなたは局長としての仕事ができますか?」

 

「怪しいところ」

 

印刷に詳しくてしっかりと判断ができ豊富な知識を持った人物としてであればこの世界では指折りだと自負はする。ただそれは大人が赤子の手をひねることができる程度の意味だし、子供の成長は速い。

 

「問題になりそうなのは?」

 

「事務手続きとか上との折衝とか?」

 

「部下を持つこと自体には問題はないんですね」

 

「まあ、誰でも初心者の時期はあるし最低限はなんとかなると思う」

 

マネジメント論は工場の分野を触った際におまけで何冊か読んだ。自己啓発的なものはほとんど参考にならなかったので腹立たしさが残っている。統計情報を示せ。せめて参考文献を書け。そして私でもわかるレベルの誤った企業観をやめろ。おっと、話を戻そう。

 

「それで事務の話ですが、適任者がいますよ。知っていますか?」

 

「……印刷物管理局に来てくれるような人?」

 

「たぶん、問題なく。煩務官もキイさんがその分野に疎いことはよくわかっているはずです」

 

「直接は言ってこないけど、まああれで私がそっちに適正があると考えるならあの立場にはいられないだろうね」

 

となるとまあ、メンバーは向こうが選んでくれるのだろう。その中にケトが知っている人がいるのかな。

 

「僕です」

 

「そうだった。本当に申し訳ない」

 

ああ、完全に忘れていた。なんというか常にそこにいたので考える必要がなかったというか。確かにケトの事務処理能力は高い。事実、私が印刷機の作成を行っていた頃は予定管理とかを全部投げていた。かつての世界ではスマートフォンが似たようなことをやってくれていたが。

 

「……キイさんの役に立てるよう、頑張ってきたんですよ?」

 

「信じるよ。……いや待て?つまり、私がこの城邦における印刷の全てに関われると?」

 

「そういうことですよね?」

 

それはつまり、情報の大半を支配するということだ。今後しばらく出版されるだろう情報の波に一番間近で触れられるということだ。考えてみれば、この世界を変えようとするのであればかなり便利な地位かもしれない。

 

「何でそんな重要な地位に、私を?」

 

司女として認められるには本来であればもっと長い期間が必要だ。図書庫で働きたいなら最低限全ての学問領域に対しての知識を持っていることを証明する必要がある。だが私はそうではない、素性も怪しい人間にここまでの地位と権利を与えるのは正直言っておかしい。

 

「能力が認められたのでは?」

 

「いやそれは……待て。私の能力が不十分だと判断されているとしたら?」

 

「どういうことです?」

 

「自分で言うのもあれだが、印刷機を作り上げた人間が他のものを作らないはずがない。それなら管理できるよう適当な職を与えて行動を封じるのは適切で……」

 

「キイさん」

 

「はい」

 

ケトの真面目な声。

 

「僕が尊敬している人を、そういうふうに悪く言わないでください」

 

「……君が私に向けている想い、ちゃんと適切な強さ?」

 

「よくわからないですが、それで破滅するなら悪くありません」

 

この少年は馬鹿だ。だから私よりもきっと、私を信じてくれている。なら私だって彼と、彼が信じてくれる私を信じてあげなくてはいけない。

 

「……わかった」

 

思考を切り替える。暫定目標は、安定した情報基盤をこの世界に作り上げること。

*1
「くん」と「君」は異なる敬称であることに注意。「くん」は比較的親しく身近な間柄で使われ、あまり公的な場で用いられる表現ではない。



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第6章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。存在しない翻訳前の原文のニュアンスを汲み取ろうとする読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


大道芸

少し面倒な話をしよう。具体的には差別について。

異なる地域、異なる時代の価値観が我々のそれとは離れているのは当然である。異世界であるならなおさらだ。とはいえこういう説明をしておいたほうがたぶんしないよりはマシだと思うのでした。

 

奇物

私の知っている驚異の部屋(Wunderkammer)と基本的な方針は似ているが、こちらのほうはむしろ博覧会とか物産会とかの方が近いか?

Wunderkammerはドイツ語。英語であればCabinet of curiosities。大航海時代以降様々なものが「発見」された中で、奇物蒐集趣味者が作った部屋に由来している。後の博物館の一側面の由来。

 

転機は船の改良にあったという。帆の形を変えることによってより確実な舵取りが可能となり、海運業が発達したのだ。

モデルはジャンク船。縦帆の木造帆船であり、適切に設計すれば遠洋航海も可能である。

 

まあ剥製に縫い目が見えたり自然界ではあまり見られないような色だったりがあるので、まあ。

こういうものがあると色々と大変である。ピルトダウン人とか……。

 

外食

生魚の香草塩漬けとでも呼ぶべきもの。

モデルにしたのは北欧のグラブラックス。

 

剥離

ケトが目を覚まし、意識レベルを下げていく。

日本で広く用いられるJapan Coma Scaleでは急性意識障害レベルを3段階×3段階の9段階*1に分類している。本来であれば昏睡レベルと言うべきだがしばしば意識レベルと呼ばれるため、「意識レベルが高い」を数字が大きい方に解釈すると重度の意識障害を持っていることになってしまう。詳しくは 太田 富雄, 和賀 志郎, 半田 肇, 斉藤 勇, 馬杉 則彦, 竹内 一夫, 鈴木 二郎, 高久 晃. 急性期意識障害の新しいGradingとその表現法. 脳卒中の外科研究会講演集. 1975, 3 巻, p. 61-68. を参照のこと。

 

その後改めて、私はなんともいえない狼狽混じりの表情をした。

私がこの時点でのキイと同じ表情をしたのは『日本の近代活字本木昌造とその周辺』編纂委員会編著「日本の近代活字 : 本木昌造とその周辺」を読んだ時である。なおこれによれば銀シアン化物を用いたらしい。キイがこの後で挙げている方法はどれも実際の電鋳で用いられているものだが、本当にこれで行けるかは知らない。誰か実験した人がいたらデータください。

 

燃焼

まあ私は科学哲学が科学に役立つはずだと、少なくとも鳥類学ですら鳥類保護には必要なのだと思っているので、ある程度はここらへんに触れないと最初の科学を始められない。

「The philosophy of science is as useful to scientists as ornithology is to birds.(科学哲学は、鳥類学が鳥にとって有用であるのと同じくらい、科学者にとっても有用である。)」というのはリチャード・ファインマンによるとされる言葉である。もちろん反語であり科学哲学は科学者にとってあまり価値がないと言うことを主張していて、本当にリチャード・ファインマンが言ったのかは根拠があまりない。一応遡れる初出はケンブリッジ大学のニュートン・プリンキピア創立300周年祝賀会でスティーヴン・ワインバーグがやった講演での出典不明として用いられた言葉。それでも彼の書いたエッセイ「ご冗談でしょう、ファインマンさん(Surely You're Joking, Mr. Feynman!)」を読むと言いそうだな……となってしまう。

 

まあここらへんの理論は正直言ってあまり好きな論調ではないのだが、それはともかくある程度科学者はこのことに自覚的ではあるべきだ。

キャロリン・マーチャントは著書「自然の死(The death of nature) : 科学革命と女・エコロジー(women, ecology and the scientific revolution)」で科学界における女性の排除を自然に対する支配と結びつけて論じている。とはいえ知恵の神は女神だったりするので実質百合リョナでは?(最悪のアイデア)

 

本来であればここでフロギストンとかの話に持って行きたかったのだが、根本的にこの二つが違う反応とされているのであれば難しい。

燃焼という現象をPhlogistonという物質の放出として解釈するもの。燃焼と錆を統一的に表現したが、考えていた方向が逆であったために質量の測定を含む定量分析の発展によって矛盾が生まれ、「実はフロギストンは空気より軽いから結合してると浮力が生まれるんですよ」という解釈も生まれたが最終的にアントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエによって作られた「酸素(oxygène)」の概念がより多くの現象を説明できたことによって衰退していく。もちろんフロギストン仮説は当初かなり合理性があったので、これをもって初期の化学者達を蒙昧であると主張するのはどう考えても間違っている。

 

割鋳型

コンコルド効果だ。

突っ込んだ投資額に見合った成果が得られないと今後利益がないとわかっていても撤退が難しくなるという現象。ギャンブラーの行動から軍事的問題まで幅広い領域で見られる。なおこの言い回しはクリントン・リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子(The Selfish Gene)」に見られる。

 

構造を言葉で説明するのはかなり難しい。

この動画を見るのが一番早いと思う。

 

製本

そういえば気になって調べたが、かつての世界の秒、あるいは人間の心拍のスケールの時間の単位が天文学の分野はともかく市井にはないんだよな。

我々の世界でも天文学の分野であくまで理論的単位として用いられた後、機械式時計の発明によって測定できるようになった。

 

脂汚れを取る用の石鹸も置いてあるし、洗うときの水が冷たくないようにぬるま湯にもしてある。

水が冷たいと洗い残しが増えるのでよくない。

 

事実国立産業技術史博物館にもJICA(国際協力機構)からちょくちょく問い合わせが来ていたし、色々と対応もしたのでわかる。

JICA(国際協力機構)は日本が行う政府開発援助(ODA)の主体となる組織で、発展途上国での技術援助のような活動を行っている。

 

揺籃期本(インキュナブラ)の研究をやっていた人が印刷場所と印刷年がわかればどれだけ楽かと愚痴っていたのが印象的だったので。

incunabulaとはラテン語「incunabulum(ゆりかご)」の複数形。詳しくは国立国会図書館の電子展示会「インキュナブラ -西洋印刷術の黎明-」が詳しい。

 

印刷されたものは聖典語の例文書だ。

ヨハネス・グーテンベルクによる最初期の活版印刷物の中に4世紀に書かれたアエリウス・ドナトゥスによるラテン語の文法書「Ars minor」がある。30頁弱。

 

法典

十戒よりは複雑ではあるが、日本の六法を合わせたものよりはシンプルなもの。

十戒といえばアブラハムの宗教においてモーセがシナイ山にて神から授けられたものが有名だが、それとは別に仏教用語としても存在する。とはいえどちらも「殺すなかれ」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「偽証するなかれ」「過度に欲するなかれ」あたりは共通している。さすがにこれらが守られない共同体は問題が多く発生するのだろう。

 

それと古帝国法には商取引の活性化のために明文化が必要となったので各地の法を集め、纏めたという側面もある。

法律に対する知識は一般的に高度な訓練を受けた専門家が扱うものであり、しばしば秘匿された。つまりはなんとなくであったりその時々の都合であったりで裁判結果が変わるのは当然だった場合もある。しかしそれでは商業取引が面倒になるので統一され公開された法が必要となったのだろう。

 

日本生まれの私にはこの法の不遡及に反するようなシステムに引っかかりがあるが、英米法の考え方だと結構軽率に事後立法ができるんじゃなかったかな。

ヨーロッパの法律には文章化された法律によらなければ判決を出さないという成文法の考え方に基づいた大陸法と、過去の判例に基づく判例法や公的に国家が認めたわけではない慣習法などの不文法をベースとする英米法、合わせて二つの流れがある。日本は大陸法であるドイツの法典をベースにいろいろいいとこ取りしたシステムであり、罪刑法定主義を取っている。とはいえどちらもそれなりに問題があるので面倒くさい。科学史に関わるあたりだと田中舘愛橘が証言を求められた電気窃盗事件で電気を「盗む対象」としての具体的財物かどうかが争われたという例がある。

 

法制史は面白いテーマなのだがラテン語も漢文もできないので私には手も足も出なかった。

もちろん場合によってはシュメール語、エジプト語、ヘブライ語、アラビア語、サンスクリット語なんかを読めなくてはならない。たとえ日本語国内だけの法制史をやるとしても近代法はヨーロッパからの影響を理解するために英語、ドイツ語、フランス語が、それ以前でも古文漢文を読みこなせなければならない。つらいね。

 

つまりは奴隷だ。

奴隷は定義が曖昧であり、地域・時代によってはほとんどの人口が「奴隷」とみなされかねない。その扱いも本当に幅が広いので、もし議論する場合にはきちんと前提条件を定めてから行おう。さもないとマムルーク(被所有者)朝における騎兵やスルターン(君主)とアメリカ合衆国の奴隷制を同じ舞台で話すことになり、非常に不毛なことになる。

 

とはいえ情報整理ができないと処理能力に限界があるからな、と私はあまり触ったことのないカード目録がどういうシステムだったかを思い出そうとした。

カード目録はカードに本の内容を書き込み、棚などにタイトル・主題・作者などで並べていくもの。今日見ることは一部の専門図書館を除いてほとんどないが、多くの図書館が採用している日本目録規則はカード目録をベースに作られている。

 

差止

もちろんある意味でこれは茶番である。

茶番、あるいは手続きに則った儀式的行為の重要性はしばしば軽視されがちであるが大切な場合も多い。面倒だけどね。

 

「……あまり本質的なことのようにこちら側は考えていないが、貴方の発言は記録しよう」

確かにあまり本質的には見えないが、後世の研究者からすれば史料がちゃんと整理されて残っているのは本当に有り難いのだ。

 

進展

あとは大図書庫が代償金を払って複製を作ることができるとか、死後の権利管理とか、公開出版物のパブリック・ドメイン制度だとか、著作権の放棄とかを色々盛り込んである。

キイが持っている異世界における知的財産に関する知識を色々入れたもの。

 

まあきっと印刷に詳しくてしっかりと判断ができ豊富な知識を持ったいい人を担当者として選んでくれるだろう。

その通りになった。

 

人選

統計情報を示せ。せめて参考文献を書け。

例えばこの手の本に非常によく出てくる「マズローの欲求五段階説」なんかは元データの統計処理や偏りに疑問が呈されており、モデル自体の欠陥も指摘されたりなんかしているので心理学的には古いモデルではあるがまだ使われている。あの手の本は読んで満足することが目的であり、そこから発展させて自分から仮説を立てるためのものではないのだ。

 

この少年は馬鹿だ。

Toute fille lettrée restera fille toute sa vie quand il n'y aura que des hommes sensés sur la terre.

(地上に良識のある男しかいなくなれば、博学な娘は一生独身のままだろう)

──ジャン・ジャック・ルソー「Émile, ou De l'éducation(エミール、または教育について)Livre V(第五篇)より。拙訳

*1
1〜3、10〜30、100〜300の点数で表記する



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第7章
準備


図書庫と呼ばれるその施設は、実際には複数の建物を有する一帯である。四階建て石造りの中央図書庫のまわりに様々な目的を持つ棟が並び、各種の施設がある。まあそういうわけで私は煩務官の知り合いだという図書庫の書官に案内されて今後職場となる場所についた。何でも屋の事務員である彼は、確かに煩務官と同じような雰囲気であった。

 

「ここだ。先日までは倉庫として使われていたが、決して悪い場所ではあるまい?」

 

「ええ」

 

とはいえ内装は空で、必要に応じて事務道具を運び入れる必要があるだろう。まずは絨毯かな。

 

「他の人はいつ来るでしょうか?」

 

「四半月*1もしないうちには」

 

「なるほど、ではそれまでに招く準備をしなくては」

 

「良い心がけだ。そうだ、図書庫から君の下に来る人を紹介しよう。暫く待ってくれるか?」

 

「構いませんよ。それまでは掃除でもしましょう。箒はありますか?」

 

「隣の部屋の倉庫にある。自由に使ってくれ」

 

「わかりました」

 

まあそういうわけで楽しい準備の時間だ。逆に言えば今はまだ楽しめている。

 


 

それから数日かけて、何人もがこの部屋に顔を出した。衙堂、図書庫、頭領府、商会、いくつかの工房。比較的若手が多い。まあ私もそこまで歳じゃないからな。全部で20名弱、女性は私を含めて4人。割合的にはかなり多いほうだ。まあ彼女たちについては少し重点的に様子を見よう。

 

「たぶん、これで全員です」

 

ケトが作った名簿を渡してくれる。明日、全員がここに集まる算段になっている。荷物が運び込まれ、実際に動けるようになるまでには半月か一月か。かなりの速度で整えてもここまで時間がかかるのだ。少し前に秋分が過ぎたところだから、もうここには一年になるのか。むしろ印刷機の完成から半年でここまで来たのか。本当に官僚組織か?疑いたくなるほどの手際の良さだ。

 

「っと、ありがとう。……いろいろな人が来てるね」

 

紙問屋、法務吏、あとは……これはなんだろう。

 

「この人、覚えてる?」

 

「ええ」

 

比較的顔の整った女性だった。前の所属は頭領府の蔵計員。

 

「これはどういう仕事?」

 

「本来は納められた税を確認するものですが、たぶん彼女は各地を回って実際に税がきちんと取られていたかを調べていたのではないでしょうか」

 

「どうしてわかる?」

 

「肌がよく焼けていて、足に筋肉がかなりしっかりとついていました。あれは旅を重ねた人のものです」

 

「それがなんで室内の仕事に……まあ、あまり気にしなくてもいいか」

 

ここに来た人間は基本的に有能な匂いがする。たぶんいろいろな機関が将来の期待される若手を送り込んでいるのだろう。この城邦の人口を考えると、かなりのものだと思われる。

 

「で、私たち印刷物管理局のやるべき仕事は……印刷物に関連すること、一通り」

 

「つまり何でもできますね」

 

「……具体的に、何が必要だと思う?」

 

「そうですね、まず本の記録を作って、図書庫に納める手続きをして……そのくらいでは?」

 

「たぶん文字の大きさを統一したりだとか、他の邦との折衝だとか、発生した問題についての評価とかも入ると思う」

 

「そこまで必要ですかね?」

 

「ここまでの条件を与えられていると考えると、そのくらいは当然では」

 

「……わかりました。ただ、無理はしないでください」

 

「危なそうだったら止めてね?」

 

「もちろんです」

 

さて、これで問題に集中できる。まずはメンバーを班に分けておこう。

 


 

「諸君、この印刷物管理局に来てくれたことに感謝する。私は局長のキイ。衙堂から来た司女だ。こちらはケト。私の弟子で、司士の見習いだ」

 

何人かがああ、となにかを察したような目を向けているような気がする。ケトの方を見るが、表情を変えずにじっと座っているだけだ。

 

「それぞれ、様々な場所から来たので互いを知らないだろうからまずは簡単でいい、自分について話してくれ。そしてそうだな……、それと共に自分がここでやるようにと言われていることがあればそれも」

 

少し緊張が走る。なるほど、決して一枚岩ではないのか。まあ、少なくとも今は。

 

「ともあれ今日は特に仕事をするつもりはない。とはいえ今後しばらくは主業務である印刷物の管理をやっていく準備をする。すでに衙堂では最初の印刷物が作られつつあるが……」

 

そう言って私はふとあることに気がつく。

 

「そもそも、印刷物と言って実際に作られたものを見たことがない人はいるか?いれば手を上げてほしい」

 

おずおずと一人が上げ、二人が上げ、最終的に半分ぐらいが見たことがないということになった。

 

「ケト君、なにかあるかね?」

 

「持ってきたのはこれぐらいですが」

 

そう言って取り出すのはケトが最初に一人で詩を刷ったときのものが何回か。

 

「それでいい。では、知っている人は黙っていてくれ。知らない人は、昼まではこれが具体的にどうやって作られたかを考えてくれ。それ以降に具体的な技術の話をしよう」

 

技術系らしい人の目の色が変わった。うん、確かにこういう層には謎を提示するのがいいらしい。

*1
だいたい一週間



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謄写版

自己紹介が終わると、待ちきれないように印刷された紙に人が群がった。

 

「文字の形が同じだな、木版ではない?」

 

「粘土に木版を押し付け、そこに金属を流し込んだのではないか?」

 

「それにしては文字の並びが几帳面では」

 

「専用の道具を使うのだろう、だから今まで使われなかったんだ」

 

紙を手に議論する10人ほどを、印刷機を知っている同じぐらいの人数が囲み、そのさらに外側に私とケトがいる。なかなかいい人選をしてくれたようだ。取り囲んでいる人も興味深そうに聞いているのはいい。ここで答えを言い出そうものならケトと一緒に部屋の外に引きずり出して協調性というものを丁寧に教え込む必要があったが、その必要はなさそうだ。なに別に暴力は振るいませんよ。私の育った日本では教育令のころからずっと、現代まで口うるさく体罰の禁止を訴えてきたのですから。そこまで続けて言わなくてはならない理由についてはまあ言わずもがな。

 

「話がいい段階のようなので、手がかりをあげよう」

 

私は活字を一つ、紙のそばに置く。

 

「あー……」

 

一人が悔しそうに声を上げた。

 

「こうやって鋳るのか、ならどんな本でもとはいかないな」

 

「ある程度文字の並びは限られるだろう。好き勝手に文字を大きくしたり小さくしたりは難しい、か」

 

「いやそもそも実際に本に必要なだけの量を鋳るのも決して楽ではないはずだ」

 

なんというか、もうこれ私の説明いらなかったのでは?という気がしてくる。実際に印刷機を見せればすぐにでも理解しそうだ。これだから天才ってやつは。

 


 

窓枠備え付けの日時計が南中を示す。天球の北極点あるいは南極点を指すグノーモンの角度は水平面から55度といったところ。ここから北緯あるいは南緯は35度ぐらいと出る。明石市ぐらいか。私の読み取りの誤差を考えれば北は八郎潟、南は鹿児島と沖縄の境目あたりか。ヨーロッパだと南の方。アフリカが入ったかもしれない。まあ温暖なことに矛盾はないな。

 

山ほど頼んでおいた蝋板には様々なメモ。活版印刷の問題点と改良案。なるほど、多色刷りか。聞けばその発案者は染料系の商会にいた事があるらしい。そして今は活版印刷のデメリット、具体的にはそれなりに大掛かりな設備が必要なのを解決できないかという議論をしている。

 

「ただまあ、こういう考えもある」

 

私は図を軽く描く。紙を蝋でコーティングして、孔を開け、隙間からインクを流し込んで下の紙に移す。

 

「ふーむ、ただ孔の大きさと間隔が問題か」

 

「蝋は強度の問題から使うのか?」

 

「実際にやってみるか」

 

軽く昼食にしようと思ったのだが、たぶんこの人たち止まりそうにないな。

 


 

夕方には試作品が完成していた。何だこの行動力。一応印刷に関する業務なので問題はない。それに購入したものは基本経費だ。

 

「ところで……キイ嬢、でしたか」

 

「そう」

 

「この先にあるものを、知っているのですか?」

 

「さあね」

 

私の言葉に質問者は挑戦的な視線を返した。

 

「よし、やってみるぞ」

 

局員の一人が声を上げる。ちなみに蝋については私の前買った分のあまりを渡してある。安くはなかったがこれが実用化できるならコストはすぐ回収できる。

 

「……うまくいかない。(インク)の粘りが強すぎる」

 

「油で薄めるか?」

 

「普段使いの紙に書く用のものでもいいと思う」

 

「なら他の紙で試そう、こっちは油がついているから」

 

議論が活発になっているのを見ながら、私は小さく口を開く。

 

「……ケト君」

 

「なんでしょうか」

 

ずっと隣にいたケトがすっと寄ってきてくれる。

 

「これ、私いなくてもいいんじゃないかな」

 

「駄目だと思います。少なくとも、正解を知っている人がいるのは大きいかと」

 

「とはいえ私もこれについてはそこまで詳しくないんだよな……」

 

謄写版、あるいはガリ版。昭和時代に用いられた印刷手法だ。タイプライターとの組み合わせもできる、なかなか便利なやつ。比較的簡単に版を作ることができ、単純な印刷機で刷れるのでいろいろな場所で使われた。まあ当時の紙は酸性で劣化しやすかったので後々大変なことになったのだが。具体的には後世の研究者が一個一個保護紙で帙を手作りすることになる。バイト代も出なかったが、まああの時に必要な資料を探せたのでよしとするか。

 

「……これ、前に言っていた危ないやつでは?」

 

「たぶんそう」

 

「……責任は全部キイさんに行きませんか?」

 

「それまでにここを潰すと酷いことになるようにしておく」

 

いろいろとやりたい事はある。まず紙の規格化。そして厚紙の生産と手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)。これがあれば情報整理と分類においてかなりの飛躍が見込める。あとは学術用語の統一、低コスト小型文庫本の作成などなど。基盤としてこういうものがあれば、別に私がやらなくとも数百年で私の知る水準の科学まで追いつけるはずだ。

 

「知識だけ盗まれて捨てられません?」

 

「まあその時は君と世界を旅行でもしようかな」

 

「……そのお誘いは魅力的ですが、路銀ぐらいは残しておいてくださいね?」

 

「……貯金、しなくちゃ」

 

「キイさんにさせるのは無理だと思うので僕がしましょうか?」

 

「お願いしていい?」

 

「わかりました」

 

それにしても恐ろしいものを手に入れてしまった。本職の印刷物管理は私が片手間にでもやっておこう。それよりもこの局員を自由にさせるべきだろうな。



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比率

「読むのに適切な比率にするべきだ」

 

印刷物管理局の部屋に響く局員の声。

 

「いいや2の平方根を使うべきだ。全体に数学的な設計をする必要がある」

 

そう返すのは私。

 

「はいそこまで」

 

二人の間の緊張がケトが叩く手の音で切れた。確かにちょっと熱くなりすぎたな。私は席を立つ。

 

「……すまない、強く言い過ぎた」

 

「こちらもだ。言い分はわかる。ただ、そこまでする意味があるのか?」

 

「うーん、そう言われると弱いんだよな。ただ大きさの間隔が大きくなりすぎないか?」

 

議論しているのは紙の規格だ。幸いにもある程度統一されていた標準的な巻物の幅から逆算された標準文字版の縦方向の長さを基準に紙の大きさを決めるのはいいが、その縦横比をどうするかという問題が起こっている。本当に驚いたことだが、相手が提示してきたのは黄金比であった。実際には前二項和(フィボナッチ)数列の隣り合う二数の比の極限として得られる数として認識されているが。ただまあこういうことを考えるとレオナルド・ダ・ピサだろ、とか欧州中心主義を捨てて正しい発見者の名前で呼ぼうという野暮なツッコミがどこからか聞こえる。人口に膾炙してしまったのは仕方がないだろと思ったが電子の向きにイライラしている私が言えた義理ではなかったな。

 

「複数の大きさの紙の比を一定にしたいのだろう?」

 

また別の局員が計算を持って話に入ってきた。

 

「ならこういうのはどうだ。局長は合理性を求めている。君はバランスだ。なら、2の三乗根の二乗を使えばいい」

 

「というと?」

 

その局員は計算結果を広げた。

 


 

私の主張する白銀比はおよそ $1:1.414$。一方で相手が主張してきた黄金比はおよそ $1:1.618$。ちゃんと計算すればもう何桁か詳しく出せるが、加工精度を考えれば有効数字4桁もあれば十分だろう。白銀比はかつての世界で広く使われていた紙の規格、具体的にはA版、B版、C版に使われていた。これには面白い特徴がある。ここで横長の紙を用意し、縦の長さを $1$、横の長さを $a$ とおく。

 

この紙の右端と左端を重ねて折って、縦長の長方形を作る。ああ、縦長になるためには $1<a<2$ の条件が必要か。まあともかくそうやってできた長方形がもとの紙の長方形と相似であるようにしたい。つまり、90度回せば縦と横の比率が同じになるように、という制約をかける。比の式に起こすとこうだ。

 

$$a:1 = 1:\frac{a}{2}$$

 

さて、ではこれを満たすような$a$はあるだろうか?まあこれは単純な二次方程式に置き換えることができる。

 

$$a^2 = 2$$

 

さて、先程 $a$ は $1<a<2$ という条件の中にあるとした。まあそもそも長さを考えているので負の数字はないが、条件に一致する $a$ は $\sqrt{2}$ しかない。

 

これの何がいいかを簡単に説明するのは難しいが、例えばこういうのはどうだろう。A3の紙を半分に切ればA4になり、A3からA4に縮小コピーしてもはみ出したり余りが出たりしない。まあ逆に言えば私の主張はこの程度のものだ。確かアメリカ合衆国という非常に文化が遅れた国家があって、そこではインチという蒙昧な単位を基準とした悍ましき紙の規格が使われていたはず。なお私がSI単位系至上主義とまでは言わなくともメートル法が好きな理由としては古いイギリスやアメリカの機械を修理する部品がなくて面倒な換算の後に旋盤で手作りすることになったという苦い経験があるからだ。単位は統一しよう。規格化万歳。

 

っと、では相手の主張していた黄金比とはどのようなものか?定義はいくつかある。例えば正五角形を描いた時の一辺と対角線の比であるとか、あるいは正十二面体や正二十面体の中に描ける長方形の辺の比とか。ただ、ここはこの世界で導出されている方法を使おう。

 

フィボナッチ数列と呼ばれるものの定義はそう難しくない。数学語ではこう。$n$ は自然数、もとい正の整数とする。

 

$$F_n = \begin{cases}1 & (n=1,2) \\ F_{n-2} + F_{n-1} & (n \geq 3) \end{cases}$$

 

確かこの漸化式を閉じた式にするのは一応高校数学の範囲でできるはずだが、難易度としては最難関の大問一つぐらいには相当するし答えを知っていればすぐ書けてしまうので問題としては面白くない。あれ、閉じた式はどんなのだっけ。昔導出したが忘れている。まあ本題ではない。

 

最初の方を頭の中で唱える。いち、いち、に、さん、ご、はち、じゅうさん、にじゅういち、さんじゅうよん、ごじゅうご、はちじゅうく、ええと三桁になると暗算では脳の計算がオーバーフローするな。144。よし。まだ計算能力は大丈夫そうだ。二つ前と一つ前を足したら今の数になる。あるいは今の数と次の数を足したら更にその次の数になる。で、この隣り合う数の比がある一定の値に収束するのだ。証明は省略。

 

ではこの時の比について考えよう。今の数を $x$ とおいて、隣り合う数の比を $\phi$ とおく。これは黄金比の利用例の一つとされるパルテノン神殿を作り上げたとされるペイディアス(Φειδίας)の名から取ったものだったはず。ふわふわだな。まあ特に意味はない。つまり式にするとこう。

 

$$x + \phi x = \phi^2 x$$

 

あとは $x$ が$0$でないことを確認して割って、二次方程式の形に持っていく。

 

$$\phi^2 - \phi - 1 = 0$$

 

これを二次方程式の解の公式に突っ込むのは中学生でもできる。なんやかんやは省略して、解はこうだ。

 

$$\phi = \frac{1 + \sqrt{5}}{2}$$

 

はい、これでおしまい。この値は比の計算をしているとたまに出てくるし、幾何学でもお世話になる時がある。

 

それで最後の話に移ろう。$2^{2/3}$という値はおよそ $1.587$。さっきの $\phi$ との誤差は2%程度。だいたい黄金比だ。そしてうまい具合にやれば辺の長さが等比数列となって、かつ二つ飛ばしの紙のサイズがいい具合になるような系列を作れる。具体的には公比を$2^{1/3}$にすれば、大きい方のサイズの紙を四分割すれば小さい方のサイズになるような規格にできるのだ。さらにあるサイズの紙の縦の高さと二回りサイズが小さい紙の横の幅が一致する。これはまあ、なかなかに綺麗で悪くない。

 


 

「なるほど、確かに君の言うことは正しい」

 

私は検算を終える。三乗根を求めるのは少し厄介だったが、適当なカンがうまく働いてくれた。目を上げると多くの人の視線が私の蝋板に向いていた。

 

「……それにしても局長は変な計算をしていますね」

 

「これかい?」

 

私はそう聞いてきた局員に蝋板を渡す。先程いい代替案を出してくれた人物だ。

 

「少しこれを確認してもいいですか?」

 

「一応ここの備品だから、部屋からは出すなよ?」

 

「わかりました」

 

そう言って彼は自分の席に戻っていった。確かに変な表記で変な計算をしていたが、解読できるだろうか。



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手続

謄写版と技術屋が格闘している横で、私は納入された最初の書籍を確認しておく。全二百部。最初にしてはずいぶん強気だな、と一体何と比較してかわからない感想が出てくる。いや一昔前は自費出版も珍しくなかったし、今でもやっている人はいるけどオンラインで公開したりだとかデジタル販売したりだとか今は色々方法があるんですよ。知り合いが在庫を抱えていたのでここらへんの話は昔聞いた。

 

「それでは確認できました。証書を発行するのでしばらくお待ち下さい」

 

「ありがとうございます」

 

衙堂側の人は顔見知りなので、まあこの作業自体は茶番だ。茶番は大事なんだよ。なあなあで済ませるよりもたとえ儀礼的であっても手続きをしたほうがいい。

 

まあ手続きは簡単だ。納入数を確認し、ランダムに選択した何冊かが同一の印刷であることを確認。基本的に性善説システムだ。問題が起こったら対応できるだけの人材がここにはいるというか、どうやらここに人員を送り込んできたすべての組織がここでなにかが起こると考えているらしい。非常に正しいな。でそれが終われば奥付、といっても巻子本を開いてすぐの場所にある製造者表示を確認。よし。規定の事項が書き込まれている。印刷者の証明もよし。

 

「……ところで、この後の作業は全部私が?」

 

「半分はやりますよ」

 

ケトが部屋の向こうでわいわいと行われている作業を横目に言う。

 

「十分組織が大きくなれば監査を送り込んで、最初から製造者表示にこの印を組み込んでもいいと思いますが」

 

そう言って私たちが取り出すのは精緻な細工がされた一種の版。印刷物管理局という文字が真鍮の塊に鏡文字で丁寧に彫られている。衙堂にまだ残っている金属細工師に頼んで作ってもらったもので、彼曰くこのくらいは簡単にできるそうだ。これなら銅版画についての技術的ハードルもそう高くないな。

 

よくすり潰した酸化鉄を顔料にした赤いインクを版につけ、広げた巻物の下に布を引いた上で、製造者表示部分に重なるようにぎゅっと押す。よし。この何がすごいって、日付を示す小さな印と組み合わせられているということだ。データー印である。かつての世界のそれと比べて小型の文字版を目を細めながら挿入する必要はあるが。一点ものの細工であればこういうものだって作れる下地がある。

 

で、乾くまで待つ間に次の本に印を押す。これをあと199回。純粋に手が疲れる。版は一つしかないので人海戦術も使えない。いや複製してもいいのだがそうしたら印の意味がないだろう。

 


 

飽きてケトに代わってもらって作業は終わった。

 

「では作者はすでに亡くなっている内容であることが確認できたので、手数料はこれだけ」

 

私は契約書に自分の名前と所属を書く。一応証人も来てくれているので手続き。

 

「手数料は今払えばいいですか?」

 

「少し待ってくださいね、会計担当者を呼んできます」

 

私がそう言うとケトがさっきまで謄写版の近くで騒いでいたうちの一人をずるずると引っ張ってきてくれた。よし、後は任せよう。

 

「終わりましたよ」

 

そう言うのは会計担当。

 

「速いね」

 

「では販売手続きに入ります」

 

これで納入が終わり、すぐさま衙堂がすべて買い取る。差額は手数料として我々の懐に入るというわけだ。なんか悪いことをしている気がするが、適切な手数料だ。そうそう。本の一次販売は印刷物管理局の独占業務ではあるが、二次販売を規制するルールはない。念のため確認したが仕様だそうだ。まあ古本の販売まで追っかけている暇はないからな。その中で非承認書籍が流通する可能性があるという話もあったが、それはいろいろな手で追いかけるらしい。この世界の捜査能力について詳しくは知らないが、少なくとも真面目であることは確認されているのでいい。

 

「……なにやら無駄な手続きが多い気がするな」

 

「既存の法をできるだけ変えずにやるのは大変なんですよ」

 

ケトが疲れたように言う。ここに配属されるに当たって衙堂で事務業務特別詰込講習を受けたようだ。それでまあ、色々と闇を見たのだろう。

 

「……あ、局長」

 

作業していた集団に近づくと何事もなかったように彼らは言う。いや女性も二人ほど混じってはいるか。指に刺さるような凹凸を作った鉄板を焼入れして硬くしたもの、つまりは(やすり)の上に蝋紙を載せ、上から圧力を加えると紙に孔ができる。これの上からインクをローラーで塗ってやれば理論上は印刷ができるというわけ。ここで直接蝋紙にローラーを当てると寿命がかなり縮まるので薄い布をその上に引く。かつての世界では絹布(シルクスクリーン)を使っていたが、ここではある種の貝から取れた繊維を使っているらしい。かなりの高級品らしいが、それだけの価値はありそうだ。燃やした匂いからしてタンパク質繊維らしい。

 

「ああ、そういえば注文の品は?」

 

その布を手に入れた商会から出向中の局員に声をかける。

 

「まだかかりそうです」

 

「わかった」

 

頼んでいるのは透明度の高い硝子(ガラス)だ。もちろん経費。予算がいっぱいついているので、それなりのものを生み出さねばならない。顕微鏡だって精密観察用の装置作成費用だと言えば問題なく予算は降りるのだ。



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鉄細工

謄写版はなんと20回程度刷ることができるようになったようだ。ただ(やすり)に乗せた蝋紙を鉄筆でガリガリとやるのに時間がかかるので生産性はまだ微妙なところ。

 

「何やってるんですか、局長?」

 

局員の一人が私に声をかけてくる。

 

「鉄細工だよ」

 

そう言って私は手の中の棒状の鉄を見せる。比較的炭素濃度が低い鍛鉄を、焼入れして表面を浸炭処理した細い彫刻刀のようなもので削るのだ。ちなみに無茶苦茶に難しい。鉄の細工に長けた職人は決して多くはないというが、まあそれも当然だなと納得できる。

 

「いえ、目的についてです」

 

「紙に孔を開けたいんだ」

 

「錐を作って糸を通すのですか?」

 

おお、そういう発想がすっと出てくるのか。

 

「それを君はどこかで見たことがある?」

 

「父が革細工職人でした」

 

「なるほど。ただ、私が作りたいのはそれよりもう少し大きな孔を開けるためのもの。通すのは糸ではなく棒だ」

 

そう言いながら私は指の幅の半分ほどの直径を持った円を紙に描いて示す。

 

「……何に使うのです?」

 

「試作品ができたら見せるよ」

 

「我々はまだあれをろくに扱えていないのに、これ以上増やすのですか?」

 

謄写版の方を見ながら言う彼は口調に興奮を隠せていない。もう少しなんとかしようよ。まあやる気のある人は好きだ。

 

「そう。なかなかに面白いと思うよ」

 

「そうですか。……今日は早く帰っても?」

 

「そもそも仕事はないし、構わないが。なぜ?」

 

「久しぶりに父と会おうかと。もし可能であれば、そのような孔を開けるのに相応しい道具を持ってきます」

 

「いいのかい?」

 

「ええ」

 

確か彼は図書庫から来た局員だったはず。親の仕事を継ぐことは少なくないが、やはりこの城邦では勉強して良い職に就こうとする人が多いらしい。具体的には子供をそういう進路に進ませようとする親か。歴史的に見ればそういう層にアプローチをかけることで科学技術系の人材育成を行ったなんてこともあったな。野口英世は本来梅毒スピロヘータの研究で評価されるべきだが、死因でもある黄熱病の研究で知られているのはそういう「物語」が作られたからというのもある。20世紀初頭の親や子供にとって、貧しい村から障害に負けず勉強を重ねてついには世界的な研究者になったというロールモデルはかなり強く影響を与えたのだ。

 


 

「大丈夫かい?」

 

ケトに声をかける。

 

「いいえ」

 

「なるほど、それは大変だ」

 

ケトの前にあるのは算学の教科書。先日の紙の規格で出てきた黄金比の理論について書かれている場所が開かれている。

 

「すみませんね、彼に勉強を教えてもらって」

 

「それは別にいいんだがね」

 

そう言いながら頭を掻くのは先日私の書いた蝋板を回収した局員。

 

「あなたの書き方はなかなか良くできている」

 

「そうでしょう」

 

小学校の算数でも、教え方のレベルからしっかりやるとかなり面白いのだ。そもそも数という概念が薄い児童に教えるのだから様々な工夫が凝らされている。

 

「ただ、見たことがない。よその邦での方法ですか?」

 

「あまり詳しくは言えない」

 

「……なるほど」

 

察してくれたようだ。計算術というのは専門知識で、ゆえに独占されがちだ。他人の飯の種を奪ったなどという面倒事に発展させたくはないだろう。

 

「ただ、それを使ったところでこの城邦でなら問題はないとは言っておくよ」

 

「なるほど。それと疑問が。ここで積を求めているでしょう?」

 

私がやった掛け算の筆算の途中の部分を彼は指差す。

 

「ええ」

 

「……これ、どうやって計算を?もしや暗算で?」

 

「一行一行はそうですよ」

 

「そうか……」

 

ああ、九九か。確かにちょっとできる小学生が暗算で計算するようなレベルのものに使うネイピアの骨というツールがある程度には特殊な技能だった。九九の起源自体は中国のはずだが、これがヨーロッパであまり広がらなかったのは数字の読みが少し奇妙な法則を持っているからかもしれない。あまり詳しくない分野をうろ覚えの知識で話すとボロが出るのでこの辺にしておこう。

 

「それで、最後には列ごとに足し合わせる」

 

「そういうことです」

 

「この略記方法はいい。特にこの空位記号は面白い」

 

位取り表記のゼロだ。っと、そういえばこの世界の数学ではあまりこれについて議論されていないんだったか。

 

「別にこの記号は他のものでもいいんだがね、なにかいい代替案はあるかい?」

 

「特にないですね。これに慣れようと少し格闘しているんですが、使いこなせれば便利そうだ」

 

レオナルド・ダ・ピサ、前に出てきたフィボナッチ数列の人が確か12世紀初頭にヨーロッパにアラビアの数学体系というか数字体系を持ち込んだのだ。その目的は金融。まあ浸透にはかなり長い時間がかかったのだけど。

 

「商会とかでも使われそうかい?」

 

「使える人を育てるにも時間がかかるでしょう。読むのは比較的楽ですが」

 

「略記方法について、手引でも作ろうか?」

 

「そこまで局長に手間をかけさせるわけには」

 

「まあ、困ったら聞いてくれ。算学の話であればいくらかできるからな」

 

「助かる」

 

ふとケトを見ると少し不満そうな視線をこちらに向けていた。まあ、自分のわからない話を目の前でされるのは楽しくないからな。



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鑽孔

印刷物管理局規格と命名された各種の規格のうちの最初のもの、「紙の寸法」が文書となって謄写版印刷され、関係機関に頒布された。今後紙の制作はこれに沿って行ってほしいと製紙職人に伝えるのはそういうつながりのある局員がやってくれた。基本的に大きいサイズで作り、端を切り落としたりそれをさらに四分割していく形で規定の大きさになるようにするわけだ。これについて私は半分程度しか関わっていない。印刷物管理局の面々は優秀なので、このレベルの事務であれば片手間にこなすのだ。

 

「ただ、詩才についてはたぶん僕が一番ですね」

 

ちょっと自慢げにケトが言う。公式文書なので聖典語版が正本で東方通商語のものは翻訳という形になっているのだが別にどちらも韻文ではない。それでも言葉のいい感じの響きというものがあるらしく、ケトの訂正を職員は受け入れていた。私にはそこらへんがわかる感覚がまだないのだが。

 

「まあ、仕事が速いのはいいことだよ」

 

そう言って私は手の中の工具を握る。ぱちん、と小気味のいい音を立てて厚紙に丸い孔が開いた。

 

「かなりよさそうだ」

 

「それが言っていた革細工用の道具ですか」

 

「そうそう」

 

それで孔を開けているのは紙の注文の際にいろいろと頼んでおいたものの一つ、厚紙だ。水酸化ナトリウムによるパルプ作成はいくつかの製紙職人が取り組み始めたようで、トゥー嬢を含む薬学者が引っ張りだこになっているだとか。まあトゥー嬢を引っ張るにはちょっとやそっとの金額ではどうにもならないだろうけれども。

 

いや、ここらへんは完全に職人技だ。今後の紙需要の増加に賭ける狂った商者がおり、その人が裏で手を回して本来秘匿されるようなノウハウの共有を促しているらしい。なんでそんなことを知っているかというとその商者の跡継ぎと目される有能な若者が私の部下だからである。まだ出版物をろくに扱ってすらいないのにもうここが一種のシンクタンクみたいになりつつある。

 

そして印刷機の複製ができたようだ、と衙堂の方から報告も来た。一応私が作ったものは搾油機の改良品だが、それを印刷用に再設計して作り直したらしい。おかしいなまだ数ヶ月しか経ってないんだぞ?かつての事務仕事が遅々として進まなかったことを思うと色々と怖い。ブレーキを踏んだほうがいいのではないかと思うがまあこういうものは行けるうちに行った方がいい場合もある。バブルみたいにならないよう注意はしないといけないが。

 

「で、そちらは?」

 

「特別の(はさみ)

 

活字を作るときにお世話になった工師に自分で作った試作品を見せたところまだまだ職人の腕には及ばないと言われたが、そういう道具であれば作るぞと言ってくれたので銀片を積んで頼んだのである。

 

「孔を開けた上で、その孔まで切り欠きを伸ばすんですか」

 

切符を切るように鋏をぱちんと鳴らすと、紙の一部が切り取られる。仕込んである薄い板バネが結構いい仕事をしてくれて比較的スムーズに作業ができる。

 

「そうそう。では実演をしてみよう」

 

私は六小型と呼ばれているサイズの厚紙をとんとんと纏める。基準となる大きさ、通称基準型から六段階小さいという意味だ。三段階小さいと面積が四分の一なので、この大きさは基準型を十六分割すれば得られる。かつて扱っていた名刺より一回り小さい程度の横長長方形。その左上に場所を合わせて孔を開けているので、重なった孔を通して向こうが見える。

 

「これがまず鑽孔紙だ」

 

「鑽孔、孔を開けてあるから確かにそうですね」

 

「これの中には二種類の孔が混じっている」

 

そう言いながら私は鑽孔紙を二枚取る。

 

「一つはただ孔が開いているだけ。もうひとつはその孔が縁まで伸びている」

 

紙をもとに戻し、シャッフルし、また揃える。

 

「ここで棒を取り出します」

 

そう言いながらただの木の細めの棒を孔に入れる。

 

「で、持ち上げると……」

 

「切欠きがないものだけを選べる」

 

「そう」

 

ケトの言う通り、切欠きがあるものはそこを棒がすり抜けるので落ちていく。一方穴を開けたものだけはそのまま引っかかって残るわけだ。

 

「たとえば今は孔が一つだけど、もっと多く用意してもいい。切欠きの深さを変えてもいい」

 

「……それが、なんの役に立つんです?」

 

「この紙一つ一つにそうだね、今後出版される本の内容を書く。そしてそれに合わせて紙の周りに切れ込みを入れる」

 

「……はい」

 

「例えば何年の何日に作られたか。表題の最初の文字はなにか。内容はどのような区分に属すか。作者は生きているか、あるいは死んでいるか。死んでいるならいつ死んだのか……」

 

「探したい項目に棒を刺せば、それを見つけることができる」

 

「その通り」

 

手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)、あるいは縁欠紙(エッジノッチド・カード)。二十世紀に事務や研究などの分野で盛んに使われたものの、コンピュータの導入によって、あるいは扱う情報の量が膨大になったことで廃れてしまった技術。昔触った史料のなかにあったから少し調べたことがあるのだ。

 

「ただこれ、問題がありますよね?」

 

「例えば?」

 

「全く同じ形の紙の、全く同じ場所に孔を開ける必要があります。それに紙の厚みも必要になる」

 

「紙の大きさについてはすでに解決済み。厚みについては今後に期待」

 

そのための規格化、そのための専門家だ。

 

「孔の場所は?」

 

「そういう道具を作るよ」

 

ちょっとした治具でいけるだろう。さて、あとは本当にこれが使い物になるかだ。



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検索

「……これは良くないですね、局長」

 

紙問屋から来ている局員が試作品の手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)を見ながら言う。

 

「ほう」

 

「表面の滑りをもう少し良くするべきでしょう。また、このような用途であればもっと紙を強くするために素材の配合を変えることも考えるべきです」

 

「そこまでする必要があるかな」

 

「かなりの量を作るのでしょう?」

 

「そうなるだろうね」

 

「ならできるだけいいものを作るべきです」

 

「で、お前はその売上のうちどれぐらいを手に入れるんだ?」

 

別の局員の一人が口を挟んでくる。

 

「二割ってところだな」

 

「おや良心的」

 

私は呟く。これだけのことをやって中間マージンがそれだけとは。

 

「個人名義でやると後々面倒だから、必要に応じて商会を通してくれ」

 

私の言葉にさっきやってきた局員が疑いの視線を向けてくる。

 

「いいんですか局長」

 

「もし不当な額であれば競合が現れるさ。ここには複数の組織から人が来ている」

 

まあ反論したくなる気持ちもわかる。だが今回はちゃんと意味のある中間業者だ。

 

「規格に合わせるから精密に頼むよ」

 

「わかってます」

 

そう頷いて紙問屋からの彼は席を立つ。

 

「ただまあ、君の指摘も正しい。ただ今回は多少の予算を削るよりも大盤振る舞いするぐらいのほうがいいわけだ」

 

「……局長はそういう考え方なのですね」

 

「まあね」

 

うん。この局員もなかなかだ。自分とは異なる意見を飲み込んだ上で、関係性を踏まえて行動を制止できる。本当にここは優秀な人材ばかりだな。

 


 

「一つの孔につき、欠けを作るか作らないかとする。3つの孔があるとすれば、考えられる組み合わせはいくつ?」

 

「えーと……」

 

ケトは蝋版に向き合って書き始める。悩むところなのか。まあ私が進数であるとか組合せ論の知識があるから簡単に見えるだけかもしれない。

 

「……9種類、だと思います」

 

おや、一つ多い。描かれた図を確認していくと重複があった。

 

「これとこれは同じだ」

 

「……本当ですね」

 

ケトはその図を消す。

 

「なるほどね、最初に切欠きがないもの、で全てが欠けているもの、その後に一つ、二つ、三つの欠け。それで全てが欠けているものが重なったわけだ」

 

私が言うとケトは結構凹んだようだ。まあ仕方ない。あとでフォローしよう。

 

「欠けの数ではなく、左側から考える方法もあるよ」

 

私は均されている蝋版を取る。

 

「最初の一つについて考えれば、それは欠けているかいないか。2通り。次の孔を考えるよ」

 

私は描いた2つの図からそれぞれ2本ずつ線を伸ばす。

 

「これで2+2、4通りだ」

 

「……ええ」

 

「次に3つの孔の組み合わせはさらにそれぞれの状態に付き3つ目の孔に欠けを作るか作らないかだから、2+2+2+2で8」

 

「そこまではいいです」

 

「これは2×2×2というのはいい?」

 

「……ああ、なら単純に孔を増やすごとに倍になっていくんですね」

 

理解が早い。

 

「では問題。30の文字に対応させるには、いくつの孔があればいい?」

 

これは聖典語や東方通商語で用いられる文字体系における文字数。

 

「5ですよね」

 

「最低限はね。でも、もっと増やしてもいい」

 

「無駄では?」

 

手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)に応用することを考えると、探し出す手間を減らせるなら孔を一つぐらい増やしても割に合う」

 

「……そうかもしれませんね」

 

私は事前に自分の頭の中で答えをもう作っているが、それが本当に効率的なものかは疑問が残る。もしケトがもっといいことを思いついてくれればそちらを採用すればいいだけだ。

 

「では他の方法がないか、考えておいて」

 

私が言うと、ケトはまた図を描いて集中し始めた。

 


 

「7つです」

 

「理由を聞こうか」

 

「まず7個の孔に対して、3つの欠けを作ることを考えます」

 

「欠けの個数を制限する理由は?」

 

「そうすれば、三本の棒で引き出すことで探したいものを探し当てることができ、かつそれ以外のものが出てくることはないからです」

 

「いいね」

 

これを自力で導き出したならかなりのものだ。もう少し具体的に見よう。簡単のために4つの孔から2つの欠けを作ることを考えよう。組み合わせは6通り。切欠きのない孔を○、切欠きのある孔を●で表すとすると、その組み合わせはこうだ。

 

 

このそれぞれの組合わせが一枚づつあるような6枚の手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)を考えよう。ここで上から2番目、つまりは左から1番目と3番目に切欠きがあるようなものだけを探したいとする。

 

では左から1番目と3番目に棒を突っ込んで、それを上に持ち上げよう。目的としているものは棒が入っている孔が両方とも空いているので引っかからない。そしてそれ以外の組み合わせには1番目か3番目のどちらかに切欠きのないものがある。

 

もしこれが欠けの個数を制限しない場合だとどうなるだろうか。例えば同じく4つの孔があるとすれば切欠きのパターンは24、すなわち16通りだ。書き出すとこう。

 

 

ここから先程と同じパターン、つまりは「●○●○」を探し出したいとする。さっきやったように1番目と3番目に棒を突っ込んで、それを上に持ち上げてみると、今度は他にも残るやつが出てくる。書き出すとこうだ。

 

 

ここから求めるもの以外を外していくのは少し面倒だ。なら孔の数を増やしてでも作業をやりやすくした方がいい。

 

「うん。ただケト君、一つ問題がある」

 

「なんでしょう」

 

「その組み合わせをどうやって覚える?」

 

7個の孔に対して3つの欠けとなると、35通りか。高校時代の遺産がまだ生きているのはありがたいな。

 

「……表を作る?」

 

「面倒だよ」

 

「……けれども、他にいい方法がありますか?」

 

「まあ、私が思いつくのは一つ」

 

「使う孔は?」

 

「全部で12」

 

「入れる切欠きは?」

 

「2つだ」

 

「……少し考えてみます」

 

「やってみな」

 

私は少し余裕げに笑う。これはさすがに自力で思いつけるとは思っていない。



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亡失技術

お知らせ: 文字だけでの説明に限界が来たため、挿絵を導入することになりました。読まれる際には「閲覧設定」内の「挿絵表示」を「有り」にすることをおすすめいたします。


「お手上げです」

 

「なるほど」

 

ケトの手元の蝋板を見ると、かなりいろいろ試したようだ。というか局員の何人かもこれについて色々考えている。まあ私の知識はあくまで既にあったものを前提としているのだ。ゼロから何かを作り出せるような人間には敵わない。

 

「12の孔で、2つの欠けで、30の文字ですよね」

 

「そう」

 

「そんなに必要ない気がするんですよ。それでもわざわざキイさんが言うなら、何か特別な利点があるはずで……」

 

「……少し考えさせすぎた。あまり面白くもない方法だよ」

 

私は蝋板に描いた図を見せる。

 

【挿絵表示】

 

「……ああ、こうやって孔を置くのですか」

 

「幅を減らしたい場合用だね。だからもし横に並べるのであればもっといい方法がある」

 

「ところで、これはどう使うのですか?」

 

「表したい文字が何番目かを考える。例えば16なら」

 

そう言いながら、私は16の場所に指を置く。

 

「左上と右上の孔まで切欠くわけだ」

 

【挿絵表示】

 

「なぜ右は2つ、左は1つ分の欠けを?」

 

「事前に規則として、文字がある側の孔の切欠きを2つ、そうでない方を1つと定めればいい」

 

「……少し待ってくださいね」

 

ケトは蝋板にペンを走らせる。

 


 

「わかりました。この組み合わせであれば、一つの孔のときと同じように間違ったものを出すことも、取り残すこともなく、必要なものを全て見つけることができる……」

 

「そう簡単にわかられてもな……」

 

「……よくなかった、ですか?」

 

「いやとてもいい。仕事がなくなった後に何をやろうかなって」

 

まずはまあ、ケトの思考の過程を追おう。つまりはこういうことだ。今回の孔は二行二列。切欠きのない孔が○、切欠きのある孔が●。

 

例えば左側を2つ分、右側を1つ分欠けさせるとしよう。図にするとこうなる。

 

 

これを検索するためには左側の下の方の孔、右側の上の方の孔に棒を入れて持ち上げればいい。そうすればこの孔のパターンのカードだけが残る。

 

 

左右の逆になったこのような孔のパターンであれば、左側の下の方の孔が貫通していないので引っかかって持ち上がる。

 

まあこれ自体は難しくない。私が一日格闘しただけで理解できたのだ。ケトやここの局員であればそう時間はかからないだろう。

 

「ところでキイさん」

 

「はい」

 

「これはとても凄いものでは?」

 

「そこまででもないよ」

 

事実、私の生きていた時代には亡失技術(ロスト・テクノロジー)扱いだった。今実用化にむけて実験が繰り返されている謄写版だってそうだ。パーソナル・コンピュータや普通紙複写機(Plain Paper Copier)によって置き換えられてしまったもの。私だって実際にはタブレット端末を片手に作業を行っていたのだ。ボールペンや万年筆ではなく鉛筆を使えと言われたのはもう過去、とまでは行かなかったが専用のフィルムを張ったタブレット端末にスタイラスで文字を書くのは一般的だった。まあ今ここでは蝋板(タブレット)(スタイラス)で記録を取っているわけだが。

 

「これがあれば衙堂の仕事がどれだけ簡略化できると?今まで巻物を開いて探していたのが、あるいは何かあるたびに複雑な記録を書き換えていたのが、不要とまでは言いませんが大幅に簡略化できます」

 

「その程度なんだよ。楽になっても根本は変わらない」

 

まあ国勢調査の統計が次の国勢調査までに終わるぐらいには便利になるか。

 

「それに本当にこの手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)を広く使うのであれば決めなくちゃいけないことは多い」

 

「例えば?」

 

「文字をどうやって番号にするかとか」

 

「普通に順番通りではいけないのですか?」

 

「先頭にほとんど来ない文字だってある。頻繁に現れるものも」

 

「そういったものまで考えるんですか?」

 

「そうだよ。他にも何を記録して、何について孔を開けるか。検索する前にどうやって並べておくか。長期的保存に適しているか。新しい方法を採用した時に、きちんとそれに移ることができるか」

 

「……キイさん?」

 

ケトは声を小さくする。

 

「これよりも便利なものがあるのですか?」

 

「あるよ」

 

私も小さな声で、ケトの耳に口を近づけて言う。

 

「雷の力を使う」

 

接合型トランジスタの発明は1950年ごろ。ヤン・チョフラルスキによる結晶作成法の発見から40年。ここらへんはかなり短縮できるだろう。私はもう答えを知っているのだから。計算理論のブール代数だって、基本概念であるチューリング・マシンだって、一応は知識としてはある。ここらへんはそういった発想を持っているかどうかだ。それが整い、十分な発想力と能力がある人材が資金的バックアップを受ければ本当に一瞬とも言っていいほどの時間で技術は進む。いや別にパーツ自体は人間でも歯車でもリレーでも真空管でもパラメトロンでもMOSFETでもいいのだ。まずは機械で人間の作業を代替できるという発想を出す必要がある。

 

「……それを今すぐ作らない理由は?」

 

「純粋に作るのが難しいから」

 

「仕方ないですね。どれくらいかかりますか?」

 

「そんなに欲しいの?」

 

「これ以上作業が楽になるなら、是非」

 

ケトからの圧力が強い。まあ、準備はしておこう。実際伏線は用意してあるし。



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硝子

「注文の品です」

 

商会から来ている局員が布に包まれた品物を私の机の上に置く。

 

「お代は?」

 

「商会からここへの出資分から引くそうで」

 

「……まあいいか。一応後で契約書を確認させて」

 

「もちろんです、局長」

 

会計制度とかがいい加減なので、こういう事がよく起こる。一応印刷物管理局では私が全員分の給与を直接手渡しという形にしてあるが、他の場所では班長に配って班長がさらに班員ごとに、なんてことも一般的らしい。もちろん適切なマージンが抜かれることがよくあるのも当然だ。抜きすぎると問題なので定期的に還元する必要があり、例えば食事を奢るなどの形で実質赤字ということも珍しくないらしい。うーん、どっちもどっちの問題を抱えているな。

 

布自体も決して安くないものではあるな、と思いながら中身を確認する。

 

透き通った塊。屈折率や比重をきちんと測定しているわけではないからはっきりとは言えないが、たぶん鉛硝子(ガラス)だなこれ。いいものを手に入れた。

 

「これ、普通に購入できたの?」

 

局員は微笑むだけだ。

 

「……法に触れることは、した?」

 

「輸出元およびこの城邦における基本的な商法には接触していないはずですし、少なくともこちらの知る限りでは巡警が来るようなことはないかと」

 

「暗殺者は来ない?」

 

「ここまで手が届くことはないでしょうね」

 

ナイスジョーク。私が小さく吹き出すと彼も表情を緩めた。

 

「……ありがとう。これだけあれば少し面白いおもちゃが作れる」

 

「袋いっぱいの銀貨で作るのがおもちゃですか」

 

「あそこで遊ばれているのと同じぐらいには使えると思うよ」

 

私は謄写版の方を見る。なんというか、既にあれは製品として完成しつつあるのではないだろうか。

 


 

「トゥー嬢?」

 

私は久しぶりの扉を開ける。

 

「入るな。勧誘は断っているはずだが……と思えばキイ嬢とケト君じゃないか」

 

「お久しぶりです」

 

ケトがちょこんと頭を下げて挨拶をする。

 

「それで、何の用だ?」

 

「炉を貸してもらおうかと思って」

 

そう言いながら私は荷物を下ろす。

 

「構わないが、図書庫にも作業用の炉の一つや二つはあるだろう?」

 

「信頼できない相手に使わせられない、とのことで」

 

これについて、私はむしろ感心したぐらいだ。高温というのは素人が触っていいものじゃない。まあ私の能力を知っている人があちらにいない以上コネを使うしか無いのだ。

 

「……いい硝子(ガラス)だな」

 

「別に薬学道具を作るわけではないですが」

 

「では何を?」

 

「顕微鏡です」

 

ケトが言う。まあ頼んで作ってもらった造語なのだが、トゥー嬢はすぐに意味合いを掴んだようだ。

 

「見てもいいか?」

 

「構いませんよ。それと道具も借りていいですか?」

 

「好きに使っていい。完成品を見せてくれるならな」

 

「もちろん」

 

私は炉に燃料を入れて、ふいごを踏む。火がゆっくりと燃え始めた。

 


 

この世界には良質なガラスがあるのにレンズがない。ケトが知らないということは一般的には知られていないとしていいだろう。拡大鏡があれば細かな作業が楽になるし、小さな文字も読みやすくなる。かつての世界では光学は比較的昔からある分野だったが、この世界にはない。奇妙なことがあるものだ、と私はゆっくりと型にガラスを流し込む。

 

ガラスは奇妙な性質を持つ。一定の温度で固体から液体に変化するのではなく、ゆっくりと柔らかくなっていくのだ。なので温度を調整すれば不思議な方法で細工もできる。例えば空気を吹き込んで容器を作るとか。この手法自体はこの世界にもある。そうでなければあの種の薬学容器は作れないだろう。ここらへんは高校時代に理科の先生から学んだ。その先生は大学生時代に技術支援員として勤めていたとある老人から技を盗んだそうだ。その老人は私が先生から学んだ時には既に亡くなっていたそうだが、そのテクニックはどうやら変なところで生かされようとしている。いや腹が立ってきたな。試験勉強で忙しい生徒にカリ球を作らせるなよ。その隣で先生がリービッヒ冷却器を作っているのを見るとその時は文句を言うことも忘れていたが。

 

とはいえやることは簡単だ。凸レンズ、つまりは両面は膨らんだ板状のガラスの塊を作ればいい。表面の形状は適切な光学的条件を満たすように研磨される必要があるが、まあこれについても知識がある。江戸時代における眼鏡用レンズ製造技術の伝播過程だとか世界で有名な光学機器メーカーの倉庫に眠っていたレンズ製造装置の修復記録だとかを読んでおいてよかった。本当に私は乱読しているな。

 

さて。いい感じに固まったレンズはあとは磨けばいい。本当は凹凸が逆だが同じ形のガラスで作った台に乗せて干渉の縞ができるかどうかで確認なんかをしたいのだが、これからそのための曲率ゲージをつくっては時間がかかりすぎる。というわけで使う検査道具は比較的簡単なものだ。具体的には孔の空いた紙。パンチカードの時に作った道具がこういうところで役に立つ。光を通して、焦点にうまく集まるように研磨角度を調整する。だいたいでいい。精密にやりすぎるとザイデル収差やら色収差について扱わねばならない。まあそういうわけで製品はレンズに合わせるとしよう。研磨剤については硫酸鉄の熱分解で得られる粉末状の酸化鉄(III)を使う。硫酸をある程度の量生産できる技術を作っておいてよかった。

 

あとは磨いて、磨いて、磨くだけだ。それに比べれば顕微鏡の鏡筒を作るのは簡単である。一つ作ってしまえばコピーができるまではそう時間はかからないだろう。先に完成品を見て、実用性を飲み込んでから作るという方法は技術を加速させるのには便利だ。基礎研究が無視されがちというデメリットはあるが、まあそれについても後でフォローすればいい。



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基準

印刷物管理局登録番号2が納入された。衙堂のまとめた収穫報告である。これは結構な数刷られることになるので確認作業は部下にある程度投げる。私とケトだけではさすがに追いつかなくなってきたのだ。

 

「それで、進捗は?」

 

私は目録に使う手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)に孔を開けながらケトに聞く。まだ2枚しかないが、今後もっと増えていけば役に立つだろう。

 

「順調です。今日中には終わるかと」

 

「それはよかった」

 

「……それと、顕微鏡の話ですが」

 

「ん?」

 

顕微鏡とは言っても、適当にレンズを組み合わせて黒く塗った紙の筒で固定しただけのものだ。30倍に拡大して見ることができるが、倍率だけであればアントニ・ファン・レーウェンフック型のほうがいい。棒状の硝子(ガラス)をうまく炙るなりしてレンズに使う硝子(ガラス)球を作るのはこの世界の技術でも簡単にできる。あとは螺子(ねじ)とかを利用した試料置きがあればいいのだが、別に必須ではない。これであの苦労してレンズを削って作った顕微鏡よりも性能がいいのだ、少し悔しくもなる。ではなぜこの形にしたかと言えば、加工物の観察にはこっちのほうが便利そうだったからである。

 

「書字生や細工師から注文が入っているようで」

 

「少し意外だ」

 

初期の顕微鏡はあくまで道楽のためという側面が強かった。科学というか工学的に実用された初期の例としては粗粒陂(ソルバイト)に名を残すヘンリー・クリフトン・ソービーの鋼の観察がある。ただこれは19世紀中頃で、ロバート・フックがMicrographia(顕微鏡図譜)を出版した1665年から200年近く経っている。まあレンズの問題とかはあっただろうが、それでも多くの人は小さな世界の実利的な可能性に長く気がつかなかったのだ。それなのにこの世界の人々がそこに着目するのは少し奇妙だ。

 

「文字版を作るために使う木版や銅型の作業用に、とのことです」

 

「本当かなぁ」

 

「……疑う理由があるんですか?」

 

「いや、すまない。ただこれ作るのも楽じゃないし改良も必要だしな……」

 

この城邦にはあまり硝子(ガラス)細工の職人がいないのだ。ただ、老眼鏡とか拡大鏡とか望遠鏡とかの需要が増えれば行けるかもしれないし、商会が面白い市場だとみなすかもしれない。まあこれについては後々考えよう。

 


 

私の作業空間となっている図書庫の空き部屋で、良質な鋳鉄の棒材を丁寧に磨き上げる。正確な水平面と直角を出すテクニックはたぶん今のところ私以外には使えない。ヘンリー・モーズリー以来精密な平面を作るために使われる手法、三面摺りだ。ただ彼が使ったような紺青はないのでよくすり潰した酸化鉄(III)を使う。レンズを作るときにも使った、赤い色をした微細な粉末だ。これを塗った板にまた別の板を載せて、ゆっくりと垂直に持ち上げるとそれぞれの板の盛り上がっているところに顔料が濃く残る。そこを削って、また同じように摺れば次に高い場所がわかる。もちろん私が適当にやるのでは精度としてはいい加減なものだ。が、実際の測定における誤差を考えれば最初の基準に使うには十分だろう。まあ、この手の細工は父の会社に遊びに行った時に色々と教えてもらったので手は思ったより素直に動いてくれた。

 

私が作っているのは原器だ。トレーサビリティ、つまりは「オリジナルのコピーのコピーのコピー」といった形で正確性を保証するための過程において、一番最初にあるもの。白金(プラチナ)-イリジウム合金で作られたメートル原器はたしか6桁の精度を出していたが、私が作っているのは3桁もあれば十分だということにしている。最初から無駄に基準を高くしても意味がないしね。あとこれぐらい精度が低くていいなら自重によるひずみや熱膨張についてそこまで考慮しなくていいのもある。

 

そうやってできた成形済み棒材を、顕微鏡を覗き込みながら丁寧に掘り込んでいく。そうして表面にできた二つの十字の溝の中心を結んだ長さには基本文字高さというそっけない名前をつけているが、今後印刷物管理局規格における長さは基本的にこれで表されることになるのだから重要だ。なお法律についての問題もばっちりだ。税収に関係しないものであり、取引において公正であることが保証されるのであれば問題なく使えるようで。

 

まあそうやって集中していると、澄んだ金属音が聞こえた。入室前に鐘を鳴らすように、と扉に書いておいたのでちゃんと読んでくれたのだろう。なおこの鐘は市場で買った。音が気に入っている。

 

「入っていいよ」

 

私が声をかけると扉が開く。

 

「キイさん?そろそろ夕方ですが」

 

顔を出したのはケトだった。

 

「……そうだね。帰ろうか。ちょうど一区切りついたところだ」

 

布で原器に油を塗る。錆は恐ろしい。

 

「最近、少し気になることがあって」

 

私が道具を整理していると、ケトは言う。

 

「何でしょう」

 

「いろいろとやりすぎではありませんか?」

 

「……確かにね」

 

印刷物管理局局長の座を手に入れ、金銭に余裕ができたのもあるだろう。それを加味しても、私はかなりの無茶をして、見方によっては危ないことをしている。

 

「キイさんの健康と生命に影響がない限り、基本僕は止めはしません。けれども、理由があるなら聞いていいですか?」

 

「なら、帰りながら話そうか」

 

荷物はまとめ終わった。最近は帰る時間が違うことも多かったので、改めて話すのは少し久しぶりかもしれない。



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土台

「今の時期、やっぱり寒いね」

 

「そうですね」

 

さすがに私は奮発して革の靴を履くようになったが、ケトは相変わらず裸足だ。元気のいいことで。とはいえこの世界の多くの人がそうなので仕方がない。図書庫の城邦では靴も珍しくはないが、多数派ではない。街を歩いている人を見ると時々見かける、というぐらい。

 

「それで、最近頑張っている理由を聞いてもいいですか?」

 

ケトは繋いでいる温かい手を軽く握りながら言う。

 

「……そうだね」

 

息を吐く。白くなるほどではないが、外套の隙間から入ってくる風は少しこたえるな。

 

「私がここしばらくで作ってきたもの、挙げられる?」

 

「印刷機ですよね、それに電池と発電機と電気鍍金(メッキ)に必要ないろいろ。謄写版、割鋳型、あとは紙の大きさの規則。手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)に、顕微鏡。こんなものですか?」

 

「思ったより作ってたな……」

 

改めて考えると後世の科学技術史研究者が軽く発狂しそうなラインナップだ。

 

「どれも、この城邦だけではなくもっと広い範囲に影響を与えかねないものです」

 

「そう。例えば人の考え方とかも替えてしまいかねないね」

 

「……何となくわかりますが、具体例を聞いてもいいですか?」

 

「私がかつていた場所の話なら、でいいかい?」

 

「はい」

 

少し記憶を探る。いくつか話すネタはあるけどうまく翻訳できる語彙があるものとなると……。

 

「例えば調べたことや実験の結果を共有するという考え方が生まれたから、多くの人が協力できるようになった」

 

「一人ではできないことを、みんなで、というわけですか」

 

「そう。それに例えば顕微鏡なんかは、人間がよりよく観るための方法を自分で作り出すことができると考えるきっかけを作った」

 

「本当にそうでしょうか?」

 

「というと?」

 

「外側でどんな装置を使っても、結局見るのは目を通してにしか過ぎません」

 

「確かにそうだね。実際、顕微鏡を覗いた人の中には本当には存在しないものを見てしまった人もいる」

 

有名なのは前成説における精子の中の小人(ホムンクルス)とかだろうか。メソソームは……ちょっと違うな。

 

「それでも、複数の方法で観察できるというのは確からしさを上げる役に立つと私は思うよ」

 

「それについては同意します」

 

よし。まあこういうふうにケトが突っかかってくれないと話す張り合いがないからな。

 

「私が、というか私たちが使っていた自然を知るための方法は、様々なやり方で観察を行って、調べたことをまとめて整理して、それを多くの人と共有できるようにすることを基本にしていた」

 

「それをするための、いろいろな準備……」

 

「そういうこと。それに、土台を作っておかないと後が怖いしね」

 

「どういうことです?」

 

「知識というのは、積み重ねだというのはいい?」

 

「ええ。文字を学んで、単語を理解できるようになって、文章が読めるようになる、というようにですよね」

 

「そう。他の分野でもそれは成り立つ。そういう積み重ねの土台を、私はないままで色々なことをしようとしているのはわかる?」

 

「ええ。だから危なっかしいと思っているのですが」

 

反論はできないので、話の続きをしよう。

 

「例えば電気は、私が知る歴史では何度も実験が繰り返されてその性質が明らかになった。けれども私は最初から知っているから、発電機を迷うことなく作れた」

 

「ああ、土台がないということは、例えばキイさんが今いなくなったら、発電機の先を作る事ができなくなる……」

 

「もちろんトゥー嬢みたいな人であれば不可能ではないだろうけど、それでも遅くはなる。逆に正解を出してしまった分、成長が遅れることだって考えられる」

 

「そうですかね……?」

 

「これについては、正直私もわからない」

 

私は少し意識して、ケトに合わせて歩幅を小さくする。

 

「ただ、可能性を削ることはしたくない」

 

「……わかりました。キイさんの目標は、キイさんがいなくなっても何かを生み出し続けられるようにすることですか?」

 

「それが一つだね。あとは純粋に私一人でできることには限界があるので誰かの成果を受け取りたい……」

 

「なんというか、神話に出てきそうですね」

 

「私が?」

 

「はい」

 

神話となると文化英雄とかかな。

 

「ケトくんは私がかつていた場所の神話に興味がある?」

 

「聞いてみたいですね」

 

「むかしむかし、先を見るもの、と呼ばれた神の一人がいました。人間たちが暗がりで寒がっているのを見て、彼は神々の持っている力を人間に与えます」

 

「……火、ですか?」

 

「その通り。知ってた?」

 

「いいえ。ただ、僕たちが使っていて、キイさんが作ろうとしているものは、火みたいに危ないけれどもとても役に立つのでしょう?」

 

なんというか、先を読まれると少し腹が立つな。ケトの手を強めに握る。

 

「そう。代わりに先を見るものは神々の長の怒りによって罰を受けた。岩山に縛り付けられて、内臓を鳥に食われるという罰を」

 

「うわぁ……」

 

少しケトが引いているがこの世界の神話もなんだかんだいって似たようなことやってるからな。

 

「彼は神として死なない力を持っていた。だからいくら苦しくても死ぬことはできなかった」

 

「……キイさんは、そういうことにはなりませんよね」

 

「さぁ」

 

私は少し笑いながら言う。科学者の、あるいは技術者の責任というやつは問おうと思えばいくらでも問える。ただ、それ以上に利益を人間に与えてしまうからこそ、こういう職業は生き残り続けているのだ。



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第7章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。出てきた知らない単語に引っかかって読むのに時間がかかってしまうような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


準備

本当に官僚組織か?疑いたくなるほどの手際の良さだ。

実際明治期の日本では本当にこれくらいのテンポで色々なものが進んだ。当時の年表を見るとかなりつめつめである。

 

何人かがああ、となにかを察したような目を向けているような気がする。

この時には愛人の秘書を侍らせている上司だと思われていたということ。

 

謄写版

天球の北極点あるいは南極点を指すグノーモンの角度は水平面から55度といったところ。

グノーモンは平行四辺形から合同で小さい平行四辺形を切り抜いたブーメランみたいな形の図形を差したり、日時計の影を作る部分を意味したりする。ここでは後者。

 

ここから北緯あるいは南緯は35度ぐらいと出る。明石市ぐらいか。私の読み取りの誤差を考えれば北は八郎潟、南は鹿児島と沖縄の境目あたりか。

北緯35度、東経135度にあるのは兵庫県西脇市だが、キイは明石市立天文科学館の記憶が強いので明石市について言及している。なお北緯40度東経140度は八郎潟を干拓して作られた大潟村内にある。また北緯30度は第二次世界大戦後に米軍の占領境界線として使われた。北緯30度より南の吐噶喇列島や奄美群島も鹿児島県なので、キイの地理知識はあまり正確ではない。

 

具体的には後世の研究者が一個一個保護紙で帙を手作りすることになる。

(ちつ)とは紙製の箱のこと。弱アルカリ紙で作られた箱に入れることで紙の中の酸が中和されてある程度長持ちするようになる。

 

比率

ただまあこういうことを考えるとレオナルド・ダ・ピサだろ、とか欧州中心主義を捨てて正しい発見者の名前で呼ぼうという野暮なツッコミがどこからか聞こえる。

Leonardo da Pisaは「ピサのレオナルド」の意味。ピサ共和国は商業国家で、レオナルド・ダ・ピサが生きていた頃にはかなりの勢力を誇っていた。ただしピサのドゥオモ広場にある斜塔がたぶん何よりも有名。なお「フィボナッチ」とはfilio Bonacij、「ボナッチの子」という意味であり、この名前で呼ぶのはあまり正確ではないが有名になりすぎたので使われている。

 

フィボナッチ数列と呼ばれる数列はインドにおいて音韻に関わる計算のもとで得られたという記録がある。短い音節とその倍長い音節を合計してある音節分だけ並べる組み合わせを考えると、そこにはフィボナッチ数列が現れるのだ。

 

白銀比はかつての世界で広く使われていた紙の規格、具体的にはA版、B版、C版に使われていた。

実際の正しい呼び名は「A列」「B列」「C列」。JIS(日本産業規格)のB列は江戸時代に作られた美濃紙の大きさをもとに定めた美濃判を基準として作ったものであり、B0の面積が1.5 m2になるよう作られている。一方でISO(国際標準化機構)が定めた規格におけるB列はA列を等比分割するようにつくられているのでB0の面積は1.414 m2となっている。

 

確かアメリカ合衆国という非常に文化が遅れた国家があって、そこではインチという蒙昧な単位を基準とした悍ましき紙の規格が使われていたはず。

いわゆる「レターサイズ」を定めたANSI(米国国家規格協会)の規格では縦11インチ、横8.5インチと縦横比が白銀比に比べて正方形に近くなっている。この寸法になった起源はよくわかっていないらしい。ただ文化の優劣というものは存在しないというのが今日の文化人類学の基礎理解であるため、ここでのキイの発言はよくない。

 

$n$ は自然数、もとい正の整数とする。

集合論的に自然数を定義すると、最初の一歩として空集合を使うために0が最小の自然数であるほうが都合がいい。一方で歴史上数は1から数えられるのでこの観点からは1が最小の自然数である。ここらへんは前提を揃えないと面倒になるので、数学をやっている人はわざわざ非負整数という言葉を使うことがある。

 

確かこの漸化式を閉じた式にするのは一応高校数学の範囲でできるはずだが、難易度としては最難関の大問一つぐらいには相当するし答えを知っていればすぐ書けてしまうので問題としては面白くない。

高校数学の範疇では $F_n = F_{n-2} + F_{n-1}$ を $F_n - \alpha F_{n-1} =k(F_{n-1} - \alpha F_{n-2})$ と変形し、等差数列とみなすことで一般項を求めることができる。解き方を知っていれば簡単な二次方程式を解いてパターンに当てはめる作業となるが、知らないと難しい。ちなみに実際に解くと

 

$$F_n = \frac{1}{\sqrt{5}} \left\{ \left( \frac{1+\sqrt{5}}{2} \right)^n - \left( \frac{1-\sqrt{5}}{2} \right)^n \right\}$$

 

となる。黄金比 $\phi$ が入っているのがわかる。

 

なお、世の中にはこのフィボナッチ数列の閉じた式を母関数を用いて計算するシーンをまるまる一章つかってやっている「数学ガール」という小説が存在する。おもしろいよ。

 

これは黄金比の利用例の一つとされるパルテノン神殿を作り上げたとされるペイディアス(Φειδίας)の名から取ったものだったはず。

19世紀から20世紀にかけて活躍した工学者・数学者のマーク・バーによってこの記号が当てられた。機械式計算機で対数を求める時に使ったらしい。それとペイディアスがパルテノン神殿を作ったかもパルテノン神殿が黄金比で設計されたかもあやふやである。ふわふわ。

 

手続

データー印である。

今でも事務の人が使う日付が入るハンコのこと。消印とかはそう。

 

かつての世界では絹布(シルクスクリーン)を使っていたが、ここではある種の貝から取れた繊維を使っているらしい。

モデルはハボウキガイ科の貝が岩などとくっつくために出す足糸。地中海地域ではこれを繊維として使った製品があった。

 

鉄細工

野口英世は本来梅毒スピロヘータの研究で評価されるべきだが、死因でもある黄熱病の研究で知られているのはそういう「物語」が作られたからというのもある。

実際、彼は北里柴三郎や志賀潔と比べて後世評価されるほどの成果を残していたかと言われるとうーんとなる。

 

そもそも数という概念が薄い児童に教えるのだから様々な工夫が凝らされている。

水道方式や量の理論として知られる手法があったりする。まあここらへんはなんかよくわからない哲学に走って外延量と内包量を無理に切り分けようとしたりかけ算の順序をやけに重要視したりするのでそれはそれで困るのだが。

 

鑽孔

切符を切るように鋏をぱちんと鳴らすと、紙の一部が切り取られる。

実際パンチカードの由来の一つは切符に入れられる切り込みである。乗客の特徴に応じて鋏を入れる場所を変えていたのを知ったハーマン・ホレリスが孔の空いた厚紙を用いて統計処理を行うことを思いついたとされる。

 

手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)、あるいは縁欠紙(エッジノッチド・カード)

ここらへんについては 平山健三, 増山元三郎, 中村重男. パンチカードの理論と実際. 南江堂, 1957. をかなり参考にしている。国立国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービス対象書籍なので、みんな登録してオンラインで読もう!

 

検索

自分とは異なる意見を飲み込んだ上で、関係性を踏まえて行動を制止できる。

多くの場合、誰かにとって愚かに見える行動でもその行動を選択する人にとってはそれなりに合理的なものだったりする。これを勘違いして「あいつは馬鹿だから」などと相手を否定したり、あるいは「間違っているから教えてやろう」と上から目線で行動するとろくなことにならない。ただ対話ができる相手かどうかは問題で、その前提がないとなにもできない。辛いところだ。

 

おや、一つ多い。

単純に$2^3$なので$8$。

 

7個の孔に対して3つの欠けとなると、35通りか。

7つのものから3つのものを順番を問わず選ぶとするとその組み合わせは ${}_{7} \mathrm{C}_{3} = 35$ となる。$\require{amsmath}\binom{7}{3}$ と書く流儀もあるが、これは数学でわざわざ $\mathrm{C}$ を書くのが面倒なぐらいに「組合せ(Combination)」が登場するからである。なお名詞として使うときには「組み合わせ」を、数学用語であることを強調するときには「組合せ」をここでは用いているがあまり一貫しているとは言えない。

 

亡失技術

まあ国勢調査の統計が次の国勢調査までに終わるぐらいには便利になるか。

ハーマン・ホレリスの作ったパンチカードシステムがアメリカ合衆国の国勢調査局に採用されたのは、10年に一度の国勢調査が近づいているのに前回分の集計が終わっていなかったので開いた効率化コンテストで選ばれたからである。

 

硝子

ガラスは奇妙な性質を持つ。一定の温度で固体から液体に変化するのではなく、ゆっくりと柔らかくなっていくのだ。

定義にもよるが、ガラスは「液体」と呼べる場合がある。なお古いガラス板の下の方が厚くなっていたのでゆっくりと「流れて」いるのだという話もあるが、ピッチドロップ実験に使われるようなピッチよりも理論上の粘性が大きいのでそうそう「流れる」ことはないという研究結果がある。実際には製造の際厚みに不均衡ができたので、厚いほうを下にして設置したというのが有力な説である。

 

試験勉強で忙しい生徒にカリ球を作らせるなよ。

カリ球はユストゥス・フォン・リービッヒによって作られた実験道具。水酸化カリウム水溶液を中に入れておくことで、通過しようとする二酸化炭素を溶かし込むことができる。反応前後の質量を測定して差を求めれば吸収した二酸化炭素の量を求めることができるので、有機物の組成分析に用いられた。

 

参考までに、Usselman, Melvyn; Rocke, Alan; Reinhart, Christina; Foulser, Kelly. Restaging Liebig: A Study in the Replication of Experiments. Annals of Science. 2005, vol. 62, no.1, p. 1-55. (リービッヒの再演 : 実験再現についての研究) によれば、プロのガラス職人から学んだ学部生が50時間の指導と練習で少し大きめのカリ球を作ることに成功している。この話を作者が知ったのは化学史学会編『化学史への招待』内Section 3「リービッヒと有機分析装置」からである。

 

精密にやりすぎるとザイデル収差やら色収差について扱わねばならない。

ザイデル収差はレンズの形状に由来する焦点のズレであり、色収差は光の波長(つまりは色)ごとに屈折率が違うところから来る焦点のズレである。色収差については眼鏡を使っている人であればレンズの縁越しに光源を見ると少しだけ光の色が赤や青にボケてみえるやつ、と言えばわかるかもしれない。ここを本気で修正しようとすると様々な素材でできた大量のレンズを複雑に組み合わせる沼が待っている。

 

研磨剤については硫酸鉄の熱分解で得られる粉末状の酸化鉄(III)を使う。

弁柄(ベンガラ)と呼ばれるもの。赤い顔料にもなる。本来の製造工程はかなり複雑だが、キイはおそらく意図的に単純化している。

 

基準

科学というか工学的に実用された初期の例としては粗粒陂(ソルバイト)に名を残すヘンリー・クリフトン・ソービーの鋼の観察がある。

「粗粒陂」は本多光太郎による当て字。そるびーと読む。鋼を焼入れした後にある程度時間をかけて加熱する「焼戻し」という過程で生まれるのがこのソルバイト。

 

白金(プラチナ)-イリジウム合金で作られたメートル原器はたしか6桁の精度を出していたが、私が作っているのは3桁もあれば十分だということにしている。

それ以上の精度を出せるようになるとその方法が採用される、というように単位の定義は更新されてきた。

 

土台

有名なのは前成説における精子の中の小人(ホムンクルス)とかだろうか。メソソームは……ちょっと違うな。

前成説は16世紀から17世紀にかけて存在した、卵や精子の中に最初から小さな器官が備わっているという仮説。ニコライ・ハルトゼーカーは精子の中に「小人(ホムンクルス)」がいることを「発見」し、そのスケッチを残している。こういう変なものを観察したがるのはなんというか当時の顕微鏡利用者(多くは男性)に共通する性格である気がする。

 

メソソームは細菌の細胞膜を電子顕微鏡観察した時に見られる入り組んだ構造であり、発見当初は細菌の特徴的な小器官であると認識されていた。しかしその後研究が進み一般的には観察のために固定する過程で発生する表面構造であるとされるようになったが、一部の細菌にはこのような構造を持った小器官が存在すると主張する研究者もいる。こちらは少なくとも小人(ホムンクルス)と違って観察対象に存在はした。

 

むかしむかし、先を見るもの、と呼ばれた神の一人がいました。

 

ギリシア神話のプロメーテウス(Προμηθεύς)の名前の解釈は、一般的に「先に知るもの」「先見の明あるもの」とされる。



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第8章
蒸風呂


「調子は良いようだね」

 

来客だとケトに言われて誰かと思えば煩務官である。長く顔を合わせていなかった気がするが、私が衙堂で彼の部下として働いていた時からまだ半年程度しか経っていないはずだ。やることはいくらでもあるので時間の進みが遅い気がするのはいいことかもしれない。気がつくと終わっていた学生生活とかは嫌だ。いややることが多すぎて授業がなくなる夏休みを待ち望んでいた時代を思い出したわけではないが。

 

「お久しぶりです」

 

「変わりないようだな、キイ嬢」

 

「そちらこそ。どうです、衙堂は」

 

「優秀な司女がいなくなって仕事が大変らしい」

 

「それはそれは」

 

まあ最初は世間話。ケトがお茶を持ってきてくれたので飲もう。これは炒った麦とある種の木の皮の抽出物だ。かなりシナモンの香りがするが、本当に私が知っていたシナモンかは知らない。ここらへんはもう少し博物学の知識があってもよかったな、と思うところだ。

 

「まあ、それだけの働きをしているようだが」

 

「知っているのですか?」

 

「色々と噂は聴こえてくるものだよ」

 

まあある程度意図して情報を流しているのはあるからな。なによりここに来ているのは全員スパイみたいなものである。

 

「……それで、君に特別な伝言がある」

 

「ほう」

 

私が隣で座っていたケトを見ると、彼は立ち上がろうとした。

 

「いや、君も聞いて構わない」

 

私がケトを手で制すと、素直に座った。ありがたいな。機密保持というか知るべきでないことを聞いていなかったということにしておくのは大切だ。後々の責任問題とかもある。

 

「わざわざあなたが顔を出して言わねばならないという時点で、嫌な予感がするのですけれどね」

 

私は苦笑いを浮かべ、茶をすする。

 

「そう言うな。これでも城邦のために働く身だ、労を惜しみはしないよ」

 

衙堂ではなく城邦だって?聞きたくないなぁ。とはいえ図書庫の城邦、というよりそこの政府機関である頭領府には印刷物管理局の後ろ盾になってもらっているし何人か人も派遣してもらっているのだから聞くしかないが。

 

「どういう話です?」

 

「█████、という言葉に心当たりは?」

 

「いいえ」

 

「……字引に書かれているような意味であれば、注意して何かをよく見るもののことです」

 

ケトが耳打ちしてサポートをくれる。ありがたい。監視者とか刮目とかそんな感じのニュアンスだろうか。

 

「そうか。なら覚えておくといい」

 

「となると、手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)に興味があるのですか?」

 

「……どうしてそう考える?」

 

煩務官の目がギロリとこちらを向く。

 

「見たものを整理し、覚えておくのは簡単ではないからですよ」

 

「……それがわかっているなら、話は早そうだ」

 

煩務官はそう言って、私にある住所を教えてくれた。

 


 

異文化に触れる中で、なかなか慣れないものはある。それが特に生理的な色々に関わっていればなおさらだ。

 

「……どうしたんですか?」

 

悩んでいると上裸のケトが私に声をかけてくる。

 

「……私のいたところでは、何も着ていない異性の身体を見ることも、異性に裸を見られることも、あまりなかったんだよ」

 

いや確かに古代ローマや江戸時代において混浴は一般的なものだったし、私がいた時代でも公衆浴場が性別分離されていない地域がヨーロッパにあったはず。どこまでの露出が性的、あるいは不道徳的とみなされるかは時代によって違いがある。いやこういうのはどうでもいいんだ。

 

「……確かに本でそういう地域があるとは聞いていましたが、キイさんがそういう場所の人とは」

 

「だからちょっと、気が重くてね」

 

「別に僕は気にしませんよ」

 

「その発言は私にとってよろしくないので今後注意して?」

 

いやもちろんケトがそこまで悪い訳ではないし、ここでは私がこっちの文化に馴染むべきなのだが、それはそれとしてこういう言い方はよくない。

 

「……はい」

 

ケトはわかってくれたようだ。まあ会話場所として蒸し風呂が合理的なことには間違いないな。ある程度閉鎖された空間で、物の持ち込みが限られる。つまりは話した証拠が何も残らないということだし、武器の持ち込みもできない。ある種の会談にはもってこいの場所、ということになる。

 

「まあ、いいか」

 

私は帯を解き、服を脱いで扉を開けた。

 


 

この世界の蒸し風呂に入るのは初めてだった。基本的にこの城邦では水資源が潤沢というわけではないし、文化的にも湯船は存在しない。かわりに一部の人は蒸し風呂に入る。私は昔からあまりサウナが好きではなかったので行かなかったが。

 

「ああ、新しい人が来た」

 

中にいた二人の女性のうち、年上の方の一人が言う。っと、発言していない方の顔は見たことがある。というか印刷物管理局の局員だ。確か元頭領府の蔵計員。

 

「あ、こんにちは」

 

私は局員に挨拶をする。別にここでは上下関係はない。というか肺に入る空気が独特だ。木と、なにか薬草っぽい匂い。蒸し風呂ってこんなもんだったか。

 

「……どうも」

 

彼女は少し硬く、緊張しているように挨拶を返した。

 

「ところで、彼から何か聞いていない?」

 

年上の女性が、いつもこのくらいの年齢の人が話すように、軽く世間話でもするかのように言う。私が少し首をひねると、ケトがかわりに答えてくれた。

 

「刮目、ですよね」

 

「そうね」

 

こういう話に慣れているのだろう。ますます嫌な予感がしてきた。

 

「さあさあ座って。立ったままでは話はできないわ」

 

私とケトは椅子に座る。ここでは床に座らないんだな。スツールのような小さい三本脚の腰掛け。決して広くないこの熱い空間は、4人もいれば結構圧迫感が生まれる。

 

「念のために確認するわよ。あなたは?」

 

「私はキイ。印刷物管理局局長。こちらはケト。私の部下です」

 

「なるほどね。それで、キイ嬢。城邦について、少し話がしたいの」

 

彼女は微笑んだ。頭領府から出向した局員が緊張しているということを加味すると、この人は頭領府の中でもそれなりの地位を持っているのだろう。そういう人があくまで秘密裏に顔を合わせ、記録も残さないとなるとまあそりゃあどんな仕事をしているかは限られる。

 

この女性は図書庫の城邦における諜報機関、そのある程度上の方の人間ではないのだろうか?



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国家

冷えていた身体が暖まってきたのもあって、思考はきちんと回る。

 

「城邦、ですか」

 

この語が表す範囲はかなり曖昧だ。もちろん城壁内の領土と住民、その中で権力を握るある程度複雑な政治的システムと、城邦の外側と取引を行うような外交システムは存在する。とはいえ私が知っているような近現代的国家とは異なる。かつての世界にあったそれは民族主義や、ウェストファリア体制と呼ばれる主権国家という概念や、二十年の停戦を挟んだ世界大戦によって生まれた国際機関なんかに強く依存した概念だ。ここにはそういったものはない。似たようなものはあるが、同一ではない。正直ここらへんは専門外だ。中学校時代にちらっと読んで、大学時代に教養として触ったぐらい。それも大学時代の先生が結構思想が強めだったせいであまり真剣には聞いていなかった。今更後悔しても遅いが。

 

「そう。私はこの城邦を守らなくてはいけない立場なのよ」

 

聞き取るだけであれば、このレベルのニュアンスは理解できる。

 

「しかし剣を振るうのみが守る手段ではない、と」

 

「その通り。それがわかっていてくれて嬉しいわ」

 

安全保障は私もいくらか触ったテーマだ。例えば技術や資源の国産化。あるいは技術的相互依存。それは別に軍事力によるものだけではないし、軍事力だけでどうにかなるものではない。もちろん軍事なしに安全保障はまず成り立たないが。

 

「あなた達は知ることを大切にしている、と考えていいでしょうか」

 

「ええ。そしてあなたについても知りたいの」

 

その微笑みに、私の背筋が少し冷える。何かヤバい違和感がある。不気味の谷のような、少し古いコンピュータ・グラフィックスを見るような、そういったもの。たぶん普通は動かさない方法で表情筋を使っていることに由来しているのだろう。一種の作り笑いだ。

 

「……調べて、いないのですか?」

 

「調べさせてもらいました」

 

今まで黙っていた局員の女性が口を開く。

 

「ハルツ嬢にも話を伺った上で、私の出した結論は……わからない、ということです」

 

優秀なエージェントだ、と私は恐ろしさを感じる。わからないことをわからないと報告できる人がいて、それを許容する組織がある。

 

「待って下さい。どうしてハルツさんにまで」

 

ケトが言う。

 

「ああ、それは簡単よ。あなたたちが衙堂に来た時の紹介状を知っているから」

 

はいはい。わかってはいましたが煩務官もそちら側か。

 

「……わかりました」

 

ケトが少し感情を込めた声で言う。まだ自分を抑えるのが難しいのだろう。私は先を読んで予測しているから落ち着いていられるだけでたぶんケトよりも心理的には不安定な気がするが。

 

「あなたについて教えてもらっても?せめて、なんと呼べばいいか」

 

私は女性の目を真っ直ぐ見据える。

 

「そうね、ツィラとでもしましょうか」

 

発音が少し難しい。

 

「ケトくん、どういう意味?」

 

「……秘密、です」

 

私が声をかけると、不信感を隠せない声でケトは言う。

 

「それは私に意味を隠したいって意味ではなく、意味そのもの?」

 

「はい。古帝国語ですが」

 

「よく知ってるわね」

 

ツィラさんが微笑みを変えずに言う。

 

「……これでも、色々学んでいるので」

 

そう返すケト。いや、そこは問題ではない。この会話で相手は私がある種の教養が欠けている人物であるということを認識した。これは局員経由で得られていたものだとは思うが。

 

「まあ、こういうふうに私は東方通商語には不慣れなんですよ。なので彼がいないと、特に特別な単語の出てくる会話は難しいですね」

 

「なら、簡単に行きましょうか。あなたの知識が欲しい」

 

「かなり色々出しているとは思いますが」

 

「ええ。わかっている。けれども、もう少し危ないもの」

 

「そういうものがあるなら作っていますよ」

 

「これは一種の取引よ。私たちは理由を説明する過程を省略して、ある程度の予算を使って、あなたの計画を実行させることができるの」

 

「……一応の確認ですが、あなたは刮目する人達の中でどれくらいの立ち位置にいます?」

 

「一番上。頭領と直接話せるぐらいの立場、と言えばいい?」

 

ああ、そりゃ強い。諜報機関のトップがきちんと上と繋がっている。私の知るスパイマスターはまず男性だったので少し意外だが、この世界の女性の立ち位置は私の知る歴史とは異なるものだ、と頭を切り替える。

 

「十分です。それで、どこまで話せばいいですか?」

 

「例えば、どんなものがある?」

 

「……この会話を聞いている人は?」

 

「四人だけ。それは保証する」

 

ツィラさんの言葉に私は息を吐く。

 

「そうですね。一つ挙げるとすれば数百万歩離れた場所であっても、そこからの知らせを」

 

指を鳴らす。

 

「この音と同じぐらい速く伝える方法とか」

 

「面白そうね。どうするの?」

 

「電気についてはご存知ですか?」

 

「ええ。最近薬学師の気に入っている、あれでしょう?あなたと仲の良いトゥーヴェ嬢が広めているようで」

 

私は苦笑いが浮かびそうなのをなんとか抑えた。一体どこまでの情報を握っているんだ?私に関連しているから調べたのもあるだろうが。それに発音も綺麗だ。

 

「あれを使います。電気の伝わる速度はかなりのものなので、銅の線を遠くまで伸ばせばいいわけです」

 

「それは、あなたの知識がないと作れない?」

 

「おそらく十年は無理でしょう」

 

「……費用はどれくらいかかる?」

 

「不明です。準備にも時間はかかるでしょう。最初は城邦の中でやり取りをするのが精一杯だと思います」

 

「十分よ。伝令を走らせるよりも確実なのよね」

 

「銅の線が切られれば終わりですが」

 

「定期的に連絡を送って、途切れたら行動すればいいのよね」

 

「……はい」

 

基本的な通信プロトコル確立まで話してもいいんじゃないだろうか。

 

「こういう話、もっと聞かせてもらえる?」

 

ツィラさんの言葉が恐ろしい。なんで私は初対面の人に、ここまで何もかもを話したくなってしまうのだろう。



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暗号

口が軽くなっているのは自覚しているが、ともかくこういう話を聞いてくれる相手というのはめったにいないのだ。乗せられている気もするが、別に隠す予定もない。

 

「そういうやり取りの方法は、ある程度公にするべきだと私は考えます」

 

「それは、どうして?」

 

ツィラさんが少し不思議そうに言う。確かに情報に価値があるならば、その通信を独占することは有意義に見えるだろう。

 

「それを特定の人々だけが使えるようにするよりも、多くの人が使ったほうが行き交う内容の種類が増えます」

 

「……なるほど、それを盗み聞きするのね」

 

「言い方は悪いですが、そうなります」

 

「けれども、それでは私たちの秘密もだれかが聞き耳を立てていれば気がつかれてしまうわよね」

 

「そういうものをうまく隠す方法、あなたたちならいくつかあるでしょう?」

 

ツィラさんが少し悪い笑みを浮かべる。今までの作り笑いとは別だ。たぶんこちらが本性。

 

「私たちの大切な秘密を、そう簡単に言えると思う?」

 

「なら私からいくつか言いますか」

 

なに、どの暗号も解読するのは不可能ではない。

 

「まずあまり知られていない言葉を使うもの。手紙などの文章に特定の語句を入れてそれを目印にするもの。文字をずらすもの」

 

「……あなたは、かつてそういう仕事をしていたの?」

 

「いいえ?」

 

ああ、まあこれくらいの水準だろうな、と私は考える。そもそも暗号というものは秘密裏に運んでしまえば、あるいはその文章を相手が暗号だと気がつかなければそこまで高度なものは必要としない。

 

「そうね、確かにそういう方法はある」

 

「誰もがやり取りの内容は隠したい。商者は品物の仕入れ値を秘密にしたいでしょうし、国のために働く人はそれぞれの隠し事をしている」

 

「……ええ」

 

「その秘密の多くを握れるとしたら?」

 

「……それぞれの人々が、それぞれの方法でやり取りを隠しているのは知っている?」

 

「知りませんが、そうでしょうね」

 

「それを全て暴くのは、やっていないわけではないけど、労力に比して得るものはあまりないわ」

 

「電気を使った通信であれば、少し上手くいくかもしれません」

 

「説明して」

 

頭の中で内容を整理しながら周りを見ると、ケトも局員の女性も真剣な表情だった。うん。

 

「わかりました。ああ、二人もわからなくなったらすぐに質問をしてください」

 


 

必要なのは秘密の範囲を狭めること。どのように暗号を作っているかのアルゴリズムではなく、そのアルゴリズムにおける「鍵」を秘密にさせるのだ。十分な計算力があればモジュラー算術と呼ばれる数学の計算を使った一方向関数を用いた暗号もできるが、それは解読がちょっと難しい。モジュラー算術自体はそう難しいものではない。イメージだけであれば「一番下の桁」だけを考えるような計算だ。6+7が3になり、2-5が7になる。7になるのは12-5と考えているからだ。これと素数の性質を組み合わせればRSA暗号、あるいはエリス=コックス=ウィリアムソン暗号が作れる。

 

とはいえここまでやる必要はない。重要なのは暗号化方式自体はオープンにしてしまうということだ。これであれば関係者を拷問しても得られる情報は少なくてすむし、情報が流出しないように見張るコストも抑えられる。

 

「……けれども、それには相手から見て強そうで、私たちから見れば弱いやり方で暗号を作るということになるのよね」

 

ケトによる単語創造も合わせて、私はどんどんこの世界にはない新しい概念を紡いでいく。

 

「はい。ただ、多くの人は表面上の難しさに気を取られるのではありませんか?」

 

「と、いうと?」

 

「例えば暗号化した文章がデタラメに文字を並べたような、読んでも意味が通じないものであれば十分秘密は守られそうだと考えてしまいがちです」

 

「……実際は、そうではない」

 

「ええ、一例を挙げましょう。文字を入れ替える方法を考えます」

 

そうして私は換字式暗号の簡単な説明をする。これはアルファベットであればaをlに、bをtに、cをaに……と文字を他の文字に置き換えていくものだ。そしてこれは、おそらく最初に解読方法が確立されたものの一つだ。

 

「このとき、よく出てくる文字があればそれは母音ではないかと考えられます。……母音についての説明は?」

 

「結構よ。……ここだけの話、私たちはその方法を使っている時がある」

 

「なら十分な量のやり取りされた文章があれば、ケトくんであれば読み解くことができるでしょう」

 

「……そんなに彼を信頼しているのね」

 

「決して難しくはない、という意味ですよ。彼の能力は当然ありますが」

 

ケトは少し身体を縮めていた。ああ、緊張させてしまったか。とはいえ場合によってはケトが有能であることを示しておいたほうがいいか。もし手を出した場合私の能力は一気に落ちるぞ、という意味で。

 

「つまり、あなたはこう言いたいわけね。電気通信機を多くの人が使えるようにして、そこで使うための暗号として文字を入れ替える方法を推奨する……」

 

「必要であればその方式はあなた方が使っていたもの、という噂を流してもいいかもしれません」

 

「そうすれば重要な情報を私たちは盗み聞きできる」

 

「ええ。しかしこれが一番威力を発揮するのは長距離の、例えば城邦と城邦を結ぶようなやり取りが確立された時です」

 

「……そのための、外交について私たちに動け、と?」

 

「そこまではまだ言っていませんが、そうしていただけるなら本当にありがたい。私にはそういった繋がりがないので」

 

この城邦が外交的に少し危ない綱渡りをしていることは知っている。それを実現させているのがツィラさんの機関、というかもう少し緩やかなネットワークであるというのが私の仮説だ。もちろん彼女が真実を教えてくれることはないだろうが。



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外交

この世界の、というよりもこの城邦の外交というものは、私の知る歴史とは少し異なる経緯を持って発展した。やはり大きな転換点はこの地域一帯が古帝国の支配下に置かれたことだろう。これによって外交は横の問題ではなく上下の問題となった。例えば隣の地域となにか問題を起こした際に古帝国の代表が仲裁に入る、という形が取られた。その意味で、古帝国という形態自体が国際機関的な側面を持っていたと言えるだろう。

 

しかしその後の古帝国とその整備したインフラの崩壊によって外交の必要性が出てきた。この世界にも当然戦争はあるが、古帝国時代に行われた武装解除政策の名残として今日でも図書庫の城邦では一定以上の刃渡りがある刃物の所持が業務・祭事に関する例外を除いて禁じられていることなどの影響もあってか、私の知る中世から近世にかけてのヨーロッパに比べれば血生臭さは少ない。まあだからこそ社会の混乱が少なく、不均衡な富の蓄積が起きているという側面はあるが。

 

とはいえ平和の裏には不幸な事故や局所的な小競り合いがしばしば起こっている。それは歴史書には直接書かれていないが、私の異世界由来の知識ベースの分析にケトのサポートを合わせればこのくらいは読みとれる。図書庫の城邦はしばしば戦争に兵を送っているが、支配地域が戦場になったことはほとんどない。城壁も基本的に古帝国時代のものを修理し、時々改築して使っている程度。軍事力も警察組織としての巡警が有事に再編されて徴募兵と組み合わされた軍として編制されるが、逆に言えば軍閥や傭兵というものはあまりない。調べた範囲では他の地域に類似の組織はあるが、土木工事の専門家みたいな側面が強くて笑ってしまった。ローマの軍団兵(レギオーナーリウス)じゃないんだぞ。いや笑い事ではないか。古帝国の知識インフラを図書庫の城邦が受け継いだように、建築土木分野と規律に関する側面を受け継いだ組織があるのだ。

 

本題に戻ろう。この図書庫の城邦における外交政策はかなり一定の方向が見られる。善隣友好、商業重視、仲介者としての側面。ただもちろん裏の顔が何となくだが読み取れる。永遠の国益に叶う行動、とでも言えばいいだろうか。

 

「確認しておきたいことがありますが、いいですか?」

 

「構わないわ」

 

この城邦には表立った外交組織がない。おそらく表も裏もごちゃまぜなのだろう。そして目の前のツィラと名乗る女性がその元締めと考えて良さそうだ。

 

「あなた達は何のために動いているのですか?」

 

「平和と発展、というのではダメ?」

 

「誰の、あるいはどこの、という意味です」

 

「……別に頭領に忠誠を誓っているわけではないわ。私たち全員にそれぞれの思惑があって、相手にもそれがある。ただ、城邦の利益と自分の利益が一致している人たちであれば協力するべきだし、同じ方向を見て行動するべきよね」

 

ああ、なるほど。国家という概念ではなく、利害関係の調整者としての情報収集と分析か。私の知識の中にある外交やら諜報と異なるものだが、そういうものだと割り切ろう。私が知っていて、かつて服していた価値観はあらゆる文化圏で普遍とされるものではないのは大前提だろう?

 

「もし図書庫の城邦における利益よりも、他の国家の利益や民の幸福を私は優先するべきだと主張したらどうなります?」

 

「それはあなたの利益、ということになるわね。けれどもそれが私たちの目的と相反するとは限らない」

 

「……話し合いを通して、互いに利益を得ようとする、と」

 

「私たちは本質的に商者と似ているのよ。銀片以外にも価値を見出しているだけで」

 

羨ましいな。外交のための基礎的プロトコルが確立されているのだろう。つまりは相手に話が通じると既にわかっているのだ。互いに価値観の差異があり、場合によっては譲ることの必要性を理解しており、それでもなお互いの利を求めて議論を交わせるのだ。ここらへんには一度古帝国によって統一されたことの影響もあるのかもしれないな。

 

「わかりました。私から外交方面に期待したいことはいくつかあります」

 

「どういうもの?」

 

「まずは商品と知識のやりとりをできる限り円滑にすること。そのために信頼できる関係と、法的な保護を受けられるようにすること。あとは、人間ですね」

 

「人間?」

 

「この図書庫の城邦の人だけでは、私がやろうとしていることにはとても足りないんですよ」

 

数万の学徒という環境は素晴らしいが、私がかつていた世界とは桁が3つほど異なる。大規模な頭脳集団による広範囲にわたる試行錯誤によって科学と技術と産業というものは発展してきた。

 

「……そうすると、この城邦だけで色々なものを独占することはできなくなるわね」

 

「それ以上にやり取りが多くなれば最終的に益は生まれるでしょうが、まだそれに気がついている人はあまりいません」

 

いや、今の時点でその可能性に賭けているやつがいたらそいつは狂人だ。それが何人かいるらしいのでこの世界は恐ろしいが。

 

「そうすると、かなり大きな動きになるわね。人数も今では足りない」

 

「だから、手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)を求めたのですか?」

 

「もちろんそれはあくまで補助にすぎないわ。キイさん。そういう組織を作るための、いい方法を知らない?」

 

ああ、つまりこの言い方だとはっきりとまだ組織になっていないのか。それゆえの「刮目者」という名前。諜報ではなく、もっと広範囲の外務全般のネットワーク。

 

「まずは城邦の名、あるいは頭領の名によって身分を保証された常駐の人員を置き、そこから事情を収集させる形にしてはどうでしょう」

 

確かこういう外交方法はルネサンス以降にできたはずだが、別にこの世界でできない理由はない。



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新聞

「頭領府外交局と使節館……なるほど、悪くなさそうに聞こえるわ」

 

ケトが作った言葉を何回か呟きながら、ツィラさんは満足そうに言った。

 

「あくまで案に過ぎませんが、ね」

 

「いえ、助かるのよ。こういう話をできる人は少ないから」

 

「……あくまで秘密の中で色々とやっているから、ですか?」

 

「そうね」

 

「なら、私と話をするのは危なかったのではないでしょうか?」

 

「もう既に、かなり危ないことをしているのに?」

 

ツィラさんが言う。ああ、やっぱりまずかったか。

 

「……例えば?」

 

「印刷機について、その詳しい作り方を知ろうとしていた人がいた」

 

「どうしたんです?」

 

「少しお話をして、しばらくは関わらないということで手を打ってもらったわ」

 

「私としては早めにあの機構で本が作られるといろいろな情報が入ってくるので嬉しいんですけれども」

 

「半年ほど前の話よ」

 

「……本当ですか?」

 

「ええ」

 

となれば印刷機が完成してすぐの頃だ。

 

「一体どうやって知ったんですかね」

 

「詳しくは私もわからないのよ、相手はかなりのやり手だもの」

 

「知り合いですか?」

 

「名前を知っている、というぐらいね」

 

ああ、諜報に関する法律が整備されてないからイリーガル(違法)という概念が薄いのかもしれない。法治国家というにはまだ色々と荒いのだ。まあ私のいた世界であっても結構法律や規則に穴はあったが。

 

「……なら、そういう人をきちんと相手側の使節として扱わせた上で、縛る事ができるのではないでしょうか」

 

「何もかもを裏でやる必要はない……と言いたいのね」

 

「ええ。もちろんきちんとした経験も知識もないので、はっきりとは言えませんが」

 

「もちろん、あなたの言葉を無条件に信用はしないわ」

 

「そういう態度を持っているなら、私としてはとてもいいと思います」

 

「それにしても、それだけの知識を一体どこで学んだの?」

 

一気に頭が冷める。危ない。かなり相手のペースに乗せられていた。

 

「……秘密ですよ」

 

これについて私が真実を言ったところで信じられることはまずないだろう。ケトについては実際に一緒に生活して、ある程度の信頼を確立していた上での告白だったからまだ成り立ったのだ。猜疑ベースの関係では証明できないものは意味がない。

 

「逆に聞きますが、あなた方はどこまで私の由来を確認していますか?」

 

「先程も言いましたように、わかりません」

 

ツィラさんの隣りにいた局員が言う。

 

「あの時に小衙堂の付近を通過する商隊はいなかった。数ヶ月以内に入港した船の乗員にあなたのような人は確認されていない。なにより、今まで知られていなかった知識をなにもないところから出してくるのです。これはもう、説明しようと思ったら理性的なものではなくなりますよ」

 

「……はい」

 

調べ方がしっかりしている。この世界にそこまできちんとした記録もなかっただろうから、たぶん相当の手間をかけて調べたのだろう。

 

「……参考までに、どれくらい調べたんですか?」

 

「一年弱です」

 

「……将軍補の晩餐に呼ばれたころではないでしょうか」

 

ケトが言ってくれる。ああ、そういえばその頃か。

 

「……お疲れ様です」

 

「仕事でしたので」

 

彼女は何事もないようにそう言う。かっこいい。部下に欲しい。もう部下だけどさ。

 

「……となると、私の経歴をいくつか作ったほうがいいですかね」

 

「どういうこと?」

 

不思議そうに聞くツィラさん。

 

「印刷物管理局のキイという一人の人間が色々とやったということにするのは目立ちすぎます。今後はできるだけ印刷物管理局という団体の名前で色々なものを発表する予定ですが、限界があるかと」

 

「……そのために頭領府外交局と使節館が動け、と?」

 

「それもあります。それとこれはまだ誰にも言ってないのですが、定期的に、具体的には数日おきあるいは毎日印刷物を作ろうかと思っているんですよ」

 

「……内容は?」

 

「その日の出来事とかですね」

 

「衙堂の出している収穫報告に近いもの、と考えればいい?」

 

「もう少し雑なものですね。どこどこで子供が生まれたとか、こういう法律ができたとか、あるいは誰かが新しいものを作ったとか」

 

「印刷、そんなことまでできるのね……」

 

そう言ってツィラさんは深く息を吐く。案外衝撃的な内容だったようだ。まあ新聞は革命の原動力だ。使い方を誤ればすぐに色々なものが不安定になって、私たちが見ている国家とかいう幻想が打ち壊されかねない。

 

「これについて、たぶんある程度の統制が必要かと」

 

「印刷機は誰でも使えるのでしょう?統制はできる?」

 

「大量に印刷して頒布する場合についての特別の法を用意しようかと」

 

「誰が作るの、って……そうね、必要な人は全部あなたのところにいるのだったわ」

 

私は口角を上げる。

 

「とはいえこれは危険な考え方を撒き散らす可能性を常に秘めています。一方で素晴らしい発想を素早く広めることができるという側面もある」

 

「あなたが作った他のものと同じね」

 

「といいますと?」

 

「本の印刷でさえ危惧している人はいる。頭領を中心として今の力を持った勢力が認めているからいいけど、そうじゃなくなったら危ないわよ?」

 

「だから今のうちに色々やっておかないと。印刷機を持った集団が隠れて何かをやるよりはマシでしょう」

 

「……そうね」

 

面倒事を想像したのだろう。ツィラさんはそう言って蒸し風呂の天井を見上げた。



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警告

「……もう、結構汗もかいたんじゃないかしら」

 

ツィラさんが言う。ケトを見ると結構ぐったりしていた。まあかなりの密度だったからな。

 

「そうですね、そろそろ出ましょうか」

 

私はふらつくケトを支えて言う。……あらためて思うのだが、本当に裸に対する羞恥というものが見られないな。それはそうとケトの身体は案外しっかりしている。そこまで激しく動き回っているようには見えないが、なんだかんだで結構筋肉がついているのだ。

 

「ところで、そのケトくんのこと、あなたは相当可愛がっているようね」

 

「大切な人ですからね」

 

「……なら、できるだけきちんと見張っておくべきよ」

 

ツィラさんの口調はあくまで世間話をするようなものだが、まあある程度は裏の意味があるのだろう。ならちょっとお返しだ。

 

「子供に火や刃物を持たせて、そのまま誰も見張らず放るなんてことをしますか?」

 

「いきなりどうしたの?……普通はしないわよね」

 

「ですよね。親を子供のいる部屋から追い出したら何が起こるかわかりませんもの。家に火がついたり、ちょっとしたはずみで胸に刃物が刺さるなんてことは十分考えうることです」

 

「怖いわね」

 

私とツィラさんは笑顔で向き合う。局員の人が少し辛そうな顔をしていた。多少はご愁傷さまとは思うが、まあ仕事なので頑張ってほしい。ケトはふわふわしていた。

 

「それでもまあ、夜の街では注意を怠らないようにしますよ」

 

「それは大切ね。私たちだっていつでもあなた達を守れるわけではないもの」

 

いつでもはないが、守っているときはある、と。まあ別にプライバシーがないのはある程度仕方がない面はある。というよりこういう概念ができたのはカメラや新聞の発展によるものだったはず。カメラか。あれ、できるんじゃないか?必要な光学部品は作れるし、現像に必要な薬品はトゥー嬢ならすぐに用意できるだろう。それにフィルムに使うコロジオン膜まであるのだ。トゥー嬢経由で誰かにアイデアを投げておこう。

 

「まあ、たぶん私かケト君に何かがあったらこの城邦だけじゃなくてもっと広い範囲で混乱が起こるでしょうけれどもね」

 

技術一つでもいくつかの火種を作り出せるのに、それをまとめて用意してあるのだ。どういう連鎖反応を引き起こすかは全くわからない。それにその反応を悪意を持って後押しすれば恐ろしいことになる。

 

「気をつけるわ」

 

たぶん警告は伝わった。こっちも警告を受け取った。この手の非言語交渉は苦手なのだが、プロ相手に及第点ぐらいは取れているといいな。

 


 

冷たい水で濡らした布でケトの身体を拭く。暑い時期であれば多孔質の土器の表面に染み出した水の気化熱を利用する一種の冷却装置で冷ました水を使うのだが、今ぐらいの季節であれば普通に外気温で冷やせばいい。

 

「ひゃっ!」

 

ケトが可愛い声をあげた。ぼんやりしていたところに冷たいものを当てられたらまあこうなるか。

 

「……あの二人は衙堂の関係ではないと思いますが*1

 

局員が言う。聞こえてるぞ。

 

「……あれで何もないの?」

 

「ええ」

 

なんで知っているんですかね。この様子だと寝ているときまで監視されていそうだな。まあ変な虫から守ってくれるのはありがたいが。ともかく私は自分の身体をきちんと拭く。しっかり拭わないと今の時期は冷えるしお腹を壊したりなんかしたら大変なことになる。食中毒であってもちょっと間違えれば死にかねないのだ。一応生理食塩水を作れるだけの準備はしているから出た分だけ入れていけば多少はマシになる、はず。

 

そういえばケトはあまり感染症の徴候を見せていない。コロンブス交換を考えれば私が危険な病原体を持ち込んでいた可能性はあったが、実際には問題なかったようだ。まあこれについてはそれなりに可能性のある仮説を立てることができる。コロンブス交換で新大陸には天然痘やペスト、マラリアやコレラなど様々な感染症がもたらされたが、その中で21世紀の日本で一般的な感染症はせいぜい流行性感冒(インフルエンザ)ぐらいだ。それも私は転移前にあまり外に出ていない状態だったから感染していないとすれば、私が持ち込んだ病原体はほとんどないと言っていいだろう。もしかしたらメチシリン耐性黄色ブドウ球菌なんかが持ち込まれているのかもしれないが、抗菌薬を作るにはまだもう少しステップが必要なので問題になるとしてももう少し先だろう。

 

「ところで、キイ嬢はこの後どうするの?私たちは温かいお酒でも飲もうかなって思っているのだけれども」

 

「今日は帰ります。すみません、ケト君も慣れない蒸し風呂で疲れたようですから」

 

さすがにもうこれ以上話すと脳が辛い。せめて少し時間を空けてくれ。

 

「……そう」

 

少し残念そうなツィラさん。プロには勝てないな。

*1
衙堂における司士あるいは司女は原則として不淫が要求されるが、実際には恋愛・性的関係にあることが一般的であるのはかなり公然の事実である。これを踏まえて、「衙堂の関係」という言葉には「表面上隠しているが裏で通じている男女」という意味がある



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同衾

「……大丈夫?」

 

明かりの少ない夜道を進みながら私は言う。真っ暗とまでは言わないが、後ろから誰かが来てもわからないだろう。

 

「ええ、もち……ろん」

 

ケトはそう言いながらも足取りが少し危なかった。

 

「まっすぐ帰ろうか」

 

頷くケト。ちょっと危ないな。手を繋いでおこう。

 

夜風は少し暖かかった。まだ春はもう少し先だろうが、どうしてだろう。暖気が来ているのだろうか。天気予報について少し記憶を漁る。天気予報の基礎を作ったロバート・フィッツロイはHMS(国王陛下の艦船)ビーグル号の艦長だったから、チャールズ・ロバート・ダーウィンと同時代人。つまりは19世紀か。機械計算でカオスに立ち向かえるようになったのは20世紀後半、21世紀の初頭にはかなりの精度で天候の予測ができるようになっていた。その水準に達するまでは時間がかなりかかるだろう。スーパーコンピュータも気象観測衛星もこの世界では夢物語だ。

 

もちろん航海がある以上、何らかの気象予測は行われているだろうが正確性には欠けるだろうからここらへんに需要はあるはず。温度計にも気圧計にも必要なガラスがあまり市場にないのだから、たぶん私が先駆者になれるな。湿度計は人の髪を利用するか、あるいは乾湿計で求めればいい。あとは雨量と風速か。ここらへんもきちんと単位系を作る中で固めていかないといけない。できるだけ規則正しい体系があるといい。Pa(パスカル)atm(気圧)Torr(トル)psi(重量ポンド毎平方インチ)が混在してはいけない。印刷物管理局規格を速く事実上の標準(デ・ファクト・スタンダード)にしなければ。

 

「疲れてる?」

 

私が考え込んでいる間ケトは静かだった。いつもはもう少し口数が多いのに。

 

「……はい」

 

「それじゃあ、今日はもう寝てしまおうか」

 

「……ですね」

 

反応がワンテンポ遅い。まあ、のぼせても仕方がないか。

 


 

「……今日は火を入れなくていいか」

 

暖房代わりにもなる台所の小さな(かまど)を背に私は寝室へと戻る。ケトはもう寝台に乗って寝息を立てていた。子供を夜遅くまで歩かせるものではないと思って私は彼を子供扱いしている自分に気がつく。よくないな。この世界には子供を決定する法律がない。年齢という概念が薄いのだから当然だが。それは例えば腕を認められるであるとか、ある一定の職につくであるとか、そういった形で現れるのだ。自己決定権がどこまで与えられるかはわからないが、少なくとも私は彼に対してなにか縛りを課すべきではない。むしろ私がケトに縛られておかないと何かをやらかしそうだ。

 

「……寒いですし、一緒に寝ませんか?」

 

目を薄く開けたケトが言う。

 

「……そうだね、今日は冷える」

 

求められたらそばにいるべきだろう。これには年齢はあまり関係ない。人間というものは弱い生き物なので、個体によってはこういう欲求を持つのだ。私もあるからわかる。

 

「それじゃ、少し奥の方に」

 

「はい」

 

「よっ、と」

 

ケトと一緒の防寒具にくるまる。今日ぐらいの温度なら別に分かれてもいいのだが、雪が降るレベルだとさすがに辛い。

 

「……キイさんが、僕の前から消えてしまうことって、ありえますか?」

 

「それは可能性として?それとも、私が意図的にそういうことをするかってこと?」

 

「キイさんが、それを選ぶかどうか、です」

 

「今のところ予定はないよ」

 

「……そう、ですよね」

 

少し嬉しそうなケトの声。わかりやすいな。まあこういうところが愛おしい。

 

「ツィラさんと私の話を聞いて、怖くなった?」

 

「そう、ですよ」

 

ケトが私の服を軽く握る。布にかかる応力。

 

「キイさんが、邪魔だって思う人がいるかもしれません。排除のために、剣が持ち出されるかもしれないと考えると……」

 

思春期にありがちの悩みだ、と一笑に付すことができるほど私は大人ではない。

 

「そう。……私も、君がいなくなったらと考えると怖いよ」

 

純粋な損得勘定以上のものがある。もちろん私の思考をかなりしっかりと追える相方がいなくなれば私ができることはかなり限られるが、そういうことだけではなく。

 

「それでも、いつかそういう時は来るかもしれない。そうなったら、別に私に縛られなくてもいいからね」

 

「……はい」

 

私?まあ、ケトが殺されたりなんかしたら復讐に走るだろうね。それがはっきりとわかる個人であれば今日作った繋がりを活用するし、もっと大きな相手ならこの世界を戦乱に巻き込むことに走るかもしれない。それができるようになるためにも通信網やら印刷機やらは欲しいのだ。なんか変な矛盾があるな。もし私の影響が恐ろしいのであれば、常に今が一番いいチャンスだ。時間が経てば経つほど、私の撒いた色々なものが芽吹いてくる。私がいれば差別主義や過激思想といった危ない方向に進むことを多少は止められるが、それができなくなったらどうなるかは私の知っている歴史をたどればよくわかる。

 

力を手に入れて、それが絶対的な優越だと勘違いして、あたかも全ての支配者のように振る舞うのは人間の本性とまでは言わないがかなりよく見られるパターンだ。そして人間の柔軟性はそのような社会環境に耐えることができてしまう。支配側としても、被支配側としても。そしてそれが崩れる時にはしばしば流血が伴うのだ。下手すれば数千万の。もし私が混乱を止められなければ、その数千万の一人になる可能性は十分にある。

 

「何かあったら、一緒に逃げようか」

 

ケトから返事はなかった。寝てしまったのだろう。私だってそれなりに恐怖はある。一人ならともかく、ケトが隣にいるのに破滅的選択は取れない。



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出勤

目を覚まして、身体を拭いて、靴の紐を締める。今日のケトはトゥー嬢のやっている教科書作りの手伝いをするそうだ。なら、別に起こさなくてもいいだろう。トゥー嬢はたしかあまり朝に強くないから、遅めの時間から待ち合わせているのだろうか。まあケトぐらいの年頃の少年にとって朝のうたた寝の時間は大切なものだ。それを邪魔するほど私は無粋ではない。外套の帯を結ぶ。

 

「行ってくるよ」

 

静かな部屋に私の声が反響した。扉を閉じる。さて、と私は思いながら道路を歩く。この時期は日が出るのが遅いので、まだ街は薄暗い。

 

「何を食べようかな……」

 

まっすぐ大図書庫に行く路をずれ、少し遠回りをして屋台のある通りへ進む。いい匂いだ。並ぶ店を見て、今日の朝食を揚げた小魚と固めの麦粥にする。まとめて銅葉二枚。一枚だと不足だし、三枚の朝食だとさすがに多い。私にはこれぐらいがいい。

 

「あいよ」

 

注文をするとすぐにご飯は素焼きの碗にまとめて入れられてやってくる。まだ湯気が上がっているので、適当なところに座って食べよう。

 

息を吹きかけて冷ましながら、今日の予定を考える。確かそろそろ新しく印刷された本が何冊か入ってくるころだ。印刷物管理局の仕事が忙しくなってきたので、そろそろ人員を開発研究から引き抜かねばならない。いや局員は別に開発研究をやっているという意識をはっきりとは持っていないかもしれないが。ただ、謄写版が数月でかなりの水準に到達していたのは驚きだ。しかし有能な人材に時間を与えるのは大切だが、世界はそういうことを許してくれるほど余裕はない。悲しいなぁ。

 

香ばしい魚を噛む。これは下味をつけてあるのだろうか。あまり私の舌は詳しい分析をしてくれない。大抵の物を美味しいと感じてしまうのは利点でもあり欠点だ。参与観察をやっていた民俗学者の先生曰く、その分野の研究者として必要なのはアルコール耐性と強い胃袋だという。海洋生物学者の中にも似たようなことを言っていた人がいたな。それにはどんなに揺れていても爆睡できる才能も入っていたが。ともかく似たようなものだろう。食に対して郷愁が発生するという話を留学した人から聞いたことはあるが、今のところ私にそれは起きていない。

 

ま、こういうとりとめのない事を考えられるのは朝食のときぐらいだ。仕事が始まったらそちらに集中するので、この時間は大切にしよう。けどまあ匙を動かしていると碗の中はほとんど空になって、私のお腹はそこそこ満足していた。

 

「美味かったよ!」

 

「いつもありがとね」

 

こういう会話もやはり大切だ。ここで話が発展することもあるが、その時は本当に疲れる。まだ日常会話は難しいのだ。日常会話というのはかなり非言語的な側面や文法的にはおかしい表現が用いられるので、慣れていくしかない。正直なところ、私の東方通商語の能力は日常会話の部分においてはあまり優れてはいない。専門的な会話ならともかく、世間話であれば下手すれば三歳児と話すのも難しいほどだ。

 

大図書庫の入り口をくぐる。木の札を見せると、守衛が通行を許してくれる。とはいえきちんと入退出を管理しているわけではない。たぶん中には抜け道から入る人もいるのだろう。私が勤めている区画は私が上に手を伸ばして指が引っかかるぐらいの高さの壁で囲まれている。防火用区域らしい。ただ場所によっては壁に隙間があるのだとか。そういう話をしている局員がいた。

 

そんな事を考えながら少し出てきた日を左側から浴びながら中の小路を歩く。

 

「おはようございます、局長」

 

隣から声がかかる。局員の一人だ。

 

「おはよう。最近の様子はどうだい?」

 

「あの蝋紙版印刷機、欲しがっている人が多いようで。どうしましょう、売ってしまっていいですかね?」

 

「必要なら商会を通して売ってもらう。もし数人だけなら印刷物管理局から直接売ってもいいいかもしれないけれども」

 

「わかりました。そこらへんは商会から来ているやつらに任せるんですね」

 

「局員と言いなさい」

 

「……っと、そうですね」

 

すまないね。こういう言葉遣いを直すのがどこまで正しいかはわからないが、個人的に組織内ではできるだけフラットに他の局員と接してほしい。そう考えるとケトに対して少し特別扱いをし過ぎだろうか。

 

印刷物管理局が事務室として使っている部屋を覗き込むと、一人が床で寝ていて、二人ぐらいが作業をしていた。

 

「そこの彼は何を?」

 

「作業に集中しすぎて帰ってないんですって」

 

寝ている局員を見ながら聞くと、衙堂から出向している女性局員が呆れたように言った。

 

「まあ、彼はいつも真面目に働いているからな」

 

私は自分の作業卓に行き、職員名簿を取り出す。一種の閻魔帳だ。さすがにこれに直接書き込んで不正をするという不届き者はいないらしい。

 

「場合によっては今日は休ませてもいいが……というか、ここ半月休んでいないんじゃないか?」

 

「ここ、別に勝手に早帰りしてもいい場所なのであまり気にされていませんよ?」

 

「定期的に一日だらだらしないと人間はおかしくなるんだよ」

 

「そうですかね?」

 

彼女は首をひねる。まあ、ここにいるやつはそもそも最初からおかしいか。

 

「ま、今日も仕事を始めますか」

 

私はそう言いながら金属印を取り出し、レンズで拡大しながら日付部分を構成する小さな印を取り替える作業に入った。



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業務

今日の昼の時点での出勤者は11名。向こうに籍を置いたまま出向している人もいるし、中には学徒として学んでいる人や講師としての経験を積んでいる人もいるのでいつもこんなものだ。実際今日はケトもいないわけだし。

 

「それじゃあ第2班については小規模印刷の統制についてまとめて」

 

「わかりました」

 

というわけで出勤率の高い人を班長にして、班ごとに業務を割り振っている。私は取りまとめ。色々と意見があるだろうが、私は自分の立場を局員たちのマネージャーとして捉えている。あとは承認を与える人。なので基本は裏方業務だ。まあ上司が駆けずり回って部下を叱咤激励しなければ回らない現場よりはよっぽど健全だろう。

 

「あとは……印刷物管理局としての仕事か」

 

管理局は別に検閲機関ではない。これについては価値観がまだはっきりとしていないが、私はできるだけ言論の自由を擁護したい立場にいる。とはいえこの権利はかなり面倒なものだし、都合良く使われることも少なくないので安全保障の観点からは難しいところだ。大日本帝国憲法では「法律ノ範囲内ニ於テ」だったかな。別にこの問題に絶対的な正解はない。何を目的とするかと対象となる社会において変化するものだからだ。

 

まあ、基本的に大抵のルールでは私が勝つだろう。こちらは数百年かけて作られた様々な邪道を知っているのだ。例えば新聞を用意して世論を誘導するなど序の口である。やり過ぎると検閲を行う国家に権力をもたせ過ぎることになるし、放任しすぎるとマスメディアが法に縛られず、統制も効かない第四の権力として動き出す。いや第四の権力というのは誤用だったかな?まあいい。ともかくそういう未来に起こりうる可能性を知っている以上、潰すとまでは行かなくともある程度準備をしておく必要がある。小規模印刷による定期刊行物の作成についての制度整備はこの布石だ。

 

「そろそろ商会が動き出す頃かな」

 

「それについては話を聞いてきました」

 

私が呟くと商会から出向中の局員が答えてくれた。

 

「おお。どんな感じ?」

 

「東方通商語の字引を作りたいという話が」

 

「取引での混乱防止が目的?」

 

「ええ。ただかなり長い期間かかるでしょうね。それとは別に蝋紙版印刷の方は型録(カタログ)に使いたいという話が*1

 

「なかなか面白い発想をする人がいるな……」

 

小規模印刷の実用性にこの段階で気がつくのはかなりのものだ。

 

「念のため聞くけど、その発案者は?」

 

「例の長髪の商者です」

 

「またあの人ね……」

 

ここに人を送り込んでいる商会は一枚岩ではなく、いくつかの派閥がある。その中で一番狂っているのが長髪の商者と呼ばれる人物だ。昔呼ばれた晩餐会に出ていた人。理論にも通じた上で肝心どころで大きな賭けに出れる人物だ。彼はそれなりに色々なところに顔を出しているらしく、間接的に聞く限りでは図書庫の城邦における製紙業界をまとめ上げたらしい。今度何か贈り物でもしたほうがいいかな。複式簿記とか役に立つだろうか。

 

「もうこの際、蝋紙版印刷機を一つ彼に渡して、取り分をくれれば好きに販売していい事にしようかな」

 

「まだ止めてください」

 

そう言うのは謄写版改良を行っている中心人物。かなり指先が器用でさくさくと木材を削って装置を作れるのは素晴らしい。

 

「いや、さすがにそろそろ一回世に出した方が良いよ。完璧を目指しすぎても限界がある。それよりはできるだけ多くの人に使ってもらうべきだと私は考えるね」

 

「……もう少し待ってください」

 

「どれくらい?」

 

「半月頂ければ、もう少し作りやすいようにできます」

 

「よし。逆にそれ以外はできるだけしないように」

 

「……はい」

 

「すまないね」

 

「いえ、局長の判断も理があるものです」

 

技術屋のマネジメントはなかなか難しい。凝り性で完璧主義者だとなおさらだ。まあ私もそういうところがあるのでわかる。ただきちんと飲み込めるのはいい部下だ。報酬になるかどうかわからないが、彼の班に予算はあまりケチらないようにしよう。今でも結構な大盤振る舞いだが。

 

さて、ひとまずこんなものかな。あとは文章での報告に目を通していく。印刷物管理局は一種のシンクタンクになっているため、私のもとには定期的にこうやって紙に書かれたものがやってくるのだ。このフォーマットは私が設計して印刷したものだが、デザインに不満を持った局員によって改良が加えられ今では右上に印刷されているバージョン数が23になっていた。そうそう、過去の版の保存やバージョン管理についても私の知識を色々取り入れている。将来的にできるだけ業務をデジタル化しやすいように考えているので、たぶん情報化時代の人はこの印刷物管理局規格を悪くないものと評価してくれるだろう。まあそんな未来の話は今やるべきではないな。仕事をしよう。

*1
型録(カタログ)」と訳している聖典語由来の単語は本来祈りの言葉を書いた小さな紙を意味する。そこから転じて自分の記憶を助けたり説明のために相手に見せたりするメモ書きのようなものを表すようになった。ここでは扱っている商品の内容をまとめてリストにしたもののこと。



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硝子筆

「うーん」

 

私は一種の彫刻刀を持って唸る。

 

「何をしているんだ?」

 

そう聞いてくるのはトゥー嬢。このまま行けば印刷物管理局登録番号10ぐらいになりそうな本の作者になる。

 

硝子(ガラス)で筆記具を作ろうかと」

 

基本的な構造は溝を軸方向に刻んだ硝子(ガラス)棒を引き伸ばして先端を尖らせ、いい感じに削ったものだ。高校生のころデザイン科だったインク狂いの同級生が私の隣で作っているのを見たことがある。彼女の使っていた棒では最初から溝が入っていたが、実際にガラスの塊から作ろうとするとかなり難しい。

 

「……その穴の空いた木の板は?」

 

「ここに硝子(ガラス)の棒を通して、断面を変えたいんです」

 

「柔らかくなったところで、何かを押し付けて形を変えてはいけないのか?」

 

「……やってみます」

 

なんというか、私はどうしても知識に依存しすぎなきらいがある。まあ仕方がないところはあるな。むしろこの世界の人々が私の知識を一瞬で理解して改良の対象として扱うのが異常なのかもしれない。技術水準の異なる文化の接触は世界史で何回か見られたが、対応は様々だった。日本とかいう銃を大量生産した上でほとんど捨て去った後世の研究者が頭を悩ませるようなものもあるが、少なくない例では与えられた技術に依存したり、あるいは極端な排斥が起こった。大抵技術水準は軍事力に直結するのでどの選択を取ろうが支配されることになることが少なくなかったが。そう考えると日本はかなり珍しい事例を提供してくれている。その言語の孤立性も考えると、日本人として産業技術史を触れたのはかなり助かっている。

 


 

トゥー嬢の言う通りにやったら、私の一日ちょっとの試行錯誤が無駄だったことが判明した。悔しい。

 

「綺麗ですね……」

 

私が作ったペン先を見てケトは言う。

 

「そうかな」

 

灰や気泡が入っているので少しくすんでいる。ただの炉ではうまく加熱できなかったので仕上げには酸水素炎バーナーを使った。これは単純に電気分解でできた水素をふいごに詰めて吹き出させながら火をつけるものである。一度ちょっと爆発を起こして鼓膜がイカれてしまったが。なおこういう事故は薬学師にとっては日常茶飯事とまでは言わなくとも珍しくはないらしい。ここらへんはマニュアルを書いたほうがいいかもしれない。少なくとも化学物質の一覧に味の欄を設けるべきではない。

 

「これで、書けるんですか?」

 

「うん」

 

まだ雑に切込みを入れた棒に挟んで持つ部分に革を巻いたものだが、見様見真似で作ったにしては悪くない。今まで使われていた茎のペンより小さな文字が書けるのは便利だ。

 

「使っていいですか?」

 

「どうぞ。先端が尖っているから、ぶつけないようにしてね」

 

ケトがペンをインク壺にひたす。加工時に捻られることで十分狭くなった溝に毛細管現象でインクが吸い上げられる。

 

「で、これで書く……」

 

「ある程度寝かせたほうがやりやすいと思うよ」

 

おそるおそるケトは硝子筆(ガラスペン)を動かす。ま、先端が欠けても削れば修理できる。

 

「紙も筆も、何もかもが変わりそうだ」

 

後ろからトゥー嬢の声が聞こえる。

 

「どうせ変わるんですよ。ならできるだけ一度にまとめて変えてしまえばいい」

 

私は言う。

 

「変化に対応できない人だっているのはわかっているよな?」

 

「ええ。ただ、それは新しいものを世に出してはならない理由にはなりません」

 

この世界にも当然保守勢力はいる。今の頭領とその取り巻きは、かなり思想的には急進的な一派であるらしいが、折衝などで速度が抑えられているようだ。だから既存のものとあまり被らない印刷物管理局の設置があれだけスムーズだったのか、とここらへんの裏事情を知ったあとではわかる。

 

「……私の父があの水車を作った時、反対者は多かったようだ」

 

「でしょうね」

 

「私はあなたに、そうなってほしくはない」

 

「……気遣いはありがたく思います。ただ、私はやはりもっといい暮らしがしたい」

 

「出世すればいい。そうすれば」

 

「限界があるんですよ。私が手に入れたい水準のものは、土台が大切なんです」

 

安全な飲み水を用意するには、自分だけの浄化装置を作るよりも治水工事を含めたインフラ設備を整えてしまったほうが楽かもしれない。それだけ多くの予算が動かせるし、問題解決も簡単になる。全てを一人で行うのは無理だ。できるだけ多くの人を巻き込む必要があって、そのために政治は避けられない。まあ上の方でかなり色々動いてくれているという話は聞こえてくる。それがたとえ私の知識から得られる金銭や名誉や地位を当てにしたものであるとしても、そういう取引なのだから問題はない。

 

「……そういうものなら、仕方がないな」

 

「ええ」

 

「ところで、どうしてその……硝子筆(ガラスペン)だったか、をもっと早く作らなかったんだ?」

 

「忙しかったので」

 

できるだけ仕事の内容を整理して、部下の自主性を尊重し、自分の仕事を減らして自由行動ができるようにしたのだ。マニュアルの作成とかでそれなりの仕事はしたぞ。

 

「……そうか。今度私の分も作ってもらえないか?」

 

「いいですよ」

 

ああ、なるほど。こんな便利なものを隠していたなんて、ということか。まあそう思われてしまうよな。これは私が受け止めるべき言葉ではある。



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引継

硝子筆(ガラスペン)の利点の一つはインクを保持できる量にある。つまりはインクを付け直す頻度が低くてすむのだ。

 

「局長、面白いもの使ってますね」

 

そう聞く局員に私は目を上げる。衙堂から来た人で、前に活字を手際よく並べていたのを見たことがある器用な若手だ。ケトと同じぐらいか、ちょっと上の女性。

 

「まだ慣れないけどね」

 

聖典語の書体は一筆一筆丁寧に書かれることを前提としている。ペンをあまり離さず、崩して書くのにはそこまで向いていないのだ。蝋板のために使われる書体を参考にしているが、まだペンが引っかかる。

 

「で、書いているのは?」

 

「引き継ぎ用の書類」

 

「え、局長、辞められるんでしょうか」

 

「いいえ。ただ、私の才能に依存した運営は行われるべきではないからきちんと書き残しておかないと」

 

「……変な人ですね」

 

「自分の仕事を奪うようなことをなぜするのか、という意味で?」

 

「はい。もちろん局長があまりそういうことを気にしない人であるのはわかっています。そういうところが好きな人は局員にも多いですし」

 

「……もしかして、管理局に来ている人って厄介な人が多いの?」

 

「そういう人は大抵有能なんですよ」

 

「確かに」

 

この局員は器用で、謄写版、あるいは東方通商語あるいは聖典語の直訳であれば蝋紙版印刷機の改良においてもテスターをやっていた。他の局員からは「どんな機材でも使いこなせるので改良には向いていない」と評されていたが。

 

「それに、局長が他の場所に移るにしてもついていきたい人は多いと思いますよ」

 

「そういうもの?」

 

「ええ……、ああ、ケト君はともかく局長はあまりこのあたりの知識が無いんですよね」

 

「まあね、余所者だから」

 

そういえば局員のほとんどはこういうところにはあまり突っ込んでこなかったな。まあこういう変なやつもいるだろうぐらいに思われていた可能性はある。少し常識を学ぶように心がけよう。

 


 

基本的にはマネジメント論の説明だ。とはいえ社会背景が異なればマネジメント方法も当然異なる。やりがいが仕事において重要なのは事実ではあるが、給料が安いので辞めていく人には基本的に給料を上げる以外の対応を取ることはできないのだ。それを無視してやりがいだけで組織を回すとしばらく経った頃には深刻な人材不足がやってくる。ここらへんは完全に恨みつらみがあるな。とはいえ景気が良くない限りどこも予算には苦しむのだ。

 

つまりは嫌でもある程度の選択と集中が必要である。あるいはやることをはっきりとさせる必要がある。私は基本的にある程度の自由裁量を部下に与えているつもりだが、根本的な「印刷を通した情報伝達の効率化」とかは伝えているので暴走することは……結構あったな。まあ程度の問題だよ。

 

そして本当であればこういう組織がもっと欲しい。情報インフラが一番私のやりたい事の基盤になるので今の私の配属が不適切というわけではないし、むしろよくこんな完璧に近い職場を作り出したなと考えるレベルであるが、ともかく人材が足りないのだ。

 

ちょっとしたことを考えよう。ある製品を1日に10個作るために10人の労働者が必要であるとする。ここで必要な製品は1日に1個なので9人をクビにしたらどうなるだろうか?まず1人では仕事は回らない。人数が多いということのメリットの一つは一人あたりに割り振られる作業の複雑度が下がるということにある。もちろん多能工のように一人ができる業務の種類を増やすこともできるが、限界がある。もちろんそのための手間を惜しむのは良くないが。

 

この城邦の人口のうち、私のやりたい事を理解してすぐ行動できる人間は500人程度だろう。そのほとんどが既に要職についていると考えられる。そこから人を引き抜くとなれば、どうしても混乱が起こる。

 

つまり、方法は大きくわけて二つ。母数を増やすか、割合を上げるかだ。人口を増やすためには例えば他の邦と手を組むことが考えられるが、これは時間がかかる。電信と論文誌が多少はマシにするだろうが、インターネットのレベルで情報網がないと難しい。言語の壁もある。聖典語は東方通商語よりかなり広い範囲で使われるが、話せる人口は決して多くはない。聖典語の教科書を作るか、あるいは民衆語の語彙を拡張するか。前者にしても後者にしても印刷機は助けになるだろう。もっと簡単な人口の増やし方としては農業生産量の向上などがあるが、これは百年単位の計画になるしなにより人口増加は面倒な問題を一気に引き起こす。図書庫の城邦の勢力圏を増やすのもあるが、これは流血を伴うだろう。まあどれにしても時間はかかる。

 

では次、割合を上げる方法。男女問わない基礎教育の提供体制と、制度化された高等教育・研究機関。代償は高学歴化の発生。これまた厄介な問題だ。正直言ってあまり触れたくないが、たぶん避けては通れないし私以外に解決させればかつての世界の歴史と同じ経路を辿るだろう。つまりは解決できない。あとは普通教育とか女子教育に対する社会からの反発か。昔っからどこにでもいるんだよなぁ。幸いにも私が生まれた世代はそういうものが薄まっていたせいで色々と助かったが。代わりに割を食った人間はいただろうと考えると複雑な気分になる。ああ、やめやめ。自分の立っている場所が自分の才能とかではなく一種のずるで得たものだと指摘されて楽しい人間はいないのだ。

 

ともかく、教育は重要だ。この図書庫の城邦で行われている教育方法は面白いが、基本的に選抜方式だ。セーフティネットとしての社会はあるが、網の目を小さくする工夫はない。

 

私は硝子筆(ガラスペン)を置く。できたのは十数枚の紙にまとめられた論文だ。まったく、メインの業務が捗らないかわりにこういうものはすぐ書けるんだ。

 

表題は、「教育不要論、あるいは幸福な社会について」。



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第8章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。ここで解説される前に気になって元ネタを検索しているような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


蒸風呂

これは炒った麦とある種の木の皮の抽出物だ。

つまりはシナモンの匂いのする麦茶である。

 

まあ会話場所として蒸し風呂が合理的なことには間違いないな。

ウルホ・カレヴァ・ケッコネンは第二次大戦後の東西冷戦が激しかった時期にフィンランド共和国大統領を務め、綱渡りのような、あるいは「フィンランド化」と批判されるような外交政策を成功させた。度々外交戦略の一環として相手側を彼の私邸のサウナに呼び、条件を飲むまでサウナから出さなかったという話があるとかないとか。なおこのサウナにソビエト連邦書記長レオニード・イリイチ・ブレジネフ、アメリカ合衆国大統領ジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニア、そしてウルホ・カレヴァ・ケッコネンが一緒に入ったことがあった。

 

国家

かつての世界にあったそれは民族主義や、ウェストファリア体制と呼ばれる主権国家という概念や、二十年の停戦を挟んだ世界大戦によって生まれた国際機関なんかに強く依存した概念だ。

「二十年の停戦」はフェルディナン・フォッシュがヴェルサイユ条約について言ったとされる言葉を踏まえているが、この出典とされるPaul ReynaudのMemoires(1963)第2巻457ページの原文に当たれていない。CiNii Booksが言うには日本に4つしか所蔵している大学がないのですがどうすれば……。

 

例えば技術や資源の国産化。あるいは技術的相互依存。

ここらへんはたとえどれだけやってもそれを無視して戦争を始めるような例が世界史を紐解けばいくつかあるので本当に困る。見るのは新聞でもいいけど。

 

諜報機関のトップがきちんと上と繋がっている。

故三軍之事、莫親於間、賞莫厚於間、事莫密於間。

 

故に三軍の事、間より親しきは莫く、賞は間より厚きは莫く、事は間より密なるは莫し。

(ゆえに全軍において、間者より(指導者と)親しいものは無く、間者より褒賞が多いものは無く、間者より秘密が求められる事は無い。)

──孫武による「孫子兵法」用間篇より。原文と書き下し文は「漢籍国字解全書 : 先哲遺著. 第十巻」を底とし書き下し文は筆者が一部修正した。日本語訳は筆者による。

 

なお銀雀山漢墓竹簡の「孫子兵法」では該当箇所がうまく訳せない。だれかここらへん詳しい人いませんか?

 

暗号

これと素数の性質を組み合わせればRSA暗号、あるいはエリス=コックス=ウィリアムソン暗号が作れる。

イギリスのGCHQ(政府通信本部)のジェイムズ・ヘンリー・エリス、クリフォード・クリストファー・コックス、マルコム・ジョン・ウィリアムソンによって素因数分解を利用した公開鍵暗号が作られたが、それは機密のヴェールに覆い隠されてしまった。今日RSA暗号と呼ばれるものはロナルド・リン・リベスト、アディ・シャミア、レオナルド・マックス・エーデルマンによって「発明」され、特許が取得されたものである。

 

「そうすれば重要な情報を私たちは盗み聞きできる」

SIGINTと呼ばれる諜報手段である。

 

外交

ローマの軍団兵(レギオーナーリウス)じゃないんだぞ。

ローマの兵士たちは過酷な訓練とともに各地の土木工事にも従事した。作られた構造物の中には今日でも残っているものがある。

 

永遠の国益に叶う行動、とでも言えばいいだろうか。

We have no eternal allies, and we have no perpetual enemies.

Our interests are eternal and perpetual, and those interests it is our duty to follow.

(我々に不変の同盟者はいないし、永遠の敵もいない。

我々の利益こそが不変にして永遠のものであり、その利益に従うことが我々の義務である。)

──1848年3月1日、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会庶民院にて、外務大臣であった第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル曰く。拙訳。

 

確かこういう外交方法はルネサンス以降にできたはずだが、別にこの世界でできない理由はない。

13世紀以降イタリアを中心に広まった大使という制度はゆっくりと欧州全体へと広まった。

 

新聞

まあ新聞は革命の原動力だ。

市民革命における新聞の役割は大きなものであった。それゆえに定期的に出版は規制されている。

 

警告

というよりこういう概念ができたのはカメラや新聞の発展によるものだったはず。

公的空間と私的空間の区別の概念は古くから存在し、何らかの形で私的空間を「隠す」考え方も各地に存在する。しかしながら今日のようなプライバシーの概念は新聞や報道の発展によって「放っておかれる権利(right to be let alone)」の概念が生み出されてからである。この概念は次第に拡張され、今日ではインターネット上における個人情報の扱いや他人に個人的行動をあれこれ言われない権利などについても利用される。

 

一応生理食塩水を作れるだけの準備はしているから出た分だけ入れていけば多少はマシになる、はず。

発展途上国で一般的な症状である下痢は栄養失調と脱水を引き起こすが、塩を入れた薄い粥(できれば油を入れたもの)をこまめに食べ、少し回復したら柔らかいものを少しずつ食べていけばかなりマシになる。デビッド・ワーナー. (河田いこひ訳) 医者のいないところで : 村のヘルスケア手引書. キャロル・サマン, ジェーン・マックスウェル協力, シェア=国際保健協力市民の会監訳. も参照のこと。

 

コロンブス交換を考えれば私が危険な病原体を持ち込んでいた可能性はあったが、実際には問題なかったようだ。

異世界転移やタイムスリップなどで強毒性の感染症を持ち込んで混乱が起こる、というのはしばしば見られるパターンである(例えばばくだんいわ(◆QOOmW3I0SM)による「できない子は“悪魔”と呼ばれるようです」など)。というわけでこれはそれに対するアンチテーゼの側面がある。

 

もしかしたらメチシリン耐性黄色ブドウ球菌なんかが持ち込まれているのかもしれないが、抗菌薬を作るにはまだもう少しステップが必要なので問題になるとしてももう少し先だろう。

メチシリン耐性黄色ブドウ球菌Methicillin-Resistant Staphylococcus aureus、略称MRSAは基本的には黄色ブドウ球菌──非常にありふれた菌であり、伝染性膿痂疹(いわゆる「とびひ」)や毛包炎(いわゆる「おでき」)の原因となる──とそう違いはない。ただ、人類が作り出してきた様々な抗菌薬に対して耐性がある。安易に抗菌薬を使うとこういうバケモノができてしまうのだ。こういう面倒な菌に対して伏せ札としてのバンコマイシンが使われることがあったが、これにすら対応しているので恐ろしい。

 

同衾

天気予報の基礎を作ったロバート・フィッツロイはHMS(国王陛下の艦船)ビーグル号の艦長だったから、チャールズ・ロバート・ダーウィンと同時代人。

王立海軍のチェロキー級双帆柱横帆船(ブリッグ)であったビーグル(Beagle)号は多帆柱縦横複合帆船(バーク)に改造され、南米に2回、その後オーストラリアに2回調査のために派遣された。ロバート・フィッツロイはこの1回目の航海の途中から(船長自殺による交代)と2回目の航海の際の船長を務めた。まだ若かった彼は2回目の航海の際に博物学者兼孤独の共有者として4つ下のチャールズ・ロバート・ダーウィンを乗せることにした。このとき船長は26歳、博物学者は22歳である。

 

その後彼は連合王国商務省気象局初代局長として選ばれ、気圧計の配布活動や電信を活用した日刊新聞掲載の天気予報作成を行うことになる。

 

Pa(パスカル)atm(気圧)Torr(トル)psi(重量ポンド毎平方インチ)が混在してはいけない。

それぞれSI単位系の圧力、標準気圧、ミリメートル単位での水銀柱の高さ、帝国単位系での圧力。他にもcgs単位系のBa(バリ)、ソビエト連邦で使われてたpz(ピエーズ)cmH2O水柱センチメートルなんてものがあるので単位はとても面倒くさい。

 

下手すれば数千万の。

ロシア帝国末期における革命と内戦、その後のソビエト連邦における大粛清(Большой террор)、あるいは中華人民共和国における無産階級文化大革命(无产阶级文化大革命)などを参考のこと。

 

出勤

一種の閻魔帳だ。

教師が生徒の成績や出席を書いておくための手帳のこと。B5からA4程度の大きさで、たいていデザインはシンプル。

 

「定期的に一日だらだらしないと人間はおかしくなるんだよ」

毎日執筆はもう日課なので……。いや毎日執筆するのはおかしいのか……?

 

業務

大日本帝国憲法では「法律ノ範囲内ニ於テ」だったかな。

第二十九條

日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス

──大日本帝國憲法

 

つまりは法律を定めれば自由に制限できるのだ。有名なものでは治安維持法だろうか。

 

いや第四の権力というのは誤用だったかな?

本来は「貴族、僧職、富豪」に次ぐ4番目の階級の意。今日では「司法、立法、行政」に次ぐ機関の意味として用いられる。

 

硝子筆

高校時代の同級生──デザイン科だったインク狂いの少女が私の隣で作っているのを見たことがある。

万年筆やインクに狂うのは比較的一般的な趣味らしい。筆者にはよくわからない。

 

少なくとも化学物質の一覧に味の欄を設けるべきではない。

19世紀まであったそうだ。それ以降も例えば1931年にアーサー・フォックスがフェニルチオカルバミドの粉末を間違えて落としてしまい、周囲の研究者の口の中に入れてしまったことから「味盲」という体質が発見されたりした例がある。基本的に危ないのでやめてください。

 

引継

それを無視してやりがいだけで組織を回すとしばらく経った頃には深刻な人材不足がやってくる。

いくつか業界の名前を挙げることもできるが、あえてする必要もないだろう。

 

表題は、「教育不要論、あるいは幸福な社会について」。

モデルはヨハネス・アモス・コメニウスの「Didactica magna(大教授学)」、ジャン=ジャック・ルソーの「Émile, ou De l'éducation(エミール、または教育について)」、ジョナサン・スウィフトの「A Modest Proposal: For Preventing the Children of Poor People in Ireland from Being a Burden to Their Parents or Country, and for Making Them Beneficial to the Public(アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案)」、レナード・リュインによるとされる「Report from Iron Mountain : on the Possibility and Desriability of Peace(アイアンマウンテン報告 : 平和の可能性と望ましさについて)」など。



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第5章~第8章 まとめ
登場人物紹介(第5章~第8章)


印刷物管理局の局員として出している多くの名無しキャラクターの裏設定のようななにかです。ネタバレにはなりませんし今後こっそり書き換えられているかもしれません。


印刷物管理局

 

事務所は大図書庫の一角に作られている。様々な組織から人員が派遣され、注目すべき技術である「印刷機」、およびそこから生み出される「印刷物」の研究、管理、統制を行う機関である。

 


 

キイ

 

印刷物管理局局長、大衙堂からの出向、司女

 

文字版印刷機の開発者。それ以外にも様々な知識を持っているが、それが何に由来しているのかはわかっていない。奇人変人の多い局員から一目置かれている。

 


 

ケト

 

印刷物管理局局長補佐、大衙堂からの出向、司士見習い

 

局員からはキイの相棒で愛人だと思われている。まだ学徒ではあるがまわりからはこれ以上の勉強が必要なのかと思われている。

 


 

局員の一人

 

木細工工房からの出向、工員

 

黄金比論者。この図書庫の城邦がある地域ではデザインに黄金比を取り込むことは珍しくない。

 


 

局員の一人

 

商会からの出向、経理員/算学講師

 

いつか大図書庫の講官*1になることを目指しているが、ポストに空きがないので商会で働いている。紙のサイズの仲介案として$2^{2/3}$を提案した人。算学の専門家であると同時に講師としての腕もある。ケトに二次方程式を教え、キイの計算を解読できる程度の実力者。

 


 

局員の一人

 

衙堂からの出向、会計員

 

金銭手続きや手数料の計算をやっている。基本的に手続き担当なので計算は他のもっと上手な人が担当している。この世界では計算は結構な特殊能力なのだ。

 


 

局員の一人

 

貿易商会からの出向、販売員

 

貝糸や硝子(ガラス)をどうにか手に入れてくる局員。商会の上の方にそれなりのつながりがある。海外経験あり。

 


 

局員の一人

 

父親が革細工職人。本人の職業はわからない。ただかなり器用。

 


 

局員の一人

 

紙問屋からの出向、営業員

 

職人としての腕も多少はあるが、それを活かして営業をしていた。印刷物管理局で使われる紙の質は彼にかかっている。

 


 

局員の一人

 

頭領府からの出向、蔵計員

 

図書庫の城邦の諜報ネットワーク「刮目」の構成員。城邦の領地を歩き回って情報収集を行っていた。報告書の内容と構成に定評あり。

 


 

局員の一人

 

大衙堂からの出向、司女見習い

 

物覚えがよく、手先が器用。もともと書字生として雇われていたが活版印刷機にすぐ慣れたので印刷物管理局へと出向することになった。なんだかんだで局内では人気者である。

 


 

以下、局員ではないが関係者

 


 

図書庫の書官

 

書類上の立場は印刷物管理局長のひとつ上。つまりは大図書庫の庫長の次ぐらいに偉い。それでも印刷物管理局の方針に特に口を出さず静観してくれている。

 


 

ツィラ(ほぼ偽名)

 

名前は古帝国語で「秘密」の意。図書庫の城邦の諜報ネットワーク「刮目」の頂点。キイに色々吹き込まれてしまっているが、異世界知識を全力で出してきてる相手と対等に渡り合う時点でおかしいのだ。

 


 

長髪の商者

 

今後の紙需要の増加に賭けて製紙業界をまとめた狂人。いくつかある商会内の派閥の中でも一目置かれている。実はこの時点でかなりの額をキイに賭けているが、それについてキイが知るのはしばらく先。

 


 

トゥー嬢

 

定期的にキイと顔を合わせているし、ケトに薬学を教えている。最近は薬学師の集まりに顔を出すようになった。

*1
図書庫から給金を得ることのできる職



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思慕

キイ視点からはあまり見えない方面を、ということで。


「あれ、局長は今日休み?」

 

「そうですよ」

 

いつも局長のやっている仕事をマニュアル通りに進めていた印刷物管理局局長補佐のケトは目を上げて局員の一人に言う。

 

「理由、わかる?」

 

「放電しきったようで*1

 

「……すまん、どういう意味だ?」

 

そう言われて初めてケトは自分の誤りに気がつく。

 

「ああ、やる気がなくなったので一日ほど寝るようで。明日には来ると思いますよ」

 

「そんなものか。まあいいか……。ところでだが局長補佐」

 

「君と呼んでいいですよ」

 

「ではケト君、酒は飲めるか?」

 

「ええ」

 

「それはよかった。今夜、飲みに行かないかという話があって」

 

「……いいですけど、僕が行っていいんですか?」

 

こういう会が定期的にあることをケトは知っていたが、キイがあまり顔を出さないためにきちんと飲んだことは一回か二回しかなかった。キイは最初に少しなにか話して、その後銀貨を何枚か積んで早めに去っていくのが常だったのである。

 

「いや、この際だからケト君に色々聞きたいこともあって」

 

「……わかりました」

 

ケトは言いながら、たぶんキイさんは夕食に自分で昼に作った卵粥でも食べるから大丈夫だろう、と考える。あれはそこまで美味しいとは思えないケトであったが、同居人の趣味にあまり口を出すのは良くないことは理解していた。

 


 

「それにしてもケト君はすごいよ、俺が君ぐらいの年齢の頃にはさ……」

 

ケトは少し回った酒精にふわふわとしながら、褒め言葉に顔を赤らめる。

 

「そんなことないですよ、ここにいる人はみんなすごいですし、キイさんだって……」

 

「そうそう、問題はそこなんだよ」

 

局員の一人が言い、盃の中の酒をぐいと飲む。

 

「局長、彼女は何者なんだ?」

 

「それは俺も気になってるんだがあれだろ?尋ねたら消えるような類のものだ*2

 

「となると、神霊か悪鬼となるな*3

 

「キイさんはそんな人じゃ……」

 

そう言いかけてケトは少し自分の中の神話の知識とキイの行動を思い出す。

 

「……そうかもしれない」

 

冷静に呟くケト。

 

「となれば君は(おかんなぎ)*4

 

「なるほど、つまり我々は神官たちだったか」

 

「生贄を捧げなければな、何がいいだろうか?」

 

そういう話が盛り上がると、それぞれの局員が自身の教養と知識をもとにして変な世界を作り上げていく。ケトはこういう行為は嫌いではなかったが、その対象となっているのがキイだと考えると複雑な気分になる。

 

「……冗談はさておき、やっぱり君は局長とそういう関係なんだろ?」

 

「そういう関係が何を指しているかはわかりませんが、たぶん違いますよ?」

 

「ほら、床で肌を重ねるような」

 

「比喩的な表現の方であれば、違いますよ」

 

淡々と言うケトに、局員たちは怪訝そうな顔をする。

 

「いや、下賎な話になるが……」

 

「おっ情話?聞きたい聞きたい」

 

女性がいる前でするべきか、と思って横を見た局員はずいと隣に入ってきた酔った女性の同僚にため息を吐く。

 

「あの魅力的な女性と住む所を共にして、何もないとなると色々と問題では?」

 

「別にあの人はそういうこと誘ってきませんし、僕もしないことにしているので」

 

「どうしてだよ、司女と司士だろ?」

 

「僕は司士ではなく司士見習いですし、一応は聖典をちゃんと読んで従おうとはしています」

 

少し腹立たしいようにケトは言う。

 

「私もキイ局長みたいになったら男から尊敬の眼差しを受けるのかと思ったんだけどさ、なんか話聞くと変な男しかついてこないね?」

 

「男も女も関係ない魅力はあると思うが。それに俺らは言うほど変わり者か?」

 

「そもそもキイ嬢が一番の変わり者だからな……」

 

そう話す面々が誰も彼も自分があとどれだけ努力しても届かないような才能をなんてこともないように持っていて、それで自分の特別に思っている人に自分と似た感情を向けていることをケトは受け入れるしかなかった。それができる程度には頭は回っていたし、感覚を否定できるほど感情的ではなかった。

 

「みなさんが、何と言おうとも、僕はキイさんの一番そばにいるんですからね」

 

「……いや、それはそうだが」

 

「さすがにあの隣に俺は座れん」

 

「早くもっとくっついてください、そして私たちの肴になるのです」

 

キイと同年代である酔った年上の人達がそう言うと、ケトは自分の発言を思い出して急に恥ずかしくなった。

 

「キイ嬢、君以外の男性には特に気を持つ素振りもないしな」

 

「……そうですか?」

 

おそるおそるケトは聞く。

 

「おいおい、俺の目を疑うのか?これでも数十人ほどは抱いてきたんだぞ」

 

「うわぁ、顔と声が良くて仕事ができるからってそれはないですよ」

 

「ずるいですよね、こちらは妻を探すのに苦労しているというのに」

 

「うるせえ苦労してるのは俺もだよ、悪評のせいでもう女は寄ってこないし……」

 

「それは自分の罪のせいでは」

 

そういう年上の世代の話を聞きながら、ケトは自分もこの人たちと同じぐらいの年齢になれば想い人とそういう関係になるのかな、と考えて盃に残っていた酒を舐めた。

*1
無理に日本語に直訳すれば「痺れ切らす」。電気学関連の用語としてケトが作った。

*2
私たちの世界と同じように、「見るなのタブー」が含まれた神話や伝承は比較的よく知られている。

*3
万神学の用語。どちらも人を超えたある種の超越存在であり、かつては人々と様々な形で交わっていたとされる。

*4
古帝国において神事を取り仕切った人の多くは女性であったが、そういった女性を指す古帝国語の「巫」を無理やり男性形にしたもの。男性の司祭者を表す別単語もあるが、「神」のために純潔を保つという「巫」の特徴を強調するためにこのような表現がされている。




活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=281887&uid=373609


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第9章
添削


「……キイさん」

 

冷たい目で、ケトは私の目を見つめる。

 

「はい」

 

縮こまる私。

 

「どこまで言っていいですか?」

 

「ケトくんの全力で」

 

さんざんやって慣れていたはずなのに、どうしようもない恐怖が背中に走る。

 

「……そう、ですか」

 

ケトは手に持った紙を机の上に置いた。

 

「酷いものです」

 

「やはりか」

 

コメントが入れられることを前提に行間はかなり広めにとって文章を書いたはずだだが、その隙間だけではなく追加で足された紙にもぎっしりとコメントが書かれている。

 

「内容としては面白いのですが、まず文書が読むに耐えません」

 

「まあ、そうか」

 

自動翻訳ツールもないのだ。とはいえケトが解読できる程度にはそれらしい文章であったと言えるだろう。

 

「僕が書き直すと意味が変わってしまうと思うので、一つ一つ確認していく必要があります」

 

「わかってる」

 

まあ、直してくれるのはこの城邦の中で変なやつらを集めた印刷物管理局の中でも一目置かれている詩人だ。きっとかなりのものになるだろう。

 


 

人間は本質的に愚かである。ゆえに、自分で価値判断ができるまでに教育するとなれば膨大なコストがかる。それでいて、価値判断ができるということは自分が不幸であるということを突きつけられるということでもある。そのような教育は人間の幸福の役に立つものではない、というのが基本的な構成だ。

 

「それにしても悪辣ですね」

 

「ほう?」

 

非道徳的であるとか、倫理的に問題があるとかいう反応を私は期待していた。それが悪辣だと?

 

「この文章が論じているのは、人間と社会には教育が不要だということではなく、教育を不要だとした人間と社会がどうなるかについてですよね」

 

「そんなわかりやすかった?」

 

「いえ、これは少ししっかりと読み込まないとわからないと思います」

 

「その通りだよ。でも悪辣と言うほど?」

 

「……例えばここ。教育がどれほど大変で、悪影響をもたらすかを書いていますよね」

 

「うん」

 

「不十分な教育では低い階層の市民が我が物顔で高貴なものが立つべき場に足を踏み入れることになる、と言っている一方で、各人にそれぞれの立場をわきまえさせるのが教育だとあります。これはつじつまが合いませんよね?」

 

「あ、そこはちょっと修正したい。さすがにわざとらしすぎたか」

 

「……そう。この論は反論がしやすいんです。そして反論をするとなれば、最終的な結論は男女も年齢も生まれも問わない、万人に対する教育の重要性を主張するしかなくなる。それ以外の選択をするとなれば、この中の直視したくない結論に繋がる、と」

 

なんというか、これだけの論考の骨子を一瞬で見抜かれると辛いものがある。

 

「……はい。もうその通りです」

 

「やっぱり。でも、もしそうだとすればまだ色々と直すことはできるでしょう」

 

「例えば?」

 

「文章にいくつかの癖をもたせた上で、それぞれの癖から受ける印象が食い違うようにします」

 

「筆者をわからなくさせるという意図?」

 

「ええ。さらにこの文章が真面目に書かれているという第一印象を与えることができます。そして読み終えた頃には騙された、と思うわけですね」

 

「よくもまあそんな悪辣な発想を……。どこで学んだの?」

 

「僕の師は、たびたびこういう話をしてくれるので」

 

ケトが師事している人となるとトゥー嬢か?……いいえさすがに分かりますって。私ですよね。

 

「恐ろしい弟子を育ててしまったな……」

 

「それで、これをどうするんですか?このまま発表すれば相当反感を買うと思いますが」

 

「文字版印刷機で複製を作って、差出人をわからないようにした上で何人かに見せる」

 

「……それでも十中八九、キイさんが書いたとわかるのでは?」

 

「そこまで?」

 

「はい。こんな無茶苦茶な理論を、さも当然かのように編める人間はそうそういません」

 

「……となると、これを読める人もあまりいないのでは?」

 

科学史方面の知識を漁れば、後世に評価された論考が必ずしも発表時に評価されたとは限らないという実例がいくつも挙げられる。誰が書いたか、誰が読んだかというのは嫌でもその論考の価値を決定してしまう側面があるのだ。

 

「僕の方に心当たりがあります。というより、キイさんの目的はこの論に反対する人が万人に対する教育を実行すること、ですよね?」

 

「その通り」

 

「……具体的な実行には、それなりの知識を持った人物が求められます」

 

頷く私。それと同時に記憶に引っかかるものがある。

 

「あれ、この流れ前にも見たな」

 

「結局これ、キイさんの仕事が増えるだけでは?」

 

「……長期的な教育はそういった個人の能力に依存するものではなく普通の人たちの協力による社会の創造を」

 

「あと十年以内に、そういうことができる体勢が整うといいですね」

 

「……そうだね」

 

「できれば印刷物管理局にそういう仕事が回るようにしたい、と考えていいですか?」

 

「確かに。この教育には印刷物が不可欠だ」

 

私の論考では教育のコストを過度に見積もっている。もし教育学、いやこの世界では教育術という名前になるだろうものが確立され、適当な教科書が作られ、そして次の世代に教えることのできるだけの知識を持った人を大量に育成できるのであれば、教育というものは決して文化的贅沢品ではなくなるのだ。



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組版

「珍しいですね、局長から呼んでくるなんて」

 

手についたインクを拭いながら、若い女性の局員が言う。

 

「すまないね。特別な印刷がしたくて、手伝ってほしい」

 

「それは仕事ですか?」

 

「違うよ。だから報酬は出すし、断ってくれてもいい」

 

局員の目の色が変わる。

 

「面白そうですね、いいですよ。……ところで、どれくらい出るんです?」

 

声をひそめて聞く声。

 

「銀片10枚でどう?」

 

「もうちょっと」

 

「印刷の枚数は20枚弱だよ」

 

「……なら四半月といったところですか。その額でいいですよ。急いだほうがいいですか?」

 

「いや、ゆっくりでいいよ。何なら一月かけてもいい」

 

「なら簡単ですね。一日に一枚作ります。どこの印刷機を使いましょう」

 

「印刷物管理局として一台手に入れてある」

 

印刷機は決して安いものではないが、かつて使っていた各種分析機材に比べれば多少お手頃価格と言ってもいい。何なら個人でもローンを組めば買えなくもないレベルだ。今のところのボトルネックは印刷機を作ることのできる職人の不足だが、制作に慣れてきたのととある商会が裏で手を回したのがあって、ある程度のペースで生産され城邦内の各所に置かれるようになり、輸出の手続きも進んでいるらしい。長髪の商者とツィラさんのネットワークが裏に見えるのは気にしないことにしよう。こういう作業は下手に知識や経験がない私よりもプロに任せた方がいい。一応新しく作られた印刷機は印刷物管理局規格にそって設計されているらしい。まだ職人技だが、今後もっと生産するなら許容範囲やゲージを整備した体制を作らねばならない。……こんなことができる機関はないのでこれも印刷物管理局案件か?できるだけ早く各分野に信頼できる専門家が欲しい。今のところ、トゥー嬢ぐらいしかそういう人がいないからな。

 


 

「衙堂のやつよりも綺麗ですね」

 

「あれはかなり荒っぽかったからな……」

 

図書庫の一室に納入された、私が見ても洗練されたのだなとわかる印刷機を前に私と局員は言う。

 

「文字版、運んできましたよ」

 

ケトが箱を持ってきて言う。

 

「そういえばですけど、局長」

 

「何?」

 

「炉入れみたいなこと、しないんですかね?」

 

「なにそれ」

 

「神事の一つですよ。工房などで炉を新しく入れる時、神を招くんです」

 

ケトの説明からするに、あれだな。神道における清祓(きよはらえ)だ。確かに職人技というのは結構心理的側面もあるので宗教の力を使うみたいな話は聞いたことがある。

 

「必要ならやりますが」

 

「必要だと思う?」

 

「僕はいらないと思います」

 

「私も。最近は信心が足りない司士や司女の見習いが多くて困るね」

 

そう言って局員は笑う。そう考えると彼女はケトと立場が比較的似ているのか。

 


 

局員の彼女は箱の中に手早く活字を並べていく。この手のマルチタスクは私は苦手だが、それを苦もなくこなすのが怖い。そう言えば衙堂にいた時に有能な新人だと評されていたっけ。

 

「読みましたよ。これは他の人には頼めませんね」

 

「内容を口外したら、あなたも面倒事に巻き込まれるから黙っていていいからね」

 

「脅しですか?」

 

「いや、何かあったら私が責任取ることになるからむしろ懇願?」

 

「わかりました」

 

そんな会話をしている間に一行分の活字が組み上がる。

 

「これを印刷するということは、作者を秘密にしたいということですよね」

 

「あとは何部も作りたいっていうのもある」

 

「それならあの蝋紙版を使えばいいんじゃないですか?」

 

「それも考えたんだけどね、やっぱり揃った文字が見たくて」

 

「ふぅん、やっぱり局長は変わり者だ……」

 

一種の郷愁かもしれないな、と私は考える。ぎっしりと並んだ活字の文字は、論文やら学術書やらを思い出させるので嫌いじゃない。

 

「さて、これで終わりです」

 

活字が詰まった木の枠を印刷機に置きながら彼女は言う。

 

「刷りますか?」

 

「そこまで頼んでしまっていいの?」

 

「いっぱい貰いましたからね、これくらいはおまけです」

 

「すまないね」

 

「いいんですよ。臨時収入で親にちょっといい飯を食べさせられるので」

 

彼女はまだ未婚で、親と同居しているのか。この世界の家庭の概念とかは難しいな。フィリップ・アリエスの見解はあまり正しくないし、一地域のある区間の時代の見解を欧州全体の一つの時代区分に拡張するのはあまりよくない、みたいな話をどこかで見たな。まあそれを加味しても子供をどう扱うかは人それぞれだし、時代によっても変わる。まあ一般論ではあるが、子供は親に余裕があれば人間として扱われ、そうでなければそれなりの扱いを受けるのだ。辛いところである。この問題の解決のためには下手すれば公権力による家庭への介入が必要になるが、それをこの世界の人々が許容するかどうか。

 

「ご両親は何を?」

 

「どっちも衙堂務めでした。今は二人とも辞めて、法律学や統治学の講師をしています」

 

「なるほど」

 

だから彼女が司女見習いとして積極的に働くことを止めなかったのだろう。親の理解というのは子供が進路を選ぶ際に欠かせないものだ。少し過去の嫌な記憶を思い出してしまう。私のではない。どうせ女性がやるなら役に立たない史学でも構わないと親に言われていた大学での知人とか、あるいは研究者の親のプレッシャーを受けて院に行ったはいいものの一般企業でそれなりの幸せをつかんだ人とか。私は不幸な人間がそれなりに嫌いなので、きっと今後も色々なことに首を突っ込んでしまうのだろうな、と考える。



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来歴

「よくまあ、それらしい来歴を……」

 

私はケトの作った文章を見てため息を吐く。

 

「良くなかったですか?」

 

「いや、かなりいいと思うよ。念のために聞くけど、これって少し調べたら全部出鱈目だってわかるようにしてある?」

 

「ええ。まともに知識のある人間なら間違うはずがない誤りを混ぜてあります」

 

「……まあ、それに気がつかないような人間は何見せても信じないから駄目か」

 

「そういう実例を知っているんですか?」

 

「いくつかね」

 

陰謀論者たちはこういうものが大好きだ。ジョークで作られた文書を堂々と証拠として持ち出して失笑を買うのは度々見たものであるが、まあ私だって他の人から見れば全くの誤った歴史的知識を持っている可能性も十分にあるわけだ。できるだけ反論を受け入れるようには自覚して行動していたが、自己正当化バイアスの影響が自分にどれだけあるかわからない。

 

「それでもこんな形で発表するとなれば、まあ少し騒ぎにはなるでしょうね」

 

「必要であれば私はすぐに反論文書を作るよ」

 

「いえ、たぶんその必要はないと思います」

 

「どうして?」

 

「既に図書庫の講官の何人かにこの文書のあらましを話しています。中には腹を立てた人もいまして」

 

「行動が周到すぎる……」

 

改めて私は目の前の少年の能力評価を一段回上げる。

 

「是非原文を読みたいとのことで」

 

「待ってもらってね?」

 

「もちろんです」

 

ケトが頷いたのを確認して、改めて私は謄写版刷りの文章を見る。内容はこう。大図書庫におけるぼかされてはいるが十中八九私だと見る人が見れば予想するある重要人物に対して、これもモデルがいるらしい頭領府の中の専門家がとある文書を見せた。それはあのトゥー嬢の父をモデルにしたかつて失脚したある政治家、の信奉者だった人物の死後に遺品の中から発見された草稿で、頭領府の専門家はこれを読んでノイローゼになり、直接は言及されていないが死ぬかあるいは仕事ができない状態になったことがほのめかされている。大図書庫の重要人物はこれに対して反論する前に、ごく一部の専門家に対して公開することを決めた。その一部をあなたに差し上げる。などなど。

 

「これ、出てくる人達は……」

 

「もちろん全員悪い笑顔で許可をくれました」

 

「酷いな……」

 

「なんなら実際に読んだ人の気分が悪くなるよう呪いの言葉でも盛っておきましょうか?」

 

「やめておいて。私はそういう物の力を受けやすいから」

 

「おや、意外ですね。キイさんならそんなものは迷信だと切り捨てそうだと思っていたのですが」

 

「誓いだの呪いだのというのは、どうしても人の心を縛るんだよ」

 

「けれども、それを無視する人も多いですよ」

 

「私はそうじゃないというだけ。気持ちよく眠れるようにいいことをするのが私の信条なんだよ」

 

「わかりました。まあこの件については僕が動いていいですか?」

 

「お願い。というより私は動けないからな……」

 

印刷物がゆっくりとではあるが増えてきた。トゥー嬢の書いた「基質の分離と分析」もそろそろ印刷が終わるらしい。本の情報を記した手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)も少しづつ厚くなってきている。いいことなのだが、まだ私の知識や能力に依存した業務が多い。できるだけ分散させたいが、教育のためには手引が必要でそれを書くためにそれなりの時間が必要で、といろいろと難しい状態になっている。

 

今後必要なことを考えていく。ソフト面では教育制度を中心とした人材の育成。それと並行してできるハード面の活動はないだろうか。つまり私以外がやればかなり長い時間がかかり、私が手を付けることでかなり技術の発展が進むもの。例えば電気はそうだった。その存在自体がわかってしまえば、そして方向性が定まってしまえば技術というものは加速させることができる。マンハッタン計画が例の一つとして挙げられるだろう。大統領が計画を承認してから3年も経たずに、「ガジェット」と命名された爆縮(インプロージョン)型原子爆弾がアラモゴード近くの砂漠で爆発した。まあこれは民主主義の兵器廠という工業力の怪物が片手間にやった数多の事業の一つに過ぎないが。

 

もっと他の分野でもいい。宇宙開発やコンピュータ科学、バイオテクノロジーでも似たようなことは起きた。産業界が着目し、多くの学生が専門家として雇われ、そして花火のように事業が一瞬だけ輝く。こうしてあとに残るのは専門性を失ったかつては優秀な技術者だった人達と次の分野に目標を移した投資家である。うーんこれはかなり偏見混じりの意見だな。まあ私は基本こういう華やかな分野にあまり縁も興味もなかった。なにせ高校時代は工作機械と工業材料を学び、大学では歴史学を専攻していたのだ。前者は既に枯れた技術となっていたし、後者の有用性は怪しいところだ。

 

どうせなら、その方向性をある程度こちらで決めてしまいたい。例えば抗菌薬の開発は有機化学の発展とともにあった。ただ、ここで赤外分光光度計のような道具があれば?あるいは冶金学の研究にX線回折が使えたら?もちろん、基礎となる理論や実験が欠如するという問題点はあるが、そもそもそういうことは私の知る世界の歴史ではかなり一般的だったし、先を知らない状態で避けることはまずできない。それに私は一応最低限の科学の知識はある。理論の抜けた場所をカバーする研究案を匿名で出すことぐらいはできるだろう。今回の文書はそれができるかどうかの確認の意味もある。



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人員

私は計算を終え、ペンを置いた。

 

「人数が足りないな……」

 

問題は業務の急激な増加である。規格化や書誌情報記載義務は多少手間を軽くしてくれているが、純粋に冊数が多くなってきていて辛い。事務職も何人か追加されたが、印刷機の開発や改良、出版関連の法案作成や関係機関との折衝などに影響が出てきている。いや別に厳密に義務付けられた業務ではないのでなんなら投げてもいいのだが、それをやると混乱が見えるので良くない。ああまったく、私はなんてお人好しなんだろう。

 

「局長、さすがに問題が出てきています」

 

「そう?」

 

「ええ。実際、燈油の消費が増えています」

 

局員の一人が差し出すのは手書きのグラフ。ああ、これが普通に使われるようになったんだな、と変な感慨が浮かぶが本題はそこではない。

 

「……確かに。残ってまで仕事をこなさないといけないのは私の責任だな」

 

「大半は局員の凝り性のせいだとは思いますが」

 

「それも加味しないと。一応私は雇い主なんだから」

 

それを聞くと、局員は目頭を押さえる。

 

「……局長、いろいろ言われていますけど俺は局長についてきますから」

 

「……何を言われているのか聞きたいなぁ」

 

固まる局員。

 

「ほら、あれですよ。城邦の敵だとか」

 

「大きくなったもんだな……」

 

具体的に話を聞くと人員と予算をかなり手にした上で出版物の中身も「指導」せず、局員も仕事と関係ないことばかりしているという誹謗中傷があるらしい。あの頭領府から来た情報収集の専門家である局員が気になったという理由で行った調査によればそのきっかけは酒場で呑んでいた局員の自虐に尾ひれがついたものだったとかいうオチまでついていて笑った。

 

「まあ、確かに良くないね。金になる作業でもするか」

 

「なら蝋紙版印刷機の販売権をうちにください。売りますよ。一番金になるはずです」

 

「そうか、君は商会側の人間か……。というか、その話が出る時点で相当裏で話が進んでいないか?」

 

「それについては、黙っているように言われていまして」

 

完全に答えである。

 

「……開発関係者にちゃんと恨まれない程度の金を持たせてやれ。それ以上はいまのところこちらからは言わない。あと独占権については管轄外だ」

 

「わかりました。なぁに任せて下さい」

 

簡易印刷が広まる影響はどれぐらいかわからないが、事務作業は格段に楽になるだろう。なにせ今までの仕事の少なくない割合が「書類を写す」ことだったのだ。その一方で変なものが出回る可能性は十分にある。

 

「それと、局長が興味を持つだろう人物についてまとめてあります」

 

そう言うと局員は活版印刷で作られた枠に手書きで詳細が書かれた一種の履歴書を渡してきた。

 

「……これ、作ったの?」

 

「ええ。今後必要になるでしょうから」

 

手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)と組み合わせて使うと良さそうだ。厚紙の方には最低限の情報を書いて、こっちの紙と同じ番号を書いて対応するようにすれば」

 

「なるほど、それは良さそうです。その計画案も作ってくるので確認してもらえますか?」

 

「わかったから帰れ。もうそろそろ日が暮れるぞ」

 

私が外を見て言うと、局員は驚いたようだった。まったくこの手の人間は集中するとすぐ時間感覚を失うんだ。私が言えた義理ではないが。

 


 

「……債務労働者、ね」

 

家に帰った私は紙の一枚をランプの灯りの下で見ながら言う。

 

「書類偽造の罪で罰金が銀片三千枚とは、また凄い人を出してきましたね……」

 

「知ってるの?」

 

「いえ、ただ面白そうな人だとは思います」

 

「うーん」

 

かつて犯罪者だった人間の雇用は色々と問題がある。その下準備も楽なものではない。心理検査の概念を作り、長期的な行動追跡や価値基準に関する研究も必要かもしれない。それにしても一度会う価値はあるかもな。

 

「それ以外の人は、まあ普通ですね」

 

評価されない講師、待遇に不満のある工員、大商いを目指す商者、それに有望な学徒。

 

「新人の育成は時間がかかるから、慎重にやりたいが」

 

「え、雇って現場に置けばいいだけでは」

 

「まさか、え、ああ、そうか……職業についての教育という概念がないのか……」

 

「いやありますが」

 

ケトは反論する。

 

「違うよ。なんて言うべきかな……。その業務に必要な技術や知識を、体系的に学ぶこと」

 

「師から見て学ぶようなものではなく?」

 

「違う。もっと学のようにしっかりとしたものでないと」

 

「……理念は理解できますが、それは手間がかかりすぎますし難しいのでは?」

 

「君がそう言うなら、難しいのはわかった。ただ、やってみる価値があると思う」

 

「わかりました。なら、協力します。必要なものはなんですか?」

 

私はいい相方を持ったな、と少し笑いながら私は脳内でリストアップを始める。

 

「まずは、私の余裕かな……」

 

「今の論稿の件が終われば僕も動けるので、その間に他の仕事の手引も作って下さい」

 

「あ、あの手引はどうだった?」

 

私は作っていたマニュアルを思い出す。半分ぐらいはメモみたいなものだが。

 

「かなり助かりました。ああいう形で仕事を客観視するのはいいですね」

 

「私がやりたい業務訓練みたいなものは、その客観視をできるだけ広く適用するものだ、と言ったらその価値がわかる?」

 

「ああ、なるほど。……あれを誰でも書けるようにする、と?」

 

「まずは読めるようにするところからだけどね」

 

マニュアルの起源はフレデリック・テイラーのあたりだろうか。本来単純作業のためのものだが、私はその後百年かけて作られた色々な手法を知っている。伊達に小学生でISO 9004を読んでいたわけではないところを見せてやる。が、その前に日常業務を効率的に行うための十分な睡眠を取らねば。



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愛情

受け取った紙の束を確認する。あとは染厚紙で表紙を作って背を紐で綴じて製本するだけだ。この綴じ本、あるいは冊子という形態に似たようなものは存在するが、まだここでは巻子本のシェアが大きい。まあ一冊あたりの本のコストはまだまだ安くないし、本自体が高級品というイメージが抜けていないので仕方がないところではある。それでも小規模でそこまで凝っていない印刷物が流通することが重要だと考えている私からするとどうにも歯がゆい。

 

とはいえこれは業務外にやる。一応私は日没の少し前、まあ正確な時刻や時間を測定する方法がまだないのでいい加減だがそれまでは印刷物管理局の局長としての仕事をすると決めている。まあ最近は贈答用の硝子筆(ガラスペン)の生産で忙しい時もあるが。ケトに必要だと言われたら私はそれを信じるのみである。どうやら私が事務仕事で忙しい間、外回りなどをやっていてくれたらしい。きちんと業務内容を確認しないといけないが、どうにも後回しにしがちだ。よくないな。

 

「局長、これで今月の分は終わりです」

 

「……早くない?」

 

「管理局内で研修をしたいという話をケト局長補佐から聞いて、その余裕を作るために少し頑張りましてね」

 

そうやって班の一つを任せている局員は苦笑いをする。

 

「ありがとう。銀片を積む以外の方法で君たちに報えないかな」

 

「払ってくれないんですか?」

 

少し意地悪そうに局員が言う。

 

「私だってさすがに大変でね、さらに銀片を足すよりも有意義なものがあればそちらにしたいのさ」

 

まあボーナスや昇給などはかなりしているはずだし、局員も基本的に金銭的待遇での問題はないはずだ。なぜわかるかって?局員全員の身辺調査もやってくれている優秀な組織と私が繋がっているからだよ。別に局員が買収されること自体は構わないが、誰がどこの紐付きなのかはしっかり把握しておきたいようだ。素晴らしい。その調査力をもってしてもなお私の背後関係は何もわからないとか。このままではただの趣味で異常な水準の技術や知識を生み出していることになるという結論らしいが、私はそれを聞いてただ微笑むしかなかった。趣味だからな……。

 


 

日が沈んで冷たい夜風を感じながら、局内での研修プログラムの内容を書き出していく。まずは全体の目標を共有して、関係者の利害を理解して、その上で行動できるようにする。そこから個別の作業についての説明と、マニュアルの作成やこういった研修そのものに対する知識を深める訓練。

 

目標が決まれば、必要なものを割り出せる。使える資源を整理し、実現可能な範囲で行動を決定し、実行し、評価し、改善を繰り返す。基本的に思えるが、これを体系化してやるのは難しい。これを小学生に学ぶように勧める親がいるんだってさ。信じられるか?

 


 

硝子筆(ガラスペン)を置いて、ちょっとだけ目を閉じ、過去の思い出に浸る。

 


 

小学生低学年に相当するころ、私は世界と大人を舐めきっていた。つまらない学校の授業も、同級生との低俗な会話も嫌だった。それなら家で本を読んでいた方がいい。こう親に言ったら、それならまずは小学校の範囲を全部理解しろと言われて中学受験の問題を渡された。解いた結果?まあ、合格ラインには届いていなかったと言っておこう。今思うと初見でやったにしてはなかなか良い点数だが。

 

それで両親は授業範囲に相当する部分を定期的にプレゼンで説明することと引き換えに私の不登校を認めた。本当に狂っている親だと世間を知っている今となっては思うが、小学生の作るスライドに定期的に時間を取って丁寧に質問を入れて訂正案を出してくれたのは学生生活で非常に役に立った。なにせ大学一年生で学会誌に普通に投稿できるレベルの文章が書けるようになっていたのだから。

 

私が両親のコンプレックスを反映して成長したことは否定しない。私が客観的に見て歪んだ成長をしていたのも事実だ。私が親から受け取っていたのは世間一般の愛情とはズレたものだった。もし相手が私でなく、もっと普通の少女であればきっと父も母も親として不適格だったのだろう。しかしまあ、私だったのだ。今では幸福な子供時代であったと胸を張って言えるし、私は二人を自分なりに愛していた。

 

両親はできる限りの方法で、私に色々な世界を見せてくれた。例えば当時大学の講師だった母は自分の研究室のゼミや学会に私を連れていったし、分析機器メーカーの開発部の課長だった父は工場や研究の現場を見せてくれた。当時の私は眼精疲労もなしに片っ端から本を読めたし、この時の数年間で私の興味の下地というものは完成していたと言えるだろう。当時きちんと理解せずに読んでいた本の数々が「繋がった」のはそれなりに後だったが。

 

とはいえ社会学を専門にしていた母とも、理論畑であった父とも違って私が興味を持ったのは実際に手を動かして何かを作ることと、その歴史だった。それを学ぶことを目標として逆算し、私は中学校では真面目な生徒として振る舞った。幸いにも不登校であった事実を知っている人は周りにいなかったし、自分の優越感をぶち壊すような怪物の知己もできた。授業内容を先読みし、先生の頭の中の授業指導案通りに答える学生生活はまあ今思い出すと痛いものがある。どうにも両極端なんですよ。当時はストイックに社会が求める役を演じることがいいと思っていたんです。小学校時代の嫌な反動だ。

 

「ぐぁ……」

 

思い出したくないことに触れてしまい、私は声を出して思考を誤魔化す。横を見るとケトは既に寝台で寝息を立てていた。そういえば、彼も普通の家族とは違う環境で育ったんだったな。不幸ではなかったらしいが、ある意味で私と似ている面はある。早熟な天才で止まらないといいが、と私は考えて灯りを消した。



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板書

図を描くということは様々なメリットがある。それは外部記憶の役割を持たせられるし、数字や文字の羅列を一目でわかるように表現できる。では多人数に対してできるだけ容易に図を示す方法はあるだろうか?

 

答えを言ってしまおうか。それは黒板である。

 

実際にはある種の樹液と粘板岩の粉末、そして炭を混ぜたものを塗った木の板と、石灰石と穀粉を練って焼いた筆記具である。まあ黒板とチョークだ。かつての世界にあったものに比べれば使い勝手は悪いが、まあ何もないよりはいい。

 

教育関連のことをやるために準備はしていたのだが、さすがに手が足りなくなっていたのでこれはかなり外注した。いやあ銀片を積めば色々なものが手に入るのはいい。これを作ってくれた工房や仲介の商会に一体何に使うんだと聞かれたので工程管理表(ガントチャート)の基礎を教えたらすぐに実用していた。この黒板の開発工程自体が工程管理表を利用していたというので、なんというかこの世界は色々なものの受け入れが速い。

 

「つまり、我々は大目標を決める必要がある。ここであれば、例えば印刷物の管理と統制を通した知識の共有と生活の向上といったところだろう」

 

文字を黒板に書きながら私は言う。聴衆が椅子ではなく床に座っているせいで高さの問題から膝立ちで書かねばならないのが少し難しい。

 

「ここから業務を具体的に挙げていく。印刷物の記録と収集、印刷技術の開発と普及がぱっと出てくるところだろう。そして印刷物に関する事務業務の中継地点としての役割もある」

 

今までこの世界にあった組織の多くは強いリーダーシップや高度の協調性によって成り立っていた。有能な人材ばかりであればそれでもいいのだろう。しかし、私が作りたい世界にはもっと多くの労働者が必要なのだ。ならどうするか。言葉を選ばないのであれば、方法は二つ。馬鹿をどうにかするか、馬鹿でもできる仕事にしてしまうか。私は両方を選ぶ。前者は教育によって、後者は技術によって。

 

「つまり、やるべきこととその必要がないことを目標によって判断するのですか?」

 

局員が質問をくれる。ありがたいな。基本的に良い発表というものは多く質問が来るものだ、という理念の下で私は学会とかで演台を前に立っていた。質問が来ないということは発表内容が自明だったか、あるいは聴衆に理解されなかったか。前者なら発表の意味がないし、後者ならなおさらだ。実際には数学の分野とかでは世界に数人しか理解できる人がいなくて理解ではなくむしろ解読と呼ぶべき作業が必要なんてのもあったらしいが、幸いにも私はもう少し人間らしい業界にいた。

 

「その通り。そして、全体で方針の共有ができていれば命令や上下間の伝達が少なくてすむ」

 

ここらへんの知識は並列コンピューティングの分野から引っ張ってきている。情報のやり取りというのは少ない方がいい。レスポンスタイムを減らすためにはそれぞれが自分の責任でできる範囲を適切に設定する必要がある。

 

「私が衙堂にいた時のように臨機応変に業務に応じて人員を組み替える方式は確かに最適かもしれないが、それは無駄を省くことを重視して場合によってはより多くの負担が必要となっている場合がある」

 

あの方式は衙堂でも煩務官しか実行できていなかった。情報整理の技術をもう少し発展させれば何人かのチームで似たような事ができるようになるかもしれないが、それは人事に関する専門の部署が必要なレベルにまで人数が増えてからでいい。今はそういう仕事には私とケトが責任を持っている。

 

「とはいえ、この目標設定方式にも問題はある。それはいきなり新しい人材を組織に馴染ませることができないという点だ」

 

ろくに研修も受けていない、つい数日前まで大学生だった人間をいきなり最前線に出す業界はろくでもない。それが個人の将来を左右するほど重要な立場であればなおさらだ。人材育成のコストが高くなっているのはわかるが、それを安易によそに押し付けないで欲しいものだ。

 

「だから、体系的な教育を行う計画が必要になるわけだ。それは仕事に必要な専門知識を身に着けさせるというだけではない。同じ目標を持った集団の中で行動ができるよう、悪く言えばその個人の特性の一部を曲げてしまうわけだ。この欠点は常に認識しておく必要がある」

 

少し嫌そうな顔をする局員がいる。うん。その感情は間違ってはいない。事実、ここにいる局員の多くはルーチンワークをさせるよりもある程度自由裁量を与えて放置しておいたほうがいい仕事をしてくれるだろう。それでも、今後そうでない人を組み入れられるようにするためには初期投資としてこういった有能な人材を枠にはめて能力を制限する必要がある。まあこれも行き過ぎると均質化した人間の製造みたいになってしまうので本当にバランスなんだよ。それが簡単に取れればいいのだが、残念ながら極端に振れるのに比べて不安定な系で中庸を保つというのは常にフィードバックループを回さなくてはいけない分大変なのだ。ああそうか、制御工学という概念も用意しないと。背後の数学的概念にラプラス変換とかあったが、あれの理解は結構いい加減なんだよな。まあ数学はどうしてもある程度の天才に任せなくてはいけない分野なので仕方がないが、天才が生まれる可能性を上げたり母集団を大きくしたりはできる。ま、これはかなり時間がかかるのでゆっくりやるしかない。



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欲求

ミクロ的最適解とマクロ的最適解が一致しないことはよく知られている。ゲーム理論や経済学の用語を使えば、ナッシュ均衡はパレート最適ではないということだ。

 

有名な問題、囚人のジレンマの亜種を考えよう。二人の局員がいる。それぞれ自分の業務のノウハウがあり、それを公開するか秘匿するかを選ぶことができる。互いに公開すれば大きな成果を得ることができるが、どちらかが秘匿した状態でもう一方が公開すれば公開したほうだけが損をする。そして公開しなければ業務はいまのあまり効率の良くない状態のままだ。

 

さて、局員の一人の目線に立とう。もし相手が公開するつもりなら、自分は秘匿しておくことで利益を得ることができる。もし相手が秘匿するつもりなら、わざわざ公開して馬鹿を見る真似はしたくない。つまり、情報の共有は選択されないのだ。より大きな視点から見ればそれはあまり効率が良いわけではないのにもかかわらず、である、

 

ではこのジレンマを解決するにはどうしたらいいだろうか?例えば相手が公開しない場合を「裏切り」と捉えてペナルティを課すこと。あるいは外部から介入して利益の値を書き換えてしまうこと。まあ色々な手はあるが、それは社会という集団を構築する上で培われてきたものの中にも見出すことができる。やはりメタ的視点は重要だな。

 

「というわけで、作業手引の作成者には適切な便宜を図る必要があるわけだ」

 

利得表を黒板に書いて私は言う。

 

「では局長、実際に我々が手引を作るとしたら何の益があるんです?」

 

局員が聞いてくる。

 

「まあそうなるよな、強いて言うならこの職に就いていられるということだ」

 

「酷い脅しだ」

 

笑い声が聞こえる。まあこういう危ないジョークができる程度には信頼関係ができていると考えよう。

 

「まあそういう脅迫に頼らなくてすむよう、ある程度自分で業務の方向性を決めて意欲的に取り組んでくれる構成員で組織を作るほうがいい」

 

「働く喜び、ですか……」

 

「そう。もちろん全員がそれを感じるわけではないことはわかっている。今日の糧のために汗を流す人もいる。それでも、だからこそ、仕事は楽しい方がいいだろう?」

 

図書庫の城邦における労働価値観はかなり職業によって異なる。例えば衙堂の思想を引っ張ってこよう。人は働かなければならないのは、神との賭けに負けたからである。人は先を予測する知恵とともに新たな欲を手に入れたため、現実との差に苦しむことになる。自身が小さい存在であることを知り、小さな満足を大切にするために最もいい方法が神々への懇願と感謝である。そういった超越存在を感じることによって人間の弱さを理解したのであれば、我々は手を取り合って生きていかねばならないということがわかるそうだ。解釈は色々あるらしいが、ケト流の纏めによればこんなところ。別の考え方もある。例えば商者の思想はこの欲を一定程度満たすことを重要視する。人の欲を知り、その人にとって欲でないものを知ればそのやり取りによって自らの欲を満たすことのできる利益を手にすることができる、と。

 

参考までに、ここらへんで「欲」と呼ばれているものは日本語のそれとは少しニュアンスが違い、自然に起こる渇望とかと訳すべきかもしれないものだ。あまり宗教に触った経験がないからここらへんをかつての世界の思想と比較することは難しい。せいぜい三大宗教ぐらいわかればいいだろうと思って聖書とクルアーンに目を通した後仏典のどれを読めばいいんだよとなって冷めた。いやプロテスタントとカトリックは一応かなり共通した聖典を使っていたがなんだよ仏教のあのジャンル細分化と後世の創作と脚注の量。

 

「そういうわけで人を管理するなら、そういう面に気を配るある種の責務がある。何を求めている?なぜその選択をする?どうしてその行動をした?そういう部分を分析するためには外部の目が必要になる、ここまでは?」

 

局員を見渡すが、問題なく理解できているようだ。いや一応私の予想ではこのレベルの思想がこの世界で生まれるとしたらあと数百年かかるものなんだけどな。工業化によって効率を求めた世界で生まれたような考え方の、上澄みだけを使っているようなものだ。さすがにそのままでは劇薬だろうがここにいる局員なら耐えられるはず、と思ったら普通に取り込み始めている。

 

「この中には班長として部下を持っている人がいる。そしてかつていた組織に戻り、集団を率いることになる人もいるだろう。忘れてはならないのはそこにいるのはすべて違う、しかし私たちと同じような人間であるということだ。それは自分の職だけではない。あらゆる職業はその職業が存在するという時点で何らかの形で社会の中で役割を持っていて、それゆえに対等であると言える」

 

ここらへんは自分の思想の強さを感じるところだ。根拠文献のない個人的な意見だが、職業差別はたいてい社会基盤を支える人に対して向けられる。それは誰かがやらないといけないが誰もやりたくない仕事を社会的に弱い立場の人間が押し付けられるからだ。純粋にこれは効率が悪い。それにそうやって社会的立ち位置が固定されてしまっては能力の育成やらに問題が生まれるのだ。

 

「そういうわけで、敬意を忘れないように。ひとまず休憩に入ろうか」

 

講義内容はそろそろ折り返しを迎える。なんというか、半分は洗脳だな。幸いにも思想的に対抗するためのベースとなる知識を多くの局員が持っているので、こちらも頑張ろう。



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代理

印刷物管理局局長補佐は局長代理に就任し、局長は調査班の一班員となった。まあ、つまりは適材適所というわけである。印刷物管理局の中で書類作成能力で言えば私はそれなりに下の方だが、マニュアルの作成についてはまだ追いついている人はいない。つまりは私が局長の椅子に座っていなくても仕事は回るので、今後の改善のために必要な人材を適当な場所に配置するためには一番適した人にマニュアルを頑張って作らせてその技を他の局員に盗ませるのがいいとの結論だ。こういうレポートを局員の一人が出してきたので彼は調査班の班長になった。ああ可愛そうに、こういうのは言い出した人に投げられるのだよ。その分評価はちゃんとするのでご安心を。

 

「キイ嬢、この部分がよくわからないので確認してもらえるか?」

 

「はいはい」

 

業務を脇から見て分析した私の汚いメモ書きを何人かで修正し、最終的にマニュアルにまでまとめる。そうしてできた文書は何部か謄写版で複製して、厚紙のフォルダに綴じ、手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)で管理できるようにする。ちなみにこの工程自体が印刷物管理局標準作業手引1号である。こういうメタなものを作るのは楽しいんですよね。

 

「作業12から15をうまく纏めたいんだが」

 

また面倒な注文がやってくる。

 

「確かにこの部分が変わるだけの繰り返し内容だから、統一した略記方法を用意しよう」

 

つまりはただのwhileやforループだ。ああ速くこれを自動化したい。基本設計はチャールズ・バベッジの解析機関(analytical engine)方式でいいだろうか。いや基数は2進数のほうがいいかな。プログラム可能なものとするとなるとその概念を先に出すか、あるいは実物を出すか。まあ思索はほどほどにしよう。まずはお仕事だ。

 

「局長代理、確認してもらえますか?」

 

私が丁寧に言うと、いつも私が座っている柔らかめのクッションに座ったケトが居心地の悪そうな顔をする。

 

「キイ嬢が確認すればいいじゃないですか」

 

「自分で作った文章を自分で確認するのは非効率的だよ。自分で完璧だと思っているものの誤りを簡単に見つけられるほど人は賢くない」

 

とはいえチェックを重ねればいいというものでもないので難しいところだが。まあなにか問題があったら局長代理を任命した局長の責任となるのだ。私からすれば上司の上司の上司なので、下っ端班員キイの知ったことではないな。面倒事はキイ局長に任せよう。

 


 

業務の洗い出しと整理、効率化のための色々な工夫の手口は徐々に盗まれている。いやそう簡単に学ばれても困る、と言いたくなるがここにいるのは見て学ぶことが当然だと思っている人達である。そのレベルの人の前で一回でも実演すれば背後の理論を理解するのにそう時間はかからないだろう。というかかからなかった。

 

「それで私は免職ですか」

 

「そういうわけではないですけどね?」

 

私の上司だった班長が言う。

 

「ひとまず、こちら側だけでやってみます。問題があればすぐに言って下さい」

 

「わかった」

 

そうしてケトの座っていた席に戻ってきた。ここまで半月程度である。

 

「おかえりなさい、キイ嬢」

 

小さな声でケトが言う。

 

「局長代理の席はどうだった?」

 

「大変ですね。何より全体を見なくちゃいけないのが……」

 

「必ずしも全員を追う必要はないんだけどね。信頼できる人が班長をやっているところは適度に任せるのも大切だよ」

 

そう言いながらケトの書いた業務日誌を見る。これもフォーマットを固めてあるので書くのはそう難しくはない。

 

「それで、ケト君の感覚だとどのくらい業務は効率化してる?」

 

「……具体的な数字はわかりませんが、目に見えて変わっているように見えますね」

 

「なるほどね、そういう視点は現場にいるとあまりないからさ」

 

私は日誌をめくりながら言う。

 

「これで、多少は余裕が生まれるでしょうか?」

 

「基本的に効率が良くなっても働く時間は変わらないで仕事量が増えるんだよ」

 

「その仕事量を管理するのは局長の仕事ですよ」

 

その言葉には少しだけ嗜虐心が混じっている。

 

「……そんなに、代理の仕事は大変だった?」

 

「ええ」

 

まあ、将来的にケトには色々できるようになって欲しいのでこういう経験はできるだけ積ませていきたい。

 

「とはいえ、ある程度手引ができれば局長の仕事も減るでしょう。どうするんですか?」

 

「やりたい事は色々あるんだけどね……。そう言えば例の論稿は?」

 

私は頑張って製本した怪文書を思い出す。いやあ仕事が忙しくて忘れていた。

 

「忙しい中でしたが配ってきましたよ。その時に局長代理の肩書は便利でした」

 

「それはよかった」

 

「……あと、印刷物管理局は思ったより知られていないようです」

 

「どういうこと?」

 

「直接の関係者を除いて、印刷物管理局を知っている人は三人ぐらいでした、局長の名前まで知っているとなるとかなり限られると思います」

 

「それは面倒だなぁ」

 

私は思わずぼやいてしまう。そういう事例はインタビューを重ねてもぼやけて情報が出てこないのだ。技術史関連をやっているとこういうことが非常に一般的だったので困る。案外事務のお姉さんだった人が一番詳しかったりするのだが事務職の今の居場所はおろか名前すらも怪しいことが多いのだ。いやこれは今回の話には関係ないな。

 

「やはり知名度が必要ですか?」

 

「そうだね。印刷物が増えると自動的にここらへんは知られていくだろうけど……。あ、印刷機で作られた書類についてはどうだった?」

 

「読みやすいという意見が半分ぐらいとうまく馴染めないという意見が半分ぐらいですね」

 

「まあ、急激な変化は難しいから」

 

今はかなり無茶をしているはずだ。影響がどう出るかは分からないが、変化がゆっくりなことには利点もある。何かが起きてもそれをどうにかできる時間的余裕が生まれるということだ。これを活かせればいいのだが。



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夜話

非公式な会合は、しばしば夜に行われる。これは純粋に日中が忙しいからだ。

 

「これはこれはケト君。……そちらの方は?」

 

少し訝しげに私を見るのは今回行われるある種の情報交換会の主催者。図書庫の講官の一人らしい。

 

「印刷物管理局で働いているキイと申します」

 

今日の主役はケトなので私はあくまで従者である。そうして奥へと招かれた。さてさて、と客間を覗き込むと相変わらず男性ばかり。ため息を一つ。ま、女子教育については私がいた時代でも色々と面倒な問題が残っていたのだ。歴史学者としてはあまり興味をそそられるテーマではないし、一学生としては男性も女性も関係なくやってきたし、社会活動をやるつもりにもなれなかったのでまああまりこの領域は趣味ではないのだが。

 

飛び交うのは聖典語。やばいここらへんのリスニングはあまり良くないんだ。あの論稿を書いた時にそれなりに単語を確認したので一部一部は聞こえるが、全体の流れをつかむにはそれなりに集中しないといけない。

 

『それでは皆さん、これはお読みいただけたでしょうか』

 

深い緑に染められた表紙の冊子を手に取りながら聖典語でケトが言う。私がいつも使っているような東方通商語では専門用語が整理されていないせいだ。

 

『ああ、実に面白かったよ』

 

そう言うのは禿頭の中年。

 

『ただまあ、皮肉なのはこの教育における苦労というものが文字版印刷だったか?で相当軽減されるということだな』

 

笑い声が聞こえる。うん。私のジョークセンスはこの世界でも無事通用するようだ。

 

『ただ結論自体には反対だ。たとえ不十分な教育であったとしても、それは成されねばならない』

 

『ただ、問題は誰がそれを保証するかだ』

 

また別の人が言う。

 

『もし貧者も富豪も同様に教育を受けられるようにするならば、税で講師の給与を払わねばならないわけだ。その銀片はどこから出る?』

 

『税しかないだろう』

 

『そうだ。しかしそのための税を払おうとする人はいるだろうか?富豪は今持つ金を奪われたくはないし、貧者はこれ以上払うことは困難だ』

 

『教育は全体に対して有益だ』

 

『しかしその影響が出るまでは長いだろう?』

 

思ったより建設的な議論がされている。もっと低レベルな言い争いになるかと思っていた。

 

『問題は人と金の不足だ。確かにそれらに余裕があれば、老いも若きも、男も女も、学ぶことができるようにすることは望ましい』

 

あ、ここは韻を踏んでいるのがわかった。聖典語は結構こういう言葉遊びのようなものができるのだが、これをすっとできる人はあまりいない。ケトは片手間にそれをやってのけるが。

 

『だがそれらが限られる以上、現状では今の体制を続けるしかないのでは?』

 

そう誰かが言った時、ケトが目配せで会話を受ける。

 

『その教え方が問題なのです。今の教え方は優を伸ばし、劣を放るものです』

 

リズムと歯切れのいい声が響く。ああ、これはすごい。こういう場所での彼の弁舌は初めて聞いたが、この年齢差を持った多くの人に囲まれた上で、印刷物管理局局長補佐という肩書に見合った、いやそれ以上の堂々たる振る舞いだ。

 

『例えば数十人を同時に教えることを前提に教本を編めば、一人の講師が村の子供の多くに聖典語の本を読ませる助けとなります』

 

『そんなに教本が作れるか……というのはかつてはともかく、今となっては愚かな問いだな』

 

ケトは発言者の持っている冊子を見て頷く。

 

『本の奥深い世界へと人々を誘うことが、ひとまずの目標とすればよいか?』

 

『しかし、それは生活には直接結びつくだろうか?日が昇れば汗を流し、暮れになれば疲れとともに床に倒れるような人々は本を読むだろうか?』

 

『農書はどうだろう。あるいは収穫物をいかに売るかであれば?』

 

『恥ずべきことであるが、我ら商者の中にも相手の無知をいいことに銅葉をくすねるやつがいる。それを避けられれば、次の取引ではより大きな益を生むとも知らずに』

 

おや、商会の人間も来ているのだろうか。というか本当に商業倫理が確立されているんだな。ここらへんは欲の概念とも関連があったはずだ。ここでも商業倫理では長期的な関係によって信頼を構築することが重要視される。まあそれは裏切り者に対して冷酷であるということにも繋がるので難しいところだが。

 

『そういった輩への戒めともなるだろう。もし誠実な商者であれば、よい交渉の基盤となる知恵には敬意を払うものだ』

 

『とはいえそれでは……言いたくはないが、我々は苦労しないか?』

 

『学べなかったものはそれ以上に苦労しているのだろう。我々はみな小さきものなのだぞ?』

 

うーんやはりここらへんの価値観はまだうまく自分の中で落とし込めていないな。というか私がかつてケトに献身的な介抱を受けたのもこのあたりの思想が根底にあったりするのだろうか。

 

『そこの方、貴女も話されたらどうかね?』

 

ふと気がつくとこちらに話が回ってきていた。ケトの方に視線を向けると彼の口角が少し上がった。好きに話せ、ということか。

 

『では僭越ながら。どうせ教えるならば、教本はあくまで補助とするべきではないでしょうか?我々は本以上のものを本を通して学べるのですから』

 

さて、では論稿に書ききれなかった内容の一つに触れていこう。この世界にはどこまでこういった思想があるのかな。



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標準語

『まず第一に、新しいことを外界から学ぶことは、どのような子供であっても自然に行うことです』

 

舌がうまく回らない。聖典語は純粋に不慣れなのだ。とはいえ手を動かして書いた分、多少は頭の中で文章は編める。あとは、ゆっくりでもいい。出力することだ。

 

『そして子供は周りの大人、特に親を見て育つわけです。そこには教材は存在しない』

 

たぶん語彙の選択はこれでいいんだろうな。ケトを信じよう。

 

『いえ、むしろこれは子供の周りにあるもの全てが教材となると考えるべきでしょう。しかし、見ることも気がつくこともできないものを子供はどうやって学べるでしょうか?』

 

記憶を探れ。読んできた本を思い出せ。

 

『指を折って数えることは自然に学ぶかも知れません。しかし積の概念を自ら見出す子供はどれだけいるでしょうか?そういう時にこそ、教本は意味を持つのです』

 

周りを見渡すが、まあ受けは悪くない。

 

『しかし畑を耕し、空模様を読み、山野を駆けることは教本を通して教えるのは難しいでしょう。しかし良い種と種の間隔、雲の量と方角による天候の予測、あるいは周囲の環境から地形や方角を読み取る知識は教本を助けとして身につけることができます。重要なのはあくまで教本は副であり、行動が主であるということです。一定以上の能力を持っていれば、自ら学び、試し、そして記録を取るようになるでしょう。これを賢者と言わないで何と言うでしょうか?たとえ聖典語の詩句を(そら)んじること能わずとも、子供たちを導ける立派な講師となれるでしょう』

 

ここらへんは少し皮肉交じり。反感はどこまで売っていいのか分からないが、これくらいはセーフ、と。

 

『……つまり、聖典語によらない本を作ろうというのかね?』

 

そういう反応が来る可能性は考えていたが、こんな短時間で私のやりたいことを導けるとは。驚きだ。

 

『それは必要なことになるでしょう』

 

『では、いずれの言葉によって作る?』

 

『いずれの、ですか』

 

『ああ、説明が足りぬか。この城邦で話されている言葉と、船で数日行った先で話されている言葉とは、共に東方通商語であるが相違を有する。ここまでは?』

 

『解しています』

 

方言の問題か?……いや、もう少し面倒だ。これは標準語の問題か。

 

「地域の差異を潰し、一帯を同じ言葉で染めてしまう……」

 

口から言葉が溢れる。そうか、私の知っている公教育は国民国家の存在を前提としていた。そして国民国家はまだここには存在しない。そして国民を形成するものの一つが統一された言語だ。ここらへんは相互に絡み合っていて面倒だが。

 

『……すみません、少し考える時間を』

 

私はそう言ってケトを見る。私の深刻そうな顔を見て何かを察してくれたようだ。

 

「後はしばらく僕がどうにかします」

 

小さな声でケトは言う。ありがたい。息を吐いて、私は思索に潜る。

 


 

図書庫の城邦とその周囲における方言は、まだ不慣れな私がはっきりと認識できる程度には存在する。移動手段が少なく、マスメディアもなく、聖典語のように蓄積された資料と文法の研究がない以上そこにあるのは相互理解可能性のある言語を話すゆるやかな集団だ。そこに共通語を定めることは、ある意味で線を引くことだ。この言葉を話すものは我々と同類である、と定義することだ。私の知る歴史では国民という概念は歴史と文化と言語によって決められた。しかし歴史も文化も言語も地理的広がりがあるものだ。それをむりやり一つにまとめるということは、歴史上では同化政策という形で現れた。

 

方言札はその例として挙げるのに適しているだろう。起源はフランスだったか。「私は標準語以外を話しました」と書かれた板を首から下げさせられる。屈辱によって支配しようとする考えは私の趣味ではないし、そういう政策は大抵百年以上くすぶる火種になる。それは私の望むところではない。

 

ではどうするか?できるだけ一般的な語彙と、平易な文法で教本を作るしかない。それがどれだけ大変なことかを予測することは難しい。そして一歩間違えれば少数言語を消し去ることになるのだ。この世界で生まれる問題は近代以降生まれた人権という概念と照らし合わせるべきではないだろうが、なぜ少数言語の話す権利というものが議論されているかの理由を辿ればいい。それは恨みを買うのだ。分断を招くのだ。それを押し潰すにせよ、受け入れるにせよ、コストは安くない。

 

「ケトくん、これは後で文章として書きたい」

 

意識を戻して、小声で囁く。議論は白熱しているようだ。聖典語に耳を慣らしていく。

 

『なら内容を何にする?家で糸を紡ぐ少女にも、船を操る少年にも共に教えなければならないものは何か?それとも糸の撚り方と風の読み方を全員に教えるのかね?』

 

ああ教育内容。これもまた面倒な問題だ。ただ私の論稿を受けてか、男女別の教育をする方向には進んでいないらしい。よかったよかった。

 

「わかりました。難しい内容なのは全員わかっているので、問題ないはずです」

 

これでケトの評判が下がることにならなければいいのだが、と私は考える。今回の発表はかなり雑だった。最終手段はあの論稿の作者が私だとバラすことだが、まあそれはできるだけ最後の手段にしたい。かなりの誤解を招きそうでもあるし。



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責任

部屋に帰るなり、私は寝台へと倒れ込む。

 

「……大丈夫、ですか?」

 

「いいえ」

 

まったく酷い発言だった。いやまあ練習もなしに慣れない言語であれだけ話せれば上々だと考えたほうがいいのはわかるが、そううまく気分が向くとは限らないのだ。

 

「駄目なやつだって思われてないかな……」

 

「キイさんにしては珍しく弱気ですね」

 

「そりゃそうだよ、一応は発表することが生業だったんだから……」

 

国際学会の時は事前に機械翻訳した原稿を読んだわけだし、あの時の質問は準備してあって比較的簡単なものだった。それにここでは聖典語は教養とは言え、話せない人も少なくない。叩き上げの職人では聖典語の文字もわからないなんてことは珍しくないだろう。一応図書庫の城邦における東方通商語の識字率はかなり高い。まず全員が名前を書けるし、ほとんどの人があまり問題なく読むことができる。ちゃんとした文章を書くのは少し特殊技能になってくる、といった所だがそれでもそういう能力を持っている人は珍しくない。

 

「それでもいい弁舌でしたよ。質問した本人もここまで方言の問題が大きくなるとは思っていなかったようで」

 

「買いかぶられすぎだよ、私はただ知っていただけだからさ……」

 

工場で働く労働者や、銃を手にする兵士を同じ言語で作った同じようなマニュアルで管理できれば非常に楽だ。用語の統制は検索コストを減らす。それでも、その裏には抑圧される人がいたのだ。

 

「ねえ、ケト」

 

「なんでしょうか」

 

「こっち、来てもらえる?」

 

私は寝台の開いている場所をぽんぽんとうつ伏せのまま叩く。

 

「……わかりましたよ」

 

優しい声が聞こえて、少し遅れてケトが座ったのがわかる。ずいと身体を動かして、私はケトの腿に頭を乗せる。

 

「キイさん、ええと……男性が女性を慰めるような方法について僕は不得手で」

 

「……そういう意図はあまりないんだけど」

 

「……すみません」

 

ああ、そうだよな。価値観は違うんだよな。けどまあ、互いに了解があれば甘えるぐらいは許されるだろう。別にケトが想像していたような事態になってもそれはそれで受け入れるし。

 

ケトの手が私の髪をゆっくりと撫でる。

 

「……ねえ、私の選択が百年先で大きな問題を引き起こす可能性があるって言ったら、どう思う?」

 

「いえ、起こさないわけないですよ」

 

ケトははっきりと言い切る。

 

「一人の村人が路で転んだことをきっかけに、滅びた国家の伝説があります。人の身でそういった運命の繋がりを読み切ることなんて」

 

「それでもさ、明らかに私が恨まれるような選択はしたくない」

 

「……それほど、重要なのですか?」

 

「弱いものが敗れるのが道理であるとしても、やはり辛いものなんだよ」

 

「……キイさんは、本当にいい人です」

 

そう言うケトの体温は温かい。

 

「だけれども、全てを背負い込む必要はないんですよ」

 

「いや、今でもかなり他の人に任せてるし……」

 

優秀な実務担当者を管理する立場の人間にできるのは、何かあった時に責任を取ることぐらいだ。まあ、死で償うという考えがこの世界では薄いように思えるが最悪私の死を使えるなら最大限に使うべきだ、なんて考えるぐらいには思考が沈んでいる。

 

「なら、せめて僕にも隣にいさせてくださいよ」

 

「やめといたほうがいいよ、これは」

 

民族主義を作り出すことができる。互換性部品を使った銃を作ることもできる。そうすれば総力戦という思想をこの世界にもたらすことは不可能ではない。その先に勢力均衡やら冷戦やらが生まれるかは正直分からない。たとえ仮初の平和が生まれたとしても、この世界の人口で数百万の死者が生まれるだろう。それでも私が知る歴史で都市一つを巡って行われた攻防戦での死者数と桁が同じなのだから、技術の発展した状態での戦争というものは恐ろしいものだ。

 

「罪の意識に悩むのは、私だけで十分だ」

 

戦争後のトラウマに関する研究を読んだことがある。一部の人は新しい日常に慣れることができた。そうではなく、何度も何度も思い出す人もいた。結果として、社会から自らを切り離すしかなかった例もあった。

 

「私だけだったら、頑張って慣れるからさ」

 

命令を受ける側であれば、人間はそれなりの適応力を持つ。ただ、それを命令するのは狂人でなければ務まらない。

 

「……ケト?」

 

そう言った直後、私の顔はケトの腕の中にあった。

 

「そういう難しいことは後で考えましょう。いまはゆっくり寝て、明日起きてきちんと食べて、それから考え直しても遅くはありません」

 

「……そういうことに、しようか」

 

私は自分の思考を無理矢理にケトの方に向けて、抱きしめる肋骨のあたりに意識を集中させる。やっぱり、大きくなっているのだろうか。初めて会ってからそれなりに経つ。その間かなり近い距離にいた。私のことをこの世界で一番理解している人だろうし、たぶん一番心配してくれている。逃げられない自罰的な感情が襲ってくる。私は腕に力を入れて、息をゆっくりとする。まあ、ケトが私を裏切るというか私の隣から消える時があれば、それはもう潮時というやつなのだろう。曖昧な意識の中で、私はまとまらない思考に潜っていった。



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第9章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。解説の内容にツッコミを入れながら読んでいるような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


添削

もし教育学、いやこの世界では教育術という名前になるだろうものが確立され、適当な教科書が作られ、そして次の世代に教えることのできるだけの知識を持った人を大量に育成できるのであれば、教育というものは決して文化的贅沢品ではなくなるのだ。

The Paris Conference on Adult Education reaffirms the importance of this right.

パリにおける成人教育会議は、この権利の重要性を再確認する。

 

The right to learn is not a cultural luxury to be saved for some future date.

学ぶ権利は、将来のために取っておかれるような文化的贅沢品ではない。

 

It is not a right that will come only after the question of survival has beensettled.

それは生存の問題が解決された後に初めてもたらされる権利ではない。

 

It is not the next step to be taken once basic needs have been satisfied.

それは基本的欲求が満たされた後に進むべき次の段階でもない。

 

The right to learn is an indispensable tool for the survival of humanity.

学ぶ権利は、人類の生存のために不可欠な手段である。

 

──1985年、フランス、パリにて行われたCONFINTEA(国際成人教育会議) (CONFérence INTernationale sur l’Education des Adultes) Final report最終報告内、「DECLARATION OF THE CONFERENCE(会議宣言)」より。拙訳。

 

組版

印刷機は決して安いものではないが、かつて使っていた各種分析機材に比べれば多少お手頃価格と言ってもいい。

基本的にこの手の機械の値段は「お問い合わせ下さい」だが、たまにカタログに書いている商社やメーカーもある。概ね目安としては車一台の値段(中古車から高級車ぐらいまで幅がある)だと考えてもらって構わない。

 

神道における清祓(きよはらえ)だ。

この種の清めの儀式は日本仏教における開眼法要、カトリックの祝別や正教会の成聖などの形でも見られる。

 

フィリップ・アリエスの見解はあまり正しくないし、一地域のある区間の時代の見解を欧州全体の一つの時代区分に拡張するのはあまりよくない、みたいな話をどこかで見たな。

フィリップ・アリエスは「L'Enfant et la Vie familiale sous l' Ancien Regime(アンシァン・レジーム期の子供と家族生活)」(日本語では邦訳タイトル「〈子供〉の誕生」として知られる)の著者。革命前のフランスにおける文献・絵画における「子供」の描写調査を通して、「子供」という概念は教育制度によって生み出されたものであり、それ以前には存在しないものであったと主張した。後続研究が重ねられると共に他地域・他時代での調査が進んだ結果、彼の意見はかなり誤りが多いのではないかと指摘されている。しかし少なくとも、我々が子供を見る視線と異なったものが子供に向けられていた時代があったのはまず間違いない。

 

来歴

まあこれは民主主義の兵器廠という工業力の怪物が片手間にやった数多の事業の一つに過ぎないが。

マンハッタン計画の費用は当時のレートで20億ドル程度とされているが、長距離爆撃機B-29に投じられた額はこれ以上である。そしてこれらは第二次世界大戦にアメリカが費やした額の一部にすぎない。

 

人員

伊達に小学生でISO 9004を読んでいたわけではないところを見せてやる。

ISO 9004は品質保証に関する規格であるISO 9000シリーズの一つであり、組織レベルでの品質管理やマネジメントについて述べている。少なくとも小学生がそう読むものではない。

 

愛情

当時はストイックに社会が求める役を演じることがいいと思っていたんです。

つまりは中学生で高二病を発症していたわけだ。

 

板書

これを作ってくれた工房や仲介の商会に一体何に使うんだと聞かれたので工程管理表(ガントチャート)の基礎を教えたらすぐに実用していた。

工程管理表(ガントチャート)はヘンリー・ローレンス・ガントが開発したスケジュール管理手法であり、様々な工事や事業、開発などで広く使われている。まあきちんとしたマネジメントがないと終盤がぐちゃぐちゃになるのだが。

 

実際には数学の分野とかでは世界に数人しか理解できる人がいなくて理解ではなくむしろ解読と呼ぶべき作業が必要なんてのもあったらしいが、幸いにも私はもう少し人間らしい業界にいた。

望月新一はABC予想を証明したと主張しているが、その背景にある宇宙際タイヒミュラー理論を理解できる数学者が少ないために専門家の間でも評価が分かれている。ただ、これについて真面目に語るには作者の専門知識は足りなさすぎる。

 

ろくに研修も受けていない、つい数日前まで大学生だった人間をいきなり最前線に出す業界はろくでもない。それが個人の将来を左右するほど重要な立場であればなおさらだ。

どことは言いませんけどね。あるんですよそういうところが。

 

欲求

ゲーム理論や経済学の用語を使えば、ナッシュ均衡はパレート最適ではないということだ。

非常に雑に説明すれば、ナッシュ均衡は「自分が損をしない選択」であり、パレート最適は「全員が最も利益を得る選択」である。

 

純粋にこれは効率が悪い。

キイの倫理的価値観は、ある程度「効率」を裏付けとしている。ただ、それは自分の価値観を効率論的に解釈しているだけかもしれないが。

 

代理

ああ可愛そうに、こういうのは言い出した人に投げられるのだよ。

キイが言うと説得力が違う。

 

まあとはいえチェックを重ねればいいというものでもないので難しいところだが。

多重チェックはミス発見率をそこまで上げないことはよく知られている。あなたの職場に無駄な多重チェックはありませんか?

 

夜話

『例えば数十人を同時に教えることを前提に教本を編めば、一人の講師が村の子供の多くに聖典語の本を読ませる助けとなります』

ここらへんの思想はヨハネス・アモス・コメニウスの「Didactica magna(大教授学)」あたりを参考にしている。

 

標準語

方言札はその例として挙げるのに適しているだろう。

有名所ではフランス語の統一、ウェールズ語の排除、あるいは琉球語に対するものがある。とはいえこれは「標準語を話せたほうが出世の機会がある」という親などの願いが背後にある場合があるので厄介なのだ。

 

責任

それでも、その裏には抑圧される人がいたのだ。

ここらへんの問題が21世紀になって再燃しているところがちらほらあったりする。

 

それでも私が知る歴史で都市一つを巡って行われた攻防戦での死者数と桁が同じなのだから、技術の発展した状態での戦争というものは恐ろしいものだ。

1941年から1944年まで行われたレニングラード包囲戦での死者数についてはっきりとした数字は出ていないが、一説では100万人近い犠牲者が出たとされる。また、1942年から1943年に行われたスターリングラード包囲戦ではその倍程度の死者数が出たと見積もられている。参考までに1940年ごろのレニングラードの人口はおおよそ300万、スターリングラードの人口はざっと50万である。これらの数字は非常に大雑把なものであることに注意。



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第10章
規格化


「局長?」

 

どこからか声をかけられて、私は意識を取り戻す。

 

「……ああ、すまない。少し疲れていてね」

 

最近涼しくなってきたのもあって、眠気には勝てなかった。突っ伏していた机から顔を上げる。

 

「所属している商会から、局長に渡すようにと」

 

そう言って声の主である局員は封筒を手渡した。白い紙だ。手触りはしっかりとした厚紙のもの。

 

「この封筒だけで、嫌な感じがするんだけどなぁ」

 

私は苦笑いをする。なにせ塩素で漂白された紙だ。これが少量ながらも作れるぐらいには製紙技術は進んでいる。で、この手紙の送り主はその紙をわざわざ使うほどの人物だ。

 

「……もし断るのであれば、こちらで伝えますが」

 

「いや、これはただの私の怠惰だよ」

 

包み紙を開くと、そこには丁寧な筆致で招待の文言が書かれていた。

 

「ケト君、予定表見せて」

 

「はいはい」

 

帳面を開き、招待の日付を確認する。四半月後か。ある程度の準備はできるな。

 

「……この日で問題ない。返信はあったほうがいいかな」

 

「いえ、不要です」

 

「……彼に会うのは、久しぶりか」

 

対面で会ったのは晩餐会の時だから、ええと二年弱前になる。……本当か?なにか私の計算が間違っていないか?少し確認するが、やはりそうだ。となると私はこの城邦に来てからたった二年で、ここまでやってしまったのか。指を折って少し数える。よし、まだ30にはなっていないぞ。

 


 

案内された商会の一室は、たぶんそれなりに贅沢なのだろう。派手にならない程度に並んだ品々は、おそらくは舶来品。商会の力を示しているというわけだ。

 

「お待ちしておりました、キイ嬢とケト君」

 

「お久しぶりです。あの将軍補の晩餐で会ったきりでしたから」

 

私の前にいるのは長い髪を持った、細い目の男。年齢は私より少し上かな。

 

「貴女の噂は他の城邦でも聞こえていますよ」

 

「そちらの動きも聞こえています。『長髪』が文字版印刷機の輸出を成功させたと」

 

長髪の商者。図書庫の城邦を中心として活動する商会内の一派を率いる若い人物であり、古帝国語や統治学にも長ける。彼が今回の招待者だ。

 

「今日は貴女と更に良い取引をしたくて、こうして招いたわけです」

 

そう言う彼の肌は少し焼けていた。

 

「と言われましても、私が出せるものは今はあまりないんですけれども」

 

「ご謙遜を。手整鑽孔紙、蝋紙印刷、それに仕事の効率化まで。いくらかはこちらでも使わせてもらっています」

 

「そして売っている、と」

 

「ええ。求める人は多いもので」

 

私は笑顔を浮かべながら思考を回す。さて、向こうの目的は何だ?

 

「……今後、印刷機の需要は増えるでしょうな」

 

「そうでしょうね」

 

「ところで、印刷機は全て同じ文字版を使うことができるようになっている」

 

「そういうふうに設計しましたから。作るのには手間はかかるとは思いますが」

 

「つまりですよ、誰かが自ら文字版を作ることもできるだろうし、また文字版から印刷できるような機械を作り始めるのも時間の問題である、と」

 

「……でしょうね」

 

「これは、計画的なものですか?」

 

「ええ、もちろん」

 

この世界の商慣習については詳しくないが、規格の制定や「お願い」によって私は製品にかなり影響を与えている。与えてきたのだ。気がつく人がいつ出るかと思ったが、こういう形で来るとは。

 

「それが聞きたかった」

 

彼は笑顔を作る。

 

「キイ嬢。我々はいくつかの工房や商会をまとめ上げました。手の届く範囲の自然物も、一部の地域でしか作られない工芸品も、必要であれば持ってくることができます」

 

「ほう」

 

総合商社的なものか。面白い。いや、そうじゃないな。

 

「……待って下さい。それを作るのにどれだけかかったのですか?」

 

「先代からの事業を引き継いだだけです。本格的に動いたのはここ最近ですが」

 

ああやはり。私に関する様々な分野で動いていたのは知っている。紙の生産である程度の利益を手にしていることも。

 

「しかし、こう言っては悪いかも知れませんがそこまでする価値がありますか?」

 

「ありませんな、普通であれば。商品の質を担保する工房の間の関係を崩し、職人に技を捨てさせ、他の商者のために動くなどということは」

 

そう。彼の動きはおかしいのだ。ただの博打ではない。

 

「……気がついているのですか。規格化に」

 

「当然。印刷物管理局規格は素晴らしい。しかしまだ貴女はあれの本気を出していないでしょう?」

 

「というと?」

 

「印刷機を作る全ての部品を規格に合わせることができれば、最初に投資する金額は大きくなるが容易に生産ができ、整備も単純なものになる」

 

「そういう部品を作ることができるのですか?」

 

「逆に聞きます。できないのですか?」

 

落ち着け。相手のペースに載せられていそうだな。

 

「文字版の大きさや紙の大きさを揃えるように部品の大きさを揃えることぐらい、考えていないとは思いませんよ」

 

いやここまで言われればもう無理だな。彼はかなりのところまで見通しを持っている。

 

「……もしそうだとしたら、何をしたいのです?」

 

「そういう部品を作る機械を、手に入れる」

 

商者は目を開き、こちらをじっと見る。工作機械(マザーマシン)の確保による産業基盤の構築か。そう、私が作りたい技術体系の基盤になるのはそういった精密な加工ができ、機械を作るための部品を作ることの機械だ。というより、よくここまで読みきれるものだな。



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工作機械

精密な部品を大量生産するためには、精密な加工のできる装置が必要だ。工作機械の母性原理と呼ばれるものがある。これは単純に言えば、ある機械で作られる製品の精度はその機械に使われている部品の精度を超えることができないというものだ。ちなみにこの原理には当然抜け道がある。そうでなくては人間の指でできる精度以上の物を作れるはずがないからだ。具体的には「部品を大量に作り、その中から精度の高いものを選りすぐる」であったり、「加工機械の癖を読んで調節する」などといったもの。しかしこれは非常に手間で、例外扱いとしていいだろう。

 

まあともかく、精密に作られた加工装置は産業の重要な基盤となるのだ。なのでこれを握ることは産業そのものに影響を与えることがある。たとえば一般的な部品を作るような機械を作るための部品はより精密な工作機械によって作られるが、そういう機械が国内になければ製造装置を輸入してくるしかない。別に国交関係が問題なければいいのだが、まあ歴史を見ればその輸入元に戦争をふっかけざるを得なくなった例もあるのでできるだけ自分の手元にそういう装置があるに越したことはない。

 

「部品を作る装置、ですか……」

 

私は息を吐く。さて、眼の前の長髪の男はこの分野を一体どこまで理解しているのやら。

 

「着眼点は素晴らしい。私もそういうものを作りたいと思っています」

 

「そうでしょう?」

 

「しかし、決して容易に作れるものではありませんよ?」

 

「理解している。しかし不可能ではないだろう?」

 

「なぜそう思うのです?」

 

「貴女がそれを作れると知っているということは、それはいずこかで既に作られたのだろう。ならばその工程が複雑であっても、我々が作れない道理はない」

 

まあ時間軸がおかしいので既にと言えるかは怪しいが。というか押しが強めだな。本性はこっちか?

 

「……確かにそうです。が、それは器用な子供が大きな水車を作るぐらいには難しいですよ?」

 

さて、と私は紙と硝子筆(ガラスペン)とインクを取り出す。

 

「面白いものを使っていますね」

 

「ええ、できればこれもそちらで作って欲しいんですけどね」

 

そう言いながら、私はペンを走らせた。

 


 

「ふむ、金属用の横轆轤(ろくろ)といった所ですか」

 

紙を見ながら長髪の商者は言う。

 

「わかるのですか?」

 

「商者であれば扱う可能性のある商品についての知識は不可欠ゆえ、学んでいるのですよ」

 

素晴らしいプロ精神だ。信用できそうだな。

 

「問題になるのは、ここになるか?」

 

彼が指差すのは金属を削ることになる工具の部分。

 

「そうですね。特殊な鋼が必要になりますが……。ええと、鉄に含まれる炭基質の量によって性質が変わるというのはいいですか?」

 

「聞いたことがあるな。よく練った鉄であるほど炭基質が抜けており、柔らかいかわりに粘るのだったか?」

 

練る、か。パドル炉があるのだろう。冶金学の基礎は問題なさそうだ。水準としてはDe re metallica(デ・レ・メタリカ)ぐらいか、場合によってはもう少し上かな?

 

「その通りです。ここに使う時には炭基質を増やし、場合によっては特殊な鉱石から得た金属を混ぜねばならないでしょう。この分野は薬学師も加わらなければ難しいでしょうね」

 

「トゥーヴェ師のような?」

 

知っている名前が出てきたので少し驚くが、そう言えばあの人が懇意にしている輸入業者も彼の系列だったか。

 

「知っているなら話が早いですね。彼女の出版された研究書は助けになるかと」

 

単純ながらも元素論を示しているのだ。電気分解と酸による分離を組み合わせれば、かなりの分離ができる。まあ鉱物の産出が偏っているとまずそれを見つける手間はかかるが。

 

「……まさかとは思うが、この加工のために薬学を?」

 

「それだけではありませんがね」

 

さて、こう口にすることが一体どれだけ相手に情報を与えることになるやら。

 

「既存の常識が一変する程度のことは織り込んでいたが……、もしやそれ以上かもな」

 

「まず職人自体がこういう加工を嫌うでしょう。自分の腕に自信があるのは悪いことではありませんが、それは新しい方法を受け入れる時には害となる」

 

「……そうは思わないがな」

 

「と、いいますと?」

 

「職人とは技を生業としている。もちろん信念の曲がらないものがいるのは事実だが、新しいものを試そうとする職人も多いぞ?」

 

おや、少し意外。技術史では受け入れるまでに時間のかかった技術も多かったのだが。

 

「……もしかして、そういう人を集めました?」

 

「あの印刷機を作った人物が、新しいものを作ろうとしている。その現場を見たくないかね?と言えば多くの人が手を貸してくれたよ」

 

商者は笑って言う。

 

「ありがたいことです。……とはいえ、私流の教育はさせてもらいますが」

 

「必要だろうな。貴女は腕のいい職人だというが、それは知識に裏付けられたものだと聞いている」

 

一体誰から聞いたんだ。候補が多くて特定できないぞ?そもそも印刷物管理局が産業スパイの巣窟らしいからな。他の城邦と繋がっている人も増えてきたと聞く。まあ大図書庫自体が色々な所から寄付を受けているので別に図書庫の城邦のために動かねばならないというわけではないのだが。



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転炉

「それで、何を作りたいのかね?」

 

長髪の商者の言葉に、私は少し考える。旋盤を始めとする加工機械。ガラスを加工して作る測定装置。電気を用いる各種の機器。どれも魅力的だが、色々ある条件の中でどれが一番適切かは決めにくい。

 

「……まず、売れなければ意味がないのでは?」

 

「まさか。そんな簡単に売れるとは思ってはいない」

 

「それなのに、多くの人と話をつけてきたのですか?」

 

「ああ。商者は確かに銀片を求めるが、それ以上に人と人とを結びつけるのだよ」

 

また思考が読みきれない。私の知る資本主義経済における考え方とはまた違う、思想的側面が強いものなのだろうか。まあいい、敵意は無く、互いに利益を求めており、交渉の基盤がある。ゲームをやっていこう。

 

「基盤を手に入れたいというのはいいことです。私の知っている装置を作るためには、ここで手に入る材料も職人の腕も知識もひどく不足しています」

 

「……だろうな」

 

少し悔しそうに彼は言う。

 

「なのでまずは少し話を絞りましょう。商会における問題点はありますか?」

 

「そうだな、荷物を運ぶのに船を使わなければならないし、多くの時間がかかることだ」

 

「……それはまた、根本的な問題を」

 

船の改良でもいいが、もう少し別方向のアプローチをしてみようか。

 

「それを直接解決することは私の知識でも難しいですね。時間については船の改良という方法がありますが、これについては何度も繰り返しの挑戦が必要になります。手助けはできますが……」

 

圧縮着火式内燃機関(ディーゼルエンジン)羽根車(タービン)式蒸気機関を動力にすることもできるが、これはまだ時間がかかるだろう。そうでなくともエンジンの信頼性が低いしばらくは機帆船を用いるはずだ。今の帆船の改良となると流体力学や構造力学の分野だろうか?そもそも船一隻を作るのにも年単位の時間がかかるのだ。もちろん準備をすれば4日ちょっとで10000トンの輸送船を作ることができるが、低温脆性でぶっ壊れかねない。

 

「むしろ輸送自体の効率を上げるのはどうでしょう。例えば荷物をある決まった大きさの箱に納める……というのは、海運分野ではかなり使えるのではないでしょうか」

 

「箱、か。壺や籠ではなく?」

 

「そうです。木の箱を……ああ、製材の問題ですか?」

 

「そうだな。我々の作業効率では、そこまで容易に木板を作ることはできない」

 

なんというか、相手は宇宙人とでも話している気分だろう。それでも興味深く聞いてくれているのが救いか。

 

「えーと木材を作るための刃物……」

 

(のこぎり)ですか?」

 

ケトがアシストをくれる。ありがたい。ずっと黙っていたから存在を忘れていたのは内緒。

 

「そうそれ。一般的に使われている(のこぎり)の形状はわかりますか?」

 

「その筆と紙をもらえるか?」

 

「どうぞ」

 

硝子筆(ガラスペン)に少し戸惑いながらも、彼は手早く図を仕上げる。

 

「こういったものだ。大きさは様々だが」

 

「大きいものですと、どれくらいになります?」

 

「ここからここまで、大人の背丈の倍ほどか」

 

「私の知る製材方法の一つに、この(のこぎり)のような刃を外周につけた円盤を高速に回転させて、そこに木材を入れるというものがあります」

 

等角図(アイソメ)を描くと、商者は不思議そうに図を見た。

 

「これは……どう捉えればいいんだ?」

 

「わかりにくかったですかね」

 

別方向から見た図を足すと、彼は理解したように頷いた。

 

「なるほど、これはそういう見方をする図か」

 

そこまで言われて、私はやっとこの投影図法というものがそれなりの数学的背景を持っていたことを思い出す。というか製図という概念も規格化というか統一された単位がないとあまり意味を持たないのか。かなりここらへんは複雑だな。とはいえ理学における共通言語が数学であるように、工学の一分野では製図が共通言語となる。ここはしっかりと固めておきたい。

 

「で、この刃物には鋼が必要で、鋼を作るためには専用の炉があるといいですね」

 

「専用、と言うと?」

 

「こんな形をした容器に溶けた鉄を入れ、下から空気を吹き込むことで内部の炭基質を大気中の煆灰質と結合させます」

 

私は回転できるバケツのような構造を描く。

 

「……そんなことをして、鉄が冷めないのか?」

 

とても良い質問だ。そして煆灰質、つまりは酸素の理論について理解しているということはトゥー嬢の本を読んだのだろう。あれはそれなりにわかりやすく書かれてはいるが決して初学者向きのものではないぞ?恐るべき理解力か、はたまた広範な基礎知識か。どちらにしてもやばい。

 

「炭基質と煆灰質の結合は炭が空気の中で燃えるのと同じで、多くの熱を出すのですよ」

 

「……もしこれが実現できるならば、鋼が(ずく)から作れるということになる。それも容易に」

 

「ええ。もちろん鉄の質によってこの容器の内張りを変えたり、あるいは適切な添加物を加える必要はあるでしょうが」

 

「問題は空気を送り込む部分か」

 

「ふいごでも行けるでしょうが、かなりの重労働になるかと。それに吹き込み部分に溶けた鉄が入ってこないようにする必要もあります」

 

私の知る歴史では、この種の炉はヘンリー・ベッセマーの作った底吹転炉として知られている。かつての世界で主流だったLD(Linz-Donawitz)法を実現するには圧力と純酸素の製造に問題があるが、これぐらいなら行けるんじゃないだろうか?



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定量化

「鋼についてはわかった。他には?」

 

机の上に散らばった転炉の構造図から目を上げ、長髪の商者が言う。

 

硝子(ガラス)が必要です。透明で、硬く、加工が容易という便利な材料は他にありませんから」

 

「具体的に、どのような用途を?」

 

「まず一つは、そこのケト君が顕微鏡と命名した装置です。ご存知で?」

 

「商会で一つ、手に入れている」

 

おや。私は自分で使う分も含めて五個も作っていなかった気がするが、そのうちの一つだろうか。

 

「複製はできそうですか?」

 

「嵌める硝子(ガラス)の磨きが難しいと聞いた」

 

「そういうことは早く聞いて下さい。磨き粉に使っているものの製法を伝えるので」

 

そう言って私は紙にさらさらとメモを書く。

 

「迷惑をかけてはいけないと考えたのだがね。それと、自らやろうとする職人たちの努力を無駄にするのも気が引ける」

 

「……それは難しい問題ですね」

 

「それは、どういう?」

 

「どう言ったらいいでしょうかね。例えば新人を育てる時に、その行動一つ一つを見張って少しでも間違えたら横から注意するような方法によって成長は得られますか?」

 

「難しいだろうな。つまり、試行錯誤こそが重要だと?」

 

「ええ。私が答えを教えてしまえるならいいのですが、全てがそうとは限りません。それに私は一人しかいませんが、職人は増やすことができます」

 

「効率を考えても、キイ嬢が影響を与えるのは少ない方がいい、と……」

 

私は頷く。理解がすごいな。やはりどいつもこいつも有能である。これと比べると私の愚鈍さというか無能さが際立って辛い。私がこの世界の人間に対して持つアドバンテージは異世界の知識とちょっとした技術、それに過ごしてきた経験によって培われた思考パターンぐらいしかない。それは緊急避難的に使っているものであって、私がそこから報酬を受け取る権利があるかは結構怪しい。

 

「そうなります。っと、硝子(ガラス)の話でしたね。あとは熱を測定する機構にも使えますし、薬学においても重要です。硝子(ガラス)は酸にも塩基にも強く、水を沸騰させる程度の熱に耐え、反応を外側から観察できるので」

 

「……硝子(ガラス)と言えば、窓に使うような組硝子(ガラス)がまず思いつくが、なるほど。そういう特性に着目することもできるのか」

 

「あ、大きいサイズの板状硝子(ガラス)を作ることもできますよ」

 

「それは興味があるが……どれだけ大変だ?」

 

「ええと、溶かした錫の上に流す方法であれば錫が錆びないように大気から煆灰質を抜いておく必要があります。あとは塊を二つの円筒で伸ばしたり、溶かした硝子(ガラス)から引き上げることで板を作ったり、あるいは円筒形に吹いてから切り取るかですね。いずれにせよ特殊な炉が必要で、そのための煉瓦を揃えることなどを考えると大変ではあるでしょう」

 

なんでこんなに詳しいかって?国立産業技術史博物館産業技術史資料情報センターの出していた技術の系統化調査報告を読んでいたからだよ。第一線にいた人物の回顧録という側面はあるが、それはそれで重要なものだ。

 

「ああとなると炉の中の熱も測定する必要が……これは二種類の金属を接合してそこに熱を加えることで流れる電流を……ああいや、増幅が必要だから先に硝子(ガラス)と水銀で機構を……」

 

「落ち着いて下さい」

 

ケトが私の肩をぺちぺちと叩く。おっと、危ない。というかアウトだな。

 

「……申し訳ありません」

 

「構わない。……ただ、思っていたよりも至難な試みになりそうだと考えただけだ」

 

「間違いないでしょう。それを補助する方法も用意しますが」

 

「……例えば、どのような?」

 

「そうですね。釉薬などは特定の配合でないと色が出ないということはわかりますか?」

 

「ああ。単純に分量を決めておけば良いというものではなく、炉の様子やその日の空気の味によって変えるとも聞く*1

 

「その配合や条件を効率的に探し出す方法です。まずはそれぞれの条件を数字にします」

 

「天候のようなものもか?」

 

「ええ。例えば一般的に物体は寒においては縮み、暖においては膨らみます」

 

「つまり寒と暖においては、寒は重くなることで沈み、暖は軽くなることで浮かぶ、と言えばいいか?」

 

「その通りです。ご経験が?」

 

「調理をしたことがあればわかるさ」

 

おや、少し意外だ。この世界での男性がどのくらい料理をするのかのきちんとしたデータはないが、肌感覚では城壁内の住人はそれなりに外食で済ませてしまうらしいとは聞いている。

 

「その縮みと膨らみは構成物に依存します。例えば基本的に液体の容積は固体に比べて熱に対する変化が大きい。そこでこういう硝子(ガラス)細工を作るわけです」

 

私が描くのは温度計だ。

 

「ここで使うのは色をつけた酒精か、あるいは水銀ですね。これである程度の範囲で数字として暑さ寒さを表すことができます」

 

「……空気の味には乾と湿もあるが、それも数字にできるのか?」

 

「ええ。雨の日に髪が跳ねる人がいるでしょう?人の髪は空気の中の水の量によって伸び縮みするので、それを使います」

 

「そこまではいい。数字にしたとしよう。そうして何になる?」

 

純粋な疑問の言葉だ。数学における抽象化の概念が不十分な以上、ここから先はかなり難しくなるだろうが彼はついてこれるだろうか。

*1
「空気の味」とは東方通商語の言い回しで、温度や湿度を含む大気の状態を指す言葉。



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確率

「私の知る手法は、適用できる条件があります。一つ、結果の原因となる要素を分離し、数字にできること。二つ、できるだけ同じ条件で、一部の原因だけを変えて繰り返し試せること。三つ、必要な算学的知識があること」

 

記憶を探る。一応この方法は活版印刷機のインクを作る時に使ったのでそれを思い出せばいい。まああれは条件をそれなりに絞って検定をカンで行ったようないい加減なものだったが。

 

「つまりは釉薬の話であれば秤を用いて配合を行い、同じ炉で焼けばいい、と考えればいいか?」

 

「炉の内部での熱の差があるでしょうから、実際には置く場所もできるだけ散らばらせたいところですね」

 

「なるほど。しかし、算学の知識か」

 

「ええ。私もここは詳しくは覚えていないのですが……」

 

「やっと、人間らしいところを見れましたな」

 

商者は小さく笑う。

 

「私は人間ですよ。限界もあれば病みもするし、いつかは死ぬ存在です」

 

「全知の魔物、というわけではないのか」

 

彼が意識しているはずはないが、ピエール=シモン・ラプラスが言った魔物の話を思い出すな。この世界にも決定論は存在するが哲学的議論では「決定論だと思う人にとっては決定論だし、運命論だと思う人には運命論なのだ」という不思議な結論が出ていた。ここらへんはもう少し詳しく読んでみたいが、あまり時間がない。

 

「……ええ。その根底にあるのは多くの数を整理し、その中から特徴を見つけ出すような分野ですね」

 

「調査術か?」

 

「近いものはあります」

 

「そして、なぜ算学がそこまで重要に?」

 

「端的に言えば、偶然と必然を区別するためです」

 

「ほう」

 

興味深そうに彼は言った。

 


 

この世界で使われている賭博用の賽は骨を使ったものだし、それを転がすテクニックも含めてゲームが成立している。となると、事故とかの方がいいか。

 

「会計の計算で、答えが合わない事はありますか?」

 

「……避けることは難しいな。計算は容易ではないし、悪い指を持つものもいる*1

 

「ではある人物が計算をした時だけ、特に差が大きいとしたら?」

 

「その計算者を疑るのが道理だろうな」

 

「そうです。もちろん彼に問題はなく、ただ運命の巡りが悪いだけかもしれません。では具体的にどれほど頻繁に差が大きいのであればそれは強く疑うにふさわしくなるでしょうか?」

 

「……一概には言えないだろう」

 

「ええ。ここでは話を簡単にして、信頼できる会計員が行った場合には10回に1回、銀片にして1枚を超える差が出るとしましょう。で、そこのケト君が同じような会計をしたとしましょう。そして銀片1枚を超える差が出た」

 

「疑わしいな。ただ、偶然かもしれない」

 

「そう。たまたま、10回に1度巡り合うような不運が彼と共にあっただけかもしれません。では2回連続であれば?」

 

「より疑わしくなる。さすがに服を脱がせるべきだろうな」

 

「そう。10回に1度起こることが、更にもう一度起こるのは100回に1回に過ぎません。これを多いと捉えるか、あるいは少ないと捉えるかは様々でしょうが2回しか試していないのに100回に1回しか起こらないようなことがあるのは奇妙です」

 

「確かに」

 

ここまで確率論の基礎はすんなりと確立できた。まあ本当はアンドレイ・ニコラエヴィッチ・コルモゴロフの公理主義的確率の話まで持っていければいいが、これは私でもちゃんと理解していないので数学のできる人に任せよう。

 

「では、2回行って1回、銀片1枚を超える差が出たとすれば?」

 

「疑わしくはあるが、最初の時ほどではない」

 

「ええ、ではここでその疑わしさを数字で表しましょう」

 

私は10×10の升目を描く。

 

「100回に1回は2回とも差が出る。逆に100回に81回は2回とも差が出ない。残りの部分、100回に18回は一度差が出る、というわけです」

 

「……なるほど」

 

「試す回数をもっと増やすこともできます。例えばケト君が10回試し、3回差が出たとしましょう。これは、どれくらい起こり得ることでしょうか?」

 

私はそう言いながらペンを走らせる。計算を急げ。ええと ${}_{10} \mathrm{C}_3$ は120。$\lg 0.9$ は

 

$$\begin{eqnarray} \lg 0.9 &=& \lg 9 - 1 \\ &=& 2 \cdot \lg 3 - 1 \\ &=& 2 \cdot 0.4771 - 1 \\ &=& -0.0458 \end{eqnarray}$$

 

と求められる。あとは代入して計算だ。

 

$$\begin{eqnarray} {}_{10} \mathrm{C}_3 \cdot 0.1^3 \cdot 0.9^7 &=& 120 \cdot 10^{-3} \cdot 10^{-0.0458 \cdot 7}\\ &=& 120 \cdot 10^{-3.32}\\ &=& 120 \cdot 10^{-4} \cdot 10^{0.68} \\ &=& 0.01 \cdot 1.2 \cdot 10^{0.68} \end{eqnarray}$$

 

$10^{0.68}$が5より少し少ないぐらいだから、6%弱と言ったところか。

 

「100回に6回ほど、そういう事が起こります」

 

私の計算を、長髪の商者もケトも呆けた顔をして見ていた。*2

 

「……この計算が必要なのか?」

 

「そうです、これでも簡単なものですよ」

 

さすがに駄目か。まあこれを解読するには相当の知識と発想力が必要になる。さらりと使っている常用対数はヘンリー・ブリッグスのアイデアによるもので1600年頃だったかな。

 

「それにしても意外だったな。もっと珍しいものかと」

 

「直感はこの手の計算に慣れていないんですよ」

 

「つまりこのように計算して、起きたことがわずかしか起こらないようなものであれば……それは偶然と言うより、何かがあると考えるべきだ、と」

 

「その通りです」

 

今回の例ならp値が5%より上なのでギリギリ偶然かもしれないというところだ。まあ0.05はよく使われるくせに雑すぎる数字なので、議論も雑になるが。

*1
「悪い指を持つ」は東方通商語の言い回しで少額窃盗・横領を意味する。

*2
ここでの計算は全て略記型東方通商語数字を用いて行われた。



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困憊

「……すみません、私ばかり話してしまい」

 

目を揉む商者に、私は申し訳なくなって言う。悪い癖だ。話し出すと止まらない。普段ならケトが止めてくれるのだが、と横を見るとオーバーヒートしていたらしかった。目の焦点があっていない。

 

「キイ嬢、確認なのだがこのような算学を理解している人はこの城邦に……」

 

「いないと思いますよ?」

 

「そこから力を入れる必要があるのか。面白い」

 

「幾何学や天文学も実用においては無意味と言われることもありますが、決してそうではないですよ」

 

まあ、純粋数学はそれ自体に意味があるとゴッドフレイ・ハロルド・ハーディが弁明していた横でブレッチリー・パークやシカゴ大学の「冶金研究所」で行われていたことを考えれば軍事転用できない技術はあまりないのだ。もちろん民間にも使える。

 

「そういう人材にも追加で声をかけるべきか」

 

「それは僕の方からもやっているので、必要によっては情報を共有しましょう」

 

ケトが言う。おや、裏で色々やっているのは知っていたがそこまで手を伸ばしていたとは。

 

「……構わないかね、局長」

 

こういう言い方をするということは、まあケトとのパイプを作ってもいいかという意味だろう。

 

「ええ。彼は有能なのであまりちょっかいをかけられると私が忙しすぎて倒れてしまいますが」

 

「はは、程々にするよ」

 

彼は小さく笑う。まったく、異世界の知識を山ほど吸い込んでこの顔ができるというのには勝てないな。

 


 

「偶然ではないと思われる現象が起これば、それが結果にどれだけ寄与するかを考えます。例えば多少釉薬の配合を変えたところで、炉の温度が一定であれば出来にはそう影響が無いのであれば正確な釉薬の調合よりも炉を見張る術を考えるべきだとなるのですよ」

 

これ以上は数学を使わずに定性論で誤魔化そう。ああ、ここでの定性は理工学分野で言う定性。社会科学から見れば十分定量的と言われそうなレベルだ。

 

「……ところで、それは物を作る以外の分野にも使えるのか?」

 

「ええ」

 

「例えば、農業であるとか」

 

私は驚いて目をぱちくりさせる。

 

「なぜ、そう思ったのです?」

 

「ある種の植物は風通しと水はけの良い場所でよく育つと言われていたが、実際は重要なのは水はけの方だけであったという例を最近聞いたからな、そこから連想しただけだよ」

 

よかった。ただの偶然か。実際、実験計画法は農業実験のために開発された手法なのでこの読みは合っている。

 

「その通り。……収穫量の増大も、考えなければなりませんか」

 

「農村部は重要な市場だからな、より多くの作物が得られればより多くの商品を手に入れることができ、より多くの商者が働き先を作れる」

 

「そういう場合には、農村で余った人が出ませんか?」

 

「……そうか。なかなか難しい問題だな」

 

疲れた様子の商者が言う。農村から都市への人口流出は色々と問題を生むのだが、田舎で満足しろと言うのも難しい。食料生産はまだしばらくは基盤産業だろうから、どうにかしてインセンティブを発生させねばならない。

 

「本当はあくせく働かなくとも誰もが暮らせればいいんですがね」

 

「とはいえ、そうすれば勤勉な人が優位に立ち、結果として怠惰な人は食うに困るようになる……」

 

「難しいところです」

 

完全に生産と流通を管理することができればまだなんとかなるかもしれないが、それが非常に難しいことは私の知る歴史から明らかだ。配給をすれば闇市が生まれ、計画経済は大抵不十分な情報伝達で破綻する。サイバーシン計画のようなものであればまだ可能性はあるが、CIAが潰してくれやがったからな。

 

「とはいえ鋼の農具の普及ができれば、多少は……」

 

「印刷機で農書を作るようにすれば、衙堂頼りの改革も多少は上手くいくかも知れません」

 

「あくまで可能性だ。貴女に賭けはするが……」

 

ありがたい。というか一体どれだけの額が用意されているんだ。

 

「一度に多方面の行動を取るのも難しいでしょう。まずはある程度範囲を絞るべきではないでしょうか」

 

「確かにそうかもしれんな。……キイ嬢、例えば貴女には何が必要だ?」

 

「有能な人材……についてはもう図書庫の城邦の外から得るしかないでしょう。どうにかして人を呼びたいですね。あとは硝子(ガラス)と鋼……、そうだ、水銀はありますか?」

 

「水銀?ああ、鍍金(メッキ)に使うな」

 

「それが欲しいですね。あとは各地の鉱石を調べる方法を……いや、これはその場所で薬学師ができるように本を作ればいいか」

 

いくつか欲しい資源があるのだ。金属であれば亜鉛、ニッケル、クロム、ゲルマニウム、バナジウム、白金あたりか?かつての世界では産地が偏っていたし、この世界でも地殻変動のメカニズムが大きく違わないならば鉱床の場所が狭い範囲に集中していると考えていいだろう。

 

「装置であれば?」

 

「私一人では作るのに限界がありますからね、横轆轤(ろくろ)があればまだ楽にはなるのですが、これはそう簡単には作れないかと」

 

「……となると、例の発電機を複製するところから始めるべきか」

 

「ああ、見たことがあるのですか?」

 

「水車に取り付けられているあれだろう?」

 

なるほど、トゥー嬢経由で見せてもらったりでもしたのかな。あれが複製できるようであれば、この世界の技術者に色々任せられるのだが。



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交渉

「では、取引の話と行こう」

 

すっと目の前の商者の出す空気が変わる。やられた。こちらは結構息切れしてるんだぞ。

 

「……私の知識を活用するのであれば、そちらに相当の利益をもたらすはずですが」

 

「しかしそのためには様々な条件が必要だ。貴女のもたらすものがもし危険であった場合の備えも必要となる」

 

「私からすれば、単純に利益だけを求める姿勢は避けるべきだ、とは言っておきます」

 

「さすがに我々とて他に気を配らねばならないことがあるのは知っているよ。そこは信頼してほしい」

 

「こちらの備えですよ。……となると、あまり表で繋がりを強調することは避けるべきでしょうか」

 

「……確かに、どちらかが引き起こした問題にもう一方が絡め取られるのはあまり望ましいことではないな」

 

「私は舞台に上がるよりも、脚本を紡ぐ方が好きなんですよ」

 

「なら主演はやらせてもらうぞ」

 

「どうぞ。こちらからはあまり出せるものはありませんが」

 

「出すのはこちらだよ。……具体的に、銀片はどれだけ必要だ?」

 

「それは私への報酬のような形で?それとも何かを作るまでに?」

 

「前者だ。後者に比べれば微々たる額だからな」

 

相当な予算を突っ込むつもりらしい。まあ、動かす人数を考えれば私への報酬を十人扶持ぐらいにした所であまり問題ないわけか。

 

「資金は……いまどれぐらい?」

 

「もう少しあるとキイ嬢が多少無駄遣いしても問題なくなるのですが」

 

ケトが隣で言う。

 

「はい……」

 

「まあ、売り上げに応じて商会から印刷物管理局への出資を増やすという覚書でもするか?」

 

「そうですね。ただそれはうちの局員にやらせたい所です。私は専門ではないので」

 

「いいのか?」

 

「ええ。衙堂や図書庫からの人であればまあ中立性は担保できるでしょう。あるいはケト君にやらせてもいい」

 

「キイ嬢は僕を何だと思っているのですか?」

 

ケトの声を聞き流しながら私は思考を回す。

 

「というより、こちらがそちらの商品を買わせてもらう側ですかね」

 

「まあ、今手に入る範囲なら多少割り引いても売るが」

 

「おや、こちらとしては割高でも買いますが」

 

「重要な取引相手には多少損が出ても関係を作れということだよ」

 

「それを言ってしまっては意味がないのでは?」

 

「しかし、貴女なら大丈夫だろう?」

 

「まあ、騙されるよりは。……それに、あなたがたに揃えられないなら私が頼める範囲ではまず無理ですからね」

 

この図書庫の城邦はこの世界でも指折りの交易都市でもある。そこでかなりの勢力を持ち、様々なコネクションを持つ商会の一派の代表が直々に話をしてくれているのだ。これ以上の協力はさすがに無茶と言うものだろう。

 

「……引き換えにと言うべきではないですが、貴女の作ったものについては無制限に複製させてほしい」

 

「印刷物についてはその作成者の権利の問題があるので一概には言えませんが……例えばどのようなものを考えています?」

 

「このような硝子筆(ガラスペン)であるとか」

 

「作るのは結構大変ですよ?腕のいい職人であれば私の作業を見ればできるでしょうが」

 

「なら連れてこよう」

 

「強い……」

 

まあ彼のことだ、そう難しくはないのだろう。

 

「しかし呼ぶとなると数月はかかるな」

 

「片道で月単位ですか」

 

「早船であればもっと短くてすむが、な」

 

「……海を超えた遠くに、素早く手紙を送る方法があれば欲しいですか?」

 

「具体的にはどれぐらいの時間に縮まる?」

 

「そうですね、一文字送るのにかかるのは脈が一つ鳴るよりは短いかと」

 

「事前に符牒のようなものを決めておけば、十分すぎる。というよりその知識だけで銀片を万積んでもいいぐらいだ」

 

「安いものですね」

 

生涯年収と同程度のスケールだ、と私は頭の中で割り出す。

 

「キイ嬢、これはそういう単語です。文字通りの意味ではありません」

 

「あっすみません」

 

私は急いで頭を下げる。億万長者みたいな言葉なのか。

 

「……実際に値をつけるとなると、幾らほどになるか見当がつきませんね」

 

少し苦笑いをする商者。

 

「まあ、作るのは大変ですが」

 

「やはり、そういう機械が?」

 

「ええ。……必要なものは、まだ足りませんが」

 

トランジスタと真空管のどちらを作るほうが楽かは怪しいところだ。ヘルマン・スプレンゲルの水銀ポンプでは確か真空度が足りないとなるとクライオポンプか拡散ポンプかターボ分子ポンプあたりが欲しい。冷却用の液体窒素はジュール=トムソン効果を使えば……いや、容器とかの問題があったはずだ。国立産業技術史博物館の所蔵品だった空気液化装置を思い出す。構造はシンプルだが、細かい改善が必要だ。

 

一方でトランジスタはどうだろう。ゲルマニウムの結晶があれば作るのは不可能ではない。こっちのほうが作りやすいように思えてきたが、たぶん錯覚だ。そもそもこうやって作られる点接触型トランジスタはかなり不安定だったし。とはいえこういう方針は一度示してしまえば技術発展を加速するきっかけにできるかもしれない。

 

あとは磁気増幅器なんてマイナーなものもあるが、これは鉄心の問題があるからな。周波数特性の問題がついて回るし、そもそも私の知識が少ない。

 

「短距離でいいなら、作れはしますけどね」

 

火花送信機とコヒーラ検波器の組み合わせであれば、まあすぐにとは言わないが一年もあれば試せるだろう。

 

「よし。それを頼む」

 

「……そんなに重要ですか?」

 

「商品のやり取りにかかる時間が半分になるんだ、これは重要だぞ」

 

圧が強い。少し驚いて私は身を引いてしまう。

 

「……そうですか。では、それなりに色々なものを揃えてもらいますよ」

 

「構わない」

 

商者は自信満々に言う。ま、実はそこまで特別なものは必要ないんだけれどもね。



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電磁波

商談はその後、それなりに和やかに終わった。

 

「……疲れましたね」

 

「まあね」

 

帰り道。ケトの言葉に私は背中を伸ばしながら返す。

 

「まあ、でも目標が一つ上がったからいいよ」

 

「その、素早くやり取りをする方法ですか?」

 

「そうだね。……これは印刷物管理局で扱っていいのか?」

 

「文字のやり取りがあれば印刷物だと思いますが」

 

「うーん、今私が作れるような単純な機構だと文字は送れないんだよね」

 

「何が送れるんです?」

 

「こう、手を叩いた時の音みたいな感じ」

 

ぱんぱんぱん、と私は手を鳴らす。火花式の送信機で作られる電磁波のアナロジーとしては悪くないだろう。

 

「なら、伝える原理は█████のようなものですか」

 

「なにそれ」

 

「ええと、煙を使って遠くの敵の居場所を教える戦法の一つです。古帝国時代に使われていたと読んだことが」

 

狼煙か。確かに近いものはある。

 

「そうだね。基本的にはそれと変わりはないよ」

 

「具体的に、どうやるんですか?」

 

「わずかに間を空けた金属の間に電圧をかけると、小さな雷が生まれるのは?」

 

「何回か見ました」

 

「似たようなものをもう一個用意すると、電池を繋いでいなくとももう一方にも小さな雷が飛ぶ……って言えばいいかな」

 

「……そんな事が起こるんですか?」

 

「起こるんだよ」

 

面白いことに、私の知る科学史でこれは実験前に予想されていた内容だったのだ。ジェームズ・クラーク・マクスウェルが電磁場の理論を定式化したが、そこの式によれば電界が磁界を生み、磁界が電界を生むことで一種の波が生まれるということが示唆された。当時測定されたいくつかの物理定数を代入すると、その波の速度は可視光の速度として知られていた値とだいたい一致した。

 

「面白い現象ですね」

 

「まあね。けれども、私がいたところでそれを最初に発見した人はそれがなにかに使えるとは考えなかったらしい」

 

1887年、ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツが実験を行ったのはあくまで電磁場の理論から導かれる「電磁波」の証明が目的だった。電磁誘導を用いた無線通信はそれ以前からあったものの、この方式の送信機と受信機に改良を加えたものがグリエルモ・マルコーニによって実用化され、そして無線通信の時代がやってくる。

 

「……仕方のないことでしょう。雷が飛ぶのを見て、狼煙のように使うという発想はなかなか出ません」

 

「それと、特別な電気装置を使うか条件が揃わないと千歩程度の距離までしかやり取りができないんだ」

 

同調回路は作れるが、問題は増幅素子だ。整流作用だけであれば亜酸化銅、もとい酸化銅(I)や黄鉄鉱で問題ないが、もっと高出力となると難しい。

 

「なら、実用は難しいのでしょうか?」

 

「城壁の中とかであればまだ……いや、導線を繋ぐのとどちらがいいのかな」

 

「そういうのを、他の人に任せるというのが今日の話ですよね」

 

「……そうだね。まあ人に何か言うだけというのは誰でもできるから」

 

「けれども、正しい助言をできる人はまずいませんよ」

 

「ケトくんは良い助言をよくくれるけど?」

 

「……ありがとうございます。けれども、それはあくまでキイさんもわかっていることですよね?」

 

「あれ、私は今理解しているのに実行できていない人間扱いされてる?」

 

「少なくとも生活面においてはそうだと思います」

 

「はい……反省します……」

 

夜更かしであるとか寝坊であるとか運動不足であるとかが最近多くなってきている。今度休暇を取るのもありかもしれない。印刷物管理局の業務はかなり私がいなくても回せるようになっているし。

 


 

「……あ、おかえりなさい局長」

 

印刷物管理局の事務室に戻ると、何人かの局員が印刷機を囲んで何かをしていた。

 

「なんでまだいるんだ?」

 

日没の少し前であるが、普通ならケトが私を含む局員を追い出している時間帯だ。

 

「すぐ帰りますよ」

 

「へえ」

 

まあ、何かを印刷していたことぐらいは見えるのだが。

 

「それは?」

 

「……まあ、局長になら見せてもいいですか。頼まれものですよ」

 

「どれどれ」

 

内容は数式だった。私が使い始めた略記方法を使った一種の筆算だ。

 

「おや、ここまで解読ができていたのか。というか頼んだのは衙堂の会計員やっている彼か?」

 

「ええ。講義で使うので刷ってくれと」

 

「……一応印刷物管理局の備品だから、こういう用途はあまり感心しないが問題ない」

 

「おや、そこは厳しいんですね」

 

ああ、業務と日常の切り離しが甘いのか。これは純粋に価値観の差異であって、善悪の問題ではないと私は意識を切り替える。

 

「ケト君、これを見て私の計算方法を真似できる?」

 

「というより僕が手伝ったものですから」

 

「あれ、そうだっけ?知らないんだけれども」

 

「前にこの人から算学を学んでいたのを覚えていませんか?」

 

そういえばそうだったな。その時に私の計算した紙も渡していたが、ここまで体系的なものにできていたとは。

 

「なるほどね。……あとで彼に言って、少し直させないと」

 

「間違いでもありました?」

 

「というより、全体の構成をもう少し直したほうがいいかな。紙の上で数字を操るのには練習が必要だから」

 

数学はどうせやらないといけなかったのでちょうどいい。少し手を貸してあげよう。



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矛盾

20世紀以降の数学史は、あまり研究の進んでいない分野だ。理由は単純である。それを理解するためにある種の才能が必要とされ、歴史研究の専門家として育ってきた人間が太刀打ちするには複雑すぎる世界がそこにはあるからだ。もちろん双方の知識を縦横無尽に振るう人もいるが、少なくとも私はダフィット・ヒルベルトの出した23の問題については何を言っているかすらよくわからない。問題の定義が曖昧なので当然だろと数学をやっている人は言うかもしれないが。

 

まあでも、そういう非直感的な数学の世界が作られるようになったのは数学が実用を無視した純粋な学問として捉えられるようになったから、というのはあるだろう。つまりこの物理的世界とは切り離された、一種独特の世界ができたのだ。

 

「つまり、この紙の上で行われる記号を操るという行為によって、例えばある土地に蒔くべき種の量が出たとしても、その二つはあくまで別のものなんだよ」

 

「……ええ、言われればそうです。紙の上のインクのしみは、実物とは関係がない」

 

私の言葉に、新顔の学徒が言う。

 

「その通り」

 

私は黒板の前に座り、三人の生徒を見る。ケトと、衙堂の会計員と、あと長髪の商者が送り込んできたケトより少し下ぐらいの若い学徒。最後の彼は算学においてなかなか腕がいいらしい。まあ、確かに数学は比較的年齢を無視できるゲームだ。数学オリンピックを見てみろ。あれでも扱う分野に縛りがあるのだ。それがない無差別級数学界でもティーンがarXivに論文を書いていたりする。査読がないから誰でも出せるには出せるけどそういう意味ではない。

 

「とはいえ私は実用主義を重んじていてね、使えそうな内容に絞って教えたいと思う」

 

私は一冊の冊子を取り出す。

 

「複製はまだ作っていないから、譲り合って見てほしいのだけれども」

 

知っている基本的な数学知識を雑にまとめたものだ。あまり体系的ではない。

 

「最終的に、これをざっくり理解してまとめてほしい。そうだな、ケト君が理解できる水準であればまずはいいだろう」

 

三人が冊子を覗き込み、変な顔をする。そもそも用語も記号もちゃんとしたものがないのだ。抽象的な図から、意味をどこまで読み取れるかは未知数だ。なので私が必要なのだが。

 

「どの内容が知りたい?」

 

「……この、積を求める部分を」

 

局員が言う。

 

「いいよー。基礎をやるか、それとも早足でも全体を見るか」

 

「全体を見たいです」

 

学徒が元気に言う。

 

「ではまずは、積を和に変換することを考えようか」

 

私は言う。さて、のんびりやろうか。

 


 

「百の百倍は万。私の略記法だと、$10000$と書くことになる。これについては彼は慣れて……る?」

 

私は学徒に目を向ける。この世界の算学を知っていたとしても、それとはレベルが違う内容をやるのだ。どこまでできるのだろうか。

 

「わかりますよ、大丈夫です」

 

空位記号については問題なし、と。

 

「ええと、積の記号を頭文字を取ってこういうふうに書くとすると*1……」

 

$$100 \times 100 = 10000$$

 

「こうなるよね」

 

頷く三人。

 

「はい、ここで方針を説明する。まず簡単に試してみる。そこから規則を見出す。そして規則を拡大していく」

 

「規則を安易に拡大しては、破綻が生まれないか?」

 

局員が聞いてくる。素晴らしい。やはり天才を教えるのは馬鹿でもできるな。

 

「そう。しかし破綻というのは二種類あって、一つは例えば計算によって起こり得ないような結果が出た場合。もう一つは作業によって矛盾と定義したような状態が起きた場合」

 

「……違うのですか?」

 

ケトの質問。

 

「違う。例えば前者は『財布の中身に銅葉が $3-5$ 枚入っている』というようなものだ。しかし、これは紙の上ではある種の数として扱うことができる」

 

「あまり主流ではないが、そういう試みは行われているのを読んだことはある」

 

そう呟く局員。おお、あるんだ。

 

「後者のほうは、例えば『我々は2と3を異なるものとして扱う』と宣言しておいて、計算の結果『2と3は等しい』という結論が出た場合のこと」

 

「ええと、例えば2の平方根が2つの数の比として表せないことを示す際に使われるような、矛盾を示す場合だと思えばいいでしょうか?*2

 

「その通り。私のやり方は慣れそう?」

 

「あとで復習します」

 

「よろしい。終わった後ならたぶんその教本というかその雑稿も読めるはずだから。っと、話を戻そう」

 

私は手早く黒板に式を書く。

 

$$\begin{eqnarray} 1 \times 10 &=& 10 \\ 10 \times 10 &=& 100 \\ 100 \times 10 &=& 1000 \\ 1000 \times 10 &=& 10000 \\ 10000 \times 10 &=& 100000 \end{eqnarray}$$

 

「ここから、どういう法則性が読み取れる?」

 

「10倍するごとに、空位記号が一つ増えている」

 

局員の言葉に残りの二人も同意する。

 

「そう。つまり、10倍するという積を、空位記号の数に1を足すという和の操作に変換できているんだ」

 

少し訝しそうな視線が飛んでくる。まあ、ここからが面白くなるんだって。

*1
以降キイの板書では「積」を意味する聖典語の頭文字2つの合字を積の記号として、「は」を意味する単語の潰れた筆記体を等号として用いているが、以下では全て標準的な数学記号を用いて表す。

*2
「数」とだけ言った場合、文脈にある程度依存するが自然数(正の整数)として扱われる事が一般的である。



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小数

「空位記号の数を示す記号を考えるよ。名前は何がいいかな……」

 

logarithmの語源は確かロゴス(λόγος)だし、対数の由来はただ表として対に並べたところから来ていたはず。つまりはここらへんの名前はどうでもいいのである。結局「桁数」ぐらいの意味の新しい単語が生まれ、記号も作られた。まあ実用重視なので自然対数ではなく底を(A)とする常用対数の話をしよう。

 

「よし、ではこの対数の例を示そう」

 

$$\begin{eqnarray} \lg 10 &=& 1\\ \lg 100 &=& 2\\ \lg 1000 &=& 3\\ \lg 10000 &=& 4\\ \lg 100000 &=& 5 \end{eqnarray}$$

 

「……これを、広げていくんですか」

 

若い学徒が言う。

 

「そう。これには二つの方向が考えられる。ある数の対数となる数を考えるか、あるいは対数を取ってある数になるような数を考えるか」

 

さらりと逆関数の概念も混ぜておく。対数関数は多価関数だって?いいんだよまだ虚数の概念は出していないんだ。

 

「では後者で行こう。例えば2と十分割の5……面倒なので2.5と呼ぶか。対数を取ることでそういう値になるような数はいくつだと思う?」

 


 

十進法を数を小さくする方向に拡張することはこの世界では比較的普通に行われていた。例えば単位の百分の一という概念、まあSI単位系における接頭語のようなものはある種の果実の重さや薬学における計量に用いられる。小数に近い概念もある。例えばその方法で円周率を言うのであれば「3と十分割の1と百分割の4と千分割の1と万分割の5と十万分割の9と……」となる。まあ面倒なので間に点を入れて略記するという方法を私は採用した。この表記方法はシモン・ステヴィンのアイデアをジョン・ネイピアが改良したものによく似ている。つまりは普通の小数だ。このジョン・ネイピアは対数表の作成者でもあるし、自然対数の底の別名「ネイピア数」としても名前を残してる。ちゃんとした発見者はヤコブ・ベルヌーイだろとか一般的にはガウス数ではないかという話は無視しよう。さて、本筋に戻るか。

 

対数の特徴の一つを考える。$\lg 1000000$は6で、$\sqrt{1000000} = 1000$の対数を取ると3だ。6は3の半分。つまり、対数を取った値が半分になる時、取る前の数は平方根の値になっている。少しわかりにくいな。一般化して文字で表そう。

 

$$\lg x = 2 \cdot \lg \sqrt{x}$$

 

ただし$x$の定義域は正の実数であるとする。$x = \sqrt{x}$とすれば

 

$$\lg x^2 = 2 \cdot \lg x$$

 

となる。ここで$x$の指数部分の2と左辺についている2が対応していることを考えればもっと一般化できる。つまり実数$a$を用意すれば

 

$$\lg x^a = a \cdot \lg x$$

 

というわけだ。さて、これで私が最初に出した問題を考えよう。$\lg x = 2.5$となるような$x$を求めればいい。ここで上の式で$a = 2$の時を考えよう。

 

$$\begin{eqnarray} \lg x^2 &=& 2 \cdot \lg x\\ &=& 2 \cdot 2.5\\ &=& 5\end{eqnarray}$$

 

さて、対数をとって5となるような数はさっき列挙したリストの中にある。100000だ。つまり$x^2 = 100000$となる。

 

「これは解ける?」

 

「316より微大、か。確かに100と1000の間にある」

 

そう呟く局員。

 

「覚えているので?」

 

「……ああ、そうだが?」

 

少し意外そうに彼は言う。少し確認したが、この世界での計算術はかなり暗記に頼っている側面がある。受験戦争みたいだな。まあ九九ぐらいはすぐ出てくるようなのでよかった。

 

「これ、例えば対数を取って1.25となるような数を知りたければ316の平方根を取ればいいんですか?」

 

私が局員とそういう話をしていると、若い学徒が横から私に質問してきた。

 

「その通り。……ケト君は少し辛そうだな」

 

私が言うとはっとケトが身体を起こして眠そうな目を開く。まあ、これだけの知識を一気に浴びせられたら慣れていなければこうなるわな。

 

「……すみません」

 

「ああ、これは調子に乗ってわかりにくい説明をした私が悪い」

 

「そんな事は……いえ、ありがとうございます」

 

否定しようとしたケトが撤回する。私の性格というかやり方が読まれているな。

 

「しかし、これでわかるのは飛び飛びの値の対数の関係だけだ。もっと上手い手はないのか?」

 

そう言う局員に、私は教本をめくる。

 

「ある」

 

まあ内容は少し複雑だ。座標平面上のグラフの傾きから $\varepsilon \text{-} \delta$ 論法で微分を定義し、そこから関数の多項式近似に持っていって、$\ln 1+x$のテイラー展開をしてから、収束の速い式に持っていく。どれもこれも抽象化された数学の産物だ。ええと、座標平面はルネ・デカルトのDiscours de la méthode(方法序説)だから1637年、$\varepsilon \text{-} \delta$ 論法は19世紀半ば、多項式近似はそれなりに古くからあるはずだけど、テイラー展開は1700年ぐらいかな。数学史の年表の記憶が少し怪しい。まあ、ここまでたどり着く事ができればあとは勝手に発展できると思う。さて、頑張って教えるぞ。

 



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課題

「そういえば会うのは久しぶりだな、少しやつれたんじゃないか?」

 

トゥー嬢は薬湯を飲みながら言う。この世界では薬学が錬金術みたいな物質の変化の探究方面に進んでいるので、本来の医用薬品の製造は医学に吸収されている。それでもまあ、トゥー嬢はそのへんの心得は多少はあるらしい。

 

「仕事が忙しくて」

 

「そうだと思って多少は英気をつけるようなものを混ぜたんだがね」

 

「そういうものもあるんですか」

 

私も一口。実際薬湯と言ってもふつうに美味しいのだ。柔らかい甘さと少しの苦味。かといって後に引く苦さではない。言葉での表現が難しいな。

 

「この味は██████を?」

 

「そう高価なものは使わないさ、██████████だよ」

 

ケトとトゥー嬢が知らない単語で会話をしている。まあなんとなくはわかるよ。似たような効果をもつ生薬らしい。

 

「それはどういうもので?」

 

「ええとですね、病人に力を与え、疼痛を和らげるみたいな効果があります」

 

ケトが教えてくれる。なるほどなるほど。薬用成分を抽出したら色々使えそうだ。

 

「あとはまあ、とある地域では結納品として用いられると聞いたことがある。床の上での活気を……ということらしい」

 

私はちらりとケトの方を見る。表情は特に変化なし、と。私はこの手のネタが好きなのだが相手にもよるしな。まあ嫌がっているなら止めるべきだろうがこう無反応では対応に困る。

 

「それで、一体どれだけ仕事があるんだ?」

 

「ええと遠隔でのやり取りに、発電系もあって、それと算学を教えて……」

 

トゥー嬢の言葉に、私は指を折りながら答える。

 

「……もっと効率的な電池はないかと聞こうとしたが、やめたほうがいいか?」

 

「ああいえ、電気を放出するだけではなく溜めるようなこともできますよ。鉛と硫酸を使えばいいのですが、効率を上げるとなると鉛を煆する時にちょっとした方法がありまして」

 

2代目島津源蔵の発明した易反応性鉛粉製造法だ。鉛に空気を吹き付けながら加熱することで亜酸化鉛を作るものである。これを硫酸で練って活字合金と似た組成の枠に詰めて電極にすれば鉛蓄電池となる。とはいえこれは効率を求めた方法なので雑で良ければ鉛の板をそのまま電極として硫酸に突っ込んでしまえばいい。それでも一応使えはする。

 

「ただでさえ忙しいのだろう?その方法にどれだけ慣れているのかにもよるが」

 

「書物で読んだだけですね、これは」

 

というか実物主義のきらいがある私が、日本で一番この手の史料が揃っていた施設のバックヤードに出入りしても、実際に触れたことのある機械や装置は全体からすれば本当に僅かでしかない。

 

「これについては需要がどれだけあるかわからないのでまだ保留ですが、基礎研究は商会の方に投げるべきかもしれませんね」

 

「そうするべきだ。君はなんでも自分で背負いすぎる」

 

「それが一番楽で速いんですよ」

 

「理解はするがな。しかし倒れてしまっては元も子もない」

 

「印刷物管理局の業務はかなり任せられるようになってきたんですよ。まあそうなると他の所から仕事が来るのですが……」

 

「言っておくが、電気の発見とその応用だけでも十分な功績だ。きちんと学んでいれば図書庫の講官となって年金暮らしもできるが」

 

「ああ、あれは色々と面倒なんでしょう?」

 

私はため息を吐く。純粋に学問をやるにはトゥー嬢のように自由に使える金があるか、あるいは図書庫の講官のように雇われるかしかない。で、図書庫の講官は多くの講師が目指すものであるから競争も激しいし条件も色々ある。例えば十三学に対する基礎的教養の試験であるとか、その分野の専門家からの半月ほどかける問答であるとか。審査会はもうしばらくやらなくていいかな、と思うぐらいには精神的な負荷がまだ抜けきっていないのでこの方面は今のところ進むつもりはない。

 

「というより、実力であればトゥー嬢のほうがふさわしいでしょう。『基質の分離と分析』は人気だそうで」

 

「誰から聞いた?」

 

「あの長髪の商者です」

 

「あいつか……」

 

どうやらこっちにも顔を出していたようだ。フットワークが軽いのはいいことであるが。

 

「それと先の話になりますが、各種の鉱物から様々な基質を分離できるようにしたいんですよね」

 

苦土金属(マグネシウム)などか?」

 

っと、そういえばカルシウムやマグネシウムの単体分離には成功していたのか。ここらへんは本には乗っていなかったので今度改めて聞こう。

 

「ええ。あとは活字に使っている合金に含まれる鉛以外の成分のようなものも知りたい」

 

「鋼などの地域による差は鉱石の差であるというのを読んだことがあるが、含まれる基質が異なる可能性は高いな……。興味深い課題だ」

 

「なので各地でそういう調査をしたいんです」

 

「城邦の外にいる友人に手紙でも書くか?」

 

「いいんですか?」

 

「まあ、あまり期待はしないでほしいが」

 

「商者の方からも動いてくれるそうなので、構いませんよ」

 

少しづつ私のやることに人を巻き込むことが多くなっていく。いや、最初からそうか。失敗が許されないというわけではないが、やはりプレッシャーは感じるな。まあ、何かあったらケトが私を気絶させてでも止めてくれるだろう。いや、よくないな。私もケトに気を配っておかないと。彼もなんだかんだで壊れるまで作業をしてしまうタイプだからな。



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第10章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。数式に間違いがないか確認しているような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


規格化

「ありませんな、普通であれば。商品の質を担保する工房の間の関係を崩し、職人に技を捨てさせ、他の商者のために動くなどということは」

同業者組合は技術を秘匿することで関係者の利益を守るとともに製品の質を保っていた。その一方でしばしば新しい技術の導入に反対したため、アメリカ合衆国のような新興国が発展するチャンスが生まれた。

 

「文字版の大きさや紙の大きさを揃えるように部品の大きさを揃えることぐらい、考えていないとは思いませんよ」

規格化や標準化の概念は昔からあるが、これを産業全体に推し進めようというのは19世紀末の考え方である。

 

工作機械

別に国交関係が問題なければいいのだが、まあ歴史を見ればその輸入元に戦争をふっかけざるを得なくなった例もあるのでできるだけ自分の手元にそういう装置があるに越したことはない。

第二次世界大戦における日本とかね。

 

水準としてはDe re metallica(デ・レ・メタリカ)ぐらいか、場合によってはもう少し上かな?

De re metallica(デ・レ・メタリカ)はゲオルク・アグリコラによる冶金についての本。図が多く、16世紀当時の鉱業や金属加工についての重要な史料となっている。

 

電気分解と酸による分離を組み合わせれば、かなりの分離ができる。

例えばハンフリー・デービーは電気分解によってカリウム、ナトリウム、カルシウム、マグネシウム、ホウ素、バリウムを単離した。

 

転炉

もちろん準備をすれば4日ちょっとで10000トンの輸送船を作ることができるが、低温脆性でぶっ壊れかねない。

リバティ船は第二次世界大戦下のアメリカ合衆国において、緊急造船計画(Emergency Shipbuilding Program)のもと作られた「5年で使い捨てる設計の大量生産10000トン級輸送船」である。戦時国債でネーミングライツが手に入ったり、慣れていない女性労働者でも作れるよう溶接を導入していたり、一日あたり2隻弱のペースで作られたり、3000隻弱作ったので存命の人物だろうが関係なく名前をつけまくったりとかいう逸話が多い。建築業界出身のヘンリー・ジョン・カイザーが中心となって開発・生産が行われ、ブロック工法などの活用もあって最短で4日半ちょっとで完成させたなんて話もある。なお、この船に使っていた鋼板が低温では脆性を示すので構造上の欠陥とも相まって寒い海で使うと船が「割れる」という問題が起こったりもした。とはいえ案外長持ちし、民間に払い下げられた後も二十年ほどは現役だった。

 

等角図(アイソメ)を描くと、商者は不思議そうに図を見た。

Isometric(等角図)は投影図法の一つであり、立方体の外観が正六角形になるような描き方。19世紀に広く導入された。

 

確率

硝子(ガラス)は酸にも塩基にも強く、水を沸騰させる程度の熱に耐え、反応を外側から観察できるので

一応長期間強塩基に接触させるとか加熱したリン酸を触れさせるとかすれば腐食する。あとフッ化水素酸は低い濃度で常温でも腐食させてくる。なのでフッ化水素酸を保存する時にはテフロン*1、もといポリテトラフルオロエチレンのようなプラスチックの容器を使おう。高腐食性のフッ素化合物に耐性を持つのがフッ素化合物ってかっこよくありませんか?なおここでは触れていないが、光学的特性も当然重要である。

 

国立産業技術史博物館産業技術史資料情報センターの出していた技術の系統化調査報告を読んでいたからだよ。

「技術の系統化調査報告」を出しているのは国立科学博物館の産業技術史資料情報センター。国立産業技術史博物館があればこっちの管轄になっていたと思う。

 

ああとなると炉の中の熱も測定する必要が……これは二種類の金属を接合してそこに熱を加えることで流れる電流を……ああいや、増幅が必要だから先に硝子(ガラス)と水銀で機構を……

熱電対の話をしている。焦っているので増幅に真空管を使おうとしているが、複数の熱電対を直列に繋げば測定可能なレベルの電流を取り出せる。

 

確率

彼が意識しているはずはないが、ピエール=シモン・ラプラスが言った魔物の話を思い出すな。

Une intelligence qui, à un instant donné, connaîtrait toutes les forces dont la nature est animée et la situation respective des êtres qui la composent, si d’ailleurs elle était suffisamment vaste pour soumettre ces données à l’analyse, embrasserait dans la même formule les mouvements des plus grands corps de l’univers et ceux du plus léger atome; rien ne serait incertain pour elle, et l’avenir, comme le passé, serait présent à ses yeux.

(ある瞬間に、自然を動かす全ての力とそれを構成する存在、それぞれの状況を知っている知性は、さらにこれらの情報を分析するのに十分なほど壮大であれば、宇宙で最大の天体の動きと最も軽い原子の動きを同じ式で包括するだろう。不確かなことは何もなく、未来は過去と同じように、その目に映るのである。)

──ピエール=シモン・ラプラス「Essai philosophique sur les probabilités(確率に関する哲学的随筆)」より。拙訳。

 

ニュートン力学の発展は、このような決定論的な考えを生み出した。なおその後量子力学の研究によって「確率的に」起こる現象が見出された。

 

まあ本当はアンドレイ・ニコラエヴィッチ・コルモゴロフの公理主義的確率の話まで持っていければいいが、これは私でもちゃんと理解していないので数学のできる人に任せよう。

確率の定義はいくつかある。統計的確率は頻度主義に基づくものであり、何度も試行することによって近づく「不変である値」を確率の値として考える。一方で主観確率はベイズ主義に基づくものであり、得られた統計データから「ありえそうな値」を確率として考える。十分なデータが有れば統計的確率の、少ないデータしかなければ主観確率の考え方を使うと便利であるので「どちらが正しいか」みたいに争うのは基本的に不毛である(というのが作者の意見。あっやめて石を投げないで)。なおキイの言っている公理主義的確率はもっと抽象化して確率分布を「ある条件を満たす集合から実数への関数」と定義するのでまた別の立ち位置である。

 

$\lg 0.9$ は

$\lg$ はISO 80000-2で10を底とする対数であるとされている。

 

さらりと使っている常用対数はヘンリー・ブリッグスのアイデアによるもので1600年頃だったかな。

最初期の常用対数表「Logarithmorum Chilias Prima」の出版は1617年。

 

今回の例ならp値が5%より上なのでギリギリ偶然かもしれないというところだ。

p値はざっくり言えば「その現象が偶然起こる確率」である。つまりが20回ほど実験を行えばp値が0.05を下回るような結果が出る可能性がある。一般的に0.05という値は「その現象が偶然ではない」(有意である)ことを示すための基準となっているが、結構いい加減に使われがちである。なおこの値は農業実験をやっていたロナルド・エイルマー・フィッシャーが「まあ20年に一度ぐらいなら不作とか起こっても仕方ないわな」と選んだ数字であるとかなんとか。

 

交渉

まあ、純粋数学はそれ自体に意味があるとゴッドフレイ・ハロルド・ハーディが弁明していた横でブレッチリー・パークやシカゴ大学の「冶金研究所」で行われていたことを考えれば軍事転用できない技術はあまりないのだ。

No one has yet discovered any warlike purpose to be served by the theory of numbers or relativity, and it seems very unlikely that anyone will do so for many years.

(未だ誰も数論や相対性理論を戦争に役立てる方法を発見していないし、今後何年もそうされる可能性は非常に低いと思われる。)

──ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ「A Mathematician's Apology(ある数学者の生涯と弁明)」より。拙訳。

 

ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは第二次世界大戦下の1940年、戦争と数学との関係性などを踏まえてこのように述べた。しかし1938年から数学者のアラン・マシスン・チューリングがイギリスのブレッチリー・パークにある政府暗号学校に雇われており、最終的に群論という数学分野を応用した手法を組み込んだ解読手法によってドイツ軍の使用していた暗号機「Enigma」を破った。また、相対性理論が予言した質量とエネルギーの転換はシカゴ大学に本部が置かれアーサー・コンプトンをリーダーとした秘匿呼称「冶金研究所」で作られ、1942年に最初の臨界を達成した原子炉「シカゴ・パイル1号」によって証明されたとともに、ここで作られたプルトニウムが世界で最初と3番目の核爆弾に用いられた。なお、3番目の核爆弾は最後の実戦使用された核兵器である。少なくとも、今のところは。

 

ああ、ここでの定性は理工学分野で言う定性。

理工学分野では例えば「鋼の炭素が多くなると硬度が上昇する」は定性論であり、実際の測定やシミュレーションによってグラフを描いて初めて定量論となる。しかし社会科学ではたった一つの事例から理論を展開することも珍しくない。良し悪しというよりも業界の特徴のようなものである。

 

サイバーシン計画のようなものであればまだ可能性はあるが、CIAが潰してくれやがったからな。

サイバーシン計画は世界最初の自由選挙によるマルクス主義政権、チリのサルバドール・アジェンデ政権によって1971年から行われたもので、テレックス(まあメールのようなもの)を利用してチリ全体を繋ぐ経済管制システムである。なお当然当時のアメリカ合衆国がこんな赤い政権を許容するはずがなく、1973年にCIAなどの支援を受けた軍部によるクーデターが発生、政権は崩壊しサルバドール・アジェンデは自殺した。

 

交渉

まあ、動かす人数を考えれば私への報酬を十人扶持ぐらいにした所であまり問題ないわけか。

扶持は江戸時代に用いられた報酬の単位。一日あたり米五合に相当する。ここでキイは10人分の生活費としてイメージしている。

 

国立産業技術史博物館の所蔵品だった空気液化装置を思い出す。

一応のモデルは化学遺産021号「国産技術によるアンモニア合成(東工試法)の開発とその企業化に関する資料」の一つ、産業技術総合研究所所蔵のリンデ式空気液化分留器および電気化学工業株式会社(現デンカ株式会社)青海工場(新潟県糸魚川市)にあった空気液化分離装置。

 

電磁波

火花式の送信機で作られる電磁波のアナロジーとしては悪くないだろう。

放電によって作られる電磁波は複数の周波数帯にまたがる一種のパルスなので、まあ拍手の音と似ていなくもない。

 

1887年、ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツが実験を行ったのはあくまで電磁場の理論から導かれる「電磁波」の証明が目的だった。

ヘルツが学生から「この現象は何の役に立つんですか?」と聞かれ、「たぶん役に立たないよ」と答えたというエピソードがあるが出典があいまい。

 

「……そうだね。まあ人に何か言うだけというのは誰でもできるから」

タレスのものとされる「困難なことは自分自身を知ること、容易なことは他人への訓戒」という言葉が由来だが出典があいまい。いやその日本語の専門書を漁るのでも辛いので勘弁して下さい……。

 

「あれ、私は今理解しているのに実行できていない人間扱いされてる?」

人間とはこういうものである。

 

矛盾

もちろん双方の知識を縦横無尽に振るう人もいるが、少なくとも私はダフィット・ヒルベルトの出した23の問題については何を言っているかすらよくわからない。

1900年、ダフィット・ヒルベルトはパリでの第2回国際数学者会議で当時の数学における未解決問題を10個挙げ、1902年に「Mathematical problems(数学的問題)」と題した記事で23個のリストを示した。なお、100年後の2000年にリュディガー・ティーレによって「実はメモには24個目があった」ということが発表され、23の問題のうち未解決であったリーマン予想を含む7つの問題がクレイ数学研究所から「Millennium prize problems(ミレニアム懸賞問題)」として一問題につき100万ドルの懸賞金がつけられることになった。

 

数学オリンピックを見てみろ。あれでも扱う分野に縛りがあるのだ。

国際数学オリンピックの範囲は国際バカロレアの基準による高校2年生程度となっているが、それでも正直ちょっと数学が得意な程度では見ても解法への糸口すら掴めないような問題が出てくる。

 

それがない無差別級数学界でもティーンがarXivに論文を書いていたりする。査読がないから誰でも出せるには出せるけどそういう意味ではない。

arXivは査読のない理学分野論文投稿・共有サイト。数学者のちょっとしたメモ書きから先に挙げたMillennium prize problems(ミレニアム懸賞問題)の一つ、ポアンカレ予想の証明まで色々なものがアップロードされている。

 

空位記号については問題なし、と。

桁表記の時の「0」のこと。数としての0とはまた微妙に扱いが違うので、こういう表現にしている。

 

「ええと、例えば2の平方根が2つの数の比として表せないことを示す際に使われるような、矛盾を示す場合だと思えばいいでしょうか?

エウクレイデスによるΣτοιχεία(原論)に見られる証明は背理法によるもの。なおこの発見がピタゴラス教団に属していたメタポンティオンのヒッパソスによるもので、彼は教団の教理に反していたために処刑されたという話があるが、信憑性はない。まあこの当時の話は与太話も多いので話半分に聞いておこう。物語として面白くとも、史料に裏づけられないならばそれは物語でしかないのだ。というよりここらへんは伝聞に伝聞を重ね、散逸した文書をつなぎ合わせてどうにかしている分野なので個人による解釈が与える影響が大きいのである。

 

小数

「空位記号の数を示す記号を考えるよ。名前は何がいいかな……」

キイはある種天下り的に対数関数を定義しているが、我々の知る数学史では「積を和にする」という発想はまず三角関数を利用することで行われた。例えば $a \times b$ を求めたいとする(ただし事前に桁をずらして $0 < a < 1$ 、$0 < b < 1$ の範囲にしておく)。ここで $a = \cos \alpha$ となるような $\alpha$ ( $\cos$ の逆関数である $\arccos$ を使うのであれば、$\alpha = \arccos a$ )と $b = \cos \beta$ となるような $\beta$ を事前に作っておいた $\cos$ の表から求め、$\alpha + \beta$ と $\alpha - \beta$ を計算し、

 

$$\begin{eqnarray} a \times b &=& \cos \alpha \cdot \cos \beta\\ &=& \frac{\cos (\alpha + \beta) + \cos (\alpha - \beta)}{2} \end{eqnarray}$$

 

の最後の式に代入することで計算することができる。これがギリシャ語のπρόσθεσις()ἀφαίρεσις()を組み合わせてProsthaphaeresisと呼ばれた手法である。ティコ・ブラーエはこの方法で計算を行った。まあ基になる $\cos$ の表について作るのも相当大変だし、和と差の両方を求めねばいけないのであまり効率的ではない。

 

対数関数は多価関数だって?いいんだよまだ虚数の概念は出していないんだ。

対数関数は複素数の範囲に拡張することができる(オイラーの公式として知られる指数関数と三角関数の関係式を知っている人がわかると思う)が、計算の途中で「角度」が出てくるせいで複数の値を持ってしまう(ざっくり言えば、30°と390°と750°は全て同じ角度として扱われるが、この一つ一つが虚数部分の値に対応する)ので、もとの数と一対一で対応せず逆関数を持たないと言われる。もちろん関数の範囲を制限したり、集合論のスケールで捉える場合はその限りではないが。

 

この表記方法はシモン・ステヴィンのアイデアをジョン・ネイピアが改良したものによく似ている。

シモン・ステヴィンのやり方で円周率を表すと、3⓪1①4②1③5④9となる。

 

ええと、座標平面はルネ・デカルトのDiscours de la méthode(方法序説)だから1637年、$\varepsilon \text{-} \delta$ 論法は19世紀半ば、多項式近似はそれなりに古くからあるはずだけど、テイラー展開は1700年ぐらいかな。

テイラー展開の基礎になる関数の冪級数展開は1671年にジェームス・グレゴリーがジョン・コリンズに送った手紙の中で見られる。

 

課題

2代目島津源蔵の発明した易反応性鉛粉製造法だ。

2代目島津源蔵は日本の発明家で、初代島津源蔵の長男。父の創業した島津製作所を継ぎ、様々な分野の発明を行ったがそのうちの一つが鉛蓄電池「GS蓄電器」の開発過程で行った亜酸化鉛製造技術の確立(特許登録は1922年)である。島津製作所の蓄電池工場はその後独立し、合併を経て今日のジーエス・ユアサコーポレーションとなった。なおこのジーエスというのは島津源蔵(Shimazu Genzo)のイニシャル。

 

とはいえこれは効率を求めた方法なので雑で良ければ鉛の板をそのまま電極として硫酸に突っ込んでしまえばいい。

実際、1854年にガストン・プランテが最初期に作った鉛蓄電池は薄い鉛板の間に布やゴムを挟んで円筒状に巻き、それを硫酸に浸したものである。

 

というか実物主義のきらいがある私が、日本で一番この手の史料が揃っていた施設のバックヤードに出入りしても、実際に触れたことのある機械や装置は全体からすれば本当に僅かでしかない。

なお万博記念公園の鉄鋼館に保存されていたこういう膨大な史料の多くは大阪府が一千万円の移転費用を用意できなかったために処分されてしまっている。今日でもこの件について思うところのある関係者は多い。

 

審査会はもうしばらくやらなくていいかな、と思うぐらいには精神的な負荷がまだ抜けきっていないのでこの方面は今のところ進むつもりはない。

博士論文の審査会のこと。分野にもよるが、予備審査があったり、数時間の審査(半分ぐらいが事実上の詰問)が複数回あったり、お世話になったり参考文献に使ったり先行研究として批判したりした人が並ぶ公聴会があったりと、まあとてもつらい。

*1
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第11章
星表


印刷物管理局の業務に、厄介なものがやってきた。

 

「管理局、頒布の制限も一応できなくはないんだがあまりやりたくないんだよな」

 

丁寧に作られた依頼書を閉じて私は言う。内容に少し議論の余地があるものが含まれているので、きちんとした知識を持った人以外には流通させたくないとのことである。その議論の余地のある内容とはなにかは書いていない。一応出版者からのちゃんとした文面であることは確認済み。

 

「どうします?特別扱いはできないと断りますか?」

 

依頼書を持ってきた局員が私に言う。

 

「そもそもこの本を買う人、あまりいないのでは?」

 

タイトルは「星々について」。図書庫の城邦から船で半月ほど行った場所にある大きな天文台での測定データをまとめたものらしい。ケトが言うにはそこには世界最大とも言われる青銅と石灰岩の観測装置があるそうだ。古帝国時代から数百年、信仰を極めたある種の世捨て人たちが夜通しで観測をしているらしい。占星術もあるにはあるがそれ以上に信仰上の理由、具体的には人の小ささを知るためには大いなるものを知るべきだという思想によって彼らは動かされているのだとか。ちなみにこの数百年分の観測データの写しは大図書庫にもある。

 

「……いえ、これは局長なら知っていて問題ない内容なのですが、この報告の内容が信仰の問題を生むのではないかと衙堂の一部が危惧しているようで」

 

「そんなもんかね。別に大地が太陽の周りを廻っていたとて自然の偉大さが消えるわけではなかろうし」

 

一応この世界では天動説も地動説も仮説にすぎない。どっちも観測誤差を超える謎の現象をうまく説明できないから、ということらしい。こういうところに合理性が見えると嬉しくなる。別にカトリックがそこまで地動説を敵視していたわけではないという科学史の知識はあるけどさ。

 

「まあともかく普通の手続きは進めるよ。図書庫にも納めるけど、図書庫のほうで閲覧の制限をかける分には関知しないということで」

 

「まあ、落とし所はそのへんですね。伝えてきます」

 

そう言って立ち上がる局員を見送って、私は簡素な装丁の仮刷りされた巻物を開いた。

 


 

「うーん」

 

私は数字の羅列を見ながらペンを走らせる。これは一種の星表だ。この世界の天文学はというと、思った以上に進んでいる。とはいえ対数はないが。

 

「ええと、1刻は全周の360分の1で、1拍はそのさらに360分の1……」

 

天文学の角度では360進法が使われてる。これは私がいた世界よりも素晴らしい。例えば度-分-秒システムは360-60-60進法である。つまりは一周が360度、60分で1度、60秒で1分。そして地球は時間にして1秒の間に角度にして15秒廻る。ふざけるなよ。一致させろ。それに比べればこちらの方法はいい。まず全周を360分割して単位にするのは理にかなっている。なぜならこの世界でも365日強で一年が廻るので。それに360は約数が多い。少なくとも角度に10進数を使おうとしたグラードより明らかにいい。

 

この世界の角度表記は、天文学における時間の表記と対応している。なので特に断る時は「時間の刻」、「角度の拍」と表現するのだ。時間換算で言うと1刻は4分。この分はSI併用単位における時間の単位。1拍は0.67秒。この秒もSI併用単位における時間の単位。確かに少し動けば脈拍は1分間に90回、つまりは1回につき0.67秒に届くので脈拍に由来するこの単位の名前も適切だ。

 

おっと、本題に戻ろう。この表では主要な明るい恒星同士の位置関係を天球上の角度で示している。一種の三角法だ。ただこれは測量分野で使われていない。たぶん球面三角法に限ってこの分野が進んでいたからだろう。もったいない。まあ非ユークリッド幾何学がないとこの2つを「同じもの」とみなすのは難しいからな。この測定は多くとも誤差100刻程度で行われている。ざっと20分だ。月の直径の3分の1。場合によってはそれ以上の精密さを出している。別にこの数字自体は肉眼観察においてはそう驚くような数字ではない。ティコ・ブラーエの叩き出した肉眼観察での精度はこの20倍である。まあ多くの助手と整備された観測器具、バーニヤ目盛りの先駆けのような特殊な目盛り、あとはスポンサーからの資金が必要であったが。あれ、そう考えるとなかなかのものだな?そもそもティコ・ブラーエは同時代人のデータの中でも群を抜いていいものを出していたのでそれを加味する必要もある。

 

「……目が痛くなりそうですね」

 

気がつくと正面には私の顔を覗き込むケトがいた。

 

「まあね。数字の羅列は面白くはないけど」

 

私が使っているよりは洗練されていないが、独特の略記法が使われている。この解読に時間を取られて本題に入れなかった。

 

「……で、問題はここからか」

 

私は呟く。過去、古帝国がまだあったころの測定情報との比較だ。当時の測定データが色々な幾何学的方法で補正され、そして最終的な結論として、星々の位置関係が変化していることが示唆されている。

 

「というか最終章だけ読めばよかったな……」

 

昔からの悪い癖だ。参考資料にする本があると該当箇所だけではなく頭から読んでしまう。まあ巻物なので開かないと最後まで読めないのだが。

 

「どういう内容でした?」

 

ケトが聞いてきたので、私は結論を示す該当場所を指で指し示した。

 

「……ああ、これは確かに問題ですね。信仰会議が開かれるかもしれません」

 

「なにそれ」

 

「各所の衙堂の代表者が集まって、聖典についての解釈であったり新しい聖典の編纂について議論するんですよ。今、聖典の新しい版が作られようとしているのは知っていますか?」

 

「どこかで聞いたな……」

 

そう言えば活版印刷のために書字生を駆り出した時に聞いた気もする。大量印刷ができるというので取引がされたらしいが、その時の私の立場はここまで高くなかったので詳しい話は聞けなかった。

 

「というより、星々が動くことに問題はあるの?」

 

「人々が世界をどう捉えるかが変わってしまうのが問題なんです。衙堂はそれに対応する必要がありますから」

 

なるほど。宗教組織のくせにどうにも柔軟だな、と思い私は凝った首を回した。



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勾配

お知らせ: 読まれる際には「閲覧設定」内の「挿絵表示」を「有り」にすることをおすすめいたします。


天文分野も気にはなるが、今はひとまず数学をやる。何回か授業をやって、対数関数の逆関数である指数法則については正の実数の範囲まで拡張しておいた。通信機は安定した電源ができたらやろう。これは先延ばしではなく一つの内容に集中することで効率化を目指す手法である。

 

「例えば、$\lg 0.1$というものを考えることができる」

 

不思議がる視線が飛んでくる。うん。

 

「もう一度、$\lg$ の例に戻ろう」

 

$$\begin{eqnarray} \lg 10 &=& 1\\ \lg 100 &=& 2\\ \lg 1000 &=& 3\\ \lg 10000 &=& 4\\ \lg 100000 &=& 5 \end{eqnarray}$$

 

「ある数が10倍になるごとに、対数の値が一つ増えていく。ここから下に考えていけば、10000000の対数を取ると7になる。しかしこれを上に拡張することはできないだろうか?」

 

$$\begin{eqnarray} \lg\, ? &=& 0-1\\ \lg\, ? &=& 0\\ \lg 10 &=& 1\\ \lg 100 &=& 2\\\end{eqnarray}$$

 

「結論から言うと、できる。しかし少し面倒な数が出てくる。$0$というのはそもそも数としては存在しないし、$0-1$ というのは実際に扱うことはできない。ただ、経理の分野で負債がないことや、負債が存在することを示すために使われることがある」

 

「あくまで実用上の数、ですか」

 

若い学徒が言う。

 

「そう。ただ、そう言ってしまえば全ての数はこの世界とは関係がない、ただの空虚な哲学的なものになる。どこで線を引くかは難しいものだ」

 

そう言って、私は局員の方を見る。

 

「では、対数を取って無値となるような数はなんだろうか?*1

 

「10を10で割ればいい。1だ」

 

「その通り。では、その次。無値の1欠けになるようなものは*2

 

「0.1、です」

 

視線を向けたケトはちゃんと答えてくれた。よしよし。ついてはいけているようだ。ちゃんと復習をやっていたのを私は知っている。

 

「いいね」

 

$$\begin{eqnarray} \lg 0.001 &=& 0-3\\ \lg 0.01 &=& 0-2\\ \lg 0.1 &=& 0-1\\ \lg 1 &=& 0\\ \lg 10 &=& 1\\ \lg 100 &=& 2\\ \end{eqnarray}$$

 

「今後、差の記号の前についている空位記号については省略するよ。欠けた値についても考えて、対数ともとの値の関係を図にするとこうなる」

 

 

【挿絵表示】

 

 

納得する生徒たち。よし。まあグラフを見たことがあるならこの読み方はなんとなくは見当がつくだろう。

 

「まあ手描きだから多少歪んでいるのは勘弁してくれ。さて、ここからは少し幾何学的な問題に移る」

 

 

【挿絵表示】

 

 

私は$(1, 0)$で対数曲線と接するような線を引く。

 

「これの勾配を求めたい」

 


 

建設や土木の分野で生まれた概念である勾配は、幾何学に一応取り入れられてはいた。ただ、私がやっていることはいくつかのステップを飛ばしたものだ。例えば今やっていることは明らかに微分である。ルネ・デカルトやピエール・ド・フェルマーが座標平面上における微積分みたいな概念はやっているので、座標平面が生まれればそう特別な概念ではないが。

 

「勾配は横と縦の比であると言える。ここでグラフ上のある点と、$\lg 1 = 0$を表している点とを結ぶことを考えよう」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「こういう感じでいいかな*3

 

「新しく取る点は$\lg 1 = 0$を表している点の右側である必要があるのか?」

 

局員が言う。

 

「ないよ。あくまで仮にそう置いただけ」

 

「わかった。ひとまず説明をお願いしたい」

 

お、疑問を持たれているな。正しい。ここらへんは少しややこしい分野だからね。私だって厳密にやっているか少し怪しいところがある。

 

「で、この傾きは縦の差を横の差で割ればいいのだから」

 

$$\frac{\lg(1 + \delta) - \lg 1}{(1 + \delta) - 1}$$

 

「あとはこれを計算していくよ。対数の差は、対数を取る前の商の対数だということに注意していけば*4

 

$$\begin{eqnarray} \frac{\lg(1 + \delta) - \lg 1}{(1 + \delta) - 1} &=& \frac{\lg(1 + \delta)}{\delta}\\ &=& \frac{1}{\delta} \cdot \lg(1 + \delta)\\ &=& \lg (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} \end{eqnarray}$$

 

「少し休憩を入れようか。その間に、この式の変形を確認しておいて」

 

自然対数の底の定義に近い形が出たのを確認して、私は白墨(チョーク)を置いた。

*1
聖典語、東方通商語ともに「ゼロ」を意味する言葉は存在しない。ここでは「無値」と聖典語の単語を用いて表現している。

*2
「無値の1欠け」とは-1のこと。

*3
ここで聖典語の「差」の頭文字の筆記体を$\delta$として訳している

*4
ここで分数の表記をしているが、実際にはもう少しややこしい表記をしている。それとわざわざこんなことを言わなくても $\lg 1$ は0である。



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収束

二項定理は古くから知られていた。式の展開であったり、組み合わせであったりの分野に頻出だからだ。それは以下のことを主張する。

 

まずある $n$ 個の中から $k$ 個のものを選び出す組み合わせの数を $\require{amsmath}\binom{n}{k}$ と表そう。高校でやる${}_{n} \mathrm{C}_{k}$の別の書き方だと思ってくれればいい。例えば $\binom{5}{2}$ なら5個から2つを選ぶ組み合わせの数なので10となる。

 

このとき、

 

$$\begin{eqnarray} & &(a + b)^n\\ &=& \binom{n}{0} a^n b^0 + \binom{n}{1} a^{n-1} b^1 + \binom{n}{2} a^{n-2} b^2 + \cdots + \binom{n}{n-1} a^{1} b^{n-1} + \binom{n}{n} a^0 b^n \end{eqnarray}$$

 

が成り立つというのが二項定理である。総和の記号 $\Sigma$ を使っていいなら、

 

$$(a + b)^n = \sum_{k=0}^{n} \binom{n}{k} a^{n-k} b^k$$

 

だ。これをシンプルになったと思うかは人それぞれだが、シンプルになったと思うような人間が数学界を支配しているので反論の余地はない。さて、前回出てきた謎の数を思い出そう。$\delta$ を小さい数と置いた時に

 

$$(1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}}$$

 

という数について知りたい。ただ、これでは少し扱いにくいのでちょっとしたトリックを使おう。整数 $n$ があって、$\delta = \frac{1}{n}$ と置くことを考えよう。$\delta$ を小さくするためには、$n$ を大きくしていけばいい。これを用いてさっきの式を書き直すと

 

$$\left(1 + \frac{1}{n} \right)^{n}$$

 

となる。指数部分が整数 $n$ になったので、二項定理が使いやすい。やったぁ。ここで $a = 1$ 、$b = \delta$ に対応するので

 

$$\left(1 + \frac{1}{n} \right)^{n} = \sum_{k=0}^{n} \binom{n}{k} \delta^k$$

 

ここで最初の数項を実際に求めてみると

 

$$\begin{eqnarray}\left(1 + \frac{1}{n} \right)^{n} &=& \binom{n}{0} + \binom{n}{1} \delta + \binom{n}{2} \delta^2 + \binom{n}{3} \delta^3 + \cdots\\ &=& 1 + n \cdot \delta + \frac{n(n-1)}{1 \cdot 2} \cdot \delta^2 + \frac{n(n-1)(n-2)}{1 \cdot 2 \cdot 3} \cdot \delta^3 + \cdots \end{eqnarray}$$

 

となる。ここで雑な近似をしてしまおう。$n$ は大きい数なので、$\delta \cdot (n-1)$ や $\delta \cdot (n-2)$ は $\delta \cdot n = 1$ と同じとみなす。こうすると

 

$$\begin{eqnarray} & & 1 + n \cdot \delta + \frac{n(n-1)}{1 \cdot 2} \cdot \delta^2 + \frac{n(n-1)(n-2)}{1 \cdot 2 \cdot 3} \cdot \delta^3 + \ldots\\ &=& 1 + 1 + \frac{1}{1 \cdot 2} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3} + \ldots \\ &=& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{6} \cdots\end{eqnarray}$$

 

これを $\Sigma$ を使って書いてもいい。階乗って定義したっけ? $n! = 1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot \cdots \cdot (n-1) \cdot n$というやつ。ああ、あと$0! = 1$と特別に定義しておく。これでとてもシンプルになるぞ。

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} &=& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{6} + \cdots\\ &=& \frac{1}{0!} + \frac{1}{1!} + \frac{1}{2!} + \frac{1}{3!} + \cdots\\ &=&\sum_{k=0}^{\infty} \frac{1}{k!} \end{eqnarray}$$

 

ええと極限の定義をしてない?あと無限和についてもいい加減?いいんだよそもそも近似の評価もしていないんだ。イメージでよろしく。

 


 

「実際に最初の8項を計算すると、2.718253ぐらいでしょうか?」

 

「そんなものかな」

 

計算が速い。というか若い学徒はもう筆算術をものにしていた。結構慣れるの難しいんだがな。これだから天才ってやつは嫌いなんだ。凡人が頑張って歩いてきたところまで一足飛びでたどり着いてくる。

 

「ならば、勾配は0.43といったところか」

 

雑に作られた対数表から局員は読み取って言う。ええと、$\ln 10$ の逆数だから $1/2.303$ 、まあそのくらいか。

 

「……大丈夫?」

 

私は突っ伏すケトに声をかける。

 

「……なんとか」

 

ケトに合わせると残りの二人が退屈してしまうし、二人に合わせるとケトが置いていかれてしまう。速度のバランスが難しい。

 

「ええと、怪しいところは二つありますよね。一つ目は数の大きい時の置き換えがきちんと成り立つかどうか」

 

$\delta \cdot (n-k) = 1$ のところを指してケトは言う。

 

「あとは限り無く数を足してどんどん大きくなっていかないか……」

 

近似の評価と有界かどうかか。幸い答えられる範囲だ。というかちゃんとわかっているな。

 

「よし。前者は少し難しいから今度にさせて。後者は今答えられるよ」

 

私は先程の和の式を書き直す。

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} &=& \frac{1}{0!} + \frac{1}{1} + \frac{1}{1 \cdot 2} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot 4} + \cdots \end{eqnarray}$$

 

「こうなるから、これより大きな数字を考えるよ。例えば……」

 

$$\begin{eqnarray} \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot 4} &=& \frac{1}{2} \cdot \frac{1}{3} \cdot \frac{1}{4}\\ &<& \frac{1}{2} \cdot \frac{1}{2} \cdot \frac{1}{2}\\ &=& \frac{1}{2^3} \end{eqnarray}$$

 

「となるよね。あとはこれを他の項に対しても考えていけば……」

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} &=& \frac{1}{0!} + \frac{1}{1} + \frac{1}{1 \cdot 2} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3} + \frac{1}{1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot 4} + \cdots\\ &<& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{2^2} + \frac{1}{2^3} + \cdots \end{eqnarray}$$

 

「はい、半分づつになっていく項の和だ。これは見たことある?」

 

「紙を半分づつ切り取っていくようなものですよね。分数部分の総和は1を超えないはずです」

 

「そう。ということはこの和はたかだか3。あとはこの値がある一定の値に近づいていくことを示すよ。まず、私たちは実際の詳しい値を知るよりもある程度の範囲にあることを知れればいいんだ」

 

ケトは頷く。

 

「求めたい値を挟み込むように考えていけばいい。例えば項を足していくのを途中でやめた時の和を考えれば、求める数はこれより大きいということは求められるよね」

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} (1 + \delta)^{\frac{1}{\delta}} &=& \sum_{k=0}^{\infty} \frac{1}{k!}\\ &=& \frac{1}{0!} + \frac{1}{1!} + \frac{1}{2!} + \frac{1}{3!} + \cdots \\ &=& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{6} + \cdots\\ &>& 1 + 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{6}\\ &>& 2.66 \end{eqnarray}$$

 

「そうですね。でも、ある数より小さいことは言えますか?先程3より小さいことはわかりましたけど」

 

「一応同じように上から押し付けるようなものを考えることはできるけど……」

 

具体的な式はぱっと出せないし、それを評価するにはもう少し微分の概念を構築したい。まあ、ここは雑に誤魔化そう。

 

「例えば、ある数を考えよう。例えば2.8。足していくと、これを超える時があるか、あるいはないかのどちらかなのはいい?」

 

「ええ」

 

「もし超えたら、次は新しい数について考える。たとえば3を超えないことはわかっているから2.9とかね。逆に2.8を超えないなら、もう少し小さい数を考える。さっき計算してくれたおかげで2.718を超えることはわかっているので、2.75を超えるかどうかを考えればいい」

 

「超えるかどうか、実際に計算する必要がありますよね?項を足していっても、相当先である値を超えるとかならすぐにはわからないと思うのですが」

 

「いや、これは実際に超えるかどうかはわからなくていいんだ。大事なのは超えるか、あるいは超えないかのどちらかであるということ。どちらでもない、なんてことは起こらない」

 

「少し待ってくださいね……」

 

ケトは少し考え込む。その間に残りの二人は、と見ると局員の方は今までの流れを整理していて若い学徒の方はこの計算を $(1, 0)$ じゃなくてもっと他の点にも拡張していた。それは微分なんだよ。ちょっと待ってくれ。いや別にいいか。微分で得た関数の微分をやりはじめたら止めよう。

 

「……つまり、どちらであっても値の範囲を絞り込めるので、どこかに値が近づいていくのは間違いないということですか?」

 

「その通り。残りの二人もここは理解できた?」

 

「ええ」

 

「大丈夫です」

 

よかった。残るは評価か。これは少し面倒な匂いがするな。



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評価

「そういうわけで前回やっていなかったことをしよう」

 

近似の計算で、$\delta \cdot (n-1)$ や $\delta \cdot (n-2)$ は $\delta \cdot n = 1$ と同じとみなすことをやっていた。もちろんそういうことをすると「本当にそれはちゃんとしたものなのか?」というネチネチとした話が飛んでくる。まあよく言われる物理学科と数学科の争いの話である。積分と極限を交換する時にどうとかなんとか。なお私は工学畑で育った人間なので「いや適当に実験値プロットして線形近似でええやろ……」となる。係数が汚いとか次元が合わないとかいう議論は流すことにする。

 

「というよりも、まず先にこれに名前をつけよう。毎回毎回一足す微小量の微小量の逆数乗などと言ってられない」

 

「では、どうしますか?」

 

若い学徒が言う。

 

「ちょっと話し合って名前を決めておいて。その間に黒板に式を書いてしまうから」

 

ジョン・ネイピアは存在しないし、自然対数の底と言おうにも自然対数を定義していない。実用的側面から対数を組み立てたので、科学史的な順番とはかなり異なっている。まあ、別に歴史は最適解だったわけではない。例えば高校数学では微分より後に積分をやるが、考え方としては分割して面積を求めるという積分に近い考え方のほうが先に生まれている。まあいい、証明をしてしまおう。

 

極限値が存在することはわかっている。ここでは $e$ とおこう。ちなみに特に由来とか意味はない。いや本当なんですよ。科学史の方面からもよくわからないって言われていたはずです。

 

さて本題に戻ろう。分母にあった $(n-1)$ や $(n-2)$ を $n$ とみなして計算したのだから、本来よりも少し多めに見積もっているわけだ。こうやって見積もられた値を $e'$ としよう。微分じゃないですよ。まったく。記号というのは複数の意味を持つので毎回毎回ちゃんと定義する必要がある。で、$e' - e$ を考えてみよう。まずは $e'$ を $\Sigma$ の形に直しておく。あと無限級数じゃなくて有限のものにしておこう。

 

$$\begin{eqnarray} e' &=& 1 + n \cdot \delta + \frac{n^2}{1 \cdot 2} \cdot \delta^2 + \frac{n^3}{1 \cdot 2 \cdot 3} \cdot \delta^3 + \ldots + \frac{n^n}{1 \cdot 2 \cdot 3 \cdot \cdots \cdot n}\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \frac{n^k}{k!} \delta^k \end{eqnarray}$$

 

で、もとの $e$ の方も

 

$$\begin{eqnarray} \require{amsmath} \binom{n}{k} &=& \frac{n \cdot (n-1) \cdot \cdots \cdot (n-k+1)}{1 \cdot 2 \cdot \cdots \cdot k}\\ &=& \frac{n!}{k!(n-k)!} \end{eqnarray}$$

 

を使って書くと

 

$$\begin{eqnarray} e &=& \sum_{k=0}^{n} \binom{n}{k} \delta^k\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \frac{n!}{k!(n-k)!} \delta^k \end{eqnarray}$$

 

とおける。よし、準備おしまい。計算を始めよう。

 

$$\begin{eqnarray}e' - e &=& \sum_{k=0}^{n} \frac{n^k}{k!} \delta^k - \sum_{k=0}^{n} \frac{n!}{k!(n-k)!} \delta^k\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \left( \frac{n^k}{k!} \delta^k - \frac{n!}{k!(n-k)!} \delta^k \right)\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \left( \frac{n^k}{k!} - \frac{n!}{k!(n-k)!} \right) \delta^k\\&=& \sum_{k=0}^{n} \left(\frac{1}{k!} \left( n^k - \frac{n!}{(n-k)!} \right) \right) \delta^k\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \left(\frac{1}{k!} \left( n^k - n \cdot (n-1) \cdot \cdots \cdot (n-k+1) \right) \right) \delta^k\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \left(\frac{n^k}{k!} \left( \frac{n^k}{n^k} - \frac{n \cdot (n-1) \cdot \cdots \cdot (n-k+1)}{n^k} \right) \right) \delta^k\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \left(\frac{n^k}{k!} \left( 1 - \frac{n \cdot (n-1) \cdot \cdots \cdot (n-k+1)}{n \cdot n \cdot \cdots \cdot n} \right) \right) \delta^k\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \left(\frac{n^k}{k!} \left( 1 - \frac{n}{n} \cdot \frac{(n-1)}{n} \cdot \cdots \cdot \frac{(n-k+1)}{n} \right) \right) \delta^k \\ &=& \sum_{k=0}^{n} \left(\frac{n^k}{k!} \left( 1 - 1 \cdot \left( 1 - \frac{1}{n} \right) \cdot \cdots \cdot \cdot \left( 1 - \frac{k-1}{n} \right) \right) \right) \delta^k\\ &<& \sum_{k=0}^{n} \left(\frac{n^k}{k!} \left( 1 - \left( 1 - \frac{1}{n} \right) \right) \right) \delta^k\\ &=& \sum_{k=0}^{n} \left(\frac{n^k}{k!} \cdot \frac{1}{n} \right) \delta^k\\ &=& \frac{1}{n} \sum_{k=0}^{n} \frac{n^k}{k!} \delta^k \\ &=& \frac{1}{n}\cdot e' \end{eqnarray} $$

 

ここまで書ききって、私は息を吐く。$e'$ はたかだか3だったから、$n$ を大きく取ればこの差はいくらでも小さくできる。具体的にある数 $\varepsilon$ より小さくしたいとしよう。このとき $\varepsilon > 3/n$ になればいいのだから、$n > 3/\varepsilon$ となる。具体的に、 $\varepsilon = 0.03$ とおけば第101項まで計算すれば誤差 $\varepsilon$ で答えとなるわけだ。で、今回は $n$ を無限大に取っているので $e$ と $e'$ は一致する。これでひとまずおしまいだ。

 


 

結局3人の議論は「対数定数」あたりの意味に落ち着いた。まあ、それでいいや。指数の方にも出るが、そこらへんの問題は追い追いでもいいだろう。自然指数ともあまり言わないし。

 

「誤差がある一定の値を下回るように、回数を重ねていけばいいのか」

 

局員が言う。よし。これで $\varepsilon \text{-} N$ 論法はいけそうだな。えっ $\delta$ はどこ行ったって?あれはなんというか、個人的には $\varepsilon \text{-} N$ 論法に比べて直感的ではない気がするのでもう少し先。いや、本当にやる機会が出てくるかな。一応微分を詳しくやると出てくる……はず。

 

「……すみません、時間を掛けてしまって」

 

申し訳無さそうにケトが言う。

 

「いいや?これは別に本題ではないけどね、きちんとした土台がないと理論は崩れてしまうから。それに質問の内容は的確だった」

 

さて、そろそろ高次導関数をやって、テイラー展開に入ろう。いやあ、こうやって考えると数学だけでもやることが多すぎるな。あくまで道具として扱ってもこれだ。数学者というものは恐ろしい。



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道標

「……ええと?」

 

私は教本を見ながら今までやってきたこととこれからやりたいことを辿る。この教本も定期的に増補版というか追加冊子を足している。ケト以外の二人はそちらの解読をやりながら予習をしているようだ。まあ、最終的にケトが理解できるレベルにまで落とし込まないとこれらはただの知識にすぎない。技術屋であればそれでもいい。私だって数学の厳密な議論はできないし、今までの流れも結構いい加減だ。しかし、土台がないと技術というのは成り立たない。

 

理論と応用のどちらが先行するかは、時代や分野によって色々だ。例えば焼入れという現象がある。鋼を急冷すると硬くなる、というものだ。鉄器時代にはこの現象は知られており、道具のために、あるいは武器のために用いられてきた。では、この現象が実際にどのようにして発生しているかはいつわかったのだろうか?高温で起こった相転移が急冷によって保持されることで硬化が起こるとした同素体論者(Allotropist)と、浸炭のように炭素が鉄の結晶内に固溶することで硬くなるのだと主張する炭素論者(Carbonist)の争いが1900年ごろで、その後アルネ・ウェストグレンがXRD(X線回折)を使って鉄の相転移を詳しく調べたのが1921年。こう考えると、現象から理論が生まれるように思える。もちろんマクスウェル方程式から導かれる電磁波の存在がハインリヒ・ヘルツによって示されたように、理論を現象によって証明することもある。

 

実験と観察に基づく科学という手法が確立されることで、知識の蓄積は飛躍した。この世界ではまだそれがない。そしてこの手法は単純な思想的な、あるいは知識的なものではない。正確な測定のためには、精密な装置が必要だ。あるいは特別な素材を使った機構が求められるかもしれない。その加工や精錬には相対的にショートカットしにくい技術の積み重ねが必要だ。まあ、それでも私の知識を引っ張ってくれば数百年分短縮することはできるだろう。この世界の技術水準をもといた世界のそれと単純に比較することはできないけれども。

 

微分という手法は、なにか変化が起こる現象を捉える時に有用な道具だ。そして技術というのは自然の素材を使えるように加工する、つまりは変化させるための方法なので必然的に微分を用いることで色々と表現がやりやすくなる。力の変化に伴う構造の変化、温度の変化に伴う導電率の変化、圧力の変化に伴う体積の変化。世界には変化がいっぱいだ。そしてこれらは大抵時間の変化とともにあらわれる。っと、本題に戻ろう。

 

中間目標は微分という概念の確立。その先にある今のところの暫定目標は常用対数の冪級数による表現。知識としてはある。なんなら、それを示すだけであればそう難しくない。

 

$$\lg \frac{1+x}{1-x} = \dfrac{\displaystyle \sum_{n=1}^{\infty} \dfrac{x^{2n-1}}{2n-1}}{\displaystyle \sum_{n=1}^{\infty} \dfrac{\left( \frac{9}{11} \right)^{2n-1}}{2n-1}}$$

 

私はこれを覚えている。導出もできる。ただ、この式を示しただけではあまり意味がない。対数表を作れても、その先がないのだ。冪級数を複素関数に拡張すればローラン展開ができるし、これを使えば例えば正規分布の相補累積分布関数みたいなものを計算しやすくなる。これの何が嬉しいかって?確率論と統計学を組み合わせて、例えばある一定以上の誤差の製品が生まれる確率を推定できる。製品を規格化したい私にとって、これはとても重要だ。あるいは測定で得られた値の差がただの誤差なのか、あるいは重要な意味があるものなのかを区別できる。これで見込みのない方向ではなく、面白そうな現象のほうに実験を進めることができるというのは投入できる資源に対する成果の最大化という側面からは重要なものだ。

 

まあ別にこれはケトが理解しなくちゃいけない範囲ではない。というよりケトは別に対数ですらちゃんと理解する必要が無いのだがなんでいるのだろう。私の授業はそんなに楽しいのかな。まあともかく、基礎を用意すれば、標準正規分布表を作る道を示せる。今はまだ方向すらはっきりとしていない状態だ。

 

ある関数の高階微分を多項式を高階微分したときの振る舞いと比較することでテイラー展開を導ける。つまりは、あと一息といったところだ。これで数学というかこの世界の算学に最低限の道具を渡せる。ここから様々なものが発展できるが、あまり介入するべきではないだろう。私のやり方は最低限の骨組みで作る塔のようなものだ。裾野が広く、崩れることがないような屍の山ではない。

 

ここらへんは倫理、つまりは私の思想の問題だ。私は、可能性が好きだ。だからこそ、私が手を入れてしまうことであり得た発展を阻害したくはない。ただ、それ以上に私は人の幸福を望む。科学と技術と産業はそれを支えることができると信じている。そのために後世への道標を用意しておくことは私の行動理念に叶う。

 

「……もうこんな時間か」

 

思索にふけっていると時間が溶ける。そろそろ、次の授業の時間だ。



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微分

「前回までで、ある点における傾きを求める方法を手に入れたわけだ。これをもう少し拡張して他の点での傾きを求める方法は……もうやられてたね」

 

頷く3人。まあ、私の説明前に予習しているのはいいことだ。説明が少なくてすむ。

 

点 $(x, \lg x)$ とちょっとずらした点 $(x + \delta, \lg(x + \delta))$ を結んだ直線の傾きを考えればいい。

 

$$\begin{eqnarray}\frac{\lg(x + \delta) - \lg x}{(x + \delta) - x} &=& \frac{\lg \left( \dfrac{x + \delta}{x} \right) }{\delta}\\ &=& \frac{1}{\delta} \lg \left(1 + \dfrac{\delta}{x} \right)\\ &=& \frac{1}{x} \cdot \frac{x}{\delta} \lg \left(1 + \dfrac{\delta}{x} \right)\\ &=& \frac{1}{x} \lg \left( 1 + \frac{\delta}{x} \right)^{\frac{x}{\delta}}\\ &=& \frac{1}{x} \lg \left( 1 + \frac{\delta}{x} \right)^{\dfrac{1}{\frac{\delta}{x}}}\end{eqnarray}$$

 

で、ここで $\dfrac{\delta}{x}$ というのは好きだけ小さくできる数なので、 $\dfrac{1}{x}$ 以降の部分は今までやってきた $e$ と同じとなる。つまり

 

$$\begin{eqnarray} \lim_{\delta \to 0} \frac{\lg(x + \delta) - \lg x}{(x + \delta) - x} = \frac{1}{x} \lg e \end{eqnarray}$$

 

だ。さて、左辺部分のような「グラフ上のある点と、そこから少しだけずらした別の点を考えて、その二つを結ぶ直線の勾配を考えて、さらに2つの点を近づけた時に収束する勾配の値」などと何度も言うのは面倒だ。数式を使っても楽ではない。なので略記記号を作ろう。この略記記号には私のいた世界では色々な流儀があった。アイザック・ニュートンが時間微分を前提として作った記法、あるいはレオンハルト・オイラーやウィリアム・ローワン・ハミルトンにように記号として微分作用素を使うもの。ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツのように分数っぽく書くこともできるし、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュのようにダッシュをつけてもいい。え、あの記号はプライムと読むべきだって?うるせえ二つ並んだプライムをセコンドと言わずにダプルプライムと言っているやつらに言われたくはないよ。

 

少し議論した結果、勾配らしく「⊿」のような右下が直角の直角二等辺三角形で表すことになった。まあ、類似の記号は使われていないらしいからいいか。*1

 

「はいでは次の目標。この対数を具体的な値として知りたいので、変数に対して明示的な形に変える」

 

よくわからないよね。はい。というか他にいい言い方がないんだよ。

 

例えば $x$ がわかっているとき、$x^2$ は簡単に計算できる。$x^5$ もそうだ。

 

つまりですよ。もし

 

$$\begin{eqnarray} \lg x &=& a_0 + a_1 x^1 + a_2 x^2 + \cdots + a_n x^n \\ &=& \sum_{k=0}^{n} a_k x^k \end{eqnarray}$$

 

と書くことができれば嬉しいですよね。

 

「それができないのは図を見れば明らかだろう?」

 

局員が言う。

 

「その通り。例えばこのような多項式で表せるようなグラフで $x = 0$ のことを考えれば $a_0$ を非常に小さい負の値にする必要があるし、負の値を代入してもきちんとした値が出るので、指数関数の特徴をうまく表せていない。では少しだけ、式の形を変えよう」

 

$$ \lg (x+1) = a_0 + a_1 x^1 + a_2 x^2 + \cdots + a_n x^n $$

 

「こう変えたら?そして、あくまでグラフ全体ではなく $(1,0)$ 近傍でだけの値を知りたいとしたら?」

 

「……少しは、可能性が出てきたように思います」

 

ケトが言う。

 

「しかし、どうやって係数を決定するのですか?」

 

「まあ、そこは色々あってね」

 

私は黒板に向かう。

 


 

式の左右が同じようなグラフを $(1,0)$ 近傍で示すのであれば、$(1,0)$ での近傍、つまりは微分した時の $x = 1$ における値は同じになるわけだ。左辺は $\lg e$であることはわかっている。では右辺はどうなるだろうか?これを示すために、準備として2つのことを考える。

 

1. $f(x) + g(x)$ を微分するとどうなるか?

 

2. $x^n$ を微分するとどうなるか?

 

あ、一応 $f(x)$ とか $g(x)$ は $x$ の関数で、$n$ は正の整数であるとする。あと微分は $x$ に対して行っている。まずは1。これは普通に定義の式に代入していくだけだ。

 

$$\begin{eqnarray}( f(x)+g(x) )' &=& \lim_{\delta \to 0} \frac{( f(x + \delta)+g(x + \delta) ) - ( f(x)+g(x) )}{(x + \delta) - x}\\ &=& \lim_{\delta \to 0} \frac{ f(x + \delta) + g(x + \delta) - f(x) - g(x)}{(x + \delta) - x}\\ &=& \lim_{\delta \to 0} \frac{ f(x + \delta) - f(x) + g(x + \delta) - g(x)}{(x + \delta) - x}\\ &=& \lim_{\delta \to 0} \frac{ f(x + \delta) - f(x)}{(x + \delta) - x} + \frac{g(x + \delta) - g(x)}{(x + \delta) - x}\\ &=& (f(x))' + (g(x))'\end{eqnarray}$$

 

はい。これで微分操作が線形性を持つことが示せた。次……は二項定理を使わなくちゃいけないので、今度にしよう。

*1
なお、これ以降の本文での表記は特に断り無く都合に応じて各種の数学的記法を使い分けていく。できるだけ一般的な記法を用いるよう心がけるが、ご容赦願いたい。



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誤差

「それじゃあ、本題に関係のないところは終わらせてしまおうか」

 

とはいえあまり雑な証明もできない。それが実際に使えると知っているのは私だけなのだ。もしそこに私が忘れているミスがあって、それを土台に数学の一分野が作られてしまったら?責任は重い。まあ実際はそう気負う必要もないのだろうが、実例を知ってしまっているとどうしてもね。

 

一応ここからの話は私もちゃんと理解していないものということであしからず。ウェダーバーンの小定理というものがある。有限の域は全て可換であるというものだ。何を言っているかわからないと思うが、私も正直わからない。ええと、0が入っていない有限個の数だけでできた数学の世界においては、掛け算の左右を入れ替えても答えは一緒だというものだ。当然だろうって?いや、掛け算っぽい性質を示すものの中でも左右を入れ替えられないものは色々あるのだ。ベクトルの外積、行列の積、あとは四元数というものもある。しかし有限の域という対象に絞れば、そこでは掛け算の左右が交換可能、つまりは可換なのだ。で、かつて非可換な積を持つような有限の域についての研究が行われていた時期があるのだ。そこでの努力はある意味では無駄になったわけである。まあここらへんの議論の親戚の子孫がフェルマーの最終定理の解決に一枚噛んでいるのでなかなか面白いらしいが、私は数学科の学部レベルすら怪しいので逃げさせてもらおう。

 

さて、本題。$x^n$ を微分しよう。まずは微分の定義の式に入れる。

 

$$\begin{eqnarray}(x^n)' &=& \lim_{\delta \to 0} \frac{(x + \delta)^n - x^n}{(x + \delta) - x}\\ &=& \lim_{\delta \to 0} \frac{1}{\delta} \cdot ((x + \delta)^n - x^n) \end{eqnarray}$$

 

さて、ここで二項定理を使おう。

 

$$\require{amsmath} \begin{eqnarray} &&\left(x +\delta \right)^{n} \\ &=& \binom{n}{0} x^n + \binom{n}{1} x^{n-1} \delta + \binom{n}{2} x^{n-2} \delta^2 + \binom{n}{3} x^{n-3} \delta^3 + \cdots + \binom{n}{n} \delta^n \\ &=& x^n + n x^{n-1} \delta + \binom{n}{2} x^{n-2} \delta^2 + \binom{n}{3} x^{n-3} \delta^3 + \cdots + \binom{n}{n} \delta^n \end{eqnarray}$$

 

だから、

 

$$\begin{eqnarray} &&\lim_{\delta \to 0} \frac{1}{\delta} \cdot ((x + \delta)^n - x^n) \\ &=& \lim_{\delta \to 0} \frac{1}{\delta} \cdot \left( n x^{n-1} \delta + \binom{n}{2} x^{n-2} \delta^2 + \binom{n}{3} x^{n-3} \delta^3 + \cdots + \binom{n}{n} \delta^n \right)\\ &=& \lim_{\delta \to 0} \left( n x^{n-1} + \binom{n}{2} x^{n-2} \delta + \binom{n}{3} x^{n-3} \delta^2 + \cdots + \binom{n}{n} \delta^{n-1} \right)\\&=& n x^{n-1} + \lim_{\delta \to 0} \left( \binom{n}{2} x^{n-2} \delta + \binom{n}{3} x^{n-3} \delta^2 + \cdots + \binom{n}{n} \delta^{n-1} \right)\\ &=& n x^{n-1} + \lim_{\delta \to 0} \delta \left( \binom{n}{2} x^{n-2} + \binom{n}{3} x^{n-3} \delta + \cdots + \binom{n}{n} \delta^{n-2} \right) \\ &=& n x^{n-1} + \lim_{\delta \to 0} \delta \sum^{n}_{k=2} \binom{n}{k} x^{n-k} \delta^{k-2} \end{eqnarray}$$

 

となる。さて、ここで無茶苦茶なことをしよう。$\delta^{k-2}$ は、1よりも小さいとする。つまりはまず、$\delta$ の上限を1とおくのだ。これで

 

\begin{eqnarray} && \lim_{\delta \to 0} \delta \sum^{n}_{k=2} \binom{n}{k} x^{n-k} \delta^{k-2}\\ &<& \lim_{\delta \to 0} \delta \sum^{n}_{k=2} \binom{n}{k} x^{n-k}\\ \end{eqnarray}

 

となる。これで、$\Sigma$ の中から $\delta$ を消すことができたわけだ。これで、$\Sigma$ の中は計算できる値になる。それが100なのか、10000なのか、あるいは1億とか指数表記するしかない数だとしても、そこには実体があるのだ。「無限に小さい $\delta$ 」という妙にとらえどころのないものはここには出てこない。

 

さて、ここの部分はとても小さくなりそうだ。つまりはこれが誤差になる。誤差をこれ以下にしたいという数 $\varepsilon$ を用意しよう。これは0.001とか、まあともかく好きなだけ0に近い、小さい数を入れていい。つまりはさっきの式が $\varepsilon$ より小さくできることを示せればいいわけだ。言い換えれば

 

$$\varepsilon > \delta \sum^{n}_{k=2} \binom{n}{k} x^{n-k}$$

 

となるような $ \delta $ があればいいわけだ。まあ、単純な不等式の計算である。あーこれ正負も考えなくちゃいけないのか。面倒なのでどこかのタイミングで絶対値を取っていたことにしてほしい。あとはこの不等式を $ \delta $ について解けばいい。

 

$$\delta < \frac{\varepsilon}{\displaystyle \sum^{n}_{k=2} \binom{n}{k} x^{n-k}}$$

 

となる。$\varepsilon$ は小さい数だし、分母は大きくなりそうな気配がする。それでも、右辺はある一定の値にはなるのだ。例えば $\delta$ をその半分とでもおけば、どんなに誤差の許容量が少なくとも我々はその誤差を満たすような $\delta$ を与えることができる。

 

これが $\varepsilon \text{-} \delta$ 論法だ。世の理系大学生が必修の微積分学入門とか解析学概論とかで意味がわからなくなるというあれだ。一部のマニアックな数学屋は、これで示さなければ厳密な証明にはならないと主張している。まあ私はそういう話を聞くたびに半ば鼻で笑うのだが。カール・テオドル・ヴィルヘルム・ワイエルシュトラスがこの手法を完成させた頃にはもうプラニメータは使われていたのだ。厳密さは実用には勝てないというのが私の意見。え、足元を固めるのが大事だって?時には意欲的な飛躍も大事なんだよ。言ってることが支離滅裂だな。

 

……まあ、大切なのはバランスである。理論も実用も、ある程度は独立していてある程度は相互に関係しているのだ。だから私がこの世界での科学や技術の発展を助けたいのであれば、応用することによって様々な分野に繋がっていくが最初はある程度独立して進めることのできる分野を選ぶべきだ、ということになる。そんな都合のいいものがそうあるかって?例えば今やった数学の、特に微積分はそうだ。これを応用して初めて、私がいた世界では世界を数式で表すことができたのだ。直接私の手でそこまで進めるつもりはない。けれども、たぶんしばらくすればそういうアプローチをする人は出てくるだろう。

 

$$(x^n)' = n x^{n-1}$$

 

「ま、終わってしまえば簡単だね」

 

私はそう言いながら、気持ち強めに黒板を白墨(チョーク)でこつこつとやった。



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冪級数

「ここからが本質。微分した値の微分というものを考えていこう」

 

私は黒板に書いていく。ちょっとした微分の性質と指数が負の場合の微分については自習ということにしておいたがきちんとできていた。よろしい。負の数の扱いにも慣れてきたらしい。あくまで数学的な処理であって、現実と結び付けられるかどうかは別の問題だと割り切ってしまったのがよかったらしい。まあ、そうでもしないとあれは扱いにくいしな。私だって複素数を数として認識しているかは怪しい。一応電磁気を齧った時にフェーザ表示とかやったけれどもさ。

 

$$\begin{alignat}{2}(\lg (x+1))' &= &\frac{1}{x+1} \lg e\\ (\lg(x+1))'' &= -&\frac{1}{(x+1)^2} \lg e\\ (\lg (x+1))''' &= &\frac{2}{(x+1)^3} \lg e\\ (\lg (x+1))'''' &= -&\frac{6}{(x+1)^4} \lg e\\ (\lg (x+1))''''' &= &\frac{24}{(x+1)^5} \lg e\\ \end{alignat}$$

 

「分子の1、1、2、6、24という数字の並びはもう散々見たよね。次は120が来そうだ。一般化しよう」

 

$$(\lg (x+1))^{(n)} = (-1)^{n+1} \frac{(n-1)!}{(x+1)^n} \lg e$$

 

「 $n$ が1の時、これは勾配を表している。$n$ が2の時は、勾配がその後どう変化するかを表している。$n$ が3なら、その後の傾きが更にどう変わるか……。まあ、そういう形で $x$ 付近で曲線がどう変化するかを表現しているんだよ」

 

私はもう一つ、式を書く。

 

$$f(x) = a_0 + a_1 x^1 + a_2 x^2 + a_3 x^3 + a_4 x^4 + a_5 x^5 + a_6 x^6 + \cdots + a_n x^n$$

 

「これをさっきみたいに微分していく」

 

$$\begin{eqnarray} f'(x) &=& a_1 + 2 \cdot a_2 x^1 + 3 \cdot a_3 x^2 + 4 \cdot a_4 x^3 + 5 \cdot a_5 x^4 + \cdots + n \cdot a_n x^n\\ f''(x) &=& 2 \cdot a_2 + 6 \cdot a_3 x^1 + 12 \cdot a_4 x^2 + 20 \cdot a_5 x^3 + \cdots + n(n-1) \cdot a_n x^{n-1}\\ f'''(x) &=& 6 \cdot a_3 + 24 \cdot a_4 x^1 + 60 \cdot a_5 x^2 + \cdots + n(n-1)(n-2) \cdot a_n x^{n-2}\\ f''''(x) &=& 24 \cdot a_4 + 120 \cdot a_5 x^1 + \cdots + n(n-1)(n-2)(n-3) \cdot a_n x^{n-3}\\ f'''''(x) &=& 120 \cdot a_5 + \cdots + n(n-1)(n-2)(n-3)(n-4) \cdot a_n x^{n-4} \end{eqnarray}$$

 

「今回、$x$ に近い値を考えたいから $x = 0$ を入れるよ。まあこの操作が無茶苦茶なことはわかっているけど、一旦置いといて……」

 

$$f^{(n)}(x) = n! \cdot a_n$$

 

「これと、$\lg$ の式に $x = 0$ を代入したものを比較するよ」

 

$$\begin{eqnarray} (\lg (x+1))^{(n)} &=& (-1)^{n+1} (n-1)! \cdot \lg e \\ f^{(n)}(x) &=& n! \cdot a_n \end{eqnarray}$$

 

「この二つが同じだとすれば」

 

$$(-1)^{n+1} (n-1)! \cdot \lg e = n! \cdot a_n$$

 

「になるから」

 

$$\begin{eqnarray} a_n &=& (-1)^{n+1} \frac{(n-1)!}{n!} \cdot \lg e\\ &=& (-1)^{n+1} \frac{1}{n} \cdot \lg e \end{eqnarray}$$

 

「となるので、これを多項式のところに戻す。あとは誤差をなくすために無限に足していけばいいと考えると……」

 

$$\begin{eqnarray} \lg (x+1) &=& \sum_{n=0}^{\infty} (-1)^{n+1} \frac{1}{n} \cdot \lg e \cdot x^n\\ &=& \lg e \cdot \sum_{n=0}^{\infty} (-1)^{n+1} \frac{1}{n} \cdot x^n\\ &=& \lg e \cdot \left( \frac{1}{1}x - \frac{1}{2}x^2 + \frac{1}{3}x^3 - \frac{1}{4}x^4 + \frac{1}{5}x^5 - \cdots \right) \end{eqnarray}$$

 

「はい。これで欲しかった式ができた。例えば $\lg 2$ を知りたい時は $x$ に1を代入すればいい」

 

私でも自分でも驚くぐらい自慢気に言った。

 

「本当か?この式はちゃんと一定の値に近づくと示す必要があるのでは?」

 

これは局員。

 

「そもそもこれ計算しても値に近づきにくいと思うのですが」

 

これは若い学徒。

 

「そもそも $\lg e$ って求めてませんよね?」

 

これはケト。

 

私は笑顔を貼り付けたまま、黒板の式を消した。前の二人にちゃんと答えるのは難しい。というか収束半径というものがあって、今回の場合 $x$ が1を超えると計算ができなくなる。そのせいで $x$ に $e - 1$ を代入することもできない。それに確かにこの式は収束が遅い。

 

「これだと少し使いにくいので、こういう式も考える。$x$ があったところに $-x$ を入れたものだ」

 

$$\begin{eqnarray} \lg (-x+1) &=& \sum_{n=0}^{\infty} (-1)^{n+1} \frac{1}{n} \lg e \cdot (-x)^n\\ &=& \lg e \cdot \left( - \frac{1}{1}x - \frac{1}{2}x^2 - \frac{1}{3}x^3 - \frac{1}{4}x^4 - \frac{1}{5}x^5 - \cdots \right) \end{eqnarray}$$

 

「符号が全部マイナスになるよね。あとはもとのやつからこれを引くと……」

 

\begin{alignat}{2} &\lg (x+1) - \lg (-x+1) \\ =& \lg e \cdot \left( \frac{1}{1}x - \frac{1}{2}x^2 + \frac{1}{3}x^3 - \frac{1}{4}x^4 + \frac{1}{5}x^5 - \cdots \right)\\ & {}- \lg e \cdot \left( - \frac{1}{1}x - \frac{1}{2}x^2 - \frac{1}{3}x^3 - \frac{1}{4}x^4 - \frac{1}{5}x^5 - \cdots \right) \\ =& \lg e \cdot \left( \frac{1}{1}x - \frac{1}{2}x^2 + \frac{1}{3}x^3 - \frac{1}{4}x^4 + \frac{1}{5}x^5 - \cdots \right)\\ &{}+ \lg e \cdot \left( \frac{1}{1}x + \frac{1}{2}x^2 + \frac{1}{3}x^3 + \frac{1}{4}x^4 + \frac{1}{5}x^5 - \cdots \right)\\ =& \lg e \cdot \left( \frac{2}{1}x + \frac{2}{3}x^3 + \frac{2}{5}x^5 + \cdots \right)\\ =& 2 \lg e \cdot \left( \frac{1}{1}x + \frac{1}{3}x^3 + \frac{1}{5}x^5 + \cdots \right)\\ =& 2 \lg e \cdot \sum_{n=1}^{\infty} \frac{x^{2n-1}}{2n-1} \end{alignat}

 

「で、対数の差は元の数の商になるので」

 

$$\lg \frac{1+x}{1-x} = 2 \lg e \cdot \sum_{n=1}^{\infty} \frac{x^{2n-1}}{2n-1}$$

 

「これなら $x$ の範囲は狭くとも、 $\lg$ の中はかなりの範囲で取れるはず。それと足していくだけだから多少は計算が楽になるはず」

 

「結局僕の質問には答えていませんよね?」

 

「それは次回……」

 

私は逃げるように呟いた。



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無限和

私が床から拾い上げた生産量が増えたとは言え決して安くはない紙には、ぎっしりと小さい文字が書き込まれていた。机からはみ出して落ちたのだろう。目を上げると紙に埋もれながら一心不乱に計算する3人がいた。

 

「必要な反復回数が多すぎますよね、なかなか落ち着きません」

 

グラフを見ながら呟くケト。

 

「0.434に近い値だとはわかったけど、これ以上計算したくはない」

 

諦めたような声を出す若い学徒。

 

「……どうしても、桁が足りないか」

 

計算を確認しながら言う局員。

 

「見せてもらえる?」

 

私がそう言うと三人揃って驚いているようだ。集中のし過ぎだ。ま、私もたまにこういう状態になるからな。とはいえ彼らもかなり独自に色々試しているようだ。

 

$\lg e$を導き出す方法自体はすぐに見つけ出せていたようだ。前に出した式はこう。

 

$$\lg \frac{1+x}{1-x} = 2 \lg e \cdot \sum_{n=1}^{\infty} \frac{x^{2n-1}}{2n-1}$$

 

これに $ x = 9/11$ を代入すると

 

$$\lg \dfrac{1+\frac{9}{11}}{1-\frac{9}{11}} = 2 \lg e \cdot \sum_{n=1}^{\infty} \dfrac{\left( \frac{9}{11}^{2n-1} \right)}{2n-1}$$

 

となる。左辺の $\lg$ の中は計算すれば10になるので、左辺は1だ。つまり

 

$$2 \lg e = \left( \displaystyle \sum_{n=1}^{\infty} \dfrac{\left( \frac{9}{11} \right)^{2n-1}}{2n-1} \right)^{-1}$$

 

が成り立つ。ではこの計算していく項の数を大きくしていけばいいか、というとそうでもない。$x$ が1に近いせいで収束が遅いのだ。

 

若い学徒が編み出した方法は別のものだ。$\lg e$ の部分がわからないのであれば、それ以外の場所を求めてしまえばいい。例えば $\lg 10^{(1/1024)}$ は$1/1024$ になる。$\lg$ の中の値は10のルートを10回取れば得られるので、頑張って開平法で計算すればいい。見たところ誤差の推定が怪しいので多め多めに桁を出したらしい、と。なるほど。それで求めた値が0.434か。たしかそんなものだったかな。

 

「この手法は面白いね」

 

「けれども手間がかかる」

 

不満そうに言う若い学徒。

 

「まあ私のこれがいい方法かは知らないけど、一応の手がかりになってくれればいいな」

 

そう言って、私は適当な紙を取った。

 


 

$A = \dfrac{1+a}{1-a}$ 、$B = \dfrac{1+b}{1-b}$ とする。このとき、例えば $A$ と $a$ で常用対数を求める式を考えれば

 

$$\lg A = 2 \lg e \cdot \sum_{n=1}^{\infty} \frac{a^{2n-1}}{2n-1}$$

 

となる。ここで $\lg AB$ を考えよう。これは $\lg A + \lg B$ だから

 

$$\begin{eqnarray} \lg AB &=& \left( 2 \lg e \cdot \sum_{n=1}^{\infty} \frac{a^{2n-1}}{2n-1} \right) + \left( 2 \lg e \cdot \sum_{n=1}^{\infty} \frac{b^{2n-1}}{2n-1} \right)\\ &=& 2 \lg e \left( \sum_{n=1}^{\infty} \frac{a^{2n-1}}{2n-1} + \sum_{n=1}^{\infty} \frac{b^{2n-1}}{2n-1} \right) \end{eqnarray}$$

 

となる。これを変形すれば、$\lg e =$ の式にすることはそう難しくない。

 

ではこれの何がいいかを説明しよう。$A$ や $B$ が大きくなると、$a$ や $b$ も1に近づいていく。そうすると計算が面倒になる。例えば $A$ が10なら $a$ は $9/11$、 $A$ が5なら $a$ は$2/3$ 、$A$ が2なら $a$ は $1/3$ だ。そして $a$ が小さくなるほど、$\Sigma$ の後ろの方の項が急速に小さくなる。

 

$10 = \frac{5}{4} \cdot 2^3$のように分解すれば、個別の数字は比較的小さくできる。計算量は増えるけれども、収束は速くなるのでたぶんこっちのほうが効率的、だと思う。

 

「まあ、こういうものでよければ」

 

私が説明を終えても、彼はまだ不満そうだった。

 

「……何か違和感があるんですよ。$\lg e$ の形と $e$ の展開の式が似てますよね。そこからうまく似たようなことを示そうとしたんですが、これが行けるなら……」

 

若い学徒は何かに気がついたように硝子筆(ガラスペン)を走らせる。

 

「……そうか、 $e^x$ に対応するのが $\lg$ の定数倍……いや、係数がいらないのかな?だったら、これは10に対してのものではない、 $e$ に対する対数みたいなものが定義されるんじゃないか」

 

計算が進むのと、私が数学の知識を総動員して何をやっているのかを追うのはほぼ同時だった。やっていることはそう難しいことではない。結論を知っていたから、私はなんとか追いつけた。これは自然対数と、自然指数の発見だ。私の知っている数学史が逆転している。ああ、やっぱりこういうのを見るのは楽しいな。前にトゥー嬢が酸素を発見した時以来だ。

 

若い学徒が式を書き終え、一息ついたタイミングで私は指を鳴らす。

 

「少し落ち着いたら、私を含めた3人に説明できる?」

 

時間をおいて、ゆっくりと彼は頷いた。



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計算尺

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「で、あの二人はどうしてるの?」

 

最後の授業から四半月ほど経って、その間にじりじりと溜まっていた業務をまとめてこなしながら隣のケトに聞く。彼のほうは手際よくちゃんと終わらせていたようで。えらい。

 

「対数の表を作っているようですよ」

 

「大変だね。完成したら印刷代とか出したほうがいいかな」

 

「いえ、あの長髪の商者がそこらへんは全部やってくれているそうです」

 

「人の役割を奪うなよ……」

 

私の知っている科学史では、技術で社会を変えようとした人間は否応なく政治的あれこれやら面倒な色々をやることになっていたのだが。いや、確かに今の私の仕事は決して楽なわけではないけれども。

 

「追加の人も集めて、今は確か3桁の対数表を完成させようとしているそうですね」

 

「1000個の値を求めるとなると、まあ一月あれば行けるかな?」

 

「もっと短くなると思いますよ。暇な学徒を銀片で使っているらしいので」

 

「怖いな……」

 

まあ計算が楽になるのはいいことだ。

 

「となると、アレも作れるか」

 

「それは何ですか?」

 

「うーん、ちょっと待ってね」

 

私は紙を二枚用意し、適当に目見当で線を引いていく。

 

「こんな感じで目盛りを刻んだ何かを二つ用意する」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……間隔がバラバラですね」

 

「対数の目盛りになっているんだ。で、これを例えばこうくっつけるとする」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「上の3、6、9と下の1、2、3が対応しているのは?」

 

「わかります」

 

「これは比が等しい」

 

「……なるほど。普通の等間隔の目盛りであれば、ここは差が等しいとなるところですよね」

 

「対数の差は元の数の商……つまりは比になるというのをつかっているわけ」

 

「今までやってきたものがこうなるんですか」

 

「面白いよね。これで積や商の計算ができる」

 

「例えば1と3の比と、2と6の比が等しいので2と3の積は6で、6と3の商は2みたいな形で、ですか」

 

「その通り」

 

私が雑に作ったものだが、ケトは少し弄って使い方を理解したようだった。

 

「5を2で割る事はできますか?」

 

「2と3の間にあるということはわかるよ。それにもっと目盛りを細かくしていけばいい」

 

「そんな便利なものがあるなら、対数表を作る意味はあるんですか?」

 

ケトの言葉に、私は思わず笑ってしまう。

 

「……どうしたんですか?」

 

「いや、確かにそう思っても仕方ないなと」

 

ケトは不思議そうというか不満そうだ。

 

「正確に目盛りを作るためには、どれだけの長さか必要かをちゃんと事前に求めておく必要があるから」

 

「けれども、そこまで正確にできますか?最終的には人の手に頼ることになるでしょう。ちゃんとした表がなくとも、それくらいであればできるのではないでしょうか」

 

「……そうだ。確かに、一つ二つ作るのであればそれでいい。表は助けになるけれども、必須ではない」

 

ああまったく、これは私が悪いな。笑うべきではない。そういう行動は純粋に他人に不満を抱かせるだけだ。意味がない。コミュニケーションのコストはきちんと払うべきだ。

 

「そう、ですよね」

 

「酷い対応をして悪かった。けれども、これをもっと多く作るとすれば?あるいはこの目盛りを刻むもの自体を巨大にしてより精密にやりたいとしたら?」

 

「表は必要になる、と。納得しました」

 

「その通り。そして次の課題は加工精度だ」

 

「どのくらいが必要なんですか?」

 

「細い毛ってわかる?目には見えないけれども、触るとわかるぐらいの」

 

「……ええ」

 

「その太さぐらい」

 

具体的には10マイクロメートル。人間には見分けがつかないほどだ。

 

「そもそも見えないのにどうやって計測を?」

 

「まず見えないというのは間違っているよ。あくまで人の目には小さすぎるだけ。拡大する方法はもう手に入れている」

 

「顕微鏡……。あれおもちゃじゃなかったんですか」

 

「ちゃんと有用だよ?」

 

まあ、確かに今まであまり実用的には使っていなかったけれども。そういや商会はあれの複製を成功させたのだろうか。今度聞いておこう。弁柄のレシピは渡しておいたが。

 

「それと、たとえ区別できたとしてもその通りに加工できるわけではないですよね?」

 

「小さな調整を重ねていけばいい。差を見分けられないほどに加工できれば、それは問題がないということになるんだ」

 

「もし問題が起こるようであれば、それを新しい差の確認方法にしてもいいですよね」

 

「その通り」

 

精密加工、というより精密測定のための技術は一応私の父の専門であった。その蔵書を読み漁って、現場の職人から可愛がられていた時期があるのでここらへんは比較的専門に近い分野だ。一応修士や博士でそこらへんの歴史も触って色々発表もしたしね。

 

「それで、必要なものは何ですか?」

 

螺子(ねじ)……といってわかる?」

 

「螺旋状の溝を彫った棒、ですよね。印刷機とかに使われている」

 

「そうそれ。あれは回転を直線の運動に変換するよね」

 

「ええ」

 

「あれを使えば、運動の大きさを変えられる。大きな動きを小さな動きに変換できるし、小さな差を大きな差として拡大することもできる」

 

「……確かにそうです。となると、螺子(ねじ)を一つ精巧に作れば、そこから精密なものを作ることができるわけですね」

 

「あくまで理論上は、ね。実際はそう優しくはないけれども」

 

この世界では材料の選定から始めなければならないのだ。良質の鋼があるといいのだけれども。



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舞台裏

「何やってるんですか」

 

「ひいぃ!」

 

いきなり後ろから声をかけられて、思わず大きな声を出してしまった。

 

「静かにして下さい。今は夜中ですよ」

 

ばくばくとする心臓を落ち着けながら後ろを振り向くと、竈の揺れる火で照らされるケトが見えた。視線に胸が痛む。いやこの胸の痛みは感情的なものではなくアドレナリンの過剰分泌によるものかもしれない。まあそれはどうでもいい。

 

「……何かと思えば」

 

私の手元にあった少し端の焦げた紙の束を取って、ケトは言う。

 

「隠しているつもりだったんですか?」

 

並ぶのは、私の世界で使っていた数式たち。授業のためにいろいろと準備していた計算だ。

 

「……怒っている?」

 

恐る恐る、私は声を出す。

 

「そうですね。確かにキイさんがここしばらく夜に起きてなにか作業をしていたこととか、燈油をこっそり買っていたこととか、それに印刷物管理局から紙をまとめて持って帰ってきていたということは知っていましたが、どうして黙っていたのかぐらいは聞きたいです」

 

「……あまり、私がもといた場所の情報を残したくなくて」

 

もちろん良識のある歴史家なら、そんな空想に逃げることはないとは知っている。信じられないようなアイデアを生み出した人がいても、その背後や思想的な連環を辿ろうとするのだ。

 

「どうしてですか?」

 

「どうしてって……、誰も信じないだろうし」

 

「誰も信じないなら、好きに言えばいいじゃないですか。僕は信じますよ」

 

「頭がおかしいって思われたら」

 

「今更ですか?」

 

「そうか……」

 

「そもそも、この地域の一番叡智が集まった場所でさえ誰も知らないようなことを、懐から銅葉でも出すかのように見せてくるのは異常ですよ」

 

「……わかっているよ」

 

「なら、どうして隠すんですか。もし、キイさんがいた場所がキイさんにとって思い出したくないような場所だったというのであればわかります。けれども、そうじゃないでしょう?」

 

「知ってるの?」

 

「きちんとは知りませんが、そこはきっとキイさんが知りたいような不思議と特別なことで溢れていたんでしょう?僕にとって、ここがそうであるように」

 

「……うん」

 

「そこにあったものは、決してキイさんの生み出したものと同一視できるものではないことぐらい誰だってわかってますよ。まさか周りの人が、取り出されたものが全てあなたが何もない所から作ったものだと思っているんですか?」

 

「……本当?なら、どうして私にこんなに」

 

「職人としての腕。人を引き付ける魅力。話し合いを通して、新しい考え方を伝えられること。あとは綺麗で、惹かれるような人物ですから」

 

すらすらと言うケト。まあ、確かにこれらは私のものと言えば私のものだ。

 

「その裏に、ここにはない知識をあらかじめ知っていたというのがあったとしても?」

 

「それがどうしたと言うんですか。読める人の少ない古い本を読んでその知恵を手にしたら、その知恵は本を読んだ人のものになるんですよ?」

 

「……そうかも、しれないけどさ」

 

異世界から来たと公言すれば、まあ少しは騒ぎになるかもしれないが、多くの人はケトと同じ扱いをするだろう。精神がどこか危ない研究者や発明家はざらにいるのだ。

 

「ああ、僕との誓いでも気にしているんですか?」

 

「……そう言えば、あったね」

 

私がこの世界に来て最初の頃。もう二年も前。あの時の血の味を思い出す。

 

「あれは僕を縛るものです。確かに僕はあなたの秘密を守ると誓いました。それでも、何を秘密とするかは言っていないんですよ」

 

「そりゃまあ、私が告白をしたのはその後だったから……」

 

「ええ。秘密でなくなったことは、別に僕は自由に喋れるんですよ」

 

私の中のどこかやましいところが、目の前の相手を縛るために秘密を持っておけと囁く。改めて彼を見上げると、案外背丈がある。まあまだ私のほうが高いけれども。身体に筋肉がしっかりとついているし、会った時の可愛らしさは残しながらも青年らしい顔つきになってきている。いや、別にそういう目でケトを見る必要もないな。私は軽く目を閉じて首を振り、深く息を吐く。

 

「ここにいるべきではない私が、ここを追われる可能性は?」

 

「この城邦は、海を超えて人々がやってくる所ですよ?価値あるものを生み出せるのであれば、受け入れるだけの覚悟と余裕はほとんどの人が持っているでしょう」

 

「いい所だな……」

 

私が客人として扱われなくなってそれなりに経つ気がするが、同僚であったり、信頼できる取引相手であったり、まあそういう目で見られているのはわかる。差別と迫害の歴史を知っている身からすれば、それが特別なことは知っている。奇異の目で見られることもあまりない。確かにケトと肌の色の調子や顔つきは微妙に違うが、それ以上の差異はこの城邦では普通に見られるものだ。

 

「……まあ、別に言いたくないなら特に言う必要はないです。けれども、いつでも言える相手がいることは忘れないでくださいね」

 

ケトは私に手を伸ばす。それを握って、私は立ち上がった。

 

「なら、これは燃やしてしまおうか」

 

私はケトから取り戻した紙の束を竈に放り込む。

 

「あぁ……」

 

悲しそうな声を出すケト。

 

「後で読もうと思ったのに」

 

「大半は失敗した計算だよ」

 

「……もしかして、失敗を隠したかったりします?僕たちの前で格好の良いところを見せたかったとかではないですよね?」

 

「あー……」

 

改めて考えると、その割合は大きかったかもしれない。確かにそれならケトにも計算式を見せたくないわけだ。自分の行動を、第三者から合理的に見られるのはなんとも恥ずかしいというか辛いところがあるが、まあこれも受け入れなければならない痛みだとわかるぐらいには私は自分が大人だと思っている。本当かな。

 

「そうかも」

 

「なら、いいんですけれども。まあ僕はキイさんがどんな人かたぶん一番知っているので頼って下さい」

 

「ならちょっと複雑な算学の理論について話していいかな。規格からずれた製品の数を推定する式の話なんだけれども……」

 

「……努力するので、ゆっくりお願いできますか?」

 

「冗談だよ。そこまでは求めない」

 

「……そうですか」

 

少し悲しそうにケトは言う。ああ、なるほど。私はなんとなく、ケトがここまで数学の授業に付き合ってくれていたのかの理由がわかった気がした。



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第11章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。MathJaxで使われているTeX構文を読めるような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


星表

ケトが言うにはそこには世界最大とも言われる青銅と石灰岩の観測装置があるそうだ。

モデルはウズベキスタンのサマルカンドにあったウルグ・ベク天文台。

 

占星術もあるにはあるが、それ以上に信仰上の理由──人の小ささを知るためには大いなるものを知るべきだという思想によって彼らは動かされているのだとか。

Quid ringeris delicatule Philoſophe, ſi matrem ſapientiſſimam, ſed pauperem, ſtulta filia, qualis tibi videtur, nænijs ſuis ſuſtentat & alit?

(繊細な哲学者よ、愚かな娘が賢いが貧しき母を自らの力で養っているのを見れば、あなたは何と言うだろうか?)

 

──ヨハネス・ケプラー「De Stella nova in pede serpentarii(へびつかいの足の新星について)」より。拙訳。

 

本来はケプラーが言ったとされる「賢い母である天文学は、愚かな娘である占星術の手に入れるパンがなければ餓死していた」のような言葉を出典として持ってきたかったが探してもそこまでのことは言っていなかった。*1

 

ふざけるなよ。一致させろ。

たぶんラテン語で言う「第一の小部分(pars minuta prima)」とか「第二の小部分(pars minuta secunda)」が時間にも角度にも使われたせい。ノリとしては「キロ」と言って1 kmと1 kgが同じキロと呼ばれることにキレているようなものである。

 

昔からの悪い癖だ。参考資料にする本があると該当箇所だけではなく頭から読んでしまう。

そして参考資料を積まねばならないのは大抵締め切り間近なので、とても読み進んでしまう。

 

宗教組織のくせにどうにも柔軟だな、と思い私は凝った首を回した。

というより宗教は本来そういうものでは……?

 

勾配

何回か授業をやって、対数関数の逆関数である指数法則については正の実数の範囲まで拡張しておいた。

$a^m \times a^n = a^{m+n}$ とかのこと。

 

「あくまで実用上の数、ですか」

0や負の数の数学的性質についてはかなり色々な議論がされてきた。ここらへんはアルベルト・A.マルティネスの「負の数学 : マイナスかけるマイナスはマイナスになれるか?」が参考文献として詳しい。

 

収束

二項定理は古くから知られていた。

エウクレイデスの作品にも触れているものがあるとか。

 

整数 $n$ があって、$\delta = \frac{1}{n}$ と置くことを考えよう。

むしろ数学史的上で $e$ が複利計算の過程で1683年ヤコブ・ベルヌーイによってきちんと定義されたときには $n$ を使っている方の定義から発展している。ざっくり言うと「ある期間で1割複利のところを、半分の期間で0.5割複利にしたら同じ期間で借金はどれだけ変わるか?この分割と期間をもっと細かくしていったら?」という考えの延長で発見したのである。

 

「実際に最初の8項を計算すると、2.718253ぐらいでしょうか?」

$k!$ が大きくなる速度が早いのと比較的約分が簡単なおかげでこれくらいなら手計算でもいける。実際の値は2.7182818…なので小数点以下4桁まであっている。

 

「ならば、勾配は0.43といったところか」

$10^{3/8}$ と $10^{4/8}$ を計算して、その間を線形補間すればこのくらいは出せる。

 

「……つまり、どちらであっても値の範囲を絞り込めるので、どこかに値が近づいていくのは間違いないということですか?」

本来であればここらへんは「収束する数列は有界である」という方向で証明を行うが、実数の連続性をちゃんと定義していないのでこういう説明になった。ちなみにこの逆は成り立たず、ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理「有界な数列は収束する部分数列を持つ」と多少制限された形になる。

 

評価

積分と極限を交換する時にどうとかなんとか。

数学的に厳密な処理ではないのに物理の計算でよくこういう形の変形が出てくることをベースとした数学科の人から物理学科の人への批判をもとにした有名な業界ネタ。対応させたい関数が一様収束という少し狭い収束の定義に当てはまればいいらしい。作者は工学畑なので知らない……。

 

係数が汚いとか次元が合わないとかいう議論は流すことにする。

グラフ上で近似曲線を引いて経験式を求めるとメートルと平方メートルを足し算するなんてことがしばしば発生する。これを回避するためにもとの長さを事前にメートルで割っておいて無次元量にするとかいうみみっちい数学的ズルが行われることが一般的である。

 

道標

高温で起こった相転移が急冷によって保持されることで硬化が起こるとした同素体論者(Allotropist)と、浸炭のように炭素が鉄の結晶内に固溶することで硬くなるのだと主張する炭素論者(Carbonist)の争いが1900年ごろで、その後アルネ・ウェストグレンがXRD(X線回折)を使って鉄の相転移を詳しく調べたのが1921年。

ここらへんは鉄の相変態に関わる「β鉄論争」に発展した。これには日本からも本多光太郎が参戦している。

 

力の変化に伴う構造の変化、温度の変化に伴う導電率の変化、圧力の変化に伴う体積の変化。

構造力学分野におけるモーメント、半導体の抵抗温度係数、ビリアル展開のあたりで微分の考え方はさらっと当然のような顔をして出てくる。理工系にいるなら微積分から逃れようとしても無駄なのだ。

 

冪級数を複素関数に拡張すればローラン展開ができるし、これを使えば例えば正規分布の相補累積分布関数みたいなものを計算しやすくなる。

ローラン展開は $x$ や $x^2$ のような冪級数を使うテイラー展開に加えて $x^{-1}$ や $x^{-2}$ のような $x$ の指数が負の項まで考えることで特異点を含んだ範囲にまで級数展開ができるようにしたもの。複素関数の分析に使われる。正規分布の相補累積分布関数はいわゆる「標準正規分布表」を作るために必要な関数だと思ってくれればいい。詳しくは今度やるかもしれない。この章と同じぐらいの数式率になりそうな気がするが……。

 

微分

アイザック・ニュートンが時間微分を前提として作った記法、あるいはレオンハルト・オイラーやウィリアム・ローワン・ハミルトンにように記号として微分作用素を使うもの。ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツのように分数っぽく書くこともできるし、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュのようにダッシュをつけてもいい。

 

アイザック・ニュートンの記法は

 

$$\dot{x}, \ddot{x}, \dddot{x}, \ddddot{x}$$

 

と表すもの。階数が多くなると表記が面倒くさくなるが、基本位置の時間微分である速度や速度の時間微分である加速度といったものの表現に用いられるのでそんなにいらない。事実ここで使っているTeX構文では点4つまでのものしか表示ができない。一応加速度の時間微分として加加速度あるいは躍度とか、そのさらに時間微分したものとしての加加加速度とかもあるがめったに使われない。一応英語圏では宇宙膨張の研究者がこれらに変な名前をつけたりしている。

 

レオンハルト・オイラーの方法は

 

$$D_x f, D_x^2 f, D_x^3 f$$

 

と表すもの。これは $x$ で微分していることを強調しているが、何で微分しているか見ればわかるならここの下付き文字はいらない。

 

ウィリアム・ローワン・ハミルトンが使ったのは

 

$$\nabla f$$

 

のような表し方。東地中海圏の竪琴(ナブラ)と形が似ていたのでこの記号はナブラ( $\nabla$ )と呼ばれている。あとはギリシャ文字のΔ(delta)の上下逆なのでAtledとか。これはベクトル解析の分野で便利であり、流体力学や電磁気学、量子力学でちょくちょく顔を見せる。

 

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツのやり方は

 

$$\frac{d}{dx}f(x), \frac{d^2}{dx^2}f(x), \frac{d^3}{dx^3}f(x)$$

 

というある種の分数のように書くものであり、これはかなり広く使われている。$d$ は物理量や変数ではないので斜体ではなく立体の $\mathrm{d}$ で書くべきだと主張する一派も存在するが、大抵は面倒なので無視されている。一応ISO 80000-2では「Well-defined operators are also printed in upright type(定義が明確な演算子は立体で表示する)」とあるのだが。

 

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュの方法は本文でもこのあと使いまくっているので説明は省略。

 

うるせえ二つ並んだプライムをセコンドと言わずにダプルプライムと言っているやつらに言われたくはないよ。

「 ${}'$ 」は英語圏(というよりイギリスとアメリカ)ではprimeと呼ばれるが、イギリスの古い用法である「ダッシュ」は今でも日本で比較的一般的である。とはいえ、本来「prime」は「一番目の」という意味なので、これを複数つける場合には「second」「third」のように呼ぶべきだ、そうでないなら「dash」と呼ぶべきといった考えはあるらしい。

 

誤差

ベクトルの外積、行列の積、あとは四元数というものもある。

「こういうのは積と呼ぶべきではないのでは?」という意見ももっともだが、結合法則や分配法則といった「積」らしい特徴は持ち続けているので積の仲間という扱いをされる。

 

まあここらへんの議論の親戚の子孫がフェルマーの最終定理の解決に一枚噛んでいるのでなかなか面白いらしいが、私は数学科の学部レベルすら怪しいので逃げさせてもらおう。

最近数式の誤りが誤字報告でされるようになってビビっている作者です。キイと違って逃げられません。

 

カール・テオドル・ヴィルヘルム・ワイエルシュトラスがこの手法を完成させた頃にはもうプラニメータは使われていたのだ。

プラニメータはヤコブ・アムスラー=ラフォンによって1854年に発明された地図上の面積などを計ることができる装置。内部で積分計算をしている。

 

冪級数

一応電磁気を齧った時にフェーザ表示とかやったけれどもさ。

波を考える時に虚数を使うテクニック。角周波数 $\omega$ があるとき、時間 $t$ と虚数単位 $j$ を使って $j \omega t$ を含んだ式を使うもの。あまり説明が良くないな。抵抗、コイル、コンデンサを組み合わせた回路のインピーダンス(複素数に拡張した抵抗)などを表現したりするのに便利。

 

無限和

「必要な反復回数が多すぎますよね、なかなか落ち着きません」

一応最初の10項を足せば3桁ぐらいの精度は出せるが、それ以上を目指すと結構大変。分母が小さくなっているのでまあマシではあるが。

 

計算尺

「こんな感じで目盛りを刻んだ何かを二つ用意する」

こういう計算装置を計算尺と言い、機械式計算機が生まれる前は理学、工学、建築、設計など幅広い分野で用いられていた。この種の目盛りの発明は1620年、エドマンド・ガンターによるが、それ以降の改良には多くの人が関わっている。

 

「あれを使えば、運動の大きさを変えられる。大きな動きを小さな動きに変換できるし、小さな差を大きな差として拡大することもできる」

キイが言っている原理はマイクロメーターという測定装置で用いられているもの。1772年に作られたジェームズ・ワットの卓上測定装置には0.1ミル(1ミルは1/1000インチ)、2.5マイクロメートルの目盛りがついていたのでこれぐらいを目標としているのだろう。なおここらへんの歴史の概要はミツトヨ測定博物館監修の「マイクロメータ進化の歴史」を見るといいと思う。川崎にあるミツトヨ測定博物館は要予約であるが一人でもちゃんと開館してくれるし、マイクロメーターオタクの須賀信夫が集めたコレクションや潤滑油の匂いがする工作機械(なんと整備されている!)が見れるのでとてもおすすめ。みんなも行こう!入館料は無料ですがミュージアムショップはないです。駅からちょっと歩くのと平日のみ開館なのでそこは注意して下さい。もし行けないならバーチャルミュージアムもあるのでそちらを……。

 

舞台裏

信じられないようなアイデアを生み出した人がいても、その背後や思想的な連環を辿ろうとするのだ。

少なくとも私の知る限りではシュリニヴァーサ・アイヤンガル・ラマヌジャンが未来や異世界からやってきたと主張する数学史研究者はいない。一応本人は女神ナーマギリのお告げだと言っていたのでこれはあれか、女神からチートもらうタイプの作品だな?

*1
ここには本来フランソワ=マリー・アルエ、あるいはヴォルテール「De Stella nova in pede serpentarii(寛容論)」から引っ張ってきた「La superstition est à la Religion ce que l'Astrologie est à l’Astronomie, la fille très-folle d’une mère très-sage. Ces deux filles ont long-temps subjugué toute la terre. (宗教にとっての迷信とは天文学にとっての占星術のようなものであり、非常に賢明な母の非常に愚かな娘である。この二人の娘は、長い間地上全体を服従させてきた。)」という文章があったが、読者からの指摘を受けて変更した。この場を借りて感謝申し上げる。



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第12章
秘密


緩衝材代わりの紙を除けると、そこには硝子筆(ガラスペン)の先があった。溝の本数を数えると私が作っているものとは違う。

 

「どうです?」

 

そう言うのは長髪の商者。今日は今後の計画について詳しく話そうということでやってきたのであるが、彼の隣には緊張しているらしい男性が座っていた。

 

「悪くない……ように見えますね。実際に書いてみないとわかりませんが」

 

そう私が言うと、彼は少しだけ張り詰めていた表情を和らげた。

 

「……先端の部分がいいのでしょうか、私が作るよりも滑らかですね」

 

「ですよね」

 

思わずだろう。男が声を私にかけた。

 

「まあ、隠し事は程々にしましょう。彼がその細工をした職人です」

 

もったいぶって商者は言う。いや別に隠すほどのことでもなかっただろうに。

 

「いい腕をしていますね。なにか気を配ったことは?」

 

「最後の研ぎが書き味に大きな影響を与える、なんてことはキイ師なら知ってると思うんですけど、だから石を変えたんです。色々試して」

 

「なるほどね、私はそこらへんは無頓着だったからな……。炎については?」

 

「沼から出る泡を溜めといて、そいつをふいごで吹いたところに火をつけるんです」

 

嫌気性発生で生まれるバイオガスか。たぶん主成分はメタンだから、確かに加工に十分な熱は出せる。

 

「その方法はどうやって発見された?」

 

「秘伝でした。うちらの。けれども、大売れするってそこの商者先生*1が言って、それで秘密を明かそうと。けれども沼がなけりゃこれは使えないでしょう」

 

「いや、その気体……空気みたいなものを作る方法ならそう難しくはない」

 

メタンを生産するバイオリアクターについては作ることはできるだろう。効率とかを求めなければ今普通に存在するトイレを改良するだけだ。発酵でできるガスをうまい具合に閉じ込めればいい。

 

「さすがですキイ師」

 

「……師はつけなくていいよ。嬢でもいいぐらいだ」

 

「いや、それなら先生と呼ばせて下さい」

 

「……いいよ」

 

ちらりと横を見るとケトが視線を返してきた。うまく読み取れないが、まあたぶん問題はないだろう。

 

「頼まれていたものは、ある程度揃えたはずだ」

 

そう言って、長髪の商者は私に蝋紙印刷された紙を渡す。馴染んだサイズだ。商会の方でも印刷物管理局規格が広まっているらしい。おおかたこの商者の仕業だろう。まったく。こういうものを導入するときには大抵混乱が起こるのだが、それをどうせ適度に利益をちらつかせてやったに違いない。こういうテクニックは知識としてはあるが、彼のようにスムーズには行かない。

 

「……十分です。これだけあれば、基本的な空間送受信機ができるでしょう」

 

ここらへんの言葉はケトが作ったものだが、どうにもしっくり来る訳語にならないらしい。まあ無線という言葉は有線ありきのものだし、電波と呼ぶには電磁波という概念が必要だし、それらなしに結論だけ無理やり持ってきたもののネーミングなんて無茶をやってくれただけでも相当感謝せねばならない。

 

硝子(ガラス)細工の腕はわかったけれども、金属については扱える?」

 

私は職人を見て言う。

 

「ある程度であれば。一応は硝子(ガラス)の盃なんかを作って、工師を任じられておりましたが、それと金属の細工を合わせるなんてことも多いので、まあ知識は」

 

工師というと上から二番目か。相当なものでは?年齢は私と同じか、少し上のように見える。それで工師なら大したものだ。

 

「十分。詳しくは実際に手を動かさないと私もわからないことが多いしね」

 

私はそう言うと、紙の束を彼の前に置いた。

 


 

職人が資料を読み込んでいる横で、私は長髪の商者から彼について色々と聞く。前手に入れてレンズを作るのに使った硝子(ガラス)の輸入元で最近名を上げている職人らしい。

 

「そう言えば君のいたところでは鉛が取れるのかい?」

 

「……そうです」

 

「なら、硝子(ガラス)にそれを混ぜているのか」

 

「……何でもお見通しですね、キイ先生は。今まではそれ言ったら、一門から刺客が送り込まれてましたよ」

 

となると相当な機密だったようだ。地理的にはナトロンが取れる地域にも近い。確かに硝子(ガラス)を作るには向いている場所だ。

 

「というより、一体何を吹き込んだら私がこんな扱いをされるようになるんですか」

 

私は小声で商者に囁く。別に私の細工職人としての腕はあまり良くないはずだし、あの硝子筆(ガラスペン)を見れば彼の能力はわかる。

 

「彼はああいう性格なんだよ。謙虚なのはいいことだが、同時に問題点でもある」

 

「まあいいですよ、腕は確かです」

 

「それはこちらからも保証しよう。なにせ彼を連れてくるのに色々と面倒が起きたからな」

 

「そういうことするとあの彼女が苦労するんじゃないですか?」

 

諜報担当者のことを仄めかすと、商者は悪い笑みを浮かべる。はいはい。今度局員経由でねぎらいの一言でも送るべきだな。

 

「まずはこれを作れば、いいんですよね」

 

職人は紙のうちの一枚を見て言う。ガラスの筒に封入された、二つの金属とその隙間の金属粉末。

 

「そう。逆に言えば、これができるかどうか、つまりは君の腕に今回作る装置の出来はかかっている」

 

テミストークレ・カルゼッキ=オネスティの発見した現象をもとにエドゥアール・ブランリーが発明し、オリバー・ロッジによって命名された機構だ。最初期の電波検出器、コヒーラである。

*1
「先生」はある種の敬称。基本的に目上の人にであれば誰にでも使える。



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検出

組み立てたい装置にはあまり複雑な機構はないが、動作原理は複雑だ。金属粉末の表面には酸化物などで皮膜ができるせいで電気抵抗が高くなる。そこに電界の変化が加わると金属粉末同士の接触点に電位差が生まれ、被膜が破壊されることで電流が流れるようになる、んだったかな。ここらへんは一応文献を軽く読んだが二次文献とかだし、ちゃんとやるとバンドギャップ理論が現れてしまう。高校時代に少し触ったし大学でも教養ぐらいはやったが、よく覚えてないんだよな。並進対称性を持つような電子配置でのシュレディンガー方程式を解けばいいんだったっけ?ラルフ・クローニッヒが関わっていることは覚えている。

 

まあともかく、電波は電磁場で起こる波なので、金属粉末の電気抵抗変化で電波の存在を検出することができる。これが検波だ。復調と同義に扱うのは実は正確ではない。

 

「こんなもので、いいですか?」

 

職人が数日で作り上げた試作品を見ながら私はそんなことを考えていた。商会の一角にちょっとした実験工房が作られていて、そこでの試みである。

 

「いいと思う。まあ、実際に動くかはこれから確かめないと」

 

彼がこの検波装置を作っている間に、私は火花発生装置を用意していた。といっても構造は簡単である。まずは火花を飛ばすために高電圧が必要となる。電流と電圧というのは、電子の数と移動速度にだいたい対応する。谷を飛び越す車を考えればいい。自動車が数だけあっても谷の向こうに飛べるというわけではしないが、速度のある車であれば落ちることなく向こうへ行ける。まあ雑な例えなのは仕方がない。

 

ではどうやって高電圧を作るか。まあ簡単に言ってしまえば変圧器(トランス)を使う。電流は電磁石で磁気に変えることができるし、コイルの周りに磁場の変化を与えれば電気が流れる。というわけで二つのコイルを近づけて用意し、一方に交流電流を流すと直接つながっていないもう一方のコイルから電流を取り出せるのだ。エネルギー保存則が成り立っており電流と電圧の積である電力が全部伝わるとすれば、電流は巻数に比例するので電流が小さくなると電圧が上がる。まあ実際はエネルギー保存則がうまく成り立たず磁界が「漏れる」せいで変換効率が悪くなる。ここでちょっとコンデンサを噛ませてやるとインピーダンスが一緒になるので共振周波数が一致し効率を下げないみたいなことができるのだ。まあここらへんはちゃんと測定したわけではないのでなんか一番火花が飛ぶような組み合わせを試しただけだ。半ばオカルトに近い。なお交流電流は整流器をつけていない発電機で比較的容易に作ることができます。これは商会のほうで作ってもらったものがあるのでそれを使おう。

 

「はいじゃあこいつを受信機に繋いで、と」

 

ケトが発電機のハンドルを回すと、断続的に火花が飛び始めた。すると電磁場を揺らす電波が生まれ、コヒーラが通電し、簡易的な鉛蓄電池を使った回路が形成されるので電磁石が金具を引いて電鈴(ベル)が鳴らされる。よし、本当に一発で成功するとは思っていなかったので拍子抜けだ。

 

「繋がってないですよね、この二つは」

 

「うん。それなのにケト君が装置を起動したのと合わせてこちらの電鈴(ベル)が鳴った」

 

「面白い……」

 

確かに自分が作ったよくわからないものが組み込まれて実際に機能するのを見るのはなかなかいい経験だろう。まあ、彼には今後もっとよくわからない装置を作ってもらうことになるのだ。温度計、レンズ、真空ポンプに各種の実験器具。早めに私の細工技術を伝えておきたいところだ。どこまでうまく教えることができるのかは怪しいが。

 

「で、これはいつになったら止まるんですか?」

 

甲高い音が鳴り続けているのにうんざりしたらしいケトが言う。まあ確かにうるさい。

 

「そこの作った硝子(ガラス)管をちょっと揺すってもらえる?」

 

「ええ」

 

職人がコヒーラに触れて少し動かすと、音は止まった。揺らしたことで接触が切れ、酸化被膜が再形成されたことによって抵抗値が上がったのだ。

 

「止めるためには毎回こうやって触る必要があるんですか?」

 

「いや、電鈴(ベル)を鳴らす電磁石みたいなものを使って軽く叩いてやる機構を作ればいい」

 

「なるほど、いやあよくできている……」

 

そう言って関心する職人ではあるが、私からすると不満は多い。まずこの検出器はどんなタイプの放電でも検出できてしまうのだ。例えば雷なんていう巨大な放電が起こった時には使い物にならない。長距離通信を行うにはあまりいい性質ではない。それと、これでどうやって情報をやり取りするのかのプロトコルもまだ確立されていない。トン・ツー式はオーソドックスだがまだ東方通商語の頻度分析はやっていないんだった。あとは誰に習得させるかもある。

 

「最初の一つを作るのは、それ以降に比べればそう難しくはないよ」

 

「……そうかもしれませんけどね、先生。最初の一つを作るのも大変ですよね?」

 

「そう。なのでこれ以降がもっと忙しくなるわけで……」

 

まあ、無線通信に比べれば陸上の有線通信は技術的には多少は楽だ。海底ケーブルはどうしても素材面での問題はあるが、それでも失敗の原因を知っている分かつての世界よりは楽にできるだろう。というより、地図が必要になってくる時期だな。まあたぶん、無線通信を実用化することが地図作りに役立つだろうから優先順位はこっちが先だが。



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空中線

商会の持つ建物の一つ、高い塔のような場所の一室にケトがいるはずだ。そこから離れた場所、3階建ての工房の屋根の上に私は立っている。手元には受信機、そして望遠鏡と組み合わせた回照器(ヘリオトロープ)。まあ、望遠鏡自体の性能はまだまだいい加減なのだが。

 

建物の場所を確認し、望遠鏡の狙いを定め、回照器(ヘリオトロープ)の鏡の向きを調整。声は届かないし、旗を振っても見分けがつくか怪しいぐらいの遠さである。

 

「お、光った」

 

ケトの所にも私が持っているのと同じ、回照器(ヘリオトロープ)つきの望遠鏡がある。っと、回照器(ヘリオトロープ)の説明をしていなかったな。まあ実際はよく磨いた金属板と銃についているような照準器を組み合わせたものだ。ガラスに鍍金(めっき)ができるのはもう少し先になりそう。鏡を調整して、二つの照準器に開いている孔を反射光が通るように調整すると望遠鏡を向けている先に光が届く。鏡と照準器の間には黒く塗った板があって、簡単に動かせるようになっている。これで光の合図を送ることができるわけだ。

 

チカ、チカ、チカと光が見える。私はもう少しゆっくりとしたペースで黒い板を動かしてケトが気がつくまで待つ。ケトが気がついたら明滅のテンポを変える。これで通信の準備が整ったわけだ。これぐらいの距離での実験は初めてだが、さあてどうなるか。

 

電鈴(ベル)の音が聞こえて、すぐに止む。デコヒーラという機構がコヒーラを叩くというなんとも物理的な方法で通電を止めているのだ。これでこの距離での通信が不可能ではないことがわかった。ケトから合図が来て、またベルが鳴る。その次は合図が来たが鳴らなかった。受信性能はあまり良くない、と。では次の段階に行こう。

 

身長の倍ほどの長さがある銅線を受信機につなぐ。空中線(アンテナ)だ。長距離での実験の目的は主にこの空中線(アンテナ)の性能試験である。短波通信ならもう少し長くしたいが、持ち運ぶのも難しいのでひとまずこの大きさで。

 

事前に練習しておいた通り、合図を送る。準備完了。次の実験電波を送信されたし。

 

了解を意味する明滅の後、まだベルが鳴る。今度は10回全部で成功。……実験計画の変更が必要だな。向こう側で電波を遮って受信が難しくなるようにする。その準備には時間がかかるので、望遠鏡を覗き込みながら少し休憩しよう。

 


 

電磁波が電界の変化を作ると、金属内の電子が動かされる。それは電流という形で現れるのだが、電磁波の波長と、回路の共振周波数とがうまく噛み合うとかなり狭い範囲の波長だけを選択的に受信できるようになる。これが同調回路と呼ばれるものだ。具体的には並列に繋いだコンデンサとコイル。コイルについては電磁石や発電機で触っているが、コンデンサについてはまだちゃんと触れてなかったな。金属板の間に紙を挟んだものだ。コンデンサは高い周波数の交流が流れると充電と放電を繰り返すことで見かけ上の抵抗が小さくなる。一方でコイルは電流変化があまり起こらない時、つまりは周波数が小さい時にインピーダンス、つまりは電気の流れやすさが下がる。つまりは周波数が大きくても小さくても並列に繋いでいればどちらかの素子を素通りするように流れてしまうのだ。

 

ただ、この2つとも働かないようなちょうどいい周波数であればこの並列に繋いだ部分に電気は流れにくくなる。そこからバイパスするように回路をコヒーラに繋いであげれば、特定周波数を感知するような仕組みができるわけだ。送信側にも似たような仕組みを用意してある。こういう仕組みを用意するとエネルギーの多くを狭い周波数帯に集中させられるので効率が良くなるのだ。っと、光が見えた。準備が終わったらしい。

 

合図があってもベルはうんともすんとも言わない。パターンを送る。また向こうで作業のようだ。遮蔽を強くしすぎたのだろう。ちょうどいい所を探るのはなかなか難しいのだ。そうそう、ちょうどいいといえばこのコイルとコンデンサの組み合わせも結構難しいところがある。コイルの巻数であるとかコンデンサの極板面積を変えることで感知する周波数帯を変えることができるのだが、この調整も結構手探りなのだ。一応実験工房で調整はしてあるのだが。運ぶ過程でズレたりしていないことを祈ろう。

 

今度はベルが鳴る。10回に6回。ちょうどいい。全部鳴ってしまっては感度が上がったかの確認ができないし、鳴らないならなにか問題が起きているのかそもそも電波が届いていないのかがわからない。

 

鳴った回数を向こうに送り、こっちでも記録する。実験ノートのつけかたも確立しないとな。これの歴史自体はなんだかんだで長いが、各分野で独自に発展を遂げたので私のかつていた世界では伝統に縛られたよくわからないものになっていることも珍しくなかった。私はまあ昔からGitで管理していたけどさ。この世界でも似たようなものを作ったほうがいいか。書類用のバージョン管理規格はあるが、個人レベルのメモまで縛るべきかどうかは微妙だ。いや、今後実験を他の人に依頼するとなるとそこらへんは統一させておいたほうがいいかも。

 

明らかに通信が良くなっている。ひとまず今は基礎データの収集だ。私だって本で読んだだけの知識も多いのだ。手を動かして、情報を集めるのは経験を積むという意味でも不可欠である。



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素材

コヒーラはオンとオフしかないので、これで通信しようとするならば専用の符号を用意する必要がある。これは正直な所電波帯を有効活用しているとは言えない。使える電波の波長というものが限られている以上、できるだけ多くの情報を電波に詰め込んで取り出せる方がいい。まあ、それでもノイズに強いという利点はあるのだが。ここらへんをちゃんと理論化する道筋も用意したほうがいいかもな。クロード・シャノンが「The Mathematical Theory of Communication(情報の数学的理論)」を出したのが1949年。まあでも起源はハリー・テオドール・ニュークヴィスト(ナイキスト)とかラルフ・ハートレーだし、電信の技術発展が数学の成熟より遅れていたことを考えると別に遅くはないか。場合によってはカール・フリードリヒ・ガウスが作っていてもおかしくはない理論だが。その数学的背景は決して簡単ではないが、重要な要素である対数についてはもう存在している。きちんとした定式化でなくとも経験則みたいな形であればいけないかな。っと、本題に戻ろう。

 

火に炙られた銅板がゆっくりと色を変えていく。酸化銅(I)が作る膜によって干渉が起き、特定の波長の光が強く反射されることによって生まれる独特の色合いだ。

 

「……肉を乗せてもいいですか?」

 

隣のケトが聞いてくる。

 

「駄目」

 

コヒーラに変わる検波用の素子としてこの酸化銅(I)、別名亜酸化銅を使うのだ。とはいえこの酸化銅(I)は結構扱いにくい。高温で劣化し、電流を流しすぎると使えなくなるし、逆電流も大きい。それでも、コヒーラと違って電波の変化をアナログに、連続的な電流の大小として取り出すことができるのだ。これは電流を一方向にしか流さない性質を利用している。あとはこの電流を振動か何かに変換するものがあればいいのだが、それには電磁石を使うなり酒石酸カリウムナトリウムを使うなりすればいい。

 

まあ問題は送信側なのだが。火花みたいなものではなく、ある一定の周波数の交流を作り出したいのだがこれが難しい。交流なら今の発電機でできるだろうって?もっと素早く電流が変化するものが必要なのだ。ええと海事通信なら短波か。波長が数十メートルとなると、光速をこれで割ってやれば周期が出る。107ヘルツ、10メガヘルツか。一秒間に一千万回も回るような発電機はさすがに用意できない。一応それなりの大きさにはなるがコイルとコンデンサでこの周波数は作れるはずだ。とはいえかなり手探りだな。

 


 

無線の改善の方は商会の案件になった。酸化銅整流器の特性が微妙なのでコヒーラを中心にやっていくらしい。さて、こっちはなんとかなるので有線通信の方に行こう。無線に比べれば簡単だ。電気を流して、遠くの電磁石を動かせばいい。電磁石でスイッチを引き寄せれば、オンオフであれば伝えられる。問題は電気抵抗だが、これについては電圧を高くすることで解決する。そんな高電圧がどこで作れるかって?変圧器を使うのだ。無線通信のときにやったね。

 

「……ここらへんはどうしても知識が足りないな」

 

科学史ではなく技術史や産業史の領分に入ってきて、企業が公開していないノウハウがある分野に足を突っ込み始めてきた。逆に言えば、試行錯誤でどうにかなる範囲ではある。

 

「難しいですか、やはり」

 

ケトが言う。

 

「そりゃあね」

 

コヒーラの成功だって個人的にはかなりの幸運だと思っているのだ。確か寿命を伸ばすために低真空にするとかあったな?アスピレーターぐらいなら作れるだろうが、問題は水用のホースだ。こういうどうでもいい所で、かつての世界で普通にあったものがないと困る。

 

「作り方を読んだことがあっても材料が無いことも多いから」

 

「薬みたいですね」

 

「そういう例があるんだ」

 

「ええ。まだ馬がいた古帝国時代の話ですが」

 

そう言えばこの世界にも騎乗動物がいる、というかいたらしい。古帝国の繁栄というか勢力拡大はこの動物に頼っていたそうで。反芻するらしいのでウマとは少し違う気がするが。シカとかのほうが近いのかもしれないが、外見の描写はウマなのだ。

 

「私がいた所と植物も違うしな……」

 

「そうなんですか?」

 

「鳥とか魚とか家畜は似ているんだけどね」

 

基本的に全て問題なく食べれる所からすると、たぶんこの世界のヒトと私は同じような種なのだろう。本当は遺伝子検査をしたいがそんなものはない。染色体数が違うかもしれないが、染色液をどう用意するかの問題がある。カーミンやオルセインの酢酸溶液なのはわかるが。両方とも確かアントラキノン誘導体だったかな。コチニールカイガラムシはまだ見かけていないので色々試すしかなさそうだ。

 

「試すのは私でなくともできるから、もっと他のことをやるのがいいのかな……」

 

「面倒なだけではなくて?」

 

「まあ、否定はしないけれども」

 

別に詰んだわけではないのだし、探せばまだできることはあるのだろうが酸化銅整流器があまりうまくいかなかったので少し疲れた。いや職があるんだからそれをやればいいのかもしれないけどさ。



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伝声器

「時間ありますか、先生」

 

職人が声をかけてきたので、私は顕微鏡から目を離す。

 

「どうした?」

 

「ああいえ、例の粉末検出器(コヒーラ)の話ですが」

 

「いいよ。なにか問題が?」

 

「送信側にも使えませんかね、あれを」

 

「……具体的には?」

 

「火花の発生は、今は開閉器(スイッチ)を使っていますよね」

 

「そうだね」

 

「あれを比較的容易に動くような、粉末検出器(コヒーラ)のようなものにすればもっと小さな振動を検出できませんかね、いえ先生のことですからそういう事は考えているとは思いますが」

 

粉末を振動で揺らして接点を構築……どこかで聞いたな。炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)

 

「そうか、有線ならそれで行ける……というか増幅機能があったよな?」

 

「増幅、ですか」

 

「そう。……ええと、こういうものを作って欲しい」

 

私は手早く紙に図を描く。

 

「構造は似ているけれども、金属板の間に炭の粉末を入れるんだ」

 

「……粉の粗さが重要そうですね」

 

粉末検出器(コヒーラ)の改良でノウハウは溜まっているのだろう。彼はすぐに重要そうな点を掴む。

 

「これであれば、声ぐらいの振動であっても動くと思うよ」

 

「敏感すぎやしませんか?」

 

「受信側をそれに対応したものにすればいい」

 

簡単に言えば、電話である。

 


 

古い電話機の話を思い出した。炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)を使った電話機では、ハウリングが起こるのだ。つまりこれは炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)自体が一種の増幅器として働いていることを意味する。今まで真空管かトランジスタかと考えていたが、こっちの方面もありそうだ。

 

私の知識はどうしても限られている。これでも博覧強記の自負はあるが、なんで今まで忘れていたのだろうということは結構ある。電話はかなりわかりやすい発明品になるのではないだろうか。まあ伝声管を使えと言えばそれまでかもしれないが。

 

改めて今の状況を確認する。粉末検出器(コヒーラ)を使った無線通信の実験では徐々に距離を伸ばしている。短波通信であれば指向性の便利な空中線(アンテナ)の知識もあるし、たぶん海事通信ではこれが主流になるだろう。少しここらへんも理論的背景を固めておきたいが、電波による実験もなしに電離層の存在を主張するのは明らかにおかしい。まあほどほどにしよう。

 

今私が顕微鏡で覗いているのは鉱石検波器だ。猫髭線(キャット・ウィスカー)と呼ばれた金属針を用意し、鉱石の表面にくっつけるもの。今回使っているのは綺麗な金色をした黄鉄鉱だ。金属の酸化物や硫化物は状況によって電気を通したり通さなかったりする。半導体というものだ。これをちゃんと理論的に説明するのはとても大変なのでやめておくが、これが整流作用を示して前作った酸化銅整流器と同じような働きをしてくれる。鉱石ラジオの原理だ。

 

ただ問題があって、これはかなり扱いが難しい。趣味で作るラジオでは結構この鉱石検波器が用いられたというから粉末検出器(コヒーラ)より使いやすいのかと思ったら全くそういうことはなかった。目を上げて、検知機構を見る。電磁石で磨いた鉄板が引き寄せられ、太陽光を反射することで電波を検出しているかどうかが分かる仕組みだ。電波については最近ひっきりなしに飛んでいるので問題はない。

 

「……鏡は、欲しいが」

 

検出器にも、光通信にもやはりもう少ししっかりした鏡が欲しい。ぱっと思いつくのは錫アマルガム法。明らかに危ない。これは平面ガラスの上に錫箔を置いて、その上から水銀を流してガラスに張り付く錫アマルガムを形成するものだ。当然鏡には水銀化合物が残る。これでは、よくない。

 

別の方法は銀鏡反応と呼ばれるものを用いる。高校の教科書にも載っているような、ジアンミン銀(I)イオンと還元剤の反応だ。還元剤に使う糖は麦蜜に酸を加えればたぶん行ける。問題はジアンミン銀(I)イオンのほうだ。硝酸銀とアンモニアで作れるが、アンモニアはあったか?トゥー嬢に確認が必要だ。さすがに今の技術ではアンモニア合成はできない。動物が窒素分を排出する時に窒素化合物を出すから、その分解物を蒸留すればいけないか?いや駄目だ。アンモニアはそもそも気体だ。ああでも水溶性だから気体を水と接触させれば回収できるか?あとはそれを加熱すれば……。本当は溶解度の低いアンモニウム塩があればいいのだが、簡単に作れそうなものはどれも溶けやすかった気がする。鉱物として出てくるアンモニウム塩、例えば塩化アンモニウムなんかは乾燥地域でしか残らない。商会の取り扱いがあるかどうかもわからない。

 

これについては各所でやられているだろう資源探索に頼るしかない。本来なら私が出張ればいいのだが、身は一つだし印刷物管理局を回せるのはどうにも私だけらしい。部下からの信用が篤いのはのはいいことだが、自分が代替不可能な人員になっているのは少し思想的に難しいところがある。

 

「……まずは短距離の電話を作るのがよさそうだな」

 

電信よりかは扱いやすいだろう。声を出せば向こうでもそれが聞こえるのだ。衙堂でなら使えるのではないだろか。



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拡声器

炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)はトーマス・アルバ・エジソンによって特許が出願されたものだ。発明者は別の人だというのが定説である。まあそれはいい。二枚の金属板に挟まれた炭素粉末が周囲から圧力を受けると、炭素の粉が接触して電気抵抗がかなり大きく変化する。音とは空気の振動なので、これを金属板の振動として捉えて抵抗値の変化に結びつけるのだ。構成としては粉末検出器(コヒーラ)と似ている。というより、炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)の発明者の一人とされるイギリスのイギリス系アメリカ人、デイビッド・エドワード・ヒューズがヘルツより先に炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)を使って電波を検出していたのではないかという話もあるぐらいだ。あれ、でもそれはむしろ鉱石検波器に近い性質を使っていたんじゃなかったっけ。まあいいや。

 

「あー……」

 

ケトの出した声に合わせて、少し離れた検電器の鏡に反射された光がかなり大きく震えた。

 

「確かに機能しているね」

 

「こんな簡単なもんでできるんですね、意外でした」

 

「それは私もだよ……」

 

職人の言葉に私は苦笑いしながら返す。手先が器用なのもあって試作品がほいほい作られていく。まあ、バックに商会があるので色々と気兼ねなく試せるのがいいのだろう。追い込まれてできるものもあるが、自由にやるのも大切なのだ。選択と集中というのは方針決定後にやるべきものである。基礎研究でそんなことをしては土台を勝手に制限しているようなものだ。そんな縛りプレイは二周目でもしたくない。

 

「あとはこれを使えばっと」

 

私は準備していた拡声器(スピーカー)を取り出す。とはいえ大きさとしてはヘッドホンの片側みたいなものだ。配線を繋ぎ変える。ここらへんも規格化した部品を使っているのでかなり便利だ。電磁石で鉄板を揺らし、それで空気を振動させるというそう難しくないシステム。

 

「はい、これに耳をつけて」

 

私はそう言って手元の装置を職人に渡す。

 

『……聞こえますか』

 

ケトの小さな声が、多少歪んではいるものの拡声器(スピーカー)から流れる。

 

「……これは本当にすごいものなのではないでしょうか?さらりと作りましたけれども」

 

「これを無線でできないといけないからな……」

 

方法は知っているのだ。振幅変調(AM)放送の原理はわかる。しかし問題は十分な高周波を作り出す方法だ。炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)が10メガヘルツの音を増幅できるならいいのだが、たぶん無理だ。しかし真空管を使わないラジオ放送があった気がするんだよな。廃れたということはたぶん利便性の面で真空管に勝てなかったのだと思われるが、今ここで真空管を作るのが大変な以上その方法を探るのはありだ。

 


 

特定の周波数を持った交流を作り出す方法として係数(パラメトリック)励振と言われる現象を用いるものがある。基本的にはブランコと同じだ。普通にブランコを揺らすだけであれば、しばらくすると止まってしまう。油を差したりしても、熱力学第一法則のせいで最初に揺らしたよりも大きな振幅を得ることはできない。しかし外部から周期的にエネルギーを与えてやれば、減衰するよりも速くエネルギーを与えることができる。それでも基本的に振動が大きくなるとそれだけ散逸するエネルギーも大きくなるので、大抵はある程度大きくなったところで頭打ちになってしまう。理論上はブランコの固有周波数に合わせた外部からの強制振動を与えてやれば、まあ言うなれば常に同じ場所で足を振ったり背中を押したりしてもらえば振幅は無限に大きくなる。実際はブランコのチェーンが軸に絡まるという結末になるだろうが、これは例えなので。

 

こいつは機械屋にとっては厄介な代物だ。有名なところではタコマ橋の崩壊がある。橋が少し揺れると乱流が起き、それが橋を少しだけ強く揺らす。この作用が続くのに十分なエネルギーが強風によって与えられれば、振動は橋が壊れるのに十分なほど大きくなるというわけだ。まあこの振動の発生メカニズムは色々と意見があるらしいので門外漢は黙っておこう。あるいはモーターのような回転軸のある部品でもいい。軸が少し歪むと生まれる振動が更に軸を曲げるような振動を生む場合、本来壊れるような力がかからない部品でも破壊されることがある。

 

これを利用して大きな交流を得ることができそうではあるが、実際は難しい。適当にその場にあった変圧器を使ってみたが、発電機で作れる程度の周波数であれば影響を与えることができるもののうまく一般化できそうにない。後藤英一のパラメトロンの励振周波数はメガヘルツ程度だったが、あれは確かフェライトコアが使われていた。酸化鉄ベースの磁石を今から作ると年単位で時間がかかる。

 

どれもこれも難しい。便利な方法というのはそうないのだ。そんなものがあればラジオの発展は一瞬で終わっている。まあ火花放電で最低限はできるからいいものの、その先に手を出したい。一応今できる可能性があるのは真空管。マグネシウムゲッターに使うマグネシウムを電気分解で手に入れて、スプレンゲル・ポンプで排気を行えば……、できなくはないはずだ。手元に材料は揃っている。しかし実験室レベルでは行けても、それ以降はかなり難しそうなんだよな。



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不満

現在ある設備で、十分な周波数が作れないか計算を始めよう。つまりは交流発電機の使用だ。まあもうケトには私が裏でこういう計算をしているのはバレているので、普通に住んでいる部屋でやることにしよう。計算が終わったら基本的に紙は処分するが。

 

回転速度は自動車用エンジンのタコメーターを参考にしよう。上限の12000 rpmとすると、200 Hz。一秒間で200回転だ。回転させる部分の半径を10 m、円周部分に0.1 mm刻みでコイルか磁石を置いて交流を作れると仮定。計算としては非常に簡単だ。円周が62 m、つまりは1回転で62万周期を生み出せる。これが秒間200回なので、124 MHz。おお、理論上は出せる。目標とするのが10 MHzなので余裕だな。

 

「ふざけるな」

 

思わず声が出てしまう。自動車のエンジンがどれだけの設計改良と精度向上の上に作られていたと思っている。直径20 mの円盤をこれだけの速度で回転させるとなると相当な精度と制御が必要だ。なにせ末端にかかる遠心力が……1.6 MG(メガ重力加速度)?超遠心機か何かか?

 

……もう少し、マシなスケールに落ち着けよう。回転数はそのまま、直径を2 mと控えめなサイズに。加工精度を考えれば円周部分に1 mm程度の間隔でコイルか磁石を並べるのがいいだろう。それでも周囲に並ぶコイルあるいは磁石の数は6万個程度。1.24 MHz。不可能ではない……か?実際、かつての世界のタービンの回転数と大きさを考えればこれぐらいなら作れなくはなさそうだ。こんなものができるなら真空管を作るには十分な技術があることに目を背ければ候補に挙げられるな。なにせこれに必要な技術よりターボ分子ポンプを作る技術のほうが低レベルだろう。

 

力を込めて硝子筆(ガラスペン)を紙に押しつけたせいで先端から嫌な感覚が指に伝わってきた。あ、やってしまった。この硝子筆(ガラスペン)は先端が脆いのだ。研ぎ直せば一応使えなくもないが。そういえばあの職人が良い砥石を知っていると言っていたな。後でちょっと研いでもらおう。

 

「あー……」

 

背中を後ろに倒し、天井を見上げる。

 

「どうしたんですか?」

 

寝台に座ったケトが私に聞いてくる。

 

「知識と技術が足りなくてね……」

 

「これで、ですか?」

 

ケトの言葉が、少しだけ怒気をはらんでいた。おっと、嫌な予感がする。まあ素直に聞こう。

 

「いやそうなんだよ。船同士のやり取りで使いたい波の長さを安定して作れなくて……」

 

「……キイさんには、後でまとめたものを見せるつもりだったのですが」

 

ケトが厚紙で作られたフォルダを私に手渡す。中には十数枚の紙。手書きの実験報告だ。量が増えてきたのでケトに分類と要約をお願いしてもらって、それを頭に入れてからざっと目を通すようにしている。なおこの報告書のフォーマットは印刷物管理局規格である。

 

「この船と陸の距離はどうやって計測しているのかな」

 

「……追記事項に書いておきます」

 

比較的どうでもいい所にツッコミを入れてしまうが、それだけ完成度が高い。慣れていない人間の悪文なんぞ目が滑って仕方がないというのに。……たぶん統治学を学んだことのある学徒が書いたのだろう。こういうところで知的人材の豊かさを見せつけられている。まあ世界からこの都市に才能の上澄みを集めているからこうもなるか。

 

「それにしても、この距離で?」

 

海上での無線通信実験の記録だ。この図書庫の城邦では船の出入りはかなりしっかりと管理されている。その担当者の名前も報告にはあった。水先案内人か。確かに短距離の移動であれば慣れているし、少し移動する程度であればかなりの実力があるのだろう。しかしこういう人間の協力を得ることができるということは商会の中でもしっかりと行動の権利を持っているというわけか。あの実験工房は商会の管轄なので厳密には私は非公式外部アドバイザーのようなものである。開発の成功報酬は現場の技術者にちょっと奮発して出して改良の成功者は名前を出して褒めるべきだなんてことを実験工房の管理人に話してあるのでたぶん今後私から独立して動けるようになるだろう。いいことだ。

 

「陸上では既に試されていた距離ですよ。そう驚くものではありません」

 

「いや、受信側空中線(アンテナ)形状の改良案があるからそれがあったほうがいいかなと……」

 

報告には簡単なスケッチもあった。やけに上手いな。透視法は使われていないが船の特徴と空中線(アンテナ)の構築がきちんと示されている。再現実験が可能なようにとの配慮だろう。そう考えるとできるだけ速くこのフォルダは向こうに戻さないとな。

 

「キイさんが作ったものは、もう既にかなり実用ができるような段階まで進んでいます。確かに完成品というか、適したものを見せたい気持ちはわかります。否定はしません。しかし、今使えるものを出せているのは十分とは言えないでしょうか?」

 

「私がこの地の人物ならね。もっと先を知っている身としては、耐えるのが難しいのさ」

 

このタイプの送信機は混線が起こる。それは今後複雑なやり取りが行われていくだろうことを考えると次の段階に進めたいが、それができないから悩んでいるのだ。

 

「……キイさんが知っている歴史では、そういう不完全なものであっても使われていたのでしょう?」

 

「まあね」

 

グリエルモ・マルコーニが最初の大西洋横断通信をやったとされるのが1901年。リー・ド・フォレストによる三極管の発明が1906年……でよかったかな。あそこらへんは特許争いが複雑だった覚えがある。三極管の実用は1910年代か20年代。数十年の間、増幅素子なしでやっていけたといえばその通りであるが無いものは無かったのだとも言える。

 

「最近は急ぎすぎです。既に長髪の商者から言われた条件は満たしているでしょうし、ツィラさんからの依頼についても十分だと思いますよ?」

 

「そうかね……」

 

「そうです。明日は休むべきですね。休みにします。朝一番で管理局に行ってその旨を伝えてくるので、キイさんは僕が帰ってくるまで眠っていてください」

 

ケトはそう言って、私の手を取って寝台の方へと引いた。



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稟議

いつものように目を覚まし、髪が跳ねていないか確認してから雑に櫛で()く。洗髪が定期的にできないのでこうするのだ。幸いにもまだシラミは確認できていない。お湯に浸かりたくはあるが、あんなエネルギーの塊があればもっといろいろ有効活用するべきだ。排熱利用ならいいかもしれないが、まだそんな熱を出すものはない。

 

そうしてケトが部屋にいないことに気がついて、今日は管理局を休みにさせられていたのだと思い出す。ため息を一つ。まったく、自分の管理もできないとは私も酷いものだな。そりゃあまあ全てを一人でするのは無理だし、隣にいてくれる人は大切だけどさ。

 

「……帰ってくるまで、どうしよう」

 

ひとまず身体全体を動かしておく。バキバキと鳴る指と首。ケトが出ていったのが日の出直後だとすると、だいたい1時間、15刻ぐらい前か?24時間定時法でまだ考えてしまうので日時計ベースのこの世界の生活リズムは難しい。まあ、いっぱい寝ることができる冬も近づいているからいいとしよう。

 

そうだ。ケトがいないなら作業机を見てやろう。私の紙が乱雑に積まれた机とは違って、ケトの卓上は綺麗に整理されていた。衙堂の書字長が監修した事務文書作成の手引、厚紙のフォルダ、予備のペン先も入っている革製の硝子筆(ガラスペン)入れとインク壺。さて、と。フォルダの中を見てしまおう。権限的には全く問題はないはずだ。ケトのことだから、もし私に見られたくないものがあればここには持ち込まないだろう。秘密というのは自分を守るために大切なのだ。そこに突っ込むのはいい大人のすることではない。

 

実験の報告。図書納入の報告。予算利用の申請。あ、私ではなく代理としてケトのサインがある。稟議制の亜種みたな承認フローだ。上の方に書類を回していくというやり方は確かに時間はかかるし、責任の所在はいいかげんになる。しかし誰でも意見を出せるようになるし、システム的に合意形成を組み込めるというのは大きい。私の場合、部下の権限を大きくしつつそこで判断できない案件であれば私かケトの承認があればいいことになっている。少人数ならいいが、これ以上大きくなると難しいところだ。まあ稟議はちゃんと階層を形成すれば人数に対して $O(\log n)$ の時間で済むのだが。

 

っと、そんなことをしていると扉が動く音がする。

 

「起きましたか?」

 

「うん。ちょっと見せてもらったよ」

 

私はファイルと丁寧に戻す。順番と向きは変えないように。ケトがそれで覚えているかは知らないが、私は机の上のものを三次元的に捉えて記憶しているので。だから少し誰かに物を動かされると探し直すのに手間がかかるんですね。

 

「ええ。基本的に今日のうちに手続きが必要な案件はなかったので、今日は一日ゆっくりして問題ありません」

 

「問題発生時は?」

 

我々の活動はマーフィー則に従う系であるので、大抵予期していないことが起こる。それも準備していない時に。

 

「その場の班長の合議で。どうしようもなければ城邦内を探せと言ってあります」

 

「ならいいか」

 

私は背中を伸ばす。

 

「で、何をする?」

 

「何をしましょうかね。キイさんを仕事というか作業から引き離すのが目的だったので」

 

前にもこういう事があったな。まあ、私は別にいいけど。誰かに誘われるのは正直あまり得意ではない。誰かを誘うのはもっと苦手である。

 

「寝台の上でだらだらとしてもいいけど」

 

「……ええ、けれどもご飯を食べに行きませんか?」

 

「そういえば、そうか」

 

「もう昼も近いですし、多めに食べてもいいかもしれませんが」

 

「お腹、空いているの?」

 

「……はい」

 

「なら、いっぱい食べようか」

 

そんな話をしながら私は手早く身支度をする。靴もそろそろ鉄板を仕込んだほうがいいかな。工作機械を触るようになってくると足元の安全確保は重要になってくる。ああ、確かにケトが言うように仕事から離れると視野が広がるな。結局考えていることは仕事になるのだが。

 

扉を閉め、閂をかける。慣れていないと扉の裏側を見ずに開けられないので、ちょっとした防犯になっているというわけだ。ここらへんで何かが盗まれた噂はないのでたぶん問題はないが、ある程度以上のセキュリティが必要なら警備員が常にいる場所が必要だ。まあ、確か商会の倉庫とかには不寝番がいるはずなのでそういうところがいいのかな。

 

「別にキイさんの作ったものが日常をすぐに変えるわけではありませんけどね」

 

屋台への通りに向かいながら、ケトが言う。

 

「案外、見えるところでも変化はあるんですよ」

 

「と言うと?」

 

「ほら」

 

ケトは視線を路地の本売りに向ける。同じ装丁の巻物が何冊か山になって売られている。そもそも本はそれなりに高価でこんな売り方をされているのは図書庫の城邦ぐらいのものらしいが、それでも今までは同じ本をこうやって売る事は稀だったはずだ。たしかこれは算学の教本だったかな。最近は刷られる本も多くなってきたのでちゃんと読むのも難しくなってきている。

 

「……そういえば、市場流通書籍数の報告があったな」

 

「あまり仕事の話はしないようにしましょう」

 

「ケトくんが始めたんだよね?」

 

そう私が言うと、逃げるようにケトは目をそらした。



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貿易

私がいた世界では秋刀魚は目黒に限るなんて言われていたが、炭火で直焼きの魚に塩を振っただけのものがなぜこんなにも美味しいのだろう。銅葉二枚で硬めに炊かれた蒸した穀物までついてくるのでなんともお得なセットだ。滴る油を麦なのか米なのかよくわからないものの上で受け止めさせるようにして、苦い内臓をかじる。

 

「あ、苦手?」

 

「……大丈夫です」

 

少し辛そうな顔をしながらケトは腹の部分に歯を当てる。まあ、苦いのは仕方がない。大根おろしとかあれば多少は和らぐのかな。まあ私がかつていた世界のような大根をここの市場で見かけたことはない。まあ確かにあれは東洋で品種改良を重ねて作られた植物だからな。植物分布も動物分布も違うここでは無い方が自然である。

 

「……少しいい?」

 

「何ですか?」

 

「動物や植物がまとめられた本ってある?」

 

私の質問に、ケトはいくつかの本を答える。

 

「最初の2つは旅行記に付随したものですね。後半のがそれらをまとめたものです」

 

「なるほどね」

 

動物と植物に対する興味が分かれていて、さらに鉱物についてはかなり別ジャンル扱いされているそうだ。奇品収集はあっても博物学がないというのは不思議な気分だな。一応自然学というジャンルはあるが、分類というよりも地理的分布に着目したジャンルであるらしい。本草学とも違うんだな。

 

「失礼します、ここ、座ってもよろしいですか?」

 

目を上げると、少し着飾った女性が焼き魚の刺さった串を持って私に問いかけてきた。アイシャドウのようなものをつけている。あまりここらへんでは見ない化粧だ。いや大道芸人とかはしているけど、彼女のそれは比較的自然に見える範囲に抑えられている。化粧っ気というものを持っていない私には詳しく分からないが。

 

「構いませんよ」

 

私は少しケトの方に身体を動かす。まあ別に座るスペース自体はあるのだけれども。

 

「旅の方ですか?」

 

ケトが私越しに彼女へと声をかける。

 

「ええ。商売でこの城邦に今日来た所です」

 

落ち着いた声。安心できるな。

 

「あなたがたは?」

 

「数年ほど前にここへ。図書庫の城邦はどうですか?」

 

「いい所です。品物は多いし、本は読みやすいし」

 

「と、言いますと?」

 

「文字が綺麗に揃っているんですよ、知りませんか?」

 

あ、普通に活版印刷の話か。まあその仕掛け人なので知らないはずはないのだが。それにしても今日はそういう話が多いな。

 

「そういうものなのですか。興味深いですね」

 

私はちょっと気になったので、あくまで知らないフリを通す。少しむせたようなケト。

 

「ちょっとすみませんね。大丈夫?喉に骨とか刺さってない?」

 

「ええ……問題ありません。話を遮ってしまって申し訳ないです」

 

ケトは私を挟んで彼女から見えない角度で視線を送ってくる。疑問かな。不信はない。私は小さく、ちょっと邪悪さを込めた笑いで返す。

 

「二人は夫婦(めおと)で?」

 

お、ここらへんの東方通商語ではあまり見ない表現だ。意味はわかるけれども。

 

「違います。……が、まあ似たようなものかもしれませんね。私は司女をしていますから」

 

「……そういうことですか。すみません」

 

司女と司士の関係についてはわかっているのか。ちょっと探りを入れてみよう。

 

「ところで、どういう商売を?」

 

「道具商をやっています。まあ、私はあくまで補佐にすぎませんが」

 

それにしては結構飾っている気がする。ここのファッションは質素とまでは言わないが彼女のように金の鎖を使った手首の飾りみたいなものはあまり見ない。まあ、銀とかのほうが手入れが難しいのでそちらのほうがステータスになるのかもしれないが。そこらへんの知識はない。

 

「道具ですか。具体的には?」

 

「腰に吊るようなのを」

 

そう言って彼女が微笑む横で、ケトが私の耳に口を寄せる。

 

「剣のことです」

 

おや、そういう慣用表現なのだろうか。なら私が知らないのも仕方がないな。

 

「となると、顧客は巡警ですか?」

 

「少し違うけれども、まあ似たようなところよ。ここだけの話、最近鋼が安くなったから今のうちに売ろうかと」

 

「賢いですね。ところで、なぜ安く?」

 

「詳しくは知らないけど、炉が良くなったと聞いているわ」

 

「そういえば、どこから来たのです?」

 

「鋼鉄の尾根、と言えばわかるかしら」

 

地名なのだろうが私には一般名詞に聞こえるな。まあ地名とは得てしてそういうものだが。

 

「ここから船で一月ほど行った場所にある地ですよね。良い鉄が取れ、一流の人が使う道具が鍛えられるという」

 

ケトが言ってくれる。ああ、なるほど。そういう地域か。名前のまんまだな。図書庫の城邦に住んでいる人間が言えたことではないか。

 

「そう。まあ、今回は大きな刃物だけではなくて様々なものを扱っているから、もし欲しいなら少し安く売るわよ」

 

「いいんですか?」

 

「この城邦はかなり久々なの。こういう話をできる友人もいないし、勇気を出して声をかけて面白い話ができてよかった」

 

まあ、こう言われると悪い気はしない。そこまで面白い話ができたかは分からないが、会話の内容よりも会話をしたという事実が重要なタイプなのだろう。そういう人もいる。まあ、かなり理性的な人であったし話すのも上手い。私とは違うのも当然だろう。

 

「それじゃあ、二人ともいい一日を」

 

彼女はそう言って、綺麗に頭と骨だけになった魚を持って去っていった。



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冊子

値札を見ていくと、この世界での経済がわかる。例えば服は銀片数十枚だ。これを銀片数枚にまで安くする方法はあるが、実現するのは楽ではない。一応紡績機も織機もミシンも構造は覚えている。構造として、一つ作るだけであれば不可能ではない。部品一つ作るのに銀片が飛ぶような代物になるだろうが。それに修理も整備も必要だ。動力も考えなければならない。そして糸と織物は農村における現金収入源の一つだ。これを奪うとなると夜道で刺される。なのでできれば農村で整備可能なレベルの部品供給網とか操作人材の育成ができる知的基盤とかの方向で行きたいのだが、それは数十年で行けるか怪しいレベルだ。

 

「新しい服が要りますか?」

 

布地を見ていると、隣からケトが聞いてきた。

 

「……普段着としてはいらないけど、作業用に欲しいかもしれないな」

 

「特注品になりそうですか?」

 

「たぶん、ね」

 

回転部分に巻き込まれないような袖、尖った部品から肌を守る厚手の生地、そして動きやすく、洗いやすいこと。まあ普通に綿があればそれでいいのだが。……繊維作物もちゃんと確認できていないな。やはり手元の資源をきちんと確認しておく必要はある。それに合わせて技術も変えていかねばならない。かつての世界における産業革命は木綿織物を中心に広まったが、裏には植民地があった。これは正直あまり良くない。下手に地域経済差に依存したシステムを作るとそれを無くすには数百年かかるのだ。なら起こさないのが一番である。産業革命をできるだけ小規模なものにする必要がある。全く、厄介だ。

 

「まあでも、鋼が安くなったのはいいことだ」

 

「……去年ぐらいに話した、あの方法ですかね」

 

「かもね。詳しくは知らないけれども」

 

転炉というか、溶けた(ずく)に空気を吹き込むことで炭素濃度を下げて鋼を得る方法。まあ実際は鉱石によっては特殊な煉瓦で炉の内張りをしたり、鏡銑(スピーゲルアイゼン)を混ぜたりと試行錯誤が必要なのだがそれでも実際に安くなっているということは徐々に成功しているのだろう。私の記憶にある方法はある程度伝えているのでそこらへんで色々とショートカットできているといいが。そうだ、もし機会があればあの人経由で実際の鉄生産の様子を聞くのもいいな。人脈は有効活用せねば。

 

「それにしても鋼で機械を作るというのは、実際に口にすると意外ですね」

 

「そうなんだ。私のいた場所だと鉄と鋼を区別して使わないぐらいだったから」

 

「……信じられませんね」

 

まあ、ケトからすれば黄金の食器であるとか銀の糸で編んだ服とかみたいなイメージなのだろう。確かに変な気分だ。

 

「そろそろ加工装置に手を出すかな」

 

そんな話をした私たちの足が止まる。束ねられた紙と、その上に載せられた値札。売り主は目深にフードをかぶっている。

 

「ほう」

 

これは法に定める本ではない。自費出版の類だろうか?

 

「見せてもらおうか」

 

「あぁ?学徒向けのものだ、あんたみたいな齢であれば不要だろ」

 

「おや、心外だね。これでも君が思っているより若いのだ」

 

私は積んだ銅葉を相手の前に置く。まあ相手が私を何歳ぐらいと思ったかは知らないが金を渡せば黙るだろう。

 

「……これを作ったのは?」

 

「知らねぇよ、俺は売るだけだ」

 

「ふうん」

 

内容は意外なものだった。講師のリストだ。活字のかすれからして、あまり慣れていない人が組んだのだろう。印刷機の台数から考えて、少し調べればどこで印刷されたものかは特定できる。しかしこれは別に違法行為でもなんでもないからな。製本された巻子本以外は本ではないという見解は特に問題ないとして法務審議会が認めたのだ。

 

「一冊いただこう」

 

「毎度」

 

ぶっきらぼうに売り主は言う。まあ、あまり表立ってやり取りはしたくないのだろう。

 


 

昼ちょっと過ぎに、私たちは部屋に帰ってきた。

 

「読んでもいいですか?」

 

ケトが私の胸元を見て言う。ああ、そうだった。違和感の原因だった冊子を私は懐から取り出す。

 

「と言っても内容自体はケトくんのほうが面白いんじゃないかな」

 

書かれているのは講師の教えている内容、価格、そしてその評判。人によっては短文でちょっとしたコメントがついている。なかなかレイアウトはよくできている。これを作るには暇な学徒がそれなりに必要だ。需要はあるだろう。まったく、休日だというのに面白いものが見つかって仕事のネタになりそうだ。

 

「こんなものがあったんですね……」

 

「巡警の人は、たぶん本の形のものしか確認をしていないよ」

 

人間は探そうとしているもの以外を探すことは難しいのだ。

 

「うーん、とはいえ自分で探すのも大変だしな……」

 

「面倒くさいんですか?」

 

「いや、私以外に適任者がいるというだけ」

 

あの頭領府から来ていた女性の局員にでも頼もうかな。図書庫の城邦の諜報ネットワークを使えばそういうものを探ることもできるだろう。

 

「キイ局長はいるか?」

 

私とケトはびくりと背中を跳ねさせる。聞き覚えのある声。扉を叩く音。

 

「……なんですか、今日はキイさんはお休みですよ」

 

ケトがそう言いながら、小さく扉を開ける。

 

「いますぐ来てくれ」

 

そこには、ツィラさんの部下であるあの女性が慌てた顔をして立っていた。



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盗聴

「で、何があったのさ」

 

私は小走りで商館のある方に向かう局員を追いながら聞く。

 

「要注意人物がこの城邦に入りました」

 

「詳しい情報はある?」

 

「後で見せます。中年の男性で、これといって特徴は無いのですが」

 

「なかなか難しいな」

 

私は視線を横に向ける。ケトは何事もないように私たちの隣についてきている。私はちょっと足が限界に近い。運動不足が祟っているな。

 

「それで、キイ嬢の作っている電気によって声を伝える機構がありますよね?」

 

「なんでいきなり?まだ実験中だけど」

 

「使えますか?」

 

「まあ、無理ではないはず」

 

実用化というか商品化のためには長距離での伝送とマイクの周波数特性に癖があるのでそこが問題だが、逆に言えば建物一つの中程度であれば今でも問題なく利用可能だ。

 

「構いません。ところで、危ないことに手を貸す意志はありますか?」

 

私は少し思考を巡らせて、一つの仮説を出す。

 

「その要注意人物が、誰かと話すの?」

 

「ええ。それを聞こうかと」

 

盗聴だ。なかなか面白いことを思いつく。私は今の今まで炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)をそう使うという発想はなかったぞ?

 

「技術面では手を貸すよ。けれども聞き取る内容自体については関わりたくない」

 

「相手の狙いはおそらくキイ嬢です。嫌でも関わることになるかと」

 

「どうしてわかるの?」

 

「商会と衙堂でキイ嬢について聞いてきた人物がいました。詳しい特徴については記憶が曖昧らしいのですが、考えるに同一人物かと」

 

「なるほどね」

 

他国の諜報機関から手が伸びるのは技術系では珍しいことではない。大抵は機密のヴェールの裏で方がつけられるが、歴史の表舞台に現れた例もある。水力紡績機の設計図を頭に入れてイギリスからアメリカに渡ったサミュエル・"裏切り者(トレイター)"・スレーターや同じように力織機を手ぶらで持ち出したフランシス・キャボット・ローウェル、清からのチャノキ密輸出に成功したロバート・フォーチュン、あるいはローゼンバーグ夫妻を始めとするソ連の協力者。彼ら彼女らはアメリカにおける産業革命の先駆者であり、インドにおける紅茶生産の貢献者であり、そして連邦の英雄であった。裏返せばイギリスの利益を簒奪し、清の国際貿易における地位を失墜させ、核戦争のリスクを高めたのであるが。

 


 

私がお願いすると、あっけなく実験中の設備類を貸してもらうことができた。いきなり当局がやってきてそんな事をしたら普通は大問題になるが、私の案件ならまあ問題ないだろうという変な信用のおかげで助かった。もちろん頭領府から出向している局員が商会側に色々話を通してくれたのもあるだろうが。まあ、終わったら借りたものはちゃんと返すように私が強く主張するのでたぶんなんとかなるだろう。東京湾や大阪湾の藻屑になることはないはずだ。

 

「場所はここでいいですか?」

 

まあ配線とかは私の手でやることになるのだが。商館が持つ宿泊施設の一つに盗聴器を仕掛ける簡単なお仕事である。配線は床下や壁を通して隣の部屋に繋がり、そこで数人の人がかわりばんこに話を聞くわけだ。まったく、大変なことで。本当であればレフ・セルゲーエヴィチ・テルミンのThe Thingみたいな物を作りたかったが、あの受信機を作るためには増幅素子が必要である。

 

会話が行われるだろう場所を中心にマイクを配置していく。一部は感度が高すぎるという評価がついていたが、まあ別にいいだろう。ノイズを聞くのは私ではない。軽く高域通過濾波器(ハイパスフィルタ)がわりの可変容量蓄電器(バリコン)を噛ませてあるので発狂するほどではないはずだ。

 

「大丈夫。まだ帰ってくるには時間があるはずだけれども、早めに撤収しましょう」

 

そう言うのは久しぶりにあったツィラさん。図書庫の城邦が持つ諜報ネットワーク「刮目」の元締めだ。こんなところにまで直接顔を出すあたり、たぶん人数が根本的に足りないのだろう。国家保安省(シュタージ)めいてパーセントレベルの協力者を抱えていているわけではないし、構成員はたぶん百人いるかどうかといったところ。

 

「聞こえますか?」

 

私が声を出すと、隣の部屋から壁を叩く音が聞こえた。問題なさそうだ。

 

「通信来ました。まもなく帰ってきます」

 

扉から入ってきた人がツィラさんに言う。なんと無線通信まで使いこなしている。実験工房の技術者の中に「刮目」の構成員がいたらしい。まあ別にいいが。一応このせいで無線使用の制限がかかっているが、そもそも無線送信機は数えるほどしか無いのであまり問題ない。

 

「退散!」

 

ツィラさんが手を降って最終確認を済ませる人達に言う。

 

「これって、私もいたほうがいいですか?」

 

「いいえ。あなたはこの後実験工房に寄って、しばらくしてから何事もなかったかのように帰ってもらえる?」

 

「はいはい」

 

私は少し不満そうな演技をする。

 

「……今回の件について、埋め合わせは必ず」

 

それに応じてか、ツィラさんが言う。

 

「なら調べてほしい人がいます。それと、今回使用した装置類の感想を頂ければ」

 

「わかったわ」

 

「ケト君、それじゃあ出ようか」

 

「……ええ」

 

そう言うケトを連れて、私は扉をくぐる。ふと後ろを見返すと、確かに何かが仕掛けられている気配は感じられない、ある程度品のいい客室があった。



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第12章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。人名をカタカナで書いている時にこれでいいのかとツッコミを入れたくなるような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


秘密

「沼から出る泡を溜めといて、そいつをふいごで吹いたところに火をつけるんです」

メタンは都市ガスの主成分であり、燃焼によって高温を生み出す。温度を計算するとなるとエンタルピー変化から断熱火炎温度を導く必要があるが、ざっくり1800℃である。なお、このような方法で集めたメタンをガラス細工に使う例は歴史的に作者の知る限り無い。

 

地理的にはナトロンが取れる地域にも近い。

ナトロンはナトリウムの炭酸塩を主成分とする鉱物。古代エジプトの頃から使われていた。かつて海であった乾燥地域で産出されることが多い。

 

ガラスの筒に封入された、二つの金属とその隙間の金属粉末。

コヒーラは改良が繰り返されたが、ここでキイが示しているものはグリエルモ・マルコーニによって作られたものとよく似ている。

 

最初期の電波検出器、コヒーラである。

金属粉末に高周波を流すと「密着(cohere)」すると考えられていたことからこの名前がついた。

 

検出

並進対称性を持つような電子配置でのシュレディンガー方程式を解けばいいんだったっけ?

クローニッヒ・ペニーのモデルのこと。作者はキッテルをちゃんと読んでいないのでここらへんは適当である。

 

ラルフ・クローニッヒが関わっていることは覚えている。

ラルフ・クローニッヒはドイツの物理学者。パウリの排他原理の基盤となる「スピン」の概念を提唱したが、これはその原理の発案者であるヴォルフガング・パウリに否定されている。なおその数カ月後、独立にジョージ・ウーレンベックとサミュエル・ゴーズミットがスピンの概念を出したのでこちらのほうが有名になっている。

 

よし、本当に一発で成功するとは思っていなかったので拍子抜けだ。

グリエルモ・マルコーニはここだけで結構苦労している。やはり未来知識というのは強いですね。ご都合主義とか言わない。

 

空中線

手元には受信機、そして望遠鏡と組み合わせた回照器(ヘリオトロープ)

回照器(ヘリオトロープ)はヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスの発明品。数学分野以外にも統計や測量、電磁気の分野で功績を残している。まあそれでも数学寄りと言えばそうなのだが。なおキイの設計はウィリアム・ヴュルデマンのデザインに似ている。

 

私はまあ昔からGitで管理していたけどさ。

Gitはオープンソースの分散型バージョン管理システム。イメージとしては分岐を繰り返しながらセーブとロードをできるようなもの。途中経過も保存されるので、データ容量は大きくなる。

 

素材

まあでも起源はハリー・テオドール・ニュークヴィスト(ナイキスト)とかラルフ・ハートレーだし、電信の技術発展が数学の成熟より遅れていたことを考えると別に遅くはないか。

ニュークヴィストはスウェーデン語読み。ナイキスト周波数やナイキスト線図に名前を残している。

 

場合によってはカール・フリードリヒ・ガウスが作っていてもおかしくはない理論だが。

一応、彼は電磁気学の知識を用いて電信機の開発を行っている。

 

その数学的背景は決して簡単ではないが、重要な要素である対数についてはもう存在している。

シャノン=ハートレーの定理として知られている定理はノイズ混じりの通信でどれだけの情報を伝えられるかを示しているが、これには底が2となる対数が現れる。

 

高温で劣化し、電流を流しすぎると使えなくなるし、逆電流も大きい。

ダイオードのような電気を一方的に流すことが期待される素子であっても、実際は逆方向の電流を完全に遮ることはできない。この時に流れるのが逆電流である。

 

あとはこの電流を振動か何かに変換するものがあればいいのだが、それには電磁石を使うなり酒石酸カリウムナトリウムを使うなりすればいい。

酒石酸カリウムナトリウムはロッシェル塩のこと。「クリスタルイヤホン」のクリスタルはこれである。

 

科学史ではなく技術史や産業史の領分に入ってきて、企業が公開していないノウハウがある分野に足を突っ込み始めてきた。

さすがにOCRのかけられていない古い特許を漁るのはきつい。

 

コチニールカイガラムシはまだ見かけていないので色々試すしかなさそうだ。

コチニールカイガラムシでなくともラックカイガラムシやケルメスカイガラムシからコチニール色素を得ることができる。これはいわゆるクリムゾンと呼ばれる赤色で、細胞核(具体的には核酸)の染色に用いることができる。

 

伝声器

今まで真空管かトランジスタかと考えていたが、こっちの方面もありそうだ。

調べるとネタは結構出てくるんですよね……。

 

まあ伝声管を使えと言えばそれまでかもしれないが。

管の中での粗密波は減衰が少ないので、パイプを通した声は遠くまで届く。これを利用したのが伝声管であり、構造はとてもシンプルである。古い船などに搭載されていた。

 

これをちゃんと理論的に説明するのはとても大変なのでやめておくが、これが整流作用を示して前作った酸化銅整流器と同じような働きをしてくれる。

ヴォルフガング・パウリの言葉とされる「表面は悪魔が作った」という言葉は作者の確認できた限りちゃんとした出典がない。どいつもこいつも雑な引用をしやがってよ……。

 

拡声器

というより、炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)の発明者の一人とされるイギリスのイギリス系アメリカ人、デイビッド・エドワード・ヒューズがヘルツより先に炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)を使って電波を検出していたのではないかという話もあるぐらいだ。

デイビッド・エドワード・ヒューズはイギリスで生まれ、アメリカに移住し、イギリスで研究を行った。

 

選択と集中というのは方針決定後にやるべきものである。

まあその方針が正しいという保証はどこにもないのであるが。

 

有名なところではタコマ橋の崩壊がある。

1940年11月7日、アメリカ合衆国ワシントン州にあったタコマ海峡(ナローズ)にあった橋が崩壊し、犬が一匹死んだ事故。この崩壊の様子はカラーフィルム映像で記録されており、貴重な資料となっている。

 

後藤英一のパラメトロンの励振周波数はメガヘルツ程度だったが、あれは確かフェライトコアが使われていた。

東京大学理学部高橋秀俊研究室によって作成された電子計算機「PC-1」の励振周波数は2.3 MHzである。

 

不満

「ふざけるな」

なお、キイが考えているのと同じような原理を使ってアーンスト・アレキサンダーソンの作ったアレクサンダーソン交流発電機(オルタネーター)では20 kHz程度を出していた。今でもスウェーデン、ヴァールベリのグリメトン・ラジオ無線局で年に一回、最後の動態保存されているアレクサンダーソン交流発電機(オルタネーター)がモールス信号を送信している。

 

なにせ末端にかかる遠心力が……1.6 MG(メガ重力加速度)?超遠心機か何かか?

超遠心機はだいたい1000000 Gなのでだいたいそれくらい。なお、当然ながら事故ると悲惨なことになる。

 

稟議

まあ稟議はちゃんと階層を形成すれば人数に対して $O(\log n)$ の時間で済むのだが。

エトムント・ゲオルク・ヘルマン・ランダウの名にちなむランダウ記法と呼ばれる書き方。ここでは $n$ が大きくなってもかかる時間はそこまで増えないことを表している。

 

我々の活動はマーフィー則に従う系であるので、大抵予期していないことが起こる。

この言い回しは物理学などで対象とする(system)について言及する時のもの。「古典力学に従う系」などというように使う。マーフィー則については皆さんご存知でしょう。

 

貿易

私がいた世界では秋刀魚は目黒に限るなんて言われていたが、炭火で直焼きの魚に塩を振っただけのものがなぜこんなにも美味しいのだろう。

落語「目黒のさんま」より。

 

まあ、銀とかのほうが手入れが難しいのでそちらのほうがステータスになるのかもしれないが。

「手入れをする人を雇える」という意味になる。

 

冊子

例えば服は銀片数十枚だ。

ここらへんの値段は古代中国の資料を参考にしたりしている。

 

まあ実際は鉱石によっては特殊な煉瓦で炉の内張りをしたり、鏡銑(スピーゲルアイゼン)を混ぜたりと試行錯誤が必要なのだがそれでも実際に安くなっているということは徐々に成功しているのだろう。

「特殊な煉瓦」はシドニー・ギルクリスト・トーマスおよびパーシー・カーライル・ギルクリストが開発した転炉に用いられた塩基性耐火煉瓦のこと。「鏡銑(スピーゲルアイゼン)」はマンガンを含む合金で、溶け込んだ酸素の除去に用いる。

 

盗聴

水力紡績機の設計図を頭に入れてイギリスからアメリカに渡ったサミュエル・"裏切り者(トレイター)"・スレーターや同じように力織機を手ぶらで持ち出したフランシス・キャボット・ローウェル、清からのチャノキ密輸出に成功したロバート・フォーチュン、あるいはローゼンバーグ夫妻を始めとするソ連の協力者。

サミュエル・スレーターはイギリスでは「Slater the Traitor(裏切り者、スレーター)」と呼ばれている。キイが言ったような記法で呼ばれている例はないが、かっこいいので。ジュリアス・ローゼンバーグとエセル・グリーングラス・ローゼンバーグのローゼンバーグ夫妻はソ連に原子爆弾の製造に関する情報を流したスパイであるとしてFBIに逮捕され、電気椅子による死刑判決が下った。当初はでっち上げによる冤罪であると言われていたが、ソ連崩壊後に行われた暗号解読計画「ヴェノナ」によって結果本当にスパイであったことが判明した。

 

東京湾や大阪湾の藻屑になることはないはずだ。

第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官・総司令部による日本の持っていた5台のサイクロトロンの破壊と処分を踏まえたもの。これのせいで日本の物理学研究は停滞した。なお核兵器製造に使えるということでの処分であったが、アメリカの科学者たちはそれを否定し、破壊に反対したという。

 

本当であればレフ・セルゲーエヴィチ・テルミンのThe Thingみたいな物を作りたかったが、あの受信機を作るためには増幅素子が必要である。

レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンは電子楽器テルミンの発明者としても知られるソ連出身の物理学者にしてスパイ。The Thing、あるいはThe Great Seal bugと呼ばれる盗聴器の開発にも携わった。これはモスクワのアメリカ大使邸に設置されたが、アメリカ側は電波を検知できてもその隠し場所は長らく特定することができなかった。実際には贈答品の木彫りのアメリカ合衆国国章の中に仕込まれていたのである。可動部品が少なく、マイク代わりのコンデンサが外部から送られてきた電波を変調して再送信するという単純な構造であるため長持ちした。

 

軽く高域通過濾波器(ハイパスフィルタ)がわりの可変容量蓄電器(バリコン)を噛ませてあるので発狂するほどではないはずだ。

高域通過濾波器(ハイパスフィルタ)は高周波のみを通す回路のこと。基本的にはコンデンサが用いられる。バリコンはバリアブル・コンデンサの略。

 

国家保安省(シュタージ)めいてパーセントレベルの協力者を抱えていているわけではないし、構成員はたぶん百人いるかどうかといったところ。

2000万人弱の人口を持ったドイツ民主共和国の諜報機関であった国家保安省(シュタージ)は、最盛期には協力者も含めれば20万人を超える関係者がいたという。



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第9章~第12章 まとめ
経歴


つまりは某researchmapのようなやつです。矛盾とかあったら教えてください……。


███ ██

イ██ █キ (█ki I██)

 

基本情報


所属:

総合研究大学院大学 文化科学研究科 産業技術史研究専攻 博士後期課程

国立産業技術史博物館 リサーチ・アシスタント

 

学位:

学士(文学) (20█年3月 国立██大学)

修士(史学) (20█年3月 国立███大学)

 

連絡先:

██████@ml.soken.ac.jp

██████@sanhaku.ac.jp

 

主要な研究キーワード


近代科学史 現代技術史 日本工業史 計測工学史 工業教育 科学技術政策 科学技術社会論

 

研究分野


人文・社会 / 科学社会学、科学技術史

人文・社会 / 科学教育

人文・社会 / 日本史

ものづくり技術(機械・電気電子・化学工学) / 計測工学

 

経歴


20█年4月 - 現在

国立産業技術史博物館 リサーチ・アシスタント

 

20█年4月 - 20█年3月

独立行政法人日本学術振興会 特別研究員(DC1)

 

学歴


20█年4月 - 20█年3月

████████工業高等学校 機械科

 

20█年4月 - 20█年3月

国立██大学 文学部 人文学科

 

20█年4月 - 20█年3月

国立███大学 ██████研究科 ████████専攻 修士課程

 

20█年4月 - 現在

総合研究大学院大学 文化科学研究科 産業技術史研究専攻

 

受賞


20█年2月

ジュニアマイスター特別表彰 公益社団法人全国工業高等学校長協会

 

20█年6月

学会賞 日本工業史学会

 

20█年6月

奨励賞 日本科学技術政策学会

 

論文


中等工業教育における史的教材活用の一例

███████████████████████████ (20█)

 

出典の探究 : 作られる科学者の名言

████████████████████████ (20█)

 

███████エンジンの修復:科学技術史に対する実験考古学的アプローチの一例

██████████████████████████████ (20█)

 

日本における電流精密測定技術の発展

███████████████████████████████ (20█)

 

書籍等出版物


(翻訳) 新訳 デ・レ・メタリカ

(担当:分担翻訳, 「第12巻」「現代におけるゲオルグ・アグリコラ」)

████ 20█年█月 (ISBN: ██████ )

 

産業に対する「選択と集中」政策の評価と影響

(担当:分担執筆, 「第3章 研究開発」)

██████ 20█年█月 (ISBN: ██████ )

 

学術貢献活動


国立産業技術史博物館特別展「うごかしつづけるために」展示協力

20█年11月

 

講演・口頭発表等


工業高等学校における教育道具の変遷──████████工業高等学校の史料を通して

█████████████ 20█年█月█日

 

産業移転における技術的制約

███████████████ 20█年█月█日

 

科学技術分野における国家的撤退戦略についての試論

██████████████ 20█年█月█日



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正体

非公式な盗聴記録、専門家の分析、関係者の証言を元に構成してます。


「まるで、獣の顎門(あぎと)の中のようだと思わないか?」

 

軽く壁を叩きながら、冴えない男が言う。

 

「それ、どういう意味?」

 

寝台の上で、疲れたように横たわる顔立ちの整った女が返す。

 

「あちらさんがお疲れでしょうと宿を用意してくれた。わざわざ断るのも失礼になるようにな」

 

「つまりは、仕込みがあると」

 

「そういうことだ。まあ、声が通じるほど薄い壁でもないらしいが」

 

良い材を使っているのだろう。鈍い反響が静かに聞こえるだけだ。これなら向こうから強めに叩いて音が聞こえるかどうかだろう、と男は考える。それでも、一部だけ壁が薄いということは考えられるのだ。用心を重ね、彼は確認を続ける。

 

「盗み聞きはされていそうにない、と」

 

「そうだ。まあ、床や天井に耳でもつけられていれば話は別だが、おそらくそういう造りでもない」

 

「用心深いわね」

 

「命が惜しければ、君もこういうことに慣れるべきだ」

 

「『大物顧客』に直接会って来たのよ?もう少し労いの言葉をかけてくれてもいいのに」

 

物憂げに女はため息をつくが、男は意に介さずに別の壁に向かう。

 

「その話は、後でゆっくり聞こう。こちらも少し街を回ってきた」

 

「どうだった?」

 

「事前に伝えられていた通りだった。まるで正体がつかめない」

 

一通り確認して満足したのか、男は寝台に座り、声を潜めて話した。

 

「へぇ。私も同じ感想」

 

女は男の背中から抱きつくように腕を回す。

 

「……まずは、そちらの見解から聞こうか」

 

「こんないい女に肌を当てられて、仕事の話?」

 

女は男の耳に口を近づけて言う。

 

「人間の熱に興味が持てなくてな」

 

「ふうん、嫌なら離れるけど」

 

「好きにしろ」

 

「そう、ならこのままで」

 

女は少し腕を緩める。

 

「二人で行動していた。『顧客』は司女を名乗った。とすると、『部下』は司士かしらね」

 

「彼女は衙堂の人間だった?図書庫に通っているのではなかったのか?」

 

「さあ。初対面の相手に仕事場を明かしたくなかったのかも」

 

「実際の所、司女だと思うか?」

 

「それにしては教養は感じられないのよ。最近の本も読んでいないようだし」

 

「本当に『顧客』なのか?」

 

訝しむように男は言う。

 

「靴を履いて、少年を連れた女性なんてそうそういないわよ」

 

「なるほど。だからこそ、それを逆手に取られた可能性はあるが……」

 

「考えすぎじゃない?私には油断ならない相手に思えた。たぶん本人よ」

 

「というと?」

 

「『部下』のほうはかなりやり手。護衛ってほどじゃないけど、悪くない身体をしていそう。その彼と相当に仲がいいように見えた」

 

「……仕事の関係では、ないと?」

 

「勘ではそうね。もっと強い信頼関係がある。ただ、いわゆる衙堂の関係ではなさそう」

 

女の言葉に、男は眉を動かす。

 

「ほう」

 

「文字通りの『衙堂の関係』なのかもしれないわね」

 

「……どちらにしろ、『部下』はやはり今回の『貿易』で考慮に入れるべきか」

 

「ええ。それと、『顧客』が一番興味を持ったのは道具だったわ」

 

「職人か。確かにそういう話も聞いた」

 

「え?図書庫の書官だという話だったはずだけど」

 

「不確かだが、文字版印刷を行う最初の印刷機を作ったともいう」

 

「なるほど、それにしては文字の揃った本の話を出しても動きが弱かったように思えるのよ」

 

「不確かな情報を元に議論するべきではないな。もう少し固めたい」

 

「そういえば、そちら側の聞き込みはどうだったの」

 

女が言うと、男は深く息を吐いて身体を後ろに倒す。女はすっと横に動いて、押しつぶされることを回避した。

 

「図書庫では印刷物管理局なる部署の宰をしているようだ」

 

「へえ、どのくらいの大きさの部署?」

 

「20人ほどだろう。ただ、人の出入りはかなり多いそうだ」

 

「そんなに人数がいるなら、偽の看板を用いて実際の行動を隠しているのかも」

 

「可能性はあるな。一方で、商会側の建物は立ち入るのは難しそうだ」

 

「なにか貴重なものを扱っている?」

 

「わからん。ただ、出入りする人を見るに職人に思える」

 

「何を作っているのか、聞き出そうか?」

 

「寝るのか?」

 

「そこまでしなくとも、酒場で何杯か飲めば人の口は軽くなるものよ」

 

「……そうか。任せる」

 

「苦手そうだものね」

 

「『適した所に、適した人間を』*1、という言葉を知らないのか?」

 

「『弱みより逃げるは愚人』*2よ」

 

「『強みを用いるのが賢人』*3と続くが」

 

「あなたがそういう人物かどうか、私は知らないから」

 

互いに顔を見合わせ、男と女はにたりと笑う。

 

「いずれにせよ、油断ならない相手だ」

 

「文字版印刷、商会の拡大、そして吹込み炉……。あの長髪の裏で糸を引いているとしてもおかしくはない、けど」

 

「少なくとも、外れではないはずだが」

 

「なんでわかるの?」

 

()けられていた」

 

「へえ。相手もやるわね」

 

「すぐに撒いたさ。ただ、向こうにこちらの動きが読まれているかもしれない」

 

「気を引き締めます」

 

女は寝台から立ち上がって言う。

 

「そうだな。少し休んだら、馴染みに顔を出しに行くか」

 

「表の仕事もやって、『貿易』もやって。銀片をいくら積まれたってこんな仕事、やるもんじゃないわね」

 

「愛用の剣をこれ以上血に濡らしたくはないからな、あまり軽はずみなことを言うなよ」

 

「はいはい」

 

女は口調は軽く言ったが、目はあくまで今後の仕事の予定を練る真剣なものだった。

*1
聖典語。

*2
古帝国語。

*3
古帝国語。先に女が言った部分に対する対句。




活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=284494&uid=373609


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第13章
工作員


「局長、報告です」

 

何事もないように、昨日会った頭領府から来ている局員が言う。渡されたファイルは印刷物管理局規格のものだが、紙質が微妙に違う。

 

「これは、読んでいいものなの?」

 

表紙には管理番号と人名。知らないフォーマットだ。

 

「ええ。ただ、読み終わったらできるだけ早く返して下さい」

 

「わかった」

 

中に入っているのは調査書のように見える。複数の筆跡。ある程度時系列順に整理してはあるが、一貫したものではない。まあ、別に読むのに問題はないが。

 

通称「鋼売り」。鋼鉄の尾根と呼ばれる一帯を中心に活動する商会。傭兵派遣、物流確保、身代金交渉まで何でもやるが、基本的には鋼鉄およびその加工製品の製造・販売を行っている。面白いところだ。長髪の商者とは微妙な利害関係がある。

 

「なるほどねぇ、確かに私の存在は気になるな」

 

図書庫の城邦に入ってくる鉄と鋼においてある程度の割合にこの商会は噛んでいる。この世界でも鋼は重要な材料だ。構造材料に使えるほどの生産量はないが、多くの道具に使われている。確かにここを敵に回せば面倒なことになるが、力を持たせすぎても厄介になるだろう。

 

いまこの城邦に来ているのは二人。一人はデナイリストに突っ込まれかけている、危ない方法で秘密を盗む男性。これといった特徴がないので探すのも大変らしいが、局員の一人が顔を覚えていたのでわかったそうだ。あ、風貌のスケッチがある。私の知っている写実的なものとはまた別だが、まあなんとなくはわかる。

 

写真があったほうがいいかもな。前に書いたメモを引っ張り出す。トゥー嬢に投げようと思って忘れていたものだ。必要なものは硝膠(コロジオン)、硝酸銀、チオ硫酸ナトリウム、硫酸鉄(II)、ハロゲン化合物、硝子(ガラス)板。チオ硫酸ナトリウムは濃水酸化ナトリウム水溶液に二酸化硫黄を吹き込んで硫黄を足せば作れる。まあ配合がかなり面倒だった記憶があるな。一応コロジオン湿板は扱ったことがあるし、写真機も見たことはあるが再現は厄介。未使用のフォルダを取り出し、トゥー嬢の名前を書いたラベルをスリットにはめる。毎回新しいフォルダを用意するのは無駄なので、ちょっとしたやり取り用にはこういう再利用可能なフォルダを使っている。規格化はこういうところでも便利なんだよな。

 

脇道にそれていた思考を戻す。合計で二人ということは、もう一人来ているのか。女性。詳細不明。はい。まあ、詳しいことはわからないか。おそらくキイと接触済み、と。……まさか、昨日のあの焼き魚食べていた女性か?というかなんで接触したことがわかっているんだよ。盗聴かな。まあいい、相手を知ることはできた。私は席を立つ。

 

「ありがとう」

 

ファイルを返すと、局員は私を廊下に行くよう無言で指で示した。

 

「この女性に心当たりはありますか?」

 

「昨日会った人だと思う。」

 

「どうでしたか?」

 

「綺麗でなかなか理性的な女性に見えた。今の時点で言えるのはそのくらい」

 

「わかりました。私たちはあなたとケト君が狙われることを危惧しています」

 

「どのぐらいの意味で?生命を?それとも拘束して秘密を聞き出すという形で?」

 

「不明です。今晩、関係者との情報共有を兼ねた夕食会を開くつもりです。小さなものですが、来ますか?」

 

「行こう。信頼できる人間に迎えに来てもらうことはできる?」

 

「できます。巡警を一人、派遣しましょう」

 

局員はテキパキと今後のプランを立ててくれる。

 

「……ところで、相手の狙いはわかる?」

 

「いいえ。しかしこちらから危険視されていることは把握しているでしょう」

 

「そこまでして私を狙う必要は?」

 

「鋼の生産について他の商会から影響を受けたくないのでは、との分析が」

 

「……それは、生産方法を変えたくないから?」

 

「違うと思います。こちらの情報では大規模な設備投資を『鋼売り』が始めています」

 

「どいつもこいつも思い切りがいい……」

 

普及に時間がかかることを想定していたのだが、この世界の人々はかなり貪欲だ。場合によっては情報をちらつかせるだけで結論までたどり着けるのではないだろうか?そうなら楽なのだが。

 

「個人的には金属製品を取り扱える相手側とは敵対したくない」

 

「平和的に取引できるならそれが一番でしょう。ただ、相手は荒事に慣れていることを忘れないで下さい」

 

「……わかった」

 

私は殺された死体を見たことがないし、生命の危機を感じたこともない。だから、たぶんそこらへんの警戒はひどいものだろう。専門家に任せられるところは任せよう。

 

「こちらへの連絡は、基本的に私を通して行って下さい」

 

「理由は?」

 

「相手側に、誰が見張っているのかを感づかせたくないからです」

 

「わかった」

 

私は頷く。確かに尾行されている状態で直接ツィラさんと顔を合わせたりなんかしたら指揮系統がわかってしまう。それに比べて、彼女は今のところ局員の一人にすぎない。彼女だけを特に警戒する理由がなく、動かせる人数に限りがあるならば情報のやり取りはある程度秘匿できるだろう。

 

「……本当に、話がしやすくて助かります。それでは、また終業時に」

 

局員は少し安心したように言って、何事もなかったかのように仕事へと戻っていった。



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機密文書

巡警に案内され、頭領府の施設が集まる地区にある建物に入る。

 

「キイ嬢とケト君ですね?こちらに」

 

ここから先を案内してくれるのはランプを持った初老の男性だ。階段を降り、地下にあるだろう通路を抜ける。ああ、この建物はたぶん外観のとおりになってないのだな。

 

「質問してもいいですか?」

 

ケトが静かに言う。

 

「構いませんよ」

 

「僕たちはどこに案内されるのでしょう」

 

「我々の図書庫です」

 

そう言って、彼は扉の一つの前に立ち、金属製の棒を取り出した。それを孔にいれてなにかしている所を見ると鍵のようだ。一種のシリンダー錠だろう。一応鍵作りは規格化において大きな影響を与えたのでここらへんの知識はある。小学生の頃に読み込んだスパイ入門書の影響ではないです。

 

「どうぞ。持ち出しはできませんが」

 

木の棚に、ずらりと並んだ厚紙のフォルダ。木の箱の中には手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)。検索システムが揃った、情報の蓄積場所。

 

「これ、入ってはいけないものでは?」

 

「我々の長からの言伝です。信頼を得るためには、秘密を共有するべきだと」

 

ケトは手早く手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)を操作し、一枚のカードを見つける。ちらりと見ると私の名前。へえ。気になるんだ。私も気になるが。そこに書かれていた番号を呟きながら棚からフォルダを引き抜く。かなり丁寧に整理されているようだ。

 

「この部屋は、あなたが管理しているのですか?」

 

「ええ、キイ嬢。ぜひ一度お会いして、お礼を言いたかったのです。素晴らしい方法だ。お陰で職を失うかと思いましたが、老いた私でも使いこなせるだけの容易さがあってよかった」

 

笑顔だが、機密保持のために何が行われるかを考えてしまった私は背筋が冷える。

 

「キイさん、これを」

 

私にケトがファイルを渡す。……私の生活パターンと襲撃ポイントの候補?なるほど。私を守るにせよ、消すにせよ、こういった情報は重要だ。しかしこれを見られてもいいとなると、「刮目」は私に対して相当譲歩しているか、あるいは完全に一員か何かと考えているかだ。別にいいんだけれども、仕事ができるかどうかは怪しいな。永遠にスリーパーでいたい。

 

とはいえ、ファイルの一番上に書かれた文言を見て私は少し安心する。「重要人物、敵対を避けよ」か。まあ私だって基本は仲良くしたい。善隣友好政策は公正世界誤謬にさえ気をつければ悪くないものなのだ。

 


 

「こちら、キイ嬢とケト君。今回来た『鋼売り』が狙っている可能性が高い人物」

 

「よろしくお願いします」

 

ツィラさんの紹介にケトが礼をする。つられて私も。

 

「さて、改めて目標を確認しましょう。現状では相手が何を求めているのかを知るのが重要。だから、ある程度はこちらからの接触も必要だと考えます」

 

「今回の取引の対象となっている商会側からはどうでしょう」

 

「長髪がどう動くかがわからない」

 

「さすがにあいつでも大事にはしないだろ」

 

「信じられる?鋼の生産技術を流したのよ?」

 

うーん、妙な対立がありそうだ。私は「刮目」の構成員らしい人たちの話を聞きながら、現状を一旦整理する。

 

役者はかなり多い。私とケト、ツィラさん率いる「刮目」、長髪の商者、そして「鋼売り」。一応図書庫の城邦の内側と外側という意味では敵は「鋼売り」となる。

 

「結局、これはキイさんの取り合いですよ」

 

ケトが小さな声で言う。

 

「そう?」

 

まあ考えてみれば、あの機密文書庫に入れたのは「刮目」が私を引っ張りたいから信用を得るために、という側面はあるだろう。長髪の商者だってそうだ。開発環境を整えて、私の持っている知識を実用化したいと考えている。互いの利害関係は調整可能だろう、と今のところは信じる。私と接触する機会があって、たぶんやろうと思えば殺すこともできたのにそれをしなかったのは最低限の話し合いがしたいということを意味している。相手を知ることは倒すために重要だけれども、話をするためにはもっと重要なのだ。

 

「ですので、あまり一方に肩入れをするのはよくないかと」

 

「わかった」

 

とはいえ、敵のほうが上手なのはどうしようもない。そこから逆算して、弱者なりに戦略を練らないと。裏をかくのは難しそうだ。基本的には素直に従いつつ、必要な決断ができるだけの情報を集めるのがいいだろう。幸い、どこも私を高く買ってくれているらしい。少なくとも死ぬ心配はしなくて良さそうだが。

 

「それにしても、大変なことに巻き込まれてしまったなぁ」

 

「結構余裕がありますね」

 

私の言葉に、ケトの呆れるような声。まあ、ケトの方も変に緊張しているわけではないのはいい。精神が追い込められては視野が狭まる。おい聞いているか私。徹夜での論文執筆をやめろ。

 

「ただ、味方は多いようで良かった」

 

「……そうですね」

 

ケトは少し不満そうだ。

 

「なに、敵が多いほうが楽しい?」

 

「違いますが……なんて言うんですかね、キイさんの価値が認められてしまうと……」

 

「しまうと?」

 

「何か、悔しい気分になるんですよ」

 

「ふうん」

 

広義の嫉妬だろうか。まあ、別にそれ自体は構わない。行動に出なければどんな思想を持とうが自由だ。

 

「とはいえ、私が秘密を話すつもりなのは君だけだよ」

 

「……それはわかっているんですけれどもね」

 

ならいいか。私がサポートできるのも限界があるし、ケトはある程度は自分でできるだろう。もし困ったらちゃんと言ってくれるだろうし。



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旅行

慣れない寝台で目を覚ます。ケトはまだ意識を戻していない。寝ぼけた頭で、今後の方針を考える。

 

大抵のものはそうだが、工作機械の歴史も積み重ねられた改良によって支えられている。もちろん名前が残るような人物も多い。ジャン・マリッツ、ジョン・スミートン、ジョン・ウィルキンソンといった中ぐり盤開発の流れ。ジョセフ・ブラマー、ヘンリー・モーズリー、ジョセフ・クレメント、ジョセフ・ホイットワースによる規格化生産の系譜。けれども、それ以上の多くの私の知らない人々によって加工技術が培われてきた。

 

問題はここだ。私一人が見てくれだけはそれらしい工作機械を持ち込んでも、それを使いこなす事はできない。経営的にはあまり専門的な技術が必要となるのはよろしくないが、それでも一定の技術は要求される。一応これでもそれなりに加工の経験はあるので、一台作るだけであればどうにかなるだろう。それらをある程度の台数用意し、かつ十分な精度をもたせ、それぞれで互換性のある部品を作るとなると話は別だが。

 

最初から規格化を考えている分、職人の反発などは少なく抑えられるだろう。開発のスパンが長いとその作業方法に慣れてしまった人が生まれ、新しい技術導入の弊害となることは珍しくない。これについては異世界知識でリードしている分労働者への還元率を多くできるというメリットで多少は相殺できそうではある。とはいえ労働者と経営者という安易な二項対立を構築すると、結局鉄鎖の他に失うものがなくなったプロレタリアが世界をめちゃくちゃにしてしまう。労働組合を用意するか、あるいはレールム・ノヴァールムのように宗教に訴えるか。まあこういう問題は生活水準を向上させようとすれば不可避だし、他者の不幸を見過ごすべきではないという私の倫理的規範に従うと立ち向かわねばならない問題だ。

 

本題に戻ろう。一度力をつけたものはさらなる力を手にできる。富めるものは更に富み、貧しいものは持っているものまで奪われる。私という力を巡って、面倒な駆け引きが行われるのは正直なところ、嫌だ。対立は情報の共有を妨げて、新しい知識が生まれることを阻害する。とはいえ相手と協調するためには信頼が必要だ。何を使って相手からの信頼を勝ち取るべきだ?私にはすぐに公開できる手札はあまりない。冶金学のレベルが掴めていないから、具体的なアイデアを出すのも難しい。

 

「……ケトくん、起きてる?」

 

「ええ」

 

呟きに返事が帰ってきて驚いてしまう。

 

「起きてたんだ」

 

「質問したのはキイさんでしょう?」

 

そう言いながらケトは身体を起こす。

 

「もし私が鋼鉄の尾根に行くとしたら、ついてきてくれる?」

 

「いいですよ」

 

「少しは悩んだら?」

 

「キイさんが一人でどこかに行くの、危なっかしいので……」

 

「失礼な。これでも色々旅はしてきたんだよ」

 

まあグランドツアー代わりにヨーロッパの産業博物館を巡ったり、アメリカで開催された国際学会に出たり、大学時代の同級生に誘われて南米に行ったりしたぐらいだが。いやちょっと危ないことも多かったな。うん。ケトは連れて行こう。

 

「金属加工は今後重要になる。半年かそこら、旅行も兼ねて色々見てみるのはどう?」

 

「悪くないと思いますが、安全ですか?」

 

「私を人質にする」

 

「……何か本末転倒な気はしますが」

 

「まあね。向こうで働き口があればいいんだけどな」

 

「一応、暮らすぐらいなら貯金がありますよ」

 

「……そんなに溜まってる?」

 

「ええ」

 

まあある程度の高給取りで、二年ほど働き詰めだったのだ。散財する余裕もなかったし。普通はもっと接待とかをするらしいのだが、私の場合はまだここに来て日が経っていないとかあくまでしがない中間管理職だとかいう名目でごまかしているからな。まあそれを許してもらっているのはありがたいと思おう。

 

「よし。向こう側に話をしてみよう」

 

やり取りの往復で数月はかかるだろう。準備には十分だ。

 

「印刷物管理局の仕事は?」

 

「優秀な局員は育っているでしょ?」

 

「確かにそうですね」

 

本当は出向ではない、ちゃんとした固定の職員が欲しかったがこの図書庫の城邦における流動的な職業制度とは噛み合わない。まあ、組織への忠誠を過度に求め過ぎるのもあれか。プロフェッショナルとしての仕事を期待しよう。

 

「ただ、行くかどうかは今後向こうがどう動いてくるかによるね」

 

「表向きは貿易に来た、でしたっけ」

 

「……待って。剣を売るって言っていたよね」

 

「ええ。兵の話でしょう」

 

「あー……、比喩表現?」

 

「忘れていましたが、そうです」

 

なるほど、説明の歯切れが微妙に悪いわけだ。私の知る歴史でも、戦争において傭兵が大きな割合を占めていた時期は長かった。この世界の技術水準と政治状況を鑑みると、やはり傭兵が国際情勢に与える力は大きいのだろう。

 

「図書庫の城邦が、どこかの戦争に関与する?」

 

「可能性はあります。ただ、取引相手は誰になるのか……」

 

ケトが考え込む。そういえば、確かに商談があるはずだ。まあツィラさんが知っているだろう。



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利益

「また急ぎの誘いだね。まあいいけど」

 

管理局に出勤すると、長髪の商者の息がかかっている局員から声がかかった。今日の夕方、ある商談に顔を出してほしいそうだ。

 

「……個人的には、無茶だとは思うのですが」

 

申し訳無さそうに言う局員。

 

「時間なら問題ないよ、暇とまでは言わないが」

 

「いえ、あの人が『鋼売り』と取引しようとしていることについてです」

 

私は相手の表情を見る。不信と呆れ、それと不安か。難しいところだ。まあ私の表情認識能力はいい加減なのでこの印象を信用するべきではないが。

 

「……理由を聞かせてもらっていい?もちろん答えられる範囲でいいけど」

 

「構いません。この取引のために、長髪の商者はかなり無茶を重ねています。本来であればしっかりとした相手と行うべき取引を、素性不確かな人物を経由して行っています。鋼の生産においても、彼等と組まずに自分たちでやってしまえばいいのに」

 

「詳しくは知らないけど、こちらだけで生産を完結させてしまえば鋼売りと敵対することになるのでは?」

 

「あそこも一枚岩ではありません。手を組むよりも、切り崩すようにしていくべきかと」

 

「……私は専門外で、手持ちの情報も少ない。それを前提に話をしてもいい?」

 

「もちろんです」

 

私は呼吸を整える。

 

「冶金はどうしても多くの専門家が必要になる。私たちの方で必要な人材を育てるだけの時間がある?そして、直接商業的に勝てなくなった相手が自分たちの利益を守るために別の方法を取ってきたら?」

 

「切り捨てればいい」

 

「簡単に言うね……。まあ、それも答えの一つとして考慮すべきだということは間違いない」

 

「自分の意見が過激に過ぎているというのであれば認めましょう」

 

「いや、君の考えはむしろ当然に近いな」

 

というより私のような利益を優先しないやり方のほうがおかしいと言えばそうである。おい長髪の商者。なんで私と同じ側に立っているんだよ。

 

「過激なのはこちらのほうだよ。確かに一定の需要しかない状態では、こちらが安く作る技術を独占してしまうのがいい。ただ、安い鋼が手に入るなら、鋼が求められる量自体は増大しないか?」

 

「するでしょうね。そうすれば互いに利益を得ることはできます」

 

「ではなぜ反対を?」

 

「早急な取引は、こちらの弱みを示すようなものです」

 

「ああ、確かにそう受け取られてもおかしくはない。ただ、同時にこちらの余裕を示すものでもある」

 

「……相手がどう認識するか、ですか」

 

よし。問題が特定できた。ここの部分の食い違いが原因だな。

 

「商慣習の問題かもしれない。鋼鉄の尾根において、こういう行動は拙速だと捉えられそう?」

 

「わかりません。強いて言うなら相手が強く出る隙を与えるように思います」

 

「……少し待って」

 

ゲーム理論で言うシグナリングゲームに当たるか。こういう時に有効な戦略の一つはコストの掛かるシグナルの送信だよな。

 

「向こうが名誉と実利、どちらを求めるように思う?」

 

「……名誉、というより信用かと。あくまで彼等は名代であって、鋼売り全体に対する名誉を守る必要があります」

 

点数配分が変わるな。まあ私の思考は結構いいかげんだが。

 

「なら、双方にとってある程度得になって、向こうが断りにくいような形に持っていけない?」

 

「……だとすれば、こちら側が礼を尽くしているということをきちんと相手に伝えるべきでしょう。……報告したほうがいいですね、これは」

 

「そうだね。私を出すこと自体が相手に対してどう受け取られるかを調整できるようにした方がいい」

 

「わかりました。今日はもう退勤させて貰いますね」

 

「どうぞ。あの人によろしく」

 

局員が去ったのを確認してから横を見ると、ケトが難しそうな顔をしていた。

 

「どうしたの?」

 

「難しいことをしているなと思いまして」

 

「そう?」

 

利益を与えることを相手からの誠意と見るか譲歩と見るかは文化的背景に影響されるなんて話をどこかで聞いた気がする。これが食い違うと「いきなり敵対した」であったり「誠意を裏切った」となるので恐ろしい。もちろん長髪の商者は専門家ではあるだろうが、複数の意見があるに越したことはない。

 

「まあ、仕事を奪ったと恨まれるのも嫌だからね……」

 

「そういう経験があるんですか?」

 

「知識だよ」

 

デトロイトの治安悪化とそこからの回復は確かに特筆すべきだが、そもそも日本車がなければ治安は悪化しなかった。もちろん資本主義社会におけるコラテラル・ダメージなのかもしれないが、そもそもこの世界には資本主義なんてものはまだはっきりとは存在していないし存在させねばならない理由もない。避けることのできる面倒は避けるべきだ。

 

「これは私の考えだけど、人間はそれなりに幸せになるべきなんだよ」

 

「だから、譲歩するべきだと?」

 

「こちらに余裕があるならね」

 

お人好しと言われてもまあ仕方のない判断である。しかしながら、知識を持っている側としては別に舐められたところで何かが変わるわけではないのだし、きちんと誠意を持って対応してくれるのであればこちらとしては持っているものを見せるだけだ。私がそういうルールで動いていることを相手に伝えるのは道義的責任だとしても、それで向こうがどういう選択をするかまで決める権利はこちらにはないのだ。



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社交辞令

「……おいしいですね」

 

苦味と旨味がある、ぬるめの液体が喉を通る。一番近いのはチョコレートだろうか?香りは少し草っぽいが、決して悪いものではない。

 

「特産でね。剣だけを商っているなどと誤解されることも多いけれども、他にも色々と扱っているのです」

 

そう言うのは妙に印象の薄い男性。なるほど、確かに聞き込みや潜入では役に立ちそうだ。

 

「改めて紹介しましょう。こちらはキイ先生。顧問のようなものをしていただいています」

 

長髪の商者は少し上機嫌なのを隠さずに言う。どこまでが演技なのかは分からないが、微笑んでおこう。

 

「その後ろの方、昨日お会いしましたね」

 

私は「鋼売り」側の商者の一人である女性に声をかける。

 

「ええ。まさかこういう形で再会するとは」

 

おお役者ですこと。狙って接触してきたのは知っとるんやぞ。まあ私も学会とかでちゃんと相手の名前を調べてオンラインで読める論文にざっくり目を通してシラバスを確認してから「本を読みました、こんなところでお会いできるなんて。今日はどういう研究を聞きに?」「素晴らしいですね、えっ今度学会発表するんですか。見に行かせてもらいます」「もしよければ、そちらの大学に見学に行かせてもらってもよろしいでしょうか?」などと白々しいことをやっていたからな。偶然の出会いを演出するというのは結構大切なのである。こうやって名前と顔を覚えてもらうと学会で紹介とかされてなんか知らないうちに厄介な役職を押し付けられそうになるのだ。小さい学会で酒の席の冗談だとしても院生を理事に推薦するなよ。

 

「さて、改めて今の状況を。我々の商会としては、このキイ先生の求めるものをそちらに作って欲しいのですよ」

 

「鋼売り」側の表情が少し変わる。速攻をかけてきたな。たぶんこの会話は盗聴されているだろうからまあアフターケアは専門家に投げよう。私は楽しいことをする。

 

「どうしても専門的なものになるでしょうから、しっかりとした話のできる人を連れてきてくれればよかったのですが。どのようなものを求めているのですか?」

 

冴えない商者が言う。ああ、二人はあくまで諜報員だしな。加工の専門家ではない、と。

 

「私から言ったほうがいいですか?」

 

一応確認。部外者とまでは言わないが立場が微妙なのだ。

 

「もちろん」

 

長髪の商者からの返事を確認し、私は厚紙のフォルダを取り出す。これもある種の脅しだ。これだけの紙製品を、一定の品質で作ることができていて、それを使って事務作業をしているのだぞと言うもの。もちろんアイデアの模倣はそう難しくないが、これを何事もなく見せるということから相手が読み取ってくれるものがあるといいのだが。

 

「まだ下書きではありますが、欲しい装置の一つになります」

 

そう言って紙に描かれた小型旋盤の概念図を見せながら私は軽く説明をしていく。もし腕のいい職人がいれば数月あれば形にはできるだろう。ただ、軸の設計や回転速度の調整、バイトの素材なんかは知識がないと相当試行錯誤が必要になるはず。

 

「組み上げれば、この机の上ほどの大きさになりますか」

 

「そうなりますね」

 

「素材は?真鍮などであれば作れると思いますが」

 

知識はある程度あるのか。まあ扱う商品を知らねばならないとは長髪の商者も言っていたしな。

 

(ずく)を使いたいですね」

 

「……断言はできませんが、鋼鉄の尾根の職人の腕であれば作れるでしょう」

 

「わかりました。……この図画を持ち帰りますか?」

 

私は何食わぬ顔をするよう心がけながら少し相手を試す。もし持ち帰れば今後改良を行ったとしても私の貢献を否定することが難しくなる。もちろんしらを切ることもできるが、そうなれば今後私が出していく加工技術を「鋼売り」に直接見せることはなくなるだろう。もちろんここで暗記して、あくまで独立に発明したと言い張ってもいい。

 

「いえ、やめておきましょう。これは職人同士で見せ合わなければ意味がないものです。貴女が尾根に来てくれればいいのですが」

 

社交辞令のつもりだろうか?引っかかったな。私の欲しかった言葉だよ。

 

「それはそれは。ぜひ一度そちらの工房と冶金の術を見たかったのです。もしよろしければ、伺っても?」

 

そう言いながら私は横目で長髪の商者の方を確認する。少し驚いているようだが、その表情をすぐに引っ込めた。まあ、特に問題はなさそうだ。

 

「……貴女ほどの職人を呼ぶとなれば、それなりの準備をしなければならないでしょう。一度持ち帰っても?」

 

「鋼売り」の男は落ち着いて言う。さすがにすぐには断らないか。うまく行けば功績にもできる、と一応互いの利益になるような形にしているのでそこまで酷い取引ではないはず。

 

「当然です。無茶な願いを聞いていただき感謝致します」

 

ここでは丁寧に頭を下げる。これで断りにくくなった。

 

「必要であればこちらからも推薦状を書きましょう。彼女の腕は我等が商会の名によって保証するほどです」

 

そして長髪の商者の追い打ち。完全にここに来ている「鋼売り」二人の一存では決められない内容になった。そして商会同士の書簡だ。そうそう無くすわけにも行かない。

 

目を上げると、後ろの女性は悩ましげに息を吐いていた。まあ、お疲れ様ですとしか言いようがない。

 

 



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冗句

「すまないね、呼び出してしまって」

 

暗に出て行けという雰囲気を漂わせる長髪の商者。まあこれは私の邪推混じりだろうが。

 

「構いませんよ。この後迎えが来るでしょうから」

 

そう言って私は床をコツコツと叩く。

 

「それでは、失礼いたします」

 

礼をして、部屋を出て、扉を閉じる。

 

「行かないんですか?」

 

隣のケトが不思議そうに私に声をかけた。

 

「まあ、少し待とう」

 

そうしていると、若い男性が現れてついてくるように私にハンドサインを送ってくる。確か前に盗聴器を仕掛けたときに見た顔だ。

 

「どういうことです?」

 

「静かにしておいてね」

 

質問してくるケトに、私は小声で言う。

 

「……面倒事をしてくれたな、とおっしゃっていました」

 

しばらく歩いて、彼は口を開いた。

 

「それはまあ、悪いとは思っているけどさ」

 

私は申し訳なさを声に滲ませる。実際申し訳ないと思っているので演技ではない。

 

「頭領府外交局構想はご存知ですか?」

 

「私が昔言ったやつかな?」

 

ツィラさんに話したことのある外交戦略の話だ。

 

「僕は北方担当使節官の一人になりました」

 

「それはめでたい」

 

「……そろそろ、種明かしをしてもらってもいいですか?」

 

ケトが言う。

 

「えーと、あそこでの会話が盗み聞きされているのはわかっていた?」

 

「……そういえば、そういうこともしていましたね」

 

長髪の商者に許可を取っているかどうかは知らないが、本人が素直に話すような性格ではないと判断したら普通に無断で炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)を仕込むぐらいはしているだろう。

 

「というわけで音で合図をして、呼び出した」

 

「呼び出されました」

 

元ネタはソ連時代のАнекдот(アネクドート)である。ああいう時代を真面目に捉える人からは茶化すなと言われそうであるが、まあそういう相手は大抵思想が強いので関わりたくないし、別にいい。

 

「ケトくん、鋼鉄の尾根ってここから北側だっけ」

 

「そうです」

 

「……となると、私が行くとなると担当者は君?」

 

「そうなりますね」

 

男が言う。

 

「頭領府外交局って、今どうなっているの?」

 

「すでに各所で安全な寝場所を手に入れ、仲間を増やしているようで。正式な機関として動き出すのはもう少しあとでしょう」

 

「なるほど。まだ具体的な業務についてはできていない、と」

 

「そうなりますね」

 

「手紙のやり取りについては?」

 

「図書庫の城邦とつながりの深い商会を複数使い、定期的に運べるようにしてあります」

 

「……君は遠距離通信について知っている?」

 

「長髪が所属する商会で試行錯誤が繰り返されているものでしょう?知人があれに関わっています」

 

「それを実用化して、海を越えてやり取りができるようにしていく。その頃に北に行けるよう、調整をお願いできる?」

 

「僕の権限を超えます。上の方に直接言ってくれませんか?」

 

そう言って彼は一つの部屋の前で立ち止まった。頭の中で三次元地図を構築するに、たぶんさっきまでいた部屋の真下だ。

 

「静かにしてくださいよ?聞き終わるまで、待っていてください」

 

「わかっているよ」

 

ケトの方を確認するが、理解しているように頷いたところを見る限り問題はなさそうだ。

 


 

必要は発明の母、というのは必ずしも真ではないが常に偽ではない。少なくともここで真となる例を示すことができる。天井から伸びるケーブルに交換用らしき鉛蓄電池、仮眠用の寝台に二人体制の速記。

 

ツィラさんは寝台の上で横になっていた。たぶんストレスと疲れがあるのだろう。

 

「念のため確認するけど、私がやったこと以上に厄介なことは起こっている?」

 

私は小さい声でここまで案内してくれた将来の使節官に声をかける。

 

「北方における国家間情勢の悪化が危惧されていますが、その程度です。重要人物がそういう場所に行くと言い出さなければもう少しマシだったのですが」

 

「今後の活動には必要だよ。通信の効率化のために必要な装置の設計に金属の加工が……」

 

「失礼、専門外の内容を流し込まないでください。僕にはそちら側の知識が十分ではないので。ただ、あなたの言い分はこちらからも伝えておきます」

 

「いや、これは私が悪かったな」

 

オタクの悪い癖と言えばまあそうである。こういうのは避けたいのだが、すぐに自制を忘れてしまう。

 

「……まあ、こちらとしては仕事ですので努力は致します。ただ、限界があることは知っておいて下さい」

 

「もちろん」

 

そういうふうに話していると、どうやら上の方での商談が終わったようだ。静かに、しかし素早く撤収が始まる。

 

「必要なものはある?」

 

起きたツィラさんが私に言う。

 

「……キイ嬢は北方平原語を話せないんですよ」

 

そうため息を吐いて言うのはケト。

 

「え、言葉が違うの?」

 

「そうですよ」

 

「それにしては二人とも流暢な東方通商語だったな……」

 

「なので、できれば北方平原語に慣れた人を紹介してほしいのですが」

 

確かにそれなら言葉の練習は必要だ。まあゼロから頑張ってなんとかなった事例があるのだ。それに比べれば楽である。

 

「なら彼に頼むのがいいかしらね」

 

そう言ってツィラさんは先程まで話していた男性を指した。

 

「母が北方出身で、父も北方との取引が多い商者。求める人材だと思うわ」

 

「ありがとうございます」

 

やっぱり持つべきものは人脈だな。それなりに負担をかけているのは自覚しているので、新しい製品をいっぱい作って……そうするともっと負担が増えそうだな。私から得られる利益より増える事務の方が問題になりかねないので、夜道には気をつけないと。



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丁字管

足踏み式のふいごで火力を調節しながら、片側を柔らかい木栓で閉じた硝子(ガラス)管の側面を酸水素炎で炙る。慣れないと難しいし、普通にやるのであれば息の合った二人で作業を分担するべきだがまあいい。

 

「ここでうまい具合に炎を集中させ、柔らかくなった所に息を吹き込む」

 

何人かの視線が私の手元に向く。ちょっと緊張するな。肺に力を入れると、熱しておいた部分が餅を焼いたときのように膨らんでいく。よしよし。膨らみの付け根の大きさも狙ったとおりだ。

 

「ここで息を吸うと当然だけど肺腑に熱気が入って焼けるので注意。で、薄くなった部分を割る」

 

作業用のトレイの上で、木槌を振るうと縁が少しギザギザした状態の穴が開く。もう少し大きいなら事前に(やすり)で傷をつけておいたりするのだが。

 

「あとは炙って穴の縁を多少滑らかにしておいて、別の熱した管と合わせる。ちょっとふいごお願い」

 

圧力調整弁とかがあればいいのだがと思いながら私は脇を締めて、柔らかくとろけている部分を近づけていく。息を一瞬止めて、腕の震えを止める。

 

ゆっくり、手から力を抜いていく。二つの硝子(ガラス)管はくっついたままだ。よし。直線側のほうに追加の木栓をはめる。こういうところでも規格化というのは便利だ。一応栓は先に行くほど細くなっていく形状をしているので多少の太さの違いはカバーできるのだが。しかしやっぱりゴムは欲しくなるな。

 

「これで分岐管ができたわけ」

 

「簡単そう、ですね」

 

職人の一人が言う。

 

「お、ならやってみてよ」

 

私は席を立ち、硝子(ガラス)管を彼に手渡した。

 


 

「なんで私より上手いんだよ……」

 

滑らかな継ぎ目を見て私は唸る。あれを見て一発で再現できるものなのか?私は失敗を繰り返して先生に手取り足取りやってもらってやっとできたというのに。

 

「むしろ、本職じゃないんですよね?キイ先生は」

 

職人が返す。

 

「……まあね」

 

確かに、私がいた時代でこんな細工ができるのは大きな大学か研究所の技師さんか、あるいは科学史の実証実験を試みる私みたいな人間しかいなかった。それに比べれば日頃から硝子(ガラス)を扱っている人のほうがやりやすいのかもしれない。

 

「まあ、こういうふうに薬学で使う道具を硝子(ガラス)で作ることができます」

 

本当は(ホウ)(ケイ)硝子(ガラス)を使いたいが、仕方がないので今は曹達(ソーダ)石灰硝子(ガラス)を使っている。まあ普通の実験であればあまり気にしなくていいのだが。(ホウ)砂は一体どこにあるんだ。欲しい資源が多いが、それを手に入れるのは難しい。なぜならその物性を私はちゃんと知らないし、物性測定のための設備もないからである。元素番号はわかっても原子量までは覚えていないし、融点や化合物の色、あるいはそういった元素を含有する鉱物の特徴なんかはほとんど駄目だ。一応特性X線を使った分析なんかの手法があればモーズリーの法則から元素番号と単体を対応させることができるが、必要な高圧放電も真空技術も発展途上だ。いや、今でも頑張ればぎりぎり行けなくはないか?問題はフィルム側になりそうだ。あれだって相当な改良を重ねたものだったはず。知識は全然ないので、やはり市場に乗せて趣味人に色々試させるのがいい気がする。

 

「というわけでこういうものを作って下さい」

 

私は紙を広げながら言う。滴定用のビュレット、液体移動用のホールピペット、内側に溝の入った分留用のビグリューカラム、コックの付いた分液漏斗、そしてくぼみを持つ内管と分岐のある外管の間に水を流すアリーン冷却器。私の知る基本的な化学実験器具のごく一部だ。

 

「薬学師の先生が使うもんはたいてい奇妙ですけど、こいつらは特に変な形ですね……」

 

「基本的にはこれなんかは炎酒を作るやつと同じだろ」

 

そんな会話をしながら職人たちは製造の算段を始めていく。よしよし。まあ私が数月がかりでぎりぎりできる範囲に抑えてあるつもりだからな。たぶんここの人たちならもう少し短くできるだろう。

 

「ところでキイさん、なんでいきなり硝子(ガラス)細工を?」

 

「説明は長くなるよ?」

 

「構いません」

 

「ええと、今の通信では火花を使って電磁誘導を起こしているよね」

 

電磁波の概念が怪しいので、「ある種の電磁誘導」ということで一応理論を作っている。

 

「そうですね」

 

「断続的な火花からもっと滑らかな電気の動きを作りたいんだけれども、それには薄い空気の環境が必要になる」

 

「……ええと、まだいけます。先を塞いだふいごを潰すと空気が濃くするようなことを逆にして、薄い空気を作るんですよね」

 

「だいたいそう。で、そのために革と木でつくるふいごではなくて水銀と硝子(ガラス)で作る特別製のふいごを使う」

 

石油があれば油拡散ポンプも検討するのだが、まあ無いものをねだるべきではない。いやでもあれは単純に高沸点の油だから、樹液とかから生成できないか?第二次世界大戦下で試みられてなんかうやむやに終わった松根油生産を記憶から引っ張り出す。うーん。まあ試して見る価値はあるかもしれない。

 

「それはふいごなんですか?」

 

「今はそうとでも呼ぶしかないもの。それとその薄い空気の部分にいろいろなものを入れるから、細工技術を高めておく必要があるわけで」

 

「……わかりました。他に、図書庫の城邦を留守にする前にやることはありますか?」

 

「色々あるけど、どうして?」

 

「キイさんが言葉を学ぶことから逃げているように見えて」

 

私は曖昧な笑みを浮かべる。図星だ。いやだって東方通商語とも聖典語とも語派レベルで違うらしいので辛いのだ。一応古帝国語と文法や基礎単語が似ているらしいが私は古帝国語を知らないんだよ。



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圧力

一方の端を焼いて閉じた私の身長の半分ほどある硝子(ガラス)管に、漏斗(ろうと)でたぷたぷと水銀を満たしていく。

 

「あっ」

 

「どうしました?」

 

「空気の泡が入った」

 

落ち着いて、軽く硝子(ガラス)管を揺らすと気泡はゆっくりとくっついて上に昇っていき、そして消えた。よし。ここまで大量の水銀を扱うのは生まれて初めてだ。かなり重い。長髪の商者の口利きがあってある程度まとまった量が手に入った、自然水銀が産出する地域から取り寄せられたものである。

 

「それにしても、今日は寒いですね」

 

「だからこの実験をするんだけれどもね」

 

液体の蒸気圧は温度が下がれば下がるほど小さくなる。そしてこの関係は確か狭い範囲では温度変化に対して指数関数的だったはずだ。詳しいデータは覚えていないが、まあ寒い日であれば水銀の蒸発を抑えられるということでいい。

 

「暑い日には水たまりがすぐ消えるようなものだと考えればいいですか?」

 

そういう事を雑に話すとケトは比較的すぐ理解してくれたようだ。

 

「だいたいそう。空気が湿っているか乾いているかも関係してくるけど、普通の空気は水銀で湿っていない……と言えばいいかな、そういう状態にあるから考えなくちゃいけないのは温度だけ」

 

そして水銀に直接触れないように木製のちょっとした道具で硝子(ガラス)管の上部を塞ぐ。溢れる水銀の雫は水銀溜まりに戻して、と。この水銀溜まりには水が浮いているので蒸発も抑えられるはずだ。かなり神経質な気もするし、無機水銀が有機水銀にくらべて中毒を起こしにくいことと体内半減期が確か数ヶ月だったということを考えるとまあ酷いことにはならないだろう。一応生野菜を多めに食べるようにしておく。

 

さてさて、楽しい実験の時間だ。銀色に光る硝子(ガラス)管をひっくり返して下の部分を水銀溜まりに突っ込む。見た目からは想像しにくい重さだ。

 

「いくよ。管の上部をよく見ておいて」

 

ケトが頷いたのを確認して、私は水銀溜まりと管内の水銀を遮る木片を取る。すると、硝子(ガラス)管内の水銀が落ちて、上部に透明な空間が生まれた。

 


 

私たちは直感的に原因と結果を近づけようとする。例えばストローで水を吸うと管内の水が持ち上がるのは、口の中の空気が「薄くなった」ので、「水に対する引力が生まれた」と考えるのだ。実際は違う。物理学はなんとも非直感的なのだ。

 

Horror vacuiというラテン語の言葉がある。アリストテレスの系譜が持つ自然観の一つで、日本語では「自然は真空を嫌う」という言葉で知られている。自然という語がどこから来たかって?確か「ガルガンチュワ物語」で巨人ガルガンチュワを描いたフランソワ・ラブレーが足した。まあこれは本題ではない。自然は真空を嫌うので、真空が生まれないようにポンプで空気を吸い出すと水が上昇する、とガリレオ・ガリレイは考えた。しかし水を汲み上げるポンプは、10 m程度水を吸い上げるだけで限界を迎えた。

 

1643年、エヴァンジェリスタ・トリチェリとヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニによって私がやっているのと同様の実験が行われた。二人ともガリレオ・ガリレイの弟子で、科学における実験の先駆者と呼んでもいい時代の人だ。目的の一つは、アリストテレスのモデルの否定。あるいは水を吸い上げることで上昇する時の力が吸い上げる側ではなくその外側にあることを示すため、と言い換えてもいい。

 

日頃私たちは意識しないが、上を見上げれば大気の層が存在する。空気の密度は小さいが、その厚みが数十キロメートルあるおかげでかなりの圧力が生まれる。この圧力こそがストローで水を吸う時に私たちの口の中に水を運び込む力の源なのだ。ではその力よりも液体にかかる重力のほうが大きければどうなるだろうか?水柱は大気圧が支えられる高さまで落ちる。水であれば10メートル、密度の大きい水銀であればおよそ760ミリメートル。だから長い硝子(ガラス)管が必要だったのだ。

 

「ここで管を傾けていくと……」

 

徐々に上の部分の空間が小さくなり、最終的に上の部分まで水銀が埋まった。

 

「触ってみていいですか?」

 

ケトが言う。

 

「いいよ。ただ、割らないようにね?念のため私が補助で持っておく」

 

「ありがとうございます」

 

興味深そうに硝子(ガラス)管をケトは動かす。

 

「水銀の上面の高さは変わらないんですね」

 

「正しくは、水銀溜まりの上面と硝子(ガラス)管内の水銀の上面は、というべきだね」

 

「確かにそうですね。この水銀溜まりごと上に持ち上げても水銀が低くなるわけではないでしょうし」

 

「一応、少しは変わるよ」

 

「ああそうか、上に乗っている空気の厚みが変わるのか……」

 

ケトはなんとか目の前の現象を理解しようとしている。まあ、色々やってみるといい。そういう真理への探究心というのは大切なのだ。しかし私は実務派なので、求めるものが異なる。この上部にできている真空が、つまりは熱電子を阻害しないほどの密度でしか気体分子が存在しない空間が真空管には必要なのである。



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方向

「で、真空はどうなったんですか」

 

私が顕微鏡を覗く横からケトの声がする。早速語彙を作ってくれているのはありがたい。

 

「あれを電気素子として使うにはハードルが高いので保留」

 

「ええ……」

 

私の記憶が正しければ、真空管の実用化はアーヴィング・ラングミュアによる拡散ポンプの改良があってできるようになったはずだ。ここまでくると、気体は一様な物質ではなく動く微粒子の集合として扱うほうが特徴を捉えやすくなってくる。詳しい説明は省略するが、ビリヤードのように外側から分子を送り込んで、気体の運動方向を偏らせるのが拡散ポンプの原理である。さすがにまだ作れない。いや油があれば硝子(ガラス)細工だけでなんとかなるヒックマン・ポンプとかもあるが、それをやるぐらいなら普通に金属で作りたい。

 

「それでも、実験はさせていましたよね?」

 

「どれだけ空気が薄いかを調べる方法と、真空中で電流を制御する方法は大体同じなんだよ。測定に注力すれば前者になるし、実用を考えれば後者になる」

 

電離真空計という、比較的オーソドックスな真空計の原理だ。しかし測定ならまだしも、安定した増幅作用が欲しいとなると問題が山積している。熱膨張率の異なる金属と硝子(ガラス)をうまい具合に真空を保つよう接続し、熱電子を出すフィラメントの素材として使えそうなアルカリ土類金属の酸化物の選択か高融点金属の精錬技術の確立をして、大量生産できるようにしないといけない。いきなりは無理だ。準備を数年がかりで行うしかない。それまでは粉末検出器(コヒーラ)で我慢してもらおう。

 

「ま、私の知る単純でなかなかいい真空ふいごの設計を渡してあるし、たぶん弄っていれば慣れると思うよ」

 

ヘルマン・スプレンゲルによる真空ポンプ。S字状の管を使い、可動部分がほとんどない構成になっている。19世紀後半から20世紀初頭の真空技術を支えたポンプであり、電子の発見や電球の実用化、初期の真空管の研究などに用いられた。あ、電子。そうだこれで電子の向きがわかるので、電荷を定義できる。こうしちゃいられない。すぐに実験案を作らねば。

 


 

「というわけで、陰極から出てきた電荷粒子が遮られることがわかれば電気の方向というものを定義できるんだよ」

 

「なるほど……。しかし実験なしにこれをいきなり見せるのは問題ですよね?」

 

「そうだね……」

 

ケトに当然のツッコミをされたので私は少し落ち着く。

 

「結論を知らないということにして、考え方だけを示す……」

 

「そもそも真空で火花が起こることもまだ未確認ですよね?」

 

「確かに……」

 

改めて私の実験計画案を見ると偽装が足りない。もう少し自然な発見ルートを偽装しないと。科学史の知識はこういう時に役に立ったり立たなかったりする。発見ということはすでに起こっているので、その由来を議論してもあまり得るものがないということは珍しくない。まあ、ニコラウス・コペルニクスの天動説はサモスのアリスタルコスが提唱していたモデルの再構成に過ぎないとかいう物語として面白くなくなってしまうことも多いが。実際ニコラウス・コペルニクスのモデルはなにか新しいことを示したかというと微妙だし。

 

「とはいえ雑にやると後世の人に見破られるし、少し手紙を捏造したりするか?」

 

「代筆しましょうか?」

 

「いや、私から口頭で伝えればいいと思う」

 

知り合いの知り合いから聞いたというやつだ。これが一次史料に使っている聞き取り調査で出てくると色々と投げ出したくなるやつ。まあ古代ギリシアとかのタイトルしかわかっていない断片が多い業界に比べればまだマシかもしれない。

 

「わかりました。ところで、何を見ていたんですか?」

 

ケトが私の手元に目を向けて言う。

 

「ああ、前に買った講師の評判一覧」

 

「それはわかります。でもなぜ顕微鏡を?」

 

「彫り方の違いと欠損の状況を確認していた。あとは刷る時の圧力のかかり方の違い。調整が甘いから、結構癖が残っている」

 

「作成者を探したいんですか?」

 

「そう。二年かそこらで文字版印刷機をこのレベルで使いこなしていて、文字を見る限り複数の型に由来している文字版を使っている。たぶん、印刷機まで自作しているんじゃないかな」

 

「そんな事ができるんですか?」

 

「私がやった」

 

「……そうでしたね」

 

「色々あったせいでかなり前のことに思えるけどね」

 

とはいえ傾向の近い活字がある印刷所はわかるから、そこから探っていけばいい。辿りきれるかって?まあ、少し専門家とのコネがあるので炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)の借りを返してもらおう。北方平原語を学ぶ分は別件。

 

「で、その印刷した人を見つけてどうするんですか?」

 

「ちょっとした商売を持ちかける」

 

「商売?」

 

「そう。多くの人が文字を読める図書庫の城邦であれば、それなりには需要があるんじゃないかな」

 

少数であれば蝋紙版印刷でもいいだろうが、1000部ぐらい刷るなら文字版印刷が必要になるだろう。ちょっとした新聞なら、たぶんこれで十分だ。



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特定

「楽しそうなことやってますね、局長」

 

「やるか?」

 

「やります」

 

このくらいの雑なノリで、印刷物管理局の人員のおよそ半分を動員した活字のカタログ化が始まった。閑散期だからって言っても仕事はあるのだが。書体の分類、欠けた部分のある文字の一覧、あるいは印刷者によって微妙に異なる文字の並べ方や幅。基本的に紙の大きさや高さは規格があるのでそれに沿って作られているが、見慣れてくるとそれ以外の差異がはっきりとしてくる。

 

「文字版の形状からすると図書庫のものだと思われるが、工房で実験的に作られた書体も混じっているな」

 

そうして分析する対象は例の印刷物である。

 

「やはりこういうものも管理局の案件にするべきですかね」

 

手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)にメモを書きながら局員が私に聞いてくる。メモレベルのノウハウも残しておいたほうが良いとなったら手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)に書いてまとめておくという文化ができている。あまり安いものではないのだが、予算はどういうわけかかなりしっかりある。商会から図書庫への寄付金が増えているようで。ありがたい。

 

「一定以上の部数が出たら図書庫に納めさせたいけど、強制しすぎても印刷が面倒になるだけだよ。難しいところだ」

 

「確かにそうですね。そういえば妹が学徒なので色々と街の噂を聞くのですが、こういう印刷物はたまに見るようになったそうで」

 

おや。局員の彼がかつての世界の大学院生ぐらいの年齢なので、妹が大学生ぐらいか。まあそのくらいか?

 

「なるほど。妹さんがここで学んでいるということは図書庫の城邦の生まれ?」

 

「いいえ、船で一日掛からない程度ですが離れた小さな漁村出身ですよ」

 

「となると、生活も楽ではないだろうに」

 

「ここでの給金は二人が暮らしていくのに十分ですよ。司女見習いもやっているので寝る場所の心配をしなくていいのは兄として助かりますし」

 

ああ、そういえば女性の学徒もいないわけではないが衙堂以外ではあまり就職先もないんだったな。

 

「二人も子供を都市に送るとは、親も心配していないかい?」

 

「いえ、幸いにも問題なく。とはいえ決して裕福ではないので、兄弟の中でも特に出来が良い妹を送るか、あるいは僕を送るかで悩んだそうです」

 

「……そういうのを気にせずに学べるようになればいいんだがね」

 

「全くです」

 

「もしよければだけれども、妹さんに印刷物について少し聞いてみてほしい。どうしても学徒目線でないと見えないものもあるから」

 

「ケト君……局長補佐も学徒では?」

 

「最近は学ぶよりも人脈作りとして学舎に通っているようで」

 

「はは、いいことではないですか」

 

そう言って笑う局員。まあ、ケトは楽しいようだからいいのだけれども。

 


 

「こちらになります」

 

諜報ネットワーク「刮目」が持つ機密文書庫の主である初老の男性がそう言って私にフォルダを渡す。

 

「彼らには名前がありません。強いて言うなら学徒たち、といったところでしょうか」

 

説明を聞きながら私と隣から覗き込んでいるケトは紙を見る。

 

「印刷物関連の中心人物だと見られている彼は、いくつかの職場で印刷機を扱っていたと。仕事に慣れていたとの証言も得られています。人間関係から見ても、おそらく独自に印刷機を複製していると考えて良いかと」

 

「なかなかやるなぁ」

 

紙問屋や金属細工工房に対して行われた聞き取り調査から得られた、協力者らしい学徒の名前の一覧。強く関与しているのは10人程度か。

 

「ただ、我々は少し急に動きすぎたきらいがあります」

 

「というと?」

 

「何者かに探られている、と学徒たちが感づいている可能性は高いかと」

 

「そこまでして自分たちのやっていることを隠したい?」

 

「決して歓迎されるものではないだろうからな。相手の無知を武器としている講師は多い」

 

「嫌な話だな……」

 

まあそういう講師もいるということか。とはいえ啓蒙主義的思想と無知の存在は切っても切り離せないから難しいところだ。やり過ぎると反知性主義になる。えっ反知性主義の定義がいい加減でこれでは誤用だって?思想系は面倒なのであまり好きではないんだよ。

 

「ひとまず名前を書き写してもいいですか?」

 

ケトが口を開いた。

 

「構わないが」

 

「知り合いに聞いてみます。学徒の問題は学徒に聞くのがいいかと」

 

「なるほど。確かにそうだ」

 

文書庫の主が言う。

 

「そういえば『刮目』は学徒に対して協力者を持っていないのですか?」

 

「全てをを知っているわけではないが、見る限りではほとんどいないな」

 

「わかりました。そっち方面も問題だな……」

 

今の若者が私の知識を飲み込んで、使いこなしているというのはワクワクする。いや私もまだ学生気分が抜けていないと言えばそうなのだが。いや、博士課程の中では研究で書いたものより事務仕事の方が多い時期もあったから学生時代に仕事気分だったのか?まあいい。ともかく、誰に声をかけるべきかわかったので十分だ。直接接触するのがいいか、それとも間接的にやるべきか。どうするのがいいかな。



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暗箱

「……かなり奇妙な薬品を使うな」

 

私が書いたメモを見ながら薬学師のトゥー嬢は言う。

 

「日に焼ける薬を使うことで、光の形を写し取る……と考えればいいか?」

 

「そうです。問題は今の硝子(ガラス)加工ではあまりいい光学的特性を出せないことで」

 

私は簡易的に作った暗箱を見せて言う。箱の側面にレンズを取り付け、外の光を取り込めるようにしたものだ。内面に外側の景色が反転して映るのだが、どうしても中心部以外はボケてしまう。

 

「……詳しくはないが、どういう理屈か聞いてもいいか?」

 

「構いませんよ。今日は色々持ってきたので」

 

久しぶりにトゥー嬢と話せるのでワクワクして準備はちゃんとしてきた。最近互いに忙しかったから会えなかったのだが、トゥー嬢が忙しいのは私のせいだという気がしてならない。

 

硝子(ガラス)を通る光が歪む……というか曲がるのはいいですか?」

 

「ああ」

 

「その曲がり具合は色によって異なります」

 

磨いた硝子(ガラス)の三角柱を細く日の差し込む場所に差し入れると、内部で起こった屈折によって分光が起こる。そうして床に赤から紫までのグラデーションが現れるのだ。

 

「なるほど。虹も同様の原理で現れるのだろうな」

 

「おや。その分野は知りませんが誰かが書いています?」

 

「どこで聞いたか思い出せないが、虹は常に太陽を背にして霧の中に現れるということから霧が作る『色の影』であるということを言っている人がいたな」

 

なかなかしっかりした理論だ。確かイブン・アル=ハイサムもこの手の研究をしていたはずだが、詳しくは覚えていない。

 

「本来行けない場所へと通じる橋だ、という話もありますね」

 

ケトが床のスペクトルを奇妙そうに撫でながら言う。猫っぽいな。まあわかるよ。気になりますよね。

 

「神話?」

 

「の、ようなものです。信じると人生は楽しくなるでしょうが」

 

この世界では迷信はある種肯定的に捉えられている。まあもちろん盲信であるとか固執とかの域になる例も多いが、それは私がいた世界だって普通にあったことだ。いやむしろ無害な物語がなくなったぶん厄介になっていたかもしれない。迷信が根拠がない架空のものであるとわかった上で、その価値を認めるというのは合理的なのかなんなのかわからないが、嫌いではない。実際、ケトも地域によって異なる聖典をいくつか諳んじられるほどの知識があるが、日常的に口にする祈りの文言であるとかある種のタブーを避ける行動だとか以外は特に熱心に祈りを捧げているみたいな宗教的要素が見られない。まあ、神宮寺とか鎮守社という海外に対する説明に困る文化が基盤に混じっているかつての世界の平均的日本人ぐらいには敬虔なのだろう。別に他人にそこまで迷惑をかけず、地域共同体でやっていける程度のものであれば確かに宗教はいいものである。少なくとも博士課程よりは心の平穏が多少は得られる分マシだ。

 

「まあ、それでここに使われている円盤状の硝子(ガラス)……透玉(レンズ)と呼んでいる部品の形状が問題になってくるのです」

 

「単純に磨いただけに見えるが……、いやここまで綺麗に磨くのはかなり大変か」

 

「球面ではないんですよ。もし幾何学的に整った形状であればある種の機構を使って磨けるのですが」

 

「光が通る場所によって曲がり具合を変え、それらが適切な方向を向くように設計する必要がある……と考えればいいか?」

 

「その通りです」

 

理解が早くて助かる。本来これは物理学とか光学の範囲なので、専門外のはずなのだが恐ろしい速度で把握してくるな。怖い。やっぱりこういう人と話すのは楽しいが、それは相手にコミュニケーションのコストを支払わせているということの裏返しでもあるので注意しないと。

 

「で、ここで問題が起きます。全ての光を一点に集めることはできないのです」

 

「……そうか?各部分の形状をうまく一点に収束するように調整すれば……」

 

「色ごとに曲がる角度が違うんですよ」

 

「……なるほど。それは無理だ」

 

「本当ですか?」

 

私たちの会話を聞いていたケトが横から口を挟む。

 

「なにか面白い解決策が?」

 

「一つではなく、複数の透玉(レンズ)を組み合わせては?」

 

「うん。それである程度は解決できる。更に異なる硝子(ガラス)で作った透玉(レンズ)を使えば、ほとんどの色を一点に集めることができる。ただ作るのは大変だし設計は手間だしで、そこまでしてやる意味があるかどうかはちゃんと考えないといけない」

 

なお例外になりそうなのは札束をぽんと出すカメラ業界であるとか縮小投影型露光装置(ステッパー)とか。一応精密測定とかが噛むので専門書に目を通したことがあるが、やばい業界だなと思った。

 

「……ただ、別に単純な透玉(レンズ)でもなかなかいいじゃないか」

 

そう言いながらトゥー嬢は暗箱を覗き込む。

 

「ここに光に焼ける薬品を塗った板を()めればいいのだろう?」

 

「そうなります。一応私の覚えている限りでの調薬は先程渡した通りです」

 

「……後でゆっくり試そう」

 

「ありがとうございます」

 

試行錯誤が必要になりそうな案件だ。トゥー嬢の根気についてはよく知っているので、なんとかなるといいが。

 

「ところで、なぜ今これを?」

 

「少し遠くに行くので、その時に近況を手紙以外でも知ることができればと」

 

「一つ作るのに相当な手間がかかるだろ、絵でいいのでは?」

 

「……手段が多い分に越したことはないですよ」

 

「そうかもしれないな。ただ、これはもし実現すればかなり色々と変わるんじゃないか?」

 

「たぶんそうですね」

 

具体的な発展例が多すぎて、写真の実現による影響をちゃんと評価することはできそうにない。問題はこれが印刷カウントされて管理局の案件になることだが、もしそうなってもその頃には海の向こうだ。まあしばらくしたら返ってくるので先送りにしかならないか。



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第13章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。投稿時間から作者のスケジュールを推測するような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


工作員

一人はデナイリストに突っ込まれかけている、危ない方法で秘密を盗む男性。

Inclusive Naming Initiativeは2020年に問題のある情報関連の技術用語の修正案として「ブラックリスト」の代わりに「デナイリスト」を使うことを提唱した。

 

機密文書

一応鍵作りは規格化において大きな影響を与えたのでここらへんの知識はある。

この後出てくるジョセフ・ブラマーや、その鍵を破ったアルフレッド・チャールズ・ホッブズなどのあたり。

 

永遠にスリーパーでいたい。

スリーパーはスパイの分類の一つであり、当局の注意を惹かないよう長期間潜伏し、情報収集や人脈形成、そしてここぞという時の工作を行う人員のこと。

 

善隣友好政策は公正世界誤謬にさえ気をつければ悪くないものなのだ。

公正世界誤謬は「悪い結果は悪い行動に起因する」という考え方。これを軍事衝突に適応すると「攻められたほうが悪い」となる。まあ国際社会で絶対的な正義はないが、少なくとも他国への侵略は国際法違反であるというのがコンセンサスではある。

 

旅行

ジャン・マリッツ、ジョン・スミートン、ジョン・ウィルキンソンといった中ぐり盤開発の流れ。ジョセフ・ブラマー、ヘンリー・モーズリー、ジョセフ・クレメント、ジョセフ・ホイットワースによる規格化生産の系譜。

ジャン・マリッツは大砲加工装置の作成で知られるフランスで活躍した発明家。彼の手法では加工具を固定し、砲側を回転させる方法を取る。これで精度のいい加工ができるようになったため、フランス砲兵の規格化が進んだ。ジョン・スミートンはイギリスの土木工学者であるが、中ぐり盤の開発でも知られる。これによって蒸気機関に使えなくもない程度のシリンダーが作れるようになったが、世界最初の鋳鉄製アーチ橋「鉄橋(アイアンブリッジ)」にも関わったジョン・ウィルキンソンによって加工具の保持方法に改良が加えられ、実用的な蒸気機関が作られるようになった。

 

先進的な機械加工を用いて半世紀以上破られなかった鍵を作り上げたジョセフ・ブラマーの工房では、ねじ切り旋盤を始めとする多くの工作機械を開発したヘンリー・モーズリーやチャールズ・バベッジが設計した階差機関の製造に関わったジョセフ・クレメント、イギリスの統一ネジ規格を生んだジョセフ・ホイットワースといったその後の機械加工と標準化の歴史に名を残す職人たちが働いていた。

 

とはいえ労働者と経営者という安易な二項対立を構築すると、結局鉄鎖の他に失うものがなくなったプロレタリアが世界をめちゃくちゃにしてしまう。

Mögen die herrschenden Klassen vor einer Kommunistischen Revolution zittern. Die Proletarier haben nichts in ihr zu verlieren als ihre Ketten. Sie haben eine Welt zu gewinnen.

(支配階級よ、共産主義革命を前に恐れおののくがいい。労働者階級(プロレタリア)は自らの鉄鎖の他に失うものを持たない。彼らは世界を手に入れる。)

──カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス「Manifest der Kommunistischen Partei(共産党宣言)」より。拙訳。

 

「Ketten」をどうするかは訳によって異なる。英語からの重訳であるが幸徳秋水と堺利彦による「社会主義研究」に掲載されたものや、1959年の新潮社「マルクス・エンゲルス選集」第5巻における相原茂の訳では「鉄鎖」としている。個人的には「鎖」より「鉄鎖」のほうがかっこいいので「鉄鎖」を使いたい。

 

労働組合を用意するか、あるいはレールム・ノヴァールムのように宗教に訴えるか。

レールム・ノヴァールム(新たなる事柄について)は1891年に出されたローマ教皇レオ13世による回勅であり、資本主義と社会主義を殴って社会正義の名のもとに労働者の信仰を集めようという内容。多くの宗教的社会活動に影響を与えた。

 

富めるものは更に富み、貧しいものは持っているものまで奪われる。

それ(もて)(もの)(あたへ)られて(なほ)あまりあり無有(もたぬ)(もの)はその(もて)(もの)をも(とら)るる(なり)

──明治元訳新約聖書(明治37年)、馬太(またい)傳福音書第六章より

 

マタイ効果はロバート・キング・マートンとハリエット・ザッカーマンによって提唱された概念であり、無名よりも著名な科学者のほうが信用を集め、結果としてより多くの名声を得ることになることを指したもの。

 

利益

ゲーム理論で言うシグナリングゲームに当たるか。

シグナリングゲームはシグナル(ざっくり言えば自己紹介)を対象としたゲーム理論で扱うゲームである。自分の言葉を信用してもらうための戦略の一つは、リスクを孕んだ発言のような「そこまでして言う意味がある」というようなシグナルを送ることであるが、これを逆手に取って……と考えると複雑になっていく。

 

デトロイトの治安悪化とそこからの回復は確かに特筆すべきだが、そもそも日本車がなければ治安は悪化しなかった。

自動車産業の街であったデトロイトは日本車の進出を要因の一つとして工場の撤退や企業の倒産が起こり、職場を失った労働者たちのせいで治安は悪化した。今日では再開発などによって盛況を取り戻しつつあるが、課題は未だ多い。

 

社交辞令

まあ私も学会とかでちゃんと相手の名前を調べてオンラインで読める論文にざっくり目を通してシラバスを確認してから「本を読みました、こんなところでお会いできるなんて。今日はどういう研究を聞きに?」「素晴らしいですね、えっ今度学会発表するんですか。見に行かせてもらいます」「もしよければ、そちらの大学に見学に行かせてもらってもよろしいでしょうか?」などと白々しいことをやっていたからな。

この物語はフィクションであり、実際の大学院生、学会、研究者、事務員などとはあまり関係ないです。けどまあ話をする時に相手の論文を読んでおくと話を合わせられるのでいい。えっ話す先生が論文を最近書いていない?ちょっと闇なのでここで止めておきますね。

 

小さい学会で酒の席の冗談だとしても院生を理事に推薦するなよ。

この物語はフィクションです。いいね?

 

冗句

元ネタはソ連時代のАнекдот(アネクドート)である。

アネクドートはロシア語で「小話」程度の意味であるが、日本ではソ連時代のブラックジョークを指すことが多い。盗聴器ネタは鉄板であるが、そもそもこんなネタが出る程度には秘密警察も頑張っていたのだ。

 

丁字管

もう少し大きいなら事前に(やすり)で傷をつけておいたりするのだが。

ここで叩いて割らずに先端を加熱して息を吹き込む流儀や、火を細くして局所的にガラスを溶かし吹き破る方法もある。

 

滴定用のビュレット、液体移動用のホールピペット、内側に溝の入った分留用のビグリューカラム、コックの付いた分液漏斗、そしてくぼみを持つ内管と分岐のある外管の間に水を流すアリーン冷却器。

ビグリューカラムはフランスのガラス職人アンリ・ビグリューに、アリーン冷却器はドイツの化学者フェリクス・リヒャルト・アリーンに由来する。

 

第二次世界大戦下で試みられてなんかうやむやに終わった松根油生産を記憶から引っ張り出す。

松の根を蒸留することで得られる松根油は飛行機の燃料に使うこともできなくはなかったが、採取効率が悪いせいでかなりの人員を動員した割には結果は振るわなかった。

 

圧力

そしてこの関係は確か狭い範囲では温度変化に対して指数関数的だったはずだ。

化学ポテンシャルを微分して得られるクラウジウス=クラペイロンの式から近似を重ねると、絶対温度の逆数の差に応じて指数関数的に蒸気圧が変化する。常温において絶対温度の逆数の差は線形とみなせるので、蒸気圧が温度変化に対して指数関数的に変化するように測定される。

 

かなり神経質な気もするし、無機水銀が有機水銀にくらべて中毒を起こしにくいことと体内半減期が確か数ヶ月だったということを考えるとまあ酷いことにはならないだろう。

メチル水銀のような有機水銀と比べ、無機水銀の半減期は短く毒性もマシである。とはいえ吸い過ぎは身体に悪い。

 

確か「ガルガンチュワ物語」で巨人ガルガンチュワを描いたフランソワ・ラブレーが足した。

「ガルガンチュワ物語」として知られるLa vie très horrifique du grand Gargantua, père de Pantagruel に「Natura abhorret vacuum.」という一文がある。まあ酒を飲んでいるシーンなのでそこまで重要な言葉ではない。なおこれが初出かは不明。

 

方向

S字状の管を使い、可動部分がほとんどない構成になっている。

ここらへんは文字で説明するのが難しいので 辻泰, 齊藤芳男. 真空技術発展の途を探る. アグネ技術センター, 2008. かその元になった論文の一つ、辻泰. 真空技術発展の途を探る 3. 真空装置の中の水に気付いたのは誰か? 、(1) Toplerポンプの頃. 真空. 2000, 43 巻, 8 号, p. 824-827. あたりを見てほしい。

 

特定

このくらいの雑なノリで、印刷物管理局の人員のおよそ半分を動員した活字のカタログ化が始まった。

揺籃期本(インキュナブラ)の研究ではしばしばこういう手法が取られる。

 

暗箱

私は簡易的に作った暗箱を見せて言う。

暗箱はラテン語「camera obscura(暗い部屋)」の直訳に近いもの。写真機の本体を指してこう呼ぶことがある。

 

確かイブン・アル=ハイサムもこの手の研究をしていたはずだが、詳しくは覚えていない。

イブン・アル=ハイサムは英語読みのアルハゼンとしても知られる、光学の研究で知られるイスラム世界の人物。物理学前史において重要な役目を果たし、その後の欧州における光学の発展に影響を与えた。実際に彼は虹についての論稿を書いている。

 

「まあ、それでここに使われている円盤状の硝子(ガラス)……透玉(レンズ)と呼んでいる部品の形状が問題になってくるのです」

レンズ豆と似ている形状のガラス製品なのでレンズと呼ばれているのだが、中国語では「透镜(tòujìng)」と呼ぶ。日本語にすれば透鏡。光学素子ではあるものの鏡ではないので、ここでは透玉の字を当てている。

 

なお例外になりそうなのは札束をぽんと出すカメラ業界であるとか縮小投影型露光装置(ステッパー)とか。

縮小投影型露光装置(ステッパー)は半導体に回路構造を焼き付けるための装置。複雑にレンズを組み合わせることで精密な投影を可能としている。なお、この機械の世界的シェアを握っているASML社の製品の光学部分を担当しているカール・ツァイス社の系譜をたどると顕微鏡の改良で知られるカール・フリードリヒ・ツァイスにたどり着く。



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第14章
文字


『その男性、彼女に魚を売った……』

 

「そこは『男性は』としたほうがいいでしょう」

 

使節官の内定が決まっている先生から北方平原語を学んでいるが、正直言ってかなり難しい。大まかに同じ語族であると思われるので文法的に完全に違う訳ではないが、英語とフランス語よりは離れていそうだ。まあ日本語はこれらからかなり離れているので東方通商語を短期間で覚えた私ならなんとかなるだろう。

 

「古帝国語のまま話しても結構なんとかなりそうですね」

 

ケトは元気だ。いいなぁ。こういうものは話した分だけ成長するので、ある意味頭を空っぽにした方がいいまである。基本的に人間はマルコフ連鎖に基づくパターンで話しているのだ。私だって学術的文章のインプットからそれらしい文章の連なりが出るまで訓練したから一発でそれなりのものが書けるわけで。

 

「そんなに似ているの?」

 

「発音と活用が異なっていますが、単語や文法は大きく変化していないかと」

 

先生が言う。専門用語や技術用語の翻訳なんかも相談しているので可哀想になってくる。まあ、将来的に貿易するならそういう単語も必要になってくるだろうけれども。この図書庫の城邦にいると忘れがちであるが、この世界の識字率は高くない。私たちが向かおうとしている鋼鉄の尾根においては、基本的に文字は書けないし聖典語も東方通商語もまず通じないし、北方平原語も地域によって方言がそれなりにあるようで。その上文字が二種類ある。

 

「それでは先程の文章を書くとこうなります。こっちの文字は覚えなくていいです。まず使われないので」

 

「どういう時に使うのですか?」

 

「儀礼的文書とか装飾としての文字とかですかね……」

 

一つは古帝国語の文字と同じような北方平原語陽文字。一つの文字の中に英語の前置詞や日本語の格助詞みたいなものが含まれている。分離はできるので屈折語ではなく膠着語に分類されそうだ。まあかつての世界の言語学の知識をこの世界で使うのが適切かは知らないが。

 

で、これは複雑で面倒なので簡略化されていった。こうしてできたのが陰文字である。ある種の二元論的なネーミングだ。これは音を中心に書き、必要に応じた表義要素とでも呼ぶべきものをつけることで同音異義語を回避するやり方だ。そんなうまく同じ音の単語を区別できるのかと思ったが、ある種の「性」を定義することでどうにかしているらしい。うーん複雑。まあここらへんは単純に読む分にはあまり気にしなくていいし、最近は表義要素の省略も多いらしい。

 

「こういうところだとたぶん文字版印刷で作った教本は威力を発揮するよな……」

 

「かもしれませんね。とはいえあそこは紙にできるような植物もあまり多く生えませんし」

 

「寒いんでしたっけ」

 

「ええ。冬は水が氷になり、一面が白色になります」

 

私はそこまで寒いところの出身ではないので雪景色は年に一回見るか見ないかだったが、気象条件が揃えばそれなりの低緯度である新潟でも大雪が降るのだ。そして天の北極の角度と移動にかかる時間からなんやかんや計算すると目的地の緯度はスカンディナヴィア半島南部とかバルト三国のあたりのはず。どうせ行くなら簡単でもいいので六分儀を持っていきたいな。電波の受信ができれば時差も出せるし。さすがに月の位置を求めるために三体問題に取り組んだり衛星による食を揺れる船から観測するよりは実用的だろう。クロノメーター?真空管のほうがたぶん楽。

 

「よし、行くのは夏にしよう」

 

となるとあと半年ぐらいか。こういうのはちゃんと予定を立てておかないと先延ばし先延ばしになっていくのだ。

 

「それでしたら涼しくていいでしょうね」

 

そう言うのはケト。交通が発展すれば避暑地としての需要が出てきそうだ。今のうちに見晴らしのいい土地の権利でも買っておくかな。いつ回収できるかはわからない。

 

「間違いありません。冬は商人たちも寄港を避けますからね。そもそも海に氷が張って港が動きません」

 

「それほどか……」

 

まあでもロシア帝国やソビエト連邦が不凍港を求めて南下した事を考えると、緯度に見合った気候ということでいいのだろうか。木造船しかないのによくまあそういう場所に繰り出すなとも思うがそういえばヴァイキングはアイスランドに植民し、グリーンランドを開拓し、ヴィンランドに到達しているんだった。案外死を厭わない試行錯誤を重ねることができればできるものなのかもしれない。怖いので私は安全関連の準備をきちんとしてから行こう。

 

「しかしいいところですよ?しばらく住んでいた時期がありますが、魚は美味しいですし、長い冬に作られる様々な細工は美しさと実用性を両立させています」

 

先生がしみじみと言う。

 

「なるほど。鋼鉄の尾根と呼ばれるのはやはり鉄や鋼の生産が多いからでしょうか?」

 

「確かにあそこは良い鉱石を産し、鍛冶も多いというのはあります。古帝国の支配外だったので剣を鍛える術が残ったのもあるでしょう。ですが……」

 

「ですが?」

 

「あそこは食べるものが少ないんですよ。飢えるよりは戦場に行くほうがいいというのもあって」

 

「ああ……」

 

スイスにおける傭兵のようなものだろう。となれば、それなり以上の軍事力があるわけだ。戦争における技術者の責任とか面倒なことを考える事態にはなってほしくないな。



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石灰灯

微小な変化量の測定の方法として光てこ法がある。私がかつていた世界でも走査型プローブ顕微鏡に使われていた由緒正しい方法だ。起源はあのポッゲンドルフ錯視で有名なヨハン ・ クリスチャン・ポッゲンドルフが作った検流計にまで遡る。知らない?まあこれはポッゲンドルフが作ったものではないからな。傾いた直線の中央部分を幅広の帯のようなもので隠すと、直線が不連続に見えるというやつだ。デザインをやっているとたまにこれのせいで微調整が必要になる。

 

まあ科学史というのは時々「どうでもいい」と本人が思っていたであろうもので評価されたなんてことが多くある。左手の法則で知られるジョン・アンブローズ・フレミングは真空管の発明者だし、ナッシュ均衡のジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアは自身のナッシュ均衡の発見は角谷の不動点定理のちょっとした応用にすぎないと評価していた。前者は世界中の物理学を学んでいた学生が五分五分以上の確率でローレンツ力の向きを出すことに貢献しているし、ナッシュ均衡はゲーム理論や経済学において欠かせない概念に発展した。一方で二極管と聞いてぱっとわかる人はそうそういないし、リーマン多様体の埋め込みについて私は何もわからない。

 

ええと、光てこの話。これのためには当然光が必要だ。今のところ使える光で一番強いのはちょっと離れたところの核融合反応によって生まれた光エネルギーによるものである。太陽光とも言う。あれを太陽と呼んでいいかの議論は置いておくとしても、その光にはちょっとした問題がある。光源が動くのだ。そして使える時間も限られる。

 

ではある程度の強さの光で、安定して使うことができて、測定に使えそうなものはあるだろうか?電球は無理。なぜならこの微小変化量の測定手法で熱膨張率を測定して電球に使うための合金電線の組成を調整しようと思っているので。鉄-ニッケル合金のインバーみたいな低熱膨張合金を作ろうにもニッケルがどこにあるかわからないのもあって難しい。一応炭素鋼の炭素濃度を増せば熱膨張率は下がるはずなのだが、問題はガラスのほうだ。ガラス製品は熱で膨張すると精度が下がるので、基本的に私の知識を漁ってもパイレックスのような膨張率を下げたものの組成とかしかない。

 

ではどうするか。石灰灯(ライムライト)を使う。これは19世紀の舞台照明にも使われていたもので、強熱した石灰石が出す光を利用する。ではそういう高温をどう作るかって?酸水素炎を使う。電気分解で作る水素と酸素を混ぜたものだ。こうやって最初の方に電気を作っておくと何かと嬉しいことが多いんですよね。

 

二重にした金属製の管で酸素と水素を混ぜ、火をつけると小さな石灰石が白く輝く。これを頑張って磨いた凹面鏡の焦点に置くと比較的平行に近い光が得られるので、これを使って光てこに使うのだ。なおこの発想を見た関係者によって照明としての開発が進んでいるらしい。光が強すぎるから下手すれば蝋燭とかより使いにくいと思うんだけれどもな。

 


 

耐熱煉瓦(レンガ)の容器の中に錫と板状にしておいた硝子(ガラス)を入れ、水銀式のポンプで内部の空気を抜いてから水素を入れて加熱する。これで還元雰囲気にすることで液体になっている錫の表面に酸化皮膜を作らない状態にできるのだ。口で言うのは簡単だが、多くの試行錯誤が重ねられたことはよく知っている。それだとしても一月程度でこれぐらいのものはできるのだ。恐ろしい。

 

「それにしても変なことをするんですね、板硝子(ガラス)を作るために錫を使うなんて」

 

この仕組みを作るよう私が頼んでおいた職人が私に声をかけてくる。

 

「溶けた硝子(ガラス)よりも重くて、かつ混じり合わないから」

 

「……それをよく知っていますね」

 

「尊敬するべきはそれを形にできる人物だよ」

 

私の知っているアラステア・ピルキントンらによるピルキントン社で実用化された方法を、かなり雑に再現しようとしたものだ。なお発明者と会社を経営した一族は特に関係なかったはず。そこまでありふれた名字ではないと思うんだがな。

 

「普通、金属と硝子(ガラス)の相性は良い……良すぎるほどですけどね」

 

「それでも熱を加えれば取れたりするし、場合によっては割れる」

 

「そこが問題なんですよ。いろいろ試しているんですがなかなか難しい」

 

「君たちならできる、と無責任に励ませるほどではないからな、これは」

 

「いえ、むしろそれぐらいがいいですよ。キイ先生が無理だと思っているものを実現できれば見返せるわけですから」

 

それを聞いて私は吹き出してしまう。

 

「……なんですか、変なことでもいいましたか?」

 

「いいや、挑戦心があるのはいいことだ」

 

フロート法の実現は1950年代。私がこの世界に持ち込んだ技術の中ではとても新しい方に入る。技術的課題の解決策を知っているのでそこは多少ショートカットできるが、そうではない基礎的な技術の部分で問題が起こるかもしれない。ただまあ、ガラス板があると今後の研究で重要な写真を作れるようになるので少し背伸びしてでも平滑度の高いものが欲しかったのだ。いちいち磨いていては手間がかかるからね。



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切断

多少歪な丸形をした、それでも指の半分ほどの均等な厚みを持った硝子(ガラス)板が手に入った。あとはこれを規格通りの大きさに切るだけである。

 

「これでいいはずだが」

 

注文していた品を見せながら、馴染みの工師は言う。今まで細々とした道具を頼んできたのもあって、これぐらいなら問題なく頼れるようになった。

 

「ありがとうございます」

 

使うのは浸炭処理をした炭素濃度の高い鋼だ。ある程度この世界でもノウハウのある材料なので安心だ。

 

「それにしても、こんな鈍い刃で切れるもんなのかね」

 

工師はそう言って工具の先端を光にかざす。普通の刃というのは先端が(くさび)形、鋭角となっているがこの工具ではそれがかなり広がっている。目見当で135°にしておいた。まあなんとかなるやろの精神は重要である。

 

硝子(ガラス)板を切るというより、これで傷をつけて割るとか割くとかとでも言うべきように二つに分けるんです」

 

楽しい破壊力学のお時間である。20世紀前半に固体内の結合エネルギーの研究が進むと、理論的に予想される強度が実際の強度よりも桁違いに高いことが明らかになってきた。逆に言えば、私たちが日常的に触れる物質はかなりもろいのである。この理論と現実の間をどうにかしようとしてアラン・アーノルド・グリフィスを始めとする研究者が色々とやった結果、どうやら傷がある時にそこに力がかかるのだということが見出されたのである。

 

逆に言えば、表面に傷をつけておけばそこから亀裂を生じさせることができるということでもある。これを利用したのが硝子切(ガラスカッター)だ。

 

「さて、と」

 

私は少し薄めの革で作った手袋をはめる。一応角が割れたら危険だしね。革細工のいい店を知っていてよかった。ちゃんとぴったりはまるし、指を動かしても引っかからない。そうして一定の角度になるように補助具をつけた硝子切(ガラスカッター)硝子(ガラス)に当てる。

 

「うぇ……」

 

一定の力ですーっと工具を動かすと、それを見ていたケトが嫌そうな顔をした。

 

「どうしたの?」

 

「嫌な音で……」

 

ああ、確かにこの音は嫌いな人が多そうだよな。というより本来物と物とが擦れる音を察知できるようにその周波数帯を聴き取れるように内耳が発達して、その範囲の鳴き声を警戒音として使っていた時代の名残、とかあったな。まあ進化とかの話をあまり目的論的に解釈するべきではないというのはともかくとして。

 

「耳をふさいでいたほうがいいよ。私は慣れているからいいけど」

 

傷を入れたのと逆の方から工具の柄で硝子(ガラス)板を軽く叩く。少し割れ目が広がってきたな。

 

「で、これで割れる」

 

折るように力を入れると、あっさりと板は2つに分かれた。後はこれを繰り返して長方形の板状に切り分けていくだけだ。

 

「キイさんはどうにも変なところで鈍感ですよね……」

 

「そんなに耳が悪いように思える?」

 

「いえ、そういう意味ではないですが」

 

「そう」

 

「言い方を変えるなら、あまりそういう感覚に頓着しない……?」

 

色即是空を理解するほど執着(しゅうじゃく)を捨てたつもりもないのだが。

 

「まあでも、何かを不快に感じるのは面白くないから」

 

「かといって悪食なのは……いえ、食べれるのならいいですか」

 

そういえば私は昔からあまり好き嫌いはなかったな。栄養補給の際の味わいはQOLを上げるので感覚がないわけでは無いが。

 

「それで、この板を何に使うんですか?」

 

「風景を写し撮るために使う」

 

「ああ、前にトゥー嬢に見せていたあの箱の」

 

「そうそう」

 

コロジオンを使う湿板でもゼラチンを使う乾板でも、どっちにしろ硝子(ガラス)は必要だ。フィルムはまだ少し先。セルロイドに使う可塑剤の樟脳がないのだ。とはいえ独特の匂いがする木材はあったし、香油らしいものが売っているのも見たことがあるのでピネン誘導体の加工とかで作れなくはないはず。これはまあ別に私がやる必要はないな。

 

「……そういうものが生まれたら、画家はいなくなるのでしょうか」

 

「うーん、私のいた場所の話ならできるけど」

 

そう言って私は周囲を確認する。誰もいない。さすがに盗聴器は仕掛けられていないだろう。念を入れるのであれば移動しながら話すべきであるが、まあ別に聞かれたところで追加の情報を向こうに渡すわけではない。

 

「鏡に映るように景色を、人を、街を写し撮ることができたおかげで例えば肖像を書く人は減った。けれども、それは裏返しとして人をわざわざ使って描かせられるほどの地位を象徴するものになった。それに絵でしか表現できないものに目を向けた人たちもいた」

 

「面白いですね」

 

まあ印象派の発展にはジョン・ゴフ・ランドのチューブ入り絵の具の発明とかも関わってくるだろうが、あくまで流れの一つとして。

 

「技術がどう受け入れられて、どう活用されていくかは私にもわからない」

 

「かつていた場所で例を知っていても、ですか?」

 

「地域によっても、時代によっても、同じ技術を異なる方法で受け入れるのはよくあることだよ」

 

「……確かにそうでしょうね。拒絶する人も、溺れる人もいるでしょう」

 

「実際はほどほどのところに落ち着くけどね」

 

とはいえ、その平衡解に到達するまではどうしても不安定だ。それを大惨事にならないように多少横からちょっかいを出すぐらいであれば許容範囲だろう。



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挟撃

「失礼」

 

私はそう言って露天で買った食事を口にしている青年の隣に座る。

 

「……あなたは?」

 

かなり警戒されているな。まあ当然だろう。

 

「これを見て、少し話をしたくてね」

 

私は少し前に買った冊子を彼の膝の上に置く。それと同時にケトが私を挟んだ青年の向かいに座る。彼を挟む形だ。

 

「別に君を捕らえて酷いことをしようとするつもりはない。むしろいい取引を持ってきたつもりだ」

 

「ならこういうやり方はやめてくれ。それと俺は危ない話に乗るつもりはない」

 

「頼むのは今のところ安全なものだ」

 

「俺に頼むってことは真っ当じゃないんだろ」

 

こんな事を言いながら話を聞いてくれるあたりいい人だ。まあ見知らぬ二人に挟まれてここまで堂々と話せるのはいい。

 

「印刷とその内容の収集をまとめてやる集団が欲しい。君にはそのための人脈と技術があるだろう?」

 

「……何をやらせようって言うんだ」

 

「定期的に世間の事情をまとめて、紙に刷るのさ」

 

「幾らかかると思っているんだ。そんなのは印刷機一つじゃ足りないし、相当の人数が要る」

 

「必要な道具はこちらで揃えてもいい。資金も提供しよう」

 

「ますます怪しいな。そもそもあんたは誰だよ」

 

ふむ。まあ言ってもいいか。

 

「キイ、という名前に聞き覚えは?」

 

「素性不明の怪しいやつさ。印刷物管理局なるよくわからない場所で権力の奴隷をしている」

 

「どうやら嫌われているようで」

 

「わざわざ印刷物に面倒な規制をして、それを守らなければ脱税だのなんだの言ってくるんだろ。俺の作っているやつは『本』じゃないがな」

 

そう。印刷物管理局が今のところ管理の対象としている「印刷物」は巻子本、つまりは巻物に限定されている。彼が率いる組織が作って売っているような紙の束を綴じたものは今のところ規制する法律がない。ただ、いわゆる知識人層にとってきちんと巻物として作られていないものは本ではないという認識は根強いので今の所問題ない、というだけだ。

 

「そう。私は君たちのその発想を気に入っている」

 

「とはいえこれも俺たちが思いついたというよりも出回っている怪しい綴紙束を聞いてそれを真似ただけだ」

 

うん?そんな冊子がそう出回っているという話は初耳だが。

 

「どういうものだい?」

 

「『教育不要論』、知らないか?」

 

どこかで聞いたことあるタイトルだなと思ったが私の作品である。おい、怪しいとは何だ。認めるが。

 

「ああ、あの深緑色の。そうか、内容ではなく装丁が気に入られるとは意外だったよ」

 

「……キイを、知っているのか?」

 

「さあ、そういう哲学的な質問には詳しくなくてね。ただ君の隣の少年なら私より知っているはずだ」

 

「無茶言わないでくださいよキイさん」

 

私とケトの顔を交互に見た後、青年は深く息を吐いて頭を抱えた。

 


 

「印刷機を作ったのもあんた?」

 

「そうだよ」

 

「噂はだいたい本当だったのか……」

 

青年は追加で買ってきた強めの酒を飲んで言う。まあ、酒でも入れなきゃやってられんのかもしれないが。

 

「一体どういう噂が流れているのさ」

 

「印刷機を組み上げ、商会を動かして専用の紙まで作らせ、印刷物のための法まで撚った、と。これらを全部一人でこなす人間がいるとは思えないから、おそらく複数人物の総称だと俺は思っていた」

 

「へえ、まあ合理的に考えればそうだ」

 

「だから真似したんだよ。いい名前は思いつかなかったから俺たちに呼び名はないが」

 

「……全部私が引き起こしていたのか」

 

「自己責任だと思います」

 

私のつぶやきにケトがツッコミを入れる。

 

「で、俺に何を望む?」

 

「印刷の強みは短時間で大量の文字を紙に写せるところだ。これを利用して数日以内に起こった、願わくばその日の出来事をまとめ、紙に刷り、売る」

 

「……先物買いには売れそうだな」

 

「多くの人が文字を読めるこの城邦なら、下世話な話でも書けば買う人は多いだろう」

 

「頭領府の醜聞やら巡警の収賄やらの方が面白そうだが」

 

おや、案外反体制的な人間である。私がいる世界だったらゲバ棒持っていそうだ。いやたとえが古いな。

 

「大義のために、というところか?」

 

「純粋に強いものが落ちぶれるさまを見るのが好きだからさ。あんたも含めて、な」

 

「おやおや恐ろしい。具体的に私を引きずり下ろす方策でもあるかい?」

 

「管理局は印刷物なら何でも手当たり次第に扱うんだろう?」

 

「そういう場所だからな」

 

「なら本を粗製乱造する。仕事が回らなくなるぐらい多く、な」

 

「なかなか悪辣だな。素晴らしい。この仕事を任せるのにふさわしい」

 

思想が強い?結構。新聞なんてそういう人間でないと回らないのだ。信頼できるメディアであることなんて求めていない。大衆が興味を持って、話題にするようなネタを提供できればいいのだ。それに既存システムの問題を突く方法をすぐに出せるのがいい。そうそうマスメディアが特定勢力に乗っ取られては困るからな。まあ思想が強い人間には思想が強い人間を当てれば大抵は潰し合ってくれる。余波がちょっと面倒なことも多いが。

 

「……勝手にやってくれ。俺たちもそうする」

 

そう言って彼は席を立とうとした。

 

「あ、同じ版を作る時に粘土や紙で型を取って、それを円筒形に曲げて版を作るんだ。そうすれば一組の文字版から一度に多くの紙を刷れる」

 

「……その場合は、長い紙が必要になるのでは?」

 

「幅が一定の、ね。紙問屋に作ってもらうよう頼もうか?」

 

「そういう話なら聞いてもいい。具体的にどうやって作る?」

 

青年はすっとさっきまで座っていた場所に戻った。あ、こいつ根は技術屋だな?



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感情

「紙自体の品位は下げていいわけだろ、となると速乾性の(インク)が欲しくなるわけで」

 

「回転仕掛けで版と紙を自働で動かすようにすればいい。こういう動きをさせたいわけだから」

 

「楽しそうですね……」

 

新聞社を立ち上げる方向で話が進んでいる青年と私の会話を聞いて、ケトは少し呆れたような声で言う。

 

「強度が足りないだろ」

 

「鋳鉄製の部品が数年以内に安く出回るようになる」

 

「……まさか、そこまでやるのか?」

 

「鋼鉄の尾根にちょっと行ってこようかと」

 

「まったく、恐ろしいやつだ」

 

気がつくと飯屋の机の上で紙を散らばらせながら色々と話し込んでいた。なるほど、彼が冊子作成の中心人物になったのも頷けるな。他人の知識を吸い取り、うまく計画を作ることに長けている印象を受ける。

 

「まあ、基本的にこれを見せれば融通は利くはずだ」

 

私は名刺代わりに使っている印刷物管理局局長という肩書と名前が入った紙の裏に便宜を図るようお願いする文章を書いて青年に渡す。

 

「ところで、あんたはこれで何を手に入れるんだ?」

 

「まず一つはこういうものが出回ることでやり取りが速くなるということ。それ自体が私の益になる」

 

「やり取りの巡りを速くするということか、あまりいいこととは思えないが」

 

「ほう」

 

まあ、確かに私がかつて過ごしていた現代社会は成長を前提としているのでそこらへんが危なくなっていた時期はあった。それを加味しても情報の速度というのは重要だというのが私の意見。

 

「まあいい。他には?」

 

「掲載する文章を読者が投稿できるとか、ある程度の枠を広告として使うとかで多くの人に自分の思想や製品を伝えることが可能になる」

 

「ああ、それならこちらが書く文書を減らせはするか」

 

「とはいえその印刷物がどういう思想のもとで活動をしているのかを決めるのかをきちんと表明することは不可欠だと私は考えるね」

 

「その点においては同意見だ」

 

おお、思想があるのはいいことです。

 

「あとはあれだ、暴走しがちな『市民の感情』というものを多少は制御できる」

 

「……誰の思想に沿って、だ?」

 

ああ、やはりそう来るか。

 

「さあ。それを決めるのは君だ」

 

「法律を盾に、あるいは暴力的脅迫を用いてそれを操ろうとする人がいれば?」

 

「それをどうにかするかどうかは、印刷を行う人間に任せられている、としか言いようがない。もちろん暴力については巡警がどうにかしてくれるだろうが」

 

「……面倒だな。敵を作れない」

 

「そもそも誰かに喧嘩を売るということはそういうことではあるけれどもね。安全圏から一方的に殴れるだなんて虫のいい話はない」

 

「まあ、故にもし刷るのであればそれなりの備えが必要、か」

 

「もし君が嫌うような人々が先にこういうものを作ってしまえば、対抗する必要が生まれるだろう?直接殴り合うよりも公開された紙の上でやるほうが外野から見れる分楽しい」

 

「楽しいで済ませていいのか?」

 

「もっと先に行ってもいいけどね。それでも互いに暴走するようなら第三者の介入が必要となるだろうけど」

 

「……そういう事に関する法は、あんたが作るのか?」

 

「関わることにはなるかもしれないね。そうなったらもちろん当事者から意見を聞くべきだと主張するが」

 

「……なるほど」

 

こういう思想的な話をする機会は今までなかったから楽しいな。

 

「キイさん、ちょっと落ち着きましょう」

 

「……そうだね」

 

ケトに言われて少し呼吸を整え、紙をまとめる。

 

「出資を募ることはできると思うか?」

 

考え込んでいたらしい青年が言う。

 

「銀百枚程度であれば出せるけど、たぶん足りないよね」

 

私が言うとケトの表情が少しひきつる。あー、うん、はい。すみません。

 

「最初の広報物が資金募集になりそうだな……」

 

「商会の方に話も通せるけれども、当然金を出す分圧力は受けるよ?」

 

「それはそれで難しいな……」

 

まあ彼のことだ。どうにかして資金は集められるだろう。

 

「私は君に期待しているんだ。印刷機を作り、情報を集め、そしてそれを売ろうとするのはとても興味深い」

 

「そういう上から何かを評価するような言い方は気に食わないな」

 

「すまないね」

 

「まあ、他人の模倣に過ぎない俺たちがあんたにとやかく言うのも変な話だが」

 

あ、そこらへんはちゃんと割り切っているんだ。

 

「たとえ模倣でも、最終的に生み出された新しいものは君たちに帰属するべきだよ」

 

「そう言ってもらえると少し気が楽だな。いい話ができた」

 

「どういたしまして。払わせてもらうよ」

 

そう言って私は懐から銀片を取り出す。

 

「いや、ここで奢られると今後あんたからの圧に耐えられる気がしない」

 

「別に今更いいのに。相当色々なものを渡したはずだし、これぐらいは受け取っても別に厚かましいとは思わないさ」

 

「ただでさえ恵んでもらっているようなものなのにこれ以上実際の銀まで受け取りたくはないんだよ」

 

「そうかい、なら折半しよう」

 

「酒代と肴代はともかく、そこの少年が食べた昼食代はそっちで持てよ」

 

そういえばケトはちゃっかり注文しているんだった。私も後で食べよう。

 

「まあいいけどさ」

 

なんとも微妙な関係である。まあ、面白いからいいが。



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写真

「どうぞ」

 

ケトが出した椀を受け取り、暗い目でこちらを見ながら薬学師のトゥー嬢はずずずと音を立てて茶をすする。

 

「……上手くなったな」

 

「お陰様で」

 

少しだけ表情を柔らかくするトゥー嬢と、少し自慢げなケト。

 

「ケトくんはトゥー嬢にこういう事するの?」

 

「ええ、前に通っていた時から何度か」

 

「ふうん」

 

面倒な感情をちょっと脇において眼の前の相手を観察する。過労だなこりゃ。睡眠不足もありそうだ。

 

「話せそうですか?」

 

「ああ……」

 

彼女は何回か瞬きをすると、深く息を吐いた。

 

「久しぶりに面白かったよ。配合はそこに書いてある」

 

そう言ってトゥー嬢は物が雑多に置かれた台の上にある紙を指した。

 

硝膠(コロジオン)を乾燥させないようにする配合が問題だった」

 

「……あれは湿った状態で使うもので」

 

頼んでおいたのは湿板のはずなのだが?

 

「わかっている。そこまでは百回も試せば行けたが、あれでは使い勝手が悪い」

 

「それなら最初から膠を使う方法を説明するべきだったかな?」

 

「試したさ。だが硝子(ガラス)板から膜を剥がすには硝膠(コロジオン)が良かった」

 

なんでフィルムの一歩手前みたいなものができているんですかね?私がかつていた世界だと試行錯誤を重ねて二十年か三十年かかっていたはずなのだが。

 

「……恐ろしい出来ですね」

 

「起きている現象の説明があったからな。あとは結果を変えない範囲で弄ればいい」

 

私はもう半ば呆れたようになって紙に書かれた手順を辿っていく。これは現像で、こっちが定着。おっと、私の知らない単語が混じっている。

 

「これは?」

 

「海藻灰だ。硝基質が含まれているので追加したがこれで光に当てる時間を短くできた」

 

「あーなるほどなるほど。塩気基質(ハロゲン)の一種がたぶん混じっていたんだな」

 

おそらくは(ヨウ)素が混じっていたのだろう。化合物の安定度の違いで露光時間が変わったりするのだ。詳しくは知らないが。

 

「……その分析は他の人に任せるよ」

 

「というよりこれも別にあなたがやる必要はなかったわけで」

 

「まあ、これは私の意地のようなものだよ。少ししたら撮ってやる」

 

「どのくらいの間、光を当てます?」

 

「私の脈で40と言った所」

 

トゥー嬢は心拍数低そうなので一分弱かな。静物や肖像用になら十分だ。

 

「曖昧ですね」

 

「水時計でも使えば良かったのかもしれないがな」

 

「揺れる(おもり)を使う方法もありますが」

 

「なるほど……。まあ今日ぐらいの陽なら特に問題はないはずだ」

 

トゥー嬢は残っていた茶を一気に飲み、立ち上がった。

 


 

「こんなふうに映るんだ……」

 

窓から映る景色が白黒反転で写った硝子(ガラス)板を覗き込んでケトが言う。

 

「触るなよ。硝酸銀が手に付けば半月は取れない黒染ができる」

 

すっと顔を硝子(ガラス)板から遠ざけるケトを見ながら、トゥー嬢は手袋をつける。正しい。還元の過程で発生する銀の微粒子が肌にこびりついて黒くなるのだ。

 

硝膠(コロジオン)に銀、硝酸、塩などを混ぜたものを塗ってある。配合は暗所で行う必要があるのは当然だな」

 

黒く染められた厚手の革と布を継ぎ合わせたマントのようなものを頭からかぶってゴソゴソと作業をしながらトゥー嬢が言う。

 

「……よし。ケト君はそこで。キイ嬢はもう少し左に寄ってくれ」

 

私とケトは指示に従う。撮影可能範囲はそこまで広くないと思われる。映るのは上半身だけだろう。

 

「あとは透玉(レンズ)の前の仕切りを外せば硝子(ガラス)板の上で銀基質が純化されるわけだ。っと、失礼」

 

私とケトの後ろにトゥー嬢が立つ。

 

「……あなたも映るんですか?」

 

「なにか問題が?」

 

「いえ」

 

「ならいい。前を向いて、透玉(レンズ)を見つめるんだ。瞬きをしないように」

 

トゥー嬢が立っている場所から糸を引くと、なにから木がぶつかる音がした。たぶんある種のシャッターだろう。

 

頭の中でこの後の工程を考える。光が当たることである種の連鎖反応が起き、ハロゲン化銀は還元されて銀の微粒子となる。この微粒子を目に見えるスケールにするには還元環境において微粒子を核として銀の結晶を成長させればいい。ここで還元が強すぎると露光していない場所でも結晶ができてしまうので難しい。これには時間や薬品の濃度が問題になるのだが、ここの部分をトゥー嬢は実験を重ねて解決してしまった。この方法では炭酸ナトリウムで塩基性にした硫酸鉄(II)水溶液を使っている。この工程が現像だ。

 

その後に定着としてハロゲン化銀を取り除く作業が入る。この時に使うのがチオ硫酸ナトリウムだ。これは銀をあまり溶かさず、ハロゲン化銀を溶かす。この工程が終われば感光性物質はなくなるので明るいところで作業ができるというわけだ。あとは薬品を洗って乾かせば写真の完成である。

 

なんてことを考えていると時間が来たらしい。トゥー嬢がまた別の糸を引くとまた音がした。暗箱の中で透玉(レンズ)硝子(ガラス)板の間に仕切りが降りたのだろう。

 

「ここから先の工程はまだ文章にできるほど洗練できてはいないが」

 

そう言いながら彼女はまた作業をする。液体を注ぎ込んだり流しだしたりできる専用の箱か何かがあればこの作業はやりやすいんだがな。

 

「これを紙に焼き付ける方法もあるんだろう?」

 

「卵白を硝膠(コロジオン)の代わりに使います。詳しくは覚えていないのですが」

 

「まあいい。他の人にやる時にはそこらへんは多少ぼかして伝えよう」

 

なんだかんだでトゥー嬢は私という人間を知っていて、それを程々に隠そうとしてくれている。そもそも彼女自身がそういう喧騒を嫌う身ではあったはずなのだが。申し訳ない。

 

「っと、できたぞ」

 

水を切った硝子(ガラス)板をトゥー嬢は私とケトに見せる。

 

「綺麗にできますね」

 

「最初に人間を写す時に失敗しないよう、何度も試したからな」

 

「……あれ、ということは僕たちは硝子(ガラス)板に写された最初の人たち、ということですか?」

 

「そうだが?」

 

トゥー嬢は当然のように言う。私の歴史だと最初に写真に写ったのはルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの撮影した銀板写真(ダゲレオタイプ)の靴磨きと磨かれていた人だったかな。ここまで狙った鮮明なものではないはず。

 

「あとはこれをもう一度別の硝子(ガラス)板に焼いてもいいが、ただ写っているものを見るだけであれば黒い布か何かの上に置くだけでいい」

 

感光した部分は光を通さないので透かすと黒く見えるが、反射光であれば白っぽく見える。なのである意味ネガとポジが黒いものの上に置くだけで反転するのだ。

 

「……こんな簡単に、写し撮れるものなんですね」

 

ケトが言う。多少粗いものの、確かに三人の姿が硝子(ガラス)板にはできていた。



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報道

「なかなかおもしろい改良をしているじゃないか」

 

「あ、この(インク)の配合なら油果から取った油を数日放置して上澄みだけ使うのがいいです」

 

「いや紙に合わせてあるんだろ。なら成分は変えるべきだ」

 

何人かの印刷物管理局の局員がわちゃわちゃと印刷設備一式を見る中、新聞発行の準備をしていた青年は苦笑いを浮かべていた。

 

「どうしたの?」

 

「いえ、本職の人がやってくるとは……」

 

「別に本職というつもりもないんだがね?」

 

局員の一人から声が飛んでくる。確かに誰一人として印刷機の専門家はいない。私だってそうじゃない。けれども印刷機に関して言えばこの城邦どころか世界で有数の技術者である。やはり細分化と専門化は必要かもしれないな。

 

「で、作ったものは?」

 

「これだ」

 

明後日の日付がある、裏表印刷の紙。裏写りは少ない、と。

 

「『時勢』とはなかなかいい名前だな」

 

中央に題字、上下に記事。独特だが確かにタイトルは目立つ。まあここらへんは色々試していく中で洗練されていくだろう。内容は新聞の創刊を伝え、記事になりそうなネタを募集している横で編集長が独断で選んだ面白い授業をやる講師のリストがあったりもする。ここらへんは前に作っていた冊子とノリが似ているな。

 

「どうも」

 

「定期購読は幾らだい?」

 

「月に銀1枚だ。年なら10枚」

 

銀1枚が日雇い労働者の日収2日分より少し少ないぐらいだから、まあ私のいた世界の相場と比べても数倍の範囲内か。活版印刷の面倒さを考えればかなり安いぐらいだろう。

 

「一部が銅葉2枚だから、まあそんなものか」

 

「今のところ講師から買うという話が来ているな」

 

「おや、どうして?」

 

「購読者限定で一行を銀片1つで売ると言った」

 

「賢い」

 

三行広告のようなものだろう。確かに学徒として講師を探すのは大変だったので学生新聞みたいな側面を持つのかもしれない。

 

「印刷物管理局として、月に銀片3つで3部買おう」

 

「どうも」

 

このくらいであれば普通に本を買うのと同じで出費として認められるだろう。まあ認めるのは私なのだが、出資者に対しての説明責任とかあるからね。会計報告とかもちゃんと作っておかないと。

 

「今払えばいいかい?」

 

「いや、徴収の人を回す」

 

「なるほどね。そういう人も学徒から集めてくるのかい?」

 

「そのつもりだが」

 

新聞配達で学費を稼ぐことができるようになるかもしれないのか。なかなか面白くなってくる。

 

「っと、印刷物に関することをやる以上、管理局の指示はある程度守ってもらいたい」

 

「どういう事を言ってくるんだ?」

 

「印刷を行う部屋の風通しをよくすること、長期労働の制限、あとは文字版を触ったら手を洗わない限り指を舐めたりしないこと、そんなところか?」

 

「……なぜそんな事を?もちろん意味はあるだろうが、あんたら印刷物管理局がわざわざ出てくるほどでもないだろ」

 

怪訝そうに青年が言う。

 

「鉛で病気になったなんてことになって文字版印刷に規制がかかったら困るんだよ」

 

「ああ、なるほど。なら今度文字版の鉛がもたらす病毒について書くか……」

 

一応この世界でも鉛害については知られているんだった。まあちゃんと環境を管理して問題が出る前に活字から離れればたぶん平気だが。

 

「根拠の無いことを書けば普通に流言罪で巡警が飛んでくるからな?」

 

「危ない記事を書いて学徒を路頭に迷わせるのは忌むべきことだと考えるぐらいの常識はあるさ」

 

聞屋(ブンヤ)精神が足りないぞと私の中の反社会的要素が囁くが別にいいんだよ。報道の自由とかが曖昧な以上あまり派手な事が起こっても困る。暴動で焼き討ちされるとかになってくるともう手がつけられないので、そうなる前にどこかで落とし所を見つけないといけないができるだろうか。

 

「もっと危ないことをしないと読者がついてこないぞ?」

 

少し挑発してみる。

 

「そういうのが求められるなら後追いが生まれるだろ」

 

案外真面目である。このまま行くと左派高級紙の方向になりそうだ。最初の新聞がそれでいいのか?まあ必要があれば頭領府の息がかかったプロパガンダ紙が「刮目」の肝煎りで作られるだろう。私としてはこっちのほうが趣味にあっている。あからさまに政治色を出しているところからにじみ出る成分ってありますよね。

 

「真っ当だな。いいことだ」

 

「あんたは俺にどういう物を作らせたいんだよ」

 

「そこに伝えるものがあるって事が重要なんだ。内容はその次」

 

「……なるほどな」

 

そう言って青年は私の隣を離れ、議論をするため局員の方に歩いていった。管理局のことは好きではないらしいが、職人とは気が合うらしい。面白いやつだな。まあ政治的意見が対立していても最低限の基盤があるのはいいことだ。取り返しのつかない断絶が生まれそうならその前に話し合いとかをさせる機会を設けたり、あるいは事態の沈静化のために新聞みたいなマスメディアを使うことをしたいが、実際上手くできるかは未知数なのでやってみるしかない。これと無線通信が組み合わされば面白いことにはなりそうなんだが、それはまだもう少し先かな。



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窒素

鶏卵紙はそれなりに長く使われた写真紙で、卵白をバインダー層として使うものだ。バインダー層と言うのは感光とかで色が変わる成分を含んだ層のこと。あまり感度は良くないので、これ自体を暗箱に入れて撮影するのには向いていない。だから一旦感度の高い硝子(ガラス)板で撮影してから紙に印画するという手段を取る。この時に光が当たる部分が黒くなるので、白黒が反転した硝子(ガラス)板を使えばもう一回反転させることになってちょうど見た通りの陰影ができるのだ。

 

「というわけで、これを」

 

そう言って薬学師のトゥー嬢は私とケトに紙で包んだ鶏卵紙を渡す。この世界最初の人物写真(ポートレート)だ。

 

「知り合いたちに話したらどうやら色々試しているらしくてね、硝酸の需要が高まっている」

 

「それは面倒だな……」

 

「硫酸みたいに便利な方法は……その様子だとあるにはある、か」

 

「実用的ではないけれどもね」

 

硝酸の作り方の一つは二酸化窒素を水に溶かすことだ。問題は二酸化窒素をどう作るかである。酸素と窒素はそう簡単には反応してくれない。もし反応するなら化合物が大気中にふよふよしているはずである。方法の一つは放電を起こすことで、これは落雷の時にも起きる反応である。ただ、必要な電流がかなりのものでしっかりとした発電機が必要になってくる。ビルケラン=アイデ法と呼ばれた方法だ。高低差が大きく水資源が豊富なノルウェーでは電気代が安かったのでこういう事ができたが、効率は後に出てくるハーバー=ボッシュ法に比べて桁違いに悪い。なのでノルスク・ハイドロは価格競争に敗れて重水生産とかをしていた。

 

「そうか。必要なものは?」

 

「大電力か、高温を作る事ができればあるいは……」

 

フランク=カロ法はカーバイド、実際には炭化カルシウムを窒素と反応させてカルシウムシアナミドを作るものだ。とはいえカルシウムシアナミドから硝酸までの経路は少し面倒じゃなかったかな。そもそも炭化カルシウムを作るためには炭素と生石灰をかなりの高温で熱する必要がある。記憶が正しければ、電気炉の熱から生まれたある種偶然の産物だったはずだ。一応温度的には専用の炉があれば電気がなくとも不可能ではないだろうが。あとこれはアセチレンの合成にも繋がるので有機化学工業をやるなら触っておきたい。公害が起きないようには注意しないといけないが。

 

「難しいな」

 

「このままだと生物を使うのが悪くない選択肢になるぐらいだ」

 

「生物?」

 

「あー……豆の類を植えると収穫量が良くなるという話は?」

 

「どこかで聞いたな」

 

その程度には有名、と。単位面積当たりの収穫量をちゃんと計算したわけでは無いが、都市人口やらなんやらから雑に推定するとこの世界の農業生産量は案外悪いものではないように思える。少なくとも私の記憶にある古代から中世にかけての飢えと隣合わせという恐怖はあまり見られない。この地域が比較的豊かな穀倉地帯だというのはありそうだが。

 

「あれは硝基質を大気から作り出す小生物が植物の根にいるからという話があって」

 

「……本当に、キイ嬢がどこから来たのかを考えるのは無駄に思えてきたな」

 

Contagium vivum fluidum(伝染性生液)、もといウイルスの発見者の一人であるマルティヌス・ウィレム・ベイエリンクが確か単離に成功したんじゃなかったっけな。藍色細菌(シアノバクテリア)を使ったバイオリアクターとかが使えるんじゃないだろうか。実際の設計は全くわからないけれども。ここらへんの分野はどこにやらせるのがいいのだろう。感染症理論から発展させるとなると医学であるが、自然の観察という方面からすれば自然学か?衛生問題系統だと場合によっては統治学案件かもしれない。新しい学問分野を既存の体系に組み込むのは面倒なのだ。

 

「キイ嬢?」

 

「ああ、少し考え事を」

 

「……かつていた場所にでも、思いを馳せていたか?」

 

心配そうにトゥー嬢は言う。ああ、たぶん想像しているのとは違うタイプの思考です。そういえば家族や友人に会いたいという郷愁はあまり沸かないな。まあ帰れる道筋が全くないし、このままだとこの世界に骨を埋めることになることぐらいはわかっているし別に嫌ではない。待て。転移時に私の身体を構成していた元素はもともとこの世界になかったものだよな。別にそれがどうということはないのだが保存則に馴染んだ脳が非科学的だと文句を言う。うるせえ科学の定義をちゃんと持ってきやがれ。少なくとも既存理論の盲信は科学ではないぞ。

 

「少し似てはいますが、違いますね。それに私にとっては、ここはもう故郷みたいなものですから」

 

「ならいいが。……そうか、そういえば写し撮ったものは人の一生よりも長く遺るんだろうな」

 

「実際には劣化するので適切な保存をしないと」

 

基本的に暗所で保存しておけばそれなりには保つが、それでも脱色は避けられない。早いうちにデジタルスキャンかけなきゃ、とリサーチ・アシスタントらしい思考が出てくる。

 

「適切な保存をすれば、保つと」

 

「……ええ」

 

「そうか。それはいいことを聞いた」

 

そう言って、写真を見ながらトゥー嬢は微笑む。こういう表情は珍しいな。たぶん彼女の過去に関わることだろう。父親の話だろうか。まあ、別にそれは個人のものだ。わざわざ首を突っ込む必要もないだろう。



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旅券

「元気しているかい、二人とも」

 

白髪を後ろで結んだ書字長が笑顔を浮かべて言う。会うのはなんだかんだで久しぶりだな。

 

「それなりに。そちらは?」

 

私はそう言いながら差し出された巻物を見る。丁寧な装丁は、作成者がそれなりの地位を持っていることを暗示させるわけだ。

 

「仕事が減ったよ。まったく、こんな老婆にこれ以上作業をさせるというのなら色々と言いたいことがあったのだがすっかりその必要もなくなってしまって」

 

活版印刷で一番割を食いそうな人物の一人であるが、それでも許してくれるというのはありがたい。

 

「開いても?」

 

「もちろん」

 

少し複雑な結び方をしてあった紐をほどいて、中を見る。

 

「それにしても綺麗に写すものだね、まるで本人が紙の中にいるみたいだ」

 

顔写真と、その下の文章。これ自体は身分証明書である。なんと図書庫の城邦の頭領、大図書庫の庫長、そして大衙堂の大衙堂長の連名でキイという人物の保証と便宜を願うものだ。そして危害を加えた場合には覚悟しておけよとの一文。それが東方通商語と聖典語と北方平原語陽文字で書かれている。ロゼッタストーンみたいなものなのでこれなら北方平原語陽文字が読めるぞ。

 

「……本当に、ここまでしてもらってすみません」

 

「なあに、久しぶりにいいものを作った自負があるよ」

 

手書きではあるが、丁寧に揃った文字がそこには並んでいる。まあ今使われている印刷機の文字版のデザインは彼女によるものだから見慣れている雰囲気があるが。

 

「将来的に、こういうものを持ったこの城邦の人々が海を超えて行くことになりそうですね」

 

「それでも手書きの紹介状はなくならないさ。偉い人が書いたからってその人を知らなけりゃただの紙だよ」

 

まあ確かにそうなのだが。地元の有力者からの紹介が遠くの街のよく知らない偉い人の保証よりも強いというのはある意味では当然ではある。日本国旅券を持っていれば大抵の先進国で面倒事を回避する助けになっていたような世界とは違うのだ。

 

「ああ、それにちょいと確認しなくちゃいけないことがある」

 

「……といいますと?」

 

「名前が書いてないだろう?」

 

改めて確認すると変な空白がある。ああ、確かにここに名前が入りそうだ。

 

「ああ、そうですね」

 

私はそう言って、固まった。どう書けばいいんだ?

 

「……キイさん?」

 

ケトが私の耳に口を近づけて、小さく囁く。

 

「一般的には親の名前や職人として一人前と認められた時の工房の名前をつけるんですが……」

 

「今回であれば……どうするの?」

 

「司女のキイ、とか印刷物管理局のキイ、とかでしょうか。ただ、後者は管理局の局長を辞めると当然名乗れなくなりますが」

 

この身分証明をある程度の期間使うことを考えると、やはりちゃんとした名前が欲しいところだ。どうしよう。

 

「そういえばケトくんはどうするの?」

 

「司女ハルツの徒弟、ケトとなります。本当であれば父の名前を取るべきなんでしょうが……」

 

そういえばケトの生まれはちょっと面倒なんだったな。まあこの世界で孤児は決して珍しいものではないらしいが。子を生んだ後に熱を出して死にかけた女性の話を街で聞いたことがある気がする。雰囲気からして産褥熱なのだろう。手洗い自体は宗教的清めの一環として受け入れられる余地があるから、あとは微生物によって伝染症が媒介されることを示せばいい。統計学が使えるかな。っと、本題ではない。

 

「なるほど。他に人名に由来しないものは?」

 

「身体の特徴や出身地、あるいは家で継いでいる職業を名乗ることがあります」

 

「……図書庫の城邦の、キイとか?」

 

「出身地かどうかはともかく、はい。ああでもこの紹介状に頭領の名前があるからそれでもいいかもしれないな……」

 

「で、どうするんだい?」

 

ひそひそとした私たちの会話をしっかり聞いていたのか、書字長がこちらを見て言う。

 

「図書庫の城邦の司女、キイとします」

 

「ようし。自分で書くかい?それとも私がやろうか?」

 

「書いてもらっていいですか?」

 

「もちろん」

 

私は巻子本を書字長に返す。

 

「あと、キイ嬢はケト君のほうに名前を書いてくれよ」

 

「どうしてですか?」

 

「勤め先の証明が必要だろう?」

 

「ああ、なるほど」

 

印刷物管理局局長補としてのケトの身分証明には私のサインが必要なのだ。考えてみれば不思議な気分ではある。印刷物管理局はそこまでしっかりした組織ではない気がするので、そこの代表がした保証や署名がどこまで役に立つのかわからない。

 

「印刷物管理局の印があるのですが、それを捺したほうがいいでしょうか?」

 

「……いいね。あの本の最初にあるやつだろう?」

 

「ええ」

 

「なら一緒に印刷した本を持っていくといい。開いて同じだとわかれば書を読む人であれば気がつくだろう」

 

「なるほど」

 

そういえば印刷された本はこの城邦の外へと輸出されてもいるんだったな。そろそろ海賊版やらの問題が生まれる頃なので対処しないと。しかし城邦の外で起きた問題に印刷物管理局が手を出すだけの道理も必要だ。図書庫の名前だけでゴリ押すわけにも行かない。ここらへんは外交案件になるだろうから、頭領府外交局ができたらそこ経由で色々やってもらおう。



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想定外

「来て頂いてなんですが、まだ実用には程遠い出来と言えるでしょう」

 

商会の建物が並ぶ一角、実験工房の職人が言う。

 

「通信が気象条件によって変化するというのは?」

 

「あくまで仮説の段階ですが、可能性は高いかと。上手く行けば船が嵐を避ける助けとなるかもしれません」

 

「それは興味深いね。ところで、真空発振管が使えるようになったと聞いたけど」

 

「いいえ、今のところ連続稼働で20刻*1も持ちません。今後改良を重ねれば伸ばしていけるかと思いますが、今はこの工房から持ち出せるものではありませんね」

 

そういう話をしながら、私は実験中の送信機を眺める。真空引きされている硝子(ガラス)容器の中に電極が刺さっている構造だ。

 

「この銀色になっているのは金属性苦土質(金属マグネシウム)?」

 

水銀の落ちる真空ふいごと容器の間の内側が銀色になった部分を指差して私は聞く。

 

「たしかそういうものです。これを焼くと暫くは良い送信ができますが、いかんせん作るのに大電力が必要です。この送信機自体もそうですが、ともかく電気が足りない」

 

「そうすると相当な額が更に必要になるな……。ところで、今使っている熱極の素材は?」

 

「南方で取れる釉薬素材を。薬学師たちが分析に取り組んでいますが、未だ主基質の特定には至っていません」

 

候補が多すぎるな。アルカリ土類金属の酸化物、あるいは炭酸塩とかかもしれないがまあ動いているので今のところはいいだろう。

 

「その釉薬は……」

 

「我々は海の商会ですので、ある程度以上の量を手に入れるのはどうしても難しいものになります。一部の商者は山渡りたちに声をかけているようですが」

 

たぶん山師のようなものだろう。当たれば大きいだろうが、職人の口ぶりからするとあまり信用はされていないらしい。

 

「わかった。今度北の方に行くから、できるだけ鉱物を集めてくる」

 

「ありがとうございます。それと、できれば簡単な送信機と受信機だけでも運んでいただければと」

 

「というと?」

 

「もし強い送信ができるようになれば、キイ先生が向かおうとしている鋼鉄の尾根にまでも届くかもしれませんので」

 

「あれ、私は行き先を言ったっけ?」

 

「噂になっていますからね、有名な話ですよ」

 

「あまり話題にはされたくないんだがな……」

 

私は少し苦笑いをする。ゴシップからは逃げられない。

 


 

「おかえりなさい、キイさん」

 

「ただいま……」

 

私は帰ってそうそう新聞を読んでいるケトが座っている寝台に突っ伏す。

 

「なにか面白いことがあった?」

 

「印刷機に関する記事があります」

 

「……読んでもらっていい?」

 

今日は疲れたのでさすがに目を動かしたくはない。

 

「いいですよ。『近頃増えたる並び文字、縦横揃いし墨痕に、読めぬ文字などありはせず、これが文字版印刷物』……」

 

ケトのこういう声はよく通るので本当にいい。こうやって聞くとかなりリズムに気を配っていると感じられるな。東方通商語での韻文は聖典語のそれに比べれば難しいというのを前にケトが言っていたのを思い出す。

 

「……目新しいことは言っていないね」

 

「それはキイさんが印刷機についてよく知っているからです。そもそもこの報を見るまで文字版印刷を知らない人もいたようですし」

 

「へえ」

 

「少なくとも、そう書いてありますね」

 

読者からのご意見コーナーのようなものまで用意したらしい。常連の投書人が出てくる日も近そうだな。

 

「……それで、キイさん」

 

「なあに」

 

「何があったんですか?実験工房に顔を出すと言っていましたが、何か大変なことでも」

 

「……大変も大変だよ。私の知識を超え始めている」

 

まず電波気象学が形成されつつある。まだちゃんとした温度計や気圧計の目盛りもできていないんだぞ?無茶苦茶な技術史ルートが生まれつつある。面白いと言えば面白いが、私の知識が使えなくなっていく。いや、普通にそれはいいことか。ゲッターも、陰極に使う素材も、私はアイデア程度しか言っていない。それを形にしたのは数十人の職人たちだ。効率的に実験を繰り返し、改良を重ねている。

 

「怖いと思うなら、それは傲慢ですよ」

 

「どういう意味?」

 

「全てをキイさんがどうにかできるほど、ここの人たちは愚かでもなければ怠惰でもありません」

 

「それはわかっているけど、それでも数月もしないでここまでのものができるの?」

 

「物事は進む時は一瞬ですからね」

 

まあ確かに今までなかった人間関係と圧力が新しいものを一気に生み出す例は記憶にあるが、それは例外というべきものだったはずだ。

 

「私がいた場所と、何が違うのかな……」

 

「そこでは、あまりこういう事は起きなかったのですか?」

 

「……起きる時は起きたけど、起きない時は本当に何も進まなかった。栄華を誇った支配者が消え、数百年の間人々が盲信に縛られていた時代があった」

 

中世ヨーロッパは全体としてみればそう暗黒でもないし、宗教が科学の発展を妨げたというのは一面的な見方で率直に言ってしまえば誤りなのだが、もちろん時代と地域を絞ればそういう環境は珍しいものではない。別に惑星の軌道を正確に予想したところで、農奴が食べるパンの量が増えるわけではないのだ。それならば美徳である勤勉を刷り込んだほうが社会はよく回る。その社会で農奴がどう扱われていたかはわざわざ言うまでもないだろうが。

 

「ここだってそうですよ。古帝国の崩壊から長い間戦乱の時代が続きましたし、それ以前は諸王が飽きることなく争いを繰り広げていました。図書庫が平和な時代まで生き残ったのはほんの偶然に過ぎません」

 

「……案外、その偶然が私がいた場所とこことの違いなのかも」

 

翻訳の過程で過去の哲学者の見解が神聖視されるようになったのはあるだろう。ある意味で、この図書庫の城邦では古い学者の意見は古典となることができるのだ。新陳代謝は保存と同じぐらい、科学技術の発展に欠かせないのだ。

*1
80分のこと。1刻は1/360日。



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貨物船

「これかな」

 

私は掲示板として使われている壁面を見て言う。色とりどりの木の板が、それぞれの商会が担当する船の場所や荷運び人の担当場所を表している。ここらへんも本来は改善の余地があるのだろうが、下手にやれば労働者の仕事を奪うことに直結する。支払い側としては一人日でできる仕事量に払う金額をわざわざ上げる必要もないわけだから、労働者側とのパワーバランスの問題が生まれる。まあここらへんの社会案件は最近便利な新聞社ができたので定期的に投書したり編集長にあれこれ吹き込んだりしよう。

 

「たぶんそうです」

 

ケトが指差すのは北方からの資源を運ぶ船を示す符票だ。かなり業界用語というか内輪向けの表示方法なのでわかりにくい。複数の港のどこにつけるかがおおまかに決まっていて、それに合わせて水先案内人が貨物船を誘導するようだ。

 

「ああ、ここにいたか」

 

私たちの後ろから若い男性が声をかけてきた。

 

「どうも、そういえば北方担当使節官の正式就任、おめでとうございます」

 

「お陰様で、ですよ。久しぶりに子供時代を過ごした地に戻れるというわけです」

 

あまり皮肉は感じられない。まあ、私のせいで色々と面倒事を背負い込んだ人は多いだろうが私が直接指示したわけではないので良心の呵責は実はあまりない。ケトに対してはあるが、本人が気にしていないことをわざわざ言うべきでもない。

 

「それで、私たちの乗る船は」

 

「こちらです。この港に来る中でもそれなりに大きいものですね。乗組員は400名ほどになります」

 

そう言いながら使節官は歩いて行く。海洋研究開発機構(JAMSTEC)の地球深部探査船の倍ぐらいかと一瞬思ったが、そもそも自動化設備も動力クレーンもないのだ。考えてみれば当然である。とすると乗組員は専門化ではなくむしろ動力源として積まれているのだろうか?

 

「荷物については、まとめていますか?」

 

ぼんやりと考えていると彼から声をかけられた。

 

「ええ。出発は半月後でしたっけ」

 

「そのくらいですね。荷降ろしと購入契約、荷積みが入ればそれだけかかると」

 

「なるほど」

 

「とはいえ、途中で寄る港ではそういうものは数日で済みます」

 

「……ケトくん、鋼鉄の尾根まで船で一月と言ったよね」

 

「実際はもう少しかかりますかね?ただ、強い風と潮の流れがあるので内海よりも速く進めるんですよ」

 

そうか、海洋学についてはあまり知識がないから海流とかはよくわからないな。チャールズ・ワイヴィル・トムソン隊長が率いたチャレンジャー号探検航海がぱっと挙がるぐらいだ。

 

「今日は船長を含む乗組員への挨拶を。船長は北にいる船の民の中ではそれなりに名を知られた男で、僕でも名前は聞いたことがあるほどの人です」

 

船の民。そういえばちょくちょく文献には名前が出ていたな。古帝国時代に政治的な理由や宗教的な理由で追いやられ、船の上に生涯を浮かべることになったという人々の末裔だ。日本にもいたし、中国だと蛋民と呼ばれていたっけ。国立民族学博物館の図書室でそういう本を読んだ記憶がある。基本的にこの世界での航海はこの船の民が担っている。なので私がいた世界のように資金を募って航海をするというよりも、専門の人々と契約をして荷物を運ぶという形になっているらしい。あー、これだと保険制度が生まれにくそうだな。

 

「そういう人々と接する時に、何か気をつけねばならないことはありますか?」

 

「まあ、キイ先生ならそう問題ないでしょう。礼儀を忘れるような人ではないように思いますし」

 

「……ならいいか」

 

たぶん向こうのほうが見てきた世界は広いのだろう。そういう相手を前にすると結構人間というものは素の性格が出てしまいがちに思う。もちろん中にはそれを色々な方法で隠すことができるだけの人もいるけどさ。

 

「これですね」

 

使節官が足を止める。大きな帆は布ではない。草か葉……なのだろうか?それが編まれることで作られている。三つの横帆と一つの小さな縦帆が組み合わされた、かなり大きな船だ。

 

「ここで北方で作られた鋼鉄や木材を降ろし、麦などを乗せて行くわけです」

 

この一体は穀倉地帯だからな。確かに理にかなっている。となると向かう先は農業が怪しい地域ということか。

 

「北の方では栽培されている植物はあるの?」

 

「痩せ麦というものがありますが、これは寒冷地でも育つ代わりに良い土のある場所でないと育ちません」

 

「なるほど、うまい話はなかなかないんだね」

 

そう私が呟くと、船から荷物をおろしている一人が私たちの方を向いた。

 

「██████ ████████ ███████ ██████*1

 

あっまた未知の言語だ。北方平原語でもない。知らないざわめきがしばらく行き交った後、上裸の男性がこちらに向かってくる。なかなかいい筋肉がついているな。

 

「東方通商語は話せるか?」

 

そう言うのは使節官。

 

「問題ない」

 

「北に行くときに運んでほしい人と物がある。商会には話は通した。船長に会いたい」

 

「構わない。ついてきてくれ」

 

そう言って男性は船の方にずいずいと歩いて行く。少し遅れて、私とケトは走り出した。

*1
お客さんが来とるよ、誰か話せる人!(船民語)



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第14章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。この部分の技術発展の速さはいささかご都合主義的では?とツッコミを入れるような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


文字

基本的に人間はマルコフ連鎖に基づくパターンで話しているのだ。

マルコフ連鎖を厳密に定義するためにはちょっとした数学的記法を使う必要があるが、おおむねシュルレアリスム絵画における一手法、「le cadavre exquis(優美な屍骸)」などに見られる「直前の情報だけを与えられて、次の情報を作っていく」ようなものを指す。このキイの思想を証明するような学術的研究はないが、作者がこの作品を書いている時はなんとなくのノリででっち上げているのでかなりそういう傾向はある気がする。だから話が飛び飛びだし整合性が怪しいんですね。

 

その上文字が二種類ある。

モデルは複数あるが、そのうちの一つは聖刻文字(ヒエログリフ)神官文字(ヒエラティック)

 

そして天の北極の角度と移動にかかる時間からなんやかんや計算すると目的地の緯度はスカンディナヴィア半島南部とかバルト三国のあたりのはず。

北緯55度から60度のあたり。

 

そういえばヴァイキングはアイスランドに植民し、グリーンランドを開拓し、ヴィンランドに到達しているんだった。

Grœnlendinga saga(グリーンランド人のサガ)」や「Eiríks saga rauða(赤毛のエイリークのサガ)」に見られる「Vínland(ヴィンランド)」と呼ばれる土地の記述やニューファンドランド島のランス・オ・メドー遺跡の存在は、ヴァイキングが西暦1000年頃に北米大陸に到達していたことを示している。

 

スイスにおける傭兵のようなものだろう。

1

Der Schweizer, der ohne Erlaubnis des Bundesrates in fremden Mili­tärdienst eintritt, wird mit Freiheitsstrafe bis zu drei Jahren oder Geldstrafe bestraft.

Tout Suisse qui, sans l’autorisation du Conseil fédéral, aura pris du service dans une armée étrangère, sera puni d’une peine privative de liberté de trois ans au plus ou d’une peine pécuniaire.

Se uno Svizzero si arruola in un esercito straniero senza il permesso del Consiglio federale, è punito con una pena detentiva sino a tre anni o con una pena pecuniaria.

(連邦参事会の許可を受けることなく他国で兵役に就いたスイス国民は、三年以下の自由刑又は財産刑に処する。)

 

2

Der Schweizer, der noch eine andere Staatszugehörigkeit besitzt, im andern Staate niedergelassen ist und dort Militärdienst leistet, bleibt straflos.

Le Suisse qui est établi dans un autre État, dont il possède aussi la nationalité, et y accomplit un service militaire n’est pas punissable.

Gli svizzeri, domiciliati in un altro Stato di cui posseggono pure la nazionalità, che prestano servizio militare nell’esercito di questo Stato non sono punibili.

(国籍を有する他国に定住し、そこで兵役に就くスイス人は、刑罰を科さない。)

 

3

Wer einen Schweizer für fremden Militärdienst anwirbt oder der Anwerbung Vorschub leistet, wird mit Freiheitsstrafe bis zu drei Jahren oder mit Geldstrafe nicht unter 30 Tagessätzen bestraft. Mit der Freiheitsstrafe ist Geldstrafe zu verbinden.

Celui qui aura enrôlé un Suisse pour le service militaire étranger ou aura favorisé l’enrôlement, sera puni d’une peine privative de liberté de trois ans au plus ou d’une peine pécuniaire de 30 jours-amende au moins. La peine pécuniaire est cumulée avec la peine privative de liberté.

Chiunque arruola uno Svizzero per il servizio militare straniero o ne favorisce l’arruolamento è punito con una pena detentiva sino a tre anni o con una pena pecuniaria non inferiore a 30 aliquote giornaliere. Con la pena detentiva dev’essere cumulata la pena pecuniaria.

(スイス国民を外国の兵役に勧誘し、あるいは勧誘を奨励した者は誰であれ三年以下の自由刑又は三十日分以上の財産刑に処する。財産刑は自由刑と併用される。)

 

4

In Kriegszeiten kann auf Freiheitsstrafe erkannt werden.

En temps de guerre, le juge pourra prononcer une peine privative de liberté.

In tempo di guerra può essere pronunciata una pena detentiva.

(戦時下においては、自由刑を科すことができる。)

 

スイス連邦SR(法体系) - 321.0 Militärstrafgesetz / Code pénal militaire / Codice penale militare (軍刑法) Art. 94(94条)より、各項ごとに上からドイツ語、フランス語、イタリア語、日本語(拙訳)。日本語訳は各言語訳を総合して翻訳したものである。

 

スイスの「主要産業」であった傭兵業は20世紀に入ると法的に禁止されるようになり、今日では軍刑法に基づいてローマ教皇の護衛以外の傭兵業は違法となっている。なおスイスではドイツ語、フランス語、イタリア語が等しく法律などに用いられる言語であるため、原文併記を心がける本解説のスタイルではこんな長い文章になってしまう。下手すると邦訳は初なんじゃないかな……。スイス連邦の著作権法で公文書の扱いがどうなっているのか知らないので権利上問題があるようでしたら条文へのリンクを張ってコメントにでも書いておいてください。私はもうやりたくない。

 

石灰灯

まあこれはポッゲンドルフが作ったものではないからな。

ポッゲンドルフ錯視はカール・フリードリッヒ・ツェルナーの作成した図案からヨハン ・ クリスチャン・ポッゲンドルフが見出したもの。

 

一方で二極管と聞いてぱっとわかる人はそうそういないし、リーマン多様体の埋め込みについて私は何もわからない。

二極管は英語でdiode(ダイオード)と呼ばれ、今日では整流素子全般に対して用いられる用語である。

 

ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアは「ナッシュの埋め込み定理」などの功績によって数学界でも高く評価されている。むしろ本職はこっち。

 

光源が動くのだ。

ここでキイは天動説モデルを用いているが、実用上特に問題はない。

 

ガラス製品は熱で膨張すると精度が下がるので、基本的に私の知識を漁ってもパイレックスのような膨張率を下げたものの組成とかしかない。

パイレックス®はアメリカに本社を置くコーニングの発売しているガラスの登録商標。高い耐腐食性と熱衝撃への強さから食器や実験道具に用いられている。コーニングが生産を止めたという話があるが、普通にこれで作られた理化学用品のカタログが出ているのでなんなのかよくわからない。

 

切断

多少歪な丸形をした、それでも指の半分ほどの均等な厚みを持った硝子(ガラス)板が手に入った。

ガラスと空気や液体錫との間に働く界面張力とガラスにかかる重力が釣り合うことで、ある一定の厚みが平衡状態として得られる。これを引き伸ばすことでより薄いガラスを作ることができるし、平衡に達する前に冷ますことで厚いガラスを作ることができる。

 

というより本来物と物とが擦れる音を察知できるようにその周波数帯を聴き取れるように内耳が発達して、その範囲の鳴き声を警戒音として使っていた時代の名残、とかあったな。

2006年にイグノーベル音響学賞を受賞した研究、Halpern, D.L.: Blake, R.: Hillenbrand, J. Psychoacoustics of a chilling sound. Perception & Psychophysics. 1986, 39, p. 77–80. も参照のこと。

 

色即是空を理解するほど執着(しゅうじゃく)を捨てたつもりもないのだが。

「しゅうじゃく」は古い読み方。ここでは本来の仏教用語としての意味を強調したいのでこうふりがなをつけている。

 

まあ印象派の発展にはジョン・ゴフ・ランドのチューブ入り絵の具の発明とかも関わってくるだろうが、あくまで流れの一つとして。

印象派の画家、ピエール=オーギュスト・ルノワールの息子であるジャン・ルノワールが書いた父の伝記内で「チューブ入りの絵の具が屋外で絵を書くことを可能とし、印象派を生んだ」ということを父が言っていたと書いているらしいが原典には当たれていない。Mercury Houseの「Renoir: My Father」(1988)の734ページだと思われる。

 

挟撃

私がいる世界だったらゲバ棒持っていそうだ。

「ゲバ」はドイツ語Gewalt(闘争)に由来するもので、学生運動の際に武器として使用される角材のことを言う。ヘルメット・ゲバ棒・マスクの三点セットが学生運動の三種の神器であるとかなんとか。

 

あ、同じ版を作る時に粘土や紙で型を取って、それを円筒形に曲げて版を作るんだ。

紙を用いるものを紙型(しけい)と呼ぶ。実際には曲げた後に活字合金を流し込む。

 

感情

まあ、確かに私がかつて過ごしていた現代社会は成長を前提としているのでそこらへんが危なくなっていた時期はあった。

ここらへんをちゃんとやると現代資本社会の闇に触れることになるのでもう少し先で。

 

「掲載する文章を読者が投稿できるとか、ある程度の枠を広告として使うとかで多くの人に自分の思想や製品を伝えることが可能になる」

新聞の歴史は少し複雑で一本線の発展として語ることはできないが、1700年代から1800年代にかけて新聞が扱った内容として大きなものの中に政治があった。政治的意見は読者などからの投稿、あるいは論文のようなものを掲載することで広められ、革命の、あるいは変革の原動力の一つとなった。

 

「まあ、故にもし刷るのであればそれなりの備えが必要、か」

1905年の日比谷焼打事件や1913年の第一次護憲運動で國民新聞社が襲われている。当時の日本は定期的にデモが暴走しているので、治安が悪い。

 

写真

頼んでおいたのは湿板のはずなのだが?

1851年に発明されたコロジオンを用いる湿板は撮影の直前にガラス板を硝酸銀に浸し、湿っている状態で感光させる必要があったためそれなりの設備が必要だった。これは乾燥したコロジオン膜が定着・現像を妨げるためであるが、これを改善したのが1870年代に登場したゼラチンを用いる乾板である。これは乾燥状態で保存できたため撮影が容易となったが、その後1880年代にはセルロイドを主成分としたフィルムの導入などによって廃れていく。この時代の写真撮影方法の変遷は数十年から十数年の単位のスパンで起こっている。

 

おそらくは(ヨウ)素が混じっていたのだろう。

ハロゲン化銀は結合しているハロゲンの種類によって感度や感光が起こる周波数が異なる。なお「沃」の字はフランス語iode(/jɔd/)もしくはドイツ語Jod(/joːt/)の音訳による。

 

トゥー嬢は心拍数低そうなので一分弱かな。

徐脈の定義は文献やガイドラインによって差異があるが、概ね分に60から50を下回るとあまり良くないとされる。なのでキイはトゥーの心拍数を少なめに見積もりすぎている気もする。

 

私の歴史だと最初に写真に写ったのはルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの撮影した銀板写真(ダゲレオタイプ)の靴磨きと磨かれていた人だったかな。

ドイツ、ミュンヘンのBayerisches Nationalmuseum(バイエルン国立博物館)に所蔵されているパリのタンプル大通りを1830年代後半に撮影した銀板写真(ダゲレオタイプ)のこと。なお、厳密には「人が鮮明に写った現存する最古の写真」と呼ぶべき。撮影のために数分の露光時間が必要だったので、街を歩いて行く人々は写らなかった。

 

報道

三行広告のようなものだろう。

作者の情報収集力では最初の新聞広告を探し当てることは出来なかったが、おそらく新聞の歴史と同じぐらい新聞広告の歴史は長い。

 

「ああ、なるほど。なら今度文字版の鉛がもたらす病毒について書くか……」

鉛が中毒症状を引き起こすという見解は古代から存在するが、きちんとした知識として存在したというよりも経験則に近いものだったと考えられる。20世紀に入ってもその毒性については議論があり、自動車会社などから研究を委託されていたロバート・A.・キーホーと地球科学者で環境活動家のクレア・キャメロン・パターソンの争いもあって、今日ではノッキング防止のためにガソリンに添加されていたアルキル鉛の使用中止やRoHSなどの形で鉛の使用は少なくなっている。まあ両極端な気もするが。

 

聞屋(ブンヤ)精神が足りないぞと私の中の反社会的要素が囁くが別にいいんだよ。

ブンヤは新聞記者を呼ぶ俗語。蔑称として用いられることもある。まああまりお行儀のいい言葉ではない。

 

窒素

なのでノルスク・ハイドロは価格競争に敗れて重水生産とかをしていた。

ノルスク・ハイドロはノルウェーのアルミニウム製造会社で、かつてはビルケラン=アイデ法を用いた硝酸カルシウム(別名ノルウェー硝石)の生産や重水の生産、石油分野も手掛けていた。第二次大戦期に中性子減速材として用いる重水が核兵器開発に使われることを恐れた連合軍がヴェモルクにあった重水工場をガンナーサイド作戦などの破壊工作と空襲によって操業停止に追い込んだことで一部の界隈で有名。なお実際にはこんな事をしなくても重水炉を作るために必要なレベルの重水は集まらなかったと考えられている。

 

とはいえカルシウムシアナミドから硝酸までの経路は少し面倒じゃなかったかな。

加水分解でアンモニアを発生させ、白金触媒などで酸化させ、水に溶かせばいい。決して簡単ではない。

 

記憶が正しければ、電気炉の熱から生まれたある種偶然の産物だったはずだ。

フリードリヒ・ヴェーラーが炭化カルシウムの合成に成功した後、1892年に電気炉によるアルミニウム生産の研究の過程でトーマス・レオポルド・ウィルソンが還元剤として使おうとしていた石灰石とコークスから炭化カルシウムを作ることに成功した。これとほぼ同時期、フッ素の分離で知られるフェルディナン・フレデリック・アンリ・モアッサンが独立に同様の方法で炭化カルシウムを得ている。

 

あとこれはアセチレンの合成にも繋がるので有機化学工業をやるなら触っておきたい。

炭化カルシウムを水と反応させるとアセチレンができる。

 

公害が起きないようには注意しないといけないが。

日本窒素肥料株式会社水俣工場では炭化カルシウムから得たアセチレンを原料に水銀触媒を用いることでアセトアルデヒドを製造していた。この過程で生物濃縮を起こしやすく脳関門を突破できるメチル水銀が合成され、神経系疾患を中心とする中毒症が発生し、公害問題となった。また、同様にカーバイドから各種の化学製品を作っていた昭和電工鹿瀬工場からも同様にメチル水銀が発生し、中毒症状を起こしている。

 

Contagium vivum fluidum(伝染性生液)、もといウイルスの発見者の一人であるマルティヌス・ウィレム・ベイエリンクが確か単離に成功したんじゃなかったっけな。

ウイルスの発見はタバコモザイク病を対象としたドミトリー・ヨシフォヴィチ・イワノフスキーの報告や口蹄疫を対象とした王立プロイセン感染症研究所のフリードリヒ・アウグスト・ヨハネス・レフラーやパウル・フロッシュによる研究とは独立にマルティヌス・ウィレム・ベイエリンクは素焼き板をフィルターとして用いた実験によって液体中の分子が感染症を引きおこすという仮説を立て、この原因物質をContagium vivum fluidum(伝染性生液)と命名した。彼らの研究は最終的にウェンデル・メレディス・スタンリーによるタバコモザイクウイルスの単離・結晶化・電子顕微鏡観察によりウイルス学の始まりを告げるものであると認識されるようになった。

 

また、マルティヌス・ウィレム・ベイエリンクはマメ科植物(おそらくソラマメ)の根粒から窒素固定を行う細菌を単離し、Bacillus radicicolaと命名したがこれはRhizobiumの細菌であるとしてアルバート・ベルンハルト・フランクによってRhizobium leguminosarumと再分類された。今日の遺伝子分析技術と分子系統学の発展は、こういった微生物がプラスミドの形で遺伝子をやり取りしていることを明らかにしており、分類が非常に面倒くさいことになっている。

 

少なくとも既存理論の盲信は科学ではないぞ。

もちろん根拠の薄い「新発見」を持て囃すのも科学ではない。

 

早いうちにデジタルスキャンかけなきゃ、とリサーチ・アシスタントらしい思考が出てくる。

とはいえ加水分解を起こすアセチルセルロース製のフィルムよりかは安定である。この手のフィルムの劣化はビネガーシンドロームと呼ばれ、ポリエステル製のフィルムに転写するか、デジタル化処理を行うことで保存することが一般的である。それができない場合、温湿度を制御した環境に置くことで劣化を多少マシにはできる。

 

旅券

ロゼッタストーンみたいなものなのでこれなら北方平原語陽文字が読めるぞ。

ロゼッタストーンと呼ばれる石はナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征が行われていた1799年にロゼッタ近郊でフランス軍によって発見された。エジプト語の聖刻文字(ヒエログリフ)および民衆文字(デモティック)による表記とギリシア語をギリシア文字で記述したものが並んでおり、全てプトレマイオス5世を称える同じ意味の文章であった。これをもとにヒエログリフの発音が判明し、コプト語との比較を通して解読できるようになった。なおこれは今日大英博物館に所蔵されているが、エジプト政府からの返還要求が行われている。

 

手洗い自体は宗教的清めの一環として受け入れられる余地があるから、あとは微生物によって伝染症が媒介されることを示せばいい。

分娩後に起こる産褥熱を次亜塩素酸カルシウムによる消毒によって減らせると主張したセンメルヴェイス・イグナーツの話を前提としている。

 

想定外

「通信が気象条件によって変化するというのは?」

電波は大気により屈折するが、その屈折率は気象条件によって変化する。あるいは雨雲はマイクロ波を吸収・反射するのでこれを利用することで雨雲の場所や移動方向を調べることができる。

 

ゲッターも、陰極に使う素材も、私はアイデア程度しか言っていない。

ゲッターは文字通り気体分子をgetするためのもの。水蒸気吸着用の五酸化二リンから始まり、今日ではチタンなどを用いたゲッターポンプとして用いられている。

 

ある意味で、この図書庫の城邦では古い学者の意見は古典となることができるのだ。

アリストテレスは間違いなく偉大であったが、ローマ文明は彼の次の人物を生み出せなかったのでアリストテレスは神聖視され、キリスト教の影響もあって否定が難しいものになってしまっていた。

 

貨物船

支払い側としては一人日でできる仕事量に払う金額をわざわざ上げる必要もないわけだから、労働者側とのパワーバランスの問題が生まれる。

このパワーバランスを暴力革命などによって打ち壊そうというのが共産主義である。いやこれは雑な説明すぎるな……。

 

海洋研究開発機構(JAMSTEC)の地球深部探査船の倍ぐらいかと一瞬思ったが、そもそも自動化設備も動力クレーンもないのだ。

IMO 9234044 地球深部探査船「ちきゅう」の最大乗船人員は200人。

 

チャールズ・ワイヴィル・トムソン隊長が率いたチャレンジャー号探検航海がぱっと挙がるぐらいだ。

爆発事故を起こしたスペースシャトルの名前の由来になった船。その航海は学術的な海洋調査の先駆けとなった。

 

国立民族学博物館の図書室でそういう本を読んだ記憶がある。

「広東の水上居民 : 珠江デルタ漢族のエスニシティとその変容」の著者である長沼さやかは総合研究大学院大学文化科学研究科地域文化学専攻で博士後期課程を修了している。総合研究大学院大学文化科学研究科地域文化学専攻は国立民族学博物館に併設されている。

 

あー、これだと保険制度が生まれにくそうだな。

保険は本来海上貿易で発生した場合の補填として生まれた。



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第15章
質問


「こちらだ、上がれ」

 

男の案内で船と陸との間にある渡し板を通り、甲板の上を進む。そういえば外観で船に竜骨がないように見えた。面白い構造だ。代わりに船の前後方向と垂直、横方向に伸びた梁のような木材がある。これが船の強度を生んでいるのだろう。

 

「船長は東方通商語を話せない。君は我々の言葉を解するか?」

 

「僅かに」

 

案内の男の言葉に使節官は返す。

 

「通訳をしようか?」

 

「そうしてもらうとこちらは助かる」

 

「わかった。████████、███████*1

 

男が声を張り上げると、甲板の上のハッチが空いて初老の男性が顔を出す。灰色の髪に深く刻まれた顔の皺。年齢に見合わないしっかりした体格は、今でも肉体労働を続けていることを示している。

 

「……ようこそ、地上の方。███████ ██████████ ██████…… *2

 

挨拶は東方通商語でしてくれた。なるほど、こういう気配りは嬉しい。

 

「契約している商会からの追加依頼だ。僕を含む三人を、鋼鉄の尾根まで運んでほしい」

 

使節官が言う。

 

『構わぬが、それであれば別に銀を頂くぞ』*3

 

「当然です」

 

『よろしい。我々が貨人*4をどう扱うかは、知っての上か?』

 

「僕は子供の頃ではありますが、何度か乗りました。この二人は初になりますが、あなたがたに無礼を働くような人物ではありません」

 

そこまで言われると怖いんだがな。まあ、たぶん大丈夫だと信じたい。

 

「特別な扱いをするのかな」

 

私は小さく呟く。

 

『質問であれば、きちんと言ってくれ』

 

船長がこちらに視線を向ける。冷たい、とは違うな。隠しきれない鋭さはあるが、危害を加えるというよりも相手への興味、悪く言えば不信が生むものだ。まあ当然である。

 

「発言しても?」

 

私は軽く一歩踏み出し、使節官と通訳に視線を向けて確認するが問題なさそうだ。

 

『悩みを隠した人物を船に乗せるのは恐ろしいことだ』

 

「わかりました。私とこの少年、ケトはあなた達の風習について詳しくを知らず、彼からも全てを聞いたわけではないでしょう。もしよろしければ、ここで詳しい話を聞いてもよろしいでしょうか」

 

使節官のほうを示しながら言う。

 

『ふむ。客人のようにもてなすわけではない、と言えばいいか。船は我々の生活の場だ。そこを共有する以上、一員としての役割を船の上にいる間は担ってもらう』

 

「それは、掃除や調理などでしょうか?」

 

『その場合もある。もちろん、我々の中でも一部しか出来ないような特別な技を持つのでもない限り、そのような船の仕事をこなす必要はない』

 

「わかりました。それと、空いている時間には自分の好きなことをして過ごしていいのでしょうか?」

 

『……具体的には、どのようなことを?』

 

「空を見たり、人と話したり……。もちろん、咎められるのであればいたしません」

 

『問題ない。いや、このような確認をしていただけるのは助かる。誠意を持つ人間に対して、我々は共にあらねばならないからな』

 

これはたぶん信仰や信条のようなものなのだろう。いいものだ。

 


 

「この季節であれば、寄港場所は2つで済むだろう。地の恵みも乗せる余裕がある」

 

多くの結び目と飾りがついた紐を触りながら、案内をしてくれた男が言う。どうやら一種の航海士のようで、この紐は海図のようだ。結縄による記録らしい。色とりどりの布の切れ端のようなものが編み込まれて、枝分かれがあったりもする所を見ると相当いろいろな情報が記録されているのだろう。

 

「地の恵みとは?」

 

思わず私は質問してしまう。

 

「ああ、新鮮な食物のことだ。海の呪いを避けることができるので、このように呼ぶ」

 

「……長い航海をすると、身体に起こる異常を呪いと呼ぶのか?」

 

「ああ、寄港をせず、長い航海をすれば海の毒によって身体の柔らかい部分が蝕まれる」

 

「歯の根からの出血のように?」

 

「そうだ。なんだ、そのような例を知っているのか?」

 

「少し、ですが」

 

症状からすれば明らかに長期間のビタミンC欠乏によって発生する壊血病だ。基本的に新鮮な野菜や果物を食べていればそれなりのビタミンCを摂取できるはずなので問題ないが、長期間港に寄らない航海をすることがあればそのようなことも起こるだろう。

 

「ただ、そのような病はかなりの期間陸に寄ることがなければ起こらないと聞いています」

 

人間はビタミンCを合成できないが、体内のビタミンCが切れるまでにはある程度余裕がある。慢性的な欠乏が起こっていたとしても、発症までには期間があるはずだ。

 

「……詳しいな。そうだ」

 

「そのようなことがあるのでしょうか?」

 

「……ある、とだけ言っておこう」

 

「わかりました」

 

これ以上聞くのは良くないな、ということが口調からわかる。たぶん独特の文化やタブーに触れることなのだろう。こういうのは馴染みのない部外者がとやかくほじくり返すことではないな。

*1
船長、客人が来ている!(船民語、以下同様)

*2
君、彼らは何者かね?

*3
二重鉤括弧によって囲んだ部分はここでは船民語。通訳の人物によるやり取りの仲介は省略している。

*4
船民語で旅客のことを言う表現。



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瓶詰

私とケトが住んでいる部屋の竈には鍋が一つしかないので、色々持っていそうなトゥー嬢のところまで行く。

 

「あとでちゃんと洗ってくれよ」

 

「わかってます」

 

そう言いながら私は温まりつつあるお湯の中に料理がいっぱいに詰まった口の狭い瓶を入れていく。濃いめの味付けの煮魚だったり、野菜の炒めものだったり。一応栄養バランスは考えているつもりだが、ビタミンはたぶん多くが壊れてしまっているだろう。硝子(ガラス)はそれなりに高価だが、(かめ)に食品を保存する例は結構見られる。ただ、長期保存の方法としては塩漬けか酢漬けか発酵か、あるいは珍しいが麦蜜に漬ける例もあるといったところでまだ殺菌瓶詰めはなかった。そういうわけで作ってみようとなったのだ。

 

「で、これは?」

 

訝しげにトゥー嬢が聞く。

 

「船の旅での予備食料ですね。保存ができるかどうかの確認も兼ねています」

 

お湯が沸騰したので、手を火傷しないようにトングのようなもので瓶に柔らかい木でできた栓をゆるくして湯煎をする。本当はコルクを使いたかったのだが、コルクガシはどうやら生えていないようだ。異世界の生物種分布は本当によくわからない。一応私がいた世界では地中海一帯に生えているような植物だったのだが。

 

この後は熱膨張が起こって内部の空気が抜けたところで栓を押し込み、冷ましながら蝋で密封。ニコラ・アペールが編み出したという食品保存方法だ。ルイ・パスツールとクロード・ベルナールによる低温殺菌の研究から半世紀ほど前のはず。芽胞を持った細菌がどれだけいるかはわからないので、もし開けてみて危なそうなら処分しよう。一応圧力容器に入れて120度ぐらいに加熱できるようにしたり、何回か繰り返し加熱と放置を繰り返すことで厄介な微生物に対して滅菌を行うこともできるが、正直面倒なのでそこまではしない。一月の船旅の間でやるおまけの実験のようなものだ。あとはケトがこの一帯の馴染んだ味を欲しがった時用。

 

「そこまで念入りに密封する必要は?」

 

「外部から食物を腐らせる悪い微小生物が混入することを防ぐためです」

 

「ああ、内部にすでに入り込んでいる分は今煮殺されている、と」

 

なんか一瞬で微生物による腐敗理論を理解してきた。一応共和制ローマ時代のマルクス・テレンティウス・ウァッロが微生物による感染症を唱えていたが、あれはまあ直感が偶然当たったものであってちゃんと検証された仮説ではない。

 

「そうなります。ところでトゥー嬢は医学についてどれほど知識が?」

 

「子供時代に家庭教師から色々と聞いた程度だ。修めたというほどではない」

 

「複数の地域で同様の症状を持った患者が発生したとします。可能性は?」

 

「可能性は大量にあるが、まず前提としてその患者は普通であれば健康だと思われる状況にあるとしていいか?例えば飢餓に陥っているわけではない、と」

 

「ええ」

 

「腐った食物、鉱毒、淀んだ空気、あるいは伝染り狂い?……まあ、キイ嬢の言う微小生物によるものというのはいくつか聞いたことがあるが。悪い水というやつだな」

 

伝染り狂いというのはパニックみたいなものかな。悪い水、というのはたぶんアメーバ赤痢であったり住血吸虫症とかであったりだろうか?

 

「いえ、そこまでわかっているなら十分です。あまりそういう医学の話を聞く機会がないので」

 

知っている範囲に気軽に聞ける医師もいないし、医学の専門書を読んでみても用語が難しくてよくわからないのだ。ただどうにも精神的アプローチを中心としたものが体系化されている印象はある。

 

硝子(ガラス)の瓶を使うとなると、酸で痛みそうだな」

 

「配合を調整してそこらへんを解決したいのですが、原料の調達が問題ですね」

 

「そしてその原料を基質に分離し、組み合わせによって起こる特性の変化を整理する……」

 

「数年か十数年かはかかるでしょうね。私だって全ての答えを知っているわけではありませんし」

 

「普通の試行錯誤であればすでに各地で行われているだろうが、秘密の公開と資源のやり取りの実現でどこまで変化するか、か」

 

そう。別にこの世界の人が新しい組成の探究に手を抜いていたとは言えない。もちろん知る限りでそういう技術開発に大規模な資源を突っ込んでいるのはあの長髪の商者ぐらいしかいなかったらしいが、多くの職人が自らの仕事の中で改良を繰り返してきたという話は聞いている。ただ見る限り、問題はいくつかあった。

 

一つは素材。輸入してまで利益の出る製品は少なく、それなら近場で手に入る素材を原料にした方がいい。あるいはすでにある程度出来ているものであれば輸入するのも悪くはないが、これは生産者が技術を秘匿する傾向を生んだ。まあ誰が悪いとかいうよりも、それぞれが自分の生活と職を守るために行動するとこうなったというだけである。ここらへんはトゥー嬢が構築している化学分析技術を組み合わせれば色々できそう。

 

あるいは市場。海洋交易は色々と行われてはいるが、私の知っている水準に比べれば非常に可愛いものだ。買い手がつくともわからない商品を輸出するのは難しいので、一部のお得意様からの受注生産や近隣の需要を満たす程度の生産しかしないのは理にかなっていると言えるだろう。図書庫の城邦ではかなり色々なものが売られているが、まだ足りない。通信技術の発達がここらへんを解決してくれるといいな。

 

他にも研究方法というのがあるが、これはかなり厄介だ。対照実験とか統計的分析とか、アドホックな仮説に対する消極的反対とか。科学史を少しでも齧っていれば、こういう科学哲学で扱われるような「科学」ではない手法で様々な法則や定理が導き出せたことは言える。まあ総称としての科学なんてものはメタヒューリスティクスの一手法に過ぎないのでそんなムキになって最適化する必要もないと言えばそうだが。



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六分儀

「……気合入っていますね」

 

「鋼鉄の尾根まで行くのだろう?なら手は抜けんよ」

 

今まで色々と頼んできた工師が箱を開けながら言う。黒い布の上に置かれている金色の装置。六分円形の本体の弧部分を少し固めに滑る指標桿(インデックスアーム)。墨入れされた刻*1単位で刻まれた目盛りの精度もたぶん問題ない。

 

「鏡の微調整は留針で行えるようになっている」

 

「問題ないはずです」

 

持ち上げてみるがかなりの重量がある。まあ基本的に真鍮だからな。両手で支えないといけないが、これだとちょっと操作は面倒そうだ。まあいいけど。もし無理そうならケトに支えてもらおう。

 

「使ってみても?」

 

「当然だ。煤硝子(ガラス)はここに」

 

箱の中にあった小さな袋から工師が黒い硝子(ガラス)板を取り出す。

 

「ここに入れればいい?」

 

「そうだ。今日の天気であれば赤い煤硝子(ガラス)がいい。もう少し日が弱ければ緑を使う」

 

「なるほど」

 

硝子(ガラス)といっても二枚の硝子(ガラス)板の間に油を燃やして作った煤の微粒子を挟んだものだ。その後外側を鉛合金で覆って固定して、目印に色の付いた糸をつけてある。まあ赤外線やら紫外線を完全に防いでくれるわけではないのであまり目にいいものではないだろうが、長期間の観測をしないようにすれば多少は大丈夫なはず。たぶん。

 

「では、使ってみますか」

 

足を肩幅に開き、脇を締め、望遠鏡部を目に当てる。とはいえ透玉(レンズ)は入っていないが。視野の中で太陽が近くにある私の目の高さぐらいの場所と重なるように指標桿(インデックスアーム)を動かしていく。連動する鏡が太陽を捉える角度に合わせ、手を離すときちんとその場で指標桿(インデックスアーム)が止まる。動かす時の硬さもちょうどいいぐらいだな。

 

太陽の高さによって鏡の角度が決まる。入射角と反射角の分があるので、動く距離は倍。つまりは指標桿(インデックスアーム)を1刻分動かせば、視界は2刻分変化する。あとはどれだけ動かしたかを目盛りで読み取ればいいだけだ。

 

望遠鏡の中の視界は左右で分かれている。左側にはそのままの景色、右側には2つの鏡で反射された薄暗い太陽の像。少し角度を微調整。狙った場所と太陽が一致するまで指標桿(インデックスアーム)を丁寧に動かし、指で押さえて固定してから丁寧に目から離し、目盛りを読む。

 

「……ええと、65刻」

 

頭の中で中学校の理科の授業を引っ張り出してくる。南中高度は春分および秋分で90刻から緯度を引いた分。ここの緯度は調べたら33刻だったので57刻。もし夏至であればそれに地軸の傾きを加えた値になる。文献によれば地球と同じぐらいの23刻。合わせて80刻。今日の日付から南中高度を求めて、さらにそこから今の太陽時を求めるのはそこそこ面倒な三角関数混じりの計算が必要だがこの世界の数学水準では可能なはずだ。ちゃんとそういう計算表を見たことがないので断言はできないが。

 

「で、実際は……」

 

指を伸ばして軽く測っていく。1ラジアンが57.3刻なので、65刻は1.15ラジアン弱。私が右腕を伸ばし、親指と小指をいっぱいに広げればその間隔がざっと330ミリラジアン。太陽の高さがだいたいこれ3つ半分。よし、無茶苦茶な数字は出ていないな。

 

「いいもののはずです」

 

「そろそろ出発だろう?完璧な出来とは言えないが、どうせすぐにこれ以上のものはできるんだ」

 

「……そう言わないでくださいよ。私はあなたの作成物に今まで助けられてきたんですから」

 

「ああ、ありがとうな。だが向こうにはこちらがどれだけ腕を磨こうが届かないほどの職人がごろごろいる」

 

「覚えておきます」

 

私はそう言って、六分儀を箱に戻した。

 

「それと錆止めの油はこれだ」

 

「真鍮は比較的強い金属ですけれども手入れあってですからね。きちんとやりますよ」

 

「……良い旅を。キイ嬢」

 

「ありがとうございます」

 

私は頭を下げた。少なくとも、旋盤なしにできる工芸レベルであればかなり上等のものを作ってもらったのだ。職人としてはこれ以上のものを作ってお返しにしたいところである。

 

「ところで、確認したいことがあるのだがいいか?」

 

箱の留め金をかけていると工師が聞いてくる。

 

「もちろんです」

 

「これは水平面から対象の高さの角度を求めるものだよな?」

 

「そうです。基本的にこれは天体観測用に設計しましたが、設計や測量などにも使えるかと」

 

「ならわざわざ六分円にしたのはなぜだ?90刻までの角度であれば八分円で測定できるだろうに」

 

「ああ、それは目標物の真下の水平線が常に明瞭とは限らないからですよ。六分円なら120刻分まで測定できるので、対象を背に向けて測定すればもう一つ水平線を使えます」

 

「……なるほど。よく考えられている」

 

「私の発案ではないですけどね」

 

六分儀自体はかなり長い間使われた測定装置だ。実際に使うには標準地点との時差と天測暦、それにちょっとした計算が必要だが今回はちゃんとやるわけではない。かつての世界では時差を求めるために専用の時辰儀(クロノメーター)なんかを使っていたが、19世紀後半には電信が併用されるようになり、電波やら衛星通信やらで代替されるようになった。そもそもそれを言えば六分儀自体もGPSがあれば不要なのだが。

*1
以降用いられる「刻」は角度の単位で、360刻で一周。度と同一の大きさ。



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世界一周

化学実験の道具、写真機、通信設備、小型発電機、測定装置、薬品類、その他諸々。一人で持ち運ぶのはちょっと無理な量でも、海運であれば何とかなるのはいいところだ。この代金は長髪の商者が出してくれるらしい。ありがたいことだ。会計上面倒なことにならないのかとも思ったがそもそも会計がいい加減らしい。うーん、難しいところだ。ここらへんを厳密にやり過ぎると融通がきかなくなるし、雑だと資産の把握ができなくなる。まあ基本的にこの世界のこの時代はある程度の記録をもとに才能でゴリ押ししているところがあるように思える。だから会うやつはみんな有能だし、多少おかしな異世界転移者が来たところでまあこういうのたまにいるからな程度の扱いをされる。

 

「一覧の荷物、ここまでは詰め終わりました」

 

ケトが私に紙を渡す。

 

「……問題なさそうだね」

 

「キイさんのほうはどうですか?」

 

「緩衝材がわりに紙を詰めているけど、どこまで保つか。ある程度の破損は覚悟しておいたほうがいいね」

 

向こうで炉などを借りることができれば修理はできるだろうが、問題は燃料だ。高温を出せるガスとして今は水素を使っているが、向こうに発電機を回せるような動力源があるかはわからない。さらに水素は燃料としてあまり効率が良くないのだ。半日かけて溜めた水素でも少し作業にもたつくと切れてしまう。水性ガスとして作られる一酸化炭素は温度に難があるし、メタンは衛生上の問題もあって手を付けられなかった。まあ最悪人力で頑張ろう。もう少し発電機の抵抗が軽ければ風車で軸を回したんだがな。

 

「それにしても、ここまで遠くへ行くことになるとは思っていませんでしたよ」

 

ケトはそう言いながら箱を紐で締めていく。

 

「そういえば旅行記はあまり読んでいないけど、知られている範囲の土地というか領域というのはどれぐらい?」

 

「具体的な数字を出すことは今はできませんけど、北も南も氷が海に張るまでと言われていますね」

 

「……ちょっと待って」

 

「はい」

 

「この大地が球状なのは知られているんだよね」

 

「はい。ただ、厳密には南北方向に一周した例がないので円筒形かもしれませんけどね」

 

そうやって笑いながらケトは言う。私はあまり笑えないが。

 

「……まさか、東西方向には一周できている?」

 

「ええ」

 

「うわぁ……」

 

何が原因だ?造船技術は決して特別だとは思えない。私のいた世界では1522年のフアン・セバスティアン・エルカーノ率いるビクトリア号が確実な記録としてはあったはず。もちろんネコ2世の時代に喜望峰廻りでアフリカ一周がされていた可能性はあるし、造船や航海の技術からすれば理論上は不可能ではないが。

 

「……キイさんの知識だと、これは驚くべきことなんですね」

 

ケトは少し嬉しそうだ。

 

「ああ、だから海の呪いが知られているのか」

 

壊血病が起こるほどの航海がされている可能性をあの時点で考慮するべきだったな。

 

「古帝国時代、当時の皇帝が地の果てまでを支配するべく使者を出し、西に向かった隊と東に向かった隊の生き残りが出会ったという話があります。この時の西に向かった人々の末裔が船の民だという伝承もあります。これが真実かどうかは多くの歴史家が疑っていますが、それ以降にも西の方にあると知られていたものが東廻りの海路で届けられるなど、間接的な証拠はありました」

 

「確実な証拠が得られたのは?」

 

「最初に地を廻った人の具体的な名前は知られていませんが、陸上がり……船の民でありながら、地上の上に暮らすという禁を犯した人物であったとされています。このせいで船の民にとってこの話はあまりいいものではないようで」

 

「ああ、この前船を見た時に海の呪いについて聞いた時の反応はそれかな」

 

「おそらくは。僕も気になったので知っている講官に訪ねに行ったりして知ったんですが」

 

講官は図書庫に直接雇用されている研究者にして教育者である。規模と人数から言えば教授クラスか。いや、もっと上かな。

 

「気軽に会いに行けるのはいいね」

 

「まだ僕は若いですからね、訪ねていくと勉強熱心であると言ってもらえるんですよ」

 

「わかる。私もかつてはそういう事をしていたよ」

 

学生は時間に余裕があるし、足で稼げるのだ。色々な学会に顔を出して、その後にさらりと懇親会に出ると結構共通の知り合いがいたりするのだ。そして後でその知り合い、大抵は教授クラスからお前は何をしたいんだよとツッコまれるまでがお約束。

 

「話を戻しますが、途中にある大きな海を超えることが島伝いでも非常に難しく、半分以上の船がたどり着かないと聞きました」

 

「相当難しいのか。というより、半数っていう数字が出るぐらいには挑戦者がいるんだね」

 

「ええ。もしその大洋を渡って品物を運べれば、それだけで相当の財を手にできますから」

 

原動力はやはり金か。大航海時代と同じだな。ちなみに私はこの大航海時代という呼び方を結構気に入っている。Age of Discoveryが定着した用語だというのはわかっているので別にとやかく言わないが、私が言う時はできるだけ"Discovery"のところでエアクオートをするようにしている。こういう事すると思想が強い人間としてちょっと距離を置かれたりするんですけどね。



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後継者

「……この時点を以って、私は印刷物管理局局長の職を解かれる」

 

私はそう言って局長印を新局長に渡す。

 

『法と秩序の代行者として、その責任と権限を自覚し、力を尽くして正当かつ公正に職務を遂行することを、ここに集まる証人の前で宣誓します』

 

そう聖典語で誓って受け取る新局長。うん。ケトに作ってもらったのだがなかなかいい響きだ。私の任命は政治的な色々があったし、今後もそういうのは避けられないだろうが一応こういう儀式的なものでも言わせておくと場合によっては行動を縛れるからね。一応ケトが言うにはこういう誓約はなんだかんだで法的な意味を持つことにもつながっていいらしい。まあ私がケトと結んだやつは証人が誰もいないし法的に認められる条件を満たしていないので実質無意味らしいが。

 

「まあ、最近私はあまりここに来れていなかったからね。そういう意味ではやることは変わりないのでは?」

 

「そうは言っても、何かあった時の全責任が僕にあることになるんですよ……」

 

新局長になった彼は実務よりも仲裁の方が得意で、多くの局員からそれなり以上に信頼されている。だから選んだのだが。あとは図書庫から出向の人なので異動のリスクとかを加味してというのもある。とはいえ出向元に人員が戻った例は案外少ないし、定期的に若手が送られてくるので新陳代謝というか作業のマニュアル化は進んでいる。なお専任というか管理局で雇っている人物がいないのでここはどうにかしたい。

 

「まあ、そうならないように他の人を頼りな……というのは、わざわざいう必要もないか」

 

「わかってはいますけどね?理解と感情は別なんですよ」

 

苦笑いを浮かべて新局長は胃の辺りを服の上からぎゅっと掴む。ああ、辛いよな。まあ慣れるさ。

 

「どうしようもなかったら新しい局長補佐に任せて、しっかり休みなよ」

 

「局長が帰ってきたらすぐに任命してやります」

 

「今はもう君が局長なんだけど」

 

「キイ嬢……というのは慣れませんね」

 

「別に嬢じゃなくていいよ。司女ではあるけど、図書庫の職は解かれているんだ」

 

「司女なら嬢でいいですよね?」

 

「まあそれでいいならいいけど」

 

名前をどう呼ぶかは慣れてしまえば気にならないものだ。オープンキャンパスで私を教授と呼んだあの高校生だったかは元気にしてるかな?あの頃の私はリサーチ・アシスタントですらない一介の修士課程生だったのだが。まあ無知を責めるのはよくないし、なぜか私が教壇に立って模擬授業をやっていたので仕方なくはあるか。あの担当教員のやつ前日にちょっとヤバい案件があるからとスライドだけ私に投げて南麻布に急行して私の発表時には国際便の中で呑気に寝ていたと言うのでうーん有罪。

 

「一応、新しい局長は人員や予算を結構自由にできるんですよね?」

 

「うん。ただし私利私欲のためにそういうことをするならどうなるかわかるね?」

 

「局長補佐が局長の座を奪い、僕は図書庫長直々に呼び出され、下手をすれば賠償金を支払うことになって債務に潰れるとかでしょうか?」

 

「おまけで君の悪事が報知される。よかったな、どうやら新しくできた『時勢』は印刷物管理局がお好きなようで」

 

「好きなのは管理局じゃなくてキイ嬢では?」

 

私は曖昧な笑みで誤魔化す。まああの編集長であれば捏造はしないだろうし、発表するときは動かない証拠を押さえてからだろう。そう入れ知恵してある。

 

「まあそういうわけでそれなりに緊張感を持って仕事をして欲しい。最低限の人と顔合わせはしたはずだけど、他に今からでも挨拶しておきたい人いる?」

 

どうしても紹介というのは重要なので新局長を含め優秀なスタッフには隙を見て私の名代とか渉外役とかをやらせていたのだ。それで一人幹部候補がもとの組織に戻ってしまったが、向こうで管理局と繋がる役をやってくれているので特に問題ない。別に新人教育機関として使ってもらう分には人脈が増えるほうのメリットが大きいと思われるのでね。

 

「いいえ。というより、キイ嬢はいいんですか?そろそろ出港でしょう?」

 

新局長の視線を辿って後ろを向くと少しイライラしていそうなケトと目があう。

 

「……そうですね。そろそろ行かないと」

 

「再度確認しますが、北の方に行く商船などに手紙と『時勢』を回せばいいんですよね?」

 

「そう。なんなら荷物の隙間に詰めるとかでもいい。通信機で受信はできるかもしれないけど、ちゃんとした文字情報も欲しいから」

 

そういえば新聞の海外購読者第一号である。変なことしているな。

 

「まあそんなとこかな。では皆さん、行ってきます!お元気で」

 

私は後ろから聞こえる歓声を背に片手を上げて足速に去る。お土産を期待する声が聞こえたが鋼鉄製の印刷機とかでいいだろうか。ダメ?

 

「時間的には余裕がありますし、最悪使節官が出港を止めてくれているとは思いますが」

 

ケトが呆れているのかため息の後に言う。

 

「君は案外他人を信用するというか信頼しているんだね」

 

「まあそれでもこっちが勝手に期待をかけているだけです。それが叶わなかったからと言って理不尽に怒りたくはないので早く進んでください」

 

「はあい」

 

前にも通った道を歩いていく。港のほうに向かう下り坂から、青い海と行き交う船が見えた。



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腐敗

女性が大きな巻き貝を持って船の先頭に立ち、貝の頭に口をつけると独特の音が鳴る。それと同時に係柱から縄が外され、ゆっくりと帆が下ろされる。

 

「大丈夫?」

 

私は少し気分の悪そうなケトに言う。

 

「ええ……まあ……」

 

船酔いだろう。確かにこういう乗り物に乗る機会が少なければ起こって当然か。

 

「キイさんは……平気そうですね」

 

「まあね」

 

子供の頃から車の中で本を読んでも特に問題なかったのだ。今更船程度ではあまり問題はないはずだが、あまり調子に乗りすぎないようにしないと。振動の周期が独特なのでそこで引っかかる可能性がある。

 

「もし辛いようなら寝てしまいなよ」

 

「寝れますかね……」

 

吐いてはいないので、まあそこまで深刻ではないのだろう。

 

「大丈夫か?」

 

後ろから声がしたので振り向くと乗組員の一人が小さな杯を持って立っていた。

 

「貨人さんにはよくあるやつだ。水で薄めた薬酒だが、少しは楽になるはずだ」

 

「ありがとうございます……」

 

そう言ってケトはゆっくりと口をつける。匂いが独特で、私の知識では分析しきれない。まあどうせ芳香族化合物だろ。

 

「新鮮な水は今しか飲めないからな」

 

「ああ、腐るのでしたか」

 

「そうだ。炎酒を混ぜることもあるが、あまり良くはない。どうしようもなくなれば海水を煮て湯気から水を得ることもできるが、それだけの燃料を載せていることはまずないし、積み荷を使い切ってしまっては契約が成り立たない」

 

「なるほど……」

 

会話の途中でケトを見るが、少し落ち着いたようだ。

 

「……もし、水を腐らせなくする薬のようなものが作られれば需要はあるでしょうか?」

 

「難しいところだな。薬の量や味の問題もある」

 

まあそうだわな。というかすぐにこういう話ができるあたり、学があるというか取引などに長けているのだろうか。

 

「わかりました。最近とある薬学師が色々と新しいものを作っていまして、そのなかにそのような働きをするものがあれば、と」

 

「ただこの船みたいな半月を超える旅をするのであれば、酒の倍程度の値段であれば買うだろう、と考えるね」

 

市場価格設定のアドバイスまでもらえる。なんだ、やけにいい人だな。

 

「夕前に食事があるから、その時には動いてくれ。それまでは海を見るぐらいしかやることが無いだろうがな」

 

笑う船員に合わせて私も笑顔を浮かべる。ケトの表情も少し柔らかくなっていた。

 


 

夕食は生野菜が多かった。たぶん腐りやすいものから食べていくということなのだろう。

 

「……何やってるの?」

 

同じぐらいの年齢の少年となにやら話し込んでいたケトに声をかける。

 

「聖典語を教えています」

 

『どうも、色々教わっています』

 

少し癖があるが、案外綺麗な聖典語の発音だ。

 

『ああ、なら私も聖典語を話したほうがいいかな』

 

基本的にこういう会話は全員が理解できるものにするべきである。なので国際学会の後の飲み会では英語で議論せねばならない。まあ翻訳アプリが発展していた時代であったからスマホ片手にではあったがなんとかなった。

 

「ん、そんなら東方通商語でお願いしやす。そちらのほうがわかりやすいんやろ?」

 

あ、こっちのほうが訛りがあるな。私の脳内で使っているのが図書庫の城邦で話されている東方通商語の一方言なのでどっちが訛っているかはちゃんと定義できないものであるというのは置いておくとして。

 

「東方通商語はどこで学んだの?」

 

「南の方出身でして、そっちの人と話しとると自然に、というわけで」

 

慣れれば聴き取れるが、少し集中する必要がありそうだな。私は腰を下ろしてケトの隣に座る。

 

「なら、なぜ北方に向かうこの船に乗っているの?」

 

「爺ちゃんとここの船長が知り合いなんよ。せやから海の向こうを見てこいーって船乗り継いで、ってとこやね。あと数回こっちと北の方行き来したら戻って海路を継ぐと思いやす」

 

知ってる東方通商語ではくっついている単語が分離されていたり、少し珍しい言葉遣いがされていたりと面白い。

 

「なるほど。聞くだけではわからずとも、見ればすぐに理解できるものも多いからね」

 

「そういうこと、ってなわけで、ええと、キイ先生?」

 

「……あまり呼ばれ慣れないな。どうしたの?」

 

「ケトに聞いたんやけど、色々面白いものを船に持ち込んでいるんって本当なんか?」

 

ふうん、案外ケトはそういう事を隠さないのか。少しケトの髪をわしゃわしゃと乱す。

 

「っ、キイさん」

 

「ケトくん、どういう事を話したの?」

 

「ええと、岩の種類を見たりとか、遠くとやり取りしたりだとか……」

 

「そうそれ、やり取りってどうやるん?船の間で色旗振って、なんてもんとは違うん聞いたけど」

 

「……まあいいや。明日の昼にはやるから、その時には見せてあげる」

 

「やったぁ!」

 

こうやって好奇心旺盛な若い世代がいるというのはいいことである。船の民と呼ばれる人たちの文化的背景はあまり掴めていないが、別に孤立的というわけではないらしい。むしろこの世界で一番交流範囲が広く、海の繋がる場所ならどこにでもいて、多くの品物を扱うというのであるから文化的タブーで陸に上がれないぐらいがないとバランスが取れない。まあ、歴史というのはたいていバランスなんて調整されていない酷いシステムなのだが。



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天測

日の出の少し前、夜番の船員に頼んで起こしてもらう。眠いな。欠伸を一つ。

 

「……星見か、と聞いています」

 

私の隣にいる船員二人のうち、一人は天文観測の心得があるようだが東方通商語を話せない。代わりに北方平原語は行けるらしいので通訳がわりの船員を挟んで三言語が入り交じる会話をどうにかしている。ちなみに会話に交じるもう一つの言語は船民語である。船の民を民族と呼べるかは民族という単語の定義の問題やら訳語の選択なんかと絡んでとても面倒な問題に直結するので適当にぼかして言えば、船の民を船の民たらしめている要素の一つが船民語である。聞く限り他の言語との共通点も少なく、ある程度船の民同士で通じるものの地域差も結構あり、これまた面白そうなのだがひとまずそういう方面の好奇心はしばらくお休みさせておこう。

 

「ええ。天極三星の海面からの高さを観測するためのものですね」

 

そうそう、この世界の星空に北極星はないのだ。かわりに真北から少し離れた場所に3つの星がある。一つは一等星ぐらい、残りの二つが二等星ぐらい。そのほぼ正三角形に並ぶ3つの星のだいたい中心が天の北極である。ちなみに私がいるのは北半球。まあ地磁気逆転が起こっていればその限りではないが。

 

「南北の位置を測るのか。しかしそれにしても奇妙な仕掛けだな。見たことがあるものでは錘が垂れていたはずだが、それがない」

 

「鉛直方向を基準にしようとすると揺れる船の上では難しいでしょう?なので海面を使うのです」

 

「なるほど。ただ、水面が見えぬときや陸の近くでは難しいな」

 

「陸の近くであれば場所が大まかにはわかるでしょうからね。これは目印がない時用です」

 

鏡で天極三星の中心を捉えたので六分儀を少し振るように動かす。見分けがつくようになった水平線のちょっと下を天の北極が下回るように動いたので、少し鏡と水平面のなす角度をきつくする。たぶんこれぐらい。

 

「針路は東であっていますよね?」

 

「そうだ。このまま海峡へと向かい、その後陸伝いに北へと進んでいく」

 

「わかりました。なら南北方向の位置は今日の昼ではそう変わらないはずですね」

 

「おそらくな」

 

さて。最小目盛りを心の目で十分割して測定結果を読み取る。副尺(バーニア)があればそれを使ってもいいのだが、そもそもこの角度自体があまり正確ではないので気持ちの問題だ。ちゃんとしたものは金属製の螺子を作ってから再度設計しよう。

 


 

色々なものを広げているので人が集まってきている。船長まで様子を見にやってきた。

 

「空間を伝わる波を拾うためにこのような形状をしているのです」

 

好奇心からくる視線をケトが説明で私からそらしてくれている間に作業を進めよう。西の方、つまりは図書庫の城邦の方角に向けているのは宇田空中線(アンテナ)。短波用の指向性が強いやつだ。とはいえ見よう見まねで作ったので正直そこまで精度は良くない気がするが。

 

「……来た」

 

時報として、図書庫の城邦での南中時間が近づくほど細かくなるようなペースで通信を送ってもらっている。作っておいた雑な砂時計の一つをひっくり返し、計測を開始。理論上、南中時刻の差が経度の差になるはずなのだが果たして。

 

今までに行った数回の測定から、曖昧ではあるが南中時刻があと2刻後だという推定はしてある。正確な時間差は図書庫の城邦の送信機の前で水時計を頑張って管理している人たちの合図を参考にしよう。

 

「……あと3刻で、向こうは正午」

 

六分儀を構えて、再度測定。太陽高度の変化が小さくなっている。上手く行けば、電波を利用した時差の測定に成功したこの世界初の例になるかもしれない。

 

「聞くの代わって」

 

私は観測に集中するためにケトにスピーカーを渡す。

 

「今」

 

私が言うタイミングで、ケトは別の砂時計をひっくり返した。これは参考用。1刻で砂が落ちきるので、その度に上下を逆にすれば簡易的な測定ができる。

 

「あと半刻で向こうは正午です」

 

ケトがそう言うとほぼ同時に砂が落ちきる。つまりはこの場所での南中時刻から1刻が経っていたわけだ。時差は1.5刻。こういう時に角度と単位が対応してくれていると嬉しい。

 

「……南中が過ぎたのを確認した。さっきの時にちょうどだったはず」

 

私は六分儀を下ろし、記録を取る。ここでは硝子筆(ガラスペン)は揺れで割れると危ないので万年筆っぽい金属製のペン先を持った筆記具を使っている。

 

「で、結局どれだけ船が動いたことになるんだ?」

 

観客の一人から声がかかる。

 

「ケトくん、大地球の円周の240分の一ってどれぐらい?」

 

「ええと……」

 

単位換算したケトの言葉を更に翻訳して、ということを重ねて数字が船員に伝わったらしい。

 

「少し大きすぎないか?」

 

「あそうか、もう少し短くなります。ええとここは赤道上ではないので……」

 

計算で得られた値を緯度で補正。2割引きだ。

 

「まあ、そんな所だろうな」

 

案外驚きは大きくない。まあ当然か。ここはまだここの船員にとっては馴染みのある海域だし、私が出した数字がそこまで正確なわけでもない。それでもまあ、私からすれば案外悪くない結果である。



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投影法

「……昼のほうがマシだけど、駄目だな」

 

私はそう言って電池から伸びる電線を外す。

 

「昼のほうが聞こえるんですか?」

 

重い鉛蓄電池を持ち上げてケトが私に聞く。

 

「まあね。上空にある電波を反射する層が太陽の影響を受けているんだと思うんだけど、正直覚えてない」

 

「……キイさんがそういう事を言うのは、少し珍しい気がします」

 

「そう?すぐに限界が来ているから他のことを色々やっているだけで、別に私自身は万能の天才ではないよ」

 

「……僕以外には言わないほうがいいですよ」

 

「どうして?」

 

「そういう特別な人間だということを想定している人がいるからです」

 

「そうかねぇ。長髪の商者も、トゥー嬢も、ハルツさんも、なんなら煩務官だって私を全知全能だとは思っていないでしょ」

 

「なんでここで図書庫の城邦でも数えるほどしかいない特別な人間を出してくるんですかね?比較対象がおかしいですよ」

 

……そうかもしれない。この世界の上澄みだけに触れてきたせいで、多くの人間は印象だけで語るし流されやすいし物語を好むということを忘れかけていた。

 

「そうだね。とはいえ私が表に出て何かをしたいわけではないし、裏で地味なことやっていたいからそういう印象を持たれたくはないんだけれども」

 

六分儀の鏡の角度を確認しながら言う。どうしても歪みが出ているので、フロート法で作った硝子(ガラス)を銀鏡反応で鏡として使いたかったがアンモニアの入手が間に合わなかった。トゥー嬢にやり方は伝えてあるから帰ってきたら出来ているといいな。

 

「そろそろ昼食ですね」

 

「ケトは今日当番だっけ」

 

「そうです。とは言っても酒粥でしょうが」

 

そう言って少し嫌そうな顔をするケト。

 

「苦手?」

 

「煮た酒の味がちょっと……」

 

脱水を防ぐためにアルコールを飛ばしつつ、熱で病原菌を殺している酒粥はなかなか面白い考えだと思うのだがケトの口には合わないらしい。まあ水は大半が腐ったので今の主な飲み物は酒である。塩素消毒もされていない生水なのによく持つなと言ってもいいかもしれない。気化熱を使って冷ます容器に入れているから多少はマシになっているのかな。

 

「次の港に寄るのは3日後ってところのはずだから、それまでは辛抱だね」

 

「はい……」

 

とはいえケトがこの手の感染症にかかると船の中では打つ手がない。荷物の中に蒸留器はあるが、燃料がそこまであるわけではない。抗生物質や抗菌薬を作るのも無理。まあ、船の民はこれを日常的にやっている所を見ると案外行けるのだろう。

 

「とはいえ十日ごとに港に寄れてもこれか……」

 

必要な資源がこの惑星のどこにあるかはっきりしない以上、何らかの形で博物学的調査隊を送り込むようなプロジェクトを立ち上げたいが今では無理だ。水と食料と通信を揃えるのにはどんなに速くともあと数年はかかる。

 

「どうしようもなくなったら、瓶に詰めてあるの食べていいから」

 

「……もう少し、我慢します」

 

「無理はやめてね」

 

「わかってます。それでは、食事の準備をしてきますね」

 

ケトはそう言って歩いて行く。まあ、明らかな脱水とかは起こっていないししばらくはなんとかなるだろう。

 

「さて、と」

 

私は測定結果をまとめていく。昼食までに終わらせておきたいところだ。正確な時間はわからなくとも、太陽や主要な星や惑星の高度、それに特徴的な地形の方角といったものを記録しておけば後から面倒な計算を行えば移動経路を割り出すことができる。前に見た学会でこうやって過去の船の経路を再算出しているのがあったので、それを参考にした。まあでも測定機器の精度が精度だ。南中時刻の測定は調子が悪いと結構ズレが出ることがわかったのでどうやら最初の昼の観測はそれなりにいい「当たり」だったらしい。

 

今まで通った点を座標に起こしていく。使っているのは正距円筒図法。つまりは雑に緯度と経度を補正もなく直交座標系に突っ込んだもの。そうか、地図の投影法も考えないと各所で集めたデータの集約が面倒になってくるな。たぶん世界地図を作るにあたって船の民の協力は必要不可欠だが、世界中に散らばる人々に行き届くほどの精密測定機器と通信機を用意しなければならないのでそれなりに大変そうだ。ああ、考えると将来的にやりたいことが多く出てくる。

 

夜明けのタイミングやら緯度やらを組み合わせて、なんとなくで海岸線を描いていく。図書庫の城邦を出て海峡を西に行き、そこから陸沿いへ北に進んでいる。形としてはジブラルタル海峡とその北のスペインに近いな。その後また別の北にある海峡を通り、東に進むと目的地だというのでそういうルートを指でなぞる。やはり地図がないのは怖いな。片道で一月というのは、慣れるまで行き来したころにはそれなりの年齢になっていることを意味する。ああ、だからそういう専門の集団がいたことで海上交易が効率化し、高い造船技術と長距離の航海が可能となったのか?正直元の世界のそういう分野の知識は相対的に少ないのであまり断言はできないが。

 

貝笛の音がして、甲板の上にいた人たちが動き出す。ご飯の時間だ。自由時間はある程度あっても陽の下では体力が持っていかれる以上、食べなければ動けないのだ。



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処刑

「おいしい……」

 

「泣くほど?」

 

涙を流しながらケトが新鮮な果物を食べ、水を飲んでいる。この後まだ船旅は続くのだが大丈夫だろうか。

 

「それにしても、ここでそれなりに荷物の載せ替えをするんですね」

 

私は隣りにいる北方使節官に言う。朝早いうちに入港して、昼過ぎには出ていくのだがその短い時間で色々と人が動いている。本来であれば私たちはこの輸送仕事を手伝うべきなのだがケトが辛そうなので見逃してもらっている。あとでお礼をしなければな。

 

「ああ、船に載せているのは商会との契約のものもあるが、それはたかだか半分に過ぎない。残りの半分は彼らの荷だ」

 

「だから自由に売買することもできる、と」

 

「そうなるな。この船は信頼の置ける船長がいて、取引が長いのでそういう問題はないが安い金で雇った船であると荷を取られることもあるようで」

 

「商会側が監視の人を乗せるのは?」

 

「貨人として扱われると銀を取られるし、なによりあくどい奴らはその見張りすら殺して海に放り込むと言う」

 

「怖いな……」

 

「ただ、そういう事をした船はすぐに噂が知れ渡り、船の民の制裁が与えられることになる」

 

「……どういうことをされるのです?」

 

「知りたいのか?」

 

「……いえ、やめておきます。どうせろくなものではない」

 

見せしめとしての価値がなければいけないのだ。それなりに凄惨なものになるだろう。記憶の中であまり思い出したくない物が浮かんでくる。円形闘技場における囚人の運命、ユダヤ教系新興宗教教祖の伝説的処刑、魔女狩り、la Terreur(テロール)の時代、ロレート広場の遺体。

 

「そうか。まあ他人の趣向にとやかく言うべきではないな」

 

気まずそうに使節官が言う。まあ、たぶん基本的にはそれなりに受け入れられているのだろう。必要な処置であるとしてか、あるいは娯楽であるかはともかく。

 

「すみませんね。話を戻しましょうか。商会は確か穀物を中心に載せていましたが、船の人たちは何を載せているのでしょうね」

 

「同じように穀物であったり、あるいは細々とした荷物だな。商会は大口取引が多いが、名のある船は小さな荷物を頼まれて乗せることもある」

 

「なるほど。とはいえ到着日には港で待っていなければならないのでしょう?」

 

「そうなるな。そうすると速くとも半年はかかる。商会であれば倉庫に保管することもできるが……」

 

「もしですよ、前に私が弄っていた機構で商品がいつ到着するかのやり取りをできるとしたら船の民の仕事は変わりますかね」

 

私がそう言うと使節官は少し考え込むようにじっと前の方を見る。かつての世界では世界的な海上交易の確立、電信網の構築、そして無線通信はそれなりの時間をおいて導入された。これをある程度一気にまとめてやろうというのだ。混乱は避けられない。逆に言えば混乱が一回で済むとも言えなくもないが、それに巻き込まれる人間にとってはそんなことは関係ない。本格的に動き始める前に想定される問題を調べ上げて、対策の布石ぐらいは用意しておかないと色々とまずい。それは純粋に私の精神的な負荷を緩和させるためのものかもしれないが、それで他人の不幸を減らせているのであればまあこの行動は正当化されるだろう。

 

「……手紙のやり取り自体は減るか?あれは遠くに行く船の民にとって小さくない収入源だ」

 

「増えると思いますよ。あの機構は決して大量の文字や文章を送れるものではありません。どの日に船が着くかであったり、簡単な注文や在庫のやり取りであれば可能でしょうが」

 

「そうなるとむしろ船の行き来自体はより頻繁になるかもしれない、と」

 

「十年以内には船の中の環境をかなり改善できる方法は用意できるでしょうが、それを船の民が受け入れるかどうかはまた別です。新しいものの導入では衝突が起こることもありますから」

 

「……船の民たちが何を受け入れることができ、何を譲ることができないのかはこちらでもきちんと把握しているわけではない。ただ、当事者に聞くとなるとそれなりに慎重にはなるだろうな……」

 

民俗学調査のあたりにつきまとう問題でもある。ただ、知的好奇心ではなく商業上の理由があるならあまり無茶はしないか?いやどうだろうな。対等な関係として相互理解を深めるというのは理想ではあるが、それは実現が難しいからこそ理想なのだ。相手の立場に立てるかどうかというのは結構後天的な学習によるものがある。事実私がそうだったので。

 

「長期的な課題ですね。ゆっくりやっていくしかないかと」

 

「外交局にそういう事をできる専門家を集めるべきかもしれないな。今の時点では各地域に繋がりがある人物を派遣しているだけだ」

 

「情報をまとめるということは進んでいます。積み重ねは、きっと実を結ぶと思いますよ」

 

「キイ先生の言うことは導入しつつ疑え、と言われていますが、その励ましの言葉は受け取らせていただきます」

 

「誰に言われているか……は聞かなくてもいいか」

 

たぶんハルツさんだろう。あの人は人を信じながら疑うのが得意そうだ。あまり縛られないからこそ、色々なものを頼れるというのは強い人の特徴である。



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短縮

「うーん」

 

蝋板の計算を消して、私は日の沈んで間もない夕暮れの空を見る。橙色から藍色までのグラデーションが綺麗だ。

 

「何やっているんですか?」

 

船にも慣れてきたらしいケトが言う。もう航海は折り返しを過ぎて、針路は北東を向いている。

 

「太陽が南に来た時の高度から緯度を求めようとしているんだけど……計算が厄介で」

 

南中高度は緯度と日によって変わる。今は夏至の前なので、同じ場所から観測するのであれば次第に一番高い点は上がっていくわけだ。この2つの成分を分けようとすると天文学と球面三角法の面倒な計算が始まる。いやこの程度で音を上げると本職の人にとやかく言われそうではあるが。

 

「……僕も少ししかわかりません」

 

「そう。まあなら記録だけ残しておくか……」

 

途中計算は蝋板で行い、結果を紙に書いている。紙の枚数はそれなりにあるが無駄遣いできるほどのものではないので。

 

『どうだ、星見は』

 

すっかり馴染みになった夜番の人が声をかけてくる。船民語もこれぐらいなら聞き取れるな。

 

『良くない。日の高さから南北方向の位置を出すには私の力は足りていないようだ……私の言葉は通じているか?』

 

専門用語は基本的に一対一対応なので、基本的な文法を覚えてそこに接続詞で不格好に繋いだ説明を入れるだけ。これでも結構辛いのではあるが。

 

『ああ。船旅の始まりで語れなかった██*1とは思えないな』

 

そう言って笑う夜番の人。聞き取れない単語があったが、まあ別に侮蔑とかではないだろう。ケトの方を見ると少し笑みを浮かべている当たり、たぶんそう問題のある言葉ではないはず。

 

『それはよかった。……ここ数日、風が強いと感じているけど、どう思う?』

 

緯度と経度を距離として出して三平方の定理で速度を求めると、図書庫の城邦が面する内海を出港したときに比べて倍とまではいかないが数割速くなっている。

 

『実際北の風がこの███に██を████くれる*2

 

『……もう少しゆっくり言ってもらっても?』

 

「この季節には北向きの風が吹くそうです」

 

少し気を抜くと知らない単語が出てきてそこを気にしてしまいわかるかもしれない単語でも聞き取れなくなってしまう。ケトの通訳と、夜番の人がもう一度ゆっくり話してくれたのもあって理解は出来たが。

 

『ところで、そろそろ水平線が見えなくなるがいいのか?』

 

「あ」

 

私は立ち上がって六分儀を構える。まずは天極三星を鏡で探して、と。正直慣れないとかなり難しい。2枚の鏡を通しているので上下は変わらずにすんでいるが、望遠鏡を組み合わせるとなるとそこらへんが面倒そうだ。鏡を大きくしないと。

 

『……ありがとうございます。忘れていました』

 

とはいえ測定した角度はほぼ予想通りではあるが。きちんと船は目的地へと進んでいるようだ。

 

『████みてもいいか?*3

 

夜番が私が手にしていた六分儀を指して言う。

 

「触りたいそうですよ」

 

「んー……」

 

少し悩むが、まあ別に最悪壊れてもあまり問題はないしいいか。

 

『良いですよ。使い方はわかりますか?』

 

『大まかには。見ていたからな』

 

少し持ち方を指導すると、すぐに慣れたようだった。やはり筋肉がちゃんとついていると揺れないし、しっかりと水平線の方を確認できるんだな。私はちょっと重めの六分儀に振り回されて、少しだけ視界に入った水平線と目的の星とかの接触を頑張って観測するのが限界だ。

 

『これは数か?』

 

『はい。……少し待ってください』

 

そういえば数字についてはやっていなかったな。

 

「ケトくん。船民語で数字はわかる?」

 

「ええ」

 

そうケトは言うと、暗くなりつつある空が照らす目盛りを指さして説明を代行してくれた。

 

『……これからは難しい話になるが、船民語でわかるか?』

 

『頑張ります』

 

私は座って言う。少し揺れが強くなってきた。

 

『これがあれば、孤島……広く海に囲まれた島にたどり着けるか?』

 

『島が見えるまで狙った場所に近づくことができるほど、細かい高さを測るのはまだ少し難しいでしょう。しかし、鳥などを見れば多少は……』

 

『確かに見える必要はないな。鳥がいれば数日分の航海で進む距離ほどに近づいていることがわかる』

 

『図書庫の城邦で出される波を受け取る機構がまだ弱いですが、受け取ることができれば半日ほどの距離はいけるでしょう。この観測用の道具自体を改良できれば、より短く……。計算の上では、陸が直接見えるほどの正確さで出せるでしょう』

 

『それはいいな。それなら海沿いではなくとも、より危険とされていた経路を進むことができるようになる。この旅も、十日は短くなるだろう』

 

夜番は言う。かなりの短縮だな。っと、そろそろ目を凝らさないと周囲が見えなくなってきた。

 

『もう夜も更けていますし、そろそろ眠らせていただきます』

 

『そうか、良い夢を』

 

私は夜番の言葉を聞きながら甲板の下にある空間に行く。吊床(ハンモック)は慣れないと寝返りで落ちてしまうが、今では案外快適な寝具だと思えるようになっている。まあ、まだ旅は続くのだ。ゆっくりと休もう。

*1
この呼び方は主に陸に住む腕っぷしの強い女性を指す北方平原語から借用された船民語であり、なにか語を当てるのであれば「姐さん」といったところ。

*2
実際北の風がこの時期に帆を張らせてくれる

*3
使ってみてもいいか?



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偏角

夜明け前ぐらいのタイミングで、雨音に目を覚ます。背嚢の中から蝋引きの外套を取って甲板に上がると、涼しいというより冷たい風とともに雨が降り込んできた。

 

「キイさん」

 

後ろからケトに声をかけられる。私と同じような防水の外套を着ていた。結構ごわごわするが、北の寒い地域に行くなら必要だとして手に入れたものである。

 

「どうした?」

 

「いえ、これでは星を見れそうにないですね、と」

 

「仕方ないよ。とはいえ、もう今夜か明日には着けるはずだよね」

 

「そのはずです。ただ、風がいいのでこのまま進んで夕方に入港するそうで」

 

「無茶するなぁ。とはいえこの天気だと……荷物は危ないな」

 

「本とかは油紙で包んであるとは言え、湿気でやられるかもしれません。それ以外は大丈夫ですかね」

 

「発電機が怖いかな。油を多めに塗ってあるとは言え、一部は錆びているかも。それと船の中に入った水は大丈夫?」

 

「よくできた船のようで中に水はあまり入っていません。それでも漏る場所には籠が置かれています」

 

「……籠だと水が漏れない?」

 

「当然きつく編まれた上で、なにか黒いもので防水されています」

 

「ああ、木脂(ヤニ)の類かな」

 

「だと思います」

 

一応この手の物質は防水性があるので船に使われたりもするのだが、見る限りこの船の船体には使われていない。植物繊維となにかの脂で防水をしてあるようだが。たぶん木脂(ヤニ)のコストが高いのだろう。石油加工とかで作ることもできるはずだが、アスファルトのようなものが産出しない地域であれば使わないこともあるだろう。しかし籠に使う分ぐらいの木脂(ヤニ)はある、と。少ない情報からの推測は歴史学者のよくやることであるが、少なくない割合で変な方向に進んでしまう。おかげでこの手の議論は思想だの学閥だののバトルにすり替わってしまうことがあるのだ。私?同じジャンルをやっている人があまりいないし、たいてい知り合いだったので懇親会とかでは逆張りをやっていたりした。まあ大抵私が負けるのだが。主流理論というのはやはりそれなりの蓄積があるから主流なのである。

 

「キイ嬢!船長が呼んでいる」

 

そんな話をしていると使節官が来た。

 

「私?」

 

「そうだ。船の針路について意見を聞きたいそうだ」

 

「私に?」

 

「そうだ。星見なんだろう?」

 

「専門家ではないですよ!日頃から波と風を読んでいる人には勝てません!」

 

なんか厄介ごとの予感がする!別に手を貸す事自体はやるし同じ船に乗っているのだからそれぐらいは当然なのだが。

 


 

硝子(ガラス)の覆いがついた灯りはたぶんそれなりに高価なものなのだろう。精巧な飾りがついている所を見るとそれなりの職人が作ったものに思える。ちょうど影になって詳しい構造が見えないのはもどかしいが。

 

『それで、昨日の日暮れではここだと』

 

「そうなります」

 

揺れる炎に照らされる私の雑な図と、紐で作られた船の民のある種の地図。行き交う船民語と私のための東方通商語。

 

「どれだけ正確だ?」

 

「航路にして四分日分でしょう。それと陸の正確な様子がわからない以上、あまり参考にしないでいただきたい」

 

「……そうか。ただ、この岬の場所は確実か?」

 

「距離は少し怪しいですが、方角であれば間違いは少ないかと」

 

六分儀を斜めに使うなんて変なことをしてまでなんとか測定した陸地の地点である。どうやら実際の航海でも参考にする点だったようで、私の地図を補正に使って今後の針路の決定が進んでいく。

 

『風向きは?』

 

『石はこの揺れじゃああまり使えないでしょう』

 

『石ってなんですか?』

 

船員たちの会話にケトが言う。

 

『ああ、南の方で使われている北を指す石があって……』

 

説明を聞くケト。

 

「キイさん、磁石では?」

 

「だとしても、星の廻る点と磁石の指す向きは異なるんだよ。特に北の方では……」

 

私はため息を吐く。磁気偏角の測定データなんてないだろ。測定しておくべきだったな。

 

「このあたりであれば磁石は星から西の方に傾くぞ」

 

「なら行けますね。荷物の中から探してきます」

 

私とケトは少し強くなってきた雨を浴びながら貨物室に向かう。

 

「場所はわかる?」

 

「ええと……」

 

ケトが箱に手を入れてごそごそとすると、電磁誘導の測定に使っていた磁石が出てきた。油を詰めた容器に針を入れた、揺れにそれなりに強いやつ。微小電流で針がなかなか安定しなかったのでちょっとした工作がわりに作ったものだ。エドモンド・ハレーの発案から実用までにはかなりの時間がかかったことからもわかるようにそれなりにいい加減な代物でしかないが、まあ無いよりはマシだろう。それに陸地の方角はわかっている。雨が止んだら天測もできる。なのでこれは別に必須なことでもなければ誰かの命がかかっているわけでもない。

 

「……キイさん?」

 

ケトの不安そうな視線が向く。

 

「……大丈夫。行こう。少し面倒なことを考えてしまっていた」

 

私の技術は、まだ直接的に人の生死に関わるものになっていない。ただ、それも時間の問題だ。そりゃまあ責任を追求できるかと言われれば無理だが、私の感情としてそこらへんをどうにかごまかす方法は用意しないといけない。医療分野に手を出してみるか。これで救える人数を考えれば、ちょっとやそっと間接的に死人が出てもそれ以上には助けたことになる。幸いにも、私はそういう計算なら飲み込めるタイプの人間だ。



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第15章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。舞台となっている世界の技術発展が原作と色々と違っている点を楽しんでいるような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


質問

そういえば外観で船に竜骨がないように見えた。

竜骨(kell)は船を貫くように存在する部材。モデルにしているジャンク船には竜骨が着けられることもあったが、大型化するために強度維持を隔壁などで行い竜骨に相当する部分をなくした例がある。なお、キイが竜骨がないと判断したのはおそらく船が平底だったため。

 

多くの結び目と飾りがついた紐を触りながら、案内をしてくれた男が言う。

モデルはインカ帝国で用いられた結縄記録の「キープ」と、ミクロネシア地域で使われていた波のうねりと島の位置を枝や貝等によって記録した「スティック・チャート」と呼ばれるある種の海図。

 

症状からすれば明らかに長期間のビタミンC欠乏によって発生する壊血病だ。

ヒトを含む霊長目の一部、テンジクネズミ、コウモリの一種などではグルコースからアスコルビン(ビタミンC)を合成する経路における最後の工程に関わるL-グロノラクトンオキシダーゼが遺伝子変異によって機能しなくなっている。基本的に十分な果物などを摂取できる環境ではアスコルビン酸を合成しなくとも構わないため、この変異は淘汰の対象とならず残り続けたと言われている。これ以外のアスコルビン酸合成経路にかかわるタンパク質は他の代替困難な機能を持っており、一番影響の薄いL-グロノラクトンオキシダーゼの変異が自然界にはよく見られると考えられる。アスコルビン酸欠乏症は結合組織の形成に影響を与え、出血や骨の問題などを引き起こし、酷い場合には死に至る。

 

瓶詰

ニコラ・アペールが編み出したという食品保存方法だ。

とはいえニコラ・アペールの貢献の大きな点は工業的スケールへの拡大であり、こういった保存方法自体は既に知られていたという話もある。

 

芽胞を持った細菌がどれだけいるかはわからないので、もし開けてみて危なそうなら処分しよう。

食中毒を引き起こすボツリヌス菌は自然界に広く分布し、環境の変化に強い芽胞を形成し、嫌気発酵を行うというなんとも面倒な性質を持っている。産生する毒素もしっかり加熱しないと分解しないというおまけ付き。一応古くから亜硝酸ナトリウムを添加することでボツリヌス菌の増殖を抑制する方法が知られていた。なお亜硝酸ナトリウムは肉の発色を良くする効果もあるが、分解によって発生するニトロソアミンに発がん性が報告されている。まあボツリヌス菌の食中毒で死ぬよりよっぽどマシではあるが。

 

一応共和制ローマ時代のマルクス・テレンティウス・ウァッロが微生物による感染症を唱えていたが、あれはまあ直感が偶然当たったものであってちゃんと検証された仮説ではない。

Advertendum etiam, siqua erunt loca palustria, et propter easdem causas, et quod crescunt animalia quaedam minuta, quae non possunt oculi consequi, et per aera intus in corpus per os ac nares perveniunt atque efficiunt difficilis morbos.

(ある種の目に見ることのできない小さな生物が成長し、大気中に浮遊して口や鼻を通して身体に到達し、深刻な病気を引き起こすため、湿地のような場所では[訳者注: 前の部分で話している川の近くと]同様に注意しなければならない。)

 

──マルクス・テレンティウス・ウァッロ「De Re Rustica(農家について)」より。拙訳。

 

これは農地の場所についてアドバイスをしている部分であり、「もしそういう農地を受け継いでしまったら?」という質問に先人のアドバイスを紹介しているが、その内容は「売れ、無理なら諦めろ」と「風向きと日当たりを考えれば、まあ……」と言ったところである。この時代の技術的・光学的知識は微生物を発見するだけの背景がなかったことを示しているため、この発言は虫の幼虫やプランクトンなどからの類推であると考えられる。

 

硝子(ガラス)の瓶を使うとなると、酸で痛みそうだな」

純度の高い素材を使い、正確に配合された原料をもとにしたガラスは高い耐酸性を持つが、不純物が多く配合がいい加減なガラスだと結構怪しかったりする。

 

対照実験とか統計的分析とか、アドホックな仮説に対する消極的反対とか。科学史を少しでも齧っていれば、こういう科学哲学で扱われるような「科学」ではない手法で様々な法則や定理が導き出せたことは言える。

「アドホックな仮説」とは既存の理論に例外などを付け加えることで現実の事象と合致するようにした仮説のこと。根本的に間違った理論を延命させることもあるが、見過ごされていた影響を加味することにも繋がる。そして科学は案外こういうものの積み重ねだったりするのだ。世界は単純な理論で説明するにはちょっと複雑なのである。

 

まあ総称としての科学なんてものはメタヒューリスティクスの一手法に過ぎないのでそんなムキになって最適化する必要もないと言えばそうだが。

メタヒューリスティクスは問題に対して近似解を求める汎用的な手法のこと。よく人工知能と呼ばれているもののコア部分だったりする。なおノーフリーランチ定理(お酒を頼んだ方には無料のランチを)より、汎用的手法はその問題に特化したアルゴリズムに比べて時間がかかりやすいということが示される。

 

六分儀

六分円形の本体の弧部分を少し固めに滑る指標桿(インデックスアーム)

普通用いられる六分儀と呼ばれているものは扇型の中心角からして六分儀ではなく五分儀だったりするのだが、もう六分儀(Sextant)という呼ばれ方は決まってしまっている。

 

まあ基本的に真鍮だからな。

銅と亜鉛の合金である真鍮、あるいは黄銅は変色が起こるものの腐食が起こりにくく、海事測定に使う六分儀のような機構に用いられてきた。今日ではもっと軽いアルミニウム合金などが用いられる。

 

まあ赤外線やら紫外線を完全に防いでくれるわけではないのであまり目にいいものではないだろうが、長期間の観測をしないようにすれば多少は大丈夫なはず。

国立天文台は煤をつけたガラスによって太陽を観察しないように言っているが、長時間見なければそこまで酷いことにはならないはず。あまりやり過ぎると日食網膜症のように網膜が焼けるので気をつけよう!

 

今日の日付から南中高度を求めて、さらにそこから今の太陽時を求めるのはそこそこ面倒な三角関数混じりの計算が必要だがこの世界の数学水準では可能なはずだ。

赤緯(天の赤道からの角度)は正弦波状に変化するが、実際にはこれに1年の日数の端数や歳差運動などが補正として入ってくることになる。面倒。

 

私が右腕を伸ばし、親指と小指をいっぱいに広げればその間隔がざっと330ミリラジアン。

こういうふうにミリラジアン単位で測定するメリットとしては、例えば100m先にあるものが角度330ミリラジアンであった時にその大きさが33mだと読み取れたりすることが挙げられる。軍事分野では射弾観測などで用いられる「ミル」と呼ばれる単位がおおよそミリラジアンと対応している。

 

「ならわざわざ六分円にしたのはなぜだ?90刻までの角度であれば八分円で測定できるだろうに」

天の南極をその範囲に持つ「はちぶんぎ座(Octans)」という星座があることからもわかるように八分儀は存在したが、実用化からすぐにより幅広い角度を測定できる六分儀が使われるようになった。

 

そもそもそれを言えば六分儀自体もGPSがあれば不要なのだが。

六分儀は精巧な測定機器であり、使用には訓練と適切な知識が必要である。ワンタッチで緯度と経度を出せるGPSのほうが壊れにくいし正確だし精度も高いので、今日では六分儀の実用性はほとんどないと言っていいだろう。とはいえ予備として多くの船に積まれている。

 

世界一周

水性ガスとして作られる一酸化炭素は温度に難があるし、メタンは衛生上の問題もあって手を付けられなかった。

水性ガスは加熱した炭素に水蒸気を当てることで作られるガス。水素や一酸化炭素を含む。

 

「具体的な数字を出すことは今はできませんけど、北も南も氷が海に張るまでと言われていますね」

確実な記録に残る最初の南極圏に到達した船団は1733年のジェームズ・クックに率いられたHMS レゾリューション号を含む2艦である。

 

私のいた世界では1522年のフアン・セバスティアン・エルカーノ率いるビクトリア号が確実な記録としてはあったはず。

西回りでアジアに到達しようとしたフェルナンド・デ・マガリャネス(マゼラン)率いた5艦は、壊血病や戦闘などによって船と人員を失い、最終的に出発地点でもあるスペインに帰還できたのはビクトリア号ただ一艦と18人の乗組員のみであった。一応不確実な記録ではあるが、マラッカのエンリケと呼ばれた乗組員の一人がマレー語圏に戻ることができているので彼を最初の世界一周者とすることもある。

 

色々な学会に顔を出して、その後にさらりと懇親会に出ると結構共通の知り合いがいたりするのだ。

界隈が狭いとも言う。

 

Age of Discoveryが定着した用語だというのはわかっているので別にとやかく言わないが、私が言う時はできるだけ"Discovery"のところでエアクオートをするようにしている。

エアクオートはチョキの伸ばした指を曲げるジェスチャーのこと。引用(quote)を意味する。

 

後継者

『法と秩序の代行者として、その責任と権限を自覚し、力を尽くして正当かつ公正に職務を遂行することを、ここに集まる証人の前で宣誓します』

モデルは日本の公務員の義務の一つ、服務の宣誓。

 

オープンキャンパスで私を教授と呼んだあの高校生だったかは元気にしてるかな?

肩書を間違えると色々と面倒なことになる。基本年上でも年下でも「先生」と呼べばなんとかなるのだが。

 

あの担当教員のやつ前日にちょっとヤバい案件があるからとスライドだけ私に投げて南麻布に急行して私の発表時には国際便の中で呑気に寝ていたと言うのでうーん有罪。

南麻布には大使館が集まっている。つまりは電話一本で海外に行くことになるような立場であり、そして機内でぐらいしか睡眠を取れないということなのでなんだかんだ言ってキイはこの担当教員に対して結構厳しい。

 

腐敗

女性が大きな巻き貝を持って船の先頭に立ち、貝の頭に口をつけると独特の音が鳴る。

ある程度の大きさのある巻き貝を笛として使う文化は全ての大陸で見られる。

 

それと同時に係柱から縄が外され、ゆっくりと帆が下ろされる。

係柱は波止場にある係留のための縄を結わえる柱。縄が切れると大変なことになるので、関係者以外は近づいてはいけない。

 

そうそう、この世界の星空に北極星はないのだ。

北極星と私たちが呼んでいるポラリス、あるいはこぐま座α星は北半球から見える夜空でほとんど動くことがなく、肉眼レベルであれば十分北を指す目印として使うことができる。なお歳差運動により天の北極は星々の間を移動するため、実用上北極星と呼べるような星がない時代も存在する。なお、ポラリスが最も「北極星」となるのは2100年頃である。

 

天測

見たことがあるものでは錘が垂れていたはずだが、それがない

四分儀と呼ばれる測定装置に似ている。上部を吊り下げるタイプもある。

 

西の方、つまりは図書庫の城邦の方角に向けているのは宇田空中線(アンテナ)

アンテナの大きさは波長によって決まるため、短波用の宇田アンテナはそこそこ大きくなる。家の上にあるようなやつは超短波や極超短波用。ここで「八木=宇田」としていないのは宇田新太郎の指導教員であった八木秀次の実験分野における貢献が怪しい(もっと言ってしまえば今日の価値観では研究不正の疑いが強い)せい。

 

「……南中が過ぎたのを確認した。さっきの時にちょうどだったはず」

南中の時にはほとんど太陽の高度が変わらなくなるので、ここでキイは水平線と太陽がギリギリ接触する角度に調整した六分儀を使って測定を行っていると考えられる。

 

投影法

「まあね。上空にある電波を反射する層が太陽の影響を受けているんだと思うんだけど、正直覚えてない」

超短波を反射するスポラディックE層のこと。夏の昼間に形成される。アンテナがなんとか持ち運べるサイズであるであることを考えると、使われている波長は超短波と短波の境目あたりだろう。

 

気化熱を使って冷ます容器に入れているから多少はマシになっているのかな。

モハメド・バハ・アッバによって再発明されたジーアポットがモデル。

 

処刑

円形闘技場における囚人の運命、ユダヤ教系新興宗教教祖の伝説的処刑、魔女狩り、la Terreur(テロール)の時代、ロレート広場の遺体。

「円形闘技場における囚人の運命」はDamnatio ad bestias(獣による宣告)と呼ばれた古代ローマで行われた娯楽としての側面もある処刑方法について。ユダヤ教系新興宗教教祖はナザレのイエスのこと。la Terreur(テロール)の時代はフランス革命後に権力を握ったジャコバン派による統治のこと。ロレート広場はイタリア、ミラノにある広場で、キイはここではベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニらの処刑を指して使っている。

 

必要な処置であるとしてか、あるいは娯楽であるかはともかく。

極刑としての死刑が犯罪防止に役立つかという議論は置いておくとしても、少なくとも監視のための人件費を削減できるという利点はある。

 

短縮

『確かに見える必要はないな。鳥がいれば数日分の航海で進む距離ほどに近づいていることがわかる』

ポリネシア地域での航海では星から読み取った緯度、波の方向、鳥の存在などを組み合わせて孤島から孤島へと渡っていた。

 

吊床(ハンモック)は慣れないと寝返りで落ちてしまうが、今では案外快適な寝具だと思えるようになっている。

1600年ごろから船で使われているハンモックの起源の一つとして、西インド諸島で使われていた寝具がある。

 

偏角

一応この手の物質は防水性があるので船に使われたりもするのだが、見る限りこの船の船体には使われていない。

有名所ではコールタールで黒色になっており「黒船」としても知られるアメリカ合衆国海軍のフリゲート艦「サスケハナ」など。

 

エドモンド・ハレーの発案から実用までにはかなりの時間がかかったことからもわかるようにそれなりにいい加減な代物でしかないが、まあ無いよりはマシだろう。

1690年、エドモンド・ハレーがRoyal Society(王立協会)で液体式コンパスを示したが、これが各国軍に採用されたのは20世紀以降。



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第16章
来客


まばらにある建物の向こう側に、海岸線と平行に連なる山脈が見える。鋼鉄の尾根、とこの地域一帯が呼ばれるのはこのせいか。雪が積もっているところを見るとそれなりの高さなのだろう。

 

「結局一晩海の上で過ごすことになりましたね」

 

ケトが荷物を運びながら言う。港の近くまで来たもののもう暗くなってしまったので待機して、朝一番で入港したのである。照明がないので夜間の活動はかなりリスクが高いものになっているのだ。

 

「まあね。悪天候も日暮れ前に終わったし」

 

箱の中身をざっと確認して言う私。この荷物はひとまず問題なさそうだ。特に注意が必要な硝子(ガラス)製品を運び終わったら、他の荷物も運ぶ。荷降ろしまでやって初めて船旅は終わりなのだ。まあ取引での交渉とかもあるのだが。

 

「それで北方使節官殿、私たちはどうすれば?」

 

「迎えが来るはずだ。到着日は今日あたりだと伝えてあるはずだが」

 

「数日は待つことになるかもしれませんね」

 

「そこまではかからないと思うが……」

 

そう言いながら彼は商会の取引物を確認している。一応図書庫の城邦の輸出品の取引も担当しているということだ。まあ国家というシステムもいい加減なので私の知る外交官とは全く違うものとして今後できていくのだろう。楽しみだ。

 

「ただまあ、ひとまずは商館で休もう。数日であれば泊まることもできるだろうし」

 

「ああ、そういえば宿泊施設も兼ねているんでしたっけ」

 

「そうだな」

 

ひとまずよく食べてしっかり寝よう。生活の変化で意識しなくともストレスを受けているだろうし、それを回復させたいし。

 


 

いくつかのベッドがある商館の一室を案内され、しばらく休んでいると扉を叩く音がした。目配せで結局使節官が扉を開けることになる。

 

「すみません、キイ先生はいらっしゃいますか?」

 

懐かしい女性の声がする。廊下には綺麗な刺繍がついた衣装を来た人が立っていた。

 

「まさか、あなたが訪ねてくるとは……」

 

「招待したのは私たちですから」

 

この鋼鉄の尾根を中心として活動する最大規模の団体「鋼売り」の営業みたいなことをやっている人だ。スパイとも言う。久しぶりに会うな。前に会ったのは一年近くも昔のことだ。

 

「ああ、ご紹介します。こちら、図書庫の城邦からこの地域へと派遣された使節官」

 

「存じております。大切な取引先ですから」

 

笑う彼女と、少し表情を固くする使節官。うーん感情が顔に出るのはあまり良くないな。とはいえ仕方がないだろう。相手はそれなり以上にこの手のことに慣れているのだろうから。あとちゃんと把握しているんだな。まあ使節官も直接顔を合わせていないだけで彼女のことを知っているのだが。

 

「宿のほうはこちらで手配させています。キイ先生は気を楽にしていただければ」

 

「我等が城邦の人物にそこまでしていただけるのは有難い限りではありますが、こちらでそういったものは」

 

「遠慮しなくとも。先生のような方を招けることは『鋼売り』としても喜ばしいことです」

 

「だからこそ、ですよ。彼女はこちらにとって……」

 

「わかっています。それとも、私たちに信を置く事ができないと?」

 

笑顔のまま言う彼女は恐ろしいな。使節官はちょっと弱くなっている。まあアウェイだから仕方がないか。

 

「んー、どうしますかね。私が持ってきた機構で、使節官が関わるものもあるのでできるだけ彼と連絡が取れるといいのですが」

 

一応助け舟を出し、交渉というか話し合いをこちらの方に引き込む。

 

「それと早めにそちらの職人の腕を見たい所ではありますが、まだケト君の体調がすぐれないようで。数日は休ませたいところです」

 

できるだけ笑顔で言う。こういうのは見た目が大事なのだ。ケトはちょっと船旅で痩せたかもしれないからあまり良くないが。

 

「わかりました。こちらとしても着いて早々に押しかけてしまい申し訳ございません」

 

「いえ、むしろ待ったでしょう」

 

「そんな事ありませんよ。しばらくここに滞在する予定もありましたし」

 

うーんちょっと辛くなってきたな。私はこの手の笑顔での話し合いの経験がないわけじゃないけど、得意というほどでもない。

 

「というと、あなたはこの港の近くの事情には詳しいのですか?」

 

少し話をそらしてみよう。

 

「ええ。この港は『鋼売り』が使うものの中でも大きなものですから」

 

「だから荷吊機(クレーン)があるのですね。ああいうものでしか持ち上げられない商品があるのですか?」

 

人力ではあるが荷吊機(クレーン)があったのを思い出す。図書庫の城邦の港にはなかったので技術的要求が高く、それなりの需要がないと作られないのだろう。

 

「この港からはあまり出しませんが、質のいい石灰岩とかがそうですね。建材として需要があるので」

 

「なるほど」

 

そんな感じで話を進めていく。

 

「あとは美味しい酒と食事の出るお店とか……」

 

「なら今夜是非一緒に行きませんか?」

 

「いいですね」

 

「痩せ麦で作った炎酒を、燻り魚で一杯……」

 

「寒い地域ですものね。身体が温まりそうだ」

 

ケトと使節官からなんか視線が飛んできている気がするがちょっと無視する。美味しいは大切なんだよ。



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悪酔

揺れない寝床で目を覚ます。そういえば航海の間であの吊床(ハンモック)に結構慣れてしまったな。昨日の記憶を漁りながら二日酔いで重い頭を振る。さすがに度数が強いやつを多めに飲むとまずいな。

 

「……さすがに、こっちも疲れてるみたいだな」

 

私の身体の下にケトの腕が巻き込まれていたのに気がついて、ゆっくりと動く。寝顔が可愛いな。そういえばこうやって顔を近くでまじまじと見るのは久しぶりだ。あごのあたりに産毛が見える。そろそろひげが生えてくる頃か。図書庫の城邦では案外みんな剃っていたが、そういえば剃刀の話をちゃんと把握していない。こういう身近だけど触れようと思わないと知ることができないことは多いんだよな。鋼鉄の尾根と言うぐらいだし、なにかいいものがあったらケトにプレゼントとして買ってもいいかもしれない。こういう贈り物はあまりしていないからな。私は個人的に誰かになにかを贈るのとか贈られるのは苦手だけど、それは相手が欲しがるものが本当にあるかどうかがわからなかったりする場合なので今回みたいにちゃんと必需品であればいい。

 

「キイ、さん……」

 

「起きた?」

 

ケトは周りを見渡して、うつむいてしまう。

 

「あの……昨日のこと、覚えていますか?」

 

「あの出汁で割った酒がおいしかった……」

 

「鋼売り」の女性に案内されてこの港街でもそれなりに格式のある酒場に連れて行ってもらったのだった。そこで飲んだ魚のあらで作ったスープが本当に美味しかった。香草を上手く使っているのか臭みを感じなかったし、なによりこれで炎酒、まあ蒸留酒を割ると実にいい。

 

「すごい量飲んでましたからね……」

 

はい。アルコールの量を全く考えていませんでした。

 

「って、違いますよ。今後どこに行くかの話をしましたよね」

 

「それは覚えてる」

 

行く場所はいくつかに絞られた。高炉と転炉のようなもので鋼を作っている場所、金属細工の職人が集まる地区、あとは鉱山と温泉。そう。ここには温泉があるんだよ。まあ鉱物資源が多いということは火山活動とかがあるわけで、温泉が存在する可能性はあったけれども。なお遠い。船で六日、歩いて三日である。湯治だと思えばまあ……?

 

「そうだ。証文はありますか?」

 

「色々書かれて……、待って。ここに戻ってくるまでの記憶が怪しい」

 

酒。なんか調子に乗って酒場にいた商人や品物を売りに来た職人と意気投合して、色々話して、酒。工房とかに行くと言うと向こうに知り合いがいるから世話になれと言われて、あの身分証明書の下の方に色々書かれたんだったな。で酒。いい飲みっぷりだと言われて、ケトがため息を吐いて……。うーんこの先は思い出したくないな。嫌な気配がする。

 

「……ともかく、証文はこれかな」

 

机の下に隠れていた背嚢を見つけ出し、中を確認。……破れたりシミがついたりとかはしていない。開いて下の方を見ると、なにやら寄せ書きみたいな感じで伝言みたいなものが書かれている。

 

「これ、代筆人って意味だっけ?」

 

「そのはずですね」

 

署名がわりにしているのはある種の家紋みたいなものらしい。花押の方が近いかな。あの酒場でちゃんと文字が書けたのは私とケト、使節官と鋼売りの女性、それと客の一人の計5人であって第三者が保証人と代筆を兼ねるということでその客の人が色々書かされていた。可哀想に。確かこの港まわりの会計とかをやっている人だったはず。いや酔っていたから正直ちゃんと覚えているわけではないが。まあでも読める人は他にもいたらしいし、文書として一応問題はないはず。まあその直前のものに比べれば雑な筆調かもしれないが。

 

「そういえば、使節官は?」

 

「あの女の人と一緒に別の店に行っていましたよ」

 

「大丈夫かな?騙されて囚われていないといいけど」

 

「……もしそうなったら、少し面倒になりますね」

 

「少しではないけど、まあそれは後でいいか」

 

外交官に対するハニートラップは基本中の基本ではあるので。そういう警告をハルツさんは彼にしなかったのかな?あるいはそれを組み込んでであるとか。まあいいや。手紙でそれとなく伝えておこう。私たちが乗った船はもう少し北に寄った後、もう一度南に向かう。今度の航海では図書庫の城邦よりも奥に行くようなので、帰ってくるのは冬が終わってからになるそうだ。このあたりだと海が凍って船は行き来できなくなるので、その前に帰ろうとする私たちは別の船に乗ることになる。まあそれはもう少し先の話だ。定期的に交易船は出ているのでどれかには乗れるだろう。定期的に手紙を送ることぐらいはできる。なお輸送のお金は銀一枚ぐらいが相場だったりする。結構高いと思うのは私がかつての世界の郵便制度に慣れすぎているからだな。やはりここらへんも制度化したほうがいいが、国際条約とかをどう結べばいいのかもわからない。勝手に企業が参入して事実上の独占業務にしてしまっていいものなのだろうか?

 

「で、昨日は大変だったんですよ。キイさんは吐いてしまうし、変なことずっと言ってますし、それがおさまったら僕にくっついてきますし……」

 

「えっ私そんな事するの?今までそれなりに呑んできたけど、あまりなかったよね」

 

「結構してきてますよ?人前ですることは少なかったですが」

 

「覚えてない……」

 

確かに前にもこういうこと思った覚えがあるな。やはり酒はまずい。



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睦言

「……使節官?」

 

私の前で気まずそうにする彼を前に私はため息を吐く。

 

「別に私は君の指揮系統にいるわけではないし、ハルツさんに対して何かを言えるわけではない」

 

「……はい」

 

「それでも彼女には知人として、それなりに情報共有をしなければなと思っているんだ」

 

「……わかっています」

 

「つまりは向こうに丸め込まれただけだ、と……」

 

私は頭を抱える。

 

「弁明はしませんが、彼女はそれなりに向こうの上層部と繋がりがあるはずです」

 

「それは本人がそう言ったの?」

 

「……はい」

 

「別の方法でちゃんと確認した?情報源を複数持ってはいけないという理由はないよね?」

 

「まだです……」

 

「キイさん、そのへんで」

 

ケトの声で私は身体を後ろに倒す。事の顛末はこうだ。二日酔いで苦しむ私が水をちびちび飲んでいると、妙に眠そうなのにどこか変な雰囲気の使節官が商館に戻ってきた。まあ私自身にはそういうものに縁はなかったが、なんとなく見当はつく。問題は相手だ。これで使節官が味方だとは断言できなくなったわけである。まあもともとハルツさん率いる「刮目」が私に好意的なのは利害関係によるものだし、「鋼売り」が明らかな敵というわけではないが。うーん、とはいえ基本的に相手は信用したいんだよな。疑うというのはかなり脳の容量を食うのである。そんな余裕はあまりない。

 

「まあでも向こうに騙されないようには注意して、常に疑って。その上でハルツさんに任せられたような仕事をしてくれればいいから」

 

「わかりました……」

 

なんで私が外交指導をしているんですかね?まあともかく行きに乗った船が南に戻るまでには手紙を書いておこう。

 

「とはいえ婚姻で関係を強化するというのはよくある話ですよね?」

 

私の後ろでケトが言う。

 

「悪い男に嫁がされて苦しんだ女や、誑かされて狂った男の話はそれ以上にあるんじゃないかな」

 

「……そうかもしれませんけど」

 

まあ、ここらへんは社会とか人間関係の問題だったりするのであまり突っ込むべきではないか。専門でもないし。

 

「とはいえ、かなり色々聞いてきたね」

 

私は机の上の紙を改めて見て言う。使節官が寝台の上でかは知らないが「鋼売り」から来た女性から聞いた取引などの情報。ここから東の方にある諸邦でちょっと軍事的衝突が起こっていて、武装とかが売れているようだ。平時には鋤を、戦時には剣を売るというのはなかなかに悪くないが、それでもやはり政情の不安定などを乗り切るのはどうしても難しいしリスクがあるので「鋼売り」の中でもこれをほどほどのところで止めるか、あるいは諸勢力の中でも有力なものに重点的に支援するか、あるいは拡大しない程度で維持させるかとかで揉めているようだ。なお彼女の上司である人物は「鋼売り」の渉外役のそこそこ偉い地位に着いたらしい。

 

「これ、どういう理由でだかわかる?」

 

「確かキイ先生のせいだと愚痴っていましたよ」

 

「本当にそう思う?」

 

「先生のやり方で鋼を多く作れるようになったので彼の発言力が増えて、政治的争いに勝ってしまい役職を押しつけられた、みたいなことを言っていましたね」

 

「……ありえそうですね」

 

私が何も言えないでいるとケトがコメントをしてくれる。信憑性は怪しいので裏を取る必要はあるが、まあありえなくはない。ただこうなると私との関係を悪化させたくないはずだよな。ただでさえ客人のように招かれているのだ。それを無下にはしない……はず。

 

「まあ、ひとまず依頼である金属用の横轆轤(ろくろ)を完成させてしまうか……」

 

基本的な部品の図面は暇だった時に船の中で作ってあるし、頭の中で部品加工のシミュレーションも回してある。つまりはどうせ失敗するし試行錯誤が必要な案件だということだ。まあそれでも実際に作ろうとしてみて気が付いたミスも多いし。具体的には部品を固定するチャックの部分に螺子を使っているので最初の螺子切りは別の方法で固定して行わないといけないとか。

 

「それは、そんなに作るのが大変なのですか?」

 

私の出した紙を見ながら使節官が言う。

 

「ここらへんは手を動かさないといけないし、私以外にはしばらくは作れそうにないから」

 

この図面だって工業高校の先生が見たら笑顔で書き直しを要求するレベルのものである。雑な三面図にいい加減な寸法を入れただけ。実際に組み立てたときの干渉とかがあるかもしれないし、加工方法や精度、表面性状についての指示もない。まあかつての私がこれを作れと言われたら設計者を小一時間問い詰めてしまうレベルだ。

 

「あとはこれをちゃんと何かを作ったことがある職人がどう見るか、そして手伝ってくれるかだね。最悪一人でもできるけど、鋳造とかは多人数でやった方がいい」

 

締結部品の欠如のせいで、最初に作るのはロウ付けと鋳造で作る雑なものだ。素材は青銅を想定している。これを改良しながら、最終的には鋳鉄でできたものを作りたいがそのためには向こうの生産技術の水準を知らなくちゃいけない。いくつかの条件が噛み合って、どれか一つを突出させて進めにくいのだ。面倒である。



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化石

この鋼鉄の尾根と呼ばれる地域において、鋼売りは確固たる地位を築いている。図書庫の城邦とその一帯で本来は宗教組織である衙堂が行政を行っているように、ここでは鋼売りが治安維持と物流を担っている。面白い形態だ。記憶を漁るがこういった例は勅許会社ぐらいしか思い出せない。他にも探せばありそうなものだが。

 

「……休憩しますか?」

 

後ろの使節官が言う。

 

「大丈夫、なはず」

 

「ここのあたりはまだ安全ですが、それでも日が登っているうちに通りたいので少し急いでくださいね」

 

案内をしてくれている「鋼売り」の女性が言う。

 

「はい……」

 

一部の荷物は長髪の商者と提携している商会の倉庫に置いて、ある程度のものを持って私たちはまず第一の目的地に向かう。「鋼売り」にとってもっとも重要な場所の一つ、高炉のある場所だ。とはいえ目的地にある施設に高炉と言う訳語を当てるのが適切かは知らない。まあ北方平原語を無理に訳せば「背の高い鋼の竈」であるのでまあ高炉でいいだろう。ちなみに英語だとblast furnace。突風(blast)の名の通り、ふいごを用いて大量の酸素を背の高い炉の中に送り込む仕組みを持っている。まあどのレベルのものかは現地に行ってからのお楽しみだ。なお風を送り込むのは基本人力で、一部で水車を使おうとしているがあまりうまく行っていないらしい。

 

「……これは?」

 

私は歩いていた道の右側を見て言う。切通しみたいになっていて、おそらく頁岩だと思われる地層が見えるのだ。なおこの地層、褶曲が見られる。クリノメーターが欲しくなってくる。曲がっている方向から考えて、眼前の山脈を作り出した地殻変動で生み出されたのだろう。

 

「ああ、海の底が持ち上がったものですよ。奥の方に行けば貝なんかもごろごろしてます」

 

平然と言う先頭の案内人。

 

「いつ頃こういうものが形成されたかわかる?」

 

「さあ。万年か億年かかけてでしょう」

 

純粋にキリのいい数字を言っているだけで、ちゃんと根拠があるわけではないらしい。まあ口ぶりからしてどうでもいいもの扱いらしいな。いや古生物学が有益かと言われると色々と面倒になるので黙っておこう。

 

「海草が岩に挟まれているようなものも場所によっては見られますね」

 

そう補足してくれるのは使節官。

 

「もっと上の方行くと蜥蜴の骨なんかもありますよ」

 

「えっ?」

 

案内人の言葉に私は思わず驚いてしまう。

 

「蜥蜴って、あの四本脚で歩くやつですか?」

 

「そう。かなり大きいけれども」

 

……恐竜か?いや、ヒトがいる以上その祖先としての盤竜類とか獣弓類かもしれない。

 

「具体的には?」

 

「私よりも大きい」

 

体長2メートルといったところか。全長か体長かはわからないな。しっぽのない化石とかあるし。ここらへんは古生物学で色々なものが蓄積されないと判断が難しいところだ。放射性同位体による分析とかができるようになったのは本当にここ最近だし、私のかつていた世界でのこの領域は新しい手法の導入や技術の発展もあって色々変わっていたはずだ。問題は予算不足で研究者があまりいないところだが。

 

っと、ちょっと待て。どうしてこの世界のヒトが私の知るヒトと同一の経路を辿って進化したものだと言える?基本的にDNAの塩基配列さえ揃えば同じような生命が生まれる。ある形状の部品を作る時に複数の方法が考えられるように、一部異なった経路を辿ってこの世界のヒトが進化した可能性は?もちろんヒトの身体構造はまだ最適化の余地があるものだし、発生の過程で祖先のうちいくつかの特徴的な性質が現れるけど……。ここについては基本的な教養が足りなさすぎてちゃんと議論できそうにない。

 

「キイさん?」

 

「ああごめん、少し面倒なことを考えていて」

 

ケトを含むこの世界で見てきた人の外見からは種としてのヒトの特徴がいくつかうかがえる。顔の形とか、二足歩行とか。歯を数えたことはないので今度ケトに見せてもらおう。しかし大陸の配置は確認できた限りでは地球と異なるし、そうすると系統樹にも影響が出てくるはずだ。事実確認できる範囲の植物は基本知らないものだ。まあ品種改良とかがあるのかもしれないし、もともとの世界で私はそこらへんが専門ではなかったのもある。同じ理系の国立の博物館だからって上野の国立科学博物館(かはく)さんとうちは違うんだよ。関係としては一部険悪だったりするし。理由ですか?向こうの科学史やってる人と私が思想バトルをしていたからですが……。いやだってあいつ思想的な影響を過大評価しすぎだったんですって。

 

「考え込みすぎないようにはしてくださいね」

 

「本当に、この二人はそういう関係ではないの?」

 

呆れたように言う案内人が私とケトを超えて使節官に声を投げる。

 

「間違いなく違いますよ」

 

はっきりと言い切る使節官。いやまあその通りだけどなんか釈然としないな。この世界の貞操観念とかについてちょっとインタビューしたいがそれだけのことができるラポールをケト以外とは構築していないし、ケトはこの手の話に疎いので駄目。うーん、となるとトゥー嬢?一応同性だし。とはいえあの人もあまりそういう匂いが無いんだよな。適当なタイミングで「鋼売り」の女性か使節官に聞ければいいのだが。



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高炉

鉄は単体では融点が1538度。この温度を直接出すためには少し面倒な細工が必要だ。一応アーク炉を使うことでどうにかなるが、そんな電流はない。ではどうするか。方法の一つは合金を作ることだ。例えば昔作った活字用の合金は主成分が鉛だが、融点は鉛より低い。錫やアンチモンを混ぜることで融点を下げているのだ。

 

では、鉄に加えるといい元素はあるだろうか?比較的豊富に存在して、できたら鉄単体が持つ弱点を補ってくれて、合金となったときの融点が低くて使いやすくなるようなものが。

 

ある。というか、あったから鐵は(かね)の王なる哉なんて呼ばれているのだ。他にも恒星内元素合成で作られる原子核の中で安定性がとても高いおかげで岩石惑星に多く含まれているとかいうのもあって工業におけるもっとも基本的な金属となっている。っと、謎かけの答え合わせをしよう。炭素である。

 

「間もなく、火が着けられる」

 

そう言う少し老いが見えてきた場長はこの製鉄場の総責任者だ。生産を管理し、事故を防ぎ、ここで働く数百人の顔と名前を覚えている。信頼される工場長としての条件を満たしているな。いい職場だ。

 

「こうやって、鉄鉱石と木炭と石灰石が詰め込まれているわけですな」

 

足場の上から覗き込んでいるのは私の身長の三倍ほどはある積み上げた煉瓦によって作られている高炉。下にはふいごが見える。なお話されているのは北方平原語だ。この中で私が一番習熟度が低いとはいえ、専門用語は叩き込んでおいたので世間話でなければいける。

 

「割合については?」

 

合金にするための鉄と炭素、それとそれ以外の不純物を鉱滓(スラグ)として溶かし込むための石灰石のバランスはかなり重要だ。ちなみになぜ石灰石を使うのかという話をすると色々面倒なのだが、まあ硝子(ガラス)の原料に灰を混ぜるのとノリは似ている。こうすることで不純物の主成分である酸化ケイ素を融点の低い別のものに変えるのだ。

 

「大まかには知られとるが、実際には経験者の勘というものが大きく関わってきておりますな」

 

「それは間違いない?」

 

「と、言いますと?」

 

「実際に同じ条件で作っても、できたものが変わることがありうる?」

 

過学習と呼ばれる現象に近い。本来は不要な工程を、それをすると成功するからという理由から続けているのはよくあることだ。もちろんルーティンの形成とかいう側面を否定するものではないけれども。

 

「……ふむ。しかし異なる地の鉱石や異なる木の炭を使っても似たような(ずく)ができているということは、調整が必要だという根拠にならんかな?」

 

「難しいところですね。産地以外の条件を変えず、できるだけ同じ条件を揃えないと」

 

「キイさん?」

 

私の調子がヒートアップしてきたのもあってか、ケトが私の襟を後ろから引っ張る。

 

「すみません、師が失礼なことを申しました」

 

「構わんよ。むしろいい質問だった。しかしそれを試すためにはそれなりの試行が必要になるだろうな……」

 

ひげを撫でながら場長が言う。

 

「……申し訳ない」

 

頭を下げる私。あくまで外部の人間なのだ。非効率的であったとしても、横から口を突っ込んでいい道理はない。

 

「しかしそこまで言うのであれば、この製鉄場をより良くできるのだな?」

 

挑戦的に場長が返す。ふうん。面白い。まあ嫌われているよりよっぽどいい。

 

「そうですな。まずはふいごが悪い。外の冷風を高炉に吹き込むのは冷ますも同じだ」

 

「しかし風を送り込まねば温まるまい?」

 

「送り込む風を事前に熱しておくのです」

 

「ふむ。別の風を熱するためだけの炉を作るのか?」

 

「いえ、炉が動けば熱風が上から出るでしょう?それを例えば煉瓦で作った塔に流し込むことで熱を蓄えさせる。そうしておけば、そこに外から空気を送り込むことで熱を無駄にせずに済む」

 

「しかし、風は炉を動かす時に吹き込まねば意味がないのだぞ?」

 

「塔を複数作ればいいんですよ。そうして適宜切り替えていけばいい」

 

「それだけの風を作るふいごは……水車、か」

 

「精巧に作られた部品であれば、より滑らかに水車の回転を風の強さに変えることができる」

 

「筋は通っているな。やれるか?」

 

「まずは小さな高炉で試すべきでしょう。とはいえ技を求めるのであれば、そのために招かれた客人たる私に否やはありません」

 

ふんと鼻で笑うようにこちらを睨む場長。なおこの仕草は軽蔑というよりもやれるものならやってみろというものだ。最初は少し面食らったが。こういう細かいジェスチャーのニュアンスというものは難しいな。

 

「よろしい。しかし今は我々の仕事を見てもらおう」

 

そう言うと、場長は下にいる人々を見てゆっくりと息を吸う。

 

「持ち場につけ!火をつけるぞ!」

 

低く、よく通る声。下の方からそれに応じるように歓声が上がる。たぶん安全確認を兼ねているんだな。正しい。一体感を出しつつ、気分を引き締め、作業へと気持ちを切り替える。私の知っている安全管理のアプローチとは系統が違うが、これはこれで有意義なのだろう。まあ普通にサイレンと拡声器を使って、フールプルーフシステムを入れるべきだと言われればそうかもしれないけれども。



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鋼鉄

「聞き取れる?」

 

唸りのように響く職人たちの出す声は、たぶんなにかの文章になっているのだろうがアクセントも何も違うのでよくわからない。

 

「……ところどころ、ですが。神の炎、えーと、その業を見よ?血を以て……」

 

ケトが翻訳をしてくれる。

 

「北方平原語?」

 

「いえ、炎という語の発音からしてたぶん古帝国語に近いですね」

 

「儀式的な鍛冶か……」

 

「南の方だとこういうのも全て聖典語なのですが、ここでは衙堂の勢力が強くありませんでしたからね。古帝国の版図の境界でしたし」

 

髪を編み込んだ少女の持つ松明によって高炉の上から火がつけられる。そして送り込まれる空気。陽炎が見える。

 

「まあ、夕には最初の(ずく)ができるでしょうな」

 

場長が私たちの隣で言う。おっと、脳を北方平原語に切り替えよう。

 

「このままどれぐらい炉に火を入れ続けるのですか?」

 

「半月といったところだろう。それ以上は炉が持たん」

 

かつていた世界では十数年かもう少し持たせていたが、あれは改修費用の問題もあったからな。まったくカネがないのがだいたい悪い。

 

「……それにしても木のふいごですか。さすが鋼鉄の尾根」

 

「だろう?」

 

自慢げな場長。

 

「どういうことです?」

 

私に聞いてくるケト。

 

「大勢の人が踏んでも壊れないだけの質の良い木材を、空気が漏れないほどに削るためにはいい道具が必要になる。材料を知り、適切な加工をしなければ作れない」

 

「木は革のように柔らかくない分、動かすことで空気を押し出そうとすればそれだけ精密に作る必要がある、と……」

 

「そうなるね。水車で動くふいごを(ずく)で作りたいけど、少し面倒かな……」

 

「鋳るのですかな?」

 

「鋳ってから削るのですよ。っと、横轆轤(ろくろ)の話は聞きました?」

 

「噂ではな」

 

「それで作ります。ただ、削る工具のために必要な特殊な鋼がほしい所ですが」

 

超硬を作るなら炭化タングステンとかか?あるいはコランダムとか。ダイヤモンドは鋼鉄の加工には使えないしな。高温か高圧か、複雑な工程か、あるいはその全部が突っ込まれて工作機械のバイトは作られていたのだ。まず素材集め、の前に元素同定のほうが必要そうだ。

 


 

少し薄暗くなってきた頃、赤く溶けた鉄が高炉の下から流れ出し、粘土でできた桶のようなものの中に溜まり始めた。これが転炉になるものだろう。屈強な男二人が担ぎ上げるとなると重さはそれなりのものだろうな。

 

「送れェ!」

 

運んでいた人たちが離れて声を上げると、先程高炉に風を送っていたのとは別のふいごが動かされ、その先端が溶けた(ずく)の入った容器に向けられる。飛び散る火と、溶けた鉄のかけら。内部で起こる炭素と酸素の反応によって生まれた熱が、(ずく)を溶かし続けたままの状態にしてくれている。火山の噴火とかを思わせる、一種幻想的な光景だ。

 

「上から送り込むのか……」

 

私の知識にある上吹転炉はいわゆるLD(Linz-Donawitz)法だが、これは純酸素を使う。そうでなくても行けるものなのか。たぶん効率が悪いなどの方法で歴史に埋もれたようなものなのだろう。科学技術史はこういう一瞬だけ生えて折れた枝についてあまり詳しい示唆を与えてくれない。そういうのもちゃんとやればかなり面白いと思うんだがな。

 

「それで、このまま風を送り続けるのですか?」

 

私は試すように言う。

 

「そうすれば鋼を通り越して鍛鉄になるだろうな」

 

「鍛鉄……槌などで打たれて鍛えられたものでしたっけ」

 

「そうだな。その途中で鋼となる一瞬を見逃さぬのは修行でしか身につかなかった。故にそのような道具は高値であったわけだ。しかし先々代でそれも変わった」

 

坩堝(るつぼ)を使うわけですね」

 

この方法自体はウーツ鋼の製法などで知られていた。不純物に起因する模様で知られるあれだ。合金の材料を混ぜて加熱し、全体が一体になるまで溶かす。しかし一度に作れる量はそう多くない。

 

「そうだ。よく鍛えた鉄と、炭を混ぜ炉に入れることで鋼を作る。しかし、更に先に行くわけだ」

 

「……あれ自体が、一つの大きな坩堝(るつぼ)となる、と」

 

私がそう言うと、炭素が除去された鉄の入った容器がまた高炉の近くに戻される。そして溶け出した(ずく)が追加で流し込まれることになる。炭素量が調整され、ちょうどいい硬度と加工性を持った合金となるわけだ。これが鋼鉄である。

 

「上手く行けば今までと比べ物にならない量が作られる。より大きい吹込坩堝(るつぼ)を使えば、更にだ」

 

「私が伝えた内容は、ここまでの物を作るのに十分だったとは思えないのですが」

 

たぶん大量の問題がある。燐や窒素による完成品である鋼鉄の劣化、あるいは寿命の短い炉や坩堝(るつぼ)。まあここらへんは私の知識と実験的手法でどうにかしよう。

 

「ああ。確かにそうだった。南方から来た商人に言われて疑い半分で初め、試行錯誤を繰り返した」

 

「……それでも、一年は経っていないはずなのですが?」

 

私が長髪の商者に転炉のアイデアを話して、そこからすぐにここに話が来たとしても試行回数は限られる。長い蓄積された経験と、怪しい博打めいた試みに着いてきてくれる多くの人材が必要なのだ。数人の狂人を引き込むことはできても、私はこの場長のように多人数を巻き込むことはできない。

 

「ああ、今でも完成はしていない。上手く行くためには多くの条件が必要だ。それでも、試さなければ先には進めない」

 

ニヤリと場長は笑みを浮かべた。



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断酒

「何かの土台か」

 

もう日が暮れた頃、私が出した図面を覗き込んだ職人たちが議論の末に言う。メモは聖典語だったのでケトとあとさっき高炉に火をつけた少女が翻訳を手伝ってくれた。そうそう。彼女はあの若さで司女だそうで。まあ人手不足のせいでそう名乗っており、図書庫の城邦の衙堂では使われなくなった聖典語を無理に訳すのであれば見習いより上の「司女補」とかと呼ぶべきものらしいが。神事における巫女みたいな役割だろう。こういうところでたぶん本来あったのであろう文化的儀式を侵食しているのは異教徒を切り捨てて改宗を求めるような宗教とどっちがマシか難しいところである。まあみんな馴染んでいるらしいし外野があまりとやかく言うべきではないと言えばそう。

 

「そうですね。時間をかけて冷やした(ずく)を使いたいのですが。このようなものならいいですけど」

 

私はサンプルとして出してもらったいくつかの(ずく)のうち一つを手にとって言う。灰色のねずみ鋳鉄だ。まあ実際には燐や硫黄の濃度について考えなくてはいけないので断定するのは良くないな。引張試験機が欲しい。動力自体は梃子とかで行けるか?

 

「……ところで、どうやって完成物の質を見極めているのですか?」

 

「音だろ」

 

「あと槌で殴ったり割ったりもあるな」

 

私の質問に職人たちが答えてくれる。

 

「なるほど」

 

音については固有周波数からヤング率を求める手順みたいなものだと考えればいいか。殴ったり割ったりは普通に衝撃試験。アイゾットとかシャルピーとかやったなぁ。定性評価を考えるとああいうものを作っておきたいところだ。とはいえ今の生産量だと少しきついか?

 

「ところで、高炉のほうは放っておいていいのですか?」

 

「ん?ああ、あんたは実際の炉をあまり見ないのか」

 

少し驚きの交じる職人の口調。

 

「……そうですね。知識だけです」

 

「なあに恥じることはないさ、先代なんか苦労して坩堝(るつぼ)の中でよく鍛えた鉄と炭を入れて鋼ができるなら、もっと炭を入れればいいだなんて言って(ずく)を作っちまったりなんてしたからな、実際に触っていてもわからんもんはわからんよ」

 

別の職人がフォローなのかわからない事を言ってくれるが、まあ別に疎外しているわけではないからいいか。

 

「炉のほうは月が昇った頃に掻き出すのでいいだろうな」

 

「ああ、ある程度溜めておくと」

 

「そういうこった。開けて砂型に流すだけなら若い衆でもできるからな」

 

新人育成の機会という側面もあるのか。なかなかいいな。

 

「とはいえ経験の浅いものだけとは行かないでしょう。夜番もいるのですか?」

 

「そうなるな。酒断ちもしてるし、寝るやつはとっとと寝ちまえ!」

 

ある程度地位のあるだろう職人の発言に周りの人が不満の声を漏らすが、素直に一人、また一人と消えていく。

 

「……酒断ち?」

 

「高炉で(ずく)を作っている間は酒を飲まないんですって」

 

「びっくりした」

 

後ろにケトが立っていた。そういえばしばらくいなかったよな。

 

「どこにいたの?」

 

「司女の方に色々聞いていたんです。そちらのほうは話が進みましたか?」

 

「必要な部品は作ってもらえそうだよ」

 

「それはよかったです」

 

「寝る?」

 

「そうですね。使節官は僕たちとは別であの『鋼売り』の人と一緒に色々見て回っていますし」

 

「逢引かなにかか?」

 

「かなり真面目に二人共やっていたのでそういう言い方はなしですよ。キイさん、そういうのを人にされると嫌な顔するんですから他人にもするべきではありません」

 

「……わかった」

 

怒られてしまったが、まあそれだけの不注意はしたので仕方がない。というか私はそんな嫌な顔を出していただろうか?

 


 

「……それは?」

 

職人の一人が私が覗き込んでいたものを見て言う。

 

「鋼や(ずく)の上にできる文様のようなものを大きく見ることのできる機構ですよ」

 

「ほう」

 

興味を持ったようだ。壊さないようにと念を入れて見せると、なかなか面白がってくれた。

 

「これで色々見たいのだが、売ってくれないか?」

 

「これに使う硝子(ガラス)を削るのに手間がかかるんですよ。数年もすれば南の方から商会が持ってきてくれるでしょうからそれまで待ってください」

 

「そうか……」

 

彼は不満そうだが、まあ仕方がない。

 

「ここから、その材料の特質を見ることができるのか?」

 

「まだこれ自体の改良が求められますけどね。例えば断面を見ればそれが割れたのか、あるいは裂けたのかの区別がつきます」

 

「……少し見てほしいものがあるのだが」

 

「いいですよ。私の知識で良ければ」

 

私がそう言うと職人は席を立ち、しばらくすると足早に戻ってきた。

 

「これだ」

 

そう言って出してきたのは途中で二つに割れた指ほどの太さの棒状の金属。

 

「先代……先代の場長が坩堝(るつぼ)で色々と試していたのだが、その時に出来た代物だ。偽(ずく)と呼んでいる」

 

「偽?似ているが異なるもの、ですよね」

 

「ああ。これは鋳る事ができ、かつ鋼のように割れずに伸びるのだ」

 

私は職人の言葉を聞きながら顕微鏡を調整する。融点が低く、鋼と同じような機械的特性がある組成なんてそうあるわけないだろ、とピントを調節すると今まで見てきた鋼や(ずく)の断面と違った物が見えた。まだら模様でもなく、筋のような黒鉛でもない。綺麗な黒い丸が見える。ああ、これは教科書で見たことがある。

 

「……確かに、これはそういう類のものです」

 

私は疑問符で頭を一杯にしながらそう言うのが精一杯だった。黒鉛形状からして黒心可鍛鋳鉄とかではない。これは球状黒鉛鋳鉄、あるいは可塑(ダクタイル)鋳鉄と呼ばれるものである。私の知る限り、これが生まれたのは第二次世界大戦の後だ。



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記録

鋳物というものは同じ形のものを大量生産する時に非常に便利な手法だ。とはいえ、鋳造のためには使いたい材料の融点が低い必要がある。かつて私がいた世界では鋼を溶かして型に流し込むだけの高温を扱う技術が確立されていたが、そうではない時代には色々と大変だった。そういった時代に作られた技術の一つが白心可鍛鋳鉄。セメンタイトを主成分にした白銑を酸化剤で包み、熱処理をして炭素を遊離させる。なおこの手法は中国では紀元前から知られていた。本当にこれが厄介で、どういうわけか私が考古学者から依頼されてXRDの撮影に立ち会うことがあったりする。まったく、文系の大学院生がどうしてミラー指数を知っているんだ?工業高校でやったからですが……はい……。

 

本題に戻ろう。黒心可鍛鋳鉄は1826年にセス・ボイデンが作った。これは炭素をそこまで完全に遊離させないもの。いずれにせよ数日レベルの熱処理が必要だし、一度作ったものを溶かすためには鋼を溶かすような温度が必要で、冷やして固めたものはただの銑鉄と同じになってしまう。あまりよくない。

 

とはいえなぜ鋳鉄は展性がないのだろうか?言い換えれば、なぜ炭素成分が多いと割れやすく、脆い合金になるのだろうか。これは顕微鏡スケールで観察するとわかる。普通に徐冷して作ったねずみ鋳鉄では、筋状の黒鉛が見られる。まあ本当は断面が筋に見えるだけなのだが。これが鉄の結晶の間に挟まっているせいで、ある種の弱点になってしまう。黒鉛は非常に柔らかいので、そこが滑ることできちんと力を受けることができなくなるのだ。

 

これを変えたのが第二次世界大戦後に生まれた可塑(ダクタイル)鋳鉄。セリウムやマグネシウムを添加することで黒鉛を球状にし、滑らずに力を受けることができるようになる。これで鋳ることができ、再度溶かしても叩けば伸びる合金ができたわけだ。

 

で、ここで問題になるのが添加物である。私の知る一般的な方法では不純物の少ない鋼鉄に微量の金属マグネシウムかマグネシウム合金を混ぜることで可塑(ダクタイル)鋳鉄は作られるのだが、このマグネシウムは電解製錬などによって得られたものだ。

 

「……どういうことだ?」

 

私はサンプルと当時の史料を前にして頭を抱える。電気分解はそのための前提となる知識が必要だ。私の同類、つまりは電気が知られていた世界から来た誰かがいたのかとも考えたが前の場長は生まれた時からこのあたりにずっといて、基本的に真面目な人物だったらしい。私とは大違いだ。挑戦して失敗するのは別に珍しいことではないらしいし、自分の前の場長が作った技術を実用化レベルにまで引き上げた功績はあれども、逆に言えばその程度の人物のはずだ。

 

「落ち着け。別の可能性を考えろ。他の方法で製錬はできないのか?」

 

テルミット法のようなやり方ではどうだ?還元剤として別種の金属を使い、金属酸化物から単体を得る方法。駄目だ。その元の金属をどう作ったかが説明できない。そもそも還元剤ということはマグネシウムより反応性が高く、酸化物になりやすい性質を持つということだ。それをどう製錬したのかの問題は残る。

 

還元環境として水素雰囲気を使うのは?どうやって水素を作った?金属と酸の反応なら考えられる。候補の一つ。

 

「キイさん、見つけました!」

 

ケトの声がしたので私はその方に行く。積み上げられた紙は衙堂の記録だ。さすがに配合までは見つからなかったが、製鉄場で起きたことや代々の司士や司女の日記なども残っている。その中から該当するものを探してくれと頼んだのだが、見つけ出してくれたようだ。

 

「見せて!」

 

とはいえ内容は聖典語と北方平原語が入り混じったもの。どうやら当時は二人の職員がいて、それぞれ別の言葉で書いていたらしい。たぶん互いに読めはしたけど、得意な方で書くべきだと考えたのだろう。まったく、少し面倒なことをしてくれやがって。

 

「……火が上がる?」

 

「爆ぜる、に近いですかね。坩堝(るつぼ)を入れていた炉が大変なことになったと」

 

おそらく対象の(ずく)ができたのはこの日だ。

 

「前後数月分を探そう。何かがあるかもしれない」

 

「わかりました」

 

ここらへんは専門である。こちとら変な断片的な記録から色々と見つけてきたのだ。使えそうな材料は結構出てきた。仕入れた鉱物。失敗した高炉の製錬。

 

「……たぶん、この鉄を使ったんだと思います」

 

この衙堂の司女が言ってくれる。彼女のアドバイスもかなり助けになっている。やはり持つべきものは現地の資料館に勤めて長い司書さんとかである。あとは当時を知る人たちから話を聞いたり。

 

「純度が高いわけだな。狙って作るのは難しいし、多くの鉄が無駄になるから今はやらないが」

 

そう言ってくれる職人の話を聞きながら考える。高炉の中にできた巨大な鉄の塊を割って、その中から実験に使うサンプルを回収したのだとしたら?マグネシウムと反応しそうな余分な金属は除去されている。銑押しで作られる玉鋼と基本的な原理は同じだ。

 

「だけれども、決め手が……」

 

そこまで考えて、私はある還元剤を思い出した。作るための素材は高炉の中にあった。必要な温度も満たしているだろう。なにより、実際その還元剤は鉱滓(スラグ)の中にも存在しうるのだ。



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炭化物

「ええと、炭質と石灰質の結合物が、苦土石を金属性苦土質に精錬して、それが溶け込んだことで鋳鉄内に作られる炭質の形状が変化して、打ち伸ばせるようなものになったと?」

 

ケトが私の書いたメモを見て、変な目で私の方に視線を向ける。

 

「結論から言えばね」

 

そう言いながら背伸びをして、バキバキになった背中を伸ばす。

 

「というわけで、少し考えるのを手伝って欲しい」

 

「その前に、僕がこの内容を完全に理解しきれていないんですが」

 

「はいはい」

 

というより、ある程度は理解しているのか。恐ろしいことだ。水準としては高校レベルか、もうちょっと上だぞ?

 

「まず、高炉の中で木炭と石灰石から炭化金属性石灰質(炭化カルシウム)とでも呼ぶべきものが作られる」

 

「高炉の中でそういうものができるのであれば、もっと知られていてもいいのでは?」

 

「できるための条件の一つにかなりの高温があってね。そしてこれは反応しやすいから、硫黄質や……んー、まだ分離されていないはずの基質とかを溶けた(ずく)の中から除いて分解してしまう」

 

そういえばまだ尿を蒸留しようとする人はいないので(リン)は分離されていないんだったな。たぶんこの世界では骨とかリン鉱石とかから発見されるのでジョセフ・ライトが描けるテーマが一つ減ってしまうな。っと、写真があるんだからそもそもそういう絵も少なくなるのか?まあいい、本題に戻ろう。

 

「わかりました。つまりは鉱滓(スラグ)として出てくる時には消え去っていると」

 

「そう。で、こうやってできた炭化金属性石灰質(炭化カルシウム)が鉄鉱石とかと混じっていた苦土石と反応して煆灰質(酸素)を奪い、金属性苦土質(金属マグネシウム)が生まれる」

 

「似たようなものは前にトゥー嬢の実験で見ました。煆灰化炭質(二酸化炭素)の中で金属性苦土質(金属マグネシウム)が『燃えて』いましたが、あれは金属性苦土質(金属マグネシウム)煆灰化炭質(二酸化炭素)から煆灰質(酸素)を奪ったんですよね」

 

「そうそう。私は見てないけど」

 

まあ忙しくてトゥー嬢の所に行けなかったのはあるからな。いえ別にケトだけ見せてもらっていいなーとかはあまり思っていませんとも。話を続けよう。

 

炭化金属性石灰質(炭化カルシウム)で『燃やす』ことで金属性苦土質(金属マグネシウム)を作るわけ。これがたぶん高炉か坩堝(るつぼ)の中で行われたのかな」

 

「となると、坩堝(るつぼ)を入れた炉が爆ぜたのは金属性苦土質(金属マグネシウム)が他のものと反応したから?」

 

「たぶんね」

 

「それで、どうして金属性苦土質(金属マグネシウム)(ずく)と混ざることで炭質の形状が変化したんですか?」

 

「それはね……」

 

私はゆっくりと息を吸って間を開ける。

 

「わからない」

 

「わかりました」

 

「あれ、納得するんだ」

 

「知らないにしろ、知られていなかったにしろ、キイさんがわからないと言うならそうなんでしょう」

 

「もう少し私を疑うべきだと思うよ?」

 

「それは他の人の仕事です。関わる全員に自分の行動を疑われるのはさすがのキイさんでも辛いと思いますよ?」

 

「……そうだね。ありがとう」

 

まあ疑うのにも思考コストがかかるからな。私だって先行研究をつっつくのにも限界があったので一部鵜呑みにしたらそこを指摘されたことがあったし、他人にとやかく言うべきではない。というよりまあ、ケトをそういう方面で心配させてしまったのは問題だよな。安易な解決策はないけれども。

 

「しかし、なぜわかっていないんですか?」

 

「んー、一概に言うのは難しいけど一つは具体的にできる様子を観察する方法がないから。あとはそれができる理由がわかったところで得られるものがあまりないから、かな」

 

「そういうものなんですか」

 

「うん。もう必要な特性を持つ金属は色々と作られていたから、わざわざ新しいものを作るまでもなかったし……」

 

むしろ触媒とか磁気特性とか半導体とか、そっちの方に金属系の研究が進んでいた印象がある。まあひどく雑なものだし、私の知識の最終アップデートは高校時代のものだったりするから下手すれば前世紀のものだし。

 

「とはいえ再現はできるよ。電気分解で作った金属性苦土質(金属マグネシウム)を純度の高い鍛鉄と木炭とあわせて、坩堝(るつぼ)に入れて溶けるまで加熱すればいい。他に色々混ぜてもいいけど」

 

「それでいいんですか?」

 

「いいんだけど、どうやってこれを思いついた事にするかで悩んでいてね……。この合金を作り出した名誉を奪いたくはないし、金属性苦土質(金属マグネシウム)を入れてみたらどうかと言うのも危険だし……」

 

「普通にわからなかったでいいのではないでしょうか。使っている鉱物や粘土が原因かもしれない、と言っておけばそう遠くないうちにたどり着くとは思いますよ?」

 

「……そういうものかね」

 

確かに発見されるのが遅れたからと言って、その背景に複雑なメカニズムがあるとは限らない。グレゴール・ヨハン・メンデルは実験を適切に設計したことで法則を見出した、あるいは作り出したが、そのある程度は変化朝顔の品種改良の時に意識はされていただろう。歴史から学ぶべき教訓の一つは、そんな教訓を得ようとするのはたいてい徒労に終わるということだったりする。



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特許

「まず私に言ったのは正解でしたね」

 

そうため息を吐いて言うのは前に高炉の点火をやっていた若い司女。

 

「あ、頂いた『基質の分離と分析』はとても面白かったです。作者の先生にそう伝えていただければ」

 

トゥー嬢の書いた本は思いの外こんなとろでもウケがいいようで。やはり聖典語というある種の学術共通語の存在は大きいな。だからといってローカライズをさぼっていいということではないが。

 

「ありがとうございます。作者も喜ぶでしょう」

 

「……確認しますが、あのような偽(ずく)を作るためにはあなたたちの作った金属性苦土質(金属マグネシウム)が必要になるわけですよね?」

 

「そうです」

 

「それを今、安定して生産できるのはあなたたちだけですよね」

 

「いえ、電気分解さえできればそう難しいものでは……」

 

「そこのあたりは本に載っていなかったので推測なのですが、その電気を安定して生み出す機構は今のところあなたたちのところにしかない」

 

「……まあ、そうですね」

 

「つまりですよ?あなたたちはこう言っているわけです。偽(ずく)を作りたければ、自分の所から材料を仕入れろ、と」

 

「なるほど、それはあまり良くないですね」

 

そういう重要なものを外注すると輸送コストとかが上乗せされることになるし、なにより加工工程同士での意思疎通が難しくなる。それにどこかで問題が起こればそれが波及しがちだ。複数の取引先が存在して、適度な競争が行われるような環境なら技術への投資も促される。もちろんこういうのはバランスの問題なので、計画経済的側面を持たせて生産を調整してもいいし、基本は自由市場で当局からちょいちょい介入を入れてもいい。ここらへんは商会とかが絡んでくるし、政治とか外交の問題にも絡んでくるのでできるだけ信頼できるデータとか知識のある人間が必要で、それにはもう少しかかりそうなのであるが。

 

「そうですよ。そんな態度を取るなんて」

 

「……ん?」

 

私の想像と何かが少し違うらしい。

 

「キイ嬢は、たぶん勘違いをしていますね」

 

ケトが言う。

 

「キイ嬢はある程度大きな視点から見ているので、生産できるのが一ヶ所しか無いことを問題だと考えています。しかしそこには『鋼売り』であったり、この製鉄場の人の考え方が欠けているんですよ」

 

「わかった。こちらにしか作れないものだから高値で売りつけようとしていると思われている?」

 

「……むしろそれ以外に何が?」

 

司女が私を見て言う。

 

「すみません、こういう人なので」

 

ケトが謝るう。

 

「大変ですね……」

 

なんか若い者同士仲良くなっている。いいことだ。私のおかげだな。全然良くないが?

 

「発電機、でしたか。基本は金属細工なのでしょう?でしたらこの鋼鉄の尾根であれば作れるはずです。それまでこの事実は伏せておくというのは?」

 

「まあ、妥当な所ですかね。細かい調整をここの衙堂の方に投げることになりますが……」

 

司女とケトがなんか話を引き継いでしまった。やらかした私はしばらく黙っていたほうがいいだろう。

 

「まあいいですよ。面白い本を頂いたお礼みたいなものです。あとこれ、北方平原語に訳しても?」

 

「構わないはずですが、ああでも法の問題が……」

 

「あれの効力範囲内はまだ図書庫の城邦の中だけだし、もし対価を求められたとしても翻訳という形なら代償金を積み立てておけばいいかな」

 

言いよどむケトに私が言う。

 

「どれくらいになりそうです?」

 

司女の言葉に、私は適当に頭の中で計算をする。

 

「まあある程度作って銀数十枚とか?」

 

「安いですね……。本数冊分ではないですか」

 

「作るための手間賃が印刷機のおかげで低くなっているから」

 

「そうだ。こっちにもその印刷機とやらを売ってください」

 

「作り方を教えるのでそっちで作ってくれれば……」

 

「いいんですか?そういうものは普通、独占特許状とかが出ているものでは?」

 

不思議そうに聞く司女。

 

「そういうものがあるの?」

 

どういう代物かは見当がつくが、ちゃんと確認しよう。

 

「例えば『鋼売り』の許可を得ていないと鉄を作るために木すら切れないんですよ、ここらでは」

 

「確かに木材の管理は製鉄やるなら必須か……」

 

石炭の乾留技術がない以上、使える還元剤としての炭素を供給してくれるのは木だけだ。ある程度の大きさとかを考えると林業とかにも手を出しているのだろう。「鋼売り」はただ単に鋼を売っているだけではなく、鋼の生産のためのあらゆる資源の確保なんかも業務として行っている。これはもうただの国家では?しかし城邦というかこの世界で言う邦ではないらしい。難しいところだ。はっきりとした代表者がいるわけでもなく、部門というか地区や工房ごとに人がいて取りまとめ役同士の会合を重ねて意思決定をしていくという奇妙な構造をしている。

 

「図書庫の城邦にとって本は、そしてこういう印刷物は重要なものでしょう?少なくとも城邦の中では印刷業務や印刷機の製造は独占されていると思うのですが」

 

「してないよ。なんなら学徒でも作って自分たちで本を売れる」

 

「そんなことでいいとは、平和なのか緩いのか……」

 

頭を抱える向こうの司女は文化の差異を飲み込めないようだ。まあ私もケトもそれぞれ育った世界が違うし、こういうものは時間をかけてすりあわせていくしかない。



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呼名

「……これでいいか?」

 

場長が筆を置いて言う。

 

「ありがとうございます。場長からの保証があれば、まず問題ないでしょう」

 

色々な人が書いた文字の下に、場長の名による便宜要請の一文と署名が入る。ちなみに彼は簡単なものであれば文章が書けるのだ。それがこの地位にまで登り詰めるのことのできた理由の一つかもしれない。

 

「しかし、若いとは惜しいものだな」

 

苦笑いのような表情を浮かべて、場長は私を見る。

 

「どういうことです?」

 

「良い目を持っていて、様々な知識を蓄えているが、それをまだ上手く活かすことができていない」

 

「……そういうものですよ。能力を活かし、学ぶことのできる環境が常にあるわけではありません」

 

私だって、これでもとても幸運なのだ。ここで学びたいと思えるような場所があったし、こっちの世界に来てからもいい人の出会いに恵まれていた。人の幸福に直接寄与できる発明や知識をもたらせたかというと怪しいが、たぶん私がいなければ今後千年かけて進むぐらいの科学技術水準まで半分とかそれ以下の時間で到達できるだろう。人口が少ないうちに十分な技術が揃っていれば、環境問題なんかのかなり大きな案件に取り組むことも多少は易しくなるはずだ。今の時点でも悪くない仕事をしたと言えるだろう。もちろんこれで止まるつもりは全くありませんがね?むしろここからが本領発揮である。

 

「都市ではやはり、経験することができないものが多いのかね」

 

「むしろ、かつてはそういったものに直接触れようとしてこなかったと言うべきかもしれません」

 

基本的に、産業や技術は私にとって紙や話者や史料や機械越しのものだった。直接何かを作ったり、設計して、それを売って利益や給与を得た経験は殆どないはず。現役の職人に経験不足と言われればはいそうですとしか言いようがない。

 

「まあ、一歩引いた所から見えるものもあるのだろう。これ以上言うと嫌味になってしまうな」

 

「構いません。あまり良くない言い方をしているのはこちら側ですから」

 

咳のような小刻みの笑いを立てる場長。そんな面白いかな。

 

「次は、工房街でしたかな」

 

「そうなりますね」

 

多くの職人が集まる、ここから川を下ったところにある場所。移動手段は船だ。ここで作られた金属を、更に上流の方で伐った木で作る筏に乗せて運ぶのだ。なので船人の帰りは徒歩である。

 

「知っている職人も多いが、求めるほどの腕を持つとなるとどうしても限られるだろうな……」

 

そう言って場長は何人かの名前を挙げる。メモを取ろうかと思ったがケトが記録してくれていた。こういう時にすっと隣りにいるから本当にありがたい。たまに怖くなる時もあるが。

 

「……あとは、もしかしたら気が合うかもしれん人がいる。ただ、これでな」

 

喉を指で弾くジェスチャー。発声障害の類だろうか?あるいは聴覚側の問題で聾唖になったものだろうか?吃音かもしれない。ああそうか、この手の障害に対しての医学的アプローチはこの世界にはたぶん無いんだろうな。私がいた世界だって長い間生まれなかったし、完全に存在していたわけではないのだ。ニュアンスから読み取るに意図的な差別心のようなものは感じられなかったが、まあ覚えておいた上であまり使わないようにしておこう。

 

「なるほど」

 

そうして場長が色々と工房街の話を教えてくれる。空気が良くないのはまあ、そうだろうなと思う。かと言って金属加工と高熱は切り離せないし、早めに電気炉とかを導入するべきだろうか?それなりにダムとか作れそうな場所もあるし、発電機をリバース・エンジニアリングしてもらうか。ニクロム線とかも欲しいがそもそもそういう金属は簡単には精錬できないものだしな。私が立てた仮説みたいに炭化カルシウムとか、あるいはマグネシウムやカルシウムみたいな金属で還元するか、電気分解とか、還元雰囲気での加熱とか。細かい方法一つ一つは覚えていないので、基盤構築を重点的にするべきだな。

 

あとは治安。図書庫の城邦に比べればちょっとよろしくないかな、ぐらい。基本的に全員で動けとまでは言わなくとも、ケトと同時に行動するべきとのこと。そういえばケトも大人扱いされ始める年齢にはなっているんだよな。印刷物管理局にいたときの業務の出来からすれば十分社会人としてやっていけるレベルにあるし。私のほうがまだ子供な気がする。

 

とはいえ労働環境は悪くないらしい。生産管理を上の方がやっていて、どうやら一定以上の質や量を作り出さないよう談合がなされているのだとか。一応は日の出ている間は働くが、その間に食事をしたり休憩をしたり後進の教育をしたりとでけっこうゆったりらしい。なかなかいいことだ。なおここは高緯度なので夏はそれなりに日が長いし、日の短い冬は活動が面倒な程度には雪が降る。ちょっと過剰評価をしすぎたかもしれないな。

 

「ともかく、よい旅を。『キイ嬢』*1

 

場長は少し訛りのある発音で、最後に私の名前を言った。

*1
この二重鉤括弧の部分だけ東方通商語での発言



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第16章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。作品内で行われている工程が技術的にちゃんと可能なのか訝しんでいるような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


来客

ああ、だから荷吊機(クレーン)があるのですね。

物を持ち上げる機械であるcraneを意味する漢語は一般的に「起重機」と呼ばれるが、ここでは貨物の上下移動を行う機械である事を強調するためにこのような字を当てている。物を持ち上げて下ろすだけであれば荷物を移動させられないため、船に荷を積むためには車輪で土台を移動させたり、根本から回転させたり、滑車を移動させたりするなどの方法と組み合わせる必要がある。

 

「痩せ麦で作った炎酒を、燻り魚で一杯……」

痩せ麦のモデルの一つ、ソバを発酵させアルコールを作ることは可能であるが技術が確立されたのは最近である。理由の一つとして考えられるのはソバの種子に含まれる細菌の多さ。

 

悪酔

図書庫の城邦では案外みんな剃っていたが、そういえば剃刀の話をちゃんと把握していない。

体毛を剃るための剃刀は先史時代から使われているが、その扱いが難しいことから髭を剃るのは長い間専門家の仕事であった。少なくとも、自分で剃る文化が発達したのは安全剃刀が発売されるようになってからである。

 

私は個人的に誰かになにかを贈るのとか贈られるのは苦手だけど、それは相手が欲しがるものが本当にあるかどうかがわからなかったりする場合なので今回みたいにちゃんと必需品であればいい。

というわけでたぶん必需品じゃないんですよね……。

 

花押の方が近いかな。

花押(かおう)は東アジアにおける署名の代わりの記号。こういった文字を組み合わせたり崩したりして署名として使うのは西ヨーロッパにおけるシグナム・マヌス、グルジア/ジョージア文字によるケルトヴァ、アラビア文字によるトゥグラなどがある。非識字者が署名をする際に「X」のような記号を用いることもあるが、このような署名はその機能である「証人がその内容を保証する」という役割をあまり果たさない。おそらく商取引を中心として形成された「鋼売り」の影響圏が拡大していく中で、文字があまり書けなくとも署名する必要が出てきたことから自分の名前だけは覚えている、ということもあるのだろう。

 

結構高いと思うのは私がかつての世界の郵便制度に慣れすぎているからだな。

例えば航空書簡であれば90円、船便のはがきであれば60円。免税取引扱いなので消費税がかからないのである。

 

睦言

まあ私自身にはそういうものに縁はなかったが、なんとなく見当はつく。

今更言う必要もないと思うが、キイは肉体関係に関する経験をほとんど持っていない。キイ自身に言わせれば性的指向は機会的両性愛といったあたり。言葉の使い方が微妙に違う気がする。

 

平時には鋤を、戦時には剣を売るというのはなかなかに悪くないが

(かく)てかれらはその(つるぎ)をうちかへて(すき)となし

その(やり)をうちかへて(かま)となし

(くに)(くに)にむかひて(つるぎ)をあげず

戰鬪(たゝかひ)のことを(ふたゝ)びまなばざるべし

──明治元訳旧約聖書 (明治37年)、イザヤ書第二章より

 

エフゲニー・ヴィクトロヴィッチ・ヴチェティチによって作成され、ソビエト社会主義共和国連邦から国際連合に寄贈されたブロンズ像「Let Us Beat Swords into Plowshare(剣を鋤に打ち直そう)」などに代表されるように、剣は戦争の、鋤は平和の象徴である。

 

具体的には部品を固定するチャックの部分に螺子を使っているので最初の螺子切りは別の方法で固定して行わないといけないとか。

旋盤の自作について解説している本(例えばDavid Gingeryによる「Build Your Own Metal Working Shop from Scrap」シリーズとか)では、たいていどこかから送り軸や締結部品用のネジを持ってくるし、低融点金属としてアルミニウムとかが使われる。こういうのはゴミ捨て場にあるものと近所のホームセンターに売っている部品から金属加工用の設備を作ったり、文明が崩壊した後に機械工作の基盤を再構築する時とかには役立つかもしれないが、異世界での旋盤作りには物足りない。

 

まあかつての私がこれを作れと言われたら設計者を小一時間問い詰めてしまうレベルだ。

「小一時間問い詰めたい」は2001年の新爆による投稿がもととなり、匿名掲示板を経由して広まった言い回し。同年公開されたポエ山によるFLASHを用いたアニメーション、「吉野家」でも知られる。おそらくキイがまだ子供の頃の作品ですね。

 

化石

記憶を漁るがこういった例は勅許会社ぐらいしか思い出せない。

勅許会社はオランダやイギリスの東インド会社などがよく知られる。他にも企業が国家のような形態を取った例としては18世紀から19世紀にかけてボルネオ島西部に存在した蘭芳公司、Massachusetts Bay Company(マサチューセッツ湾会社)による入植地等が挙げられる。

 

なお風を送り込むのは基本人力で、一部で水車を使おうとしているがあまりうまく行っていないらしい。

後漢書によれば紀元1世紀前半に中国で杜詩が水車駆動のふいごを高炉に用いていたという記録がある。

 

クリノメーターが欲しくなってくる。

コンパスと水準器を組み合わせたもので、地層の走向(向き)と傾斜(傾き)を測定するための装置。英語でclinometerと呼んだ時にはより汎用的な傾斜計を指す。

 

向こうの科学史やってる人と私が思想バトルをしていたからですが……。

今日の科学史研究業界は歴史系(哲学寄り)の人が多いので、キイのような工学畑の人からすれば結構「生産的ではない」ことをしている。思想バトルはほどほどにしよう。

 

それだけのことができるラポールをケト以外とは構築していないし

ラポールは心理学やカウンセリングの分野の用語で、ざっくり言えば秘密を共有できるなごやかな信頼関係のこと。

 

高炉

というか、あったから鐵は(かね)の王なる哉なんて呼ばれているのだ。

旧字体の「鐵」を分解したところからできたある種のネタ。少なくとも本多光太郎の時代から存在する。

 

過学習と呼ばれる現象に近い。

本来は機械学習分野の用語。似たような概念として、3つの測定データから近似直線を引くようなもの。

 

外の冷風を高炉に吹き込むのは冷ますも同じだ

この後でキイが述べている熱風炉はジェームズ・ボーモント・ニールソンによって発明されたもの。

 

鋼鉄

私の知識にある上吹転炉はいわゆるLD(Linz-Donawitz)法だが

ロバート・デューラーによって発明され、リンツ(Linz)のVereinigte Österreichische Eisen- und Stahlwerke(オーストリア統一製鋼工場)とドナウィッツ(Donawitz)のÖsterreichisch-Alpine Montangesellschaft(オーストリア・アルプス鉱業会社)で実用化された手法。

 

この方法自体はウーツ鋼の製法などで知られていた。

ダマスカス鋼としても知られる。

 

断酒

こういうところでたぶん本来あったのであろう文化的儀式を侵食しているのは異教徒を切り捨てて改宗を求めるような宗教とどっちがマシか難しいところである。

民俗学や人類学をやっていると宣教師が作った聖書しか文字資料がなかったり、「宣教」のおかげでもともとあった文化がなくなっていたりなんてことがざらにある。とはいえ現代と切り離されてしまった分、時代変化を考えなくていいという嬉しくないメリットがあったり……。

 

アイゾットとかシャルピーとかやったなぁ。

アイゾット衝撃試験は棒の上部分を、シャルピー衝撃試験は棒の中心部分を振り子でへし折るようなもの。それぞれエドウィン・ギルバート・イゾッドとジョルジュ・オーギュスタン・アルベール・シャルピーによる。1946年のInstitute of Metalsの訃報記事を読む限り、アイゾットと読まないらしい。

 

というか私はそんな嫌な顔を出していただろうか?

キイもケトも信頼できない語り手なので作者が補足するしかないのだが、ケトぐらいにしかわからないレベルでそういう表情をしている。

 

黒鉛形状からして黒心可鍛鋳鉄とかではない。

黒心可鍛鋳鉄も黒鉛部分が集中しているが、ダクタイル鋳鉄のように丸くはなっていない。

 

記録

どういうわけか私が考古学者から依頼されてXRDの撮影に立ち会うことがあったりする。

X線回折(X-ray Diffraction)は周期性を持つ結晶などを対象とする分析手法であり、周辺機器と組み合わせることで金属鋳造品から加工方法や原料となった鉱物の産地など様々な情報を得ることができる。

 

まったく、文系の大学院生がどうしてミラー指数を知っているんだ?

結晶に対し、ある面が「どのように斜めになっているか」を示す方法の一つ。このミラー指数と結晶の大きさによってX線を反射するかどうかが決まり、ここからX線回折では情報を得る。

 

このマグネシウムは電解製錬などによって得られたものだ。

実はこれは誤りで、今日生産されるマグネシウムの大半は鉄とケイ素の合金であるフェロシリコンを還元剤として酸化マグネシウムから作られるものである。この方法はロイド・モンゴメリー・ピジョンの名にちなんでピジョン法と呼ばれる。決して作者の事前調べが足りなかったわけではないですよ?まあ電気代の安い地域では電解精錬で作ることもあります。

 

なにより、実際その還元剤は鉱滓(スラグ)の中にも存在しうるのだ。

アーク炉で発生するスラグには存在するが、高炉からのスラグにはほとんど見られない。反応温度的には行けるはずなので、たぶん還元剤として使われきってしまうのだろう。

 

炭化物

たぶんこの世界では骨とか燐鉱石とかから発見されるのでジョセフ・ライトが描けるテーマが一つ減ってしまうな。

ダービー博物館・美術館蔵、ジョセフ・ライトによる絵画「The Alchymist, in Search of the Philosopher's Stone, Discovers Phosphorus, and prays for the successful Conclusion of his operation, as was the custom of the Ancient Chymical Astrologers(賢者の石を求める錬金術師は燐を発見し、古の化学占星術師の習慣に依って操作の成功を祈る)」についての言及。ジョセフ・ライトは産業革命期の画家であり、実験や鍛冶をモチーフとした明暗のある作品を残している。

 

グレゴール・ヨハン・メンデルは実験を適切に設計したことで法則を見出した、あるいは作り出したが、そのある程度は変化朝顔の品種改良の時に意識はされていただろう。

ロナルド・エイルマー・フィッシャーは統計的な分析に基づいてグレゴール・ヨハン・メンデルの実験を分析し、「綺麗すぎる」統計データが示されているためこれらが捏造された、少なくとも歪められたものであると主張した。しかしこれに対する反対意見(Hartl Daniel L.; Fairbanks Daniel J. Mud sticks: on the alleged falsification of Mendel's data. Genetics. 2007.5, vol. 175, no. 3, p. 975-979. などを参照)もあり、それに基づけばロナルド・エイルマー・フィッシャーの理論に間違いがあったのであり、実験はかなり正確に行われたとしている。

 

メンデルの法則の重要な部分である分離の法則や独立の法則については江戸時代に流行した変種朝顔の栽培においてある程度は認識されていたと考えられるが、突然変異の一部がトランスポゾンによって誘発されていることも相まっておそらく具体的な体系的知識としては確立されていなかったと考えられる。

 

歴史から学ぶべき教訓の一つは、そんな教訓を得ようとするのはたいてい徒労に終わるということだったりする。

歴史を物語と捉え、そこに流れを見出すのは人間の認知機能の悪い癖みたいなところがある。しかしながら歴史を作っている人々はそれぞれの物語の中で生きているので、そこに流れは実際にあったりするのということで更に問題が複雑になる。

 

特許

「安いですね……。本数冊分ではないですか」

写本を作るにはべらぼうな時間がかかり、人件費が高騰するのである。なので凝った装丁をしてもそこまで全体のコスト上昇は起こらないし、むしろ付加価値を増加させたのである。

 

呼名

私がいた世界だって長い間生まれなかったし、完全に存在していたわけではないのだ。

障害者教育の問題は人的資源、コミュニケーション、針路など幅広い問題と関わりを持つために体系化しづらい、どうしても個人の知識と経験に依存しがちなものとなってしまう。

 

生産管理を上の方がやっていて、どうやら一定以上の質や量を作り出さないよう談合がなされているのだとか。

自由主義経済ではこの問題を解決するためにしばしば外部からの介入を必要とするという問題点がある。



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第13章~第16章 まとめ
地理解説・登場人物紹介(第13章~第16章)


いくつか場所が出てきたので、そのモデルとかいろいろ。



 

図書庫の城邦

 

この世界屈指の港湾都市。穀倉地帯に存在し、安定した食料源と余剰人口による産業によって安定した経済を保っている。厳密に言えば「図書庫の城邦」と呼ばれるのは城壁の範囲内だけ。ただ、口語的には図書庫の城邦を拠点とする大衙堂の支配が及ぶ範囲が「図書庫の城邦」と呼ばれることもある。一応その範囲では図書庫の城邦の頭領の名において治安維持が行われ、巡警のような人たちが物流網を監視している。欠乏や飢えが少ないこともあって、治安は良好。

 

モデルはムセイオンや大図書館を有したアレクサンドリア。この世界では大図書庫が燃えるようなイベントが起こらなかったため、古帝国の崩壊による経済・政治混乱を乗り越えて知識は保存・蓄積されているがそれ以外の具体的ノウハウは散逸気味である。

 

多くの学徒が知識を求めて集まり、周辺地域の様々な要職に就くことから外交的にも重要な場所である。なので時々短刀や毒薬が関わる案件が出てくるが、裏で巡警や「刮目」が頑張っている。

 


 

硝子(ガラス)の産地

 

硝子(ガラス)を作れるほどに発達した技術を持つ場所。いつの間にか真空管開発チームの代表になってしまっていた若い工師の出身地。モデルの一つはムラーノ島だが、たぶん運河がそこまで走っているわけではない。

 


 

天文台の地

 

宗教的理由によって天文観測を行う人達が築いた小さな都市。様々な観測に必要な物資や資源の生産を小規模ながら行っている。資金源はたぶん有力者からの寄付とか。

 

モデルの一つはデンマークとスウェーデンの間にあるエーレスンド海峡に浮かぶヴェン島。ティコ・ブラーエによって天文観測施設が置かれていた。

 


 

鋼鉄の尾根

 

様々な鉱物を産する、北方の地帯。政治的に統一されているとは言えない状況だが、外敵から襲われるほど魅力的な土地ではなく、生産物である鋼鉄などを「鋼売り」が取りまとめ、その過程で有力な傭兵集団を持っていることから手出しされることは少ない。古帝国の時代でも騎乗動物が食べる植物の不足によって支配権ギリギリに置くのが限界であり、資源面で頭を下げねばならない強かな地域であった。

 

モデルはスイス、ノルウェー、南アフリカなど。スイスは地理的特徴と「傭兵」のイメージ。ノルウェーは寒冷な気候の参考に。南アフリカは南部アフリカ大断崖、カルー超層群などの地質分野のアイデア源。

 

「鋼売り」は古帝国時代に交易を行った一団を起源の一つとし、古帝国側から得た武器や技術を用いて勢力を拡大させた。古帝国崩壊後は船の民との取引に移ることで世界を市場とし、また鋼鉄の尾根内でも様々な分野にかかわることになったためにかなり大きな組織となっている。とはいえきちんとした政治システムが出来ているわけではなく、絶対的な権力者がいるわけではないのでなんかよくわからないことになっている。

 

「妙に印象の薄い男性」はかつて傭兵として少し働き、その過程で得た地理感を使って買い付けを行う人物であったがとある派閥に巻き込まれて諜報員の真似ごとをするようになり、キイを招待できた功績もあって出世した。本人としては名も無い一兵士として死ぬつもりで地元を出たのでかなり数奇な運命である。

 

「『鋼売り』から来た女性」はもともとある程度高級な娼婦のような仕事をしていたが、その過程で「鋼売り」に対して借金を作ってしまいハニートラップ人員として動いていた。様々な人を相手にしてきたためそれなりに学があり、キイの本気の話についていくことは無理でも優しく解説されれば理解できる。図書庫の城邦に来た時は「妙に印象の薄い男性」の指揮下にあったが、今はもう少し独立している。まあちゃんとした組織がないのではあるが。

 


 

製鉄場

 

鋼鉄の尾根にはいくつかの金属精錬を行う場所があるが、キイが訪れた製鉄場は川上に管理された森林があることで燃料を得ることができるために発展している。鍛冶の技術は古代中国を参考に適当に盛っているところがある。高炉とか白心可鍛鋳鉄とかがなんで紀元前に存在するんですかあそこ……。

 

場長は普通にこの製鉄場の親方みたいなもの。後継者争いが無い訳ではないが、基本的に話し合いとか別ポストの用意とかでどうにか安定して引き継ぎができている。

 

司女補をしている若い女性はこの地域にまで勢力を伸ばそうとする衙堂と、あまりちょっかいを出されたくない人々の折衷案から生まれたもの。たぶん神事の一環としての点火が半ば形骸化した結果このような形になっている。

 


 

内海

 

複数の海峡で区切られた海域。モデルは地中海。図書庫の城邦があるのは南東あたり。地中海性気候のような温暖な地域だろうが、キイが世界地図や気象観測機材をまだ作っていないので具体的な海流や気候の話をするのは避けよう。いや設定がそこらへんにあった紙にメモした雑な図しかないとか、そういうことではないですよ?気象って結構考えるのか大変で、コンピュータでシミュレーションを回したりしようにも相当な要素を勘案する必要があるので……。

 


 

大洋

 

南北に伸びる大きな海。モデルは大西洋。地理関係を意図的にぐちゃぐちゃにしているのでどこにあるかはこれを考えている時点では不明。風と海流を捉える事ができれば超えられなくもないが、そのためにはかなりの経験が必要であるし壊血病で死ぬことも多い。基本的に船の民は漁業で手に入れた魚などで取引をすることで陸の新鮮な食物を手に入れることが多く、あまりビタミンC不足にはならないため長期航海でなければ壊血病は見られない。それゆえに「海の呪い」は恐れられ、しばしば話が盛られて語られる。



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時勢

図書庫の城邦で発行されている新聞の見出しとかそういうやつです。



 

印刷物管理法改正さる

小規模印刷における新たな制限かかるも、自由な流通を促進する方向へ

 


 

情勢解説

貨物税*1制度の曖昧さについて

 


 

「時勢」の報道の一部について、法務審議会*2が名誉障害に当たるのではと捜査開始

編集長は闘う姿勢を見せるも、今後の報道に制限がかかるか?

 


 

広告

明日の大市にて、南方よりの商品多数販売

 


 

衙堂第三区副区長の横領疑惑について、大衙堂より査察入る

本紙特派員よりの報告を掲載

 


 

電気通信機の公開実験、中央劇場にて行われる

見物者千人を超える。巡警も出張る大催しに

 


 

解説

北方諸邦の関係について

 


 

「白蜥蜴」卿*3、南方より使節団を伴い来訪

頭領と会談を行い、経済的結びつきについて確認

 


 

公開論闘

奨学金を税にて行うべきか?

 


 

長卓会議*4開催が決定

代表者の選定案を掲載

 


 

解説

新しい基質説は薬学に何をもたらすか*5

 


 

印刷物管理法に基づく初の逮捕者出る

他にも複数の違法印刷に関与か、捜査進む

 


 

頭領の子、無事生まれる

女児故に不安定な継承となるか*6

 


 

広告

学徒必携「講義大全」販売中

 


 

法務審議会、「時勢」掲載の七つの記事を名誉障害と認定

賠償金と謝罪記事の作成を命令

 


 

新しい報知、「視線」発行*7

元頭領府の人物が編集長を務める

 


 

広告

北の城壁の修理者求む、経験者歓迎

 


 

寄港した西方からの船の異邦者三人、熱病にて死す

さらなる病人は見られぬが、警戒を怠らぬよう医学者は警告

 


 

「時勢」「視線」両紙、大衙堂の仲介にて特別報道に関する協定を結ぶ

人命に関わるもの、広く報知すべき案件などで記事の共有を行うことに

 


 

公開論闘

「報知紙」*8は我々を幸福にしたか?

 


 

関税に関する大規模な法務審議会の開催決まる

頭領府は税率案を公表、活発な議論を求める

 


 

衙堂、昨年度の収量報告を発表

寒波のため不作なるも、穀物価格上昇はわずかと結論

 


 

広告

「商者のための算学」来月初めに発売

 


 

第四区への街道で野盗の報告多数

巡警の行動の遅さに請願する多くの人

 


 

公開書簡

頭領よ、我々は特定商品に対する恣意的な貨物税の引き上げに反対する

 


 

新しい講官、三名任命

それぞれ幾何学、医学、統治学を専門とす

 


 

広告

頭領府外交局は篤実なる人員を求む

 


 

学徒区に巡警の大規模な捜査入る、学徒との衝突多数

最近問題視される違法印刷の取調と将軍発表

 


 

東方通商語による詞競*9開かれる

十二韻詞を数刻で書き上げたる司女の優勝

 


 

広告

「銀絵」*10屋、西三番通りに開店

 


 

「総合技術報告」発刊

初号では印刷機用の墨の配合についてなどを記載

*1
関税と物品税を合わせたものに近い。高価な品ほど高い税率が定められていたが、税率の定められていない商品の扱いがはっきりとしていなかった。

*2
特殊な裁判や法の制定に関する決定を行う専門家集団。

*3
南方における戦乱において名を挙げた武人。今では首長団の顧問をしており、政治的影響力は大きい。

*4
頭領府が招集する著名人・有識者の会議であり、意見収集機構としての役割がある。

*5
執筆したのはトゥー嬢

*6
継承基準が厳密ではないため、最初の男児と先に生まれた女児のどちらに継がせるべきかが過去何回か問題になった。どちらも先例がある。

*7
後に体制寄りの報道で知られるようになる。

*8
新聞のこと。呼び方の統一までは時間がかかった。

*9
ある題を与えられ、聴衆の投票によって優勝者が決まる詞の協議会。

*10
写真のこと。




活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=287024&uid=373609


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第17章
軸受


「うーん、上手くいかないなぁ」

 

私は手元の名前が並ぶメモに印をつけながら言う。これで工房街で目をつけていた大半の人物に断られたわけだ。

 

「仕方のないことだとは思いますよ」

 

「わかってはいるけどねぇ」

 

腕のいい細工師は大抵忙しくて、紹介状があっても丁重に断るのである。まあ門前払いされないだけ効果はあるのだが。いきなり四人で押しかけてきてこういうものを作れないのかと聞かれるのは怖いだろう。それに面倒な招待状がついていて、「鋼売り」の人までいるとすればなおさらだ。得られる利益よりもその過程の面倒事を回避しようというのを責めることはできない。

 

「要求が高すぎるのでは?」

 

「手で作るなら不可能ではないはずなんだけど」

 

私の設計した旋盤で難しい点が3つある。螺子(ねじ)、軸受、そして刃具(バイト)である。まあ螺子(ねじ)は最初の旋盤には必要ないし、刃具(バイト)も削る対象よりも硬ければいいので炭素鋼を使って真鍮を削るとかならどうにかなるのだが、問題は軸受である。

 

旋盤は回転する工作物を基本的には固定した刃具(バイト)で削っていくものだ。つまり出来上がるものは回転体になる。このとき、軸が例えばブレてしまうと削って作ったものが歪んでしまう。あるいはなめらかに回転しなければ表面の状態が安定しなくなる。

 

これを解決するために、軸はなめらかに回転して、かつしっかりと回転軸方向以外には固定されている必要がある。これができていないいい加減な旋盤では、いい加減なものしかできないのだ。というかある程度回れば良いのであればこの世界にも似たようなものはある。

 

「……ここだよね」

 

「そのはずですよ、キイ先生」

 

「鋼売り」から来た案内人の女性が言う。場長が教えてくれた人物は、彼女も噂を聞いたことがあったようだ。今では失われた技術で作った絡繰を再現しようとして、その貴重な才能を無駄にしているとの評判らしい。それでいてたまに作り上げる作品は傑作としか言いようがないので、実力主義の職人の間では不承不承彼を認めるのだとか。

 

「中にはその腕のため、悪鬼に声を売ったのだなんて話もありますが」

 

「信じるんですか?」

 

私はちょっとなんか嫌な気分になってしまったのもあって語調を荒らげてしまう。

 

「物語は物語ですよ」

 

受け流すように言う案内人。んー、これは私の負けだな。というかここらへんの「物語」に対する捉え方が独特で、私の予想と食い違うところがあるのだ。

 

「……失礼。いらっしゃいますか?」

 

私が北方平原語で言うも、反応はなし。まあ聾唖であれば聴覚側に問題があるからな。少し建物の周りを見てみて、それでも駄目なら少し周りの人に聞いてみよう。

 


 

神経質そうな、背が高い男。身体にぴっちりと張り付くような作業着を着ているので、どうにもかなり細く見える。

 

少し私たちの方を見て、彼は取り出した蝋板に文字を書き始めた。

 

『聖典語を解する人はいるかね?』*1

 

書かれた文字は北方平原語陰文字だ。

 

「僕と、この人、キイさんが」

 

ケトがゆっくり聖典語で言うと、彼は深く頷き、素早く蝋板の上で金属製の筆を走らせる。

 

『この文字は読めるか?』

 

少し崩されているが、私は頷く。ケトもだ。

 

「僕たちの声が聞こえるんですか?」

 

少しだけさっきより速く言うが、それでも丁寧に話すケト。私たちの中で一番聖典語に詳しいのは彼なので、私が一歩下がって話す訳を任せている。

 

『僅かに耳は使えるし、口の動きを見れば概ねは。しかしこちらが口を開けば君たちの聞くに堪えない声しか出ぬゆえ、黙らせてほしい』

 

筆を置いて、ジェスチャーも交えて説明をしてくれる。明らかに彼の書く速度が上がった。蝋板の筆跡はもうかなり潰れていて、私には読めない。

 

「ケト君は、この文字を読めるの?」

 

文字を書いた人物の方に顔を向けて、しかし視線はケトに向けて言う。

 

「ええ。衙堂流の速記術です」

 

ケトも私の方に目を向けて、口を職人に見えるように動かす。

 

『そこまで親切にしてもらわなくとも良い。それで、何の用だね?作るに値するものがあるのか?』

 

そういう言い方をすることができるというのは実力の裏返しだろう。まあその程度であればこちらがコミュニケーションを円滑にするコストを負担するぐらいはしますとも。

 

「これを」

 

私は図面を広げる。

 

「作って欲しいのは、この回転を支える部分」

 

『ある種の「ころ」か』

 

「はい。この部分をなめらかに回転させるために必要で」

 

『この金具は、ころ同士の接触を防ぐのか?』

 

「そうです。もし接触してしまうと、相反する二つの回転によってころが傷んでしまうので……っと、聞き取れました?」

 

『大意は解せる』

 

ケトが書いた文字を読み上げ、私が返事をし、職人が蝋板に文字を刻む。会話よりは遅いが、悪くないペースで意思疎通ができている。互いに少し考える時間があるのがいいのかもしれない。

 

『さて、来訪者よ。具体的な作り方について、考えはあるか?』

 

彼は私を試すように見下ろしながら言う。身長差があるとやっぱ少し威圧されてしまうな。まあ別にこれぐらいなら問題ない。

 

「ええ。ですが、作ることができるのはあなたです」

*1
以降しばらく、二重鉤括弧はこの男が行う筆談の内容を表すために用いる。



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復元

普通の人が思い浮かべるベアリングというのは、大抵はラジアル玉軸受(ボールベアリング)だ。6から始まるやつ。車とか自転車とか、そういう回転部品によく使われていた。あれの中で転がるのはたいてい丁寧に研磨された鋼の球。一定の間隔を開けた二枚の板の間でゴリゴリと削ることで作られたものだ。

 

そういう球を二つの円筒というか内側と外側に分かれたリング状の部品の中に入れると、球が転がって二つの部品の回転の違いを吸収する。球と部品の間の接触部分は小さいので摩擦も少なく、なめらかに回るというわけだ。内側を車軸に、外側を車体に繋げればタイヤの場所を保持しながら自由に走ることができる。

 

こういう部品は昔は木で作られていた。というかこの世界でも木で作られている。しかし問題は耐荷重だ。旋盤はそれなりの速度で金属の塊を回転させるので力がかかるし、その上削るときにかかる負荷まである。そういったものに木で耐えるのはちょっと限界があるわけだ。

 

まずはこの世界の技術水準の範囲で作れる範囲の部品を集め、組み立て、そこからまだこの世界になかったレベルの精度を作り出す。そのためには旋盤の癖をある程度理解することが必要だが、まあなんとかなるだろう。これでも学年で指折りの腕だったのだ。まあ親の町工場でエンジン作っているようなやつには勝てなかったが。あいつは確か高専に編入したんじゃなかったかな。まったく、職人の高学歴化とかもあるがそもそもこの分野に進もうとする人間がいないのでどうしても高学歴でないとやっていけないとかがあるというのは世知辛い。この世界でもどうせしばらくすればそういう問題が起こるからどうにか解決策というかマシにするアイデアを用意しなくちゃな。

 

「つまり、場合によっては動く部品をなくすべきかもしれません」

 

『柔い金属と硬い金属を使うのか』

 

私の言葉に職人は蝋板に書いて答える。少しづつではあるが読めるようになってきたが、まだケトの助けは必要だ。

 

「ええ。錫や鉛、銅などであれば鋼を傷つけることはない」

 

『この溝は油溜めか?』

 

「ええ。ただ、これはどうしても油を流し込み続けないと焼けてしまうかと」

 

『ならば実際に長く使われている球やころのほうが良い、と。なるほどな、学びが多い』

 

「そちらもですよ。よくまあこれだけのものを」

 

私はある種の絡繰を手に取って言う。リンク機構の組み合わせで作られたもので、土台にあるクランクを回すと銅細工の鳥が身体を揺らすものだ。硫化物かなにかで表面が黒くなっており、少し暗い場所で見るとかなり本物らしく見える。

 

『古帝国の職人には手が届かないがな』

 

苦しそうに息を吐き、職人は文字を綴っていく。

 

この世界の現代の技術は、滅びた古帝国の水準に、少なくとも工学の一部分では到達していない。職人の集めていた古帝国語の写本などを見せてもらったが、ごく一部の人物あるいは集団が短期間だけ見事な物を作り出したらしいということはわかった。とはいえ機械仕掛けの天文現象計装置で超新星爆発らしき現象を予言するというのはどう考えても伝承だろう。ニュートリノ検出器でもない限りそんな事はできないし、それでも数時間しか時間的余裕はない。

 

まあそういうふうに技術の興隆は一瞬で、その後の古帝国崩壊時の混乱によって多くの機械や文献や知識が失われたので伝聞やら誇張やらの重なった史料をもとに復元がなされているのである。職人が求めているのはもはや歴史上の遺物の再現というより、当時の人々が夢見た理想そのものであると言ってもいいかもしれない。なんというか、こういうときに史学的に正しい歴史を彼に言ってもあまり意味がない気がする。

 

『それより、そちらのほうはどうだ?』

 

「部品の鋳造なら受けてくれる場所がいくつかありました。条件を提示したら嫌な顔をされましたが」

 

『最終目的を知らぬ以上仕方あるまい。交換可能な部品など、今までは必要のないものだからな』

 

「まあ作る横轆轤(ろくろ)までそうする必要も完全にはないのですが、やはり螺子(ねじ)を切る以上は精密さは必要となってきます」

 

『ふむ。まあ最初は手で作るしかない、か』

 

「木製でもいいんですけれどもね。それなら鋼で削るための道具を作ればいい」

 

『木目は読めるのか?』

 

「うっ……」

 

私の中に木材加工に関する知識はほとんどない。木目の方向と強度の関係性が存在することはわかるが、具体的にどういう木をどの程度の乾燥させてどの向きでどう加工するかの具体的な話となると完全に駄目だ。その上私の知る木材と木の対応はこの世界ではあまり成り立たない。針葉樹と広葉樹程度はあるが、それより上のちゃんとした分類は私の知識ではできないのだ。

 

『知り合いに水車をいくつも作ってきた職人がいる。かつては君のいた図書庫の城邦にも行った一団の弟子だ。必要なら彼に聞け』

 

「ああ、その水車ならたぶん見たことがありますね」

 

トゥー嬢の父が作らせたあれだ。今では動力が発電機に一部使われているやつ。あまりやり過ぎると揚水が止まって大変なことになるので、私が帰ってくる頃にはたぶんもう少し小規模な水車が別に作られているだろう。あれは目的のために動力を取り出すには効率の低い設計がされていたからな。



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切削

ラジアル玉軸受(ボールベアリング)では内側と外側の回転を吸収させることができるが、これを作るためには綺麗な円筒を削る技術が必要だ。旋盤を作るために旋盤が必要なのである。

 

『最低限動く横轆轤(ろくろ)の軸受は木でも動くはずだ』

 

「それで部品を更新していく、と。そういうことができるように設計しておいてよかったな……」

 

私の設計した旋盤は少し不思議な構造になっている。例えば心押し台、つまりは回転する被工作物を回転するのと反対から支える部分がかなり動くようになっている。これは旋盤の加工範囲より長い螺子(ねじ)を切れるようにしているからだ。こうすればどんどん大きな旋盤ができる。必要な部品の中で旋盤で作るようなものは、この旋盤自体で再生産可能なようにもなっているわけだ。もちろん普通の旋盤は自己複製のために設計されていなかったので、実際に動くかどうかは保証対象外です。まあやってみるしかない。

 

そういうわけでなんやかんやで金属加工用旋盤第一号が完成した。木と真鍮と青銅と鋳鉄とが組み合わさったなんとも奇妙な見た目である。自動切削された石で打ち砕かれそうだ。そうかダニエル書のあれはNC旋盤がシェアを握るという予言だったのか。

 

「それじゃ、少し削ってみますか」

 

動力は人力である。足でペダルを踏むとクランク機構で青銅製のはずみ車が回転し、それに連動して回る真鍮の切削対象を浸炭処理した刃具(バイト)が削っていくという仕組み。歯車による逆転切り替えやギア比なんてものはない、原始的も原始的な代物だ。しかしねずみ鋳鉄製の骨組みはかなりしっかり振動を吸収してくれている。

 

加工対象は鉛を少し混ぜたなんちゃって快削黄銅。RoHSなんて知らないぜ。一応切り粉が飛ばないようにマスクはしているが、目は防護できていない。透明度の高いプラスチックとか作りたいが何がいいのだろう。ぱっとポリカーボネートが思い浮かんだがこれは色々ときな臭いビスフェノールAと第一次世界大戦で有名になったホスゲンの反応で得るとかいうまともな密閉技術もドラフトチャンバーも適切な防護具もなしには触りたくない代物である。……たしかビスフェノールAはフェノールとアセトンで合成できたよな?ちょっと待て。フェノールは石炭酸の名前の通りに石炭から回収できるし、ベンゼンをあれこれしてもいい。アセトンは発酵で得られる2-プロパノールの酸化。ホスゲンは不完全燃焼でできる一酸化炭素と電気分解でできる塩素を活性炭触媒で反応させればいける。案外高校化学の範囲で色々できるもんなのだなぁ。とはいえ技術を確立するまでに何人か、あるいはもう少し死ぬのでしばらく保留。今は適当に板状に切ったガラスでいいか。まあ手持ちにないので今は目に金属片が飛んでこないことを祈るしかない。

 

さて、どうでもいい思考はここまで。工作機械を相手にするときは油断すると死にます。髪は後ろでまとめておいた。袖は縛ってあるし、紐は袖の内側に入っている。服の裾も高さ的に巻き込まれる範囲外。当然手袋もつけていない。よし。

 

回っている歪な円柱状の真鍮に手で持った刃具(バイト)を当てると小気味いい音とともに切り屑が出てくる。

 

「表面が荒いな、ですって」

 

職人の筆談内容をケトが伝えてくれる。わかってるよそんなことぐらい。ちゃんと刃具(バイト)を固定するための台も設計はしてあるのだが、それは螺子(ねじ)で回転と連動して動かしたいのでまだ用意していない。平面を出すのも簡単じゃないしね。

 

工具を交換。作っている部品自体は特に用途のないものだが、なんとなく高校生ものづくりコンテスト旋盤作業部門に出てくるようなやつを形だけ参考にしている。螺子(ねじ)は切っていないし、テーパーも歪んでいる気がするがまあいいんだよ。

 

回転速度が落ちないようにペダルを踏みつつ、刃具(バイト)をゆっくりと移動させる。削りやすい角度、当てるときの強さ、回転速度の調整。ここらへんは多少は慣れている分すぐに見当がつく。とはいえ指先に当たる感覚がどうしても滑らかじゃないな。軸自体があまり真っ直ぐではないし、周期的な揺れが私の持つ刃具(バイト)を揺らしている可能性もある。

 

さて、大体の形ができたので突切りに入ろう。溝を作るように刃具(バイト)を垂直に当て、その溝をどんどん深くしていく。中心軸に向かってまっすぐに。

 

回転速度を少し下げる。少し刃具(バイト)を引っ込めるとちゃんと細い接合部が見えた。そろそろだ。一瞬部品がぐらついた後、切り離されて工作台の上に落ちた。

 

「こんなものですかね」

 

布で掴み上げ、職人の方に渡す。しげしげと眺められると少し怖いものがあるな。

 

『これをあの時間で作れるのか。いいな』

 

「全部手で削ったり、鋳型を作るよりかは楽でしょう。もっと改善を重ねていけば、より細かい加工も可能です」

 

これで最初の関門は突破した。あとは部品を作っていく作業に入るわけだ。



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転造

さすがは職人と呼ぶべきか、私の作業を見て数日旋盤を触ると彼もすぐに慣れて様々なものが作れるようになり、半月も過ぎれば旋盤の総金属化に向けて着実に作業を進めていっていた。そうしている横で私が作っているのは歯車である。基本的には鋳造で、削って調整をした後浸炭焼入れで強度を上げる。インボリュート曲線も使った、それなりの代物と自負している。

 

「で、ここを切り替えれば回転方向が逆になる」

 

ある種のギアボックスだ。普段は二つの歯車を噛み合わせることで動力を伝達しているが、途中で一個小さな歯車を挟むことで回る向きを逆にできる。マニュアル車のリバースギアと基本的な原理は同じ。というかトルク比を変えられたりするあたりも完全にそのものだな。なおちょっと強度と加工が怪しいのでギアの変更は停止してからお願い致します。

 

さて、どうしてこんな変な機構を作っているかというとこれがないと螺子を切れないからだ。あと歯車の比率を変えれば刃具(バイト)の速度も変えられるので、例えばゆっくりと動かしていけば円柱を比較的簡単に作れるようになる。

 

 

『ところで、前に言っていた螺子(ねじ)を切るための工具とはこういうものでいいのか?』

 

私が鉄粉混じりの植物油で黒い手を拭いていると、職人が私の前に蝋板と銀色の何かを置いた。数月も改良を重ねているだけあって今では丁寧に仕上げをすれば少し曇る程度の表面性状を出せるようになった。たぶんRa換算で2ぐらい。あー、表面粗さ計はどうだろう、作れるのか?アーネスト・ジェームズ・アボットとフロイド・ファイアストーンのやつは光学系を使っていたし、アナログでどこまでできるものなのだろう。強力な光を当てて光てこ法でやるとか?っと、現実逃避をやめよう。

 

「これに、嵌まる太さの真鍮棒を……」

 

私の言葉に職人は手に持っていた棒を見せる。表面にはそれなりに綺麗な、一見等間隔に見える溝が彫られている。ああ、なるほど。実用レベルのダイスか。……手作業で行けるのかこれ?

 

「キイさん、これが何か説明してくれます?」

 

寝不足というか疲れが見えるケトが私に言う。

 

「いいけど、どうしたの?」

 

「一定の回転速度が必要だからと言われて、ここしばらくずっと頑張ってはずみ車を回していたんですよ」

 

なるほど。確かにこの部品は雌螺子(ねじ)を切ることができれば比較的簡単に作れる。鋼とかを削って焼入れをすれば、多少の歪は起こるかもしれないがまあまあのものは作れるはずだ。ただ、それでも回転に合わせて正確に刃具(バイト)を動かしていく必要があるはずだが。

 

螺子(ねじ)を作るための、専用の工具だよ。この内側に溝が刻んであるのがわかる?」

 

円盤に円柱形の穴が空き、内側に螺子(ねじ)が彫られている。たぶんこれは削るんじゃなくて塑性加工で螺子を作るタイプだな。ちゃんとやれば加工物にそれなりの強度を持たせることができそうである。

 

「見えます」

 

「穴と同じぐらいの太さの棒を用意して、そこにこの工具をねじ込んでいく。そうすると棒の表面に凹凸ができるわけ」

 

「……なるほど。そして、同じ工具を使えば同じ形の螺子(ねじ)を複数の棒に彫ることができる……」

 

「その通り。この螺子(ねじ)を入れるための穴の方にも溝を刻む必要があるから、そっちはそっちで別に作る必要があるけどね。けれどもこれがあれば、私の作っている機構と組み合わせて横轆轤(ろくろ)螺子(ねじ)を作れる。それも工具は自動で動いてくれるわけだ」

 

っと、そういえばここまで丁寧な加工にはなにか理由があるはずだ。

 

「……どういう工夫をしたの?」

 

『専用の工具を使った。刃先に角度をつけることで移動ではなく力を込めることに集中できる』

 

「なるほどね」

 

刃具(バイト)が固定ではなく可動であって、かつ職人の腕と慣れがあってできるものだろう。確かに彫金とノリは似ているのかもしれないけどさ、そう簡単に作られても困るんだよ。

 

『しかし、これでいいのか?』

 

「というと?」

 

『求める螺子(ねじ)は幅も高さも決まっているのだろう?』

 

「高さはいいとして、幅を調節するためにはまあ少し工夫が要るかな。そこは任せて」

 

無段階変速機というほどのものでもないだろう。パッと思いつく方法の一つは円錐形の回転軸をベルトでつなぐこと。ベルトの場所を調節すれば比率を変えられるので、いい感じの場所に合わせればいい。まあすでに螺子(ねじ)があるならここからうまい具合のサイズに調整したプーリーの組でもいいわけだし。ああ、旋盤があるというのは素晴らしいな。回転体の形状をしている部品をかなり簡単に作ることができる。

 

『わかった』

 

職人はそう言って旋盤に向かっていく。さて、私も仕事をしよう。主軸の回転と刃具(バイト)の動きを歯車仕掛けで同期させる。そうして作った螺子(ねじ)を組み込んで旋盤を作り直し、新しい螺子(ねじ)を作ればいい。加工のたびに多少の歪さは吸収されるので、最終的には等幅の溝が刻まれるというわけだ。



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焼入

両手で二つのロックレバーを押して解除し、脚に力を入れてペダルを踏むと音がする。ゆっくりと脚を持ち上げると、梃子(てこ)で押された工具によって鉄板に穴が空いていた。

 

「絶対に、周りに人がいないことを確認してから使うこと」

 

私の言葉に職人は頷く。単純だが安全装置として板バネで戻るレバーを押さないと加工できないよう仕込んでおいたから指を挟むこともないだろう。とはいえこれを大量生産に使うとなるとどんな使い方がされるかわからないからもっと安全性を高める必要がある。機械作業で集中することは必要だが、集中しないと事故を起こすような機械は欠陥品なのだ。

 

まあ、ピンとして使う円柱と綺麗な穴を作れるようになったので鋳鉄で適当に作った人力のプレス機である。理論上は1トンぐらい出るのかな。穴あけとか折り曲げとかに使える汎用的な代物だ。これでまた工作の幅が広がる。なお加工の最中に刃具(バイト)を旋盤の主軸に固定して工作物を台に乗せるという無茶苦茶なことをやっていたのは内緒だ。とても危ないので良い子はちゃんとボール盤を使おう。

 

『これで、細かな部品が作りやすくなるな』

 

「ある程度の数が要求されるものであれば、この便利さは捨てがたいですよ」

 

旋盤のような材料を削り取って形を作る切削加工は自由度が高いが、代わりに時間がかかる。一方でこのプレス機、まあ塑性加工みたいなものはセットして、圧力をかければ数秒でいける。一度で加工するのが難しいなら何回かに分けてもいい。転炉で低炭素鋼も作られているので、あとはロール技術があれば大量生産の時代が来る。なおロールについては製鉄場から漏れ聞こえる噂によればもう色々と試されている最中らしい。まあ、そう簡単には行かないだろうからしばらくは鋳物の薄板だ。プレス機で板を作ってもいいしね。

 

『後はこれを炉に入れれば良い、と』

 

「そうですね」

 

プレス加工においては内部に応力、まあひずみみたいなものによる力が発生する。金属の棒とかを無理に曲げても、しばらくすると多少は戻ってしまうあれだ。そういう応力を活かせば強度を出すなんてこともできるのだが、それはちょっと難しいので熱を加えて冷ますことで焼きなましをする。応力の原因は微視的に見れば結晶構造の歪みなので、いい感じに加熱して再結晶を起こさせるのだ。ここらへんの温度感とかは私の知識と職人の経験、そして数多の失敗を繰り返して掴みつつある。もちろん記録と分析を手伝ってくれるケトの功績は忘れてはならない。謝辞じゃなくて著者に乗るべきレベルだ。そういえばケトも簡単な統計分析ぐらいはできるようになってきた。数学にも慣れてきている。いいことだ。決して得意ではなさそうなのだが、まあこれだけ使えれば十分だと私が思う水準を超えているので定期的に褒めている。恥ずかしがっているが、正当な評価をしないほうが面倒なので褒め殺しにならないように注意しながら褒めよう。

 

あー、そういえば焼入れ焼きなましということはあれか、金属学についても進めておく必要があるのか。もちろん商業的に価値が出てくれば長髪の商者あたりがどんどん資金と人員を投入していくだろうが、さすがにそれをやられ過ぎると独占とかの弊害が出てくる。基本的な情報自体は出回らせてもいいだろう。とはいえどうやって鉄-炭素系状態図を作るかだよな。方法としてはそう難しくない。純度の高い鉄に少しづつ炭素を混ぜていって、適当なタイミングで少しづつ取り出せばいいだけだ。それを炉に入れて、状態変化を記録していけば良い。そんな安定した高温を出す方法があまりないのが問題だが。

 

何が良いかな。電気炉はオーソドックスだがニッケルもクロムも鉱石が見つかっていない。見つかれば一応電気分解とかマグネシウムでの還元とかで作れなくはないが、量が問題だ。まあ小さな電気炉に使うぐらいの分なら数年かそこらで用意できるだろう。温度計は白金とかロジウムが必要で、まあロジウムは白金鉱不純物として回収されるから酸で処理したりしてどうにかすればいいか。これも数年。今すぐには難しいが、布石は打てる。とはいえ鉱石がないと何もできないからな。山渡りと呼ばれる人達がいるようなのでその知識に頼るのもありかもしれない。

 

あ、太陽炉という方法もあるか。レンズや鏡で太陽光を集めるもの。十分大きな鏡で狭い範囲に集めればかなりの高温を作れる。とはいえこれは分析とかよりも少量のサンプルとか特殊合金作成に向いていそうだな。刃具(バイト)用のやつとか。

 

「ところで、前に見せてもらった絡繰の中の仕掛けはどうやって思いついたのですか?」

 

太陽炉には例えば放物面を持った鏡とかを使いたいところだが、それを作るのはそう楽ではない。硝子(ガラス)をある種のリンク機構で削って、とかができればいいのだが。

 

『勘と経験だ』

 

「ああ……」

 

そこも理論化しなくちゃいけないか。まあ幾何学と代数学の融合については座標平面という概念で準備はしてあるからな。これもそう遠くないうちに扱えるようになるだろう。



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改良

金属加工用旋盤第二号となんちゃってフライス盤第一号が完成してしまった。金属加工用旋盤第二号は旋盤第一号の改良の過程で交換された部品をメインに構成されているので同一性が怪しくなってくる。まあ鋳鉄の土台で考えればいいかとも思ったがこれも交換されているんだよな。うーん、金属加工用旋盤第一号が最初から引き継いでいるのは目的因ぐらいである。機械なのに。

 

で、回転して対象物を加工するという基本的性質は変わらないので加工物を二次元で動かせるようにしたのがフライス盤である。定義上はこれは立フライス盤。ただし金属加工用旋盤第二号はアタッチメントで横フライス盤としても使える。なんというか私の知識で名前を付けるのが良くない気がしてきたな。ひとまず加工できればいいんだよ。

 

そして金属加工用旋盤第一号に送り螺子(ねじ)が搭載され、水力で動くようになった。おかげで作業場所を数日がかりで移転させることになったが、この時に「鋼売り」の威光というか協力がとても助けになった。というより水車はここ数十年で注力されている技術らしく、工房の中でも持っているところがあったのだ。完成した旋盤の加工性能をカードにちょっと面倒な交渉をした甲斐があった。おかげで金属加工用旋盤第三号の注文が既に入っている。大変だ。

 

まあ、そういうわけで私はしばらく螺子(ねじ)の改良である。主軸と送り螺子(ねじ)の回転比を調整しながら秘蔵の基本文字高さ原器を取り出す。まずはこれと同じぐらいのピッチで刻んだ螺子(ねじ)を作る。そうしてそこから歯車などを微調整して新しい螺子(ねじ)を作る。これを毎日繰り返すわけだ。送り螺子(ねじ)とその回転に合わせて動く往復台の下の雌螺子(ねじ)を改良しつつ、加工物を掴むチャックや微調整用の送り装置なんかを作っていく。あと寒くなってきて金属製の部品を持つのが辛いので木製のハンドルも削る。金属用旋盤で木も削れるのか怪しかったがまあ行けるにはいけるらしい。

 

「キイさん?」

 

「待って」

 

ケトが書類を持って私の横に立つ。クラッチを離して回転を止めてから、改めてケトの方を見る。

 

「どうしたの?」

 

「一つ、まずは船の話です。この秋に出港するのは少し難しいかと」

 

「理由は?」

 

「氷が出始める時期が早いそうです。今から準備をして港に行っては間に合いませんし、陸路ではかなり時間がかかります。この横轆轤(ろくろ)を運ぶのも難しいですし」

 

「あー」

 

重量が数百キログラムはあるからな。多少雑に扱っても問題ないが、人力で運ぶにはそれなりの人数が必要だ。

 

「……なら、港が動けるうちに手紙を出すか。他には?」

 

「その手紙の話ですね。書いておきますか?明日ここから港の方に出る人たちがいるので、その人に渡せば届くはずです。あと新聞」

 

ケトが渡すのは多くの荒い紙。見出しには色々と興味深い内容が並ぶ。面白そうだが、これは後で。

 

「久しぶりだなぁ。一番新しいやつの日付は?」

 

「一月半前です。かなり滞ることなく運ばれているかと」

 

「そうか、そんなにかかるのか……」

 

片道でも45日、往復なら90日というのはかなりのものだ。何かを決めるにはこのタイムラグは長すぎる。物品はともかく、情報はそれなりの速度でやり取りされないと世界が回るのが遅くなるからな。問題が発生する速度も悪化する速度も上がるけど、それだけ問題を発見するのも解決するのも楽になる。

 

「無線機、そういえば最近使ってなかったな」

 

「通じるんですか?」

 

「実験用の電波は定期的に出されているはず。発電機もそろそろできるし、聞いてみようかな」

 

一応持ってきた発電機で鉛蓄電池の充電ができるようにはしてあるが、ちょっとした鍍金(メッキ)以上のことはできていない。

 

「わかりました。ええと、新聞にはざっと目を通したのですが面白そうなものを優先して伝えましょうか?」

 

「いや、面白そうなのは自分で探すから……。けど、重要なものがあるなら教えて」

 

「わかりました」

 

そう言ってケトは新聞の束をめくる。

 

「例えば発電用の水車が作られたとか」

 

「発電?何に使うの?」

 

「製紙ですよ。苛性物質が必要になっているそうで」

 

「なるほど。まあ排水とかの問題はしばらくは大丈夫そうだけど規模が大きくなってきたら対策しないとな……」

 

黒液のようなものなら主成分はリグニンなので燃料には使えるが、加工して化学原料にするのは難しそうだ。私のいた世界でそこらへんがあまりされていなかったのは純粋に石油とかから作ったほうが楽だったからかな?ああでも燃料にするならタービンが必要か。最終的に電力は原子力発電まで持っていきたいので高圧蒸気の取り扱いについてのノウハウの蓄積を行いたいところだ。

 

「それと無線通信の改良が進んでいるようです。既にいくつかの船に搭載されているとか」

 

「受信機が?それとも送信機が?」

 

「送信機は真空管の問題でかなり難しいそうです。受信機であれば手回し発電機と合わせて置かれていると」

 

「かなり進んでいるな……」

 

私はケトが指差す記事を見ながら言う。私がいなくとも、改良は着実に進んでいるのだ。



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毛織物

「北方平原語よりも、聖典語のほうがいいと思います」

 

久しぶりに会った「鋼売り」所属の女性は私の原稿を読んで言う。

 

「理由は?」

 

「鍛冶言葉なんかは北方平原語で統一されたものがない以上、全部聖典語でやったほうが誤解は少なくなるかと」

 

「なるほど……」

 

そう呟いて書いていた紙をまとめる。内容は採鉱、酸と塩基による分離、電気を利用した精錬、合金製造、金相学、各種加工など。De re metallica(デ・レ・メタリカ)を訳したときの色々が役に立っている。内容はどれもひどく大雑把なものだしこれを読んだだけではあまり実用的ではないが、将来への方針を示してはいる、はず。ある程度方向性がわかって改良ができるようになるからこういうものを広めておきたいのだが。

 

「私の作る冶金術の教本、そんなに読まれることになると思います?」

 

今更読者からの需要があるかが気になったのでこの地域の専門家に聞く。市場調査はお手の物だろう。

 

「……出さないと見当もつきませんね」

 

小冊子として出して、本の形にせずマニュアルの一環として使われるようにすればいいのかもしれないが、そのためには言語の壁が立ちふさがる。ここらへんは面倒な問題だ。図書庫の城邦の付近であれば学徒として学んで志半ばに学問の道を諦めた人たちが地元に戻って知的基盤を支えているのでかなりの範囲で東方通商語の読み書きができるし、衙堂の司女や司士が筋の良い子供世代に本を読めるよう教育することもある。だからあの辺りでは印刷という技術がすぐに受け入れられた。ここはあまりそうではない。

 

「むしろ、北方平原語の用語を作ってしまったほうがいいか……?」

 

「それはキイ先生がやるべき仕事ではありません。私たちならともかく」

 

「……まあ、確かにそうか。もちろん『鋼売り』が完璧にできると評価しているわけじゃないからね?」

 

「当然です。ただ、それでも私たちのほうが多少はうまくできるでしょう」

 

自信がありそうだ。まあ、別に大きな問題は起きないだろう。後で混乱を招く用語制定をされなければ大丈夫だろうか?

 

「わかりました。そういえば文字版印刷機って仕入れていますか?」

 

「先日入りました。今ここに運ばせています」

 

ああ、ケトが持ってきた新聞と同じ船だろうか。あと通信機は駄目だった。昼間に聞こえたような気もしなくもなかったが、有意かどうかはわからない。向こうから送られてくる正午の時報はここからだとたぶん早く聞こえるはずなのだが、詳しくは分からない。

 

「そうなったら、文字版を紙に押し付ける部分を改良したい。今は螺子(ねじ)で圧力をかけているけど、例えば脚で踏んで持ち上げる重りとかでも代替できるはず」

 

「わかりました。既に手を借りる職人は選んでいるので、話を通しておきましょう」

 

「すまないね」

 

「構いません。キイ先生の貢献は『鋼売り』にとってとても大きなものです。銀片の詰まった袋以上の価値がありますよ」

 

まあ確かに、食費だの旅費だの宿代だのはかなりもらっている。もちろん必要以上というわけではないが、毎日お腹いっぱい食べることができるし暖かい布団でケトと寝れる。その分働いてはいるが、純粋な労働量とかを考えると街を歩く時にすれ違うこの寒くなってきた時期にボロ布を纏っている人のほうがそういう扱いを受けるべきかもしれない、などと面倒なことを考えてしまう。まあこういう思考は偽善的と言われればそれまでなのだが。

 

「それと、『鋼売り』は布を取り扱ってる?」

 

「輸入品であればですが」

 

「ここでの生産として」

 

「そうですね、一部の地域では山牛*1の毛を使った織物などもありますが」

 

「あー……」

 

確かに毛織物を着ている人は結構見かけるな。私の知る紡績機や力織機は基本的に綿を使うことを前提としている。となるとそういう方面よりもバリカンみたいなもののほうが価値はあるのか?いや、結局糸にしてしまえば同じか。太さとか強度とか摩擦特性とかのパラメータの差はあるだろうが。

 

「注文をしていいですか?」

 

「どうぞ」

 

「その山牛の毛をある程度と、織物に使っている機構が見たいです。機構については見ることができれば十分ですね」

 

「そういう機構を作るのですか?」

 

「ええ。水車で動くようにしようかと」

 

「……山牛毛の織物は、少ない冬仕事となっている場合がありますが」

 

「あ、となると冬は水車が回らないか」

 

「いえ、問題はそこではありません」

 

「収入源を奪ってしまう、ということ?」

 

「その通りです。『鋼売り』としては貴重な売り先を失いたくはないので」

 

「毛織物の買い先ではなく?」

 

「はい。毛織物で得た銀片で様々なものを買いますからね。そういうところに物資を運ぶのも小さくない稼ぎ場です」

 

なるほど。行商人みたいな事もやっているのか。改めて考えるとかなりの物流網がある。これらがある程度まとまった組織として存在するのだから、もっと効率的に、有機的に動かせればどれだけの力を持つか。

 

「ならこうしよう。人力で、比較的簡単な操作で織物を作れる機構を作る。部品は交換可能にして、修理もしやすいようにする」

 

「悪くないですね。では、数日後また別の地に行くのでその時に色々と事情も聞いてきましょう」

 

「ありがとうございます。……ところで、出かけるのは使節官と?」

 

「ええ、あの方はまだ少し私たちと理解の齟齬があるので」

 

そう言って彼女は微笑む。

 

「互いに歩み寄ることは大切ですよ」

 

私もできるだけの笑顔を浮かべる。ま、使節官のほうもそれなりには頑張っているようだ。私も私の仕事をしよう。

*1
ヤクやターキンに似た高山・寒冷地に適応したウシ科動物のようなもの。



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文様

「奇妙な仕組みだ」

 

私は目の前の装置を見て呟く。ある種の紡績装置なのだが、紡錘車とも糸車とも違う。使う時には二人がかりだ。一人が軸を回し、もう一人が糸を出していく。糸のもとになる山牛の毛は図書庫の城邦の主流繊維である麻のようなものに比べて撚りを強くしなければならないためこうなっているのだとか。

 

一人が重りのついた軸を回すと糸が吸い込まれていく。もう一人が左手で持った塊から少しづつ右手で繊維を繰り出していく。ここで繊維にかける力を調節することで糸に撚りをかけるか糸を軸に巻き取るかが変わるということらしい。軸の回転に使う動力を水車とかにして、フライヤーをつけて撚りを自動化すればかなり手間は少なくなると思うが、それを超えるとなるとかなり手間がかかりそうだ。リング精紡機に直行できるほどの技術があるわけでもないし。大規模生産体制よりも、家内制手工業レベルで効率化を考えたほうが良さそうだ。

 

「うちの夫は繰りが上手くてねぇ」

 

ここの家主であり、作業者の一人の妻がそう言って私たちに温かい飲み物を出してくれる。赤いベリーを煮詰めたものに酒や香草や薬草などいろいろを混ぜたもので、かなり匂いや味が独特だがおいしい。ケトがちびちび飲んでいるところを見るとそこまで嫌ではないようだ。身体もどこか温まってきた気もする。

 

「そうなのですね」

 

やはり日常会話というか世間話はかなり厳しい。専門用語を使って文法通り話すのとは違って、文要素を平気で落としてきたりリエゾンがあったりするので辛い。ケトもここらへんは私と同じぐらいなので、使節官と「鋼売り」の案内人の通訳というか手助けがあってなんとかなっている。

 

「それにしても災難だねぇ、いきなりの雪に降られるなんてさ。あっちのほう、うちの夫の向かいに座っている人なんかは今日は薪拾いに行くつもりだったのにこんな空模様じゃねぇ」

 

ああ、これは長くなるやつだな。脳を相槌モードに切り替えて今後のことを考えよう。今いるのは街道沿いにある集落。雪が激しくなる前に温泉に行こうということで軽い荷物を持っての移動である。ここからしばらく先にある少し大きな村からは定期的に「鋼売り」の隊商が出ているので、それと混じって温泉まで行こうというわけだ。なお今の時期に温泉に行くことは珍しくはないらしいが、ピークでもないとか。

 

それにしてもみんな頑丈である。靴についてはケトにも買わせたが、どうやらもぞもぞするらしく今も脱いで部屋の中央にある暖炉みたいな暖房器具に足の裏を向けている。まあ今の時期は凍瘡とか凍傷とかが怖いものな。少なくとも防水だけはしっかりしておけと靴屋の人に言われたのでたっぷりの蝋を塗ってあるし、背嚢の中には靴下代わりの布がいっぱい入っている。

 

「こういうふうに糸を作るのは男性の仕事なのですか?」

 

私は小声で「鋼売り」の案内人に聞く。

 

「私のいたところでは子供の仕事でしたし、場所によって違うと思います」

 

なるほど。まあ手の空いた人がやる、というものなのかもしれない。このあたりは緯度もあって冬は長く、時間が余る割にできることが少ないのだ。そして人口が増加するし、気象のせいで食料生産量が限られるのもあって傭兵とかになったり出稼ぎに行く人も多い、と。こういうところに下手に家族計画とかの思想を持ち込むとそれはそれで面倒なことになりそうだな。

 

「母から聞いた話では、柄織りは女性の、無地織りは男性のするものだという話もありましたね」

 

「面白そうねぇ」

 

私たちの話を聞いていたのか家主がこちらに向く。

 

「このあたりではあまり柄織りはしないわねぇ。綺麗なんだけど、なかなか大変で、そうそう、うちの祖母の姉がそういうのが得意で、『鋼売り』さんたちにも高値で買ってもらっていてねぇ、見るかい?」

 

「ぜひ」

 

私は少し身を乗り出して言う。こういうものが見れる機会は逃したくないのだ。

 

「これだよ」

 

そう言って家主は私たちの前に一辺が腕を広げたぐらいの長さがある正方形の布地を見せる。手のひらぐらいの正方形のパターンの組み合わせだ。ある一定の繰り返しパターン……いや、違うな。重なりに周期性がないし、色も様々だ。たぶんわざとだろう。近づいてみれば直角に曲がる線という規則性があるし、遠目で見れば規則性らしいものがあるが、例えば数個のパターンを見ると一気にバラバラになる。それでいて調和というかリズムがあるのだ。準結晶みたいな感じに近い。

 

「凄いですね……」

 

「ええ。これなら銀片数十で取引されるでしょうね」

 

私が呟くと、案内人が商売人らしいコメントをくれる。このあたりの物価は図書庫の城邦に比べれば多少低いので、それを加味すると悪くない収入源になったのだろうとは推定できる。

 

「私はその大叔母さんに気に入られていてねぇ、あまり私自身は撚ったり編んだりは上手じゃなかったけれども、こういうものを貰ったりもして……」

 

首から下げていた小物入れらしいものを彼女は見せる。さて、今夜は色々聞けそうだ。



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織機

「ここを引くと、一部だけ糸が切り替わるのよ」

 

かなり複雑な木製の機構を見て私はちょっと引いてしまう。複雑さはかなりのものだ。足踏織機よりも作るのが難しいかもしれない。竹みたいな繊維が見える木化しているものは鈎のついた針で、複雑に張り巡らされた糸に引かれることで経糸を動かす。ジャカード織機というほど複雑ではないけれども。で、浮いた経糸の間に染めた糸を通して行くわけだ。この通すときの道具らしい棒もある。とはいえ労力の軽減をより多くの布を作ろうという方向ではなくより複雑な文様を作れるようにしようという方向に使っているとなると、たぶんそちらのほうが市場における付加価値が高くなるのだろうな。

 

「けれどもねぇ、取っておいてあるのだけれどもこれを使える人はいなくって」

 

家主の女性がため息を吐く。見る限りは加工水準と複雑さからして足踏み織機ぐらいはできていてもおかしくないぐらいだ。少し動かしてみると、埃が積もっていて少し硬いが可動する。全体を撮影しながら分解して、ラベルを張って、3Dスキャンををかけて……と頭の中で懐かしい仕事の手順を考えていた。今はそういうことをする必要はないんだよ。

 

「もっと単純な、無地を編むためのものはあるのですか?」

 

「うちにはないけど、隣にはあるよ」

 

そういうものなのか。

 

「借りに行く事があるのですか?」

 

ケトが聞く。

 

「借りるっていうかねぇ、別に隣の人だけのものってわけでもないし、そりゃまあ置き場所を作ってくれているぶん、うちが使うときには煮物とか作って持っていくけどねぇ」

 

あー、所有の概念がいいかげん?いや、共用財産として扱われているとかのほうが近いか。初期投資もそれなりに必要だろうしな。

 

「私の知っている良い織り台を持っている場所の一つがここですからね。本当は少し寄るだけのつもりだったのですが、寝る場所まで頂いて本当に感謝します」

 

そう言って礼をする「鋼売り」の女性。ああ、少し遠回りに思えたルートは集落に寄れるからという理由だけではなかったのか。

 

「ところで、どうしてこの……決して人手があるわけではないここで、こういうものが作られるのでしょう?」

 

私の知識では、こういう改良は確かに趣味人の手で行われることも多かった。しかし資本や情報の共有などの観点から考えると都市とかで発展しそうな気も……待て。資本をつぎ込んでまで布は作るものではないと認識されているし、情報の共有ができるようになったのはここ数年だったりするのだぞ?忘れていた。時代とか歴史背景が自分の知識とごちゃまぜになってしまう。これはよくない。

 

「こういう細かい作業がみんな好きだからかねぇ」

 

遺伝、家庭環境、教育、あるいは有形無形の圧力。まあ矯正と言えるほどでもないのだろう。興味を持つ子供がいればそれを伸ばすし、実際の作業を目の前で見せる。全ての人がそれで学ぶとは限らないが、少なくとも一定の割合でいるある傾向を持つような子供には高い効果を持つだろう。

 

「もし、例えば足で木を踏んで糸を入れ替えるような織り台があったら手に入れようと思いますか?」

 

「うちのところだったら買ってばらばらにして中身を見ようってする人がいっぱいいるだろうけど、他のところでは難しいかもしれねぇ」

 

「そうですか……」

 

むしろ競合しない場所で布の大量生産をしてしまうか?とはいえ今の分野と重ならないとすると新しい領域を見つける必要がある。それ自体は別に探せばあるだろうし、私の知識の中にもネタはあるので良いのだがそれを市場として成長させて商業として軌道に乗せられるほどにできるかと言われれば結構厳しそうだ。長髪の商者はそれをやってのけようとしているというかたぶんもうある程度は成功させているので怖い。それだけで後世の研究者が論文を何本か書けるほどだ。

 

「まあでも布なんていっぱいあって困るものでもなし、売れなくなったら自分で使えばいいしねぇ!そう気落ちしない!」

 

家主の彼女は私の背中をバンバンと叩く。持っていた飲み物が揺れる。あぶない。まあ、確かにそうだ。一応旋盤ができたのでこれ以降はもうおまけに近い。私がやりたい工作の分は終わったし、湯治から帰ってきた頃には工房街で旋盤が使われ始めているだろう。

 

「雪も弱くなりましたし、明日には出れそうですね」

 

少し外に出ていた使節官が戻ってきて、外套から雪をはたいて言う。こういうところで色々な情報収集をちゃんとしているのは偉い。たぶん外で他の人と世間話をしたり「鋼売り」の評判を確かめたりしていたのだろう。現場の空気というのは吸いすぎてしまうと客観的な評価ができなくなるが、吸っていないと全く見当違いのことを言うようになってしまうのだ。何度もやらかしたので断言できます。自慢にならない。

 

「それはよかった」

 

あまり色々と寄る事のできる旅ではないが、ここだけでもかなり面白いものが見れた。逆に言えばこのレベルの機構であれば修理や改造ができるということになる。共通部品をできるだけ増やし、各所に旋盤を置いておけば「鋼売り」がそういったメンテナンスとかの業務をするときも来るかもしれない。



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天幕

靴に滑り止め代わりに巻いた紐越しに薄く積もる雪を感じながら、気をつけて道を進む。転んだところでそれなりに頑丈な外套を着ているので大きな怪我をすることはないだろうが、それでも気をつけて。消毒薬とか作っておくべきだったかな。まあ基本的には炎酒でもいいのだが。とはいえ手術とかのレベルになるともっとちゃんとした消毒剤がほしいんだよな。過酸化水素とかエチレンオキシドとか。合成方法なんて覚えてないが、まあ材料を入れて高温高圧でいい感じの触媒を突っ込めばいけるやろ、知らんけど。

 

「よっし、ここらで天幕を張るか」

 

発音の癖が強い北方平原語で商隊長が言うと、商隊の荷を積んだ山牛車とか見張りの人とかが足を止めて泊まる準備を始めた。なお商隊と傭兵団はほぼ同義語だ。あまり治安は良くないので、荷物を運んだり料理をしたり天幕を張ったりとしている人のほとんどが戦闘人員なのである。「鋼売り」の名にふさわしく、なかなか切れ味が良さそうな曲刀を多くの人がつけている。料理にも工作にも使えて便利だ。そして研いでいる人もいる。数十人の商隊が休息するとなると一気に賑わうな。移動中は張り詰めた空気があって怖いのだが。

 

「……それは?」

 

私は枝を集めて山にした男性の手元にあるものを見て聞く。

 

「ああ、ここ以外じゃあまり見ないのか」

 

そう言いながら男は私の目の前にそれを見せてくれる。針葉樹の葉らしきものに黄土色の何かがついていた。鼻につく独特の匂い。

 

「あー……何がついているかは知っていますが、北方平原語で何と言うかはちょっとわかりませんね」

 

「あんたの知ってる言葉だと?」

 

「聖典語で『硫黄(火晶)』となります」

 

「なるほど。こっちでは青炎とか臭石とか呼ばれてるな」

 

「ああ、なるほど。確かに」

 

前者は燃えた時の炎の色に、後者は燃えた時の匂いに由来しているのだろう。聖典語だと語源は「火の鉱物」と言ったところだ。まあbrimstoneも「燃える石」だしな。

 

「こいつはあっと驚く代物ですぜ姐さん」

 

そういって物々しく彼はいろいろなものを広げる。この一人称は製鉄場で時々呼びかけに使われたな。旦那とかそんな感じの言葉の女性版。ma'amみたいなものだと思えばいい。

 

「火種が尽きたとき、旅の途中、そんな時でもこいつがありゃぁ」

 

そんな事を言いながら取り出した火打ち石で鉄の塊をガツンと叩く。火打ち石はなんだろう。文字通りの燧石(フリント)とかだろうか。まあいい。火花はあまり見えないが途中で別れるのは確認できたので炭素濃度はあまり高くはなさそうだ。良く鍛えた鉄ということになる。こういうところで工業高校の教科書に載っていた図をちゃんと見ていた成果が出るものだな。

 

「ほうれ一発」

 

枝から少し煙が出る。男が少し枝を振るようにして空気を通すと、一気に炎が出た。

 

「あなたの腕がいいからでは?」

 

「へへ、どうも。けどやっぱり便利だぜ」

 

着火用の道具となるとぱっと思いつくのは圧電素子を用いて液化ガスに点火するもの。けれどもPZT、チタン酸ジルコン酸鉛は作れない以上フェロセリウムとかがいいのかな。セリウムがどこにあるか知らないけど。ランタノイド系列なので長期的にはそういう鉱物資源を見つけておきたいのだが。っと、そういえば圧気発火器なんてものもあったな。これはいい感じのシーリング材が見つかれば今の工作機械の精度で作れるはず。何が良いかな。確か東南アジアあたりで使われていたやつは紐とかで密閉していたはず。こういう素材も一個一個探して作って試してとやっていかねばならない。ここらへんはノウハウ率が高くて教科書には載っていない分野なのだ。だからこそ調べると楽しいのだがそれが発表できるレベルになるかというと微妙だったりする。どうでもいい知識だけが積み重なっていくのだ。

 

「さてさて、これは天幕の中に入れてしまおう」

 

火鉢のような入れ物に熾火になりつつある木を入れて、彼は天幕の方に運んでいく。暖房代わりというわけだ。っと、気がつくと夕日が眩しい時間になっていた。あっという間というほどの短い時間で山牛の革と山牛の毛で作った織物で高さが私の背よりも低い天幕が複数貼られている。寝るためのものだな。なかなか面白い仕組みである。一定の表面積で囲める最大の体積を与えるような図形は球だったはずなので半球にするのが最適解なのではと思ったが、人間が横になって入れればいいので高さはそこまで必要ないのか。

 

つけられた火が他の人に回収され、お湯が沸かされたり香ばしい匂いがしてきたりする。全体的に滞りはなく、行動がきびきびとしている。部外者である私たちが手を出せないほどだ。あ、案内人として「鋼売り」から来た彼女はちゃんと天幕設営の仕事をしていた。今日はここで毛布に包まって寝ることになる。基本的に複数人で一つの毛布を共有することになり、なんか色々と噂を聞くにどの組み合わせで寝るかがちょっとした揉め事になるらしいが私とケトは二人で一つの毛布を使っていいらしい。ありがたいことだ。



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体温

寒冷地において、防寒はかなり重要である。一応この北方の地域では下着、中着、上着の分類がある。下着は肌着で、麻みたいな吸湿性の素材。中着は様々だが、私が着ているのは羽毛を詰めた綿入れ半纏みたいな感じのもの。これに上着としての外套を羽織るわけだ。下半身に穿くのも下着と中着があって、上着のかわりになるのが外套。靴も何種類かあるが、ここらへんでよく見るのは底を木で作り、小動物の毛皮で上部分を覆ったものだ。

 

っと、なんでこういう話をするか。寝るときは下着だからである。下着と言っても袖は長いし、タイツみたいなやつはくるぶしまであるし、薄手とはいえ露出はそう多くない。縫製もそこまでしっかりしているわけではないので身体のラインも出ない。蚤とか虱もあるので数日に一度は下着を交換して洗ったりするのでそれなりには清潔なはずだ。まあ裸自体はそこまで羞恥の対象にならないらしいので別にいいのだけれども。

 

「……寝た?」

 

背中ごしにケトの体温を感じながら呟くように言う。

 

「……起きてますよ」

 

小さな声。編んで作られた毛布というか布団というか、まあなんかそういう温かい防寒寝具の重さを感じる。熱源が二人分あるので中はそれなりに温かい。なお下着姿なので夜は外に出られない。暖房がついているとは言え寒いので。一応外套はそばにおいてあるので最悪それを羽織って震えながら行動することはできるけれども。

 

「この天幕の中の、他の人は寝たのでしょうか」

 

「たぶんね」

 

防音性はわからないのでできるだけ小声で。他の人を起こしたくはない。

 

「……外から、音がしますね」

 

静寂に慣れた耳をすませば、遠くから人の声のようなもの。天幕の革とかで隔てられているせいであまり聞こえないが、女性だということぐらいはわかる。

 

「まあ寝る場所を共にするっていうのは、そういう意味もあるんだろうしね」

 

私はため息を吐く。商隊における女性の割合と誰と同じ毛布になるかで揉めていたこととを考えるとまあ、夜伽の類だろうな。雰囲気からしてそういう仕事という扱いなのだろう。ケトも一応ここらへんの事情は聞いたか察したかは知らないがわかってはいるらしい。しかしさすがに男女ペアの旅人、それも商隊にとっては上の方の存在である「鋼売り」の関係者とかとなるとまあ、そういうものには混ぜられないわな。そういうわけで私たちの天幕には妻がいる人だったりそういうのに混ざらない人だったり私たちのような一緒に旅をする人なんかが寝ている。とはいえもうそれなりに夜なはずだ。これでこの後ただまっすぐ進めば良い私たちとは違って偵察やらなんやらで一日中歩き回るのだから凄い体力である。私には無理なので目を閉じて微睡みに入ってしまおう。

 

「……僕も、誘われたんですよ」

 

ケトの言葉で少し意識を戻す。

 

「へえ、そういうのもあるんだ」

 

まあ、ケトが私の隣りにいるということはそれなりに司士見習いとしての自覚とかがあるのだろうか。そう考えるともし私が誘われても断る理由はできるな。まあ雰囲気からして無理強いという感じではなかったし。そりゃまあ本当に本心からかみたいな問題はどこでもあるけど、働きたくて働く人はあまりいないので多くの人は望まない仕事をしていることになる。その中で選んだマシな仕事について、他人がとやかくいうべきではない。それに私たちは部外者なのだし。

 

「……いいんですか」

 

ここで何が、と聞かないあたり私もそれなりにこういうことへの理解がマシになってきた気がする。

 

「君の行動を私の感情で決める事はできないよ。興味があるなら行けばいいと思うし、衙堂の人に黙るぐらいはしておくよ?」

 

「そういう意味ではないんですけれどもね?」

 

んー、外した。まあここらへんの話は具体的な核心を伏せがちだからな。ケトは基本的に私相手ではちゃんとわかるよう言うはずなので、そのケトがわざわざそうしないものに突っ込む必要もない。

 

「私なら不機嫌になるとまではいかないと思うよ。……実際はそういうふうにならないとわからないけど」

 

「いえ、それならこれは僕の問題なのでいいのですが」

 

「いいの?」

 

ケトはそろそろ元の世界だったら酒が飲めるし煙草もいける年齢だ。いや、もう超えたかな?思春期は終えているはず。

 

「禁じられているというのもありますが、あまり興味が持てないので」

 

「まあ、それについては私もそうだけどね」

 

「そう、ですか」

 

意識がふわふわしている。明日には目的地につけるだろうから、冷えた身体をしっかり温めたい。

 

「……こちらを、向いてくれますか?」

 

私は眠いので口を開かず、圧力がかかる中で身体を動かす。下着が毛布とひっついて動きにくいな。繊維の形の問題だろうか。それとも上に重ねた布団のせいか?

 

「ちょっと抱きしめるようにして隙間作ってもらえない?うまく動けなくて」

 

しばらくもぞもぞした後、諦めて私はケトに助けを求める。

 

「はいはい」

 

少し呆れたような、それでも優しい声。腕の中に入る私と同じぐらいの大きさの身体。いや、どっちだろうな。私がケトの腕の中にいるのかも。

 

「そこに腕を入れていると痺れない?」

 

脇の下に入れられた手の体温を感じながら小声で言う。

 

「大丈夫です。嫌でしたか?」

 

「いいや?君がそれでいいなら、そのままにして」

 

「わかりました」

 

外からの音はいつの間にか静かになり、聞こえるのは呼吸音と拍動だけとなった。



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第17章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。キイとケトの関係の裏から世界設定を読み取るような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


軸受

僅かに耳は使えるし、口の動きを見れば概ねは。

聴覚障害者に対する教育は19世紀後半に活発化し、一時期は口話法と呼ばれる口の動きや身振りから話の内容を読み取る方法が主流となり、発音練習などを含めて社会への適応を模索していた時代があった。しかしながら「言語を共有することで生まれるアイデンティティ」という方面から手話が評価されたり、人工内耳の発展によって治療ができるようになった例が増えるなど今なおこの分野は変化が大きい。

 

復元

6から始まるやつ。

JIS B 1513「転がり軸受の呼び番号」で定められている補助記号では軸受の形式ごとに形式記号が定められており、6は深溝玉軸受に相当している。

 

こういう部品は昔は木で作られていた。というかこの世界でも木で作られている。

潤滑剤として油や脂を使ったものがあったらしいが、長期間持たないせいで調べてもあまり情報が出てこない。

 

まったく、職人の高学歴化とかもあるがそもそもこの分野に進もうとする人間がいないのでどうしても高学歴でないとやっていけないとかがあるというのは世知辛い。

経理とか法務処理とかの基本技術になる文章作成のスキルは案外大学のような高等教育機関で鍛えるのが効率的だったりする。あとは専門文献読んだりとか学会に出たりとかという経験も使うときには使うので、高等教育を受けたことのある人は一人いると便利だったりするが、一人しかいないと自分がそうなるしかない。

 

『柔い金属と硬い金属を使うのか』

錫や鉛を主成分としたすべり軸受用の合金、バビットメタルがモデル。耐摩耗性・耐疲労性を持ちつつも柔らかくなじみやすいという面倒な要求を満たしたものである。

 

とはいえ機械仕掛けの天文現象計装置で超新星爆発らしき現象を予言するというのはどう考えても伝承だろう。

元ネタはSCP-227「完全なアンティキティラ島の機械」。一応作者は財団界隈の人間である。著者ページも持ってるよ。

 

ニュートリノ検出器でもない限りそんな事はできないし、それでも数時間しか時間的余裕はない。

SN 1987Aと呼ばれる大マゼラン雲内の超新星の爆発時は、可視光での急激な明るさ上昇の数時間前にニュートリノが検出された。

 

切削

自動切削された石で打ち砕かれそうだ。そうかダニエル書のあれはNC旋盤がシェアを握るという予言だったのか。

(わう)(なんぢ)一箇(ひとつ)(おほい)なる(ざう)(なんぢ)(まへ)(たて)るを()たまへり

(その)(ざう)(おほき)くしてその光輝(かゞやき)(つね)ならずその(かたち)(おそ)ろしくあり

(その)(ざう)(あたま)純金(じゅんきん) (むね)兩腕(りょううで)とは(ぎん) (はら)(もゝ)とは(あかゞね)

(はぎ)(てつ) (あし)は一()(てつ)()泥土(つち)なり

(なんぢ)()()たまひしに(つひ)一箇(ひとつ)(いし)人手(ひとで)によらずして(きら)れて(いで)

その(ざう)(てつ)泥土(つち)との(あし)(うち)てこれを(くだ)けり

(かゝ)りしかばその(てつ)泥土(つち)(あかゞね)(ぎん)(きん)とは(みな)ともに(くだ)けて

(なつ)禾場(うちば)(ぬか)のごとくに()(かぜ)(ふき)はらはれて(とゞま)るところ()かりき

(しか)してその(ざう)(うち)たる(いし)(おほい)なる(やま)となりて全地(ぜんち)(みて)

──明治元訳旧約聖書 (明治37年)、ダニエル書第二章より

 

バビロンへの捕囚として連れてこられた後に才覚を現しネブカドネツァル王に仕えたダニエルが王の夢の謎解きをした場面。普通は複数の帝国の興亡と最終的な神の国の誕生を予言したものと解釈するのが一般的であり、様々な材料を組み合わせて作った旋盤が自動式のNC切削装置にシェアを奪われるという話ではない。そもそもダニエル記の成立年代に諸説はあるがNC旋盤が生まれる以前であることについては専門家の意見は一致するだろう。

 

加工対象は鉛を少し混ぜたなんちゃって快削黄銅。

銅と亜鉛の合金である真鍮は黄銅とも呼ばれるが、快削黄銅はこれに鉛を添加することにより切削加工をしやすくしたもの。

 

RoHSなんて知らないぜ。

Directive on the restriction of the use of certain hazardous substances in electrical and electronic equipment(電気・電子機器に含まれる特定有害物質の使用制限に関する欧州議会及び理事会指令)、略称Restriction of Hazardous Substances Directive(危険物質に関する制限令)、あるいはRoHSは電気・電子機器について有害物質を使用しないように定めたEUの「指令」*1であり、2011年には改正指令が公布されている。これのせいでEU圏に輸出する企業はCEマークのために面倒な検査やら手続きやらが必要。例えば快速真鍮やはんだに使われる鉛について代替の必要が生まれたことからとても面倒なことになっている。

 

ぱっとポリカーボネートが思い浮かんだがこれは色々ときな臭いビスフェノールAと第一次世界大戦で有名になったホスゲンの反応で得るとかいうまともな密閉技術もドラフトチャンバーも適切な防護具もなしには触りたくない代物である。

ビスフェノールAはプラスチックの原料として広く用いられる化学物質であり、低用量でも摂取した場合の健康被害が報告されてはいるがこれについては反対意見もあるなど正直良くわからない。各国政府は摂取しないほうがいいんじゃないの程度の反応である。

 

ホスゲンは第一次世界大戦において毒ガスとして用いられた化学物質で、血液空気関門の破壊による遅発性の肺水腫などを引き起こす。

 

案外高校化学の範囲で色々できるもんなのだなぁ。

なおこの発言は収率とか純度とかを全く考えていない発言である。工業化学は沼だよ。

 

工作機械を相手にするときは油断すると死にます。

油断していなくても死にます。髪とか袖とか紐とか裾とか手袋とかが巻き込まれると悲惨なことになります。

 

作っている部品自体は特に用途のないものだが、なんとなく高校生ものづくりコンテスト旋盤作業部門に出てくるようなやつを形だけ参考にしている。

高校生ものづくりコンテストは全国工業高等学校長協会が主催する大会。旋盤作業部門は第一回からある部門で、ちょっと複雑な形状をしたなんかよくわからない部品を3つ作る。

 

さて、大体の形ができたので突切りに入ろう。

突切りは溝を深くしていって切断する加工方法の一種。まあこの後キイがやっている。

 

転造

インボリュート曲線も使った、それなりの代物と自負している。

ちゃんとした数学的証明は割愛するが、歯車の歯の形状を特定の数学曲線にすることによって動力伝達時に速度が変化しないようにすることができる。この曲線自体は旋盤で作った円柱と紐、あと筆記具があれば作ることができる。なお、噛み合っているときに歯が「ずれる」という問題があるが、そもそもまだそこまでの精度を考えなければならない段階ではないのであまり問題ない。

 

たぶんRa換算で2ぐらい。

算術平均粗さと呼ばれるもの。表面の高さの平均絶対偏差といえばいいだろうか?ひとまず大きければ大きいほど荒いと思ってくれればいい。単位はマイクロメートル。目を近づけると表面に旋盤での加工痕が見えるぐらい。

 

アーネスト・ジェームズ・アボットとフロイド・ファイアストーンのやつは光学系を使っていたし

最初期の表面粗さ計についての言及であるAbbott, E.J.; Firestone, F.A. Specifying surface quality: a method based on accurate measurement and comparison. Mechanical Engineering. 1933, 55, p. 569-572. ではおそらく光学コンパレータを用いている。非常に雑に言えばオーバーヘッドプロジェクタ(OHP)のようなもの。えっ最近の若者はOHPを知らない?今どきの授業は全部デジタル教材?いい時代になったものですね……。

 

たぶんこれは削るんじゃなくて塑性加工で螺子を作るタイプだな。

螺子(ねじ)を作る方法の一つは谷に当たる部分を削っていくことだが、これでは削りかすが出たり大量生産に向かないという問題点がある。ダイスと呼ばれる工具を使う方法では内部についた刃を使って削るものと圧力を加えて谷に当たる部分を「押し込む」ものとがあるが、今回のは後者。まあ後者でも粉が出たりするし、前者でも塑性加工は起こる。

 

焼入

両手で二つのロックレバーを押して解除し、脚に力を入れてペダルを踏むと音がする。

両手操作を要求することで、プレス部に手を突っ込めないようにしている。もし材料を手で保持しなくてはいけないとかいう状態であれば手を使わずに保持できるようにしよう。

 

そういう応力を活かせば強度を出すなんてこともできるのだが

表面についた傷が広がらないような方向に残留応力をかけると強度を増すことができるので、強化ガラスやショットピーニングといった形で利用される例がある。

 

謝辞じゃなくて著者に乗るべきレベルだ。

論文の著者として名前が載る場合その論文に関する栄誉を受ける資格とそれなりの責任を持つことになる以上、一定の資格が求められる。どの程度論文に貢献すれば著者とするべきかの統一されたガイドラインは存在しないが、データの測定の補助と分析を行い、きちんと実験の過程を理解しているケトは十分著者としての資格があるだろう。

 

純度の高い鉄に少しづつ炭素を混ぜていって、適当なタイミングで少しづつ取り出せばいいだけだ。

ハンス・ユプトナー・フォン・ヨンストルフやウィリアム・チャンドラー・ロバーツ=オーステンによって始められたこのような試みは、数十年かかって鉄と炭素の組み合わせで生まれる様々な相がどのような条件で生まれるかを特定することに成功した。今日の鉄鋼技術を支える重要なデータである。

 

電気炉はオーソドックスだがニッケルもクロムも鉱石が見つかっていない。

ニッケルとクロムの合金は電気抵抗が高く高温でもある程度安定であるため、かつては電熱線に用いられていた。今日では主に鉄クロム系の合金が用いられている。

 

改良

うーん、金属加工用旋盤第一号が最初から引き継いでいるのは目的因ぐらいである。機械なのに。

テセウスの船として知られる、「何が同一性を保証するのか?」という問題に対して、アリストテレスの記した「Φυσικῆς ἀκροάσεως(自然学)」から始まるアリストテレス哲学の系譜では事象の原因を4つに分類し、物体の形状のような形相因や存在や運動の目的である目的因が同じであることを同一性の根拠とする。今回の場合形も改良の過程で変わっているので目的因のみが残るが、自然に対して目的を見出そうとしない機械論的な考え方と目的因の存在は対立する。そういうわけでこれは工作機械の話をしているのに目的因について話しているというジョーク。

 

定義上はこれは立フライス盤。

回転する主軸が垂直方向にあるもの。フラットエンドミルという工具を用いれば平滑面を作成できる。

 

毛織物

図書庫の城邦の付近であれば学徒として学んで志半ばに学問の道を諦めた人たちが地元に戻って知的基盤を支えているのでかなりの範囲で東方通商語の読み書きができるし、衙堂の司女や司士が筋の良い子供世代に本を読めるよう教育することもある。

ここのモデルは師範学校や高等師範学校。ある程度の教育を受けた人間が地方にいることは国家全体の教育レベルを高めることに繋がり、各地で郷土史や自然史などの調査を行う教員を生み出したという側面がある。なお今日ではこんな悠長なことができる教員はまずいない。

 

「それはキイ先生がやるべき仕事ではありません。私たちならともかく」

ジョージ・オーウェルの「1984」内に登場するニュースピーク辞典ではないが、言葉を決めることは思想を、文化を、歴史を、民族を決めることにも繋がる。17世紀から19世紀にかけて行われた様々な辞書の編纂は、今日nationalismと呼ばれる流れを語る上で重要な意味を果たしている。

 

となるとそういう方面よりもバリカンみたいなもののほうが価値はあるのか?

バリカンの語源はフランスにかつて存在した機械製造会社バリカン&マールから。さらにその由来はパリの工房メゾン・バリカンである。手動のバリカン自体は19世紀末の時点ででそれなりに使われていたらしい。

 

毛織物

リング精紡機に直行できるほどの技術があるわけでもないし

リング精紡機は今日主流となっている精紡方式の一つ。糸巻きを囲むように置かれて上下に移動する「リング」の上を進むトラベラーによって糸が巻き付けられるという仕組み。発明は1830年ごろ。

 

赤いベリーを煮詰めたものに酒や香草や薬草などいろいろを混ぜたもので、かなり匂いや味が独特だがおいしい。

モデルはGlöggなどと呼ばれる北欧圏の飲み物。基本的にはワインや蒸留酒を温めたものだが、様々なレシピがある。

 

文要素を平気で落としてきたりリエゾンがあったりするので辛い。

リエゾンは本来はフランス語に対する用語。フランス語の発音は全く文字通りではないことで有名だが、ある単語の最後に本来発音しない子音がきてその次の単語の最初の文字が母音だったりするとくっつく。こういった現象は様々な言語で見られるため、正しくは連音という形態音韻論の用語を使うべきだろう。

 

このあたりは緯度もあって冬は長く、時間が余る割にできることが少ないのだ。そして人口が増加するし、気象のせいで食料生産量が限られるのもあって傭兵とかになったり出稼ぎに行く人も多い、と。

家にこもってやることがないと、まあそうなるよねという話。

 

準結晶みたいな感じに近い。

一般的な結晶はある単位格子と呼ばれるパターンの繰り返しであるが、そういった周期性を持たないにもかかわらず秩序を持つパターンが数学的に予言されていた。しかし1984年にダニエル・シェヒトマンによってアルミニウムとマンガンを混ぜて急冷した合金がそのような構造を持つことが報告されるまで、あくまで理論上の、仮説上の、あるいは誤差によって生まれた存在として扱われていた。

 

織機

ジャカード織機というほど複雑ではないけれども。

ジャカード織機は18世紀の初頭に発明されたパンチカードの穴の有無に応じて特定の経糸を引き上げ、模様のついた布を織るための機械。情報媒体として穴を開けた紙、つまりは鑽孔紙(パンチカード)を使った最初期の例。

 

何度もやらかしたので断言できます。

インタビュアーに敬意を払いながら、その発言をとことん疑うというとても疲れることをしなければならない。大変だ。

 

天幕

合成方法なんて覚えてないが、まあ材料を入れて高温高圧でいい感じの触媒を突っ込めばいけるやろ、知らんけど。

実際にいけるが、収率とか純度とか……。

 

針葉樹の葉らしきものに黄土色の何かがついていた。

モデルは付木、あるいは硫黄木と呼ばれるもの。

 

火花はあまり見えないが途中で別れるのは確認できたので炭素濃度はあまり高くはなさそうだ。

火花試験と呼ばれるもの。概ね炭素濃度が高いほど火花の枝分かれが激しくなる。

 

けれどもPZT、チタン酸ジルコン酸鉛は作れない以上フェロセリウムとかがいいのかな。

フェロセリウムはライターなどで点火に用いられる合金。削ることで酸化し、熱を持つ。

 

一定の表面積で囲める最大の体積を与えるような図形は球だったはずなので半球にするのが最適解なのではと思ったが

等周定理と呼ばれるものの三次元版。「ある一定の長さで囲める最大の面積は?」という問題は都市国家カルタゴを築いたとされる伝説上の女王ディードーが後にカルタゴとなる地を手に入れた時のエピソードにちなみDido's problem(ディードーの問題)とも呼ばれる。数学者ジョークとして、線で閉じられた図形に入り「私が立っている方を外側と定義する」と言えばかなり広い面積を「囲める」なんて話があったりする。

 

体温

「そこに腕を入れていると痺れない?」

腕が特定の角度で長時間圧迫されると、骨と接している腕の橈骨神経に麻痺が起きることがある。こうなると手首が動かしにくかったり指の根元を起こせなかったりするので手が使いにくくなる。俗語的にハネムーン症候群とも。

*1
本当はここは原語で書きたいのだが欧州連合の公用語は24あり、その全部で書くのは大変なのでやめた。



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第18章
温泉


お湯と湯気に濡れてぺしょんとなったケトの前髪が目と同じぐらいの高さになっている。私は事前に頭の上にまとめておいたのであまり問題はない。ああ、そろそろこの北の方に来てから切ってなかった髪も整えたほうが良いのかな。というかこの世界の理髪の水準がわからない。図書庫の城邦にいた時はトゥー嬢に紹介してもらった身だしなみ全般をやってくれる女性客がメインターゲットの床屋に行っていたのだが、前髪を短く切って後ろ髪を適当に調節してもらうだけだったからな。あとは爪を切ってくれたり油を塗ってもらったりしたが、店員さんは無口な人だった。まあ私はかつての世界でも床屋での話が苦手だったから助かったが。そういえば理髪とかの歴史はちゃんとやったことがなかったな。マルセル・グラトーやチャールズ・ネスラー、ヴィダル・サスーンの名前ぐらいしか知らない。

 

「キイさんは平気なんですね……」

 

赤くなっているケトが言う。

 

「昔はよく浸かっていたからね」

 

湯温はセルシウス温度で42度ぐらいだろうか。ちょっと熱め。今は外で寒くて閉じていた毛細血管がゆっくりと開いたぐらいである。ケトはちょっとこの感覚とか温度が辛いらしい。まあこのピリピリした感じは身体にいいものではないだろうしな。

 

「ま、のんびりしよ。そのためにわざわざ来たんだ」

 

そう言って私は頭を縁において、肩まで湯につける。全身に痛みというほどではないが疲れが残っている。これが消えるのには数日かかるが、その後また帰らねばならないのだ。行きの商隊が色々やって帰るのと同じタイミングで私たちも移動する予定である。

 

「そういえば、この地域では温泉は別に神聖視されてないんだな……」

 

ぼんやりと白い曇り空を見ながら呟く。少し濁ったお湯は硫黄だろうか。炭酸カルシウムかもしれない。湯船は基本的に石と砂、それと漆喰みたいなもので水止めしたものだ。特に屋根もついていない露天風呂。源泉と湧き水をいい感じの量で混ぜてこの温度を出している。上流には温度調整用の池みたいなものがあるのは確認した。

 

「そういう伝承はあるのかもしれませんけどね」

 

「衙堂がないと、そこらへんが残らないか……」

 

「旅の司士や司女が聞き取ったものが大図書庫にあるかもしれませんけどね」

 

布教というか修行の一環として衙堂の人がフィールドワークに行くというのはそういう宗派では結構あるらしい。これは宗派と言えば良いのか?図書庫の城邦を中心とした地域では基本的に司士や司女の育成が城邦内の大衙堂で行われるのだが、そうではない地域ではある程度大きな衙堂で行われたりするので相互交流があっても派閥というか思想のズレが生まれるのだ。正典(カノン)がないとはいえ広い地域の衙堂が共同で出す声明とか過去の行政判断例とかがあるので、ある程度権威も生まれる。まあ権威もない組織に行政を担ってほしくはないか。

 

「ああいうの、記録されるばかりで参照されにくいのがなぁ」

 

「参照はされているはずですよ?」

 

「機会の問題。何らかの方法で全文献をまとめて、手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)にでもするか……」

 

「数十年がかりの事業になりそうですね」

 

「本当は電気式の装置を使いたいんだけど……」

 

「どういう仕組みなんですか?僕の考えでは通電で孔を読み取るとか、放電で孔を開けるとかなのですが」

 

「真空管みたいなものを使うんだよ。出力を入力に戻してあげれば、状態を保存するような機構ができる。それを大量に組み合わせて、うまくそこから情報を探せるようにしたいんだけど……」

 

浮遊ゲートMOSFETの展示を見たことがあるが原理を完全に理解しているわけではない。まあ背景の数学理論をまずは用意して、材料とか加工技術の発展に応じてそこらへんを改善できるようにしよう。パラメトロンみたいな素子が主流となった時に数学モデルがちゃんとあれば効率的な回路設計もできるだろうしな。まあ、そこらへんができる時には私も死んでいるかもしれないし。

 

「……キイさん?」

 

ケトの声で意識を現し世に引き戻される。危ない危ない。

 

「大丈夫。生きているよ」

 

「窪みには悪い空気が溜まっているという話もありますし、笑えませんからね?」

 

「私が倒れても、巻き添えになるから助けないほうが良いよ」

 

二酸化硫黄ならともかく、硫化水素は厄介だ。まあここは温泉が出ている所からそれなりに離れているので問題ないだろう。風向きとかがあれか。

 

「……キイさんが倒れても、今はあまり影響ないからいいですけどね」

 

「影響があったら困るよ。私に依存した何かがそんなにあったら困る。……私のほうがケトくんに頼りすぎている気もするけどさ」

 

「僕の方もそれなり以上には頼っていますからね。僕が困るから倒れないでください、と言うのは駄目ですか?」

 

「わかった。気をつけるよ」

 

そう言いながら私はお湯の中で身体をゆっくりと伸ばす。凝っているというほどではないが、まあ温めて可動域を広げておけば怪我をする可能性も下げられるだろう。



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医者

「不躾だが、何か悪い病でも抱えているのかい?」

 

湯上がりに休んで冷たく硬度が高めの清水をちびちび飲んでいると、原義の方の壮年ぐらいの男性が声をかけてきた。私より十ばかし歳上だろうか。っと、あれ、もう私は30歳近い?超えた?直視したくない現実を置いておいて、私は隣に座る男の方を向く。

 

「どうしてそう思うのか、聞かせていただいても?」

 

「いや、先日も先先日も湯に浸かっていたからさ」

 

「趣味だ」

 

「ならいいが。あまり浸かりすぎると毒となるから、気をつけるんだ」

 

たぶんいい人だな。

 

「あなたは医学師か?」

 

「そんな上等なものじゃない。ただの医者だよ」

 

あ、なるほど。これは言い方が悪かったな。医学師といえば正当な教育を積んだみたいな感じの意味を持ってしまう。我流か、何らかの師から見よう見まねで学んだか、ともかくそういう経歴だということになる。まあこの世界にはそこまでちゃんとした医学がまだないわけだが。

 

「そうか。しかし、いい目をしているのは間違いない」

 

「そう言うあなたは医学師なのか?」

 

「いや、南から来た司女だよ」

 

「ははあ、それは遠いところからだな。どうだ、このあたりは面白いかね?」

 

「かなり。色々と学ぶことがあったよ」

 

「それはよかった」

 

「……ところで、医者としてどのようなことをしているか聞いても?」

 

「とは言っても、そこまでのことはしてないさ。湯治に来る人の中にはあまり良くない患者もいるからな、そういうのに声をかける仕事をしている」

 

「そんなもので暮らしていけるのか?」

 

「報酬ならそう要らないさ。このあたりをうろつけば俺の助けた人のやっている宿で夕餉を頂いて寝場所を貸してもらうことぐらいできる」

 

おや、となると医術の腕とかよりも人脈でどうにかやっている人物か。

 

「いい医者だな」

 

「どうも。いい旅を」

 

彼が去っていき、私は息を深く吐く。医療を発展させたとして、彼のような地元密着型の活動をしている人間にどこまで届けることができるだろうか。文字が読めるかどうかも怪しそうだ。

 

「やはり、文字からか……」

 

教育体制を整えるのは「鋼売り」に任せるしかないだろう。応急処置とか抗生物質の分野は荒事をやっている以上受け入れられはするはず。必要な技術を頭の中でぼんやりと組み上げていく。

 

応急処置のために必要なのは血液循環説とかだろうか?火で炙って血を止めるなんて話はこの世界では見たことがないし、結紮法が採用されているという話も聞かない。まあそもそもそこまで必要とすることが普通はないからだろうな。義肢の人も見たことがないし。傷とかはあるのかもしれないが、そもそもここらの人の裸を見る機会がないのでわからない。入浴している人もそれなりにいるのだが私が高温の場所にいるのと湯が濁っているせいでよくわかっていない。

 

詳しい構造を知るためには解剖が必要だが、これは宗教的な理由で少なくとも図書庫の城邦では制限がかかっていた。とはいっても別に復活の時に問題が起こるとかそういうものではない。ある種のインフォームド・コンセントだ。私がいた世界ではこの考え方はかなり最近、第二次世界大戦後に生まれたものだったはず。患者に真実を伝えても無意味だという考え方はそれなりに根強かったが、こっちではきちんと説明をして本人の選択を尊重するようになっている。しかしこれが厄介で、生前に解剖の許可を得る必要があるのだ。それもかなり面倒な手続きを経て、である。そして解剖はいたずらに行ってはならず、厳粛に一部の選ばれた人間だけで、十分な学術的知見が得られるとわかっている場合にのみ行われる。肉眼レベルの解剖学は甘いながらもできているのでここ数十年解剖は行われていない。ここらへんは私の司女としての肩書と顕微鏡の利用でどうにかなるだろう。

 

感染症の問題では培養が必要になる。アンジェリーナ・ファニー・ヘッセの提案した寒天培地を使いたいが、紅藻の分布とかの知識がない。手に入らなければゼラチン培地を使う必要があるだろう。実験動物も必要だ。いい感じの動物を純系にしておかないと。ヌードマウスを作るには時間がかかるか。まあともかく、ここらへんは農業分野と並行して数十年がかりのプロジェクトを走らせておいたほうがいいだろう。答えを知っていても、時間をかけないと得られないものは多い。そのうえ私は答えを知らないからな。FOXN1のコードもどの染色体上にあるかも知らない。抗生物質の抽出は酸と塩基、有機溶媒と無機溶媒で基本的にはなんとかなる、はず。電気泳動とかキャピラリーによる液体クロマトグラフィーとか、色々使えるはずだ。

 

あとは化学修飾とか合成とかするタイプの抗菌薬。十年もあれば簡易的な質量分析器はできるだろう。燃焼分析やスペクトル測定、XRDと組み合わせればかなり幅は広がるはず。どれも今までやってきたもの以上に難しい。真空、高電圧、精密測定、純度の高い化学薬品。私一人の手には負えない。

 

ま、この分野に手を付けたら私の働き盛りが終わってしまうだろう。十分その価値はあるが。基礎的なアイデアとつまずきそうな点の解決策を用意して、私は普及とかに回るべきかもな。



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消毒

温泉旅行のお土産は硫黄一抱え。これで純度の高い硫酸が作れるはずだ。このあと厳しい冬を越して、春になって海に張っている氷が溶けたら懐かしの図書庫の城邦に戻ることができる。

 

「んー、やはり身体がかなり楽になったな」

 

工房街までの道のりを行きと同じ商隊と歩きながら私は呟く。数日だけであったが、肩がかなり軽くなっていた。低体温とかもあったのだろうな。すっきりした。

 

「かなり入っていましたからね」

 

ケトが私の隣でため息を吐いて言う。ちなみにケトが入ったのは一日一回で、それぞれ10刻*1も浸かっていなかったはず。

 

「まあね。おかげで色々と考えもまとまったし」

 

「……また、変なことをするんですか?」

 

「そう。次は医学に手を出そうかと」

 

「できますかね?」

 

「というと?」

 

「今、図書庫の城邦はかなり大きく動いている頃だと思うんですよ」

 

「長卓会議の招集だっけ?」

 

まあ国会とか三部会のようなものだ。開かれるのは来年の冬なので、私たちが顔を出すことはできるだろう。とはいえ行政担当の司士や司女が動けるのは農閑期に限られるので、もう動いていると考えていいか。まあ印刷物管理局がそこまで大事に巻き込まれてはいない、はず。きっと。

 

「キイさんがやってきた色々が、形となって出てくることです。その元凶として責任を取る必要が出てくるかもしれませんよ?」

 

「局長就任みたいなやつか……」

 

活版印刷を作って、印刷物関連の法整備を手伝ったらなぜか図書庫の城邦で印刷物を管理する一番偉い責任者になってしまったことを思い出す。

 

「みんな、元気かなぁ」

 

「帰ればわかりますよ」

 

「けれども、帰るのは半年後だよ?」

 

この鋼鉄の尾根に来たのは半年前。もう半年は旋盤を弄って、いくつかの自動機械を作っていれば終わるだろう。

 

「そういえば、ケトは冬にはどうするの?」

 

「キイさんの手伝いをするつもりでしたが」

 

「……まあ、確かに助手は必要か」

 

基本的な工作技術というか旋盤の操り方ぐらいはちゃんと教えるべきだろうな。これでまたケトのスキルが伸びてしまう。

 

「なら、手続き関連を任せてもいい?」

 

「横轆轤(ろくろ)を新しく作るための水車を手に入れるであるとか、鋼売りと素材の調達について話をしたりであるとか、山歩きの人たちにどういう石を持ってきてもらうか、とかですか?」

 

「……そう」

 

ああ、やりたくないがケトにやらせたくもない仕事だ。まあ誰かがやらねばならないのではあるが。とはいえ彼ももういい大人なんだよな。私もそれなりの年齢になってしまったし。

 

「あとは帰りのときに試したいことがあるから、塩と消石灰を手に入れておかないと」

 

「何に使うんですか?」

 

「水を腐らないようにする。水中の微小生物を殺す薬だよ」

 

「……疑問が二つあります」

 

「どうぞ」

 

「一つ目。前に料理を瓶に入れて煮ることで内部の微小生物を殺すという方法を取りましたよね」

 

「あ」

 

すっかり忘れていたが一部が残っていた。まあたぶん問題なく食べれるからいいのだが。

 

「……食べていないことに気がついたんですか?」

 

「……そう」

 

「本題に戻しますよ?」

 

「どうぞ」

 

「それと同じように、煮てはいけないのですか?」

 

「燃料代」

 

「それは問題ですね。二つ目。そのような薬は人間にも毒なのではないでしょうか?」

 

「ある程度は毒だと思うけど、量の問題。あと微小生物を殺す効果のある成分は時間経過で薄くなるから」

 

実際に殺菌ができる濃度とかは確認しないといけないよな。頭の中で軽く実験計画を立てる。アミノ酸の多いスープを作って煮沸消毒した後、その中に殺菌剤として使うさらし粉を入れていく。菌が繁茂して濁ればその濃度では駄目だということ。ああでもこれだと水に対して使えるかがわからないな。水に入れて数日置いて、それを煮沸消毒したスープに入れる方がいいか。本当はガラス製のペトリ皿とかがあれば便利なのだが、まあ匂いとかでも確認できるだろう。ある程度以上まで行くとガラス細工が必要になるが、洗気瓶や北里柴三郎式の嫌気性培養用の容器ぐらいは作れるようになっているはずだ。ふふふ。準備しておいたものができていると考えると楽しみだ。まあできていなくても一月もあればなんとかなるはずだ。

 

「……ならいいですが。キイさんが飲んでくださいよ?」

 

「わかった。……ところで、衙堂の司士見習いに少し聞きたいことがあるんだけれどもいい?」

 

「すでに司女の人に聞かれるのも変な気もしますが、どうぞ?」

 

「自分から危険なことをするのはともかく、相手にそれを求めるのってどうなの?」

 

「問題になるとは思いますが……つまりは、そういう危険だけれども試さないともっと危険なものをどうするか、ですよね」

 

「そう。私を実験の対象にできればいいけど、例えば薬とか治療法とかでまだ効き目があるとわかっていないものを使うのはどうなのかなと」

 

「……文面は覚えていませんが、例えば図書庫の城邦の医学師試験では最初に誓いがなされます。その中に自らの知識と与えられた環境の中で最良と考える選択を提案する、という文言があったはずですね」

 

「提案なんだ」

 

「ええ。決めるのは患者か、もしそれが叶わなければ患者の家族や知人になるでしょうから」

 

「となると、本人が選択すればいい……」

 

「確か、選択を迫るような状況に追い込むことについてはなにか言われてはいないと思います」

 

「問題じゃないの?」

 

「まともな医学師はそういうことをしませんので」

 

医療従事者が信用されているということでいいのだろうか。となるとこの信用を崩すのは良くないな。根回しはきちんとしておかないと。

*1
40分



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測微尺

半月ちょっとぶりに工房街へと戻ってきたことになる。まあ特に大きく変わったこともないが。

 

『作っておいたぞ、これで良いか?』

 

そう言って蝋板を示す職人の手には、黄金色をした機構があった。

 

「おそらくは」

 

私の出かけている間に作ってもらえるかと頼んでおいたものだ。私よりも彼のほうが基礎知識もあって工作が上手になってしまったから任せたのである。

 

『きちんとした測定はしていないが』

 

「構わない。そこは私がやる」

 

繰り返し再生産して平滑化された送り螺子(ねじ)を使って作った螺子(ねじ)を使った測定装置である。

 

「ああ、これが昔言っていたやつですか」

 

ケトが装置を持っていろいろな方向から見ている。構造はそこまで難しくない。ウィリアム・ガスコインから始まる螺子(ねじ)を使った測定装置、測微尺(マイクロメータ)だ。製造過程と目的を考えるとヘンリー・モーズリーの控訴院、もとい工房で使われていた「Lord Chancellor(大法官)」に近くはあるが、構造はジェームズ・ワットのやつに近い。U字型のフレームの片側に螺子(ねじ)で伸びる棒があって、完全に螺子(ねじ)を締めるとくっつくようになっている。実際にはトルクのかけ過ぎを防ぐために適切なラチェット機構とかを組み込みたいのだが、それはまた今度。今は使えることが重要である。

 

「そう。螺子(ねじ)部分は触らないでね。あと締めすぎないように」

 

根本にあるハンドルで螺子(ねじ)を回すとメモリの刻まれた指示板の上を針が回り、横の目盛りが何回転したかを指す。

 

「これでものの大きさを測るんですよね」

 

「そうだけど、まずは誤差の測定をしないと」

 

できるだけ同じ高さに揃えた部品を複数用意して、それを積み上げながら測定していく。ブロックゲージというやつだ。ここで高さを調整するために硝子(ガラス)板を使う。使っている金属のブロックは硝子(ガラス)板よりも微妙に厚く作ってある。なので硝子(ガラス)板の隣に置くと微妙な段差ができるわけだ。ここでその上からもう一枚の硝子(ガラス)板を乗せるとくさび形の空間ができる。ここで発生する光干渉のパターンから微妙な差を求められるのだ。大学入試でよく出るやつ。いや、そこまで頻出かな?

 

なお、この世界は物理の問題のように優しくはない。硝子(ガラス)板の様々な場所で光は反射するし、屈折する。その上単色光を作るのは難しい。ナトリウムランプとかを持ってくればよかったのかもしれないが。水素放電管とかでもいいよ。可視光範囲のバルマー系列とかである一定の波長を手に入れる事ができればいいのだが、そうは行かないので太陽光でどうにかする。手早く実験をしないと光源が動くのが問題だが。電灯はちょっとフィラメントの処理と不活性ガスの封入で手こずったので案だけ投げてこっちに来てしまったからな。帰った頃にはできているといいが。

 

そうそう、水素放電管があるとそこからヨハネス・リュードベリのやったように式が作れて、原子内の構造が予言できるようになる。あとは簡単な加速器があれば色々と言えるので、なんやかんやでたぶんシュレーディンガー方程式を作れる。こうすれば分子構造からその分子が持つ特徴を理論上は計算で求められるようになるのだ。なおこれができたとしても近似に近似を重ねないとまともに計算できないはず。まあ、数学理論について私ができるのは大学教養レベルまでなのでそれ以降は天才たちを引っ張り出してそちらに投げよう。数学の難しさに科学が囚われていてはいけない。私が高校生の頃はWolfram Alpha先生に頼りきりだったからあまり大きな声では言えないが。

 

本題に戻る。そういうわけでここに取り出したのができるだけ高さを合わせたゲージです。

 

「記録お願いね」

 

「わかっています」

 

これを一つ一つ重ねていって、その時に螺子(ねじ)何回転分の隙間が必要だったかを測定する。例えば1つのゲージブロックを入れるために2回転半の隙間が必要なら、2つ入れるためには本来5回転必要になるわけだ。

 

「2.37……2.39……2.33」

 

一回測定して、螺子(ねじ)を緩めて、再度測定。ここで使うのは平均値でいいだろう。こうしてまず1個挟んだものを測定して、次に2個のを測定。

 

「4.92……4.89……4.87」

 

ざっくり倍ではあるが、綺麗に倍ではない。螺子(ねじ)のピッチ、つまり山と山との間隔がちゃんと揃っていないことが原因だろう。え、測定方法が悪い?そういうのは全体の傾向を見てその因子を出してからしか言えない。まあ装置の誤差に全部押し付けるのは避けるべきことだったな。反省しなくちゃ。まあその測定装置特有の癖さえ掴めればそれをもとに補正することはできる。線形補正でもいいし二次関数とかでいい感じにやってもいいが、面倒なのでグラフを書いて気合で値を読み取る形式だ。だってわざわざ近似式を求めてとか面倒ですものね。

 

そうして完成した補正表は、まあそこそこ精度のいい測定ができていることを示せている。まあこのくらいの精度が出せれば、不良品率50%ぐらいではめあいもできるだろう。かつての世界では絶対に許されない数値だな、と私は小さく笑った。



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嵌合

工学系の素養があるかを知るちょっとした問題が一つ。直径10 mmの丸棒が入る穴を作りたい。さて、穴の大きさは?

 

10 mmと答えたあなたはあまりよろしくない。ぴったりの大きさというのは非常に作りづらいものだし、完璧に棒と同じ大きさの穴であった場合完全に垂直に入れないと入らない。抵抗もそれなりにあるだろう。

 

もしここで条件をつけ始めたら工学系ではなく理学系に近い可能性がある。前提を固めるのは重要であるが、それは実際の製品設計にどこまで有用ですか?

 

ええと、私の考える模範解答ですか?9.8 mmぐらいで作って、ちょっとづつ広げていく。

 

「入る穴を作るだけであれば、棒の大きさと比べて十分大きければいいのでは?」

 

ケトが私の質問になんてことのないように言う。

 

「問題設定が甘かったな……」

 

純粋にこれは私のミスである。というわけでここに取り出だしたりますは穴の空いた板と微妙に太さの違う棒。

 

「こっちはすんなり入るけれども、もう一方の方は少し力を入れないと入らないのはわかる?」

 

「……はい」

 

ケトが手元で確かめた後に言う。

 

「この違いはどれくらいかというと……」

 

作った測微尺(マイクロメータ)で棒の太さを測定する。本当は真円度測定とかするべきなんだけどね。

 

「ざっくりと、髪の太さほどでしょうか」

 

ケトが補正表を見ながら言う。

 

「そう。逆に言えば、これだけの精度で削りすぎないように加工する必要がある」

 

「できるんですか?この棒を作るだけでもかなり犠牲が出ていますよね?」

 

ケトが目を向けるのは机の端に転がる黄銅棒。一応籠に入れて紙のラベルをつけているので再利用は可能だが、何に使うかは何も考えていない。

 

「そう。では、どうやればいいと思う?」

 

ケトは少し考え込む。その間に私はこれから先について考える。ひとまず動けばいいとはいえ、ある程度の精度がないとがたついて装置の寿命は下がるだろう。それも自動化する機械となればなおさらだ。修理のためには部品の規格化とある程度の測定装置、あとは地域に一つ万能工作機械みたいな旋盤とフライス盤とボール盤を全部まとめたようなやつを置くことができれば十分だろうか。

 

「横轆轤(ろくろ)では、刃具(バイト)を手で持ったり往復台に固定していますよね」

 

口を開くケト。頷く私。

 

「精密に削るためには、この刃具(バイト)を精密に動かす必要がある」

 

「そうだね。それで?」

 

「つまり、測微尺(マイクロメータ)の先端に刃具(バイト)をつけてしまえばいい」

 

「基本原理はその通り。簡単だった?」

 

「キイさんが出した情報の中で使えそうなものを選んだだけですよ。手加減されてこれですから、十分難しいと思います」

 

「なるほど」

 

問題が手持ちのカードで解決できることを前提にやるのは受験勉強であるだとか、あるいは色々と制限がついた案件ではたまにやる案件だが常に時間の無駄になる可能性と背中合わせだからな。

 

「強度が怪しいので、太い軸にしたほうがいい。それと細かい回転を測定するために微妙にずらした目盛りを使う」

 

「えーとどこかで聞いたような……」

 

「前にも言ったっけ」

 

「ああ、思い出しました。不正な尺を使うなと僕が怒ってしまった件です」

 

「また懐かしいな……」

 

転移した場所から図書庫の城邦に向かう途中の話だ。

 

「ハルツさん、元気しているといいな」

 

「前にもらった手紙では変わりないようでしたが」

 

「それもそこそこ前でしょう?図書庫の城邦に帰ったら挨拶もかねて色々回ろうか」

 

「まだ先ですけどね」

 

「そう思っていると時間は早く過ぎていくよ?」

 

「……気をつけます」

 

そう考えると私もケトに向ける視線を少年に向けるそれから後輩とかにむけるそれに変えるべきなんだろうけど。いやむしろ家族みたいな感じになっているからな。長く付き合っている夫婦とかはこういう感じなのかもしれない。

 

「というわけでこの冬はこの横轆轤(ろくろ)の改良、金属製の紡積機と織機と文字版印刷機の作成、あとは天測装置の改良……」

 

「終わります?」

 

「たぶん終わらないかな……」

 

私は頭の中で工程管理表(ガントチャート)を組みながら言う。

 

「基本の発想だけを伝えて、あとはこの工房街に任せるのがいいのかな」

 

「無責任ですね」

 

「これを作るだけでも相当大変だったんだよ?それに私は本職は歴史学だし……」

 

「……そういう人が作っていいものには見えないんですけれどもね?」

 

ケトが言う。うん。私も思ったよりこのレベルの旋盤が簡単にできてしまったので今更ながら驚いている。まあ詰まりそうなところは先輩がやっていた旋盤の系統研究とかで多少は知っていたからな。

 

「まあでもこれがあれば色々欲しいものは作れる。顕微鏡の筒をもっとしっかりしたものにして、透玉(レンズ)も回転で削れるし、そうすれば細かいものがもっとよく観察できるようになって……」

 

「ああ、目盛りの読み取りに透玉(レンズ)を使えばいいのではないでしょうか?」

 

「いいね、在庫あったかな」

 

そういう類のものもあったが忘れていた。細かい改良の余地がまだいっぱいある。飽きさせてはくれないようだ。



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鉱物

「なかなか難しいものだなぁ」

 

失敗した黄銅棒を溶解炉の中の坩堝(るつぼ)に入れながら言う。溶けたらまた型に入れて削るのだ。削り屑の方もまた集めているがこっちは重りとかどうでもいいちょっとした部品とかに使う。変なものが混ざっていそうだし。

 

「何がですか?」

 

水車をぼんやりと眺めていたケトが言う。この水車の回転運動で中央を固定した板をシーソーのように押したり引いたりして風を作るのである。この風は排ガスとの熱交換で予熱された後に木炭の詰まった燃焼室で一酸化炭素の多い気体にして……とちょっと面倒な過程を通って黒鉛と耐火粘土で作られた坩堝(るつぼ)を赤くなるまで加熱する。これを鉄製のはさみみたいなやつで掴んで型に溶けた金属を流し込む。一応水車の動力を使っているので共用設備であり、基本的には交代で使うことになっている。まあ制作に関わった私の使える時間は多めになっているが。

 

「いや、形を似せるのに比べて細かな精度を出すのがって話」

 

回転して削る機構は作れても、それをきちんと動かせるかは別の話だ。問題の一つは刃具(バイト)に使う素材だ。今は鋼を使っているが、金剛石(ダイヤモンド)があるなら使いたい。しかしない。気相成長とかで作れなくもない気がするが、条件を揃えることができる気がしないのでやめておく。

 

「キイ姐さん、いるかい?」

 

たまにこのあたりで見る職人が私に声をかけてくる。

 

「いるよ。何だい、問題でも?」

 

今ある分はほとんど溶けているから流し込むのにそう時間もかからないはずだ。緊急の案件なら後片付けをケトに任せて対応しなければならないが。

 

「あんたに客だ。山渡りって言ってる」

 

「おや、それは会いに行かなければ」

 

しばらく前から「鋼売り」経由で少し会えないかやっていたのだが、ここにまで来てくれたのだ。まあ向こうからしても相当大きい仕事だと見たのだろう。今の時点で銀片数千枚か数万枚か、まあ相当な額が経費として飛んでいるわけだからな。じつはこういう材料やら道具やらはかなりの高額なのである。これを「鋼売りが払う」の一言でどうにでもするのだから恐ろしい組織だ。まあそれだけの価値を数年で回収できるぐらいのしっかりと仕事はしたはず。

 

「後はやりましょうか?」

 

ケトが風量を調整しながら言う。

 

「そうだね、次待っている人がいたらそっちに引き継いでしまって。まず挨拶して、使節官と『鋼売り』の人を捕まえてから商談に入りたいから時間はある程度ある」

 

「わかりました」

 

さて、味方はいるとはいえ基本的に主導権は向う側にある案件だ。気乗りはしないがやらないと選択肢が広がらないので仕方がない。

 


 

見るからに荒事専門といった風貌で、どことなく胡散臭さを感じさせる髭の男がどっかりと座っていた。黒眼鏡(サングラス)をかければ特殊知能暴力集団の構成員であると言われても納得である。

 

「どうもだ、キイ先生。話は聞いている」*1

 

そう言って男は黒い木の箱を開ける。中には仕切りで区切られたスペースに並ぶ石。毛かなにかをクッション代わりに置いてあるのか。よく考えられている。

 

「採取地と採取場所はここに」

 

それに添えて荒い紙を男は渡してくる。文字が書けるのか。警戒度を上げる。

 

「さて、これを幾らで買うかね?」

 

私に向く値踏みするような視線。ふうん。まあ確かにそれに値する取引である必要はあるわな。見た限り鉱物らしいものを中心に集めていた。精錬できるできないとかを関係なしに、重かったり光沢があったりしたものを揃えてきたのだろう。鉱物標本としてはそれなり以上の価値があると認める。

 

「とはいえ払うのは『鋼売り』ですからね」

 

そう言うと「鋼売り」の女性が直接交渉を始めている。あ、いいんだ。なんか言い争いっぽくなっているが互いにわかった範囲でのやり取りだろうと推測する。こういうやり取りにあまり慣れていないケトは少し怯えていた。図書庫の城邦の方ではもう少し丁寧だったからな。机の上で殴り合うか机の下で蹴り合うかの違いである。こちらの方だと堂々と争うほうがいいらしい。まあ、戦うのは戦い方に慣れた人に任せよう。

 

「キイ先生はこれの価値をどう見ますか?」

 

「悪くないものかと。もしこれらの石が価値あるものであれば、今後も類似の調査を依頼することになるでしょう」

 

「偽りはないかね?」

 

私の言葉に男は言う。

 

「より本格的な調査隊をそう遠くないうちに雇いたいところですが、まだ確約はできませんね。『鋼売り』にはそういう人材もいますよね?」

 

私が「鋼売り」から来ている女性に言うと少し悩んだような辛そうな表情をしていた。そりゃまあ自分の一存では決めにくい案件だろうしね。一応測量ができる人間を連れて行って六分儀とかで位置を把握させ地図を作ってもらいながら地質調査をやってもらいたいのだが、これを私抜きでやるとなると得られる成果がどうなるかがわからない。まあ今箱の中にある分でもしばらくは十分なのだが。

*1
実際は北方平原語の方言の一つを使っており、キイが聞き取るにはきついものなので「鋼売り」の女性による通訳とまでは言わないまでも補助を挟んでいる。なお冗長になるのでここらへんの描写は省略された。



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比重

まずは風防のついた精密な天秤を用意します。一応持ってきたものもありましたが精度が悪かったので金属加工設備もあることですし作りました。重りは一応この鋼鉄の尾根で使われている単位に合わせてあります。時代の変遷で多少差は生まれたけど、本来の基準は麦の粒の重さだそうで。グレーン(穀物)と同じですね。

 

「1380粒ぶん……っと」

 

ケトとダブルチェック。よし。そして上から紐で吊るしたような形にした試料の質量を測定。重さが出たら次は試料の下からじりじりと水の入った容器を持ち上げていって試料全体を水中に入れます。ここで持ち上げる際に使っているのはパンタグラフジャッキ。あのひし形みたいなタイヤ交換で使うやつ。案外雑に作ったものでも機能するんですね。

 

「1090……でいいかな」

 

私が重りを調整しながら言う。

 

「1080に見えます」

 

ケトの訝しむような声。

 

「まあどっちでもいいか」

 

「いいんですか?」

 

「どうせ測定もいい加減だから、ざっくりとした数字が出せれば十分だよ」

 

「そういうもんなんですか」

 

「あれ、測定原理を説明していなかったっけ?」

 

「なんとなくはわかりますよ。水の中なら物が軽くなるけれども、重い物ほど軽くなりにくいのでその度合を調べているんでしょう?」

 

「……用語が難しいな」

 

ケトの言う「重い」と「軽い」は、質量と密度の両方の意味で使われている。重さと質量の違いに比べればその違いの説明は簡単なものだが。

 

「ちょっと確認。紙と鉄、どちらが重い?」

 

「なるほど」

 

「何がわかったの?」

 

「同じ大きさで重い、同じ大きさで軽い、と言うべきでしたか?」

 

「……そう。せっかくひっかけようと思ったのに」

 

よくある子供のクイズだ。鉄1キログラムと綿1キログラム、どちらが重いかというもの。なお私は悪い子供だったので「1キログラムというのは真空中で?」と思っていたが真面目そうに見える児童だったので口にはしなかった。内申点って大事なんですよ。一部の話がわかる悪い先生には「自分の言葉で説明してみて?」と言われて本で読んだだけの私はあたふたしたものだ。懐かしいなぁ。思い出してしまったのでうめき声をあげる。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……大丈夫。なんて言えばいいかな。濃さ、とか?」

 

「稠率、とかですか?」

 

「いいね。それを使おう」

 

また学術用語が雑なノリで決められてしまった。あとでちゃんと用語集を作っておかないと。用語定義の統一は議論のために必要ですからね。

 

「さて、もう一度さっきの説明を、稠率(密度)という言葉を使って説明してもらえる?」

 

「ええと、水の中で稠率(密度)が低いものと高いものとがあったとき、稠率(密度)が低いものは稠率(密度)が高いものより浮かびやすい性質があるので、空気中では同じ重さでも水中では稠率(密度)が低いほど重さが軽くなります」

 

ここで使われている「重さ」は厳密には重力と慣性力と浮力、あるいは水圧によって生まれる力の和によって得られるものなのだが、まあここらへんはいいか。

 

「軽くなる率が大きくなる、とでも言えばいいかな。今回のその率は?」

 

「ええと、軽くなったのは300粒ぶん。比を取る時には水に入れる前の重さを使えばいいですか?」

 

「いいよ」

 

「1380を300で割ればいいので……4.6、でしょうか」

 

ケトが手早く蝋板に筆算をして答えを出す。たてて、かけて、ひいて、おろすという小学校でやるような長除法だ。正直この世界ではこの方法が使えるだけでかなりのものである。私は暗算で出せるけれども。まあこのために九九を叩き込む必要があることを考えると広まるにはもう少し時間がかかりそうだが。これをあまり実力のない教師でも10歳のほとんどに教えることのできるカリキュラムというのは本当にすごいのだな。

 

「そう。これが水と比べた時の稠率(密度)になる」

 

「……どうしてですか?」

 

「うーん」

 

基本的にはアルキメデスの原理である。が、これをちゃんと示すのは厄介だ。シラクサのアルキメデスが書いた「浮体について」は日本語で読んだけれどもそれでもかなり大変だったし。

 

「まあ雑な説明でよければできるけど」

 

「構いません」

 

「ある非常に薄い殻でできた瓶か壺みたいな蓋のできる容器を考えるよ。その中に水を満たして沈めると、どうなる?」

 

「容器の素材が水より稠率(密度)が高いか低いかにもよりますが……浮きも沈みもしない、と言えばいいですか?」

 

「非常に殻が薄ければね。一旦水を全部出して、同じ重さの鉛でも詰めるとしよう。これを沈めた場合は?」

 

「同じですね。浮きも沈みもしません」

 

「ここから水の中ではその物体の大きさに応じた、持ち上げるような力が働くと言える」

 

「……ええ、まだなんとかわかります」

 

「その力に対して稠率(密度)のようなものを考えるとすれば、それは水と等しくなる」

 

「ああ、それが試料を軽くした、と」

 

「だいたいはね。詳しくやると深いほど水によってかかる力が大きくなるので、上部と下部での力の差が生まれて……」

 

「ちょっとやめてください」

 

「はい」

 

「ええと、水と比べた時の稠率(密度)が4.6ぐらいということは……」

 

「鉄ならだいたい8。銅なら9。金なら19だ」

 

私は暗記している数字を言う。ちょっとしたズルだ。

 

「それに比べれば軽いでしょうけれども、普通の石よりは重い……じゃなかった、稠率(密度)が大きいわけですよね」

 

「そう。つまりは稠率(密度)の高い何かが混じっている可能性が高い」

 

「鉄とかですか?」

 

「それを今から調べる」

 

さてと、楽しい試料分析の時間である。とはいえ使える薬品にも限りがあるし、定性分析で使いたかったアンモニアもないのでまあ予備調査レベルになるが。



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呈色

瑪瑙(めのう)でできた乳鉢で試料の一部をよーくすりつぶす。なおこの鉱物の近くで取れたらしい緑色の結晶は乳鉢の外側に傷をつけたので粉砕しないことにした。あれはなんなのだろう。顕微鏡で拡大すると綺麗なひし形の面を持っていた。緑色の鉱物と言われてぱっと思いつくのは緑柱石(ベリル)橄欖(かんらん)石、蛍石とかだろうか。とはいえたしかどれも不純物による呈色だからな。わからん。まあ鉄鉱石と一緒にこういう鉱物が出るという話はあまり聞かないのでなにか面白いものが混じっているに違いない。

 

「で、これを硝子(ガラス)管に詰めてっと」

 

電気分解で得た水素を流しながら加熱。これで還元されるはず。

 

「さらにこれを酸で処理します」

 

粉末になった試料の一部を試験管に取って塩酸や硝酸や硫酸に入れ、いい感じに混ぜる。泡が出ているところを見るとちゃんと溶けているな。よし。その上で加熱。詳しくは知らんがまあこれで金属成分はイオンになるやろ。本当は弗酸(フッ化水素酸)とかを使えば確実なのだが、問題が三つ。一つ、フッ素化合物を見つけていない。まあこれは時間の問題か。二つ、製造の過程で出てくるフッ化水素が非常に有毒。体内での(フッ)化物の生成とか考えたくない。三つ、反応せずに閉じ込められる容器がない。いや、保存するだけであれば銅や鉛でいいはずであるが不動態ができるまでに混じるので定性分析したい時には向いていない。

 

「大丈夫なんですか?」

 

ケトの不安そうな声。

 

「たぶん平気」

 

発生したガスの匂いは無臭。試験管を指で抑えておいて火をつけた棒を近づけたところ軽い音がして火が出たので水素。一応硝子(ガラス)板を使った安全眼鏡をつけてはいるが指で抑えるタイプのピペットを使っているので怖い。口で吸っていたかつての化学者や生物学者は一体どんな神経をしていたのだろう。ああ、早くゴムをください。グッタペルカでもいいです。トチュウとかタンポポでも……。あれ、そう考えれば案外ありそうなものだな。魚油とかを加硫すればファクチスが作れるし、これとかも使えるんじゃないか?はいはい、今無いものを欲しがらない。図書庫の城邦に帰ったら白い液を出す植物に懸賞金でもかけるか。新聞もあることだしこういう作業は暇で金を欲しがる学徒にでもやらせればいい。腕が良ければ採用してもいいしな。とはいえ上の方から金が降ってくるうちはまだいいが、ある程度は自分で稼がねばならない。会社でも建てるか?

 

「さてと、これに含まれている可能性があるのは……」

 

黄緑色の液体を見ながら頭の中で元素周期表を思い浮かべ、可能性があるものをリストアップしていく。まあ第四周期の遷移金属あたりだろうか?この中で有り得そうなのはチタン、クロム、マンガン、コバルト、ニッケルあたりと勘で決めつける。

 

これを狙った定性分析を始めよう。高校の範囲ではどれも扱わないが、小学校時代に読んだ本にあったので覚えている。こういう時に役に立つな、私の知識。科学史とかのエピソード系は人名も含めてすんなり記憶できるのだが、こういう結構無秩序に見える分野の暗記は若い頃の貯蓄でなんとかなっている。私の父も子供に古い定性分析の本なんて読ませるなよ。

 

まずは液体を少々スポイトで取って火の中に落とす。白金線とかを使いたいが白金らしい金属は相当値が張るし、そもそも王水めいた何かができている可能性があるので入れたくない。っと、炎色反応なし。アルカリ金属、そしてベリリウムとマグネシウムを除いたアルカリ土類金属を除外。

 

お次は硝子(ガラス)装置を取り出す。ゴムがないので柔らかい木とグリースでなんとか気密をした栓式滴下漏斗もどきと三角フラスコのセットだ。ああ、もう旋盤があるからすりガラスを作れなくはないな。実験を始める前にちゃんと準備をしないとこういうことになるんです。まあいい。三角フラスコの中に硫化鉄を入れ、上から塩酸を垂らしていく。発生した硫化水素のガスは硝子(ガラス)管を通して試験管内の液体に吹き込む。特に反応なし。

 

「これ、いいんですか?」

 

「まあ予想の範囲」

 

次はこれを煮沸して硫化水素を追い出して硝酸を入れる。黄色が強くなった。鉄イオンが酸化されたのだな。さらに塩基性にするべく水酸化ナトリウムを入れる。

 

「……赤いですね」

 

蝋板に記録をしながら言うケト。水酸化鉄(III)の赤褐色沈殿だ。これを濾過して、濾液に硫化水素を吹き込む。

 

「……無反応、ですか」

 

「ちっ、面倒な」

 

マンガン、コバルト、ニッケルを除外。さっきの沈殿に入っていた可能性があるのは鉄、クロム、チタンと言ったところ。まあそれ以外の可能性もあるが。とはいえチタンの反応性みたいなものを考えるとここで沈殿として現れるかが少し怪しい気がする。まあ、クロムの存在だけ示して終わりにしよう。もしなかったら?今日の実験は終わり。ふて寝しよう。

 

沈殿を新しい試験管に入れ、たっぷりの水酸化ナトリウムを加える。もしクロムが入っていればテトラヒドロキシドクロム(III)酸の錯体ができるはずだ。確か色は緑色。濾過して得られた液体も緑色。

 

「念のため、っと」

 

液体を試験管に移し、加熱。加水分解で酸化クロムの灰緑色の沈殿。よし。これに塩酸を加えればクロムイオンの青っぽい色が出るはず。青……青?青緑?眼の前の液体を見て私はまあ定性分析は成功ということにしようと無理やり自分を納得させた。



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後片付

実験というか分析が終わったら後片付けの時間である。とはいえやることはそう難しくはない。まずはできるだけ沈殿を作る。そして酸は酸で、塩基は塩基でまとめた後にいい感じに中和させ、水を飛ばす。これで余ったやつは溶解炉に突っ込んでおけば酸化物になって鉱石の状態に戻るわけだ。試薬が高級品ならここで回収したりだとかをできるだけするのだろうが、今回使ったもののうち入手困難なのは硝酸ぐらいだしそれも手間をかけて回収するほどではない。面倒なのもあるけど。

 

あとは水で濯いで洗って、仕上げに口で吹くタイプの洗瓶につめた蒸留水で綺麗にする。吹口から息を吹き込むと内部で水が押されて蒸留水が細くした硝子(ガラス)管から飛び出す仕組みだ。

 

「トゥー嬢のやり方とはかなり違いますね」

 

薬品の片付けは私が、洗浄はケトがやっている。洗浄時の排水は一応まとめて下水に流す。ここでも上水路と下水路みたいなのがあって、混じらないように色々と注意されている。下流の海で生体濃縮とか起こらないといいが。

 

「私のもといた場所の作法だから」

 

とはいえ一部は半世紀ほど前の手法だ。今ではたいてい洗瓶はぺこぺこのポリエチレンだし、廃液は種類ごとにまとめて専門業者に引き取ってもらう。まあこの方法なら六価クロムは生まれないはずだし、処分方法としてはそう間違っていないはず。まったく、普通の化学やってる人でもこういう古臭い手法はまず知らないぞ?なぜ私が知っているかと言えば読んでいる本が古かったからである。内容はそう変化しないからと古本屋で買った本を娘に読ませる親のせいとも言う。そう考えるとあの時読んだ色々な本と学校で学んだ「正しい」実験方法の違いが私を科学史の沼に引きずり込んだ元凶の一つかもしれない。まあそれはいい。

 

「ところで、これは一体何だったんですか?」

 

試料になった石を見てケトが言う。

 

「んー、ある種の金属と鉄の煆灰化物(酸化物)のはず」

 

「どういう金属ですか?」

 

「ええとね、私がかつて使っていた言葉では『色』に由来する名前で呼ばれていた」

 

クロミウムの語源はχρωμα()だっけな。クロマキーとかカラーとかと同根。

 

「赤とか青とかではなく、『色』ですか」

 

「そう。化合物が色とりどりだったから、だっけな」

 

「……まあ、そういうのは僕たちがこれから見つけていくのでしょうけど」

 

「はいはい、黙っておきますよ。けれども、この金属にはいくつか有用な使い方があってね」

 

「例えば?」

 

「鍛鉄と混ぜると錆びない鉄ができる」

 

「……すごいですね、それ」

 

不銹鋼(ステンレス)、すなわち「Stain-Less(錆びることなし)」の名を持つ合金である。一応ニッケルを混ぜるとクロムの使用量を減らせるのだが、クロムだけでも2割ぐらい混ぜればフェライト系ステンレス鋼になる。まあそこまでの純度出せるかとかいう怪しい問題もあるが。

 

「まあ、これで必要なものの一つは揃った」

 

これの精錬は電気炉で行けたはず。あるいは電気分解でも行けるか。問題は電気だよ電気。フェライトコアみたいなものがあれば高周波用の磁心が作れるが、必要な材料と温度環境と雰囲気が怪しい。基本的にはセラミックなので混ぜて焼いて砕いて混ぜて型に詰めて焼けばいいのだが、せめて電気炉と熱電対が欲しい。はい、まだ色々と足りないものがありますね。ニッケルと白金とロジウム。山歩きの人に任せるしか無い。

 

「ところで、残りの石も全部こうやって調べるのですか?」

 

「いや、もう少し簡単な方法を使う。ちょっと特殊な分離方法を使うけどね」

 

首をひねるケト。あー、確かにこの技術は結構最近まで生まれてないからな。確か20世紀の初頭、ミハイル・セミョーノヴィチ・ツヴェットによるもの。Цвет(ツヴェット)、ロシア語で「色」を意味する名にふさわしい発見だった。

 

「ええと、例えばこれを作った時にも使った方法なんだけど、まずは小果の皮をよくすり潰して水に溶かして、液体を作る」

 

そう言って私はpH指示薬代わりに使っていた液を取り出す。アントシアニジンらしい色素が含まれているので、酸性だと薄紅に、塩基性だと青緑に染まるのだ。

 

「ええ」

 

「そこでこんな感じの長方形の紙を用意して……」

 

適当な固定具を持ってきて、紙の一端を色液に漬けた状態に支える。

 

「こうやると下の方からじわじわ……と上がってくるの、わかる?」

 

「ええ」

 

「この上がる速さの違いを利用する」

 

「速く上がる金属基質と、そうではない金属基質の差ですか」

 

「その通り。そして後は適当な方法で色をつけてあげればいい。硫黄蒸気に当てるとか、苛性液につけるとか」

 

「どの場所で、どの色が出たかで見分けるということでいいですか?」

 

「その通り。まあその情報はないから全部調べるしかないんだけどね!」

 

「トゥー嬢に丸投げですか?」

 

「いやちゃんとトゥー嬢に弟子というか部下を斡旋するので……」

 

あの人の下で学ぶのは相当色々な条件が必要そうだし、人選をきちんとする必要があるだろうが。



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硝石

「ところで、『鋼売り』では硝石を取り扱っていないの?」

 

図書庫の城邦から来た4人で食卓を囲んで情報交換をしている最中、私は「鋼売り」から来た女性に質問する。硝酸があまり潤沢には使えないので製造用の硝石、つまりは硝酸塩が欲しいのだ。

 

「……いいえ」

 

「そう」

 

少し反応にラグがあったが、たぶん図書庫の城邦経由とかの輸入では取り扱っている、という話だろう。直接的に生産地を押さえているわけではないというだけで。

 

「そうでした、キイ嬢。後で少し個人的に聞きたいことがあるのですがよろしいですか?」

 

「いいよ。ケトを追い出そうか?」

 

「……そうですね。その方がいいかと」

 

まあ女性同士の会話だろう。ケトももういい年齢なのだから、確かにそういう会話からは除外されるべきだし。

 

「頭領府外交局の仕事は順調。『鋼売り』と一部商品の貿易に対する覚書を交換できた」

 

そう言うのは使節官。

 

「ところでちゃんと北方使節官としての仕事?それとも『鋼売り』の関係者として何か利害関係があったりする?」

 

「無いとはいい切れませんが、どちらにも利がある取引ができたかと」

 

私の言葉に使節官は自信のこもった声で返す。

 

「なら、私からはこれ以上はないかな」

 

ふと横を見ると少し疲れたようなケトの顔。まあ、昼食しながらこういう話をするのに慣れていないと食欲が出ないよな。

 


 

「お時間を取らせてしまい、申し訳ございません。キイ先生」

 

そう言う彼女の顔は綺麗な笑顔であった。私はケトをこの場に呼ばなかったことを少し後悔しつつ、微笑む。

 

「構いませんよ」

 

ここから彼女の脇を通り過ぎて逃げる……のは無理だな。丁寧に短刀まで下げている。私の非力さではまあ殺そうと思われれば殺されるはずだ。逆に言えばあの短刀は自衛用の意味がない。なぜなら彼女は素手でも私を十分殺せるはずなので。

 

「ところで、なぜ硝石を?」

 

「鉱物の分析に必要なのですよ」

 

「……本当に、それだけですか?」

 

「……それ以外の使い道がありますか?」

 

そりゃまああるに決まっている。肥料、薬、食品添加物。もちろんそれだけではないが。

 

「いえ、ならよかった」

 

「硫黄を手に入れたのも鉱物の分析に必要な薬品を作るためですし」

 

「わかっていますよね、キイ先生」

 

「……硝石七割、硫黄を二割、木炭を一割といったところですかね」

 

私はとあるもののレシピを口にする。

 

「その割合は、私ですら知らされていないのですが?」

 

ああ、はい。私は「鋼売り」の面倒な秘密を知っていると認識された、と。迂闊すぎたとは言えないか。火薬の知識はこの世界になさそうだったわけだし。いや、隠していたのか。

 

「割合を知っていても作るのは大変ですよ。単に混ぜればいいというものではありませんし」

 

「そういう問題ではないのです。……『鋼売り』としては、あなたを敵とみなす必要が出ました」

 

私は息を吐き、科学技術史の知識を引っ張り出す。黒色火薬の発明から軍事利用まではそれなりに時間がかかっている。そこから大砲の発明まではそこまで長くなかった。この世界の技術はどうなっていて、どういう方向に発展している?

 

「そう怖いことを言わないでください。私にはあなた達を敵とみなす理由がありません」

 

落ち着け。こちらが多くのことを知っているが肝心のところが抜けていると思わせられれば一番だ。現状を確認。黒色火薬の製法を知っていて、それを秘密にして、その製法を知っている人間を敵視している以上ある程度軍事利用されていると考えていい。しかしかなり広い地域に傭兵を派遣している「鋼売り」が火薬兵器を使っているという話も知らない。金属加工の水準からしてコンスタンティノポリスを陥落させるほどの威力を持つ大砲は作れないはず。まあ木砲とかもあるが。おそらくは火砲方面にはあまり使われていない。では他に黒色火薬を使ういい場面なんてあるか?

 

「理由を聞かせてもらっても?」

 

まあ私が黒色火薬を使わない理由ならぱっと出すことができる。それ以上のものを既に手に入れているから。ニトロセルロース。今では写真フィルムとしてある程度の量が図書庫の城邦で生産されている代物だ。とはいえこれは気が付かれないように。わざわざ手札を明かす必要もない。

 

「ええ。まず私はその作り方を知っていますが、実際に作るとなればかなりの時間と手間がかかるでしょう。この工房街から出ずにそんな大掛かりなことをするのは困難です」

 

「しかしその方法を既に誰かに伝えていたら?例えばあなたの信頼する薬学師に、であるとか」

 

トゥー嬢のことは調べてあるのか。やはり図書庫の城邦に長期にわたって情報収集をする諜報員を置いているな。まあそれはいい。

 

「それに必要な資源が特殊です。硝石は水に溶けやすいので乾燥地帯でしか取ることができないですし、硫黄があるのはこの付近だけでは?」

 

実は嘘だ。水に溶けるなら水に溶かしてしまってから硝石を回収するという方法がある。硝酸塩はアンモニアや尿素の発酵で得ることもできるから、そちらから手に入れれば硫黄だけでいい。厳密には木炭に使う木もある程度選んだほうがいいのだろうが。そして硫黄も硫化物から回収できる。硫化鉄とかはこの北方以外でも採掘できることは確認済みだ。

 

「あなたなら硝石ぐらい、手間がかかるだけで作れるのでは?」

 

「もしそうなら注文しませんよ」

 

もちろん作れるが。なお電気や燃料を喰うので今のところは事実上不可能。ちなみに先程の彼女の質問には答えていない。手間がかかることは買わねばならないことと必ずしも一致しないので。

 

「最後に、私にはそこまでして狙いたい城邦はありません」

 

ここでちょっと揺さぶりをかけてみよう。もし火砲として火薬を使わないのであれば、残る可能性の一つは坑道戦における爆薬としての利用だ。地下を掘り、城壁の下で火薬を爆発させることで壁を崩す。もちろん使い所は限られるだろうが、傭兵たちの切り札として、あるいは狙われる国家の持つ反撃手段としては悪くないはずだ。



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爆薬

「……正直なところ、あなたの考えが読めません」

 

私の向かいでいつもならケトが寝ている寝台に腰掛けて「鋼売り」の女性は言う。

 

「いえ、そういう爆発を引き起こすようなものであれば代替手段はありますし、私にとって硝石も硫黄も今のところは実験用薬品としての価値以上のものはないですよ」

 

「それを信用しろと?」

 

「もし敵意があるなら、最初からそれを作ってあなた達に使っています。『鋼売り』にわざわざ教えなかったのはこういった知識の発展性があまりないからですね」

 

そう言って私は自分の表情が普段どおりかどうかを少し心配する。なにせ火薬の利用は爆薬以上に火砲のほうが有名だからだ。今ここにある設備でも半月ほどあれば最低限の銃、もとい弾丸が狙った方向に飛び出す事実上のパイプ爆弾は作れる。撃ちたくはない。ワセリンの代わりになる何らかの油脂と木タールの蒸留で得られるアセトンがあればコルダイトも作れる。頭の中にはFGC-9の設計図が入っているので時間があれば電解ライフリング銃身を備えたそれなりの銃はできるだろう。たぶんボトルネックは規格化された弾丸の大量生産だな。

 

「……いいでしょう。しかし、証拠が欲しいですね」

 

「それではこういうのはどうでしょう。私が知っている爆発を起こす薬品……というか製品の製造方法を教えるというのは。しかしこれは不安定で、取り扱いに慣れるのはかなり難しいかと。鉱山などで大規模に利用されるのならともかく、秘密の破壊などにはまだ使いにくいでしょう」

 

「……それと引き換えであれば、『鋼売り』はあなたを敵ではないと認められそうです」

 

結局はゼリグナイトの製法をタダで渡すことになったわけだ。いや相当資金の面で融通してもらったからこのくらいは教えるべきかもしれないが。

 

「必要な材料は硝石、紙、油か脂、あとはある種の苛性物質、それに木の粉」

 

まあ、鉱業分野で使えるのだ。私は雑ではあるがレシピを紙に書いていく。加水分解で得たグリセリンとセルロースのニトロ化。これと木材をうまい具合に混ぜると半透明の塊ができる。安く、完成すればそれなりに安全で、材料もそう特別ではない。テロリストも使うやつだ。問題は雷管だがこれは黒色火薬とかを使えばいいだろう。

 

「硫黄は要らないのですか」

 

「ええ。……逆に言えば、これは硫黄の流通を握るあなた達でなくても作ることができるのですが」

 

「構いません。証拠としては十分です」

 

「一応ちゃんと作れるかどうか確認してもらってもいいのですが……、下手をすれば製造の過程で死人が百ぐらいは出る代物ですので注意してくださいね」

 

「急戦派に作らせてみますか」

 

おいなんかさらっと怖いことが聞こえた気がするぞ。派閥争いがあるのは噂には聞いていたがこういう解決策を取ることを考えるぐらいなのか。

 

「しかし、これを実戦で使うことは考えものですよ」

 

「ええ、剣と鎧の戦いからまるで違ったものになるでしょう」

 

そのくらいは読めるのか。戦争の変化についていくのは大抵かなり高い血の授業料を払う必要があるというのに。

 

「個人的に戦争は嫌いなので、できれば抑止のために使って欲しいものです」

 

「こちら……少なくとも、『鋼売り』の主流派もそうですよ。戦場では商売もままなりませんし、剣で支払おうとする不届き者も多い」

 

ああ、強盗めいた行為があるのだろうな。

 

「とはいえ、あなた達も剣で釣りを払うのでしょう?」

 

「ある程度はそうですけれどもね」

 

彼女はため息を吐く。

 

「キイ先生の知識を活かし切るにはあと十年はかかるでしょう。それまでは余計なことに資金と人員を投じたくないのです」

 

逆に言えば十年で相当なレベルにまで発展させるつもりのようだ。怖い。まあできるのだろうなという予感はある。ここらへんはかなり条件が整っているので、私の行動がきっかけとなって一気に発展する可能性はあるのだ。まあ文字の問題は残るがそこらへんは必要とあれば「鋼売り」の人たちがどうにかしてくれるだろう。

 

「応援ぐらいしかできることはありませんが、幸運を願っています」

 

「……帰られるのですね」

 

「そろそろあの城邦も恋しくなる頃なので」

 

「もう港の氷も溶けるでしょう。『鋼売り』として、あなた達の無事な帰路を保証させていただきます。それだけの仕事はしていただきました」

 

私とケトを軟禁することぐらいは想定していたのだが、この様子だと大丈夫そうだ。

 

「いいのですか?」

 

「ええ。きっとこれからはキイ先生があちらに戻って行う仕事で必要となるものを色々と売っていくことも重要な仕事になりそうですからね」

 

「まあ、そう遠くないうちに情報のやり取りは一瞬になりますよ。そうなったら色々と注文させてもらいます」

 

測定と分析に必要な素材に用いる各種鉱物資源や合金は今後私が色々やればやるほど重要度が上がっていくだろう。ちゃんとそこで利益を得ようとしているのはしっかりしている。まあ、期待されているならそれなりの働きをしてみせましょう。



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第18章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。誤差や不純物が設定上無視されているんじゃないかと思っている読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


温泉

マルセル・グラトーやチャールズ・ネスラー、ヴィダル・サスーンの名前ぐらいしか知らない。

マルセル・グラトーはヘアーアイロンの発明者。この熱による髪の変形は時間経過によってなくなってしまうため、チャールズ・ネスラーが化学的手法による「永久(パーマネント)」の名をつけたパーマネント・ウェーブを実用化。このように発展した美容技術であるが、理容の分野においてもヴィダル・サスーンが「サスーンカット」と呼ばれる技法を開発し、今日広く用いられるようになった。

 

「そういえば、この地域では温泉は別に神聖視されてないんだな……」

沐浴のような清めの側面が強い入浴は、しばしば自然温泉と結びついてきた。

 

浮遊ゲートMOSFETの展示を見たことがあるが原理を完全に理解しているわけではない。

MOSFETはMetal-Oxide-Semiconductor Field-Effect Transistor(金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ)の略。浮遊ゲートは電気的に独立しているために電荷を保存することができ、これを用いたメモリとして当時東芝に所属していた舛岡富士雄が発明したフラッシュメモリがある。

 

パラメトロンみたいな素子が主流となった時に数学モデルがちゃんとあれば効率的な回路設計もできるだろうしな。

この辺りの感じは,真空管や継電器の回路の感覚から見ると誠に奇妙であって,回路の設計は数学者か詰将棋家にでもまかせた方がようのではないかとさえ思われる.

 

──後藤英一. "パラメトロン研究". パラメトロンの研究 I. パラメトロン研究所編. 共立出版, 1959, p. 28.

 

パラメトロンはある論理回路を実現するための最適な組み合わせパターンがかなり独特であるため、発案者である後藤英一も上記のような言葉を残している。

 

医者

原義の方の壮年ぐらいの男性が声をかけてきた。

「壮年」は本来働き盛りの年代を指す。キイはもう壮年である。

 

応急処置のために必要なのは血液循環説とかだろうか?

ウイリアム・ハーベーは「Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus (動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究)」でガレノスから続く医学の定説を覆す血液循環説を発表した。これは血液は肝臓で作られて全身に広がるのではなく、動脈と静脈を心臓が生み出す圧力によって循環するというものである。血液の流れる方向性を示すために腕を縛って血管を押さえ脈を調べた実験の図は医学史の本には結構出てくる。

 

火で炙って血を止めるなんて話はこの世界では見たことがないし、

焼灼止血と呼ばれる方法。血が止まっても火傷が残るという方法であり、今日では非常に小さい範囲での止血にしか用いられていない。

 

結紮法が採用されているという話も聞かない。

血管を糸で縛ることで止血する方法。慣れないと細い血管を縛るのはかなり難しい。

 

アンジェリーナ・ファニー・ヘッセの提案した寒天培地を使いたいが、紅藻の分布とかの知識がない。

アンジェリーナ・ファニー・ヘッセはKaiserliches Gesundheitsamt(帝国保健局)で働く夫のヴァルター・ヘッセの仕事を補助する傍ら、培地に寒天を使うことを提案した。あと寒天の原料になる紅藻は温かい海であればかなり広い範囲に存在する。

 

ヌードマウスを作るには時間がかかるか。

ヌードマウスは胸腺の機能不全により免疫系が阻害されたマウス。移植実験などに用いられる。

 

FOXN1のコードもどの染色体上にあるかも知らない。

FOXN1はケラチン発現を制御し、免疫にかかわる遺伝子。ヌードマウスではこの遺伝子が上手く働いていない。マウスの場合11番染色体にある。

 

消毒

まあ国会とか三部会のようなものだ。

ここでの三部会は聖職者、貴族、平民の議員で構成されたフランス王国のÉtats généraux(全国三部会)のこと。なおフランス語のÉtats générauxには「3」を表す単語は含まれていない。

 

洗気瓶や北里柴三郎式の嫌気性培養用の容器ぐらいは作れるようになっているはずだ。

「北里柴三郎式の嫌気性培養用の容器」は嫌気性菌扁平培養器のこと。亀の子シャーレとも言う。破傷風菌のような嫌気性細菌を水素雰囲気で培養するための設備。

 

私を実験の対象にできればいいけど、

5. No experiment should be conducted where there is an a priori reason to believe that death or disabling injury will occur; except, perhaps, in those experiments where the experimental physicians also serve as subjects.

(5. 死もしくは身体障害をもたらす傷害が発生すると信じられる先験的な理由のある実験は実行してはならない。ただし、実験医師が被験者となるような実験は例外である。)

 

──United States of America v. Karl Brandt, et al.(アメリカ合衆国対カール・ブラントら裁判)において、1947年の判決内で示された「Permissible Medical Experiments(許容されうる医学実験)」より。拙訳。詳細は「Trials of war criminals before the Nuernberg military tribunals under Control Council law no. 10 (Volume 2)(管理理事会法第10号に基づくニュルンベルク軍事法廷における戦争犯罪人の裁判(第2巻))」を参照のこと(リンク先はUnited States National Library of Medicine(合衆国国立医学図書館)ウェブサイト)。該当部分は181ページにある。

 

United States of America v. Karl Brandt, et al.(アメリカ合衆国対カール・ブラントら裁判)は「医者裁判」とも呼ばれるアメリカ合衆国によって行われた裁判であり、その中で示された「Permissible Medical Experiments(許容されうる医学実験)」は今日人体実験に関する指針であるNuremberg Code(ニュルンベルク綱領)として知られている。

 

なお、自身が被験者となる場合の特例については1931年の「Richtlinien für neuartige Heilbehandlung und für die Vornahme wissenschaftlicher Versuche am Menschen(先進的治療法および人体を対象とする科学実験の実施に関する指針)」やその後の1964年のDeclaration of Helsinki(ヘルシンキ宣言) (Medical Research Involving Human Subjects(人間を対象とする医学研究の倫理的原則))では明示的には示されていない。

 

測微尺

ウィリアム・ガスコインから始まる螺子(ねじ)を使った測定装置、測微尺(マイクロメータ)だ。

ウィリアム・ガスコインは天文観測のためにねじ式の角度測定装置を用いた。

 

製造過程と目的を考えるとヘンリー・モーズリーの控訴院、もとい工房で使われていた「Lord Chancellor(大法官)」に近くはあるが、構造はジェームズ・ワットのやつに近い。

ヘンリー・モーズリーは工房内の測定器を補正する基準として「Lord Chancellor(大法官)」と呼ばれるマイクロメータを作成した。Lord Chancellor(大法官)は当時イギリスで最上級の裁判所であった控訴院の監督者であったのでこの名前がついている。

 

実際にはトルクのかけ過ぎを防ぐために適切なラチェット機構とかを組み込みたいのだが、

ラチェットは一方向にだけ回転、あるいは移動させるための機構。これに締め付けの強さ、すなわちトルクを感知する機能を組み込んだ工具がトルクラチェットである。

 

ここでその上からもう一枚の硝子(ガラス)板を乗せるとくさび形の空間ができる。

この種の干渉機構の名前を探してもあまり出てこなかった。ご存じの方がいればお知らせいただければ幸いです。

 

可視光範囲のバルマー系列とかである一定の波長を手に入れる事ができればいいのだが

ヨハン・ヤコブ・バルマーは水素の出す可視光内のスペクトルの波長パターンを整数を用いた式で表せることを示した人物であり、彼にちなみ可視光範囲のスペクトル系列はパルマー系列と呼ばれている。ちなみにこの式は後にヨハネス・リュードベリによって拡張された。

 

数学の難しさに科学が囚われていてはいけない。

The degree of this mastery should be such that, insofar as possible, mathematical complications would not distract attention from the physical difficulties of the problem—at least whenever standard mathematical techniques are concerned.

可能な限り、その習得度は数学的複雑さが物理学の問題としての難しさから注意をそらさないようなものでなくてはならない──少なくとも、標準的な数学的技法が関係している場合は。

 

──Khalatnikov, I. M. Landau, the physicist and the man: recollections of L.D. Landau. Pergamon Press, 1989.より。拙訳。

 

リェーフ・ダヴィーダヴィチ・ランダーウ(ランダウ)は「Курс теоретической физики(理論物理学教程)」の著者の一人として知られる。このシリーズは物理学の教科書として有名だが、決して初学者向けではない。

 

引用文に示されるような彼の思想の現れの一つは「Теоретический минимум(理論ミニマム)」と呼ばれる試験であり、ミニマムの名に反して理論物理学全般の様々な知識とテクニックを要求される非常に難易度の高いものとなっている。

 

私が高校生の頃はWolfram Alpha先生に頼りきりだったからあまり大きな声では言えないが。

Wolfram Alphaはスティーブン・ウルフラムがCEOを務めるWolfram Researchがオンラインで公開している「計算知能」。理工学分野の問題に対する自然言語に近い入力を処理してくれる。大学教養レベルの数学であれば結構対応しているので、面倒な計算をこれに投げることで数学的難しさを無視して問題と向き合うことができる。

 

ちなみにこのシステムをもう少ししっかりとプログラミング風に記述できるMathematica、もしくはその対抗馬であるMATLABを使いこなせれば純粋数学や極度に面倒な物理学の一部分野、計算機科学の例外的問題を除いてかなりの理工系の問題に対処できる。なおMathematicaとMATLABのどちらを使うかは多少争いがあるが、それより上の方でPythonはいいぞとかRを使えとかFORTRANを崇めよとか聞こえてくるので怖い。やはりエクセル……。

 

嵌合

「ざっくりと、髪の太さほどでしょうか」

棒の太さが30 mmぐらいの時、JIS B 0401あたりを参照するとキイが示したような状態のはめあいの公差域の差は50から100マイクロメートルほど。

 

あとは地域に一つ万能工作機械みたいな旋盤とフライス盤とボール盤を全部まとめたようなやつを置くことができれば十分だろうか。

万能工作機械は大型船舶、極地施設、地方の発電所などに置かれるオールインワンで器用貧乏な工作機械。

 

「前にも言ったっけ」

第25話「規矩」を参照のこと。

 

私も思ったよりこのレベルの旋盤が簡単にできてしまったので今更ながら驚いている。

池貝鉄工所編「池貝喜四郎追想録」によれば明治22年の後半、4人の作業員と主に人力で動く輸入品の旋盤2機を使って半年程度で旋盤を作ったという。これは日本において作られた最初期の動力式旋盤。なお、この旋盤は現在国立科学博物館に「池貝工場製第1号旋盤」として常設展示されているが、今のところあまり詳しい研究は行われていないはず。

 

鉱物

この水車の回転運動で中央を固定した板をシーソーのように押したり引いたりして風を作るのである。

モデルは天秤ふいご。

 

黒眼鏡(サングラス)をかければ特殊知能暴力集団の構成員であると言われても納得である。

特殊知能暴力集団は暴力団ではないが暴力団とつながりを持って反社会的行為を行う人間のこと。専門家のような、それでいて堅気(カタギ)でない雰囲気を纏っていたのだろう。

 

比重

グレーン(穀物)と同じですね。

グレーンは帝国単位系の単位の一つ。SI単位系で言うなら正確に0.00006479891キログラム。もう少しわかりやすく言うとおよそ65ミリグラム。大麦一粒の重さに由来する。greinは穀物の意。

 

案外雑に作ったものでも機能するんですね。

なおただのジャッキだと一点でしか支えられないので何らかの水平維持機構が組み込まれていたと考えられる。

 

「どうせ測定もいい加減だから、ざっくりとした数字が出せれば十分だよ」

差を計算するので桁落ちが発生し有効数字が結構怪しくなる。できるだけ正確な測定を心がけよう。

 

重さと質量の違いに比べればその違いの説明は簡単なものだが。

質量という概念の形成過程はそれなりに面白いがここで語るのは大変なのでマックス・ヤンマーの「質量の概念」を読もう。なお読む時にはアリストテレス哲学とか基本的な物理学についての知識ががそこそこあるといいです。

 

なお私は悪い子供だったので「1キログラムというのは真空中で?」と思っていたが真面目そうに見える児童だったので口にはしなかった。

真空中で同じ重さの綿と鉄は体積が異なるために大気の浮力の影響を受け、天秤に載せた場合鉄のほうに傾く。あくまで理論上は。実際に発生する浮力の差を計算するとある程度条件を整えた環境でなければ傾きを検出できないことがわかる。

 

たてて、かけて、ひいて、おろすという小学校でやるような長除法だ。

小学校4年生でやったわり算の筆算の過程。こういう変な用語を使うのはまあ仕方のないところはあるが面倒だ。

 

シラクサのアルキメデスが書いた「浮体について」は日本語で読んだけれどもそれでもかなり大変だったし。

原題はΠερὶ τῶν ἐπιπλεόντων σωμάτων。海が丸いことをさらりと証明したり、放物線と直線で囲まれた図形が水に沈んだ時の喫水線を幾何学で求めたりとかなりやっていることはハード。

 

定性分析で使いたかったアンモニアもないのでまあ予備調査レベルになるが。

アンモニアは金属を含まないために金属の定性分析で塩基性環境を作るために使われる。もし水酸化ナトリウムとかを使うともとから入っていたナトリウムと区別がつかなくなるので面倒。

 

呈色

なおこの鉱物の近くで取れたらしい緑色の結晶は乳鉢の外側に傷をつけたので粉砕しないことにした。

この結晶は灰クロム柘榴石(ウヴァロヴァイト)。モース硬度は翡翠と同じぐらい。等軸晶系なので理論上は立方体や菱形十二面体の結晶を作る。

 

体内での(フッ)化物の生成とか考えたくない。

フッ素イオンが体内のカルシウムイオンと強く結合することで体内でフッ化カルシウムが作られるなんてことが起こる。防止のためにできるだけ耐酸性の強い手袋やゴーグルなどの防護措置をした上でドラフトチャンバーの中で作業を行うようにし、応急措置用のグルコン酸カルシウム軟膏のようなものを用意しておこう。なお作者の知る環境では事前にこの軟膏を二枚重ねの手袋の間に塗って実験を行っていた。正しい手順かは知らない。

 

グッタペルカでもいいです。トチュウとかタンポポでも……。

いずれもラテックスを作り出す植物。これに硫黄を加えたりすることでゴムを作ることができる。

 

魚油とかを加硫すればファクチスが作れるし、これとかも使えるんじゃないか?

Facticeはフランス語で「人工の」の意味。Factoryとかと同根。このような物質は中世の頃から知られていた。

 

私の父も子供に古い定性分析の本なんて読ませるなよ。

ここらへんの分析を書くにあたって国立国会図書館デジタルコレクションの様々な資料を参考にした。今どきはイオンクロマトグラフィーを最初から使ってしまうのでこのような分析はあまりされない。

 

そもそも王水めいた何かができている可能性があるので入れたくない。

王水は濃塩酸と濃硝酸をモル比3:1(偶然にもよく使われる濃度であれば体積比でも3:1)で混ぜることによって作られる酸化力が非常に強い液体。金や白金をテトラクロリド金(III)酸やヘキサクロリド白金(IV)酸にすることで溶かす。

 

ベリリウムとマグネシウムを除いたアルカリ土類金属を除外。

IUPAC 2005年勧告の無機化合物命名法(通称: レッドブック)によれば、アルカリ土類金属には2属全て(今のところベリリウム・マグネシウム・カルシウム・ストロンチウム・バリウム・ラジウム)を含むとされる。これを反映して日本化学会科学用語検討小委員会は2015年に「高等学校化学で用いる用語に関する提案」で高校教科書の書き換えを提案し、実際書き換わっている。ちゃんとリサーチをしていないとこういうところが危ないのだ。なおこの中でベリリウムとマグネシウムは可視光域での炎色反応を示さない。

 

水酸化鉄(III)の赤褐色沈殿だ。

実際には$\require{mhchem}\overset{\text{水酸化鉄(III)}}{\ce{Fe(OH)3}}$は安定ではなく、アクア錯体が重合することでコロイドや沈殿が形成されるらしい。面倒。

 

マンガン、コバルト、ニッケルを除外。

もしこれらのイオンがあれば硫化物を形成し沈殿する。

 

もしクロムが入っていればテトラヒドロキシドクロム(III)酸の錯体ができるはずだ。

$\ce{[Cr(OH)4]-}$のこと。過剰量の水酸化ナトリウム水溶液があれば沈殿になっていた水酸化クロム(III)が錯体を形成して溶解する。

 

これに塩酸を加えればクロムイオンの青っぽい色が出るはず。

クロムは水溶液中で酸化数によって色を変える。あと塩化クロム(Ⅲ)の水和物とかの色もあってかなりカオス。

 

後片付

仕上げに口で吹くタイプの洗瓶につめた蒸留水で綺麗にする。

今はまず見ないタイプの洗瓶。古い教科書を見ると載っている。

 

確か20世紀の初頭、ミハイル・セミョーノヴィチ・ツヴェットによるもの。

もともと植物色素の分析のために用いられたクロマトグラフィーと呼ばれる手法。この名前も「色」に由来する。

 

アントシアニジンらしい色素が含まれているので

アントシアニジンは植物内では多く糖と結合した状態である配糖体として存在する。これがアントシアニン。

 

硝石

金属加工の水準からしてコンスタンティノポリスを陥落させるほどの威力を持つ大砲は作れないはず。

トルコ語読みでウルバンとして知られるハンガリー王国出身の技術者がオスマン帝国に提供した鋳造青銅砲を踏まえたもの。この砲はコンスタンティノポリスの城壁を破り、東ローマ帝国を滅亡させることに寄与したとされる。

 

まあ木砲とかもあるが。

木で作られた大砲のこと。火薬の燃焼で生まれるガスの圧力を抑え込めれば素材は問わないとは言え、実質使い捨てだった。

 

水に溶けるなら水に溶かしてしまってから硝石を回収するという方法がある。

土中の好気性菌によって生成された硝酸イオンを水で洗うことで回収するもの。非乾燥地域でも使える。

 

今ここにある設備でも半月ほどあれば最低限の銃、もとい弾丸が狙った方向に飛び出す事実上のパイプ爆弾は作れる。

銃の基本原理は高速で起こる化学反応によって生まれた気体の圧力で弾丸を押し出すというものである。つまり銃身がこの気体の圧力に耐えられなかったり、弾丸が上手く飛び出ないと手の中で密閉された容器内に高圧ガスが溜まった状態になるわけだ。このままだと酷いことになることは想像が難しくないだろう。

 

ワセリンの代わりになる何らかの油脂と木タールの蒸留で得られるアセトンがあればコルダイトも作れる。

コルダイトはイギリスのExplosives Committee(爆薬委員会)のフレデリック・オーガスタス・エイベル、ジェイムズ・デュワー、ウィリアム・ケルナーらによって作られた安定性の高い無煙火薬。ニトログリセリン、ニトロセルロース、ワセリンの混合物をアセトンで溶かすことで作られる。なおこのアセトンを発酵によって作る手法を編み出したハイム・アズリエル・ヴァイツマンは大量の火薬を生産する必要があったイギリス政府との関係を深め、初代イスラエル大統領に就任している。

 

頭の中にはFGC-9の設計図が入っているので時間があれば電解ライフリング銃身を備えたそれなりの銃はできるだろう。

FGC-9は3Dプリンターで作成したパーツととEU内で合法的に購入できる部品から構成される自動式騎兵銃(カービン)。オープンソース。使用弾薬は非常に一般的な9x19mmパラベラム(戦いに備えよ)弾。銃身に螺旋状の溝を刻むことで弾丸を回転させ軌道を安定させることをライフリングと言うが、この銃はライフリング方法の一つとして電気分解を利用して銃身内を削る方法を示している。FGCはFuck Gun Control(クソ喰らえ銃規制)の意。

 

なおこの小説を読むような読者の少なくない割合が簡単な加工道具があれば銃を作れることと、銃弾の入手の面倒さと、火薬の取り扱いの法的複雑さを知っているであろうからあまり強くは言わないが、本当に危ないので基本的に銃は合法的に売っているものを手に入れよう。そして必要な時以外は人に向けないようにしよう。

 

結局はゼリグナイトの製法をタダで渡すことになったわけだ。

ゼリグナイトはアルフレッド・ノーベルの発明した可塑性(プラスチック)爆薬。IRAなどがテロに用いた実績もある。



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第19章
帰路


「これだけあればいいですかね」

 

私はお世話になった職人に紙の束を渡す。リンク機構やら自動化のための部品やら基本的な概念を色々と記録したものだ。

 

『そうだな。これで十年は忙しくなる』

 

「他の職人に任せてもいいのですよ?」

 

『一部はそうするさ』

 

「……短い間ですが、多くの助けをあなたから得ることができました」

 

『こちらもだ。帰路の幸運を』

 

「あなたも、これからの幸運を」

 

私は職人と拳を叩き合わせた。これが分かれの挨拶らしい。

 

「……じゃあ、行こうか」

 

私は荷物を担いで言う。旋盤などの部品は分解して事前に荷運び人に頼んで港まで運んでもらっている。私がケトと分担して持つのは鉱物サンプルとかとかの小物である。実験装置類は興味を持ってくれた人がいたので一部は工房街の近くにある衙堂にトゥー嬢の本と一緒に置いておいた。まあ、一年掛けて手に入れたものとしては上々といっていいだろう。なにより金属加工が簡単にできるようになったのは大きい。

 

「そうですね。ええと、使節官は帰らないんでしたっけ」

 

ケトは確認するように言う。

 

「ああ、こちらでもう少し色々とやりたいことも多いからな。後任が来たら報告も兼ねて戻るだろうが、来年かもっと先か……」

 

多少「鋼売り」寄りにはなるかもしれないが利益相反とまでは行かないだろう。それにしても「鋼売り」もそれなりに重要だろう人材をよくまあ狙えたな。使節官がハニートラップだとわかって踏んだのもあるだろうが。今はすっかり仲のいい二人である。具体的には笑顔で足を踏み合う程度には。

 

「手紙なら担いますよ。どうせ予定としては数日は余裕があるから書けるでしょう?」

 

まあ少し脅しこみで私は言う。こういう人は適度に圧力をかけるといいのだ。けど壊れすぎないように注意は必要である。

 

「キイ先生、怖いですよ」

 

そう言うのは「鋼売り」から来ている女性。

 

「そうですか?」

 

精一杯の笑顔で返す。

 

「ええ。ケト君も怯えているではないですか」

 

確かに視線を向けると少し引いている感じがある。まあどちらが悪いというよりも私たちの関係性とかかな。まあケトもじきに慣れるだろう。

 


 

「ええと、水を買うのってどれぐらい払えばいいでしょうか?」

 

私の北方平原語の発音が怪しかったのもあって、港で一悶着が起きている。

 

「いえ違うんですよ、この薬を入れれば水が腐らなくなって……」

 

おかげでよくわからない弁解をする必要になっている。自分の作ったものを疑われるという当然のことをここ最近経験していなかったからな。なお次亜塩素酸カルシウムを主成分とするこの粉末の毒性は確かあまりないはず。塩化ナトリウムの毒性が気にされないのと同じで、それなりの量を飲んだりしないと影響が出なかったはずだ。もちろん死ぬまで飲ませて致死量を測定しておくとかは倫理的にできないのでちょっと塩素の匂いがする程度まで混ぜるつもりである。まあ死にはしないやろ。

 

「……自分で飲むんだよな?」

 

仲裁に入ってくれた人が私に訝しむような視線を向ける。

 

「もちろんです」

 

「ならいいが」

 

どうやら私はなにか怪しげな薬を水に混ぜて売りつけようとするヤバい人間になっていたようである。あと説明の結果水は無料だということがわかった。具体的には関税の中に補給用の水をある程度自由に使っていい分の料金が入っているらしい。

 

っと、この港街には山の方からなかなかおいしい水が流れてくるのだ。もちろん工業排水とは別ルートの川である。そこらへんは「鋼売り」が上手く調整して廃液用のルートと上水用のルートを分けていて上水用の川に変なものを流すと斬り捨ててもいいレベルの規則になっているらしい。怖いことをサラリとするな。まあ確かに水道毒物等混入罪はそれなりに重い罪だったはずだし。

 

「ええと、半月分となると……」

 

誤解が完全に解けているかは怪しいが、まあなんとか水をもらう。今のうちにさらし粉を入れておいて蓋をして船に乗せてしまおう。横を見ると久しぶりに顔を見る船長と一緒に使節官が話し込んでいた。今回は私とケトだけが乗るのでそれについての色々だろう。まあ北方平原語もなんとか話せるようになったのでうまくいくと信じたい。ケトもケトで去年乗った時に顔見知りになった同世代の人と色々話しているようだ。完全に私だけが異常者である。

 

「キイ姐さんじゃないか!帰るのか」

 

私が水を運んでいると乗る船の航海士のようなことをしている前に見た顔の人とも出会った。六分儀に興味を持っていた人である。

 

「ええ、っと、そういえば改良型を作ってもらったのですよ」

 

私は箱から様々な加工方法を組み合わせて作った六分儀を取り出す。副尺付きで精度は30拍、つまりは1/12刻*1だ。

 

「そこまで細かいと、紐がもっと複雑になるのか……」

 

「そこまで来ると紙とかのほうがいい気もしますがね」

 

「紐のほうが水に沈んでも平気なんだよ、まあ水に強い紙があるのかもしれないが……」

 

「あー……」

 

そうだ。結局物を作っても利用者の文化となじまなければ使われないのだ。まあここらへんは文化のほうが変わることもあるし、時間がある程度は解決してくれるだろう。

*1
5'に相当。



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受信

船の上での生活に慣れるのは身体が覚えていたからかそう時間はかからなかった。前回よりも精密になったはずの六分儀で陸地の測量などをして海岸線図を作っている。なお計算を大抵間違えるので最終清書用の図を作るために十倍程度の下書きと書き損じが生まれている。持ってきた紙の量が持ってくれてよかった。

 

「……ケトくん、ちょっと」

 

南中観測を終え、無線機の空中線(アンテナ)を南南東の方に向けながら私はケトを呼ぶ。

 

「どうしました?」

 

「ちょっと聞いて欲しい」

 

「わかりました」

 

受信機から伸びる拡声器(スピーカー)をケトに渡す。小さな螺子(ネジ)が作れるようになったので調整が楽になった鉱石検波器で整流をかけて炭素粉末伝声器(カーボンマイクロフォン)で雑な増幅をしたものだが、理論上は使えるはずだ。

 

「……確かに何か、聞こえる気がします」

 

詳しくは聞き取れないが断続的な音。耳鳴りか何かではないかと思ったので確認してもらったが、ケトも聞こえると言うなら何らかの人為的に作り出された電波を受信していると考えるのが妥当だろう。

 

「そうだよね」

 

前回通信が途切れた場所を記した雑な海図と比較して、おそらく二倍を超える距離での通信ができている。もっと丁寧な検波装置や適切な増幅機構があれば実用レベルになるかもしれないしれない。少なくとも正午報は受信できそうだ。

 

「それにしても、どうしてだ?」

 

私がいない間に無線の改良が進んだのだろうか。考えられないわけではない。もしそうだとしたら色々と記録が生まれているだろうから楽しみだ。

 

「新しく電波の送信場所を増やしたとかでしょうか」

 

「ああ、あり得る」

 

頭領府外交局の活動の一つとしてやっているのかもしれない。まったく、こういう情報は新聞にはあまり載らないのでよくわからないんだよな。全くもどかしい。とはいえ今日の観測は終わったので撤収しよう。

 

「あとは時間の差を測定するための精密な機構でもあればいいのだけれども」

 

ストップウォッチみたいなものだ。クロノメーターの構造の秒針部分だけ抜き出したようなものだと考えてもいい。砂時計よりもマシな精度であればいいので、これも作ること自体はそう難しくないだろう。数年以内にはできるはずだ。ああ、まったくやりたいことが増えてしまった。

 

「それと、飲み水は大丈夫ですか?」

 

「何度も聞いてくるね。あまり問題ないよ」

 

カルキの味は慣れてしまえばいい。アルコールの利尿作用がないのでそれも助かる。

 


 

「……間違いない、と思います」

 

ケトが空中線(アンテナ)を向けている方向のはうっすらと見える海峡の先。

 

「あそこに置かれているんですか」

 

「そう。それに正午報が図書庫の城邦基準のものも同時に報知している」

 

どうにも時差の計算が合わない時間に正午報があったので海図と見比べて理由を確認したらちょうどその発信源となるような場所となる可能性がある方向から電波が出ていることが確認できたのだ。指向性の強い空中線(アンテナ)の強みだ。

 

「ここで計られるものとずれている、と?」

 

「その通り」

 

このままだと事実上の標準時が図書庫の城邦を基準としたものになりそうだな。商会の系列がどこかの土地を手に入れて送信設備を置いたのだろうか?私がいない一年の間に電波の話だけでも色々と進んでいるように見える。新聞を見る限り行政側も色々やっているらしいし、私が帰ってきても時代遅れ扱いされやしないかどうかが少し不安だ。まあそうなれば歴史学者として生きるだけであるが。だってこの世界の科学技術史、絶対楽しいことになりますよ?

 

「あれ、とするとこの場所を起点に更に海図が補正できたりするのでしょうか」

 

「そうだね。複数の基準があればそれだけ図は作りやすくなる」

 

とはいえこれをちゃんと考えられる人間がいるのか。こういうことは自分しかできないだろうと何処かで思っていたので嬉しくもあり悲しくもある。

 

「……ところで、これは声ですか?」

 

「えっ」

 

ケトから受け取った拡声器(スピーカー)を耳に付ける。ノイズの混じる中、確かに会話のようなものが聞こえてくる。

 

「……聞こえました?」

 

「……うん」

 

もし私が聞いたものが声であれば、レジナルド・オーブリー・フェッセンデンに追いついたわけだ。いや、それ以上かもしれない。あの時代とは違って真空管を使える分、声がよく届くはずだ。ここから図書庫の城邦までは四半月。通信実験を行うには悪くない場所だし、海峡であるため将来的に船舶への送信を行うことも考えれば確かに適切な立地だ。海事的要所でもあるし。

 

「受信側に真空管を使った設備がある可能性が高い」

 

「とはいえ、寿命が短くて使えないと聞きましたが」

 

「去年の話だよ。それに改良案は置いておいたからもしかしたらそれが使われているかもしれない」

 

拡散ポンプの話はしたし、適切な油がなくとも水銀で動きはする。産業保健的にはあまりおすすめできないが、冷却トラップとかがあれば……。あ、そうか、そろそろ低温が作れるのか。これでまた真空に近づけることができる。金属加工と新しい材料の可能性で少し面倒なハードルをクリアできそうだ。

 

「キイさんがいなくても、ちゃんと変わっているんですね」

 

「私が来てなくても、数百年以内には起こっていたと思うけど」

 

荷物を整理しながら後ろを向く。図書庫の城邦に向けての風を受け、貨物船の帆は張っていた。



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旧交

船から降りてまず向かったのは古巣の印刷物管理局。ひとまず荷物を置かせてもらおうと思ったのだがなんか思ったより人が増えている。見知らぬ顔もちらほらとある。

 

「お久しぶりです、キイ嬢」

 

局長補佐が応接室というかちょっと区切られたスペースに私とケトを案内してくれる。

 

「局長は?」

 

「外回りですよ。ここしばらくで一気に出版を行うところが増えたので」

 

「そうか……」

 

「もう帰ってくる頃だと思いますけどね。それと、ケト君も大きくなりましたね」

 

「そうですか?」

 

不思議そうに言うケト。身長的にはそう変わってないはずだが。確かに私から見ても少し雰囲気が変わった気がしなくもないが一年も間を空けているとわかるものもあるのだろう。

 

「ところで、私はこの後どうしたらいいと思う?」

 

「印刷物管理局は人員不足とまでは言いませんが、キイ嬢とケト君であれば雇うことはできるはずです」

 

よかった、帰ってそうそう無職になることはなかった。

 

「……局長、元気にしている?」

 

「ええ。とても」

 

「任命、正しかったと思う?」

 

「おそらくは。いくつか失敗もありましたが、周りがどうにかできる範囲でしたし」

 

「それはよかった」

 

私は笑う。局長補佐も笑う。

 

「そういえば、最近はキイ嬢が帰ってきたら局長を辞めるとは言わなくなりましたね」

 

「……今の業務量を見ると、確かに引き継ぎは面倒だとは思いますが」

 

有線電話のような通信機が置かれているところを見ると、色々と他とやり取りをする必要もあるのだろう。複数の蝋紙版印刷機が使われてインクの匂いが漂っていることからも業務量を推察することができる。

 

「それもありますが、自分の仕事に誇りを持てるようになったというのもあるでしょうね」

 

「……本当に、よかった」

 

私がそう呟くと、ぬっと印刷物管理局の局長が入ってきた。

 

「おかえりなさい、局長」

 

局長補佐の言葉に局長は深く頷く。

 

「久しぶりですね。ケト君も変わったようで」

 

二人ともそういうあたり、やはり違うのだろう。ケトはきょとんとしているが。というか局長も変わっている。なかなか上質で薄い生地の短外套を着ているところを見ると今さっき帰ってきたところだろう。顔つきも精悍になって。きっと色々と面倒事をやっているに違いない。

 

「局長職を無事できているようで何より」

 

「どうも。大変な仕事だが……二人のこれからの予定は?」

 

「眠る場所を手に入れてから、ひとまずしばらくは城邦の変化を見て回るつもりですよ」

 

「そうか。その後の仕事の予定はなにか入れているかい?」

 

「局長に戻る必要はなさそうですしね。ここで働いてもいいし、司女としての本分を果たしてもいいし」

 

「『総合技術報告』についてはもう読んだか?」

 

「いいえ。ケト君、知ってる?」

 

「見ていませんね。送られてきた報知紙には一通り目を通したはずですが」

 

「なるほど、間に合わなかったか」

 

そう言って局長は席を立ち、少しして一冊の小冊子を持って帰ってきた。巻物ではなく蝋紙版印刷の紙を束ねたものだ。

 

「これが第一号だ」

 

「ほう」

 

ぱらぱらとめくっていく。インクの配合についての調査。手動電話交換システムの概要。緯度及び経度の測定に関する考察。

 

「私がいなくとも、面白いものはできているようで」

 

「さて、仕事の話をしよう。これの発行は印刷物管理局も出資している独立の機関で行っている」

 

「……ん?」

 

ちょっと嫌な予感がするな。

 

「そこの編集長にあなたを推薦したいのだが」

 

なるほど、必要な人材を必要な場所に、だ。

 

「もし私がやらなければ?」

 

「代替人員は当然いる。しかし内輪で集めた論考をまとめるだけで手一杯だ。印刷などのほうには特に支障は無いが、論考を募集するとなると問題が発生するだろう。今のところ次の号が出るのは半年後の予定らしいが、その前に機関が崩壊する可能性もある」

 

「はいはい」

 

つまりはあれだ、学術誌を作れということか。まあ確かに必要だし、前からちょくちょく言ってはいたが。たぶん査読もすることになるのだろうな。おお忌まわしきReviewer 2。私がその立場に立つ日が来るとは。

 

「その機関、もうできているところに私が入ってきて問題は?」

 

「何人かはキイ嬢も知っている人だから、問題はないかと。むしろ帰ってきたら顔を出させてくれと言われているほどで……」

 

そう言って局長補佐は何人かの名前を言う。確かに有能な人物たちだ。逆に言うとそれだからこそ私を狙う争いの中でイニシアチブをどうにか取ることができたのだろう。この印刷物管理局自体もそういう政治的色々でできた組織だからな。

 

「定期的に集会を開いているはずだ。次は四半月後だったか?それまではゆっくり休むといい」

 

「断らない前提で話を進めていない?」

 

「断るのか?」

 

「まさか」

 

面白い。自分で論文を書いてもいいが、論文の内容を裏から弄くることができる場所に座れるのはそれはそれで楽しい。えっ編集長の横暴だって?知るか。科学史が示すようにそういう権力も良い研究を出すためには必要なんだよ。まあそう遠くないうちに私が腐敗するのでケトに蹴飛ばしてもらうシステムも用意しておかないといけないが。

 

「ああ、あとトゥーヴェ先生のところに顔を出してあげるといい。かなり心配なさっていたから」

 

「……まあ、帰るのが遅くなったしね」

 

あの人には今後色々と分析やら合成やらでとてもお世話になる予定があるのだ。薬学系の論考の査読を頼むこともあるだろう。少なくとも新しい基質論の先駆者なのだ。なんなら編集所に招いてもいいしね。



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食堂

扉を開いたトゥー嬢は、何回か目を(しばた)かせた後に私とケトを抱きしめるように腕を大きく広げて飛びついてきた。

 

「……連絡の一つぐらい、してもよかったじゃないか」

 

「……してない?」

 

私が恐る恐る言う。

 

「あー……確かに印刷物管理局とか外交局には手紙を回していましたけど、トゥー嬢に直接は……」

 

首に回されたトゥー嬢の腕に力が込められたようで、ケトがむぎゅうと絞められたような声を上げる。かわいそうに。

 

「夕食は、どうするつもりだ?」

 

「まだ何も決めていない」

 

私は何とか答える。そろそろ危ない気がするのでトゥー嬢の背中を叩くようにすると、我に返ったのか身体を離してくれた。

 

「……食べに行くか?」

 

「いいですね!」

 

ケトが言う。ああそうか、ここらへんの味も久しぶりだよな。

 

「ところで、私がいない間になにかありました?」

 

「そうだな、『時勢』に記事を書いたり、講官にならないかと誘われたり、商会のほうから顧問になってくれだなんて言われたり、『総合技術報告』への寄稿を求められたり」

 

「トゥー嬢が記事を書いただけでも驚きなのですが、後半三つはやるんですか?」

 

「講官にはならない。顧問は考えているところだ。それと『総合技術報告』のあれは学ではなく術についての印刷物だろう?薬学師の私が手を出していいのか?というより『総合技術報告』については聞いているか?」

 

「昼に管理局に寄った時に聞いたよ。そう遠くないうちに私はそこの編集長になる」

 

「……確かに、適任ではあるな」

 

わぁい。トゥー嬢がそう言ってくれるならまあ大丈夫だろう。

 

「ちょっと待っていてくれ。財布*1を持ってくる」

 

「それじゃあ、しばらく待たせてもらいます」

 

私がそう言うと、トゥー嬢は奥へ行ってしまった。

 

「悪いこと、しましたね」

 

「そうだね」

 

なんだかんだで私たちは人間関係が希薄なトゥー嬢にとってのお気に入りなのである。この世界では確かに旅での死亡率とかも無視できないので心配するのは仕方がない。まあ少し心配しすぎてはないかとも思うが、それを口に出すほど私も馬鹿ではない。

 


 

「新基質の命名に関する協議自体は図書庫の案件だろうが、まともに議論できるとは思えないな?」

 

肉叉(フォーク)でニョッキのような麦粉ベースのもちもちした何かを刺しながらトゥー嬢は言う。

 

「そこまで言う?」

 

肉の旨味がしっかりするスープを飲んで返す私。

 

「ああ、確かに用語の統一は重要だろうが、それを意識している人がどれだけいることやら」

 

「それならもうこっちでやったほうがいいな」

 

「間違いないだろう」

 

「……何か、面倒事を引き起こす話をしている気がしますが」

 

揚げた魚を齧ってケトが呟く。

 

「そりゃそうだよ。新しいことをやる時には障害がつきもので……」

 

「酔っている時にする喧嘩というものは大抵ろくでもないものですよ。たとえそれが喧嘩の計画でも似たようなものです」

 

私の言葉にケトが呆れたように言う。あ、そういえばそれなりに呑んでいるんだった。危ない。ブレーキをかけよう。

 

「じゃあこの話はなし!もっと他の話をしようか」

 

「例えばどんな?」

 

私の言葉に、トゥー嬢は紙の束を出す。

 

「今までに来た『基質の分離と分析』の感想だ」

 

「おお、人気ですね」

 

私は軽く目を通していく。実験をやってみたが成功した。記載のない基質らしきものを見つけたのでその報告。硝子(ガラス)器具の改良案。

 

「……これ、送り主はわかる?」

 

「ああ、どうするんだ?」

 

「今度出る『総合技術報告』への寄稿をお願いする」

 

「なるほど。まあ問題はないだろう。私からの紹介という形にしたほうがあまり問題も起こらないだろうから好きに名前を使ってくれ」

 

「言ったな?色々な功績を押しつけてやる」

 

「そいつはちょっと困るな。今までの手紙への返事を書いたり薬学師仲間に色々教えたりで忙しいんだ」

 

「そうか。それは残念だな。ちょうど北の方で鉱物を分析した時の資料があるんだが……」

 

私はトゥー嬢の赤い顔の前でひらひらとケトの書いた小冊子を揺らす。前のクロム鉱の分析について使った道具とか反応とかを色々まとめたものだ。

 

「よこせー」

 

「いいよー」

 

トゥー嬢が読んでいる間に私はご飯を食べる。トゥー嬢がたまに行くというこの食堂は結構量があっていい。油とか香草とかをふんだんに使っているのだろう。値は張るが、まあそれぐらい払う余裕はある。たぶん後でトゥー嬢が払おうとするからちょっと言い争いになるだろうな。あまり呑んでいないケトにそこらへんは仲裁を頼もう。

 

「なるほどなるほど。確かにこういうのは見たことがないな」

 

真剣な目で実験結果を読みながらトゥー嬢は言う。

 

「だろう?金属性の新基質だと思われる。精錬まではしていないが、鉱物自体は持ってきたぞ」

 

まあこの後色々やってもらうのはトゥー嬢に投げよう。私の方はひとまず『総合技術報告』のための組織とか体制作りとかの方を頑張るとするか。今のところは有志の集まりに近いらしいが、こういうのにはちゃんと常勤の事務とかがいた方がいい。

 

「……ところで、いいか?」

 

トゥー嬢が声を潜めて私に聞く。

 

「どうぞ」

 

「二人とも何かが変わった気がするが、何かあったのか?」

 

私とケトと顔を見合わせて、二人でほぼ同時に否定のジェスチャーをした。

*1
直訳では「葉入れ」。少額貨幣である「銅葉」に由来する。



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会合

作った旋盤などを商会の実験工房に引き渡し、航海の間の消毒水に関するちょっとした報告を書き、各所に帰ってきたと挨拶をしていたら「総合技術報告」の会合の日が来てしまった。そういうわけでやって来ましたは学舎が立ち並ぶ一角。

 

「おお、もしかしてキイ先生じゃあありませんか?」

 

紙に書かれたメモを参考に建物の一つに入ろうとすると、後ろから声をかけられた。

 

「そうだけど……どちら様?」

 

「ああ、紹介をいたしておりませんでした」

 

そう言って彼は自分が幾何学の講師をしていると説明してくれる。

 

「なるほど。ところでなぜ私がキイだと?」

 

「知人から噂を聞いていて。秘書として青年を連れている、背の高い女性だと」

 

誰だその知人。まあ候補が多いので放っておこう。

 

「んー、まあいいか。彼には秘書というにはもう少し色々任せているけど」

 

「北方に行かれたと聞いていたのですが、帰ってきていらしたのですね」

 

「四半月ほど前に、ね」

 

「そうでしたか。おそらく既に何人かは着いているかと」

 

私の先を進む彼が扉を開けてくれる。部屋の中には何人かが既にいた。見知った顔が二つほど。一人は商会の実験工房で電波関連の研究をやっていた人物だ。もう一人は衙堂で印刷機を扱っていた人。確か「総合技術報告」で墨の配合を書いていたのも彼だったはず。

 

「ああ、キイ嬢!お久しぶりです」

 

「お変わりないようで」

 

まあそんな感じに挨拶が続き、追加で人が来て、改めてそれぞれ自己紹介をして、その後議論というか雑談が始まる。

 

「そもそも学についてのものではない以上、人々の利益に直結するような下賤な内容も扱えるのがこの報告の強みなのだが」

 

今の編集長というほどでもないが取りまとめ役の人が半ば自嘲を込めて笑いながら言う。彼は若いながらも医学師であり講官を務めるほどで、政治的面倒事も色々と担っていたようだ。なお政治派閥としては頭領派。私と同じくなんか面白そうだからと酷い目に遭わせられる役目らしい。かわいそうに。

 

「扱える範囲はもっと広げてもいいでしょうね。料理の方法、建築や市街計画の領域にも手を出していいかもしれない」

 

私は持ち寄られた原稿を見ながら言う。

 

「読む人がいるか?」

 

「まだいないでしょうが、積み重ねれば体系化されていくでしょう。土台なしに良い技は生まれません」

 

ツッコミへの返答。んー、幾何学はかなりわかりにくいな。一応追うことはできているが。

 

「あるいは多くの人にわかりやすく説明するのも必要でしょう。そう考えると『時勢』や『視線』*1のように東方通商語版も用意するべきかもしれませんが」

 

「翻訳できるのか?」

 

「もとの聖典語の文章を翻訳しやすいように制限をかけるとか……ですかね。文法的に複雑な構造を使うのはできるだけ避け、意味のみを抽出できるようにするべきかと」

 

「その発想はなかったな。やはりキイ嬢に任せるのがいいかもしれない」

 

「そうかもしれませんね」

 

なんとなく流れで言ってしまってから発言者である医学師の方を見る。

 

「……いえ、こういうものは始めるのが一番難しいのですよ。それを始めた人の知識というものを尊重するべきで」

 

ちょっと取り繕ってみる。別に記事をまとめるのはいいのだけれども、政治的な折衝はやりたくない!まあ必要であればやりますけど。

 

「そうだな。しかしこちらはキイ嬢のように幅広い知識というものに欠けていてね」

 

「私だって言語や幾何は専門外ですよ。医学についてもたぶんあなたには敵わない」

 

「……これを書いて、それを言うかね?」

 

医学師は私のさくっとでっち上げたさらし粉による飲料水消毒についての論考を叩く。

 

「かなり論理に飛躍があるはずです。正確な肯定のためにはまだ……」

 

「毒性のない濃度がわかるだけでも十分だ。この腐敗阻止作用は他のものにも応用できるのか?」

 

「食料の保存であれば加熱のほうがいいでしょう。この塩気基質と石灰基質の反応物はかなり独特の味がするので」

 

「……泥の中でつけられた傷は微小生物が傷が入り込むことで病状が悪化するということを聞いたことは?」

 

「ありますが、それは今回扱われるような腐敗と類似するものでしょうか?」

 

壊疽ならともかく、それは寄生虫とかの可能性のほうが高い。そもそも微小生物が原因だと言う時点で信用がない。顕微鏡がまだそんなに広まっていないし性能も良くないので証拠のない議論だという可能性が高いからだ。

 

「解らないが、試して見る必要がないか?」

 

「試してみるといいと思います。必要であれば援助はしますが」

 

「……まあ、こちらの専門の医学であってもこれほどまでついていける人だ。編集長に据えるに素質は十分だとは思うが」

 

「異議なし」

 

「そうでしょうね」

 

「まあキイ先生ならいいでしょう」

 

「……乗せましたね?」

 

まあ私もわかっていた挑発に乗ったのはあるが。

 

「こちらも能力を試してみたかったのがあるからね」

 

笑う医学師。まあ、自分の果たしていた役割を継ぐのであれば確認は必要だろう。渡した論考で私の能力はある程度把握したのもあるだろう。

 

「……編集長になった以上、私の可能な範囲で好き放題やらせていただきますが、宜しいので?」

 

「まあもし嫌ならこの会合から去ればいいだけだからな。別に誰にも投稿を義務としているわけではない」

 

「なら、構いません」

 

私も今後の面倒事に少しわくわくしながら笑った。

*1
ともに図書庫の城邦で発行されている東方通商語の新聞。



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立場

ひとまず衙堂の一角に「総合技術報告」の編集所を置くことができた。これも司女としての肩書のおかげである。えっ公的機関の施設を民間が使っていいのかって?この世界はそこらへんの扱いがいい加減なんだよ。官と民に厳密な区切りをつけようとするのが間違っているとも言う。

 

「ああ、言い忘れていたができているぞ」

 

そう言ってさらりと訪ねてきたトゥー嬢は机に突っ伏す私の顔の前に鏡を置いた。あ、久しぶりにここまで鮮明に自分の顔を見る。前に見たのは写真撮影の時か。しかしあれは画質が結構荒かったので気が付かなかったが、案外私も変わっている気がするな。前に見たのはええと、階段から落ちる前……記憶が曖昧になってきている。日本語も危ない。

 

「……どうした、自分の顔にでも見とれているのか?」

 

「この鏡、幾らぐらい?」

 

私はトゥー嬢の言葉を無視して質問する。

 

「南方からの輸入品を使っているからな、手間賃込で銀数枚はするぞ」

 

「というより、ちゃんとあったんだ」

 

塩化アンモン石。主成分は塩化アンモニウム。火山などで見られるが、吸湿性があるので北方では見つけられなかったのだ。文献には南方で産出されるとあったので商会とかにできれば手に入れて欲しいとお願いしていたのだが、私が北に行っている間に届いたのだろう。

 

「ああ、情勢が安定したから交易ができるようになったらしい」

 

「それは新聞で見た気がするな……」

 

「とはいえまだ手法については改良中だ。安定して作れるようになれば『総合技術報告』に載せてもいいが」

 

「それより先に板硝子(ガラス)の製法とかを公開しないと意味がないし、そのためには耐熱煉瓦による密閉炉の話が必要で……」

 

「……大変だな」

 

「文章を書くのに慣れていない人が多すぎる。その上聖典語で無駄に複雑なことをしやがってよ……」

 

簡潔に、説得力のある論理展開と、再現実験ができるだけの情報を、できるだけ平易な言葉で、直訳で東方通商語にできるぐらいの水準で書く。これを満たすのは私はできる。ケトもすぐにできた。けれどもこんな例外的事例は参考にならない。

 

「そもそもやることが秘密の公開そのものだからな。ほとんどの人が経験したことがないだろう」

 

「それは仕方ないとしてもね……」

 

私は背を伸ばして紙の束をまとめる。色付きの墨で修正を入れていくと元の文章よりも分量が多くなってしまうのだ。原稿を送る時に一行空きにするよう規定に定めるか。

 

「問題の一つは手紙の流通。この近所なら衙堂や商隊でどうにかなるけど、海を越えると一気に面倒になる」

 

「制度的郵便か。古帝国時代には行政文書はそうやって送られていたというが」

 

「……これ以上、政策についての文章を書けと?」

 

机の上にあるもう一つの束は各所に送る草案レベルではあるが政策などについてのある種の提言。農業研究所、電波法、研究開発投資、統計事業、測量計画、官営人材教育機関、電信網構築、その他諸々。ちなみにこれをベースに衙堂や頭領府の関係者に色々話を回すのは今のところケトが担当してくれている。帰ってきてから書いた北方地域の報告で司士見習いから晴れて司士となった。本来はこういうことをしないと手に入らないので私が司女に任命された時の政治的な色々を考えるとなんというか私はかなり恵まれているのだなと思える。もちろんそれなりの仕事はするが。

 

「ここまで急激な変化があるなら硬直的な学では無理だろう。術となれば編集長の仕事では?」

 

「編集長が全部の論考を書いてどうする」

 

いやまあ確かにね、やってくる原稿はどれも面白いものですよ。けれどもそれに私の科学技術史の知識を踏まえて軽いアドバイスをしたり、類似研究をしている人同士の連絡先交換を仲介したり、まあ大変で。原稿さえ作れば印刷と流通が行われる体制は最低限引き継げたからいいものの。

 

「……正直に聞かせて欲しいのだが」

 

「なに?」

 

「キイ嬢がそこまでやる必要はあるのか?」

 

「……あるよ。私は知っているから、そういう責任がある」

 

ああ、科学者の道義的責任というやつだ。もちろん多くの科学者はあくまで一市民であって、全ての情報を得ることもできないし、正確さを期するという側面からは事情をすり合わせる政治家的な役割を果たせないし、調停者としての仕事もできない。まあそれでも政治を文芸批評の延長線上にでもあると考えている人間よりはよっぽどそういうことをするのに適しているが。っと、かつての世界での変な恨みが出てしまった。基本的に大抵の問題の背景にあるのは相対的な無知と無能と怠惰であって、それを解決するのは無責任なヤジではなく積み重ねた改善であるというのが私の思想であるので一部の派閥と残念ながら意見が噛み合わないこともあるのだ。悲しいね。まあ私みたいな人がイデオロギーの強さを軽視しがちなのは認めるけれども。

 

「だから知識を吐き出して、色々と巻き込もうとしているのか?」

 

「そういう側面は否定できない」

 

「……そうか。敵を多く作ることになるだろうな」

 

「それよりも速く味方を作ればいいよ。適切にやれば侵略と紛争と飢饉と傷病についてはそれなりに減らせるから」

 

私がそう言うと、トゥー嬢は胡散臭そうに私を見る。

 

「……信じていない?」

 

「いや、その方法があるのだろうなとは思うがそれを真顔で言うとはね」

 

「そのための準備をしているんだよ」

 

私のもたらした技術がある程度の戦乱をもたらすのはもう避け得ないとしよう。百年以内には大規模な銃の生産とそれに基づく統一を求める侵略戦争が勃発するとする。しかしそれよりも速く国際社会というものを形成して、十分な農業生産高と医療技術を用意すれば、私の見てきた人類史ではなし得なかった選択ができるかもしれない。それができる立場は手に入れた。あとは私でなくてもそれができるようにできれば、まあ責任を果たしたと言ってもいいだろう。



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案件

「反応は大きく三つに別れますね」

 

「なるほど」

 

私は連絡先を記入した手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)に鋏を入れる手を止めてケトを見る。

 

「一つ目。これは多くは簡易な提案に対してのもので、悪くないものであるから取り入れていこうというものです。量地司については?」

 

「測量を行う人達だよね」

 

「ええ。そこからはキイさんの作った観測装置を試しに取り入れて見るとの話が出ました」

 

「それの製造は?」

 

「図面と試作品はあるので量地司側で注文する可能性が高いです。まあどうせこれが作れる工房は図書庫の城邦に数えるほどしか無いですが」

 

「で、全員私を知っていると」

 

商会の実験工房に入った旋盤は各種の工作機械や部品製造を行っている。ひとまず最初の方は私が手作りでミニ旋盤ができるまでを実演し、できたミニ旋盤は望遠鏡の鏡筒とか締結部品とかの製造に用いられている。螺子(ネジ)については転造ダイスの作成のための基礎研究を回してもらっている。「この部品こそが、あらゆる規格化の基本となるのです」と力説したら長髪の商者が工房を買ってきた。つまりは数十人の職人をまるごと商会名義で雇用したのである。まあもとから縁が深かったようだし、生産物をすべて買い取るみたいな契約も珍しくないようなのでその延長線上としてであるから特に問題は起きなかったらしいが。

 

「ええ。次ですが、より詳しい内容を必要とするので説明を聞きたいと言うのがありましたね」

 

「話し合いの予定は任せていい?」

 

「そうするとキイさん側での予定とぶつかる可能性がありますが」

 

「と言っても私がやることは……いや結構出かけているか」

 

実験工房に技術指導をしに行き、「総合技術報告」の縁で知り合った人たちと議論をして、原稿を書いて、添削をして、手紙にして、色々。ちゃんとした人員が欲しい。事務仕事は苦手なわけではないのだが、たぶん私よりももっと上手い人はいるので。

 

「もういっそのこと新聞の広告欄で来るならこの日に、といったようなことでもしますか?」

 

「留守中に盗人でも入ったら困るでしょう」

 

「さすがに衙堂を狙う人はいないと思いますが……」

 

「それもそうか……」

 

「キイさんの方でよければ僕が勝手に予定を入れます」

 

「いいよ。問題があれば私が謝りに行く」

 

「わかりました。ただ、こういう細かい事を僕がやる必要があるのは面倒ですね」

 

「嫌?」

 

「というよりも、移動時間が無駄だというのが大きいです。キイさんみたいにいつも考えているわけではないので」

 

「はいはい。まあ人集めは少し落ち着いたら考えよう。信頼できる人で、かつ能力も必要か……」

 

「両方ある人は大抵要職に既についていますからね。引き抜くのも容易ではありません」

 

「印刷物管理局は凄かったんだな……」

 

「間違いありません。こうやって司士として仕事をして、煩務官の恐ろしさを痛感しましたよ」

 

煩務官はこの私たちがいる衙堂で腕利きとして有名な司士だ。いつも疲れたような顔をしている。有能なので暇がないタイプだ。

 

「あとは、たぶん難しいというのもありましたね」

 

「例えば?」

 

「電波法については、利用対象に船の民が含まれるということに問題があるらしいので」

 

「……どういう問題が発生するの?」

 

「ええと、上陸時はともかく船の上で罪を犯した時に裁くための法がないんですよ」

 

「ああ、なるほど。その法を陸のものが勝手に作ることは船の民の権利を侵害することになる、と。面倒くさいな……」

 

「面倒くさいですね。それと電波はかなり広い地位に影響するので法務審議会と頭領府外交局が共同で色々やるようです」

 

「へえ」

 

「キイさんも呼ばれていますからね」

 

「わかった。予定については……」

 

「僕では無理なのでキイさんのほうでお願いします。さすがに司士の肩書があってもちょっと危ないところがあるんですよ」

 

「わかった」

 

確かに一介の公務員が他組織と色々やるのは面倒か。それなら一応編集長という肩書のある私がやった方がいい。なお私やケトの立場というのは誰もよくわかっていない。手続き上は衙堂から印刷物管理局に出向して、そこから並列して「総合技術報告」の編集長をやっているが、この編集所は衙堂の中にあるので実質私たちの立場は衙堂の司女と司士というもので……。わからないな。煩務官に少し話したが死んだ目で首を振られた。ここらへんの改革が将来的には必要かもしれないが、今はまだ手を突っ込むつもりはない。

 

「まあ詳しくはこちらに」

 

「ありがとう」

 

紙には見やすくまとめられた各案件ごとの様子。

 

「というより、これをできるのはすごいよな……」

 

私よりもケトはこの手の作業を得意としている。まだ若手なので多少無茶をしても許されるところがあるのだろう。私は年齢としては中堅に入ってきているがこの手の経験が少ないのでケト曰く普通の人前に出せないらしい。まあケトが言うなら信じよう。

 

「まあ、これでも司士ですからね」

 

「……確かに」

 

私は司女なのにこれだが、私のこれは名誉称号だから。とはいえやるべきことが固まってきている。次の報告のための草稿もいくつかあるし、面白そうなやつをまとめてそろそろ構成を考えていくか。



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「調子はどうだね、編集長」

 

そう言った私の顔を見ると、図書庫の城邦の二大新聞の一つ、「時勢」の編集長は酷く嫌そうな顔をした。まあいつものことだ。

 

「良いように見えるか?それと、編集長就任についてはおめでとうを言わせてもらう」

 

「あっこれはどうも」

 

最近の私の動向をちゃんと押さえているのは高得点。こういうところできちんとしているので彼はこの態度でかつ色々と面倒事に巻き込まれても生き延びているのだろう。

 

「それで、何の用事だ?」

 

「仕事の話だよ。『時勢』に広告を出したい」

 

私は原稿を書いた紙二枚と銀片の入った包みを置く。

 

「見せてみろ。……なるほど。雇い入れか」

 

総合技術報告編集所は聖典語の読み書き可な雑務担当者を求む。年齢、性別、経歴不問。雇用条件については応相談。あとは日付と面接のために借りている学舎の一室の住所。こういう理由でも借りることができることは初めて知った。

 

「ええ、ちょっと二人では仕事が回らないのでいい人を探したいなと思いましてね」

 

私が持ってきたのは求人広告である。あ、もう一枚の方は「総合技術報告」の原稿募集。新人歓迎、詳細は問い合わせるか連絡先を知らせたしみたいなもの。

 

「いやしかし、ここまで不問でいいのか?」

 

「……何か問題ありますか?基本的な能力についてはこの場所に来てくれれば調べられるので」

 

私は彼が持っている紙にある住所を指でとんとんと叩く。

 

「そうじゃない。あんたみたいな人間の仕事に付き合えるような人となると相当な腕が必要だろ」

 

そう言われて私は少し考え込む。確かに事務の人が知識を持っているに越したことはないが、書類の分類や記入なんかをやってもらうだけでも私の作業は大きく減るだろう。というかこの世界ではまだ雑用が多いのだ。かつていた世界ではキーボードを叩けば文章ができ、クリック一つでレイアウトの整った文章が出力できたがこっちではそうはいかない。まあ活版印刷のおかげで格段に手間は減ったが、まだ足りない。タイプライターが欲しいな。構造としてはブリッケンスデルファー・タイプライターと似た感じでいいかな。QWERTY配列みたいな非効率的なものを追いやれるかもしれないし、ここらへんも布石を打っておくか。

 

「いえ、城邦の中を走り回ったり手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)を整理したりといったことをしてもらいたいので。扱うものが扱うものなので聖典語は使えないといけないんですけれどもね」

 

「ならいいけどな」

 

彼はそう言って文字数を数えていく。

 

「銀の枚数も規定通り、問題なしか」

 

「まとめて予約すれば安くなったりしない?」

 

「毎刊一定の場所を買ってくれるなら考えてやるよ」

 

「その言葉、覚えておくといい」

 

今後「総合技術報告」が大きくなればそれぐらい必要になるだろうしね。言質とまでは行かないがまあ互いに牽制ぐらいはできる相手なのだ。

 

「そういえば、裁判とか面倒ではありませんでしたか?」

 

「名誉障害の話か?あれは知人の学徒が法律学を修めていて形としては負けたがそう痛手でもない。実際『時勢』を出せなくなるところだったからな、それに比べればまだ良い結末だ」

 

新聞で読んだある種の名誉毀損についての争いの話だ。法務審議会が仲裁に入って新法の制定と賠償やらなんやらと色々あったはずだが、半年程度で終わったはずだ。

 

「学徒が代争屋*1を?」

 

「ああ、有能なのは保証する。今は各所を転々としているようだが、あんたに何かあったら紹介してやるよ。紹介料はそいつへの依頼額の二割な」

 

「……考えておこう」

 

まったく、こいつは嫌なやつだ。だからこそ信用できるのだが。

 


 

「この度は採用しようとした人数が少ないので、申し訳ありませんが……」

 

「そうか、いやすまない」

 

「また機会がありましたら、よろしくお願いいたします。これは少ないですが、ここまで来てくれたお礼ということで」

 

「これは、ありがとう」

 

包みを受け取って帰っていく男性を見て、私は息を吐いた。ちなみに中には銅葉が日当程度には詰めてある。まあ交通費とか考えれば必要な投資だろう。

 

「帰して良かったんですか?対応も丁寧でしたし、悪くないように見えましたが」

 

「聖典語を完璧に書けるようにとは言わないが、このレベルで読めないとなると流石にな……」

 

私の手元には事前調査票も兼ねたちょっとしたペーパーテスト。前の「総合技術報告」の中で好きな記事を一つ選び、それについてあなたの考えを論ぜよというもの。彼は明らかに文章要素を取り違えて書いていたので弾いた。事務で流石にそれをやられては辛い。

 

「……ところで、私が思っているより聖典語の読み書きって相当難しい?」

 

「ええ。やはり気がついていなかったんですか。相当条件が厳しいので何か理由があるのかなと」

 

「では次の方、お入りください」

 

私は廊下に向かって声をかけた。

*1
裁判や各種の争議において代弁を行う人物のこと。弁護士に近いが、法的整備はされていない。報酬は様々。



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採用

最後の候補者である目の前の少女はかなり若いように見えた。二十歳を超えていないんじゃなかろうか?ケトはそれなりに童顔だが、それよりも年下に見える。

 

「……なぜ論ずる対象に通信交換の話を?」

 

「算学的に論ずる事のできる可能性があるからです」

 

彼女の論理展開自体はシンプルだ。電話をかける時、交換局に相手を複数の数字からなるある種のコードで指定するもの。単なる電話番号と言ってもいい。1000の連絡先に直接つなぐよりも、10の接続先を持つある種の装置3つを組み合わせるほうがいいという単純な発想だ。とはいえ見たところ問題はない。

 

「聖典語はどこで学びました?」

 

ケトの確認した限り文法的にもあまり問題がない文章だ。課した条件である聖典語初学者でもわかりやすいように書けというのも満たしている。

 

「この城邦に来てからですね。兄にも助けられました」

 

「兄……」

 

書いてもらった経歴書を見る。名前の前にある親の名前をどこかで見たことあるな……。

 

「あなたの兄は、印刷物管理局に勤めていますか?」

 

ケトが私に代わって質問を投げかける。

 

「ええ。そこでキイ嬢の話はよく聞いています」

 

「……ああ、あの人か」

 

確か昔少し話した時に妹がいることを話していた局員がいたな。彼自身も有能だったが、それ以上にできの良い妹がいる、と。

 

「……とはいえ、そういう基準で選抜を行っているわけではありません」

 

「もちろん理解しています。そういうものを不問として人を探されていたのですから」

 

あ、ちゃんと募集内容の理由もそれなりには理解しているのか。……さて、どうするかな。縁故採用はあまり趣味ではないのだが。とはいえ母数が少ないのである程度の教育を受けて能力を持っている層が偏ってしまうのは仕方がない。逆に考えれば「刮目」が身辺調査を終えている可能性もあるし、家族関係は信用できる。そう考えれば人材としてはとてもいいのだ。若いのがちょっと問題かもしれないが、まあ時間が経てばそう問題ではないし外回りの人は別で雇うのはありかもしれない。

 

「なぜこの職に応募をしたのですか?」

 

「新聞で広告を見つけたのと、兄がキイ嬢のことを推薦していたので」

 

「推薦というと?」

 

「キイ嬢の職場であれば安心して妹を任せることができる、と。あとは新しい技術についておそらく一番近場で触れることができるというのもありますね」

 

「あなたに任せるのは今のところ誤字の確認や手紙の整理など、初歩的な作業になるはずです」

 

「構いません」

 

まあ、意欲があるなら専門的なものをどんどん任せていきたいところだ。ここらへんは様子を見ながら調整しよう。

 

「ここで見たものについて、基本的には部外者に口外することは禁止しますが」

 

「それはある種の盗みとなる、ということですね」

 

「ええ」

 

「わかりました。ただ、公開された内容であれば語ることについて問題はありませんね?」

 

「もちろんです。禁止は秘密を守るためですから」

 

なるほど。兄の言っていたことは間違っていなかったようだ。これは確かに女性であっても図書庫の城邦に送りたくなるな。

 

「ええと、仕事内容については私とこちらのケト君が教えることになると思います」

 

「よろしくお願いします」

 

隣のケトが頭を下げる。

 

「……とすると、私は採用されることになったのですか?」

 

「ええ。ただ、しばらくは試しで、ということになるでしょう。もし問題があればできるだけすぐに言ってください。もし辞める場合であっても、賃金は支払います」

 

「……そこまでやって、いいのですか?」

 

「信頼できる人がほしいので、我々を信頼してもらえるだけの報酬を用意する準備があります」

 

「本当に兄さん*1の言った通りの人ですね……」

 

「……一体どういうことを妹に話しているんだ」

 

「帰ってきて毎日キイ局長がどうすごいかを話してくるんですよ。最初は恋でもしているのかと不安になりましたが、純粋な尊敬だったようで」

 

「ははは……」

 

なんか私は人気者なのだろうか?

 

「あとはケト君についても。優秀な人だそうで」

 

「過分な評価ですよ」

 

ケトが少し恥ずかしそうに言う。まあケトの能力は多方面に伸ばしたせいで一つ一つは案外そこまでではないとかになってしまっているからな。私に付いてきてくれているのはありがたいが、唯一無二の能力なんてものはない。まあ私にもないが。

 

「それでは、手続きをしましょうか。ええと衙堂へ入るために必要な入場証を作って、あとは関係する場所についての案内もしたほうがいいかな?」

 

「実験工房や図書庫にも挨拶したほうが良いかと」

 

「あ、これでも司女見習いとしてたまに働いているので衙堂のほうは問題ないと思います」

 

短期バイトみたいなものだ。なら更にいいな。

 

「わかりました。今後の予定などはありますか?」

 

「来月に授業を入れていないので、自由に動けます」

 

「ならそうですね、明日からでも?」

 

「はい!」

 

「でしたら、明日衙堂のこの場所に来ていただけます?」

 

私は紙にさくさくっと地図を書いて編集所のある建物を丸で囲む。

 

「ああ、キイ嬢たちはあそこにいたのですか」

 

「知ってるなら話が早い」

 

正直なところ、手に入る人材の中では最上等のものを引いたのではないだろうか?まあ、ここで下手にすると兄の方から怒られかねないのでちゃんと扱おう。

*1
兄弟、あるいは年代の近い男性に対して親しみを込めて呼ぶ時の敬称。これを兄に対して使う妹は決して多くはない。



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郵便

「あれ、新しい編集員はどうしたんですか?」

 

編集所に帰ってきたケトが部屋の中を見回して言う。

 

「印刷物管理局で技術研修中。ひとまず各種の印刷機の使用方法は慣れてもらわないと」

 

そう言いながら私は彼女の書いたメモを見る。

 

「わかりました。ところでそれは」

 

「電気式の配線切替装置の原案」

 

リレーに近いものだが、パルス信号で配線を順繰りに繋ぎ変えるようになっている。もちろんこのアイデアを形にするのにはもう少し時間がかかるだろうが、今後の情報化のためには不可欠なものだ。分類的には自動交換機だろう。

 

「ああ、そう言えば何か書いていましたね。どうですか?」

 

「……多分彼女は、かなり重要な事実についてそれとなく知っている」

 

「どういうことです?」

 

「電気で送られる以上、声と通電の差はあまりないんだよ」

 

「どちらも電気の流れとして捉えられる、ということですか?」

 

「情報という言葉を使うなら、どちらも同じ情報として扱えるんだ」

 

同じ線で音声と切り替え用の信号を送るというのは別に変わった発想ではないが、これをちゃんと突き詰めていけば情報学の基礎理論までは持っていけるだろう。オーガスタ・エイダ・キングみたいな役回りか?まあこっち系は彼女に任せてみよう。ひとまず先端知識を詰め込める職場に彼女がいれてよかった。

 

「……それが、特別なのですか?」

 

「んー、同じ枠組みで扱えるから便利なんだよ」

 

ノイズの理論であるとかをちゃんとやるには確率論のモデルが不足しているだろうが、経験的なものを先行させるのはまあありか。必要であれば私の知識も注ぎ込もう。ここらへんは基盤になるので固めておいて損はない。

 

「私もちゃんとは覚えていないから」

 

「わかりました。それと、色々と着いていますよ」

 

ケトは私の前に手紙を置きながら言う。

 

「ひとまず確認できるものはしておくか」

 

そう呟いて封を切る。

 

「郵便についてですが、衙堂の間でも考えるべきだとの意見が強いそうです」

 

「少し意外だな。どうして?」

 

「……最近、色々と怪しい噂が多いので情報をできるだけ速く、密に手に入れたいのがあるのでしょう」

 

「噂って?」

 

「北方からの難民流入と、それに伴う治安の悪化です。今のところ公式の報告ではそういう事例は数件しか報告されていませんが、噂はかなり出回っているそうです」

 

「事実に基づかない行動はたいていろくな結果を引き起こさないからな……」

 

そう呟いて紙を開き、内容に目を通していく。あ、これは原稿だ。脇に置く。こっちは食事への招待か。これぐらいなら別に直接来て伝えてくれてもいいのだが、場所もわかりにくいからな。一応衙堂に送ればいいことになっているが、確かに誰何を通り抜けるのは面倒だ。日付は多分問題ないので行こう。

 

「とはいえ、衙堂が扱うようなものでかつ速度が必要であれば無線通信や電話敷設ができるのでは?」

 

「無線通信は頭領府からあまり公にするなと言われているそうで」

 

「……人の噂を止められるとは思えないけど、どうして?」

 

「不安定な技術に基づいていることと、あまり知られていないことを利用してこの隙に色々やろうとしているようで」

 

「まあ、それならわざわざ私たちがとやかく言うべき問題ではないか。困るのは向こうだし」

 

「もちろんそう言っておきました。一応困った時に話を聞かないでもない、と仄めかしはしましたが」

 

「そのくらいでいいと思うよ」

 

さすがケト。こういう判断で行動して、かつその後に共有してくれるのはありがたい。

 

「電話のほうは?城邦内では公開されてはいるはずだし、それなりに使われているように見えるけれども」

 

「通信線が盗まれる可能性と、減衰が難しいようです」

 

「そうするとそれなりに確実な手紙をしっかり届けられるようにしたい、と」

 

「そうなります。それと配達人の安全確保は農村の人たちにとっても悪い話ではありませんし」

 

「どうして?」

 

「安全な行き来ができれば、作物や品物が行き交うようになります。それだけ生活に彩りが出るかと」

 

「今のところはどうやってるの?」

 

「街道警備の巡警が手紙運びを兼ねることもありますが、本職ではない以上断られたり、銀を多めに求められることもあるようで」

 

「ああ、そこは業務外だから職務のようにきちんとやる必要もないと……」

 

巡警の遵法精神は案外しっかりしていて腐敗や賄賂もあまりないが、仕事外での態度は結構様々なようだ。

 

「もちろん少なくない人が善意でやってくれてはいますが。そういうの、キイさんはあまり好きではないでしょう?」

 

「まあね」

 

善意ではなく制度で、というのが一応私のモットーなので。もちろんやりがいとかあるに越したことはないし、感謝をしなくていいわけではないとはわかっているが。

 

「もし郵便が実現するとしたら、どういう形になりそう?」

 

「衙堂間の手紙のやり取りが基本になるでしょう。それであれば既存の人の動きに多少手を加える程度で実現できます」

 

「他の邦とか、海を超えたやり取りは?」

 

「今のところ、難しいでしょう。法で定める事もできない以上、商会などの手を借りる必要があります」

 

国家がないと条約も結べないのか。こうなると国家というのはかなり色々なものを担うのだなと嫌でも実感する。かつての世界をこういう形で捉え直すことになるとは。



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兄妹

「ひとまずまとまった分だけ発行するか」

 

まとめた原稿を確認しながら言う。これだけあれば一冊にしていいだろう。第一号の倍ほどの分量があるがまあそれはそれで。相手には平易聖典語での改案を出して、改稿の許可を取れた人のやつをまとめて、目次を作って、編集長の一言コメントを入れて……と案外やることは多いがまあなんとかなるやろ。面倒な作業をせずに集中できるので仕事がはかどる。こんな集中できるのはいつ以来だろう。学士の時は院試があって、修士では人間文化研究機構との面倒な書類のやり取りやら国際発表やらでメインの修論は忙しく、博士ではリサーチ・アシスタントと並行して色々と執筆だの翻訳だのやっていたので、こう考えると仕事が楽しい。

 

「それだと年に3回といったところですね。もう少し人員が欲しいです」

 

そう言うのは「総合技術報告」編集所における今のところただ一人の編集員。最近まで図書庫やら商会の実験工房やらに放り込まれていたのでかなり鍛えられたはずである。先端技術を見れてキラキラしていたしね。

 

「やはり難しい?」

 

「聖典語が必要な仕事は私に回せますが、それ以外はなんとかなるかと」

 

「……私にはその分離が上手くできそうになかったんだけど」

 

だから応募条件に聖典語の読み書き可能であることを求めたのであるが。そうか、分けられるのか。

 

「ならキイ嬢がその分野が下手なだけかと」

 

「間違いない」

 

実際彼女の能力はケトと並ぶほどだ。いや知識の広範さではケトよりも上かもな。

 

「いいんですか、こんな風に言わせて」

 

私の隣でスケジュールを調整していたケトが言う。なんか彼も相当大変な予定になっているようだ。この城邦はなんだかんだ言って大きいので、端から端まで私の足なら20刻*1。ケトが小走りならもう少し短いが、それでも結構なものだ。それで昼には各所と手続きをして、夜には色々なところに顔を出し、朝はちょっと長めに寝ていることもある。そういう無茶ができる年齢ではあるのだが、私がケトぐらいの頃には履修登録の時いかにして一限を回避するかを悩んでいたことを考えるとケトはとても偉い。

 

「いや君ならともかく、私の事務の腕については別にそこまででもないから……」

 

「……そうですね」

 

「よろしい」

 

まあ確かに慕っている人の能力を批判されるのはあまり気分のいいものではないよな。とはいえこういうのをちゃんと言わないと問題が起こる。そしてちゃんと理解してくれる。うーん、いい人。

 

「とはいえあなたもそこらへんの発言については気をつけるように」

 

彼女は少し奇妙そうに首を傾ける。ああ、なるほど。能力で証明してきてしまったタイプか。まあ確かにそれもある種の合理性ではあるし、本来は私もそっち側だが。

 

「複数人での共同作業において円滑なやり取りは重要であるため」

 

「ああ、つまり編集長の仕事を貶したのが問題だと?」

 

「まあそう」

 

「……わかりました。適切な言い換えを考えておきます」

 

「とてもよろしい」

 

「やったぁ」

 

これを素直に聞き入れられるということがどれだけ大切か。なまじ才能があるとこの手の言葉は響きにくい。謙虚すぎるのもあれだし、彼女の場合は適度にふてぶてしいぐらいがいいかもしれないが程度の問題だ。調整は無茶苦茶難しいしちょくちょく理不尽に相手の地雷を踏むので大変なのだ。

 

「んー……、この分野であればキイ嬢より私のほうが得意であるため、業務分担は私が行っても宜しいでしょうか」

 

「いいよ」

 

まあこういう感じで彼女を扱っていくわけである。真面目だし聞き分けが良い人だがちょっと癖があるな。後で煩務官にアドバイスを貰おう。

 

「ところで、新しく必要な人材について意見はある?」

 

「んー、とはいえこの仕事であれば元司女さんとかでもいい気はしますが」

 

「そういう知り合いがいるの?」

 

「ええ、結婚した先輩とか」

 

「そういえば司士も司女も表向きは純潔を守る必要があるんだったな……」

 

「表向きとか言わないでください」

 

ケトの不貞腐れるような声。

 

「……え?」

 

驚くような編集員。

 

「あれ、お兄さんから聞いていない?」

 

「あまり」

 

私の質問に彼女は首を振る。

 

「ふうん、ならいいや」

 

「どういう意味ですか」

 

「私とケト君の関係」

 

「キイ嬢もあまり変なことを吹き込まないでください」

 

あ、ケトの口調がちょっと危ないやつだ。

 

「はい……」

 

「……僕とキイさんは、ただ同じ場所に住んでいるだけですよ」

 

「文字通りの、同居*2ですか」

 

「そう」

 

ケトが頷く。

 

「なら、私と兄さんと同じですね」

 

「ふうん?」

 

これは私。

 

「そう言えばあまり妹については聞いてなかったな……」

 

「別にいいですよキイ嬢、ほら別に私と兄さんの関係なんて」

 

なんかあたふたしているのは可愛いな。年相応というかなんというか。改めて目の前のタスクを確認する。それなりに量があるが、まあなんとかなるだろう。

*1
80分。

*2
東方通商語の「同居」は普通の意味としては同じ場所に住むことであるが、特定の文脈ではまだ結婚していない二人の同棲を指すことがある。



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第19章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。政治劇が始まって胃がちょっと危なくなっている読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


帰路

私は職人と拳を叩き合わせた。

モデルはフィスト・バンプと呼ばれるある種の挨拶として用いられるジェスチャー。私たちの世界でこのやり方が広まったのは20世紀の後半である。

 

なお次亜塩素酸カルシウムを主成分とするこの粉末の毒性は確かあまりないはず。

$\require{mhchem}\overset{\text{次亜塩素酸カルシウム}}{\ce{Ca(ClO)2}}$の幼小児経口致死量は5 %水溶液で15-30 mLだという。目に入ると危ない可能性はある。食品添加物でもあり、ppmレベルに薄めれば飲んでも問題ないので殺菌剤として使うことができるが、殺菌作用があるとか言って新型コロナ感染症対策に飲むバカとかはいないよな?いないと言ってくれよ……。なおここで「おいウイルス相手に殺菌って定義上いいのか?」と思ったあなた、たいていこういう時にはウイルスも含むんですよ。プリオンを含むかは知らない。

 

まあ確かに水道毒物等混入罪はそれなりに重い罪だったはずだし。

水道により公衆に供給する飲料の浄水又はその水源に毒物その他人の健康を害すべき物を混入した者は、二年以上の有期懲役に処する。よって人を死亡させた者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

──刑法 第百四十六条(水道毒物等混入及び同致死)

 

「そこまで来ると紙とかのほうがいい気もしますがね」

簡単に言っているが海図用紙はかなり過酷な環境と利用に耐える必要がある。まあ今ではデジタル化が進んでいるそうですが……。

 

受信

「そう。それに正午報が図書庫の城邦基準のものも同時に報知している」

1884年、コロンビア特別区(ワシントンD.C.)で行われたInternational Meridian Conference(国際子午線会議)で当時のRoyal Greenwich Observatory(王立グリニッジ天文台)を基準とした統一子午線が採用されたが、この決定を行った際の投票でフランスは棄権をしている。まあいい気はしないわな。多くの子午線があった時代を示す例として、ジュール・ガブリエル・ヴェルヌの「Vingt mille lieues sous les mers(海底二万里)」ではネモ艦長がパリ、グリニッジ、ワシントンなどの時間に合わせたクロノメーターを使っていることを述べている。

 

もし私が聞いたものが声であれば、レジナルド・オーブリー・フェッセンデンに追いついたわけだ。

1906年にレジナルド・オーブリー・フェッセンデンは振幅変調(Amplitude Modulation)を用いて音声の送信を行った。この時に用いられた搬送波は高周波を生み出せる交流発電機(オルタネーター)を用いて作られた。

 

旧交

おお忌まわしきReviewer 2。

論文が投稿される雑誌の中には事前に専門家などによって掲載するに値する内容かどうかを確認する査読(peer review)という手続きが行われる。この時面倒なトラブルを避けるために査読は匿名で行われ、「Reviewer 1」、「Reviewer 2」という形で行われる。Reviewer 2とはある種の都市伝説というかミームで、二番目の査読者からのコメントが辛辣である傾向があるというネタ。実際はそこまでではないらしい。Peterson, David A. M. Dear Reviewer 2: Go F’ Yourself. Social Science Quarterly. 2005, 101, p. 1648-1652. によれば実際はReviewer 3が悪いのでは?という結論が出ている。

 

科学史が示すようにそういう権力も良い研究を出すためには必要なんだよ。

ノーベル賞を受賞するような、長期的に見れば業界全体に影響を与えた論文であっても発表時には適切な評価がされなかった例がある。例えば自然科学における論文誌の二大巨頭の一つ、Natureは「議論の余地のない失敗」としてチェレンコフ放射、湯川秀樹による中間子モデル、ヨハン・ダイゼンホーファー、ロバート・フーバー、ハルトムート・ミシェルによる光合成反応中心の立体構造、スティーヴン・ウィリアム・ホーキングのブラックホール放射などについての論文のリジェクトを挙げている。その一方で査読無しでNatureに掲載されたジェームズ・デューイ・ワトソンとフランシス・ハリー・コンプトン・クリックによるDNAの構造についての研究や、アルバート・アインシュタインの論文掲載を決定したAnnalen der Physikの編集担当者といった逆の事例も存在する。Coping with peer rejection. Nature. 2003. 425, p. 645. も参照のこと。

 

ここから言えるであろうことの一つは、論文編集者も人間なので結構いい加減な判断基準で論文掲載の可否を決定しているということである。

 

食堂

肉叉(フォーク)でニョッキのような麦粉ベースのもちもちした何かを刺しながらトゥー嬢は言う。

フォークは時代によって使われたり使われなかったりしており、その形も地域や時期によって変化している。いわゆる中世の時期のいわゆるヨーロッパではあまり使われていなかったが、東ローマ帝国と文化的繋がりを持っていたイタリア半島地域を中心として広まっていった。

 

私とケトと顔を見合わせて、二人でほぼ同時に否定のジェスチャーをした。

裏設定なのでここで語るしか無いのだが、「一年程度知人から離れていた」ことから一部の人からは隠れて出産していたのではないかなんていうことを変に勘ぐられたりしている。

 

会合

「……泥の中でつけられた傷は微小生物が傷が入り込むことで病状が悪化するということを聞いたことは?」

破傷風などの重篤な感染症を引き起こす可能性があるし、そうでなくとも化膿は起こりやすくなるので泥の中でついた傷は消毒された水で結構ゴシゴシ洗ってしまった方がいい。

 

立場

塩化アンモン石。

後に太陽神ラーと習合された古代エジプト神話の豊穣神アメン(アモン)の神殿の近くにこの種の鉱物があったことから来た名前。

 

古帝国時代には行政文書はそうやって送られていたというが

古代中国における鋪逓や駅逓、アケメネス朝ペルシア帝国のダーラヤワウ(ダレイオス)1世に寄って整備された幹線道路、あるいはそれをもとにローマ帝国初代皇帝ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスによって整備されたCursus publicus(公の道)がモデル。

 

ああ、科学者の道義的責任というやつだ。

この「道義的責任」という言い回しは小松左京「復活の日」内に出てくるユージン・スミルノフ教授の講義から引っ張ってきている。

 

まあそれでも政治を文芸批評の延長線上にでもあると考えている人間よりはよっぽどそういうことをするのに適しているが。

キイは一応人文科学畑にいるので、こういうことをしている人と会うことが多かったのだろう。なお作者はこういうのが嫌いなので相対的に右寄りになる。おかしいな自称中道左派なのに……。

 

基本的に大抵の問題の背景にあるのは相対的な無知と無能と怠惰であって

「ハンロンの剃刀」として知られる、無能で説明できることに悪意を見出すべきではないという考え方の拡張。まあ世界は人間が理解したり対応したりできるほど易しくも簡単でもないのだ。

 

適切にやれば侵略と紛争と飢饉と傷病についてはそれなりに減らせるから

(こひつじ)その(ひとつ)封印(ふういん)(ひらき)しとき(われ)()しに活物(いきもの)(ひと)(いかづち)(ごと)(こゑ)にて(きた)れと(いふ)(きけ)

われ()しに一匹(いつぴき)白馬(しろむま)()たり

(これ)(のれ)るもの(ゆみ)(たづさ)(かつ)(かんむり)(あたへ)られたり

(かれ)(つね)(かて)(また)(かち)()んとて(いで)(ゆけ)

 

また第二(だいに)封印(ふういん)(ひらき)(とき)われ第二(だいに)活物(いきもの)(きた)れと(いふ)(きけ)

また一匹(いつぴき)赤馬(あかむま)いで(きた)れり

(これ)(のれ)るもの()平和(へいわ)(うば)(かつ)人々(ひとびと)をして彼此(たがひ)(あひ)(ころさ)しむる(ちから)(あたへ)られたり

(かれ)また(おほい)なる(かたな)(さづ)けらる

 

また第三(だいさん)封印(ふういん)(ひらき)(とき)第三(だいさん)活物(いきもの)(きた)れと(いふ)(きけ)

(われ)()しに一匹(いつぴき)黒馬(くろむま)()たり

(これ)(のれ)るもの()權衡(はかり)(もて)

(われ)かの(よつ)活物(いきもの)(なか)(こゑ)あるを(きけ)

(いは)(ぎん)(じふ)()(せん)小麥(こむぎ)()(がふ)(ぎん)(じふ)()(せん)大麥(おほむぎ)(いつ)(しよう)()(がふ)なり(あぶら)葡萄酒(ぶだうしゆ)(そこな)(べか)らず

 

また第四(だいし)封印(ふういん)(ひらき)しとき第四(だいし)活物(いきもの)(きた)れと(いふ)(きけ)

われ()しに一匹(いつぴき)灰色(あをざめ)たる(むま)()たり

(これ)(のれ)(もの)()()といふ陰府(よみ)その(うしろ)(したが)へり

彼等(かれら)刀劍(つるぎ)饑饉(ききん)死亡(しばう)および()猛獸(まうじう)をもて()(ひと)()(ぶん)(いち)(ころ)すの(ちから)(あたへ)られたり

──明治元訳新約聖書 (明治37年)、約翰(ヨハネ)默示録第六章より

 

ヨハネの黙示録に出てくる「四騎手」の部分を踏まえたもの。キイの解釈はちょっと独特。

 

案件

「この部品こそが、あらゆる規格化の基本となるのです」

ジョセフ・ホイットワースが作った後にBritish Standard Whitworthとして知られるようになる規格を踏まえたもの。なおこの規格の子孫は様々な単位系に基づくねじを生み出し、今日の非常に面倒な状況を生み出している。ISO 68-1使おうよ……。

 

「ええと、上陸時はともかく船の上で罪を犯した時に裁くための法がないんですよ」

海洋法に関する国際連合条約第九十四条に基づいて、公海上であっても一般的には船籍国の法が適応されるはず。例えば日本国外であっても日本船舶内での罪については基本的に日本国の刑法が適応される。

 

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構造としてはブリッケンスデルファー・タイプライターと似た感じでいいかな。

ジョージ・キャンフィールド・ブリッケンスデルファーが開発したタイプライターのシリーズのこと。特徴的な点として、全ての文字部分が一つのユニットに纏まっているので構造的にシンプルであることが挙げられる。あと同時にキーを押しても干渉したりしないのでキー配列をかなり自由にできる。今日事実上の標準(デ・ファクト・スタンダード)となっているキーボードのQWERTY配列ができるまでの流れは複雑だが、タイプライターの構造的理由が与えた影響は大きいと考えられるので最初からこの形式のタイプライターが出ていればキーボード配列の方式は異なっていたと考えられる。QWERTY配列はAが左手にあるとかの理由で結構指に負担が来るのだ。

 

「学徒が代争屋を?」

モデルは公事師とか。法の知識を持ち、金で弁護を請け負う人はいろいろな時代と地域で見られる。

 

「……ところで、私が思っているより聖典語の読み書きって相当難しい?」

ざっくりと、日本人にとって論文レベルの英文を読み書きする程度の難易度である。

 

採用

確か昔少し話した時に妹がいることを話していた局員がいたな。

兄は特定で登場している。

 

なんか私は人気者なのだろうか?

そりゃあもう。

 

正直なところ、手に入る人材の中では最上等のものを引いたのではないだろうか?

キイさん、なんだかんだで人材ガチャはいいの引いているんですよ。ご都合主義と言われればそうなんですが……。

 

郵便

分類的には自動交換機だろう。

モデルはステップ・バイ・ステップ式交換機。とはいえそこまで洗練されているわけではない。

 

オーガスタ・エイダ・キングみたいな役回りか?

オーガスタ・エイダ・キングはチャールズ・バベッジの弟子であり、ルイジ・フェデリコ・メナブレアによる「Notions sur la machine analytique de Charles Babbage(チャールズ・バベッジの解析機関に関する基礎知識)」を翻訳する過程でつけた本文より多い訳注に掲載されたプログラムに関わったため、最初期のプログラマーであるとみなされている。

 

また、彼女の芸術作品に対する「解析」がもたらすだろう影響についての言葉は後にアラン・マシスン・チューリングが計算機の能力に対する予言の中で引用したため、ある意味で時代の先の先を見ていた人物であるとも言える。

 

ノイズの理論であるとかをちゃんとやるには確率論のモデルが不足しているだろうが、経験的なものを先行させるのはまあありか。

ちゃんとやるなら情報エントロピーや測度論の概念が必要になってくる。

 

善意ではなく制度で、というのが一応私のモットーなので。

しかしこれをやり過ぎると変化に対応できないことがあるので難しいところである。

 

国家がないと条約も結べないのか。

建前上であれ権力や権限が誰か一人に集約されないと、こういった条約を締結することは不可能である。国家に対してそのような権限が存在するという主権国家の概念が生まれたからこそ、三十年戦争を終わらせるためにヴェストファーレンのミュンスターで条約を結ぶことができたのである。

 

兄妹

相手には平易聖典語での改案を出して

モデルは日本において在留外国人の対応のために用いられ始めた概念である「やさしい日本語」。Voice of Americaが用いるSpecial Englishや国際補助語として設計されているInterlinguaとかにも近い。

 

端から端まで私の足なら20刻。

ローマを囲んだアウレリアヌス城壁やコンスタンティニエのテオドシウスの城壁の範囲から雑に算出したもの。ざっくり5 km。



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第20章
解剖


「編集長、頼みがある」

 

「……なんですか。ともかく、ひとまず座ってください」

 

私はやけに丁寧に言ってくる目の前の医学師を観察する。若くして講官にもなり、「総合技術報告」の立ち上げで中心となった人物がこのような険しめの表情をするとなればなにかあるのだろう。

 

「人間の『解剖*1』については知っているか?」

 

「……そりゃ、まあ」

 

医学というか外科分野の基礎知識になるものだ。かつての世界では宗教的影響もあって長い間行われない期間があったせいで誤った知識を元に医学が組み立てられた時代があったが、この世界では事情がちょいと違う。解剖が行われていないのは同じなのだが、本人の意志の尊重などの問題があるのだ。

 

「そう遠くないうちに、師が亡くなる」

 

「……そういう話を、私としていいのか?」

 

多少は知っている倫理上の問題の確認も兼ねて言う。解剖の話はタブーとまでは言わないが、あまり好まれてはいない。

 

「キイ嬢はそういうことを忌避しないと思っていたが、もし何か……障るようなことがあればすまない」

 

「いや、構わないよ。……それに、その口ぶりだとそちらのほうが辛いだろうに」

 

「まあ、確かにそうなのだがな」

 

医学師、つまりは医者なのだ。条件が揃えば余命ぐらいはわかるだろう。

 

「もうかなりの歳であったし、十余年前から医学師として手術*2はしていなかった」

 

「……なるほど」

 

「その師はなんというか……変わり者で、死後の解剖を強く希望している」

 

「しかし、解剖はそう簡単では無いはずだと聞いたが」

 

「そこだ。前に解剖が行われた時はその師が率いていた。その流れからすると次は……」

 

「君が、か」

 

「その通りだ。だが、どうにも力不足ではないかと……」

 

「練習は必要だろうが、果たしてそうだろうか?」

 

まあ実際に慣れることを考えると相当の練習を積む必要があるだろうが、一体程度の遺体でもちゃんとやればかなりの情報を得ることができる、はず。具体的な話はあまり知らないが。

 

「数少ない機会である以上、あらゆる方法での記録を取りたい。銀絵もそうだ」

 

「……確かに。有用ではあるだろう」

 

露光の調整などがあるが、それでも絵とは違った正確さを出すことができる。

 

「そういった新しい方法に対しての知識が全くと言っていいほどないのだ。だから、手を貸してくれないか」

 

「もちろん構わないが、どれほど余裕がある?」

 

「そうだな、あと一年保てば良い方だろう」

 

「家族が死を受け入れるには十分かもしれないが……、政治的問題を解決するには短いな」

 

「ケト君の力も借りたい。彼が今この城邦を変えつつあることは色々な所から聞いている」

 

「……ケト君はそこまでやってるの?」

 

私は後ろを向いてこっそり聞き耳を立てていた編集員の女性に聞く。

 

「ええ。越権を通り越して相当ですよ」

 

「そこまでとは聞いていないんだけれども。というかそんなやって怒られたりしないの?」

 

「頭領府の重鎮とか、図書庫の上層部とか、衙堂の実力者が彼を気に入っているからではないでしょうか?」

 

「そうなの?」

 

確かにケトが行っている場所を思い出すとそれぐらいのことはしているだろう。まあ私だってかつては学会とかで色々顔を売っていたし、交換で手に入れた名刺の中にはMETI(経済産業省)MEXT(文部科学省)の局長クラスや学術会議の部会幹事とかがいたが、あれは完全に名刺ばらまきの結果手に入ったものだしな。

 

「そうでなければ、司士になりたてのまだ少年みたいな歳の若者が話を持っていくことすらできませんよ」

 

確かにそうだ。肩書はない訳では無いが、それでもまだ若造扱いされる年齢である。

 

「……いや、本当にすごいんだな」

 

「ええ。私よりもその方面では行動力がありますよ?」

 

「こう言っては何だが、なぜ彼が君の下に甘んじているのかという声もある」

 

「それについては私が完全に悪いので何も言えないな……」

 

私は机に倒れ込む。

 

「……実際に刃物を取るのは?」

 

私がそう聞くと、医学師は自分の顎に揃えた二本の指を向ける。

 

「……揃えるべき人員と、必要な手続きはどのようなものでしょうか」

 

「死者を解剖するとなると衙堂からの許可なしにはできないだろう。参加する人も選ばねばならない」

 

「切り分けた部分を腐らせずに保存するための液体については用意します」

 

「そんな物があるのか?」

 

「ええ。なお食品には使えませんよ」

 

「そうか……」

 

ホルマリン、つまりはホルムアルデヒド水溶液で固定した後に場合によってはアルコールに移し替えて、だったかな。ここらへんは練習を重ねる必要がある。まあ他人に任せてもいいが。

 

「あとは……低温、ですね」

 

「解剖まで腐らないように、か」

 

「ええ。まあこれについてはちょっと間に合うかは怪しいですが……」

 

金属部品の精度は出るから、多分できるはずではある。使う冷媒はジエチルエーテルあたりにしてみるか。まあ、これは本当に物流から製造までを変える基礎技術だから場合によっては上の方から止められる可能性はあるのでケトに噂を通しておいてもらおう。

*1
聖典語では食肉加工などの過程の「解体」と、医学のための解剖の言葉を区別しない。

*2
ここでの手術は手技を含むかなり広義の範囲を指す。



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気化熱

この世界にも簡易的な冷蔵装置はある。構造はそう難しいものではない。大きい壺の中に防水された小さい壺を入れ、その隙間を濡れた砂で埋める。別に濡らすのは海水でもなんでもいい。これを放っておくと染みた水が蒸発して気化熱で冷めるというわけだ。熱くとも乾燥している時期ならこれで果物みたいな生鮮食品は結構長持ちする。まあエチレンガスが溜まって追熟が起こらないようにするとかいうのもあるが。

 

では仮にこの染み込ませる液体を変えたらどうだろうか?例えば気化熱で氷点下まで下がるような都合のいい物質があれば。

 

まあ、あるのである。例えばエーテル。とはいっても天上世界の第五元素ではない。エタノールの脱水縮合で作られるジエチルエーテルの方。なお笑気ガス、つまり亜酸化窒素といい感じに混ぜればそれなりに実用的な麻酔薬としても使える。便利。あと飲むと酔える。メチルアルコールより安全。

 

っと、というわけで実験装置を用意した。基本的な構造は二重の壺と同じだ。ただし、見やすいように大部分を硝子(ガラス)で作ってあるが。間には蒸留したアルコールを硫酸で反応させて作ったジエチルエーテルの蒸留物が入っている。

 

「このふいごで揮発液をこっち側に送ると……」

 

商会の実験工房で、この装置を作り上げた職人がデモンストレーションをしてくれる。別の厚めの硝子(ガラス)で作った容器に金属製のポンプで気体を移すと、当然二重容器の方の圧力は下がる。すると蒸発を始めるのだ。あ、なかなかいいポンプらしく沸騰まで起こっている。この過程で気化熱が奪われていくわけだ。

 

「……確かに、冷えてきて硝子(ガラス)が曇ってきていますね」

 

「ああ、これでちゃんとやると中の水が凍ることは確認した。が……」

 

「ふいご部分の密閉、か。噂には聞いているが……」

 

私はため息を吐く。

 

「ああ、色々と試したがあまりいいものがない。今使っている蝋も完全ではないしな」

 

ジエチルエーテルは有機溶媒だ。つまりは色々な物質を溶かすわけで、パッキンみたいなものに使いたい多少の弾力がある物質はたいてい犠牲になってしまう。私の記憶ではエチレンプロピレンゴムみたいなものを使っていたが、重合にはそれなりの圧力かツィーグラー=ナッタ触媒が必要になる。まあチタンはそれなりにありふれているし、四塩化チタンは蒸留で比較的簡単に回収できるからマシではあるが。

 

「試したものの一覧を見せてもらっても?」

 

「ああ、ただこれは俺がやったものではなく別の班がやったものだ」

 

そう言って彼が渡すのは基本的な材料の耐薬品性をまとめたリスト。ふむふむ、樹脂とかは基本溶けてしまう、と。研究中のある種の高草から取れる樹液ベースのラテックスも駄目。飽和結合を含むのが問題だから水素処理すればいいのかもしれないが、そうすると強度とか下がりそうだしな。

 

「……完全密閉型のふいごは?」

 

「一応回転式のは試されていますがね、まだガタがきつい。それと密閉となると磁石で外から回す形になるでしょうが、そこもあまり……」

 

「まあでもこれが実現すれば、物流は大きく変わるのは間違いない」

 

「海に出ている奴らからせっつかれてますよ。氷漬けの果物なんかを食べれればそりゃあ良いでしょうとも」

 

氷による食品の保存ができれば、サプライチェーンを広げることができる。

 

「……仕方ない。今の段階で実用に入ってしまってほしい」

 

「良いんですか?判断できるのはキイ先生ぐらいでしょうからあまり口を挟みはしませんが」

 

「わかってるよ。実用性にまだ難しいところはあるし、色々甘いし漏れるのも知っている。外部から抜けた揮発液を補充できるようにして、基本的な部分を金属で作り変えて、熱が逃げて欲しくないところは……あれはもうできた?」

 

「簡単でしたな。なにせ黒曜石を砕いて炉に突っ込むだけだ」

 

パーライト。フェライトとセメンタイトの共析晶と同じで真珠(pearl)に由来するが、こっちは中に水が入ったガラス様の岩石を加熱して作るものだ。比較的簡単に作れてそれなりの断熱性がある。便利。

 

「ひとまず氷を作り出せるだけのものを用意してほしい」

 

「はいはい。できれば水力で動くように、ですか」

 

「そう。こっちの引いた揮発液を冷やして、もとの二重容器に戻すのはできそう?」

 

「銅で作った管に通せば良いのでしょう?その手の方式を使っている蒸留器は薬学師の先生が使っているらしいから、そこのやり方を使わせてもらおうかと」

 

「やはり頼りになるな」

 

「いやいや、キイ先生の知識と説明あってこそだよ」

 

そう言われると私は苦笑いするしかない。一応他にも冷却材を作る方法はあるにはあるのだ。例えば高圧で液化させた二酸化炭素を高速で吹き出させるとか。ただこれにはそれだけの圧力に耐えることのできる容器が作れないという問題がある。製紙用の鋳鉄でできた加圧容器があるが、あれでもたかだか2気圧とかだったはずだ。本来は蒸気機関の開発の歴史の中で培われてきた、まあ実際にはそれ以前の火砲製造のノウハウを引き継いだものがない分私の知っている歴史と比べて遅れがちな気がするが、まあできることをやっていこう。



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凹面鏡

「寿命は?」

 

「最大に明るくして1日です」

 

この場所では珍しく、女性が硝子(ガラス)の容器を持って言う。硝子(ガラス)細工の上手さを買われてここに来た職人がこの図書庫の城邦でとった弟子だそうだ。元司女。というか知的訓練を受けた女性の供給源が衙堂しかないのでたいてい私が会う知的労働者としての女性は司女か元司女だ。トゥー嬢?あれは例外。わざわざ家庭教師をつけて、時には自分が教鞭を執って専門的な勉強をさせていたというから確かに彼女の親はかなりの変わり者だったのだろう。

 

「明るさは?」

 

容器の中を覗き込むと、中には炭素繊条(フィラメント)。白熱電球である。効率はあまりよろしくないが。解剖用の照明とか撮影用に使えないかなと頼んでおいたのだが、基本的には真空管で技術蓄積があるのでそう難しくなかったらしい。

 

「一番強い明るさにした時であれば、適切な反射鏡を用いれば手のひらほどの大きさを、太陽と同じ程度に照らすことができます」

 

実際に通電すると、確かにきちんと点灯する。

 

「……結構強い?」

 

「ええ。直視しないでくださいね。私はそのせいで数刻ほど目を潰しましたので」

 

「安全を心がけようね?」

 

「もちろんです」

 

微笑む彼女には狂気が見える。怖い。

 

「十分保つようであれば、家の照明にでも使いたいのですが」

 

「やはり時間はな……」

 

「毎日数十刻づつ使うとしても、半月か一月が限度となればさすがに高すぎます。まだ油屋を敵に回せはしませんしね」

 

「その油屋も最近は色々取り揃えているって聞いたけど?」

 

「ええ。キイ先生の作った蒸留器でしたっけ。あれが精油を作るのになかなかいいようで」

 

水蒸気蒸留法を用いた芳香族化合物とかの抽出に相当するのだろうか。こういう部分はノウハウの蓄積があればその後の有機化学ルートに進むときに重要な経験になるのでできるだけ進んでいてほしい。

 

「やっぱり匂い付きがいいの?」

 

「そりゃあもう!……そうだ。良い香を紹介しましょうか?夫と毎晩使っているのですが」

 

「私は司女なんだけど」

 

「あ、夜眠れなくなるほうではなく眠れるほうです」

 

真顔で言われてしまった。邪念を持っていたのは私の方だったか。

 

「……しかし、照らせる範囲を調整するのが難しいですか」

 

「簡単に鏡を作れるのはいいのですけれども、うまい曲がり具合を用意するのが大変で」

 

凹面鏡を使って繊条(フィラメント)から出た光を平行に近い状態に持っていくというわけだ。まあ実際は放物面である必要があるが回転させて硝子(ガラス)球を作っている都合上そこまで精密なのはできないし問題はむしろ半通径を調整する方だと言う。大変だ。

 

「そこらへんはまあ、幾何学をやっている人が色々と教えてくれましてね」

 

「そうなのですか」

 

「物を放った軌跡と似たような曲線でいいようで」

 

「……誰が言ってるの?」

 

「キイ先生の教え子だと聞きましたけど」

 

何か色々とすっ飛ばされている気がするので、私は相手の名前を確認して足早に実験工房を出て商会の建物に向かった。

 


 

「お久しぶりです、キイ先生」

 

私がかつて算学を教えた学徒は、あの時から背も伸びて今は商会で会計の仕事の手伝いをしていた。

 

「ちょっと気になることがあったので説明をしてもらおうか」

 

「……何か、やってしまいました?」

 

「特定の点から出た光が並行となるよう反射する曲面についての話なんだが」

 

「ああ、商会の方から頼まれて話に乗ったやつですね。面白かったので半月ほど取り組んでいたんです」

 

「……論理展開を簡潔でいい。聞かせてほしい」

 

「ええと、どうでしたっけ。まあ描いてしまえばいいですか」

 

彼は紙を取り出し、手早く線を引く。

 

「まず、二軸を直行させてある数とその数を二乗した数を対応させるような曲線を考えます」

 

「うん」

 

$y = x^2$ という単純な二次方程式のグラフだ。

 

「ここでの傾きは該当数の二倍に等しいので、ここで幾何的考察をすれば……」

 

式変形と幾何的分析を重ねていくが、私はそこで彼の手を止めさせる。

 

「鏡が入ってきた光を反射させる方向についてって知られていたっけ?」

 

「……ええと、違うんですか?」

 

「違わないけど」

 

「……言われてみると、なんか怖い気がしてきましたね。いやでも法線で対称になります……よね?そうでないと、池に映る景色は綺麗に逆とはなりませんし」

 

「わかった。続けて?」

 

反射の法則については、まあ経験則でいい。そうおかしな事ではない。エウクレイデスの頃には知られていたはずだし、それをもとに数学的というか幾何学的アプローチで色々行われていたはずだ。

 

「これは事後的になりますが、法線は軸に水平に入ってきた光線を全て一点に集めます。それがここ、高さが四分の一となる点です」

 

「そうだね。ところで、これは何かに載っていたの?」

 

「一点に集まると言う話はありましたが、それは球の一部を切り取ったものに対してでした。なので誤りでしたし、多分誰もやっていないかもしれませんね……」

 

「可及的速やかに纏めて『総合技術報告』に提出できる?」

 

「ええと、仕事が」

 

「必要なら私が説得する」

 

「……いいですよ。上司はそういうことを許してくれる人でしょうから。ええと、問題はこれで解けましたか?」

 

「いいや、もっと大きな問題があって」

 

そう言って私は息を吐く。

 

「物体を投げたときに通る軌跡が、この曲線になるとどう導いた?」



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曲線

放物線は英語でparabolaと言う。パラボラアンテナのあれだ。ルーツを辿ればペルガのアポロニウスが書いた「Κωνικά(円錐曲線論)」内のπαραβολήという語にたどり着く。並べて一致する、ぐらいの意味を持った言葉から来ていて、そこには投げて物が落ちる際の軌跡なんて意味はどこにもない。なにせ放物線が二次曲線だと見出したのはガリレオ・ガリレイの大師匠であったタルタリア(どもり)の名で知られるニコロ・フォンタナで、16世紀のことだ。「Κωνικά(円錐曲線論)」が書かれたのが紀元前3世紀だからかなり離れている。そう考えると、二次曲線を放物線と表現した彼の思考経路を追いかけることの価値はあると言えるだろう。

 

そもそもこの曲線は円錐曲線の名の通り、円錐を切り取った時にできる曲線の一つとして最初に認識された。アポロニウスはユークリッドのまとめた数学理論をもとに発展させたが、私はこれと向き合うことができなかった。いや幾何学的証明に現代の数学教育カリキュラムがあまりあっていないのもあるだろうけどさ。ともかくかなり難しいのである。それに放物線と名前がついているのは多分中国語文化圏で徐光啓とマテオ・リッチあたりがいい具合に翻訳したのだろう。

 

「ええと、まず物体の軌跡は山なりになることはいいですよね」

 

「うん」

 

「その曲線は最初は傾きがきつく、徐々に平らになり、最上部では水平に動き、そしてその逆を辿るようにして落ちていきます」

 

この時点で私の知っている物理学史とは異なる認識をしているな。アリストテレスの物理学論とも、その後に生まれたヨハネス・ピロポノスやジャン・ビュリダンみたいなものとも違う。イスラームの方は確か哲学寄りになってたし、まあここらへんは哲学系の人間に任せるとしよう。私の守備範囲外だ。ただ説明を聞く限り、ニュートンみたいな考えとも違うな?

 

「けれども普通は、落ちていくときの方が遅くないかい?」

 

「大気に邪魔されているのでしょう。十分重い鉄の玉を使えば手首の骨が折れる代わりにほとんど速さは変わらず、地面に斜めから突っ込んでくるでしょう。斜めに投げた物体はもし速度が遅くなれば垂直に近い落ち方をするはずですからね」

 

「……そこまではいい。けれども、なぜ数学的曲線の中でもこれを?」

 

指数関数をベースにした懸垂線でもいいはずだ。正弦曲線の一部を切り取ったものと捉えても、直線や円の組み合わせだと考えてもいい。事実、物質は投げられた後にしばらく直線に進み、しばらくして活力(impetus)が切れることで落ちていくみたいなモデルが提唱されたこともあった。まるで崖から飛び出しても下を見るまでは落ちないという古きカートゥーン映画めいているが、こうした事を今日の科学観をもって見るのは当らない。というより私たちも直感的に物を捉えるときにはこういう考え方をするのだ。これを壊すのは相当に面倒だが、私は結構好きだったりする。

 

「ええと、まず速さの低下、あるいは増加は一定だとします。正負を考えればどちらも一つに纏められますが」

 

「根拠は?」

 

「ええと、高さに変わらず重さは一定であるとか、そういうのでいいでしょうか。正直運動についてはあまり詳しくなくて……」

 

「詳しい人、いるの?」

 

「参考にしたのは運動哲学とかですが」

 

あ、あるんだ。まあ哲学は本来あらゆる分野をカバーしていたからな。逆に言えば私がいた世界で哲学と呼ばれていたのは上澄みが全部取られた学問の(よどみ)みたいなものである。まあこういうこと言うと戦争なので私はあまり言わなかったが。

 

「わかった。続けて」

 

「時間に対する、あるいは水平方向の移動に対しての速さの変化が一定であるとすると、単位時間に進む距離はその速さと微小時間の積で表されますよね」

 

「……そう」

 

拍レベル*1の認識……はそうか、天文学の知識があるから考えとしては持てるのか。というか積分をやるなよ。一応前に微分の話をした時に説明はしたけどさ。

 

「あとはまあ、計算すれば」

 

「……ええと、これについてお願いがあります」

 

「はい」

 

「投射物の運動理論についてある程度纏めて原稿にしてください」

 

「そこまでする価値があるものなのですか?これぐらいなら誰でも……」

 

「今まで似たような話を見たことがありますか?」

 

「無いはずです」

 

「なら出すべきですね。銀が必要ならこちらで」

 

古典物理学がなんかできようとしているのだ。さすがにニュートンみたいに性格が悪かったら考えたが、彼ならまあいいだろう。

 

「……何をそんなに慌てているんですか?」

 

「……ん?」

 

「いえ、キイ先生ならこれぐらい知っているのではないでしょうか?」

 

私は無言の笑顔を返事の代わりにする。

 

「もしそうだとしても、黙っていれば功績は君のものだよ?」

 

「わかりきっていることを示して得られる功績なんてものは、それはまあ貰えるなら貰いますけど、価値があまりないでしょう?」

 

「……なら、秘密で一つ、宿題をあげよう」

 

私は声を潜めて彼に向き合う。

 

「月が廻る時に働く力について、暇があるなら考えてみるといい」

 

まあ、彼ならできるかもしれない。そうでなくとも、悪くない課題になるだろう。

*1
およそ0.67秒



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凹版

「これが?」

 

私は硝子(ガラス)の瓶の中の少し黄色みのがかった液体を見る。

 

「そう。種油、樹脂、そして精油を混ぜて作ったものです」

 

そう説明してくれるのは印刷物管理局の中にできていた印刷物研究班の人。学びを修め薬学師としてのキャリアを歩もうとしたところで印刷物管理局に来てしまったのである。新規採用組として印刷物管理局が直接雇用している出向ではない若手職員だ。

 

「耐水性は?」

 

「問題ないですよ。乾燥もしっかり蓋をしておけば問題ありません」

 

揮発性の油はあくまで溶媒だ。これが飛ぶことでなんか色々反応が起こって木材の表面に硬い防水性の被膜が形成される。いわゆるワニスである。

 

「試し印刷は?」

 

「できました。これです」

 

横を向く少女のスケッチ。綺麗だし、私がいた世界でもそれなりに良い出来と言われるだろう。少なくとも私が描くよりもよほど上手い。

 

「誰が作ったの?」

 

「今は来てない書字生ですね。これは恋人の銀絵*1をもとに作ったようです」

 

書字生とは今まで本を手で書き写したり、あるいは複製用の木版を彫ったりしていた人たちだ。かつては本を買うような人たちの金を書字生をやっているようなちょっとお金に困っている学徒に回すためという側面もあった。今では印刷機の発展で活字並べをしていたり仕事を辞めて別の所に行ったりとかつての書字生の進路は様々らしい。扱っていたのは基本的に聖典語なので最近の学術分野の発展によって必要となった人材源にもなったとか。ああ、研究がしたい。名簿を見比べて誰がどこに行ったのかの統計を取りたい。いやそう考えるととても面倒だな。何で私はこんな事を嬉々としてやりたがっていたんだ?いや楽しいからであるが。OCRとかと組み合わせれば多少は楽になるかもな……などと考えたが、もうそういうことは、少なくとも今はできないんだよ。

 

「版はある?」

 

「こちらに」

 

表面に撥水性のコーティングをした後に削って版を作り、そこに水性の(インク)を垂らすと削った溝だけに溜まる。あとはこれにローラーのような圧力をかけるもので紙を押しつけてやると溝内の(インク)が紙に移される。凹版印刷というやつだ。

 

解剖の記録を印刷することを考えた時に選択肢はいくつかあった。一つは写真。ただ、写真を印刷できるようにするのには結構ハードルがある。網版でフォトエッチング処理をすることを考えても網版と感光剤という課題二つを解決するのは難しい。エングレービングのように金属を彫る技術はあまりないしそういう人は立体的なものを彫り上げるとかが専門でスケッチが上手ではなかったりする。

 

というわけで私は木版に目をつけた。というかケトがアイデアをそっちに絞るようにと言った。引き出しがいっぱいあるのはいいのだが、どれを使えばいいかをきちんと相談できる相手というのはなかなかいない。私の知識を心置きなく開示できるのはケトだけなので、そういう意味では今のところ替えのきかない貴重な存在である。まあこういうことを考えると私の中の標準化とかを推進する部分が特定の人間に依存したシステムは良くないぞと言ってくるが蹴り飛ばす。いいんだよ人間関係から属人性を奪い取ったら何が残るっていうんだ。ケトの方も私を単なる仕事上のパートナー以上の扱いをしてくれているしね。

 

「……彫りは難しかったりするの?」

 

「聞く限りではそうでもないようです。今まで細かい印刷用の版なんかは上手く残しながら削っていく必要があったので、それに比べれば削ったところがわかりやすく線になるほうが楽だそうです。まあ混乱するそうで何回もやり直したようですが」

 

「確かに」

 

私の知識を漁っても木凹版というものはなかなか出てこなかったので本当に作れるのかなと思ったがあまり問題ないようだ。

 

「これを作るの、とても大変だったんですよ?」

 

研究班の人はため息を吐いて言う。

 

「具体的には、どこが?」

 

「精油ですね。匂いが必要というわけではないので原材料から探す必要もありましたし、蒸留の始めの方と終わりの方では性質が違うので何回か繰り返してちょうどいいものを見つける必要がありましたし……あとはいい感じの粘りを出しつつ弾かれるような(インク)を作るのも……」

 

「まあ、まだ改良点はあるだろうからお願いするよ」

 

「同年代と比較してもかなりいい賃金を貰っているのでまあ構わないんですけれども、あまり無茶を言わないでくださいね?局長が色々変なことを頼まれるのはキイ嬢からだけではないので」

 

「……はい」

 

まあ、印刷物という現在進行系で世界を変える技術を管理するのはとても大変だろう。発展してきた今では必要となる役割も変わっているはずだ。一部の学徒が作っていた海賊版の摘発が衝突に発展したなんてこともあったらしいが、今までは概ね問題なく進んでいる。噂では管理局の収支もプラスになってきたと言うし。一応準公的機関のようなものだから儲けるのはいかがなものかとは思うが、そもそも本を読むような層が金を持っているのと公教育についての考え方が薄いのもあって、何てことを考えるならまあ今のところはこういうのでいいのだろう。理想は大切だが、今すぐ実現するのが難しいなら布石に留めておくのも手だ。

*1
写真のこと。



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医療機器

「ええと、これは人体が高い熱を持っているか、あるいは冷めているのかをこの赤い液体の位置で知ることができます。今までの手で計るようなやり方ではどうしても曖昧でしたし」

 

体温計、サントーリオ・サントーリオ、17世紀初頭。あれは空気膨張式で、こっちはアルコール式だが。目盛りは正直適当だが、まあ体温付近を計測できているから校正は後でいいだろう。普通にセルシウス温度でいいかな。ダニエル・ガブリエル・ファーレンハイトさんはお帰りください。

 

「あとこれは体内の音を聞くことができます。呼吸とか、心臓の音とか、お腹のもそうですね」

 

聴診器、ルネ=テオフィル=ヤサント・ラエンネック、19世紀初頭。本当は加硫草膠(ラテックス)とかを使いたかったがまだ求めるだけの物性が得られていないので削った木で作った片耳式のものだ。細いラッパ状の聞き取り部分がチェストピースから横に伸びているのが特徴。膀胱膜を張ったのと張っていないものがあるから使い分けもできるよ。

 

「で、これは腕に巻いてふいごで圧をかけることができてそこで血管内から聞こえる音から血がどれほど力強く流れているかを知ることができるのですが……何て呼ぶのがいいですかね?」

 

血圧、スティーヴン・ヘールズ、18世紀初頭。いや血圧計だとすればサミュエル・ジークフリート・カール・フォン・バッシュとかシピオーネ・リバ=ロッチとかの名前を挙げたほうがいいか?これは水銀式で、カフには継ぎはぎして膠で気密した膀胱を、ゴム球があるべき場所には金属製空気ポンプを使用。使える素材が少ないのが悪い。ちょっときつい姿勢にはなるがコロトコフ音も一応聴き取れるので血圧は出せるだろう。オシロメトリック法みたいなのは流石に無理。まあこれについては別に使わないならそれはそれで。圧力計とポペットバルブを組み合わせた簡易なものだ。精度がちょっと甘いので放っておきすぎるとゆるゆると空気が抜けていくが、まあ誤差の範囲ということで。

 

「……キイ嬢」

 

私が広げる医療機器類を見て、医学師の男は呆れたような顔をする。

 

「なんです?」

 

「これらは全て、生きた人のためのものだろう?」

 

あ、そうか。解剖用の装備を揃えることを想定していたからこういうものは意外だったか。

 

「いずれ死にゆく人のためのものでもありますが、ね」

 

「……まあいいが。それで、これは簡単に使えるのか?」

 

「慣れさえすれば。少なくとも今までよりは色々と楽になると思いますよ」

 

知識しかない私でも一日試せばどうにかなったのだ。まあ被験者のケトには申し訳なく思う。

 

「よし。……ただ、これは量産しにくいのでは?」

 

「まだそうですね。この体内の音を聞くちょっとした細工であればそう難しくないのですが」

 

聴診器は別に丸めて筒状にした紙であっても代用できるのだ。というか最初はそうしていたし。

 

「医学書にあるような発熱期、高熱期、冷熱期*1みたいな状態で薬を分けるものもこれがあれば楽になるでしょうし、同じ息苦しさを訴える患者でも音から違いが何かわかるかもしれません」

 

「で、この血の流れの強さについての測定は?使える値が取れるのか?」

 

あ、血液循環説にツッコミはなかった。まあいいか。血の流れ自体はかなり自明のものとして扱われていそうだしね。

 

「それについてはまだなんとも」

 

「……そうか。ところで、これをなぜ見せた?」

 

「ケト君から色々聞きましてね。噂によれば少し文献派と争っているそうで」

 

「……ああ、そう呼ばれる人たちとあまり仲が良くないのは事実だが」

 

「まあちょっとした贈り物ですよ。私は薬の知識や実際の手術の知識はないのでね」

 

「これを作れる時点で医学の知識が無いはずはないのだが?」

 

あ、少し相手の口調が危ないな。ちょっと引こう。

 

「……私だって人の命を救えるなら救いたいのですよ。とはいえ私自体はその方面の経験がないから、知っている事を形にすることが精一杯です」

 

これは偽らざる本心。

 

「何でそんな事を知っているかは……聞かない方がいいだろうな」

 

医学師も少し落ち着いたようだ。いやあ空気が危なかったぞ。

 

「ええ。そうして頂けると助かります。……ところでこれを元に技術派が決して資料と対立するものではない、と言えませんかね」

 

「難しいだろうし、それでこちらに移る人は別に敵ではないしな……」

 

「というより、何が問題なのです?ちょっと強めで眠りから覚めなくなるような薬とかなら作れますが」

 

「冗談に聞こえないからやめてくれ……。というより、師匠と仲が悪かった人の弟子の派閥だな。まあ疑り深いだけであって奴らも医学師の端くれではあるからな、有用なものは政敵のものだろうが見境なく使うさ」

 

なんかそこらへんのプライドはこの世界に見られないんだよな、なぜか。人間は愚かなので必要に応じては権力の力を使うとか不幸な事故とかを引き起こすことも考えてはいるのだが。

 

「ただまあ、有用だろう。貰っていいか?」

 

「いいですけど、条件が二つほど」

 

「何だ」

 

「一つ、使った感想とかをお願いします。今後の改良に必要なので」

 

「……もう一つは?」

 

「あまり私の名前を出さないでください。これ以上の面倒を引き受けたくはないので」

 

「……後者については保証できんぞ」

 

まあ、うん。正直医療系はノウハウの成分が多いからデータで叩くしかないのだが案外すんなり受け入れられそうだよな。何が私のいた世界と違うのだろう。少なくとも、今のところは手を汚す覚悟をしなくてよさそうだ。

*1
図書庫の城邦で主に扱われている医学における発熱を伴う感冒性症状の状態による分類。



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控室

「……ねえ」

 

私は隣を歩くケトに声をかける。

 

「なんでしょうか」

 

「結局、今日私は何を話せばいいの?」

 

「基本的に聞かれた技術的問題以外について言及する必要はありません。できれば黙っていていください」

 

「がんばる」

 

「……とはいえ、ほとんど根回しは終わっていますから」

 

それなりの格好というものがある。深緑に染めた外套はトゥー嬢からのお下がりで、前で止めるシンプルなブローチは旋盤と電気鍍金(メッキ)で作られたもの。この世界ではあまり過度な装飾というものはないが、まあ相手にあわせて服を変えるというのはある。まあつまりはいつもの作業着で行こうとしたら多方面からやめろと言われたのである。

 

一方で従者ならそう考えなくていいので楽だ。ケトも汚れやほつれがないとはいえ結構普通にあるようなレベルの服を着ている。

 

「つまり、私に余計なことを話して欲しくない、と」

 

「率直に言えば、その通りです」

 

「まあ私だって今までの準備を壊すようなことはしたくないからね」

 

「はい。多分キイさんが発言したくなるようなことは多いと思いますが、それは文書に纏めてくれればこちらで対応します」

 

「なんか私の信頼が低すぎない?」

 

「……多くの人から言われているんですよ。あの人を制御できるのは君だけだ、頼む、と」

 

「人を見る目のある人が多いな。この城邦は安泰だ」

 

そんな話をしていると、頭領府の建物に到着する。この図書庫の城邦における政策決定機関で、まあひどくざっくり言ってしまえば国会と内閣をあわせたようなものだ。かつては古帝国における地方長官、まあ総督の屋敷であり、皇帝の泊まる宿でもあったという。今では数百年の間に重ねた改装もあって当時の土台が残っている建物はあまりないらしいが、頭領の支配を裏付けるだけの荘厳さがある。灯りがうまい具合に石造りの壁を照らすのは光の効果を考えているからこそできるものだ。

 

「ところで、ここにはよく来るの?」

 

「何回か。ここで働く人に手紙を届けるなんてこともするので」

 

なんか話を聞くとフリーの政策担当秘書みたいなものをやっているらしい。いやなんで本当に私の部下扱いに甘んじているんだ?若いとは言え後援してくれる人は多いだろうし、とも考えたが私が同じ立場になって古巣というか馴染んだ場所から移ってまで仕事したいかと言われると違うよなとなったので黙っておこう。純粋な損得の面で見ればあのケトの上司みたいな扱いがあったほうが裏で政治的工作とか回しやすいのだろうし。ああ、だからそういうミステリアスな天才のイメージを崩さないように黙っていろ、と。どうせケトのことだ。有る事無い事並べて私のイメージを勝手に作っているのだろう。それについては私が許可しているし、むしろお願いしている間であるから全く問題ないが。可哀想なのは後世の研究者である。

 


 

控室にはそれなりに人がいた。数えると二十人弱。私の知っている顔はなし、と。

 

「……あの人だかりは?」

 

「鏡でしょう」

 

近づいてみると確かにそうだった。私の全身が入るということは縦方向は私の身長の半分より大きいわけで。これだけの平面硝子(ガラス)を作り、鏡にするのは手間だっただろう。いや、かなり大きいな?枠の木の彫刻は植物モチーフだろうか。蔓とかが見える。

 

漏れ聞こえる会話を聞く限り、この鏡はそれなりの驚きをもって受け入れられているようだ。とはいえ具体的な作り方について言及してはいないらしいし、多分一品物だと思われている。まあこのレベルの硝子(ガラス)板は今の使い捨ての炉でならかなり高価だろうが、もう少し小さい炉で作れば手鏡ぐらいであればそれなりの価格で手に入るだろう。まあ問題はトレンス試薬のためのアンモニアか。まあ市場が生まれれば発酵した尿からの蒸留ぐらいはやってのけるだろう。

 

というか触ろうとした一人が衛兵に止められている。ここでどうでもいい知識を一つ。衛兵は頭領府の管轄で、将軍を頂点とする巡警とは別系統なのだ。まあ、クーデターとかが過去にあったらしいし、見張りの見張りとしての側面もあるのだろう。とはいえ衛兵は図書庫の城邦をぐるりと取り囲む城壁にある門の門番であるとか、この頭領府内の警備とか雑用とかをやっているので巡警と仕事がかぶりはしないのだ。さて、無駄話は終わり。衛兵が私に近づいてくる。

 

「キイ嬢で間違いありませんか?」

 

「ええ」

 

「間もなく、長卓の間にご案内できます」

 

「ありがとう」

 

私は手短に、それでもできるだけ敬意を込めて丁寧に言う。

 

「格好、大丈夫?」

 

私はケトの方を向いて、前で軽くステップを踏みくるりと回る。遠心力で軽く浮く裾。

 

「……問題ない、と思います」

 

「よかった」

 

鏡は自分で確認するのにはいいが、後ろとかはちゃんと見てもらった方がいい。結構そういうところで人を判断する人は私も含め多いのだ。

 

「さあて、頭領にお目にかかるのはかなり久しぶり、か」

 

「僕はすれ違うぐらいならしばしばありましたけどね」

 

あの時、まだ活版印刷機を作る前だった頃からかなり経った。向こうはどれだけ覚えているだろうか。私を評価しているだろうか。もちろん権威に対して私は盲目的に信奉しているわけではないが、大きな責任を負って働いている人からの評価というのは気になるものなのだ。



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長卓会議

かなり広い空間。石の柱。少し見上げれば木の梁。ただスケールが大きいというだけでこの世界では特別であることを示せるし、色々と見てきた私の目にもかなりいい空間に思える。

 

「名前を述べよ」

 

声が聞こえる。目を正面に向けると、長い机の向こう側には頭領がいた。え、なに、司会までやってるの?大変だなぁ。

 

「図書庫の城邦の司女、キイ」

 

とはいえちゃんと丁寧に答える。声はあまり通る方ではないが、私の方を向く人たちにはまあ伝わったようだ。それにしてもこの所属名というか称号というか肩書みたいなもの、ちょっと奇妙な感じがまだ残るな。基本的に司女は一度任用されたら結婚して引退とかしなければそのまま残るからいいけど、他の職業とかならちょっと厄介なことになりそう。

 

あれ、ちょっとだけざわついているな。ひとまず案内された場所に腰を下ろす。私の席は多分下座の方だ。ケトは私の後ろに。

 

「議題を進めよう。次、遺骸破壊についての罪に対する例外措置の制定」

 

頭領が言うと、何人かの衛兵が紙を配っていく。なんというか、警備から事務、雑用とかまでやらされるのは大変そうである。

 

「では、発言を求めるものはいるか」

 

「手を挙げないでくださいね」

 

頭領の言葉とともに動きかけた私の腕を押さえてケトが後ろから言う。

 

「……はい」

 

そうこうしていると誰かが話し始めた。今のところの法律と過去の判例の説明らしい。まあ手元の紙に大体は書いてあることだが。それにしてもよくまとめてある。

 

「すなわち、その破壊がもたらす死者への冒涜と残されたものたちの苦しみをなくすための法であり、同意の上であれば良き例外措置の対象となるべきであると言えるでしょう」

 

一種の緊急避難とかみたいな扱いらしい。法改正してしまえばいいのではと思ったが根本が古帝国の法体系なので変えるのが相当難しいとのこと。なおけっこうこの長卓会議ではおしゃべりが行われる。あくまで小声でではあるが。

 

「では次」

 

別の人が発言する。何らかの基準が必要であるとの内容。

 

また次の発言。倫理的問題は衙堂の管轄で定めるべきではないかとのこと。

 

「よし。反論はないか?……では衙堂は近日中に基準を制定せよ。次」

 

というわけで数刻*1で議論が終わった。ちなみに長卓会議は数年に一度開かれるが、このタイミングであったからこそ解剖の話を回すことができたらしい。そういう運にも恵まれている。ぼんやりと長卓に座る人を眺めていると見覚えのある医学師がいた。あ、嬉しそう。よかったね。とはいえこの後師の遺骸を解剖しなければならない精神的なあれこれもあるだろうから、まああまり干渉しないではおこう。

 


 

内容は様々だが、なんとなくで分けられてはいるらしい。半日ごと程度に人が入れ替わり、有識者とか業界関係者を揃えて合意を取るという形のようで。まあ正直ここでの会議はパフォーマンスの側面が強い。大抵のものはすでに裏で話が通されているのだ。議題が終わると関係者以外は退出、代わりの関係者が入って……なんてことがある。上座は動かないので誰何に答えるのは最初の一回だけでいいらしい。

 

というわけで一旦戻って休憩。ケトに紹介されて挨拶したり、名刺を渡したり、まあそんな感じ。基本的に主役はケトである。こうすることで私は寡黙でミステリアスな女性としての雰囲気を出せるからいいのだとか。

 

「最近は色々と変わってきている。五年前であれば城邦の端と端とで会話ができるなどと言えば一笑に付されたものだったが、今では当然のように行われているのは恐ろしいものだよ」

 

こう言ってくるのは都市開発というか区画整理の担当者。道路整備とかの過程で電話線を通したりする時に話が来たらしい。っと、口ぶりからすれば私がその面倒事を引き起こした張本人であることを知らないと見える。

 

「とはいえ変化を止めるのも、それはそれで変化に飲み込まれるのと同じほど危ないでしょう」

 

「そう考えれば、今の頭領は決して無能ではないのだよな」

 

ケトと相手の会話に私は笑顔のまま黙っている。いやこれは別に私が話すと前提条件のすり合わせを忘れるからだとか、止まらなくなってしまうからだとか、そういうことではないですよ。

 

「ケト君は、今のところ猛進派の先導者だからな」

 

「もし進みすぎるようであれば止めてくれる人がいるから、信頼して動けるのですよ」

 

「はは、まあ頑張ってくれ。こちらは成すべきことを成すだけで手一杯なところがあるからな。……すまないキイ嬢、彼との会話に集中してしまって」

 

「構いませんよ」

 

うん。先程の会話はなんとなく意味がわかりますとも。仕事とっととしてくださいよ面倒事が起こりますよとせっついているケトに対して、いやこっちも忙しいんだよもう少しゆっくりやれと返している。うん。嫌だ。辛い。聞いている分にはまあ楽しいのだが。ああ、笑顔が自然に浮かんでしまう。こういう辛いときにこそ笑顔を、というモットーが嫌な方向に機能している。

 

「……というわけで、通信をより簡易に行う方法があれば作ってください」

 

「あまりないし、無線……」

 

「まだ出せない情報なので」

 

「はーい」

 

まあいろいろな話を聞けるのは楽しいけどね。最近の変化のかなりの割合は私が噛んでいるものだ。こうやって自分の手掛けたものが形になっているのを見るのはちょっと気分がいい。

*1
ざっくり30分もかからなかった程度。



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政治

「……お疲れ様、です」

 

私の体重を支えながら、ケトは背中を撫でてくれる。

 

「うん……」

 

帰ってきてすぐに疲れが出てきた。今日の発言はちょっと面倒なやつだった。というより私は表向きは元印刷物管理局局長で現「総合技術報告」編集長。ここに呼ばれるほどの人かと言われると怪しいが、ケトの上司枠とか知っている人とかからの推薦もあってメンバーになっているらしい。というか司会が私のことをよーく知っているだろうからな。さすがに「刮目」の情報網は私を監視しているだろう。

 

まあつまりは聞かれる内容が異世界知識で答えられるものではなくて、ガチの実務内容なのだ。税金を使っているので説明の義務があるし、活動内容が内容なので答弁をしなくてはならない。まあ収支とかは記録を取ってあったからすぐに答えられたが、活動が具体的に役に立つかどうかについてはちょっと怪しい説明になった気もしなくはないな。エビデンスの欠如はどうしようもない。

 

「いい話し方だったと思いますよ」

 

「内容、は?」

 

「まあ、問題ないはずです。特に言質を取られるようなことも言っていませんでしたし」

 

「……重い?」

 

「少し」

 

「……わかった」

 

私はケトから一旦離れて、寝台に倒れ込む。

 

「政治、嫌だ……」

 

呟く私の後ろにケトが横になる。あったかいな。

 

「知っています。僕だってあまりやりたくないですけれども」

 

「……悪意とか、そういうの向けられない?」

 

「気にしたところでどうしようもないですけどね」

 

哀しそうな声。

 

「別に、やらなくてもいいんだよ?もう基礎はできたから、あとは引きこもって例えば『総合技術報告』に投稿するだけでも世界は変えられるし」

 

「時間がかかりすぎるでしょう?」

 

「……そんなに、急がなくちゃいけない?」

 

「……だって、遅れたらそれだけ人が困るじゃないですか」

 

「君のせいじゃないよ」

 

「キイさんも、そう言われて割り切れはしないでしょう?」

 

「無茶はやめてね?」

 

「わかっています。もし駄目だったら、一緒に逃げてくださいね」

 

「引き継ぎはやっていい?」

 

「いい編集員がいますよ。大丈夫なはずです」

 

「……まあ、確かに引き継ぎはできそうか」

 

なんかそう考えると気が楽になってきたな。私がいれば防げる問題はあるだろうが、それはそもそもこの世界で起こるはずだったもののはずだ。とはいえ通信システムやら論文という考え方とかがあれば知識の集約がやりやすくなるはずなので、問題への対処もマシになるだろう。

 

「でも、やっぱり楽しい」

 

「何がですか?」

 

私の呟きに、ケトが不思議そうに聞く。

 

「私の存在が、多くの人に知られていないってことが」

 

「影で動く、謎の人物と一部からは思われていますが」

 

「そう思わせているんでしょう?」

 

「ええ」

 

いたずらっぽく言うケト。

 

「まあ将来の史書には、多分私よりも君の名前が載るよ」

 

「そうですかね?直接表では動いていないので……」

 

「ああ……ならとても面倒だな。色々調べてもわかりにくい」

 

「まあ、なのでもしキイさんを直接尋ねてくるような人がいたら相当なので注意してくださいね」

 

「はあい」

 

っと、少し回復してきた。

 

「……これで、政治的なものと医学師との繋がりができた、と言っていいかな」

 

「いいと思います。……ところで、どうしてですか?」

 

「反対が多くなるようなことをやるから、場合によっては強権が必要で」

 

「例えば?」

 

「……そうだね。流行病については?」

 

疣贅(いぼ)熱、血咳病、粒疹、そういうものですか?」

 

「そうそう。かかったことは?」

 

「覚えていませんが、粒疹になったことがあるそうです」

 

「そういうものは、基本的に微小な生物、あるいはそれと似たものによって引き起こされる」

 

「似たもの、とは?」

 

「生物由来の物質なんだけど、これについてはまだわかるはずがないから……」

 

「続けてください」

 

「その微小な生物とかを身体に取り込まないためには、手を専用の薬剤で洗ったりする必要がある」

 

「キイさんのやっている石鹸ですか」

 

「あれで大半のものは大丈夫だけどね。あとは取り込んだ後でその微小生物が体内で増殖するんだけど」

 

「……想像したくないですね」

 

「事実だよ。その微小生物を狙って殺す薬や、あるいは体内でそういうものに対応しやすくするためのある種の予行をさせるみたいなのがあって……」

 

「膿移し、ですか」

 

「……たぶん、名前からしてそれそのもの。実際はその膿とかを薬品で処理したりするんだけど」

 

この世界にも天然痘みたいな感染症があるのか。怖いなぁ。まあもといた世界の人類史でもかなり古くからあったし、ある種の収斂進化で似た方向の症状を獲得した可能性はある。一応天然痘はウイルスなので抗生物質とかは効かないし、抗ウイルス薬の研究が進んだ頃には根絶宣言が出されていた。となると対処療法か発症前にワクチンを投与するかとかか。

 

「確かに、それなら問題は多そうですね」

 

「必要とあればこの貿易で成り立っている城邦の経済を止めないといけなくて、そのための政治が……」

 

「……今は寝ましょう。今すぐ解決できるものではないでしょうし」

 

「はい……」

 

面倒な考えを消して、ケトの体温に集中する。気休めだとはわかっていても、心は楽になるものだ。



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立法

ケトは事務作業とか交渉とかは得意だが、実際に文章を練ったりするのではまだ私のほうが上である。そりゃまあ私の博士論文はちょっと分量が多すぎるから削るべきだと言われたレベルだったからな。文字数制限はないとは言え、要約の要約が必要なのはちょっとあれだったと思う。扱う内容もやってきたこと全部盛り込んだ代物だったし。とっ散らかっているとの批判はまあ、否定しない。けれども資料とかをできるだけ参照しやすくしつつも通しで読んだだけで私の思考をぶつけられるレベルになるとああなるんですよ。

 

っと、まあそういうわけで法案の作成であるとか、あとは異世界知識を駆使して法の抜け穴とか悪用方法を考えるのはそれなりに得意なのである。それと前に印刷物に関する法律を制定するときにも参考人招致みたいなので呼ばれた繋がりもあるしね。

 

「……この部分ですが、例えば遺体から取り出したものを保存する場合が埋葬に当たるのかどうかを定める必要があるかと」

 

法文を確認して私は言う。相手は法律学師。今は図書庫で研究生活をしているのだが、長卓会議後の各種法整備のために呼ばれたらしい。なおこの人は実家が裕福なので仕事はあまりせず研究に専念しているとか。まあ、それが良い悪いは置いておこう。本心は羨ましいと思っているが、まあ私もかつては似たようなものだったからな。

 

「そんな事があり得るのか?」

 

「例えば教材用ですね。適切な処理を施せば、臓器などでも長期間保存できます」

 

「……明確には示さず、後の判断に委ねられるようにするべきでは?」

 

「まあそうでしょうね。実際法律の解釈が緩いので助かります」

 

「引き換えに法務審議会の面々が苦労するがな」

 

そう言って法律学師は笑う。

 

「知り合いがいるのですか?」

 

「同じ学徒寓で過ごした仲の人が何人か、な」

 

「ああ」

 

学閥というか、まあ学生時代の知り合いは縁があるとかなり長く続くからな。私はここらへんがちょっと怪しい。学術系の知り合いとかはいたし、研究室の飲み会にも定期的に顔を出したけど、個人的な繋がり、と、いうのは……。ああ、やめよ。仕事がんばろ。

 

そういうわけで色々と法律のリストを見ていく。明言はされていないが電波関連だと思われる実験のために特別区画を用意して予算を回す命令書。これも一応は広義の法律というか法令に入る。古帝国の法律体系を引き継いでいるのが少し話をややこしくするな。なんというか一回革命でも起こしてやり直したいが、それをやると統治権の正当性を血縁という形で保証する頭領がいなくなるので面倒な法哲学上の問題が起こる。

 

「……それにしても、よくまあこれだけの悪巧みを思いつくものだな」

 

他の班が出した草案に対し私の書いたコメントへの褒めているのかわからない言葉。

 

「そうですかね?」

 

曖昧な定義をついたもの。適切な監査システムの欠如。解釈担当者の買収可能性。

 

「苦手な人は苦手だからな。まあそういう人が多いことは良いことではあるが」

 

「法の裏をかかないと苦しかったり、そもそも守るべき法が存在しないよりは、ですか」

 

法治主義、とは違うんだよな。絶対的な法として古帝国法体系が存在して、それに色々と重ねていく感じ。変更不可能な憲法と、その下にある法令みたいなものか。なんか知ってる話だぞ?大抵そういうのはシステムの欠陥を頑張って補修して複雑に絡み合ったよくわからないものができるのだ。あれは戦力ではありません、専守防衛のための必要最小限度の自衛力ですよ。

 

「ひとまず、これについては重要だと思うのでもう少し時間をください」

 

発案所持権についての制定書だ。著作権と特許を合わせたような概念である。ここらへんは図書庫の城邦の歴史とか文化とかも合わせつつ、うまくやっていくしかない。まあ知的財産権だの特許闘争については専門家とまでは言わないが一応それなりに詳しいのだ。法務部にいたおじちゃん弁護士の自慢話は当時はそれなりに楽しかったが、今思うとコンプライアンスが明後日の方向に行っていた話ばっかだったな?

 

「印刷物関連だからか?」

 

「いえ、これはむしろ技術側ですね。私の発案物は別に自由に使ってもらっていいのですが、誰もがそうだとは限らないわけで」

 

私はかなりの技術革新の種を撒いた。複数の分野で、かつてのIT技術の発展とかに比類するようなレベルの飛躍が、並行して、かつ短期間に起こる可能性が高い。個人の権利の問題、研究団体の投資戦略、あるいはもっとマクロな技術政策でも良い。どこまでの権利を認め、どこまでの制限をかけるのが最適かは正直わからない。ま、ここらへんはそれなりに成功してそれなりに失敗した国の事例が頭の中にあるので多少は参考になるだろう。結果的に失敗した選択はあるし、一部の分野にかなりのダメージを与えた政策もある。中には完全な無能であるとしか言いようがないものも、まあ存在する。それでもほとんどは選抜を受け、訓練を積み、経験を重ねた専門家によって作られたものだ。もっといい選択が存在したとしても、それを選べたとは限らない。少なくとも実行できた例としてなら、使えはするだろう。

 

「そうか。ただ、あまり複雑にしすぎるなよ?余計な言葉であれば申し訳ないが、先を見すぎるきらいがあるように思う」

 

「いえ、正しい評価であるとは思います。なので、私だけでは駄目なのですよ」

 

別にこのシステムが最善であるとも無謬であるとも思わないし、改善点はあるのだろうが、まあ悪くない法制度である。さて続きだ。今日は夜遅くなりそうだな。



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生気

「……おいしい?」

 

「はい!」

 

私の質問に編集員が満面の笑みで答える。さくさくと食べられているのはある種の焼き菓子だ。麦と脂と卵とたっぷりの麦蜜で作ったもの。発酵で生地を作って、中のガスをうまい具合に潰さないようにしているので軽い食感である。なお高い。

 

「あ、お茶です」

 

「……ありがとう」

 

私がお茶を渡すのはここ一年弱の騒動の原因でもある医学師。今日は長卓会議の後のごたごたの話を聞きつつちょっとした慰労会ということで編集所に来たわけである。

 

「キイ嬢の助けで、色々な事が進んだ。礼を言う」

 

「こちらもやりたかったことが多くできました。貸し借りはなしです。原稿出せます?」

 

「もう少し先に伸ばしてくれ、まだ忙しい」

 

「わかりました。ではせめて医学分野の論考の照査をお願いします。これ、知り合いの人が書いたものでしょう?」

 

私は彼に最近送られてきた原稿を渡す。一応著者を伏せてはいるが、この城邦は狭いので大体わかるだろう。

 

「……だろうな。確かに話はしたが、こういうものをやっているとは」

 

内容は外傷に対する処置としてさらし粉で消毒した水による洗浄を行った際の色々だ。特に有害な問題も見られず、傷の治りも少しいいかもしれないが詳しくはわからない、とのこと。かなり謙虚に思える。私なら可能性をもっと増して書いてしまうが、そういえばこの雑誌は載ったところで人気とかには関係ないし、査読を通過するためにインパクトのある発表をしなくてはならないなんてこともない。できるだけつまらない、地味に見える研究でもきちんとしていれば掲載しているようにしているのが効いているのかな。

 

「そもそもの患者数が少ないから、面白いことは言えないと思いますが」

 

そう言うのはケト。一応査読みたいなものは私とケトと編集員の三人で基本は行って、体裁が問題なければ専門家に聞く、みたいな手続きを取っている。

 

「……それでいいのだ。万病に効く薬など、ほぼないのだから」

 

「ほぼって、あるのですか?」

 

「ある種の毒草がそうだな。生という苦しみからの解放をしてくれる」

 

「……医学師がそういうことを言っていいものなのですか?」

 

「あまり良くはないがな。ただ先日、師に抑疼に効く薬湯を与えて来たところだ。それを思い出すとな……」

 

この医学師の師にあたる人の解剖のために色々と動いたのはある。

 

「あとどれほど、保つでしょうか?」

 

「……三月、と言いたいところだがもう少しは行けるかもしれん。この冬を超えることも叶うかもしれん」

 

「逆に言えば、それほどですか」

 

「ああ」

 

「……ところでその抑疼に効く薬湯、でしたか。普通の人が飲めば相当良くないものですよね」

 

「効能が出ている間は心が穏やかになり、心地よい気分に包まれると言うが、その効能が終わる時に酷い苦しみを味わう事があるという。量を抑え、定期的に飲み続けるのであれば問題ないのだが」

 

なんだ、ただのオピオイドか。とはいえ投与管理ができているのはすごいな。たぶんそれなりの知識の蓄積と専門家の勘と少なくない犠牲の上に生まれたものだ。

 

「となると、飲みすぎれば死にますか」

 

「……まあ、それを飲むような人はそう遠くないうちに死ぬのだがな」

 

患者を見たことはないが、雰囲気からして末期がんといったところか。そもそもこの世界でがんで死ねるのはかなり健康な方だろう。大抵はその前に感染症に襲われるのだ。結核が死因の一位だった時代も存在している。というかこの世界にも血咳病とかいうそのまんまな名前のものがある。早く土から放線菌を見つけてこないと。

 

「っと、そうだ、解剖の腕のほうはどうですか?」

 

「豚を十数匹捌いた。まあ大まかに臓腑の大きさなどは似ていると聞いているからな。おまけで家に塩漬け肉が多くある」

 

「実際、人を相手にできると思いますか?」

 

「練習を重ねて、それなりに手際よく臓腑を取り出せるようにはなった。だが血の匂いにはまだ慣れきっていないのと、腐るのがな……」

 

「……あれ、半年後は夏ですか」

 

「氷を作ることは、できるのだったか?」

 

「ええ。まだあまり効率がいいものではありませんが、土を掘ったような場所に作った氷を置けば数日はどうにかなるでしょう。ゆっくりとまでは行きませんが、余裕はできるかと」

 

「そうか。……ただ、今更になって怖くなってきた、と言えば笑うか?」

 

「いえ。私だって、あなたと同じ立場になれば同じように思うでしょうから」

 

死体にメスを入れることは、人間の感情をバグらせがちだ。まあ医学部入学者と医師免許取得者の比から考えるとそこまでの人が無理というわけではないらしいが、医者になって死体解剖をする割合はあまり多くはなかったはず。

 

「豚の時でもそうだったのだ。既に生気の抜けた、ただの骸だとしても、手が……」

 

「……これからの医学のため、救われる人のため、というのは詭弁でしょうか?」

 

「いや、確かにそうだ。知識は人を救う。それに、別に人を殺しているわけでもないのだ。だが……」

 

「その葛藤を忘れる事ができないなら、それが良いと思いますよ」

 

「そうか……」

 

医学師はそう呟いて、お茶をすすった。



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第20章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。キイの取った選択について、別ルートがあるんじゃないかと調べるような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。



帰路

かつての世界では宗教的影響もあって長い間行われない期間があったせいで誤った知識を元に医学が組み立てられた時代があったが、

人体解剖(あまり信用されていないクイントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌスの伝によれば生体解剖も含む)を行った最初期の人物であるとされる紀元前300年頃の古代ギリシアの医学者、ヘロフィロス以降細々と続いていた人体解剖の系譜は、アレクサンドリアで解剖を学んだという2世紀のガレノスの頃には行われなくなっていた。このガレノスが医学書を著した直後にローマ帝国が東西に分裂するなど欧州情勢が複雑怪奇になったせいで、それ以降長らくガレノスの著作が広く認められていた。それ以降、14世紀前半に行われたモンディーノ・デ・ルッツィによるものまで系統的な学術的研究のための解剖は長らく行われていなかった(行われていたとしても非常に少なかった)とされている。

 

一体程度の遺体でもちゃんとやればかなりの情報を得ることができる、はず。

多くの医療従事者が経験している人体解剖実習を踏まえたもの。これは死体解剖保存法における系統解剖に分類され、医学に関わる大学(まあ医学部や歯学部)で行われる必要があるが、実習への参加自体は別に医学部や歯学部の学生である必要はない(昭和二四年六月一五日医発第五一九号「死体解剖保存法の施行に関する件」を参照のこと)。

 

それでも絵とは違った正確さを出すことができる。

レオナルド・ダ・ヴィンチは数十体の解剖を行ったが、当時の医学的知識に基づいた描写や誤解などに基づく誤った部分が存在する。例えばThe Royal Collection(イギリス王室コレクション)の一つ、RCIN 919054に見られる肺のスケッチは対称性が高く、明らかに誤りである。これに対し、写真は写実性において正確ではあるがそういう写真はわかりやすいものでも見やすいものでもないため、未だ多くの解剖学の教科書にはイラストが用いられている。

 

あれは完全に名刺ばらまきの結果手に入ったものだしな。

それなりに大きいシンポジウムとかで名刺ばらまきをすると結構変な人の名刺が手に入る。たのしい。

 

気化熱

とはいっても天上世界の第五元素ではない。

エーテルは古代ギリシアの哲学から中世のスコラ学まで存在した概念であり、アリストテレスの四元素説を拡張して第五の元素としても扱われた。「地上の物体はなぜ直線的に地に落ちて停止するのに、天上の星々は円を描いて永久に運動し続けるのだろうか?」という疑問について答えたものである。この仮説では天空には非常に軽いエーテルが集まっているとされ、化学物質のエーテルも揮発性の高さからその名がつけられた。

 

メチルアルコールより安全。

メチルアルコールは10 mL程度で失明し、その数倍で死んでしまうが、ジエチルエーテルであればざっくり倍程度まではいけるはず。なおエチルアルコールはさらにその倍ぐらいまで大丈夫。こう聞くとアルコールって危ないのでは?と思う読者もいるだろうが、その通りである。

 

私の記憶ではエチレンプロピレンゴムみたいなものを使っていたが、重合にはそれなりの圧力かツィーグラー=ナッタ触媒が必要になる。

エチレンプロピレンゴムは石油系の油への耐性はあまり良くないが、エーテルには溶けない。この合成のためにはエチレンとプロピレンを共重合させる必要があるが、このような反応を容易に行うための触媒がカール・ツィーグラーの発明を改良したジュリオ・ナッタによって生み出された。というかエチレンプロピレンゴムの発明者がジュリオ・ナッタである。あとキイはそれなりの圧力と言っているが、多分これは適当。

 

まあチタンはそれなりにありふれているし、四塩化チタンは蒸留で比較的簡単に回収できるからマシではあるが。

チタンは質量比で地殻にざっくり0.6 %ほど存在する。これより多い金属はアルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウム、カリウム、マグネシウムしかない。四塩化チタンはこのようなチタンを含む鉱物を炭素で還元した上で塩素を含む環境で加熱すれば得られる。なおここでは助触媒に使われるトリエチルアルミニウムの存在を忘れているので、全然マシでもなんでもない。

 

パーライト。フェライトとセメンタイトの共析晶と同じで真珠(pearl)に由来するが、こっちは中に水が入ったガラス様の岩石を加熱して作るものだ。

もととなる火山岩である真珠岩に由来する名前。割ると真珠に似た小さな球状の破片が出ることからこの名がある。なお共析晶のほうのパーライトはフェライトとセメンタイトが交互に析出することで生まれるもので、真珠と似たように層状の構造を持つことからこの名がある。特に微細なものはソルバイトと呼ばれることがある。

 

凹面鏡

基本的には真空管で技術蓄積があるのでそう難しくなかったらしい。

この世界、白熱電球より先に真空管が作られているのである。エジソン効果はどこで見つかったのかが後世の科学史家の論点になりますね。

 

「ああ、商会の方から頼まれて話に乗ったやつですね。面白かったので半月ほど取り組んでいたんです」

後の大発見とされるものが数年とかもっと短い期間でなされることは比較的よくある。まあもっと独特なものであると相手の話を途中まで聞いて結論を出すとか、通りがかった議論を少し聞いて結論を出したりなんてエピソードがあったりする。なおこの手のネタは根拠が怪しいことも多いし、科学史のネタ以上のものではなかったりするのでここでは具体的にはあまり触れない。遺族に頼んで残された手紙とか漁りたくはないんだ、許してくれ……。

 

問題はむしろ半通径を調整する方だと言う。

楕円曲線において円の半径に相当する部分の長さのこと。数学的に言えば、円錐曲線は極座標で

 

$$r(\theta) = \frac{l}{1 - \cos\theta}$$

 

と表されるが、この時の $l$。

 

「まず、二軸を直行させてある数とその数を二乗した数を対応させるような曲線を考えます」

私たちの世界における数学史では「デロス島の問題」としても知られる立方体倍積問題を解く際に古代ギリシアのメナイクモスが導入したものが放物線の始まりであるとされている。なおプルタルコスの伝によると彼のやり方は「数学的ではない」と言われたらしい。当時の数学の純粋性の追求はある意味で数学の実用化を阻んだ側面がある。

 

一点に集まると言う話はありましたが、それは球の一部を切り取ったものに対してでした。

まあ点火ぐらいの実用レベルでは球面鏡であまり問題はない。一応私たちの世界ではペルガのアポロニウスがここらへんの研究をしているし、シラクサのアルキメデスが理解していたとしてもおかしくはない。裏設定ではあるが、作中の科学史では立方体倍積問題がなかった、あるいは数学の純粋性が算学と幾何学の境目をゆるやかにつなぐという目的からあまり重視されなかったのがあって円錐曲線の概念が生まれていないか、いい加減であった。

 

曲線

多分中国語文化圏で徐光啓とマテオ・リッチあたりがいい具合に翻訳したのだろう。

マテオ・リッチは教皇領出身のイエスズ会員で、明への宣教を行った。彼の弟子となった徐光啓と協力してユークリッドの原論を「幾何原本」として翻訳している。この本文を持っていないので解らないが、時代的にこのあたりでラテン語のParabolaeが放物線として翻訳されていてもおかしくはないはず。ここらへん詳しい方がいれば教えてくだされば幸いです。

 

アリストテレスの物理学論とも、その後に生まれたヨハネス・ピロポノスやジャン・ビュリダンみたいなものとも違う。

ヨハネス・ピロポノスはアリストテレス批判の中で活力(impetus)と呼ばれる概念を生み出し、運動が始まる際に与えられた活力(impetus)が切れることで運動が停止するとした。ジャン・ビュリダンはこの理論をより洗練させ、運動量と似た概念にまで押し上げた。しかし残念なことにここで重要なのは運動エネルギーなので次元が違う。

 

指数関数をベースにした懸垂線でもいいはずだ。

懸垂線(カテナリー)は両端を持って紐を垂らしたときの紐の形であり、双曲線余弦関数と呼ばれる関数が描く曲線と同じになる。これは二つの指数関数の和として表すことができる。

 

直線や円の組み合わせだと考えてもいい。

ヴァルター・ヘルマン・リフが「Bawkunst Oder Architectur aller fürnemsten Nothwendigsten angehörigen Mathematischen und Mechanischen Künsten eygentlicher Bericht und verständtliche Underrichtung zu rechtem Verstandt der Lehr Vitruvii in drey fürnemme Bücher abgetheilet」の215頁に掲載した木版画にあるようなもの。これは恐らく別の本とかから持ってきたものだろうが、具体的に漁ったわけではない。Wikimedia CommonsにFile:Buridan-impetus.jpgとして保存されている。

 

こうした事を今日の科学観をもって見るのは当らない。

中島敦「名人伝」の一節より。

 

これを壊すのは相当に面倒だが、私は結構好きだったりする。

ここらへんの思想が強いのは板倉聖宣の系譜にある仮説実験授業とか。

 

まあこういうこと言うと戦争なので私はあまり言わなかったが。

ただ、中にはこの(よどみ)であることに自負を持つ哲学者もいるので怖い。

 

というか積分をやるなよ。

積分の起源を面積に求めるのであれば、シラクサのアルキメデスのやった放物線と直線に囲まれた図形の面積とかのあたりには萌芽が見られる。微分が生まれたのはアイザック・ニュートンやゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツのあたりなので、かなり間が飛んでいる。

 

凹版

いわゆるワニスである。

ニスとも言う。速乾性かどうかで使い分けたりもする。

 

私の知識を漁っても木凹版というものはなかなか出てこなかったので

書くにあたっていろいろ調べたんですが、木凹版ってあまりないんですよね。なんでだろ……。

 

医療機器

ダニエル・ガブリエル・ファーレンハイトさんはお帰りください。

華氏温度、あるいはファーレンハイト温度と知られる温度体系を作った人物。記号は°F。こんなよくわからないものを使っているアメリカはやはりおかしいのでは?

 

いや血圧計だとすればサミュエル・ジークフリート・カール・フォン・バッシュとかシピオーネ・リバ=ロッチとかの名前を挙げたほうがいいか?

サミュエル・ジークフリート・カール・フォン・バッシュは感圧部分を押し付けるようなメーター式の血圧計を生み出し、シピオーネ・リバ=ロッチは圧力を加えられるカフを組み込んだ。

 

カフには継ぎはぎして膠で気密した膀胱を

カフとは血圧計の膨らむところ。

 

コロトコフ音も一応聴き取れるので血圧は出せるだろう。

ニコライ・セルゲイエヴィチ・コロトコフは血圧計で圧力をかけながら血管内の音を聞くと圧力の変化とともに変わる音を発見し、これを血圧測定に利用することを提案した。今日、この音はコロトコフ音として知られる。

 

オシロメトリック法みたいなのは流石に無理。

血管壁の拍動による圧力の変動を用いて血圧を求めるもの。今日の自動血圧計ではこの方法が用いられている。

 

圧力計とポペットバルブを組み合わせた簡易なものだ。

ポペットバルブはバネと金具の組み合わせで流量を調節し、一方向にしか空気を流さないようにできるタイプのバルブ。

 

 

控室

なんか話を聞くとフリーの政策担当秘書みたいなものをやっているらしい。

国会議員は国費で3人の秘書を雇うことができるが、その中でも主として議員の政策立案及び立法活動を補佐する秘書のこと。なお博士号とかの資格を持っていると面倒な試験なしに審査認定を受けられるが、ほとんどの政策担当秘書は年数経過で資格を得たものである。

 

まあ問題はトレンス試薬のためのアンモニアか。

ベルンハルト・クリスティアン・ゴットフリート・トレンスによって作られた硝酸銀水溶液、水酸化ナトリウム水溶液、アンモニア水の混合物。アルデヒドなどの還元性の物質があると銀鏡反応を起こすが、ちょっと放置すると雷銀ができて爆発する。ガラス容器を割るぐらいの威力はあるので、代替としてアンモニアのかわりにチオジエチレングリコールを使って錯体を作ろうみたいな試みもある。

 

長卓会議

一種の緊急避難とかみたいな扱いらしい。

もとの法では違法だが、条件をつけることで罪になることを回避しようとしている。まあ緊急避難をどう扱うかについては色々と学説があるので大変。

 

「そう考えれば、今の頭領は決して無能ではないのだよな」

キイを手に入れるという判断をしただけで十分有能である。もっとこう脅して殺人兵器を作らせるとかそういう方向に走ってもいいのに……。

 

政治

疣贅(いぼ)熱、血咳病、粒疹、そういうものですか?」

血咳病のモデルは結核、粒疹のモデルは風疹。疣贅(いぼ)のできる熱病はあまりないが、ダニエル・アルシーデス・カリオンによってカリオン病として同一の病原体によるものとまとめられたオロヤ熱およびペルー(いぼ)なんてものはある。

 

立法

それをやると統治権の正当性を血縁という形で保証する頭領がいなくなるので面倒な法哲学上の問題が起こる。

王権神授説や社会契約説とはまた違う思想。ここらへんはまた後に語られることがあるかもしれない。

 

なんか知ってる話だぞ?

モデルは日本国憲法。

 

あれは戦力ではありません、専守防衛のための必要最小限度の自衛力ですよ。

日本国自衛隊と日本国憲法9条の間の面倒事をどうにかしようとしている日本政府の見解。

 

ま、ここらへんはそれなりに成功してそれなりに失敗した国の事例が頭の中にあるので多少は参考になるだろう。

日本のこと。一応この国は世界指折りの経済、教育体制、科学技術、軍事力を持っているのでどう考えても一流国である。失敗国家ではない。

 

生気

原稿出せます?

Publish or Perish(出版か死か)というある種の格言がある。なお別に出さずに逃げてもいいのです。

 

なんだ、ただのオピオイドか。

アヘンは昔から薬や嗜好品として用いられてきたが、それは含まれるモルヒネのようなオピオイドの作用である。

 

早く土から放線菌を見つけてこないと。

最初の抗結核抗生物質であるストレプトマイシンが放線菌のStreptomyces griseusから抽出されたことを踏まえたもの。

 

医者になって死体解剖をする割合はあまり多くはなかったはず。

実際病理や監察医以外はほとんど行わない。特に解剖する理由もないし暇もないしね……。



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第17章~第20章 まとめ
登場人物紹介(第17章~第20章)


政治劇とかそういうのの中で出てきた名前のないキャラクターたちのリストです。作者も正直管理しきれていない。


キイ(図書庫の城邦の司女、キイ)

 

「総合技術報告」編集長

 

北方から旋盤を持って帰ってきたと思ったら、何か図書庫の城邦の政治に手を出し始めたと認識されている女性。なお本人は手札をプレイヤーに提供しているだけであまり政治に関与しているつもりはない。ケトの後ろで微笑んでいるだけで実は黒幕なのではないかと勝手に誤解されているだけである。

 


 

ケト(司女ハルツの徒弟、ケト)

 

「総合技術報告」編集長付秘書

 

若いのをいいことに図書庫の城邦を歩き回り、各種の政策決定や法整備の裏で暗躍中。そろそろ結婚適齢期を過ぎる。一応有力者の中には縁のある娘を紹介して派閥に取り込もうとするものもいるが、キイを怒らせたくない側から釘を差されたり「司士ですから、そういう話は……」と言うケトもあって上手く行っていない。そしてそういう話についてキイとは情報共有をしていない。

 


 

北方使節官

 

肩書上は頭領府外交局の人物。図書庫の城邦の諜報機関「刮目」との繋がりが深い。ハニートラップをかけたりかけられたりして結局いい感じにイチャイチャしてやがる。

 


 

「鋼売り」の女性(案内人)

 

「鋼売り」の諜報とか情報収集とかハニートラップとかをやってきた。いい男を捕まえたし身を落ち着けつつじわじわと情報戦をやっていこうと思っている。

 


 

職人

 

「鋼鉄の尾根」の中でも鍛冶や細工を行う職人が集まる工房街で変人として知られる人物。聴覚障害とそれに伴う発話障害がある。古帝国時代に作られた絡繰の復元を目指しており、古帝国時代にいたやばい天才の集団による技術革新を一人で再現しようとして一部成功させているやばい人。なお目標が曖昧な伝承とかなので、目標はとても高い。

 


 

通りがかりの村の人たち

 

細工好きが多い地域。後にここから技術者が呼ばれて自動紡績機や自動織機の開発が始まる。

 


 

商隊

 

荒事と取引に慣れた強者達。もちろんそういう環境なので女性もついてきているが、夜以外でも色々と仕事があるので男女の間で基本的には互いに敬意を払われている。まあもちろんそういう対応をしない人も双方にはいるが、あからさま過ぎると対立が酷くなるので商隊長が頑張ってどうにか抑えている。

 


 

医者

 

湯治客の話を聞いたり、薬を出したり、マッサージをしたりして生活している。かつては商隊というか傭兵団で衛生兵みたいなものをしていたが、それを辞めて温泉に来た。最低限の医療の心得があるが、それ以上に相手の話を親身に聞くので信頼されている。

 


 

山渡り

 

概ね山師と同じだと思ってくれればいい。荒事への対応が必要であるためかなり筋肉質であり、同時に多くの地理や植生などについての知識も持っているためにかなり賢い。つまりは筋力と知力が合わさって最強である。

 


 

印刷物管理局局長

 

キイに仕事を任された人。政治的案件が多くなっており、あっちこっちに顔を出している。

 


 

印刷物管理局局長補佐

 

事務系の担当者。仕事がよくできるので、局長からの信頼も篤い。

 


 

トゥー嬢

 

理解者がいなくなって寂しくなっていた人。予定の時期に帰ってこなかったキイを案じてすごい不安になって体調を崩したり、その後印刷物管理局とかの方に行って向こうで冬を越すことになったと聞いてへたり込んで泣いてしまうぐらいだった。もちろんそれについてキイ嬢に言うほど弱くはない。

 


 

「総合技術報告」立ち上げ時のメンバー

 

技術系の人がどうにかして本を出そうとしたが、分量が足りなかったので合同誌のようにして作ろうとなったのが起源。何人かはキイの学術誌に関する構想を聞いていたので近い形になっている。なお取りまとめ役だった医学師はキイと直接の面識はなかったが、新技術にかなり強い興味を持っていたことと政治的な繋がりが上の方にあることから選ばれた。その特権というかコネを使って師の解剖を実現させようとしているのは別に私利私欲というほどではないと思う。

 


 

「時勢」編集長

 

経営が軌道に乗り、やっと発行部数の急激な上昇が収まった。投資のために色々と借金をしているが、「時勢」自体を担保にしているので最悪何かあったら逃げるつもり。

 


 

編集員

 

兄は印刷物管理局局員。情報工学っぽいものを感覚で理解し始めた天才。今のところ色々な技術系の報告を読んでアイデアを練っている。

 


 

商会の実験工房の職人

 

真空管の開発やキイからの無茶振りに対応するための専門家たち。少しづつではあるが、女性の雇用も進んでいる。

 


 

商会の会計員

 

かつてキイが算学を教えていた学徒。天文学についての知識もあるので、そう遠くないうちに万有引力モデルを構築するはず。これで天体の不規則な運動についても理解が進むはずだが、計算式と格闘している彼はまだその事を知らない。

 


 

印刷物研究班

 

印刷物管理局内部の研究部署。技術系の人材確保の争いが少しづつ激しくなってきたのもあって、ある程度の育成も行うつもりで作られた。

 


 

都市開発・区画整理の担当者

 

図書庫の城邦の真っ直ぐな道路が通る街並みを作っている。数年がかりで立ち退きとかをやるので交渉には強い。なお今後電気や通信線、ガスを通すために彼と彼の部署は大変なことになる。

 


 

法律学師

 

若いうちに代争屋として名を挙げた後、実家が裕福なのもあって古帝国法の研究や判例分析などを行っている。実は図書庫の城邦において法の抜け道とかについて一番詳しい人の一人。



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役儀

油の灯りの中、一人の男が金の腕輪を外して机の上に置いた。長卓会議の間断っていた酒を硝子(ガラス)の盃に注ぎ、彼は火にかざす。揺らめく橙の火と、それと似たようで僅かに違う琥珀色。

 

男の顔には疲れからかわずかに皺が寄る。ここ数年で一気に起こった出来事は全てなんとか対応できる範囲にはあったが、それでも彼の精神に疲れをもたらしていた。

 

「……図書庫の城邦の司女、キイ、か」

 

正直なところ、先日彼女が名乗った時に彼は心底安堵した。少なくとも、彼女はしばらくは自分たちの敵にはならないだろう。そうでなければ「図書庫の城邦の」などとは名乗らない。あれだけの人の面前で宣言したのだ。ここで彼女の側に着いて争うほどの人はいない。必要とあれば、頼めば味方にもなってくれるだろう。弟からは平和に甘んじていると批判される彼であったが、平和はそう悪いものではない。兵の派遣も、この城邦が戦火に巻き込まれた時の被害に比べれば微々たるものだ。それで周辺諸邦の信頼を勝ち得ることができるのであれば、自分は兵たちに死んできてくれと頭を下げることができる。そう考え、男は酒を舐める。

 

今回長卓会議で決定した内容のいくつかに、キイが関わっていることは「刮目」からの報告で掴んでいた。なにより彼女の腹心であるケトが動いているのだ。隠すつもりはないのだろう。一部のものはケトを止めようとするか、あるいは多少無茶な手を使ってでも仲間に引き入れようとした。余計なことを、と彼はため息を吐く。いや、ある意味では無駄か。

 

そう考え、キイとケトの関係を羨んだ男は小さく笑った。自分と妻との関係は、あの二人のように決していいものではない。もちろん、一人の女性として嫌っているわけではない。長い間子を成せなかったことについても、別に構わないと思っている。ただ、あそこまでの信頼を妻とは築けていない。もちろん酷い夫の話も、妻の話も聞いている。それに比べれば、自分はまだ幸福であるし、彼女を幸福にしているとは思う。

 

そういえば、と頭領は昔の報告を思い出す。キイについては経歴を調べることができず、ケトについても養母のような存在としてあの司女、ハルツがいたというが、どちらも家には縛られていない。別に自分だって逃げようと思えばどうにでもなるほど、特に家については縛られていないのだが。かつての古帝国を統べ尊いとされた血、この一帯を任せられた一族、その末裔というだけにすぎない。自分の家はただ曽祖父の代から頭領を任されているだけであって、系譜をもとに頭領たる資格を定めるのであればはっきりとわかるだけでも数百人はこの城邦にいるだろう。詳しくわかっていない家系図の部分や、書き込まれなかった庶子や、あるいは忘れ去られた家等を数えれば別に誰であってもあの長卓の短辺にある椅子に座ることは問題なくできるだろう。所詮は血など幻想に過ぎない。ただ、幻想は幻想で意味があるのだ。たとえ死なぬとしても、誓いを破る事のできるものは少ない。そういうものなのだ、と思いながら残る液体の少ない盃に彼は唇を近づける。

 

ただ、このまま行けば娘か、もし生まれたとすればその弟が自分の跡を継ぐだろう。もし弟を次代に、という声が大きければ娘の縁先を選ばねばならない。あの可愛らしい、涎を垂らして眠る赤子にいずれにせよ苦しい思いをさせねばならないのか、と彼は一瞬は考えるがそれでも自分の実に恵まれている境遇を考えれば贅沢を言う事はできない。

 

「対応すべき問題は増えるが、それだけ手段も増えている。実に厄介な、それでいて魅力的な人物だな……」

 

飲みすぎると次の日に苦しくなる、この旨い酒のようだ。もし自分に過剰な欲があれば、彼女をこの城邦に封じ込めていただろう。もし自分に過剰な恐れがあれば、信頼できる衛兵か巡警に短刀を持つよう命じていただろう。いずれの選択を取らなくて正解であった。もし、本気で彼女が敵を定めたのであれば、それはそう遠くないうちに討ち取られるだろう。彼は外交局からの報告を思い出す。今後十年以内に鋼と布の価格の暴落が発生する可能性がある、とあった。彼女の手によって機械を作るための機械が、道具を作るための道具がもたらされたからだ。水車によって糸が紡がれ、人の手を借りずに動く(はた)で作られる布があれば、不衛生な服による蟲の害を抑えられるだろう。鋼が安く手に入ることは、鋼の道具の関わる多くの仕事の効率が上がることを意味する。

 

しかし、それによって生まれる問題への対応が必要だ。冬に紡ぎを行う農家の税をどうするべきだろうか。機織りたちの仕事が失われるのではないだろうか。良い剣が出回れば、その輝きで目が眩らむ愚かな人が出てくるやもしれん。ただ、希望はある。キイは責任をきちんと取る人物である、と彼は評価していた。あの夜の事を思い出す。もう五年も前になるのか。

 

彼女は災厄を予言した。もし印刷物が野放しになっていれば、今でもまだ法すら定まっていない状態で対応しなければならなかっただろう。しかし彼女は本職に言わせれば拙いながらも規則を定め、印刷物によって作られる商品をも生み出した。印刷物管理局の成功を真似るべく、多くの人があの図書庫の一角を訪ねているという。ああ、何が起こるか知っていればそれは可能だろうとも。誰も口にしないが、彼女が遠い未来かどこかの知恵を持っていることは理解している。しかし、知っていたところで動けるものなのだろうか。

 

頭領は自分の無気力に笑う。自分ができることは、ただ決めることだけだ。それだけで潰れてしまいそうな夜もあるのに、彼女はきっとそれ以上の選択をして、行動に移している。

 

多分、自分は彼女を羨んでいるのだろな、と彼は思い、最後の一滴を盃から口の中に落とした。懐に腕輪をしまい、寝台に向かうために腰を上げる。明日は予定がない。あれだけの仕事をしたのだ、一日か二日休んだところで責められはすまい。ただ、どうせなら自分も行動をしてみるべきだろうな、と彼はふと考える。明日は、かつてやっていたように妻の髪を梳いてもいいだろうか。




活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=289416&uid=373609


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第21章
招集


「血を流す圧が下がっているようで、もう長くない、とのことです」

 

蝋引きの外套を振って、雨粒を落としながらケトが言う。

 

「そう。なら動き出さないと」

 

ケトの濡れた髪を布で拭きながら私は返す。

 

「ですね。手分けして声をかけにいきましょう」

 

「わかった。ええと、じゃあ城邦の西側を任せていい?」

 

「任されました。東側をお願いします。しかし、その前にちょっと暖かいものを飲んでいいですか?」

 

「いいよ。ちょうど湯を温めていたところ」

 

そう言って私は作業机の上に積み上げられたメモの一つを取り出す。解剖が行われる際に呼ばなくちゃいけない人たちの名簿だ。本当はさっきケトが訪ねた医学師がやるところなのだが、流石にお世話になった人間が死んだ後でその遺骸に刃物を入れる人間にここまでの無茶は頼めない。私たちとしても今後進めたい医学系の関係者と顔を合わせることのできる機会でもあるので引き受けたというわけだ。それに、私たちのほうから彼に紹介した人も多かったというのもある。絵であったり、撮影であったり、照明であったり。もちろん、名簿には医学師も多い。というか本来はそういう人たちの見学がメインなのだが。慣れている人や覚悟のある人以外はできるだけ血とか死体の匂いからは遠ざける事を考えると、実際に部屋の中で作業するのは私になるだろう。別に私だってそこまでああいうものに慣れているわけではないけれども。

 

「仕事を引き継いでもらっていい?」

 

私は原稿を読んでいた編集員に言い、原稿の類をまとめて渡す。ある程度は私のメモがあるのでなんとかなるだろう。そうでなくとも彼女の腕はしっかりとしたものだ。これでいて裏で電磁システムの開発をやっているという噂があるので正直若いっていいなぁと思ってしまう。ある種のリレーを使った機構で、自分の回路自体を自分で生み出した電気信号で切り替えるような機械の設計を目指しているらしい。まだいい加減だが、十分洗練されればコンピュータと呼んでいいものになるだろう。彼女の目標は計算機というよりも自動回線切り替え装置だが、論理的に見ればその二つにあんまり違いはなかったりする。メモリが搭載されているかとか、そういうぐらいかな。まあでも機械だと今の状態自体が一種のメモリとして働くのでいいのか。

 

「いいですよ。ひとまず四半月、編集長は動けないものとして扱います。基本的には面会については断りますが、緊急性が高いものであれば伝言を取り次ぎますね」

 

「ありがとう。十分だよ」

 

「いいえ。基本的に私の判断で動くので、もし何かあったら後始末をお願いいたします」

 

「任せて、上役とはそういう事をするのが仕事なので」

 

信頼できる部下というのはありがたい。ケトもそうだけれども、もし何かあっても私が頭を下げる意味があると思えるような事案を持ってきてくれるという関係はなかなか得難いのだ。印刷物管理局の人たちもそうだった。本当に部下には恵まれているんだよな。引き換えに良き上司たらねばならないけれども。あまりプレッシャーに感じるのが良くないとはわかってはいるが、やはり気が張るな。今は直接の部下が一人とはいえ、始まってまだ二年も経っていない「総合技術報告」がかなり高い評価を色々な所から得ているのもあってやり取りをする人間は印刷物管理局の局長だったときよりも多くなっている。そろそろ競合が出てきてもいい頃だが、そういう噂をまだ聞かないあたり難しいと思われているのだろう。実際かなり難しい。私が異世界の知識マシマシで良かったな。それでも難しい論理になると少し考えないと飲み込めないが。

 

「それにしても、今日は冷えますね」

 

編集員が私の淹れたお茶を美味しそうに飲みながら言う。

 

「珍しいよね、夏至前にこういう冷たさは」

 

私は呟いて、指を深盃に当てて温める。気軽に冷暖房をつけるとかができないので重ね着とかで対応するのだが、それでも微妙にストレスが溜まるのは避けられない。なので温かいものを定期的に飲んで少しでもリラックスしよう、というつもりであった。

 

「……助かりますけどね」

 

そう呟くのはケト。確かにこれから解剖するとなれば、温度は低い方がいい。

 

「ええと、まずは氷を頼んで、電池を運び入れて……」

 

「電線を通せれば楽だったんですけれどもね」

 

「まあまだ皮膜も出来ていないしね。あれだけの灯りを使うとなると誤って触った時の痺れも凄いことになるし」

 

「確かに、それもそうですね」

 

鉛蓄電池の運搬、写真の準備、部屋の冷却。やるべきことは多い。解剖の計画は見せてもらったが、順番に見ていっておよそ四日。脳と内臓から始めて筋肉や神経を確認していき、最終的に骨にまでたどり着く。基本的に私たちは技術担当で、記録担当については今回の解剖の主任である医学師とともに訓練をしているはずだ。豚の解剖の過程で描かれた内臓の図を見たが、平行線でつけられた陰影は十分記録に耐えるように思われる。まあ、ここらへんはやってみるしかない。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

私は空になった深盃を置いて、外套を着込んだ。



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臭気

遺体の解剖シーンが含まれます。あらかじめご了承下さい。


よく研がれた刃物が、肌にゆっくりと切込みを入れていく。医学師の手がわずかに震えているのは、緊張からだろうか。

 

流れる血で染まっていく布。一応赤外線を防ぐ事を確認した硝子(ガラス)で作った電球が濡れている解剖部を照らす。ゆっくりと結合組織が切り取られて、皮膚が持ち上げられていく。まずは消化器系。その後脳。今日でここまで行けるだろうか。どうにも空気が重い。集中しているのもあるのだろう。

 

死後硬直が全身に回る前に解剖を始めることができた。かなり部屋は冷たいが、多分それもいい方向に働いたのだろう。中学生の好奇心旺盛な頃に色々と調べた知識は、まあそれなり程度に役に立っている。

 

「もう少し、灯りを上の方から当ててくれ」

 

「わかりました」

 

医学師の言葉に従い、私は照明を動かす。ちょっとしたクレーンみたいなもので吊り下げているので、比較的簡単に動かせるし対応もしやすい。覗き込む人々は口につけた覆い布越しに言葉を交わす。飛沫による感染防止みたいなものだが、どこまで役に立つやら。正直何もわからない。消毒用にアルコールと次亜塩素酸カルシウム水溶液を用意していたが、木タールからフェノールとかを作っておいたほうがよかっただろうか。まあ、今更もうどうしようもない。技術側としては今手元にあるものだけで最善を尽くすしかない。

 

皮膚を剥ぎ、筋膜を裂き、筋肉を除け、脂肪を拭い、腹膜にたどり着く。記録を取り、話し合いをし、写真が撮影され、そういった事が並行して行われている。血の匂い。脂肪の匂い。あとは言葉にしにくいようなものも。

 

「少し、現像の方の様子を見てきます」

 

「……ああ」

 

医学師の声を背に、少し外の空気を吸う。私はまだいいが、実際に手を腹腔に突っ込んでいる人達の匂いは消えにくいだろう。事前の経験から腸は早めに取り出しておくそうだ。まあ話を聞くに死ぬ直前はあまりものを食べていなかったそうだから固形物は少ないだろう。

 

「それで、どう?」

 

「まあ問題ないはずです」

 

暗室の扉の向こうで声がする。一応私が技術担当のトップみたいなものをやっているので、こういうところでもある程度対応していく必要がある。

 

「撮影の人、やはりいい腕ですね。かなり難しいはずですが、それでも綺麗な陰影を出してきています」

 

「それは君が適した調合をしたのもあるだろうけど」

 

「かもしれませんね」

 

「……現像したものを見て、気分が悪くなったりは?」

 

「大丈夫です」

 

「そう。ならよかった」

 

声の調子からしても、下手に勘ぐる必要もないだろう。一旦戻るか。

 

部屋に入ると、嫌でも独特の匂いを意識してしまう。とはいえ少しは慣れた。ここに腐臭が混じってくると本能がアラートを出すだろうが、まだ大丈夫だ。

 

解剖は進んでいく。臓器を取り出し、丁寧に切り進んでいき、内部の構造を顕にしていく。筋肉に包まれた胃、小腸から吸収された栄養分が流れる血管が縦横無尽に走る腸膜、そしてそれらが集まる門脈の先にある肝臓。私がかつて図譜で見たのとはかなり違う、色々と汚れて、生々しいそれら。陶器のトレイに取り出されたものが置かれ、一部は切り取られて構造が観察される。写真とスケッチが繰り返され、標本にするものは手際よく作業が進められて大きな硝子(ガラス)容器に詰められていく。

 

そうこうしているうちに、外は日が沈んでいた。もちろん電灯なので夜間でも作業はできるが、数日分のスケジュールを考えると流石に寝るべきだと判断されたらしい。というわけで、一回解散だ。

 

「……どうでしたか」

 

手をいろいろ入ったぬるま湯で消毒している、今回の主役たる医学師に私は声をかける。

 

「ただ刃を動かすだけで精一杯だ。準備もしてきて、覚悟もあると思ったが……」

 

そう言って、彼は深く息を吐く。

 

「まだやることは多いですよ。だからこそ、しっかりと夜は休むべきですが」

 

「そうだな。しかしこびりつく血は、慣れないものだ」

 

一応彼は外科とかの経験もあるはずだ。内科も外科も無いのはこの世界ならではな気がする。もちろん学問としては内科の方が体系的になっているが、外科のための技術が軽んじられているというわけではない。得手不得手は医学師によりけりだけれども。

 

「かなり温度を下げていますからね。かじかみやすいですし、間違えて手など切ってしまえば大変です」

 

消毒ぐらいはできるが、逆に言えばそれ以上は無理だ。ウィリアム・スチュワート・ハルステッドが作成を依頼したようなゴム手袋については適切な素材がまだ作れてないのと、無菌状態を保つメリットが少なかったため後回しになってしまった。ラテックスはあるのに、いい具合の硬度とか伸びとかに制御できる段階にはなっていない。まあそれなりに注力されているので、時間の問題だろう。ここらへんは私が知らないということが開発者たちの意欲を底上げしているようで、なんか悔しい。いや別に誰も何も悪くないのだけれども。

 

「……学びは多いが、もっと学べたのではないかと思うとな」

 

「記録と保存が役に立ちますよ。ひとまず、終わったら色々と考えましょう」

 

「……そうだな」

 

彼は洗った手を熱湯消毒済みの布で拭いながら、重々しく言った。



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葬制

前話に引き続き、遺体の解剖シーンが含まれます。あらかじめご了承下さい。


脳髄が取り出され、顔の筋肉が顕になり、裏返した背骨から伸びる神経が数えられていく。

 

「四種類の糸が巡ることが、これで確認されたわけだ」

 

そう言いながら解剖を続ける医学師を邪魔しないよう、私はこっそりと外に出る。そして小さく笑う。

 

さっき述べられていた四本の糸は動脈、静脈、神経、そしてリンパ系だ。この4つを似たようなものとして扱うのはそうおかしい話ではない。というよりリンパ系をちゃんと辿って全身に存在することを確認しているし、さっき聞いた会話の中には感染症で起こる炎症がリンパ節で起こっているのではないかという指摘もあった。まあ偶然の域を出るものではないだろう。ここらへんの実際の機能解明については医学の発展を待つしかない。正直私には手が出せない内容だ。

 

今後のことを考えると、もっと定期的に解剖ができる環境が欲しい。今回のような老衰だけではなく、急死とか病死とかの遺体があればそこから比較を通して何かが悪かったのか、何が起こったのかを特定することができる。人を切る経験は手術の腕を向上させる。がんの切除は大きな武器になりうる。まあ放射線治療とかを進めてもいいが。ああ、X線。骨格のデータが揃ったあとぐらいに提供するか。今でも多分発生はしているはずだから、強度を調節してやればいい。問題は蛍光側だな。ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンの時はシアン化白金バリウムだっけな。実際のところ安全性を考えればタングステン酸カルシウム、もとい灰重石が必要になる。うーん、代替物質、ない?記憶にはない。いや、基本的に励起状態から落ちたときにいい感じの色を出せばいいんだろ?となるとランタノイドあたりのあれこれが……ユッテルビューみたいないい鉱山はない以上、後回し。ああ、何をやるにもマテリアルが足りない。

 

あとはまあ、解剖学で残る課題は名前か。原則としてエポニムの使用を禁止して、系統だった命名にして、と言ったところか?となると一度に全部の名前をつけなくちゃいけない。付け足し付け足しでは面倒なことになるのだ。ここらへんを弄れるのは私の強みであるし、後世の人から刺されないために私がやらなくちゃいけないことだ。第何番腕骨とかでいいんだよ。

 

さて、戻ろう。一応こういうタイミングで外側の様子の確認とか担当者を労ったりとかしているのでサボりではない。まあどうも匂いがあれらしく少し嫌な顔をされるが、それについてはすまないと思う。有機溶媒で洗うと肌荒れとか怖いしな、石鹸みたいな界面活性剤と時間経過に任せるのがいいだろう。

 

覗き込むと腕の筋肉の動きの話をしていた。肘と手首の間の皮膚が綺麗に切り取られ、いくつかの筋肉と腱が見える。医学師が丁寧にそのうちの一本を引くと指が伸びる。手のひら側にある別の筋を触ると、次は曲がる。こうやって指を動かす筋肉が前腕部にあるというのはやはり奇妙ではあるが、丁寧に観察をしていればわかるはずだ。私も自分の肘のあたりに手を当てて指を動かしてみると、筋肉が動いてるのが感じられた。ここらへんは知らないとわからないし、外傷とか捻挫への対応をきちんと出来るようになるために構造が理解されている必要がある。撮影とスケッチ、そしてまた刃が入って筋繊維を除けていく。剥がされた筋膜や皮膚なんかは基本的にまとめられているが、多分これらは標本にはされないのだろう。

 

となると、火葬か。一応肉体はまとめて、というぼんやりとした思想はあるらしいが、バラバラにしてしまったのであれば埋めるよりも燃やして同じ状態にしてしまったほうがいいと考えるらしい。呪いの一つに遺髪を取って別の場所に埋める、みたいなものもあるのでここらへんのなんとなくの価値観みたいなものはあるらしい。古帝国法では「埋葬」としか書かれていないらしいし、この単語自体も広義にとらえれば葬儀全般の意に解釈できるので地域によって様々な方法で葬儀が行われるらしい。例えば船の民とかでは水葬をするという。というか衙堂はこういった儀式を行う専門家団体なので、様々な地域の情報がデータベース化されているのだ。最近は大図書庫のワーキンググループがそういう知識のまとめを始めたとも聞くし。本当は顔を出したいのだけれども、権限がどうしても微妙だ。まあ必要とあれば頭領の名代たるケトの付き添いとかいうちょっとした荒業もできると前にケトが言っていたのでそういうことをしよう。

 

……一応、私は司女なのだ。解剖されている人物とは生前顔を合わすことがなかったが、これは医学師の計らいもあるのだろう。せめて何か弔いの言葉一つでも言うべきかもしれないが、それらしい言葉は上手く浮かんでこなかった。科学の発展のため、とは言っても実際どこまで彼の遺体解剖が役に立つかと言われると難しい。もちろんここにいる人間が、私も含め多くの学びを得ている。けれども、その学びがどれだけ活かせるのかは難しいところだ。活かさねばならない、と思い詰めるのもまた違う気もするしな。ただ、本人が望んだことである以上、こうやって知識を得るために用いられるのは葬制の一つとして成立するのかもしれない。



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木樽

解剖に関わった人がみな疲労困憊している横で、比較的マシな私を含めた手伝いの人たちが掃除をした。風通しを良くし、各所に次亜塩素酸ナトリウム水溶液をぶちまけ、血のこびりついた布は煮沸消毒の後に漂白。私は一応安い布手袋に蝋を引いてなんちゃって防水をしたものを使っていたが、少しづつ染みていたので不味い気がする。外したほうがマシだったかもしれない。あ、モップを作ろう。

 

「……で、これがそれですか」

 

ケトが呆れたように言う。私が一日がかりで作ったものがなんか地味なもので少しがっかりしたらしい。

 

「そう!腰を曲げなくて済むし、この容器の中で揺すれば汚れも取れやすいわけ」

 

本当は足踏み式の回転水切りとかつけたかったが、構造が複雑になりすぎるので却下。

 

「いえ便利は便利ですけど……。むしろ容器のほうが重要なのでは?」

 

この容器の方を作ったのは私ではない。基本的な設計図を渡して商会が抱えている工房に頼んだのだ。色々なものを作らされているせいで、あらゆる分野の加工技術が集まっているらしい。その上見学を比較的自由にすることで業界全体の生産量も上げ、その過程で色々な加工機械を売り込むしサプライチェーンを作っていくという恐ろしい作戦である。長髪の商者曰く、五十年位先を見ているそうで。こういう長期的な視点というのはかなり大事である。そうじゃないと金になるからという理由で色々と面倒なことをやらかして後世で厄介事を引き起こすので。あとは精油の作成とかの余りで出てくるタールで防水。簡単でしょ?

 

「ただの成形板を金属の輪で止めただけだけど」

 

加熱した金属の輪を水で急冷して締める仕組みだ。加熱用の設備も、鋼を輪のように曲げるためのプレスも既に稼働中である。

 

「それを一瞬で作りましたよね?」

 

「一瞬じゃないよ?」

 

「本来はそういうの、もっと時間がかかるはずだと読んだのですが」

 

「あー……、あれか、丸鋸か」

 

最近作られた工具で、円板の外周に(のこぎり)の目を立てたものである。「鋼売り」から仕入れられた良質の鋼を使った上で熱処理したものを水車で回しているので、サクサクと木の板が作れる。これをベースにした木箱を用いたコンテナ輸送の計画が着々と進んでいるらしい。私はそれをちょっと借りて板の縁をいい具合に斜めにして、円筒状に持っていったわけだ。底についてはいい感じに切り出した丸太の一部を旋盤でぎゅーんとやっただけである。

 

「……こういう木の容器、とても高いんですよ」

 

金属ではなく植物性の何かで箍の代わりにしていたが、一応樽みたいなものは見たことがある。ただそこまで数があったわけではない。

 

「そりゃまあ、全部手作りで作っていればねぇ」

 

「それが多分、銀数枚で手に入るようになるわけですよね」

 

「手間賃含めてもまあ、そんなものかな」

 

「……輸送が、壊れますよ?」

 

「そこまで?」

 

「はい」

 

なるほど。とてもヤバいことをしてしまったというわけだ。まあ木箱よりも樽のほうが扱いは楽だしな。形状を調整して転がしやすくしてもいい。

 

「まあそれは本題じゃないわけで。……頼んでおいた実験が成功していた」

 

「実験?」

 

これを放っておくほどの案件とはなにか、みたいな顔をしたケト。

 

「ある種の微小生物、まあ端的に言えば黴を育てる方法の確立」

 

骨の煮汁を使った液体培地による培養である。基本的にはペトリ皿みたいなものを使って、そこに使えそうな菌を置いていく。ひとまず希釈によって単離ができるところまではたどり着いた。

 

「前に言っていましたね。……あれですか、微小生物による病に対する治療薬が作れるんですか?」

 

「まだかかりそう。けれども、手洗いの重要性は示せるね」

 

「少し怪しくありません?」

 

「洗っていないあなたの手には、これだけの黴がついていますよ、みたいなことを言えば嫌でも洗いたくなるよ」

 

あまり誠実な手段ではないことはわかっているが、こういうことの準備をしておかないとアウトブレイク発生時に対応できない。

 

「微小生物自体が、色々なことに関わっているんですよね」

 

「そう。生地が膨らむのも、酒が作られるのも、ある種の病も、その微小生物の一群が原因。で、それを増やせるということはその微小生物を道具として扱える可能性も意味する」

 

「新しい病を作るんですか?」

 

「できるよ」

 

多剤耐性菌の作成というのはそう難しくはない。抗生物質をいい具合に薄めて入れた培地で変異するまで待てばいいだけだ。なお適当に薬を飲んだ人体でも似たようなことができる。ちゃんと専門家の指示に従わないで薬を飲むと大変なものを生み出してしまうというわけである。もちろん、そうでなくとも耐性菌が生まれてしまうことがあるのでこういうのはピンポイントで使わなければならないのだが、ここらへんは実際の実験結果を見せた上でないとばんばん使いまくるだろうからな。別にこれは万能薬ではないんだよ。

 

「……何をするつもりですか?」

 

「いや、作れるだけだけど。いやでも死に至らしめるとかいうのは難しいかもな……」

 

「やめてくださいね?」

 

「はい」

 

まあ、感染症の研究をすればバイオテロをする技術は溜まっていくのだ。まだ大丈夫だろうが、ここらへんの監視体制も長期的には用意しておかないとな。



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禁書

抗生物質の単離についてはまあそう難しくはないので投げている。今やっているのは骨とか組織とか器官とかの説明文書の校正。例の医学師が本にして出版すると言うので、その手伝いだ。

 

「いや、それにしても図が見事だ。紹介してくれてありがとう」

 

そういえば画家というか記録担当は私のネットワークの人物だったな。

 

「私からも伝えておきますよ。ああいう描き方をきちんとできないと、文字だけでは伝わらないものも多かったでしょう?」

 

「先人たちの記録は確かに役に立ったが、だからこそ自分の筆の下手さを思い知るよ……」

 

「そうですかね?」

 

呟くケト。解剖では直接私と一緒に行動することはなかったが、裏方で色々と働いていた。解剖場所の近所に挨拶回りに行ったりとかね。

 

「実際に目にしたことのない僕でも、かなり情景が浮かんできますよ」

 

「……それでは、駄目なのだ」

 

「あくまで説明文であり、描写文ではあってはならないんだって」

 

医学師の言葉に私は補足を入れる。

 

「ああ、それなら良くないのか……」

 

実際、私が読んでも医学師の文章は面白いのだ。解剖の過程がしっかりと伝わってくる。まあこれを出版したら流石に印刷物管理局から指導とか入るだろう。場合によっては法廷闘争も辞さないが、まあ穏便に済ませられるならゆっくり行くに越したことはない。あとは大図書庫の特別図書庫にでも入れるか?

 

「少し質問、いい?」

 

私は医学師に声をかける。

 

「答えられることであれば」

 

「『図書庫の中の図書庫』に入ることができるの、講官とあと特別に認められている人だけ、と聞いたけどそれってどうなの?」

 

大図書庫のコレクションの中核である「図書庫の中の図書庫」についてはあまり知らない。納入された棚の数とか、歩幅から計算した面積とか、関係者の噂話を統合すると相当な量の本が詰められているとは推測できるのだが。閲覧禁止なのは資料の保存もあるのだろうが、どうにも思想的なものが感じられなくもない。まあ、ここらへんは私の邪推も混じっているだろうが。なにせこういうものはバチカンの文書館ぐらいしか知っているものがないので、禁書を溜め込んでいるんじゃないかと思ってしまうのである。

 

「……真実だ」

 

「なるほどね。行ったことは?」

 

「ある」

 

「中にどういう本があるかは」

 

「言えない」

 

「なるほど。どれぐらい本があるかも?」

 

「言えない」

 

「本の持ち出しはできない?」

 

「ああ。記録するための蝋版の持ち込みも禁じられている」

 

機密度の高い資料、か。もちろん講官になるような、つまりはその知識で非常に優秀と認められて図書庫から給金が出るほどの人物が読んだ本の一頁も暗記できないとは思わないが。

 

「そこに本を置いてもらうことはできる?」

 

「……いや、できなくはないだろうが、なぜ?」

 

「私個人の思想としてはどんな本であっても残されるべきだと考えているから。今の時代では公にできないものがあることは認めるけれども、将来的にはそうではなくなる可能性もあるでしょう?」

 

検閲は出版が発展するに伴って生まれたし、表現の自由は民主主義思想の根幹を成しているとはいえそれが普遍的であるとする理由は一切ない。例えば明らかに誤った文献が世に出るのを規制することが正しいと判断される価値基準も十分構築し得るだろう。それが異教の教えであれ、猥褻物であれ、あるいは危険で無意味な治療を推奨するものであれ。創作物であってもそれが与える影響は無視できない以上、急激な変化による混乱を知っている以上危険思想を取り締まるべきではないか、と考えている私もいる。

 

とはいえ残すことは重要だ。私が歴史趣味なのもあるが、後から再評価する時に色々とあると便利なのだ。もちろん、歴史の闇に埋めたいものが存在することはわかる。燃やしてしまえばそれで後世に影響がなくなるものを、わざわざコストをかけてまで残す必要性を認めない意見も理解する。それでも、当時の色々な情勢を知ることができる文献は大抵くだらないものであり、時には権力者が隠したいものだったりするのだ。ここで言う権力者とは必ずしも王とか政府とかに限らない。というか国民主権の世界なら権力者とは国民であってつまりはお前らなんだよ……っと、危ない、政治思想が私はそれなりに偏っているからな。まあ別に出版程度で人は死にはしない。重要であることは認めるけれども、最重要ではない。文化は人が人らしく生きるために重要だけれども、まずは生きないと人間は死んでしまうのだ。

 

というわけで医療とか食料分野の情報が規制されるとかではない限り、私はのんびりやるつもりである。いや危険思想書を書いて納本してもいいな。

 

「……というより、キイ嬢であれば入れないのかね?」

 

「さあ」

 

「昔の話だが、遠くの国からやってきた賢人に書を見せた例があったはずだ」

 

「いつ頃です?」

 

「134年前です」

 

私たちの話を聞いていたケトが言う。

 

「見たいんですか?」

 

「いや、まだ好奇心の段階。危ないならやめるけど」

 

「……必要なものを揃えるのであれば、多少時間はかかりますができるはずです。頭領と図書庫の庫長の推薦、それと複数の講官が認めれば可能かと」

 

「頭領が図書庫の問題に口を挟めるの?」

 

「あの人は『図書庫の名誉ある守護者』でもありますから。その人からのお願いを無下にはできないはずです」

 

「ケト君の、その悪いやり方はどこで学んだのかね?」

 

医学師の質問に、ケトは無言で私を見る。私は目をそらした。



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閲覧

「……閲覧はお断りさせていただいております」

 

私と同じぐらいの年齢の図書庫の職員が、辛そうな顔で言う。

 

「ん。確かに私は講官ではないよ。けれども、適当な許可さえあればいいんだろう?」

 

「……そう、かも、しれませんが」

 

妙に歯切れが悪い。この雰囲気だと彼の怠惰とかではないな。もう少し面倒な事情があるのだろう。

 

「どういう許可が必要なのかだけ確認したいだけなんだ。もし私にはどうしても無理だというなら仕方がないよ」

 

できるだけの笑顔。相手を思いやる姿勢を見せる。プレッシャーを感じるのだとしたら向こうの責任だ、となんとも嫌な自己弁護をしている自分から目を背けながら私は解答を促した。

 

「……ここだけの話ですが、キイ嬢には見せられないと思います」

 

「ほう。なら諦めるしかないかな。具体的な理由はわかる?」

 

「あなた、色々と面倒ごとをもたらしていると噂されているんですよ」

 

「噂ではなく事実だろうけどね」

 

「ただでさえ、この中にはあまり表に出したくないものも多いのです。それを印刷物なんていう隠すのとは対極のものを作り出した人間に開放すればろくなことにならない、と考える人は多いのですよ」

 

「具体的に誰がそう思っているのか教えてもらえたりしない?一人ひとりに『説得』していくぐらいはするからさ」

 

「やめてください……」

 

「そう」

 

「あれ、引き下がるんですね」

 

後ろで私と職員の対話を聞いていたケトが口を開く。

 

「まあ、彼に迷惑がかかっても悪いしね」

 

「そうですか、なら僕が質問しても?」

 

「……ええ、構いませんよ」

 

職員の人が笑顔で言う。ああ、かわいそうに。この手の案件は、私よりもケトの方が上手になっているのだ。そりゃまあ人口四十万、この世界屈指の大都市の政治中枢に食い込んでいるのだ。年齢自体はもう大人と言える頃とは言え、まだ若手に入る。今後の成長が期待されていたり畏怖されていたりするのも当然と言えるだろう。

 

「134年前、閲覧を許した例がありましたね?」

 

「あれは天文学の文献に関連する分野のみの閲覧でした。それに加え、その哲人は王からの紹介状とその故郷での観測記録を持ってきていたのです。今回と事情は違いますよ」

 

あ、ちゃんとそこは返せるんだ。素晴らしい。というか多分こういう面倒な質問をしに来るやつがいることを前提にされているな。私なのかケトなのか、それとも特に相手を想定していないのかは知らないがまあいい心がけである。

 

「そうでしょうか?まず閲覧についてですが、今回は医術に関わる過去の解剖記録について知りたいだけです。徒に部外者に見せるべきものではないとは理解していますが、今回僕とキイ嬢は解剖に携わっています。必要であれば医学師からの証書でも持ってきますが」

 

それに対してケトは比較的穏当な条件での質問。なお「今回は」と言っているあたり、一度取った閲覧許可をどんどん拡大して使っていくつもりなのは明白である。ああ嫌だ。

 

「……もしそうでしたら、題名を教えていただければ閲覧室までお持ちしますよ。それであれば、その医学師の方からの紹介状のみで問題ありません」

 

まあ、落し所としては悪くないだろう。とはいえこれで引き下がるほどケトは甘くない。

 

「しかし、解剖の記録自体は相当稀でしょう?きちんと全て閲覧できるものでしょうか?それに体内を切り開くような手術についてもできれば知りたいのです。手に取って見る事ができなければ……」

 

これまた断りにくい理由。

 

「医学師の方の閲覧であれば、特に問題ありませんよ。そして内容によっては、それを他の人に話しても構わないと判断できますが」

 

「いえいえ、それですとそちらがわに無用の手間をかけさせてしまいます。こちらで条件は用意しますから、あなたがたにご迷惑はおかけしませんよ」

 

なんていうか、どうやってこういう手口を学んだのだろう。私が教えられる範囲をゆうに超えている気がするのだが。やはりあれか?OJTの威力というやつか?

 

「……ともかく、こちらの権限で安易にお答えは致しかねます。ただ、見ないほうがいいですよ」

 

「そこまでのもの?」

 

職員の言葉に、私はケトの後ろから聞く。

 

「ええ。忘れたいと思う時があるぐらいですから」

 

「例えば……衙堂の仕事、とか?」

 

「それについては、これ以上は何も言えません。……申し訳ありませんが、用事があるので失礼させてもらいますね」

 

「そうでしたか。お引き止めして申し訳ない。帰るよ、ケト君」

 

表情の変化。その後の対応。まあ、多分この後私が秘密を知っている可能性が高いと上に報告するのだろう。はい、黒色火薬の時にもやらかしましたね。流石に命を狙われるとまでは行かないだろうが、はてさてどう口を封じてくるのやら。一応予備の手は打っておくか。

 

「……キイさん」

 

「なんていうか、少し揺さぶりをかけるつもりが当たりを引いてしまったようだ」

 

二酉という雰囲気とも違うし、そこまでして長期間記録を残しているくせに処分しないとなると、その記録は今でも意味を持っていると考えられる。となるとそれと同じだけ歴史を持つ組織が使っているとかと考えるとやはり衙堂か、となるのだ。

 

「ケトくん、この後の予定は?」

 

「今日であればありませんが」

 

「トゥー嬢のところに寄っていい?」

 

「……構いませんが、その意味をわかっていますか?」

 

「もちろん」

 

「……なら、構いませんよ」

 

ケトとしては私の作戦にあまり乗り気ではないが、止めるほどではない、と。ま、どうにかなるといいが。



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遺却

「……面倒なことをしているな。別に私を巻き込むこと自体は構わないが、助けにはならんと思うぞ?」

 

私の手短な説明を聞いて、薬学師のトゥー嬢は言う。

 

「……恨まれる、かと」

 

「そこまで信頼されていないというのは少し悲しいものだな。それなら持ち込まないで欲しかった」

 

「……すみません」

 

「冗談だ。気にしないでくれ」

 

「というより、トゥー嬢でもどうしようもないんですか」

 

ケトが言う。彼女はかつて存在した今の頭領に対する派閥の有力者の娘で、今は薬品や新材料の研究でいくつかの商会や工房と繋がりを持っている。本気さえ出せば講官すらなれるだけの実績もあるし、実際のところ彼女を上回る知識と技術と観察眼を保つ薬学の講官はいないだろう。まあ別に権威主義というわけではないし、講官はテクノクラートみたいな側面もあるので単純な研究成果だけでなれるものではない、というのは置いておくとして。それだけの人が、もし図書庫の秘密を知ったとしても切り札にできないと言うのだ。もしそうなら今日トゥー嬢を訪ねたのはおしゃべりのためになってしまう。それでもいいのだけれども。

 

「……まあ、予想はできるがな」

 

「と、いうと?」

 

「私がもしそれを知ったとしても、どうしようもないほどのものだ。もしそれが重要で、図書庫の城邦をひっくり返す事のできる内容なら父は私に伝えているだろう。そうでないということは、知ってもどうしようもないということだ。キイ嬢の洞察の通り衙堂に関する内容であれば、まあ密かに集めている各地の情報であったり、反乱の兆候であったり、そういうものではないかね?」

 

トゥー嬢の言う内容はある程度納得できる面もあるが、私はまだ不満だ。

 

「旅行記や税収の統計などから確かに色々と引き出すことはできるだろうけど、それができる人物はそういないよ?わざわざ隠す必要があるかね?」

 

「複数の条件が重なって今の状態になったのだろう。今更公開すると言っても面倒事を起こすだけなら現状を維持するのは悪い選択肢ではない」

 

「こういう時は歴史を辿るといいですよ」

 

意見の対立がちょっと危なくなりそうだったのを見たのか、ケトが一旦雰囲気を戻してくれた。

 

「古帝国の頃に今の図書庫は作られています。当初は総督の私設書庫だったようですが、招聘された学者たちが交流を始め、当時の様々な文献を集めて研究を始めたのが図書庫の始まりであると言えるでしょう。もちろん今の図書庫とは大きく違うものでしたが」

 

「当時の収蔵品は?文学とかの方面なのか、それとも行政に関わる文書であるとか」

 

「かなり幅広く集めていたはずです。学者たちも詩人であったり、かつて政治家であった人物であったり、当時の皇帝の護衛として各地を巡った武人であったり、本当に様々で」

 

私の質問にケトは淀みなく答える。まあ名前を聞いたところでわからないだろうが、どれも高名な人物なのだろう。

 

「やはり起源は趣味……に近い、のか?」

 

「衙堂の方を考えてみてもいいかもしれないな」

 

トゥー嬢が言う。

 

「聖典語を話していた、今は名前を忘れられた民の話は?」

 

「あれはかなり怪しい話ですよ?」

 

「二人とも待って、私はその前提を共有できていない」

 

トゥー嬢とケトを私は止めて言う。

 

「……ああ、そうか。昔話というほどでもないが、私に歴史を教えた人物が語っていたものなのだがな」

 

そう言ってトゥー嬢は話し出す。古帝国というのはきちんと統治されたモンゴル帝国であるとか、Διάδοχοι(ディアドコイ)が決まっていたアレクサンドロス3世とか、まあそういう感じのもの。つまりはかなり成功した世界帝国である。その過程でかなり敬虔だったらしいある民族が長い抵抗の後に征服され、衙堂の人員として各地に散らされたという。その民が話していたのが聖典語で、だからこそかつての古帝国の版図に幅広く聖典語が残っているのだとか。あとは古帝国語が文字を持たず、いくつかの文字体系を組み合わせた物を用いていたので一部の儀礼的文書以外は聖典語で書かれたというのもあるらしい。

 

「……とはいえ、今の衙堂は特定の神を信奉してはいないよね」

 

そう言って、私は頭の中からかつての世界の似たような民族を思い出す。彼らは各所に散り、迫害を受けながらも文化集団として生き延びた。そう考えるとかなり近いものがありそうだが、その根底には信仰があったはずだ。もちろん、それを手放した人たちもいたことは知っているけれども。

 

「ええ。その民が敗北によって頼るべき神を失ったことで信仰を失くしたとも、降伏の条件として他のものが信じる神を自らの信じる神と同様に尊重せよ、と言われて抗ったものは皆殺しにされた、とも言われていますがここらへんは完全にわかりません。図書庫ができたころに数人の学者が討論した時の記録が残っていますが、結局結論は出ないままに終わっています」

 

ケトの説明はわかりやすいが、何もわからないことしかわからない。うーん、私レベルが漁れる資料は既に分析済みだろうし、先行研究を追いかけて同じレベルに立つとなるとそれなりに時間がほしい。まあそろそろ活動に手詰まり感が出てきたので別にそういう本職っぽいことをやってもいいのだが。

 

「衙堂ができたのは図書庫ができる前であっているか?」

 

トゥー嬢はケトに聞く。

 

「そのはずです。最初の皇帝の頃に衙堂の元になる民の支配が行われて、この地が古帝国の下に屈したのがそこから三十年ほど後。で、最初の皇帝の孫であるこの地域最初の総督が就任したのがそこから二十年か三十年か、ですかね。ここらへんは年数の計算が面倒で……」

 

「順序を考えれば、図書庫は衙堂のために作られた?」

 

「少し飛躍しすぎな気もしますが」

 

私の呟きにケトはそう返したが、否定はしなかった。



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信仰

「……やはり、目が悪くなってきたな」

 

私は巻物を閉じる。かつてのようなペースで文字を読むことができない。そりゃあまあ聖典語は私が思考に使っているものではないのでどうしてもワンテンポ遅れるとは言え、小学生の頃ならこれぐらい逆さまにして逆から読んでも理解できたはずだ。

 

「その読書速度で、ですか?」

 

呆れるように言うケトであるが、その手には巻物がいくつも抱えられている。もし閲覧ができない理由が歴史系であるとすれば、隠されていないほうの歴史を見ればいい。とはいえ、あまりそういうものがないのだ。

 

「地理学の主要なものには目を通したけど、やっぱり歴史に関するものは少ない気がする」

 

メタ学問は好きなので当然史学史は齧ったつもりだが、ヘーロドトスに相当する人物がいない。断片的な歴史であったり、詩人の来歴であったり、災害の記録だったりはある。しかしなんというか、包括的なものがないのだ。古帝国の正史ぐらいあっても良さそうなものなのだが。

 

一応年代記はあるらしいが、それは学徒が借りることのできるような図書庫にはないし、原本はやはり「図書庫の中の図書庫」にあるそうだ。怪しくないか?それとも純粋にこの世界ではそういう方面の認識が欠けているだけなのか?

 

「……断片から再構築するにも、時間がかかるからな」

 

私はそう言って溜息を吐く。あらゆる本を漁り、関係しそうな記述を片っ端から引き出し、継ぎ接ぎして年表を作ることはできるだろう。で、それが何だというのだ。歴史と年表は違う。歴史とは事実の羅列ではない、とは指導教員にかなり煩く言われた言葉である。とはいえ返しに先生のそれはチェリーピッキングでは?と殴り合っていたのでまあ、似たような感じである。もちろん私だって自説を強調する根拠を中心に集めたことがあったけれども。

 

歴史学の手法というのは、それなりの蓄積がないと成立しない。そりゃまあ科学かと言われれば怪しいし、工学畑の人間からすれば非常にどうでもいいような争いもあった。しかし、そこには単なる歴史の積み重ね以上のものがあったのだ。まあそもそも膨大な情報を人間は処理できないので何らかの史観、つまりはフレームワークを用意しないと扱いきれない以上偏った見方になるのは仕方がないが。

 

「神話や伝承の方を探しますか?」

 

「過去の逸話をもとにしたものがあるかもしれないけど……いや、ちょっと待って」

 

「はい」

 

「司士や司女って、他人の信仰を否定していいの?」

 

この世界にある宗教はあまり体系化されていないし、地域ごとの伝承にアニミズムを混ぜて、時々「聖人」みたいな人物が出てくるぐらいだ。とはいえこの聖人もなんか徳が高いぐらいの有名人であるのだが。信じる神が一柱しかいないという人がいたとしても、その人の世界観の中には多神教が混じっている。拝一神教というやつだ。どこぞの嫉む神も出身はここ。もちろんエドワード・バーネット・タイラーが唱えたようなアニミズムから多神教、一神教という安易な一直線モデルは傲慢な耶蘇教文化の産物だと言いたいが、そういうふうに働く方向性みたいなものがあってもおかしくはない気がするんだよな。こっちにはどうも見当たらないけど。

 

「もちろん、いけませんよ」

 

「だよね。なら、過去の逸話とかを神秘的要素のない歴史的事象としてみなすのはいいの?」

 

「あくまで解釈の問題ですからね、それを押し付けたり、信仰を持つ人の前で見せつけるようにでもしなければまあ問題ないかと」

 

「そういうもの?」

 

「そういうものだと思いますよ。そりゃまあ一部の人からは敬虔さが足りないとか言われそうですけど」

 

「……わかった。ここらへんは私の認識が怪しいから、定期的に確認をお願いしたい」

 

「キイさんのいた場所では、信仰がどういう扱いをされていたのですか?」

 

ケトがちょっと気になったように言う。そういえば、そういう話はしたことなかったな。付き合いは長いのに。

 

「そうだね。ええと、一つの神だけを拝む、ってわかる?」

 

「特に強くただ一柱に帰依する、という意味ではなく?」

 

「そう。他の神の考えをくだらない、取るに足らない、幻想だと言うような」

 

「そんな考えがあり得るのですか?信じる神がなぜその一柱なのかの正当性を問われたらすぐ崩壊するじゃないですか」

 

「……やっぱり、そう思う?」

 

「少なくとも、僕は」

 

ケトの思考が私寄り、というのはあまりないだろうな。彼の育て親のハルツさんは別にそう敬虔ではなかったが、きちんと神事みたいなものはこなしていたらしいしケトもそこら辺の知識はある。

 

「ともかく、空と大地を創造したなんかすごい神がただ一つ存在して、それを信じることが正しいって宗教があるのよ」

 

「……はあ」

 

なんというか、うん。呆れているな。まあ単一神教の文化圏の人に多神教とか無神論の話をしたらこういう顔をされるだろう。

 

「その宗教の祭事と、あとは異なる二系統の神々のための祭事があって、それを自然にやっていた」

 

「ええと、祭り好きですか?」

 

「たぶんそう」

 

「……まあ、そう考えると僕たちも似たようなものかもしれませんが」

 

確かにこっちでもたまに祭りとかあるもんな。日食とか月食とかがあると劇とかやってるし。

 

「確かに、それならうまくわからないところがあるかもしれませんね」

 

「そう」

 

まあ、理解できないことが理解できればいいのだ。意思疎通には完全な理解は必要ないのだし。

 



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歯式

「……なんですか?」

 

「口、開けてもらえる?」

 

「いいですけど」

 

開かれるケトの口。歯垢は少ない。暗い場所に右手の人差し指を入れる。

 

「ほへはふぇ」

 

「ちょっと待って」

 

指先の感覚を奥の方に辿っていく。犬歯からひとつ、ふたつ。全部で五本。ということは第3大臼歯まで生え揃っているのか。私も少し変な角度で一応生えてはいるが。やっぱり硬いもの食べてるからかな。

 

「それで、何のためにこんなことを?」

 

私が指を抜くと、ケトは不思議そうに聞いてきた。

 

「私が、ここの人間と同じか確認したかった」

 

涎を拭きながら言う私に、ケトはまだ納得できないといった顔をする。

 

「……どういうことです?」

 

「よく似ているけれども、別の種類の動物だったり植物だったりという例を知っている?」

 

「虫で似たような話を聞いたことがありますね」

 

「私とケトにそういう違いがないか確認したい」

 

「……いいですけど。歯の数はどうでしたか?」

 

「同じ」

 

8本の前歯、4本の犬歯、20本の臼歯。合計で32本。私と同じ。確かオナガザル上科とヒト上科がそうだったはずだから、分類学的にはここらへんまでは一致、と。というか普通に二足歩行とか外見からしてヒト属までは言っていいと思う。

 

「次。顎触らせてほしい」

 

「……いい、ですけど」

 

少しだけちくちくとした感触がある。髭をちゃんと剃っているのだろう。そういえば個人で髭を剃るのは珍しいようで。

 

「で、これで何がわかるんですか?」

 

「顎の先端の形」

 

皮膚の下、正中線の部分にちょっとした骨の隆起がある。そこから上に指をもっていくとくぼみ。つまり、顎の先端が突き出しているというわけだ。

 

「……やっぱり、私と同じだよな」

 

私も自分のオトガイを確認する。Homo sapiensでほぼ間違いない。もちろんちゃんとやるためには遺伝子分析が必要だし、ハプログループの調査とかして系統を辿る必要もあるだろうが、いまはそれができる技術はない。

 

「それで、なぜ確認する必要があったんですか?」

 

「……考え方というのは、動物によって変わるのはいい?」

 

「ええ。高いところを好む鳥もいれば、そうでない鳥もいるように、だと考えればいいですか?」

 

「そう。出せる声もどういう筋肉がついているかによって決定する。それは世代を重ねるごとに少しずつ起こる変化が積み重なって起こるもので、逆に言えばその生物の状態を丁寧に確認していけば、どういう環境に置かれていたかがわかる」

 

「……なるほど?」

 

「神々を信じるかどうかみたいなのはここ数万年で生まれたって話があって、そう考えると私たちは同じような経路を辿っていたと言える。ええと、つまり私のいた場所とここで信仰のあり方が大きく違うっていうのは考えにくくて、何かの別の要因があったと考えるべきなのはいい?」

 

「ええ、そこまでは大丈夫です。もちろん、ちゃんと議論するためには精査する必要があるでしょうけど」

 

「……まあね」

 

雑な推察を重ねて行う推論はリスキーだ。それは科学史をやっていればよくわかる。論理展開がしっかりしていたとしても、最初の考えが誤りであればきちんとした理論は構築できないし、場合によっては前提を成立させるために現象を否定したり思索的な方向に走ったりもする。もちろん思考実験が無駄というわけではないけれども、あくまで思考実験と割り切る必要がある。

 

「それで、どういう結論が導き出せそうですか?」

 

「まず、基本的に祭事というのは地元の人によって行われていたはずだよね。なぜなら基本的に外部から人は来ないから」

 

「いやそういうのって司士や司女が……いや、すみません。衙堂ができる前の話ですよね」

 

「そう。でも、なぜかそこに衙堂が入り込んで、信仰や祭事においてかなり重要な位置を……ある意味では、乗っ取ることに成功した」

 

「やっぱり、そういうのはきちんと知っている人がやるからいい、という安心感からでは?」

 

「そうかもしれないけど、それなら別に老人であったり、あるいはその地域の中で人を選べばいい」

 

「……確かに。衙堂がない時にはそうなっているでしょうし、実際北の方ではそういう感じでしたよね」

 

「さらに、衙堂の司士や司女が扱う神々はかなり異なるよね?」

 

「ええ、それでも対応できるように先人の残したものを学んでいく必要があって、時には自分から考えることも必要です」

 

「そこ。もしいわゆる『名前を忘れられた民』が衙堂を作ったのだとしたら、そこには何らかのかつての信仰が混じる可能性があるよね」

 

「そうですね。……けれども、その信仰をどうやって確認します?」

 

「今のところの問題の一つはそこ。神話というのは旅人が伝えたりもするし、衙堂の存在するより昔なら噂話みたいなものとして伝わっていた可能性が高い。もちろんそこらへんは仮説にすぎないけれども、それと衙堂の影響を切り分けるのはどうしても困難な感じがする。どちらも地域をまたいで似たような神話を作る原因になるから」

 

「わかります」

 

「本当は衙堂がその土地に最初に入った時についての記録があればいいんだけれども……」

 

私は巻物の積まれた棚を見る。ここにあるのは各所から集められた神話であったり伝承であったりだが、全て更新版だ。確認したが、一番古いものでも百年経過していない。そしてそれにもバージョンを重ねたものであるとの記述があった。

 

もちろん古いものも保存されている。場所は「図書庫の中の図書庫」。立ち入りの禁止された、何かを隠している場所。……まあ、ここまでくれば、多少は見当がつく。

 

衙堂は、そして古帝国は何らかの意図を持って、この世界の宗教というか信仰というか文化のある部分を、歪めているのだ。



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先見

この世界の裏でうごめくなんかすごい感じの真実に気がついてしまった時には、たいていしっかり寝て美味しいものを食べる必要がある。世の中は陰謀論が成立するほど単純ではないのだ。

 

「そういうわけで届いている手紙です。誤字の報告はこっちでまとめておきました」

 

「ありがとうね」

 

「いいえ」

 

編集員が私の机の上にまとめて紙を置く。

 

「それで、数日仕事を休むほど重要なことでもあったのですか?」

 

「実際のところどうなんだろうな……」

 

別に古帝国と衙堂が世界の思想を裏で操っていたからと言ってそれが何だという話である。いや実際アダム・ヴァイスハウプトのオタク趣味同好会がフランス革命に与えた影響はないわけではないだろうけれども、それがなんで数百年生き残って世界を裏で操ってるなんてことになるんですかね。

 

とはいえ、もし本当にそういうことをしているのであれば、その目的がどうあれ存在を隠すのはまあ正しい。こういうものは完全に隠すか、あるいは呆れるほど公開してしまうかのどちらである。後者を取るためには十分な広報能力が必要なので、この世界では無理となる。となると変なことを思われるよりかは、知らせるべき人には知らせた上で基本的に黙して何も語らないのが正しい。そこに首を趣味で突っ込むのは無粋というものだろう。

 

「……あ、これ面白いな」

 

時間測定装置のための基礎研究だ。板バネの振動を使って時間を測定しようとしているが、外部からどうやって動力を送るかと得られた振動をどうやって出力にするかのあたりがまだ悩みどころらしい。今のところ熱処理をした鋼の薄板を作ってほぼ一定周期で動くことは確認できているそうで。

 

「編集長もそう思いますか?」

 

「うん。ええと、こういう機構を扱っている人の名簿は……」

 

「領域441です」

 

「……覚えてるの?」

 

彼女が言った数字は私が雑に作った技術分野の一覧表のものだ。事実上の標準(デ・ファクト・スタンダード)にならないように厳重管理され、これをもとに作った手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)は鍵付きの部屋にしまわれている。ジョセフ・ブラマーの作ったものと比べてもお粗末なものだが、針金一本で簡単に開けれるほどではない。たぶん三本ぐらい必要だな。なおこんなことをするぐらいなら斧を持ってきたほうが早いので、この鍵が破られる事はまずないだろう。

 

「ええ」

 

で、この編集員はその一覧表を大体覚えているそうだ。怖い。ある程度系統的になっているとはいえ、「まだ存在し得ない分野」についてもある程度考慮したものになっているからあまり直感的ではないはずだが。

 

「……紹介の手紙、お願いできる?」

 

「任されました」

 

多分私が言わなくとも彼女は仕事をしただろうが、私が頼んだ以上責任は私にあるのだ。まあ雇ったのが私なので明らかに編集員の意図的なミスとかではない限り追求とかはしないつもりだけれども。

 

「それにしても、やっぱり面白い考えが多く出てくるなぁ」

 

旋盤の導入は機械化の波を引き起こしている。ここで言う機械化は動力の導入というよりも、制御の機構化とかの方面に近い。細かい作業を電磁石仕掛けの装置でやろうとしたり、活字を並べるのをどうにかして自動化しようとしたり。ライノタイプとかのアイデアに到達するにはまだいくつか技術的ハードルがあるが、それでも特定の分野で数年のうちにブレイクスルーが起こる気配がする。

 

「私もやってみたいんですけどね、やっぱり工房勤めとかだとやりやすいそうで」

 

「それっていいの?」

 

「工師とか大工師に許可取ればいいと思いますよ、学徒として色々触っている人もいますし」

 

「将来的には、そういうのをちゃんと教える機関があったほうがいいのかもねぇ」

 

学問の場でも、官僚育成の場でも、職人育成の場でもない。機材が揃って、加工とかができて、かつ何らかのカリキュラムがある空間。ファブラボとかに方針が近いな。ある程度必要な機材が選定できれば規格化して大量生産して各所に配備とかしたいし。そういう事ができれば、地方でも機械の導入が可能となるはずなんだよな。基本的な材料は大きいところで作って、交換用のものは自作していく。ここらへんはかつての産業史とは別ルートになるので、基本的に私は口出ししたくない。もちろんやばい方向に進みそうなら横から方向修正とかするべきだし、長期的になんらかの監視機関のようなものを用意して警告ができるようにしたい。

 

……ああ、こういうものかもな、と私は気がつく。もし私のような先見の明がある人が古帝国にいたら?面倒事を起こさないために、芽を摘み取るぐらいのことはする。衙堂というのはそのための機関なのだろうか?

 

で、そんなやつがどういうやつかは可能性が一つある。私みたいに、異世界の知識を持つ人間。私一人だけしかこういう人がいないという可能性はあるけれども、別にいたっておかしくない。まあもちろん世界史を見れば異世界から来たんじゃないかと疑いたくなるけれども出自がしっかりしている人はいるので、そういう可能性もあるけれども。

 

どちらにしろ、もしそういうシステムがあるなら私の知識を提供しておくのがいいだろう。ゼロから作るよりはマシだ。というわけで、ちょっと探りをもう少し入れてみることにしよう。



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適応

「……ねえ、ケトくん」

 

寝台に寝転がったまま、私は視界内にいない少年に声をかける。

 

「なんですか」

 

声の方向からして台所だろう。

 

「何作ってるの」

 

「ただの麦粥ですよ」

 

「あっおいしいやつだ」

 

この世界の麦というかある種の穀物はまだ品種改良がそこまで進んでいないのもあって硬いし、もっといい味にできる気もするがそれはそれとしてしっかりした味がある。よく噛めばちゃんとおいしいし、鶏肉とか魚の切り身とか入れてちゃんと味をつければいいものである。

 

なお麦自体は粉になっているものも含めて結構簡単に買える。いい世界である。そういえば最近は商品の包み紙に新聞が使われる例も出てきた。再生紙の研究も進んでいるし、塩素漂白も実用段階に進んでいるとの話もある。なんというか、便利なものに節操がないのだ。

 

「いります?」

 

「いる」

 

「はいはい、ちょっと待ってくださいね」

 

曜日の概念はないが、月齢に合わせた月の概念はあるので大抵月に4日程度の休日がある。とはいえ職業ごとにそれなりに異なるし、私なんかは疲れたら取るようにしているのでいい加減だ。まあでもさすがに10日ぐらい連続で働くとかはしませんし、編集所の前に月間予定表を置いてあるので大丈夫なはず。一応出勤日と決めた日には出ているし。タスクに追われながらやると確かに進捗は生まれますけれども、引き換えにいろいろなものを失っていくので。健康とか。だから休息は大事なんですよ。

 

「……質問、していい?」

 

ケトの出してくれた麦粥を噛んで飲み込んで、私は言う。

 

「いいですよ」

 

「ここの人たちは、変化に慣れているの?」

 

「ここ、というのは図書庫の城邦の人ですか?」

 

「できればもう少し広い領域で。この地の上の人、とまではいかなくていいけど」

 

「そうですね……」

 

ケトは匙から手を話して少し考えこむ。

 

「何かが変化したな、と僕たちが考える時、そこには実はいくつかの要素があります。見ている人の変化、関係の変化、そして対象の変化。なので見ているものが変わっていると思えても、実際は自分やその相手との関係が変わっているのだ、ということはよくあります。ここを混同してしまうことも多いですけどね。キイさんが知りたいのは、対象が変わることに慣れているか、ですよね」

 

「そう。印刷物とか、通信装置とか、そういうものは私がいた世界ではかなりまちまちの速さで受け入れられていった。中には一度受け入れたものを捨てた例もあったし、たった数年で誰もが使うようになった、なんてものもある」

 

「んー、少なくとも、小さな範囲であれば、そしてわかりやすいものであれば、人間の一生の長さよりも長くかかる、なんてことはあまりないと思いますよ」

 

「そうかな。どうして?」

 

「成長するに従って、人はものを見る方法を変えていきます。それは、社会の変化よりも多分激しいわけですよ」

 

「なるほど」

 

「なので、既にそれが社会の中にあればためらいなく使うと思いますよ。もちろんこれは全体の話で、例えば難しい算学の分野であればきちんとした教材が作られたりするのに時間が掛かるでしょうし、広まるために時間がかかるのであれば伝わる間に百年が経つなんてこともあるでしょう」

 

「社会がそれを受け入れない、拒むって可能性は?例えば特定の仕事をしている人にとって、ある技術が職を奪うことに繋がるというのは十分考えられるけど」

 

「戦が終われば兵は剣を戻しますし、工事があれば石を運んだりします。もちろん慣れ親しんだ技能が活かせなくなるのは悲しいことでしょうが、それは受け入れられなばならないものです」

 

「……君のその考え方は、どこから来ている?」

 

「……ハルツさん、ですね。もちろん自分で本を読んで学んだというのもありますが」

 

「ハルツさんの思考はどこからかわかる?」

 

「衙堂で学んだんだと思います。あそこでは地方で働く司士や司女が学ぶべきことをきちんとまとめていますし、そういう本の中に似た議論があったはずです」

 

「その議論となった内容はいつ頃のもの?」

 

「ええと、あの人は図書庫の庫長をしていたはずだから、今から数えると……」

 

なんというか、アレクサンドリア大図書館があった時代における専門家の集まり具合と同じか、それ以上にここには知的人材が集められてる。もちろんそれができるように最初から行政システムが設計されているというのもあるが、古帝国が緩やかに崩壊した後もそれを維持し続けるほどの目的はどこから来るのか、というのはやはり謎だ。私の知る歴史にはそういったものがあまりなかったからな。少ない例では、宗教が関わっている場合が多い。しかしここには体系的な宗教はない。代わりになるものがあったのだろうか。

 

「……つまり、図書庫ができてそう経ってない頃だよね」

 

「ええ。まだ古帝国が形骸化しているも分裂していなかった頃です。……キイさんの言いたいことは見当がつきますよ」

 

「ほう」

 

「衙堂がそこまで、意図的にやっているというのでしょう?裏で何かをやる時に、変化に慣れていた方がいいから」

 

「まあ、そうだね」

 

「僕はそうは思いませんけれどもね。壮大すぎます。それをあれだけの昔から、想定できる人はいません」

 

「私は?」

 

「キイさんだってできていませんよね、自分の生み出したものに振り回されていますし」

 

「それもそうか……」

 

確かに人間の限界を超えていると言われればそうだ。大抵は物事は想定していない方向へと進む。いや、ならむしろ逆か。自然に起こる変化に対応を重ねていった結果、今みたいになったのか?



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第21章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。舞台となっている世界における価値観について考察するような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


招集

彼女の目標は計算機というよりも自動回線切り替え装置だが、論理的に見ればその二つにあんまり違いはなかったりする。

ある計算機の計算能力、つまり「どのような問題が解けるか」というものには一定の上限が存在することが知られている。これがチューリング完全であり、非常にシンプルなシステムや一見プログラミング可能に見えないものでも「計算可能関数」を扱うことができる。もちろんメモリの容量や計算速度の差はあるが、基本的にコンピューターは全て同じような問題を解くことができる(逆に言えば、どうしても解けない問題が存在する)。

 

確かにこれから解剖するとなれば、温度は低い方がいい。

実際に冷房技術が未発達の時代では冬に解剖を行うことが多かったらしい。

 

臭気

死後硬直が全身に回る前に解剖を始めることができた。

死後硬直はアクチンとミオシンの不可逆的結合によるアクトミオシンの生成によって発生する筋肉の硬直のこと。結合は化学反応であるためその速度は温度によって影響を受け、低温であるほど発生までの時間が長く、解けるまでの時間も伸びる。

 

内科も外科も無いのはこの世界ならではな気がする。

ヨーロッパにおいて、外科は内科に比して軽んじられていた時代があった。これが改善し始めた時期を一概に言うことはできないが、一つのターニングポイントはThe Royal College of Surgeons of England(イングランド王立外科医師会)の設立やジョン・ハンターの活動があった18世紀中頃であると考えられる。

 

ウィリアム・スチュワート・ハルステッドが作成を依頼したようなゴム手袋については

ウィリアム・スチュワート・ハルステッドは助手であり、後に妻となるキャロライン・ハンプトンの皮膚過敏の問題を解決するためにニューヨークのGoodyear Rubber Companyにゴム手袋の作成を依頼した。なお、この会社は今日タイヤ製造で知られるGoodyear Tire and Rubber Companyと直接のつながりはないどころか、おそらく加硫ゴムの発明で知られるチャールズ・グッドイヤーとも関係がない。というかこの会社、1898年に「グッドイヤーの名を使用するな」とコネチカット州にあったGoodyear's Rubber Manufacturing Companyを訴えているのだが、こっちのほうがおそらくチャールズ・グッドイヤーが勤めていた企業である。当時のアメリカは恐ろしいところだ……。

 

無菌状態を保つメリットが少なかったため後回しになってしまった。

手術用手袋は患者の体内に病原体を持ち込ませないことが主目的である。

 

葬制

「四種類の糸が巡ることが、これで確認されたわけだ」

ガスパーレ・アセリの見解としてWikipedia英語版で紹介されていた話が元ネタ。引用元とされている本でどこが該当箇所か漁れなかった。

 

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンの時はシアン化白金バリウムだっけな。

分子式は $\require{mhchem}\ce{Ba[Pt(CN)4]}$。

 

実際のところ安全性を考えればタングステン酸カルシウム、もとい灰重石が必要になる。

詳しくは分からないが、歴史背景的に考えてトーマス・アルバ・エジソンが使ったタングステン酸カルシウムを用いた蛍光板のタングステン酸カルシウムはおそらく精製物。

 

ユッテルビューみたいないい鉱山はない以上、後回し。

ユッテルビュー村にはガドリン石として知られる希土類珪酸塩鉱物の鉱山があり、多くの元素がこの石から分離された。この村の名前にちなんだ元素名だけでもイットリウム、エルビウム、テルビウム、イッテルビウムの4つがある。

 

原則としてエポニムの使用を禁止して、

エポニムとは人名由来の命名のこと。

 

医学師が丁寧にそのうちの一本を引くと指が伸びる。

総指伸筋を想定。

 

手のひら側にある別の筋を触ると、次は曲がる。

浅指屈筋を想定。

 

木樽

これをベースにした木箱を用いたコンテナ輸送の計画が着々と進んでいるらしい。

貨物輸送のコンテナ化はマルコム・パーセル・マクレーンによって進められたが、それ以前にも似たような試みはされている。とはいえ大型コンテナの利用、専用の船と積込み用機材の導入などの点は特徴的である。

 

なお適当に薬を飲んだ人体でも似たようなことができる。

抗菌薬は体内で代謝されることで血中濃度が低下していくが、いい具合の濃度だと生き残った菌が活動を始めてしまう。全ての菌が死ぬような濃度を保つために、定期的に服用し、かつ医師が良いと言うまで辞めないことが重要である。それと一度抗菌薬が効かない菌ができると使える手札が減るのでその点でも良くない。

 

別にこれは万能薬ではないんだよ。

特定の病気や疾患、感染症に対して特に高価を発揮する薬はあるものの、あらゆる病を癒やすなんてものはない。一応候補としては水、希望、あるいは死があるが、多分これは求められているものではない。

 

禁書

なにせこういうものはバチカンの文書館ぐらいしか知っているものがないので、

2019年にArchivum Secretum Apostolicum Vaticanum(バチカン使徒私文書館)から改名したArchivum Apostolicum Vaticanum(バチカン使徒文書館)についての言及。一応今日では閲覧は可能であるが、推薦状やら学位やらが必要で決して簡単には入れない。

 

閲覧

二酉という雰囲気とも違うし、

郡国志の伝えるところによると始皇帝の焚書坑儒を逃れた学者が今の湖南省にある大酉、小酉という名の二つの山の石穴に書物を隠したということに由来し、二酉は書籍を多く蔵する場所を意味する語として使われている。それを踏まえ、ここでは何らかの文化的理由で処分されそうになった本の保管所としての役割について述べている。

 

遺却

講官はテクノクラートみたいな側面もあるので単純な研究成果だけでなれるものではない、

テクノクラートは技術官僚とも呼ばれる科学技術分野の知識を持った行政担当者や官僚のこと。良くも悪くもエリート主義、技術至上主義になりがちである。冷戦期のソビエト連邦などに見られた。

 

きちんと統治されたモンゴル帝国であるとか、Διάδοχοι(ディアドコイ)が決まっていたアレクサンドロス3世とか、

もちろんモンゴル帝国にもビチクチのような制度は存在したが、制度文化の違いを乗り越えることは困難であった。Διάδοχοι(ディアドコイ)はギリシア語で「後継者」を意味し、特にアレクサンドロス3世の死後争った将軍たちを指すことがある。

 

そう言って、私は頭の中からかつての世界の似たような民族を思い出す。

ユダヤ人のこと。

 

信仰

ヘーロドトスに相当する人物がいない。

ヘーロドトスは「ἱστορίαι(歴史)」の作者であり、調査とインタビューを組み合わせ、出典を明記した上で信憑性の低い情報でもまとめて出来事を探究する彼の方法が後に「歴史」を扱うための手法として認識されるようになった。後世から見れば批判も多いが、歴史学的手法の先駆者と言えるだろう。

 

どこぞの嫉む神も出身はここ。

(われ)ヱホバ(なんぢ)(かみ)(ねた)(かみ)なれば

(われ)(にく)(もの)にむかひては(ちち)(つみ)()にむくいて三四代(さんよだい)におよぼし

(われ)(あい)しわが誡命(いましめ)(まも)(もの)には恩惠(めぐみ)をほどこして千代(せんだい)にいたるなり

──明治元訳旧約聖書 (明治37年)、出エジプト記第二十章より

 

古代イスラエルにおける国神に対する拝一神信仰が後に一神教へと発展したという説に基づくもの。なお、引用文ではエホバ(ヱホバ)となっているが本来の読みは「ヤハウェ」であったというのが定説である。

 

もちろんエドワード・バーネット・タイラーが唱えたようなアニミズムから多神教、一神教という安易な一直線モデル

エドワード・バーネット・タイラーは「Primitive Culture(原始文化)」の中で「未開」文化に見られる」全てのものにある種の霊性が宿る」とするアミニズムを宗教の根源であるとみなし、これが発展することによって多神教や一神教が生まれるとした。当然のことながら、これに対しては一直線の「進化」、あるいは「発展」という考えは誤りであるとか、キリスト教文化圏の思想の影響が強いとの批判がある。

 

傲慢な耶蘇教文化の産物だと言いたいが、

耶蘇は中国語におけるJesusの音訳に由来する。昭和初期まで用いられたが、まあその当時のキリスト教の印象はお世辞にも良いものではなかったのでこのような呼ばれ方を嫌う人物も多い。もちろんキイはわかってやっている。

 

歯式

歯式

ここでの歯式は哺乳動物の分類に使われるものと歯科健診やカルテに用いられるもののダブルミーニングになっている。前者は分数のような形で門歯、犬歯、前臼歯、後臼歯の数を書いたもの。後者は番号やアルファベットでヒトの歯を表す。

 

ということは第3大臼歯まで生え揃っているのか。

第3大臼歯はいわゆる親知らずのこと。

 

やっぱり硬いもの食べてるからかな。

顎のサイズの変化によって第三大臼歯の生えやすさが変わるという説に基づく。ちょっと調べましたけどコレって眉唾案件では?

 

ハプログループの調査とかして

ハプログループは一塩基のみDNAが変異しているような場所をデータ化してある程度の集団の傾向を捉えた上でグループ化したもの。男系についてはY染色体が、女系についてはミトコンドリアDNAが用いられる。これによって、人類の起源の地と伝播ルートが推定されており、アフリカ単一起源説の裏付けとなっている。

 

先見

いや実際アダム・ヴァイスハウプトのオタク趣味同好会がフランス革命に与えた影響はないわけではないだろうけれども、

1776年に作られたBund der Perfektibilisten(完全論者団)、およびそこから発展して作られたIlluminatenorden(啓明結社)のこと。ヨーロッパの広範囲で活動していたこと、政治的に有力な人物が多く所属していたことなどを考えるとフランス革命に関わった人間がいないことはない、と思う。まあないわけではないというだけであって影響としては小さいものだっただろうけど。

 

時間測定装置のための基礎研究だ。

今日ではほとんどが水晶発振器に取って代わられてしまったテンプと呼ばれる機械式時計の部品がモデル。これは14世紀には似たようなものが存在していたが、その後ロバート・フック、ジャン・ド・オートフィユ、クリスティアーン・ホイヘンスらによって改良を重ねられ、金属製の渦巻ばねが用いられるようになった。

 

ジョセフ・ブラマーの作ったものと比べてもお粗末なものだが、

ジョセフ・ブラマーの設計したブラマー錠は特殊な工作機械で作った互換性部品を採用していたことから規格化の走りとされることがあるが、その製法は企業秘密として扱われていたことには注意が必要である。この鍵を破ったものには賞金が出るとされたが、およそ半世紀成功者は出なかった。

 

ライノタイプとかのアイデアに到達するにはまだいくつか技術的ハードルがあるが、

ライノタイプはオットマー・マーゲンターラーとジェームズ・オグルビー・クレファンによって作られた自動鋳植機。キーボードを打つことによって活字を並べ、そこに合金を流し込むことで一行分の版をまるごと作るというもの。

 

ファブラボとかに方針が近いな。

ファブラボ(Fab Lab)Massachusetts Institute of Technology(マサチューセッツ工科大学)内のMIT Media Lab内のチームによって行われた活動によって作られた多様な加工設備を備えたある種のワークショップ。このファブラボのネットワークを活用して行われるFab Academyという教育コースもある。

 

適応

「ただの麦粥ですよ」

モデルは古代ローマの主食の一つ。プルス。

 

アレクサンドリア大図書館があった時代における専門家の集まり具合と同じか、

エジプトのアレクサンドリアに設置されていた図書館には様々な分野から多くの人が集まった。科学史の分野に関する人物であれば、浮力についての研究やポンプの開発で知られるシラクサのアルキメデス、地球の大きさの測定や素数判定で知られるキュレネのエラトステネス、中世において支配的なものとなった医学理論を確立したガレノスなどがこの大図書館で訪れ、働き、学んでいる。



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第22章
開封


「……なんですか、これ」

 

編集員が紙の包みを私に見せて言う。貼られている伝票みたいなものはこれが最近実験の始まった衙堂間郵便で運ばれていたことを示している。

 

「さあ?送り主は?」

 

心当たりが無いのだから仕方がない。

 

「第四区第八小衙堂長、とだけ」

 

「……意外な人だな」

 

「お知り合いですか?」

 

「ケト君の師匠というか、育て親というか」

 

「……そこらへん、詳しく聞いてもいいですか?」

 

「ケト君に直接聞いたほうが良いよ。で、そのケトは今日はどこに行っているんだっけ」

 

「通信線の接続に伴う工事の折衝か、手紙運びか、あるいは……」

 

「んー、なら帰ってきてから開けたほうが良いか」

 

ケト宛の手紙とかなら本人以外に見られたくないとかあるだろうしな。それにしてもこの量は一体何だ?

 

「相当な量だよね」

 

「ですね」

 

私の言葉に編集員は同意する。

 

「中身は?」

 

「そう固くないですし、紙ですかね」

 

「本?」

 

「ではないと思いますが。ええと、第四区第八小衙堂となるとどこらへんですか?」

 

「ここから歩いて三日ぐらいだね」

 

「かなり近いですね。ああでも第四区となると私の生家とは逆向きですか」

 

「同じ方向だったら手紙でも運んだのにね」

 

「それだけ近いと、たまに帰ったりしませんか?」

 

「そういえばしてないな……」

 

ケトにそういう話をしても、まだいいと返すばかりだったのだ。そりゃあまあある程度大成してから帰りたいというのはわかるけど、司士になっているのだからもう十分では?

 

「キイさんとその人はどういう関係で?」

 

「昔ちょっと、ね。ケトが第一の恩人なら第二の恩人に当たる方だよ」

 

ケト一人では私はここに来ることができなかっただろう。ちゃんと私を見極めて、紹介状やら路銀やらそういうものまで手配してくれた人だ。何かあれば駆けつけるぐらいの恩はある。

 

「キイ嬢とケト君の『馴れ初め*1』ですか」

 

「私でも、その単語の意味ぐらいはわかるよ?」

 

「……すみません」

 

「よろしい」

 

お年頃らしく私とケトの関係をちょくちょく茶化してくるのだが、まあ私だってそこまで嫌な訳では無いし一言言えばすぐに黙ってくれるのであまり問題はない。

 

「ま、行き倒れていた時にケト君に助けてもらってね。その時にハルツさんとも出会ったわけ」

 

「旅をしていたんですか。やはり目的地はここで?」

 

結構ぐいぐい来るな。私が過去を隠しているというのは結構周知の事実だと思っていたが、彼女はそんなのお構いなしらしい。まあ今後はそういう人材も必要になってくるので成長が楽しみである。

 


 

うまい具合にぼかしつつ、ケトについての昔話をしているとその本人が帰ってきた。

 

「で、これは?」

 

「ハルツさんからの手紙というか荷物というか……」

 

「開けていないんですか?」

 

「帰ってきてから開けようかと」

 

「わかりました」

 

まあいいだろう、と私は包み紙を開く。油紙と布で包まれているところを見ると防水とかも考えられていたようだ。梱包を解いても、それなりに分量が多い。指4本分の厚みだ。

 

「で、これは僕たちへの手紙で……残りは、冊子ですか」

 

「全部で五冊。手書き。これは……収量報告?」

 

「こちらは農法書ですね」

 

「面白そうな事が聞こえる……」

 

編集員がいつの間にか私たちが開いていた冊子を見ていた。

 

「ともかく、手紙を読もうか」

 

「そうですね」

 

ケトはそう言って折られた紙を開く。丁寧な文字だ。というよりこれは硝子筆(ガラスペン)によるものだな。思い返せばさっきの冊子もそうだった。それなりに図書庫の城邦の中では流通しているものだが、城壁の外で使われているとは思っていなかったので意外である。いやもちろん商人たちは求められば色々なものを取り扱うだろうし、取り寄せとかもできるけれども。

 

内容は季節の挨拶、健康を気遣う内容、最近の出来事、まあそういうの。よくある近況報告だ。ケトが知っている人の名前が出てきているようなのでここらへんはケト宛だろう。私にそういう話をしてもあまり意味は無いしね。

 

「あ、キイさんが色々暴れていることが書かれていますよ」

 

「えっ」

 

確かに読むと解剖の時におまけで色々やった時の話に言及がある。城邦にいる友人から聞いたとあるがそういえばそうか。

 

「ええと、ハルツ嬢はケト君が幼いときにはもうあそこの衙堂にいたんだっけ」

 

「そうですね。僕を育て始める直前に来たというか、来てすぐに僕もあそこに来たというか。そのときにはもう僕は乳離れしていたと聞いています」

 

となると、当時のハルツさんは十代後半といったところか?今のケトよりも若いのだ。大変なことである。もちろんそのぐらいの年齢の体力があれば多少はどうにかなるのかもしれないが、一人で育てるのは大変だっただろうに。

 

「となると、司女になった時にはかなり若い?」

 

「そうですね、かなり賢かったと聞いています。なぜ城邦の中で学び続けなかったのかは聞いていませんが」

 

「……とはいえ、この文章からすると城邦の政治について詳しいらしいけど」

 

「司女ですから、それぐらいは当然では?」

 

「そういうもんかね」

 

そんな話をしながら、私たちは手紙を読み進めていった。

*1
聖典語には「出会い」を意味する単語が複数あるが、そのうちの一つ。暗に恋人同士の出会いのきっかけを指すため、このように訳した。



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農業

手紙が半分ほど行ったところで、本題が始まった。ハルツさんは私のやっている事をある程度見抜いているように思える。

 

「つまり、農業の発展は不可欠だろうけど、キイちゃんはそこんとこ忘れてそう……言われてますよ」

 

「手を回せなかったんだよ」

 

なかなかうまい具合にハルツさんの口調を真似ながら言うケトに私はちょっと悔しくなる。農業というのは時間がかかるのだ。例えば旋盤みたいなものであれば作ってしまえばあとはそれを模倣するだけでいい。しかし農業はもう少し面倒だ。系の複雑さと言ってもいい。変数が多すぎるのだ。

 

実験計画法は最初農業に使われたが、その中でも重要な点の一つは目的の変数以外の要素をランダム性を用いて排除することだ。乱数表を使い、実験の順番も、使う畑の場所も、すべてバラバラにする。相互作用を打ち消し合わせ、確率的に無視できるものにして、求めるものだけを浮かび上がらせる。もちろんそれでも介入困難なパラメータは多い。天候や温度は特にそうだ。それに、どんな農業の達人でも百回の試行を行うことは非常に困難だし、それを記録にとって、統計的に扱うというのは至難の業だ。普通なら。

 

ではもしここに、長期間税収管理などの形で情報を蓄積している機関があれば?ある程度客観的に農業について扱えるだけの知識があり、かつ実際に働く人達から協力を得られるほど信用のある人達がいれば?

 

衙堂と、そこで働く司士と司女は農業分野の飛躍にとって不可欠な人材である。だからこそ、私はあまり手を出せなかった。それだけ大きな組織に関わることができるほどの後ろ盾もなかったし、他にやりたいことも多かったし。しかしそろそろ逃げられないようだ。

 

「不備があったら、気軽に連絡してね……ですって」

 

「その続きは?」

 

「……僕に、です。顔ぐらい見せに来て、だそうです」

 

「そろそろ収穫も終わるし、晩秋あたりにでも行く?」

 

「……そうですね。返信だけでも早めに出しておきますか」

 

「それより、これはどうするんですか?」

 

編集員が冊子を読みながら言う。

 

「そうだ。聞きたいことがあるんだけど」

 

「いいですよ」

 

「その本、どう評価する?」

 

「なるほど、知人の作品だから余計な感情が入ることを避けたいのですね。わかりました」

 

やはりこの編集員、とても賢いんだよな。口を閉じることを覚えればコミュニケーションは上手くなるのだろうが、まあ別にそういうことをしなければならない環境にでもない限り無理にさせないほうがいいだろう。アドバイスはしているし、ちゃんと肝心なときにはそれなりに黙っていられるので、大事にはならないはず。

 

「……今まで読んだ部分での評価ですが、前提として広い範囲で使われることを想定しているように思いますね。基本的に語られているのは一般例で、具体的な例については……いえ、あるにはあるんですよ。しかしそれらにもかなり注記が多いように思います。ある程度知識を持った人が、自分の抱えている問題を整理し、判断を下せるように、と言った側面が強いですね」

 

「衙堂に売れると思う?」

 

「公共の利益に対しての発案所持権の制限に引っかかる可能性がありますね。代償金を認めるべき内容でしょう」

 

発案所持権、つまりは最近認められた著作物や発明に関する権利についてだ。面白いことに、独占を認めるというよりも不当にその発案を使われないように、みたいな方向に近い。代償金を払えば自由にその発明とかを使えるが、まだ制度が甘く手続きが面倒なものになっている。特定の条件での利用許可は、例えば長髪の商者のいる商会がやっている「うちの部品と規格を合わせる限りにおいて自由に販売可能」みたいなやり方でもできる。ここらへんは結構性善説システムなので、早めにレッドチームを編成したいところだ。私名義でやれば面倒事の責任はどうにかなるだろう。それぐらいの政治はなんだかんださせられているのだ。もちろんケト君の仕事のほうがすごいけれども。

 

「あ、こっちが『総合技術報告』編集所への依頼書ですね」

 

「手紙に比べて薄いなぁ」

 

さっきの手紙と同じ筆跡で、短いながらも十分丁寧な内容がそこにあった。この本そのものを「総合技術報告」の名義で販売してほしい、とのこと。利益についての扱いは代理人であるケトに一任する。なるほど、確かにハルツさんのいる衙堂からここまでちょとと遠いものな。往復はまあ四半月もあればいいが、それだけ衙堂を開けるというのも場合によっては難しいだろうし。

 

「……仕事、か」

 

私は頭の中でスケジュールを練る。

 

「衙堂側でこれを読めるだけの人材、いる?」

 

私はケトに視線を向けて言う。

 

「何人か心当たりがあります。頭領府にもいるので、そちらにも声をかけましょう」

 

「わかった。代償金の算定、お願いできる?」

 

「一応やってはみますけど、あまり信頼しないでくださいよ?」

 

編集員がわくわくを隠せずに言う。面白い仕事が好きなようだ。

 

「もちろん。そう簡単に値段をつけられたら苦労しないけど、参考になるものはほしいから」

 

「わかりました。ケト君、あとで資料探しを手伝って」

 

「わかりました。キイ嬢はどうしますか?」

 

「原稿読んで、全力で批評する」

 

多分相当の場所で読まれることになるだろう。気合を入れなくては。



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命令

「私は『総合技術報告』編集長として、この本の印刷を請け負うことを決定します」

 

「その宣言、必要なんですか?」

 

私の言葉に、唯一の編集員はちょっと白い目を向けた。

 

「キイさんの評価を聞きたいですね」

 

ケトにそう言われ、私は少し話す内容を頭の中で整理する。

 

「一部に分析のミスはあるものの、大まかには間違いないと思う。扱っている内容の幅広さと一般性を考えれば、この図書庫の城邦の近辺で農業政策に関する活動をするなら持っておいて損はないと思う。ええと、この本の権利みたいなものはケト君に一任されているよね?」

 

「この手紙を見る限りでは、そうですね」

 

手紙にはちゃんと署名がしてあった。つまり、これは法的文書としてもちゃんと意味を持つものなのだ。よくまあ細かいところまで考えられている。私なら見逃していたであろうポイントだ。

 

「図書庫、衙堂、あとは頭領府の知識がありそうな人に話はしました。興味を持っていますよ」

 

「それはよかった」

 

ケトの報告を聞き、私は深くうなずく。ここらへんから面倒な政治的案件とかがあれば投げていたが、無いならそれに越したことはない。

 

「この件全体を、誰かに投げれそう?」

 

「……相当大きな計画になるでしょうから、可能な人は数えるほどしかいません」

 

「そうか……」

 

「衙堂であれば、おそらく煩務官になるでしょう」

 

「まあ、あの人ならいけるか」

 

あ、すっかり忘れていたがこの編集員は司女見習いなんだよな。

 

「衙堂で働く?必要なら口利きはするけど」

 

私は編集員の方に声をかける。

 

「嫌です」

 

きっぱりと断られてしまった。まあ私だって嫌だが。

 

「なら仕方ないか。命令でも来ない限りはそうしないよ」

 

「来そうですけれどもね」

 

ケトはため息を吐く。

 

「頭領の名によって、とされれば逆らうのは面倒ですよ」

 

ああそっか、すっかり忘れていたがこの図書庫の城邦の法制度というかシステム上では万人に認められる人権がかなり制限されていて、権利のいくつかは頭領が与えているみたいな形になっているのだ。天賦人権説は採用されていない。というか万人と言っているけどこれ古帝国が全地を統べていること前提のシステムを変な解釈して出しているものだからな。例えば船の民を図書庫の城邦の誰かが殺せば、それはちゃんと殺人となる。しかし、非常事態に頭領の名において船の民から何かを接収した時に賠償責任とかはない。もちろん頭領の名において、というのはある種の比喩的表現だが、実際適用された例はいくつかあるらしい。

 

というわけで、その頭領の命令に逆らうのは私がいた世界における反逆罪に相当するのだ。刑罰は最悪で公開処刑である。とはいえそういうことはまずない。それが許されるほど頭領の権力は強くないし。

 

「農業政策は城邦の人たちに直接は利害関係ないから、主に衙堂が動くのかな?」

 

そういや、この世界というか地域には地主制度がほとんどないのである。強いて言うのであれば衙堂がその役割の一部を担っている。これはかつて古帝国による征服戦争に対して武器を取った農民たちの権利保護という側面が、みたいな歴史があったはず。なんで農地改革が成功しているんだよ。で、それを衙堂が安値で買い取って高値で売る。この差額が実質的な税金として働くわけだ。そういうわけで主要農作物は衙堂を通さない販売が禁止されている。なかなか面白いシステムだ。

 

「そうなるでしょう。しかしその方面への注力は望ましいと考える人も多くいるので反対はないかと」

 

「……わかった」

 

政治は嫌だが、まだマシなものだと思おう。地方巡りとかしてドブ板活動をしなくていいのは楽だ。ロビー活動で色々な事ができてしまうのはそれはそれで問題な気もするが、この図書庫の城邦ではそれなりに農村地域出身者がいる。学徒の街なのもあって人の出入りが多いのだ。それもあって、都市と農村が完全に分断されてはいない。

 

本当に都合が良すぎるな、と私は思う。いや、そういう言い方は良くないな。運良く揃った前提条件をきちんと活用している人達がいるだけだ。それはちゃんと評価されるべきなんだよ。特に何もやっていないように見えるかもしれないけれども。

 

「これらを印刷するとしたら、どれぐらい時間がかかりそう?」

 

「本の紐を解いていいなら、二月かそこらで十分でしょう。蝋紙版ではなく文字版印刷になりますよね」

 

編集員がすぐに計算を出してくれる。雇う必要のある人数も大丈夫だし、これぐらいなら今の「総合技術報告」編集所のキャッシュフローでも対応できる。まあケトが関わるならどうにかして衙堂や図書庫や頭領府に雇われるという形にするのだろう。仕事を求める学徒は多いのだ。

 

「印刷と製本は私の方でも扱えますが、それ以外、具体的にどうやって配るのかであるとかそういうのはキイ嬢とケト君の仕事になるでしょうね」

 

「……ケト君」

 

「キイ嬢も動いてもらいますよ?三つの組織と繋がりがあるんですから」

 

私は苦笑いをするが、まあ仕事としては楽しめそうなのでいいとするか。



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議論

私たちが作っている「総合技術報告」は幸いかなりの人気である。海を超えて原稿が来ることもあるし、編集所にファンレターが来ることもある。値段はあまり安いとはいえないのは仕方がないが、それでも意欲のある学徒がお金を出し合えば買えるぐらいではあるし、いくつかの学徒寓敷設の図書庫には収められているという。この図書庫の城邦でしばらく学徒をしていた時期があったわけだが、ここらへんはやっぱりシステムがなれないのでわかりにくいんだよな。

 

まあ、そういうわけで「総合技術報告」を作った専門家たちの会合は編集所とは別で活動を続け、なんか学会みたいなものになっていたのである。私からすれば出版業務を奪った形になるが、まあそれについてはあまり反感がないというか面倒事を引き受けてくれてありがとうという感じである。まあ、それも何なので懇談会みたいなやつの場所取りは編集所名義でやっているし、軽食代として銀数枚は出している。編集員からすると出資の意味があるのかと疑問に思っていたらしいが、ケトがちゃんと説明してくれた。月に一度、銀片数枚を出すだけで城邦中から専門家を呼べるなら安いものだ、と。言い方が悪いぞ。

 

とはいえ、この学会みたいなものにはまだ名前がついていない。Accademia dei Linceiよろしく動物の名にでもあやかるか?とはいえこの世界にはディオスクーロイもいなければ彼らに助言した人もいないので「学会」という言葉をどうするのかという問題がある。ちなみに今のところの通称の一つは「奇人酔話会」らしい。これが定着してしまったら困るので名前の正式決定時にはどうにかしないと。

 

「ああ、彼女は私の弟子だ。妻の姪にあたる。夫は文法学と修辞学の講師をしている」

 

でまあ、こういう若手紹介も出るのだ。おや、女性とは珍しい。ケトと同じぐらいかな。まあこの図書庫の城邦における初婚年齢とかを考えればまあそんなものか。まあ女性がこういう界隈に来てくれるのはいいことである。来なくちゃいけないことの裏返しでなければいいのだけれどもな。

 

「皆様、よろしくお願いします」

 

丁寧な彼女の挨拶。

 

「ああ、たぶん名のある商者の娘とかですよ」

 

豆菓子をつまみながらケトが言う。

 

「どうしてそう思う?」

 

「んー、雰囲気……」

 

「なるほどね、とはいえそれで相手を決めつけないようには気をつけてね」

 

「わかってますよ。教養がなさそうな人だなとか変な態度だなとかで人を切り捨てたらキイさんが犠牲になりますもの」

 

「言ってくれるねぇ」

 

一応私、まだ時々文法的ミスはするし東方通商語でも詰まることがあるし一般常識が欠如していたりでちょっと怪しい人間なのだ。まあ私みたいなやつがここにはいっぱい集まっているのであまり浮くことはないが。

 

てなわけで、オープンスペーステクノロジーめいた会合の始まりである。ここらへんは異世界知識を活用させてもらいますとも。普段私は色々うろうろしたりしなかったりして横から変なことを言ったり言わなかったりケトに止められたりしているのだが、今回はハルツさんの作った本についての話である。興味を持ってくれた人がそれなりにいたようで何より。

 

「これ自体は聖典語版だが、東方通商語版もあったほうがいいかねぇ」

 

「要約版を配布して、そこから様子を見るべきでは?」

 

「より詳しいものを作るべきだろう。これは偏りがないわけではない、事実地元の作物にこれはあまり上手くいかないと思うし」

 

なんかもう勝手に話が始まっている。私がやるのは暴走しないように適度にブレーキを掛けつつ、話し合いの方向性を誘導することだ。

 

「別にここにいなくていいのに」

 

私は後ろに座ってメモを取っているケトに小声で言う。

 

「専門的すぎてわからないことが多いんですよ、運動哲学における算学の効用性なんて言われてもわかりませんよ」

 

そんなことを言いながら発言をちゃんとメモできるのは凄い。私にはちょっと辛い。

 

「へえ、後で内容について聞こう」

 

「キイさんが行けばいいんですよ?」

 

「さすがに提案者が消えたらまずいでしょ、っと、ああ、その点については私も同感ですが、衙堂の郵便制度を活用できないでしょうか?調査に必要な種を集めるのには有効だと思います」

 

話の内容は実験農園みたいなものに移っていた。会議の参加者の中に司士として実際に農業政策というか農業指導みたいな方面に関わっている人が来てくれているのでその人の実態説明もあって話がスムーズに進むし、無理なものは無理だとちゃんと言ってくれる。なお彼はケトが引っ張ってきたそうだ。ケトにねぎらいの何かができればいいのだが、あまりそういうのを好まないし私の方もアイデアがあるわけではないからな。

 

「確かに、城邦に集約しなくとも各所のやり取りを活発にさせることも重要だろうな」

 

「耕人が手紙をやり取りできれば一番なのだが」

 

「無茶言わないでくださいよ、ただでさえ郵便は大変で不慣れなのもあって届かないものがあったりするんです」

 

ここらへんは私の知識は直接役には立たない。なので裏方に徹しよう。まあ助けになる技術なら色々とある。土壌の分析から放射線による品種改良まで、手札はそれなりにあるのだ。



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引力

「久しぶり」

 

「あ、キイ先生」

 

前に算学を教えた若い学徒がいる集団に顔を見せると、彼は少し興奮した口調で私の名前を呼んだ。

 

「聞いてくださいよ、宿題が解けそうです」

 

「……なるほどね、円にしたのか」

 

円運動をベクトル的に分析し、向心力を推定。重力の強さから円運動の速度を出したところまではいい。しかしこれでは足りないのではないか?

 

「……説明を貰える?」

 

「ええと、月までの距離は月食と大地球の位置から計算できます」

 

「そうだね」

 

この世界でも金環日食と皆既日食が起こる。これは太陽と月の視差角がほぼ一致するからだが、これはなんでなんだろうな。月の大きさと距離が生物の発生とか地球環境の安定化とかの側面から制約を受けていて、恒星の大きさとハビタブルゾーンの距離とかを勘案するとだいたいそれぐらいになるのだろうか?まあ、これは本題ではない。

 

「けれども、そこで考えられる月の落ちる速度の変化成分が極端に小さくなるんですよ」

 

「ほうほう」

 

私はにっこりとしていく。

 

「なら、もし距離に応じて引かれる力が弱くなるとすれば?大地球の半径との比を考え、中心からの距離に依存すると、距離の二乗の逆数の力で引かれるとすれば計算が合うわけです」

 

「あくまで計算は、ね。一組の数字が合うように、計算を操作して辻褄を合わせたにすぎない。それになんだ、距離の二乗って。引く力は明るさか何かなのかい?」

 

私はちょっと挑発するように言う。もちろん、彼の推論は正しい。積み重ねられたデータと私の教えた数学的手法があるとはいえ、十分天才だと言えるだろう。

 

「僕にはここが限界でした。しかし、天文学師の皆さんが面白いことを見つけましてね」

 

「気になるなぁ」

 

「太陽から各惑星までの距離と、巡る期間についてです。期間の二乗は、半径の三乗に比例するんですよ。これはこの力が距離の二乗の逆数になるという仮説と一致していて、太陽を中心とする惑星運動体系を強く示唆しているんです。天文学の長い闘いに、ついに決着がつきそうなんですよ」

 

ヨハネス・ケプラー、Harmonices Mundi(世界の調和)、1619年。第三法則を導出するにはその前のAstronomia nova(新天文学)から10年必要としたのだ。私が彼にこの手の話をしてからそんな時間は経過していないぞ?

 

「それは、君がやったの?」

 

「いえいえ、僕がやったのは最初の最初だけで、後は色々と本職の天文学師とかがやってくれたんです。手伝いはしましたけど、僕が全部やったわけでもなければ、せいぜい重要な役回りを果たしたと言うだけであって、決して主役では」

 

「……そう。なら、まだ残る課題についてはわかる?」

 

「惑星の動きは円運動ではない、ですよね」

 

「そう」

 

「もし距離と力の法則が成り立っているのであれば、その軌道を数学的に表現することもできるはずです。詰まっているのですが、候補はありまして……」

 

「いいね」

 

「楕円、ですか?」

 

「……さあ、私は知らないな」

 

表情が変わるのを抑えろ。円錐曲線の一つ、放物線を座標平面と幾何学を使って扱えたのだ。楕円もだいたい似たようなものなので、射影幾何学とかを使えば同じように考えられる。とはいえもしそれが楕円だとわかれば、天文学の謎が解けてしまう。私がそれをしてはいけないのだ。その栄誉は、自ら謎を解いた人にのみ与えられるべきなのだ。

 

「先生は、教えてはくれませんか」

 

「そうだね。私はそれを導けない」

 

実際のところ、数ヶ月あればできるだろう。極座標の計算を何度かやり直して、式変形を繰り返せばいい。記憶の欠片に導出の方法はあるし、正解もわかっているのだ。決して難しくはない。けれども、それをやっては意味がないのだ。やっと学問が、技術が、活動が、私の手を離れて動き出そうとしている。いや、この言い方は傲慢か。

 

「なら、僕たちが解くまでです。キイ先生の名前は、そこには入れませんよ」

 

「そうしてくれ」

 

私はニヤリと笑う。正しい。後世の科学史家に面倒な謎を残すことになるが、この世界に成功体験があれば自分から謎を見つけて、それを解いて、さらなる課題に取り組む姿勢を作ることができる。いや、もともと多分それはそこにあったのだろう。私がもたらしたのは、多分私がいなくても生まれたものだ。私はこの世界にとっての異物ではあるが、私がいなければ起こらなかった発展なんてものはないのだ。驕り高ぶるな。私は天才ではないし、天才が歴史を作る訳では無い。

 

「……いいんですか?」

 

「いいよ」

 

「……なら、先生との関係は、僕たちだけの秘密ですね」

 

「秘密を抱えるのは、あまり好きじゃないんだけどなぁ」

 

私がどこから来たかという、別に気がついている人はいるだろうが語るつもりもない秘密はケトとだけのもののつもりだ。それ以外の秘密については、まあ少ない方がいい。秘密の共有は親密な関係を作るが、私の知る学問は秘密を廃そうという流れにあるものだ。あとはまあ、私たちの議論についていけなくて不満そうなケトもいることだし。



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進捗

この図書庫の城邦には、地方出身者も多い。若い頃に土を触っていた経験はそれなりの人が持っているので、こういう本がどれぐらい信憑性があるか、あるいはどれぐらい読みやすいかの評価には助かる。というわけで学徒の繋がりとかを利用して原稿を読んでくれる人を集めたりした。ここらへんは「時勢」紙の編集長との繋がりもある。どうやら新聞の利益を自分の通っていた学徒寓に還元しているようだ。いいことである。聞けばそこの学徒を働かせたりしている分で人件費程度には出資しているようで別に篤志家というわけではないらしいが。まあ税はちゃんと取られているのでいいとしよう。新聞も印刷物の一種とする法判断が下ったのである。まあ、そこまで無茶な額でもないし、贅沢品にかけられる税と比べればそこまででもないからいいか。

 

「んー、やっぱりハルツさんは凄いなぁ」

 

そういう形で集めた改善案のリストを見ながら私は言う。難しい聖典語の言い回しがあったり、一部の地方の方言があったり、ちょっと大きなところでは異なる二つの作物を混同していたりなんてことがあったが、大まかには問題ない。というか図書庫の方の分析では古典との矛盾があったので実際に確認したら古典のほうが誤っていたという事があったらしい。

 

基本的に、こういう活動は根気と観察眼があれば結構誰でもできる。というかそれがあれば博物学者、いやこの世界で言うなら自然学師か?の素質としては十分なのだ。そしてそれなり程度にはこの世界にはそういう下地がある。もちろん自然学はあまり役に立たないとか言われてその方向を極める人は少ないが、子供たちが野山を駆け回って色々見つけたりするのを一概に否定するなんてことはない。とはいえ感染症とかが一度起これば死に繋がりかねないし、人の手が入っていない地域は本当に危ないのでほどほどに、とは言われているが。

 

で、この農法書についてはこの冬のうちに簡略版を作って各所に配布する予定だそうだ。春からの種まきには間に合わせたい、ということらしい。確かに試せるのは一年に一回、せいぜい二回だからな。二毛作とか二期作はあるし、特に土壌が豊かだったり肥料づくりのノウハウがあったりする地域ではもっと複雑な事をしたりもしているらしいが、それは地域一帯がそのための産業基盤を持つみたいなかなり気合を入れた地帯に限っている。

 

「キイ嬢?」

 

「なんですか」

 

私は目を上げて、編集員の方を見る。

 

「要約版の構成案がいくつか出ています。今の調子で間に合わせるためにはそれなりに忙しくなるので、油でも買いましょうか?」

 

「電気灯とか使えないかな」

 

「明るすぎますよね、あれ」

 

商会の工房で水銀灯の研究をしている人達もいるが、硝子(ガラス)というか石英の耐熱性とか加工性のあたりで問題が発生しているらしい。一応水銀の危険性は指摘しているし、できるだけ吸わないように、換気をしっかりするように、素手で触るな、長期間作業するなとか、妊娠の可能性のある人間は関わるなとか、色々うるさく言っているのでまあ、最悪の事態にはならないだろう。加工難易度とかもあって作業は基本的に初老の職人がやっているので、多分重大な問題が起きる前に別要因で死ぬ。ちゃんと年金とか医療補助とかは商会が出していますとも。なぜか紹介された医学師が最近解剖図譜を出版した若い医学師であったりしますが。まあ、良く言えば名医の紹介、悪く言えば科学の進歩のための礎である。大学病院とかぐらいのことしかしていないけどさ。

 

「まあ明るければそれはそれで使えるからさ」

 

風の噂では舞台作家みたいなことをしている人がどうにかして電灯を手に入れようとしているらしい。石灰灯(ライムライト)でもいい気がするのだが、電灯特有の性質を使ってみたいのだとか。まあ、新しい技術が変化たちで応用されるのはとてもいいことです。

 

「というわけで、編集長」

 

わざわざこう呼んで来る時は、彼女のストレスとかがちょっと溜まっているタイミングである傾向がある。休暇を取らせよう。この仕事が終わったらな。私も取る。ケトと一緒にハルツに会いに行くのだ。

 

「締切は二日後です。担当分の原稿の進捗、いかがですか?」

 

ハルツさんの本の要約版の執筆状況は、あまり良くない。

 

「……あと、もう少し」

 

頭の中で計算を回す。一刻で書ける文字数。集中時間。手の疲れ。アイデアの枯渇。間に合うはずだ。余裕はない。

 

「わかりました。ケト君が各所を回って原稿を集めて、私も頭を下げて各所に頼んでいるのです。模範となるべき編集長がまさか遅れるなんてことは無いでしょうね?」

 

「ありませんとも。私は締切を守るという美徳を心得ていますから」

 

徹夜はしなくていいようにしたいが、ちょっと危ない気がする。二日後ってことは、あれだな、三日後の朝までにできてればいいんでしょう?夜通しやれば、まあ確実に間に合う。そう考えると、案外余裕があるな。冷静になって確認すれば結構大丈夫なものである。面白そうな原稿が届いていたし、先にそっちを片付けてしまおうか。



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勇気

油の灯す薄明かりの中、私は硝子筆(ガラスペン)を置く。締切は「今日」。つまりは間に合ったわけだ。なお天文学時間で、といいう条件がつくが。この計算方法では夜明けに日付が切り替わる。そうでなくとも多分今はかつての地球での時間システムで12時を回ってはいないだろう。冬が近づいて日が短くなっているから、それなりに時間的余裕があるのだ。とはいえ全身が重い。

 

「……ケトくん?」

 

「……終わりました?」

 

普段は暗くなる前に帰るが、残業であったりとかの場合はどうしようもない。今日は月が出ているので問題ないが、そうでなければ薄い毛布に丸まって床で寝ていたケトのように夜を過ごす事がある。

 

「帰ろうか」

 

「ええ」

 

ケトはあくびを一つ。私もつられてしてしまう。

 

「……寒くなりましたね」

 

「そうだねぇ」

 

話しながら手際よく編集室の鍵を閉じる。とはいえそう難しい仕掛けではない。適切な手順さえ知っていれば簡単に開けられるけれども。穴から手を突っ込んで専用の金具を動かして開ける仕組みで、実際に目で見て開けるのもちょっと面倒な感じのものだ。イメージとしては知恵の輪に近い。

 

守衛の人に挨拶をして、私たちは門を出る。ああ、眠い。ふわふわする。ケトの手が温かい。こんな夜中まで不寝番とは大変なことであるが、ちゃんと給与は出ていて欲しい。まあ盗人と門番が手を組むことがあるのは知られているから、それなり程度の額は出ているのだろう。

 

「ハルツさんに会うの、怖いんですよ」

 

ケトが呟くように言う。あれだけ物怖じせずに偉い人達の間に飛び込んでいって、それでいてただの司女一人が怖いのか。

 

「……ハルツさんの名前を出すと、何人かが反応したんです」

 

「見習い時代にここで学んでいたわけだし、知っている人も多いんだろうね」

 

「誰も語りはしませんが、何かやったようで」

 

「それについて、知りたいの?」

 

「いえ、若い頃の色々なことを問い詰めるようなことはしたくないんですよ。……その時は、今の僕よりも若かったわけですから」

 

「もうケトも結構な年齢だもんね」

 

「キイさんは?」

 

「こっち方向の話はやめよっか」

 

もう私もいい年齢である。かつての世界であればもう若手とは呼ばれなくなっている年齢なのだろうか?研究系のところに入ればポスドクぐらいか?普通に就職とかもしていたのかもしれないな。まあ、今はここにいるのだ。ここでできることをしよう。

 

「ハルツさんが、凄いのはわかるんですよ。話を聞くに、一人で僕を育てたんですから。だからこそ、直接顔を合わせるのが気まずくて……」

 

「……そういうものかもね、私はちゃんとはわからないけど」

 

ケトが握ってくる手を、私は握り返す。

 

「別にハルツさんが何か文句を言ってくるようなことは無いとは思うんですよ。あの人は、そういう事はあまりしてきませんできたから。人の事を傷つけたりしようとするときはたしなめたり、時には強い言葉を使ったりしますが……」

 

「ああ、多分、ケトの怖がっていることの一つは対等な立場に立った時、自分が守られる存在じゃなくなった時、ハルツさんとちゃんと向き合えるかってことじゃない?」

 

「……対等な立場、というのは確かにそうですね」

 

ケトは司士なのだ。本来であれば地方の衙堂で働いていたり、あるいは事務作業とかを積み重ねて出世を目指したり、まあそんな事をしているはずなのだ。明らかに変なルートを通っているが。多分キイって人が悪いんだと思います。

 

「僕にとってハルツさんは、憧れというか、頼れる人だったんですよ。でも司士になって、司女ハルツと対面することになって、あの人と戦わなくちゃいけないんだって思うと……」

 

「私も似たような立場になったことがあるから、まあ、わからなくはないよ」

 

「その話、聞いてもいいですか?」

 

「あまり面白くはないけどね」

 

私はそう言って頭の中で歴史をたどり始める。あれ、もう10年以上も前になるのか。私の精神は、あの時からほとんど変わっていないように思える。

 

「図書庫が中心となっているわけではないけど、多くの講官が邦から給金を得て働いているような学舎、って言ってわかる?」

 

「キイさんが学んだところですよね。過去に何回か聞いたので、少しだけですがわかります」

 

「そう。そこで、私は歴史に憧れて歴史を学ぶために来たんだ。その人の本を読んだことがある、というような人に師事することができた。けれども、その人の過ちを見つけてしまった」

 

「過ち、ですか」

 

「そう。その人が読んだ過去の文献の解釈に誤りがあったんだ。それを考えると結論が変わってしまう。それどころか、今まで言われていたことが違うことになるんだ。もちろんその人は評価されていた。だから、初めてその事を聞いた時にはとても緊張したのを覚えている」

 

ケトが握り返してきたことで、自分が結構手に力を入れていた事に気がついた。少しだけ力を抜く。緊張しているんだろうな。

 

「それで、そのことをちゃんと伝えた。そうしたらその師は笑って、自分の誤りを認めて、それを発表するように言ったんだ。私がまだその師に正式に師事する前の話だけど」

 

「……キイさんって、とても行動力がある人ですよね」

 

「運が良かっただけ。私は誰かが案内してくれた道を歩いているだけに過ぎないよ」

 

「だとしても、足を踏み出すのは勇気が必要ですよ」

 

「そうかもね。……参考になりそう?」

 

「……さあ。けれども、少しだけ足は軽くなりそうです」

 

「よかった」

 

泊まっている部屋の前につく。疲れていたのもあって、私とケトは他の色々な事をする余裕もなく同じ寝台に倒れ込んだ。



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自信

私がちょっとクラクラする頭を抑えて立ち上がると、それでケトも目を覚ましたようだった。昨日ここに倒れ込んだ瞬間から今まで記憶がない。よく寝ていたというか意識を失っていたわけだ。

 

「大丈夫ですか?」

 

ちょっとふらついていたから心配したのだろう。ケトが声をかけてくれた。ゆっくり呼吸をして、ちゃんと視野が歪んでいないことを確認。

 

「……うん。平気。さて、仕事だ」

 

締切は昨日だった。そして原稿が揃ったので、今日からまとめる作業である。忙しい。本当であれば徹夜明けの今日ぐらいはゆったりしたいが、今後色々立て込んでいるのでしばらくゆっくりするのは難しい。まあ実際はいくつかの原稿をこれからケトとか編集員の人に集めてもらうわけだが。あ、私も行こうかな。先に私の原稿から印刷に回していけば、他の人の分を間に合わせる余裕ができるだろう。依頼したものも一から全部書くとかじゃなくてハルツさんが書いたものをもとに簡単な言葉遣いにしたりわかりやすいようにしたり、といったものだからそう遅れることもないと思うけど。私の分?最初の総論と終わりの結論が担当だったので一から書きましたとも。言い回しは多分大丈夫だが、念のためにケトに確認してもらうか。

 

「ひとまず明日には原稿の版作りを始めてもらわなくちゃ……」

 

そう呟いて、背伸び。ひとまず今日はあまり頭脳労働はせず身体を動かす方面でどうにかして、早く寝て明日本気を出そう。そうしよう。そういえばケトと一緒に寝たのに何も覚えていないのはちょっと悔しいな。あったかくて抱き心地がいいのに。

 

「ケトくんは今後の予定とかある?」

 

「印刷とか頒布の根回しであれば、今できる分は終わらせてあります。実物さえあれば動けますよ」

 

あ、基本的に暇なんだ。ちゃんと仕事を終えているのはいいことだ。というかゆっくり休んでくれ。裏で色々働いていることを私はちゃんと知っているんだよ。ケトは隠したがっているらしいからわざわざあえて言ったりはしないけど、ちゃんと感謝は忘れないようにしないと。

 

「ありがとうね、いつも」

 

「キイさんだって相当やってると思うのですが」

 

「面倒な政治案件を他人に投げているから、評価に値するとはあまり思えないんだけどね」

 

そりゃまあ比較優位を考えれば他の人ができない分野があるなら他の人に自分以外でもできるものを任せるべきだけどさ、公平な負担みたいなものは考慮すべきだろう。最適な組み合わせが、誰もが納得できるものである保証はどこにもないのだ。

 

「まあ、そこらへんは互いに尊重し合うということで」

 

私に外套を渡しながらケトが言う。ケトも含めてこの世界には物分かりのいい人が多い。衙堂の教育の賜物だろうか?

 

「そうだね。いい本ができるといいなぁ」

 

「間違いなくいい本になると思いますが、それでいいのですか?」

 

「と、いうと?」

 

意味深な感じで言うケトに、私は歩きながら返事をする。

 

「キイさんが、その程度で満足するのかなと」

 

「……一旦公開したものには、自信と責任を持たないといけないよ」

 

論文とかね。後から修正も不可能ではないが、締切までで頑張ってできたものが完成形なのである。なのでそれまでは全力を尽くすし、それが終わったら基本的に頭の中から消し去る。

 

「それもそうですか。いい本だ、そしてこれから作るものはもっといい本だ、と」

 

「自信はほどほどにしないとだけれどもね」

 

結果的にできるのは64(ページ)の小冊子。表紙と本文の紙が同じ、低価格での生産に特化した代物だ。ある種のミシンみたいな糸綴じ機構も作られている。というかこれを発展させてミシンを作れとオマケで最近北方から「総合技術報告」に送られてきた紡績機の模型と設計図面も一緒に関係者に渡してお願いしておいたからそう遠くないうちになにかできるだろう。製品の価格変動を危惧する声もあるが、これについては私は専門外。一応長髪の商者に値崩れを起こしたりしないように流通量調整してとは言付けしてあるので、まあうまくやってくれると信じよう。駄目なら私も出張ります。

 

種を蒔く時期、肥料の量、水はけ、土の見方、雑草取り、収穫、保管。やることも気にしなくてはいけないことも多いが、ざっくりとではあるが一通りを抑えてある。ハルツさんの分析では、これをちゃんとやることができれば収穫量を数割上げることができるらしい。数割というのは決して馬鹿にはできない。そして個人的には、この見積りも甘い気がする。衙堂はもちろん収量増の努力をしてきていたが、多くのハードルのせいで上手くいっていなかった。例えばノウハウの欠如。あるいは誤った経験則。そういうものを排せるだけの根拠が一応ついている。収穫量の変化のグラフだ。これに先んじて、収穫量が増えた地域についての噂を衙堂や商会経由で流すという非常に悪どい情報戦略が採られている。向こうの村で何やら変なことをやっていたが、どうやら収穫が増えたらしいぞと聞けばまあ試してみたくはなるだろう。



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輪転印刷機

「お集まりの皆様、本日はお越し下さりありがとうございます」

 

そう丁寧に言うのはそれなりに整った格好をした「時勢」編集長。彼に向けて軽く拍手をするが、周囲の商者とかからはあまり反応がないどころか冷たい視線を感じる。おっと、これはあれだな。ジェスチャーのミスだ。

 

「ケト君、私がさっきやったことの意味は?」

 

「演劇と同じと考えていいのであればそうですね、『お前の演技は期待できないから舞台より降りろ』と言ったところでしょうか」

 

「へえ、最悪だ」

 

「えっわかっててやった挑発ではないんですか?」

 

「私がそこまで底意地悪いように見える?」

 

「聞こえてるぞ、そこのおふた方」

 

ちょっとした台に乗っている彼がこちらに指を二本向ける。

 

「あー、じゃあキイ先生もこうおっしゃっていることだし、昔のやり方にするか」

 

彼は髪を掻き分け、少し荒れた感じにする。最初に出会った時の、あの不敵な青年の姿がそこにあった。

 

「今日、俺らは印刷を新しくする。今までの印刷は刷るたびに毎回毎回、紙を交換しなくちゃいけなかった。版に無駄な時間ができていた。墨を塗って、紙に押し付けられるまでに、無用な持ち上げられる時間があったわけだ」

 

勢いがあり、ちょっと乱暴だが、しっかりと聞き取れるいい声だ。というかあれだな、相当練習しているな?最初ケトと会った時ごろに声の良さに驚いたのも懐かしい話だが、修辞学の応用みたいなものとしての演説術がある。ここらへんはちょっと複雑だ。言葉を知り、それを活かして相手の心を動かし、それをもって信仰を示す、みたいな。文法学と修辞学まではわかるが、その先に万神学があるというのはちょっと奇妙な気もする。

 

「人間と違って絡繰は休息しなくていいのが利点だ。つまりは、もっと絡繰に任せればいい。そのためにどうすればいいか。気がついてしまえば簡単なことさ。版を丸めればいい」

 

そう言って彼は、機械の脇についていたペダルを踏み込む。大きな鋳鉄製らしきはずみ車が周り、円筒形の版が回転し、紙が吐き出されていく。

 

「一日に数万枚を刷れる代物だ。報知紙に、多く作らねばならぬ本に、あるいは他の分野でもいいが、これの利用可能性は広い」

 

輪転印刷機……とはまた微妙に違うか。紙がロールではない。ああでも回転する版があれば輪転印刷機でよかったんだか?とはいえ、この版が上手いな。紙型だろう。活字の上に湿らせた紙を乗せ、圧力をかけることで紙に形を写し取る。それを曲げて、活字合金を流し込んで丸い版を作って、回転する円筒にセットする。下の方で紙を接させることで印刷をし、上の方でインクをつける。実によくできたシステムだ。私が関与していない機構が色々と組み込まれている。紙送りのところは特にそうだ。リンク機構で場所がずれないようにされた状態で一枚ずつ紙が入っていき、滑らかに出ていく。

 

「……素晴らしい」

 

思わずつぶやいてしまう。周りの視線がこちらに向いた気もするが気にするものか。今までの印刷は手書きの代替に近いものがあった。私が作った印刷機の核心は文字版の利用によって版を作る手間を軽減したという点が大きい。つまり少部数製作は楽になったが、大量印刷に伴うハードル自体は余り変わっていなかったのだ。私のいた世界では産業革命のころにこういう機械が生まれたが、色々と変な方向で技術を発展させた結果ここで生まれるとは。もちろんそういう話を昔したことがあったのでいつかはできると思っていたとはいえ、まさかこのタイミングで合わせてくるとは思っていなかった。

 

「さあて、金の話といこう。今『時勢』の財政は酷いことになっている。これを作るために相当な金と時間と人を使ったからな。ただもしここで終わってしまっては、この機械を活かすことはできなくなるんだよなぁ。特殊な版の作り方を知っている人はそう多くない。これを真似するのも決して簡単じゃないわけだ」

 

ああ、なるほど。酷い話だ。こんな出資の要求があるか?

 

「そうだね、『総合技術報告』からの印刷を頼めるか?」

 

「どれほどだ?」

 

頭の中で急いで計算をしていく。衙堂がハルツさんの本に出せる予算と、印刷コストと、流通とを色々割り引いて、それでいて今のコストよりは下げて、かつ向こうに利益がある程度、となると結構難しいものだ。

 

「三大型表裏印刷一枚につき銅三枚」

 

今の印刷相場の半分とはいかないが少し割り引いた額。とはいえ、自動化しているのであれば十分利益が出るだろう。

 

「なら一台買わせてもらおうか」

 

別の男性が声をかける。

 

「構いませんぜ。ただし価格は銀二千」

 

「買った」

 

ええと、十年ちょっと分の賃金といったところか?それなら数年で元が取れるか。

 

「どうも。支払いについては後でやろう」

 

「資金を提供しよう。利息は年五分でいい。返すのも相当先まで待とう」

 

おっと、かなり気合い入れてるな?額と返済年数を考えると普通に悪くない投資である。

 

「幾ら俺らに賭けるんだい?」

 

「銀二千五百」

 

「もう一声」

 

「二千八百」

 

「よし!」

 

騒がしくなってくる。話が盛り上がり、契約が始まる。証人を呼んでこようなどとしていたら司士であるケトが手際よく動いていた。利益相反とかがあるんじゃないか?と思ったがまあ別にそこまででもないしいいか。あとはこれは正式な衙堂の仕事ではない気もするが、司士というのは独自の判断権が付与されているのでこういうこともできるはずだ。ここらへんは私の感覚と食い違うんだよな。ちゃんと責任をケトが負うわけだからバランスとしては間違っていないのだけれども。



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修理

「で、今回の故障はどれぐらいで直りそうかね?」

 

私はニヤニヤしながら「時勢」の編集長に声をかける。原稿ができたので印刷をお願いしているのだが、どうやらちょっとトラブル発生中のようだ。

 

「そう長くはかからないだろう。今回は多分軸が歪んだだけだ、叩けばいける」

 

「……欠陥品でも場を盛り上げれば投資を得ることができるのか」

 

実際、機構としてはちょっと怪しいところがある。私も見て少しアドバイスをしたが、振動があまり吸収されないようになっていたりした。適切な素材と構造を選ぶことで改善できるはずなのでそれはさっきまとめて渡しておいた。

 

「嘘は言ってねえよ。それに改良の準備は進んでいる」

 

「それについては信じよう。なにせほとんど何もないところからあれだけのものを作ったんだ」

 

「いや、部分部分は既存のものや北方の職人だったか?あの模倣にすぎない」

 

「問題を分割し、適応できる部分を解決し、新しいものでも取り込む。素晴らしいことじゃないか」

 

どう考えても有能な管理職なんだよな。最初は私が半ば脅しで作らせた新聞社もこんなに大きくなって。詩の掲載とか政治論文とかご飯屋さんのレビューとかなんか色々載っているカオスなやつですが、個人的にはプロパガンダ色の強い「視線」よりもこっちのほうが好みです。「視線」は「時勢」の対抗で作られた報知紙で、噂によれば諜報組織上がりの人が編集長をやっているらしい。城邦内の問題とか頭領府の活動をちゃんと扱ってくれるのはいいのだが、あまり面白みはない。いやでも参考になるのは「視線」のほうか。ケトもあれを分析して頭領府の方針を読んだりしているし。

 

「……というより、一番重要な部分はあんたの案だろ」

 

「さあね、そんな三年も前のことなど覚えてはいないさ」

 

「思いっきり覚えてるだろ、というより今更発案所持権について言われてもどうしようもないからな?」

 

「それについては別に主張するつもりもないよ。ただ、ちょっと噂があってね?」

 

「ほう」

 

「あの新型の印刷機の構造や設計が頭領の名で接収されるかもしれん」

 

「……は?」

 

驚いたように彼は言う。

 

「ま、詳しいことは専門の人に投げるか」

 

「どうも」

 

ひょっこりとケトが会話に入ってくる。

 

「これはまだ固まっているわけではなく、噂の段階に過ぎませんが、この印刷機を高く評価している人がいます。報知紙の印刷に使わせるよりも、もっと広くその構造や設計を公開したほうが全体の利益になると考えているようで」

 

「おいおい、この開発にどれだけの時間と費用をかけて、そのためにどれだけ愛想良さを振りまいたと思っているんだ?」

 

「愛想良さは振りまけていたのかい?」

 

思わず私は言ってしまうが、別にこれはいらない言葉だったな。反省しよう。

 

「うるせえ」

 

噂に聞く限り、「時勢」の編集長はちょっと口が悪いがいい仕事をするって評判なんだよな。私相手だと特にラフになるのは間違いないが、そうでなくとも怪しい部分があるそうで。

 

「……まあ、もしそうなれば適切な代償金の額を算定するのは印刷物管理局あたりになるでしょうね」

 

「あいつらか、面倒な手続きを毎度毎度押し付けてきやがってよ……」

 

なるほど、あそこは嫌われているようだ。まあ私がいた時からそれなりに面倒に思われていたらしいが。とはいえ面白いので今度遊びに行った時に話しておこう。

 

「その場合、できるだけの金額を払うように僕からも言っておくことはできますが、資料なども持っていかれる可能性があります」

 

「それは困る、大事な仲間たちだ」

 

あ、こういう言葉をさっと言えるのは強いんですよ。もちろん過度にアットホームな職場というのはあれですけれども。小学生の不登校だった頃に父の紹介で色々な工場とかメーカーとかを回ったことがあったのですが、全員が一致団結している仲間みたいな組織は強いんですよ。もちろんデメリットもありますし、私は馴染めそうにないし、思想的にはそういうものはあまりよろしくないと考えているのだけれども。

 

「なら、今のうちにこの印刷機の重要な点をまとめておくことをお勧めします。代償金はその新規性について支払われるので、きちんと列挙しておかないとその部分が軽視される可能性がありますよ」

 

「人が作ったものを取り上げておいて、それで自分で主張しないと銀を減らすってか、大変だな」

 

「僕もある程度はそう思いますが、社会を動かすためのものなので。文句は頭領にどうぞ」

 

「よし、ならそういう連絡が来たら『時勢』に掲載するか」

 

「本当に強いな……」

 

感心して言う私。彼は過去に裁判をやって敗訴したとは言えそれなりの信頼を得たし、こういう闘いには慣れている方に入るのだろう。判例とかができてくれると行動しやすくなるので政治的に見て嬉しいのはあるのですが、そのためにけしかけるわけにはいかない。

 

「あ、それで話を戻すけど、印刷はどれぐらいで終わりそう?」

 

「予定日には間に合うはずだ」

 

「もう少しなんとかならない?」

 

「夜の油代は高いが、それでもよければ」

 

「んー、ならいいや。今の予定日でも十分早いしね」

 

本来は活版印刷でちみちみやるつもりだったのだが、輪転印刷機のおかげでかなり早く揃いそうなのだ。これなら冬至前に刷られた本を持ってハルツさんのところに行くこともできるだろう。



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権限

「安っぽいですね」

 

ケトは積み上げられた冊子を一つ手に取って言う。確かに安い紙と荒い印刷で、決して頑丈なものではない。つい十年弱前までは主流であった写本のようなしっかりとした装丁と比べれば安っぽいものだ。というか本当に安い。値段は百分の一とかになっているんじゃないか?もちろん開発費であるとか利益とかを入れればもっと高くなるし、学徒の間接的経済援助となっていた書字生制度のときの金額と安易に比較するのはよろしくないが。

 

「まあね。それは否定しない。けれどもこれは考え方を変えてしまうよ」

 

輪転印刷機はまだ一台しかないが、頭領府は交渉と並行してコピー品を作らせている。この設計にかかわる発案所持権については頭領の名においてそれなりの代償金でどうにかするらしい。これについては「時勢」の編集長が頑張っていると噂を聞くが、詳細不明。ま、確かにそれなりの報酬をもらうべきものだからな。科学史や技術史を見れば正当な評価がされなかった例はいくらでもある。むしろ正当な評価がされたほうが少ないぐらいだ。これは「正当」の定義に個人差があって、大抵の人は足るを知らないからです。そして自分が満足して適切な報酬を手に入れる事を諦めると後進が面倒なことになるのですが、まあこれはいいか。

 

「考え方、ですか?」

 

「そう。本は今まで記録のためにあった。学問について書いた本も、講義の代替でしかなかった」

 

「……変わりますかね?」

 

「私が知る限り、変わったよ」

 

「けれども、講義が不要になったわけではないでしょう?」

 

「うーん」

 

私が最初に学会誌に投稿した論文は自分で書いて自分で清書したものだったし、確かにその道の専門家と話して得るものは大きいけれどもそれがなければできないことがある、とは思えない。ああでもケトの言いたいこともわかるんだよな。ここらへん、自分の思想のせいでバイアスがかかっている気がしなくもない。

 

「それでも、新しい方法で知識をやり取りできるようになるのは間違いないよね」

 

「それは、そうです」

 

「あとは古典とか、先端技術の手引とかをこういうふうに印刷できればいいんだがな……」

 

「作ればいいじゃないですか」

 

「そっか私にはそれができるんだった」

 

印刷をやっている人への繋がりも、原稿を集めることも、販路も持っている。なんだ、私はただやろうとしていなかっただけか。

 

「ま、ハルツさんのところから帰ったらやろうか」

 

「そうですね」

 

第四区第八小衙堂、つまりはハルツさんがいる衙堂に冊子を運ぶのは私とケトの役目だ。本来はもっと遠いところまで運んでほしかったらしいが、ケトの里帰りだと言うと衙堂の人たちも仕方ないなぁとなってくれた。よかった。一応著者とのパイプを持っているのも私たちなので、その関係で連絡を頼まれたりもしているが。

 

「そういえば、今回の印刷は早く終わったのか」

 

「四月ほどかかっていますが」

 

「解剖の時に比べれば、ね」

 

「別に、これは僕たちの権限でできることだったからでしょう。結果的に衙堂が資金を提供してくれたりしましたし、流通などの面でも協力してくれましたが、結果的には僕たちの仕事です」

 

「ああ、そう考えると権限が増えたんだなぁ」

 

代わりに責任も増えた。今何かあっても編集員の人にそれなりの一時金としての銀片を渡すことはできるが、私とケトがちょっとどうなるかが怪しい。まあでもケトは一人でやっていくことはできるだろう。それだけの政治力はあるし、私がケトと話している内容で実用化できていないものは多い。その上私がこの世界にもたらすつもりのない知識も断片的には持っているのだ。……そうやって冷静に考えると、ケトは相当な危険人物だな。下手に政治的影響力のない私よりも狙うならケトだろう。

 

「……どうしました?」

 

「いや、少し気の迷いがあっただけ。大丈夫だよ」

 

「そうですか。それで、いつ出かけます?」

 

「仕事の方はだいたい片付けてあるし、冬至を向こうで迎えたいから、四半月後ぐらいに出る?」

 

「いいと思います。ところで」

 

「ところで?」

 

「旅支度はできていますか?土産になりそうなものって買ってあります?僕は向こうの人達に飾りとか買っていくつもりですが、ハルツさんに何を買うかは悩んでいて」

 

「元気な様子を見せる、とはいかないか……」

 

司士と司女として会うのであれば、それなりのものを持っていくのが礼儀というものだろう。というか礼儀なのだ。プロトコルはそこにあるなら守った方がいい。

 

「何か、便利なものでもあればいいのですが」

 

「ハルツさんならそういうの買っていそうだけどなぁ」

 

硝子筆(ガラスペン)だってどこ経由か知らないが手に入れていたのだ。

 

「昔から手紙のやり取りは結構していましたし、多分そうですね」

 

「何にする?」

 

「……食器とかはどうでしょう」

 

硝子(ガラス)製の深盃とか?」

 

「確かにあまり運ばれていないでしょうし、客人に出すのにもいいでしょうね」

 

「じゃあ4つぐらい買っておくか」

 

真空管とか鏡を作る過程で色々培われた硝子(ガラス)細工の技術も独立に進んでいて、一つにつき銀一枚も出せばそれなりに良いものがしっかりとした梱包付きで買える。少しづつ作れるものも増えて、市場が徐々に豊かになっていくのは見ていて楽しいんだよな。



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第22章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。細かい機構がちゃんと描写されないのは作者が考えてないからじゃないかと邪推するような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


開封

となると、当時のハルツさんは十代後半といったところか?

歴史的に見てこの年齢に最初の出産をすることは決して珍しいことではないが、それでも一人で子供を育てるのは相当大変である。ハルツさんはかなり強い人だったに違いない。

 

農業

ここらへんは結構性善説システムなので、早めにレッドチームを編成したいところだ。

レッドチームはセキュリティなどの分野で脆弱性の検証などのために結成される攻撃用のチームのこと。防御側はブルーチームと呼ばれる。本来は机上演習などから来た軍事用語。

 

命令

天賦人権説は採用されていない。

人間は生まれながら自由で平等であり、基本的人権を持つという考え方。西洋における自然権の考え方と地続きだが、儒教などの影響も受け日本で発展した。とはいえそんなに「自然」であれば論理的に導き出せたり、あるいは全ての文化で共通した概念が見られなければならないのでそんなものは存在しないと考える人もいる。

 

なんで農地改革が成功しているんだよ。

農地は耕作者が持つべきという考え方のもとに地主から小作農に土地の権利を移した連合国軍総司令部の政策についての言及。日本ではそれなりに目的を達成したが、類似の試みが行われた例を見る限り成功率は高いとは言えなさそうだ。

 

そういうわけで主要農作物は衙堂を通さない販売が禁止されている。

モデルは農協。別に農協を通さない販売が禁止されているわけではないが。

 

地方巡りとかしてドブ板活動をしなくていいのは楽だ。

ドブ板とは道路の脇にある排水口に乗せられた板のこと。この板を渡ると個人の敷地になるが、それを越えて一軒一軒訪ねて行うような活動のこと。現在は公職選挙法一三八条によって戸別訪問が全面的に禁止されているので、選挙活動として行うことはできない。

 

ロビー活動で色々な事ができてしまうのはそれはそれで問題な気もするが、

ロビー活動は議事堂などの「ロビー」で有力者に声をかけることで政治的影響を与えようとしたことから来ており、うまくやれば一人に対して働きかけるだけで大きな政策方針変更などを実現することができる。なかなか聞き入られることのない少数派の声を政策決定者に届ける事ができるという側面と、そういう活動ができるほど余裕がある大きな団体や組織への利益誘導になるという側面があるのでめんどくさい。

 

これぐらいなら今の「総合技術報告」編集所のキャッシュフローでも対応できる。

非常に雑に言っていいならば、手持ちの現金の流れのこと。利益を上げていてもそれを次の投資に回しすぎたりしているとキャッシュフローが悪くなってすぐに現金が必要な時に困ることになる。

 

議論

Accademia dei Linceiよろしく動物の名にでもあやかるか?

Accademia dei Lincei(山猫学会)はフェデリコ・チェージらによって教皇領のローマで1603年に設立された団体。自然科学に力を入れており、今日の学会の起源の一つとされる。なお、Lincei(山猫)の名は当時の知識人であったジャンバッティスタ・デッラ・ポルタが書いたMagia Naturalis(自然魔術)内の言葉が由来。なおジャンバッティスタ・デッラ・ポルタもAccademia dei Segreti(秘密学会)という団体を作っている。当時はこういうのがいっぱいあったのだ。

 

とはいえこの世界にはディオスクーロイもいなければ彼らに助言した人もいないので

Διόσκουροι(ゼウスの息子ら)とはギリシア神話に登場するカストールとポリュデウケースの兄弟を指す。ラテン語読みならカストルとポルックス。プルタルコスの述べるところによると、さらわれたヘレネーを救おうとした二人にアカデモスという人物が彼女の居場所を教えたという。その彼の聖域とされる地にプラトンが作った学園はアカデミアと呼ばれ、アカデミーという言葉はここから来ている。

 

来なくちゃいけないことの裏返しでなければいいのだけれどもな。

発展途上国や政治的・経済的に不安定な地域ではそうでない地域よりも女性の理工系分野への進学率が高い傾向がある。これはそうやって手に職をつけることが将来的に求められるからで、これが果たしていいことなのかどうかはわからない。

 

てなわけで、オープンスペーステクノロジーめいた会合の始まりである。

オープンスペーステクノロジーはハリソン・オーウェンによって開発された会議方法である。ノリとしてはコーヒー休憩のおしゃべりを体系化したものに近い。

 

引力

「ええと、月までの距離は月食と大地球の位置から計算できます」

古代ギリシアの天文学者ヒッパルコスによる観測と計算がモデル。

 

この世界でも金環日食と皆既日食が起こる。

月と地球を一つの系と考えた時その角運動量は一定に保たれるが、潮の影響があることで地球の角運動量は消費される。そのかわりに月の角運動量が増加し、公転半径が増加する。そのため数億年後になるだろうが地上から見た太陽よりも月が小さくなってしまうために皆既日食が起こらなくなる。

 

それになんだ、距離の二乗って。引く力は明るさか何かなのかい?

私たちの知る科学史では光との類推から万有引力の法則における逆二乗則が作られたが、それを前提にしている。

 

期間の二乗は、半径の三乗に比例するんですよ。

ヨハネス・ケプラーがHarmonices Mundi(世界の調和)内で1619年に発表した法則。ケプラーの第三法則として有名。円運動であれば高校物理のレベルで扱える。

 

いえいえ、僕がやったのは最初の最初だけで、後は色々と本職の天文学師とかがやってくれたんです。

ヨハネス・ケプラーが惑星の運動を計算できた理由の一つとして対数の利用が挙げられる。というか先程挙げたHarmonices Mundi(世界の調和)の中に思いっきりジョン・ネイピアの話が出てくるし、彼と独立に対数を利用していたヨスト・ビュルギがヨハネス・ケプラーの計算係をしていた。

 

楕円もだいたい似たようなものなので、射影幾何学とかを使えば同じように考えられる。

プロジェクターで円を映す時、スクリーンとプロジェクターの位置関係を変えると楕円になる。射影幾何学はこのような射影変換をもとにした幾何学のこと。数学的にシンプルであるが、無限遠点の導入などの普通のユークリッド幾何学からすればあまり直感的ではないものが色々導入されている。

 

進捗

というかそれがあれば博物学者、いやこの世界で言うなら自然学師か?の素質としては十分なのだ。

ここは作者の思想が出ている。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチは多くの分野において記録を残したが、これは好奇心と絵の巧さがあって、そこにちょっとした完璧主義があれば誰でもできることだと思っている。いやそんなやつはまずいないが……。

 

商会の工房で水銀灯の研究をしている人達もいるが、

ここでの水銀灯は数気圧の水銀を使った電灯のこと。青白い光をそれなりの効率で出すので便利だが、当然水銀が含まれているので健康問題は否定できない。昔からある体育館とかで電気がつくのに時間がかかっていたらこれが使われている可能性がある。

 

大学病院とかぐらいのことしかしていないけどさ。

たいてい大学病院には研究・教育機関なので科学の進歩のためにご理解ご協力をお願い致しますみたいな断り書きがあるので、それを踏まえたもの。

 

有機

そうしたらその師は笑って、自分の誤りを認めて、それを発表するように言ったんだ。

研究者は自分の成果が後の研究で否定されたりすると喜ぶことがある変な生き物である。もちろんそうでないものもいるが、それはよくない。

 

自信

そりゃまあ比較優位を考えれば他の人ができない分野があるなら他の人に自分以外でもできるものを任せるべきだけどさ、

比較優位(comparative advantage)はデヴィッド・リカードが唱えたもので、例え生産効率が悪い方の商品であっても貿易関係によっては作られることがあるというもの。これに色々なものを組み込んだ貿易モデルが現代の経済学では扱われているが、数学が主要言語なので経済学を学ぶ人は頑張ってほしい。まあそうは言っても基本的に足し算とか変化量の計算とかだから……いや角谷の不動点定理レベルになると普通の理系でもキツイな……。

 

最適な組み合わせが、誰もが納得できるものである保証はどこにもないのだ。

比較優位の考え方を利用すると「貿易を考えると効率が悪いものを生産せざるを得ない」状況になる時がある。例えば農業のような生活に直結する産業が発展途上国において非効率的となる例などが挙げられるが、こういう状態はちょっと国際情勢が混乱して輸入が途絶えると大変なことになる。

 

輪転印刷機

ああでも回転する版があれば輪転印刷機でよかったんだか?

問題ない。

 

修理

振動があまり吸収されないようになっていたりした。

この手の問題を解決する方法は頑丈なフレーム構造を用意したり固有振動数を調節したりダンパを設けたりと色々ある。さあ振動工学をやろうぜ。制御理論とかも出てくるよ。

 

権限

これは「正当」の定義に個人差があって、大抵の人は足るを知らないからです。

知人者智、自知者明。

人を知る者は智にして、自らを知る者は明なり。

 

勝人者有力、自勝者强。

人に勝つ者は力有りて、自らに勝つ者は强なり。

 

知足者富、强行者有志。

足るを知る者は富みて、行ひ强むる者は志有り。

 

不失其所者久、死而不亡者壽。

其の所を失はざる者は久くて、死するも亡びざる者は壽なり。

 

(人を知る者に智識があるが、自らを知るものが聡明である。人に勝つものは力有るが、自らに勝つ者が強いのである。足ることを知る者は富んでいるが、実行する者は志を有している。存在を失わないものは久しいが、死するも滅びないものが寿である。)

 

──老子によるとされる「老子道徳経」三十三章より。書き下し文と日本語訳は筆者による。

 

「足るを知る」は老子の思想の重要な部分であるが、愚民政策の根拠とされることもあった。



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第23章
追懐


かつてひ弱な女性と少年が歩いた道を、それなりに体力がついた私とかっこよくなった青年が歩いている。ちょっと今日は冷える。緯度もあってそれなりには暖かいのだが、外套があるに越したことはない。

 

「この調子なら予定通りに到着できそうですね」

 

私の持つ地図を横から見ながらケトが言う。今歩いているこの道はそれなりに重要な街道なので、最近測量がされたのだ。安全保障の観点からちゃんとしたものは見せてもらえないが、方角と距離がわかるだけでもそれなりに助かる。とはいえまだ三角測量の大々的導入までは進んでいない。ここらへんはまだ必要なノウハウの蓄積が足りていないというのもあるのだろう。世界地図、早くできて欲しいものだ。そうすれば色々な計画がやりやすくなる。世界征服を企む時に、後ろにある地図に欠けがあるのはあまりいいものではないしね。一応航空機とか人工衛星とかで撮影することもできるが、まだハードルが高い。飛行船とかなら行けるかもしれないけれども、そこまでのコストをかける価値がこの時代にあるかはちょっとわからないですね。

 

「ま、私はハルツさんのところについたら数日身体の痛みで寝込みそうだけど」

 

身体の衰えと筋肉の発達が均衡していて、ここ数年はそれなりに思い通りに動ける。たぶん肉体的にどうにかなるのは十年もない、か。私は決して恵まれた肉体を持っているわけではないし、むしろ非力な方だ。ケトみたいにしっかりと筋肉がついているわけじゃない。ケトは小柄に見えるけど、私を持ち上げるぐらいならできるだろう。私?んー、ケトを背負うぐらいならなんとか。それ以外の持ち方をすると多分無理。

 

「もっとちゃんと動いたほうがいいですよ」

 

「わかってはいるよ。最初にあった時からするとかなり筋肉もついたはずだし?」

 

「……まあ、あの時の身体は柔らかかったですけれども」

 

「そっか、移動させたんだよね。というか私はどういう状態だったの?」

 

「旅の人が運んできたんですよ。その人は急用があると言って去ってしまいましたが」

 

「なるほどね。で、私はどれぐらい寝ていたの?」

 

「丸一日ぐらいです」

 

「……なるほど。その間に手当をしてくれていたのか」

 

そう言えばこの時の話をケトとしたことがなかったな。本来ならそういう話をするべきタイミングでやっていたことは疑問代名詞の特定とかだし。

 

「服はどうしたの?」

 

「着ていなかったそうです。奪われたりしたのかもしれませんが……」

 

「ん、まあ確かにあの時の服はこっちでは決して安くはないだろうからなぁ」

 

木綿100パーセントの長ズボンとTシャツ、あとショーツだっけな?合成繊維ではないからオーパーツにはならないはず……、いや染料があれだな。まあそれが分析できるようになる頃には合成もできるようになっているからいいいか。

 

「そんな特別な服だったんですか?」

 

「機械織りだから、目が詰まっているんだよ」

 

「ああ、それなら納得しました。布は目を細くするほど手間がかかりますからね」

 

「そういうこと」

 

……今から考えると、当時十代後半ぐらいの少年に私の裸はどれぐらい刺激的だったのだろう。確かに裸自体に対する羞恥はないがあくまでそれは見るだけであって、触る時は別だろうし。ここらへんはまあ、別に本人にわざわざ聞く必要もないか。私だって思春期の色々を掘り起こされたら衝動的に死を選んでしまうかもしれないぐらいのものは持っているわけだし。

 

「手当ては一人で?」

 

「そうです。あの時はハルツさんが半月ほど出かけていたので」

 

「出かけることってよくあるの?」

 

「僕が小さい頃にはあまりありませんでしたが、声変わりする前にはもう留守にすることも多かったですね。少し変なところにある衙堂なので、あまり人は来ませんでしたが」

 

「あれ、じゃあ私を連れてきた人は?」

 

「……何なんでしょうね?」

 

「ま、ここらへんはあまり考えなくていいか」

 

「……すみません」

 

「何が?」

 

「嫌なこと、思い出したりしませんでしたか?」

 

「確かにここに来た時は大変だったし、苦労したし、もう一度経験したいとは思えないけどさ。それでも楽しかったし、ケトくんに会えた」

 

「僕、ですか」

 

「そう。私がここで何かをするとしたら必要な条件を満たした人だったしね」

 

知識と適応力があって、私をちゃんと見てくれる人。かつての世界では、実はあまり出会えなかった。知識がある人はいっぱいいた。適応力もそれなりに。けれども、私をちゃんと見てくれる人はそういなかった。……いや、違うな。多分いたんだ。私が見られていることを意識していなかっただけで。ちょっとなんか嫌な気分になってきた。お腹が空いたのかな。

 

「ちょっと休まない?」

 

「もう少しで宿にする場所ではないですか?そこまで行ってしまいましょうよ」

 

ケトが指を指したポイントを見て、私は何だったかなと記憶を探る。

 

「ええと、どこだっけ?」

 

「前に泊まった衙堂になりますね」

 

「あそこか」

 

老司士がいたのを思い出す。あの人も確か図書庫の城邦に長くいたんだよな。今なら色々な話ができそうだ。



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死生観

「それでは、また帰りに寄ると思いますがそのときはよろしくお願いします」

 

頭を下げるケトと、それに合わせる私。

 

「構わんよ」

 

そう返す白髪の老司士に見送られて、私たちは目的地に歩いていく。うまく行けば夕方には着くだろう。少しペースを速めておく。

 

「昨日はかなり遅くまで話し込んでしまいましたね……」

 

少し眠そうなケトが言う。それでも足取りは軽い。まったく、若いのは良いなぁ。

 

「いいことだよ、自分の意見を持てるようになっているのは」

 

私はそう言って呼吸にまた意識を集中させる。酸素を全身に回せ。

 

「まだ駄目ですよ。自分の意見と相手の意見からいい具合の結末に持っていけるようにならないと」

 

「それができる大人はあまりいないよ」

 

「これが子供とか大人の問題ではありませんよ、仕事のための技能です」

 

「あまり色々と目指しすぎても限界があるよ」

 

ケトぐらいの年齢だと、できることがいっぱいあるから全能感を持ったりするのだろうか。ただちょっと違う気がするよな。この世界の子供の発達段階のモデルとかも心理学の観点から作ってみたいが、どうせ関わるなら統計と研究をベースにした再現性を重視するタイプの学問として心理学を作ってみたい。いや別に元いた世界の心理学が駄目ってわけではないですけれどもね、スペクトラムを切り分けるならそこに線を引く理由をきちんと用意してもらわないと。$\sigma$ とかでもいいですけどさ。

 

「キイさんは、結構諦めているように見えますけど」

 

「いや、だって変化が急すぎると問題が起きた時に対応できないから」

 

機械による自動化の基礎が少しづつできつつある。蒸気機関がまだないので水力か、あるいは研究途上の電動機(モーター)を使ってみたりだとか。これが実現すれば仕事の体制そのものが変わるが、そもそも単純労働力を学徒に頼っていてそこらへんを代替することに対してあまり忌避感が無いことがラッダイトめいた反発を抑えてくれている。なんというか、奇妙な形で想定していた歪が吸収されているんだよな。この世界の社会的レジリエンスの高さを感じる。えっ工学用語を雑に使うなって?今回の場合ちゃんと「社会的」ってついているから私の中では問題ない。あとは普通の英単語なので工学も使わせてもらっている側に近いしね。

 

「……そう言って、手を抜いていませんか?」

 

「全力を出す必要はあまりないけどさ、やっぱりわかる?」

 

「力を入れている時と抜いている時の差が激しいんですよ。そういう事していると辛くありませんか?」

 

「私は大丈夫……とはいえ、多分そろそろ辛いかな」

 

院生時代は徹夜なんのそのだった時期もあるが、今では駄目だ。日が沈んだらすぐに寝台に行くような健康的生活を送っている。夜遅くまで作業することもないわけじゃないが少ないよ。本当。信じて。

 

「キイさん、若いと思っていても老いはすぐやってくるんですよ」

 

「わかっちゃいるけど年下に言われると嫌なものがあるな……」

 

後で頭ぐりぐりしてやる。まあ別にケトならいいんだけどね。他の人なら笑顔で老いとはなんですかと質問を返しているところだ。

 

「……そう考えると、ハルツさんも老いて、死ぬんですよね」

 

「人は誰しもそうだよ。私だってお世話になった人が死んだことがないわけじゃないし」

 

「そう、ですよね」

 

「……死んだ人が行く場所、みたいな考え方ってある?」

 

「んー、確かにそういう考え方がある地域があるのは知っていますけれども、城邦だとどうなるんだろうな……。それぞれの信じる神のところに行くとかでしょうか?迎えが来る、みたいな言葉がありますから」

 

「ケトはどう思う?」

 

「死なんて二度と覚めない深い眠りみたいなものでしょう?認識できないことをとやかく議論しても意味がありませんよ」

 

「とはいえ死の恐怖は誰にでもあるよ?」

 

「それは生の欲求を勘違いしているだけです」

 

「違うの?」

 

「違いますよ」

 

これは噂でしか聞いたことがないからあれなのだが、どうやらケトの宗教観というものは少し偏っているらしい。もちろん他人にそれを押し付けることはしないし、他人に危害を加えることを正当化したりするような無茶苦茶なものではないけれども。まあ私と価値観が違うこと自体は当然と言うか構わないんだけれどもさ。とはいえその原因になった人物はまあ、ハルツさんだよな。たった一人からしかそういう教育を受けてこなかったというのは、やはり良くも悪くも影響を受ける原因になる。ケトの育った衙堂の蔵書を思い出すと、今の知識ではかなりの量であったことはわかるが多分あれはハルツさんの計らいなんだろうな。今ではともかく、本というのは相当な手間が必要なものだし。

 

「キイさんは、どう思いますか?」

 

「意識とか、自分が生きていると思う感覚は脳の中で起こっているある種の薬学的、あるいは電気的反応によるものだから、死というのは導線を切って電灯を消したりするようなものだよ。ただの現象」

 

「流石にそれを完全に納得してしまうと、生きる意味などというものが虚無化しませんか?」

 

「バレた?都合のいいときだけ私はそういう考えを信じるし、そうでない時は考えない」

 

「ずるいですね。正しいと思いますよ」

 

「ケトは本人が満足しているならそれでいいと思うの?」

 

「僕が、というか衙堂の考え方ですね。あくまで人々の生活を支えることが目的であって、深く介入しすぎないというのが規則みたいなものになっています。もちろん司士や司女の立場を離れて相談に乗るのは、その人の選択として尊重されますが」

 

「なるほどね」

 

私の肩書としての司女はあくまで名誉職に近い。まあそれだけ評価してもらっているのだと考えるべきだが、司女としての価値観がないのは問題あるよな。そういう話もハルツさんとしてみるか。



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帰郷

少し離れたところで、ケトとハルツさんが抱き合っている。再会というのはいいものだ。私にはしばらくできそうにないが。確かに戻るところがあったほうが良いのかもしれないが、私にとってこの世界でそういう場所があるとしたらケトの隣か、あるいはハルツさんのところだ。つまりは今である。とはいえ邪魔しちゃ悪いよな。

 

なにか色々話し合っている様子である。聞き耳を立てると成長とか健康とかについて色々ハルツさんが言っているらしい。母親かよと思ったがそうだった。血の繋がりはなくとも、与えた影響はかなりのものだろう。私よりも長い付き合いなわけだし。ええ、別に嫉妬とかそういう感情ではないですとも。

 

まあそうやって二人の会話が落ち着くのをぼんやりと待っていたら、のすのすとハルツさんがこちらに近づいてきた。

 

「キイちゃんも、大きくなって」

 

そう言ってハルツさんは私の肩をバシバシ叩く。

 

「身長でしょうか?」

 

もちろんこれは冗談。なおケトは成長したとはいえ、まだ私の背丈を越してはいない。ハルツさんの背は超えた。一応私はこの世界ではそれなりに背が高い方なのである。

 

「風格よ」

 

ハルツさんの手の指にできたペンだこを見るに、私と同じぐらいの量の文章を書いていると考えられる。……この場所で?ふんだんに紙を使える私と同じぐらいに?何かがおかしいと感じる自分と、まあハルツさんだからなと思っている私がいる。別にハルツさんとそう長い付き合いでもないんだけれどもさ。

 

「……キイ嬢、ようこそ第四区第八小衙堂へ。まあまずは中へ。寒いでしょう?」

 

「お気遣いに感謝します、ハルツ嬢」

 

私とハルツさんの会話の口調が変わったのに気がついたらしく、ケトがなんかため息をついている。

 

「どうしたの?」

 

「いえ、なんか面倒事が起こりそうな気がして」

 

そんな私が人と関わると何かしらの厄介事を起こすようなこと言われても心当たりがありすぎて困ってしまうんですが。

 

「ケト、私が久しぶりに会った友人に酷いことしたことなんてあった?」

 

おっとハルツさんはふてぶてしさがあるな。ケトが指を折って数え始めたので私とハルツさんはすっと目を背けた。いや別にハルツさんが聖人だとは思っていなかったし、十代の頃までしかいなかったはずの図書庫の城邦で名が知られていた事を考えると相当性格が悪い、言っていまえば私の同類みたいな存在だということはわかっていたがこうやってケトが堂々としてくるとちょっと、ね。

 

「ああ、これが作ったものです。全部刷るのは時間的にも内容の精査という面でも困難だと判断されたので、こうなりました」

 

そう言って私は話題を変えようと鞄から荒い紙で刷られた冊子を渡す。

 

「大きさの選定理由は?」

 

ハルツさんは興味深そうに紙をめくりながら言う。

 

「持ち運びができるように、という点ですね。巻いてしまうと見たいところが見れませんし、こういう構造なら大きな紙に刷ってから切って折って縫ってとすればいいので、時間がかからないわけです」

 

そんな会話をしながら私とハルツさん、あと後ろからついてくるケトは応接スペースみたいなところに入る。

 

「お茶、出す?」

 

「飲みます。あとそうだ」

 

私はケトに目配せをする。

 

「土産です」

 

それに応じてケトが包みをすっとハルツさんに差し出した。

 

「何かしら」

 

そうわくわくしたように言いながらハルツさんが包みを開け、箱の中から紙で包まれた品物を取り出す。手付きが丁寧なんだよな。こういうところから資料を扱ったことがあるかがわかると言っていた先生を思い出す。

 

「……なかなかいい品物なんじゃない?」

 

硝子(ガラス)の深盃を光にかざしながらハルツさんが言う。あ、どこらへんを見ればいいのかわかっている目だ。気泡の有無とか、あるいは回転の時に生まれる歪とかを見ているのだろうか?カット自体はそう複雑でもないはずだから華美というほどでもない、はず。まあ硝子(ガラス)の深盃自体が華美だと言われたら仕方がないが、目で楽しみながら何かを飲むのはそれなりに大事ですよ。ピルスナーとガラス加工技術の話とか、まあ技術史というか飲食文化史とかの側面からはちょっと怪しい気もする話としてではあるが存在するし。

 

「応接に良いかと思いまして」

 

ケトが言う。切子に近い細工入りのものだ。なお研磨装置も旋盤で作ったものである。これのお陰で足踏みとか水車とかで滑らかな研磨面を容易に作れるようになったので、作業効率とかがかなり上がっている。かわりに私が紙製防塵マスクの開発案を出すことになったが。労災が起こるのは仕方がないが、発生を知っていて放置するのは倫理上問題が多すぎるんだよ。

 

「うん。気に入った。これなら色がいいやつを選んじゃおうかな」

 

「どういうものがあるんですか?」

 

私が聞く。

 

「小果と炒り麦を混ぜたもの。酸味があっていいのよ」

 

「なるほど」

 

「ちょっと待っててね、沸かしてくるから」

 

「やりますよ」

 

「ケト、お客さんは待っていなさい」

 

「……はい」

 

ケトは少ししょぼんとして座った。ま、ここはお言葉に甘えましょうか。



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関係

「……おいしい」

 

軽く炒っただけだからかあまり焦げの味がしないが、物足りなくはない。むしろ小果の酸味が効いている分いい。そして赤色は皮由来だろうか。全体として赤みがかった茶色で、かつての世界での紅茶を思わせる。

 

「でしょう?」

 

ハルツさんが自慢げである。

 

「普通は酸味がきつくなるはずなんですが、これはそうでもありませんね」

 

ケトが言う。私はそこらへんの知識がないのでちょっと驚きだ。確かに酸いといえば酸いが、きついというほどではない。

 

「熟しきったところ、落ちる寸前で収穫するのよ。一粒一粒色味を見て取っていくから手間がかかったのよね」

 

「なるほど」

 

そう言って私はまた一口。焦げた色はあまりないがいい匂いがするので燻製みたいなことをしたのかもしれない。まあ、こういう時は出されたものをしっかり味わってしっかりと感謝をすればいい。ハルツさんに後でレシピは聞くつもりだけど。

 

「それで、北に行って何かあったの?」

 

「北?」

 

そう言って私は頭の中で過去を探る。去年の冬は長卓会議の後の法律とかのごたごたで、となると二年前のことになるのか。気がつくと時間が溶ける溶ける。40になるのもそう遠くないな。

 

「そうですね、鋼を安くしたり、布の価格を暴落させる準備をしたり、あとは戦の火種に油を注いだりでしょうか」

 

ケトが言う。うん、だいたい間違っていないな。

 

「それについては後でちゃんと話を聞きたいけど……二人の間に何もなかったの?」

 

「んー……」

 

ケトが唸り声をあげる。私も少し考えてみるか。基本的には一緒に行動していたし、そりゃまあ口論がオーバーヒートすることがあったのは否定しないが翌日には落ち着いていたし、ハルツさんが気にするようなこと、あったかな?

 

「私の方は心当たりないですね」

 

「……ならよかった。子供を北の方に置いて来たとかだったら縁切るぐらいのことは考えていたから」

 

「えっ」

 

ケトが固まる。私は話の内容が飲み込めない。

 

「いえね、中には変な詮索をする人もいるのよ。もとからの予定が長引いて、一年近くも向こうにいたわけでしょう?何かあったと考えるのは仕方がないわよ。男女なんだし」

 

「僕……と、キイさんが」

 

「そう」

 

ハルツさんはあっけらかんと言う。ええと、まあ別にセンシティブというものでもないか。私はそれなりにこの世界で年齢重ねたとは言え生理は続いているのでありうる話だし。妊娠可能な年齢にある女性は妊娠している可能性を排除するな、という話を昔読んだことを思い出す。

 

「とはいえその様子だと……本当にケトは司士なのね」

 

「それはまあ、ハルツさんに教わった身ですから」

 

「いや私、学徒時代はそれなりに遊んでたのよ?」

 

「待ってください、まさか図書庫の城邦でハルツさんの名前が知られているのって」

 

「多分違う。共寝した相手はあまりいないし」

 

はいはい比喩表現。共寝、まあつまりは同じ寝台で寝ることだがこの行為自体は私とケトも定期的にしている。あったかいしね。とはいえこれはまあ、そういう意味だろう。

 

「……キイちゃんがわからないなら、まあちゃんと隠蔽には成功してるのかしらね」

 

「隠蔽?」

 

「この話はあまり面白くないし、酒精も入れずにはしたくない……と言えば、今は勘弁してもらえる?」

 

「いいですよ。ああ、それでケトくんが固まっていますが」

 

私は視線を当のケトに向ける。大丈夫だろうか。

 

「……本当に、ここを出た時と変わってないのね」

 

「ケトは変わりましたよ?政治的案件に思いっきり首を突っ込んでうまくやり過ごせるようになりました。そういう能力であれば図書庫の城邦でもそうそういない人物であると思いますが」

 

実際傑物だとは思うんだよな。とはいえ表で色々やる人間ではない。裏方の調整役になるにもまだ顔がそこまで広いわけではないからな。とはいえ私が変えようとしている技術方面の関係者との繋がりはなんだかんだであるし、そういう人たちの集まりにも呼ばれているらしい。あまり行っていないそうだが。私はどうも呼ばれないというか、本人を呼んだら台無しになるとかなんとか。愚痴かな?結構なことである。相当無茶させてるのはわかってますとも。私の知る科学技術史の年表を数十倍速でやっているのだ。苦情も来るだろうし、歪みも出るだろう。それを解決する策なら用意できるが、面倒な仕事を無くすことはできない。まあだからといってケトを巻き込むのはちょっとどうかと思うのでどっかのタイミングで顔を出しに行こうかな。

 

「呼び方」

 

そう言われて私は確かに最初の頃に学んだ呼び方をそのまま使っていることを思い出す。一人称はさすがに「僕」から変えたけれども。

 

「……ああ、司士にもなった彼に『くん』などとは、みたいな話でしょうか?これについては慣れてしまったので」

 

「いえ、『くん』や『さん』などとつけているということよ」

 

「まあ、今更変えるのも……」

 

「僕はいいと思っていますよ、今でも」

 

「……ふうん」

 

ハルツさんは満足げである。ま、よかった。



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速度

「……まず、何から話せばいいですかね」

 

私は深盃を空にして呟く。おいしかったな。

 

「やってきたことが多いですから、何を聞きたいですか?」

 

「そうね……例えば、なぜその行動をしたのか、とか」

 

ハルツさんはちょっと嫌なところをついてくる。確かに私の行動にはある程度一貫した物があるが、ケト以外にはちゃんと話していないし私だってちゃんと自覚しているわけじゃない。

 

「具体的な行動を一つ挙げてくれれば、説明しますよ」

 

「そうね、なら無線通信について」

 

「……ハルツさん、それはどこから聞いたのですか?」

 

「古い友人からよ」

 

ケトの質問にハルツさんは表情を変えずに答える。ああ、ケトが警戒しているのがわかる。ここはできるだけ流すべきなのだろうが、まあ私だってちょっと肩に力が入ってしまっているな。深呼吸。

 

「情報のやり取りの速度は、様々な点で重要だということの説明は必要ですか?」

 

「不要よ。進軍、取引、謀略、反乱。どれにとっても正しい情報をできるだけ早く手に入れることは大切だものね」

 

きな臭い分野ばかりを挙げてくれちゃって。ま、確かにそういう方面の応用は可能だろうし、勘のいい人は着手しているだろう。特に無線通信は何かを敷設しなくてもやり取りができて便利だし、そこらへんが応用される可能性は高い。私の想定した通りに学術研究システムが機能すれば、ジャミングに対する周波数ホッピングまで到達するのにそう時間はかからないだろう。対抗策がいたちごっこになれば技術発展がおまけで生み出されたりするし。

 

「……情報のやり取りができる速度は、支配権を決定します。古帝国の崩壊理由の一つが、馬の消失であることはご存知ですか?」

 

「ちゃんとは読んでいないけれども。『我々は馬に跨って地の果てよりやってきた。さあ、共に手を携えて大きな事をなそう』でしたっけ?」

 

古帝国が平和的に統合をしようとした時の自己紹介みたいなやつ。なおここで反抗すると大変なことになります。大抵はそういう噂のほうが古帝国の版図拡大よりも速かったのでそれなりに併合というか支配下というか影響下に入った。この騎乗動物についての資料は少ないが、角があったというので多分私の知っているウマじゃない。骨格とかあればわかるのだが。多分何らかの理由で私の世界におけるウマのニッチを占めた動物が家畜化されて騎乗動物として活用されたのだろう。

 

だが、その動物はなぜか消えた。理由は文献の中からは確認できなかったが、どうやら出産についての問題があったらしい。これは私の妄想に近いものだが、品種改良の結果専門家の助けなしに分娩できないほどに家畜化されたのかもしれない。蚕みたいだな。

 

「通信の速度が保てなければ、一体となることはできません。緩やかな繋がりであれば他の工夫で維持できますが、それでもやり取りが高速であるに越したことはありません」

 

「わかるわ。……それで、それを作って何をしたかったの?」

 

「やり取りされる情報を増やしたいんですよ。今はまだ声を送る程度しかできませんが、適切な機構と組み合わせれば本を送ることだって可能になるでしょう。海を超えて、船よりも速く情報を送ることができればそれだけ様々な変化を生むことができます」

 

「……つまり、キイちゃんは変化を望んでいるわけ?」

 

「ええ」

 

「……それが、どういう方向に変化するかを制御することなく?」

 

「例えば大戦乱であったりといったものを危惧しているのですか?」

 

「ええ」

 

「起こるものは起こるでしょう。それにたどり着くのが多少早くなるとしても、それは解決をも早めているのですから」

 

半分は欺瞞。そもそもランダム化比較試験が困難な事象なのだ。エビデンスを用意するのも楽じゃないから、私の意見は口からでまかせに近い。反論不可な内容を提示するのは良くないと思うけれどもね。

 

「……変化というのは、常に犠牲を伴うわ」

 

「なら今の状態を見過ごせと?飢えのせいで乳を出すこともできず子を亡くす母の嘆きを、仕方のないものだと諦めろと?」

 

「戦火で家と家族を喪った娘の嘆きと、どちらが悲痛に聞こえる?」

 

んー平行線。ここは別方向のアプローチが必要かな。

 

「例えばですよ、ある薬の作り方がわかったとします。それを伝えて、実際に各地で試して、結果を確認しなければ大々的には使えませんよね」

 

「ええ」

 

ここまではハルツさんとも合意が取れた、と。

 

「その時に、情報のやり取りの速さはあらゆるところで効きます。結果、問題の把握から解決までを短期間で行えるようになるわけですよ」

 

「問題の拡大の速度も同時に上がると思うけれども?」

 

「全ての問題が情報のやり取りで起こるわけではないですし、そういった問題を抑えることは十分に可能でしょう」

 

「なら、抑える必要があるわね。何が必要?」

 

私はここで少し考え込む。実際に問題を把握し、事前に防ぐか、あるいは発生した問題を解決するまでの準備を整えるために何があればいいだろうか?専門家?言うのは簡単だ。考えなくちゃいけないのはその先。どんな専門家を、どのように揃える必要があるか、だ。私一人では不可能だし、多分今の状態では人的資源が足りないだろう。ここらへんは、ちょっとハルツさんと話しながら考えていくか。



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教育

「……問題を解決するための流れ、を一旦まとめましょう」

 

私は紙と硝子筆(ガラスペン)と墨入れを取り出す。

 

「まず問題を把握する必要があります。そしてさらなる調査を行い、問題の本質を把握します。解決のために必要なものをそろえ、実行し、成果を評価します。もちろんいくつかの例外はあるでしょうが、ここの流れは変わることはないかと」

 

「最後に評価を入れるのは大切ね。それで?」

 

「必要なものを考えていきましょう。まずは問題を把握する能力。問題は大抵、何らかの変化として現れます。天候の不順、市場での値上がり、あるいは各地での治安悪化。それらを他の細かな変化とは違う、特別なものだと捉えるためには蓄積された記録と適切な分析手法が必要になります」

 

「記録の方は、ものによっては衙堂が持っている。分析手法についてはキイちゃんの得意分野よね」

 

「別にそこが専門というわけではないんですがね。農業報告にもあったように、『基本の値』と『そこからどれだけずれていがちか』の二つを基本に様々な情報を得ることができます。これは数字の羅列を意味のある言葉に変えていく段階、と言えるでしょう」

 

ざっくり平均と標準偏差の話である。対数表のお陰で二乗の計算もそう難しくはなくなったのもあって、そこらへんは決して難しいものではなくなったはずだが、まだ慣れ親しんだと言えるほどの人員はいない。

 

「……なるほど。『数字』なら、比較的楽に用意できるわね」

 

「そうでもないんですよ」

 

私は首を振る。

 

「例えば、暑い寒いを記録することはできるでしょうか?」

 

「……日誌とかでもあまり記録されている気はしないわね」

 

「雨や雲の量なら記録できても、温度や湿り気についてはまだちゃんと『数字』にはできないわけです」

 

「雨の量だって、ちゃんとは計測しないわよ?」

 

「降ったら1、晴れたら0でもいいのですよ。そこから『基本の値』を出せばどれぐらい雨が降るかの見当がつきます」

 

「なるほど。続けて?」

 

「適切な測定装置があれば、これらを測定して数字にして、問題を把握する助けにできます」

 

「……質問してもいい?」

 

「大きく脱線しないのであれば」

 

「その集計ができる人、どれぐらいいる?」

 

「……まだ、百人はいないでしょうね」

 

「そんなにいるの?キイちゃん以外できないのかと」

 

「ケトもできますよ」

 

一応入門書みたいなものも出てはいるがまだ洗練されていないし、理論に注力しているので実用的ではない。そこらへんの問題は需要があれば多少は解決されるだろうが、時間がかかる。

 

「わかった。戻しましょう。ええと、次は解決のために必要なもの、ね」

 

「とはいえこれは問題によって大きく異なるわけです。それを誰が決定するのかについても複雑ですが、まあここの部分はそれなりになんとかなるでしょう」

 

「いいえ」

 

ハルツさんが少し強めに否定してくる。

 

「それができる人は、とても少ないのよ」

 

「そうですか?私が図書庫の城邦で会った人の多くは、完璧ではなくとも問題を把握できれば対処できるように思いますが」

 

「……図書庫の城邦に、どれだけの範囲から人が集まっていると思う?その中のほんの一握り、選ばれた天才たちが可能でも、例えば地方の衙堂にまで、そういう人を用意できる?」

 

「問題は人間、ですか」

 

「そう。そこについて、キイちゃんはちゃんと考えている?」

 

痛いところであるが、そう簡単に解決できるものではない。確かに印刷物管理局局長時代に公教育についての話はしたし、各地の衙堂に印刷で作った教本が出回っているとは聞いている。それをハルツさんが知らないとは思わない。ただ、それでは足りない、と。

 

「必要な知識は、かなり多岐にわたるでしょう。それをできるだけ簡易に教えられるようにしなければならない。できれば、一人ひとりが文字を読み、学び、そして自らの考えを記せるぐらいになることが望ましいと言えるわけですが……」

 

「『教育不要論、あるいは幸福な社会について』とは真逆の意見ね」

 

また懐かしい偽書のタイトルを。

 

「あれの作者を知っているんですか?」

 

「さあ、けれども古い知人はあなたの名前を挙げていたわ?」

 

「……その知人、ツィラって名前だったりしません?」

 

「さあ、あの子は昔っからころころ名前変えるから」

 

この反応からすると、まあ半ば予期してはいたが図書庫の城邦における諜報組織との繋がりまであるのかよ。なんだこの人。というかこの人のもとで育てられたにしてはケトは健全に成長したものだな。

 

「人を育てる場所が必要です。方法の一つは頭領府にでもそういう学舎を作ることですね」

 

ノリは政策研究大学院大学だ。とはいえ図書庫の城邦は地政学的に色々とあるので、単純な「国益」よりもシンクタンク的機能やネットワークのハブ、あとは特殊技能を学ぶ場として作るのがいいかな。

 

「あとは今の衙堂の教育方向を変え、他人を教えることのできる司士や司女の育成により注力することも考えられます。学んだ後に地元に戻って、というのはよくあることですがそれを制度化してしまうのは一つの手かと。そうすれば、地方の優秀な人材を図書庫の城邦という環境に送ることができます」

 

師範学校に近い。もちろんそのデメリットも知っているので色々と調整は入れるのだが。

 

「私から言えるのはそれぐらいでしょうか。」

 

「わかった。前者についてはお願い。後者は私が動く」

 

なにかハルツさんが恐ろしいことを言った気がするのは、隣のケトの表情を見るに間違いではないのだろう。



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演習

「……お酒、飲みます?」

 

ちょっと窓から外の様子を確認する。まだ日は沈んではいないが、橙の光が強めになっていた。

 

「……まだ、いいわ」

 

ハルツさんは呟くように言う。なるほど。ではちょっと話をずらそう。仮定。ハルツさんが衙堂に対して十分な影響力を行使できるものとする。

 

「頭領府側はケトに投げていいですか」

 

「嫌です」

 

私の言葉ににっこりとケトは微笑む。いい笑顔だ。面倒ごとは嫌だと言うことがひしひしと伝わってくる。

 

「私ができること、ある?」

 

小さな定期刊行物の編集所のトップでしかないしがない30代の司女に比べて、ケトは有力者とのコネが色々ある。私より適任だと思うんだがなぁ。

 

「印刷物管理局初代局長としての腕前、噂になってるわよ」

 

「ケトくん、本当?」

 

私は確認のためにケトに声をかける。

 

「ええ、キイさんが調子に乗るでしょうからあまり言っていませんでしたが、それなり以上に評価されているでしょう。わずか数年で自分がいなくとも機能するような組織を作り上げた腕前は、あの煩務官も認めています」

 

「あのバケモノに認められても嬉しくないな……」

 

煩務官。図書庫の城邦にある大衙堂における重要人物であり、面倒事全般を扱う人物。博覧強記で、大衙堂で働く司士と司女のほぼ全ての情報を覚えているんじゃないかというほど的確な人員配置をする。忙しいので最近はあまり時間をかけて話したことはないが、私のことをよほど信頼しているらしく前にすれ違いに会った時でも挨拶抜きで本題に入り、数刻で去っていった。この過程で衙堂内における解剖についての条件制定のための問題点と私への助力内容を説明しきったので本当にすごい。私が多分これからちょっとやそっと努力した程度では追いつくことのできない人物だと思う。

 

でまあ、その人に褒められるということは私にとって決して嬉しいものではない。もちろん評価は評価として受け取るけれども。個人の才能に依存したシステムが嫌いな私にとって、自分の才能や技術を褒められるのはなんか少し違う気がするのだ。あとこう格が違うので……。

 

「そういえば、あの人はハルツさんの知り合いだとか?」

 

最初に会った時、ハルツさんを教えたことがあると言っていたのを思い出す。

 

「講師時代なら知ってるわ。当時から有能だった。私を止めることはできなかったけどね」

 

……今までの情報を整理しよう。ハルツさんは今から二十年ほど前、図書庫の城邦で「何か」をやらかした。箝口令があったのかは知らないがそれは多くの人が語りたくないような内容で、かつハルツさんの名前を関係者に轟かせるには十分だった。衙堂だけではなく頭領府にまでその被害……というか影響はおよび、結局若いうちにこの私たちがいる衙堂に配属となってある種の足枷としてケトが与えられた。後半は仮説の割合が多い。

 

「環境を用意してくれれば教えることはできますが、決して全分野の専門家というわけではありませんからね。環境を整えるのはできないわけではないですが、政治分野に繋がりがそれなりにないと」

 

組織設立についてはノーコメント。できた後なら仕事をする。これならどうかな。

 

「ケト、私の名前を出していいわ」

 

「……嫌です」

 

ケトが何か文字通り嫌そうな顔をしている。笑顔を作れないほどか。

 

「ハルツさんの同類だと思われたくないんですよ。ただでさえ僕みたいな若造が出しゃばるのを嫌う人も少なくないのに」

 

それはそうか。敵とまではいかなくとも疎む人が出てくるのはわかる。私はケトの側にいるからまだしも、こんな青年が敵側で現れた場合潰すことを選択肢に入れることは十分考えられる。それに「あのハルツの徒弟」だなんてわかったら面倒ごとになる可能性はあるのか。

 

「敵にじゃなくて、味方によ。信頼を得る方法の一つは共通の知人の名前を出すことだから」

 

「……わかりました。後ででいいので、紹介状でもいただけますか?」

 

「わかった」

 

ハルツさんが図書庫の城邦から離れてそれなりの時期が経っている。もちろんケトがある程度成長してからは何度か図書庫の城邦に行ったことがあるらしいし、知り合いとの連絡もちゃんと取っていると聞くからちゃんと意味のある紹介状になるだろう。それにハルツさんと同年代の司士や司女は今の衙堂ではそれなりに重要なポストに就いている。これは力強い。

 

「それで、キイちゃんはどう動く?」

 

「……問題の把握と分析については、私の知識が使えます。解決については訓練と、実践の組み合わせをすることが効果的でしょう」

 

「具体的に、どういう訓練をするつもり?」

 

ハルツさんは楽しそうに私の方を見る。ああ、こういう視線は結構辛い。こういう言葉での戦いを楽しんでいる。戦い、か。ならこれを使うか。

 

「卓上での軍事演習、というのはわかりますか?」

 

「兵を表す石を使うようなもの?」

 

よし、チャトランガの系譜はこの世界に見当たらなかったが似たような考えはあるか。

 

「あれをより拡大したものにします。多くの要素が考慮され、賽によって決まる問題を解決するような」

 

「裁定はどうするの?賽戯なら出た目に従えばいいけど、キイちゃんのやろうとしていることはもっと複雑でしょう?事前に学徒が選ぶだろう選択肢を列挙することはできないし、できたとしてもその全てに備えることはできない」

 

なんで一瞬で私の思考を理解して問題点を突きつけられるんだよ。ケトがちょっと置いていかれているぞ。モデルは総力戦研究所の机上演習。とはいえあれは相当な人数を敵側と審判側に突っ込んでいた。というか学徒以上の人材を必要とするのか。

 

「対応は人ですが、一部の処理を簡便にする案はあります」

 

半自動化された計算機械のアイデアはもうある。実現のためには、ちょっとした原動力さえあればいい。



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止揚

「つまりですよ、ある種の『思考機械』の導入が膨大な情報の処理に不可欠なんですよ」

 

情報の整理、分類、集計の組み合わせは今の技術でも不可能ではない。鑽孔紙(パンチカード)を入出力に使えば、かなりの情報を扱うことができるはずだ。

 

「で、それを実現するのにどれぐらいかかりそうなの?布を織る絡繰一つ満足に作れないのに?私の勝手な見立てだとそういうものを作れるだけの人間はキイちゃんと、あと数人しかいないように思うけど」

 

ハルツさんが痛いところをついてくる。不可能ではないが、現実的ではない。技術者の言う技術的には可能、と言うわけだ。営業が聞くとなぜか自信満々に可能であると言っているように聞こえるという魔法の言葉。なおもう少しわかりやすく言うと、資金と人員を無制限に使ってよくて、十分な時間があるのなら解決方法は見えているという意味になる。純粋に技術を持っている人間が足りないのだ。ここは教育で確かに解決できるが、私が教えるなら2年は欲しい。半年で基礎を詰め込み、もう半年で実技を磨き、それで一年ほど現場に突っ込む。現場というのは別に製造じゃなくてもいい。例えば地方出身者だったら自分のいた場所に戻って何か助けになるものを作るとかそういうのでも構わない。あくまでこれは工学ベースだが、私の目指すエビデンスベースの社会学をやることを考えても地域での研究は不可欠だもんな。

 

「はいはい、つまりそういう技術的な分野の教育を行う必要もあるわけですね。これは図書庫の枠を超えているので頭領府にそういう機関を作るか、あるいは育成機関として統合してしまうのもありでしょう。今の時点で動けるだけの基礎がある人は少ないですし、ならあらゆる分野の知識と技術と経験を詰め込んでおかないと」

 

私が案を出し、ハルツさんが否定し、ケトが止揚していく。たまに役割を変えながらも、私のアイデアがちゃんと使えるような形にしていくのには多分これが最適だろう。ハルツさんはかなり社会と私の技術を信用していないが、それはちゃんと知識があっての上だ。問題とか限界とかを見極めるのが上手なのだろう。これは私にはない視点だ。

 

それに比べてケトはもう少し理想主義というか多少の無茶をしてでも折り合いをつけようとする。ハルツさんの考え方とどっちが良い悪いはないが、個人的にはケトのやり方のほうが好きだ。多分ハルツさんの批評的思考を取り込みつつ、技術とかへの信頼は私の考え方に似たのだろう。やっぱケトがいれば基本何とかなるのでは?

 

まあそういう議論をすると紙が散らばり、日が沈み、灯りがつくのである。疲れはしたが、心地よいものだ。

 

「……夕食にしましょうか」

 

「もう真っ暗ですけどね」

 

ハルツさんの言葉にケトが言う。私?頭脳が疲労困憊で机に突っ伏しています。

 

「……ケト、手伝ってくれない?」

 

「いいですよ」

 

あ、扱いが客人じゃなくて家族になっている。まあ司士や司女としての会話はもう終わったからな。こういう区切りは大事である。

 

「私も、何かしましょうか?」

 

立ち上がってハルツさんとケトの後ろを追いかけながら私は言う。

 

「そうね、じゃあ鍋の準備お願いできる?」

 

なんだかんだ私もハルツさんの信頼を得ているのだ。姑と嫁の関係ではないが。だって私、ケトよりもハルツさんの方が年齢が近いんですよ?とはいえ家族扱いされるのは結構良いものだ。私の育った家庭ではこういうのはあまりなかったからね。

 

「いいですね、今日は寒いですし」

 

まあそんなわけで料理が始まるわけである。ケトが手早く野菜を切り、ハルツさんが火加減を調節し、私が大きめの匙を動かしてそこが焦げないように混ぜていく。これを何と呼ぶべきかは正直難しい。チーズに似た乳由来の半固形状のものを湯で伸ばして、麦粉をたっぷりと入れて炒めた野菜を入れる。ざっくりシチューみたいなやつ。よし。なお発酵食品っぽい独特の匂いがあるが、私は結構好きだったりする。なおどんな匂いなのかを言語化する訓練を受けていないのでうまく説明はできない。ヒトは訓練すれば下手なガスクロマトグラフィーよりもいい検知器として使用可能だなんて話があったが本当なんだろうかあれ。まあ人間の客観性というのは取るのが難しいのだが。

 

「それと、ケトが来たならこれを開けなきゃね」

 

ハルツさんは床板を外して地下から壺のようなものを取り出す。釉薬の艶が見えるところからすると琺瑯(ほうろう)の類だろうか?あまり見たことがないし、それなりに重そうだ。

 

「何ですか?」

 

「良い酒よ、キイちゃんも呑む?」

 

「いいんですか?」

 

「もちろん」

 

ハルツさんの笑顔はあれだな、一緒にいたずらを仕掛けようとする悪い少女の顔に近い。こういう好奇心というか悪い心を持っているのが彼女の強みなのかもな。善悪とかを置いておいて、できることをやるような。んー、なんかプロファイリングがうまくいかないよな。もちろん彼女が多面性のある人間であるというのは間違いないのだが。過去の話も聞きたいし、今夜はちょっといつもより多めに飲んでしまおう。



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過去

硝子(ガラス)の深盃にはとろりとした黄色みがかった液体。いや、実際の粘性率はそこまでではないのだろうが、そういう印象を受けるのだ。鼻を近づけるとシンナムアルデヒドを中心とした芳香族化合物の香り。

 

「……いいもの、ですね」

 

ケトもわかるらしい。

 

「そりゃあ五年ほど寝かせたものだからね」

 

んーかつての世界でのアルコール飲料についての記憶は結構いい加減だからなぁ。あまり飲む方でもなかったし。

 

「それじゃ、ケトとキイちゃんの無事と、これまでの恵みに」

 

「乾杯*1

 

「乾杯!」

 

静かに言う私と、ちょっとわくわくしているらしいケト。あ、このお酒かなりアルコール度数が高いな。かなり甘いが麦蜜ベースだろうか。酸味は果実由来?木っぽい味わいもあるし、漬けられていたのかも。美味しいお酒なのは間違いない。具がいっぱい入った煮物もおいしい。

 

「……ケト、帰ってくるつもりはない?」

 

「ごめんなさい、あとしばらくは城邦のほうにいたいですね」

 

ハルツさんの質問に、ケトは少し申し訳無さそうに言う。

 

「残念。ここでしばらく一人で誰とも話せず頑張りますかぁ」

 

「話せるんじゃないですか?」

 

「気がつかれた?」

 

笑うハルツさん。

 

「え?」

 

「無線機ぐらい、ハルツさんなら手に入れているんじゃないですか?」

 

「一応はね。緊急用だからあまり使っていないけれども」

 

私とハルツさんの会話にケトが驚いているようだ。

 

「……待って下さい。無線機ですよね?」

 

「そう。キイちゃんの発明の一つ。電気で生み出した波で声を送る……」

 

「違いますよ。あれは頭領府からの命令とまでは行きませんが『お願い』があってそれなり以上に管理されているはずです。図書庫の城邦から持ち出すのでもあまりいい顔をされないのに、ハルツさんのところに何であるんですか。というよりキイさんは何であると思ったんですか」

 

「そりゃあ……存在を知っているなら、手に入れたくなるでしょ?知り合いがいるならそれぐらいはできるだろうし」

 

どんなセキュリティでも、見張りを見張る人がいなければ脆いものである。一応国立産業技術史博物館のセキュリティについては一通り知っていたのだ。私がその後の経歴と追跡の問題さえ回避できるなら、展示品を盗み出すことだってできる。倉庫の中の品物ならもっと簡単だ。書類を何枚か作ればいい。入退出管理のセキュリティコードだって電話番号の……いや、これ以上は流石に秘密保持とかのあれこれに引っかかるし、もうちょっと記憶が怪しくなってきている。なお人感センサを回避するのは面倒なので昼間堂々とやるべきだと思います。

 

「……ハルツさんは、何をやったんですか?」

 

ケトの質問に、ハルツさんはゆっくりと唇から深盃を離す。

 

「……過去の話。ケトが生まれるよりも前のこと。少し、図書庫の城邦で事件があってね」

 

アルコールの混じった息を吐いて、かつての司女見習いはゆっくりと話し出す。

 


 

私がこの世界に来た時、ケトは私のことを何らかの理由があって逃げてきた人ではないかと推測していた。まあ現実からの逃避という点ではそう間違いではないのだが。聖庇(アジール)としての衙堂だ。この世界のというか地域の性別役割分担の影響もあって、庇護の対象となるのは女性が多い。もちろん男性だって受け入れはするのだけれども。あとは妊娠と出産が司女の純潔を破ることに繋がるのでこういう点で司女を辞める人もいる。男性の場合は結婚で司士を辞めることもあるが、司女に比べれば少ない。ここらへんは生物学的な特徴によるものだ。これもあって、かつては司女の扱いは司士に比べて相対的に低いものだった。今でもそういう傾向があるのは否定しないけれどもさ。

 

……で、まあつまりは、逃げてきて司女見習いとなった若い女性が外部の人に手を出されたことがあったらしい。ハルツさんの後輩にあたる人だったようだ。で、当時司女の持てる権力というのは司士と比較してあまりなかった。明文的なものではものではないが、慣習として。しかし、当時のハルツさんは多分野の知識を持って、それなりに将来を期待されていた司女だっために知り合いも多かった。それをもとに、一年経たずで彼女は頭領の前に立つ。あ、この頭領は今の頭領の父に当たる人。その頃に今の頭領は頭領府で下積みをしていた。

 

要求は単純であった。ただ一つの事項の確認であった。司士と司女に法的な取り扱いの違いはない、ということ。

 

もちろん、実態は違った。明文化されていなかったのは、ただ単に現状を反映する必要がなかったからだった。体制側というか、システムとして見るならば彼女のやったことは攻撃に近い。仕様の穴を突いた権利の宣言だ。

 

彼女は、それなりに根回しをしていた。もし頭領が違いがあると言えば、衙堂が有形無形の反乱を起こすようになっていた。多方面から、頭領の耳に入るような噂を流していた。

 

結果、彼女は力を手に入れた。しかし、それは同時に面倒なことを色々と引き起こした。頭領府と衙堂の間の反発であるとか、もとの手を出された司女見習いの自殺未遂とか。ここについては、まだハルツさんは語りたくないらしい。

 

混乱の責任を取る必要が生まれた。だから、ハルツさんはここに来た。本来ならあったはずの出世の道はなくなり、小衙堂の一司女として働くことになった。

 


 

「まあ別に出世なんてしたくはなかったし、ここでの暮らしも案外性にあっていたけどね。それでも、私は各地の司女を繋ぐ役割をやっていた。図書庫の城邦の中に地方の事を伝えている人は私以外にもいるけどね」

 

……まあ、あまり面白い話ではなかった。悪を倒してみんな幸福、なんてものではない。むしろハルツさんがその司女見習いを慰めていて、何もなかったかのようにしていれば問題はなかっただろう。しかし彼女にはそれができなかった。そして、大事にするだけの力があった。

 

「その年齢でそれができたのなら、図書庫の城邦にいればもっと多くのことが……」

 

そう言ったケトにハルツさんは視線を向けた。

 

「私は、これで良かったの。ケトを育てられたしね」

 

彼女の言葉は、たぶん本心からだろう。

*1
本来は聖典語において『いざ恵みを!』の意。



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休息

昨日のお酒はとても美味しかった。甘くて、いい匂いで、そしてアルコールたっぷりで。おかげで気分はかなりひどい。吐くとまでは行かないが。

 

「大丈夫ですか?」

 

ぼんやりとした意識がケトの声で引き上げられていく。

 

「大丈夫じゃない……」

 

ケトの手を取って、なんとか立ち上がる。ケトもハルツさんも元気なところを見るとアルコール代謝酵素が強かったりするのだろう。後でパッチテストやらせてくれ。というか水の衛生問題を考えるとアルコール飲めないやつの方が死にやすいのかな。上下水道の基礎概念はあるので、浄水技術が必要か。微生物ベースでいいとなると医療ルート経由でやるか。医療と言うか公衆衛生の分野だな。

 

「キイちゃん、読ませてもらったわよ」

 

ハルツさんが私が持ってきた小冊子を閉じて言う。

 

「……おはようございます」

 

「大丈夫?お酒弱かったりするの?」

 

不安そうに聞いてくれるハルツさん。優しいなぁ。

 

「いえ、昼前には多分調子も戻りますよ。それと、どうでしたか?」

 

私はハルツさんの手元を見て言う。

 

「そうね、どうしても完全ではないのはわかる。それでも、司女や司士なら十分活かせるような内容だと思うわ」

 

「あ、送られてきた原稿には間違いがあったので出版する時には修正入れます」

 

「問題ないわ。そこはケトに委ねるって手紙にも書いたでしょう?」

 

「本人がいるなら直接確認取った方がいいでしょうし」

 

「確かにね」

 

「あと無線の設定を教えて下さいよ、連絡用に使うので」

 

「四半月に一回、定期連絡のために特定の時間にしかつけてないから秘密」

 

ちぇっ。まあ手紙でいいか。緊急連絡だったら図書庫の城邦にいるツィラさんにでも聞けばいいか。最悪走っていってもいいし。

 

「ところで、どれぐらいいるつもりなの?」

 

「優秀な編集員がいるのでしばらくは大丈夫ですよ。まあ天気荒れなければ早めに帰ったほうがいいですか?」

 

「別にしばらくいても構わないわよ?収穫後だし、食べるものはいっぱいあるし」

 

「なら、ケトが満足するまでしばらくだらけますか」

 

正月の帰省みたいなものである。奇しくも今は冬至なので時期も同じぐらいだ。地域によっては冬至祭があるが、ここらへんにはない。図書庫の城邦ではいろいろな地域から来た人がいるので各地の祭りが行われているんだけれどもね。

 

「キイさん?」

 

「なに、ケトくん」

 

「何するんですか?」

 

「何って……何もしないけど」

 

「大丈夫ですか?」

 

「どうして?私が暇を持て余すとなにかよろしくないことをしでかすとでも思っているの?」

 

「それもありますが、本とかいつも読んでいるので」

 

「ああ、それは何かをすることに入っていなかった」

 

今でも原稿とは別に本とか色々読むのだ。これは趣味の領分である。なお最近気に入っているのはやっと感覚が掴めてきた聖典語の詩。韻の規則とかを理解したことでケトが趣味レベルだと思っている詩才が非常にヤバいものである事が判明した。ちなみにケトのほうは趣味で詞をやっていて「時勢」に投稿したりしている。業務中にこっそり詞競に出ているのは知っているがまあ別にいいか。

 

「……僕はちょっと昔読んだ本を読み直します」

 

「いいね、そういうのは結構印象が変わっていたりするものだから」

 

「だらけているわねぇ」

 

ハルツさんが少し楽しそうに言う。

 

「これから忙しくなるんですから、これぐらいいいじゃないですか」

 

「それもそうね。さて、こっちも準備をしますか」

 

「具体的に、誰と話をするんですか?」

 

ケトがハルツさんに質問する。

 

「そうねぇ。私と同年代の司女や司士が各地にいるから、そこらへんにやってくる本の話と一緒に才覚ある子がいたら図書庫の城邦へ、みたいな話をするつもり」

 

「なるほど……」

 

「……そういう人たちの面倒もこちらで見たほうがいいですか?」

 

私はハルツさんの方を向いて言う。

 

「そうね。できたらお願い」

 

「わかりました。何なら学徒寓の増設でもするか……」

 

学徒寓、つまりは寮みたいな場所は図書庫の城邦にいくつかある。篤志で動いているところもあるし、衙堂がやっているところもある。最近面白いところだと「時勢」の編集長が自分の住んでいた学徒寓を買ったみたいなのがあったな。

 

「女の子用のやつとかあったほうがいいかもね」

 

「んー、ああでも司女以外に働く道も作るつもりですからね。衙堂の管轄外で、防犯がしっかりしたようなものを作ってみますか」

 

建築系はそういえばあまり触っていない分野だったな。というかこの世界にコンクリートがあるのであとは鋼鉄と板硝子(ガラス)でもう大体揃うのである。パイプ用の塩化ビニル樹脂とかもあったほうがいいのかもしれないが優先順位はそう高くはない。あとプレファブ工法とかを導入すれば建築は楽になるのかもしれないがそもそもそこらへんでわざわざ今いる職人の仕事を奪う必要もないので保留。ああでも今後大規模インフラ構築とかも出てくるだろうし、そこらへんのフォローに使うのはありだろうな。

 

「人が来るのは十年単位だから、別に今すぐ急がなくてもいいけれどもね」

 

「それならまあ、何とかなるでしょう」

 

「で、キイさん。お金はどうするんですか?」

 

「稼ごうと思えばそれなりに稼げるからな……」

 

営利活動というか資金収入源をちゃんと用意しておいたほうが良いだろう。商会と共同出資して新規事業を立ち上げて利益の一定割合を色々するのに使うとかにするか?ヴィタミンでも売るか……いや、でも製薬とかはありだな。十分市場に流せるし、抗生物質の需要もあるし、健康増進にも繋がるし。ふふふ、これで陰謀論で言われるような悪のメガファーマの影の総帥とかになれるのだ。まあ技術提供とアドバイスだけして、社会貢献部門あたりの活動にさせるとかにしておくか。



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時間

昼ちょっと前に起き、ケトのおなかを枕に本を読み、ケトに昼寝用の腕枕を提供し、夕食の準備をして、日暮れ前にちょっと本を読んで、寝る。こんなのを三日程度続けると身体に無気力がほとばしってくるのを感じる。もう帰らずにここでだらだらしたいという邪念が生まれてきている。

 

「……いや、駄目だ。まだ私が消えた時の準備をしていない」

 

「消えた時って、なんですか?」

 

うとうとしていたところを起こしてしまったのだろうか。ぽやぽやした声でケトが言う。

 

「個人の才能に頼った組織とか、体制とか、そういうものは何かあると崩れてしまうのはいい?」

 

ヨシップ・ブローズはあれ延命に近いけどさ。そうでなくとも私の異世界から持ち込んだ知識に依存しているものはいくつか存在する。商会だってまだ軌道には乗っていないはずだ。私の寿命というかちゃんと判断ができる期限は、多分そう長くはない。面倒な老人をそれなりに見てきたのだ。自分が引き際を誤らないとは思えないから強制的に排除してもらう必要がある。そのためには私の後継が必要だ。もちろん、それは人物でなくともよい。例えば組織であったり、体制であったり。私の死後に観測されるだろう環境問題のあたりはちゃんと仕事してくれる機関とか用意したいしね。

 

「後継者をどう選ぶか、あるいは後継者を用意しないか……」

 

私の雑な説明に納得したのか、ケトは呟くように言う。

 

「私はいくつもの役を演じているから、それぞれの役を引き継ぐのは別の人でいいんだけれどもね」

 

「候補はいるんですか?」

 

「印刷物管理局は多分大丈夫。『総合技術報告』は今いる編集員の彼女にいい部下をつけてあげればいい。あとは……助言者としての私、か」

 

「なんだかんだであっちこっちで動いてますからね」

 

ケトを通して間接的に、あるいは直接やってきて質問を受けるとかの形で、はたまたこっちから出向いて法整備に関わるとか、まあなんだかんだで動いているのだ。ともかく私レベルの人材が足りない。それは純粋に知識という意味ではなく、論理的思考パターンであったり、統計分析を前提とした考え方であったり。こういうことを教えるノウハウは私の中にないわけではないが、伝えきれるかは未知数だ。もちろん完全に私色に染めるのもそれはそれで問題だろう。とはいえ若い世代は勝手に色々やってくれる気がする。この世界はかなり柔軟なのだ。

 

「個人では無理、かな」

 

「でしょうね。となると、先日言った頭領府の育成所ですか?」

 

「そうなるかなぁ。でもあれは行政担当を育てるみたいなところがあるし」

 

「確かに何でもできる人を育てようとして、結局何もできない人を生んでしまっては仕方がないですよね……」

 

「私のこと?」

 

「……そうだったんですか?」

 

「昔はね」

 

文系博士の価値について、私はそれなりに色々な視点を持っているつもりだ。理工畑の私は、それは果たして人類に新しい知見を提供した新規性ある研究をして得たものなのかと聞いてくる。これについては一応今までの歴史を整理したし、これ以降の発展にも示唆を与えることができるものが書けたと思っているのでいいか。市民としての私は、それが社会があなたに投資した分を超える利益を還元することができたかと問いかけてくる。ここはちょっと怪しいよな。活かす前にこっち来てしまったし。というか学振が私につぎ込んだ分を私が払う税金で回収するというプランは崩壊しているわけで。となると、この世界は私が元いた世界から不当な利益を得ているのか?なんか特に意味のない事を考えそうになる。

 

「……ここでキイさんが何をしたかとか、何をするかとか、そういうの関係なく、僕はキイさんに価値があると思っていますし、キイさんは僕に色々な事をしてくれましたからね」

 

「個人としての価値肯定はできるから安心して。これは純粋に資源としての一人の人間をどう使い潰すべきかって話」

 

「言い方が悪いですね?」

 

ま、そう言うケトもちょっと笑っているところを見るにこういう悪い思考には慣れているのだろう。相手の権利とか幸福とかをちゃんと織り込むなら、機械的判断も悪いわけではない。

 

「それにしても、あとできることは時間かかることなんだよなぁ」

 

科学史において、十年という時間は短い。私にとっては、人生の三分の一だ。今から十年前はしがない学部生だったわけで、これから十年後の私がどうなっているかはあまり想像がつかない。

 

「果樹を育てるようなものですか」

 

「そうだね、実がつくのに三年や五年ですむならいいほうだ」

 

「その間の手入れも欠かせませんし、肥料を足す必要もありますし、そういう事しても実るかどうかは天と地に任せるしかない……」

 

「ま、ケトもすぐ時間が一瞬で過ぎ去るようになるよ」

 

「……嫌ですね、キイさんとこういう時間を長く過ごしていたいのに」

 

ケトはそう言ってから、ちょっと恥ずかしそうに笑う。かわいいんだよな。ま、多分十年後も私はケトの隣りにいるだろう。ケトが隣にいさせてくれるかは別として、だけど。

 



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第23章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。最初の方に出てきた設定と矛盾がないか読み直して確認しているような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


追懐

合成繊維ではないからオーパーツにはならないはず……、いや染料があれだな。

オーパーツはOut-Of-Place ARTifactS、すなわち「場違いな遺物」を意味するアイヴァン・テレンス・サンダーソンの造語。

 

1856年にウィリアム・ヘンリー・パーキンがモーヴを合成して以降合成染料の役割は拡大し続けており、今日の染料のほとんどは合成されたものである。

 

まあそれが分析できるようになる頃には合成もできるようになっているからいいいか。

少量の有機物質を抽出し、分析するための手法は長い時間をかけて確立されていったが、1920年代のフリードリヒ・エーミヒによる系統化や1940年ごろからの赤外分光、1946年ごろから始まった有機物質を対象としたNMR分析などの時代背景を考えると合成された染料の構造がわかっていなかった時期はそれなりにあったのだ。

 

「嫌なこと、思い出したりしませんでしたか?」

裏話であるが、ここでケトはキイが「乱暴」された可能性を思いついてこういったフォローをしている。

 

死生観

$\sigma$ とかでもいいですけどさ。

ここでの $\sigma$ は標準偏差のこと。WAIS-IVなどの知能検査を参考に知的障害を判断する目安はおよそIQが70を下回った時であるが、これは $2\sigma$ に相当する。知能が標準分布に従うなら全体のおよそ2.3 %にあたる。

 

この世界の社会的レジリエンスの高さを感じる。

ここでの社会的レジリエンスは William Neil Adger. Social and Ecological Resilience: Are They Related?. Progress in Human Geography. 2000, vol. 24, no. 3, p. 347-364. で定義されているものを参考にしている。

 

えっ工学用語を雑に使うなって?

キイの想定しているレジリエンスは材料工学における用語で、歪みとか弾性とでも訳すのが良さそうな語。

 

帰郷

ピルスナーとガラス加工技術の話とか

チェコ共和国東部、当時はオーストリア帝国にあったプルゼニという都市で生まれたピルスナーと呼ばれる軟水を用いた下面発酵ビールの世界的な拡大の背景には、その独特の黄金色がチェコで作られたガラスのコップに入れた時に引き立つことが理由としてあるなんて話がある。一応時代と技術的には矛盾はあまりない。キイがちょっと怪しいと言っているのは信頼できる文献を知らないため。

 

切子に近い細工入りのものだ。

カットグラスがモデル。ヨーロッパではかなり古くから作られていた。

 

関係

妊娠可能な年齢にある女性は妊娠している可能性を排除するな、という話を昔読んだことを思い出す。

妊婦に使用禁忌の薬であったり、産婦人科の検診であったり、あるいは放射線を扱う分野で言われるようなこと。もちろんプライベートでセンシティブな領域ではあるので、難しいところではある。

 

一人称はさすがに「僕」から変えたけれども。

忘れている人が多いかもしれないが、実はキイはこの世界に来てしばらくケトを真似て「僕」を使っていた。

 

速度

ジャミングに対する周波数ホッピングまで到達するのにそう時間はかからないだろう。

周波数を定期的に変えることでノイズや妨害の影響を下げる技術の基礎となる特許の一つは1942年にヘディ・キースラー・マーキー名義の女優のヘディ・ラマーと、前衛音楽などでも知られる作曲家のジョージ・アンタイルによって取られた。

 

「……情報のやり取りができる速度は、支配権を決定します。古帝国の崩壊理由の一つが、馬の消失であることはご存知ですか?」

拡大した帝国の崩壊理由として、通信速度の限界がしばしば持ち出される。

 

蚕みたいだな。

カイコガは家畜化されており、退化した翅や移動能力の欠如のせいで自然環境での生存は事実上不可能となっている。そのためヒトが絶滅した場合、カイコガもおそらくその後を追うだろう。

 

そもそもランダム化比較試験が困難な事象なのだ。

実験科学の分野において複数の条件が混在する中で特定の要因の寄与を調べる方法としてランダム化比較試験は高く評価されているが、一度しか事象が起こらず、かつ介入することができない歴史学の分野への適用は簡単ではない。「準実験」と呼ばれるような研究についての手法はここしばらくで色々と開発されてきており、実験デザインの質も上がってはいるもののまだ問題は多い。

 

教育

「最後に評価を入れるのは大切ね。それで?」

トヨタ自動車で採用されて有名となったPDCAサイクルや、アメリカ合衆国空軍のジョン・ボイドの提唱したOODAループを参考にした考え方。

 

ノリは政策研究大学院大学だ。

政策研究大学院大学は埼玉大学大学院政策科学研究科を母体とする国立の大学院大学であり、民主的統治を担う指導者、政策プロフェッショナルの養成を目的としている。また多くの留学生を迎えている。

 

演習

よし、チャトランガの系譜はこの世界に見当たらなかったが似たような考えはあるか。

チャトランガは古代インドで生まれた盤上遊戯であり、将棋、チェス、中国・タイの象棋(シャンチー)、タイのマークルック、モンゴルのシャタル、中東のシャトランジ、エチオピアのセヌテレジなどの派生がある。

 

賽戯なら出た目に従えばいいけど、

「賽戯」は作者の独自用語……とはいえ、涅槃経に「波羅賽戯」とあるので一応単語としてはあるらしい。

 

モデルは総力戦研究所の机上演習。

総力戦研究所は1940年に内閣総理大臣の管理下に設置された調査・研究・教育・訓練機関。ここで行われた若手たちによる20日弱の演習では「数年戦うだけで青国(日本)は国力不足から敗北する」という結果が出たが、別にこんなことはある程度予想されていたし「数年間暴れてとっとと講和もぎ取ろうぜ」という方向で動いていたはず。なお当然数年我慢すれば潰せるのに講和するなんてことはなかったのであるが。

 

市川新. 日本における社会システム・ゲーミングの創始:総力戦研究所の演練. シミュレーション&ゲーミング. 2020, 30 巻, 1 号, p. 11-22. によれば33名からなる仮想政府に対し39名の審判部と15名の総監部によって机上演習が行われたというから、アイデアを思いつくよりもそれを処理するほうが大変であることがわかる。

 

止揚

例えば地方出身者だったら自分のいた場所に戻って何か助けになるものを作るとかそういうのでも構わない。

アフリカの工学部かどこかで実習として地元でなにかの活動をするといったようなことをニコラス・ネグロポンテが言っていた気がするが、探しても出典が出てこない。誰か知っているヒトがいたら教えてください。

 

過去

鼻を近づけるとシンナムアルデヒドを中心とした芳香族化合物の香り。

シンナムアルデヒドはシナモンの香りの主成分。

 

木っぽい味わいもあるし、漬けられていたのかも。

モデルはウイスキーなどの熟成に用いられる木片。

 

入退出管理のセキュリティコードだって電話番号の……いや、これ以上は流石に秘密保持とかのあれこれに引っかかるし、もうちょっと記憶が怪しくなってきている。

この物語はフィクションであり、実在の警備体制とかとは関係ないです。いやほんとですって。事務室の付箋にadminパスワードが貼ってあったりとかしませんって。

 

休息

後でパッチテストやらせてくれ。

パッチテストの始まりは1800年代後半にチャールズ・ハリソン・ブラックリーが行った花粉に対するもの。おそらく最初の被験者は自分。

 

あとプレファブ工法とかを導入すれば建築は楽になるのかもしれないが

「プレハブ」ではなく「プレファブ」としているのは学術用語集に則っているため。

 

ヴィタミンでも売るか……

理研栄養薬品株式会社が販売していた理研ヴィタミンを踏まえたもの。理化学研究所は予算をこういったところからも手に入れていたので研究者が予算をあまり気にせず結構好き勝手に研究ができた時期があった。

 

時間

ヨシップ・ブローズはあれ延命に近いけどさ。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国第二代大統領ヨシップ・ブローズ・ティトーのこと。もともと民族問題でバラバラになりそうだったところをカリスマと本人の民族的背景と秘密結社を使った民族主義弾圧でどうにか先延ばしにしていたが、彼の死後紛争が勃発した。

 

というか学振が私につぎ込んだ分を私が払う税金で回収するというプランは崩壊しているわけで。

学振は日本学術振興会の略。ここのやっている大学院博士課程在学者を対象とした特別研究員制度があり、キイはDC1を取っていた。



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第24章
印象


「これ、忘れないようにね」

 

私と一緒に荷物をまとめるケトに、ハルツさんは丸まった紙を渡す。

 

「……こんなに、ですか」

 

ケトは紙を開いて呟く。ちょっととなりから覗き込むと確かにかなりの人数の名前が書かれていた。何人かは知っている。衙堂とか頭領府、中には商会とかの中堅どころだ。印刷物関連でお世話になった人もいれば、ちょっと軋轢はあるが有能だと評価するのもやぶさかではないような人も。

 

「この人たちが、味方、なんですか?」

 

「んー、正しくは私を知っていて、敵になっていない人かな」

 

ケトの質問に、ハルツさんはいつものようにのんびり返す。

 

「ハルツさんに敵っているんですか?」

 

「そりゃいるわよキイちゃん。派閥とか確執とかは相当面倒で、十年や二十年では消えないし、死んでも受け継がれることがあるのよ?」

 

そう言われて私は薬学師のトゥー嬢を思い出す。あの人は政治的なあれこれの中で父が亡くなって、その意思を継がないかわりに自由に研究できる環境を手に入れたんだよな。あれは多分例外的な事例で、一般化してはいけないものだと思う。ああいう運に恵まれた天才を前提としたシステムはあまり良くないのだ。

 

「ケトくん、役立ちそう?」

 

「そうですね。算学をかじったことある人もいますし、そういう教育機関を作るのであればこの人と……この人は協力してくれるでしょう」

 

ケトが名簿を指でなぞりながら言う。

 

「知ってるならいいわね。あ、この人には私が元気にしてるって伝えておいて。きっと嫌な顔をするから」

 

「伝えていいんですか?」

 

「ちょっと私に借りがあるからね、お願いは聞いてくれるはず」

 

肩書のない、名前だけの人。

 

「誰?」

 

「あれ、知らないんですか?」

 

私の質問にケトが聞き返す。そんな有名人なのか?

 

「知らない」

 

「今の頭領の弟ですよ」

 

ええと、図書庫の城邦の支配者というか象徴というか調整役をやっている一族の一人?噂には聞いたことがあるぞ?名前は知らなかったが。

 

「なんでそんな人と繋がりがあるんですか」

 

「昔二人で色々やってね」

 

ハルツさんは笑って言う。怖いよ。ケトはこれ以上聞きたくないらしく紙を丸めてもとに戻している。まあ、自分の母親の変な話を聞かされるのは人によってはあまり面白くないからな。私は嫌いじゃなかったけど。とはいえn=1で全体の傾向を論じるなとかなんで後件肯定の誤謬をさらっとやるんですかねとかp値が0.05越えてるくせに印象論で相関関係を語るとかいう業界はやっぱ嫌いだな。いやもちろんそうじゃない社会学者もいることは知っていますがね?私の母はそこらへんを自覚した上であくまで限られた情報からの推論という形で論理展開をしていたのでまだマシだろう。なお追加で情報を集めるのは面倒くさがってあっちこっち齧って後続研究が起こりにくそうなものを色々書いていたのでこういう節操の無さが自分に遺伝したんじゃないかと思うと少し嫌な気分になる。まあ、ここらへんの話は別に面白くないからやめておこう。

 

「今何してるか知ってる?」

 

「外征将軍ですよ」

 

ええと、ということは図書庫の城邦における軍のツートップの一人か。憲兵と警察を合わせたような事をしている赤い外套が目立つ巡警を統轄する将軍とは別に、その中から選抜されたり有志だったり特殊な方法で雇われた傭兵だったりが図書庫の城邦の軍として遠くで戦う時の統括担当だ。へえ、相当大物じゃないか。しかし内政には直接関与しないポストに置かれているあたり、決して無能ではないな?単に無能なら重要な仕事を与えない名誉職にでもしておけばいいし。確か弟の方を頭領にしようとした派閥もあったんじゃなかったかな。いやこれクーデター起こす条件整っていない?大丈夫?いや何か意図があってこのポストにいるのかもしれないが。

 

「軍方面にも手を出すべきかな……」

 

「キイちゃんがやると城邦を燃やし尽くす方法とか出してきそうで怖いのだけれども」

 

「いや確かに似たようなことはできますけど」

 

まあ半世紀もあれば濃縮ウラニウムによる分裂兵器ぐらいは作れなくはないだろう。使う相手とそのための膨大な予算がつくかはともかく。

 

「通信とか傷病兵の治療とかのほうでもかなり効果は出ますよ」

 

負傷によって起こる感染症とかによる死は長い間あまり注目されてこなかった。統計がないと人間は印象で語りがちなのである。もちろん印象は大事だ。印象さえ良ければ結構無茶なことでもなんとかなる。しかしそうならないものもあるのだ。印象で剛性は変わらないし、反応経路も変わらない。心理的影響を無視するわけではないけど、手当をちゃんとすれば案外人は生き残るのだ。ケトが私にやってくれた看護の水準から考えると私の知っている例よりはかなりまともだが、あくまでまともであって完全ではない。

 

「ま、結局やることは絞ったほうがいいでしょうからね」

 

「農業と、医学」

 

「医学といっても広い範囲で、ですけれどもね。子供の病を看病できるぐらいのことは多くの人ができてほしいものです」

 

「そのための、衙堂における教育」

 

「そして教育内容を作るための、頭領府管轄の専門機関」

 

「……よろしく、キイ嬢」

 

「こちらこそお願いしますよ、ハルツ嬢」

 

溜息をつくケト。なおどちらにしても一番働くのは多分彼なのだからこういう顔をするのは当然である。ま、せめて全力でバックアップできるような技術を色々作らなきゃな。



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賞金

のんびりと帰ったその足で向かうは「総合技術報告」編集所。

 

「編集長、さすがに一人はきついですね」

 

ただ一人で半月弱を回していた編集員が言う。確かに荷物が少し溜まってきているな。

 

「分類はやっておきました。キイ嬢はこれに対する返事を。ケト君は手紙運んでください。場所は分かりますか?」

 

「大丈夫です。行ってきます」

 

ちらっと見た送り先はそう遠い場所でないからいいが、それなりに歩いてきた私たちに仕事を振るとはなんとも恐ろしい人になってしまった。

 

「……編集長の席、あげようか?」

 

「それはキイさんが持っておいてください。さもないと私が事務に集中できないでしょう?」

 

「そっか。じゃあ新しく雇う人を決める権利と私への業務命令権利をあげる」

 

「……編集長に指図できて、好きに人を雇えるのは、実質代表なのでは?」

 

「権利をあげる。義務は私が負う。それがあなたの能力への報酬になればいいけど」

 

「実際、どれぐらい予算使っていいですか?」

 

「ちょっと資金源になる事業をやるから、ひとまず利益は全部つぎ込むぐらいでいいよ」

 

論文の投稿は無料。購読は有料。ま、こんなもんだろう。一応これで採算はぎりぎり取れているが、頭領府と図書庫からの補助金がないと追加の活動とかはきつくなっている。

 

「商会あたりから資金提供をお願いするのは?」

 

「間接的にではあるけど、賞金を出してもらうのとかはありかも」

 

「賞金、ですか」

 

編集員は私の言いたいことがちょっと掴めていないようだ。

 

「特定の条件を満たす材料とか、未解決の問題とか、そういうのを用意したり解き明かしたり人に対する報奨金みたいなもの」

 

「なるほど、寄付で劇場を作るようなものですか」

 

「近いね。その賞金を栄誉あるもの、みたいに扱う風潮ができれば金を出し続ける必要も生まれるだろうし」

 

ノーベル賞、クラフォード賞、京都賞、ミレニアム懸賞問題、アーベル賞。やはり賞金の額というのはそれなりに重要なのだ。なおそれだけの額を用意するためには元になるそれなりの額の基金とちゃんと運用できる体制が必要なのだが。あ、運用はありだな。投資会社みたいなものを作ってもいいかもしれない。なにせ成長する分野は知っているというか選べるのだ。いやこれは不正ではないですよ。ストックオプションみたいなやつです。まあこういう複雑な取引システムは条約とかもないので作りにくいが、船の民の存在が多分面白い形で影響してくるだろう。こういうのはあまり専門ではないので考えられる人材を拾ってくるか作るかしないといけないが、多分後者のほうが楽だな。

 

「ところで、その問題を決めれるのはキイさんぐらいですよね?」

 

「今の時点ではそうなるだろうね。全分野を俯瞰するのはそう簡単ではないし」

 

「で、キイさんはその問題の答えを知っていたりするわけですよね?」

 

「さあ」

 

もちろんどういうものが欲しいかというところから逆算して問題を決めるので当然どういうものが答えになりうるかは多少は知っている。それで自分で答えを出して賞金を回収しようという算段である。まあ直接やるとあれなので第三者を噛ませたり共同研究者枠でもらったりとかになるのかな。なんかものすごい遠回りでせせこましい事をしている気がするがきっと気のせいだ。

 

「……いいんですか、それで」

 

「問題がある?」

 

「それでは、ありきたりなものしか出てこないのではなくて?」

 

「条件の揃え方の問題だよ。高速で計算をする方法、電気を用いた何らかの装置、病の治し方、収穫量を上げる方法……。できるだけ曖昧で、いろいろな手段で解決できそうな問題であれば」

 

「なるほど。例えば高速で計算をする方法、とありましたよね」

 

「そう。新しい計算方法とか、そういうのだね」

 

「人による、とは言っていませんよね」

 

「ほう」

 

「機械による計算も、当然入りますよね?」

 

「そうだね。実際に出す条件としては何らかの算学の問題を解く時間を競うことになるのかな」

 

「いいと思います。ただ、それに資金を提供してくれる人がいるでしょうか?」

 

「その解決策を公開し、独占しないという条件を賞金につければ?」

 

「なるほど、必要な技術があればそうやって『買える』のですか」

 

「もちろん、その賞金の一部を受け取ることを前提にそういう専門家を組織してもいい。どういう戦い方をするかはそれぞれだけど、ある程度は『総合技術報告』の名義でやるべきかな」

 

「最初の信用の部分、ですか」

 

「あるいは皆様に資金提供を募ってもいいけど」

 

「どうやってです?」

 

(くじ)を使う。あたりが出たら膨大な賞金。余ったお金は発明者への報奨金」

 

「あ、それは表向きにやるのはやめたほうがいいですよ。そういうの嫌う人がいるので」

 

「そっか。じゃあやめよう」

 

こういうのは正直ハマると危ないからな。人間というのはちょっと動くイラストとかに数十万円をつぎ込めるのである。もちろんそれで回っている経済があるし、食べていけるクリエイターがいるので全員合意の上ならいいとして、射幸心を煽っているのは事実だしな。

 

「とはいえ報奨金であればあまり問題ないでしょう」

 

「何が違うの?」

 

「あなたはこの選ばれた戦いに挑める力があるのですよ、と言えばいのです」

 

編集員はニヤリと笑う。なるほど。この発想力を考えると本当に編集長にさせたくなるな。

 

 



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対価

「あ、お久しぶりです」

 

久々に顔を出した印刷物管理局で、懐かしい職員が私に挨拶する。新しいメンバーも増えて、うまく回っているようだ。

 

「この方はどちらで?」

 

顔を知らない局員が言う。

 

「今は『総合技術報告』っていう冊子の編集長をしている司女のキイ嬢。ここの最初の局長で、文字版印刷機を作った人だよ」

 

「ああ、あなたが」

 

若い局員からなんか尊敬の眼差しを向けられると心が痛いな。私ももう若者ではない、と。

 

「で、どうしたの?誰かに用事です?それとも何か依頼?」

 

「ちょっと用事があってね……あ、いた」

 

資料を見ている女性の前に私は立つ。

 

「……どうしました、キイ嬢」

 

頭領府から出向している人だ。各地の事情に詳しいが、その正体というか副業は図書庫の城邦の中にある秘密情報機関「刮目」のメンバー。こう言うとかっこいいけど、実態は噂話の収集所みたいなものである。彼女の担当は印刷物全般についての情報収集、分析、防諜、あと工作役。あとは私が顔と名前をちゃんと把握している「刮目」の数少ないメンバーでもある。

 

「頭領府の方にちょっと話をしたいから、あの人に取り次いでもらえない?」

 

まあ、こう言えば明らかにあの人だとわかるだろう。「刮目」の代表、ツィラ。本名はハルツさんも教えてくれなかったが、状況証拠からしてこの二人はそれなりに仲がいいはずだ。

 

「構いませんよ。日時はこちらで決めていいでしょうか」

 

「近日中なら問題ないよ」

 

「わかりました。……ところで、目的を伺っても?」

 

「あの人もケトの動きから知っているかもしれないけど、ケトの郷土からの頼みでちょっと頭領府に学舎みたいなものを作ろうってなっていて、その話をしてみたい」

 

「……はぁ、構いませんが」

 

中間で面倒事に巻き込まれそうといった顔。まあ、別に彼女も彼女の利益があって動いているのだ。愛郷心とかツィラさんへの信頼とかはあるのだろうが、別に絶対の部下というわけではない。ま、ここらへんも私のいい加減な推測なので厳密にどうかはわからないのだが。

 

「代わりに何かできそうなこと、ある?」

 

「私たちへの貸しを作らせてください」

 

「いいよ。けれども、それはあなたの利益になるの?」

 

「貸しを作ったという貸しを持てるので」

 

「なるほどね」

 

まあ、私が払えるものと彼女が求めるものが一致しないというのはよくあることだ。こういう時に経済学的には通貨が媒介になるが、別にこれは取引とかでも構いはしないのだ。ある程度の信頼が必要になるけど、取引自体で信頼は強化されるし。

 


 

それなりに冷え込む時期なので、蒸し風呂というのはなかなか悪くない。

 

「それで、なにか面白いことがあるの?」

 

眼の前のけっこうどこにでもいそうな風貌の、それでいてよく見ると鋭い目つきを私に向けている女性はツィラさん。

 

「ああ、少し前にハルツさんのところに戻ったんですよ」

 

(しゅうとめ)への挨拶?」

 

「……ま、似たようなものですけれどもね。別に関係が険悪なわけではないですよ」

 

正直、大切な息子がよくわからない怪しい女性と深い関係なのはハルツさんからしてあまりいいものではないかもしれないが。あ、一応この世界でも嫁と姑の関係が円満なことは稀だと言われています。ハルツさんとの関係はありがたきものだ。

 

「それで、ハルツから私の話は聞いた?」

 

「少しですけれどもね。……本題に入っても?」

 

「ええ」

 

「頭領府直轄の教育機関を設立することを考えています。上級の司士や司女、あるいは頭領府や図書庫の有能な若手を集めて、教育する場所を」

 

「銀と人を用意する手伝いをしろ、と受け取ればいい?」

 

「端的に言えば」

 

「……私たちの利点は?」

 

ま、そりゃ代償を要求されますわな。もちろん私だってこんな事を対価もなしに頼むほどじゃない。

 

「私が講師をしますし、必要であれば学徒を制限した特別な授業をします」

 

「……なるほどね。『刮目』の人員に必要な技能、知識、経験。それを積ませる場としてその場所を用意する、と……」

 

「今後出てくる新しい通信の根幹には算学が用いられるでしょう。秘密を守るためにはそういった分野の専門家も必要になります。もちろん、今までのように各地の様子や情勢を知ることも必要でしょう。私が作ろうとしている場所では、そういう分野の専門家からの授業も受けることができます」

 

「なるほど。手を貸すには悪くなさそうね。新しい仲間の勧誘もできるし」

 

「これで、対価にはなるでしょうか?」

 

「話は裏で通しておいてあげる。決定力には欠けるけど、反対者を多少静かにするぐらいならなんとかなるわ」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、このお願いを受けたという事自体への貸しは残るからね?」

 

「それはもう」

 

ま、これは仕方がない。ケトが表で動くなら、私は裏から専門家にお願いするしかないのだ。銀だって積もう。頭だって下げよう。知識だって、仕事だって、私にできることならやってやる。どんなやったって、現場のケトの苦労と比べればそう大きくはないからね。



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嫉妬

「……こんなところですかね」

 

話し終わったケトが寝台に倒れ込みながら言う。

 

「まとめてみたけど、どう?」

 

私は紙をケトに渡す。

 

「……あ、伝え忘れていました事がありました。軍事分野についての協力を外征将軍から取り付けました」

 

「……ハルツさんの紹介状を使って?」

 

「ええ、まあもともと通信機とかにも興味を持っていたようですし。比較的友好的にできましたよ」

 

「信じるよ。で、ええと、他の部分は?」

 

「前の長卓会議で仕込みは済ませてあります。新規事業に関係する人員を一ヶ所にまとめるのは悪くない手段であると頭領府上層部の意見も一致していますね」

 

「……ねえ、ケトくん」

 

「はい」

 

「私が報酬として君に渡せるものはある?」

 

「衣食住と、知識」

 

「……そういう意味ではなくて、さ」

 

「……僕を信頼してくれて、必要があれば手を貸してくれる人」

 

「私は、そうなれてる?」

 

「十分すぎるぐらいに」

 

「よかった……じゃなくて、もっと、こう……」

 

「正直ないんですよ。仕事は楽しいですし、むしろキイさんには僕を止めてほしいぐらいです」

 

「うーん、止めたくないなぁ」

 

「なら、燃え尽きた時には抱きしめてくださいよ」

 

「いいよ、というかいつもしてない?」

 

「そうですよね……」

 

ケトの弱々しい声を聞きながら私はケトから回収した手元のメモに視線を移す。今図書庫の城邦で動いているいくつかのプロジェクトは、概ね人員の問題で止まっている。頭数はともかく、その計画を実際に実行できるほどの知識と技術と経験を持つ人材がいないのだ。本来であればそれでも手探りで進めるべきだろうが、どういうわけか約一名以上な人材がいる。その人を教育係にすればいいんじゃないの?という計画がなぜかいくつかの場所から出回って、賛同を集めているのだ。

 

ネタバレ。ケトが裏で手を回しています。そもそも進んでいるプロジェクト自体も私が書いた提言に基づくものだし。品種資源の集約を目的とした農業研究所とか、もろにそうだ。重要性はわかっても、必要な資源を割り出すのはまた難しいのだ。そうそうでかい機関をそんなすぐ作るなんてできないんですよ。例えばほらあの理化学研究所だって4年かかってるし。いやたった4年と言うべきなんですがね?

 

しかしこの世界は結構いいところだ。ちゃんとビジョンを示せば、資金と人員を援助してくれる人は多い。まあ中には狂人としか言いようがない人もいるのだが。例えば長髪の商者なんかは最近鋼鉄の輸入を「鋼売り」と手を組んで相当うまくやってウハウハらしい。今までの価格の数分の一で、まだ少量ではあるが流通が始まっている。まあこれについて価値の急激な変化とかそれに伴う社会的混乱が危惧されていて、それへの対処法を考える組織を作るべきだとの声もある。というかケトがちょっと後押しした。こうやって考えると私たちが与えている影響が大きい。

 

「とはいえ、私たちと同じ目線で話せる人が増えるのはいいことでは?」

 

「んー……」

 

ケトの悩ましげな声。

 

「……嫉妬?」

 

「否定はしませんよ」

 

「ちょっと嬉しい、って言ったら変に思う?」

 

「……意外、というほどでもありませんね。変な納得があります。言葉にしにくいものですが……」

 

「ま、私もその手の感情には不慣れだからさ。できればちゃんと言葉にならないようなら、しまってくれたほうが嬉しいけど、いやでもちゃんと聞いたほうがいいのかな……」

 

「難しいですねぇ」

 

「難しいよ」

 

「それはともかく、今度関係者を集めた会合をします。キイさんの予定を開けてください」

 

「私の予定はケトが管理しているでしょ?」

 

「なら勝手に入れますね。トゥー嬢との先約があったとか言っても知りませんよ」

 

「いや言わないけど……なんでトゥー嬢?」

 

「仲いいじゃないですか、あの人と」

 

「まあ、天才だからねぇ」

 

薬学師トゥーヴェ。図書庫の城邦における薬学において、私のアドバイスをベースに一気に色々と発展させた人。アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエの水準には追いつきつつある。もちろん実験の不足と蓄積された経験の欠如があるが、それを加味しても私の知る歴史にいたら化学史でそれなりに重要な役割を果たしていたはずだ。

 

「……僕は、そうじゃない」

 

「正直に言えば、それは正しいよ。けれども、政治的能力については彼女よりケトのほうが上だ」

 

トゥー嬢は引きこもったような環境で、地味な研究を続けていた。必要があれば、父の遺産を引き継いで図書庫の城邦における反頭領派の重鎮になることぐらいはできただろうに。けれども彼女はそれよりも薬学への興味を選んだ。まあ、それについて私はとやかく言える立場にない。

 

「……僕は、キイさんにとって大切な人になれていますか?」

 

「もちろん。必要不可欠と言ってもいい。もしケトがいなければ、私は理想を並べるだけの無力な人間にすぎないよ」

 

「……キイさんにとって、僕は、特別ですか?」

 

「自分の価値みたいなものについて悩んでいる?」

 

「……はい」

 

私は紙を置き、灯りを消す。

 

「……君と一緒にまどろみに落ちるのが好き。これで、いい?」

 

「そういう方面での特別は……まあ、嬉しいですけど」

 

そう呟くケトの隣に私は横になり、毛布をかぶった。



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課程

「すなわち、この種の分布はいくつかの場所で見られるわけです……どれぐらい?」

 

私は大きめの学舎の一室の前方にある黒板の下の板に白墨(チョーク)を置き、ケトの方を見る。

 

「42刻半、かなり長いと思いますよ」

 

かつての時間単位で言うなら三時間弱。かなりのものだ。喉も渇くわけである。

 

「……どう、だった?」

 

「まあ僕は知っている内容だったのもありますし、何とかなりましたが、これを慣れてない人に聞かせるのもさせるのも無理ですね」

 

「そっか。まあやっぱりこういうふうに教えるのは久しぶりだからな……」

 

知り合いの研究者が持っていた授業の一環で、二コマほど自分の研究を説明したことはある。ただ、あれは少し前に論文にしたテーマに近かったし、聞いていた学部生の皆さんもかなり質問とかの応答を積極的にしてくれていた。今回はそうではない。今私の前にいるのは可搬時間測定装置の試作品を持ったケト一人。あ、これは時計みたいなやつです。精度は1刻につき数拍。1刻が360拍なので、一日で数刻のズレが出る計算だ。まだクロノメーターというには惜しい精度である。一応固定型のものであればもっと精度が高められるんですが。

 

「それでも、悪くなかったと思いますよ?」

 

「一応ちゃんと教授の計画を立てているからね」

 

手元にあるメモは授業計画書というやつである。不登校だった小学生時代に読み込んだ教育系の本の記憶を引っ張り出してなんとか作ったもの。最初に問を提示し、ヒントを出していって、できれば授業を受ける人が私が答えを言うより先に自分から気がつくようにしたい。

 

今回の練習で用いた内容は統計。ざっくりとした算学的内容を含み、二項分布から正規分布を導出し、非常に弱い中心極限定理を示す。まあ社会科学の観点からはパレート分布とかを出したほうがいいのだろうが、ここらへんは実際の統計データを元に色々やらないと。

 

「質問いいですか、キイ先生」

 

「どうぞ、ケト君」

 

「この基礎となる算学の知識を教えるだけでも数月かかると思うのですが」

 

「半月で叩き込むよ」

 

「無茶しますね……」

 

「そうでもしないと間に合わないからさ」

 

標準的な知識としてこの世界の十三学の先端分野と商業、工業、農畜産業の知識を入れ、その上で問題を調査して把握するための手法とその解決策の探り方を半実地でやらせるという相当ひどいスケジュールを作ってある。月に一度はヘルウィークみたいな感じになっているが、仲間と協力すれば乗り越えられるはず。一応睡眠時間はちゃんと取れるようにしてあるし、時々四半月程度の休暇もある。

 

「私がいた場所では、一人前と呼ばれるようになるまで二十年の修練が必要と言われていたんだよ」

 

「……ええと、キイさんはそれを終えているんですよね?」

 

「そうだね」

 

一応博士号の授与が怪しいところではある。本人不在でも博士学位記授与式は行われたはずだし、向こうに私の死体が残っているなんてことはないはずだ。なにせ、向こうの世界で手につけた傷とその時に入った鉄粉が作った黒い筋が私の身体に残っているのである。よく見ないとわからないが。というわけで多分転生ではないのだ。知識とか記憶とかの連続性を考えるなら私の肉体をコピーアンドペーストしたとかも考えられるけど、場における特徴的なパターンにすぎない私を他の空間と切り取る明確な基準が量子力学的スケールではないはずなのでもしそれならかなり私たちと似通った知性がどういうわけか仕事をしたことになる。うーん、人が人に似せて神を作ったと思ってたのだが。

 

「あれ、そうするとかなり小さい時から学んでいることになりません?」

 

「子供の歯が最初に抜けるころから、かな」

 

「……それだけの間、ずっと学ぶのですか」

 

「いや、義務だったのは9年。普通は16年ぐらいかな」

 

「……そんなに、何を学ぶんです?」

 

「誰もに学ばせようとすると、それぐらい時間がかかるんだよ」

 

私の言葉に不思議そうな顔をするケト。ああ、こいつ才能があるからな。

 

「ケト君。人間はかなり愚かだし、変なことをするし、限界がある。いくら学んでも知識が身につかないなんていうのは、非常にありふれたことだ。意欲があれば、まだ良い方だなんてことも多い。学んでもいない、自分の知らないことを知っている人を感情的に否定するなんてよくあることだよ」

 

「……それは、わかっていますが」

 

「わかってないと思うよ」

 

ああ、そうだ。私だってちゃんとは理解していないんだから。私は、世界はずっと馬鹿ばっかりだと思ってきた。それに気が付かない自分が馬鹿であることに気がついたのは高校生の時だ。世界は普通の人間が、とても頑張って回している。ちょっと論理的パズルを解くのが得意だからって、それが誰かの役に立つわけではなければ意味がない。もちろん長期的投資の対象として、あるいは社会からの隔離のためとしての大学における基礎分野とか直接役に立ちそうにない分野への助成とかは必要だけどさ。ここらへんは自分が学ばせてもらった立場である以上は自分に対して謙虚にならねばならない。もちろんお前のやっていることは無意味だなんて言われたら戦争だが。

 

「……それを踏まえた上で、様々な計画を立てる必要がある、と」

 

「そう。ハルツさんに言われて気がついたけど、私やケトが触れてきた人は皆優秀な人ばかりだ。それを忘れないようにしないと」

 

ケトはまだそこらへんが飲み込めていなさそうな顔をした。うーん、天才に心折られるのも大切だけど、愚かさに道を塞がれる経験もあったほうがいいのかな。もちろん最後まで経験しないで済むに越したことはないわけだが。



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会談

晩餐会を開くことのできる人物というのはそれなりに限られている。大きな家を持っていて、それなりの予算を持っていて、かつ友人が多いこと。私の場合、ちょっと難しい。まず住んでいる場所。学徒用の相部屋とそう変わらない、下っ端司士や司女用の寓だ。勤務地まで徒歩五分という素晴らしい立地ではあるが、本来なら私みたいな人が持つべきステータスとしての家とか使用人とかはない。まあ、司士や司女にとって清貧は決して悪徳ではないし。まあ厳密には搾取は悪徳だが過度の節制は自分も周りをも傷つけるという解釈があるそうで。まあ私たちの場合はケトがそれなりに信仰が深いということで問題なくなっている。いや、これは信仰というべきなのか?徳が高い、みたいな表現が一番しっくりくる気がする。

 

あと予算。私の場合は個人の財布と職場の資産を切り分けているが、まだこの世界ではそこらへんの切り分けがいい加減だ。かつての世界で、損失を自分の懐から出して補填するのは労働基準法とかコンプライアンス的にアウトな事が多かった。特にお金を扱うことを生業としているならばやってはいけません。そうじゃない場所は色々とまずいです。幸いにもそういう経験は……ない……はず。学会の予算を懇親会の参加費での若手扶助に使うのは現場で偉い人、具体的には事務代表と学会長が許可していたからあれは問題ないはず。

 

友人ですか?協力者はいるし、取引相手はいるが、友人となると難しいな。ケトは違うし、一番近いのは薬学師のトゥー嬢?とはいえ一応薬学においてはケトと私はあの人の弟子扱いだからな。ケトのネットワークにはかなりの人がいるが、私が直接顔を合わせたことがある人は実はあんまりいない。基本的に私の存在は表には出にくいし、ケトの役割もあくまで繋がりを仲介するみたいなのがメインだ。

 

しかしまあ、さすがに頭領府直轄の教育機関を作るとなると後ろ盾は必要なわけで。

 

「こちら、僕の師の一人であり、今は『総合技術報告』の編集長をしています司女のキイです」

 

「よろしくお願いします」

 

ケトの紹介で私が頭を下げる相手は外征将軍。図書庫の城邦の頭領、つまりは指導者の弟であり、今の頭領が死んだ場合にはおそらくまだ赤子……いや、確かもう立てるようになったぐらいの年齢だったか?ともかく今の頭領の娘が次の後継者になるだろうから、彼女の成人まで摂政として権力を握る人だ。つまりはそれなりに偉いし、バックボーンもあるし、家も大きいし、金を持っている。

 

「まあそう頭下げんでくれ、キイ師」

 

「嬢でも、先生でも結構です。外征将軍」

 

「別にこちらもそう堅苦しくなくていいが、まあよろしく頼む、キイ先生」

 

一応ヒエラルキーみたいなものはあるのでこちらが最初は下手に出て、その後相互にある程度フランクな言い方に変える。本当は何回か互いに断ったりとかするらしいが、面倒だしケトがいいと言っているので従おう。

 

「……それで、ケト君、進捗を聞かせてもらおうか」

 

声が大きいし、腹から出ているな。戦場とかでよく響くだろう。筋肉のつきもいい。とはいえ前会った時はちょっと疲れが出ていたあの頭領と兄弟なので言われれば雰囲気は似ている。

 

「協力を求めたい人の名簿です。既に話をつけてある人には記号をつけてあります」

 

「ふむ。……この人については金の話をしたほうがいい。しかし決してがめついわけではないことには注意しろ。利を重んじるが、義を軽んじているというわけではない」

 

「わかりました」

 

ま、というか今回私は基本的にやることがない。顔合わせがメインだ。

 

「ああ、キイ先生。無視して話してすまない。ケト君は実にいい男だ。是非とも軍に欲しいが」

 

「彼は私の部下ですので、申し訳ない」

 

「はは、これは仕方がない。こんな魅力的な女性には勝てないか」

 

「僕は司士ですので、そういう意味で居場所を選ぶことはありませんよ」

 

ケトが外征将軍に微笑む。ああ、これは警告だな。こっち系統の話をこれ以上するな、というかなりわかりやすいアピールである。いや別にええやろ。私はこういうふうに褒められるのは嫌いじゃないぞ?あるいはあれか?ケトは私のことを自分の支配下というか占有物だと思っているから卑下混じりで言っているのか?いやこれは邪推だな。まあでも確かに外征将軍の言い方は一歩間違えると私の否定になるのか。まあちょっと険悪な空気になったが、ちょっと戻そう。

 

「……図書庫の城邦が戦乱に巻き込まれずに済んでいるのは、あなたのおかげだと聞きましたが」

 

「その手助けをしているのは事実だがな、結局は兵が命を張ってくれるからだ」

 

「兵がそうできるよう環境を整える人も、きちんと評価されるべきですよ」

 

「あなたにそう言って頂けるのは心強いな。こちらも色々と聞いている。印刷物管理局、総合技術報告、そして最近の長卓会議。特に印刷物管理局では若手をたちまち歴戦のように仕上げるというではないか」

 

おーっと、そこまでか?というか私が局長だった頃には基本みんな優秀な出向組だったから若手育成とかは相対的に力入れていなかった気がするんだよな。

 

「後進の成したことでしょう。私は決して」

 

「先を見据えることのできる後進を育てられる人物は、きちんと評価されねばならないのだよ」

 

あ、うまく返された。まあ、これで互いの実力を認めたということでいいだろう。

 

「まあ、本題に移りましょうか」

 

「府中学舎の件だな」

 

私の目標は、この外征将軍を名目上の府中学舎のトップにすること。この交渉のために、ケトはこの会談を準備してくれたのだ。



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問題

「まあ、名前を使うこと自体は問題ない。そういう家業だからな」

 

はい、今日の仕事終わり。いや冗談ですって。こう言っている外征将軍には晩餐会とかの場所を貸して貰う必要があるのだ。

 

「ありがとうございます」

 

「しかし、これはキイ先生の口から確認しておきたいのだが」

 

「何でしょうか」

 

「なぜ、俺を?」

 

目を細めて、遠くを見るように彼は私を見通す。見定め、か。一応ケトとは情報共有をしているが、これは私の言葉で言ったほうがいいか。

 

「前提を確認しましょう。あなたはこの図書庫の城邦で大きな勢力を率いている」

 

ケトに頼んで確認してもらった。正直なところ、私たちはこの派閥からあまりいい目で見られていない。私の知識で利を得たのは、基本的に頭領派閥の人間だ。それらと対立したり、あるいは相性が悪くて別派閥になっている人からはそりゃ面白くないわな。

 

「勝手に人が付いてきているだけだ。もちろん、俺を慕って、頼ってくれる人であれば力を貸すが」

 

「私たちがやろうとしていることは、この図書庫の城邦が将来的に抱える問題を解決できる人の育成です」

 

「そこまではいい」

 

「……問題を解決する訓練のためには、まずは問題を用意しなければなりません」

 

「おいキイ先生、まさか俺らが『問題』を引き起こすつもりだっていうのか?」

 

「ここ十年で各地の戦地を駆け回り、多くの戦場で小さな、しかし無視できない武勲を挙げ、図書庫の城邦への軍事的な干渉を防いでいるのでしょう?何かを起こせるだけの力はありますし、あなたがそれを想定していないとは思えない」

 

この世界で、戦争は広域政治の重要な手段である。敵を作らないという難しい目標を達成するための緩やかな軍事同盟の維持のために、色々な手が取られている。そして彼は、それをやってのけた。

 

「……あくまで、俺は頭領の命で動いている」

 

「あなたは、でしょう?」

 

「……計画だけだ。もし何かあった時に、内部に敵を抱えていた場合の対応。俺は頭領、つまりはあの兄貴を討つだなんぞ考えていない」

 

クーデターというか、政権移行計画だな。もちろん、中には目の前の外征将軍がこの図書庫の城邦を率いるべきだと考えている人もいないわけではないと聞いている。特に軍関係の人であると、今の頭領の平和主義的な、悪く言えば弱腰な姿勢を批判している人も少なくないらしいし。しかしそういう場合によっては危険分子になりうる人をも取り込んで派閥を作っているのだから、この彼も相当できる人物なのである。なにせ図書庫の城邦、つまりはこの世界で一番知識が集まる場所で英才教育を受けていたのだ。

 

「府中学舎では、学徒たちに課題を出すつもりです。若手に長卓を囲ませ、図書庫の城邦の先を自分たちで議論させます」

 

「ほう、なかなか面白い」

 

あ、こういうのは好きなんだ。

 

「そこで、図書庫の城邦に襲い来る危機に対処させます。商業的なものかもしれない、病かもしれない、あるいは内部の不満が燻っているのかもしれないし、どこかが攻めてくるのかもしれない」

 

「……守るのではなく、攻めるつもりで図書庫の城邦の弱点を探すのは俺らのほうが得意だろう、ということか?」

 

「課題のためには、その課題を出す人、解く人、そして判定する人が必要です。解く人は学徒でいい。判定する人は、現場で働いている人を引っ張ってきましょう。これならケト君の繋がりが使えます。しかし、課題を作るには限界があるのです。その手口に精通し、可能性を考え、実行できるように爪を鋭くしている人が欲しい」

 

「そちらの利は、まあある程度わかった。なるほど、仮想とは言え図書庫の城邦を脅かす取り組みをするなら頭領か、それに近い人の援助がなければ難しいだろう。しかし視点の問題を考えると、頭領自身にはできない。そうすると、まあ俺か」

 

「あとは、あなたの力も理由の一つですね」

 

「おいおいキイ先生。俺の『力』はあんたより弱い。もし本気でキイ先生がこの図書庫の城邦の敵に回れば、俺が全力を出しても止められやしないさ」

 

「どうしてです?」

 

「無線、測量、計算。伝令を必要とせず、道に迷わず、必要なだけの兵站を知ることができる軍など、(ずる)いとしか言いようがない」

 

「兵の信頼、規律、質がなければどのような準備も無意味ですよ」

 

「いや、本当に狙うなら数人でいい。適切な時に、適切な人の首を掻き切れば国も軍も崩すことができる」

 

この世界における軍の指揮系統は詳しくないが、優秀な軍であるほど同一の目標に従って動くことができるのはまず間違いないだろう。傭兵の話があるところを見るとある程度独立に動くこともあるのだろうが、そういった集団にも指導者はいて、雇われている以上命令を受けているはずだ。そこを崩すことができれば勝てる可能性が上がる。もちろん、そう簡単なことではないが。

 

「それを見抜いて、兵に無線を操る訓練をさせているのは知っていますよ」

 

これはケトからの情報。商会の実験工房の中の無線部門が独立し、頭領府の予算で図書庫の城邦から少し離れたところにある場所で研究を行っていることは知っている。ケトの調べでは、そこに外征軍の経歴を持った人物が学びに来て、改良を手伝っているという。

 

「……実際のところ、具体的に何をすればいい?戦の時は城邦から出ているから、当然できることも限られるが」

 

「今のところ一番の問題は晩餐の会場ですね、学舎ではさすがに重要な人を集めて話をするのには向いていません」

 

「……食材代ぐらいは出してくれよ?」

 

あ、ケチ。いや払いますけど。

 

「ええ、なら追加で料理人の手伝いを二人ほどつけますか?」

 

「俺の名前で開く晩餐で、主賓が配膳をするのか?」

 

ユーモアがわかるというのは素晴らしい。体育会系かと思ったが、やっぱり教養とかがあるんだな。



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雑話

ここは「総合技術報告」編集所、もとい妙齢の女性のたまり場。いや私ぐらいの年齢の女性を妙齢と呼んでいいかは二つの面で問題があるな。一つは妙齢という言葉のイメージがかつての世界ではもう少し高年齢側に寄っていたということ。もう一つはこの世界ではもう全員若くないということ。

 

「こうやって集まると妻話*1みたいね」

 

そういう女性は商会の実験工房に務める元司女の研究員。どうやら出世して電気照明のあたりの第一人者になっているらしい。前出された「総合技術報告」への論文では連名だったけど、そろそろ単著も出せるのかな。二児の母。子供が一番やんちゃではしゃぎまわるお年頃だそうです。

 

「私は妻じゃないがな」

 

こう返すのはこの図書庫の城邦で最高の、多分この世界でも最高の薬学師。独身。質量保存の法則やら元素分離やらをやって、私の知る化学史換算で30年ぐらいをここ数年でかっとばした人だ。それも基本一人で。昔はもう少し尖っていたが、最近は角が取れている。それでもあまり人付き合いは好きではないらしいが。

 

「そう言われると私が既婚者みたいじゃないですか」

 

ため息をつく私。独身。ケトとは同棲している。「総合技術報告」編集長にして頭領府府中学舎設立計画の中心人物、でいいのかな。あとなんか耳をそばだてている編集員についてはまあ気にしないでいいか。

 

「違うの?」

 

「実態を考えろ」

 

二人から言われてちょっと自分の状態を考え直す。ケトはもう実質家族である。とはいえ夫と言うのは違うんだよな。弟でもない。父でも息子でもない。いやそうすると枠組みとしては夫が一番近いのか……?

 

「考え込んじゃったわよ」

 

「何他人のせいみたいに言っているんだ……」

 

「ああ、それであれです、頼んだものはできました?」

 

私の言葉に、二人は紙を出す。

 

「こちら、新型の照明の報告」

 

まだタングステンは発見されていないので炭素繊条(フィラメント)だが、寿命が向上している。プリズムによる分光分析つき。というか光学方面も進んではいるんだよな。測量方面で光学装置が要求されて色消し硝子(ガラス)のために前に放物面鏡を設計した商会の若い会計員が働かされているとか。一応旋盤とかリンク機構とか複数の素材を組み合わせる方法とかのアイデアは置いてあるので進捗はあるらしい。というか顕微鏡を作ったのもそれなりに前だし、やっととはいえ商会の型録(カタログ)に掲載されて売られるようになった。

 

「で、これが投影に耐えうる透明膜の製法」

 

厚めのセルロイドフィルムに像を形成する方法。蒸留装置の発展の結果、樟脳がついに見出されたので作れるようになったのだ。なお輸入品であるので高い。

 

「必要経費はどれほどになりましたか……?」

 

「私は商会からキイ先生のためならいっぱい使っていいって言われているし……」

 

「こちらも別に請求するほど資金が足りないわけではないが」

 

「いやちゃんと払わせてくださいよ」

 

「編集長、それどうやって払うんですか?ケト君名義でちょっと多めに引き出されているのであまり使われると厳しくなるんですが」

 

後ろからそう言ってくる編集員。多分ケトが工作費用とかで使っているのだろう。晩餐会って金かかるからな。食事代とか取るのは駄目なのだというから、確かに資金力を見せるために使われるとか開きすぎて破産するとかはわかる。

 

「……ですってよ、キイちゃん」

 

「そうだぞ」

 

うん。この二人仲がいいな?引き合わせた側としては非常に喜ばしいことである。

 

「で、これは何に使うのか……なんて、わざわざ聞く必要もないな」

 

トゥー嬢は私の手元のある紙を見て言う。外征将軍の家の客間の図面だ。

 

「確かにそうね、わかりやすすぎるもの」

 

幻灯機。灯りを用いて絵などを投影するみたいなものはこの世界にもある。とはいえせいぜいが切り絵を投影する程度だ。レンズを組み合わせて綺麗な像を作るということはまだされていない。

 

「光源に電気灯を用いて、図や文字を示すのか。学舎で使えばかなり便利だろうし、銀絵を映し出せるのは面白い」

 

「ああ、なんでわざわざ専用の膜を作ったかってそういうことだったの。そうじゃなければただ薄紙に文字とか書けばいいだけだものね」

 

……ええと、すみません。忘れていました。そうですよね、別にフィルムってそこまで必須でもないですしね。ガラス板に書けるインクとかでもいいわけですし。

 

「……キイ嬢が気がついていなかったみたいな顔をしているが」

 

「トゥーヴェちゃん、そういうのは気がついても言っちゃ駄目よ」

 

天才たちに自分の思考の甘さを指摘されると辛いものがある。本来であれば私はこの二人と並ぶ事はできないような弱い人間なのだ。二人とも、多分将来の科学技術史で薬学の改革者と電灯の研究者としてそれなりに重要な人物になるだろう。私の名前は、本来ならそこにあってはいけないのだ。

 

「そういえばケト君から招待されているけれども、行っていいの?」

 

実験工房の研究者が落ち込む私に声をかける。

 

「是非来てください。面白いものが見られると思うので」

 

私にできるのは、そう言う事ぐらいだった。

*1
だいたい「井戸端会議」と同義語。



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葡萄糖

この世界の人類が私の知るヒトと区別がつかないほど同一であるならば、特定の化学物質に対する嗜好性も同様に存在すると考えられるだろう。

 

「麦蜜か?」

 

頼んでいた荷物を運んできてくれたトゥー嬢が竈の前の私を見て言う。

 

「ええ」

 

買い込んだ発芽麦を砕いて水に浸して加熱。熱加減は温度計で測定する。正確な目盛りはともかくアルコール温度計は既に作ってあるのでこれを使えば麦芽糖(マルトース)は作りやすくなる。

 

「……で、それとこの硫酸がどう関係するんだ?」

 

「この甘さを作っている成分を酸で分解するんですよ」

 

自然界に多く存在する糖の中で、甘みが強いものの一つが果糖(フルクトース)である。文字通りに果物(fruit)に含まれるのだが、これを抽出するのは少し面倒だ。そこらへんの土の中から放線菌とかを持ってきてグルコース-6-リン酸イソメラーゼをちょちょいと抽出できれば葡萄糖(グルコース)から異性化糖を作れるのだが、ここらへんの技術は未確立。仕方がないので葡萄糖(グルコース)で我慢しよう。

 

麦芽糖(マルトース)を加水分解すれば葡萄糖(グルコース)が得られるのだが、酵母をうまく単離できていないので酸で対応する。硫酸なら揮発性もそう高くないしええやろ。後で水酸化カルシウムを入れて硫酸カルシウムとして沈殿させる。pH調整がちょっと面倒だな。あとは真空引きしてほどほどに加熱してあげれば濃縮された葡萄糖(グルコース)水溶液が完成だ。加熱し過ぎると焦げるので注意。あ、真空引き用のポンプは機械式のものができています。これで水銀を使わずともある程度はできるようになったので便利。これを完全な結晶にまで育てるのは大変だろうし、乾燥させるのも楽じゃなかったので()紙で不純物を除いて濃度を高める程度で勘弁してほしい。

 

「で、それは実際のところどういう味なんだ?」

 

「舐めてみればわかるよ」

 

私は予備実験で作っておいた欠片を入れた小瓶をトゥー嬢に手渡す。中にはちょっと茶色みがかった粉が入っている。

 

「……甘いな」

 

「これでも欲しかった甘さの半分とかなんですけれどもね」

 

ため息を一つ。甘蔗(サトウキビ)甜菜(テンサイ)棗椰子(デーツ)蜀黍(ソルガム)砂糖楓(サトウカエデ)蔗糖(スクロース)が取れる植物があればそこから転化糖を作れたのだが、調べてもあまりいいものがなかった。いや、多分地域によってはあるのだろうが。ここらへんは大規模な生物資源調査計画とか立てたほうが良いのかな。プラントハンターというやつだ。もちろん文化的軋轢とか面倒な問題を多く抱えると思うのでちゃんと商業的取引の形で行うことが望ましいだろう。相手の文化を尊重して、植物を見る目を持ち、かつ双方に利のある取引をできる人材?無理だな。まだ存在しない。いっその事船の民を相手に通信教育でもしたほうが人材育成ができるかもしれないな。文化の尊重と取引ができることは間違いないし。となると自然学者を外交局経由とかで船に乗せればいいのか。まあそれぐらいなら行けるか?

 

「で、これをどうするんだ?」

 

「果汁に混ぜて甘みを強めて、氷にします」

 

「……ああ、例の製氷装置か」

 

ジエチルエーテルの気化熱を利用した冷却システム。氷を作ることができるので、晩餐会の予定が入っている夏には間に合うだろう。ちょうどその時期に冷たいものはいいですからね。飲み物を冷ましてもいいのだけれども、ソルベとかのほうがインパクトが大きいと思いましてね。

 

「夏の氷菓子なんぞ、諸侯はおろか君主すら口にするのが難しいと言われたものだが」

 

あれ、そこまでのものだっけ?古代からそういうものは食べられていた記憶があるのだが。ああでも図書庫の城邦だと雪が降らないから氷室とか作れないのか。それだけの高さのある山もあまりないしね。平地が多いのは農業には良いが鉱物資源とかの観点からはあまりよろしいものではない。一応私の知っている食文化史では硝石の持つ負の溶解熱を使ったものがブルボン朝ぐらいにあったがはずだが、硝石は高いのである。まったく、色々と順番がおかしくなっているな。

 

「今ならできます。それもとびっきりの甘さのものを」

 

人は甘みに弱い。それはミトコンドリアを取り込むことで獲得した好気代謝システムが本能的に求めるものであるからだ。葡萄糖(グルコース)焦性葡萄(ピルビン)酸になり、TCA回路を経由してATPを生む。つまりはエネルギー源なのだ。それを獲得できなかった個体は淘汰され、貪欲に求める個体は生き残ってきた。基本的に自然界にはこういった糖が少ないので、摂取したら快楽物質が流れるようにできているし上がった血糖値を下げるシステムはインスリン系統以外は用意されていない。それほどまでに重要なのだ。

 

これを悪用させてもらおう。きっと後に肥満と糖尿病と虫歯の原因になるだろうが、まあそれは代償として甘受してもらうしかない。というか普通は一食程度こういうものを味わっても特に問題ないはずだ。まあ暴走してプランテーションのために奴隷集め始めるとかされたら話は別になってくるけど。



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設営

外征将軍の屋敷はそれなりに大きい。その部屋の中でも一番大きいものの中に作業用の長ズボンと薄い鋼板を入れた安全靴をつけた人々が行き交っている。絨毯を寄せて機材を運び込む横で、ケトは手元の紙を確認していた。

 

「……まあ、多分大丈夫なはずです」

 

今日来る人達の名簿。頭領府からの出資は確約されているが、その金額についてはまだ様子見の段階だ。ケトがあの手この手で「お願い」したことで今の時点でも数人の常勤と十数人の非常勤を一年雇えるだけの有形無形の援助が集まっているが、永続的な活動をすることを考えるともう少し欲しい。裏で私が色々と交渉に使えるものを用意はしたが、ケトもなんだかんだで無茶をしている気がする。

 

例えば大規模な発電機の設置計画ならそれを作る工房の方に「頭領府からも了承が得られている計画で、多くの出資者がいるんです。損はさせないので手伝ってください。あとこれキイ嬢が書いた新装置の設計書です」と言って、頭領府の担当者に「これだけの人が関わる大仕事です。成功すれば関係者からの評価は間違いありませんし、それだけの税が生まれます。その余裕があれば用水路の整備もできますね」と言い、更に出資者に対しては「図書庫の城邦でも有数の工房が手掛け、頭領府からも内々に押されている事業です。あなたの名前が残りますし、最近ちょっと評判良くないでしょう?」と言うわけだ。なおこれを全部並行してやっているのでちょっと綱渡りである。おかげで裏で各種のプランや計画や図面や分析をやる必要があったが、これらはそう難しくはない。

 

さて、ケトが観客を集めてくれた。役者は外征将軍が担ってくれる。私?舞台担当。

 

「キイ先生、この荷物はどこに運べばいい?」

 

「ケト君、ちょっと待って。その箱の荷札は……ああ、これなら後ろの部分に回してくれ。通信線と電源線を繋げられる?」

 

「まだ電源線が伸びていませんね」

 

「電気灯の数を考えるとそれなりのものが必要だろう?人力では限界があるし。まあどうしようもなければ配線を切り替えて」

 

規格化がこういうところにも役に立っている。まあ基本的にはコンセントみたいなものだ。通信線と電源線はどうやっても互いに接続できないような端子形状にしているので事故は起こりにくい、はず。

 

とはいえ私は指揮をやるだけで細かいところは信頼できる専門家に任せる。そう、やっと信頼できる専門家というのが生まれてきたのだ。専用の編み機を使って糸で被覆した上でサブとラテックスの混合物を染み込ませた高圧用電気配線や、寿命の都合で明るすぎない程度の明かりしか出せない照明とか、まあそういったちょっと弥縫的だがしっかりと動く代物はもう私が関わらなくても発展しうる段階にある。真空管を用いたアンプとマイク。後ろに回したスピーカー。自動化された冷却機。もちろん、これだけの派手なものがあれば来賓は楽しんでくれるが、多分多くの人がその裏を読むだろう。各種機械の加工技術。そこから生まれる新しい産業。そして、その原理を理解して使いこなせる人間の重要性。とはいえそういう人間をどう育成すればいいか、育成された人間をどういうふうに使うべきかについてはこの世界では誰もまだ考えていないはずだ。

 

「基本的に、私はあまり話さなくていいんだよね?」

 

私は確認をかねてケトに言う。

 

「あー、一部技術とか学問の方面でキイさんと話が合いそうな人がいます。そういう人との会話は僕には難しいのでお願いします」

 

「できないの?」

 

「できはしますが、大変なんですよ。僕はキイさんほど知識もなければ思考も速くないので」

 

「……まあ、確かに私のほうが得意な分野は任されたほうがいいか」

 

「お願いします。代わりかはわかりませんが、取引とか利害調整の部分は僕がやるので」

 

「それが一番辛いのでは?」

 

「まあ、なんとかやってみせます。色々と後援もしてもらっているので」

 

「……そういう人たちの期待を裏切らないかもって、怖くならない?」

 

私は怖かった。慣れるのには時間がかかった。

 

「みんな経験者ですよ、こういう大きな仕事での失敗程度許してくれますって」

 

ああ、ケトはいい先達を持ったな。私以外から色々と学んでいるのはいいことだ。

 

「そう。……迎える準備は?」

 

「そろそろするべきですね。……設営の方、間に合いそうです?」

 

「あと二十刻*1もあれば」

 

「少し速めてください。僕は門の方に行きます」

 

「お願い」

 

「いい晩餐会にしましょう」

 

「任せて」

 

通電確認が終わったら給仕に回る。料理人たちが私の出したソルベのアイデアを色々と調整してもう少し面白いものを作っているし。種実(ナッツ)を砕いて水に浸して濾して卵黄を入れて、となんかアイスクリームに似たものまで生まれているし。もちろん私も助言したが、その発想を糸口に知識を結び付けられるのは本当に思考力あってこそなんだよ。この世界は、というか図書庫の城邦にはやはり賢いと思える人が多い。もちろん上澄みを集めているというのもあるだろうけど、それは個々人の能力を褒めない理由にはならないでしょう?

*1
80分。



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確認

炊事場で人が慌ただしく動いている。沸かされる湯、振るわれる包丁、並べられる具。指示をしているのは外征将軍の信頼する炊事校、まあ軍における調理と兵站確保と糧食買い付けとかなんかそういう重要なこと全般をやっている人だ。図書庫の城邦が軍を出した多くの戦役に参加し、各所の食材や料理を学んできているのである。彼が裏切れば外征軍が崩壊すること間違いなし、などと外征将軍が笑っていたが笑えないよ。

 

「キイ!こいつを出してくれ」

 

なおここでは全員呼び捨てである。こういうふうに呼ばれるのは珍しいが、軍ではこうするらしい。なるほど。

 

「承知しました」

 

デカンタみたいな陶器の入れ物を銅製の盆に載せて運んでいく。調理前の手の消毒とか生物と加熱調理する素材の導線分離とか、そういう話をすると炊事校がすぐに理解してくれた。外征将軍から私の指示に従うようにと言われていたらしいが、ある程度そういう食中毒を防止するノウハウみたいなものがあったらしくそれを踏まえて私のやり方を飲み込んだようだ。

 

「氷のほうはどうだ?」

 

「塊が二つできています。削りますか?」

 

「まだ早過ぎるだろう?よく考えろ!肉食べて口の中に残る油を除くために出すから、肉炙りを出す頃に準備を始めろ!」

 

後ろで声が聞こえる。んー、まあちょっと本能的に怯えてしまうけどこういうやり方もまあ条件が伴えばありか。というか普通に軍人だからな。私が知るような軍事教練、あるいは初等教育を終えていないと怒鳴って動かすのが最適解になってしまう。うーん、私が作る学舎に将校教育も加えたほうがいいか?とはいえそんな大きな戦争はしばらく起きないと信じたいところではあるし。北方に行った時に「鋼売り」たちに渡した爆薬の知識は秘されているようだし、まだ槍と矢の戦いは続くだろう。この世界の軍事史、絶対楽しいことになるな。一応私はこの世界に銃をもたらすことに否定的である。誰でも戦争に参加できるし、誰でも作ることができるという点でそれは総力戦の重要なパーツのひとつなのだ。まあ砲の導入とかもあるだろうし、ちゃんと議論しようとすると私の甘い知識ではボコボコにされる気がするのでふわっと流しておくが。

 

「キイ嬢、電気系統の試験終了。問題なしです」

 

私の隣に歩幅を合わせて見慣れた男性が歩きながら言う。商会の実験工房で三番目ぐらいに偉い人。今日は技術方面の指揮担当として来てもらっている。

 

「早かったね」

 

「事前の計画書が良い出来だったためです」

 

「感謝は後でケト君に伝えて。あと手の開いている人がいたら炊事校の方に人手が足りてないというからそっち回ってくれると助かる」

 

厳密な組織とかはないので、わちゃわちゃとしている感じだ。本当はちゃんとやったほうが良いのだろうし、全体の計画を管理している私はどこかで全体の様子を腕組みでもして見ているのがいいのだろうがちょっと手が足りないと呼ばれてあっちこっちに色々運びながら様子を確認している。うーん、やっぱあまり良くないな。こういうものの幹事とか慣れていないので仕方がないところはあるが。

 

「かしこまりました。キイ嬢が見なくて大丈夫でしょうか?」

 

「私より君たちのほうが詳しい。余計な事を言いたくはないから。もちろん責任は依頼した私にあるからね」

 

「感謝いたします。自信は、ありますよ」

 

「それはいい」

 

案内とか給仕の担当者は外征軍の人とか雇った学徒が主となって行う。一応学徒も知り合いの講師や講官からの知り合いだったり、あるいは「時勢」で働いている人だったりとかと人脈作りにもなるようには配慮してある。こういうところで顔を繋いでおくと色々と後で便利なこともあるからね。というわけでその指揮担当者のところへ向かう。

 

「ケト君、様子は?」

 

この点、ケトはしっかりと来賓を迎える準備ができているようだ。決して派手ではない、落ち着いた色合いだが身体にぴったりとあった服。誰かを迎えるのであればその相手よりは派手にならないように、かつ礼を失せない程度の服装でなければならないとかいう地味に面倒な要請をちゃんとクリアしているように見える。まあ正直行き過ぎなければあまり気にされはしないらしいが。

 

「さっき聞きましたが、この建物の前をうろついている人がいるそうです」

 

「早く来すぎてどうしようか悩んでいるのかな、呼ぶ?」

 

「んー、もう少し時間が欲しいです」

 

「わかった。ケト君の知っている人?」

 

「わかりませんが、可能性は高いと思います。落ち着いたら迎えに行きます」

 

「そうしたら、そろそろ私も準備をするかな」

 

「手伝いましょうか?」

 

「……動ける?」

 

「ええ」

 

「お願い」

 

今日のために仕立てた襟付きで袖が肘まで伸びている服。暑いから半袖なのだ。前にトゥー嬢に貸してもらった外套の色が気に入ったので、同じ染料を使って深く染めてある。薬学的アプローチで見つかった新しい金属媒染による色。金属アレルギーは、まあ多分起こさないだろう。

 

さあ、始めようか。



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第24章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。環境によって異なるキイとケトの関係性を観測しているような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


印象

とはいえn=1で全体の傾向を論じるなとかなんで後件肯定の誤謬をさらっとやるんですかねとかp値が0.05越えてるくせに印象論で相関関係を語るとかいう業界はやっぱ嫌いだな。

nは対象となったサンプルの数を表すために使われる記号。n=1ということは一件のデータから結論を出しているということになる。事例研究としての価値はあるが、ここから全体の傾向を論じるのはあまりよくない。

 

後件肯定の誤謬とは例えば「ある社会集団には特定の行動を取りがちである。ある人物がその行動を取った。つまり、その人物は該当する社会集団に属している」といったような構造の誤謬。例えば社会集団を犯罪者、行動を食事に置き換えれば「犯罪者は食事を取る。この人は食事をした。つまりは犯罪者だ」といった無茶苦茶なことが成り立つ。ただし論じられている2つの要素(今回であれば社会集団と行動を取る人々)が同一であるか、密接な関係がある場合にはこの論理にはある程度の蓋然性が生まれる。しかしちょっと条件が複雑になると普通にそういう専門家として職に就いているレベルの人がこれをやらかすことがあるので人間は怖い。

 

p値はざっくり言えば「その現象が偶然起こる確率」であり、一般的には0.05を下回れば、つまりその現象が偶然に起こるとしたら20回に1回より稀であるとなれば「何かありそう」という風に判断される。逆に言えばその条件を満たさなければ「ただの偶然、そのくらいのデータは普通に出る」となるが人間の認知バイアスは強いのでこういう時には誤作動を起こしていやしかしまだ何かあると疑ってしまう。

 

キイは一応理工畑出身で統計学をかじっているので、ここらへんがいい加減な業界が嫌いなのはまあ、仕方がない。純粋に相性の問題である。

 

まあ半世紀もあれば濃縮ウラニウムによる分裂兵器ぐらいは作れなくはないだろう。

いわゆる原子爆弾。「ウラニウム」とか「分裂兵器」と呼んでいるのはかっこいいため。

 

負傷によって起こる感染症とかによる死は長い間あまり注目されてこなかった。統計がないと人間は印象で語りがちなのである。

統計学者のフローレンス・ナイチンゲールの活動を踏まえたもの。

 

ケトが私にやってくれた看護の水準から考えると私の知っている例よりはかなりまともだが、あくまでまともであって完全ではない。

例えば「傷をつけた武器に軟膏を塗れば治りが良くなる」としたテオフラストゥス・フォン・ホーエンハイムの系譜に連なる武器軟膏とか。なおこの治療法の否定は接触による「力」の伝播以外を認めない機械論的モデルによってなされたものであることには注意。一応対照実験もクリアした、当時としては信頼された治療法だったんですよ。軟膏が有害で対照群のほうが治癒が遅くなっていたことを除けば。

 

賞金

論文の投稿は無料。購読は有料。

なお一般的な論文誌では両方とも有料だったりオープンアクセスの場合は投稿が有料で無料で読めるとかだったりする。なんか歪なシステムに思えるかもしれないが、なんかそうなっているので仕方がない。

 

ノーベル賞、クラフォード賞、京都賞、ミレニアム懸賞問題、アーベル賞。

ノーベル賞はダイナマイトの発明で知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった物理学、化学、生理学・医学、文学、平和の5分野に対して年に各分野最大3人に与えられる賞。アルフレッド・ノーベの遺産の利息が賞金になるので、景気が悪かったり運用が失敗したりすると賞金額が下がるし、各分野ごとに賞金額が決まっているので受賞者が多いと取り分が少なくなる。スウェーデン国立銀行が賞金を出す「ekonomipris(経済学賞)」も賞金額は同じ。2022年の分野ごとの賞金額は1000万スウェーデン・クローナ、だいたい1億3000万日本円。

 

クラフォード賞は人工透析機製造で知られるGambroの設立者であるアルフ・エリク・ホルガー・クラフォードとその妻のアンナ=グレタ・クラフォードによって創設され、1982年からクラフォード財団とスウェーデン王立科学アカデミーが共同で授与する賞。基本的には天文学もしくは数学、地球科学、生命科学の3分野を1年づつ3年間かけて繰り返すが、アルフ・エリク・ホルガー・クラフォードが悩まされていた多発性関節炎における貢献については特別に割り込んで賞が与えられることがあるし、過去に天文学分野と数学分野の共同受賞例がある。賞金額は600万スウェーデン・クローナ、2022年のレートでだいたい8500万日本円。

 

京都賞は京セラ株式会社(設立当時は京都セラミツク株式会社)の設立者である稲盛和夫が創設した賞であり、先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門の三部門から、それぞれの部門内にある4分野が4年ごとに繰り返され稲盛財団によって各部門ごとに一人づつ選ばれる。1985年から行われ、賞金は1億日本円。

 

ミレニアム懸賞問題はクレイ数学研究所が2000年に発表した7つの数学問題で、問題の解決を行った人物に対し最大100万アメリカ合衆国ドルの賞金(グリゴリー・ヤコヴレヴィチ・ペレルマン受賞の2010年のレートでだいたい9000万日本円)が与えられるもの。これは20世紀初頭にダフィット・ヒルベルトが発表した数学における未解決問題のリストを意識して作られている。今のところ、解決されたとみなされたのはポアンカレ予想のみ。

 

アーベル賞はノルウェー政府がノルウェー科学文学審議会の選定した数学者に与える賞。最初の授与は2003年。賞金は6000万ノルウェー・クローネ、2022年のレートでだいたい8000万日本円。

 

1936年から授与が始まっているフィールズ賞は賞金額が15000カナダドル(一番最近の開催である2022年の相場ではおよそ150万日本円)とここに載せた賞に比べれば低い。なお、キイはここで挙げていないが数学ブレイクスルー賞という2015年から授与が始まった数学を対象とした賞金300万アメリカ合衆国ドルの賞も存在する。

 

ストックオプションみたいなやつです。

株式会社の関係者が相場にかかわらず一定の金額で株を買うことのできる権利のこと。ベンチャー企業などで人材確保等のために用いられることがある。

 

人間というのはちょっと動くイラストとかに数十万円をつぎ込めるのである。

ガチャは悪い文明、というやつ。*1

 

対価

ハルツさんとの関係はありがたきものだ。

ありがたきもの

舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君。

毛のよく抜くるしろがねの毛抜き。主そしらぬ従者。つゆの癖なき。

かたち、心、ありさますぐれ、世に経るほど、いささかのきずなき。

同じ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかの隙なく用意したりと思ふが、つひに見えぬこそ、かたけれ。

物語、集など書き写すに本に墨つけぬ。よき草子などはいみじう心して書けど、かならずこそきたなげになるめれ。

男女をばいはじ、女どちも、契り深くて語らふ人の、末までなかよき人かたし。

 

(有ることが難しいもの

舅にほめらるる婿。また、姑に(良く)思われる嫁の君。

毛のよく抜ける銀の毛抜き。主を悪く言わない従者。少しも癖がない(人)。

容姿、心、態度が優れ、世で過ごしても欠点のない(人)。

同じ所に住む人で、互いに気を使って、わずかな隙もなく注意している人をついに見ないところからすると、(こういう関係は)めったにない。

物語、集などを書き写す時に原本に墨をつけないこと。良い草紙などはできるだけ心して書いても、必ず汚くなるようだ。

男女は言うまでもないが、女同士でも、契が深く話し合う人が、最後まで仲良くいる人(でいることは)難しい。)

 

──清少納言「枕草子」 七二段より(枕草子. 松尾聰, 永井和子校注・訳. 小学館, 1997, (新編 日本古典文学全集, 18). より、筆者により一部変改。訳文は筆者による。この部分の底本として用いられたのは三巻本系統の第二類本である相愛大学・相愛女子短期大学図書館春曙文庫所蔵、弥富破摩雄・田中重太郎旧蔵「弥富本」。新日本古典籍総合データベースでは「彌富本」となっている。)

 

枕草子が書かれた年代はおよそ1000年ごろとされているが、この当時から嫁と姑の関係が良いことは稀、つまりは有り難きことであると認識されていた。なおキイとケトとの関係もありがたいものである。

 

嫉妬

例えばほらあの理化学研究所だって4年かかってるし。

高峰譲吉がアメリカ合衆国から日本に戻ってすぐに渋沢栄一を始めとするメンバーによる設立協議会が設立されたが、これが1913年6月。翌年3月には貴族院と衆議院に設立に関する請願書を出したが、その年の国会では間に合わず1915年に帝国議会は設立を決定した。その後各種の資金を集め、理化学研究所が設立されたのが1917年3月20日。当時の日本のドタバタ具合は本当にすごい。

 

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエの水準には追いつきつつある。

具体的には精密測定による質量保存の法則の発見を想定している。

 

程妬

ざっくりとした算学的内容を含み、二項分布から正規分布を導出し、非常に弱い中心極限定理を示す。

中心極限定理は「ある集団からサンプルを十分多く取ったとき、得られる平均値の分布は正規分布になる」というもの。なおこれは分散という値が計算できることが前提であるため、それが発散するような分布だと成り立たない。これは測定の誤差の評価などに役立つため、生産計画などにとって重要である。

 

月に一度はヘルウィークみたいな感じになっているが、仲間と協力すれば乗り越えられるはず。

ヘルウィークは一般的にはアメリカ海軍特殊戦コマンド管轄の特殊部隊であるNavy SEALsの選抜過程の一つ、24週間にわたるBasic Underwater Demolition(基礎水中爆破)/SEAL Training(訓練)の7週間目に行われる5日間にわたって行われる連続訓練のこと。非常に短い睡眠時間しか与えられず、過酷な環境に晒されるために精神的強さが問われる。さすがにこれはキツいので、大学における試験前の一週間(dead weekとも)の方を指しているのかもしれない。

 

会談

学会の予算を懇親会の参加費での若手扶助に使うのは現場で偉い人、具体的には事務代表と学会長が許可していたからあれは問題ないはず。

日本語訳: 偉い人が奢ってくれたけどあれはセーフ。

 

こっち系統の話をこれ以上するな、というかなりわかりやすいアピールである。

ここの理由をキイは勘違いしていて、自分がそんな俗っぽい理由でキイの下にいるとは認めたくない故の反発が混じっている。

 

問題

なるほど、仮想とは言え図書庫の城邦を脅かす取り組みをするなら頭領か、それに近い人の援助がなければ難しいだろう。

クーデターへの反抗を考える若手幹部候補とか、明らかにまずい案件である。

 

雑話

蒸留装置の発展の結果、樟脳がついに見出されたので作れるようになったのだ。

裏設定ではあるが、ここで言う樟脳はボルナン-2-オンではなく1,8-エポキシ-p-メンタン(シネオール)のような類似した化合物のつもり。

 

レンズを組み合わせて綺麗な像を作るということはまだされていない。

私たちの世界では、レンズを使った幻灯機の初期の例としてアタナシウス・キルヒャーの影響を受けたクリスティアーン・ホイヘンスが1660年ごろに作ったとされるものがある。とはいえこの時期に光学の発展に伴ってヨーロッパ各地でこの手の装置の研究が進んでいた。

 

葡萄糖

そこらへんの土の中から放線菌とかを持ってきてグルコース-6-リン酸イソメラーゼをちょちょいと抽出できれば葡萄糖(グルコース)から異性化糖を作れるのだが、ここらへんの技術は未確立。

葡萄糖(グルコース)果糖(フルクトース)は構造異性体であるため、うまい具合に分子を入れ替えれば相互変換が可能である。これを実現する酵素はサトウキビ赤すじ病を引き起こす病原の一つであるキサントモナス属のXanthomonas rubrilineansや、ストレプトマイセス属のStreptomyces aerocolorigenesから得ることができる。こうやって作られる異性化糖の製造方法は高崎義幸によって発明された。

 

甘蔗(サトウキビ)甜菜(テンサイ)棗椰子(デーツ)蜀黍(ソルガム)砂糖楓(サトウカエデ)

いずれも蔗糖(スクロース)が含まれる植物。厳密にはデーツは実を指すことが一般的なので植物名ではないけれども。

 

プラントハンターというやつだ。

旅行先や征服地からの植物資源の回収は紀元前より見られ、大航海時代以降は活発となった。その過程でアカキナノキ、あるいはキナのような有用な植物の「発見」もあったが、しばしば搾取と植民地支配の裏返しのような側面も持っていた。生物の多様性に関する条約ではこういった歴史を踏まえ、国は自国内の「遺伝資源」に対して主権的権利を持つとされている。

 

飲み物を冷ましてもいいのだけれども、ソルベとかのほうがインパクトが大きいと思いましてね。

英語圏ではシャーベットになる。ソルベはフランス語。由来をたどるとアラビア語のشَرَبَات(šarabāt)「飲み物」やشَرِبَ(šariba)「飲む」までたどり着く。もともと中東地域の甘い飲み物であったが、それがイタリアを経由して輸入され、氷菓の名前になった。

 

一応私の知っている食文化史では硝石の持つ負の溶解熱を使ったものがブルボン朝ぐらいにあったがはずだが、

実際にフランスに持ち込まれたのはヴァロワ=アングレーム朝のカトリーヌ・ド・メディシスがフランス王妃だったころであり、ブルボン朝にはカフェ・プロコップで提供されるなどかなり広まっていた。

 

基本的に自然界にはこういった糖が少ないので、摂取したら快楽物質が流れるようにできているし上がった血糖値を下げるシステムはインスリン系統以外は用意されていない。

なのでインスリン代謝がおかしくなると大変なことになる。一方血糖値を上げる方は通常用と予備用と緊急用とみたいな感じでいっぱいある。

 

設営

種実(ナッツ)を砕いて水に浸して濾して卵黄を入れて、となんかアイスクリームに似たものまで生まれているし。

モデルはアーモンドミルク。

 

確認

指示をしているのは外征将軍の信頼する炊事校、まあ軍における調理と兵站確保と糧食買い付けとかなんかそういう重要なこと全般をやっている人だ。

「校」の由来は中国および日本に存在した軍事官職、校尉。日本語では「将校」などの単語の由来になっており、中国人民解放軍や中華民国国軍では佐官に相当する「校官」という階級が存在する。

 

私が知るような軍事教練、あるいは初等教育を終えていないと怒鳴って動かすのが最適解になってしまう。

一応日本の義務教育には集団行動訓練とかが組み込まれているのである。一応災害とかの非常時の集合とかいうことになっているけどね。

*1
この言い回しはリヨ「もっとマンガで分かる!Fate/Grand Order」に由来する。



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第21章~第24章 まとめ
組織紹介


図書庫の城邦限定ですが、筆者もちょっと怪しくなってきている組織とかのリストです。

厳密な統制の概念がないため、あくまで包括関係は目安です。


頭領府

 

世襲制の頭領を頂点とする、図書庫の城邦における最高意思決定機関。行政分野の大部分については衙堂への委任を行っているため、残る行政分野と立法、司法などを扱っている。

法務審議会

 

事実上の立法機関。古帝国法をベースに各種の判例や専門家の意見などを参考に事後立法なども含めたやり方で法体系を管理している。やり方は大陸法よりも英米法に近い。

蔵計員

 

衙堂から納められた税を確認し、不正が無いかどうかを確認する人たち。衙堂はこの人たちから徴税権を委託されている形になっている。あらゆる産業に精通し、衙堂に気が付かれないよう各地を歩き回るという特徴から多くが「刮目」と繋がりを持っているとかなんとか。

量地司

 

測量を行い、地図を作る人達。その特別性を受けて独特の教育システムを持っていたが、教育部分を頭領府府中学舎に移管することになった。

衛兵

 

図書庫の城邦の城壁通過時の検問や、頭領府内の警備や雑用を担当する人たち。巡警のような長剣を持つことは少なく、区別のために槍や短刀を用いることが多い。

外交局

 

キイの発案で設立された部署。各所に使節官を送り、情報収集と図書庫の城邦の関係者の援助を行っている。設立時から「刮目」の影響を強く受けている。

図書庫の城邦の軍

 

図書庫の城邦における暴力装置。頂点は巡警将軍と外征将軍の二名。

外征軍

 

図書庫の城邦の範囲外で戦う軍。それなりに強く、少ない犠牲で重要な部分での勝利をもぎ取って周辺国から無視できないぐらいの成果を挙げている。

巡警

 

図書庫の城邦における治安維持、犯罪捜査、逮捕を担当する。赤い外套と腰に下げた長剣が特徴的。原則、図書庫の城邦では剣の所持が禁止されているが例外として認められている。有事には再編成され、徴募兵を組み合わされて外征軍と同様の編成に組み直されることになっているためそういう訓練もきちんと積んでいる。

長卓会議

 

頭領府が招集する有力者や専門家の会議であり、意見収集機構としての役割がある。ここでの決議の多くは事前に根回しが済んだものであるが、特別な事例についてはその場の決定が大きく政策に影響を与えることがある。古帝国法に基づいて開催の義務と決定内容の遵守が定められているが、ちょっと解釈が怪しいので古帝国の系譜を継いでいるところでもちゃんとやっているところは少ない。図書庫の城邦はそういう意味でしっかりしているのである。

府中学舎

 

キイが計画している教育機関。まだ計画段階。

 

衙堂

 

大陸規模のネットワークを持つ宗教組織。とはいえ特定の神の教えを布教するというよりは現地の信仰を補助するとともに公的機関のような働きをしていることが一般的。図書庫の城邦では委託された徴税権を用いて収穫管理、計量、梱包、輸送などを行っている。地域から若く有能な人を集め、図書庫の城邦にある大衙堂で教育を受けさせ、司士や司女として育成するという教育システムを持っている。

「総合技術報告」編集所

 

今のキイの仕事場。キイが司女名義で活動しており、衙堂から給金を得ているので一応衙堂の下部組織のような扱いになっている。

 

図書庫(大図書庫)

 

庫長とその下の書官によって事務が行われているこの世界で最大の典籍保存施設にして、教育研究機関。世界中から遊学のために人が来る。写本の販売などである程度の収入はあるが、頭領府からの援助が大きい。

講官

 

図書庫から講義義務と引き換えに研究費と給金を得る事ができる人たち。一通りの学問を修めた上で、特定の分野における特筆すべき功績を認められて任命される。

書字生

 

図書庫で写本の作成や版木彫りなどをやっていた人たち。文字版印刷機の導入により人数が大幅に減ったが、それでもまだ写本の需要が残っているので働いている人がいる。

印刷物管理局

 

キイが初代局長を務めた図書庫の城邦における印刷物に関する問題全般を扱う機関。最近は発案所持権の問題まで扱うことになったのでキイへの恨み言を言いながら局員が仕事をしている。

印刷物研究班

 

印刷物管理局の中に作られた研究部署。最近「時勢」の印刷所が作った輪転印刷機に悔しがっている。

図書庫の中の図書庫

 

大図書庫のコレクションの中核。歴史的記録を含むこの世界の「本」の多くが納められているが、基本的に講官以外は閲覧禁止となっている。

 

商会

長髪の商者の商会

 

複数ある商会の中でもここ数年で一気に力をつけた商会。実は長髪の商者と呼ばれる男は代表ではない。代表からは早く代表になってくれと言われているが責任を避けられる今の立場がいいらしい。

実験工房

 

長髪の商者が出資して作った実験所。様々なところから集められた人が新製品の開発や技術研究をしている。無線機の開発は頭領府管轄で別の場所で行われることになった。

 

工房

 

図書庫の城邦は交易の中心地であり、多くの商品が輸入されてくるがある程度のものは自給している。最近は商会の介入もあって統合や整理が進んでいるが、現場で働いている人には大きな影響はまだない。

 

報知紙印刷所

 

新聞に相当する「報知紙」を印刷する組織。図書庫の城邦で有名な報知紙は「時勢」と「視線」の二つ。他の地域でも似たような取り組みが行われているらしいが、識字率の低さもあってあまり浸透していない。

「時勢」

 

若い編集長が作っている報知紙。輪転印刷機の発明によって一気に投資をかき集めたがそれをさらに新しい印刷機の製造につぎ込んで事業を拡大したためいつも自転車操業。

「視線」

 

元頭領府というカバーを持っていた「刮目」の関係者が編集長を務める。体制寄りであり、プロパガンダ色が強いが城邦内の問題とか頭領府の活動をちゃんと扱っている。

 

「刮目」

 

図書庫の城邦を中心に活動する諜報組織のようなもの。代表の女性はツィラと名乗っているが、偽名は多いらしい。



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演説

外征将軍の屋敷で行われた晩餐会にて。書き起こし。


ああ、うん。後ろの方まで問題なく聞こえているようですね。こんばんは。司女のキイです。今日はまず、最近起こっている様々な変化について話しましょうか。

 

始まりは、今では文字版印刷として知られるものの誕生でした。前に映された図を見てください。文章はこのように文字に分割できます。今までは一枚の板から彫られていたものを、金属製の小さな版に分割し、それを組み合わせることで本を作るのです。この印刷方法は、今まであまり使われていなかった形式の本を生み出しました。印刷した紙を束ね、糸で綴じることで冊子を作るものです。これは非常に安く、簡便に作ることができるために一気に広がりました。

 

そう、これによって知識が非常にやり取りされやすくなったのです。今まで、一冊の本を作るためには数人の書字生が長い期間をかけて作業を行う必要がありました。今ではもっと少ない人数と時間で、多くの本を作ることができます。これが今の多くのものが生み出される下地を作りました。

 

例えば私が今使っている伝声器と拡声器は、とある薬学者が気がついた、本来なら見落とされそうな現象が始まりでした。二つの異なる金属をある種の酸につけると、一方の金属が溶けてもう一方の金属の表面に膜を作るのです。これは今まで水銀などを使っていた鍍金というものに近いのですが、この過程で舐めると痺れるような感覚を与えるある種の力が働いていることがわかりました。

 

本来であれば、この発見はせいぜいその薬学師の秘密となるか、内輪で知られるだけに終わっていたでしょう。しかし印刷機が流れを変えたのです。痺因と名付けられたこの力は本に載って多くの人の知るところとなり、その特徴についての調査が新しい本を生み、多くの手紙がやり取りされる中でその特徴と利用方法が明らかになっていったのです。

 

痺因は金属を流れるように、素早く伝わります。例えば今私の手の中にある伝声器は、声の振動によって痺因の流れを遮ります。そうすると、流れる痺因の量が変わっていくわけですね。この変化は金属で作られた線を伝わり、後ろまで届き、磁石との相互作用によって声を出しています。

 

痺因は他にも面白い特徴があります。強い痺因を細い金属線に流すと熱を持つのです。燃え尽きないように調整した硝子の容器に入れることで、夜でも昼の太陽のような明るさを作り出すことができます。この前の方に図を映し出しているのはその光です。しかし、これだけでは図を作ることはできません。広がる光を調整し、真っ直ぐなものに直すための特別な工夫が必要です。

 

ここで用いられるのが硝子です。よく磨いた円盤状の硝子、私たちが透玉と呼んでいるものは、光を集めたり広げたりする特徴を持ちます。これを組み合わせれば星を引き寄せたように大きくして見ることも、水や大気の中にある微小生物を観察することもできます。この分野の研究は始まったばかりですが、非常に幅広い応用分野があります。遠くを見るために組み合わせられた透玉を用いて、量地司が今までにないほど正確な測量ができるようになっています。農学の方面でも、様々な病害を分析し、その原因を突き止めることができるようになっています。

 

拡大は決して小さな生命だけが対象ではありません。この構造は、鋼の断面を磨いた時にできる非常に小さい構造を映したものです。この小さな区切りの大きさや形状が、鋼の特徴と大きく関係していることが明らかになってきました。これは図書庫の城邦の外で発見されたものです。しかしその大本となる知識は、この地で作られた冊子に載せられたものです。

 

ああ、この図を作るための術についても説明する必要がありますね。銀絵、というものです。銀を特殊な薬品に溶かすことで得られるある液体は、光に当たると元の銀に戻るという特徴があります。これを使って光の当たっているところを白く、当たっていないところを黒くすることでまるでそこに実物があるかのような図を作ることができるのです。とはいえ、まだ白と灰色と黒しか表現できませんが。

 

そう、まだ様々な謎や改良の余地が残っているのです。例えば銀絵を刷ることはできるのでしょうか?ある種の絡繰と組み合わせることで、文字版を手で一つ一つ置くのではなくもっと高速に並べることはできないのか?痺因の正体は何なのか?痺因を使って声以外のものを伝えることはできないのか?硝子から作った透玉を組み合わせれば、限りなく遠くのものや小さなものを見ることができるのでしょうか?より強く、しなやかで、安い鋼をつくることはできないのか?色のついた銀絵を生み出すための薬品はないのか?

 

私たちはまだこれらに対する答えを持っていません。しかし、今までの事を思えばこれらのことはそう遠くないうちに解決されるでしょう。注意深い観察と計画された試行、そして情報の公開と共有と分析。しかし、それができる人はまだほとんどいません。このような立ち向かい方はあらゆる種の問題に適応できるはずなのに、このやり方を使いこなすことは容易ではないのです。

 

なら、それを学べる場所を作る必要があります。今までの知識を学び、今の発展に触れ、そしてこれからの問題に立ち向かえる人が必要なのです。

 

しかし、それは一人ではできないことです。多くの人が、様々な形で協力することによって可能となるでしょう。ここ、図書庫の城邦という場所でならそれが叶います。多くの賢人がいて、教育の重要性を理解している徳の高い出資者がいて、このような取り組みを支えてくれる組織があります。

 

……お願いします。頭領府府中学舎の設立に、ぜひ力を貸してください。次の世代の人が良く過ごせるように、私たちに援助をお願いします。




活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=291906&uid=373609


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第25章
余韻


私が指を鳴らすと、投影機の光が消える。さっきまで投影機のスライドフィルムを交換していたケトを見ると、すっと目をそらして口元を隠して震えていた。おい、そんなに私の話が面白かったか?なお技術的説明はともかく、経緯自体はけっこうデタラメです。なにせ基本的に全部作ったり指示したり案を出したの私だからね。実はそれを知っている人はあまりいない。私の名前は必要なところに知られていればいいのだ。

 

最後の私の問いかけの答えそのもの、あるいはその方向性をケトは知っている。まだ作れなかったり実証できなかったりとで断言はしていないが、私が示唆したアイデアは色々と可能性を秘めているのだ。耳を立てればああすれば行けるんじゃないか、とかそういう話がされている。

 

「キイ師、実に良い話でした」

 

部屋の前の方からケトのほうに歩いていると、一人の男性が暗がりから私に近づいてきた。電灯を反射してきらりと光る金の腕輪。前よりも少し疲れが取れた表情をしている。

 

「過分な評価です。まさか来て頂けるとは」

 

こうやって話すのは本当に久々だな。図書庫の城邦の頭領、つまりは頭領府府中学舎に対する最大の出資者である。

 

「途中からになるが、暇ができたのでね。弟が世話になっていないといいのだが」

 

「いえ、彼からは実に重要な助言を頂きました。ここまで人を集めることができたのも外征将軍の力あってこそです」

 

「ならば良し。……ケト君は?」

 

私が視線を向けたタイミングで、ケトはすっと私の少し前に立つ。ちょっと距離が詰まるので私は半歩後ろに。

 

「こちらに」

 

「……先人として言わせてもらうが、実によくやった。しかし気を抜くべきではないぞ」

 

「心得ています。ご期待下さい」

 

なんというか、この二人は結構仲良さそうなんだよな。頭領に親戚のおじさんみを感じる。もともと威厳とかは振る舞いが作っているので、肩を張っていない時は比較的苦労人の男性になるのだが。

 

「しかし、これが実現すれば新しい物事が起こす混乱も少なくなるのだろうかね」

 

「……未来を見通すこと叶わぬ身ゆえ、断定は致しかねます」

 

おっ微妙な表現。ケトも嫌な成長をしているなぁ。私はすっとこういうのが出せない。

 

「はは、構わん。……増えるか?」

 

「……可能性はあるかと。しかしそれを捌けるだけの人をキイ嬢が育て上げてみせます」

 

えっ私がやるの?まあ私以外誰がやるかという話ではあるが。まあでも自信たっぷりに頷いておくか。

 

「ここ数年、混乱に対応してきた人を任せる。……できるだけでいい、その間はあまり揉め事を起こさないでくれ」

 

「止めるよう努力はしますが、制御しきれなくなった時はご容赦を」

 

おい私の話で盛り上がるな。口調は諦観混じりだが。たぶん煩務官を混ぜるともっと盛り上がりそうだ。私はちょっと入れるだけの経験がないのでやめておきます。

 

「……ケト君」

 

「はい」

 

「キイ師の代理として動くならば、これから君の立場は一司士のものを超える。頭領府の名前を使えるということは、それだけのものを背負うのだ」

 

なんで私に言わないんでしょうね?私が政治面においてはお飾りだと判断されているからだと思います。あとは私に何か言ってもあまり意味がないと諦められているからとか?可能性は高い。あとは直接言うよりもケト経由のほうがプレッシャーになるとわかっているからとか、かな。まあ正しい。

 

「キイ師。よろしく頼む」

 

「任されました。最初に頂いた銀片の恩を、私はまだ忘れてはいません」

 

初めて頭領と会った時を思い出す。そうか、そういえば彼は私が異常な知識を持つことを知っているのか。半ば脅しみたいな感じで言ったのだが、それを信用してくれて最初の文字版印刷機の製造費用を出してくれた。直接出したのは図書庫と衙堂だが、間接的には税だからな。

 

「……ただし、もし敵となるのであれば」

 

「そうなっても、私を討てるだけの人を育ててみせます」

 

「それはいい。っと、すまない、向こうに招かれているようだ」

 

頭領の見た方を確認すると外征将軍がいる。まあ今夜のメインは彼だからな。仕方がない。

 

「それでは、良い夜を」

 

「楽しませてもらうよ。それと氷菓子は実に旨かった」

 

そう言って、頭領は別の会話の輪に混ざっていく。

 

「ケト君はどうするの?」

 

「給仕の人たちの様子を確認しに行きます。投影機を触っている間、何も起こしていないといいのですが」

 

ああ、管理職ならではの辛さである。頑張ってほしい。私も一応あるのだけれども。

 

「私がやることある?」

 

「ああ、なら技術系の人を紹介します。そこで専門的議論をしていてください」

 

「……扱いが雑じゃない?」

 

「キイ嬢はちょっと危なっかしいのですよ、演説はとても良かったですが」

 

ケトは溜息を吐いた。まあ、仕方がないな。私はそこらへんが甘いし、一言で出資が取り消される可能性がある重要人物の前にはあまり出したくないだろう。とするとさっきの頭領との会話は大丈夫だったのだろうか?今更ながら怖くなってきてしまった。



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聖典

私は賢いので、過去の失敗から学習することができる。そういうわけで二日酔いは起こしていない。ちゃんとアルコールを入れないでおいたのだ。いや、昨日の議論はなかなかに楽しかったな。算学と修辞学と法律学の人で言語における論理の話をしていたのだ。聖典語は今日かなり広い範囲で使われているが、自然言語である以上どうしても限界が存在する。その中でも統制された単語と決められた文法構造だけを用いて、一意に解釈できるような文章を作れないか、なんて話。

 

いや、正直面白くて色々とアイデアを出してしまった。ベン図と簡単な論理記号を使ったり、逆ポーランド記法での表現を試みたり。ここらへんは将来計算機を扱うときに不可欠になるので「総合技術報告」の編集員を紹介しておいた。話していて悪い奴らではなさそうだったしね。

 

「……キイさん?」

 

天井を見上げているとケトの声がする。書いているのは昨日の来賓に対しての来てくれてありがとうという手紙。

 

「起きているよ」

 

「後で手紙に封をするのを手伝ってください」

 

「文面については書かなくていいの?」

 

「文字版印刷機でやります」

 

「失礼だ、とか誠意が感じられない、とか言われない?」

 

「……なんですか、その面倒な老人みたいな言い方は」

 

「あ、そういうこと言う人はいるんだ」

 

この世界が実に過ごしやすいというか、こういう新技術に対する受け入れが思いの外すんなりしているので忘れていたが現状維持の保守的な考え方の層は当然存在するのだ。もちろん、それは社会にとって不可欠な安全装置でもあるが。

 

「……待って」

 

「はい?」

 

「なんでケトくんはそうじゃない?」

 

「……ハルツさんに、そう教わったから、でいいですか?」

 

「他の人は?老人みたいな、ってことは、多くの人はそうじゃないんだよね」

 

「そうですね。ええと、まあ聖典にも書いてあるし、たぶん司士や司女から教えてもらって学ぶんだと思いますよ」

 

「親から、ではなく?」

 

「もちろん親もあるでしょうが、親も衙堂で学ぶことがあるでしょうし」

 

記憶を探る。教育による価値観の変化を意図的に起こしている?いや、そもそも教育とはそういうものだが。方向性を意図的にやっているかが問題になる。隠れたカリキュラムというやつだ。

 

「司士や司女の教育方法を定めているのは?」

 

「大衙堂とか……その衙堂にある聖典ですね」

 

「……念のため、確認していい?」

 

「はい」

 

「どの聖典?」

 

「どのって……それはその衙堂にある聖典では?」

 

「ハルツさんのところは異様に本があったけれども、他は多分そうではないよね?」

 

「本は安いものではありませんからね。ええと、その地域のものと、あとは主要なもの一つか二つか、といったところでしょうか。あとは手続きとかの手引を含めて最低五冊あれば、まあ一番小さな衙堂を回すぐらいならできるでしょう」

 

「主要なものっていうと……あれか」

 

私が知っているものだと旧約聖書の知恵文学とか、儒教の四書みたいなものだ。聖典語の韻文で書かれたもので、容易な単語のリストみたいなものから結構難しい概念まで、様々な内容が含まれている。しかし面白い論理展開だった。基本概念を無理やり訳すとしたら「徳」にでもなるのだろうか。いいことをすると徳がたまって、みんなハッピーになる。自分の中の悪い思いを抑え、悪い行動を避け、悪い選択をしないようにすれば、そしてそれを周りに広めていけばいい、みたいなもの。基本的に出てくるのは人間ばかりで、神とか超常的存在みたいなものはやろうと思えば読み取れるが、避けようと思えば避けられる。

 

「これ、改定されているんだよね」

 

「そうですね、十年よりは短いですから、数年に一回ほど。もちろん全ての衙堂で同じものを使うのは大変なので、大抵は少し古いものを使っていたりしますが」

 

「古くなったものは?」

 

「捨てているんじゃないですか?」

 

「どこかに取ってある場所は?」

 

「図書庫にはあるはずですが」

 

「……ああ、見覚えがあると思ったらあれだ、『大兄、汝を見たり(BIG BROTHER IS WATCHING YOU)』だ」

 

「その言葉、知りませんが」

 

「私の故郷にあった本の一節だよ」

 

文章を、常識を、ゆっくりと、しかし確実に書き換えている、のか。もちろん宗教とはそういうものだが、それを意識して行っている?私の知っている聖典というものはなかなか更新されないものだ。千年を越えて使われ続けたヴルガータ訳。あるいは比較的作られた当初の状態を保存しているクルアーンでもいい。こういう古典は、古い状態を引き継いでいるからこそ価値があるとされている、と私の記憶している歴史は言っている。もちろん、古いものが決していいものではないと考えると適度なバージョンアップは必要なのだが。古帝国法はそれができていない。いや待て。逆に考えろ。聖典は更新できているのだ。更新されるということは、新しい概念が盛り込まれるということだ。つまり、聖典語の話者がいないと作ることができない。

 

「聖典語を話すように育てられた人って、いる?」

 

「まずいないと思いますよ」

 

誰にとっても第二言語以降になるのか。だから学術語として成立する、というのもあるのだろうが。

 

「やっぱり古いもの、見たほうがいいな」

 

「使うんですか?」

 

「もらったからね」

 

私はケトが手渡してきた、私の名前の書かれた任命証を手に取った。



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本棚

「庫長より話は聞いております。お二人とも、どうぞ」

 

久しぶりにケトと顔を出した図書庫の奥の方、「図書庫の中の図書庫」と呼ばれる機密書庫。その受付で問答をするべく頭領の名前の入った任命証を取り出そうとすると、前に私たちを拒んだ図書庫の職員はすんなりと通してくれた。

 

「……いいの?」

 

訝しげに私は問う。一応議論で勝てるよう準備をしておいたのだが。

 

「個人的な見解でよろしければ、お二人がこれを見ると厄介事が起こるという点については間違いないと思います。しかし、頭領の判断ですので」

 

「拒む権限はないの?」

 

「ありません。上からの命令ですので」

 

「……お疲れさまです」

 

「ありがとうございます。判断が間違っていたと思えることを楽しみにしています。それと、もし探すものがございましたらお気軽に声をかけてください」

 

「ひとまず、中を見てみるよ」

 

ケトと私はその空間に入る。下に向かう階段と、上に置かれた足場。棚に詰め込まれた多くの巻物。職員が棒を持って窓を開けてくれた。かなり奥の方まで、ぎっしりと棚が並んでいる。見た感じ、紙以外で作られたのものもあるな。羊皮紙みたいなものとか、あとはこれは……何らかの植物を薄く割ったもの、かな。あまり触らないほうが良いだろう。半地下だがあまり湿気を感じない。代わりに感じるのはある種の香草の匂い。虫除けかな。カビの匂いがあまりしないところからすると、管理はかなりしっかりされているようだ。まあ現場にいた人からするとちょっと問題点もあるけどな。できたら入口の時点で足拭いたりとかして原因を持ち込まないようにするのがいいが。しかしずるいな、ここは海の近くだから多少の湿気は仕方がないが高温多湿というほどでもない。

 

「色々ありますね……」

 

ケトが適当な巻物を開いて言う。

 

「それは?」

 

「詞、でしょうか。知らない言語です」

 

「作られたのは?」

 

私の質問に、ケトはゆっくりと紙を伸ばす。あ、喰われてる。完全な保存環境ではなし、か。

 

「ここにあるように、原本は230年ほど前でしょうか」

 

「写本?」

 

「これはそうですね。複製の複製だそうです」

 

「そういうところもちゃんと記録を取っているのか」

 

よく棚を確認すると、ジャンルと文字が書かれている。本の分類と著者の頭文字だろう。

 

「聖典の棚は、どこにあるかわかりますか?」

 

「案内します。こちらに」

 

職員は足場を渡って、奥の方に進んでいく。追いかける私とケト。思ったよりしっかりと足場が組まれているので、踏み外すとかしない限りは安全そうだ。

 

「……恐らく、衙堂が何をしているか、何のためにしているのかを知りたいのですよね」

 

背を向けたまま、職員が言う。

 

「ええ。教育の形を変えるなら、そのもとの形を知ることが不可欠ですから」

 

「わかりました。そういう事であれば、避けられないのでしょう」

 

「……前に、見ない方がいいと言ったよね」

 

「ええ。自分が学んできたことにそういう意味があったのか、と知ってしまうのは嫌なものです」

 

「……ケト君、わかる?」

 

「それなりに。ハルツ嬢から学んだことは、そういうものでしたから」

 

そういえば、ケトはハルツさんから色々なことを学んでいたんだよな。すらすらと聖典語を読みこなし、相手に東方通商語をしっかりと教えられるほどの知識を持っていた。あの衙堂の近くでずっと過ごしてきた少年が、だ。ハルツさんは多分、復讐とまではいかないけれども自分の意志を継げる司士を育てるつもりでケトに教えていたのだろう。

 

ケトは自分が何を教えられてきたか、ちゃんと理解している。けれども、なにか変わったということはなかった。本当なら多感な時期なのに、反抗することができなかったとか、そういうのもあるのだろうか。あるいはそれを飲み込んだか。私は勉強というか学校教育がなんとなく嫌いで、自分で勉強を始めて先生たちがわざわざ変な教え方をして何かを隠そうとしているんじゃないか、と中学校に入る手前までちょっと本気で考えていた。実際はそうではなかった。人間が人間を教えるというのは、どんなに精一杯やっても限界がある行為なのだ。それも全員に最低限の知識と経験を与える、という条件を課したなら更に難しくなる。

 

「棚はこちらになります。それと、これは読んでおいたほうが理解が深まるでしょう」

 

全体的にくたびれた、とでも言えばいいのだろうか。手垢かなにかで少し汚れた、多くの人が読んできたのであろう巻物を職員は私に渡す。

 

「きちんと読む場合は、外でお願いします」

 

「わかりました」

 

足元を確認してから一歩引いて、棚を視野に収めようとするがちょっとむずかしい。それだけの歴史がここにはあるのだ。中には巻物になっていない、紙の状態のものもある。

 

「これらは?」

 

ケトも気になったらしい。

 

「ああ、会議の記録ですよ。本とするのも微妙なので、置いてあるのです」

 

「……面白そう?」

 

紙を見るケトに私は聞く。

 

「ええ。多分、キイさんが見たかったものですよ」

 

ケトが私に紙の束を渡す。古い聖典語だな。一応読めなくはない。ええと、「分断と統合の均衡」……?面白そうだ、と直感が言っていた。



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侵食

「『帝国はその権力を奪う存在が生まれぬよう臣下を分断せねばならないが、分離……独立?されないために臣下を纏めねばならない』、と」

 

ケトが現代聖典語に訳してくれる。私はあまり古典を読んでいないが、詞とかの分野では古典的名作があるので古語を使うことが多いらしい。さすがに古典を全部書き換えるとかいう無駄なことには手を出さなかったか。

 

「政治の話?」

 

「そうですね。書かれたのは……衙堂ができる前」

 

「なぜ聖典語で?当時の主要言語であれば古帝国語では?」

 

「少し待ってください。読みますか?」

 

「……いや、古い分細かい雰囲気を掴めないと思う。私はこっちを確認するよ」

 

数百年分の聖典。どれぐらい変わっているのかを確認するのをちゃんとやるのはOCRかけて不一致を確認してみたいなことをやれば一瞬だったが、ここでは人力でやろう。こういうときのために作っておいた黒鉛筆を取り出す。黒鉛と粘土の粉末を圧縮して焼成したものを、金属でできた筒状のホルダーに入れたものだ。まあ、シャープペンシルに近い。芯はかなり太いけれども。

 

資料を扱う際に、汚さないようにするというのはとても重要だ。基本的に、こういうものを扱う時には手を洗い、鉛筆以外の筆記具を使わないというのが普通だった。もちろん鉛筆だって出た粉が汚すなんてことはあるが、万年筆みたいにインクが飛ぶ可能性は低い。ボールペンとかでもインクが液体だと染みたものを除去できないので、固体粉末が付着するタイプの筆記用具が基本なのだ。なおシャープペンシルは折れやすいから駄目、とのこと。

 

序盤にある、個人的に「新しさ」を感じた一節を見る。水車をもとに勤勉を説くものだ。しかし水車というのは比較的最近の発明である。いや、あくまで古帝国の崩壊からの歴史の中で、みたいな意味であって実際には百年弱ぐらい前には簡単な製粉用のがあったらしいが。

 

「……かなり変わっているな」

 

一番古い、多分最初の「聖典」を見た私は呟く。知っているというか見覚えがある単語のある句が……だいたい三分の一。というか凄いな、これだけ改定が重ねられても三分の一は残っているのか。最初にこれを作った人物は相当な才能があったに違いない。基本的に韻文ではあるが、まとまりの連ごとに入れ替えることはそう難しくないから後世の修正はそう難しくないはずだが、それでもレベルを合わせないといけないので決して楽ではない。勝手な見解だが、ケトなら行けるだろう、といった所。

 

「ひとまず、変化を纏めていくか」

 

最初から何番目か、というのは順番が変えられたりとかしていそうなのでひとまず新しい方から確認していく。探している句が消えたら、全体を探してないかどうか探す。そこまでしっかり見る必要はない。というかこういうのを整理しておいてくれよ、と思う。

 

「キイさん、面白い部分がありましたよ」

 

「ちょっと待って、これ見切ったらそっちに行く」

 

二周したが、見当たらない。よし、ならこの時に新しく挿入されたのか。後で他の部分もちょっと探してみよう。

 

「それで、何?」

 

「……まず、この文章自体です。聖典語なのはこれが『名前を忘れられた民』のために書かれたものだからです。これにも、その名前は書いてありませんでしたが」

 

「よくまあ徹底して」

 

「それもそうですよ。これは、地を超えた民の存在を否定しているものです」

 

「……どういうこと?」

 

「船の民、が数少ない例外になるでしょうか。早い話が、隣の村の人を帝国の同胞としてのみみなすべき、みたいな話でしょうか?」

 

「……ああ、なんとなくわかった。郡、だっけ。それごとへの所属心とかを持たないように、ということ?」

 

「近いですね。もちろん郷土愛みたいなものをなくすことはできませんが、帝国の民としての自覚を持たせるように、みたいなことで……ここらへんは、まだちゃんとは理解しきれてはいないのですが」

 

ケトの説明を纏めて、私が知る過去の世界の用語に置き換えていく。端的に言えば、民族主義の否定と言ってもいいだろう。自分の所属する集団に対しての帰属心はともかく、それを切り取って民族集団(エスニック・グループ)が生まれることを避けようとしている。だから、文化を衙堂によって徐々に上書きすることにした。領域圏を支配していた権力をゆっくりと解体し、新しい思考を持った人物で占めさせていく。時に暴力を用いて、時に移民のような活動を通して。最初、それは帝国を維持するためであった。

 

「で、次に来るのが、帝国が崩壊したときの議事」

 

図書庫の城邦は、そういった文化侵略政策において非常に重要な拠点だった。古帝国の領土から才能ある人物を集め、教育し、各地の文化の中から比較的無害なものを選んで広めていく。こういったやり方で、かなり真剣に文化政策に取り組んで、成功させてしまった例を私はあまり知らない。もちろん支配者がその文化に染まるとかいうことはあった。長い時間をかけて、別の文化の風習を無意識的に取り込んだ例はあった。けれども、ここまで地道に、気がつかれないほど長い時間をかけて変えていったというのは偉業だろう。

 

しかし古帝国は崩壊した。その原因は危惧していた民族問題ではなかった。それについての説明も、ケトの持っている紙にはあった。



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民族

ここではその動物を馬、と呼ぼう。古帝国は最初、遊牧民の支配下にある地域や都市の集合であった。図書庫の職員が出してくれた資料によれば、厳密には二種類の動物の総称だったらしい。羊と牧羊犬みたいなものに近い。しかしそれなりに近縁だったそうで。いやこれは本題じゃないな。

 

私が少し前にハルツさんに言ったことを思い出す。馬の消失が通信速度の低下をもたらし、崩壊を導いた、と。だいたい間違ってはいないらしい。しかしそれはゆっくりともたらされた。この動物は近親交配によっていくつかの特徴を発現させていたが、これを調整するのは非常に大変だった。しかし、そのノウハウは帝国の拡大とともに失われていった。図書庫はその知識を伝えようと様々な手を打った。当時既に各地に散らされていた「名前を忘れられた民」の協力もあった。しかし、衰退を止めることはできなかった。

 

その頃には既に古帝国の政策が有効に機能していた。多くの民族移動の誘導や、緩やかな文化の書き換え。宗教指導者階層の役割を「名前を忘れられた民」が始めた衙堂とすり替えさせ、各地の反乱を鎮圧した。反乱した人たちは新しい土地に、できるだけバラバラにされて送られた。こうやって生まれた植民都市で生まれたものが東方通商語らしい。まあともかく、そういう頃になってくると民族みたいなものではなく、土地にアイデンティティが生まれるようになっていった。

 

土地によるアイデンティティのいいところは、統合に強いイデオロギーが働かないところだ。例えば民族というものがあれば、同じ民族を同じ国のもとに、という考えが生まれる。この考え方が生まれうることがかなり昔から真剣に議論され、十分警戒すべきものとして認識されていた。だからこそ、古帝国は多民族国家を目指さなかった。それを目指すということは、民族の存在を認めるということだからだ。

 

「……キイさん、わかります?」

 

「わかるよ、私がいた世界では、この考え方のほうが普通だったから」

 

ケトが噛み砕いてくれた説明を史料で補強していく。先行研究があったのはありがたいが、私の知っている歴史と比べるとその論点には少し粗が見える。いや、本来ならもっと先に起こるようなことを予言していたと考えると凄いことなのか。

 

「人間は、どうしても他人との、他の集団との区別をしたがる。もちろんそこに違いはあるんだけど、共通点も多い。それを教育で気がつかせる、というのは……考えても、できるようなことじゃなかった」

 

民族の解体、というのは大仕事だろう。違う思考を、違う慣習を、違う言葉を話す人が隣りにいるというのは嫌なものだ。そして、たいていそこからは同じようなつながりを持った人たちの集団が生まれる。衙堂はそういうものができるたびに、聖典を手に潰していった。新しい人を受け入れましょう。溜まった水が腐るように、人の出入りが失せた集団は悪くなっていくものなのですから、と。とはいえ平等みたいな観点からの女性への権利付与自体はあまり進んでいないな。これは純粋に育児の割合が大きすぎたせいで自動的に区別がついてしまったから、と考えるべきだろう。つまりここらへんを改善すれば使える人的資源を増やすのは文化的にもそう難しくない、と。

 

「ケトくん」

 

「はい」

 

「この考え方、どう思う?」

 

「どう……と言われましても、まあしっくりは来ますね」

 

「なるほど」

 

私がかつていた世界では、これはディストピア扱いされそうな発想だった。というか民族という考え方自体が根付きすぎてしまったのだ。まあ人権みたいな概念も同じぐらい根付いていたのでどっちがマシかと言われると判断はできないが、先見の明ではこの世界のほうが上だろう。

 

「これ、誰かが一人でやったんだと思う?」

 

「キイさんみたいな人が、ですか?」

 

「そう」

 

私以外にも転移者がいた可能性は十分にある、と考えていたが明確なものは今まで見つけることができていない。私だってそうとう色々なものを残しているのだ。その可能性を知っている人がもしいれば、別の世界からやってきた存在を疑うだろう。しかし、私はそれを知った上でなおこの政策が個人によってなされたものだという実感が湧かなかった。

 

「違うと思いますよ。少しづつ方向を修正していっています。もしそういう人がいたとしたら、それはかなり最初の方に全ての計画を策定したはずです。でもこれは、きっとそうじゃない」

 

「……凄い、な」

 

これは多分、本来なら人類史に残る偉業に入るのだろう。巨大な構造物の作製とか、大規模な鉄道網の敷設とかといったような。しかしこれを意識的に、文化方面で行うというのは恐ろしいことだ。

 

「……ただ、知ってしまった以上、これを引き継がなきゃな」

 

「あれ、てっきり全部壊すとかするのかと」

 

「壊したいの?」

 

「いいえ。けれども、キイさんがやろうとしていることはこれを壊しかねないものでしょう?」

 

教育のための言語の統一とか、思想の伝播を容易にするとか。確かに、私の知識の中にあるナショナリズムの発達に必要なものを私はやろうとしているし、実際いくつかは動いている。

 

「先人には敬意を払うべきだし、これはかなりうまく行っている。……私みたいな余所者が、たとえそれが嫌いだとしても壊すべきじゃないよ」

 

思考を切り替えよう。この延長線上での教育システム、か。まあ、起こりうる問題はいくつか知っているからそれを止める経験をさせればいいな。



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迫害

「しかし、まだおかしいところはあるんだよな」

 

「どういうことです?」

 

私の呟きにケトが反応する。資料漁り三日目。私は「総合技術報告」の仕事を、ケトは政治的案件を午前中に終わらせ、午後はここで古い色々なものを確認している。一応地方でも識字率があるのは衙堂が教育をしているからだし、私の知識から見れば洗練されてはいないもののその教え方には利用できる場所がある。ハルツさんは確かに各地の衙堂に話を通してくれるとは言ったが、どうせ教科書を作るのは私になるし。いや、これは純粋に私が一番適任だからです。この世界には心理学と呼べるような思想体系はまあないわけではないが、児童心理学と呼べるほど独立したものはない。ここらへんをどうにかしたい。

 

「民の解体……とでも言えばいいのかな、古帝国は分裂や新たな支配者の誕生を防ぐために衙堂を使ってそういう事をやったわけだよね」

 

「そうですね」

 

「けれども、危惧されたような民は実際に生まれている」

 

「……そうですか?」

 

「船の民」

 

「ああ、そういえばそうですね」

 

陸と海の文化は大きく異なる。船の民はあまり一ヶ所に留まらず、移動を前提としたライフサイクルを送っている。生まれた場所から移動を繰り返し、船を渡り歩き、死ぬまでに相当遠くまで行くことも珍しくないらしい。なので大洋と呼ばれる海をまず越えられないとしても惑星全体を包む交易網を作り出しているのだ。とはいえ植物を運ぶのにはあまり成功していないからな。硝子(ガラス)もできたことだしナサニエル・バグショー・ウォードが作った輸送用容器みたいなものを作らせてみるか。

 

「本来なら、わざわざ船の民を作るとは思えないんだよ。衙堂の勢力圏外だし……」

 

「……誤算だったのでは?」

 

「というと?」

 

「どうしても馴染んだものを捨てず、他の集団と自分は違うと主張する人はいます。そういった人を海に追いやれば、勝手に死んでくれると思ったのではないでしょうか」

 

「悪意がありすぎるなぁ。ありえない話ではない気がするけど」

 

人間が「それは我々と同質ではない」とみなした相手にどういう事ができるかというのは、まあ歴史を見ればそう難しくない。そしてそういう感情は、結構簡単に作れるのだ。それに抗える、あるいは適応できない人は一定割合でいるが、それは例外と言っていいほどだ。ああでもここらへんの数字は結構怪しいってされてるんだよな。追試しにくいものも多いけど。つまり感電の演技が上手い人を用意しないといけないのか?いやまず人間は感電すると死ぬという一般常識が広まっていないと駄目だ。

 

「……いや、違いますね。船の民と陸の人々で、迫害というのは起こりにくいんですよ」

 

ケトがなにかに気がついたように言う。

 

「ちゃんと言葉にしてその考えを説明できる?」

 

「ええとですね、船の民は大きくなった古帝国にとって必要不可欠なものになりました。遠くからものを運ぶ時に、その量の点から言って船を上回るものはありませんから」

 

「そうだね」

 

私のいた世界でもそうだった。貨物列車とか貨物飛行機とかあったけれども、船はやはり運べる量の桁が違う。

 

「つまり、陸の人々は船の民を頼る必要があるわけです」

 

「まあ、もし船の民が迫害されればその港を使わなければいい話か」

 

「多分過去にはそういう事もあったのでしょうけれどもね。しかし、船の民も陸なしではやっていけません」

 

「……海の呪い、の話?」

 

「ええ」

 

「あれは海藻でも多分起こらなくなるけど」

 

「そうなんですか?」

 

「多分だけど」

 

普通に植物ならアスコルビン酸含有しているよな?ちゃんと測定するには酸化還元滴定したいところだけど。あ、クロムがあるのか。しかし重金属処理ができてないから扱いたくないな。二クロム酸カリウムって六価でしょ?マンガンならマシかな。ここらへんはトゥー嬢の専門なので頑張って整理してもらおう。

 

「それを、船の民が知っていると思いますか?」

 

「いや……、とはいえ呪いがなくても陸のものは食べたいか」

 

「あるいは取引で得るものもあるでしょう。相互に頼らなければいけないようになっているわけです」

 

「ああ、その上で住む場所や仕事が奪い合いになることも少ないから、併存できると」

 

「……しかし、キイさんの考えだと争いを起こさないように、と考えられているように言っていますよね」

 

「……昔いた場所の人々の、愚かな話だよ」

 

私は基本的に、過去の人物を愚かであるとは言いたくない。情報が限られた中で最善の選択を取ったのだろうし、愚かな時代と対比させて現代の人々が優れている、なんて主張が正しいなんてことはまずないからだ。それでもまあ、集団殺害とかは愚かだと主張せねばならないだろう。もちろん、一歩間違えれば我々も歴史を再演しうるという自覚を持って、だが。

 

「けれども、古帝国はそんなこと考慮したと思いますか?」

 

「さすがに支配下の地域でそういう大きな問題が起これば統治に影響が出るでしょ?」

 

「そうですかね……」

 

ケトはまだ納得出来ないようだ。まあ、私も完全に全てを説明できる仮説だとは思っていないが。



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倫理

府中学舎の計画は順調に進行中だ。講師リスト、教育内容、参考にする本、教室での席の配置、小道具の発注、事務担当者の雇用、その他諸々。私もかなり頑張って動いているが、ケトはそれ以上に働いている。で、それと並行して「図書庫の中の図書庫」に入り浸って本を読んでいるわけだ。

 

「……わからないなぁ」

 

「何がですか?」

 

「古帝国の最初の目論見と、衙堂がなぜそれを引き継げているかの理由」

 

私の手元には年表。なお持ち出しはできない。一応図書庫の城邦とか、もっと大きく言うなら衙堂による体制自体への反発が一部では残っているので、そこに「自分たちは過去を消し去られていた」というアイデンティティを与えるのは良くないとの判断だ。こういう場所ではまだ古い神々を祀る風習が衙堂に取り込まれずに残っているとかなんとか。ここらへんは、私もちょっと悩んでいる。

 

差別の解消というのは、かなり長い時間がかかる。偏見は長く消えないし、下手な政策は寝た子を起こすことにもなりかねない。というか、人間というのは安全であるならば自由に人を殴れる弱者の立場を欲しがるのだ。それでも一応この世界、いわゆる私腹を肥やした人とかほとんどいないのである。徳が低い行いという概念、便利だな。

 

なので民族的な問題があったことを隠して、そういうものが起こりうるという発想自体を封じるのは幸福という側面からだけで見ればまあ、悪くないのかもしれない。ここは部外者である私の判断していいところではないが。

 

「そもそも、今の衙堂がどうしてこういうことを続けているのかと聞かれたら、徳のためとしか言いようがありませんし……」

 

衙堂は衙堂自体を含めた価値観をまるごと書き換えてしまった。この価値観はある程度流動的になっている。改定ができるし、地域で解釈を変えることもできる。それでも、根幹にあるものは変わっていない。いくつもあるしどれも重要だと思うけど、強いて一つ選ぶなら、汝のように人を愛せ、かな?

 

「……微妙に、私の知っている言葉と違うな」

 

聖典語の一節に指を重ねて言う。こういう言い方は、自然と自分を見つめることを要求してくる。これをちゃんとできる人はあまりいない。けれども、衙堂がそれをきちんと教えて、そういう視点を植え付けることに成功していれば?

 

処刑をショーとみなす文化があるところからすると、私の知る「人道的」な文化がここにあるわけではない。けれども技術水準と比較して、非常に進んだ倫理や道徳の文化があるように思える。まあこういう分野の歴史、正直得意じゃないからあまり断言とかはできないが。

 

「何と違うんです?」

 

「徳みたいな考え方は、自然に生まれたのかな。それとも、誰かが作ったのかな」

 

「……人は悲しむ人を見れば辛くなりますし、喜ぶ人を見ると嬉しくなるものです。もちろん憎い相手であれば違うかもしれませんが」

 

「ああ、つまり敵をかなり制限したのか」

 

「敵?」

 

「そう。傷つけられているのが許される人っている?」

 

「……罪人とか、捕虜でしょうか。後者はあまりいいことだとは思いませんが」

 

捕虜虐待は嫌だ、と。図書庫の城邦が平和なのはいいことだな。

 

「逆に、ケトくんをはじめとしてここの人は処刑とかにあまり忌避感がない」

 

「まあ、悪人をのさばらせていては無辜の人が苦しむでしょうし」

 

「心に徳を貯めて、より良い人になる事があるかもしれないのに?」

 

「取り返しのつかないことをしたのでなければ、それも許されるでしょう」

 

死を伴う処刑の対象となるのは殺人、致死、大規模な窃盗、あるいは統治者に対する反逆。処刑方法は基本的に絞首。他にも晒し台とかもあるが、これは物を投げる事が禁止されている。唾を吐くぐらいはあるらしいが。ここらへんが、多分この世界で作られた均衡なのだろう。落ち着け。自分の中に嫌悪感があるのは否定するな。けれども、それを理由に否定的判断を下すな。

 

とはいえ、例えば事故とかの場合は殺人でも刑が減刑されたりもする。目には目を、歯には歯をとまでは言わないが、一定のラインが引かれている、様に思える。禁錮よりも罰金刑と債務労働者の組み合わせとかのほうが一般的なところを見ると、これはこれでうまくできているシステムなのではないだろうか。

 

「この状況を、どうやったら客観視できるかな……」

 

衙堂の思想は、かなり広い範囲に広まっている。船の民経由で伝わっている地域を考えると、世界の殆どのオイクーメネーにこの考え方が接触しているのかもしれない。いやはや、なんともすごいことだ。世界宗教と言ってもいいだろう。引き換えにその思想が広まった地域では唯一神教は否定されているが。けれども現地の神話がまるごと消えたりはあまりしていないんだよな。記録によれば神話の統合とか調整とか解釈の補助とかをやったという話はあるけれども。

 

だから、きっとこういう問題が起こったときには対処が難しいのだろうな。カルト宗教による攻撃。自分たちと敵を完全に別のものと切り離す存在。そういった、この世界では消されたものを府中学舎では出してみよう。次を担う世代がそれにどう対応していくか、個人的には結構楽しみだったりする。



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模倣

「駒はこれでいいかね?」

 

木工細工をやっていた工房の工師が言う。彼の後ろでは水力木工倣い旋盤がもう実用化されている。っと、品物を確認しないと。手元にある上等な木のケースの中は布張りで、開けるとチェスのポーンみたいな丸い頭をした駒がいっぱい。磨いてワニスを塗ってあるので触ると滑らかでつやつやしている。とはいえ輸入品でこれよりも艶のいいものを見たことがあるからな。多分そういう樹脂を出す植物があるのだろう。

 

「問題ありません。受領いたしました」

 

私は紙にぱぱっと金額を書いて署名をする。領収書みたいなものだ。ちゃんと取っておくと予算申請の根拠になって便利である。最近、金額の簡略表記をよく見る気がする。つまりは位取り表記だ。私が持ち込んだもの。正直なところ、これが受け入れられたのはちょっと意外だった。とはいえこれは逆かもしれないな。私の知る歴史のほうが例外なのかもしれないし。しかしたった二件の事例で何かを語るのは良くない。点二つで直線を引いて線形近似するよりひどい。

 

「……もし気になるようでしたら、ご覧になりますか?」

 

私がちらちらと工師の後ろで動いている旋盤に視線を向けていたことがばれてしまっているようだ。

 

「いいのですか?」

 

「キイ先生の噂は聞いていますよ。これを北から持ってきてくれたんでしょう?断るなどしませんよ」

 

一瞬引っかかったがそうか、これの発明者は私じゃないことになっているのか。あくまで私は持ってきて使い方を教えて改良案をいくつか出しただけ。それもあの北方で旋盤作りを手伝ってくれた職人の受け売りということにしてあるからな。

 

工師の奥に案内されると、学徒らしい工生、つまりは見習いが鼻と口に布を巻いて木を削っていた。まだ悪い労働環境で生まれる塵肺は研究されていないが、解剖と顕微鏡という発見に必要なものは用意してある。鉱山とかからの病例報告と統計的示唆を合わせて、といったところか。公害もある程度は避けられないとしても、発生したらすぐ対処できるようにはしておきたいよな。

 

さて、この駒を作った装置を見る。基本的には私が鋼鉄の尾根から持ってきた装置と大きく違いはない。回転する木材に刃を当てて削っていくというもの。しかし、刃がある程度自動で動くようになっているところが違う。これを使うと、ある決まった形のものを多く作ることができるのだ。まあ私が元の世界にいた時には全部数値制御でできるようになっていたので、まず見ない代物だったけれども。

 

「……これ、幾らぐらいしたんです?」

 

「銀千枚程度ですな」

 

ええと数年分の年収に相当、と。まあ投資としてはありなのだろう。倣い装置が取り外せるようになっているので普通旋盤としても使えるし。撥条(バネ)連接(リンク)機構で見本をなぞるようにして同じ形のものを作っていくこの方法、あまり私のアイデアが入っていないのでこの世界で独立に作られたと言っていいだろう。

 

「良い買い物をしましたね」

 

「キイ先生のお陰で多少は取り戻せましたとも」

 

授業で使うコンポーネントはあまり妥協したくないのでいいものを揃えている。黒板も白墨(チョーク)もここ数年で改良が重ねられているし、トゥー嬢が言うには銀を使わない写真撮影の研究も進んでいるらしい。やはり銀は高価だというのもあるが、撮影のための条件が厳しいので印刷に使えるようなものがあれば、という声が研究の後押しをしているそうだ。これはちょっと私が背中を押した。

 

とはいえ赤血塩を作るのには色々と工夫が必要だろうし、紺青もまだないからな。とはいえ紺青のほうは灰と血で作れるので、古典的薬学の範疇である。一応この世界の薬学、中世アラビアの錬金術並みには進んでいるんですよ。トゥー嬢が異常なので色々とおかしくなっているけど。

 

「それはどうも」

 

「追加の注文などはありますか?」

 

「……いまのところは、ないですね」

 

「それは残念。まあ、ご贔屓にお願いします」

 

「無茶を聞いてもらえるので、助かっていますよ」

 

「銀を払わず無茶を言うのならともかく、我々の腕に見合っただけの額と取り組むのにふさわしい課題を用意してくださるのですから、無茶などとは言わんで下さい」

 

顧客へのリップサービス混じりだということで話半分に聞いておこう。あとは彼は営業なので、変に仕事取ってきて裏の技術担当が苦しんでいる気がする。まあ不可能ではないレベルだと思っているし、この世界は結構簡単に私の予想を超えてくるのだ。「総合技術報告」だって想定以上の色々が集まっているしね。

 

そろそろ、私が主導で知識を出して色々と作っていくのは終わりだろう。裏から表から案を出したり環境を用意したりとかで動いたほうが、多分技術や生活の水準を上げることができる。とはいえ課題として残っている医学と農業の分野はともかく時間がかかるのが問題なんだよな。まあ、府中学舎に期待しよう。期待されるのは結局私なんですけどね。



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卓上

「……そちらは二人でいいのか?」

 

外征将軍が机を挟んで言う。

 

「もちろん、構いませんよ」

 

私は笑って返す。広げられた図書庫の城邦周辺の地図には、駒を置くためのヘクスが引かれている。

 

「改めて規則を説明しましょう。私が今からある情勢を提示します。それに対して適当な選択を取って下さい。今回の場合、出題者と審判を共に私が兼ねる以上不公正になる可能性がありますが、それはご容赦を」

 

プレイヤーは外征将軍を含む4人。ゲームマスターは私。サブマスターはケト。

 

「日付がこれ。使える予算を示す紙片はこちらの箱にあります。毎年の冬至に追加されますが、気候の変動や政治的問題によって量は変動します」

 

記憶にあるボードゲームとかシミュレーションゲームとかを参考に作ったものだ。ケトとテストプレイを重ねたので、致命的な問題はないはず。

 

「……例えば、税の率を上げれば増える予算が上がるのか?あるいは、頭領の名で接収を行えば冬至でなくても使える資金を手にできるのか?」

 

「ええ。ある程度は融通を効かせるつもりです。ケト君であればそこらへんの目安もわかるでしょうし、皆さんならもう少し正確にわかるでしょう?」

 

「ああ。……あくまでこれは訓練であって、勝敗はないのだよな」

 

「正しく言えば、例え図書庫が燃えたとしても我々が何かを学ぶことができれば全員の勝利になります」

 

「なるほど」

 

頷くプレイヤーたち。

 

「行いたい行動はこの紙に書いて下さい。それへの対応は、私とケト君が相談してこちらの紙に書いて返答します。これは後から分析を行うためですね」

 

「ふむ。ところで、それは賽か?」

 

私の手元に置かれた六面体を指して外征将軍の隣にいる男が言う。統治学の講官で、図書庫の城邦における政策決定などで重要な役割を果たしている人物だ。専門は貿易分野。

 

「ええ。世の中には変わりやすい要素もあります。例えば天候、あるいは人の心の動き。そういった要素を卓上の世界に取り込むためにこれを使います。骨ではないのはあくまで不確実性を付け加えるためのものであって興奮のためではないから、と言えばいいでしょうか?」

 

この世界には動物のくるぶしの部分にある四角い形をした骨を使ったある種の賽がある。国立民族学博物館で似たようなものを見た記憶があるな。シャガイ、だったっけ。それを用いて色のついた棒を集めていくゲームが、それなりに一般的なものとして広まっているし賭博の対象にもなっている。一応、法でこれに大金を賭けてはならないとはあるがそういう法があるということは、ね。

 

実際、城壁の外にあるある種の歓楽街ではこれで身を崩す程の人もいるのだとか。ある程度の高さから賽を振る必要があるが、それでも上手な人はそれなりに出す「目」を狙えるらしい。飲む打つ買うというのはこの世界でもちゃんとあるのだ。まあ私はこの世界基準ではあまり酒に強くないほうだし、賭博は苦手だし、買う相手もいないから関係ない話だが。

 

しかしそれでは乱数生成には向いていないのでちょちょっと木を切り出して磨いて賽を作った。注文しても良かったけどこれぐらいなら説明するよりも自分でやったほうが速いしね。六面体でも組み合わせたりすればある程度確率の調整ができる。分母が216もあれば、まあ大抵の事象には対応できるだろう。

 

「まあ、ともかくやってみようじゃないか。こういうのはやっていって慣れたほうがいいんだ」

 

わかっているらしい人が言う。この人は衙堂の司士。煩務官と同じぐらい偉い人だ。あの人が異常なだけで、彼も優秀な人物である。

 

「そうですね、それでは始めましょうか」

 

最初の準備をする。軍や伝令、船などを表す駒を並べ、日付を来年に調整。

 

「ではやっていきましょう。最初の年は、あまり大きな事を起こさないようにしますね」

 

そう言って賽を振り、農作物の出来を決める。今年の分は直接歳入になるし、数年前のものは交易とかに響くようにしてある。あくまでこれは事態への対処が目的であって、正確なシミュレーションができるようには作っていないから限界はあるが。

 

「少し不作、と」

 

今回、プレイヤーの4人にはそれぞれ元の職に対応した役割を持ってもらっている。軍事、政策、地方行政。あと一人は都市計画の人。長卓会議の時、ケトに紹介してもらったことがある人だ。一応それぞれ派閥とか方向性が微妙に違うとは言え、ちゃんと実力を認めあっているということは確認済み。

 

「なら税を調整するか、少し下げるか?」

 

「各地の衙堂に溜め込んでいる分を多少放出するよう通達を出す」

 

「新規建築などは抑えるか?」

 

「いや、そこまでではないだろう。むしろこれで周囲の情勢が悪化しないかどうかを気にかけるべきだな」

 

わいわいと会話が進み、行動案が出来ていく。予算配分はデフォルトのものがあるので、それに足したり減らしたりすれば比較的簡単に作れるようにはなっている。まあ学徒の皆さんにはこれをちゃんと書類から作るとかやってもらったほうがいいか。頭領府も事務を変えたいらしいがそれができる人間がいないらしいし、いい教育の機会だ。

 

「それじゃあケト君、そっちの処理を頼むよ」

 

私は机の下から赤い船をかたどった駒を出し、港につける。

 

「……熱病の患者が到着した船に出た、という話が届いた。さて、ここからどう動く?」



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感染

正直なところ、この問題をどう解けばいいのか私は知らない。

 

「ひとまず港の封鎖をするか?」

 

「それだけ重篤な病だという情報は、まだ出ていないよ」

 

私の言葉に講官が顔を歪ませる。

 

「……例え、この病が碌でもないものだとわかっていても、それを前提に行動してはならない、と」

 

「軍事の話なら問題なかったのですがね、不幸にも今回の流行病の場合は意志がない」

 

「理解した。つまり、その紙に書かれていること以上のことを我々は知ってはいけないわけか」

 

「もちろん、いかなる場合でも猛進する人はいます。けれども、そういう人に対してあなたはおそらく反論をするでしょうね。図書庫の城邦において海上物流がどれだけ重要か、そこから得られる税がいかに代え難いものか、知っているのでしょう?」

 

そう。もちろんあらゆる事態に備えることはできる。しかし使える資源が一定である以上、それはこの後起こること全てを知っていればの話だ。それは私でも無理だ。どうしても取捨選択は避けられない。けれども、起こったことに対処はできる。予防は最善の策だが、対処療法だって次善ではあるのだ。

 

「キイ先生。少し煽るのを勘弁してやってくれ。こいつはそういう感情を溜め込みがちなんだ」

 

外征将軍が割り込んできて言う。

 

「……すみません。驕っていました」

 

嫌なやつだな。調子に乗るのは悪いことではないが、相手も人間であること、そしてこれはあくまで訓練であることを忘れるな。勝利条件は私が気持ちよくなることではない。全員が学びを得ることだ。まあそれはそれとして全力で図書庫の城邦を狙っていきますが。

 

「まあ、キイ嬢はこういう人なので。何かあったら言ってくれれば僕が止めます」

 

あ、ケトは頼りになるな。多分私がこういう緊急事態に対応することになったらブレーキ役として隣においておこう。でもケトはケトで壊れるぐらいまで仕事をしそうだからな。良くない。

 

「ならば、普通の対処をしよう。船の封鎖、商館からの原則外出禁止、新規入港の制限……」

 

「この時点ではまだ衙堂は動かせないか」

 

彼らは紙に指示を書いていく。ふむ。港の閉鎖。まあこの時点で一人街中に感染者を出しているんですがね。潜伏期間は5日間。感染経路はノミと飛沫。モデルはBlack Death(黒死病)だが、ちょっと優しめにしてある。死亡率3割。かわりに感染力は強め。この世界のこの時代で、治療薬を現実的な時間で作れるのは私だけだ。まあ、一応放線菌から治療薬を作るルートも用意してはあるが3年ほどかかるようにしてある。

 

クリアというか感染を抑えるためにはノミやネズミの駆除が必要になる。まあ、この世界にペストに似た感染症はないのであくまでこれは仮定のものだ。

 

紙を受け取り、駒を動かす。感染者を表す紙片が図書庫の城邦の中にポツポツと現れていく。

 

「……キイ嬢」

 

司士が白の駒を赤の駒に置き換えている私に声をかける。

 

「なんです?」

 

「規則の確認だが、我々が指示を出さない限り、一般的な方法で得られる情報しかこの盤面には出ないのだよな」

 

「そのつもりですね」

 

「……なら、この地域から患者が出たという情報がなくとも、熱病に侵された人がいるかもしれん、と?」

 

彼が指差すのは城壁の外のちょっと怪しい領域。この図書庫の城邦の闇の濃い場所。歓楽地域。人間も、ある種の薬も、あるいは安い色々なものも売っている。まあ、それなりに自警組織とかあって治安はたまに死体が転がっているぐらいらしいが。

 

「さあ?必要なら調べたほうがいいでしょうね。ただ、こちらから調べない限りでは相当人が死なないと盤面には自動で反映されないでしょうね」

 

「……作戦変更だ。現状を把握しよう」

 

おや、素早い。では感染者を用意しておこう。

 

「……最悪だな」

 

都市計画の担当者が眉間を抑えながら言う。まあ、ここは彼が担当できない数少ない地域だ。計算に入れる事はできても、 改善が難しい場所。

 

彼らは短期的封じ込めではなく、長期的戦略に切り替えていく。医学師の見解……は、私が捏造していく。医学系の話はそれなりに聞いているので、この世界の水準に合わせた分析ができる。一度感染すれば免疫が生まれること。体液がキャリアになりうること。日付が進み、感染者が徐々に増える中、抑え込む方法が少しづつ判明していく。

 

しかし、その裏で隠しパラメータが上がっていく。「不穏度」と勝手に呼んでいるこの数字は、たまに出てくる報知紙の見出しとかに影響を与えている。外出制限とかのせいでそろそろ危ないところだ。

 

「……新しい患者が判明しました。頭領です。このために発生した混乱は、予算の不足として表現されます」

 

開始から二年半。次の収入が入るまで半年ほどあるにもかかわらず、使える資金がマイナスになった。

 

「衙堂から緊急支出を」

 

「頭領府で特別令を出す。これで頭領から別の人物に権限を移せる」

 

要望の書かれた紙を受け取って、ケトと一緒に盤面を整理する。条件は揃った。政治的な均衡の崩壊。溜まった不満。

 

「反乱が起きます」

 

黒色の駒がいくつか出現する。ゲームの進むペースを落とし、一ターンを一日にする。私の言葉に、プレイヤー達はこの世のものとは思えないうめき声を上げた。



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結末

「っ……」

 

盤面を改めて確認する。上手い手を取られた。反乱の鎮圧と並行して地域を封鎖、免疫保持者による物流管理を主とした体制を確立。

 

「キイ先生、次の四半月分の指示だ」

 

プレイヤーから投げられる策略は、私の指揮する反乱が全部誘導されていたことを意味していた。これは私が敵として相当弱いことを意味する。スパイを作られて行動作戦を渡さざるを得なかったとはいえ、ここまで綺麗に相手の思惑通り動かされるとは。

 

「……反乱の首謀者は捉えられました。暴徒は解散し始めます」

 

隠しパラメータの不穏度は恐怖で統制されている。こういう選択を迷いなくなってくるあたり、やはりプレイヤーは一流だ。まあ、そういう人を相手にして一人で戦うのは難しいのがわかったのが私側の収穫ということで。もし本気でこの世界を敵に回すとしたら、どうやって協力者を手に入れるかが問題になるな。まあ、今でもある意味では世界の敵になっているか。

 

かくして、数日にわたって行われた演習は終了する。結果、図書庫の城邦の人口の一割が死亡。治療薬は開発されなかった。私が想定したクリア方向ではなく、古典的な隔離と免疫を持った巡警でかなり力押し的に感染を収束させた。まあ、この訓練で得られた結果が正しいかどうかはわからない。私の知識の中にも感染症に対しての対策としての都市封鎖の方法なんてものはほとんどないしな。

 

まあ、治療薬がなかったら私もそうするだろうな、という比較的真っ当な対策である。cordon sanitaire(防疫線)というやつだ。図書館の城邦内で感染を抑えたのも評価が高い。こういうのってイングランドのイームみたいな小さな村でしかできなわけじゃなかったんだ。

 

「……見返すと、後悔が多いな」

 

外征将軍が指示書を見返しながら言う。有事の際に巡警が軍として組み替えられるよう訓練をしているのを逆手に取って、図書庫の城邦自体を統制の取れたある種の有機体にしてしまう作戦は凄いと思ったが、これを頭領が倒れたタイミングでやったのが強い。一瞬「何も準備していないのにそんな滑らかに権力を扱えるわけ」と言いかけたが、準備してあるから反映しないわけにはいかなかったんだよ!まあ、個人的にも有事の時にはこの外征将軍が政権握ってほしいな。

 

「全ての要素を確認する、ということができませんでしたからね。参加者や審判に医学師がいればそこらへんを詳しくできたのでしょうが」

 

「いや、しかし経済の方面の打撃が想像以上だったな。できる範囲で備えをしておいても良いか……」

 

講官がそう言いながら硝子筆(ガラスペン)を走らせて何かを書いている。

 

「都市計画の方も、もっと各所に救護所にできる建物を置くべきか」

 

「そうか、忘れていたが空いている学舎を使えばよかったな……」

 

残りの二人も議論中。反省が多いようで何より。私側も結構ある。そもそも処理をかなりいい加減にやったしね。

 

「で、今度は我々がこの演習を主催する側になるのだな?」

 

外征将軍が私の方を見て言う。

 

「ええ。学徒たちの敵か、あるいは審判をですが。とはいえ公正のためにこういう風に事前に起こすことの予定を書いておくといいと思いますよ」

 

私は紙を渡す。今回の感染症の「正解」の情報だ。感染症の内容と私が想定していた攻略方法が書いてある。なお今回は想定していたよりも良い解を出されたので、そういう意味では私の負けということだ。

 

「……薬を、作れたのか」

 

「私なら、ですがね。しかしある程度時間がかかります」

 

例えばペスト菌はワクチンが作りにくかったはずだし、培地も選ばなくっちゃいけなかったはず。となれば抗生物質だが、これは単離、培養、調査、分離とやることが多い。ここらへんは時間のかかる研究と試行錯誤が必要な分野で、私が手をメインで出すべきじゃない。基盤整備の方が私の趣味だし、そういう所での貢献の方が与えることのできる影響が大きいだろう。

 

避けているとはいえ、辛い話は多く聞くしそういう情報は集まっている。最近始められた人口統計は高い妊産婦死亡率と新生児死亡率を示しているし、これを超える労働環境もあることが調査の結果明らかになっている。いやまあある程度は仕方がないし許容すべきリスクであるとは言え、減らせるものは減らしたい。純粋に資源の浪費でもあるわけだし。

 

「ところで、これを学徒にやらせるために必要なものは何だと思います?」

 

「体力だな」

 

外征将軍が断言する。

 

「間違いないですね。つまり身体を鍛えるようにして、自分の限界を知ることができるようにする、と」

 

「どの鍛え方がいいのかも調べたいな。外征軍では最初から鍛えられているし、多くが我流だ」

 

「まあ、府中学舎はそういうことも調べられるように作るつもりですけれどもね」

 

「計算済み、か」

 

学徒の皆さんは重要な研究対象でもある。教育とか心理だけじゃない、もっと広範な分野を対処としたやつ。統計に基づいた判断ができるよう、基礎研究を積み重ねていけば数十年もあればかなり面白いものができるだろう。その頃には私は死んでしまっているだろうが。



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第25章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。伏線となっていそうな場所を読み返して矛盾がないか確認しているような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


余韻

まだ作れなかったり実証できなかったりとで断言はしていないが、私が示唆したアイデアは色々と可能性を秘めているのだ。

写真の印刷の先駆としてジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが1822年に瀝青を用いたヘリオグラフィを発明している。

 

自動鋳植機であるライノタイプがオットマー・マーゲンターラーとジェームズ・オグルビー・クレファンによって作られたのが1886年。

 

一般的にジョゼフ・ジョン・トムソンによる発表(J. J. Thomson. Cathode Rays. The London, Edinburgh, and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science. 1897, vol. 44, no. 249, p. 293-316.)を電子の発見とすることが多いが、この論文の内容自体は先行研究でも示されていたことのまとめである事には注意が必要。

 

今日、電気は声以外にもあなたの前にあるこの文章のような様々な情報を伝えることに使われている。科学史で言うなら1906年のアーサー・コーンによる写真送信、ジョン・ロジー・ベアードによる1925年の映像送信がある。

 

光学装置の分解能の定義は複数あるが、いずれも可視光波長に制約されることを示しており顕微鏡や望遠鏡には限界が存在する。

 

今日、鉄を主体とした特殊鋼は様々な用途で用いることができるように様々な元素が加えられており、その中でも有名なのが表面に不動態膜を形成するステンレス鋼である。主流となっている日本産業規格で言うところのSUS304、あるいは18-8ステンレスは1924年にウィリアム・ハーバート・ハットフィールドが作り出したものである。

 

1861年にトーマス・サットンがカラー写真の撮影に成功しているが、実用的なレベルに発展させたアドルフ・ミーテによる貢献も大きい。

 

聖典

ベン図と簡単な論理記号を使ったり、逆ポーランド記法での表現を試みたり。

ベン図はジョン・ベンに帰せられる集合を表す方法。4つ以上の集合を扱おうとすると図が大変になることが多い。

 

逆ポーランド記法は「3 * (4 - 2) + 1」を「3 4 2 - * 1 +」のように書く方法。「逆」とついているのはポーランド人の数学者ヤン・ウカシェヴィチが発案した方法だと記号の方を先に置くのでその逆という意味。データのスタック(積み重ねたブロックのようなもの。一番上、つまり一番最近入れたデータの出し入れしかできないので、下の方のデータにアクセスするのが難しい)を使っているシステムで入力に逆ポーランド記法を使うと計算がやりやすいというメリットがある。

 

隠れたカリキュラムというやつだ。

Hidden curriculum(隠れたカリキュラム)という用語はフィリップ・ウェスリー・ジャクソンの「Life in Classrooms」で命名された概念で、教育者が意図しているわけではないが学生が「学ぶ」内容を指す。例えば先輩の言う事を聞くということは、まず明文化された教育目標としては存在しないが多くの教育環境で存在する暗黙の規則である。しかしこの影響を正しく評価することは難しく、場合によっては難癖をつける理由として使われることもあるので面倒な概念である。

 

私が知っているものだと旧約聖書の知恵文学とか、儒教の四書みたいなものだ。

知恵文学は旧約聖書におけるヨブ記、箴言、コヘレトの言葉、詩篇(の一部)のこと。同様のものは古代オリエントを中心に広く存在した。賢者による独白形式でのアドバイスみたいな感じ。ここからいい感じに引用したりするとかっこいいのでおすすめ。

 

儒教における四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」の総称。これらは東アジアにおける道徳文化に深く影響を与えている。

 

基本概念を無理やり訳すとしたら「徳」にでもなるのだろうか。

儒教における「徳」と類似した考え方は多くの文化や宗教で見られる。まあ悪いことをしようなどという宗教はまず無いからそりゃそうだが。

 

「……ああ、見覚えがあると思ったらあれだ、『大兄、汝を見たり(BIB BROTHER IS WATCHING YOU)』だ」

The flat was seven flights up, and Winston, who was thirty-nine and had a varicose ulcer above his right ankle, went slowly, resting several times on the way. On each landing, opposite the lift shaft, the poster with the enormous face gazed from the wall. It was one of those pictures which are so contrived that the eyes follow you about when you move. BIG BROTHER IS WATCHING YOU, the caption beneath it ran.

(八階にある部屋までの階段を、足首に静脈瘤潰瘍を抱える39歳のウィンストンは休息を挟みながらゆっくりと登っていった。エレベーターの吹き抜けの反対側からは、巨大な顔が彼を見つめてくる。動いても目が追ってくるように作られた肖像なのだ。「大兄は君を見ている(BIG BROTHER IS WATCHING YOU)」という文字がその下にあった。)

 

──エリック・アーサー・ブレア、あるいはジョージ・オーウェル「Nineteen Eighty-Four」より、拙訳。

 

イギリス人は基本的な計数の概念か建築地盤に何らかの重大な欠陥を抱えているらしく、「地上階(ground floor)」のひとつ上が「一階(first floor)」なのである。それはともかく、こういうじっと見つめてくるようなプロパガンダポスターは第一次世界大戦下の英国で使われ、後に多くの模倣を生んだホレイショ・ハーバート・キッチナーが正面を向き、指を伸ばしているアルフレッド・アンブローズ・チュー・リートによる絵に「BRITONS」「WANTS YOU」というキャプションがあるポスターに代表されるようにある種の威圧感を与える。監視の視線というのは犯罪防止にも反逆防止にも役立つのだ。

 

ここでキイはジョージ・オーウェル「Nineteen Eighty-Four」を意識したコメントをしている。過去に関する記憶改変はこの作品の主人公、ウィンストン・スミスが勤める「真理省(Minitrue)記録部門(Recdep)」の主業務である。

 

千年を越えて使われ続けたヴルガータ訳。

vulgataは「公知の、俗の」の意味。ここではラテン語訳の聖書、editio Vulgataを指す。「グーテンベルク聖書」として知られるものの底本はこれ。書かれた4世紀ごろから改定の話が持ち上がったトリエント公会議までおよそ1000年の間、複製を重ねて使われてきた。

 

本棚

あとはこれは……何らかの植物を薄く割ったもの、かな。

モデルは樺皮やオウギヤシの葉などを用いた貝多羅葉、経木など。

 

できたら入口の時点で足拭いたりとかして原因を持ち込まないようにするのがいいが。

総合的有害生物管理という考え方はもともとアメリカ合衆国で生まれた農業の害虫への対応から始まったものだが、今日では博物館や図書館での資料保存などの分野にも敷衍されている。持ち込まない、繁殖させない、資料に害を与えさせないといった段階的アプローチを取る。

 

侵食

OCRかけて不一致を確認してみたいなことをやれば一瞬だったが、

OCRはOptical Character Recognition(光学文字認識)の略。スキャンしたPDFの文章をコピペできたりするのはこれのおかげ。

 

黒鉛と粘土の粉末を圧縮して焼成したものを、金属でできた筒状のホルダーに入れたものだ。

黒鉛を用いた筆記具は16世紀にコンラート・ゲスナーが報告していたが、キイがやったような方法で硬さや濃さを調整する方法はニコラ=ジャック・コンテが作ったコンテと呼ばれる画材に近い。スケッチなどに使われる。アニメーションの絵コンテはcontinuityから来ているので別。

 

民族

まあともかく、そういう頃になってくると民族みたいなものではなく、土地にアイデンティティが生まれるようになっていった。

ここではキイはナショナリズムとパトリオティズムを区別する思考をしている。まあここらへんは用語定義が色々混乱しているので厄介だが……。

 

迫害

児童心理学と呼べるほど独立したものはない。

「児童」という年齢層への着目と、心理学という学問がそこに目を向けるのは19世紀末ごろである。ウィリアム・ティエリー・プライアーが1882年に書いた「Die Seele des Kindes」が児童心理学の嚆矢と呼ばれているのを考えると、案外遅いものである。なおここらへんはエリーザー・シュロモ ・ユドコウスキーの「Harry Potter and the Methods of Rationality(ハリー・ポッターと合理主義の方法)」の6章に出てきた発達言語学の言及をちょっと意識している。たぶんこれジャン・ピアジェのあたりだよな。

 

硝子(ガラス)もできたことだしナサニエル・バグショー・ウォードが作った輸送用容器みたいなものを作らせてみるか。

「ウォードの箱」と呼ばれる一種のテラリウム。湿度の維持などの点で有用であり、環境変化に弱い植物を海を超えて運ぶことを容易にした。清からロバート・フォーチュンがチャノキを持ち出したり、クレメンツ・ロバート・マーカムが南米からイギリス領インド帝国までキナを密輸したりした時に用いられた。

 

つまり感電の演技が上手い人を用意しないといけないのか?

スタンリー・ミルグラムによる心理学実験を踏まえたもの。これは実験対象者が「電気を流してください」と言われた時に目の前の相手に危険な量の電流を流すことを選択するかどうか、というもの。もちろん、電流は流れず痛がるふり(そして気絶、あるいは死んだふり)をするだけである。心理学の実験や研究は再現性の問題が最近色々と言われているが、このミルグラム実験は比較的後続実験もされていて堅牢らしい。

 

普通に植物ならアスコルビン酸含有しているよな?

海藻にはちゃんとビタミンCが含まれています。

 

二クロム酸カリウムって六価でしょ?

二クロム酸カリウム($\require{mhchem}\ce{K2Cr2O7}$)の水溶液は酸性下で赤橙色で、還元されるとクロム(III)イオンの緑色を示すので酸化剤として滴定などに使われる。しかし二クロム酸カリウムは六価クロムであり、毒性を持つため法律で色々と制限が付けられている。

 

マンガンならマシかな。

過マンガン酸イオン(酸性下で赤紫色、還元されるとマンガン(II)イオンとなり無色になる)のこと。二クロム酸カリウムと同じく、高校の教科書でよく酸化還元滴定に用いられる。

 

それでもまあ、集団殺害とかは愚かだと主張せねばならないだろう。

集団殺害罪の防止および処罰に関する条約、通称ジェノサイド条約をふまえたもの。

 

倫理

下手な政策は寝た子を起こすことにもなりかねない。

えせ同和行為とか、こういうところへの忌避感をうまく使ってくるんですよね。

 

人間というのは安全であるならば自由に人を殴れる弱者の立場を欲しがるのだ。

この物語はフィクションであり、実際の政治団体や社会活動とは関係ありません。キイの思想が強いのは最初からです。

 

「……微妙に、私の知っている言葉と違うな」

(なんぢ)(あだ)をかへすべからず

(なんぢ)(たみ)子孫(ひとびと)(むか)ひて(うらみ)(いだ)くべからず

(おのれ)のごとく(なんぢ)(となり)(あいす)すべし

(われ)はヱホバなり

 

──明治元訳新約聖書(明治37年)、レビ記第十九章より

 

新約聖書の「善きサマリア人のたとえ」で律法学者が答えた聖典の一節。ここではかなり民族主義的な内容だったが、キリスト教ではこれを脱色することで世界的な宗教となる素質を手に入れた。キイはここで「隣人」のように対象を限定していないことに引っかかっている。

 

目には目を、歯には歯をとまでは言わないが、

ハンムラビ法典やその流れを継いだ法典に見られる同害報復についての言及。

 

世界の殆どのオイクーメネーにこの考え方が接触しているのかもしれない。

οἰκουμένηはギリシャ語で「居住地」の意味。当時既知の人間の居住地域を指す概念であったが、フリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルトやルイス・マンフォードによって地理学や文化人類学の用語として用いられた。なおドイツ語のエクメーネではなくギリシャ語を使っているのは平野耕太「ドリフターズ」における黒王の台詞を意識しているため。

 

模倣

多分そういう樹脂を出す植物があるのだろう。

モデルはウルシの樹液である漆。

 

正直なところ、これが受け入れられたのはちょっと意外だった。

位取り表記ははじめ商取引に導入されたが、これが広く使われるようになるまでにはそれなりに時間がかかった。

 

点二つで直線を引いて線形近似するよりひどい。

ユークリッド幾何学では点が二つあればそれらを通る線が引けることが公理として与えられる。なのでグラフ上の点を結べたからと言って、そこからなにか新しい情報が得られるわけではないのだ。しかし例えばその二つの値が比例関係にあるとかなら追加で原点を通ると言えるし傾きから比例定数を出せるのでまあ、ぎりぎりアリか。

 

鉱山とかからの病例報告と統計的示唆を合わせて、といったところか。

微粒子の吸引を繰り返すことで肺組織が線維化する塵肺は古くから知られていたが、治療費を払いたくない雇用者側との問題もあって20世紀に入りエドガー・リー・コリスが統計的分析を出すまでその原因が断定されるまでは時間がかかった。

 

まあ私が元の世界にいた時には全部数値制御でできるようになっていたので、まず見ない代物だったけれども。

コンピュータによる数値制御(Numerical Control)によって加工用の工具を動かすようなNC加工装置は現代では非常に一般的なものである。

 

撥条(バネ)連接(リンク)機構で見本をなぞるようにして同じ形のものを作っていくこの方法

私が知っている例だと油圧式だった。

 

とはいえ赤血塩を作るのには色々と工夫が必要だろうし、紺青もまだないからな。

赤血塩とも呼ばれるヘキサシアニド鉄(III)酸カリウム($\ce{K3[Fe(CN)6]}$)は紫外線で還元される。これを利用したものが青地に白い線で書かれている図面のイメージとかで知られる青写真である。これは1704年にヨハン・ヤコブ・ディースバッハによって発明されたと伝えられる紺青(ヘキサシアニド鉄(II)酸鉄(III)、$\ce{Fe4[Fe(CN)6]3}$)を作る過程で生まれる黄血塩(ヘキサシアニド鉄(II)酸カリウム、$\ce{K4[Fe(CN)6]}$)から作ることができる。

 

卓上

駒を置くためのヘクスが引かれている。

ヘクスは六角形のマスのこと。ウォー・シミュレーションゲームと呼ばれるジャンルのボードゲームで使われたものが源流とされているが、これ知っている人は多分それなりの年齢だよね。

 

ゲームマスターは私。サブマスターはケト。

この呼び方の直接の由来はTRPGだが、プレイバイメールと呼ばれる手紙でやり取りされるタイプのゲームの頃には用いられていたそう。

 

「正しく言えば、例え図書庫が燃えたとしても我々が何かを学ぶことができれば全員の勝利になります」

図書庫は燃やすもの。ストックホルムに核を落とす*1みたいな感じで多分実績が解除されるんだと思う。

 

シャガイ、だったっけ。

шагайはモンゴル語で「くるぶし」の意味。くるぶしの骨を賽として用いることは世界各地で行われていた。

 

感染

まあ、一応放線菌から治療薬を作るルートも用意してはあるが3年ほどかかるようにしてある。

初期の抗菌薬の多くが放線菌から得られている。

 

感染

私の知識の中にも感染症に対しての対策としての都市封鎖の方法なんてものはほとんどないしな。

キイの出身は国立産業技術史博物館がある世界線なので、2019年から始まったコロナウイルスによる感染症がなかったりする。

 

cordon sanitaire(防疫線)というやつだ。

感染者と非感染者を分ける線のこと。国際社会における包囲網をこう呼ぶこともある。

 

こういうのってイングランドのイームみたいな小さな村でしかできなわけじゃなかったんだ。

1665からイギリスを襲ったペストの流行の際、村をまるごと隔離することで拡大の感染を防いだことを踏まえたコメント。史料には混乱があるが、まず人口1000人を超えない小さな村だった。

*1
ストラテジーゲームの大手、Paradox Interactiveの本社がストックホルムにあるのでそれを踏まえたネタ。



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第26章
試験


「……色々と積み上がっていますね」

 

「まあね」

 

製図台(ドラフター)に載せた上質の薄紙に黒鉛筆で書き込んでいるのは学徒寓、まあ寮のリフォーム計画だ。二階に水洗トイレを作ったり、食堂を広めにしてちょっとした会議場とかに転用できるようにしたり、まあ色々と。もちろん実際に私が施行するわけではないのであくまで案にすぎない。というか私のアイデアの半分ぐらいは無理だと断られ、そのさらに半分ぐらいは私の異世界知識でどうにかした。残る四分の一はまあ、仕方がないか。

 

冷暖房完備の空調システムはさすがに早すぎたな。太陽熱暖房システムとかは私も実効性が怪しい状態で言ったのだが、これは商会の技術屋が北方への輸出用に研究するらしい。多少は役に立つのだろうか。ロイヤリティはこの学徒寓の費用に回すように言ってある。

 

「それにしても面白い機構ですね」

 

「やっぱり便利ではあるね、私がいた場所では古くてあまり使われていなかったけど」

 

自在に動かせ、30刻刻みでスナップし、うまい具合に固定される歌舞伎用語じゃない方の差し金。私の無茶な注文に答えてくれた工房の方々には感謝である。最近無茶ばっかり依頼しすぎだが、きちんと仕上げてくるのは恐ろしいよな。なおこういう製図台は私のそれなりに後の世代まで工業高校の授業では使われていた。現場ですか?手書きの図面は私が扱うような史料のジャンルに入っていましたね。

 

「で、これは?」

 

ケトが私の書きかけの紙を見て言う。

 

「作っている試験の問題」

 

「……また、変なものを出しますね」

 

「普段から観察力があればそう難しくないと思うけど」

 

基本的な分野についての知識は衙堂にある本を読んでもらうとしても、ある程度は広く間口を取れる採用システムが欲しい。雑な予備的統計的調査は司士や司女のかなり個人的なネットワークが図書庫の城邦の大衙堂に人材を供給していることを示している。まあ派閥みたいなものができているというほどではないらしいが、あまり良いものではない。

 

とはいえある種の「出世街道」を整備してしまうとそれ自体を目的にしてしまう事が起こるからな。もちろんその過程である程度基礎的な力がつけられるからその点では基礎能力の効率的な養成と言えなくもないのだが、ノウハウの偏在によって人材が偏ってしまうんだよ。かといって才能ある人間は大抵どんな無茶な課題を出しても越えてくるので採用できてしまうのがこういった恐ろしいところだ。

 

で、解決策はそうそうない。ある一定の基準を満たした人全員とか、その中からある程度ランダムに選ぶとか、そういう方法はあるがどうしても解決できない問題は残る。いや別に個人的には職業が世襲的であること自体には一定の合理性があるとは思っているんですがね、例外を色々用意できるに越したことはないのだ。

 

「……身の回りの植物を十挙げ、その様相、生えている場所の特徴、利用方法を述べよ。できるだけ様々なものから選ぶこと」

 

問題の一つを読み上げるケト。

 

「これで問うのは知識というよりも、どれだけ色々な人の生活を知っているか、かな」

 

「まさかこういう問題ばかり用意して、上位の人を育てるつもりですか?」

 

「いや違うよ……いや待って、ケトには言っていなかったっけ」

 

「キイさんが言いそうなことに心当たりが無いので、多分言われていませんね」

 

「そうか。ええと、まず私が府中学舎に入れるのは最上位の人が中心ではないよ。もう少し下」

 

「どうしてですか?」

 

「賢い人は勝手に学ぶんだよ。教えなくちゃいけないのはそれより下の層」

 

「……なるほど。ところで、その基準だと僕はどうなるんですか?」

 

「賢いけど、学んだほうが伸びそうだから教える」

 

「そういう基準もあるんですね」

 

「どこかできちんと基準は定める必要はあるだろうけどうさ、最初のうちは来た人全員に教えようかと」

 

ハルツさんが学舎の話を色々としたおかげで、少しづつ図書庫の城邦に各地から若者が集ってきている。女性の割合が高いのはまあ、衙堂だから仕方ないとするか。治安が悪いわけじゃないが女性用の学徒寓の設計も進めたほうがいいかもな。今の学徒寓はせいぜい同性で部屋をまとめているというぐらいである。

 

「私が直接教える必要がないぐらい賢い奴らは課題を与えてやるさ」

 

「例えば?」

 

「図書庫の城邦における上下水道計画案の策定とか」

 

「……それ、もし出された報告がよかったら採用するんですか?」

 

「もちろん、頭領府から予算を取って、その学徒を代表に据えて計画を始めるよ」

 

「可哀想になってきたな……」

 

「案を出した人が実行する。もちろんそういうことが得意な人も得意ではない人もいるのはわかっているけど、まずはやらせてみるべきだと思うよ」

 

うまく行けば多方面に手を出せる天才が生まれる。そうでなくとも、一分野ぐらいは何とかできるだろう。マネジメントとか管理とかの分野は私もある程度知識はあるが、実務経験が印刷物管理局ぐらいしかないのでそこまで大きな顔はできない。

 

そうそう、「総合技術報告」には新しい編集員が何人か雇われた。そして今まで唯一の編集員だった彼女は編集所長になった。私は編集長なのでどっちが偉いのかを議論した結果、私がお飾りの代表として有事の時に説明責任とか連帯保証とかそういう面倒事を押し付けられて実権を編集所長に握られた。引き換えに私は結構自由に色々できる時間を手に入れたわけである。



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勧誘

「……ようやくわかってきたぞ」

 

散らばった紙に書かれた概念図をもとに眼の前の装置のメカニズムを理解するまで、三回説明して貰う必要があった。なるほど、機械式の脱進機に似た振動子を外部からの磁場で動かして、その振動を増幅してステッピングモーターに伝える回転を生む、と。なるほど、なんでこんなものが電気という概念が生まれてそう間もない状態で、機械式時計も碌に発展していない時期で出てくるんだよ。噂を聞くとなんか若い職人たちが自主勉強会とかをやって分野横断的なことを試しているらしい。素晴らしいな。あ、そういう会合の記録はちゃんと残してくれると後世の研究者が助かります。

 

「よくわかりますね……」

 

ケトは机に突っ伏している。まあそうか。ゲッターの改良とか熱極に使う酸化物を選定することで多少マシになった真空管の動作原理とか理解していないものな。一応電子の存在は私が仮説で示しているし、その過程で電気というか痺因の「流れ」の向きは決まりつつある。よし、これで後世に恨まれずにすむぞ。もしかしたら核物理学がちょっと難しくなるかもしれないけど誤差の範囲だろう。

 

「けれども、使い方は簡単でしょう?」

 

私の正面に座る、この装置の開発者である工員が言う。「総合技術報告」の常連で、若い職人たちの怪しい組織のメンバー。まあでも彼の言う通り、手順さえわかれば使うのはそう難しくない。スイッチを入れ、振動子をレバーを押して揺らし、揺れが安定したら針が一番上に来るまで待つ。そうしたら計測開始。長い針が一周が一刻、かつての世界の単位で4分。補助用に短い十拍、7秒弱で一周する短い針もある。なんとなく雰囲気は時計と似ているが、私の知っているデザインやメカニズムとは色々と違う。そうそう、こういうのが見たかったんだよ。

 

「……これの精度は?」

 

今日は彼に招待状を送るために来たのだが、なんかいつのまにか技術解説をされていた。この導入力、きっと彼は優秀な技術者になるに違いないから今のうちに府中学舎に入れてコネとか経験とかを持たせてあげようという年寄りのおせっかいをしたくなる。というかする。

 

「一日動かして、半刻を切っています」

 

「生産性は?」

 

「検査に熟練の作業者をつけても半月はかかるので、そこで時間がかかりますね」

 

「面白いとは思うんだが、まだ改良の余地が残ってそうだね」

 

「それには同意します」

 

「できれば手の中で持てるぐらいの大きさになればいいのだけれども」

 

「なるほど、小型真空管の開発ですか」

 

「あるいは真空にとらわれない方向でもいいかも。亜煆灰性銅(亜酸化銅)がある種の真空管と類似の作用を示すのは知られているでしょう?」

 

「あまりそこらへんは触っていないんですよね、人が足りなくて」

 

「人、作るのに時間がかかるからね……」

 

「そうなんですよね……」

 

「というわけで、はい」

 

私は封筒を彼に渡す。

 

「府中学舎の第一期生に君を推薦する文書だ」

 

「……え、あれにですか?」

 

「あれって何だ」

 

「最近キイ先生を知っている人が噂しているんですよ。なにか悪巧みをするために人を集めているって」

 

「その一つだよ。頭領府が出資した学舎だ。代表は外征将軍だが、実質私。あらゆる分野の若手を集めて、教育の方法や面倒な交渉のやり方とかを教える。もちろん専門的な分野も」

 

「キイ先生の授業ですか、それだけでも聞く価値がある」

 

「私はあまり出ないけどね」

 

「……学費は?」

 

「無料だ。かわりに普通なら選抜試験を通過する必要がある」

 

「……しなくていいのですか?」

 

「この装置を作る人間を落とすような試験は無意味だからな……」

 

私が多分この方面に知識を使っても、あまり伸びは良くないと思う。実際旋盤を扱う腕であれば私と同程度かそれ以上の人はどんどん生まれてきているわけだし。

 

「わかりました。是非行かせていただきます」

 

「……話、終わりました?」

 

重そうな頭を上げるケト。契約の担当はこっちである。

 

「ケト君も大変だね、この人の隣にいるのは難しいでしょう?」

 

「いえ、もしいなかった時に起きる問題に対応するよりは楽です」

 

間違いない。私が何回か起こした政治的に危なくなる寸前の事態をケトが防いでいるのはある。いや、人間の細かな機微を織り込んだ戦略を組むのは私そこまで得意ではないしかなり苦手なはずなんだがな。ケトは急進的行動を取りつつ多方面にバランスよく気を配っているので、とてもすごい。ある程度は必要に追われて手に入れた能力なのだろうが。

 

「……君も、府中学舎で学ぶのかい?」

 

「できれば」

 

「私も学びたいんだけど」

 

私のつぶやきに工員とケトが視線を向けてくる。なんだよ、成人教育は大事なんだぞ?

 

「キイ嬢を教える必要がある講師は辛そうだな……」

 

工員が言う。

 

「やめてくださいよ、今の講師候補に辞退されたら困るんですからね」

 

「残念だ」

 

まあでも久々の教育機関での生活というのも楽しそうなんだよな。この図書庫の城邦に来た時に勉強のため少し学舎で学んだりもしたが、聖典語を理解できるようになった頃には印刷機を作るのが忙しくてやめてしまったし。



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体系

「つまりですね、十三学の分類には限界があるんですよ」

 

私は厚紙を手にして言う。それぞれの紙には教えたい内容がざっくりと書かれている。こういうものを講師の人に書いてもらって、整理して、体系化していくという作業をしている。

 

「けれども、これよりいい体系は存在しますか?」

 

講官をやっている哲学師が言う。この世界の哲学は価値判断とかメタ理論とかそういう方向のものだ。もちろん、かつての世界の哲学のように善とはなにかみたいなことも扱っていなくはないが、そこらへんは万神学とか統治学の方面に多少は譲っている。

 

「今のところ……ない」

 

「そうでしょう?」

 

「なら作るべきです、今後新しい考えが生まれた時にこの枠に閉じ込めてしまってはいけませんよ」

 

さて、改めてここでこの世界の学問の分類のおさらい。まず体系的な知識というものは学と術に大分される。13ある分野の中に当てはまれば学。そうでなければ術。例えば具体的に地図を描く方法は測量術とかの扱いになるが、その基礎になるのは十三学の一つ、幾何学になる。

 

十三個の学問は、多分美的感覚を重視して構成されている。まず中央に哲学がある。そこから伸びるように四本の大きな枝があり、それぞれの枝には3つの分野が含まれている。まずは文法学、修辞学、万神学の枝。これは言語の統制による思想と倫理の管理みたいなところがあるな。次の枝は算学、幾何学、天文学。実用的側面と抽象的側面がそれなりに両立している。和算とまではいかないが、この分野を趣味にしている人はいないわけではない。三つ目が自然学、薬学、医学。これはまあ、医療従事者は必要だろうということで。最後が地理学、法律学、統治学、政治の話ですね。

 

宗教者か医者か政治家、というのは中世ヨーロッパの大学と似ているのでいい。ただ、ここに数学っぽいのがあるくせに抽象的な表現方法が編み出されていないのがちょっと不思議ではある。しかしそういうことが珍しくないというかありふれているということは科学史の知識を持っているのでわかる。いや、わかるんだよ。問題は納得出来ないということだけで。これは私が学んできた学問体系と歴史的な発展が異なっていることが原因の一つでしょうね。

 

「一旦そういう柵を外して、整理してみましょうよ。本来なら同様の講義で教えられることで理解が深化させられるはずのものを別々にするのは無駄でしかない」

 

「目標があるのなら、それも悪くないだろう。あるのか?」

 

「難しいことを言うなぁ……」

 

とは言いながらも向かいの哲学師はちゃんと紙を並び替えて十三学の分野を超えた体系化を考えている。私もちょっと一旦十三学の範疇で考えてみるか。

 

材料工学……は、薬学とかか?建築術が幾何学に通じている所を考えるとここかもしれない。生物学は自然学に入れればいいか。今のところいわゆる古典力学の範疇は天文学の人がやっている。史学はないけど全般は哲学に入れて、地域別のものは地理学で扱う。まあこうやっていけば一応は十三学にまとめることはできる。けれどもあまり綺麗ではないよな。

 

「必要な知識は多い。学べる時間は少ない。だから、教える側が道を示さねばならない。……少なくとも、視界が開けるほどの知恵が着くまでは。ここまではいい?」

 

「構わない。同意しよう。既にある道を無視して新しいものを作ることが果たして賢いことだろうか?」

 

なるほどね。私の意見に対する哲学師の返答は実に合理的だ。数百年もの間維持されてきた体系を崩すべきではないし、それを前提に作られてきたものが多いのも納得する。

 

「知識があってそれを結ぶために教えの道ができるんですよ。道の上に知識を並べるのは仕方のないこととは言え、それを主目的にしてしまってはいけないのでは?」

 

「……程度の問題、か」

 

「ここをどうするのが正解かも、探りながらではないといけないでしょうね」

 

結局はエビデンスの不足だ。ランダム化比較試験に基づいたメタアナリシスをもとにガイドラインを作るのが常に正解だとは思わないし、それにかかる手間を常に考えなければならないのは前提としても教育はそれをやるだけの価値がある分野だとは思うんだよね。しかししっかりと教育をやるとなると人材不足がどうしても起こるんだよな。その人材は将来のより良い人材を作るかもしれないが、今手持ちの人材が不足している状況で未来のためにどれだけを投資すれば最適か、なんてことはわからない。

 

「こういうのを学徒に任せてはいけないのか?」

 

「……講師であるなら、あまりそういうことは言うべきではないかと」

 

「ふむ。キイ師はそういう考えか」

 

「……そうですね、あくまでこれは私自身の考えです」

 

「すまない、まあ確かにどのように学ぶのかを知ることができている人はほんの僅かだからな。しかしそれを教えるとなると、相当念入りにやらねばなるまい」

 

「だから、これを作るんですよ」

 

府中学舎が行う事業の一つ、専門書の作成。平易かつ統制された聖典語による、実用重視の本。伝統的な十三学からは多少距離を置かないとちょっと革新的すぎるとの批判が出ているが、少なくともこれが有用だろうということは誰も否定しなかった。もちろん誰もが読めるようになるとまではいかないが、少なくともハードルを下げることはできるだろう。



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講師

府中学舎の進捗は順調だ。教科書の下書きが作られ、目指していた文庫本サイズの専門書も作られている。まだアンソロジーみたいなものだが、そろそろ一冊まるごと書くようなものも出てくるだろう。基本的に教育内容は事前に大まかに決めておくように頼んである。もちろんどうせすぐ暴走するので、追加で教えた内容もまとめるようにと言うことも忘れていない。

 

「しかし、ここまで部屋が少なくていいのですか?」

 

学舎となる範囲を案内している私の隣で聞いてくるのは講師になってくれる衙堂の司女。事務処理を教えるのに誰が良いかと昔お世話になった司士である煩務官に言ったら紹介してくれた人だ。

 

「学ぶ人は、まずは二十人ほどだろうからね」

 

「なら、全員の顔と名前と性格を覚える必要がありますね」

 

「……私、あまりそれが得意ではないんだよなぁ」

 

「銀絵を貼った厚紙を用意すればいいですよ」

 

「ああ、なら銀絵の部分に薄い紙を貼っておくべきかな。扱っている時に破けたり汚れたりしては大変だし」

 

「……キイ嬢は、やはり先を見る力が強いですね」

 

いやそう言われても実際に薄紙を写真の上に乗せる例をかつての世界で見たからそういうのが浮かぶだけであって、この司女が思っているように情報を瞬時に分析して統合しているわけではないが。

 

「それは本当に勘違いですよ。確かに一部の点ではそのように見えるかもしれませんが、私は万能ではありません」

 

「そうですか、それは失礼しました」

 

というかこの人のほうがよっぽど先を見る力が強い気がするんだよな。なにせあの煩務官が選んだ人物である。直接の関係はないが、衙堂時代の知り合い曰く怒らせると淡々と詰めてくるらしい。なおハルツさん派閥の人。まったく、図書庫の城邦にはやばいやつしかいないのか?人的資源が少ないし教育方針が少数精鋭だから仕方がなくはあるが、それを変えないとちょっと難しいんだよな。

 

「それで、私は何を教えればいいのですか?」

 

「事務作業の基礎的な内容を。書類のまとめ方、やるべきことの整理の仕方、あるいは折衝の話でもいいですが」

 

「面白そうですね。基本的に記入については印刷物管理局規格に沿えばいいですか?」

 

「お願いします」

 

印刷物管理局規格は、今や図書庫の城邦で作られる工業的製品の非常に重要な地位を占めている。長髪の商者が初期コストの増大を認めてまで押し通した規格化によって、多くの部品がこの規格によって設計され、生産され、評価されている。もちろん、この規格は製品に限らない。設計時のチェックシート、生産管理のモデル、あるいは評価基準策定まで。

 

もちろん、ある程度はおせっかいだろうがこういうのが有るのと無いのとでは仕事の効率が違うんだよ。誰かが繰り返してやる作業は標準化すべき、というのが私のモットーである。なおこの規格の中でもソフト面は結構簡単に書き換わるのでもし必要であれば印刷物管理局までご連絡ください。閲覧は無料で、残っていれば印刷版をお値打ち価格で販売しております。いや実際かなり安いと思うよ?印刷実費相当だし。

 

「それで、課程は一応4年を考えています。半年ぐらいの長めの期間ごとにしっかりと体系全体を学ぶようにしたいので、どうしても長くなってしまうのですが」

 

「……となると、学徒の間でも新入りという考え方が生まれるのですね。師弟関係……とも違いますか、なんと呼べばいいのでしょうかね。図書庫の城邦では人の入れ替わりが多いのであまり見ませんけど、地方とかの工房で見られるものが近いかもしれませんが」

 

おい私を先を見る力が強いとか言ったのは誰だ?この司女のほうがよっぽど力があるだろ。

 

「ああ、普通だと学舎の人は一月程度で入れ替わりますからね。ある程度集団での生活を前提とするあたりは軍にも似ているでしょう。一応代表が外征将軍ですから」

 

「司士や司女も同じ所で寝泊まりすることは多いですけど、軍ほどではないですからね。しかし、そうすると軋轢が生まれません?」

 

ま、当然の質問だな。

 

「新入りを虐めることはあらゆる場所で起こりますからね」

 

「で、やっている本人はそれを自然だと思っているし、場合によっては虐めている自覚すら無い」

 

「……ご経験が?」

 

「知り合いが、ですが」

 

「衙堂で、ですか?」

 

「いえ、衙堂ではあまりそういう話を聞きませんね」

 

確かにあそこは比較的雰囲気の良い職場だった。もちろん、そういうものには相性があるというのはあるからあくまで私にとっては、だけど。

 

「……それを起こさないようにするのも、我々の仕事です」

 

「面倒ねぇ」

 

「面倒ですよ」

 

一応ではあるが、児童心理学とか有形無形の攻撃とかのあたりはそれなり程度に中高生の頃に学んでいた。巻き込まれることはなかったけどさ。とはいえそれは結構誰もが持つ傾向に基づいたものだし、意識してもやってしまうことではある。この世界の人たちの精神は大人びている、と言ってもいい気がするが、それでも限界があるのだろう。

 

ま、入学者の年齢層はそれなりに高めだからいいか。今のケトぐらいの年齢が多い。若いとティーン、まあ最初に会ったときのケトぐらいだろうか?一応あいまいな成人の概念を加味して「大人」を対象にしているからそれぐらいにはなるのかな。



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文庫

「……緊張しますね」

 

そう机の向かいで口を開くのは印刷物管理局印刷物研究班班長。この図書庫の城邦で印刷技術についての先端研究機関のトップ。一応事務畑の人間だが機械や薬学についての知識もちゃんとあるから大丈夫。

 

「まあ、キイ嬢の持ち込んだ話が楽だった試しは無いからな」

 

班長の隣で言うのは印刷物管理局局長。かつて私が就いていたポストを引き継いだ彼の仕事ぶりはかなりいいと噂には聞いている。

 

「同情いたしますが、仕事でしょう?受け取っている銀にかけて仕事をしてくださいよ」

 

こう言うのは私の隣の「総合技術報告」編集所長。編集長である私より偉い。いつの間にか乗っ取られていた。

 

「ねえ、みんな私をなんだと思っているの?」

 

最後に府中学舎統括人代理。つまりは私だ。

 

「……それで、ご要件は?」

 

管理局局長が口を開く。

 

「携帯性があって、安価な冊子を作りたい。大きさは二小型。頁数は二百だから、枚数では百枚程度だね」

 

私がそのサイズの紙を取り出して言う。かつての世界の葉書より一回り大きい程度の大きさだ。

 

「部数はどれぐらいになります?」

 

「まずは千ほど」

 

研究班班長への私の返答を聞いて、関係者は全員溜息を吐いた。

 

「そんなに売れるか?」

 

訝しげに聞くのは管理局局長。

 

「……最悪、私が全部買い取るから」

 

「銀数百枚はしますよ?」

 

研究班班長が素早く計算をしてくれる。

 

「編集所長として、半額は出しましょう」

 

「いいの?」

 

「私はキイ嬢の狂気に賭けます」

 

「狂気って言ってしまっているよね」

 

ふと目を横に向けると、編集所長と私の言い争いを呆れたような目で管理局局長と研究班班長が見ていた。

 

「……ま、前にキイ先生が言っていた安価な本についてはある程度まとめてあります。こちらを」

 

研究班班長が出したのはまだ書類としては不完全な印刷物管理局規格のフォーマット。新開発の小活字を活用して、安い紙と新型の印刷機を使える製本手順の規格についての草案だ。

 

「この作り方なら、ある程度作業を分担したほうがいいな。自動機械を一部導入してもいい。となると全体の生産施設設計は……」

 

そう話していると、研究班班長が紙と硝子筆(ガラスペン)を出してくれた。あ、ありがとうございます。

 

「基本的に作ってもらうのは学徒がいいかな。専門的な技能を必要としないようにしたいから、全体を複数の小作業に分割して、それぞれの人が分割された作業を続ける」

 

「単調に過ぎないか?」

 

管理局局長が指摘する。まあ、正しい。私がやろうとしているのは人間を繰り返し機械とみなして最適化を図る方法だ。そして大抵そこからは心理的要素が抜け落ちる。私個人としてはフォーディズムはシンプルだし導入に手間は相対的にかからないので悪くないと思うけど、早めに精神的なものも含めた統計調査を進めてトヨティズムっぽくしたいんだよな。もちろんどちらにも批判とか欠点とかあるのが前提なので、この世界なりの受容が必要になってくるのだけれども。

 

「全部一人の職人がやるよりは多少は楽ですよ。それにこれなら人数を容易に増やせます。もし万単位の印刷と製本が必要でも、何とかなるでしょう」

 

「……そこまで売れるか?」

 

相変わらず編集所長は疑り深い。正しいのではあるが。むしろ私の方が相当な博打である。もちろん負けたとしても得られるものが無いわけではないからやっているのだけど。

 

「売ります。ここの学徒の人数と求められる分野から推定された売上がこちら」

 

識字率の雑な統計が始まったのは最近だが、図書庫の城邦内であればあまり低くなかった。最近では新聞の代読をやる学徒もいるようだが、自分で読めるようになればいいと考えて学舎に通うようになった人もいるとか。学ぶ意欲がある人が多いのはいいことである。

 

「千部というのは控えめな推定です。商会経由で販路を拡大すれば、数倍にはなるかと」

 

「聖典語を読める人のいる地域を考えれば、まあそうか……」

 

管理局局長もある程度は認めたらしい。よし。

 

「つまりこちらがやればいいのは、小本の印刷に必要な各種規格の制定と大量に作る際の手法の確立、といった所ですか」

 

「予算の見積もりもお願い」

 

研究班班長と編集所長が事務的な話を進めていた。ならよし。

 

「で、これは例の府中学舎の教本も兼ねているわけか」

 

管理局局長が私のメモを見ながら言う。

 

「むしろ衙堂の教育体制の補強かな」

 

「それは初耳だが」

 

「衙堂で地方から人を集めようって話が進んでいる。そのためには手頃で安い教本がないとね」

 

「今のものでは駄目か?」

 

「もっと安く、もっと小さくというのが求められている。かつての本のような装飾や華麗な書体は不要だ、と」

 

「……少し悲しくはある、な」

 

「時代による変化というものだよ」

 

私だってこの世界の印刷物ではない本、つまりは巻子本の形態のやつは好きだ。丁寧に装丁されて、大事に扱われることを前提に作られている。しかし今必要なのは数なのだ。もちろん使い捨てというほど雑に扱われることは想定していないけれども。



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過労

入学願書が届きつつある。思ったより多いな。一応全日管理でこちらでスケジュールを用意するのと、聴講の人とに分けるか。煩務官にちょっと頼んで学徒寓を紹介してもらおう。

 

「ハルツさんの知人の紹介だって人もいますね」

 

ケトが紙に入学希望者の名前を書きながら言う。最初の一年は少なめの人数で回して感覚を掴みたいので、場合によってはお断りの手紙を入れたりしなければならない。まあ、最悪ここに来て頼まれたら仕事の斡旋とかはするけどさ。今のところのボトルネックの一つは人材である。

 

「それ、本当?名前を使っているだけとかではなくて?」

 

「それなりに信用していいものだとは思いますよ」

 

「まあ、なら一定の条件は満たしているとしていいか」

 

どうしても聖典語で授業をやる以上、そこの知識がないと辛い。もちろん技術方面の現場では東方通商語なのだが、やはり学術語としての聖典語は強い、ということでね。とはいえ用語統制とか変な活用の削減とかをやっているので多少は使いやすくなっている……はず。なおケトはその縛りプレイで詞を作るとかいう変態的行為をしているらしい。怖い。

 

「試験もそろそろですしね」

 

「別に落とすためのものではないからいいけどさ」

 

フランスの制度みたいに一定以上の点なら全員、というのはちょっと一極集中になりかねないし、新規参入ができるようにして市場原理をある程度働かせて、とかやりたいが正直上手くできる気がしない。過労死しない完璧な独裁者求む。ここらへんは私の能力を超えているので演習いっぱいやらせたい。

 

「問題文の印刷、関係者以外関与しないようになってる?」

 

「ええ。あれを盗み見れるとしたら相当ですよ」

 

「……『刮目』とかやってきそうなんだよな」

 

「心配性すぎるのでは?」

 

「いや、昔からこういう試験には不正がつきものだからさ」

 

中華圏における科挙とそれに対しての様々な不正を思い出す。人間の悪知恵というのは結構すごいものなのだ。

 

「……僕はあまりそういうの知りませんが、キイさんはそういうことをやったことが?」

 

「ないよ、そもそも不正するために準備をしたら大体覚えるし、講師へ提出する課題を誰かに写させてもらうなんてことをしようにも頼れる相手がいなかったし、そもそも私が書くほうがよっぽど上手だったし」

 

「はい」

 

なんだその目は。私に友達がいなくて悪いか?まあ、おかげでこっちにいても郷愁に襲われることが少なくていいんだけどさ。けどやっぱり思い残しというかやりたかったこととかはあるよ。否定しない。

 

「……っ」

 

不意に目頭が熱くなってしまった。意外だな。こういう感情はしばらくなかったんだけど。もう、9年になろうとしているのか。

 

「キイさん?」

 

ケトの心配したような声。ああ、私の人生の四分の一はこっちにいるのか。もう馴染んでいた気がしたが、私はまだ部外者なのだ。それが別に嫌な訳ではない。受けれいてもらっているけど、どうしても超えられない一線を引いている人が多いのも知っている。

 

「……大丈夫。多分。少し、ここに来る前のことを思い出した、だけ」

 

ああ、やばいな。感情が止まらない。制御できない。ちょっと過呼吸気味。

 

「休みましょう」

 

「……これは、やっておかないと」

 

「キイさん」

 

ケトは私の両肩に手を当てて、軽く揺さぶるようにする。こういう方法で意識の確認するの、首とかにダメージがある相手にやっちゃいけませんよ。そうじゃなくて。

 

「予定には余裕があります。四半月休んだ程度では、特に問題は起こりません。僕も同じです」

 

「……ああ、もしかして、疲れているのかな」

 

少し最近の仕事量を思い出す。過労死ラインはええと、月45時間だから、って月20日じゃなくてもっとやってる分を含めると、うん。超えているな。

 

「そうだね……片づけ、お願いしていい?先に帰ってる」

 

「わかりました」

 

私の中で、ケトに仕事を任せて逃げるのかと声がするがまだ残る理性でそれをねじ伏せる。人間は自分のできる範囲の仕事しかしなくていいし、それ以上はしちゃいけないんだ。雇われなら、なおさら給与以上は働くべきじゃない。あまり雇用されたことがなかったから、ここらへんの感覚はちゃんとないけどね。

 

かつての世界では、私の周りには結構平気で無茶をしていた人がいた。私も含めて。それが普通じゃないし、できることが当然ではないと頭ではわかっていたけどやはり無理だったか。しかし助かったな。ケトがいる。待て。ケトもそうとう危ないんじゃないか?

 

「いいや、一緒に帰ろう。今から」

 

「……今から、ですか?」

 

「そう。最悪の事態のときの対処は編集所長に渡してある」

 

私とケトが何らかの理由で両方とも動けなくなった時のバックアップだ。この世界を変えうるが知識がないと扱えないようなものをいくつか書いたメモに封をして渡してある。もし何かあっても、あの編集所長ならこの世界の技術をちゃんと進められるだろう。なら、私たちは休んでもいいわけだ。

 

「わかりました」

 

そう言って、ケトは身体にあまり力の入らない私を支えてくれた。



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診断

「……念のため、医者として確認する。妊娠の可能性は?」

 

「ないよ。ないはず」

 

解剖の時に手を貸した医学師が、私が動けなくなったと聞いてわざわざ診療に来てくれた。というかこの世界では医者がやってくることも珍しくないのか。下手に環境の整っていない場所に入院させるよりも、家族がいるなら看病してもらったほうがいいものな。

 

「肺および心に異常はなし。血の圧は低めだが、寝ているならこんなものだろう」

 

「音については聞き慣れてきた?」

 

「肺病の場合は明らかに音が違う。南方の知人が砂病みと呼ばれる病で呼吸時の音が違うことを報告しているが、これはまだ纏められていない」

 

「それについては急かして。砂病みとなると、砂埃の多い場所で労働することで起こる病で、呼吸困難が特徴……とか?」

 

「その通りですが、知っていたのかね?」

 

それなら珪肺症、かな。砂病みとは、なかなかいい名前じゃないか。

 

「少しね。鼻と口を布で覆うか、あるいは風通しを良くしたり水を撒いたりという対策があるが……」

 

「できるなら苦労しない、か」

 

「変えるためには多方面からの動きが必要ですね。まずは検知と分析ですが、これも長い時間がかかる」

 

北方における鉱物資源探査は進んでいるようだが、欲しいものは見つかっていない。重石(タングステン)鉱よ、どこにあるのですか。蛍光剤になるしフィラメントにもなるしと、X線を扱うなら欲しいのだがない。まあ、無いものを欲しがっても意味はないな。

 

「……仕事のことを考えるべきではない、と医学師として言わせてもらう」

 

「過労、か」

 

「そこのケト君から聞いたぞ、仕事のし過ぎだ。もちろんケト君にも最低半月は仕事を休んでおけと言っておいたがな。毎日高所の海風を港まで歩いて吸いに行くといい」

 

視線を向けると気まずそうにケトが目をそらす。

 

「それは海風がいいのですか?それとも運動が?」

 

「双方だな。それに加え、開けた場所に行くことは心を落ち着ける」

 

「根拠はまだ確立されていないが、確かにそれらしいな」

 

私はそう言って小さく笑う。

 

「ともかく、よく寝てよく食べよく動き、夜に身体を冷まさないようにしておけばいいだろう。精神についてはなんとも言えないが、ケト君には頼るべきだ、と友人として言わせてもらう」

 

友人、ね。まあ確かに色々関わったし、今度の府中学舎の件でだってお世話になっている。なにせ医学師というのは患者の命を握るので、色々な所に顔が利くのだ。まあこれで新しい治療法の導入に反対するとかなら全力で潰すところだが、疑った上で少なくとも悪くなさそうだから使うという堅実な方向で私の知識を導入しているのでいいとしよう。まあ、全力での反対よりも無条件での受容のほうが怖いと言えばそうなのだが。

 

「それでは、失礼するぞ。こちらもこちらで忙しいのだ」

 

「わざわざすまないね、感謝するよ」

 

そう言って彼は足早に去っていく。まあ、もともとある診療の予定にケトが無理やりねじ込んだという形かな。実際の診察は数刻で終わった所を見ると、そういうこういうやり方に慣れてきたようだ。紙に記録を取っていたし、後で色々と整理するのだろう。とはいえ個人情報とかプライバシーの考え方が緩いのは問題だな。

 

とはいえここらへんはインターネットの発展とともに生まれた考え方だったはずだ。一昔前まで住民基本台帳を普通に見れたのだし、ここらへんの認識は場合によっては十年未満で変化するのだろう。大きな組織というのはこういう時に時間がかかりがちだからな。先手を打てるようにしておかないと。ああ、こういう方面で報知紙を訴える話を演習シナリオに入れてもいいな。

 

「……で、キイさん。どうします?」

 

「そうだね、『総合技術報告』の仕事は編集所長に頼んでおいたし、府中学舎の件はそれなりに他の人に回している。迷惑をかけたことを謝る必要は出てくるだろうけど、まあその程度だよ」

 

謝る程度で済むならいいのだ。金を払うことで解決できるなら軽いものだ。そうでない厄介な事を抱えるより、よっぽどマシである。幸いにも私はそこまでやらかした記憶はないが、問題は隠すよりも公表してみんなで面倒事を解決するほうが大抵はマシな事ぐらいは知っている。一応、それが難しいこともよくわかっているのだが。

 

「違いますよ」

 

「えっ?」

 

「これから半月、僕とどう過ごすかという話です」

 

「……ああ、確かに。仕事のことを考えるべきではない、と言われたばっかりだった」

 

どうするかね。思い返せば前にゆったりしたのはハルツさんの所に行った時だ。あれ、一年以上ほとんど休みなしで働いている?で、自分の年齢を確認。そろそろ、老いとまでは言わないけど全盛期を過ぎる頃だ。やっぱり限界か。

 

「博打でもして身を崩そうかな」

 

「好きなんですか?」

 

「いや、あまりやったことはない」

 

「詩でも書きます?」

 

「ケトくんには勝てないでしょ。ああでも散文の物語ならいけるか……?」

 

SFとかを書いて、未来を予言するのはまあ悪くはないか。そういうイメージが未来を作っていくことも結構あるのだし。



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提案

図書庫の城邦の北西に面した海にある港には、今日も多くの船が着いている。海鳥が鳴き、潮の匂いのする北風が吹いてくる。

 

「確かに、ここはいいところですね」

 

ケトが嬉しそうに言うが、私はそれどころではない。ここは船見塔。船の位置を確認するとともに港に来た船に進入方向を伝える役割を持っている、この区域で一番目立つ建物だ。一応関係者以外でも入れるが、観光スポットにはなっていないし夜間の灯りもない。いやそれはいいんだ。

 

「……そう、だね」

 

息が切れている。明らかに運動不足による持久力の減少だ。一時期は結構元気だったのだが、少しサボってデスクワークに集中すると体力というのは一瞬で落ちる。予定していた体力増強プログラムの第一被験者を私にするべきかもしれないな。ああいや、仕事の話はやめだ。

 

「こうやって見ると、かなり船の構造が様々なのがわかりますね」

 

「あれが北方流の作り方、あっちは東方の小型船かな……」

 

基本的にここの船は荷物を運ぶためのものだが、船の民にとっては家でもある。ちょっと視線をずらすと漁業に使われている船が見える。ゆるくロープで繋がれていて、海藻とか貝を取るために潜りやすくなっているとか。詳しくは知らない。これは別に船の民が排他的というわけではないよ、純粋に私が知らないだけ。

 

「こういうのを説明する図入りの本とかあるといいんだけどな……」

 

木凹版を使った印刷はそれなりに使われつつあるが、どうしても摩耗に弱いとか輪転機に突っ込めないとかいう問題がある。まあ、これに対しての解決策は知られているんだけどね。電胎法である。活字を作ったときに比べて凹凸を逆転させなくていい分少し手間が減るので便利だ。ここらへんは印刷物管理局印刷物研究班がメインでやっている。

 

「仕事を忘れましょう」

 

「はい……」

 

駄目だ、私の人生というか生活にこういう思考が染み付いているのですぐに考えがそういう方向に行ってしまう。まだ理論段階で止まったから良かったものの、実際にやった時の課題まで考えてしまうのも時間の問題だな。

 

「じゃあ、何を考えればいいの?」

 

「僕のこととか、どうですか?」

 

「……そういえば、最近は考えたことなかったな」

 

仕事に忙しかったのもあって、ケトを同僚としか見ていなかった。いや、雇用関係的にはケトは私の部下だったりするんだけれどもさ。

 

「ケトくんはさ、私と働いてどう?」

 

「楽しいですが、仕事の話以外をしません?」

 

「……私と暮らして、とかでいい?」

 

「一緒にいるのは好きですよ。もちろん迷惑をかけられることもありますけど」

 

「毎回毎回、本当にごめん……」

 

アフターケアはできるだけしているはずだけど、こういうのは傷つけられた本人が満足するのは難しいのだ。

 

「……別にいいんですよ、それは。キイさんがそういう人だっていうことはわかっていますし、僕だって司士として働いているんですから」

 

「別に辞めてもいいと思うよ。私は司女じゃないとちょっとここでは辛いけど」

 

女性の社会的地位の曖昧さもあって、私の活動は司女であることに支えられている。しかしケトはもう独立してもいい訳だし。

 

「妻としてなら、どうにかなりません?」

 

「一応そういう働き方をしている人がいるのも知ってるけど、どうしても今は難しいかな……」

 

ここまで言って、私は何とも言えない恥ずかしいというか微妙な感情を自覚する。

 

「……ええと、仄めかしであっても結婚の提案というのは私のいた場所ではそれなりに多くの意味を持っていて」

 

「知らないと思いますか?」

 

「私は話した記憶が無いんだけれども」

 

「……そういう話をした時の反応を見ればわかりますよ。ええ。あとさっきのはあくまで一般例ですからね、僕だって司士を辞めるつもりはありませんし」

 

「それは……良かった、って言っていい?」

 

「悪くはないと思います」

 

少しだけ、沈黙が流れる。あ、船の帆が張られている。出航かな。

 

「……もし、僕が一緒に衙堂を辞めて欲しい、と言ったら着いてきてくれますか?」

 

「もちろん」

 

別にこれは悩むほどの質問ではないよな。ケトがそういう行動を取るという時は大抵その先まで考えてあるだろうし。もし考えてなくても、まあケトとなら何とかなるだろう。

 

「……よかった」

 

「あー、もう少し私は信頼されるように行動を取った方がいい?」

 

「いえ、先程のは僕が自分の満足のためにしたものなので」

 

「そう」

 

わかっちゃいるよ。そりゃ。私がケトと何年間一緒に過ごしてきたと思っている。もちろんそれでも全部はわからないし、もともと人間感情の機微を読み取るのは下手だったけどさ。ああもあからさまな親愛と信頼を向けられたら好意を抱かれているんだなって理解はするよ。

 

言葉にするべきだっていうのもわかるけど、そういうのを口にしてしまったら壊れてしまいそうで怖いというのもある。私はここらへんの感情については不慣れで、多分初体験のものも混じっている。そしてそういうものが失敗することが珍しくないことも知っている。

 

「……あともう少し、色々と変えるために動くためだけど、手伝ってくれる?」

 

「もう少し、でいいんですか?」

 

「……お願い、していい?」

 

「着いていきますよ。僕自身がやりたい事は勝手にやるので」

 

「具体的には?」

 

「詩を作ること」

 

「……楽しいの?」

 

「楽しいですよ」

 

私以外の目的を見つけているのはとてもいいことである。とはいえ、私がケトにとっての詩と同じか、それ以上か。正直、ちょっとプレッシャーではあるな。



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演技

「……なんですか、これ」

 

作業台の上の書き物を見たらしいケトが、寝台でごろごろしている私に声をかける。

 

「いや、気分転換に何かを作ってみようかとね」

 

私が書いていたのは東方通商語の手紙だ。内容は「私」が同僚で友人である巡警に対して「任務」の辛さを綴ったもの。

 

「捏造、ですか」

 

そう言いながら私が横になっている寝台に座るケト。

 

「創作の一種だよ」

 

モデルは前にやった机上演習だ。あの世界での裏話を作っている。こういうのは結構やっていると楽しいな。

 

「面白いですか?」

 

「架空の話はつまらない、と?」

 

「いえ、こういう形の作品を見たことがないので」

 

「んー、まあ珍しいと言えばそうか」

 

一応文学で博士号を取っている身だし、修士課程時代に受けた文学史系の授業も聞いていたのでここらへんについてはわずかだが知識がある。ラ・ブレードおよびモンテスキュー男爵、シャルル=ルイ・ド・スゴンダの「ペルシア人の手紙」とかが最初期のものじゃなかったかな。

 

手紙のやり取りで物語を描くというのは、作者が上手か読者が良いかのどちらかが必要になるというのが個人的な意見だ。私の場合、書簡を読み解くのは慣れている。とはいえ受け取った手紙しかない場合も多いし、どうしても字面には現れにくい情報もあるから完全な方法ではないけどさ。

 

「……なるほど。あのような出来事が実際に起ったら、どういう手紙がやり取りされていたか、ですか」

 

「少し違うな。私がやりたいのは予測とかではなくて娯楽、読者の感情を動かすための作品を作ること」

 

「んー、何となくはわかりますが、そう心が動かされますかね?」

 

「ある程度読者に慣れが必要かもしれないのは認めるけどさ、普通の手紙でももらって嬉しくなることはあるでしょう?」

 

「ええ」

 

「報知紙とかで、誰かが幸せになった話を見ると胸が暖かくなるし、辛い話を見れば痛むわけで」

 

「……キイさんは、そういう感覚が強いんですね」

 

「あれ、あまりない?」

 

「どうなんでしょう、そういう話をあまり聞きませんが」

 

うーん、小説に対する共感は読書で訓練される、みたいな話があったが根拠が出されているのを見たことがないんだよな。そもそも定量的にやりにくい分野だというのは前提として。というか定量化出来ないのにそういうこと言うのって思い込みとかじゃないんですかね、知りませんけど。

 

「ああでも、架空の話と実際の出来事を区別できない人は多いからな……」

 

「『人々は祭りの中に生きている』、ですか?」

 

「なにそれ」

 

いきなり聖典語の引用が出てきて驚いてしまった。

 

「少し前に読んだ本にあったんですよ。例えば祭りで神に扮する、ということがあるのは……わかりますか?」

 

「まあね」

 

なお私は民俗学には弱いので真っ先に出てくる例が赤道祭である。人文系の人間として果たしてこれでいいのだろうか?

 

「しかし、僕たちは日頃から人を演じている、とその作者は論じていました。祭りの時の熱狂を普段の生活では忘れていますが、実際は日常そのものが熱狂なのだ、と」

 

「面白い考え方だね」

 

「実際のところ、キイさんも仕事という役を演じていたわけではないですか」

 

「そういう見方もできる、か」

 

「で、今思いだすとどうですか?」

 

「ちょっと、無茶をしすぎていたな」

 

「ちょっと?」

 

「かなり……というか、それを言うならケトくんだって」

 

「僕はまあ、多少は自覚していましたから」

 

「本当?」

 

私はちょっと疑いの視線をケトに向ける。反論できないらしいケトは背中から寝台に倒れ込み、私の脚を枕にする。

 

「……私はさ、多分一番いいやり方を選べてはいないんだよ」

 

「そもそも、そういう正しい方向を常に選ぶのはまず不可能だ、なんてことは言わなくてもいいですか」

 

「わかってはいるよ。けれどもさ、もしかしたら別の方法を取っていたらと後悔することがないわけではないし」

 

純粋に人命を救うとかなら早めに医学師たちと接触して公衆衛生の方面を進めるべきだった。けれども、先に商会のほうに話を通したおかげで物流のほうが充実している。演習内容ではないが、感染症の拡大が起こったとしても不思議ではない環境なのだ。そして、もし起こったとしたらその責任の一端は私にある。

 

もちろん、程度の問題だ。カオス理論みたいなものが成り立つなら多くの人が関わっているわけで、それだけ責任は分散される。しかし、本来私にはそれを予期できたんじゃないかと思うとあまりいい気分にはならない。

 

「僕は、キイさんがどういう方法を選んでもそれを肯定するぐらいの覚悟はできていますよ」

 

「……ええと、それはあまり良くないと思うけど」

 

「いえ、僕だって別に言われたとおり従う、という意味で言っているわけではないですよ」

 

「つまり?」

 

「キイさんが選んだものに、きちんと応じるというだけです。それがもし悪いと思ったら、全力で潰します」

 

「なら、いいか」

 

一応、私はケトを全面的に信頼しているけれども、それはケトは私に悪意を向けないだろうというある種の怠慢と、かつ何かあっても大抵のことには責任を取れるだけの関係だという意味で、だ。これはあまり一般的な関係ではないのだろうなとは思うけれども、私はこれがいい。



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復帰

「あ、編集長。体調戻ったんですね」

 

期間としては半月ちょっとのはずなのだが、ずいぶん久しぶりな気がする「総合技術報告」編集所に顔を出す。

 

「ええ、編集所長。私がいない間、どうなっていましたか?」

 

「特に共有しておきたいものは纏めてあります。あとキイ嬢の馴染みの医学師さんからいきなり仕事を始めるなと言われていますよ」

 

「根回しがしっかりしている……」

 

そりゃまあ、あの医学師も政治的に力を持つわけだよ。こういう細かなことができるというのはそれだけで強いのだ。私にはちょっとつらい。並行でタスクを回しているというか、あっちこっちに手を伸ばしてしまって頑張ってどうにかしているというのが実態なので。

 

「……私がいなくても、なんとかなっている?」

 

「ええ、これは編集所長である私のおかげですよ」

 

「そう。そこまでできるならきちんと纏めてもらえると助かる」

 

「いやいや、これも素晴らしきキイ編集長の教育と発明、仕事環境整備のお陰でございます」

 

「そう。そこまで言うなら具体的に何が重要な要素だったか纏めてもらえると助かる」

 

「……ちっ」

 

まあ、彼女はこういう軽口を叩くぐらいには余裕があるということか。「総合技術報告」編集所に人が結構増えて、嘱託の査読担当者とかもいるというのに。単純な仕事量だけならかなりのものに思えるのだが。

 

「まあ、どうせ次の人もこの仕事ができるようにはしますけどね、もう数年は欲しいですよ」

 

「いいよ。……これは?」

 

書類を確認していると、なにやら原稿があった。

 

「前にキイ嬢が府中学舎でやった演習の話を聞きましてね、紹介してもらった友人に少し計算をさせたんですよ」

 

タイトルは「鑽孔紙(パンチカード)を用いた自動事務処理のために」。初っ端から結構面倒な数学モデルを立ててきやがる。ええと、ある種の関数として仕事を捉えている、と。時間で微分すればそれは仕事の速度なのはいいとして、この計算は……仕事の複雑性、と呼ぶべきものだな。ひどく荒っぽい見積もりが3つ。高く見積もったもの、低く見積もったもの、そしてその中間。

 

結論はまあ、そう難しくはない。基本的に、全ての仕事は鑽孔紙(パンチカード)を入力とし、鑽孔紙(パンチカード)を出力とする機構に置き換えることができる。もしあらゆる入力に対する出力を用意できれば、その仕事をこなすことができるというわけだ。実際には同時には起こらない事象や十分無視できるようなものもあるので、何かあった時に対応できる人間と組み合わせるのであれば面倒事を大きく減らすことができる、と。

 

彼女と共著者たちが提案するのは、事務処理の分類と処理しやすい形への変換だ。その草案自体はある。例えば、今まで衙堂がやっていた収量の計算を、各地から集めた収穫量が孔で示された鑽孔紙(パンチカード)を入力として、ある種の電気混じりの絡繰によって総和や平均、差分や将来予測を可能とできるというアイデア。面白い。

 

「ねえ、私ってこういう話をしたっけ?」

 

「していないと思いますよ」

 

編集所長が返す。ならこの理論はこの世界で見出されたものか。帰っていいかな。まだ数学モデルは甘いし、抽象化が足りていないし、アルゴリズムには無駄が多いし、真空管を一つで済ませようとなんか複雑な構造を持たせているし、と突っ込みどころは多い。しかしそれは全部本題ではないのだ。

 

「……質問をしていい?」

 

「構いませんよ」

 

「ここで鑽孔紙(パンチカード)を集めるって言っているけど、無線とか電気とかで送ったらいけないの?」

 

「今のところ、雑音というか雑情報が多いんですよ。何回も送り返しても、それが正しいかどうか判定するためには最低三回必要となるわけです。もちろん自動化もできるでしょうが、その機械自体の精度に不安があります。ま、その報告だって機械が生む問題は完全に無視しているんですがね」

 

三谷尚正の符号理論とかやっている人が学会にいたなぁ。とはいえこういうのは実際に動かしてみるのと数学的処理ができるのとが並行して進まないといけないだろう。線形代数はヘルマン・ギュンター・グラスマンだっけ?関孝和とかはあくまで連立方程式を説くツールの延長線上にしか行列を置いていなかったはずだし。

 

「なるほど。面白いと思うよ。この方向性で色々と進めばいいものができると思う」

 

「よっし」

 

編集所長が指を絡めるように手を握り合わせて言う。

 

「それと、無線技術が公開されたんだね」

 

「ええ、頭領府がもういいかとなったようです。長髪の商者曰く、『仕込みが終わった』そうで」

 

「会ったこと、あるの?」

 

「間接的に、ですが。商会の実験工房で色々やっている人は大抵あの人の息がかかっていますからね」

 

「そういえばそうだったな……」

 

一応あの人は経済学に関することを論じているとか実務一辺倒ではなくそれなりにマルチな人材なのである。なんでこんなやつらばっかりなんだよ。

 

「で、編集長が来たならちょっと原稿の確認お願いしたいのですが」

 

「いいよ、けど少なめにしてね」

 

「わかっています。ただ、私たちが判断ちょっと難しいと思ったものを渡しますが」

 

「仕方ないなぁ」

 

そう言って私は編集所長から紙の束をもらう。ええと、新基質候補の抽出?差出人は北方?あれ、ちょっとこれは気になるな。



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欺瞞

「銀に類似の物質、製錬者たちの間では偽銀として知られているもの。硝酸に侵されず、銀の倍の稠率(密度)を持つため、基質として根本的に銀とは異なる……」

 

まあ、こんな物質は一つしかないわな。元素番号78、白金(プラチニウム)。これがあると触媒化学を誘導できる。いや、もちろんハーバー=ボッシュ法なんかには白金を使わないが、多くの反応を引き起こす便利な触媒だからね。実際はあれ水素との結合エネルギーがちょうどいいとかだっけ?専門外なので知らん。

 

「これ、内容的には?」

 

私は編集所長に声をかける。

 

「問題ありませんが、そのもとになった鉱物が送られていないのでなんとも」

 

「仮報告の形でいい。掲載して。それと同時にこれの執筆者に追加調査の依頼を。鉱物の分布調査と不純物調査について。溶かすために使える硝酸は向こうでも手に入るはずだし、塩酸と一緒に融通するよう『鋼売り』にはこちらから頼んでおく」

 

私はメモ書きにした要望を渡して言う。白金からは色々な不純物が取れる。例えば熱電対用のロジウムとか、触媒用のパラジウムとか。

 

「……そんなに重要な基質なのですか?」

 

「……ほら、銀の代替品として使えるかもしれないでしょ?」

 

「希少であると報告にありますが」

 

「うーん、薬品耐性的に金の代わりに……」

 

「まだこの金属については精錬技術も加工方法も未発達ですよ?もちろん、キイ嬢にとってこれが重要だというのはわかります。問題はそれをどう説明するかです」

 

痛い所を突かれてしまった。実際、ペレグリン・フィリップスが接触法の特許で白金を使ったのが1831年だっけ?それまで白金はちゃんと扱われてこなかったわけで。

 

「……難しいけれども、可能性があるなら調査をするべきでは?」

 

「……どうにかしておきます。まあ、うまく説明できないならそれでいいですよ。内容に不足があるので、より詳しく報告してくださいとして書いておきます。あとこれは適当な薬学師からの批評として添付しておきますね」

 

「ありがとうございます」

 

「まあ、こういうのは誤魔化すのが難しいですから。私は得意ですけど」

 

一応この編集所長は私が色々と変なことを知っていることを知っている。そしてそれをあまり詳しく聞かないでいてくれる。もちろん、必要な知識があれば聞き出そうとするし、私も合理的に答えられる範囲ならちゃんと応対している。まあでもそういう知識をちゃんと辻褄を合わせてアウトプットする方法とかは教えていないので彼女が編み出したのか。恐ろしい。

 

「で、今日は帰るんですか?」

 

「そうだね、そろそろ府中学舎が始まるし」

 

学徒の選抜試験は私が療養している間に進んでいた。というかこの案件は頭領府のものであって、私はそれなりに重要な地位にいるとはいえ最悪いなくても何とかなる程度の存在なのだ。もちろん授業内容とか判断とかにおいて私は頼られているけど、いなくなってもどうにかはなるだろう。そうでなければ困る。

 

「ああ、あれって聴講自体は自由なんでしたっけ」

 

「基本的にはそうだよ。一応無料だけど寄付箱を置いておくつもり」

 

内容としてはかなり専門的なのであまり人は来ないとは思うけどね。中には軍事機密とかも混じっているからそういうものはこっそりとやるつもりではあるが。

 

「結構集まりそうですね」

 

「そうは思わないけどなぁ」

 

「府中学舎の講師、なかなかいいと評判ですよ?特に薬学師たちからはあのトゥーヴェ嬢の話を聞けると噂になってます」

 

「絶対あの人そういうこと言われるの嫌いでしょ……」

 

一応編集所長である彼女はトゥー嬢と事務的やり取りをする程度には顔見知りである。

 

「しかし、よくまああの人を誘えましたね」

 

「頼んだら仕方ないなと言ってやってくれた。かわりに私の授業を聞きたいらしい」

 

「へえ、キイ嬢の話も面白そうですね。何をやるんです?」

 

「応用的算学とか、機械についてとか。色々やるつもりだけど、相当難しくするよ?」

 

「まあ、あそこに選ばれるような学徒なら多少無茶してでも追いつこうとするでしょう」

 

これ以降は私が直接何かをするというよりも、発展の方向性を決める礎を作るとかになってくるからな。助長とか掣肘とかにならないよう気をつける必要があるけれども。

 

「まあ、滞在費と食費を出しているんだから気合い入れてもらわないとね」

 

府中学舎の学徒には結構いろいろな権限を渡してある。例えば調査のために各所の図書庫に入ることもできるし、必要であれば「図書庫の中の図書庫」から資料を取り寄せることもできる。一応関係者の身辺調査も進めているが、多分大丈夫との中間報告は「刮目」から受けている。長期的には国際的な機関にしたいから、色々考えなくちゃな。

 

「もし何かあったら学徒がここに聞きに来るかもしれないから、相手してもらっていい?」

 

「いいですけど、来ますかね?」

 

「この図書庫の城邦で、技術について一番詳しいのは多分あなただから」

 

「……確かに」

 

編集所長にとって、私の言葉はちょっと意外だったらしい。一応彼女、ここにくるあらゆる報告に目を通して、その価値を判断できる程度には知識がついているのである。



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第26章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。物語が終わりに向けて動いていることをなんとなく感じている読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


試験

製図台(ドラフター)に載せた上質の薄紙に黒鉛筆で書き込んでいるのは

ドラフターは武藤工業株式会社の登録商標です。建築系の人は試験でCADを使えないので手描きをやらなくちゃいけないのもあって需要はまだある。個人的には手描きじゃないと実力がつかないみたいな意見にはかなり懐疑的。この手の装置は20世紀初頭に開発された。

 

歌舞伎用語じゃない方の差し金。

L字型の定規のこと。歌舞伎用語の方は先に針金がついた黒い棒で、そこから裏からで人を操ることを指すようになった。

 

とはいえある種の「出世街道」を整備してしまうとそれ自体を目的にしてしまう事が起こるからな。

任意の機関で起こりうる事。定期的にリセットをかけたいところだが、たいてい出世した人が重要なポストにいるので面倒くさい。

 

かといって才能ある人間は大抵どんな無茶な課題を出しても越えてくるので採用できてしまうのがこういった恐ろしいところだ。

これにあぐらをかいて改善しない組織がどれだけあることか……。

 

「もちろん、頭領府から予算を取って、その学徒を代表に据えて計画を始めるよ」

モデルは明治時代に工部省工学寮が作った工部大学校。後に帝国大学工学部となり、東京大学工学部の前身となる。ヘンリー・ダイアーを始めとした多くの外国人による教育は日本の工学的発展方針の基礎を作った。ここの卒業生は卒業後すぐ自分が卒業研究として纏めた計画の指揮を取ったり、海外留学に送られたりと結構過酷なことをされている。

 

勧誘

機械式の脱進機に似た振動子を外部からの磁場で動かして、

脱進機は振動によって回転速度を制御する部品。

 

ステッピングモーターに伝える回転を生む

ステッピングモーターは交互に並んだ磁石、あるいは歯車の「歯」を引き寄せることで微小な回転量を生むモーターの一種。入力した信号で回転角度を細かく制御できる。

 

もしかしたら核物理学がちょっと難しくなるかもしれないけど

電子を基準にすると陽子の電荷が負になるせい。

 

体系

ランダム化比較試験に基づいたメタアナリシスをもとにガイドラインを作るのが常に正解だとは思わないし、

このやり方は医学系でよく見られる。

 

講師

実際に薄紙を写真の上に乗せる例をかつての世界で見たから

グラシン紙と呼ばれるもの。この名前の由来は硝子(ガラス)のようであることから。

 

文庫

「まずは千ほど」

文庫本のはしりであるレクラム出版はライプツィヒでヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「ファウスト」を上下巻5000部づつ刷ったが、すぐに売り切れたらしい。

 

私個人としてはフォーディズムはシンプルだし導入に手間は相対的にかからないので悪くないと思うけど、早めに精神的なものも含めた統計調査を進めてトヨティズムっぽくしたいんだよな。

ここでのフォーディズムはフォード・モーター・カンパニー社が採用した方法で、ベルトコンベアの脇に人を置いて流れ作業をさせるやり方のこと。トヨタ自動車はこのアイデアを改良し、ムダを削減して多品種少量生産にも対応できるようにした。こっちはトヨティズムと呼ばれることがある。

 

過労

フランスの制度みたいに一定以上の点なら全員、というのはちょっと一極集中になりかねないし

Baccalauréat(バカロレア)のこと。

 

診断

重石(タングステン)鉱よ、どこにあるのですか

tungstenは本来「重い石」の意。

 

一昔前まで住民基本台帳を普通に見れたのだし

住民基本台帳法の一部を改正する法律が施行された2006年11月1日以降、住民基本台帳の閲覧は難しくなった。

 

提案

基本的にここの船は荷物を運ぶためのものだが、船の民にとっては家でもある。

ここらへんの描写は家船とかを参考にしている。

 

演技

ラ・ブレードおよびモンテスキュー男爵、シャルル=ルイ・ド・スゴンダの「ペルシア人の手紙」とかが最初期のものじゃなかったかな。

普通はモンテスキューと呼ばれる。三権以上の分立をGrundlinien der Philosophie des Rechts(法哲学要綱、法の哲学とも)の作者。

 

うーん、小説に対する共感は読書で訓練される、みたいな話があったが根拠が出されているのを見たことがないんだよな。

感情史と呼ばれるジャンルが最近できつつあるが、まだ色々と課題は多い。

 

なお私は民俗学には弱いので真っ先に出てくる例が赤道祭である。

赤道や海の神に扮した儀式を含むある種の通過儀礼。軍隊だと暴走して苛烈な虐待になることもあるとかないとか。

 

復帰

三谷尚正の符号理論とかやっている人が学会にいたなぁ。

三谷尚正は日本の情報技術者。国立研究開発法人産業技術総合研究所の前身団体の一つ、通商産業省工業技術庁に勤務していたころに「逐次計算器に於ける数の伝送」というタイトルで発表をしているが、この内容は今日リード=マラー符号と呼ばれるもので、かつアーヴィング・ストイ・リードとデビッド・ユージン・ミュラーの発表に先んじていた。

 

なお、科学史界隈でこの人物にアプローチした先行研究を私は知らない。皆さん、狙い所ですよ。

 

線形代数はヘルマン・ギュンター・グラスマンだっけ?

ヘルマン・ギュンター・グラスマンはベクトルの外積を用いる数学におけるグラスマン代数、色覚認知に関するグラスマンの法則、音韻推移に関するグラスマンの法則で知られる。全部同じ人間なの、おかしくないか?

 

関孝和とかはあくまで連立方程式を説くツールの延長線上にしか行列を置いていなかったはずだし。

関孝和は日本の和算家。連立方程式を解く過程で行列式に相当する概念を導入したが、日本ではその後あまり発展しなかった。

 

欺瞞

実際、ペレグリン・フィリップスが接触法の特許で白金を使ったのが1831年だっけ?

ペレグリン・フィリップスは白金触媒を用いた硫酸製造のための特許を英国特許6069として1831年に取っている。



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第27章
自己紹介


緑の外套を羽織り、数十の学徒に向かい、黒板を背にして私は足を肩幅に開く。

 

「さあて、始めていきましょうか!」

 

そう言って部屋全体に響くほどに指を鳴らす。声を腹から出せ。スピードを抑えろ。このノリでひとまず10刻ほど飛ばしていこう。普段は学会発表のときぐらいにしか使ってこなかった脳のモードを使うのは久しぶりだ。アドレナリンが出るのを感じる。

 

「まずは集まってくれた諸君!記念すべき府中学舎第一期生!我々は君たちを歓迎しよう!」

 

っと、前の方に座っているケトが無言で耳を押さえたのでちょっとボリュームを下げなくちゃな。思ったより人がいて驚いているのだ。今は府中学舎で最初の授業。生活とかは別の人が担当してくれている。なので私は基本的には教えることに専念できるのだ。もちろん情報共有をサボるつもりはないけどさ。

 

「私はキイ。司女をしている。専門は新しく生まれた技術分野、つまりは印刷と電気だ」

 

少しだけ教室がざわめく。訝しげな学徒の視線。まあ、私の名前はあまり知られていないからな。「総合技術報告」に名前を載せていないのもあるし。

 

「君たちは能力がある。未来がある。我々から知識を、技術を、思想を、視点を吸収し、自らのものとして欲しい」

 

私が目を受けるのは選抜を受けた学徒、ではなく後ろの立ち見の人達。まだ10代前半なんじゃないかという若さの子もいる。わざわざ聞きに来るということは、色々とやる気があるか、あるいは知り合いの講師におすすめされたとかかな。授業が全体を通して聖典語だからそこに慣れていないとちょっと辛いかもしれないけど。

 

「それでは、学ぶ内容を説明していこうか。まずは半年後の机上演習に向けて、基本的な知識を身に着けてもらう。それに加えて、人に仕事を頼むとはどういうことか、あるいは効率的に自分の考えを相手と共有する方法とかも」

 

こういうものは正直時間を取って講義でやる必要がどこまであるかは個人的には怪しい気もするが、本がない状態で手探りでOJTするのにも限界があるだろう。なのでやる。

 

「例えばだ、私が君たちに何かを頼みたいとしよう。机を動かして欲しい、と私が言った時に、君たちは戸惑うだろう。どの机を、いつ、どこに、どうやって運べばいいんだ?もちろん、常識を働かせてやってもいい。そうして、私が理不尽に怒るわけだ。なぜ聞かなかったのだ?私が思っていたのはこうではない、と」

 

苦笑いする学徒がいる。あ、やっぱりこういう理不尽な命令は普通にあるんだな。

 

「重要なことの一つは前提の共有だ。例えば歩き回って会話をして欲しいから、机を動かして欲しい、と言えば多少はわかりやすくはなるだろう。ここにある机を、今、部屋の隅にでも、協力して運べばいい。では、やってもらおうか」

 

恐る恐る学徒が動き出す。ふむ、どう動くかな。知り合いらしい何人かが協力して動かしている。一人で動かそうとしている女性を助けようと動く人は……あ、ケトがいた。なんというか、ここでケトは結構積極的に動けるんだよな。

 

かろうじて記憶している学徒の顔と名前と結びつけて、全体の傾向を頭の中で纏めていく。この世界での年齢というものは特に重視されていないので参考程度にしかならないが、16で勤務を始め、20ぐらいで最低限の経験を積んだ若手になる。学部生を相手にする感じだな。

 

「うん、では続けよう。例えば、ここで顔を合わせた人の少なくない部分は初対面だろう。多くの仕事で、その場で会った人間同士で協力しなければならないことは多い。まずは最初だ、そういう環境で人に話しかける訓練をしよう」

 

下手するとこの方法は逆効果なんだよな。孤立感を強めるだけに終わってしまう。けれども、まあ私にはちょっとズルができる。ケトがいる。というか年齢的に20代中頃のはずなのだがこの中でも若く見えるよな。

 

「それに入る時に渡した紙と紙挟、それに自分の筆記具は持っているよな?」

 

そう言って、少し間を置く。あ、一人持っていない人がいた。ケトが貸してあげてる。よし、見た限りではあまり問題はなさそうだ。いや本当に講師というのはこういう風にやると大変だな。全体に気を配らないといけない。助手を一人混ぜていても正直辛いな。

 

なおこの紙挟は特注品である。木を剥くように薄板を作って、繊維方向に直行させて接着した合板。木材加工を得意とする森林地帯であの長髪の商者がやっていた機械化加工装置開発の結果作れるようになったものらしい。あの人一体どこまで手を出しているんだ。個人的には接着剤として熱硬化性樹脂とかを使いたいところなのだが、ホルムアルデヒドの合成はともかく尿素かフェノールあたりが欲しいのでそこがちょっと問題。

 

「それでは、相手について聞いてみよう。今後一緒に学ぶ相手の事を知るのは重要だ」

 

アイスブレイク、にはならないだろうな。多分みんな緊張してうまく動けないはず。それを分析して、どうすればいいかを少し考えさせて、もう一度やらせる。こういうのを疎かにする先生、結構いるんだよね。



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典型

「人間は、初めて会った相手からでも結構色々な事を無意識に読み取っている」

 

私の話自体にある程度注意を惹くことができたので、語気を少し抑えめにする。速度が早くならないようには重ね重ね注意。黒板が助けになるとは言え、人間には限界があるのだ。なお速記でメモを取っている学徒もいる。とはいえこの人は確か聴講者だから別にいいか。メモを取ることに集中するのはあまりいいことではないけど、こうやって記録をしておくと後でまとめる時に助かるので。あとで見せてもらおう。

 

「例えばそこの君。彼女に話す時の口調と、そっちの彼に話した時の口調が異なっていたよね。理由を自覚できている?」

 

私に指差された青年はびくりと怯えたように背筋を伸ばすと、無言で首を振った。

 

「まだいいよ。自分の考えや行動を見つめるようにして、なぜそういうことをするのかを考える癖をここに来た人たちには持ってもらいたい。それはもちろん辛いことだけど、それをやると色々と見えてくるものがある」

 

とはいえこれを自分の中だけでやっていると思想が偏るから慣れてきたら共有と議論が必要になるんだけどな。まあこれは今すぐである必要はない。

 

「私の勝手な想像だけど、多分君が対応を変えた理由として性別と年齢がある。いや、厳密には君が性別と年齢をどう判断したか、かな」

 

ここらへんの話は結構センシティブなのでかつての世界では触れられなかったが、まあここでならいいだろう。そもそも価値基準が大きく違うのだ。

 

「あ、これからの私の意見に反論がある人は適宜言って欲しい。そうしたら議論をしよう。時間がなかったら後で話す時間を設けるから」

 

そう言いながら私は黒板にコツコツと聖典語の単語を書いていく。

 

「男性か女性か。年上か年下か。どのような職業に就いていて、どういった過去を持っているだろうか。自分と似た性格だろうか。あるいはあまり仲良くできそうにないだろうか」

 

「質問をいいですか?」

 

後ろから聞き慣れた声がしたので振り返るとケトだった。よし、こういう第一質問をやってくれる人はあまりいないので仕込んでおいたサクラがちゃんと機能している。こういうのの効果は将来的にちゃんと分析されるべきというのは置いておくとして、対応しなきゃな。

 

「どうぞ」

 

「例えば身長とか、声の調子とか、そういったものを入れると膨大になるのではないでしょうか?」

 

「その通り。ここに書ききれないほどのものを、私たちは目と耳に入れている。しかし、そこから生み出される反応は少ない。私たちは相手を分類するからだ」

 

私は横に一本線を引く。

 

「例えばそうだな、『暗い』とか『内向き』とか『静か』と形容されるような人と、『明るい』とか『外向き』とか『活動的』と形容されるような人。自分と同じ側の人とはやりやすいかもしれないし、違う側にあれば衝突が起こるかもしれない」

 

「キイ先生、いいか?」

 

お、別の質問者。ちゃんとケトは呼び水になってくれたようだ。

 

「どうぞ」

 

「しかし、例えば同じ『暗い』とされる人でも……そうだな、何かを作るのが好きな人と読んだり視たり聴いたりという方が好きな人とがいる。それはこの線だけでは扱いきれないだろう?」

 

おっ、いい質問だ。多分彼は創作側の人だな。そういう匂いがする。

 

「そうだね、ならもう一本線を用意すればいい」

 

横線の中央に縦に線を引き、上側に「使う」、下側に「作る」と書く。

 

「黒板には描けないが、もう一本線を用意することができる」

 

指示棒に使おうと思っていた棒を取って黒板に立てる。これで三次元。

 

「基準を設けると、最初の一本の線では二種類に人間を分割していた。もう一本足すと四種類。そうして、黒板を飛び出すと八種類になる。頭の中でであれば、十六種類の人間を考えることもできるが……恐らく私たちは、そこまで細かく認識していない」

 

ここからは私の思想タイム。実際かつての世界でもパーソナリティ心理学はいろいろと説が多かったしね。

 

「私たちはこういった複雑な条件を組み合わせて、数個……多くとも十数個の典型的例を想定している、と私は考えている。もちろん違うかもしれない。もし反論があれば、それを調べるための計画について後で話そう」

 

様子を見ると……そこまで強く興味を持つ人はいない、と。まあいいか。

 

「だから私たちは相手によって対応を変える。これはある種、合理的な判断だ。膨大な組み合わせとそこからの対応を考えるよりも、よくある典型的例に沿って対応するほうが楽だし、誤りも少ない。しかし、それは同時に本来は見ているはずのものを欠落させているということがある」

 

さて、ここからはある種の偏見に気がついてもらおうか。もちろん、こういうやり方には問題があることは自覚していますとも。けれどもまあ、実行しないと更に面倒なことを長期的に引き起こしかねないのである程度は必要だろう。

 

「特定の行動への嫌悪感、あるいは自分を誤って典型的に扱われたという感情。そういったものはしばしば表情の動きや声の調子に出る。読みにくいかもしれないが、気がつくとある程度はっきりとしたものになる。多くの人が意識せずにやっていることではあるが、ね」

 

私はこれが結構難しかったので小学校時代に死んでいました。なので結構映像を見て訓練したんですよ?

 

「ま、よくあるのは性別での決めつけだ。性別は確かに性格を決める大きな因子ではあるけど、君たちみたいな観察力と思考力を持つ人間がそういった安易な二分をするのは、恥ずべき怠慢だよ」

 

人の上に立つということは、本来かなりのスキルがないとできないのだ。大抵は経験でなんとかされているが、きちんと基礎からやっておくと多分楽だからな。上下の意思疎通ができない官僚的機構というのは無い方がマシだったりすることも珍しくないしね。



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権利

私の思想というのはそれなりに特異だった自覚がある。育った環境とか、学んだ相手とか、そういうのはとても恵まれていた方に入るだろう。

 

「まあつまり、古帝国法では守られるべきものを直接言及せず、列挙する形で示していたわけだ」

 

そういうわけで今日は権利と義務の話。なんか府中学舎のみなさんはこういう私の思想濃度が高い話を聞きたがるんだよな。正直こういう閉鎖環境で色々教えるのはキリスト教とか共産主義の思想に染まる的な事を思い出してよくない。あとは現実を見ていないと過激思想に染まりがちなんだよな。悲惨な現実を見続けても過激思想に染まるが。どうしようもねえ。

 

あ、技術とかの話はちゃんとやっていますとも。しかし、今まで作った機構とか作られた機械とかの説明がメインなので色々と気を配るところはあるけどなんか違うんだよな。これが若者に説教をしたがる老人性の表れではないことを切に願う。

 

「ここで守られているものはいくつかにまとめることができる。命を守られること。これは傷つけられることも含むよ。それに奪われない、相続できるといった特徴を持った財産を持つこと」

 

自然権の中でも基礎的な生命と財産に関するもの。しかし、自由のあたりはまだ考えが甘いな。

 

「古帝国法の基本的な考え方は、それぞれの地域のやり方にあまり干渉しない、それでいて統一的な裁きの基準を示すことだった」

 

広がった帝国にたまに見られるやつ。これとは別に商業の基準とかもあるが、これはあまり今回の本題ではない。

 

「では、古帝国を一旦脇に置いておいて、何もない状態から似たような考え方が作れないか考えていこう」

 

エチカとかのあたりをちゃんと読んだことはないが、まあ似たようなことはできる、はず。

 

「前提を定めよう。一つ、人間はその気になれば互いに相手を殺すだけの能力を持つ。二つ、人間は欲求が満たされていれば極端な行動は起こさない。三つ、人間は死にたくない」

 

「キイ先生、よろしいですか?」

 

学徒の一人が聞いてくるので。私は一旦白墨(チョーク)を動かす手を止める。

 

「どうぞ」

 

「人間、とは何でしょうか?」

 

面倒な質問を突っ込んできてきやがって。面白い。

 

「……例えば私たちが作りたい規則で守られる存在、みたいに言うのは結論を前提に使っている論理になる。これは少なくとも議論の範囲では無矛盾であることを示せるけど、論証としての力は弱い」

 

「例えば協力や敵対の可能性をもとに人間を定義するのであれば、豚や馬も『人間』とはみなされうるのでしょうか?」

 

うわぁ。多くの分野で有耶無耶にされていることを持ち出しやがって。

 

「確かに、古帝国法においても家畜、特に馬はただの物とは別の扱いを受けている。しかし、例えば仮に豚を殺したとしても我々は罪を問われない。確かに忌避される行為ではあるかもしれないが、それを気が付かないことにして、あるいは誰かに押し付けて社会は動いている。この部分は、何もない状態から作り出す考え方では難しいものとなる」

 

頷く学徒。

 

「というわけで、一旦この部分は何かいい感じに決まったことにしよう。もし詳しく論じたいなら、あるいはこの部分がその後の議論を全部覆すほど重要だと思うなら、後で話そう」

 

「そこまでではないです、進めて下さい。妨げて申し訳ありません」

 

「いいよ。じゃ、続き。まあつまり、ある程度の欲求は満たされる必要があるわけだ。そのためには生産が必要で、個人の特性の違いと効率を考えると、それぞれに仕事を持つ必要が出てくる」

 

はい、ということで数学の時間。デヴィッド・リカードの比較優位モデルを出してさくっと簡単なモデルにおける分業の効率性について述べる。

 

「ただ、これだとどうしても特定の仕事が一部に集中する。で、やり過ぎると欲求が満たされなくなるので誰かを殺してしまう。これはよくない。これを防ぐ方法はいくつかある」

 

黒板に溢れかける文字を一歩引いて確認してから、私は学徒の方に向き合う。隣の人と話している人がいる。私をじっと見ている人がいる。自分の書いたメモを確認している人がいる。あ、ケト。あくびをするな。オチまで全部知っているからといってもその態度はちょっと傷つくぞ。えっ昨日夜遅くまで同居人が変な話をしてきたせいで寝不足?なら仕方ないか……。

 

「ここで出てくるのが制度だ。互いにある程度の自由を制限し、衝突を回避するための一種の規則が必要になる。法、と呼んでもいい。これは十分な暴力と信頼によってのみ成り立つ」

 

私は自由主義はまだ色々改善点があると思っているとはいえ、まあ導入するならこれが一番マシだと思っている。しかし自由を守るためには自由を奪う相手に対しての抑止力とか制圧力とかが必要になるのだ。

 

「君たちはこちら側の視点を持たねばならない。社会を維持するために、何が必要なのかを考える必要がある。これは正直辛いことだが、誰かがやらねばならない。多くの場合、これは莫大な富と権力を代償としていた」

 

「そういう人は、自分が贅沢をするために社会を作ってたんじゃないか?」

 

「結果として社会を維持していれば同じだと私は思うよ。例え日々の糧のためだとしても、心の安楽のためだとしても、痛みから逃れるためだとしても、仕事は仕事だ。それをどう受け取るかは個人の問題ではないか、と私は考える。もちろん、幸福の最大化の観点からは外部の干渉をある程度認めるべきかもしれないが」

 

ちょっと話が散らばってしまったな。まとめていこう。

 

「つまり、社会から切り離された個人としての視点を考えると、例え義務を果たさずとも無条件に生存と財産と自由は保証されねばならない。人は赤子の頃には働けないし、老人となれば動けないからだ」

 

一応これには自覚している問題があるんですけどね。人間の定義に赤子はともかく老人を含めなければいいのですよ。しかしこれは心理的に反感が強すぎるので言わないでおく。合理性という言葉を使うなら、こういう部分まで加味しての合理性だからね。

 

「しかし、全体を見るとそれらを保証するための対価をどこかに求めねばならない。もちろん、各個人が報酬を求めずに己の役割を果たすなんていうことも考えられるが、これはちょっと無理があるだろう。何もしない人間を動かす圧力が、どうしても求められる。さもなくば社会は崩壊してしまう」

 

面倒なんだよな、ここらへんは。心理学的研究とかを積み重ねた上で判断すべきことを私の思想だけで無理矢理に構築しているから多分後で色々と批判されるだろう。それは健全で、とてもいいことなのだが。

 

「というわけで、古帝国法はその地域に根ざした統治機構の存在を前提とした、それだけでは不完全なものだ、ということになる。完全に古帝国法と独立した、人々の信任による法を作る可能性は示せたけど、まだ粗が多い。……そろそろ時間かな?」

 

時計の鐘が鳴る。部屋の緊張していた空気が切れて、ざわめきがやってくる。いやぁ疲れた。なお府中学舎の学徒たちはこの後食事して夜の運動である。大変すぎるカリキュラムだよな。まあ、頑張ってほしい。



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播種

「……結構、大変そうだね」

 

私は廊下から死屍累々の部屋をこっそり覗いて言う。何人かが床で寝息を立てており、机の上には書きかけの書類がある。しかし聞こえる声には疲れは見えず、ちゃんと建設的な議論ができていることがわかる。

 

「まあ、これだけの案件をまだ若い奴らに与えるというのは少し無茶すぎたかもしれんがな」

 

私の隣でそう言うのは外征将軍。今回の机上演習のシナリオ作成者だ。なお今回のシナリオには明確な敵や悪者はいない。あるのはちょっとした確執とか勢力の不均衡とか怠慢とかだ。

 

「複数の課題の矛盾を無理やり合わせていこうとするから崩壊するんですよ」

 

ため息を吐く私。私の講義のせいで理想主義者が増えてしまったかな。まあ、どちらにしろこういう挫折と言うか振り返りのタイミングがあることは素晴らしい。ちなみに学徒の行動を判断して結果を編んでいる事務経験者曰く、下準備と根回しが足りないから色々なことが裏目に出るようにしたとのこと。

 

「評価は明日にして、彼らをとっとと学徒寓に戻すべきかもな」

 

「いや、ここはもう少し待ちましょう。なにかいい案が出来たようですし」

 

実際のところ、内容自体にはあまり期待をしていない。優秀な若手と言っても、普通は色々と足りていないところがあるものなのだ。ケト?今更気がついたけれども、あれは色々とおかしい。ハルツさんに仕込まれた思想と知識、あと私の邪悪さの組み合わせで恐ろしい政治家にして官僚になってしまった。

 

「……そうか」

 

「無茶の限界を知ってもらいたい、というのもありますけどね」

 

体力でゴリ押しできるのは若者の特権だ。私にはもう無理だ。なので裏で色々と準備をして、専門知識で殴るのが良い。なぜケトが若い癖にそれができているんですかね?私をもう一人作る方法は多少は見当がつくけど、ケトをもう一人作るのは図書庫の城邦の総力を挙げてできるか怪しい気がする。

 

「それで、私はあまり情勢を知れていないのですが、どうなっているのですか?」

 

「仮想的に作った二つの派閥の対立が激化している。学徒たちにはそれぞれ秘密の指令を与えておいたからな」

 

「ああ、前話したやつを本当にやったのですか……」

 

学徒はそれぞれ図書庫の城邦の中の組織を代表して動いている。そして、その中には組織の利益や万人の幸福のため以外に動く人がいる。当然だ。人間はそこまで強くはない。なので比較的悪巧みのできる、いわば我々と同じ匂いをする学徒にこっそり私腹を肥やすために動くように言ってある、というわけだ。

 

「しかし、対話も難しいとは」

 

「普通は敵対している派閥同士のトップが定期的に連絡を取り合うなんてことはないのですよ」

 

「俺は兄とそう頻繁に会っているわけではないが」

 

そう、この外征将軍は図書庫の城邦の野党というか第二勢力のトップで、今の頭領、つまりは与党というか第一勢力のトップの弟なのだ。人間関係が狭いよ。

 

「ああ、頭領と言えば娘さんは元気です?」

 

「文字が読めるようになった、と兄がはしゃいでいたな」

 

ええと、今三歳ぐらい?年齢の概念が薄いのでなんとも言えないが、多分発達の速度としては問題ないよな。

 

「それはそれは、かわいい頃でしょう」

 

「最近は『総合技術報告』を見るのがお気に入りらしい」

 

「はい?」

 

こういう場所でまず出てこないような聞き慣れた名前が出てきたので思わず変な声を出してしまう。

 

「毎晩娘に読み聞かせているそうだ」

 

「父親が……頭領が?」

 

「ああ」

 

正気か?子供に専門書を読み聞かせる親なんて私の両親ぐらいだと思っていたのだが。

 

「それは……今度から報知紙の広告に『子供への寝物語に最適』と書いておく方が良いかな」

 

「頭領も愛用、とでもつけておけ」

 

危ない会話をしながら私たちは笑う。

 

「確かにあれは公開されている本ですからいいですけど、もっと他に読ませるといいものがあるでしょうに……」

 

「聖典はもう読ませ終わったそうだ」

 

「良い父親すぎないか?」

 

あの人相当な激務を抱えているはずだろう?なにせ図書庫の城邦におこる厄介事の最終判断をしなければならないのだ。たとえそれが信頼できる部下からの提案をただ受け入れるだけというのならともかく、ちゃんと予備案を作らせたり、第三者を呼んだりとしていることは知っている。

 

そういえば最近はケトが技術方面の非公式アドバイザーをしているらしい。なぜって私に毎晩変な技術的な質問をしてくるからだよ。浄水設備とかあまり知識がないから処理実験するべきとかいうことを私が言うと、ケトがいい感じに翻訳してくれるらしい。ありがたい。

 

「……多分、彼女か彼女の弟の世代で、色々なことが実るだろう」

 

「私たちが蒔いた種が、ですか」

 

「今も蒔いている、な。今ここで学んでいる学徒は、その世代を支える重鎮となるだろう人たちだ」

 

「……どうしても、私はその視点を落としがちなんですけれどもね」

 

たまに教育を目的として考えてしまう。それは手段に過ぎないのだ。確かに学んだり調べたりすることは楽しいが、その先に何をするかということが本来は重要なのだ。私の精神は、多分博士課程時代で止まってしまっている。とはいえ博士課程のころは学部生で止まっていたからな。成長かもしれない。



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公衆衛生

思想の強い講義、今日のテーマは公衆衛生。統計と医学と政治とが関わる面倒な分野である。なおその道の専門家がここに来ているので正直無茶苦茶怖い。図書庫の城邦有数の若き算学師と、図書庫の城邦の医学師の中でも有数の政治力を持つ人と、あと頭領。なんであなたが来ているんですか。暇なんですか?

 

「今日は人が多いけど、いつも通りやっていく。最近になって行われた出生と死亡の情報の集約は、色々と面白いことを示している」

 

このデータを黒板に描くのはちょっと面倒なので指を鳴らすと、アシスタントのケトが電気を消して投影機をつけてくれる。なおケトが内通者だということは結構すぐ知られるようになったが、そのせいで裏切り者扱いはされていないらしい。よかった。かわりに被害者の会の名誉会員らしい。

 

というかこの被害者の会がある種の派閥になっているそうで。確かにあらゆる分野に関係者がいる若手中心の集団、歴史的に面白い影響をもたらしそうだ。しかし私がその指導者か。こういうのって政府中枢の暗殺計画立てるといいんだっけ?日本史は科学技術史に関わるところしかやってないから知識が偏りすぎているんだよな。

 

「地域によって、かなり乳児死亡率が異なる。個人的には、この理由は食事に思える。社会階層で分けてもそうだ」

 

このデータ自体が政治的な色々の問題を引き起こしかねない代物なのは承知の上だが、ここにいるのはその事実自体に文句を言うだけで終わる人ではない。根拠を補強し、成功事例を調査し、利害関係を調整し、代案を提示し、長期的な予算を用意し、知識を普及させ、測定を続けていくように、教えている。そうでなければ、ただ問題を指摘するだけの怠惰な人間になってしまう。

 

もちろん、それを悪だと言えるほど私は人間の強さを肯定できない。しかし、ここにいるならばそれぐらいは最低限やってもらわねば困る。愚痴なら一人で呟いてくれ。変える方法は教える。道筋も整備しよう。しかし、そこを進むのはお前なんだよ。お前しかいないんだよ。私はやった。お前もやれ。まあ、こういう思想の強い講義なのである。

 

「大きく死因を分類してみよう。一つは老化による虚弱に起因するもの。これは多少は抑えられるだろうが、時間がかかるだろうしすぐに成果は出ないだろう。次は流行病によるもの。これについては予め防げる可能性がある。興味深い研究が最近生まれた」

 

病原菌のようなものの発見が最近「総合技術報告」に掲載された。個人的には怪しい気もしているが、ある特殊な色素で染まる微小生物が血咳病患者の痰からしか見出されないというもの。主題は色素の作成方法だったが、まあこれはいい。藍色の色素の熱分解を含む過程で得られるというからアニリンっぽい何かなのかもしれないな。

 

使える色素を片っ端から調べたというから面白い。もとの菌は好気培養できたからそう困らなかったらしいが。これについてはスライドで説明する。新しい技術を学ぶのも重要だからね。なおこの研究を行った薬学師にちょっとアイデアを出したのは私である。

 

「それと労働によるもの。こういうものの一つに砂病みというものがある。これは肺から得られる特有の音で弁別されるものだ。こういった病は対策を行えば減らせるだろう。実際、この二つの鉱山の例を見ればいい」

 

塵肺の発生者数の違いだ。一つは高湿の地域のもの。もう一つは乾燥した地域のもの。特殊な捕獲装置で得られた空気中の微粒子の密度推定。

 

「ただ、こういうものをどこまで減らすかは難しい。君たちが自覚せねばならないのは、対策を取らないということは誰かの死を認めるということだ。しかし、対策をすればその分他のことに使えたかもしれない費用が減る。例えば、飢えた妊婦が無事に子を産めるよう支援する事ができなくなるわけだ」

 

面倒な二者択一ではあるが、これは単純化した例だ。実際には救いやすいが稀な例もあるし、一般的すぎるがゆえに気に留められない死もある。ただ、統計ではどちらも同じ1として扱われる。そう言ったところで統計にも限界があるのは忘れてないけどさ。

 

「私が個人的に指標としたいのは出産による母親の死亡率だ。この程度を目安として、これを超えるようなら危険な労働とみなすべきかもしれない」

 

なおこの方針で労働基準が定められた場合、私の勝ちになる。なぜなら死亡率を減らすいくつかの方法を知っているからだ。産科鉗子であったり、消毒であったり、あるいは栄養学であったり。ここらへんはまだ発達途上だが、少しづつ基礎データの蓄積は始まっている。

 

「人の死は、様々な意味で悲惨だ。それは本人にも、周囲の人にも苦しみをもたらす。労働力が減少し、知識が失われる。つまり、これは多くの人にとっての害であるが、この対応のためには大きな力が要る」

 

だから、公衆衛生は政治なんだよ。政治とは、率直に言ってしまえば誰を殺すかを決めることだ。政治の選択で、誰が死ぬかは統計的な数字として変化する。そして、数字の裏には人間がいる。

 

「この分野を机上演習で扱うことがあるかもしれない。統計の分析手法については、最低限は理解しておくように」

 

今までどうしようもないと思っていた死が、見殺しにされた死となるのだ。それだけで不満は生まれる。しかし、これはより大きな幸福のための避けられない不幸なんだ、と私は自分に言い聞かせる。それが本当かどうかは、これから証明されていくだろう。



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解読

「皆さん、夜の遅くまでご苦労さま」

 

そう言って私が向かうのは「刮目」の若手たち。事前にツィラさんが選抜している諜報とかの担当者。直接国家……というか図書庫の城邦に忠誠を誓う、というよりはもう少し自由な立ち位置になるのかな。この世界に私が知るようなちゃんとした国家の概念がないので難しい。

 

「それじゃあ、今日は暗号の話をしよう」

 

今夜やるのはそういう相手への秘密講義である。

 

「やりたい事は、ある情報を相手に伝えることだ。情報は数字に置き換えることができる、というのは通信技術の話でやったと思う」

 

ここらへんは「総合技術報告」編集所長と共同で研究をしている人がやっていた。例えば東方通商語に使われる30文字を1から30までの数字に置き換えて、それを連ねた数列を作れば文章を数字にできる。二進数とかと組み合わせればもっと扱いやすくなる。

 

「ここで秘密を守るためにはいくつかの方法がある。まず、一般的なのは秘密の方法で通信することだ。例えば秘密を書いた手紙をこっそりと服の裏にでも縫い付けて、何食わぬ顔で旅をすればいい。はい、このやり方の問題は?」

 

「その旅人が途中で襲われてしまったら困る」

 

学徒の一人が言う。個人的になかなか筋の良いと思っている人なので、裏方である「刮目」の活動にあまり関与してほしくはないがあまり私がそういうことを言うべきじゃないしな。

 

「そう。それに例えば争っている二つの地域を行き来するのは目立つ。代替案はある?」

 

「……例えば、報知紙はどうでしょう。特定の符牒を用意しておいて、何かあったらその符牒を入れる、としておくのです」

 

「いいね。もちろんその符牒が間違って使われることもあるだろうし、報知紙を刷る人たちに繋がりを作る必要がある。しかし、方針としては面白い。誰が持っていてもおかしくないものを使う、というのはよさそうだ」

 

こういう歴史は基本的にあまり表に出ないし、出たとしても既に古臭くなっている物が多い。私が技術発展を一部加速させたせいで知っている科学技術史とか歴史の知識が時折使えないのでここらへんは思考力勝負になってくる。あまり勝てる気がしない。

 

「そういうふうに堂々と流すのであれば、相手には意味の伝わらないものとして出してもいい。例えば……そうだね」

 

私は事前に紙にメモしておいた五桁の数字を黒板に書いていく。

 

「例えば報知紙の広告部分にこういう数字が書かれていた。怪しいと思うかい?」

 

頷く学徒の皆さん。

 

「なら、こういう文章なら?」

 

私はちょっとした文章を書いていく。内容としては西の方の海で青い魚が多く取れているので担当者に連絡するように、というもの。まあ全く意味はない文章なのだが。

 

「先程のものに比べれば長いですが、あまり気にされないかと思います」

 

「けれども、この文章には上の数字が隠されている」

 

返事をしてくれた学徒に私は言って、文章の下に数字を書いていく。単語ごとの文字数だ。

 

「これの偶数を0、奇数を1と置いて……あとはこれを普通の十の冪乗の形に変換すればいい。できる?」

 

紙を取り出して計算する人もいるけど、暗算でやろうとしている人もいる。ちょっとそれは難しいぞ?私だってすぐにはできない。

 

「……出た?」

 

全員が頷いたので、次に進もう。

 

「さて、この方法の問題は?」

 

「送りたい内容に比べて暗号の文章が長くなる」

 

「どうしても文章が不自然になることがあるかも」

 

「何度も繰り返せば不自然だと思われるかもしれない。実際の内容を使うべきだ」

 

思ったよりすぐに案が出せるな。最初の頃はもう少し内気な学徒も多かった気がするが、成長だろうか?

 

「なるほど。では、逆にこれを暗号だと見破り、解読するためにはどうすればいい?」

 

少し部屋が静かになる。まだ難しいか。私は答えを知っているので簡単に見えるけど、実際この手の思考に慣れていないと難しいよね。

 

「……例えば、報知紙で意味の通らない内容や不自然な言葉遣いがあった時にそれを記録していくのはどうでしょう。それらがどこかに集中していたり、偏っていたりしたら、何か暗号になっているんじゃないかと気がつけないでしょうか」

 

「そうだね。けれども、十分準備すればそれは解決できそうだ」

 

「暗号を作った人を捕まえて作り方を聞けばいいのでは?」

 

「正解」

 

私は答えを言った人に二本の指を向ける。

 

「この手の暗号は、同じ規則で作られていたらその規則を知っている人、例えば尋問によって得られた手順を知っている相手なら内容が全てわかってしまうことだ」

 

「……それは、当然じゃないんですか?」

 

「違う。君たちは、常に悪いことを想定せねばならない。敵は暗号の作り方を知っている。敵は君たちを見張っている。敵は君たちが書いたものを全て集めている。敵は君たちに嘘の情報を伝えるようにと脅すことができる。それでもなお、暗号は有効でなければならない」

 

もちろん、完全には不可能だ。というかこの哲学がコンピュータの発展によって実用的な公開鍵暗号方式ができたとか、セキュリティ上秘密を無くすべきだという歴史的背景に依存しているのはある。とはいえ暗号はできるだけこれらを満たすように設計されねばならない。

 

「無茶だと思うだろう?とはいえ、色々と手はある。暗号の作り方を知っているなら、知られても特別な『鍵』がなければ解けないようにすればいい。見張られているなら、自然に送ることができるようにすればいい。集められているなら、毎回『鍵』を交換すればいい。脅されているなら、それを伝えられるようにすればいい」

 

アウグスト・ケルクホフス、だっけ。練られた思想を持ち込めるのは私のずるいところだな。

 

「というわけで、あらゆる事態を想定し、それに合わせて自らを鍛える必要がある。それじゃ、軽く演習をやって今日は終わろうか」

 

私は学徒たちに印刷した紙を渡す。これはもとの版も燃やしておいた機密文書だ。内容自体はただのパズルなんだけど、頭の使い方というものも大切だからね。



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分析

「農業についてはこの本を読んで下さい。以上」

 

私はハルツさんの本を掲げる。……教室の反応はあまり良くない。笑ってほしかったんだがな。

 

「冗談ですよ」

 

そういうと笑い声が出てきた。よし。ジョークのセンスの問題ではなかったようだ。

 

「実際の所、農業はほとんど注目されてこなかった分野になる。最も多くの人が手にしている職であり、あらゆる地域において不可欠なものにもかかわらず、ね」

 

一応統治学の一分野として存在していなくはないが、収穫量の計算とか植物ごとの水はけへの注意とか地域によって適した栽培方法とか、その程度でしかない。ま、私の世界でもアルブレヒト・ダニエル・テーアとかユストゥス・フォン・リービッヒが出るまで結構時間かかったからな。まあ毎度のことながら中国はなんか数百年バグっているが。

 

「具体的な方法については、今後調べていくことが必要になると思う。というわけで、私が話せるのは一般的な理論になるよ」

 

一応農業史はやったことあるけど遺伝子組換えとかのあたりの話とユストゥス・フォン・リービッヒの研究とかだからな。あまり参考にはならないし、参考にしてほしくはない。

 

「まずは自然学の話から。同一の種として扱われる植物でも、一つ一つの株には違いがある。背が高いもの。あるいは低いもの。これには複数の原因が考えられるだろうね。例えば気候や雨量によって高さやその散らばりが変化するかもしれない。代表となる値とそこからの散らばりの程度の計算方法……は、まだやってなかったっけ?」

 

確か本にはなってたはずだけどあれかなり専門的内容だったからな。見渡したところ少ないのでしていないのだろう。

 

「じゃあこれは今度やろう。かなり重要な考え方なので知っておいてね」

 

後で確認して正規分布の式の導出をしておかないと。一応、位取り表記法は全員加減乗除レベルで使いこなせるので問題ないか。追いつけなかったら自学自習してもらおう。というかここに来ている人間はそれができるから教える側としては楽でいいね。怠慢である。

 

「なので、作物は様々な方法で調べられることが望ましいわけ。どれぐらいの間隔で植えた?水はどれぐらい湿らせた?あ、湿り気については煆す*1ことで水分を飛ばしてその重さをもとの重さから引けば水の量を測定できるよ。何日ぐらいで、どこまで成長した?丈はどれぐらい?一株から得られる収穫物の量は?まあ、別にこれは農業やる人が自分でやる必要は薄いけど」

 

「では、誰が?」

 

「司士や司女」

 

嫌そうな顔をする衙堂関係者と頷くそれ以外の皆様。あ、これ仕事内容の共有ができていないやつだ。

 

「そこの君。司士や司女がこういう事をする際の欠点は?」

 

「ただでさえやる事が多いんです。これ以上増やすんですか?」

 

「農作物の収穫量が増えれば司士や司女は多少は増やせる。あとは専門の人を作って、仕事自体を効率化していけばまあ、そこまで大変にはならないはずだけど」

 

私の言葉に首を捻る学徒。ええと、つまりは私の説明不足だな。ちょっと落ち着こう。

 

「んー、何が知りたい?」

 

「収穫物の量と司士や司女の人数の話です」

 

「ああ、なるほど。なら説明できるよ」

 

私は線分を黒板に描く。こういう割合とかの概念を最初学徒は受け入れられなかったがしばらくしたら慣れてくれた。まだ私の脳には学習指導要領ベースのカリキュラムの記憶が残っているので本来小学5年生でやるような内容を理解できていない人を見ると認識がバグるのだ。ここでおかしいのは自分である。

 

「一つの地域が作ることの農作物をこれ全体とするよ。税としての回収分も含めて、例えば二百人分の麦を作れるとする。あ、ここで考えるのは麦だけだとするよ。人間は麦しか作らないし、麦を食べれば生きていける。よろしい?」

 

頷く学徒たち。こういうモデル化についても理解できるようになってきているのはいいことだ。こういう概念は思考を広げてくれるのだ。正直私は影響力を過小評価してこの世界に色々な考え方をばらまいてしまったかもしれない。不可抗力にならない?責任取る必要がある?とはいえ責任のとり方なんてちゃんとした教育システムを整えることぐらいだしそれは現在進行形でやっている。

 

「で、地域で農業を営んでいる人が八十人とする。このとき、百二十人分の食料が余るのだ。実際は子供がいたり老人がいたり、あるいは鍛冶とかで農業をしていない人もいるわけだから、百二十人分が地域で消費されるわけだ。そして、八十人分が外に出ていく。まあ、基本的には税だね」

 

この世界の交易システムは通貨だが、農村地域では通貨が流通していない。ではどうするかというと衙堂が買い取りもやっているのだ。ここらへんは地域差があるので専門の人の講義に任せよう。

 

「この税を司士や司女が食べるわけだ。では、もしここで仮に八十人で三百人分、今より半分だけ多く生産できるとしたら?この数字は実はそこまで無茶なものではない、はず」

 

数直線を伸ばして、新しく生まれた分をぐるぐると囲む。

 

「例えば農業に従事する人が減るかもしれない。税の割合が高くなるかもしれない。いずれにせよ、農業以外を生業とする人が増える。その中には司士や司女もいる」

 

小作農は都市へ。そして都市の人口が増える。これが起こると面倒事も誘発されるので、農業生産の増加は自覚的になされるべきだというのは私の持論。

 

「……わかりました」

 

「よっし」

 

謎を解けたようでなによりだ。私のいた世界と常識とか基礎教養とかが大きく違うので、そこで躓かれるともったいないからね。

*1
鉱石や金属などの無機物の加熱に用いられる薬学・冶金術用語。



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分散

「統計の方法論というよりも、その裏にある理論について今日はやっていくよ」

 

黒板に数学的な記号を書いていく。これは私の知識とこっちで使われていた書き方とを組み合わせたものだ。*1

 

「集めた数字に番号をつけていこう。$x_1$ 、$x_2$ 、そして $x_n$ まで、全部で $n$ 個の調査結果があったとするよ」

 

本当は集合論とかをさくっとやるべきなのかもしれないが、なんとなくで理解してもらっている。ここらへんの数学を厳密にやるためにはそういう才能を持った人間が必要なので後世に任せよう。下手すれば数百年かかるけれども。

 

「とはいえ、これだけの数字があると扱うのが大変だ。例えば収穫量を知りたいのに、各地の数字だけを並べられて言われても全体がどれだけかわからない。今回の場合、調査結果を代表したり、特徴を表すような数字をここから作り出したいわけだ」

 

厳密には母集団全体を対象としたものと標本を抽出したものとでは理論が変わってくるのだが、ここらへんも後世に投げる。

 

「一番手っ取り早いのは、全部を足して個数で割ること。ここで算学的な記号を導入するよ。こういうのがないとやっていけないからね」

 

$$\begin{eqnarray}\bar{x} &=& \frac{x_1 + x_2 + \cdots + x_n}{n}\\&=& \frac{1}{n}\sum_{i=1}^{n} x_i\end{eqnarray}$$

 

「まだやっていることはそう難しくないよ。1番目から $n$ 番目まで全部の調査結果を足して、個数で割っただけ。例えば調査結果が3、4、5、8とあればこれを全部足して20、更に個数の4で割って5になる。この4つの数字を代表する数字が5、と言えるわけだ。これを平均と呼ぶよ」

 

平均の概念は幾何学にあったのでそこから用語を引っ張ってきた。

 

「はい先生、質問です」

 

手を挙げる学徒。

 

「どうぞ」

 

「こういうふうにまとめるということは、それだけ情報を削ぎ落としてしまうということですよね?」

 

「もちろん。それに、この数字がどれぐらいの意味があるかは場合によって変化する。例えば10人の人がいて、9人が年に銀片150を、1人が銀片2000を得ているとする」

 

なお目安として一日につき銀片一というのはかなり手堅い仕事だと言える。日雇いとかならもうちょっと少なくなるね。

 

「これを足して10で割ると335。さて、年に300枚を超える銀片を手にしている人はどれぐらいいる?」

 

「……一人」

 

部屋の中が少しざわついた後、舐めてるんですかみたいな顔をして言ってくれる人がいる。うん、簡単に見えるだろうね。実際はそうじゃないんだよ。

 

「問題を変えよう。ある人達の年間収入の平均が200枚だった。この中に400枚以上の銀片を得ている人はいる?」

 

「わからない」

 

「その通り。つまり、平均を使うときはその背後で切り捨てられた情報に注意する必要がある。では、仮にそう大きな偏りがない調査結果だったとしよう。平均より大きいものも小さいものも同じぐらいあって、ほとんどが平均値の近くにあった。極端に大きい数字も小さい数字もない。こういうことは、それなりにありそうだというのはわかる?」

 

頷く皆さん。よし。

 

「ではこういう時、他に欲しい情報はある?平均さえあればだいたいの調査結果が推測できそう?」

 

空気は微妙。うーん、実際のデータがないとやりにくいか。

 

「収穫量とかがわかりやすいかな」

 

私は雑なヒストグラムを描いていく。懐かしいな。私がこの世界に持ち込んだ最初期の知識。今まであったなんとなくの印象を図の形で表現したものだ。

 

「左と右、平均は同じだとしても右のほうが幅が広いのがわかる?」

 

縦に伸びる短冊状の長方形が横に並んで描くギザギザしたベルカーブ。左は5つ、右は9つの長方形を使っている。面積は同じぐらい……のはず。右の山の頂上の高さが左のほうの半分ぐらいだからいいはずだよね?

 

「で、この幅、あるいは平均からの散らばりの情報もあれば実はこの形状が特定できる。さきほど言った偏りのない調査結果というのは、ある算学的に導出できる特徴を持つのだ。これはまた今度やろう。かなり複雑な算学を使うので、各自予習と復習をしっかりすること」

 

そう言いながら、私はさくっと数式を黒板に書いていく。

 

$$\begin{eqnarray}\sigma^2 &=& \frac{(x_1 - \bar{x})^2 + (x_2 - \bar{x})^2 + \cdots + (x_n - \bar{x})}{n}\\&=& \frac{1}{n}\sum_{i=1}^{n} (x_i - \bar{x})^2\end{eqnarray}$$

 

「計算しているのはそれぞれの値が平均からどれだけ離れているかを二乗したものの平均。この式を使うと、散らばりを数字で表すことができる」

 

「これってなんで二乗しているんですか?平均との差が負になったら正にして、それを平均にしてはいけないのですか?」

 

なんでこれを一瞬見ただけでそこまで読めるんだよ。予習をちゃんとしたのかな?

 

「それでもいいけど、ここでわざわざこうしておくとこの後便利だから、とだけ言えばいい?」

 

「わかりました」

 

まあ私の知識も天下り的だからな。さて、久しぶりの数式の時間が始まる。

*1
以降、読者にとって馴染みのあるだろう表記に置き換えている。



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偏差

銀片は古帝国時代から使われる貨幣で、文字通り銀でできている。各地で私鋳されているが、重さと純度がある程度保証されていれば普通に流通ルートに乗せることができる。まあ、別にこれは本題ではない。これを親指で弾いて、手の甲で受け止める。

 

「……表。一歩進む」

 

そう言って、私は足を踏み出す。そしてまた、硬貨を投げる。多少歪んでいるので表と裏の確率は同様に確からしいとは言えないが、今回の議論では無視してどちらも確率 $\frac{1}{2}$ で出るものとする。

 

「……裏。立ち止まる」

 

そうしてそういう試行を20回。結果、私が進めたのは9歩。

 

「私たちが扱う問題のいくつかは、こういう種類のものだ。多くの影響する要因があって、それぞれが進めたり戻したり、あるいは止まらせたりと影響を与える。それを非常に単純化したものがこれだ」

 

今日のテーマは正規分布の導出、の前段階として正規分布の標準偏差の導出。予習をやるようには言ってあるけど多分あまり理解できていないと思うので私の説明聞いて復習して、で理解できるようになるかだな。実際は演習積まないとこの手のものは慣れないけれども。

 

「組み合わせの理論を前にやったように、20回銀片を放って表が9回出るというのは表裏全ての組み合わせ、すなわち2の20乗……百四万と八千五百七十六のうち、十六万と七千九百六十」

 

$$\begin{eqnarray}2^{20} &=& 1048576\\ \require{amsmath}\binom{20}{9} &=& 167960\end{eqnarray}$$

 

口で言うだけではわかりにくいからね。黒板にメモをしておく。

 

「さて、$n$ 回銀片を放った時の組み合わせ、$2^n$ 通りの分だけの『調査結果』を考えよう。表が出る回数の平均は $\frac{n}{2}$ 回。では、この値がどれだけ散らばっているかを計算するよ。$i$ 番目の調査結果の平均からの差……偏差は $(x_i - \bar{x})$ になる。これを二乗したやつの平均を考えてみる」

 

あ、ここでの「偏差」という言葉は造語です。とはいえ「偏り」を意味する単語の活用をちょっと変えたものだからそう難しくはないけどね。

 

$$\sigma^2 = \frac{1}{2^n} \sum_{i = 1}^{2^n} (x_i - \bar{x})^2$$

 

「これを計算できればいいわけだ。まず二乗が鬱陶しいので展開してしまおう」

 

$$\begin{eqnarray}\frac{1}{2^n} \sum_{i = 1}^{2^n} (x_i - \bar{x})^2 &=& \frac{1}{2^n} \sum_{i = 1}^{2^n} (x_i^2 - 2 x_i \bar{x} + \bar{x}^2)\\ &=& \frac{1}{2^n} \left( \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 - 2 \bar{x}\sum_{i = 1}^{2^n} x_i + 2^n \bar{x}^2 \right) \end{eqnarray}$$

 

「足していく最中で変わっていくのは $i$ のついている部分だけだから、それ以外は和の外に出せる。ここで注意したいのは二つ目の和。 $2^n$ 個ある調査結果を全部足しているわけだから、これを個数で割れば平均になるはず。逆に言えば、これは平均と個数の積なわけ」

 

$$\begin{eqnarray}\frac{1}{2^n} \left( \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 - 2 \bar{x}\sum_{i = 1}^{2^n} x_i + 2^n \bar{x}^2 \right) &=& \frac{1}{2^n} \left( \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 - 2 \bar{x} \cdot 2^n \bar{x} + 2^n \bar{x}^2 \right) \\&=& \frac{1}{2^n} \left( \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 - 2 \cdot 2^n \bar{x}^2+ 2^n \bar{x}^2 \right)\\ &=& \frac{1}{2^n} \left( \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 - 2^n \bar{x}^2 \right)\end{eqnarray}$$

 

「あとは展開してみる」

 

$$\begin{eqnarray}\sigma^2 &=& \frac{1}{2^n} \left( \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 - 2^n \bar{x}^2 \right)\\ &=& \frac{1}{2^n} \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 - \bar{x}^2 \end{eqnarray}$$

 

「よし、これで多少は扱いやすくなった。でも、ここの和のところが面倒そうなので少し発想を変えよう。一つ一つの調査結果ではなく、表が出た回数ごとにまとめていく。 $k$ 回表が出るのは $2^n$ 回の調査結果のうち $\require{amsmath}\binom{n}{k}$ 回。このとき、 $x_i$ は表が出た回数だから $k$ になるよね」

 

$$\begin{eqnarray}\frac{1}{2^n} \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 &=& \frac{1}{2^n} \sum_{k = 0}^{n} \binom{n}{k} k^2 \end{eqnarray}$$

 

「あとは組み合わせの定義を使うよ。$n$ 個のうち $k$ 個を選ぶ組み合わせの数は、全体を並び替える場合の数を選ばれなかった分と選ばれた分のそれぞれ並び替える場合の数で割った数になるから」

 

$$\begin{eqnarray}\frac{1}{2^n} \sum_{k = 0}^{n} \binom{n}{k} k^2 &=& \frac{1}{2^n} \sum_{k = 0}^{n} k^2 \frac{n!}{(n-k)!k!} \end{eqnarray}$$

 

「さて、ここから $k$ を消していこう。っと、その前に一つ」

 

$$\sum_{k=0}^{n} \binom{n}{k} = \sum_{k=0}^{n} \frac{n!}{(n-k)!k!} = 2^n$$

 

私は黒板の隅の方にメモとして式を書いておく。

 

「となるわけだから、これをちょっと書き換えて」

 

$$\sum_{k=0}^{n} \frac{(a+b)!}{a!b!} = 2^{(a+b)}$$

 

「になることは覚えておいて。この形に持っていく事ができれば、和の記号を式から消し去る事ができる」

 

$$\begin{eqnarray} \sum_{k = 0}^{n} k^2 \frac{n!}{(n-k)!k!} &=& \sum_{k = 0}^{n} k^2 \frac{n!}{(n-k)!\cdot k \cdot (k-1)!}\\ &=& \sum_{k = 0}^{n} k \frac{n!}{(n-k)!(k-1)!} \end{eqnarray}$$

 

「更に消せそうな $k$ が分母にない。けれども $k-1$ ならあるから $k$ を $k-1$ に変えてしまえばいい」

 

$$\begin{eqnarray} \sum_{k = 0}^{n} k \frac{n!}{(n-k)!(k-1)!} &=& \sum_{k = 0}^{n} ((k-1)+1) \frac{n!}{(n-k)!(k-1)!}\\ &=& \sum_{k = 0}^{n} (k-1) \frac{n!}{(n-k)!(k-1)!} + \sum_{k = 0}^{n} \frac{n!}{(n-k)!(k-1)!} \\ &=& \sum_{k = 0}^{n} \frac{(k-1) n!}{(n-k)!\cdot(k-1)\cdot(k-2)!} + \sum_{k = 0}^{n} \frac{n!}{(n-k)!(k-1)!}\\ &=& \sum_{k = 0}^{n} \frac{n!}{(n-k)!(k-2)!} + \sum_{k = 0}^{n} \frac{n!}{(n-k)!(k-1)!}\\ &=& \sum_{k = 0}^{n} \frac{n \cdot (n-1) \cdot (n-2)!}{(n-k)!(k-2)!} + \sum_{k = 0}^{n} \frac{n \cdot (n-1)!}{(n-k)!(k-1)!}\\ &=& n(n-1) \cdot 2^{n-2} + n \cdot 2^{n-1} \end{eqnarray}$$

 

「最後の方の変形はさっき書いたやつね、分子のやつの和が分母に来るように調整した。あとは $\bar{x} = \frac{n}{2}$ ということを思い出して、最初の式に入れていくよ」

 

$$\begin{eqnarray}\sigma^2 &=& \frac{1}{2^n} \sum_{i = 1}^{2^n} (x_i - \bar{x})^2\\ &=&\frac{1}{2^n} \sum_{i = 1}^{2^n} x_i^2 - \bar{x}^2\\ &=& \frac{1}{2^n} \sum_{k = 0}^{n} \binom{n}{k} k^2 - \bar{x}^2\\ &=& \frac{1}{2^n}( n(n-1) \cdot 2^{n-2} + n \cdot 2^{n-1}) - \left( \frac{n}{2} \right)^2\\ &=& \frac{1}{4}(n^2 - n) + \frac{1}{2} n - \frac{1}{4} n^2 \\ &=& \frac{n^2 - n + 2n - n^2}{4}\\ &=& \frac{n}{4} \end{eqnarray}$$

 

ここまで書いて教室の方を見る。ざっと見て半分ぐらいが追いつけているな。なんで半分が追いつけるんだよ。それなりに丁寧にやったとはいえ、正直驚きである。

 

「理解できないところは書き写すだけでもいいよ。色々と計算したら答えが綺麗になった、ぐらいのことがわかっていれば上々」

 

とはいえわかっている人もちょっと辛そうだな。少し休憩して、式を確認していく。多分間違いはないはず。

 

「これの平方根を取れば、どれだけ偏るかの目安が得られる。……語弊があるのは重々承知の上だけどね。例えば授業の最初にやった例だと、$\sigma$ は2.24ぐらい。つまり、8歩から12歩ぐらいになりそうだと予想できるわけ。もちろん外れることもあるよ」

 

手持ち無沙汰になったので、ひとまずコインを投げる。表。じゃあ、ちょっと一歩進んで次回予告をしてみますか。

 

「ではどれぐらい外れるのか?これは計算できる。かなり大変だし、紹介できるのはあらましだけだけど、答えだけは覚えておいて。平均から $\sigma$ 以内の偏差になるのは、百回に六十八回。賭けるには悪くない数字だね」

 

意外そうな顔をする人もいる。確かに、こういうのは定性的な評価をしないと想像とは違うことも多い。

 

「これは製品を作るのにも使えるよ。平均から $3 \sigma$ 以内の偏差にならないのは千に三つ。つまり、確認で弾く不良品をどれぐらいにするかから計算すれば、どれだけ正確に作るべきかを最初から考えられる。便利だね」

 

問題はこれを実装する段階にあるのだが、まあ今は理論で精一杯な学徒たちに休む時間をあげよう。次の授業では最後まで話を聞けている人が出るか怪しいところでもあるしね。



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正規分布

「さて、では前やったような複数の要因による変化がもたらされた値の分布について考えるよ。なので最終的にちゃんと答えが出ると信じてついてきて欲しい」

 

半分ぐらいの学生が嫌そうな顔をする。すまないね、これやらないと正規分布を導出できないのよ。

 

「まずは微小変化量……を考えると難しいので、微小比を考えるよ。考えたい比は $k$ と $k+1$ の時の比に相当するけど、 $n$ が十分大きい時にこれは連続量として捉えられ、 $x$ とそれに微小量 $\Delta x$ を足した値、 $x + \Delta x$に対応する」

 

二人脱落。まあここらへんは参考書に指定している本にも載っているからそっちを見てもらおう。あれはかなり整理されていないので難しいが。

 

「これは単純に二つの値の比を取ればいいので」

 

$$ k : k + 1 = x : x + \Delta x$$

 

「これを $\Delta x$ について解いて、$\Delta x = \frac{x}{k}$ を得る。$k$ が十分大きければ、つまりはそれだけ $n$ も大きければ $\Delta x$ は小さいとみなせるね」

 

そう言いながら私は式を書いていく。

 

$$\begin{eqnarray}\dfrac{\require{amsmath}\dbinom{n}{k+1}}{\dbinom{n}{k}} &=& \frac{\dfrac{n!}{(n-(k+1))!(k+1)!}}{\dfrac{n!}{(n-k)!k!}} \\ &=& \frac{(n-k)\cdot(n-k-1)!k!}{(n-k-1)!(k+1)\cdot k!}\\ &=& \frac{n-k}{k+1} \end{eqnarray}$$

 

「で、これをもとにしていくと」

 

$$\begin{eqnarray}\dfrac{1}{\dbinom{n}{k}}\cdot \dfrac{\dbinom{n}{k+1} - \dbinom{n}{k}}{1} &=& \dfrac{\dbinom{n}{k+1}}{\dbinom{n}{k}} - 1\\ &=& \frac{n-k}{k+1} - 1\\ &=& \frac{n-2k-1}{k+1}\end{eqnarray}$$

 

「になるんだけど、この最初の行の左辺は」

 

$$\frac{1}{f(x)} \cdot \frac{f(x+\Delta x) - f(x)}{\Delta x} = \frac{1}{f(x)} \cdot f'(x)$$

 

「と、形が似ているよね?」

 

私は少し語気を強めて笑顔で学徒たちの方を見る。これは「似ているので同じとみなすぞ」の意味である。ここらへんの説明を省略できるほどの仲になったのはありがたい。それまでにかなり時間をかけたが。

 

「さて、この $\frac{n-2k-1}{k+1}$ を平均値 $\mu$ と標準偏差 $\sigma$ で表したい。$\mu$ は $\frac{n}{2}$ で、$\sigma$ は $\frac{\sqrt{n}}{2}$ だった。覚えてない人は復習をしておこう。ここで、近似をしていこう。$n$ も $k$ も大きいので、1を足したり引いたりは無視できる。そして、今回は平均値の付近の $k$ だけを考えるとする」

 

様子を見るに二番目の近似の意味を掴めてなさそうだな。解説を入れよう。

 

「例えば平均値 $\mu$ から $10 \sigma$ 離れているということはまずない。だから、ここの分母の $k$ は $\frac{n}{2}$ と近似できる」

 

本当か?みたいな視線がこちらに飛んでくる。いや一応ちゃんとテイラー展開して評価してもいいんだけど今回はニュアンスだけ伝わればいいのよ。

 

「これをやると」

 

$$\begin{eqnarray}\dfrac{n-2k-1}{k+1} &\simeq& \dfrac{n-2k}{k} \\ &\simeq& \dfrac{n-2k}{\dfrac{n}{2}}\\ &=& \dfrac{\dfrac{n}{2}-k}{\dfrac{n}{4}}\\ &=& -\dfrac{k-\dfrac{n}{2}}{\left( \dfrac{\sqrt{n}}{2} \right)^2 }\\ &=& -\dfrac{k-\mu}{\sigma^2} \end{eqnarray}$$

 

「になる。あとは $k$ を $x$ に置き換えれば」

 

$$\frac{1}{f(x)} \cdot f'(x) = -\dfrac{x-\mu}{\sigma^2}$$

 

「が得られる」

 

よし、見慣れた形まで持ってこれた。

 

「質問です」

 

「どうぞ」

 

「平均値と標準偏差の使い分けが恣意的ではないですか?」

 

「厳密な証明ではないので……。実際は歪んだ硬貨で考えたり、最初から平均が0になるよう補正したりすると出せるということでいい?」

 

「……まあ、はい」

 

不満そう。たしかこの質問をしてくれた学徒はかなり算学ができる方だったよな。正直な所、こういう学徒のやる気を削ぐような授業になってしまっていることの反省はある。しかしそういうのを相手にするには私は知識も実力も足りていないんだよ。この辺で勘弁してくれ。

 

「これを解く時、$e^x$が微分しても形があまり変わらないことを思い出して $f(x)$ がこれに近い形なんじゃないかと予想する。例えば $f(x) = e^A$ とあって、$A$ が $x$ の関数だとすると」

 

$$\begin{eqnarray}\frac{1}{f(x)} \cdot f'(x) &=& \frac{1}{e^A} \cdot A'e^A \\ &=& A' \end{eqnarray}$$

 

「になるから、微分して $-\frac{x-\mu}{\sigma^2}$ になるやつが欲しい。まあ、まとめると適当な定数 $C$ を使えば」

 

$$f(x) = C e^{-\frac{(x-\mu)^2}{2\sigma^2}}$$

 

「になる。ここらへんが追いつかない人は微分と逆微分をちゃんとやろうね」

 

微分の逆として積分を定義して、それは今までやられていた面積を求める方法と同じなんだよ、というところまではなんとかなっている。微分積分学の基本定理、1670年ごろだっけな。まあここらへんは流石にないと物理学も何もできなくなるので仕方がない。

 

「単純化するために平均が0、標準偏差が1の場合を考えるよ。これは全体で1になるようになっていなければならないから」

 

$$\int_{-\infty}^{\infty} C e^{-\frac{x^2}{2}} dx = 1$$

 

「になるので、これを満たす $C$ が欲しい」

 

だいたい七割ぐらいが脱落か。まあ別にいい。ここらへんは手をいっぱい動かして微積分に慣れていないとちょっと引っかかるけど、学徒にはそんな時間はあまりないのだ。私のやっている数学なんかは比較的やらなくてもなんとかなる方ではある。

 

「これの計算は少し厄介なんだけど、まあざっくりと説明すると」

 

$$y = e^{-\frac{x^2}{2}}$$

 

「と置いて、これを $y$ 軸で回転させた時にできる回転体の体積を求めることで出せる」

 

ここについてはこの世界にもある幾何学で対応可能な領域だ。まあそれでも座標平面の理論とか広義積分とかを要求してくるので辛いけど。

 

「中心から紙を軸に巻いていくように展開している、みたいなふうに考えていけばいいかな。半径を $r$ とおくと、体積 $V$ は」

 

$$\begin{eqnarray} V &=& \int_{0}^{\infty} \tau r \cdot e^{-\frac{r^2}{2}} dr\\ &=& \tau \end{eqnarray}$$

 

「になる。そうじゃなくてさっきの回転体を回転軸と水平に切っていくことを考えると」

 

とか言っているうちにもう生き残りは少なくなってきている。まあ、ここまでついてこれる人は理解できるだろうから簡略化しちゃおうか。

 

$$V = \left( \int_{0}^{\infty} e^{-\frac{x^2}{2}} dx \right)^2 $$

 

「なので、求めたい値を $C$ で割ったやつの二乗になっている。つまりは」

 

$$\int_{-\infty}^{\infty} \frac{1}{\sqrt{\tau}} e^{-\frac{x^2}{2}} dx = 1$$

 

「になる。さて、最後の仕上げだ」

 

$$f(x) = \frac{1}{\sqrt{\tau}} e^{-\frac{x^2}{2}}$$

 

「これが欲しかった式。どう?」

 

生き残りは二人、か。なかなかのものだ。

 

「これを多項式として近似して逆微分すれば確率とかが出せるんだけど……これについては、やらないほうがいい?」

 

生存者がぶんぶんと首を縦に振る。時間もいいところだし、今日はこれぐらいで終わろうか。



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円周率

「……つかれた」

 

寝台に座る私の腿の上に頭を置いたケトが言う。彼ももういい大人なのだが、まあかなり昔からの関係なので別にいいし私だってやりたい。こんどさせろ。自分の年齢からは目を背けて生きていきたい。

 

「あの面倒な算学のやつのせい?」

 

「面倒って意識していたじゃないですか」

 

私は息を吐く。ま、ケトになら裏話をしてもいいか。

 

「……円周と半径の比、ってわかる?」

 

「6.28ぐらいでしたっけ?」

 

「そう。微分とか逆微分において、こういう数は結構出るのよ」

 

$\sin x$ の微分とかはまだできていないが、虚数の概念はあくまで概念上のものとはいえ示しておいたのでしばらくしたら指数関数と対数関数の関係式が出るだろう。

 

「幾何学……というか、工作では大抵直径との比のほうが重要では?」

 

「まあね、なのでここでちょっと修正を入れた。算学はあまり俗世に縛られない方がいい」

 

$\tau$ 。純粋に数学的に見れば半径と円周の比を考えたほうが色々とやりやすくはなる。

 

「あとはまあ、正確な比を求める努力の誘発とでも言うかな……そういうのもしたかった」

 

ケトは不思議そうに私に目線を向ける。

 

「ええと……その比って、多分5桁か6桁ぐらいしか知られていないよね」

 

「確か。それでもかなり複雑な計算が必要だったはずですが」

 

「私は100桁覚えている」

 

「……何の意味があるんですか?そしてそれはどうやって計算したんですか?」

 

「ええと、ちょっと待って」

 

頭の中で過去に見た年表を思い出す。$4 \arctan \frac{1}{5} - \arctan \frac{1}{239} = \frac{\pi}{4}$ というマチンの公式あたりでそれぐらいの桁数が出たっけ?ウィリアム・ジョーンズが円周率を $\pi$ と置いたのが同じぐらいだったか。

 

「前にやった関数を多項式に置き換える方法を覚えている?」

 

「微分したものと、それをさらに微分したものと、それをさらに……としたものとが一致するように係数を定める、でしたっけ」

 

「そう。それを応用して、比を出すような式を作る。そうすれば幾何学的な方法を使わなくてもいい」

 

「図形的なはずの比を計算で求められるのは変な気もしますが……で、何の役に立つんですか?」

 

「特に意味はない」

 

実際私が覚えたのも円周率暗唱できたら賢そうだったから以上の理由はない。なのでちょっと面倒な過去ではある。

 

「ですよね」

 

「ただまあ、計算力を誇示するためとかかな。電気で動く精密な装置で計算させて人が一生かけても唱えられないほどの桁数を出せた」

 

「愚かなんですか?」

 

「あまりそういう言い方は良くないよ」

 

私はケトの頭をぺたんと叩く。髪が柔らかいんだよな。

 

「……すみません」

 

「まあ、詞を作るようなものだよ。詞を作ることに楽しいぐらいしか意味がないとしても、それは愚かな行為ではないでしょ?」

 

「いえそもそも人間は愚かでは……」

 

おっと私の隠していた危険思想がうつっていないか?

 

「ともかく、そういう算学についての考え方みたいなものを持っておくと後々便利なんだよ」

 

実際私がそうだった。理系上がりで定量的アプローチに慣れていたのでそっち方面でデータを分析するだけで先行研究を轢き潰せたりした。やはりデータは正しいのだよ。まあ経済史のあたりでその分野の専門家から取った手法があまり適切じゃないよと突っ込まれた時には背筋が冷えたが。

 

「……わかりました。逆に言えば、もうそれぐらいしか伝えることがないんですか?」

 

「いや、あるにはあるんだけどそれは別に私がやらなくてもいいかなって」

 

やっていない事で、私の知識のなかにあるものはそれなりにある。まあでもそれらは必須というわけではない。特に人文科学系はその世界や文化での発展があるわけだし、危険思想でなければ別に止める必要もないだろう。

 

「……なるほど。それでも聞かれたら助言はするんでしょう?」

 

「それぐらいはね。逆に言えば、私は多分もう答えそのものを教えることはない」

 

「いいんですか?」

 

「何が?」

 

「……そういう事をして、例えば自分に救えないものができたとして、それで納得できますか?」

 

「何やったって後悔するんだから、別に何をしてもいいんだよ」

 

「……そう、ですかね?」

 

「私はそう思う」

 

「なら、いいです。僕も好きなようにしますよ」

 

「一応、他の人に対してなにかするならそれなりに同意を取るようにはしようね」

 

「……はい」

 

コミュニケーションの欠如による回避できた衝突によって生まれる損とか、純粋に無駄だからね。

 

「あと残すは……農業、医学、統治、教育かな」

 

「どれも時間がかかるやつ、ですね」

 

「一応最低限の下地は作っておいたけど……」

 

「まだ不安定に過ぎます。キイさんや僕がいないと止まったり崩壊したりするでしょうね」

 

「わかったよ」

 

できるだけいつ私がいなくなっても引き継げるようにはしているが、それはそれとして仕事を投げ出すつもりはない。どうせ何やったっていいなら、私が満足できることをしたいものだ。



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第27章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。ここで解説されなくとも、将来的に物語の中で説明されることがあるかもしれません。全話にネタを仕込んでいる作者のネタのストック切れを察している読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


自己紹介

本がない状態で手探りでOJTするのにも限界があるだろう。

OJTはOn the Job Trainingの略。まともな教育能力を持つ人間を揃えられない組織でも新人を適当に現場に突っ込んでおけば使い物になると主張するコストを無視した愚か者がしばしば使う言葉。適切に用いれば先輩からの素早いフィードバックを生かした教育環境を構築できるが、これができる組織は正直なところあまりない。

 

そうして、私が理不尽に怒るわけだ。なぜ聞かなかったのだ?

グレゴリー・ベイトソンの提唱した概念である「ダブルバインド」がモデル。彼は矛盾した命令を押し付けられた状態の人間が統合失調症になるという仮説を立てたが、これは結構怪しいとされている。

 

孤立感を強めるだけに終わってしまう。

「カルト」と呼ばれるような団体の洗脳方法の一つにも使われる手段。あるいは読者の少なくない割合が学生時代に感じたであろうもの。

 

「それに入る時に渡した紙と紙挟、それに自分の筆記具は持っているよな?」

モデルはクリップボード。発明は19世紀末から20世紀初頭。

 

ホルムアルデヒドの合成はともかく尿素かフェノールあたりが欲しいのでそこがちょっと問題。

尿素とホルムアルデヒドからは尿素樹脂が、フェノールとホルムアルデヒドからはフェノール樹脂が作られる。どちらも木材用接着剤として利用されることがある。

 

典型

数個……多くとも十数個の典型的例を想定している、と私は考えている。

実際のところ組み合わせで膨大になったり、あるいは単純な二分化だったりとここらへんは結構怪しいものがある。ビッグファイブモデルはまあ統計的にはそれなりなんじゃないかな……詳しく知らないけど。

 

私はこれが結構難しかったので小学校時代に死んでいました。

自閉症スペクトラムの症状の一つとして非言語コミュニケーションの困難が挙げられる。

 

権利

正直こういう閉鎖環境で色々教えるのはキリスト教とか共産主義の思想に染まる的な事を思い出してよくない。

札幌農学校とか全日本学生自治会総連合とか。

 

エチカとかのあたりをちゃんと読んだことはないが、まあ似たようなことはできる、はず。

バールーフ・デ・スピノザによる「Ethica, ordine geometrico demonstrata(倫理学(エチカ)──幾何学的秩序での証明)」では公理から定理を導き、その定理をもとに新しい定理を導くといったユークリッド式の方法で倫理学が扱われている。

 

「人間、とは何でしょうか?」

フィクションではあるが、ジョアン・ローリングがJ・K・ローリングの筆名でニュート・スキャマンダーによるものとして書いた「幻の動物とその生息地(Fantastic Beasts and Where to Find Them)」では、「存在(being)」の定義を「魔法社会の法律を理解するに足る知性を持ち、立法に関わる責任の一端を担うことのできる生物(any creature that has sufficient intelligence to understand the laws of the magical community and to bear part of the responsibility in shaping those laws)」としていた。個人的に気に入っているが、あの作品内の魔法界人たちにそれだけの知性と能力があったっけ?

 

播種

年齢の概念が薄いのでなんとも言えないが、多分発達の速度としては問題ないよな。

問題ありませんが、この年齢で図書庫の城邦の先端技術が掲載された本を読んでもらっているのは異常でいいと思います。

 

公衆衛生

こういうのって政府中枢の暗殺計画立てるといいんだっけ?

吉田松陰が元ネタ。

 

個人的には、この理由は食事に思える。

医療技術の発展よりも、栄養状態の改善のほうが死亡率などに大きな影響を与えることが示唆されている。詳細は 逢見憲一. わが国の乳児死亡率低下に医療技術が果たした役割について. 公衆衛生研究. 1996, vol. 45, no. 3, p. 292-303. およびその後続研究である 西田茂樹. 第二次世界大戦以前のわが国における人口動態統計 作表にみる視座の変遷. 公衆衛生研究. 1996, vol. 51, no. 6, p. 452-460. や 逢見憲一. わが国の平均寿命延長の年齢構造と医療・公衆衛生の役割 ─第4回から第22回生命表より─. 日本健康学会誌. 2020, vol. 86, no. 2, p. 47-64. を参照のこと。

 

藍色の色素の熱分解を含む過程で得られるというからアニリンっぽい何かなのかもしれないな。

モデルはオットー・パウル・ウンフェルドルベンによるインディゴからのアニリンの生成とパウル・エールリヒによるアニリン色素による染色。

 

一般的すぎるがゆえに気に留められない死もある。

火力発電所の排気による喘息を原因とする寿命短縮は原子力発電所による影響とくらべて大きい、とかね。

 

解読

まず、一般的なのは秘密の方法で通信することだ。

ステガノグラフィーと呼ばれる手法。

 

アウグスト・ケルクホフス、だっけ。

Journal des sciences militaires(軍事科学誌)に掲載された、今日ケルクホフスの原理として知られる暗号の原則の提唱者。

 

分析

私の世界でもアルブレヒト・ダニエル・テーアとかユストゥス・フォン・リービッヒが出るまで結構時間かかったからな。

アルブレヒト・ダニエル・テーアは18世紀から19世紀にかけて活動した農学者。ヨーロッパにおける農学の創始者ともされる。ユストゥス・フォン・リービッヒは定量的アプローチの農学を導入した19世紀の化学者であり、化学肥料の発案者。

 

まあ毎度のことながら中国はなんか数百年バグっているが。

「斉民要術」が書かれたのは5世紀である。本当か?「天工開物」とか「農政全書」でも17世紀なんだよな……。

 

分散

今回の場合、調査結果を代表したり、特徴を表すような数字をここから作り出したいわけだ

この考え方は記述統計学に近い。これは得られた情報を集約するという考え方に基づくものであり、全体から一部抜き出したサンプルからもとの母集団を推定しようという推測統計学と対になる考え方。なお、キイは意図的にこの2つを混ぜている。

 

では、仮にそう大きな偏りがない調査結果だったとしよう。平均より大きいものも小さいものも同じぐらいあって、ほとんどが平均値の近くにあった。極端に大きい数字も小さい数字もない。

カール・フリードリヒ・ガウスはこの前提条件から正規分布の式を出した。こっちのほうが数学やっていればエレガントな導出なのかもしれないが、イメージがつきにくいので二項分布の極限として導くアプローチを取った。

 

「これってなんで二乗しているんですか?平均との差が負になったら正にして、それを平均にしてはいけないのですか?」

平均偏差と呼ばれる値。場合分けが面倒なのとどうせ正規分布の式で2乗がでるので標準偏差でいいのではというのが主流の意見。

 

偏差

これを二乗したやつの平均を考えてみる

以降の展開は渡邉俊夫「二項分布とその極限 -正規分布とポアソン分布-」を参考にした。こういう資料をアップロードしてくれる先生方には頭が上がらない。

 

正規分布

「これの計算は少し厄介なんだけど、まあざっくりと説明すると」

ガウス積分と呼ばれるもの。なおピエール=シモン・ラプラスが最初にこの種の計算をしたらしい。

 

まあ、ここまでついてこれる人は理解できるだろうから簡略化しちゃおうか。

読者を信頼しているのでここ以降説明が雑になってます。いや締切が近かったとかそういうのじゃないから。

 

これを多項式として近似して逆微分すれば確率とかが出せるんだけど……

手計算でなんとかなる範囲で有効数字4桁ぐらい出せる。逆に言えばこの程度では円周率の精度はあそこまで要求されない。

 

円周率

しばらくしたら指数関数と対数関数の関係式が出るだろう。

$e^{ix} = \cos x + i \sin x$ 、いわゆるオイラーの公式。発見者はロジャー・コーツだと言われている。

 

$\tau$ 。

ボブ・パレによるエッセイとハートル・マイケルのウェブサイトに基づく。

 

「ええと……その比って、多分5桁か6桁ぐらいしか知られていないよね」

アーリヤバの著作にある円周率の値を参考にしている。級数を使わないならこれぐらいが限界。

 

ウィリアム・ジョーンズが円周率を $\pi$ と置いたのが同じぐらいだったか。

マチンの公式の発見とウィリアム・ジョーンズの使用はどちらも1706年。



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第28章
支配


壁に貼られているのは、緯度の間隔からすると正角円筒図法だろうか。高緯度地域の歪みはあるが、局所的には歪みが少ないので常に羅針盤を見て進むような船には便利な投影法だ。

 

「どうだね?」

 

頭領府外交局で、長髪の商者が自慢げに言う。

 

「……なんで、これを作れたんですか?」

 

世界地図である。それも、おそらく1000 kmぐらいの誤差しかない。ああそうか、電波があるせいで経度がかなり正確に出せるのか。おかげで私の知っている歴史で作られたどの種の地図ともなんか違うはずだと思った。

 

「単純な話だ。無線機を持たせた商者や使節官に調べさせた。中には船の民から買ったものもあるがな」

 

「どうやって図の内容を送ったんです?」

 

「いや、北に何刻、北東に何刻と伝えるだけで問題なくできたが」

 

「そういえばそうか……」

 

実物を持ち帰ってきたりする必要は別にないんだよな。なら数年でも行けるか。あくまでそれは理論的な最短期間であって実現していいものではない気もするのだが?

 

「点が大都市。線が主要航路。我々の商会は、海あるところ全てに荷物を届けることができるようになりつつある」

 

「ここらへんに海峡とかありません?」

 

私が指差すのはマガリャネス海峡とか希望岬みたいな雰囲気がある地点。海岸線が途切れているので、多分情報がないのだろう。

 

「噂ではな。おそらくあるが、非常に超えることが困難だとされている」

 

「もし越えられれば船で一周できるわけか……」

 

「今は無理だな。ただ、これだけの版図を手にできたのはかつての皇帝以来だろうな」

 

「なるほど、『仕込み』というのはこれでしたか」

 

各所に置かれた商会のネットワーク。真空管を修理し、作成できるだけの技術者のいる整備地点。

 

「ただ、通信が遅いのはどうしても問題だな」

 

痺因(電気)を流す金属線を海に沈める方法もあるのですが、問題は多いですしね」

 

海水は導電性である。そこに電線を沈めるとコンデンサみたいな構造になって、交流だと損失が発生する。それに被覆の問題もあるし、ここはあと数十年かけてやっていくしかないだろうな。光ファイバーが通るまではもっとかかるだろう。

 

「とはいえ、これでやっと計画を進められる」

 

「計画というのは?」

 

「地の上の全てを扱うことだよ。古帝国は成し遂げ得なかった」

 

「……驕りには注意するべきですよ。それだけ、失敗も拡大するのですから」

 

泡沫(バブル)。大恐慌。世界金融危機。私の中には、そういう破滅の知識もある。かといって、これを止められるかというと正直かなり微妙なところだ。人間の欲望と、先を見る力の限界と、経済という魔物。まあ、机上訓練に盛り込めばいいか。

 

「……覚えておこう」

 

「しかし、本当にここまでこの短さでやってのけるとは意外でしたよ」

 

「各地との通信ができるようになると、一気に色々なものが進むからな。必要な資源をわざわざ図書庫の城邦から運ばずとも、近場で手に入れることができるようになる」

 

古帝国の発展は、未知の資源の活用によってもたらされたところがある。混凝土(コンクリート)のもとになる火山灰。硝子(ガラス)作りに適した砂の場所。あるいは、馬という動物。そういったものによって生活は豊かになり、多くのものが生まれ、そしてそれらをやり取りできなくなったことで崩壊した。

 

「……依頼があります」

 

「対価は?」

 

「ありませんね、ならお願いと言うべきですか」

 

「……何だ?」

 

「あらゆる場所で共通の尺が使われるようにして下さい。同じ部品を売るだけである程度は実現できるでしょうが、長期的には各地の支配者と交渉する必要も出てくるでしょう」

 

「ああ、それは必須だ」

 

必須とまで言い切るか。かつての世界だって統一はできなかったんだぞ?

 

「通貨については、まあ難しいかもしれませんが」

 

「いや、我々の商会が扱う貨こそが価値あるものとなるのだよ」

 

確かにたとえそれが印刷された紙であったとしても、商品と交換できるという信用があれば通貨になるんだよな。

 

「……なら、いいですよ。あなたが、あなたの商会が支配できるほど容易ではない、と警告はしますがね」

 

「野望なしに覇業は不可能だよ」

 

なんていうか、暴走している感じではないんだよな。それが不可能に近い難事業だとわかっていて、挑んでいるという印象を受ける。

 

「反乱とか起こらないようにはしてくださいよ?」

 

「取引相手を増やすことの重要性を商者に説くか?」

 

「そもそもこれだけ広い範囲での取引の知識はないでしょう?」

 

「……そうだな。今後も、意見を頂けるか?」

 

「対価を貰いますよ。やっと自分のために色々とやりたくなってきたんだ」

 

私がそう言うと、長髪の商者は意外そうな顔をした。

 

「まさかキイ先生がそういうことを言うとはな」

 

「私が死ぬまで働くような労働好きに見えたと?」

 

「いや、責任を感じるのではないかと思ってな」

 

「……もう、任せるべきは任せるべきだと考えたのですよ」

 

「なら、止めはしない。それはそうと頼みこみはするが」

 

「それぐらいなら構いませんよ」

 

さて、そろそろ表舞台から去る準備をしよう。とはいえ、まずは府中学舎の第一期生を送り出しておかないとな。



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戦争

「痺弓とでも呼ぶべきものになります」

 

外征将軍の前で私は図面を見せる。

 

痺因(電気)を利用することで、金属に力を与えることはできます。理論上はこれを使えば引き金を引くだけで相当遠くの相手を狙えるわけですね」

 

「弩と違って弦を張るための力をそう必要とはしない、か」

 

「……まあ、全部架空の話なんですけどね」

 

「おい」

 

「これを実現するには痺因(電気)を溜める特殊な機構が必要ですが、私はそれを知りません」

 

いや、一応知らなくはないんだけれどもね?一般的にはコンデンサとかだけど、ここで示すような携行可能な電磁投射砲(レールガン)に使えるレベルのものはない。

 

「その実現不可能な代物のために、ここまで手の込んだ図を描いたのか?」

 

「趣味ですので」

 

「……まあ、確かにこういうものがあったほうがわかりやすくはあるな」

 

火縄銃に近い構造だ。というか真っ直ぐな砲身と引き金、照準とかを考えると大抵はそういう形に収斂しそうな気がする。

 

「これを使って、図書庫の城邦を攻めてもらいます」

 

「……誰であっても使えるというのは、なかなか面白いな」

 

「あ、男にはこれを持ってもらって、女にはこれを作ってもらいます」

 

「これだけの複雑な細工をか?」

 

「……それは、女性には細かな細工ができないと言う意味で?」

 

「いや、キイ嬢の口ぶりだと全ての女は、と言ったように聞こえたからな。もちろん実際には無理だろうが、相当の割合を注ぎ込まねば徴募した兵士の数に合わないだろう」

 

「ええ」

 

「つまり、その手の才能がない人物にも作業をさせる必要があるということだ。女性のうちどれだけがその分野に秀でているかは知らないが、決して易しくはないだろうとは理解する」

 

おお、思った以上に理性的。

 

「必要なら女性でも子供でも戦場に立たせられるのですけどね」

 

「……キイ嬢。こういった武器について、知っているのか?」

 

「ええ。こんな痺因(電気)を使う装置は使い物になりませんよ?」

 

かわりに急速に進むラジカル連鎖反応などによってガスを生み出すちょっとした細工なら知っている。銃というやつだ。あるいは砲。

 

「……威力は弓と同等とみなしていいか?」

 

「もっと強くてもいいですよ。鎧の板を突き破る程度のほうが面白いですね」

 

「となると、戦い方自体も変えねばならないか?」

 

「全員が弓兵みたいな形になりますからね。あ、投石機みたいな形で大型の痺弓を使って壁を壊すのもいいかと」

 

「……楽しそうに語るのだな」

 

少し強めの口調で外征将軍が言う。

 

「……失礼をしました」

 

「いや、構わんよ。戦いを好むのは我々の本性だ。それを否定はしない」

 

歴史を思い出す。誰もが戦争を嫌っているなら戦いは起こらない。暴力は何かを手に入れるために、何かを守るために効率の良い手段であることに間違いはないが、それはそれとして私たちは闘争が大好きなのだ。私だって戦史は嫌いじゃない。愚かなことだとは思うし、この世界でわざわざ再現したくはないが。

 

「もしこういうものができたら、我々はどう動くのかを知りたいとは思いませんか?」

 

「降伏するか、戦い続けるか、あるいは……ということか」

 

「ええ。その過程でどれだけのものが得られて、どれだけのものが犠牲になるか。戦う前からそれらを知れるというのが、どれだけ重要かはよくご存知でしょう?」

 

この外征将軍はよく鍛えられた寡兵で重要な所に突撃するような戦い方を好む。少ない犠牲で、相対的に大きな結果を残す。そうすることで軍事的な発言力を維持し続け、図書庫の城邦に対する軍事的な攻撃を抑制している。彼のやり方は実にいいものだ。そして、各地で見た様々な戦術に精通している。戦略については悪くはない、とだけ言っておこう。

 

Dell'arte della guerra(戦術論)とか、Vom Kriege(戦争論)とか、そういう所の発想はもう少し穏健な形で府中学舎で教えてはいるが、これらを軍事転用するのはそう難しくないだろう。そろそろオペレーションズ・リサーチみたいなことができると思うが、まあこれは今後のお楽しみだ。

 

「……そうだな。重要なことだ」

 

「できればこれが抑止力になればいいんですけれどもね」

 

私は歴史を知っているから、これがまず願望で終わってしまうことはよく知っている。例外は日本ぐらいか?あれだって相当な銃規制に経済的規制かけて、それでいて幕末には色々と綻びが見えていたのだ。

 

「なるか?」

 

「こういう兵力が何もかもを終わらせるほどの力がある、と多くの人が気がつけば……」

 

核兵器ですら、冷戦時代の代理戦争を止めることができなかったのだ。もし狂った相互確証破壊がなければ戦火は拡大していたのかもしれないが、それは別に本題ではない。私の知識にある指折りの破壊的方法すら戦争を小規模にすることしかできなかたのだ。

 

「無理だろうな」

 

「断言しますか」

 

「……戦場を全員に見せればできるかもしれないが」

 

「それは、そうとう悲惨な戦いですね」

 

絶対戦争。総力戦。最終戦争。そういうあらゆる人間が逃げられない戦争は、まあ避けるべきものとして扱っていいだろう。これを起こさないか、あるいは一回で済ませられれば私の勝ちでいいんじゃないかな。何の勝負かは知らないけど。



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統制

「……練習?」

 

「そうです。本番で手間取りたくはないので」

 

そう言う府中学舎の学徒の手元には記録用紙。

 

「これは何を?」

 

「今回試しているのは飢饉に対する対応です。発生する暴動に伴う混乱が、配給にどれだけ影響するのか知りたくて」

 

「……何か、参考にしたものはあるの?」

 

「私の両親が小さかった頃にあった飢饉をもとにしています」

 

私の微妙な表情の変化をこの学徒は見抜いただろうか。正直な所、私はまだ死が案外身近で、戦争や飢饉が珍しくないこの世界の価値観に慣れていない。それは私が過ごしたかつての世界では意識する必要がなかったものだ。それは本の中にしかなかった。けれども、こちらではそうではない。いつも忘れそうになる。

 

「……詳しい資料、欲しい?」

 

「いえ、『図書庫の中の図書庫』から必要なものを見せてもらっています」

 

「え、あれって閲覧とか難しいはずじゃ」

 

私の時は結構渋られたんだぞ?

 

「中に入るのは駄目らしいですけど、内容を言えば閲覧させてくれましたよ。さすがに府中学舎の正規生でないといけないそうですが」

 

「ああ、確かに聴講生でもいいなら実質的に誰でも、となってしまうからね」

 

歴史そのものに直結していない、事実としてのデータからなら、ちゃんと私の統制下にある学徒相手に見せるなら面倒なことにはならないという判断かな?

 

「それで、どういう結果が出ているの?」

 

「もし完全に、適切に、全員が食べる量を切り詰めて、無駄なく輸送が行われて、輸入もうまく行っていれば餓死は起こりません」

 

「つまり、実質無理ってこと?」

 

「……そうなりますね。ただ、これはあくまで当時の話です。今ならもう少し色々とできるかと」

 

「例えば?」

 

「今回の想定では氾濫による穀倉地帯への打撃を考えました。手紙をやり取りしたり、被害を確認する時間を無線で短縮できないか、というのが今のところの案ですが」

 

「それ、輸入先についてはどれだけ考えている?」

 

「凶作の分だけ多少高くなるだろうとは考えていますが、前の時は他の地域では特に収穫量は問題なかったとされています」

 

「……なるほど。もし、例えば寒い夏とかみたいな広範囲にわたる天候問題に由来する凶作とか、あるいは害虫とか、そういう問題の場合は?」

 

「考えられていませんね。そこまで本当はやりたいのですが、まだ……」

 

「具体的な問題は?」

 

「適切な情報がないことですね。古すぎると灌漑とかがどれだけされていなかったのかとかも考えなくてはいけないので」

 

天候に基づく収穫量推定のための長期的分析が必要だな、と頭を切り替える。天気の記録、確かあまりされていないんだよな。日誌とかをつけているという話もあまり聞かないし。ちゃんとしたものができ次第始めるか。

 

「……わかった。それについて、まとめたものを作っておこうか?」

 

「キイ先生がですか?」

 

「そう」

 

「……これはキイ先生の能力に対する疑義混じりになるのですが」

 

「事前に通告するのは正しいけど、許可を得ていない人間にはもう少しぼかそう」

 

「はい。そのようなことができるのですか?」

 

まあ、妥当な疑いだろう。実際私だってコンピュータなしでやるなら面倒だなぁとなる案件だ。

 

「十数年に一度程度起こるような災害は、数百年単位で見ればそれなりに例がある。あとは平年の収穫量の変化を加味して増減した分の割合を考えればいいんだけど……それなりに時間がほしい」

 

「わかりました。時期に期待しないで待っています」

 

「そうしてもらえると助かる。あとそういう言い方する相手は選ぼうね?」

 

「もちろんです、キイ先生。ありがとうございました」

 

そう言って学徒は駒を動かす作業に戻る。盤面を見ながら、私は少し思考を回していく。育てる作物の分散とか、あるいは収穫物を税収として回収する分の調整とか、そういうのは大局的な視点からやったほうがやりやすくはある。問題はどれぐらいがいいのかということ。机上演習で管理経済とかの方面になるとそれはそれで弊害があるけどな。Электрификация всей страны(全国土の電化) - это(それは) коммунизм(共産主義) минус(引く) советская власть(ソビエトの権力). というわけだ。

 

少なくともこの手の演習と、定性的な心理学的アプローチとがあれば、政治決定については相当マシにはなるだろう。それでも限界があることはよく知っている。その時点での最良の判断が歴史的に見て決定的な過ちだったなんてことは枚挙に暇がない。

 

「……少し聞きたいことがあるんだけれども、いい?」

 

「構いませんよ」

 

「あなたは、こういう取り組みは例えば頭領府みたいなところが主導するべきだと思う?それとも、各地域の衙堂の協力でなされるべきだと思う?」

 

「どっちも最大限使わないと意味がないでしょう」

 

「衝突しない?」

 

「……互いに意図を理解していれば、補完できるはずです。きっと。私はそう信じます」

 

「わかった。けれども、もし無理だとわかったらその考えは捨てなよ?」

 

「……はい」

 

イデオロギーに縛られると面倒なのだ。正しいのは現実であり、そこに生きる人々なのだ。もし仮説が成立しないなら、それは捨てねばならない。まあ、ここで誤らない方が難しいものだけどさ。



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整理

「うーん」

 

史料間の相互関係を捉えるのは易しいことではない。試みの一つとして一つ一つをカードに記録して並べているが、結構面倒だ。いくつかつなぎ合わせて真実が見えたかと思えば、矛盾が見つかって記録者の視点が怪しくなる。それでも、ある程度固まった事実についてはまとめていける。

 

「……そろそろ日が暮れますよ」

 

頭領府から帰ってきたケトがいつの間にか私の正面に立っていた。「図書庫の中の図書庫」と呼ばれていた空間は多少整理されつつある。図書庫側もここの史料が今後活用されるのではないかと考えたようでひとまず大掃除中である。どれだけかかるかは知らない。目録の再整理だけでも相当大変そうなんだが。

 

「だね、一旦終わろう」

 

見ていた巻物の番号をメモして、私は背中を伸ばす。思った以上に整理されていない。生の史料を扱う経験はあったが、ここまで大規模なものはほとんどない。それも全て一次史料だ。保存するだけ保存して、たまに取り出して参照するぐらいしか使われていない。もったいないなぁ。まあかつての博物館も似たようなものだったからあまり言えないか。保存されているだけいいとしよう。

 

「んー、やっぱり興味が無いのかわざわざ危ないことをしたくないのか……」

 

基本的に史料とか書いたものとかはこの部屋から出せない。なので最適解はここに泊まってしまうことであるがケトからそれはしないようにと言われている。はい。研究室に泊まると巡回とか面倒だものね。隠れてやり過ごしてもいいけどバレた時にもっと面倒になる。

 

「ええと、片付けは……あまり必要ないか」

 

鉛筆の導入でインクの管理とかをしなくて良くなったのは便利になった。パンで消せるしね。

 

「……キイさんは、そろそろ仕事を終えるんですか?」

 

「そうだね、引退して図書庫に籠もろうかと」

 

私が十年弱やってきた、ある意味での本業。歴史だ。

 

「……色々と、キイさんについて話されているのを聞いています」

 

戸締まりをした私にケトが言う。

 

「何て?」

 

「……どうして、去るんだって」

 

「どうしても何も、私は本来いるはずがないんだけどなぁ」

 

私が図書庫の城邦でやっていけるのは、多くの人の好意のお陰にすぎない。それを無下にしたくはないけれども、過干渉は碌なことにならないと私の知識が言っている。体系からして異なる知識を急速に取り入れることのできた例は技術史にはいくつかあるが、それらは全て「例外的」と呼べるような条件が揃って成り立っている。

 

そして、多くはその過程で元々あった思想や概念や体系が失われている。そのアプローチがたとえ外来のものと比べて進んでいたとしても、だ。

 

「……けれども、キイさんのお陰で助かった人がいます」

 

「例えば?」

 

「収穫量の向上で、空腹のまま寝る子供は減ったでしょう。それはキイさんがいなければできなかったことです」

 

「そうかな、あと百年もすれば生まれたかもよ?」

 

活版印刷が生まれる条件は揃っていた。木版はあったし、文字ごとに扱うという方法が受け入れられる条件も揃っていた。改良ができる人間もいた。純粋に、時間の問題だったはずだ。

 

「けれども、キイさんがいなかったからなかなか生まれなかった」

 

「……まあ、確かに」

 

「つまり、百年分の苦しみを減らせたんですよ。これは誇っていいことです」

 

「大惨事を百年前倒ししたとしても?」

 

「それは……」

 

そう。全ては時間の問題なのだ。爆薬としての黒色火薬がある以上、それが砲に、銃に繋がるはずだ。それが何をもたらすかは、それなりに知っている。

 

「それは、私がどれだけ準備しても止められるかわからない。そして、場合によっては私が作ってきたものが最悪の形で組み合わさる」

 

「……例えば?」

 

「……まだ内緒。最終机上演習で明らかにするつもりだから」

 

なら、それを解かせればいい。核兵器は出せないけど。

 

「わかりました。それまでは逃げないでくださいよ」

 

「……私が逃げているって?」

 

「僕にはそう見えます」

 

ケトが私にここまで強めの口調で言い切るのは珍しい。ちょっとちゃんと対応しないと駄目なやつか。

 

「逃げちゃいけないの?」

 

「一人で逃げるんですか?」

 

「……一緒についてきてくれるの?」

 

「何度でもいいますけどね、キイさんの隣りにいたいから色々やっているだけです」

 

「……私は、君のためにそこまでできるかわからないよ?」

 

「構いません」

 

「期待を裏切るかもしれないよ?」

 

「キイさんに秘密を教えてもらった時にそれぐらいは悩み終わってます。僕は自分の選択でキイさんの隣に立つことにした。そこ自体に後悔はないです。やってきたことに改善の余地はありますが」

 

「……それだと、私がちょっと辛い」

 

「辛い?」

 

息を深く吐く。この手の感情には不慣れなのだ。

 

「一旦帰って、何か食べて、温かいもの飲んでからこの話をしない?」

 

「……いいですよ」

 

さて、逃げられない。私は世界から逃げられても、隣に立とうとする大切な人から逃げられるほど心が強くない。それは心の強さって言っていいんだろうか?場合によってはそれはあからさまな弱点になるだろうけど。

 

「……いや、ケトくんと引き換えなら何もかも終わらせてもいいな」

 

「そこまでですか?」

 

「たぶん」

 

そもそも私程度で世界は終わらせられないけれども。どうせ、人間はしぶといのだ。



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好意

「……どう?」

 

「いつもおいしいですね」

 

ケトはそう言ってスープをすする。

 

「よかった」

 

「……キイさんは、僕と向き合うのがそんなに怖いんですか?」

 

「うん」

 

正直なところ、こうやって話すだけでも逃げ出したくなってしまうほどに私は臆病な人間だ。

 

「言葉にできます?」

 

詰問じゃないってことは理解している。ケトはたぶん、私を知りたいだけだ。ああその、婉曲ではなくて。

 

「……私はさ、君の好意に相当甘えていた。それでいて、私の視点では君にまともなものを返せていない」

 

「キイさんから見ると、そうなるんですね」

 

ケトが、というかこの世界は私を過剰評価している。私は別に全知全能ではないし、援助さえあれば全てを成し遂げるような人ではない。明確ではない失敗は続けているし、多分現在進行系で過ちは拡大している。

 

「……私がかつていた場所なら、私はケトくんとまともに話す機会がなかったかもしれないよ」

 

私が専門だと胸を張って言える分野は食っていけるものとしては怪しい。別に誰も戦時中のエンジン製作精度の変化なんて気にしないのだ。それは私が思うに文化的愉しみ以上の価値はまずない。

 

「それは、立場の問題ですか?」

 

「いや、そういう場面が思いつかないってだけ」

 

「そう、ですか」

 

「私は君が私のことを好きなのを知っている。それでも、もしそれを受け取ってしまったら、私は自分に義務を課してしまそうなんだよ」

 

「そんなのは求めてない、と言っても?」

 

「そこまでいいことをしてくれる人に、私は何もできていないってなってしまう」

 

「なるほど……」

 

「だから無言で好意に甘えて、適当にごまかして、君と話すことから逃げていた。……まあ、髪も白くなってきて、限界を感じているからさ、もう逃げられないなって」

 

髪を梳けばたまに白いものが交じるようになった。年齢を数えれば40ぐらい。嫌だ。老いが怖い。その感情を持つメリットが無いとわかっていても、もってしまうのだからそれをねじ伏せるのは難しい。

 

「十年来の付き合いだよ。本当なら子が何人いてもおかしくないわけだけどさ」

 

私は息を吐く。今こうして話す相手も成長したものだ。

 

「……手を出してもらって、いい?」

 

「いいですけど」

 

すっと差し出された手のひらに、私は自分の指を重ねる。ほとんど同じ大きさだ。

 

「昔はさ、私のほうが明らかに大きかったのに」

 

いや、もうケトのほうが指が長いかな。

 

「……もし言葉にしてもらえるなら、私に何を求めているか聞いていい?」

 

「……今まで、僕がキイさんにどれほど助けてもらって、支えてもらって、教えてもらったか覚えていますか?」

 

「私は、あまり意識してそういうことをしていない。仕事の一環だったり、あるいは……好きな人に対しての献身的行動みたいなものとしてはあるけど」

 

自分で言っていて、どうにも自己中心的で恥ずかしくなってくるな。相手の立場に立って考えていない。その場の雰囲気だけだ。

 

「それでいいんです。というより、僕から見て十分キイさんは僕に好意を向けて、色々としてくれました」

 

「そうなの?」

 

「そうです」

 

「相当酷いことしてない?君から好かれていることを知っていて、かなり逃げていたように思うけど」

 

「楽しかったですし……、それに、キイさんには他の人を選ぶ機会があれだけあったのに、僕を選んでくれました」

 

確かに、ケト以外に私の出自の秘密をちゃんと言葉にして共有したいと思った人はいないな。多くの人は察してくれてしまっていたからな。

 

「だから、キイさんが僕のことが好きな間だけ、そばにいてください」

 

「どっちかが死ぬまでになるけど、いい?」

 

「信じないでおきます」

 

「私が他の人を好きになるほど器用だと思う?」

 

「……縛ることができるなら、そうしたいですよ。けれども、結婚もしていないのに不貞で訴えるなんてできないでしょう?」

 

「……契約か、誓なら?」

 

「あまり僕の趣味ではないです」

 

「意外。最初のときにしてくれたあれは?」

 

あのとき舐めた、ケトの血の味を思い出す。

 

「若い頃の過ちだとは言いたくないですけれども、あれは自分を縛るものでした」

 

「……つまり、結果としては今まで通り?」

 

「そうですね。僕もこの歳では嫁に来てくれる人も少ないでしょうし」

 

「……いない?」

 

「いないと思います」

 

うーん、それはそれでケトの過小評価な気がするけどな。

 

「それに、キイさんと結ばれないのなら、独り身ということにしたほうが楽ですし」

 

「……やっぱり、そうやって面と向かって言われると辛いなぁ」

 

私は顔を伏せる。多分きっと、今はとても変な、口角の緩んだ顔をしている。

 

「……僕だって、そうですよ」

 

ちょっとはにかんだようなケトの声がして、私の後頭部に重さがかかる。

 

「……どけて」

 

「嫌です、ちょっと見られたくないので」

 

「見せて」

 

「見られるかキイさんの顔見るかしたらちょっと壊れてしまいかねません」

 

「そういう恋をする若者って年齢じゃないでしょ」

 

「ずっと燻るような想いを持っていたんです、慣れてないんですよ」

 

「……ごめんね」

 

「悪いと思っているなら、せめて僕の前から去るときは一言断ってからにしてくださいね」

 

「嫌だ」

 

「……どうしてですか?」

 

「君の前からは、いなくならないから」

 

どうせ彼はついてきてくれるだろう。そういう信頼をちゃんとするべきだ。私は手探りで自分の頭の上に載せられているケトの腕に触れ、手のひらを合わせ、指を握り込んだ。



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惚気

「ケト君から聞きましたよ?」

 

そう言ってニヤニヤとしているのは「総合技術報告」編集所長。

 

「……あまり思い出したくないんだけど」

 

「いいですよねぇ恋」

 

「……独身じゃなかった?」

 

「新婚の兄さんを見ていると楽しいんですよ」

 

「いつの間に結婚してたんだ」

 

一応元上司として、今度会ったら祝いの言葉の一つでも送ってあげないとな。まだ印刷物管理局の人だったっけ?

 

「で、どうしたんですか?」

 

「どうって?」

 

「……触れ合わせたんですか?*1

 

私は息を吐いて、編集所長の頭に厚紙で表紙を作ったしっかりめの本の背を落とす。

 

「いたい」

 

「一応私もケトも衙堂で働いているんだけど?」

 

一応彼女も司女なので結婚はしていないはずだ。

 

「……いいんですか?」

 

「何が?」

 

「いや、そういうことをしてもいいと私は思いますよ?もう月のものは終わっていましたっけ」

 

「続いているよ、初産はもうやめておいたほうが良い年齢だけど」

 

「……逃げられたくないなら子を成すのは、ここらへんなら悪い方法ではないと思いますが」

 

「なぜ場所を限定してるの?」

 

「ああ、私の生まれたところだとそこまででもなかったので、というだけです」

 

「ああ、地域ぐるみで育てるみたいな?」

 

「そんなところです」

 

ここらへんの育児文化の違いとかにも本当は手を出したかったんだが、ここを触ると結構面倒になりそうなのでやっていない。衙堂が育児に関わるのは孤児の引取りとかの例かな?あまりない気がするのでそこらへんのノウハウが少ないのもある。とはいえ保健衛生学の延長で触ることにはなるだろう。

 

「話を戻すけど、私は……ケトを引き止めたいとは思ってないよ」

 

「ケト君はそうは思っていないかもしれませんけどね」

 

「どういうこと?」

 

「自分が迷ってもちゃんと引き戻してくれて、安心できるような場所を用意してくれる人に男は惹かれるものです」

 

「……根拠が薄い気がする。男女は関係ないのでは?少なくとも私はそういうことしてくれるケトが好きだけど」

 

「ケト君にも言いましたけど、私の発言を論理的に批判するか惚気けるか、どちらかにしてもらえませんか?」

 

へえ、ケトも惚気けるんだ。可愛いなぁ。……私について、だよね?

 

「……どんなこと話しているの」

 

「本人に口止めされています。もしキイ嬢との会話を伝えていいなら教えますが……」

 

正直なところ結構悩む。いや恥ずかしいけどケトが私のことどう思っているか知りたいでしょ?

 

「まあこれについては一旦置いておきましょう。府中学舎の論考集ですけど」

 

「ああ、集まり具合は?」

 

「敏腕の刈り手を送ってあります」

 

印刷の前の推敲とか植字を考えると、まあ原稿はできるだけ早くできた方がいい。そしてこれは汎世界的事象であるようだが、締切は守られない。かくして編集者が鎌を持って原稿と魂を刈り取りにやってくるのだ。あ、この世界でも鎌での刈り取りを死と結びつける伝承は一部にあるようです。

 

「それは……大変だね」

 

「ええ、編集所も人が少なくなってしまって滞ります。きっと府中学舎では期限を守ろうとは教えなかったんでしょうね」

 

「……教えた記憶、ちょっと怪しいな」

 

まあ私だって結構ギリギリで色々なことをやっているので何も言えないが。いや私を見てちゃんとスケジュール立てて行動しないと体力落ちた時に動けなくなるぞ、とか言うべきだろうか。

 

「まあいいですけどね。実際、悪くない進捗ですし」

 

「それはよかった。で、どう?」

 

「……それは『印刷物管理局』編集所長への質問ですか?」

 

「図書庫の城邦における指折りの専門家への質問だよ」

 

「そうですね、やはりまだ視点が狭い気はします。ただ、きちんと考察の目的と問題の所在から論じているのは読みやすかったです」

 

「そのやり方、案外うまく行ったようで何より」

 

導入(Introduction)方法(Methods)結果(Results)そして(and)考察(Discussion)。古い論文ばかり読んでいるとこのフォーマットに則って書く時脳が変な感じになったのも懐かしい話だ。

 

「もともと『総合技術報告』にも似たようなものありましたが、ここまで長いものについては洗練されていませんでしたからね。ここらへんも考えていかないと」

 

「お願いしていい?」

 

「勝手にやりますよ、キイ嬢に言われなくても、ね」

 

「……ありがとうね」

 

「そろそろ落ち着けるんでしょう?*2

 

「そうだね、古い記録を分析して老後を過ごすよ」

 

「ケト君はどうするんですか?」

 

「さあ。図書庫の城邦から出ないだろうし、住む場所は一緒だろうから……」

 

「詩人とかやってもやっていけると思うんですけれどもね」

 

「そういうもの?」

 

「技術系の詩とか、あまりやられていない分野なのでケト君ほどの知識があるなら悪くないと思います」

 

「なら『総合技術報告』の末尾に読者からの投稿を掲載する項を用意してくださいよ」

 

「あれ、むしろ表紙に掲載する特集している論考についての詩をお願いしようと思っていたのですが」

 

多分論文誌の表紙のイラストみたいなものか。詩っていうのは面白いな。印刷コストを上げずに印象付けられるし。

 

「まあそれはケトと話をして」

 

「わかりましたよ。ところでそろそろ最終演習でしたっけ?」

 

「そう。準備は進めているよ」

 

相当な人が参加してくれる、府中学舎第一期生の集大成だ。もちろんそれ以降の期の学徒も助手とかの形で入る。私がやるのは「敵」陣営の技術顧問だ。さあて、滅びを(もたら)しにいきますか。

*1
聖典語に由来する言い回し。比較的上品な方とされる。

*2
日本語で言う「身を固める」に相当する言い回し。



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密会

「……いいんですか?」

 

ケトと私が案内されたのは頭領府の長卓会議が行われる広間。まあ確かに最終演習をやるならこれぐらいの広さがほしいなとは思っていたが、本当に利用許可が取れるとは。

 

「ああ、この時期は使っていないからな」

 

そう言うのは頭領。案内は休憩がてらだそうで。

 

「必要な費用などは……」

 

私の隣のケトが不安そうに言う。

 

「そこまで吝嗇なつもりはないが?」

 

いやこれだけの空間借りるのって普通は大変なんですよ。学会とかの裏方を少しやったので知ってはいるけど。

 

「担当の衛兵に話をしておく。具体的な期間が決まり次第、そちらに伝えて欲しい」

 

「わかりました。感謝いたします」

 

頭を下げる私。一応頭領府に来たケトの付き添いという形だが、まあ別に一緒に行動しているから問題はないか。

 

「それでは。ああ、この部屋はあとしばらく人は入らないはずだ」

 

「……ええ」

 

扉が閉じる音が響く。

 

「……準備、できてる?」

 

「あまり」

 

やっぱり緊張するなぁ。まあ、今回は相手が相手だからというのもあるが。

 

別の扉が開き、二人の女性が入ってくる。まあ、さっきの頭領の言葉は「そういうことになっている」というぐらいの意味だ。ここで私たちは誰にも会ってないし、向こうの二人もこの時間は特に何もしていなかった。まあそこまでは言わないけど、あまり表にする必要もない接触ということで。

 

「キイちゃんもケトも元気してた?」

 

そう言うのはハルツさん。第四区第八小衙堂長で、ケトの育て親で、かつて図書庫の城邦を荒らした一人。

 

「お久しぶりですね、二人とも」

 

こちらの人はツィラさん。図書庫の城邦を中心とする諜報ネットワークの元締め。正直なところ、私はこの組織の全貌を掴めていない。秘密結社とかと呼んだほうがいいのかもしれない。

 

まあつまりは、私がこの世界で出会った裏の深い二人である。

 

「……ええ」

 

固くなっているケト。まあ私だって結構怖いのだ。ケトもこの手の政治的な話に慣れているとはいえ、限界というものはある。正直なところ、この二人は私とはちょっと格が違う。

 

「本題に入りましょう。まずはハルツ嬢からでいいですか?」

 

「ええ」

 

頷くハルツさん。私は厚紙のファイルから説明用の書類を取り出す。

 

「これは府中学者の学徒の一人がまとめた分析をもとに私が手を加えたものなのですが」

 

並んだ数字と、その隣のグラフ。こういうのを見ると原点を思い出すな。

 

「気象変動要因を差し引いても、純粋な農法の改善によって収穫量が確実に増加していることが示されています」

 

ハルツさんの作った農法書を広く導入した場所とそうでない場所の比較だ。過去の収量から補正して、数年分の変化を見ている。

 

「ただ、今後はより細かな治水なども必要になってくるでしょう。府中学者でその分野の専門家を育成するにはまだ時間がかかるでしょうね」

 

今までの体系だってない経験ベースのものを、知識と統計ベースのものに切り替えるのだ。それだけでも時間がかかるし、専門家の経験というものは決して無視できない。ただでさえ本を読むのは難しいのに、本を読んだだけで一流になることはまずできないのだ。

 

「……役に立ったようで、何より」

 

「抜本的な改善案はありますが、これは一度にはできません。各地で知見の蓄積を行って、どこかでそれをまとめて評価するべきですね」

 

私がハルツさんに渡すのは学徒が作った論考集に収録される予定のもの。なおこれを書いた司女は新しく開拓される地域にある農業実験区域に配属される司女として内定が決まっている。

 

「で、前言ったようにこれを書いた人を少し面倒見てもらえません?」

 

「司女としてやっていけるように、ということ?」

 

「そうですね。本来はハルツさんを送りたかったのですが……」

 

「ケトが小衙堂長になってくれるならいいわ」

 

「ちょっと図書庫の城邦から離れるのは難しいです……」

 

そう言うのはケト。まあ、農業実験区域があるのはハルツさんのいる小衙堂に行く道を途中でそれた場所にあるからハルツさんが何かあったら駆けつけられる範囲ではあるか。

 

「あとこれは、私の知識で書いた改善案です。見終わったら返して下さい。燃やすので」

 

そう言ってハルツさんに見せるのは人工的な掛け合わせによる目標品種の作成と、組となる特徴の分類方針について。これは染色体モデルという答えを知っていないと作れないものなので、表には出さない。

 

「……なるほど。これを導けるように誘導すればいいのね?」

 

「そこまで強くなくてもいいですが」

 

「ま、なんとかするわ」

 

よし。それで私はツィラさんの方に向く。

 

「学徒のほうはどうですか?ちゃんと学べていました?」

 

「想像以上ね。各地の報知紙の情報だけであそこまで読み取れるとは思わなかった」

 

私が課題でやったのはただのOSINTだ。というかこの世界の収集情報の整理と分類みたいな方法が最低限あったのでそれに色々と加えただけだ。

 

「それはよかった。まあ、思想の誘導とかはお手の物でしょうからね」

 

「私たちの歴史を、知っているの?」

 

「いいえ。ただ、記録からは色々なことが読み取れるのですよ」

 

図書庫の奥の方にある史料からも「刮目」なんて名前は出てこなかったが、古帝国の皇帝直属の監視人とか陰謀論的な秘密結社の話は見つかった。そのようなものの一つに刮目のルーツがあるのかもしれない。まあ、ここらへんは基本的に闇の中だ。

 

「……本題に入っても?」

 

ケトが言う。

 

「ええ」

 

「どうぞ」

 

ツィラさんとハルツさんの笑みが怖いなぁ。

 

「今後数百年存在し続けて、時には秘密裏に行動できる組織を作ってもらいたいのです」

 

そう言うケトの隣で、私はメモの書かれた紙を出す。

 

「求められる条件はそこに書いてある通りです。今後起こる問題をまとめて、キイさんが遺す対応策の中に使えるものがあればそれを使って、もしないなら案を練るような」

 

「ここで、例えば商会が不正によって鉱毒を見逃すことを防ぐ、とあるけど……こういった不正みたいなものはこの組織自体のほうが起こしやすいんじゃないの?」

 

ハルツさんが一瞬で問題点を見抜いてくれる。

 

「そうなんですよ。そこをどうやって解決するかを専門家の二人に任せたいのです」

 

私の言葉に、ハルツさんとツィラさんは顔を見合わせて溜息を吐いた。

 

「必要であれば頭領府に僕が内通者を作ります。資金はキイさんが」

 

「商会のほうからある程度まとまった金額を提供させる準備はあります」

 

ケトと私が言うと、二人の纏う気配が変わった。

 

「……既存の組織に表向きは組み込んだほうがいいかも。頭領府外交局みたいに」

 

「そうね。組織の全貌を知る人物をどこに置くかが問題だけど……」

 

さて、これで裏側を抑えるのは行けそうだな。表なら多少は覚えがあるが、こういったものは慣れた人でないとやり方すらわからないので専門家に金を積んで投げるのが一番いいのだ。



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侵攻

それは、古帝国の残滓に対しての戦いであった。

 

「侵攻軍は無線通信機を手に入れました。使用まで一月、解析に半年、量産には三年です」

 

私は手元の紙を読み上げる。なおこの情報は北からの侵攻軍、つまりは外征将軍率いる「敵」にしか知らせない。学徒の皆様には兵の動きが良くなったことと通信が傍受されている可能性から推測してもらおう。

 

この戦いの大義名分は、衙堂を中心とする伝統の破壊への対抗だ。私が作った戦の神を中心とする一神教が地域に残っていた信仰をもとに成立して、この新しい神の下に集った志願兵による大規模な軍団が支配領域を拡大していく、という設定。無茶苦茶なシナリオに見えるかもしれないが、アレクサンドロス3世とかナポレオン1世とか、あとはこの世界での古帝国の拡大とかを見ると結構有り得そうなラインになった。

 

傭兵として鍛えられた優秀な下士官たちが有機的に兵を繰り出し、瞬く間に北方諸邦を併呑。痺弓と呼ばれる特殊な遠隔攻撃武器を大量生産し、恐るべき勢いで南下し始めた。

 

最終演習は完全に無茶苦茶なことをすると伝えてある。これは対応力とかを見るためであって、決して私が楽しいからではない。まあ実際のところ全員それなり以上の能力はあるからな。なんとかしてくれるでしょう。

 

「……ふむ。第二十七部隊を駆けさせろ」

 

外征将軍が指示するこの駒は普通の移動ルールを無視した速度で進む。馬だ。最近馬がまだ生きている地域があるという報告があったのだが、それををもとに選抜された騎兵で撹乱と情報収集をする部隊の設定を外征将軍は作り出したのだ。ちゃんと判定はしましたとも。大成功という出目だったので仕方がありません。

 

改めて部屋を見渡す。ここは侵攻軍の頭脳。廊下を挟んで隣りにある長卓を囲む学徒たちを追い詰める図書庫の城邦の誇る天才たちだ。なお反頭領派として念入りに政権移行計画を用意していたので図書庫の城邦の弱点はよく理解している。

 

あ、私は審判です。基本的に口出しはしない、双方の行動の成功や失敗を決める係。行き交う指示書を整理し、判定のための情報を集めるために頭領府と衙堂と商会の業務が疎かになるほどの人員が注ぎ込まれている。本当に皆さんいいんですか?

 

「四半月分の指示はこれで問題ありませんか?」

 

確認し、頷く外征将軍。

 

「わかりました。しばしお待ちを」

 

そう言って私は部屋を出て、審判室に入る。戦場の霧のかかっていない卓上の大きな地図と駒。こうやってみると神の視点に立ったみたいな気がするな。

 

「……どう見る?」

 

「学徒側はなかなか良く守っていると思いますが、やはり侵攻を食い止めるのは難しいでしょうね」

 

「そうなんだよね。強くしすぎたかな……」

 

図書庫の城邦の頭領府外交局が各地域と連携を取り、対抗軍を組織。鹵獲した痺弓を再現しようとする試みも進んでいる。経済を戦時状態に切り替えて新聞に欺瞞情報を流すということまでやってのけている。

 

会議を踊らせず、まとめ上げるだけの交渉術を学徒たちは発揮した。私はそこまで他の地域の有力者の物わかりがいいとは思えないと反論したが、他の審判担当者が認めたので通った。これは私と意見が対立した人が楽観的というよりも多分共通の知的基盤が存在することによる信頼みたいなものなのだろうと思っている。まあ、実際には歴史的分析とか心理学的実験とかで裏付けしないといけないが。

 

「ひとまず侵攻軍側は迂回して敵の指揮官を叩くつもりらしい」

 

「ああ、普通はそうしますよね」

 

審判の一人が笑い、メモのつけられた駒を見る。わざと無線を出している、偽の指揮所だ。

 

「侵攻軍は無線機を奪わせられたとは思っていないようで」

 

「とはいえその程度の策でこの状態を変えられるとは思えないがな……」

 

審判たちの意見を聞きながら、私は盤面を見る。収穫期なのもあって兵站を現地調達に任せた侵攻軍は着実に進んでいる。面倒なので簡略化している侵攻軍側の統治もそれなりのものだ。ジズヤに近い。信徒となってともに戦列に加わるか、あるいは搾取されるかというシステム。

 

「一応学徒側は講和をしたいらしいですが」

 

「この思想相手に?」

 

学徒側に情報を伝えている審判の意外な発言に私はちょっと気の抜けた返事をしてしまう。

 

「難しいでしょうね……。とはいえ、この神はキイさんが作ったんですよね?」

 

「そうだよ?私が第一の経典授与者であり、唯一にして絶対なる戦神の尖兵である」

 

「司女が信仰に溺れないでくださいよ……」

 

なんかこの世界の衙堂、宗教組織のくせにのめり込みすぎないようにしようみたいな思想があって面白い。まあ中道を進め、ということなのかもしれないな。ここらへんの哲学はそのへんかも合わせて研究対象にするつもりである。研究提案書って誰に提出すればいいんですか?

 

「ともかく、交渉についてはしばらくは断ることにしたい。兵が相当死なない限り、侵攻は止まらせないよ」

 

「……学徒側にとって、相当辛くありません?」

 

「まあ最悪図書庫を明け渡せば……」

 

「それは敗北ですよね?」

 

「まあ、そう」

 

とはいえさっき覗いた学徒たちの目は負けを覚悟している感じではなかった。逆転の目をここから掴み取れるのだろうか?



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総評

外征将軍は盤面を睨みつけていた。

 

「……まさか、ここを突いてくるとは」

 

私にとってはまあ確かにこれぐらいしかないなと思えるような結論だった。侵攻軍本拠地での反乱と、それによる兵站の寸断。まあ、J/ψでも赤い方でもない11月革命みたいなものである。

 

「それで、いかがなさいますか?侵攻軍指揮官殿」

 

「はっ、知れたことよ。例え全ての兵が討ち倒されようとも、図書庫にさえ手をかければ神々の意志を果たすことになるのだ」

 

「神々ではなく神です。我々の信じるのはただ唯一にして絶対のものですから」

 

私の突っ込みを無視して、外征将軍は指示を書きつける。他の人達はちょっと疲れているようだ。まあ、これだけの状態でやる気を保つのも難しいだろうな、と私は並ぶ駒を見る。確認できるだけでも同数の反乱軍が背後にいて、正面には図書庫の城邦を中心とした連合軍が並んでいるのだ。私だったらリセットしている。

 

「……まだ戦える。もし指揮官が倒されたら、講和を始めてくれ」

 

「わかりました」

 

外征将軍は自分を前線指揮官に仮託している。まあ、ある程度のロールプレイがないとこういうのは楽しくないしね。とはいえ、溺れ過ぎるのもよくない。

 

部屋を出て、私は審判室に向かう。図書庫の城邦の包囲はしばらく続いていたが、備蓄があったのと海路を封鎖できていなかったのもあってあまり有効打にはなっていない。外征将軍の最後の指示書は忍び込んで火を放つというもの。成功すれば図書庫の一部を焼けるかもしれないが、逆に言えばその程度だった。

 

「……よくまあ、ここまで押し返したものだ」

 

そう呟き、私は扉を開けて紙を戦闘審判の担当者に渡した。

 

そこからの流れは確かに大変だったが、学徒たちは安堵していた。もちろん最後まで気を抜かなかったのでそこはちゃんと評価しよう。最終的に作られた講和条約も、まあ悪くないように見える。これでできた新体制は、半世紀ぐらいなら持つだろう。それまでに武器の開発がどれだけ進むのかについては私でもカバーしきれない領域になったので、これで終了としよう。

 


 

「半月に渡って、君たちはよく戦った」

 

手元にある学徒たちの感想というか自己分析レポートを確認し、私は黒板の前に立って言う。

 

「君たちは、おそらく図書庫の城邦の中でもかなり経験を積んだ計画者としての技術を手に入れたはずだ。自分の限界を知った人もいるだろうが、もしそうだとしたらむしろ誇るべきことだ」

 

まあ、全力を知ってしまうと全力を出せばぎりぎり間に合うタイミングまで怠けるようになるからあまりいいものではないのだけれども。

 

「さて、この訓練はあくまで架空のものだ。痺因で物体を多少動かすことはできても矢のような速さで飛ばすことはできないし、無線機の場所を特定できるだけの技術はまだ進んでいない。しかし、いかにして問題を捉え、相手の意図を見抜き、対策を用意し、実行するべきかという基本的な流れは何が相手でもそう大きくは変わらない」

 

そうでなければ、もっとリアリティのある設定にした。まあでも北方の鋼売りたちがこの内容を精査すれば自分たちの手元にあるもので痺弓と似たようなものを作れることに気がつくかもしれない。たぶんそれが今回の訓練で使ったほどの威力になるまでは長いだろうが、単純な火縄銃とかでも戦争を変えることはできるのだ。

 

「君たちの先達である身として、後進を任せられるほどに成長してくれたことを嬉しく思う。詳しい話は後で審判や侵攻軍側の人達から聞いてくれ。ああ、それと最終分析の学徒側作成担当者は今のうちに原稿を作っておくこと」

 

机に突っ伏しているその担当者がゆっくりと上体を起こして私を見て、力を抜いてまた机に倒れ込む。大丈夫かな。ちょっと痛そうな音がして周囲から視線が向いているけど。

 

「まあ私もこれから指示書を全部まとめて文字版印刷に回す用の文章書いて説明用の図を書いて両者の兵数の変動とかを分析しなくちゃいけないので、まあ、頑張って」

 

そう。というかこういうのはこの後の分析が大事なのである。もちろんそれは学徒がやるべきじゃないのだけれども。自分でダブルチェックするのはしないよりマシかもしれない程度なので。あとはまだ学徒の皆さんは知識の偏りとかが否めないのでね。

 

「……ひとまず、お疲れ様だ。十分に休息を取ること。体調の不良があれば医学師に言う事。数日はのんびり過ごすべきだ。友人と遊びに行くもよし、一人で本を読むもよし」

 

こうでも言わないと思い詰める人がいるからな。本当は休むよう命令したいのだがその権限はないし命令程度で止まるようなやつらじゃないし。

 

「ただ、君たちが対応した敵はそうとう手強いように設定したとは言っておこう。君たちが勝ったのは、間違いなく実力だ。審判として偏った判断がなかったかは精査しないといけないが、今のところ見つかっていない」

 

学舎の部屋のなかが少しざわめく。本当はもっと褒めたいが、ちゃんとまとめ終わってからにしよう。正直な所、政治面ではここにいる人達は私以上の実力を持っていると思うので私がこういう総評をしていいのかはちょっと怪しい気もするけれども。



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卒業

「どうでしたか、この四年間は」

 

最終面談として、私はもう学徒でなくなった司女見習いに書類を渡して言う。あ、いや論考が認められて司女になることが内定しているんだった。

 

「とても有意義でした。キイ先生が引退することを悲しく思います」

 

「そうだね。今後の進路は?」

 

「南方での印刷機導入の補助として数年ほど派遣される予定です」

 

「そう。ああ、こちら私の連絡先。手紙とかならこれで届くはず」

 

私書箱みたいなものを「総合技術報告」の編集所に作ってもらった。今後、私が関わらなければならない案件については一旦ここを通してもらうことになる。それは私がいなくなっても、しばらくはそうだ。一番知識が集まる場所としてあそこはうまく機能してくれている。今の編集所長が育てている次の世代もうまくやってくれるだろう。

 

「ありがとうございます。それでは」

 

「もし図書庫の城邦に帰ってきて話したくなったら、声をかけてくれれば行きますよ」

 

「私の方から訪ねさせてもらいますよ、そういうときは」

 

「ならよかった。では」

 

「お元気で」

 

「あなたも」

 

そう言って、卒業生は部屋を出ていった。

 


 

「あの長髪の商者から頼まれているものがあってね」

 

商会から来ていた元学徒に私は紙の束を渡す。

 

「君が言っていた各地での有用動植物調査の案についての改善案と、関係者への紹介状だ」

 

「……覚悟はしていましたが、まさかここまでしてもらえるとは」

 

頭領府外交局局長は別にお飾りと言うほどでもないが、ツィラさん経由で事前に話を通しておけばケトがいなくても問題なく話ができる相手だった。これは私の仕事だからね。一応ケトにも正当な報酬を払って手伝ってもらったが、私が渡したのと全く同じ額が共用の資金保管場所にしている商会の手形管理所に振り込まれていた。

 

「調査計画における人選についてはある程度君に任されている。必要であれば信頼できる船の民の人物を紹介しよう」

 

「名前だけ聞いておきます。あとは自分でやるので……ところで、これは?」

 

「今の時点で確認できている可能性のある動植物の一覧。そっちは標準意思疎通確立手続の案」

 

ファーストコンタクトが行われることに備えて、感染症の予防と敵対意志がないことを示すための基本的な流れを纏めておいたSETIとかのノリに近いものだ。ここらへんはケトと出会った時の経験が役に立っている。まあ、この世界ではコロンブス交換みたいなものはもう少しゆっくり、被害も少なく行われていたらしいが。

 

「あとは君がここで学んだことを発揮するだけだよ」

 

「……がんばります」

 

多分十年ぐらいかかるだろうが、まあできなくはないだろう。壊血病が問題になったらすぐに対応するようにはするけど、原因と対策はそう遠くないうちに発見されるはずだ。

 


 

「……論考を二つも仕上げてくるとは思わなかったよ」

 

「裏のほうはそこまでしっかり作っていないので、あまり自慢できたものではありませんがね」

 

この量地司の学徒は明らかにツィラさんの系列の人だったので色々と技能を仕込んだのだが、そのおかげもあって一介の量地司として各地の調査を行うことが決まっていた。

 

「そうは思わないね。表の方も幾何学的に面白い内容だったし、裏の方もいい」

 

彼がやったのは市場価格の統計分析による経済状況の推定についてだ。測定分野で使う統計学を応用してこういうことをしてくるのは知識としてはあったが、実際のデータをもとに論じていたので高評価。文章が甘いところはあったが、アプローチがいいので問題はない。

 

「キイ先生にそう言ってもらえるのは嬉しいですね」

 

「しかし、君は目的を隠して、人を騙して今後働くことになる。それについて、心理的な問題はあるかい?」

 

「いえ?」

 

まあ、ツィラさんが「刮目」のそれなりに重要な地位につける人物の候補として送り込んできたのだ。そこらへんはちゃんとできるだろう。

 

「ならいいか。あの人によろしく」

 

「あまり会わないと思いますけどね」

 

そう言って、その学徒はニヤリと笑った。

 


 

「……お疲れ様です、キイさん」

 

最後に来たのはケトだった。

 

「待っててくれたの?」

 

「ええ」

 

私の向かいにその学徒は座る。

 

「……ところで、何で論考を書いたの?」

 

「学んだことを形にしたかったので」

 

ケトは政治的なあれこれをやる裏でちゃんと学んでいた。正直そこまで余裕のあるカリキュラムを組んだつもりはなかったのだが。

 

「内容としては、ちょっと危ないものだよね」

 

ケトが分析したのは、なぜ衙堂の活動が許容されているかというもの。頭領府は古帝国を引き継いでいるという正当性を示す理論があるけれども、衙堂にはそれがない。確かに庇護を受けたり税制面で優遇されていたり行政が委任されていたりするが、それを正当化する理由はない。

 

「結局は必要のために、という陳腐な結論になってしまいましたが」

 

「いや、こういう試みは大事だよ。もし衙堂を解体して、その業務を頭領府に任せようとしたら相当大変なことになるし、人員は司士や司女をまるごと使うことになるはず」

 

その過程で失業者も出るだろうし、混乱は避けられない。とはいえこの論考は面白いので信頼できる衙堂の関係者に見せてある。というか既にケトが聞き取り調査をしていたので結構知っていた。

 

「それで、あなたはこの先どうするつもりですか?必要であれば紹介状を書きますが」

 

「そうですね、『図書庫の中の図書庫』で歴史の研究をする人物の補佐とかをしたいです」

 

「……わかりました。よろしくお願いします」

 

仕事の話は、仕事の話。

 

「じゃ、帰ろうか」

 

「ですね」

 

私たちは荷物をまとめて、部屋を出る準備をした。



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封緘

外套を羽織って道に出る。涼しい風が私の白くなってきた髪を撫でる。

 

日がどんどん昇っていって、街が少しづつ活気を持っていく。屋台で今日の朝食を古報知紙に包んでもらって、立ち食いしながら図書庫の城邦の名の由来である大図書庫に向かう。

 

「おはようございます、キイ師」

 

夜警の人がいつものように眠さを感じさせない顔で私の見せる木札を確認する。

 

「おはようございます」

 

私はそう言って、頭を下げる。天井に這わされた電話線に沿って向かうは「図書庫の中の図書庫」の隣に作った一室。私の生活費は商会から顧問料として手に入れているし、ケトの給与も合わせれば生活する分には困らない。

 

さてと、と私は今日の分の巻子本を開く。ここしばらく纏めているのはこの世界における疫病の歴史。理想であれば病原体を分析したいが、それができるまでには時間がかかるだろう。微生物の冷凍保存の研究が「総合技術報告」に載っていたので、血液採取装置を作って保存するような案を後で書いておくことにする。

 

こうやって色々と分析していると、この世界は決して停滞していたわけでは無いことがわかる。確かに古帝国の緩やかな崩壊によって多くのものが失われた。それでも人々は様々な工夫を重ね、新しい方法を試してきた。水車の導入。農法の改良。穢れに似た概念を利用した隔離。酸と塩基という分類法。木版の活用。私がやったことは、そういう積み重ねの上に成し得たものだ。もちろん、飛躍的なものであることは否定はしないが。

 

「……ただ、これはなぁ」

 

私は休憩がてら、手元の草稿をぱらぱらとめくる。いつの間にか昼前になっていた。この内容は、今の技術水準ではどうやっても書けない代物だ。この内容を証明するだけでも複雑で精密な測定装置を一から作る必要がある。そのための蓄積は、たぶん百年ぐらいかかるかな。

 

そう考えていると、電話機の電鈴(ベル)が鳴る。

 

「はぁい」

 

「キイ嬢?」

 

歪んだ声で聞こえるのは馴染みの薬学師の声。

 

「はいはい、今行くよ」

 

受話器を戻して、本を片付けて、草稿を木の箱にしまってから部屋を出る。一応部外者閲覧禁止の資料だからね。そういうところはちゃんとしておかないと。

 

「ごめんね、待たせて……って、ケト君も」

 

「商会の方から荷物届いているってあったので取ってきましたよ」

 

「やった!」

 

注文の品は少し細工が難しいかと思ったので北方の職人に図面とともに渡しておいたのだ。

 

「……例の箱の錠か?」

 

トゥー嬢がケトの手元にある包みを見て言う。

 

「よくわかりましたね」

 

驚いたようなケト。

 

「箱の中の空気から煆灰質を抜き取る方法を求められてな」

 

「どうするんですか?」

 

「鉄粉と水を紙袋の中で混ぜるだけだ。鉄が錆びる時に煆灰質と結合する」

 

「ああ、なるほど」

 

つまりはただの脱酸素剤である。そう難しいものではない。

 

「……で、何を入れるんだ?」

 

「それを秘密にしたいからわざわざ錠をつけるんだよ」

 

私は答えて、応接間のような空間に私は二人を案内する。ケトはともかく、トゥー嬢はクリアランス的に私の作業部屋に入れないのでね。さらりと守衛が静かに立っているので一礼して、二人には部屋で待ってもらって私は箱を持ってくる。

 

「錠を貰える?」

 

「はい」

 

受け取った時に確認したのか、開けられていた包みからケトは金属製の部品を取り出す。構造としては三桁の数字を合わせれば開く、シンプルな番号錠だ。たかだか1000回の試行で開くのでセキュリティとしては甘いが、これはむしろ鍵をしてあること自体に意味があるので問題ない。

 

規格化された尺に合わせてあるので、問題なく箱に開けておいた空間に鍵がすっとはまる。留具をかけて、たぶんこれで問題はない、と。箱を閉めて、開かないことを確認。

 

「大丈夫そうですか?」

 

「たぶん」

 

ケトの声に答えて、私は数字を合わせる。1、3、7。引き金を動かして箱を開けられるようになる。よし、ちゃんと頼んだ通りに動いてくれている。

 

「完璧だ。後で感謝の手紙を書かないと」

 

構造としては単純だ。回転する円盤に溝が彫ってあって、数字を合わせると軸が動かせるようになる。

 

「この箱にトゥー嬢の作ってくれた包みを入れて、蓋を閉じれば百年ちょっとなら持つはず」

 

実際のところ脱酸素剤がどこまで有用かはわからないので裏で実験しておく必要はあるけれども、まあこれで最悪なんとかなるはずだ。

 

「ケト君、もし私が倒れたら指示書を残しておくのでそれに従ってこの箱に私の書いたものを入れて、信頼できる人に渡して」

 

「わかりました」

 

よし。これで私が最低限やらなくちゃいけないことは終わった。

 

「……なるほど、そういうやり方で取り扱いの難しい知識を先の世代に渡すのか」

 

トゥー嬢は一瞬で私の意図を見抜いたようだ。

 

「そう。この箱を開ける謎解きが理解できるようになる頃には、この草稿を活用できる条件が整うわけ」

 

微妙な調整だが、多分うまくいくだろう。私の知る科学史の知識と照らし合わせても、その力の意味を理解できて、かつすぐには実用化できないというちょうどいいタイミングでこの箱は開けられるはずだ。問題は謎解きの意味が理解されてすぐに開けられるかどうかだが、まあこれは誰かがいい方法を思いつくだろう。



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第28章解説

ここでは語り部であるキイが自明であるとして説明しなかった箇所や、作中では直接言及できない部分についての解説をします。物語は一応一段落ついたとはいえ、今後こっそり過去の投稿が編集されて説明が追加されることがあるかもしれません。毎回ここのコメントを変えていたことに気がついているような読者向けになりますので、あらかじめご了承ください。


支配

壁に貼られているのは、緯度の間隔からすると正角円筒図法だろうか。

メルカトル図法とも呼ばれる。これを作るためには級数や球体幾何学の知識が必要なので、その方面でもキイは驚いている。

 

私が指差すのはマガリャネス海峡とか希望岬みたいな雰囲気がある地点。

マガリャネス海峡はポルトガル語読みでFernando de Magallanes(フェルナン・デ・マガリャンイス)、カスティーリャ語ではFernando de Magallanes(フェルナンド・デ・マガリャネス)、英語風ならFerdinand Magellan(フェルディナンド・マジェラン)、日本においては慣用的にマゼランと呼ばれるポルトガル王国出身のスペイン帝国の探検家にちなんだもの。南アメリカ南端とフエゴ島との間にある。

 

希望岬はポルトガル語のCabo da Boa Esperança、あるいは英語のCape of Good Hopeの直訳。一般的には喜望峰と呼ばれる。希望が喜望になるのはまだ許せるが、何がどうすれば(みね)(みさき)になるんですかね?

 

泡沫(バブル)。大恐慌。世界金融危機。

キイが意識しているのは南洋会社(The South Sea Company)の株価の急上昇とその後の株式市場の暴落を指す南海泡沫(South Sea Bubble)事件、1929年の「暗黒の木曜日」から顕在化したアメリカ合衆国の株価急落がもたらした大恐慌(The Great Depression)、サブプライム住宅ローンの不良債権化がもたらした損失によるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス経営破綻が引き金となった世界金融危機(Global Financial Crisis)

 

戦争

Dell'arte della guerra(戦術論)とか、Vom Kriege(戦争論)とか、

Dell'arte della guerra(戦術論)はニッコロ・マキャヴェッリによって書かれた、現実主義と歴史をもとに書かれた軍事学の本。Vom Kriege(戦争論)はカール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツの遺稿集。いずれも軍事学、そしてマネジメントにおける古典的名著である。

 

もし狂った相互確証破壊がなければ戦火は拡大していたのかもしれないが、

相互確証破壊(Mutual Assured Destruction)のアクロニムがMADだというネタ。

 

絶対戦争。総力戦。最終戦争。

絶対戦争はカール・フォン・クラウゼヴィッツが、総力戦はエーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフが、最終戦争は石原莞爾がそれぞれ提唱したモデル。

 

統制

Электрификация всей страны(全国土の電化) - это(それは) коммунизм(共産主義) минус(引く) советская власть(ソビエトの権力). というわけだ。

Коммунизм - это есть Советская власть плюс электрификация всей страны. Иначе страна остается мелкокрестьянской, и надо, чтобы мы это ясно сознали. Мы более слабы, чем капитализм, не только в мировом масштабе, но и внутри страны. Всем это известно. Мы это сознали и мы доведем дело до того, чтобы хозяйственная база из мелкокрестьянской перешла в крупнопромышленную. Только тогда, когда страна будет электрифицирована, когда под промышленность, сельское хозяйство и транспорт будет подведена техническая база современной крупной промышленности, только тогда мы победим окончательно.

 

(共産主義、それはソビエトの権力、プラス、全国土の電化である。さもなくば、この国は小作農の国のままだと言うことを我々はしっかりと認識せねばならない。我々は資本主義よりも弱い。世界を見ても、国内を見てさえも。誰もが知っている。我々は理解した上で、経済基盤を農業から大規模産業へと転換するのだ。国内が電化され、工業、農業、輸送が近代的な大規模産業の技術的基盤のもとに置かれて初めて、我々は決定的な勝利を手にするのだ。)

 

──1920年11月21日、ウラジーミル・イリイチ・レーニンによる演説より。拙訳。

 

彼のこの発言はこの演説の一ヶ月後に採択されるГосударственная комиссия по электрификации России(ロシア国家電化委員会)が率いる計画、ГОЭЛРО(ゴエルロ)プランとして後の五カ年計画のモデルとなった。これは多くの問題があるあらっぽいものではあったが、その後のソ連の「科学的」計画経済の重要なプロトタイプである。

 

ところで「共産主義 $=$ ソビエトの権力 $+$ 全国土の電化」であるならば、両辺からソビエトの権力を引くことで全国土の電化のためには評議会(ソビエト)による独裁体制を排除する必要があることが当然の帰結として導かれる。実に科学的だ。

 

整理

保存されているだけいいとしよう。

なお私たちの世界では国立産業技術史博物館の資料となるはずだったものは保存すらされなかった。かなしい……。

 

密会

ああその、婉曲ではなくて。

「知る」という動詞は聖書で性行為を暗喩させるために用いられる。

 

惚気

かくして編集者が鎌を持って原稿と魂を刈り取りにやってくるのだ。

Publish or Perish(出すか、去ぬか)という言葉が元ネタ。もちろん、長期的スパンでの研究が必要な業界でこんなことをしてはいけない。

 

導入(Introduction)方法(Methods)結果(Results)そして(and)考察(Discussion)

IMRaDと呼ばれる学術的文章のスタイル。「規格化」されたのは1970年代。

 

好意

これは染色体モデルという答えを知っていないと作れないものなので、表には出さない。

トーマス・ハント・モーガンとアルフレッド・ヘンリー・スターティヴァントが示した遺伝地図のようなもの。ショウジョウバエの世代サイクルは10日弱なのでこういう研究ができるが、植物の場合は時間がかかるので一気に難しくなる。

 

私が課題でやったのはただのOSINTだ。

Open-Source INTelligence(公開情報諜報)の略。第二次世界大戦頃から使われていたが、活発になったのは冷戦期。

 

侵攻

戦場の霧のかかっていない卓上の大きな地図と駒。

戦場の霧(Nebel des Krieges)はカール・フォン・クラウゼヴィッツが提唱した概念で、戦場における不確定要素の比喩。

 

ジズヤに近い。

جزْية(ジズヤ)はイスラム教における「啓典の民」と呼ばれる許容される異教徒に対し追加で課される税。名目上は庇護(ズィンマ)のための税であった。

 

総評

まあ、J/ψでも赤い方でもない11月革命みたいなものである。

J/ψ中間子、あるいはチャーモニウムはサミュエル・ティン率いるブルックヘブン国立研究所とマサチューセッツ工科大学のチームが発見したJ粒子とバートン・リヒター率いるローレンス・バークリー研究所とスタンフォード線形加速器センター(今のSLAC国立加速器研究所)のチームが発見したψ粒子のこと。どちらも同じもので、1976年の11月にほぼ同時に報告された。この粒子の発見はそれまでの理論的な予測を裏付けるとともに新しいクォークの存在を証明するものであったため、チャーミングなものであった。なのでこれを構成するクオークはチャームクォークと呼ばれる。この出来事を11月革命と呼ぶことがある。

 

赤い方の11月革命は1917年の11月に共産主義者たちに率いられた労働者や兵士によって起こった革命のこと。田舎のロシア帝国はユリウス暦とかいう古い暦を使っていたので時期がずれていて、十月革命という呼ばれ方のほうが有名。

 

この二つではない方の11月革命というのは第一次世界大戦末期に起きたキール軍港での反乱を引き金に起こった革命とそれによる帝政廃止のこと。これによってドイツは降伏することとなった。

 

卒業

SETIとかのノリに近い。

地球外知的生命体探査(Search for Extra Terrestrial Intelligence)への考察の中で意思疎通用の言語を作ろうという試みとしてLincosというものが作られていたり、「地球外知的生命の発見後の活動に関する諸原則についての宣言」が国際宇宙航行アカデミーで承認されていたりする。まあ基本的にはこの小説の最初の方でキイがやったことみたいなやつ。

 

封緘

「鉄粉と水を紙袋の中で混ぜるだけだ。鉄が錆びる時に煆灰質と結合する」

この時に出す熱を使うのが使い捨てカイロの原理。

 

1、3、7。

Sommerfeld, Arnold Johannes Wilhelm. "Atombau und Spektrallinien". Atombau und Spektrallinien, F. Vieweg & Sohn, 1921, p. 242. ではこの数字の逆数に当たる数が有効数字3桁で出ている。



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補記
項目


出典となった文献の執筆時期は同一ではないことに注意して下さい。一部固有名詞はフォーマット上の問題により表示されない場合があります。



 

──は「図書庫の城邦」で活動した█████時代の薬学師。██████ ████の長女として生まれ、家庭教育にて薬学を学ぶ。父の政治的失敗と死ののち、数年間にわたり基本的な定性的薬学反応の研究に注力、「基本的反応の総覧」を執筆。その後は当時発見されたばかりの痺気の活用により複数の単一基質の単離などを成功させ、その研究を「基質の分離と分析」としてまとめた。

 

彼女の扱った分野は分析手法の確立、銀絵の改良、単一基質比例結合仮説など幅広く、また定量的手法を早期に導入したことも高く評価されている。

 


 

──は「図書庫の都市」を拠点とする総合的な機器製造企業。新帝国加盟地域のほぼ全てに支社を設置している。測定機械、分析機械、精密加工機械の分野において新帝国内の製造機械市場占有率一位。██████時代に██ ████████商会の製造・研究部門が独立したものが起源。

 

研究開発にも力を入れており、亜金属質結晶素子の研究では最先端。附設の研究機関に所属していた著名な人物としては階段仮説の提唱者である███████████や集積演算素子の開発で知られる██ ██ ██████████████がいる。

 


 

──は書体の一つ。文字版印刷機が利用された最初期に使われたものであり、当時「図書庫の城邦」の衙堂で書字長をしていた██████によって作成された。それまでの巻子本に使われていた書体の格式を保ったまま、並べられた時に読みやすい文字体として設計されている。文字版印刷の揺籃期に多くの書籍で用いられたため、今日でも学術的文書の書体としてこの改良型が用いられる事が多い。

 


 

──は新帝国で公式に採用されている規格体系。起源は「図書庫の城邦」の印刷物管理局が作成したものであり、基本的な単位や部品の寸法から設計及び製造の工程、安全環境基準や各種の手法まで広範な内容にわたっている。規格の内容は新帝国発案所持権法によって公開されている。

 


 

──は聖典語正書法改定を目標として行われた会議。文字版印刷機の発明によって聖典語文書の流通量が急激に増加し、それと同時に各地の衙堂で用いられていた聖典語の俗用法などがまとめられるようになったこともあって策定された。

 

文法要素の単純化、音綴一致の原則、造語法の指針作成などによって聖典語は広範囲で用いられる学術用語となることができたため、この会議の前後では異なる言語として扱うべきだという議論もあるが決して広く受け入れられているわけではない。

 


 

──は新帝国加盟地域の一つであり、共和的企業統治が行われている。中心都市は█████████████ ███。南西を██████████海に面し、寒冷だが地下資源に富んでいる。主要産業は鉱業、製造業。古くは傭兵で知られた。

 

統治企業の中でも最大の█████████ █████████(北方平原語で「鋼売り」)は新帝国参与後に鋼軌条の生産や抗錆鋼の発明などによって市場規模を急速に拡大し、今日では新帝国内でも有数の採掘・鉄鋼企業となっている。

 


 

──は最初の機械式離散情報処理装置。当時「総合技術報告」の編集所長であった██████████によって提唱された理論に基づいて設計されたもので、この装置の作成の過程で規格化部品の製造が推し進められた。

 

事務処理に用いられることを想定して制作されており、高い汎用性を持つ。その基本構想は、今日の情報処理装置とほとんど変わるところがない。後には磁気帯を記録装置として、亜金属質結晶素子を処理装置として使った改良型が作成された。

 


 

──は日刊の学術論考集。論考集としては最も古い歴史を持つ。かつては権威的とみなされていたが、今日では実験結果の蓄積と報告を主とする方針に切り替わっているためその影響力は小さくなっている。しかしながらその正確性と整理された情報の量は高く評価されている。

 

起源は図書庫の城邦で████████████らによって作られた「総合技術報告」に遡ることができる。「総合技術報告」時代に作られた編集長と編集所長の二頭制の編集方針は本論考集の専門性と広汎性を両立させる方法であるとして後の学術刊行物の発行でも取り入れている例がある。

 


 

──は当時図書庫の城邦の頭領であった███████████ █████によって行われた宣言であり、今日の新帝国の起源とされる。ある地域に住む人々たちにとって明示的に、あるいは暗黙的に承認された統治組織同士による連合についてのこの宣言は貿易、産業、単位、法体系などの広範囲の領域にわたっての統合を目標としたものであった。新帝国の戦乱拡大の可能性や分裂の危機を受けて改正が重ねられており、今日でも多くの問題が指摘されているが長期的平和と安定に大きく貢献しており、その先進性はその後の広域政治に大きな影響を与えた。

 

今日、世界中のほとんどの地域がこの宣言に基づく参与地域、あるいは陪参地域である。

 


 

──についての項目はまだ執筆されていません。

 



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痕跡

「それで、数日前からの謎は解けたのか?」

 

俺は表示面を睨みつけているこいつに声をかける。驚いたような声がしたまでの時間から考えるに、相当深く考え事をしていたらしい。

 

「いいえ、全く。暇?」

 

「ああ、緊急の用事はない」

 

「それはいい、話に乗ってほしい」

 

そう言ってこいつは操作卓を軽く叩いた。

 

「異哲派について、どれだけ知っている?」

 

「お前の研究対象だろ?」

 

「いいから」

 

「……新帝国が成立する前後の時代に活動した知識人たちの一派。『図書庫の都市』……ああ、当時は城邦か?を中心としていたが、活動範囲はもっと広い。一般的には文字版印刷の発展が情報の飛躍的なやり取りを可能として、それまで分散していた知識が纏まった、とされている」

 

「教本的な正解なら、それでいい」

 

「で、それは?」

 

「これは当時の人物の関係図。見にくいのはごめん」

 

表示面には人名とその間を結ぶ線が描かれている。

 

「重要人物の可能性があるのは彼なんだけど」

 

そう言って、こいつはその名前を中央に出した。ケト。

 

「どういう人物なんだ?」

 

「異哲派の政治家。とは言っても今日のように選抜とか推薦とかじゃない。衙堂側の古い資料によれば北方の調査によって若くして司士となっている」

 

「へえ」

 

俺は特に感情を込めない返事をする。

 

「彼は当時かなりの有力者と繋がりを持っていた。各所で保管されていた当時の書簡やら何やらをまとめていたんだけど、度々名前が出てくるんだよ」

 

「それぐらいならよくある時代の中心人物だろ」

 

「彼には立場というものが薄かったはずなんだよ。確認できる肩書は基本的に常に誰かの名代としてだけ。ああいや、『総合技術報告』では詩人だったな」

 

「あの表紙の?」

 

「そうだ。というか多分それを最初にやったのが彼だと思う」

 

「へえ。なるほど、彼の裏に大物がいた可能性があるのか。あの時代というとあの女性の頭領じゃないか?」

 

「彼女が生まれる前からこの司士は活動しているんだよ。で、多分キイという人が彼の上司だと思うんだけど……」

 

「名前がわかっているだろ、ならお得意の文字認識の全文検索でいいじゃないか」

 

「……少ないんだよ、見当たる数が」

 

「……特異的か?」

 

「おそらく。ただ、面白いことに彼女を写した銀絵らしきものは残っている」

 

「当時は銀絵ってあったか?」

 

「流行り始めた頃だ。ただ、その銀絵はもっと古いけれども」

 

表示されている内容が切り替わる。トゥーヴェ資料群。名前ぐらいは薬学を真面目に学んでこなかった俺でも知っている。

 

「これは、おそらく最初に撮られた人物が写った銀絵。今までの定説と違って、最初に銀絵を作ったのがトゥーヴェかもしれない」

 

「……最初?」

 

「裏の日付とトゥーヴェの仕入れ簿を比較した」

 

「なるほど。……キイというのは女性か?」

 

俺は三人が写った表示面を見て言う。青年と、二人の女性。真ん中の人がトゥーヴェで、ケトというのが司士なら残るは一人だ。

 

「そのはず。それに『図書庫の城邦の司女、キイ』と書かれている文書があった。だけど衙堂側の名簿にはない」

 

当時を知る資料として衙堂のそれは質がいいとされている。それに載っていない人間が、司女を名乗るのは少し苦しいところがある。

 

「……奇妙だな。消されたか?」

 

「その可能性は高い。算学的分析は……苦手だったな」

 

「これに写っている内容ぐらいならわかるがな」

 

同時代の他の人物と比べて、どれだけ言及数があるかの分析だ。確かにキイという人物についてはほとんど語られていない。

 

「で、ケトの周りで消された人物の痕跡を調べた。職名が示されているけど、誰が実際にその職にいたかわからないようなものをね」

 

「結果は?」

 

「誰かいる。ほぼ間違いなく。文字版印刷に関わり、商会に影響を与え、府中学舎でおそらく教えていた人物だ」

 

「なぜそれだけの人物が消されたんだ?そしてなぜ消されたことに気がつかなかったんだ?」

 

「消された理由はともかく、気がつかれなかった理由ならある。あるものを探すよりないものを探すほうが大変だから」

 

「そういうものかね」

 

「トゥーヴェ資料群の中でも未整理のものを漁って初めて気がついたんだよ?そこにいたのではないか、消されたのではないかと思わない限りまず見つけられない」

 

「……なるほどな」

 

俺はこいつの能力を高く評価している。わざわざ本人の前では言わないが、こういう地道な捜し物をさせたらあの大図書庫中央調査室の奴らよりも腕がいいはずだ。

 

「少し彼女について調べたくて、いくつかの史料が残っていそうなところに連絡を取った。知り合いに異哲派の思想について調べている人がいるから、そういうところにも」

 

「もし特別な理由で存在を抹消された人物だとしたら、こうやって探りを入れるのが危なくならないか?」

 

「物語の読み過ぎかな?」

 

そう言ってこいつは笑う。ちょうどその時に、足音がした。

 

「大図書庫中央調査室のものです。この連絡を下さった方で間違いありませんか?」

 

「そうだけど……わざわざ訪ねてきたの?」

 

やってきた人物が見せる紙に印刷されていた内容は、送られてきた文面だろう。

 

「ええ。キイという人物について、少しお聞きしたいのです。私たちも彼女を追っていて」

 

「面白い。なら皆さん一緒に話しましょう」

 

「皆さんって、俺もかよ」

 

「緊急の用事はないんでしょう?」

 

そう言ってこいつは笑う。まったく。

 

「もしその人物が異哲派に影響を与えている女史なら、歴史がひっくり返るな」

 

「今までの研究が全部無駄になるね」

 

そういう軽口を叩きあいながら、俺たちは来訪者を休憩室に案内した。




「図書庫の城邦と異哲の女史」はこれにて一段落です。とはいえ、あとしばらくはおまけの話を投稿するつもりです。


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おまけ 1
訪問


私は、自分の境遇にそこまで不満を持っていない。

 

父と母は私を愛してくれた。私の先天的に持つ自然への興味を引き出して、様々なことに触れさせてくれた。それがこの図書庫の城邦を統べる人物となるべき人を育成するためのものであるとはいえ、私はそれが嫌いではなかった。

 

そんな事をぼんやりと考えながら、私は大図書庫の通路を歩く。府中学舎に入るための試験を突破して、やっとあの人と会う許可が出たのだ。もちろん、あの人のことは見たことがあるし、あの人の副官と父が話しているのは何度も見ている。

 

「……止まれ」

 

「ああ、身分を示せばいいのですよね」

 

この日のために父に書いてもらった紹介状を守衛の人に見せる。頭領府の印がされた、ちゃんとしたもののはずだけど。

 

「……問題ない。彼女にはこちらから客人が来たと伝えておく。ようこそ、『図書庫の中の図書庫』へ」

 

「ありがとうございます」

 

身につけた作法というものがすっと出るのはありがたい。私はあまりこういう堅苦しいやり方が好きではないのだが、それはそれとしてそういうやり方が威厳とか信頼とか尊敬を得るために不可欠であることぐらいは理解している。

 

あの人の噂は、色々とある。

 

例えば、話を聞いただけで装置の改良点を指摘しただとか。

 

例えば、名のある商者が度々その知恵を求めて訪れるだとか。

 

例えば、若い頃は年下の愛人を連れ回して仕事をしていただとか。

 

まあ、そうは言っても私の母より年上だ。今では表舞台には出ていないし、名前を出されることを嫌うという。ただ、噂とは別にあの人を個人的に知っている人に話を聞いたことがある。父からは若いうちからそういう事に興味をもつのは良くないと言われたが、文字が読めるようになったばかりの娘に「総合技術報告」を読ませていた人の言う言葉ではないと思っている。

 

例えば、秘密主義者。

 

例えば、底の見えない賢人。

 

例えば、知識はあるけど正直言って言われているほど賢いとは思えないというもの。

 

最後の発言をした人はそれでも自分よりは賢いだろうけどと卑下していたが、星の廻りの謎を読み解いた天文学師が賢くないならそりゃあの人もそこまで賢くないだろうな、と妙に納得したのを覚えている。

 

私は、自分の中でいくつか仮説を立てた。この仮説を立てて検証するという考え方も、彼女の弟子によって広められたものらしい。あの人が人を教えていたのは四年程度らしいから、その世代以外は弟子というか勝手に影響を受けたと言う方が正しいのかな。ともかく、私はその仮説を確かめるためにここにいる。

 

さて、と私は紙にしておいた覚書を確認した。扉にある「調査室」の文字に指を向けて、問題がないことを確認。これも時期的にあの人の影響があるはずだ。物心がついた時にはあの人の影響が身の回りに色々とあったので違和感が少ないが、父や母の世代だと変化には戸惑っただろう。

 

私は息を吐いて、手の甲で扉を数度叩く。

 

「……どうぞ」

 

「入ります」

 

私が部屋に入ると、高机の奥で高椅子に座った白髪の女性が目に入った。一瞬立っているのかと勘違いして、背が高いという噂との齟齬に頭が混乱してしまった。座る彼女の隣に立つ男性は、まあ顔見知りと言ってもいいだろう。父の腹心……だと見なされているところもあるが、別に特にそういうわけではない人。

 

「始めまして」

 

「……どうも」

 

「まあ、そこに座って下さい。何か温かいものでも飲みますか?」

 

丁寧な、柔らかい口調で高椅子を勧めてくれる彼女は安心できるが、私が求めているのはあまりそういうものではない。

 

「それでは、お言葉に甘えて。しかしキイ師、私にそこまで気を使わなくても構いませんよ」

 

「あなたの父に、余計なことを吹き込まないようにと言われているので」

 

あくまで表情をあの人は崩さない。まあ、当然だ。こういう視線は向けられ慣れている。ただ、あの父の娘だと見られているのはちょっと不満だ。

 

「私は私です。それに父は大切な長女に心配をかけ過ぎなのですよ」

 

「そうは言っても、あなたはまだ不安定な年齢ですよ」

 

「不安定な年齢の人に、それを言うの?」

 

「自覚しているなら、まあいいでしょう。もしやるなら手加減はするなとも言われていますし」

 

うん。先程の私の発言を訂正しよう。父は私のことを思ったより信頼してくれているようだ。

 

「何かあったら謝るのは僕なので、危なそうなら止めます」

 

「お願い」

 

信頼がおける二人だ。こう仲のいい男女は両親を思い起こさせる。

 

「……キイ師、不躾ではございますが質問をしてもよろしいでしょうか?」

 

「先生でも、嬢でもいいけどね。なあに?」

 

「……キイ先生はどこから来たのですか?」

 

キイという人は議論を好む、らしい。なら年齢と経験に劣る私ができるのは、最初から思いっきり聞くことだ。

 

「私は彼、知ってると思うけどケト君と同郷だよ」

 

「……どこで学んだのですか?」

 

「秘密」

 

「未来から来たわけではないのはわかっているのですが、ではどこから、というのを示す言葉がないんですよ」

 

「まず、どうしてそこまで考えているか、教えてもらっていい?」

 

彼女の口調から来訪者をもてなそうという柔らかさが消えて、対等な相手に向ける誠実ながらも挑戦的なものになった。そうだ。私はこれを楽しみにここまで訪れたのだ。




R-18ではありますが、なぜか二次創作がハーメルンに投稿されています。トゥーキイ、リバ有なので苦手な方はご注意下さい。

私より先に二次創作を書くの許せねぇ……私もR-18のifのやつ書こう。気になる人はもう少しお待ち下さい。


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物語

私は目の前の女性を見つめて、口を開く。

 

「まず、前提を纏めましょう」

 

問題を見出し、解き方を探り、解決までの流れを示す。講師たちから教えられたように、私は思考を整理する。

 

「キイ先生がこの図書庫の城邦に訪れてから、様々なものが生まれている」

 

「そうね」

 

「その中には、まるで答えを知っていたかのようなものもあります。例えば、文字版印刷」

 

「違うよ。もともと木でああいうものを作ろうという考えはあった」

 

「ええ、そういう事になっていますね。そして適切な配合の鉛合金を作り、痺因を使って型を作った。ああ、ちょうどその時でしたっけ、どこかの薬学師が痺因を見出したのは」

 

「そう。誰だったか忘れたけど」

 

とぼけているが、まあ彼女が持ち込んだものだということはわかっている。私に薬学を教えてくれた人が気になって前に色々な人に聞いたそうだ。たどり着けるのはトゥーヴェという薬学師まで。そして彼女はキイの友人だという。トゥーヴェの父と私の祖父の間で諍いがあったらしいが、私の世代には関係のないことだ。

 

「それで、数年で無線通信機ができた」

 

「すごいよね。商会の人たちもよくあれだけのものを作ったと思うよ」

 

懐かしむような、純粋に驚きを思い出すような口調。

 

「白々しい……というわけではない、ですね?」

 

「いや、あれは本当に驚いた。空気を抜く方法を示したとはいえ、私はあれができるのに十年ぐらいはかかると思っていたんだよ」

 

「……そう。キイ先生、あなたはあまり積極的に行動していない。なにか目標があるとそれまでの道は整えるが、その先は他の人に任せている」

 

「無責任みたいな言われようだけど、私だってちゃんと気を配っているよ」

 

「そこなんですよ。逆に言えば、気を配れる範囲までしかキイ先生はやっていない」

 

私の言葉に彼女は動揺した素振りすら見せない。むしろ少し口角を上げて、楽しそうな顔をしてきている。

 

「キイ先生、あなたは未知が怖いのですか?」

 

「いや、未知が好きだからこそ私は手を出していない」

 

「……やはり、あなたの知識にある歴史と異なるものが見たいのですか」

 

「へえ。私とあなたとは歴史を共有していない、と」

 

優しい人だ。私の結論を誘導してくれている。

 

「その通りです。もちろん人によって過去をどう思い出すかは違いますが、そういう意味ではなく、です」

 

「そうだね。君の予想と私の行動に食い違いはない」

 

矛盾のある仮説は否定できるが、矛盾のない仮説には何も言えない。矛盾を生もうと問いを重ね続けて、それでも耐えた仮説を信じるしかできない。私の仮説は、証明できないものだ。もしそれを彼女が認めてさえも、それが虚偽ではないという根拠がないから。

 

「それを表す言葉を、キイ先生は知っていますか?」

 

「……ケトくん、いい?」

 

私に答えるのではなく、彼女は隣の男性に小さく声をかけた。

 

「……あれ、初めてですか?」

 

「そうだね。私の過去を正面から探ろうだなんていう人は今までいなかったから」

 

つまり、私以外の人は察するに留めていたということだ。私よりきっと賢い人たちなのだろう。

 

「……その、もし駄目でしたら無理にとは言いません。二人の話でしたら、その、出ましょうか?」

 

自分でも文をうまく撚る事ができていない。意外なところで会話を邪魔してしまって、やってしまったという後悔と謝罪しようという考えが先に出てきてしまう。ここは私のまだ幼いところ。

 

「……いいや、ちょうどいい。次にこの図書庫の城邦を率いるあなたになら、伝えるのもいいですね」

 

「……まだ、そう定まっているわけではないのですが」

 

「そうでしたね、これは失礼を」

 

彼女は丁寧に頭を下げた。こちらが申し訳なくなってくるぐらいだ。ああ全く、自分の調子を崩されてしまった。これでは勝てない。

 

「それで、その言葉ですが」

 

彼女は、ある単語らしいものを口にした。頭の中で六文字に無理やり置き換える。

 

「……何語ですか?」

 

「その言葉の名前を言っても、あなたは多分わかりませんよ」

 

私はそれなりに他地域の言葉を学んでいる。そういうのが得意だし、好きだ。色々な場所の言葉を知って、本を読んで、話を聞くことは自分の愚かさを見つめ直すいい機会になる。で、その私相手に理解できないと言うのだ。つまり、根本的に違うと言っていい。

 

「孤島に浮かぶ島……違いますね。全く違う場所……惑星?」

 

「まあ、近いですね。一ついいことを教えてあげましょう。これはケト君と共有していた秘密なのですが、私が生まれた場所は、ここと星の並びが違います」

 

「……ああ、別の物語なのですか」

 

私はどうにかしてそれらしい言葉を引き出す。大地球と言ってもここ以外の大地球を想像することができないし、多分彼女がいたところから見て私達がいるところは、私達がいるところから見た彼女のいたところのようなものだと思う。対称性、でしたっけ。

 

「いい言葉ですね。そうです。私は異なる物語から来ました」

 

彼女は嬉しそうに言った。それは、ずっと探していたものが見つかったような声色だった。



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方法

「……そうすると、あなたの今までの行動に一貫性が出てきます」

 

楽しい。今まで聞いていた彼女の情報が一つに繋がっていく。

 

「異なる物語に紛れ込んだあなたは、介入を最小限に、それでいて物語を加速させるような試みを行った。それが文字版印刷で、無線通信機で、新しい考え方だった」

 

「そういったものの中に『考え方』を入れるのはどうして?」

 

「……そうですね。まず、私がキイ先生の謎を解くために使った考え方を思い出すとそれは比較的新しい考え方だということがわかります。具体的には、キイ先生が教えたような世代の若い講師たちの使っているやり方ですね」

 

「なるほど、確かに時期的には一致するね。でも二つ謎が残るよ」

 

「二つ、ですか?」

 

彼女は答えを知っているから、先の見えない私と違って問題を俯瞰できるのだろう。その視点を借りているのは少し癪だけれども、これは自分の問題だと割り切ろう。

 

「私がなぜそのような考え方をしたのか。そして、それをなぜあなたが文字版印刷や無線通信機と並べるほどに重要視するのか」

 

落ち着いて、呼吸をする。後者のほうは自分が今まで考えていたことをまとめればいい。前者の方は、推測しかできないだろうが答えになりそうなものはある。

 

「あなたがそういう考え方をしたのは、それが自然だったから。かつていた物語では、様々なものがこちらの物語と異なって、あるものは発展していたのでしょう。それだけ多くの問題が生まれて、それを解くためのいい方法を導く必要があった」

 

「あ、逆。問題の解決方法のほうが先で、それができたからこそ発展が……」

 

そこまで少し早口で言って、彼女はきまりが悪そうな顔をした。

 

「……もしかして、かつての物語でも歴史を調べていたんですか?」

 

「……どうしてそう思うの?」

 

たっぷりと時間を置いて、彼女が口を開く。

 

「……語り口が、講官とかが専門分野を語る時のそれだったので」

 

私の答えに彼女は私からすっと目をそらして、隣の男性の方を見た。彼は諦めなさいと諭すように静かに首を振る。今まで憧れというかずっと会いたかった人のこういう所を見れるのは、なにか胸が変な感じになるな。悪い気分ではないけれども。

 

「ええと、二番目の謎について答えていいですか?」

 

「……どうぞ」

 

彼女は軽く首を振って、体勢を整え直したようだ。

 

「文字版印刷で何を刷るか?無線通信機で何を伝えるか?キイ先生はそこにはあまり注意を向けていないように見えます。しかし、そこで伝える内容をどう作るかは考えているように私には思えます」

 

「あなたは、そう考えるんだ」

 

「私は、そう考えます」

 

これは多分、私が事実と自分の意見とを切り分けられているかの確認だろう。

 

「……私がこの物語に持ち込んで、一番その広がりに驚いているのは確かに『考え方』だよ。数字の書き方とか、計算式の表し方とか。できるだけこっち側の物語に馴染むようにしたけど、だから、だったのかな。それは一気に広がって、様々なものに使われるようになった」

 

そう言う彼女からは、秘密を話せた安堵を感じることができた。こういう人を見る目は色々な人に学んで鍛えている。

 

「……想像を超えて物語が進展していくのを見るのは、どうでしたか?」

 

「楽しくはあったけれども、怖くもあった。飛び入りで劇に入って、その演目を全部壊してしまうような……いや、この言い方はあなたの表現に引っ張られすぎているかも」

 

「……父は、あなたのことを人間だと言っていました」

 

「いや、そうだけど?」

 

「神霊でも悪鬼でもない、助けがなければ何も成せない、そして自分が過ちを犯すのではないかと怯える、ただの人間であると」

 

「……逆に言えば、私は彼にそう見てもらったからここにいれたんだよ。他の物語から来たからと言って、私は万能ではないし、物語の中の問題を見事に解決することなんてできない。間違いもたくさんしてきた。けれども、あの人はそういう私を責任を持って受け入れてくれた」

 

確かに、父はその責任を取って多くの仕事をしていた。彼女がもたらした変化が暴走しないように、あるいは特定の勢力が強すぎる力を持たないように。

 

「……一人のこの物語の登場人物として、来訪者たるあなたには感謝しなければなりません」

 

私は頭を下げる。その意味は知っている。けれども、ここで感謝を言えないような人なら私は将来どころか今の自分を肯定できない。

 

「別に感謝されたくてやっているわけではないです。ただ頼まれたからやった。好きだからやった。必要だからやった。その積み重ねです。最初から目的を持っていたわけではないですよ」

 

「けれども、結果として多くのものが生まれました。赤子は死ななくなり、飢えは減り、病を癒す方法が手に入り、多くの人が本を読めるようになり、そして私は好物の氷菓子を味わえるようになった。最後だけでも、あなたに捧げなければならない感謝は大きいものです」

 

「美味しいよね、氷菓子」

 

「美味しいですよね……」

 

そう言って、私は笑ってしまった。彼女も笑った。隣の彼も小さく吹き出していた。



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依頼

あれから何回かあの人の所を訪ねたが、かつて過ごした物語を教えてくれることはなかった。話してくれるのは断片的なものだけだった。

 

向こうにも図書庫はあったらしい。燃えたけれども。

 

向こうにも古帝国はあったらしい。これはこっちと同じく崩壊していた。

 

向こうでは異なる時代で作られた技術を、あの人はまとめて持ち込んだらしい。

 

向こうでは地の上全てを戦場とした争いがあったらしいが、それについては語ろうとはしていない。

 

まあ、彼女はかつての物語の再演を望んではいない。悲劇は避けるようにするが、結末を自分で作る気はないようだ。それならそれで、私は構わない。

 

「はいキイ先生……って、持っていたんですか」

 

私が持ってきた厚い冊子と同じものが彼女の手の上にあった。

 

「ええ、私の最初の教え子ですからね」

 

「ああ、確か府中学舎第一期生でしたか」

 

キイ先生が教えていた時から色々と変わって、今ではもっと効率よく、そして横断的になっている。毎年のように授業の改良が繰り返されるので、過去の先達の経験が意味を成していない。机上演習だってより複雑になって、過去の記録をきちんと学んだ上でないと対応が難しいものになっている。

 

「それで、キイ先生のかつての物語について聞きたいのですが」

 

「あまり話したくないんだよ、それに相当過去の話だ。人の記憶がどれだけ信用できないかは話したでしょう?」

 

「いえ、まあそうなんですけれども」

 

そう言って私は本を開いて図を見せる。各地で集められた動植物の分類表だ。

 

「この仮説が正しければ、私たち人間は特別ではないわけです。魚が泳げるように、鳥が飛べるように、ただ歩き、道具を持つことのできる動物の一つに過ぎない、と」

 

「そうだね。批判も多いらしいけれども」

 

「私は面白いと思いますよ。説得力があります。で、これを考えるとキイ先生が私と同じ姿なのが不思議なんですよ」

 

私がそう言うと、彼女は本から視線を上げた。

 

「結論だけ先に言わせて?」

 

「お願いします」

 

「全く理由がわからない。私はこの本以上の知識を持っているけど、それをもってしてもなぜ私が物語の間を移動できたのか、そしてなぜ私とあなたが同じような動物なのかを説明できない」

 

「えぇ……」

 

私は思考を全部先取りされてしまったことに悲しんで部屋の隅にあるふかふかの座椅子に背中から倒れ込む。

 

「動物には、色々な点で違いがあるのはいい?」

 

「はい。大きさとか、毛の色とか、見た目とかですか?」

 

「そうだね。特に近い動物の集まりでは、区別のために小さな違いを使うことがある。骨の形とか、歯の数とか」

 

「同じなんですか?」

 

「そう。少なくともケトとは一緒の本数と種類だった」

 

指でも入れて数えたのだろうか。まあ野暮なことは考えないようにしよう。

 

「……おかしいですよね。全く別の物語なのに、同じ筋書きが演じられているようなものです」

 

生物は最初からそうあったのではなく、世代を積み重ねて今の状態になったのだとすれば、私と彼女の祖先を辿っていけばどこかで同じ場所にたどり着くはずだ。けれども私は別の物語からの来訪者を彼女以外知らないし、こちらの物語で人間はかなり昔からいたはずだ。

 

「盗作だと疑うべきだろうね。どちらがどちらのかは知らないけど」

 

「……盗まれたとすれば、どちらが盗んだ側だと思います?」

 

「さあ。少なくとも、私がいた物語ではどういう筋書きで人間が作られていったかはある程度わかった、ということになっていたけど」

 

「……その水準にたどり着くのに、こちらの物語ではどれだけの場面が必要だと思います?」

 

そう聞くと、彼女は高机にあった栞を本に挟んで天井を見上げた。

 

「あなたが生きている間にはまず無理」

 

「なるほど、その程度ですか」

 

なら百年か、あるいは二百年といったところだろう。その程度であれば誰かに言伝を頼むぐらいはできる。

 

「もしそういう時になったら、あなたの物語を暴いてもいいですか?」

 

「農業研究所種子保管室に私の血を冷凍してある。それを溶かさないような体勢を作っておいて」

 

「……金の腕輪を手に入れたら、やっておきますよ」

 

血でいいんだ。血を混ぜると凝るみたいな話を聞いたことがあるので、それを利用するのかもしれない。まあ、私には理解できないものなのだろう。残念だが諦めるしかない。

 

「そうだ、私に頼み事ってありますか?」

 

「扉は開ける前に叩いて」

 

「いえ、私はたぶんキイ先生より長生きするので」

 

「……なるほどね。正直、たまに寿命を意識することがあるからあまりそういうことは考えたくないんだけど」

 

キイ先生は溜息を吐いて、高椅子から背中を起こした。

 

「お願いはひとまず二つ。まず私の存在を記録から消して」

 

「それは、別の物語から来た人物がいるということを隠すためですか?」

 

「そう。だってこんな例外のために後世の人が頭を悩ませるのは無駄でしょう?」

 

「わかりました。お願いとあればお聞きします。残る一つは?」

 

「前言った箱について『図書庫の中の図書庫』に入れる人と話す機会があったらしておいて」

 

「ああ、あれですね。いいですよ。しかしそういう話、私以外にもしてますよね?」

 

「多分あなたが腕輪をつけた時に向こうから会いに来るよ。そのときはそちらの人によろしく」

 

こういうのはその時になるまであまり深く考えない方がいい、というのを私はなんとなく学んでいる。

 

「はいはい、では扉は勝手に開けますね」

 

私の言葉に、彼女はしまったというような顔をした。



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継承

最近、年齢を感じるようになってきた。おそらく自分が動ける期間はあと十年ほどしかないだろう。あの人は最後まで精力的だったが、それは間違えてもいい問題に挑んでいたからだ。私は違う。自分が背負うものを知っている。自分の選択が大災厄を招きうることを知っている。

 

かつてのように、あの人のような底の見えない相手と思いっきり戦いたくなる日もある。しかし、私にはそれが許されない。私は自分の役を演じきらねばならない。私の仕事を引き継ぐことになる甥はまだ未熟だ。しかし、悪い前任者を討てたとなれば少しは余裕が出るだろう。

 

何度通ったかわからない通路を進む。守衛に金の腕輪を見せれば、誰何もなしに通ることができるのは便利だ。あの人はこういうのを批判しただろうから少し胸が痛むが、私はあの人のやり方とは別の方法を選んでいる。

 

私が「中央調査室」と書かれた部屋の扉を開けると、多くの指すような視線が向いてきた。忙しい時に、部外者が入ってくることを忌むその集中力と気概はもう私からは失われつつあるものだ。つかつかと歩いていって、若い室長が座る席の前に立つ。

 

「……土産になる。皆で食べてくれ」

 

氷菓子を入れた冷却箱を高机の上に置くと、彼は少し安堵するかのように息を吐いた。この私がつけている神経質な人物という仮面というのはあまりいいものではないが、役割として求められているのだから仕方がない。

 

「ありがとうございます。ああ、それと今の時点での進捗です」

 

彼は私に卓上打字機で作られた書面を渡す。薄い墨に番号透かし入りの機密案件報告のために使われる紙だ。

 

「……素晴らしい。他にも条約について問題がないかあらゆる方面で精査してもらっていいか?」

 

「了解しました。それと、『女史』の件についてですが」

 

「ああ、それは別に急ぐ必要は全く無いのだが、そちらは?」

 

「順調です。図書庫の本からは名前をだいたい消せました。多分罠としては十分機能すると思います」

 

「……あまり機能しなくてもいいと思うけどね」

 

私は呟いて、手元の書類を眺める。本当はあの人に確認してほしかったが、それは個人的な感情だ。中央調査室の能力は間違いないし、確実な結果を出してくれる。

 

「いえ、それだけの能力があるなら人手不足の調査室に採用しますので機能して欲しいところです」

 

苦笑いする室長。確かに、それだけの負担をかけている。しかし、私の代でどうにか終わらせねばならないのだ。

 

「そうか。……人員については、あまり良い返事をすることはできない」

 

「仕方ないことは理解しています。ただ、室長としては強く訴えさせてもらいますよ」

 

「ああ……。溶けないうちに、これを食べてくれ」

 

私は紙を彼に戻し、冷却箱を見て言う。

 

「あなたの分はいいのですか?」

 

「もう歯が痛む齢なのでね」

 

そう言って部屋を出て、歩きながら思考を重ねていく。父はあの人を使って派閥間の力関係を調整していた。しかし、あの人がいなくなって、父もいなくなって、どうにも色々と不安定になりつつある。まあ、唯一の幸いなことはこの私がいることだ。

 

私は自分の能力をそれなりに高く評価している。

 

今日は休みの日だ。そして休みの日には、ここに来てのんびりとあの人の書いた本を読むことにしている。

 

棚から製本された冊子を抜き取り、座椅子に腰掛けて頁を開く。

 

「古帝国の最盛期……」

 

あの人がしっかりと調べるまで、古帝国についてはあまり知られていなかった。当時の史料を整理し、いかにして古帝国が生まれたか、古帝国の前に何があったのか、そして古帝国はいかに滅んだのかについてあの人は一つの物語を撚りあげた。

 

それは、あくまであの人の視点と知識によって得られたものだ。私から見れば疑問に思う点もある。もちろん、深く納得できる点もあるのだが。

 

一行づつ、ゆっくりと目を通していく。あの人の軽快な語り口調が聞こえてくるかのようだ。

 

頭の中で、自分の考えている案と過去の話を比較していく。何が問題になりうるか?どのような理由で反対が起こるだろうか?それが破綻するとしたら、どのように終わるだろうか?歴史自体はその答えを教えてくれないが、示唆ぐらいならくれる。

 

当時は様々なものがあった。技術的な面では、私たちは古帝国を圧倒したと言えるだろう。けれども統治や治安の面では、地の上全てを見ればまだ劣る。

 

「……故に、我々は新帝国を宣言する」

 

そう言って、私は口角を上げる。もちろん、それが新帝国という形になると気がつくものはまだいないだろう。しかし言葉と単位と製品の統一によってできるものにふさわしい名前は、それぐらいしかない。剣を用いることはない。ただ、排除するだけだ。

 

私はあの人と違って安易な妥協を選ばない。私が図書庫の城邦を自由にできるうちに、必要な準備を揃えておく必要がある。

 

完璧だとは思わない。あの人が望んでいた物語だとも思わない。けれども、私はこれが正しいと思う。思考を巡らせながら、私は頁をめくった。



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おまけ 2
解題


図書庫の奥の一室で、その無精髭の男は箱を見つめていた。

 

「……解けるのですか?」

 

「理解してしまえば、謎かけというには直球的すぎるだろうな」

 

彼は箱の上面にある金属板の文字を指す。

 

「まず一行目。『水を分ければ小二つと大一つ』……これは酸質と煆灰質のことだ」

 

「ええ、水が二種類の単一基質の結合であることはこの箱が作られた当時から知られていました」

 

男にそう返すのは、この箱を管理している担当者。

 

「その次、『小を分ければ微と著なり』……これは痺子と陰子になる。基質粒子の中心にある陰子はともかく、痺子なら当時も知られていただろう?」

 

「そうですね、真空管があったので」

 

「問題はその先だよな……」

 

無精髭の男は溜息を吐く。彼は広い意味では薬学師だったが、本来は精密測定を専門としている人物だった。ゆえに最先端の知識や測定結果を多く知っている。それが、多くの失敗の積み重ねの上に成り立ったことも。

 

「『指折って数えよ、微は光に比べてどれほど遅いか?』……これを、あの異哲派の時代に作ったと?」

 

「それについては間違いありません」

 

「お前が言うのでなければ、笑い飛ばすか箱を投げつけるかしている」

 

男の向かいにいる担当者は、彼の学友であった。長らく会っていなかったが、どうやら裏の仕事をしていたらしいという相手の説明を聞いて彼は妙に納得した。

 

「……で、どういう意味なのでしょうか?」

 

「指折って数えよ、ということは整数ということだろ?つまりは痺子と光の速さの比の近似値になる」

 

「痺子の速さなら真空管内で計測できないものなのですか?」

 

「相当に速い。そしてこれが言っているのはおそらく酸質内での痺子の速度だろうな。それならまた違った調べた方が必要になる」

 

そう言って、男はそもそもそういった考え方が生まれるようになったのが測定の進んだ最近であることに頭を悩ませる。光の速さが有限だということが知られていたのはいい。痺子の軽さから単純な構造を、つまりは陽の痺子と陰の核からなることは考えられなくはない。

 

たが、そこまで仮定に仮定を重ねてもなお速度の比を三桁で求めるなんてことはまだできないはずだ。ましてや過去には。

 

「……待てよ。階段仮説を知っているか?」

 

「いいえ?」

 

「最近出た考え方だ。酸質輝線は?」

 

「そこから説明をお願いできますか?」

 

男は自分の思考を遅くしなければならないもどかしさに頭を掻きながら、それでも思考を整理するのを兼ねてゆっくりと話し出す。

 

「硝子筒の中に気体の酸質を入れて痺因を流すと紫に光る。ああそもそも色っていうのは光の波の山と山との長さに対応しているっていうのは?」

 

「そこまでは。つまり、その一見紫色に見えるものには実際には様々な色が含まれているわけ?」

 

「そうだ。目に見える範囲なら赤、藍緑、青、紫。そして見えない範囲にも色がある」

 

「飛び飛び、ということでいい?」

 

「そうだ。で、これとは別に熱を持った物体が光るのは知っているか?」

 

相手が無言で二人の頭上にある電球を指さしたのを見て、男は無言で頷く。

 

「点く途中は赤いが、次第に白くなる。その色と温度の関係の式は永らく知られていたが、その意味はしっかりとは理解されていなかった」

 

「なるほど。痺因が光に変わる過程と、熱が光に変わる過程があると考えればいい?」

 

「そうだ。あとは連鎖反応仮説とか感光問題とかあるんだが……ともかく、階段仮説というものだとある種の仕事をする『能力』というのは、階段のように飛び飛びだというのだ」

 

「……その能力が、例えば一つ分なら赤で、二つ分なら藍緑で、となるのか?」

 

「間違っているが、方向は近い。ここらへんはまだ議論されているところなんだが……それは様々な問題をまとめて解決しうるが、流石に無茶だろうとして算学上の便宜的なものとして捉えられているというのが現状だ」

 

そう言いながら、男は頭の中で式を立てていた。おそらく、今知られている定数を組み合わせればそれを出せるはずだ。

 

「十刻ほど貰えるか?それと、ここ数年分の『総合技術報告』を」

 

「こちらへ」

 

箱の担当者が男を別室に案内するために立ち上がる。

 

「……ところで、あの箱の中身は何だ?」

 

「仮説で良ければ」

 

「構わん」

 

「……実は過去に一度、あの箱は開けられたことがあって」

 

「謎を解かなくともか?」

 

「三桁の数を組み合わせれば開くから、千回試せばいい。事前に透過線撮影をして変な仕掛けがないことは確認済みだった」

 

「……なるほど。それで?」

 

「最初に箱に入っていた紙には、『正しく解くまで中を見ないこと』とあった」

 

「箱を作ったやつは性格が悪いに違いない。……いや、その答えとなる数字を知っているのか?」

 

「教えるつもりはないよ」

 

「いや、もしその値が実際の実験結果と一致していたらだ、それをどうやって知ったのかの問題が残る」

 

「それについては、箱の中に答えがあるかもしれない。おそらく、この謎が解ける時代のために『女史』が遺した伝言だから」

 

そう言って担当者は「中央調査室」と書かれた扉を開け、彼を中に案内する。部屋の隅には机が一つ。近くの棚には参考になりそうな資料が一通り。

 

「女史って誰だよ」

 

「まずそこから話をした方がいい?」

 

彼からの言葉に、担当者は苦笑した。



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断片

「……さて、渡された手稿ですが」

 

そう言う女性はもともとはある商会の研究部門で働いていたただの助手だった。その過程で出てくる問題を解決するために半ば無理やりな「階段理論」を提唱したおかげで、航空船に半月揺られてこの図書庫の都市まで来たのである。

 

「読めたか?」

 

最近「総合技術報告」編集長となった無精髭の男が彼女の眼の前の机に置かれた封筒を見て言う。

 

「正しいかどうかはともかくそう難しくはなかったのですが……再度、確認していいですか?」

 

「ああ、答えられることはできるだけ答える」

 

「昔に作られた箱の中に、これが入っていたんですよね」

 

「そうだ。その鍵となった無次元量の値はつい先日十分な精度で決定されたばかりだ」

 

そう言って、編集長は両のこめかみを親指と中指で押しながら息を吐く。その値は、ぴたりと一致していた。鍵の構造は単純で、開けるための数字を後から変更することは出来ない。つまり、ある種の予言であると考えられる。

 

入っていた封筒のうち一つは、理論と測定を理解できる人間に渡すように書かれていた。それ以外にも政策決定者に渡すべきものと、裏側の人物に渡すべきものも。「裏側」のほうは箱の管理者である彼の旧友が持っていって上の方に回されたと聞いていた。結局、彼はどれも読むことができなかった。かわりに、前者二つを誰に渡すかを決めることのできる立場にあった。

 

だから彼女を選んだ。技術分野にも精通しており、算学に対しての天賦の才能がある。その才能が見出されるのは時間がかかったが、決して遅かったわけではない。

 

「それをどう扱うかは君の自由だ。無視するもいい。あるいは他の人に渡すもいい」

 

「……いえ、これを担います」

 

「……そうか」

 

頭を下げた男から視線を外し、彼女は改めて手元を見る。長い時を経たとは思えないきれいな紙。文字は少し汚いが。

 

「かなり膨大な力を得ることができると思います。あとは信頼できる技術者を何人か。この草稿の存在は伏せねばならないのですよね?」

 

「そうだな。それが望ましい」

 

「まずは92番基質を含む鉱脈について調べて下さい。できれば独占したいほどですが」

 

「あ、ああ。他にもできることはあるか?」

 

いきなり纏う雰囲気が変わった彼女に驚きながら、編集長は手元の紙に文字を書く。

 

「高圧蒸気を回転に使う機構は……多分ないのでそこから作らないと。これを書いた人は石炭などを使って高圧蒸気を作る機構がある程度できていることを想定していましたが、ここは予想を外していますね」

 

ほとんどの痺因を生み出しているのは水車だ。逆に言えば、それ以外のものを動力として使う技術は未発展である。例外としては一部で使われている液体燃料式の動力装置だろうか。熱から蒸気を作り、それを動力にするという発想は燃料の問題もあってあまり行われていなかった。

 

「航空船の推進装置とかと似ている気はしますね」

 

「一体何が書いてあるんだ?あ、いや、必要だと思えば語らなくても良いが」

 

「92番基質を製錬して条件を整えると熱が発生します」

 

「保存則、どこに行った?」

 

「なんか重さが転換されるらしいです。あーそうか、光の速度が一定なら重さのほうが変わるか……。ここは長さが変わることにしてもあまり問題なさそうだな……」

 

彼女にとって、かなり簡単に導出過程が書かれている手稿を読み解くのはそう難しくはなかった。そもそもあの値が不変であるとするなら光の速さも一定であると考えるべきのはずだ、と思考を巡らす余裕があるほどだ。しかし読み直す度に発見がある、と彼女は手稿自体に意識を戻す。

 

これを理解するために必要な知識と能力を自分以外に持っている人は少ないだろうな、とわかる程度には彼女は自分の能力を知っていた。だからこそ限界もあるし、自分だけではできないことも多いこともわかっていた。

 

「……光速度の詳しい測定が必要なら、箱を開けるときに助力を得た干渉装置の専門家を紹介できるが」

 

口を閉じてしまった彼女を見て、編集長は声をかける。

 

「最近『総合技術報告』に載ったあの装置の兄妹ですか?」

 

「ああ。必要な機構もあの二人経由でなら人を集められるだろう」

 

「測定装置をいくつかお願いすることになるでしょう。まあ、もう見せてしまいますか」

 

二人は机の上の紙を見る。

 

「過冷却蒸気を用いた観察装置……これは気象方面でやりましょう。これで92番基質から飛び出るものを検出できます。そこから理論を作るのには時間がかかりますね」

 

「必要であれば政策方面からも動かせるはずだ」

 

「そうしないと無理ですね。理論だけでも、技術だけでも、これは作れません」

 

「……これを書いた人物は、発案所持権などの法整備にも関わっていたそうだ」

 

「なら政策側はある程度信頼できますね。あそこらへんの法律は異哲派の時代から変わっていませんから」

 

「そうだ。というより、あの当時の諸々の大抵はその人物が関わっている」

 

「未来から来たのでは?いや、それだと内容がおかしいな……」

 

彼女は最後のほうの紙を見て言う。そこには少量の燃料から膨大な熱を生み出すことのできる機構の図面がいくつかあった。複数の種類があり、どれが一番適切かは調べていかないとわからないだろう。ただどの機構にも暴走の可能性があるという注意書きを見て、彼女はこの機構の作成方法をわざわざ鍵付きの箱に入れた理由を察することはできた。



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機関

その男は、ここしばらくの閑職を気に入っていた。

 

若い頃、彼は各地で水車を設置する仕事をしていた。水車と言っても昔ながらの木でできたものではない。抗錆鋼で作られた羽根車とでも呼ぶべきものだ。後に新帝国と呼ばれる各地で作られた部品を組み合わせて、また別の人が作った治水用の堰堤に置くだけだった。

 

ただ、それに問題が見つかったのは各地で堰堤が作られてから十年ほど経ってからだった。自然学の専門家が蓄積された統計をもとに割り出した魚の遡上が途絶えたことによる問題は想定以上に大きく、新規の計画が見直されることとなった。その後の修復にまた十年。彼が手掛けた大規模な水車の多くは規模が縮小され、より生態系への影響の小さいものへと置き換えられた。

 

そのようにして、彼の半生が過ぎ去ったのである。

 

今の彼の職は宣言機構統合法務審議会技術顧問官というもの。たまに法を作るに当たり助言をする程度で、それ以外の空いた時間で自分の関わった発動機についての記録をまとめているような状態であった。

 

数日前、そんな彼に一つの封筒を差し出してきたのは昔一緒に仕事をしたことがある「総合技術報告」の編集長だった。

 

「で、どうだ?」

 

無精髭の編集長が声をかけると、顧問官の引きつった口元が上がり、目が細くなってまっすぐに封筒を押し付けてきた相手を見据えた。

 

「これをなぜ見せた?」

 

「経歴と知識において、あんた以上の適材はいない。ただ、俺は政策決定にはあまり知識がなくてな。現場を知り、かつ上の方との繋がりもあり、失敗を知っているあんたにしかこいつは頼めないんだ」

 

「……書かれている内容については知っているのか?」

 

「中に書いてなかったか?その利用は読んだ本人に任せられる。伝えてもいいし、伝えなくてもいい」

 

「……水車が作るより膨大な痺因を、熱によって生み出す方法だ。具体的には、それを行う機構についてどう反発を抑え込んで導入するかの方法だ」

 

大気中の煆灰化炭質の増加とそれに伴う気温上昇を指摘し、解決策としてこの分裂機関というものを導入しようとする動きは石炭や石炭油をそこまで大量に使っていないので使えない。そもそもこれを書いた人物はそういったものを大規模に燃やして動力としていることを想定していたようだが、そういうものは基本的に痺因でどうにかなるので使われていない。

 

周囲の人間への影響も、正直なところあまり良い気がしない。燃えた時に出る煤の話はやはり該当しないし、放出物に含まれるある種の毒の処理は容易ではない。列挙されていた問題を見るに、相当扱いが難しい機構なのだろう。

 

だが、それを加味しても大規模で安定した痺因を得られるということは魅力的だった。それも冷却のためには最悪水がなくてもいいという。

 

「そんな反発されるようなものなのか?」

 

「危険性がある、ということだ。それなのにわざわざ伝えるということはそれ以上の利益をもたらすのだろうが……」

 

「理論と技術の担当者が言うにはあんたが死ぬ前までにはできるだろうとのことだ」

 

「これ以上生きて恥を重ねろと?」

 

「それが学んでしまった責務ってやつだよ。で、どうだ?」

 

「……見る限り、そう大きな問題はないように思う。むしろ組織に必要な人材を揃えることのほうが重要だな」

 

「というと?」

 

「外部から干渉されない組織でなければならない。急かされて起動手続きを誤れば、籠もった熱で機関全てが溶け落ちる」

 

「……そこまで恐ろしい代物なのか?」

 

畏れと不安の混じった表情で、編集長は顧問官を見る。

 

「ああ、更に組織上の問題まであった。事後の対処を誤らなければそう大きな被害は出ないと言っているが、見渡せる地域一帯から人を退避させねばならないのを大きな被害ではないと言うこの文章の作者の認識は少し歪んでいる気がするな」

 

「仕方ないだろ、これが書かれたのは何年前だと思っているんだ」

 

「読んで思ったのだが、これが書かれたのは何年後なんだ?いや、そもそも想定がおかしい」

 

「それについては、大図書庫の中央調査室がありがたい報告をまとめて下さった。一連で説明できるぞ」

 

「ほう」

 

「出身不明、来歴不明、正体不明。異哲派の時代の下地を築いたとされているが、詳細は俺も全くわからん。ただ、完璧な人間でもなければ、未来を見通せたわけでもないことは間違いない」

 

「……なら、問題ない。ただの先人だ。超えるべき一人に過ぎない」

 

「そうか。必要であれば地位と資源は融通を利かせられる。色々と裏事が得意な人物が手を貸してくれると中央調査室の旧友が言っていた」

 

「ただ、秘密を守りながら、だろう?」

 

「そうだな。新しい現象が発見されたため、それを活用するための組織を作る。その長としてあまり注目されていないあんたを据える……どうだ?」

 

「どうだと言われても、そう簡単に組織を作れるのか?」

 

「まあ『総合技術報告』ならできるだろうな」

 

「……確かに」

 

あらゆる分野を扱う専門家を繋いでいて、地の上の知識が集まる本。そこから必要な人は集められるだろう。必要ならかつて繋がりのあった商会に協力を求めてもいい。そう考えて顧問官は、今まで満足していた閑職が、急に寂しく思えてきた自分に気がついた。



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兵器

ただ「長官」とだけ呼ばれるその人物は、封筒の中に入っていた紙束を見て冷笑を浮かべた。

 

「……やはり、キイは伝えられていたとおりだったか」

 

新帝国の裏にある最大の組織の指導者として、長官はその手稿の作者の情報を伝えられていた。記録からできるだけ抹消すべきとされた人物。それゆえに晩年には色々と新帝国を作った人物が便利に使っていたようだが、これは本題ではない。

 

「こんなものを作るのではないか、と未来の我々が思われていたとは心外だよ」

 

描かれていたのは「分裂兵器」の設計図。条件を揃えれば熱を生み出すことのできる92番基質、あるいはその熱発生過程で生まれる94番基質を衝突させるか圧縮させることで本来なら緩やかに発生させる連鎖分裂反応を急激に引き起こす。その利点は比較的小さな大きさで都市一つを消し飛ばせる威力である。

 

とはいえ、こんなものは全くもって不要である。そもそもこんなものを作らなければならないほどの戦いは今はまず起こらない。ただ、これらが作られる可能性が生まれるならある程度監視が必要だろうな、と長官は思考を巡らせる。

 

そもそも痺因を生み出すための分裂機関自体が相当危険なものだという。ならば、その建設や運用に新帝国が制限を課すのは自然なことだろう。用いられる資源や生成物もそのある種の毒性から取り扱いを制限し、監視のもとにするべきだという方向に意見を持っていくことはできる。

 

「むしろ、問題はこちらのほうか……」

 

分裂機関の暴走がもたらす被害の推定と、その際の対応手段だ。情報の公開、専門家の投入、そして数十年にも渡る信頼の醸成。一度生まれた恐怖はなかなか消えないというキイの分析はなかなか悪くない。

 

「ただ、こちらのほうも対応はできる」

 

新帝国が生まれてから何世代もの間、数多の調査と演習と実証が重ねられてきた。悪く言えば人々を「誘導」するだけの力を手に入れているのだ。そして実際、そうされてきた。報知紙を通して世論を生み、今までにない利益の価値を信じ込ませ、急進的な政策への批判的勢力を増えすぎないように、かつ減りすぎないように調整し、ということが長らく行われてきた。

 

とはいっても、方針の決定や受益者が一人の、あるいは小さな集団の手に渡ることは避けられている。多くの協力者と情報提供者がいる以上、その全員に利益を与える必要があるからだ。そうすると、必然的に特定の人物に権力を集中させてしまって失敗時の問題を拡大させるような選択は取れない。なんだかんだで、徳のある行動を純粋な功利主義から導出できているのだ。

 

「まったく、騒がせてこの程度か」

 

ただ、それがキイという人物の力不足ではないと長官は理解していた。むしろ、彼女の恐ろしさは古くから伝えられていた。

 

そのうちの一つがキイの援助によって生み出され、結果として使われることなく封印されたという兵器だ。爆薬を応用した投射装置は「鋼売り」たちが秘密裏に開発していたが、ついぞ実戦に投入されることいなく新帝国に組み込まれてしまった。そしてその使用後に残る特徴的な痕もあって、まず使われることはなくなっている。故に今でも戦いに使われるのは剣と槍と弩といったところである。

 

恐らく、キイが想定していたのは投射装置が発展した先で起こるような戦いだろう。もちろん机上演習では限界があるだろうが、それが何を生み出すのかの示唆は得られている。産業そのものを兵站のために用いる、大規模かつその地域の総力を挙げることになる大戦争。もしそのような戦争があったならば、この手稿にある分裂兵器は有効だっただろう。破滅的な破壊兵器として、あるいは衝突を防ぐための抑止力として。

 

だが、そうはならなかった。戦争が生む非生産性が認識され、それを阻止するために表からも裏からも様々な策が取られた。たかだか数万人の局所的な戦闘であれば大きな影響はない、と割り切られたこともあった。より多くの益のために、見過ごされたものもあった。

 

局長は、全てとは言わないが多くのことを知っていた。名前のない人々が、どれだけ新帝国ができる裏で暗躍したか知っていた。政治のために、どれだけの犠牲者が出たかを知っていた。直接的な死も、間接的な死も、時には数字として、時には実際の血を流す人として見てきた。それでもなお、長官は自分の、そして自分の率いる組織の選択を正しいと思っていた。

 

そういう意味で、長官はキイに対しての勝利を小さく喜んでいた。少なくとも、大きな戦乱を避けることができた。新帝国の崩壊時にも、古帝国のような混乱は起こらないように様々な計略が構築されている。

 

ならば、この兵器も別の形に使えるかもしれない。その威力や毒性を加味しても、鉱山での採掘や治水に用いることができるかもしれない。悪影響を軽減できる可能性もある。そういう意味では、純粋な威力を生み出せる方法としてこの分裂爆発機構を活用できる可能性がある。

 

「ただ、これがあるからな……」

 

手稿にある「爆発時の降下物が年代推定のための手法に悪影響をもたらすことがあるため、できるだけ使用しない、あるいは地下実験に留めるべき」との一文に目を通して、長官は溜息を吐いた。



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未踏

この計画には、多方面の協力が必要であった。

 

例えば、資金については近年新帝国各地に張り巡らせられつつある軌条車での利益が注ぎ込まれた。そもそも軌条車の大きな問題の一つは小規模水車の生み出す痺因では安定した速度を確保できなかったことにある。それを解決しうる分裂発電は有望だったのだ。

 

機関に用いられる重水は航空船に用いられる気体酸質を得る過程で得られる副産物であった。それに加え、蒸気を受ける回転羽根車とでも呼ぶべき機構は航空船の推進装置に用いられている液体燃料式の発動機の応用だった。

 

汚染物質の拡散の推定は、各地で得られた気象と海洋の情報を最新式の情報処理装置で分析することによって得られた。その結果、人為的に起こせる最悪の事態でも他地域への影響を抑えられる地点が建設場所として選ばれた。

 

制御と非常事態の対策は、新帝国ができて以来積み重ねられてきた人間心理に関する様々な情報が用いられた。最悪の事態であっても、半日位内に実験都市の全住人を安全圏に避難させることができる。

 

そうして、その日がやってきた。

 

最初の計画が作られてから、短くない時間が過ぎた。計画当初に参加していた人物の少なくない割合が寿命で亡くなっていた。理論は発展し、技術上は燃料自体の「有用基質率」を向上させることもできるようになったが、ひとまず今の時点で確実と思われる方法で計画は続行されることになった。

 

根拠に基づいた反対運動があった。合理的な話し合いにより、なんとか落とし所を見つけることができた。

 

重ねられた予備実験で計画が変更されることがあった。そのたびに、安全対策は練り直された。

 

「制御棒、正常速度で引き抜き中」

 

そうして作られた管制室の中で、落ち着いた声が響く。観客はいない。操作員が受ける圧力を最小限にするための措置だ。

 

「温度および圧力、予想範囲で推移。まもなく熱交換系起動します」

 

あくまで静かに、丁寧に作業が進められる。一つ一つ数値が確認されながら、訓練された操作員が機械による補助を受けて意思決定をしていた。

 

「係数が1を超えました!増大連鎖に入ります!」

 

それでも、この瞬間に声が震えてしまった操作員を責めることは誰もできないだろう。

 

「落ち着け。制御棒を所定の量だけ戻せ。100拍後に緊急停止」

 

「了解」

 

落ち着いて全体を見渡す指揮員は、深く息を吐く。ようやくだ。

 

「緊急停止機構起動」

 

「温度変化緩やかになりましたが依然熱量は放出されています」

 

「想定通りだな」

 

これ以降は仮説の段階でしかない。反応が完全に落ち着くまでに数日かかると予想されている。そこで発生した熱は十分逃がせるはずの設備があるはずだが、非常事態にはここを放棄する必要もある。それが終わるまで、操作員は交代で見張り続けなければならない。

 


 

「やったようだぞ」

 

報知紙の中の小さい記事を見せるように机の上に置いた白髪で無精髭の男に、かつて「箱」を担当していた人物は微笑んだ。

 

「ようやく、ですか」

 

「ああ。かなり長く時間がかかったが、俺らが死ぬ前に間に合ったようで何よりだ」

 

年齢による判断能力の変化についても、多くの知識が蓄積されていた。それゆえに、より知識が活かされ、老獪さが求められる場所に二人は配属され、そして今は分裂機関の次についての基礎調査の支援を担当していた。

 

「それにしても、ここまで安全対策を取るとはさすがですね」

 

「誰かが訓練で相当若い奴らを脅したからでは?」

 

「はて、中には爆薬まで持ち込んだ人もいたそうですが」

 

「恐ろしいものだな」

 

「それでもなんとか対応できたのです。私たちにはもう無理ですよ」

 

二人は笑いながら、久々の酒をちびちびと飲む。ある種の願掛けであった。様々な謎が解き明かされ、技術が進み、都市では夜が消えつつある今なお、敬虔さは美徳であった。自分で全てを背負うことが難しいならば、大いなるものに縋るのは決して弱さではない。

 

「さて、安定するまでは時間の問題となったわけだ」

 

「そうなると、人員も次の計画のために動かせるでしょう。今回の過程で多くのことが明らかになりました」

 

今までの人間行動に関する実験に矛盾が突きつけられ、それを解決する理論が生まれた。危険を予測するための新しい手続きが採用され、いくつかの分野ですでに成功している。

 

「ただ、次については手稿はないぞ?」

 

「だから、今まで以上の慎重さは必要でしょうね」

 

二人は別々の計画を進めていた。

 

一つは太陽の力を手に入れるもの。分裂機関の根幹にある原理の研究の過程で、星を輝かせる力の源が明らかになっていた。それを生み出せるだけの温度と圧力は分裂機関で扱われるものの比ではないが、計算ができる値ではある。事実、空を見上げれば実際に駆動しているものが見えるのだ。

 

一つは月を作り出すもの。分裂機関の製造の過程で得られた加工と反応に関する知識は、理論的に計算できるある水準を超える推進力を生み出せる可能性を示唆した。これを利用すれば、「落ち続ける」物体を上空に飛ばすことができる。今は航空船で行われているような各種の実験や測量、測定や通信をより精密に、より広い地域で行える可能性がある。事実、空を見上げれば実際に飛んでいるものが見えるのだ。

 

「ま、ひとまずはもう一度、今日に恵みを」

 

「恵みを」

 

二人は硝子の深盃を合わせて、澄んだ音を出した。



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おまけ 3
配列


その血液は、数十年に一度分析されることになっていた。過去に行われた調査では血液種別が判明していたが、今日ではより先進的な方法を用いることができる。

 

「それで、結果は?」

 

生命技術の分野では地の上で指折りの施設に運ばれ、秘密裏に調査された報告を纏めていた担当者は協力者からの声に溜息を吐いた。

 

「……わからない」

 

「保存期間が長すぎた?」

 

「いや、それについては問題ない。断片にはなっていたが、十分復元可能な範囲内だった」

 

「分析結果になにか問題でも?」

 

「……彼女の源流を知りたい、ということだったか?」

 

「そういう依頼だね」

 

「一番基本的な単倍群の共通傾向分析をやったんだが……」

 

表示面の地図には、血液から得られた特異的な配列と似た組み合わせを持つ集団の分布が示されるはずだった。

 

「何もないぞ」

 

「つまり、彼女と血縁関係にある集団がないんだよ」

 

「そんなことがあるのか?」

 

「実際、そう出ているんだからな」

 

「……一番近い物を出す、とかならできない?」

 

「無茶苦茶な計算だが、こういう組み合わせの『配合』と変異なら彼女の配列を説明できる」

 

数十の集団と数百の変異が一覧で表示される。

 

「……で、これは可能なのか?」

 

「無理だな。当時の人口移動を考えてもこういう家系があったとしたら必ずどこかで見つかるはずだ」

 

「船の民とかだったのでは?」

 

「それにしてもここまで外と婚姻関係があるとしたら文化系の研究が面倒になるんだが……」

 

担当者は協力者の方を見る。

 

「で、そちらの方の様子は?」

 

「中央調査室が歴史系で有望な人物を引っ張ってきたらしい。そちらの情報を纏めたら航空船に乗るのでよろしく」

 

「あれ揺れるから嫌いなんだよな……」

 

かつて経験した四半月ほどの旅を思い出して、担当者は顔を青くした。

 

「ならもっと速いものでもいいけれども」

 

「発射場まで遠いのと、向こうの方に着陸設備がないだろ」

 

「冗談だよ、それにそこまでの資金はない」

 

協力者は小さく笑った。

 

「で、どういう風に解釈すればいい?こちらはお手上げ」

 

「……別系統の進化を辿った人類であるとでも考えるのが妥当かな。今まで知られていた『女史』の特徴とも一致する」

 

「へえ。しかし彼女以外にそういう人物は知られていないよ?」

 

「異常例外とでも考えるしかないだろう」

 

「それなら、自然学の専門家としてはこれ以上の情報は得られそうにないとしか言えないね」

 

「……由来以外であれば?」

 

「というと?」

 

「髪の色や目の色程度であれば出せるはずでは?」

 

「ああ、それもそうか」

 

担当者は操作卓をちょちょいと触る。

 

「黒髪に黒目。背は高めだな」

 

「それ以上は?」

 

「血液から得られた配列と、こっちで保存されている既知の配列の解離があるから確実性は一気に下がるがそれでもいいなら」

 

「時間と手間にもよる」

 

「そうかからないはず」

 

「頼める?」

 

「計算中だが……一部は出た。酒精耐性は弱め。女性なら乳癌の発生が多少はあるが高いと言うほどでもない」

 

「あまり面白くない結果だ」

 

「もしここまでかけ離れていなければ骨格の様子とかまで出せるんだよ」

 

操作卓をいじりながら担当者は協力者に恨みがましい目を向ける。

 

「……で、彼女について知りたい他の情報はない?少なくともこちらが協力できそうなものは」

 

「あまりない。子孫がいた可能性もかなり低いと見積もられているし」

 

「ああ、ならそこを確認してみようか」

 

「具体的には?」

 

「当時の『図書庫の城邦』にいそうな典型的配列と組み合わせで、既知の疾患を誘発しないかどうかを確認する」

 

「そこまでできるのか?」

 

「倫理的問題もあってあまり表にはできないけどね、っと」

 

そう言って担当者は今の計算を停止させ、別の分析を走らせる。

 

「……おい、『異常結果、計算不能』という文字ばかりじゃないか?」

 

「元の配列が記録にないものばかりなんだ、それから生まれる子供の組み合わせに該当がないのは仕方がないだろう」

 

しばらくすると表示面に結果が出された。

 

「さっきの女史のものよりもいい精度じゃないか」

 

「半分が既知の配列だからそうなる。それでも全く当てにできない情報だがな」

 

「そうなのか?」

 

「環境要因もかなり大きいからな。配列だけで決まるのであれば双子は同じ人生を送るはずだろう?」

 

「それはそうだが……例えば、彼女の過去をこれらとの組み合わせで推察できないか?」

 

「難しいだろうな。脳機能の特異性自体は示唆される……という水準ではあるが、これが直ちに天才性を示すとはならないし。ああでもこの配列はもとの『女史』由来のものだから、まあ賢かったんじゃないか?」

 

「そんなことはとっくにわかっているから……疾患については?」

 

「あまり問題ない……どころか、我々側の持っているいくつかの不活性化されている配列が起動されている分健康かもしれない。詳しいことを言うには今の技術では足りない、としか言えないけど」

 

「なるほど、この血液から子供を作れば……」

 

「まだそっちの分野は研究途上」

 

「はいはい。それにわざわざする必要もないだろうしね」

 

倫理的に危ない話をしながら、二人は結果を纏めていった。



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洞察

「換気しましょう、換気!」

 

誰かの声に意識を取り戻した人々が、部屋の中の煆灰化炭質を追い出すために窓をあけるべく動き出す。

 

「……一点だけ、異常すぎる」

 

机の上に散らばるのは「女史」に関する手に入るだけの資料。

 

「ある時にいきなり現れた、全く別系統の、かつたった一人の人類……?」

 

「再現性があるならまだしも、一度では何も言えない……」

 

「偶然ではなく意思が介在したとしても、その意思の持ち主は神々か脚本家か……手の届かない領分にある」

 

改めて状況を整理して、会議の関係者は延々と答えのない議論以前の状況把握を行っていた。

 

学術史の観点からは、異哲派の生まれる直前に様々な知識が非常に狭い地域で起こっている事が明らかになった。今まで文字版印刷の発展によって生まれたと考えられる数々のものが、史料によってほぼ同じ時期と場所に由来していることが明らかとなった。

 

それを裏付けるような「箱」の存在は、堅実な調査を行ってきた研究者を嘲笑うかのようなものだった。その箱自体が当時異常な知識を持った人物がいたことを如実に示していた。その知識の正しさは今の産業を支えているのだから、否定することはできない。

 

彼女そのものに対しての分析も、全くもって要領を得ないものであった。未来ではなく、異なる系譜や物語とでも呼ぶしかないところからその人物は来たのだ。そこがどのようなところであるかはまだ言及できるほど技術が進んでいないとは言え、異常さを指摘するには十分だった。

 

「そう考えると『異哲』などという呼び方は実に適切だな」

 

外来の、あるいは離れていることを意味する接頭辞をつけたその単語が指す人達は、おそらく「女史」と呼ばれる人物の教え子であるとされている。ちょうどその当時に頭領府の府中学舎で教えていた思想の強い女性がいたことが当時の記録から明らかになっている。

 

「もうこっちの方針を考えるのやめません?不毛ですよ?これだけの人間集めてこんな非生産的なことをするのは……」

 

「いや、久しぶりに楽しめた案件だからこちらとしてはいいのだが」

 

「それならいいんですがね……」

 

各員が持ち寄った情報を集めた結果、矛盾なく一点の矛盾が示されてしまったのだ。

 

「ある意味では綺麗なんですけど、まるで不都合を無理に集めているかのような気もして……」

 

「そもそも、なぜこの人物の記録が少ないんだ?」

 

配列解析の担当者が虚ろな目をしている文字情報の読み取りと分析の専門家に目を向けると、その後ろにいる歴史研究者と目が合った。

 

「こいつはしばらく考え込んでいるからかわりに答えさせてもらっていいか?」

 

「頼めるか?」

 

「ああ。まず基本的に消えているのは『図書庫の中の図書庫』、つまりはかつて封印されていた本からのもの……ってことは、これは明らかにあんたらの介入だろ?」

 

歴史研究者が部屋の中の一団を見る。

 

「ああ、それは中央調査室に引き継がれている案件です。途中からはその目的自体も抹消対象になったので、結果として我々も彼女を追うことになっています」

 

「そいつはよかった。彼女について真実を掴んだ人物を消す暗殺部隊とかじゃないなら安心だ」

 

「……ええ」

 

「言いよどむなよ」

 

「実際のところ、かつては多少荒事をしていたらしいのですよね。それもあって今はあまり表立って色々やるのは避けていますし……」

 

「荒事をやっていた時期はわかるか?」

 

「こちらに記録が」

 

紙の束を中央調査室から来た一人が机の上に置く。

 

「起きろ、文献だぞ」

 

歴史研究者は同僚である分析の専門家の肩をぺちぺちと叩き、意識を取り戻させてその手に資料を握らせる。

 

「で、そうやって消したということはなにか後ろめたさがあったわけだ。何か畏れたか、あるいは彼女自身が何か罪悪感を感じていたか……」

 

「……天才の否定?」

 

今まで口を閉じていた歴史研究者が紙をめくりながら呟く。

 

「説明をお願いしていいですか?」

 

「うん。当時新しい考え方が生まれていて、それについての調査を行ったことがあってね。基本的には単語出現傾向とかを使うんだけれども、そこでは名も無い個人の能力がそれ以前より強調されがちになっている」

 

「面白いな」

 

「当時の人達の言葉を使うなら『物語の自覚化』かな。どうしても語られる話は有名な人の、あるいは有名な事件のものに偏る。実際はそうじゃなくて、無名の人の集合と無数の細かな出来事の組み合わせが歴史なんだという……」

 

「似たような話は歴史書の前文で読んだことがありますね。……あの作者、匿名でしたが」

 

「おい、文章から作者を特定することはできるか?」

 

「そのキイが書いたことが確実な文章があればいいのですが……」

 

「箱の中の手稿の文面をよこせ、それとこいつが解析できるだけの演算資源を」

 

「わかりました、手配しましょう」

 

「ちょっと、こっちの意見は?」

 

ひとまず探る方針が決まったのもあって、話はゆっくりと進んでいく。史料を再整理して、彼女が何者だったのかを探る試みが長い時間を超えて再開しようとしていた。



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解析

表示面に流れるように文字が流れていく。

 

「改めて、今やっていることを説明しようか」

 

そう言うのは配列解析の担当者。

 

「ちょっと待って、なんであなたが?」

 

見守る群衆の一人が手を挙げて聞く。

 

「文章は本質的に空白も含む単語の羅列だから、そういうのを分析するという意味では間違っていないんだよ」

 

操作卓を撫でるように素早く叩きながら文字読み取りと文章分析の専門家が言う。

 

「そういうわけで、集中させてあげたいのもあるので話させてもらうよ。まず全文は既に処理できる形で記録媒体に移されていたので、それを読み込んでいる」

 

配列を整理し、検索し、組み合わせるやり方自体は事務処理の基本だ。故に、こういう作業を行える機構という考え方は古くからあった。かつてそれは鑽孔紙帯と機械によるものだったが、磁気帯と亜金属質結晶素子に取って代わられ、今では高密度の集積演算素子自体が記録と処理の双方を担っていた。

 

「で、過去の分析から当時の文章全体の傾向というものはわかっている。どんな表現を使うかとか、特有の言い回しとか、あるいはもっと細かい癖みたいなものまで。時代全体のものと比べると、特定の個人が書いたものにはどうしても癖が生まれる」

 

「ああ、確かに配列から由来を探るのも似たようなものか」

 

「そうだね。ただ、量で言うなら配列のほうが多い。一人の人間から得られる配列の情報量は、大まかに本数千冊に匹敵する。この処理装置自体は配列分析にも十分耐える代物だから、力不足ということはないはずだけど」

 

「何を具体的に抽出するかっていうのも重要な問題になる。今回は経験的に知られている組み合わせを使っているけど」

 

椅子をくるりと回し操作卓を背にして、入力を終えた専門家が言う。

 

「あ、終わった?」

 

「基礎を作ってくれたおかげでそう難しい作業をすることなく準備ができたよ。数刻でできるはずだ」

 

発熱する演算素子を冷ますための羽根車の音が静かな部屋に響く。

 

「……あの、質問よろしいですか?」

 

「どうぞ」

 

専門家は質問者に続きを促す。

 

「私の専門は歴史思考分析です。過去の人達が書いたものから、どういう考え方や物の見方をしていたかを史料から紐解いています。そういうことに、その情報処理は使えるでしょうか?」

 

「今のところは難しいかな。単語一つ一つに感情に対応させた情報をもたせればいいんだけど、それを人の手でやるのは大変すぎる。むしろ頻出単語の傾向とかのほうがやりやすい気もするけど……」

 

「ですよね、ああでも単語の抽出は容易になるのか……」

 

「ただ、そう遠くないうちにそこらへんもできるようになると思う。そうなったらもっと面白いものが見れると思う。ただ、それは逆に人の心を、歴史を動かせる文章を作れることの裏返しで……」

 

「終わったぞ」

 

操作卓の前の椅子に座ってぶつぶつと呟く専門家の頭ををぺしぺしと歴史研究者が叩く。

 

「あっ」

 

表示面に並ぶ数字は、少し操作することで比較しやすい図になった。

 

「……おそらく、この本自体がキイの書いたものだと思います」

 

「中央調査室初代室長もキイかよ……」

 

「あれ、知られていなかったんですか?」

 

驚くような声が中央調査室から来ている人に向けられる。

 

「昔の調査室はもっと秘密組織で、今以上に危ない情報の分析なんかもやっていたからな。匿名でもおかしくないと思ったがまさか抹消対象だったとは……」

 

「で、結局この本は何なんです?」

 

その声に集団の視線が机の上の数冊の本に向く。

 

「初代調査室室長が晩年に書き上げた歴史書。当時はまだあまり公開されていなかった『図書庫の中の図書庫』の史料をもとに纏めた、おそらく最初期の横断的歴史研究書だ」

 

「ほう……」

 

歴史研究者は自分の中の記憶を探る。確かにそういうものに興味が持たれるようになったのは「異哲派」の時代か、それ以降だ。となると時期的に最初期というのは間違いないだろう。

 

「これは原本から印刷して、同じように製本したものだがな。製本していない状態のものならすぐ出せるし全員分用意するのもそう難しくないが」

 

「なら下さい、読むので」

 

そういう会話を後ろで聞きながら、何人かは専門家を囲んで表示面を覗き込んでいた。

 

「文章傾向は?」

 

「感情的表現が当時としてはかなり低い。意図的に抑えて客観的に書いたのか?」

 

「ここの表現傾向値は何を?」

 

「叙事詩とかをもとにした一致率だ。大抵この当時のものは韻を意識しているからここらへんは高くなるはずなんだが」

 

「聖典語に不慣れだった?」

 

「可能性はあるが……」

 

「いや、その『女史』の部下のケトは当時は詩人として活動していたはずだぞ?それなのにこういう詩に慣れていない?」

 

「だから全く異なる場所から来た人物だと考えるのが妥当だと」

 

「本当に辻褄が合うな……」

 

そういう会話をしている裏で、歴史思考分析を専門とする人物は床に座り込んで素早く紙をめくって本を読み進めていた。まだ数字にできないものを読み取るには、これが一番いいのだ。



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側面

「むむ……」

 

歴史思考分析の専門家は、書き積んだ帳面をぱらぱらとめくり返しながら自分の読んできた本を見つめる。

 

「落ち着いて、思考を整理しましょう。ここに書かれているのは、事実と思われるものの断片と、それを使って撚られた物語」

 

透玉を組み合わせて作った機構で覗けば布が糸の集まりとして、糸が細く短い繊維の集まりとして捉えることができるように、その本の内容は多くの根拠によって支えられていた。

 

「物語全体の流れを把握することは、語と語の関係で捉えるには難しすぎる……」

 

より大きく本を捉えていく。章ごとに内容を要約していけば、全体を通した流れを掴むことができる。

 

「ある意味では結論の先取り、けれどもそうしないと人が扱えるようにはならない……」

 

「何をぶつぶつと言っているんだ?」

 

「ひぇっ」

 

聞こえた声に驚いて背中を伸ばし、恐る恐る後ろを振り向くとそこには歴史研究者がいた。確か文字読み取りと文章分析の専門家の同僚だったはずだ、と考えながら歴史思考分析の専門家の手元を見ると印刷された紙の束があった。

 

「悩んでいるらしいと聞いてな、様子を見に来た」

 

「すみません……」

 

そう気がついて確認すると、もう日が昇ろうとする時刻であった。生活の周期は完全に乱れているので、決して眠くはないが。

 

「……時間、あるか?」

 

「ええ」

 

「少し話をしても?」

 

歴史研究者は手元に高椅子を引き寄せ、専門家と視線を合わせる。

 

「構いません……むしろ、一度いま頭の中にあるものを話したいと思っていたのです」

 

「そうか。先に聞く側に回ったほうがいいか?」

 

「いえ、意識しないで大丈夫です。些細な話が整理のために重要な示唆を与えてくれるかもしれないので」

 

互いに資料を整理して、話す内容を整えていく。

 

「全体を通して見たところ、おそらく作者は最初に全体の構成を考えてから書いています」

 

「ああ、それはあいつの分析も裏付けになりそうだな」

 

整って並ぶ文字は計算結果の要約だ。章や節ごとの分析ではどうしても誤差が大きくなるので、それを補正するような処理も加えられている。

 

「使う言葉や言い回しが微妙に変化している。それも最初から最後にかけてではなく、飛び飛びでだ」

 

「……近い値の組み合わせは、近い時期に書かれたと考えるのが妥当……というより、考えても矛盾はない、ぐらいの強さの主張ですか」

 

「そうだな。内容自体は触れられていないが」

 

「確かに読んでいて前後の文脈の微妙な食い違いはあったんですよ。例えばここ」

 

帳面を開き、専門家は内容を要約したものの一覧を見せる。

 

「ここで本来扱われる内容は古帝国が生まれた時の人々の動きです。ただ、本来なら書きたかったのだろう内容について言及しているもののそこをきちんと解説した部分が本文にない」

 

「推敲が甘かっただけではないか?」

 

「最終的に言ってしまえばそうなのだと思うのですが、そのような間違いが起こった裏には最初から結論を用意した上でそこまでの流れを分割していったのもあるかと」

 

「方向修正が困難なやり方だな、今ならそういうことを通史でやるのは避けられる」

 

「ですよね。ただ、読んでいて未熟だとは思えません。常に限界に対して自覚的で、自分が物語を書いているとわかっていてこの本はできているうように思えます」

 

専門家のその言葉を聞いて、研究者は少し考え込む。

 

「……少し、いいか?」

 

「はい」

 

「物語は真実の一側面にしか過ぎない、それは情報を削ぎ落として、場合によっては望む一面だけを映し出してしまう……という文書が冒頭の方にあったよな」

 

「しかし個人は物語に生きているから、それと切り離して歴史を論じることはできないともありますよ」

 

「そうだ。こういう考え方は今は一般的だが……昔からそうだったのか?」

 

「……専門家、と名乗っている以上、そこをきちんと断言したいのですが」

 

「……無理か?」

 

「異哲派の時代にはそういう考え方が断片的には現れています。この本の作者の影響かもしれませんが、それを裏付けられるほどの関係性を史料から見出すのは難しいかと」

 

「それ以前には?」

 

「そもそも、そういう風に歴史が捉えられていません。それは真に事実の羅列に過ぎない、と考えられています」

 

「誰がどういう目的を持って残したかという背景と切り取られて……悪く言えば誰もが無自覚に歴史を紡いでいた、と」

 

「一応哲学的なものの中にはそういう方面から論じたものもないわけではないですが、決して主流の考え方ではなかったとは言えると思います」

 

歴史思考分析は書かれたものだけから当時の人々が何を考えていたかを読み取ろうと試みる、ある種無謀なものだ。生きている人間に直接尋ねてさえ思考というものはいい加減なのに、それを時代と媒体を超えて決めつけようとするある種の傲慢さは常に自覚しなければならない。

 

「これは私の中にある物語に過ぎませんが、キイという人物の功績の一つは私達自身が物語を通してしか外側を認識できないということをしっかりと宣言したことなのではないでしょうか」

 

「考え方……か。確かに『女史』が関わった発明や技術よりも、それをどう発展させるかという考え方のほうが大きな影響を後世に与えている、という考えもある」

 

「私はそれに同意しますね。ただ、その発展自体も……いや、おそらく彼女は発展に自覚的だったのではないでしょうか?」

 

「何に気がついた?」

 

「当時作られたものを再度整理しましょう。『女史』は持っていた知識の全てを伝えたわけではないはずです」

 

専門家の中で彼女についての物語が撚られ始める。それはもちろんキイの全てを説明しうるものではないが、少なくとも一側面であれば理解の助けになるかもしれない。



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異哲

「評価が必要です」

 

歴史思考分析の専門家は歴史研究者の目を見据えて言う。

 

「俺は歴史に対する審判はやらないぞ?」

 

「ええ、歴史を扱うならそのような態度は必要です。しかし私の専門はそうではありません。過去を分析し、評価し、時にはそこに罪を見出さなければならないのです」

 

「……面倒な仕事だな」

 

「そういう職場ですからね」

 

異哲派の時代から続く情報収集・分析・行動組織。新帝国の中で最大の裏側組織。そこに名前はなく、あるのはただ人々のみ。

 

「まあ薄々感づいてはいたけどな。そもそもあの会議にいた人間の半数は俺とは異なる場所にいる」

 

「ええ。ひとまず、私の分析結果を共有します。……彼女は、混乱が起こることを自覚していたはずです」

 

「……まあ、新帝国の設立は俺の祖父の代にまで響いていたが」

 

「ああその、すみません」

 

「構わない。ちょっと外から入ってきた商品に負けただけだ」

 

「……ええ、そういう混乱が異哲派の時代、当時の頭領とその甥によって引き起こされました。その背景にはキイがもたらした知識があったのは間違いありません」

 

「だろうな。当時の様々な経済指標はあの時を境に大きく変化している」

 

「そうです。また、彼女の思想……つまり、問題をどのように捉えるかというものについても大きな影響を与えています。文字版印刷と組み合わさって、行き交う情報量が増加しました」

 

「これはキイが生み出したものを説明する代替的通説にもなっているな」

 

「そう。キイがやっていたのは、基盤の整備だったんですよ。進歩……という言い方を使ってもいいですか?」

 

「うーむ」

 

歴史研究者は専門家の言葉を聞いて少し悩んだような声を出す。様々な文化があり、それぞれに異なる価値観や技術を持っていた。今日ではそれらは少しづつ統一され、各所で持ち込まれたものが組み合わされて数十年単位の変化をもたらしてはいるが、それは必ずしも一直線上に進むようなものではない。

 

「発展、ならいい」

 

「ではそれで。発展を支えるものを情報として考えると、その基本的な考え方はキイが作っているんです」

 

「……それは、誰かの意思が介在したと思うか?」

 

「最終的な決定や支援は多方面から行われています。しかしながら、そのような考え方自体がそれ以前には見られないことを考えると……」

 

「最初の発案者はキイであったと考えるのが妥当、か」

 

「つまり、彼女にはそれだけの責任があるんですよ」

 

「……一般的に、そういう考え方は避けるべきだというのは理解しているか?」

 

「ええ。しかし彼女は何が起こるのか予想できたはずです。それなのに実行した以上、そこに責任を見出すことができるわけですよ」

 

「……むしろ、思考分析と言うならなぜキイがそのような行動をしたかを考えるべきでは?」

 

「そちらに話を変えましょうか。これ以降は記録や統計にきちんと基づいたものではなく、私の勘によるものになりますが」

 

そう言って、歴史思考分析の専門家は視線を落とす。

 

「まあ、公表しないものならいいだろう。そういう萌芽的なものは否定されるべきではない」

 

「……そこにいるのは、おそらく怯えている一人の女性なんですよ。私と同じぐらいの年齢で、どこまでやっていいのかわからない、ただの、人間に思えるんです」

 

「……不釣り合いな知識を持ってしまった、か」

 

「むしろ、不釣り合いに無知な人々の集団に放り込まれた、と言うべきでしょう。彼女の思考は、知識は、技術は、本当に進歩的なものだったのですから」

 

進歩という言葉を聞いて歴史研究者は一瞬だけ顔を歪めるが、すぐに真剣な表情に戻す。

 

「そこまで、か」

 

「ええ。しかし、彼女はおそらく責任を果たしました。印刷物管理局をご存知ですか?」

 

「ああ、あいつの報告にあった組織か」

 

同僚でもある文字読み取りと文章分析の専門家の書いた文章を思い出しながら歴史研究者は言う。

 

「ええ。他の地域では印刷冊子の導入は少なくない混乱をもたらしましたが、当時の『図書庫の城邦』におけるものはそれに比べれば小さい。それは今までの本の概念をひっくり返すものだったにもかかわらず、ですよ?」

 

「生み出したものに対して責任があった、か」

 

「ええ。おそらく、他の分野に対してもそうでしょう。暴走しかねない分野、長期的に予想不能な影響を与える分野は避けていたと私は考えています」

 

「根拠は他にあるか?」

 

「いえ、消極的なものがいくつかあるだけです。キイが何を知っていたかは知ることができても、何を知らなかったのかはわかりませんから」

 

申し訳無さそうに歴史思考分析の専門家は言う。

 

「……そうか」

 

「ただ、異哲派がそういった責任を取る考え方を継いでいたと考えるのは妥当だと思います。そういう意味で、あの新帝国を作った頭領は異哲派と呼ぶべきではないかもしれませんがね」

 

「意図的に混乱を見逃し、勢力拡大に用いたからか……」

 

「ただ、より長期的に見れば大規模な混乱を避けられたと言ってもいいでしょう。古帝国の崩壊を見ればわかるように、手段のある状態での混乱は戦火を引き起こすので」

 

「……最善、だったというのか?」

 

「歴史において、意図的に破滅をもたらそうとした人はまずいません。ほとんどの人が全力を尽くし、それでも問題は生まれ、人は死に、それでも進んでいくのです」

 

「……わかっていても、飲み込みにくいものだな」

 

「仕方がないですよ。私だって本当に理解しているかといえば怪しいところです」

 

二人は改めて机の上に散らばった資料を見る。キイという人物の情報をまとめた紙束の一番上には、最初に撮られた人物銀絵の印刷があった。




活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=294701&uid=373609


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